## 一

「親分、お早やうございます」

八五郎はいつになく<ruby><rb>几帳面</rb><rt>きちやうめん</rt></ruby>に格子戸を開けて入つて來ました。神田明神下の、錢形平次住居の段、――<ruby><rb>尤</rb><rt>もつと</rt></ruby>も、几帳面に引かないと、この格子は<ruby><rb>番</rb><rt>つがひ</rt></ruby>ごと敷居から外れます。

借金の言ひわけと<ruby><rb>細工事</rb><rt>さいくごと</rt></ruby>が大嫌ひで、棚が落ちても釣らうとせず、半日肩で押へてゐて、八五郎が來るのを待ち兼ねない平次です。入口の格子戸の<ruby><rb>外</rb><rt>はづ</rt></ruby>れるくらゐのことは、三年でも我慢する氣でなければ、<ruby><rb>店賃</rb><rt>たなちん</rt></ruby>を六つも溜められる道理はありません。

それは兎も角、平次は相變らず粉煙草をせゝつて、<ruby><rb>三世相大雜書</rb><rt>さんぜさうだいざつしよ</rt></ruby>を讀んで居りました。<ruby><rb>干支</rb><rt>えと</rt></ruby>を繰つて見ると、前世に寺から油を三合借りて返さなかつたので、<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>んなに貧乏するんださうで、

「八五郎の<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>は、八幡樣の<ruby><rb>神馬</rb><rt>しんめ</rt></ruby>の生れ變りで、福徳圓滿、富貴望むが儘なるべし――は少し<ruby><rb>眉唾</rb><rt>まゆつば</rt></ruby>だが、顏の長いところは、馬に縁がないでもない。――おや、おや、その代り、いやなト<ruby><rb>書</rb><rt>が</rt></ruby>きが附いて居る。その代り『<ruby><rb>伉儷</rb><rt>かうれい</rt></ruby>得難かるべし、縁談すべて望なし、<ruby><rb>愼</rb><rt>つゝ</rt></ruby>しむべし、愼しむべし』だつてやがる、何が愼しむべしだ。可哀さうに、何んだつてまた御神馬なんかになりやがつたんだ」

ポンと分厚な大雜書を<ruby><rb>抛</rb><rt>はふ</rt></ruby>ると、

「お早やう、起きてるんですか、親分」

八五郎の顏が六疊を覗くのです。

「あ、<ruby><rb>膽</rb><rt>きも</rt></ruby>をつぶすぜ、<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>のお化けが出たのかと思つたよ。いきなり入つて來やがつて――」

「聲を掛けたのを、親分が聽えなかつたんで」

「<ruby><rb>柄</rb><rt>がら</rt></ruby>にもなく、尋常らしい聲を出すからだよ。小笠原流に物申すぢや、聞えはしないやな。お前が八幡樣の<ruby><rb>御神馬</rb><rt>ごしんめ</rt></ruby>の生れ變りで、金はウンと出來るが、女の子は出來ないといふ、有難い本を讀んでゐたところだ」

「イヤになるなア、金なんざ百も欲しくねえが、江戸の良い娘がベタ<ruby><rb>惚</rb><rt>ぼ</rt></ruby>れといふ<ruby><rb>卦</rb><rt>け</rt></ruby>が出ませんかね。<ruby><rb>塵溜</rb><rt>ごみだめ</rt></ruby>をあさつてゐる<ruby><rb>雄鷄</rb><rt>をんどり</rt></ruby>の生れ變りで結構だから」

「呆れた野郎だ。――ところで、此二三日顏を見せなかつたぢやないか」

「御婚禮へ行つてゐたんですよ」

「三日は長過ぎるぢやないか。まさか、お里歸りまで附き合つたわけぢやあるめえ」

「附き合ひましたよ。聟と嫁を送り出して、<ruby><rb>漸</rb><rt>やうや</rt></ruby>く年明けになつたから、親分のところへ、久し振りで御挨拶に來たんで、喧嘩や出入事の歸りと違つて、何となく<ruby><rb>斯</rb><rt>か</rt></ruby>う物腰が尋常でせう」

「本人がその氣でゐるんだから、結構なことに違げえねえが、御祝言は<ruby><rb>何處</rb><rt>どこ</rt></ruby>にあつたんだ」

「岡惚れを一人なくしてしまひましたよ、へツ」

「泣くなよ、岡惚れはどの口だえ」

「富坂のお<ruby><rb>鈴</rb><rt>すゞ</rt></ruby>坊、<ruby><rb>後家</rb><rt>ごけ</rt></ruby>のお<ruby><rb>此</rb><rt>この</rt></ruby>の娘で、年は十九、<ruby><rb>厄</rb><rt>やく</rt></ruby>は厄でも、こんな綺麗な娘には神も佛も<ruby><rb>罰</rb><rt>ばち</rt></ruby>は當てねえ」

「大層な御信心ぢやないか」

「親分でも、あの娘を一と眼見ると、そんな心持になりますよ、――そのお鈴坊を見染めたのが、牛込肴町の<ruby><rb>兜屋</rb><rt>かぶとや</rt></ruby>三郎兵衞の伜<ruby><rb>殿松</rb><rt>とのまつ</rt></ruby>、兜屋と言つたつて、<ruby><rb>鎧兜</rb><rt>よろひかぶと</rt></ruby>を賣るわけぢやありません。武家あがりの酒屋で、大した身上で、後家の娘のお鈴を、金にあかして貰つたんで」

「それにお前は掛り合ひがあるのか」

「金持なんかに、掛り合ひはありませんよ。何しろお鈴坊が嫁に行くとなると、牛込から小石川かけての若い男は皆んな<ruby><rb>半狂人</rb><rt>はんきちがひ</rt></ruby>だ。<ruby><rb>脅</rb><rt>おど</rt></ruby>かしの手紙を<ruby><rb>抛</rb><rt>はふ</rt></ruby>り込む奴がある。石を抛る奴がある。火をつける奴だつて出ないとも限りません。萬一お里歸りの若夫婦に、<ruby><rb>惡戯</rb><rt>いたづら</rt></ruby>でもされちや大變だから、あつしが頼まれて三日も見張つたわけで」

「散々當てられたことだらうな」

「ところが、あんまりさうでもなささうで、――若い夫婦などといふものは、あんなものぢやありませんね。野郎の方は見つともない程附き<ruby><rb>纒</rb><rt>まと</rt></ruby>つて居るが、お鈴坊の方は、逃げて居るやうな具合で、そりや變でしたよ、――尤も、聟の殿松は、良い男ぢやなさ過ぎましたよ。その癖、<ruby><rb>執</rb><rt>しつ</rt></ruby>こくて、鼻聲で、<ruby><rb>頑固</rb><rt>ぐわんこ</rt></ruby>で」

「八五郎とあべこべだ」

その日の話は、これで<ruby><rb>落</rb><rt>おち</rt></ruby>になりました。

## 二

それから十日餘り、八五郎が少しあわてて入つて來ました。

「どうした八、今日は首尾よく格子を外したぢやないか。何をあわてて居るんだ」

平次は<ruby><rb>暇</rb><rt>ひま</rt></ruby>で〱仕樣のない日を、一杯呑むほどの<ruby><rb>工面</rb><rt>くめん</rt></ruby>もつかず、相變らず<ruby><rb>埃臭</rb><rt>ほこりくさ</rt></ruby>い粉煙草をせゝつて、八の來るのを待つて居るのでした。

江戸は太平無事で、氣のきいた泥棒猫も居さうはなく、平次の出勤を<ruby><rb>促</rb><rt>うなが</rt></ruby>すほどの事件もなかつたのです。

「變なことになりましたよ、神樂坂上の<ruby><rb>易者</rb><rt>えきしや</rt></ruby>が、あの嫁は家に<ruby><rb>祟</rb><rt>たゝ</rt></ruby>ると言つたさうですが、嘘ぢやありませんね。女の綺麗過ぎるのも良し惡しで」

八五郎は獨りで呑込んだことを言ひ乍ら、自分の袂でグイグイと汗を拭くのです。

「何へ<ruby><rb>祟</rb><rt>たゝ</rt></ruby>つたんだ。話して見なきやわからねえが」

「<ruby><rb>兜屋</rb><rt>かぶとや</rt></ruby>の二番目の伜に祟りましたよ。こいつは捨吉と言つて好い男だ。兄の殿松は、<ruby><rb>癇</rb><rt>かん</rt></ruby>が強くて、念入りの<ruby><rb>醜男</rb><rt>ぶをとこ</rt></ruby>だが、弟の捨吉はそりや好い男で、面と向へば見違へる筈はないが、暗いところで、わからなかつたんですね。兄の殿松は嫁のことで、二三百人もの敵を<ruby><rb>拵</rb><rt>こさ</rt></ruby>へてゐるから、誰に狙はれてるかわかつたものぢやねえ」

「それがどうしたのだ」

平次はもどかしさうに先を<ruby><rb>促</rb><rt>うなが</rt></ruby>しました。

「兄の殿松と間違へられて、弟の捨吉が、船河原町の路の上から、御見附下のお濠に突き落されたのですよ。捨吉は男つ振りは好いけれど、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>とポチポチで、まるつ切りの徳利だ。その上あの邊は<ruby><rb>渫</rb><rt>さら</rt></ruby>つたばかりで<ruby><rb>自棄</rb><rt>やけ</rt></ruby>に深いから危ふく<ruby><rb>溺</rb><rt>おぼ</rt></ruby>れかけたところを――」

「お話中だがネ、八、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>とポチポチといふのは、泳ぎの出來ないことがポチポチなのか、それとも、男つ振りの好いところがポチポチなのか、それをはつきりさせねえと、お<ruby><rb>調</rb><rt>しらべ</rt></ruby>がつかねえ」

「あれ、負けて置いて下さいよ。兩方だと思へば間違ひはないわけで」

「勝手な野郎だ」

「アプアプやつて居るところを、見附のお役人が見付けて、――これも<ruby><rb>洒落</rb><rt>しやれ</rt></ruby>になりますね」

「無駄が多いな」

「あすこは時々身投げがあるから、小船が用意してありまさア、早速引揚げて<ruby><rb>介抱</rb><rt>かいはう</rt></ruby>したが、根が丈夫な男ぢやないから、生命は助かつたがそれつきり寢て居るさうですよ」

八五郎の話はどうやら一段落になりました。綺麗な嫁が<ruby><rb>身上</rb><rt>しんしやう</rt></ruby>に響く話は、これが發端で事件は妙に<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>んだ發展をして行きます。

「ところで、捨吉と間違へた兄の殿松も泳ぎは出來ないのか」

平次はちよつと突つ込みます。

「それが不思議なんで、兄の殿松は町道場の看板で、武藝も泳ぎも、相當にいくんですつて」

「<ruby><rb>河童</rb><rt>かつぱ</rt></ruby>を水に突落す奴もねえものだ」

「尤も、捨吉は何んかの寄合があつて、兄の殿松の夏羽織を借りて行つたんですつて。そんな野暮なものを着て歩くから、魔が射すんでせう」

「お前の言ふことは、相變らず途方もないよ。ところで、その<ruby><rb>惡戯</rb><rt>わるさ</rt></ruby>をした奴の見當くらゐはついたのか」

「山の手の若い男が皆んな下手人見たいなもので、三日でもあの嫁を見張つてゐた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>だつて、殿松の不景氣な<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>を見ると、ツイフラフラとなりますよ」

「そのうち、近いところでは？」

「<ruby><rb>兜屋</rb><rt>かぶとや</rt></ruby>の手代の岩三郎に、隣の息子の三七、――富坂の方角では、お鈴の<ruby><rb>從兄</rb><rt>いとこ</rt></ruby>の大工の勇太郎」

「それに八五郎か」

「冗談、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>はそんな覺えはありませんよ」

「兎も角、うるさいことがありさうだ。目を離さねえやうにしろ」

「親分にさう言はれると、威張つて<ruby><rb>肴町</rb><rt>さかなまち</rt></ruby>あたりをウロウロして居られますね。嫁のお鈴さんは大した<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きりやう</span>だが、兜屋の末の娘のお袖ちやんといふのも、惡かありませんよ。二番目の兄の捨吉<ruby><rb>似</rb><rt>に</rt></ruby>で、ポチヤポチヤして、可愛らしいといふことは」

八五郎は他愛もありません。娘の品定めといふと、眼の色が變るのです。

## 三

<ruby><rb>七夕</rb><rt>たなばた</rt></ruby>過ぎる頃から暑さがぶり返して、お盆前の江戸は、釜の中に坐つて居るやうな心持でした。何處の家でも、往來に縁臺を持出して、夜半前に床に入るものなどはありやしません。

縁臺風景――縁臺<ruby><rb>將棋</rb><rt>しやうぎ</rt></ruby>から星の論、<ruby><rb>怪談噺</rb><rt>くわいだんばなし</rt></ruby>、若い者の間には、幾組かの戀が生れて、噂は秋に持越されるのです。

平次も、明神前の路地の下で、縁臺クラブの中に入つて、あまり上手でもない<ruby><rb>碁</rb><rt>ご</rt></ruby>を打つてゐると、八五郎は息せき切つて飛んで來ました。もう眞夜中近かつたでせう。

「どうした八、<ruby><rb>遠來</rb><rt>ゑんらい</rt></ruby>の馬見たいに、泡を吹いて居るぢやないか」

平次は事ありと見て、碁を片付けました。

「<ruby><rb>肴町</rb><rt>さかなまち</rt></ruby>まで行つて下さい。到頭變なことになりましたぜ」

全く唯事でない見幕です。

「<ruby><rb>兜屋</rb><rt>かぶとや</rt></ruby>の殿松がどうかしたのか」

「あの高慢ちきな野郎がどうしたつて、驚きやしません、――死んだのは、嫁のお鈴ですよ。醫者は<ruby><rb>自害</rb><rt>じがい</rt></ruby>だらうつて言ふけれど、――あのピカピカするやうな嫁が自害をしさうもないし、どうも<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>に落ちないことだらけだから――」

「よし行かう。お前は驅けられるか」

照り續きの町、人々の夢を驚かして二人はお濠端傳ひに<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>をあげました。

兜屋の店は、肴町の表通りで、<ruby><rb>外</rb><rt>そと</rt></ruby>は市が立つたほどの騷ぎでした。それを追ひ散らすのに、土地の岡つ引は精一杯。

「あ、錢形の親分、これは良い方が來て下さいました。八五郎親分が飛んで行つたやうですが、夜中でもあり、嫁は<ruby><rb>自害</rb><rt>じがい</rt></ruby>のやうだから、親分に來て<ruby><rb>頂</rb><rt>いたゞ</rt></ruby>く迄もないと思ひましたが」

兜屋主人の三郎兵衞が、迎へてくれます。<ruby><rb>俄</rb><rt>にはか</rt></ruby>の出來事に、すつかり興奮して居るやうです。

「飛んだことでしたね。八五郎が見張つてゐて、斯んなことになつちや」

「八五郎親分は、宵から見張つて居ましたが、ちよいと、<ruby><rb>縁臺碁</rb><rt>えんだいご</rt></ruby>を覗く隙にやつたんで、災難と申す外はありません」

主人三郎兵衞に<ruby><rb>慰</rb><rt>なぐさ</rt></ruby>められて、平次は挨拶に困りました。

「若旦那ですよ、親分」

八五郎に袖を引かれて振り返ると、身體だけは立派ですが、不機嫌な<ruby><rb>醜男</rb><rt>ぶをとこ</rt></ruby>が、怒つたやうな顏をして、默つて挨拶するのです。

「お氣の毒でしたね、若旦那、――皆んな外に居たんですか」

平次は店の外をグルリと見廻しました。三間間口の店で、半分は大戸を下ろしてありますが、店の灯の屆かないところに、<ruby><rb>岐阜提灯</rb><rt>ぎふぢやうちん</rt></ruby>をブラさげて、その上に月があるのですから、縁臺碁に不自由はありません。

「皆んな外に居ましたよ。何しろ此暑さだから、寢たつて眠られやしません、――<ruby><rb>尤</rb><rt>もつと</rt></ruby>も身體の惡い弟の捨吉は表二階に寢て居る筈ですが」

殿松は相變らず、怒つたやうに言ふのです。

「御新造は内に居なすつたわけで？」

「暑いけれど、店先へ出ると、町内の衆に顏を見られるから、嫌だと申しまして」

「成るほどね」

まだ嫁に來たばかりのお鈴――、牛込一番と言はれた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きりやう</span>では、人に顏を見られるのも無理のないことでした。

「親分、まだ<ruby><rb>外科</rb><rt>げくわ</rt></ruby>が居るさうです。早く見て置いて下さい」

八五郎に言はれるまでもなく、平次は一刻も早く死骸を見て置くべきですが、八五郎が言ふ樣に妙に<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>に落ちないものがあるので、記憶の新しいうち、一つは、つまらない細工をされないうち、多勢の目の前で、その時の人々の配置と、動きとを知つて置き度かつたのでせう。

「待つてくれ、醫者が居るなら、<ruby><rb>其方</rb><rt>そつち</rt></ruby>は急ぐことはあるまい、――その時碁を打つて居たのは誰と誰なんだ」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>と若旦那の<ruby><rb>殿松</rb><rt>とのまつ</rt></ruby>さんで」

「私はツイ口を出し過ぎて、八五郎親分に怒られました」

主人はすつかり照れて、ポリポリ<ruby><rb>小鬢</rb><rt>こびん</rt></ruby>を掻くのです。

「<ruby><rb>將棋盤</rb><rt>しやうぎばん</rt></ruby>も出て居るやうだが」

「それはお隣の御隱居と、裏の米屋の多吉さんで――女達は二つ三つに固まつて、無駄話をして居りました」

「誰か動いた者はなかつたのか。家の中へ入るとか、何んとか」

「私は店へ一寸入つて、納戸から提灯を持つて參りました。月明りはあるが、手元が暗かつたので」

「おや？」

平次は背伸びをするやうに、提灯を押へました。その時<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>らふそく</rt></ruby>はバタリと倒れて、あツと言ふ間に焔は岐阜提灯に移り、メラメラは燃え上がつたのです。

八五郎が手を貸して、それを叩き消すのに大骨を折りましたが、それでも提灯を半分殘して、燃えさしの蝋燭は下水の<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>の上にバタリと落ちて、<ruby><rb>漸</rb><rt>やうや</rt></ruby>く納まりました。

## 四

奧の一と間、中庭に面した六疊には、若い女の死骸が、<ruby><rb>紅</rb><rt>あけ</rt></ruby>に染んで倒れて居ります。

それは綺麗に片付いては居るが、新夫婦の部屋らしく、何んとなく<ruby><rb>艶</rb><rt>なま</rt></ruby>めきます。

死骸は<ruby><rb>喉笛</rb><rt>のどぶえ</rt></ruby>を左から掻き切られ、足を縁側に投出して、それでもたしなみよく、半分疊の上に、押しつくねたやうにこと切れて居りました。

八五郎から噂は聽いて居りましたが、<ruby><rb>碧血</rb><rt>へきけつ</rt></ruby>の<ruby><rb>大氾濫</rb><rt>だいはんらん</rt></ruby>の中に横はつた若い嫁は、まことに非凡の美しさです。血を失つて、青白い顏、唇に不自然な<ruby><rb>媚</rb><rt>こび</rt></ruby>を<ruby><rb>含</rb><rt>ふく</rt></ruby>んで、見開いた大きい眼は、あらぬ方を見詰めて居ります。

「錢形の親分か」

顏を擧げたのは、神樂坂の<ruby><rb>徳庵</rb><rt>とくあん</rt></ruby>といふ年寄の醫者でした。

「徳庵先生でしたか。御氣付きのことは？」

「この御嫁御は、刄物を持つてゐるから、自害をしたに違ひないが、――それにしては少しばかり氣に入らないことがあるな――」

徳庵先生は、<ruby><rb>鐵拐仙人</rb><rt>てつかいせんにん</rt></ruby>のやうな長い息を吐くのです。<ruby><rb>慈姑</rb><rt>くわゐ</rt></ruby>の取手に<ruby><rb>山羊髯</rb><rt>やぎひげ</rt></ruby>、それも<ruby><rb>胡麻鹽</rb><rt>ごましほ</rt></ruby>になつて、世に古りた姿ですが、昔は斯ういふ醫者が信用されました。平次が默つて後を<ruby><rb>促</rb><rt>うな</rt></ruby>がすと、

「――喉の傷は、首筋を掻き切つて居るが、後ろから逆手に刄物を引いたものだ。自分の手では斯うは引けない。――自分の手で刄物を前へ引くと、どんなに加減をしても喉笛をやられるわけだ」

傷は喉笛の側に深々と始まつて、左<ruby><rb>耳朶</rb><rt>みゝたぼ</rt></ruby>の下に深く<ruby><rb>終</rb><rt>をは</rt></ruby>つて居ります。

「刄物が違つて居ませんか」

「いや違つてゐない。その死骸の持つて居る刄物で切つたのだ」

死骸の持つて居る刄物といふのは、上等の<ruby><rb>鮫皮</rb><rt>さめがは</rt></ruby>を使つた、<ruby><rb>鎧通</rb><rt>よろひどほ</rt></ruby>しで、世間並の<ruby><rb>匕首</rb><rt>あひくち</rt></ruby>ではありません。

「<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>は？」

「最初からなかつた」

「御存じありませんか。この品を」

平次は主人の三郎兵衞を振り返りました。

「よく存じて居ります。それは私がまだ榮えた頃、昔の主人から頂いた鎧通しで、主家の武功を傳へた品でございます」

「<ruby><rb>何處</rb><rt>どこ</rt></ruby>に置かれたので」

「隣の部屋の<ruby><rb>用箪笥</rb><rt>ようだんす</rt></ruby>の中に入れてある筈――尤も、其處にあることは、家中の者は皆知つて居る筈」

「では」

立上がらうとする平次を、八五郎が呼び止めました。

「親分、ちよいと待つて下さい。その刄物が少し變ぢやありませんか」

「お前も氣が付いたのか」

「一度拭いて又血を<ruby><rb>塗</rb><rt>ぬ</rt></ruby>つたやうですね、刄物の元の方に、拭いた跡が布目に殘つて居ますぜ、――そして死骸の<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>には、それを拭いた跡も殘つて居るやうで」

八五郎の頭もなか〱よく働きます。

「それつきりか。――お前にしては、大層氣がつくやうだが」

「氣のつくわけがありますよ。先刻<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>が死骸を見たときは、死骸の手には刄物はなかつたんですもの」

「何？　刄物がなかつた？」

「刄物がなきや自害の筈はありません。自分の喉を突いた佛樣が、刄物を隱すわけはない」

「理窟だな、――<ruby><rb>確</rb><rt>たしか</rt></ruby>に刄物はなかつたと言ふのだな」

「だから<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>は明神下まで飛んで行つて親分を引つぱり出したぢやありませんか。皆んなが自害だといふけれど、どうも腑に落ちないから」

「よしわかつた、徳庵先生に伺はう。ね、先生、死骸は最初刄物を持つて居りませんでしたか」

平次はすつかり緊張して居りました。事件は思ひも寄らぬ發展をしさうです。

「いや、刄物は持つて居ましたよ。私が使ひの者と一緒に驅けつけた時は、八五郎親分はもうゐなかつたが――」

「すると、八の間違ひぢやないか。死人に刄物を持たせるといふのは、そんなに容易なことぢやないが」

刄物は<ruby><rb>確</rb><rt>たしか</rt></ruby>に死骸の右手に持つて居り、指の掛けやうにも間違ひはありません。

「いや、一<ruby><rb>概</rb><rt>がい</rt></ruby>には言へない。死んで少し時が經つと、死人の身體が<ruby><rb>硬</rb><rt>かた</rt></ruby>くなる、その時を待つて握らせられるが、その前、<ruby><rb>斷末魔</rb><rt>だんまつま</rt></ruby>の緊張でも、得物を握らせることが出來る」

それは<ruby><rb>併</rb><rt>しか</rt></ruby>し、微妙な時間的關係があつて、うまい具合に出來る細工ではなささうです。

## 五

「最初に見付けたのは？」

平次は改めて<ruby><rb>四方</rb><rt>あたり</rt></ruby>を見廻しました。其處には主人の三郎兵衞と、伜の殿松と、八五郎の三人だけ。

「あの、娘のお袖でございました」

「此處へ、呼んで頂きませうか」

「おい、お袖、お袖」

主人が手を叩くと、返事もせずに――いや口の中で返事をしたのかも知れませんが、縁側の障子を開けて、ソツと顏を出したのは、十六、七の、可愛らしい娘でした。

「――」

默つてお辭儀をするのへ、

「親分が御用だと仰しやる」

「ハイ」

「いや、大したことぢやない。そんなに固くならずに」

「――」

ゴクリと<ruby><rb>固唾</rb><rt>かたづ</rt></ruby>を呑んで、平次を見上げた顏は、痛々しくも泣き出しさうに緊張して居ります。

「<ruby><rb>後先</rb><rt>あとさき</rt></ruby>の樣子を話してくれまいか」

「ハイ、――家の中が空つぽですから、私は時々見廻つて居りました。下女のお崎は、御近所の方と話に夢中で、何處へ行つたかわかりません。<ruby><rb>念</rb><rt>ねん</rt></ruby>のために表二階に寢て居る兄さん（捨吉）の樣子を見に行きましたが、御手洗場へ行つた樣子で、<ruby><rb>床</rb><rt>とこ</rt></ruby>の中には見えません。<ruby><rb>裏梯子</rb><rt>うらばしご</rt></ruby>を降りて、姉さん（嫁のお鈴）の部屋をのぞくと、灯が點いて居なくて、月あかりの中に、倒れて居る樣子なので、聲をかけ乍ら――覗くと」

お袖はその時のことを思ひ出したらしく、言ひかけて身を<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>はせるのです。

「誰にも逢はなかつたのか」

「誰にも逢ひません」

「庭に人影は？」

「氣がつきませんでした。尤も私はもう夢中でしたから」

「その時、御新造のお鈴さんは、手に刄物を持つて居たのか」

「さア、そこまでは――多分持つて居たやうに思ひましたが」

<ruby><rb>顛倒</rb><rt>てんだう</rt></ruby>した小娘が、死骸の手に氣のつかなかつたのも無理はありません。

「娘の聲に驚いて、皆んな立ち上がりました。驚いて飛込んで來ると此有樣で」

主人の三郎兵衞は補足するのです。

「その時の<ruby><rb>灯</rb><rt>あかり</rt></ruby>は」

「手代の岩三郎が、店から行燈を<ruby><rb>提</rb><rt>さ</rt></ruby>げて來たやうで」

平次は若旦那の<ruby><rb>殿松</rb><rt>とのまつ</rt></ruby>の方に振り向きました。

「外に何にか、氣の付いたことはありませんか」

「ない、――なんにもないが、私にはわからないことばかりだ」

殿松は相變らず不機嫌な顏をして居ます。

「御新造の手に刄物があつたことに氣がつきましたか」

「私は、八五郎親分と一緒に飛込んだが、――お鈴の手には刄物がなかつたやうに思ふ。――が、これは、私の見違ひかも知れない」

殿松はブツ切ら棒に斯う言ふのです。

「それから死骸の側を動きましたか」

「私は直ぐ御醫者に飛んで行つた。――此處には、父さんと妹が殘つて居た筈で――八五郎親分は、お鈴がこと切れてゐると見ると、私と一緒に飛出して、明神へ飛んだやうで」

「その時あとに殘つたのは、御主人とお孃さんだけで」

「さうなりますか、――尤も、私は捨吉のことが氣になつて、一寸二階を覗きましたが」

主人三郎兵衞は<ruby><rb>覺束</rb><rt>おぼつか</rt></ruby>なく應へるのです。

平次は尚ほも灯を借りて、縁側の下、庭のあたりを見ましたが、<ruby><rb>日照</rb><rt>ひで</rt></ruby>り續きの庭に<ruby><rb>箒目</rb><rt>はうきめ</rt></ruby>美しく<ruby><rb>掃除</rb><rt>さうぢ</rt></ruby>が屆いて、其處には足跡らしいものもなく、縁側は行止りですから、若しお鈴が人に殺されたものとすれば、曲者は外から入つたのでなく、廊下の方からそつと忍び寄つて、いきなり後ろから手を廻して、喉首を切つたことになります。

「暫らくお孃さんを拜借しますが」

平次が立ち上がると、お袖は手燭を取上げて恐る〱それに從ひました。廊下を少し行つて、<ruby><rb>梯子</rb><rt>はしご</rt></ruby>の下のよく片付いた小綺麗な部屋、そこに誘ひ入れると、八五郎は心得て番犬のやうに廊下に眼を光らせて居ります。

「お孃さん、お鈴さんの喉を突いた、<ruby><rb>鎧通</rb><rt>よろひどほ</rt></ruby>しは、何處にありました」

「この部屋にあつた筈です」

平次の問ひに應へて、娘は部屋の<ruby><rb>隅</rb><rt>すみ</rt></ruby>の用箪笥を指さしました。あとは納戸、女中部屋、居間、佛間などで、用箪笥を置く場所もなく、狹くはあるが、富める町人の家の樣子を見て、平次の感は見事に當りました。

用箪笥の引出しを下から順々に開けて行くと、三つ目の引出しに、鎧通しの巖乘な<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>があります。それには間違ひもなく血が附いて居さうな氣がして、灯の下に持つて來ると、血などは少しも附いて居ず、その代り鞘の全體――わけても<ruby><rb>鯉口</rb><rt>こひぐち</rt></ruby>のあたりの<ruby><rb>朴</rb><rt>ほう</rt></ruby>の木が、心持濡れて居るのは見逃せません。

「お孃さん、何にか知つて居なさるでせう。惡いやうにはしない、言つて下さい」

「いえ、私は何んにも――」

お袖は首を振るのです。<ruby><rb>強張</rb><rt>こはば</rt></ruby>らせた顏が、固い〱花の<ruby><rb>蕾</rb><rt>つぼみ</rt></ruby>を見るやうで、妙に可愛らしく痛々しく、人の心を打ちます。

「言ふことがあつたら、打ち明けて下さい。ね、お孃さん」

平次はもう一度さう言つてお袖を一人殘して部屋から滑り出ると、廊下に待たして居た八五郎を差し招いて、二階の梯子段を上がりました。

「親分、お鈴は本當に殺されたのでせうか。殺されたとすると、下手人は誰でせうね」

八五郎は好奇心で一パイ、梯子を<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>り乍ら平次に問ひかけます。

「外から曲者が入つた樣子はない。縁側は行止りだし、店先には一パイ人が居る。――お鈴は安心して後ろ向になつたまゝ月を眺めて居た。――曲者は隣の部屋から<ruby><rb>鎧通</rb><rt>よろひどほ</rt></ruby>しを持出して刺したが、その後で刄物を拭いて、隣の部屋の元の<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>に返したが、又氣が變つて、刄物を持出して死骸に握らせ、刄の上に血まで附けて、それから鞘についた血を洗つて拭いて――<ruby><rb>手水鉢</rb><rt>てうづばち</rt></ruby>の上の手拭に少し血がにじんでゐるだらう、恐ろしく氣のつく曲者だ。第一それだけの事をして、少しもあわてた樣子はない」

「誰でせう」

「まだ俺にもわからないよ」

二階に上がつて少し行くと、此暑いのに閉め切つた部屋があり中から灯が洩れて居ります。

「御免下さい。お休みですか」

「いえ、まだ起きて居ります。どなたで？」

力のない<ruby><rb>嗄</rb><rt>しわが</rt></ruby>れた聲でした。

「では御免下さい」

平次は唐紙を開けて、ソツと入りました。プンと藥が匂つて、<ruby><rb>蚊帳</rb><rt>かや</rt></ruby>の中に居る、病人の頭が、一ときは蒼白く見えます。

「何にか御用で？」

「私は明神下の平次ですが、御新造の亡くなられたことに<ruby><rb>就</rb><rt>つい</rt></ruby>て、いろ〱訊き度いことがありますが」

「私は御覽の通りの病人で、むさ苦しいところですが」

捨吉は起き直らうとしましたが、ひどく<ruby><rb>咳</rb><rt>せ</rt></ruby>き込んで、又グツタリと床の上に寢てしまひました。なか〱の容體です。

「どうぞ、そのまゝに、――お氣の毒ですが、少しばかり訊かせて下されば」

「濟みません、こんなに意氣地がなくて。以前はそれほどでもなかつたのですが、いつぞや、お濠に落ちてから、風邪を引いたせゐか、急に惡くなりました。近頃では三度の物まで、妹が此處へ運んでくれます」

いかにも<ruby><rb>華奢</rb><rt>きやしや</rt></ruby>な男ですが、八五郎が<ruby><rb>吹聽</rb><rt>ふいちやう</rt></ruby>したやうに、それはなか〱の男前です。

「お前さんをお濠に投げ込んだ相手はわかりませんか」

平次の問ひは妙なところから始りました。

「少しも見當はつきません。――富士見町に<ruby><rb>運座</rb><rt>うんざ</rt></ruby>の會があつての歸りでしたが」

「ところで、お鈴さんが死んだときのことを何にか氣がつきませんか。私はあれは自害ではなくて、人に殺されたのだと見て居るのだが」

平次はズバリと打明けました。

「何んにも氣がつきません。此處までは大分離れて居りますし、――家の者が騷ぎ出したので、<ruby><rb>膽</rb><rt>きも</rt></ruby>をつぶしたくらゐで――」

捨吉は大して驚く樣子もなく靜かに受けます。

「お鈴さんを殺すやうな相手を、心當りはありませんか」

「さア」

捨吉の顏は、灯に<ruby><rb>翳</rb><rt>かげ</rt></ruby>つて苦しさうに<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>みます。平次は宜い加減にして切り上げました。これ以上に引出せさうもなかつたのです。

## 六

「八、お前手拭を持つて居ることだらうな」

「持つて居ます」

梯子段の途中で平次は妙な事を訊ねました。

「ちよいと貸してくれ。――俺の一本だけぢや間に合ひさうもない」

「これで宜いんで？」

「汚い手拭だな、<ruby><rb>犢鼻褌</rb><rt>ふんどし</rt></ruby>と手拭だけでも、切り立てのパリツとしたのをたしなみにしろ。若い者が見つともねえ」

「それが、本所の伯父さんの形見なんで」

「間拔けだな。三年前に死んだ伯父さんの形見の手拭を、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>まで持つて歩くんだ。――その手拭を、手水鉢で<ruby><rb>濕</rb><rt>しめ</rt></ruby>して、固く絞つて來い。――<ruby><rb>序</rb><rt>ついで</rt></ruby>に<ruby><rb>褌</rb><rt>ふんどし</rt></ruby>も貸せと言はれたらどうするつもりだ。七年前に死んだ、親父の形見の褌なんざ、親孝行の<ruby><rb>旗幟</rb><rt>はたじるし</rt></ruby>にもならないぜ」

平次は無駄を言ひ乍ら、上から下へ、梯子段を拭いて居りましたが、中途で立止つて、階下の灯に<ruby><rb>透</rb><rt>すか</rt></ruby>しました。

「どうしました、親分」

「シツ、聲が高いぞ。大きな聲は無駄を言ふ時だけにしろ、――これを見ろ、眼で見ただけぢや氣がつかねえが、濕つた手拭は正直で、薄く桃色に附いたものがあるだらう、――間違ひなく血だよ。手へ着いた血が、四つん這ひになつて梯子段を登る時――」

「すると、あの<ruby><rb>青瓢箪</rb><rt>あをべうたん</rt></ruby>野郎が兄嫁を――」

八がいきり立つのを、平次は手をあげて押へました。

「靜かにしろといふのに、わからねえ野郎だ。――着物の裾から着いた血かも知れないぢやないか。そんな着物を知らずに着て居る者はないか、それとなく氣をつけろ」

「へエ」

「それから、死んだ嫁のお鈴と、家中の者との折合、近所の噂などを一應<ruby><rb>漁</rb><rt>あさ</rt></ruby>つて見ろ」

「それ位のことは、三日も此家に居たんだから、<ruby><rb>大概</rb><rt>たいがい</rt></ruby>わかつて居ますが」

「どんなことがわかつたんだ」

平次と八五郎は縁側に立つて居りました。月は<ruby><rb>傾</rb><rt>かたむ</rt></ruby>きかけて、曉近い風が身にしみます。

「あの總領の殿松といふのは、父親にも弟の捨吉にも、妹のお袖にも似て居ませんね」

「俺もそれを不思議に思つて居るよ」

「なんでも、あの殿松といふのは、<ruby><rb>兜屋</rb><rt>かぶとや</rt></ruby>の義理のある貰ひ子らしいといふことですよ。亡くなつた内儀は妙に<ruby><rb>總領贔屓</rb><rt>そうりやうびいき</rt></ruby>で可愛がりましたが、父親の三郎兵衞はハレ物にさはるやうに育てて居るさうです」

「――」

「その上、あの面相の通り、近頃ではノサバリ返つて、<ruby><rb>兜屋</rb><rt>かぶとや</rt></ruby>中を切つて廻し、父親にも物を言はせなかつたさうで」

「達者な息子だな」

「嫁のお鈴だつて、本當は弟の捨吉と相合傘に落書をされた仲で、本人同士はその氣で居たのを、お鈴の母親が慾張つて總領の嫁にと望まれて乘出したので、可哀さうなのは弟の捨吉ですよ。散々見せびらかされて、病氣が重くなるのも無理はありません。これは近所の噂ですがね。嫁のお鈴はどんな氣でゐたか、死人に口なしで、そこまではわかりませんが――」

八五郎は<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>んなことまで突つ込んで話すのです。

「それぢや、頼むぜ八。御近所の衆は飛んでもないことを知つて居るものだ」

「親分は？」

「少し調べ度いことがある。いや、<ruby><rb>先刻</rb><rt>さつき</rt></ruby>から俺に話し度がつて居る人があるんだよ。人目のない所で、その人を待つて居ようと思ふ」

平次は庭口から外へ出ると、兜屋の裏からあまり遠くないが<ruby><rb>毘沙門</rb><rt>びしやもん</rt></ruby>樣の境内へ入つて行きました。神樂坂の毘沙門樣は善國寺の境内を<ruby><rb>併</rb><rt>あは</rt></ruby>せて、今よりは遙かに廣く、眞夜中過ぎのたゝずまひは、氣味が惡いほどシンとして居ります。

本堂の横の拾石に腰をおろすと、後ろから<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>いて來た人は、そつと平次の側に立つて、<ruby><rb>首</rb><rt>くび</rt></ruby>うな<ruby><rb>垂</rb><rt>だ</rt></ruby>れて何やら切つかけを待つて居る樣子。まぎれもなくそれは、兜屋の主人の三郎兵衞の、打ちしをれた姿です。

「親分」

三郎兵衞は<ruby><rb>漸</rb><rt>やうや</rt></ruby>く口を切りました。

「――」

平次は默つてそれを迎へました。何んにも言ひませんが、身のこなし、<ruby><rb>常夜燈</rb><rt>じやうやとう</rt></ruby>に透して相手を見上げる顏、いかにも穩かな態度です。

## 七

「錢形の親分、私を縛つて下さい、――伜の嫁を殺したのは、この私――兜屋三郎兵衞でございます」

三郎兵衞は言ふべきことを言つてしまつて、力が盡き果てやうに、平次の掛けて居る石の前、同じやうな捨石にガツクリ<ruby><rb>崩折</rb><rt>くづを</rt></ruby>れました。

この男には、恰幅にも<ruby><rb>氣魄</rb><rt>きはく</rt></ruby>にも、昔の身分を物語る武家らしさは少しもなく、見たところ全く疲れ果てた六十歳近い唯の老人です。

「そいつは手輕に受取り兼ねるが、――わけを聽きませうか」

「申し上げませう。今更嫁が自害したと申したところで、親分は本當にして下さらないでせう。皆んな申上げて、親分のお繩を頂戴しませう」

「――」

平次は先を<ruby><rb>促</rb><rt>うなが</rt></ruby>しました。

「斯うなるのは、矢張り約束ごとでございます。――今までは隨分隱して參りましたが、――私の伜、總領の<ruby><rb>殿松</rb><rt>とのまつ</rt></ruby>は、私の本當の子ではございません」

「それは噂で聽いたがどうしたわけなんで」

「元私は、八千五百石取の大旗本の用人でございました。主人の名前は御勘辨願ひます。<ruby><rb>守名</rb><rt>かみな</rt></ruby>のある、役付の大した御身分で御座いました。その御主人が、召使に手をつけて身持ちにさせ、奧方の<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>やきもち</rt></ruby>がひどかつたので五ヶ月の腹を抱へて、私に押しつけられました」

「――」

平次は舌を鳴らしました。此社會の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">だらし</span>のなさ、日頃尤もらしい顏をして居るだけに馬鹿馬鹿しくなります。

「私は大枚の金を頂き、不義の相手は私といふことにして、お屋敷を追ひ出されました。私が覺えのない子は、それから五ヶ月目に生れました、これが殿松でございます。女房は殿樣の<ruby><rb>胤</rb><rt>たね</rt></ruby>といふことが忘れ兼ねて、酒屋の伜に似氣なく、殿松などといふ名をつけました。それから、弟の捨吉と、娘のお袖が生れましたが、あれは<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れもなく私の子でございますが、あつてもなくても良い子だからと、捨吉、お袖と、これも女房の好みでつけた名でございます」

「――」

平次に取つては想像も及ばなかつた世界の物語です。

「十年經つて女房は<ruby><rb>亡</rb><rt>な</rt></ruby>くなりましたが、元手が確かりあつたので、酒屋は繁昌して、<ruby><rb>兜屋</rb><rt>かぶとや</rt></ruby>の身上は、今では山の手で指折りの店になりました。が、殿松は亡くなつた女房に聽いたらしく、自分の身性を<ruby><rb>覺</rb><rt>さと</rt></ruby>つて、我儘が募るばかり。今では兜屋を切り廻して、私に口も出させない始末でございます」

「で？」

「嫁のお鈴も、元は弟の捨吉に<ruby><rb>添</rb><rt>そ</rt></ruby>はせるつもりで、私も樂しみにして居りましたが、兄の殿松が横から乘出して、強引に自分の嫁にし、私を無理押しに承知させて、夫婦になつてしまひました。何分にも押しの強い人間で、親兄弟などに遠慮などをする人間ではございません。その上武術が相當にいけるので、私などは<ruby><rb>芥</rb><rt>あくた</rt></ruby>ほどにも思つて居りません。――現に先日弟の捨吉が、御見附の濠に<ruby><rb>抛</rb><rt>はふ</rt></ruby>り込まれたのだつて、誰の<ruby><rb>仕業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>か、私にはよくわかつて居ります。世間體は、兄の殿松と間違へられた災難といふことにいたしてをりますが、どんな暗闇の中だつて、あの仁王樣のやうな兄の殿松と、ヒヨロヒヨロの弟の捨吉と間違へる、そゝつかしい<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>がある筈も御座いません」

「――」

「こんなことになるのも、元は私の間違ひからで、今更<ruby><rb>悔</rb><rt>くや</rt></ruby>んでもいたし方もありません。可哀想に捨吉は、あれから容體が惡くなつて、とても助かるまいと、お醫者も<ruby><rb>匙</rb><rt>さじ</rt></ruby>を投げてしまひました。――憎いのはあの殿松でございます。一と思ひに刺し殺してやらうかと、なんべん決心したかわかりませんが、腕前の達者な殿松を、私の手では殺せさうもなく、その上――主人の<ruby><rb>胤</rb><rt>たね</rt></ruby>とわかつて居るだけに、腹の中では憎んで〱、燃えつくほど憎んでゐるくせに、私の手ではどうにもならず、一層のこと、殿松が夢中になつて居る嫁のお鈴を殺して、<ruby><rb>溜飮</rb><rt>りういん</rt></ruby>を下げようと思ひついたのでございます。――あんなに弟と親しかつたお鈴が、段々殿松にひかされて、近頃では、殿松の氣を兼ねたか、ろくに捨吉に口もきいてやりません。――私は<ruby><rb>碁</rb><rt>ご</rt></ruby>の助言の途中から、家の中に入り、灯を持つて來るといふことにして、<ruby><rb>鎧通</rb><rt>よろひどほ</rt></ruby>しを持出し――」

三郎兵衞は絶句したまゝ、自分の涙に<ruby><rb>溺</rb><rt>おぼ</rt></ruby>れるのでした。

「わかつた。が、あの死骸に<ruby><rb>匕首</rb><rt>あひくち</rt></ruby>を握らせたのは誰だえ」

「それも私でございます、――嫁が自害したやうに見せかけるために」

「まア、宜い。が旦那、――そんなことで、平次を<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>せると思つちやいけませんよ」

「親分」

「お前さんにも手落ちはあつた。主人の不都合の<ruby><rb>跡始末</rb><rt>あとしまつ</rt></ruby>をして、それを忠義だと思ふやうなことは、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こちとら</span>の國ぢや通用しねえことさ。猫のつもりで虎の子を育てて、あとで手を噛まれたところで、誰を<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>みやうもあるまい。兎も角、餘計なことはしない方が宜い。お前さんは、身上の<ruby><rb>執着</rb><rt>しふぢやく</rt></ruby>を捨てさへすれば事が濟むだらう。弟の捨吉さんの養生に骨を折るが宜い、――お前さんが腹の中で思ひ詰めたことを、誰かが代つてやつたまでの事だ。<ruby><rb>閻魔</rb><rt>えんま</rt></ruby>樣の前ぢや言ひ開きはむづかしいが、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>は口先で<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>されて繩はかけ度くはないのさ」

「あゝ、親分」

「私は歸りますよ」

クルリと背を向けて往來に出ると、

「<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>んなところに居たんですか、親分」

八五郎は曉の町を馬のやうに飛んで來るのです。

「俺はもう歸らうと思ふよ」

「下手人はどうするんです。――親分に言ひつけられた通り、皆んなの着物の裾を見ましたが、何しろあのひどい血だ。妹のお袖は身仕舞が良いから無事だけれど、あとは皆んな何處かに血を附けて居ますよ」

八五郎はそれが此事件の大きな<ruby><rb>鍵</rb><rt>キー</rt></ruby>のやうな氣がして居る樣子です。

「さうだらうとも、十手捕繩を預かる八五郎でさへ、<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>と<ruby><rb>肘</rb><rt>ひぢ</rt></ruby>にひどい血が附いてるぢやないか、身體に血の附いてるのを縛る段になれば、第一番に八五郎が縛られるよ」

「冗談ぢやない」

「だが、あのお袖といふ娘は良い娘だつたな。あんなに氣の廻る娘を、俺は見たこともないよ。八の嫁には、少し――」

などと、相變らず、呑氣さうな平次です。

×　　　　　　×　　　　　　×

「親分、<ruby><rb>肴町</rb><rt>さかなまち</rt></ruby>の兜屋の嫁を一體誰が殺したんです。いつかは訊かうと思つて居ましたが」

秋になつて、ある日の茶呑話に、八五郎は平次に<ruby><rb>誘</rb><rt>さそ</rt></ruby>ひかけました。

「下手人が死んださうだから、もう打ちあけても差支へあるまいが」

「死んだ――といふと、あの弟の捨吉ですか。身動きも出來ない<ruby><rb>容體</rb><rt>からだ</rt></ruby>でしたが」

「一生懸命は恐ろしいよ。後からはつて行つて、聲くらゐは掛けたかもしれないが、昔の戀人だから、お鈴は氣にもしなかつたことだらう。そこを後ろから喉笛を切つた。<ruby><rb>匕首</rb><rt>あひくち</rt></ruby>は死骸の着物で拭いて、元の用箪笥にしまひ込んだのだらう。どうして刄物をしまひ込む氣になつたか、いまだにわからないが、兄の<ruby><rb>殿松</rb><rt>とのまつ</rt></ruby>に思ひ知らせるためだつたか。それとも父親の大事の刄物だから、元のところへ返して置かなきや惡いと思つたのか。兎も角、捨吉はもう長く生きては居られないと覺悟をして居た樣子だ」

「――」

「それから、<ruby><rb>疲</rb><rt>つか</rt></ruby>れ果てて四つん這ひになつて<ruby><rb>梯子</rb><rt>はしご</rt></ruby>段を登つた。手についた血が、段々についたわけだ」

「――」

「その後へ、主人の三郎兵衞が行つた。嫁の死骸を見て<ruby><rb>膽</rb><rt>きも</rt></ruby>をつぶしたが、この男は武家奉公もしたくせに恐ろしく<ruby><rb>臆病</rb><rt>おくびやう</rt></ruby>だから、岐阜提灯へ照れ隱しに灯を入れて店先に持つて來たが、<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>らふそく</rt></ruby>がよく釘に立つて居ないから、それから一刻近くも經つて熱で蝋燭が<ruby><rb>柔</rb><rt>やはら</rt></ruby>かくなると、私が<ruby><rb>觸</rb><rt>さは</rt></ruby>つただけで倒れて提灯を燒いた」

「へエ、成程」

「あの時私は主人が怪しいと思つたよ。娘のお袖は、提灯を持つて來た時、父親の樣子が變なので、直ぐ家の中へ入り、兄嫁の死骸を見て、何も彼も覺つてしまつた。あの娘はたつた十七だといふが、恐ろしく身仕舞が良いばかりでなく大變な氣の廻る娘だ。早くも<ruby><rb>鎧通</rb><rt>よろひどほ</rt></ruby>しに氣がつくと、用箪笥から持つて來て、血塗つてお鈴の死骸に握らせ、自害らしく見せかけ、隣の部屋へ引つ返して鎧通しの<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>の<ruby><rb>鯉口</rb><rt>こひぐち</rt></ruby>まで拭つて置いた。さすがの悧巧な娘も<ruby><rb>手水鉢</rb><rt>てうづばち</rt></ruby>の上の手拭に、ほんの少し血が附いたことと、梯子段に眼に見えない血がこぼれたことだけは氣が付かなかつたらしい」

「成程ね」

「主人の三郎兵衞は、俺の調べの樣子に氣が付いて、伜の捨吉が危ないと見てすぐ名乘つてきたが、こいつは縛れない。――本當の下手人も、あの通り、何時死ぬかわからない重病人だ。これを床の中から縛る氣にはどうしてもなれなかつた」

「へエ」

「それから氣をつけて居ると、捨吉は間もなく死んでしまつたさうだし、兜屋の主人三郎兵衞は、娘のお袖と二人、隱居をして、引越してしまつたさうだ。殿松は押しが強いから、良い<ruby><rb>身上</rb><rt>しんしやう</rt></ruby>を拵へるだらう。お鈴は自害といふことで濟んでしまつた」

「隨分變な話ですね」

「變な話だよ、――諸方に<ruby><rb>碌</rb><rt>ろく</rt></ruby>でもない子を生みつけて、金で始末をしようとする奴が、一番罪が深いといふことになるのさ」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>のやうなのは大丈夫で」

「相手も無きや、金もないから、成程無事過ぎて張合がない。嫁でも搜す氣になれよ。幾つだと思ふ」

「あ、又始まつた。もう少し獨りで置いて下さいよ。後生だから」

三杯目の<ruby><rb>土瓶</rb><rt>どびん</rt></ruby>が空になつて、<ruby><rb>蜩</rb><rt>ひぐらし</rt></ruby>が明神の森に鳴いて居ます。