## 一

「親分、良い陽氣ですね」

「何んだ、八にしちや、大層お世辭が良いぢやないか。何にか又頼み度い事があるんだらう。金か御馳走か、それとも色の取持か。どつちだ」

錢形平次と八五郎は、<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>んな調子で話を始めたのです。

「そんな<ruby><rb>氣障</rb><rt>きざ</rt></ruby>なんぢやありませんよ。金はふんだんにあるし、うまい物は腹一杯に食べてゐるし、女の子はうるさいほど付き<ruby><rb>纒</rb><rt>まと</rt></ruby>ふし、此樣子ぢやどうも身が保てねえ」

「馬鹿野郎、張り倒すよ」

「へツ自分は張り倒されて見てえ位のもので、近頃はもて過ぎてポーとして居ますよ」

八五郎はさう言つて、八つ手の葉つぱのやうな手の平を、自分の耳のあたりでパツと開いて見せるのでした。

「<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れて物が言へねえ。少し何うかして居るんぢやないか、八」

「どうもしたわけぢやありませんよ、今日は、一番親分の智惠を試しに來たんで」

「言ふことが一々<ruby><rb>疳</rb><rt>かん</rt></ruby>にさはるな。お前に試されるやうな智惠は、横町の隱居に貸してやつたから、今日は生憎だ」

「へツ、智惠の時貸しは驚いたな、――<ruby><rb>尤</rb><rt>もつと</rt></ruby>も、こんなのは<ruby><rb>平常</rb><rt>ふだん</rt></ruby>使ひの智惠袋で結構で――、これですよ、親分」

八五郎が懷中から取出したのは、小菊に包んだ小さい品物でした。受取つて開けると、中から出たのは、飴色の<ruby><rb>鼈甲</rb><rt>べつかふ</rt></ruby>の――少し時勢遲れの大振りな<ruby><rb>櫛</rb><rt>くし</rt></ruby>が一つ。

「これは何んだ」

「櫛ですよ」

「櫛はわかつて居る――まさか熊手と間違やしめえ」

「その櫛に<ruby><rb>曰</rb><rt>いは</rt></ruby>くがありさうなんで」

「何處の新造に貰つて來たんだ」

「今頃こんな古風な櫛を差す<ruby><rb>新造</rb><rt>しんぞ</rt></ruby>はありませんよ、――私の伯母の知合――と言つたところで、死んだ亭主の墓詣りに行つて<ruby><rb>懇意</rb><rt>こんい</rt></ruby>になつた、谷中の養仙寺前の茶屋の嫁が、里の母親が死んで一年半も經つてから、形見に貰つた此櫛が、どうも<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>に落ちないことがあるから、八五郎親分に見て貰ひ度いつて、伯母のところへ屆けて來たんですつて――さう言はれると、結構な<ruby><rb>鼈甲</rb><rt>べつかふ</rt></ruby>の肌に、引つ掻きのやうな、<ruby><rb>假名</rb><rt>かな</rt></ruby>文字のやうなものが見えますね」

八五郎の説明が、七面倒に持つて廻る間、平次は指先で<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でたり、陽に<ruby><rb>透</rb><rt>すか</rt></ruby>したり、いろ〱の角度から櫛を眺めて居りました。

「ぢや、八五郎親分が鑑定してやるが宜い。お前の智惠試しに丁度<ruby><rb>誂</rb><rt>あつら</rt></ruby>へ向ぢやないか」

「ところが駄目で」

「兜を脱いだのか」

「あつしの智惠袋が<ruby><rb>綻</rb><rt>ほころ</rt></ruby>びだらけで、へツへツ、おまけに字を讀むことと、新造を口説くことは親の<ruby><rb>遺言</rb><rt>ゆゐごん</rt></ruby>で止められて居ますよ」

「だらしがねえなア、それ御覽」

「へエ」

平次は<ruby><rb>鼈甲</rb><rt>べつかふ</rt></ruby>の<ruby><rb>櫛</rb><rt>くし</rt></ruby>を<ruby><rb>斜</rb><rt>なゝめ</rt></ruby>に、斯う陽にすかして見せ乍ら續けました。

「これほどよく磨いた櫛の背に、傷のやうな、引つ掻きのやうなものが見えるだらう」

「え、え、それは見えますよ」

「針で<ruby><rb>彫</rb><rt>ほ</rt></ruby>つた假名文字だ、鼈甲は柔らかいから、わけもなく傷が付く――いや待てよ、柔かいと言つても、女の使ふ<ruby><rb>縫針</rb><rt>ぬひばり</rt></ruby>くらゐぢや、こんな形の<ruby><rb>確</rb><rt>たし</rt></ruby>かな字は書けないな」

「すると」

「待て〱、此まゝでは讀めまい、――少しは櫛を汚すが、構はないだらうな」

「構やしません」

平次は八五郎の返事を背に聽いて、お勝手へ行くと、念入りに櫛を洗ひ始めましたが、大方<ruby><rb>脂</rb><rt>あぶら</rt></ruby>を洗ひ落した頃、よく紙で拭き取つて、その上へ<ruby><rb>磨</rb><rt>す</rt></ruby>り立ての濃い墨をたつぷり塗り付けます。

「これを拭きさへすれば宜い、――それ見な」

ざつと乾かした櫛を、紙で柔かく拭いて行くと、櫛の表の針の引つ掻きに墨が殘つて、いとも<ruby><rb>鮮</rb><rt>あざ</rt></ruby>やに讀み取れるのです。

「へエ、驚きましたね、これが讀めるんですね、へエ」

感に堪へて、八五郎の長んがい<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>がそれを差覗きます。

「假名で十九文字、斯う書いてある、『よさくさにやれみりゐけひぬげやいほてぬ』――解つたか、八」

「――あびらうんけんそわか――見たいなもので」

「馬鹿だなア」

「でなきや、<ruby><rb>火傷</rb><rt>やけど</rt></ruby>の<ruby><rb>禁呪</rb><rt>まじなひ</rt></ruby>」

「こいつは隱し言葉だよ」

「へエ？」

「そのお茶屋の嫁の母親といふのが、娘に知らせ度いことがあつたが、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あけすけ</span>に書けないので、こんな判じ物の隱し言葉で書き遺したのだらう」

「へエ」

八五郎はすつかり感に堪へました。

「それにしちや、文字が確りしてゐるが、餘つ程氣性の確かな人だつたと見える」

「それぢや、親分の智惠で、ちよいと繪解きをして下さいよ――」

「そんなわけには行かないよ、いろ〱の<ruby><rb>隱</rb><rt>かく</rt></ruby>し言葉も讀んだが、こいつは少しむづかしさうだ」

平次は深々と腕などを組んで居ります。

## 二

「親分は今までに、いろ〱の隱し言葉を解きましたね、一字送り、<ruby><rb>逆讀</rb><rt>さかよ</rt></ruby>み、<ruby><rb>耶馬臺</rb><rt>やばだい</rt></ruby>讀み、魔法陣讀みなどと」

「――」

「その<ruby><rb>術</rb><rt>て</rt></ruby>で、こんなのはスラスラと讀めるんぢやありませんか」

八五郎はもどかしさうに言ふのでした。一字送りといふのは、いろは四十八文字の表を繰つて、書いた暗號文字の次の字を拾つて讀む方法。二字送り三字送りは、二つ目又は三つ目の假名を讀む方法、逆讀みはいろは文字の一つづつ上のを讀んで行く方法。そして耶馬臺讀みは、<ruby><rb>吉備眞備</rb><rt>きびのまきび</rt></ruby>の傳説の耶馬臺の詩を讀むやうに、四角に書いた文字の眞ん中の一字から讀み始めて、鍵の手にグルグルと讀んで行く方法で。最後の魔法陣讀みは、一から九までの數字を、三つづつ四角に竝べ、何處から勘定しても十五になるやうに配列した表と照し合せ、その數字の順序に讀んで行く方法です。

「これは、そんなに手輕に讀める隱し言葉ではないよ、少し考へさしてくれ」

平次の顏のむづかしさ。それに相對して、八五郎も高々と腕などを<ruby><rb>拱</rb><rt>こまぬ</rt></ruby>きましたが、しびれがきれたり、鼻の穴が<ruby><rb>痒</rb><rt>かゆ</rt></ruby>くなつたり、どうも結構な智惠は浮かびさうもありません。

「出來たツ」

八五郎はいきなり膝を叩きます。

「何んだ、びつくりするぢやないか」

「よさくさはあさくさぢやありませんか、――淺草にやれ――と<ruby><rb>斯</rb><rt>か</rt></ruby>う讀むんで」

「みりゐけひぬげは何んだ」

「まだ其處までは考へて居ませんよ」

「それぢや何んにも分らない、――が、俺にはどうやら解けたらしいよ」

「へエ、――淺草ぢやなくて、上野か、芝か」

「そんな氣樂な話ぢやない、――これはいろは四十八文字の表を、この隱し言葉で<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>つて千鳥がけに讀み變へて行くのだ」

「へエ？」

「例へば、斯うだ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よ</span>とあるのは『をわかよたれ』の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よ</span>の前の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">か</span>の字だ。次の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さ</span>とあるのは『あさきさめみし』の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さ</span>の次の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">き</span>の字だ、斯んな具合に三番目は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">く</span>の前の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">お</span>の字、四番目はさの次の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">き</span>の字、――一つ置きにいろは歌の表と睨み合せて、隱し言葉の後前々々と千鳥がけに讀んで見るが宜い、多分<ruby><rb>斯</rb><rt>か</rt></ruby>うなるだらう、――おいお靜、<ruby><rb>硯</rb><rt>すゞり</rt></ruby>と紙を持つて來な」

「ハイ」

先刻<ruby><rb>櫛</rb><rt>くし</rt></ruby>へ墨を塗り込んだ硯を持つて來ると、平次は懷ろ紙の<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>を<ruby><rb>伸</rb><rt>のば</rt></ruby>して斯う書き下したのです。

かきおきはまたしちのまもりぶくろにあり

「あツ、讀めますね、こいつは」

「――書き置きは又七の守り袋にあり――と讀むんだらう。こいつは<ruby><rb>曰</rb><rt>いは</rt></ruby>くがありさうだ。行つて見ようか、八」

「行きませう。養仙寺前の茶屋、竹原屋へ行つて、嫁に訊いたらわかるでせう」

「斯うなりや、<ruby><rb>退屈</rb><rt>たいくつ</rt></ruby>樣々だ」

「なんだいそれは、八？」

「退屈でもして居なきや、親分はこんな餌にはかゝりませんよ」

「岡釣りと間違へてやがる」

そんな事を言ひ乍らも平次は、此<ruby><rb>鼈甲</rb><rt>べつかふ</rt></ruby>の櫛の暗號文字から、妙に割り切れない謎を感じて居たのです。

谷中の養仙寺前の竹原屋といふのは、相當大きくやつて居る茶屋ですが、平次と八五郎が飛込んで聽くと、

「嫁の里の後取息子が亡くなつて、嫁と伜は飛んで行きましたよ」

留守番をして居る、少し耳の遠い<ruby><rb>姑</rb><rt>しうとめ</rt></ruby>が言ふのです。

「里の息子――といふと此家の嫁の弟だね」

「へエ、實の弟で又七と言ひますが、――母親が再縁したので、嫁も嫁の弟も、今の父親とは義理ある仲ですよ」

「その息子が死んだのは何時だ」

「<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>ださうで」

「家は何處だ」

「千駄木の地主で、中屋萬藏と訊ねて下さればわかります」

「何んだ、中屋の萬藏が、此家の嫁の里だつたのか」

平次も八五郎もそれはよく知つて居ります。駒込切つての大地主で、山の手一圓に知られた豪家です。

## 三

千駄木の大地主、中屋萬藏の豪勢な家は、<ruby><rb>陰氣臭</rb><rt>いんきくさ</rt></ruby>く靜まり返つて、氣ぜはしく出入りする人々も、足音を忍ばせるやうな、妙に滅入つた姿でした。

「いきなり乘込むんでもあるまい。お前は竹原屋の嫁を知つて居るだらう」

「へエ、よく知つて居ますよ、まだ二十一の半元服の、そりや良い女ですよ」

八五郎は大呑込みで、襟を直したり、十手を内懷ろに突つ張らせたりして居ります。

「何を<ruby><rb>所作</rb><rt>やつ</rt></ruby>て居るんだ」

「<ruby><rb>斯</rb><rt>か</rt></ruby>うでもしなきや、亭主野郎が燒餅を燒きますよ、精一杯御用風を吹かせて――」

「好い氣なもんだ」

そんな事を言つて見送る平次のところへ、間もなく八五郎は、綺麗な新造を一人、追つ立てるやうに連れ出して來ました。

「親分、これがお春さん――竹原屋の新造ですよ」

「さうか、俺は神田の平次だ。大した手間は取らせない、ちよいと顏を貸してくれ」

「ハイ」

平次はお春を物蔭に<ruby><rb>誘</rb><rt>さそ</rt></ruby>ひ入れ乍ら、

「八、お前は其處を見張つて居てくれ。人が來たつて、構やしないが、立ち聽きされちや面白くない」

「あつしは聽いても構ひませんか」

「馬鹿野郎、聽いて惡いと思つたら、そのでつかい耳の穴へ、二三本づつ指でも突つ込んで置け」

「へツ、驚いたなア」

八五郎は向うの方へフラフラと立去りました。

「お春さんと言つたね」

「ハイ」

それは若々しい町女房でした。色白で、愛嬌者らしくて、少し<ruby><rb>蓮葉</rb><rt>はすつぱ</rt></ruby>で、そのくせ性根の確りしたところのある、典型的な江戸の若女房型と言つても宜いでせう。

「弟の又七が死んださうだな」

「ハイ、可哀想に、――弱い子ではなかつたのですが、町内の本道も首を<ruby><rb>捻</rb><rt>ひね</rt></ruby>つて居りました。お寺で引受けてくれると宜いが――と父親も心配してをります」

「父親？」

「私も、弟の又七も、母の連れつ子でございました。中屋の父には二人共義理ある中で」

「ところで、<ruby><rb>守袋</rb><rt>まもりぶくろ</rt></ruby>はあつたのか」

「？」

「お前の弟の肌身に着けて居る守袋の中に、亡くなつた母親の<ruby><rb>遺書</rb><rt>ゆゐごん</rt></ruby>が入つて居た筈だ――そんなものは見えなかつたかと訊いて居るのだ」

「いえ、何んにも」

お春の大きい眼は、覺束なくも<ruby><rb>瞬</rb><rt>またゝ</rt></ruby>きます。

「八が持つて來た、<ruby><rb>鼈甲</rb><rt>べつかふ</rt></ruby>の<ruby><rb>櫛</rb><rt>くし</rt></ruby>の謎を、<ruby><rb>漸</rb><rt>やうや</rt></ruby>く解いたのだよ。あの櫛には――書き置きは又七の守袋の中にある――と書いてあつたのだ。ところで、あの櫛を屆けてくれたのは誰だ」

「番頭の音吉どんですよ、――あの人は亡くなつた母に頼まれて居た癖に長い間忘れて居たんですつて」

「あの櫛はいろ〱の事を教へてくれたよ。お前の母親が何にか知つて居たのかも知れない」

平次は斯う説明してやつたのです。

「まア、――<ruby><rb>怖</rb><rt>こは</rt></ruby>い」

「何が怖いのだ」

「何んだかわかりませんが、――そんなお話を聽くと、私は恐ろしくなります」

單純で綺麗な町女房の神經は、理窟も根據もなく、本能的に<ruby><rb>戰</rb><rt>をのゝ</rt></ruby>くのでせう。

「お前の母親は、どんな病氣で死んだんだ」

「ブラブラ病ひで御座いました。<ruby><rb>癆症</rb><rt>らうしやう</rt></ruby>だつたかも知れません」

「<ruby><rb>平常</rb><rt>ふだん</rt></ruby>何にかこぼして居なかつたか」

「いえ、――自分ほど幸せな者はないと、口癖のやうに申して居りました」

「<ruby><rb>亡</rb><rt>な</rt></ruby>くなつたのは？」

「お寅さんが來た年ですから、一昨年の秋で」

「お寅さんといふのは？」

「――」

「奉公人か」

「え、奉公人のやうな」

「父親の萬藏はどんな人だ」

「良い人でしたが、お寅さんが來てからは、少しづつ變つてしまひました」

お寅さんといふのは、お春の母親――つまり中屋萬藏の女房のお米が亡くなつた後で入り込んで來た、萬藏の<ruby><rb>妾</rb><rt>めかけ</rt></ruby>でもあるのでせう。その名が出る度毎に、お春の表情の險しくなるのを平次は<ruby><rb>見遁</rb><rt>みのが</rt></ruby>す筈もありません。

「八、ちよいと來い」

「へエ」

「中屋へ乘込んで見ようと思ふがどうだ」

「行つて見ませう。守袋を<ruby><rb>搜</rb><rt>さが</rt></ruby>さなきや、わざ〱此處まで來たのは無駄骨折になるぢやありませんか」

「お春さんは、岡つ引を案内しては、中屋へ歸り<ruby><rb>難</rb><rt>にく</rt></ruby>からう、先へ歸るが宜い」

「ハイ」

お春はホツとした樣子で、靜かに二人に會釋すると、中屋の方へ立去ります。

「ね、親分、良い女でせう」

ヒヨイとしやくつた、八五郎の<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>の長さ。

「氣が多過ぎるよ、お前は」

「へツ、女房のない<ruby><rb>所爲</rb><rt>せゐ</rt></ruby>で」

龜の子のやうに首を<ruby><rb>縮</rb><rt>ちゞ</rt></ruby>めて、長い舌を出して見せる八五郎です。

## 四

中屋萬藏の家は、豪勢と言つても、それは矢張り唯の百姓屋でした。深い植込の中に隱された、凄まじい贅澤な木口の家には、門も玄關も、家の中には<ruby><rb>長押</rb><rt>なげし</rt></ruby>もなく、荒々しい木造りと、不調和な家具調度が、神田から來た平次を、妙に寒々とした感じにさせます。

「ハイ、私は主人の萬藏で御座いますが」

迎へてくれたのは、四十五六のまだ元氣な男でした。<ruby><rb>手織縞</rb><rt>ておりじま</rt></ruby>の布子に、<ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>しべで髮を結つた、存分に質素な<ruby><rb>身扮</rb><rt>みなり</rt></ruby>も、何にかしら僞善的な不調和さを感じさせるところに、此家の生活には不純なものがあるのでせう。

「俺は神田の平次だが、子供が死んださうではないか」

「ハイ、<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>伜の又七が、急に虫を起して引付けたらしく、そのまゝ、息が絶えてしまひました。――誰も知らずに居りましたが、今朝になつて氣が付いて大騷ぎをしたやうなわけでございます」

「案内してくれ」

「これよ、誰か」

「ハイ」

聲に應じて來たのは、三十前後の小氣のきいた男でした。

「音か、御役人樣方を、又七のところへ御案内申し上げてくれ」

「へエ、かうお出で下さいまし」

音吉は先に立つて、奧の一と間へ案内しました。

「お前は此家に何年位居るのだ」

「十五六年になります。私は遠縁で、唯の奉公と違ひますので、ことのほか目を掛けて頂いて居ります」

音吉は少し足を<ruby><rb>緩</rb><rt>ゆる</rt></ruby>め乍ら、<ruby><rb>愼</rb><rt>つゝし</rt></ruby>み深く言ふのでした。髮の毛の濃い、髯の<ruby><rb>剃跡</rb><rt>そりあと</rt></ruby>の青々とした、少し<ruby><rb>逞</rb><rt>たく</rt></ruby>ましい感じのする男ですが、口調も顏の表情も柔和で、誰にでも<ruby><rb>頼母</rb><rt>たのも</rt></ruby>しがらせずには措かないと言つた如才なさがあります。

「内儀のお米が死んだ時、何にか變なことがなかつたのか」

「何んにもなかつたと思ひますが、――でも少し<ruby><rb>脆過</rb><rt>もろす</rt></ruby>ぎました。結構な伯母さんでしたが」

「脆過ぎたといふと」

「床へ就いてから、たつた三日目に亡くなつたのですから、誰でも變に思ひましたが、でも一年半も前の事ですから」

音吉は絶望的に淋しい笑ひを浮べるのでした。

「他に氣の付いたことはないか」

「坊つちやんの<ruby><rb>守袋</rb><rt>まもりぶくろ</rt></ruby>が見えませんが――」

「それは大事な物でも入つて居たのか」

「そんな氣がしてなりません。亡くなつた母親が、大變大事にさせて置きましたから」

「たつたそれだけの事か」

「左樣で御座います」

音吉は默り込んでしまひました。あまりお<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しやべり</rt></ruby>が過ぎたことに、自分乍ら氣が付いたのでせう。

奧の一と間に通ると、其處には又七の死骸を横たへて、經机の前に老番頭の和助が、つくねんと坐つて居りました。

錢形平次と八五郎を、唯の<ruby><rb>弔問客</rb><rt>てうもんきやく</rt></ruby>と見たか、<ruby><rb>慇懃</rb><rt>いんぎん</rt></ruby>を極めて居る癖に、宜い加減な挨拶をして、そつぽの方を向くのへ、音吉は追つ駈けるやうに何やら囁きました。

「え？　錢形の親分？　――さうか、それは〱飛んだ御苦勞樣で」

打つて變つた調子に、平次は少しばかり胸を惡くしました。

又七の死骸に近づいて、片手拜みに拜んで、そつと顏の巾を取つた平次は、思はずハツと息を呑みました。

「これは？」

十二といふにしては、背丈のよく<ruby><rb>伸</rb><rt>の</rt></ruby>びた、丈夫さうな少年ですが、苦惱に<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>んだ顏、飛出しさうな眼、<ruby><rb>斑</rb><rt>まだら</rt></ruby>になつた頬の色、そして唇を噛んだらしく、少し古い血のこびり附いて居る樣子など、全く只事ではありません。

「<ruby><rb>締</rb><rt>し</rt></ruby>められたんですね」

と八五郎。

「いや、喉に何んの變つたこともない」

「すると？」

「息を詰められたのだ。布團のやうなもので、蒸し殺されたのかも知れない」

「檢屍便覽には尻を見ろ――とありますね」

「それには及ぶまい、――これでは成程お寺で引受けないわけだ」

言ふ迄もなく其頃は、變死と見ると、寺方で<ruby><rb>葬</rb><rt>とむら</rt></ruby>ひを引受けないのが<ruby><rb>不文律</rb><rt>ふぶんりつ</rt></ruby>になつて居りました。

「この子は昨日元氣がよかつたのか」

「へエ、大變な機嫌で御近所の子供さん達と遊んで居りました」

答へたのは老番頭の和助でした。

「此部屋に一人で寢るのか」

「いえ、飛んだ怖がりで、大抵私と一緒に此部屋に寢て居ります」

横合から口を出したのは、若い番頭――この中屋の遠縁だといふ音吉でした。

「昨夜は？　――これは大事なことだ、間違ひのないやうに返答をするのだ」

平次は念を押しました。

「私は養仙寺前の竹原屋まで用事を頼まれて參りましたが、あんまり遲くなつて、泊めて頂きました。此節は辻斬や<ruby><rb>追剥</rb><rt>おひはぎ</rt></ruby>が出て、此邊は物騷でございます」

「用事といふのは？」

「ほんの<ruby><rb>些細</rb><rt>ささい</rt></ruby>なことで御座います。――竹原屋の御新造に頼まれて居た、仕入の金を屆けるのをすつかり忘れて居りましたのと、もう一つ」

「？」

「坊つちやん――の又七さんから、竹原屋のお姉樣に、相談し度いことがあるから、明日にも來てくれるやうにといふ<ruby><rb>言傳</rb><rt>ことづて</rt></ruby>を頼まれましたので」

「その仕入の金といふのは？」

「竹原屋の御新造が、<ruby><rb>此家</rb><rt>このや</rt></ruby>のお父さんにお願ひして、商賣物の仕入で急に入用になつた、十五兩の金を貸して頂き度いと、お手紙で頼んで來たので御座います。そのお使を申付けられたのは、まだ陽のある内でしたが、夕方から宵のうちは、ゴタゴタ雜用が重なつて、外へ出かける暇も御座いません。遲くなると物騷だと知り乍ら、<ruby><rb>戌刻半</rb><rt>いつゝはん</rt></ruby>（九時）過ぎに谷中まで出かけました」

音吉の話は非常によく筋が通ります。

## 五

「音さん、岡つ引が、來て居るんだつてね。いつもの<ruby><rb>術</rb><rt>て</rt></ruby>で、お前さんだけ良い子にならないでおくれ」

少し呶鳴りちらすやうな調子で、ガラガラとまくし立て乍ら、部屋の中へ入つて來たのは、パツと咲ききつたやうな、<ruby><rb>爛熟</rb><rt>らんじゆく</rt></ruby>した大年増でした。

「お寅さん」

音吉はあわてて飛付いて、その口でも<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>ぎたいやうな樣子ですが、それよりも驚いたのは錢形平次と八五郎が、苦りきつて<ruby><rb>控</rb><rt>ひか</rt></ruby>へたのを見た女自身でした。

「まア」

お寅と言つて二十八、主人萬藏の身の廻りの世話をするといふ名目の奉公人で、<ruby><rb>曾</rb><rt>かつ</rt></ruby>ては岡場所を泳ぎ廻つた、山千海千の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">したゝか</span>者――と、蔭口を言はれて居ります。

「お前は何んだ」

その表情的な眼や、紅い唇に對して、八五郎はムカムカと反感がコミ上げた樣子です。

「奉公人の、お寅ですよ、――勘忍して下さいな、親分、知らなかつたんですもの」

ヘタヘタと<ruby><rb>崩折</rb><rt>くづを</rt></ruby>れたところを見ると、長い間の不養生に<ruby><rb>蝕</rb><rt>むし</rt></ruby>ばまれて、此女の肉體は見る蔭もない哀れなものです。骨細で青白い手、細い腰、薄い胴など、その表情的でクワツと明るい顏に比べて、それは何んといふ情けないものでせう。

「又七は人手に掛つて死んだんだぜ、――岡つ引が來るのに、不思議はあるめえ」

「まア」

「お前は<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>何處に居た、眞つ直ぐに申し上げろ」

平次も少しムカムカした樣子で、遠慮もなく突つかゝつて行きます。

「一と晩、旦那樣の部屋に居ましたよ。嘘だと思つたら、訊いて下さいな」

「八、お前は此女を見張つて居ろ、俺はこの女の部屋を調べて來る」

平次は音吉に眼配せして、それを案内に立上がりました。

「まア、親分、それだけは勘辨して下さい。私は物の始末の良い方ぢやないから、見られちや極り惡いものばかりですよ。<ruby><rb>家搜</rb><rt>やさが</rt></ruby>しされると知つたら、少しは片付けて置くのでした――」

お寅はさう言ひ乍ら、平次の後を追ひかけましたが、

「ならねえ」

「まア」

グイとその袖を引戻した八五郎、

「お前は此處で、俺と睨めつこをして居るんだ、――あんまり傍へ寄るな」

「まア、<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しいねエ」

女は觀念したものか、其處へヘタヘタと坐り込みました。鳥もちへ匂ひ袋をブラ下げたやうな女で、傍へ寄られると、八五郎でもあまり氣味がよくありません。

その間に平次は、音吉を案内に、お寅の部屋へ入り込みました。丸窓なんかを切つた、恐ろしく野暮つ度く氣取つた六疊ですが、部屋の中の雜然たる有樣は、さすがの平次も手を下しやうもありません。小道具と<ruby><rb>衣裳</rb><rt>いしやう</rt></ruby>と、こね廻したやうに散ばつて居る上、<ruby><rb>脂</rb><rt>あぶら</rt></ruby>と汗と白粉のカクテルで、これが本當に<ruby><rb>青大將</rb><rt>あをだいしやう</rt></ruby>の匂ひです。

一應調べては見ましたが、あまりの亂雜振りに、宜い加減にして切上げる外はありませんでした。

「こいつを調べた日にや、うけ合ひ盆前丸つぶれだよ」

「親分、――あの<ruby><rb>手筥</rb><rt>てばこ</rt></ruby>が變ぢやございませんか」

音吉に言はれて、平次はもう一度引返しました。押入の中に、こればかりは眞つ直ぐに置いた手筥、その蓋を取つて見ると、ゴタゴタと小物を詰め込んだ中に、子供の守袋らしいものがチラリと見えるではありませんか。

「あつた」

それを引出した平次。中を開けて見ると、身代りのお<ruby><rb>守護</rb><rt>まもり</rt></ruby>や、古ぼけた<ruby><rb>臍</rb><rt>へそ</rt></ruby>の<ruby><rb>緒書</rb><rt>をがき</rt></ruby>と一緒に、新しい半紙へ細字でベツトリ書いて、細かく疊んだものが一つ入つて居るのです。

「親分」

差のぞく音吉の眼から<ruby><rb>避</rb><rt>さ</rt></ruby>けるやうに、平次はそれを元の守袋に納めて、自分の内懷ろ深くしまひ込みました。

「さア、これで宜し、――八五郎に守袋は見付かつたと言つてくれ――俺は裏の方へ行つて見る」

平次は音吉と別れて、ブラリと庭へ出ました。<ruby><rb>木立</rb><rt>こだち</rt></ruby>に圍まれた大百姓の大地主の家は、ゴミゴミした神田に住んで居る平次に取つて、何も彼も心地よく珍らしくもありさうです。

「おや、番頭さん」

「ヘイヘイ」

老番頭の和助は足を止めました。何やらせか〱と外廻りの用事をして居る樣子です。

「この家の戸締りはどうだ」

「ヘイ、主人はやかましい方で、隨分嚴重で御座います。これだけの身上になりますと、人樣の噂にも上りますので、へエ」

和助は無表情な顏を振り仰いで、<ruby><rb>揉手</rb><rt>もみで</rt></ruby>などをして居ります。

「その戸締りは誰が見るのだ」

「主人が宵のうちに一度店から奧からお勝手まで見廻ります」

「今朝又七の部屋の戸締りに變つたことはなかつたのか」

「それが、不思議でございます。外から開けた樣子もないのに、雨戸が<ruby><rb>棧</rb><rt>さん</rt></ruby>も<ruby><rb>輪鍵</rb><rt>わかぎ</rt></ruby>も外れて居りました」

「昨夜<ruby><rb>確</rb><rt>たし</rt></ruby>かに締めたのだな」

「それは間違ひ御座いません。主人も不思議がつて居りました。多分坊ちやんが夜中に氣分でも惡くて明けたことだらうと申して居ります」

「ちよいと、外からその邊を見せて貰はう」

「かうお出で下さいまし」

老番頭の和助に案内されて、平次は、死んだ又七の部屋の外に立つて居りました。天氣續きの上、庭の土はよく踏固められて、足跡もなんにもなく、戸袋から出して見た雨戸にも頑丈な敷居にも、外からコジ開けたらしい傷一つないのです。

「此雨戸は今朝<ruby><rb>閉</rb><rt>しま</rt></ruby>つては居たのだな」

「閉つて居りました。私が開けたのですから間違ひ御座いません。――閉つては居りましたが、上下の<ruby><rb>棧</rb><rt>さん</rt></ruby>も下りず、輪鍵も掛つては居りませんでした」

「主人を呼んで來てくれ」

「へエ」

和助は飛んで行つて、店から主人の萬藏を呼んで來ましたが、

「私は戸縛りだけはやかましい方で、昨夜も確かに見廻りました。その時伜はもう寢て居りましたが」

萬藏の言葉には、何んの疑ひを挾む餘地もなかつたのです。

## 六

平次は中屋の家族全部を、又七の死骸を置いた、隣の部屋に集めました。その<ruby><rb>顏觸</rb><rt>かほぶ</rt></ruby>れは主人の萬藏、<ruby><rb>妾</rb><rt>めかけ</rt></ruby>のお寅を始め、嫁入つた娘のお春、その亭主の治三郎、老番頭の和助、若い番頭音吉――以上六人で、それに平次と八五郎が加はつて八人になります。

「さて、皆の衆、又七は確かに人手に掛つて殺された――あれは誰が見てもわかることだが、私はいろ〱調べて、その<ruby><rb>下手人</rb><rt>げしゆにん</rt></ruby>がわかつたつもりだ。先づ、これを見て貰ひ度い」

平次が取出したのは、暗號の文字を<ruby><rb>彫</rb><rt>ほ</rt></ruby>つた<ruby><rb>鼈甲</rb><rt>べつかふ</rt></ruby>の<ruby><rb>櫛</rb><rt>くし</rt></ruby>でした。

「この櫛には、わけのわからない文字が彫つてある。最初は、女の手で<ruby><rb>縫針</rb><rt>ぬひばり</rt></ruby>で彫つたものと思つたが、縫針では滑つて、<ruby><rb>斯</rb><rt>か</rt></ruby>ううまく彫れるものではない。これは矢張り飾り屋などで使ふタガネで彫つたものだ」

「――」

「ところで此櫛の文字は、判じ物のやうなもので、讀むのに骨は折れたが、兎も角（遺書は又七の守袋にあり）と讀めた。――その守袋は又七の死骸から拔取られて居たが、大方見當をつけて搜すと、わけもなくお寅の<ruby><rb>手筥</rb><rt>てばこ</rt></ruby>から出て來た」

「まア」

頓狂な聲を立てたのは當のお寅でした。

「――<ruby><rb>遺書</rb><rt>かきおき</rt></ruby>といふのはこれだ。假名文字で書いてあるが私が讀んで見るから、氣をつけて聞いて貰はうか。

――私はいよ〱殺されるかも知れない。<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>も夜中に眼をさますと、私の上に馬乘りになつて、私の<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>に<ruby><rb>匕首</rb><rt>あひくち</rt></ruby>を當てて居た者がありました。私は觀念して眼をつぶると、<ruby><rb>覺</rb><rt>さと</rt></ruby>られたと思つたらしくて、<ruby><rb>曲者</rb><rt>くせもの</rt></ruby>はそのまゝ私の布團の上から下りてしまひましたが、いづれにしても、私は長いことはあるまいと思ひます。曲者は今晩もまた來るでせう、いや〱曲者が來なくとも、近頃の私の<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>む藥は、妙にホロ苦くて、あの藥を呑んでから一日々々と身體が弱るから、いづれは奪られる命にきまつて居ります。私を殺さうとして居る曲者の顏を見てから、私はもうすつかり觀念してしまひました。その曲者は、――私の<ruby><rb>夫</rb><rt>をつと</rt></ruby>――

紙はこれで盡きて居ります」

平次の讀むのを聞いて、一座に<ruby><rb>凄</rb><rt>すさ</rt></ruby>まじい衝動の起つたのは當然のことですが、ことに主人萬藏の驚きやうは大變でした。

「飛んでもない。私が、そんな、そんな」

いきなり立ち上がつて、泳ぐやうな恰好になるのを、平次は靜かに止めました。

「いや、吃驚するのは<ruby><rb>尤</rb><rt>もつと</rt></ruby>もだが、――安心して下さい。この遺書は眞赤な<ruby><rb>僞物</rb><rt>にせもの</rt></ruby>だ」

「えツ」

「<ruby><rb>櫛</rb><rt>くし</rt></ruby>の隱し言葉も女の手ではなくて、男がタガネで彫つたものだ、――母親が死んで一年半も經つてから、娘の手へあの櫛が屆けられるといふのもをかしい。それに此守袋の遺書は近頃書いたもので、一年半も十二三の丈夫な子供の守袋に入つて居たものではない。<ruby><rb>脂</rb><rt>あぶら</rt></ruby>の匂ひも汗の<ruby><rb>汚點</rb><rt>しみ</rt></ruby>もないのが何よりの證據だ。これは八五郎の手に屆けてこの平次に解かせ、主人の萬藏を縛らせようとした曲者の細工だ」

「――」

一座は默りこくつて、平次の言葉に聽入りました。凄まじい<ruby><rb>緊張</rb><rt>きんちやう</rt></ruby>です。

「――その上、又七を殺して、それも主人かお寅に疑ひが向くやうにした。お寅の手筥に守袋を突込んで、この私に搜し出させたのはそのためだ」

「――」

「曲者は女ぢやない、そして夜中に外から聲を掛けて、又七に雨戸を開けさせて入つた男だ。――淋しがつて居る又七が、曲者の聲を聞いて、一も二もなく、喜んで雨戸を開けた、――八、氣をつけろ、曲者は逃げ腰になつて居るぞ」

平次の言葉の終るを待ちませんでした。パツと逃出した曲者、それに飛付いた八五郎は、庭へ轉げ落ちて、二匹の犬つころのやうに<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>み合つたのです。

「野郎ツ、骨を折らせやがるツ」

<ruby><rb>辛</rb><rt>から</rt></ruby>くも八五郎が組敷いて、キリキリと繩を打つたのは、何んと、遠縁の奉公人といふ、あの如才のない音吉ではありませんか。

×　　　　　　×　　　　　　×

「驚きましたね、あの音吉の野郎が<ruby><rb>下手人</rb><rt>げしゆにん</rt></ruby>だつたんですね」

「さうよ、俺はあの<ruby><rb>櫛</rb><rt>くし</rt></ruby>を見た時から、あいつは臭いと思つたよ。あんな骨を折つて<ruby><rb>遺書</rb><rt>かきおき</rt></ruby>を見せる奴があるものか。それも書いた本人は一年半も前に死んでゐるんだぜ」

平次とガラツ八は、繩付の音吉を番屋に預けて、ブラリブラリと神田へ歸る道でした。

初夏の江戸の町は<ruby><rb>爽</rb><rt>さは</rt></ruby>やかに晴れて、本郷臺の若葉は<ruby><rb>滴</rb><rt>したゝ</rt></ruby>りさうです。

「恐ろしく手の混んだことをしたものですね」

「俺を釣るつもりでやつた<ruby><rb>細工</rb><rt>さいく</rt></ruby>さ。あんまり<ruby><rb>凝</rb><rt>こ</rt></ruby>つて細工倒れになつたのだよ、尤もあれまでに<ruby><rb>企</rb><rt>たく</rt></ruby>まなさや、又七を殺して澄しては居られない筈だ」

「又七を殺せばどうなるでせう」

「中屋の大身代が、遠縁の音吉に轉げ込むぢやないか。下手人はお寅か義理の父親の萬藏といふことになる」

「へエ、<ruby><rb>太</rb><rt>ふて</rt></ruby>え奴ですね」

「物騷だといふのに、わざ〱夜遲くなつてから谷中へ十五兩の金を持つて行つたのが<ruby><rb>術</rb><rt>て</rt></ruby>さ。泊つたには相違ないが、あの邊の茶屋は夜もろくに戸締りはしない。それに若夫婦二人と耳の遠い母親ぢや、音吉が夜半に外へ出やうが、歸つて來やうが氣にも留めないだらう」

「――」

「千駄木の中屋へ歸つて、又七の部屋の外から戸を叩いた、淋しがりの又七は飛付いて開けてくれたんだらう。それを可哀想に布團で蒸し殺してそつと谷中へ歸つたのさ、<ruby><rb>尤</rb><rt>もつと</rt></ruby>も雨戸は閉めたが外から<ruby><rb>棧</rb><rt>さん</rt></ruby>を下ろしたり輪鍵をかける工夫はなかつた」

「成程ね」

「それから、今日俺が中屋へ行つて、音吉に逢つて見ると、いろ〱<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>に落ちない事があつた。櫛の隱し文字を讀んだ筈のない音吉が、<ruby><rb>守袋</rb><rt>まもりぶくろ</rt></ruby>の大事な事を知つて居たり、守袋をお寅の手筥から見付けてくれたり。それにあの才走つた如才のない音吉は、お寅にまでも氣風を見拔かれて居る」

「へエ」

「竹原屋のお春がお前の伯母さんと<ruby><rb>懇意</rb><rt>こんい</rt></ruby>だと知つて、八五郎を道具に使つたのは驚くぢやないか、あれが本當の惡黨だ、――中屋の萬藏か、――あれは<ruby><rb>唯</rb><rt>たゞ</rt></ruby>の金持だよ。<ruby><rb>妾狂</rb><rt>めかけぐる</rt></ruby>ひさへ止せば、貧乏人の振りをして、そつと贅澤をするだけの、下らない金持根性の男だよ、――女房のお米――又七やお春の母親は、病氣で死んだのだらうよ。跡取がないとなると、音吉が急に惡法を描いたのだ」

平次の話は明快でした。

「良い心持ですね、親分」

「俺は人を縛つて良い心持になつた事はないが、――でもあのお春夫婦は本當に喜んでゐたね」

さう言ふのがせめてだつたのです。