## 一

「親分、變な奴が來ましたよ」

ガラツ八の八五郎は、長んがい<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>を<ruby><rb>鳶口</rb><rt>とびぐち</rt></ruby>のやうに安唐紙へ引つ掛けて、二つ三つ瞬きをして見せました。

「お前よりも變か」

何んといふ挨拶でせう。錢形平次は<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>んなことを言ひ乍ら、<ruby><rb>日向</rb><rt>ひなた</rt></ruby>に寢そべつたまゝ、粉煙草をせゝつて居るのです。

「へツ、あつしよりは若くて可愛らしいので」

「新造か、年増か、それとも――」

「何處かの小僧ですよ。――錢形の親分さんは御在宅で御座いませうか――つて、大玄關で<ruby><rb>仁義</rb><rt>じんぎ</rt></ruby>を切つてますよ、バクチ打と間違へたんだね。水でも<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>つかけて、追ひ返しませうか」

「待ちなよ、そんな荒つぽいことをしちやならねえ。この平次を鬼のやうな人間と思ひ込んで<ruby><rb>鯱鉾</rb><rt>しやちほこ</rt></ruby>張つてゐるんだ、丁寧に通すが宜い」

「へエ――」

やがて、ガラツ八の<ruby><rb>所謂</rb><rt>いはゆる</rt></ruby>大玄關の建て付けの惡い格子戸をガタピシさして、一人の客を招じ入れました。

「今日は、親分さん」

敷居際でお辭儀をして、ヒヨイと擧げた顏を見ると、精々十五六、まだ<ruby><rb>元服</rb><rt>げんぷく</rt></ruby>前の可愛らしい小僧でした。

正直らしいつぶらな眼も、働き者らしい淺黒い顏も、そして<ruby><rb>物馴</rb><rt>ものな</rt></ruby>れないおど〱した調子も、妙に人をひき付けます。

「そんなに改まらなくたつて宜いよ。――此野郎に<ruby><rb>脅</rb><rt>おど</rt></ruby>かされて固くなつたんだらう。安心するが宜い、お上の御用は勤めてゐるが、人を縛るのが商賣ぢやねえ」

平次は八五郎と小僧を見比べ乍ら、取なし顏にこんな事を言ふのでした。

「それがその――縛つて貰ひ度いんで、親分」

小僧は<ruby><rb>途方</rb><rt>とはう</rt></ruby>もないことを言ひます。

「縛つて貰ひ度い――誰だい、そいつは？」

平次は<ruby><rb>漸</rb><rt>やうや</rt></ruby>く居住居を直しました。可愛らしく膝小僧を二つ並べて、眞つ正面から平次を見入る、一生懸命な二つの瞳を見ると、ツイ<ruby><rb>斯</rb><rt>か</rt></ruby>う生眞面目にならずには居られなかつたのです。

「旦那を殺した奴を縛つて下さい、親分さん」

「旦那を殺した奴？　そいつは<ruby><rb>穩</rb><rt>おだや</rt></ruby>かぢやないな。――一體誰が誰を殺したといふのだ。落着いて話して見るが宜い」

平次は<ruby><rb>雁首</rb><rt>がんくび</rt></ruby>で煙草盆を引寄せて、相手の氣の鎭まるのを待つやうに、ゆる〱と二三服吸ひつけました。

「私は、市ヶ谷田町の寶屋久八の奉公人で今吉と申しますが、主人の久八が五日前に亡くなつて、もうお<ruby><rb>葬</rb><rt>とむら</rt></ruby>ひも濟みましたが、その死にやうが、何んとしても<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>に落ちません。お寺でも文句無しに引取つた葬式ですから、私風情が苦情を申したところで、何んの<ruby><rb>足</rb><rt>た</rt></ruby>しにもなりませんが」

小僧は一寸言ひ<ruby><rb>澁</rb><rt>しぶ</rt></ruby>りました。

「何うしてそれが<ruby><rb>定命</rb><rt>ぢやうみやう</rt></ruby>でないと解つたのだ」

平次は追つ驅けるやうに訊ねます。

「旦那が<ruby><rb>亡</rb><rt>な</rt></ruby>くなる前、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うは</span>言のやうに――七千兩、あいつにやられるか――と言ひました」

「――七千兩、あいつにやられるか――といふのだな」

「へエ」

「それを誰と誰が聽いてゐた」

「私とお孃樣だけで」

「それつきりか」

「旦那が亡くなつた後で番頭の善七さんが、（あの女がやつたに違ひない）と、獨り言のやうに申して居りました」

「――」

「それから、<ruby><rb>離屋</rb><rt>はなれ</rt></ruby>に住んでゐる御親類のお安さんが、昨夜庭で番頭さんとひどい言ひ合ひをして、――お前が殺したに違ひない。お主殺しは<ruby><rb>磔刑</rb><rt>はりつけ</rt></ruby>だよ――と大きな聲で怒鳴つて居りました」

「それから」

「それつきりですが、こんな事を聽くと、旦那の死んだのは、<ruby><rb>唯事</rb><rt>たゞごと</rt></ruby>でないやうな氣がします」

「それだけのことでは俺が乘込むわけにも行くまいよ」

「でも親分さん」

今吉は若くて敏感な者の本能的な<ruby><rb>恐怖</rb><rt>きようふ</rt></ruby>に引ずられて此處へ來たのでせう。一應平次が<ruby><rb>宥</rb><rt>なだ</rt></ruby>めた位のことでは、容易に引取りさうもありません。

「親分、そいつは變な匂ひがしますね、行つて見ませうか」

傍から八五郎が、鼻をヒクヒクさせ乍ら乘出します。

「待ちなよ、つまらねえ事に十手を振り廻しちや、町方の恥だ。――ところでそれはお前一人の思ひ付きか」

「いえ、あの――」

今吉は背後の方――入口を振り向きました。

「八、小僧さんには連れがあるやうだ。呼んで來るが宜い」

「へエ」

八五郎は<ruby><rb>草履</rb><rt>ざうり</rt></ruby>を突つかけて外へ飛出しましたが、其邊には今吉の連れらしい者は見付かりません。

「路地の中には誰も居ませんよ、親分」

「そんな筈はない――ひどく犬が吠えてゐたやうだ。あの犬は人に馴れてゐるから滅多に吠える筈はないが」

いつも路地の口に居眠りをしてゐる、角の酒屋の赤犬が、<ruby><rb>先刻</rb><rt>さつき</rt></ruby>けたゝましく吠えたのを平次は思ひ出したのです。

「お孃さんが一緒に來ましたよ。極りが惡いからつて外で待つて居ましたが、――變だなア」

今吉も外へ飛出しましたが、路地の中は言ふまでもなく、廣い往來へ出て、前後左右を見廻しても、それらしい姿は何處にも見えません。

「なんだつて中へ入らなかつたんだ」

平次は少しとがめる調子でした。

「默つて歸つたんぢやありませんか」

そんなことを言ひ乍らも、平次と、八五郎と小僧の今吉は、手分けをして其邊中探し廻りましたが、十八娘のお清は平次の家の前で、<ruby><rb>烟</rb><rt>けむり</rt></ruby>のやうに消えてしまつたのです。

## 二

「小僧さん、お前は直ぐ市ヶ谷の店へ歸つてくれ。お孃さんが何うかしたら、家へ歸つて居るかも知れない。急に用を思ひ出したが、改めてお前を呼出すのも極りが惡いとか何んとか、若い娘にはありさうなことだ、いや、是非そんな事であつて貰ひたい」

「へエ」

今吉もすつかり<ruby><rb>萎</rb><rt>しを</rt></ruby>れ返つて居りましたが、急に元氣付いて、歸り支度を始めました。

「八、お前は出來るだけ近所の人に訊いてくれ、若くてこんな樣子をした娘を見なかつたか、――と。きりやうは良いのか」

「へエ、十人並――と世間では言つて居りますが」

今吉は<ruby><rb>昂然</rb><rt>かうぜん</rt></ruby>として言ひきりました。

「<ruby><rb>身扮</rb><rt>みなり</rt></ruby>は？」

「襟の掛つた<ruby><rb>黄</rb><rt>き</rt></ruby>八<ruby><rb>丈</rb><rt>ぢやう</rt></ruby>の袷に、<ruby><rb>麻</rb><rt>あさ</rt></ruby>の<ruby><rb>葉</rb><rt>は</rt></ruby>を<ruby><rb>紋</rb><rt>しぼ</rt></ruby>つた赤い帶でございます」

「それだけ聽いたら、人ごみの中でもわかるだらう」

「それぢや、親分」

八五郎と今吉は銘々の方角へ飛んで行きました。

「お前さん」

「何んだ」

お勝手から手を拭き乍ら出て來たのは、平次の女房――まだうら若くさへあるお靜でした。

「そのお孃さんなら、先刻路地の外で見かけましたよ」

「何んだ、お前も見てゐたのか、早くさう言へば宜いのに」

「口を出すと、岡つ引の女房が、お役目のことに口を出しちや見つともないつて叱られるんですもの」

お靜は<ruby><rb>怨</rb><rt>ゑん</rt></ruby>ずる色がありました。内氣で優しいお靜に取つては、<ruby><rb>程經</rb><rt>ほどへ</rt></ruby>てからでも斯う言ふのが精一杯だつたのです。

「事と次第によりけりだ。冗談ぢやない、その娘がどんな樣子をして居たんだ」

「變な男と話して居ました。ひどく驚いた樣子で――」

「變な男と――驚いた樣子で――？」

「その男は隨分<ruby><rb>汚</rb><rt>きた</rt></ruby>ない風をして居ました。四十がらみの<ruby><rb>髯</rb><rt>ひげ</rt></ruby>だらけの――いえ、物貰ひではなかつたやうです」

「そいつは惜しい事をしたなア」

事件の背後に何にか重大なものを感じたのか、平次はしきりに首を<ruby><rb>捻</rb><rt>ひね</rt></ruby>つて居ります。

それから半刻ばかり經つと、ガラツ八は歸つて來ましたが、黄八丈を着た若い娘が一人。路地の口に立つてゐたところまでは、近所の人も見て居りますが、その先は困つたことに誰も<ruby><rb>確</rb><rt>たし</rt></ruby>かめた者がなく。右へ行つたといふ人も左へ行つたといふ人もあつて、娘の行先は益々わからなくなるばかりです。

それから又半刻ほども經つた頃、小僧の今吉は、寒天に大汗を掻いて飛んで來ました。

「親分、お孃さんはお店へも歸つては居ません。御近所の<ruby><rb>懇意</rb><rt>こんい</rt></ruby>な家を一と通り訊いて歩きましたが、何處へも行つた樣子は御座いません。きつと旦那を殺した惡者がお孃樣も<ruby><rb>誘拐</rb><rt>いうかい</rt></ruby>したんでせう、お願ひですから搜してやつて下さい、親分」

今吉もさう言ひ乍ら、疊の上へ手を落して、上眼遣ひに二つ三つお辭儀をするのです。

「成程そいつは放つて置けまい。八、一緒に行くか」

「先刻からもうウジウジしてるんですよ。親分が<ruby><rb>御輿</rb><rt>みこし</rt></ruby>を上げなきや、引つ<ruby><rb>擔</rb><rt>かつ</rt></ruby>いでも行かうと思つてね」

「冗談ぢやない――若い娘が何うかすると、お前の眼の色が變るから恐ろしいよ」

平次は冗談を言ひ乍らも手早く仕度をして、ガラツ八と今吉をつれて市ヶ谷へ急ぎました。何んでもないやうな事件のくせに、妙に氣掛りなものがあつて、無精者の平次も、ヂツとしては居られなかつたのです。

が、<ruby><rb>併</rb><rt>しか</rt></ruby>し、市ヶ谷の寶屋へ飛込んだ平次も、今度ばかりは手の下しやうもないのに驚きました。主人の<ruby><rb>葬</rb><rt>とむら</rt></ruby>ひは、三日も前に濟んでゐるし、神田へ行つた娘のお清の歸りが遲いからと言つたところで、まさか銚子の伯母さんのところへ、人を出して問合せるほどの事件でもなかつたのです。

主人の死んだ後の店を引受けてやつて居るのは、善七といふ若い番頭で、精々三十にもなるでせうか、色白の優男で、少し<ruby><rb>上方訛</rb><rt>かみがたなま</rt></ruby>りはありますが、客扱ひは申分ありません。

「御苦勞樣でございます。主人の亡くなつたのは丁度五日前で、町内の本道――<ruby><rb>蓼庵</rb><rt>れうあん</rt></ruby>さんの御見立てでは卒中といふことでございました。へエ、へエ、少しお酒が過ぎましたやうで」

斯う言つた調子で、平次の問ひにもハキハキと應へてくれます。

「後々のことは何うなるのだ」

「いづれお孃樣に養子をなさるのでございませう、――御養子のお話はちよい〱ございますが、まだ決つて居りませんやうで、へエ」

「寶屋の<ruby><rb>身上</rb><rt>しんしやう</rt></ruby>は？」

「まだ新しい店で、金貸しといふと、大層な金持のやうに聞えますが、一貫や二分の小口が多いので、大したことは御座いません。まア精々五百兩か千兩といふところで御座いませう」

主人久八が死に際に言つたといふ『七千兩』とは大分<ruby><rb>隔</rb><rt>へだた</rt></ruby>りがあります。

「ところで、今日朝から外へ出た者はなかつたのか」

「皆んな揃つて居ります、――小僧の今吉とお孃さんが出かけただけで」

「あと家に居たのは誰と誰だ」

「<ruby><rb>御新造</rb><rt>ごしんぞ</rt></ruby>のお利榮さんと、私と手代の勘次郎と、下女のお萬と、それつきりでございます。――それから<ruby><rb>離室</rb><rt>はなれ</rt></ruby>のお安さん」

「それは何んだ」

「御主人の遠縁の方で、へエ」

「そのお安さんに逢つて見たいが」

「御案内いたしませうか」

「いや、それには及ばない――が身許をもう少し<ruby><rb>詳</rb><rt>くは</rt></ruby>しく聽かしてくれ」

「誰も詳しいことは存じませんが、本人の言ふことでは何んでも以前は何とか<ruby><rb>檢校</rb><rt>けんげう</rt></ruby>に圍はれて居たさうで――綺麗な人でございます。一年ばかり前から、此家に引取られて居りますが、へエ」

「何んとか檢校――といふと<ruby><rb>音曲</rb><rt>おんぎよく</rt></ruby>の方か」

「いえ、<ruby><rb>鍼</rb><rt>はり</rt></ruby>の方ださうで、――尤も檢校は嘘でございませう。唯の鍼醫者の<ruby><rb>流行</rb><rt>はやり</rt></ruby><ruby><rb>按摩</rb><rt>あんま</rt></ruby>らしい話で、へエ」

此男は妙にお安といふ女に反感を持つて居る樣子です。

平次はさう言ふ番頭に別れて、庭傳ひに<ruby><rb>離屋</rb><rt>はなれ</rt></ruby>の方へ行きました。

「八」

「へエ」

八五郎は何處からともなく現はれます。

「お前は町内の本道（内科醫）の<ruby><rb>蓼庵</rb><rt>れうあん</rt></ruby>さんのところへ行つて、死んだ主人の病氣のことを念入りに訊いて來てくれ。それから醫者なんてものはいろんな事を知つて居るものだ、<ruby><rb>如才</rb><rt>じよさい</rt></ruby>もあるまいが、主人のこと、身内のこと、奉公人達のことも出來るだけ聽いて來るが宜い」

「へエ」

八五郎は飛んで行きました。

## 三

「親分さん、御苦勞樣で御座います。飛んだ人騷がせをして」

離室から轉げ出すやうに、平次を迎へたのは二十四五の、これは眼のさめるやうな女でした。綺麗だとか、美人だといふ意味ではなく、派手で表情的で、肉體的にも豐かな感じがする上に、人を見るにも、いきなり瞳と瞳を合せると言つた無造作なことをせずに、<ruby><rb>斜</rb><rt>なゝめ</rt></ruby>に下から<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>めるやうに見上げて、<ruby><rb>斯</rb><rt>か</rt></ruby>うとろけるやうに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">につこり</span>すると言つた、容易ならぬ表情の持主でした。

その上、物を言ふ調子が格別で、一つ〱の言葉を、口の中でこね廻して、特別上等の<ruby><rb>餡蜜</rb><rt>あんみつ</rt></ruby>を附けて<ruby><rb>啜</rb><rt>すゝ</rt></ruby>ると言つた具合で、それを聽いてゐる方の惱ましさと言ふものはありません。言葉に對して特別な感覺を持つてゐる、眼の不自由な人に仕へて、自然に斯うしたエロキユーシヨンを自得したのでせう。それがまた、人に<ruby><rb>厭</rb><rt>あ</rt></ruby>かれる原因にもなるのですが、<ruby><rb>自惚</rb><rt>うぬぼ</rt></ruby>れが強くて才氣走つて居るお安は、それを強大な武器のやうに、總ての人に振りまはさずには居られない樣子です。

平次は<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とつさ</rt></ruby>の間に斯んな事を考へて居るのでした。

「少し休ませて貰はう」

平次は離室の縁側に腰をおろしました。少し横柄なのは、日頃の平次にない態度ですが、此女に白い齒を見せたら、さぞ厄介だらうと言つた、平次の<ruby><rb>潔癖</rb><rt>けつぺき</rt></ruby>さのためでもあります。

「どうぞ、親分さん、――實はお待ち申して居りました」

「何を話し度いといふのだ」

平次は出してくれた<ruby><rb>玉露</rb><rt>ぎよくろ</rt></ruby>らしい茶には見向きもせず、いきなり用事に入つて行きます。

「主人の急に亡くなつたのが、どうも變でなりません、私はどうかしたら――」

お安の聲は急に小さくなりました。

「番頭の善七が怪しいといふのか」

「いえ、さう申すわけでは御座いませんが、主人が死ねばあの人はこの離屋を貰つて、私を追ひ出すに決つて居ります」

「それはどういふわけだ」

「主人は三年前に此離屋を建てました。<ruby><rb>行々</rb><rt>ゆく〱</rt></ruby>は隱居をして御自分で住むつもりだと言つて居たさうですが、一年前に私が此家へ來るやうになつてからは、恩人の娘だからと、私を此處へ入れてくれました。若い時私の親に世話になつたんださうで、<ruby><rb>醉</rb><rt>よ</rt></ruby>ふといつも、そんな事を申して居りました」

「それを番頭が彼れ是れ言ふのはをかしいぢやないか」

「あの人は、主人が死ねばお清さんの後見人になつて、跡繼の決まるまでは、此家を自由にすることになつて居ります。さうなれば、平常から仲の惡い私を追ひ出して、此處に入ることになるでせう。この離屋が氣に入つて、何んとかして私を<ruby><rb>母家</rb><rt>おもや</rt></ruby>に入れて、自分は此離屋に住まはうとした人ですから」

平次は改めて、此たつた二た間の離屋を、縁側から覗いたりしました。木口も大したものではなく、唯頑丈に出來て居るといふだけで、打見たところは、<ruby><rb>洒落</rb><rt>しやれ</rt></ruby>た母家の<ruby><rb>普請</rb><rt>ふしん</rt></ruby>などとは、比べものにならない御粗末なものです。

部屋は六疊と四疊半のたつた二つ、それにお勝手が附いただけで、調度や建具も至つて下品で、平次が見ては何んの取柄も無い離屋ですが、善七とお安が、それに<ruby><rb>執着</rb><rt>しふぢやく</rt></ruby>するのはどうしたことでせう。

「お清が行方<ruby><rb>不知</rb><rt>しれず</rt></ruby>になつたが、お前に心當りはないのか」

平次は改めて次の問ひに入りました。

「ね　親分さん。あの娘も可哀想ぢやありませんか、たつた十八や十九で」

「何が可哀想なのだ」

「寶屋の跡取ですもの、――あの娘が居なくなれば、隨分得をする人もあるんですもの」

「<ruby><rb>婿</rb><rt>むこ</rt></ruby>はきまつて居なかつたのか」

「身上目當てに、隨分婿になり手もあつたやうですが、――それよりは居なくなつてくれる方が手つ取早いと思ひ直したんでせう、可哀想にあの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きりやう</span>ですもの、――<ruby><rb>尤</rb><rt>もつと</rt></ruby>も、手代の勘次郎どんとは、近頃妙に仲が好いやうでしたが」

そんな事を言ふお安です。

平次は宜い加減胸を惡くして離屋を引揚げました。母屋へ歸つて、女房のお利榮、手代の勘次郎、下女のお萬などに逢ひましたが、何んの手掛りもありません。

お利榮は四十二三の<ruby><rb>愚痴</rb><rt>ぐち</rt></ruby>つぽい女で、夫の急死と娘の<ruby><rb>失踪</rb><rt>しつそう</rt></ruby>に<ruby><rb>顛倒</rb><rt>てんだう</rt></ruby>し、何を訊いてもしどろもどろですが、主人の前身に就ては、

「亡夫は上方に長く居りました。<ruby><rb>請負</rb><rt>うけおひ</rt></ruby>仕事などをして居たやうです。三年前から江戸に落着いて、こんな商賣を始めましたが、大工や左官の心得はあつても、帳面の方は不得手で、善七どん任せのやうでございました」

「その善七は何時から一緒に居るのだ」

「三年前、上方から連れて參りました」

「お安の方は？」

「一年ほど前、不意に訪ねて來ました。それ迄は話もなかつたのですが、主人の遠縁の者だとか言ひまして――」

お利榮に取つては、此若くて美しくて、惱ましくさへあるお安の存在は、相當不愉快なものらしく、斯う話し乍らも、<ruby><rb>醜</rb><rt>みにく</rt></ruby>い顏が異樣に<ruby><rb>引歪</rb><rt>ひきゆが</rt></ruby>みます。

手代の勘次郎は、二十二三でせうか、唯平凡なお<ruby><rb>店者</rb><rt>たなもの</rt></ruby>といふだけ。

「旦那の亡くなつたのは、何んか<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わけ</span>がありさうですが、私共にはわかりません。それにつけても、お孃樣は可哀想でございます」

お清にだけ、此男の注意は集中して居る樣子です。

下女のお萬は、二十四五の達者な女で、働き者らしい代り、深い考へはないらしく、主人の死にも、お清の行方不知にも大した關心は持つて居りません。

「親分、無駄骨折ですよ」

其處へ歸つて來たのはガラツ八の八五郎でした。

「何が無駄骨折なんだ」

「町内の本道は何んにも知りませんよ。主人の死んだのは、<ruby><rb>確</rb><rt>たし</rt></ruby>かに卒中で、これは間違ひはない、萬一見立て違ひなら、此坊主首をやるといふ意氣込で――親分の前だが、あの<ruby><rb>汚</rb><rt>きたな</rt></ruby>い首なんか貰つても役には立ちませんね」

斯う言つた八五郎です。

## 四

それから十日十五日と無事な日が過ぎました。松が取れて正月も過ぎると、平次もさすがに忙しくなつて、寶屋のことに係り合つても居られなくなりましたが、それでも、時々八五郎をやつて、いろ〱の情報だけは集めさせて置きました。

娘のお清は相變らず姿を見せず、寶屋の家の者でも近頃はお清のことなどを心配して居るものはなく、母親のお利榮さへ、行方<ruby><rb>不知</rb><rt>しれず</rt></ruby>になつた娘のことを、口にも出さないといふ有樣です。

不思議なのはお安で、どう心境が變化したものか、あんなに仲の惡かつた番頭の善七とすつかり仲直りが出來、

「へツ、見ちや居られませんよ、夜になるとあの生つ白い番頭野郎が、<ruby><rb>離屋</rb><rt>はなれ</rt></ruby>に入浸つて、ベタベタして居るさうで、へツ」

ガラツ八は<ruby><rb>唾</rb><rt>つば</rt></ruby>を吐きます。主人が死んだ後の寶屋は、睨みをきかせる者のないまゝに、相當亂脈になつて行く樣子です。

正月もあと二三日といふ日の朝、<ruby><rb>霜</rb><rt>しも</rt></ruby>を踏んでもう一度小僧の今吉が飛んで來ました。

「親分さん、お願ひいたしますが」

「何が始まつたんだ、大變あわてて居るぢやないか」

「番頭さんが急にいけなくなつて、今朝息を引取りました」

「え、あの善七とか言つた」

「お醫者は又卒中だと言ひますが、私にはどうも<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>に落ちないことばかりです」

「？」

「番頭さんは離屋へ行つて居て、急に惡くなりましたが、私が物音を聽いて駈け付けた時は、まだ息があつて、主人の時と同じやうに――七千兩、七千兩――と<ruby><rb>繰</rb><rt>く</rt></ruby>り<ruby><rb>返</rb><rt>かへ</rt></ruby>して居りました」

今吉の報告には、何んか<ruby><rb>容易</rb><rt>ようい</rt></ruby>ならぬものが潜んでゐさうです。

「よし、行つて見よう。お前も來るか、八」

「へツ、斯んな事になるだらうと思つて居ましたよ」

八五郎は獲物を嗅ぎ出した獵犬のやうにいきり立ちます。

市ヶ谷田町へ行くと、打ち續く事件に、寶屋はさすがに無氣味なまでに靜まり返つて、平次と八五郎の一行が入つても、迎へる者もありません。

「佛樣は？」

「離屋でございます」

今吉に案内されて離屋へ入ると、

「まア、親分さん方、困つたことになりました。番頭さんが折角私と仲直りしたのに、こんな事になつて――」

六疊に型の如く<ruby><rb>安置</rb><rt>あんち</rt></ruby>した善七の死骸を指して、お安はシクシクと泣き始めるではありませんか。

「どうしたのだ、あんなに仲が惡かつたぢやないか。こいつが定命でなきや、下手人は<ruby><rb>差詰</rb><rt>さしづ</rt></ruby>めお前だぜ」

平次に<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>まれ<ruby><rb>乍</rb><rt>なが</rt></ruby>らも、八五郎はツイ斯うからかつて見たくなりました。女の態度は、空涙にしても、あまりにも人を馬鹿にして居ります。

「いえ、それは何方とも思ひ違ひがあつたからの事で、打ち明けて話して見ると、惡く言ふところも、言はれるところもありません。――それどころか、私と善七さんは此間から末の末まで約束した仲なんです」

何んといふ<ruby><rb>臆面</rb><rt>おくめん</rt></ruby>のなさでせう。平次も八五郎も暫らくは開いた口が<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>がりません。

平次はそれを宜い加減に聽流して、兎も角も善七の死骸を改めました。顏を<ruby><rb>覆</rb><rt>おほ</rt></ruby>つた白い布を取ると、思つたより<ruby><rb>嚴</rb><rt>きび</rt></ruby>しい顏をして居りますが、何んの苦惱の跡もなく、顏にも身體にも、馴れた平次の眼で見ても、人に害められた形跡は露程もありません。

「傷はないな、八」

「耳の穴まで見ましたよ、<ruby><rb>蚤</rb><rt>のみ</rt></ruby>にさゝれた痕もありません」

「舌も、<ruby><rb>眼瞼</rb><rt>まぶた</rt></ruby>も、口中にも變りはない」

「矢張り卒中ですかね」

「醫者がさう言ふから間違ひはあるまいよ」

「でも――」

「お前もさう思ふだらう。卒中が二人續くのは、ないことはあるまいが、少し變だな。それに此男はまだ三十そこ〱だ」

平次は尚ほも念入りに調べましたが、怪しい節は少しもなく、お安の<ruby><rb>惚氣交</rb><rt>のろけまじ</rt></ruby>りの辯解を、たゞ長々と聽かされるだけです。

念のため、善七の部屋を見せて貰ひました。母屋の四疊半で、よく片付いて居りますが、持物は思ひの外少なく、<ruby><rb>行李</rb><rt>かうり</rt></ruby>が一つと夜具布團があるだけ、その行李の中にも、奉公人の持つて居る通り一遍のものばかりで、何の變つた物もありません。

「八、天井裏を見ようと思ふが、提灯を借りて來てくれ」

「此處に<ruby><rb>裸蝋燭</rb><rt>はだからふそく</rt></ruby>がありますが、間に合ひませんか」

「宜いとも、それへ灯を點けてくれ」

押入の隅に投り出してあつた燃えさしの百目蝋燭――紙にも何んにも包まず、<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>の中に轉がつて居るのを拾つて

「おや、この蝋燭は變ですよ」

「どうしたんだ」

「古くなつたせゐか、恐ろしく重いんで」

「古くなつて<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>らふそく</rt></ruby>が重くなる道理はあるものか、どれ」

その太い百目蝋燭の、半分ほどになつた燃えさしを受取つた平次も驚きました。

「成程、こいつは變だぞ、八。――十手でこれを<ruby><rb>碎</rb><rt>くだ</rt></ruby>いて見てくれ、中に何んか入つて居るやうだ、――敷居の上で宜いとも」

「おや、おや、おや、鐵ですね、これは」

「<ruby><rb>鏨</rb><rt>たがね</rt></ruby>のやうだ」

蝋燭の中から飛出したのは、大人の小指ほどの、鋼鐵で作つたもの、その一端――平に<ruby><rb>磨</rb><rt>みが</rt></ruby>いた方を見ると、五三の桐があり〱と<ruby><rb>彫</rb><rt>ほ</rt></ruby>つてあるではありませんか。

「親分、そいつは何んでせう」

八五郎の眼はさすがに光ります。

「迷子札の<ruby><rb>極印</rb><rt>ごくいん</rt></ruby>さ」

「へエ、矢張り<ruby><rb>干支</rb><rt>えと</rt></ruby>のやうなもので」

「さうとも、太閤樣の紋だから、<ruby><rb>申</rb><rt>さる</rt></ruby>の歳と言つた判じ物だらう」

平次の言葉が、明かに冗談とわかつて居りますが、八五郎は一應感心して見せます。部屋の外には、誰やらそれとなく中の樣子に耳をすまして居るのです。

「こんな物もありましたよ、親分」

行李の底から見付けたのは<ruby><rb>慶長</rb><rt>けいちやう</rt></ruby>小判が二枚。

「それや良いものが手に入つた。落とさないやうに持つて居てくれ――こんな時にでも小判といふものに財布の底を覗かして置け」

「へツ」

## 五

事件は思はぬ發展をしたのです。

善七の行李から見付けた二枚の慶長小判を持つて、平次は直ぐ金座の後藤へ廻り、當代の庄三郎に逢つてそれを鑑定させると、

「これはいけない。小判は<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れもなく上質の慶長小判だが、極印が<ruby><rb>僞物</rb><rt>にせもの</rt></ruby>だ」

と言下に答へるのです。代々の後藤家は金座の御金改役として、天下の通貨を<ruby><rb>掌</rb><rt>つかさど</rt></ruby>り、わけても祖先後藤祐乘の打つた極印に對しては、一種<ruby><rb>微妙</rb><rt>びめう</rt></ruby>な鑑定法が、一子相傳的に傳へられて居たといふことです。

祐乘の極印が信用絶大であつたのはその爲、後藤の當主の鑑定には、全く疑ひの餘地もありません。

「眞物の小判に、僞の極印を打つとはどういふわけでせう」

平次も、この關係は呑みこみ兼ねました。普通の<ruby><rb>贋造</rb><rt>がんざう</rt></ruby>小判は、銅脈か何んかに<ruby><rb>僞</rb><rt>にせ</rt></ruby>の極印を打つたもので、眞物の小判に、僞の極印を打つといふのは、一寸考へられない事です。

「お勘定奉行で一應調べて頂くが宜い。が念のため、私の心覺えを言つて置くが、先年大阪城御修理の時、石垣の間から豐家の殘黨が隱して置いたものと見えて、<ruby><rb>夥</rb><rt>おびたゞ</rt></ruby>しい慶長小判が出て來たことがある。その小判は<ruby><rb>後藤桐</rb><rt>ごとうぎり</rt></ruby>の極印のないもので、<ruby><rb>悉</rb><rt>こと〲</rt></ruby>く御上に引上げた筈だが、ことによれば幾枚か、――いやどうかすると相當の數が、人足か<ruby><rb>請負</rb><rt>うけおひ</rt></ruby>の手で隱されたかも知れぬ」

「それで御座いますよ、旦那」

平次の疑ひは、一ぺんに解決しました。大阪城修理の請負や人足の中に、寶屋久八が交つて居ないとは限らず、その時持出されて江戸へ運ばれた無極印の慶長小判も、五枚や十枚ではなく、或は七千兩といふ<ruby><rb>夥</rb><rt>おびたゞ</rt></ruby>しい額に上らないとは限らないのです。

事は重大になりました。

平次は、早速與力笹野新三郎に報告し、その出役を願つて、一擧に此事件を解決しようとしました。

<ruby><rb>夥</rb><rt>おびたゞ</rt></ruby>しい人數は直ぐ樣市ヶ谷田町に<ruby><rb>繰</rb><rt>く</rt></ruby>り出され、遠卷に寶屋を取卷くやうにして、念入りな調べが始まりましたが、數十人の手で一日がかりの<ruby><rb>探索</rb><rt>たんさく</rt></ruby>も<ruby><rb>空</rb><rt>むな</rt></ruby>しく、寶屋の店にある商賣の資本の外には、怪しい小判などは一枚も出て來なかつたのです。

「怪しいのは離屋だ。あの建物を番頭とお安が<ruby><rb>執念</rb><rt>しふねん</rt></ruby>深く奪ひ合つて居た」

平次の號令で、番頭の死骸は母屋に移され、離屋は<ruby><rb>徹底的</rb><rt>てつていてき</rt></ruby>に調べられました。天井裏も、床下も<ruby><rb>長押</rb><rt>なげし</rt></ruby>の裏も、疊などは一々裂いて見ましたが、慶長小判は<ruby><rb>愚</rb><rt>おろ</rt></ruby>か、小粒一つ出ては來かつたのです。

「フ、フ、飛んだ<ruby><rb>大掃除</rb><rt>おほさうぢ</rt></ruby>ねエ、<ruby><rb>煤掃</rb><rt>すゝは</rt></ruby>きなら暮に濟んだのに」

ニヤリとするお安、この妖艶な女の毒舌は妙に人を<ruby><rb>苛立</rb><rt>いらだ</rt></ruby>たせます。

「女、舌が長いぞ」

ガラツ八は喧嘩を買つて出ました。

「怒つたの、まア、濟まなかつたわねエ」

「八、その女に掛り合ふ<ruby><rb>隙</rb><rt>ひま</rt></ruby>に、もう一度番頭の死骸を調べて見るが宜い。離屋をあんなに奪ひ合つたり、急に仲がよくなつたり、考へて見ると變なことばかりだ。番頭が、本當に卒中で死んだのなら、俺は坊主になつて見せるよ」

平次もツイ我慢がなり兼ねました。

「まア、錢形の親分が坊主に――ホ、ホ、飛んだ可愛らしい<ruby><rb>新發意</rb><rt>しんぼち</rt></ruby>が見られるでせうよ」

「畜生ツ、待つて居ろ」

八は飛んで行きました。

が、善七の死骸をどう念入りに調べても傷らしいものは一つも見當らず、毒死の疑ひも全くなかつたのです。

「どれ、俺が見てやる」

到頭平次もやつて來ました。まだ三十を越したばかりの平次は、若くもあり血の氣もあり、お安の挑戰に齒を喰ひしばつてはゐられなかつたのです。

が、それも結局は失敗でした。

「まだ生きて居るかも知れませんよ、フ、フ」

女は其傍に立つて、冷たい笑ひを笑つて居ります。

「八、<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby>を解いて見ろ」

「女は<ruby><rb>元</rb><rt>もと</rt></ruby><ruby><rb>鍼</rb><rt>はり</rt></ruby>の名人の圍はれ者だと言つたが、人の身體の<ruby><rb>鍼壺</rb><rt>はりつぼ</rt></ruby>は六百五十七穴、そのうち命取りの禁斷の鍼が一ヶ所あるといふことだ」

「あツ、ありましたよ親分」

八五郎は踊り上がりました。髷を解いた死骸の頭――毛に隱れて<ruby><rb>蚤</rb><rt>のみ</rt></ruby>に<ruby><rb>螫</rb><rt>さ</rt></ruby>されたほどの小さい痕が、あり〱と殘つて居るではありませんか。

「あツ、八。女が逃げるぞ」

「えツ、神妙にせい、御用だツ」

<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とつさ</rt></ruby>の間に、飛出さうとする女は、八五郎の馬鹿力に、<ruby><rb>無手</rb><rt>むず</rt></ruby>と押へられたのです。

## 六

番頭の善七を殺したのは、間違ひもなくお安の仕業でした。

善七と仲直りしたと見せかけ、酒で性根を失はせて、急所に五寸といふ長い<ruby><rb>鍼</rb><rt>はり</rt></ruby>を打つたのです。

此處までは、スラスラと白状したお安が、慶長小判の隱し場所となると、知らぬ存ぜぬの一點張りで、何んとしても口を割りません。

「平次、まだ小判は見付からぬか」

時々笹野新三郎に、<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>んな事を言はれるのも、平次に取つてはかなりの苦痛です。

「矢張り千兩箱に入つて居るのでせうか、親分」

そんな事を言ふのは八五郎でした。

「いや、大阪城の石垣の間から見付けて、東海道を遙々人目につかぬやうに江戸まで運んだんだから――待てよ八、お前あの<ruby><rb>僞極印</rb><rt>にせごくいん</rt></ruby>の小判を持つて居るかい」

「飛んでもない。御奉行所へ差上げましたよ、大事な證據だ」

「ちよいと借りて來てくれ。明日で宜いよ」

その翌る日、八五郎は南の奉行所から僞の小判を借り出して來ました。

「斯う見ると、<ruby><rb>眞物</rb><rt>ほんもの</rt></ruby>と變りはないね、――<ruby><rb>尤</rb><rt>もつと</rt></ruby>も、こちとらは滅多に眞物に御目にかゝることもないが――」

「僞でも宜いから三日ばかり持つて<ruby><rb>見度</rb><rt>みて</rt></ruby>え」

「馬鹿だなア」

そんな事を言ひ乍ら、物尺を持出して平次は念入りに小判の寸法を<ruby><rb>測</rb><rt>はか</rt></ruby>りました。

「親分、小判の寸法なんか取つて、何をやるんで」

「安心しろ、贋物を造るわけぢやない、――ところでお前は<ruby><rb>算盤</rb><rt>そろばん</rt></ruby>がいけるか」

「二一天作の五でせう、あいつは蟲が好きませんよ」

「一と坪の<ruby><rb>壁</rb><rt>かべ</rt></ruby>へ、これを一枚<ruby><rb>竝</rb><rt>なら</rt></ruby>べに塗り込んだとしたら、何枚竝ぶだらう、――慶長小判は横一寸三分の縱二寸三分五厘だ、壁の廣さは五尺七寸四方として」

平次は<ruby><rb>算盤</rb><rt>そろばん</rt></ruby>を出しましたが、こいつが面倒臭くなると、ガラツ八に手傳はせて、壁の表面へ小判を當てて、チウチウタコカイと勘定しましたが、結局。

「一と坪に千と三十二枚だ、親分」

ガラツ八は<ruby><rb>頓狂</rb><rt>とんきやう</rt></ruby>な聲を出します。

「荒壁へ叩込むやうに小判をメリ込ませて、上塗をすると、一坪に千三十二枚で、あの小さい離屋に七千兩の小判を隱すのは何んでもないことになるね」

「へエ――驚いたね」

「小判といふと、千兩箱の事ばかり考へて<ruby><rb>嵩張</rb><rt>かさば</rt></ruby>るものと思つたからいけなかつたんだ。サア、行かう、八」

二人は市ヶ谷に飛びました。

×　　　　　　×　　　　　　×

離屋の壁の中から七千枚の小判が出て來た時は、八五郎は思はず歡聲をあげました。

「これで何も彼も濟んだ。飛んだ骨を折らせたな、八」

平次もさすがにホツとした樣子です。

「まだありますよ、娘のお清は何處に居るんでせう。まさか殺されたわけぢやないでせうね」

八五郎は相變らず、娘のことばかり心配して居たのです。

「心配するな、ピンピンして居るよ」

「へエー？　親分は知つて居たんで」

「いや、知つて居るわけぢやないが、――あの母親の顏を見るが宜い、近頃はすつかり明るくなつて居るだらう」

「へエ？」

「あれが一人娘が行方不明になつた母親の顏かよ、八」

「？」

「お清を隱した者が、そつとあのお袋に耳打したのさ、――お清を<ruby><rb>此家</rb><rt>ここ</rt></ruby>へ置くと命が危ないから、暫らく私が隱して置きます――と言つた具合に」

「誰です、そいつは？」

「手代の勘次郎だよ、――あれはいづれ娘の<ruby><rb>聟</rb><rt>むこ</rt></ruby>になるだらう、――お清は不縹緻だが、心掛の惡い娘ではなささうだ」

「ね、親分、私には解らない事ばかりですよ。一體これは何うした事なんで？」

八五郎は到頭しびれを切らしました。

「よく解つて居るぢやないか、主人の久八と番頭の善七が大阪城で七千兩の小判を盜み出し、<ruby><rb>蟻</rb><rt>あり</rt></ruby>が物を運ぶやうに、少しづつ運んで江戸へ持つて來たのさ。お安は多分以前は久八の妾か何んかで、七千兩の<ruby><rb>經緯</rb><rt>いきさつ</rt></ruby>をよく知つて居たんだらう」

「主人の久八を殺したのは誰です」

「誰でもないよ、主人は矢張り卒中で死んだのが本當だらう。それを善七はお安の<ruby><rb>仕業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>と思ひ、お安は善七の仕業と思つたのさ。最初から二人が相談してかゝれば、知れつこはないのに、疑ひ合つたのが運の盡きだよ――勘次郎が此樣子に氣を<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>んで、人を頼んでお清の後を<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>けさせ、自分の叔母さんの家へ隱したので、騷ぎが大きくなつたんだよ」

「へエ」

「離屋の壁の中に隱した小判は、極印がなくて使へないので、番頭の善七は<ruby><rb>鏨</rb><rt>たがね</rt></ruby>の極印を<ruby><rb>拵</rb><rt>こさ</rt></ruby>へて、その小判に打つつもりだつたんだらう。見本に二枚だけ極印を打つて見付かつたが、七千兩の小判が皆んなバラ<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>かれたら大變なことだつた。危ない話さ」

平次もホツとした樣子です。

間もなくお安は處刑され、寶屋は<ruby><rb>闕所</rb><rt>けつしよ</rt></ruby>になりましたが、勘次郎とお清は小さい店を開いて、幸福な日を送つたといふことです。そしてあの小僧の今吉も――。