## 一

「わツ驚いた、ドブ板が<ruby><rb>陷穴</rb><rt>おとしあな</rt></ruby>になつて居るぜ。<ruby><rb>踏</rb><rt>ふ</rt></ruby>み返したとたんに赤犬が噛み付きさうに吠える仕掛は念入り過ぎやしませんか、親分」

ガラツ八の八五郎は危ふく格子戸につかまつて、<ruby><rb>件</rb><rt>くだん</rt></ruby>の噛み付くやうな赤犬を追ひ乍ら、<ruby><rb>四方</rb><rt>あたり</rt></ruby>構はぬ聲をあげるのでした。

「靜かにしろ、そいつは皆んな借金取除けの<ruby><rb>禁呪</rb><rt>まじなひ</rt></ruby>なんだ、――今日を何時だと思ふ」

捕物の名人錢形の平次は、六疊縁側近く寢轉がつたまゝ、<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>んな馬鹿なことを言ふのです。

「良い御用聞が、<ruby><rb>大晦日</rb><rt>おほみそか</rt></ruby>でもないのに、天下泰平だぜ」

八五郎は<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>んな毒を言ひ乍らも。妙につまされてホロ苦い顏をするのでした。

四月三十日、<ruby><rb>初鰹</rb><rt>はつがつを</rt></ruby>にも、<ruby><rb>時鳥</rb><rt>ほとゝぎす</rt></ruby>にも興味はなくとも、江戸の初夏の風物は此上もなく<ruby><rb>爽</rb><rt>さはや</rt></ruby>かな晝下がりです。

「お前のやうな家の子郎黨は、<ruby><rb>搦</rb><rt>から</rt></ruby>め手から通りや宜いのさ。妙に見識張つて大玄關にかゝるから、手飼ひの獅子王に吠えつかれるんぢやないか」

「へツ〱。手飼ひの獅子王は嬉しいね――その怪物が大玄關で魚の骨をしやぶつてゐるぜ」

無駄口をいひながらもガラツ八はノツソリと平次の前に突つ立つて居ります。

「まア坐れ、突つ立つたまゝ物を言ふ奴があるかい――坐つたら懷ろ手を拔くんだ。世話のやける野郎ぢやないか」

「今日は意地の惡い<ruby><rb>姑</rb><rt>しゆうと</rt></ruby>のやうに口うるさいんだね。餘つ程<ruby><rb>執念</rb><rt>しふねん</rt></ruby>深い借金取でも來たんですかえ」

「餘計な世話だ。それよりお前の方の用事を先に片付けるがいゝ、――一體何を嗅ぎ出して來たんだ」

「褒美附の搜し物ですよ、――こいつを搜し出しや、褒美の金が百兩――小判で百枚ですよ。<ruby><rb>憚</rb><rt>はゞか</rt></ruby>り<ruby><rb>乍</rb><rt>なが</rt></ruby>ら親分が頭痛に病んでゐる家賃や酒屋の拂ひは精々二分か一兩、思ひ切り溜めたところで三兩とはないでせう」

「恐ろしく<ruby><rb>見縊</rb><rt>みくび</rt></ruby>りやがつたな」

「ちよいと乘出して下さいよ。錢形の親分が顏を出しや、紛失物の方からノコノコ名乘つて出ますよ」

「ところで、その搜し物といふのは何んだ」

「小判で二千兩」

「大層な紛失物ぢやないか、二千枚の小判は<ruby><rb>財布</rb><rt>さいふ</rt></ruby>や<ruby><rb>巾着</rb><rt>きんちやく</rt></ruby>には入るめえ、誰が何處で落つことしたんだ」

「落したんぢやありません。消えてなくなつたんで」

「春先の<ruby><rb>雪達磨</rb><rt>ゆきだるま</rt></ruby>ぢやあるめえし、小判や小粒が消えてたまるものか」

「だから不思議なんで、まア聽いて下さいよ親分」

ガラツ八は此處まで平次の興味を釣つて置いて、お先煙草の<ruby><rb>烟</rb><rt>けむり</rt></ruby>を輪に吹き乍ら、靜かに語り出すのでした。

「百兩の褒美は<ruby><rb>氣障</rb><rt>きざ</rt></ruby>だが――二千兩の小判が消えてなくなるのは陽氣のせゐぢやあるめえ」

平次はまだ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">からかひ</span>面ですが、充分好奇心は動いてゐる樣子です。

「飯田町の鬼と言はれた、金貸の作兵衞は親分も知つてますね」

「こちとらには百文も貸す氣遣ひはねえが、旗本や御家人泣かせで名高い<ruby><rb>親爺</rb><rt>おやぢ</rt></ruby>だ」

「その作兵衞は去年の秋死んで、後家のお<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>が奉公人を使つて先代の家業を續けてゐますがね、――この女は男<ruby><rb>勝</rb><rt>まさ</rt></ruby>りの<ruby><rb>強</rb><rt>したゝ</rt></ruby>か者で、先代の遺言だからと言つて、三千兩といふ大金を投出して、旗本の株を買ひ、伜の佐太郎を武家にすることを<ruby><rb>企</rb><rt>たく</rt></ruby>らんだ――」

「大きい聲ぢや言へねえが、そいつは<ruby><rb>箆棒</rb><rt>べらぼう</rt></ruby>な話だね」

平次は苦々しく舌打をするのです。徳川時代の階級制度は隨分やかましいものでしたが、一面にはまた旗本や御家人の株の賣買が行はれ、經濟的に行詰つた武家が、金持の息子に入れる形式で、<ruby><rb>殆</rb><rt>ほと</rt></ruby>んど公然と株の賣買が行はれたのです。

「全く大箆棒さ、こちとらなら、その三千兩で八方の借を拂つて、あの娘に<ruby><rb>半襟</rb><rt>はんえり</rt></ruby>の一と掛も買つてやつて、大福餅の暴れ喰ひをやる」

「馬鹿だなア――それから何うした」

平次は噛んで吐き出すやうに言つて、次を<ruby><rb>促</rb><rt>うなが</rt></ruby>しました。馬鹿の主格はガラツ八にも判然しません。

「――<ruby><rb>尤</rb><rt>もつと</rt></ruby>もそのうち一千兩は、去年の五月一日作兵衞が生きてゐるうちに相手の旗本に貸した。抵當はないが、その代り今年の四月三十日――つまり一年目の今日までに返さなければ、作兵衞の伜の佐太郎が、後釜の二千兩を持參金に、養子になつて飛込むことになつてゐた」

「相手の旗本は？」

と平次。

「大きい聲ぢや言へねえが、中坂の大河内大膳樣――五百石の大身だ」

「相手が惡いな」

「大河内家には年頃の娘がある、<ruby><rb>尤</rb><rt>もつと</rt></ruby>もこいつは恐ろしい不縹緻だ。人三化七と言ひ度いが、人一化九で、少々智惠の方も<ruby><rb>足</rb><rt>た</rt></ruby>りない」

「フーム、いよ〱箆棒だな、お前なら何うする？　八」

「御免<ruby><rb>蒙</rb><rt>かうむ</rt></ruby>つて、大福餅の暴れ喰ひをやらかしますよ。第一こちとらが五百石の旗本になつたところで、殿中の居屈みを知らねえ、――五百石と言へばお目見得以上だ」

「大河内家の方では、佐太郎を婿にすることを望んでゐたわけだな」

「佐太郎はちよいと良い男ですよ、それに千兩の借金が棒引になつた上に持參金が二千兩。それだけ入れば貧乏<ruby><rb>摺</rb><rt>ず</rt></ruby>れの大河内大膳樣は、自分の鼻でも<ruby><rb>削</rb><rt>そ</rt></ruby>いで賣る」

「<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れた話だ」

「ところが、その二千兩の金が、明日大河内家へ持込むといふ前の晩、神隱しに逢つたやうに消えてなくなつたんだから面白いでせう」

「面白いつて――奴があるか」

平次はさすがに<ruby><rb>常識</rb><rt>じやうしき</rt></ruby>を取戻しました。

「店へ置いちや危ないし、土藏へ入れると朝早いから出すのが面倒だ。娘のお冬の部屋は裏の一番奧で、入口は廊下から一つだけ、外は頑丈な格子だから、一番安心だらうといふので、後家のお角と番頭の平吉が相談の上、誰にも知らせずに、千兩箱を二つ、そつと娘の部屋の押入へ隱して置いた――たつた一と晩だけのつもりで」

「娘は知つてゐたのか」

と平次。

「自分の部屋に二千兩の大金が隱されるのを知らない筈はありませんがあれは十八になつたばかりで、咲き立ての<ruby><rb>桃</rb><rt>もゝ</rt></ruby>の花のやうな娘ですよ。二千兩に眼をくれる筈もなし――」

「若くて綺麗な娘といふと、無暗に肩を持つが、そんなのが飛んだ細工をしやしないか、――<ruby><rb>貢</rb><rt>みつ</rt></ruby>がなきやならない相手でもあつて――」

「飛んでもない、そんな娘か娘でないか、逢へば一と眼でわかりますよ」

「格子は？」

「小判を箱から出せばもぐりますが、<ruby><rb>容器</rb><rt>いれもの</rt></ruby>の千兩箱二つ――金具の<ruby><rb>嵌</rb><rt>はま</rt></ruby>つた恐ろしく頑丈なのを格子の外へ出す工夫はありません。それは番頭が奧と店の境に陣取つて、一と晩<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まんじり</span>ともしなかつたさうで、千兩箱を店の方へ持出す工夫もない筈です」

「フーム、面白さうだね」

「――でせう、親分。後家のお角は<ruby><rb>躍起</rb><rt>やつき</rt></ruby>となつて、いくら金貸が商賣でも、二千兩といふ大金は今日中には<ruby><rb>纒</rb><rt>まと</rt></ruby>まらない、今日中に二千兩の金を大河内樣へ屆けなきや、去年用立てた千兩の金までがフイになる――伜を武家にし度いといふのは、<ruby><rb>亡</rb><rt>な</rt></ruby>くなつた夫の何よりの望みで、くれ〲も私に遺言して死んだくらゐだから、是が非でも二千兩の金を探し出して下さい。その代り今日中に探し出して下されば、お禮が百兩――と切り出しましたよ」

「フーム」

「百兩の禮金が入れば、<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>り<ruby><rb>乍</rb><rt>なが</rt></ruby>ら<ruby><rb>店</rb><rt>たな</rt></ruby>賃や<ruby><rb>味噌</rb><rt>みそ</rt></ruby><ruby><rb>醤油</rb><rt>しやうゆ</rt></ruby>代で親分に苦勞はさせねえ」

「馬鹿野郎」

「へエ――」

錢形平次は不意に一<ruby><rb>喝</rb><rt>かつ</rt></ruby>をくれて起直りました。

「そんな金なんぞは要らねえよ」

「へツ？」

「欲しくばお前が二千兩搜し出して禮金でも賽錢でも勝手に貰へ。俺はイヤだよ」

「百兩ですよ親分、小判で百枚」

「百兩が千兩でも俺は御免<ruby><rb>蒙</rb><rt>かうむ</rt></ruby>るよ。岡つ引はしてゐるが、ドブさらひや寶搜しは大嫌ひだ――さつさと歸つてくれ、そんな野郎とは付き合ひ度くねえ。まご〱しやがると獅子王をけしかけて向う<ruby><rb>脛</rb><rt>ずね</rt></ruby>に食ひつかせるよ」

「驚いたね、どうも」

ガラツ八は平次が何を怒つてゐるのかさへも解らぬ樣子で、<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>ふ〱の體で飛出しました。この見幕では<ruby><rb>粘</rb><rt>ねば</rt></ruby>つてゐたところで寶搜しの相談などには乘つてくれさうもありません。その癖平次は大した怒つた樣子もなくガラツ八の後ろ姿を見送つてニヤリニヤリ笑つてゐるのですが――。

## 二

「サア大變ツ」

翌る日の朝、ガラツ八の八五郎は路地の外から<ruby><rb>斯</rb><rt>か</rt></ruby>う怒鳴り込んで來ました。

「何が大變なんだ、お長屋の人達が一ぺん毎に<ruby><rb>膽</rb><rt>きも</rt></ruby>を潰すぢやないか。岡つ引や坊主は滅多なことに驚くもんぢやねえ」

平次は相變らず初夏の日向に並べた、貧しい植木をいつくしみ乍ら、一向驚いた樣子もない顏を擧げました。

「坊主と一緒にされりや世話アねえね、親分金貸のお<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>のところへ、いよ〱その坊主が入りましたぜ」

「坊主が入つた？」

「娘のお冬が死んだんです。傷も何んにもないから殺されたとも思はれないが、町内の本道（内科醫）が二人で<ruby><rb>診</rb><rt>み</rt></ruby>て、病氣はないと言ふんで」

「殺されたのでも、病氣でもないとすると――？」

「だから大變ぢやありませんか。前の晩二千兩の小判がなくなつた部屋で、今朝はあの可愛らしい娘のお冬が冷たくなつてゐたとしたら、こいつは驚くのが當り前でせう」

「二千兩は到頭昨日のうちに見付からなかつたのか」

「<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しいが百兩の禮金はフイになりましたよ。よく〱縁がなかつたんですね」

ガラツ八は大した悲觀もしてゐない樣子です。

「兎も角行つて見るとしようか、現場には手をつけさせなかつたらうな」

「番頭の平吉が、部屋の入口に<ruby><rb>頑張</rb><rt>ぐわんば</rt></ruby>つて誰も入れさせないことにしてありますよ。それに死骸の側には煙草入が落ちてゐたんで」

「煙草入？　そいつは誰のだ」

「居候の金之助といふ男の煙草入で、<ruby><rb>紺羅紗</rb><rt>こんらしや</rt></ruby>の<ruby><rb>洒落</rb><rt>しやれ</rt></ruby>た品ですよ」

「その金之助といふ男は何うした」

「手代の與助に見張らせてあります」

そんな問答を取交してゐる間に平次は手早く仕度をして、ガラツ八と一緒に出かけました。

飯田町へ行つたのは晝少し過ぎ、金貸のお角の家は、不安と<ruby><rb>疑惧</rb><rt>ぎぐ</rt></ruby>と悲歎に重苦しく閉ぢこめられて、<ruby><rb>偶々</rb><rt>たま〱</rt></ruby>大きい聲で物を言ふ者があると、家中の者が<ruby><rb>彈</rb><rt>はじ</rt></ruby>き上げられたほど吃驚するといつた不思議な靜けさでした。

先代の作兵衞が一代で築き上げた<ruby><rb>身上</rb><rt>しんしやう</rt></ruby>で高利貸といふ稼業から來る反感の外に、町内から白い眼で見られてゐた關係もあり、これほどの騷ぎがあつても寄りつく者もなく、家中の者だけが唯ひつそりと、次に來る不吉なものを待つやうな心持で睨み合つて居るのです。

「御苦勞樣でございます、親分さん方」

女主人のお角は、五十七八の丈夫さうな老女で、良人が生きてゐるうちは、一向人にも氣付かれない存在だつたのが、夫が死んで自分が一家を背負つて立つとなると、俄然頭角を現はして、何も彼も一人で切つて廻し、奉公人は言ふ迄もなく、伜や娘にも一と言も口をきかせないと言つた、<ruby><rb>所謂</rb><rt>いはゆる</rt></ruby>男<ruby><rb>勝</rb><rt>まさ</rt></ruby>りの肌合と言はれる<ruby><rb>質</rb><rt>たち</rt></ruby>の女でした。

「變つたことはないかえ」

ガラツ八が先づ口を切りました。

「煙草入が見えなくなりましたよ」

「煙草入が？」

「娘の死骸の側に落ちてゐた<ruby><rb>紺羅紗</rb><rt>こんらしや</rt></ruby>の煙草入が、何時の間にやらなくなつてしまひました――部屋へは誰も入れないやうに、入口に番頭が見張つて居りましたが」

「その煙草入の持主は確かに金之助だね」

平次は始めて口をきゝました。

「私にはよくわかりません――與助は<ruby><rb>確</rb><rt>たし</rt></ruby>かに金之助の煙草入だと申しましたが、お梅は色合が少し違つてゐるやうだと申します。紺羅紗の煙草入も多いことでせうから何んとも申し上げられません」

話しながらお角は平次とガラツ八を裏の六疊に案内しました。成程中廊下の突き當りで、廊下の左右には母親のお角の部屋と兄の佐太郎の部屋があり、この廊下以外に入口がないとすると、二千兩なくなつたのも娘のお冬が死んだのも、解けやうのない大きな謎になるわけです。

「入口は此處だけだと言つたな」

平次はなほ念を入れました。

「ハイ、それに私と伜の部屋の前を無事に通つても、その先には番頭の平吉の部屋があり、その前を通らなければ、店へもお勝手へも出られません――あの晩番頭の平吉は二千兩のお金のことが氣になつて、到頭<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まんじり</span>ともしなかつたと申しますし」

さういふうちに三人は部屋の入口に立つて居りました。<ruby><rb>其處</rb><rt>そこ</rt></ruby>には五十前後の番頭の平吉が異常な昂奮と不眠の<ruby><rb>疲</rb><rt>つか</rt></ruby>れとを一緒くたにしたやうな一種イライラした表情で迎へるのです。

「親分さん方お骨折りでございます」

年齡よりは<ruby><rb>老</rb><rt>ふ</rt></ruby>けて見える物腰、よく<ruby><rb>禿</rb><rt>は</rt></ruby>げた前額、柔和な眼――すべて典型的な番頭でこの男だけは惡いことを<ruby><rb>企</rb><rt>たくら</rt></ruby>みさうもありません。

部屋の中は少し薄暗く、突き當りは一間の頑丈な格子で、右手は――これも恐ろしく丈夫な格子窓、地震や火事の時は隨分危ない部屋ですが、格子の外は狹い路地なので、これ位の用心は必要だつたのでせう。

「親分さん、娘はどうして死んだのでせう」

此處へ來る迄、少しも取亂した樣子のなかつた母親のお角も、娘の死骸を見るとさすがにたまり兼ねたものか、男勝りと言はれた<ruby><rb>誇</rb><rt>ほこ</rt></ruby>りをかなぐり捨てて、冷たい娘の頬に、自分の頬を<ruby><rb>摺寄</rb><rt>すりよ</rt></ruby>せてひた泣きに泣くのでした。

お冬は十八といふにしては少し若く、まだ幼々しさの拔けきらない可愛らしい娘です。平次の馴れた眼で見ると、死に顏に苦惱の痕があり、――顏も少しは<ruby><rb>脹</rb><rt>は</rt></ruby>れてゐると――それはお角が平靜な心持に<ruby><rb>還</rb><rt>かへ</rt></ruby>つた時、平次の引出した言葉でした。

平次は經机の上の<ruby><rb>香爐</rb><rt>かうろ</rt></ruby>に一<ruby><rb>抹</rb><rt>まつ</rt></ruby>の香を<ruby><rb>捻</rb><rt>ひね</rt></ruby>つて、暫らく拜んでから、靜かに娘の死骸に近づきました。懷ろに突張る十手を、そつと後ろの方に廻したのも、職業意識がこの清らかな娘の死を<ruby><rb>冒涜</rb><rt>ばうとく</rt></ruby>しはしないかと――平次らしい<ruby><rb>嗜</rb><rt>たしな</rt></ruby>みがさせたさゝやかな仕草でせう。

死骸は玉のやうに<ruby><rb>無瑾</rb><rt>むきず</rt></ruby>でした。打ち見たところ一滴の血も、一髮の傷も其處にはなかつたのです。

「昨夜の食物は？」

平次は訊ねました。

「皆んな同じものを食べました。<ruby><rb>尤</rb><rt>もつと</rt></ruby>も娘は昨日の二千兩騷ぎで疲れた樣子で、皆んなより早く寢ましたが――」

「皆んなより早く」

「<ruby><rb>戌刻</rb><rt>いつゝ</rt></ruby>（八時）少し過ぎでした」

「それから、此部屋へ入つたものはないのかな」

「店もお勝手も、二千兩の金を搜すので、夜半まで<ruby><rb>煤掃</rb><rt>すゝは</rt></ruby>きのやうな騷ぎでした。――誰か來たかわかりませんが、<ruby><rb>亥刻</rb><rt>よつ</rt></ruby>（十時）過ぎに伜が來た時はよく眠つて居たやうだつたと申します」

「その時――いやこれは佐太郎から訊かう」

平次は言葉を切りました、丁度その時伜の佐太郎が、打ち<ruby><rb>萎</rb><rt>しを</rt></ruby>れた姿で妹の部屋へ入つて來たのです。

## 三

佐太郎は少し弱々しい感じの、二十五六になる典型的な若旦那でした。

「――」

默つて挨拶するのを迎へて平次は、

「佐太郎さんと言つたね、<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>この部屋を覗いた時のことを<ruby><rb>詳</rb><rt>くは</rt></ruby>しく聽き度いが――」

穩かな調子で斯う斬り出しました。

「妹に一寸聽き度いことがあつて來て見ました、<ruby><rb>亥刻</rb><rt>よつ</rt></ruby>（十時）少し過ぎだつたでせう。妹は窓の方を向いて、よく眠つて居る樣子でした。どうかしたら、あの時死んでゐたのかも知れません――聲をかけましたが、返事がなかつたので、そのまゝ歸りましたが――」

佐太郎の言葉は、激情にかき亂されて途切れ〱ですが、何んの<ruby><rb>企</rb><rt>たくら</rt></ruby>みもあらうとも思はれません。

「妹に訊き度いことがあつたと言ふのは？」

「――」

平次の問ひは嚴重でしたが、佐太郎は<ruby><rb>眩</rb><rt>まぶ</rt></ruby>しさうに<ruby><rb>瞬</rb><rt>またゝ</rt></ruby>いたきり、默つて眼を伏せました。

「ところで、旗本の株を買つて武家の養子になるといふのは誰が一番望んでゐたことだ」

「――」

「それを言ひ出したのは？」

「亡くなつた父親の遺言でした。――父は口癖のやうに、――私は百姓の子に生れて、中年から江戸に出たが、一生<ruby><rb>爪</rb><rt>つめ</rt></ruby>を<ruby><rb>灯</rb><rt>とも</rt></ruby>すやうな辛棒をしても、たつたこれだけの身代を拵へるのが關の山であつた。千兩萬兩の金を積んでも、町人は矢張り町人で侍の前には頭が上がらない。私の一代はどうすることも出來ないが、せめて私の子孫だけは二本差にして、一生諸人の上に立たせ度い――と斯う申して居りました」

「お前はどう思ふ？」

「――」

平次の問ひには答へず、佐太郎は臆病らしく母親の顏を見るのです。

「思つたまゝを言ふが宜い」

と平次。

「本當のことを言ふと、私は町人の方が好きですが――」

「武家になり度くはなかつたのだな」

「え、二本差といふ柄ぢやありません」

佐太郎は蒼白い顏を紅潮さして、極り惡さうに笑ふのです。一<ruby><rb>徹者</rb><rt>てつもの</rt></ruby>らしい母親――父の遺言をそのまゝ實行に移すためには、どんなことでも忍ばうとしてゐるお角の前で、これが佐太郎に取つては精一杯の反抗だつたのでせう。

「その時<ruby><rb>紺羅紗</rb><rt>こんらしや</rt></ruby>の煙草入は此部屋にあつたのだな」

「いえ、――昨夜は氣が付きませんでした」

これ以上のことは、佐太郎から引出せさうもないと見ると、平次はガラツ八を<ruby><rb>促</rb><rt>うなが</rt></ruby>して店の方へ行きました。

お勝手の側を通るときそつと平次に目禮した<ruby><rb>艶</rb><rt>なまめ</rt></ruby>かしい影があります。

「あれは？」

「<ruby><rb>姪</rb><rt>めひ</rt></ruby>のお梅といふので――姪といつてはゐるが遠い縁續きの女ださうで此家の<ruby><rb>掛</rb><rt>かゝ</rt></ruby>り<ruby><rb>人</rb><rt>うど</rt></ruby>ですよ」

ガラツ八はさういひながら、追ひすがるやうにその女を呼んで來たことはいふ迄もありません。女の樣子が妙に氣を持たせたところのあるのを、平次は早くも『何にかいひ度いことを持つてゐる素振り』と見て取つて、ガラツ八だけに通ずる合圖をしたのです。

「お前がお冬に一番お仕舞にあつたのは<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>だ」

平次の問ひは<ruby><rb>唐突</rb><rt>たうとつ</rt></ruby>でした。

「あの、昨夜――まだ宵のうちでした。お冬さんは加減が惡さうだつたので念のため覗いて見ましたが、その時はまだ眼が覺めてゐて少し頭痛がする樣子だが熱でもあるんぢやないかしら、――といふから、額にさはつて見ましたが」

「？」

平次の瞳に逢ふと、お梅はハツとした樣子で、

「――でも熱なんかなかつたやうです――私はすぐお店の方へ戻りましたが、その後で與助さんが行つたやうです」

<ruby><rb>斯</rb><rt>か</rt></ruby>う新しい事を言ひ出すのでした。この女はまだ二十三四でせうが、少し<ruby><rb>嫁</rb><rt>とつ</rt></ruby>ぎ遲れの氣味はあるにしても、何んとなく淋しい――その癖妙に思はせ振りな、先づは美しいと言はれる年増です。

「佐太郎は武家になるのを嫌つてゐたといふが本當か」

「え、あの通り弱々しい人ですから」

「お冬には縁話でもなかつたのか」

「まだ十八ですもの」

そんな言葉の一つ〱に、深い〱意味でも籠るやうな、思はせ振りな調子は、色つぽくはあるにしても、相手をひどく<ruby><rb>苛立</rb><rt>いらだ</rt></ruby>たせます。

店へ行くと手代の與助が、落付かない樣子で彼方此方を片付けて居りました。まだ二十七八でせうが、<ruby><rb>薄菊石</rb><rt>うすあばた</rt></ruby>の小男で、三十にも三十五にも見える不景氣さが、此男をひどく老實らしく見せるのです。

「お前は？」

「與助と申します、へエ」

「昨夜お梅が行つた後で、娘の部屋を覗いたさうだな」

平次の突つ込みは遠慮も會釋もありません。

「イエ、へエ――、參りましたが、お孃さんはもうお寢みの樣子で廊下からちよいと覗いたきり直ぐ戻りました、へエ」

「何んな用事があつたのだ――夜更けに若い娘の部屋を覗くのは穩やかぢやないぜ」

「夜更けと申してもまだ<ruby><rb>亥刻</rb><rt>よつ</rt></ruby>前で、それに唯ちよいと、氣分がどうか訊き度かつたので――へエ、ひどくお疲れのやうでしたから」

「大層思ひやりがあるんだね」

「へエ――」

與助は<ruby><rb>醜</rb><rt>みにく</rt></ruby>い顏をゆがめて、極り惡さうに<ruby><rb>小鬢</rb><rt>こびん</rt></ruby>を掻いて居ります。

續いて平次は與助に見張られ乍ら庭のあたりで物を探して居る金之助をさし招きました。

「へエ、私が金之助でございます」

これは三十そこ〱でせう、無造作な<ruby><rb>身扮</rb><rt>みなり</rt></ruby>と<ruby><rb>磊落</rb><rt>らいらく</rt></ruby>な物言ひが特徴で、面長な色の白い、歌舞伎役者の誰やらに似てゐると言はれた好い男です。

「娘の側に紺羅紗の煙草入があつたさうぢやないか」

平次は此處でも直接法の訊問です。

「驚きましたよ。紺羅紗の煙草入を持つてゐるのは、店中でこの私だけで」

「娘が變死したとなると、差向お前に下手人の疑ひがかゝるわけだな」

「と、飛んでもない、親分」

金之助はさすがにあわてましたが、平次がこんな突つ込んだことをいふ癖に、案外ニコニコしてゐるのでいくらか安心した樣子です。

「死んだお冬は誰と一番親しくして居た」

「兄さんの若旦那でせう。そりや仲の好い兄妹で」

「お前とは」

「へツ、私は此通り居候で何んと思つたところで仕樣がありません――可愛いお孃さんでしたがね」

「<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>、お冬の部屋へは行かなかつたのか」

「あの騷ぎでせう、店中を搜し廻つて手洗へも行きませんよ。番頭さんにきけばわかりますが」

與助は店から一度奧へ行つたが。金之助は夕飯の後すぐ二千兩搜しに手傳つて、寢るまで奧へ行くひまはなかつたらしく、<ruby><rb>亥刻半</rb><rt>よつはん</rt></ruby>（十一時）過ぎ銘々の部屋へ引取つた後は店二階に寢る金之助が老番頭の平吉と、お角と佐太郎の注意をひかずにお冬の部屋へ行く方法はなかつたのです。

後でわかつたことですが、金之助はお梅に變な眼で見られるのが嫌だつたらしく、滅多にお冬とは口もきかず、お冬の部屋などを覗くやうな不作法なこともしなかつたといふのが本當のところでした。

## 四

「親分、いろ〱のことを聽き出して來ましたよ」

少し持て餘し氣味で、お茶を呑んで裏庭をブラブラしてゐる平次のところへ、何處へ行つたか、暫らく姿を見せなかつた八五郎がやつて來たのです。

「何處へ行つて來たんだ」

「御近所ですよ、向う三軒兩隣り、――親分がよく言ふでせう。こんがらかつて判らなくなつたら、少し離れて遠くから見ろ――つて、その<ruby><rb>術</rb><rt>て</rt></ruby>をちよいと借りたんで」

「で？」

「若旦那の佐太郎が、旗本の株を買つて二本差になるのを、ひどく嫌がつてゐたことはもう調べ濟ですね」

「それから」

「居候の金之助とあの<ruby><rb>洒落</rb><rt>しやれ</rt></ruby>た年増のお梅がお安くないんですつて、こいつは初耳でせう。尤も近頃は金之助の野郎大望を起して、娘のお冬にチヤホヤして居たつて言ひますがね、何んと言つても相手は十八――まだ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ねんね</span>だから、<ruby><rb>手應</rb><rt>てごたへ</rt></ruby>があつたかなかつたかわかりませんよ、それに――」

「それに――どうした、恐ろしくすつぱい顏をするぢやないか」

「あの手代の與助が身の程も知らずに、娘のお冬を追ひ廻してゐたんださうで――お冬が嫌がるまいことか、つき物がしたやうに逃げ廻つて居たといひますよ、昨夜お冬の部屋を覗いたのもそんな下心でせう――太てえ野郎ぢやありませんか」

八五郎がむやみにポンポンいふのを平次は輕く受け流しました。

「それつきつか」

「根つきり葉つきりこれつきりで――」

「御苦勞々々々、それだけでも解れば助かるよ――俺の方は今朝お梅と金之助が此邊で<ruby><rb>逢引</rb><rt>あひびき</rt></ruby>をしてひどく親しさうにしてゐたのを見たといふ人をつかまへたよ」

「そいつは誰です」

「隣の小僧だよ――酒屋の」

「へエ――」

「こんな事でもう切上げるとしようか」

「二千兩の行方は？」

「わからないよ――二千兩を持出した樣子がなきや最初からそんな金が無かつたのかも知れないぢやないか」

「へエ――」

「有つたにしても持出せるのは女主人のお<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>と、伜の佐太郎と、番頭の平吉だけだ。外から泥棒が入つた樣子はなし」

平次はかういひさしてフト考へ込んでしまひました。

「親分、それぢや、あの死んだ娘が――」

「さうだ、あの娘は知つてゐた筈だ。押入から千兩箱を二つ持出されるのを、いくら若い娘の寢入ばなでも、まるつきり知らずに居る筈はない、――もう一度行つて見よう」

平次は<ruby><rb>憑</rb><rt>つ</rt></ruby>かれたもののやうに、家の中へ入つて、廊下を眞つ直ぐに娘の部屋へ行きました。後から八五郎と女主人のお角と、番頭の平吉と伜の佐太郎が不安らしく<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>いて行つたことは言ふまでもありません。

「八、襖を皆んな開けてくれ」

「<ruby><rb>斯</rb><rt>か</rt></ruby>うですか」

「それから、この床を動かすんだ」

「へエ」

平次はガラツ八に手傳はせて、死んだ娘の床を、窓側から廊下寄りに移し、窓から入る明るい光線に<ruby><rb>透</rb><rt>すか</rt></ruby>かして、一枚々々疊を調べて居りましたが、丁度娘の床を敷いてゐたところの疊が、少しばかり喰ひ合せが<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>んだ上、<ruby><rb>藁屑</rb><rt>わらくづ</rt></ruby>らしいものがハミ出してゐるのを見ると、

「此疊を<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>ぐんだ、手傳つてくれ――此部屋の中の死骸の下とは氣が付かなかつたよ」

平次はさう言ひ乍ら、八五郎に手傳はせて、疑問の疊を一枚剥ぎました。疊の下の床板は隙間だらけのガタガタになつて居て、その一枚に手を掛けると、何んの造作もなく剥げて、下からは<ruby><rb>濕</rb><rt>しめ</rt></ruby>つぽく泥臭い風が、スーと不氣味に吹き上がります。

「掘るものを持つて來ませうか、親分」

「いや、手で澤山だ――あの小高くなつてゐるところを掘つて見てくれ」

「へエ」

ガラツ八は氣の早い實行家で、<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちうちよ</rt></ruby>といふものを知らぬ男です。いきなり床下に飛込んで、小高くなつて居る土を掻くと、その下から現はれたのは、言ふ迄もなく二つの千兩箱。

「まア、そんなところに――娘のしたことだらうね」

驚く母親のお角の前に、伜の佐太郎は默つて首を垂れて居ます。

「死んだ妹さんのせゐにしちや氣の毒だ。思ひ切つて、皆んな言つた方が、<ruby><rb>後腐</rb><rt>あとくさ</rt></ruby>れがなくて宜くはないかね」

平次は俯向いた佐太郎に斯う<ruby><rb>促</rb><rt>うなが</rt></ruby>しました。

「有難う、親分――私は默つて居ようと思つたが、それぢや反つて妹のためにも、私のためにも惡からう――ねお母さん、二千兩の小判を此處へ隱したのは、お冬ぢやなくて私ですよ、この佐太郎ですよ」

「何んだとえ」

母親の激しい驚きと怒りも、最早純情にかり立てられる青年の口を<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>ぐ力はありませんでした。

「私は侍になんかなるのが嫌で〱たまらなかつたんです。人切<ruby><rb>庖丁</rb><rt>ばうちやう</rt></ruby>を二本腰にさして百姓や町人を見下ろして歩くあの威張り腐つた樣子からして野暮で武骨で圖々しくて我慢が出來なかつたのです――お母さんにお願ひしても、<ruby><rb>亡</rb><rt>な</rt></ruby>くなつたお父さんの遺言だからといつてとても聽いちや下さらないだらうし、それにお母さんの一生懸命なところを見ると、止して下さいとも言ひかねて妹に相談しました」

「――」

「するとお冬は、幸ひ此處の押入にある二千兩、今晩のうちに隱してしまへば、旗本の株の話も立消えになるだらうし、後でお母さんには私からお詫をして、二千兩の金は折を見て床下から出して上げるからと――昨日の晩二人でそつと此處に隱しました」

「――」

「お願ひです、お母さん、私を二本差にするなどと――そんな馬鹿々々しい望みは起さないで下さい、――私は町人で宜いぢやありませんか、正直で、腰の低い町人――腹さへ綺麗で人に見下ろされなければ、それで結構ぢやありませんか、ね、お母さん」

<ruby><rb>斯</rb><rt>か</rt></ruby>う言ひきつて了ふと、<ruby><rb>臆病</rb><rt>おくびやう</rt></ruby>らしい佐太郎もすつかり勇氣づいて、まだ<ruby><rb>憤々</rb><rt>ぷん〱</rt></ruby>とした怒りの納まらぬ母親の袖に<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>つて、子供のやうにねだるのでした。平次もガラツ八も默つてこの家庭の小悲劇を見詰めてゐる外ありません。

## 五

「お早う、<ruby><rb>姐</rb><rt>ねえ</rt></ruby>さん」

「あら、八さん大層早いんですね」

平次の女房のまだ若くも美しくもあるお靜が、入口の<ruby><rb>掃除</rb><rt>さうぢ</rt></ruby>をしてゐるところへ、大きい影法師を這はせて、ノツソリと八五郎は立ちました。

「今朝は寢起きの早いわけがあるんですよ。昨夜の一<ruby><rb>埒</rb><rt>らつ</rt></ruby>を聽いたんですか、姐さん」

「いえ、あの人はお上の御用向のことと言ふと、何んにも言はないんです」

お靜には少し<ruby><rb>怨</rb><rt>ゑん</rt></ruby>ずる色がありました。

「えらいツ、さすがは錢形の親分だ。實はね姐さん、斯うなんですよ」

「金貸しのお角の家で、自分が見當をつけて、死んだ娘の寢てゐる疊の下の<ruby><rb>床板</rb><rt>ゆかいた</rt></ruby>を剥ぐと探し拔いた二千兩の小判が、二つ千兩箱に入つたまゝそつくり出て來たぢやありませんか」

「まア」

お靜は姐さん<ruby><rb>冠</rb><rt>かぶ</rt></ruby>りの白い手拭を取つて、初夏の朝日に美しい顏をさらしたまゝ、また存分に可愛らしい眼を見張つて居ります。

「――その金が出て來ると、男<ruby><rb>勝</rb><rt>まさ</rt></ruby>りと言はれた後家のお角婆さんが――見付かるのは一日遲れましたが、お約束はお約束だから、このお禮はお受取下さい――と切口上で百兩の金を出した」

「まア」

「親分がそれを默つて受取つて、三つ溜つた<ruby><rb>店賃</rb><rt>たなちん</rt></ruby>でも拂ふのかと思ふと大違ひ――こんなものを受取る筋合ひはありません――とポンと返した、いやその小氣味のよかつたこと」

「止さないか、八」

平次は何時の間にやら、入口に顏を持つて來ました。

「親分へ言つてるんぢやない、あつしは姐さんに聽かせてゐるんですよ。ね、姐さん、親分は大した人ですぜ。大枚百兩の金に眼もくれねえ――あの時はあつしも正直のところ、二分や一兩のわけまへがあるだらうと樂しみにして居たが、ポンと威勢よく突返した親分の男振りを見ると、胸が斯うスーとして、二分や一兩にこだはる氣がなくなつて、唯もう無性に嬉しくなりましたよ。へン、どんなもんだ、日本一の錢形の親分を見てくれ――と言つた心持でね」

お靜はこんな話を聽かされると自分のことのやうに極り惡がつて<ruby><rb>狹</rb><rt>せま</rt></ruby>いお勝手に逃げ込みましたが、當の平次は以ての外の顏で、

「止さないか八、俺はそれどころぢやないんだ。昨夜はろくに眠らないほど考へたが――」

「親分でもね、矢張り、大きな魚を釣り落したやうな心持で――」

「馬鹿だなア、そんな事ぢやないよ。あの娘の死骸の側にあつたといふ煙草入が、番頭が入口を見張つてゐる部屋の中で、何うして無くなつたんだ――格子から一間も離れてゐたといふが――」

「へエー、そんなつまらない事が心配でね」

「あの娘は<ruby><rb>卒中</rb><rt>そつちう</rt></ruby>や<ruby><rb>癲癇</rb><rt>てんかん</rt></ruby>ぢやない。どうして死んだんだ――あの死顏は容易ぢやないが絞められた痕もなく、身體には<ruby><rb>蚤</rb><rt>のみ</rt></ruby>にさゝれたほどの傷もないのはどういふわけだ、――二千兩の小判は搜し出しても、これが判らなきや俺は我慢が出來ない。どうかすると、大變な間違ひをやつて居るんぢやないかな」

平次の惱みは此解けない謎に首を突つ込んだ爲だつたのです。

「毒害ぢやありませんか、親分」

「いや、毒なら身體に<ruby><rb>徴</rb><rt>しるし</rt></ruby>がある。お前も『檢屍辨覽』でも讀むが宜い、――唇にも、舌にも、<ruby><rb>眼瞼</rb><rt>まぶた</rt></ruby>にも、<ruby><rb>皮膚</rb><rt>はだ</rt></ruby>にも何んの<ruby><rb>變化</rb><rt>かはり</rt></ruby>のない毒はない筈だ。本道（内科醫）が二人で立會つて診て、何んの變りもないと言つてゐる」

「それなら矢張り<ruby><rb>頓死</rb><rt>とんし</rt></ruby>ぢやありませんか」

「いや頓死ではない――煙草入を持込んだ奴――男か女かは解らぬが、兎も角死骸の側に煙草入を持込んだ人間は何にか知つてゐるに違ひない。娘を殺して二千兩の金を持出すつもりだつたのかな」

「それぢやあの伜ぢやありませんか」

「いや違ふ、伜の佐太郎なら妹を殺さなくたつて二千兩の金が持出せるわけだ」

「それとも旗本が株を賣るのが嫌になつて――」

「それも違ふ、外からは曲者が入れない」

平次は拔き差しのならぬ迷宮に首を突つ込んだ樣子です。

「さア判らない――もう一度行つて見ませうか、親分」

「さうだ、もう一度見る外はない」

平次とガラツ八はもう一度飯田町へ――お冬の死の祕密を解くために出かける外はなかつたのです。

お角の家は、二千兩事件が一段落付いて、娘の<ruby><rb>葬</rb><rt>とむら</rt></ruby>ひの仕度に取かゝつて居りました。大河内家の株を買ふ話はそれつきり打切られると、後からヒタヒタと押し寄せて來るのは、娘を<ruby><rb>喪</rb><rt>うしな</rt></ruby>つたといふ、大きな悲しみだけです。

男勝りと言はれたお角も、二千兩を隱して町人道を立て通した佐太郎も、其頃になつてボツボツ集つて來た近所の人達や、遠い親類を相手に、新に湧き上がる悲しみに、泣いたり口説いたり、取止めのないことに<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れて居ります。

その騷ぎの中へ、もう一度顏を出した岡つ引の平次と八五郎が、どんな心持で迎へられたかは言ふ迄もありません。

「もう一度佛樣を拜まして貰ひ度いが」

「今<ruby><rb>入棺</rb><rt>にふくわん</rt></ruby>するところで――」

澁る人々を掻きわけるやうに、奧の六疊に通つた平次は、皆んなの眉をひそめるのも知らぬ顏で、危ふく入棺前の娘の死骸を調べることが出來ました。

十八娘の死骸は、多少の變化があるにしても、毛程の傷も<ruby><rb>斑點</rb><rt>はんてん</rt></ruby>もないことはもとの通りで、さすがの平次も、この<ruby><rb>執拗</rb><rt>しつあう</rt></ruby>な<ruby><rb>冒涜</rb><rt>ばうとく</rt></ruby>に自分を耻ぢ恐れて、默つて引下がる外はなかつたのです。

が、若しこれが他人の手に掛つて殺されたのだとしたら――平次の正義感は、僅かに殘る疑ひをかき立てて、最後の瞬間までもと注意を集注しました。

「八、灯りを」

「へエ」

平次の心持を察して差出した佛前の蝋燭、それを受取つた平次は冷たい死骸の首を片腕に抱き上げて、<ruby><rb>曾</rb><rt>かつ</rt></ruby>て櫻貝のやうに美しかつたであらうと思はれる娘の右の耳の中を念入りに調べました。

何んの異常もありません。

「親分さん、もう澤山ぢやございませんか」

我慢のなりかねたのは母親のお角です。その後ろには多勢の人達が非難と<ruby><rb>危惧</rb><rt>きぐ</rt></ruby>の眼を光らせて、ヂツと平次の方を見詰めて居ります。

次は左の耳の中を――

「あつ、八。これを見ろ」

「血のやうですね」

「<ruby><rb>觀世縒</rb><rt>くわんぜより</rt></ruby>を<ruby><rb>拵</rb><rt>こさ</rt></ruby>へてくれ、先を<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>らして」

「へエ――」

ガラツ八の拵へた紙縒、その先を濡らして娘の死骸の耳に入れると、尖端は引拔くに從つて眞つ赤になるではありませんか。

「血だ」

ガラツ八はツイ大聲を出します。

「<ruby><rb>耳垂</rb><rt>みゝだれ</rt></ruby>を<ruby><rb>患</rb><rt>わづら</rt></ruby>つては居なかつたのかな」

平次は誰へともなく訊ねました。

「耳垂なんかあつた筈はない」

應へたのは兄の佐太郎でした。

## 六

「驚いたね、親分」

庭へ出ると、ガラツ八はそつと平次に<ruby><rb>囁</rb><rt>さゝや</rt></ruby>くのです。

「俺も驚いたよ、あんなのは始めてだ」

「ひどい事をしたものですね」

「鬼だよ。あんな可愛らしい娘の耳へ、疊針を打ち込んで、丁寧に血を拭き取つて置いたのは恐ろしい<ruby><rb>膽力</rb><rt>たんりよく</rt></ruby>だ」

平次の眼はこの<ruby><rb>殘酷</rb><rt>ざんこく</rt></ruby>な下手人を憎む心に燃えます。

「店の方の二千兩搜しの騷ぎに<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れてやつたんですね」

「その通りだ。――<ruby><rb>紺羅紗</rb><rt>こんらしや</rt></ruby>の煙草入を持つて行つた人間だ――が金之助ではあるまい。金之助は店から、動かなかつた」

「すると？」

「下手人は金之助に罪を<ruby><rb>被</rb><rt>き</rt></ruby>せようとして煙草入を持込んだ――が、もう一人の人間が居る。それは金之助を救ふつもりで煙草入を隱した人間だ」

「恐ろしく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こんがら</span>がつてしまひました」

「餘計な小細工をするから反つて惡事が露見するんだ。煙草入なんか持込まなきや、娘は頓死で濟むのに、――惡人はさうしたものだ、<ruby><rb>天罰</rb><rt>てんばつ</rt></ruby>だね」

「誰でせう、そいつは？」

「解らないよ」

「<ruby><rb>癪</rb><rt>しやく</rt></ruby>にさはる野郎ぢやありませんか」

「腹を立てる隙に、お前は此店の者で、釣の好きな者はないか訊いてくれ」

「へエ」

ガラツ八は飛んで行きましたが、間もなく釣の好きなのは手代の與助で、これは自慢の<ruby><rb>繼竿</rb><rt>つぎざを</rt></ruby>を持つてゐることまで聽いて來ました。

「その繼竿に變つたことがなかつたか、與助に訊かなきや――」

「待つて下さい、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>が行つて來ませう」

やがてガラツ八は、見事な繼竿を持つて、首をかしげながらついて來る與助と一緒にやつて來ました。

「その繼竿に何か變つたことがあるといふのか」

と平次。

「<ruby><rb>惡戯</rb><rt>いたづら</rt></ruby>をした奴がありますよ、糸も針も滅茶々々だ。こんな掛けやうをされちや、<ruby><rb>竿</rb><rt>さを</rt></ruby>がたまらない」

<ruby><rb>醜</rb><rt>みにく</rt></ruby>い顏をゆがめて腹を立てる小男は、もう平次には用事がない樣子で、

「八、今度は、昨日この路地を釣竿を持つて歩いた人間がなかつたか訊いて來てくれ。隣の酒屋の小僧は、十四五で物好きで、隙見と買喰ひの名人だから、大抵のことは知つてるよ。これを持つて行つてやつて見な」

平次は小粒を一つガラツ八に持たせて外へ出してやると、自分は引返してそつと裏口に身を寄せました。

家の中は妙に靜まり返つて、何やら不安を<ruby><rb>孕</rb><rt>はら</rt></ruby>んだまゝ、初夏の陽は次第に<ruby><rb>長</rb><rt>た</rt></ruby>けます。

間もなくガラツ八が歸つて來ました。

「親分、昨日の朝、釣竿を持つて路地に入つた人間はわかりましたよ」

「女だらう」

平次はズバリと言ひ切りました。

「どうしてそんな事が？」

「まあ宜い、お前は店口へ行つてもう一度<ruby><rb>怒鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>れ、今言つた通りで宜い――昨日<ruby><rb>釣竿</rb><rt>つりざを</rt></ruby>を持つて路地へ入つた人間が解りましたよ――とな――町内へ響き渡るやうな大きな聲でやるが宜い」

「へエ」

「そして、一番先に飛出した奴を縛るんだ」

「へエ」

「拔かるな、相手は食へないぞ」

「へエ」

ガラツ八は店の方へ、平次はもう一度裏口へそつと身を寄せました。

間もなく店の方から、ガラツ八の怒鳴る聲、

「――昨日釣竿を持つて――」

その聲が終ると同時に、裏口へそつと<ruby><rb>滑</rb><rt>すべ</rt></ruby>り出した者があります。

「待て〱、何處へ行く」

「あのちよいと」

「お前の行くところは決まつてゐる、來い」

「あつ」

飛び退るのを追ひすがつて、片袖だけ平次の手に殘りましたが、曲者は一文字に廊下を飛んで店口へ――

後を追つた平次、何分にもなれない他人の家で暫らく手間取つて店口へバアと顏を出す、其處には手ぐす引いて待つてゐたガラツ八の八五郎、

「御用ツ」

見境もなくむんずと平次に組付いて來たものです。

「馬鹿、俺だ」

「あつ、親分」

「俺より一と鼻先に來たものがあつた筈だ」

「誰も來ませんよ」

「本當か」

「本當にも嘘にも」

「あツ、やられた」

「どうしたんです、親分」

「廊下を追つかけるうちに、お勝手へ飛込んでやり過されたんだ」

「行つて見ませう」

「無駄だ、今頃は裏口から飛出して、九段坂までも行つて居るよ」

「誰です一體<ruby><rb>下手人</rb><rt>げしゆにん</rt></ruby>は」

「行つて見よう、兎も角も」

<ruby><rb>併</rb><rt>しか</rt></ruby>し、二人は間に合ひませんでした。曲者は裏口から飛出すと、九段へ一足飛に飛んで白晝の牛ヶ<ruby><rb>淵</rb><rt>ふち</rt></ruby>へ、<ruby><rb>礫</rb><rt>つぶて</rt></ruby>のやうに身を投げてしまつたのです。

下手人――お冬を殺して、牛ヶ淵に飛込んだ曲者は、言ふ迄もなく<ruby><rb>姪</rb><rt>めひ</rt></ruby>のお梅だつたのです。

この事件は二千兩事件と<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>んで、相當複雜でしたが、後でガラツ八にせがまれて平次の説明したところによると、

「なアに、何んでもないことさ。お梅といふ女は恐ろしい女で、金之助と一緒になるつもりだつたが、金之助が若くて可愛らしいお冬に心引かれてゐるのを見て、ムラムラとお冬を殺す氣になつたのさ、――恐ろしい<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しつと</rt></ruby>だ、――<ruby><rb>尤</rb><rt>もつと</rt></ruby>も慾も絡んでゐた。お冬を殺して床下に隱してある二千兩を持出すつもりだつたが、あの晩はそこまで手が延び兼ねた、いづれそのうちに二千兩は盜み出して、あの家を飛出さうと、折を狙つて居たのさ」

「へエ――惡い女があるものですね」

「<ruby><rb>紺羅紗</rb><rt>こんらしや</rt></ruby>の煙草入は、金之助憎さの一心で持つて行つた。死骸の側に置けば金之助に疑ひがかゝると思つた――ところが翌る日の朝金之助に逢つて見ると、金之助はまだお梅の方に氣があつて、お冬のことなどを考へてもゐないと解つて、紺羅紗の煙草入を死骸の側へ置いて來たのが心配になつた、――そこで與助の<ruby><rb>釣竿</rb><rt>つりざを</rt></ruby>を持出して、朝のうちに路地へそつと忍び込み、格子の外から煙草入を釣つたのさ――煙草入は格子から一間以上離れたところに轉がつて居るから、手でも棒でも引寄せられないし、部屋の入口には番頭の平吉が<ruby><rb>頑張</rb><rt>ぐわんば</rt></ruby>つて居る」

「うまい事を考へたものですね」

「恐ろしく惡智惠の廻る女さ。が、そんな細工をしたばかりに、<ruby><rb>反</rb><rt>かへ</rt></ruby>つて頓死で濟むお冬の死骸を、俺がもう一度調べる氣になつたのだ」

「ところで親分はどうして下手人が女とわかつたんです」

お梅を追ひ出す前に、平次の言つた言葉をガラツ八は思ひ出したのでせう。

「お冬のやうな若くて<ruby><rb>羞</rb><rt>はづ</rt></ruby>かしい盛りの娘の寢て居るところへ入つて、お冬に油斷をさせて、耳打ちでもするやうな恰好で、あんなひどい殺しやうをするのは、女でなきや出來ないことだ」

「成程ね」

「惡い女には相違ないが、――俺はどうも若い女を<ruby><rb>獄門</rb><rt>ごくもん</rt></ruby>や死罪にしたくない」

平次は妙なことを言ふのです。

「すると親分はわざとあの女を逃したんで？」

「飛んでもない、――そんな馬鹿なことが出來るものか、岡つ引が大事な下手人をわざと逃したなんて言ひ觸しちや大變だぜ、――それに牛ヶ淵が近くたつて、其處に飛込んでくれると決つたわけぢやあるめえ」

「へえ――、さうですかね」

ガラツ八はまだ<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>に落ちない顏をして居るのです。