## 一

荒物屋のお今――今年十七になる<ruby><rb>滅法</rb><rt>めつぽふ</rt></ruby>可愛らしいのが、祭り衣裳の晴れやかな姿で、湯島一丁目の路地の奧に殺されて居りました。

「まア、可哀想に」

「あんな<ruby><rb>人好</rb><rt>ひとず</rt></ruby>きのする<ruby><rb>娘</rb><rt>こ</rt></ruby>をねエ」

ドツと<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れる路地の彌次馬を、ガラツ八の八五郎、どんなに骨を折つて追ひ散らしたことでせう。

「えツ、寄るな〱、見世物ぢやねえ」

遠い街の灯や、九月十四日の宵月に照されて、眼に沁むやうな娘の死體を、後ろに庇つたなりで八五郎は<ruby><rb>呶鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>り立てるのでした。其處此處から覗く<ruby><rb>冒涜的</rb><rt>ばうとくてき</rt></ruby>な彌次馬の眼が、どうにも我慢がなりません。

「どうしたえ、八、お今がやられたさうぢやないか」

幸ひ親分の錢形平次が飛んで來ました。江戸開府以來と言はれた、捕物の名人が來さへすれば、八五郎の憂鬱は一ぺんに吹き飛ばされます。

「親分、あれだ」

「何て<ruby><rb>虐</rb><rt>むご</rt></ruby>たらしい事をしやがつたんだらう、可哀想に」

側に寄つて見ると、路地をひたした血潮の上に、<ruby><rb>左頸筋</rb><rt>ひだりくびすぢ</rt></ruby>を深々と切られたお今は突つ伏して居りますが、觸つて見ると僅かに體温が殘るだけ。

八五郎と死骸を挾んで、番太の親爺と、お義理だけの町役人が顏を竝べましたが、すつかり顫へ上がつてものゝ役にも立たず。

「<ruby><rb>肝腎</rb><rt>かんじん</rt></ruby>のお袋は目を廻して、其處の家へ擔ぎ込まれましたよ」

親一人子一人の評判娘が、この虐たらしい最期を遂げては、母親が目を廻すのも無理のないことでせう。

「可哀想に――<ruby><rb>檢屍</rb><rt>けんし</rt></ruby>が濟んだら、早く引取らせるがよい。もう直ぐ八丁堀の旦那方が見える筈だから」

平次はさう言つて、路地の外から覗く、物好きな眼の前へ、<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>になるやうに立つて居ります。

「<ruby><rb>三輪</rb><rt>みのわ</rt></ruby>の親分が、下手人を擧げて行きましたぜ、親分」

と、ガラツ八の聲は少し<ruby><rb>尖</rb><rt>とが</rt></ruby>りました。

「そいつは早手廻しだな、誰だい、その縛られたのは？」

「町内の<ruby><rb>油蟲</rb><rt>あぶらむし</rt></ruby>――<ruby><rb>釣鐘</rb><rt>つりがね</rt></ruby>の勘六が、血だらけの<ruby><rb>匕首</rb><rt>あひくち</rt></ruby>を持つて、ぼんやり立つてゐるところを、多勢の人に見られてしまつたんで」

「成程ね」

「あわてゝ逃出したところを、三輪の萬七親分が通りかゝつて、いきなり縛つてしまひましたよ」

「それつ切りかえ」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>も見たわけぢやありませんが、縛られると、それまで<ruby><rb>呆然</rb><rt>ぼんやり</rt></ruby>してゐた勘六が、急に氣狂ひのやうに騷ぎ出したさうですよ」

「はてな？」

平次は考へ込みました。勘六は五十男で、評判のよくない人間には相違ありませんが、十七娘をどうしようといふ歳ではなく、それに、お今は母一人娘一人で、人に<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>まれる筋合などは、どう考へてもなかつたのです。

「變でせう、親分、――勘六ほどの惡黨が、人を殺した現場に、ノツソリ血だらけな<ruby><rb>匕首</rb><rt>あひくち</rt></ruby>を持つて立つてゐる筈はないぢやありませんか」

ガラツ八にもこれ位の眼があつたのでした。

「三輪の兄哥にも何か<ruby><rb>思惑</rb><rt>おもはく</rt></ruby>があるんだらう。ところで、お今には浮いた噂はなかつたのか」

「大根畑の植木屋の<ruby><rb>專次</rb><rt>せんじ</rt></ruby>といふのが心安くしてゐたさうですよ」

「そつとつれて來る工夫はないか」

「其處に居ますよ、お今のお袋と一緒に」

ガラツ八は死骸を<ruby><rb>跨</rb><rt>また</rt></ruby>ぐやうに、突き當りの長屋へ入つて行きました。其處はお今母子の知合の家で、神田明神樣の宵宮の賑ひを拔けて、知合の家へやつて來たお今が、後を跟けて來た曲者に、この路地の奧でやられたのでせう。

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>が專次でございますが――親分さん」

八五郎につれられて來たのは、二十二三の小意氣な男でした。長ものを着て居るせゐか、植木屋といふ八五郎の觸れ込みがなかつたら、平次も<ruby><rb>大店</rb><rt>おほだな</rt></ruby>の番頭か何かと間違へたことでせう。

「專次――といふのかい、このお今とはどうして知り合ひになつたんだ」

平次はお今の死骸を月明りの中に指しました。それを眺める專次の表情を、一つも見落すまいとする樣に。

「この暮には祝言をすることになつて居ましたよ、親分さん」

專次の顏には悲痛な色が動きました。一生懸命、<ruby><rb>反</rb><rt>そむ</rt></ruby>ける眼が、ツイお今の<ruby><rb>虐</rb><rt>むご</rt></ruby>たらしい死骸に<ruby><rb>牽</rb><rt>ひき</rt></ruby>付けられる樣子です。

「お袋も承知か」

「それはもう――何だつたら、本人に訊いて下さい、其處に居りますから」

## 二

「當人は？」

平次は重ねて訊ねました。

「當人もそのつもりでした、――この春から」

專次の返事のギゴチなさ、――それは、<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>まで込み上げて來る、大きな悲しみのせゐでもあるでせう。

「ところで、今晩、一<ruby><rb>刻</rb><rt>とき</rt></ruby>ばかり前から、何處に居たんだ」

「明神樣の境内から、金澤町あたりを歩いて居りました。何しろこんなに賑やかですから」

「お今と一緒に歩いてゐるのを、見たものがあるぜ」

「そんな、そんな事が――親分」

專次はすつかりヘドモドして居ります。いや、それより驚いたのは、ガラツ八の八五郎でした。錢形平次は、八五郎のやつた迎ひで、ツイ今しがた自分の家から來たばかりで、そんな噂などを耳に入れる<ruby><rb>隙</rb><rt>ひま</rt></ruby>があらうとは思はれません。

「この一刻ばかり、何處に何をして居たか、それがはつきりしなきや歸せねえが」

「親分、そりや無理ですよ、こんな人出ですもの、何百人に逢つたか判らないが、そのうちから、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>の見知り人を搜すなんて、出來ない相談ですよ」

專次は泣き出しさうでした。全く神田明神をめぐつて人間の<ruby><rb>洪水</rb><rt>こうずゐ</rt></ruby>のやうなもので、その中を一刻泳ぎ廻つたところで、誰も見知り人などがある筈もありません。

「氣の毒だが、その胸の<ruby><rb>血飛沫</rb><rt>ちしぶき</rt></ruby>がモノを言ふから、一刻ばかり此處へ寄り付かないといふ、確かな證人がなきや――」

「これは親分」

專次は自分の胸のあたりを眺めました。成程目立つほどではありませんが、點々として左脇腹へかけて、<ruby><rb>飛沫</rb><rt>しぶ</rt></ruby>いた血の跡は隱しやうも無かつたのです。

「死骸を抱き起した時の血だつて言ふんだらう」

「その通りですよ、親分さん」

「死骸から附いた血なら、そんなに飛沫く筈はねえ」

「でも、お今はその時、まだ息があつたんで」

「息のあるのを介抱もせずに、<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむけ</rt></ruby>に投り出したといふのかい」

平次の問ひは容赦もありません。月にさらされた<ruby><rb>慘憺</rb><rt>さんたん</rt></ruby>たる有樣を遠く眺めて、路地の外の彌次馬も聲を呑みました。

「人を呼んで來るつもりで、大急ぎで飛出しましたよ」

專次は出來るだけ輕やかに應答するつもりでせう。頬のあたりに引釣つたやうな笑さへ浮べますが、喉はすつかり<ruby><rb>涸</rb><rt>か</rt></ruby>れて、斯う言ふ言葉も容易には出て來ません。

「その後に勘六が來て、<ruby><rb>匕首</rb><rt>あひくち</rt></ruby>を拾ひ上げて捕まつたといふのだな」

平次は誰へともなくさう言ひます。

「へエ、そ、その通りで」

「それ程判つてゐるなら、勘六が縛られる時、なんだつて一言辯解をしてやらなかつたんだ」

「へエ――」

「それぢや勘六にすむめえ」

「でも、親分さん、勘六は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>が見付ける前に、お今を殺して、又やつて來たかも知れません」

「自分の殺した娘の死骸を見に來た奴が匕首を拾ひ上げたといふのか」

「――」

「そんな馬鹿なことがあるわけはねえ」

「――」

專次はガタガタ<ruby><rb>胴顫</rb><rt>どうぶる</rt></ruby>ひのするのをどう隱しやうもありません。

「八、しよつ引いて行かうか」

平次は靜かに八五郎を顧みました。

「親分」

ガラツ八はもう一度平次の顏色を見ましたが、決然たる樣子を見ると、ツイ袂の中の捕繩に手が掛ります。

「御免下さい、親分さん、――少しばかり申上げたいことがございますが」

「誰だい」

「文吉でございます、へエ」

駄菓子屋の文吉――貧乏人には相違ありませんが、町内では便利のよい五十男でした。

「何だい」

「あの、專次さんは、つい先刻まで、町内の<ruby><rb>御神酒所</rb><rt>おみきしよ</rt></ruby>の外にある縁臺に、腰を掛けて居たやうですが――ね、專次さん」

「へ、へエ――」

「町内の衆と<ruby><rb>顏馴染</rb><rt>かほなじみ</rt></ruby>がないので、誰も氣が付かなかつたかも知れませんが、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>はよく知つて居ります。聲を掛けようと思ひましたが、遠慮して暗い方に腰を掛けて休んでゐるのを、わざわざ明るみへ出して、若い者に極りを惡がらせるでもあるまいと、ツイ默つてしまひました、へエ」

文吉の話は恐ろしく筋が通ります。

「それは本當かい、專次」

平次もツイ、さう訊かなければなりませんでした。

「へエ――、ブラブラお祭の人出を見て歩いてゐるうちに、足が<ruby><rb>草臥</rb><rt>くたび</rt></ruby>れてやりきれませんが、大根畑の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>は、入つて休むやうな家もございません、で」

專次はゴクリと<ruby><rb>固唾</rb><rt>かたづ</rt></ruby>を呑みます。救はれた喜びに、少しボーツとした樣子です。

「專次さんが立上がつた時、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>も用事を思ひ出して、後から一緒に立ちました。此處の路地まで來ると、專次さんは路地の中へ入つた樣子でしたが、間もなく眞つ蒼になつて飛んで出て、その後へすぐ勘六さんが入つた樣子です。お今さんを殺す隙なんかありやしません」

「――」

錢形平次もすつかり考へ込んでしまひました。どんな證據があるにしても、こんな確かな<ruby><rb>生證人</rb><rt>いきしようにん</rt></ruby>が出て來ては、どうすることも出來ません。

## 三

「た、大變ツ、親分」

翌る九月十五日の晩、ガラツ八は<ruby><rb>疾風</rb><rt>しつぷう</rt></ruby>の如く飛び込んで來たのです。

「何が大變なんだ、少し落着いて物を言へ、お<ruby><rb>神樂堂</rb><rt>かぐらだう</rt></ruby>から飛出した<ruby><rb>潮吹</rb><rt>ひよつとこ</rt></ruby>見たいな風ぢやないか」

平次は靜かに煙草盆を引寄せました。

「落着いちやゐられませんよ、又やられたんだ」

「何だと？」

「三河屋のお三輪が、<ruby><rb>踊屋臺</rb><rt>おどりやたい</rt></ruby>の中で――」

「行つて見よう」

平次は立上がると、寸刻の<ruby><rb>猶豫</rb><rt>いうよ</rt></ruby>もなく、湯島一丁目まで飛んで行きました。

踊屋臺は、界隈第一番といふ分限者、大藩のお金御用達を勤める三河屋の横手、久しい間空地になつて居るところへ引込んだまゝ、夜も<ruby><rb>亥刻</rb><rt>よつ</rt></ruby>近くなると提灯を二つ三つ點け放して、あまり人も寄り付かなかつたのです。

その踊屋臺の中、揚幕の蔭に、三河屋の一粒種で、町内の自慢の一つになつてゐるお三輪が、揃ひの祭手拭で、痛々しくも<ruby><rb>縊</rb><rt>くび</rt></ruby>り殺されてゐたのです。

この娘も、前の晩殺された荒物屋のお今と同じ十七、<ruby><rb>身上</rb><rt>しんしやう</rt></ruby>に<ruby><rb>隔</rb><rt>へだ</rt></ruby>たりはありますが、負けず<ruby><rb>劣</rb><rt>おと</rt></ruby>らず美しい娘でした。

三河屋の兩親の歎きは見てゐる方も氣が狂はしくなる位。

「お三輪、お三輪」

「何だつて、死んでくれた」

「誰がこんな目に逢はせたんだ」

「言つておくれよ、お三輪」

半狂亂の兩親は、<ruby><rb>檢屍</rb><rt>けんし</rt></ruby>も調べも待たず、四本の手に抱き上げて、よろぼひよろぼひ庭を隔てた自分の家へ擔ぎ込んで行つたのです。

五十過ぎて、たつた一と粒種――それも龍宮の<ruby><rb>乙姫樣</rb><rt>をとひめさま</rt></ruby>のやうに美しい娘に死なれた、三河屋嘉兵衞夫婦の歎きは、見る目も哀れでした。

「お今も、お三輪も十七か、變なことだな、八」

平次はそんな事を言ひ乍ら、右往左往する彌次馬を尻目に空地と三河屋と、踊屋臺の位置と、光線の關係などを見窮めて居ります。

「いやな<ruby><rb>流行</rb><rt>はや</rt></ruby>りものにならなきや宜いが――」

ガラツ八は何心なくそんな事を言つて、氣がさしたものか四方を眺めました。幸ひ誰も聽いてゐる者はありません。

「表は人通りが多いから、踊屋臺へ忍び込むには、後ろの木戸からだらう。道は二つしかないな、一方は三河屋の裏へ出るのか」

「<ruby><rb>離室</rb><rt>はなれ</rt></ruby>の前から、<ruby><rb>母屋</rb><rt>おもや</rt></ruby>へ出られますよ」

「離室には誰がゐるんだ」

「七平と言つて、――足の惡い男で、何でも、三河屋の遠縁の者だとか言ひましたが」

地獄耳のガラツ八は、此邊の消息なら何でも知つて居ります。

「もう一つの道は？」

と平次。

「若い者の休み場の裏へ出ますよ。駄菓子屋の文吉の家を若い衆の<ruby><rb>足溜</rb><rt>あしだま</rt></ruby>りにしたんで」

「行つて見ようか、――お前は三河屋へ行つて、お三輪が何だつてあんなところへ行つたか聽いてくれ」

平次は<ruby><rb>生垣</rb><rt>いけがき</rt></ruby>と板塀の間を通つて、念入りに調べ乍ら、駄菓子屋の裏へヌツと出ました。其處には町内の顏役やら、若い者が十五六人、亭主の文吉を圍んで、その晩の恐怖をヒソヒソと語り合つて居ります。

休み場と言つても、ほんの形ばかり、店には<ruby><rb>屏風</rb><rt>びやうぶ</rt></ruby>を張り廻して、町内の世話人の足溜りにあてゝ、屏風の裏の一と間は文吉の寢間で、そのすぐ隣には少さいお勝手があると言つた、まことに手輕な構へです。

「親分さん、御苦勞樣で――」

文吉は早くも平次の姿を見て挨拶しました。

「誰も此處から空地の踊屋臺の方へ行つたものはないだらうね」

「あるわけはございません。この人數で見張つて居たんですから」

町内の<ruby><rb>鳶頭</rb><rt>とびがしら</rt></ruby>は太鼓判でも何でも<ruby><rb>捺</rb><rt>お</rt></ruby>しさうな勢ひでした。

「親分」

ガラツ八は後ろから追つかけて來ました。

「何だ、八」

「三河屋へ行つて聽いて來ましたが、お三輪は宵のうちに、あの踊屋臺に<ruby><rb>舞扇</rb><rt>まひあふぎ</rt></ruby>を忘れたんださうで、それを取りに行つたさうですよ」

「扇なら下女か何かに取らせりやいゝぢやないか」

「それが自分で行つたといふから不思議ぢやありませんか。しばらく待つても歸らないから、心配になつて、下女をやつて見たんださうで」

平次は<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>に落ちない顏をして默つて居ります。十七になる大家の娘が、扇を忘れた位のことで、<ruby><rb>亥刻</rb><rt>よつ</rt></ruby>過ぎの空地などへ一人で行く筈はないと思つて居る樣子です。

「何も彼も、<ruby><rb>亥刻</rb><rt>よつ</rt></ruby>過ぎに起つたことだ、ほんの四半刻の間だね」

お今を殺したのも、お三輪を殺したのも、刄物と手拭の違ひはありますが、ほんの暫らくの間に行はれたことで、人間の注意と注意の間の、僅かばかりの盲點を利用したやり口です。

「此處からは誰も空地の方へ行かなかつたのだな」

平次はまだその事を氣にして居ります。

「誰も行つたものはありません。宵から此處に居たのは顏ぶれが決つて居りました。それに、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>の寢て居る枕元を通らなきや、裏口から出られやしません」

「寢て居た？」

「へエ、面目次第もございませんが、少し呑み過ぎて苦しいので、<ruby><rb>屏風</rb><rt>びやうぶ</rt></ruby>の蔭へ横になつて、半刻ばかり休まして貰ひました」

「――」

「<ruby><rb>將棋</rb><rt>しやうぎ</rt></ruby>を指したり、無駄話をしたり、女達が私に水を持つて來てくれたり、どうせこんな淺間な家ですから、寢付かれはしませんが、それでも、横になつただけで、醉もさめましたよ」

文吉はさう言つてよく禿げ上がつた前額をツルリ撫で上げたのです。五十五六の世馴れた愛嬌者で、少し<ruby><rb>卑屈</rb><rt>ひくつ</rt></ruby>らしいところはありますが、その代り町内の旦那衆に可愛がられて、小僧を相手に一<ruby><rb>文商</rb><rt>もんあきな</rt></ruby>ひをし乍ら氣樂に暮して居ります。

「寢込んでしまつて、枕元を誰か通つたのを知らないやうな事はあるまいな」

「それはもう大丈夫で、へエ」

文吉は<ruby><rb>牡丹餅判</rb><rt>ぼたもちばん</rt></ruby>が欲しさうな顏でした。

## 四

三河屋へ行つて見ると、家の中は悲歎の渦でした。老主人夫婦の他には、<ruby><rb>雇人</rb><rt>やとひにん</rt></ruby>ばかりですが、その雇人達が、たゞ一と粒種の三河屋の希望を<ruby><rb>喪</rb><rt>うしな</rt></ruby>つた悲みに浸り切つて、暫らく平次と八五郎に取り合ふ者もない有樣です。

主人の嘉兵衞が、涙を納めて、平次を迎へるまでには、たつぷり四半刻もかゝりました。祭りのどよみも靜まり返つてさしもの賑ひも、今日の一段落を告げましたが、三河屋の家の中ばかりは、まだ<ruby><rb>歔欹</rb><rt>すゝりなき</rt></ruby>の聲が、何處からともなく響いて、人の心を滅入らせます。

「何か、心當りはないでせうか、旦那」

<ruby><rb>苗字帶刀</rb><rt>めうじたいたう</rt></ruby>まで許されてゐる嘉兵衞に對しては、岡つ引の平次も遠慮はありました。

「いや何にも、――扇を取りに踊屋臺へ行つたといふのも後で下女から聽いたことで」

一代身上を築いた嘉兵衞は意志の權化のやうな<ruby><rb>剛毅</rb><rt>がうき</rt></ruby>な男ですが、今晩はすつかり<ruby><rb>愚</rb><rt>ぐ</rt></ruby>に返つて、兎もすれば湧く涙を拭ふばかりです。

「手拭はお孃さんの持物でしたね」

「その通りだよ、親分」

「申上げ憎いことですが、近頃お孃さんが親しくしてゐる男はなかつたでせうか」

「――」

嘉兵衞の首は、胸にめり込みます。

「そんな事でもあつたら。そつと言つて下さい、――お孃さんの敵を取らなきやなりません」

平次は注意深く斯う切り出しました。

「言ひませう、親分、耻も<ruby><rb>外聞</rb><rt>ぐわいぶん</rt></ruby>も、娘が生きてゐるうちの事だ、――實は、あの大根畑の植木屋の伜で、專次といふのが――」

「――」

「時々娘を誘ひ出しに來たやうだが、男つ振りは好いにしても、あんまり評判のよくない男だから婆さんにさう言つて、固く逢ふのを止めてあつたんだが――」

嘉兵衞はいかにも言ひ憎さうです。

「よく言つて下さいました。それが判れば又何とか考へ樣もあるでせう。ところで、奉公人や近所の衆、御親類の人達等で、旦那かお孃さんを<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>んでゐる者はありやしませんか」

「それはない」

嘉兵衞の言ふことはピタリとして居ります。

「でも――」

「奉公人は他所より給料を高くしてあるし、仕着せや手當も不自由はない筈だ。それに少しは慈悲善根の心がけ、寄附も、ほどこしも、人樣より少い筈はない」

「――」

「町内で私から<ruby><rb>無利息</rb><rt>むりそく</rt></ruby>の金を借りてゐる者は――斯う――と、十人や十五人はあるだらう」

嘉兵衞の言ふのは一々本當です。三河在から、万才の太夫で江戸へ來たといふのは、世間の惡口にしても、兎も角も、此處へ根をおろしてざつと三十年、今では<ruby><rb>萬兩分限</rb><rt>まんりやうぶげん</rt></ruby>の一人として、江戸の長者番附の前頭何番目かに据ゑられる嘉兵衞ですが、慈悲善根の心がけが<ruby><rb>篤</rb><rt>あつ</rt></ruby>く、町内で評判の良いことは、平次も<ruby><rb>悉</rb><rt>よ</rt></ruby>く知つて居ります。

「とりわけ恩を着せてゐるのは？」

と平次。

「私の口から言つては變だが――番頭にでも訊いて下さい」

平次もそれ以上は押して訊きません。

番頭手代、小僧下女の果まで一應は逢つて見ましたが、何の取立てたこともありません。踊屋臺へ行つて、お三輪の死骸を見付けたといふ下女のお崎は、三十前後の達者な年増で、踊屋臺の揚幕の蔭に、倒れて居たお三輪の美しさ、いたましさ、そして凄さを、<ruby><rb>委曲詳細</rb><rt>ゐきよくしやうさい</rt></ruby>に<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しやべ</rt></ruby>り捲りますが、それにも、何の得るところもなかつたのです。

「<ruby><rb>離室</rb><rt>はなれ</rt></ruby>へ行つて見ませうよ、親分」

「俺もそれを考へてゐたんだ」

三河屋の母屋から、踊屋臺へ行くには、どうしても此處を通らなければならないのが、離室の住人にひどく重要な役割を持たせます。

「七平、――まだ起きてゐるのかい」

ガラツ八は見知り越らしく、親しい聲をかけると、

「誰だい」

暫らくゴトゴトさして、雨戸をガラリと開けたのは、四十五六の蜘蛛のやうな男です。

## 五

「俺だよ」

代つて顏を出した平次。

「お、錢形の親分さん」

よく<ruby><rb>禿</rb><rt>は</rt></ruby>げては居りますが、念入りに見ると、まだ何處か若さの殘つた男、可哀想に足が不自由で、自分ひとりの力では、一寸も外へ出られません。

「遲くなつて濟まなかつたな――ちよいと訊いて置きたいことがあつてね」

「どうぞ、親分さん、こんな時ですから、お役に立てば何でもやりますよ」

七平は縁側の端つこへ出て、月の射し入る中に小さく<ruby><rb>踞</rb><rt>うづく</rt></ruby>まりました。怪奇な男ですが、それだけに物事に熱心さうで、平次の方が反つて引入れられます。

「殺された娘の敵が討つてやりたいが、お前、何んか知つて居ることはなかつたかい」

「可哀想に、――良い娘でしたが――時折は、淋しからうつて、菓子を持つて來てくれたり、<ruby><rb>草艸紙</rb><rt>くさざうし</rt></ruby>を持つて來て貸してくれたり」

七平はツイ眼をしばたゝきます。小さい〱離室で、恐ろしく簡素ですが、古物乍ら一と通りの道具が揃つて、何不自由なく暮して居る樣子です。

「誰か、お三輪を怨んでゐる者はなかつたかい」

「怨んでゐる者――飛んでもない、死ぬほど惚れてゐる者は多勢ありますが」

「例へば？」

「町内の獨り者は皆んなですよ、へエ」

「その中で、親しくしてゐるのはあつた筈だが」

「大根畑の專次とか言ひましたね、あの<ruby><rb>生</rb><rt>なま</rt></ruby>つ<ruby><rb>白</rb><rt>ちろ</rt></ruby>いのが、裏から來て、私の見る前で呼出しの合圖なんかしてゐましたよ。どうせ私は<ruby><rb>片輪者</rb><rt>かたわもの</rt></ruby>だから、<ruby><rb>情事</rb><rt>いろごと</rt></ruby>とは縁のない世界に住んでゐると思つたのでせう。私などは道傍の地藏樣ほどにも思つちや居ませんでした」

七平の激しい調子には、片輪者らしいひがみがあるのを、平次は聞きのがしません。

「今晩は？」

「あつしは早寢で、<ruby><rb>戌刻</rb><rt>いつゝ</rt></ruby>半には床の中へ<ruby><rb>潜</rb><rt>もぐ</rt></ruby>り込んだ位ですから、うと〱して居て、よくは知りませんが、お祭の笛だか、口笛だか、聞いたやうな氣がしますよ」

「――」

「目が覺めたから、序に<ruby><rb>手水</rb><rt>てうず</rt></ruby>に起きて、雨戸をあけると、若い男の後ろ姿が、離室の前を驅けて行つたやうでしたが――」

「若い男――？」

「へエ、若い男でなきや、あんなに早く、<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>も立てずに飛べるわけはありません」

「それは、確かに合圖の後だね」

「へエ――」

「合圖をして娘を呼出すのは、大根畑の專次一人だけだらうな」

「いくら大家の<ruby><rb>我儘娘</rb><rt>わがまゝむすめ</rt></ruby>でも、まだ十七そこ〱ですもの、二人も三人も男があるわけはありません」

七平の舌には、何となく毒を含みますが、片輪なるが故に、人にも世にも捨てられてゐるせゐでせう。

「お前その口笛をよく聞いて知つて居るだらうな」

「――」

「他の人の口笛と專次の口笛と間違へるやうなことはあるまいな」

「間違ひつこはありません。こんな工合でしたよ」

七平は大きな唇を<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>めて、奇妙な節の口笛を吹いて聽かせました。

「そんな事でよかろう。ところで、もう一つ訊きたいが、三河屋の主人を怨んで居る者はないだらうか」

と平次。

「飛んでもない、あんな佛樣のやうな旦那を怨む者があつたら、第一、十何年越し世話になつて居る、この七平が承知しません」

「お前はどんな引掛りで此處に居るんだ」

「遠縁の奉公人でしたよ。十二三年前、箱根へ旦那のお供をして行つて、<ruby><rb>崖</rb><rt>がけ</rt></ruby>から落ちて大怪我をして、それからズーツと此處に置いて<ruby><rb>養</rb><rt>やしな</rt></ruby>つて貰つて居ります」

「不自由はないだらうな」

「不自由なんてものは、何處の國の言葉だか知らない位で、へツ、へツ」

七平は泣き出しさうな顏をして笑ふのです。活動的な男が、活動を奪はれて、何不自由なく暮してゐて、<ruby><rb>倦怠感</rb><rt>けんたいかん</rt></ruby>を持て餘してゐると言つた樣子でした。

「三河屋さんの世話になつてゐるのは町内に何軒位あるだらう」

「十五六軒はありますよ、<ruby><rb>壽屋</rb><rt>ことぶきや</rt></ruby>、<ruby><rb>人參湯</rb><rt>にんじんゆ</rt></ruby>、金物屋、尾崎屋――」

「その中でも一番厄介になるのは？」

「駄菓子屋の文吉なんで、三度も身代限りを助けられてゐますよ、尤も同じ三河の出ださうですが」

これ以上はもう訊くこともありません。平次とガラツ八は外へ出て<ruby><rb>曉近</rb><rt>あけちか</rt></ruby>い月の光の中に顏を見合せました。

## 六

「八、あれでもお三輪殺しの下手人は專次ぢやないと言ふのか」

「だつて親分、昨夜から一日一と晩、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>は專次から目を離しやしませんよ」

八五郎は嚴重に抗議を申込みました。

「變だなア、七平の話を聽くと、下手人は間違ひもなく專次だが」

「そんな筈はありませんが、あの時刻には專次は、お今の家で神妙に<ruby><rb>通夜</rb><rt>つや</rt></ruby>をして居ましたよ」

「――」

平次には事件の眞相は次第に判らなくなるばかりです。昨夜は文吉の動かぬ證言はあつたにしても、お今殺しはどう見ても專次の外にないので、平次はガラツ八に命じて、一日一と晩專次を見張らせ、怪しい素振りがあつたら、縛つて了ふやうにと言ひ付けてあつたのでした。

「これから何うしたものでせう、親分」

「まづ、寢ることだな、それからゆつくり考へるさ、<ruby><rb>新規卷直</rb><rt>しんきまきなほ</rt></ruby>しだ」

「それぢや、親分」

「明日の夕方までに、專次と勘六と、文吉と七平の身許をよく洗つてくれ、無駄だらうと思ふが――それから、こいつは一番大事だ、三河屋の主人は三河万才だつたといふが、それも本當か嘘か――」

「そんな事ならわけはありません」

「もう一つ、<ruby><rb>匕首</rb><rt>あひくち</rt></ruby>は誰の品か、判らなきや、何處から出たか搜してくれ、これは下つ引を二三人歩かせたら、判るだらう」

「親分は？」

「俺は寢てゐて考へるよ」

「へエ――」

勝手なことを言ふ平次と、ガラツ八はつまゝれたやうな心持で別れました。

それからまる一日。

翌る日の<ruby><rb>酉刻半</rb><rt>むつはん</rt></ruby>（七時）頃、報告にやつて來たガラツ八が、まだ坐り込む前、

「親分、大變、三人目がやられましたよ」

下つ引の皆吉といふのが、戸口から<ruby><rb>呶鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>りました。

「何？　三人目？　誰だそれは？」

平次もガラツ八も立上がります。

「下駄屋のお袖さん」

「そいつは大變、あれも十七だ」

三人は眞つ黒になつて飛んで行きました。金澤町の下駄屋のお袖、町は違ひますが、お今、お三輪と竝んで、界隈の評判娘です。

下駄屋は兩親と兄妹六人暮し、お袖はその一番上で、お今、お三輪とは違つた意味の評判娘でした。綺麗さは二人に<ruby><rb>劣</rb><rt>おと</rt></ruby>らなかつたでせうが、これは働き者で親孝行で、お今、お三輪のやうに、浮いた噂などは<ruby><rb>微塵</rb><rt>みぢん</rt></ruby>もなかつたのです。

家内の驚きと悲歎の中に驅付けた三人は、お袖の死骸を見て、お今にも、お三輪にもない、不思議な衝動を感じました。あまり豊かでないせゐもあつたでせうが、お祭騷ぎの中にも木綿物で、赤いものはよれ〱の紐一と筋だけ、その紐で絞められた白粉つ氣もない顏は、涙を誘ふ<ruby><rb>初々</rb><rt>うひうひ</rt></ruby>しさと、邪念のない美しさを、末期の苦惱も奪ふ由はなかつたのです。

「これはひどい」

平次もさすがに顏を反けました。

「親分さん、敵を討つて下さい。こんな孝行者を殺すなんて、あんまり、あんまりでございます」

下駄屋の亭主は、悲歎に顏を擧げ兼ねるのでした。

世間が物騷と言つても、まだ宵のうち、外へ出て何彼と用事をしてゐたお袖が、何やら變な聲を出したやうに思つて、父親が飛んで出ると、下駄の材料を入れた物置の前、まだ<ruby><rb>宵明</rb><rt>よひあか</rt></ruby>りの中に死んでゐたのださうです。

家へ擔ぎ込んで一生懸命手當をしましたが、素人の悲しさは、ヘマの上にヘマばかりを重ねて、まだ<ruby><rb>脈</rb><rt>みやく</rt></ruby>も息もあつた娘を、たうとう助け兼ねた口惜しさを、

「本當に何と言ふことでせう、親分さん、こんな娘を殺すなんて、鬼とも、畜生とも、――」

女房は半狂亂にかき<ruby><rb>口説</rb><rt>くど</rt></ruby>くのでした。

その空氣の中に、冷靜な調べを進めるのは、平次にしても容易の<ruby><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>ではありません。大骨折で訊出したのは、娘には浮いた噂のないといふ世間の評判の裏書と、下手人の姿は見えなかつたといふことと、下駄屋の主人夫婦が、人から怨まれる筋のないことと、それから、娘を殺した赤い紐の結び目が、恐ろしく<ruby><rb>頑固</rb><rt>ぐわんこ</rt></ruby>な<ruby><rb>盲目結</rb><rt>めくらむす</rt></ruby>びであつたことなどでした。

「結び目がどうしても解けないので、思ひの外手おくれになり、助けられる娘を殺してしまひました。あの通り力任せに引き千切つた時は、もう――」

下駄屋の親爺は、赤い紐を見て泣くのです。成程引き千切つたのは<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>の横の方らしく、後ろにあつたといふ結び目は盲目結びで、石のやうに固くなつて居ります。

「こんなに物を<ruby><rb>結</rb><rt>ゆは</rt></ruby>へるのは誰だらう、八」

「――」

平次はそれを八五郎に見せましたが、ガラツ八には想像も付きません。

## 七

十七の娘達と、十七の娘を持つた親達は<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>へ上りました。お今、お三輪、お袖と、負けず劣らず美しいのが、三晩續けて殺されたのですから、この次の番は、何處の十七娘へ行くか判らなかつたのです。

<ruby><rb>好奇</rb><rt>ものずき</rt></ruby>なのは、美しい順に、十七娘を數へました。

「この次は油屋のお咲かな、紙屋のお早かな――それとも」

そんな噂が、口から耳へ、耳から口へと、傳はります。

「八、大變なことになつたな、――今晩は町内の十七娘に、寢ずの番をつけるんだ。それから、油屋のお咲と、紙屋のお早に氣をつけろ」

「へエ――」

ガラツ八の八五郎は、平次の息のかゝつた下つ引全部を動員して、湯島一丁目から金澤町、<ruby><rb>御臺所</rb><rt>おだいどころ</rt></ruby>町、妻戀町一帶に網を張らせ、少しでも怪しい者があつたら引つ<ruby><rb>縛</rb><rt>くゝ</rt></ruby>るやうにと指圖をして置いたのです。

「親分、一人捕まりましたよ、でも、こいつは見當違ひで、逃してやらうと思ひましたが――」

八五郎がそんな事を言つて來たのは、まだ<ruby><rb>酉刻</rb><rt>むつ</rt></ruby>半前でした。

「逃しちやならねえ、誰を何處で捕まへたんだ」

「紙屋の裏をウロウロして居る奴があるから、二人で<ruby><rb>挾</rb><rt>はさ</rt></ruby>み<ruby><rb>撃</rb><rt>うち</rt></ruby>にすると、こいつは飛んだ強い奴で、思ひの外骨を折らせました。繩を掛けて明るいところへつれて來ると、馬鹿々々しいぢやありませんか、馬鹿の音次郎でしたよ」

「何？　馬鹿の音次郎？　――その野郎だツ、お袖の首に紐を卷いて、盲目結びにしたのは」

平次は飛上がるほどの大喜びで、番所へ驅付けました。其處には馬鹿の音次郎が、ポカンとした顏をして、自分の繩目を眺めて居ります。

二十五六の立派な<ruby><rb>恰幅</rb><rt>かつぷく</rt></ruby>ですが、生れ乍らの<ruby><rb>白痴</rb><rt>はくち</rt></ruby>で、する事も、言ふ事も、皆んな定石が<ruby><rb>外</rb><rt>はづ</rt></ruby>れます。そのくせ馬鹿力があるので、いろ〱の仕事を手傳つて、町内の殘り物を貰つて暮してゐる男でした。

「野郎ツ、何だつてお袖を<ruby><rb>絞</rb><rt>し</rt></ruby>めたツ」

平次はいきなり浴びせかけました。

「だつて親分、十七の娘を十七人殺すと、福があるつて言ふぜ」

恐ろしい言葉が、馬鹿の口から、スラスラと出るのです。

「それぢや、お今や三輪を殺したのも<ruby><rb>手前</rb><rt>てめえ</rt></ruby>だらう」

「違ふよ、親分、あれは、おらぢやねえ、先を<ruby><rb>潜</rb><rt>くゞ</rt></ruby>つて二人も殺されちや、町内の十七娘が種切れになるから。大急ぎでお袖を締めたんだ」

馬鹿の言ふことには<ruby><rb>些</rb><rt>すこ</rt></ruby>しの嘘があらうとも思はれません。それにお袖を締めた紐の結び目が、この男の仕業を證明して居りますが、お今と、お三輪の場合は全く違ひます。

「そんな事を誰から聞いたんだ」

「それは言はねえよ」

「何？」

「言ふと<ruby><rb>叱</rb><rt>しか</rt></ruby>られるから」

「言はなきや打つよ」

「――」

「牢へブチ込んで何時までも物を喰はせないが、それでもいゝか、野郎ツ」

「言ふよ、言ふよ、打たれるのは平氣だが、物を食はせないのはひどいや」

「さア、言へ、誰がそんな事を教へた」

「七平だよ、三河屋の<ruby><rb>離室</rb><rt>はなれ</rt></ruby>に居る七平だよ」

「――」

平次とガラツ八は顏を見合せました。いよ〱探索は筋に乘つて來たのです。

直ぐ樣三河屋の離室の、七平を叩き起し、馬鹿の音次郎に<ruby><rb>惡智慧</rb><rt>わるぢゑ</rt></ruby>を吹き込んだことを責めました。が、七平の言葉には、何の惡意があつたとも思はれません。

「馬鹿ほど恐ろしいものはございません。――音の野郎がその邊をブラブラしてゐるから、縁側から聲をかけて、食ひ殘りの<ruby><rb>牡丹餅</rb><rt>ぼたもち</rt></ruby>をやつた<ruby><rb>序</rb><rt>ついで</rt></ruby>に、――十七になる娘が二人殺されたさうだが、氣の毒なことだ――まさか十七の娘を十七人殺せば福があるといふわけでもあるまいに――と斯う申しました。それをどう間違つて聽いたことか、恐ろしいことでございます。お袖さんとやら、足の不自由な私は見たこともありませんが、飛んだことをしでかしたもので、私も何かの掛り合ひですから、四つん這ひになつても、下駄屋さんへ參り、お線香の一本も上げませう」

七平はさう言つて、本當に四つん這ひになつて飛出さうとするのを、平次とガラツ八は、どんなに骨折つて止めたことでせう。

## 八

「八、いよ〱十手捕繩の御返上だな」

「そんな氣の弱いことを、親分」

「お袖殺し一人は押へたが、馬鹿の音次郎ぢや手柄にならねえ」

「でも、三輪の萬七親分は大喜びで縛つて行きましたよ」

「勘六を縛つた見當違ひを取返したかつたらう、放つて置くがいゝ、――俺は馬鹿などを縛りたくはない」

平次は宵のうちに引揚げて來て、お靜に一本つけさせ、面白くもなささうに盃を<ruby><rb>舐</rb><rt>な</rt></ruby>めました。

「ところで、親分に頼まれたことがありましたネ」

「何だい」

「文吉、七平、專次、それから三河屋の身許と、<ruby><rb>匕首</rb><rt>あひくち</rt></ruby>の出所」

「すつかり忘れて居たよ、そいつを聽かしてくれ」

平次は急に元氣づきました。お袖殺しの一件で、まだガラツ八の報告を聽かずに居たことに氣が付いたのです。

「三河屋の旦那は矢張り三河者ですよ、<ruby><rb>万才</rb><rt>まんざい</rt></ruby>ではない、<ruby><rb>日傭取</rb><rt>ひようとり</rt></ruby>だつたさうで、――文吉と一緒に江戸へ出て來て、昔は兄弟分だつたさうですが、何時の間にやら一方は出世して、長者番附にも載るやうになり、一方は落ぶれて、駄菓子屋になつたのださうで」

「そいつは面白いな、二人が兄弟分とは初耳だよ」

「三河屋の旦那はそれでもよく文吉の世話をしたさうですよ、いくら注ぎ込んでも、貧乏性は仕方のないもので、あの通りその日暮しの<ruby><rb>境涯</rb><rt>きやうがい</rt></ruby>から足が洗へません」

「七平は？」

「あれは三河屋の遠縁の<ruby><rb>甥</rb><rt>をひ</rt></ruby>で、番頭をして居るうち箱根で怪我をして、十何年離室に置いて養つてゐるんださうで、――今でも三河屋の旦那は三日に一度、七日に一度樣子を見に行くさうです、――不自由なことはないか、七平――つて、奉公人達は感心して居ますよ。その割にや、七平は一向恩を恩とも思はないさうですが」

「そんな事だらうな、あの<ruby><rb>面魂</rb><rt>つらだましひ</rt></ruby>ぢや」

「それから<ruby><rb>匕首</rb><rt>あひくち</rt></ruby>ですがね、あれは柳原の露店で、職人に賣つた品ださうですよ」

「何時だ」

「十日ばかり前」

「どんな職人だ」

「頬冠りをして居て人相は判らなかつたが、<ruby><rb>道傍</rb><rt>みちばた</rt></ruby>の柳の小枝を上手に切つて、切れ味を試して行つたんださうで――」

「しめたツ、八、來いツ」

平次は又大きなヒントを掴んだ樣子です。續く八五郎、何處へ行くのかと思ふと、眞一文字に妻戀坂を登つて湯島の方へ――

大根畑の植木屋から、專次を縛つて來るのは、平次に取つては一擧手一投足の<ruby><rb>勞</rb><rt>らう</rt></ruby>でした。わざと神田を避けて、大廻りに、八丁堀へ引いて行き、到頭恐れ入らせてしまつたのは翌る日の朝。

「親分さん、恐れ入りました。お今を殺したのは、この<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>に違ひありません。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>が三河屋のお三輪さんと心易くなつたのを<ruby><rb>嫉</rb><rt>や</rt></ruby>いて、九月一杯に是非祝言するやうにと、何としても聽かなかつたのです。放つて置くなら、三河屋へ呶鳴り込んで、嘉兵衞旦那に皆んな言ひつけるといつた劍幕です。<ruby><rb>脅</rb><rt>おど</rt></ruby>かす積りで突出した<ruby><rb>匕首</rb><rt>あひくち</rt></ruby>が、お今の<ruby><rb>逆上</rb><rt>のぼせ</rt></ruby>た頸筋を縫つて、あの始末でございました」

斯うべら〱と白状してしまひました。が、

「お三輪を殺したのは誰だ」

と突つ込むと、

「それは一向知りません。あつしでない事は<ruby><rb>確</rb><rt>たし</rt></ruby>かで――」

三河屋の聟になる氣で居た專次が、お三輪を殺す筈のないことはあまりにも明かです。

「よし〱、それで大抵判つた。ところでもう一つ訊くが、あの晩、御神酒所なんかには行かなかつた筈だな」

「へエ――」

「縁臺へ腰を掛けた覺えもあるまい」

「――」

「文吉がお前を<ruby><rb>庇</rb><rt>かば</rt></ruby>つたんだ、――文吉には何か恩でも被せたことがあるのか」

「いえ、ろくに顏も知りません」

「よし〱」

平次は一人で呑み込むと、專次を奉行所<ruby><rb>假牢</rb><rt>かりらう</rt></ruby>に送つて、もう一度神田へ引返しました。

## 九

其足で直ぐ、平次は一丁目の駄菓子屋に踏込んで文吉を縛り、更に三河屋の<ruby><rb>離室</rb><rt>はなれ</rt></ruby>へ行つて七平を擧げてしまひました。

「親分、これはどうしたことでございます」

驚き呆れる文吉へ、

「野郎、默つて歩けツ、お前のやうな太い奴はないぞ、そんなひどい事をして知れずに濟むものか、神樣も佛樣も見放したんだ、覺悟するがいゝ」

平次の言葉は、いつもに似氣なく<ruby><rb>辛辣</rb><rt>しんらつ</rt></ruby>です。

「親分」

「言譯があるなら、お<ruby><rb>白河</rb><rt>しらす</rt></ruby>でするがよい。――專次がお今を殺したのを<ruby><rb>覺</rb><rt>さと</rt></ruby>つて、<ruby><rb>手前</rb><rt>てめえ</rt></ruby>はお三輪殺しを思ひ付いたんだらう、――お三輪を殺すのには專次を助けて置いて、二つとも專次の仕業と思はせた方が都合がよい、――專次がお神酒所に居たなんて大嘘をついて俺を<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>したらう」

「――」

「翌る晩、醉つた振りをして屏風の蔭に入り、そつと拔出して、同じやうな<ruby><rb>禿頭</rb><rt>はげあたま</rt></ruby>の七平を、三河屋の離室から背負つて來て身代りに置き、口笛を吹いてお三輪を誘ひ出し、踊屋臺におびき寄せて絞め殺した上、手前は身代りの七平を離室に戻して、自分が床の中へ潜り込んだらう。<ruby><rb>屏風</rb><rt>びやうぶ</rt></ruby>の外には十五六人居たが、手前が寢て居るから遠慮して聲もかけなかつた筈だ。お勝手に働いて居る近所の女達には後で水を持つて來るやうに言つたが、水を持つて行つた女も、七平と手前は禿頭がよく似て居るので<ruby><rb>狸寢入</rb><rt>たぬきねいり</rt></ruby>を換玉と氣が付かなかつたんだ」

「――」

「どうだ、恐れ入つたらう」

平次の聲は<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>えますが、七平も文吉も、首うな垂れて一句もありません。

「翌る日になつて、お三輪殺しの罪を被せる積りでゐた專次が、一日一と晩八五郎に見張られて居たと知つて、手前達は<ruby><rb>膽</rb><rt>きも</rt></ruby>をつぶしたらう。それから惡智慧を絞つて、馬鹿の音次郎をけしかけ、罪もとがもない下駄屋の孝行娘まで殺させた。――俺も長い間十手捕繩をお預りしてゐるが、手前のやうな惡黨は、見たこともないぞ」

平次がこんなに怒つたのを、ガラツ八も滅多に見たことはありません。

「親分、でも、二人の身になる、と<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しいことばかりでした」

と、ワナ〱顫へ乍ら、文吉は顏を上げます。

「何が口惜しい、何度も〱三河屋さんの世話になつて居るぢやないか、たつた一人の娘を殺すほどの<ruby><rb>怨</rb><rt>うらみ</rt></ruby>が何處にある」

「三十年前三河から一緒に出た兄弟分の私に、三度で十二三兩は<ruby><rb>惠</rb><rt>めぐ</rt></ruby>みましたが、――それが江戸の長者番附に乘る萬兩分限のすることでせうか、――私はたつたそれだけで、二十年間三河屋の佛心の生證據にされて居たのですぜ」

「貰ふ者は、いくら貰つても足りないのだ」

と平次。

「くれる方は、一文二文でも恩にきせますよ、親分、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>は遠縁で、三河屋のために<ruby><rb>片輪</rb><rt>かたわ</rt></ruby>になつたのを、三河屋がお爲ごかしに女房にまで別れさせ、散々恩に着せられて、離室へ犬のやうに飼はれて居る男だ。三日に一度、七日に一度づつ、自分の慈悲善根を見に來る三河屋を神樣のやうに拜んで居なきやならなかつたんだ、畜生奴ツ」

七平は太々しく<ruby><rb>唾</rb><rt>つば</rt></ruby>を吐き散らします。

「それで十七になる娘を殺したといふのか、手前達は？」

「三河屋夫婦を殺したんぢや蟲が<ruby><rb>癒</rb><rt>い</rt></ruby>えねえ」

「何と言ふ奴等だ」

平次は暗然として涙を呑みました。

×　　　　　　×　　　　　　×

二人を送つた歸り――。

「八、厭な<ruby><rb>捕物</rb><rt>とりもの</rt></ruby>だつたな」

「三人を四人で殺したわけだね、親分」

とガラツ八はあさつての事を考へて居る樣子です。

「人間の心は恐ろしい。俺は坊主にでもなりたくなつたよ」

「でも、良い人間もあるぜ、親分」

「ガラツ八のやうに、な」

平次は淋しく笑ひました。