## 一

「ガラツ八、俺を何處へ伴れて行く積りなんだい」

「まア、默つて<ruby><rb>蹤</rb><rt>つ</rt></ruby>いてお出でなせえ。決して親分が後悔するやうなものは、お目に掛けないから――」

「<ruby><rb>思</rb><rt>おぼ</rt></ruby>し召は有難いが、お前の案内ぢや、不氣味で仕樣がねえ。又丹波笹山で生捕りましたる、八尺の<ruby><rb>大鼬</rb><rt>おほいたち</rt></ruby>なんかぢやあるまいネ」

捕物の名人錢形の平次と、その子分の八五郎、野暮用で龜戸へ行つた歸り、東兩國の見世物小屋へ入つたのは、初夏の陽も、漸く蔭を作りかけた<ruby><rb>申刻</rb><rt>なゝつ</rt></ruby>（四時）近い刻限でした。

ガラツ八が案内したのは、<ruby><rb>讃州志度</rb><rt>さんしうしど</rt></ruby>の<ruby><rb>海女</rb><rt>あま</rt></ruby>の見世物、龍王の<ruby><rb>明珠</rb><rt>めいしゆ</rt></ruby>を取つた、王朝時代の傳説にかたどり、水中に藝をさせるのが當つて、その頃江戸中の評判になつた興行物の一つでした。

小屋は<ruby><rb>筵張</rb><rt>むしろば</rt></ruby>りの全く間に合はせの<ruby><rb>代物</rb><rt>しろもの</rt></ruby>、泥繪の具で存分に刺激的に描いた、水中に惡龍と鬪ふ美女の繪を看板に掲げ、その下の二つの木戸口には、鹽辛聲の大年増と、二十五六の巖乘な男が、左右に分れて客を呼んで居ります。年増女は如何にも達辯にまくし立てますが、男の方は至つて無口で――尤も、<ruby><rb>兎口</rb><rt>みつくち</rt></ruby>のせゐもあつたでせう、木戸札を鳴らして、無暗に「入らつしやい、入らつしやい、サア、今が丁度宜いところ――」と言ふ言葉を、何の智慧もなく、こはれた機械のやうに繰り返して居ります。

「ガラツ八、俺にこんなものを見せる氣かい」

平次はさすがに立ち止りました。この奇怪な空氣に、少し當てられ氣味でせう、好い男の眉が、心持<ruby><rb>顰</rb><rt>ひそ</rt></ruby>みます。

「親分、だまされたと思つて入つて御覽なさい。そりや面白いから――」

ガラツ八は、平次の手を引くやうにして、一歩、小屋の中へ入りました。

中は五六十坪、筵張りの見世物にしては廣い方ですが、その眞ん中に、十坪あまりの眞四角な<ruby><rb>水槽</rb><rt>みづぶね</rt></ruby>を据ゑて、少し不透明な水が滿々と湛へてあります。今の言葉で言ふプール、昔はそんな事を言ひませんが、小屋の粗末なのに似ず、これだけは、まことに嚴重です。

水槽の上が小さい舞臺になつて、その上に、お松、お村といふ二人の美女――これが一座の花形で、<ruby><rb>床几</rb><rt>しやうぎ</rt></ruby>に腰を掛け、紫の<ruby><rb>對</rb><rt>つゐ</rt></ruby>の小袖に、赤い帶を締め、お松は三味線を鳴らし、お村は<ruby><rb>篠笛</rb><rt>しのぶえ</rt></ruby>を吹いて居ります。

どちらも十八九、どうかしたら<ruby><rb>二十</rb><rt>はたち</rt></ruby>位でせう。讃州志度から伴れて來た<ruby><rb>海女</rb><rt>あま</rt></ruby>といふにしては、恐ろしい美人です。お松はやゝ細つそりして上品な顏立、お村は脂の乘つた豐艶な身體、どちらも、明眸皓齒、白粉つ氣も何にもないのに五體から健康な魅力を發散するやうな美しさ、江戸中の見世物の人氣をさらつたと言ふのも無理はありません。

舞臺には、二人の美女の外に、<ruby><rb>麻裃</rb><rt>あさがみしも</rt></ruby>を着た口上言ひが一人、<ruby><rb>月代</rb><rt>さかやき</rt></ruby>と鼻の下に青々と繪の具を塗つて、尻下がりの丸い眉を描いて居りますが、顏立は立派な方で、身のこなし、物言ひ、妙に職業的な<ruby><rb>輕捷</rb><rt>けいせふ</rt></ruby>なところがあります。

水槽の前には、青竹を<ruby><rb>繞</rb><rt>めぐ</rt></ruby>らして、後ろへ次第に高くなつた、急造の客席の上には、觀客がかれこれ二三百人。

「ね、親分、この不景氣に、十二文の木戸を拂つてこれだけ入るんだから――」

ガラツ八は自分のことのやうに<ruby><rb>揉手</rb><rt>もみで</rt></ruby>をして居ります。

「<ruby><rb>手前</rb><rt>てめえ</rt></ruby>のやうな人間が多勢居るんだね、世間は廣いやな」

さう言ひながらも、錢形の平次も、この一種異樣な見せ物に心を<ruby><rb>牽</rb><rt>ひ</rt></ruby>かれないわけには行きませんでした。

お松、お村の二人の美女が暫らく三味線と笛の合奏を續け乍ら、流行唄――少しも讃州らしい匂のない、江戸の<ruby><rb>流行唄</rb><rt>はやりうた</rt></ruby>――を二つ三つやると、やがて、達辯な口上の聲につれて立ち上がりました。

「いよ〱これから龍王の珠取り、藤原の淡海公に<ruby><rb>契</rb><rt>ちぎ</rt></ruby>つた海女は一人だがこちらの海女は二人、いづれ劣らぬ美しいのが、水底深く潜つて、龍王の明珠を取つて來る。この水槽は、斯う見えても、底は龍宮まで通じて居る――嘘だと思つたら、遠慮なく飛込んで見られるが宜い――」

そんな事を言つて笑はせて居る間に、お松お村の二人の海女は、赤い帶を解いて、クルクルと<ruby><rb>裸體</rb><rt>はだか</rt></ruby>になりました。

裸體に――といふのは、文字通りの裸體です。明治大正になつてからも、鳥羽の海女が幾度か東京へ來て、淺草公園や上野の博覽會で海中の作業を見せましたが、これは風俗上の問題から中形の浴衣か何かを着せて、<ruby><rb>眞當</rb><rt>ほんたう</rt></ruby>の裸體は客に見せませんでしたが、錢形平次が活躍して居る頃の江戸には、そんな取締規則などはありません。東西兩國にはもつと如何はしい見世物のあつた頃、海女の裸體などを見て、驚くやうな敏感な人間はなかつたのです。

海女と言つても、お松、お村は、室内の水槽で藝をするやうに育つて、陽にも潮にも燒けず、小屋の空氣が匂ふばかりの白い肌を、何の惜氣もなく衆目にさらして、水槽の縁に起ちました。<ruby><rb>緋縮緬</rb><rt>ひぢりめん</rt></ruby>の腰卷が一つ、その裾が風に<ruby><rb>煽</rb><rt>あふ</rt></ruby>られるのを小股に挾んで、兩手で乳を隱すと、丈なす黒髮が、襟から肩へサツと<ruby><rb>靡</rb><rt>なび</rt></ruby>きます。

小屋を埋むる客は、この刺戟的な<ruby><rb>情景</rb><rt>シーン</rt></ruby>に<ruby><rb>動搖</rb><rt>どよ</rt></ruby>みを打ちました。

「成程ガラツ八、こいつは<ruby><rb>手前</rb><rt>てめえ</rt></ruby>が夢中になりさうだ」

平次も少し引入れられ氣味に、そんな事を言つて、水槽の左右に立つた美女の、素晴らしい姿態に眺め入りました。

## 二

やがて、口上言ひの男が、<ruby><rb>二</rb><rt>ふ</rt></ruby>た<ruby><rb>口</rb><rt>ふり</rt></ruby>の短刀を持出して、お松、お村に一本づつ渡しました。見たところ如何にもよく切れさうで、美女の裸身と、ひどく面白い對照になります。一つは短刀を受取る爲に、二人はどうしても乳房を隱した手を離さなければならなかつた爲でせう。小屋一パイの客は、妙に興奮して、バラバラと氣の揃はない手を拍つて居ります。

やがて口上言ひが、<ruby><rb>白扇</rb><rt>はくせん</rt></ruby>を開いて、

「いよ〱海女は水底深く潜つて龍王の顎を探ります。明珠は、お松、お村、どちらの手に入りませうや、暫らくは一と<ruby><rb>囃</rb><rt>はや</rt></ruby>し――」

と言ふと、二人の海女は、身を跳らして、<ruby><rb>碧玉</rb><rt>へきぎよく</rt></ruby>を<ruby><rb>湛</rb><rt>たゝ</rt></ruby>へたやうな――少し底濁りのした水槽へサツと飛込みました。揚幕の中からは猛烈な囃しの音、特に<ruby><rb>銅鑼</rb><rt>どら</rt></ruby>を叩いて居る、五十恰好の親爺は、妙にソハソハした樣子で、首だけ出して水槽を覗いて居ります。これは一座の太夫元、木戸に居る大年増の亭主で藤六といふ男、無人の一座で、女房は木戸番を、亭主は<ruby><rb>下座</rb><rt>げざ</rt></ruby>を勤めて居るのだと、後で判りました。

二人の海女は、暫らく人魚のやうに、水槽の中を泳ぎ廻りました。一人が浮けば、一人が沈み、一人が拵へ物の木彫の龍に近づけば、一人がそれを<ruby><rb>妨</rb><rt>さまた</rt></ruby>げ、碧い水の中に、黒い髮、白い肌、<ruby><rb>紅</rb><rt>くれなゐ</rt></ruby>の腰卷が亂れ合つて、これはなか〱の觀物です。

「ネ、親分、こいつは面白いでせう」

獨り者のガラツ八は、すつかり夢中になつて、この巧みな興行物のエロテイシズムに醉ひしれます。

水槽は十坪ほどの二つに仕切つて、奧の四坪ほどのところ、水中にやゝ淺く木彫赤塗の龍を沈め、その深い口の端に<ruby><rb>金箔</rb><rt>きんぱく</rt></ruby>を置いた寶珠を含んで居ります。二人の海女が盛んに泳いで居るところと、龍を沈めたところの間には荒い格子の仕切りがあつて、格子の底の方には、僅かに人間が潜れる穴が開いて居ります。水は思ひの外深いらしく、――いや深く見せる爲に、少し濁つたまゝにしてあるのでせう、格子の底の穴のあたりは、<ruby><rb>朦朧</rb><rt>もうろう</rt></ruby>として、上からはよく判りません。

お松とお村は、暫らく水中に爭ひましたが、やゝ肥つたお村の方が勝つて、お松を彈き上げると、身を沈めて格子の穴を潜り、龍の<ruby><rb>顎</rb><rt>あぎと</rt></ruby>の珠を取つて、勝ち誇つた兩手を水の上へ高く擧げました。右手には閃らめく短刀、左手には<ruby><rb>燦爛</rb><rt>さんらん</rt></ruby>たる珠。

小屋の中には、ドツと歡呼があがり、口上言ひの男は、舞臺の上を、<ruby><rb>道化</rb><rt>だうけ</rt></ruby>た樣子で、ピヨイピヨイと跳び廻ります。

最後の<ruby><rb>觀物</rb><rt>みもの</rt></ruby>は、二人の娘が、すつかり濡れて、水から這ひ上がつたところでした。<ruby><rb>海藻</rb><rt>みる</rt></ruby>のやうに<ruby><rb>雫</rb><rt>しづく</rt></ruby>する黒髮、眞珠のやうに輝やく肌、そして、濡れた緋縮緬の腰卷が、娘の美しい曲線を包んで、若さと、艶かしさを發散する<ruby><rb>趣</rb><rt>おもむき</rt></ruby>は、まことに比類もありません。

「ネ、親分、面白いでせう」

少し興奮した顏を撫でて、斯んな事を言ふガラツ八を<ruby><rb>顧</rb><rt>かへり</rt></ruby>みて、

「馬鹿だね、十手が懷中から、ハミ出すぢやないか、少し顏の紐を締めて、外の風に當つて見ろ」

平次はサツと木戸の外へ出ました。

「だつて親分」

「だつても<ruby><rb>絲瓜</rb><rt>へちま</rt></ruby>もあるものか、あの小屋の中には、妙に氣に入らねえところがあるよ。兎に角、江戸つ子の見るものぢやねえ」

二人はそんな事を言ひ乍ら神田へ辿りました。

## 三

その翌る日、<ruby><rb>眞晝</rb><rt>こゝのつ</rt></ruby>を少し廻つた頃、平次の家へ、

「親分、た、大變」

ガラツ八が轉げ込んで來ました。

「何だ、相變らず騷々しい」

「落着いて居ちやいけねえ、親分、大變なことになつちやつたんだ」

「お齒の大變には<ruby><rb>懲々</rb><rt>こり〲</rt></ruby>して居るよ、その度毎に泥足で飛上がつたり、煙草盆を蹴飛ばしたりするんだから――」

さう言ひ乍らも、二の句が繼げないほど息を切らして居るガラツ八を見ると、平次も少し緊張した心持になります。

「親分。今日のは現に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>が此眼で見て來たんだから嘘も<ruby><rb>僞</rb><rt>いつはり</rt></ruby>もねえ。あの兩國の<ruby><rb>海女</rb><rt>あま</rt></ruby>が水槽へ飛込むと――」

「何だと――、又あの見世物へ行つたのか、馬鹿な奴だ。此間から變だ〱と思つたら、間がな隙がな拔け出しちや、木戸番へ十手の房か何かを見せびらかして、只であの海女を見て居たんだらう」

「そんな事は何うだつて構やしない、親分、毎日行つて見て居るお蔭で、今日と言ふ今日は、飛んだものを見て了つたんだ。――海女が一人殺されたんですぜ」

「何だと、ガラツ八、もう少し詳しく話して見ろ」

海女が殺されたと聞くと、職業意識が目覺めて、平次は急にシヤンとなりました。

「それお出でなすツた。親分がさう來なくちや話が出來ねえ」

「生意氣な事を言はずに、海女の殺された話をしろ、無駄を拔きにして」

「――斯うだ親分、今日もいつもの通り、<ruby><rb>巳刻</rb><rt>よつ</rt></ruby>（十時）過ぎに小屋を開けたが、間もなく一パイさ、大した人氣だね」

「それが無駄だよ」

「まア、默つて聞いて下さい。――いつもの通り藝題は運んで、晝少し前に、お松とお村が水槽に飛込む段取になつた。口上言ひから短刀を受取つて、勢ひよく飛込んだまではよかつたが、お松が格子の下の穴を<ruby><rb>潜</rb><rt>もぐ</rt></ruby>つて、木彫の龍の方へ拔ける時、何うしたか、サツと水が眞赤になつて、恐ろしい泡が浮くと、お松の身體は水の中でノタ打ち廻つて、格子の下の穴に引つ掛つて居るんだ」

「フム……」

思ひの外の物凄い話に、平次も釣り込まれて眼をすゑました。

「その恐ろしかつた事――、黒い髮が<ruby><rb>藻</rb><rt>も</rt></ruby>のやうに搖れると、白い肌に<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>んだ赤い腰卷が、水の中でメラメラと燃えるやうに動いたぜ。時々お松の顏が上にネヂ曲げられると、恐ろしい形相で何やらを睨んだが、あの顏は忘れようたつて忘れられる顏ぢやねえ」

「それから何うした」

「漸く穴を拔けて龍の側へ浮いたが、力が盡きたか、直ぐ沈んだ。水槽の水は見る〱眞つ赤だ」

「もう一人のお村は？」

「格子の手前へ、ボンヤリ浮いたが、手にはまだ短刀を握つて居た。一と目、お松のもがき苦しむ樣子を見ると、追つ驅けられるやうに水槽の縁へ這ひ上がり、舞臺へ轉げ上がると、そのまゝ目を廻して了つたが、赤い<ruby><rb>雫</rb><rt>しづく</rt></ruby>が垂れさうで、一時はこの女も斬られたかと思つた――」

「それから何うした」

「口上言ひの男が着のみ着のまゝで飛込んで、下からお松の身體を抱き上げると<ruby><rb>銅鑼</rb><rt>どら</rt></ruby>を叩いて居た男が上から手を出して引上げた――が、もういけねえ、蟲の息さ」

「傷は――」

「胸から腹へかけて、眞一文字に割かれて居た、その物凄かつた事」

「何か物を言つたか」

「何も言はねえ。傷は深いし、水は呑んで居たし、引掲げると、<ruby><rb>唇</rb><rt>くちびる</rt></ruby>を二三度動かしたつ切り、息が絶えた」

「――」

「ネ、親分、あつしは、あんな物凄いものを見たことがねえ。見物は逃げ出す、女子供は泣き叫ぶ、いやもう地獄のやうな騷ぎだ。一應十手を見せて、太夫元に木戸を閉めさせ、一座の者の足留めをして、此處まで飛んで來たんだが、親分すぐ行つて下さるでせうね」

「馬鹿野郎」

「へエ」

「お前は一體何だ」

「へエ――、これでも人間――」

「馬鹿ツ、人間の端くれは判つて居るが、ツイ此間お<ruby><rb>札</rb><rt>ふだ</rt></ruby>を頂いて、それでも一本立の御用聞になつたばかりぢやないか」

「へエ」

「へエぢやないよ、十手捕繩を預かる立派な御用聞が、殺しの現場を見て、驚いて飛んで來る奴があるか」

「――」

「平次の子分の八五郎は、血を見て腰を拔かして、親分のところに飛んで行つたと言はれちや、お<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>ばかりの恥ぢやない、第一、其處を空つぽにして飛んで來て、下手人が逃げ出しでもしたら何とするんだ」

「へエ――」

「もう一度兩國へ引返しな。俺は一切構はないから、お前一人で眼鼻をつけて、下手人を擧げて來い、馬鹿野郎」

平次の以て外の<ruby><rb>氣色</rb><rt>けしき</rt></ruby>に、ガラツ八はすつかり面喰らつて了ひました。

「さう言はれると面目次第もねえ、だがネ親分、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>は腰を拔かしたわけぢやねえ。あつしの力には及びさうもなかつたし、一つは親分の手柄にさし上げたかつたんだ」

「馬鹿野郎、お前なんぞに手柄を讓つて貰ひたくはねえ、トツトと引返しあがれ」

「歸りますよ、何も、馬鹿野郎、馬鹿野郎ツて言はなくたつていゝでせう、斯う見えたつて――」

「其積りで下手人を<ruby><rb>捕</rb><rt>つかま</rt></ruby>へて來い、殺しの現場を見て、指を<ruby><rb>銜</rb><rt>くは</rt></ruby>へて引下がる奴があるものか」

「――」

ガラツ八は默つて飛出しました。斯う言はれると、義理にも下手人を縛つて來なければ、世間へも親分へも顏向けがなりません。

## 四

「誰も外へ出た者はあるめえな」

「へエ」

太夫元の藤六は、<ruby><rb>米櫃</rb><rt>こめびつ</rt></ruby>のお松に死なれた上、うんと儲かつてゐた小屋にケチが付くのを心配して、すつかり<ruby><rb>萎</rb><rt>しを</rt></ruby>れ返つて居ります。

幸か不幸か、まだ檢屍の役人は來ず、此邊を繩張にしてゐる石原の利助も、<ruby><rb>他行中</rb><rt>たぎやうちう</rt></ruby>とあつてまだ驅けつけません。

ガラツ八の八五郎は、出來るだけ威儀を整へて、新米の御用聞に許される範圍で、一と通り調べ上げて見ました。

太夫元の藤六夫婦は<ruby><rb>相模</rb><rt>さがみ</rt></ruby>のもの、小才の利いた番頭の清次の入智慧で、水心のある美女を二人雇ひ入れ、讃州志度の海女といふ觸れ込みで、この見世物を始めたのでした。

清次と言ふのは、口上言ひの男、元は三崎の<ruby><rb>漁師</rb><rt>れふし</rt></ruby>で、少し位は文字も讀め、才智も<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しく、こんな道化た樣子をして居りますが、顏を洗つて、<ruby><rb>胡粉</rb><rt>ごふん</rt></ruby>を落したところを見ると、なか〱好い男であります。

お松とお村はどちらも相模女、二人共負けず劣らず美しくもあり、負けず劣らず浮氣でもあり、近頃は、土地の遊び人で、原庭の才三といふのに熱くなつて、女だてらに、<ruby><rb>鞘當</rb><rt>さやあて</rt></ruby>をして居ると言ふ噂もありました。

その他は、江戸で臨時に雇入れた<ruby><rb>囃方</rb><rt>はやしかた</rt></ruby>と、木戸番の<ruby><rb>兎口</rb><rt>みつくち</rt></ruby>の百松だけ、これも相模生れのお松と同郷で、お松には充分氣があるやうですが、至つて無口な上、自分の顏の<ruby><rb>醜</rb><rt>みにく</rt></ruby>いことを百も承知をして居りますから、若い女と口をきくのさへ遠慮して居るやうな肌合の男だつたのです。

斯う調べるまでもありません。お松が死んだ時、水中にゐたのは、お村だけ、それも龍の<ruby><rb>彫刻</rb><rt>てうこく</rt></ruby>に通ふ入口を爭ひ乍ら水槽の深みの中に、短刀を握つてスレスレにゐたのですから、お村より外に、お松を殺せる條件を握つて居る者は一人もありません。

こんな工合で、平次がわざと避けて、この事件から手を引いたのは、ガラツ八でも立派に解決が出來ると思つたせゐでせう。

ガラツ八が袂の中の捕繩を<ruby><rb>爪探</rb><rt>まさぐ</rt></ruby>つて居ると、恰度、石原の利助がやつて來てくれました。近頃はすつかり角を折つて、平次は勿論、ガラツ八にも厭な顏を見せない利助は、<ruby><rb>一伍一什</rb><rt>いちぶしじふ</rt></ruby>の樣子を聞くと、一も二もなくガラツ八の意見に贊成して了ひました。

「そいつは、考へることも、迷ふこともあるものか、お村とか言ふ女を縛つて、兎も角八丁堀の旦那に引つ叩いて貰ふんだ」

其場を去らせず、斯うしてお村は縛られて了つたのです。

併し、これが大變な間違ひだつたことは、三日も經たないうちに解りました。お村は<ruby><rb>何</rb><rt>どん</rt></ruby>なに責められても、お松を殺したとは言はないばかりでなく、考へれば考へるほど、事件があやしくなつて來たのです。

第一お村の持つて居た短刀は、切れさうには見えるが<ruby><rb>刄退</rb><rt>はび</rt></ruby>きで、女の手で人間一人殺せるほどの<ruby><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>をしさうにもなく、お松の傷は、胸から腹へかけて、眞一文字に<ruby><rb>割</rb><rt>さ</rt></ruby>かれたもので、刄退の短刀や、女の手などでは、とてもそんなに斬れる道理はありません。

第二が、お松とお村が水中に爭ふ型にはなりましたが、それは振付のある極つた形て、何んの無理も不思議もなく、お松が斬られたのはお村の方が上へ浮いて居る時で、お松の腹の方へ手が屆く筈もありません。

何百人の眼が見て居たのですから、これは少しの間違ひもないことで、お村の無罪は火を見るよりも明かです。どうかしたら、お村は短刀を二本用意して居て、よく切れる方を、何處かへ捨てたと考へられないことはありませんが、お村は<ruby><rb>水槽</rb><rt>みづぶね</rt></ruby>から這ひ上がると、裸體のまゝで眼を廻したのですから、そんな物を持つてゐなかつたことは明かで、水槽はその日のうちに血潮の交つた水を流して、鹽磨きにして洗ひ清めたのですから、もう一本の短刀を水中へ捨てゝ來なかつた事も明かです。

吟味與力、笹野新三郎も、これではお村を下手人として、奉行所のお白洲へ突出されません。ひどく落膽する利助とガラツ八を叱つて、兎に角、一應お村を許して歸しました。

それが事件のあつてから三日目です。

## 五

「親分、かくの通りだ。何とも面目次第もないが、智慧を貸して下さい。あつしが恥を掻く位は何でもないが、笹野樣もことの外の御心配の樣子だし、石原の親分も、緑町の藤六の家で、<ruby><rb>何</rb><rt>どん</rt></ruby>な事をしても、親分を伴れて來るやうにつて、首を長くして待つてゐなさる――」

ガラツ八にさうまで言はれると、平次も此上動かずに居るわけには行きません。

「それはむづかしさうだ。俺が行つたところで何うにもなるまいが、兎に角、顏だけでも出して來よう」

さう言ひ乍ら、神田から緑町へ、ガラツ八と一緒にやつて來ました。

緑町の藤六の家といふのは、一種の合宿所で、太夫元の藤六夫婦を始め、一座のお村、番頭の清次、木戸番の百松、それに、死んだお松が一時に、小女を使つて暮して居る家でした。

「錢形の親分、お待ち申して居りました。よくお出で下さいました」

藤六は<ruby><rb>外</rb><rt>そ</rt></ruby>らさない顏で奧へ案内すると、

「おゝ、錢形の、待つて居たよ」

石原の利助も、ホツとした樣子で迎へてくれます。

平次はガラツ八の口や、世上の噂で、大體の<ruby><rb>經緯</rb><rt>いきさつ</rt></ruby>は知つて居りますが、念の爲に、藤六や清次の口から、もう一度、人と人との關係や、その日の朝からの細かい出來事や、いろ〱訊ねました。

「木戸番の百松――とか言ふのが、殺されたお松に氣があつたとか言ふのは本當ですかい」

「それはもう、百松とお松は三崎の生れで、子供の時から知つて居るさうですし、百松は心の底からお松を慕つて居たやうですが、お松の方では何とも思つては居なかつたでせう。女の眼から見れば、そんな事はいくら隱してもよく解りますよ」

藤六の女房は、平次の問に斯う答へます。

「ところで、その水槽へ飛込む時、誰か珠を取るか、前から決つて居ただらうか、それとも行き當りばつたりに、最初に穴を潜つた者が取ることになつて居たのか」

平次の問は次第に<ruby><rb>核心</rb><rt>かくしん</rt></ruby>にふれます。

「それは前から決つてゐます。さうでないと、水へ入つてからマゴマゴして間違ひを起しますから」

とこれは太夫元の藤六です。

「あの間違のあつた日は、<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>をあけて、直ぐだつたと言ふから、お松が珠を取ることは前から、解つて居たわけだね」

「左樣で御座います。最初はお松、次はお村、三度目はお松――とこれは毎日同じことで、朝の第一番に珠を取るのは、一つ年上のお松に決まつて居ります」

「ところで、今晩は百松とお村が見えないやうだが――」

平次はフト思ひ付いたやうに、<ruby><rb>四方</rb><rt>あたり</rt></ruby>を眺めました。

「百松は毎晩小屋へ泊つて居ます。ろくなものもありませんが、火の用心の爲で」

と清次。

「お村は？」

「お村は何處へ行つたらう。<ruby><rb>疲</rb><rt>つか</rt></ruby>れて居るからつて、奧で休んで居た筈だが、夕方から見えないやうだね」

これは藤六です。

「お村さんは、先刻百松さんと一緒に兩國の方へ行きましたよ」

お<ruby><rb>饒舌</rb><rt>しやべり</rt></ruby>らしい小女は、お勝手の方から口を出しました。

「何？　百松と一緒に行つた。をかしいなア、お役所から歸されたばかりで、疲れ切つて居るから、暫らく休みたいつて言つて居たくせに」

「お村さんは厭がつて居ましたよ、明日にしてくれつて、――すると百松さんは怖い顏をして、グングン引つ張つて、兩國の方へ行つて了ひましたよ」

小女のいふことは、錢形平次を一番驚かしました。

「それは大變だ。ことによると、間に合はないかも知れない」

サツと起ち上がると、

「どうしたんです、親分」

と續いて、藤六、ガラツ八、清次――。

「お村の命が危ない、皆んなも後から來てくれ」

言ひ捨てゝ<ruby><rb>夕闇</rb><rt>ゆふやみ</rt></ruby>の中へ、平次の姿はさツと消え込んで了ひました。

## 六

「お村、俺の言ふことが解るか――解るなら、返事をしろ」

<ruby><rb>兎口</rb><rt>みつくち</rt></ruby>の百松は、見世物小屋の舞臺に、<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>らふそく</rt></ruby>を取つて立ち上がりました。

前には、後ろ手に縛られた女、言ふまでもなくそれは、今日お松殺しの疑ひが晴れて、役所から歸されたばかりのお村です。

「ハツ、ハツ、ハツハツ、成程、<ruby><rb>猿轡</rb><rt>さるぐつわ</rt></ruby>を噛ませて居たんだつけ、それでは返事も出來まい。――なアに返事なんか何うでも宜い。俺の言ふ事が解つたら、首をしやくりやそれや宜いんだ」

<ruby><rb>空洞</rb><rt>うつろ</rt></ruby>な笑ひが、ガランとした小屋に響いて、その物凄さと言ふものはありません。亂れた髮の上から、猿轡を<ruby><rb>食</rb><rt>は</rt></ruby>まされ舞臺の上に引据ゑられて、<ruby><rb>紅</rb><rt>くれなゐ</rt></ruby>の<ruby><rb>裳</rb><rt>もすそ</rt></ruby>を亂したお村は、顏色を變へてゾツと身顫ひしたやうです。

百松は、<ruby><rb>萬筋</rb><rt>まんすぢ</rt></ruby>の單衣を端折つて、舞臺の上に<ruby><rb>跼</rb><rt>かゞ</rt></ruby>みました。蝋燭をかゝげると、縛られたお村の顏よりは、自分の<ruby><rb>醜怪</rb><rt>しうくわい</rt></ruby>な顏の方が、灯りの眞ん中へヌツと出ます。

「お村、お前はお松を殺したに違ひあるまい。うんにや、隱したつて駄目だ。お上の眼は<ruby><rb>晦</rb><rt>くら</rt></ruby>ませても俺の眼は<ruby><rb>誤魔化</rb><rt>ごまか</rt></ruby>せねえ。あの水の中で、<ruby><rb>鮭</rb><rt>しやけ</rt></ruby>のやうに腹を裂かれて死んだお松だ、一緒に水槽に<ruby><rb>浸</rb><rt>ひた</rt></ruby>つてゐたお前が殺さなくて、誰が殺すんだ」

「――」

「お前も知つてるだらう。お松と俺は、同じ村に生れて、<ruby><rb>餓鬼</rb><rt>がき</rt></ruby>のうちからの友達だ。大きくなつたら一緒につて、田圃の<ruby><rb>積藁</rb><rt>つみわら</rt></ruby>の蔭で、<ruby><rb>飯事</rb><rt>まゝごと</rt></ruby>をし乍ら約束したこともあるが、大きくなると、お松の阿魔、俺の見つともないのを嫌つて逃げ出しあがつた」

「――」

「俺はそれを追つ驅けて、二年越江戸中を探し廻り、漸く此處に居ることが解つたんだ。どうせ、俺はこの通り見つともねえ人間だ、お松のやうな綺麗な娘に好かれる道理はねえから、浮氣も不身持も承知、決して不服も、燒餅も言はないから、その代り、一生側へ置いてくれ、俺はお前の美しい顏を眺めて、犬のやうに守つてやる――つて斯う言つたんだ。俺のやつた事を、男の恥だつて言ふ者もあるだらうが、俺の身になると、外に工夫も<ruby><rb>手段</rb><rt>てだて</rt></ruby>もねえ、俺はどんな目に逢つても、<ruby><rb>何</rb><rt>どん</rt></ruby>な事をされても、お松の側に居たかつたんだ――」

醜怪な百松の眼からは、ポロポロと涙が、<ruby><rb>拳骨</rb><rt>こぶし</rt></ruby>を傳はつて舞臺の板を濡らします。お村は默つて眼ばかり光らせました。生捕られた獸のやうに、隙もあらば逃げようとし乍らも、この男の恐ろしい熱情的な物語に、女らしい好奇心は十分に動かして居るやうです。

「そのお松を殺したお前を、どんな目に逢はせて敵を討たうか、俺は三日三晩考へた、なア、お村」

「――」

「もう少しの辛抱だ、騷ぐなよ」

立ち上がると、お村を縛つた繩を解いて、其儘逃げ出さうとするのを、膝の下へ引据ゑて、引き<ruby><rb>毮</rb><rt>むし</rt></ruby>るやうに、帶を解いて、着物を脱がせて了ひました。

「――」

あれツとも言へません。<ruby><rb>猿轡</rb><rt>さるぐつわ</rt></ruby>をはめられて、蟲の如く<ruby><rb>蠢</rb><rt>うご</rt></ruby>めくお村の裸體。あの水槽の中に飛込む時と同じ、赤い腰卷のまゝを、も一度キリキリと縛り上げ、豫て用意したらしい石の重りをつけると、

「この中で存分にもがけ、お松の<ruby><rb>弔</rb><rt>とむら</rt></ruby>ひだ、俺はお前が死ぬまで見物してやる」

サツとお村の身體を、水槽の中へ投込むと、一度床の上に立てた<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>らふそく</rt></ruby>を取つて、頭の上へ高々とかゝげました。

水は今日入れ代へたばかり、<ruby><rb>碧玉</rb><rt>へきぎよく</rt></ruby>の如く澄んで、蝋燭の光に底まで讀めます。その中をお村の裸體は、重りに引きずられて、ユラユラと沈んで行きます。

お村は必死と身をもがきますが、何の甲斐もありません。<ruby><rb>海藻</rb><rt>みる</rt></ruby>をかき亂したやうな黒髮の、水肌を慕ふやうに<ruby><rb>搖</rb><rt>ゆら</rt></ruby>めく中に、白い顏が恐怖と苦惱に歪んで、二つの眼ばかりが、星の如く輝きます。

くね〱ともがく身體、それに<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>まる<ruby><rb>緋縮緬</rb><rt>ひぢりめん</rt></ruby>、水に射す灯を受けて、なんと言ふ恐ろしい見物でせう。

「へツ、へツ、いくら<ruby><rb>海女</rb><rt>あま</rt></ruby>が商賣でも、かう半刻も置かれちや叶はねえだらう」

<ruby><rb>乾</rb><rt>ひから</rt></ruby>び切つた笑ひが、又ヘラヘラと小屋の天井に響いて四方へ鬼氣を撒き散らします。

## 七

其處へ平次が飛込みました。半狂人のやうになつた百松を取つて投げると、着物を脱ぐ間もなく飛込みましたが、お村を助け上げると間もなく、上から、百松が手當り次第、棒、箱、小道具を投げつけます。

「えツ、何をする」

と言つたが、手の付けやうがありません。幸ひ其處へ、ガラツ八、利助を始め、藤六も清次も驅けつけ、百松を取つて押へて、水の中から平次とお村を引上げました。

平次は元より無事、お村も水には馴れて居りますから、幸ひまだ命には別條ありません。

この騷ぎが一と片附きすると、ありつたけの<ruby><rb>蝋燭</rb><rt>らふそく</rt></ruby>を<ruby><rb>灯</rb><rt>とも</rt></ruby>して、舞臺の上へ固くなつた人達が期せずして平次に問ひかけました。

「お村に聞くと、百松はお松の敵を打つ心算りだつた樣ですから、百松がお松殺しの下手人のやうでもありません。一體誰がお松を殺したんでせう」

太夫元の藤六は、少し長い顏を<ruby><rb>引延</rb><rt>ひきのば</rt></ruby>して、皆んなの顏を代表します。

「俺にも解らない」

「へエ――」

平次の豫想外の答へに、みんな<ruby><rb>呆氣</rb><rt>あつけ</rt></ruby>に取られて了ひました。

「この水槽の水を出して了つたら、何か嗅ぎ出せるかも知れないが――」

「宜しう御座います、錢形の親分、どうぞ御自由に水をお拔き下すつて」

藤六は、さう言ひ乍ら、ガラツ八に手傳つて貰つて、三重になつて居る、水槽の<ruby><rb>樋</rb><rt>とひ</rt></ruby>を開きました。

水は恐ろしい音を立てゝ、下水から大川に落ちる樣子。

半刻ばかり經つと、水槽の底がすつかり見えるやうになります。

「もう宜いだらう、利助兄イ、すまないが、此處から逃げ出さうとする者があつたら、誰でも構はず引つくゝつてくれ」

「よし、心得た」

「それから蝋燭を――」

平次は蝋燭を片手に、<ruby><rb>木彫</rb><rt>きぼり</rt></ruby>の龍の側にある段々を踏みました。

「お松を殺した刄物は、此處にある筈だ、若し此處に何にもなかつたら、お松は水の中で<ruby><rb>鎌鼬</rb><rt>かまいたち</rt></ruby>に逢つたとでも思はなきアなるまい」

平次はさう言つて、龍の口へ手を差し入れました。<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>の大きい<ruby><rb>牙</rb><rt>きば</rt></ruby>の間には<ruby><rb>箔</rb><rt>はく</rt></ruby>を置いた珠を挾んでありましたが、龍の身體はどうせ一本の木へ<ruby><rb>刻</rb><rt>きざ</rt></ruby>んだのではなく、板を集めて<ruby><rb>寄木</rb><rt>よせぎ</rt></ruby>にしたもので、口から腕を入れると、狹い乍ら、胴までその手が入つて行きます。

「あつた〱」

<ruby><rb>固唾</rb><rt>かたづ</rt></ruby>を呑む人々の前へ、<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>も<ruby><rb>柄</rb><rt>え</rt></ruby>もない、小型の<ruby><rb>匕首</rb><rt>あひくち</rt></ruby>が一と<ruby><rb>口</rb><rt>ふり</rt></ruby>、妙に薄曇つて物凄く光ります。

「柄を外して中味だけ拔いて使つたのは悧巧だ。――この通り、水の中に三日入つて居ても、人一人殺した刄物は<ruby><rb>血曇</rb><rt>ちぐもり</rt></ruby>がある、刄退きのピカピカする短刀とは違ふ」

平次は獨り言のやうに言ひ乍ら、水槽の中の段を踏んで、底に降り立ちました。

「矢張り思つた通りだ」

「――」

大勢の首が、水槽の中を覗くと、下から平次は、

「格子の潜りの下に、短刀を立てる穴が<ruby><rb>穿</rb><rt>うが</rt></ruby>つてある――、この通り」

蝋燭をかゝげて身を開くと、上からも手に取る如く見えます。水槽を二つに仕切つた格子の潜りの眞下に、幅二分、長さ七八分、丁度短刀のなかごを逆に立てるほどの、眞新しい穴があいて居るのです。

平次は龍の口から取つた<ruby><rb>匕首</rb><rt>あひくち</rt></ruby>の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こみ</span>を其穴にはめると、匕首は丁度床に植ゑたやうに、物凄い刄先を上にしてピタリと<ruby><rb>樹</rb><rt>た</rt></ruby>ちます。

「あツ」

上から覗いて居る者の口々に、恐ろしい感歎の聲。

「そこで下手人は誰だ――」

と石原の利助、鋭い眼でジロリと見廻しますが、百松の外には、そんな事をしさうな人間は一人もありません。

平次はこの試驗を了ると、大急ぎで水槽から這ひ上がり乍ら斯んな事を言ひます。

「二人の内の一人だ」

「誰と誰？」

と利助。

「お松を水槽から引揚げる時、<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>に植ゑた短刀を拔いて、龍の口へ投り込んだのだ」

「すると」

「藤六か、清次」

「えツ」

「藤六は自分の<ruby><rb>米櫃</rb><rt>こめびつ</rt></ruby>を殺す筈はない」

「それでは？」

其處まで解るうち清次は待つて居ませんでした。隙を見てヒラリと舞臺から飛降りると、宵の闇へ。

「待て野郎ツ」

不意に、木戸に隱れて居たガラツ八、飛出さうとする清次の後ろから、<ruby><rb>無手</rb><rt>むず</rt></ruby>と組み付きました。

先刻水槽に入る時、平次は眼配せ一つで、ガラツ八を此處へ廻して置いたのでした。

×　　　　　　×　　　　　　×

「さすがは錢形の親分だ、親分が行つて下さらなきア、もう少しで飛んでもない事になるところだつた」

述懷するともなくガラツ八。

「まア、さう言ふな。今晩の下手人を捕へたのは、お前の腕つ節ぢやないか」

平次はこの忠實な子分の肩を叩きました。

「さう言つてくれるのは有難いが、どう<ruby><rb>自惚</rb><rt>うぬぼ</rt></ruby>れたつて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>の手柄とは思へねえ、――ところで親分、清次が何んだつてお松を殺したんでせう」

「お松は名題の浮氣者だ。清次と夫婦約束までしたのに、近頃お村と張合つて、<ruby><rb>原庭</rb><rt>はらには</rt></ruby>の才三といふ色師に熱くなつて居るからよ。同じやうにお松に氣があつても、清次は百松のやうに<ruby><rb>諦</rb><rt>あき</rt></ruby>らめられなかつたんだ」