## 一

人間<ruby><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>では盜めさうもない物を盜んで、遲くとも三日以内には、元の持主に返すといふ不思議な盜賊が、江戸中を<ruby><rb>疾風</rb><rt>しつぷう</rt></ruby>の如く荒し廻りました。

「平次、御奉行<ruby><rb>朝倉石見守</rb><rt>あさくらいはみのかみ</rt></ruby>樣から<ruby><rb>嚴</rb><rt>きつ</rt></ruby>い御達しだ、――近頃府内を騷がす盜賊、盜んだ品を返せば罪はないやうなものではあるが、あまりと言へばお上の御威光を<ruby><rb>蔑</rb><rt>ないが</rt></ruby>しろにする仕打だ。明日とも言はず、からめ取つて來い――と仰しやる、何とか良い工夫はあるまいか」

南町奉行付、與力筆頭笹野新三郎、自分とは身分が違ひ乍ら、親身のやうに思つて居る捕物の名人錢形の平次に、斯う打ち明けて頼み込みました。

「へエ、――私も考へないぢや御座いません。盜んで直ぐ返すといふやり方が第一氣に入りません。戀の附文、貧の盜みと言ふ位で、食ふに困つての盜みなら、惡い乍らも可哀想とも思ひます。盜んだ品を翌る日返すのは、盜みを道樂にして居る人でなきア、私共を<ruby><rb>飜弄</rb><rt>からかつ</rt></ruby>て居るに相違御座いません、何とかしてあの野郎をフン捕まへなきア、錢形の平次も世間へ顏向けがなりません」

平次は、日頃の穩厚な樣子にも似ず、ツイ<ruby><rb>拳固</rb><rt>げんこ</rt></ruby>で膝を叩き乍ら、縁側の敷居際までにじり寄ります。

「お前がその氣なら、遠からず<ruby><rb>捉</rb><rt>つか</rt></ruby>まへられるだらう――少しは心當りがあるだらうな」

「恥づかし乍ら、何の手掛りも御座いません」

「女泥棒だといふが、本當だらうな」

「それも當にはなりません。盜んだ品を返しに來るのは、目の醒めるやうな美しい<ruby><rb>新造</rb><rt>しんぞ</rt></ruby>だつて言ひますが、それが盜むにしちや、手際が良過ぎます」

「と言ふと」

「鍵や<ruby><rb>錠</rb><rt>ぢやう</rt></ruby>が苦もなく外すのは兎も角として、一丈も一丈二尺もある塀を飛越したり、<ruby><rb>長押</rb><rt>なげし</rt></ruby>を踏んで座敷へ忍び込んだり、とても女や子供に出來る藝當ぢや御座いません」

「フーム」

笹野新三郎も、錢形の平次も、近頃人も無げに出沒する怪盜――風の如く去來するから世間では風太郎と言つて居りますが――には全く手を燒いてしまひました。

「たつた一つ、仕殘した<ruby><rb>手段</rb><rt>てだて</rt></ruby>が御座います」

「どんな事だ」

「<ruby><rb>謀事</rb><rt>はかりごと</rt></ruby>は密なるを要すつて申しませう。もう二三日お待ち下さいまし」

「ハツハヽヽヽ、平次は思ひの外學者だな」

「へエ――」

苦味走つた好い男の平次も、笹野新三郎に逢つては頭が上がりません。

## 二

「親分」

「何だガラツ八か、騷々しい」

「ガラツ八は情けねえな、――御注進、御注進とお出でなすつたんで」

「氣取るな、一體何が何うしたんだ」

平次は落着き拂つて、子分のガラツ八の顏を見上げました。

「昨夜風太郎が入りましたよ」

「何處へ」

「淺草の<ruby><rb>隆興寺</rb><rt>りうこうじ</rt></ruby>」

「何を盜つた」

「本堂の奧のお<ruby><rb>厨子</rb><rt>づし</rt></ruby>の中から三寸二分の黄金佛、<ruby><rb>大日如來</rb><rt>だいにちによらい</rt></ruby>」

「罰當り奴」

「親分、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>が盜つたんぢやありませんぜ」

「<ruby><rb>手前</rb><rt>てめえ</rt></ruby>に盜れる譯もねえやな、案内しろ」

「親分が行つて下さりや、ガラツ八も、心丈夫だ。斯う來なせえ」

「馬鹿にするな」

<ruby><rb>藍微塵</rb><rt>あゐみぢん</rt></ruby>の<ruby><rb>素袷</rb><rt>すあはせ</rt></ruby>、十手を懷に隱して、突かけ草履、少し三枚目染みる子分のガラツ八を案内に、錢形の平次は淺草の隆興寺へ飛んで行きました。

三寸二分、<ruby><rb>金無垢</rb><rt>きんむく</rt></ruby>の大日如來といふのは、本堂の奧に安置した教祖の木像の<ruby><rb>胎内佛</rb><rt>たいないぼとけ</rt></ruby>で、別にお厨子を作つて見えるところに安置したのは、少しでも寺内を賑やかにしようと言ふ住職の商賣氣、其處を見込んで怪盜風太郎が、昨夜一と晩のうちに盜み出して仕舞つたのです。

風太郎に逢つては、鍵も錠も問題ではありません。

住職に逢つて、<ruby><rb>愚痴</rb><rt>ぐち</rt></ruby>やら繰り言やらを聞いた平次は、あとは調べるでも探すでもありません。ケロリとして、庭に出ると、寺男を捉まへて小半日植木の講釋などをした<ruby><rb>擧句</rb><rt>あげく</rt></ruby>、今度は本堂の中に入つて、寺相應の彫刻やら額やら繪やらを眺めて、お厨子の方などは振り向いて見ようともしません。

「親分、<ruby><rb>眞氣</rb><rt>ほんき</rt></ruby>になつて搜してやつておくんなさいまし。あの黄金佛がなくなりア、本山は申すに及ばず、<ruby><rb>檀家</rb><rt>だんか</rt></ruby>中へ申譯がないから、傘一本で寺を明け渡さなきアなるまいと、住職は<ruby><rb>萎</rb><rt>しを</rt></ruby>れ返つて居りますぜ――親分」

「わかつたよ、それより、どんな者が此寺へ出入りするか、一々見張つて居な」

「へエ――？」

「風太郎の仕業なら返すに極つて居る。どんな人間が持つて來るか、俺はそれが知りてえ」

「なア――る、親分は親分だけの<ruby><rb>勘考</rb><rt>かんかう</rt></ruby>だ、返しに來た野郎が取りも直さず盜んだ野郎つて事になりますね」

「まアね」

「ようし、斯うなりや<ruby><rb>蟻</rb><rt>あり</rt></ruby>の行列だつて、見のがすこつちやねえ」

ガラツ八は二つの眼玉を剥いて見張りましたが、さて不審と思ふやうな人間は一人も出入りしません。

無事に一日を過して、念の爲に其邊中を探して見ると、本堂の賽錢箱の側に、紙に包んだお<ruby><rb>捻</rb><rt>ひね</rt></ruby>りが一つありました。何の氣もなく開けて見ると、その中から現れたのは、<ruby><rb>金色燦爛</rb><rt>こんじきさんらん</rt></ruby>たる三寸二分の<ruby><rb>胎内佛</rb><rt>たいないぼとけ</rt></ruby>――<ruby><rb>大日如來</rb><rt>だいにちによらい</rt></ruby>です。

「あツ」

「何時の間に持つて來あがつたんだ」

さすが錢形の平次も驚き呆れるばかり、朝から多勢來た參詣の男女のうち、どれが怪盜風太郎なのか、全く以て見當も付きません。

## 三

翌晩<ruby><rb>襲</rb><rt>おそ</rt></ruby>はれたのは、本郷春木町の質屋で上總屋重兵衞、何うして八重の締りを解いたか、表口の嚴重な<ruby><rb>潜</rb><rt>くゞ</rt></ruby>りを開けて、店格子を乘り越え、小僧達の頭の上を<ruby><rb>跨</rb><rt>また</rt></ruby>いで、奧の一間に通り、主重兵衞の枕元に置いた<ruby><rb>用箪笥</rb><rt>ようだんす</rt></ruby>の中から、これも錠前を綺麗に開けて、小判で三百兩、切餅を十二ほど持出されてしまつたのです。

當時の三百兩と言へば一と身代と言つても宜いほどの大金、上總屋重兵衞蒼くなつて訴へ出ました。

「風太郎の仕業なら二三日のうちに返つて來るだらう。その間俺を邪魔でも帳場へ置いちやくれまいか」

「へエ――、それはもう願つてもないことで、第一盜賊の入つた後で、店の者も暫らくは<ruby><rb>怖</rb><rt>こは</rt></ruby>がつてなりません」

重兵衞は<ruby><rb>大乘氣</rb><rt>おほのりき</rt></ruby>で引受けてしまひました。ガラツ八には用心の爲に外の路地を見張らせて、合圖があつたら飛出すことにし、錢形の平次は、其儘上總屋の帳場に坐つて、來る客來る客に鋭い眼を配りました。

客は<ruby><rb>平常</rb><rt>へいぜい</rt></ruby>の通りやつて來ますが、さて風太郎らしいのは一人もありません。夕刻の立て込む眞つ最中、至つて粗末な樣子をして居りますが、如何にも若くて美しさうな女が、床格子の前へすわり込んで、

「お帳面を忘れて來ました。濟みませんがこれを此處へ置かして下さい、ちよいと取つて來ますから」

一人言のやうに言つて、ヒヨイと<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>を潜ります。

「あ、其處へ置いて行つては困ります」

と言つたが及びません。

番頭の注意を背に聞いて、外へ飛出してしまつた若い女は、それつ切り戻つては來なかつたのです。

「おや、可怪いぜ。あの包を持つて來て見せな、風太郎と言ふのは矢張り女かな」

錢形の平次もまことに<ruby><rb>迂遠</rb><rt>うゑん</rt></ruby>千萬、此時漸く氣が付いて、女が置いて行つた包を開いて見ると、中からは小判が三百兩、切餅の封も切らず、盜られた時のまんま、そつくり入つて居たのです。

「あツ」

驚きに驚きを重ねるばかり、怪盜風太郎一味には若くて美しい女が居るといふ事を確めた以外には平次ほどの者も何んにも掴んで居りません。

## 四

それから三日目有名な茶人<ruby><rb>繁野友白</rb><rt>しげのいうはく</rt></ruby>のところへ忍び込んで、さる大名から預つた名物ものゝ茶碗を盜んだものがあります。名物ものと言つても、それは祖先の<ruby><rb>誰某公</rb><rt>たれぼうこう</rt></ruby>が朝鮮役の功勞で豊太閤から貰つたといふ<ruby><rb>由緒付</rb><rt>ゆゐしよづき</rt></ruby>のもの。伊達政宗がひどく<ruby><rb>羨</rb><rt>うら</rt></ruby>やんで、岩代半國と代へようと申込んだが、到頭讓らなかつたと言ふ、天下<ruby><rb>稀覯</rb><rt>きこう</rt></ruby>の大名物です。

これを盜まれては、繁野友白首でも<ruby><rb>縊</rb><rt>くゝ</rt></ruby>らなければ追つ付きません。唯一の頼みは、盜んだのが近頃府内を騷がす怪盜風太郎ならば、三日とたゝない内にきつと返してくれるだらうと言ふ一事だけ、友白は<ruby><rb>萎</rb><rt>しを</rt></ruby>れ返りながらも、それを心頼みに、二日まで空しく待つて見ました。

今日は三日目となると、居ても起つてもゐられません。風太郎も名物の茶碗を惜しんだものか、三日の晝過になつても返して來ず、友白はいよ〱<ruby><rb>土壇場</rb><rt>どたんば</rt></ruby>に坐つた心持で、日頃の落着きも失つて、奧と門口との間にお百度を踏んで居ります。

錢形の平次も三日詰め切りましたが、さて何の役にも立ちません。風太郎の手口は百も承知ですから、風の如く通つて歩いた後を嗅いだところで何の匂ひも殘つては居ず、此上は、例の通り品物を返しに來るのを待ち伏せて、<ruby><rb>有無</rb><rt>うむ</rt></ruby>を言はさず縛り上げる外はなかつたのです。

風太郎が、此處の門を入りさへすれば、どんなに姿を變へてゐても、平次の捕繩を<ruby><rb>免</rb><rt>のが</rt></ruby>れやうはありません。が三日目の晝過ぎまで待ち呆けを喰はして、何の音沙汰もないのは何うした事でせう。いよ〱茶碗を返してくれなければ――と思ふと繁野友白最早生きた空もなかつたのです。

<ruby><rb>未刻下</rb><rt>やつさが</rt></ruby>り、やがて<ruby><rb>申刻</rb><rt>なゝつ</rt></ruby>にも近からうと思ふ頃、お勝手口へフラリ人の影がさします。

「それツ」

と行つて見ると、見知り越しの隣の男の子、風太郎如何に<ruby><rb>神出鬼沒</rb><rt>しんしゆつきぼつ</rt></ruby>の怪盜でも、こんなに小さくなれツこはありません。

「叔母樣、これ粗末なものですが、皆さんで召上がつて下さいつて――」

言ひつかつた口上通りを取次いで、友白の妻の前に出したのは、<ruby><rb>丼</rb><rt>どんぶり</rt></ruby>へ入れた饅頭。

「それは御丁寧に有難う御座いました」

取り込んで居るので、氣を利かしてお茶受けを持つて來てくれたのだらう――そんな事を考へ乍らヒヨイと見ると、饅頭を入れた丼と見たのは、三日前に盜まれた名物の茶碗。

「あツ、これは何うだ」

其處へ來合せた友白は饅頭を投り出して、茶碗を掻い抱くやうに、右から左から、ためつすかしつ、<ruby><rb>鵜</rb><rt>う</rt></ruby>の毛で突いた程の<ruby><rb>瑕</rb><rt>きず</rt></ruby>も見落さずと調べて居ます。

「坊つちやん、ちよいと待つた」

平次は飛付いて、危ふく隣りの子を押へました。

「好い子だ、あの饅頭は何處から持つて來たか、教へておくれ」

「おいらのせゐぢやないや、放しておくれよう」

物々しさに<ruby><rb>怯</rb><rt>おび</rt></ruby>えて泣き出しさう。

其處へ友白の妻やら、隣りの主人やらが來て、<ruby><rb>宥</rb><rt>なだ</rt></ruby>めすかし乍ら聞くと、路地の外で若く美しい女の人に頼まれたとだけは判りましたが、子供のことで、年頃も人相もはつきりした事は言へません。

人間業とは思へぬ<ruby><rb>巧妙精緻</rb><rt>かうめうせいち</rt></ruby>な風太郎の手口を見ると、決して二人や三人の仕事ではなく、異常な<ruby><rb>頭腦</rb><rt>あたま</rt></ruby>と體力を持つたたつた一人の仕業に相違ないといふことがよくわかります。して見ると、盜んだ品物を返しに來る、あの若くて美しい女といふのが、怪盜風太郎本人でなければなりません。

一體、何の爲に盜んで、何の爲に返すのでせう。返つて來た小判や茶碗を見ると、疑ひもなく元のまゝの<ruby><rb>眞物</rb><rt>ほんもの</rt></ruby>で、贋物と摺り替へた形跡は少しもなく、あんなに骨を折つて盜つた癖に、<ruby><rb>鐚錢</rb><rt>びたせん</rt></ruby>一枚身に着けないのですから、この泥棒の目的ばかりは全く見當も付かないのでした。

怪盜風太郎と言ふのは、若くて美しい女ださうだ――といふ噂は、その日のうちに江戸中に<ruby><rb>擴</rb><rt>ひろ</rt></ruby>がつてしまひました。

## 五

「平次、又風太郎だ」

「へエー、今度は何處へ入りました」

與力笹野新三郎に<ruby><rb>喚</rb><rt>よ</rt></ruby>び付けられた平次、面白次第もなく差し俯向きました。怪盜風太郎が江戸を荒し始めてからザツト三月、江中の岡つ引が、腕に<ruby><rb>撚</rb><rt>より</rt></ruby>を掛けて<ruby><rb>競</rb><rt>きそ</rt></ruby>ひましたが、何としても捉まへることが出來ません。特に捕物の名人とか何とか言はれて居る錢形の平次、與力筆頭笹野新三郎から特別の言葉があつた丈けに、穴があつたら入りたいほど耻ぢ入つて居ります。

「今度は少し困つた事になつた」

「と仰しやると」

「<ruby><rb>小日向</rb><rt>こびなた</rt></ruby>に屋敷を持つて居られる赤井左門殿、二千八百石を<ruby><rb>食</rb><rt>は</rt></ruby>んで、旗本中でも屈指の家柄だ。知つて居るであらうな」

「殿樣は四十がらみの立派な方、尚上樣の御覺えが目出度いといふ評判で御座いますな――よく存じて居ります」

「それなら話し宜い。實は――その赤井左門殿のところへ風太郎が入つた」

「へエ――」

「盜つたのは物もあらうに、<ruby><rb>上樣</rb><rt>うへさま</rt></ruby>お聲掛りで勘定奉行から引渡された千兩箱が二つ」

「エ――ツ」

これには平次も驚きました。千兩箱が二つと言ふと、金の相場で今日の四百萬圓位、物價の比例で割り出すと四五百萬圓にも當る大金です。

それに、この千兩箱は並大抵の品ではありません。尚上樣家光公が、京都の<ruby><rb>空與上人</rb><rt>くうよしやうにん</rt></ruby>をことの外御信心で、<ruby><rb>上人</rb><rt>しやうにん</rt></ruby>の爲洛北に一<ruby><rb>宇</rb><rt>う</rt></ruby>の堂を<ruby><rb>建立</rb><rt>こんりふ</rt></ruby>する爲、二千兩の寄進に付きましたが、表沙汰になると、何かと手續きが面倒、そつと勘定奉行に内意を含め、日頃目を掛けて居る<ruby><rb>安祥</rb><rt>あんしやう</rt></ruby>旗本中でも家柄の赤井左門を使者に立てゝ、別に家光公直々の祈願文を<ruby><rb>認</rb><rt>したゝ</rt></ruby>め、二千兩の大金と一緒に上方へ送ることになつて居たのです。

赤井左門の出發は來月の一日、あと七八日の間、<ruby><rb>御墨附</rb><rt>おすみつき</rt></ruby>と二千兩の大金を、奧の一と間に飾つて、寢ずの番を附けるやうにして守護したのですが、何處に隙があつたものか、一と晩の内に、千兩箱二つ煙の如く消えてしまつたのです。

御墨附が無事だつたのは、不幸中の幸ひですが、手元<ruby><rb>不如意</rb><rt>ふによい</rt></ruby>の赤井左門が、<ruby><rb>八所借</rb><rt>やところがり</rt></ruby>をしたところで、二千兩といふ大金の工面が付きません。出發の日までにこの金の工面が付かなければ、赤井左門腹を切つても申譯しなければならぬ仕儀、工夫に餘つて、日頃<ruby><rb>眤懇</rb><rt>ぢつこん</rt></ruby>にして居る笹野新三郎に相談もして見ました。町方與力は係りが違ひますが、若年寄に訴へ出たところで、何うにもなるものではなく<ruby><rb>下手</rb><rt>へた</rt></ruby>に表沙汰にすると、腹切道具ですから、筋違ひ乍ら町方の新三郎に持ち込んで來たのです。

「斯う言ふわけだ。平次、一と骨折つて見てはくれまいか」

笹野新三郎、改めて若い平次の顏を<ruby><rb>頼母</rb><rt>たのも</rt></ruby>し氣に見詰めるのでした。

「それはお氣の毒なことで御座いますが、風太郎の仕業と決まれば、三日經たないうちに戻つて參りませう」

「それがいけない」

「と仰しやいますと？」

「盜られてから今日が五日目だ。さすが風太郎も、二千兩といふ大金に眼がくれたと見えるな」

「そんな事は御座いません」

「お前は大層風太郎の肩を持つが、返つて來る見込でもあると言ふのか」

「兎に角、赤井樣のお屋敷の中を拜見さして頂きたいものですが、お言葉添えを頂けますで御座いませうか」

「それは何でもない事だ。後刻平次と言ふ御用聞を<ruby><rb>遣</rb><rt>つかは</rt></ruby>しませうと、はつきり斷つてある」

「それでは一と走り」

「あ、これ〱平次、赤井殿の出發の日取りはあと三日の後に迫つて居る。それまでに千兩箱が二つ揃つて返らないと、お氣の毒乍ら赤井殿は腹を召さなければならぬ。解つたらうな」

「仰しやる迄も御座いません。今度は平次も死物狂ひで、キツト風太郎を引つ捉まへて參りませう」

錢形の平次は八丁堀から小日向へ、初夏の<ruby><rb>街</rb><rt>まち</rt></ruby>を大汗になつて馳け付けました。

## 六

旗本赤井左門は、此時四十二の<ruby><rb>厄年</rb><rt>やくどし</rt></ruby>、家柄も人品も不足のない人物ですが、少し<ruby><rb>疳癖</rb><rt>かんぺき</rt></ruby>の強いのが<ruby><rb>瑕</rb><rt>きず</rt></ruby>で、若い時分には、それでいろ〱問題を起しましたが、四十を越すとさすがにそれも納つて、近頃は尚上樣家光公の側近くに仕へて重寶がられて居ります。

「平次とか言つたな、飛んだ手數を掛けるが、何分宜しく頼むぞ」

「へエ――」

二千八百石の殿樣から、泥棒の手口を聽くわけにも行きません。平次は一度左門の前を滑つて、用人の足尾喜内から、何彼と其日の樣子を聽き取りました。

盜まれのは小判で二千兩、これは型の通り四<ruby><rb>方金具</rb><rt>はうかなぐ</rt></ruby>の嚴重な箱に入れられて、御墨附と一緒に奧座敷の床の間に飾り、隣の間には足尾喜内や家中の若侍、若黨などが交代で寢ずの番をして居りました。

箱一つの重さは中味の<ruby><rb>黄金</rb><rt>こがね</rt></ruby>だけで四貫目、箱を加へると五貫目になりますから、二つ抱へると十貫目、餘程の力がないと持ち出せません。

門も木戸も内から<ruby><rb>鎖</rb><rt>とざ</rt></ruby>されたまゝになつて居たと言ひますから、邸内に手引の者がない限り曲者は塀を越えて逃げたものと思はなければなりませんが、邸内に住んで居るのは、赤井左門の家の子郎黨達ばかり、<ruby><rb>草履取</rb><rt>ざうりとり</rt></ruby>や中間まで、千葉の領地から呼んだ正直者ばかりですから、そんな大それた人間は居る筈もありません。

さうすると曲者は、五貫目の千兩箱を二つ抱へて、一丈あまりの高塀を越して逃げたことになりますが、これは一寸人間業では出來さうもない離れ業です。まして、世間の評判通り、風太郎が若くて美しい女だとしたら、一體どんな事になるでせう。

平次は腕を<ruby><rb>拱</rb><rt>こま</rt></ruby>ぬいて考へました。

「ガラツ八、<ruby><rb>手前</rb><rt>てめえ</rt></ruby>その塀へ這ひ昇つて見な」

「へエ――」

「身體も氣も輕いのが自慢のお前ぢやないか、それ位の事は出來るだらう」

「出來ねえことはありませんが、泥棒の眞似は氣がさすな」

「何をつまらねえ、氣取つたつて<ruby><rb>褒</rb><rt>ほ</rt></ruby>めちややらないよ」

ガラツ八到頭あきらめて、塀へ飛び付きました。高いと言つても板塀ですから、内側からなら這ひ登れないことはありません。

「よし〱、塀の越しつぷりが宜いと思つて、惡い料簡を起すな」

「親分、冗談を言つちやいけねえ」

「待て〱、今度は此石を二つ持つて越すんだ、抱へても<ruby><rb>背負</rb><rt>せお</rt></ruby>つても構はねえ」

「こいつア無理だよ、親分」

「まア、やつて見な、無事に越せたら石は手前にやる。家へ持つて歸つて、<ruby><rb>澤庵</rb><rt>たくあん</rt></ruby>の重しにでもするが宜い」

「からかつちやいけねえ」

平次がこんな冗談を言つてる時は、一番眞劍な事を百も承知のガラツ八は、素直に二つの石を背負つて塀を越さうとしましたが、十貫目の荷物を背負つては、どう工夫してもこの塀を越せません。ガラツ八が危ふく引くり返りさうになるのを抱き止めて、

「よし〱もう澤山だ、飛んだ骨を折らせた。サア此方へ來るがいゝ」

引揚げると縁側から見て居る赤井左門の前へ小腰を<ruby><rb>屈</rb><rt>かが</rt></ruby>めました。

「殿樣。千兩箱はお屋敷から持出されちや居ません」

「何？」

左門は今更眼を見張ります。

「三日經つて返して來ないのも可怪しいが、――風太郎だつて<ruby><rb>鬼神</rb><rt>きじん</rt></ruby>ではないでせうから、あの塀を越すにはどうしても一度千兩箱を下へ置くか、塀の上へ載せるか、向う側へ投り出すかしなければなりませんが、風太郎が越したらうと思ふ邊には、そんな跡は一つもありません。下はあの通り土の<ruby><rb>柔</rb><rt>やはら</rt></ruby>かい<ruby><rb>畑</rb><rt>はたけ</rt></ruby>で、重い箱を置けば形位はつきます」

「フーム」

「風太郎は恐ろしい早業ですが、女だらうと言はれて居る位で、決して大力では御座いません。二つの千兩箱はお屋敷の外へ持出されて居ないと申すのは、斯うしたわけで御座います」

「成程、さうもあらうな、餅は餅屋だ――ところでその箱は何處に隱してあるだらう。屋敷の中は大抵探した積りだが――」

赤井左門もすつかり乘氣になりました。

「あの<ruby><rb>泉水</rb><rt>せんすゐ</rt></ruby>の中を御覽なさいましたか」

「ウーム、それは氣が付かなかつた」

それツと言ふと、待て暫しはありません。中間若黨が水門を引つこ拔いて、水もろくに引かない内から飛込んで掻き廻すと、すつかり泥を<ruby><rb>冠</rb><rt>かぶ</rt></ruby>つて居りますが、間違ひもなく二つの千兩箱は、その中に沈められて居るのでした。

## 七

この喜びは長くは續きませんでした。千兩箱を洗ひ清めて<ruby><rb>封印</rb><rt>ふういん</rt></ruby>を直して、明日はいよ〱出發といふ晩、赤井左門の邸はもう一度怪盜に襲はれたのです。

今度盜られたのは、<ruby><rb>空與上人</rb><rt>くうよしやうにん</rt></ruby>に與へる筈の、將軍家光公の<ruby><rb>御墨附</rb><rt>おすみつき</rt></ruby>、これは千兩箱と違つて掛け替がありませんから、赤井左門も全く弱つてしまひました。

「二度まで赤井家を襲ふといふのは容易でない。これは<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>みだな、平次」

「私もさう氣の付いたところで御座いました」

「何しろ、御墨附は容易でない。御苦勞だがもう一度行つて見てくれ」

「へエ――」

さう言はれなくてさへ、張り切つた若駒のやうに飛出さうとして居る平次、いよ〱怪盜風太郎と、人交へもせずに最後の腕比べをしてやらうと思ふと、思はず武者顫ひが全身を走ります。

笹野新三郎に別れて、八丁堀の往來へ出ると、ポンと彈き上げたのは、例の<ruby><rb>錢占</rb><rt>ぜにうらなひ</rt></ruby>の青錢、落ちて來るのを<ruby><rb>平掌</rb><rt>ひらて</rt></ruby>に受けて開くと、それが<ruby><rb>形</rb><rt>かたち</rt></ruby>。

「――吉と來あがる、しめ、しめ」

兩袖を合せてポンと叩くと、そのまゝ<ruby><rb>彌造</rb><rt>やざう</rt></ruby>を拵へて、小日向へ早足になります。

赤井の屋敷に着いて、足尾喜内に案内さして、邸内<ruby><rb>隈</rb><rt>くま</rt></ruby>なく探しましたが、今度は千兩箱と違つて、泉水に沈める筈もなし、全く見當が付きません。

<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>の左門に逢つて、

「人に怨を受ける覺えは――？」

と聽くと、若い時は名題の<ruby><rb>疳癖</rb><rt>かんぺき</rt></ruby>で、隨分横車を押し切つて居るから、何處から怨を受けて居るか、見當も付かないと言ふ有樣、今度は赤井左門も<ruby><rb>萎</rb><rt>しを</rt></ruby>れ返つて、口をきくのもおつくふさうです。

「八、外へ出ろ」

「へエ、喧嘩か始まるんですか」

「馬鹿ツ、そんな<ruby><rb>暢氣</rb><rt>のんき</rt></ruby>な話ぢやねえ。いつぞやお茶の宗匠の饅頭でしくじつた事を知つてるだらう。外を見張れ、家の中には用事がねえ」

「成アる――親分は矢張り親分だけの考へがあるね」

「馬鹿にするな」

二人は表と裏に分れて、二つの入口を見張りました。平次は荒物屋の店先を借りて裏門を見張り、ガラツ八は草つ原に寢轉んで表門を見張ることにしたのです。

それから<ruby><rb>何刻</rb><rt>なんどき</rt></ruby>かたちました。平次は荒物屋の女房の好意で日蔭にも<ruby><rb>澁茶</rb><rt>しぶちや</rt></ruby>にも有り付きましたが、氣のきかない野良犬のやうに、<ruby><rb>小日向</rb><rt>こびなた</rt></ruby>の草原に潜り込んだガラツ八は、眞上から初夏の陽に照りつけられて、氣が遠くなるほど<ruby><rb>干</rb><rt>ほ</rt></ruby>されてしまひました。

陽が漸くかげり始めた頃、近所の惡戯ツ子らしいのがチヨコチヨコと赤井左門の裏門へかゝりました。

ヒヨイと見ると、手には何やら紙片を持つて居る樣子。

「あツ」

平次は荒物屋の店を飛出すと、その子供には眼もくれず、街の左右に素早く眼を配りました。

右手、<ruby><rb>茗荷谷</rb><rt>めうがだに</rt></ruby>へ拔ける方に、一人の女が惡戯ツ子の姿をぢつと見送つて居ります。

「あれだツ」

と思ふと一足飛びに――

それを見た女は、ハツとした樣子で曲り角から吸はれるやうに姿を消してしまひました。

「おのれ、逃してなるものか」

その間僅かに三十歩、平次が道の角へ飛付いた時は、逃げ行く女の姿はなくて反對に、近所の者らしい娘が一人、向うから來てハツと平次に<ruby><rb>鉢合</rb><rt>はちあは</rt></ruby>せしさうになりました。

「アツ」

二人は危ふく飛退きました。

「ちよいと伺ひますが、今此方から逃げて行つた若い女を見ませんか」

「いゝえ」

女はニツコリしたやうでした。狹い道を、平次とすれ〱に通つて、向うへ行かうとするのを、

「待つた」

平次は後ろから帶際を取つて押へました。

「あれツ」

「騷ぐな、お前は風太郎と言はれる曲者に相違あるまい」

「エツ」

「逃げる振りをして、逆に取つて返した手際は、尋常の者には出來ない事だ、それに、お前の聲に覺えがある」

春木町の上總屋の帳場で、平次はこの女の聲を一度聞いて居るのでした。

「いゝえ違ひます」

「神妙にしろ」

<ruby><rb>銀磨</rb><rt>ぎんみが</rt></ruby>き朱房の十手は、平次の手にキラリと光りました。

「ガラツ八來い、捕つたぞ」

「おツ、そいつは有難てえ。この上夜露に打たれると、人間のカキ餅が出來さうだ」

ガラツ八は表の<ruby><rb>草叢</rb><rt>くさむら</rt></ruby>の中から飛び出して、忠實な犬つころのやうに驅けて來ました。

「いよう、此奴は大した代物だ、風太郎てえのはこの新造ですかい」

「さうだらうと思ふ」

「泥棒さしておくのは勿體ねえ」

「馬鹿野郎、何を言ふ」

併し、平次もガラツ八の言葉を<ruby><rb>承認</rb><rt>しようにん</rt></ruby>しないわけには行きませんでした。後ろ手に縛られて、夕陽の中に立つた娘の美しさは、眼も覺めるばかり。解き下げて無造作に束ねた髮、地模樣の<ruby><rb>綸子</rb><rt>りんず</rt></ruby>の帶、町家風の木綿物の小綺麗な袷も身に合つて、何とはなしに清らかさと美しさが<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れるのでした。

## 八

お<ruby><rb>墨附</rb><rt>すみつき</rt></ruby>は返つた――、曲者は捉まつた。赤井左門の屋敷は夕陽に咲いた花のやうに陽氣になりました。

併し、それもほんの暫らく、女が子供に<ruby><rb>托</rb><rt>たく</rt></ruby>して返した御墨附を受取つた赤井左門、手を清めて改めると、御墨附に似せてはあるが、眞赤な<ruby><rb>僞物</rb><rt>にせもの</rt></ruby>の紙片だつたのです。

「おゝ平次を呼べ」

繩付の娘を中間部屋に伴れ込んで、いろ〱責め問うて居る平次は、即刻赤井左門の前に呼出されました。

「平次、御墨附は僞物だぞ」

「エツ」

「出發は明日に迫つて居る。此上手間取つて、萬一表沙汰になつては、<ruby><rb>過怠</rb><rt>くわたい</rt></ruby>の罪は免れ難い。腹を切るのも易い事だが、上樣御墨附を汚した上、赤井の家名を斷絶さしては、何としても忍び難い。頼むぞ平次」

二千八百石取の殿樣が、岡つ引風情に手を合せないばかり。

「――」

平次は默然として考へました。

「明朝までに御墨附が返らなければ、生きてお前に逢ふのもこれ限りだ、――その娘とやらを<ruby><rb>拷問</rb><rt>がうもん</rt></ruby>にかけても、御墨附の<ruby><rb>在所</rb><rt>ありか</rt></ruby>を訊してくれ」

少し亂暴なやうですが、事件を表沙汰にして、町奉行所へ持つて行かれないとすると、これも一つの考へやうでせう。

「宜しう御座います殿樣。御庭先を拜借して、あの娘を拷問にかけませう。どうぞお立ち合ひ下さいまし」

平次は退つて娘を庭先に引出しました。赤井左門から命令があつたものか、庭先には<ruby><rb>高張提灯</rb><rt>たかはりちやうちん</rt></ruby>をかゝげ、番手桶を積み<ruby><rb>荒筵</rb><rt>あらむしろ</rt></ruby>を敷き、俄か事乍らすべてお<ruby><rb>白洲</rb><rt>しらす</rt></ruby>其儘に作つて、往來に向いた庭木戸を眞一文字に開かせました。

<ruby><rb>表沙汰</rb><rt>おもてざた</rt></ruby>になるのを極端に嫌ひ乍ら、これは又何とした事でせう。尤も町内へは屋敷へ女賊が入つて、大事の品を盜んで隱したので、その在所を白状させる爲といふ觸れ込み。退屈し切つて居た、山の手特有の有閑階級人は、『そいつは面白い』と庭木戸から一パイに<ruby><rb>雪崩</rb><rt>なだ</rt></ruby>れ込みました。二千八百石取の旗本のすることで、其上有名な御用聞の錢形の平次が付いて居るのですから、そんな不法の<ruby><rb>折檻</rb><rt>せつかん</rt></ruby>をとがめ立てる人もありません。

娘は庭の眞ん中に敷いた荒筵の上に引据ゑられて荒筵を突き破つて打ち込んだ青竹に、半身裸のまゝ荒繩で縛り上げられました。

<ruby><rb>沓脱</rb><rt>くつぬぎ</rt></ruby>には赤井左門、沓脱の下には錢形の平次、ガラツ八と中間が責手で、この<ruby><rb>殘酷</rb><rt>ざんこく</rt></ruby>な見物が幕を切つて落されたのです。

「娘、その方は近頃世上を騷がす風太郎といふ盜賊に相違あるまい。此屋敷から盜んだ品を何處へ<ruby><rb>匿</rb><rt>かく</rt></ruby>した。いづれは町方與力の手に引渡して、仕置を願ふ其方だが、その前に、この屋敷から盜み取つた品だけは取り上げなければならぬ。サア、眞つ直ぐに白状せえ」

用人の足尾喜内、少し屈つた腰を延して、娘を縛つた青竹の後ろを、<ruby><rb>竹刀</rb><rt>しなひ</rt></ruby>で力任せに引叩きます。

娘は<ruby><rb>猿轡</rb><rt>さるぐつわ</rt></ruby>をはめられて、悲鳴も絶叫も漏らさせないやうにしてあります。が一つ竹刀で打たれる毎に、半裸體の上半身の白い肉がピクピクと<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>へて、荒繩に食ひ込まれた肩から胸をねぢ曲げます。

「手ぬるいぞ喜内、もつと打て」

と赤井左門。

「私が代つてやりませう。さア、娘」

平次は<ruby><rb>竹刀</rb><rt>しなひ</rt></ruby>を取つて立ち上りました。この岡つ引にしては珍らしく人間味のある男、『<ruby><rb>失策</rb><rt>しくじり</rt></ruby>平次』とまで<ruby><rb>綽名</rb><rt>あだな</rt></ruby>される男が、縛つた娘の若々しい肉を、自分から進んで打ち据ゑようとはなんとした事でせう。

高張提灯の薄暗い灯の下に、五六十人も押し重つた町内の人達も、あまりの<ruby><rb>苛酷</rb><rt>かこく</rt></ruby>な<ruby><rb>情景</rb><rt>シーン</rt></ruby>に眼を反けて、非難の囁やきを波打たせます。

「さア、言へ、言ふ氣があつたら、首を三つ縱に觸れ、さうしたら、<ruby><rb>猿轡</rb><rt>さるぐつわ</rt></ruby>を外してやる、大事の品を何處に隱した」

平次の竹刀は續け樣に娘の背に鳴りましたが、娘は身もだえして苦しみ乍ら、何うしても<ruby><rb>在所</rb><rt>ありか</rt></ruby>を言はうとはしません。

「此上は殿樣、この娘を五分試し一寸試しに斬つてやつて下さい。さうでもしなければ口を開くやうな女ぢや御座いません」

「よし」

赤井左門は庭下駄を突つかけて降り立ちました。右手には<ruby><rb>新身</rb><rt>あらみ</rt></ruby>の一刀、<ruby><rb>灯</rb><rt>あかり</rt></ruby>を受けて燒金の如く凄まじく光ります。

## 九

「待つた」

見物の中から飛出した男。

ガラツ八と中間を突き飛ばして、娘の前に大手を擴げて立ちはだかりました。

「何物？」

赤井左門の<ruby><rb>叱咜</rb><rt>しつた</rt></ruby>を<ruby><rb>的面</rb><rt>まとも</rt></ruby>に受けて、

「世間で言ふ怪盜風太郎とは俺の事だ」

<ruby><rb>臆</rb><rt>おく</rt></ruby>れた色もなく言つて退けて、赤井左門と錢形の平次を屹と見据ゑました。年の頃四十五六、小作りで少し<ruby><rb>華奢</rb><rt>きやしや</rt></ruby>な身體ですが、妙に拔目のない身のこなし、商人風とも遊び人風とも付かぬ<ruby><rb>身</rb><rt>み</rt></ruby>裝のうちにも、何かしら一脈の怪奇さがあります。

「曲者ツ、御用ツ」

飛付かうとするガラツ八を尻目に、

「騷ぐなガラクタ、名乘つて出た位えだ、逃げも隱れもしねえ」

落着き拂つて懷へ手を入れます。

「風太郎とはお前だつたのか、<ruby><rb>珊</rb><rt>さん</rt></ruby>五<ruby><rb>郎</rb><rt>らう</rt></ruby>、言ひ分があるなら聞いてやらう」

「お、さすがは平次、よく言つた。下手にあがくと俺の懷の中で御墨附はズタズタになるぞ」

兇賊と御用聞は、ピタリと見合つたまゝ、お互の呼吸を<ruby><rb>測</rb><rt>はか</rt></ruby>つて居ります。赤井左門も足尾喜内も、ガラツ八も、もう二人の眼中にはありません。珊五郎と言ふのは、お藏前で少しは名を賣つた遊び人、これが怪盜風太郎の正體とは、さすがに平次も豫想外だつたのでせう。

「なア平次、お前なら話がわかるだらう、聞いてくれ、斯う言ふわけだ――」

「――」

娘を後ろに<ruby><rb>庇</rb><rt>かば</rt></ruby>ひ乍ら、珊五郎の風太郎は聲を落しました。

「何の<ruby><rb>因果</rb><rt>いんぐわ</rt></ruby>か、俺には物を盜まずに居られねえ病氣があるんだ。身體も輕く、智慧も人並にあるのが身の仇で、人間業で盜めさうもないものを見ると何うしても盜まずに居られねえ。これが持つて生れた俺の弱氣だ。――女房が生きて居る内はまだよかつたが、三年前に女房に死別れてから、どうしても盜み<ruby><rb>癖</rb><rt>ぐせ</rt></ruby>が直されねえ、知つての通り俺は暮しに困るわけぢやなし、金が欲しくて盜みをするわけぢやねえ、――今まで盜んだ金や品を、たつた一つも身につけないのはその爲だ。娘は俺のこの<ruby><rb>癖</rb><rt>くせ</rt></ruby>を心配して、いろ〱意見をしたが何うしても直されねえ、お仕舞にはあきらめて、俺の盜んだものを、自分で元の持主に返して歩いた始末だ。――風太郎といふのは女泥棒だなどといふ噂を聞いて、俺はどんなに氣を揉んだことか、平次察してくれ」

あまりの不思議な物語に、平次も左門も口がきけません。<ruby><rb>珊</rb><rt>さん</rt></ruby>五<ruby><rb>郎</rb><rt>らう</rt></ruby>はそれに構はず、悲痛に顏をふり仰いで續けました。

「ところが、たつた一つ返されねえ品物があつた。それは此屋敷から盜つた千兩箱と御墨附だ。わけを話せば長いが、一口に言つてしまへば、此處に居る赤井左門は、若い時酒の上で、少しばかりの粗相を<ruby><rb>楯</rb><rt>たて</rt></ruby>に、<ruby><rb>隅田堤</rb><rt>すみだづつみ</rt></ruby>の花見の最中、俺を無禮討にしかけた事がある。幸ひ危いところで命だけは助かつたが、其時受けたのが此<ruby><rb>疵</rb><rt>きず</rt></ruby>だ」

顏をヌツと出すと、横疵の珊五郎と<ruby><rb>綽名</rb><rt>あだな</rt></ruby>にまで言はれた刀の跡が、四十男の額口から頬へかけて、斜に赤い線を引いて居ります。

「俺が赤井左門に腹を切らせようと目論んだわけが解つたらう。――千兩箱は重いから泉水へ沈めたが、それを見付けられたので、御墨附を盜んだ迄の事だ。娘が又後生氣を出して、元の持主に返さうとするのは解り切つて居るから、わざと<ruby><rb>僞物</rb><rt>にせもの</rt></ruby>の御墨附を拵へて娘につかましたのだ。――それが<ruby><rb>仇</rb><rt>あだ</rt></ruby>になつて、娘はお前達にこんな目に逢はされる事になつたのは珊五郎一生の<ruby><rb>失策</rb><rt>しつさく</rt></ruby>よ、解つたか平次。――それにしても、縮尻平次と言はれる人氣者のお前が、若い娘をこんなムゴイ目に逢はせるのは何うしたわけだ。今までお前を買ひ被つた俺が<ruby><rb>癪</rb><rt>しやく</rt></ruby>にさはる、この――怨はきつと返してやるぞ、平次」

「珊五郎、よくその娘を見ろ。鵜の毛で突いた程の傷でもあつたら、此平次は大地に手を突いて詫をする」

「何？」

「皆なお前をおびき寄せる<ruby><rb>細工</rb><rt>さいく</rt></ruby>だ。娘が捉つたと聞いたらお前はどうせ此處へ來ずには居られまい」

「畜生ツ」

「さア、それで話は濟んだ、御墨附を置いて、娘を伴れて歸れ。赤井の殿樣は、あの通り若い時の<ruby><rb>過</rb><rt>あやま</rt></ruby>ちを詫びて居らつしやる」

さう言はれて振り向くと、なる程赤井左門は耻ぢ入る樣子で珊五郎の方へ默禮して居りました。

「本當なら繩を打つて引立てる所だが、平次の眼の屆かねえところへ行くなら許してやる。解つたか珊五郎」

「ウーム」

珊五郎は暫らく默り込んで、青竹に縛られた娘の<ruby><rb>恙無</rb><rt>つゝがな</rt></ruby>い顏と、左門と平次の敵意のない顏を見比べました。

×　　　　　　×　　　　　　×

錢形平次は、斯うして又<ruby><rb>縮尻</rb><rt>しくじり</rt></ruby>を一つ重ねました。風太郎と言はれた怪盜珊五郎は、その場から行方知れず、赤井左門は翌る日都への旅路に上りました。

「平次、又盜賊を逃したさうだな、お前の道樂にも困つたものだ」

さう言ふ笹野新三郎の小言は、何と言ふ甘いなつかしいものだつたでせう。

「へエ――」

平次は其前にひれ伏して、一言もありません。