## 一

浪人大澤彦四郎は、まことに評判の良い人でした。金があつて情け深くて、人柄が<ruby><rb>穩</rb><rt>おだや</rt></ruby>かで、これが昔、人斬庖丁を二本、腰にブラ提げて、肩で風を切つた人とは、どうしても受取れないほどの<ruby><rb>物柔</rb><rt>ものやはら</rt></ruby>かな中老人だつたのです。

中老人と言つても、五十になるやならずで、男前も立派、武藝のほどは知りませんが、金も相當以上に持つてゐるらしく、<ruby><rb>分</rb><rt>ぶん</rt></ruby>に過ぎた<ruby><rb>慈悲善根</rb><rt>じひぜんこん</rt></ruby>を<ruby><rb>施</rb><rt>ほど</rt></ruby>こして、その日〱を豊かに暮して居るのに、少しも困る樣子は無いばかりでなく、益々富み榮えて、『あれは金の<ruby><rb>實</rb><rt>な</rt></ruby>る木でも植ゑてゐるのだらう』と、近所の人たちから噂されたほどです。

この大澤彦四郎が、殺されかけたのですから、世の中は全く<ruby><rb>出鱈目</rb><rt>でたらめ</rt></ruby>といふ外はありません。

二月になつたばかりといふ、ある寒い晩でした。主人の大澤彦四郎、外から歸つて來ると、自分の家の前に、<ruby><rb>踞</rb><rt>うづく</rt></ruby>まつて苦しんでゐる、一人の若い女を見かけたのです。

夜はもう、<ruby><rb>亥刻</rb><rt>よつ</rt></ruby>（十時）過ぎだつたでせう。

「これ、どうなされた、大層、苦しさうではないか」

彦四郎が聲を掛けると、

「ハイ、有難うございます、私、この持病がございますので、俄かの差込みで、苦しんで居ります」

月の無い晩で、見當もつきませんが、聲の樣子では、いかにも苦しさうで、しかもさう言ふうちにも、苦しさがコミ上げるのか、キリキリと齒を<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>んで居ります。

「それはお氣の毒、この寒さに、地べたに坐つて居ては、持病が無くとも、差込みが起るだらう、まア、家へ入られるが宜い」

大澤彦四郎は、斯う言つた親切な男だつたのです。腰に差して居た、たしなみの脇差を後ろ腰に廻すと、大地に<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>ひ廻つてゐる女の人を助け起し、さて、自分の家の前まで抱へて來て、家の者を起しました。

「ハイ〱唯今」

戸を開けてくれたのは、下女のお近といふ中年女、<ruby><rb>内儀</rb><rt>ないぎ</rt></ruby>のお徳も奧から聲を聽いてやつて來て、

「お歸り遊ばせ、まア、おつれ樣で」

と、若い女を見て、少し變な顏をして居ります。

「なに、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つれ</span>といふわけでは無い、ツイ其處で、苦しんで居られるのを見付けて、お氣の毒だから、お連れ申したのだ、早速お醫者でも呼ぶが宜い――」

「まア、それは、それは」

内儀も少し困つて居る樣子です、主人彦四郎の善根癖には、毎々手を燒いて居るのです。

「いえ、お醫者樣にも及びません、<ruby><rb>持藥</rb><rt>ぢやく</rt></ruby>も用意してあります、少し休まして<ruby><rb>戴</rb><rt>いたゞ</rt></ruby>けば――」

いくらか、氣分だけでも落着いたものか、靜かに顏を擧げました。

見ると、なか〱の良い<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きりやう</span>です。年の頃は、二十二三にもなるでせうか、身なりも<ruby><rb>賤</rb><rt>いや</rt></ruby>しくは無く、物言ひも上品に<ruby><rb>確</rb><rt>しつか</rt></ruby>りして居ります。

その時、

「どうなされた、――御病人を拾つた？　それは〱」

奧から出て來たのは、瀧山誠之進といふ、二十五六の若い浪人者でした。これは知人の紹介で三月ばかり前に、北の國から、江戸表へやつて來て、大澤彦四郎の厄介になり、新しい<ruby><rb>勤口</rb><rt>つとめぐち</rt></ruby>などをさがして居たのです。見たところ、いかにも實直さうな人物で、まだ<ruby><rb>國訛</rb><rt>くになまり</rt></ruby>も取れませんが、主人大澤彦四郎の、度を域した親切には、心から賛成し兼ねる樣子です。

「まア、さう言はずにに、皆んなで<ruby><rb>勞</rb><rt>いた</rt></ruby>はつてやるが宜い」

主人彦四郎は、委細構はず病人を一と間に案内させ、下女のお近に言ひつけて、何彼と介抱をさせました。その手當がよかつたのか、旅の女は醫者にも及ばず、そのまゝスヤスヤと眠つた樣子。

「それは良かつた、後をよく戸締りして、皆んなも休むが宜い」

主人夫婦始め、娘のお清も、掛り<ruby><rb>人</rb><rt>うど</rt></ruby>の瀧山誠之進も、下女のお近も、床へ入つたのは<ruby><rb>子刻</rb><rt>こゝのつ</rt></ruby>（十二時）近い頃。

騷ぎはその晩から起つたのです。

## 二

「親分、赤坂田町の、變な話をお聞きでしたか」

八五郎が、その報告を持つて來たのは、三日も<ruby><rb>經</rb><rt>た</rt></ruby>つてからでした。

「いや知らないよ、田町に何があつたんだ」

錢形平次は、珍らしく<ruby><rb>隙</rb><rt>ひま</rt></ruby>でした。日頃無精を賣物にして居る癖に、八五郎が事件を持つて來てくれなければ、退屈病の方に取つかれて、どうにもならない平次でもあつたのです。

「田町の大澤彦四郎といふ、<ruby><rb>工面</rb><rt>くめん</rt></ruby>の良い浪人者が、軒下に<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>つてゐる急病人を助けたばかりに、危なく殺されかけたといふ話ですよ」

「で、どうしたのだ」

「その急病人といふのは、泥棒の廻しものだつたんですね、大澤彦四郎の家は、金はうんとあるが、用心深くて容易に忍び込めない、その上主人の彦四郎の外に、居候の瀧山誠之進といふ、いかにも強さうな浪人者が居るから、泥棒だつてうつかりしたことは出來ない」

「フーム」

「そこで、泥棒野郎が、女房か娘か、兎も角、若くて綺麗なのを急病人に仕立て、大澤家の軒下で、ウンウン<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>らせたに違ひありません。大澤彦四郎、分別者の五十男だ。相手が若くて綺麗で、夜の<ruby><rb>亥刻</rb><rt>よつ</rt></ruby>過ぎ、冷たい大地の上を這ひ廻つてゐると、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>だつてツイ聲をかけて見たくなるでせう」

「お前を引合ひに出す迄もないよ、それからどうした」

「藥を呑ませて、布團をかけて、そつと寢かしてやると――」

「作が多いな、お前の話は、見て居たわけぢやあるめえ」

「見て居なくたつてわかりますよ、<ruby><rb>細面</rb><rt>ほそおもて</rt></ruby>の蒼白くはあつたが、良い女だつた相ですよ、それが夜中にそつと起出して、内から締りを<ruby><rb>外</rb><rt>はづ</rt></ruby>して、相棒を引入れたんですね、――女が家の中の案内を見て置いたものか、いきなり泥棒は主人の部屋に忍び込み、金を搜してゐるところを、主人彦四郎目を覺して、泥棒ツと來た」

「――」

「幸ひ廊下に<ruby><rb>灯</rb><rt>あかり</rt></ruby>はあつたので、――泥棒はそれを頼りに金を搜して居たんですね、兎も角、二人で切り結んだが、泥棒の方は若くて腕もよかつたか、主人の得物を叩き落して、小手と肩先を二た太刀斬つた」

「で？」

平次もツイ乘出しました、いつも八五郎はこの話術で、無精者の平次を引出すのです。

「放つて置けば、主人彦四郎、間違ひもなくやられたことでせうが、幸ひに居候の瀧山誠之進、こいつは腕が良いさうで、――それに怪しいことがあつて、内々要愼はして居たといふことですよ」

「怪しいことゝ言ふと」

「旅の女を助けて、部屋へ入れたとき、何氣なく觸つたら、女は懷ろに短刀を持つてゐたので、こいつは油斷がならないと思つた相ですよ」

「フン、よく氣が付いたな」

「騷ぎを聞くとすぐ飛出し、曲者の<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>から、物も言はずにたゞ一と太刀に斬つて捨てた」

「フーム」

「曲者は死んでしまつたが、女はそれつ切り姿を見せない、逃げてしまつたんですね、斬られた曲者は四十過ぎの、<ruby><rb>逞</rb><rt>たく</rt></ruby>ましい男だつた相で」

「主人はどうした、怪我は？」

「幸ひ助かりましたよ、傷は淺かつた相で、左の小手は少しひどかつたが、肩は寢卷の上からでほんのかすり傷で、いづれにしても十日經つたら、元通りになるでせう、ところで」

「まだ話があるのか」

「これからが面白いんで」

「何が面白いんだ」

「主人の大澤彦四郎は、すつかり喜んで、三月前に轉げ込んだ居候の瀧山誠之進に、腕と心掛が無かつたら、自分は間違ひもなくやられるところであつた、このお蔭には、身代を半分やるか、娘お清の聟になつてくれるか、と牡丹餅で<ruby><rb>頬</rb><rt>ほつ</rt></ruby>ぺたの申出でだ」

「あり相もないことだな」

「ところが、面白いのは」

「まだ面白い話があるのか」

「瀧山誠之進は、それをピタリと斷つた、そんな事で、<ruby><rb>莫</rb><rt>ばく</rt></ruby>大な身上をわけて貰ふのも心苦しいし、お孃さんの氣もわからないのに、聟などは以ての外とね」

「立派だな」

「身上はいくらあるか知らないが、娘を斷るのは氣が知れませんよ、大澤家の娘お清といふのは、十八になつたばかり、ポチヤ〱した、滅法可愛らしい<ruby><rb>娘</rb><rt>こ</rt></ruby>で」

「そんな事を考へるのは、お前ばかりだらう」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>はまだ手輕な方で、――あの娘は赤坂から麻布へかけての評判ですぜ、あの娘が貰へるなら、あつしだつて、身上は此方から<ruby><rb>熨斗</rb><rt>のし</rt></ruby>をつける」

「貧乏人は皆んな、そんなことを言ふよ、お前には熨斗をつける身上がいくらあるんだ」

「さう言はれると面目次第も無いが」

八五郎の話はざつと斯んなものでした。事件がそれ丈けで濟めば、よくある泥棒の手と考へて、話の種が一つ<ruby><rb>殖</rb><rt>ふ</rt></ruby>える丈けですが、それから續いて起つた事件の深刻さに、さすがの平次も舌を捲く外は無かつたのです。

## 三

それから十日ばかり、月が明るくなつて、夜の町もほの暖くなつた頃のこと、赤坂田町の浪人、大澤彦四郎の女房お徳が、娘の部屋で斬られて死んでゐたのです。

八五郎の早耳は、早くもそれを嗅ぎ出すと、

「親分、少し遠いが、赤坂御門外までお願ひしますよ、何が何んでも、同じ家で二人殺されちや放つて置けません」

明神下の平次のところへ飛んで來ました。

「尤も、その一人は泥棒ぢや無いか」

「泥棒も人間に變りはありません」

「理窟を言ふな、今日は暇で〱仕樣が無いから、何處までも行つてやるよ」

その頃平次は江戸中の御用聞を押へて、八丁堀からも、フリーランサーとして、何處のどの事件にでも、勝手に働くやうにといふ、勝手務めの許しを受けて居りました。八五郎はそれを嬉しがつて、『錢形の親分は大したもんさ、町方の勝手務めは、御政道の方で大久保彦左衞門樣見たいなものだ』と勝手なことを言つて居ります。

二人が赤坂田町へ着いたのはもう晝過ぎ、その頃の役人の呑氣さで、幸ひまだ檢死も濟んで居りません。

「錢形の親分が來てくれた？　それは有難い」

と主人大澤彦四郎は、まだ左手に繃帶を卷いたまゝ、大喜びで迎へてくれました。

「飛んだことで御座いましたな」

「いや、災難と申す外は無い、家内は人に<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>みを受ける筈も無し」

彦四郎もひどく困惑してゐる樣子です。五十と聽きましたが、苦勞をしたせゐか、ひどく<ruby><rb>老</rb><rt>ふ</rt></ruby>けた感じで、慈悲善根を積み、世間の評判も良い人にも拘らず、何んとなく<ruby><rb>鋭</rb><rt>するど</rt></ruby>さと<ruby><rb>棘々</rb><rt>とげ〱</rt></ruby>しさと、わざとらしさを感じさせる人柄です。

内儀のお徳の殺されてゐるのは奧の六疊で、本來は娘お清の部屋で、調度も可愛らしく、死骸を寢かしてある布團も娘らしく、何んとなく痛々しさを倍加します。

「――」

默つて平次に挨拶したのは、居候の瀧山誠之進、二十五、六の、これは立派な武家です。色の淺黒い、<ruby><rb>顏容</rb><rt>かほかた</rt></ruby>ちの引締つた、腕前も相當らしく見え、立居振舞にも<ruby><rb>節度</rb><rt>せつど</rt></ruby>があります。その前、母親の死骸に寄り添ふやうに坐つてゐるのは、娘のお清といふ美しいの、八五郎が前觸れしたやうに、それは父親の彦四郎には似もつかぬ、いかにも可愛らしい娘です。こんなのは少しの作爲もなくて、若さだけで人を<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>きつけるでせう。

殺されてゐる母親のお徳は、四十五六のまだ若さの殘る――といふよりは、死も、<ruby><rb>齡</rb><rt>よはひ</rt></ruby>も非凡の美しさを抹消し切らぬ、不思議な女でした。傷は右の喉を一と突き、曲者は刄物も拔かずに逃げた相で、恐らく突いてから暫らく、寢卷と布團で、その顏を押し包み、聲を立てさせなかつたでせう。

「頭から<ruby><rb>布團</rb><rt>ふとん</rt></ruby>を冠つて居りました、何しろ大變な血で、一應は綺麗にしてやりましたが、御檢死前のことですから、そのまゝにして置きました」

と主人彦四郎は説明してくれます。

「お孃さんの御部屋に寢んで居られたのは、どういふわけで」

平次は、何よりそれが氣になりました。

「麻布市兵衞町の叔母――これは家内の妹ですが――それが急に話があるからと、娘を呼び寄せ、今夜は泊らせるからと、夕方使が參りました、丁度家内は<ruby><rb>風邪</rb><rt>かぜ</rt></ruby>の氣味で、私に遠慮をして、晝過ぎから娘の部屋に寢んで居りましたが、娘が先方へ泊るなら、私は一と晩此部屋に休んで汗を取り度いと、斯樣に申してそのまゝ娘の部屋に寢んでしまひました」

「――」

「<ruby><rb>今朝</rb><rt>けさ</rt></ruby>になつて、お勝手の隣の<ruby><rb>雨戸</rb><rt>あまど</rt></ruby>が<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いてゐるので、下女のお近が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">びつくり</span>して此處を覗いて見ると此有樣で、――何が何やら、私にも一向わかりません」

主人彦四郎は、困じ果てゝ額を叩くのです。

「刄物は？」

「娘の手<ruby><rb>筥</rb><rt>ばこ</rt></ruby>に入つて居た、たしなみの短刀で、無銘乍ら良いものでした」

「其處に短刀があるといふことは、誰と誰が知つて居ました？」

「家中の者は、皆んな知つて居ります、尤も瀧山さんは御存じないかもわかりませんが、娘は呑氣で、いつでも小机の上に手筥を置いてありますから」

主人は小さくなつてゐる娘のお清を振り返つて言ふのです。

「いや、私もよく知つて居ります。その<ruby><rb>手筥</rb><rt>てばこ</rt></ruby>は廊下を通るとよく見えます、それに、どうかすると、手筥は開けつ放しになつて居りますから」

瀧山誠之進は、きまじめに斯んことを言ふのです。

「すると、曲者はお孃さんを殺す積りで、間違つて御内儀を殺したといふことになりさうですが」

「私もそれを考へて居ります」

彦四郎は、また額を叩きました、この根強い疑が、頭から離れない樣子です。

「お孃樣を怨む者は？　御縁談のことなどで」

「縁談はいろ〱ありました、特に御隣の松倉<ruby><rb>至</rb><rt>いたる</rt></ruby>樣――」

「あれお父樣、そんな事を」

娘のお清はあわてゝ父親の言葉を<ruby><rb>遮</rb><rt>さへぎ</rt></ruby>ります。

## 四

曲者の入つた場所は、お勝手の隣の四疊半で、十日前に、旅の女を泊めた部屋とわかると、

「そいつは、あの女ぢやありませんか、戸締りを見定めて置いて、外から開けられる仕掛位は<ruby><rb>拵</rb><rt>こさ</rt></ruby>へたかもわかりませんね」

八五郎は獨り言をいひ乍ら、下女のお近に案内させてお勝手の方へ行きましたが、やがて、家中に響き渡るやうな聲で、

「親分、親分、思つた通りですよ、ちよいと見て下さい」

とわめくのです。

「何んだ騷々しい」

兎も角も行つて見ると、

「これ此通り、雨戸の下の<ruby><rb>棧</rb><rt>さん</rt></ruby>は、落ちないやうに、敷居の穴に土が<ruby><rb>詰</rb><rt>つま</rt></ruby>つて居るし、上の棧は外からでも、釘一本で引おろせるやうに、雨戸に隙間を拵へて細工がしてありますよ」

八五郎の得意らしさは相當のものでした。

「どれ〱」

平次もこれは承服しないわけに參りません。敷居の穴は、小石<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>りの土でよく詰めてあり、上の棧はまた、外からでも、<ruby><rb>錐</rb><rt>きり</rt></ruby>か<ruby><rb>釘</rb><rt>くぎ</rt></ruby>で、すぐおろせるやうに、隙間をこさへて、巧みな細工がしてあるのです。

「ね、さうでせう、親分、あの旅の女にきまつてるぢやありませんか」

「さうかも知れないが――」

平次はまだ腑に落ちない顏をするのです。

「外に、こんな細工をする者は無いぢやありませんか、ね、親分」

「だがな八、<ruby><rb>敷居</rb><rt>しきゐ</rt></ruby>の穴を詰めた土は少し<ruby><rb>生濕</rb><rt>なまじめ</rt></ruby>りだし、雨戸の<ruby><rb>隙間</rb><rt>すきま</rt></ruby>は、外からだつて拵へられるぜ」

「そんな事を言つたつて親分、外からぢや上の棧がどの邊にあるか、一寸見當はつきませんよ」

八五郎は<ruby><rb>頑固</rb><rt>ぐわんこ</rt></ruby>に言ひ張るのです。

念のため平次は、元の部屋に戻ると、一人母親の死骸の番をして居る娘を、そつと縁側に呼び出して、

「佛樣の前では訊き憎いが、――近頃お孃さんに執つこく言ひ寄つた男はありませんか、大事なことだから、打ち開けて話して下さい」

「――」

平次は言葉を盡しましたが、相手を<ruby><rb>庇</rb><rt>かば</rt></ruby>つて居るのか、お清は默つてモヂモヂするばかりです。

「瀧山誠之進さんは、變なことはありませんか」

「いえ、あの方は、立派な方で」

お清は心からさう信じて居る樣子です、自分の聟にと言はれたのを、一言の下に斷つた位ですから、それを娘心に深く感じて居るのかもわかりません。

「お隣の松倉樣といふのは、どんな方です」

「矢張り御浪人で、立派なお方ですが――」

が――と言つて默つてしまつたところに、何んか含みがありさうです。

「昨夜麻布の叔母樣のところにお泊りになつたことは、皆樣御存じだつたでせうね」

「はい」

「松倉樣も」

娘は覺束なくも首を振りました。

これ以上は何を聽いてもわかりさうも無いので、平次は宜い加減にして、店の方の雜用を手傳つてゐる、浪人瀧山誠之進に逢ひました。

「瀧山樣、昨夜は何處に在らつしやいました」

平次の間は無造作です。

「私の部屋にゐたよ、何んにも知らずに」

「お部屋は？」

「此部屋の隣、昔は奉公人の部屋だつたといふが」

「お孃樣が<ruby><rb>麻布</rb><rt>あざぶ</rt></ruby>へお泊りになつたことは御存じでせうね」

「知つて居るとも」

「若しか、近頃、――あの怪しい旅の女といふのを見掛けなかつたでせうか、十日前に泊つた、あの女を」

平次は思ひも寄らぬことを問ひかけるのです。

「見掛けさへすれば、有無を言はさず<ruby><rb>捉</rb><rt>つか</rt></ruby>まへるが、<ruby><rb>薩張</rb><rt>さつぱり</rt></ruby>見掛けない、――尤も、下女のお近は、姿は變つて居たが、あの女らしいのが、ウロウロして居るのを見たやうな氣がすると言つて居たよ」

「いや有難う御座いました、改めて、下女からも訊くことにいたしませう」

平次は瀧山誠之進に別れると、お勝手から下女のお近を誘ひ出しました。

早速その怪しい女を見掛けたといふ話を確かめると、

「さあ、はつきりした事は申上げられませんが、<ruby><rb>溜池</rb><rt>ためいけ</rt></ruby>で、フトそんな女の人を見掛けたことがあります。良い女でした、蒼白い品の良い顏を見違へる筈もありませんが、何分、お<ruby><rb>高祖頭巾</rb><rt>こそづきん</rt></ruby>を<ruby><rb>冠</rb><rt>かぶ</rt></ruby>つて居たので、覗いて見るわけにも參りません」

お近はなか〱雄辨に答へました。四十前後の、出戻りらしい達者さうな女で、少し<ruby><rb>鐵棒</rb><rt>かなぼう</rt></ruby>引らしいところも、平次には<ruby><rb>誂</rb><rt>あつら</rt></ruby>へ向でした。

「お前は、此家に何年位居るんだ」

「三年になりますが、今年の出代りには、下總の家へ歸らして頂き度いと思ひます」

「氣に入らないことでもあるのか」

「飛んでも無い、お給金も<ruby><rb>他家</rb><rt>よそ</rt></ruby>より澤山頂いて居りますし、食物にもお心付にも申分ありません」

「御主人は大そう評判の良い人だな」

「あんな良く出來た方はございません、物貰ひにも、寄附勸進にもイヤな顏一つなさらず、日頃慈悲善根のお心掛けで、本當に申分のない方でございます」

「それで暇を取るといふのはをかしいぢやないか、何が氣に入らないんだ」

「氣に入らないことは一つも御座いませんが」

「それとも、お前に縁談でもあるのか」

「この年で、親分、私はもう」

それでもお近は、女らしい恥らひを見せるのです。醜いと言つても差支のない程の女です。

「それでは、變ぢやないか」

「斯う申しても、親分にはわからないでせうが、此家には、何んとも言へない不氣味なところがございます」

「不氣味といふと」

「脇の下を、冷たい風がスーツと吹き拔くやうな、それは〱嫌な心持で」

「泥棒が斬られたり、御内儀が殺されたりしたのも、その冷たい風のせゐかな」

平次はフト斯んな事を言ひましたが、下女のお近は、その<ruby><rb>冷</rb><rt>ひや</rt></ruby>かしにも乘つて來ません。

「そんなわけぢや御座いませんが」

と甚だ煮え切らぬことを言ふのです。恐らく、愚かな女の感じだけで、斯うと言葉には表現が出來ないのでせう。

「御主人の大澤樣は、何處の御藩中だつた、お前は知つてるだらう」

平次は問を變へました。

「存じません、私が來てから、もう三年になりますが、そんなことは話したこともなく、<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いても<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>らして教へて下さいません」

「亡くなつた御内儀も、それは言はなかつたのか」

「何んにも仰しやいません、尤も麻布の叔母さんが御存じかも知れません、丁度見えて居りますが」

「その方を呼んでくれないか」

「一寸お待ち下さい」

下女のお近はお勝手の方へ行きましたが、間もなく四十二三の町家の内儀風の女が一人、小走りにやつて來ました。

「お待ち遠樣でした、私はお清の叔母でございますが」

勝氣らしく、ハキハキした女です。

「呼び出して氣の毒だつた、外ではない、此家の主人、大澤彦四郎さんは、元何處の藩中だつたか、それを訊き度いのだ、それから若い頃の評判なども判つて居るなら、詳しく知り度いが」

平次の問は平凡そのものです。

「親分の前だが、あれはもう大變な人ですよ」

「といふと」

「嘘つきで、猫つ<ruby><rb>冠</rb><rt>かぶ</rt></ruby>りで、大泥棒で、人殺しで」

殺された内儀の妹、――お清には叔母に當る筈のお山は、姉が死ぬともう、齒に<ruby><rb>衣</rb><rt>きぬ</rt></ruby>を着せずに斯んな事をツケ〱言ふのです。

「それは、大變なことだな」

「皆んな申しませう、私はもう腹が立つて腹が立つて――」

此處まで言つた時、<ruby><rb>母屋</rb><rt>おもや</rt></ruby>の窓に何やら人の影が動くと、お山はプツリと言葉を切りました、心持ち顏が蒼くなつたやうです。

「どうしたんだ」

「今は申上げられませんよ、<ruby><rb>壁</rb><rt>かべ</rt></ruby>に<ruby><rb>耳</rb><rt>みゝ</rt></ruby>ですもの、<ruby><rb>詳</rb><rt>くは</rt></ruby>しいことを知りたかつたら、<ruby><rb>明日</rb><rt>あす</rt></ruby>の晩でも、麻布市兵衞町の私の家へ來て下さい、今晩はお通夜で、明日はお<ruby><rb>葬</rb><rt>とむら</rt></ruby>ひ、――明日の晩は家へ歸つて居りますから」

と言ひ殘して、叔母のお山はヒラリと身を飜しました。誰かに聽かれるのを、ひどく恐れて居る樣子です。

## 五

それから三日目、平次と八五郎は、麻布市兵衞町に向ひました。近い道ではありませんが、春先のポカ〱する日で、足の達者な二人には、大して<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おつくふ</span>ではありません。

「下女のお近は、あの家は不氣味でヒヤリとして居ると言ひましたが、全く嘘ぢやありませんね、<ruby><rb>金</rb><rt>かね</rt></ruby>があつて氣が大きくて、<ruby><rb>贅澤</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>で居心地が良い筈なのに、何んとなく落着かないのは、どうしたわけでせう」

道々、八五郎は斯んな事を言ふのです。

「あの主人の大澤彦四郎といふのは、餘つ程どうかして居るらしいよ、内儀の妹のお山といふのが、あんなに惡く言ふ位だから」

「さうでせうか、それにしては、あの娘は罪の無い顏をして居ますね」

「お前の目からは、十八九の娘は皆んな神樣のやうに見えるよ」

無駄を言ひ〱、麻布に着いたのは晝頃でした、市兵衞町の後家のお山の家といふ。

「あゝあの<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>は大變ですよ」

と道を訊かれた人が唯ならぬ顏色です。

「どうかしましたか」

「お山さんが殺されてゐるんです、賃仕事で暮してゐる一人者だから、近所の人が今朝になつて見附けて大變な騷ぎで」

「そいつは」

平次も驚きました、飛んで行つて見ると、路地の中は押すな〱の騷ぎ、掻きわけて入ると、顏見知りの土地の御用聞が、

「おや錢形の親分、この後家の殺されたのが、神田まで聞えたんで？」

と驚いて居ります。

「いや、わけがあつて、わざ〱神田から逢ひに來たのさ、<ruby><rb>惜</rb><rt>を</rt></ruby>しいことを」

と平次が<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しがります。

調べて見ると、傷は後ろから抱きすくめて<ruby><rb>喉笛</rb><rt>のどぶえ</rt></ruby>をゑぐつたらしく、大變な血ですが、其處には刄物も落ちては居ません。

家の中には紛失物は無いらしく、天井裏からボロ<ruby><rb>片</rb><rt>きれ</rt></ruby>に包んで、少しばかり纒まつた金の出て來たのも、<ruby><rb>後家</rb><rt>ごけ</rt></ruby>らしいたしなみでした。

近所のものに訊くと、

「昨夜は珍らしく客があつたらしく、<ruby><rb>夜中</rb><rt>よなか</rt></ruby>近く話聲はしたが、男か女かわからなかつた」

といふことです。尤も湯も茶も出した樣子はなく、それも當てにはなりませんが、表の戸は開いて居たといふから、人目を忍んで入つた曲者では無ささうです。

宜いあんばいに、赤坂田町の大澤家から、娘のお清と、下女のお近が來て居りました、彌次馬を追つ拂つて、さて、娘のお清を物蔭に呼んで訊くと、

「少しも心當りはございません、父が叔母さんを嫌がるので、私も滅多に、此處へ參つたことがなく、不斷どんな人とお附合して居るか、それもよくわかりません」

と小娘らしい、たより無い答です。

「<ruby><rb>一昨日</rb><rt>をとゝひ</rt></ruby>の晩、お孃さんが此家へ泊つたのは、叔母さんの望みだつたらしいが、あの時何んか打ち開けた話があつたに違ひない、それを打ち開けて下さいな」

「さア、大したことは御座いません、始めからお仕舞まで、縁談のことばかり」

「お孃さんに何んか縁談があつたんでせう、その相手は？」

「お隣の松倉樣と、家に居る大瀧樣」

「それをどうしろと叔母さんは言ふので？」

「叔母さんは、どちらも面白くないから、キツパリお斷わりするやうと、いふんです」

「お孃さんのお考へは？」

「さア」

お清は答を澁りました。

「では、昨夜、田町の家で、外へは出なかつたでせうね」

「お<ruby><rb>葬</rb><rt>とむら</rt></ruby>ひが濟んだばかりで、早く寢んでしまひました」

「寢んでからでも、勝手に出られるでせうね、人に知れないやうに」

「そんな事をするわけはありません」

小娘の頼りなさ、誰を疑ふ氣にもなれない樣子です。

## 六

錢形平次も、この時ほど手を燒いたことはありません、人はもう三人死んで居ります。一人は瀧山誠之進に斬られた泥棒ですが、あとの二人は、何んの<ruby><rb>怨</rb><rt>うらみ</rt></ruby>でどうして殺されたか、全く見當もつかないのでした。

「お前は當分此邊で見張つてくれ、まだ〱こんな事では片附くまい」

八五郎を赤坂新町の兄弟分のところへ預け、平次は兎も角も樣子を見張ることにしました。

それから又不安な日が<ruby><rb>幾日</rb><rt>いくにち</rt></ruby>か過ぎて、

「親分、直ぐお出で下さい、赤坂田町で、又大變なことがありました」

八五郎の使の者が、平次を驚かしたのは、やがて二月も末近い頃です。

使の者では、何が何やらわからず、兎も角も赤坂田町へ飛んで行くと、八五郎が道まで迎へてくれて、

「驚きましたよ、<ruby><rb>斯</rb><rt>こ</rt></ruby>んなわけのわからねえ事つてあるものでせうか」

「まア、落着いて話せ、何があつたんだ」

少し面喰つて居ります。

「旅の女――あの泥棒の手引をした女――蒼白くて品の良い年増が、大澤の家へ<ruby><rb>忍</rb><rt>しの</rt></ruby>び込んで、お孃さんを殺さうとし、首へ<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>を卷いて絞めかけたところへ、あの居候の瀧山誠之進が飛出し、又一刀の下に旅の女を斬り殺してしまひましたよ」

「成る程、そいつは念入りだな、調べ上げて見よう」

平次は大澤家へ入ると、主人はあまりの出來事に、氣分が惡くて寢て居るとやらで、瀧山誠之進が代つて逢ひました。

「その時のことを<ruby><rb>詳</rb><rt>くは</rt></ruby>しく話して下さい」

一應の挨拶がすむと、平次は取あへず瀧山誠之進を相手に始めました。

「私にも何んにもわからない、兎も角、昨夜夜半にお孃さんの部屋で――御内儀が亡くなつたので、此間からお孃さんの部屋は變つて居るが、――變な音がするから、行つて見ると、眞つ黒な<ruby><rb>裝束</rb><rt>しやうぞく</rt></ruby>した者が、お孃さんの首を締めてる、私の入つたのも知らない樣子だ、後ろから引離して、――生け<ruby><rb>捕</rb><rt>どり</rt></ruby>にしなかつたのが手落だが、ツイ縁側へ突き出し、一刀の<ruby><rb>下</rb><rt>もと</rt></ruby>に斬つてしまつた、あとでしまつたと思つたが、どうしやうも無い」

瀧山誠之進はさう言つて<ruby><rb>苦笑</rb><rt>にがわら</rt></ruby>ひするのです。

「どれ、死骸を見せて貰ひませう」

平次はこれ以上のことは訊いても無駄と思つたのか、縁側に<ruby><rb>筵</rb><rt>むしろ</rt></ruby>を掛けてある死骸を見入りました。

二十二三の、それは全く良い女でした、血の氣を失つて、さながら人形のやうに蒼白くなつて居りますが、生きて居る時の美しさが<ruby><rb>偲</rb><rt>しの</rt></ruby>ばれます。

身<ruby><rb>扮</rb><rt>なり</rt></ruby>は至つて粗末で、黒つぽい袷の上に、何やら羽織つて居ります。女と見破られ度くなかつた爲でせう。

肩先を深々と斬り下げられて、成程聲も立てずに死んだことでせう。

平次は八五郎に手傳はせて、人拂ひの上女の着物を<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>いで見ました。

「こいつは<ruby><rb>孕</rb><rt>はら</rt></ruby>んで居ますね、親分」

「何んといふ口のきゝやうだ、可哀想に」

「おや、女の癖に、肌守りをして」

「どれ〱」

平次は血に汚れた袷をはだけると、乳と乳の間に下つて居る、肌守の紐をプツと切りました。

「八、向うを見ろ、あれは何んだ」

「へエ」

八五郎が垣根の方を向いた瞬間、平次は守り袋の中味をそつと拔いて、自分の懷ろ紙を二枚ばかり、小さく疊んで詰めました。

「何んにも見えないのか」

「何んにもありませんね、垣根の向うを雀が飛んで居る丈けで」

「よし〱それぢや、暫らく此守袋を豫つてくれ、女の<ruby><rb>素姓</rb><rt>すじやう</rt></ruby>がわかるだらう」

「へエ」

八五郎に別れた平次は、下女のお近に頼んで娘のお清を呼んで貰ひました。

「お孃さん、何んか氣の附いたことはありませんか、大變なことが始まるかも知れません、どんな事でも言つて下さい」

裏庭へ<ruby><rb>誘</rb><rt>さそ</rt></ruby>ひ出すと、平次は精一杯に問ひかけます。

「さア、何んにもありませんが、唯、近頃私は、三度か四度、殺されるやうな氣がしました。誰かゞ、私を<ruby><rb>狙</rb><rt>ねら</rt></ruby>つて居るんです。フト、<ruby><rb>暗闇</rb><rt>くらやみ</rt></ruby>で人の眼を見たり、――私を狙つて居る不氣味な眼でした、――さうかと思ふと、キラリと刄物を見たり」

「その眼は女でしたか、お孃さん」

「いえ、あの女の人のではありません、あんな<ruby><rb>蒼澄</rb><rt>あをず</rt></ruby>んだ綺麗な眼ではなく、大きくて凄い眼でした」

「それから？」

「<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>、あの女の人が、瀧山さんに引離されて、斬られる時、――あつ、あなた――と言ひました」

「確かに」

「間違ひありません」

お清も此時ばかりは、きつと言ひ切るのでした。

「もう一つ訊かして下さい、お孃さんは何處で生れました、それ丈け聞かして下さい」

「父も母もそれは教へてくれませんでした、でも、越後の長岡だつたと、母が教へてくれたことがあります」

「牧野樣七萬四千石の御藩中だな、――有難う、お孃さん、これで何も彼もわかるでせう、暫らくの間は氣をつけて下さい」

「有難う御座いました」

平次の調べはそれで<ruby><rb>了</rb><rt>をは</rt></ruby>つたわけではありません。

これから八五郎を呼んで、本當の調べに取かゝるのです。

## 七

「親分、調べはわかつたが、大變な<ruby><rb>縮尻</rb><rt>しくじり</rt></ruby>をやりましたよ」

「何をやらかしたんだ」

それは又二三日<ruby><rb>經</rb><rt>た</rt></ruby>つてから、ある日の夕方でした。

「親分に預かつた守袋を、<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>家へ歸る途中で、<ruby><rb>盜</rb><rt>と</rt></ruby>られてしまひましたよ」

「相手は巾着切か、<ruby><rb>素人</rb><rt>しろうと</rt></ruby>か」

「巾着切はあんな間拔けなことはしませんよ、向柳原の路地の入口へ、低い綱を張つて置いて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>が<ruby><rb>躓</rb><rt>つまづ</rt></ruby>いて倒れるところを、上から押へ込んで<ruby><rb>懷中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>を探るんだから」

「成程、<ruby><rb>奪</rb><rt>と</rt></ruby>られる方も間拔けだが、<ruby><rb>盜</rb><rt>と</rt></ruby>る方も良い手際ぢや無いな」

「何んとも相濟みません」

「宜いよ、どうせそんな事だらうと思つたから、あの守袋の中味は拔いてちやんと讀んで置いたよ」

「何が書いてあつたんです」

「牧野飛騨守樣御家中、岸本誠太郎<ruby><rb>妻</rb><rt>つま</rt></ruby><ruby><rb>初</rb><rt>はつ</rt></ruby>とな」

「それは何んです」

「何んでも宜い、今日もあの大澤の娘のお清さんから無氣味なことがあるから、直ぐ來て下さるやうにと使があつたんだ、――斯うなると、<ruby><rb>自棄</rb><rt>やけ</rt></ruby>が手傳つて何をやるかわからない、行つて見ようか」

「何處へ」

「わかつて居るぢやないか」

平次は此時ばかりは、大急ぎで二梃の駕籠を呼び、八五郎と二人飛乘るやうに、赤坂田町に急がせました。

赤坂御門近く來ると、何やら往來がザワザワして居りますが、張り切つた駕籠の足を<ruby><rb>停</rb><rt>と</rt></ruby>めやうもありません。田町の大澤彦四郎の家へ着くと、中はまさに、<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>くやうな騷ぎです。

「何うした何うした」

飛込むと、中から駈け出した下女のお近、

「こんな事になる前に、私は下總の家へ歸らうと思つたのに、どうしても暇をくれないから」

とオロオロして居ります。

「主人の彦四郎さんがどうかしたのか」

「殺されましたよ、親分」

「到頭、――相手の瀧山誠之進は？」

平次はもう何も彼も見通して居る樣子です。

「どうして、親分に、そんな事が」

驚いたのは八五郎でした。

「いや、さう來なくちやならなかつたんだ」

「平次親分、御助力を願ひ度い、拙者はお隣に住んでゐる<ruby><rb>松倉至</rb><rt>まつくらいたる</rt></ruby>と申すものだが」

若い立派な浪人者が側から聲をかけました。

「お孃さんが、どうかしやしませんか」

「それだよ、瀧山誠之進が、お清殿をさらつて、山王樣の森の中に驅け込み、町の人達が多勢で追つたが、石垣の上に<ruby><rb>攀</rb><rt>よ</rt></ruby>ぢ上り、お清殿を小脇に抱へて、それを<ruby><rb>囮</rb><rt>をとり</rt></ruby>に、威張つて居る、――お清殿の命が危ない、何んとかならぬものか」

松倉至は良い男で穩當らしい人柄ですが、力も金も無ささうです。

「やつて見ませう、八も來い」

「よし來た」

二人は飛びました、山王樣の森の下へ行くと、一パイの人だかり、振り照らす提灯や、<ruby><rb>燈籠</rb><rt>とうろう</rt></ruby>の<ruby><rb>灯</rb><rt>あかり</rt></ruby>に覺束なくも照らされて、一番高い石垣の上に、何やら人が<ruby><rb>蠢</rb><rt>うご</rt></ruby>めくのです。

多勢の野次馬を掻きわけて、その下にヒタヒタと迫つた錢形平次、頃合を見て下から聲をかけました。

「やい、岸本誠太郎」

「何？　俺の本名を知つてゐるのは誰だ」

石垣の上からは瀧山誠之進が應へます。

「神田の平次だ、――<ruby><rb>降</rb><rt>お</rt></ruby>りて來て、神妙に繩を受けろ」

「ハツハツ、馬鹿なことを、俺は何を惡い事をした」

瀧山誠之進の岸本誠太郎はケラケラと笑つて居るのです。

「<ruby><rb>下僕</rb><rt>しもべ</rt></ruby>を殺し、女房を殺し、大澤夫婦を殺し、その上妹のお山までも殺した<ruby><rb>極惡非道</rb><rt>ごくあくひだう</rt></ruby>、それでも罪は無いといふか」

「いや、大澤一家を殺したにはわけがある」

「それは俺も知つて居る、十八年前、夥しい藩金を横領し、その方の父を討つて立ち退いた大澤彦四郎を討つた申譯は立つだらうが、あと四人を殺した言ひわけは立たぬぞ」

平次の聲は森に<ruby><rb>木魂</rb><rt>こだま</rt></ruby>して、<ruby><rb>凛々</rb><rt>りん〱</rt></ruby>と夜の空氣に響くのです。

「――」

石垣の上の相手は默つてしまひました。

「まして、其方の身を案じて、病氣と僞つて大澤家を探りに入つた女房のお初を命にかけて守護して來た、下僕の忠助を斬り殺し、その上、外から曲者が入つたと見せて、大澤の妻を殺し、其方の素姓を見破つた、妹のお山を殺し、その上」

「――」

「その上、<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>の娘お清に夢中になつて、自分の女房――あの<ruby><rb>貞節</rb><rt>ていせつ</rt></ruby>なお初までも殺してしまつたのは、何んといふ人非人の仕業だ」

「――」

「敵討はそんなものではない、――まして、大澤の娘をさらつて、その有樣は何んとした事、恥を知らぬか、野郎」

「えツ、もう言ふな、俺はもう破れかぶれだ、人數をたのんで來れば、お氣の毒だがお清殿もあの世へ道づれ」

瀧山誠之進の岸本誠太郎は、もう本心を喪なつて居りました。一刀を振り<ruby><rb>冠</rb><rt>かぶ</rt></ruby>つて、<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>へ寄るものがあれば見境なく切つて落し、叶はぬ時は、お清を突き殺して、自分も死ぬ氣でいる樣子です。

「えツ、聽きわけの無い野郎だ、これでも喰らへツ」

平次の手から、久し振りの<ruby><rb>錢</rb><rt>ぜに</rt></ruby>が飛びました。

「あツ畜生ツ、器用な事を」

二つ三つは切り拂ひましたが、<ruby><rb>霙</rb><rt>みぞれ</rt></ruby>の如く飛んで來る錢、錢、錢、薄暗い上に、手も足も鼻も、眼も打たれて、思はず持つた刀を取落すと、

「野郎ツ、神妙にしろ」

後ろからガツキと八五郎が組み附いたのです。それに手を貸したのは、弱さうではあつたが、松倉至、二人力を併せて、岸本誠太郎をねぢ倒したことは、言ふまでもありません。

×　　　　　　×　　　　　　×

「驚いたね、あんな野郎は滅多にありませんね、曾我兄弟ほど敵をつけ狙つたのは兎も角、あのポチヤポチヤした娘に<ruby><rb>惚</rb><rt>ほ</rt></ruby>れて、<ruby><rb>刷毛序</rb><rt>はけついで</rt></ruby>に五人も殺したのはひどいぢやありませんか、女房の腹の中の子まで勘定すると六人だ」

事件落着の後、八五郎は平次の答を誘ふのです。

「恐ろしく執念深い野郎だよ、本人は自分の手で、敵の娘も女房も殺し、散々相手を苦しめた後で、敵の大澤彦四郎に止めを刺す積りであつたと言つて居たが、そんな敵の討過ぎを、<ruby><rb>天道</rb><rt>てんたう</rt></ruby>樣が許して置く筈は無い、それに、女房や<ruby><rb>下僕</rb><rt>しもべ</rt></ruby>を殺したのは何んとしても勘辨出來ない」

「あの娘に參つて、三月も敵を討たないんで、女房はしびれを切らして旅の女に化けて入つたんですね」

「その通り、下僕を泥棒にして殺したのは外ならぬ自分の亭主ぢや、責めるわけにも行かないから、逃げ出したんだらう。主人の大澤は薄々瀧山誠之進の素姓を<ruby><rb>悟</rb><rt>さと</rt></ruby>つて、<ruby><rb>身代</rb><rt>しんだい</rt></ruby>を半分やるとか、娘の聟になれとか誘つたらしいが、それは岸本誠太郎もさすがに出來なかつた」

「兎も角、いやな捕物でしたね」

「尤も、娘のお清は、<ruby><rb>費</rb><rt>つか</rt></ruby>ひ殘りの金を舊藩へ返して、お隣の<ruby><rb>松倉至</rb><rt>まつくらいたる</rt></ruby>と、貧乏な世帶を持つた相だから、まづ〱、<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めるとしようか」

「惡人の子は惡人と限らず、善人の子も善人ばかりぢやありませんね」

「おや、大層<ruby><rb>洒落</rb><rt>しや</rt></ruby>れたことを言ふぢやないか」

「<ruby><rb>道話</rb><rt>だうわ</rt></ruby>で聽いたんで、へツ、へツ、この邊で御褒美に一本、どうです、熱いのをキユーツと、お清坊と松倉さんの世帶を蔭乍らお祝ひして」

相變らず、喉を鳴らす八五郎です。