## 一

「親分、先刻から路地の中を、往つたり來たり、お百度を<ruby><rb>踏</rb><rt>ふ</rt></ruby>んでゐる女がありますが、ありや何でせう」

八五郎は自分の肩越しに、<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>の吸口で格子の外を指すのです。

「わけがあり相だな、お前に<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>いて來た<ruby><rb>女馬</rb><rt>をんなうま</rt></ruby>ぢや無かつたのか、拂ふものは拂つて、早く歸した方が宜いぜ」

毎度のことで、錢形平次は驚く色もありません。

「冗談でせう、あつしは叔母の家から眞つ直ぐに來たばかりで、女馬も雌猫もついて來る筈はありませんよ」

「はてな、それぢやワケがありさうだ、騷ぐと逃出すにきまつてゐるから、お前はそつとお勝手へ行つて、お靜にさう言つて、誘ひ入れて見るが宜い」

「成程、女は女同士だ」

「良い男の八五郎が、うつかり顎を出すと、大概の女は<ruby><rb>膽</rb><rt>きも</rt></ruby>をつぶす」

そんな事を言つて居るのを、狹い家のお勝手で聽いたお靜は、そつと裏口から拔け出して、襷を外して前掛を疊んで、小買物でもするやうな恰好で路地へ出ると、どう聲を掛けたものか、間もなく女二人、肩を並べて入つて來ました。

お靜が手を取るやうにして、家の中へ入れた女といふのは、三十五六の大年増で、大家の奉公人らしく、<ruby><rb>身扮</rb><rt>みなり</rt></ruby>は木綿物の至つて質素なもの、手足もひどく荒れて居りますが、<ruby><rb>顏容</rb><rt>かほかたち</rt></ruby>は、清潔で上品で陽<ruby><rb>焦</rb><rt>や</rt></ruby>けこそして居れ、白粉つ氣の無い健康らしさが好感を持たせます。

「お前さんは、何處から來なすつたんだ、ひどく驚いてゐる樣子だね。遠慮することは無い、打ち明けて皆んな話して見るが宜い、私で役に立つことなら、隨分力になつて上げようではないか」

平次は靜かに迎へて、心おきなく、煙草盆などを引寄せます。

押し詰つた暮のある日、<ruby><rb>凝</rb><rt>ぢ</rt></ruby>つと聽いて居ると、師走らしいあわたゞしさが、江戸の街々を活氣づけて、障子に這ひ上がる晝の陽ざしの中を、餌をあさる小鳥が飛び交ふのも、冬の閑居にふさはしい忙しさでした。

「親分さん、お願ひでございます、私にはどうして宜いかわかりません」

女は疊の上に水仕事で赤くなつた、兩手の指を並べるのです。

「たゞそれ丈けぢやわからねえ、何をどうしてくれといふのだ」

「若旦那の徳太郎さんを助けてやつて下さい、三十間堀の猪之助親分が、<ruby><rb>縛</rb><rt>しば</rt></ruby>つて行きました。若旦那が、人なんか殺す筈はありません」

女は少し夢中になつて、分別を缺いて居るらしく、話はしどろもどろで、一向筋は通らないのです。

「何處の若旦那が、誰を殺したといふのだ」

「京橋お弓町の雜穀屋、<ruby><rb>四方屋</rb><rt>よもや</rt></ruby>徳右衞門樣の若旦那徳太郎さんが、御新造のお染さんを殺したといふ、飛んでもない疑ひを受けました、そんな馬鹿なことがあるわけは御座いません」

「よし〱、それは調べて見ればわかることだらう、ところでお前は？」

「四方屋の下女の米と申します」

「それが、京橋から此處まで飛んで來るのは、誰の指圖だ」

「誰の指圖でもございません、皆んな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぼんやり</span>してしまつて、若旦那を助けようとする者もございません。三十間堀の猪之助親分に<ruby><rb>楯</rb><rt>たて</rt></ruby>をついて、睨まれるのが怖いんでせう。此上は高名な錢形の親分にお<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>りする外は無いと思つて、私の一存で京橋から飛んで參りました」

「お前は、四方屋の身寄りの者か」

「いえ」

「それにしては？」

平次はこの女の出過ぎた態度に、フト<ruby><rb>疑惑</rb><rt>ぎわく</rt></ruby>を感じたのです。三十五六――女も實行力を持つ年輩ですが、それにしても、誰からも何んの指圖をも受けず、京橋から明神下まで飛んで來るのは、唯の奉公人には出來ないことです。

「でも、私は四方屋に二十年も奉公をして居ります」

「親許で承知の上か」

「いえ、兩親に早く死に別れて、歸る家も無かつたのです。若旦那の徳太郎さんは、四つの年からお守をして育てました、次のお子さんが近かつたので、夜も晝も、私の手一つで」

「その時お前は、まさか乳母では無かつた筈だが」

「十五でお守の奉公に上りました、それから二十年」

お米はサメザメと泣くのです。十五から三十四まで二十年の間、若旦那徳太郎の成人するのを見て來たお米に取つては、若旦那が人殺しの疑ひで縛られたといふことは、命がけの大事件であつたに違ひありません。

「よし、三十間堀の猪之助親分には濟まないが、念のため覗いて見ることにしよう、<ruby><rb>詳</rb><rt>くは</rt></ruby>しいことは、道々聽くとして」

平次は仕度に取りかゝりました。お米の熱心には、何んか斯う平次を乘出させるものがあつたのです。

## 二

お米の話は<ruby><rb>斯</rb><rt>か</rt></ruby>うでした。

京橋お弓町の雜穀屋、四方屋の嫁のお染、嫁入りしてから二年目、申分なく仇つぽくて、<ruby><rb>老舖</rb><rt>しにせ</rt></ruby>の御新造らしくなく派手なのが、今朝起きて見ると、母屋と土藏の間、三尺ほどの狹いところに、頭を打ち<ruby><rb>碎</rb><rt>くだ</rt></ruby>かれて死んでゐたといふのです。

側には、大一番の石臼の古いのが一つ轉がつて居り、ゆで玉子の穀のやうに、腦天を打ち碎かれたに違ひありませんが、この石臼を振り上げて、人一人を打ち殺すのは、容易に出來ることではなく、殺されたお染が、觀念して首の座に直るか、でなければ、全く油斷して居るところを不意にやられたに違ひないと、三十間堀の猪之助は言ふのだ相です。

今朝になつて、この死骸は見附けましたが、不思議なことに<ruby><rb>配偶</rb><rt>つれあひ</rt></ruby>の若旦那徳太郎は、枕を並べて寢て居る筈の女房のお染が、夜のうちに脱出したのを、少しも知らずに居たと言ひ張ることです。死骸の樣子から見ると、お染の殺されたのは、血の固まりやうなどから、夜半前――それも宵の内のことらしく、その晩運座の會へ行つて、夜半前に戻つた徳太郎が、いづれにしても、朝まで何んにも知らずに居たといふのが、疑ひを掛けられる、大きな原因になつたわけです。

お染の死骸は、早起きの小僧巳代吉が見附け、大變な騷ぎになりました。

四方屋の家族といふのは、主人徳右衞門と内儀のお源の外に、<ruby><rb>總領</rb><rt>そうりやう</rt></ruby>の徳太郎夫妻、妹娘のお延の五人だけ、奉公人は番頭の宇之助、小僧の巳代吉、あとは下女のお米だけ、この七人のうちには、お米の言葉を信じると、嫁のお染を殺すやうな人間はありません。

尤も、外にもう一人、お染が一昨年の暮に産んだ、吉松といふ孫はありますが、お染に乳が無かつたので、出入の植木屋で飯倉に住んで居る專次といふ者の女房に預け、多過ぎる程の里<ruby><rb>扶持</rb><rt>ぶち</rt></ruby>をやり、七つになつたら引取ることになつて居ります。

お米は<ruby><rb>賢</rb><rt>かし</rt></ruby>こさうな女ですが、生來内氣者らしく、平次がものを訊ねても、容易はハキ〱とは答へてくれず、これ丈けの事を聽くのが、精一杯の骨折でした。尤も突き詰めた目顏に、溢れる誠意は疑ひやうもなく、世間並の奉公人のやうな<ruby><rb>饒舌</rb><rt>ぜうぜつ</rt></ruby>でないだけに、何んとなく<ruby><rb>頼母</rb><rt>たのも</rt></ruby>し氣なところがあります。

弓町の四方屋といふのは、お屋敷への出入も多く、此邊では古い店で、昔は相當繁昌もしましたが、近年主人の徳右衞門が思惑で<ruby><rb>縮尻</rb><rt>しくじ</rt></ruby>り、その上若旦那の徳太郎は、商賣よりは俳諧や學問に<ruby><rb>凝</rb><rt>こ</rt></ruby>つて、店の仕事が身につかなかつた爲に、三、四年此方左前になり、店の空氣も何んとなく淋しく古めかしく、火の消えたやうなものがありました。

案内のお米は別れて裏口から入り、平次と八五郎は、眞つ直ぐに店から入ると、主人の徳右衞門は、此<ruby><rb>界隈</rb><rt>かいわい</rt></ruby>で顏の古い、御用聞三十間堀の猪之助と、店火鉢を挾んで何やら六つかしい顏をして居りました。

「おや、錢形の親分、何處で聽いて、こんなところへ――」

三十間堀の猪之助の顏には、一寸不快の色が浮びます。

「なアに、三十間堀の親分の仕事の邪魔をするわけぢやねえ、此邊へ來た<ruby><rb>序</rb><rt>ついで</rt></ruby>に、八の野郎に、後學のため覗かせて置き度いと思つただけのことさ」

平次の調子には、好意と<ruby><rb>謙遜</rb><rt>けんそん</rt></ruby>さが溢れます。お米の熱情に引ずられて來たのは、猪之助に一と泡ふかせるためでも、自分の手柄を立てたい爲でもなく、若旦那徳太郎が、無實の罪で縛られたものならば、その繩を解いてやり、<ruby><rb>眞實</rb><rt>まこと</rt></ruby>の下手人を搜し當てゝ、猪之助の不面目を救つてやり度いといふ外には邪念も無かつたのです。

「もう下手人は擧がつたぜ、四方屋の旦那には氣の毒だが、若旦那の樣子には、腑に落ちないことばかりだ」

猪之助は無造作に言ひきつて、尚ほも主人の徳右衞門に、<ruby><rb>執拗</rb><rt>しつあう</rt></ruby>な質問を續けようとするのです。

「もう私は、申上げることも御座いません、伜と嫁は、世間の若夫婦に比べますと、いかにも仲の宜い方ではなかつたやうですが、それかと言つて、口喧嘩一つやつたことも無く、伜が自分の手で殺すなどと、そんな大それた氣を起す筈もございません、あんな弱氣な伜が、――」

徳右衞門は、この同じ言葉を、何度も〱繰り返したらしく、不安と緊張に思はず固唾を呑むのです。

「もう宜いよ、此上は自身番に預けてある本人の徳太郎に當つて、口書きを取るまでさ、――ぢや後を頼むぜ、錢形の親分」

猪之助はひどく自尊心を傷つけられた樣子で、憤々として歸つて行きます。子分の者に預けて、自身番に見張らせてゐる徳太郎を、もう一度責めて見る氣になつたのでせう。

## 三

平次は何んの先入心も無しに、殺された嫁お染の死骸と、その現場を見ることにしました。案内してくれたのは、すつかり取亂してゐる主人の徳右衞門、八五郎は平次の後から、顎をまさぐり乍ら續きます。

今は傾きかけてゐるにしても、舊家の四方屋は、さすがに堂々たる構でした。店から奧へ、廊下傳ひに行くと、居間兼帶の佛間に老主人の部屋と納戸が續き、その先に新夫婦の部屋があり、其處から狹い庭を隔てゝ、裏通りの町に出られます。

奉公人達の部屋は二階で、<ruby><rb>納戸</rb><rt>なんど</rt></ruby>の後ろは下女のお米の部屋、それに續いて大きな臺所があり、その鼻の先に立塞がる土藏が、店の後ろへ延びて、その間が三尺の路地、その路地の出口に、お染の死骸があつたといふのです。

念のため、最初に死骸を見付けた、小僧の<ruby><rb>巳代吉</rb><rt>みよきち</rt></ruby>を呼んでもらひました、十七といふにしては大柄で、結構力仕事も出來さうですが、人間は少し甘口らしく、顏一面に<ruby><rb>凄</rb><rt>すご</rt></ruby>いニキビの吹き出して居るのが氣になります。

「御新造の死骸は此處にありましたよ、出口の方に足を向けて」

指さしたのは、踏み固めた三尺の路地の出口、土の上に血が紫色にこびり附いて、何んとなく不氣味です。

「物を引摺つた跡がありますね」

八五路は平次仕込みの入念な態度で、路地の中をすかして居ります。

「死骸を引摺つたのだらう」

「死骸ぢやありませんよ、もつと重いもの」

「石臼かな」

死骸のあつた場所に近く、轉がつて居る石臼を觸つて見ましたが、これが七八貫目もありさうで、平次にも手輕には動かせません。

見上げると土藏の窓が一つ、路地の中ほどにありますが、死骸のあつた場所よりは少し右に離れて、<ruby><rb>漆喰</rb><rt>しつくひ</rt></ruby>の重々しい扉は、頑固に閉ぢてあり、その上窓の直ぐ下には、石や木材が轉がつて居て、人間が近づけさうもありません。

「七八貫の石臼を振りあげて、人間の頭を打ち割れる筈はありません、どうかしたら、石臼を土藏の二階へ持上げて、あの窓から轉がして落したんぢやありませんか」

「その窓の下には石や材木があつて丁度宜い具合に、四方屋の嫁がその下に立つてくれまいよ」

「そこを斯う、何んとか」

八五郎は、自分の假説に<ruby><rb>辻褄</rb><rt>つじつま</rt></ruby>を合せることに精一杯です。

「お前の言ふことにも理窟はあるよ、死骸を引摺つたり、石臼を引摺つたのは、何んかわけがありさうだ」

「へエ」

八五郎は<ruby><rb>聊</rb><rt>いさゝ</rt></ruby>か面目をほどこしました。

「ちよいと小僧さんに聽き度いが――」

平次は小僧の巳代吉を、土藏の後ろに誘ひ出しました。八五郎はその間、主人徳右衞門を相手に、何やら愚にもつかぬ問答を續けて居ります。

「お前はいろんな事を知つてるだらうと思ふ、何事も隱さずに言つてくれるだらうな」

「へエ」

平次はこの柄の大きい、賢こく無ささうな小僧が、案外本能的に鋭い觀察眼を持つて居さうなことに氣が付いたのです。

「若旦那の徳太郎と、嫁のお染さんとは仲が良かつたのか」

「私にはよくわかりませんが、若夫婦といふものは、あんなものぢや無いと思ひますよ」

「例へば？」

巳代吉の答は何んとなく含みがあります。

「親しく口をきいて居るところも、お互に<ruby><rb>庇</rb><rt>かば</rt></ruby>ひ合ふのも、――そんな樣子は見たこともありません」

「で？」

「私は何んにも知りませんが、御新造のお染さんには、嫁に來る前から言ひ<ruby><rb>交</rb><rt>かは</rt></ruby>した男があつたといふことですよ、それを親御の一存で、無理に<ruby><rb>割</rb><rt>さ</rt></ruby>いて、四方屋へ嫁入りさしたんだと、――近所の人は言つて居ります」

十七のニキビだらけな小僧は、大變なことを知つて居るのでした。

「その言ひ<ruby><rb>交</rb><rt>かは</rt></ruby>した男といふのは誰だ」

「確かなことは知りませんよ、でも、世間では、惣十郎町の小間物屋の息子松五郎さんが、御新造の本當の良い人なんですつて」

「――」

平次は默つてしまひました、この不都合な人妻の戀が、この事件の原因だつたことは、最早疑ふ餘地もありません。

## 四

家の中に入ると、平次は先づ順序を追つてお染の死骸を置いてある、新夫婦の部屋を見ることにしました。其處には嫁のお染の死骸を清めて、主人の徳右衞門の女房のお源を始め、お染の父親、加賀の紙問屋、二葉屋安兵衞、その他親類の人達や近所の衆が多勢、打ち<ruby><rb>濕</rb><rt>しめ</rt></ruby>つてお染の守をして居りました。

平次と八五郎が入つて行くと、それ等の人達は、それとはなしに、部屋の外に滑り出して、殘るのは母親のお源と嫁の父親安兵衞の二人だ。平次は<ruby><rb>委細</rb><rt>ゐさい</rt></ruby>構はず、死骸の側にゐざり寄つて、その顏を隱した白い布を取りました。

「――」

平次と八五郎が、思はず息を呑んだのも無理はありません。

「親分、これは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひどい</span>ぢやありませんか」

色白で、豊滿なお染、二十歳になつたばかりの若い命が、無殘な<ruby><rb>石臼</rb><rt>いしうす</rt></ruby>の一撃で、若さも美しさも、そして多彩な生命までも奪はれて、石つころのやうに冷たくなつて居るのです。

石臼の一撃で打ち碎かれた頭は、ひどく變貌して、無氣味な恰好になつて居りますが、曾て多勢の人を惱ました妖艶な顏は、思ひの外に損はれず、媚をさへ含んで、無氣味に、痛々しく、そして不思議な魅力を<ruby><rb>湛</rb><rt>たゝ</rt></ruby>へて、死の<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>みに歪んでゐるのです。

「こいつは殺生ですね親分、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>はこの下手人が憎くなりましたよ」

そつと佛の前から<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>くと、八五郎はそんなことを言ふのです。

平次はそれを物蔭に招いて、

「お前は近所の衆の噂を集めてくれ、家の者は口が堅くて、急所を<ruby><rb>避</rb><rt>さ</rt></ruby>けて話すから、容易に筋は通らねえが、皮肉な<ruby><rb>内證</rb><rt>ないしよ</rt></ruby>事は、思ひの外近所の衆が知つて居るものだ」

「親分は」

「俺はもう少し調べたいことがある」

「それぢや親分」

八五郎は何處かへ飛んで行きました。獨特のトボケた調子があつて、この男は聞取りの名人です。

平次はそれから家の者一人々々に逢つて見ました。主人の徳右衞門と、母親のお源は、伜を案じる不安に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さいな</span>まれて、何を訊いてもハキ〱とは返事をしてくれず、娘のお延は、兄嫁のお染とは<ruby><rb>反</rb><rt>そり</rt></ruby>が合はなかつたらしく、

「さア、兄さんと姉さんは、仲が良いとは言へませんでしたよ、兄さんは内氣で<ruby><rb>俳諧</rb><rt>はいかい</rt></ruby>にばかり<ruby><rb>凝</rb><rt>こ</rt></ruby>つてゐるし、姉さんは派手で外出好きで、少しも兄さんの世話をしてくれないんですもの」

「お染さんには、他に良い人があつた相ぢやないか」

「さア」

十八の娘は、さすがに其處まで立入らせません。年頃だけに、充分可愛らしくはあるが、世間並の娘で、綺麗でもなければ、賢こさうでもなく、平次もそれ以上は<ruby><rb>手繰</rb><rt>たぐ</rt></ruby>れさうも無かつたのです。

「兄さんや姉さんが、<ruby><rb>夜中</rb><rt>よなか</rt></ruby>にそつと出入りするとすれば、誰か氣の付く筈だと思ふが」

「でも、兄さん達の部屋は一番端つこで、雨戸を一枚開けさへすれば自由に出られるんですもの、それに兄さんは俳諧とかに夢中で、月に三度の<ruby><rb>運座</rb><rt>うんざ</rt></ruby>の會の時は、歸りが遲くなるから、誰にも氣の付かないやうに、そつと夜中に歸つて來ても入れるやうにしてあるんです」

「昨夜は運座の會があつたのか」

「え、三河屋さんの二階で」

「有難うよ」

其處まで訊くと平次は、この娘を歸して、縁側で番頭の宇之助をつかまへました。

「おい番頭さん」

「へエ、へエ」

「四方屋の<ruby><rb>身上</rb><rt>しんしやう</rt></ruby>のことを少し訊き度いが」

「へエ」

宇之助は少し苦い顏をしましたが、嫌とも言へず、平次に誘はれて、物蔭に立ち寄りました。

「四方屋の良かつたのは昔のことで、近頃はひどく苦しい相ぢやないか」

「そんなことは御座いません」

「隱さなくたつて宜いよ、調べさへすれば、直ぐわかることだ、何處かに、大きな借金でもあるんだらう」

「さう言ふわけでは御座いません、近頃は二葉屋さんが、何彼とお世話をして下さいますから」

「嫁の里だな」

「へエ、加賀町の紙問屋で、大した身上でございます」

「その二葉屋の娘だから、嫁のお染さんはさぞ我儘だつたことだらうな」

「へエ、まあ、さういふことで」

番頭の宇之助からも、これ以上は引出せさうもありません、四十恰好の、少し貧乏臭い男ですが、正直者らしいところが<ruby><rb>取柄</rb><rt>とりえ</rt></ruby>です。

家の者といふとこれが全部、あとは近所の衆や親類だけで、あまり平次の役に立ちさうなのはありません。

## 五

間もなく八五郎が戻つて來ました。

「いろんな事がわかりましたよ、親分」

「どんなことだ」

「四方屋はこんな大きな屋臺を拵へて居る癖に、内輪は火の車で、三四年の間に身代限りをするだらうと、世間の評判になつたが――」

八五郎は四方に突拔けに聽えるのも構はず張り上げます。

「聲が高いな、――嫁の里の加賀町の二葉屋が肩を入れて、近頃は身上も立ち直つたといふ話だらう」

「何んだ、親分も知つて居るんですか、嫁の親の二葉屋安兵衞が、四方屋の息子の徳太郎の<ruby><rb>温和</rb><rt>おとなし</rt></ruby>いところに惚れ込んで、持參金三百兩、人橋を<ruby><rb>架</rb><rt>か</rt></ruby>けて、無理に貰はせたといふことで――」

「徳太郎に言ひ交した女でも無かつたのか」

「あの伜は變人ですよ、ヘエケエ樣々に夢中で」

「何んだえ、ヘエケエといふのは」

「それ、十七文字の<ruby><rb>都々逸</rb><rt>どどいつ</rt></ruby>ですよ」

「俳諧だらう」

「そのケエに夢中で、女房が浮氣しても、何んとも思はない」

「お染は、惣十郎町の袋物屋の松五郎とかいふのと仲が好かつた譯だな」

「その松五郎は名題の女喰ひで、薄化粧をして店に坐つて、商賣物の鏡ばかり覗いて居る男ですよ。お染がまだ二葉屋に居る頃、この名題の色師の松五郎と仲が良くなつたので、父親の安兵衞は、驚いて持參金附きで、評判の良い四方屋の息子の徳太郎に押し付けたんですつて、徳太郎は一向氣が乘らなかつたが、父親の徳右衞門は大乘氣で、あまり評判のよくない色娘のお染を、持參金が<ruby><rb>覘</rb><rt>ねら</rt></ruby>ひで貰つたといふから、氣の毒ぢやありませんか」

「誰が氣の毒だ」

「息子の徳太郎ですよ、嫁が氣に入らないから、そこで氣晴しにヘエケイとやら、色氣のない道樂を始めたんでせう。世間並の息子だと、これは十七文字の都々逸ぢや濟みませんよ、先づ手重いのは八文字を踏む歌舞の<ruby><rb>菩薩</rb><rt>ぼさつ</rt></ruby>、手輕なところで、目と鼻の間の槇町の<ruby><rb>比丘尼</rb><rt>びくに</rt></ruby>――」

「うるせえな、お前の話は、それでお仕舞か」

「とんでも無い、これからサワリで」

「早く片付けなよ」

「嫁のお染が、三百兩の持參金で乘込んで來るわけですよ、祝言は濟んだが、相變らず惣十郎町のエテ者」

「何んだえ、それは」

「袋物屋の松五郎ですよ、それと逢引きが續いて居るといふから達者なものでせう、一昨年の暮に生まれた子供は、どう勘定しても、七月目の月足らず、『來た月を入れて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はつはつ</span>位なり』といふ川柳があるが、そんな<ruby><rb>生優</rb><rt>なまやさ</rt></ruby>しいものぢやありません」

「俳諧も知らない癖に、妙な川柳を心得てゐるんだな、お前は」

「話はまだありますよ」

「出し惜しみをせずに、皆んな申上げな」

「こいつは、親分だつて驚きますよ、あのお染といふ女は、日本一の圖々しい嫁で、徳太郎が<ruby><rb>運座</rb><rt>うんざ</rt></ruby>のケエで出かける晩は、惣十郎町の松五郎を呼び寄せて、土藏の蔭で逢引をするんですつてね、家の者だつて知らない筈は無いが、三百兩の持參金の手前默つて居るんでせう。世間の人は遠慮が無いから、町内で知らない者はありやしません。『知らぬは亭主ばかりなり』てえのは川柳の言ひ草だが、此處では三年も前から亭主もよく知つて居る」

「お前が知つてる位だもの」

「月の良い晩なんか、あの三尺の路地の中で、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いちや</span>付いてゐるのが、裏木戸の外からまで見えるといふから、大したものでせう、色事も其處まで行くと、兩國の見世物と大した違ひは無い」

「――」

平次も默つてしまひました。

「聽いて見ると、お染が殺されたのも無理はありませんね。三百兩で月足らずの子を賣つただけでも、極樂へ行ける心掛けぢやないが、それから三年もの長い間、白粉をつけて鏡ばかり覗いて居る、變な野郎と逢引を續けるやうぢや」

「まア、腹を立てるな、――お前はこれから惣十郎町の袋物屋へ行つて、その名前だけは立派な松五郎とやらを絞めあげて見るが宜い、飛んだ手柄になるかも知れない、俺は運座の會のあつた三河屋に寄つてそれから自身番を覗いて、徳太郎の樣子を見て來るよ」

## 六

自身番の中には、三十間堀の猪之助が、二人の子分に徳太郎を見張らせて、係り同心の出役を待つて居りました。

腰繩を打たれた徳太郎は、色の淺黒い背の高い、目鼻立ちの整つた、お染が嫌ふほどの不景氣な男ではありませんが、平次の先入心のせゐか、何んとなく内氣らしい弱々しさがあります。

「おや、錢形の親分、何んか手掛りでも見付けてくれたのかえ」

三十間堀の猪之助は、まだむき出しに敵意を示して居ります。

「いや、何んにも掴んだわけぢやないが、若旦那に少し訊き度いことがある」

「宜いとも、何んなりと訊いてくれ」

猪之助は<ruby><rb>雅量</rb><rt>がりやう</rt></ruby>を示して身を開きました。

「ね、若旦那、正直に言つて下さいよ、下女のお米が、下手人は若旦那ぢやない、何んとかして助けてやつて下さいと、明神下の俺の家へ驅け込んで來たんだ。三十間堀の親分には、仕事の邪魔をするやうで濟まないが、お米の樣子があんまり眞劍で、ツイ誘ひ出されてしまつたんだが――」

平次は言ひかけて、徳太郎と猪之助の顏を見比べました。猪之助の顏には、ほのかに冷たい笑ひが去來しましたが、徳太郎の眼には、フト涙の浮かぶのを、見遁す平次ではありません。

「お染を殺したのは、私ぢやありません」

徳太郎は激しく頭を振りました。

「三河屋へ行つて訊いて見ると、昨夜の運座の會から、お前さん早く歸つたさうぢやないか、いつもは<ruby><rb>亥刻半</rb><rt>よつはん</rt></ruby>（十一時）まで居るのに、昨夜は<ruby><rb>亥刻</rb><rt>よつ</rt></ruby>前に歸つたといふぜ、それはどういふわけだ」

「お染殺しの疑ひを解くためには、それを先づ話してくれなきや、ね、若旦那」

「申しました、皆んな申し上げても、猪之助親分は本當にしてくれません」

「？」

「私は前から、お染の<ruby><rb>不埒</rb><rt>ふらち</rt></ruby>なこともよく知つて居りました。當人へ小言を言つても、私を馬鹿にして相手にもしてくれません、時々は我慢がなり兼ねて、親にも申しましたが、今更離縁をしては、二葉屋さんに濟まず、それに持參金といふことにして借りた、三百兩の金を返す工面もつきません。私一人眼をつぶつて居さへすればと、齒を食ひ縛つて居りましたが、昨夜といふ昨夜、宵のうちからのお染の仕打が、あまりと言へば人も<ruby><rb>無氣</rb><rt>なげ</rt></ruby>な増長で、さすがに私も我慢がなり兼ね、運座の席を早くきり上げて、お染と松五郎の逢引の現場を取つて押へ、父親にも見せて、何が何んでも話をつけようと思ひました」

「――」

話して來るうちに、徳太郎の靜かな顏が燃えて、おとなしい眼が、無念の涙に光るのです。

「逢引の場所はいつもの土藏の間、闇の中を透して見ると、お染は確かに、いつものやうに、其處に人を待つて居りました、口惜しさが<ruby><rb>嵩</rb><rt>かう</rt></ruby>じて、飛出さうと思ひましたが、私が飛出したところで、驚くやうなお染ではございません、兎も角も父親に見せる積りで、母屋へ入つて父親の部屋に聲を掛けますと、中には母親が一人、父親は<ruby><rb>手洗</rb><rt>てうづ</rt></ruby>へでも行つたらしく、部屋には居りません。そんな事をして居るうちに、私の心持も落着き、不埒な奴等に眼に物見せたところで、兩親を心配させる丈けとわかり、胸をさすつて、――運座の會から唯今歸りました、お休みなさい――と聲を掛けて、自分の部屋に戻り、たつた一人曉方まで、お染が歸つて來ないのも、いつもの事ですから、大して氣にもせず、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うつら</span>〱と夜を明してしまひました。明るくなつてから、小僧の巳代吉の大きい聲で、お染が殺されて居ると知つたやうなわけでございます」

徳太郎の話は、<ruby><rb>愚痴交</rb><rt>ぐちまじ</rt></ruby>りの長いものでしたが、少しの僞りがありさうも無く、

「お前さんは、自分の女房が夜つぴて歸つて來なくても、大して氣も揉まないんだね」

と平次が念を押すと、

「氣を揉まないことはありませんが、馴れて居りますから」

諦らめきつた徳太郎の顏は、淋しく憐れでさへあります。

## 七

「親分、惣十郎町の松五郎を引立てゝ來ましたよ」

「まさか繩を打つたわけぢやあるまいな」

八五郎の聲の物々しさに、平次は驚いて縁側に顏を出しました。

「チヨイと腰へ手掛りをつけて來ましたがね」

「馬鹿野郎、腰繩も繩のうちだ、解いて追つ拂つてやれ」

「大丈夫ですか、隨分イヤな野郎ですよ、江戸にもあんな蟲が住んでゐるかと思ふと、あつしはもう何處か知らない國へ飛んでしまひ度くなりましたよ」

「イヤな野郎が人を殺すときまるものか、それに松五郎に取つては、お染は情婦でもあり<ruby><rb>金蔓</rb><rt>かねづる</rt></ruby>でもある」

「へエ」

「薄化粧でもして居ようといふとヒヨロ〱の色男が、七八貫の石臼を振り廻して、人一人殺せるものか」

「へエ、いけませんかね、それぢや逃してやりますよ、慾を言へば、二三<ruby><rb>束</rb><rt>ぞく</rt></ruby>叩きのめしてからにし度いんだが、――大丈夫そんな事はしませんよ。猪之助親分の子分衆に預けてありますから、すぐ繩を解いてやりますよ」

「ちよつと待つてくれ、一つだけ訊いて置き度いことがある」

平次はもう一度自身番へ引返しましたが、其處には、白粉燒でもしたやうな青白い三十男が、猪之助の子分に見守られて、シヨンボリ立つて居るのでした。撫で肩の<ruby><rb>赤縞双子</rb><rt>あかじまふたご</rt></ruby>、青い襟が細い首筋から覗いて、薄い眉も、惡く高い鼻も、なるほど頼母し氣な人相ではありません。

「松五郎とか言つたね」

「へエ」

「お前は昨夜、四方屋の藏の蔭で、お染と逢引した筈だね」

「いえ、へエ」

「何方だ」

「私が行つた時は、もうお染さんは死んで居りました、あとの<ruby><rb>祟</rb><rt>たゝ</rt></ruby>りが恐ろしくなつて、驚いて逃げ歸つて、今朝まで小さくなつて居りました、相濟みません」

「謝らなくたつて宜い、――時刻は？」

「<ruby><rb>亥刻</rb><rt>よつ</rt></ruby>過ぎだつたと思ひます、約束より少し遲れて」

「人の女房と逢引なんかして、惡いと思はないのか」

「相濟みません」

此男はクサビもタガも拔けたやうで、手の付けやうがありません。

「もう宜い、歸れ」

「へエ」

しよんぼりと歸つて行く松五郎の後ろ姿を見て、八五郎は大きな拳固を振り廻して居ります。

「いやな野郎でせう、あの顏を見ると、腐つた下水に首を押し込んで、薄化粧を洗つてやり度くなりますが、いけませんか、親分」

「馬鹿だなア」

平次は深々と考へ乍ら、もう一度四方屋の方へ引返して行くのです。

「親分、下手人はまだわかりませんか」

「わからないよ、もう一度土藏の外と、あの二階を見よう」

土藏の外、母家との間の路地を、もう一度調べ直すと、石臼の片つぽ臍のある方は、窓の下の石の載積の中に交つて居り、死骸の側にあつたのは、中に穴のあいた上の方の女臼で、<ruby><rb>斑々</rb><rt>てん〱</rt></ruby>と血が附いて居るのも無氣味です。

平次は土藏の大戸を開けて、二階へ登つて行きました。中はガラクタと、雜穀を入れた俵や<ruby><rb>叺</rb><rt>かます</rt></ruby>で、何んの變哲もありません。

二階へ行つて、母家の方に面した扉を開くと、三尺の路地が眼の下に見え、窓の眞下には石が積んであり、死骸のあつたのは、上から見ると窓から少し左へ寄つたところで、乾いた血が、<ruby><rb>碧色</rb><rt>みどりいろ</rt></ruby>に光つて居ります。

「おや、あれは何んでせう」

眼のよい八五郎は、窓の中のガラクタの中から、一本の丈夫な麻繩を見付けました。麻繩は一方の端を嚴重な男結びで滅茶々々に結んであり、一方の端は刄物で切つて、切つた先の端は見付かりません。

「良いものが見付かつたよ、その切つた先の方、二三尺の麻繩を搜してくれ、多分、<ruby><rb>土竈</rb><rt>へつゝひ</rt></ruby>か風呂場の焚き口か、縁の下だらうと思ふが」

「待つて下さい、直ぐ見付けて來ますから」

八五郎はすつ飛んで行きましたが、やがてそれと行き違ひに、そつと土藏の梯子を踏んで、平次の背後に近づいた者があります。

「親分さん」

「お米さんぢやないか」

振り返つて見ると、あの品の良い下女の青い顏が、<ruby><rb>疎</rb><rt>うと</rt></ruby>い光線の中に、激情に硬張つてゐるのです。

「私を縛つて下さい、親分」

「何を言ふんだ」

「御新造を殺したのは、私でございます、この私を縛つて、若旦那の繩を解いて上げて下さい、ツイ命が惜しくなつて、申上げ兼ねて居りましたが」

「よし〱お前がさう言ふなら、隨分縛つてもやらう、ところで、念のために訊いて置くが、どうして殺したんだ、その<ruby><rb>手段</rb><rt>てだて</rt></ruby>を話してくれ」

平次は靜かに反問するのです。

「その窓から、石臼を落しました、窓の下には、いつものやうに、御新造が、松五郎の來るのを待つて居りました」

「大層無造作に言ふが、石臼は七八貫目もあるぜ、どうして二階へ持つて來たんだ」

「一生懸命になれば、持つて來られないこともありません」

「よし〱、一つ、やつて見るとしよう、丁度、八五郎が來たやうだ」

「――」

「おい、八、お前氣の毒だが、その石臼を二階へ持つて來てくれ」

「へエ、これですか、驚きましたね」

八五郎は文句を言ひ乍らも、<ruby><rb>生得</rb><rt>しやうとく</rt></ruby>の糞力を出して、血の附いた女臼の方を、二階の窓際まで運んで來ました。

「ね、お米さん、お前は手輕に言ふけれど、これを窓から落した位ぢや、窓の下のずつと左寄りに立つて居るお染の頭は碎けないぜ、八、どうだ、お前に出來るか」

「臼を持つて、窓から乘出し加減に、左の方へ<ruby><rb>投</rb><rt>はふ</rt></ruby>れば、出來ないこともありませんね」

「七八貫の臼を持つて、窓から乘出せるかな、やつて見ろ」

平次は窓際から身を<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>くと、代つて八五郎は、臼を抱上げたまゝ、窓から顏を出しました。

「成程、こいつは六つかしさうだ、眞つ直ぐに轉がして落すならわけも無いが」

さう言ひ乍ら八五郎は石臼を投るやうに、窓の左寄りに落してやつたのです。と、臼は母屋の羽目板に當つて土藏にハネ返り、恐ろしい音を立てゝ下へ落ちましたが、羽目と土藏の壁に大きな跡を殘して、死骸のあつた場所から遠く離れた大地に、大きな穴をあけてしまひました。

「お米さん、よく見るが宜い、眞つ暗な中で、あの臼を人間の頭の上へ落せるわけがあるものか、餘計なことは言はない方が宜いぜ。ところで八、頼んだものは見付かつたか」

「ありましたよ、尤も風呂場の鐵砲の中に、繩のやうなものが灰になつて殘つて居るだけですが」

「そんな事だらう。ね、お米さん、風呂を焚いたのは何日だえ」

「一昨日でした」

「今朝は？」

「大旦那樣が、あの騷ぎの中で、屑を燃やして居らつしやいましたが」

## 八

それから間もなく、平次は家中の者を、土藏の側の路地に集めました。自身番に預けられて居る若旦那の徳太郎も、それを縛つた三十間堀の猪之助も、一同の人數に加はつたことは言ふまでもありません。

「さて、皆んな集まつたことだらうな」

「――」

「――」

平次は一同を見廻してから、改めて、

「頼むぜ、八」

土藏の二階へ聲を掛けると、前から其處に居た八五郎は、二階の窓の、重い<ruby><rb>漆喰</rb><rt>しつくひ</rt></ruby>の戸をギーと開けました。

母家との間がたつた三尺、開けたところで、土藏へはろくな光線も入りませんが、火事に備へるために、漆喰扉の厚さは充分で、扉の中ほどには、鐵で拵へた引手の大きい<ruby><rb>鐶</rb><rt>くわん</rt></ruby>が附いて居ります。

「さア、投りますよ」

その鐶にくゞらせた、丈夫な麻繩が、平次の手もとへくりおろされます。

「よし來た」

平次の手で、麻繩の一端に、お染を殺した血染の石臼が縛られました。そして、他の一端を引くと、石臼は案外無造作に、スル〱と宙に上つて、二階の扉の頑丈な鐶のところに達します。

次に平次は手もとの一端を、少し遠くにあるもう一つの石臼に縛りつけ、

「サア、危い、其處を<ruby><rb>退</rb><rt>ど</rt></ruby>いた」

窓の下の人々を追ひのけ、二階の八五郎に合圖を送りました。

「やりますよ、それ、ヒ、フのミ――と」

八五郎はお勝手から持出した庖丁で、扉の鐶のところで、麻繩をフツと切りました。

「あツ」

上から恐ろしい勢で落ちて來た石臼は、丁度お染の死骸の代りに置いた、手頃な箱を一つ、滅茶々々に潰してしまつたのです。

「下手人の智惠は大したものだ。男と逢引する氣で、この下に立つて居るお染は、一とたまりもなくやられた。路地は狹いし、材木や石は置いてあるし、この窓の下から少し左寄りの、僅かの空いたところで、姦夫姦婦は逢引する癖だつた、踏みつけられた土の樣子でも、その場所はよくわかつて居る」

「――」

あまりのことに、口をきく者もなく、平次の言葉は、靜かですが、地獄の判官の宣告のやうに、よく<ruby><rb>徹</rb><rt>とほ</rt></ruby>ります。

「下手人は石臼を落した後、麻繩は元の二階に返して窓を締め、石臼を縛つた方の麻繩の端、二三尺のところは、血が附いてゐるから、後でそつと始末をした。死骸を路地の出口へ移し、血の附いた石臼も窓の下にあつては、その手段を覺られるから、これも少し引摺つて行つた。下手人は隨分よく氣をつけた積りだが、一つ、二つ、小さい手落はあつた、麻繩の端を風呂場で燒いたり、麻繩の結び目が、手馴れた男結びになつて居たり、お染が殺された頃、自分の部屋に居なかつたり」

「それは誰だ、下手人は誰だ」

三十間堀の猪之助は<ruby><rb>躍起</rb><rt>やつき</rt></ruby>となりました。

「俺は知らないよ、――だが、若旦那の徳太郎でないことだけは確かだ、――繩を解いてやつてくれ」

「それぢや」

と、八五郎。

「まア宜い、あとは三十間堀の親分の手柄にしてくれ、サア、八、歸らうぜ、明るいうちに」

平次は八五郎を小手招ぐと、夕暮の街を、心靜かに明神下の家へ歸るのでした。それを見ると、裏口から廻つて、往來までついて來たのは下女のお米、振り返ると夕陽に背いて、そつと、片手拜みに、平次の方を拜んでゐるのです。

×　　　　　　×　　　　　　×

間もなく、三十間堀の猪之助に縛られる前に、四方屋の老主人徳右衞門は行方不明になりました。

大川へ飛込んだか、西國巡禮に出たか、老妻のお源だけは知つて居るでせう。二葉屋安兵衞は、かん〱に腹を立てましたが、すべて娘お染の不行跡から起つたことで、世間の不評判を恐れたかそれつきり泣寢入してしまつた樣子です。

それから一年ほど經つて、四方屋の若主人徳太郎は、二度目の嫁を貰ひました。それは何んと、徳太郎よりは十一も年上の、四つの時から徳太郎を抱いて育てた、あの忠實な下女のお米だつたのです。

「それで宜いのだよ、お米は忠義者だが、腹の中では若旦那の徳太郎に、死ぬほど焦れて居たのだよ」

「へエ、そんなものですかね」

八五郎にはその<ruby><rb>機微</rb><rt>きび</rt></ruby>がわかり相もありません。