Soranoha

銭形平次捕物控

ぜにがたへいじとりものひかえ

野村 胡堂

一

「ところで親分はどう思ひます」

「ところで――と來たね、一體何をどう思はせようてんだ。藪から棒に、そんな事を言つたつて、わかりやしないぢやないか」

錢形平次と子分の八五郎は、秋日和の縁側に甲羅かふらを並べて、一刻とき近くも無駄話を應酬あうしうして居たのです。

「先刻さつき言つたぢやありませんか、子し曰のたまはくの先生のお妾――」

「あ、お玉ヶ池の春名秋岳先生か、あれは儒者といふよりは兵學者の方だよ。近頃素晴らしいお妾を置いたといふ話なら、お前の口からだけでも、もう三度も聽いたよ」

平次は氣の無い顏をして、秋の庭先にユラユラと消えて行く、煙草の烟けむりの輪を眺めて居ります。

まことに天下太平の晝下がりです。丹精した朝顏がお仕舞になつて、貧乏臭い鉢植の楓林ふうりん仕立が色づくと、平次の庭も何んとなく秋さびます。

「そのお妾のお照が、ズブの素人の癖に、色つぽくて、愛嬌があつて、斯う話して居ると、クワツと燃え立つやうで、男の切れつ端なら誰でも掻かき立てられるやうな心持になりますよ」

「それが何うしたんだ」

「嫌になるなア。親分と女の子の話をするほど氣の乘らないことはありませんね」

「性分だよ、勘辨しねえ」

「へツ、お靜姐さんが、若くて綺麗なせゐぢやありませんか。世間では專もつぱらそんな事を言つて居ます」

「何が專らだえ、馬鹿々々しい」

「相濟みません、――ところで話は元へ戻つて、秋岳先生の愛妾お照の方、年は二十四で、聊いさゝか傳法で、搗つき立ての羽二重餅のやうにポチヤポチヤしたのが――」

「――」

平次は默つてしまひました。八五郎が何を言はうとして居るのか、見當もつきませんが、何んかしら、仔細あり氣なプロローグです。

「今まで隣町に一戸を構へさせ、月の六齋に、少々胡麻鹽になつた顎髯あごひげをしごき乍ら、唐天竺の都々逸なんかそゝつて通つた秋岳先生が、妾宅通ひも年のせゐで段々人目に立つやうになつたし、二つ世帶を賄まかなつては、諸掛りも大變だといふので、御本妻の里江さんも承服の上、お玉ヶ池の塾に引取つて、同じ屋根の下に住むことになりましたが――」

「それでどうしたといふのだ」

「考へて見て下さいよ、親分、秋岳先生は五十五、學問はあるかも知れないが、ノツポで皺しわだらけで、暮の鹽鮭のやうに不景氣な爺さんだし、塾生とかいふ内弟子が三人、十八から二十五まで、血の氣の多いのが同じ釜の飯を食つて居るんですぜ」

「それ丈けのことか」

「塾生の伊場健之助は十八、ニキビだらけで背高童子で、さる大藩のお留守居の子、田舍の豪士の伜の狩屋三郎といふのは二十二で、ちよいと良い男で子曰くの素讀そどくよりは、小唄を轉がす方が上手だ。一番年上は尾崎友次郎と言つて二十五、御家人の子で貧乏臭くて、學問が好きで劍術が嫌ひ、現に無理を言つて、春名塾へ入つて居るといふ變り者だ。――これ丈け苦い男が揃つて居るところへ、若いお妾が入つて來たのは、唯事ぢや無いぢやありませんか」

「そんなものかな」

「ところで、あつしも急にその兵學とやらいふ意氣な學問がし度くなりましたが、どうしたものでせう」

八五郎は眞顏で斯こんな事を言つて、長なんがい顎を撫でるのです。

「止さないか、馬鹿々々しい。いろは四十八文字を、辨慶讀みにするのが精一杯のお前が、學問といふ柄かえ」

「へエ、いけませんかね。春名塾へ入る念願は叶ひませんかね」

「呆れて物が言へないよ、お前といふ人間は」

「それについて、あつしは妙なことを考へましたよ」

八五郎は急に開き直るのです。

「何を考へたんだ」

「かりそめにも學問を教へる先生が――」

「かりそめと來やがつたか、お前の學問の程はよくわかつて居るよ」

「その大した先生がですよ、妾手掛けを置いて宜いものでせうか。こちとら三十近くなつても、たつた一人の嫁さへ貰へないといふのに」

「あれツ、自分の身に引き比べたのか、突き詰めちやいけないよ。八五郎の女房になりたいといふ娘は、町内だけでも三人や五人はあるぜ」

「なり手があつても、世帶しよたいを持つほどの工面がつきませんよ、――それに、一方ではハチ切れるほど學のある先生が、大金を出して若い妾を買つた上、長年連れ添ふ女房と、同じ屋根の下にのさ張らせて置くといふのを、小意氣に獨り者が默つて見て居ていゝものでせうか、親分」

「少し眼の色が變つたよ。大丈夫かえ、八」

「でも、癪しやくにさはるぢやありませんか、ね親分」

「論語にも孟子まうしにも、――どつこい、六鞱三略りくたふさんりやくの方だつけ。その有難い書物にも妾を置いてはいけないと書いては無いかも知れぬ?」

「鹽鮭と羽二重餅ですよ、親分」

「お節介だな、お前は」

「尤も、内儀の里江さんは石女うまずめで、三十年連れ添つても子が無いからと、夫が若い妾を置いても、不足らしい顏もしない」

「氣の毒だな」

「鹽鮭見たいな親爺おやぢの子をウジヤウジヤ拵こしらへたところで、世の中が薄汚くなるばかりぢやありませんか、ね、親分」

八五郎の哲學は、此上もなく簡單です。

二

こんな話があつてから半月ばかり經つたある晴れた日の朝、

「サア親分」

八五郎の大變が飛込んで來たのは、此騷ぎの第一幕でした。

「どうした八、相變らずあわてゝゐるぢやないか」

平次は朝の膳を押しやつて、この忠實無比な子分を迎へるのです。

「あわてましたよ。脂ぎつた良い年増が、三階の手摺てすりから逆樣にブラ下つて、町内中の見世物になつて居るのを見たら、誰だつて膽きもを潰つぶすぢやありませんか」

「さう聽くと、膽を潰さないと附き合ひが惡いやうだね。何處の國にあつた話だ」

「お玉ヶ池ですよ、路用は要らねえ、ちよいと覗いて下さい。殺された年増といふのは、それ、いつか話した、兵學の師匠、春名秋岳先生のお妾で、お照といふ凄いの。いや、その氣味の惡さといふものは、――なる程、殺されて化けて出るのは、大抵美い女ときまつてるやうだが、お多福ぢやあの凄味に出ませんね」

「何をつまらねえことを。お前が無駄を言つてゐるうちに、仕度は出來たぜ。サア行かう」

明神下からお玉ヶ池までは、まことに一と走りです。此邊は、後に、平賀源内が塾じゆくを開き、千葉周作が道場を建てたところで、神田には、珍らしい異色の一廓くわくですが、その癖、近所にはつみ綿の師匠や、取締の網の目をもぐつた曖昧あいまいな出合茶屋などがあり、一種變つた空氣を釀かもし出した場所でした。

春名秋岳といふ先生は、八五郎には唯の學問の師匠で、市井しせいの儒者じゆしやの一人としか映らなかつたのですが、實はその頃流行つた町の軍學者の一人で、兵法、兵學の講義から、治國平天下の術、それに天文にも通じて居るといふ觸れ込みで、士分の弟子を取つて、あわよくば大名にでも見出されて、出世の階子段はしごだんを大手を振つて登らうと言つた由井正雪的な下心も充分だつたのです。

從つて相當廣い庭の一隅に、二階建四方見開きの塔があり、最上階に渾天儀こんてんぎなどを据ゑて、晴れさへすれば毎晩その上から星の運行を眺め、國家の盛衰から、市井しせいの一個人の運命までも測はかるといふ、大變な觸れ込みで、お玉ヶ池の一角に塾を構へてゐるのでした。

その渾天儀を据ゑた塔の頂上、北向の欄干から、美しい妾のお照が、眞つ逆樣にブラ下つた圖は、殘酷ざんこくで無恥な惡戯としか思へなかつたのです。

平次と八五郎が驅けつけた時は、さすがに野次馬の眼を憚かつて、檢死前乍ら死骸を取おろし、塔の二階に寢かしてありました。この塔の二階の八疊は、渾天儀の番人を置く部屋に造られたのですが、妾のお照が入つて來ると、さすがに本妻の里江と同じ屋根の下に入るのを憚はゞかつたか、自ら進んで渾天儀の番人になり度いと言ひ出し、離室はなれの塔の二階を整理させて、此處に住むことになつたのです。

本妻の里江は、典型的てんけいてきな古風な女房でしたが、石女うまずめ特有の神經質な冷たいところがあり、放縱はうじゆうで作法も禮儀も辨わきまへないお照に取つては何が何でも煙たい存在であり、それに、天文の研究と稱して、屡々夜半まで此處に籠る秋岳をつかまへて、人目を避けて、勝手氣儘に甘えるためには、まことに申分の無い隱れ場所でもあつたのです。

塔の一階は物置に代用される板敷で、その半分は土間になつて居り、此邊は何んの變哲へんてつもありませんが、三階だけが支那の軍談物の揷繪にあるやうな、怪し氣な樓閣ろうかくになつて居り、四方見開きの手摺で、眞ん中に渾天儀を据ゑ、櫓時計や遠眼鏡などをあしらつて、物々しく飾り立てゝ居りますが、それが撒まき散らしたやうな一面の血潮に汚されて、階子段の口から北向の欄干まで、死體を引摺つた跡まであり〱と殘つて居るのです。

三十五六の氣のきいた下男――後で庄吉といふ道樂者だとわかりましたが、その男に案内されて、道場のお勝手口から、前の方の空地に廻ると、其處に待ち構へて居た、塾頭の尾崎友次郎に引合せられました。

二十五六の不景氣な男で、貧乏御家人の伜と聽いて居りますが、青白くて小男で、成程劍術は嫌ひで學問が好きと言つた柄です。

「錢形の親分か、いや、御苦勞々々々。先生は後で逢ひ度いと言つて居られるが、兎も角現場を御案内しよう」

尾崎友次郎は、平次と八五郎を案内して、庭先の塔へ入つて行くのです。振り返ると、庭には下男の庄吉の外に、尾崎友次郎より二つ三つ若からうと思ふ塾生と、もう一人十七八の少年が立つて、不安さうに見送つて居ります。

塀の外は町内の野次が一パイ、無遠慮なのは庭先まで入つて來て、死體はもう取りおろしたのに、未練らしく好奇ものずきの眼を輝かして居るのです。

三

この塔といふのは、以前は唯の二階建の離屋だつたらしく、その屋根を取拂つて三階をあげ、其處を秋岳の天文觀測所にしたことは、平次の素人眼にも簡單にわかります。二階までは木口が古く、三階への階子段はしごだんから上が、眞新しいのはその爲で、その眞新しい階子段から、もう血潮の洪水に浸つて、足の踏みども無いほどの慘憺さんたんたる有樣です。

三階へ登つて見ると、其處は想像以上の大混亂です。秋岳先生自慢の櫓時計も引くり返され、床も壁も滅茶々々の血潮で、よくも斯う血で汚したものと驚かれるばかり、この混亂の裏には、何んか歪ゆがめられた意圖があるのではないかと、それが、錢形平次の感じ易い心にピンと來た第一印象でした。

「八、これはどうしたことだ」

平次の想像力を以てしても、この大混亂を起した事件の姿は、簡單に掴つかめさうもありません。

「盆と正月と、こはし屋と毆なぐり込みと一緒にけしかけたやうなものですね」

「その騷ぎの中で、達者な女が一人殺されて、念入に往來から見透みとほしの欄干に、暮の鹽鮭のやうに逆樣に吊されて居たといふぢやないか」

「これは死體を引摺つた跡でせうね」

階子段の口から部屋を横切つて、手摺のところまで、血潮の上を引摺つた、着物の跡がはつきり附いて居ります。

「それにしても、こんなに血の跡をつけたのは、どういふことだ。床も壁もベタ一面ぢやないか」

平次は血潮の附かないところを選よつて歩き乍ら、下手人の意圖を搜さぐらうとして居る樣子です。

「まるで、雜巾でやつたやうですね」

「その雜巾が見付かりや占めたものだが」

手摺は極めて荒く、死體をもぐらせて、逆樣に吊ることも容易ですが、そんな細工をするのは、非凡の力が無ければならず、お照が死んでからまで、女として我慢のならぬ恥を掻かせようといふ、執拗しつあうな怨を抱くものゝ仕業といふことになります。

「其處にブラ下がつて居る細引が、お照さんの足を縛つてブラ下げた綱で」

恐る〱血だらけの部屋を覗いた尾崎友次郎は、階子段の口から聲を掛けました。

さう言はれるといかにも、手摺の親柱に、逞たくましい細引が縛つたまゝ、その端をダラリと下へ下げて居り、その細引が蘇芳すはうを塗つたやうに、眞赤になつて居るのも不氣味です。

「死骸はどうして取りおろしたんで?」

平次は訊ねました。

「逆樣にブラ下がつた死骸を、上から引揚げるのは大變だから、下から梯子をかけて庄吉と私とお六が手傳つて引おろしたよ――いやその重かつたといふことは」

尾崎友次郎は酢つぱい顏をするのです。血だらけな美女の死骸の抱き心地が、この柔弱な武家の伜を、異な興奮と嫌惡に誘つたのでせう。

「狩屋さんと伊場さんはそれを默つて見て居たのですか」

平次の問は相手の思ひも及ばぬ隙に突つ込みます。

「狩屋氏は手を出さなかつたよ。日頃お照さんに可愛がられてゐたから、死骸になると死靈に取つ付かれさうで氣味が惡かつたのだらう。伊場の方は何んと言つてもまだ若い、――十八になつたばかりでは、そんな手傳ひはさせられまい」

尾崎友次郎の言葉には、妙な含みがあります。

四

二階の八疊は、妾の居間にふさはしい、色つぽくだらしなく、そして妙に氣取つた調度の中に、お照の死骸は、床の中に寢かしてありました。

「着換きがへさせたやうだね」

平次は傍へ寄つて、片手拜みに佛樣への敬意を表した後、死骸に掛けた見よげな小掻卷こがいまきをはねのけて、後ろを振り返りました。

「御内儀が、可哀想だからと仰しやつて血に汚れた袷を着換へさせたよ」

「成程」

「仇同士のやうなものだが、お心掛が良い方は大したものぢやないか」

尾崎友次郎は、本妻の里江贔屓びいきらしく檢死前に血染の袷を脱がせた、早まつた親切までも感心するのでした。

死骸になつたお照は、評判ほどのきりやうではありませんが、脂が乘つて、顏の道具が大きくて、これで生命が通つて居たら、隨分美しくも仇つぽくも見えたことでせう。平次の經驗から言つても、娼婦肌の凄い女で、男を夢中にさせるのは、大抵斯う言つた、眼鼻立のチグハグな、一種の不調和から來る、頽廢たいはい的な魅力を持つた女に多いやうです。恐らく斯んなのは、性格的にも、病的な歪みや缺陷を持つて居ることでせう。

そのせゐか、死顏は決して美しくはなく、深刻な驚きがコビリ附いて居る上に、一と晩逆樣に吊られて、むくんでさへ居りました。傷は首筋の一とゑぐり――と言つても、後ろから抱きついて、力任せに引つ掻いたらしく、左首筋を深々と切つて、一氣に殺してしまつたらしく、全身の血が吹き出したのも無理のないことです。

「昨夜は月が良かつた筈だな」

平次は八五郎に問ひかけ乍ら、不意に窓の外を眺めました。秋の庭は物さびて、殘りの蟲が晝も鳴いて居ります。

「良い月であつたよ、私は戌刻半いつゝはん(九時)頃母屋へ歸つたが、塔の三階は窓が大きいから、晝のやうに明るかつた」

答へたのは尾崎友次郎です。

「その後で塔に殘つたのは?」

「先生は、よく晴れた夜は、子刻こゝのつ(十二時)まで星を見て居られる。昨夜は月が良くて、星を見るには不都合であつたが、それでも子刻までは塔の三階に居られたやうだ」

「尾崎樣は、どうしてそれを御存じで?」

「先生のお聲は私の部屋へよく聽える。私ばかりでは無い、下男の庄吉もよく知つて居る筈だ。私と伊場健之助の部屋は母屋の此方にあるが、狩屋氏は別扱ひで、母屋の向う側にある」

田舍の豪士の子で、金のある狩屋三郎に對して、貧乏御家人の伜の尾崎友次郎は、心の中にひがみがあるやうです。

「その狩屋さんは、塔へは行かなかつたので?」

「いや、宵のうちは見えたが、伊場と二人で戌刻いつゝ前に母屋へ引揚げたやうだ」

「先生が引揚げた時、塔の中に殘つて居るお照さんは、確かに生きてゐたことでせうね」

「先生を送り出して、四方あたり構はず何んか言ふ聲を、私は毎晩聞かされて居る。それからお照さんの手で戸を締めて寢た樣子だ」

「その後は?」

「私は知らぬ――と申す外は無いな。自分で進んで、若い身空を、淋しい塔の上で暮らす女だ。夜が更けると、狐も狸も化けて來ようではないか」

尾崎友次郎は又毒を言ふのです。此男は餘つ程お照に反感を持つて居たらしいのは、美しく豊滿ほうまんなお照が、此貧乏臭くて青白い男を相手にもしなかつたせゐでせう。

「ところで、今朝一番初めに死骸を見付けたのは?」

「近所の衆であつたよ。北向の三階の手摺てすりからブラ下がつては、神田中から見える。『何んの怨かは知らぬが、私にまでも耻を掻かせる』――と、先生が以ての外の腹立ちだ」

「成程尤もなことで」

平次は一應うなづきました。

五

何やら八五郎に耳打ちして、平次は塔の外へ出ると、庭でウロウロしてゐる、庄吉を呼留めました。三十五六の小意氣な男で、下男をさせて置くには勿體ないやうな身だしなみです。

「庄吉と言ふんだね」

「へエ下男の庄吉で」

「年に二兩や三兩の給金ぢや、その扮なりは出來ない筈だが」

平次は遠慮のないことを言ふのです。學者や町人の奉公人にしては、肌合が意氣過ぎて、ひどく不似合だつたのです。

「恐れ入ります。實は少しばかり手弄てなぐさみで勝ち續けたんで、へエ」

庄吉は小鬢こびんのあたりをポリ〱と掻くのです。

「まア、そんな事はどうでも宜いとして、お前は少し話がわかり相だ。殺されたお照をうんと怨んでゐた者がある筈だが、心當りは無いのか」

「怨んでゐるものばかりですよ。褒ほめるものなんか一人もありやしません」

「手きびしいな。先づ第一番に誰だ」

「御内儀の里江樣でせうよ。諦めたやうでも、矢張り女ですもの、――子が無いから我慢をして居ると仰しやるが、妾と同じ屋根の下ぢや、良い心持はしないわけで」

「成程な」

「口で言はなくたつて、腹の中でさう思つて居るから、お照さんの方も、何んとなくヒヤリとして母屋では寢心地が惡いから、渾天儀の番人といふことにして離屋の塔の下に立て籠こもり、夜、先生を呼出しては、へツ、へツ、へツ、飛んだ天文で」

「――」

「灯あかりは禁物だから、逢引に天文てんもんほど結構なものはありませんよ」

「主人のことを、さうツケツケ言つて宜いのかえ」

「あつしは御内儀の味方で、御内儀が我慢していらつしやる事を、斯う言つて見たいのが性分でね」

「御内儀が何んにも言はないのに、お前にその心持がよくわかるんだね」

「それ位の修業はした積りですよ。例へば、先生が母屋から出て、塔へ立て籠る暗い晩など、その後からそつと脱出して塔の階下したのガラクタの中に身を忍ばせて、ヂツと耳を濟して居る者のあることなどは、家中にも知つて居るのは、あつしばかりで」

それを知つて居る夫子ふうし自身もまた、塔のあたりを、深夜ウロウロする一人だつたのかも知れません。

「すると?」

「おつと待つて下さいよ。親分、それだから御内儀は下手人ぢやないと言ふ積りですよ。お照さんを怨んでゐるのは御内儀が一番だが、先生が塔へ通つた晩は、必ず後をつけて來て、先生より一足先に母屋に歸つて、お床の前に三つ指を突いて迎へる御内儀が、塔の頂上てつぺんに引返して、お照さんを殺せるわけが無いぢやありませんか」

「成程、うまい言ひわけがあるもんだな。で、その次にお照を怨んでるのは誰だえ」

「男出入の多い女だつたといふから、怨んでる男は二人や三人ぢや無いでせうよ」

「お照さんを邪魔にして居る者もあるだらう」

平次は責め手を變へました。

「これもうんとありますよ」

「どんな人だ」

「先づ第一番に此處の先生」

「?」

「春名秋岳先生。驚いちやいけません。春名秋岳先生は、間がよくば御ご三家け大藩たいはんに召抱へられるか、上樣の御師匠番にもなれる方だが、ちよいと氣の迷ひで一と口頬張つたばかりに、あの鳥モチのやうな女にへばり附かれて、悉く參つて居るのを御存じないでせう、親分」

「それは初耳だな」

「お照さん――お照の阿魔あまで澤山ですがね。――色つぽくて脂切つて、執しつこくて、慾が深いから、死ぬまで先生から離れやしません。その先生はもう五十五だ。學問と智惠はあるか知らないが、年よりはうんとふけて、毎日のお談義さへ息が切れる。庭を掃いて居るあつしをつかまへて、つく〲斯う言つたことがありますよ。若氣の至りとは言へないが、五年前のフトした過ちから、あのお照といふ飛んだ女を背負ひ込んでしまつた、お前の辯口で何んとかならぬものか――とね」

「――」

打ちあけた學者の懺悔ざんげを、庄吉の口から聽く平次も、妙な矛盾むじゆんと、嘘見たいな眞實性を感じないわけに行きません。

「でも、あつしは御免を蒙りました。うつかりした事を言ふと、あの女はあつしに乘替へまさア。飛んだ安珍清姫になりさうで、現に狩屋三郎さんはひどい眼に逢つて居るやうでしたよ」

「狩屋さんが?」

「ちよいとチヨツカイを出したんでせうね。一度あの女に掛り合ひをつけたら、一生絡からみつかれるに極つてまさア。お蔭で喜の字屋のお咲坊は近頃泣きの涙で」

「何んだえ、それは」

「隣町の――と言つたところで、此塾とは背中合せの綿摘わたつみの師匠の妹で」

「それが狩屋さんと何うしたので」

「良い仲でしたよ。狩屋さんは草加さうかの豪士の伜で、金があつて男が好いと來て居るでせう。三日に一と晩は塾を拔け出して、薄暗いうちにぼんやり歸つて來ますよ。近頃は喜の字屋のお咲坊と誰知らぬ者も無い中になつて居る癖くせに、お照の阿魔が此處へ入つて來ると箸まめにちよつかいを出して、滅茶々々に絡みつかれるから、動きが取れやしませんや。へツ、色男には誰がなる――つてね、笑はせやがらア」

「ところで、お前はそんな事をポン〱言つて宜いのか」

平次は我慢がなり兼ねました。此の庄吉といふ男は、小博奕打こばくちうちらしく、存分に横着で人が惡さうですが、それでも自分の主人や、塾生達を、斯うまでケナシつけなくとも宜さ相です。

「へツ、飛んだ恩知らずだと思つたでせう、親分は。でも、一と月此家に奉公して居たら誰だつてあつしと同じ心持になりますよ。給金が安くて使ひやうが荒くて、ケチで不人情で、一から十迄嘘で固めたやうな人間の巣です。あつしはもう我慢が出來なくなつたから、今日にも飛出さうと思つたが、人殺しのある家から飛出しちや、痛くない腹を搜さぐられないとも限らないから、兎も角下手人の擧がるまではムズ〱し乍らも我慢して居ますがね。その代り、腹に溜たまつて居ることを、思ひ切り言はして下さいよ。飛んだお役に立たないとも限りませんから」

庄吉は土手を切つた洪水おほみづのやうに、留めどもなくしやべり捲まくるのです。

「例へばどんな事が氣に入らないんだ」

平次は僅かに合槌あひづちを打ちました。斯う明けすけにやられると、岡ツ引は稼業でもあまり良い心持はしません。

「第一、兵書の講義や軍學の傳授でんじゆなんてものは、あんな間拔なものぢやありませんよ。あつしは何んにも知らないが、あんな間拔けな理窟なら横町の隱居だつて知つて居まさア。天文だつて、塔の上の暗がりで、何をやるかわかつたものぢやありません。こけおどしの渾天儀に櫓やぐら時計でせう。道具は揃つて居たつて、夜這星よばひぼしに箒星、星眼ほしめに星月夜位しか知りやしませんよ」

「それで塾生が我慢して居るのか」

「尾崎さんは劍術嫌ひ、伊場さんは親の方が邪魔物扱ひにし、狩屋さんは江戸に居て、女道樂がし度いばかりの修業沙汰ですよ。あんなのは、阿呆駄羅經あほだらきやうを立て讀みにしたつて、感服仕つてまさア」

「荒つぽいな、少し」

「まだ〱こんなこつちやありませんよ。嘘だと思つたら、たつた七日でも泊つて居て、皆んなのする事を見て居て下さい」

「よし〱、解つたとしよう。ところで、それ程物事のわかるお前には、此下手人の見當は付いて居る筈だ。先づ誰の仕業だと思ふ」

平次は妙なところを押へました。

「ところが、そればつかりはわからないから癪ぢやありませんか。あつしが下手人でないことだけは確かで」

庄吉も其處までは見當もつかない樣子です。

六

主人の春名秋岳は、その頃江戸に聞えた學者の一人で、下男の庄吉がくさしつける程の嘘で固めた人間では無かつたでせうが、多分に宣傳の波に乘つたポーズのある人間で、錢形平次のやうな市井人に取つては、あまり愉快な相手ではなかつたのです。

「私に取つては甚だ迷惑ぢや。既にさる大藩から、御召抱の内意もあり、今こんな事があつては、自然沙汰止みにもならう。世間態を宜しく頼むぞ、親分」

そんな事を言ふ春名秋岳に、平次はもとより好意を持てやう筈もありません。

「御尤もですが、下手人の心當りはありませんか。お照さんをひどく怨んでゐる者など」

「無いな」

「お照さんの身許を御存じで?」

「相模の生れで、孤兒みなしごだといふことだが、請人うけにんは確かだ」

これでは一向に要領を得ません。この乾鮭のやうな老學者は、凄まじい耻を掻かされたにしても、五年來首つ玉に噛り付いて離れなかつた、厄介な女妖の手から逃れて、聊いさゝかホツとした形ちでもあるやうです。

内儀の里江は、繪に描いた女房衆のやうな、冷たく取濟した、謹直な五十女でした。

この冷たさと容易に人に打ち明けない殼の中には、案外烈々と燃えさかる嫉妬しつとの焔ほむらがあるやも知れず、平次も妙に身内の引締まる念ひで相對しました。物馴れた平次にも、斯の種の女は一番の苦手です。

「私は何んにも存じません。旦那樣が目をかけていらつしやるお照さんを、邪魔にするなんて飛んでもない、私から望んで屋敷の中に入れた人ですもの」

「でも御内儀は、先生が塔へ入らつしやると、その跡をつけて、階下したの部屋で待つて居たさうぢやありませんか」

平次は思ひきつた、突つ込みをしました。斯うでも出なければ、容易に口を開く女では無さゝうです。

「それは主人の身を案じての、私の役目でございました」

成程、辯解にはいろ〱の型があるものです。

「昨夜はどうなさいました」

「子刻こゝのつが鳴ると、私は一と足先に母屋に歸りました。續いて主人も歸つたやうで、その間には、何をする隙も無かつた筈です」

平次の練達さでも、これ以上は諦める外はありません。

春名秋岳と内儀の里江と、諜しめし合はせてやつたことでなければ、お照を殺す隙は無く、二人の氣持が別々では、これは絶對に出來ないことです。

山勘の兵法學者が、妾の一人や二人蓄へたところで、當時の低い道徳通念では、非難する者もある筈は無く、その石女うまずめの内儀が、妾を殺す氣になるといふことも、當時の物の考へ方には、無いことです。

丁度折よく、一番若い塾生の伊場健之助が、縁側を通りかゝつたのを、平次は呼び留めました。ニキビだらけでノツポで、あまり頼母し氣な青年ではありませんが、親の大藩の留守居が、自分のダラシの無い生活を見せ度くない爲に、インチキを承知で、春名塾に預あづけて置くのでせう。

かれは若さと眠さと、頭の惡さで、結局は何んにもわからず、

「お照さんは、よくしてくれましたよ。でも氣味の惡いところがあつて、私は好きになれなかつたが――」

さう言ふのが精一杯です。

下女のお六は少し智惠の足りない方で、何を訊いても埒らちがあかず、最後に平次は、塾生の一人、狩屋三郎を呼んで貰つて、母屋の一室に相對しました。

「狩屋さん、打明けて話して下さい。昨夜貴方は、何處かへ出かけた相ぢやありませんか」

それは平次の罠わなでした。平次はそんな事を誰からも聽いては居ないのですが、この金持で男前の良い狩屋三郎が、三日に一度は脱け出して、ぼんやり朝歸つて來るといふ下男の庄吉の言葉を利用して見たのです。

「では打ち明けて申しませう。お話をすれば私がお照さんの下手人でないこともおわかりでせう」

良い男の狩屋三郎は、大して惡びれもせずに、靜かに話し始めました――。

「――」

この惱ましい話を、默つて聽いてゐる平次も、あまり樂ではありません。

「私は喜の字屋へ參りました。綿摘わたつみの師匠のお喜代は、親類へ泊りに行つて二三日留守、弟子達にも一日の暇をやつて、怠屈で〱仕樣が無いから、是非來てくれ――とお喜代の妹お咲からの使ひでした、――時刻は正子刻こゝのつ、それより早いと婆やさんが起きてゐるし、遲いと私が眠くなるから、と六つかしい註文でした」

「それは誰が知つてるので?」

平次は訊ねました。豪士の子の狩屋三郎は、御家人の伜の尾崎友次郎ほどは威張つて居ませんが、それでも兎もすると、江戸の岡つ引を下した眼に見ようとします。

「誰にも知らせるわけは無い。私とお咲が知つてる丈けだよ、親分」

「成程ね」

逢引といふものゝ味を知らなかつた平次は、言ひこめられて、斯う言ふ外は無かつたのです。

「約束の子刻こゝのつに、家を脱け出して行つて見ました。裏木戸を開けると、喜の字屋は鼻の先だ。表が締つて居たので、そつと叩いて見ました、が、誰も返事をしてくれません」

「――」

「今晩は、是非逢はなければならないわけは、お咲は近頃嫉妬やきもちがひどくなつて居て、私もつい扱ひ兼ねるので、今晩限り、二人は談合づくで別れることになつて居たのです。それに、わざ〱呼び出して置いて、戸を叩いても顏を出してくれないのは、いつものお咲らしい強情さで、私は四半刻(三十分)も粘ねばつて見ました。約束の今夜が過ぎるとお咲はまた別れ話を承知してくれないにきまつて居ります」

「で、それから、どうなりました」

話が微妙になると、ツイ平次も膝を進めました。

「暫らく經つと、お咲は漸く戸を開けてくれました。よく寢込んで居た相で、取亂した姿で」

「?」

その取亂した姿が、好き者の狩屋三郎にはまた一つの魅力でもあつたのでせう。

「お咲は眠つて居たといふけれと、私をジラして居たに違ひありません。手足はひどく冷たかつたし、床も、枕も冷たかつたし」

狩屋三郎はフト言ひ過ぎたことに氣が付いたらしく、言葉を途切らせてしまひました。

「それで?」

平次は催促さいそくしました。

「それつきりで、何んにも言ふことはありません。私は曉方塾へ歸りました。そして、それから半刻も經たぬうちに、あの騷ぎが始まつたのです」

狩屋三郎の話は、それが全部です。

平次はそれから直ぐ、春名塾の裏口を出て、隣町の喜の字屋といふのに行つて見ました。

鈴木春信が好んで描いた綿摘み、それは言ふまでもなく、江戸時代の私娼の一つで、狩屋三郎の懇ろにして居るお咲といふのは、喜の字屋の師匠の妹で、二十二三であつたにしても、相當顏の良い姐御だつたのです。

「あら、錢形の親分さん、こんなところへ、どんな風の吹き廻しで――」

と精一杯の媚こびで迎へてくれたのは、當のお咲といふ美しいのでした。二十臺にしては如才無い、骨細の引締つた身體、こぼれる愛嬌は商賣柄で、何樣私娼ではあるにしても、非凡な感じのする女です。

「少し訊き度いことがあつて來たが」

「え、どんな事でも申上げますわ。まあ、こちらへ」

長火鉢の前に座を作つて、平次を迎へるお咲です。

「外ぢや無いが、昨夜、狩屋三郎さんが來た相だが、確かな時刻を知らせてくれ」

「そんな事ならわけもありません。狩屋さんが表の格子を叩いたのは丁度子刻半(一時)少し前、此間から始まつた、町内の火の番の太鼓が鳴つて居ましたよ。私は少し腹の立つことがあつて、暫らく默つてジラして居りましたが、狩屋さんと來たら、正直で野暮で、諦あきらめといふことを知らないから、御近所に氣兼をしい〱、四半刻も外の戸を叩いて居りました。あんまり可愛想だから、戸を開けてやると、いきなり私に飛付いて」

「――」

「一と晩散々遊んでやりましたよ。それつきり、あとは何を申上げれば宜いんでせう」

擧げた顏、色戀も諸わけも知り盡した二十歳娘のお咲の無邪氣さに、錢形平次もひどくタジタジとなりました。

「昨夜はお前一人だつたのか」

「姉さんは二三日泊りがけで親類へ行つたし、お弟子達は晝でなきや來やしません。お勝手をやつて居るお今婆さんは、恐ろしい金聾つんぼで、鼻の先へ雷鳴が落ちても聽えない人です。そのくせ大の寢坊だから、逢引の番人には持つて來いでせう」

斯う言つたお咲です。

「狩屋さんが、春名先生のお妾のお照さんに夢中だつたといふぢやないか」

「そんなこともあつたやうです。でもあのお妾は浮氣で高慢だから、田舍者の狩屋さんなんかを、長く相手にするわけはありません。近頃は笑顏一つ見せてくれないと言つて、狩屋さんが腐つて居ましたよ」

「それでお前に訊くことは皆んなだ。ところで、その聾の婆やに逢つて見ようか」

平次は若い弟子達の好奇な視線の中をくゞつて、お勝手にボロ切れのやうにしやがんでゐるお今婆さんに聲を掛けて見ました。六十を幾つも越さない樣子ですが、貧乏疲れの上の恐ろしい金聾で、何を訊いても要領を得ません。食ふことゝ寢ることゝ、自分のきまつた仕事の外には先づ生活が無いと言つても宜いでせう。

「昨夜はどうして居た」

平次は此の「昨夜は?」といふ言葉を何遍も大聲で繰り返して見ましたが、結局、

「昨夜かね。お咲さんにお酒を一本御馳走になつて、すつかり寢てしまつたよ。私は年寄のくせに寢付きの良い方で」

そんな事を言ふのが精一杯です。好い加減にして、元の春名塾へ引揚げて來ると、

「さア、大變。親分、塔の一階から三階まで嘗めるやうに調べると――」

ガラツ八がわめくのです。

七

「何んだ、八。何を見付けたんだ」

「大手柄ですよ。親分、ちよいと來て見て下さい」

「手飼の猫の子が、始めて鼠を取つたやうな騷ぎぢやないか」

さう言ひ乍らも平次は、八五郎に案内させて、塔の三階に登りました。

「何があつたと思ひます、親分。――この渾天儀の臺の下に?」

「知るものか」

「この臺は思ひの外重いんですがね。宜い鹽梅に側にあつた梃てこを使つてあげて見ると、中は洞うつろになつて、この三品をねぢ込んでゐるぢやありませんか」

「?」

「羽織が一枚と、匕首が一口ひとふりと、血だらけの雜巾が一つ、尤も羽織も匕首やひどい血ですがね」

擴げると、斑々たる血に染んだ男羽織、當時の伊達模樣で、なか〱に派手なものです。

「誰のだ」

「狩屋三郎のですよ、羽織も匕首も。――野郎逃げるかも知れないと思つたから、其場で腰繩を打つて、下つ引に番所へつれて行かせましたが」

八五郎は此發見と、手柄に、自分乍ら陶醉たうすゐしきつてゐる樣子です。

「馬鹿野郎」

「へエ、何が惡いんです、親分」

八五郎はキヨトンとしました。平次の「馬鹿野郎」があまりにも不意だつたのです。

「狩屋三郎さんが、お照殺しの下手人だといふのか」

「でせう。血だらけの羽織と匕首、それに重い渾天儀こんてんぎの臺を持上げて、そんなものを隱すのは、恰幅かつぷくの良い狩屋三郎でも無きや――」

「だからお前は馬鹿だといふんだよ。人でも殺さうといふ太てえ人間が、お前が氣のつく位のことに氣がつかないと思ふのか」

「へエ?」

「矢張り梃をつかつて臺を持上げ、羽織と匕首を隱したのさ。それに、狩屋三郎が本當に下手人なら、自分のものとわかつて居る血だらけの羽織や匕首を、搜せばすぐわかる、塔の三階の殺し場などに隱して置くものか」

「さうですかね。すると下手人は誰です、親分」

「その雜巾で、血の足跡を拭いた人間だ。――お照を階子段はしごだんの上で殺して、手摺まで引摺つて來るうち、床の上へ足跡がうんと附いたに違ひあるまい。誰が見ても一と眼でそれとわかる足跡だ。此邊には跛足びつこも片輪も居ないから、うんと大きいか、法外に小さい足跡だらう。月の光でそれと氣がついて、その血の足跡を隱すために、雜巾で拭いた上壁へも床へも滅茶に血を塗つた。恐ろしく智惠の廻る曲者だ」

「誰ですそれは?」

八五郎も膽きもを潰つぶしました。平次の説明はあまりにも八五郎の想像とかけ離れて居ます。

「曲者は狩屋三郎の羽織を着て、狩屋三郎に化けて此處へ來たことだらう。狩屋三郎の聲色こわいろ位は使つたかも知れない。お照はそれをてつきり、狩屋三郎と思ひ込んで三階へ引入れたが、月の光に、狩屋三郎でないとわかると、驚いて逃出さうとした。階子段へかゝるところを、曲者は後ろから抱きつくやうに、匕首で、お照の喉を掻かき切つた。恐ろしい手際だが、血もひどかつた。曲者は狩屋三郎の羽織が血で汚れるのを承知で、素足の跣足はだしになつたまゝ、尻位端折つたかも知れない。死骸を手摺まで引摺つて行き、手摺の親柱に縛つて、死骸を下に突き落した。死骸は眞つ逆樣に手摺てすりの下にブラ下がつたことだらう」

「誰です、そんな事をしたのは?」

「來い、八。教へてやらう」

平次は八五郎と一緒に裏へ出ると、眞つ直ぐに喜の字屋へ。

「あら、まア、錢形の親分。また何んか御用?」

と、格子の外へ顏を出した、申分ない媚色びしよくのお咲を、平次はピタリと指すのです。

「八、あの女だ。細工が憎い。女は美いが容捨ようしやのならねえ曲者だ」

「あツ」

事の破れを覺つて逃出さうとしたお咲は、八五郎の手に、羽掻締はがいじめにされて、崩折れてしまひました。

×      ×      ×

「どうしてあの女がお妾なんか殺したんでせう」

歸る途々、八五郎の問ふまゝに、平次は、

「嫌な捕物さ。あの女は狩屋三郎に夢中だつたんだ。男がよくて金があつて、ポーツとして、阿婆摺あばずれの綿摘の師匠には持つて來いの相手ぢや無いか。ところが狩屋三郎は近頃先生の妾に乘替へて、喜の字屋へ寄りつかなくなつた。そこでお咲は今晩來てくれたら、綺麗に別れるからと言つて、子刻こゝのつを合圖に呼寄せたのだらう。姉は親類へ泊りに行つたし、聾の婆やには酒を呑ませて寢かしてしまつた」

「へエ?」

「狩屋三郎は正直に受けて子刻丁度といふ時刻に行つて、外から戸を叩いたが開けてくれない。その筈だ。お咲は裏から脱出して、狩屋三郎の前に來たとき忘れて行つた羽織を着、その匕首を持つて、狩屋三郎に化けて塔へ行き、憎くてたまらないお照を殺して、血の附いた羽織と匕首を、渾天儀の臺の下へ隱し、素知らぬ顏をして、歸つて來て、喜の字屋の裏口から入り、手足を洗つて、寢亂れた姿で表の戸を開けて、狩屋三郎を引入れたことだらう。お咲の手足は冷たかつたし、寢亂れた姿にしては、床も枕も冷たかつたと狩屋三郎が言つたのはその爲だ」

「惡い女ですね」

「あんな女は思ひつめると何をするかわからないよ。お前も氣をつけることだ」

「へエツ、有難いことに、あつしはお妾なんかに惚れられる柄ぢやありませんよ」

「その代り神田中の新造つ子が皆んな八五郎びいきだ」

「有難い仕合で」

「一番惡いのはあの軍學者の山カン野郎さ。天文も治國平天下も無えものだ。脂切あぶらぎつたお妾が、三階から逆樣にブラ下つて、當分は講中も寄り付かなくなるだらう。あんなのは駄菓子屋でも始めて、女房孝行をし乍ら死ぬのが、本當の治國平天下さ」

「――」

八五郎は何が何やらわかりませんでした。でも素晴らしい美女を羽掻締にして縛つた後味の惡さに、聊か憂鬱さうです。

底本 / Source edition

底本:「錢形平次捕物全集第二卷 白梅の精」同光社磯部書房
1953(昭和28)年4月5日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋新社
1951(昭和26)年11月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2015年9月1日作成
2017年3月4日修正
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リリース / Release
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TEI
/works/054574_001670/tei
プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/054574_001670/

野村 胡堂「銭形平次捕物控──259 軍学者の妾」(旧字旧仮名)、底本『錢形平次捕物全集第二卷 白梅の精』同光社磯部書房、1953年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 054574_001670, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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