## 一

増田屋金兵衞、その晩は明るい内から庭に縁臺を持出させ、九月十三夜の<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>の月を、たつた一人で眺めることにきめました。

金があつて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しみつ垂</span>れで、人づき合ひが嫌ひで、恐ろしく風流氣のある金兵衞は、八月十五日の名月も、この獨自のシステムで觀賞し、<ruby><rb>悉</rb><rt>こと〲</rt></ruby>く良い心持になれたので、それを又くり返して、その頃嫌つた片月見にならぬやうにと、いとも經濟的な<ruby><rb>魂膽</rb><rt>こんたん</rt></ruby>だつたに違ひありません。

奉公人や近所の者が何んと言はうと、思ひ立つた事は遠慮會釋もなく實行に移すのが、それが金持の特權であり、風流人の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たしなみ</span>であると信じきつてゐるので、番頭や<ruby><rb>伜</rb><rt>せがれ</rt></ruby>がその不穩當さを非難したところで、耳を傾けるやうな金兵衞では無かつたのです。

この變つた獨り月見の異變を、作者が辛棒強く<ruby><rb>平敍</rb><rt>へいじよ</rt></ruby>して行くより、江戸の御用聞、お馴染錢形平次の、明神下の住家で、子分の八五郎をして語らしめた方が手つ取早く埒があきさうです。

「ね、親分、金があつて暇があつて、妾があつて風流氣があるんだから、思ひ付くことだつて、世間と違つて<ruby><rb>旋毛</rb><rt>つむじ</rt></ruby>が曲つてゐますね」

「まるでお前見たいぢや無いか」

錢形平次は相變らずの調子で、半分は冷かし乍ら、適當なテムポで八五郎の報告を聽いて居ります。

「へツ、違げえねえ、こちとらは借金があつて、仕事があつて、<ruby><rb>情婦</rb><rt>いろ</rt></ruby>があつて、喧嘩氣がある」

「それから先を話せ」

「増田屋金兵衞、二た抱へは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たつぷり</span>あらうといふ名物月見の松の下に縁臺を<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>ゑさせ、松の葉蔭から、ユラ〱と昇る月を眺め乍ら、チビチビと呑んだり、鹽豆を噛つたり、下手な<ruby><rb>發句</rb><rt>ほつく</rt></ruby>を考へたり」

「鹽豆は變な好みだな」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しみつ</span>垂れだから、一人で呑むんだつて、酒の肴の<ruby><rb>贅</rb><rt>ぜい</rt></ruby>は言はない、――尤も一代に何千兩といふ身上を拵へる人間は、蟲のせゐで<ruby><rb>刺身</rb><rt>さしみ</rt></ruby>や<ruby><rb>蒲鉾</rb><rt>かまぼこ</rt></ruby>は自腹を切つちや食はないんですね」

「――」

「御存じの通り、<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>は良い月でしたね、あんな月を見ると、こちとらは<ruby><rb>袷</rb><rt>あはせ</rt></ruby>位は曲げて呑み度くなるが、金兵衞は酒のお代りも言ひつけずに、下手な發句ばかり並べて喜んでゐる――、麻布名物の月見の松の下でね――」

「それからどうしたんだ」

平次は後を促しました。良い月夜の翌る日は、シヨボシヨボした秋雨になつて、夕方はもう眞つ暗、平次と八五郎が相對してゐる、神田明神下の――詳しく言へばお臺所町の路地の奧は、<ruby><rb>申刻</rb><rt>なゝつ</rt></ruby>過ぎにもう<ruby><rb>灯</rb><rt>あかり</rt></ruby>が欲しいやうです。

火鉢を挾んで、寒山<ruby><rb>拾徳</rb><rt>じつとく</rt></ruby>見たいなポーズで、たつた一本の煙管を、平次がすめば八五郎が拾ひ、八五郎が投り出せば、平次が取上げると言つた、世にも氣樂な親分子分風景でした。

「話の前に、増田屋金兵衞は生れ乍らの町人では無く、元は武家の出で、今から二十年前、増田屋の亡くなつた後家に惚れられ、<ruby><rb>還俗</rb><rt>げんぞく</rt></ruby>して町人になつたといふことを覺えてゐて下さい」

「還俗て奴があるかえ。――兩刀を捨てるとか、何んとか言ひやうがあるだらう」

「同じやうなもので、――兎も角、<ruby><rb>侍</rb><rt>さむらひ</rt></ruby>のくせに弓馬槍劍は<ruby><rb>空</rb><rt>から</rt></ruby>つ<ruby><rb>下手</rb><rt>ぺた</rt></ruby>、ちよいと男がよく、辯舌が達者で、<ruby><rb>算盤</rb><rt>そろばん</rt></ruby>が出來て、風流氣があつた――そこを見込まれて、元々身上の良い増田屋の後家に惚れられ、増田屋の庭先の、鼠の巣のやうな長屋から這ひ出して、披露も御挨拶もなく、ヌツと増田屋に納まつて、浪人<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby>を町人髷にした」

「――」

「増田屋には先の亭主の遺した、新吉郎といふ今年二十八の伜があり、<ruby><rb>多與里</rb><rt>たより</rt></ruby>といふ、今の主人の金兵衞の娘があります。これは十七になつたばかり、可愛らしい娘ですよ」

「お前に言はせると、娘は皆んな可愛らしいから不思議さ」

「それでも妾のお鈴には及びませんよ、これは<ruby><rb>二十歳</rb><rt>はたち</rt></ruby>か二十一でせう、素人の出だといふが、凄いほどの女で」

「道具建てはそれ位にして、月見の話はどうなつたんだ」

平次も少ししびれをきらしました。

「増田屋金兵衞の人柄から話さなきや、この話は面白かありませんよ、――何しろ二十年前に増田屋の後家のところへズル〱ベツタリ入り込んで、それから増田屋の身上を倍にも三倍にもした男だ、人の<ruby><rb>怨</rb><rt>うらみ</rt></ruby>も隨分買つてゐるわけで、此間から<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たち</span>の惡い惡戯が引つ切りなしだ、塀や羽目は落書きで一パイだし、石を<ruby><rb>投</rb><rt>はふ</rt></ruby>る者、店先へ泥を飛ばす者、出入の<ruby><rb>鳶頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>の半次が見張つた位ぢや、防ぎやうが無い」

「――」

「それが<ruby><rb>嵩</rb><rt>かう</rt></ruby>じて到頭、昨夜の縁臺の獨り月見で、主人の金兵衞半死半生の目に逢つた」

「――」

「縁臺に腰を掛けて、チビ〱やり乍ら、松の葉越しに昇る月を眺めて下手な發句を――」

「それはもう聽いたよ」

「ところへ、いきなり頭の上からバラリと<ruby><rb>罠</rb><rt>わな</rt></ruby>が落ちて來た、――アツと言ふ間もありやしません、氣の付いた時は、首を吊られた主人金兵衞の身體が、縁臺を離れて、フラ〱と宙へ吊り上げられて居たとしたらどんなものです」

「驚くよ、――俺だつてそんな目には逢ひ度かない、誰が一體そんな亂暴なことをしたんだ」

「それがわかれば、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>がしよつ引いて手柄にしまさア、釣られた主人は一切夢中だし、家中の者は誰も氣が付かない、繩は松の大枝から下つて、五十七歳の増田屋金兵衞、まるで<ruby><rb>蜘蛛</rb><rt>くも</rt></ruby>の巣に吊られた一匹の<ruby><rb>蠅</rb><rt>はへ</rt></ruby>のやうに、月見の松へキリ〱と引上げられた」

「成程、氣味のよくねえ話だな」

「足は大地を離れてゐるから、ジタバタしたつて、踏むのは虚空ばかり、罠で首を締められてゐるから、助けを求めやうにも聲が出ねえ」

「刄物を持つてゐなかつたのか、元は武家だといふから、せめて脇差か何んか」

「そんな物はありやしません、手に持つてゐるのは、筆と<ruby><rb>短册</rb><rt>たんざく</rt></ruby>だけ、――増田屋金兵衞<ruby><rb>茫</rb><rt>ばう</rt></ruby>となつてしまつた。<ruby><rb>何刻</rb><rt>なんどき</rt></ruby>經つたかわからねえが、實は煙草一服の間かも知れません、松の上から金兵衞を吊り上げた曲者は、繩尻を大枝に止めると安心して逃げてしまつた、あとは金兵衞が死ぬのを待つばかり」

「――」

「が、丁度その時、増田屋の<ruby><rb>掛</rb><rt>かゝ</rt></ruby>り<ruby><rb>人</rb><rt>うど</rt></ruby>で、近頃來たばかりの浪人者――用人棒といふにしては人柄の良い、<ruby><rb>椿三千麿</rb><rt>つばきみちまろ</rt></ruby>といふ若い武家が、外から歸つて來て、庭木戸の外から此<ruby><rb>體</rb><rt>てい</rt></ruby>を見た、月が良いから、庭の中は一と眼だつたといふんで」

「フン」

「いきなり木戸を押し開けて飛込み、脇差を拔いて飛上りさま、金兵衞の頭の上で繩を切つた、金兵衞が蜘蛛の巣から離れた蟲のやうに、ドタリと落ちて來るのを、危ふく宙に留めたといふから大した手際でせう。その時はもう、金兵衞蟲の息も通つて居なかつたが、<ruby><rb>柔術</rb><rt>やはら</rt></ruby>の方で、落ちた人間の手當を心得てゐる椿三千麿が、背を割つて活を入れ、顏へ水をブツ掛けると、宜いあんべえに金兵衞は息を吹返しました」

八五郎は漸くこの話を終りました。

麻布へ用事で行つた歸り、土地の御用聞から聽き込んで、<ruby><rb>稼業冥利</rb><rt>しやうばいみやうり</rt></ruby>に増田屋を覗いて來たといふのです。

## 二

二度目の異變は、十一月の十七日。

増田屋金兵衞は、<ruby><rb>離家</rb><rt>はなれ</rt></ruby>と<ruby><rb>母家</rb><rt>おもや</rt></ruby>を繋ぐ、廊下の端で刺されました。

この時は向柳原の八五郎の家へ、麻布からわざ〱の使があつたので、八五郎に誘はれた錢形平次は、神田から遙々の道も厭はず、好奇心で張り切つて飛んで行きました。

麻布の十番、俗に言ふ十番馬場の近くで、飯倉新町の一角を占めた増田屋は、大地主であり、武家の出身であつたにしても、<ruby><rb>聊</rb><rt>いさゝ</rt></ruby>か僭上な構へで、破風造りの堂々たる住居でした。從つてその部屋々々の關係も複雜怪奇で、一度覗いた位では、平次にもチヨイと見當はつきません。

「錢形の親分さん、遠方を御苦勞樣でした。主人が、どうしても親分さんに來て頂き度いと申しますので、へエ」

番頭の伊之助が案内してくれました。五十前後の、先代から奉公してゐる、忠義者――と後に主人金兵衞は紹介して居ります。二代の主人に仕へて、少しも厭な顏もせず、不自然な態度も示さなかつた、徹底的な順應主義者といふ意味でせう。

柄は大きくありませんが、よく肥つた愛嬌のある男で、誇張された感情を、すぐ顏に出して見せる、特色のある印象を持つて居ります。

主人の部屋は母屋の奧で、<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>の八疊でしたが、その頃はやかましかつた<ruby><rb>長押</rb><rt>なげし</rt></ruby>を打つて、床の間なども書院造りらしく見せて居り、主人金兵衞の出身やたしなみを匂はせて居るのです。

「錢形の親分ですが」

「いや、飛んだ無理を言つて濟みません」

番頭に紹介されると、主人金兵衞は、絹物の夜具の上に、僅かに首を動かしました。五十七八の痩せぎすの小柄な男、若い時分は隨分美男でもあつたでせうが、<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>が寄つて、眼の下に脂肪がついて、顏色が青黒くなつて、眼玉がドンヨリしては、若い時美男であつただけに反つて淺ましく醜くゝ見えます。

床の側に居るのは、二十歳そこ〱の、素晴らしく肉感的な女、骨細で<ruby><rb>脂</rb><rt>あぶら</rt></ruby>が乘つて、彈力と骨格を失つてしまつたやうな、――早く言へば<ruby><rb>淫</rb><rt>みだ</rt></ruby>らな感じのする女でした。顏の道具はよく整つた方、八五郎が言ふほどの美人ではありませんが、人に依つては斯んなのに、飛んだ點を入れるかも知れません。

平次が、事件の説明を訊くと、主人金兵衞は、眼顏で妾のお鈴に席を外させ、思ひの外の元氣さで、斯う説明しました。

「昨夜<ruby><rb>亥刻</rb><rt>よつ</rt></ruby>半頃、此處から離屋に通ふ廊下に立つてゐると、いきなり横から刺されました、刄物は脇差のやうでした、眞つ暗で何が何やらわからず、思はず大きな聲を出すと、曲者はバタ〱と逃げたやうですが、間もなく母屋の方から、椿さんが手燭を持つて驅けつけてくれました。なアに、傷は大したこともありませんが、此間から手を替へ品を變へ、意地の惡い惡戯が續きますので、到底我慢がなり兼ねて、親分に來て頂いたやうなわけで――」

主人は何んとなく<ruby><rb>脅</rb><rt>おび</rt></ruby>えてゐる樣子ですが、言葉だけは、さり氣なく元氣に聞えます。

「傷は？」

「左の脇腹で、一寸右へ寄れば、心の臟をやられるから、命は無かつたと外科が申します。廊下のあの邊は古い屏風やら建具やら、澤山のガラクタを積んでありますから、曲者は其處に隱れて居たことでせう」

「<ruby><rb>亥刻</rb><rt>よつ</rt></ruby>半といふと<ruby><rb>半夜</rb><rt>よなか</rt></ruby>だが、御主人は何んだつて、そんな場所へ行つたんです。話の樣子では、灯も無かつたやうだが」

「それは、フト、氣になることがありましたので――」

「氣になるといふと？」

「離屋の方で物音がしたやうに思ひました、――私の空耳だつたかもわかりませんが」

主人金兵衞はひどく言ひ憎さうです。

「刄物は落ちてゐなかつたので」

「それも申しました、家中の者に搜させた時は、何んにも無かつた相で」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つまら</span>ねえことを訊くやうですが、御主人を<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>む者は？」

「二十年前は兩刀を<ruby><rb>手挾</rb><rt>たばさ</rt></ruby>んで居りました、若氣の過ちで、隨分我儘氣隨な振舞もいたしましたが、それはもう昔のことで――町人になつてからは、人と爭はないやうに、そればかり氣をつけて參りましたが」

主人金兵衞は、さうは言ひきつても、何んとなく割りきれないものがありさうです。

大方話の了つたところへ、伜の新吉郎と、娘の<ruby><rb>多與里</rb><rt>たより</rt></ruby>が入つて來ました、新吉郎は二十七八の、平凡過ぎるほど平凡な男でした、金にも健康にも何んの不足も無いのに、二十七八まで嫁の無いといふことからして、此頃の世間並では尋常ではありません。

娘の多與里は十七、これは金兵衞の本當の子で、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おもざし</span>もいくらか父親に似て居り、細面ですが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふつくり</span>した頬や<ruby><rb>頤</rb><rt>あご</rt></ruby>に、何んとも言へない可愛らしさがあります。

平次は一應二人にも訊いて見ましたが、若い二人には何が何やらわからず、父親が松の木に吊られた時も、昨夜の騷ぎのときも、二階の自分達の部屋に居て、驚きあわてたといふだけのことでした。

番頭に案内させて、平次は廊下から離屋を調べました、廊下は二間の板敷で、長さは二間程、北の方は窓を塞ぐほどの道具を並べて、曲者が居たとしたら、何處にでも身を隱せさうです。

窓は全部内から塞いで居り、滅多に風も入れないらしく、<ruby><rb>錆</rb><rt>さ</rt></ruby>びついて、容易には開けられません。

其廊下の盡きるところは、三疊に六疊の離屋で、先代の頃隱居が使つて居たといふ、<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>臭い建物、縁側などを透して見ると、縱横に足跡の亂れてゐるのは、何んとなく淺ましさを感じさせます。

「足跡は隨分澤山あるが、女の足跡が無いぢやないか」

平次は妙なことに氣がつきました。

「こんな埃の中へ入るのに、<ruby><rb>草履</rb><rt>ざうり</rt></ruby>も穿かずに、足袋<ruby><rb>跣足</rb><rt>はだし</rt></ruby>は變ですね」

「逢引は素足の方がピタリとするだらう、大きいのと小さいのと、素足の跡が入り亂れて居ると洒落れてゐるが」

そんな柄にも無い事を言ひ乍ら、念の爲に雨戸を開けて見ると、庭の植込を隔てゝ、低い生垣の外に曾ては今の主人が住んでゐたといふ、浪宅があからさまに見えますが、軒は傾き、柱も歪んで、ひどく危なげです。

「あの家には誰が住んでゐるのだ」

「松井小八郎樣と仰しやる御浪人で――」

番頭伊之助は酢つぱい顏をして居ります。この浪人に對してあまり良い感じは持つて居ないのでせう。

平次は元通りに雨戸を閉めようとして、フト母屋の二階を見上げましたが、番頭を振り返つて、

「あれは」

と雨戸の陰に身を引いて指すのです。

「椿三千麿樣でございます、此夏頃から御滯在ですが――」

見ると娘の多與里と親しさうに話して居るのは、二十四五の若い浪人者でした。少し多血質らしくはあるが、人品の良い、身のこなしの上品な、粗末な木綿物の袷に同じ木綿の紋附を羽織つて、脊の高さも尋常、何んとなく好ましい感じのする男でした。

「お孃さんと仲が良いやうだが――」

「へエ、お互に若いことですから」

番頭伊之助は、少し<ruby><rb>擽</rb><rt>くす</rt></ruby>ぐつ度い表情です。

## 三

一とわたり見て、裏口へ出た平次が、下女のお<ruby><rb>猪野</rb><rt>ゐの</rt></ruby>につかまりました。

「親分さん、――昨夜御新造（お鈴）が何處に居たか、御存じでせうね」

それは二十二三の良い年増でした。

「お前は何んか知つてゐるやうだな、――遠慮なく言ふが宜い、御主人は夜中に何んな用事があつて起出したんだ」

平次はこの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きりやう</span>良しの下女から、何んか容易ならぬ事を訊き出せさうな氣がしたのです。

「御新造があの通り若くて綺麗なんですもの、お年寄の御主人とうまく行かないのも無理はありません、――近頃はお部屋も別々ですし」

たつたこれ丈けのことで、平次には何も彼も呑込めたやうな氣がしたのです。傷ついた主人の側に居た妾のお鈴に對する、主人金兵衞のよそ〱しさが、唯事でないやうに思つたのも、主人が用もないのに夜中に飛起きて、灯も持たずに廊下に潜んだのも、下女のお猪野の謎のやうな言葉で一ぺんにわかつたのです。

「それで？」

「今までも、旦那樣が時々夜中に飛起きて、忍び足で飛んでもないところに行き、ヂツと耳をすましてゐることがありました。お氣の毒なことに、あの月見の晩から後、旦那樣はおち〱お休みにならない樣子なんです」

斯んな事をツケ〱言つてのける下女のお猪野の心持も、平次はよくわかるやうな氣がするのです。

そのお猪野――まだ何んか言ひ度さうな顏をしてゐるお猪野と別れて、裏庭の方へ廻ると、八五郎は何時の間にやら平次の側から<ruby><rb>脱</rb><rt>ぬけ</rt></ruby>出して、五十五六の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">むくつけき</span>男と話して居りました。

「あれは下男の<ruby><rb>酉松</rb><rt>とりまつ</rt></ruby>ですがね、二十五六年も此家に奉公して居るさうで、いろ〱面白いことを教へてくれましたよ」

「何んだい、その面白いことゝ言ふのは？」

「奉公人は大抵奉公人同士庇ひ合ふものですが、お妾と居候には妙に<ruby><rb>反</rb><rt>そり</rt></ruby>が合はないやうですね」

「何んのことだえ、それは？」

「お妾のお鈴の評判の惡さといふものはありませんぜ、まるで奉公人と敵同士だ、ケチで高慢で浮氣で、贅澤で――現に主人の眼を忍んで變な男を引入れるんですつてね、あの女は」

「――」

「主人は酒が好きで、寢酒を二本もやると、まるで他愛が無いんですつて、それを寢かしつけると、あの女はそろ〱動き出すといふから厄介でせう」

「お妾のお鈴が逢引してる男は？」

「それは教へてくれませんよ」

「俺にはよくわかつて居るが」

「へエ、親分がね」

八五郎は又も平次に先を越されて、呆氣に取られた樣子です。

「庭の先、あの生垣が一と<ruby><rb>跨</rb><rt>また</rt></ruby>ぎだ、あの邊から道が付いてゐるのは皮肉だね、野良犬や子供の歩いた跡ぢやあるめえ」

「成程ね、男の名前を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>に言はないわけだ、相手は武家ぢや、あとがうるさいから」

「そこで相談があるんだがな、八」

「へエ？」

「少し危ない仕事だが、お前は思ひきつてやつて見る氣は無いか」

「何をやらかすんです」

「耳を貸せ、八」

二人は何やら話をし乍ら、外の方から大廻りに、隣の浪人松井小八郎の家を訪ねました。

「何、神田の平次、それは珍らしいな、眞つ直ぐに庭に入るが宜い、丁度<ruby><rb>怠屈</rb><rt>たいくつ</rt></ruby>して居るところだ」

小さい古い浪宅――庭口から平次と八五郎を迎へ入れた松井小八郎は、縁側に片膝を立てゝ、呑氣さうに話しかけるのです。

三十五六の、それは苦み走つた男でした。少し骨張つた顏ですが、脊が高く、身體つきも<ruby><rb>逞</rb><rt>たく</rt></ruby>ましく、調子の<ruby><rb>磊落</rb><rt>らいらく</rt></ruby>なのも、ひどく人の好感を誘ひます。

「松井樣は、何時から此處に住んでお出でですか」

「三年前だ、――浪人暮しも長くなると、水の手が切れるから、増田屋さんの厄介を承知で居坐つてゐるよ、尤も、近頃御主人の機嫌が變つたやうだから、近いうちに引越さうとは思つて居るがね」

さう言つたことを、平氣で打ちあける松井小八郎です。

「昨夜増田屋の御主人が、怪我をされたことも御存じでせうな」

「聽いたよ、――増田屋金兵衞殿、昔は武士だと言つたが、まことに武術<ruby><rb>不鍛錬</rb><rt>ふたんれん</rt></ruby>だな」

「松井樣はさぞ、武術の方は御自慢でせうな」

「ほんの一と通りだが、暗い廊下へ不用心に入るやうなことはしない積りだ」

「へエ、なる程」

平次はつまらぬ事を感心して居るうちに、松井小八郎を挾んで、その左側に居た八五郎は、側に置いた浪人者の一刀を横抱へに、二間ばかり飛退いて、いきなりスラリと拔いて見たのです。

「あつ、何をする、無禮な奴ツ」

松井小八郎後ろの方に置いた脇差を取ると、いきなり引拔いて、無禮者――八五郎の鼻の先へつけたのです。

「八、止せ、飛んでもない事をしやがる、御武家が腰の物を大事になさるのを、お前も知らない筈はあるまい」

平次は松井小八郎の脇差の手に飛付いて、思はず聲が高くなりました。

「へツ、武藝の御自慢ですから、お腰の物を拜見し度くなつたんですよ、さぞ立派な事だらうと」

八五郎はあわてゝ一刀を<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>に納めると、松井小八郎の方へ押し返すのです。

「ハツ、ハツ、ハツ、ハツ、刀を見たかつたのか、二人で相談をして、つまらない芝居を打つたんだらう。それならさうと言へば、器用に見せたものを、五郎正宗でも何んでも良い、無銘の<ruby><rb>備前</rb><rt>びぜん</rt></ruby>物だが、長い方にも脇差にも、一點の血曇りも無いぞ、よく見るが宜い」

松井小八郎は全く良い男でした、平次と八五郎の思惑がわかると、深くとがめる樣子もなく、カラカラと笑つて、<ruby><rb>拔刄</rb><rt>ぬきみ</rt></ruby>を投出すのです。

「有難うございました、つまらない事を考へた、私の方が極りが惡くなります。どうぞ御勘辨を願ひます」

「まア、さう改まらなくたつて――尤も外に刄物があるかも知れないと思ふだらうが、御覽の通りの貧乏暮しだ、<ruby><rb>差換</rb><rt>さしかへ</rt></ruby>の一と腰は一年も前に質流れになつて、あとは刄物と言へば、お勝手の菜切庖丁だけ、それも男世帶で<ruby><rb>鰹節</rb><rt>かつをぶし</rt></ruby>も削れば、時には薪も割る、まるで<ruby><rb>鋸</rb><rt>のこ</rt></ruby>のやうになつて居るよ、いやもう、面目次第もないやうな」

松井小八郎は面白さうに笑ふのです。

散々お詫びを言つて引揚げる途中、平次は八五郎に、

「氣持の良い武家だね、お前の嫌ひな二本差にも、あんなカラリとした男もあるぜ、ニチヤニチヤしたお妾と逢引するやうな柄ぢやない」

と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さゝやく</span>のでした。

「それぢや下手人は誰でせう？」

「まだわかるものか、容易ならぬ曲者だよ」

二人が母家へ入つて來ると、二階から降りて來た若い浪人者と、縁側でハタと顏が合ひました。先刻下から見上げた、客分の椿三千麿です。

まだ二十四五でせう、これは本當に良い男です。智的な額、血色の良い――頗る黒々と陽焦けのした顏、<ruby><rb>鳳眼</rb><rt>ほうがん</rt></ruby>で、唇が堅く結んで、如何にも好ましい青年武士です。

「旦那、椿樣と仰しやるんで」

「さうだ、用事は？」

「あつしは町方のもので、昨夜の騷ぎのことで<ruby><rb>參</rb><rt>めえ</rt></ruby>りました、恐れ入りますが、旦那の御腰の物を拜見さして頂けませんか」

松井小八郎で懲りて、今度は正面から斯う出る平次でした。

「――」

椿三千麿はサツと顏色を變へましたが、暫らくして、思ひ直したものか、兩刀を<ruby><rb>鷲</rb><rt>わし</rt></ruby>づかみに、默つて平次の方に差出しました。

「拜見いたします」

作法も何んにもありません、靜かに鞘から拔いて調べましたが、これも二本とも何んの異状もなく、燒刄の匂ひも美しく、<ruby><rb>玲瓏</rb><rt>れいろう</rt></ruby>として水が垂れさうです。

「他に、お差換は？」

「無い」

短いが斷乎とした言葉でした。平次はそれを押して訊ねる言葉もありません。

## 四

麻布十番の増田屋の事件は、それつきり何んの發展もなく、ウヤムヤのうちに日が經つてしまひました。

錢形平次の手掛けた事件では、これほど時間を喰つたのは、滅多に無いことです。

尤も、その間も麻布十番から眼を離したわけでは無く、八五郎をやつては、絶えず情報を集めて居ります。

「親分、妙なことを聽きましたよ」

八五郎がフラリとやつて來たのは、その年もあと十日で暮れやうといふ、押し詰つた日の夕方です。

「何が妙なんだ、松井小八郎といふ浪人が引つ越しでもしたのか」

「越し度い越し度いと言ひ乍ら、相變らずあの家に居ますよ、引つ越し三百といふから、多分その金が無いんでせう」

「では？」

「あの椿三千麿といふ好い男の浪人者は、思ひも寄らぬ大ペテン師ですぜ」

「嘘だらう、あれは正直者らしいぜ」

平次は首を振りました。

「親分の<ruby><rb>鑑定</rb><rt>めきゝ</rt></ruby>も、人相見ほどには行きませんね、――あの浪人者は、どんなきつかけで増田屋へ入つたと思ひます」

「それは訊かなかつたな」

「それが大變で――斯うですよ、もう半歳も前ですが、増田屋の主人金兵衞が、お孃さんの多與里と、<ruby><rb>鳶頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>の半次をつれて、久しぶりに淺草の觀音樣へお詣りに行つたと思つて下さい」

「思ふよ、で？」

「仲見世から雷門を出ると、いきなり突き當つて、喧嘩を吹つかけた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やくざ</span>者が五人、お孃さんを人質にして、因縁をつけたが、武家の出のくせに、あの主人の金兵衞はろくに武藝も知らず、<ruby><rb>鳶頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>は年を取つて、<ruby><rb>啖呵</rb><rt>たんか</rt></ruby>は切れるが腰が切れねえ、――人立ちはする、娘は泣き出す、どうなるか思つたところへ、あの椿三千麿といふ、良い男の若侍が飛び出し、五人の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やくざ</span>を手玉に取つて、増田屋親子の者と鳶頭を助けた」

「まるで芝居の<ruby><rb>序幕</rb><rt>じよまく</rt></ruby>だね」

「それから増田屋とあの椿三千麿が<ruby><rb>懇意</rb><rt>こんい</rt></ruby>になり、近頃増田屋が、何者とも知れぬ敵に惱まされて居るので、精一杯に頼んで用心棒代りの客分で、増田屋へ入り込んだと――斯ういふ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わけ</span>なんです」

「それつきりなら、大した妙でもないぢやないか」

「これからが大變で、――盛り場でそんな事をする<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やくざ</span>は、大概見當が付いてるから、内々探りを入れて見ると、増田屋親子に因縁をつけた五人組はすぐわかりましたが、一杯呑ませて訊くと、その芝居は皆んな人に頼まれて、一人頭二分づゝで引受けた馴れ合ひの立ち廻りとわかつて、私も變な心持になりましたよ」

「頼んだのは誰だ」

「驚いちやいけませんよ、あの生眞面目な顏をした、美い男の若侍、椿三千麿と聽いたらどうします、親分」

「本當か、それは」

「嘘だと思つたら生證人のガン首を五つ並べてお目にかけませうか」

「お前のガン首だけで澤山だよ――ところで、さう解ると、物事は恐ろしく六つかしくなり相だ、あの椿三千麿といふ若侍の素姓をトコトンまで調べてくれ」

「やつて見ませう」

「それから、もう一つ頼むことがある」

「――」

「増田屋の家中の者の足を調べるのだ」

「足ですか」

「變つた足をしてゐる者は無いか、どうかしたら、下女のお<ruby><rb>猪野</rb><rt>ゐの</rt></ruby>が知つてるかな、時々は奉公人の足袋も洗つてやるだらう」

「それから、椿三千麿といふ若侍と、娘の多與里が相變らず仲が良いか、それも氣をつけてくれ、お前には打つてつけの仕事だ、色事の鑑定にかけては、俺もお前には叶はない」

「有難い仕合せで、何時までも獨りでゐるからでせう」

「主人金兵衞の前の身分、どこの藩中で、どうして浪人したか、それも訊き度い」

「それ位のことなら、わけはありませんよ」

「頼んだぞ、八」

## 五

八五郎の報告が來たのは、年が明けて七日の朝でした。

「お早やう、漸くわかりましたよ、親分」

相變らず、獵犬のやうに仕事に熱中する八五郎です。

「七草だぜ、今日は、お<ruby><rb>粥</rb><rt>かゆ</rt></ruby>は濟んだのか」

平次は熱い粥を吹き〱、<ruby><rb>雜煮</rb><rt>ざふに</rt></ruby>も七草粥も忘れて飛んで歩く八五郎を見やりました。

「それどころぢやありませんよ、<ruby><rb>唐土</rb><rt>たうど</rt></ruby>の鳥ほどの、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">でつかい</span>のが捕まり相ですぜ」

「どうしたといふのだ」

「臭いのは矢張りあの良い男の若侍椿三千麿ですよ」

「はてね？」

「椿三千麿なんて、大嘘ですよ、前に居た長屋から、素姓をたどつて調べると、本名は春木道夫とふんだ相で、椿三千麿は考へましたね。元は上方生れ、<ruby><rb>公卿侍</rb><rt>くげざむらひ</rt></ruby>の子で、二十年前に不心得な母親に逃げられ、間もなく亡くなつた父親に言ひ含められて、父親に代つて<ruby><rb>女敵討</rb><rt>めがたきうち</rt></ruby>を心掛けて居るといふ――大變な男ですよ」

「その母親と逃げた男は、増田屋金兵衞だらう」

「その通りで、昔は坂井金兵衞と言つて、これは寺侍、歌や發句や風流事は上手だが、武藝の方は一向いけないのはその爲だ」

「それから？」

「その春木道夫の椿三千麿が、漸く坂井金兵衞を搜し當てると、麻布十番の増田屋金兵衞となつて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うん</span>と金を溜めて納まつて居る、その金兵衞と上方から逃げた母親は二十年も前に死んでしまつて、今は怨を言ふ相手もないが、せめて金兵衞の懷ろへ飛込んで、亡くなつた父親の怨を晴らす積り、淺草の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やくざ</span>を語らつて、麻布十番の増田屋へ入り込んだ――此處まではわかりましたがね」

「有難い、それ丈わかれば」

「椿三千麿を縛れるでせう、金兵衞を松に吊つたのも、廊下で刺したのも、あの若侍に違ひありませんよ」

「待て〱八、松の木に<ruby><rb>吊</rb><rt>つ</rt></ruby>られた金兵衞を繩を切つて助けたのは、あの椿三千麿ぢやないか」

「へエ？」

「廊下で刺したのも、三千麿のやうな氣がしない、刀に血が附いて居なかつた――いや刀は外にもう<ruby><rb>一口</rb><rt>ひとふり</rt></ruby>位はあるだらうが、三千麿が曲者なら、ワケも無く金兵衞を殺せた筈だ、兎も角、増田屋へ行つて見よう」

「さうですか」

八五郎は珍らしく氣の進まないやうな顏をするのです。

「あ、忘れてゐたよ、八五郎は腹が減つてゐるんだ、<ruby><rb>粥</rb><rt>かゆ</rt></ruby>でも何んでも、存分に積め込んでからにしよう」

「さうですか」

「言ひ當てられて、極りが惡くなつたのか、大丈夫鍋ごと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かぶり</span>付いたつて笑やしないから」

二人は兎も角、腹拵へをして、麻布十番まで驅けて行きました。

が、これは又、恐ろしい手違ひでした。

七日の吉例七草粥を、家風で奧で喰べた男二人は、間もなく七轉八倒の苦しみを始め、若くて元氣な方の若旦那新吉郎は、驅けつけた醫者の<ruby><rb>吐劑</rb><rt>とざい</rt></ruby>がきいて辛くも命が助かり、年のせゐで近頃滅切り弱つてゐた主人の金兵衞は、手當ての甲斐もなく息を引取つてしまつたのです。

七草粥に入つて居た毒は、その頃一般に用ひられた、『<ruby><rb>石見銀山</rb><rt>いはみぎんざん</rt></ruby>鼠捕り』の<ruby><rb>砒石</rb><rt>ひせき</rt></ruby>とわかりましたが、さて、誰が一體そんな事をしたのか、土地の御用聞が三四人顏を寄せましたが、まるつきり見當もつきません。妾のお鈴と、娘の多與里は、女同士で最初の七草粥の膳には加はらず、椿三千麿や番頭の伊之助と一緒に祝つたのでこれは無事、下女のお猪野や、下男の酉松は、まだ粥にもありつかなかつたので、この毒害には無關係で濟みました。

其騷ぎの眞つ最中に、平次と八五郎が、寒天に汗を掻いて飛込んだのです。

「何？　主人が死んだ、――粥に入つて居た石見銀山で、若旦那は箸をつけたばかりだつたから、命は助かつたといふのか」

平次は立騷ぐ人々の話を掻き集めて地團駄を踏みましたが、今となつては追ひ付きません。

「もう一日早かつたら、畜生め、こんな<ruby><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>をさせるんぢや無かつた」

八五郎は自分の手落のやうに口惜しがります。

「ところで、八、これから本氣になつて下手人を搜すんだ」

「冗談ぢやありませんよ、下手人はあの男でせう」

八五郎は飛込んで行つて、多勢の中から椿三千麿を引つこ拔いて來さうにするのです。

「あわてるな、八、椿さんは下手人ぢやない、ね、椿さん、この野郎が彈みきつて手をつけられません、京から江戸へ、坂井金兵衞を追つかけて來てから、淺草で一と芝居をやつた事まではわかつて居ますが、その先の事を話して下さい、――金兵衞が死んだ今となつては、隱すほどのことも無いでせう」

平次は人數の中から椿三千麿を呼んで來て、遠慮も掛引もなく斯う言ひきるのです。

「よく解つたよ、平次殿、私にもわからないことだらけだ、<ruby><rb>懺悔</rb><rt>ざんげ</rt></ruby>のため、皆んな打ちあけて話さう、――多與里さんもよく聽いて下さい」

椿三千麿は、すつかり緊張を解いて、靜かに語り出すのでした。

死んだ父親の遺命を受け、逃げた母親と、その母親をつれ出した奸夫に怨みを言ふため、京から江戸にたつたのは三年前、手段を用ひて増田屋に入り込んだことは、平次と八五郎が搜し出した筋書と少しも變りはありません。

「私は主人金兵衞を殺さうと思つた、が、親しくなるにつれて、今は氣まで弱くなつてゐる金兵衞の良さもわかり、なか〱手を下せるものではない、――それに私も堂上方に仕へて、風流の道にこそ詳しいが、武藝の方は甚だ怪しく、淺草で五人の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やくざ</span>を投げ飛ばしたやうな、芝居事なら兎も角、敵呼ばはりをして、主人と刀を合せる氣力もなく、フト思ひついたのは、あの月見の松の仕掛けだ」

「――」

「主人は八月十五夜にも、松の下で獨り月見をやつた、九月十三日の後の月にもそれをやると聞いて、私は外出といふことにして、人の目の屆かぬ折を覗つてあの松の枝に<ruby><rb>攀</rb><rt>よ</rt></ruby>ぢ登り、主人が松の下で、月を眺め乍ら、苦吟をして居る隙を見計らつて、投げ<ruby><rb>罠</rb><rt>わな</rt></ruby>を<ruby><rb>投</rb><rt>はふ</rt></ruby>り、主人の首に絡んで松の大枝に吊り上げ、その繩を松の大枝に留めて逃出した、主人金兵衞の身體が輕かつたので、これは大した骨の折れる仕事ではなかつた」

「――」

「私はそのまゝ、此家を去る積りであつたが、松に吊られて苦しむ主人の姿を見、奧の方から、何んにも知らずに、はしやぐ多與里殿の聲を聞くと、急に自分のする事が恐ろしくなり、木戸からもう一度庭に飛込んで、自分で吊つた繩を自分で初つて主人を助けてしまつた」

「――」

「私といふものが、何んといふ<ruby><rb>腑甲斐</rb><rt>ふがひ</rt></ruby>ない人間かと、胸を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かきむ</span>しつて口惜しがつたが、主人始め多勢の人、わけても多與里殿に、心から禮を言はれると、自分のした事も忘れてしまつて、私はもう心の中から嬉しさがこみ上げて來る、――二十年前、父親の受けた<ruby><rb>辱</rb><rt>はづ</rt></ruby>かしめと怨みは、年と共に私の胸から薄れて行くが、たつた今、この私の前でくり返しくり返し言はれる禮の言葉は、私の心を春の水のやうに、<ruby><rb>潤</rb><rt>うるほ</rt></ruby>してくれる」

「――」

「私は不孝な子であつたかも知れない。でも二十年も經つて父親の昔の怨を、伜の私が此手で解いてやるのは、決して惡いことでも、耻かしいことでも無いやうに思つて來た」

「廊下で主人を刺したのは？」

多勢の不思議な沈默を破つて、平次は口を容れました。

「あれは私でない、――私なら、私と言ふのに、少しも憚らないが」

「廊下ですれ違つた人があつた筈だが」

「あつたやうに思ふ」

「男ですか、女ですか」

「男だ、私の持つて居た灯で、驚いて姿を隱したが」

「その時離屋には」

「直ぐ戸を開けて見たが、誰も居なかつた、――雨戸も皆んな締つてゐた、伊之助がよく知つてゐる」

事件は次第に、椿三千麿の口から、その<ruby><rb>全貌</rb><rt>ぜんばう</rt></ruby>を示して來たのです。

「八、離屋にあつた足跡は、足袋を穿いたのだけだつたな」

「草履も素足もありませんよ」

「貧乏な浪人者は、滅多に足袋は穿くまい、それから、家中の者で、變つた足をして居るのは無かつたか、――その話はまだお前から聽かなかつたが」

「ありましたよ、下女のお猪野が知つて居ました、若旦那の足には土踏まずが無い――つて」

「それだよ、あ、あの男だ」

八五郎が驚いて隣の部屋に飛込むと、今まで其處で唸つて居た、半死半生の若旦那新吉郎は、ムクムクと起上ると、恐ろしい勢で庭へ逃出したのです。

飛込んだ八五郎が、それを<ruby><rb>捕</rb><rt>と</rt></ruby>つて押へたことは言ふ迄もありません。その掛けられる早繩の下から、

「あの野郎が、二十年前に私の父親を殺したのだ。――隣の浪宅から忍び込んで來て、――その仇討に、松井さんがお鈴のところに忍んで來ると見せかけ、あの野郎に死ぬほど苦勞させる積りでやつた<ruby><rb>細工</rb><rt>さいく</rt></ruby>だ、殺したのが何處が惡い、あの野郎は、私に取つては二十年前の親の仇だ、――それを知つたのは近頃だ、下男の酉松が教へてくれなきや、何んにも知らずに、あの野郎を父親と思つて居たことだらう、二十年の間、親みたいな顏をして、勝手なことを言はせたのが口惜しい」

新吉郎は<ruby><rb>呪</rb><rt>のろ</rt></ruby>ひに呪ひ乍ら、大地を蹴つて泣きわめくのです。

×　　　　　　×　　　　　　×

親殺しの新吉郎は、當然極刑に處せられる筈でしたが、平次の心ざしで、お白洲に證人として酉松が呼出され、その證言で島流しで濟みました。

椿三千麿の春木道夫は、多與里とあんなに親しくして居ましたが、何を感じたか、<ruby><rb>飄然</rb><rt>へうぜん</rt></ruby>として増田屋を去つてしまつたのは一と月ほど後のことでした。

「妙な騷ぎだつたな八、――でも此中で一番惡いのは坂井金兵衞の増田屋金兵衞さ。椿三千麿が、二十年前の怨を捨てたのは、意氣地が無いやうだが、俺は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あべこべ</span>に見あげる心持になつたよ。人は人を怨んで、何代も何十年も忘れないといふのは、決して立派なことでも何んでもないと思ふよ。松の枝からブラ下がつて、キリ〱首にもがいて居る敵の姿を見て、繩を切る氣になつた椿三千麿には、嬉しいところがあるぜ」

古い、長い<ruby><rb>怨</rb><rt>うらみ</rt></ruby>、人間の魂を消耗して、地獄への道を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひた</span>向きに走るコースを、耻と我慢を捨てゝ絶ち切るのは、一面から見れば、大丈夫の勇氣では無かつたでせうか。

「すると、親分でも、主人を松に吊つたのは椿三千麿とは、あの口から聽くまではわからなかつたのですか」

「いや、あの九月十三夜の晩、――椿三千麿が、木戸の外から月明りで、庭の松の枝に人間のブラ下がつて居るのを見た――と言つた時から、變だとは思つたよ、私が直々に聽いた話ではないが、いかに十三夜の月夜でも、名物と言はれた<ruby><rb>繁</rb><rt>しげ</rt></ruby>りに繁つた松にブラ下がつた人間は、木戸の外から<ruby><rb>茫</rb><rt>ぼん</rt></ruby>やり見た位では見付からないよ」

「それにしても、弱い浪人が揃つたものですね、松井小八郎は兎も角、金兵衞も三千麿も」

八五郎は頬を凹ますのです。

「武家は皆、岩見重太郎や宮本武藏のやうに強かつたのは昔の話さ、二本差しにも強いのも弱いのもあるぜ、いや、弱い方が多い位さ。百姓町人の裕福なのに取入つて、<ruby><rb>幇間</rb><rt>たいこ</rt></ruby>のやうに暮してる安御家人や浪人崩れがある世の中だから」

「それにしても意氣地が無さ過ぎますね」

「――」

今度は平次が默つてしまひました。

「でも、多與里といふ娘は可哀想でしたね、あれから二三度行つて見たが、何時でも泣いて居ましたぜ、好きな同士が一緒にもなれないやうな、世上の義理なんて<ruby><rb>糞</rb><rt>くそ</rt></ruby>でも<ruby><rb>喰</rb><rt>くら</rt></ruby>へだ、これがあつしなら――」

八五郎の哲學は何んと簡單明瞭なことか。