## 一

「親分、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>はもう<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しくて口惜しくて」

八五郎はいきなり怒鳴り込むのです。彼岸過ぎのよく晴れた朝、秋草の鉢の世話に、餘念も無い平次は、

「騷々しいな、何が一體口惜しいんだ。好物の<ruby><rb>羊羹</rb><rt>やうかん</rt></ruby>でも喰ひ損ねたのか」

一向氣の無い顏を擧げるのでした。

「そんな氣樂な話ぢやありませんよ。親分も知つて居なさるでせう、菊坂小町と言はれた小森屋の娘お通が、昨夜殺されましたぜ」

「フーム」

「口惜しいぢやありませんか。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>の岡惚れでも何んでも無いが、本郷中をピカピカさした娘を、虫のやうに殺して宜いものでせうか、親分」

「泣くなよ八、それにしても、向柳原に居るお前が、菊坂の殺しを俺より先に嗅ぎ出すのは、大層良い鼻ぢや無いか」

「追分に用事があつて、セカセカと本郷の通りを行くと、鉢合せしさうになつたのは、臺町の由松親分ぢやありませんか。その由松親分が、『菊坂小町が殺されて、昨夜から調べにかゝつて居るが、俺一人では我慢にも裁ききれねえ、錢形の親分を迎ひに行くところだ』といふから、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>が引返して親分をつれ出すことになり、由松親分は其處から又菊坂の現場へ引返しましたよ――」

八五郎は言葉せはしく説明するのです。

「よし、臺町の由松親分の頼みなら、行かざアなるめえ」

平次は手早く支度をして、菊坂町へ飛んだのです。

お通の父親といふのは、小森彌八郎といふ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かなり</span>の<ruby><rb>分限者</rb><rt>ぶげんしや</rt></ruby>で、昔は槍一筋の家柄であつたと言ひますが、今では町内の大地主として、<ruby><rb>界隈</rb><rt>かいわい</rt></ruby>に勢力を振ひ、娘のお通の美しさと共に、山の手中に響いて居ります。

小森屋の住居もまた、町人にしては非凡の<ruby><rb>贅</rb><rt>ぜい</rt></ruby>でした。菊坂の坂上に建てたコの字型の建物で、玄關や<ruby><rb>破風</rb><rt>はふう</rt></ruby>や長押を憚つた町家造りには違ひありませんが、それを内部の數寄を<ruby><rb>凝</rb><rt>こ</rt></ruby>らした贅澤さに置き換へて、木口も建具も一つ〱が人の目を驚かします。

「錢形の親分」

主人の彌八郎は一應平次を迎へましたが、激しい心の動亂に、急には言葉も出ない樣子です。五十前後のすぐれた人品で、江戸の分限者らしい中老人ですが、かうした知的な見かけのうちに、案外の情熱を持つてゐるのかもわかりません。

「飛んだことでしたね、小森屋さん」

平次もこれは知らない顏ではありません。

「親分、あの神樣のやうな娘を、――あんまりひどいことをするぢやありませんか。どんなことをしても、敵を取つて下さい、お願ひです」

日頃の<ruby><rb>傲慢</rb><rt>がうまん</rt></ruby>さに似ず、打ち<ruby><rb>萎</rb><rt>しを</rt></ruby>れた父親の姿は、見る眼にもあはれでした。

娘お通の殺されたのは、母屋と中庭を隔てゝ相對する廊下續きの六疊の一と間で、それはお伽噺の姫君の部屋のやうな、可愛らしくも美しいものです。母屋に向いた北側は丸窓で、南は總縁、その外は板塀で、板塀の下は崖になつて居り、崖の下には折り重つたやうに町家が續いて居ります。

母家から廊下傳ひに、娘の部屋へ入つて行くと、親類の小母さん方が二三人、濕つぽく死骸のお守りをし乍ら、何かと葬ひの打合せをして居りましたが、平次と八五郎の姿を見ると、入れ替りに、コソコソと母屋へ引揚げてしまひ、主人の甥の鐵之助といふ、頑丈な三十男だけが、案内顏に縁側に立つて居ります。

床の上に横たへた娘お通の死骸の痛々しさは、さすがの平次も息を呑みました。やゝ<ruby><rb>柄</rb><rt>がら</rt></ruby>の大きい、色白の、さながら崩れた大輪の牡丹を思はせる美しさです。生前本郷中をクワツと明るくしたといふ、不思議な愛嬌も、今は見る由もありませんが、十九といふにしては、見事に成熟した肉體の魅力は、死もまた奪ふ由の無い美しさです。

「ひどい事をしたものですね、親分」

後ろから首を長くして、八五郎は口惜しがるのです。

「傷は、前から一ヶ所、左の胸元を、單衣の上からやられてゐる」

心臟を一と突き、恐らく若い娘は、聲も立てずに死んだことでせう。

「胸にこれが突つ立つて居りました」

甥の鐵之助は、部屋の隅から、手拭に包んだ<ruby><rb>眞矢</rb><rt>ほんや</rt></ruby>を一本持つて來て見せました。鷹の羽を<ruby><rb>矧</rb><rt>は</rt></ruby>いだ古い<ruby><rb>征矢</rb><rt>そや</rt></ruby>ですが、矢の根が確りして居り、それがベツトリ血に塗れて、紫色になつて居るのも無氣味です。

「これでやつたのかな」

顏を擧げると、母屋に向いて居る北側の丸窓の障子に、一ヶ所矢でも突き拔けたやうな穴が明いて居り、娘のお通が丸窓の下の小机に凭れて居たとすると、障子越しに射た矢が胸に突つ立つて命を奪ることも考へられます。

## 二

「此矢は何處に置いてあつたのだ」

平次は甥の鐵之助に問ひかけました。

「<ruby><rb>靱</rb><rt>うつぼ</rt></ruby>に入れて、母屋の床の間に立てかけて置きましたが、彌太郎が玩具にして困るので近頃は柱にかけて置くこともあります」

鐵之助は何んの淀みもなく答へます。三十にしては分別臭い方で、男前は不景氣ですが、人間は思ひの外確りものらしく、受け答へはまことにハキハキして居ります。

「彌太郎といふ――と？」

「お通の弟で、今年六つになる<ruby><rb>惡戯者</rb><rt>いたづらもの</rt></ruby>ですが」

それは鐵之助には從弟に當るわけです。

「昨夜のことを、もう少し詳しく聽き度いが」

平次は此男に水を向けました。斯んな調子の男は、自分の<ruby><rb>賢</rb><rt>かし</rt></ruby>こさに壓倒されて、案外餘計なことをしやべりたがるものです。

「<ruby><rb>戌刻半</rb><rt>いつゝはん</rt></ruby>（九時）過ぎでした。お通は自分の部屋に引込んで、何んかやつて居たことでせう、丸窓の灯は見えましたが、母屋からは何んにも見えなかつたのです。時候にしては暑い晩でしたが、丸窓は滅多に開けたこともありません」

「――」

それは若い娘の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たしなみ</span>だつたでせう。

「お通は細工物が好きで、隙があると自分の部屋に引<ruby><rb>籠</rb><rt>こも</rt></ruby>りたがりました。此處には弟の彌太郎と二人寢て居りますが、彌太郎はまだ母屋で遊んでゐて、寢ようともしなかつたので、父親に小言を言はれて居りました」

「母屋には誰と誰が居たんだ」

「叔父と、手代の正次郎どんと、私と、下女のお照と、それからお通の弟の彌太郎が居た筈です」

「皆んな顏が揃つて居たことだらうな」

「店へ行つたり、戸締りをしたり、小用に立つたり、顏が揃ふと言つても見張つて居たわけではございません」

「人數はそれつきりか」

「他に小僧の友吉といふのが居ります。遠縁の者で、十七になる子ですが、早寢の早起きで、その時はもう、自分の部屋へ潜つて居たやうで、顏は見えませんでした」

「ところで、お孃さんは此通りの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きりやう</span>だから、さぞ何んとか言ふ男も多かつたことだらうな」

平次は當り前の調子で、大事の點に觸れて行きます。

「それはもう、從兄妹同志の私が呆れて居る位ですから」

「といふと？」

「お通が外へ出ると、町中が騷ぎでしたよ。振り返るもの、<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>けて行くもの、――第一塀は穴だらけで、どんなに<ruby><rb>繕</rb><rt>つくろ</rt></ruby>つても、三日とはもちません」

「で、その多勢の若い男の中で、お孃さんが特に親しかつたのは？」

「それが無いから不思議ぢやありませんか。身内の外には、親しく口をきいた男も無かつたやうです」

身内の一人の鐵之助が少しは誇らしい心持らしく、語氣を強めて斯う言ふのです。

「良い女はさう言つたものですね。男に白い齒を見せるのは、大した<ruby><rb>不見識</rb><rt>ふけんしき</rt></ruby>なんですね」

八五郎は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わかつた</span>やうな事を言ふのです。

「ところで、南側の塀の外には、どんな人が住んで居るんだ」

「御浪人の小林習之進樣母子で」

「その方とは附き合つて居ることだらうな」

「お隣ですから、今朝も、お母さんの御世乃さんは朝から來て手傳つて居るやうです」

「御主人の習之進さんと言ふのは？」

「まだ若い方で、二十二三でせうか、口數の少い、おとなしい人ですが、お通にはことの外執心なやうで、へツ」

鐵之助は場所柄も<ruby><rb>辨</rb><rt>わきま</rt></ruby>へず、妙な苦笑ひを噛み殺すのです。恐らく、板塀の穴の秘密は、その邊に潜んでゐると思ひ込んでゐるのでせう。

「で、昨夜のことを、もう少し」

平次は話題を元に戻しました。

「<ruby><rb>亥刻</rb><rt>よつ</rt></ruby>近かつたと思ひます。遊びに夢中になつて居る彌太郎をつれて、下女のお照が此部屋に入つて見ると――」

鐵之助はゴクリと<ruby><rb>固唾</rb><rt>かたづ</rt></ruby>を呑みます。その時の騷ぎを思ひ出したのでせう。

「？」

平次は默つてその後を促しました。

「お照が悲鳴をあげたので、驚いて飛んで來ると、お通が丸窓の前の小机に<ruby><rb>凭</rb><rt>もた</rt></ruby>れたまゝ、俯向になつて死んで居りました。その邊は一面の血の海です」

「確かに丸窓の方を向いて」

「間違ひありません。胸には矢が突つ立つて居りました」

「矢は小机が邪魔になつて、胸に立つたまゝでは俯向になれない筈だが」

「身體が少し斜めになつて、矢は小机の上に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しな</span>つて居りました」

「それにしても、血はひどかつた筈だが――」

「單衣も疊も大變でした」

「それで宜からう。ところで、家中の者に一人々々逢つて見たい、誰からでも構はないから、此處へ呼んでくれないか」

「へエ、では」

鐵之助は漸く放免されたやうな心持で立去りました。

## 三

「八、お前は此傷口を不思議とは思はないか」

平次は死體の胸をはだけて、娘の張りきつた乳の下に、無殘にも肉の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">はぜ</span>た傷口を見せるのです。

それは眞珠色の世にも美しい肌でした。死の淨化にいくらか蒼白くはなつて居りますが、乳房の彈力的な曲線の魅力は、まさにロダンの大理石像に見る、冷美と言つて宜いものでせう。

「少しも不思議はありませんね。矢は引つこ拔いてあるが、――外に傷でもあるんですか」

「いや、無いから不思議なのさ」

「へエ？」

「矢の傷にしては、大き過ぎるのだ。これではまるで<ruby><rb>鏑矢</rb><rt>かぶらや</rt></ruby>で射られたやうぢやないか」

さう言へば、傷は矢の根に比べて、少し大き過ぎるやうです。

「へエ、そんなことがあるんですかね」

「それに、丸窓の障子の穴も變だよ。矢が入つた穴では無くて、これは矢の出た穴だ」

「？」

「いろ〱解らないことがあり相だが、兎も角、こんな可愛らしい部屋で、細工物か何んかをして居る娘を、一と思ひに殺すのは罪が深いな」

取散らした小切れ――赤いの青いの紫の、色とり〲の品は、一と<ruby><rb>纒</rb><rt>まと</rt></ruby>めにして、部屋の隅につくねてありますが、それを染めて<ruby><rb>斑々</rb><rt>はん〱</rt></ruby>たる乙女の血は、平次の心を暗くさせます。

鐵之助は母屋へ行つて、最初に誰をつれて來る氣でせう。それがきまる前に、

「おや、錢形の親分、早速來てくれて有難いが、下手人はどうも、あの甥の野郎らしいぜ」

庭口から顏を出したのは、臺町の由松といふ、中年者の御用聞でした。

「あの鐵之助がね、――今まで此處に居たんだが」

平次は腑に落ちない顏をして居ります。

「町内を一と廻りして、噂をかき集めて來たが、この娘の人氣は大したものだね」

「――」

「ことに、南隣の浪人者の小林習之進といふ武家などは、若いせゐもあるだらうが、命がけの惚れやうだ。手を變へ品を換へて、口説きもし、人を頼んで縁談を持込みもしたやうだが、お通さんがあの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きりやう</span>で、玉の<ruby><rb>輿</rb><rt>こし</rt></ruby>に乘る氣だつたか、見向きもしなかつたといふよ。それに父親の彌八郎も、元は武家の出だけに、武家の内輪をよく知つて居るから、貧乏浪人をゲヂ〱ほど<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いや</span>がつて居たといふぜ」

由松の話は飛んだ方へ外れて行くのです。

「で？」

「結局、娘が綺麗過ぎて、片思ひの男が町内だけでも二三十人居るから、殺し手が多過ぎて困るが、弓で射殺されたとなると、矢は母屋から射込まれたに違げえねえから、<ruby><rb>從兄妹</rb><rt>いとこ</rt></ruby>同士のくせに、お通に夢中になつて居る鐵之助の外には下手人は無いことになるよ」

「成程、それも一と理窟だが」

平次は由松の話を半分聞いて、立上がると座下駄を突つかけて、南縁から板塀の方に近づきました。

連日のお天氣で、庭はよく踏み固められ、内側には足跡もなんにも見えませんが、庭の隅の方の板塀に、三尺の切戸があり、嚴重に海老錠がおりて居るのを見ると、平次は暫らくそれを搖ぶつて居ります。

「おや、おや」

錠は嚴重に見えて居りますが、肝心の輪鍵の根が腐つて居るので、それはわけも無く拔けて、切戸はスーツと開くのです。

外は崖、崖の下は町家、その一番近いのは浪人小林習之進の家で、氣をつけて見ると、切戸への間の崖は、木下闇になつて、濕つた土の上には、明かな足跡があり、少し行くと雜草を踏んで、かなりはつきり道が付いて居ります。恐らく小森屋の方からは此切戸は使はなかつたことでせうから、お通を目當ての深草の少將達が、此處へ押しかけて夜な〱セレナーデを奏したことでせう。

平次は其處まで<ruby><rb>見窮</rb><rt>みきは</rt></ruby>めて、元の部屋に引返すと、鐵之助は一人の少年を背中から押しやるやうに、部屋の中へ押し込んで居りました。

「これは小僧の友吉で、柄は大きいが、取つて十七でございます」

鐵之助に紹介されると、少年友吉は、間の惡さうに顏を伏せました。成程十七といふにしては、柄も相當ですが、色白で眼鼻立が尋常なくせに、何處か愚鈍らしさがあります。

「昨夜の騷ぎのとき、どこに居たんだ」

平次は斯う問ひました。血潮の汚れを除けて、膝小僧を揃へた友吉は、高名な御用聞に對して、少し顫へて居る樣子です。目の鈍い、毛の濃い、正直者らしいところは取柄ですが、決して人に好感を持たせる少年ではありません。

「お勝手の隣の、自分の部屋で寢て居ました。晝のうち五六軒歩いて、眠むかつたんです」

「何時でも、そんなに早く寢るのか」

「いつもは<ruby><rb>亥刻</rb><rt>よつ</rt></ruby>に寢ることになつて居ます」

「お前は、此家の遠縁ださうぢやないか」

「え、親父がさう言つて居ました。だから請人も何んにも要らないが、我儘をして、追出されちやならねえ――つて」

「何時から奉公してゐるんだ」

「三年になります」

「お孃さんをどう思ふ」

「――」

平次の問が突然だつたので、友吉は少年らしくパツと赤くなりました。

「口をきくことがあるのか」

「同じ家に居りますから」

「お孃さんは親切だつたのか」

「――」

友吉は默つてしまひました。二つ年上ですが、少年友吉に取つては、お通は雲の上の存在だつたのです。

「お孃さんを<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>んでゐる者は無かつたのか」

「怨んでゐる者なんか、ありやしません、でも――」

それつきり友吉の言葉は、プツリと切れてしまひます。少年の心持は、平次にも<ruby><rb>捉</rb><rt>とら</rt></ruby>へやうは無いことでせう。

## 四

「次は下女のお照で」

鐵之助が連れ込んだ二人目は、山出しらしい二十六七の女でした。田舍縞の袷に、淺黒い顏、素朴ではあるが健康さうで、何んとなく頼母し氣なところがあります。

昨夜のことから訊くと、

「皆んな顏の揃つたことはありませんが、兎も角店の方に居たやうで、母屋から此方のお部屋へ來た人は無かつたやうです。庭の植込を<ruby><rb>潜</rb><rt>くゞ</rt></ruby>れば別ですが、廊下傳ひに來るには、お勝手か旦那樣の部屋の前か、<ruby><rb>何方</rb><rt>どつち</rt></ruby>かを通らなきやなりません。お勝手には私が居ましたし、旦那樣のお部屋には、旦那樣が、手代の正次郎どんと一緒に、夕方からズーツと帳合して居たやうで」

「すると、曲者は外から入つたに違ひないといふことになるのか」

「私はさう思ひますが」

此女はさう信じきつて居るやうです。<ruby><rb>身扮</rb><rt>みなり</rt></ruby>の粗末なのに似ず、なんとなく確りものらしいところがあります。

「甥の鐵之助は何處に居たんだ」

「店に居たやうです、坊ちやんと遊んで居たやうで、――その坊つちやんが、遊びが面白くなつてなか〱寢てくれないので弱りました。漸く寢ると言ひ出したのは<ruby><rb>亥刻</rb><rt>よつ</rt></ruby>近い時分で、私がお孃樣のお部屋へ連れて來ると、あの有樣で」

その時の驚きの凄まじさが、お照の無表情の顏にも見られるのでした。

「裏の小林さんとかいふ御浪人が、お孃さんへ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うるさく</span>して居た相ぢやないか」

「本當に、お孃さんはそればかり嫌がつて居ました。――あの人は武家だから、いつでも刄物を持つてゐるし、思ひ詰めると、何をやり出すかわからない――と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こぼ</span>して居たことを知つて居ります」

お照の言葉には、容易ならぬ暗示があります。

「お孃さんの好きな人は無かつたのか」

「さア」

「あの年頃だ、少しは氣に入つた相手といふものがあるだらう」

「それは世間並ですが、お孃さんは見識が高くて、滅多な男を寄せつけませんでした。綺麗に生れつくと、情が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こはい</span>んですね。尤も友吉どんは別でした。あの子は年も下だし、才はじけた方でもなし、子柄だつて良くも惡くもないし、お孃さんの氣に入る筈は無いのですが、何處か一<ruby><rb>克</rb><rt>こく</rt></ruby>で正直で、お孃さんの言ふことは、どんな無理でも聽きましたし、お孃さんが、馬鹿にし乍らも可愛がつたのは、無理もないと思ひました」

「甥の鐵之助は？」

「從兄妹同士のくせに、お孃さんに嫌はれて居りました。少し遊び過ぎて、女を<ruby><rb>玩具</rb><rt>おもちや</rt></ruby>のやうに思つて居るくせに、口前だけ上手だつたので、生娘のお孃さんには、その腹がわからなかつたのでせう」

「手代の正次郎は？」

「通ひで、女房持の四十男ですもの」

お照は簡單に片附けてしまひます。

三人目はその噂の正次郎、卑屈で、醜男で、<ruby><rb>算盤</rb><rt>そろばん</rt></ruby>には賢いでせうが、色戀とはあまり關係が無ささうです。それに昨夜は主人の彌八郎の部屋で、月末の勘定の手傳ひをして居たので、お通の殺しと全く縁が無いわけです。

殘るのは主人の彌八郎と、伜の彌太郎だけ、その主人の彌八郎は、<ruby><rb>掌中</rb><rt>しやうちゆう</rt></ruby>の花といつくしんだ娘の非業の死に、悉く打ち萎れてしまつて、何を訊いても埒があきません。

「娘は――親の口から申しては變ですが、男の出入は無かつた筈です。世間にはいろ〱の人があつて、隨分うるさい事もありましたが、その中に娘を殺さうとする人があつたとは思はれません。私は仕事の上で人樣の怨みを買ふ筈もなく、その掛り合ひで、娘に<ruby><rb>祟</rb><rt>たゝ</rt></ruby>る者があるわけもございません」

斯う言ひきる小森屋彌八郎は、隨分人にも眼をかけて、評判の良い地主でもあつたのです。

怨みは殺されたお通にだけ限定されると、物事は甚だ簡單になるやうですが、さていざとなると、下手人の見當もつかず、平次もさすがに首を<ruby><rb>捻</rb><rt>ひね</rt></ruby>りました。

伜の彌太郎にも逢つて見ましたが、早生れでも六つの子供では、何を聞いても<ruby><rb>要領</rb><rt>えうりやう</rt></ruby>を得ず、これは證人のうちにも入りません。

だが、平次が矢のことを訊くと、

「うん、坊がおもちやにしたいといふと、一つだけなら、いゝだらうと、姉ちやんが言ふんだ。高いところへ掛ける前に、一本だけそつと持つて來て置いたよ。叱られるといけないから、坊のお部屋へ隱して置いたよ」

といふ意味のことを、覺束ない口調で言ふのです。恐らく母屋の床の間に<ruby><rb>靱</rb><rt>うつぼ</rt></ruby>があつた頃、眞矢を一本拔いて來て、彌太郎の玩具にして置いたものでせう。

<ruby><rb>眞矢</rb><rt>ほんや</rt></ruby>が一本、彌太郎の玩具にされて居たとわかると、平次は八五郎を母屋に走らせて、床の間に立てかけてあつた、弓を一と張取寄せて見ました。それは籐を一パイに卷いた思ひの外の<ruby><rb>強弓</rb><rt>がうきう</rt></ruby>で、<ruby><rb>弓弦</rb><rt>ゆんづる</rt></ruby>は外したまゝですが、弓そのものは、埃も留めずに、よく拭いてあり、近頃使つた樣子も無いくせに、弦などが、僅かに濡れてゐるのが氣にかゝります。

「八、この弓は女や子供ぢや扱へさうも無いね」

「弦を掛けるのだつて容易ぢやありませんよ――ところで親分、裏の小林といふ浪人者の母親が來て居ますよ、逢つて見ませんか」

八五郎はさゝやきました。

「成程それは良いところに氣が付いた。此處へ呼んで見てくれないか」

平次の言葉も待たず、八五郎は飛んで行きましたが、やがて四十五六の品の良い――やゝ取濟ました女をつれて、戻つて來ました。

「私に御用だ相で――？」

それは冷たいが、憤りを押し包んだ聲です。町方の御用聞風情に對する、武士階級に共通の反感でもありました。

「お氣の毒ですが、少しお訊ねし度いことがあります」

「どんな事を申上げれば宜しいのでせう」

平次の穩やかな調子も、この浪人者の未亡人の、<ruby><rb>屈辱</rb><rt>くつじよく</rt></ruby>的な氣持をほぐすには足りません。

「外ぢやございませんが、小林樣のお宅はツイ御近所のやうですが、小森屋さんと<ruby><rb>眤懇</rb><rt>ぢつこん</rt></ruby>にしていらつしやることでせうな」

「それはもう、何彼につけてお世話になつて居りますが」

「御惣領の習之進樣は、ことの外、小森屋のお孃さんに御執心だつたさうで」

「飛んでも無い。小森屋さんは本郷でも聞えた<ruby><rb>有徳人</rb><rt>うとくじん</rt></ruby>で、私共はその日暮しの浪人者、提灯に釣鐘でございます」

「でも、こればかりは、釣合ばかりを言つては居られません、――それから、小林樣と小森屋さんとは、毎日の往來があつたことでせうが、一々菊坂を登つて、表の入口から入らつしやいましたか、それとも、板塀の切戸の錠前のこはれを御存じで、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あそこ</span>から出入なすつたでせうか」

錢形平次の問は、妙に皮肉で突つ込んだものでした。

「何んといふことを仰しやるんです。私共が何んか、惡い事でも<ruby><rb>企</rb><rt>たく</rt></ruby>らんでゐるやうな――」

習之進の母のお<ruby><rb>世乃</rb><rt>よの</rt></ruby>は、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さすが</span>に腹を立てた樣子です。平次の返答一つでは、隨分、只では濟まさないと言つた激しい語氣です。

「そんなつもりぢや御座いませんが、板塀の切戸は外から、毎晩のやうに開けた樣子ですが、他の人があれを開けるには、小林樣のお家の軒下を通らなきやなりません。それに、男下駄や雪駄の足跡に交つて、女下駄の足跡が、切戸の内外に殘つて居るのはどうしたことでせう」

「えツ、默つて聽いて居ると、何んと言ふことをツ、私の伜が、お通さんを殺したとでも言ふのですか」

お世乃の怒りは凄まじいものでした。丁寧な言葉のうちにも、<ruby><rb>氣魄</rb><rt>きはく</rt></ruby>は平次に噛みつきさうです。

「飛んでもない、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>はそんな事を言やしません。だが、あの塀の上の匕首は、いろんな事を知つて居ますよ。八、あの切戸の上の忍び返しの根から、匕首を取つて來てくれ」

「おツ」

八五郎は庭に飛降りると、板塀の切戸の上のあたり、忍び返しの元を搜つてゐましたが、間もなく血だらけの匕首の一振を探し當てゝ、自分の手柄見たいな顏で持つて來るのでした。

## 五

「それから、臺町の由松親分は、裏の小林樣の浪宅を見張つてゐるから、お前も手傳つて、この匕首の鞘を搜してくれ、打ち割つて<ruby><rb>土竈</rb><rt>へつゝひ</rt></ruby>の中に押し込んであるのかも知れない」

「おつと、合點」

八五郎はスツ飛んで行つてしまひました。殘るのは錢形平次と、小林習之進の母親お世乃と、そして殺されたお通の死骸だけ、暫らくは、<ruby><rb>鬱陶</rb><rt>うつたう</rt></ruby>しい沈默が續きます。

「ね、小林樣の御内儀、もう此邊で、皆んな打ち明けなすつちやどうです。板塀の忍び返しの中に、血染の匕首を隱したのは、恐ろしい智慧ですが、此邊は坂町で、塀が思ひの外低く見えるから、縁側からよく見えることには氣がつかなかつたでせう」

「？」

「匕首の持主はすぐわかることでせう、お通さんの胸には、眞矢が一本突つ立つて居ましたが、丸窓の障子の外から、<ruby><rb>盲目</rb><rt>めくら</rt></ruby>滅法に射込んだ矢で、人間一人殺せるものぢやありません。それに、先刻弓を取寄せて見ましたが、あの弓の弦を掛けるのは、心得のあるもので無きや、二人位はかかりますよ」

「――」

「もう一つ、丸窓の障子の破れは、内へ矢を射込んだ穴ぢやなくて、内から、外へ突き破つたものですよ」

障子の穴のために出來た紙の端が、皆外の方へ向いて居るのを、平次は指すのです。

「それがどうしたといふのです」

お世乃は打ちひしがれ乍らも、敢然として陣を立て直すのです。

「斯う言ふことですよ。誰かゞ、此部屋へ忍び込んで、匕首で胸を突いてお通さんを殺した。その後を追つ驅けて來た人が、お通の死骸を見て<ruby><rb>膽</rb><rt>きも</rt></ruby>をつぶし、下手人を<ruby><rb>庇</rb><rt>かば</rt></ruby>ふために、お通の胸から匕首を拔いて、その傷口へ、彌太郎の玩具にして居た眞矢を刺し、丸窓の障子に丁寧に穴まであけて、さて板塀の切戸から逃げようと思つたが、血染の匕首があつては面倒と思ひ、外に捨てる場所も無いので、忍び返しの根のところに匕首を載せて隱したが、その塀の上が坂町のことで、縁側から眼の下に見えるとは氣が付かなかつた」

「――」

「その匕首の主は、お通さん殺しの下手人、それに間違ひは無いぢやありませんか。御内儀」

平次の論告は、水も<ruby><rb>漏</rb><rt>も</rt></ruby>らさぬ<ruby><rb>峻嚴</rb><rt>しゆんげん</rt></ruby>さでした。匕首の持主は兎も角、それを<ruby><rb>庇</rb><rt>かば</rt></ruby>つたのは女下駄の主で、裏の切戸から出入した者、切戸の錠の利かないものを承知の上で、斯んな細工をしたものに違ひありません。

その時、臺町の由松と、八五郎は、一團になつて戻つて來ました。

「親分、天眼通だ。匕首の鞘はありましたよ。土竈の中ぢや無いが、千六本に切つて、焚きつけの籠の中に」

八五郎はその籠を打ち振つて、わめき立てるのです。

この證據は重大で決定的でした。お通を殺したのは、匕首の持主の浪人小林習之進でなければならず、母親の世乃はそれを庇ふために、娘の傷口から匕首を拔いて、その跡に眞矢を突つ立て、丸窓の障子にまで細工をしたのでせう。

平次はもう、お世乃の肩に手を置いて居りました。解決は、極めて簡單についてしまつたのです。

「いや、下手人は俺ぢや無い。俺が行つた時はお通さんは元氣で居たんだ」

續いて臺町の由松に引立てられて、二十前後の若い浪人者――小林習之進がやつて來たのです。眼の大きい蒼白い男、充分激情的で、そして臆病さうでもあります。

「小林さんで？　一體どうしたといふんです」

平次はこの青年武士のうちから、何んとなく眞つ正直な素朴なものを見出しました。下手人の疑ひは濃厚ですが、一應の言ひ分を聽いて見ようと思つたのは、兎も角も穩當なことです。

「――私は、もう我慢の出來ない心持であつた。今夜といふ今夜は、お通さんの本心を聽く積りで、さすがに兩刀は家へ置いたが、匕首を<ruby><rb>一口</rb><rt>ひとふり</rt></ruby>懷ろに入れ、切戸から庭へ入り、幸ひ開けたまゝになつて居る此部屋に入つて、匕首を敷居の上に置いたまゝ、お通さんの返事を訊かうとしたのだ」

「――」

「でもお通さんは、後ろを向いたまゝ、默つて居た。一度は私と約束までした仲を、何時の間に冷たい心持になつたか、それは知らないが、近頃は私を<ruby><rb>避</rb><rt>さ</rt></ruby>けてばかりゐるお通さんだつた。一と思ひに殺さうと思つたが、美しい横顏を見ると、それも果し兼ねて、私はスゴスゴと歸つてしまつた。匕首は敷居の上に忘れたまゝ、――そして、心持を紛らせる積りで、本郷の大通りへフラリと出かけ、夜風に吹かれて眞夜中近い頃戻つて來た。母上はいつものやうに手燭を<ruby><rb>灯</rb><rt>つ</rt></ruby>けて私を迎へて下すつたが、ひどく青い顏をして出られた。私は何んにも言はずに自分の部屋に入つてしまつた。――それだけの事だよ、錢形の親分。私は命も名も惜しいとは思はないから、決して嘘や<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>へ事は言はない」

小林習之進は、さう言ひきつて、何んの<ruby><rb>蟠</rb><rt>わだかま</rt></ruby>りも無く正面から平次の顏を見るのです。

「私は、伜のことが心配で〱なりませんでした。私の目を憚つて兩刀は置いて行つたが、それは私に心配をさせない爲で、そつと匕首を持つて行つたことは、私はよく知つて居ました。暫らく經つて、我慢が出來なくなつて、切戸を開けて小森屋を覗くと、お通さんは小机に<ruby><rb>凭</rb><rt>もた</rt></ruby>れたまま、伜の匕首に胸を突かれて死んで居るではありませんか。私はその匕首を拔いて、傍にあつた眞矢を取つて、――可哀想だがお通さんの傷口に刺し、丸窓の障子に穴まで拵へて、あわてゝ逃げ歸りました。血だらけの匕首は、捨てる場所も無かつたので、板塀の忍び返しに預けました、後で改めて隱さうと思つたのです。それでも下水や藪の中に捨てるよりは良からうと思つたのが私の猿智慧でした。鞘は御覽の通り細かく割つて焚きつけの籠に入れました」

「――」

「伜が下手人でないとわかれば、私はもう何んにも隱すところはありません。さア、繩を打つて引立てゝ下さい、私はどんな<ruby><rb>御所刑</rb><rt>おしおき</rt></ruby>を受けても、決して、決して怨みはしません」

お世乃は兩腕を後ろに廻して、覺悟の眉を垂れました。

「お母樣、――そんな馬鹿なことを、御所刑を受けるものなら、私が受けます」

伜習之進は、その母親を庇つて後ろに圍ふのです。

## 六

錢形平次も、後のことを臺町の由松に頼んで一應は引揚げる外は無かつたのです。

「親分、あの浪人者は下手人ぢやありませんか。逃してしまつて宜いんですか」

八五郎はそれが不服でたまらない樣子です。

「小林習之進といふ浪人者の言ふことは、一つも嘘は無いよ」

「へエ？」

「あの江戸一番の美人の氣でゐる見識の高いお通が、まだそんな高慢な氣を起さない頃、小林習之進と<ruby><rb>飯事</rb><rt>まゝごと</rt></ruby>見たいな氣で夫婦にならうと口約束位はしたかも知れないが、近頃はすつかり氣位が高くなつて、痩せ浪人などを寄せつけもしなかつたやうだから、小林習之進が泣いて頼んでも、後ろを見せて返事もしなかつたといふのは本當のことだらう」

「へエ？」

「お通は胸を刺されて居るんだぜ。小机に凭れて居るお通の胸を刺すには、下手人は馴々しく後ろから寄つて、聲でも掛け乍ら、不意に抱き付いて、刺す外はあるまい。嫌はれ拔いてゐる小林習之進には、そんな藝當は出來ない筈だ」

「？」

「お通の後ろから、油斷させて抱きつくのは、誰だと思ふ」

「成る程ね」

「其處までわかつたら、お前は小森屋へ引返して、皆んなの荷物を調べてくれ、臺町の由松親分にも手傳はせたら、半日で<ruby><rb>埒</rb><rt>らち</rt></ruby>が明くだらう」

「やつて見ませう」

八五郎は途中から引返しました。

それからまる半日、八五郎が明神下の平次の家へ來たのは、もうすつかり暗くなつてからのことです。

「どうだ、八。何んか變つたことは無いか」

平次は戀人來らずと言つた心持で、煙草にしたり、<ruby><rb>欠伸</rb><rt>あくび</rt></ruby>を連發したり、この報告を待つて居たのです。

「何んにもありませんよ、あの家の者は、揃ひも揃つて癪にさはる程無事ですよ」

八五郎は氣の無い顏をして居ります。

「家の中を念入りに見たのか」

「天井から床下まで、――それから雇人共の部屋から荷物は皆んな調べて見ましたが、銘々少しづつ溜めて居る外には、不思議なことに女の子の手紙一本、吉原<ruby><rb>細見</rb><rt>さいけん</rt></ruby>一册無いから癪にさはるぢやありませんか」

「そんな事が、お前の癪にさはるのか」

「へエ、<ruby><rb>癇</rb><rt>かん</rt></ruby>のせゐでね」

「まア、宜い。俺は一と晩<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ゆつくり</span>考へた上、明日もう一度行つて見よう。塀外は小林習之進親子がウロウロして居た筈だから、あの二人が下手人で無きや、曲者は間違ひもなく家の中に居た筈だ」

「さうでせうか、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あつし</span>はどうも小林母子が臭いやうに思ふんですが、あのお袋は一筋繩ぢや行きませんよ」

「いや、あの母親では無い、――現に、お通の死骸の傷に、眞矢を突つ立てたと白状してゐる位だから、下手人ならそんな馬鹿なことを言ふ筈は無いぢやないか。弓は三人張の強弓だ。後で小森屋へ手傳ひに行つた時も<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>を拭いたのもあのお袋の細工さ。――それにしてもわからない事ばかりだ」

平次は考へ込むのです。

その翌る日、八五郎が誘つた時は、平次はもう仕度をして待つて居りました。

「どうです、親分、謎は解けたでせうね」

八五郎は平次の顏から、何やら光明らしいものを見出したのです。

「いや、そんなわけぢやないが、下手人を甘く見て、調べが足らなかつたことは確かだよ、――どうかしたら下手人が甘過ぎて、反つて此方の考へが及ばなかつたのかも知れない」

そんな事を言ひ乍ら、菊坂に着いたのは、まだ<ruby><rb>卯刻半</rb><rt>むつはん</rt></ruby>（七時）といふ時刻、小僧の友吉は店の前を掃き乍ら、

「お早やうございます」

などと世間並の挨拶をして居ります。

平次は店から入つて、一とわたり家中の者の顏を見ると、お勝手口から水下駄を穿いて外へ出て、庭に面した奉公人達の部屋の外を念入りに調べ始めました。

「何を見付けるんです、親分」

「誰か、お孃さんのお通と逢引して居たものは無かつたか、――逢引でなきや、<ruby><rb>夜半</rb><rt>よなか</rt></ruby>にそつと起出して、お通の部屋を覗く奴が無かつたか、それを見付け度いのさ。お通の部屋の前はよく踏み固められて居るだらう。家の中を廊下傳ひに行くと、人目に立つから、多分、草履で庭を行つたことゝ思ふが――」

「あ、此處にありましたよ」

「どれ」

八五郎は<ruby><rb>背延</rb><rt>せのび</rt></ruby>をすると、戸袋の上から、泥だらけの藁草履を一足取りおろしました。夜露に濡れて代無しになり、戀の通ひ路に履くやうな意氣な代物ではありません。

「こいつを履いたのは、誰でせう？」

「見當は付いて居るが、念のため下女のお照に訊き度いことがある、そつと呼び出してくれないか」

「へツ、あれでも女の子に間違ひはねえから、呼び出すのは氣が差すが」

「馬鹿野郎、人に氣付かれないやうに、早くするんだ」

「へエ」

八五郎は舌をペロリと出すと、自分の額を叩いて飛んで行きました。素朴で泥臭くはあつても、あのお照といふ女には、何處か不思議な良さがあつたのです。

が、お照をお勝手口へ誘ひ出すと、平次はもう事務的になりきつて居りました。

「この草履は、誰のだえ、知つてるだらうと思ふが」

「わかりませんよ、そんなのは物置に五六足ありますから、でも、そんなに汚いのは？」

「履物には<ruby><rb>履癖</rb><rt>はきぐせ</rt></ruby>があるものだ。長く使つた草履や下駄にはその人の足跡が付いて居ると思ふ、――どうだ、この草履は汚れて濡れてゐるだけに、足癖も一と眼でわかりやしないか」

「さう言へば、親指を<ruby><rb>蝮</rb><rt>まむし</rt></ruby>にして履く癖や、土踏まずの深いところは――」

「誰だえ」

「友吉どんの足のやうですが」

「よし〱、さうはつきり言つてくれた方が宜い。友吉は十七とか言つたね」

「え」

「まだ夜遊びなどはしないだらうな」

「そんな事はしません。でも、お孃さんには夢中だつたやうで」

あんな粘液質らしい少年は、反つて人一倍初戀に身を燃やすことでせう。

「お孃さんの方は何んとも思はなかつたのか」

「あの人は、友吉を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">からか</span>つて喜んで居ましたが、根がしつかり者で、滅多な人に氣を許しませんでした。お大名にでも<ruby><rb>輿入</rb><rt>こしいれ</rt></ruby>する氣だつたんでせう」

「外に、氣のついた事は？」

「さう〱一昨日でしたか、――友吉が部屋を掃除して歸つた後を見ると、變なものを落して行つたから、お前にも見せてやらう、そりや大變なものよ――とお孃樣が一人で喜んで居ました」

「戀文かな」

「お孃樣は人が惡いから、その大變なものを、何んでも皆んなに見せるんだと、一人で喜んでゐましたが」

「お孃さんと友吉と、そんなに仲がよかつたのか」

「若い男を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">からか</span>つて、凭れたり、頬を突いたり、首つ玉に噛り付いたり、そんな事をするのをお孃さんは好きでした。でも心持は冷たくて、人に氣を許すやうなことは無く、どうかすると、<ruby><rb>假借</rb><rt>かしやく</rt></ruby>の無い、意地の惡いことも平氣でやるんですもの」

お照は次第にこの不思議な美女の死の秘密を明かにして行くのです。

「八、わかつたよ」

「親分」

「先刻まで店の前を掃いて居たやうだ。何んとかして、あの小僧の懷中を<ruby><rb>搜</rb><rt>さぐ</rt></ruby>つて見ろ、大事なものは、身につけて置いた筈だ――荷物を調べたのは俺の考へ違ひだつたよ」

「合點」

八五郎は飛んで行きましたが、間もなく店の方に大變な騷ぎが始まり、それが靜かになると、八五郎は鬼の首でも取つたやうに、

「親分、矢張りあの小僧が<ruby><rb>温</rb><rt>あつた</rt></ruby>めてましたよ」

頭の上でヒラ〱させ乍ら持つて來たのは、何んと、<ruby><rb>蚯蚓</rb><rt>みゝず</rt></ruby>をのたくらせたやうな、舌つたるい戀文が一通と、娘の持物らしい、小さい可愛らしい物が二つ三つ。

「矢張さうか、どれ見せろ」

それは恐ろしく拙い字で、半紙一パイに書き埋めた、思ひのたけの文句で、くさ〲の品は、お通の持物らしい、<ruby><rb>小巾</rb><rt>こぎれ</rt></ruby>や玉や、哀れ深い品々だつたのです。

「ところで、<ruby><rb>肝心</rb><rt>かんじん</rt></ruby>の友吉はどうした」

「鐵之助に見張らせて來ましたよ」

「あの騷ぎは何んだ」

もう一度店の方に一騷ぎが始まつた樣子、平次と八五郎が驅けつけた時は、友吉は鐵之助を突き飛ばして、朝の往來へ逃出したときだつたのです。

×　　　　　　×　　　　　　×

友吉の死骸は二三日後大川に浮いて、事件はそれつきりになつてしまひました。

その後八五郎にせがまれて、平次は、<ruby><rb>斯</rb><rt>か</rt></ruby>う説明するのでした。

「可哀想なのは小僧の友吉さ。お通に玩具にされて、氣が變になつてしまつたのだ。その上、心こめて書いた戀文まで、當のお通に笑ひ草にされ、明日は家中の皆んなに見せると聽いて、我慢が出來なくなつたのだらう。友吉は毎晩のやうに自分の部屋から拔け出して、お通の部屋を覗いて居たが、あの晩はお通は小机に凭れてウト〱して居るし、敷居際には小林習之進の忘れて行つた匕首があつたので、それを拔いてお通の後ろから、いつものやうに、ふざけ合ふやうに凭れ、手を前に廻して一と思ひにお通の胸を刺したのだらう」

「成る程ね」

「自分の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きりやう</span>に自惚れて、若い男の子を遊んだお通がよくないよ、――兎も角、友吉のやうな生一本の若い男を、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">からかひ</span>過ぎちやいけないのさ。お通は一ぺんに死んだが、後ろから手を廻した友吉は、反り血も浴びなかつたことだらう、匕首を突つ立てたまゝ、そつと自分の部屋に歸つた」

「――」

「その後へ小林習之進の母親が行つて、お通殺しを、<ruby><rb>伜</rb><rt>せがれ</rt></ruby>の<ruby><rb>仕業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>と思ひ込み、眞矢を傷口に立てたり、匕首を隱したり、<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>を割つたり、いろ〱の細工をした」

「變な話ですね」

「全く母親で無きや出來ないことだよ。だがな八、お通の殺された時、母屋からそつと拔け出せるのは友吉の外に無いし、お通の背後から凭れるやうにして、胸に匕首を突き立てるのは、お通が馬鹿にしきつて居る、友吉の外には無い。小林習之進では、お通があんなことをさせなかつたらう」

「――」

「可哀想なのは友吉だ。身も心も燒き<ruby><rb>爛</rb><rt>たゞ</rt></ruby>れるほど玩具にされて、戀文まで笑ひ草にされては、居ても立つてもゐられなかつたに違ひない」

「女は綺麗過ぎるのも良し惡しですね」

と感にたへた八五郎。

「それから男に惚れないのも良し惡しか」

「へア、すると、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こちとら</span>の附き合つて居る女は、因果と皆んな不<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きりやう</span>で惚れつぽいと來やがる。有難い仕合せ見たいですね」

「まあ、さうとでも思へ」

平次は此處まで來て、漸く日頃の笑ひを取戻しました。