## ポケットのダイヤ

陽子は珍らしく早起きして、朝のお化粧もすませ、ヴェランダの籐椅子にながながと両足を延ばし、ココアを飲みながら、頻りに腕時計を眺めていた。

客間の置時計が九時を打つと、それを合図のように玄関のベルが鳴って、貴金属商の杉村が来た、と書生が取りついだ。貴金属商というのは表面で、実は秘密に婦人達の間を廻り歩いている、損料貸しなのである。指輪や時計の交換などもやるので、重宝がられているのだった。彼は如才ない調子で、お世辞を振りまきながら、女中が茶菓を運ぶのに出たり入ったりしている間は、ゆっくりと鞄から一つ一つ指輪を取り出して、テーブルの上に並べていたが、女中の姿が見えなくなると、懐中から別に持っていたのを出して、

「パリーで買ったものだというんですが――、カットも新しいし、これだけの上物は滅多にございません。――いかがでしょう？　二千五百円じゃお安いと思いますが――」

三キャラット以上もありそうな、純白ダイヤ入りの指輪だ。陽子は蝋細工のような細い指にはめてみて、じっと眺めた。欲しいな、と思った、欲しい！　しかし、この指輪に換えるだけの宝石を、残念ながら、持ち合せていない。もし是非ともこれを望むとすれば、<ruby><rb>纏</rb><rt>まとま</rt></ruby>ったいくらかの金をたしまえとして渡さなければなるまい。結婚してからまだ半年にしかならない二十一歳の若夫人の身では、それだけの金の工面は少し難しかった。欲しくって、欲しくって堪らないが、これは我慢しなければならないので、その代りに小指にはめるマルキイズを借りることにして、ルビーの指輪に若干の金を添えて話をつけた。

杉村は鞄の中に指輪を<ruby><rb>納</rb><rt>しま</rt></ruby>いながら、

「米国観光団の大舞踏会があるそうでございますね。ご出席なさいますんでしょう？」

「ええ、招待状が来ているから、行く積りよ」

「そのために――、皆さん、大変ご苦労をなさいます。これは内々のお話でございますが、――私共の上等品は大部分当日のために出払ってしまいました」

陽子は杉村が帰った後も、三キャラットのダイヤが眼の前を離れなかった。梅田子爵夫人ともあろうものが、あれ位のダイヤ一つ持っていないとは情けない、何とかして買いたいものだと思いながら、ぼんやり庭を眺めていると、縁側に忙しそうな足音がして、実家の次兄、平松春樹が訪ねて来た。

「あら、お兄さん」

兄の顔を見ると急に甘えるような気持ちなって、何ということなしに涙ぐんだ。ダイヤが欲しいのよ、と、口先にまで出かかったのを、ぐっと押えて、陽子は唇を噛んだ。それは云ってはならぬことであった、こんなにまで欲しがっていると知ったら、この妹思いの春樹が、黙ってみているはずはない。どんな無理をしても、きっと、ダイヤを持って来てくれるに<ruby><rb>定</rb><rt>きま</rt></ruby>っている、その無理が――、彼女には恐しかった。

「お兄さんも舞踏会に行らっしゃるんでしょう？　西洋婦人が沢山来るそうですから、さぞ、奇麗なことでしょうねえ」と云った。

「米国人が半数以上だっていうから、ダイヤが踊ってるようだろうよ。君なんか、宝石をつけて行かない方がいいぜ。ケチな指輪をはめて行っちゃ、反ってみすぼらしいからな」

兄の言葉もまるで耳に入らないように、陽子はじいッと考え込んでいたが、何を思ったのか、急に元気づいて、<ruby><rb>起</rb><rt>た</rt></ruby>ち上り、

「どうせ買えないから、と思って<ruby><rb>断念</rb><rt>あきら</rt></ruby>めたんだけれど、――お兄さん、私、これから三越へ行くわ。あそこは月末払いだから、――その時はその時の事で、どうにかなるわ。ほんとにうまいところに気がついた。三越へ行って、――ダイヤを見て来る。定めた！」

「馬鹿！　止せッて云ったら――、<ruby><rb>小</rb><rt>ち</rt></ruby>ッぽけなダイヤなんかみっともないぞ――」

「だから、――大きいの、買うわ」と、勢よく化粧室に飛び込み、パッフで顔を叩いて、外套に手を通しながら、浮き浮きとして出て来た。

春樹は苦笑して、煙草に火を点け、

「じゃ、俺も一緒に出かけるとしようかな」

二人は連れ立って出た。

三越の前で陽子は兄に別れ、軽い歩調でエレヴェーターの中に入った。彼女はもうダイヤの事しか何も考えていなかった。

エレヴェーターを出ると<ruby><rb>傍目</rb><rt>わきめ</rt></ruby>もふらず、真直ぐに、貴金属部へ靴先を向けた。ショウ・ウインドウを覗くと、パッと眼に入った大きなダイヤがあった。沢山の指輪に取り巻かれた真中に、それはまるで女王のように輝いていた。杉村の持っていたのなどより、ずッと立派なものであった。早速、馴染みの店員を<ruby><rb>招</rb><rt>よ</rt></ruby>んで、<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>の上をトントン指先で叩きながら、

「ちょいと、この指輪、見せて下さらない？」と云った。

店員は五千八百円という正札を、ぶらりと下げているその指輪を陽子に渡し、なおそのほか気に入りそうなのを五つ六つ並べて見せてくれた、彼女はそれを一つ一つ指にはめては見惚れていたが、やはり最初目についた五千八百円が一番気に入った。欲しいなあ、と思うと我知らず溜息が出る。お金をどうしよう？――仕払いの時、もし、出来なかったら――、と思うと眼の先が真暗になる。だが、――どうにかなるだろう、構わない、買っちまえ！　彼女は顔をほてらせて、<ruby><rb>凝</rb><rt>じっ</rt></ruby>とダイヤを見ているうちに、何だか頭がぼうッとした。ふと我に返るとはッとして、また考えた。そんな無茶なことをしてどうする？　到底それだけお金が出来るはずがないのに、――無謀な考えを起したら、それこそ月末は大変だ、やっぱり――、断念めるより仕方がない。彼女は名残り惜しそうに指輪をぬいて、箱に納め、力なく返そうとしたが、傍にいた店員の姿が、どうしたのか見えなかった。<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>を見廻すと、自分の側に、やはり同じように、指輪に見入っている婦人があった。ちょっと見た時西洋人かしらと思ったほど、洋装がしっくりとよく似合い、帽子から、靴まで薄墨色であった。背が高くて、スマートな、好ましい姿だ。と陽子はつくづく眺めた。余りじろじろ見たせいか、その婦人はすうッと<ruby><rb>向</rb><rt>むこう</rt></ruby>へ<ruby><rb>去</rb><rt>い</rt></ruby>ってしまった。そこへ店員が戻って来たので、指輪を渡し、

「また出直して来ますわ。気に入ったのが、――あることはあるんだけれど――」と云って悄然と三越を出た。

銀座を歩いているうちに夕方になったので、円タクを拾って家へ帰ったが、外套を脱ぐのも億劫な位、がっかりした。考えれば、考えるほど、気が滅入る。

「ああ、あのダイヤが欲しい！」

溜息と一緒に、ツイ口に出してしまってから、急に恥しくなり、顔を赤らめて起ち上り、ポケットからハンカチを掴み出した、カチリ！　床に落ちたものがある。オヤッと思って、見ると、白っぽい、光った小さなものがころころと転げて、<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>の隅の壁際で停り、電燈の灯を受け、ピカッと眼を射た。

ダイヤだ、ダイヤの指輪だ！

三越の店員に<ruby><rb>慥</rb><rt>たし</rt></ruby>かに渡したと思っていた五千八百円の指輪だ。彼女は頭の先から足の先まで、ジーンと電気でも伝ったように感じ、体が<ruby><rb>硬直</rb><rt>こわば</rt></ruby>って身動きも出来ない。

どうして、ポケットの中に、あのダイヤが入っていたのだろう？　欲しい！　と深く思い込んだあの刹那の念力にひかれて、転げ込んだのではあるまいか。まさか――そんなことがあろうとは信じないが、<ruby><rb>嘗</rb><rt>かつ</rt></ruby>てある霊能者の物品引寄せというものを見たことがある。もしああいう事が、実際に出来るものだとしたら――、あるいは――。

陽子は怖くなった。

今にも、三越から何とか云って来やしないだろうか。たとえそれが意識してやった事でないとしても、ポケットに入れるところを誰かに見られはしなかったろうか。訴えられたらどうしよう？　一層返しに行こうか。――それも変だ。反って疑われるかも知れない。――では、このまま、黙って、知らぬ顔をしていようか――。

彼女は指輪を半紙に包んで、取り敢えず人目に触れない<ruby><rb>箪笥</rb><rt>たんす</rt></ruby>の<ruby><rb>抽斗</rb><rt>ひきだし</rt></ruby>の奥に入れて、錠を下し、熱した頭を冷す積りでヴェランダに出た。夫に打ち開けて相談してみようか、しかしそれも心配だった。潔癖な彼が、どんな風に誤解しないとも限らない。

それにもう一つ、陽子の胸を刺すような心痛があった。それは他でもない、兄のことである。

春樹は風采も立派、学校の成積も良く、才物であったが、どういうものか、幼少の頃から盗癖があった。が、彼に云わせるとこうだ。世間の人は皆間抜けで、馬鹿揃いだ。すきだらけだから盗まれる。盗んでくれと云わんばかりな顔をしているのに、自分の不注意を棚に上げて、人に盗癖があるなんてチャンチャラおかしい。その気持ちは彼女にもよく分った。

それに春樹は物を盗んで、それをどうしようというのでもない、ただ、他人が後生大切に身につけているものを、こっそりと<ruby><rb>掏</rb><rt>す</rt></ruby>りとる、それが愉快なのだ、その瞬間、実に何とも云えない快感を覚える、それを味いたいばっかりに、罪を重ねているのだが、盗んでしまえばそれぎりで、品物に執着がないのだから、持主の住所を調べては、送り返してやる。まさか、平松子爵の次男がスリだとは<ruby><rb>何人</rb><rt>なんぴと</rt></ruby>も感付かないだろう、知っているのは妹一人位のものだと彼は考えていた。しかし、その愉快な遊戯も、陽子が梅田家へ嫁いだ日を限りに、きっぱりとやめたはずである。が、もしも盗癖というものが血統にあるのだとしたら――、知らぬ間に心のどこかに芽生えていたとしたら――、と、考えると、彼女は身も世もあられぬほど苦しくなった。

## 薄墨色の女

警察から<ruby><rb>喚出</rb><rt>よびだ</rt></ruby>された夢を見て、陽子は眼を覚ました。ガーゼの寝巻は汗で肌にはりついている。

夫は起きて、新聞を読んでいた。何か出ているのではないか知ら、と思って、上目使いに顔色をうかがった。

「何だか、寝言を云ってたよ」

ギョッとして、面を反向け心を落付けてから、何気なく、

「新聞に――、何か面白いことでも、出ておりまして？」と訊いた。

「ウム。『省電の通り魔』ッて題で、スリの一味が就縛された記事があるが、それを捕えた山梨刑事の写真が出ているんだ、この男、この間会社へやって来て、僕と<ruby><rb>暫時</rb><rt>しばらく</rt></ruby>話したからよく知っているんだがね」と云って、新聞記事を読み上げた。刑事を知っているので、特別に興味を感じているらしかったが、陽子は何だか厭な気持ちがした。だが、黙っていても悪いと思って、

「山梨刑事ッて、どんな方？」

とお世辞に訊いてみた。

「まだ若いが、なかなかの敏腕家だよ。庁内きっての美男子で、女のような優しい顔をしている、スリ仲間じゃ、鬼山梨で通っているそうだ」

「そんな奇麗な人を、鬼だなんて可哀想ねえ」

陽子はその話をいい加減に打ち切ってしまいたかったので、枕時計を見て、

「あら！　もう、八時過ぎてるわ」と<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>したように飛び起き、急いで寝室を出た。次の間の大きな姿見鏡に、彼女の顔が真青に映った。頭がずきずき痛む。

夫が外出したら実家へ行って、春樹に相談しよう。こういうことは<ruby><rb>何人</rb><rt>たれ</rt></ruby>よりも、彼が一番よく理解してくれるだろう。助けてもくれるだろうし、きっと好い智恵も貸してくれるに違いない。

彼女は心の苦しみをかくし、つとめて元気らしく装っていた。<ruby><rb>軈</rb><rt>やが</rt></ruby>て夫を玄関に送り出すと、早速実家へ電話を掛けてみたが、兄はまだ起きていなかった。急用が出来たから、後刻行く、と云い残して、電話室を出ようとしたら、扉の前に女中が待っていて、

「奥様に、是非、お目に掛りたいと仰しゃって、ご婦人の方が、おいでになりましたが」と云った。

陽子は何がなしに、ハッとして、

「何？　ご婦人の方だって？　お名前は？」

「仰しゃいませんが、お学校のお友達だから、お目にかかれば分りますって――」

「どんな方？」

「モダンな、お背のお高い、大きなお眼のお美しい方でございます。薄墨色のご洋装が、<ruby><rb>迚</rb><rt>とて</rt></ruby>もよくお似合いで――」

聞いているうちに、彼女の膝頭はガタガタと慄え出した。薄墨色の女！　背の高い、眼の大きな、あああの人だろう。三越の貴金属部で、自分と同じように指輪に見入っていたが、あれはお客さんではなかったのか知ら？　洋服部あたりには、よくああしたモダンな人を見受けるから、あの女もやはり店員の一人だったのかも知れない。と思うといよいよ不安になった。三越にしても梅田子爵夫人という身分に対して、滅多な真似は出来ないから、まず最初は穏かに話をつけようと、店員をよこしたのかも分らない。

用件を訊かずに、知らぬ人と会ってはならぬ、という夫の日頃の<ruby><rb>吩咐</rb><rt>いいつ</rt></ruby>けも忘れて、名前さえ云わない、その未知の婦人を応接室に通させた。

「お茶だけでいい。ベルを鳴すまで、――来ちゃいけないよ」と我知らず、きつく云って、陽子は胸をドキドキさせながら、応接室のドアをさっと開けた。果して――。

薄墨色の女は、にこやかに笑いながら一礼して、

「昨日は失礼いたしました。突然で――<ruby><rb>嘸</rb><rt>さ</rt></ruby>ぞ吃驚なすったでしょう？」

と馴れ馴れしく云う。陽子は早く用件を云ってもらいたかったので、ただ、

「いいえ」と云って、微笑したぎり黙っていた。

婦人は<ruby><rb>燐寸</rb><rt>マッチ</rt></ruby>を磨り、器用な手つきで巻煙草に火を点けた。何を云い出されるかとハラハラしながら、煙の<ruby><rb>行衛</rb><rt>ゆくえ</rt></ruby>を見ていると、薄墨色の女はやがて煙草の喫いかけをぐっと灰の中にさし込んで、

「突然、伺ッた用件、――奥様、――もうお分りでございましょう？」

と意味ありそうな眼をして、にやりと笑った。

陽子は唇を震わし、眼を膝に落して、

「何ですか、私には、――ちッとも――」と微かな声で答えた。

「あら、まだお分りになりませんの？　昨日、お預けしておいたものを――、頂戴に上ったんですのよ」

「？」

「オホホホ。とぼけていらっしゃるの？　奥様、お人が悪いのねえ。あのダイヤの指輪、――ポケットの中へ入れておいた――」

彼女は一時に呼吸が止ったかと思うほど、驚いた。ダイヤの指輪は、この婦人のものだったのか。

「オホホホホホ。そんなに吃驚しないだッていいわ。貴女は何もご存じない。否え、何の罪もおありにならないんですのよ。あのダイヤは私が盗んで、ちょっと奥様のポケットを拝借したんですわ。私達仲間ではよくやることですが、――素人の方のをお借りしたのは、私、始めてです。どうぞ、返して下さいね」

陽子は呆気に取られていたが、この女は三越の店員でも何でもなく、女<ruby><rb>掏摸</rb><rt>すり</rt></ruby>だったのかと思うと、いくらか安心した。盗んだ人が分れば、もう自分に嫌疑がかかるはずもない。三越から何とか云ッて来たら、この婦人のことを話してやればいいんだ。

彼女は指輪を返して、ホッとした。

薄墨色の女は嬉しそうに、それを掌の上にのせて見惚れていたが、

「奥様、私なんかの手並に驚いていらッしゃるようじゃ駄目ですわ。明晩の舞踏会に無論ご出席なさるんでしょうが、あの観光団の中には世界的なスリの名人がいるんだそうですよ。非常な美人で、誰が見ても高貴な婦人としか思われないんですッて、――何しろ世界中のスリ仲間から、女王のように<ruby><rb>崇</rb><rt>あが</rt></ruby>められているんですから、素晴しいじゃありませんか。私もせめて、一目拝みたいと思ってるんですが――」

とすっかり隔てがとれて、まるで仲間同志に話しかけているような調子だった。

あれほどまでに思い込んでいたダイヤだのに、どうしたものか、今はもうちっとも欲しくなくなった。返してしまってからは、反ってさばさばとして、心が軽くなる位であった。

薄墨色の女が帰ると直ぐに陽子は実家へ行って、春樹に会い、昨夜からの出来事を話し、

「ダイヤを渡してやッたけれど、――大丈夫でしょうか、私、補助罪になりやしないかと思って――」

「現行犯でなければ大丈夫さ。尤も前科があれば別だけれど――、とにかくそれほどの女だ、心配はないよ。――そして、何かい、世界的の奴が観光団に交って来ているんだって？　そいつあ愉快だな、その女を俺に紹介してくれないかなあ」と春樹は眼を輝かせて云うのだった。

## 世界的の名人

観光団歓迎の大舞踏会は、グランド・ホテルの大ホールで開かれた。

平松春樹は<ruby><rb>瀟洒</rb><rt>しょうしゃ</rt></ruby>たる服装で、美しく着飾った妹の陽子を伴い、会場へ急いだ。入口には主催者側の紳士淑女がずらりと十数名一列に並んで、来客を受けていた。陽子はちょっと<ruby><rb>気後</rb><rt>きおく</rt></ruby>れがしたように<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ためら</rt></ruby>っていたが、兄を顧みて口早に云うのだった。

「皆さん、お立派で――、私きまりが悪いから、――はやく、このネックレースをとってしまって頂戴よ」

春樹は苦笑して、

「馬鹿だなあ。だから、止せッて云ったんだ」

と云いながら、ルビーと真珠を<ruby><rb>鏤</rb><rt>ちりば</rt></ruby>めたネックレースの環を外してやった。

陽子は春樹の先に立って、その列の前を通りながら、一人々々挨拶をした。中ほどのところまで来て、何気なく次ぎの女の顔を見た。彼女は驚いて足が竦んでしまった。それは昨日会った薄墨色の女ではないか、しかも、その左の指に煌々と輝いているダイヤ――、それは慥かに見覚えのあるものであった。スリがどうして主催者側の一人として立っているのだろう？　余りの不思議さに暫時棒立ちになっていると、先方から陽子の手を握って嬉しそうに微笑み、「昨日は失礼、――今晩はよくいらっしゃいました」と愛想よく云って、隣の夫人へ、梅田子爵夫人であると紹介した。春樹は妹の後にいたので、名も知らない薄墨色の女に握手もし、自己紹介もした。

列を通り越してホールの中に入ると、陽子は周囲を見廻しながら、兄の耳に口を寄せた。

「大変ですよ。お兄さん。あの薄墨色の女はスリです」

「えッ、だって、主催者のリスイーヴング・ラインに立っていたじゃないか。人違いだろう、うっかりスリだなんて云うと大変だぞ」

「でも――、昨日は失礼と云いましたよ。確かに間違いではありませんわ」

「もしか、それがほんとうだとしたら、――痛快だな。――どんな女だか、僕はもう一度見てくる」と云って、止めるのもきかないで、また入口の方へ後戻りしてしまった。

陽子は呆れて、兄の後姿を見送っていたが、軈て自分達のグループの方へ行った。

春樹のシイクな風采とスマートな社交振りとは西洋人の気に入り、殊に若い女達の間には大もてだった。忽ち番組のカードは予約で一杯になった。

<ruby><rb>噎</rb><rt>む</rt></ruby>せかえるような強い香水、甘たるい皮膚の香、柔らかそうな首筋、クリーム色のふっくりした胸、それ等は彼に何の刺戟も与えなかったが、ダイヤの魅力には時々自制の念を失うような、恐しい誘惑を感じた、春樹は宝石に眼を反らせて、ホールの中を踊り歩いているうちに、幾度も浮墨色の女と廻り合った。最初は黙礼を、次ぎには微笑を、終いには眼で合図するほど親しくなった。その眼がまたよく物を云う。偶然にバッタリ瞳が合う時など、春樹は身内がすくむような気持がした。日本人だろうか、西洋人だろうか、あるいは<ruby><rb>雑種児</rb><rt>あいのこ</rt></ruby>かも知れないが、いずれにしても不思議な魅力を持つ眼である。

世界的のスリの名人、それがこの中にいるというのだが、皆立派な人ばかりで、怪しげな者は一人もいない、が、春樹はどうかして探し当てようと思いながら、次ぎから次ぎへとかわって行く相手の女に、注意深い眼をそそいでいた。

十二時を打つと同時に、ドラが鳴って、食事を知らせた。デザートのフォークを置くともう音楽が始った。忙しい、と口小言を云いながらも、皆愉快そうに、ナフキンをテーブルの上に投げ捨てて、ホールへ馳せ参じた。シャンペンに元気づいて、ふらふらする足を踏みしめながら、春樹は薄墨色の女と踊っていたが、その次ぎの時には、銀髪の肥った貴婦人の手を取っていた、見るからに金持らしいこの人は、年にも似合わぬ派手なネックレースをしていた、大粒のダイヤがぶらりと胸に垂れ下って、これみよがしに光っている。

酒の酔いが手伝って、すっかり大胆になっていた彼は、夢中に踊っているふりをしながら、背中に廻していた片手で、首筋に喰い入るようにめり込んでいる細い鎖を<ruby><rb>探</rb><rt>さ</rt></ruby>ぐって環を外した、と、思ったら、するするとネックレースをポケットの中に<ruby><rb>辷</rb><rt>す</rt></ruby>べり込ませてしまった。銀髪の婦人はいい気持ちに踊っていたので、少しもそれを知らなかった。幾番か過ぎた後、フト胸のダイヤの失くなっているのに気がついて、騒ぎ出した。

急にホール内がざわめいて、困惑したような青い顔の支配人は、銀髪の婦人を別室に伴って行った。

何事だろう？　と次ぎから次へ、訊いたり答えたりして、噂は忽ち拡がった。貴婦人達は各自に云い合せたように、自分の宝石が失われてはいないかと、改めてみた。

「シャンペンに、大分酩酊していらしたから」

と一人が云った。

「どこかに、落したんじゃないでしょうか」

「いいえ。盗まれたんですのよ。あの方、米国の大金持なんですってねえ」

舞踏会はすっかり白けてしまった。

## ネックレース

ネックレースの紛失で大騒ぎをやっている頃、平松春樹は地下室のバアで愉快に酒を飲んでいた。彼は何となく嬉しくってたまらなかった。ボーイを掴まえては冗談を云ったり、酒を注いでやったりしていたが、相手がいなくなると急に淋しそうに、ぽつとして、ちびり、ちびりと飲みはじめた。すると後に軽い靴の音がして、薄墨色の女がすいと入って来た。

「ラム酒を頂戴！」と云って、どこに腰掛けようかというように、ボックスを眺めていたが、ふと彼の顔を見るとにッと笑って、いそいそと傍へやって来た。春樹は慌てて半席を譲った。

「お一人でこんな処にいらしたの？　いつホールを脱け出しておしまいになったか、私、ちっとも知らなかった。ご一緒に飲むお約束をなすったくせに、おいてきぼりするなんて、酷い方ねえ」

「くたびれちゃったから――、少し休んでまた行く積りだった。酒でも飲んで、元気をつけてね、――さア、どう？　もう一度僕と踊らない？」

女は吃驚したように、

「まあ、あなた、何もご存じないの？　もう舞踏会はお終いになっちゃったんですよ。悪い奴がいて、銀髪の奥さんのネックレースを掏ッたんだそうですわ。ホールの中は、いま、その事で大騒ぎしているの」

春樹はプッと吹き出して、

「誰がやッたんだろうな。またどこかのポケットにでも入れてありゃしないか知ら？」

「オホホホ、お妹さん、もう話しちゃッたのね、いやだわ」と女は笑いながら、大きな眼で睨んだ。彼はちょっと真面目になって、

「だが――。あの話は少し変だね。僕は妹から聞いて、直ぐ三越に電話で問い合せてみたが、ダイヤは一つも紛失して居りませんッて云ってたぜ」

「それや不思議はないわよ。三越のダイヤなんかに手をつけやしませんもの。ありゃ私が持っていた偽物ですわ。それを使ったのよ」

「用意周到だなア。しかし、偽物を返してもらったって、儲からないじゃあないか」

「あの場合は目的が別にあったから、儲けなくってもよかったんですわ」

「どんな目的？」

「あなたにお会いしたかったからよ。お妹さんに御紹介して頂こうと思ったの、そのためにあんな苦労して、狂言まで書いたんですわ」

春樹は少し<ruby><rb>擽</rb><rt>くすぐ</rt></ruby>ったかったが、それでも悪い気持はしなかった。

「今夜は君の話につられて来たんだが――、世界的のスリなんて、どれがそうだか分りゃしない。失望しちゃったよ」

「まあ！　妙な事に興味を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>ッてるのね。世界的の名人って、大抵知れてるわ。私なんかの眼から見りゃ――」と云いながら、ちょっと起ち上ったが、どうした拍子にか靴を辷べらせて、危ぶなく前へのめりかけた。彼は中腰になって、肩を支えてやった。彼女は起ち直ると顔を赤くしながら、

「これは、――私が頂きましたよ」と云ッて、彼の掌の上に、冷めたい、シャリッとしたものを載せ、「ダイヤのネックレース！」と力をこめて云った。春樹は胸がドキンとした。夢中でそれを睨んだ。薄墨色の女は誇らしげに細い鎖を撮み上げていたが、低い、小さい声でアッと叫んだ。それはネックレースには違いなかったが、ダイヤではない、ルビーと真珠を鏤めたもので、銀髪婦人のと似てもつかぬ安物であった。春樹は顔を赤らめ、それを奪い取って自分のポケットに押し込み、

「生意気な真似をしやがる、だが、これは俺のものじゃないんだ」

「じゃ、誰のものなの？」

「妹のさ。陽子の奴、俺が止せって、あれほど云うのもきかないで、こんな安物を首にぶら下げて来たもんだから、ホールの入口まで来ると恥しくなって、とってしまい、俺に預けたんだ」

彼女は失望のいろを顔に浮かべながら、苦笑いしていた。

「しかし、君もなかなか凄い腕だね」とつくづく感心したように云ったが、急に舌打ちして、

「だが――、<ruby><rb>忌々</rb><rt>いまいま</rt></ruby>しいなあ、俺は今まで人にやられた事は一度もなかったんだのに――」

「それや仕方がないわ。相手が私だもの」

「何だって？」

「世界的のスリの名人を向へ廻しちゃ、いくら平松の若様だッて、<ruby><rb>敵</rb><rt>かな</rt></ruby>いッこありゃしない」

「フム、やっぱり君だったのか。多分、そんな事ちゃないかと思っていた。しかし、観光団で豪いスリがやって来たって事は大分評判らしいぜ。余り警察を甘く見ていると取っ掴るぞ」

「大丈夫だわよ。警察で躍起となって捕えようとしていても、私はこの通り、平然と、大東京の真中を大手を振って歩き、ダンスをやって遊んでいるじゃないの。私の好きな蛇のように、捕えようとしても、するすると辷べり出て逃げっちまうんですからね。警察の網の目は私には少々大き過ぎるんですよ」

彼は気を呑まれて、ちょっと返事が出来なかった、女は急に今度は調子を変えて、

「私のような世界中を<ruby><rb>股</rb><rt>また</rt></ruby>にかけた、あばずれ者でも、生れ故郷の恋しさには変りがないんですのよ。だから、こっそりと観光団に交って来ましたのよ。今度の帰朝は商売ばかりが目的ではなく、よそながら母や妹達を見ようと思ってやって来たんです。――だって、公然と会うことが出来ないんですもの、可哀想じゃない？　父は非常に厳格な人ですから、私の姿を見たら容赦なく捕えて警察へ突出すでしょうよ。親の手を振りきって逃げる勇気はないから、最初から会うことは断念めて、遠くから、みんなの姿だけを眺めて喜んだり、悲しんだりしているんですわ」と云って、少し打ち萎れた。春樹はその話を聞いているうちに、この女が何だか可哀想になった、しかし、また考えると癪に触る、この俺の持物を掏った奴だ、と思うと憎くて堪らない、何人よりも勝れていると信じていただけに、彼は非常な屈辱をさえ感じているのであった。

「君の手腕には全く感心した。世界的の名人と云れるだけある、実際スゴイもんだ。が、俺だって、そんなに馬鹿にしたもんじゃないぞ。俺には親分もなければ、仲間もない。誰に教わったのでもないんだが――」

「それやそうでしょう。私の仲間中で、平松子爵の若様ッて云ったら、知らない者は一人もありませんからね。どの程度の腕だかは知らないけれど、相当なもんだッて事は分ってるわ。でも――、現場を見ないんだからねえ」

「じゃ、見せてやろうか」

「オホホホ。そんなに<ruby><rb>己惚</rb><rt>うぬぼ</rt></ruby>れると失敗するわよ。耻を掻かせるといけないから、今日はおあずけにして、またこの次ぎ見せて頂きましょう」

「そんなことを云うなよ。是非、一つ見てもらいたいんだ」

女の手首を掴んで、起ち上った。

## 現行犯

「まあ、手近かなところ、どこでもいい」

春樹は気が進まないらしい様子をしている女を、引立てて歩いた。

折柄ホテルの玄関は、舞踏会の客が帰るので大混雑だった。彼は興奮した顔をして、人を推し分けつつ、物色していた。

夜会服を着た一人の貴婦人が、自分の自動車を眼で探しながら、夢中になって延び上っているのを見た。春樹はその背後に近づき、ちょっと突当るや、目にも止まらぬ早さで、ダイヤのピンを抜き取り、しっかと握ったままその手を外套のポケットに突込んだ、それと同時に、彼の<ruby><rb>利腕</rb><rt>ききうで</rt></ruby>はぐいと掴まれた。ハッとして振り返ろうとする耳許に、恐ろしく底力のある太い声で、

「君の名誉を思って――、この場は穏かにしてやるが――」

いやに横柄な物云いだ。しかも声の主は薄墨色の女ではないか。春樹は狼狽した。

「神妙にしろ！」

冷めたいものが彼の背筋を走った。女はぐっと睨んで、鋭く、云い放った。

「現行犯だ！」

「エッ！」

があんと頭をひとつ、<ruby><rb>玄翁</rb><rt>げんのう</rt></ruby>で<ruby><rb>殴打</rb><rt>なぐ</rt></ruby>られたような気がした。彼はよろめきながら、女の顔を正面からじッと見据えた。

薄墨色の女は巧みな変装を解いた。

「あっ。鬼山梨！」

女装の人、それはスリ仲間で一番怖れられている、山梨刑事であった。