Soranoha

女靴下の話

おんなくつしたのはなし

西東 三鬼

人間五十年以上も生きていると、誰でも私の経験したような、奇々怪不可思議な出来事に一度や二度はあうものであろうか。恥を語らねば筋が通らない。話は私の朝帰りから始まる。

およそ朝帰りなるもの、こんないやな気持のものはない。良心の苛責といつてしまえばそれまでだが、もつと肉体的な、たとえばズボンのうしろに自分だけが尻尾をぶらさげて歩いているような、みじめな気持である。さてその朝帰りの玄関に出迎えたのが、思いきや、十年以上も会わない東京の悪友で、のつけのセリフが「おかえんなさいまし、エヘヘ」であつた。どさくさまぎれの朝酒が夕酒になる頃、初老の悪童のろけていうには、輓近二十二歳の愛人を得て昼夜兼行、多々ますます弁じているが、艶運はともかく、このホルモンは羨ましかろう等々。

さてその晩の汽車で帰る彼を大阪駅に送り、別杯さめやらぬままにウトウトしながら郊外電車で帰宅した。そしてその翌朝、外套のポケットの煙草がほしいと家人にいうと、煙草の代りに指先にぶらさげて来たのが、何と二、三度用いたナイロンの女靴下。それが膝までの短いやつで、ごていねいに両足そろつている――。

私は不覚にも狼狽した。そして電光の速さで前々夜のおぼろの記憶をたどつたが、彼女には膝までの靴下を用いる趣味はないはずだ。しかし、万一ということもあるから、おそるおそる電話でおうかがいを立てると「ご冗談でしょ」と受話器の音ガチャン。まさにやぶ蛇である。家人に何と弁解したか、これを読まれる方々のご参考に供したいが、実のところ、ぜんぜん身におぼえのないことだから知らぬ存ぜぬの一点張りであつた。

その真相は今もつて判らない。多分エロスの神の使者が女に化けて、すでに女体に触れた靴下をひそかに私のポケットにすべり込ませ、少しばかり老人を燃え立たせたのであろう。

底本 / Source edition

底本:「日本の名随筆80 艶」作品社
1989(平成元)年6月25日第1刷発行
1995(平成7)年3月30日第6刷発行
底本の親本:「西東三鬼読本(俳句臨時増刊号)」角川書店
1980(昭和55)年4月
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2012年12月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
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西東 三鬼「女靴下の話」(新字新仮名)、底本『日本の名随筆80 艶』作品社、1989年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 054458_001668, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

引用のしかた / How to cite