夏場の市はからきし不景気で、<ruby><rb>申</rb><rt>なな</rt></ruby>ツ半時分だと<ruby><rb>露天</rb><rt>みせ</rt></ruby>の<ruby><rb>日覆</rb><rt>ひおい</rt></ruby>の影もそう長くは延びていない頃だのに、<ruby><rb>衢</rb><rt>みち</rt></ruby>は人影もまばらで、熱い陽あしがはすかいに背中を<ruby><rb>焙</rb><rt>あぶ</rt></ruby>るばかりだった。村のものたちはあらかた帰った後で、ただ売れはぐれの薪売りの組がはずれの路傍にうろうろしているばかりだが、石油の一と瓶か乾魚の二三尾も買えばこと足りるこの手合を目当にいつまでも頑張っている手はなかった。しつこくたかってくる<ruby><rb>蠅</rb><rt>はえ</rt></ruby>と<ruby><rb>餓鬼</rb><rt>がき</rt></ruby>共もうるさい。いもがおで左利きの、太物の許生員は、とうとう相棒の趙先達に声をかけた。

――たたもうじゃねえかよ。

――その方が気が利いてるだ。蓬坪の市で思うようにはけたこたあ一度だってありゃしねえ。明日は大和の市じゃで、もりかえしてやるだよ。

――今夜は夜通し道中じゃ。

――月が出るぜ。

銭をじゃらじゃら鳴らせ、売上高の勘定を始めるのを見ると、許生員は<ruby><rb>𣏾</rb><rt>くい</rt></ruby>から幅ったい日覆を外し、陳列してあった品物を<ruby><rb>手繰</rb><rt>たぐ</rt></ruby>り寄せた。木綿類の畳物と<ruby><rb>綢</rb><rt>きぬ</rt></ruby>類の巻物で、ぎっしり二た<ruby><rb>行李</rb><rt>こうり</rt></ruby>に詰った。<ruby><rb>筵</rb><rt>むしろ</rt></ruby>の上には、<ruby><rb>屑物</rb><rt>くずもの</rt></ruby>が雑然と残った。

市廻りの連中は、おおかたみせをあげていた。<ruby><rb>逸疾</rb><rt>いちはや</rt></ruby>く出発して行くのもいた。塩魚売りも、<ruby><rb>冶師</rb><rt>やし</rt></ruby>も、<ruby><rb>飴屋</rb><rt>あめや</rt></ruby>も、<ruby><rb>生姜</rb><rt>しょうが</rt></ruby>売りも、姿は見えなかった。明日は珍富と大和に市が立つ。連中はそのどちらかへ、夜を徹し六七里の夜道をてくらなければならなかった。市場は祭りの跡のようにとり散らかされ、酒屋の前では喧嘩がおっ始まっていたりした。<ruby><rb>酔痴</rb><rt>よいし</rt></ruby>れている男たちの<ruby><rb>罵声</rb><rt>ばせい</rt></ruby>にまじって、女の<ruby><rb>啖呵</rb><rt>たんか</rt></ruby>が鋭く裂かれた。市日の騒々しさは、きまって女の啖呵に終るのだった。

――生員。俺に黙ってるだが、気持あ解るだよ。……忠州屋さ。

女の声で、思い出したらしく、趙先達は<ruby><rb>北叟笑</rb><rt>ほくそえ</rt></ruby>みをもらした。

――<ruby><rb>画</rb><rt>え</rt></ruby>の中の<ruby><rb>餅</rb><rt>もち</rt></ruby>さ。役場の連中を、相手じゃ、勝負にならねえ。

――そうばかりもゆくめえ。連中が血道を上げてるのも事実だが、ほら仲間のあの童伊さ、うまくやってるらしいで。

――なに、あの若僧が。小間物ででも釣っただべえ、<ruby><rb>頼母</rb><rt>たのも</rt></ruby>しい奴だと思ってただに。

――その道ばかりゃあ判んねえ。……思案しねえと、行ってみべえ。俺がおごるだよ。

すすまないのを、<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>いて行った。許生員は女にはとんと自信がなかった。いもがおをずうずうしくおしてゆくほどの勇気もなかったが、女の方からもてたためしもなく、忙しいいじけた半生だった。忠州屋のことを、思って見ただけで、いい年して子供のようにぽっとなり、足もとが乱れ、てもなくおびえ<ruby><rb>竦</rb><rt>すく</rt></ruby>んでしまう。忠州屋の門をくぐり酒の座席で本当に童伊に出会わした時にはどうしたはずみでか、かっと<ruby><rb>逆上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>せてしまった。飯台の上に<ruby><rb>赭</rb><rt>あか</rt></ruby>い童顔を載せ、いっぱし女といちゃついているところを見せつけられたから、我慢がならなかった。しゃらくせえ野郎、そのだらしねえ様は何だ、乳<ruby><rb>臭</rb><rt>くせ</rt></ruby>え小僧のくせに、宵の口から酒喰らいやがって、女とじゃれるなあ、みっともねえ、市廻りの恥<ruby><rb>曝</rb><rt>さら</rt></ruby>しだ、それでいておいらの仲間だと言えるかよ。いきなり若者の前に立ちふさがると、頭ごなしに<ruby><rb>呶鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>りつけた。大きにお世話だと云わぬばかりに、きょとんと見上げる赤い眼にぶっつかると、どうしても頬打を喰わしてやらずにはおれなかった。童伊はさすがにかっとなって立ち上ったが、許生員は構わず言いたいだけを言ってのけた。――どこの何者だかは知んねえが、貴様にもててはたまるべえ、そのはしたねえ<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>見せつけられたら何と思うかよ、商売は<ruby><rb>堅気</rb><rt>かたぎ</rt></ruby>に限る、女なんてもっての外だ、失せやがれ。さっさと失せやがれ。

しかし一言も歯向かわず<ruby><rb>悄</rb><rt>しお</rt></ruby>らしく出てゆくのをみると、いじらしくなって来た。まだ顔覚えな仲間にすぎない、まめな若者だったのに、こっぴどすぎたかなあ、と何か身につまされて気にかかった。随分勝手だわ、同じ客同志なのに、若いからって息子同様の相手をとらえて意見したり乱暴したりするほうってないわよ。忠州屋は唇を可愛くひんまげ、酒を盛る手つきも荒々しかったが、若えものにゃあその方が薬になるだよと、その場は趙先達がうまくとりつくろってくれた。お前、あいつに首ったけだな、若えのをしゃぶるなあ罪だぜ。ひとしきり<ruby><rb>敦圉</rb><rt>いきま</rt></ruby>いた後とて<ruby><rb>度胆</rb><rt>どぎも</rt></ruby>も坐ってきた上に、なぜかしらへべれけに酔ってみたい気持もあって、許生員は差される盃は大抵拒まなかった。酔が廻るにつれ、しかし女のことよりは若者のことが<ruby><rb>一途</rb><rt>いちず</rt></ruby>に気になってきた。<ruby><rb>儂風情</rb><rt>わしふぜい</rt></ruby>が女を横取りしてどうなるというのだ、愚にもつかないはしたなさを、はげしくきめつけるこころも一方にはあった。だからどれほど<ruby><rb>経</rb><rt>た</rt></ruby>ったか、童伊が息をきらしながら慌てて呼びに来た時には、飲みかけの盃を<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り、われもなくよろめきながら、忠州屋をとび出したのだった。

――生員の<ruby><rb>驢馬</rb><rt>ろば</rt></ruby>が、綱をきってあばれ出したんだ。

――餓鬼共のいたずらに違いねえ。

驢馬もさることながら、童伊の心掛けが胸にしみて来た。すたこらすたこら衢をぬけて走っていると、とろんとした眼が熱くなりそうだった。

――伝法な野郎共ときたら、全くしまつにおえねえ。

――驢馬を<ruby><rb>嫐</rb><rt>なぶ</rt></ruby>る奴あ、ただではおかねえぞ。

半生を共にしてきた驢馬だった。一つ宿に寝、同じ月を浴び、市から市をてくり廻っているうち、二十年の歳月がめっきり老を<ruby><rb>齎</rb><rt>もた</rt></ruby>らしてしまった。すりきれたくしゃくしゃの<ruby><rb>鬣</rb><rt>たてがみ</rt></ruby>は、主のそそけた髪にも似て来、しょぼしょぼ濡れている眼は、主のそれと同じくいつも<ruby><rb>目脂</rb><rt>めやに</rt></ruby>をたたえていた。<ruby><rb>箒</rb><rt>ほうき</rt></ruby>みたいに短くなった尻尾は、蠅をおっ払うため精一杯振ってももう<ruby><rb>腿</rb><rt>もも</rt></ruby>には届かなかった。次の道中にそなえるため、すり減った<ruby><rb>蹄</rb><rt>ひづめ</rt></ruby>を削り削り何度新しい鉄を<ruby><rb>嵌</rb><rt>は</rt></ruby>め換えたか知れない。だがもう蹄は延びなくなり、すり切れた鉄のすきまからは痛々しく血がにじみ出ていた。<ruby><rb>匂</rb><rt>におい</rt></ruby>で主人が判った。いつも訴えるような<ruby><rb>仰山</rb><rt>ぎょうさん</rt></ruby>な<ruby><rb>嘶</rb><rt>いなな</rt></ruby>き声で迎える。

よし、よし、と赤児でもあやす気持ちで<ruby><rb>頸筋</rb><rt>くびすじ</rt></ruby>を<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でてやると、驢馬は鼻をびくつかせながら口をもってきた。水っ<ruby><rb>洟</rb><rt>ぱな</rt></ruby>が顔に散った。許生員は馬<ruby><rb>煩悩</rb><rt>ぼんのう</rt></ruby>だった。よっぽど悪戯がきいたと見え、汗ばんだ<ruby><rb>躯</rb><rt>からだ</rt></ruby>がびくびく<ruby><rb>痙攣</rb><rt>ひきつ</rt></ruby>りなかなか昂奮のおさまらぬ面持だった。<ruby><rb>馬勒</rb><rt>くつわ</rt></ruby>がとれ、<ruby><rb>鞍</rb><rt>くら</rt></ruby>もどこかへ落ちてしまっている。やい、しょうちのならねえ餓鬼共、と許生員は<ruby><rb>我鳴</rb><rt>がな</rt></ruby>り立ててもみたが、連中はおおかた散り失せたあとで、数少くとり残されたのが権幕に<ruby><rb>気圧</rb><rt>けお</rt></ruby>されあたりから遠のいているだけだった。

――いたずらじゃねえ。<ruby><rb>雌</rb><rt>めす</rt></ruby>を見て、ひとりで暴れ出したんだ。

<ruby><rb>洟</rb><rt>はな</rt></ruby>っ<ruby><rb>垂</rb><rt>たれ</rt></ruby>の一人が、不服そうに遠くから呶鳴り返してきた。

――なにこきやがる、黙れ。

――ちがう、ちがうだよ。あばたの許哥め。金僉知の驢馬が行っちまうと、土を蹴ったり、泡をふいたり、気違いみてえに狂い出したんだ。おいら面白がって見ていただけだい。お腹の下をのぞいてみい。

小僧はませた口吻で、<ruby><rb>躍気</rb><rt>やっき</rt></ruby>になってわめきながら、きゃっきゃっ笑い崩れた。許生員は我知らず、<ruby><rb>忸怩</rb><rt>じくじ</rt></ruby>と顔を<ruby><rb>赧</rb><rt>あか</rt></ruby>らめた。あけすけな無遠慮な部分は、まだ踊り狂っている残忍な視線からかばい<ruby><rb>匿</rb><rt>かく</rt></ruby>すように、許生員はその前に立ちはだからねばならなかった。

――おいぼれのくせに、いろ気違いだよ、あのけだものめ、

許生員は、はっとなったが、とうとう我慢がならず、みるみる眉をひきつらすと、<ruby><rb>鞭</rb><rt>むち</rt></ruby>をふりあげ<ruby><rb>遮二無二</rb><rt>しゃにむに</rt></ruby>小僧をおっかけた。

――追っかけてみるがええ。左利きが殴れるかい。

<ruby><rb>韋駄天</rb><rt>いだてん</rt></ruby>に走り去る小僧っ子には、おいつきようもなかった。左利きは全く子供にも<ruby><rb>叶</rb><rt>かな</rt></ruby>わない。許生員は破れかぶれに鞭を抛ってしまうより外なかった。酔も手伝ってからだが無性に<ruby><rb>火照</rb><rt>ほて</rt></ruby>り出した。

――ええ加減出発した方がましだよ。奴等を相手じゃきりがねえ。市場の餓鬼共ときたら怖ろしいやつらばかりで、大人よりもませてやがるだでな。

趙先達と童伊は、めいめいの驢馬に鞍をかけ、荷物を載せはじめていた。陽も大分傾いたようだった。

太物の行商を始めてから二十年にもなるが、許生員は滅多に蓬坪の市を<ruby><rb>逸</rb><rt>そ</rt></ruby>らしたことはなかった。忠州や堤川あたりの隣郡をうろついたり、遠く嶺南地方にのびたりすることもあるにはあったが、江陵あたりへ仕入れに出掛ける外は、始終一貫郡内を廻り歩いた。五日<ruby><rb>毎</rb><rt>ごと</rt></ruby>の市の日には月よりも正確に面から面へ渡って来る。郷里が清州だと、誇らしげに言い言いしてはいたが、そこへおちついたためしはない。面から面への美しい山河が、そのまま彼にはなつこい郷里でもあった。小半日もてくって市場のある村にほぼ近づき、ほっとした驢馬が一と声景気よく嘶く時には――殊にそれが晩方で、村の灯がうす闇の中にちらちらでもする頃合だと、いつものことながら許生員はきまって胸を躍らせた。

若い時分には、あくせく稼いで一と身代<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えたこともあったが、邑内に品評会のあった年<ruby><rb>大尽</rb><rt>だいじん</rt></ruby>遊びをしたり<ruby><rb>博打</rb><rt>ばくち</rt></ruby>をうったりして、三日三晩ですっからかんになってしまった。驢馬まで売りとばすところだったが、なついて来るいじらしさにそれだけは歯を喰いしばって思い止った。結局元の<ruby><rb>木阿弥</rb><rt>もくあみ</rt></ruby>のまま行商をやり直す外はなかった。驢馬をつれて邑内を逃げ出した時には、お前を売りとばさんでよかった、と道々男泣きに泣きながら、伴侶の背中を<ruby><rb>敲</rb><rt>たた</rt></ruby>いたものだった。借金が出来たりすると、もう身代を拵えようなんてことは思いもよらず、いつも一杯一杯で、市から市へ追いやられるばかりだった。

大尽遊びとはいえ、女一匹ものにしたことはない。そっけないつれなさに、わが身の情なさをしみじみ悟らされるばかりで、このからだじゃ生涯縁がないものと、観念しなければならなかった。近しい身内のものとては、前にも後にも一匹の驢馬があるきりだった。

それにしても、たった一つの最初の<ruby><rb>想出</rb><rt>おもいで</rt></ruby>があった。あとにもさきにもない、一度きりの、<ruby><rb>奇</rb><rt>く</rt></ruby>しき縁ではあった。蓬坪に通い出して間もない、うら若い時分のことだったが、それを思い出す時ばかりは、彼も、生甲斐を感じた。

――月夜だっただが、どうしてそねえなことになったか、今考えてもどだい解りゃしねえ。

許生員は<ruby><rb>今宵</rb><rt>こよい</rt></ruby>もまたそれをほぐし出そうとするのである。趙先達は相棒になって以来、耳に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たこ</span>の出来るほど聞かされている。またか、またかとこぼすけれども、許生員はてんでとりあわずに繰返すだけは繰返した。

――月の晩にゃ、そういう話に限るだよ。

さすがに趙先達の方を振り返ってはみたが、気の毒がってではない、月のよさに、しみじみ感動してであった。

<ruby><rb>虧</rb><rt>か</rt></ruby>けてはいたが、十五夜を過ぎたばかりの月は柔和な光をふんだんにふり<ruby><rb>濺</rb><rt>そそ</rt></ruby>いでいた。大和までは七里の道のりで、二つの峠を越え一つの川を<ruby><rb>渉</rb><rt>わた</rt></ruby>り、後は原っぱや山路を通らなければならなかったが、道は丁度長いなだらかな山腹にかかっていた。真夜中をすぎた頃おいらしく、<ruby><rb>静謐</rb><rt>しず</rt></ruby>けさのさなかで生きもののような月の息づかいが手にとるように聞え、大豆や<ruby><rb>玉蜀黍</rb><rt>とうもろこし</rt></ruby>の葉っぱが、ひときわ青く透かされた。山腹は一面<ruby><rb>蕎麦</rb><rt>そば</rt></ruby>の畑で、咲きはじめたばかりの白い花が、塩をふりかけたように月に<ruby><rb>噎</rb><rt>む</rt></ruby>せた。赤い茎の層が初々しく匂い、驢馬の足どりも軽い。狭い<ruby><rb>路</rb><rt>みち</rt></ruby>は一人のほか通さないので、三人は驢馬に乗り、一列に歩いた。鈴の音が<ruby><rb>颯爽</rb><rt>さっそう</rt></ruby>と蕎麦畑の方へ流れてゆく。先頭の許生員の話声は、<ruby><rb>殿</rb><rt>しんがり</rt></ruby>の童伊にはっきりと聞きとれなかったが、彼は彼自身で爽やかな気持に浸ることも出来た。

――市のあった、丁度こねえな晩だったが、宿の土間はむさ苦しゅうてなかなか寝つかれも出来ねえ、とうとう夜中に一人でぬけて川へ水を浴びに行っただ。蓬坪は今もその時分も変りはねえがどこもかしこも蕎麦の畑で、川べりは一面の白い花さ。川原の上で結構<ruby><rb>宜</rb><rt>よ</rt></ruby>かっただに、月が明るすぎるだで着物を脱ぎに水車小屋へ<ruby><rb>這入</rb><rt>はい</rt></ruby>ったさ。ふしぎなこともあればあるものじゃが、そこで図らずも成書房の娘に出会しただよ。村いっとうの<ruby><rb>縹緻</rb><rt>きりょう</rt></ruby>よしで、評判の娘だっただ。

――運てやつだべ。

そうには違いねえ、と<ruby><rb>相槌</rb><rt>あいづち</rt></ruby>に応じながら、話の先を惜しむかのように、しばらく<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>を吸い続けた。紫の煙が香ばしく夜気に溶け込んだ。

――儂を待ってたわけじゃねえが、外に待つ人があったわけでもねえ。娘は泣いてるだよ。うすうす気はついていただが、成書房はその時分くらしがえろうてほどほど弱ってるらしかっただ。一家のことだで娘にだって屈託のねえはずはねえ。ええとこがあればお嫁にもゆかすのだが、お嫁はてんでいやだときてる、……だが泣いてる女って格別きれいなものじゃ。はじめは驚きもした風だったが、滅入っている時にゃ気持もほぐれ易いもので、じき知合のように話し合っただ。……<ruby><rb>愉</rb><rt>たの</rt></ruby>しい<ruby><rb>怖</rb><rt>こわ</rt></ruby>え夜じゃった。

――堤川とかへずらかったなあ。あくる日だっただな。

――次の市日に行った時にゃ、もう一家はどろんを<ruby><rb>極</rb><rt>き</rt></ruby>めていなくなっただよ。まちは大変な<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>で、きっと酒屋へ売られるにきまってると、娘は皆から惜しまれてただ。幾度も堤川の市場をうろついてはみただが、女の姿はさらに見当らねえ、縁の結ばれた夜が、縁の切れ目だっただ。それからというもの蓬坪が好きんなって、半生の間通い続けさ。一生忘れっこはねえ。

――果報者だよ。そねえにうめえ話って、ざらにあるものじゃねえ。大抵つまらねえ女と否応なし一緒んなって、餓鬼共ふやして、考えただけでうんざりする。……だがいつまでも市廻りでくらすのも<ruby><rb>豪</rb><rt>えろ</rt></ruby>うてな、俺あこの秋までで一<ruby><rb>先</rb><rt>ま</rt></ruby>ずきりあげ、どこかへ落着こうかと思うだよ。家のもの共呼び寄せ、小さな店をもつだ。道中はもうこりごりだでな。

――昔の女でも見付け出しゃ、一緒にもなろうが。……儂あ、へたばるまで、この道てくってこの月眺めるだよ。

山腹を過ぎ、道も<ruby><rb>展</rb><rt>ひら</rt></ruby>けて来たので、<ruby><rb>殿</rb><rt>しんがり</rt></ruby>の童伊も前へ寄って出た。驢馬は横に一列をつくった。

――お前も若えじゃで、うまうやりおるべえ。忠州屋ではついのぼせてあねえなしまつになっただが、悪う思わんどくれよ。

――ど、どうして、かえって有りがてえと思っとるくらいだ。女なんて柄にもねえ、おふくろのことで今一杯なんだ。

許生員の物語でつい考え込んでいた矢先だったので、童伊の口調はいつになく沈んでいた。

――てては、と云われて、胸を裂かれる思いだったが、俺にはそのてておやがねえんだよ。身内のものとては、おふくろ一人っきりだ。

――亡くなっただか。

――始めからねえんだ。

――そねえな<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>な。

二人の<ruby><rb>聴手</rb><rt>ききて</rt></ruby>がからからと仰山に笑うと、童伊はくそ真面目に抗弁しなければならなかった。

――恥かしゅうて云うめえと思ったが、本当なんだ。堤川の田舎で月足らずのててなし児を産みおとすと、おふくろは家を追い出されてしまったんだ、妙な話だが、だから今までてておやの顔を見たこともなければ、居処さえも知らずにいる。

峠の麓へさしかかったので、三人は驢馬を下りた。峠は<ruby><rb>嶮</rb><rt>けわ</rt></ruby>しく、口を開くのも<ruby><rb>臆劫</rb><rt>おっくう</rt></ruby>で、話も途切れた。驢馬はすべりがちで、許生員は<ruby><rb>喘</rb><rt>あえ</rt></ruby>ぎ喘ぎ幾度も脚を<ruby><rb>歇</rb><rt>と</rt></ruby>めなければならなかった。そこを越える毎に、はっきりと<ruby><rb>老</rb><rt>おい</rt></ruby>が感じられた。童伊のような若者が無性に羨しかった。汗が背中をべっとり濡らした。

峠を越すとすぐ川だったが、夏の大水で<ruby><rb>流失</rb><rt>なが</rt></ruby>された板橋の跡がまだそのままになっているので、裸で渉らなければならなかった。<ruby><rb>下衣</rb><rt>こい</rt></ruby>を脱ぐと帯で背中に<ruby><rb>括</rb><rt>くく</rt></ruby>りつけ、半裸の妙な風体で水の中に跳び込んだ。汗を流したやさきではあったが、夜の水は骨を刺した。

――で全体、誰に育てて貰ったんだよ。

――おふくろは仕方なく義父のところへやられて、酒屋を始めたんだ。のんだくれで、ええ義父ではなかった。ものごころがついてからというもの、俺は殴られ通しだった。おふくろも飛ばっちりを喰って、蹴られたり、きられたり、半殺しにされたり、さ。十八の時家をとび出してからというもの、ずっとこの稼業の仲間入りだよ。

――道理でしっかりしてるたあ思っただが、聞いてみりゃ気の毒な身の上じゃな。

流れは深く、腰のところまでつかった。底流も案外に強く、足裏にふれる石ころはすべすべして、今にもさらわれそうだった。驢馬や趙先達は早くも中流を渡りきり岸に近づいていたが、童伊は危っかしい許生員を<ruby><rb>劬</rb><rt>いた</rt></ruby>わりがちで、ついおくれなければならなかった。

――おふくろの里は、もとから堤川だったべえか。

――それが違うだよ。何もかもはっきり言ってくれねえから判んねえが、蓬坪とだけは聞いている。

――蓬坪。で、その生みのてておやは、何ていう苗字だよ。

――不覚にも、聞いておらねえ。

そ、そうか、とそそかしく<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>きながら眼をしょぼしょぼさせているうち、許生員は<ruby><rb>粗忽</rb><rt>そこつ</rt></ruby>にも足を滑らしてしまった。前につんのめったと思う間に、体ごとさらわれてしまった。<ruby><rb>踠</rb><rt>もが</rt></ruby>くだけ無駄で、童伊がいけねえっと近よってきた時には、早くも数間流されていた。着物ごとぬれると、犬ころよりもみじめだった。童伊は水の中で<ruby><rb>易々</rb><rt>やすやす</rt></ruby>と大人をおぶることが出来た。びしょ濡れとはいえ、<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せぎすの体は背中に軽かった。

――こねえにまでして貰ってすまねえ。儂今日はどうかしてるだよ。

――なに、しっかりなせえ。大丈夫だい。

――で、おふくろというなあ、父を探してはおらねえかよ、

――生涯一度会いたいとは云ってるだが。

――いま何処にいる。

――義父とももう別れて、堤川にいるんだが、秋までに蓬坪へ連れてきてやろうと思うんだ。なに、まめに働けば何とかやってける。

――殊勝な心掛けだ。秋までにね。

童伊のたのもしい背中を、骨にしみて温く感じた。川を渡りきった時にはものさびしく、もっとおぶって貰いたい気もした。

――<ruby><rb>一</rb><rt>いち</rt></ruby>んちどじばかり踏んで、どうしただよ。生員。

趙先達はとうとう笑いこけてしまった。

――なに、驢馬さ。あいつのこと考えてるうち、うっかり足を<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>らしちゃっただ。話さなかっただが、あいつあれでも<ruby><rb>仔馬</rb><rt>こうま</rt></ruby>産ませやがってな。邑内の江陵屋んとこの雌馬にさ。いつも耳きょとんと<ruby><rb>欹</rb><rt>そばだ</rt></ruby>て、すたこらすたこら駈け歩いて、可愛い奴だ。儂あそいつ見たさに、わざわざ邑内へ廻ることがあるだよ。

――なるほど大した仔馬だ。人間を溺れさすほどの代物なら。

許生員はいい加減しぼって着始めた。歯ががたがた鳴り、胸が震え、無性に寒かったが、心は何となくうきうきとうわつき、軽かった。

――宿のあるところまで急ぐだ、庭に<ruby><rb>焚火</rb><rt>たきび</rt></ruby>して、一服しながらあたるだよ。驢馬にゃ熱い<ruby><rb>秣</rb><rt>まぐさ</rt></ruby>をたらふく喰わしてやる。明日の大和の市がすんだら、堤川行きだでな。

――生員も堤川へ。

――久方振りで行きとうなった。お伴すべえよ、童伊。

驢馬が歩き出すと、童伊の鞭は左手にあった。長い間迂闊であった許生員も、今度ばかりは童伊の左利きを見落すわけにはゆかなかった。

足なみも軽く、鈴がひときわ爽かに鳴り響いた。

月が傾いていた。