Soranoha

噴水のほとりで――

ふんすいのほとりで

堀 辰雄

私達は水族館を出ると、観音堂の裏をすこしばかり歩いた。大きな樹があつた。噴水があつた。鳩が不器用に飛んでゐた。五月の夕暮だつた。

「乞食つて、君、……」

突然、あちらこちらのベンチの上に落葉のやうにころがつてゐる乞食の群を見ると、私の友人が私に言つた。

「……とてもハイカラぢやないか。あの乞食を見たまへ。巴里でも、ベルリンでも、すこしもこれと異はないぜ。」

東京にだつて近頃はこんなに面白いものがあるんだぞ、是非見てみたまへ、とむりやりに洋行帰りの友人を連れてきた、水族館のカジノ・フォリイも、ただ彼を苦笑させただけだつた。なんて気むづかしいんだらうと、私はさういう彼にすこし反感をさへ感じた位だつたが、その彼が公園に巣喰つてゐる乞食達を一目見ると、彼等がすつかり気に入つてしまつたのである。

「あれは、君、銀座なんかのハイカラ紳士よりずつとハイカラだぞ」と彼は付加へた。

それは友人の単なる冗談ではなささうだつた。そこで私はいまさらのやうにその乞食達を見つめた。なるほど彼等をよく見てゐるとそこに一種のへんな美しさが漂つてゐるやうに思はれる。汚なさがその極度に達して、一種の変態的な美しさに転化してしまつてゐるのだらうか。黒光りのしてゐる顔。トカゲでも這つてゐさうなモジヤモジヤした毛髪。――そして彼等は一人一人、一個のベンチを占領して、多くはその上にあふむけになつて、まるで死んだやうに眠つてゐた。中には、何かの木の枝でこしらへた義足を虚空に突き立ててゐるものさへあつた。それから思はず眼をそらさうとするのを我慢して、ぢつと見つめてゐると、はじめてその美しさが分つてくるのだ。

「なかなかいいね。……何か傑作といふ感じがしないか?」

「うん、たしかに傑作だよ」

「あのピカソの絵のやうなものだな」

私達は、噴水のまはりの、一つのベンチの上に腰を下した。私達の前には、その上に、他のベンチの上にのやうに、乞食の一人が眠つてゐたかも知れないのだが、そんなことを気にするには、私達はあまりに乞食らに対して親愛の情を持ちすぎてゐた。

それらの眠つてゐる乞食らの上には、鳩が飛んでゐた。鳩の羽音といふものは、実にいいものである。それは非常に重々しくて、それに耳を傾けてゐると、むしろ神々しくさへなつてくる。それにしても、鳩はなんと不器用にしか飛べないのだらう。

「鳩のやうになら誰にでも飛べさうだな」私はひとりごとを言ふ。

それから私は、まだ鳩よりも乞食の方に心を奪はれてゐるらしい私の友人に、私のよく見る一人の乞食について語り出した。その乞食はいつも仁王門の下に坐つてゐた。そして彼はかならず、ほんたうの娘なのであらう、七つ位の、乞食の子にしては綺麗な顔をしそしていつも垢のつかない着物をきてゐる、女の子を連れてゐた。乞食の子にしてはあんまり綺麗にしてゐるので、私はその女の子をよく覚えてゐた。すると私の友人は「それは乞食の中の凡作ぢやないか」といつて私を揶揄した。

ところが、四五日前のことである。朝早く、――それは六時頃だつた――、私がこの噴水のそばを通りかかつたとき、私は実に思ひがけない光景を目撃したのであつた。といふのは、その乞食が、大きな噴水盤のへりに、素裸かにした痩せた女の子を立たせて、その噴水の水でもつてその身体を丁寧に洗つてやつてゐたのである。……

「ほう、この噴水の水でね」

友人は、やや感動したやうに、多くの木の葉を浮べてゐる、大きな噴水盤を、眺めた。

底本 / Source edition

底本:「日本の名随筆33 水」作品社
1985(昭和60)年7月25日第1刷発行
底本の親本:「堀辰雄全集 第四巻」筑摩書房
1978(昭和53)年1月
入力:川山隆
校正:染川隆俊
2012年9月30日作成
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書誌 / Bibliography
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堀 辰雄「噴水のほとりで――」(新字旧仮名)、底本『日本の名随筆33 水』作品社、1985年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 053882_001030, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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