Soranoha

俗臭

ぞくしゅう

織田 作之助

一

最近児子にご政江はパアマネントウェーヴをかけた。目下流行の前髪をピンカールしたあれである。明治三十年生れの、従ってことし四十三歳の政江はそのため一層醜くなった。つまりは、なか〱に暴挙であった。

かつて彼女は隆鼻手術をうけたことがある。日本人ばなれする程鼻は高くなったが、眼が釣り上って、容色を増した感が少しも起らなかった許りか、鏡にうつしてみて、まるで自分でもとっつき難い顔になった。三月経って漸くその顔に馴染んで来た頃、鼻の上の蝋がとけ出した。その夏大変憂鬱な想いで暮さねばならなかった。手術料は五百円だったということだ。

僅に、卵巣切開手術や隆鼻手術のような高級な医術に自発的に参加するのには、余程の医学的知識と勇気、英断を要するものだという持論が彼女を慰めた。政江の周囲には予防注射をすら怖れるような見〔みっ〕ともない人間ばかりが集っている。この事実がいつも政江を必要以上に勇気づけるのだった。無智無学の徒を尻眼に、いわばこの女ひとは尖端を切るのである。総て斯様なことは、政江が若い頃、詳しくいえば十八歳から二十一歳までの足掛け四年間、京都医大附属病院で助産婦見習兼看護婦をしていたことゝ関係がある。

看護婦時代、醜聞があった。恋愛という程のものではない。相手は学校出たての若い副手達である。教養ある大学出の青年だから、尊敬の心もあった。いい寄られて抵抗しなかった。いつものことだった。好奇心に富んでいたからである。青年達は、宮川町などの遊廓で遊ぶ金がかなり節約出来た筈だ。それどころか、それよりも得るところがあった位である。一人二人に止まらなかったから、もし美貌だったら、病院内で多少の刃傷沙汰が起ったかも知れぬ。騒がれたという点で、その頃のことは甘い想出となって未だに彼女の胸に残っている。このことが、政江の医学的なものへの憧れの一つの原因といってもよい。

先年、四人の娘を産んで、五人目に跡取りの男子を出産したのを機会に、避妊のため、卵巣切開手術をうけるべく、政江はわざ〱京都医大に入院した。が、知り合いの医員は一人も居らず、たった一人、頭の禿に見覚えのある守衛がいた。彼は五円紙幣を無雑作に恵まれて驚き、「あんたはん。えらい出世おしやしたどすな」といった。それで、辛うじて期待が報いられた。あれから二十年経っているのだという感傷よりも、その歳月がもとの助産婦見習を百万長者の奥さんにしてしまったという想いの方が、政江には強かったのだ。知り合いがいなければ、誰がこの事実に驚いてくれるだろうか。

卵巣切開によりほのかに残っている色気を殆んど無くしてしまったが、もと〱彼女は百万長者の御寮さんという肩書の為に幾分損をしているところもある。が、このたびのパアマネントウェーブは彼女の醜貌を決定的にしてしまったと周囲の人々は口喧しく騒いだ。

「娘ももう年頃になったことやさかい、私わたしも今までとは交際〔つきあ〕いが違ちがて来まっしゃろ。今まで通り旧弊な髪結うてたら娘の嫁入り先に阿呆にされまんがな。今日日きょうびはパアマネントオーの一つ位掛けんことには、良家えゝとこの人と交際も出来でけまへんさかいナ。それに、何でんがナ。一ぺん掛けといたら半年は持つゆうことやし、私わたしも髪さんで髪結うより安うつく、こない思いましてナ」

と政江はいいふらした。今まで「私わて」「私わて」と云っていた彼女が、この時打って変った様に「私わたし」と上品な云い方を用い出したことは、人々、就中、政江の義妹たちの注目をひいた。この変化は何に原因するのかと考えた揚句、かすかに思い当る節があった。

東京の崎山某という紳士がちかごろ頻繁に東京大阪間を往復して児子にご家に出入している。最初崎山は代議士であると誤解されていた。が、違うらしいのだ。どうやら、立候補すらしたこともないというのが本当らしいのである。が兎に角、彼はまるで口笛を吹くような調子で議会政治を論じ、序でに国策の機微にも触れ、いってみれば一角ひとかどの政客の風格を身辺に漂わしていた。不思議に、ついぞ名刺というものを出したことがない。このことを一番不満に思ったのは政江の義弟の伝三郎だ。何かにつけて有名無名の士の名刺を頂戴することを商売の秘訣と心得ているのである。かつて崎山と一座した時、伝三郎は例によって、名刺をねだった。

「名刺一つおくなはれな」

「あはゝゝゝゝ」とその時崎山は大声で笑って、「名刺は持ち合わさんので……」とタバコの空箱の裏に住所氏名を書いて与えた。赤坂区青山町とあるのを見て、伝三郎は、

「あんさん、えらい粋な所とこに住んだはりまんナ。こゝ、これを囲うたアる家と違いまんのか」と小指を出したということだ。赤坂という地名から専ら色町を想像したのであろう。崎山は、その小指を悠然と見下ろし、葉巻をスパ〱吸うていた。崎山が煙にむせて少し眉をひそめたのを見て、政江は眉をひそめた。内心義弟の口軽さをとがめたのだ。が、政江もかつて崎山に、

「あんさんらは、何でんナ、青切符が無料たゞでおますよって、旅する云うても結構でおますナ」と言ったことがある。代議士でないとすれば崎山といえど汽車の切符が無料である筈はない故、政江の云い方は随分早まったことになる。その時崎山某は、

「いやあ、之は恐縮ですなあ」と苦笑したということだ。確なことを面と向って訊くのも妙な工合だという遠慮から、崎山の身分に就は総て曖昧のまゝだった。どうでも良かったからである。「東京の人は金も無い癖にえらい威張ったはる」という印象で簡単に片がつくのだ。重要なのは崎山の持って来た話だけだ。――政江の長女千満ちま子の縁談であろうと人々はにらんだ。その通りだった。政江は極秘にしていたが、人々には、今度の縁談の相手が、某伯爵家の次男で、東京帝大出、高文もパスし、現在内務省計画課の官吏であると、すっかり調べあがっていた。この縁談が成立すれば政江は伯爵家の何かに当る訳だ。「私あて」が「私わたし」に変り、耳隠しがパアマネントウェーブに成るのも満更不思議ではない――と人々は思い当ったのである。

それにしても不思議なのは、政江が誰にもこの話を云い触らさず、伯爵のハの字もいわなかったことだ。一年前今程良い話といえなかったが、それでも政江の虚栄心を満足さすに足る縁談があった。大阪商工会議員の長男といえば、少くとも大阪で一流だ、とその時政江はすっかり逆上してしまったのだ。それだけに、このたびの彼女の慎重さは注目に価するものがある。あるいは、余りの話の良さに、あらかじめ破談を怖れてのことかと想像された。この前の縁談が破談になった時、誰彼にもいい触らしていたゞけに、随分面目ない想いをした筈なのだ。苦い経験が彼女を慎重にしたのだろう。――それに違いは無かった。が、さすがの彼女も一人位は聴き役が必要であった。女中のお春がさしずめこの役にあずかった。よって、総てはお春の口からもれたのだ。お春の話を聞いた時、人々は即座に、某伯爵家はいわゆる貧乏華族で、千満子の持参金は五万円乃至十万円だと、決めてしまった。また、この縁談は成立しないだろうと、簡単に予言した。前のはなしの破談になった原因が原因だからというのである。その当座、いろ〱と臆測されたが、就中政江の義弟たちは、政江がもと助産婦をしていたことが忌避されたのだと取沙汰した。その妻たち、即ち、政江の義妹たちは之をきいて非常に喜んだ。夫婦相和した訳だ。義妹たちには、しかし、もう一つの言い分があった。商工会議員の長男なら、千満子の容貌では不足だったろうというのだ。しかし千満子は鼻と背が幾分低いという点を除けば、むしろ美人の方だから、彼女等の言い分は不当であろう。彼女等の夫はそれ〲、姪の容貌に就ては大いに弁護するところがあった。

政江は、義弟の一人である千恵造の行状を破談の原因だと思い、自ら信じて疑わなかった。

児子権右衛門を頭に、順に市治郎、まつ枝、伝三郎、千恵造、三亀雄、たみ子の七人きょうだいの中で、千恵造は児子一家の面汚しとされている。穀つぶしの意久地なしというのが定評だ。大変気が弱いということは記憶に止めて置く必要がある。元来彼等きょうだいの出生地、和歌山県有田郡湯浅村(現在湯浅町)は気性の荒いので近村に知られた漁村である。大袈裟にいって、喧嘩と博奕の行われない日はないといった風で、千恵造の様な気の弱い「ぐうたら者」は全く異色なのだ。代々魚問屋で相当な物持ちだったが、父親の代に没落した。原因は博奕と女であった。父親が死んで後に残ったのは、若干の借金と、各々腹ちがいの、二十八が頭、十七歳が末の七人のきょうだいである。一家分散し、彼等は大阪に出て思い〱の自活の道を求めた。権右衛門は沖仲士、市治郎は馬力挽き、伝三郎は寿司屋の出前持、千恵造は代用教員、三亀雄は高利貸の手代、まつ枝、たみ子は女中奉公、いってみればそれ〲に苦難の道だった。大正元年のことだ。翌年まつ枝は好いた男と結婚したが、きょうだいは散り〱ばら〲で、誰一人婚礼の席に呼べなかった。五年後のたみ子の場合も同様であった。が、大正十年、初めて彼等は天王寺区上本町八丁目の権右衛門の家で顔を合わせた。偶然ではない。権右衛門は既に一かどの銅鉄取引商人に出世していたのである。やがて市治郎、伝三郎、三亀雄たちも、兄のお蔭で立派な銅鉄商人となった。が、千恵造はいつまでも権右衛門の家にごろ〱し、帳場に使われていた。他の兄弟の様な、生馬の眼をぬく商魂がなかったのだ。その代り、代用教員をやれるだけあって筆が立った。伝三郎にいわせると、「字のよう書くもんに碌な奴はない」

娶めとったが故あって離婚した。妻の実家が権右衛門と取引して七千円の損害をかけ、権右衛門との間に訴訟が起ったのが原因である。色白の、眼の図抜けて大きな可憐な女だった。しかも東京生れの、言葉使いの歯切れよい、分に過ぎた女房であったが、千恵造は兄の命ずるまゝに従った。破産した実家へ妻を帰らすに就て、彼は全く意久地なく振舞った。暫く経ち、商用で名古屋へ行った時、中村遊廓で、妻の妹に出会った。下ッ端だったが、彼女は蒲田の女優だったのだ。二三度、女中の役で出ているのを見に妻と一緒に常設館に行ったのも、ついこの間の事だ。女郎になっている義妹と床を同じくして一夜を明かした時千恵造が発揮した人間味に就ては記述をさける。大阪に帰ると、彼は道頓堀や千日前のカフェーを飲み歩いた。肺が悪く、一度三合許りの血を吐いたが、翌日もカフェー遊びはかゝさなかった。酔えば女給を相手に何ごとかをぼそ〱と愚痴るのだ。毎夜必ずビールを五六本、酒を五六合、チャンポンにのんだ。それ位のんでも大きな声で物もいえぬ程気が優しく、働く女への想いやりもあるようで、あまり好男子いゝおとこではなかったがあちこちでもてた。千日前楽天地(現在歌舞伎座)横町のカフェー喜楽の年増女給とねんごろになり、宝塚旧温泉で関係を結んだ。春美といって二十六歳、かつて某浪花節寄席の持主の妾をしていたことがあり、旦那は南五花街の遊廓で誰知らぬ者のない稀にみる漁色家で、常に春画春本淫具の類を懐中にしている男であると、女は何を思い出したのか何もかも千恵造に打ちあけた。千恵造は唸った。場所が場所だったのだ。たった今先、女は彼に三十六歳で始めて女の身体を知ったかの様な感銘を与えたのである。それに彼女はどちらかといえば、無邪気なところがあるだけにこの打ち明話は単なる閨房の話術を通りこして、千恵造の心に痛くこたえた。彼は便所に立ち、平気や〱と呟いた。窓から武庫川の河原が見えた。五月の午後の太陽が輝いていた。この時の千恵造の心理状態は描写に価するものがあるが、こゝではその煩を避ける。直視しがたい様な自分の奇妙な表情を洗面所の鏡にちらりと見て、千恵造は部屋に戻った。彼の顔は苦痛と情慾のために歪んでいた。その後たび〱逢引を重ねた揚句、元来心根の優しい春美は、千恵造の情にほだされて、打ちあけるべき最後のものを打ちあけた。彼女は、詳述をはゞかるが、世人の忌み嫌うある種族の一人であったのだ。「私が嫌いにならはったやろ」といって顔すり寄せる女の魅力に抵抗する力は千恵造にはない。何となく悲しい彼はその時自身の不幸を誇張して述べた。虫の鳴き声、青電灯の生駒山の連込宿で、二人はお互いに慰め合ったのである。いってみれば恋愛の条件は揃った。概ね打明け話は恋愛の陰影いろあいを濃くするという例に二人の場合ももれなかったのだ。二人は結婚した。

政江とその夫権右衛門の許可を得ることは仲々むつかしかった。危く結婚し損うところであった。伝三郎が「好いた同志やないか」と助け船を出した揚句、結局このまえ無理に離婚させたことの償いとして許された。割に盛大な婚礼が行われたが、その夜、千恵造は何故かむしろ浮かぬ顔をしていた。宝塚旧温泉できいた女の打ち明話に今更悩んでいたのであろうか。

がともあれ、婚礼の夜の春美こと児子賀来子かくこの著しく化粧栄えのした容貌は、人々を瞠目させ、千恵造は羨望された。伝三郎の言を借りると、千恵造は、「後々あとへ別嬪な女子おなごをもらって、勝負した(うまくやったという意)」のだ。が、「勝負した」実感が起って来るためには、彼は少くとも俺は勝負したのだと自分にいいきかす必要があった。婚礼の費用はざっと千五百円掛った。

児子家の権式を見せるために少くとも八百円余分の金が費されたのだ。が、そんなに金を掛ける必要は更々になかったと、あとになって人々就中政江は思った。

婚礼の夜から一月〔ひとつき〕ほど経ったある日、政江は新家庭を訪問した。玄関に出た賀来子の顔を見るなり、「実は賀来子さん、あんたに正直に答えてほしいことがおますねん。女の一生のことですよって、嘘いわんといとくれやすや。あんたの血統のことで一寸人からきいたことがおますねん。あんたのお父さんは――」

終いまでいわさず、賀来子は、

「そうです。そうです」と叫んだ。捨鉢な調子であったから、政江は何かぎょっとした。稍震えた。

「矢っ張りそうでっか。それに違いおまへんな。ほんまにそうでんな。そうでっか。考えさしてもらいまっせ。主人と相談さしてもらいまっせ」

政江は興奮の余り、便通を催した。彼女は急いで帰宅した。その夜権右衛門は政江の口を通し千恵造に賀来子を離縁せよと申しつけた。千恵造ははなはだ煮え切らぬ態度を示した。それでも男かと極言された。が、翌日千恵造は男である所以を示した。千恵造と賀来子は駆落した。伝三郎がそれと知って梅田の駅へかけつけ、餞別に三十円の金を与えた。そのことが知れて、彼は権右衛門から出入を禁止された。

これは伝三郎には相当な打撃だった。もとの寿司屋の出前持ちから今では相当な銅鉄取引商人にはなっているものゝ、彼は酉年生れの派手な性質で金で面を張るのが面白いまゝに浪費が多く、纏った正金がなかったので、一万二万という大きな買ものにはどうしても兄の資本に頼る必要があったからだ。だから、出入禁止をされた彼は屡々末弟の三亀雄に資本の融通をたのんだ。三亀雄はがっちり屋で、自分では貧乏や〱といいふらしていたが、ものゝ十万円は貯めているだろうといわれていた。もと高利貸の手代をしていた時の根性が未だに残っていて、彼は兄の伝三郎に日歩三銭の利子をとった。伝三郎は三亀雄のたんげいすべからざる蓄財振りを畏敬していたので、諾々として利子を払ったが、その利子のことで伝三郎の家庭で一寸したいざこざが起ったことがある。伝三郎はその時ひどく妻を折檻した。

「おん者しゃら(和歌山の方言でお前という意)俺わしの兄弟のこと悪う抜かすことないわい」

伝三郎は兄弟想いであった。ともあれ、しかし、出入禁止は痛かった。心配して仲にはいってくれる者もあったが、何分伝三郎が千恵造の駆落をそゝのかしたばかりか、いろ〱千恵造の肩をもち、彼の弁護をしたということになっているので、勘気はとけなかった。

が、ある日の夕方、伝三郎に出てくれと、呼び捨ての電話が掛り、彼が出てみると、六ヶ月振りに聞く権右衛門の声が聞えた。話がある、宅へ来てくれんかとのことで、伝三郎は夕飯もたべず、車を飛ばした。

「兄さんの好物や」と伝三郎が手土産に差出した鮑の雲丹漬を見て、権右衛門は、

「贅沢なことするな」といい、そして、「詳しい話は政江がする」と席を立った。政江は敷島三本吸ってから、話の要点に触れた。

「実は千恵さんのことやが、あんた千恵さんの居所知ってるのやろ」

「……………………」

伝三郎はあわてゝ坐り直した。座蒲団が半分以上尻からはみ出した。最近、千恵造から彼の所へはじめての便りがあったのだ。千恵造夫婦は京城にいる賀来子の伯父を頼って朝鮮に渡り、今は京城の色町で、「赤玉」という小さな撞球場兼射的場をひらいてさゝやかな暮しをしている、内地とちがい気候が不順で困る、などとあり、この手紙のことは権右衛門の耳にいれぬ様にと念を押してあった。それでなくとも、政江の前で、知恵造の「知恵造の」はママ話は鬼門である筈だ。伝三郎はウンともスンともいわず、たゞ曖昧な音を発音した。――が、何のために政江は千恵造の居所をきくのだろう。「あんた、隠さんと正直にいっとくれなはれや」政江の小さな三角型の眼が陰険に光った。正直にいっとくれなはれや、というのは政江の十八番だった。かね〲伝三郎は嫂に頭が上らず、之に抵抗するのは容易でないのだ。

「へえ。――」

ありのまゝに言った。もう一度、一生出入り差止めでも何でもしゃがれと尻をまくった気持だった。この所謂度胸は伝三郎の大いに得意とするところである。酔った時に概ねあらわれるのだが、この時は、この頃頓に増して来た政江の威厳に圧されたのであろう。この度胸に就て一言するならば、例えば好んでやるオイチョ博奕カブに於て、彼の度胸は非常に高いものにつくのだ。これは彼のしば〱誇張するところのものだ。博奕での損を大袈裟にいうのを、伝三郎は非常に好むという癖がある。彼は近頃肥満して来て、大旦那の風格があると己惚れているのだった。

さて、その時、政江の顔に微笑が浮ぶに及んで、伝三郎の度胸はやっと報いられた。――伝三郎がわざ〱呼ばれて千恵造のことを訊ねられたのには無論訳があった。その頃、前述の商工会議員の長男との縁談が持ち上っていた。

「千恵さんがあんな女と夫婦やということが知れると聴合せの工合が悪いから」どうしても別れさゝねばならぬと政江は意気ごみ、伝三郎なら、手紙の一本位は来てるし居所は知ってるだろうと推測したのである。

「御尤も」と伝三郎は相鎚打った。内地にいるのなら兎も角、朝鮮にいる男のことが何で縁談のさまたげになるようなどとはこの際いうまじきことである。

「姪の婚礼の邪魔しよる。あいつは社会主義者や」

と伝三郎はいった。この言は仲々政江の気にいった。伝三郎が千恵造の弁護をしているという誤解は之で解けた。出入は完全に許された。この時以後、政江は千恵造のことを話す時、社会主義者という形容詞をつけるのを忘れなかった。

一体に、伝三郎は仲々比喩の才に富んでいて、彼の用語には興味あるものが少くない。例えば、淡白なお菜のことを、「金魚の餌みたいなもん喰わしやがって」、商人の談合のことを、「いちゃ〱と〇〇〇してけつかる」などは、彼でなくてはの感がある。「社会主義者」というのもこの金魚の餌の類である。

さて、政江の依頼によって、伝三郎が千恵造に離縁勧告の手紙を出すことに話がきまって、この意義ある半年振りの訪問は終った。伝三郎は字が書けぬので、番頭に手紙を代筆させた。社会主義者やと言うたってくれと、伝三郎が念押すと、番頭はその言葉は不穏当だといった。番頭はこの頃男女間の道に分別ついて、千恵造の駆落ちにひそかに同情しているのだ。伝三郎は番頭の言葉をきかなかった。社会主義者という字をいれるのは政江の希望であるからだ。番頭は、社会主義者という字にカッコをつけて、自分の意のあるところを千恵造に伝えようとした。が、結局それは思い過しだった。手紙を見た千恵造は、そのカッコを強調の符号だと思った。だから、あるいは平気で読み流してしまったかも知れないその言葉にひどく拘泥〔こだわ〕ってしまい、そのため、姪の縁談の邪魔という肝腎の事柄に気をとめなかった。賀来子の方がこの事を気にした。彼女は、自分のために貴方が大事な姪の幸福をさまたげるのなれば、自分は犠牲になるといった。

「どうせ、私は不幸の性来うまれつきですよって、覚悟はしてます」

その心根がいじらしいと思った千恵造は益々賀来子と別れがたく思った。賀来子にはその出生以外に何の欠点もない、その様な女を犠牲にしてまで小生は姪の世間的幸福を願わぬ積りだ、というような意味のことを例の煮え切らぬ調子で返事に書いた。愈々彼は社会主義的色彩を帯びて来た訳である。

「あいつの為に千満子の縁談は目茶苦茶になるやろ」

と政江は叫んだ。果して彼女の予言の通り、破談になったのは前述の通りだ。その原因に就て、いろ〱取沙汰があったのも前に書いた。千恵造のことが原因だという政江の言い分は、何かこじつけめいているが、周囲の人々は承認せざるを得なかった。が、真相をいうと、見合の時に、新郎たるべき人が、千満子に就てはなはだ滑稽な印象を感じたのが原因だ。

見合は、千満子のお琴の会という名目で行われた。会場の北陽演舞場で振袖姿の千満子が師匠と連奏するのを、新郎たるべき人が鑑賞したのである。彼は、師匠の悠然たる態度に比べて、千満子が終始醜いまでに緊張し赧面しているのを見て、自分が赧面している様な錯覚を感じた。総てこのことが原因である。彼はその後、ルンバ踊りの名手といわれたあるレヴューガールと結婚したということである。

余談であるが、このお琴の会で政江が費った金は少く見積って三千円と噂された。政江母娘の衣裳だけでも千五百円出入りの呉服屋に支払ったと、義妹たちは口喧しかった。この呉服屋は児子家へ出入するだけで、娘を女学校へ通わせている。政江には四人の娘があり、最近彼女たちの正月の晴着を収めてたんまりもうけた呉服屋は、この正月には一家総出で白浜温泉へ出掛けようと思っている。児子家では、この正月から年始の客に酒肴を出しても良いということになった。S銀行上本町支店から児子権右衛門預金元利決算報告書が来て、権右衛門の預金が百万円に達したことが分ったからである。

二

振袖が襖の隙間から覗いたかと思うと、千満子、春子、信子、寿ひさ子の順に部屋にはいって来た。正月の晴着だった。

「いよう! 皆揃うたな。女めんばっかり並びくさって、こら、カフェーやな。おん者しゃらカフェーの女給ボーイや。お父さんに酌せエよ。」

権右衛門は泪を流さんばかりに上機嫌だ。今年から元旦には訪問客に酒を出すことになり、「まあ、一つやっとくなはれ」と朝から客の相手をして来たので、大分廻っているのである。

「まあ、いやなお父さん」

振袖の中に顔を埋めたのを見て政江は権右衛門の下品な言葉使いをたしなめねばならぬと思った。娘たちの縁談の手前もある。一座している者が内輪の者ばかりでよかったものがこれが若し……が、今は黙っていることにした。一度だけだが、酔うている権右衛門に抗ってひどい目に会うた経験がある。

「おん者しゃら、一ちょう浪花節掛けエ! 虎造の森の石松やぜ。虎造はよう読みよる。何なんしょ、彼てきは声が良えさかいな」

大阪弁に紀州弁がまじっている。言葉も内容も娘たちの気にいる筈がない。浪花節なんか下品やわと内心皆思う。代弁者はいつも信子だ。十七歳、眼鏡を掛けている。かね〲「眼鏡は高慢たれや」と定評があるのだ。高慢たれの所以を今も発揮しないでおかれようか。

「私うちはリストのハンガリアンラプソデイ掛けようと思ってんのよ。浪花節なんか下品やわ」

大阪弁と東京弁。

「さあ、掛けて来ようっと」信子が立上ったのを機会しおに、姉妹はぞろ〱と部屋を出て行った。政江は千満子の帯を直してやった。

「何んや、高慢たれやがって! あんなピアノなんか何なゝ良えんなら! ピン〱、ポロン〱大体政江! おん者しゃがあんなもん習わせるのがいかへんのや!」

政江を除き、人々は総て同感であった。政江は一寸ふくれた。人々は酒の味がよくなったと思うのだった。市治郎夫婦、伝三郎夫婦、三亀雄、もと雇人であった春松が一座していたが、就中春松は一番酒がうまいと思った。彼は政江に押しつけられて、児子家の女中を嫁にしたが、その嫁が何かにつけて政江の指図をうけて威張り散らすので、亭主の威光が少しもないという理由で、政江を恨んでいるのだった。外にも恨む理由はある。が目下は専らそれだ。その嫁が今臨月で今日は来ていないということも酒の味に関係がある。三亀雄の妻は先刻一寸顔を出したゞけで、乳飲児があるというのを口実にさっさと引き上げていた。この事は一寸政江の機嫌を損じた。かね〲三亀雄の妻が良家えゝとこの出であるという理由からか頭が高いということに政江は不満を感じているのだった。が、三亀雄の妻は良家の娘ではあるが、実は養女であって、本当は誰の、どこの馬の骨の子か分らぬ私生児なのだ、という噂を耳にした時、だから政江は喜びの余りひどくそわ〱したものである。

「そうは兄やんの云う通りにも行かんがな、この節は矢っ張り何んやナ、ピアノの一つ位は習わさんことにゃ……」

と言ったものがある。三亀雄だ。政江の機嫌をとる事に敏感なのだ。三亀雄の声は普段もそうだが、殊にこういう場合、いわゆる含み声で、黄色いという形容詞が適わしい。蓄膿をわずらったことがある。夢々感じの良い声とはいえなかったが、このときの政江の耳には大変快かった。三亀雄の妻の早引けは帳消しになった。

「謹聴々々」

伝三郎の妻だ。権右衛門の浪花節が始ったので――。

伝三郎の妻は痩形でどこか影の薄い感じのする顔立ちだが、どちらかといえば陽気好きである。昔流行った小唄を口ずさむ外は、余りパッとしないがのっぺりとした美男子の活動俳優の写真プロマイドを集めるのが唯一の趣味である。その癖活動には行ったこともない。伝三郎がやらさないのだ。先頃伝三郎の家で女中を雇ったが、直ぐ暇をとった。彼女の様な働き者の主婦の下ではかえって居辛いのだ。女中は暇をとる時、こゝの奥さんは何が楽しみで生きているのかと泣いた。伝三郎が極道者で彼女は十五年間泣かされて来た。そんなこと権右衛門は知らない訳でなかったが、未だ一度も面と向って慰めもしなかった。かね〲気にしているのだ。権右衛門は伝三郎に金を貸す時、お前に貸すのでない、お初つぁんに貸すのだといつもいう。初乃という名である。権右衛門はいわば初乃に眼を掛けてやっているのだ。初乃が居なければ伝三郎の家は目茶苦茶だと権右衛門は常にいってるのだが、之は大体当っている。

今も、権右衛門は、初乃の、右肩をぐいと下げて謹聴している姿を見ると、伝三郎奴とふと思うのだ。

「宜ろしおまんなあ。嫂さん」

伝三郎の妻は傍の市治郎の妻にそういった。ぽかんとしていた市治郎の妻は、あわてゝお国訛りで、

「はあ、ほんまにそうのし。良えのし」といい、まるで伝三郎の妻に謝っているかの様にぺこりと頭を下げた。この女ひとは大変いんぎんな態度の女である。この女ひとが挨拶をする時の時間の永さと馬鹿丁寧さにはいつも伝三郎の妻は困るのである。が、伝三郎の妻もその都度、相手に負けぬ程丁寧に挨拶するのだった。今も、伝三郎の妻は何ということもなしにぺこりと頭を下げねばならなかった。市治郎の妻が両手を膝の上に重ね直すのを見ると、伝三郎の妻は襟元を直し、裾をひっぱって威儀を正す。この女ひと達はいわばお互いのエチケットに夢中で、権右衛門の浪花節は碌にきかなかった。が、終って、一番先きに拍手したのはこの二人だった。

拍手されて権右衛門は照れた。

「いやあ。こらえらい恥さらしやな」

そう言って頭のてっぺんをかく権右衛門の姿は仲々愛嬌がある。三十六歳で始めて一万円貯めた時に生やした口髭は彼の威厳に非常に関係あるものだが、この時はむしろ好色的にすら見えた。

「三味線しゃみが無いでな。さっぱりどうも」ふと思いついた様に、「どや、皆みなで一丁散財に行こら。お初つぁん。お前も一緒に来ィな」

「へえ〱。お伴さしてもらいまっせ」

いうだけは云ったが、初乃は、権右衛門は大変酔っていると思った。人々は顔見合せた。

「おやっさん。本当ほんまだっかいな」

今晩女郎買いに行く事に決めていた春松はその事を一寸念頭においていった。女郎買いに就て権右衛門に一つの逸話があるのを春松は想い出した。――大分以前のことだが、権右衛門、伝三郎、三亀雄、春松の四人が商用で東京へ出掛けたことがある。東京の商人を軽蔑している彼等は従って銀座へも行かなかった。東京の商人とは、権右衛門一流の意見によると、――東京の工場で作った例えば機械なら機械を彼等は東京で買う事が出来ない。機械は全部大阪の商人の手を経なければ彼等の手にはいらぬのだ。東京の工場から大阪の商人へ、大阪の商人から東京の商人へ、その間には沢山の運賃と口銭が機械に掛かる。何故こうなるかといえば、東京の商人は目下三つの需要があれば三つだけ工場に注文するが、大阪の商人は三つの需要しかないのに十の注文をする。工場が製作品を全部大阪の商人に売りつける所以だ。東京の商人は向う先が見えない。――というのである。又銀座の商売人は殆んど資本を大阪の商人に借りているではないか。で、彼等は銀座へも行かなかった。が夜になると、伝三郎、三亀雄、春松の三人が、「さあ、之から東京の芸者を抱きに行いこら」と権右衛門を誘った。「わしは宿で寝てる」三人は出掛けた。翌朝彼等が千束町から帰ってみると、権右衛門は居なかった。女中に聞くと、昨夜三人が出掛けた後でこっそり外出されましたとのことで、てっきり吉原か玉の井辺りへ出掛けたのだろうと推測された。果して、権右衛門は眠そうな照れ臭そうな顔で帰って来た。皆んなと一緒に行けば権右衛門が勘定を払わねばならぬ、それを嫌ってこそ〱と一人で安女郎を買いに行ったのであろうと、三人の意見だった。

就中伝三郎はこの意見を強調した。というのはその頃こんなことがあった。伝三郎が権右衛門から借りた九百円の金をいつまでも返済せず、うやむやにしていた。権右衛門は伝三郎が近頃七百円もする土佐犬を飼い、おまけに闘犬に勝ったといっては犬の鎖や土俵入りの横綱に大枚の金を使ってるときいて業を煮やし、内容証明書を伝三郎に送った。伝三郎は蒼くなって、電話の名儀を他人名儀にしたりして権右衛門の差押えにそなえた。

ある日、権右衛門は高利貸の如き折鞄をもって伝三郎の家へやって来た。丁度伝三郎は人眼に立つ所、即ち家の前で土佐犬の身体を洗ってやっていた。「馬鹿奴が!」権右衛門はバケツを蹴り倒した。愛犬は権右衛門にかみつこうとした。権右衛門は犬の吠声を後に逃げて帰った。あとで、伝三郎は無理矢理に九百円なにがしの金を払わされた。そんなことがあったのだ。が、伝三郎は今はその意見を撤回している。あれは権右衛門が身を以て贅沢するなと教えてくれたのであると思う様にしているのだ。近頃彼は何かにつけて権右衛門の処世術を見習わねばならぬと思っている。漸く二万円の貯金が出来たので、急に浪費癖が収り銀行利子の勘定が何より面白くなって来ているのだ。

――さて、春松は、

「おやっさん、本当ほんまでっか」

といって、まさかとは思いながら、ひょっと権右衛門が破目を外して芸者遊びをするところを見たらどんなに痛快だろうと期待した。鼻たれ小僧の時から使われて、権右衛門おやっさんのためには随分危い橋も渡って来た春松なのだ。権右衛門のことを想う念は一番強いともいえる。それだけに権右衛門の裸を見たがるのだった。が、彼の期待は次の権右衛門の一言で簡単に裏切られた。

「正月は芸妓げいこの花代が倍や。祝儀もいる」以下云々。

伝三郎が呑み過ぎて胸が苦しいといったので、初乃は塩水を取りに行った。この家の台所の勝手は詳しい。時々手伝わされたことがあるのだ。台所にナマコの置いてあるのが眼についた。初乃は、皆んなが先刻から数の子ばかりを酒の肴にしていたのをちらと想い出したので、ナマコの三杯酢をこしらえたら喜ぶだろうと思った。伝三郎にのますべき塩水のことが一寸忘れられた。――

「良え物がおました」

ナマコの皿を持って部屋に戻ると、伝三郎が、

「何をさらしてた、今迄。廻しの女郎おやまみたいに出て行ったら一寸やそこらで帰って来ん」

「…………」

弁解しようと思ったが初乃は止した。伝三郎は少し耳が遠いので、納得させるには大声を出さねばならぬ。叱られて大声でもない訳だ。

「後家の婆みたいにこせ〱出しゃばんな。大体、おん者しゃは――」

胸が苦しくなったので、伝三郎は小言こゞとは後廻しにして反吐を吐きに便所に立った。初乃がペタ〱後に随いて行った。

ピアノの音がしている。政江は、音で千満子だと分った。眼を細めた。伯爵家との縁談もそろ〱本調子に成りかけている。正月というものは何となく良いものだと思った。ふと、千恵造の事が頭に浮んだ。伝三郎夫婦が部屋に戻って来たのを機会しおに政江は切り出した。

「ほんまに、何でんな、こないして、兄弟が集ってお正月するいうのは良いもんでんな」

「そうやのし。何が良えちゅうたかてのし。兄弟が仲良うお酒のんでお正月出来でけるちゅうのが一番いっち良えのし」

市治郎の妻が一つ〱のしに力をいれていった。初乃もほゞ同様の事をいった。男たちもそれ〲短い言葉でそれに賛意を表し、酒をのんだ。政江の順番だ。

「之で、朝鮮にいる千恵さんさえ居てくれたら皆揃うた言うことになりまんのにナ」

権右衛門の盃に酒をつぎ、こぼれたのを拭布ふきんでふきながら、さり気なく言った。

「それを言いなはんな」

反響の無い筈はないのだ。政江は花道より本舞台にさし掛ったという可きだ。

「いゝえ。言わしてもらいまっせ。私は何なんにも義理の弟さんの悪口いいたいことはソラおまへん。おまへんけどでんな。現在血を分けた姪の……」あとは聞く迄もないことである。現在血を分けた姪の結婚の邪魔を千恵造がしている。尤もだ。が、聞いていて権右衛門は何かぐいと疳にさわって来た。――正月早々持ち出す可き話ではない。一体に、この前の縁談はとも角、今度の伯爵家との縁談は気にそぐわぬ。釣り合わぬというのでない。伯爵が何であろう。千恵造のこと位で破談にする様な権式など、ありがたくも怖くもないし、性にも合わぬ。商売人の娘は商売人に貰ってもらえばいゝのだ。いっそ厚子あつしを着た商売人に娘をやれとそう政江に言ってやろうか。あんたは娘の身になって考えないと来るだろうな。が、商売人ほど良いものがあろうか。現に商売人なればこそ此のわしは百万円の金をこの腕で作ったのだ。――以上が、政江の話をきいている時権右衛門が考えたことの概要である。考えることにより、権右衛門は怒りを押えていたのだ。政江にいってやるべきいろ〱な言葉を思い付くことによって、辛うじて疳癪を押えていた訳である。殊に最後の「百万円」を考え付くことはこの際、大変効果的だった。

政江はくど〱と千恵造達の離婚の必要を説いた。が誰も返答らしいものを言わなかった。この人達は薄情だと政江は思った。彼女だけが娘のことを心配しているのである。娘程可愛いゝものがあろうか。政江は再び同じことを飽きもせずに繰り返えすのだ。熱心の余りいいすぎたと思った彼女は、

「何も私は義弟さんのこと悪わるいう積りやおまへん」

と最後に附け加えた。前後二回いわれたので、この言葉は権右衛門の注意を引いた。なるほど、千恵造は血を分けた弟であったのだ。この想いは、他の弟たちの前であるだけに一層権右衛門の心を動かした。酒の勢いも手伝って、権右衛門の声は乱暴に高くなった。

「おん者らわしの兄弟のこと悪う抜かす権利がないわい。千恵造がいかん言うようなとこイ何も娘おなごをやらんでもえゝ。厚子を着た商売人なら千恵造とも珍宝とも、ギャア〱いわんやろ。商売人にやったらいゝ。商売人ほど――」

以下、先刻考えた文句である。政江は後の方がもう耳にはいらなかった。政江は娘のために泣いた。何という親であろう。夫のために泣いた。この人はこんな無茶をいう人ではなかった。が、彼女は自分の為に一層多く泣いた。権利という言葉がこたえたのだ。

「私に何で権利がおまへんのです?」

泣き叫んだ姿を見て、人々は今後政江がヒステリーだといえる事を一寸喜んだ。

「まあ〱嫂さん」

「兄さん、あんたも」

仲裁する人はいずれも幸福な顔付きであった。この母がこんなに憎まれていると知ったら娘たちは何と思うだろうか。娘たちにはその理由は分らぬだろう。が、理由は簡単だ。夫権右衛門を百万長者にした内助の功績の上に余りにどっかりと腰を据え過ぎたからだ。権右衛門は金をつくるのが目的だったが、政江はその後のことが目的だった。男と女の野心の相違である。わけても上品たる可き女がどっかりと座るなどとは、何れ人の眼によくは見えないのだ。

権右衛門は政江を撲った。ざっと十何年か振りである。春松などは微笑を禁じ得なかった。

「おん者らに何なゝ権利があるんなら、千恵造のことが気に喰わんなら、わしの弟のことが気に喰わんなら、さっさと出て行ってもらおう」

「あっ」という様ざま、政江は身震いを始めた。彼女の様子は正視するに忍びないものがあった。大袈裟にいうと、ウェーヴした髪の毛が更に大きく波打った。こういう言葉に経験の多い伝三郎の妻は、こういう時政江がどんな態度を示すか見物みものであると固唾をのんだ。市治郎の妻は、政江を慰めるために今日一日を費す腹をきめた。男たちは、権右衛門の顔を頼もしげに見上げた。就中、市治郎、伝三郎、三亀雄にとっては、問題は自分らの弟の事である。兄弟愛の発露を控目にしてよいということはないのだ。春松は、権右衛門おやっさんなるかなと思った。之まで権右衛門が政江の尻に敷かれていることを大変不満に思っていたのだ。尻に敷かれていればこそ金も出来るのだ、との処世術など彼の与り知らぬ所である。

政江は何ごとかを叫びながら部屋を出て行った。やがて彼女が娘達に言ってるらしい声が聞えて来た。

「皆んな、良う聞いとくれや。お母さんが今お父さんに如何どないいわれたか、聞いとくれ。お前達は皆女子おなごや。女子は嫁に行ったら弱いもんやぜ。お母さんが良え手本や。私は出て行け言われたよって出て行きます。皆んなはお母さんと一緒に行くか、それとも、此処に居るか。えゝ? 如何どないする?」

伝三郎の妻はさすがに政江を賢明だと思った。彼女は自分に子供の出来ぬのを今更ながら悲しく思った。娘達は、返答の仕様がなかったから、母親を連れてぞろ〱部屋に戻って来た。

その時、もう権右衛門の姿は部屋に見えない。さすがに娘の手前恥しかったのか、家を飛び出して、憂鬱な散歩を始めていた。

残された人々はこの場を収拾しなければならぬ。さしずめ年長者の市治郎に先ず発言権が与えられた。が、彼は恐しく無口な人である。市治郎の妻はしきりに夫の脇腹の辺りを小突くのだが、彼は冥想に耽っていた。言うべき言葉を探しているのだ。歯がゆい程である。が、かつて彼の無口な性質が非常に珍重されたことがある。――五年許〔ばかり〕以前のことだが、某官省の不用銅鉄品払下げの見積の時、市治郎が贈賄の嫌疑で拘引されたことがある。このことには権右衛門も三亀雄も関係無しとはいえなかった。否、この取引で最も儲けたのはこの二人であったから、彼等は蒼くなった。伝三郎の家に集り毎晩徹宵で協議をこらした。噂によれば、市治郎はひどい○○に掛けられているとのことだ。しかも彼にはいい逃れる術が無いでもなかった。二人の名を出せばよいのだ。彼等は市治郎の無口な性質と、もと荷車挽きをしていた彼の頑強な身体を唯一の頼みにした。市治郎は、自分には娘が一人しか無い、権右衛門には四人の娘があり、三亀雄には良家の出の嫁があると毎夜留置場で呟いていた。指が千切れてもと歯を喰いしばった。期待にそむかなかった訳である。刑を終え帰って来た時、市治郎は権右衛門、三亀雄の顔を見るなり言った。

「悪いことするなら、一人やぞ」無口者の雄弁とでもいう可きか。以後、二人は市治郎に頭が上がらぬのだ。――市治郎が哀れな政江の身の上に就て漸く意見が纏り掛けた時、しびれを切らした伝三郎が口をひらいた。……伝三郎の饒舌をこゝに写す必要があろうか。彼の家庭では月に二三度出て行け騒ぎがある。一々気にしていてはやり切れぬのか、嫁さんはその都度いたって平気な顔で、出て行けという彼の言葉を受け流す。「出て行け」と、いうのは、いわば男の口癖だ。現に彼の家では結婚して一月も経たぬ内に、最初の「出て行け」があった。が、もうかれこれ十三年何とかかんとか言いながら連れ添うている。結婚したのは、たしか伝三郎が二十七歳、初乃が十八歳。昔は女は早く結婚したものだ。十九が年廻り悪いので、十八で結婚したのだ、が、その頃は十七位で結婚したのがいくらもある。そう言えば、彼には十六で既に女があった。……果てしがなかった。昔話が始って、一座の空気が少し和いだ。が、政江の心は収らなかった。伝三郎と権右衛門は違う。彼の「出て行け」は彼女の記憶する限り、最初のものだ。権右衛門は伝三郎の様に出駄羅目をいう人ではない。……権右衛門の比類なき堅固な意志に就て政江は大いに喋った。人々は謹んできいた。が、喋りながら彼女は不安であった。何れは戻って来るにしても、権右衛門はどんな顔をして、どんな事を言うであろうか。再び出て行けというだろうか。何としたものであろう……。

日が暮れて、彼は帰って来た。政江は出来るだけ、いわゆる「背を向ける態度」を示したが、しかし、権右街門の眼尻に皺が寄っているのを見ては、さすがに、ほっとした気持を隠し得なかった。権右衛門は上機嫌と思われる声で、「新世界の十銭屋へ行って来ちゃんよ。十銭屋が一番いっち良えわ」

十銭屋とは、入場料十銭の漫才小屋のことである。正月の物日もんびで満員の客に押されて漫才をきゝながら時間を費していたとは、如何にもうなずける事だが、彼の機嫌の良さは些か意外だった。所詮、人々には計り知れぬ権右衛門の心中だ。彼は、幕合いにラムネをのもうと思い、人ごみの中で背のびをして売子を呼んだ。が、売子は仲々やって来なかった。「御免やっしゃ」と人ごみをかきわけて、売子の方に行こうとした途端に誰かの足を踏みつけた。「こら! 気ィつけ! 不注意よんぼり者!」「えらい済んまへん」「済まんで済む思てけつかんのか!」「へえ」権右衛門は五度も六度も頭を下げねばならなかった。相手は、職人風の男で、その暮し振りを察するに、その日暮し以上を出ないと見えた。頭を下げながら、権右衛門の頭に、百万円が想い浮ぶ様では、彼は只の人間だといわれても仕方がない。大袈裟にいって、彼はその時、百万円を捨てる覚悟をした。以下はその時の決心を披瀝した言葉である。

――「皆聞いてくれ。わしは百万円を無いもんと思うた。例の一件をやることにした」

年の暮に、彼のところへ、長崎県五島沖合にある沈没汽船売り込みがあった。引揚げ操作は難業で、悪く行けば投資金丸損とされているのだ。それをやろうというのである。人々は膝を寄せた。

「ラムネのみながら考えたこっちゃが――」と権右衛門は、万一の場合を顧みてこの際児子兄弟合資会社を設立しようといった。後顧の憂いがあっては一か八かの勝負は出来ぬ。それに、毛利元就の教訓。

「千恵造も仲間にしてやれ」

この一言は、政江の口元をほころばせた。千恵造を内地に呼び戻すには、無論賀来子離縁のことが交換条件になる筈との言外の意味を読んだからである。序に、政江の方の離縁は沙汰止みになった。彼女はこゝを先途と喋り立て、「万が一のこともおまっさかい……」権右衛門名儀の預金中、十五万円を政江、十万円を千満子名儀にして置くことの有利さを権右衛門に納得させた。先程の「出て行け」騒ぎが想いつかせた、之はいわば彼女の身分保証令である。その雄弁の間に、然る可き人が千恵造を迎えに渡鮮する必要ありと附け加えることも忘れなかった。

その夜、政江は権右衛門に寝酒を出し、その中へ久振りに媚薬を混入した。市治郎は妻と別れて、「芝居裏」で泊った。春松は「芝居裏」は好かぬといって、飛田の遊廓へ行った。伝三郎は自宅で博奕をした。連中に出す酒肴の世話で、伝三郎の妻は徹宵し、時々居眠りをして負けた伝三郎に叱られた。三亀雄もその博奕に加っていたが、途中で勝逃げし、道頓堀のグランドカフェーに出掛けた。そこのナンバーワンのメリーという女を彼は月六十円で世話しているのだった。メリーは仲々いゝ体を持ってるが、狡い。屡々病気の口実を以て、彼を避ける、のは未だ我慢出来るとして、(何故なら彼女も全然男嫌いではないのだから――)時々約束の手渡し以外にせびるのだ。この暮にも、姫路にいる母親が病気で見舞いに行くから、旅費にと四十円無心された。値切って二十五円持たしてやったが、その後会っていない。正月だから帰っている筈だと、カフェーに出掛けたのだ。が、居ない。朋輩のいうところでは、

「見合いに姫路に帰らはったいうことやわ」

見舞いと見合いと何んぼう違いくさるかと三亀雄は腹立った。博奕で二百円もうけたことを想い出して一寸心が慰〔なぐさま〕った。児子家の娘達は、安らかに寝た。寝る前に、皆、オリーブ油を顔につけた。ニキビの出ている寿子だけは、アストリンゼントをつけた。

三

その元旦の夜、権右衛門夫婦はいつ迄も眼覚めていた。

権右衛門が便所に立つと、政江はその後に随き従い、権右衛門の手に手洗水を掛けた。月が凍っている様に白かった。

「こら、どうも。大きに、御苦労はん」

権右衛門は内心照れて言ったが、彼の言葉は照れてる様には聞えぬ。政江にとって頼もしい所以である。手洗水を掛けるために便所の外で待っているなぞ、ついぞした事がなかった。婦人雑誌で学んだことである。その応用が、この様に自然に運ぶことは、彼女の趣味に適っているのだ。意識的に示す媚態で赧くなったりするのは自他ともに嫌いである。また、助産婦見習時代から今日まで左様なことはなかった。権右衛門が又、彼女の媚態にはにかむ様な人でない。いわば堂々とそれを受ける、その態度も政江の心に適っている。例えば新婚初夜に於ける権右衛門の態度だ。床入りの盃が済んだ後、権右衛門は厳然として、言った。

「わしの様な者の所へ縁あってとはいいながら、よく来て呉れた。いま、わしは六百円しか財産がない。わしは、どうしても十万円の金を作ってみせる。その為には、どんな苦労もいとわぬし、また贅沢もせぬ積りだ。わしには四人の弟と二人の妹がある。一家の兄としてわしはこの目的を抱いた。お前もこのわしの目的をよくのみこんで、どうか、わしが目的を遂げられる様気張きばってくれ」

その時彼女は両手をついて、

「よく言ってくれました。どうか、あなたはその目的を遂げて、立派に男として成功して下さい。私も児子家に来たからは、及ばずながら児子家の家長としてのあなたの目的をお助けいたします」

といったと、その後、屡々義妹たちに話した。無論、これはその時の二人の言葉通りではない。が、人々に話すにはこの様にいわば文章化さす方が少くとも政江には好ましい。

だから、今も、政江が、部屋に戻り権右衛門と並んで寝ながら、ふとその時のことを回想した時、頭に浮ぶのは、この文章化した言葉であって、決してごた〱した紀州訛のある方ではなかった。「十万円貯めてから後百万円出来るまでより、六百円の金から十万円こしらえる迄が苦労やった」とその後、屡々政江が人に語るその十万円貯める迄の苦心を彼女は回想した。ふと、権右衛門を見ると、彼も何か回想に耽っている様だった。想いは同じだと政江は何か愉しい気持で、炬燵〔こたつ〕の上に足を伸ばした。その為には、権右衛門の足に触れる必要があった。

権右衛門はしかし、往時を回想しているとはいえ、政江と同じ六百円から十万円貯めるまでの径路ではなく、無一文から六百円作るまでの、いってみれば、政江と結婚する迄のことを回想していたのだ。政江の足が触れた時、彼は、こともあろうに、若い日の恋人の事を考えていたのである。花子のことだ。

道頓堀、太佐衛門橋の橋上であった。その日は、父の歿後、和歌山県湯浅村の故郷を後に、きょうだい散り〱に自活の道を求めて上阪してから丁度十日目だった。職を探すべく千日前の安宿に泊っている内に、所持金を費い果して、その日は朝から何もたべていない。道頓堀川の泥水に川添いの青楼の灯が漸く映る黄昏時のわびしさを頼りなく腹に感じて、ぼんやり橋に凭〔もた〕れかゝっていると、柔く肩をたゝいた者がある。振りかえって、アッ! 咄嗟に逃げようとした。逃げるんかのし、あんたは。紀州訛だが、いや、そのために一層妙になまめいて、忘れもせぬ、それは十日前故郷を出る時お互い別れを告げるのに随分手間の掛った居酒屋の花子だ。(現在その女の本当の名を忘れているのだが、想い出す都度簡単に花子だとしている)あの時、一緒に連れてくれいうたのに、のし、どない思て連れてくれなかっちゃんならと、彼女は並んで歩き出すと、言った。後を追うて大阪に来た、探すのに苦労した、今はこの辺りの料亭にいる。誘惑が多いが、あんたに実をつくして、身固くしている。収み入りがかなりあるから、二人で暮せぬことはない。あんたが働かんでもよい、私が養ってあげる。――ふん〱と聞いていたが、急にパッと駆け出した。道頓堀の雑閙〔ざっとう〕をおしのけ、戎橋を渡り、心斎橋筋の方を走った。今の自分に女は助け舟だが土左衛門みたいに助けてもらって男が立とうか。土左衛門なら浮びもするが、俺は一生浮び上れなくなるのだ。権さん〱とよぶ花子の声に未練を感じたが、俺は十万円作るのだと、スリの様に未練を切って、雑閙の中を逃げた。(これらの表現は、権右衛門が屡々人に話す時の表現による)その夜、無料宿泊所のない時代(大正元年)のこと故、天王寺公園のベンチで、太左衛門橋で会った花子のことを悲しく想い出しながら一夜を明し、夜が明けると、川口の沖仲仕に雇われた。紀州沖はどこかと海の彼方をじっと見つめては歯をくいしばり、黙々として骨身惜しまず働いている姿を変ってると思ったか、主人が訊ねて、もとは魚問屋の坊ぼんぼんであると分ると、可哀想だと、帳場に使ってくれた。お前まはんは帳面付けする様な人ではないという定評が与えられた。如何にも、自分はこんな事をする気はない。月々定まった安月給に甘んでいて出世の見込みがあろうか、商売あきないをするんだと、暇をとった。

一月分の給料十円を資本に冷やしあめの露店商人となった。下寺町の坂の真中に台車を出し、エー冷やこうて甘い一杯五厘! と不気味な声でどなった。最初の一日は寄って来た客が百十三人、中で二杯三杯のんだ客もあって、正味一円二十銭の売上げで日が暮れ、一升ばかり品物が残って夏のこととて腐敗した。氷三貫目代の損であった。翌日から夜店にも出て、三十銭の儲〔もうけ〕がある様になった。十日程経った頃だったろうか、千日前のお午うまの夜店で、夜店外れの薄暗い場所に、しかもカーバイト代を節約した一層薄暗い店を張っていると、おっさん一杯くれと若い男が前に立った。聞き覚えのある疳高いかすれ声に、おやっと、暗がりにすかして見ると、果して、弟の伝三郎であった。赤ん坊の時鼻が高くなる様にと父親が暇さえあれば鼻梁をつまみあげていたので、目立って節が高くなっている伝三郎の鼻の辺りをなつかしげに見た。伝三郎も兄と知って、兄にいやんと二十二の年に似合わぬ心細い声をあげて、眼に泪を浮べた。聞いてみると大阪へ来ると直ぐ板屋橋の寿司屋の出前持ちになったが、耳が遠くて注文先からの電話がよく聞きとれぬから商売の邪魔だと、今朝暇を出され、一日中千日前、新世界界隈の口入屋を覗きまわって板場の口を探していたが見つからず、途方に暮れていたところだという。話している内に道頓堀の芝居小屋のハネになり、丁度そこは朝日座の楽屋裏の前だったもの故、七八人一時に客が寄って来たのを機会しおに、暫く客の絶間がなかった。伝三郎もぽかんともしていられず、おっさん一杯といわれると、低声こごえでヘイと返事し、兄の手つきを見習って、コップにあめを盛った。

翌日から、二人で店を張る様になった。儲けが少いし、二人掛りでする程でもないと、冷やしあめの車、道具を売り払った金で、夏向きの扇子を松屋町筋の問屋から仕入れ、それを並べて店を張ることにした。品物がら、若い女の客が少からず、殊に溝ノ川、お午うまなど色町近くの夜店では、十六歳から女を追いかけた見栄坊のこと故伝三郎は顔がさすとて、恥しがり、明らかに夜店出しを嫌う風であった、のをたしなめて、板場なんかに雇われて人に頭の上らぬことするより、よしんば夜店出しにせよ自分の腕一本で独立商ひとりあきないをする方が何んぼうましか、人間人に使われる様な根性で出世出来るかと、いいきかせた。持論である。

半月も経った頃だったろうか、確か上塩町の一六の夜店の時だった。人の出盛る頃に運悪い夕立が来て、売物の扇子を濡らしてはと慌てゝしまいこみ、大風呂敷を背負ったまゝあるしもたやの軒先に雨宿りした、が、何の因果かそこは妹のまつ枝が女中奉公している家だった。どうしてそうと知ったのか今は忘れた。がとにかく、何ヶ月振りかのまつ枝の顔をみた記憶はある。立ち話、という程でもないが、二言三言口もきいたであろうか。まつ枝の弟にあたる伝三郎が、「姉やん、えらい良えとこに居ちゃるんやのう」と言った言葉に記憶がある。かなり立派な構えのしもたやであったに違いない。そのとき、まつ枝の顔に困惑に似た表情が浮んだのを見逃さなかった。が、それよりも、こちらの方が困惑していた。夜店出しの兄弟をもってると知れば、まつ枝も我が主人に肩身も狭まかろう、夜店出しなどするものではない。――俄か雨に祟られたみじめな想いも手伝って、しんみりと考えた。

間もなく夜店出しを止めることにした。その時の想いが直接の原因だった。もう一つには、同業の者を観察して、つく〲嫌気がさしていた。鯛焼饅頭屋は二十年、鯛焼を焼いている。一銭天婦羅屋は十五年、牛蒡、蓮根、コンニャクの天婦羅を揚げている。鯛焼が自分か、自分が鯛焼か、天婦羅が自分か自分が天婦羅か、火種や油の加減をみるのに魂が乗り移ってしまう程の根気のよさよりも、左様に一生うだつの上りそうにもない彼等の不甲斐無さが先ず眼につくのだった。八月の下旬だった。夏ものゝ扇子がもう売れる筈もなかった。売れ残りの扇子を問屋にかえしに行くと、季節も変ったし、日めくりカレンダーをやってはとすゝめられたが、断った。「では、新案コンロは如何どないだす。弁さえ立てば良え儲けになる」断った。「人間、見切りがかんじんです。あかんと思うたらすっぱり足を洗うのがわしの……」持論にもとづいたのだ。

伝三郎と二人で借りていた玉造のうどん屋の二階をひき払って、一泊二十銭の千日前の安宿に移った。うどん屋の二階に居れば、階下の商売が商売故、たまには親子丼、ならいゝが酒もとる。借りの利くのを良いことにして量を過すのがいけないと思ったのだ。現にそこを引き払う時、払った金が所持金の大半で、残ったのは回漕店を止める時貰った十円にも足らぬ金だった。二人の口を糊して来たとはいえ、結局、冷やしあめ屋と扇子屋をやっただけ無駄となった訳だ。伝三郎はこれを機会に、生国魂前町の寿司屋へ住込みで雇われたので、料理衣と高下駄を買えと三円ばかり持たしてやった。それで所持金は五円なにがしとなった。

伝三郎を寿司屋へ送って行った帰り、寺町の無量寺の前を通ると、門の入口に二列に人が並んでいた。ひょいと中を覗くとその列がずっと本堂まで続いている。葬式らしい飾物もなし、説教だろうか、何にしても沢山の「仁を寄せた」ものだと、きいてみると、今日は灸の日だという。二フ、三ミ、四ヨ、六ム、七ナ、の日が灸の日で、その日は無量寺の書き入れ日だっせとのことだった。途端に想い出したものがある。同じ宿にごろ〱している婆さんのことだ。どこで嗅ぎつけて来るのか、今日はどこそこで何んな博奕があるかちゃんと知っているらしく、毎日出掛ける。一度誘われて断ったが、その時何かの拍子に、婆さんはもと灸やいと婆であったときいた。それを想い出したのだ。宿に帰ると早速婆さんを掴まえて、物は相談だが、実は、おまはんを見込んで頼みがある。――

翌朝、二人で河内の狭山に出掛けた。お寺に掛け合って断わられたので、商人宿の一番広い部屋を二つ借りうけ、襖を外しぶっ通して会場に使うことにした。それから「仁寄せ」に掛った。村の到るところに、「日本一の名霊灸! 人助け、どんな病もなおして見せる。○○旅館にて奉仕する!」と張り出しをし、散髪屋、雑貨屋など人の集るところの家族にはあらかじめ無料で灸をすえてやり、仁の集まるのを待った。宣伝が利いたのか、面白いほど流行った。婆さんは便所に立つ暇もないとこぼしたので、儲けの分配が四分六の約束だったのを五分々々の山分けにしてやった。狭山で四日過し、こんな目のまわる様な仕事はかなわん、元手が出来たから博奕をしに大阪に帰りたいという婆さんを拝み倒して、紀州湯崎温泉に行った。温泉場のこと故病人も多く、流行りそうな気はいが見えたので、一回二十銭を三十銭に値上げしたが、それでも結構人が来た。前後一週間の間に、五円の資本もとでが山分けして八倍になり、もうこの婆さんさえしっかり掴えて居れば一儲け出来ると、腰が抜けそうにだるいという婆さんの足腰を温泉で揉んでやったり、晩には酒の一本も振舞ってやったりして丁重に扱っていたが、湯崎へ来てから丁度五日目、ほんまに腰が抜けたと寝こんでしまった。按摩をやとったが、按摩の手では負えず、医者に見せると、神経痛だ。ゆっくり温泉に浸って養生するがよかろうとのことだった。まる三日婆さんの看病で日を費したが、実は到頭中風になった婆さんの腰が立ち直りそうにもなかった。宿や医者の支払いも嵩んで来て、下手すると無一文になるおそれがあると、遂に婆さんを置き逃げすることに決めた。人間見切りが肝腎。――

――が、今も、いやな事ながらその婆さんの顔が彷彿として浮んで来る。小柄で常に首をかしげている、それだけなら往々にして可憐に見える恰好なのだが、この女の場合、顎がしゃくって突き出ているから、いっそ小憎い。それだけに同情の念が薄らぐのだが、その代り、祟りというものがあるなら、こういう婆さんこそ一層恐ろしいのだ。何れにしても寝覚めの良いものではない。というのは、いってみれば、この婆さんを踏台にして、以後トン〱拍子に浮び上って行ったからだ。――

湯崎から田辺に渡り、そこから汽船で大阪へ舞い戻った。船の中で芸者三人連れて大尽振っている中年の男を見つけ、失礼ですが、あんさんは何御商売したはりますのですか、ときくと、男は哄笑一番、やがて、連れの芸者にはゞかるのか低声こごえで、もと紙屑屋しとったが、今はこないに出世しましてん。大阪に戻ると、早速紙屑屋をはじめた。

所持金三十円の内、六円家賃、敷金三ツの平屋を日本橋五丁目に借りた。請印うけはんは、伝三郎が働いている寿司屋の主人に頼んだ。日本橋五丁目の附近には、五会ごかいという古物露天商人の集団があり、何かにつけて便利だった。新米の間は、古新聞、ボロ布の類を専門にしていたので、ぼろい儲けもなかったが、その代り、損もなかった。馴れて来るとつい掘出物をとの慾も出て、そんな時は五会の連中に嗤われた。はじめてから三月程経ち、切れた電球千個を一個一銭の十円で電灯会社から買取り、五会の古電球屋に持って行くと、児子はん、あんたは商い下手や。廃球は一個二厘が相場やというのである。古川という電球屋はしかし、暫く廃球を調べてから、おまはんの事やから、まあ一銭で買うたげる、といってくれた。二厘の相場のものを一銭とはと不審に思い、その後、用事のある無しにつけて、古川の店に出入りしている内に、分った。廃球の中に、「ヒッツキ」というのがある。線が全然切れてしまわず、片一方外れているだけで、加減すると、巧く、外れた場所にヒッツクのである。灯をいれると熱で密着し、少くとも四五日は保もつ。それを新品として安く売るのだ。「白金つき」というのがある。電球の中には少量だが白金を使用しているのがある。つぶして、ガラスと口金の真鍮をとったあと、白金を分離するのだ。白金は一匁〔もんめ〕二十六円で、一万個から多くて二匁八分見当とれる。「市電もの」というのがある。市電のマークのある廃球のことで、需要家は多く市電から電球を借りているのだが、切れゝば無料で引き換えてくれるけれど、割れゝば一個五十銭弁償しなければならぬ。その時に、たとえば古川の店で「市電もの」の切れたのを一個十銭で買って、それを電灯会社で新品と引換えてもらうとすれば、差引き四十銭得をすることになる。買うたといわんといとくれやすやという言を守ればいゝ訳である。「ヒッツキ」「白金もの」「市電もの」の多くまじっている廃球ならば、だから一個一銭の割でも結構儲る訳だ。――

と、知って、翌日から、廃球専門の屑屋となった。大八車を挽いて、「廃球たまってまへんか」と電灯会社や工場を廻った。一個三厘で買い「ヒッツキ」と「市電もの」は古川に一個五銭で売り、「白金もの」は自宅で分解することにした。分解の方法を古川が容易に教えぬので、一夜芝居裏の遊廓で転ころび芸者を抱かせてやる必要があった。その時、附合いに放蕩したが、想えば女の肌に触れるのは一年半振りのことだ。どんな芸者だったか、たしかに印象浅からぬものがあったが忘れてしまった。それより、古川の抱いた芸者の顔に記憶がある。花子に似ていたからだ。酔っぱらった古川が、尻をまくりふんどしを外して、乱舞しながらその妓に悪戯するのを、見るに忍びぬと辛い気持だった。商談が大切だと、辛抱して調子を合わせていたものの。

その後、古川が故買の嫌疑で拘引されたときいて、その時の溜飲が下がった。が、旬日を出でずして、自分にも呼び出しがあった。古川の「市電もの」売買に関係してゞはなかろうかと蒼くなった。溜飲が下るどころではない、こっちも危いのだと、女のことに拘泥っていゝ気になっていた自分の甘さを固くいましめた。警察の呼び出しは、しかし、自転車の鑑札並〔ならび〕に税金のことだった。ほっとし、以後、税金は収めることにした。自転車はその頃雇った春松の使うものであった。屑屋をはじめてから一年足らずで、もう雇人を使う身分になった。現金と、品物を合わせて五百円近くの金があった。煙草一本吸わなかったのだ。十六の春松がませて、こっそり女郎買いに行くのを見ると、心そゝられぬこともなかったが、女の肌ざわりよりも紙幣の肌ざわりの方がよかった。一枚々々皺をのばして、胴巻きにしまっているものを、見す〱あっという間の快楽のために失ってなるものか。春松は遊びが好きで困り者だったが、その代り、白金分離の仕事はまことに鮮かだった。先ずガラス棒を火で焼き、それを挽臼で挽き砕いて、粉にする。それを木製のゴマいりにいれ、たらいの水の中で静かに揺り動かすと、白金まじりの金属が残って砂粉だけが水の中に逃げる。その手加減がむずかしいのだ。少し手元が狂えば大切な白金が逃げる。春松のゴマいりを揺り動かす手付きは、見ていて惚々するほどで、しかも逃げた砂粉を再び何度も〱ゴマいりにいれて、いってみれば、女が蚤のみを探す時の熱心さがあった。尚、春松は炊事も上手であった。鰯の煮物を作るにも、しそと土しょうがをいれ、酢と醤油以外に水を使わず、些も生臭味の出ない様に煮るこつを心得ているといった風で、やもめ暮しに重宝であった。が、ある日、春松は雨の土砂降りの中を廃球買いに出歩いたのが原因もとで、感冒を引き、肺炎になった。三十九度五分の熱が三日も下らず、派出看護婦を雇った。二十二三の色黒い器量のよくない女であった。が、何となく頼もしく、同じ家に寝泊りしているので自然情も移るのだ。何かの拍子に、裾が乱れて浅黒い脛がちらと見えた、それが切っ掛けで、口説いて、というより殆んど行動に訴えたら、脆かった。政江であった。間もなく結婚した。大正三〔ママ〕年の二月、たしか節分の夜で、雪だった。――

権右衛門のその夜の回想は、以上に止まらぬ。が、前述の通り既にこの結婚の時は六百円の金を貯めていたのであるから、一先ず、こゝで打ち切ってもよいだろう。以後は、政江の回想に待つ可きが順序だ。結婚式の夜の権右衛門夫妻の意義ある会話に就ては前に述べた。この夜の前後のことで、述ぶ可きことは多い。が、それは二人の果てしなき回想に任して置く方が賢明だ。こゝでは、結婚の費用に、権右衛門が七百円の金を費ったことを一言して置く。つまりその時彼は千三百円もっていたが、七百円結婚に費って六百円(これは在庫品も勘定にいれて)残ったことになる訳で、これは、一般の常識からいってもなか〱思い切ったことである。彼にとっては暴挙にひとしいと一応考えられる。が、この七百円は前から所持していた金ではない。彼が、結婚に際し、いわば結婚記念にばた〱と一儲けした金である。その必要があったのだ。伝三郎の言を借りると、「結婚まえに、もうお祭りが済んでいた」訳だが、児子家の家長が多少の金を節約したさに然るべき式典を経ずして結婚するなど、権右衛門の潔よしとせぬところだったのだ。冠婚葬祭を軽んずる様で人間出世は出来ぬという信念をもっている。と、同時に、虎の子の貯金全部投げ出して立派な結婚式をあげたが、その時は無一文だったという様なことも、彼のとらざるところだ。だから、その際、結婚費用を一儲けせずんば止まなかったのだ。

それには、危い橋を渡る覚悟があった。その頃、小っぽけな電球の町工場をもっている松田という男に、口金代百円許り貸していて、抵当に電球三千個とっていた。百円の金が払えぬ丈あって、松田は如何にも意久地ない男だった。彼は、自分の姓が松田というところから、自分の製品にマツダ電球というマークをつけていたが、本物のマツダランプは一流品で、町工場の製品が一個十銭とすれば、少くとも一個三十銭の価値がある。だから、当然、マツダランプから松田に抗議があった。それを、松田は突っ放せぬ、どころか、商標偽造で訴えられる心配までしているのだ。マツダとマークするからは最初から腹を繰〔くく〕っていた筈だのに、所詮は、金儲け出来ぬ男だと、権右衛門は松田をおどしたり、そゝのかしたりした揚句、有金全部はたいて、松田の製品を殆んど買い占めてしまった。名目は抵当物品ということにした。松田が訴訟を起されて負け、マツダランプから製品を押えに来たが、権右衛門の抵当物品故手を触れる訳に行かなかった。困り抜いたマツダ側と交渉した時の権右衛門の押しの強さには、松田もあきれてしまった。結局、マツダ側は、マツダランプ並の値で買取らされてしまった。放って置けば「マツダ電球」なる粗悪品が流布し、マツダの信用にかゝわるという弱味だ。その時の儲けの幾何かを口銭として松田に与えたその残り、即ち権右衛門の純利益が七百円だったのだ。――

この話をきかされた時、政江が如何に権右衛門を頼もしく思ったかは、想像に難くないであろう。彼女は権右衛門に希望をかけた。婚礼の翌日、彼等が食べた昼食は、麦飯に塩鰯一匹であった。大阪では節分の日に麦飯に塩鰯を食べるのが行事の一つと成っている。婚礼の日は節分だったから、つまり一日延ばして売れ残りの安鰯で行事をすませた訳だ。が、この行事はその日のみに止らず、その後日課となった。六百円から十万円貯めるまでの苦心中、彼女が誇って良いのはこの一事である。最近伝三郎がこの行事を見習っている。が、彼は鰯が好きだから、むしろ贅沢になる。季節しゅん外れや走りの鰯をたべたがるからだ。政江の苦心とは少々違うのである。もう一つ彼女が誇って良いのは、その後、権右衛門の弟たちが兄のお蔭で商売が出来る様になった時、彼等に資本を貸すと、必ず目立たぬ程度に利子をとる様に権右衛門を強制したことである。目立たぬというのは、その利子の取り方が貸金の何分というのでなく、その貸金を資本に儲けた額の何分というのである。儲かる見込の無い時は無論貸さない。確実で、普通の利子より多くとれるのだ。三亀雄はいざ知らず、伝三郎など、見栄をはって儲けを誇張する癖があるから、随分損な勘定だと、時々伝三郎の妻はこぼしたものだ。誰でも人に好かれたいものだから、こういう政江のやり方は、容易に実行出来るものではない。夫の義弟達の上前をはねて憎まれるのも皆夫の為を想うからだ、と堅く腹をくゝっていたなればこそではないか。

こういう政江を権右衛門は多としていた。権右衛門の偉さの一つは、「差出がましゅうございますが――」という政江の意見に抗わなかったことである。政江としても、やり易かった訳だ。

が、政江の回想では、この事がいちばん辛かった事として泛んで来る。夫と義弟達の間に立って随分泣く想いをしたというのである。所詮男は我儘故、女の苦心が分らぬ、蔭で泣いたことがどれ位あるかというのだ。少くとも、彼女はそう思っていた。だから、六百円から十万円作るまでの苦心の中、彼女が強調するのは常にこの一事だ。が、それだけで、如何にしても十万円は無理である。故に、彼女も無論、権右衛門の腕は認めている。「見切りが肝腎」の鮮かさはこゝでも問題になる。

何時の間にか、彼は廃球屋を止めていた。「ヒッツキ」や「市電もの」は危険だし、「白金もの」もそろ〱白金使用分量が少くなるだろうと逸早くにらんだからだ。案の条、間もなく、電球には白金に代るべき金属が使用されることになった。先見の明ともいう可きだ。もう一つの先見の明は、欧洲大戦が起って、銅、鉄、真鍮などの金属類の相場が鰻上りするのを予想して、廃球買いのため出入していた電灯会社に頼んで古銅鉄線、不用レールや不用発電所機械類などを払下げてもらったことだ。最初会社側では相場が分らぬまゝに、二束三文で売り渡した。相場が分り出して来ると、用度課長に賄賂を使った。同業見積者が増えて来れば「談合」の手を使った。市治郎、伝三郎、三亀雄などは、はじめ、この「談合とり」で金を作っていたのだ。権右衛門の様に銅鉄売買をする甲斐性はなし、たゞ兄のおかげで入札名儀だけを貰って体裁だけの空入札をし、談合の口銭を貰っていたのだ。彼等がそれでたとえ一万円の金を作るにしても、権右衛門や政江が苦心してこしらえた百円の金の値打もないと、政江は思うのだった。

が、政江は、春松の苦心を忘れている。例えば春松の醜く押しつぶされている右の手の親指のことは、彼女の回想には泛んで来ない。――春松は、権右衛門が落札した銅鉄品の引取に出張する時には、常に同行した。落札品の看貫かん〱の際、会社側の人の眼をかすめて、看貫台の鉄盤の下に鉄製の小さな玉を押しこむのが彼の役目である。その装置をすれば、百貫目のものが六十貫にしか掛からぬのだ。ある時、監視人があやしんで、看貫台の上に乗ってみようとした。自分の体重なら、ごまかしは利かぬ筈だ。春松は慌てゝ、玉を抜こうとした。その途端に監視人が台の上にのったので、彼の手は挟まれてしまった。おまけに、続いて、三、四十貫の銅線が看貫台に積み上げられた。春松の顔はみる〱真蒼になった。権右衛門はさり気ない顔で煙草を吸うていた。――このことを、春松は、いつか千恵造の前でいい出して、それが酒をのんでいる時だったので、泣上戸の彼は泣き出したことがある。泣いたのは、嫁のことを想い出したからだ。嫁は児子家の女中をしていたのを、無理に押しつけられたのだ。その嫁が政江の威光を笠にきることが、春松にとっては癪で仕方がないのだ。だから、ついぞ云い出したことの無い看貫のことを持ち出して、千恵造に訴えるのだ。「わいはこないに権右衛門おやっさんの為に泥棒の真似までして来たのや、それやなのに、あの主婦おかあは(政江のこと)……」「それをいいな、それを」と千恵造はなだめたが、女のためにお人善しの春松がいうべからざる事迄いいたくなる、その心事には同感出来るものがあった。

大正五〔ママ〕年、権右衛門は一万円出来た。口髭を生やしたのはこの年である。大正十年に十万円になった。以後、百万円に達するまでは容易であった、と政江はいう。十万円貯めてからは、たとえば、昼食にはもう鰯だけというようなことはなかったのだ。その頃漸く雇った女中の手前もあった。政江の兄はそれまで豆腐屋をしていたが、廃業して、気楽な煙草屋を始めることになった。妹は産婆をしていたが、これも廃業して、歯医者と結婚した。その時の祝いに、彼女は千円もするダイヤの指輪を贈った。その他、以後楽しい事ばかりである。……

……その夜、権右衛門夫婦は明け方まで眠らなかった。話すべきことも多かったし回想が次から次へと果てしなかったからである。

四

千恵造夫妻に子供の無かったことが、何より好都合だった。彼等は別れた。

児子兄弟合資会社の一員に加えるという兄の志を多としたのだ。弟は感激の余り、賀来子を離縁した訳だ。政江の期待通りだった。が、慾に目が眩んで離縁したというのは少し酷だ。少くとも、その決意を固めた瞬間の千恵造には、慾得の観念に拘泥する余地はなかった。このことは、児子家の使としてはる〲朝鮮まで出掛けた船司船造がよく知っている。

千恵造は泪を流して船司にいったのだ。こんなにまで、兄が自分のことを思っていてくれたとは知らなかった。もはや、姪の結婚の邪魔をする気はない――と。船司はもと権右衛門等の出生地、湯浅村の村長をしていた男だが、今は落ちぶれて、生命保険の勧誘員をしている。人に欺されて、田地家屋までとられてしまったというだけあって、善良な性質の男に違いない。だから、その時の千恵造の泪を邪推する気づかいはない。泪を流している人間が慾得のことを考えている、などとはこの男の想像もつかぬことだ。普通、人は屡々慾得のことで泪を流すものだなどとは――。

衣食足らなければ、しかし、千恵造といえども、礼節を知る訳はない。が、そのことは、むしろ次の彼の言にあらわれたと見る可きだ。「賀来子は何の欠点もないのに一生棒に振るのや。如何どないする?」暗に手切れ金のことをほのめかしたのだ。それ位は権右衛門も出してもよいだろう。千円の金が用意されていると、船司は答えた。

賀来子はかねてこのことあるを予期していた。千満子の縁談の相手が伯爵家だときくと、彼女も心安らかに身が引けると思った。最近、男の子を貰い子して二人暮しが三人になり、賑やかになる筈だったと泣いたことは泣いた。何れは船司は困らぬ訳には行かぬ。承知の上だが話が纏っても船司は良い気はしなかった。

船司は、ハナシツイタ、ソウキンタノムと大阪の児子家へ電報打った。実は、万一のことを慮って、船司には手切金を持参させていなかったのだ。金が電送され、千恵造に渡そうとすると、受とらなかった。自分が離婚するのではないから、自分の手から賀来子に渡す訳には行かぬ、というのだ。離婚するのは権右衛門だ、権右衛門の代理の船司から渡すべきだという理窟は尤もだと、船司は思い、その様にした。こういう千恵造の態度はあるいは皮肉とも生意気とも見えるものだが、船司は、かえって、立派だと思い、何が社会主義者なもんかと感心した。むしろ、成功すれば五万円の保険に加入するという好餌につられて、このいわば生木を割く様な別れ話の立役者になった自分を恥じた。千恵造夫妻のみるからに仲睦じい容子を見るにつけ、この想いは一層強くなった。単に慾で動く人間だと見られたくない為に、船司は、出来得る限りの人情味を見せねばならぬと思うのだった。

こんな船司を児子家では使として期待したのではない。船司は、ちかごろ、同郷の縁を頼りに、児子家に勧誘に来た男だが、居留守を使われると、「では、一寸新聞を拝借」と一枚の新聞紙を何時間もかゝって読み、「お帰り」を待つ、その根の良さと、押しの強さと、物に動じない態度を買われたのだ。もう一つは、船司は五十八歳で、もはや老人といってもよく、だから情にからまされないという点でこういう話に好適だと、その年齢も買われていたのだ。それ故、この様に人情味を発揮してくれるのは困るのだ。落ちぶれた者同志ではお互いに同情もある。そんな同情をむやみに出してくれては、一層困るのだ。が、とにかく、話は纏ったのだ。一月下旬のある夜、千恵造は内地へ帰って来た。伝三郎夫妻が大阪駅まで出迎えに行った。

プラットホームに汽車がはいると、伝三郎は妻を叱りとばしながら、右往左往し、やっと車窓に、船司の顔を見つけた。船司は伝三郎の顔を見ると、如何にもつまらなさそうな表情をし、傍を指さした。千恵造の外に、賀来子の姿も見えたので、伝三郎は、あっと思い、久し振りに会う弟にいう可く準備して来た「よう帰って来た」という言葉が出なかった。賀来子が伝三郎の妻に挨拶している間、兄弟は、ぽかんと突っ立ったまゝ、それ〲お互いの妙な顔を見守るばかりだった。いわば、伝三郎は狐につまゝれた形だ。伝三郎の言を借りると、「うちの女房かかあが双子ふたご産みくさった様な気持がした」のだ。

が、事情を訊いてみて一応釈然とした。賀来子は、千恵造と別れるとなればもう朝鮮にいる必要も気持もない、どうせ内地へ帰るのだから、それならば同じく内地へ帰る千恵造と一緒に……と思ったというのだ。せめて別れるなら、汽車の中だけででもゆっくり名残りを惜しみたいという賀来子の希望をどうして空しく出来たろうかと、船司は弁解し、児子家の人が出迎えなかったのがもっけの倖いだ、無論このことは児子家に内密にと、伝三郎に念を押した。頼まれては、いやといえぬ性質だったから、伝三郎は承諾した。それはよかったが、彼には、今こゝで思い掛けなく別れの愁歎場を見なければならぬのが辛かった。別れを告げるのに一時間も掛り、千恵造は一先ず伝三郎の家へ行った。賀来子の行先きに就ては、訊ねるべき筋合のものではなかった。船司は堅い表情のまゝ、児子家へ行った。

千恵造ほどの幸福者があろうかと、兄弟等は思う。再び新しい妻を迎えることに成ったからだ。内地へ帰ってから一月も経たぬ内に話が起った。早く嫁を貰ってやらぬと、又何を仕出かすか分らぬという訳である。千恵造は貰うともいわず、貰わぬともいわず、例の煮え切らぬ調子だったが、見合用の写真を見るに及んで、些か食指が動いた様である。小唄歌いの市丸にそっくりの年増美人だと、三亀雄などは気が気でなかった。見合の結果、女の方が断った。人々は、その様な美人が何で千恵造の様なはき〱せぬ男を好こうかといった。三亀雄はほっとし、その女が三十の今日まで独身だという以上は何か訳もあるに違いない、何とかその女を金で動かして自分の妾にする方法はないものかと思うのだった。第二の候補者は美人とはいえなかった。が、処女であるという噂だった。年は二十六で、千恵造には若すぎる、が、とにかく見合をと、いうことになった。流石に千恵造は、今度はかなりめかしこんで見合いに出掛けた。纏った。

意外なことだが、千恵造はその結婚のことで、賀来子に相談したということである。まことに、怪しからぬ事である。千恵造は内地へ戻ってからも、実に頻繁に別れた筈の賀来子に会うているのである。賀来子は南海沿線の天下茶屋に小ぢんまりとした家を借りていて、そこへ千恵造が出掛けていたのだ。賀来子が千恵造と一緒に内地に戻ったのも、このことをしめし合わせてのことだった。すべてこれらの手引きをしたのは船司である。千恵造にまるめられてというより、むしろ左様な智慧を自発的に貸したのだ。これらの事は、伝三郎の店員の口から、あとで洩らされた。その店員は、千恵造の使いで、二三度天下茶屋の賀来子の家へ行ったことがあったのだ。賀来子は日蔭者の身分に甘んじてまでも千恵造と別れたくなかったのであろうか、それとも彼の方で別れたくなかったのであろうか、どちらにしても、こんな男の何処が良いのかと、人々はこの話をきいた時種々取沙汰した。が、それ程までに別れ難にくいものなら、何故、別の女と結婚するのだろうか、千恵造の真意は補捉しがたいものがあった。結局、両手に花のつもりだろうか。賀来子が承知せぬ筈だ。――

――その通りだった。結婚したものかどうかと千恵造に相談された時、賀来子はいった。表面上別れているとはいえ、二人がいつまでもこんな風に会うていては、貴方の御兄弟にも義理が悪い。この際、潔よく別れてしまおう。そして貴方はその女の方と結婚して下さい。それが、貴方が御兄弟や姪御さんに尽すべき義務です。その女の方は綺麗な人でしょうか、云々。

千恵造の三度目の結婚式は、三月桃の節句の吉日に挙行された。義理に迫られてという顔付きを千恵造はしていた。が、元来そういう顔の方が千恵造にはむしろ適〔ふさ〕わしいのだ。殊にこの場合、彼がいそ〱としていたら、所詮人々の蔭口をまぬがれぬところだ。この婚礼には、実に多くの人々が新郎側として出席した。千恵造の四人の兄弟とその妻たちは無論だが、まつ枝、たみ子の姉妹とその夫たちも列席した。彼女等については今まで余り触れる機会はなかったが、彼女等はどちらかといえば、児子一家とは余り交際しない。夫がそれ〲技術家であって、商人とはうまが合わぬのだ。その外、春松夫妻が列席した。春松の嫁は、正月産れの赤ん坊を抱いていた。その赤ん坊の耳に綿がつめてあるのを、中耳炎だろうと、政江は観察した。千満子も列席した。これは人々の眼を引いた。千恵造への義理立とも見えた。伝三郎は「婚礼の見学やろ」とひやかした。伝三郎の妻は、せがまれて小唄を一つ唄い、拍手された。伝三郎は苦い顔した。伝三郎の妻は、千恵造の結婚のために、随分金を使った。タンス、本箱、机、椅子、座蒲団、水屋、雨傘、洗面器の類まで買い与えたので、へそ繰りを全部投げ出した上に、借金が出来る始末だった。夫の弟のために尽すのは当然だという彼女の主義は、この頃政江を尊敬している伝三郎には甚だ面白くなかったのだ。が、千恵造の今度の妻は、伝三郎の妻を、夫の兄弟達の妻の中で、一番良い人だと直感した。その婚礼で一番嬉しそうな表情を自然に、隠さずに、泛べているのは伝三郎の妻だったから。本当いえば、喜ぶべきは第一に政江だが、彼女は、一座の観察にかまけて、嬉しい表情を忘れていたのだ。一言いえば、政江は今度は余り金を出さなかった。

千恵造の妻に就ては述ぶべきことは余り無い。彼女は要するに、不幸な女だ。千恵造は彼女の容貌よりも、肉体に飽き足らなかった。賀来子と比較するからだった。当然賀来子を想い出し、別れてしまった筈の賀来子に逢瀬を求めた。賀来子は避けた。千恵造はその理由が納得出来ぬまゝに、やがて、いわれも無い嫉妬に苦しみ出した。煮え切らぬ男として定評のあった千恵造はこゝで、たんげいすべからざる情熱の男となった。

ある夜、千恵造は再び賀来子と駆落ちした。婚礼の夜から三月程後のことである。人々の驚きと怒りは、説明するまでも無い事だ。児子兄弟合資会社の一員という肩書だったが、千恵造は結局は月給七十円の会社の一会計係というに過ぎなかった、その待遇にあきたらなかったのか、あるいは、新しい妻が気に喰わなかったのかと人々は論議した。後者の方がむしろ真相に近いが、結局、総てを決したのは、賀来子の魅力だ。この魅力を、「弱き者の味方」という意地に置きかえることによって、千恵造は些かヒロイズムを味った。児戯に価することだ。が、そういう哀れな千恵造なればこそ、賀来子との腐れ縁が続けられたのかも知れぬ。

千恵造の出奔を切っ掛けとして、児子家は以後多事多端であった。

その一つ。権右衛門が統制違反で拘引された。沈没汽船引揚、及解体作業が完成して、愈々銅鉄品を売捌くに当って、闇取引をしたのである。鉄線一貫目三十銭以上に売るべからざるを一円四十銭に売ったその他いろ〱。「闇」をやらねば、幾らも儲からぬ事業だった。平野署に二十日間留置されて、権右衛門は帰宅した。留置中、彼は種々人生問題に就て、思案した。が、余り得るところもなかった。たゞ、一つ、之まで商売人は高く売るのが自慢だったが、今はそうでなくなったということに就て、深く納得するところがあった。一万円の罰金刑に処せられた。

その二つ。権右衛門の留置を機会に、政江は、「心霊研究」即ち、「神さん」に凝り出した。権右衛門の帰宅の日を「神さん」の先生がいい当てたのが動機である。「神さん」の先生は色魔ということだから、早晩、児子家では、家庭争議があるだろうと専ら噂されている。この間の事情に就ては述ぶべきことが多いが、何れはありきたりのものだ。

その三。児子千満子と某伯爵家次男との縁談は成立した。持参金は案外少くて、二万円だったということだ。

(十四、六、八)

底本 / Source edition

底本:「俗臭 織田作之助[初出]作品集」インパクト出版会
2011(平成23)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「海風 第五巻六号」海風社
1939(昭和14)年9月
初出:「海風 第五巻六号」海風社
1939(昭和14)年9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:kompass
校正:小林繁雄
2012年8月17日作成
青空文庫作成ファイル:
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リリース / Release
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
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織田 作之助「俗臭」(新字新仮名)、底本『俗臭 織田作之助[初出]作品集』インパクト出版会、2011年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 053805_000040, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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