Soranoha

リップ・ヴァン・ウィンクル

リップ・ヴァン・ウィンクル

アーヴィング ワシントン

水曜日ウェンズデイの名が由来した、

サクソン人の神ウォーデンに

誓って言う。

真理をこそ、わたしは常に守ろう、

おくつきに入るその日まで。

――カートライト

〔この物語は、ニューヨークの一老紳士、故ディードリッヒ・ニッカボッカー氏の記録のなかに発見されたものである。彼はこの地方のオランダ人の歴史や、その初期の移民の子孫たちの風習に、たいへん興味をもっていた。しかし、彼の歴史の研究は、文献をさぐるよりも、むしろ生きた人間についておこなわれた。彼の好んだ題目について記された書物はじつに悲しむべきほど少く、それにひきかえて、年とったオランダ市民たちはもちろんだが、ましてその細君たちが、真実の歴史にはなくてはならない貴重な口碑伝説をたくさん知っていることがわかったからである。だから、彼は、生粋のオランダ人一家が、ひろびろと枝をのばした鈴懸の木の下の、屋根の低い農家につつましく住んでいるのにたまたま出あうことがあれば、いつでも、その一家を、留めがねがついた、肉太文字で書かれた小さな一巻の書物に見たてて、本食い虫の熱心さでそれを研究した。

この研究全部の結果が、数年まえに出版されたオランダ総督の統治時代のニューヨーク州の歴史である。この著作の文学的な性質については、さまざまな意見が述べられてきたが、実をいえば、その出来ばえは、なみ以上にすぐれてはいないのである。その主なとりえはゆきとどいた正確さにある、それもはじめてこの書物が世に出たころには、じっさい、いくぶん問題になったのだが、その後まったく確かなものと認められ、今ではあらゆる史誌集に加えられて、疑う余地もない権威書とされている。

この老紳士は、その著作の出版ののち、ほどなく世を去った。もはや彼は亡なくなってこの世にいないのだから、彼の時間をもっと大切な仕事に使ったほうがずっとよかっただろう、といっても、さほど故人の名声をきずつけることにはなるまい。しかし、彼はとかく勝手気ままに自分の好きな道を進みたがった。そして、そのために時には少々砂ぼこりを蹴けたてて、まわりの人たちの眼をいため、自分では心から尊敬し愛情も寄せていた友人たちの心を悲しませることがあった。だが今となってみれば、彼の失策や愚行も「怒りよりも、むしろ悲しみの気もちで(訳註)」思い出されるのだ。そして、今では、彼が、決して人を傷つけたり怒らしたりするつもりはなかったのだ、と思われるようになってきている。しかし、彼の死後の名声が批評家たちからどう評価されようとも、その名は多くのひとびとに今もなお懐なつかしがられている。そして、彼らの立派な意見には耳をかたむけるだけのことはあるのだ。あるビスケット製造者たちのは殊ことにそうだが、この人たちは、その老紳士の似顔を新年の菓子に刻みつけさえして、彼を永遠に伝える機会をつくった。これはウォータールー記念章や、アン女王朝の銅貨に印されるのとほとんど同じことなのである〕

船でハドソン河をさかのぼったことのある人なら、だれでも、きっとカーツキル山脈を憶おぼえているにちがいない。それはアパラチヤ大山系から「アパラチヤ大山系から」はママ分離した一つの支脈で、はるかに河の西方に見え、気高く聳そびえ立って、そのあたり一帯に君臨している。季節が移りかわるごとに、天候が変化するごとに、いやそれどころか、一日のうちでも時々刻々に、この山々のふしぎな色や形は変化を見せるので、どこの女たちも、この山脈をくるいのない晴雨計だと思っている。よい天気がつづくときには、山々は青と紫とにつつまれて、澄みとおった夕空にくっきりとその輪郭を描きだす。しかし、時には、ほかのところに一点の雲もないのに、この山々は、その頂きに灰色の霧の頭巾ずきんをつけることもあり、それが夕陽の最後の光をあびて、栄光の冠とまごうばかりにきらきらと光り輝くのだ。

ハドソン河の船客は、この霊妙な山なみのふもとの村から、かるく煙が立ちのぼってゆくのを、みとめるだろう。その村の板葺いたぶき屋根が、木の間がくれにちらちら光っている、ちょうどそのあたりで、高地の紺青色こんじょういろが、近くの鮮かな緑色にとけこんでいる。それは小さな村だが、たいへん古く、この地方のひらけはじめた頃、ちょうどピーター・スタイヴァサント(安らかに眠りたまえ)の治世の初期に、数名のオランダ移住民が建設したもので、そこにはつい二、三年まえまで当初の移民の家がいく軒か残っていた。その家は、オランダから持ってきた黄色い小さな煉瓦れんがで建てられ、格子窓こうしまどがあって、正面は破風はふ造りで、棟には風見がのっていた。

まさにこの村の、まぎれもないこういう家の一軒に(ありのままの事実を言うと、それは年月を経て、いたましいほどに古び、雨風にさいなまれていたが)もうなん年も前のこと、この地方がまだ大英国の領地だったころに、素朴で人のよい男が住んでいて、その名をリップ・ヴァン・ウィンクルといった。彼はヴァン・ウィンクル家の末裔まつえいだったが、彼の祖先は、騎士道はなやかなりしピーター・スタイヴァサントの時代に武名をとどろかし、スタイヴァサントに従ってクリスティーナ要塞ようさいの包囲戦に加わったことがある。ところが、彼自身は祖先の尚武の気風をほとんど受けついでいなかった。わたしは、彼が素朴で人のよい男だと言ったが、そればかりではなく、彼は近所の人には親切で、また、女房の尻しりに敷かれた従順な亭主でもあった。じっさい、この女房に頭があがらないという事情のおかげで、あんなに気だてが優しくなり、だれにでも好かれるようになったのかもしれない。口うるさい女房に、家できびしくしつけられている男たちは、えてして外では人の言いなりになって折りあいがよいものなのだ。そういう男たちの性質は、たしかに、家庭の責苦という燃えさかる炉のなかで、自由自在に打ちのばしがきくようにされるのである。寝室でひとこと小言をきかされると云いうことは、世界中のあらゆる説教を聞いたも同然で、忍耐と辛抱の美徳を教えこまれるものだ。だから、ある見かたからすれば、口やかましい女房はかなりの恩恵だとも考えられる。もしそうなら、リップ・ヴァン・ウィンクルはこのうえもない果報者だったのである。

たしかに、彼は村じゅうの女房連のあいだにたいへんな人気があった。女というものはつねにそうであるが、この女房たちも、夫婦喧嘩げんかのときにはいつも彼の肩をもち、日ぐれどきの世間ばなしにこの話題が出ると、ヴァン・ウィンクルのおかみさんを、さんざんにこきおろしたものである。村の子供たちも、彼がやってくると、いつでも大喜びをして歓声をあげた。彼は子供たちといっしょに遊び、玩具おもちゃをつくってやったり、凧たこのあげかたやおはじきの仕方を教えたり、幽霊や、魔法使のばあさんや、インディアンの話を長々と聞かせてやった。彼が村をぶらぶら歩いてゆくと、かならず大ぜいの子供たちが彼を取りまいて、上衣うわぎの裾すそにぶらさがるやら、背中によじのぼるやら、さまざまのいたずらをしかけたが、一向に叱しかられはしなかった。それにこの界隈かいわいでは一匹の犬さえも彼にほえつこうとはしなかった。

リップの性質の大きな欠点は、何ごとによらず金になる仕事をするのが、いやでいやでたまらなかったことだ。それはなにも、一生懸命になってやる気がないからとか、根気が足りないからとかいうのではなかった。その証拠に、彼は濡ぬれた岩の上に腰をおろし、韃靼だったん人の槍やりほどもある長くて重い釣竿つりざおをもって、日がな一日釣をして、ぶつりとも言わず、たとえ魚がいっぺんも食いつかなくても、まったく平気なのだ。彼は猟銃を肩にして、なん時間もぶっとおしに、重い足をひきずりながら、森をぬけ、沼地を渡り、丘を越え、谷をくだって、あげくのはてに、栗鼠りすや野鳩のばとをほんの二つ三つ射うちとめたものである。彼は近所の人の手つだいならば決してことわらず、どんな荒仕事でもした。田舎の陽気な野良のら仕事には、真先きに立って働き、玉蜀黍とうもろこしの皮をむいたり、石垣をきずいたりした。村の女たちも、彼に使い走りに行ってもらったり、彼ほど親切ではない亭主たちがしてくれない半端はんぱな用事をいつも彼にたのんだりするのだった。一口にいうと、彼はだれの用事でも喜んで引きうけたが、自分の仕事は駄目で、一家のつとめや、自分の畠はたけの手入れとなると、とてもする気になれなかったのである。

現に彼ははっきりと、うちの畠はいくら手を加えてみてもなんの甲斐かいもない、こいつときたら、この地方一帯でもいちばん厄介な地所で、何をしても、ひとつとしてうまく行ったためしはないし、またどんなに頑張ってもうまくゆくはずがないと言っていた。垣根はいつもばらばらにくずれ、牝牛めうしはどこかへ迷っていってしまったり、キャベツ畑へ入りこんだりした。雑草はたしかに彼の畠では、ほかのところより早くのびた。彼が何か家のそとで仕事をしようとするときにかぎって雨が降りだす。そういうわけで、彼の父祖伝来の地所は、彼が管理するようになってからは少しずつ減ってゆき、今は玉蜀黍と馬鈴薯ばれいしょの畠がほんのわずか残っているだけだ。それでもまだ、それはこの界隈でいちばん手入れのゆきとどかない畠だった。

彼の子供たちもまた、ぼろぼろのなりをして、野育ちで、まるで親のない子のようだった。息子のリップは、いたずら小僧で父親に生きうつしで、やがては父親の古着といっしょに、その性癖まで受けつぐことはあきらかだった。彼が小馬のようにちょこちょこと、母親のあとについて歩いてゆくのがよく見受けられたが、父親の穿はきすてただぶだぶのズボンをはいていて、えらく骨を折ってそのズボンを片手でたくしあげる様子は、ちょうど貴婦人が、天気の悪い日にスカートの裾をもちあげて歩くのに似ていた。

しかし、リップ・ヴァン・ウィンクルは、いわゆるおめでたい人間の一人で、間のぬけた、呑気のんきな性質だった。のんびりとこの世をくらし、白パンであろうと、黒パンであろうと、なるべく頭をつかったり骨を折ったりしないで手に入るほうを食べ、働いて一ポンドの金をかせぐよりは、むしろ一ペンスしかなくても腹を空すかせているほうがよかった。もし気の向くままにほっておいたら、口笛でも吹きながら、しごく満足して一生をすごしたことだろう。しかし、彼の女房は、彼の耳もとで、のべつまくなしにがなりたてて、やれぐうたらだ、やれのんきすぎる、いまに一家が路頭に迷うようなことになる、と言って責めたのである。

朝も、昼も、夜も、彼女の舌はやむことなく動き、彼の言うことやすることは何でも、彼女のとめどもなくものすごいおしゃべりのたねになってしまう。リップには、こういう説教に答えるのに、たった一つの策しかなかった。そして、それはたびたびやっているうちに癖になってしまっていた。彼は肩をすくめ、頭をふり、空を仰いで、ひとことも口をきかずにいるのだった。しかし、これはきまって女房から新たに一斉射撃を浴びせられる種になった。そこで、彼は旗を巻いて退却し、家のそとへ逃げてゆくより仕方がなかった。じっさい、女房に天下をとられた亭主の逃げ場所といえば、ただ家のそとがあるばかりである。

家のなかでリップの味方をするのは、犬のウルフだけだったが、この犬がまた主人に負けず劣らず、はなはだ細君に頭があがらなかった。ヴァン・ウィンクルのかみさんは、彼らをのらくら仲間と見て、意地の悪い目でウルフをにらみつけ、主人がむやみにふらつき歩いているのはこの犬のせいだ、と言わんばかりだった。じっさい、ウルフはどこから見ても立派な犬にふさわしい気性をそなえていて、どんな猟犬にも劣らず勇敢に、獲物を追って森の中を駈かけまわった。だが、いかに勇気があったとしても、絶えまなく四方八方から攻めたてる恐ろしい女の舌には対抗できない。ウルフは家に入るなり、うなだれてしまい、尾は地面に垂れさげるか、股またのあいだに捲まきこんで、絞しばり首にでもされるような様子でおずおずと歩き、しきりにヴァン・ウィンクルのかみさんを横目でうかがうのだった。そして、ほんのちょっとでも箒ほうきの柄や柄杓ひしゃくをふりあげようものなら、悲鳴をあげて、戸口のほうへすっとんでゆくのだ。

連れそう年月がたつにつれて、リップ・ヴァン・ウィンクルの形勢はますます悪くなる一方だった。とげとげした性質は、年をへてもやわらぐものではなく、毒舌は使えば使うほど鋭くなる唯一ゆいいつの刃物である。もう久しいこと、彼は、家から追いだされると、村の賢人や、哲学者や、そのほかの怠けものがあつまる一種の常設クラブのようなところへ通っては、みずからを慰めることにしていた。そのクラブは、ジョージ三世陛下の赤ら顔の肖像を看板にかかげた、小さな宿屋のまえのベンチで会合をひらくのだ。ここで彼らは、長いものうい夏の日に、一日じゅう木かげに腰をすえて、大儀そうに村の噂話うわさばなしをしたり、いつ果てるともしれぬ、とりとめのない話をしたりするのだった。しかし、たまたま通りすがりの旅行者から、古新聞が手に入ったりすると、深遠な議論がおこることもあった。それはどんな政治家でも金をはらって聞くだけの価値のある議論であったろう。彼らはまったくもってまじめくさってその新聞の内容を傾聴したものだ。勿体もったいぶってゆっくりと新聞を読みあげるのは、デリック・ヴァン・バンメル校長先生だ。この人は、身なりのきちんとした、学問のある小男で、辞書にあるどんなむずかしい言葉にも決してひるむことはない。そして、彼らは実にえらそうな顔をして、国家問題を論じあったものだ。もっとも、問題が起ってから数カ月もたってはいたが。

この一党の意見を完全に牛耳っていたのは、ニコラス・ヴェダーといって、村の長老で、この宿屋のあるじだった。彼はその宿屋の門口に、朝から晩まで腰をすえ、日光を避けて、いつも大きな木の蔭かげに入っているようにするほかには動かなかった。だから近所の人たちは、彼が席を移したところによって、日時計とおなじくらい正確に時刻を知ることができた。じっさい、彼はめったに口をきかないで、絶えずパイプをくゆらしていた。しかし、彼の子分ども(偉い人物には、かならず子分がいるものだ)は、すっかり彼の心を了解していて、彼の意見を推測する方法を心得ていた。だれかが読んだり話したりしたことで、気に入らないことがあると、彼は猛烈にパイプをふかし、怒って、しきりにすぱすぱ煙を吹きだすのが目についた。しかし、お気に召したときには、ゆっくり静かに煙を吸いこみ、かるい雲のようにふわりと吐きだすのだ。ときには口からパイプをとって、香りのよい霞かすみのような煙を鼻のあたりにうずまかせながら、重々しくうなずいて、大賛成の意をあらわすのだ。

この砦とりでからも、不幸なリップはついにがみがみ女房のために、いやおうなしに追いだされてしまった。彼女は不意にこの平穏な集会のなかに押し入って、一座のひとびとを頭ごなしにどなりつけるのだ。あのいかめしい人物のニコラス・ヴェダーでさえ、この恐ろしい女丈夫の毒舌をまぬがれることはできなかった。彼女は彼に向い、亭主をそそのかして怠け癖をつけたのはおまえさんだと言って、まっこうから食ってかかった。

あわれなことに、リップは、しまいにはほとんど絶望の淵ふちにおちてしまった。畑仕事や女房のがなりたてる声から逃れるには、銃を手にして森のなかへ迷いこむよりほかに手段はなくなった。彼は森のなかで、ときどき木の根もとに腰をおろして、ウルフと弁当を分けあうのだった。彼は、共に迫害に苦しむ仲間として、ウルフに同情をよせていた。「かわいそうにな、ウルフ」と彼はよく言った。「おまえの女主人はおまえにみじめな暮しをさせているな。だが、気にかけるんじゃないよ、な。おれが生きているかぎり、おまえの友だちになって味方してやるからな」ウルフは尾をふって、主人の顔をものおもわしげに見入るのだった。もし犬にも憐あわれと思う心があるものなら、ウルフのほうも、心の底から主人をあわれんでいたに相違ない。

よく晴れた秋の日「秋の日」はママ、こんなふうにして長いことぶらぶら歩いているうちに、リップはいつのまにか、カーツキル山脈のいちばん高い峰の一つに登っていた。彼は大好きな栗鼠撃ちをしていた。銃声がしじまにこだまし、またこだまをかえした。息もきれぎれに疲れはてて、彼は午後もおそくなってから、山の、草におおわれた緑の丘に身を投げだした。そこはちょうど断崖だんがいの端の頂きになっていた。木立のすきまから、彼は、なんマイルにもわたって鬱蒼うっそうとした森林がつづいている低い地方をいちめんに見おろした。遠く、はるか下のほうには、堂々たるハドソン河が望まれ、紫色の雲のかげや、たゆたう小舟の帆影を、その鏡のような水面のここかしこに、眠たげに映しながら、音もなく、荘厳そうごんに流れ、やがて青い高地のあいだにその姿を消していった。

ふりかえって見おろせば、そこは深い峡谷で、荒れはてて、ものさびしく、草木がぼうぼうとおいしげり、その谷底はそばだつ断崖から崩れおちた岩のかけらで埋まり、夕映えの光もほとんどさしこまなかった。しばらくのあいだリップは、寝ころんだまま、この光景に見入っていた。夕暮れは次第に濃くなり、山々は長い青い影を谷間に投げかけはじめた。これでは村に着かないうちにすっかり暗くなってしまうだろうということに彼は気がついた。女房の恐ろしい剣幕に出会うことを思って彼は深い溜ため息をもらした。

彼が山をおりようとしたとき、遠くのほうから「リップ・ヴァン・ウィンクル、リップ・ヴァン・ウィンクル」と呼びかける声がきこえてきた。彼はあたりを見まわしたが、烏からすがただ一羽、山の上を羽ばたいてゆくほかには、何も見えなかった。きっと気のせいだろうと思って、ふたたびおりてゆこうとした。そのとき、同じ呼び声が森閑とした夕ぐれの大気にひびきわたった。「リップ・ヴァン・ウィンクル、リップ・ヴァン・ウィンクル」と同時に、ウルフは背中の毛を逆立てて、一声ひくく唸うなり、主人のかたわらにこそこそと近より、恐ろしげに谷間を見おろした。リップはこのとき、訳のわからぬ気味悪さが身に迫ってくるのを感じ、不安げに同じ方向を見た。すると奇妙な姿をした者が、何か背中に重いものを背負って、前かがみになりながら、ゆっくりと岩をよじのぼってくるのが目に入った。彼は、こんなさびしい人のかよわぬところに、人間のすがたを見たのでびっくりしたが、これはだれかこの近辺のものが助けをもとめているのだろうと思い、手をかしてやろうと、急いでおりていった。

近づいてみると、彼はその見知らぬ人の様子の風変りなのにますます驚いた。背の低い角ばった体格の老人で、かみの毛は濃くて、ぼさぼさしており、胡麻塩ごましおひげをはやしていた。服装はずっと古いオランダ風で、布製の胴着の腰を帯紐おびひもでしめ、半ズボンをなん枚も重ねてはいていたが、そのいちばん外側のはだぶだぶで、両側には一列に飾りボタンがつき、両膝りょうひざには房がついていた。彼は肩に、酒がいっぱい入っているらしい頑丈な樽たるをかついでいて、こっちへきて荷物に手をかしてくれとリップに合図した。この初めて会った知合いに多少きまりが悪く、不安でもあったが、リップは例によってすぐさま申し出に応じた。そこで、かわるがわる樽をかつぎながら、二人は、水の涸かれた渓流の川床らしい狭い峡谷をよじのぼって行った。登るにつれて、リップはときおり長く余韻をひく遠い雷のようなひびきを耳にした。それは高い岩と岩とのあいだの深い峡谷から、というよりはむしろ、その割れ目からきこえてくるように思われた。二人の進む嶮けわしいみちはそのほうに通じていた。リップはちょっと立ちどまったが、これは高山でときどき起る一時的な雷雨のひびきだろうと思って、また歩きつづけた。峡谷を通りぬけると、切りたった絶壁にかこまれた小さな円形劇場のような窪地くぼちへ出た。その絶壁の縁には、木々がおおいかぶさるように枝をさしのべているので、青空と明るく輝く夕やけ雲とがちらっと見えるだけだった。ここまでずっとリップとその連れとは黙々として一生懸命に登ってきた。このような人けのない山のなかに、なんのために酒樽を運びあげるのか、リップにはひどく不審に思われたのだが、この見知らぬ男には何か妙な得体の知れないところがあって、そのために恐ろしい気がして、馴なれなれしくできなかったのである。

円形劇場にはいると、新たにふしぎなものがあらわれた。真中の平らな場所で、一団の奇妙な様子の人たちがナインピンズをして遊んでいた。彼らは変った異国風な服装をしていた。あるものは短い上衣うわぎを着、あるものは胴着を着て、いずれも帯に短剣をたばさんでおり、大部分はその案内者とおなじ型のだぶだぶの半ズボンをはいていた。彼らの顔つきも一風かわっていた。長い顎あごひげを生やし、四角ばった顔で、豚のような小さい眼をしているものもいれば、また、鼻ばかりでできあがっているような顔をしていて、白いすり鉢形の帽子をかぶり、そのうえに赤い小さな鶏の尾羽をつけているものもいた。みなそれぞれ顎ひげを生やしていたが、その形も色もさまざまだった。そのなかにひとり頭目とおぼしきものがいた。その男はがっしりした老紳士で、雨風にたたかれてきたような風貌ふうぼうをしていた。彼はレースのついた上衣を着て、幅の広い帯に短剣をさし、羽根飾りのついた山高帽をかぶり、赤い長靴下をはき、踵かかとの高い短靴にはばらの花かざりをつけていた。この一団のひとびとを見てリップがおもいだしたのは、村の牧師ドミニー・ヴァン・シャイクの客間にある古いフランダース派の絵のなかの人物だった。その絵は、むかし移住の時代にオランダから持ってこられたものである。

とりわけリップに奇妙に思われたのは、この連中が、あきらかに遊び興じているのに、このうえなくしかつめらしい顔をし、ふしぎに黙りこくっていて、まったく今までに見たこともないような陰気な遊び仲間だったということである。この場の静けさをやぶるものは、ナインピンズの球のひびきだけで、球がころがるたびに、その音は雷鳴のように山々を伝ってこだました。

リップとその連れが近づいてゆくと、彼らは急に遊戯をやめ、じっと動かない彫像のような目つきをして、異様な、ふしぎな、生気のない顔でにらんだので、リップの心はおじけづき、膝ががくがくふるえた。彼の連れは、そのとき、樽の中味をいくつかの大きな酒壜さかびんにあけかえ、リップに合図して、一座のものに給仕するように命じた。彼は恐ろしさにふるえながら、指図にしたがった。一同は黙りこくったまま、酒をぐいぐい飲むと、また勝負にとりかかった。

次第にリップの恐怖や不安はおさまっていった。彼は、だれの目も自分にそそがれていないすきをみて、思いきってその飲みものを味わってみるほどになったが、その風味は上等のオランダ酒そのままのようだった。リップは生まれつき酒好きだったので、すぐにまた一杯やりたくなった。一口のむとまた一口に手が出て、あまりなんどもなんども酒壜をかたむけていたので、ついに正気を失い、目がくるくるまわって、次第に頭が垂れさがり、そのままぐっすり眠りこんでしまった。

眼をさましてみると、彼は緑の丘のうえにいるのだった。谷間にはじめて、あの老人を見たところである。彼は眼をこすった。うららかな太陽の照り輝く朝だった。小鳥は茂みのなかで跳びながらさえずっていた。鷲わしが一羽空高く輪をえがいて、けがれのない山のそよ風を胸にうけて舞っていた。「まさか」とリップは思った。「おれは一晩じゅうこんなところで寝たんじゃあるまいな」彼は寝こむまえのいろいろなできごとを思いかえしてみた。酒樽をかついだ奇妙な男、山の峡谷、岩のなかの荒れはてた隠れ場所、ナインピンズをしている陰気な連中、酒壜。「ああ、あの酒壜。あいつが怪けしからんのだ」とリップは思った。「女房にどう言いわけをしたらよいだろう」

彼はあたりを見まわして銃をさがしたが、磨いて油をひいてある鳥打ち銃のかわりに、古い火縄銃がかたわらにころがっているのを見つけた。銃身は錆さびだらけで、銃機はおちかかり、台尻だいじりは虫にくわれている。そこで彼は、あのしかつめらしい顔をした山の威張り屋どもが自分をだまし、酒を盛って酔いつぶし、銃をうばいとったのだろうと思った。ウルフも姿を見せなかったが、栗鼠りすかしゃこを追って、おそらくどこかへ迷いこんでしまったのだろう。彼は口笛を吹き、その名を呼んでみたが、なんの甲斐かいもなかった。山びこが彼の口笛と呼び声とを繰りかえすだけで、犬の姿はまるで見当らなかった。

彼は昨夜の遊戯場にもう一度行ってみて、もしあの連中のうちのだれかに出あったら、犬と銃とを返してもらおうと決心した。彼は立ちあがって歩こうとしたが、からだの節々がこわばって、いつものようにはきびきびと動けないのに気がついた。「こういう山の寝床はおれには向かんわい」とリップは考えた。「もしこんな浮かれさわぎのおかげで、リュウマチの発作でもおこして寝こもうもんなら、女房のやつにさぞありがたい目にあわされるだろうな」どうにかこうにか、彼は谷間へおりていった。彼は、ゆうべ自分が連れといっしょに登った峡谷を見つけはしたが、おどろいたことに、今は渓流が泡を立てて流れおち、岩から岩へ飛びちって、せせらぎが谷間いっぱいにあふれていた。しかし、彼はどうにかその縁をよじのぼり、白樺しらかばや樟くすやまんさくの林のなかを、やっとのことで通りぬけ、ときには野生の葡萄ぶどうづるにつまずいたりからまったりした。葡萄づるは木から木へ蔓つるや巻ひげをまきつけ、彼の行くみちに網をひろげていたのである。

とうとう彼は、峡谷が断崖のあいだをぬけて、円形劇場へと通じていた場所にたどりついた。しかしあの通路は跡形もなかった。岩は通りぬけられないほどの高い壁をつくっていて、その上からは、激流が羽毛のような水しぶきをあげて流れおち、周囲の森のかげで暗くなった広くて深い滝つぼに落ちこんでいた。あわれなリップはここで行きづまってしまった。彼はふたたび犬の名を呼び、口笛を吹いた。それに答えたのは、一群の怠け烏のかあかあ鳴く声だけだった。その烏どもは、陽あたりのよい断崖の上に差しでた枯木のあたりの空に、高々と舞ってあそんでいたが、高いところにいるのをいいことにして、途方にくれた憐れな男を見おろし嘲笑ちょうしょうしているように見えた。どうしたらよいだろう。朝も過ぎようとしていた。リップは朝飯を食べていないので、ひどく空腹を感じていた。彼は犬と銃とをあきらめるのが悲しかったし、女房にあうのは恐ろしかった。かといって、山のなかで餓死したところで何になろう。彼は首をふると、錆びついた火縄銃を肩にして、当惑と心配とで胸をつまらせながら、家の方に足を向けた。

村に近づくにつれて、彼は大ぜいのひとびとに出あったが、顔見知りの人はひとりもいなかった。これにはいささか驚いた。この近在の人なら、だれでも知り合いだと思っていたからである。彼らの服装が、また、彼の見なれていたものとは違った型のものだった。彼らのほうでもみな彼を見つめて、同じくびっくりした様子だった。そして、彼に眼を注ぐと、だれもかれも自分の顎をなでた。こういうしぐさが絶えず繰りかえされるので、リップは思わず知らずつりこまれて、顎に手をやった。すると、驚いたことに、顎ひげが一尺ものびていたのだ。

彼はもう村はずれに入っていた。見知らぬ子供たちの群があとについてきて、うしろからわいわい囃はやしたて、灰色の顎ひげをゆびさした。犬もまた昔なじみのものは一匹として見あたらず、彼が通りかかると吠ほえたてた。村そのものも変っていた。以前より大きくなり、人もずっと増えていた。前には見かけたこともない家が建ちならび、彼がよく出入りした家はひとつもなくなっていた。見知らぬ名前の標札が戸口にかかり、見知らぬ顔が窓に見え、何もかも知らないものばかりだった。彼は不安になってきた。自分がまわりの世界といっしょに魔法にかけられているのではないかと疑いはじめた。たしかにここは自分が生れた村で、ここを出たのはつい昨日のことだ。カーツキル山脈がそびえている。遠くには銀色のハドソン河が流れている。どの丘もどの谷も寸分たがわず前のままだ。リップはすっかり途方に暮れてしまった。「昨夜のあの酒壜が」と彼は思った。「おれの頭をまるでめちゃめちゃにしてしまったのだ」

彼はやっとのことで自分の家に行く道を見つけ、黙っておそるおそる家に近づいて行きながら、今か今かと女房のかんだかい声がきこえてくるのを待ちかまえていた。家は朽ちはてていた。屋根は落ちこみ、窓は破れ、扉は蝶ちょうつがいがはずれていた。ウルフに似た餓死しかかった犬が、そのまわりをこそこそ歩いていた。リップは犬の名を呼んでみたが、そのやくざ犬は唸り声をあげ、歯をむいて、行ってしまった。これはまったくひどい仕打ちだった。「おれの犬までが」とリップは溜め息をついて言った。「おれを忘れてしまったわい」

彼は家に入った。ほんとうの話、その家はヴァン・ウィンクルのかみさんが、いつもきちんとしておいたものだった。それががらんとしてものさびしく、住む人もないらしかった。この荒れはてたさまに、女房の恐ろしさも消えうせ、彼は大声で妻子を呼んだ。人けのない部屋が、一瞬彼の声で鳴りひびいたが、またひっそりと静まりかえってしまった。

そこで彼はそとへとび出し、昔よく行きつけた村の宿屋へ急いだ。だが、それもなくなっていた。それにかわって、大きながたぴしの木造の建物が建っていた。窓はぽっかりと大きな口をあけ、それもいくつかこわれ、古帽子や着古しのペティコートでつくろわれており、扉の上にはペンキで「ユニオン・ホテル、経営者ジョナサン・ドゥリトル」と書いてあった。かつてはあの大木が静かな小さいオランダ風の宿屋に影をなげかけていたのに、今は高いはだかの竿さおが一本立っており、てっぺんに赤いナイトキャップのようなものがついていて、そこから、星と縞しまとをおかしな工合ぐあいに組みあわせた旗がひるがえっていた。こういうことは何から何まで妙で、合点がいかなかった。けれども、彼は看板にジョージ陛下の赤ら顔をみとめた。その肖像の下で、彼はいくたびとなくのどかにパイプをくゆらしたものだった。だが、このジョージ陛下さえも妙に変っていた。赤い軍服は、青と浅黄色との上衣にかわり、手には王笏おうしゃくのかわりに剣をもち、頭には縁のそりあがった三角帽をかぶり、下にはペンキの大きな文字で、ワシントン将軍と書いてあった。

戸口のあたりにはいつものように人だかりがしていたが、ひとりとしてリップに見おぼえのある人はいなかった。ひとびとの性質までが変ってしまったように思われた。あのなじみの深いゆったりとした睡ねむけをさそう静けさはなくなり、なんとなく忙しげにざわついていて、議論好きなふうがあった。賢者のニコラス・ヴェダーを探しても見あたらなかった。あの人は、顔は幅広で二重顎、立派な長いパイプを手にして、煙草たばこの煙を雲のように吐きだし、無駄口などたたかなかったものだ。また、古新聞の記事をぼそりぼそり読みあげる校長のヴァン・バンメル先生をさがしても無駄だった。こういう人たちのかわりに、痩やせた気短かそうな男が、ポケットにいっぱいびらをつめこんで、人民の権利、選挙、国会議員、自由、バンカーズ・ヒル、一七七六年の英雄たち、だのなんだのとさかんにわめきちらしていたが、当惑しきっているヴァン・ウィンクルには、唐人の寝言のようでさっぱり訳がわからなかった。

リップが長い胡麻塩ひげを生やし、錆びついた鳥打ち銃をもち、奇態な服装で、大ぜいの女子供をうしろに従えてあらわれると、すぐに政治家気取りの酒場の論客たちの目をひいた。彼らはリップのまわりに集って、頭から足の先までひどくもの珍らしそうにじろじろと見た。くだんの弁士が、急いでリップのところへきて、彼をちょっと脇わきへ引っぱってゆき、「どちらへ投票するのか」とたずねた。リップはぽかんと間のぬけたように眼を見はった。別の背の低い、こせこせした男が、彼の腕を引っぱり、爪先立つまさきだって彼の耳もとでたずねた。「君は連邦党か、民主党か」リップは前と同様、質問の訳がわからず途方にくれた。このとき、尖さきのとがった縁反りの三角帽子をかぶった心得顔の尊大な老紳士が、肘ひじでひとびとを左右に押しわけ、群衆のあいだを縫ってきて、ヴァン・ウィンクルの前に立ちはだかった。片腕を腰に当て、もう一方の腕をステッキにのせたが、その鋭い眼光ととんがり帽子とは、まるでリップの心の奥までつらぬくばかりだった。この男はきびしい口調でリップに問いただした。「なんだっておまえは選挙にくるのに、銃をかつぎ群衆をひきつれてきたのだ。村に暴動でもおこすつもりなのか」

「ああ、みなさん」とリップはややうろたえて叫んだ。「わしは、ここの生まれの、つまらない、おとなしいもので、王様の忠義な臣民です。王様万歳」

すると、まわりの見物人たちがいっせいに騒ぎたてた。「王党だ、王党だ、スパイだぞ、亡命者だぞ。追いだせ、叩たたきだせ」

例の三角帽のもったいぶった男が、やっとのことで一同を鎮しずめると、十倍もいかめしい顔つきをして、またこの素性の知れぬ未決囚にむかい、なんのためにここへきたのか、だれを探しているのか、と詰問きつもんした。憐あわれなリップはおずおずと、自分は悪意があるわけでなく、ただ、いつも近所の人たちがこの宿屋のあたりにきているので、ここへ探しにきただけなのだ、とへりくだって言った。

「なるほど、それはだれだ。名前を言ってみたまえ」

リップはちょっと考えてからたずねた。「ニコラス・ヴェダーさんはどこにおりますかい」

しばらく答えるものはなかったが、やがてひとりの老人が細いかんばしった声で言った。「ニコラス・ヴェダーさんだって。おやおや、あの人は十八年もまえに死んでしまったよ。教会の墓地に、木の墓標があってな、あの人のことが残らず誌しるしてあったんじゃが、それも今は腐って、なくなってしまったわい」

「ブロム・ダッチャーさんはどこにおりますかね」

「ああ、あの人は戦争のはじめに陸軍へ入隊しなさったが。ストーニー・ポイントの攻撃で戦死したという人もいるし、アントニーズ・ノーズのふもとで嵐あらしにあって溺おぼれ死んだという人もおるがね。わたしはよく知らないんじゃが、二度と戻ってこなかった」

「ヴァン・バンメル校長先生はどうしましたね」

「あのかたも戦争に行かれて、国民軍の偉い大将じゃったが、今は国会議員になんなさったよ」

故郷や友人たちにこんな悲しい変化があったのを聞き、自分がこの世の中にひとりぼっちになってしまったのを知って、リップは心細くなってしまった。どの返事をきいても、ひどく長い年月が経たったような話だし、さっぱり訳のわからぬことをいうので、彼は困りきってしまった。戦争、国会、ストーニー・ポイント。彼はこれ以上ほかの友人のことを聞く勇気もなくなり、絶望のあまり大声で叫んだ。「ここにいるかたで、リップ・ヴァン・ウィンクルを知っている人はいませんか」

「ああ、リップ・ヴァン・ウィンクルか」と二、三のものが叫んだ。「ああ、知ってるとも。あれ、あそこにいるのがリップ・ヴァン・ウィンクルだよ。木によっかかっているのがね」

リップは見た。すると、山に登ったときの自分に瓜二うりふたつの男が目に入った。自分同様、いかにもものぐさらしいし、じっさい、ぼろをまとっているところはおなじだった。憐れなリップは、まったく頭がこんがらかってしまった。自分の正体があやしく思われ、自分がほんとうに自分なのか、それとも別の人間なのか疑わしくなった。彼が当惑しきっていると、くだんの三角帽子の男が、おまえはいったいだれなのか、名はなんというのか、と訊きいた。

「知るもんか」とリップは思案にあまって叫んだ。「おれは自分じゃない。だれかほかの人間だ。向うにいるあれがおれだ。そうじゃない。あれはおれの後釜あとがまにすわっただれか別な男だ。おれはゆうべはおれだったが、山の上で寝こんでしまって、鉄砲はかえられるし、何もかも変って、おれまでかわってしまった。自分の名前も、自分がだれなのかもわからない」

まわりで見ていた人たちは、このとき互いに顔を見合わせ、うなずき合い、意味ありげに目くばせして、額を指でたたいた。また、囁ささやき声で、鉄砲を取りあげて、その老人に危いまねをさせないようにしたら、というものもいた。この言葉を耳にしただけで、あの三角帽子の尊大な男は、いささかあわててその場をひきさがった。みんなが息をのんだ瞬間に、一人の若々しい器量のよい女が、人だかりを押しわけて、この胡麻塩ごましおひげの男をのぞきにやってきた。女はまるまると肥ふとった子を抱いていたが、その子は彼の様子におどろいて泣きだした。「おだまりよ、リップ」と彼女は大声で言った。「おだまり、お馬鹿ばかさんね。あのおじいさんは何もしやしないよ」子供の名といい、母親の様子といい、声の調子といい、すべてが、つぎつぎと彼の心に記憶を呼びおこした。

「おまえさんの名はなんというのかね、おかみさん」と彼がたずねた。

「ジュディス・ガーディニアです」

「で、お父さんの名前は」

「ほんとに、気の毒ですわ。リップ・ヴァン・ウィンクルっていうんですけど、二十年も前に鉄砲をもって家を出られたっきり、その後なんの音沙汰おとさたもないんです。犬だけひとりで帰ってきましたけど、お父さんが鉄砲で自殺なさったのやら、インディアンにさらわれておしまいになったのやら、だあれにもわからないんです。あたしはそのころまだほんの子供でしたわ」

リップはもう一つだけ聞きたいことがあった。それを言うときには、声がふるえた。

「お母さんはどこにいるのかね」

「あら、お母さんもつい先頃亡なくなりました。ニューイングランドの行商相手にかんしゃくをおこして、血管を破ってしまったんです」

この知らせで、少くともいくらか気楽になった。この正直な男は、もう我慢ができなくなった。彼は娘とその子を抱きしめた。

「わしはおまえのお父さんだよ」と彼は叫んだ。「むかし若かったリップ・ヴァン・ウィンクルさ。今はおじいさんのリップ・ヴァン・ウィンクルだよ。だれも憐れなリップ・ヴァン・ウィンクルがわからないんですか」

みな驚いて突ったっていた。やがて一人の老婆ろうばが群衆のなかからよろよろと出てきて、片手を額にかざし、その下からリップの顔をちょっとのぞいて、叫んだ。「たしかにそうだよ。リップ・ヴァン・ウィンクルさんだよ。あの人だよ。よくまあお帰りなさった、あんたさん。ほんにまあ、二十年もの長いあいだ、どこへ行ってなさった」

リップの話はすぐにすんだ。丸二十年が彼にはたった一夜に過ぎなかったからだ。近所の人たちはその話をきいて目を丸くした。互いに目くばせしたり、舌で頬をふくらませたりしているものもいた。三角帽子をかぶった尊大な男は、もう危険がないとなると、またこの戦場にもどってきていたが、口をへの字にむすび、首を振った。それにあわせて、集っている人たちもみな同じように首を振った。

ともあれ、一同はピーター・ヴァンダドンク老人の意見をうかがうことにした。すると彼が悠々と道を歩いてくるのが見えた。彼の祖先にはこの地方のいちばん古い記録を著した同じ名前の歴史家があった。ピーターはこの村きっての古老で、この近隣のふしぎなできごとや伝説にはことごとく通じていた。彼はすぐにリップを思いだし、よく納得のゆくようにリップのした話を証拠立てた。彼が一同に向って述べたところによると、カーツキル山脈にむかしから異様なものが出没することは、自分の祖先の歴史家から伝えられている事実である。また、ハドソン河とこの地方とをはじめて発見した偉人ヘンドリック・ハドソンが、半月丸の乗組員をひきつれて、二十年目ごとにその山で寝ずの番のようなことをするのも確認されている。このようにして、彼は自分が探険した現場を繰りかえし訪ね、自分の名がつけられているハドソン河とハドソン市とを守護することを許されているのである。かつてピーター老人の父親は、彼らが古風なオランダ服を着て、山の窪地くぼちでナインピンズをしているのを見たことがあるし、ピーター老人自身も、ある夏の午後、彼らの球の音が遠雷のとどろきのようにひびくのを聞いたことがある、ということだった。

手短かに話すと、一同はちりぢりになって、もっと大切な選挙の騒ぎへともどっていった。リップの娘は、父親を家に連れて帰り、いっしょに暮らすことにした。彼女は、こぢんまりした造作のととのった家をもち、大丈夫で陽気な農夫をつれあいにしていた。リップはその男が、よく自分の背中によじのぼった腕白小僧の一人であることを思いだした。リップの跡取り息子はというと、さっき木によりかかっていた父親に生き写しの男だが、これは野良のら仕事にやとわれていた。親譲りの性格まるだしで、なんにでも首をつっこむが、自分の仕事はそっちのけだった。

さて、リップは、昔のような出歩きやそのほかの習慣をふたたび始めた。彼はやがて、以前の親しい友達を大ぜい見出みいだしたが、みなどうやら寄る年波で弱っていた。そこで彼は好んで若い人たちと交わるようにしたので、間もなく彼らから大へん好かれるようになった。

これといって家でする仕事もなく、怠けていてもどうこういわれぬ、いわゆるありがたい年齢にもなっていたので、彼はまた宿屋の戸口のベンチに席をしめ、村の長老の一人として敬われ、「独立戦争前」の古い時代の年代記として崇あがめられた。しばらくすると、彼は、まともな噂話うわさばなしの仲間入りができるようになったし、昏睡こんすいしているあいだに起きた、変ったできごとがのみこめるようにもなった。革命戦争があったこと、この国が昔の英国の支配を脱したこと、自分はジョージ三世陛下の臣民ではなく、今は合衆国の自由な市民であること、こういったことのいきさつがわかってきた。実のところ、リップはまったく政治には門外漢だった。国家や帝国がどう変ろうと、彼にはほとんどなんの感慨も湧わかなかった。けれども、ある種の専制政治があって、彼は長いことその下で苦しんでいたのだった。それは、嬶天下かかあでんかだった。幸いなことにそれも終っていた。結婚生活の首かせがはずれたので、彼は女房の専制を恐れることもなく、いつでも好きなときに出かけ、好きなときに帰ることができた。しかし、女房の名前が出ると、彼は首を振り、肩をすくめ、空をふり仰いだ。それは自分の運命をあきらめた表情とも見えるし、解放された喜びの表情とも受けとれよう。

彼は、ドゥリトルの旅館に知らぬ人が着くと、だれにでも自分の話をしてきかせた。はじめのうちは話すたびに、ところどころ違っていたが、それはたしかに、彼が眠りから醒さめてまだ間もなかったからだ。しまいには、わたしが今まで述べた話の通りにぴったり落ちつき、この界隈かいわいでは男も、女も、子供も、それを暗記していないものはなかった。なかには、いつもその話の真実を疑うようなふりをして、リップは頭がどうかしていたのだ、だから、いつでもとりとめがないんだ、と言いはるものもいた。しかし、年とったオランダ人たちは、ほとんどみなこの話を信じきっていた。今日でも彼らは、カーツキルの山のあたりに、夏の午後、雷鳴をきくと、かならずヘンドリック・ハドソンとその部下の乗組員たちとがナインピンズをして遊んでいるのだと言う。このあたりの女房の尻しりに敷かれた亭主どもは、人生が重荷になってくると、リップ・ヴァン・ウィンクルの酒壜さかびんから一口飲んで、気楽になりたいものだと一様にねがうのである。

註

上述の物語は、ニッカボッカー氏が、フレデリックの赤髭あかひげ皇帝とキュフホイザー山とについての、ドイツの一迷信から思いついたものではないかと考える人もあろう。しかし、彼がこの物語に付記した次の註は、それがまったくの事実談で、彼が例のように忠実に述べたものであることを物語っている。

「リップ・ヴァン・ウィンクルの物語は、多くの人には容易に信じられないかも知れない。だが、それにもかかわらず、わたしはこの話に全幅の信頼を寄せている。昔のオランダ植民地付近が、しばしばふしぎなできごとや現象におびやかされていたのを知っているからである。実のところ、わたしはハドソン河沿岸の村々で、これよりももっと奇妙な物語をたくさん聞いたことがあるが、どの話もじゅうぶんに実証されていて、疑う余地がなかった。わたしは親しくリップ・ヴァン・ウィンクルと話しあったことさえある。最後に彼と会ったときは、大そう高齢になっていたが、ほかのどんなことにも、まことに筋道が通って首尾一貫していたので、心ある人ならこの話を信じないわけにはゆかないだろうと思う。いや、わたしはこの話についての証明書が、地方の裁判官の前に差しだされ、裁判官自身の手で、十字の記号が書きつけられたのを見たことがある。このような次第だから、この物語にはとうてい疑いをさしはさむことはできないのである。D・K」

訳註 ジー・シー・ヴァープランク卿きょうのニューヨーク歴史研究会における卓越せる講演を参照せよ。

底本 / Source edition

底本:「スケッチ・ブック」新潮文庫、新潮社
1957(昭和32)年5月20日発行
2000(平成12)年2月20日33刷改版
※「THE SKETCH BOOK (スケッチ・ブック)」英米文学叢書、研究社出版、1986(昭和61年)1月20日18版発行の原文上では、「アパラチヤ大山系から」は「of the great Appalachian family」、「よく晴れた秋の日、」は「on a fine autumnal day,」、「大丈夫で」は「and a stout」となっています。「アパラチヤ大山系から」と「よく晴れた秋の日、」はママ注記としました。「大丈夫で」には原文の意味もあるので注記はつけていません。
入力:砂場清隆
校正:えにしだ
2019年10月28日作成
2020年3月19日修正
青空文庫作成ファイル:
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TEI
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書誌 / Bibliography
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アーヴィング ワシントン「リップ・ヴァン・ウィンクル──ディードリッヒ・ニッカボッカーの遺稿」(新字新仮名)、底本『スケッチ・ブック』新潮文庫、新潮社、1957年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 053680_001257, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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