西暦一九二三年九月三日。うすら寒く、朝から細かい雨が降つた。日の暮に <ruby><rb>Spatenbräu</rb><rt>シユパーテンブロイ</rt></ruby> 食堂の隅の方に行つてひとり寂しく<ruby><rb>夕餐</rb><rt>ゆふさん</rt></ruby>をした。七月十九日にミユンヘンに著いて以来、教室では<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとん</rt></ruby>ど休なく<ruby><rb>為事</rb><rt>しごと</rt></ruby>を励んだのであつたが、いまだに自ら住むべき部屋が<ruby><rb>極</rb><rt>き</rt></ruby>まらない、極まりかけては南京虫に襲はれ襲はれしていまだに極まらずにゐる。それも教室の方の為事を休んで部屋を捜すのではないのは、つまり教室の方は<ruby><rb>縦</rb><rt>たと</rt></ruby>ひ一日の光陰をも惜しむがためであつた。けふも新聞の広告で見当を附けておいた数軒の部屋を見まはり、今夜は <ruby><rb>Klenze</rb><rt>クレンツエ</rt></ruby> Str\. 三十番地の部屋に寝泊りして虫の襲撃を試すつもりである。

いつもなら二人の同胞がゐて食事を共にするのであるが、けふは都合があつたと見えて誰も来ない。まるい堅さうな顔をした娘が半<ruby><rb>立突</rb><rt>リツトル</rt></ruby>の<ruby><rb>麦酒</rb><rt>ビール</rt></ruby>を運んで来て、しきりに愛想を云ふ。『ドクトルまだ恋をしたこと無い？』などといふことをいふ。『まだ無いね』などといふ。『けれど、シナでは十三四でもう結婚すると云ふぢやない？』『それは百姓どものことだ、僕のやうな学者は矢張り結婚はなかなかしないものだ』『さういふものなの？』『どうだ、恋をして日本へ行くか、<ruby><rb>Fujiyama</rb><rt>フジヤマ</rt></ruby> の国へ連れていかうか』『え、行きたいわ』などといふ会話をしたりする。さうすると幾らか気の晴れるのを覚えるのであつた。

そこに夕刊の新聞売が来たので三通りばかりの新聞を買ひ、もう半<ruby><rb>立突</rb><rt>リツトル</rt></ruby>の麦酒を取寄せて新聞を読むに、<ruby><rb>伊太利</rb><rt>イタリー</rt></ruby>と<ruby><rb>希臘</rb><rt>ギリシヤ</rt></ruby>とが緊張した状態にあることを報じたその次に、<span data-tei-rend="yokogumi horizontal" style="writing-mode: horizontal-tb">“Die Erdbebenkatastrophe in Japan”</span>と題して日本震災のことを報じてゐる。

新聞の報告は皆殆ど同一であつた。<ruby><rb>上海</rb><rt>シヤンハイ</rt></ruby>電報に<ruby><rb>拠</rb><rt>よ</rt></ruby>ると、地震は九月一日の早朝に起り、東京横浜の住民は十万人死んだ。東京の砲兵<ruby><rb>工廠</rb><rt>こうしやう</rt></ruby>は空中に舞上り、数千の職工が死んだ。熱海・伊東の町は全くなくなつた。富士山の頂が飛び、大島は海中に没した。云々である。

私は<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く息を<ruby><rb>屏</rb><rt>つ</rt></ruby>めて<ruby><rb>是等</rb><rt>これら</rt></ruby>の文句を読んだが、どうも現実の出来事のやうな気がしない。併し私は急いで<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>を<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>で、新しく間借しようとする家へ行つた。部屋は綺麗に調へてあつたので私は<ruby><rb>牀上</rb><rt>しやうじやう</rt></ruby>に新聞紙と座布団とを敷き尻をぺたりとおろした。それから二たび新聞の日本震災記事を読むに、これは容易ならぬことである。私の意識はやうやく家族の身上に移つて行つた。不安と<ruby><rb>驚愕</rb><rt>きやうがく</rt></ruby>とが次第に私の心を領するやうになつて来る。私は眠薬を服してベットの上に身を<ruby><rb>横</rb><rt>よこた</rt></ruby>へた。

暁になり南京虫に襲はれこの部屋も不幸にして私の居間と<ruby><rb>極</rb><rt>き</rt></ruby>めることが出来なかつた。九月四日の朝、朝食もせず其処を出て日本媼のところに急ぐ途中Ｎ君に会つた。Ｎ君も日本の事が心配で<ruby><rb>溜</rb><rt>た</rt></ruby>まらぬのでやはり朝食もせずに日本媼のところに来た途中なのであつた。Ｎ君の持つてゐるけふの朝刊新聞の記事を読むと、きのふの夕刊よりも<ruby><rb>稍</rb><rt>やや</rt></ruby><ruby><rb>委</rb><rt>くは</rt></ruby>しく出てゐる。コレア丸からの無線電報に拠るに、東京は既に戒厳令が敷かれて戦時状態に入つた。横浜の住民二十万は住む家なく食ふ食がない。ロイテル電報は報じて<ruby><rb>云</rb><rt>いふ</rt></ruby>。東京は猛火に包まれ殆ど<ruby><rb>灰燼</rb><rt>くわいじん</rt></ruby>に帰してしまつた。<ruby><rb>紐育</rb><rt>ニユーヨーク</rt></ruby>電報が報じて云。大統領 <ruby><rb>Coolidge</rb><rt>クーリツジ</rt></ruby> は日本の <ruby><rb>Mikado</rb><rt>ミカド</rt></ruby> へ見舞の電報を打つた。それから<ruby><rb>能</rb><rt>あた</rt></ruby>ふかぎり日本の震災を救助する目的で直ちに旅順港にゐる米国分艦隊をして日本へ発航せしめた。また、上海<ruby><rb>投錨</rb><rt>とうべう</rt></ruby>中の英国甲鉄艦 <ruby><rb>Despatech</rb><rt>デスパテチ</rt></ruby> 号も既に日本へ向つて出帆した。なほ、日本の地震はミユンヘンの地震計に感応し、朝の四時十一分頃から始まり五時少し前に最も強く感応した。云々。

二人は近くの<ruby><rb>珈琲店</rb><rt>カフエ</rt></ruby>で簡単に朝食を済まし、日本媼のところに止宿してゐる二人の同胞と故郷のことを話合つた。私も部屋のことで<ruby><rb>斯</rb><rt>か</rt></ruby>う愚図愚図してゐてはならぬと思ひ、けふも数軒部屋を見、遠くて不便であるが一間借りるやうに決心した。私はけふはもう教室に行く勇気はなかつた。夕刊を読むと日本震災の惨害はますますひどい。私等は何事も手に附かず、夕食後三人して麦酒を飲みに行つた。酒の勢を借りてせめて不安の念を軽くしようとしたのであつた。

九月五日。日本の惨事は非常である。部屋の中に沈黙してゐても何事も手に附かない。九月六日。思切つて、<ruby><rb>Thorwalsen</rb><rt>トールワルゼン</rt></ruby> Str\. 六番地に引越してしまつた。ここには南京虫は居なかつた。教室まで遠くて不便であるが、日本の状態がこんなであつて見れば、私自身今後どう身を所決せねばならんか今のところ全く不明である。そこでせめて南京虫のゐない処に落付かうと決心したのであつた。

けふは、もう日本震災のための死者は五十万と註してあつた。大小の消火山は二たび活動を始め、東京・横浜・深川・千住・横須賀・浅草・神田・本郷・下谷・熱海・御殿場・箱根は全く滅亡してしまつた。政府は一部京都一部大阪に移つた。東京は今なほ<ruby><rb>火焔</rb><rt>くわえん</rt></ruby>の海の中にある。首相も死に、大臣の数人も死んだ。ただ宮城の損害が比較的<ruby><rb>尠</rb><rt>すくな</rt></ruby>く避難民のために既に宮城を開放した。<ruby><rb>仏蘭西</rb><rt>フランス</rt></ruby>大使館、<ruby><rb>伊太利</rb><rt>イタリー</rt></ruby>大使館は全く破壊した。帝室博物館、二大劇場、帝国大学、日本銀行、停車場等も廃滅に帰し、電報電信の途は全く<ruby><rb>杜絶</rb><rt>とぜつ</rt></ruby>してしまつた。云々。

次の日も、次の日も、教室に行く気にはなれない。部屋に<ruby><rb>籠</rb><rt>こも</rt></ruby>つて自分の所持品などを整理しようとしても直ぐ疲れた。併し<ruby><rb>飯</rb><rt>めし</rt></ruby>くひに街頭に出ると、<ruby><rb>食店</rb><rt>レストラン</rt></ruby>にゐる客などが<ruby><rb>態々</rb><rt>わざわざ</rt></ruby>私のゐる卓のところまで来て震災の見舞を云つた。ある時には、途中で<ruby><rb>行過</rb><rt>ゆきす</rt></ruby>がつた<ruby><rb>背嚢</rb><rt>ルツクサツク</rt></ruby>を負うた一人の老翁がまた戻つて来て、私を呼止めて見舞の言葉を云つて呉れたりした。日本からの直接通信が始めて英京<ruby><rb>倫敦</rb><rt>ロンドン</rt></ruby>に届いたといふのが新聞に出たが、それを読むと前に読んだ間接通信の記事内容よりももつと深刻であつた。また民衆と軍隊との衝突があり、朝鮮人と軍隊との市街戦が報じられてあり、新首相山本権兵衛子爵に対する暗殺企図、数名の大臣の死亡なども報じられてあり、五十万の人間と、五億ポンドの財産とが消失されたことを註してあつた。

さういふミユンヘン新聞の手がかり以外に、<ruby><rb>伯林</rb><rt>ベルリン</rt></ruby>の友人からも<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>からも何等事件の真相を知るべき手がかりが全く杜絶してしまつてゐる。夜はよく眠れず、<ruby><rb>暁</rb><rt>あけ</rt></ruby>がたになつてとろとろとしたかと思ふとしきりに夢なぞを<ruby><rb>視</rb><rt>み</rt></ruby>た。夢では、妻のやうな<ruby><rb>恰好</rb><rt>かつかう</rt></ruby>をし、妻か誰か分からぬ一人の女と、一人の童子とが畳のうへに坐つてゐる。それが向うを向いて居り、幾ら呼んでも依然として向うを向いてゐる。それで夢が醒めてしまつたりする。ある夜、<ruby><rb>麦酒</rb><rt>ビール</rt></ruby>に酔つて帰つて来て寝た。さうするともうもうと火焔の<ruby><rb>靡</rb><rt>なび</rt></ruby>いて居る光景を夢に視たりした。私は或時には、東京の家族も友人も皆駄目だと観念したこともある。

或日、朝からＮ君を訪ねて、二人して当もなく街上を歩いた。とある広場の<ruby><rb>古物商</rb><rt>こぶつしやう</rt></ruby>に能の面が二つばかり並べてある。この古物商には不思議にも<ruby><rb>日本物</rb><rt>にほんもの</rt></ruby>が並べてあるので、<ruby><rb>鎧</rb><rt>よろひ</rt></ruby>があり、扇子があり、漆器があり、花瓶があり、<ruby><rb>根付</rb><rt>ねつけ</rt></ruby>があり、<ruby><rb>能衣裳</rb><rt>のういしやう</rt></ruby>などもある。これは戦後に土地の人が売払つたものに相違ない。Ｎ君はどう思つたか、歯を黒く染めた女の能面を一つ買つた。二人は街を歩いて行つて <ruby><rb>Isar</rb><rt>イーサル</rt></ruby> 川の橋を渡り、<ruby><rb>川原</rb><rt>かはら</rt></ruby>に下りて行つた。Ｎ君の家は東京の郊外にあるから、これはどうにか損害を<ruby><rb>蒙</rb><rt>かうむ</rt></ruby>らずにゐるらしい。併し<ruby><rb>親戚</rb><rt>しんせき</rt></ruby>知己は幾人も東京の<ruby><rb>殷昌</rb><rt>いんしやう</rt></ruby>区域内に住んでゐる。それらの人々は到底駄目だらうといふことを話しあふ。二人は土手を上つて行つて黒<ruby><rb>麦酒</rb><rt>ビール</rt></ruby>を飲んだ。酔つて幾らか<ruby><rb>鬱</rb><rt>うつ</rt></ruby>を散じてまた二人は川原の方に下りて行つた。川原には川柳の一めんに生えてゐるところがある。そこに五六の頑童の遊んでゐるけはひがしてゐたが、突如として、<ruby><rb>Chinese</rb><rt>ヒネーゼ</rt></ruby>\! と叫んで柳のかげに隠れる。また、<ruby><rb>Chinese</rb><rt>ヒネーゼ</rt></ruby>\! と叫ぶ。『ヒネーゼ！』と叫ぶのは<ruby><rb>軽蔑</rb><rt>けいべつ</rt></ruby>して<ruby><rb>調戯</rb><rt>からか</rt></ruby>ふつもりなのである。

Ｎ君はその能面をかぶり、川原で踊つた。能舞の様式を知つてゐるではなし、さればとて、<ruby><rb>Platzl</rb><rt>プラツツル</rt></ruby> で見るやうな、バヴアリア民間舞踊の恰好でもないが、日本震災のための不安動揺の心理は、Ｎ君にそんなことをさせたのであつた。さうして逃げていつた童子等も<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>に戻つて来て、笑ひころげてそれを見てゐる。そんなことなどもあつた。そして一日一日が暮れて行つた。通信は全く絶え、たまたま配達された故郷からの書信を読むと、極く平安事なきもので、何の役にも立たぬものである。私等は或日には日本飯を<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>いて食つた。それに生卵をかけ、大根などを買つて来てむさぼり食つたりしたのである。

日本の知人の顔などが時に眼前に浮んでくるが、その人々の中にはもう死んでゐるものもあるだらうといふ一種悲痛の心持が附帯してゐる。さういふ写象のうちには今どき小学校に通つてゐた<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>の長男の顔なども浮んでくる。それから私みづからの近き未来の運命のことなどが意識の上にのぼつてくる。しまひにはさういふ意識のなかに自ら<ruby><rb>涵</rb><rt>ひた</rt></ruby>つてしまつたせいであらうか、日本軍艦数隻が沈没し、<ruby><rb>伊豆</rb><rt>いづ</rt></ruby>の大島が滅して半島の近くに新しい島が出来、<ruby><rb>神聖</rb><rt>ハイリーゲ</rt></ruby>江の島が全く無くなつてしまつたといふ、さういふことなどは余り気にせぬやうになつた。

九月十日ごろＮ君のところに故郷の家族無事といふ電報が届いた。電文は『ヂシンヒドイブジ』としてあつた。なか二三日おいて十三日の夕がた私のところに、<ruby><rb>伯林</rb><rt>ベルリン</rt></ruby>のＭ君から電報が届いた。電報は、Folgendes Telegramm aus Japan erhalten <span data-tei-rend="yokogumi horizontal" style="writing-mode: horizontal-tb">“Your family friends safe”</span> = Mayeda としてある。

家族も友人も無事といふ英文電報の方は、神戸から中村憲吉君がやうやうの事で打つてくれたのが、伯林大使館に届き、毎日毎日情報を聞きに押懸けてゐた私の友の一人が沢山の電報の中から其を見付けてＭ君に知らせたから、Ｍ君は独逸文を少し附加して至急報で打つて呉れたのであつた。私は一人で<ruby><rb>麦酒</rb><rt>ビール</rt></ruby>を飲みに行き、労働者等のわめきどよめく音声の側に、歯の鈍痛のやうやく薄らいだやうな気持で数時間ゐて帰つて来た。

翌日朝食の後、買物をした。教室で使ふ色素、靴墨、ナフタリン、石鹸、揮発油、靴下、針と糸などを買ひ、途中でトランク一つの代価を<ruby><rb>訊</rb><rt>たづ</rt></ruby>ねると娘店員が来て、zwei milliarden dreimal hundert millionen Mark と云つた。これは二十三億<ruby><rb>麻克</rb><rt>マルク</rt></ruby>のことである。

次の日教室に行き教授に会つて大体日本地震の有様を報告し電報のことをも話した。教授も助手も研究生も標本係の女も非常に喜んで呉れた。その日教授は私を自分の部屋に呼び、『もう率直にいひますが、それでは研究費として毎月英国貨四<ruby><rb>磅</rb><rt>ポンド</rt></ruby>づつ払つて下さい』と云つた。

それから私は教室の<ruby><rb>為事</rb><rt>しごと</rt></ruby>をどうしても急がねばならぬと決心して、連日教室に通つた。九月の末といふに街路樹の葉が黄色になつて落ち、日本晩秋のやうな気持の時もあつた。<ruby><rb>独逸</rb><rt>ドイツ</rt></ruby>の状態がだんだん悪くなり、<ruby><rb>為替</rb><rt>かはせ</rt></ruby>相場も急転して下つた。九月廿七日には十四ばかり行はれる筈の国民党の集会が禁ぜられ、集会所や大きな<ruby><rb>麦酒</rb><rt>ビール</rt></ruby>店をば軍隊と警官とで厳しく固めたこともあつた。<ruby><rb>Hofbräu</rb><rt>ホーフブロイ</rt></ruby> のやうなあんな<ruby><rb>盛</rb><rt>さかん</rt></ruby>な麦酒店でもその三階は十月半ばには既に閉鎖したほどであつた。

十月十四日にはじめて大阪毎日新聞九月三日の号外を手に入れ皆頭を集めて読んだ、『東京全市焦土と化す』といふ大きな見出しがあり、<ruby><rb>碓氷峠</rb><rt>うすひたうげ</rt></ruby>から東京の空が赤く焦げてゐるのが見えるとも書いてある。これは想像よりもまだまだ悲惨である。十五日には大阪のＯ君から大阪朝日新聞の週報を受取り、廿一日には参謀本部附のＫ少佐から大阪朝日新聞を借りて読んだ。深川の陸軍<ruby><rb>糧秣廠</rb><rt>りやうまつしやう</rt></ruby>の広場で何十万の人の死んだ所や、両国の橋の<ruby><rb>墜</rb><rt>お</rt></ruby>ちた所などを読んだ。どうも息がつまるやうである。三面の方には、佐渡まで帰らうとしてやうやく長野市の停車場まで落延びて来たひとりの女を見るに、自分の髪の毛が全く焼け焦げ背には焼死んだ子を一人負つてゐるといふ記事などもあつた。

そのうち東京の家から手紙があつて、しきりに帰国を要求して来てゐた。ミユンヘンも追々寒くなり町には毎日霧がかかるやうになつた。<ruby><rb>Hitler</rb><rt>ヒツトレル</rt></ruby> 事件といふのもその間にあつた。独逸の絵入新聞にも、死骸が山のやうに積まれてある日本震災の惨状が載るやうになり、或時には<ruby><rb>吉原</rb><rt>よしはら</rt></ruby>で焼死んだ遊女の死骸を三列ばかりにして並べて、そこに警官がひとり立つてゐる写真を載せ、これは本国の日本で既に発表禁止になつたものだと註したことなどもある。さうして日一日と暮らしてゐる間に私は決断して当分ミユンヘンに止まらうと思ひ、東京の親しい友に金を借ることを頼んだりした。

十二月十三日になつて、「大正大震災大火災」といふ雑誌を借り、真に身ぶるひするやうな大地震の有様を読んだ。その中に幸田露伴翁の談話があつたが、私はその中の一二節をば手帳に書取つた。

○そこで一言を人々に贈らうと思ふ。おもへば言葉は甲斐無いものである。千百の言葉は一団の飯にも及ばず、<ruby><rb>娓々</rb><rt>びび</rt></ruby>の<ruby><rb>言</rb><rt>げん</rt></ruby>は<ruby><rb>滴々</rb><rt>てきてき</rt></ruby>の<ruby><rb>水</rb><rt>みづ</rt></ruby>にも<ruby><rb>如</rb><rt>し</rt></ruby>かぬ場合である。けれども今の自分の此の言葉は言葉とのみではない。直ちに是自分の心である。○そこで<ruby><rb>仮令</rb><rt>たとひ</rt></ruby>美酒蘭燈の間にゐて歌舞歓楽に一時の自分を慰めてゐても、何処かにこれを是認せぬものがある。つまり心が一つでなくて、二つになつてゐる。人といふものは二気あれば即ち病む、といふ古い支那の<ruby><rb>諺</rb><rt>ことわざ</rt></ruby>にある通り中略宜しく<ruby><rb>胆</rb><rt>たん</rt></ruby>を<ruby><rb>張</rb><rt>は</rt></ruby>り<ruby><rb>気</rb><rt>き</rt></ruby>を<ruby><rb>壮</rb><rt>さか</rt></ruby>んにし、飲食を適宜にし、運動を怠らずして、<ruby><rb>無所</rb><rt>むしよ</rt></ruby><ruby><rb>畏心</rb><rt>ゐしん</rt></ruby>に安住すべきである。○宗教上の信仰を有する人は、かかる時こそ宗教の加護を受くべきである。観音の額には<ruby><rb>無所畏</rb><rt>むしよゐ</rt></ruby>の三字が示してあるではないか。不動尊は不動経に、我は<ruby><rb>衆生</rb><rt>しゆじやう</rt></ruby><ruby><rb>心中</rb><rt>しんちゆう</rt></ruby>に<ruby><rb>住</rb><rt>ぢゆう</rt></ruby>すと説いてあるではないか。中略神仏に人ををののかすものはない。皆各<ruby><rb>其</rb><rt>その</rt></ruby><ruby><rb>大威力</rb><rt>だいゐりよく</rt></ruby><ruby><rb>大慈力</rb><rt>だいじりき</rt></ruby>によりて人々に<ruby><rb>無所畏</rb><rt>むしよゐ</rt></ruby>を得しむるものである。まして無神無仏の<ruby><rb>徒</rb><rt>と</rt></ruby>は既に神を<ruby><rb>無</rb><rt>な</rt></ruby>みし仏を無みするだけの偉いものであるから、夢にも恐怖心などに囚はれてはならぬ。云々。

私は実に久しぶりで翁の言に接したのである。そして独逸語で頭を痛めてゐるときに、<ruby><rb>是等</rb><rt>これら</rt></ruby>の言葉はすらすらと私の心に<ruby><rb>這入</rb><rt>はひ</rt></ruby>つて来た、のみならず翁の持つ一つの語気が少年以来の私に或る親しみを持たせるのであつた。カアル・マルクスの『宗教は国民の<ruby><rb>阿片</rb><rt>あへん</rt></ruby>である』（Religion ist das Opium des Volks\.）といふ西暦一八四四年の言葉が、西暦一九一七年の露国革命の際に、彼のグレコが聖母の像と相対した壁面上に書かれたといふ。これは<ruby><rb>莫斯科</rb><rt>モスカウ</rt></ruby>の出来事で、レニンなどが主になつてああいふことをやつた。レニンは、<span data-tei-rend="yokogumi horizontal" style="writing-mode: horizontal-tb">“Die Religion ist Opium für das Volk\.”</span>と書いて、さて、宗教といふものは下等なフーゼル<ruby><rb>酒</rb><rt>しゆ</rt></ruby>のやうなものだ。資本の奴隷どもは、<ruby><rb>漸</rb><rt>やうや</rt></ruby>く真人間の仲間入をしようとする権利を得ながら、半途にしてこの宗教といふ下等な<ruby><rb>火酒</rb><rt>くわしゆ</rt></ruby>の中に<ruby><rb>溺没</rb><rt>できぼつ</rt></ruby>してしまふのである。とさへ<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>つてゐる。近ごろ読んだああいふレニンの言葉に<ruby><rb>較</rb><rt>くら</rt></ruby>べると、『無神無仏の徒は既に神を無みし仏を無みするだけの』云々といふ幸田露伴翁の言葉には、少しもそこに反語がないところに露伴の面目がある。レニンのものの如くに、<span data-tei-rend="yokogumi horizontal" style="writing-mode: horizontal-tb">“streitbar”</span>とか<span data-tei-rend="yokogumi horizontal" style="writing-mode: horizontal-tb">“revolutionär”</span>とか<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>ふ臭気がまつはつてゐない。そんな事を私は一人ゐながら思つた。レニンの病気もその後悪いさうだが、追つかけ死ぬだらう。臨終の近くに誰かがどういふ言葉かを掛けるだらう。それが<ruby><rb>所詮</rb><rt>しよせん</rt></ruby>、<ruby><rb>希臘</rb><rt>ギリシヤ</rt></ruby><ruby><rb>加特利</rb><rt>カトリツク</rt></ruby>教の儀式の代弁ならつまらぬなどとも私は思つた。

十二月十四日に宿の<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>さんに転宿のことを話し、翌十五日に<ruby><rb>日本媼</rb><rt>にほんおうな</rt></ruby>のところに引越して来た。その晩に将棋を差したが、<ruby><rb>駒</rb><rt>こま</rt></ruby>も盤も大戦前の留学生が置いて行つたものである。戦時中、老媼の一家がいまのところに引越して来たにも<ruby><rb>拘</rb><rt>かか</rt></ruby>はらず将棋の如き、かういふ品物をも無くさずに持つてゐたのであつた。

大正三年に大戦が<ruby><rb>勃発</rb><rt>ぼつぱつ</rt></ruby>し、留学生どもは逃げたのであるが、大正十一年の一月に私が<ruby><rb>伯林</rb><rt>ベルリン</rt></ruby>に著いてミユンヘンの事情をさぐると当時ミユンヘンは唯ひとりの日本人が特別の許可を得て研究してゐるに過ぎず、ここへの入国は厳重で出来なかつたのである。その七八年の間将棋の駒を無くさずにゐたのは私にはおもしろい。私はここに<ruby><rb>寄寓</rb><rt>きぐう</rt></ruby>しておのづと大地震に対する<ruby><rb>驚愕</rb><rt>きやうがく</rt></ruby>の念を静めて行かうと思つたのであつた。