Soranoha

『西遊記』の夢

『さいゆうき』のゆめ

中谷 宇吉郎

子供の頃読んだ本の中で、一番印象に残っているのは、『西遊記』である。

もう三十年も前の話であり、特に私たちの育った北陸の片田舎には、その頃は子供のための本などというものはなかった。

子供たちは、大人の読み古した講談本などを、親に叱しかられながら、こっそり読んでいた。その頃盛さかんに出ていた小波さざなみ氏の「世界お伽噺とぎばなし」のようなものも滅多に手に入らなかった。

あの一冊十銭せんかの本は、たしか全部で百冊あったはずである。もう何回となく読みかえしたそのうちの一冊の末尾には、百冊の題目がずらりと並んでいた。その題目の一つ一つが少年の心には、あらゆる空想の種であった。これらの百冊の題目は、見開き二頁ページにぎっしり詰つまっていた。その二頁に、私たちは、いつまでもあかず見入っていた。気に入ったお馴染なじみの題目のいくつかは、その紙面からずっと浮き出して見えた。そしてその活字の蔭かげに、古い城だの、碧あおい湖だのの姿が揺曳ようえいしていた。

そういう頃に、私は帝国文庫の『西遊記』を見つけた。私は町の小学校へはいるために、小学一年の時から町へあずけられていた。その家は旧士族しぞくの旧ふるい家柄の家であった。そこには帝国文庫だの、それに類した本が十冊近くもあって、それがあこがれの的であった。

背中に金きんの文字がはいっているあの厚い本は、中が小さい字で一杯に埋っていて、あれならばいくら読んでもおしまいにはならないように見えた。それに立派な絵も沢山はいっていた。

漸ようやく振仮名ふりがなを頼りに読めるようになった時に、最初にとっついたのが『西遊記』であった。この頃になって、久しぶりで手にしてみると、劈頭へきとうから、南贍部洲なんせんぶしゅうとか、傲来ごうらい国とかいうようなむつかしい字が一杯出て来る。こういう画かくの多い字が一杯並んで、字づらが薄黒く見えるような頁が、何か変化へんげと神秘の国の扉のように、幼い心をそそった。

面白さは無類であった。学校から帰ると、鞄かばんを放り出して、古雑誌だの反故ほごだののうず高くつまれた小さい机の上で『西遊記』に魂をうばわれて、夕暮の時をすごした。昼でも少し薄暗い四畳半の片隅には、夕闇ゆうやみがすぐ訪れた。その訪れにつれて、本を片手にだんだん窓際まどぎわに移って行った。ふと顔をあげると、疲れた眼に、すぐ前の孟宗籔もうそうやぶの緑が鮮あざやかにうつった。

仏教の寓意譚ぐういたんであるという『西遊記』が、これほど魅魔的みまてきに感ぜられたのは、雰囲気のせいもあった。その頃の加賀かがの旧い家には、まだ一向一揆いっこういっき時代の仏教の匂においが幾分残っていた。

一番奥の六畳間まが、仏壇の間まになっていた。仏壇の間は昼でも薄暗かった。家に不相応な大きい仏壇は旧くすすけていて、燈明とうみょうの灯ひがゆるくゆれると、いぶし金の内陣が、ゆらゆらと光って見えた。

その家の老母は、仏壇の前にきちんと坐すわって、朝晩お経をあげていた。そして月に二、三回もお坊さんが来て、長いお経をあげた。小学生の私もその間は必ず老母の横にきちんと坐ってお経をきいていた。そういうことも日課のうちの一つとして、家の中の人も私もちっとも変ったこととは考えていなかった。

足の痛いのを我慢しながら、じっとお経をきいていると、だんだん睡ねむくなって来る。時々燈明がぼうっと明るくなると、仏壇の中の仏像だの、色々な金色こんじきの仏様の掛軸かけじくだのが、浮いて見えた。そして孫悟空そんごくうのいた時代がそう遠い昔とは感ぜられなかった。

太宗たいそう皇帝の水陸大会だいせがきに、玄奘法師げんじょうほうしの錦襴きんらんの袈裟けさが燦然さんぜんと輝き、菩薩ぼさつが雲に乗って天に昇ると、その雲がいつの間にか觔斗雲きんとうんにかわって、いつか自分は水色の綿蒲団わたぶとんの下に蒸されるような息苦しさを感じた。そういう時には、金色の燭台しょくだいの一点が燈明に鋭く輝いて、その光点から金色の箭やが八方にさしているのを、唯一ゆいいつのすがりどころとじっとみつめていた。

家の中には科学はおろか、およそ近代風の物の考え方というものは少しもなかった。本当のことを信ずるという現代の人たちには、本当でないから信ずるということまでは理解出来るであろう。しかし本当とか嘘うそとかいうことと信ずることとが完全に乖離かいりした考え方はちょっとむつかしい。私が小学校時代を過すごした家には、あらゆる意味で、現代風な物の考え方というものは全然なかった。そういう所では孫悟空は、自由にその金箍棒きんこぼうをふるうことが出来たのである。

小学校では、変った先生がいて、理科の時間にカント―ラプラスの星雲説などを教えてくれた。今でいえば科学普及という類たぐいであろうが、その先生の話をきいていると、何だか宇宙開闢かいびゃく以前の夢の方が余計に聯想れんそうされやすかった。何もない虚空こくうに目に見えない力の渦巻うずまきだけがあって、その渦の捲まき方がだんだん速くなる。するとその力が凝こって物質が徐々に生れて来るような幻想が、いつの間にか頭の中に出来てしまった。それで折角のカント―ラプラスもまた孫悟空の味方になってしまったのである。

今から考えてみれば、随分無茶な話であるが、それでも無事に中学へはいり、高等学校へ行ってピアノなどいうものの実物を見るようになっては、さすがに『西遊記』の世界からは次第に離れて行った。そしてその反動かどうかは分らないが、物理学などを専攻することになってしまった。

その後は、当然のことながら、長い間『西遊記』とは縁のない生活をしていた。ところが二年ほど前に思わぬところで、ひょっくり本物の八戒はっかいに出会ったのにはちょっと驚いた。それは正まさしく本物の八戒と言ってよいものなのである。

紀元二千六百年記念に出版された『西域画聚成せいいきがしゅうせい』を見ているうちのことであった。燉煌とんこう出土の降魔図ごうまずの中に八戒がいたのである。中央の岩上に結跏趺坐けっかふざした釈尊しゃくそんの周囲に、怪奇な魔衆が群り集っている、空想の限りをっくした絵である。その中に魔衆の一人として、長い嘴くちばしを突き出した八戒が、熊手くまでをふりあげて、強くないくせに威張った顔をして立っていた。八戒のくせに裾長すそながの着物を着て、金の冠かなんかをかぶって、不器用に熊手を振りかぶっている。子供の頃から頭の中にある、悪いことばかりしていて、その割に悪にくめない八戒の姿そのままがひょっくり出て来たので、大変なつかしかった。

この絵は宋初そうしょのものとされているので、本当の玄奘三蔵げんじょうさんぞう法師が、唐とうの太宗たいそうの貞観じょうがん三年に長安ちょうあんの都を辞して、遥々はるばる印度への旅についた頃から見ると、三百年くらいも後に描かれたことになる。しかし『西遊記』の書かれたと推定されている宋末元初げんしょの頃から見ると、ずっと旧ふるいものである。古来白骨人の収おさむる無なしとうたわれた青海せいかいのほとりには、その頃丁度八戒などもいたのであろう。審美書院しんびしょいんの自慢の木版摺もくはんずりの色でみると、千年の間土に埋うもれていて、今また陽光を浴びた八戒は、鮮あざやかな朱しゅと黄色との着物を着て、一、二年前に描かれたような色彩のまま保存されていたのである。

八戒の出現と前後して、スタインの『中央アジヤ踏査記とうさき』を読むに到いたって、私の『西遊記』の夢は益々本物になって来た。スタインの専門的な探険報告や燉煌絵画のような浩瀚こうかんなものには手が出ないが、この『踏査記』のような手軽なものに、彼の全仕事が纏まとめられているのは、大変有難かった。それに風間かざま氏の重厚な訳もよかった。

スタインは一九〇〇年から一九一六年にわたって、前後三回支那西域タクラマカンの荒野に発掘の旅をつづけた。それは古代のいわゆる絹路シルクロードを確かめ、また玄奘法師やマルコ・ポーロの通った道を、現在の地図の上に辿たどるのが主な目的であった。

支那の奥地、今重慶じゅうけい政権が、ソ聯れんとの連絡に懸命の努力をつくしている西北ルートの土地は、カラコラムの氷河の氷がとけて流れ出る僅わずかの流域をのぞいては、殆ほとんど死の世界である。玉門関ぎょくもんかんを越えて、太平洋の水域の勢力の限界を一歩出ると、その西は遥かに世界の屋根葱嶺パミールに至るまでのいわゆる支那トルキスタンの地方は、全くの荒蕪こうぶの砂漠と、乾燥し切った岩山との境である。其処そこはもはや生物の世界ではなく、暗黒な砂漠の嵐あらしが狂い、大塩湖だいえんこの干上ひあがった塩床が、探険者の足を頑強に拒こばんでいる土地である。そして僅かばかりの人間が、砂漠の砂に埋れた廃墟はいきょの古代都市のほとりに、僅かにヒマラヤの雪のとけ出た流れを汲くんで、辛かろうじて生命を保っているところである。

千三百年の昔に三蔵法師は、こういう土地を、本当はやはり孫悟空も八戒もつれずに、一人で歩いて行ったのであろう。「葱嶺そうれいを逾こゆるに毒風肌を切り、飛砂路みちを塞ふさぐ、渓間けいかんの懸絶けんぜつするに逢あへば、縄なわを以て梁はしとなし、空に梯はしごして進む」と当時の本にも残っているそうであるが、そういう旅であった。

スタインの仕事は、この同じ恐ろしい土地で、三蔵法師の歩いた道を推定しながら、砂漠の中に埋れ去った廃墟を発掘して、遺跡と遺品とを探しに行くことにあった。探険家などというと、豪放大胆な人が多いように一般には思われているが、スタインは全くそれと反対の性質の人のようであった。スタインの探険の成功の大半は、彼の学問に負っているようである。掘り出される紙片とか木簡もっかんとかに残されている文字が、スタインにはおぼろげながら、大体読めた。欧洲おうしゅう人にとっては恐るべき文字であるはずの古代の漢文、サンスクリット、古代印度のブラフミー文字など、そういうものまで、どうにか大体の意味が解せられた。そしてその文字によって、発掘個所の意味を推定しては、次の発掘にとりかかっているのである。

ニヤの古址こしでは、沢山の木簡が採集された。それは印度古代のカロシチー文字であった。そしてその書体から、それはスキタイ王朝即ち第一乃至ないし第三世紀のものであることを知った。三蔵法師よりも四、五百年も前に使われていた木簡である、千七百年の歳月を閲えっしても、乾き切った砂の中に埋れていた木簡は、特に二枚重かさなったまま発掘されたものなどは、内面の文字の墨色が昨日のもののように鮮あざやかであったそうである。

この木簡を発掘した夜、スタインは早速天幕に退いて、人夫たちを先にねかし、自分は一人で、その解読にとりかかった。その夜の寒気は特に厳しくて、最低零下四十一度まで下ったということである。その天幕の一隅で、スタインはこのカロシチー文字を読み解いて、冒頭の一行が「国王殿下命令書」であることを知った。それは官命を伝える一種の公文書であった。古代印度語がこの世紀に少くも行政用としては遥々この中央アジアの僻地へきちまで侵入していたのである。翌日スタインは次の収穫を期して、廃墟の南側の数房の発掘にとりかかった。そしてその部屋の当時の使用目的を推定して、最後の住人が残したまま、積み重ねられていた多数の木簡を発見したのである。玄奘がこの附近を通った頃は、この土地は、当時既に乾燥状態に入っていた砂漠の中に埋れていた。あらゆる生命を圧おし潰つぶす砂の力に追われて、最後の住人がこの土地を棄すててから、数百年の歳月が既にすぎていた。玄奘も印度からの帰途にこの道をとって、流砂に埋れた廃墟の姿を見たのである。

気候の長期変化ということは、気象学の方では大きい問題である。もっとも文化地理学の方ではもっと大きい問題かもしれない。ハンチントンは『気候と文明』で、太古の気候の変遷を論じている中で、アメリカの気候と西部アジアの気候との比較をしている。そしてその両者が第三世紀に到いたって不一致を来きたしている理由の一つとして、「支那トルキスタンにおける多くの遺跡の放棄に余が著しく感銘したがために生じたのであるかもしれない」と告白している。

第三世紀というのは、即ちスタインがニヤの古址で発掘したカロシチー木簡の最後の使用者が、流砂に追われてその住居を棄てた時である。ハンチントンがもし『西遊記』の愛読者であったならば、もっと感銘しすぎたかもしれない。

『西遊記』と限らず、この種のいわゆる支那の奇書くらい放恣ほうしな幻想がその翼をかって、奔放ほんぽうに虚空こくうを翔かけまわっているものも少いであろう。そしてその幻想が『ギリシャ神話』とか『アラビヤ夜話』とかいうものと、何処どこかかなり深いところで、その情趣を異ことにしている所以ゆえんは、その幻想が支那大陸の妖あやしいまでに広大な自然と融合しているからであろう。

スタインの本を読んでいると、到るところで『西遊記』の情景を見ることが出来る。八百里りの間ことごとく火焔かえんにつつまれ、それを越えようとすれば黒鉄くろがねの身体からだでもとけてしまうという火焔山では、孫悟空は羅刹女らせつにょの芭蕉扇ばしょうせんにあおられてひどい目にあった。その火焔山は昔孫悟空が天宮を鬧さわがした時、老君の丹炉たんろを踏倒ふみたおし、それが地に降って出来たものである。それはなかなか活火山などという生易なまやさしいものではないらしい。

安西あんせいから北山ほくざん山脈をこえて、トルファン盆地へ出ると、そこは北に積雪のボグド・ウラ、南はクルック・タグの侵蝕丘陵地帯に挟まれた流出口のない低地である。クルック・タグの山麓さんろくには、海面下千呎フィートの深地がある。かつての鹹湖かんこは今は大部分涸渇こかつして、塩床の峻けわしい砂礫地されきちである。この完全に人間の世界から隔絶された不毛の荒野を行くうちに、旅人は気圧計の針がだんだん昇って行って、遂に自分が、海面下千呎のところにいることを知るであろう。「北側の山麓は広漠たる乾燥した砂礫の斜面で、その縁ふちにそって、極度に不毛の丘陵が崛起くっき」している。その砂岩と礫岩とより成る赤裸の山肌は、無人の境にあって「見るからに毒々しく真赤まっかに照り映えている。」そしてそれは昔から土地の支那人の間に「火の山」と呼ばれていたのである。それこそは活火山などよりも、もっと本当な火の山なのであろう。

玄奘法師げんじょうほうしは、その十七年の長い旅の首途かどでにおいて既に、この北の沙漠に路を失い水に渇かつえ、命からがら哈密ハミのオアシスに辿たどり着いたのだそうである。

「毒風肌を切る」葱嶺パミールをこえるに当って、玄奘は「竜王の潜ひそむ大竜池」のほとりを通っている。それは、紺碧こんぺきの「無限の深淵しんえん」なのである。スタインによれば、今のグレートパミール河の水源地ヴィクトリア湖がそれであるという。スタインが其処を訪れた時は、標高一万四千呎の湖面を氷のような寒風が吹いていた。そして一片の雲もない青空は黒く澄み上り、その中に白く輝いた太陽が寂じゃくとしてかかっていた。人類創成の昔から今まで、人間の力というものが全く加わっていないこの秘境で、スタインはあらゆる時の距へだたりを忘れて、身近かに玄奘やマルコ・ポーロのいぶきを感じた。

無限の深淵の底は遠く四大洲の外につづき、東勝神洲の水底深くにも達している。その東海の底、竜王のすむ水晶宮へも、孫悟空は閉水の法を使って自由に潜り入ることが出来た。またタクラマカンの死の荒野の東、ロプ海床かいしょうを越え、乾上ひあがった海底に残る竜宮城の廃墟のまぼろしを眼まのあたりに見ながら、玄奘は印度からの帰途を急いだことであろう。

この道を辿るべく、三十頭の駱駝らくだにあらゆる探険用具と大氷袋とをつみ、すっかり準備をととのえたスタインの一行は、厳冬を目ざして、ミラーンの古市を出発した。そして楼蘭ろうらんを中心とする一帯の発掘に惨憺さんたんたる辛苦しんくをなめた上に、更に楼蘭を起点とする古代支那路線をたずね、「塩の結晶の耀かがやく無涯むがいの曠野こうや」ロプ海床に足を踏み入れたのである。

古代ロプ鹹湖の涸底こていは、峻しい粘土の丘がもつれるように起伏し、一面に塩が化石のように硬かたく凍りついていた。そしてやがて「最後の檉柳タマリスクの残骸ざんがいが塩野原に横よこたわるのを後にすると、最早もはや死の世界ではない。全然生を知らぬ世界」となって来た。

この「生を知らぬ世界」の中に、スタインは意外な古代路線の目印を見付けたのである。それは古代支那銅貨や珠子しゅしなどの発見である。

或るところでは、塩晶えんしょうの輝く沙漠の中に、約三十ヤードにわたって二百個余りの漢代の貨幣が、東北に向って一線をなして散乱していたそうである。その昔玉門関を出て楼蘭に向った駱駝の一つが、道々落して行った品が、二千年の後に拾い出されるようなこともあったのである。

この土地に特有な沈堆性ちんたいせいの丘陵メサが甚だしい侵蝕作用のために、一見塔か寺院のような異形いぎょうの姿をして立っている。それは支那の古書にある「太古の竜城の廃墟」の記事と一致するということである。

更に進むと、一面に塩に蔽おおわれた侵蝕高原地帯に入る。それも支那書では「白竜堆はくりょうたい」という名で残っているものだそうである。こういう土地に育った孫悟空が、度々竜城を訪れたことも無理のないことであろう。

今日の私たちは、皆地質学の初歩の知識をもっている。そして山から魚の化石の出ることをそう不思議とは思わない。しかし海底が隆起して山の頂きになることは恐ろしいことである。関東の大震災で地表が僅わずか四寸すんばかり動くと、東京の街から三百年の江戸文化の名残りが完全にぬぐい去られ、明治の文化すら大半を失ってしまった。

日本は天災の多い国というが、まだまだ私たちの祖国の土は温順なのであって、アジアの大陸の奥地では、土地はもっと狂暴であって、自然はもっと苛烈かれつな面をいつも見せているのである。地震なども、この西域の地では、関東大震災などとは桁けたちがいの強烈なものが有史以来しばしば襲っている。そして現代でも世界の屋根パミールでは、全山塊さんかいが崩壊をつづけているような所もあるのである。

一九一一年二月の地震で、パミールの中部バルダン渓谷は、一夜にしてその面貌めんぼうを改めてしまった。崩れ落ちる岩屑いわくずが、忽たちまちにして渓谷を埋め、かつてはキルギスの絶好の牧場であったところを、美しい山湖に変えてしまったのである。それは三年後には長径十七哩マイルの湖になったのであるが、四年目にスタインが訪れた時にも、崩壊した岩屑の大堰堤だいえんていは、まだ新湖の水面上なお千二百呎をあましていた。そして山塊の崩壊はなおつづいていて、その山頂は山崩れのための土煙りで雲の如くに蔽おおわれていたそうである。眠っている地球が一度目を覚ますと、僅かにその毛一筋ひとすじの動きでも、それは人間のあらゆる空想を一度にはじきとばしてしまうであろう。

そういう風に考えると、地球物理学者や地質学者が、アルプスの山の成因を議論したり、太平洋が月のとび出した痕あとであるかないかを論じているのを孫悟空がきいたならば、われわれが『西遊記』に驚くように、きっと驚くであろう。そういえば、現代の子供たちが、独逸ドイツからの放送をきいても、星雲の話をしても、誰だれも余り驚かないのは、科学普及の功績であるか、罪過であるか急にはきめられない問題である。

この頃はうちの子供たちも本に夢中になって、御飯ごはんによばれても来なかったり、夕闇ゆうやみの窓際まどぎわで電燈でんとうをつけずに読み入っていたりして、よく母親に叱しかられている。時々その本を覗のぞいてみると、今昔こんじゃくの感にたえないくらい子供向きの良い本が沢山出ているようである。しかしああいう良い本ばかりでは少し可哀そうな気がしないでもない。

少しひねくれたような言い方になるかもしれないが、子供にもよく分って面白くて為ためになるような本ばかり読んで育ったならば、本当の意味で自然に驚嘆する鋭い喜びを知らなくなる虞おそれがなくもない。

国民学校五年生の上の子供が、この頃『西遊記』に凝こり出したのを見て、何だか恐ろしいような気がしている。というのは、折角買ってもらった少国民向きの上品な『西遊記』にはざっと眼を通しただけで、夢中になっているのは、大人向きの旧ふるい『西遊記』である。

「そんなむつかしい本が分るかい」ときいても「分るさ、面白いよ」と言いながら、頬ほおを真赤まっかに上気させ、ふり向きもしないで読んでいる。

その横顔をみながら、私は静かに少年の日の旧い煤すすけた家の姿を心に描いてみた。すると仏壇の間まのほのかな燈明とうみょうのゆらぎが眼まのあたり蘇よみがえって来た。

「その玄奘三蔵げんじょうさんぞうというお坊さんは本当にいた人なんだよ。その坊さんの書いた本もお父さまは持ってるよ。印度へお経をとりに行った途中のことが、書いてあるんだが、見せてやろうか」と言うと勿論もちろん大変なさわぎである。三人の子供が折りかさなって、国訳『大唐西域記だいとうさいいきき』を覗のぞき込んで、「三蔵法師玄奘奉詔訳ほうしょうやく」という字に眼を光らせて、息をのんでいる。

ふと山本晋道やまもとしんどう師の『天竺紀行てんじくきこう』についていた阿育アショーカ石柱刻文の拓本のことを思い出して、臘伐尼林ルンビニりんのところを説明しながら二行だけ読んでやる。「四天王の太子を捧げし窣堵波ストゥーパの側に遠からず、大なる石柱ありて、上には馬の像を作れり。無憂アショーカ王の建つるところなり。後に悪竜が霹靂へきれきせしがためにその柱は中より折れて地に仆たおれたり」

「その石の柱はね、三蔵法師はこの本に書いてあるようにたしかに見たんだが、その後すっかりジャングルの中に埋れてしまって、何処どこにあるのか分らなくなってしまったんだ。それから千年もの間ずっと分らなかったんだが、それがこの頃になってやっと見付かったんだよ」

と言って、その拓本を開いて見せた。「これはね、その石の柱に紙をおっつけて、墨のついた綿で叩たたいて作ったんだ。だから字の刻ほってあるところだけ白く残ってるだろう。此処ここにあるこの白い細い筋が面白いんだよ。この白い筋がね、悪竜の雷が落ちた時に折れた痕あとなんだよ。三蔵法師もこの割れ目を見たんだね」

子供たちは固唾かたずを呑のんだまま、眼を円くして覗き込んでいる。そのうちに末の子が息を吸いこんで「それじゃあやっぱり本当なんだね」と感にたえたという風にいう。

さすがに上の子は「本当じゃないんだけど、お父ちゃま、そんなもの誰に貰もらったの」と妙なことをきく。講談本の盗み読みが出来ない現代の子供たちも、この拓本には驚いたらしかった。

地球の内部が火の球であると言うと、それを問題にするのは、少数の科学者だけである。おそらく殆ほとんどすべての子供たちは、そんなことは分り切ってるさと答えるであろう。その答えは二重の意味で考えてみる必要がある。第一は、分り切ってると思い込んでいる点であり、第二は、もっと大切なことであるが、それにあまり驚かないことである。

分り切ってると思う方は、科学普及書の改善によってあるいは是正出来るかもしれない。しかしそれに本当に驚くような心を育てるには、それだけではむつかしいであろう。ひょっとすると『西遊記』教育のようなものが、案外有効なのかもしれないが、ちょっと危険な方法なので、誰にでもすすめるというわけには行かない。しかし麦は一度踏まねば発育が悪いということは、一応知っておいてよいことである。

(昭和十八年一月一日)

底本 / Source edition

底本:「中谷宇吉郎随筆集」岩波文庫、岩波書店
1988(昭和63)年9月16日第1刷発行
2011(平成23)年1月6日第26刷発行
底本の親本:「樹氷の世界」甲鳥書林
1943(昭和18)年
初出:「文藝春秋」
1943(昭和18)年1月1日
※表題は底本では、「『西遊記《さいゆうき》』の夢」となっています。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2013年1月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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中谷 宇吉郎「『西遊記』の夢」(新字新仮名)、底本『中谷宇吉郎随筆集』岩波文庫、岩波書店、1988年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 053238_001569, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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