子供の頃読んだ本の中で、一番印象に残っているのは、『西遊記』である。

もう三十年も前の話であり、特に私たちの育った北陸の片田舎には、その頃は子供のための本などというものはなかった。

子供たちは、大人の読み古した講談本などを、親に<ruby><rb>叱</rb><rt>しか</rt></ruby>られながら、こっそり読んでいた。その頃<ruby><rb>盛</rb><rt>さかん</rt></ruby>に出ていた<ruby><rb>小波</rb><rt>さざなみ</rt></ruby>氏の「世界お<ruby><rb>伽噺</rb><rt>とぎばなし</rt></ruby>」のようなものも滅多に手に入らなかった。

あの一冊十<ruby><rb>銭</rb><rt>せん</rt></ruby>かの本は、たしか全部で百冊あったはずである。もう何回となく読みかえしたそのうちの一冊の末尾には、百冊の題目がずらりと並んでいた。その題目の一つ一つが少年の心には、あらゆる空想の種であった。これらの百冊の題目は、見開き二<ruby><rb>頁</rb><rt>ページ</rt></ruby>にぎっしり<ruby><rb>詰</rb><rt>つま</rt></ruby>っていた。その二頁に、私たちは、いつまでもあかず見入っていた。気に入ったお<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじみ</rt></ruby>の題目のいくつかは、その紙面からずっと浮き出して見えた。そしてその活字の<ruby><rb>蔭</rb><rt>かげ</rt></ruby>に、古い城だの、<ruby><rb>碧</rb><rt>あお</rt></ruby>い湖だのの姿が<ruby><rb>揺曳</rb><rt>ようえい</rt></ruby>していた。

そういう頃に、私は帝国文庫の『西遊記』を見つけた。私は町の小学校へはいるために、小学一年の時から町へあずけられていた。その家は旧<ruby><rb>士族</rb><rt>しぞく</rt></ruby>の<ruby><rb>旧</rb><rt>ふる</rt></ruby>い家柄の家であった。そこには帝国文庫だの、それに類した本が十冊近くもあって、それがあこがれの的であった。

背中に<ruby><rb>金</rb><rt>きん</rt></ruby>の文字がはいっているあの厚い本は、中が小さい字で一杯に埋っていて、あれならばいくら読んでもおしまいにはならないように見えた。それに立派な絵も沢山はいっていた。

<ruby><rb>漸</rb><rt>ようや</rt></ruby>く<ruby><rb>振仮名</rb><rt>ふりがな</rt></ruby>を頼りに読めるようになった時に、最初にとっついたのが『西遊記』であった。この頃になって、久しぶりで手にしてみると、<ruby><rb>劈頭</rb><rt>へきとう</rt></ruby>から、<ruby><rb>南贍部洲</rb><rt>なんせんぶしゅう</rt></ruby>とか、<ruby><rb>傲来</rb><rt>ごうらい</rt></ruby>国とかいうようなむつかしい字が一杯出て来る。こういう<ruby><rb>画</rb><rt>かく</rt></ruby>の多い字が一杯並んで、字づらが薄黒く見えるような頁が、何か<ruby><rb>変化</rb><rt>へんげ</rt></ruby>と神秘の国の扉のように、幼い心をそそった。

面白さは無類であった。学校から帰ると、<ruby><rb>鞄</rb><rt>かばん</rt></ruby>を放り出して、古雑誌だの<ruby><rb>反故</rb><rt>ほご</rt></ruby>だののうず高くつまれた小さい机の上で『西遊記』に魂をうばわれて、夕暮の時をすごした。昼でも少し薄暗い四畳半の片隅には、<ruby><rb>夕闇</rb><rt>ゆうやみ</rt></ruby>がすぐ訪れた。その訪れにつれて、本を片手にだんだん<ruby><rb>窓際</rb><rt>まどぎわ</rt></ruby>に移って行った。ふと顔をあげると、疲れた眼に、すぐ前の<ruby><rb>孟宗籔</rb><rt>もうそうやぶ</rt></ruby>の緑が<ruby><rb>鮮</rb><rt>あざや</rt></ruby>かにうつった。

仏教の<ruby><rb>寓意譚</rb><rt>ぐういたん</rt></ruby>であるという『西遊記』が、これほど<ruby><rb>魅魔的</rb><rt>みまてき</rt></ruby>に感ぜられたのは、雰囲気のせいもあった。その頃の<ruby><rb>加賀</rb><rt>かが</rt></ruby>の旧い家には、まだ<ruby><rb>一向一揆</rb><rt>いっこういっき</rt></ruby>時代の仏教の<ruby><rb>匂</rb><rt>にお</rt></ruby>いが幾分残っていた。

一番奥の六畳<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>が、仏壇の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>になっていた。仏壇の間は昼でも薄暗かった。家に不相応な大きい仏壇は旧くすすけていて、<ruby><rb>燈明</rb><rt>とうみょう</rt></ruby>の<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>がゆるくゆれると、いぶし金の内陣が、ゆらゆらと光って見えた。

その家の老母は、仏壇の前にきちんと<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>って、朝晩お経をあげていた。そして月に二、三回もお坊さんが来て、長いお経をあげた。小学生の私もその間は必ず老母の横にきちんと坐ってお経をきいていた。そういうことも日課のうちの一つとして、家の中の人も私もちっとも変ったこととは考えていなかった。

足の痛いのを我慢しながら、じっとお経をきいていると、だんだん<ruby><rb>睡</rb><rt>ねむ</rt></ruby>くなって来る。時々燈明がぼうっと明るくなると、仏壇の中の仏像だの、色々な<ruby><rb>金色</rb><rt>こんじき</rt></ruby>の仏様の<ruby><rb>掛軸</rb><rt>かけじく</rt></ruby>だのが、浮いて見えた。そして<ruby><rb>孫悟空</rb><rt>そんごくう</rt></ruby>のいた時代がそう遠い昔とは感ぜられなかった。

<ruby><rb>太宗</rb><rt>たいそう</rt></ruby>皇帝の<ruby><rb>水陸大会</rb><rt>だいせがき</rt></ruby>に、<ruby><rb>玄奘法師</rb><rt>げんじょうほうし</rt></ruby>の<ruby><rb>錦襴</rb><rt>きんらん</rt></ruby>の<ruby><rb>袈裟</rb><rt>けさ</rt></ruby>が<ruby><rb>燦然</rb><rt>さんぜん</rt></ruby>と輝き、<ruby><rb>菩薩</rb><rt>ぼさつ</rt></ruby>が雲に乗って天に昇ると、その雲がいつの間にか<ruby><rb>觔斗雲</rb><rt>きんとうん</rt></ruby>にかわって、いつか自分は水色の<ruby><rb>綿蒲団</rb><rt>わたぶとん</rt></ruby>の下に蒸されるような息苦しさを感じた。そういう時には、金色の<ruby><rb>燭台</rb><rt>しょくだい</rt></ruby>の一点が燈明に鋭く輝いて、その光点から金色の<ruby><rb>箭</rb><rt>や</rt></ruby>が八方にさしているのを、<ruby><rb>唯一</rb><rt>ゆいいつ</rt></ruby>のすがりどころとじっとみつめていた。

家の中には科学はおろか、およそ近代風の物の考え方というものは少しもなかった。本当のことを信ずるという現代の人たちには、本当でないから信ずるということまでは理解出来るであろう。しかし本当とか<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>とかいうことと信ずることとが完全に<ruby><rb>乖離</rb><rt>かいり</rt></ruby>した考え方はちょっとむつかしい。私が小学校時代を<ruby><rb>過</rb><rt>すご</rt></ruby>した家には、あらゆる意味で、現代風な物の考え方というものは全然なかった。そういう所では孫悟空は、自由にその<ruby><rb>金箍棒</rb><rt>きんこぼう</rt></ruby>をふるうことが出来たのである。

小学校では、変った先生がいて、理科の時間にカント―ラプラスの星雲説などを教えてくれた。今でいえば科学普及という<ruby><rb>類</rb><rt>たぐ</rt></ruby>いであろうが、その先生の話をきいていると、何だか宇宙<ruby><rb>開闢</rb><rt>かいびゃく</rt></ruby>以前の夢の方が余計に<ruby><rb>聯想</rb><rt>れんそう</rt></ruby>されやすかった。何もない<ruby><rb>虚空</rb><rt>こくう</rt></ruby>に目に見えない力の<ruby><rb>渦巻</rb><rt>うずまき</rt></ruby>だけがあって、その渦の<ruby><rb>捲</rb><rt>ま</rt></ruby>き方がだんだん速くなる。するとその力が<ruby><rb>凝</rb><rt>こ</rt></ruby>って物質が徐々に生れて来るような幻想が、いつの間にか頭の中に出来てしまった。それで折角のカント―ラプラスもまた孫悟空の味方になってしまったのである。

今から考えてみれば、随分無茶な話であるが、それでも無事に中学へはいり、高等学校へ行ってピアノなどいうものの実物を見るようになっては、さすがに『西遊記』の世界からは次第に離れて行った。そしてその反動かどうかは分らないが、物理学などを専攻することになってしまった。

その後は、当然のことながら、長い間『西遊記』とは縁のない生活をしていた。ところが二年ほど前に思わぬところで、ひょっくり本物の<ruby><rb>八戒</rb><rt>はっかい</rt></ruby>に出会ったのにはちょっと驚いた。それは<ruby><rb>正</rb><rt>まさ</rt></ruby>しく本物の八戒と言ってよいものなのである。

紀元二千六百年記念に出版された『<ruby><rb>西域画聚成</rb><rt>せいいきがしゅうせい</rt></ruby>』を見ているうちのことであった。<ruby><rb>燉煌</rb><rt>とんこう</rt></ruby>出土の<ruby><rb>降魔図</rb><rt>ごうまず</rt></ruby>の中に八戒がいたのである。中央の岩上に<ruby><rb>結跏趺坐</rb><rt>けっかふざ</rt></ruby>した<ruby><rb>釈尊</rb><rt>しゃくそん</rt></ruby>の周囲に、怪奇な魔衆が群り集っている、空想の限りをっくした絵である。その中に魔衆の一人として、長い<ruby><rb>嘴</rb><rt>くちばし</rt></ruby>を突き出した八戒が、<ruby><rb>熊手</rb><rt>くまで</rt></ruby>をふりあげて、強くないくせに威張った顔をして立っていた。八戒のくせに<ruby><rb>裾長</rb><rt>すそなが</rt></ruby>の着物を着て、金の冠かなんかをかぶって、不器用に熊手を振りかぶっている。子供の頃から頭の中にある、悪いことばかりしていて、その割に<ruby><rb>悪</rb><rt>にく</rt></ruby>めない八戒の姿そのままがひょっくり出て来たので、大変なつかしかった。

この絵は<ruby><rb>宋初</rb><rt>そうしょ</rt></ruby>のものとされているので、本当の<ruby><rb>玄奘三蔵</rb><rt>げんじょうさんぞう</rt></ruby>法師が、<ruby><rb>唐</rb><rt>とう</rt></ruby>の<ruby><rb>太宗</rb><rt>たいそう</rt></ruby>の<ruby><rb>貞観</rb><rt>じょうがん</rt></ruby>三年に<ruby><rb>長安</rb><rt>ちょうあん</rt></ruby>の都を辞して、<ruby><rb>遥々</rb><rt>はるばる</rt></ruby>印度への旅についた頃から見ると、三百年くらいも後に描かれたことになる。しかし『西遊記』の書かれたと推定されている宋末<ruby><rb>元初</rb><rt>げんしょ</rt></ruby>の頃から見ると、ずっと<ruby><rb>旧</rb><rt>ふる</rt></ruby>いものである。古来白骨人の<ruby><rb>収</rb><rt>おさ</rt></ruby>むる<ruby><rb>無</rb><rt>な</rt></ruby>しとうたわれた<ruby><rb>青海</rb><rt>せいかい</rt></ruby>のほとりには、その頃丁度八戒などもいたのであろう。<ruby><rb>審美書院</rb><rt>しんびしょいん</rt></ruby>の自慢の<ruby><rb>木版摺</rb><rt>もくはんずり</rt></ruby>の色でみると、千年の間土に<ruby><rb>埋</rb><rt>うも</rt></ruby>れていて、今また陽光を浴びた八戒は、<ruby><rb>鮮</rb><rt>あざや</rt></ruby>かな<ruby><rb>朱</rb><rt>しゅ</rt></ruby>と黄色との着物を着て、一、二年前に描かれたような色彩のまま保存されていたのである。

八戒の出現と前後して、スタインの『中央アジヤ<ruby><rb>踏査記</rb><rt>とうさき</rt></ruby>』を読むに<ruby><rb>到</rb><rt>いた</rt></ruby>って、私の『西遊記』の夢は益々本物になって来た。スタインの専門的な探険報告や燉煌絵画のような<ruby><rb>浩瀚</rb><rt>こうかん</rt></ruby>なものには手が出ないが、この『踏査記』のような手軽なものに、彼の全仕事が<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>められているのは、大変有難かった。それに<ruby><rb>風間</rb><rt>かざま</rt></ruby>氏の重厚な訳もよかった。

スタインは一九〇〇年から一九一六年にわたって、前後三回支那西域タクラマカンの荒野に発掘の旅をつづけた。それは古代のいわゆる<ruby><rb>絹路</rb><rt>シルクロード</rt></ruby>を確かめ、また玄奘法師やマルコ・ポーロの通った道を、現在の地図の上に<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>るのが主な目的であった。

支那の奥地、今<ruby><rb>重慶</rb><rt>じゅうけい</rt></ruby>政権が、ソ<ruby><rb>聯</rb><rt>れん</rt></ruby>との連絡に懸命の努力をつくしている西北ルートの土地は、カラコラムの氷河の氷がとけて流れ出る<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>かの流域をのぞいては、<ruby><rb>殆</rb><rt>ほと</rt></ruby>んど死の世界である。<ruby><rb>玉門関</rb><rt>ぎょくもんかん</rt></ruby>を越えて、太平洋の水域の勢力の限界を一歩出ると、その西は遥かに世界の屋根<ruby><rb>葱嶺</rb><rt>パミール</rt></ruby>に至るまでのいわゆる支那トルキスタンの地方は、全くの<ruby><rb>荒蕪</rb><rt>こうぶ</rt></ruby>の砂漠と、乾燥し切った岩山との境である。<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>はもはや生物の世界ではなく、暗黒な砂漠の<ruby><rb>嵐</rb><rt>あらし</rt></ruby>が狂い、<ruby><rb>大塩湖</rb><rt>だいえんこ</rt></ruby>の<ruby><rb>干上</rb><rt>ひあが</rt></ruby>った塩床が、探険者の足を頑強に<ruby><rb>拒</rb><rt>こば</rt></ruby>んでいる土地である。そして僅かばかりの人間が、砂漠の砂に埋れた<ruby><rb>廃墟</rb><rt>はいきょ</rt></ruby>の古代都市のほとりに、僅かにヒマラヤの雪のとけ出た流れを<ruby><rb>汲</rb><rt>く</rt></ruby>んで、<ruby><rb>辛</rb><rt>かろ</rt></ruby>うじて生命を保っているところである。

千三百年の昔に三蔵法師は、こういう土地を、本当はやはり孫悟空も八戒もつれずに、一人で歩いて行ったのであろう。「<ruby><rb>葱嶺</rb><rt>そうれい</rt></ruby>を<ruby><rb>逾</rb><rt>こ</rt></ruby>ゆるに毒風肌を切り、飛砂<ruby><rb>路</rb><rt>みち</rt></ruby>を<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>ぐ、<ruby><rb>渓間</rb><rt>けいかん</rt></ruby>の<ruby><rb>懸絶</rb><rt>けんぜつ</rt></ruby>するに<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>へば、<ruby><rb>縄</rb><rt>なわ</rt></ruby>を以て<ruby><rb>梁</rb><rt>はし</rt></ruby>となし、空に<ruby><rb>梯</rb><rt>はしご</rt></ruby>して進む」と当時の本にも残っているそうであるが、そういう旅であった。

スタインの仕事は、この同じ恐ろしい土地で、三蔵法師の歩いた道を推定しながら、砂漠の中に埋れ去った廃墟を発掘して、遺跡と遺品とを探しに行くことにあった。探険家などというと、豪放大胆な人が多いように一般には思われているが、スタインは全くそれと反対の性質の人のようであった。スタインの探険の成功の大半は、彼の学問に負っているようである。掘り出される紙片とか<ruby><rb>木簡</rb><rt>もっかん</rt></ruby>とかに残されている文字が、スタインにはおぼろげながら、大体読めた。<ruby><rb>欧洲</rb><rt>おうしゅう</rt></ruby>人にとっては恐るべき文字であるはずの古代の漢文、サンスクリット、古代印度のブラフミー文字など、そういうものまで、どうにか大体の意味が解せられた。そしてその文字によって、発掘個所の意味を推定しては、次の発掘にとりかかっているのである。

ニヤの<ruby><rb>古址</rb><rt>こし</rt></ruby>では、沢山の木簡が採集された。それは印度古代のカロシチー文字であった。そしてその書体から、それはスキタイ王朝即ち第一<ruby><rb>乃至</rb><rt>ないし</rt></ruby>第三世紀のものであることを知った。三蔵法師よりも四、五百年も前に使われていた木簡である、千七百年の歳月を<ruby><rb>閲</rb><rt>えっ</rt></ruby>しても、乾き切った砂の中に埋れていた木簡は、特に二枚<ruby><rb>重</rb><rt>かさな</rt></ruby>ったまま発掘されたものなどは、内面の文字の墨色が昨日のもののように<ruby><rb>鮮</rb><rt>あざや</rt></ruby>かであったそうである。

この木簡を発掘した夜、スタインは早速天幕に退いて、人夫たちを先にねかし、自分は一人で、その解読にとりかかった。その夜の寒気は特に厳しくて、最低零下四十一度まで下ったということである。その天幕の一隅で、スタインはこのカロシチー文字を読み解いて、冒頭の一行が「国王殿下命令書」であることを知った。それは官命を伝える一種の公文書であった。古代印度語がこの世紀に少くも行政用としては遥々この中央アジアの<ruby><rb>僻地</rb><rt>へきち</rt></ruby>まで侵入していたのである。翌日スタインは次の収穫を期して、廃墟の南側の数房の発掘にとりかかった。そしてその部屋の当時の使用目的を推定して、最後の住人が残したまま、積み重ねられていた多数の木簡を発見したのである。玄奘がこの附近を通った頃は、この土地は、当時既に乾燥状態に入っていた砂漠の中に埋れていた。あらゆる生命を<ruby><rb>圧</rb><rt>お</rt></ruby>し<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>す砂の力に追われて、最後の住人がこの土地を<ruby><rb>棄</rb><rt>す</rt></ruby>ててから、数百年の歳月が既にすぎていた。玄奘も印度からの帰途にこの道をとって、流砂に埋れた廃墟の姿を見たのである。

気候の長期変化ということは、気象学の方では大きい問題である。もっとも文化地理学の方ではもっと大きい問題かもしれない。ハンチントンは『気候と文明』で、太古の気候の変遷を論じている中で、アメリカの気候と西部アジアの気候との比較をしている。そしてその両者が第三世紀に<ruby><rb>到</rb><rt>いた</rt></ruby>って不一致を<ruby><rb>来</rb><rt>きた</rt></ruby>している理由の一つとして、「支那トルキスタンにおける多くの遺跡の放棄に余が著しく感銘したがために生じたのであるかもしれない」と告白している。

第三世紀というのは、即ちスタインがニヤの古址で発掘したカロシチー木簡の最後の使用者が、流砂に追われてその住居を棄てた時である。ハンチントンがもし『西遊記』の愛読者であったならば、もっと感銘しすぎたかもしれない。

『西遊記』と限らず、この種のいわゆる支那の奇書くらい<ruby><rb>放恣</rb><rt>ほうし</rt></ruby>な幻想がその翼をかって、<ruby><rb>奔放</rb><rt>ほんぽう</rt></ruby>に<ruby><rb>虚空</rb><rt>こくう</rt></ruby>を<ruby><rb>翔</rb><rt>か</rt></ruby>けまわっているものも少いであろう。そしてその幻想が『ギリシャ神話』とか『アラビヤ夜話』とかいうものと、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>かかなり深いところで、その情趣を<ruby><rb>異</rb><rt>こと</rt></ruby>にしている<ruby><rb>所以</rb><rt>ゆえん</rt></ruby>は、その幻想が支那大陸の<ruby><rb>妖</rb><rt>あや</rt></ruby>しいまでに広大な自然と融合しているからであろう。

スタインの本を読んでいると、到るところで『西遊記』の情景を見ることが出来る。八百<ruby><rb>里</rb><rt>り</rt></ruby>の間ことごとく<ruby><rb>火焔</rb><rt>かえん</rt></ruby>につつまれ、それを越えようとすれば<ruby><rb>黒鉄</rb><rt>くろがね</rt></ruby>の<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>でもとけてしまうという火焔山では、孫悟空は<ruby><rb>羅刹女</rb><rt>らせつにょ</rt></ruby>の<ruby><rb>芭蕉扇</rb><rt>ばしょうせん</rt></ruby>にあおられてひどい目にあった。その火焔山は昔孫悟空が天宮を<ruby><rb>鬧</rb><rt>さわ</rt></ruby>がした時、老君の<ruby><rb>丹炉</rb><rt>たんろ</rt></ruby>を<ruby><rb>踏倒</rb><rt>ふみたお</rt></ruby>し、それが地に降って出来たものである。それはなかなか活火山などという<ruby><rb>生易</rb><rt>なまやさ</rt></ruby>しいものではないらしい。

<ruby><rb>安西</rb><rt>あんせい</rt></ruby>から<ruby><rb>北山</rb><rt>ほくざん</rt></ruby>山脈をこえて、トルファン盆地へ出ると、そこは北に積雪のボグド・ウラ、南はクルック・タグの侵蝕丘陵地帯に挟まれた流出口のない低地である。クルック・タグの<ruby><rb>山麓</rb><rt>さんろく</rt></ruby>には、海面下千<ruby><rb>呎</rb><rt>フィート</rt></ruby>の深地がある。かつての<ruby><rb>鹹湖</rb><rt>かんこ</rt></ruby>は今は大部分<ruby><rb>涸渇</rb><rt>こかつ</rt></ruby>して、塩床の<ruby><rb>峻</rb><rt>けわ</rt></ruby>しい<ruby><rb>砂礫地</rb><rt>されきち</rt></ruby>である。この完全に人間の世界から隔絶された不毛の荒野を行くうちに、旅人は気圧計の針がだんだん昇って行って、遂に自分が、海面下千呎のところにいることを知るであろう。「北側の山麓は広漠たる乾燥した砂礫の斜面で、その<ruby><rb>縁</rb><rt>ふち</rt></ruby>にそって、極度に不毛の丘陵が<ruby><rb>崛起</rb><rt>くっき</rt></ruby>」している。その砂岩と礫岩とより成る赤裸の山肌は、無人の境にあって「見るからに毒々しく<ruby><rb>真赤</rb><rt>まっか</rt></ruby>に照り映えている。」そしてそれは昔から土地の支那人の間に「火の山」と呼ばれていたのである。それこそは活火山などよりも、もっと本当な火の山なのであろう。

<ruby><rb>玄奘法師</rb><rt>げんじょうほうし</rt></ruby>は、その十七年の長い旅の<ruby><rb>首途</rb><rt>かどで</rt></ruby>において既に、この北の沙漠に路を失い水に<ruby><rb>渇</rb><rt>かつ</rt></ruby>え、命からがら<ruby><rb>哈密</rb><rt>ハミ</rt></ruby>のオアシスに<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>り着いたのだそうである。

「毒風肌を切る」<ruby><rb>葱嶺</rb><rt>パミール</rt></ruby>をこえるに当って、玄奘は「竜王の<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそ</rt></ruby>む大竜池」のほとりを通っている。それは、<ruby><rb>紺碧</rb><rt>こんぺき</rt></ruby>の「無限の<ruby><rb>深淵</rb><rt>しんえん</rt></ruby>」なのである。スタインによれば、今のグレートパミール河の水源地ヴィクトリア湖がそれであるという。スタインが其処を訪れた時は、標高一万四千呎の湖面を氷のような寒風が吹いていた。そして一片の雲もない青空は黒く澄み上り、その中に白く輝いた太陽が<ruby><rb>寂</rb><rt>じゃく</rt></ruby>としてかかっていた。人類創成の昔から今まで、人間の力というものが全く加わっていないこの秘境で、スタインはあらゆる時の<ruby><rb>距</rb><rt>へだた</rt></ruby>りを忘れて、身近かに玄奘やマルコ・ポーロのいぶきを感じた。

無限の深淵の底は遠く四大洲の外につづき、東勝神洲の水底深くにも達している。その東海の底、竜王のすむ水晶宮へも、孫悟空は閉水の法を使って自由に潜り入ることが出来た。またタクラマカンの死の荒野の東、ロプ<ruby><rb>海床</rb><rt>かいしょう</rt></ruby>を越え、<ruby><rb>乾上</rb><rt>ひあが</rt></ruby>った海底に残る竜宮城の廃墟のまぼろしを<ruby><rb>眼</rb><rt>ま</rt></ruby>のあたりに見ながら、玄奘は印度からの帰途を急いだことであろう。

この道を辿るべく、三十頭の<ruby><rb>駱駝</rb><rt>らくだ</rt></ruby>にあらゆる探険用具と大氷袋とをつみ、すっかり準備をととのえたスタインの一行は、厳冬を目ざして、ミラーンの古市を出発した。そして<ruby><rb>楼蘭</rb><rt>ろうらん</rt></ruby>を中心とする一帯の発掘に<ruby><rb>惨憺</rb><rt>さんたん</rt></ruby>たる<ruby><rb>辛苦</rb><rt>しんく</rt></ruby>をなめた上に、更に楼蘭を起点とする古代支那路線をたずね、「塩の結晶の<ruby><rb>耀</rb><rt>かがや</rt></ruby>く<ruby><rb>無涯</rb><rt>むがい</rt></ruby>の<ruby><rb>曠野</rb><rt>こうや</rt></ruby>」ロプ海床に足を踏み入れたのである。

古代ロプ鹹湖の<ruby><rb>涸底</rb><rt>こてい</rt></ruby>は、峻しい粘土の丘がもつれるように起伏し、一面に塩が化石のように<ruby><rb>硬</rb><rt>かた</rt></ruby>く凍りついていた。そしてやがて「最後の<ruby><rb>檉柳</rb><rt>タマリスク</rt></ruby>の<ruby><rb>残骸</rb><rt>ざんがい</rt></ruby>が塩野原に<ruby><rb>横</rb><rt>よこた</rt></ruby>わるのを後にすると、<ruby><rb>最早</rb><rt>もはや</rt></ruby>死の世界ではない。全然生を知らぬ世界」となって来た。

この「生を知らぬ世界」の中に、スタインは意外な古代路線の目印を見付けたのである。それは古代支那銅貨や<ruby><rb>珠子</rb><rt>しゅし</rt></ruby>などの発見である。

或るところでは、<ruby><rb>塩晶</rb><rt>えんしょう</rt></ruby>の輝く沙漠の中に、約三十ヤードにわたって二百個余りの漢代の貨幣が、東北に向って一線をなして散乱していたそうである。その昔玉門関を出て楼蘭に向った駱駝の一つが、道々落して行った品が、二千年の後に拾い出されるようなこともあったのである。

この土地に特有な<ruby><rb>沈堆性</rb><rt>ちんたいせい</rt></ruby>の<ruby><rb>丘陵</rb><rt>メサ</rt></ruby>が甚だしい侵蝕作用のために、一見塔か寺院のような<ruby><rb>異形</rb><rt>いぎょう</rt></ruby>の姿をして立っている。それは支那の古書にある「太古の竜城の廃墟」の記事と一致するということである。

更に進むと、一面に塩に<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>われた侵蝕高原地帯に入る。それも支那書では「<ruby><rb>白竜堆</rb><rt>はくりょうたい</rt></ruby>」という名で残っているものだそうである。こういう土地に育った孫悟空が、度々竜城を訪れたことも無理のないことであろう。

今日の私たちは、皆地質学の初歩の知識をもっている。そして山から魚の化石の出ることをそう不思議とは思わない。しかし海底が隆起して山の頂きになることは恐ろしいことである。関東の大震災で地表が<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>か四<ruby><rb>寸</rb><rt>すん</rt></ruby>ばかり動くと、東京の街から三百年の江戸文化の名残りが完全にぬぐい去られ、明治の文化すら大半を失ってしまった。

日本は天災の多い国というが、まだまだ私たちの祖国の土は温順なのであって、アジアの大陸の奥地では、土地はもっと狂暴であって、自然はもっと<ruby><rb>苛烈</rb><rt>かれつ</rt></ruby>な面をいつも見せているのである。地震なども、この西域の地では、関東大震災などとは<ruby><rb>桁</rb><rt>けた</rt></ruby>ちがいの強烈なものが有史以来しばしば襲っている。そして現代でも世界の屋根パミールでは、全<ruby><rb>山塊</rb><rt>さんかい</rt></ruby>が崩壊をつづけているような所もあるのである。

一九一一年二月の地震で、パミールの中部バルダン渓谷は、一夜にしてその<ruby><rb>面貌</rb><rt>めんぼう</rt></ruby>を改めてしまった。崩れ落ちる<ruby><rb>岩屑</rb><rt>いわくず</rt></ruby>が、<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ちにして渓谷を埋め、かつてはキルギスの絶好の牧場であったところを、美しい山湖に変えてしまったのである。それは三年後には長径十七<ruby><rb>哩</rb><rt>マイル</rt></ruby>の湖になったのであるが、四年目にスタインが訪れた時にも、崩壊した岩屑の<ruby><rb>大堰堤</rb><rt>だいえんてい</rt></ruby>は、まだ新湖の水面上なお千二百呎をあましていた。そして山塊の崩壊はなおつづいていて、その山頂は山崩れのための土煙りで雲の如くに<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>われていたそうである。眠っている地球が一度目を覚ますと、僅かにその毛<ruby><rb>一筋</rb><rt>ひとすじ</rt></ruby>の動きでも、それは人間のあらゆる空想を一度にはじきとばしてしまうであろう。

そういう風に考えると、地球物理学者や地質学者が、アルプスの山の成因を議論したり、太平洋が月のとび出した<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>であるかないかを論じているのを孫悟空がきいたならば、われわれが『西遊記』に驚くように、きっと驚くであろう。そういえば、現代の子供たちが、<ruby><rb>独逸</rb><rt>ドイツ</rt></ruby>からの放送をきいても、星雲の話をしても、<ruby><rb>誰</rb><rt>だれ</rt></ruby>も余り驚かないのは、科学普及の功績であるか、罪過であるか急にはきめられない問題である。

この頃はうちの子供たちも本に夢中になって、<ruby><rb>御飯</rb><rt>ごはん</rt></ruby>によばれても来なかったり、<ruby><rb>夕闇</rb><rt>ゆうやみ</rt></ruby>の<ruby><rb>窓際</rb><rt>まどぎわ</rt></ruby>で<ruby><rb>電燈</rb><rt>でんとう</rt></ruby>をつけずに読み入っていたりして、よく母親に<ruby><rb>叱</rb><rt>しか</rt></ruby>られている。時々その本を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いてみると、<ruby><rb>今昔</rb><rt>こんじゃく</rt></ruby>の感にたえないくらい子供向きの良い本が沢山出ているようである。しかしああいう良い本ばかりでは少し可哀そうな気がしないでもない。

少しひねくれたような言い方になるかもしれないが、子供にもよく分って面白くて<ruby><rb>為</rb><rt>ため</rt></ruby>になるような本ばかり読んで育ったならば、本当の意味で自然に驚嘆する鋭い喜びを知らなくなる<ruby><rb>虞</rb><rt>おそ</rt></ruby>れがなくもない。

国民学校五年生の上の子供が、この頃『西遊記』に<ruby><rb>凝</rb><rt>こ</rt></ruby>り出したのを見て、何だか恐ろしいような気がしている。というのは、折角買ってもらった少国民向きの上品な『西遊記』にはざっと眼を通しただけで、夢中になっているのは、大人向きの<ruby><rb>旧</rb><rt>ふる</rt></ruby>い『西遊記』である。

「そんなむつかしい本が分るかい」ときいても「分るさ、面白いよ」と言いながら、<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>を<ruby><rb>真赤</rb><rt>まっか</rt></ruby>に上気させ、ふり向きもしないで読んでいる。

その横顔をみながら、私は静かに少年の日の旧い<ruby><rb>煤</rb><rt>すす</rt></ruby>けた家の姿を心に描いてみた。すると仏壇の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>のほのかな<ruby><rb>燈明</rb><rt>とうみょう</rt></ruby>のゆらぎが<ruby><rb>眼</rb><rt>ま</rt></ruby>のあたり<ruby><rb>蘇</rb><rt>よみがえ</rt></ruby>って来た。

「その<ruby><rb>玄奘三蔵</rb><rt>げんじょうさんぞう</rt></ruby>というお坊さんは本当にいた人なんだよ。その坊さんの書いた本もお父さまは持ってるよ。印度へお経をとりに行った途中のことが、書いてあるんだが、見せてやろうか」と言うと<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>大変なさわぎである。三人の子供が折りかさなって、国訳『<ruby><rb>大唐西域記</rb><rt>だいとうさいいきき</rt></ruby>』を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>き込んで、「三蔵法師玄奘<ruby><rb>奉詔訳</rb><rt>ほうしょうやく</rt></ruby>」という字に眼を光らせて、息をのんでいる。

ふと<ruby><rb>山本晋道</rb><rt>やまもとしんどう</rt></ruby>師の『<ruby><rb>天竺紀行</rb><rt>てんじくきこう</rt></ruby>』についていた<ruby><rb>阿育</rb><rt>アショーカ</rt></ruby>石柱刻文の拓本のことを思い出して、<ruby><rb>臘伐尼林</rb><rt>ルンビニりん</rt></ruby>のところを説明しながら二行だけ読んでやる。「四天王の太子を捧げし<ruby><rb>窣堵波</rb><rt>ストゥーパ</rt></ruby>の側に遠からず、大なる石柱ありて、上には馬の像を作れり。<ruby><rb>無憂</rb><rt>アショーカ</rt></ruby>王の建つるところなり。後に悪竜が<ruby><rb>霹靂</rb><rt>へきれき</rt></ruby>せしがためにその柱は中より折れて地に<ruby><rb>仆</rb><rt>たお</rt></ruby>れたり」

「その石の柱はね、三蔵法師はこの本に書いてあるようにたしかに見たんだが、その後すっかりジャングルの中に埋れてしまって、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>にあるのか分らなくなってしまったんだ。それから千年もの間ずっと分らなかったんだが、それがこの頃になってやっと見付かったんだよ」

と言って、その拓本を開いて見せた。「これはね、その石の柱に紙をおっつけて、墨のついた綿で<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>いて作ったんだ。だから字の<ruby><rb>刻</rb><rt>ほ</rt></ruby>ってあるところだけ白く残ってるだろう。<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>にあるこの白い細い筋が面白いんだよ。この白い筋がね、悪竜の雷が落ちた時に折れた<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>なんだよ。三蔵法師もこの割れ目を見たんだね」

子供たちは<ruby><rb>固唾</rb><rt>かたず</rt></ruby>を<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>んだまま、眼を円くして覗き込んでいる。そのうちに末の子が息を吸いこんで「それじゃあやっぱり本当なんだね」と感にたえたという風にいう。

さすがに上の子は「本当じゃないんだけど、お父ちゃま、そんなもの誰に<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>ったの」と妙なことをきく。講談本の盗み読みが出来ない現代の子供たちも、この拓本には驚いたらしかった。

地球の内部が火の球であると言うと、それを問題にするのは、少数の科学者だけである。おそらく<ruby><rb>殆</rb><rt>ほと</rt></ruby>んどすべての子供たちは、そんなことは分り切ってるさと答えるであろう。その答えは二重の意味で考えてみる必要がある。第一は、分り切ってると思い込んでいる点であり、第二は、もっと大切なことであるが、それにあまり驚かないことである。

分り切ってると思う方は、科学普及書の改善によってあるいは是正出来るかもしれない。しかしそれに本当に驚くような心を育てるには、それだけではむつかしいであろう。ひょっとすると『西遊記』教育のようなものが、案外有効なのかもしれないが、ちょっと危険な方法なので、誰にでもすすめるというわけには行かない。しかし麦は一度踏まねば発育が悪いということは、一応知っておいてよいことである。

（昭和十八年一月一日）