昭和十九年の暮に、岩波文庫の一冊として『島津斉彬言行録』が出版された。これには<ruby><rb>牧野伸顕</rb><rt>まきのしんけん</rt></ruby><ruby><rb>伯</rb><rt>はく</rt></ruby>の序文がついている。

当時既に日本は断末魔の境にあり、この本なども、ぼろぼろの<ruby><rb>藁半紙</rb><rt>わらばんし</rt></ruby>のような紙に印刷されているまことに粗末な本であるが、これは私にとっては、大切な本の一つである。

牧野伯とは、思わぬ機縁で、今度の戦争の初め頃から、時々<ruby><rb>御目</rb><rt>おめ</rt></ruby>にかかっていた。ある晩、牧野伯が、斉彬公の話をもち出され、幕末のあの混乱期に、西欧の科学と技術とを採り入れ、明治の近代国家日本の基盤を作った、斉彬公の業績について話をされた。そして「いま、『言行録』の原稿を岩波に渡してあるが、本が出来たら、一冊<ruby><rb>東条</rb><rt>とうじょう</rt></ruby>にやって、読んでもらうつもりだ」と言っておられた。

牧野伯は、あの老年にもかかわらず、頭が非常に新しく、当時の日本の科学と技術とでは、米英と戦って勝味のないことを、よく知っておられた。それで斉彬公の達識に見習って、日本の科学の確立からはかれということを、東条首相に教えるつもりのようであった。

しかし当時の出版事情では、こういう本の印刷は非常に遅れ、終戦前年の十一月に、やっと出来上った。牧野伯は「やっと出来上ったが、もう間に合わない」といっておられた。

この本を読んで、私は非常に驚いた。斉彬公は、非常に高い科学精神と、恐るべき直観力とを兼ね備えた<ruby><rb>稀</rb><rt>ま</rt></ruby>れな<ruby><rb>天賦</rb><rt>てんぷ</rt></ruby>の人であったことを初めて知った。その業績は、まことに多岐にわたり、その後の日本の近代工業の基礎は、ほとんど斉彬公によって作られたともいえるのである。少くもその芽生えは、<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>にあったということは断言出来る。時は<ruby><rb>浦賀</rb><rt>うらが</rt></ruby>に黒船が迫り、<ruby><rb>下関</rb><rt>しものせき</rt></ruby>には砲声が響く直前の頃であった。幕府では沿岸警備のために、寺院の<ruby><rb>釣鐘</rb><rt>つりがね</rt></ruby>を運び、口を海に向けて並べていた。黒船から見た時に、大砲と見えるだろうというのである。

その時に斉彬公は、まず大砲と軍艦との建造を思い立った。そのためには、製鉄用の反射炉と熔鉱炉とを造らねばならない。鉄が出来たとしても、大砲の<ruby><rb>孔</rb><rt>あな</rt></ruby>をくるためには、<ruby><rb>鑽開台</rb><rt>さんかいだい</rt></ruby>が必要である。大砲だけでは戦争は出来ないので、<ruby><rb>地雷</rb><rt>じらい</rt></ruby>水雷製造所もつくった。水雷は海防のため鹿児島湾内に伏せ、地雷は鉱山発掘のために使われた。

最大の事業は、蒸気船の建造であった。船体ももちろんであるが、蒸気機関もまず小模型から作って試験するという調子であったから、困難の度はおして知るべきであった。しかし遂に軍艦<ruby><rb>昇平丸</rb><rt>しょうへいまる</rt></ruby>を作り上げたのであるから、まさに一つの驚異である。

日本民族の科学性を論ずる場合に、斉彬公はまず第一に研究さるべき人である。斉彬公の研究者は多数あることと思うが、教示を得られれば幸いである。

（昭和三十年十月二十日）