わが師、わが友として、最も影響を受けた人たちと言えば、物心がついてから今日まで、私が個人的に接触したすべての人が、師であり友であった。

どういう人でも、よく見れば必ず長所があるので、その点を表立てて見ることにすれば、自分の接触する人は<ruby><rb>誰</rb><rt>だれ</rt></ruby>でも師であり、友であると、この頃私はかなり自然にそういう気持になっている。こういう心の持ち方は、<ruby><rb>明</rb><rt>あきら</rt></ruby>かに<ruby><rb>寺田寅彦</rb><rt>てらだとらひこ</rt></ruby>先生の感化を少し変形してではあるが受けたものと、自分では思っている。

先生はどんな人でも憎んだり、避けたりされるようなことはなかった。沢山の学生の中には、随分<ruby><rb>気障</rb><rt>きざ</rt></ruby>な男や、内攻的な打算家などもあって、私たち仲間ではいやな<ruby><rb>奴</rb><rt>やつ</rt></ruby>となっていた男でも、先生はよく親身になって面倒を見ておられた。もっとも時々<ruby><rb>癇癪</rb><rt>かんしゃく</rt></ruby>を<ruby><rb>起</rb><rt>おこ</rt></ruby>されることもあったが、その<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>ではいつも「今の若い連中には、無限に気を長く持たなければならないようだ。それぞれ長所はあるんだが」と言っておられた。

そういう気持の先生でも、やはり憎悪に近い感情を持たれた一種の人たちがあった。それは、道徳とか愛国とかいう最も神聖なことを売り物にして、それで生活の資を得ている人たちに対してであった。その頃物理の<ruby><rb>畏敬</rb><rt>いけい</rt></ruby>すべき先輩が恋愛事件で失脚されたことがあった。その事件をいつまでも<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にも楽しそうに蒸し返し繰り返して非難することによって、自己の道徳が堅固であることを誇示するつもりになっていた先生方が、大学の中にもあったそうである。それからこれも末期の現象の一つであったのであろうが、東京の下町などには、女<ruby><rb>髪結</rb><rt>かみゆい</rt></ruby>のような職業の人たちにいやがらせをやって生活していた自称愛国団体の<ruby><rb>下</rb><rt>した</rt></ruby>っ<ruby><rb>端</rb><rt>ぱ</rt></ruby>の連中があった。こういう人たちの話が<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>に出ることがあると、先生は妙に興奮気味の口調で「僕はああいう人たちには、どうにも我慢が出来ない」と言われた。そして「寺田君の説によると、泥棒をする男は皆善人なのだそうだ」という風に意地の悪い人たちから言われても、平気な顔をしておられた。これは推測であるが、そういう風に言われると、かえって内心少し<ruby><rb>御得意</rb><rt>おとくい</rt></ruby>のようでもあった。

先生のこういう気持も、それぞれの形で、私たちの心に伝えられて今日まで育って来ている。私などは悪い弟子で、それが少しこじれて、時々<ruby><rb>奇矯</rb><rt>ききょう</rt></ruby>の言を<ruby><rb>弄</rb><rt>ろう</rt></ruby>して損をすることもあるが、神聖なものに対する畏敬の念という一番大事なものを教わったことをいつも内心では喜んでいる。

ところで先生から受けた影響というよりも、その前に、先生との機縁ということについて考えて見ると、私は今更のように世の中というものは、随分微妙なものだという気がしている。今日北海道の<ruby><rb>一隅</rb><rt>いちぐう</rt></ruby>で、非常に恵まれた条件の<ruby><rb>下</rb><rt>もと</rt></ruby>に、好き勝手な研究を楽しんでいる自分の生活をふり返って見ると、その出発点は、全く寺田先生にある。もし先生を知らなかったら、私は今日とはまるでちがった線の上を歩いていたことだろうと思う。それにつけて私は、生涯の岐路というものは<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>もあって、その方向を決める要因が案外<ruby><rb>些細</rb><rt>ささい</rt></ruby>なものであることが多いのではなかろうかと、この頃時々考えている。というのは、私が寺田先生の学風の下に入った機縁は、全く友人Ｍ君の長兄の簡単な言葉にあったのである。

私たちの大学時代には、東大の物理学科では、学生が三年になると、理論と実験とに分れて、実験を志望する連中は、各々その指導を願いたい先生の下で、一年間研究実験をして卒業することになっていた。それで二年の三学期になると、誰もが真剣になって、研究実験の選択に頭を<ruby><rb>悩</rb><rt>なやま</rt></ruby>すのであった。

丁度私たちが二年生の時に、大震災があった。大学もその災に<ruby><rb>遭</rb><rt>あ</rt></ruby>って、大抵の建物が使えなくなったので、三カ月近くも休みになった。そして冬近くなってやっとバラックの中で講義が始められたような始末であった。この震災で私の家もすっかり焼けてしまった。その天災は私には物質的にも精神的にも著しい打撃であった。それで卒業後は今まで漫然と考えていたところの研究生活というものからすっかり縁を切って、理科系統の会社にでも入って、実際に物を作りそして金もうんと<ruby><rb>儲</rb><rt>もう</rt></ruby>けようという決心を一時的にしたことがあった。

今から考えれば随分妙な決心をしたものであるが、その時は<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>にそのように考えたのであった。それで三年になってからの研究実験にも、応用物理学の中で近い将来に大発展をするような方面を選ぼうと思った。丁度その頃は真空管が<ruby><rb>我国</rb><rt>わがくに</rt></ruby>でも実用化されかけて来た時であったし、それにＭ君の<ruby><rb>親戚</rb><rt>しんせき</rt></ruby>に当る関西の<ruby><rb>或</rb><rt>あ</rt></ruby>る大会社でもその方面に力を入れようとしていたので、無線関係の題目を研究実験に選ぶことに一応考えを決めた。

もっとも寺田先生のことは、<ruby><rb>冬彦</rb><rt>ふゆひこ</rt></ruby>の名を通じてよく知っていたし、時々<ruby><rb>御宅</rb><rt>おたく</rt></ruby>の方へ遊びにも行っていたので、事情さえ許せば先生の下で研究実験の指導をうけたいという強い希望が心の底にはあった。しかし先生の教室で、<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>の煙のもつれ方や<ruby><rb>三味線</rb><rt>さみせん</rt></ruby>の音響学的研究をしたのでは、金を儲ける方とはどうにも関係のつけようがないと思って、真空管の方を特に実際方面のことと<ruby><rb>関聯</rb><rt>かんれん</rt></ruby>をつけて研究して見たらという気になった。

Ｍ君は高等学校時代からの友人で、一緒に物理へはいって来ていたのであるが、そういうつもりならば一応問い合せてみようと言って、その長兄の意見を求めてくれた。ところがその返事が、私には天啓であった。別に変った意見が出たわけではないが、そういう偉い先生に個人的に接触する機会があるならそれを逃すのは損だ、卒業してからのことはまたその時になって考えたら良かろうというのである。

<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>にももっともな意見なので、私は<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐ賛成した。そして三年になると、一も二もなく先生の指導の下で、研究実験をすることに決めた。誠に他愛のない話であるが、若い時の考えなどは、あの大震災くらいのことでも随分影響されるものだと今になって思いみている。

ところであの時にＭ君の長兄から、それは良い考えだから是非真空管をやって、卒業したらうちの親戚の会社の方へ行くようにし給えという返事があったならば、私は多分そうしたことだろうと思う。そしてそれから今日までの間に、私は今の生活からはまるで縁の遠い路を通って、現在の自分とは全く別の私が一人出来上っていたことだろうと思う。<ruby><rb>巧</rb><rt>うま</rt></ruby>く行ったら今頃は重役になっていたかもしれないが、そのかわり物理の本当の面白味というものは<ruby><rb>遂</rb><rt>つい</rt></ruby>に知らずじまいに終ったであろう。

そういう風に考えて見ると、Ｍ君の長兄は、自分では多分知らないでいて、非常な影響を私に残してくれたことになる。いつかゆっくり会って、<ruby><rb>御蔭</rb><rt>おかげ</rt></ruby>で重役になり損ねましたと言おうか、御蔭様で生涯没頭して<ruby><rb>悔</rb><rt>くい</rt></ruby>ない面白い仕事にありつきましたと言おうかと思っているうちに、その人はもう亡くなってしまった。

いよいよ三年生になって、研究実験を始めるとなったら、同期の友人で<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>に二人先生の指導を受けることになった。一人はＭ君で、題目は霜柱の研究というのであった。もう一人はＨＭ君で、この方は熱電気の実験をやることになっていた。その外にＹ君という一年先輩の人があって、丁度その年卒業して、大学院に残って、水素の爆発の研究をしていた。私は前からＹ君をよく知っていた関係もあって、一緒にその水素の実験をやるようにと先生から言いつけられた。

先生は例の<ruby><rb>胃潰瘍</rb><rt>いかいよう</rt></ruby>の大出血後ずっと学校を休んでおられて、三年ぶりか四年ぶりかでやっと正式に大学へ出て来られたという時代であった。それで以前の<ruby><rb>御</rb><rt>お</rt></ruby>弟子の人たちは、一応途切れた形になっていた。そういう時期に丁度私たちが当ったもので、その年度に、先生の直接の指導の下で仕事をしていたのは、この四人だけであった。後年先生が、理化学研究所と地震研究所と航空研究所とに、それぞれ研究室を持って、若い元気な助手を十数人も使って<ruby><rb>活溌</rb><rt>かっぱつ</rt></ruby>な研究生活を続けておられた姿を思ってみると、誠に<ruby><rb>今昔</rb><rt>こんじゃく</rt></ruby>の感にたえないものがある。

ところで四人の実験室であるが、大震災直後のこととて、どうにも部屋の融通がつかないという話で、狭い一つの実験室の中で皆が一緒にやることになった。それも化学教室の実験室を借りての話だったもので、中には大きい作りつけの化学実験台が二つも備えつけてあって、それが邪魔になって困った。<ruby><rb>先</rb><rt>ま</rt></ruby>ずやっと身の置き所があるという程度の部屋であった。

それでも生れて始めて題目を<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>って、自分で研究を始めるのであるし、実験台の<ruby><rb>片隅</rb><rt>かたすみ</rt></ruby>を自分の机とすることも出来るので、一同はすっかり物理学者の卵になった気持で有頂天であった。皆が急に勉強家になるのもちょっと<ruby><rb>可笑</rb><rt>おか</rt></ruby>しかった。

朝学校へ来ると、先ず<ruby><rb>鞄</rb><rt>かばん</rt></ruby>をその机の上に置いて、身軽になって、ノートを一冊もって講義のある時だけ教室へ行く。それが高等学校時代からあこがれていた大学生の生活なのであった。講義は午前中二、三時間だけ聴いて、あとは実験室の片隅で<ruby><rb>鑢</rb><rt>やすり</rt></ruby>がけや<ruby><rb>盤陀</rb><rt>はんだ</rt></ruby>付けで小さい実験装置の部分品を作ったり、漫談に花を咲かせたり、時にはビーカーで湯を<ruby><rb>沸</rb><rt>わか</rt></ruby>して紅茶を<ruby><rb>淹</rb><rt>い</rt></ruby>れて飲んだりしていた。

時々法科方面の友達などがやって来て「君たちはいいな、僕の方は三百人も一緒に大講堂で大急ぎにノートを取るだけだから、とてもこういう感じは出ないよ」などと<ruby><rb>羨</rb><rt>うらやま</rt></ruby>しがるもので、<ruby><rb>益々</rb><rt>ますます</rt></ruby>いい気になっていた。そしてもう会社へはいって金を儲けてなどという考えは、いつの間にかけろりと忘れてしまっていた。

一学期も<ruby><rb>経</rb><rt>た</rt></ruby>って、そろそろ一同の装置が<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>って来ると、部屋は益々窮屈になって来た。無理<ruby><rb>遣</rb><rt>やり</rt></ruby>に小さい実験台をいくつか押し込んで、三つの実験がやっと同時にやれるようになったのであるが、<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>などは邪魔になってしようがない。それで皆小さい円い木の腰掛にとりかえてしまうという騒ぎであった。

先生は毎日のように午後になるとちょっと顔を出された。そしてその小さい腰かけにちょこんと腰を<ruby><rb>下</rb><rt>おろ</rt></ruby>して、悠々と<ruby><rb>朝日</rb><rt>あさひ</rt></ruby>をふかしながら、雑然たる三つの実験台を等分に眺めながら、<ruby><rb>御機嫌</rb><rt>ごきげん</rt></ruby>であった。

その頃は丁度『<ruby><rb>藪柑子集</rb><rt>やぶこうじしゅう</rt></ruby>』や『冬彦集』が初めて世に出た時代で、先生の頭の中に永らく蓄積されていたものが、急にはけ口を得て<ruby><rb>迸</rb><rt>ほとばし</rt></ruby>り出始めたような感じを周囲に与えておられた。研究の方も同様であって、三年間かの病床<ruby><rb>及</rb><rt>および</rt></ruby>療養の間に先生の頭の中で<ruby><rb>醗酵</rb><rt>はっこう</rt></ruby>した色々の創意が、<ruby><rb>生</rb><rt>き</rt></ruby>のままの姿でいくらでも<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>から後からとわれわれの前に並べられた。それらの創意は、皆その<ruby><rb>後</rb><rt>ご</rt></ruby>数年の間に立派に育て上げられて、後年の先生の華々しい研究生活の一翼をそれぞれなすようになった。一年間の研究実験を終え、その後引続いて理化学研究所で三年間先生の助手をつとめ上げていた間に、私はこの偉大なる魂の生長をすぐ<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>で見つめていることが出来たはずであった。しかし当時の私は<ruby><rb>唯</rb><rt>ただ</rt></ruby><ruby><rb>眩惑</rb><rt>げんわく</rt></ruby>されるだけであった。そして今頃になって、頭の片隅に残る色々な実験室内の場面を<ruby><rb>綴</rb><rt>つづ</rt></ruby>り合せながら、<ruby><rb>朧</rb><rt>おぼ</rt></ruby>ろにその輪郭をたどるような始末である。

Ｍ君の霜柱の研究というのは、<ruby><rb>武蔵野</rb><rt>むさしの</rt></ruby>の赤土に立つ唯の霜柱のことである。あの美しい、しかし誰も<ruby><rb>見馴</rb><rt>みな</rt></ruby>れている霜柱などを、改めて物理の研究の対象として、本気で取り上げようとする人は今まで余りなかった。しかし霜柱の現象は実は世界的にかなり珍しい一つの自然現象なのであって、寒い<ruby><rb>伯林</rb><rt>ベルリン</rt></ruby>や<ruby><rb>倫敦</rb><rt>ロンドン</rt></ruby>などでも、われわれの知っているような霜柱を見た人は余りないはずである。

土と水との混合物から、水があのように完全に分離して氷の結晶として凍り出るのは、かなり微妙な熱的条件の均衡と、土質の特異性とによるものなのである。それは広い意味での低温<ruby><rb>膠質</rb><rt>こうしつ</rt></ruby>物理学の重要な課題の一つなのであって、そういうことも、実は近年になってやっと分って来たのである。先生はＭ君に、こういう日本に独特というほどでもないが、とにかく顕著な自然現象を、日本人の手で解決することをすすめておられた。そしてこの現象は土の膠質的性質に起因するものであろうという<ruby><rb>見込</rb><rt>みこみ</rt></ruby>をつけて、先ず膠質物理学方面の測定技術を修得するような実験を言いつけられた。

近年になって、霜柱の研究も大分<ruby><rb>盛</rb><rt>さかん</rt></ruby>になった。その中でも著しい<ruby><rb>業蹟</rb><rt>ぎょうせき</rt></ruby>は自由学園の自然科学グループの人たちの研究で、その生成が土中に極微な粒子の存在することによるという点が明らかにされ、先生の見込みを確める結果を得たことである。先生のいわゆる<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ぎつける力の一つのささやかな例として見ても、この話は私には一種の<ruby><rb>懐</rb><rt>なつか</rt></ruby>しさをもっているのである。

それよりももっと重大なことは、この霜柱が、寒地の土木工学上大切な問題として、<ruby><rb>極</rb><rt>ご</rt></ruby>く最近に、低温科学の表面に浮き出たことである。極寒地では冬土が凍ると持ち上げられ、いわゆる凍上の現象が起きる。この力は大変強いので、<ruby><rb>北満</rb><rt>ほくまん</rt></ruby>では<ruby><rb>煉瓦</rb><rt>れんが</rt></ruby>造りの家屋がそのために崩壊したり、それよりも困るのは、鉄道線路に<ruby><rb>凹凸</rb><rt>おうとつ</rt></ruby>が出来て汽車が走れなくなる。北海道などでもひどい所では一<ruby><rb>尺</rb><rt>しゃく</rt></ruby>位も持ち上げられることがあって、そのために<ruby><rb>被</rb><rt>こうむ</rt></ruby>る鉄道の被害は著しいものである。それが実は地下の霜柱によることを、最近に確めることが出来たのである。

実は昨年札幌鉄道局に、凍上防止の委員会が出来て、私もその物理的方面を担当することになった。初め色々現象をきいて見ると、霜柱と類似の点が多いので、それならば余り縁のないことでもないと思って引き受けたのであるが、現場の発掘と低温室内での実験の結果とから、それがやはり地下の霜柱に起因することが分った。私は二十年前の実験室内の光景を心に<ruby><rb>描</rb><rt>えが</rt></ruby>いて、先生の着眼のほどを思いみると同時に、或る種の因縁のようなものを感じた。

霜柱の隣では、ＨＭ君が熱電気に関する特殊な現象を調べていた。この方は調べるというよりも探していたと言った方が良いので、最後の目指すところは、地球磁気の根源をとらえようという話であった。とんでもない大問題を学生の卒業実験に課されたものであるが、先生の説明をきくとよく納得された。

地球がどうして磁気を持っているかという原因については、色々な説が出ているが、結局のところは分っていない。それで先生は、地球内部が高温になっているために、熱は始終中心から地球表面に向って流れている。それと地球の自転の影響とで、何か熱電流のような現象が起き、大体緯度線に沿って電流が流れて磁気を生じているのではなかろうかと思いつかれたのだそうである。大分後になって、同じような仮説を出した学者が<ruby><rb>阿米利加</rb><rt>アメリカ</rt></ruby>にも前にあったことが分ったが、そんなことは別に問題にする必要はない。

ＨＭ君の第一の仕事は、針金に急激な温度傾斜を与えてそれで出来る電流即ちベネディックス効果を、色々な条件の下で測って見るというのであった。手製のアスベストスの棒に針金を<ruby><rb>捲</rb><rt>ま</rt></ruby>きつけて、それを<ruby><rb>不細工</rb><rt>ぶさいく</rt></ruby>な歯車か何かにとりつけた妙な装置が出来上った。それに<ruby><rb>瓦斯</rb><rt>ガス</rt></ruby>の炎をぶうぶうと吹きつけながら、ＨＭ君は歯車を片手でがらがら廻しては、<ruby><rb>検流計</rb><rt>ガルバノメーター</rt></ruby>の望遠鏡を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いていた。

誰かが遊びに来ると、よくあれは火事の実験かいときいた。そして今にあれで地球磁気の原因が分るはずなんだと言うと、中には「<ruby><rb>正</rb><rt>まさ</rt></ruby>に<ruby><rb>団栗</rb><rt>どんぐり</rt></ruby>のスタビリティを論じて天体の運動に及ぶ<ruby><rb>類</rb><rt>たぐ</rt></ruby>いだね」という男もあった。

この研究はその後、理研でＴ君があとを引き受けてずっと続けることになった。結局地球磁気の原因は分らなかったが、或る種の金属結晶体に縦に熱を流すと、それと直角の方向即ち横向きに電流が発生するという新しい現象の発見に導かれたのであった。この発見は先生の数多い<ruby><rb>業蹟</rb><rt>ぎょうせき</rt></ruby>の中でも特筆すべきものの一つであったが、ＨＭ君がぶうぶうと炎を吹きつけていた頃のことを思うと、傍観者たる私たちにも感慨の深いものがあった。

ところでＹ君と私との水素の爆発に関する研究であるが、この方は、実はＹ君がもう一年前から始めていたので、装置は大体出来ていた。それで私たちの方は<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐ測定にとりかかれた。

この研究は飛行船の爆発防止の問題に<ruby><rb>関聯</rb><rt>かんれん</rt></ruby>して始められたものであった。あの頃は日本ばかりでなく、外国でも飛行機が今日のように発達していなくて、飛行船がまだかなり有望視されていた。それで私たちも時々軟式の飛行船が、少々怪しげな<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>で東京の空をとぶ姿を仰いだものであった。

飛行船の事故は時々あった。そのうちでも当時から二年位前に一台の飛行船が原因不明で爆発してしまったことがあった。それで先生が或る方面から頼まれて、爆発防止の研究をされることになり、この水素の爆発に関する実験というのが、その基礎的研究として採り上げられていたのである。前の題目にしても、この水素の話にしても、学生の卒業実験としてはかなり大きい問題を課せられたものであった。しかしどんな難問題でも先生の手にかかると、妙に易しい話になってしまうので、気軽にどんどん実験を進めて行けるのが不思議であった。

水素の爆発の研究は、勿論世界各国で、ずっと前からも沢山なされていた。しかしそれらの研究のうちの多くのものは、水素と酸素とが丁度爆発に適するような割合に混合された場合について調べたものであった。先生の研究はその反対と言っていい場合についてであった。水素に少し空気が<ruby><rb>雑</rb><rt>まじ</rt></ruby>ったり、逆に空気中に水素が少量混入した時に、爆発がどのような形をとって<ruby><rb>伝播</rb><rt>でんぱ</rt></ruby>するかを見ようというのであった。

実験は細い<ruby><rb>硝子管</rb><rt>ガラスかん</rt></ruby>に、適当な割合の混合気体を入れて、上端で火花をとばせて見るのである。例えば水素中に空気がだんだん余計に雑って来ると、或る割合のところで火がつく。しかし混入した空気の量が少いうちは、その燃焼は点火した場所の附近だけに<ruby><rb>止</rb><rt>とどま</rt></ruby>って、すぐ火が自分で消えてしまう。そしてもう少し空気を多くした時に、初めてその燃焼が管の中に伝播して行くようになり、いわゆる爆発が起るのであった。

実験のやり方は<ruby><rb>決</rb><rt>きま</rt></ruby>っているのであるが、硝子管の太さと長さとを色々にかえ、混合気体の割合をまた色々かえて調べて行くので、やることはいくらでもあった。とうとうそれだけに一学期と夏休みが<ruby><rb>殆</rb><rt>ほと</rt></ruby>んど<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>れてしまった。「水素と酸素とを混ぜて火をつければ爆発するに<ruby><rb>極</rb><rt>きま</rt></ruby>っている」と思っていたのであるが、実際やって見ると、管の太さや長さによって、爆発の途中で火が消えたり、消えそうになって更に第二段の燃焼が起きたり、意外なことが沢山出て来た。なるほど実験物理というものはこういうものかという気がした。

夏休み中、三十度以上の蒸し暑い狭い実験室で、毎日汗だくになって燃焼量と管の形との間の関係をグラフに作って暮した。ＨＭ君が横でむやみと瓦斯の炎をぶうぶうやるので閉口した。水道の水を冷却用に使っていたのであるが、水温が余り高くなってしまって用をなさなくなったこともあった。そういう日は勿論実験はお休みで、午後半日紅茶をのみながら無駄話をして遊び暮した。

先生は夏になると割合元気になると言いながら、どんな暑い日でも毎日一度は実験室へ顔を出された。胃が悪いと手脚が冷えて困るので、夏になると割合元気になるということをこの頃になって私も経験した。

先生は一わたり三つの実験を眺め渡して、<ruby><rb>一言</rb><rt>ひとこと</rt></ruby><ruby><rb>二言</rb><rt>ふたこと</rt></ruby>ちょっと<ruby><rb>示唆的</rb><rt>しさてき</rt></ruby>な注意を与えられる。それで指導の方はもうおしまいである。あとはヴァイオリンや<ruby><rb>三味線</rb><rt>さみせん</rt></ruby>の話が出たり、幽霊や海坊主の話になったりした。先生はずっと前に<ruby><rb>尺八</rb><rt>しゃくはち</rt></ruby>の音響学的研究をされて外国人を驚かされたことがあったが、引続いて三味線の方を調べたいという希望をずっと持っておられたのである。しかし三味線ときくと皆が<ruby><rb>尻込</rb><rt>しりご</rt></ruby>みをするので、適当な実験助手が得られなくてそのままになっていた。「誰か耳の良い学生の人がいないかなあ、三味線はきっと面白いよ。それにあんなものわけなく弾けるようになるんだから。僕だって「<ruby><rb>松</rb><rt>まつ</rt></ruby>の<ruby><rb>緑</rb><rt>みどり</rt></ruby>」くらいなら弾けるよ」と先生は言っておられた。これは本気の話であって、先生の学校の部屋の隅には、赤い袋に入った三味線が<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く置いてあったが、結局誰もその方を志願する者がなくておしまいになってしまった。今から考えて見ると惜しいような気もする。

もっとも話はそんな題目ばかりとは限らなかった。時には実験の心得について、<ruby><rb>稀世</rb><rt>きせい</rt></ruby>の名教訓が出たり、現代の物理学の限界を論ぜられたりすることもあった。もっとも幽霊の話でも、どんな重大な問題の議論でも、先生はいつも同じ口調で話されるので、最後は大抵は先生のいわゆる「<ruby><rb>大気焔</rb><rt>だいきえん</rt></ruby>」になることが多かった。二、三十人も人が集ると、先生はもうもぞもぞと口の中で話されて何のことか分らないのであるが、二、三人の弟子たちを前に置いてその大気焔を揚げられる時は、非常な雄弁であった。毎日のことながら、いつも少々<ruby><rb>毒気</rb><rt>どくけ</rt></ruby>を抜かれた形で一同が神妙にきいていると、先生は少しきまり悪そうににやにや笑いながら「どうも僕が来ると、実験の邪魔ばかりするようだね」と言って、上機嫌で帰って行かれた。

水素の実験は、その後Ｙ君が理研でずっと続けて、Ｙ君にとっては殆んど半生の仕事となった。私はその後爆発の方とはちょっと縁が切れていたのであるが、数年前、北海道の炭坑でメタン<ruby><rb>瓦斯</rb><rt>ガス</rt></ruby>の爆発が<ruby><rb>頻々</rb><rt>ひんぴん</rt></ruby>とあって、それを防止する意味をかねて、メタンの爆発の研究をしたいという人が出て来た。炭坑の爆発はその後もかなり<ruby><rb>頻繁</rb><rt>ひんぱん</rt></ruby>にあって、時局<ruby><rb>柄</rb><rt>がら</rt></ruby>重大な問題なので、私もその人と一緒に少し手をつけて見たことがあった。考えて見ると、条件は飛行船の爆破の場合とよく似ているので、昔の実験を思い出して、水素をメタンに置き換えるだけで直ぐ仕事にとりかかることが出来た。

結果は水素の場合とよく似ていて、<ruby><rb>唯</rb><rt>ただ</rt></ruby>色々な燃焼伝播の特性が、メタンの場合にはもっと著しく現われることが分った。十五年前にあの暑い実験室の片隅で毎日採っていたグラフと質的には全く同じ結果を、今日北海道の実験室で熱心な助手の人が、炭坑の爆発に関聯した問題として得ている姿を見て、<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>にも因縁のようなものを感ずる機会があった。

水素の爆発の研究には、ちょっとした劇的挿話があった。それは丁度その頃或る航空船が、飛行中全く原因不明で、或る場所の上空で爆破したことがあった。乗組員は全部焼死して、<ruby><rb>黒焦</rb><rt>くろこ</rt></ruby>げの機械の<ruby><rb>残骸</rb><rt>ざんがい</rt></ruby>が畑の中で発見されたのであった。その重大事件には早速査問会が開かれて、先生もその一員に加えられたのである。問題は以上の材料、即ち爆破の場所と時刻、それに器械の残骸と、これだけの資料から爆発の原因を究明して今後の対策をはかるというのである。この恐ろしい難問を、先生は<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>に引き受けて来られたのである。

冬の初めの或る日、水素の仕事も大分<ruby><rb>進捗</rb><rt>しんちょく</rt></ruby>していた頃のことである。先生は珍らしく少し興奮されたらしい<ruby><rb>顔付</rb><rt>かおつき</rt></ruby>で、実験室へはいって来られた。そしてＹ君と私とに以上の目的を話して、一応今までの水素の仕事を中止して、飛行船爆破の原因探究に必要な実験をするように命ぜられた。もっとも水素の取り扱いには<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れていたし、火花による点火装置なども<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>っていたので、仕事にはすぐ取りかかることが出来た。

この飛行船爆破の原因を調べた話は、前に「<ruby><rb>球皮</rb><rt>きゅうひ</rt></ruby>事件」という題で書いたことがあるので略するが、先生の科学者としての頭と眼、芸術家としての勘、愛国の至情などが<ruby><rb>渾然</rb><rt>こんぜん</rt></ruby>として一体となり、このどうにも手のつけようのない難問を数カ月のうちに美事に解決されたのであった。その話は科学的研究方法の模範であり、ちょっと探偵小説風な興味もあって、非常に珍しい話なのである。

私たちも初めのうちは、まさかそんなことが分るわけもなかろうと、ぼんやり言い付けられた実験をやり始めたのであるが、<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くすると先生の快刀乱麻を断つような推理の<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>えに魅せられて、夢中になってその実験に没入した。

それは本当に没入したと言って良いので、Ｙ君も私も熱に浮かされたように、毎晩十二時すぎまで問題の飛行船の皮であるところの球皮ととり組んでいた。色々な秘密が次ぎ次ぎと見えて来た。それを先生は、まるで<ruby><rb>嚢中</rb><rt>のうちゅう</rt></ruby>に物を探るようにとり出して並べて行かれた。私は、その後も、あの時ほど自分の頭の<ruby><rb>振子</rb><rt>ふりこ</rt></ruby>が最大の振幅で動いた経験を持たない。

いよいよ爆破の原因が無線発信にあったことが分ったのであるが、査問会の方は或る事情でそれをなかなか認めない。その事情というのが先生を興奮に導き、私たちを<ruby><rb>駆</rb><rt>か</rt></ruby>って原因探究の実験に熱中させる一つの要因でもあったのである。査問会の物々しい席上にも私たちまで顔を出し、最後に<ruby><rb>立会</rb><rt>たちあい</rt></ruby>実験までもした。偉い方々を例の窮屈な実験室へ招いて、模型飛行船、といっても他愛ないものであるが、それを無線発信の際に出る小さい火花で爆発させて見せるというような騒ぎにまでなったのである。

この事件は、私に研究の面白味を十分に味わせてくれたばかりでなく、物理学というものに強い信頼をおく機縁にもなった。そして私はこういう機会に遭遇することの出来た自分の幸運を本当にありがたかったと思っている。<ruby><rb>御蔭</rb><rt>おかげ</rt></ruby>で三年の後半期の試験の方は<ruby><rb>滅茶</rb><rt>めちゃ</rt></ruby>苦茶になってしまって、随分成績も悪かったらしい。講義なども半分近く失敬したようである。この方は先生に知れると<ruby><rb>叱</rb><rt>しか</rt></ruby>られるので、なかなか苦心をした。帳面の上で、私の名前の下に優という字が書かれても、それが良という字になっても、自分の本質にはそんなことは全く何の関係もない。おまけにありがたいことには成績は秘密ということになっている。そんな隠した場所にどういう字が書いてあるかまで苦心して<ruby><rb>詮索</rb><rt>せんさく</rt></ruby>することは全くつまらぬ話である。しかしこれだけの大研究の<ruby><rb>御</rb><rt>お</rt></ruby>手伝いをとにかくしたという自信の方は、その後の私の研究生活に無限の力強い支援となっているように思う。この頃のように大学の組織や制度が完備しては、ああいう無茶な学生の存在は許されまいし、実験の方でもああ<ruby><rb>出鱈目</rb><rt>でたらめ</rt></ruby>な勝手は出来ないことであろう。

この話にもちょっとした<ruby><rb>続</rb><rt>つづき</rt></ruby>がある。二、三年前、私は或る方面からの委託研究のことで、○○<ruby><rb>廠長</rb><rt>しょうちょう</rt></ruby>という偉い人に会ったことがある。暫く話をしているうちに、先方から、何だか君は見覚えがあると言い出された。話して見たら、その方は昔この問題の査問会の委員の一人だったということであった。「ああそうだったのか、随分大きくなったものだね」と言われて<ruby><rb>這々</rb><rt>ほうほう</rt></ruby>の<ruby><rb>態</rb><rt>てい</rt></ruby>で逃げ出したが、あの頃は随分生意気な小僧だったことだろうと思いみて<ruby><rb>聊</rb><rt>いささ</rt></ruby>か<ruby><rb>辟易</rb><rt>へきえき</rt></ruby>した。それにしても世の中のことは、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>までも後をひくものである。

以上のように書いて見ると、あの狭い一部屋の実験室では、随分意義のある研究が、沢山並行になされていたことになる。ちゃんとした助手などは一人もいないし、装置も学生の練習実験程度のものしかなかったのに、あれだけの研究がとにかく進行していたのは、やはり先生がよほど偉かったからであろう。

霜柱の研究といっても、先ず手始めにコロイドの性質に<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れようというので、Ｍ君の仕事は、<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>板の上にゼラチンを流して、リーゼガング<ruby><rb>環</rb><rt>かん</rt></ruby>を作ることから手をつけることになった。この方はそれで、硝子板とゼラチンと<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>に<ruby><rb>薬壜</rb><rt>くすりびん</rt></ruby>が四、五本並べば、もう仕事が始められたのである。

ＨＭ君の「地球磁気の根源に関する」大研究も、検流計が一つとあとはアスベストスの棒と、手細工のがらがら廻る歯車とが出来上れば、とにかく実験が始められた。こういう風にして始められた研究が、その姿のままで続けられて立派な結果を得たのではないが、この程度ででもよいからとにかく始めなければ、決して後年のような実は結ばなかったであろう。

水素の方の仕事は、この中では比較的大がかりなのであったが、それでも水素のボムベと目盛りした硝子のＵ字管と、小さい変圧器位の設備で、どんどん曲線は採れて行った。そうしてこの仕事をしていなかったら、飛行船爆破の原因探究という実験も出来なかったであろうという気がする。

機械や設備が立派に揃えばそれに越したことはないが、そんなものがなくても或る程度の研究は出来るということは、よく言われる通りである。しかし実際にはあの当時の設備と人員とで、とにかく研究を始めて、それを或る程度まで進行させるということは、そう易しいことではない。この頃になって私もやっとそういうことが分って来た。立派な機械を使ってつまらぬ仕事をすることは易しいが、その反対の場合はむつかしい。それは当り前のことであるが、自分が<ruby><rb>一人立</rb><rt>ひとりだち</rt></ruby>の立場に置かれて、実際に事に臨んで見ると、改めて考えさせられることが多い。

今から考えて見ると、あの頃私たちは、寺田先生のああいう研究のやり方を、そう特別に困難なこととは気がつかないでいた。むしろ研究というものはこういうものと初めから思い込んで、唯面白いという念だけに<ruby><rb>駆</rb><rt>か</rt></ruby>られて、実験に打ち込んでいた。そういう意味で先生の研究指導ぶりは、<ruby><rb>天衣無縫</rb><rt>てんいむほう</rt></ruby>の域に達していたと言えよう。

或る日こんなことがあった。

何かの用にあてるために、砂を菓子箱の<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>に一杯入れて、実験台の隅にのせてあった。先生は午後の<ruby><rb>御</rb><rt>お</rt></ruby>茶の時間に、例のように上機嫌で一同を<ruby><rb>煙</rb><rt>けむ</rt></ruby>に<ruby><rb>捲</rb><rt>ま</rt></ruby>きながら、その紙箱をいじっておられた。砂を入れたその紙箱は、横側を押される度に<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>んだ。すると中の砂はさらさらと崩れて、何本かの<ruby><rb>罅</rb><rt>ひび</rt></ruby>がはいった。何も珍らしい現象ではないので、火鉢の中に<ruby><rb>灰匙</rb><rt>はいさじ</rt></ruby>を立てて左右に動かすという<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>をして見た人は、誰でも灰に罅がはいって崩れることを知っているであろう。先生はじっと砂の表面に見入りながら、急に黙り込んで<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>までも箱の側面を引いたり押したりしておられた。皆もちょっと手持<ruby><rb>無沙汰</rb><rt>ぶさた</rt></ruby>な<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>で砂の割れ目を<ruby><rb>怪訝</rb><rt>けげん</rt></ruby>そうに見ていた。

大分経ってから先生は口を切られた。「君たち、この現象をどう思いますか。砂が崩れる時に出来た罅は、こうして逆に押し戻しても埋らなくて、<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>になって盛り上るでしょう。こういう<ruby><rb>不可逆的</rb><rt>イルレバーシブル</rt></ruby>な現象は、<ruby><rb>摩擦</rb><rt>まさつ</rt></ruby>が主な役割を演じている場合に限るので、これは大変面白い現象なんです。一つ断層の研究を始めようじゃありませんか」という話であった。

先生の断層や地殻の変形に関する色々な研究というのは、その起りは<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>にあったのである。そしてこの研究に芽生えた思想は、<ruby><rb>粉体</rb><rt>ふんたい</rt></ruby>の特殊な性質の研究や割れ目の理論を経て、<ruby><rb>遂</rb><rt>つい</rt></ruby>に先生晩年における「生命と割れ目」の論文まで、発展して行ったのである。

菓子箱の蓋の「実験」があって間もなく、丁度その頃私たちの実験室へ遊びに来ていたＮＭ君が、この実験を本式に始めることになった。本式といっても、その装置というのは、紙箱の一側面を硝子板にして、その隣りの面を移動出来る壁にしただけである。その中に砂を深さ五<ruby><rb>分</rb><rt>ぶ</rt></ruby>ばかり入れてならし、その上に白砂糖を薄く<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>いて又砂を入れるという風に何段にもして、砂を一杯入れるのである。白砂糖の層は横の硝子板から見ると、白線になってあらわれ、これが断層の目印になるのであった。壁を引くと、砂はいくつもの断層になって崩れるのが<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>に見えた。そして一度崩したものを押し上げると、今度はちがった面に断層が出来て盛り上るので、白線は地殻の<ruby><rb>褶曲</rb><rt>しゅうきょく</rt></ruby>に似たような形になるのであった。

この実験はその後、ＮＭ君によって理化学研究所の実験室で数年続けられた。色々な性質の粉について調べる必要があるというので、<ruby><rb>白玉粉</rb><rt>しらたまこ</rt></ruby>だの<ruby><rb>小豆粉</rb><rt>あずきこ</rt></ruby>だの砂糖だのと沢山買い込んだら、理研の会計の人から、これじゃまるでお汁粉の研究ですねと言われたそうである。

こういう話を書いておれば切りがない。大学の一年間と、その後引続いて理研の三年間とは、私にとっては楽しい思出の泉である。もっとも理研の第一年は、丁度その年から先生が理研に研究室を持たれた年であった。航空研究所や地震研究所での<ruby><rb>活溌</rb><rt>かっぱつ</rt></ruby>な研究生活もまだ始まらない前で、私は随分忙しい思いもした。しかし<ruby><rb>千載一遇</rb><rt>せんざいいちぐう</rt></ruby>の良い訓練を受けることが出来たのであった。いつも感謝の念をもって当時を思い返すことの出来る自分は幸運であった。

先生が亡くなられて、自分は他の多くの弟子たちと同様に、随分力を落した。そして今日のような時勢になると、切実に先生のような人を日本の国に必要としていることを感ずるのである。科学の振興には、本当に科学というものが分っている人を必要とするからである。

北海道へ来て、<ruby><rb>一人立</rb><rt>ひとりだち</rt></ruby>で仕事をさせられて見ると、私は先生の影響を<ruby><rb>如何</rb><rt>いか</rt></ruby>に強く受けていたかということを感ずるのである。それと同時に、時たま仕事が順調に運んだ時などには、先生のおられないことをしみじみ<ruby><rb>淋</rb><rt>さみ</rt></ruby>しいと思う。

二、三年前、やっと懸案の雪の結晶の人工製作が出来たあとで、先生の知友の一人であった気象台のＯ先生に<ruby><rb>御</rb><rt>お</rt></ruby>目にかかったことがあった。そしたらＯ先生が「折角人工雪が出来たのに、寺田さんがいなくて張り合いがないでしょう」と言われた。私はふっと涙が出そうになって少し<ruby><rb>恥</rb><rt>はずか</rt></ruby>しかった。

（昭和十六年二月一日）