それは古い沼で、<ruby><rb>川尻</rb><rt>かわじり</rt></ruby>からつづいて<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>くどんよりとしていた上に、<ruby><rb>葦</rb><rt>あし</rt></ruby>や<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よし</span>がところどころに暗いまでに<ruby><rb>繁</rb><rt>しげ</rt></ruby>っていました。沼の水はときどき静かな波を風のまにまに<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>えるほかは、しんとして、きみのわるいほど静まりきっていました。ただ、おりおり、岸の葦のしげみに<ruby><rb>川蝦</rb><rt>かわえび</rt></ruby>が、その長い<ruby><rb>髭</rb><rt>ひげ</rt></ruby>を水の上まで出して<ruby><rb>跳</rb><rt>は</rt></ruby>ねるばかりでした。

その沼はいつごろからあったものか誰も知らない。<ruby><rb>涸</rb><rt>か</rt></ruby>れたこともなければ、減ったこともなく、ゆらゆらした水がいつも沼一杯にみなぎっていた。そのうえには、どんよりした鉛筆でぼかしたような曇った日ざしが、<ruby><rb>晩</rb><rt>おそ</rt></ruby>い秋頃らしく、重く、低い<ruby><rb>雲脚</rb><rt>くもあし</rt></ruby>を<ruby><rb>垂</rb><rt>た</rt></ruby>れていたのです。

そこには非常に古い一匹の<ruby><rb>魚</rb><rt>うお</rt></ruby>が住んでいて、岸の方の葦のくらやみに、ぼんやりと浮きあがっていました。かれは水中の王者のように、その大きなからだを水面とすれすれにさせながら、いつも動かず震えもしないで、しずかに、ゆっくりと浮きあがっていたのです。その魚の<ruby><rb>藍</rb><rt>あい</rt></ruby>ばんだ<ruby><rb>鱗</rb><rt>うろこ</rt></ruby>には、のめのめな<ruby><rb>水苔</rb><rt>みずごけ</rt></ruby>が<ruby><rb>生</rb><rt>は</rt></ruby>えていて、どれだけ古く生きていたかが<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>るのでした。ただに鱗ばかりではなく、尾や<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひれ</span>までに<ruby><rb>微塵</rb><rt>みじん</rt></ruby>な、<ruby><rb>水垢</rb><rt>みずあか</rt></ruby>のようなこまかい<ruby><rb>藻</rb><rt>も</rt></ruby>のようなものが生え、それが<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えるということもなく、かれのからだ一面に震えていました。

その魚はいつも何かしきりに考えているような、澄んだおとなしい泳ぎ方をしていた。たとえば、やや衰えはじめた青い目のひかりはいつの間にか薄らいで、ほとんど動くというようなことがなかった。いつも森のなかのように静かで、たえず空の方をながめては、また何か考えあぐんだように、間もなく沼の底ふかく<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>め込むのでした。沼の底は、これもどんより曇って、幾枚もの<ruby><rb>硝子板</rb><rt>ガラスいた</rt></ruby>を合したように、ある蔭はちぢみ、あるものは細長くなって見えました。竹や水や古い<ruby><rb>蓆</rb><rt>むしろ</rt></ruby>の破れたのなどが、いちめんに濃い陰影をつくって、そこにも<ruby><rb>鯉</rb><rt>こい</rt></ruby>や<ruby><rb>鮒</rb><rt>ふな</rt></ruby>や<ruby><rb>鯰</rb><rt>なまず</rt></ruby>のようなものまで、一つずつの<ruby><rb>魚巣</rb><rt>うろ</rt></ruby>に<ruby><rb>潜</rb><rt>もぐ</rt></ruby>りこんで、れいの青い目でそとを眺めていました。けれども、かれらは、ひるのうちは滅多に水の上まで、空気のあるところまでは浮きあがってゆかなかった。そうするには、昼間はあまりに恐ろしいような気がしたからです。そのかわり夜になると、かれらは珍らしい水と空気との<ruby><rb>境目</rb><rt>さかいめ</rt></ruby>まで行って、月や星や風や空気や草木のささやきを知ることができるのでした。

ひとしく、その<ruby><rb>蒼茫</rb><rt>そうぼう</rt></ruby>としたふしぎな空、ふしぎな蒼白い星のかずかず、そういうものは夜になると沼の上を<ruby><rb>覆</rb><rt>おお</rt></ruby>うてくるのでした。月や星のかげは、水中の祝祭にでも現われたように、矢のような青白い光の線状を乱射してくるので、かれらはその光のあいだを泳ぎ廻りながら、ただ、水と空と夜との世界を遊びにふけるのでした。そこでは一切がかれらの仲間ばかりの世界で、何者もその美しい世界を乱してくるものがなかった。ただ、葦やよしの根が、さきの方に風をうけると、ふしぎに揺れて、水のなかで低い笛のような音を立てるのと、<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>けるにしたがって繁くなる夜露が、しんとした水面にかすかな音を立てるばかりで、あとはただ虫のこえばかり聞えるだけでした。虫は水の中からも起ってくるように、あちこちで<ruby><rb>啼</rb><rt>な</rt></ruby>いていたのです。

けれども、古い魚だけは、夜もおちついて底の方へ下りようともせず、動こうともせず、ひとところにじっと<ruby><rb>凝</rb><rt>こ</rt></ruby>りあがって、ぽっかりと浮いているのでした。かれの背なかには、夜風がふれてゆき、星や月のひかりも、空にあるごとに、かれに触れて冷たく<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れてゆくのでした。そのたびに、かれの背中は蒼白く輝き、すこしずつひりひりと、一枚々々の鱗がふるえるようになるのでした。それらの月や星のひかりが、この古い魚にとって、どれだけの喜びであったかもしれない。かれはその光に打たれるごとに、喜ばしそうにからだをすこしずつ動かすのであった。そうするときにのみ、かれのからだは生きているように見えるのです。そのほかは、いつも、じっと死んだようになって動かないでいるのでした。

夜はちょうどこの沼から三里ばかり離れている大きな都会には、盛りあがるような電燈の海が波うっていて、それが非常な巨大な軍艦のように黒ずんで、どっしりと重々しくなって見えるのです。ちょうどその余映のような、ほんのりした明るみが、この沼の水の上にも、あるかないかほどの明るみを浮ばしてくるのでした。

魚はその<ruby><rb>蛍</rb><rt>ほたる</rt></ruby>のあかりのようなものをまで<ruby><rb>懐</rb><rt>なつか</rt></ruby>しそうに、からだに吸いとるようにしていたのです。

「おれは晩になると、このほんのりした光さえ慕わしくなるのだ。あの明るい<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>やかなところはいったいどこのあたりにあるのだろう。そうして、それがおれには<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>見ることをゆるされないのであろうか。こうして、からだにまで光をうけて、おれはいつそこへゆけるのだろうか。」

かれはそう考えると、青い目で、そらの方をゆっくりと眺めるのでした。空には大きな都会のさまざまな<ruby><rb>街々</rb><rt>まちまち</rt></ruby>の姿や賑やかさ、または音楽や燈影が、まるで地図のように広げられてくるのでした。白い道路と道路、都会の美しい<ruby><rb>肌</rb><rt>はだ</rt></ruby>、それらが星と星とを織り込んで眺められてくるのでした。

「あそこには何も彼もある。おれが永い間考えとおしたふしぎな国がある。そこには一切が光でみたされているのだ。この沼のような暗みや水垢や<ruby><rb>塵芥</rb><rt>ごみくた</rt></ruby>があそこには一つもない。」

魚はこう考えると、すこしずつ、からだを動かしながらいました。星の位置がかわるごとに、かれもその静かな位置を変えてゆくのでした。ちょうどそれは<ruby><rb>物差</rb><rt>ものさし</rt></ruby>で計ったように、しぜんに、かれは天上のうごきをからだに受けながら、その<ruby><rb>意志</rb><rt>こころ</rt></ruby>を継いでゆくもののようでした。

「おれがいつも自分でも知ることのできないうちに、<ruby><rb>向岸</rb><rt>むこうぎし</rt></ruby>の暗みへまで吹かれるように動いてゆく。ふしぎに自分でそのちからを知ることができないのだ。そして向岸の暗みへゆきつくと、間もなく、あおじろい夜明けがやってくるらしいのだ。あそこは水も冷たい。別な新しい水が<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>いている。」

魚はこうつぶやいているうちに、ふしぎに北へ北へとかれのからだが流されてゆく。星もみな北へ動いているように、だんだん光を失ってゆくのでありました。

魚は、ときには<ruby><rb>烈</rb><rt>はげ</rt></ruby>しい日光をせなかにうけながら、沼の岸の方にからだをすりよせ、そしてはぼろぼろと落ちる土くれをまで、なつかしそうに食べつくすのである。または木の根などに、からだが痛むのも<ruby><rb>関</rb><rt>かま</rt></ruby>わないで、<ruby><rb>擦</rb><rt>す</rt></ruby>り寄りながら、くるしそうに<ruby><rb>悶</rb><rt>もだ</rt></ruby>えているのでありました。

「おれのまだ見ないところがある。この岸さえ<ruby><rb>攀</rb><rt>よ</rt></ruby>じのぼってゆけば、それがはっきり<ruby><rb>判</rb><rt>わか</rt></ruby>ってくるのだ。おれは毎日この岸<ruby><rb>辺</rb><rt>べ</rt></ruby>にきて空の方をながめている。岸つづきの珍らしい山河や、夜になると明るくなってくる都会が、この岸つづきの<ruby><rb>果</rb><rt>はて</rt></ruby>にあるのだ。おれはそれを考えるとたまらなくなる。」

かれはそう思いながら、じとじとになった岸の土をぱっと<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>みこんでは、くるしそうに吐いていた。<ruby><rb>泥</rb><rt>どろ</rt></ruby>にごりした水が乱れた<ruby><rb>汚</rb><rt>きた</rt></ruby>ない水脈をつくっては流れた。

「この土のあじわいさえも、いまはおれを苦しめるばかりだ。おれは一日も早く明るい地上に出てゆきたいのだ。ふしぎな地上、まだ見たことのないものが、数限りなくある地上――。」

魚は考え沈みながら、ぼんやりと、こんどは疲れきって浮いていました。それはまるで日光に透いた沼水のなかに、いつの間にか鱗のいろさえ衰えかけていたが、それでも、できるだけの努力と我慢とをつづけて、しつこく、その岸辺をはなれようとはしなかったのでした。他のいろいろな魚族はみんな暗く涼しい底の方に沈んで、やすらかに昼間はねむりふけっているのでした。誰一匹として古いこの魚が、水の上にいつも動かないでいるとは気がつかなかったし、そんなことは若いぴちぴちした魚族にとっては何でもないことでした。唯かれらは時々底の方から、水の上にぼんやり浮いている大きな古い魚の姿を、まるでそれは描いたような姿でいることを不思議そうにながめていました。なかには、

「あれはやはり魚族のうちだろうかな。ああいう大きなやつが、この沼にいたかな。」

そう鮒のようなものがいうと、とぐろを巻いていた長い魚はこう答えました。

「いや、あれは魚族ではあるまい。いつもあそこにいるから。まだおれは、あいつの動いたのを見たことがない。」

ところがまた一匹の鯉のような<ruby><rb>怜</rb><rt>さか</rt></ruby>しげな尾と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひれ</span>をもった魚が、

「あれはこの沼じゅうで一番大きな魚だ。あいつは何年前からかしらないが、あそこにじっとしてふしぎに何かを考えているのだ。あれは何も食わないらしい。水ばかりを呑んだり吐いたりしているらしいのだ。あれのそばへ寄ると、なんだか<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>な<ruby><rb>匂</rb><rt>にお</rt></ruby>いがする。」

そう言って、きみわるそうにその影をしずかに眺めました。

「だが、あいつはいったい、何を考えているのだろうか。」

鮒のようなものが、水垢を<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>きながら<ruby><rb>欠伸</rb><rt>あくび</rt></ruby>をしいしい言いました。

「さあな。何を考えているのかな。」と長いやつがこたえると、ものうげに、くるくるととぐろを巻いてやすんでしまいました。

そのとき水の上の影は、日光のあんばいで<ruby><rb>陽炎</rb><rt>かげろう</rt></ruby>のようにゆらゆらしながら、それがまた沼底の方まで輪廓をえがきながら、大きなうっすりした陰影をおとしているのでした。うすにごりした水底のかげが余り大きかったので、かえって小さい魚族はだれ一匹として知るものがなかったのでした。

古い魚は、やはり毎日のように浮きあがっていました。悲しそうに、ときどき、ぽっかりと空気をひとくち吸うとぱっと吐いて、さて、寂しそうに長い吐息をつくのでした。その<ruby><rb>泡</rb><rt>あわ</rt></ruby>はすぐきえてしまいます。と、また、あとは死んだも同様の動かない姿がいつまでもそこにながく止っているのでした。

「おれはこうしているうち、妙に気が遠くなる日がつづいてゆくのはどうしたものであろう。あたまが<ruby><rb>痺</rb><rt>しび</rt></ruby>れるようになって、つい知らず<ruby><rb>識</rb><rt>し</rt></ruby>らずうとうととしてしまうのだ。まるで夢を見ているような気がする……。」

と、かれは、ようようと葦の根にからだをささえながら、非常に弱くなったからだをつくづく眺めるように<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>きました。実際、かれは、いつか見たときとくらべるとからだ中が<ruby><rb>瘠</rb><rt>や</rt></ruby>せてしまって、それに鱗の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つや</span>がほとんどなくなり、どこか、よろよろと尾ひれのちからも自由にならないようなところが見えました。その目はとろんとして何を見つめるということなく、弱々しく、たよりなくなって見えるのでした。

「おれは自分でも次第にからだが重くなるような気がする。ともすると、じっとしていられなくなって何者かがおれを引いているような気がする。そのため、おれは妙にひょろひょろするのだ。」

そう考えながらもやはり、

「この岸つづきに何かがある。おれにはわからないが何かが行われている。おれたちの世界にないものがそこにあるのだ。」と考えて、また、よろよろしました。

「おれのからだの上に何物かが乗っているような気がする。そのためおれは重くて自由に泳げないのかもしれない。」

魚はこう考えたときに、ひとりでに、くるりと裏がえしになって、白い腹をあらわしたのでした。その<ruby><rb>晒</rb><rt>さら</rt></ruby>されたような白い腹は、あさましい<ruby><rb>褪</rb><rt>あ</rt></ruby>せた色をしていました。

「だが……こうしておれはもう起きあがるちからさえなくなったが、しかし何といういい気持がするのだろう。うっとりとした何とも言いようのない気持だ。ひょっとすると、おれはこのまま起きあがれないで、息が絶えてしまうかも知れない。それにしてもおれは何という安々したいい気持になったことであろう。」

かれがそう考えているうちに、白い腹がすこしも脈をうたなくなりだしたのです。それはあまりに長く生き過ぎた老魚としての、どっしりした姿が水彫りにされたまま、しんとした水の上に今は全きまでに浮きあがったのでした。

けれども、かれは幾年かの間考え通した地の上のものを、何一つとしてさぐることができなかったのでした。

ただ安らかな死がかれのところにきただけなのでした。