垣根の<ruby><rb>楓</rb><rt>かえで</rt></ruby>が芽を<ruby><rb>萌</rb><rt>ふ</rt></ruby>く頃だ。<ruby><rb>彼方</rb><rt>あちら</rt></ruby>の往来で――杉林の下の薄暗い中で子供<ruby><rb>等</rb><rt>ら</rt></ruby>が隠れ事をしている。きゃっきゃっという声が重い頭に響く。北から西にかけて空は一面に黄色く――真黒な雲がその上に<ruby><rb>掩</rb><rt>おお</rt></ruby>い<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>さって、黄色な空をだんだんに押しつけて、下に沈ませているようだ。刻々に黄色な空が減じて<ruby><rb>終</rb><rt>しまい</rt></ruby>には一直線となって、はっきりと地平線から<ruby><rb>此方</rb><rt>こちら</rt></ruby>を覗き込んでいる。それが厭らしい細長い眼付で笑っているように思われた。

<ruby><rb>悪寒</rb><rt>わるさむ</rt></ruby>い風が北方の海から吹いて来る。<ruby><rb>煤</rb><rt>すす</rt></ruby>けた障子を閉めて灰色の壁に向った周蔵は、頭を<ruby><rb>手拭</rb><rt>てぬぐい</rt></ruby>で鉢巻して、床の上に起上って考え込んでいた。障子も一時は黄色に見えたが<ruby><rb>漸次</rb><rt>ぜんじ</rt></ruby>薄暗くなって、子供等の<ruby><rb>鬼事</rb><rt>おにごと</rt></ruby>の声も遠ざかってしまうと、遥かにボーッ、ボーッと蒸汽船の笛の音が聞える。三里<ruby><rb>彼方</rb><rt>かなた</rt></ruby>の直江津の港を今しも出帆する汽船が新潟に向って立ったのであろう。

この時、私は周蔵を訪れた。

周蔵は三十二三の若者である。唇の尖った色の浅黒い丈夫そうな男である。彼は村の吉沢という家の次男で、この頃一人この家に別家したので、彼は独身者である。<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>かばかりの金を<ruby><rb>別</rb><rt>わけ</rt></ruby>てもらって、その日その日を何もせずに暮しているのであった。昼でも彼は<ruby><rb>臥</rb><rt>ねこ</rt></ruby>ろんでいる。いつ行って見ても彼はごろりと臥ろんで何かむしゃむしゃと食べていた。

「周さん鳥が来たから指しておくれよ。」と沢山<ruby><rb>鶸</rb><rt>ひわ</rt></ruby>が裏の松林に来た時に行って頼んで見たが、

「厭だ。」といって受け<ruby><rb>合</rb><rt>あわ</rt></ruby>なかった。

彼の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>というのは三軒長屋の中である。去年あたりまで天理教の行者が住んでいたのであった。

その行者というのは、頭の禿げた目尻の垂れた<ruby><rb>口軽</rb><rt>くちがる</rt></ruby>な、滑稽じみた男であったがたえず信者を集めて、<ruby><rb>加持祈祷</rb><rt>かじきとう</rt></ruby>をしていたので、今周蔵のいる家がその神様を祭った場所である。行者は西隣に住んでいた。今一軒の家には小学校の教師が住んでいたが、今でも<ruby><rb>尚</rb><rt>な</rt></ruby>お住んでいる。

その頃周蔵のいる家の前は、往来に出るまで<ruby><rb>圃</rb><rt>はたけ</rt></ruby>の中に細道があって、その道の両側に<ruby><rb>樫</rb><rt>かし</rt></ruby>の木や、<ruby><rb>榛</rb><rt>はん</rt></ruby>の木や、桜の木や、椿の木が<ruby><rb>植</rb><rt>うえ</rt></ruby>られてあり、木の根には龍の<ruby><rb>髭</rb><rt>ひげ</rt></ruby>が植られてあった。私はよくこの木の下に来て龍の髭に<ruby><rb>生</rb><rt>な</rt></ruby>る青い実を他の多くの子供等と共に争っては取ったものだ。真夏の時分には樫の木の葉がちらちらと日光に輝いて赤い実が葉隠れに見え、<ruby><rb>蜻蛉</rb><rt>とんぼ</rt></ruby>が来ては頭の上をぐるぐると舞っているのを独り欲しそうにその木の下に<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んで、赤い実を見上げていたこともある。

今周蔵のいる家は、全く変っていて前には、格子戸が<ruby><rb>閉</rb><rt>た</rt></ruby>っていた。中は薄暗く、鏡が光って、大きな太鼓と<ruby><rb>榊</rb><rt>さかき</rt></ruby>に白紙の結び付けられた生花と、<ruby><rb>御幣</rb><rt>ごへい</rt></ruby>と、白い<ruby><rb>徳利</rb><rt>とくり</rt></ruby>とが目に入って、それに<ruby><rb>賽銭</rb><rt>さいせん</rt></ruby>箱が<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐ格子戸の<ruby><rb>際</rb><rt>きわ</rt></ruby>に置かれてあった。また賽銭箱の上にはだらりと赤、白、紫の交りの紐が<ruby><rb>垂下</rb><rt>たれさが</rt></ruby>っていて、青錆の出た鈴が上に吊されていた。<ruby><rb>其等</rb><rt>それら</rt></ruby>の紐は、多くの人々の手垢に汚れて下の方が黒くなっていたことを覚えている。その他堂の中には献納の絵額が五枚も六枚もかかっていた――毎月、三五の日には近隣の信者がこの狭い堂の中に集って、加持祈祷をしたので、その日には禿頭の行者は、時に応じ火渡りだの、<ruby><rb>刃渡</rb><rt>やいばわた</rt></ruby>りなどをして見せたこともあったという――僅かにそれが一年の後には、その行者は旅へ行ってしまって、その跡は全く変ってしまった。今迄あった桜の木や、樫の木は他へ移されてしまい、<ruby><rb>真直</rb><rt>まっすぐ</rt></ruby>に往来に通っていた参詣人のための、道は耕されて圃となり、堂は造り代えられて、<ruby><rb>勝手許</rb><rt>かってもと</rt></ruby>や便所まで附け加えられて、全くの普通の長屋となってしまい、その跡に入って来たのが、周蔵であった。

周蔵は独身者であるから、神様を祭ってあった跡に入っても、決して<ruby><rb>汚</rb><rt>けが</rt></ruby>れはしないから、<ruby><rb>罰</rb><rt>ばち</rt></ruby>が当らないだろうと近所の人はいっていたが、入ると間もなく彼は病気にかかった。多分風をひいたのだろう。<ruby><rb>明日</rb><rt>あす</rt></ruby>になれば<ruby><rb>快</rb><rt>なお</rt></ruby>ってしまうと、彼は昨日あたりまで平気で床の中に<ruby><rb>横</rb><rt>よこた</rt></ruby>わっていたが、今日はなかなか苦しそうに見えた。私はいつも来るので、黙って戸を開けて彼の<ruby><rb>枕許</rb><rt>まくらもと</rt></ruby>に行った。周蔵は黄色な眼付をして私の顔を見て黙っている。灰色の壁には、今年の暦が貼ってあって、火鉢の上には<ruby><rb>煎薬</rb><rt>せんやく</rt></ruby>の入った<ruby><rb>土瓶</rb><rt>どびん</rt></ruby>がぶつぶつと沸き立っている。一種、眼の<ruby><rb>眩</rb><rt>くら</rt></ruby>みそうな<ruby><rb>臭</rb><rt>におい</rt></ruby>が室内に<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>って、周蔵は起上って坐っていたが、私の入って来ると同時にまたごろりと<ruby><rb>眠</rb><rt>ね</rt></ruby>ころんでしまった。

「周さん、頭が痛むかい。」

と私は、始めて言うと、

「ああ、頭は<ruby><rb>破</rb><rt>わ</rt></ruby>れそうだ。大分熱がある。」と答えた。

「この薬を飲むんでないのかい？」

と私は、ぶつらぶつらと黄色い泡を立てて沸き上っている煎薬の土瓶に目を止めていうと、周蔵は後向きに<ruby><rb>臥</rb><rt>ね</rt></ruby>ているままで、それには黙って、

「あ――苦しい。苦しい。」といっていた。

「ああ、周さん、薬が<ruby><rb>沸</rb><rt>に</rt></ruby>え<ruby><rb>溢</rb><rt>こぼ</rt></ruby>れるよ。」というと、

「ああ、苦しい、<ruby><rb>下</rb><rt>おろ</rt></ruby>しておくれ。<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>まで行けねえ。」

といって例の尖った口先を<ruby><rb>心持</rb><rt>こころもち</rt></ruby><ruby><rb>此方</rb><rt>こちら</rt></ruby>に向けて頼んだ。

私は、<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>でその沸えたぎっている煎薬の土瓶を下して、周蔵の言うがままにそれを茶碗に移して枕許に<ruby><rb>持</rb><rt>もっ</rt></ruby>て<ruby><rb>行</rb><rt>いっ</rt></ruby>てやると、彼はむくりと起き上って、熱いやつをぷうぷうと吹き出した。

私は、黙って彼の枕許に坐って見ていた。

やがて、大分冷めた時分に、周蔵は醤油色をした、臭の<ruby><rb>劇</rb><rt>はげ</rt></ruby>しい煎薬の茶碗を取上げた。最初は眼を<ruby><rb>閉</rb><rt>つぶ</rt></ruby>って、尖った唇で何か甘い物でも飲むような調子で<ruby><rb>悠然</rb><rt>ゆったり</rt></ruby>と吸い始めたが二口、三口目から、彼の<ruby><rb>顔付</rb><rt>かおつき</rt></ruby>は怖しく変って、口は耳許まで裂けたように薄黒い歯をむき出して、大きな口を開けて、眼は<ruby><rb>険</rb><rt>けわ</rt></ruby>しげに光った。私はいつもの周蔵でないように怖ろしかった。周蔵は薬を飲むとまた苦しそうに<ruby><rb>呻吟</rb><rt>うなり</rt></ruby>出した。私は家へ帰ろうかと思ったが、いかにも周蔵の苦しんでいるのを見捨てて帰るに忍びなかった。で、

「周さん、どんなに苦しいか。」と聞いた。

「死にそうに苦しい。」と彼は答えたがその声すら、重々しかった。<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>の内は熱臭く、煎薬の臭いで一ぱいになって、私もどうやら頭が痛み出して来た。

「私は家へ帰るよ。」と半分周蔵に<ruby><rb>気兼</rb><rt>きがね</rt></ruby>をして、――この<ruby><rb>儘</rb><rt>まま</rt></ruby>彼の苦しむのを見捨てて帰るのが不人情のようで心に<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めたから――声が<ruby><rb>戦</rb><rt>ふる</rt></ruby>えたのである。すると周蔵は私の名を呼んだ。

「正雄さん、<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>の家へ行って<ruby><rb>母親</rb><rt>おふくろ</rt></ruby>に来いといってくれないか――今夜にでも私は死にそうだ。」と彼は急に苦しみ出した。

私は死ぬるということは<ruby><rb>偽</rb><rt>うそ</rt></ruby>だと思った。しかし風をひいても、ちょっとした病気でも、<ruby><rb>晩方</rb><rt>ばんがた</rt></ruby>になると重くなると聞いていたから、それで周蔵も<ruby><rb>斯様</rb><rt>こんな</rt></ruby>に苦しみ出したのだ、とは子供心ながらに思わぬでもなかったが、彼の様子は実際苦しそうであった。

「母親がいなけれや仕方がない。町へ行って針医さんを呼んで来てくれないかね。」

と苦しみながらも、私に言葉を<ruby><rb>柔</rb><rt>やわら</rt></ruby>げて願うようにいった。

もう室の内は臥ている彼の顔が見えぬ迄暗くなったのである。私はランプを<ruby><rb>点</rb><rt>つけ</rt></ruby>てやろうかとも思ったが、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>にランプがあるのか分らないので、<ruby><rb>直様</rb><rt>すぐさま</rt></ruby>家を飛び出して、彼の母親に告げて、針医を迎いに行ってやろうと思った。

外に出ると黄色かった空は、いつしか灰色に黒ずんで、空には重たらしい押え付けるような黒雲が、私の村の上を去らずにいた。その雲の中でも最も真黒な所が周蔵の家の頭になっている――私は全く日の暮れないうちに行って来ようと一生懸命に駆け出して、<ruby><rb>村端</rb><rt>むらはずれ</rt></ruby>の周蔵の実家に駆け付けたのである。楓の生垣をした村の細道を通り、暗い杉林の下に出たが、もはや遊んでいた子供等は、いずれも散じてしまって、誰もいなかった。私は気味が悪かったが、眼を<ruby><rb>閉</rb><rt>ふさ</rt></ruby>いで口の中で<ruby><rb>一</rb><rt>いち</rt></ruby>ッ、<ruby><rb>二</rb><rt>に</rt></ruby>ッとかけ声を出して、<ruby><rb>自</rb><rt>みず</rt></ruby>から勇気をはげまして駆け出した。私の下駄の力の入った踏み音のみが、<ruby><rb>四境</rb><rt>あたり</rt></ruby>の寂しさを破って響いた。脊中にはしっとり汗ばんで顔が<ruby><rb>熱</rb><rt>ほて</rt></ruby>ったけれど、彼の実家に行って用を<ruby><rb>済</rb><rt>すま</rt></ruby>して更に町へ行って、針医を呼んで来なければならぬ重役を帯びていた――それにしても、私の母親は私の帰りの遅いのを心配して、今頃外に呼びに出ているかも知れないと思った時、<ruby><rb>益々</rb><rt>ますます</rt></ruby>速力を<ruby><rb>疾</rb><rt>はや</rt></ruby>めて、周蔵の実家を目ざして駆け出した。

彼方に桑圃が一面につづいている。その奥の奥にちょっと藁屋が見えた時に、私はもうじきだと心のうちで独りで<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いた。

「一ッ二ッ。」とかけ声を出して、やっと周蔵の実家の戸口に駆け付けた。ちょうど夕飯時で、ランプの下には膳を据えて、彼の実兄と嫁とが嬉しそうに飯を食べていた。兄というのは四十近い、<ruby><rb>肥</rb><rt>ふと</rt></ruby>った<ruby><rb>顎髭</rb><rt>あごひげ</rt></ruby>の沢山にある脊の低い男で大工である。いつも笑顔をしているが、これで弟などには<ruby><rb>情合</rb><rt>じょうあい</rt></ruby>が薄いと聞いていた――彼の母親は見つからない。私は余りに駆けたので、<ruby><rb>急込</rb><rt>せきこ</rt></ruby>んで、<ruby><rb>碌々</rb><rt>ろくろく</rt></ruby>声も出なかったが<ruby><rb>口早</rb><rt>くちばや</rt></ruby>に、

「周さんが病気だから早く<ruby><rb>小母</rb><rt>おば</rt></ruby>さんに来てくれいと周さんがいったよ。」と戸口から大声に告げると、彼の兄というのが、

「ハア、<ruby><rb>母親</rb><rt>おふくろ</rt></ruby>は今湯に行きやしたから、<ruby><rb>帰</rb><rt>かい</rt></ruby>れば直ぐ行くといってくんなさい。<ruby><rb>大</rb><rt>おお</rt></ruby>きに御苦労でした。」と立上りもせずに――箸を持ったまま答えた。嫁というのも<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>此方を振向いて、

「大きに御苦労さんでした。」といったばかりである。

私はあまりのあっけなさに腹立しいというよりは気抜けがした。

「苦しいと、うなっているのだから早く来ておくれよ。」

といい残すとその家を出たが、急に周蔵が可哀そうになって彼の兄が憎くなった。それだから私は大声に軍歌をうたって、聞えよがしに<ruby><rb>怒鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>ってやった。

「ああ<ruby><rb>正成</rb><rt>まさしげ</rt></ruby>よ正成よ……。」と口から出るがままに大声で<ruby><rb>叫</rb><rt>わめい</rt></ruby>て、この村に響き渡れ！　彼の兄と嫁との耳に鳴り響いて鼓膜を破ってやれ！　という意気込みで怒鳴り付けた。いつしか私は暗い杉林の下を通り抜けて、町へと急いだ。中途からは全く軍歌も止めて、私は又考え込んで<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>を歩いた。今頃私の母は私の帰りの遅いのを待って、心配しているであろう……しかし周蔵のために遅くなったのだから……言い訳が立つと考えた。

考えながら、途を歩いている間にも、周蔵の兄がランプの下で飯を食べていた姿が目に浮ぶ。ついで、暗い熱臭い室の中でうめいている周蔵の、黄色い眼付が目に浮び、うなり声が聞えるようだ……私は、また駆け足を始めた。

「一ッ、二ッ。」と口の<ruby><rb>中</rb><rt>うち</rt></ruby>で言って、全速力を出して町へと行った。

やがて町へ入った。軒の低い、柱の曲った<ruby><rb>雁木</rb><rt>がんぎ</rt></ruby>がうねうねとつづいて、大抵の家は<ruby><rb>燈火</rb><rt>あかり</rt></ruby>をつけていたが、まだ燈火を<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>けずにいる家もあった。朝出て帰って来た<ruby><rb>車引</rb><rt>くるまひき</rt></ruby>などは、家の前に荷車を置いて、上からいろいろの道具を取り下しているのもある。また、私より一歩先に道具箱を<ruby><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby>いで、帰って来たばかりの大工の家もあった。<ruby><rb>其様</rb><rt>そんな</rt></ruby>家の内の<ruby><rb>光景</rb><rt>ありさま</rt></ruby>などを<ruby><rb>一々</rb><rt>いちいち</rt></ruby>覗き込んで、町の中程になっている<ruby><rb>按摩</rb><rt>あんま</rt></ruby>の家を訪ねた――家は九<ruby><rb>尺</rb><rt>しゃく</rt></ruby>二<ruby><rb>間</rb><rt>けん</rt></ruby>で<ruby><rb>裡</rb><rt>なか</rt></ruby>は真暗である――私は「今晩は。」といって入った。

暗がりの中で、ごとごとさしている音が聞えたけれど、私の声に返事をしない。

「按摩さんはいるかい。」といった。

「ハア……。」と、力のない老人の声が耳に入った。

「<ruby><rb>今</rb><rt>いま</rt></ruby><ruby><rb>直</rb><rt>すぐ</rt></ruby>に来ておくれ、大病人があるから。」といった。私は大病人といわなければ按摩や医者などは直に来ない。だから、<ruby><rb>呼</rb><rt>よび</rt></ruby>に行く時は大病人といった方が一番いいと誰やらがいったことを覚えていたのでそういった。

「<ruby><rb>何方</rb><rt>どちら</rt></ruby>様ですかえ。」と、暗がりから老人は聞いた。

「一番前の長屋だよ、早く来ておくれ。」

「お堂のあった<ruby><rb>辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>ですかえ。」

「あすこの家だ。」

「あの<ruby><rb>跡</rb><rt>あと</rt></ruby>へ誰か入りましたかね。」

「周さんが入ったのだ。」

「ああ、吉沢の次男ですけえ、あの人が悪いんですかえ。ハア直に行きやす。」

「直に来ておくれ。」

「あなたと一しょに行きやす。」

と、直に按摩は仕度にかかった。私は暫らく、戸口に待っていると、こつこつと杖を捜す音がして、はや下駄を足につっかけているらしい。私は、他に誰もいないのかと思ったが、やはり暗がりで誰やら、ごとごとやっている音がする。私は婆さんがいるのだなと思った。

爺さんは按摩で針医を兼ねている。手に大きな箱を<ruby><rb>垂下</rb><rt>ぶらさ</rt></ruby>げていた。盲目で竹の杖を突きながらとぼとぼと私の<ruby><rb>後方</rb><rt>うしろ</rt></ruby>について来たが、途中から、私に手を引いてくれいといった。私は按摩の手を引きながら、低い、暗い、凸凹のあるうねうねと曲った町の雁木下を歩いて、やがて村へ差しかかったのである。西の山は真黒く浮き出ている。空には黒雲の間から、<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>に星の光りが見えた。暗い物凄い晩である。<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>まで黄色かった空の名残は、<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとん</rt></ruby>どもはや見られなかったが、思いなしか、西の空は何処やら薄黄色ばんでいるようにも思われた。按摩は腰が曲って黒の羽織を着ていた。

手は筋ばって痩せ衰えている。全くの盲目で一寸先も分らないといった。私は早く帰りたかったが、按摩の手を引いているので思うように歩けなかった。

歩くたびガタガタと箱の中が鳴る。箱は木で出来ている真黒な四角な箱であった。私は箱の中に針や、薬や、いろいろな道具が入っているのだと思ったから、

「この箱の中に針が入っているの？」と聞くと、

「ハア、左様でげす、これが<ruby><rb>私</rb><rt>わし</rt></ruby>の商売道具です。」と言った。

「針を打つのは痛くないかい。」

と、私は光っている鋭い針が肉に突込まれるのを想像していった。

「少しは痛う御座いやす。針ていうものは<ruby><rb>効果</rb><rt>ききめ</rt></ruby>の恐ろしいもので<ruby><rb>生死</rb><rt>いきしに</rt></ruby>にかかわるものでげす。」

といった。

私は、生死にかかわると聞いてびっくりした。

「針を打って死ぬことがあるかい。」と問うと、

「それは、二つ一つの針がありやす。もう助かるか助からぬ時に打つ針で<ruby><rb>滅多</rb><rt>めった</rt></ruby>に打つことの出来ぬ針でげす。」

と答えた時に、私は周蔵の病気はこの二つ一つの針を打たなければならぬのではないかと不安でならなかった。そう思って、この痩せ衰えた<ruby><rb>盲人</rb><rt>めくら</rt></ruby>を見ると、何となくこの盲人が怖しいように感ぜられた。二人はその後無言であった。私の手は<ruby><rb>折々</rb><rt>おりおり</rt></ruby><ruby><rb>戦</rb><rt>ふる</rt></ruby>えた。暗い杉林の下を通り、また桑圃を抜けて、だんだん周蔵の家の近くに来た時按摩は私に向って、

「お堂の前の途は、まだありやすかえ。」と聞いた。

「いや、もう無くなってしまった。」

又按摩は、

「圃になりましたかえ。」と聞いた。

「アア、圃になってしまった。」と私は言った。

按摩は、しばらく黙っていたが、また、

「<ruby><rb>大</rb><rt>で</rt></ruby>けえ榛の木があった筈だが、あれは<ruby><rb>伐</rb><rt>き</rt></ruby>りやしたかえ。」と問うた。

「あの木は去年枯れてしまった。<ruby><rb>而</rb><rt>そ</rt></ruby>して今年の春伐ってしまったよ。」と私は答えた。

「あの木は村の鬼門に<ruby><rb>植</rb><rt>うわ</rt></ruby>っている木で昔からある木でげす……。」と按摩は言った。私は何んだか<ruby><rb>慄</rb><rt>ぞっ</rt></ruby>として、

「針を木に打っても<ruby><rb>快</rb><rt>なお</rt></ruby>らないか？」と聞くと、

「ハハハハハ。」と、按摩は歯のない口を開けて<ruby><rb>冷</rb><rt>ひやや</rt></ruby>かに笑った。何故笑うのだか私には分らなかった。私はただ黒い箱に目を止めて不思議でならなかった。二人はやっと、周蔵の家の前に来た。私は母でも迎いに来ていはしないかと思って、耳を澄したがそれらしい声も聞えなかった。また周蔵の<ruby><rb>母親</rb><rt>おふくろ</rt></ruby>の来ている様子もなかった。家の内は燈火の点いた様子もなく真暗である。もと西隣の行者が住んでいた家は、今も尚お借り手がなくて<ruby><rb>空家</rb><rt>あきや</rt></ruby>であった。東隣の小学校教員の家は、はや雨戸を閉めてしまった。真暗な家の中から周蔵の苦しんでうめく声が聞える。私は思わず其処に<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んだ。

きっとこの盲人は二つ一つの針を打つだろう……而して周蔵の命は助かるまい。

ああ、どうしよう……この儘、私は按摩の手を振り放して逃げ出してしまおうかと立止って、按摩の様子を見守ると、按摩はしかと私の手を握って<ruby><rb>頻</rb><rt>しき</rt></ruby>りに前へ出たがって身体をもじもじさしていた。