<ruby><rb>小舎</rb><rt>こや</rt></ruby>は山の上にあった。幾年か雨風に打たれたので、<ruby><rb>壁板</rb><rt>したみ</rt></ruby>には穴が明き、窓は壊れて、赤い壁の地膚が<ruby><rb>露</rb><rt>あら</rt></ruby>われて、<ruby><rb>家根</rb><rt>やね</rt></ruby>は灰色に板が朽ちて<ruby><rb>処々</rb><rt>ところどころ</rt></ruby>に<ruby><rb>莚</rb><rt>むしろ</rt></ruby>を<ruby><rb>掩</rb><rt>かぶ</rt></ruby>せて、その上に石が載せられてあった。この山の上は風が強い。<ruby><rb>雪解</rb><rt>ゆきげ</rt></ruby>の頃になれば南の風が当るし、冬は沖から吹く風が時々小舎を持って行くように<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆす</rt></ruby>るのであった。だから家の<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>には四方から杉や、松や、<ruby><rb>榛</rb><rt>はん</rt></ruby>の材で支えをして置く。その木すらもはや大分根元が腐って、少しの風でぐらつくのだ。

田や<ruby><rb>圃</rb><rt>はたけ</rt></ruby>の<ruby><rb>収穫</rb><rt>とりいれ</rt></ruby>は済んだ。太吉の父親は病身の妻とその子を残して、上州へ<ruby><rb>出稼</rb><rt>でかせぎ</rt></ruby>に出たのである。来年、この<ruby><rb>北国</rb><rt>ほっこく</rt></ruby>の山や野が若々しい緑で<ruby><rb>被</rb><rt>おお</rt></ruby>われて、早咲の山桜の花が散って、遠野に白い<ruby><rb>烟</rb><rt>けむり</rt></ruby>が<ruby><rb>棚曳</rb><rt>たなびい</rt></ruby>て、桃の花が咲く時分にならなければ帰って来ない。

太吉は<ruby><rb>炉辺</rb><rt>ろばた</rt></ruby>に坐って、青竹を切って笛を造りながら、杉の葉や枯れた小枝を<ruby><rb>手折</rb><rt>たおっ</rt></ruby>てはこれに火を<ruby><rb>焚付</rb><rt>たきつ</rt></ruby>けて、湯を沸して町から母の帰るのを待っていた。長い月日の間、火を焚く烟で黒く<ruby><rb>煤</rb><rt>すす</rt></ruby>けた天井の<ruby><rb>梁</rb><rt>はり</rt></ruby>からは、煤が下っている。<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>から吊された<ruby><rb>一筋</rb><rt>ひとすじ</rt></ruby>の<ruby><rb>鉄棒</rb><rt>かなぼう</rt></ruby>には大きな黒い<ruby><rb>鉄瓶</rb><rt>てつびん</rt></ruby>が懸っていた。ぱっと移りの<ruby><rb>易</rb><rt>い</rt></ruby>い杉葉に火が付いて、紅い炎は梁の煤にまで届こうとして、同時に太吉の顔を赤く<ruby><rb>色彩</rb><rt>いろど</rt></ruby>った。太吉は髪の縮れた、眼の大きな<ruby><rb>児</rb><rt>こ</rt></ruby>であった。燃え上った火に<ruby><rb>薪</rb><rt>たきぎ</rt></ruby>を入れて、火のこれに燃え付くのを見守っている。紅い炎の舌は、この黒い鉄瓶を<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>めるように周囲にちらちらと<ruby><rb>纏</rb><rt>まつ</rt></ruby>わって、つるつると細い鉄棒を辿って、天井の梁にまで走ろうとしたけれど<ruby><rb>忽</rb><rt>たちま</rt></ruby>ち思い<ruby><rb>止</rb><rt>と</rt></ruby>まったように穏やかに燃え収った。

太吉は全く火の燃え付いたのを見て、又<ruby><rb>傍</rb><rt>かたわら</rt></ruby>の竹を取り上げて小刀で<ruby><rb>孔</rb><rt>あな</rt></ruby>を明け<ruby><rb>初</rb><rt>はじ</rt></ruby>めた。白い<ruby><rb>細</rb><rt>こまか</rt></ruby>な粉がばらばらと破れた膝の上に落ちる。<ruby><rb>暫</rb><rt>しば</rt></ruby>らく太吉は熱心に気を笛の方に取られていたが、ふと手をやめて窓から外の<ruby><rb>空合</rb><rt>そらあい</rt></ruby>を眺めた。ただ白く雲自身が凍っているように、<ruby><rb>眤</rb><rt>じっ</rt></ruby>として空は鈍く、<ruby><rb>物憂</rb><rt>ものう</rt></ruby>く、日の光りすらなかった。<ruby><rb>彼方</rb><rt>あちら</rt></ruby>の方は一面に暗くなって見える。暗くなっている空に浮き出ているように<ruby><rb>渓</rb><rt>たに</rt></ruby>を隔てた松林の山は黒く見えて、<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>かに見覚えがあるため、それが近くの山であるということが分るが、<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>し、全く見覚えがなかったなら、あの山は十里も彼方にあると言われたとて、それを信ぜずにはいられないような、遠い気持がする。太吉の眺めていた眼は<ruby><rb>自</rb><rt>おのず</rt></ruby>から<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>がった。言い知れぬ悲しさが胸に湧いたからである。

「もうお<ruby><rb>母</rb><rt>かあ</rt></ruby>は帰らしゃる時分だ。どの辺へ来さっしゃったろう。」

と、独りで言いながら、考えて頭を<ruby><rb>傾</rb><rt>かし</rt></ruby>げていたが、また何と思い返したか、笛を取上げた。

笛を見ると、彼はまた楽しみの心を禁ぜずにはいられない。この笛を吹くのだ。<ruby><rb>麓</rb><rt>ふもと</rt></ruby>の村へ<ruby><rb>持</rb><rt>もっ</rt></ruby>て行ってこの笛を吹くのだ。雪が降って外へ遊びに出られなくても、この笛があれば、吹いて楽しく家で遊んでいられる。来年の春になって、小鳥が来る時分までもこの笛を大事にして取って置く。

「<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>頃お<ruby><rb>父</rb><rt>とっ</rt></ruby>さあは帰って来さっしゃるだろう。その時分までもこの笛を大事にして取って置いて帰らしたら見せるのだ。」

こう考えると、無限にこの笛が懐かしい、恋しい、<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>うしたらいいだろうかと笛を取上げて彼は<ruby><rb>雀躍</rb><rt>こおどり</rt></ruby>をした。<ruby><rb>而</rb><rt>そ</rt></ruby>して割らないようにと念に念を入れて、<ruby><rb>只</rb><rt>ただ</rt></ruby>一つまだ開けない孔を<ruby><rb>穿</rb><rt>ほ</rt></ruby>り始めた。

「この孔が開いた時分にお母は帰って来やしゃるだろう。」

といって、口を<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>めて、眼を円く飛び出して、小刀に力を入れた。

雪の多い上越後の片田舎では、冬になれば外の楽しみは全く絶えてしまう。猟に出かけるものはこれを商売にする猟師か、若しくは金持の道楽息子の他にない。一般の百姓は若い者も、<ruby><rb>年老</rb><rt>としとっ</rt></ruby>たものも、<ruby><rb>総</rb><rt>すべ</rt></ruby>て終日<ruby><rb>囲炉裏</rb><rt>いろり</rt></ruby>に火を焚いて取巻き<ruby><rb>寛</rb><rt>くつろ</rt></ruby>ぎ、声の好いものは声自慢に<ruby><rb>松前</rb><rt>まつまえ</rt></ruby>や、または郷土固有の<ruby><rb>甚句</rb><rt>じんく</rt></ruby>や、<ruby><rb>磯節</rb><rt>いそぶし</rt></ruby>などを歌って、其処に来合せたものに<ruby><rb>聞</rb><rt>きか</rt></ruby>せる。皆なは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つくねん</span>としてこれを聞いている。家の外には雪がちらちらと降って、前の小川の水は独り<ruby><rb>寂寞</rb><rt>せきばく</rt></ruby>を破って<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いて流れている他、村の<ruby><rb>端</rb><rt>はずれ</rt></ruby>に廻っている<ruby><rb>水車</rb><rt>みずぐるま</rt></ruby>の音が静かな林や、田の中を通って其処まで聞えて来る。けれど家の中にいるものの耳には、この小川の囁きも水車の音も聞えない。ただ、歌い手の歌の声に聞き<ruby><rb>惚</rb><rt>ほれ</rt></ruby>ているばかりだ。或者は<ruby><rb>懐手</rb><rt>ふところで</rt></ruby>の<ruby><rb>儘</rb><rt>まま</rt></ruby>聞いている。或者は<ruby><rb>頬被</rb><rt>ほおかむ</rt></ruby>りをした儘聞いている。或者は火に手を<ruby><rb>翳</rb><rt>かざ</rt></ruby>したまま、<ruby><rb>燻</rb><rt>くすぶ</rt></ruby>る煙に眼を<ruby><rb>瞬</rb><rt>しばだた</rt></ruby>いている。さもなくば酒を温めながらこれに<ruby><rb>合槌</rb><rt>あいづち</rt></ruby>を打って陽気にするばかりだ。実に北国の冬は、笛を吹くか、歌を歌うか、酒を飲んで女に<ruby><rb>悪戯</rb><rt>からかう</rt></ruby>か、而して<ruby><rb>其等</rb><rt>それら</rt></ruby>の遊び方が原始的で、其処に言い知れぬ哀れがある。<ruby><rb>是等</rb><rt>これら</rt></ruby>の笛の音も、歌の声も、寒い、澄み渡った空気に透通って、<ruby><rb>一層</rb><rt>いっそう</rt></ruby><ruby><rb>木精</rb><rt>こだま</rt></ruby>に冴える思いがした。

ヒューと梢に当る風の音がして、ガタガタと窓から吹き込んで障子に当った。<ruby><rb>遽</rb><rt>にわか</rt></ruby>に天気が狂ったのである。太吉は外を眺めて<ruby><rb>崖端</rb><rt>がけっぱた</rt></ruby>に立っている一本の<ruby><rb>榛</rb><rt>はん</rt></ruby>の木の<ruby><rb>頂</rb><rt>いただき</rt></ruby>に目を止めていた。

秋の頃、黄色い粉を吐いた花の<ruby><rb>乾固</rb><rt>ひかたま</rt></ruby>った死骸や、小さく黒く見える実や、それも僅かに彼方の枝に二つ、<ruby><rb>此方</rb><rt>こちら</rt></ruby>の枝に一つある位で他に<ruby><rb>一片</rb><rt>ひとひら</rt></ruby>の葉の影も止めていなかった。哀れな裸姿になって木は<ruby><rb>悄然</rb><rt>しょんぼり</rt></ruby>と立っている。枝は四方に咲いていて、この細い枝にも、<ruby><rb>冷</rb><rt>ひややか</rt></ruby>な、切るような、風が当るかと思うと痛々しい。その細い梢の頂を見詰めていると、急に太吉は母が恋しくなった。

鉄瓶の湯は煮え<ruby><rb>沸</rb><rt>た</rt></ruby>ぎって、火は何時しか消えてしまった。太吉は笛と小刀とを下に置いて家の外に出て見た。

一度降った雪は、まだ<ruby><rb>処々</rb><rt>ところどころ</rt></ruby>消えずに山や、田や、圃に残っていた。麓の村も見えた。村の端にある水車場の家根も見えた。その水車場の傍を通る往還も見えた。けれど一人の影すら見えなかった。隣村でこの頃新築した小学校が白く林の間から見える。町へ行く時通る長い野中の松並木が微かになって見える。

北の海の方を見ると、ただ白く<ruby><rb>波頭</rb><rt>なみがしら</rt></ruby>が躍っていた。空は暗く、悪魔が住むように思われた。林の頂に<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>られ、山の鼻に隠れてその暗い空も、鉛色をした海も一部しか見えない。前には脈々たる<ruby><rb>頸城</rb><rt>くびき</rt></ruby>の<ruby><rb>山嶺</rb><rt>さんれい</rt></ruby>が迫って、その高い山を越えれば他国である。何の山にも雪が来て頭が真白になっていた。雲が降りて山々の腰から上は墨を塗ったようだ。

太吉はまた暗い沖の方を見た。

「お母は何うさっしゃったろう。……いんまに降って来るだに……。」

太吉の母は病身であった。いつも青い顔をして咳ばかりしていた。けれど太吉を可愛がった<ruby><rb>父親</rb><rt>てておや</rt></ruby>が<ruby><rb>旅稼</rb><rt>たびかせぎ</rt></ruby>に出てから、<ruby><rb>一入</rb><rt>ひとしお</rt></ruby>太吉も母を慕った。母は二三日前まで床に<ruby><rb>臥</rb><rt>つ</rt></ruby>いていたが、この日は朝のうちは天気がよかったので、買物をするため、豆を少し<ruby><rb>許</rb><rt>ばかり</rt></ruby><ruby><rb>負</rb><rt>しょ</rt></ruby>って町へ行った。町へ行く時、

「太吉や、気分もいいし、お天気も好さそうだから町へ行って来るぞ。<ruby><rb>昼過</rb><rt>ひるすぎ</rt></ruby>には<ruby><rb>直</rb><rt>じき</rt></ruby>に帰ってくるから<ruby><rb>待</rb><rt>まっ</rt></ruby>ていれよ。」

と言い遺して、<ruby><rb>平常</rb><rt>ふだん</rt></ruby><ruby><rb>商売</rb><rt>あきない</rt></ruby>に出る時の風で、<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いて出て行った。この村から、高田へは三里、直江津へは二里ある。母は常に高田へも行き、直江津へも行った。太吉は、母に向って<ruby><rb>何方</rb><rt>どっち</rt></ruby>の町へ行くのかと聞こうかと思ったが、母が直に帰って来るといったので、別に聞かなくともいいと思い返した。而してただ、

「そんだら、早く行って来やしゃれ。雪が降って来ると<ruby><rb>不可</rb><rt>いけ</rt></ruby>ないすかい、早く行って来やしゃれ。」

といったばかりで、出て行く母を淋しそうに見送っていた。太吉は今年十四であった。山にはただこの<ruby><rb>家</rb><rt>や</rt></ruby>一軒あるばかりだ。麓の村に下りる迄は二三丁程あった。太吉は日に幾回となく、この<ruby><rb>赤地</rb><rt>あかつち</rt></ruby>の山道を下りて遊びにも行き、家の用事をも<ruby><rb>達</rb><rt>た</rt></ruby>しに行った。その道は無論細い坂になっていて、杉の林を一つ通らなければならなかった。天気の好い時は何でもないが、風が吹いて、雨が降る時はこの下を通ると<ruby><rb>雫</rb><rt>しずく</rt></ruby>が<ruby><rb>滴</rb><rt>た</rt></ruby>れる、杉の枝がざわざわと動いて、<ruby><rb>襟元</rb><rt>えりもと</rt></ruby>の寒いのを感じた。又雪が降ると杉の枝が<ruby><rb>撓</rb><rt>たわ</rt></ruby>んで、頭にかかるのが厭な感じであった。

家の前に立っていて、水車場の<ruby><rb>傍</rb><rt>わき</rt></ruby>の往還に人の通りがあるかと眺め――若しや自分の母が、今にもあの道の上に出て来はせぬかと見ていたが、何時迄待ていてもそれらしい姿が見えなかった。

「お母、早く帰って来てくれやしゃればいいに……。」

と太吉は独り呟いた。而して眼前に悲しい影がかかったように、自と気持が滅入るのを感じた。<ruby><rb>尚</rb><rt>なお</rt></ruby>も太吉は立って水車場の方を見ていると、裏の山から飛んで来た<ruby><rb>鳶</rb><rt>とび</rt></ruby>が頭の上を<ruby><rb>過</rb><rt>すぎ</rt></ruby>たが、<ruby><rb>軽</rb><rt>かろ</rt></ruby>く、<ruby><rb>急</rb><rt>せわ</rt></ruby>しげに翼を<ruby><rb>刻</rb><rt>きざ</rt></ruby>んで、低く<ruby><rb>渓</rb><rt>たに</rt></ruby>に舞い下って水車場近くの枯木に止った。止ったかと思うと、又急しげに翼を刻んで、再び高く舞い上って、向うの松林のある山を越えて遠く、海の方へと飛んで行った。太吉はその鳶の<ruby><rb>行衛</rb><rt>ゆくえ</rt></ruby>を見守っていた。

この時寒い風が吹いて来た。

振り向いて、裏の山を見ると、山は夕暮の空に<ruby><rb>接吻</rb><rt>せっぷん</rt></ruby>していた。山と空の境界に松だか、杉だか<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>えていた――二本――三本ばかり――その樹の<ruby><rb>頂</rb><rt>あたま</rt></ruby>が、北の寒い風に動いていた。

「ああ、もう<ruby><rb>晩方</rb><rt>ばんがた</rt></ruby>になった。まだお母は帰って来やしゃらん……。」

太吉は坂を下って、杉林の処まで来た。けれど母の姿は、まだ見えなかった。暮れるに早い山の林――その下蔭が暗くなった。<ruby><rb>山雀</rb><rt>やまがら</rt></ruby>やら、<ruby><rb>四十雀</rb><rt>しじゅうから</rt></ruby>やら、その他の小鳥が、チェンチェンツーツーと林の暗い、繁みで<ruby><rb>小啼</rb><rt>ささなき</rt></ruby>をしていた。

「お母！」と呼んで見た。

けれど、その声は空しく<ruby><rb>木精</rb><rt>こだま</rt></ruby>に響いたばかりだ。<ruby><rb>魂消</rb><rt>たまげ</rt></ruby>たものかパタパタと鳥の<ruby><rb>羽叩</rb><rt>はばた</rt></ruby>きしたのが聞えた。

耳を<ruby><rb>澄</rb><rt>すま</rt></ruby>すと、水車の音が<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>まで聞えて来る。ただ悲しいと思ってその音に耳を澄していると、

「お母――病気で――死にそうになって――道で<ruby><rb>臥</rb><rt>たお</rt></ruby>れていやしゃ――る。」

と歌っているような。その歌っているのが、誰かが歌っているような。その誰かが自分であって、自分の心が歌っているような。そうかと思うとやはり水車が歌っているような。――太吉は、母が病気で道で臥れているのでないかと思った。

そう思うと胸の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>が騒ぎ出した。もう一刻もこうやっていられなくなった。彼は仕度をしようと走って家へ帰った。家へ入ると急に中が<ruby><rb>真暗</rb><rt>まっくら</rt></ruby>になったようで、窓から明りが差し込んでいるばかり。それも悲しい晩方の空の色に、何となく一家の<ruby><rb>不幸</rb><rt>ふしあわせ</rt></ruby>を語っているようだ。囲炉裏の火は全く消えて、鉄瓶の湯も水に返ったらしい。僅かに差し込む窓の明りが、其処に投げ出されていた笛と小刀とを照らして、小刀の刃が白く光って見えた。

太吉は笛を見ると、急に昼前、まだあの笛の孔を明けぬ前は母がいたのだと思った。母が今帰ってくれれば、この笛は昔の孔の明かぬ前になったからとて惜しくない。<ruby><rb>斯様</rb><rt>こんな</rt></ruby>笛はいらぬから、どうか母が帰ってくればいいにと<ruby><rb>地踏韛</rb><rt>じだんだ</rt></ruby>踏んだ。

太吉は小さな草鞋を穿いた。<ruby><rb>菅笠</rb><rt>すげがさ</rt></ruby>を取って戸を閉めると一目散に駆け出した。

「町へお母を迎いに行って来る――。」

こう独り言をいうと、急に胸が<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさが</rt></ruby>って、熱い涙がぱらぱらと湧いた。太吉は心のうちでこう叫んだ。

「お母に<ruby><rb>遇</rb><rt>あ</rt></ruby>ったら、ウンと恨んでやろう！　お母に遇ったらウンと泣いて<ruby><rb>小言</rb><rt>こごと</rt></ruby>をいってやろう！」

夢中になって一目散に峠を走って、村に下りると、急に他の人の顔が目に付いた。

けれど胸が張り切って、知った人に遇っても物を言うのが厭であった。

<ruby><rb>成丈</rb><rt>なるた</rt></ruby>け人の顔を見ないようにと走って、いつしか水車場の脇も通り越した時分、

高田へ行かしたか？　直江津へ行かしたか？……と惑った。

太吉の歩みは遅くなった。

「直江津へ行かしたんだろう？　どれ、聞いて見よう……。」

村端に一軒の桶屋があった。よく母が町への<ruby><rb>出入</rb><rt>ではい</rt></ruby>りにこの家へ立寄るのである。いつしかその桶屋の前へ来た。五つ<ruby><rb>許</rb><rt>ばかり</rt></ruby>の頭に<ruby><rb>腫物</rb><rt>はれもの</rt></ruby>の出来た子が立っていた。家の前に一本の柳の木があって、子供の<ruby><rb>汚物</rb><rt>よごれもの</rt></ruby>を洗ったのが、その柳の木から壁板に繋がれた縄に掛けてあった。家は<ruby><rb>藁屋</rb><rt>わらや</rt></ruby>で、店には割りかけた赤味の板が<ruby><rb>散</rb><rt>ちら</rt></ruby>ばっていた。けれど別に人の来ている様子はなかった。

太吉は外で、こう声をかけた。

「今日は！」

「おーい。」「太吉かー。」

「お母今日寄らしたかい。」

「いんや、寄らしゃらんぞ。町へ行かしたけい。」

「まだ<ruby><rb>帰</rb><rt>け</rt></ruby>えらしゃらんから迎いに行くだ。」

「まだ帰えらしゃらんちゅうだか。」

「<ruby><rb>何方</rb><rt>どちら</rt></ruby>へ行かしただろうのう。」

「<ruby><rb>己</rb><rt>おら</rt></ruby>あ知らんが直江津だんべえのう。」

と桶屋の<ruby><rb>女房</rb><rt>かみさん</rt></ruby>が家の内で答えた。

太吉は直江津へ向った。

厚く重なり合った雲の<ruby><rb>断目</rb><rt>きれめ</rt></ruby>から、飴色の弱い日が洩れた。<ruby><rb>畦</rb><rt>あぜ</rt></ruby>の並木の片側が薄く照り映えた。田の中には氷が張って、処々に雪が消えずに残っている。街道を行くと、旅人の影がちらちら見られた。電信柱は遠くまでつづいた。<ruby><rb>折々</rb><rt>おりおり</rt></ruby>冬木立に風が当って、枝が鳴るかと思うと頭の上の電線が呻った。彼方に<ruby><rb>沙山</rb><rt>すなやま</rt></ruby>が見える。急いで来ると、やがて沙山へ着いた。沙山を越えると町だ。

町へ入ったのは日暮方であった。入日が海辺の町に当っていた。空っ風が強くて、黄色な<ruby><rb>砂塵</rb><rt>すなぼこり</rt></ruby>が<ruby><rb>揚</rb><rt>あが</rt></ruby>っていた。雪が来る前には乾くものだ。道は乾き切って割れている処さえあった。小高い丘の船問屋の高い竿の<ruby><rb>尖</rb><rt>さき</rt></ruby>に赤い旗が<ruby><rb>翻々</rb><rt>ひらひら</rt></ruby>と<ruby><rb>閃</rb><rt>ひら</rt></ruby>めいている。また町の三階造の宿屋の<ruby><rb>窓硝子</rb><rt>まどガラス</rt></ruby>がぎらぎらと黄金色に輝いていた。太吉は町の中を<ruby><rb>彷徨</rb><rt>うろつ</rt></ruby>いていた。馬が荷車を引いて通った。人力が駆けて行った。<ruby><rb>何</rb><rt>いず</rt></ruby>れも日暮方であるのと、夜になると風が<ruby><rb>寒</rb><rt>さぶ</rt></ruby>いのに怖れて、行先を急いでいる。その他、<ruby><rb>忙</rb><rt>せわ</rt></ruby>しそうに道を歩いている男や女の姿を見た。けれど自分の母の姿は見えなかった。

太吉は、心当りの家を尋ね廻ったが、何等の手掛りを得なかった。彼は疲れた足を引摺って町を出ると、浜辺の広々とした処に来た。この<ruby><rb>辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>は一面に無縁の<ruby><rb>難船者</rb><rt>なんせんじゃ</rt></ruby>の墓がある所であった。<ruby><rb>何処</rb><rt>いずこ</rt></ruby>の者とも分らない航海者や、船乗人が、暴風で船を壊されて、海の<ruby><rb>藻屑</rb><rt>もくず</rt></ruby>となって、この浜辺に打ち上げられたものを、この海岸の<ruby><rb>漁猟人</rb><rt>すなどりにん</rt></ruby>が<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>に葬ったのである。昔からの墓が此処にあるのだ。いずれも三尺に満たぬ<ruby><rb>木標</rb><rt>もくひょう</rt></ruby>が建られていた。古いのは腐ってしまい、二三年前のものは、<ruby><rb>墨痕</rb><rt>すみあと</rt></ruby>が雨風に消えて、根元が腐りかけて<ruby><rb>傾</rb><rt>かし</rt></ruby>がっている。まだ新しいものは字も鮮かに読まれて、「遭難者の墓」と、別に名の分ろう筈がなければ、ただこう書いてあった。他に、<ruby><rb>卒塔婆</rb><rt>そとうば</rt></ruby>や青笹などが処々に建てられていて、その赤く枯れた笹に当時結び付けられた白紙や、赤い紙などが淋しげに風に動いていた。太吉はその墓場で休んだ。

白い<ruby><rb>徳利</rb><rt>とくり</rt></ruby>の<ruby><rb>欠</rb><rt>か</rt></ruby>けや、石地蔵の頭なども落ちている。暫らく、石の上に腰を下していた。此処からよく海が見える。海は真黒だ。空は暗い。空の暗いのよりも海の色が黒い。彼は<ruby><rb>偶然</rb><rt>ふと</rt></ruby>この黒い海の中に怖ろしい<ruby><rb>鰐</rb><rt>わに</rt></ruby>や、<ruby><rb>鱶鮫</rb><rt>ふかざめ</rt></ruby>が棲んでいるのだと思った。

「お母――どうさしたろう。」

こう力なく言って、太吉はまた<ruby><rb>当</rb><rt>あて</rt></ruby>もなくとぼとぼと歩き出した。

直江津と高田との間は二里余りある。直江津は北に、高田は南になっている。

日が全く暮れてしまった。太吉は疲れた足を引摺りながら、とぼとぼと昔の今町街道（直江津から高田へ行く道）を歩いて来た。北風が強いので、雲が払い去られて星が出た。空は海のように青かった。星の光りは凍るように冴えた。<ruby><rb>宛然</rb><rt>さながら</rt></ruby>金銀、水晶、<ruby><rb>瑪瑙</rb><rt>めのう</rt></ruby>を<ruby><rb>砕</rb><rt>くだ</rt></ruby>いたようであった。太吉は踏切番の<ruby><rb>小舎</rb><rt>こや</rt></ruby>の前まで来ると、この汽車道に<ruby><rb>添</rb><rt>つ</rt></ruby>いて行けば早く高田へ着くと考えた。小舎は野中にあった。<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>の林や、森は静かに眠っていた。小舎の障子には明るく<ruby><rb>火影</rb><rt>ほかげ</rt></ruby>が照って、中で二三人酒を飲んで笑っている様子であった。太吉は番人の見ていないのを幸いに<ruby><rb>抜足</rb><rt>ぬきあし</rt></ruby>して線路内に立入ると一生懸命に線路に付いて駆け出した。<ruby><rb>一陣</rb><rt>ひとしきり</rt></ruby>夜嵐が空を渡った。星は<ruby><rb>身慄</rb><rt>みぶるい</rt></ruby>した。

<ruby><rb>轟々</rb><rt>ごうごう</rt></ruby>と闇の裡に鳴って渓河が流れている。其処には、黒い鉄橋が<ruby><rb>架</rb><rt>かか</rt></ruby>っている。太吉は氷のように冷たな鉄橋に<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>りながら細い板の上を怖る怖る渡った。下は暗く、深く深く、岩に砕けて水が叫んでいた。霜は一面に白く、粉の如く板の上に結んでいた。星明りに白くなって光った。やっとその難関を通り抜けた。遠くの方で犬の遠吠するのが聞える。

また一陣夜嵐が空を渡った。

太吉は覚えず<ruby><rb>身戦</rb><rt>みぶる</rt></ruby>いすると、北の方から黒雲が自分の後を追って来た。<ruby><rb>瞬</rb><rt>またた</rt></ruby>く間に<ruby><rb>拭</rb><rt>ぬ</rt></ruby>ぐったように<ruby><rb>星晴</rb><rt>ほしばれ</rt></ruby>のしていた空は曇って、星の光りが遠く遠く<ruby><rb>幽</rb><rt>かす</rt></ruby>んだ。

また一陣夜嵐が空を渡った。さらさらと顔に当ったものがある。<ruby><rb>撫</rb><rt>なで</rt></ruby>て見ると雪であった。あ、雪が降って来た！　といって太吉は<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>を急いだ。この辺には人家がなかった。全くの広い野原の中で、目を遮る大きな林もなかった。雪は次第に降って来た。

今迄頼りに歩いて来た<ruby><rb>二条</rb><rt>ふたすじ</rt></ruby>の線路は見えなくなった。枕木も隠れてしまった。太吉の笠や着物は重くなるまで雪が積った。<ruby><rb>益々</rb><rt>ますます</rt></ruby>夜嵐は吹き募って、雪は目となく耳となく、襟元となく入り込んだ。<ruby><rb>指頭</rb><rt>ゆびさき</rt></ruby>も、<ruby><rb>足尖</rb><rt>つまさき</rt></ruby>も、感じがなくなった。何処も一様に真白になって、もう<ruby><rb>一歩</rb><rt>ひとあし</rt></ruby>も踏み出すことが出来ぬまでに四辺が分らなくなった。

「お母！」と太吉は泣声を上げた。

その声は余りに小さかった。弱かった。彼方の<ruby><rb>畦</rb><rt>あぜ</rt></ruby>に<ruby><rb>悄然</rb><rt>しょんぼり</rt></ruby>と立ってる並木にすら、聞えなかったであろう。<ruby><rb>漸々</rb><rt>だんだん</rt></ruby>黒雲は頭の上を通り越した。薄明るかった南の方の空が、暗くなった。黒雲が空を掩い尽したのである。ただ闇の裡に風が<ruby><rb>暴</rb><rt>あ</rt></ruby>れた。雪がさらさらと鳴った。耳に鳴る雪は刻々に地に積る気はいがした。

<ruby><rb>眤</rb><rt>じっ</rt></ruby>と<ruby><rb>立</rb><rt>たっ</rt></ruby>ていると手足がしびれて来てだんだん気が遠くなった。遂に何処に<ruby><rb>何</rb><rt>どう</rt></ruby>しているのやら分らなくなった。――<ruby><rb>種々</rb><rt>いろん</rt></ruby>なものが見えた。種々な音が聞え始めた。昼前に<ruby><rb>造</rb><rt>こさ</rt></ruby>った笛が、あの儘転がっている、水車が歌をうたっている――その歌は水車でなくて、自分が歌っているようにも思われる。桶屋の前に子供が遊んでいた。あの黒い海に鰐が住んでいる。白い徳利の欠が落ちている。笹に白い紙、赤い紙がひらひらと動いている――。

ビューウ、ビューウ……風の音！　つづいて<ruby><rb>凄</rb><rt>すさま</rt></ruby>じい車の<ruby><rb>轟</rb><rt>とどろ</rt></ruby>きがした！

ほのぼのと夜が明け離れてから四時間ばかり<ruby><rb>経</rb><rt>たっ</rt></ruby>た。烏は畦の並木に止まって悲しそうな声で鳴いている。ちょうど雪の<ruby><rb>晴間</rb><rt>はれま</rt></ruby>であった。四辺はどんよりと曇って、今にでもまた降って来そうな空模様である。

線路の上に五六人、<ruby><rb>集</rb><rt>たか</rt></ruby>って何やら見ていた。見ているのではない。<ruby><rb>取片附</rb><rt>とりかたづけ</rt></ruby>ていた。雪が血に染って子供の死体は滅茶苦茶であった。<ruby><rb>集</rb><rt>つど</rt></ruby>っているうちに一人、頭から黒い<ruby><rb>布</rb><rt>きれ</rt></ruby>を被って、顔色が<ruby><rb>蝋</rb><rt>ろう</rt></ruby>のように青白い、<ruby><rb>窶</rb><rt>やつ</rt></ruby>れた女がある。眼は泣き腫らして、唇の皮が厚く<ruby><rb>乾</rb><rt>ひか</rt></ruby>らびて、堅く死骸に抱き付いたまま身動きすらしなかった。

それは太吉の母であった。