## 自序

女と<ruby><rb>俳諧</rb><rt>はいかい</rt></ruby>、この二つは何の関係も無いもののように、今までは考えられておりました。しかし古くから日本に伝わっている文学の中で、<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>ほど自由にまたさまざまの女性を、観察し描写し且つ同情したものは他にありません。女を問題とせぬ物語というものは昔も今も、捜して見出すほどしか無いといわれておりますが、それはみな一流の<ruby><rb>佳人</rb><rt>かじん</rt></ruby>と才子、または少なくとも選抜せられた或る男女の仲らいを<ruby><rb>叙</rb><rt>の</rt></ruby>べたものでありました。これに反して俳諧は、なんでもない<ruby><rb>只</rb><rt>ただ</rt></ruby>の人、極度に平凡に活きている<ruby><rb>家刀自</rb><rt>いえとじ</rt></ruby>、もっと進んでは<ruby><rb>乞食</rb><rt>こじき</rt></ruby>、<ruby><rb>盗人</rb><rt>ぬすっと</rt></ruby>の妻までを、俳諧であるが故に考えてみようとしているのであります。歴史には<ruby><rb>尼将軍</rb><rt>あましょうぐん</rt></ruby>、<ruby><rb>淀</rb><rt>よど</rt></ruby>の<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>という類の婦人が、<ruby><rb>稀々</rb><rt>まれまれ</rt></ruby>には出て働いておりまして、国の幸福がこれによって左右せられたこともありますが、こういう人たちをわが仲間のうちと考えて、歴史に興味を抱くようになった女性の、少なかったのはまことに<ruby><rb>已</rb><rt>や</rt></ruby>むを得ません。<ruby><rb>振</rb><rt>ふ</rt></ruby>り<ruby><rb>回</rb><rt>かえ</rt></ruby>って後姿を眺めようとするような心持が、女と歴史とのすれちがいには起こらなかったのであります。有りとあらゆる前代の人の身の上は、小説の中にすらも皆は伝わっておりません。それを俳諧だけが残りなく、見渡し<ruby><rb>採</rb><rt>と</rt></ruby>り上げて<ruby><rb>咏歎</rb><rt>えいたん</rt></ruby>しようとしていたのであります。女は通例自分たちの事を<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>せられるのを、知らずに過ぎるということはないものですが、奇妙に俳諧だけは冷淡視していました。その原因は御承知のごとく、俳諧というものが<ruby><rb>連歌</rb><rt>れんが</rt></ruby>の法式を受け継いで、初めの<ruby><rb>表</rb><rt>おもて</rt></ruby>の六句ではなるべく女性を問題とせず、特に恋愛は取扱わぬことにしていまして、そうして今日俳諧として鑑賞せられているのが、そのまた第一の句だけであったからであります。店先にはまじめくさった年輩の男たちばかり<ruby><rb>出入</rb><rt>でいり</rt></ruby>しているのを見て、これは女などには用の無いところと、奥には何があるのかを<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いて見ようともせずに、素通りした人の多かったのも無理はありませんが、実はその<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>の陰にこそ、<ruby><rb>紅紫</rb><rt>こうし</rt></ruby>とりどりの女の歴史が、画かれてあったのであります。歴史にこの無数無名の二千年間の母や姉妹が、黙って参与していたことを信ずる者は、これを説くためにも俳諧を引用しなければなりません。そうして私がこの意外なる知識を掲げて、人を新たなる好奇心へ誘いこむ計略も、白状をすればまた俳諧からこれを学びました。

『七部集』は三十何年来の私の愛読書であります。これを道案内に頼んでこの時代の俳諧の、近頃活字になったものも追々に読んでみました。その折々の心覚えを書き留めておいたのを、近頃取出して並べて見ますと、大部分は女性の問題であったことが、自分にも興味を感じられます。それで二三の関係ある文章を取添えて、一冊の本にすることにしたのであります。大抵は人に語りまたは何かの集まりに話をしたものの<ruby><rb>手控</rb><rt>てびか</rt></ruby>えのままなので、聴手の種類や年齢に応じて、表現の形が少しずつかわり、文章も大分不揃いであります。それがこの書を「女性読本」と題しなかった一つの理由であります。

或いは男のくせにという批判を、誰かから受けそうな気もしますが、実は私には女の子が四人あり、孫も四人あって四人とも女です。彼らとともに、またはその立場から、次の時代を考えてみなければならぬ必要が、前にもあり今もしばしばあるのであります。<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>がもしも一身一家にしか用の無い問題であるならば、そういう研究は学問ということができぬのですが、幸いなことには私たちの境遇は、かなり多くの同時代人を代表しているらしいのであります。<ruby><rb>此方</rb><rt>こちら</rt></ruby>で望ましいことが<ruby><rb>彼方</rb><rt>あちら</rt></ruby>では害になり、一方のためには<ruby><rb>智慧</rb><rt>ちえ</rt></ruby>であり啓発であっても、他の一方では疑い<ruby><rb>惑</rb><rt>まど</rt></ruby>う人々を、誤りに導くかも知れぬというような<ruby><rb>懸念</rb><rt>けねん</rt></ruby>は、お互いの足元を比べ合わせてみれば、まず少しも無いと信じられるのであります。こういう経験こそは<ruby><rb>頒</rb><rt>わか</rt></ruby>たなければなりません。それ故に私たちは、自分自分の疑惑から出発する研究を、<ruby><rb>些</rb><rt>すこ</rt></ruby>しも手前勝手とは考えておらぬのみか、むしろ手前には何の用も無いことを、人だけに説いて聴かせようとする職業を軽蔑しているのであります。現在の日本に自国の学問が無ければならぬということを、私などはこういう風に解しております。俳諧に残っているのは小さな人生かも知れませんが、とにかく今までは顧みられないものでありました。事は過去に属しつつも、依然として新しい知識であります。そうしてまた現在の疑惑の<ruby><rb>種子</rb><rt>たね</rt></ruby>であります。是からの日本に<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>きて行こうとする人々に、おふるでないものをさし上げたいと、私だけは思っているのであります。

昭和十四年四月

  


## 木綿以前の事

## 一

『七部集』の<ruby><rb>附合</rb><rt>つけあい</rt></ruby>の中には、<ruby><rb>木綿</rb><rt>もめん</rt></ruby>の<ruby><rb>風情</rb><rt>ふぜい</rt></ruby>を句にしたものが三カ処ある。それから木綿とは言ってないが、次の『<ruby><rb>炭俵</rb><rt>すみだわら</rt></ruby>』の一節もやはりそれだろうと私は思っている。

<ruby><rb>分</rb><rt>ぶん</rt></ruby>にならるる<ruby><rb>娵</rb><rt>よめ</rt></ruby>の<ruby><rb>仕合</rb><rt>しあわせ</rt></ruby>　　　　　　　　<ruby><rb>利牛</rb><rt>りぎゅう</rt></ruby>

はんなりと<ruby><rb>細工</rb><rt>さいく</rt></ruby>に染まる<ruby><rb>紅</rb><rt>べに</rt></ruby>うこん　　　　<ruby><rb>桃隣</rb><rt>とうりん</rt></ruby>

鑓持ちばかり戻る<ruby><rb>夕月</rb><rt>ゆうづき</rt></ruby>　　　　　　　　<ruby><rb>野坡</rb><rt>やば</rt></ruby>

まことに艶麗な<ruby><rb>句柄</rb><rt>くがら</rt></ruby>である。近いうちに分家をするはずの二番<ruby><rb>息子</rb><rt>むすこ</rt></ruby>の<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>へ、<ruby><rb>初々</rb><rt>ういうい</rt></ruby>しい花嫁さんが来た。紅をぼかしたうこん染めの、<ruby><rb>袷</rb><rt>あわせ</rt></ruby>か何かをきょうは着ているというので、もう日数も<ruby><rb>経</rb><rt>た</rt></ruby>っているらしいから、これは<ruby><rb>不断着</rb><rt>ふだんぎ</rt></ruby>の新しい木綿着物であろう。次の<ruby><rb>附句</rb><rt>つけく</rt></ruby>は<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>を例の<ruby><rb>俳諧</rb><rt>はいかい</rt></ruby>に変化させて、晴れた或る日の<ruby><rb>入日</rb><rt>いりひ</rt></ruby>の頃に、月も出ていて空がまだ赤く、向こうから来る<ruby><rb>鑓</rb><rt>やり</rt></ruby>と鑓持ちとが、その空を背景にくっきりと浮き出したような場面を描いて、「細工に染まる紅うこん」を受けてみたのである。またこれとは正に反対に、同じ恋の句でも寂しい扱い方をしたものが、『<ruby><rb>比佐古</rb><rt>ひさご</rt></ruby>』の<ruby><rb>亀</rb><rt>かめ</rt></ruby>の甲の章にはある。

<ruby><rb>薄曇</rb><rt>うすぐも</rt></ruby>る日はどんみりと<ruby><rb>霜</rb><rt>しも</rt></ruby>をれて　　　　　<ruby><rb>乙州</rb><rt>おとくに</rt></ruby>

<ruby><rb>鉢</rb><rt>はち</rt></ruby>いひ<ruby><rb>習</rb><rt>なら</rt></ruby>ふ声の出かぬる　　　　　　　<ruby><rb>珍碩</rb><rt>ちんせき</rt></ruby>

染めてうき<ruby><rb>木綿袷</rb><rt>もめんあわせ</rt></ruby>のねずみ色　　　　　　<ruby><rb>里東</rb><rt>りとう</rt></ruby>

<ruby><rb>撰</rb><rt>よ</rt></ruby>りあまされて寒き<ruby><rb>明</rb><rt>あけ</rt></ruby>ぼの　　　　　　<ruby><rb>探志</rb><rt>たんし</rt></ruby>

この<ruby><rb>一聯</rb><rt>いちれん</rt></ruby>の前の二句は、初心の<ruby><rb>新発意</rb><rt>しんぼち</rt></ruby>が冬の日に町に出て<ruby><rb>托鉢</rb><rt>たくはつ</rt></ruby>をするのに、まだ<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れないので「はち〱」の声が思い切って出ない。何か<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>の有りそうな、もとは良家の青年らしく、<ruby><rb>折角</rb><rt>せっかく</rt></ruby>染めた木綿の<ruby><rb>初袷</rb><rt>はつあわせ</rt></ruby>を、色もあろうに<ruby><rb>鼠色</rb><rt>ねずみいろ</rt></ruby>に染めたと、若い<ruby><rb>身空</rb><rt>みそら</rt></ruby>で仏門に入ったあじきなさを<ruby><rb>歎</rb><rt>たん</rt></ruby>じていると、<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>の附句ではすぐにこれをあの時代の、<ruby><rb>歌比丘尼</rb><rt>うたびくに</rt></ruby>の身すぎの哀れさに引移したのである。木綿が<ruby><rb>我邦</rb><rt>わがくに</rt></ruby>に行われ始めてから、もう大分の年月を<ruby><rb>経</rb><rt>へ</rt></ruby>ているのだが、それでもまだ<ruby><rb>芭蕉</rb><rt>ばしょう</rt></ruby>翁の元禄の初めには、江戸の人までが木綿といえば、すぐにこのような優雅な境涯を、<ruby><rb>聯想</rb><rt>れんそう</rt></ruby>する習わしであったのである。

## 二

木綿が我々の生活に与えた影響が、毛糸のスエーターやその一つ前のいわゆるメリンスなどよりも、<ruby><rb>遥</rb><rt>はる</rt></ruby>かに偉大なものであったことはよく想像することができる。現代はもう衣類の変化が無限であって、とくに一つの品目に拘泥する必要もなく、次から次へ好みを移して行くのが普通であるが、単純なる昔の日本人は、木綿を用いぬとすれば<ruby><rb>麻布</rb><rt>あさぬの</rt></ruby>より他に、肌につけるものは持ち合わせていなかったのである。木綿の若い人たちに好ましかった点は、新たに流行して来たものというほかに、なお少なくとも二つはあった。第一には肌ざわり、野山に働く男女にとっては、絹は<ruby><rb>物遠</rb><rt>ものどお</rt></ruby>く且つあまりにも滑らかでややつめたい。柔かさと摩擦の快さは、むしろ木綿の方が<ruby><rb>優</rb><rt>まさ</rt></ruby>っていた。第二には色々の染めが容易なこと、是は今までは絹階級の特典かと思っていたのに、木綿も我々の好み次第に、どんな派手な色模様にでも染まった。そうしていよいよ<ruby><rb>棉種</rb><rt>わただね</rt></ruby>の第二回の輸入が、十分に普及の効を奏したとなると、作業はかえって麻よりも遥かに簡単で、<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>かの変更をもってこれを家々の<ruby><rb>手機</rb><rt>てばた</rt></ruby>で織り出すことができた。そのために政府が欲すると否とに<ruby><rb>頓着</rb><rt>とんちゃく</rt></ruby>なく、<ruby><rb>伊勢</rb><rt>いせ</rt></ruby>でも<ruby><rb>大和</rb><rt>やまと</rt></ruby>・<ruby><rb>河内</rb><rt>かわち</rt></ruby>でも、瀬戸内海の沿岸でも、広々とした平地が棉田になり、棉の実の桃が吹く頃には、急に月夜が美しくなったような気がした。麻糸に関係ある二千年来の色々の家具が不用になって、<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>にはその名前までが忘れられ、そうして村里には<ruby><rb>染屋</rb><rt>そめや</rt></ruby>が増加し、家々には<ruby><rb>縞帳</rb><rt>しまちょう</rt></ruby>と名づけて、競うて珍しい<ruby><rb>縞柄</rb><rt>しまがら</rt></ruby>の見本を集め、<ruby><rb>機</rb><rt>はた</rt></ruby>に携わる人たちの趣味と技芸とが、僅かな間に著しく進んで来たのだが、しかもその縞木綿の発達する以前に、無地を色々に染めて<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>んで着た時代が、こうしてやや久しくつづいていたらしいのである。

## 三

色ばかりかこれを着る人の姿も、全体に著しく変ったことと思われる。木綿の衣服が作り出す女たちの輪廓は、絹とも麻ともまたちがった特徴があった。そのうえに袷の<ruby><rb>重</rb><rt>かさ</rt></ruby>ね<ruby><rb>着</rb><rt>ぎ</rt></ruby>が追々と無くなって、中綿がたっぷりと入れられるようになれば、また<ruby><rb>別様</rb><rt>べつよう</rt></ruby>の肩腰の丸味ができてくる。全体に伸び縮みが自由になり、身のこなしが以前よりは明らかに外に現われた。ただ夏ばかりは<ruby><rb>単衣</rb><rt>ひとえ</rt></ruby>の<ruby><rb>糊</rb><rt>のり</rt></ruby>を強くし、或いは<ruby><rb>打盤</rb><rt>うちばん</rt></ruby>で打りならして、僅かに昔の麻の着物の心持ちを<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>していたのだが、それもこの頃は次第におろそかになって行くようである。我々の保守主義などは、いわば<ruby><rb>只</rb><rt>ただ</rt></ruby>五七十年前の趣味の模倣にすぎなかった。そんな事をしている間に、以前の麻のすぐな突張った外線はことごとく消えてなくなり、いわゆる<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>で肩と<ruby><rb>柳腰</rb><rt>やなぎごし</rt></ruby>とが、今では至って普通のものになってしまったのである。それよりも更に隠れた変動が、我々の内側にも起こっている。すなわち軽くふくよかなる衣料の快い圧迫は、常人の<ruby><rb>肌膚</rb><rt>はだ</rt></ruby>を多感にした。胸毛や背の毛の発育を不必要ならしめ、身と衣類との親しみを大きくした。すなわち我々には<ruby><rb>裸形</rb><rt>らぎょう</rt></ruby>の不安が強くなった。一方には今まで眼で見るだけのものと思っていた紅や緑や紫が、天然から近よって来て各人の身に属するものとなった。心の動きはすぐに形にあらわれて、歌うても泣いても人は昔より一段と美しくなった。つまりは木綿の採用によって、生活の味わいが知らず知らずの間に<ruby><rb>濃</rb><rt>こまや</rt></ruby>かになって来たことは、かつて<ruby><rb>荒栲</rb><rt>あらたえ</rt></ruby>を着ていた我々にも、毛皮を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>っていた西洋の人たちにも、一様であったのである。

ただし日本では今一つ、同じ変化を助け促した<ruby><rb>瀬戸物</rb><rt>せともの</rt></ruby>というものの力があった。<ruby><rb>白木</rb><rt>しらき</rt></ruby>の<ruby><rb>椀</rb><rt>わん</rt></ruby>はひずみゆがみ、使い初めた日からもう汚れていて、水で<ruby><rb>滌</rb><rt>すす</rt></ruby>ぐのも気休めにすぎなかった。小家の<ruby><rb>侘</rb><rt>わび</rt></ruby>しい物の<ruby><rb>香</rb><rt>か</rt></ruby>も、源を<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>ればこの木の<ruby><rb>御器</rb><rt>ごき</rt></ruby>のなげきであった。その中へ米ならば二<ruby><rb>合</rb><rt>ごう</rt></ruby>か三合ほどの<ruby><rb>価</rb><rt>あたい</rt></ruby>をもって、白くして静かなる光ある物が入って来た。前には宗教の領分に属していた真実の円相を、茶碗というものによって朝夕手の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>に取って見ることができたのである。<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>が平民の文化に貢献せずして<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>む道理はない。昔の貴人公子が<ruby><rb>佩玉</rb><rt>はいぎょく</rt></ruby>の<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>を楽んだように、かちりと前歯に当る陶器の<ruby><rb>幽</rb><rt>かす</rt></ruby>かな響には、鶴や若松を画いた美しい<ruby><rb>塗盃</rb><rt>ぬりさかずき</rt></ruby>の<ruby><rb>歓</rb><rt>よろこ</rt></ruby>びも、忘れしめるものがあった。それが貧しい<ruby><rb>煤</rb><rt>すす</rt></ruby>けた家の奥までも、ほとんと何の代償も無しに、容易に配給せられる新たな幸福となったのも時勢であって、この点においては木綿のために麻布を<ruby><rb>見棄</rb><rt>みす</rt></ruby>てたよりも、もっと無条件な利益を我々は得ている。しかも是が<ruby><rb>何人</rb><rt>なんぴと</rt></ruby>の恩恵でもなかったが故に、我々はもうその嬉しさを記憶していない。偶然とは言いながらも是ほど<ruby><rb>確乎</rb><rt>かっこ</rt></ruby>たる基礎のある今日の新文明を、或いは<ruby><rb>提督</rb><rt>ていとく</rt></ruby>ペルリが<ruby><rb>提</rb><rt>ひっさ</rt></ruby>げてでも来たもののように、考える人さえあったのである。

## 四

木綿の威力の抵抗し<ruby><rb>難</rb><rt>がた</rt></ruby>かったことは、或る意味においては<ruby><rb>薩摩芋</rb><rt>さつまいも</rt></ruby>の恩沢とよく似ている。この<ruby><rb>藷</rb><rt>いも</rt></ruby>なかりせば国内の食物は<ruby><rb>夙</rb><rt>つと</rt></ruby>に尽きて、今のごとく人口の<ruby><rb>充</rb><rt>み</rt></ruby>ち<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れる前に、外へ出て生活のたつきを求めずにはいられなかったろう。必要な農民を勇敢にし、海で死に或いは海で栄える者が、今よりも遥かに多かったはずである。しかし藷が来た以上は作って食い、食えば一旦は満腹して是でも住めると思い、貧の辛抱がしやすくなって、結局子孫の<ruby><rb>艱難</rb><rt>かんなん</rt></ruby>を長引かせたとも見られるが、さればとて遠い未来の全体の幸不幸を勘定して、この目前に甘く且つ柔かなる食物の誘惑を<ruby><rb>却</rb><rt>しりぞ</rt></ruby>けることは、人が神であってもできないことである。木綿の幸福には、是ほど大きな割引は無かったが、仮に有ったとしてもなお我々は<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>んでこれに<ruby><rb>就</rb><rt>つ</rt></ruby>いたであろう。それがまた個々別々の生存をもつ者の、至って自然なる選択である。久しい年月を隔てて後に、或いは忍び難い悪結果を見いだしたとしても、これに<ruby><rb>由</rb><rt>よ</rt></ruby>って祖先の軽慮は責めることはできぬ。ただ彼らの経験によって学び得る一事は、かように色々の偶然に支配せらるる人間世界では、進歩の<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>が常に善に向かっているものと、安心してはおられぬということである。万人の<ruby><rb>滔々</rb><rt>とうとう</rt></ruby>として<ruby><rb>赴</rb><rt>おもむ</rt></ruby>く所、何物も<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>り得ぬような力強い流行でも、木が成長し水が流れて下るように、すらすらと現われた国の変化でも、静かに考えてみると損もあり得もある。その損を気づかぬ故に後悔せず、悔いても<ruby><rb>詮</rb><rt>せん</rt></ruby>がないからそっとしておくと、その<ruby><rb>糸筋</rb><rt>いとすじ</rt></ruby>の長い<ruby><rb>端</rb><rt>はし</rt></ruby>は、すなわち目前の現実であって、やっぱり我々の身に<ruby><rb>纏</rb><rt>まつ</rt></ruby>わって来る。どうしても<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>りの力では始末のできぬように、この世の中はなっているのである。

## 五

茶碗や<ruby><rb>皿</rb><rt>さら</rt></ruby><ruby><rb>小鉢</rb><rt>こばち</rt></ruby>が暗い台所に光を与え、清潔が白色であることを教えた功労は大きいが、それでも一方には、物の容易に砕けることを学ばしめた難は有る。木綿の罪責に至っては或いはそれよりもいささか重かった。第一に彼はこの世の塵を多くしている。おかしいことには木綿以前の日本人が、何かと言うと人世の塵の苦しみを訴え、<ruby><rb>遁</rb><rt>のが</rt></ruby>れて嬉しいという多くの歌を残しているのと反対に、そんな<ruby><rb>泣言</rb><rt>なきごと</rt></ruby>はもう流行しなくなってから、かえって<ruby><rb>怖</rb><rt>おそ</rt></ruby>ろしく塵が我々を攻め出した。震災がこの大都をバラックにした以前から、形ばかりの大通りは<ruby><rb>只</rb><rt>ただ</rt></ruby>吹き通しの用を勤めるのみで、これを<ruby><rb>薬研</rb><rt>やげん</rt></ruby>にして<ruby><rb>轍</rb><rt>わだち</rt></ruby>が土と馬糞とを粉に砕く。外の<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>はこれのみでも十分であるのに、家の中ではさらに綿密に、<ruby><rb>隙間</rb><rt>すきま</rt></ruby>隙間を木綿の塵が占領し、掃き出せばやがてよその友だちと一緒に戻ってくる。雨水が洗い流して海川へ送ると言っても、日々積るものの幾分の一にすぎぬであろう。いかに<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れてしまっても是が身や心を<ruby><rb>累</rb><rt>わずら</rt></ruby>わさぬはずはない。越前の西ノ谷は男たちは遠くの鉱山に<ruby><rb>往</rb><rt>い</rt></ruby>ってしまい、女は<ruby><rb>徒然</rb><rt>つれづれ</rt></ruby>のあまりに若い同士<ruby><rb>誘</rb><rt>さそ</rt></ruby>い合って、大阪の紡績工場に出て働く習いであったが、もう十年も昔に自分が通って見た頃は、ほとんと三戸に一人ぐらい、<ruby><rb>蒼</rb><rt>あお</rt></ruby>ざめた娘が帰って来てぶらぶらしていた。塵は直接に害をせぬまでも、肺を弱らせて病気に<ruby><rb>罹</rb><rt>かか</rt></ruby>りやすくさせることは疑いが無い。しかも山村から工場へというように、変化が急なればこそ心づくが、こうして只いては五百年千年の昔から、この世は今の通りに埃だらけであったものと考えて、<ruby><rb>辛抱</rb><rt>しんぼう</rt></ruby>する者も多いことであろう。毛布やモスリンの新しい塵が加わっても、やはり昔通りに<ruby><rb>畳</rb><rt>たたみ</rt></ruby>を敷きつめて、その上で綿や<ruby><rb>襤褸</rb><rt>ぼろ</rt></ruby>ぎれをばたばたとさせている。

## 六

しかし埃はもう今になんとか処分せずにはおられぬことになると思う。それよりも一層始末の悪いことは、熱の放散の<ruby><rb>障碍</rb><rt>しょうがい</rt></ruby>である。是は必ずしももう<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れてしまったとも言われぬのは、近い頃までも夏だけはなお麻を用い、木綿といっても多くは<ruby><rb>太物</rb><rt>ふともの</rt></ruby>であり、<ruby><rb>織目</rb><rt>おりめ</rt></ruby>も手織で締まらなかったから、まだ外気との交通が容易であったが、これから後はどうなって行くであろうか。汗は元来乾いて涼しさを与えるために、出るようなしくみになっているものに相違ない。湿気の多い島国の暑中は、裸でいてすらも蒸発はむつかしいのに、目の細かい<ruby><rb>綾織</rb><rt>あやおり</rt></ruby>などでぴたりと体を包み、水分を含ませておく風習などを、どうして我々が<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>る気になったのであろうか。これから南の方へ追々と出て行くと、いずれの島でも日本のような夏で、乾いた北欧の大陸に成長した人々は、大抵は閉口して働けなくなる。その間にあって我々ばかり、以前ならばどうにか<ruby><rb>活溌</rb><rt>かっぱつ</rt></ruby>な生活を続け得たものだが、今のようなあいの子の服装が癖になってしまっては、<ruby><rb>折角</rb><rt>せっかく</rt></ruby>永い年月ゆかしがっていた<ruby><rb>常夏</rb><rt>とこなつ</rt></ruby>の国へ行きながら、<ruby><rb>常</rb><rt>とこ</rt></ruby>しえの夏まけをしなければならぬ結果を見るかも知らぬ。

## 七

政府大臣が推奨する質実剛健の気風とかは、いかなる修養をもって得らるるものか知らぬが、もしそれが条件なしに、木綿以前の日本人の生活に立ち<ruby><rb>還</rb><rt>かえ</rt></ruby>ることを意味するならば、その説は少なくともこの久しい歴史を忘れている。東京の町などでは三十年余り前に、裸体はもとよりはだしまでも禁制した。しかもその当座は<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>がなお用いられて、禁令は単に<ruby><rb>踏抜</rb><rt>ふみぬ</rt></ruby>きを予防するにすぎなかったが、もう今日ではことごとくゴム靴だ。そうでなければゴム底の<ruby><rb>足袋</rb><rt>たび</rt></ruby>をはいている。足袋は全国に数十の工場が立って、年に何千万足を作って売っている。にえかえる水田の中に<ruby><rb>膝頭</rb><rt>ひざがしら</rt></ruby>まで入って、田の草を取る足がだんだんに減少する。たまたま犬の<ruby><rb>一枚革</rb><rt>いちまいがわ</rt></ruby>を背に引かけて車を<ruby><rb>輓</rb><rt>ひ</rt></ruby>き、或いは<ruby><rb>越後</rb><rt>えちご</rt></ruby>からくる薬売の娘のごとく、<ruby><rb>腰裳</rb><rt>こしも</rt></ruby>を高くかかげて<ruby><rb>都大路</rb><rt>みやこおおじ</rt></ruby>を<ruby><rb>闊歩</rb><rt>かっぽ</rt></ruby>する者があっても、是を前後左右から打眺めて、讃歎する者の無いかぎりは、<ruby><rb>畢竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>は過ぎ去った世の珍しい<ruby><rb>名残</rb><rt>なごり</rt></ruby>というに<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>まっている。次の時代の幸福なる新風潮のためには、やはり国民の心理に基づいて、別に新しい考え方をして見ねばならぬ。もっと我々に相応した生活の仕方が、まだ発見せられずに残っているように、思っている者は私たちばかりであろうか。

  


## 何を着ていたか

## 一

<ruby><rb>公家</rb><rt>くげ</rt></ruby>・武家の生活はしばしば政治の表面に<ruby><rb>顕</rb><rt>あら</rt></ruby>われ、歴史として後世に伝わっていることが多いが、それでもまだ幾つもの想像し難い部分がある。多数無名の我々の先祖の、当時としては最も有りふれた毎日の慣習が、ゆかしいとは思ってもほとんとその一端をも知ることができないのは誠に致し方がない。そういう中でも衣と住とは、偶然に絵巻画本の<ruby><rb>隅</rb><rt>すみ</rt></ruby>に写生かと思うようなものが見えるが、筆つきが簡素であるために材料までは確かめることがむつかしく、ただまず形の著しく今日と異なっていることに驚くのみである。百年は必ずしも長い月日ではないが、文化文政の頃の風俗画などの<ruby><rb>町風</rb><rt>まちふう</rt></ruby>を見ても、もう今日との著しい違いが見られる。まして職人<ruby><rb>尽</rb><rt>づく</rt></ruby>しの<ruby><rb>歌合</rb><rt>うたあわせ</rt></ruby>などの絵になると、よくも<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>だけ変った外形の中に、古今を一貫した考え方や物の見方を、保ちつづけたものだと感ぜずにはおられない。物を心で支配する力が、もとは今日よりも強かったのであるか。ただしはまた前代の選択、もしくは自然に供与せられたものが、<ruby><rb>測</rb><rt>はか</rt></ruby>らずも特に幸いなものであったのか。それを明らかにするためには形や製式よりも、どうかして資料の変化を知らなければならぬと思っている。住居は食物と同じに古くから資料は同一で、変化したのはただその利用法だけのように考えられているが、<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>とてもその取合わせは随分とちがうらしい。殊に衣服の方では我々の眼前でも、次々に物が新しくなっているのである。十代十五代前の我々の同胞が、何を着て働きまたは休息していたかということは、まだわからぬというのみで、今あるものでなかったことは<ruby><rb>何人</rb><rt>なんぴと</rt></ruby>も疑っていない。是を果して知る<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>がまったく無いかどうか。そういうことを自分は考えている。<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>直接に是を書いて伝えようとしたものは少ない。しかし日本は地方の事情は<ruby><rb>区々</rb><rt>まちまち</rt></ruby>で、或る土地で<ruby><rb>夙</rb><rt>つと</rt></ruby>に改めてしまったものを、まだ他の土地では<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く残していたという例が幸いにして多い。それを集めてぽつぽつと整理してみたら、いわゆる改良の順序はやや明らかになり、それをまた<ruby><rb>幽</rb><rt>かす</rt></ruby>かに伝わっている上世の記録と比較し照し合わせて、やや確かめることができはしないだろうか。こういった方法を少しずつ<ruby><rb>勧説</rb><rt>かんせつ</rt></ruby>してみたいと私は思っている。是は衣料がこの頃のように、短い期間で変って行く場合にはできない仕事だが、幸いなことには前代の変遷は遅々としており、国人にもまた親々の<ruby><rb>仕来</rb><rt>しきた</rt></ruby>りを、守ろうという念がずっと強かった。そのためにいわゆる開けない世の姿が、なお<ruby><rb>片端</rb><rt>かたはし</rt></ruby>には残っていた。それが今ちょうど消え尽そうとしているのである。

## 二

衣服の<ruby><rb>嗜好</rb><rt>しこう</rt></ruby>はこの二三十年の間に、我々の目前においても著しく変った。普通人の生活で言えば、手織物と称する<ruby><rb>不細工</rb><rt>ぶさいく</rt></ruby>でしかも丈夫な織物は、都会ではほとんと影を<ruby><rb>斂</rb><rt>おさ</rt></ruby>めて、いわゆる紡績の糸で織ったつやのある木綿ばかりが、<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>へまでも行き渡っている。是は国内の各地方に棉の栽培が衰えたために、<ruby><rb>糸紡</rb><rt>いとつむ</rt></ruby>ぎや<ruby><rb>綿繰</rb><rt>わたく</rt></ruby>りが、もう尋常農家の手業でなくなった結果である。

しかもこのもめん綿というものそれ自身、我邦における歴史は短いのである。千年の昔、<ruby><rb>崑崙</rb><rt>こんろん</rt></ruby>人の船が<ruby><rb>三河</rb><rt>みかわ</rt></ruby>の海岸に漂着した時に、その船の中には棉の種子があったということが、歴史の上には見えているけれども、その時の棉はまだ広く全国には普及しなかったようで、実際に各地で栽培が始まったのは三百年、南蛮との交通よりも早いとは考えられない。そうしてこの頃すでに日本の人口は二千万近くもあったらしいのである。その中の一少部分は資力があった、<ruby><rb>真綿</rb><rt>まわた</rt></ruby>を入れた絹の<ruby><rb>小袖</rb><rt>こそで</rt></ruby>も着たことであろうが、この絹もまた古くから我邦にあったとはいいながら、その生産高は今日の輸出時代に<ruby><rb>比</rb><rt>くら</rt></ruby>べると知れたもので、多分は百分の一にも届かなかったと思う。現に江戸初期の長崎貿易は、主として<ruby><rb>支那</rb><rt>シナ</rt></ruby>からの絹糸の買入れを目あてとしていたくらいで、かの<ruby><rb>土井大炊頭</rb><rt>どいおおいのかみ</rt></ruby>の<ruby><rb>糸屑</rb><rt>いとくず</rt></ruby>の逸話が、<ruby><rb>読本</rb><rt>よみほん</rt></ruby>にも<ruby><rb>載</rb><rt>の</rt></ruby>っていて女たちもよく知っている。その上にまた絹のいずれの点から見ても、決して働く人々の着物の<ruby><rb>料</rb><rt>りょう</rt></ruby>とするには適しなかったのである。

<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>らば多くの日本人は何を着たかといえば、<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>主たる材料は麻であった。麻は明治の初年までは、それでもまだ広く<ruby><rb>栽</rb><rt>う</rt></ruby>えられていた。その<ruby><rb>作付反別</rb><rt>さくづけたんべつ</rt></ruby>が追々と縮小の一途を<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>っていたことを、世人は木綿ほどに注意していなかったのである。都会の住民は夏も木綿の単衣を着て、年中まったく麻を用いない者が増加するのであるが、それでも地方には未だ相応にこれを着ていたのだったということが、気をつけているとやや<ruby><rb>判</rb><rt>わか</rt></ruby>ってくる。

<ruby><rb>先頃</rb><rt>さきごろ</rt></ruby>熊本県の九州製紙会社を見に行ったときに、私は紙の原料の供給地を尋ね試みたことがある。<ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>だけは勿論この附近の農村一帯から集めてくるが、<ruby><rb>古襤褸</rb><rt>ふるぼろ</rt></ruby>の多量は大阪を経由し、殊に<ruby><rb>古麻布</rb><rt>ふるあさぬの</rt></ruby>を主として東北の寒い地方から、<ruby><rb>仰</rb><rt>あお</rt></ruby>いでいるというのが意外であった。奥羽でこれほどまで麻布の消費があろうとは思っていなかったのであるが、だんだん聴いてみるとこの方面では、一般に冬でも麻の着物を着ていたのである。寒国には木綿は作れないから、一方には多量の<ruby><rb>木綿古着</rb><rt>もめんふるぎ</rt></ruby>を関西から輸入して、<ruby><rb>不断着</rb><rt>ふだんぎ</rt></ruby>にも用いているが、冬はかえってその上へ麻の半てんを<ruby><rb>引掛</rb><rt>ひっか</rt></ruby>ける<ruby><rb>風</rb><rt>ふう</rt></ruby>があるということを、私は九州に行って学んだのである。麻布は<ruby><rb>肌着</rb><rt>はだぎ</rt></ruby>に冷たく当って、防寒の用には適せぬように思われるが、細かい雪の降る土地では、水気の<ruby><rb>浸</rb><rt>し</rt></ruby>みやすい木綿を着るのはなお不便だから、いわば我々の雨外套のかわりに、麻布を着て雪を払っているのであった。

## 三

けれども近頃は次第にその麻布が少なくなり、したがって得にくくまた高くなったということである。そのかわりに木綿布の<ruby><rb>古切</rb><rt>ふるぎ</rt></ruby>れを何枚も合わせて、それを<ruby><rb>雑巾</rb><rt>ぞうきん</rt></ruby>よりも細かく堅く刺して、麻布のかわりに<ruby><rb>上覆</rb><rt>うわおお</rt></ruby>いに着ていると見えて、私も<ruby><rb>羽後</rb><rt>うご</rt></ruby>の<ruby><rb>由利</rb><rt>ゆり</rt></ruby>郡の山村をあるいた時に、小学校の生徒がみなこの木綿のアツシを着ているのを見たことがある。もとはこの上着の原料が、着古した麻布を刺したものであったのであろう。

我々は麻布といえば<ruby><rb>一反</rb><rt>いったん</rt></ruby>二十円もするような<ruby><rb>上布</rb><rt>じょうふ</rt></ruby>のことをしか思い浮かべないが、<ruby><rb>貢物</rb><rt>みつぎもの</rt></ruby>や商品になったのはそういう上布であっても、東北などの冬の<ruby><rb>不断着</rb><rt>ふだんぎ</rt></ruby>は始めから、そのような<ruby><rb>華奢</rb><rt>きゃしゃ</rt></ruby>なものではなかった。精巧な少量のものは専ら売るために織り、めいめいの着ているのは太い重い、<ruby><rb>蚊帳</rb><rt>かや</rt></ruby>だの畳の<ruby><rb>縁</rb><rt>へり</rt></ruby>だのに使うのと近い、至って<ruby><rb>頑丈</rb><rt>がんじょう</rt></ruby>なもので、<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>が普通にいうヌノであった。木綿は織ったものもモメン、糸も<ruby><rb>此方</rb><rt>こちら</rt></ruby>はカナと<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>って、是をイトとは謂わなかった。つまり麻だけが普通の布でありまた糸であったのである。かの『万葉』の、

あさ<ruby><rb>衣</rb><rt>ごろも</rt></ruby>きればなつかし<ruby><rb>紀</rb><rt>き</rt></ruby>の<ruby><rb>国</rb><rt>くに</rt></ruby>の<ruby><rb>妹</rb><rt>いも</rt></ruby>せの山に麻まく<ruby><rb>吾妹</rb><rt>わぎも</rt></ruby>

という歌なども、旅の空にいる人がこの布を着るにつけて、故郷の山里で麻を作っている家の者を<ruby><rb>想</rb><rt>おも</rt></ruby>い出したという感動が<ruby><rb>咏歎</rb><rt>えいたん</rt></ruby>せられたもので、一方には麻の工作が一般に、<ruby><rb>播種</rb><rt>はしゅ</rt></ruby>の時からすでに女の労働であったことを意味するとともに、麻衣という所から推測してまだこの以外に、別に何らかの衣服原料が存在していたということを、この一首の歌からも考えさせられるのである。

かつて<ruby><rb>土佐</rb><rt>とさ</rt></ruby>から<ruby><rb>阿波</rb><rt>あわ</rt></ruby>への山村を旅行していた際に、私はこの地方で<ruby><rb>麁麻布</rb><rt>あらあさぬの</rt></ruby>の着用が東国よりも遥かに盛んであることに注意して、人にこの茶色に染めた布を何と謂うかを尋ねてみたが、一般に今は是をタフというようであった。<ruby><rb>肥後</rb><rt>ひご</rt></ruby>の<ruby><rb>五箇庄</rb><rt>ごかのしょう</rt></ruby>と並んで、山中の隠れ里として有名であった<ruby><rb>阿波</rb><rt>あわ</rt></ruby>の<ruby><rb>祖谷山</rb><rt>いややま</rt></ruby>などは、小民の家はみな竹の<ruby><rb>簀</rb><rt>す</rt></ruby>の<ruby><rb>子</rb><rt>こ</rt></ruby>で、あの頃はまだ夏冬を通して、このタフを着て住んでいるという話であった。タフは「太布」と書く人もあるが、実は今日まだ正確に<ruby><rb>宛</rb><rt>あ</rt></ruby>つべき漢字が知られていない。だが自分だけはおそらく<ruby><rb>栲衾</rb><rt>たくぶすま</rt></ruby>の栲であろうと思っている。タクは昔の言葉では麻でない別の衣料であった。植物の皮の繊維から作ることは麻と同じでも、栲は他の一つの木の種類であったと思う。<ruby><rb>弘化</rb><rt>こうか</rt></ruby>年間に出来た『<ruby><rb>駿河</rb><rt>するが</rt></ruby>国<ruby><rb>新風土記</rb><rt>しんふどき</rt></ruby>』には、府中すなわち今の静岡市の物産の中に栲布というものがあって、是は「<ruby><rb>安倍</rb><rt>あべ</rt></ruby>山中にて織出し、<ruby><rb>楮</rb><rt>こうぞ</rt></ruby>の皮を<ruby><rb>以</rb><rt>もっ</rt></ruby>て糸として織るものなり、又<ruby><rb>藤</rb><rt>ふじ</rt></ruby>を以て織るものもあり」と書いてある。右の栲布が果してタクと<ruby><rb>訓</rb><rt>よ</rt></ruby>んだか、または<ruby><rb>爰</rb><rt>ここ</rt></ruby>でもタフと謂っていたかは確かでないが、少なくとも木綿および麻の以外に、繊維をもって衣服を織る例が、この頃この辺にもあったことだけは是で明らかである。

## 四

<ruby><rb>藤蔓</rb><rt>ふじづる</rt></ruby>の皮で布を織って常服とすることは、山村一般の生活技術であった。その二三の例を挙げるならば、同じ駿河国の<ruby><rb>志太</rb><rt>しだ</rt></ruby>郡東川根村大字梅地あたりでは、藤布を織って木綿古着の上に着るということが、『駿河<ruby><rb>志料</rb><rt>しりょう</rt></ruby>』にも見えている。その外<ruby><rb>安倍川</rb><rt>あべかわ</rt></ruby>や<ruby><rb>藁科川</rb><rt>わらしながわ</rt></ruby>の上流の村々では、一般にこの藤布が用いられていた。また<ruby><rb>大和</rb><rt>やまと</rt></ruby>の<ruby><rb>十津川</rb><rt>とつがわ</rt></ruby>でも、麻を作ることが困難で、藤で織ったあらあらしい布を着ていたと、吉田<ruby><rb>桃樹</rb><rt>とうじゅ</rt></ruby>の天明八年の紀行、『<ruby><rb>槃遊余録</rb><rt>はんゆうよろく</rt></ruby>』には見えている。山口県の<ruby><rb>玖珂</rb><rt>くが</rt></ruby>郡秋中村大字<ruby><rb>秋掛</rb><rt>あきがけ</rt></ruby>などでも、「藤を打砕いて糸の如く<ruby><rb>紡</rb><rt>つむ</rt></ruby>ぎ布に織り、<ruby><rb>股引</rb><rt>ももひき</rt></ruby>等に<ruby><rb>相用</rb><rt>あいもち</rt></ruby>ゐ<ruby><rb>候事</rb><rt>そうろうこと</rt></ruby>」と、『<ruby><rb>周防風土記</rb><rt>すおうふどき</rt></ruby>』には記している。また『<ruby><rb>伯耆志</rb><rt>ほうきし</rt></ruby>』には<ruby><rb>西伯</rb><rt>さいはく</rt></ruby>郡<ruby><rb>東長田</rb><rt>ひがしながた</rt></ruby>村その他の山村の産物に、藤布というのを掲げている。文化四年に成った『北遊記』には、今の福島県の<ruby><rb>平</rb><rt>たいら</rt></ruby>と湯本との中間でも、藤布を織って産業にしている者がいたとある。是は衣服の原料としてではなく、おもに畳の<ruby><rb>縁</rb><rt>へり</rt></ruby>にするために供給していたものであった。春中の女の仕事で、その製法は藤の皮を<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>ぎ、水に浸すこと四五日の後、<ruby><rb>堅木</rb><rt>かたぎ</rt></ruby>の灰を加えて<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く煮て、川に出して<ruby><rb>晒</rb><rt>さら</rt></ruby>し且つ<ruby><rb>扱</rb><rt>こ</rt></ruby>くことは、麻の通りであるとも述べてある。

フヂは元来<ruby><rb>葛類</rb><rt>かずらるい</rt></ruby>全体の総称であって、必ずしも紫の花を垂れて咲く藤一種には限っていなかった。人も知るごとく河内の葛井寺はフヂヰデラと読んでいる。昔の藤布の中には紫の藤でなく、たとえば貴人の<ruby><rb>喪服</rb><rt>もふく</rt></ruby>にも用いられたという<ruby><rb>藤衣</rb><rt>ふじごろも</rt></ruby>などは、或いはまた別種の葛の繊維をもって織ったものだったかも知れない。『北越雑記』を見ると、<ruby><rb>北蒲原</rb><rt>きたかんばら</rt></ruby>郡の<ruby><rb>加地庄</rb><rt>かじのしょう</rt></ruby>の辺で藤布というのはすべてクズ、すなわち秋になって<ruby><rb>深紅</rb><rt>しんく</rt></ruby>の花を開く<ruby><rb>葛</rb><rt>くず</rt></ruby>の皮で製したもので、主として<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>かみしもなどの用に製して販売していた。<ruby><rb>蹴鞠</rb><rt>けまり</rt></ruby>の遊びの時にはく袴は必ずこの<ruby><rb>葛布</rb><rt>くずふ</rt></ruby>の袴で、その供給地として昔から有名だったのは、遠州の<ruby><rb>掛川</rb><rt>かけがわ</rt></ruby>地方であった。今でもから<ruby><rb>紙</rb><rt>かみ</rt></ruby>、<ruby><rb>障子</rb><rt>しょうじ</rt></ruby>や<ruby><rb>屏風</rb><rt>びょうぶ</rt></ruby>の装飾には、是を使ったものが幾らも見られるけれども、衣服の材料としては次第に用いなくなって来たのである。

## 五

自分は植物の事には至って<ruby><rb>疎</rb><rt>うと</rt></ruby>いが、シナという木の皮でもまた布を作ることがあるのを知っている。シナは東北では普通にマダの木と<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>い、是で織った粗布をマダヌノと呼んでいる。『<ruby><rb>蝦夷</rb><rt>えぞ</rt></ruby>産業図説』には、アイヌがオヒョウまたはアツという木の皮で、アツトシというものを作って着るのは、奥州の民家でこのシナの木の皮を採ってシナタフを織り、農業その他の力わざをするときに着用するのと同じく、彼はすなわちこの<ruby><rb>風</rb><rt>ふう</rt></ruby>を伝えたものだろうと謂っている。信州の山村で穀物を入れる袋に、葛布のような太く<ruby><rb>麁</rb><rt>あら</rt></ruby>い布を織って、<ruby><rb>棕櫚</rb><rt>しゅろ</rt></ruby>のような赤黒い色をした袋を製して用いているのは、原料はこのシナの木の皮であり、他国には例の無いことだと、『<ruby><rb>舳艫訓</rb><rt>じくろくん</rt></ruby>』という書に記したのはまだ心もとないが、米を入れる袋は他の土地でもシナ袋と謂う者があり、名の起こりはその材料にする木の名からで、『<ruby><rb>延喜式</rb><rt>えんぎしき</rt></ruby>』の貢物中に名の見える<ruby><rb>信濃布</rb><rt>しなのぬの</rt></ruby>なども、やはりこの布であったろうという同書の説は傾聴する値がある。「榀」とも「級」とも漢字には書いているが、シナは要するにこの樹皮が<ruby><rb>強靱</rb><rt>きょうじん</rt></ruby>で且つしなやかであるがための名で、信濃という国名もまた是に基づいているという説も古くからあった。その信州ではもはや是を衣服には供しなかったようにいうが、近年まで<ruby><rb>木曾</rb><rt>きそ</rt></ruby>の福島に問屋があって、盛んに関西地方に送り出していたタフなるものも、たとえ今日ではいわゆる木曾の麻衣だけに限られているとしても、少なくとも名の起こりはかつてそれ以外の植物繊維を織ったものがあったためで、是もまた袋や<ruby><rb>風呂敷</rb><rt>ふろしき</rt></ruby>類ばかりに限られていなかった時代があることを、推測せしむるに足るかと思う。

現に同じ地方でイラというものの糸を、衣服の材料に供していたことが、文化年間に出た『信濃奇勝録』には述べられている。イラは「いぬからむし」、「蕁麻」とも書いて、山野に野生する植物であった。この頃人のよく言うラミーとは同属である。秋の彼岸の後に刈り取って、麻と同じように皮を<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>ぎ糸に引くので、木曾では<ruby><rb>秋分</rb><rt>しゅうぶん</rt></ruby>前には山の神の<ruby><rb>祟</rb><rt>たたり</rt></ruby>があるからと謂って採りに行かなかった。同じ草が木曾の山村のみならず、信州の北隅<ruby><rb>越後境</rb><rt>えちござかい</rt></ruby>の、非常な山奥の秋山という村でも、もとはやはり唯一の衣料であった。秋山ではイラというかわりにオロと謂っていて、主として<ruby><rb>袖</rb><rt>そで</rt></ruby>なし半てんのようなものをこのオロで<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>え、冬は古着の上に、夏は裸にもこれを着たということである。『<ruby><rb>北越雪譜</rb><rt>ほくえつせっぷ</rt></ruby>』の秋山の条を見ると、この山村には夜具を持っている家はただの二軒であった。その夜具というのもオロをもって織った布で、綿にもオロの<ruby><rb>屑</rb><rt>くず</rt></ruby>を入れ、しかも客人にばかり出して着せる。家の人々は<ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>の<ruby><rb>叺</rb><rt>かます</rt></ruby>の中に入って<ruby><rb>炉</rb><rt>ろ</rt></ruby>の<ruby><rb>傍</rb><rt>かたわら</rt></ruby>に寝るのだと謂って、ちゃんとその様子が絵にかいて載せてある。

## 六

タフが決して麻布だけの名でないことは、以上の事実だけでもほぼ明らかであるが、まだ別方面の証拠も幾つかある。阿波の<ruby><rb>三好</rb><rt>みよし</rt></ruby>・<ruby><rb>美馬</rb><rt>みま</rt></ruby>・<ruby><rb>海部</rb><rt>かいふ</rt></ruby>等の諸郡では、山村<ruby><rb>到</rb><rt>いた</rt></ruby>る処にタフを生産する。是は<ruby><rb>穀</rb><rt>かじ</rt></ruby>の木の皮または葛や藤の皮を織った<ruby><rb>麁布</rb><rt>あらぬの</rt></ruby>であると、『<ruby><rb>阿波志</rb><rt>あわし</rt></ruby>』という書には記している。

あらたへの藤江の浦にいさりする<ruby><rb>海人</rb><rt>あま</rt></ruby>とか見らん旅行く我を

という古い歌があるのを見れば、上古の言葉で「和布」「麁布」と書いたニギタヘ・アラタヘの麁布も、フヂで作ったものだったということが<ruby><rb>判</rb><rt>わか</rt></ruby>る。或いはまた「<ruby><rb>栲衾</rb><rt>たくぶすま</rt></ruby><ruby><rb>新羅</rb><rt>しらぎ</rt></ruby>の国」などとも謂って、白いという<ruby><rb>枕詞</rb><rt>まくらことば</rt></ruby>にこのタクの<ruby><rb>衾</rb><rt>ふすま</rt></ruby>を用いていたのを見ると、是はおそらくは染めずに着たもので、今日謂うところの<ruby><rb>生麻</rb><rt>きあさ</rt></ruby>などと同じく、繊維の性質がもと染物とするには適しなかったものと思われる。

或いはまた「神代巻」の<ruby><rb>須勢理姫命</rb><rt>すせりひめのみこと</rt></ruby>の御歌にも、「むしぶすま<ruby><rb>柔</rb><rt>にこ</rt></ruby>やが下に、たくぶすまさやぐが下に」ともあって、ムシの衾が肌に柔かに当る寝具であるに対して、このタクの衾の方はがさがさとした、今で言えば<ruby><rb>糊</rb><rt>のり</rt></ruby>のこわい木綿夜具、またはさらに以上のものであったらしい。しかしこれと比べて柔かいなと言われたムシブスマとても、<ruby><rb>蕁麻</rb><rt>いらくさ</rt></ruby>で製したとすれば相応にこわ張ったものであった。それよりももう一層粗いというのだから、いかに上古の<ruby><rb>上﨟</rb><rt>じょうろう</rt></ruby>の生活が、柔弱ということの反対であったかもわかる。是でこそ我々の遠祖の<ruby><rb>肌膚</rb><rt>はだ</rt></ruby>が丈夫で、<ruby><rb>風邪</rb><rt>かぜ</rt></ruby>などいうものを知らなかった原因も突き止められるのである。

## 七

昔の人が寒暑につけて、天然に対する抵抗力の強かったことは、とうてい<ruby><rb>今人</rb><rt>こんじん</rt></ruby>の想像の及ばぬところであるから、<ruby><rb>素肌</rb><rt>すはだ</rt></ruby>に麻を着て厳冬を過したとしても不思議はないが、これ以外に多分は獣皮なども取り添えられたことと思う。また麻衣や藤衣を何枚も重ねて着たでもあろう。いわゆる<ruby><rb>布子</rb><rt>ぬのこ</rt></ruby>としては信州秋山の例のように、これらの繊維の<ruby><rb>屑</rb><rt>くず</rt></ruby>を綿のようにほごして中に入れたろうと思うことは、今でも麻の屑をヲグソと謂って、それに使っているのからも想像せられる。秋田県などでユブシマすなわち<ruby><rb>夜衾</rb><rt>よぶすま</rt></ruby>というものが稀にまだ残っているが、是には表を藤布として、中の綿を麻の屑にしたものがあった。或いは<ruby><rb>支那</rb><rt>シナ</rt></ruby>で<ruby><rb>閔子騫</rb><rt>びんしけん</rt></ruby>が、<ruby><rb>継母</rb><rt>ままはは</rt></ruby>に憎まれて着せられたというような、<ruby><rb>葦</rb><rt>あし</rt></ruby>の<ruby><rb>穂綿</rb><rt>ほわた</rt></ruby>なども使われていたろうかと思うが、少なくとも木綿の綿はまるで無く、<ruby><rb>筑紫綿</rb><rt>つくしわた</rt></ruby>とも言わるる絹の<ruby><rb>真綿</rb><rt>まわた</rt></ruby>は、<ruby><rb>常人</rb><rt>じょうじん</rt></ruby>の家では企て望み難いものであった。

藤葛または「いぬからむし」などのほかに、なお衣服の原料であったかと思われるのは<ruby><rb>楮</rb><rt>こうぞ</rt></ruby>である。『阿波志』にタフの原料として<ruby><rb>穀</rb><rt>かじ</rt></ruby>の皮を用いたというカヂも、今のヒメカウゾか、そうでなくともこの属の一種であったろうと思う。是は我々の最も注意すべき点で、阿波という国は関東地方に向かって、穀の木の普及を<ruby><rb>図</rb><rt>はか</rt></ruby>りたまうと伝えられる<ruby><rb>天日鷲命</rb><rt>あめのひわしのみこと</rt></ruby>の本国であって、現に千葉県の安房もその阿波の古代植民地であったが故に、国の名を同じうするのであろうという説があり、また『<ruby><rb>古語拾遺</rb><rt>こごしゅうい</rt></ruby>』によれば、その天日鷲命が東国経営の際に、穀の木を<ruby><rb>栽</rb><rt>う</rt></ruby>えられた地方が今の<ruby><rb>下総</rb><rt>しもうさ</rt></ruby>の<ruby><rb>結城</rb><rt>ゆうき</rt></ruby>であったとも言われている。結城のユフは一種麻以外の繊維料で、それは穀のことだということが古く認められていたのである。楮はカゾともまたカミソとも謂う地方があって、現在は紙の原料としてのみ知られているが、以前は少なくてもその一種に、是を糸に紡いで布に織り用いたものがあったのである。ユフの使用は今日は神祭に限られ、それも代品ばかりで何が本当のユフだとも知れぬようになっているが、我々の祖先の思想としては、神に供えるのは各人常用の必要品の中でも優等なものを選ばなければならぬのであったから、すなわちまたユフと<ruby><rb>訓</rb><rt>よ</rt></ruby>まれた昔の木綿が、今のモメンの木綿と同様に、衣服の資料であったこともほぼ明らかなのである。

楮は今日でも<ruby><rb>林木</rb><rt>りんぼく</rt></ruby>と<ruby><rb>畠作物</rb><rt>はたさくもつ</rt></ruby>との中間の、いわば半栽培品の状態にあるが、以前も<ruby><rb>苑地</rb><rt>えんち</rt></ruby>に<ruby><rb>栽</rb><rt>う</rt></ruby>えるまでの必要はなくても、やはり自由に採取のできるほど山野に充満してはいなかったために、その生産地は多少これを注意し且つ保護していたらしく思われる。下総の結城を筆頭にして、ユフの産地を意味する地名は、国の東西に分布している。たとえば大分県の別府温泉の西に<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>え立った<ruby><rb>由布岳</rb><rt>ゆふだけ</rt></ruby>は、『<ruby><rb>豊後風土記</rb><rt>ぶんごふどき</rt></ruby>』の逸文にも、ユフの採取地である故にこの名が付いたと記している。今日の村の名または<ruby><rb>大字</rb><rt>おおあざ</rt></ruby>の名に、<ruby><rb>湯本</rb><rt>ゆもと</rt></ruby>・<ruby><rb>由</rb><rt>ゆ</rt></ruby>ノ<ruby><rb>木</rb><rt>き</rt></ruby>等の非常に多いのも、以前はユフの採取地として保護していた山野が、後に麻の畠作が進むとともに不用になり、開いて普通の村落田園としたことを意味するので、近くは<ruby><rb>武蔵</rb><rt>むさし</rt></ruby>の一国だけにも、自分はその十数カ所を列挙することができる。しかも是が東北の方へ行くほど少なくなるのは、やはりまた気候の制限があって、<ruby><rb>夙</rb><rt>はや</rt></ruby>くからフヂやマダやイラ草の類を、是に代用した結果ではないかと考える。

<ruby><rb>小山田与清</rb><rt>おやまだともきよ</rt></ruby>は近代の博学であるが、その著『<ruby><rb>松屋筆記</rb><rt>まつのやひっき</rt></ruby>』の中には、武蔵<ruby><rb>南多摩</rb><rt>みなみたま</rt></ruby>郡の<ruby><rb>由木</rb><rt>ゆぎ</rt></ruby>村の地名を解釈して、<ruby><rb>弓削</rb><rt>ゆげ</rt></ruby>氏の植民地であったかと謂っているのは、なお西国の山村に<ruby><rb>柚木</rb><rt>ゆのき</rt></ruby>・<ruby><rb>油谷</rb><rt>ゆや</rt></ruby>・柚園等の地名が無数に有ることを気づかなかった誤りである。柚園の園はもとは屋敷附属の<ruby><rb>圃場</rb><rt>ほじょう</rt></ruby>のことだが、九州南部ではソンまたはソと謂って、単なる独立の<ruby><rb>山畠</rb><rt>やまはた</rt></ruby>をもそう呼んでいる。とにかくに是だけは自然のものを採取するのでなく、土地を<ruby><rb>拓</rb><rt>ひら</rt></ruby>いて特に穀の木を栽培していた例である。『<ruby><rb>千載集</rb><rt>せんざいしゅう</rt></ruby>』の<ruby><rb>神祇部</rb><rt>じんぎぶ</rt></ruby>に、<ruby><rb>久寿</rb><rt>きゅうじゅ</rt></ruby>二年の<ruby><rb>大嘗会</rb><rt>だいじょうえ</rt></ruby>の風俗歌に、<ruby><rb>悠紀方</rb><rt>ゆきがた</rt></ruby>として詠進した歌は、<ruby><rb>近江</rb><rt>おうみ</rt></ruby>の<ruby><rb>木綿園</rb><rt>ゆふぞの</rt></ruby>を地名として詠じている。是などもまたこの時代以前に、あの地方にもユフを園に作っていた生活があったことを示すもので、麻が唯一の平民衣料となったのは、中央部においてもそう古くからのことではないのである。

  


## 昔風と当世風

## 一

この話題はそれ自身がいかにも昔風だ。平凡に話そうとすれば幾らでも平凡に話される題目である。聴かぬ前から<ruby><rb>欠伸</rb><rt>あくび</rt></ruby>をしてもいいお話である。人間に嫁だの<ruby><rb>姑</rb><rt>しゅうと</rt></ruby>だのというものの無かった時代から、または<ruby><rb>御隠居</rb><rt>ごいんきょ</rt></ruby>・<ruby><rb>若旦那</rb><rt>わかだんな</rt></ruby>などという国語の発生しなかった頃から、既に二つの生活趣味は両々相対立し、互いに相手を許さなかったのである。先年日本に来られた英国のセイス老教授から自分は聴いた。かつて<ruby><rb>埃及</rb><rt>エジプト</rt></ruby>の古跡発掘において、中期王朝の一書役の手録が出てきた。今からざっと四千年前とかのものである。その一節を訳してみると、こんな意味のことが書いてあった。<ruby><rb>曰</rb><rt>いわ</rt></ruby>くこの頃の若い者は才智にまかせて、<ruby><rb>軽佻</rb><rt>けいちょう</rt></ruby>の風を<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>び、古人の質実剛健なる流儀を、ないがしろにするのは<ruby><rb>歎</rb><rt>なげ</rt></ruby>かわしいことだ云々と、<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>と全然同じ事を四千年後の先輩もまだ言っているのである。

日本などにも<ruby><rb>世道澆季</rb><rt>せどうぎょうき</rt></ruby>を説く人は昔からあった。<ruby><rb>正法末世</rb><rt>しょうぼうまっせ</rt></ruby>という歎きの声は、数百年間の文芸に繰返されている。『<ruby><rb>徒然草</rb><rt>つれづれぐさ</rt></ruby>』の著者の見た京都は、すでに荒々しく下品な退化であった。『古今集』の序文にも「今の世の中、色につき、人の心花になりにけるより云々」と書いてある。『<ruby><rb>古語拾遺</rb><rt>こごしゅうい</rt></ruby>』の著者などはそれよりまたずっと昔において、既に平安京初期の文化を悪評しているのである。老人が静かに追憶の中に老い去ろうとする際に、殊に周囲の社会生活の変化が目につくというだけのことで、彼らの知っている昔は、取り返すことのできぬ大切なものである故にさらに美しく思われ、たった一つしか無いものである故に一段と貴重に考えられるということは同情してよいが、変らなかった世の中というものはかつて無く、新と旧とは常に対立して比較せられるのである。故に今頃またそんな例を陳列して見たところが、おかしくもないことは知れている。私は忙しい人間だから頼まれてもそういう話はしない。

我々が<ruby><rb>爰</rb><rt>ここ</rt></ruby>で語り<ruby><rb>且</rb><rt>か</rt></ruby>つ考えてみようとするのは、当世にいわゆる生活改善、すなわち生活方法の計画ある変更に、はたしてどのくらいまで新し味があり、またこの時代の<ruby><rb>尚古</rb><rt>しょうこ</rt></ruby>趣味、ないしはあらゆる改革に対して不安を抱こうとする階級の批判に<ruby><rb>拮抗</rb><rt>きっこう</rt></ruby>して、はたしてどの程度にまで現代日本の文化を価値づけることができるかという問題である。是は確かに今日のような集会において、皆さまのような団体の考えてみてもよい題目であり、また新聞に<ruby><rb>携</rb><rt>たずさ</rt></ruby>わっている私らのような者の口から、一度はとくと聴いておかれてもよい話であると思う。

## 二

いつの世においても、新たに起こった風習に対する反動派の批評は、大体において二種類に<ruby><rb>別</rb><rt>わか</rt></ruby>つことができるようである。その一つは自分らが名づけて<ruby><rb>三省録型</rb><rt>さんせいろくがた</rt></ruby>と<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>おうとするもの、すなわち江戸期に最も有力であった節倹という社会道徳律に基づいたものである。現在もまだこれを承認する者はなかなか多いが、しかもその尺度はいつの間にか非常に違っている。例えば絹布使用の禁制のごときは、かつては罪として罰せられた時代もあった。それはまだよいとして、米の消費の制限のごときさえ、或る場合には法令をもって強制したことがあったが、それは<ruby><rb>最早</rb><rt>もはや</rt></ruby>みな昔の歴史であって、今日はこれを<ruby><rb>甘</rb><rt>あま</rt></ruby>なう者がようやく少なくなった。すなわち知らぬ間にこの規制は、新旧の妥協をもって改訂しているのである。

第二は一言にして申せば審美学的ともいうべきもの、すなわち趣味の低下を慨歎する観察であって、むしろ前者とは正反対の側に立とうとするものである。この両面からの攻撃はかなり痛くまた強いものであるが、しかも今日の生活改善論者のごときは、かえって勇敢且つ積極的に、右二種の武器を逆に利用して、昔風の必ず変更せざるべからざる理由を主張しようとするのである。これいわゆる<ruby><rb>追風</rb><rt>おいて</rt></ruby>に<ruby><rb>帆</rb><rt>ほ</rt></ruby>を<ruby><rb>懸</rb><rt>か</rt></ruby>け、流を下るにモーターを使うがごときもので、是ではもはや相手方に口をきかせる余地もなく、その功を収むるの<ruby><rb>易々</rb><rt>いい</rt></ruby>たるは当然のように思われる。趣味からいっても今の方がいい。経済から見ても<ruby><rb>此方</rb><rt>こちら</rt></ruby>が有利とすれば、この上に昔風論者の反対する根拠は無いわけだからである。

ところで実際の成績はどうかというと、それが必ずしも理論通りではないのであった。諸種の考案は競い進み、甲乙流行の変化ばかりが<ruby><rb>烈</rb><rt>はげ</rt></ruby>しく、都市生活は是がために最も乱雑となった。例えば衣服一つだけについて見ても、汽車や電車の<ruby><rb>乗合</rb><rt>のりあい</rt></ruby>、その他若干の人の集りに行けば、髪から<ruby><rb>履物</rb><rt>はきもの</rt></ruby>から帯から<ruby><rb>上衣</rb><rt>うわぎ</rt></ruby>まで、ほとんと目録を作ることも不可能なる種類がある。<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>是も面白い世の中といえば言える。いわゆる二重三重生活は我々の単調なる存在から、退屈という<ruby><rb>畏</rb><rt>おそ</rt></ruby>ろしい悪魔を追い<ruby><rb>攘</rb><rt>はら</rt></ruby>う効力はある。しかしながら少なくともこの無定見は、同朋多数の国民を平和静穏の世界に導いて行く道ではない。全体において今日の生活改善運動は、その志の概して<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>なるにかかわらず、単に物ずきだ、勝手気ままの空想だという、冷酷なる批評を外部から受けている。是はどういうわけであるか。この批評がはたして不当不親切なものであるか否か。まずもって<ruby><rb>爰</rb><rt>ここ</rt></ruby>にはそれを判決するだけの資格のある者が入用なので、そうして私は深く本日の聴衆に期待するのである。

今もし世のいわゆる有識階級、すなわち智徳の若干に加うるに、新たな考案方法を試みるだけの機会なり資力なりをもってした人々が、自分たちの生活を標準として何か目新しい衣食住の<ruby><rb>模様替</rb><rt>もようが</rt></ruby>えを工夫し、それが他の一万人中の九千九百人に、適用し得るかどうかを測量することを<ruby><rb>怠</rb><rt>おこた</rt></ruby>っていたとしたら<ruby><rb>如何</rb><rt>いかが</rt></ruby>であろうか。仮に朝晩口に任せて、<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>う人ごとに同じ<ruby><rb>能書</rb><rt>のうが</rt></ruby>きを繰返してまわったとしても、結局それは時代の変遷とは何の交渉も無しに終るかも知れぬ。それというのが一番<ruby><rb>肝要</rb><rt>かんよう</rt></ruby>な一点において、流通性を欠いているからである。<ruby><rb>支那</rb><rt>シナ</rt></ruby>の歴史の中で、<ruby><rb>東晋</rb><rt>とうしん</rt></ruby>の<ruby><rb>恵帝</rb><rt>けいてい</rt></ruby>は古今独歩の<ruby><rb>闇君</rb><rt>あんくん</rt></ruby>と認められているが、或る年天下大いに飢え、万民<ruby><rb>穀</rb><rt>こく</rt></ruby><ruby><rb>乏</rb><rt>とぼ</rt></ruby>しと<ruby><rb>侍臣</rb><rt>じしん</rt></ruby>が奏上した時に、そうか米が無いか、そんならシチュウでも食うことにすればよいのに（何ぞ<ruby><rb>肉糜</rb><rt>にくび</rt></ruby>を<ruby><rb>食</rb><rt>くら</rt></ruby>はざる）と<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>ったそうである。がいずれの時代にも、失礼ながら婦人には常に少しずつ、右申す晋の恵帝流があった様子である。

善人ではあるが世の中のことは考えないという人がある。<ruby><rb>元</rb><rt>もと</rt></ruby>はそれでもよかった。それでも良い奥さんであった。また外からもこれを当り前と認めていた。しかし今日のごとく、男子の多くがまだ<ruby><rb>公</rb><rt>おおやけ</rt></ruby>を<ruby><rb>患</rb><rt>うれ</rt></ruby>うるの余裕なく、純然たる個人生活に没頭して生きねばならぬという世の中になると、我々はどうしても天下万人のためにも、<ruby><rb>弘</rb><rt>ひろ</rt></ruby>く考え得る良妻賢母を要求せねばならなくなる。最近数十年間の新しい改良意見には、いかにも女性でなくてはと思うようなやさしい考案も多かった。しかもその大部分は狭いわが家庭内の苦い経験、或いは痛切な観察に基づいている故に、一言にして言えば貧乏人には役に立たなかった。それでいて我々がまずどうにかせねばならぬのは、少数<ruby><rb>篤志</rb><rt>とくし</rt></ruby>の家の愉快よりも、他の大変な多数の者の幸福ということである。西洋でもかつて慈善心に富んだ奥方といった者は、二頭立ての馬車に乗って一週に一度ぐらい、小銀貨を配ってあるいた人のことであったが、日本の旧式節約にもそんな例が多かった。たとえば廃物利用といって古葉書を編んで<ruby><rb>夏座蒲団</rb><rt>なつざぶとん</rt></ruby>を作り、女中を<ruby><rb>渋屋</rb><rt>しぶや</rt></ruby>に<ruby><rb>遣</rb><rt>つか</rt></ruby>わして渋を塗らせる。しかもそのために<ruby><rb>費</rb><rt>ついや</rt></ruby>した自分たちの労力は無代と評価してあるから安いのである。内職に生活している<ruby><rb>裏店</rb><rt>うらだな</rt></ruby>の女房などにこれを教えようとしたら、「馬鹿にしているよ」の一言をもって拒絶せられること<ruby><rb>受合</rb><rt>うけあい</rt></ruby>のものである。もうそんな生活改善もあるまいとは思うが、稀にはまだややこれに近い<ruby><rb>松下禅尼</rb><rt>まつしたぜんに</rt></ruby>式、ないしは<ruby><rb>青砥藤綱</rb><rt>あおとふじつな</rt></ruby>式ともいうべき心掛が賞讃せられるために、道は行われず、社会改良には信用が無く、細心柔情の人がこの世に<ruby><rb>充</rb><rt>み</rt></ruby>ちておりながら、国はなおいつまでも悩まなければならぬのである。

## 三

わかりきったことだが、道を行わんとすればまず大いに学問をせねばならぬ。未来のために画策しようとする者は、殊に今までの経過を考えてみる必要があるのである。我々が女性を<ruby><rb>煩</rb><rt>わずら</rt></ruby>わして、学び且つ考えてもらわねばならぬことは、時とともにますます多くなって来ている。男たちはつい近い頃まで、<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>かな同部落の者のみを友とし、多数の異部落と闘わなければならなかった。いわゆる「人を見たら泥棒」と思わなければならなかった。彼らの同情なるものは、よほどの勉強をもってようやく修養し得べき道徳であった。これに反して女は生まれながらにして多量にこれを持っている。今より<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>は大いにそれを取り出して、独り<ruby><rb>郷党</rb><rt>きょうとう</rt></ruby><ruby><rb>知己</rb><rt>ちき</rt></ruby>の間のみならず、弘く世の中のために利用してもらう必要がある。すでに家と家との目の見えぬ<ruby><rb>垣根</rb><rt>かきね</rt></ruby>は取れた。里と里とは勿論のこと、国でさえも互いに平和の交際を始めようとしている時節になって、婦人の用意ばかりが以前のままでよろしいという道理は有り得ないのであるが、しからばどういう態度を持っておればよいのか。今日のお話には主としてその点を説いてみたいと思う。

私などは沢山の娘があるので、幾度となく考えてみたことである。もし幸いにして彼らに<ruby><rb>些</rb><rt>すこ</rt></ruby>しの天分と、少しの<ruby><rb>志</rb><rt>こころざし</rt></ruby>とがあった場合に、同胞国民のためにいかなる種類の学問をしてくれることが、一番有効でありまた親としての本意であろうかというと、やはり一言でいえば人間の幸福、それをどうして得ようか、また何故に今までは得られなかったか。この二つの大切なる問題を、読書でなりと観照でなりと、また実験でなりと学ばせてみたいと思う。と同時に単にこれを各自の家庭の問題として取扱うことを戒めたいと思う。自分でいうのもおかいしが、我々お互いはもう大分覚醒している。なるほど現在の生活にはいろんな拘束もあるが、これを振り切って前進することも必ずしも難事ではない。問題はこの多数の道連れの、歩みののろい人々をどうしようかである。まさに<ruby><rb>落伍</rb><rt>らくご</rt></ruby>せんとする人々を、いかにして導いて行くかである。

勿論自分自分の幸福は、考えまいとしてもいつの間にか考えている。ただしそれは学問ではない。古人も繰返して説いたごとく、学問は必ず人の道でなくてはならぬ。万人の歩んで行く道でなくてはならぬ。多くの生活改善論者が相戒めなければならなかったのはこの点であった。改良服の寸法<ruby><rb>裁</rb><rt>た</rt></ruby>ち方を論ずる前に、古着も<ruby><rb>襤褸</rb><rt>ぼろ</rt></ruby>をささずには着られない生活の多いことを、折畳み式寝台を説く前に、世の中に<ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>の中に寝なければならぬ者が、まだ幾らもいるということを考えてかかるべきであった。人が聞いても藁の中に寝るというな。<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>をかけて寝ていると言えと堅く子どもに教えておいたところが、「おとうさん、背中に蒲団の<ruby><rb>屑</rb><rt>くず</rt></ruby>がくっついているよ」と<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>ったという昔話などは、ちっとも昔の話ではないのであった。シドニー・ウエッブがかつて日本の小作農生活を見に来たときに、<ruby><rb>越後</rb><rt>えちご</rt></ruby>の或る篤農家は彼を案内して、いわゆる<ruby><rb>埴生</rb><rt>はにゅう</rt></ruby>の小屋の奥に、金色の<ruby><rb>阿弥陀様</rb><rt>あみださま</rt></ruby>の光美しく立つ光景を見せ、また百年勤続の小作人の表彰せられた話などをしてきかせた。しかし相手がこれを聴いて、百年という声に驚いたのは、是がはたして百年も忍耐し得べき状態であったかということであった。<ruby><rb>蒲原</rb><rt>かんばら</rt></ruby>低地の周辺の村々には、自分の知る限りにおいても<ruby><rb>簀</rb><rt>す</rt></ruby>の<ruby><rb>子</rb><rt>こ</rt></ruby>をかかぬ小家がつい近頃まであった。村の衛生係員が床の下を清潔にといって<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>って来ても、どうしようもない土床の家が方々にあった。独り東北の一隅でなくとも、また小作農でなくとも、多くの小農の経済はカテ<ruby><rb>飯</rb><rt>めし</rt></ruby>の上に立っている。節倹は道徳といわんよりもむしろ法則であった。この人々の生活は、<ruby><rb>下肥</rb><rt>しもごえ</rt></ruby>をきたないという点にまで感覚が進んでは、続けにくい労働でありまた消費でもあったが、これに基づいていわゆる生活の飢餓点は測定せられ、その境目の所に生活を支えしめる限度において、人口は増加したのである。医術が大分進んで<ruby><rb>赤子</rb><rt>あかご</rt></ruby>が死ななくなったかも知らぬが、永く生きない人が多くなった。急性の飢餓はなくなった代りに、慢性の凶作は常にあるようになった。四百四病の一つに<ruby><rb>算</rb><rt>かぞ</rt></ruby>えるのは当然で、貧の病で死ぬ者は実はなかなか多いのである。全体の生存に対する全体の食料は、どう計算してみても決して豊かでないのに、そのまた分配法が大変によくない。独り金持が勝手に<ruby><rb>奢</rb><rt>おご</rt></ruby>るのみならず、同じ一軒の家でも亭主が多く食いまた酒に使い、<ruby><rb>外</rb><rt>ほか</rt></ruby>の食物に使う生計費が<ruby><rb>権衡</rb><rt>けんこう</rt></ruby>を失している。消費の方法も当を得ていない。家は平均二十年に一度ずつ、焼けて新しいものを要することは、まるで<ruby><rb>御遷宮</rb><rt>ごせんぐう</rt></ruby>の通りである。腐敗して不用となる養分、無価値にしてから使用するというようなものが幾らあるか知れぬ。

これらの弊害はいずれも国民経済学の問題であるが、男子は多くこれを考究しようとしない。日本の男子には妙な習癖があって、不景気な考え方だ<ruby><rb>引込思案</rb><rt>ひっこみじあん</rt></ruby>だと言われると、随分<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もな意見を持っていてもすぐへこたれ、明らかに無謀な積極政策を提案しても、大抵は威勢がいいの進取的だのと言って誉められる。全体に日本は消費機関ばかり<ruby><rb>無暗</rb><rt>むやみ</rt></ruby>に発達した国である。昔から<ruby><rb>由良千軒</rb><rt>ゆらせんげん</rt></ruby>とか<ruby><rb>福良</rb><rt>ふくら</rt></ruby>千軒とか<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>って、千軒の人家があれば<ruby><rb>友食</rb><rt>ともぐ</rt></ruby>いで立って行けると言っていたが、そんな道理のあるべきものでない。故に千軒あったという昔の<ruby><rb>湊</rb><rt>みなと</rt></ruby>などは、今は多くは荒浜の砂の中である。つまり<ruby><rb>小商人</rb><rt>こあきんど</rt></ruby>の利害から割出される繁栄である故に、正しかろうが誤っておろうが、消費さえ盛んなら好景気と言われたのである。しかし実際は不必要の消費、少なくて済めば済ませたい消費は、独り酒<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>ばかりではないのである。ところがそういうむだに近い物に限って、消費を<ruby><rb>刺戟</rb><rt>しげき</rt></ruby>するために文化だの改良だのという文字を<ruby><rb>冠</rb><rt>かん</rt></ruby>している。人が警戒する方が当り前で、広告が信用の無いのにも理由があるのである。

## 四

小売商人のいわゆる近世の改良は、大抵は名ばかりであった。まがい物や掛け流し物、一時的の体裁模倣の軽薄を極めた商品が、すべて改良の名をもって世に行われている。この気風と戦うのが実は真の生活改良であった。すなわち我々が名づけて消費経済学というものと、その基礎をなすべき国民の生活技術誌の研究が、まだまだ親切なる何人かによって、遠く深く進められなければならぬ<ruby><rb>所以</rb><rt>ゆえん</rt></ruby>である。

しかるに世にはこのような一国特有の問題まで、いわゆる先進文明国の学者の著述によって、容易に指導啓発せらるべしと信ずる者がある。沢山の論拠を並べるまでもなく明瞭にそれは誤りである。現在の生活改善事業に対する一つの大なる反感は、何だかそれが甚だ西洋臭いことである。この連中の日本の昔風を攻撃する動機を疑い、多分これが彼らの感心している西洋風と違う故に、<ruby><rb>是</rb><rt>ぜ</rt></ruby>も<ruby><rb>非</rb><rt>ひ</rt></ruby>もなく反対するのだろうという邪推であって、それが随分有力に行き渡っている。その邪推の当不当は別として、こんな有様ではよし結構な計画でも、到底感化は行われず、恩恵は<ruby><rb>弘</rb><rt>ひろ</rt></ruby>く及ばない。親切なる<ruby><rb>志</rb><rt>こころざし</rt></ruby>の人々にとっては、<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>は誠に引合わぬ且つ馬鹿げた反感には相違ないが、しかも多くの場合には異なる境遇にいる者に対して思い<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>りが無く、もしくは彼らを説きつける方法と論拠とが<ruby><rb>宜</rb><rt>よろ</rt></ruby>しきを得ないために、世間からさもさもハイカラ女の物ずき仕事のような、冷評を浴びせられて物別れになるのである。

ところが我々の同胞国民は、その癖随分<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>のすきな人種であった。人のモダーン振りなどは笑われた義理ではないのである。今日固守しているところの昔風のごときも、実に遠からぬ昔に<ruby><rb>支那</rb><rt>シナ</rt></ruby>から朝鮮から採用したものが多く、食物を始めとし住宅などにも大なる中世以来の変化がある（ただしこれを輸入し<ruby><rb>来</rb><rt>きた</rt></ruby>った僧侶などには、当世のいわゆる先覚者の持たぬような親切と根気と感化力とはあった）。また必ずしも外国から模倣したのではなくとも、近代に入ってから変更せられなかった生活方法というものは、探しても見つからぬほどしか残っていない。よく老人たちが古い仕来りだ改めるわけには行かぬと力んでいるものの中にも、文化文政の百年以後、甚だしきは新たに明治の初年頃から始まったものが幾らもある。少なくとも古く行われているから保守しなければならぬというものなどは、決してそう沢山には無いのである。

おかしい話は話しきれぬほど色々ある。例えば皆さん御存じの女の<ruby><rb>内足</rb><rt>うちあし</rt></ruby>の<ruby><rb>風</rb><rt>ふう</rt></ruby>である。前年日本に遊びにきた某仏国人のごときは、私に向かって<ruby><rb>頻</rb><rt>しき</rt></ruby>りにこれをほめ、あれ一つ見ても日本婦人の優美なる心性が<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>われるとまで激賞した。ところが桃山時代の<ruby><rb>屏風絵</rb><rt>びょうぶえ</rt></ruby>、<ruby><rb>岩佐又平</rb><rt>いわさまたべい</rt></ruby>などの写生画は<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>のこと、<ruby><rb>西川</rb><rt>にしかわ</rt></ruby>・<ruby><rb>菱川</rb><rt>ひしかわ</rt></ruby>の早い頃の作を見ても、女はみな<ruby><rb>外足</rb><rt>そとあし</rt></ruby>でサッサと歩いている。多分二重に腰巻をして上の方が長く、且つ麻などのようなさらりとした材料を使わなくなった結果、足にからまって<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>がうまく<ruby><rb>捌</rb><rt>さば</rt></ruby>けなかった故に、こんなあるき方を発明して、それが美女の嬌態と認められることになったのかと思う。腹式呼吸法を始めた岡田虎次郎さんは、生前久しく私の家へも来て、老人や女たちを集めてよく静坐の講釈をせられた。その説の一つには、柳田さん、<ruby><rb>日本魂</rb><rt>やまとだましい</rt></ruby>と日本人の坐り方とには、深い関係があると私は思うがどうか。もし畳というものが無かったら、日本人の勇気気力は今日のごとく修錬せられていなかったろうと考えるがどうかと尋ねられる。是には誠に柳田なる者も返答に困った。と申すわけは、我々が今のようなペチャンコの坐りかたを始めたのは、どうも三四百年より古くはないらしいからである。「すわる」は「ひざまずく」の次の改良であって、<ruby><rb>跪</rb><rt>ひざまず</rt></ruby>くのは身分の低い者が、長者の前に奉仕する礼儀であり、同時に外敵警戒と臨時活動の準備であった。これがいわゆるサムラフ形である。サムラヒの階級が一世に充満してこの方法が上下に行き渡り、それが太平に入って平和の閑暇を味わうべく、今日のように<ruby><rb>爪立</rb><rt>つまだ</rt></ruby>てていた足の<ruby><rb>尖</rb><rt>さき</rt></ruby>を伸べて、ヰシキの下に敷くに至って、ついに今一つ以前の坐礼を忘れてしまい、オラクニヰルことをもって欠礼と感ずるようになったのである。日本魂の方が確かにそれよりも古くからの記憶である。

また<ruby><rb>牀</rb><rt>ゆか</rt></ruby>の上に畳を敷きつめることも、勿論神武天皇以来の風ではない。たたみは文字通り畳むもの、すなわち今日のゴザまたはザブトンに該当する。<ruby><rb>八重</rb><rt>やえ</rt></ruby>だたみというか高だたみと<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>うか、百人一首の「<ruby><rb>天神</rb><rt>てんじん</rt></ruby>さま」の乗っている畳も、古くから有ったことは有ったが、座敷と称してこれを室一杯に敷きつめることは、御殿においてもほんの近世からの出来事である。現在のようにあの畳の上を<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>り<ruby><rb>足</rb><rt>あし</rt></ruby>して、堪えず足の<ruby><rb>垢</rb><rt>あか</rt></ruby>をこすりつけ、その上へ板のごとき<ruby><rb>脚</rb><rt>あし</rt></ruby>なし<ruby><rb>膳</rb><rt>ぜん</rt></ruby>をすえ並べて、なるだけ<ruby><rb>塵</rb><rt>ちり</rt></ruby>の多く載っかった物を食おうとする流行などは、まったく最々近の発明にかかる改良である。それから座敷の正面の<ruby><rb>床</rb><rt>とこ</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>、これなども少しも固有の<ruby><rb>風</rb><rt>ふう</rt></ruby>ではない。多分は帳台の一変形であろうと私は思っている。以前の民家の建築においては、帳台すなわち寝床の地位である。家の者の夜は上がって寝る場所に、今日は<ruby><rb>臍</rb><rt>へそ</rt></ruby>を出した<ruby><rb>布袋</rb><rt>ほてい</rt></ruby>さんなどを安置して<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>んでいるのだ。またその床の間の前へ、迷惑がる客人を押し上げて坐らせる風がこの頃はできたが、以前はそんな辞儀をせずとも、主客の坐位はちゃんときまっていたことは、<ruby><rb>囲炉裏</rb><rt>いろり</rt></ruby>の四方の名称を聞いてもわかる。是は一つには建築の進歩で、客殿と住居とを一つ<ruby><rb>棟</rb><rt>むね</rt></ruby>の下に作ることのできた結果であり、また一つには<ruby><rb>足利</rb><rt>あしかが</rt></ruby>時代の社会相として、主人が頻繁に臣下の家に客に来ることになって、我家を主人よりももっとえらい人に使わせることになったためでもあって、つまりは坐り方の変遷と関係の深いものであると思っている。

## 五

是に限らず、全体に近代の当世風の中には、愚劣なる生活改善が多かった。それを後生大事に守って、変革を敵視する保守派などは、嘲笑以外の何物にも値しない。ついこの頃までの世間並、殊に婦人の方面の生活様式のごときは、よくいえば御殿風だろうが、悪くいえば<ruby><rb>後宮</rb><rt>こうきゅう</rt></ruby>式である。まず運動にも作業にも不便なような趣味ばかりを、上品として模倣したのであって、結局こんな行きがかりを打破するためには、西洋<ruby><rb>寝間着</rb><rt>ねまき</rt></ruby>の<ruby><rb>細紐姿</rb><rt>ほそひもすがた</rt></ruby>でも礼讃したくなるのが<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もだといえる。しかもこれをもって「日本はだめだ」という理由にしようとするのはまた大誤謬である。歴史に<ruby><rb>由</rb><rt>よ</rt></ruby>って論ずれば、是はつまり我々の近い祖先の、当世風の選択の誤りであった。軽率無思慮の生活改良の災いと<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>ってよいものである。本来の日本の<ruby><rb>些</rb><rt>すこ</rt></ruby>しでも<ruby><rb>与</rb><rt>あずか</rt></ruby>り知らぬことである。

知ったか振りをしてお聞き苦しいであろうが、少しばかりその実例を述べると、まず第一には我々の衣服である。<ruby><rb>羽織</rb><rt>はおり</rt></ruby>などという引掛かって仕方のないものを<ruby><rb>流行</rb><rt>はや</rt></ruby>らせ、帯などという<ruby><rb>大袈裟</rb><rt>おおげさ</rt></ruby>なものを腰にまとい、奥様が帯をしているのやら帯が奥様をしているのやら、分らぬような<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>をしてあるき、或いは年中作り物のような複雑な頭をして、<ruby><rb>笠</rb><rt>かさ</rt></ruby>も<ruby><rb>手拭</rb><rt>てぬぐい</rt></ruby>もかぶれなくしてしまったのは、<ruby><rb>歌麿</rb><rt>うたまろ</rt></ruby>式か<ruby><rb>豊国</rb><rt>とよくに</rt></ruby>式か、とにかくについこの頃からの世の好みであった。いわばほんの一時の心得ちがいであった。深窓の佳人ならばそれもよかろうが、中以下の家庭の女がそんな様子をして生きて行かれるはずがない。だから女の働く風は、いずれの国でも大体昔から<ruby><rb>定</rb><rt>き</rt></ruby>まって変らなかったのである。それが芝居を見ると十二<ruby><rb>単衣</rb><rt>ひとえ</rt></ruby>を着て<ruby><rb>薙刀</rb><rt>なぎなた</rt></ruby>を使ってみたり、<ruby><rb>花櫛</rb><rt>はなぐし</rt></ruby>を挿して<ruby><rb>道行</rb><rt>みちゆ</rt></ruby>きをしたり、夏でもぼてぼてとした<ruby><rb>襟裾</rb><rt>えりすそ</rt></ruby>を重ねた<ruby><rb>上﨟</rb><rt>じょうろう</rt></ruby>が出て来るが、それはまったく芝居だからである。現実の生活は今少しく簡素にして且つ自由なものであった。この夏の暑い湿気の多い国で、そんな事をして生きて働かれよう道理が無い。国土の自然と調和すればこそ、永い歳月を経て定まった<ruby><rb>衣</rb><rt>い</rt></ruby>と<ruby><rb>裳</rb><rt>しょう</rt></ruby>との形があることをも考えず、何でも見れば<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>をして、上から上からと色々の余分のものを取り重ね、羽織だコートだ<ruby><rb>合羽</rb><rt>かっぱ</rt></ruby>だ<ruby><rb>塵</rb><rt>ちり</rt></ruby>よけだと、だんだんに包みに包んで今のような複雑きわまる衣裳国にしてしまった。一度はその反動からでも裸に近い洋服になってみようという運動の、起こるのはまったく止むを得ない。だから今日の様になって来た心理過程にも、十分の同情を払って見なければならぬが、それよりもなお一つ前に、まずこの国の女性の<ruby><rb>本</rb><rt>もと</rt></ruby>の姿というものを、見いだしておくことが必要である。そんなことまでも男の人に任せておいてはいけない。

## 六

食物の変遷などにも、<ruby><rb>省</rb><rt>かえり</rt></ruby>みられなかった大切な見落しがある。この方面では殊に色々の新しい材料が入ってくるとともに、多くの昔からの食物が全然我々の食卓の外に消えてしまった。そうしてその痕跡は必ずしも書物を探さずとも、正月の<ruby><rb>喰積</rb><rt>くいつみ</rt></ruby>や婚礼の<ruby><rb>島台</rb><rt>しまだい</rt></ruby>の上に、まだ<ruby><rb>幽</rb><rt>かす</rt></ruby>かに残っている。これを見渡して第一に感ずることは、昔に比べると甘味の増加したこと、次には柔かいものの多くなったことである。<ruby><rb>昆布</rb><rt>こんぶ</rt></ruby>は今でも関西地方の嗜好品として行われているが、<ruby><rb>生</rb><rt>なま</rt></ruby>で<ruby><rb>榧</rb><rt>かや</rt></ruby>・<ruby><rb>搗栗</rb><rt>かちぐり</rt></ruby>を食う人はもうなくなった。<ruby><rb>熨鮑</rb><rt>のしあわび</rt></ruby>のごときは、子供はもう食う物なりや否やをさえ知らぬ。多くの人は見たことも無いであろう。これを進物に<ruby><rb>副</rb><rt>そ</rt></ruby>える習慣は、昔は厳重に守られていたが、次第に型ばかりとなってノシは画紙ばかり大きく、その中に幅<ruby><rb>一分</rb><rt>いちぶ</rt></ruby>ばかりの本物をはさみ、或いはそれをも黄色の絵具で画に描いたり、甚だしきはその形を忘れて「いも」と書いたり「のし」と書いたりしているのは、今はもう<ruby><rb>熨斗</rb><rt>のし</rt></ruby>をもらっても食料にする人がなくなって無用の長物だからである。それほどまでも堅い物を食うことを控えながら、不思議なのは歯の悪い人の年々に増えて行くことである。多分は食料摂取法の理学的影響、例えば暖かいものの食い方とか、<ruby><rb>醗酵</rb><rt>はっこう</rt></ruby>順序とかいうことに関係があるのであろう。誰か今に考えてみてくれることになっているのか知らぬが、汽車に乗ったりこういう集会に出てみたりすると、右も左もキンキンと金歯だらけで、人をして黄金国の黄金時代の<ruby><rb>眩惑</rb><rt>げんわく</rt></ruby>を感ぜしめる。美しくて結構は結構だが、こうまでしないと歯が役に立たぬように、してしまった原因には不審がある。

独り副食物のみではない。日本人とは切っても切れぬ<ruby><rb>因縁</rb><rt>いんねん</rt></ruby>のある米の飯、是すらも<ruby><rb>夙</rb><rt>つと</rt></ruby>に変化してしまっている。今我々の食うのは、昔の日本人のいう<ruby><rb>飯</rb><rt>いひ</rt></ruby>ではなく、<ruby><rb>粥</rb><rt>かゆ</rt></ruby>すなわちカタカユというものである。イヒは<ruby><rb>甑</rb><rt>こしき</rt></ruby>でふかすこと今日の赤飯のごとくであったが、そんな方法をもって飯を製することは<ruby><rb>節供</rb><rt>せっく</rt></ruby>の日ばかりになった。是もハガマすなわち<ruby><rb>鍔</rb><rt>つば</rt></ruby>のある<ruby><rb>釜</rb><rt>かま</rt></ruby>や、<ruby><rb>竈</rb><rt>かまど</rt></ruby>の作り方の変化と関係のあることは確かで、軍陣その他の労力の供給法にも<ruby><rb>由</rb><rt>よ</rt></ruby>るであろうが、主たる原因は趣味の移動であり、おそらくはまた白く柔かなるものを愛するの情であった。シャモジなども我々の眼前において、どしどし形を改めて行くのである。現在では飯をよそうのはシャモジ、汁を<ruby><rb>掬</rb><rt>く</rt></ruby>むものはシャクシと区別するに至ったが、<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>もとは一つである。<ruby><rb>杓子顔</rb><rt>しゃくしがお</rt></ruby>と<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>って、人は<ruby><rb>花王石鹸</rb><rt>かおうせっけん</rt></ruby>の広告のごとき顔をそう形容するが、今日の<ruby><rb>板杓子</rb><rt>いたびゃくし</rt></ruby>は平面なるヘラである。<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>はまったくメシの<ruby><rb>炊法</rb><rt>すいほう</rt></ruby>の変化に伴なうもので、近頃それが次第に柔かくなった故に、何かこういう鋭利のもので切り取る必要を生じたのだが、これが今少し硬くてもまた柔かくても、とてもこんな杓子では間に合わなかったはずである。自分などは昔風であるのか、この<ruby><rb>舌切雀</rb><rt>したきりすずめ</rt></ruby>の話を思い出すような米のジャムには感心せぬので、毎度かの有名なる<ruby><rb>蜀山人</rb><rt>しょくさんじん</rt></ruby>の、

三度たく飯さへこはし柔らかし心のまゝにならぬ世の中

の歌を思い出し、全体いつ頃からこんな<ruby><rb>不如意</rb><rt>ふにょい</rt></ruby>が始まったものかと考えてみるのであるが、そのまた三度の食事ということさえ、やはりある時代の当世風であって、本来は朝け夕けの二度を本則とし、日中の食事は田植の日、または改まった力仕事の日に限って、幾返りも供与したばかりであった。それを自分らごとき朝寝坊までが、必ず三度食うべしとなると、誠に食うのに<ruby><rb>忙</rb><rt>せわ</rt></ruby>しくてこまる。もし復古をして再び朝夕の二度になったら、学校なども九時から二時というようになって、残りの時間がもっと有意義に使われるかも知れぬ。生活改良家もまだ活躍の余地は多いわけである。強いて反抗の多い方面をつついて、苦労をするがものは無いのである。

## 七

例を述べていると際限も無い話だが、要するに我々の生活方法は、昔も今も絶えず変っていたもので、また我々の力で変えられぬものはほとんと一つも無いと言ってよい。老人の<ruby><rb>頻</rb><rt>しき</rt></ruby>りに愛惜する昔風は、いわば彼ら自身の当世風であって、真正の昔風すなわち千年に<ruby><rb>亘</rb><rt>わた</rt></ruby>ってなお<ruby><rb>保</rb><rt>たも</rt></ruby>たるべきものは、むしろ生活の合理化単純化を説くところの、今後の人々の提案の中に含まれているのかも知れぬ。またこの民族の永久の栄えのために、自分はしかあらんことを望むのである。勿論美を愛する人の情、ないしは少々のムダをすることに<ruby><rb>因</rb><rt>よ</rt></ruby>って、味わうことのできる心の安さなども、個人の幸福のためには決して無視することを得ないが、それよりも大切なのは一の群としての国民の進歩である。今の智慮あり趣味ありまた感化力ある人たちの、<ruby><rb>気儘</rb><rt>きまま</rt></ruby>な傾向のみに任せておいて、はたして常に世の中が善くなるとはきまっておらぬ。それには前に申した分配方法の不当である。消費方法の拙劣である。選択の失敗である。これらがすでによほど大きな損害を国民に与えている。体質の衰退は独り金歯に<ruby><rb>由</rb><rt>よ</rt></ruby>って知るのみではない。かつて或る時代の各人が<ruby><rb>一</rb><rt>ひと</rt></ruby>かどの改良なりと信じて世に行った変革の結果が、その実我々に災いした場合は一にして<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>まらぬ。例えば米を精白にして食う風は年を追うて進み、しかも<ruby><rb>脚気</rb><rt>かっけ</rt></ruby>の原因をビタミンＢの欠乏に発見したのはつい近頃の事であった。<ruby><rb>木綿</rb><rt>もめん</rt></ruby>や毛織物の濫用、<ruby><rb>綾織</rb><rt>あやおり</rt></ruby>木綿はこの国の湿暑に適しなかったと思うが、それをまだ肯定も否定もできぬ程度の、日本の生理学の進歩である。すなわちこれらの諸事情を考慮することなくして、独りぎめの生活改善を説くのは、仮に偶然に成績良好であったとしても、悪口ずきの我々はなおこれを盲動と評せんとしている。いわんや是がために多くの無邪気なる同胞を誤る場合のごときは、決して名誉とか<ruby><rb>面目</rb><rt>めんぼく</rt></ruby>とかいうがごとき、小さな個人の問題ではないのである。故に<ruby><rb>爰</rb><rt>ここ</rt></ruby>でふたたび繰返して、女性の向かうべき学問の、冷静なる生活観照にあることを言っておきたい。もし幸いにして多くの婦人方に、この親切なる向学心さえあれば、短い年月の間に日本の女学校における、家政科の教え方は一変することと信ずる。多くの家の子女は追々に人生幸福の真の意味を理解するであろうと思う。願うところは生活技術の今後の攻究に由って、国の病の<ruby><rb>在</rb><rt>あ</rt></ruby>り<ruby><rb>処</rb><rt>か</rt></ruby>がよくわかり、従って皆さまのやさしい心配が、結局政治の上に<ruby><rb>顕</rb><rt>あら</rt></ruby>われてくることである。是が私らの考えている婦人参政の本旨である。

  


## 働く人の着物

## 一

我々の着物は、昔から三つの種類に分かれていた。今でも多数の働く人々は、ちゃんとこの区別を守っている。その三つというのは、一つは晴着。関西ではヨソ行キとも<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>うが、おもにお祭や<ruby><rb>節供</rb><rt>せっく</rt></ruby>の日に着るからこれをマツリゴ（紀州および<ruby><rb>小豆島</rb><rt>しょうどしま</rt></ruby>）、またはセツゴ（東北処々）などと謂うている。セツとは節供や<ruby><rb>盆</rb><rt>ぼん</rt></ruby>正月のことで、だからまたボニゴ（岡山県）という土地もある。生まれ<ruby><rb>児</rb><rt>ご</rt></ruby>がお宮参りに着るのをミヤマヰリゴ（<ruby><rb>美作</rb><rt>みまさか</rt></ruby>）、女がお<ruby><rb>歯黒</rb><rt>はぐろ</rt></ruby>を始めてつける日に着るのがカネツケゴ（<ruby><rb>北美濃</rb><rt>きたみの</rt></ruby>）、年寄が<ruby><rb>厄年</rb><rt>やくどし</rt></ruby>の祝に着るのをヤクゴ（<ruby><rb>讃岐</rb><rt>さぬき</rt></ruby>）というのを見ると、ゴは着物のことと思われる。仙台では前にはこの晴着をモチクヒイシャウと謂っていた。<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>を着る日が大抵<ruby><rb>餅</rb><rt>もち</rt></ruby>を食う日だから、意味はよくわかる。

第二には働く時の着物。是を仕事着というのは普通だが、土地によってノラギまたはヤマギモノ（<ruby><rb>越後</rb><rt>えちご</rt></ruby>）、海で働く者は沖ギモノ・沖アハセとも謂う。佐賀県ではハマリギモン、ハマルというのは仕事にかかることである。大分県にはまたカネトリギモンという名もある。是を着ていると収入があり金が取れるから、是も意味はよくわかる。

第三には仕事から帰って、うちにいる時に着ている着物。それだからバンギ（<ruby><rb>肥前</rb><rt>ひぜん</rt></ruby><ruby><rb>平島</rb><rt>ひらしま</rt></ruby>）と謂ったり、ヨサイギモン（<ruby><rb>下甑島</rb><rt>しもこしきじま</rt></ruby>）と謂ったり、ヨウマアサマ（<ruby><rb>伊豆</rb><rt>いず</rt></ruby><ruby><rb>新島</rb><rt>にいじま</rt></ruby>）と謂ったりする。東京近くではアヒダキモノ、またアハヒノキモノ（富士郡）、信州越後ではマンバとも謂う。マンバもアヒダも同じことで、働かぬ時という意味だ。九州の島々、<ruby><rb>壱岐</rb><rt>いき</rt></ruby>・<ruby><rb>対馬</rb><rt>つしま</rt></ruby>・<ruby><rb>天草</rb><rt>あまくさ</rt></ruby>などではケギという。ケギのケは不断着のフダンも同じで、晴着のハレに対する古い言葉である。だからたった一枚しか無い着物を、「ケにもハレにも<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>っきり」というのである。

## 二

今晩は時間が少ないから、この三つのうちの、働く着物の話だけをする。仕事着を東北地方や北陸地方では、デタチまたはデダチという。<ruby><rb>腹掛</rb><rt>はらがけ</rt></ruby>だけをヅタツと謂ったり（<ruby><rb>北飛騨</rb><rt>きたひだ</rt></ruby>から<ruby><rb>能登</rb><rt>のと</rt></ruby>）、<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>だけをデンタツという<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>もあるが（秋田県）、元来は「<ruby><rb>出立</rb><rt>でた</rt></ruby>ち」だから、仕事着の全体を一括していうのが正しいのである。我々のデタチすなわち仕事着は、この頃の洋服も同じように、上と下との二つに分かれている。ただ洋服とちがうのは、<ruby><rb>上衣</rb><rt>うわぎ</rt></ruby>をさきに着て、下の袴を<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>からその上へはくだけで、その上衣はできるだけ短くした。それ故に九州の南の方、鹿児島県や宮崎県ではこれをコシギンと謂っている。中国地方から東ではコシキリ、東北へ行くとコシピリまたはコスピリ、或いはもっと<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>りやすく、ミヂカと謂っている処もある。ハンテンという名前も、もとは長さが不断の着物の、半分しかないからそう謂ったので、これをまたハンチャという村も多いが、古い言葉ではコギヌと謂ったようである。キヌはもと着物のことで、それを小さいのだからコギヌだ。今でも働く時にしか着ない麻の短い上衣を、コギノ、コイノ・コギンという処は、東北から九州の山の中まである。

この腰きりの短い上衣は、<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>がぶらぶらしていると邪魔だから、やはり洋服と同じに<ruby><rb>筒袖</rb><rt>つつそで</rt></ruby>になっている。昔から小さかった袖を、さらに一段と細くし、腕にぴたりと附くようになったのを、気が<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>いているとしていた時代もあったらしい。テボソという名前が福井県にはある。徳島県ではツメコと謂い、北九州ではテグリまたはテグリジバン、またヘウヘウソデという村もあって、働かない<ruby><rb>旦那衆</rb><rt>だんなしゅう</rt></ruby>を<ruby><rb>羽織組</rb><rt>はおりぐみ</rt></ruby>というに対して、多数の働く人々をヘウヘウ組などとも謂っている。東京の近く、房州の<ruby><rb>漁師</rb><rt>りょうし</rt></ruby>たちは、是をウデヌキともトウロクともいい、信州のアルプス地方には、山に近いだけにヱンコウ袖という言葉もあるが、昔の日本語はテナシまたはタナシであったように思う。九州の南の方には今でもその言葉が残り、その中でも特に短いのをコダナシと謂っている。島根県ではそれをコデナシというから、タナシも昔のテナシと同じで、テというのが今いう袂のことらしい。

## 三

日本語のソデとタモトとは、今は昔と意味が逆になっている。ソデは「<ruby><rb>袖</rb><rt>そで</rt></ruby>ふる」と謂って、ぶらぶらしている部分のことであったのを後にタモトといい、衣服の手を<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>う部分全体をソデというようになって、袖なしという言葉ができた。仕事着のハンチャがあまり<ruby><rb>手細</rb><rt>てぼそ</rt></ruby>になると、寒い時でももう一枚重ね着するのが窮屈だから、そこで脱いだり着たり便利なように、いわゆるソデナシが盛んに用いられたのである。東京では年寄か小さな<ruby><rb>児</rb><rt>こ</rt></ruby>だけが袖なしを着るが、他の地方では若い働く人たちが、男も女も是をよく着ている。九州ではカタギン、東北地方ではツンヌキ、その他色々さまざまの名と形とがあるが、いずれも働く人たちの手を軽く、背中を暖かくするためのもので、これは近世になってだんだんと発達したように思われる。

便利な着物が次から次へと出来てきた。その中でも働く人の<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>をかえたのは、ネヂ袖というものの流行であった。これは一方から見るとアヒダノキモノ、すなわち夜とか雨の日とかの仕事の無い時だけに着る物が、今いう不断着になって頻繁に用いられたためで、それはまた晴着が麻布のように長持ちせず、<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐに古くなる木綿で造られるようになって、いくらも<ruby><rb>卸</rb><rt>おろ</rt></ruby>して家にいる時に着るものになった結果かと思う。殊に朝早くからデタチの<ruby><rb>支度</rb><rt>したく</rt></ruby>をして、<ruby><rb>野良</rb><rt>のら</rt></ruby>や山に出るのでなく、家にいて時々<ruby><rb>力業</rb><rt>ちからわざ</rt></ruby>をするという町の労働者などは、仕事着にわざわざ着換えるのも手数だから、下着は不断のままで、その上へ一枚の働く着物を着ることになった。そうすると袂が邪魔になって、手細の<ruby><rb>筒袖</rb><rt>つつそで</rt></ruby>は着られない。それで今度は手元だけ細く、袖つけの所の広くなった<ruby><rb>巻袖</rb><rt>まきそで</rt></ruby>がはやり出したのである。この袖は<ruby><rb>一幅</rb><rt>ひとはば</rt></ruby>の袖を斜めに折ってこしらえた。それ故にネヂソデまたはネヂッコとも謂うのである。中国地方から東では是をモヂリまたはムヂリ、ムジルというのも<ruby><rb>捻</rb><rt>ね</rt></ruby>じることであった。その形が<ruby><rb>鯉</rb><rt>こい</rt></ruby>の頭に似ているからコヒグチと東京では謂い、<ruby><rb>東上総</rb><rt>ひがしかずさ</rt></ruby>ではブタグチとも謂っている。千葉県も南の方へ行くとこれをカモヤソデ、是もそういう意味の言葉らしいが、まだ私にはよく<ruby><rb>判</rb><rt>わか</rt></ruby>らない。女たちになるとただ不断着を<ruby><rb>襷</rb><rt>たすき</rt></ruby>でくくり上げて、ちょっとした仕事をした。それではよく働けないので、やはり袖をブタグチにしたウワッパリというものを着た。これがこの頃の白いカッポウギというもののもとで、つまり不断着を脱がずに、仕事着の役をさせようとした便法である。

## 四

仕事着の下の方の部分にも、やはりまた同じような変化があったが、これは女と男とでは少しのちがいがある。女も男のように短い腰までのハンテンを着たけれども、袴は西の方では<ruby><rb>始</rb><rt>はじめ</rt></ruby>から腰に巻くものであったらしい。それでは働くのに不便なので、<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>を少しばかり割り裂いて、足の働きの自由なようにしたのを<ruby><rb>前掛</rb><rt>まえかけ</rt></ruby>まはた<ruby><rb>前垂</rb><rt>まえだれ</rt></ruby>と謂った。前垂ももとは<ruby><rb>四幅</rb><rt>よはば</rt></ruby><ruby><rb>三幅</rb><rt>みはば</rt></ruby>の広いものであったのが、不断着のままで働くようになって、うしろはいらぬから、それが<ruby><rb>二幅</rb><rt>ふたはば</rt></ruby>になりまた<ruby><rb>一幅</rb><rt>ひとはば</rt></ruby>にもなった。それでも<ruby><rb>甲斐々々</rb><rt>かいがい</rt></ruby>しい仕事ができないので、<ruby><rb>襷掛</rb><rt>たすきが</rt></ruby>けでもする時には、裾をたくり上げたり<ruby><rb>端折</rb><rt>はしょ</rt></ruby>ったりしたのだが、やはりずるずるとしてよくは働けない。男の方の袴は元来スソボソと謂ってほっそりとしたものであった。是も袖がテグリジバンのように細いものになるとともに、一旦は非常に細く、ぴたりと足にくっつくようなものになった。それが今日のモモヒキで、今では誰も是が袴だとは思っていないが、関東や東北でモッペまたはモンペという袴と、もとは一つのもの一つの言葉だったのである。ところが不断着のままで働こうという人が多くなって、その長い裾をたくし込むだけに、ゆるりとした袴が入用になった。山形県・秋田県でダフラモッペ・ガフラモッペ、もしくはモクラモッペと謂っているのがそれで、ダフラ・ガフラはだぶだぶとしていることである。栃木県あたりでモクタリ・ムクタリ・モクズレ、信州の南の方でモックラというのも、やはり腰から下がむくむくとしているからの名らしく、フンゴミというのも、長い着物の裾を袴の中に踏込むからの名と思われる。そういう名は無くとも近い頃の<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>の袴はみな下がふくれて来て、その中には膝から下だけはまだ<ruby><rb>股引</rb><rt>ももひき</rt></ruby>のように細くなっているものと、下まで広くなって足首の所だけが細いものとあるが、どちらにしても町で職人などのはくモモヒキとまったくちがった形のものになり、おまけに一方は上衣の下に隠すようになって、いよいよズボン下のごときものになったが、元来をいえばモモヒキはすなわちズボンなのである。そうしてまたハカマの一種なのである。

今日では晴着の、儀式の時にしかはかぬもののように、多くの人は考えているようだが、ハカマはもと労働のために、最も欠くべからざる衣類の一つであって、またそういう意味に今でもこの言葉を用いている土地は全国に多い。衣類の名前は<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>かずつ製し方が変るたびに、必ず新しい言葉ができた。それは多分以前のままのものもなお用いられているので、それと区別するために何か新しい名が入用になって来たのであろう。だからズボンと謂いヨウフクと謂っても、それが日本の言葉であると同じように、その名を持つ着物もやはり日本のきものであって、我々はそれを自分の労働に都合のよいように、自由にかえて使っている。決して西洋人の<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>をしているのでないのである。一ばん都合の悪いのは<ruby><rb>靴</rb><rt>くつ</rt></ruby>であった。靴は日本のような夏暑くてむれる国、毎度水の中へ入って働かなければならぬ国では、特別のものが無くてはならぬ。そうして<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>だけは古いものが既にややすたれて、新しいものがまだ発明せられていないのである。諸君は是からの研究問題として、是非とも仕事に都合のよい日本の靴を、考え出さなければならぬのである。

  


## 国民服の問題

## 一

国民服の制定は、予言の試験としても面白い問題だと思う。<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>か十年か十五年のうちに、すぐ一つの提案の夢か夢でなかったかが判定せられるからである。現に今までの多くの改良意見なるものは、ほとんとみな世間から忘れられている。大切な事業の、他にいくらも手がつけられずにいる今日だ。我々はなるだけ<ruby><rb>無駄</rb><rt>むだ</rt></ruby>なことのために、心力を<ruby><rb>銷磨</rb><rt>しょうま</rt></ruby>せぬようにしなければならない。

法令をもって強制しようという腹なら、無論どのようなおかしな着物だって通用するだろう。そのかわりには余計な違犯者をこしらえなければならぬ。ほんの<ruby><rb>時折</rb><rt>ときおり</rt></ruby>着る式服なればこそ、服痛などとしゃれて逃げてもおられたのだが、それですら今はあらゆる便法が開かれて、事実は決して統一の効果が<ruby><rb>挙</rb><rt>あ</rt></ruby>がっていない。ましてや毎日着てあるく着物を、<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>いにさせようなどというのは大変な話だ。三人で<ruby><rb>一反</rb><rt>いったん</rt></ruby>の倹約になるから、七千万人では幾らなどと、小学生の算術のようなことを考える前に、どうしたらたった一部分の都合のつく人々の間にでも、採択してもらうことができるだろうかを、討究してみることがまず必要である。消費は各人経済の苦しい問題であるだけでなく、別に自分の手に合わぬ外部の力が、色々とまた干渉し指導している。国民はかなり統制に従順な素質をもっていても、こう八方から<ruby><rb>小突</rb><rt>こづ</rt></ruby>かれては迷わざるを得ない。その<ruby><rb>筋路</rb><rt>すじみち</rt></ruby>をおおよそは見分けてやって、少しでも判別取捨のしやすいようにするのが、先覚と言わるる人の役目ではないかと私は思う。

何故に今日日本人の着物が、世界中を捜しても他には見られぬような、乱雑至極なものになってしまったのであろうか。この疑問に答え得る人でないと、おそらくは実現の可能なる改良意見は出せまい。以前は決してこのようなことはなかったのである。百姓は百姓、<ruby><rb>山子</rb><rt>やまご</rt></ruby>は山子と、誰に<ruby><rb>勧説</rb><rt>かんせつ</rt></ruby>せられなくともみな一様の材料・形式のものを、つい近頃までは着て働いていたのである。身分や階級の束縛は少しも無かったにもかかわらず、なおしばらくの間は<ruby><rb>定</rb><rt>き</rt></ruby>まった服装を守り続けていた。それがたちまちに思い思いの姿になったのは、つまりは原因が外にあったからである。最も大きな理由かと思うのは、家に古着というものが幾らでもできることで、もとは一枚の晴着を一生涯、大事に着ていればかたみ分けにさえできたものが、現在はじきに古くなってしまって、不断着にもならぬものが<ruby><rb>溜</rb><rt>た</rt></ruby>まるから、それを何とかして仕事着に着ようとするのである。私などの住む附近の<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>では、この頃は祭礼の<ruby><rb>紅</rb><rt>あか</rt></ruby>く染抜いた半てんを着ることが、野らで働く青年の一つの好みになっている。<ruby><rb>浜方</rb><rt>はまかた</rt></ruby>ではまた<ruby><rb>遠目</rb><rt>とおめ</rt></ruby>には紳士とも見えるような、洋服人が網を<ruby><rb>曳</rb><rt>ひ</rt></ruby>いている。<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>が一番に安上りの、また有合せの材料でもあるが故に、我々の仕事着の統一はまず壊れて行くのである。以前は国民服は制定しないでもきまっていた。現在は是だけ大きな流行の力があるにもかかわらず、見ているうちに人が思い思いの姿をして、あるきまわるようになってしまう。主たる原因は廃物の利用、すなわちその廃物を際限もなく、作り出すような品だけが<ruby><rb>売弘</rb><rt>うりひろ</rt></ruby>められるからである。スフは<ruby><rb>買木綿</rb><rt>かいもめん</rt></ruby>と比べてまた一段と持ちが悪いかよいか、試してみないのだから何とも言えぬが、とにかくそのようなものが勧められている御時世に、別になお一枚の揃いの衣裳を作っておかせるということは、まずよっぽどむつかしい相談であろうと思う。

## 二

どうしてまた日本の着物が、このように改良の止むべからざるものになったかということ、是が一つの大切な問題である。それを徹底的に究明しておかないと、程なくまた自分が改良せられるにきまっている。いわゆる洋服の普及を見てもわかるように、今まで町の人などの着ていたものは、一言でいうならば労働に<ruby><rb>不向</rb><rt>ふむき</rt></ruby>であったのである。階段の上り降りに<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>がよごれるとか、ドアの<ruby><rb>把手</rb><rt>とって</rt></ruby>に<ruby><rb>袖口</rb><rt>そでぐち</rt></ruby>が引掛かるとかの、新しい建築との折合いが悪いというだけではない。少しでも仕事と名のつくものをしようとすれば、こんなものを着ていてはあがきが取れない。元来が働く着物ではなかったからである。一体日本人ほどよく働いて来た国民が、昔からこういう不自由なものに、朝晩くるまって大きくなったように、思っていたことが歴史の無視である。儀式に列する少数の男女以外、あんなぶらぶらとした袖を垂れて、あるいていた者は一人だって有りはしない。上衣と袴とはちゃんと二つに分かれて、手首にも足首にも、まつわるものは何も無かった。つまり今日ヨウフクなどと<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>って有難がっている衣服と、ほぼ同型のものを最初から着ていたのである。今見る不断着などは式服の下着、というよりも式服を極度に簡略にしただけのもので、是で働けないのは眼をつぶって物が見えないのと同じことである。

都市の生活が始まって、国民に晴の日が多くなり、一方には不断にこういう着物を着ていられる者が、だんだんと増加して来たということもあるが、それよりもさらに経済的な原因としては、労働の様式の以前にように、単純でなくなったことを<ruby><rb>挙</rb><rt>あ</rt></ruby>げなければならぬ。私は仮に、是を奉公人式作業と呼んでいるが、その奉公人も数多く抱えられて、同じ一家の中でも分業が行われた間は、それぞれの仕事着で働かせたろうが、<ruby><rb>後々</rb><rt>のちのち</rt></ruby>家が小さく世帯が切詰められて、たった一人か二人の若い者を、表の取次から客の給仕、水汲み・庭掃除、<ruby><rb>箱葛籠</rb><rt>はこつづら</rt></ruby>の出し入れ、たまには土ほじりも遣らせようとなると、どうしても着物は中途半端にならざるを得ない。女房や娘にそんな役をさせようとなるとなおさらのことである。是が旅館の番頭などなら、メリヤスの<ruby><rb>肌衣</rb><rt>はだぎ</rt></ruby>一つでまっぴら御免下さいと、夜具の上げ<ruby><rb>卸</rb><rt>おろ</rt></ruby>しまでもするか知らぬが、普通の人情ではそれは忍べない。だから<ruby><rb>襷</rb><rt>たすき</rt></ruby>がけだの<ruby><rb>御尻</rb><rt>おしり</rt></ruby>まくりだの、その他色々の殺風景な変形をして、急場の用に間に合わせようとするのである。モヂリ・<ruby><rb>鯉口</rb><rt>こいぐち</rt></ruby>・<ruby><rb>上</rb><rt>うわ</rt></ruby>っ<ruby><rb>張</rb><rt>ぱ</rt></ruby>り、或いはこの頃はやる<ruby><rb>割烹着</rb><rt>かっぽうぎ</rt></ruby>の類まで、この作業の<ruby><rb>頻々</rb><rt>ひんぴん</rt></ruby>たる変更に、適用せしめようとした発明は数多いが、もともと働かないための着物を、いつも着ていようというのだから無理ができるのである。

<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>には今一つ中古以来の習わしとして、晴着は町で買い調え、毎日の入用には家で造ったものを、着ることにしていた事実も考えてみなければならぬ。それが一朝にして全部工場の供給に移り、衣類は洗濯と<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>かなつくろいを除いて、すべて女性の管轄を離れ、亭主の財布の問題となってしまったのである。こんな気楽なまた自由なことは無いようなものだが、そのかわりには<ruby><rb>溜</rb><rt>た</rt></ruby>まるのは古臭い古着ばかりで、仕事着にでも着るよりほかに利用の<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>の無いもので、小さな女房などは<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>まってしまわなければならぬ。国民服をきめたいという<ruby><rb>志</rb><rt>こころざし</rt></ruby>はよいが、それにはよっぽど長持のする飽きない材料を選ばないと、<ruby><rb>揃</rb><rt>そろ</rt></ruby>いの快さを味わうのは一年にたった二度か三度で、常の日の人のなりふりは、それだけまた乱雑さを加えることに帰着するだろう。

## 三

我々が晴着を着なければならぬ機会は、現代に入って<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>非常に増している。しかし以前とても正月とか祝儀とかの、きちんと<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>っていればよい場合のほかに、別に活動する晴着というものが幾らもあったのである。たとえば祭礼の日にも宿老たちだけは、<ruby><rb>羽織</rb><rt>はおり</rt></ruby><ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>で<ruby><rb>扇子</rb><rt>せんす</rt></ruby>をもってあるくが、<ruby><rb>神輿</rb><rt>みこし</rt></ruby>を<ruby><rb>舁</rb><rt>かつ</rt></ruby>ぐ若い衆は派手な<ruby><rb>襦袢</rb><rt>じゅばん</rt></ruby>に新しい<ruby><rb>手拭鉢巻</rb><rt>てぬぐいはちまき</rt></ruby>、それが<ruby><rb>定</rb><rt>き</rt></ruby>まった晴着であった。近年制定せられた礼服なるものには、こういう晴衣はまったく認められていない。<ruby><rb>燕尾服</rb><rt>えんびふく</rt></ruby>ないしは<ruby><rb>裃</rb><rt>かみしも</rt></ruby>という式作法は、最初から多数の参加断念者を予期していたのである。是が無益の垣根となり、また忍び難い拘束と感ぜられるのは結構なことである。だから将来の国民服を考えている人たちは、仮に式服礼服に重きをおこうとも、または日常の衣裳を主としようとも、いずれにしても双方をできるだけ近いものにすることを企てなければならぬ。そうして一方はたまたまの用であり、他の一方は毎日の利不利に関するので、いかに工夫をしてみたところが、今のような礼服のおふるでは山にも行けず、また<ruby><rb>甲斐々々</rb><rt>かいがい</rt></ruby>しく田植をすることもできない。是にはやはり古風な<ruby><rb>村方</rb><rt>むらかた</rt></ruby>で、今でも稀には見られるように、数ある仕事着の中の最も新しい一つを、着て出ることを許すのがよいかと思うが、そうするとあらゆる職業別を超越した、統一ということが望めなくなるかも知れぬ。実際にまたそれまでの統一は、強いて行おうとすればきっと誰かが迷惑をする。

衣服の好みは是からもなお一層分化することであろう。そういう余力のある者の間に、勝手な形や思いつきが流行することまでは制止し難い。ただ多数の働く人々に心よく働ける着物と、大小の<ruby><rb>公</rb><rt>おおやけ</rt></ruby>の会合へ自由に着て出られる礼服とを、見立てて勧めることとは、誰かがその任に当って<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>らなければならぬ。今日の苦笑すべき紛乱は、むしろその要求の非常に急迫していることと、これに対する幾つかの提案の、まだどこかに<ruby><rb>楔</rb><rt>くさび</rt></ruby>の抜けた所があることを<ruby><rb>談</rb><rt>かた</rt></ruby>っているように私らには感じられる。だから採用せぬからとてやたらに相手の無知を責めてはいけない。無知が責むべきものならばそれはお互いさまである。全体洋服などと称して西洋からの借物でもあるように、なさけながっているのが悪い。自由に働こうと思えば<ruby><rb>筒袖</rb><rt>つつそで</rt></ruby>に<ruby><rb>細袴</rb><rt>ほそばかま</rt></ruby>、昔から是より以外の服制が有ろうはずはない。<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>だと思えばこそ<ruby><rb>小倉地</rb><rt>こくらじ</rt></ruby>の<ruby><rb>詰襟</rb><rt>つめえり</rt></ruby>なんかで、汗の放散を妨げてふうふうと苦しがらせたり、または寒くて乾燥した大陸でもないのに、あんな窮屈な<ruby><rb>靴</rb><rt>くつ</rt></ruby>を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>かせたり脱がせたり、泥ぼっかいの中をあるかせたり、手も洗わずに<ruby><rb>餅菓子</rb><rt>もちがし</rt></ruby>を食べさせたりするのである。そのような指導は誰がしたか。一言でいうならば麻の一千年間の便利なる経験を、まるまる<ruby><rb>省</rb><rt>かえり</rt></ruby>みなかった先覚とやらの誤謬ではないか。

都市の格別働かない人たちのいい加減な嗜好を、消費の標準にさせて気づかずにおけば、まずはこういう結果になって行くのが順当であろう。一ばん悩んでいるのはおそらくは女の髪である。僅か百年ばかりも頭をむき出しで、あるきまわるのをよいとしていたら、今ではなんとも<ruby><rb>頬</rb><rt>ほお</rt></ruby>がえしのつかぬことになってしまった。<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>り物の作法は衰頽の一途をたどっている。折角単純な公私両<ruby><rb>用</rb><rt>もち</rt></ruby>いの服装を考え出したところで、はき物・被り物を自然の変化に放任しておいたら、頭は<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>を怖れ足は泥を怖れて、働こうという男女の職業は茶屋か<ruby><rb>店屋</rb><rt>みせや</rt></ruby>か、行く先はおおよそきまっている。こういう細かな利害得失は、もう自分で考えるだけの能力は具えている人が多い。実は我々は余計な指図をするかわりに、もう少し詳しく今までの変遷を、彼らに知らせるようにした方がよかったのである。

  


## 団子と昔話

## 一

穀物を粉にしてから調製した食物を、<ruby><rb>飛騨</rb><rt>ひだ</rt></ruby>ではモチと<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>う場合が幾つかある。<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>はどういうわけか、他にもあることだろうかと、<ruby><rb>江馬</rb><rt>えま</rt></ruby>夫人は疑っておられる。こういう自然の疑いは、時としては答えよりも尊い。同じ事実は随分と多くの地方にあるのだが、今までそれに気をつけた人は無いからである。

是は何故に<ruby><rb>団子</rb><rt>だんご</rt></ruby>とは言わぬだろうかという問題に、結局は帰着するのでないかと思う。そうでなければ何故にシトギという語を、我々が使わなくなったろうかという問題になるのかも知れぬ。そうしてこの二つの変遷こそは、日本の食物史においてかなり重要な、しかもまだ真白な数頁なのである。是を明白にする手段は書かれたる書物の中には無い。この変遷があまりにも公々然と、何らの情実も秘密も無しに、ただ少しばかり<ruby><rb>緩々</rb><rt>ゆるゆる</rt></ruby>と、凡俗大衆の前において行われたために、甲から乙に話して聴かせるような必要が、少しも無かったからである。こういう無意識の歴史だけは、痕跡の方から<ruby><rb>溯</rb><rt>さかのぼ</rt></ruby>って尋ねて行くよりほかに方法がない。江馬さんが飛騨で得られた事実も史料の一つであるが、是を有力にするにはなお多くの状態を、比べ合わせて見なければならぬ点が、少しばかり<ruby><rb>厄介</rb><rt>やっかい</rt></ruby>なのである。粉をまとめた<ruby><rb>餅</rb><rt>もち</rt></ruby>を団子とは言わぬ<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>は実はそちこちにある。そういう土地でもモチとはもう謂わなくなって、何か第三の語を用いているのが多い。それを集めて行くと、今日の団子になって来た経歴がわかるかも知れぬ。今は細かな列記はできないが、東北はやや<ruby><rb>弘</rb><rt>ひろ</rt></ruby>く、ダンスまたはダンシと謂っており、或いは率直にオマルという所もある。団が外来語なることはよくわかるが、その意味が形の丸いところから来ていることは、もうダンゴという人たちも忘れたらしいのである。しかし現在でも「団子のような」といえば<ruby><rb>円</rb><rt>まる</rt></ruby>い物を意味するから、元は円いのに限ってそう呼んだことが察せられる。誰がこういう面倒な名を、常民に教えたろうかは次の問題になるが、この点は<ruby><rb>真言宗</rb><rt>しんごんしゅう</rt></ruby>の僧にでもきけばわかる。彼らの行相の書には<ruby><rb>支那</rb><rt>シナ</rt></ruby>以来、団という名をもってこの形の<ruby><rb>供物</rb><rt>くもつ</rt></ruby>に<ruby><rb>充</rb><rt>あ</rt></ruby>てているからである。ダンゴは始めは「<ruby><rb>壇供</rb><rt>だんく</rt></ruby>」とでも書くものかと私も思っていたが、その方はかえって書物には見えない。団子は捜したら出典があるかも知らぬが、是をもし知っていたらかえって重箱読みはできないだろう。むしろ文字無しに耳で学んだ故に、ゴの字を附けることも気が<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めなかったのであろうと思う。

## 二

いつ頃から<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>らばこのダンゴという語が始まったかというと、それだけは<ruby><rb>湛念</rb><rt>たんねん</rt></ruby>に記録を見るよりほかはないが、そんな手数をかけるがものはあるまい。近頃見た本では文禄頃の『<ruby><rb>鹿苑</rb><rt>ろくおん</rt></ruby>日録』の中にはあった。京都では大抵あの頃くらいが始めで、地方はもっと後と見ておいてそう大きな誤りもあるまい。昔話の中では団子を題材にしたものが少なくとも二つはある。一つはおろか<ruby><rb>聟</rb><rt>むこ</rt></ruby>の話で、嫁の里に行ってそれを<ruby><rb>御馳走</rb><rt>ごちそう</rt></ruby>になり、名を教えてもらって<ruby><rb>還</rb><rt>かえ</rt></ruby>る<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>すがら、溝を飛び越えた<ruby><rb>拍子</rb><rt>ひょうし</rt></ruby>にその掛声と取ちがえ、ピョイトコサ（等々）を<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えろと嫁に命じ、それを知らぬというので怒って<ruby><rb>火吹竹</rb><rt>ひふきだけ</rt></ruby>で打つ。まア団子のような<ruby><rb>瘤</rb><rt>こぶ</rt></ruby>ができた。おうそのダンゴよというのが落ち。いくら馬鹿聟でも今なら暗記にも苦しむまいし、また自宅では食ったことがないとも言えまい。おおよそこの名称が数奇としてもてはやされた時代の、作り話だということは察せられる。それからもう一つ、<ruby><rb>爺</rb><rt>じい</rt></ruby>が団子を食べようとして取落すと、ころころと<ruby><rb>転</rb><rt>ころ</rt></ruby>がって<ruby><rb>鼠穴</rb><rt>ねずみあな</rt></ruby>へ入ったのを、<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>から追掛けて尋ねて行くという話で、団子待て待てどこへ行く、地蔵様のそばまで、などという問答さえあるからふざけている。ただしこの話の<ruby><rb>輪廓</rb><rt>りんかく</rt></ruby>は古い形で、<ruby><rb>鼠</rb><rt>ねずみ</rt></ruby>に<ruby><rb>蕎麦餅</rb><rt>そばもち</rt></ruby>を御馳走した御礼に、招かれて鼠の国へ行くというのと、穴へ握飯を落したのを追掛けて入ると、中には地蔵様がいてわしが御馳走になった。そのかわりに御礼をすると<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>って鬼の<ruby><rb>博奕</rb><rt>ばくち</rt></ruby>の金をさらえさせる話とがある。前者を鼠の浄土というから、我々は後の方を地蔵浄土、その<ruby><rb>序</rb><rt>ついで</rt></ruby>に団子の転がって行く話を、団子浄土と呼ぶことにしている。鼠浄土の方は「猫さえいなけりゃ云々」の<ruby><rb>餅搗歌</rb><rt>もちつきうた</rt></ruby>などがあるために、子どもにはわかりやすくまたもてはやされているが、古くあったかと思う動物<ruby><rb>報恩譚</rb><rt>ほうおんたん</rt></ruby>から見ると、かなり著しい誇張があり笑話化がある。地蔵浄土も東北と九州とに伝わるものは、地下仙郷譚のなつかしい原型がやや<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>われるが、他の多くの例はみな法外な改造を受けている。しかるにもかかわらず、半分以上はまだ蕎麦餅とか握飯とかで、団子がその以後になってようやくころころと転がり出したものであることは確かである。つまりこの食物の名前と形とが、一つの新しい興味であった時代の、産物であっただけは疑いがないので、しかもその二つの説話のできたのがいつと言えないかぎりは、何だか<ruby><rb>鴉</rb><rt>からす</rt></ruby>の黒雲みたような証拠物だが、<ruby><rb>此方</rb><rt>こちら</rt></ruby>は実はあらまし見当がつくのである。

## 三

そこで第二の問題としては、団とか団子とかいう外来の新語が、尋常家庭の小さな供物にまで、またそれからさらに転じて<ruby><rb>只</rb><rt>ただ</rt></ruby>の慰みの食物にまで、適用せられるようになった以前には、米や他の穀粉をこねて製したこの特殊の食物を、何と呼んでいたろうかが考えられるのだが、実は私などはそれがやはりモチであったと思うのである。「粢」もしくは「餈」の字を<ruby><rb>宛</rb><rt>あ</rt></ruby>てたシトギという古語は、明らかに粉製のものの名であって、これを今日<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>うところの餅と区別するにはちょうど似つかわしく、何故<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>が不用に帰したかを<ruby><rb>恠</rb><rt>あや</rt></ruby>しむばかりであるが、元来この語の成立ちには一つの約束があり、一方にはまた餅の製し方に、かなり著しい古今の変遷があったのである。この変遷の眼目は、<ruby><rb>横杵</rb><rt>よこぎね</rt></ruby>の発明にあったことは明らかだと思う。『<ruby><rb>和漢三才図会</rb><rt>わかんさんさいずえ</rt></ruby>』に<ruby><rb>搗杵</rb><rt>つきぎね</rt></ruby>、カチキネなどと呼んでいる現在の杵は、そう昔からあったものでなく、多分はカラウスと前後して共に外から学んだかと思うが、そうでないまでも元の用法は、米を大量に<ruby><rb>精</rb><rt>しら</rt></ruby>げるための杵であって、後に餅搗きにこれを転用したことは、今でも<ruby><rb>餅臼</rb><rt>もちうす</rt></ruby>が是と<ruby><rb>不釣合</rb><rt>ふつりあい</rt></ruby>に小さいのを見てもわかる。横に<ruby><rb>柄</rb><rt>え</rt></ruby>のあるこの形状の杵が生まれなかったら、蒸した<ruby><rb>糯米</rb><rt>もちごめ</rt></ruby>を<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>して餅にすることはできない。従って現に沖縄県などでもそうしているように、モチはことごとく粉からこしらえなければならぬわけである。私たちの知るかぎりでは、東京で以前ツキヌキ団子と<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>ったものが、この一期前の餅製法を伝えているように思う。すなわち粉を練ったものをさらに<ruby><rb>蒸籠</rb><rt>せいろう</rt></ruby>にかけて、粘りをつけてからもう一度杵でこねるのである。モチの米という名はすでに『<ruby><rb>和名鈔</rb><rt>わみょうしょう</rt></ruby>』にも見え、モチという言葉は<ruby><rb>鳥黐</rb><rt>とりもち</rt></ruby>も同じに、粘ることを意味したようだが、それだからとて今と同じ餅が、古くからあったとはかぎらない。横杵以前の餅は<ruby><rb>糯米</rb><rt>もちごめ</rt></ruby>を用いても、やや粘るというだけでずっと歯切がよく、むしろいわゆる団子の平たいのと、近いものであったろうかと思う。そうして<ruby><rb>強飯</rb><rt>こわめし</rt></ruby>でもなく<ruby><rb>萩</rb><rt>はぎ</rt></ruby>の餅よりもさらによく<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>された新式の餅が、世に現われて<ruby><rb>喝采</rb><rt>かっさい</rt></ruby>せられ、始めて多くの人を餅好きにしたのではないかと思う。

## 四

是は「食物と心臓」などという文章の中に、もう大分説き立てているところであるが、私の想像している餅の最初の効用は、味よりもさらに形であった。他の多くの食物では、芋や大根などの二三の例外を除けば、これを独立させて好みの形をこしらえることができぬのに、是のみ大小方円思いのままで、神にも捧げ人にも進めるのに、これを供するものの心持が自由に現われる。その点がこの食品の正式の<ruby><rb>供饌</rb><rt>ぐせん</rt></ruby>として、欠くべからざるものになった原因らしいのである。この目的のためにも、現代の餅は一番に苦心を要する。<ruby><rb>鏡餅</rb><rt>かがみもち</rt></ruby>の腰を高く、あまり<ruby><rb>取粉</rb><rt>とりこ</rt></ruby>を使わずに色沢のよいものを作ろうとすれば、相応に手腕のある餅搗きを頼まなければならぬ。それに比べるといわゆる団子はやや便利であるが、さらに今一段と理想的なものとして、昔からシトギというものがあったのである。シトギの製法は全国ほぼ共通で、一見したところいかにも古風である。洗い清めた白米を或る時間水に浸し、それが柔かくなったのを<ruby><rb>見測</rb><rt>みはか</rt></ruby>らって小さな臼に入れて、<ruby><rb>手杵</rb><rt>てぎね</rt></ruby>すなわち<ruby><rb>竪</rb><rt>たて</rt></ruby>の杵で<ruby><rb>搗</rb><rt>つ</rt></ruby>き砕くのである。そうして生のままですぐに<ruby><rb>折敷</rb><rt>おしき</rt></ruby>の上に取るのだから、巧みを加えずとも自然に<ruby><rb>御鏡</rb><rt>おかがみ</rt></ruby>の形に成るのだが、今日の生活においては、それだけのものを出来上った食物と言えるかどうかが、まだ少しばかりの問題にはなり得る。この点は米をなまで食う習慣の消長と大きな関係がある。日本人の歯というものは、何かよくよくの理由があって、近世に入って急にその働きが鈍り、入歯だ金歯だという騒ぎがえらくなった。<ruby><rb>米噛</rb><rt>こめか</rt></ruby>みという名称は、まだ記憶せられているにもかかわらず、それを意識する機会は絶無になりかけている。色々柔かい食物が増加したためばかりでもないらしい。<ruby><rb>種蒔</rb><rt>たねま</rt></ruby>きと<ruby><rb>苅掛</rb><rt>かりか</rt></ruby>けの日の<ruby><rb>焼米</rb><rt>やきごめ</rt></ruby>だけは、まだ型ばかりは残ってもいるが、<ruby><rb>生米</rb><rt>なまごめ</rt></ruby>をつかんで口に入れるようなことは、生米<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>むべからずという戒めが無くとも、もう<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>でも見ることが稀になった。こうなれば生の<ruby><rb>粢</rb><rt>しとぎ</rt></ruby>を神様だけに上げるのが、むしろまた一つの疑問になろうも知れぬ。

## 五

シトギという語には、現在はいくつかの方言ができている。飛騨では何というか尋ねたいと思うが、信州から<ruby><rb>越後</rb><rt>えちご</rt></ruby>の方へかけては一般にカラコまたはオカラモチといい、<ruby><rb>美濃</rb><rt>みの</rt></ruby>から東海道一帯はシラコモチ、その附近ではまたシロモチというのが普通だから、多分この二つのいずれかだろうと思う。白餅というのは誠によく当っている。こういう色をしたものは他の餅類には無いからである。これをこしらえるのは旧十月の神送り、冬春両度の山の神祭の時などで、家々の楽しみだけには作るということもないが、小児は好奇心が多いから決して軽蔑せず、今でも口を白くしてその供物の<ruby><rb>卸</rb><rt>おろ</rt></ruby>しを食べまわっているという話も聴いた。しかし大抵の成人はそれを持って<ruby><rb>還</rb><rt>かえ</rt></ruby>って、焼いたり煮たりして食べる。奥羽にはシトギという語がなお行われ（アイヌ人もシットギ）、またナマストギ・ニシトギという言葉もよく聴くから、或いは尋常の食物としてもこれを製することがあるのかも知らぬが、その他の地方では<ruby><rb>偶々</rb><rt>たまたま</rt></ruby>同じ語があっても、それは<ruby><rb>只</rb><rt>ただ</rt></ruby>至って限られたる意味に用いられる。たとえば<ruby><rb>普請</rb><rt>ふしん</rt></ruby>の<ruby><rb>棟上</rb><rt>むねあ</rt></ruby>げの日に投げる餅、死人のあった時に<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐに造って供える団子などは、その製法がすでに今風になっていても、なおこれをシトギと謂う土地が全国に<ruby><rb>亘</rb><rt>わた</rt></ruby>って相応に多く、或いはもう元の語音をなくして、ヒトギだのシトミダンゴだのという者もできている。手杵と小臼は現在はすでにすたれて、都会の小児などは月中の<ruby><rb>兎</rb><rt>うさぎ</rt></ruby>の絵か、そうでなければ家の<ruby><rb>紋</rb><rt>もん</rt></ruby>に、杵と称して横に柄をつけぬものを見るくらいになっているが、是は一言でいうと『<ruby><rb>和漢三才図会</rb><rt>わかんさんさいずえ</rt></ruby>』時代以後、二百年足らずの間の変遷で、主なる原因は石臼の普及、もう少し細かく言えば、臼の目立てと称して、一種尖って刃のついた<ruby><rb>金槌</rb><rt>かなづち</rt></ruby>をもって石臼に目を切る職人が、農村の<ruby><rb>隅々</rb><rt>すみずみ</rt></ruby>まで巡回するようになった結果であり、豆腐の流行などとおおよそ歩調を合わせていると思う。

## 六

この点も私は飛騨の山村の実際が、はたしてこの推測に合うか否かを知りたいと念じている。石臼は薬材を細末にするために、また<ruby><rb>挽</rb><rt>ひ</rt></ruby>き茶の調製にも使われ、日本には相応に古い頃から存在したろうが、それが家々の食物調製にまで、利用し得られるには条件があった。現に離れ島や九州の外側海岸などには、今も豆腐は知っていても、家にはまだ<ruby><rb>挽臼</rb><rt>ひきうす</rt></ruby>を備えない例が稀なりとせぬ。『<ruby><rb>炭俵</rb><rt>すみだわら</rt></ruby>』の連句に、

江戸の<ruby><rb>左右</rb><rt>さう</rt></ruby>むかひの亭主登られて　　　　芭蕉

こちにもいれどから臼を貸す　　　　　<ruby><rb>野坡</rb><rt>やば</rt></ruby>

方々に<ruby><rb>十夜</rb><rt>じふや</rt></ruby>のうちの<ruby><rb>鉦</rb><rt>かね</rt></ruby>の<ruby><rb>音</rb><rt>おと</rt></ruby>　　　　　　　芭蕉

という有名な一続きがあるが、<ruby><rb>前句</rb><rt>まえく</rt></ruby>が向いの亭主、<ruby><rb>受句</rb><rt>うけく</rt></ruby>が十夜だからこのから臼は、<ruby><rb>粉挽臼</rb><rt>こなひきうす</rt></ruby>であることが察せられる。すなわちまだあの時代までは中央部の都会でも、家々に一つずつの石臼は無かったのである。から臼という言葉は今日の辞典を見ると、こんな石臼までは含んでいない。普通に「<ruby><rb>地</rb><rt>じ</rt></ruby>がら」と呼ぶ地面へはめこんだ石の<ruby><rb>搗臼</rb><rt>つきうす</rt></ruby>、是も『<ruby><rb>続猿蓑</rb><rt>ぞくさるみの</rt></ruby>』には、

<ruby><rb>一石</rb><rt>いっこく</rt></ruby><ruby><rb>踏</rb><rt>ふ</rt></ruby>みしから<ruby><rb>臼</rb><rt>うす</rt></ruby>の米　　　　　　　　　<ruby><rb>沾圃</rb><rt>せんぽ</rt></ruby>

などという句があるから、当時すでにこの「地がら」をもそう<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>っていたのである。次には<ruby><rb>挽木</rb><rt>ひきぎ</rt></ruby>を取附けた<ruby><rb>籾摺臼</rb><rt>もみすりうす</rt></ruby>、是は<ruby><rb>籾殻</rb><rt>もみがら</rt></ruby>を出すので殻臼だなどと謂う説もあるが、根っから当てにはならない。いずれにもせよこの二種のから臼では、前者は<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>貸借りができず、また籾摺臼も町中には有ろうとも思えぬから、別にもう一つの小形の石臼も、同じ名をもって呼ばれていたので、起こりはかえって<ruby><rb>此方</rb><rt>こちら</rt></ruby>にあり、廻わして引くという根本の法則が、ともに在来の搗臼とはちがっている故に、大小を通して<ruby><rb>唐臼</rb><rt>からうす</rt></ruby>と謂い、「地がら」はすなわち地唐臼であって、系統は異なるが<ruby><rb>杵</rb><rt>きね</rt></ruby>を用いぬという特徴のために、是またカラという語を冠せるにふさわしかったのであろう。

## 七

搗臼で粉を造ることは、今から考えると煩わしい作業であった。シトギのごとく湿った粉でよければ、水に浸して柔かくしてもおける。きな粉・<ruby><rb>炒粉</rb><rt>いりこ</rt></ruby>のように火にかけたものもまた<ruby><rb>砕</rb><rt>くだ</rt></ruby>けやすい。<ruby><rb>蕎麦</rb><rt>そば</rt></ruby>などは押し潰せるから是もまだ始末がよい。生米・生小麦を粉にして貯え、入用の時に出して使うということは、挽臼無き時代にはほとんと望み難かった。したがっていわゆる時々の好み物の調理には、かなり女たちの長い骨折りな準備を要したのである。一たび石臼の目立ての村に入り込む時代がくると、是が彼らに調法がられ、<ruby><rb>手杵</rb><rt>てぎね</rt></ruby>が純乎たる兎の持物になってしまった事情も想像するに余りがある。関東地方の粉の需要は、それでもまだ足りなくて粉屋という商売が起こり、かの豊年万作の<ruby><rb>踊歌</rb><rt>おどりうた</rt></ruby>にもまた村々の粉ひき歌にも、粉屋の娘が人望ある題材となっている。

マコとかシンコという言葉が、通例米の粉の名となっているのも、<ruby><rb>絹篩</rb><rt>きぬふるい</rt></ruby>という目の細かな篩が流行して、書物の名とさえなったのも、ともに近代の製粉界の改良第一を語るものであった。そうして同時にまた年久しきシトギ文化の、退縮を意味するものである。物固い旧家だけでは、神祭の餅ばかりは古風によって、<ruby><rb>生粢</rb><rt>なましとぎ</rt></ruby>をこしらえていたかも知らぬが、是も他の一方に<ruby><rb>練餅</rb><rt>ねりもち</rt></ruby>の堂々として且つうまいものが<ruby><rb>搗立</rb><rt>つきた</rt></ruby>てられるようになっては、此方が感じもよく、また現実には<ruby><rb>直会</rb><rt>なおらい</rt></ruby>にも便利であった。それに第一元のような杵と臼とが、もう家ごとには備わっておらぬようになって、<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>によっては<ruby><rb>擂木</rb><rt>すりこぎ</rt></ruby>すなわち<ruby><rb>摺小杵</rb><rt>すりこぎね</rt></ruby>をもって、米を砕いてシトギを作ろうとしている。こうなっては保存の価値がいよいよ減少するのである。

## 八

餅と団子との今日のような明白な区別は、要するに杵と臼との二方面の改革に始まると、私などはほぼ確信している。それ以前は両者製法も近く、味もまたよく似ていたことと思われる。名称の方から言っても、モチは必ずしも<ruby><rb>糯米</rb><rt>もちごめ</rt></ruby>で製したものに限らず、またシトギを焼いたりうでたりして、食いやすくしたものだけがモチだとも限らなかったと私は思う。というわけは、生でも米の粉だけは結構食べられたからである。餅は搗いた当日は決して焼いてはならぬと謂い、或いは正月三ガ日だけは焼いて食うことを戒めたりする風もある。実際また神には生で供え、人は焼かなければ食べぬなどということは、今日の神道祭式には認められているが、少なくとも民間の<ruby><rb>節供</rb><rt>せっく</rt></ruby>思想、すなわち神と人の<ruby><rb>食饌</rb><rt>しょくせん</rt></ruby>を同じくする習慣とは反するのである。ただしシトギはシト打ツなどという語とともに、水で湿らせる意味から出たかとも思うが、モチの語原に至っては今はまだはっきりとしていない。或いは古くはモチヒと謂ったから、モチイヒすなわち今日のお<ruby><rb>萩</rb><rt>はぎ</rt></ruby>・<ruby><rb>牡丹餅</rb><rt>ぼたもち</rt></ruby>のようなものだけが、モチであったはずだと思う人があるかも知らぬが、仮にそうだったところが、しからばモチイヒのモチは何かという問題の答えにはならない。のみならず餅は中世以前でもやはり<ruby><rb>定</rb><rt>きま</rt></ruby>った形があり、且つ個人の所属の明らかな御供えであって、この点が飯や汁の共有状態にあるものから一歩出ている。そうしてモチヒがイヒの一種だという推測もやや<ruby><rb>恠</rb><rt>あや</rt></ruby>しいのである。是が安心してよい解説のつくまでは、我々はなお何度でもくり返して、江馬夫人のごとき率直なる疑惑を、表示しつつ進むのほかは無いのである。

  


## 餅と臼と擂鉢

## 一

私の研究は着手が遅く、またこの問題があまりにも広汎であるために、いまだ全般の傾向を一つの文章に要約し得る状態にまでは達していない。<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>かに比較的重要だと思う若干の事実を、やや順序立てて叙述することによって、幾分でも<ruby><rb>嗣</rb><rt>つ</rt></ruby>いで起こる学者の労力を省くことができるとすれば、まずそれをもって一応は満足しなければならぬ。標題のいささか奇を好んだのは、古来不当に省みられなかった一箇の大きな生活問題のために、もう少し多くの経済史家の注意を引きつけたいからである。

食物の変遷、我々日本人の食事が前代と比べて見て、いかに改まっているかを知るには、最初にまず<ruby><rb>晴</rb><rt>はれ</rt></ruby>と<ruby><rb>褻</rb><rt>け</rt></ruby>との差別を明らかにしてかかる必要がある。いずれの民族においても共通に、この二つの者の次第に混同してきたことが、近世の最も主要なる特徴であったからである。晴と褻との対立は、衣服においては殊に顕著であったように考えられている。<ruby><rb>晴衣</rb><rt>はれぎ</rt></ruby>という語は標準語中にもなお存し、<ruby><rb>褻衣</rb><rt>けぎ</rt></ruby>という語も<ruby><rb>対馬</rb><rt>つしま</rt></ruby>・<ruby><rb>五島</rb><rt>ごとう</rt></ruby>・<ruby><rb>天草</rb><rt>あまくさ</rt></ruby>など、九州の島々には方言として行われている。すなわち一部には今も<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>きて働いているのだが、しかも両者の境目は次第に忘れられようとしている。たとえばイッチョウラという語は、<ruby><rb>一梃蝋燭</rb><rt>いっちょうろうそく</rt></ruby>という戯語から出たもので、ケにもハレにも<ruby><rb>是</rb><rt>こ</rt></ruby>れ一つということを意味したものであるが、何でそういい出したかを知る者が無い。「ケにもハレにも」という成句自身も、折々これを用いる老人などは有るが、すでに間違えてしまって、「テンもハリヤも」などと<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>っている土地は少なくない。そうして我々の常用の褻衣には、晴衣の古くなったのをそのまま用いるようになってしまった。<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>に比べると食物にはなお事実上の差異が少しは<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>っている。我々は改まった節には晴の<ruby><rb>膳</rb><rt>ぜん</rt></ruby>に坐り、常の日には今でも褻の飯を食っているのである。すなわち眼前の事実を観測して、その中から年久しい慣習の跡を<ruby><rb>覓</rb><rt>もと</rt></ruby>めることができるのである。

都会では今や宴会のほとんと全部が家の外の食事、もしくは主人一人の食事となって、これより他には晴の食事をする場合が無くなった。家々の家族は毎日のように、東京でいわゆる<ruby><rb>御惣菜</rb><rt>おそうざい</rt></ruby>ばかりで御飯を食べている。これに反して<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>では、正月と<ruby><rb>盆</rb><rt>ぼん</rt></ruby>は申すに及ばず、大小の祭礼や休みの日には、カハリモノと称して通例でない食物を給与せられる。常の日の食物が思い切って平凡であるだけに、家族一同婦人小児までが、これに参与することを楽しみにしている。すなわち今でも改まった晴の食事の機会は多いのである。節供は本来はこの食事を意味する語であった。供とは共同食事、神や祖霊とともにすべての家族が<ruby><rb>相</rb><rt>あい</rt></ruby>饗することであり、節はすなわち折目、改まった日ということであった。オセチという語は年越の日の食事の名に残っているが、或いはまた<ruby><rb>餅</rb><rt>もち</rt></ruby>を意味する地方もある。こういう晴の食事には、衣服もまた晴のものを着た。それ故に晴着を「餅食い衣裳」という例も有るのである。

数量回数の点からいうと、褻の食事の日は一年に三百日以上、朝夕二食を<ruby><rb>算</rb><rt>かぞ</rt></ruby>えると七百回近くまでがそれであり、非常に貧しければ晴の食はもっと少なくなる。経済上の重要度は、むろんこの方が遥かに高いと言い得る。世の多くの学者の食物論が、<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>ばかりを目標としているのも一応の理由は有る。しかし他の一方の重要性はいわば宗教的であった。我々の精神文化と深い交渉のあるのは、もっぱら晴の食物であったのみならず、それがまた全体の生活様式に、人知れぬ<ruby><rb>刺戟</rb><rt>しげき</rt></ruby>を与えていることも事実である。史書文献の今日に伝わっているものは、通例はこの部分に限られている。料理という語は晴の食物を調製することだけを意味し、料理物語という類の記述は常の日の食事には触れていない。したがって当世の経済史家、すなわち文書に<ruby><rb>拠</rb><rt>よ</rt></ruby>って食物の歴史を知ろうとする人々は、自身まずこの晴の食事の慣習の影響を受けざるを得ないのである。問題の重要性は常の食物の上に認めて、是を<ruby><rb>詳</rb><rt>つまびら</rt></ruby>かにせんとする史料は、異常食事の記録に求めていたのである。現代の学界がこの最も痛切なる消費経済の沿革に関して、いまだ多くのものを我々に教えなかったのは、一言でいうならばこの方法の<ruby><rb>誤謬</rb><rt>ごびゅう</rt></ruby>からである。それで私はここに改めて、現在眼前に横たわっている書外史料、すなわち我々が自身の眼と耳とをもって、直接に観測し採録し得る社会事実をして、自らその履歴を語らしめようとするのである。

## 二

晴の食事の形の崩れた理由としては、いくつかの重要なものが挙げられるが、最初に気のつくことは是と常の食事との中間に、どっちつかずのものが現われてきたことである。ヒルマすなわち昼食というものが我々にも普通となり、いわゆる三度の食事を要するに至ったのは最も大きい変遷である。以前の食事が朝夕の二度であったことは、江戸期の学者もこれを説いている。<ruby><rb>奥羽</rb><rt>おうう</rt></ruby>で一般に<ruby><rb>一</rb><rt>いっ</rt></ruby>パイと謂い、九州ではゴ<ruby><rb>一</rb><rt>ひと</rt></ruby>つと称えたのは、ともに今日の<ruby><rb>桝目</rb><rt>ますめ</rt></ruby>の約二<ruby><rb>合</rb><rt>ごう</rt></ruby>五<ruby><rb>勺</rb><rt>しゃく</rt></ruby>であった。是が<ruby><rb>一人扶持</rb><rt>いちにんぶち</rt></ruby>の五合を二つに分けて、朝夕かたけずつ食わせた痕跡であることは疑いが無い。多くの農家には関西でゲビツ、東北でケシネギツなどという<ruby><rb>糧米櫃</rb><rt>ろうまいびつ</rt></ruby>があって、その中にはほぼその分量を盛る<ruby><rb>瓢</rb><rt>ひさご</rt></ruby>または<ruby><rb>古椀</rb><rt>ふるわん</rt></ruby>などが入れてあった。この器をもって家に働く者の名を思いつつ量り出せば、主婦には掛け算の胸算用をする必要が無かった。そうして常の日の食物ごしらえは、今よりもはるかに簡略で済んだのである。

ヒルマは元来は<ruby><rb>餉</rb><rt>しょう</rt></ruby>すなわち運搬せられる食物の名であった。今でも是を家における昼飯と区別して、田植の日などに屋外へ持ってくるものだけを、ヒルマと呼んでいる地方は多い。おそらくは最初或る特殊の作業の日だけに、こういう食物を調えて<ruby><rb>田人</rb><rt>たびと</rt></ruby>をねぎろうていた習慣が、追々に拡張してきたものであろう。しかも<ruby><rb>烈</rb><rt>はげ</rt></ruby>しく働く日が多くなって、三度はいつの日でも食わずにおれぬようになったのみならず、さらにそれ以上に春の末から夏にかけて、午前と午後ともう一度ずつのコビルというものを運び出すことにさえなった。総計で少なくとも五度は食事をする。是などは明らかに上代からの旧慣ではなかったのである。

<ruby><rb>小昼</rb><rt>こひる</rt></ruby>は<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>でも午前十時頃と、午後三時頃とに給与せられる。関東では普通に是をコヂウハン（小昼飯）、もしくはコヂハンなどと<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>うが、東北は秋田県のごとく、昔の通りコビリマンマという土地も多い。<ruby><rb>越中</rb><rt>えっちゅう</rt></ruby>では<ruby><rb>訛</rb><rt>なま</rt></ruby>ってコボレと謂い、またナカマとも謂っている。ナカマはすなわち中間食の意で、九州でも<ruby><rb>薩摩</rb><rt>さつま</rt></ruby>の南端でナカンマとも呼んでいるから、かなり古くからの名であったことがわかる。山陰地方は一帯に、この食事をハシマと謂って通ずる。ハシマもハサマもまた中間の食物の意であって、村によって是をまた小バシマとも、コバサマとも謂うのを見ると、前のコビルマと同様に、ハシマが本来は今の昼飯のことを意味したことが察せられる。すなわちハサマはもと朝夕二度の常食の中間にたべるものの名であったが、昼飯が定例となると、さらに転じて是と朝夕二度の飯との、中間のものを指すことになったのみならず、今日九州北部などにおいて、ハサグヒまたはハダグヒと謂うのは、ただのお<ruby><rb>八</rb><rt>や</rt></ruby>つやお十時の間食を意味するのである。<ruby><rb>近畿</rb><rt>きんき</rt></ruby>とその周囲の諸県でケンズイという語は、『<ruby><rb>閑田耕筆</rb><rt>かんでんこうひつ</rt></ruby>』にもすでに注意しているごとく、「間食」の<ruby><rb>呉音</rb><rt>ごおん</rt></ruby>であって寺家から出た言葉らしいが、是を東国の小昼飯の意味に農村では用いており、<ruby><rb>町方</rb><rt>まちかた</rt></ruby>では子どもに与えるナンゾと同じように解しているほかに、中国・九州では普請の日に、大工や手伝に給与する酒食にかぎって、ケンズイまたはケンジーと謂う土地も多い。言葉は保存せられても内容はもう変化しているのである。

右の五回の食事のほかに、また夜食というものがある。夜なべに働く人々に食わせるだけでなく<ruby><rb>吉凶</rb><rt>きっきょう</rt></ruby>さまざまの事件のために、夜遅くまで起きている人にも出す。日中の間食を或いはヒナガとも謂うに対して、是をヨナガというのは夜長であろう。<ruby><rb>肥前</rb><rt>ひぜん</rt></ruby>の<ruby><rb>島原</rb><rt>しまばら</rt></ruby>半島などでは是をヨナガリとも謂うそうである。妙な言葉であるがその起原は、朝食をアサガリという語にかぶれたものと思う。アガルは田畠仕事場から<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>ってくること、すなわち休息を意味する。どんなにせわしい日でも食事の時間だけは休む。それで食事をアガリとは謂い始めたのである。朝上りという語は通例の朝飯以前にすでに一働き働いていた痕跡にほかならぬ。多くの農家ではその朝仕事に就くために、別に起きぬけに簡単なる一回の間食をさせている。それと夜食とを加えると、都合七度は食うことになるのである。この早天の間食を、陸中<ruby><rb>遠野</rb><rt>とおの</rt></ruby>などでアサナガシというのは古語らしいが、今は全国ほぼ一様に是をオチャノコと呼ぶことになっている。御茶の子の材料は<ruby><rb>区々</rb><rt>まちまち</rt></ruby>である。<ruby><rb>鍋</rb><rt>なべ</rt></ruby>に残った前夜の飯の余りを食う場合もあるが、東日本では普通そのために<ruby><rb>焼餅</rb><rt>やきもち</rt></ruby>というものがある。<ruby><rb>稗</rb><rt>ひえ</rt></ruby>や<ruby><rb>蕎麦</rb><rt>そば</rt></ruby>の<ruby><rb>粉</rb><rt>こ</rt></ruby>や<ruby><rb>屑米</rb><rt>くずまい</rt></ruby>を<ruby><rb>挽</rb><rt>ひ</rt></ruby>いたものを水で練って、大きな<ruby><rb>団子</rb><rt>だんご</rt></ruby>にして<ruby><rb>炉</rb><rt>ろ</rt></ruby>の火に打ち込んで焼く。それを引き出して灰を払い落したものが一個ずつ与えられる。山村では馬上にそれをかじりながら、娘や男が朝草を<ruby><rb>苅</rb><rt>か</rt></ruby>りに出かけるのである。江戸でも以前はそういう生活があったと見えて、楽な仕事だ小さな骨折りだという意味に、「そんな事は朝飯前だ」とも謂えば、また「そんな事はお茶の子だ」とも謂っている。すなわち御茶の子は朝飯前の食事であったのである。

茶は農民の最も愛用したものと見えて、ハシマ・コバサマ・コヂウハンのことを、御茶と呼んでいる地方も甚だ多く、食事と食事との間の時間を、ヒトコマンチャなどと薩摩では謂っており、単にチャドキといえば午後三時もしくは午前十時頃を意味していた。茶とはいうけれども必ず固形物を伴ない、それも漬物の塩気ぐらいでは、働く人々は承知しなかった。オケヂャもしくはウケヂャという食物は、日本海側では<ruby><rb>越後</rb><rt>えちご</rt></ruby>や<ruby><rb>出雲</rb><rt>いずも</rt></ruby>、太平洋側では紀州の<ruby><rb>熊野</rb><rt>くまの</rt></ruby>、<ruby><rb>備中</rb><rt>びっちゅう</rt></ruby>あたりにも分布している。或いは<ruby><rb>炒米</rb><rt>いりごめ</rt></ruby>と<ruby><rb>甘藷</rb><rt>かんしょ</rt></ruby>とを合せ炊き、または豆飯であったり茶飯であったりするが、とにかくにどこでも味附け飯のことをそう謂っている。こういう一種の食物が発明せられまた<ruby><rb>弘</rb><rt>ひろ</rt></ruby>く行われたのである。早天のいわゆる御茶の子を除いて、その他の間食はみな御茶と謂っている。東京でも職人には必ずこの御茶が給与せられる。それがさらに拡張して簡単なる<ruby><rb>客招</rb><rt>きゃくよ</rt></ruby>びをも、御茶と謂っている<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>は方々にある。東日本では主として仏事の小宴が御茶だが、九州では誕生・婚姻のごとき、吉事にも人をこの御茶に招いている。茶樹が外国の輸入だという説は誤りだが、少なくとも茶の飲用だけは中世以後に始まっている。従うてこの語の固有のものでないことは明らかだが、それが代表している<ruby><rb>頻々</rb><rt>ひんぴん</rt></ruby>たる食事回数も、おそらくはまたそれより古くなく、両者ともにこれを促した原因が新たに起こったものと思われる。

食事の回数の増加は、もちろん栄養量の増加とは関係が無かった。以前朝夕ただ二度に喰い尽していたものを、五度にも七度にも分けて食うという場合もあったか知れない。人が喰い溜めをする力というものが、是についてまず考えられる。喰い溜めは<ruby><rb>睡</rb><rt>ねむ</rt></ruby>りだめとともに、以前は壮年の男の長所の一に<ruby><rb>算</rb><rt>かぞ</rt></ruby>えられ、或いは努力修養すべき美徳とさえ考えられていたようである。是が無用になったのは平和の世の恩沢であろう。次に考えられるのは趣味すなわち人が幸福になろうとする念慮、および労働する人々の希望が少しずる容れられてきたことであり、最後にはそれを支持しまた可能ならしめた先例と社会慣習が、この事実を透して<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>い知られるのである。慣習は多くは古いものであるが、それとても不変常在のものではなかった。何か偶然の機縁で始まったことが、次第に<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>び迎えられて<ruby><rb>確乎</rb><rt>かっこ</rt></ruby>たる先例を作り得たのである。いずれにもせよ食事回数の増加は新しい現象であって、しかもその普及によって意外なる変化を我々の生活に及ぼしたことは確かである。ヒルマや小ビルマはもとは限られたる日の食事であり、また特別の調理に成るものであった故に、用途は<ruby><rb>褻</rb><rt>け</rt></ruby>であったけれども、人に<ruby><rb>晴</rb><rt>はれ</rt></ruby>の食物のような好い印象を与えた。それから今一つはいずれも分割と運搬とを許す食物であったために、他の多くの<ruby><rb>雑餉</rb><rt>ざっしょう</rt></ruby>と同様に、次第に共同食事のいろいろな拘束から、独立して発達することになり、その結果はついに家々または各個人の食物選択の自由を、促進する動力ともなり得たのである。

## 三

元来食物の<ruby><rb>褻</rb><rt>け</rt></ruby>と<ruby><rb>晴</rb><rt>はれ</rt></ruby>との差別は、必ずしも材料の優劣を意味してはいなかった。晴の日の食物とても皆うまい物とは限らず、常の日以下のものさえ折々は用いられている。たとえば<ruby><rb>稲苅</rb><rt>いねか</rt></ruby>り終って後の農神祭には、<ruby><rb>土穂餅</rb><rt>つちぼもち</rt></ruby>またはミヨセ団子などと称して、仕事場の臼のこぼれを掃き寄せたものを食料とし、夏のかかりの水の神祭には、小麦の粉をこねてボロソ餅などを製している。ただ大いなる二者の相違は、その調製のために費さるる労力の量であった。ケシネすなわち平日の飯米は、一度に多く<ruby><rb>搗</rb><rt>つ</rt></ruby>いて始めから<ruby><rb>粟</rb><rt>あわ</rt></ruby>・<ruby><rb>稗</rb><rt>ひえ</rt></ruby>の定量をまぜておき、それを毎日片端から<ruby><rb>炊</rb><rt>た</rt></ruby>いていた。アハセもしくはオカズという副食物も、大体に手数のかからぬ物をきめて、いつも同じような<ruby><rb>献立</rb><rt>こんだて</rt></ruby>をくりかえしていた。<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>に反して時折と称する節の日には、必ずシナガハリを<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えて食ったので、カハリモノは通例みな多分の準備を要するものであった。女が当然にその役目をつとめる。家に女性の重んぜられた理由の、最も大いなるものは晴の食物の生産と分配にあった。酒の歴史においてはこの点がすでに認められているが、餅や団子についても女の機能は同じであった。

是を説明するには一通りハタキモノの沿革、すなわち臼の歴史を叙述しなければならぬ。神代の記録の中にも、すでに葬式の日に<ruby><rb>舂女</rb><rt>つきめ</rt></ruby>が働いたことが見えているが、その風は今でも<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>にはなお残っている。独り突如として起こった不幸の場合のみならず、<ruby><rb>予</rb><rt>かね</rt></ruby>て<ruby><rb>定</rb><rt>き</rt></ruby>まっている祭典祝賀のすべての日にも、元は是に先だって臼の仕事があり、その臼はすべて<ruby><rb>手杵</rb><rt>てぎね</rt></ruby>であった（<ruby><rb>碾磑</rb><rt>てんがい</rt></ruby>の輸入はかなり古いけれども、その用途は薬品香料のごとき、微細なものに限られていたようである）。吉事の支度には三本杵が用いられた。すなわち三人の女性が是に参与したので、臼に伴なう古来の民謡はいずれもこの手杵の操作をその<ruby><rb>間拍子</rb><rt>まびょうし</rt></ruby>に用いている。その臼には大小の種類があって、米麦でいうならば<ruby><rb>粡搗</rb><rt>あらづき</rt></ruby>から精白を経て、是を粉にしてしまうまで、以前はことごとく<ruby><rb>搗臼</rb><rt>つきうす</rt></ruby>の作業であった。<ruby><rb>籾摺臼</rb><rt>もみすりうす</rt></ruby>の普及は一般に新しいことであるが、製粉の方だけは土地によって、百年以上も前から石臼をまわして<ruby><rb>挽</rb><rt>ひ</rt></ruby>いていた。しかし是もまたかつては皆はたいて粉にしていたことは、<ruby><rb>炒粉</rb><rt>いりこ</rt></ruby>をハッタイと謂うただ一つの語からでも<ruby><rb>判</rb><rt>わか</rt></ruby>る。そうして現在もまた<ruby><rb>辺隅</rb><rt>へんぐう</rt></ruby>の地においては、その方法が持続しているのである。

臼で穀物を粉にする方法は、昔から三通りあったようである。その中でも最も面倒なのは、今の製粉工業のごとく生のままで粉にはたくことであった。他の二つは是に比べるとともに遥かに簡便なもの、すなわち<ruby><rb>炒</rb><rt>い</rt></ruby>って<ruby><rb>脆</rb><rt>もろ</rt></ruby>くしてこれを<ruby><rb>搗</rb><rt>つ</rt></ruby>き砕くのと、今一つは水に浸して柔らげて押し<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>すものとであった。米にも東北ではシラゴメと称して、炒ってはたいて食うものがある。津軽・秋田等のシラゴメは、八月十五夜の正式の供物で、或いは女には食うことを許さぬ土地さえある。大豆の<ruby><rb>炒粉</rb><rt>いりこ</rt></ruby>はキナコと謂って今も普通であるが、豆にはご<ruby><rb>汁</rb><rt>じる</rt></ruby>や豆腐のために今一つの水浸けの法も行われている。炒り搗きを主とするのは麦類が多かった。是は他の方法の殊に施し難いのと、今一つにはこうして食うのが最も<ruby><rb>旨</rb><rt>うま</rt></ruby>かったからであろう。いろいろの名称があるが、コガシという語は最も<ruby><rb>弘</rb><rt>ひろ</rt></ruby>く行われ、また<ruby><rb>夙</rb><rt>はや</rt></ruby>く『新撰<ruby><rb>犬筑波集</rb><rt>いぬつくばしゅう</rt></ruby>』にも見えている。是を<ruby><rb>訛</rb><rt>なま</rt></ruby>って<ruby><rb>大和</rb><rt>やまと</rt></ruby>ではコバシ、<ruby><rb>土佐</rb><rt>とさ</rt></ruby>ではトガシとも<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>っている。東京附近のコウセンは、<ruby><rb>香煎</rb><rt>こうせん</rt></ruby>との混同だと思っている人も多いが、或いはまたコガシの転じたものかも知れぬ。以前の標準語でオチリまたはオチラシと謂ったのは、この粉のこぼれやすいところから出た名で、すなわちまた粉のままで食う食物なることを語っている。

これ以外にやや珍しい一例は、<ruby><rb>淡路</rb><rt>あわじ</rt></ruby>でワカトと称する正月八日の晴の食物で、是は米と大豆とを交ぜて炒ったものを、挽いて粉にして神にも供えている。他ではあまり聞いたことはないが、現在オイリと称して<ruby><rb>雛</rb><rt>ひな</rt></ruby>の節供などに、豆と米粒と<ruby><rb>霰餅</rb><rt>あられもち</rt></ruby>とを併せて炒ったのを食うのが是に近く、ただ一方では臼のかわりの役目を、各人の<ruby><rb>臼歯</rb><rt>きゅうし</rt></ruby>に委譲しただけの相違である。それから考えていくと、滋賀県北部などで麦の<ruby><rb>炒粉</rb><rt>いりこ</rt></ruby>をカミコと謂うのと、<ruby><rb>飛騨</rb><rt>ひだ</rt></ruby>で<ruby><rb>焼米</rb><rt>やきごめ</rt></ruby>をカミゴメというのと、二つの言葉の似ているのは偶然でなく、双方ともに以前は儀式の食物であったことが推察せられる。記録の側でも焼米の出現は古い。はたいて是を粉にする風習は、是に次いで起こったものであろう。

## 四

炒り粉はこしらえて<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐに賞玩しないと味が悪くなる。是がこの食物の晴の日の用に、元は限られていた理由かと思う。是に反して生の穀物を<ruby><rb>搗</rb><rt>つ</rt></ruby>いて粉にしたものは、貯蔵にはずっと便利であった。それだから同時にまた<ruby><rb>褻</rb><rt>け</rt></ruby>の食物としても使用せられたのである。石の<ruby><rb>挽臼</rb><rt>ひきうす</rt></ruby>が<ruby><rb>弘</rb><rt>ひろ</rt></ruby>く行われるまでは、麦類はかえって<ruby><rb>生粉</rb><rt>なまこ</rt></ruby>には向かず、主としては<ruby><rb>屑米</rb><rt>くずまい</rt></ruby>・砕け米等の飯にはならぬもの、次には<ruby><rb>蕎麦</rb><rt>そば</rt></ruby>などが盛んに粉にはたかれていた。山野で採取せられる<ruby><rb>葛</rb><rt>くず</rt></ruby>・<ruby><rb>山慈姑</rb><rt>やまくわい</rt></ruby>・<ruby><rb>蕨</rb><rt>わらび</rt></ruby>の類、<ruby><rb>甘藷</rb><rt>かんしょ</rt></ruby>・<ruby><rb>馬鈴薯</rb><rt>ばれいしょ</rt></ruby>等の栽培球根は、水分を利用して粉砕せられたけれども、のちに乾燥して貯蔵する故に、やはり常食の中に加えられている。生粉の調理法は二通りある。その一つは直接に熱湯を注ぎかけて和熟せしめるもの、<ruby><rb>三河</rb><rt>みかわ</rt></ruby>の北部でカシアゲコと謂い、越後の<ruby><rb>中蒲原</rb><rt>なかかんばら</rt></ruby>あたりでコシモチというのも是らしいが、普通にはカイモチと称して蕎麦だけをそうして食うことになっている。しかし我々の<ruby><rb>葛湯</rb><rt>くずゆ</rt></ruby>のこしらえかたのように、簡単にできるものなら何でもこうしてかいて食ったもので、カクというのは<ruby><rb>攪拌</rb><rt>かくはん</rt></ruby>することであったらしい。関東の山村でカッコというのは蕎麦カキのことだが、岡山地方の<ruby><rb>田処</rb><rt>たどころ</rt></ruby>で、カキコと謂っているのは米の粉を湯でかきまぜ、甘藷の煮たのなどとともに食う、飯の不足な急場に作るものだそうである。奥羽の<ruby><rb>八戸</rb><rt>はちのへ</rt></ruby>あたりでカッケというのも、名前の起こりは同じであろう。現今は練ってからもう一度<ruby><rb>煠</rb><rt>ゆ</rt></ruby>でるので、やや食い方のちがった<ruby><rb>蕎麦切</rb><rt>そばき</rt></ruby>りに過ぎぬが、元は<ruby><rb>只</rb><rt>ただ</rt></ruby>かいて食うからカッケと名づけたものと思う。

<ruby><rb>能登</rb><rt>のと</rt></ruby>ではカイノゴは三番以下の<ruby><rb>籾</rb><rt>もみ</rt></ruby>まじりの粗米で、団子の材料にするものだと謂っているが、その米の粉をもまたカイノゴというから、やはりかい餅にする粉という意味であった。それを汁に入れて再び煮たものを、伊勢ではやはりカイノコ汁というのは、是も奥州のカッケのごとく、のちに調理法がやや改良したのである。多くの食物史家には無視せられてしまったけれども、穀粉の消費も古くから相応に多く、殊に小麦粉が石臼で挽かれるようになると、それだけまた農民の食品は変化を加えたのである。信州の北部でツメリ、関東でツミイレと謂ったのは、通例粗米の粉を水で練って汁の中に投じて煮たものであった。関西ではこれを汁団子、または単に汁ワカシとも謂って、<ruby><rb>冬分</rb><rt>ふゆぶん</rt></ruby>三食の一度はこれを食わぬ農家も稀であった。ただあまりにもそれが尋常であり、また公衆の話題とするに足らぬが故に、書物にも録せられず、人もまた是をわが土地ばかりの偶然の事実のごとく考えたのである。単なる過去の貧しい生活の跡としてならば、忘れてしまうのも一つの幸福かは知らぬが、我々の新たに知り得ることが、是と伴のうてなお色々と残っていたのである。少なくともどうしてその種の慣行が起こり、またかくまで全国に行き渡っているかを、一応は考えてみる必要が有ると思う。

大体に日本人は生活のこの部面において、甚だしく変化を好んでいたように見える。現代の多種多様なる飲食品目を見ても、輸入採択の歴史の明らかなものが多く、是だけは昔から、たとえば十代の祖先の世と同じであろうと認め得るものは、有るのかも知らぬが自分などにはまだ一向に見つからない。どうしてまた食法がこのようにひどく変ったものか。本来変化して止まらざるものであったのか。はたまた近世に入って急激に古風が消えたのか。もし後者だとすればその原由や<ruby><rb>如何</rb><rt>いかん</rt></ruby>。食物は人が生きているということの、何よりも主要な外貌である。それに是だけ多くの未解決の問題を持ちながら、勇敢なる概括に走ることは順序が悪い。少しは面倒でもやはりこの根本から、事実を積み上げて行く必要が有るように私は考えている。

近世の一つの顕著なる事実は、石の挽臼の使用が普及して、物を粉にする作業がいと容易となり、従うて是を貯蔵して常の日の褻の食物となし得たことかと思う。是と前から有った粉製の晴の食物とは、味や形において格別の差のないものも多く、珍しくなくなれば有難くもなくなり、その結果はまた古来の二種の食事の、<ruby><rb>分堺</rb><rt>ぶんかい</rt></ruby>をぼやけさせた原因となっているようである。是について私の心づいた一つの例を挙げると、『全国方言集』には宮崎県のどこかで、食用米をデハと謂うとある。他の地方ではまだ聞いたことがなく、語の意味も取りにくいが、『<ruby><rb>壱岐島</rb><rt>いきのしま</rt></ruby>方言集』にはあの島の常食の一種として、芋と穀物の粉とを<ruby><rb>釜</rb><rt>かま</rt></ruby>で練ったものをデーハと謂うとあって、少なくとも起こりは一つであるらしい。そうしてこの類の補食方法ならば、弘く他の地方にも行われているのである。<ruby><rb>伊豆</rb><rt>いず</rt></ruby>の<ruby><rb>新島</rb><rt>にいじま</rt></ruby>でネリコと謂ったのは、甘藷の粉を米麦飯の中に入れて攪拌したものだということであるが、是はこの島に<ruby><rb>薩摩芋</rb><rt>さつまいも</rt></ruby>が入ってから後の変化と思う。山梨県東部の山村では、蕎麦粉と<ruby><rb>南瓜</rb><rt>かぼちゃ</rt></ruby>とを練り合わせたものをオネリということあり、同県西北隅の田舎にあっては、モロコシの粉を練って作る食物がオネリだという。原料にはよらなかったのである。秋田県<ruby><rb>河辺</rb><rt>かわべ</rt></ruby>郡のネリガユは、<ruby><rb>粃米</rb><rt>しいな</rt></ruby>の粉であってこれを<ruby><rb>午食用</rb><rt>ひるめしよう</rt></ruby>に供し、三重県南海岸のネリゲはまた蕎麦粉であった。この地方に行わるる<ruby><rb>茶揉</rb><rt>ちゃも</rt></ruby>み唄に、

<ruby><rb>志摩</rb><rt>しま</rt></ruby>のあねらは何<ruby><rb>食</rb><rt>く</rt></ruby>て<ruby><rb>肥</rb><rt>こ</rt></ruby>える

<ruby><rb>蕎麦</rb><rt>そば</rt></ruby>のねりげに<ruby><rb>塩辛</rb><rt>しおから</rt></ruby>添へて

うまい〱といふて肥える

と歌ったのは、もとより貧しい人々の自嘲の笑い歌であったろうが、かつてはまたそんな食物をもって米の消費を節約する必要もあったことを意味する。そうして是が忙しい労働の日においても、なお企て得られたのは製粉法の進歩であり、同時に我々の祖先の才覚のすぐれた点でもある。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もこれらの材料の中には、凶年その他の極度の欠乏の中で、始めて実験したものが多かったろうが、製作が簡便でなかった間は、平日にこれを利用することはできなかった。<ruby><rb>蕨</rb><rt>わらび</rt></ruby>の<ruby><rb>根餅</rb><rt>ねもち</rt></ruby>や<ruby><rb>葛</rb><rt>くず</rt></ruby>の粉の類は、今でも<ruby><rb>飢饉</rb><rt>ききん</rt></ruby>の際にはこしらえて食うだけで、かつて一般の常食の資料には編入せられたことがなく、かえって各地の名物として改良せられている。つまり手数の掛ると掛らぬとが、二通りの食事の主たる差異であったからである。

## 五

いわゆる<ruby><rb>麺類</rb><rt>めんるい</rt></ruby>はこの意味において、今なお村落では晴の日の食物である。<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>が三度の食事よりも、さらに自由に得られるということは、都市においてもそう古くからの現象でなく、しかも一たびその風習が起こると、たちまちにして大いなる町の魅力となったのは、<ruby><rb>餅</rb><rt>もち</rt></ruby>や<ruby><rb>団子</rb><rt>だんご</rt></ruby>も同様に、簡便なる石の<ruby><rb>挽臼</rb><rt>ひきうす</rt></ruby>の普及に助けられたので、古風な規則正しい<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>の生活が、外部の影響に勝てなかった弱味も<ruby><rb>爰</rb><rt>ここ</rt></ruby>にあった。東北で今日ハットウと<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>っているのは、主として<ruby><rb>蕎麦</rb><rt>そば</rt></ruby>のかい餅をつみ入れた汁類のことであり、出来た食品が関西のハッタイとはまったく違っているために、両者もとは共にハタキモノの義であったことは忘れられている。栃木県の東部では是をハット汁と謂い、あまりに<ruby><rb>旨</rb><rt>うま</rt></ruby>いから飢饉年には作って食うことを禁じた、それで<ruby><rb>法度汁</rb><rt>はっとじる</rt></ruby>と謂うのだという説明伝説まで生まれている。しかしこの名称と調理法は、古いと見えてかなり<ruby><rb>弘</rb><rt>ひろ</rt></ruby>く分布している。たとえば信州でも<ruby><rb>下伊那</rb><rt>しもいな</rt></ruby>方面にはハットという語があって、<ruby><rb>只</rb><rt>ただ</rt></ruby>その川上から甲州の盆地にかけて、是をホウトウと謂うのである。ホウトウは現在の細く切った蕎麦・<ruby><rb>饂飩</rb><rt>うどん</rt></ruby>の原形であったろうと思う。刃物を当ててもごく太目に切るだけで、中には<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>のごとく手で<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>んで細長くし、食いやすくするだけのものもある。是を<ruby><rb>小豆</rb><rt>あずき</rt></ruby>とともに煮たものをアヅキボウトウとも謂っている。三河の<ruby><rb>渥美</rb><rt>あつみ</rt></ruby>半島では三十年余り以前、私も是をドヂョウ汁と謂って食わされて<ruby><rb>喫驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>した。珍しい名前も有るものと思っていると、<ruby><rb>佐渡島</rb><rt>さどがしま</rt></ruby>でも<ruby><rb>蕎麦切</rb><rt>そばきり</rt></ruby>を<ruby><rb>味噌汁</rb><rt>みそしる</rt></ruby>に入れたのを、やはりソバドヂョウと謂うそうであった。その形<ruby><rb>泥鰌</rb><rt>どじょう</rt></ruby>に似たる<ruby><rb>為</rb><rt>ため</rt></ruby>なるべしと『佐渡方言集』にはある。それもあるか知らぬがなおホウチョウという語の意味不明になった結果であろう。三河の山村では是と同じものをソバボットリと称して、山神祭の欠くべからざる供物であった。是もホウトウをそう<ruby><rb>訛</rb><rt>なま</rt></ruby>ったのである。九州では豊後の或る部分に、小麦粉を練って味噌汁に落したものをホウチョウと謂ったことが、古川古松軒の『<ruby><rb>西遊雑記</rb><rt>さいゆうざっき</rt></ruby>』には見えている。大友氏の時代から始まった食物で、文字は「鮑腸」と書くというのは、やはり泥鰌同然の考え過ぎであったと思う。いずれにしても<ruby><rb>生粉</rb><rt>なまこ</rt></ruby>の<ruby><rb>臼挽</rb><rt>うすひ</rt></ruby>きが普及し、したがって粉の貯蔵が可能になるまでは、是は相応に面倒な調理法であった。それが家々の補食の一種となり、また飲食店の商品ともなったのは、器械の進歩であると同時に、<ruby><rb>晴</rb><rt>はれ</rt></ruby>と<ruby><rb>褻</rb><rt>け</rt></ruby>の食事の混乱でもあったのである。

もし入用に臨んで新たに作る物であったならば、特に面倒をして生の穀物をはたき、またはわざわざ<ruby><rb>炒</rb><rt>い</rt></ruby>って<ruby><rb>脆</rb><rt>もろ</rt></ruby>くする必要はない。最初から水に浸して柔かくして<ruby><rb>搗</rb><rt>つ</rt></ruby>けばよかったのである。だから以前の晴の日の品がわりには、水を加えて粉末にする第三の搗きかたが、今よりもずっと多く行われていたのである。<ruby><rb>石臼</rb><rt>いしうす</rt></ruby>が入ってから後も、<ruby><rb>大豆</rb><rt>だいず</rt></ruby>などはネバシビキが多く、豆腐以外にもその用途はいろいろあった。蕎麦だけは性来生粉が作りやすく、また香気を保つためにも水に浸さぬようであるが、その他の穀物の粉のままで食うもの以外は、大抵はネバシビキにしている。挽臼を用いなかった時代はなおさらのことであったと思う。その中でも米には昔から特にネバシ<ruby><rb>搗</rb><rt>つ</rt></ruby>きの必要のあったのは、臼に入れる水の加減をもって堅くまたは柔く、時にはやや液体に近い練粉までこしらえていたからで、<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>一旦粉にしてから、水で薄めることも可能ではあるが、以前はもっぱら臼の中での仕事になっていた。記録の上にはまだ見当らないが、私は是が一つの正式の米食法であったろうかと思っている。現在伝わっているのは乳の不足な<ruby><rb>赤子</rb><rt>あかご</rt></ruby>などに、布で包んでしゃぶらせるくらいなもので、是にも地方的にいろいろの名がある。これ以外には大抵は神霊の<ruby><rb>供御</rb><rt>くご</rt></ruby>とするだけで、もう人間は生のままの米の粉は食わないが、儀式の食品としてはかなりよく保存せられている。もう忘れかかっているからその名称を採録しておかねばならぬ。岐阜県の<ruby><rb>海津</rb><rt>かいづ</rt></ruby>郡などで、ナマコと謂っているのがこの米の汁の普通の名であったらしい。<ruby><rb>淡路島</rb><rt>あわじしま</rt></ruby>でシロトアゲというのもまたそれで、正月にこれを製して神棚や仏壇に、<ruby><rb>檞</rb><rt>かしわ</rt></ruby>の葉をもって注ぎかける。<ruby><rb>能登</rb><rt>のと</rt></ruby>の<ruby><rb>穴水</rb><rt>あなみず</rt></ruby>地方では是を人根（ニンゴン？）と謂うそうである。旧九月十五日の地蔵講の日に、七寸ほどに切った<ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>を<ruby><rb>膳</rb><rt>ぜん</rt></ruby>に載せ、是に白米を<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>って<ruby><rb>糊状</rb><rt>のりじょう</rt></ruby>にしたものを注いでいる。これを人根というのは珍しく、またどうしてそういう事をするのかも私に<ruby><rb>判</rb><rt>わか</rt></ruby>らぬが、考えてみなければならぬと思っている。福島県の<ruby><rb>平</rb><rt>たいら</rt></ruby>市附近の村では、同じものをオノリと謂っている。是も九月秋収後の<ruby><rb>幣束祭</rb><rt>へいそくさい</rt></ruby>に、こしらえて餅とともに神に供える。祭の<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>には<ruby><rb>烏</rb><rt>からす</rt></ruby>が来てこれを食うことになっている。烏に神供を投げ与える<ruby><rb>風</rb><rt>ふう</rt></ruby>は、正月に東北一般に行われているが、<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>によっては秋にも同じ事をするのである。色の黒い男が<ruby><rb>白足袋</rb><rt>しろたび</rt></ruby>をはいているのを嘲って、「烏がオノリを踏んだような足をしている」などという<ruby><rb>諺</rb><rt>ことわざ</rt></ruby>も、この事実を知っている者には格別におかしいのである。

信州<ruby><rb>川中島</rb><rt>かわなかじま</rt></ruby>地方で二月八日に作るチウギ餅なども、餅とは<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>っても至って柔かなものだと見えて、この日は子どもがそれを持って行って、<ruby><rb>道祖神</rb><rt>どうそじん</rt></ruby>の石像の顔に塗りつける。土地により<ruby><rb>甘酒地蔵</rb><rt>あまざけじぞう</rt></ruby>もしくはモロミ地蔵と謂って、路傍の地蔵に甘酒やモロミを注ぎ掛け、臭くて鼻をつまむようだが、洗い落そうとすると<ruby><rb>罰</rb><rt>ばち</rt></ruby>が当るなどというのも、材料はちがうが同じ信仰であった。<ruby><rb>羽後</rb><rt>うご</rt></ruby>の神宮寺の道祖神を始とし、祭の日に神体に米の粉をふりかけるというなども、乾いた粉の得にくかった時代には、やはりこのオノリを注いだものと思う。同じ習慣は東北地方、ことに旧南部領の<ruby><rb>盆</rb><rt>ぼん</rt></ruby>の墓祭りの時にもある。やはり多くの他の食物とともに、この白色の粉を解いた液体を墓場の前と周囲にまき散らすので、土地ではこの行事をホカヒと謂っている。ホカヒはもと食物容器の名、すなわち盆（瓮）という漢字の和語であった。中部以西の盆の<ruby><rb>精霊棚</rb><rt>しょうりょうだな</rt></ruby>には、この白い米の水のかわりに、<ruby><rb>鉢</rb><rt>はち</rt></ruby>に水を入れたものを具え、ミソハギの枝をもって供物の上にふり掛け、または墓参の往復にもこれを路上に注ぐが、その水鉢の中へは<ruby><rb>茄子</rb><rt>なす</rt></ruby>や<ruby><rb>豇豆</rb><rt>ささげ</rt></ruby>などの細かく<ruby><rb>刻</rb><rt>きざ</rt></ruby>んだもののほかに、家によっては米粒を入れておく。それを「水の<ruby><rb>実</rb><rt>み</rt></ruby>」とも、また「水の子」とも謂っている。起こりは皆一つであろうと思う。今では何故にそういうことをするのか、説明し得る者は一人も無いけれども、いずれも祖霊に供養するものであるからには、本来は我々の晴の日の食物で、人だけは<ruby><rb>嗜好</rb><rt>しこう</rt></ruby>が転じてこれを食わなくなっても、御先祖には前通りのものを進めていたわけで、すなわち日本の晴の食事にも、やはり時代の変化があったのである。我々は容易に国固有のもの、もしくは昔通りの食物というものを、知っているとは言えないのである。

## 六

米を水に浸し柔げて<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>に、<ruby><rb>臼</rb><rt>うす</rt></ruby>で粉に<ruby><rb>搗</rb><rt>つ</rt></ruby>くということの第二の便宜は、また<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>をもって色々の物の形象を作り得る点にあった。今日のいわゆるシンコ細工は、一旦米の粉を煮てから作るのだが、それでは油でも用いないと手にくっついて仕方がない。<ruby><rb>生粉</rb><rt>なまこ</rt></ruby>の水練りならば水を使うから、取扱いがずっと便利なのであった。自分などはそれが<ruby><rb>粢</rb><rt>しとぎ</rt></ruby>というものの最初からの特徴であったと思っている。日本人の食物の中で、最も古くから文献の上に見え、一方にはまた北海道の原住民の中にも、採用せられているのがシトギという語であるから、その使用は近世まであったと言ってよいのだが、存外に多くの日本人はこの語の意味内容、もしくは是と餅との関係を早く忘れてしまっている。たまたまその語を用いる土地が有っても、是を用いるのはある限られたる場合だけである故に、それが一般的なる前代生活の残留破片であるとまでは心づかない。<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>でもわが土地ばかりの方言と心得て、有りもせぬ標準語の対訳を見つけるに苦しんでいる。その事自身がすでに驚くべき変遷であった。

シトギという語の現在も行われているのは、多くの場合には古い神社であり、祭礼の折にその語が現われてくる。たとえば越前<ruby><rb>敦賀</rb><rt>つるが</rt></ruby>郡の東郷村の<ruby><rb>諏訪</rb><rt>すわ</rt></ruby>社では、シトギは三合三勺の米をもって作った三つの丸い餅であった。餅とはいっても水練りの粉を固めたものだったろうと思う。熊本県の北部で<ruby><rb>棟上式</rb><rt>むねあげしき</rt></ruby>の日に投げる餅だけをヒトギ、是などはすでにただの餅をそう謂っているのである。<ruby><rb>能登</rb><rt>のと</rt></ruby>の北川村の諏訪神社九月二十七日の祭に作るヒトミダンゴ、是もシトギの<ruby><rb>訛音</rb><rt>かおん</rt></ruby>らしいが、この方は今いう団子になっている。東北では宮城県北部の村々でオシトネ、九月九日の節供に新米をもって製するもので、是は生の粉を水で固めたものであった。岩手県では一般にこれをシットギと謂い、風の神送りの日に作って<ruby><rb>藁苞</rb><rt>わらづと</rt></ruby>に入れて<ruby><rb>供</rb><rt>そな</rt></ruby>え、または山の神祭の際に、田の<ruby><rb>畔</rb><rt>くろ</rt></ruby>に立てる<ruby><rb>駒形</rb><rt>こまがた</rt></ruby>の札に塗りつけた。青森県の<ruby><rb>八戸</rb><rt>はちのへ</rt></ruby>地方で、同じく神に供えるナマストギも是である。人は今日では煮るか焼くかして食う故に、とくにこれを生のシトギというのである。生米を<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>んで食う風習とも関係があって、以前は人間も生のままで食べていたのが、いつとなく<ruby><rb>嗜好</rb><rt>しこう</rt></ruby>が改まって、後には神仏に参らせるだけの食物のごとく考えられるに至ったのである。だから<ruby><rb>粢</rb><rt>しとぎ</rt></ruby>という古い言葉は用いなくとも、その実物を作っている土地は今でも中々多い。現在の名称の最も<ruby><rb>弘</rb><rt>ひろ</rt></ruby>く行われているのは、シロモチ・シラモチまたはシロコモチというのが是に該当する。煮たり焼いたりしたのと比べると色がずっと白いからで、成人はめったに是を生では食べぬが、子どもは昔どおり珍しがってもらって食い、口の<ruby><rb>端</rb><rt>はた</rt></ruby>を真白にして喜んでいる。伊勢の松阪あたりの山神祭りの飾り人形に、白餅喰いというのがあったことは、<ruby><rb>本居</rb><rt>もとおり</rt></ruby>先生の日記にも見えている。秋の終りの神送りの日には、是は欠くべからざる<ruby><rb>神供</rb><rt>じんく</rt></ruby>であった。三河の半島の或る町の祭には、小児が<ruby><rb>烏</rb><rt>からす</rt></ruby>の<ruby><rb>啼声</rb><rt>なきごえ</rt></ruby>を真似てこの白餅をもらって食う<ruby><rb>風</rb><rt>ふう</rt></ruby>があった。それでこの日は彼らをカラスと呼んでいた。前に述べた<ruby><rb>岩城平</rb><rt>いわきたいら</rt></ruby>の、烏のオノリと同じ風習から出ていると思う。白餅という名は東海道の諸国から紀州まで、九州でも北岸の島々ではシラモチと謂い、<ruby><rb>阿蘇</rb><rt>あそ</rt></ruby>の山村ではシイラ餅と謂っているとともに、一方秋田県の<ruby><rb>鹿角</rb><rt>かづの</rt></ruby>地方などにもシロコダンゴという名がある。分布のこのように古いのを見ると、この名称もおそらく新たに起こったものではないと思う。

信州は南北とも、一般にこれをカラコまたはオカラコと謂っている。主として秋の感謝祭の日に<ruby><rb>今年米</rb><rt>ことしごめ</rt></ruby>を粉にして作るのだが、正月その他の<ruby><rb>式日</rb><rt>しきじつ</rt></ruby>にも用いることがある。形は主として丸い<ruby><rb>中高</rb><rt>なかだか</rt></ruby>の、今謂う<ruby><rb>鏡餅</rb><rt>かがみもち</rt></ruby>のなりに作るので、或いはまたその名をオスガタとも呼んでいる。オスガタは御姿、すなわち色々の物の形という意味かと思われる。是を湯に入れ汁に投ずれば、単純なる我々の<ruby><rb>煮団子</rb><rt>にだんご</rt></ruby>であり、<ruby><rb>鍋</rb><rt>なべ</rt></ruby>で焼けば普通のオヤキすなわち<ruby><rb>焼餅</rb><rt>やきもち</rt></ruby>となるのだが、形をこしらえるには生のままの時に限るので、それで<ruby><rb>粢</rb><rt>しとぎ</rt></ruby>を<ruby><rb>御姿</rb><rt>おすがた</rt></ruby>と謂ったのかと思う。後代技術が進んで<ruby><rb>搗</rb><rt>つ</rt></ruby>き抜きの団子を丸め、臼で<ruby><rb>蒸米</rb><rt>むしごめ</rt></ruby>を餅にすることができて、始めて我々の慣習は改まり、材料も従うて変化してきたのである。滋賀県の<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>などでは、今でも餅団子をツクネモノと謂っている。ツクネルとは<ruby><rb>捏</rb><rt>こ</rt></ruby>ねあげることで、現在の餅や団子はつくねはしないが、本来が生粉の<ruby><rb>塑像</rb><rt>そぞう</rt></ruby>であったために、今にその名前を継承しているのである。ダンゴが上古以来の日本語でないことは誰でも知っているが、それならその前には是を何と謂ったかというと、それには答えることがむつかしいので、人によっては名称とともに、<ruby><rb>支那</rb><rt>シナ</rt></ruby>・<ruby><rb>天竺</rb><rt>てんじく</rt></ruby>からでも入ってきた食物かのごとくに考えているが、一方に粢が国固有の古い食物である以上、是を外国から学ぶべき必要は有り得ない。新たに採用したのは言葉だけで、それはたしかに丸いから団子と謂ったのであった。信州の諏訪あたりでは、正月の餅花につける飾り団子をオマルと謂い、山梨でもカラコの白餅だけを、特にオダンスという村がある。団子は古くはダンシと謂っていたのである。東北へ行くと、今でもこれをダンスまたはダンシというから、その起原は想像することができる。或いは「<ruby><rb>壇供</rb><rt>だんく</rt></ruby>」という漢字の音かとも考えられるようだが、この中間の団または<ruby><rb>団子</rb><rt>だんす</rt></ruby>という語があるために、是がもと仏教徒の用語に<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>で、丸く作った粢だけを意味していたことが<ruby><rb>判</rb><rt>わか</rt></ruby>ってくるのである。

ところが我々の作っていたシトギは、必ずしも常に団なるものとは限らなかった。長くも<ruby><rb>平</rb><rt>ひら</rt></ruby>たくも節ごとの旧慣によって、色々の形が好まれていたのである。たとえば田植終りの頃のサノボリの小麦団子は、中国地方では馬のセナカと称して、<ruby><rb>鰹節</rb><rt>かつおぶし</rt></ruby>を小さくしたような形であった。盆の送り祭りの食物には、セナカアテと称して薄い平たいものを作り、もしくは鬼の舌などという楕円形のもの、<ruby><rb>編笠焼</rb><rt>あみがさや</rt></ruby>きと謂って笠の形をした焼餅を作る日もあった。中部地方では二月<ruby><rb>涅槃</rb><rt>ねはん</rt></ruby>の日にヤセウマという長い団子をこしらえ、または同じ月にオネヂと謂うものを作る日もあったが、是も後には<ruby><rb>捻</rb><rt>ねじ</rt></ruby>り団子には限らず、<ruby><rb>蕪</rb><rt>かぶ</rt></ruby>や<ruby><rb>胡蘿蔔</rb><rt>にんじん</rt></ruby>等の野菜類まで、色々と形を似せて美しく彩色した。香川県には有名な<ruby><rb>八朔</rb><rt>はっさく</rt></ruby>の<ruby><rb>獅子駒</rb><rt>ししごま</rt></ruby>がある。是も現在は米の粉をもって、見事な動物の形を作り並べて見せるので、この風習は中国地方に及び、これをタノモ人形などといって、男女の姿に似せたものさえ作った。尾張・三河の方面では三月の<ruby><rb>雛</rb><rt>ひな</rt></ruby>の節供の日に、やはり米の団子をもって<ruby><rb>鯛</rb><rt>たい</rt></ruby>や<ruby><rb>鶴亀</rb><rt>つるかめ</rt></ruby>・<ruby><rb>七福神</rb><rt>しちふくじん</rt></ruby>までも製作した。もうこうなると工芸と言おうよりも美術で、専門家の手腕を必要としたのであるが、しかし日本の民芸は発達している。民間にはしばしば無名の技術家があって、たった一日か二日で食ってしまう物に、かような手の込んだ製作を施して、少数の見物人を感動させていたのである。

しかしそれも是も、すべて水で練った生の穀粉の彫塑であったからできたのである。是がもし蒸した粉や穀粒であったら、つくね上げることは相応に困難であったろう。私たちが少年の頃には、酒屋の職人たちが酒の仕込みの日に、蒸した白米を<ruby><rb>釜</rb><rt>かま</rt></ruby>からつかみ出して、ヒネリ餅というものを<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えていた。普通には<ruby><rb>扁平</rb><rt>へんぺい</rt></ruby>な<ruby><rb>煎餅</rb><rt>せんべい</rt></ruby>のようなものしかできなかったが、巧者な<ruby><rb>庫男</rb><rt>くらおとこ</rt></ruby>になると是で<ruby><rb>瓢箪</rb><rt>ひょうたん</rt></ruby>や<ruby><rb>松茸</rb><rt>まつたけ</rt></ruby>や、時としてはまた人形なども作り上げた。蒸米は冷えるとすぐに固くなるので、熱いうちに手を火ぶくれにしてこんな技術を施したのであった。シンコに比べると餅の方は殊に細工を施し得る間が短い。故に今では<ruby><rb>丸餅</rb><rt>まるもち</rt></ruby>や<ruby><rb>熨斗餅</rb><rt>のしもち</rt></ruby>などの、至って単純な物しかできなくなったのである。是が生粉であるならばゆっくりといかなる形の物をでもつくね上げ得たのは当然である。問題はいわゆるオスガタを作る手段よりも、いかにしてそういう色々の物の形を、現わさなければならぬと考えたかの、動機<ruby><rb>如何</rb><rt>いかん</rt></ruby>という点に存在する。注意をして見ると我々の晴の日の食物は、単に是がために時と労とを費しただけでなく、その形態にも幾通りかの計画が有り意匠があった。一つの顕著な例は三月の桃節供に、必ず<ruby><rb>菱形</rb><rt>ひしがた</rt></ruby>の餅を飾ることである。是を<ruby><rb>桝形</rb><rt>ますがた</rt></ruby>の餅とも称して、奥州では正月に人の家に贈る餅の、<ruby><rb>定</rb><rt>き</rt></ruby>まった一つの形となっていた。出羽の方の正月には、昔からヲカノモチというものが、家族一人に一つずつ作って<ruby><rb>歳棚</rb><rt>としだな</rt></ruby>に飾られていた。是は楕円形で中程に指で<ruby><rb>窪</rb><rt>くぼ</rt></ruby>みを附けたものであるという。東京でも婚姻の祝に配る鳥の子または<ruby><rb>鶴</rb><rt>つる</rt></ruby>の<ruby><rb>子</rb><rt>こ</rt></ruby>というのが、一部分是と似ている。つまりそれぞれの機会に対して特殊の形というものがあって守られたのである。その中でも特に私たちの注意しているのは、五月<ruby><rb>端午</rb><rt>たんご</rt></ruby>の節供に作られる色々の<ruby><rb>巻餅</rb><rt>まきもち</rt></ruby>が、必ず上を<ruby><rb>尖</rb><rt>とが</rt></ruby>らせた三角形に結ばれたことである。是なども最初は生粉の間に形をきめ、それを湯に入れて煮て引き上げて食ったのである。それと同じ形が年の暮の供物、<ruby><rb>御霊</rb><rt>みたま</rt></ruby>の<ruby><rb>飯</rb><rt>めし</rt></ruby>というものにも附いてまわっている。是は米粒であるがやはり<ruby><rb>笹</rb><rt>ささ</rt></ruby>の葉などで三角形に包み、蒸して食うようにしたのである。葉に包まぬ場合には握り飯だが、是もこしらえる手つきがきまっていて、必ず三角に結ぶことになっていた。それを盆と暮とに御霊に供えている土地も多いのである。私の一つの想像では、鏡餅は<ruby><rb>円</rb><rt>まる</rt></ruby>いという点ばかり問題にされているが、是が<ruby><rb>上尖</rb><rt>うえとが</rt></ruby>りにできるだけ高く重ねようとしていた点は、五月の<ruby><rb>巻餅</rb><rt>まきもち</rt></ruby>や<ruby><rb>粽</rb><rt>ちまき</rt></ruby>の円錐形と、同じ動機に出ているものではないか。すなわち是を人間体内の最も主要なる一臓器と、わざわざ似せて作り上げたところに、是を儀式の日に食うという意義があったのではなかったか。仮にその想像が半分でも<ruby><rb>中</rb><rt>あた</rt></ruby>っているとすると、<ruby><rb>粢</rb><rt>しとぎ</rt></ruby>が我々の<ruby><rb>晴</rb><rt>はれ</rt></ruby>の食物として、<ruby><rb>選</rb><rt>えら</rt></ruby>まれた理由はほぼわかるのである。握り飯の三角などはただ偶然のようだが、この歴史の無い他民族に任せたら、自然にはこうは握れぬのみならず、現にわが国でも凶事の際だけには、わざと違った形の握り飯を作っているのである。要するにこれらの食物が、ぜひとも一定の姿にこしらえぬと、晴の日の食物とするに適しなかった理由こそ、まず考えてみるべきものである。

## 七

<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>はおそらくは我々の祖先の食物に対する観念の、今よりもはるかに精神的であったこと、もしくは生存というものの意義を、ずっと物質的に解していたこと、別の語で言えば体霊<ruby><rb>一如</rb><rt>いちにょ</rt></ruby>の考え方であったことを意味するかと思うが、その点は深く入って行く必要もまた能力も私には無い。社会経済史学の立場から言っても、この日本の餅なり団子なりが、かくも平凡きわまる毎日の食事となってしまったのには、いまだ<ruby><rb>究</rb><rt>きわ</rt></ruby>められざる文化史上の大いなる動力、殊に近世における複雑なる変遷が、原因であったということを認めるをもって足るかと思う。<ruby><rb>糯米</rb><rt>もちごめ</rt></ruby>という一種の稲がいつから日本に存在し、またどういう足取りをもって普及し且つ増産したかということも、経済史の一つの題目に相違ないが、仮にその者が<ruby><rb>夙</rb><rt>はや</rt></ruby>く我々の農村にあったにしても、是を非常に<ruby><rb>旨</rb><rt>うま</rt></ruby>いものだと経験した機会は、そう容易には出現しなかったはずである。それにはまず今日のような餅の<ruby><rb>搗</rb><rt>つ</rt></ruby>き方の起こることを条件とし、しかもその<ruby><rb>搗</rb><rt>つ</rt></ruby>き方は至って新しいものであった。それよりも晴の日の食物の色々の形状を要求することと、ついでその方法の改良とが無かったら、今ある餅というものは日本にはできなかったので、つまりは<ruby><rb>粢</rb><rt>しとぎ</rt></ruby>という古来の習慣の方が元である。沖縄の島へ行ってみると、餅と団子の名はあるがその物は我々のとちがい、また二者の差別もヤマトとは同じでない。蒸した穀粒を<ruby><rb>臼</rb><rt>うす</rt></ruby>で搗いて、餅とする<ruby><rb>風</rb><rt>ふう</rt></ruby>はまだ島には入っておらぬのである。そうして内地でも今いう餅の始めは新しい。臼と杵との大いなる改良が無かったら、今日の変化は完成しなかったのである。

その実験もまた南の島々へ行けばできると思う。女性が日本の<ruby><rb>手杵</rb><rt>てぎね</rt></ruby>で穀粉をはたいている間は、いかに糯米が<ruby><rb>糊分</rb><rt>のりぶん</rt></ruby>の多い穀物であろうとも、是を<ruby><rb>搗</rb><rt>つ</rt></ruby>きつぶして今のような餅にすることはできない。それが可能になったのは<ruby><rb>横杵</rb><rt>よこぎね</rt></ruby>の発明または輸入で、男子がこれを取扱うようになった結果である。横杵の使用は多分<ruby><rb>支那</rb><rt>シナ</rt></ruby>から入ってきた技術であろう。男の力でないと取扱えぬかわりに、餅も米の精白もこのために手早くなった。杵は日本の古語ではキ、おそらく木という語ともとは一つであった。東北では手杵すなわち女の使う竪の杵を、今でもキゲまたはキギと謂っている。標準語のキネは<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>にできた語で単なる樹木のキと区別する必要からかと思うが、それを四国と中国の一部で、キノと謂っているのを見ると、元はキノヲであったことが想像し得られる。キノヲのヲは男の意で、臼を女と見立てての至って粗野なる異名であった。是と同じ思想は、今では<ruby><rb>擂鉢</rb><rt>すりばち</rt></ruby>と<ruby><rb>擂木</rb><rt>すりこぎ</rt></ruby>とが承け継いでいる。スリコギのコギは<ruby><rb>小杵</rb><rt>こぎね</rt></ruby>であるが、<ruby><rb>八重山</rb><rt>やえやま</rt></ruby>の島などでは是をダイバノブトと謂う。ダイバはライバンの<ruby><rb>訛</rb><rt>なまり</rt></ruby>ですなわち<ruby><rb>擂盆</rb><rt>らいぼん</rt></ruby>。ブトはヲットであるから擂鉢の夫ということに帰着するのである。横杵は大きいからアヲという土地もある。すなわちオホヲ、大なる夫の義であった。キネという語の国語として固定したのも、多分はこの横杵の採用の時以後であろう。とにかくに是に<ruby><rb>由</rb><rt>よ</rt></ruby>って、且つ糯米の利用によって、<ruby><rb>粢</rb><rt>しとぎ</rt></ruby>で物の姿を作る必要は半減した。従うてまた手杵と<ruby><rb>舂女</rb><rt>つきめ</rt></ruby>とはまったく<ruby><rb>閑</rb><rt>ひま</rt></ruby>になったのである。

<ruby><rb>我邦</rb><rt>わがくに</rt></ruby>の農家の主要なる<ruby><rb>什具</rb><rt>じゅうぐ</rt></ruby>は、いずれも近世に入って色々の改良を受けたが、その中でも臼の系統にはほとんと革命とも名づくべき大変化があった。米の<ruby><rb>籾摺</rb><rt>もみす</rt></ruby>りにも一旦は横杵の使用があって、多くの城下町では<ruby><rb>粡町</rb><rt>あらまち</rt></ruby>と称して、一区画をその作業の地に<ruby><rb>宛</rb><rt>あ</rt></ruby>てていたが、程なく各農家が<ruby><rb>摺臼</rb><rt>すりうす</rt></ruby>を使用することになって、<ruby><rb>玄米納租</rb><rt>げんまいのうそ</rt></ruby>が行われ、粡町の必要はなくなった。次に製粉器械としての石臼の普及であるが、是は石工の技芸進歩と、その数の増加の<ruby><rb>御蔭</rb><rt>おかげ</rt></ruby>であった。以前は薬材・絵具や茶の類に限られ、<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>かに上流の家だけに使用せられていた石の小さな<ruby><rb>挽臼</rb><rt>ひきうす</rt></ruby>が、どんな<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>でも手に入り、また目立て屋という職人まであるようになった。農家が各自の穀粉を<ruby><rb>挽</rb><rt>ひ</rt></ruby>くようになって、一旦起こりかけた<ruby><rb>粉屋</rb><rt>こなや</rt></ruby>という専門業が早く衰えてしまい、<ruby><rb>名残</rb><rt>なごり</rt></ruby>を粉屋の娘の民謡に<ruby><rb>留</rb><rt>とど</rt></ruby>めている。

最後に今一つの大きな改良が、前に挙げた擂鉢・擂木であった。これもまた臼と杵との変化であることは、その各地の名称からでも察せられる。スリコギが<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>る<ruby><rb>小杵</rb><rt>こぎね</rt></ruby>であったごとく、メグリギ・マハシギ等のキもまた杵であった。在来の手杵と異なる点は、<ruby><rb>搗</rb><rt>つ</rt></ruby>くかわりにまわすことで労力がはるかに軽くなった。陶器の内側に臼の目を立てて焼くなどは、国内でも発明し得たか知らぬが支那の方が古い。いわゆる鎖国時代にこういう事までを聞き伝えて、ただちに全国に普及させた無名氏の智能は敬服すべきである。擂鉢の世に行われるまでは、一切の柔かな食物はみな臼で搗いていた。<ruby><rb>味噌</rb><rt>みそ</rt></ruby>は擂鉢ができてからかも知れぬが、それ以前の食物であった豆のゴの汁、また多くのあえ物類は、すべて臼によるのほかは無かった。それが百年か百五十年の間に、全国住民の九割九分までが、手杵なくして生活し得ることとなり、餅と団子とはまったく独立の存在を確保し、起源の最も久しい粢の白餅は、神霊以外にはこれを省みる者が無くなった。古代の食物慣習を解説せんとすれば是だけの面倒な考察を必要とし、しかも多数の人は今有る状態をもって昔からだと思っている。この激変が主として臼と杵と擂鉢との力であったのである。

## 八

<ruby><rb>晴</rb><rt>はれ</rt></ruby>の食物の調製が簡便になったことは、是と常の日の食事との境が、不明になってきた大なる原因では有るが、原因は<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>是だけではなかった。話が長くなり過ぎたからその分は他日を期し、ここにはただその要点のみを附加えておくが、元来食物の晴というものは、最初からまだほかにもあったのである。今まで述べて来た節供はその一つで、是は家々の中で神霊と人との共にするものであるが、なおその以外に家と家との共同に成る酒盛りというものがあり、是も村限りの内で行うものと、<ruby><rb>他所</rb><rt>よそ</rt></ruby>からきた人々との間に行うものとの二種があった。村限りの会食も時期が<ruby><rb>定</rb><rt>き</rt></ruby>まっていて、上代には是をニヘと謂っていたようである。現在も近畿以西に弘く行われているメオイという語は、そのニヘという語の変化かと思われる。誰が亭主ということもなく、会衆が均等に入用を分担するのを例としている。後者はこれに比べると起こりは新しいのだが、今まで親しみの無かった<ruby><rb>他処</rb><rt>よそ</rt></ruby>の人たちと、まず共同の飲食に<ruby><rb>由</rb><rt>よ</rt></ruby>って心身の連鎖を附ける趣意で、必要はかえってこの方が大きかった。中世の武家移動以来、優れた異郷人の訪問が田舎にも多くなり、是についで部落外の婚姻が起こって、そのための酒盛りは特に盛大とならざるを得なかった。旅人が駅や港にきて酒を飲んだのも、やはり多くは短期の婚姻のためであって、濫用には相違ないが是も一つの晴であった。酒盛りには必ず<ruby><rb>肴</rb><rt>さかな</rt></ruby>を伴のうた。歌や舞なども御肴と謂っていたが、それ以外にも特に技芸を加えた食物を肴にしたので、料理はもっぱら是に由って発達した。簡素を生命とした<ruby><rb>茶湯</rb><rt>ちゃのゆ</rt></ruby>の席でも、客は客だからその食品を精選しなければならなかった。殊に珍しい賓客に対しては、ヒノトリモチと称して是非暖かいものを食わせなければならなかった。吸物・あつ物を<ruby><rb>膳</rb><rt>ぜん</rt></ruby>の上に添えることが、<ruby><rb>款待</rb><rt>かんたい</rt></ruby>のしるしとなったのもその結果で、他の民族でも同じことかと思うが、日本の食物が近世に入って、次第に温かいものまたは<ruby><rb>汁気</rb><rt>しるけ</rt></ruby>のものを多くしたのも、誘因はこういう接客法にあった。家に<ruby><rb>火処</rb><rt>ひどころ</rt></ruby>がたった一つであった時代には、是は決して容易の<ruby><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>でなかった。それ故に火の取持ちが優遇を意味し、一方には又次第に私たちの謂う火の分裂を引き起こしたのである。建築技術の進歩もまたこれを促している。住居の変化の主要なるものは、一つには客来が頻繁になって、そのために毎回<ruby><rb>仮屋</rb><rt>かりや</rt></ruby>を建てることができず、できるだけ<ruby><rb>主屋</rb><rt>おもや</rt></ruby>と合併しようとしたことである。いわゆる<ruby><rb>出居</rb><rt>でい</rt></ruby>は拡張せられて客座敷というものができた。それから紙の利用が自由になって、<ruby><rb>明</rb><rt>あか</rt></ruby>り<ruby><rb>障子</rb><rt>しょうじ</rt></ruby>や<ruby><rb>唐紙</rb><rt>からかみ</rt></ruby>の<ruby><rb>間仕切</rb><rt>まじきり</rt></ruby>ができ、家の中の区画が立って食物はようやく統一を失った。すなわち常の日の共同の飲食が、次第に主人子女のみの居間の食事となり、<ruby><rb>小鍋立</rb><rt>こなべた</rt></ruby>ての<ruby><rb>風</rb><rt>ふう</rt></ruby>を誘うに至った。晴の日の食事の比較的簡単なものを、いつでも食いたい時に製して食えるように、小鍋とか<ruby><rb>火鉢</rb><rt>ひばち</rt></ruby>とかいうものが普及したのである。<ruby><rb>白河楽翁</rb><rt>しらかわらくおう</rt></ruby>の『<ruby><rb>女教訓書</rb><rt>おんなきょうくんしょ</rt></ruby>』を見ると、まだあの頃までは小鍋好みは悪徳であった。留守ごとと称して主人の不在中に、珍しい食物をこしらえることは不貞であった。それが久しからずして公然と是を<ruby><rb>褻</rb><rt>け</rt></ruby>に混じてしまったのである。この点は男でいうならば酒や歌舞の楽しみ、女でいうと<ruby><rb>紅白粉</rb><rt>べにおしろい</rt></ruby>の飾りも同じことで、本来はいずれも年に一度か二度の、晴の日のみに許されることであったのを、自由に任せて毎日のごとくこれを受用し、結局は<ruby><rb>節日</rb><rt>せちにち</rt></ruby>や祭の期日の印象を微弱ならしめたのである。

しかもこの自由を富や権力の乏しい常民にまで附与したのは、まったく外部社会の力であった。<ruby><rb>煮売屋</rb><rt>にうりや</rt></ruby>すなわち飲食店の出現はその一つである。いわゆる<ruby><rb>店屋物</rb><rt>てんやもの</rt></ruby>の主たるものは餅と団子、一方にはまた粗末ながら酒の<ruby><rb>肴</rb><rt>さかな</rt></ruby>であった。いずれも起こりは道中の茶屋からで、是は旅からきた異郷人の、接待だからすなわち晴であったのが、漸次に附近村落の平常生活に持ち込まれたのである。その傾向の<ruby><rb>慨歎</rb><rt>がいたん</rt></ruby>すべきものであるか否かを、判定するまでは我々の任務でない。我々はただ現在の日常生活が、こうした急激の変遷の結果であることを知ればすなわち足るのである。家が日本人の生活の単位であった時代は過ぎ去った。そうしてこの食物の個人主義を、促したものは<ruby><rb>雑餉</rb><rt>ざっしょう</rt></ruby>すなわち弁当であった。村の労働者がヒルマ・コビルマを食う習慣は相応に古いと思うが、その頃からすでに今日の変革は<ruby><rb>萌</rb><rt>きざ</rt></ruby>していたのである。

  


## 家の光

改めて家の光ということを、考えてみる必要が起こった。いかなる理由から、家庭には新しい光明が求められなければならなかったか。

雪や<ruby><rb>蛍</rb><rt>ほたる</rt></ruby>を集めたという昔話がある。もとは普通の人の家には、書物を読むだけの光が備わっていなかったのである。

今でも多くの山村には、ヒデ<ruby><rb>鉢</rb><rt>ばち</rt></ruby>という物が残っている。<ruby><rb>円</rb><rt>まる</rt></ruby>くほり<ruby><rb>凹</rb><rt>くぼ</rt></ruby>めた石の皿、または破損した<ruby><rb>古鍋</rb><rt>ふるなべ</rt></ruby>などを用いて、その中で松の<ruby><rb>小割木</rb><rt>こわりぎ</rt></ruby>を燃したのが、以前の世の灯火であった。

或いは<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>かな板切れに粘土を塗り附けてひでの鉢に<ruby><rb>充</rb><rt>あ</rt></ruby>てたものもあった。そんな質素な道具がまだ保存せられてあるのに、人ならば一代の間に<ruby><rb>行灯</rb><rt>あんどん</rt></ruby>となりカンテラとなり、石油ランプも<ruby><rb>三分芯</rb><rt>さんぶしん</rt></ruby>から丸ボヤに進んで、ついに電灯の今日となったのである。

家の明るくなるのは愉快なものである。独り夜分ばかりではない。紙の<ruby><rb>障子</rb><rt>しょうじ</rt></ruby>が自由に用いられるようになってから、窓も高く小さくしておくに及ばず、戸をたてておく必要がなくなった。さらに<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>の恩恵までが、今は農村にも及ぼうとしているのである。

家は<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>がために、単純なる休息の隠れがではなくなった。明るい家では隅々の物を片付けずにはおられぬように、外で労働をせぬ人々の余った時間を、自然に整理し利用して、それぞれに意味のあるものにしたのは、まったくこの家の光の力であった。

殊にうれしいのは少年や若い女性の、学問が自由になったことである。当人たちの考え次第に、どんな目的にでも時間を用立てることができるようになったことである。

昔は学問のことを勉強と<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>っていた。何か一つの目的のために、強いて<ruby><rb>勉</rb><rt>つと</rt></ruby>めて<ruby><rb>我慢</rb><rt>がまん</rt></ruby>をして学問をしたのであった。多くは新たなる職業のためであった。家々の灯火が明るくなってから、そんな必要の無い人も、楽に世の中のためにまたは愛する者のために、静かな時間を読書に費すことができるのである。

人が自分に入用なだけの学問を、勉強して修めている間は、まだ人間社会の全体を、これに<ruby><rb>由</rb><rt>よ</rt></ruby>って改良する見込みは立たぬ。少しでも余裕の有る者が、他を助ける心持で、本を読みまた考えるようにならなければ、次の代は今よりも幸福にはならぬのである。

大抵の家の主人は、生活の仕事が非常に忙しくなった。世の中もすでに行詰まって、棄てておいても自然に繁栄するほどに有望でない。正しい学問ばかりが国を<ruby><rb>済</rb><rt>すく</rt></ruby>うことを得るのであるが、現在まではまだ誰が出てその任務に当るという者も無かった。そうして人は個々の奮闘に疲れようとしている。

幸いにして彼らの家庭には余った力があり時間があり、親切と愛情とがある。またこれを照すところの明るく美しい家の光がある。どうしても今後の学問は、家庭に入らなければならぬ。

或いは家々の事情に<ruby><rb>由</rb><rt>よ</rt></ruby>って、その余裕のないという場合があろう。文明を誇る国々の中流でも、家内の労作にはむだが無いかわりに、はや収入の補足のために、女も出て働くべき必要を生じている。そうなってからでは致し方がない。日本のごとく家族が多く家にいて、何をしようかと思っているような国でないと、仮に必要があっても力をこの方面に用いる機会が無いのである。

また<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>最初から、大きい事業を望むことはできぬ。残念ながら今日の教育には、まだその十分な準備が無い。しかも働いて<ruby><rb>暇</rb><rt>ひま</rt></ruby>の無い人々にかわって、知識を捜索しまた新しい感動を求めて行くだけの、内助の力ならば与えられる。今日の学問には受売が多く、<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>ぞとまとまった指導の書物は無いのだが、時間を費し選択に注意をすれば、家々の入用ぐらいのものはその中からでも見いだし得る。

それよりもさらに大切なのは、この世この時代との連絡である。生活に没頭する活動家には、往々この方面に意外の手抜かりが多く、同情深い傍観者から、欠点を注意せられる必要は昔からあった。しかも単なる婦女子の常識以上に、道理と説き方とに人を動かすだけの力を持たせようとすれば、やはり<ruby><rb>予</rb><rt>かね</rt></ruby>てから学び且つ考えておらねばならなかった。

<ruby><rb>我邦</rb><rt>わがくに</rt></ruby>古来の貞淑の美徳が、女の学問のためにただちに<ruby><rb>覆</rb><rt>くつが</rt></ruby>えされるもののごとく、もし憂える者があったらそれは誤りである。<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>には<ruby><rb>小面</rb><rt>こづら</rt></ruby>の憎い才女という者もあるか知らぬが、それは正しい学問をしなかったためで、多くのやかましい女房は、<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>愚痴無識の産物である。家門の紛争を増長せしめる類の弁舌や<ruby><rb>屁理窟</rb><rt>へりくつ</rt></ruby>は、仮に読書に由ってこれを学んだにしても、我々の名づけて学問と謂うものではないのである。

故に学問とはどんなものか、人は何のために学問に向わねばならぬかという問題は、<ruby><rb>迂遠</rb><rt>うえん</rt></ruby>なようだがやはり最初に知っておく必要がある。何か一つの職業を目あてにして、進んで行こうとするなら一定の方法もあり、またいわゆる女子教育振興の議論について行ってもよいのであるが、今日の家庭のような自由な時間、自由な教育のもとで一歩を誤まると、或いは多くの<ruby><rb>小賢</rb><rt>こざか</rt></ruby>しい人が踏み迷うたように、何でもかでも文字の排列してある紙さえ見ておれば、それで学問になると安心してしまわぬとも限らぬ。

全体に女性に読ませようとする印刷物が、現在は少し多過ぎる。馬鹿げた雑誌類が少し売れ過ぎる。読む前から分りきったような物ばかりに、<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>している時が惜しいと思う。その時間を集積してみたら、おそらくはいかなる難事業でもできるはずである。目前のためにもまた次の代のためにも、是ほど家々の学問の入用な時世に、我も人もまた正しい選択と指導とを考えていないようでは、事によると<ruby><rb>折角</rb><rt>せっかく</rt></ruby>の家の光も、無用の装飾に帰するばかりか、かえって今までは隠されていた内部の醜さを、暴露することになるかも知れぬ。

くり返して言うが日本の今日のごとく、家庭の学問のために都合のよい場合は稀である。この好機会が濫用せられていることは、何と考えても惜しいものである。

  


## 囲炉俚談

## 一

炉をヰロリという今日の語はどうして始まったか。こういうことを一つ問題にしてみたい。近世の文学はもとよりのこと、古くは『<ruby><rb>庭訓往来</rb><rt>ていきんおうらい</rt></ruby>』などにも「囲炉裏」の文字は用いられ、従うてヰロリと発音するのが正しいので、これと異なる語はみな「かたこと」だと、学問のある人は誰でも考えているようだが、甚だ心もとない話である。なるほど漢語には「囲炉」という熟字はある。しかしそれは動詞であって物の名ではないうえに、これに「裏」の字を附けて意味をなすわけもなく、またそれをこちらで配合して、音で呼ぶべき理由も無い。むやみに外国文物の外形ばかりを伝習した国の、一つの特産物たる「<ruby><rb>宛</rb><rt>あ</rt></ruby>て字」というもので<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>があることは明らかだから、その点を私は論じようとするのではない。問題はその「宛て字」の必要を促したもとの言葉が、いつから<ruby><rb>我邦</rb><rt>わがくに</rt></ruby>にありまたどうして発生したかということを、文字を離れて推究してみたいのである。久しく打棄ててあった故に、これが存外に容易な仕事ではないのである。

## 二

「炉」という漢語が日本に入って来たのは、囲炉裏の文字の出現よりはずっと古い。我々の先祖は太古から火を<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>いていたはずだから、その火焚き場を意味する名詞は、これに先だって必ず有ったのであるが、少なくとも中央においては<ruby><rb>夙</rb><rt>はや</rt></ruby>くこれを忘れている。そうして偶然にヰロリという語にもロの音があったために、それに基づいてこのような宛て字を発明したらしいが、はたしてもとの語が精確にヰロリであったのやら、ただしは是と大分近い音であったために引付けられたのやら、今ではまだ断定するだけの資料が無い。これを決するにはその一つ前の日本語を見いださなければならぬ。そうしてこの語はすでに悠久の年代を経て、「炉」という名の輸入以前にも、かなりの変遷を<ruby><rb>遂</rb><rt>と</rt></ruby>げていたらしいのである。

史書にはこの経過を跡づける資料が至って乏しい。それ故に我々は書外の資料、無形の記録を尋討するのほかはないのである。地方に現在行われている言葉いは、むろん後代になって制作しまた流布したものがまじっている。しかし一つの単語の領域を広めるためには、幾つかの条件を具える必要があって、物と一緒に移動して行かぬかぎり、個々の小さな中心で起こったものが、遠くの土地までを征服することはむつかしい。したがって互いに隔絶した多数の一致は、かつて共々に一つの社会を構成していた時から、保存していたものという推測も下され、そうでないまでも少なくとも長い年月を経ているというだけは、一応は想像し得られるのである。

この点から考えてみて、ヰロリを意味する現在の日本語の、最も広く普及しているものはジロである。私の気づいただけでも、九州で宮崎県の南部、熊本県の<ruby><rb>球磨</rb><rt>くま</rt></ruby>・<ruby><rb>葦北</rb><rt>あしきた</rt></ruby>二郡、それからずっと飛んで信州の下高井郡、<ruby><rb>越後</rb><rt>えちご</rt></ruby>の<ruby><rb>魚沼</rb><rt>うおぬま</rt></ruby>地方、秋田県の仙北郡および岩手県<ruby><rb>上閉伊</rb><rt>かみへい</rt></ruby>郡の一部に、炉をジロと<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>う方言があるほかに、島では鹿児島県の宝島と<ruby><rb>種子島</rb><rt>たねがしま</rt></ruby>、東京府下では<ruby><rb>八丈島</rb><rt>はちじょうじま</rt></ruby>、日本海では<ruby><rb>佐渡島</rb><rt>さどがしま</rt></ruby>外側の<ruby><rb>海府</rb><rt>かいふ</rt></ruby>地方と、<ruby><rb>羽後</rb><rt>うご</rt></ruby>の<ruby><rb>飛島</rb><rt>とびしま</rt></ruby>とに同じ語が行われている。是は明らかに近世の運搬ではないのである。

この中で陸中の分だけはズロと報告している。これは聴きようでありまた写しようであろうと思う。これに反して他の二カ<ruby><rb>処</rb><rt>しょ</rt></ruby>でヂロと載せているのは（<ruby><rb>肥後</rb><rt>ひご</rt></ruby>、<ruby><rb>信濃</rb><rt>しなの</rt></ruby>）、ヂとジとの差異を聴き分けたのではなくて、おそらくジロは地炉だという学問が干渉したものである。有名な『<ruby><rb>後三年絵詞</rb><rt>ごさんねんえことば</rt></ruby>』の「地火炉ついで」の話などもあって、「地炉」に近い語は早くから知られているが、右の全国的なるジロをもって、軽率に地面にしつらえた炉のことと、解してしまうことは事実の無視になる。現在各地のジロはおおむね「すのこ」の上に切ってあるのが一つの理由である。第二には以前は床を張らぬ小民の家が多く、そこでは炉はことごとく地上のものであった。特に<ruby><rb>庭竈</rb><rt>にわかまど</rt></ruby>のみに限って、この名を附与する必要はなかったのである。

## 三

地火炉という名は現実にはまだ耳にしたことがない。是も漢字の組合せが無理だから、事によると中古の宛て字かも知れない。ジロは少なくとも炉が漢語から、成り立ったものとは言い切れぬのである。東京の近くでは信州<ruby><rb>佐久</rb><rt>さく</rt></ruby>の<ruby><rb>川上</rb><rt>かわかみ</rt></ruby>地方から、<ruby><rb>諏訪</rb><rt>すわ</rt></ruby>・<ruby><rb>伊那</rb><rt>いな</rt></ruby>にかけて南信一円、甲州のほぼ全部、<ruby><rb>駿河</rb><rt>するが</rt></ruby>の富士川以東と<ruby><rb>伊豆</rb><rt>いず</rt></ruby>の片端に、ヰロリとヒジロという語が今も行われている。諏訪では是をまたヒタキジロとも<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>うのを見ると、ヒジロはすなわち火を<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>く<ruby><rb>場処</rb><rt>ばしょ</rt></ruby>、ちょうど英語の Fireplace と同格の語と考えられる。シロの古い用法は<ruby><rb>苗代</rb><rt>なわしろ</rt></ruby>に<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>っている。中世の文書に見えまた地名に多い<ruby><rb>田代</rb><rt>たしろ</rt></ruby>という語なども、やはり田を作る予定地のことらしい。<ruby><rb>菌類</rb><rt>きんるい</rt></ruby>の毎年多く採れる場処も、中部の<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>ではもっぱらシロと謂っている。越後では炉の片側の燃料置場を、タキジロまたはキジロという語がある。是が<ruby><rb>炉辺</rb><rt>ろばた</rt></ruby>の<ruby><rb>下座</rb><rt>しもざ</rt></ruby>を意味する<ruby><rb>木尻</rb><rt>きじり</rt></ruby>と混合して、<ruby><rb>薪</rb><rt>まき</rt></ruby>を置く所をキジリという例はまた多いのである。ジロは初頭の子音が濁っている故に、古来そのままの形でないことは察せられるが、さりとて是だけ広汎な分布がある以上は、それをことごとくヒジロの省略と断定することも、今はまだ少しく<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>せられる。或いは是が家の内でただ一つの、且つ重要なる場処すなわちシロであった故に、最初から簡単にシロと呼んでいたかも知れぬのである。とにかくにシロとヒジロとは無関係の語でないということだけはまず確かである。

## 四

この二つの語の関係とよく似たものが、今一つは東北地方の、ホドとヒホドとの間にも見いだされる。ホドを現在ヰロリの意味に使っているのは、奥州では南部の<ruby><rb>沼宮内</rb><rt>ぬまくない</rt></ruby>、陸前の<ruby><rb>気仙</rb><rt>けせん</rt></ruby>郡、羽後の<ruby><rb>飽海</rb><rt>あくみ</rt></ruby>郡などの数カ所だけであって、その他は陸中の<ruby><rb>上閉伊</rb><rt>かみへい</rt></ruby>・<ruby><rb>江刺</rb><rt>えさし</rt></ruby>の二郡、羽前の<ruby><rb>米沢</rb><rt>よねざわ</rt></ruby>、南秋田の半島、および信州の<ruby><rb>下水内</rb><rt>しもみのち</rt></ruby>郡において、いずれも<ruby><rb>炉</rb><rt>ろ</rt></ruby>の中央の火を<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>く部分だけをホドと謂っている。或いはそのまん中の熱い灰、すなわち信州でクヨウクリ、秋田ではカラスアク、雅語でオキともいう焚き落しの部分が、ホドというものだと思っている者も福岡県などに有るが、是は昔の調食法に最も普通であったホド焼き・ホド蒸しの語からそういう風に逆推しただけで、この<ruby><rb>熱灰</rb><rt>あつはい</rt></ruby>には別にホドアクの名があり、ホドは本来はその場所の名であった。ところが奥羽でも他の多くの地方では、ヰロリ全体の名としてはホドだけでは通用せず、さらにその上に火を加えて、ヒホドという語が行われている。是は<ruby><rb>畢竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>ホドの原意が一般にもう<ruby><rb>朧</rb><rt>おぼ</rt></ruby>ろになってしまって、<ruby><rb>火処</rb><rt>ひどころ</rt></ruby>だということを知らなかったためかと思う。

ヒジロ・ヒホドの複合語において、火をホとは謂わずにヒと発音させようとした年代は、そう古いものでないに違いない。ところがヒホドの方は発音が殊に容易でなかったと見えて、各地さまざまの<ruby><rb>音訛</rb><rt>おんか</rt></ruby>がもう起こっている。元の形に近いものから列記すると、同じ陸中でも上閉伊郡にはヒボトが有るのに、<ruby><rb>和賀</rb><rt>わか</rt></ruby>郡には外南部や<ruby><rb>津軽</rb><rt>つがる</rt></ruby>・秋田の一部とともに、これをヒブトと謂う者がある。その津軽でも<ruby><rb>弘前</rb><rt>ひろさき</rt></ruby>の城下はシホドまたはエリギというが、在郷の人々はシボトともシプトとも発音し、さらに南部領から気仙方面にかけてはシブトがある。盛岡は<ruby><rb>鹿角</rb><rt>かづの</rt></ruby>地方とともに炉をヒビトというと報ぜられているが、是もその近傍にはシビトが控えており、さらに南へきて『<ruby><rb>遠野</rb><rt>とおの</rt></ruby>方言誌』にはスビト、東山地方ではスブト、仙台も盛岡も古い採集録にはかえってスビトと出ている。こうなると炉や<ruby><rb>火桶</rb><rt>ひおけ</rt></ruby>をスビツと謂った古語に近くなってくるが、単なる一端の事例だけをもって対比することはできない。現にヒボトもこのスビトも、同じ一つの郡内の併存であって、双方互いに別の語だとは思っておらぬのである。

## 五

同じ東北地方の、しかも<ruby><rb>相隣</rb><rt>あいとなり</rt></ruby>した村々の中に、数は少ないが炉をジロと<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>う例もあることは前に述べた。そこで問題になるのはシロとホドと、いずれが古くいずれが後のものだろうかということであるが、それは私にはまだはっきりと言うことができない。普通の場合では東北と西南と、国の両端にあって一致する単語のほうが、早くから流布を始めたと見るべきであるけれども、ホド・ヒホドの所在も国の一隅の、殊に古風を多く<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>した地域である上に、文献その他の傍証はホドに古く、ジロという語は新しいというよりもむしろ<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>である。一つの参考は越後<ruby><rb>蒲原</rb><rt>かんばら</rt></ruby>などの昔話に、家の火の神すなわち<ruby><rb>荒神</rb><rt>こうじん</rt></ruby>とか<ruby><rb>竈神</rb><rt>かまのかみ</rt></ruby>とかいうものを、ホド神と謂い、また北信や岩手県下に、ホドを深く掘ると貧乏神が出るとか、一つ眼という怪物が出るという口碑があることで、ジロに関しては今はまだそういった話を聴かない。伊豆の<ruby><rb>三宅島</rb><rt>みやけじま</rt></ruby>なども家の炉はジロと謂ったらしいが、火山の火坑だけは今もこれをホドと呼んでいる。ただし八丈島へ行くと、噴火口はカナドである。ヰロリをカナゴと謂う例は<ruby><rb>丹波</rb><rt>たんば</rt></ruby>の<ruby><rb>天田</rb><rt>あまだ</rt></ruby>・<ruby><rb>何鹿</rb><rt>いかるが</rt></ruby>辺に一つあり、クヌギすなわち薪材をカナギという例は三河にも越前にもあって、カナドもまた一つの炉を意味する名詞だったらしい。人間の火焚き場には別の語を用いつつ、神の造りたまう炉だけをホド・カナドと謂ったのは、後者が一段と古くからの存在であることを証明するものではあるまいか。是も追々の資料の発見によって、判明すべきことを予期している。

ホドという語の分布は、伊勢の南端において竈をヒノボトという以外に、まだ中部・関西に及んでいる例を知らぬが、私は今日<ruby><rb>弘</rb><rt>ひろ</rt></ruby>く行われている竈のクドも、同じ一つの語から分化したものと思っている。クドは京阪を含んだ近畿地方の、かなり前からの標準語であるのみならず、西は九州の東岸から四国・中国の弘い区域、北はまた奥羽の各地にも行われ、その中間の関東と北陸、<ruby><rb>佐渡</rb><rt>さど</rt></ruby>と<ruby><rb>熊野</rb><rt>くまの</rt></ruby>と<ruby><rb>淡路</rb><rt>あわじ</rt></ruby>などに、ホドと最も近いヒドコという語があって、すべて今風の塗りベッツヒを意味している。是もジロ・ヰロリ等の被覆せぬ火焚き場と区別するために、新たに是らの語を固定せしめただけで、特に変った意味を最初からこの語が持っていたのでもなければ、また今見る土竈の新設とともに、発明せられた言葉でもなかったろうと思う。『新編<ruby><rb>常陸国誌</rb><rt>ひたちこくし</rt></ruby>』を見ると、かの地方ではホドもクドも同じものだと謂っている。東京郊外から<ruby><rb>下総</rb><rt>しもうさ</rt></ruby>の西部にかけては竈をカマダン、上州<ruby><rb>邑楽</rb><rt>おうら</rt></ruby>郡ではカマンデェ、その東隣の<ruby><rb>下野河内</rb><rt>しもつけかわち</rt></ruby>郡・下総<ruby><rb>猿島</rb><rt>さしま</rt></ruby>郡ではカマックドとさえ謂っている。すなわち<ruby><rb>弦</rb><rt>つる</rt></ruby>のない今日の<ruby><rb>鍔釜</rb><rt>つばがま</rt></ruby>を、<ruby><rb>載</rb><rt>の</rt></ruby>せるようにできていないクドも別に有ったのである。ヘツヒの古名の<ruby><rb>築</rb><rt>つ</rt></ruby>き<ruby><rb>竈</rb><rt>かまど</rt></ruby>に転用せられたのも、新たに出来た語とは謂えぬが、クドも西日本ではおそらくは新語でなかった。ただホドという語が前からある奥羽地方へ、クドの形になって入ってきたのは、土で竈を<ruby><rb>築</rb><rt>きず</rt></ruby>く風習と一しょであったために、<ruby><rb>爰</rb><rt>ここ</rt></ruby>ばかりでは是を別の語として受け入れたので、日本全体からいうと是もまた<ruby><rb>由緒</rb><rt>ゆいしょ</rt></ruby>久しい一つの古語であろうと思う。

## 六

前置きが図らずも長くなったが、私の説を要約するとこういうことになる。ロという漢語が我邦に入って来る前に、炉を意味する日本語はもう幾つかできていて、地方的に割拠していた。カナド・ホド・シロなどがそれであって、シロはのち一様にジロ・ヒジロと変り、ホドはヒホドとなって東北に<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>り、またクド・ヒドコと改まって塗り竈の名に<ruby><rb>宛</rb><rt>あ</rt></ruby>てられた。そうして旧来の平面の炉には、いつの間にかヰロリという異風な一語が、代りに入ってきて黙って<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>っている。漢語のロという音をどう<ruby><rb>捻</rb><rt>ね</rt></ruby>じくってもヰロリには成らぬとすれば、別にもう一つ是の前座であった語を、見つける必要もあり興味もあると言うのである。

いわゆる<ruby><rb>囲炉裏</rb><rt>いろり</rt></ruby>に該当する府県の方言は、五つまではすでに挙げてみたが、ほかにまだ一つの別系統の語が、<ruby><rb>能登</rb><rt>のと</rt></ruby>から<ruby><rb>越中</rb><rt>えっちゅう</rt></ruby>にかけてかなりよく残っている。エンナカもしくはインナカというのがその最も普通な型であるが、土地によってはヘンナカ・ヘナカ、時にはまたヘンカとも謂い、<ruby><rb>婦負</rb><rt>ねい</rt></ruby>郡の或る村ではエレンナカというそうだが、是が少しばかりはヰロリと近い。<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>どれがもとでどれが第二次の<ruby><rb>転訛</rb><rt>てんか</rt></ruby>とも決し得ないが、エンナカは家の中とも<ruby><rb>居処</rb><rt>きょしょ</rt></ruby>とも解せられ、ヘンナカは火からの影響を受けたもの、エレンナカはかえってヰロリとの妥協とも見られる。いずれにしても是らの名称は、土地人相互の間にはまだ同語として意識せられているのである。

この婦負郡のエレンナカに近く、<ruby><rb>西礪波</rb><rt>にしとなみ</rt></ruby>郡にはエレンバタ、エレバタ、またはエレブツ・エレボツなどの語があって、是らはともに<ruby><rb>炉端</rb><rt>ろばた</rt></ruby>のことを意味する。前者と比較すると、エレがホドまたはジロに当ることだけは察せられるのである。そこで今ある各地方の訛音なるものを見渡すのに、ヰロリと明瞭に謂うものはむしろ少なく、東北は弘前市のエリギを始めとし、秋田市のエルギまたはエルゲ、その隣の山本郡のエヌギ、<ruby><rb>鹿角</rb><rt>かづの</rt></ruby>郡のユルギがあり、福島県では<ruby><rb>石城</rb><rt>いわき</rt></ruby>郡のイルギ、<ruby><rb>最上</rb><rt>もがみ</rt></ruby>や<ruby><rb>会津</rb><rt>あいづ</rt></ruby>や<ruby><rb>相州</rb><rt>そうしゅう</rt></ruby>浦賀等のユルギのほかに、飛んで<ruby><rb>隠岐</rb><rt>おき</rt></ruby><ruby><rb>五箇浦</rb><rt>ごかのうら</rt></ruby>のエリリがある。だいたいに発音のややむつかしい語であるためか、「ゐる」をユルとは決して言わぬ土地でも、ユロリ・ユルリと謂う例は最も多く、東西二京の人までがうっかりするとユルリなどと謂っている。そういう中でも注意せらるべき一事は、九州などにこそＲ子音の脱落があって、ユルイという語の行われるのは自然だが、他にその習癖のない<ruby><rb>長門</rb><rt>ながと</rt></ruby><ruby><rb>阿武</rb><rt>あぶ</rt></ruby>郡・<ruby><rb>周防</rb><rt>すおう</rt></ruby><ruby><rb>熊毛</rb><rt>くまげ</rt></ruby>郡、東では三河・伊豆などの一部にも、ユルイまたはユリーという発音の耳にせられることである。是には音声学者の説明し得るもの以外に、何か意義の方からの隠れた原因があるのではないか。確かな解決はまだできないにもかかわらず、私はなおこの方向に探究の歩を進めたいと思っている。

## 七

ふたたび<ruby><rb>搦手</rb><rt>からめて</rt></ruby>へ戻るが、次のような点からも問題は考察し得られる。我々が人前へ出て口の<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>けない者をひやかして、<ruby><rb>内弁慶</rb><rt>うちべんけい</rt></ruby>だの<ruby><rb>炬燵</rb><rt>こたつ</rt></ruby>弁慶だのと評することわざは、地方によって色々の言いかたがある。まず九州の<ruby><rb>日向</rb><rt>ひゅうが</rt></ruby>では<ruby><rb>横座</rb><rt>よこざ</rt></ruby>弁慶、横座は<ruby><rb>炉</rb><rt>ろ</rt></ruby>の正面の主人の座である。陸中<ruby><rb>遠野</rb><rt>とおの</rt></ruby>のロブチ弁慶、是も<ruby><rb>判</rb><rt>わか</rt></ruby>っている。信州<ruby><rb>諏訪</rb><rt>すわ</rt></ruby>ではヰベンケイ、<ruby><rb>出雲</rb><rt>いずも</rt></ruby>ではイノチベンケイと謂うが、『方言考』の後藤氏は「家の内」だろうと謂っている。秋田県の鹿角ではエノナカベンケ、是も石川・富山のエンナカと同様に、炉側のことではないかと思う。人が家にいるのは夜分か雨雪の日であり、家で明るい暖かい所は、<ruby><rb>炉端</rb><rt>ろばた</rt></ruby>であったことを考えてみなければならぬ。<ruby><rb>佐渡</rb><rt>さど</rt></ruby>は矢田氏の『方言集』には、ユリナタベンケイという語があって、そのユリナタはまた炉端のことである。<ruby><rb>飛騨</rb><rt>ひだ</rt></ruby>ではヒナタともいうからナタはノハタの約、すなわち火のはた・ユリのはたであろうが、私はなおこのユリナタなどの方が前で、ユルリはかえって是から後に生まれた語と思っているのである。

家の中の生活には、ホドは<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>大切であるが、是を<ruby><rb>取繞</rb><rt>とりめぐ</rt></ruby>らす炉ぶちもまた重要であった。<ruby><rb>爰</rb><rt>ここ</rt></ruby>で長幼の序が定まり、家長主婦の権威が確立するのみならず、火神の祭りも<ruby><rb>占問</rb><rt>うらど</rt></ruby>いも、みなこの<ruby><rb>炉縁</rb><rt>ろぶち</rt></ruby>の木の上で行われたのである。だから信州などでは是をオクラブチと称し、内弁慶を評してオクラブチを<ruby><rb>敲</rb><rt>たた</rt></ruby>くとも謂っている。オクラは御座であり、ホドの神の祭壇を意味する。マッコブチと東北などでいうのは、以前は<ruby><rb>二又</rb><rt>ふたまた</rt></ruby>になった木を必ず<ruby><rb>爰</rb><rt>ここ</rt></ruby>に置いたからであろうと思う。その他フセンブチだのヒズキだのと、色々と変った名があるが、その意味はまだ私には説明ができない。ジロブチ・ジロンブチという語は島々にもあり、またジロという語のすでに忘れられた<ruby><rb>秩父</rb><rt>ちちぶ</rt></ruby>地方などにもある。炉の四側の家の者が<ruby><rb>坐臥</rb><rt>ざが</rt></ruby>飲食する場所に、必ず総名のあるべきは当然で、それが佐渡のごときジロという語を知る土地でも、なお別にユリナタであったのである。佐渡のユリナタは山形県の<ruby><rb>最上</rb><rt>もがみ</rt></ruby>地方ではユリバタ、信州の<ruby><rb>小谷</rb><rt>おたり</rt></ruby>ではヰルブチ、<ruby><rb>能登</rb><rt>のと</rt></ruby>と加賀ではエンナタであった。私の想像では、是らの炉端を意味する語の、起こりはいずれもヰル（居る）という動詞にあった。ちょうど家の内の炉のある区劃をナカヰまたはジャウヰと謂い、<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>でて客と対する<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>をデヰと謂ったように、火に面した座席にもヰルから出た名があったのである。それがいかなる形であったかは断定し得ぬが、或いはヰルヰなどではなかったろうか。ヰルは<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>ることであり、ヰは座席のことである。ヰルヰは最も早くユルイと変化し得たが、或いはまたヰルブチ、ユリナタなどであってもよい。とにかくにそれがまず行われて且つ意味が忘れられた後に、炉の火そのものをユリとかヰルと言うようになったので、従うて囲炉裏は甚だしい<ruby><rb>宛</rb><rt>あ</rt></ruby>て字ではあるけれど、なおその裏の字にも若干の根拠はあったと言い得るのである。

（附記）是は昨年五月の近畿方言学会の講演に、若干の資料を補足して解説を精確にしたものである。私の目的は一つの単語の知識を添えることではない。現在の辞典家の方法が危険だということを警告したいのである。

  


## 火吹竹のことなど

## 一

早春に野をあるくと、いつでも思い出す『<ruby><rb>比佐古</rb><rt>ひさご</rt></ruby>』の<ruby><rb>両吟</rb><rt>りょうぎん</rt></ruby>、

<ruby><rb>雲雀啼</rb><rt>ひばりな</rt></ruby>く里は<ruby><rb>厩糞</rb><rt>まやこえ</rt></ruby>かき散らし　　　　　　<ruby><rb>珍碩</rb><rt>ちんせき</rt></ruby>

火を吹いて居る<ruby><rb>禅門</rb><rt>ぜんもん</rt></ruby>の<ruby><rb>祖父</rb><rt>じじ</rt></ruby>　　　　　　<ruby><rb>正秀</rb><rt>まさひで</rt></ruby>

本堂はまだ<ruby><rb>荒壁</rb><rt>あらかべ</rt></ruby>の柱組み　　　　　　　　　碩

<ruby><rb>羅綾</rb><rt>らりょう</rt></ruby>の<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>しぼりたまひぬ　　　　　　　　秀

この頭を<ruby><rb>剃</rb><rt>そ</rt></ruby>った老農の姿は、殊におかしくも又なつかしいが、作者の胸に描いている古家の炉ばたの光景は、おそらくは<ruby><rb>火吹竹</rb><rt>ひふきだけ</rt></ruby>とは関係の無いものであったろう。外はうらうらと緑に光った空の下に、子どもも女たちも出て働いている日、祖父だけが一人残って<ruby><rb>鑵子</rb><rt>かんす</rt></ruby>の火を焚きつけようとしている。その丸坊主の<ruby><rb>脊</rb><rt>せ</rt></ruby>をくぐめた様子が、この上も無い<ruby><rb>俳諧</rb><rt>はいかい</rt></ruby>に感じられたものと思われる。

私などの小さい頃の<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>には、火吹竹の無い家などは一軒も無かったように記憶するが、それが追々に無くてすむことになったと同じく、以前もそれを使わぬ農家が幾らもあって、この物の存在はすでに<ruby><rb>足利</rb><rt>あしかが</rt></ruby>期末にも知られていたにかかわらず、微々たる発明であるだけに、存外に流行が遅々としていたのである。この頃必要があって地方の言葉を集めて見るのに、火吹竹という名で知られている区域は必ずしもそう<ruby><rb>弘</rb><rt>ひろ</rt></ruby>くなかった。まず九州は南部の各県でヒオコシ竹というのがこの物の普通の名であった。オコス・オコルは燠（オキ）という名詞から出たらしく、少なくとも火を燃すことには関係が無い。炭に火種を添えて火を<ruby><rb>熾</rb><rt>さか</rt></ruby>んにすることは、炭の常用よりも後に始まった作業で、すなわちその時期に入ってから、始めてこの地方ではその効用を名にしているのである。佐賀・長崎の方面には、またフスリ竹という名もある。フスルは<ruby><rb>燻</rb><rt>くすぶ</rt></ruby>るという動詞の方言のようだから、この地方では焚付けのために、すでにこの竹を使っていたことはわかるが、名から想像するとまだ十分にその価値を発揮していなかったかとも見える。

それから東に進んで中国地方、近畿は一帯に火吹竹の領分だったはずであるが、<ruby><rb>大和</rb><rt>やまと</rt></ruby>の南の方などには別になおイキツギ竹という異名も行われている。いかにも火を吹くという事は骨の折れる仕事であった。女は髪をよごし煙を忍んで、<ruby><rb>折角</rb><rt>せっかく</rt></ruby>吹付けていてもちょっと休むとむだになる。ところがこういう器械を使えば空気の補充が容易なのだから、つまりこの名称は経験から生まれたものである。しかも燃料の節約が必要になって、いわゆる<ruby><rb>囲炉裏</rb><rt>いろり</rt></ruby>を<ruby><rb>罷</rb><rt>や</rt></ruby>め土の<ruby><rb>竈</rb><rt>かまど</rt></ruby>を専用するようになれば、どんなに息の強い<ruby><rb>爺</rb><rt>じい</rt></ruby>の禅門でも、この竹無しには火を吹くことができない。そうして、中央の平坦部の農村が、煮炊きを竈でするようになったのも久しいことであった。

## 二

遠州の浜松附近には、火吹竹をフキツボという方言が今でも行われている。<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>から推測するのは吹竹の一つ以前、何かまた別種の器具が行われていたのではあるまいかということである。竹の<ruby><rb>筒</rb><rt>つつ</rt></ruby>でも<ruby><rb>壺</rb><rt>つぼ</rt></ruby>と<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>えないこともないが、そう名づけるのにもっと適切な、或いは<ruby><rb>瓢</rb><rt>ひさご</rt></ruby>のようなものを<ruby><rb>曾</rb><rt>かつ</rt></ruby>ては利用していたのではなかったか。たった一本の竹を節をかけて切り、底に小さな穴をあけるだけの考案ではあるが、竹の得られぬ土地も全国には随分多く、<ruby><rb>錐</rb><rt>きり</rt></ruby>は殊に家々に具わった道具でない。その上にこんな小さな穴をあけただけで、火を吹く呼吸が調節せられるということも、そう安々とは心づく法則ではないのである。後から考えればこそ何でもない話のようだが、最初は是でも発明であり、または幸福なる発見だったのである。群馬県の一部には、また火吹竹をタウブキと謂っている<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>もある。タウは大抵は著しい改良、以前あったものに若干の変更を加えて、一層の便宜を得た場合の讃辞のようになっているから、或いは是もまた<ruby><rb>唐吹壺</rb><rt>とうぶきつぼ</rt></ruby>の下略であったかも知れない。日本の新物尊崇は大抵は商人に<ruby><rb>刺戟</rb><rt>しげき</rt></ruby>せられている。そうして火吹竹なども手製が少なく、つまらぬ物だがやはり荒物屋から、買ってくる家が多かったのである。

火吹竹の歴史は、私だけは<ruby><rb>穿鑿</rb><rt>せんさく</rt></ruby>する価値があると思っている。主たる理由はこの物がすでに用が無く、急激に消えて跡を留めざらんとしている点にあって、人がそのために根源の存在理由を忘れ、最初から無益の物好みのために、こんな何でもない流行を追うていたように、速断する<ruby><rb>虞</rb><rt>おそれ</rt></ruby>があるからである。火吹竹を不用にした強力なる新文化は、前後三つまでは私に<ruby><rb>算</rb><rt>かぞ</rt></ruby>え上げることができる。そのおしまいの止めを刺したものが、<ruby><rb>燐寸</rb><rt>マッチ</rt></ruby>であったことは誰でもよく知っている。マッチはたった一本で放火さえできるのだから、是がそこいらにあれば無論吹竹はいらない。しかもこの物が普通の生活に入ってきたのは半世紀、せいぜい明治の十年代からで、それ以前は開港場に往来する者が、持って<ruby><rb>還</rb><rt>かえ</rt></ruby>って自慢にする魔法に近いものであった。燐寸は人間の骨で作るそうなと謂って、神仏の<ruby><rb>浄</rb><rt>きよ</rt></ruby>い火は特に<ruby><rb>燧石</rb><rt>ひうちいし</rt></ruby>で<ruby><rb>鑽</rb><rt>き</rt></ruby>り出し、商人の方ではまた決して<ruby><rb>穢</rb><rt>けが</rt></ruby>れてはおらぬということを、箱ごとに明記していたのも近い頃までの事であった。土地によっては今でもランツケギまたはアメラガなどと称して、明らかに舶来の文化であることを認めている。

しかもその<ruby><rb>附木</rb><rt>つけぎ</rt></ruby>というものがまた一つの新発明であって、やはり火吹竹の社会上の価値を、否認しようとする力であったのだが、普通の火の歴史ではわざとかも知らぬが、もうそれより前へは<ruby><rb>溯</rb><rt>さかのぼ</rt></ruby>って行こうとしていない。こんな物が<ruby><rb>夙</rb><rt>はや</rt></ruby>くからもしあったら、実は火吹竹などは無くてもすんだのである。ツケギという言葉も全国には普及していない。日本の西半分、殊に日本海に面した側では、今ある附木をも併せてツケダケと呼んでいる。ツケダケのタケは焚くという語との関係も考えられるが、なお私たちは竹細工の<ruby><rb>屑</rb><rt>くず</rt></ruby>のことだろうと解している。それを乾かして貯えて置いて、直接に<ruby><rb>燠</rb><rt>おき</rt></ruby>の火にその<ruby><rb>一握</rb><rt>ひとつか</rt></ruby>みを押当てて吹いたのである。或いは枯草や木の葉もそのかわりに使った。関東・東北では燐寸の御時世になっても、なお火を作ることをフッタケルと謂っている。吹くという行為は是ほどにも必要であった。もしも木片の頭に<ruby><rb>硫黄</rb><rt>いおう</rt></ruby>を塗り付けた附木があったら、<ruby><rb>屈</rb><rt>かが</rt></ruby>んで頭の髪を灰だらけにする苦しみはなかったのである。

## 三

今ある附木は<ruby><rb>上方</rb><rt>かみがた</rt></ruby>では一般にイヲンと<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>っている。或いはタチヨーなどと呼んでいる土地もある。タチヨーはすなわち立て硫黄であって、<ruby><rb>尖</rb><rt>さき</rt></ruby>だけに火を引きやすい硫黄を塗ったために、<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>くはこの木を立てて置くことができたからの名と思う。<ruby><rb>津軽</rb><rt>つがる</rt></ruby>・秋田その他では<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>をマサツケギ、またはタウチケゲとも謂っている。<ruby><rb>唐附木</rb><rt>とうつけぎ</rt></ruby>というからには前からの附木もあったのであるが、それにはこのような<ruby><rb>柾</rb><rt>まさき</rt></ruby>を使うには及ばなかった。柾は屋根に<ruby><rb>葺</rb><rt>ふ</rt></ruby>き<ruby><rb>箱桶</rb><rt>はこおけ</rt></ruby>に曲げ、または<ruby><rb>柾仏</rb><rt>まさぼとけ</rt></ruby>と謂って<ruby><rb>塔婆</rb><rt>とうば</rt></ruby>などにも使ったもので、いくら粗末に割ってもこれを焚付けにするのは惜しいようだが、これさえあれば豆ほどの<ruby><rb>埋火</rb><rt>うずみび</rt></ruby>を起こしても、自由にたちまちに大きな火を焚くことができる。<ruby><rb>支那</rb><rt>シナ</rt></ruby>から学んだか国内で思いついたかは知らぬが、とにかくに是は気の<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>いた考案であった。硫黄も日本には有り余るほどあるのだが、こんな簡単な二つの物の組合せによって、容易に商品となって隅々までも輸送せられている。附木を贈り物の返礼に入れる風習、または<ruby><rb>細</rb><rt>こまか</rt></ruby>く裂かずに一枚の附木を使ったために、<ruby><rb>身上</rb><rt>しんしょう</rt></ruby>が持てぬと謂って帰された嫁の話なども、つまりはこの物が火吹竹と同じに、<ruby><rb>銭</rb><rt>ぜに</rt></ruby>を払わなければならぬ発明であるが故に、我々の親たちがやや過度の尊信を是に払っていたことを語るものであろう。

ホクチも商品の最も低価なものに<ruby><rb>算</rb><rt>かぞ</rt></ruby>えられていたが、是は山村だけにはまだ自給する家が少しはあった。その材料は土地ごとに甚だ<ruby><rb>区々</rb><rt>まちまち</rt></ruby>で、<ruby><rb>蒲</rb><rt>がま</rt></ruby>や<ruby><rb>芒</rb><rt>すすき</rt></ruby>の穂の枯れたものも使えば、或いは<ruby><rb>朽木</rb><rt>くちき</rt></ruby>の腐りかけた部分を取ってきて、少し火に<ruby><rb>焦</rb><rt>こ</rt></ruby>がして貯えて置く者もあったが、色はクマボクチなどと謂って黒いのが珍重せられていた。<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>この方が火つきが<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>かったためで、是は炭の粉を交ぜればすぐにできることだが、こんな何でもない工夫でもやはり商人に始まり、それで追々と商品化してきたようである。いつから是が日本に始まったかということは記録に見えぬが、<ruby><rb>燧石</rb><rt>ひうちいし</rt></ruby>の使用に伴なうものだから、やはりまた一箇の新発明であった。<ruby><rb>燧</rb><rt>ひうち</rt></ruby>で火を<ruby><rb>鑽</rb><rt>き</rt></ruby>るということは大昔からで、なんぼ何でも是くらいは原始文化であろうと、思っている人も有るか知らぬが、それも推量はちがっている。民族を一団として言えばどこかの中心に、<ruby><rb>夙</rb><rt>はや</rt></ruby>くからその器具と技術とは備わっていたのだが、是を家々の自由に供与するまでには、やはり永い年月と手順とを要したのである。燧石は<ruby><rb>稜</rb><rt>かど</rt></ruby>があるからカド石という土地が多い。そのカド石は山で拾い、または川原にあるものを割っても用いられるとしても、一方の鉄だけは<ruby><rb>鍛冶</rb><rt>かじ</rt></ruby>が来て打ってくれるのを待たなければならぬ。ことに小形の<ruby><rb>火切鎌</rb><rt>ひきりがま</rt></ruby>などを、<ruby><rb>燧袋</rb><rt>ひうちぶくろ</rt></ruby>に入れてどこへでも持ってあるくには、是がまた一個の商品となって常に売られることを必要とし、そういう時代はなかなか<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>へは来なかったのである。ホクチが便利なものとなったのは、またそれからのことであった。是も硫黄の附木が発明せられてからは、ほんの少しばかり有ればよかったのだが、以前は多量のホクチを<ruby><rb>媒</rb><rt>なかだち</rt></ruby>にして火を鑽って是を焚付けへ吹付けたものらしく、その痕跡は近世の火打箱の構造にも残っている。火打箱は長方形で中を二つにしきり、小さい方に鉄と燧石とを置き、一方にはホクチを一ぱい入れてあった。それへ燧の火を切り落して、もとは毎回全部を燃していたかと思われる。それがいわゆるイヲンを用い始めてからは、ほんの少しですむようになった。すなわち次の発明はいつでも以前のものを安っぽくして行くのである。

## 四

このホクチや<ruby><rb>燧石</rb><rt>ひうちいし</rt></ruby>以前というものが、殊になつかしく我々には回顧せられる。消すと容易には作れない火であった故に、<ruby><rb>爰</rb><rt>ここ</rt></ruby>に隣からの<ruby><rb>火貰</rb><rt>ひもら</rt></ruby>いという交際が結ばれ、また家々では<ruby><rb>炉</rb><rt>ろ</rt></ruby>の火を留めるということが、<ruby><rb>肝腎</rb><rt>かんじん</rt></ruby>な主婦若嫁の職務となり、さらに翌朝はその火を<ruby><rb>掻起</rb><rt>かきおこ</rt></ruby>して、フッタケルということが技術ともなっていたのである。火吹竹の発明は是に対する援助であったが、或いは土地によっては十分にその恩沢に浴せぬうちに、また次のホクチや附木・<ruby><rb>燐寸</rb><rt>マッチ</rt></ruby>の時代に来てしまった家もあるかと思う。しかしこの火を吹くという古式は、ちょうど燐寸の排斥と同じように、そう簡単には棄てられてもしまわなかった。たとえば年越や節供の前夜には、特に清い火をこしらえて翌朝の<ruby><rb>神供</rb><rt>じんく</rt></ruby>を調える<ruby><rb>料</rb><rt>りょう</rt></ruby>にいけて置き、または正月中は同じ火を続けるために、<ruby><rb>節榾</rb><rt>せちほだ</rt></ruby>などという太い<ruby><rb>薪</rb><rt>まき</rt></ruby>を使う<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>もある。それへ<ruby><rb>上手</rb><rt>じょうず</rt></ruby>に灰を掛けて、朝は真赤な<ruby><rb>燠</rb><rt>おき</rt></ruby>になっているようにして置く事が、今でも<ruby><rb>家刀自</rb><rt>いえとじ</rt></ruby>の<ruby><rb>技倆</rb><rt>ぎりょう</rt></ruby>であり、また威望の根拠でもあるごとく見られていた。<ruby><rb>背戸</rb><rt>せど</rt></ruby>から隣の家へそっと火を借りに行くなどということは、<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>もう必要の無いことであるが、それでも昔<ruby><rb>大歳</rb><rt>おおとし</rt></ruby>の夜おそく、火種を<ruby><rb>絶</rb><rt>たや</rt></ruby>してしまった新嫁が、途法にくれて<ruby><rb>門</rb><rt>かど</rt></ruby>に出て立っていると、<ruby><rb>遥</rb><rt>はる</rt></ruby>か向うの方から<ruby><rb>炬火</rb><rt>たいまつ</rt></ruby>が一つやってくる。この<ruby><rb>棺桶</rb><rt>かんおけ</rt></ruby>を預かってくれるならば、火を貸そうと謂ったというような昔話がまだ残っている。ようやく火を貰ってその棺桶を<ruby><rb>納戸</rb><rt>なんど</rt></ruby>に<ruby><rb>匿</rb><rt>かく</rt></ruby>して置いたのを、正月になってからそっと開けて見ると、中には<ruby><rb>黄金</rb><rt>こがね</rt></ruby>・<ruby><rb>白金</rb><rt>しろがね</rt></ruby>が一ぱいという類の、人が夢見得る限りの美しい空想が是に続いたのである。火を吹く生活の現実の悩みに触れた人でないと、こういう二つの大きな感動を<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>ぎ合わせた、古い文芸の意図は捉えにくいかと思う。

<ruby><rb>瓦斯</rb><rt>ガス</rt></ruby>や電気の炉をかかえこんだ人たちと、この種の昔を話し合うことは容易でないが、私たちには是が歴史の学問と呼ばれてもいい部分であるように思われる。現に我々の親・おおじの通って来た<ruby><rb>路</rb><rt>みち</rt></ruby>が是であり、今でも一部の同胞が天然に<ruby><rb>阻</rb><rt>はば</rt></ruby>まれて、なお脱却しかねている境涯も是だからである。もっと詳しく説くならば<ruby><rb>灯</rb><rt>ともしび</rt></ruby>の火にも、細かな段階があり且つ急激な変遷がある。水を得る方法なども土地ごとにちがって、是は殊に昔の人たちの悩み苦しんでいた状態に、今なお留まって進めない者が多いのである。現在がすでに昔ではないことと、新たな<ruby><rb>大御代</rb><rt>おおみよ</rt></ruby>の文化というものに、多くの人々は恵まれ、また<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>かな人々が<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れていることを、是ほどわかりやすく女や子どもにも、解説し得る実例が具わっているのに、それを棄て置いてむつかしい<ruby><rb>呪文</rb><rt>じゅもん</rt></ruby>のようなことを、高く<ruby><rb>唱</rb><rt>とな</rt></ruby>えている連中の心持が、何としても私たちには不思議である。

  


## 女と煙草

女が<ruby><rb>煙草</rb><rt>タバコ</rt></ruby>を吸うということは、そう古く始まった風習でないにきまっているが、奇妙に日本人の生活とはなじんでいる。このあいだも旧友の一人に<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>って、その細君が小娘の頃、ひらひらの<ruby><rb>簪</rb><rt>かんざし</rt></ruby>などを挿して、<ruby><rb>長煙管</rb><rt>ながキセル</rt></ruby>をくわえていたことを思い出しておかしかった。この婦人の里は村の旧家で、広々とした<ruby><rb>囲炉裏</rb><rt>いろり</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>にめったに人も来ず、それにおかあさんが心配の多い人で、始終煙草で憂いを忘れようとしていたらしいから、そのお相手をしていて覚えたのかと思われる。今一つの記憶は、これももう老婆になっている親類の家内が、嫁に来たときには私の家を<ruby><rb>中宿</rb><rt>なかやど</rt></ruby>にした。どんなお嫁さんかと思って挨拶に出て見ると、それはそれは美しい細い銀煙管で、白い小さな歯を見せて煙草をのんでいた。こういう光景はもうおそらくは永久に見ることができぬだろうと思う。

数年前に私の家のオシラ様を遊ばせに、奥州の<ruby><rb>八戸</rb><rt>はちのへ</rt></ruby>から来てくれた石橋おさだというイタコは、何がすきかと聴いたら煙草だと即座に答えた。この女は十五の年にはもう煙草を吸っていた。だんだんと眼が悪くなってきたとき、何とか院の法印さんが<ruby><rb>祈祷</rb><rt>きとう</rt></ruby>をしてやるから、煙草を断ちますという願掛けをせよと教えてくれたけれども、私は見えなくなってもようござんすからと<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>って止めなかった。そうしてついに<ruby><rb>巫</rb><rt>みこ</rt></ruby>になったのだから、この女などは少しかわっている。

しかし私はこの話を聴いて、ふと気がついたことが一つあった。<ruby><rb>琉球</rb><rt>りゅうきゅう</rt></ruby>の旧王室では、以前地方の<ruby><rb>祝女</rb><rt>のろ</rt></ruby>の<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>たちが拝謁に出たときに、必ず煙草の葉をもって<ruby><rb>賜物</rb><rt>たまわりもの</rt></ruby>とせられたことが記録に散見している。<ruby><rb>宮古</rb><rt>みやこ</rt></ruby>や<ruby><rb>八重山</rb><rt>やえやま</rt></ruby>の<ruby><rb>大阿母</rb><rt>おおあも</rt></ruby>などは、危険の最も多い荒海を渡って、一生に一度の<ruby><rb>参覲</rb><rt>さんきん</rt></ruby>を<ruby><rb>恙</rb><rt>つつが</rt></ruby>なくなしとげることを、神々の殊なる<ruby><rb>恩寵</rb><rt>おんちょう</rt></ruby>と解し、また常民に望まれぬ光栄としていた。そういう人間の大事件を記念するものが、たちまち煙となって消えてしまう一品であったということは、何かまだ我々の捉え得ない隠れた力が、この<ruby><rb>蔭</rb><rt>かげ</rt></ruby>にあったからであろう。それがこのおさだ<ruby><rb>子</rb><rt>こ</rt></ruby>の話によって、少しずつたぐり寄せられるように、私には感じられたのである。

陸前の<ruby><rb>登米</rb><rt>とよま</rt></ruby>で生まれた人の話に、この人の父は毎朝煙草をのむ前に、そのきざみを三つまみずつ、火入れの新しい火に置いて唱えごとをした。「<ruby><rb>南無阿保原</rb><rt>なむあぼはら</rt></ruby>の地蔵尊、<ruby><rb>口中</rb><rt>こうちゅう</rt></ruby><ruby><rb>一切</rb><rt>いっさい</rt></ruby>の<ruby><rb>病</rb><rt>やまい</rt></ruby>を除かせたまえ」と言って、その煙草を御供え申したのだそうである。阿保原の地蔵は<ruby><rb>刈田</rb><rt>かった</rt></ruby>郡にあるというが、私はまだ<ruby><rb>詣</rb><rt>まい</rt></ruby>ったことも無くまた書物などでも見たことがない。こういう信仰行事は他にもあることであろうか。もう少し例を集めてみたいものと心がけている。信州<ruby><rb>北安曇</rb><rt>きたあずみ</rt></ruby>郡の郷土誌を見ると、この郡<ruby><rb>北城</rb><rt>きたじょう</rt></ruby>村の<ruby><rb>切久保</rb><rt>きりくぼ</rt></ruby>という<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>には、昔おかるという若い女が、鬼女になって入ったというおかる穴という岩屋がある。『<ruby><rb>小谷口碑集</rb><rt>おたりこうひしゅう</rt></ruby>』にもそのおかるの話は出ているが、それは面を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>って<ruby><rb>姑</rb><rt>しゅうと</rt></ruby>を<ruby><rb>嚇</rb><rt>おど</rt></ruby>したら、その面がとれなくなったというような話で、どうも最初のものとはいえないようだが、この穴の口にも村の人たちが、煙草を持って行って供える<ruby><rb>風</rb><rt>ふう</rt></ruby>があった。おかるは煙草がすきであったからといい、穴の口に置くといつの間にか無くなるとも謂っているが、どういう場合にこれを供えたのか知られていない。秋田県の北部、<ruby><rb>雪沢</rb><rt>ゆきさわ</rt></ruby>村の<ruby><rb>枝郷</rb><rt>えだむら</rt></ruby>の黒沢という部落では、<ruby><rb>鎮守</rb><rt>ちんじゅ</rt></ruby>の<ruby><rb>雷神様</rb><rt>らいじんさま</rt></ruby>がお嫌いだからと謂って、一村の者すべて煙草をのまず、甚だしくこれを<ruby><rb>忌</rb><rt>い</rt></ruby>み<ruby><rb>避</rb><rt>さ</rt></ruby>けたということだが、現在はどうなっているかを知らぬ。<ruby><rb>西津軽</rb><rt>にしつがる</rt></ruby><ruby><rb>深浦</rb><rt>ふかうら</rt></ruby>の近くの<ruby><rb>広戸</rb><rt>ひろと</rt></ruby>という部落でも、以前は男女の分ちなくすべて煙草をのまなかった。<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>は理由を伝えてはおらぬが、多分また信仰からであろうと思う。この二つの事実は<ruby><rb>菅江</rb><rt>すがえ</rt></ruby>氏の『筆のまに〱』に見えている。誠に何でもない小さな事のようだが、始めてこういうことを考え出し、または<ruby><rb>容易</rb><rt>たやす</rt></ruby>く同意をした人々の、心持はまだ神秘である。<ruby><rb>能登</rb><rt>のと</rt></ruby>の長尾村には、昔<ruby><rb>弘法大師</rb><rt>こうぼうだいし</rt></ruby>から授かったという煙草の種があって名産になっていた。<ruby><rb>薩摩</rb><rt>さつま</rt></ruby>の<ruby><rb>冠岳</rb><rt>かんむりだけ</rt></ruby>には<ruby><rb>蘇我煙草</rb><rt>そがタバコ</rt></ruby>と称して、<ruby><rb>蘇我馬子</rb><rt>そがのうまこ</rt></ruby>と関係づけられていた天然の煙草というものもあった。そういう意外な信仰もあるのである。

ずっと以前<ruby><rb>瑞西</rb><rt>スイス</rt></ruby>にいた頃に、回教は<ruby><rb>亜細亜</rb><rt>アジア</rt></ruby>向きの宗教らしいという話をした人がある。<ruby><rb>耶蘇教</rb><rt>やそきょう</rt></ruby>は信じてもやがて<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>めるが、回教に入った者は出てこないということを謂った。煙草もそうのようだと私は答えたことを覚えている。公認せられたる歴史では、煙草だけは我々は西洋人の後輩だが、心酔の仕方においてはかえって師をしのいでいる。少なくとも西洋の者のせぬことをし言わぬことを言っている。考えてみなければならぬ点だと思う。是も今は昔、或る一人の親族の老女に教えられたのは、<ruby><rb>煙管</rb><rt>キセル</rt></ruby>で吸っていると時々何とも言えぬくらい、甘くておいしいことがある。それをこの人たちはああ千ぶく目だなと思ったり言ったりしたそうである。<ruby><rb>阿片</rb><rt>あへん</rt></ruby>は<ruby><rb>支那</rb><rt>シナ</rt></ruby>においては戦争より大きな事をしているが、始めて白人が是を<ruby><rb>廈門</rb><rt>アモイ</rt></ruby>の<ruby><rb>駐屯軍</rb><rt>ちゅうとんぐん</rt></ruby>へ持ってきたときには、単に煙草のまぜ物として売ったのだそうである。のむという語と吸うという語と、またくゆらすという語との差がここにあるのである。初期にはどうであったか知らぬが、少なくとも今日の西洋人はただ口中を<ruby><rb>燻</rb><rt>くゆら</rt></ruby>すばかりで、鼻の穴からもめったに煙を出さない。これに反して我々はよほどわるい煙草を吸っているが、それでも息の底まで吸い入れぬと承知をせぬ人が多いのである。それ故に是が神経系統に与える影響は、向うの本には<ruby><rb>依</rb><rt>よ</rt></ruby>れないものがあるかと思っている。吸付け煙草の風習は、たしかに古来のモラヒ、すなわち共食の心理と関係がある。女性の親しい友だちが是をしているのを元はよく見たが、単に煙草を貸すとか火を附けてやるとかいうためだけでなく、自分もゆっくりと吸ってからそのあとを相手に渡すのである。近頃は巻煙草になってどう変ったか知らないが、この<ruby><rb>風</rb><rt>ふう</rt></ruby>が特に遊里に盛んであったことは、近世の<ruby><rb>市井</rb><rt>しせい</rt></ruby>文学によく見えている。吸付け煙草というのはむしろ新しい言葉で、それ以前は是をもツケザシと呼んでいた。ツケザシは誰でも知っているように、本来は酒の一つの作法であった。すなわち<ruby><rb>酒盃</rb><rt>しゅはい</rt></ruby>の<ruby><rb>滴</rb><rt>しずく</rt></ruby>を切ってしまわずに、思う人の手に渡すことで、最初は多分同じ器から分ち飲むことであったろうと思う。是が男女の情を通わす方式になったのも自然であって、そのためにこそしばしば<ruby><rb>刃傷</rb><rt>にんじょう</rt></ruby>にも及ぶような、若い人々の盃論が起こったのである。煙草の供給が是と同じ名を用いていたとすれば、種類はちがうがやはり是からくる<ruby><rb>恍惚</rb><rt>こうこつ</rt></ruby>の感覚を、二人で分かとうとする目的があったので、神に<ruby><rb>神酒</rb><rt>みき</rt></ruby>を捧げてそのおろしを<ruby><rb>戴</rb><rt>いただ</rt></ruby>こうとする心持と、煙草のお初穂を地蔵様に供えようとする趣旨とには、偶然ならぬ共通があったのではあるまいか。遠い離島の神を祭る女たちが、かつて王廷から頂戴した数十枚の煙草の葉を、どうして消費したかには、云い知れぬ興味があるが、それを今から尋ねることは容易でない。しかし日本人のきれぎれの生活ぶりから、注意して古い体験の<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>を集めて見ることまではできるかと思う。言葉にはそれを言い現わすものが伝わらないでも、強い感覚ならば何かの形で、<ruby><rb>顕</rb><rt>あら</rt></ruby>われずにはいないはずである。そうして問題はなお一歩を進めて、<ruby><rb>香</rb><rt>こう</rt></ruby>と信仰との年久しい習慣にも結びつけられそうに私は思う。

  


## 酒の飲みようの変遷

## 一

酒を飲む風習は日本固有、すなわちいつの頃とも知れぬほどの昔から、続いているものに相違ないが、その風習の内容に至っては、昔と今との間に大きな変遷がある。これだけは是非とも日本人として、はっきりと知っていなければならぬ。この古今の移り替りを一通り承知した上でないと、各人はまだ自由に、酒を飲んでよろしいか悪いかを、判断することができないのである。

酒の飲み方がどういう風に変ったかは、書物を読んでみても一向に書いてはない。しかも知ろうと思えばその方法は別にあるので、殊に最近の歴史だけならば、多くの人たちは自分でもまだ覚えている。大体に一人一人の飲む分量が、半世紀前と比べてはよほど減ったかと思われる。<ruby><rb>下戸</rb><rt>げこ</rt></ruby>の増加したこともたしかであるが、それよりも大酒飲みという人が少なくなり、平均消費は減退の傾向を示している。いわゆる<ruby><rb>斗酒</rb><rt>としゅ</rt></ruby>なお辞せずという類の酒豪の逸話は、次第に昔話の領域に入って行こうとしている。もとは正月の街頭風景であった生酔いの礼者、

なまよひの礼者を見れば街道を横すぢかひに春は来にけり

などと<ruby><rb>詠</rb><rt>よ</rt></ruby>まれたものが、絶無でもあるまいが今日はよほど珍しい見ものになった。酒乱は一種の病気と認められ、その療法としてはたちまち禁酒を申し渡される。以前は御祝いの日の附き物であった例の小間物屋開店などの<ruby><rb>惨澹</rb><rt>さんたん</rt></ruby>たる光景も、知らずにしまう女子供が多くなってきた。<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>などは明らかに一種急性の中毒症状なのだが、或いは主人側の<ruby><rb>款待</rb><rt>かんたい</rt></ruby>が是ほどまでに徹底して効を奏したという証拠のごとくにも解釈せられ、もとはこの介抱だけは眉を<ruby><rb>顰</rb><rt>ひそ</rt></ruby>める人もなく、普通に酒宴の後始末として女たちが引き受けていたのである。

単に酒の価が以前は安かったから、多く飲んだという経済的な理由だけでなく、一般に酒の毒は昔の方が急劇であったのかも知れぬ。中世の記録を見ると、公けの御宴会でも<ruby><rb>淵酔</rb><rt>えんずい</rt></ruby>とか<ruby><rb>沈酔</rb><rt>ちんすい</rt></ruby>とか<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>って、多くは正体がなくなり、またこのような失敗を演ずる者が、いくらもあったように記してある。高くもなったけれども酒の質が、今は前代とは比べものにならぬほどよくなったのである。その上に味もよくなり、色もいよいよ美しくなって、幸か不幸か<ruby><rb>嗜好品</rb><rt>しこうひん</rt></ruby>としての資格を、だんだんと具備するようになってきたのである。

## 二

酒を飲む機会の昔と比べて、非常に多くなってきたのも、一つはその結果と言ってよいのである。いつでも飲みたいという人が沢山に出てこなければ、造り酒屋は商売として成り立つはずもなく、また<ruby><rb>又六</rb><rt>またろく</rt></ruby>などと呼ばれる<ruby><rb>取売店</rb><rt>とりうりみせ</rt></ruby>が、<ruby><rb>繁昌</rb><rt>はんじょう</rt></ruby>するようにはならなかったわけでもある。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>も近年の<ruby><rb>罎詰</rb><rt>びんづめ</rt></ruby>小売法が考案せられてから、急に<ruby><rb>僻村</rb><rt>へきそん</rt></ruby>でも酒が手に入りやすくなり、従って酒を飲む癖を普及させたことは争われないが、是とても時を構わずに飲むという慣習が、すでに公認せられていたからできたことで、少なくとも第二次の新たな原因というに過ぎない。酒屋は言わばこの人間の弱点に乗じて、起こりまた栄えた業務であったのである。

しかも昔の純然たる自給経済の時代には、飲もうにもその酒を得る道が、無かったということがまた事実である。酒を飲むべき機会は限定せられ、且つ<ruby><rb>夙</rb><rt>はや</rt></ruby>くから予期せられていた。大体に神に酒を供える日と、同じであったと<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>って誤りがない。そうして日を<ruby><rb>算</rb><rt>かぞ</rt></ruby>えてちょうどその日に飲めるように、めいめいの家で支度をするのだから、消費が自由でなかったのは<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>、そう<ruby><rb>佳</rb><rt>よ</rt></ruby>い酒の飲めるはずもなかった。それが人さえ出せば<ruby><rb>町方</rb><rt>まちかた</rt></ruby>から、いつでも<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>かぶりが取寄せられるようになって、始めて今日のような酒宴が、随時に開かれることにもなったのである。酒の普及がこの<ruby><rb>四斗樽</rb><rt>しとだる</rt></ruby>というものの発明によって、たちまち容易になったことは争われない。しかもその<ruby><rb>桶屋</rb><rt>おけや</rt></ruby>の業、すなわち竹をたがにして大きな桶や樽を結ぶ技術は、近世に入るまでは都会でも知られていなかった。

酒はそれ以前には<ruby><rb>酒甕</rb><rt>さかがめ</rt></ruby>の中で造っていた。『<ruby><rb>更級日記</rb><rt>さらしなにっき</rt></ruby>』の文にも見えているように、その甕は土中に作り据えてあって、酒を運ぶにはさらに小さな<ruby><rb>瓶</rb><rt>かめ</rt></ruby>を用いていた。村で酒を造るには村桶があり、また贈答用の<ruby><rb>角樽</rb><rt>つのだる</rt></ruby>もできていたようだが、いずれも<ruby><rb>檜</rb><rt>ひのき</rt></ruby>の板を曲げて<ruby><rb>綴</rb><rt>と</rt></ruby>じた曲げ物だから、そう大きな入れ物にならなかったかと思われる。四国・九州の多くの土地では、今でも祝宴の翌日または翌々日、手伝い人や家の者を集めて、慰労の飲食を供することを、「<ruby><rb>瓶底飲</rb><rt>かめぞこの</rt></ruby>み」とも「瓶こかし」とも謂っている。北国一帯ではまた是を<ruby><rb>残酒</rb><rt>のこりざけ</rt></ruby>とも呼んでいた。すなわちこの祝宴のために用意せられた酒は、この際に底まで飲み尽して瓶を転がすというので、この日が過ぎるとあとはまた永く酒無し日が続いたものと思われる。ただしそういう中でも正月の酒、神々に御供え申しまたは年頭の賀客と汲みかわす酒だけは、その入用が前もって知れているのだから、或いは秋の収穫後の祭礼の酒を、別に一瓶だけ余分に造って、残して置いたかと思われて、暮の支度のいろいろとある中にも、正月酒を仕込んでいたらしい形跡は無い。いつ頃からそのような便法が始まったかは知らぬが、とにかくに酒の貯蔵ということは、是が動機となってぽつぽつと始まってきたようである。

以前の正月の祝賀の歌には、しばしば「古酒の<ruby><rb>香</rb><rt>か</rt></ruby>」を<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>ぶ文句があった。是を正月の楽しみの一つに、<ruby><rb>算</rb><rt>かぞ</rt></ruby>えていたことだけは確かである。貯蔵が酒造りの技術の改良のもとになったことも想像に<ruby><rb>難</rb><rt>かた</rt></ruby>くない。少なくともその貯蔵の酒には品質の<ruby><rb>高下</rb><rt>こうげ</rt></ruby>があって、奈良とか<ruby><rb>河内</rb><rt>かわち</rt></ruby>の<ruby><rb>天野</rb><rt>あまの</rt></ruby>とか、<ruby><rb>佳</rb><rt>よ</rt></ruby>い酒ができると、その評判が高くなり、人がその名を聴いて飲んでみたがるようになった。是が<ruby><rb>銘酒</rb><rt>めいしゅ</rt></ruby>という語の起原である。酒は本来は女の造るものときまっていたのに、こういう銘酒の産地が、多くは婦人と縁のない<ruby><rb>寺方</rb><rt>てらかた</rt></ruby>であったということは、ちょっと珍しい現象である。<ruby><rb>足利</rb><rt>あしかが</rt></ruby>後期の京都人の日記など見ると、別に「ゐなか」という酒が地方から、ぽつぽつと献上せられ且つ賞玩せられている。<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>と謂っても<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>富豪の家であろうが、こうして自慢の手造りを、京まで持参しようとするのだから、もうこの頃には貯蔵の<ruby><rb>風</rb><rt>ふう</rt></ruby>が<ruby><rb>弘</rb><rt>ひろ</rt></ruby>く行き渡り、或る家には飲まずに辛抱している酒というものが有ったのである。しかしそういう酒の自由になる人は、おそらくは有力者だけに限られていたことであろう。事実また尋常の日本人は、秋の穀物の特に豊かなる季節に、祭礼とか秋忘れの寄合いを目あてに、大いに飲むつもりでめいめいの酒を造ったので、貯えて置けるようならよいのだが、大抵は集まって皆飲んでしまったらしい。

秋になるより里の<ruby><rb>酒桶</rb><rt>さけおけ</rt></ruby>

という『<ruby><rb>曠野集</rb><rt>あらのしゅう</rt></ruby>』の<ruby><rb>附句</rb><rt>つけく</rt></ruby>もある。或いはまた、

ふつ〱なるを<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>く<ruby><rb>甘酒</rb><rt>あまざけ</rt></ruby>

という『<ruby><rb>続猿蓑</rb><rt>ぞくさるみの</rt></ruby>』の句などもあって、またこの頃までは甘酒の<ruby><rb>醗酵</rb><rt>はっこう</rt></ruby>して酒になる日を、楽しみにして待っている人も多かった。それが一年にまたは一生涯に、数えるほどしかない<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>い日であったことは言うまでもない。だからいよいよその日が来たとなると、いずれもはめをはずして酔い倒れてしまったのである。

## 三

それからまた一つの制限は、昔は酒は必ず集まって飲むものときまっていた。<ruby><rb>手酌</rb><rt>てじゃく</rt></ruby>で一人ちびりちびりなどということは、あの時代の者には考えられぬことであったのみならず、今でも久しぶりの人の顔を見ると酒を思い、または初対面のお近づきというと飲ませずにはおられぬのは、ともに無意識なる昔風の継続であった。こういう共同の飲食がすなわち酒盛りで、モルはモラフという語の自動形、一つの器の物を他人とともにすることであったかと思われる。亭主役のちゃんとある場合は<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>、各人出し合いの飲立て講であっても、思う存分に飲んで酔わないと、この酒盛りの目的を達したことにはならなかった。すなわちよその民族において血を<ruby><rb>啜</rb><rt>すす</rt></ruby>って兄弟の<ruby><rb>誼</rb><rt>よしみ</rt></ruby>を結ぶというなどと同じ系統の、至って重要な社交の方式であり、したがってまたいろいろのむつかしい作法を必要としていたのである。

婚礼とか旅立ち旅帰りの祝宴とかに、今でもまだ厳重にその古い作法を守っている土地はいくらもある。吾々の毎日の飲み方と最もちがう点は、簡単にいうならば酒盃のうんと大きかったことである。その大盃が三つ組五つ組になっていたのは、つまりはその一々の同じ<ruby><rb>盃</rb><rt>さかずき</rt></ruby>で、一座の人が順々に飲みまわすためで、三つ組の一巡が<ruby><rb>三献</rb><rt>さんこん</rt></ruby>、それを三回くり返すのが三三九度で、もとは決して夫婦の盃には限っていなかった。大きな一座になると盃のまわってくるのを待っているのが容易なことではない。最初は順流れまたは御通しとも称して、正座から左右へ互いちがいに下って行き、後には登り盃とも上げ酌などとも謂って、末座の人を始めにして、上へ向かってまわるようにして変化を求めたが、いずれにしてもその大盃のくるまでの間、<ruby><rb>上戸</rb><rt>じょうご</rt></ruby>は<ruby><rb>咽</rb><rt>のど</rt></ruby>を鳴らし<ruby><rb>唾</rb><rt>つば</rt></ruby>を呑んで、待遠しがっていたことは同じである。この一定数の巡盃が終ると、是でまず本式の酒盛りは完成したのであるが、弱い人ならそれで参ってしまうとともに、こんなことでは足りない人も中には居る。それらの酒豪連をも十分に酔わせるために、後にはいろいろの習慣が始まった。お<ruby><rb>肴</rb><rt>さかな</rt></ruby>と称して歌をうたい舞を舞わせ、または意外な引出物を贈ることを言明して、その昂奮によってもう一杯飲み乾させるなどということもあった。<ruby><rb>亭主方</rb><rt>ていしゅがた</rt></ruby>は勿論<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いるのをもって<ruby><rb>款待</rb><rt>かんたい</rt></ruby>の表示としておって、勧め方が<ruby><rb>下手</rb><rt>へた</rt></ruby>だと客が不満を抱く。だから接伴役にはできるだけ大酒飲みが選抜せられ、彼らの技能が高く評価せられる。酒が強くて話の面白い男が客の前へ出て、「おあえ」と称してそこにも<ruby><rb>爰</rb><rt>ここ</rt></ruby>にも、小規模な飲み合いが始まる。或いは客どうしで「せり<ruby><rb>盃</rb><rt>さかずき</rt></ruby>」などと称して、あなたが飲むなら私も飲むという申し合わせの競技をしたり、または「かみなり盃」と謂ってどこに落ちるかわからぬという盃を持ちまわって、その実<ruby><rb>予</rb><rt>かね</rt></ruby>て知っている飲み手に持って行ったり、また或いは「思いざし」などと謂って、やや遠慮をしている人に飲ませようとしたりした。酒宴の席の<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎや</rt></ruby>かなのを脇で聴いていると、大抵はこんなつまらぬ押問答ばかりであった。しかしそうして見たところでなお迷惑する人が、飲みたい方にもまた飲みたくない方の人にもできるので、これを今一段と自由にするために、いつの頃よりか「めいめい盃」というものが発明せられた。是は一つずつ離したやや小さな<ruby><rb>塗盃</rb><rt>ぬりさかずき</rt></ruby>で、始めから客人の<ruby><rb>御膳</rb><rt>おぜん</rt></ruby>ごとに附いている。これを用いるようになってから、組の大盃のまわってくるのを待たずに、向こうもこちらも一度に飲むことがやっとできたのである。今日の小さな白い<ruby><rb>瀬戸物</rb><rt>せともの</rt></ruby>のチョクなるものは、つまりこの「めいめい盃」のさらに進化したもので、勿論二百年前の酒飲みたちの、夢にも想像しなかった便利な器だが、一方そのために酒の飲み方が、非常に昔とちがった、だらしのないものになった。酒を飲む者の目的または動機が、おそらくこの陶器の酒盃の出現を境として、一変してしまったろうと思われる。<ruby><rb>徳利</rb><rt>とっくり</rt></ruby>は或いは独立して、酒を温める用途にもう少し早くから行われていたかも知れぬが、少なくとも<ruby><rb>盃洗</rb><rt>はいせん</rt></ruby>などというものはその前には有り得なかった。是で盃を<ruby><rb>濯</rb><rt>すす</rt></ruby>ぐことをアラタメルと謂ったのも、もとは別の盃にするという意味で、「<ruby><rb>金色夜叉</rb><rt>こんじきやしゃ</rt></ruby>」の<ruby><rb>赤樫満枝</rb><rt>あかがしみつえ</rt></ruby>という婦人などが、「改めてございませんよ」と謂って、盃を<ruby><rb>貫一</rb><rt>かんいち</rt></ruby>にさしたのを見ても<ruby><rb>判</rb><rt>わか</rt></ruby>るように、本来は同じ盃の中のものを、分ち飲む方が原則だったから改めなかった。それを今日は見事に飲み乾すのをアラタメルのだと思う者さえある。是ほどにもまず以前の仕来りを忘れてしまっているのである。

## 四

<ruby><rb>支那</rb><rt>シナ</rt></ruby>の文人などには、独酌の趣を<ruby><rb>咏</rb><rt>えい</rt></ruby>じた作品が古くからあったようだが、<ruby><rb>此方</rb><rt>こちら</rt></ruby>では今でも普通の人は酒に相手をほしがる。一人で飲むにも酌をする者を前に<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>らせ、また時々はそれにも一杯飲ませようとする。そうして<ruby><rb>手酌</rb><rt>てじゃく</rt></ruby>でこそこそと飲んでいる者を、気の毒とも悪い癖とも思う人は多いのである。この原因は今ならばまだ尋ねてみることができる。現在は紳士でも<ruby><rb>屋台店</rb><rt>やたいみせ</rt></ruby>の<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>をかぶったことを、吹聴する者が少しずつできたが、つい近頃までは一杯酒をぐいと引掛けるなどは、人柄を重んずる者には到底できぬことであった。酒屋でも「<ruby><rb>居酒致</rb><rt>いざけいた</rt></ruby>し<ruby><rb>候</rb><rt>そうろう</rt></ruby>」という店はきまっていて、そこへ立寄る者は、何年にも酒盛りの席などには<ruby><rb>列</rb><rt>つら</rt></ruby>なることのできぬ人たち、たとえば掛り人とか奉公人とかいう晴れては飲めない者が、買っては帰らずにそこにいて飲んでしまうから居酒であった。<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>をデハイともテッパツともまたカクウチとも<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>って、すべて照れ隠しの隠語のようなおかしい名で呼んでいる。しかもこういうのも酒を売る家が数多くなってから後のことで、以前はそんな機会も得られなかったのである。

ところがこの一杯酒のことを、今でも徳島県その他ではオゲンゾウという方言が残っていて、是によってほぼこの慣習の由来がわかる。ゲンゾウは漢字で書くと「見参」、すなわち「見えまいらす」であって、始めての、または改まった人に対面することを意味する。関東では<ruby><rb>聟</rb><rt>むこ</rt></ruby>が始めて嫁の家を<ruby><rb>訪</rb><rt>と</rt></ruby>い、または双方の身内が親類として近づきになる酒宴だけをゲンゾまたは一ゲンというが、一ゲンはすなわち第一回の見参ということで、婚礼の日に限るべき理由はない。現に関西では盆正月の<ruby><rb>藪入</rb><rt>やぶいり</rt></ruby>がゲンゾ、古い奉公人の旧主訪問がまたゲンゾである。是に敬語を<ruby><rb>冠</rb><rt>かぶ</rt></ruby>せてオゲンゾウというのも、目上の人への対面のことでしかない。『狂言記』の中にも、「明日はゲンゾでござらう」というのが奉公人の地位のきまることを意味している。すなわち今日の御目見え以上に、いよいよ主従の契約をする式が見参であった。こういう場合には酒が与えられる。それも主人と<ruby><rb>酌</rb><rt>く</rt></ruby>みかわすのではなくて、一方が<ruby><rb>酌</rb><rt>しゃく</rt></ruby>をしてやってその家来だけに一杯飲ませるので、狂言では普通は扇を使い、何だか<ruby><rb>烏帽子櫃</rb><rt>えぼしびつ</rt></ruby>の<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>のようなものを、顔に当てるのが飲む<ruby><rb>所作</rb><rt>しょさ</rt></ruby>となっている。すなわちあの時代にも一人で飲むのは<ruby><rb>下人</rb><rt>げにん</rt></ruby>で、主人との<ruby><rb>献酬</rb><rt>けんしゅう</rt></ruby>はなかったのである。それが後々は飲ませるかわりに<ruby><rb>酒手</rb><rt>さかて</rt></ruby>の<ruby><rb>銭</rb><rt>ぜに</rt></ruby>をやることにもなったが、やはり古風な家では<ruby><rb>出入</rb><rt>でいり</rt></ruby>の者などに、一杯飲んで行くがいいと<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>って、台所の端に腰を掛けて、<ruby><rb>親爺</rb><rt>おやじ</rt></ruby>がお辞儀をしいしい一人で飲んでいる光景が今でも時折は見られる。大きな農家に手造りの酒があった時代には、<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>が男たちを働かせる主婦の有力な武器になっていた。東北ではヒヤケとも謂う小さな<ruby><rb>片手桶</rb><rt>かたておけ</rt></ruby>が、このためにできていた。是で<ruby><rb>酒瓶</rb><rt>さかがめ</rt></ruby>から直接に<ruby><rb>濁醪</rb><rt>どぶろく</rt></ruby>なり<ruby><rb>稗酒</rb><rt>ひえざけ</rt></ruby>なりを<ruby><rb>掬</rb><rt>く</rt></ruby>んで、寒かったろうに一ぱい引掛けて行くがよいと、特別に骨を折った者をいたわっていたのである。<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>対等の客人にはこのような失礼なことはできない。すなわち相手なしに独りで一杯を傾けるということは、ただ主人持ちばかりの、特権といえばまあ特権であった。

今日のいわゆる<ruby><rb>晩酌</rb><rt>ばんしゃく</rt></ruby>の起原も、是と同じであったことは疑いがない。この酒を岐阜県などではオチフレ、また九州の東半分でヤツガイともエイキとも謂っている。意味はまだはっきりせぬが、鹿児島・熊本等の諸県でダイヤメまたはダリヤミと謂っているのは、明らかに疲労を<ruby><rb>癒</rb><rt>いや</rt></ruby>すということで、すなわち労働する者が慰労に飲まされる酒の意であった。東京ではまた是をオシキセとも謂っているが、シキセは元来奉公人に給する衣服のことである。堂々たる一家の<ruby><rb>旦那</rb><rt>だんな</rt></ruby>が、その御仕着せに有付くというのはおかしい話だが、起こりはまったく是もまた主婦のなさけで、働いたその日の恩賞という一種の戯語としか考えられない。主婦の方でもそう毎度相手と飲む酒盛りが家にあっても困るので、名義の穏当不穏当などは問わず、一人で飲んでくれることを喜んだのであろう。こういう有難くもない名を附けられて苦笑しながらも、なお晩飯には一本つけて<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>って、頭を<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>いて飲んでいたというのも、結局は酒があまりにうまく、かつて人々と集まって飲んだ味が忘れられなくて、何の祝賀でも記念でもなく、また嬉しくも悲しくもない日にも、飲みたくなるような習癖を生じたからで、一つにはまた買おうと思えば夜中にも、すぐに入用の量が得られるような、便利な世の中になったためでもある。神代の昔から、酒と名のつくものが日本に有ったからと言って、昔の人たちもこの通りに、女房の承認のもとにちょっとばかりの酒を、毎晩飲んでいたと思うと大まちがいである。

## 五

証拠を挙げることはやや困難になったが、中世以前の酒は今よりもずっとまずかったものと私たちは思っている。それを飲む目的は味よりも主として酔うため、むつかしい語で言うと、酒のもたらす異常心理を経験したいためで、神々にもこれをささげ、その<ruby><rb>氏子</rb><rt>うじこ</rt></ruby>も一同でこれを飲んだのは、つまりはこの陶然たる心境を共同にしたい望みからであった。今でも新しい人たちの交際に、飲んで一度は酔い狂ったうえでないと、心を許して<ruby><rb>談</rb><rt>かた</rt></ruby>り合うことができぬような感じが、まだ相応に強く残っているのもその痕跡で、つまり我々はこの古風な感覚の片割れをもったままで、今日の新文化へ入ってきているのである。酒の濫用ということがもし有りとすれば、現在の過渡期が特にその弊害の起こりやすい時だと言い得る。すなわち我々は一方には古い名と約束に<ruby><rb>囚</rb><rt>とら</rt></ruby>われつつ、他方には新しい交通経済の実情に押しまわされて、その中間の最も自分に都合のよい部分を流れているのである。両者新旧の関係は改めて静かに反省してみなければならぬと思う。

今度の大事変が起こってから、不思議に日本人の研究心と、発明力とは大飛躍をした。是までかつて考えなかった有形無形の問題が注意せられ、着々と新たな方策が立てられたことは、時過ぎて回顧すればいよいよ鮮明に、国民の智能の卓越していることを証拠立てることと思う。今まで同胞がうっかりと看過していたことを、問題にして見るのには今ほどの好時期はない。独り歴史の学問だけが、いつまでも古い知識と元の方法とに、止まっていてよろしいという理由は有り得ない。我々は酒を飲む習慣の利弊に関しても、是非とも今と昔との事情の変化を知って、現在の状態が果して国の福祉と合致するか否かを、明らかに認識し得るようにしなければならぬ。それを各人が自由に判断するだけの歴史知識が、現在はまだ<ruby><rb>具</rb><rt>そな</rt></ruby>わっておらぬとすれば、少なくとも求めたら得られる程度に、歴史の学問を推し進めなければならぬ。いつも民間の論議に<ruby><rb>揺蕩</rb><rt>ようとう</rt></ruby>せられつつ、何らの自信も無く、可否を明弁することすらもできないのは、権能ある指導者の恥辱だと思う。

  


## 凡人文芸

## 一

昭和八年の五月、私は始めて<ruby><rb>隠岐島</rb><rt>おきのしま</rt></ruby>に渡ってみた。<ruby><rb>西郷</rb><rt>さいごう</rt></ruby>の町に<ruby><rb>逗留</rb><rt>とうりゅう</rt></ruby>していた際に、宿の近くの大社教の分院に何か祝い事があって、島名物の<ruby><rb>村相撲</rb><rt>むらずもう</rt></ruby>が、大層な景気で村々から乗り込んできた。それが<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>のしけ模様で、何度か中断してまだ一向に取進んでいない時であった。あまり<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>やかそうなので<ruby><rb>傘</rb><rt>かさ</rt></ruby>を借りて、夕方ぶらりと様子を見に出てみると、<ruby><rb>土俵場</rb><rt>どひょうば</rt></ruby>は雨に<ruby><rb>沾</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れて人影もなく、ただその周囲の掛茶屋の中から、多くの<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>が<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆら</rt></ruby>めき酒盛りの声が聞えている。<ruby><rb>村角力</rb><rt>むらずもう</rt></ruby>の後援者たちが、退屈なものだから飲んでいるのである。男たちは騒々しいばかりで一向に<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>まったことも言わぬが、その中にまじって女がいい声で歌っている。年の頃はまず三十四五、<ruby><rb>手拭</rb><rt>てぬぐい</rt></ruby>をかぶり<ruby><rb>片襷</rb><rt>かただすき</rt></ruby>をかけて、<ruby><rb>裾短</rb><rt>すそみじか</rt></ruby>に常の衣服を着ている。多分は茶屋の女房などが酒を運び、こうして機嫌を取っているのだろうと思ったが、よく見ると少しいては一つの座を切り上げ、<ruby><rb>葦簾</rb><rt>あしすだれ</rt></ruby>を隔てた隣の店へ移って行く。そうしてそこにも同じ年配の女性が、まだ幾人か去来し、且つ手を打って歌っているのであった。芸者と名のつく者はこの土地にも相応におり、また格別他の<ruby><rb>場処</rb><rt>ばしょ</rt></ruby>とちがわない生活をしている。それと一括して呼ぶことはおそらく許されぬのであろうが、とにかくにこういう一種の歌い女の、今でもこの島にいることだけは私にわかった。

最初は或いは村からの同行者かとも思ったが、挨拶を聴いていると、<ruby><rb>爰</rb><rt>ここ</rt></ruby>へきて<ruby><rb>出逢</rb><rt>であ</rt></ruby>った人々とも共に遊んでいる。こんな<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>へ出てくれば多くの知り人が有り、また歌の上手なことが<ruby><rb>予</rb><rt>かね</rt></ruby>て知られているというのは、一体どういう境涯の女なのであろうか。職業ではないまでも何か報酬が有りそうなものだが、それを尋ねてみても笑っていて誰も教えてくれなかった。島にはああいう気の軽い女がいくらもいるのです。酒でも飲んで面白く騒ごうというだけで、ああして<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>ってくるのですと言った人もあるが、私にはまだ<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>に落ちなかった。<ruby><rb>幽</rb><rt>かす</rt></ruby>かな記憶が私には<ruby><rb>蘇</rb><rt>よみがえ</rt></ruby>ってくる。関東の<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>でも四十何年か前には、縁日の掛け茶屋の<ruby><rb>片隅</rb><rt>かたすみ</rt></ruby>に、夕方などは同じ光景を見たような気がする。酒は女の相手のしかも最も快活なる者がいなければ、昔でもやはり酒盛りとまでは展開し得なかったものらしい。そうして今日のような職業婦人の、税を納めて公認せられたことは新しいのである。それ以前も同じ需要のあっただけは想像に難くない。ただ何人が別にその任に当っていたかを、我々の社会史知識では答え得ぬだけである。

九州の或る島などの方言集には、サカモリと<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>うのは男女相会して酒を飲むことであり、男ばかりで飲む酒は酒盛りとは謂わぬと記してある。私もこれが古意であろうと思う。例に引くのは<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>りがあるが、<ruby><rb>朝家</rb><rt>ちょうけ</rt></ruby>の<ruby><rb>晴</rb><rt>はれ</rt></ruby>の御式にも女性がこれに参加し、単に<ruby><rb>盃酌</rb><rt>はいしゃく</rt></ruby>の間に給仕するのみならず、「ワタクシも酔ひまゐらす」ということが、その人々の日記には見えている。酒は<ruby><rb>刀自</rb><rt>とじ</rt></ruby>の管理に属し、これを<ruby><rb>醸</rb><rt>かも</rt></ruby>す者もまた<ruby><rb>姥</rb><rt>うば</rt></ruby>であったことを考えると、彼らの手で分配するのが正式であったことはうなずかれる。ただ近世の婦徳が大いに進歩して、多くの貞淑なる人々がこれを憎み避くるに及び、始めて如何なる者をしてその職分を代行せしめたかが、問題となっただけである。

## 二

酒は<ruby><rb>末法</rb><rt>まっぽう</rt></ruby>時代の濫用妄用が起こる以前、飲むべき者に必ず飲ましめるのが一つの式であり、勧酒の歌はすなわち作業歌の一種であった。従うて<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>に参与する女の役目は、思ったよりもむつかしいものであったのである。彼らを兵馬の間に伴ない得ざるために、<ruby><rb>眉目</rb><rt>びもく</rt></ruby>清秀なる少年をしてこれにかわらしめた世の中になっても、<ruby><rb>肴</rb><rt>さかな</rt></ruby>をするというのは扇を<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>にして歌うことであり、または<ruby><rb>起</rb><rt>た</rt></ruby>って一さし舞うことであった。この<ruby><rb>風</rb><rt>ふう</rt></ruby>は今でも正式の<ruby><rb>饗宴</rb><rt>きょうえん</rt></ruby>には伝わっている。決して<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>だらけの<ruby><rb>刺身</rb><rt>さしみ</rt></ruby>や<ruby><rb>蒲鉾</rb><rt>かまぼこ</rt></ruby>を、むしゃむしゃ食うばかりが肴ではなかったのである。座客が日ごろ親しみの無い他郷の人であり、もしくは作法を<ruby><rb>弁</rb><rt>わきま</rt></ruby>えぬ<ruby><rb>武骨者</rb><rt>ぶこつもの</rt></ruby>ばかり多くなると、ただの女性はいよいよその任務に<ruby><rb>堪</rb><rt>た</rt></ruby>えず、次第に専門の修練を経てきた者にこれを<ruby><rb>委</rb><rt>ゆだ</rt></ruby>ねる傾きが、都市には著しくなってきたのである。

この酒礼は<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>ではなおしばらくは厳重に守られていたようである。常に<ruby><rb>酒甕</rb><rt>さかがめ</rt></ruby>に酒の貯えが無く、これを用いる機会がきわめて限られていたという以外に、席に列する者が互いに心を置かぬ人たちであって、歌を声高く歌っても、<ruby><rb>蓮葉</rb><rt>はすっぱ</rt></ruby>とも何とも思われる懸念が無かったからである。酒宴を我々の国語でウタゲと<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>った心持は、女性の最も熱心なる参与が無ければ、実は理解することのできぬものであった。古風な村里に成長した人ならば、もっと若い人でも私と同じ印象を持っていることと思う。常は物数の少ない遠慮がちな<ruby><rb>家刀自</rb><rt>いえとじ</rt></ruby>、もしくはやや気むつかしく物固い<ruby><rb>婆様</rb><rt>ばばさま</rt></ruby>などが、一代に何度という<ruby><rb>晴</rb><rt>はれ</rt></ruby>の席へ出ては、自分もアエをして<ruby><rb>盃</rb><rt>さかずき</rt></ruby>を勧め、所望によっては小歌などの、その場の情景にひたと合ったものを、朗らかに歌い出すことがあった。それが単なる興味という以上に、一種異常の感動を与えたことは、詳しく説明をするまでもない。全体に歌は農民の間において、以前は今よりもはるかに重んぜられていた。それが<ruby><rb>稀々</rb><rt>まれまれ</rt></ruby>にはこういう事実も伝えられて、いよいよ<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>なる女たちの、日ごろのたしなみの内に<ruby><rb>算</rb><rt>かぞ</rt></ruby>えられていたのである。きょうは様子によっては歌うことになろうも知れぬと、前からの覚悟が有ったにしても、または酔いのはずみの即興であろうとも、とにかくに耳で聴き覚えるよりほかの練習は無くて、大抵の女たちは胸の奥底に、歌わぬ歌を絶えず抱えて持っていた。民謡の根ざしは案外に深い<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>にあったのである。それが芽をくみ花と開く機会が、後年はあまりにも間遠であったために、枯れて跡形も無くなったことを、<ruby><rb>何人</rb><rt>なんぴと</rt></ruby>も気づかずに終ったのである。今から振返ってみると、歌がこのごろのように職業者の手に移ってきた<ruby><rb>路筋</rb><rt>みちすじ</rt></ruby>もほぼたどることができる。始めには頻々たる<ruby><rb>流行唄</rb><rt>はやりうた</rt></ruby>の移植があった。是には年とった者は附いて行くことができず、<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>をしようとしても<ruby><rb>只</rb><rt>ただ</rt></ruby>おかしいばかりであったので、いつとなく純然たる聴手の側に立ち、<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>には若い者の歌うのを苦々しく思う者も多くなってきたのである。私の生家の近くに、貧しい<ruby><rb>嫁姑</rb><rt>よめしゅうと</rt></ruby>の二段の<ruby><rb>寡婦</rb><rt>かふ</rt></ruby>が住んでいた。孫の成長をたった一つの心楽しみに、<ruby><rb>日雇</rb><rt>ひやとい</rt></ruby>などをして<ruby><rb>漸</rb><rt>ようよ</rt></ruby>うと暮していたが、その<ruby><rb>婆</rb><rt>ばあ</rt></ruby>さんがやがて<ruby><rb>老耄</rb><rt>ろうもう</rt></ruby>をして、いつでも手を打って一つ歌を歌っているのを、面白がって私たちは聴きに<ruby><rb>往</rb><rt>い</rt></ruby>った。

酒は酒屋によい茶は茶屋に

女郎は大阪の<ruby><rb>新町</rb><rt>しんまち</rt></ruby>に

是などもたしかにまた、遠い昔の新曲であったろう。それをこの婆さんは聴いて覚えていたのである。酒が自由になると酒宴はどこででも開かれる。そうして無検束にその酒を<ruby><rb>販</rb><rt>ひさ</rt></ruby>がんとする女性が、わざと別種の歌を<ruby><rb>唱</rb><rt>とな</rt></ruby>えて、古風な酒盛りから男たちを離反せしめたのである。酒屋が新たに<ruby><rb>興</rb><rt>おこ</rt></ruby>って、家の女房が酒の管理権を失ったことが、何よりも大きな凡人文芸の衰微のもとであった。

## 三

海辺の村々でいうと、船が遠くの<ruby><rb>湊</rb><rt>みなと</rt></ruby>に往来するようになって、やはり女性の歌がだんだんと省みられなくなり、男ばかりがだみ声を振り<ruby><rb>揚</rb><rt>あ</rt></ruby>げて、早く酒席を<ruby><rb>狼藉</rb><rt>ろうぜき</rt></ruby>たらしめることになったとも見られる。今でも淋しい日本海の浜などに、<ruby><rb>毀</rb><rt>こわ</rt></ruby>れて残っている古い仕来りには、沖で夜昼の<ruby><rb>荒稼</rb><rt>あらかせ</rt></ruby>ぎをした舟が、戻って来ると家へも行かずに、すぐに村中の娘を<ruby><rb>喚</rb><rt>よ</rt></ruby>び集めて、酒盛りをするという話を折々聞くが、是も本来は町の人々が想像するほどに、乱雑な慣例ではなかったように思う。是とよく似た行事は農村にも元は多かった。普通には秋の収穫が終って後、日を定めて男女をともに遊ばせる。そうしてその席には酒がありまた歌があった。是を<ruby><rb>放恣</rb><rt>ほうし</rt></ruby>自由な交際の公認せられたる機会であったかのごとく、一部の<ruby><rb>好事家</rb><rt>こうずか</rt></ruby>は推断しようとしているが、そんな形ではこの<ruby><rb>風</rb><rt>ふう</rt></ruby>は永く続くことができない。愛情には<ruby><rb>嫉</rb><rt>ねた</rt></ruby>みを伴ないまた独占を必要としたことは、誰でも知っている通りである。したがって是が正常の婚姻の導きになったことは<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>であろうが、風儀は必ずしもこれに<ruby><rb>因</rb><rt>よ</rt></ruby>って乱れはしなかった。非難しなければならぬ悪癖がもし有ったとすれば、それは他の一方の新たな経験、すなわち酒盛りの様式が少しずつ改まって、是に参与した別種の女たちの、軽薄なる恋歌が学び伝えられ、村の少女が黙々として是を聴いていた結果であろうと思う。最近に<ruby><rb>諏訪</rb><rt>すわ</rt></ruby>の<ruby><rb>山浦</rb><rt>やまうら</rt></ruby>地方で、土地の老人老女の覚えていた歌を数百首、小池<ruby><rb>安右衛門</rb><rt>やすえもん</rt></ruby>君が採集したことがある。面白いことにはその歌の半数以上が、<ruby><rb>嶺</rb><rt>みね</rt></ruby>を隔てた<ruby><rb>長久保</rb><rt>ながくぼ</rt></ruby>の<ruby><rb>新町</rb><rt>しんまち</rt></ruby>あたりで、<ruby><rb>妓女</rb><rt>ぎじょ</rt></ruby>の歌っていた<ruby><rb>都々逸</rb><rt>どどいつ</rt></ruby>の文句であった。村の娘どもが<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>てそのようなものを歌うようだったら、当然にその心意気も変ってきたであろう。黙ってそれを聴いていたにしても、やっぱり風儀は悪くならずにいなかったろう。いずれにしたところで彼らみずからの情と<ruby><rb>才藻</rb><rt>さいそう</rt></ruby>とは、見いだされまた選択せられる折を失ってしまったのである。いわゆる<ruby><rb>仇</rb><rt>あだ</rt></ruby>し<ruby><rb>契</rb><rt>ちぎ</rt></ruby>りの結ばれやすかったのも止むを得ない。ただ幸いにしてそういう状態は、日本では遅く始まりまた早く過ぎ去った。そうしてこの次にはいかなる目標によって、互いの心を試みるのがよいかを、今はまだ決し<ruby><rb>兼</rb><rt>か</rt></ruby>ねているのである。民間文芸の年久しく埋もれていた用法を、改めて考察する必要は他の方面でも認められるが、なかでも婚姻は民族を<ruby><rb>挙</rb><rt>こぞ</rt></ruby>って、<ruby><rb>均</rb><rt>ひと</rt></ruby>しく思い悩まねばならぬ問題であるが故に、特に丁寧に<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>と彼との交渉の跡を尋ね究めなければならぬのである。是を<ruby><rb>閑人</rb><rt>ひまじん</rt></ruby>の所行のごとく<ruby><rb>看</rb><rt>み</rt></ruby>られることは、私は構わないが世の中のために望ましくない。

## 四

歌が男女の仲らいを<ruby><rb>和</rb><rt>やわ</rt></ruby>らげるものであったことは、『古今集』の序においてもすでに断定せられている。それが<ruby><rb>色紙</rb><rt>しきし</rt></ruby>や<ruby><rb>短冊</rb><rt>たんざく</rt></ruby>の世の中になって、新たに始まった現象でないことは、<ruby><rb>判</rb><rt>わか</rt></ruby>りきったことのように私は思うのだが、今まではとかく文字の教育を受けた人ばかりに、そういう特権が有るように考えられがちであり、すなわち口で歌っていた男女の仲は、和らげられずともよいかのごとく、思っていた者も少々ならず有った。ところが現実はちょうどその反対で、上流の縁組には消息は<ruby><rb>夙</rb><rt>つと</rt></ruby>に儀礼化し、また形式化してしまったに反して、俗衆はまさしく歌によって動かされていたのである。町や港の容易なる道徳を持つ女等に、酒と歌との管理が移ってからも、この二つのものと婚姻との関係は密接であった。仮の一夜の伴侶を求むるにも、男は必ずこの順序を<ruby><rb>履</rb><rt>ふ</rt></ruby>もうとしたことは、彼らにも不似合いな<ruby><rb>律儀</rb><rt>りちぎ</rt></ruby>さであった。こういう奇妙な慣習は突如として起こり得るものでない。かつては酒盛りが人の生涯の幸不幸を定めるために、甚だ大切な機会であったことを、かえってこの方面から推測せしめようとして残り伝わっていたものとも見れば見られる。近代の<ruby><rb>遊蕩</rb><rt>ゆうとう</rt></ruby>文学の中には、酒に取持たれ歌に心を動かされて、測らぬ因縁の結ばれた物語は<ruby><rb>充</rb><rt>み</rt></ruby>ち<ruby><rb>満</rb><rt>み</rt></ruby>ちている。よほどの閑人でもないかぎり、今ごろそんなことを<ruby><rb>穿鑿</rb><rt>せんさく</rt></ruby>する者も無いのが当然だが、是が今一つ以前の社会相、すなわち人がめったに生まれ在所の外に旅をせず、茶屋も<ruby><rb>色町</rb><rt>いろまち</rt></ruby>もまだ備わらなかった世の中において、すでに用いられていた配偶選定の、至って<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>なる方式であったことを知れば、他の記録が無い以上、是をでも間接の資料としなければならぬのである。

  


## 古宇利島の物語

沖縄ではその昔八郎<ruby><rb>為朝</rb><rt>ためとも</rt></ruby>が上陸したという<ruby><rb>運天</rb><rt>うんてん</rt></ruby>の港の外海に、<ruby><rb>古宇利</rb><rt>こうり</rt></ruby>と呼ばるる一つの島がある。至って水の乏しい畠ばかりの裸島であるが、島の名に<ruby><rb>依</rb><rt>よ</rt></ruby>って記憶せられる遠い神代の昔語りがあるそうだ。島人の元祖は兄妹二人のはらからであったが、<ruby><rb>爰</rb><rt>ここ</rt></ruby>を人間の島にするために、霊鳥に教えられて夫婦の縁を結んだ。それ故に今でもこの島を古宇利と<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>うのだとある。「こひ」をコウリとラ行に曲げるのは、沖縄の動詞の語法であって、文語で書くならば恋の島ということになるのである。

<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>と同じ物語はすでに中世の書物にも、<ruby><rb>土佐</rb><rt>とさ</rt></ruby>の<ruby><rb>妹背島</rb><rt>いもせじま</rt></ruby>の由来として著録せられている。さらに南西の島々にも尋ぬればその例なしとせず、中にも台湾の山地に割拠する<ruby><rb>蕃民</rb><rt>ばんみん</rt></ruby>に至っては、ほとんと部落ごとにこの口碑を保存している。素朴単純なる推理法において、人類の起原をインセストに托するは自然であった上に、彼らの間にはまたノアの箱船と同じように、世界が大水になって神の<ruby><rb>思召</rb><rt>おぼしめ</rt></ruby>しに<ruby><rb>叶</rb><rt>かの</rt></ruby>うた者のみが、生き残ったという信仰さえあったのである。<ruby><rb>佐渡</rb><rt>さど</rt></ruby>では<ruby><rb>能登</rb><rt>のと</rt></ruby>と土佐と二つの国から漂着した男女が、行き<ruby><rb>逢</rb><rt>お</rt></ruby>うてここに島人の始祖となったという伝説もあるそうだが、それはおそらく空想の翼が、<ruby><rb>生</rb><rt>は</rt></ruby>え揃うてから<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>の飛躍であった。<ruby><rb>八丈</rb><rt>はちじょう</rt></ruby>の島で<ruby><rb>種姥</rb><rt>たねうば</rt></ruby>といい、または「<ruby><rb>櫓</rb><rt>ろ</rt></ruby>かこみにょこ」とも謂って、大津波の折に櫓を抱いて、たったひとり命を<ruby><rb>全</rb><rt>まっと</rt></ruby>うしたと伝えられる女性などは、その時身ごもっていて後に男の子を生んだ故に、幸いにして人間の種を絶さなかったとさえ謂われている。

この物語の<ruby><rb>汎</rb><rt>ひろ</rt></ruby>くまた久しく行われていた事実に関しては、後年必ずその幽玄の理を説く人があろうと思うが、それは自分などの今試みようとするところではない。小さな一つの話題として提供してみたいのは、コヒというただ一箇の日本語の、意外なる内容の進化である。我々の言葉は大となく小となく、一つとしてその起原を形あるもの、目で見手で触れ得るものに発しないものは無いように思われるが、この語はそもいずれの時、いかなる機縁によってこのように行くえも知らず、限りも測り難いような<ruby><rb>茫洋</rb><rt>ぼうよう</rt></ruby>と大いなるものになってしまったか。できることならばもう一度、静かにこの問題が考えてみたいのである。

「恋ふる」がその語原を「<ruby><rb>乞</rb><rt>こ</rt></ruby>ふ」という動詞と同じくしていることは、多分もう誰かが説いていることと思う。単語はいずれの場合にも時と社会との事情によって分化するものであった。一方の「乞ひ」が終始我々の挙動の種別としてしか用いられず、はかばかしい語形の変化をも示さなかったに反して、この男女の仲らいに限られた「こふる」という一語のみは、用途が<ruby><rb>区々</rb><rt>まちまち</rt></ruby>であり記憶と想像との必要が多かったために、<ruby><rb>夙</rb><rt>はや</rt></ruby>く名詞を生じ、またややおくれて形容詞化した。しかも有る限りの人間が、止めどもなくこの一語を使役していたのである。部落が恋愛のただ一つの活動場であり、<ruby><rb>妹</rb><rt>いも</rt></ruby>と<ruby><rb>背</rb><rt>せ</rt></ruby>は<ruby><rb>朝</rb><rt>あさ</rt></ruby><ruby><rb>宵</rb><rt>よい</rt></ruby>に<ruby><rb>袖</rb><rt>そで</rt></ruby>を連ね、<ruby><rb>面</rb><rt>おも</rt></ruby>を<ruby><rb>看</rb><rt>み</rt></ruby>かわして過し得る人生であったならば、恋と名を附して考えなければならぬ場合もすでに少なく、まして恋しきという形容詞などは、新たに作り出す機会とても無かったろう。ところが<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>と全く反対であったのが我々の歴史である。男の仕事は野山にあり海にあり、または遠々しい旅の空にあった。そうでなくとも若い人たちは、前の<ruby><rb>家刀自</rb><rt>いえとじ</rt></ruby>が家を支配する限り、昼は別れて山鳥の生活をするように、日本の婚姻制はできていた。恋が何ものよりも豊富なる文芸をもって、詠歎せられた原因の主要なる一つは<ruby><rb>爰</rb><rt>ここ</rt></ruby>に存する。

最初はおそらくは是も至って卑近なる、目に見える人間の行為であったろうと思う。例はすぐ隣にあるのだが、その方はもう忘れられかけている。中世の<ruby><rb>相撲</rb><rt>すもう</rt></ruby>の用語として、「手をこふ」と<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>ったのは<ruby><rb>挑</rb><rt>いど</rt></ruby>むことであった。『<ruby><rb>古今著聞集</rb><rt>ここんちょもんじゅう</rt></ruby>』の第十五章には幾つか見えているが、その一二を挙げるならば<ruby><rb>時弘</rb><rt>ときひろ</rt></ruby>という男、「<ruby><rb>頻</rb><rt>しき</rt></ruby>りに相撲宗平に手をこひて、<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>し負くるものならば時弘が首を切られん。宗平負けば、又宗平が首を切らんなど申しけるを」とある。或いはまた弘光という力士が、伊成という若い力士を軽侮して、「左の手を出してこひけるを云々」ともある。この「弘光が出す所の左の手を、伊成が右の手してひしと取りてけり」ともあるから、今ならば、組付くとか取掛るとかいうべき所作を、もとはテコフと謂っていたのである。その用法はまた普通の<ruby><rb>乞</rb><rt>こ</rt></ruby>い<ruby><rb>請</rb><rt>こ</rt></ruby>うとも別であるが、是にはテコヒという名詞は有ったにしても、その念願の情を表する形容詞までは、相撲道には入用が無かった。そうして変化が乏しい故に、やがて廃語とはなったのである。

恋という単語の内容がこれに反して、次第に外へそれまた何となく上品になって来たことは、是こそ和歌の徳と名づくべきものであった。しかし民衆がなお固有の意義に就こうとするのを、指導することまでは<ruby><rb>流石</rb><rt>さすが</rt></ruby>にできない。それだからまるまるこの一語を<ruby><rb>罷</rb><rt>や</rt></ruby>めてしまわぬかぎり、清濁二流れの言葉の意味が、絶えずこの理解を混乱させることは避けられぬのである。近世の文学でも井原<ruby><rb>西鶴</rb><rt>さいかく</rt></ruby>などは、元来あの人が唯物史観なのだから、なんでも裏面の事情へ持って行こうとするのだと、解せられているかも知れぬが、実際はそれが昔ながらの俗物のコヒであった。だから<ruby><rb>芭蕉</rb><rt>ばしょう</rt></ruby>翁のつつましやかな俳諧を見ても、

松かさおくる<ruby><rb>武隈</rb><rt>たけくま</rt></ruby>の<ruby><rb>土産</rb><rt>つと</rt></ruby>　　　　　　　芭蕉

草まくらをかしき恋もしならひて　　　　<ruby><rb>不玉</rb><rt>ふぎょく</rt></ruby>

ちまたの神に申すかね<ruby><rb>言</rb><rt>ごと</rt></ruby>　　　　　　　<ruby><rb>曾良</rb><rt>そら</rt></ruby>

こういったような浮世ごとも想像せられている。或いはまは有名なる『<ruby><rb>炭俵</rb><rt>すみだわら</rt></ruby>』の<ruby><rb>一聯</rb><rt>いちれん</rt></ruby>、

うは置きのほし<ruby><rb>菜</rb><rt>な</rt></ruby><ruby><rb>刻</rb><rt>きざ</rt></ruby>むもうはの空　　　　<ruby><rb>野坡</rb><rt>やば</rt></ruby>

馬に出ぬ日は<ruby><rb>内</rb><rt>うち</rt></ruby>で恋する　　　　　　　芭蕉

かせ買ひの七つ<ruby><rb>下</rb><rt>さが</rt></ruby>りをおとづれて　　　　<ruby><rb>利牛</rb><rt>りぎゅう</rt></ruby>

これなどは明らかに<ruby><rb>賤</rb><rt>しず</rt></ruby>が<ruby><rb>伏屋</rb><rt>ふせや</rt></ruby>の最も凡庸なる者の生活であって、和歌にはすでに見離され、俳諧はなおその客観の情趣を、取り上げてあわれと<ruby><rb>詠</rb><rt>なが</rt></ruby>めているのであった。それを<ruby><rb>宜麦</rb><rt>ぎばく</rt></ruby>の『<ruby><rb>続絵歌仙</rb><rt>ぞくえかせん</rt></ruby>』などには、門流の者の解説でありながら、もう意味もわからずに人形芝居のような絵にしている。言葉はこのようにも僅かな歳月の間に、学問の影響を受けてその意味を変化し、次第に昔の人の感覚を疎遠にするものであった。

『古今』や『<ruby><rb>六帖</rb><rt>ろくじょう</rt></ruby>』の恋の歌を今読んでみると、十に一つは求婚の歌があり、またその半数ほどが別れて<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>の<ruby><rb>会釈</rb><rt>えしゃく</rt></ruby>の歌であるが、その他の大部分はことごとく<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>、すでに契約した者の詠歎である。男女がたちまちに一つの<ruby><rb>軒</rb><rt>のき</rt></ruby>の下にいるようになった今日では、そんな下らぬことができるかというような文芸ではあるが、古人は夜のみ通うて若き日をすごしていたために、時々はかような名歌ができただけで、言わばこれらの文学は、日本の婚姻制度の産物に過ぎないのである。中世縁組が遠い土地の間に行われ、それにまた<ruby><rb>里方</rb><rt>さとかた</rt></ruby>の事情も変って、次第に嫁移りの期日が早くなると、みそか男でもなくてはこんな消息の必要は無くなり、恋歌はけしからぬ不行儀のものになったのだが、なお一方には是を題詠として、単に文辞の<ruby><rb>綾</rb><rt>あや</rt></ruby>ばかりで空々しいことをいう<ruby><rb>風</rb><rt>ふう</rt></ruby>が、いつまでも流行していたのはおかしいことだと思う。吉田<ruby><rb>兼好</rb><rt>けんこう</rt></ruby>を色法師と謂うのは<ruby><rb>冤罪</rb><rt>えんざい</rt></ruby>だそうなが、とにかく<ruby><rb>平生</rb><rt>へいぜい</rt></ruby>の練習があればこそ代作も頼まれるので、現に同じ時代の<ruby><rb>頓阿</rb><rt>とんあ</rt></ruby>の集などを見ると、逢恋別恋の題詠が幾らでもある。<ruby><rb>契沖</rb><rt>けいちゅう</rt></ruby>は律僧だからそういう歌を嫌ったというが、<ruby><rb>慈延</rb><rt>じえん</rt></ruby>でも<ruby><rb>澄月</rb><rt>ちょうげつ</rt></ruby>でもそのために<ruby><rb>非如法</rb><rt>ひにょほう</rt></ruby>の僧とはならなかった。そればかりか深窓に閉じ込められた御姫様までが、師匠を頼んでそういう歌をよみ習い、私たちも少年のころには何のことだか解らずに、一生懸命にそういう歌の<ruby><rb>稽古</rb><rt>けいこ</rt></ruby>をしていた。是が概括してどうも『古今集』などよりも<ruby><rb>下手</rb><rt>へた</rt></ruby>であったのは、必ずしも腕が劣っていただけではないようである。恋を知らぬということは元はまだ婚姻をしておらぬ者という意味であった。そうしてその恋を知る者は、時世が改まってもう歌をよむ必要を感じなくなっているのである。

  


## 遊行女婦のこと

## 一

『<ruby><rb>卯辰集</rb><rt>うたつしゅう</rt></ruby>』に存録せられた加賀の山中温泉の「<ruby><rb>三吟歌仙</rb><rt>さんぎんかせん</rt></ruby>」のうち、次の一続きはわけても有名であるが、私はまだ<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>を註解したものを見たことがない。

<ruby><rb>霰</rb><rt>あられ</rt></ruby>ふる左の山は<ruby><rb>菅</rb><rt>すげ</rt></ruby>の寺　　　　　　　　　<ruby><rb>北枝</rb><rt>ほくし</rt></ruby>

遊女四五人<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>わたらひ　　　　　　　<ruby><rb>曾良</rb><rt>そら</rt></ruby>

<ruby><rb>落書</rb><rt>らくがき</rt></ruby>に恋しき君が名もありて　　　　　　<ruby><rb>翁</rb><rt>おう</rt></ruby>

髪はそらねど<ruby><rb>魚</rb><rt>うお</rt></ruby>くはぬ<ruby><rb>也</rb><rt>なり</rt></ruby>　　　　　　　北枝

ここで最初に問題になるのは、俗称「菅の寺」という寺はどこにあったかということで、もしやこれが<ruby><rb>談林風</rb><rt>だんりんふう</rt></ruby>に作者の<ruby><rb>空</rb><rt>くう</rt></ruby>にこしらえた名であったとすると、この<ruby><rb>附合</rb><rt>つけあい</rt></ruby>の写実味もずっと減るのであるが、私だけはそうでないように思って<ruby><rb>捜</rb><rt>さが</rt></ruby>している。或いは<ruby><rb>近江</rb><rt>おうみ</rt></ruby>であったかと<ruby><rb>幽</rb><rt>かす</rt></ruby>かに記憶するのだが、それが誤りとしても、有りさえすれば次の問題は生まれる。この寺は谷あいのやや高みに、杉の森などがあって屋の端が見え、それから下りてくる<ruby><rb>小路</rb><rt>こみち</rt></ruby>と<ruby><rb>三辻</rb><rt>みつつじ</rt></ruby>になったあたりを、在所の者とは見えぬ女性が四五人で通っている。もしくは茶を売る<ruby><rb>道傍</rb><rt>みちばた</rt></ruby>の<ruby><rb>小家</rb><rt>こや</rt></ruby>に、腰を掛けて休んでいたのでもよい。そういう旅の女をも、あの頃は一目見て遊女と呼び得たのか。ただしはまた今日我々が昔の遊女として考えている女性が、<ruby><rb>翁</rb><rt>おう</rt></ruby>の時代にはなお「<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>わたらひ」という生活をしていたのか。いずれにしてもこれが現実の経験であったかぎり、珍しい我々の問題になるのである。

<ruby><rb>曾良</rb><rt>そら</rt></ruby>は師翁に随伴して加賀国にくる数日前、<ruby><rb>越後</rb><rt>えちご</rt></ruby>の<ruby><rb>市振</rb><rt>いちぶり</rt></ruby>という<ruby><rb>海端</rb><rt>うみばた</rt></ruby>の駅にとまって、測らずも二人の新潟の遊女と同宿した。そうして彼らの境涯を憐みつつも、なおこの一夜の<ruby><rb>邂逅</rb><rt>かいこう</rt></ruby>に興を催した翁の句、

<ruby><rb>一</rb><rt>ひと</rt></ruby>つ<ruby><rb>家</rb><rt>や</rt></ruby>に遊女も寝たり<ruby><rb>萩</rb><rt>はぎ</rt></ruby>と月

というのを<ruby><rb>感吟</rb><rt>かんぎん</rt></ruby>して、いそいでわが手帳にも書き留めたということである。遊女が時あって旅をするものだということだけならば、彼にとっては最近の実験であった。それを覚えていたばかりでも、こういう附句が胸に浮かぶもののように、考える人が有るかも知れない。しかしこの新潟の女たちの旅は、伊勢に参るというのが心ざしで、<ruby><rb>国境</rb><rt>くにざかい</rt></ruby>の<ruby><rb>番所</rb><rt>ばんしょ</rt></ruby>までは、年老いたる男に送られて来ている。江戸・大阪の<ruby><rb>浄瑠璃</rb><rt>じょうるり</rt></ruby>に出てくる抱え遊女は、<ruby><rb>駆落</rb><rt>かけお</rt></ruby>ちの際でもなければ外へは出ぬものになっていたが、地方は<ruby><rb>近頃</rb><rt>ちかごろ</rt></ruby>までかなりの自由があったらしい。現に<ruby><rb>越前</rb><rt>えちぜん</rt></ruby><ruby><rb>三国</rb><rt>みくに</rt></ruby>の<ruby><rb>某</rb><rt>ぼう</rt></ruby>という遊女俳人が、江戸に出て来て<ruby><rb>昔馴染</rb><rt>むかしなじみ</rt></ruby>の家を、遊びまわったという話などは、是からまた百年も<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>のことである。多くの遊女は旅をして遠くからやって来ている。ただ我々が珍しいと思うのは、彼らの四五人が群をなして、いわゆる田舎わたらいをしていたという点である。是は単純なる旅行ではなかったのである。

田舎わたらいという語は、たしか『源氏』の夕顔の巻にも見えている。京の小民はもうあの頃から、秋の収穫の豊かな頃を<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>って、農村を<ruby><rb>稼</rb><rt>かせ</rt></ruby>ぎまわって<ruby><rb>儲</rb><rt>もう</rt></ruby>けて<ruby><rb>還</rb><rt>かえ</rt></ruby>る色々の道を知っていた。それが現在までなお続いているのである。我々の地方文化はその<ruby><rb>刺戟</rb><rt>しげき</rt></ruby>を受けて、<ruby><rb>坐</rb><rt>い</rt></ruby>ながらにして変り改まり、またみずから展開する力を養い得たことは、この頃になってだんだんと、是を証明する実例が指示せられることになった。国の全貌を昔のままでなく、<ruby><rb>好</rb><rt>よ</rt></ruby>くも悪くも新しいものにして外部の力、空に吹き散る花粉や胞子のごときものの中に、かつてはこのきわめて温柔なる女性の一群も参加して、しかもつい近頃までその機能を発揮していたのではないかという問題が、ふとした遊歴文人の一句から、我々に提供せられたのである。

## 二

是を考えてみる前に、まず芭蕉翁がこの曾良の句に対して、いかに応接しているかを注意する必要があると思う。自分が解釈しているところでは、落書は遊女などのすべきものでないから、是を残したのは前に来てとまった男のわざである。そうしてまたみずから名を署するは落書でなく、よその男の名を書くということも普通でないから、この「恋しき君」は遊女のことである。キミとも<ruby><rb>上﨟</rb><rt>じょうろう</rt></ruby>とも彼らを呼んだのは、常の日に化粧し色ある衣を着ることが、民間では甚だ目に立ったからであろう。とにかく次の北枝の<ruby><rb>附句</rb><rt>つけく</rt></ruby>では、是を上流の未亡人などの、<ruby><rb>夫</rb><rt>おっと</rt></ruby>におくれて無常を観ずる者に取っているから、<ruby><rb>前句</rb><rt>まえく</rt></ruby>の表現はかえって一応は女の名と解せられたものと見られる。従うてこの<ruby><rb>附味</rb><rt>つけあじ</rt></ruby>は、ニホヒとかウツリとかいうものに該当するのであろう。曾良は現前に遊女の田舎わたらいをしてあるくのを胸に描いたのであるが、すでに<ruby><rb>打越</rb><rt>うちこし</rt></ruby>にはその背景を叙した後だから、今度はそういう事が頻々あるという、概括的事実としてこれを味わってみたものかと思う。歌を分作する気持の二句連歌には無いことだが、是などは両者の間に時の経過がある。すなわち遊女が折々来て休むような家の壁に、いつのまにか評判の女の名が書いてあって、そのわきには命をやりたいなどという言葉が、添えてあったかも知れぬのである。そうして落書の筆者の知れぬところに興味があった。この方こそ或いは<ruby><rb>市振</rb><rt>いちぶり</rt></ruby>の<ruby><rb>一</rb><rt>ひと</rt></ruby>つ<ruby><rb>家</rb><rt>や</rt></ruby>などでの経験であったかも知れない。不思議はないと小宮君は言われたが、私は毎度この芭蕉翁の物を<ruby><rb>識</rb><rt>し</rt></ruby>っているのには驚く。

とにかく遊女が港でも町でもない土地へ、稼ぎに行くということは芭蕉翁もよく知っていて、曾良の思いつきに打ってつけたような、しかし新しい俳諧の境地を屈折させて、誠に良き師匠らしく、次の附句を迎え導いたのである。それは懇切の至りではあったが、同時にまたこの頃そういった遊女の生活が、かなり普通の社会相でなかったら、できないことであったように私は考える。北国では遊女が折々出てあるくということは、偶然ながらまた一つの証跡を留めている。それは『<ruby><rb>比佐古</rb><rt>ひさご</rt></ruby>』の第三の歌仙に、

それ世は<ruby><rb>泪</rb><rt>なみだ</rt></ruby>雨と<ruby><rb>時雨</rb><rt>しぐれ</rt></ruby>と　　　　　　　　<ruby><rb>里東</rb><rt>りとう</rt></ruby>

<ruby><rb>雪舟</rb><rt>そり</rt></ruby>に乗る<ruby><rb>越</rb><rt>こし</rt></ruby>の遊女の寒さうに　　　　　<ruby><rb>野径</rb><rt>やけい</rt></ruby>

<ruby><rb>壱歩</rb><rt>いちぶ</rt></ruby>につなぐ<ruby><rb>丁百</rb><rt>ちょうひゃく</rt></ruby>の<ruby><rb>銭</rb><rt>ぜに</rt></ruby>　　　　　　　　<ruby><rb>乙州</rb><rt>おとくに</rt></ruby>

とある中の句で、<ruby><rb>橇</rb><rt>そり</rt></ruby>に乗せてもらって寒そうにあるいていては、まさか名聞にも伊勢参宮を致しますとは言えまいし、そのうえに附句の一歩だの丁百の銭だのというのが、何となくその遊女の<ruby><rb>高尾</rb><rt>たかお</rt></ruby>・<ruby><rb>薄雲</rb><rt>うすぐも</rt></ruby>ではなかったことを<ruby><rb>想</rb><rt>おも</rt></ruby>わしめる。遊女は元来がウカレメということであった。それが<ruby><rb>歌舞</rb><rt>かぶ</rt></ruby><ruby><rb>管絃</rb><rt>かんげん</rt></ruby>の<ruby><rb>伎</rb><rt>わざ</rt></ruby>に携わっていて、それをアソビと謂い、アソビもまた偶然に同じ「遊」の漢字を<ruby><rb>宛</rb><rt>あ</rt></ruby>てて<ruby><rb>弁</rb><rt>べん</rt></ruby>じたので、どちらが元やら後には不明になったが、少なくとも<ruby><rb>遊行</rb><rt>ゆうこう</rt></ruby>が<ruby><rb>一処不住</rb><rt>いっしょふじゅう</rt></ruby>の漂泊生涯を意味していたことは、<ruby><rb>遊行上人</rb><rt>ゆぎょうしょうにん</rt></ruby>などの例を比べてみてもよく<ruby><rb>判</rb><rt>わか</rt></ruby>る。<ruby><rb>遊行女婦</rb><rt>ゆうこうじょふ</rt></ruby>だからいつでも田舎わたらいをしているのに、<ruby><rb>些</rb><rt>すこ</rt></ruby>しでも不審は無かったのである。それを何とやらん約束がちがうように、思わせ始めたのは近代の遊里文学の力であろう。実際またその頃から、女の旅をする者がめっきりと減った。<ruby><rb>歌比丘尼</rb><rt>うたびくに</rt></ruby>は市中の<ruby><rb>売女</rb><rt>ばいた</rt></ruby>となって、やがてまた跡を<ruby><rb>斂</rb><rt>おさ</rt></ruby>めてしまった。そのために田舎はふたたび淋しくなり、悪い風儀と名づけられるものがそのかわりに起こった。我々の<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>に攻究しようとしている婚姻の制度なども、大きな影響を是から受けているのである。

## 三

『奥の細道』の文を読んでみると、わが翁を感傷せしめた一つ家の遊女らも、「定めなき<ruby><rb>契</rb><rt>ちぎ</rt></ruby>り、<ruby><rb>拙</rb><rt>つた</rt></ruby>なき日々の<ruby><rb>業因</rb><rt>ごういん</rt></ruby>」、今いう<ruby><rb>浮川竹</rb><rt>うきかわたけ</rt></ruby>の流れの身と、異なるところがないようであるが、彼らのような支度では、本式の<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>わたらいはできそうにも思われない。<ruby><rb>曾良</rb><rt>そら</rt></ruby>の描き出した四五人の一群は、またまったく別の<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>を歩んでいたのである。そこで改めて文字通りの遊女、すなわち旅行をもって生を営む婦女に、どういう種類の者があったかを考えてみると、<ruby><rb>越後</rb><rt>えちご</rt></ruby>は昔も今も女たちの旅に出る国であった。<ruby><rb>絣</rb><rt>かすり</rt></ruby>の仕事着に足ごしらえ<ruby><rb>甲斐々々</rb><rt>かいがい</rt></ruby>しく、<ruby><rb>菅</rb><rt>すげ</rt></ruby>の<ruby><rb>褄折笠</rb><rt>つまおりがさ</rt></ruby>と小荷物を引き背負うて、薬を売ってあるく娘どもは、あまりに眼の前のことだから批判もできないが、彼らの職業にも歴史は有るらしい。それ以前にも<ruby><rb>三味線</rb><rt>しゃみせん</rt></ruby>を肩に載せ、<ruby><rb>足駄</rb><rt>あしだ</rt></ruby>ばきにねエさん<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>りなどという異様な<ruby><rb>行装</rb><rt>こうそう</rt></ruby>で、春の<ruby><rb>野路</rb><rt>のみち</rt></ruby>を渡り鳥のごとく、わめきつれてくる盲女の群があって、<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>も尋ねるとみな越後から来たと<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>っていた。実際は行く先々で補給せられ、縁が有れば一地に定住もしたと見えて、今ではその末流とも見られる者が、鑑札を受けて立派に東京で飯を食っている。自分らが目撃しているのは、無論<ruby><rb>頽廃</rb><rt>たいはい</rt></ruby>を極めた最後の姿であって、以前は統制ある一つの組織を具えていた。私の知るかぎりでは<ruby><rb>諏訪</rb><rt>すわ</rt></ruby>にも松本にも、また静岡にもそれぞれの記録があるが、<ruby><rb>上越後</rb><rt>かみえちご</rt></ruby>では高田を中心としたものが有力であった。布川信次君がその生き残った老女を尋ねて、彼らの記憶する作法や規約を聴き出している。年功と閲歴によって、順に<ruby><rb>頭役</rb><rt>かしらやく</rt></ruby>に押し上がって行くことは、<ruby><rb>真言宗</rb><rt>しんごんしゅう</rt></ruby>などの<ruby><rb>﨟次制</rb><rt>ろうじせい</rt></ruby>も同じであった。それでいて監督がかなり厳しかったのだから、つまりは古来の慣例が固く守られたのである。村の農家の彼らに給与する物と数量、是を<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>いにあるく時も人も定まっていた。その配当の率なども、不文ながら動かぬものであったが、全部新しい明治の政府からは公認せられなくなって、<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>には仕来りを守る者が無くなり、生活の根拠は<ruby><rb>覆</rb><rt>くつがえ</rt></ruby>ったのである。九州の盲僧などと比べてみて、仏寺の勢力の及ばなかったのが興味ある一つの特色であった。だから<ruby><rb>瞽女</rb><rt>ごぜ</rt></ruby>たちは儀式にも経は読まず、ただ<ruby><rb>段物</rb><rt>だんもの</rt></ruby>の長い叙事詩を語った。つまり我々のいう遊芸が、彼らの公けの職分でもあったのである。その修業は相応に苦しいものであったという。良家の娘たちの不幸にして<ruby><rb>明</rb><rt>めい</rt></ruby>を失った者は、親が嫁入のような支度を調えて、<ruby><rb>御前</rb><rt>ごぜ</rt></ruby>の家へ送り込んだ。それが<ruby><rb>年﨟</rb><rt>ねんろう</rt></ruby>を積んでよい地位に経のぼって行くことは、尼寺などと異なるところがなかった。彼らの品行の今いう遊女とまるでちがっていたのは<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>である。それからこういう人たちは手引のために、眼の見える娘を育てて使ったが、それは奉公人と同じで、<ruby><rb>年頃</rb><rt>としごろ</rt></ruby>になれば縁に付け、是にも絶対に<ruby><rb>叨</rb><rt>みだ</rt></ruby>らな行儀は無かったと<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>っている。

しかしこういう正式の瞽女の巡ってあるく村里は、<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>かな距離のうちに昔から限られていたようである。いわゆる田舎わたらいはその区域から外に出て行く者のことで、是には必ずしも<ruby><rb>本元</rb><rt>ほんもと</rt></ruby>のような、厳しい監督が及んではいなかった。たとえば信州では<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>に道徳の堅固でないものがあると、それはみな旅の<ruby><rb>瞽女</rb><rt>ごぜ</rt></ruby>、越後のゴゼということにきまっていた。関東の田舎でも格式を守る旧家では、毎年<ruby><rb>定</rb><rt>き</rt></ruby>まった盲女しか迎えなかったと見えて、<ruby><rb>上総</rb><rt>かずさ</rt></ruby>にはレイノゴゼという地名の残っている村もあるが、自分らが物を知ってからは、顔には見覚えがあっても、<ruby><rb>素性</rb><rt>すじょう</rt></ruby>のたしかでない者しか往来していなかった。不幸な家の少女の眼の見える者が、瞽女に貰われてあるいているという話もよく聞いた。今では老人しか覚えてはおるまいが、瞽女が入ってくると村には小さな動揺が起こる。よくない村というのはこの女どもが来ると、いつまでも滞在しているような村のことであった。どうして定まるものか、毎年とまる家がまずきまっていた。それが越後の地元附近では、土地でも軽しめられない旧家であるに反して、こちらでは検束の無い若夫婦の家や、時としては酒や煮物を売る家などであった。そこへ夜分になると歌でも覚えようという者が集まってくるのである。ただの昼間ばかりの<ruby><rb>門</rb><rt>かど</rt></ruby>つけとはちがって、彼らは是によって幾分か多くの収入を得、少なくとも寝食の入費を省き得たようである。売笑という語をもし文字通りに取るならば、粗野なる田舎の笑いには彼らから買うものが最も多かったろう。そうしていわゆる<ruby><rb>流転</rb><rt>るてん</rt></ruby>の生活も、彼らが最も適切に是を体現していたといえる。

## 四

ただし<ruby><rb>曾良</rb><rt>そら</rt></ruby>の<ruby><rb>附句</rb><rt>つけく</rt></ruby>に描かれた遊女が、私は盲であったろうと思っているわけではない。まだあの頃にはこの一種の<ruby><rb>御前</rb><rt>ごぜ</rt></ruby>以外にも、色々の<ruby><rb>上﨟</rb><rt>じょうろう</rt></ruby>が村をあるいていたらしいのである。瞽女は制度の保護などもあって、一番あとまで転向せずにいられたというだけである。地方の人たちのきれぎれの記憶の中から、他にどういう名の遊女があるいていたかを、今の内に聴いておきたいと私は念じている。秋田地方の風習には、<ruby><rb>雨乞</rb><rt>あまごい</rt></ruby>に婦女が裸参りをする例が二三ある。それと関係があるらしいのは<ruby><rb>女相撲</rb><rt>おんなずもう</rt></ruby>で、<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>が興行してくる年は必ず雨が多いと言われていた。こういう人たちの郷里も必ず<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>かに有るのである。石川県などの<ruby><rb>在方</rb><rt>ざいかた</rt></ruby>では、昔の<ruby><rb>瓦版</rb><rt>かわらばん</rt></ruby>とよく似た一枚刷の<ruby><rb>読売</rb><rt>よみうり</rt></ruby>ものを、歌いながらくるのは必ず女の群であり、是を人によって<ruby><rb>女万歳</rb><rt>おんなまんざい</rt></ruby>とも<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>っていた。近まわりの部落の、身元の知られている者ではなかったようである。中には旅役者などの年中巡業してはいるが、<ruby><rb>出処</rb><rt>しゅっしょ</rt></ruby>は<ruby><rb>判</rb><rt>わか</rt></ruby>っているという者も多いだろうし、また中年から<ruby><rb>来</rb><rt>きた</rt></ruby>り加わったのもむろん有るだろうが、少なくとも彼らの動く力には系図があるのである。<ruby><rb>熊野</rb><rt>くまの</rt></ruby>を振り出しに伊勢や<ruby><rb>熱田</rb><rt>あつた</rt></ruby>のあたりへ移って来て、やがて第二の勢力にその地位を譲って、消えてなくなってしまった<ruby><rb>比丘尼衆</rb><rt>びくにしゅう</rt></ruby>を始めとし、かつてこの国土に<ruby><rb>弥蔓</rb><rt>びまん</rt></ruby>した<ruby><rb>遊行女婦</rb><rt>ゆうこうじょふ</rt></ruby>の名は数多い。それが子持たずに死んでも、はた良い子を<ruby><rb>儲</rb><rt>もう</rt></ruby>けても、女の<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>は伝わらぬのが普通であった。一旦名前が消えればその結末を問うこともできぬが、しかも彼らでなければ運べなかった歌や物語が、永い記念となって全国の<ruby><rb>隅々</rb><rt>すみずみ</rt></ruby>に<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>っている。我々の民間文芸を成長させ、割拠を事とした土地経営者の、自然と社会とに対する情操を統一してくれた功績は、大部分をこのかよわい漂泊者に認めなければならぬのである。今までの見かたはあまりに一方に<ruby><rb>偏</rb><rt>へん</rt></ruby>していると思う。

遊女の成因とも名づくべきものについても、問題はまた未来の解決に<ruby><rb>委</rb><rt>ゆだ</rt></ruby>ねられている。女は普通には家に結びつけられ、家はまた土に動かぬ<ruby><rb>礎</rb><rt>いしずえ</rt></ruby>を打ち込んでいる。<ruby><rb>古志</rb><rt>こし</rt></ruby>の<ruby><rb>努奈河媛</rb><rt>ぬなかわひめ</rt></ruby>の御歌にもあるように、男とちがって<ruby><rb>只</rb><rt>ただ</rt></ruby><ruby><rb>一処</rb><rt>いっしょ</rt></ruby>の婚姻にしか、<ruby><rb>携</rb><rt>たずさ</rt></ruby>われぬもののごとく考えられていた。それが千里の山川を行き<ruby><rb>往</rb><rt>ゆ</rt></ruby>いて、数かぎりもない運命に身を<ruby><rb>托</rb><rt>たく</rt></ruby>するようになったということは、もし原因がありとすればそれは必ず異常のものでなければならぬ。だから多くの歴史家に考えられることは、第一に<ruby><rb>種性</rb><rt>すじょう</rt></ruby>の差ということであったのである。<ruby><rb>江口</rb><rt>えぐち</rt></ruby>・<ruby><rb>川尻</rb><rt>かわじり</rt></ruby>の船の家に老い、さては<ruby><rb>野上</rb><rt>のがみ</rt></ruby>・<ruby><rb>坂本</rb><rt>さかもと</rt></ruby>の<ruby><rb>路次</rb><rt>ろじ</rt></ruby>に<ruby><rb>簦</rb><rt>おおがさ</rt></ruby>を立てて、朗かなる歌の声を東西の旅人に送っていた者は、最初からそういう生活様式を持って、日本へ入って来た人々の<ruby><rb>末</rb><rt>すえ</rt></ruby>でもあるように、自分なども想像していたのである。しかし近代の記録せられた事実は、全然この推測を裏書しない。むしろ反対の資料をもって<ruby><rb>充</rb><rt>み</rt></ruby>ちている。少なくとも中世以後に、新たに加わった原因は多いのである。親が貧困で娘を奉公に出すというような<ruby><rb>草冊子風</rb><rt>くさぞうしふう</rt></ruby>なものは別としても、普通の家に生まれた女の子が、次第にこの仲間になって行く<ruby><rb>路筋</rb><rt>みちすじ</rt></ruby>は、かなり大きく開かれていたように思われる。地方に勢力のあった御社や仏寺を<ruby><rb>後楯</rb><rt>うしろだて</rt></ruby>として、その信仰の宣伝によって生計を立てた者などは、起こりが古いからまだ家柄のように見られぬこともないが、この中にも新たな志願者の幾らも加わったのが現実である。全体に<ruby><rb>門付</rb><rt>かどつ</rt></ruby>け<ruby><rb>物貰</rb><rt>ものもら</rt></ruby>いの<ruby><rb>輩</rb><rt>やから</rt></ruby>を、すべて人間の<ruby><rb>落魄</rb><rt>らくはく</rt></ruby>した姿のように考えることは、やや一方に偏した<ruby><rb>観方</rb><rt>みかた</rt></ruby>なのかも知れない。農漁山村の定着した生業と対立して、別に彼らの間だけの動機なり目途なりが、有ったらしくも思われる節があるからである。福島県の海に面した村里には、名ある旧家でシンメ様を<ruby><rb>祀</rb><rt>まつ</rt></ruby>っている者が<ruby><rb>尠</rb><rt>すく</rt></ruby>なくない。シンメ様というのは仙台附近でトウデ様、南部領でオシラ様というのもほぼ同じで、通例木を彫ってこしらえた人形の神である。この神を持ち伝えた家では、現在はみな困っているそうである。それはしばしばその家の女の夢枕に立って、旅に出ようと促して<ruby><rb>已</rb><rt>や</rt></ruby>まぬからで、その御告げに従わぬと病気になる。それを<ruby><rb>遁</rb><rt>のが</rt></ruby>れようとすれば少なくとも年に一度、そっとこの神を背に負うて、顔を知られぬ土地を巡歴して来なければならぬ。是が何よりも迷惑なことに、今日ではなっているのである。説明は多分精神病理の側からでも付くのであろうが、とにかくに以前尋常の家庭から離脱して、この種の漂泊生活に入って行った女性には、何か<ruby><rb>拒</rb><rt>こば</rt></ruby>むことのできない背後の暗示が、働いていた場合が多いようである。能の物狂いの色々の曲にも見えるように、是が他郷のいまだ信ぜざる者の間に、新たに自分の立場を見いだそうということになると、自然に物を語りまた歌舞せざるを得なかったものと思われる。いわゆる<ruby><rb>神気</rb><rt>かみけ</rt></ruby>の<ruby><rb>副</rb><rt>そ</rt></ruby>うた女人は、昔も今も常に<ruby><rb>饒舌</rb><rt>じょうぜつ</rt></ruby>で、またしばしば身の恥は省みずに、自分しか知らなかったような神秘なる真実を説こうとしている。それを神々が多数の俗衆に聴かせんがために、とくに或る一個の清く美しい者を選んで狂わしめられるのだとも、昔の人たちには考えられたのである。故にこの一つの宗教的動機ともいうべくものが、将来もうすこし明らかに<ruby><rb>判</rb><rt>わか</rt></ruby>ってくるならば、歌と物語とが単なる初期の業体であったというに<ruby><rb>止</rb><rt>とどま</rt></ruby>らず、さらに遊女をしてかくのごとく、<ruby><rb>弘</rb><rt>ひろ</rt></ruby>く国内を漂泊せしむるに至った、元の力であると言い得ることになろうも知れぬ。少なくとも今一つの人に<ruby><rb>賤</rb><rt>いや</rt></ruby>しまるる職分のごときは、是に比べるとずっと小さな偶然だったと、認め得る時が来ようかと思う。

## 五

話を簡単に切り上げるために、私は最後の一例を引用する。沖縄では遊女をズリと謂い、尾類などという字を<ruby><rb>宛</rb><rt>あ</rt></ruby>てているが、語の起こりはまだ確かには知られていない。<ruby><rb>那覇</rb><rt>なは</rt></ruby>の市街の片端を三カ所まで区画して、彼らを集め住ましめたのは近世のことで、それも政策の強制するところであったらしい。そうすると以前は各地に散在していたはずであるが、その生活ぶりは記録にはまだ見当らない。<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>かに民間説話や歌謡の<ruby><rb>端々</rb><rt>はしばし</rt></ruby>に、ズリが<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>をあるいていた痕跡を認むるのみである。ところが北隣の大島諸島はこれに反して、いわゆる<ruby><rb>遊廓</rb><rt>ゆうかく</rt></ruby>はどこにも無くて、遊女のみはどの島にもいた。ズリをこの方面ではゾレまたはドレと呼んでいる。その語自身にも巡歴という語感があったらしいが、別にまたマハリゾレという名もあったように聞いた。関東の<ruby><rb>御前</rb><rt>ごぜ</rt></ruby>たちと異なっているのは、眼が見えることだけというくらいによく似ている。村には<ruby><rb>到</rb><rt>いた</rt></ruby>る<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>に宿をする家が<ruby><rb>定</rb><rt>き</rt></ruby>まっていた。そこへ青年らが夜になると寄り集まって、長短色々の歌をうたわせて聴いた。その中でとくに酒の価を支弁した一人が、一夜の亭主となるという話もあって、無論彼女の道徳は安易なものであったが、その職分はといえば多数公衆の間に、歌を運搬することよりほかは無かったのである。実際数かぎりもない古来の名歌が、彼らによって保存せられ活用せられたのみでなく、同時に彼らはまた新作者でもあった。『<ruby><rb>奄美大島</rb><rt>あまみおおしま</rt></ruby>民謡大観』を読んでみると、島の宴飲には最も即興の歌が珍重せられ、殊に男女の間には<ruby><rb>歌競</rb><rt>うたきそ</rt></ruby>いの<ruby><rb>戯</rb><rt>ざれ</rt></ruby>があって、返歌の<ruby><rb>慧敏</rb><rt>けいびん</rt></ruby>なるものが永く異性の愛好を<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>いだことを述べている。島では三線を弾ずるはもっぱら男子のわざで、女はいずれもみな歌の節と言葉に、その才能を傾けようとしていた。男の歌人が多くは一郷の名士であったに対して、女性の歌によって名を知られた者は、大半はゾレであったように思われる。

ゾレという名称は時によって、やや広い意味に用いられている。心が定まらずして幾度か男を替えるという評を受けることを、ゾレ名が立つとも<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>っている。歌を歌ったからとてゾレ名の立つわけはないという意味の歌もあったのを見ると、そういう才女は自然にめずる人が多くて、久しくその<ruby><rb>操</rb><rt>みさお</rt></ruby>を守っていられない傾きがあったのであろう。島の小さな社会では、職業というほどに明らかな差別は無かったので、<ruby><rb>只</rb><rt>ただ</rt></ruby>そのいわゆるゾレ名の高さに伴のうて、人が幾分か近づきやすくなっただけかと思う。以前『<ruby><rb>御伽草子</rb><rt>おとぎぞうし</rt></ruby>』の「<ruby><rb>和泉式部</rb><rt>いずみしきぶ</rt></ruby>」を読んで、「昔和泉式部といふ名高き遊女ありけり」とあるのに、私などは<ruby><rb>喫驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>したものであったが、この書のできた時分の<ruby><rb>我邦</rb><rt>わがくに</rt></ruby>の遊女も、やはり大島のゾレくらいのものであったろう。大島では<ruby><rb>笠利</rb><rt>かさり</rt></ruby>の<ruby><rb>鶴松</rb><rt>つるまつ</rt></ruby>という女が、さして古い頃の人でないにもかかわらず、島の一個の和泉式部として讃歎せられ、その<ruby><rb>吟咏</rb><rt>ぎんえい</rt></ruby>は今も記憶せられている。歌の文句の中に<ruby><rb>嬌名</rb><rt>きょうめい</rt></ruby>を留めている者は、明治に入ってからでもまだ幾らもある。<ruby><rb>節子</rb><rt>ふしこ</rt></ruby>のとみというゾレがおそらくは最後のもので、現に八十余歳の長命で、<ruby><rb>猟人</rb><rt>かりゅうど</rt></ruby>の妻になって生きている。そうして今でもさまざまの古い物語を暗記しているそうである。こういう女たちの末路にも深い興味はあるが、いかにしてそういう生活が始まったかに至っては、さらに一段の不思議さえあるのである。島には遊女の家筋というものも無いらしいのに、それが次々に出現して絶えなかったのは、別に今まで考えられなかった成因が、<ruby><rb>爰</rb><rt>ここ</rt></ruby>にも<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそ</rt></ruby>んでいるのである。

## 六

ゾレを大島の人々がまたサカシとも呼んでいたことは、私には意味深く感じられる。サカシは<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>才気があって、時に応じた歌謡の<ruby><rb>応酬</rb><rt>おうしゅう</rt></ruby>を<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>くする者の名であったろうが、なおそれ以外に美しい声と清き目眉と、酒を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>って<ruby><rb>諧謔</rb><rt>かいぎゃく</rt></ruby>するような気風とを具備しなければ、その地位にいることはできなかったらしい。この条件の半分は生まれつきである。それを幸福とも言い切れないのは、以前は是がために正規の家庭生活に入って行く機会を、逸する場合が多かったからである。昔の伝説時代にはこういうのが神のモロフシ、すなわち一生を<ruby><rb>御社</rb><rt>おやしろ</rt></ruby>に捧げて、歌いつ舞いつする者となったり、もしくは水の精を<ruby><rb>聟</rb><rt>むこ</rt></ruby>に<ruby><rb>儲</rb><rt>もう</rt></ruby>けたと<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>って、末にはするすると長い<ruby><rb>裳裾</rb><rt>もすそ</rt></ruby>を<ruby><rb>曳</rb><rt>ひ</rt></ruby>いて、<ruby><rb>池沼</rb><rt>ちしょう</rt></ruby>の底に入ってしまったり、さては谷川の岸に<ruby><rb>菜</rb><rt>な</rt></ruby>を洗いつつ、<ruby><rb>路</rb><rt>みち</rt></ruby>行く貴人に<ruby><rb>艶</rb><rt>えん</rt></ruby>なる<ruby><rb>詞</rb><rt>ことば</rt></ruby>を送り、見いだされてその家に<ruby><rb>仕</rb><rt>つか</rt></ruby>え、故郷の親兄弟を<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>ばせたりしたのかも知れぬが、<ruby><rb>世</rb><rt>よ</rt></ruby><ruby><rb>降</rb><rt>くだ</rt></ruby>ってはそれもことごとく、あやなる物語の夢幻しに過ぎなかった。人を一時の<ruby><rb>恍惚</rb><rt>こうこつ</rt></ruby>に<ruby><rb>誘</rb><rt>いざな</rt></ruby>う力は有っても、自分の常の日の心細さを、<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>らすには足りなかったのである。こういう女たちが好んで男女の酒盛りの席に列したがる。南の島々のように多くはいなかったが、寒い東北の<ruby><rb>辺鄙</rb><rt>へんぴ</rt></ruby>の村里にも、折々は生まれ合わせた者があった。たとえば青森県の『<ruby><rb>浅瀬石川</rb><rt>あせいしがわ</rt></ruby>郷土誌』にも、在所に評判の美人の歌をよくうたうものがあって、城下の青年が酒を携え、夜分<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそ</rt></ruby>かに遊びにくる<ruby><rb>風</rb><rt>ふう</rt></ruby>が、維新の頃までもあったことを記し、ここでも<ruby><rb>鶴</rb><rt>つる</rt></ruby>という女がその中では殊に著名であったと<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>っている。船の通いの<ruby><rb>間遠</rb><rt>まどお</rt></ruby>にして年々続き、風待ち<ruby><rb>日和</rb><rt>ひより</rt></ruby>待ちの長かった日本海側の<ruby><rb>湊場</rb><rt>みなとば</rt></ruby>などで、こういう女性の利用せられたことはいうまでもない。おかしいことには大島のサカシとはかえさまに、此方では殺風景なゴケという名をもって、こういう女たちを呼んでいた。ゴケは「後家」などという文字を<ruby><rb>夙</rb><rt>はや</rt></ruby>くから書いて、次第に夫を<ruby><rb>亡</rb><rt>うしの</rt></ruby>うた不幸な女のみに限るようになったが、奥羽は一般にその語の用法がはるかに広い。一人で永くいる者がみなゴケであり、茶汲み<ruby><rb>茣蓙敷</rb><rt>ござし</rt></ruby>きに老いたる男と添う者もゴケであった。つまりは<ruby><rb>契</rb><rt>ちぎ</rt></ruby>りを<ruby><rb>籠</rb><rt>こ</rt></ruby>めた<ruby><rb>只</rb><rt>ただ</rt></ruby><ruby><rb>一人</rb><rt>ひとり</rt></ruby>の若者に<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>って、純なる夫婦のかたらいを持続する力の無い、あわれなる者という意味にほかならぬのである。そういう人たちの無くて済む社会はたしかに望ましいのだが、いかにせん外からも内からも、こういう一時の伴侶を要求したのみならず、彼らもまた是によって盛りの日の淋しさを<ruby><rb>凌</rb><rt>しの</rt></ruby>いだのである。<ruby><rb>固</rb><rt>もと</rt></ruby>より老後の計りごとは立っているはずがない。それ故に身のよすがを求めるために人の心を試み、またはあすの日の定め難さを悲しみ憂うるような歌ばかりが、次第に彼らの間から生まれて来たのである。彼らの漂泊にはむしろ明白すぎるほどの動機があった。若く花やかな年頃には、人に騒がれて親の家にでも<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>まり得た。数が少なければいわゆる村ゾレとなって、一生を送ることもできたが、すがれて浮草のさそう水もなくなると、かえって<ruby><rb>群</rb><rt>むれ</rt></ruby>をなして遠く天涯の旅をも試みなければならなかったのである。<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>が<ruby><rb>曾良</rb><rt>そら</rt></ruby>などの眼を<ruby><rb>留</rb><rt>と</rt></ruby>めた、遊女の田舎わたらいであったろうと思われる。

是まで遊女の歴史を書いている人々が、文書の中にもちゃんと史料が見えているにもかかわらず、とかく彼らの個人的な境遇のみに目をつけて、群の生活ということを省みなかったのは、おかしな今風の物の見方であった。遊女はやや老いて人もすさめなくなると、いよいよ歌謡と酒との<ruby><rb>昂奮</rb><rt>こうふん</rt></ruby>を借りて、男女たがいの心の<ruby><rb>隈々</rb><rt>くまぐま</rt></ruby>を探りあい、求め難い安住の機会を<ruby><rb>把</rb><rt>とら</rt></ruby>えようと努める。心なき者が<ruby><rb>淡々</rb><rt>あわあわ</rt></ruby>しく外から<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めても、是にはたしかに見馴れない人生の情景がある。ましてや一たび酔うて今は<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>めているという<ruby><rb>類</rb><rt>たぐい</rt></ruby>の旅人であったならば、深い<ruby><rb>詠歎</rb><rt>えいたん</rt></ruby>なしには<ruby><rb>看</rb><rt>み</rt></ruby>て過ぐることができなかったろう。是も私たちの読むたびに心を動かされる連句に、「<ruby><rb>熱田三歌仙</rb><rt>あつたさんかせん</rt></ruby>」の次のような<ruby><rb>一聯</rb><rt>いちれん</rt></ruby>がある。

芸者をとむる名月の関　　　　　　　　<ruby><rb>桐葉</rb><rt>とうよう</rt></ruby>

おもしろの遊女の秋の夜すがらや　　　　翁

ともし<ruby><rb>火</rb><rt>び</rt></ruby>風をしのぶ<ruby><rb>紅粉皿</rb><rt>べにさら</rt></ruby>　　　　　　<ruby><rb>叩端</rb><rt>こうたん</rt></ruby>

是などもまた確かに<ruby><rb>群</rb><rt>む</rt></ruby>れて旅行く女たちの生活であって、静かにその歌の声に聴き入った人々の背後には、秋の夜明けの<ruby><rb>白々</rb><rt>しらじら</rt></ruby>とした<ruby><rb>東雲</rb><rt>しののめ</rt></ruby>が、もううそ寒く近よって来ている感じがする。こういう人生の<ruby><rb>片隅</rb><rt>かたすみ</rt></ruby>の寂しさをも、見落さなかったのがわが<ruby><rb>翁</rb><rt>おう</rt></ruby>の俳諧であった。恋は<ruby><rb>畢竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>するにその<ruby><rb>巷</rb><rt>ちまた</rt></ruby>の<ruby><rb>辻</rb><rt>つじ</rt></ruby>に<ruby><rb>彷徨</rb><rt>ほうこう</rt></ruby>する者だけに、<ruby><rb>談</rb><rt>かた</rt></ruby>らしめておいてもよいような、小さなまた簡単な問題ではなかったのである。

  


## 寡婦と農業

## 一

村の生活には、いまだ説明せられない幾つかの問題が残っている。<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>は観察者の見落しと言わんよりも、むしろ漢語でばかり物を考えようとした<ruby><rb>弊</rb><rt>へい</rt></ruby>であろうと思う。例えば稲作作業の一季の結末を、もとは日本語で何と<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>ったか。こういう知れ切ったような問題を出してみても、今ではちょっと手短かに答えることがむつかしいのである。耕す人々の生涯においては、是は何よりも重要な一つの区切りであった。暦書が大陸から渡ってこなかった以前には、年の<ruby><rb>境</rb><rt>さかい</rt></ruby>は<ruby><rb>稔</rb><rt>みの</rt></ruby>りをもって目標としたろうとも言われている。近代においても必ず感謝の祭があり、また家々の<ruby><rb>饗宴</rb><rt>きょうえん</rt></ruby>があった。<ruby><rb>定</rb><rt>き</rt></ruby>まった名称なしに、空過することのできぬ日であった。カリアゲというのが最も普通に行われた古い日本語であったらしい。<ruby><rb>苅上</rb><rt>かりあ</rt></ruby>げ<ruby><rb>祝</rb><rt>いわい</rt></ruby>といいもしくは苅上げ盆という語も行われており（『富山市近在方言集』）、現にこの日をもって一応小さな祝をする風習も各地にある。すなわちかつては水田の生産が、苅取りをもって終りを告げた時代のあったことを意味する言葉である。大宝令の時代の分配は稲束をもってした。<ruby><rb>租稲</rb><rt>そとう</rt></ruby>はもとより<ruby><rb>正税</rb><rt>しょうぜい</rt></ruby><ruby><rb>出挙</rb><rt>すいこ</rt></ruby>の<ruby><rb>出納</rb><rt>すいとう</rt></ruby>までが、ことごとく何束何把をもって計算せられたのは、<ruby><rb>穎</rb><rt>えい</rt></ruby>すなわち稲の穂の運搬と貯蔵とが、普通であった証拠である。今でも<ruby><rb>瓜哇</rb><rt>ジャワ</rt></ruby>などの米作はこの通りで、写真で見ると全然<ruby><rb>鋏</rb><rt>はさみ</rt></ruby>と<ruby><rb>籠</rb><rt>かご</rt></ruby>との作業である。大変な人の手を要し、且つほとんと<ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>の利用ということを断念した生産であった。

現在日本の農業においては、苅上げはもちろん米生産作業の完成ではない。自作農にも<ruby><rb>小作人</rb><rt>こさくにん</rt></ruby>にも、生産の労働は<ruby><rb>玄米俵入</rb><rt>げんまいたわらい</rt></ruby>れ、すなわち<ruby><rb>臼場</rb><rt>うすば</rt></ruby>の仕事の終りまで続くので、だからまた臼じまい、<ruby><rb>庭仕舞</rb><rt>にわじまい</rt></ruby>の祝というものが始まったのである。ただしこのアラ<ruby><rb>摺</rb><rt>ず</rt></ruby>り方法の発明は新しいことで、近き百年以内までは、貯蔵は多くの地方では<ruby><rb>籾</rb><rt>もみ</rt></ruby>を囲い、<ruby><rb>糠</rb><rt>ぬか</rt></ruby>を去る仕事は食事の準備に過ぎなかった。<ruby><rb>摺臼</rb><rt>すりうす</rt></ruby>というものが入ってくる前には、玄米を得るのは<ruby><rb>木臼</rb><rt>きうす</rt></ruby>と<ruby><rb>手杵</rb><rt>てぎね</rt></ruby>との労働であった。上代の<ruby><rb>舂米部</rb><rt>つきよねべ</rt></ruby>の任務は今日の<ruby><rb>舂米屋</rb><rt>つきごめや</rt></ruby>のそれとは異なり、主として籾を玄米にすることを目的とした。米精白の趣味流行とも名づくべきものは、つまり簡便なる<ruby><rb>籾摺</rb><rt>もみすり</rt></ruby>機械が、<ruby><rb>立臼</rb><rt>たてうす</rt></ruby>・手杵と手を分かってから後の事であった。それ以前の久しい期間は、籾の俵入れこそは農業の終りであって、アラ<ruby><rb>搗</rb><rt>づ</rt></ruby>きはすなわち家々の消費作業と認められていたのである。東部日本の多くの都会にあるアラマチ（粡町）という地名は、もと玄米調製が城下市街の事務であったことを示している。

稲を穂のままで運びまた貯蔵するの不利は、<ruby><rb>夙</rb><rt>はや</rt></ruby>くから認められざるを得なかった。それ故に俵というものは発明せられたのである。『<ruby><rb>延喜式</rb><rt>えんぎしき</rt></ruby>』には「公私運米五斗<ruby><rb>為俵</rb><rt>たわらとなす</rt></ruby>」という規定があるが、それより古い記録も探したら見つかるかも知れぬ。ちょうどその時代の名士に<ruby><rb>俵藤太秀郷</rb><rt>たわらのとうたひでさと</rt></ruby>がある。<ruby><rb>近江</rb><rt>おうみ</rt></ruby>の田原に住んで住地を家の名としたので、竜宮の王から<ruby><rb>蜈蚣退治</rb><rt>むかでたいじ</rt></ruby>の報酬として、一つの俵を贈られたから俵藤太というと、物の本に語り伝えたのはウソであり、それが取れども尽くることなき宝の米俵であったのに、或る時底をはたいて白い<ruby><rb>小蛇</rb><rt>こへび</rt></ruby>が飛び出し、それ以来<ruby><rb>空俵</rb><rt>あきだわら</rt></ruby>となったというなどはなお大ウソであるが、この話よりも古くできた<ruby><rb>信貴山</rb><rt>しぎさん</rt></ruby>の<ruby><rb>縁起</rb><rt>えんぎ</rt></ruby>に、<ruby><rb>大和</rb><rt>やまと</rt></ruby>の或る長者の<ruby><rb>米庫</rb><rt>こめぐら</rt></ruby>の米俵が、空を飛んで信貴の山へ行く絵が出ているから、朝廷ばかりでなく各地方の百姓の間にも、俵の用いられていたことだけは明白である。何にもせよ京都人が<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>に所領を控え、その田の産米を取寄せるようになっては、稲束では到底安全に運ぶことは望めない。国司制度の下では、国々の租稲は最小限度の<ruby><rb>供御用米</rb><rt>くごようまい</rt></ruby>のほかは、なるべく各地方で使い切って、不利なる運送を避ける方法が立ててあった。余剰は貯蔵させるが、遠国は<ruby><rb>力</rb><rt>つと</rt></ruby>めてその大部分を交易に<ruby><rb>宛</rb><rt>あ</rt></ruby>てしめ、軽物にして京へ<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>せるようにする。是があの時代の地方財政法であった。一種の農業倉庫であったが、動機はもっぱら行政の便宜にあり、貸稲の制度もむしろ年々<ruby><rb>積替</rb><rt>つみかえ</rt></ruby>の必要から起こっていたらしく、その計算はまたあまりにも大まかであったために、余得は追々に土地の豪族を長養することになった。そうして彼らの勢力が境を越え、軍陣の往来が盛んになると、<ruby><rb>俵物</rb><rt>たわらもの</rt></ruby>の必要はさらに加わってきて、もはや<ruby><rb>伏見稲荷</rb><rt>ふしみいなり</rt></ruby>の御神像のごとく、稲を<ruby><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby>いで遠く行く者は、見かけることができぬようになったのである。

## 二

この<ruby><rb>籾俵化</rb><rt>もみだわらか</rt></ruby>の以前の状態が、今でもわずかながら<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>われるのは、沖縄県北部農村のイネマヂン（稲真積）である。この辺から<ruby><rb>奄美大島</rb><rt>あまみおおしま</rt></ruby>にかけて、最も特色を認められている<ruby><rb>高倉</rb><rt>たかくら</rt></ruby>の構造なども、その外形から見て明らかに<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>から進化したものと言えるが、稲真積の方は収穫の季節ごとに、臨時に設計せらるる貯蔵法であった。<ruby><rb>場処</rb><rt>ばしょ</rt></ruby>は大抵は耕地の附近に、石を土台にして<ruby><rb>円</rb><rt>まる</rt></ruby>い形に、稲の<ruby><rb>穂先</rb><rt>ほさき</rt></ruby>を内側にして積み上げて置く、きわめて簡易且つ<ruby><rb>悠長</rb><rt>ゆうちょう</rt></ruby>なる様式のものであるが、その分布は<ruby><rb>弘</rb><rt>ひろ</rt></ruby>く日本の南北の<ruby><rb>果</rb><rt>はて</rt></ruby>まで及んでいたようである。今日の内地のニホまたは稲村なるものは、名は稲村であるが実は<ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>ばかりを積んでいる。余程の交通不便な山奥でもないと、もうこんな事をして家の外に、稲を積んでおくことは不安になったが、以前は是もまた稲ニホであったかと思われる。東日本でこれをニホまたはニョーと<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>うに対して、西の方にはホヅミという語があり、転じてはコヅミ・スズミ・ススキなどと呼んでいる土地がある。十月雨の少ない中国や九州では、今でも収穫の作業を田で片づける<ruby><rb>風</rb><rt>ふう</rt></ruby>があり、遠くから見通して自然に番のできる<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>では、<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>には籾を<ruby><rb>蓆囲</rb><rt>むしろがこ</rt></ruby>いにして、田の真中に置いてあるのが、汽車の中からでも眼につくことがある。是は農業経済の問題ではないが、秋の穀祭のめでたく終るまでは、生産物を家に持ち込むことができぬというような信仰が、或いはまだその痕跡を<ruby><rb>留</rb><rt>とど</rt></ruby>めているのではないかとも考えられる。

とにかくに<ruby><rb>摺臼</rb><rt>すりうす</rt></ruby>や<ruby><rb>唐箕</rb><rt>とうみ</rt></ruby>が採用せられて、<ruby><rb>玄米</rb><rt>げんまい</rt></ruby>の俵が商品となるまでの間は、稲作作業の終局と考えられたのは、<ruby><rb>稲扱</rb><rt>いねこ</rt></ruby>きという仕事が済んだことであった。この期間はいわゆる俵藤太在世の頃に起こり、近くはほとんと維新の間際まで、約千年の久しきに<ruby><rb>亘</rb><rt>わた</rt></ruby>っていた。幕府領などは大分前から、<ruby><rb>米年貢</rb><rt>こめねんぐ</rt></ruby>に改まっていたが、小さな大名領では江戸期終りまで、籾俵の年貢を取っていた地方も少なくはなかった。こういう状態のもとにおいて、水田農事の結末をコキンテという地方が多かったのは、不思議ではないのであった。この語の行われている区域は、日本海側では<ruby><rb>越前</rb><rt>えちぜん</rt></ruby>・<ruby><rb>加賀</rb><rt>かが</rt></ruby>・<ruby><rb>能登</rb><rt>のと</rt></ruby>などで、ミテルを終了するの意味に用いている地方ならば、稲こきの完成をコキミテと謂うのは当り前の話だが、それが今ではもう分らなくなろうとしている。最近読んでみた『石川県<ruby><rb>珠洲</rb><rt>すず</rt></ruby>郡誌』に<ruby><rb>依</rb><rt>よ</rt></ruby>れば、同郡<ruby><rb>木郎</rb><rt>もくろう</rt></ruby>村では収穫終りの休日をコキンテ、<ruby><rb>宝立</rb><rt>ほうりゅう</rt></ruby>村ではコキンチョ、<ruby><rb>直</rb><rt>ただ</rt></ruby>村ではコキンチョウと謂って、いずれもこの日を祝い<ruby><rb>牡丹餅</rb><rt>ぼたもち</rt></ruby>などをこしらえて、神に供えまた自分たちも食べる。すなわち稲扱きがみてればそれで田の仕事は<ruby><rb>一切</rb><rt>ひとき</rt></ruby>りが付くので、その日の幸福を記念せざるを得なかったのである。

今日は多分古風な人だけが、この言葉を使うことになっているだろうと思うが、是は随分永い歴史があり、また人生にとって最も痛切なる内容を<ruby><rb>有</rb><rt>も</rt></ruby>つ日本語の一つであった。農夫の立場から見れば、<ruby><rb>嫁取</rb><rt>よめとり</rt></ruby>・<ruby><rb>聟入</rb><rt>むこいり</rt></ruby>・御産・元服・<ruby><rb>節季</rb><rt>せっき</rt></ruby>・正月などという語と同じ程度に、胸の<ruby><rb>轟</rb><rt>とどろ</rt></ruby>きなしには用いることのできぬ語であった。信州<ruby><rb>筑摩</rb><rt>ちくま</rt></ruby>・<ruby><rb>安曇</rb><rt>あずみ</rt></ruby>の各村などでは、この一年一度の大切な祝の日を、普通にはコバシャゲと謂っている。そうしてやはり何故にそう謂うかを忘れた人が多いと見えて、転じては何の事務でも、完成したという意味にこの語を使っている。コバシャゲは隣の富山県ではコエバシアゲ、新潟県に行くとコロバシアゲと謂う村もあったが（『<ruby><rb>温故之栞</rb><rt>おんこのしおり</rt></ruby>』廿一）、要するに稲扱道具を片づけるということであった。アゲルというのは「しまう」こと、コバシは正確に謂えばコキバシすなわち<ruby><rb>扱箸</rb><rt>こきばし</rt></ruby>であった。信州は北の<ruby><rb>境</rb><rt>さかい</rt></ruby>の<ruby><rb>下水内</rb><rt>しもみのち</rt></ruby>郡、<ruby><rb>美濃</rb><rt>みの</rt></ruby>の<ruby><rb>山県</rb><rt>やまがた</rt></ruby>郡、<ruby><rb>三河</rb><rt>みかわ</rt></ruby>の<ruby><rb>宝飯</rb><rt>ほい</rt></ruby>郡などでも、以前の稲扱道具をコバシと呼んでいたことが、それぞれの郡の方言誌に見えている。<ruby><rb>佐渡</rb><rt>さど</rt></ruby>の島は色々と古い言葉の<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>っている土地であるが、<ruby><rb>彼処</rb><rt>あそこ</rt></ruby>にもまだコキバシまたはコイバシという名だけはあった。コクという動作が重要でなくなってから、この動詞も追々に不用に帰し、単にコキオロスとかシゴキとかいう複合形の語だけに、その残影を留むるまでになったが、それでも方言の間には少しずつ用いられている。農業の方でも<ruby><rb>大豆</rb><rt>だいず</rt></ruby>とか<ruby><rb>胡麻</rb><rt>ごま</rt></ruby>の<ruby><rb>実</rb><rt>み</rt></ruby>とかを落す時に、<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>にはこの動作を必要としている土地もあるらしい。<ruby><rb>屁</rb><rt>へ</rt></ruby>をコクとか<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>をコクとかいう下品な<ruby><rb>詞</rb><rt>ことば</rt></ruby>が暗示しているように、つまりは狭いところを無理に通して、附いているものを落そうという行為であった。過去何千年かの日本の稲扱きは、まさしくこの目的をもって簡単な二本の<ruby><rb>竹切</rb><rt>たけぎ</rt></ruby>れを合わせ立て、その間から稲穂を引きしごいて、籾を落していたのである。江戸期も末になるまでの三世相とか女大学とかの家庭用書の口絵には、幾らでもそういう農業の図が出ていて、実は自分などの少年の頃にはしばしばこれを見て実際の作業ぶりと、あまりに違っているのを不思議に思った次第であった。

## 三

この<ruby><rb>扱箸</rb><rt>こきばし</rt></ruby>の使用はいかにも能率の挙がらぬ方法であったので、久しい以前から徐々に改良が企てられていた。例えば佐渡でもコキバシという名だけはあって、実際はすでに百年以上も前から、竹または鉄の小さな<ruby><rb>管</rb><rt>くだ</rt></ruby>を左の手の二本の指にはめて、それで<ruby><rb>挟</rb><rt>はさ</rt></ruby>んで稲の穂を<ruby><rb>扱</rb><rt>こ</rt></ruby>く道具になっていた。僅かならが是も改良であった証拠には、始めからこういう装置であったら、箸という名が付けられる道理はないのである。しかもかくのごとき微小なる発明でも、やはり山路海辺を伝わって、<ruby><rb>弘</rb><rt>ひろ</rt></ruby>くその恩恵を流布させていたかと思われる。殊に鉄の管などは、農業の手作りには行かぬもので、商品として<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>かに製造所があり、また宣伝の中心があったはずだから、一層普及が容易であったのである。<ruby><rb>薩摩</rb><rt>さつま</rt></ruby>の<ruby><rb>知覧</rb><rt>ちらん</rt></ruby>で稲扱きをカナクダ、<ruby><rb>土佐</rb><rt>とさ</rt></ruby>の中村<ruby><rb>辺</rb><rt>へん</rt></ruby>でこれをカナバシと謂ったというのも、或いはこういう種類の改良品ではなかったろうか。何にしてもそう古くからの名称ではなさそうである。

関東・東北でカラハシと謂っていた稲扱具は、鉄製のものではなかった。実物は私もまだ見ておらぬが、竹を割って<ruby><rb>尖</rb><rt>とが</rt></ruby>らせたものを何本か<ruby><rb>櫛</rb><rt>くし</rt></ruby>の歯のように一列に並べ、<ruby><rb>稲束</rb><rt>いねたば</rt></ruby>を平たくしてその櫛の歯の間を通すので、是では「<ruby><rb>扱</rb><rt>こ</rt></ruby>く」ではなくして「<ruby><rb>梳</rb><rt>す</rt></ruby>く」のであるが、私などの生まれた中国方面では、古い慣例のままに是と同様の構造のものをイネコキと呼んでいた。一方カラハシという名称の行われていた区域も弘いようである。群馬県の佐野、栃木県の<ruby><rb>那須</rb><rt>なす</rt></ruby>、福島県の<ruby><rb>伊達</rb><rt>だて</rt></ruby>などの実例を私は知っている。カラハシは<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>カラコキバシの省略で、あたかもツルウメモドキをツルモドキ、<ruby><rb>白木蓮</rb><rt>びゃくもくれん</rt></ruby>を<ruby><rb>白蓮</rb><rt>びゃくれん</rt></ruby>と謂うのと同様の変化である。カラとはすなわち新種改良品のことで、農具には<ruby><rb>唐臼</rb><rt>からうす</rt></ruby>・<ruby><rb>唐鋤</rb><rt>からすき</rt></ruby>のごとく、カラとかタウとかいう語を冠したものが多い。実際また<ruby><rb>支那</rb><rt>シナ</rt></ruby>人から、間接に学んだものかも知れぬ。鎖国時代でも農書だけは自由に輸入せられていた。そうして支那農民の技術には、今日でもまだ敬服すべき巧妙さが認められるのである。日本今日の農法の中にも、自国かぎりの発明工夫は絶無とは言われぬが、他の大部分は外から採用せられたものである。直接教えてくれたのは同胞隣人であっても、中にはこのように数千里、数千年の旅をして来たものもあるのである。

ただしこのいわゆる文化<ruby><rb>伝播</rb><rt>でんぱ</rt></ruby>には条件があった。一つには学び得る智能であり、二つには学ばねばならぬ経済上の必要である。縁が無ければ在っても知らずにいることもあるのは、つまりはこの条件の具足せぬためで、今日しばしば問題となるところの、模倣と採択との<ruby><rb>岐</rb><rt>わか</rt></ruby>れ<ruby><rb>目</rb><rt>め</rt></ruby>もまた<ruby><rb>爰</rb><rt>ここ</rt></ruby>にあった。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>も中には必要があっても、採用し得られない他の事由のある場合もあれば、また無意味に真似をしているうちに、自然にその恩恵を味わい得るに至ることもあるが、少なくとも昔話によくいう<ruby><rb>鴉</rb><rt>からす</rt></ruby>に<ruby><rb>鵜</rb><rt>う</rt></ruby>の真似をさせようとする類の新技術の輸入が、永くその効果を挙げ得なかったことは明らかである。

この意味からいうと、いわゆる<ruby><rb>唐扱箸</rb><rt>からこきばし</rt></ruby>の発明ないし普及という事実は、非常に興味の多い経済史の問題を提供する。千年の久しきに<ruby><rb>亘</rb><rt>わた</rt></ruby>って我々の使い<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れていた二本箸の稲扱器を、一朝にして改良した<ruby><rb>所以</rb><rt>ゆえん</rt></ruby>のものは何であったか。外部の原因は或いはただ偶然の遭遇に過ぎなかったとしても、内にあって働いた動機ははたして何に基づいたかという問題である。地方により村によって事情も<ruby><rb>区々</rb><rt>まちまち</rt></ruby>であったろうが、大体から言うと二つの点がまず考えられる。その一つは労力の改良、すなわち少しでも価値の多い労働をしたい。同じ働くにも楽しみが多く苦痛が少なく、且つその効果を多くしようという希望である。是は大昔から今の世の中までを一貫した潮流であり、また社会を今日の文化にまで推し進めた動力であって、それが個人主義・資本主義の発生成長に、大いなる便宜を付与したと謂っても、<ruby><rb>強</rb><rt>あなが</rt></ruby>ちに憎み<ruby><rb>賤</rb><rt>いや</rt></ruby>しむことのできぬほど、大切なる人類の成長素であった。実は是あるがために社会の未来は、今でもまだ楽観することができると謂ってよい。我々の思索が解放せられ、我々の経験が或る程度まで集積すると、まず今までの盲目なる辛労が、大部分は省略し得るものであったことに、心づくことは誠に自然である。骨惜しみは現在でもなお悪徳の中に<ruby><rb>算</rb><rt>かぞ</rt></ruby>えられるが、しかし<ruby><rb>無駄</rb><rt>むだ</rt></ruby>働きということも、また<ruby><rb>夙</rb><rt>はや</rt></ruby>くから<ruby><rb>忌</rb><rt>い</rt></ruby>み<ruby><rb>嫌</rb><rt>きら</rt></ruby>われていたのである。

第二の点は私が仮に小農化の傾向と名づけんとするもので、是ばかりは或いは日本だけの特殊事情であったかも知れぬ。すなわち農村における共同作業の制限であって、なるべく多く自分自分の家の者だけで、生産を完了しようという念慮が、個々の農人の中に現われて来たことである。勿論そうすることが同時に第一の目的にも合致したのではあるが、他の一方にはまた良民すなわち独立農の家の数が増加して、追々と以前通りの協同農法を持続することが困難になったので、<ruby><rb>努</rb><rt>つと</rt></ruby>めてその<ruby><rb>煩累</rb><rt>はんるい</rt></ruby>を避け、各自家限りの農業を行おうとして、勢い右申すがごとき能率の高いいわゆる労力省略機械の必要を感じて来たのである。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もこの結果がいよいよ個々の小農場の孤立的傾向を促すことになったのもまた事実で、もしこういう新方法が採用せられなかったら、日本の多くの農村は今少しく昔ながらの生産協同を続けなければならなかったであろうが、さてそうすることが必ずしも幸福であったろうとも断言はできない。要するに耕地は増し得ずして、分家分家とこう農家の数が多くなって来ては、到底古風な大農法を、以前のままに行うことは不可能であったのである。

## 四

別の言葉をもって言うならば、近世農村の労働組織は、たといカラゴキ・カラウス等の輸入がなくとも、なお必然的に変化すべき時運に面していたのであった。ただその中でも特に<ruby><rb>稲扱</rb><rt>いねこき</rt></ruby>用器の改良が、大きな影響を与えたというのみである。同じ新規の器具方法でも、単にいわゆる労力の改良に役立ったのみで、組織の方面にはあまり働きかけなかったものも多い。比較対照のために<ruby><rb>爰</rb><rt>ここ</rt></ruby>にカラサヲの例を挙げてみると、是も明らかに支那から入って来たものであるが、この方はかえって新たに一種の共同作業を促している。日本の<ruby><rb>籾</rb><rt>もみ</rt></ruby>落し方法は、つい最近まで実は各地区々であった。一方鉄製の<ruby><rb>扱箸</rb><rt>こきばし</rt></ruby>がすでに知られている<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>があるのに、他の一方には二本の竹箸よりもさらに原始的なる脱穀作業があった。日本の農村生活の変遷を<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>うべき好史料に、<ruby><rb>吾山</rb><rt>ござん</rt></ruby>という俳人の<ruby><rb>編輯</rb><rt>へんしゅう</rt></ruby>した『<ruby><rb>物類称呼</rb><rt>ぶつるいしょうこ</rt></ruby>』五巻がある。安永四年の序文を掲げてあるが、その中にはすでに<ruby><rb>遠江</rb><rt>とおとうみ</rt></ruby>のカナコバシ、<ruby><rb>西国</rb><rt>さいごく</rt></ruby>地方のセンバゴキ（千把扱き）の名が見えている。しかるにそれよりも二十何年の後、西暦一七七七年に来朝した<ruby><rb>和蘭</rb><rt>オランダ</rt></ruby><ruby><rb>甲比丹</rb><rt>カピタン</rt></ruby>ツンベルグは、その江戸往来の旅行において次のような見聞をしている。是も九州の沿道筋の事と思われるが、彼の言に<ruby><rb>依</rb><rt>よ</rt></ruby>れば、稲扱きは極度に簡単な方法をもって行われていた。稲の束を<ruby><rb>樽</rb><rt>たる</rt></ruby>とか壁とかに打ちつけると、それで<ruby><rb>実</rb><rt>み</rt></ruby>はことごとく落ちてしまうとある。是は<ruby><rb>稲種</rb><rt>いねだね</rt></ruby>の「<ruby><rb>実翻</rb><rt>みこぼ</rt></ruby>れ<ruby><rb>性</rb><rt>せい</rt></ruby>」とも名づくべきものと関係があり、いずれの地の農業もかつて一度はそういう方法を行ったとも考えにくい。タウボシ一名「<ruby><rb>大唐米</rb><rt>だいとうまい</rt></ruby>」などという稲は、多産強健なれども原種に近いためか、とくに実の<ruby><rb>翻</rb><rt>こぼ</rt></ruby>れやすい性質をもっていて、<ruby><rb>鎌入</rb><rt>かまい</rt></ruby>れにも不便があり、穂のままで貯蔵をした時代ならば、大いなる欠点というべきものであったが、こうした簡単なる籾落し法を行うとすれば、むしろそういう実翻れの容易な稲を<ruby><rb>撰</rb><rt>えら</rt></ruby>んで、栽培したような土地もあったかも知れぬ。とにかくに穀物の穂の部分を広い<ruby><rb>筵</rb><rt>むしろ</rt></ruby>の上などに集めて、棒で打ち<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>いて脱穀させる方法は、かつては稲にも行われていた土地が有るらしいのである。それから他の一方に新しい稲扱機械ができて、一日に沢山の籾を落すようになると、つい扱き方がぞんざいに流れ、<ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>の穂にまだ若干の籾がくっついて残ることになり、それを集めて<ruby><rb>棹</rb><rt>さお</rt></ruby>で打って、今一度残りの籾を落す作業が必要になってくるのである。関東平野では是をボッチャラウチまたはボウジブチなどと<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>って、以前の<ruby><rb>籾納</rb><rt>もみおさめ</rt></ruby>のころには厳格に言えば、是が稲作最終の作業であった。ボッチャラのボッチは「堆」を意味し、すなわち積み重ねた藁ということだと説明してくれた人もあるが、或いはこれをボータとも謂う地方があるのを見ると、本来は<ruby><rb>穂打藁</rb><rt>ほうちわら</rt></ruby>または穂打ちの<ruby><rb>転訛</rb><rt>てんか</rt></ruby>であったかも知れぬ。この穂打ち藁打ちがいかに苦しい労働であったかは、庭の上を五六<ruby><rb>遍</rb><rt>ぺん</rt></ruby>棒で打ってみればすぐに想像がつく。持つ手に反動がくるばかりでなく、いつも中腰になって働き続けなければならぬから苦しい。このついでに一言するが、田植・草取を始めとして、この類の中腰の作業が日本には甚だ多く、そうしていずれもせわしい仕事である。農民に老いて腰の曲る者が多かった原因の一つであろうと思っている。こういう労働の苦痛を軽めるためには、改良の歓迎せられたのは当然の話である。カラサヲの方言は上方ではクルリ棒、茨城県などではフルチガヘシ・フルチボーまたはフリボーとも謂っている。福島ではフリウチまたはフリウチバイ、佐渡ではフリバイと謂うそうである。バイもボウも棹も同じことで、フルチは振打ちの詰まった<ruby><rb>響</rb><rt>ひびき</rt></ruby>であることは疑いがない。すなわち前には回転せぬ棒をもって打っていたのが、これに<ruby><rb>由</rb><rt>よ</rt></ruby>って始めて腰を曲げずに、藁やその他の<ruby><rb>穀</rb><rt>こく</rt></ruby>を打つことができたのである。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もこの改良の中間に今一つ、棒の片仮名のヘの字のごとく屈曲したものを使って、その背中をもって打っている者もあった。つい近ごろも信州の<ruby><rb>上伊那</rb><rt>かみいな</rt></ruby>郡でそれを見かけた。<ruby><rb>真直</rb><rt>まっす</rt></ruby>ぐな棒を使うよりはずっと楽で、是だけでも大きな改良であった。発明は事後に回顧すれば何でもないようなものが多いが、その変り目に当って当事者の味わい得る愉悦は大きなものがある。いわんや振打返しのクルリ棒に至っては、仕事に調子がついて歌に乗りやすく、多人数で共に働くときは若干の興奮をさえ感じ得られる。始めて是を用いた時の満足は、或いは<ruby><rb>唐扱箸</rb><rt>からこきばし</rt></ruby>以上であったろうと思う。ただし作業の功程の上には、そう大きな進歩でもなかった。これは農事改良の主として苦痛を軽減し、またむしろ共同の作業を便利にした例であって、同じくカラの字の附く新意匠であっても、いわゆるカラハシの方とは著しい相異であった。

## 五

カラハシの効果は<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>と反対に、非常なる労力の節約であった。すなわち孤立農業の存立のために、とくに大いなる便宜を供するものであった。諸君の中には近頃一読せられた人もあろうと思うが、清水文弥翁の『郷土史話』には、<ruby><rb>野州</rb><rt>やしゅう</rt></ruby><ruby><rb>那須</rb><rt>なす</rt></ruby>の農村における実験が<ruby><rb>記</rb><rt>しる</rt></ruby>してある。<ruby><rb>曰</rb><rt>いわ</rt></ruby>くカラハシは竹を割って作ったもので、一人一日の能率は稲三十六<ruby><rb>把</rb><rt>ぱ</rt></ruby>、<ruby><rb>籾</rb><rt>もみ</rt></ruby>約七<ruby><rb>斗</rb><rt>と</rt></ruby>二十一貫目を<ruby><rb>扱</rb><rt>こ</rt></ruby>けばよいことになっていた。ところが名古屋産の<ruby><rb>千把</rb><rt>せんば</rt></ruby>コキを使うと、たちまち能率はその二倍になったとある。すなわち是は鉄製のものであったろう。現在に至ってはこの二機ともに<ruby><rb>廃</rb><rt>すた</rt></ruby>れ、改良<ruby><rb>稲扱機</rb><rt>いねこきき</rt></ruby>の能率は一日に四十<ruby><rb>俵</rb><rt>ぴょう</rt></ruby>、すなわち竹のカラハシの約二十七八倍になったと言っているが、<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>その後さらに有効なるものもできているはずで、つまりは百年前には一人の力で、一月以上も<ruby><rb>費</rb><rt>ついや</rt></ruby>すべかりし仕事を、今では<ruby><rb>丸</rb><rt>まる</rt></ruby>一日もかからずに片づけるようになってしまったのである。

右の竹製のカラハシにかわった鉄製の千把コキなるものも、早くから有るには有ったが、それが普及したのは至って新しいことであった。中国の最も交通のよく開けた農村ですらも、今から四十年ばかり前、すなわち自分が少年の頃までは、まだ普通には竹の稲扱を使っていた。そこへ<ruby><rb>伯耆</rb><rt>ほうき</rt></ruby>のカナゴキ屋という行商が、毎年初秋の頃に<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>って来て、分割支払法をもって鉄製の稲扱を売っていた。カナゴキはすなわちカネイナコキの略称であって、那須その他でセンバと<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>ったものと同じである。そうかと思うと<ruby><rb>越後</rb><rt>えちご</rt></ruby>などは、もう今から百三四十年も前に、すでにこのセンバを使っていた村もあった。『<ruby><rb>温故之栞</rb><rt>おんこのしおり</rt></ruby>』（巻十）にはこの国の水田生産のことを記して、以前は割竹五六本を木の台に立て<ruby><rb>列</rb><rt>つら</rt></ruby>ね、稲を七八<ruby><rb>茎</rb><rt>けい</rt></ruby>ずつ<ruby><rb>挟</rb><rt>はさ</rt></ruby>んで<ruby><rb>扱</rb><rt>こ</rt></ruby>いた故に、丈夫一日の辛苦をもって僅かに百五十把の<ruby><rb>籾</rb><rt>もみ</rt></ruby>を扱くのみであった。寛政の初年に<ruby><rb>阿波</rb><rt>あわ</rt></ruby>からセンバという機械を<ruby><rb>直江津</rb><rt>なおえつ</rt></ruby>に<ruby><rb>持来</rb><rt>もちきた</rt></ruby>る。一日に千把の稲を扱く故にこの名があった。本名を何というか知らぬと謂っている。東北地方では福島県南部の、県道<ruby><rb>交叉点</rb><rt>こうさてん</rt></ruby>に<ruby><rb>臨</rb><rt>のぞ</rt></ruby>んだ一旅亭で、その越後から同じ機械を、売りに来ている行商人の一群に出会って、詳しい問答をしてみたのは、つい今から十五六年前のことであった（『郷土研究』四巻八号）。すなわち運賃雑用のあまりに多くかかる販売法であったために、まだこの頃までこの地方へは普及し得なかったのである。鹿児島県の<ruby><rb>種子島</rb><rt>たねがしま</rt></ruby>などでも、その少し以前に旅行をした草野教授の話では、まだ割竹の稲扱をもって数茎ずつの籾を落し、その籾を<ruby><rb>臼</rb><rt>うす</rt></ruby>に入れて<ruby><rb>脱稃</rb><rt>だつふ</rt></ruby>から精白までを一続きにしていた。そこへ内地からただ一台の鉄の稲扱器を取寄せてみた人があったが、方々から珍しがって借りにくるので、僅かの間に破損してしまったと謂っている（同誌二巻十号）。

いわゆるカナゴキの優越なる能力は、確かに当時の農村人を驚歎せしめるに足るものがあったが、しかもセンバコキなる名称は、それよりもずっと早くから、実は世の中に知られていて、是は多くの地方では福島・栃木などでいうカラハシ、すなわち竹製の稲扱器のことを意味していたのであった。実際この<ruby><rb>櫛</rb><rt>くし</rt></ruby>の<ruby><rb>歯</rb><rt>は</rt></ruby>式の竹の稲扱が出て来て、在来の簡単な二本の<ruby><rb>扱箸</rb><rt>こきばし</rt></ruby>にかわった時の方が、<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>にそれ自身が鉄製のものにかわられた時よりも、はるかに農民に与えた印象は強烈であったのである。後者は単に功程が急増したというだけであるに反して、前者はこれに<ruby><rb>由</rb><rt>よ</rt></ruby>って外には作業の形式を一変し、内には私経済の組織に最も顕著なる影響を与えざれば止まなかったからである。この突如たる事情の変化を、やや誇張したる語辞をもって言い現わそうとしたのがセンバであった。必ずしも一日に千把の稲を扱き得るということを、実証した後に附与した名ではなかった。センバという名称は西は大分県<ruby><rb>海部</rb><rt>あまべ</rt></ruby>郡、<ruby><rb>肥前</rb><rt>ひぜん</rt></ruby>の<ruby><rb>千々岩</rb><rt>ちぢわ</rt></ruby>、また熊本県<ruby><rb>八代</rb><rt>やつしろ</rt></ruby>郡などにも見いだされるが、主としては東北の<ruby><rb>端々</rb><rt>はしばし</rt></ruby>において行われている。宮城県北部の<ruby><rb>登米</rb><rt>とよま</rt></ruby>郡その他、岩手県の<ruby><rb>気仙</rb><rt>けせん</rt></ruby>郡などもともに、センバコキと謂えば一般に櫛の歯式稲扱器、すなわち南隣の<ruby><rb>阿武隈</rb><rt>あぶくま</rt></ruby>流域などで、前からカラハシと呼んでいたものを指したらしい。それが北へ行って南部領になると、これを略してセンコキ、<ruby><rb>津軽</rb><rt>つがる</rt></ruby>の農村ではもっと略して、ヘンコキと謂う人も多かった。上州・信州において同じ物を、センダコキという方言があったことは、前にも引用した『物類称呼』に見えている。すなわち鉄製の稲扱ならずとも、旧来の一本のコキバシに比べると、是は確かに千把または<ruby><rb>千駄</rb><rt>せんだ</rt></ruby>と誇張するほどの大革命であったのである。

信州の松本などでは、現在は稲扱器をマンバと呼ぶ語がある。是は鉄製品出現の際に、「センバ以上」という意味において、宣伝用に発明せられた名ではなかったかと思う。それを聞き<ruby><rb>損</rb><rt>そこな</rt></ruby>ったと見えて、愛知県<ruby><rb>葉栗</rb><rt>はぐり</rt></ruby>郡でマンガ、福井県の一部には是をマングヮという語さえある。信州も<ruby><rb>高遠</rb><rt>たかとお</rt></ruby>附近ではマンガといい、そうしてこれと差別するために、改良<ruby><rb>鍬</rb><rt>ぐわ</rt></ruby>の一種はマンノガ、馬鍬はマグワと謂っている。全体に新しい農家用品には、こういう<ruby><rb>風</rb><rt>ふう</rt></ruby>な耳を<ruby><rb>刺戟</rb><rt>しげき</rt></ruby>する名称が多いのは、農民の単純さ正直さが利用せられたのである。元来<ruby><rb>万能</rb><rt>まんのう</rt></ruby>だの<ruby><rb>万力</rb><rt>まんりき</rt></ruby>だのという農具は、みなこのマンバと同様の宣伝名で、すなわちそれがすでに商品として彼らに供給せられたことを語るものである。センバという語などもちゃんとそれ以前に、我々が<ruby><rb>囲炉裏</rb><rt>いろり</rt></ruby>の炭火をすくう道具、奥羽ではオキカキ、九州では火スクヒなどというものに占領せられていた。今はその意味が不明であるが、是も多分その能率を形容した広告語であろうと思う。ところが後に稲扱器にその御株を取らるるに及んで、大いに<ruby><rb>謙遜</rb><rt>けんそん</rt></ruby>して<ruby><rb>十能</rb><rt>じゅうのう</rt></ruby>などという名に納まろうとしていた。名称はその初期の目的さえ達してしまえば、後はただ<ruby><rb>惰性</rb><rt>だせい</rt></ruby>をもって我々がこれを保持するに過ぎなかったのである。

## 六

だからこのような地方語の<ruby><rb>穿鑿</rb><rt>せんさく</rt></ruby>は、通例は物好きの一<ruby><rb>茶話</rb><rt>さわ</rt></ruby>に過ぎぬのである。稲扱器がセンバと謂おうが、またカラハシと呼ばれようが、もしそれが前期経済組織の一つの目標でなかったならば、こうして自分のように各地の異同を究めるに苦労する必要もないのである。それと同時にもし<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>より以外の材料に<ruby><rb>由</rb><rt>よ</rt></ruby>って、この変遷して<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>をも<ruby><rb>留</rb><rt>とど</rt></ruby>めざらんとする農村生活の時代相を、認識せしむるの<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>が無いとすれば、いかに小さな事柄であっても粗末にしてはいけない。単に学者の書に出ていない、書物を<ruby><rb>著</rb><rt>あらわ</rt></ruby>す者が省みなかったというばかりで、無意識ながらも是は我々の祖先が、後代に残しておいてくれた大切なる経済史の史料である。事物の名称は意味なしには決して発生しない。小児ですらもその生活の最も深い感銘に基づいて語を造っている。遊戯の余裕に乏しい農民が、生活に適切ならざる符号を案出するはずがない。ただ我々のその趣意を解し得る者が、多くなかったというのみである。例えば紀州の南部<ruby><rb>牟婁</rb><rt>むろ</rt></ruby>郡の一部で、稲扱きをタカセと謂っている者があるが、是などは竹センバの<ruby><rb>下略</rb><rt>げりゃく</rt></ruby>かどうか、私にもまだ意味がはっきりせぬ。こんな例はまだまだ幾らも出てくることと思って注意をしている。

同じ三重県でも『<ruby><rb>度会</rb><rt>わたらい</rt></ruby>郡方言集』、すなわち神宮周囲の村落の語では、今でも稲扱器のことをヤマメと謂うそうである。ヤマメは<ruby><rb>寡婦</rb><rt>やもめ</rt></ruby>のことである。何故にそのような名前が稲扱器に附与せられたか。現在ではもうその趣旨を忘れてしまった人々が、無意義に使用していることと思われるが、もとは是もヤマメタフシ、もしくはヤマメナカセと謂っていたのが、長過ぎるために後に<ruby><rb>尻</rb><rt>しり</rt></ruby>を切ったのであろう。吾山の『物類称呼』を見ても、稲扱きを<ruby><rb>畿内</rb><rt>きない</rt></ruby>ではゴケタフシ、<ruby><rb>越後</rb><rt>えちご</rt></ruby>ではゴケナカセと謂うとある。その説明は『和漢三才<ruby><rb>図会</rb><rt>ずえ</rt></ruby>』に出ているのが最も要領を得ている。『和漢三才図会』は『物類称呼』よりも、また四十年も前に世に公にされた本だが、著者の住む<ruby><rb>摂津</rb><rt>せっつ</rt></ruby>辺には、もうすでにこの「<ruby><rb>後家倒</rb><rt>ごけたお</rt></ruby>し」が使用せられていたのである。その文章を<ruby><rb>書下</rb><rt>かきくだ</rt></ruby>し体に直してみると、<ruby><rb>曰</rb><rt>いわ</rt></ruby>く、「<ruby><rb>按</rb><rt>あん</rt></ruby>ずるに<ruby><rb>古</rb><rt>いにしえ</rt></ruby>は麦・稲の穂を<ruby><rb>扱</rb><rt>こ</rt></ruby>くに、二つの<ruby><rb>小管</rb><rt>こくだ</rt></ruby>を<ruby><rb>縄</rb><rt>なわ</rt></ruby>を通して<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>ぎ、<ruby><rb>之</rb><rt>これ</rt></ruby>を握り持ち<ruby><rb>挟</rb><rt>はさ</rt></ruby>みて穂を扱きしなり、秋収の時に至れば、近隣の<ruby><rb>賤婦</rb><rt>せんぷ</rt></ruby><ruby><rb>孀婆</rb><rt>そうば</rt></ruby>是が為に<ruby><rb>雇</rb><rt>やと</rt></ruby>はれ、<ruby><rb>以</rb><rt>もっ</rt></ruby>て<ruby><rb>飽</rb><rt>あ</rt></ruby>くことを得たり。<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>るに近年稲扱きを製す。<ruby><rb>其</rb><rt>その</rt></ruby>形は狭き<ruby><rb>牀机</rb><rt>しょうぎ</rt></ruby>の如く、竹の<ruby><rb>大釘</rb><rt>おおくぎ</rt></ruby>数十を植ゑ、少しくマングハ（馬歯把）に似たり。穂を引掛けて引くに、其力は<ruby><rb>扱竹</rb><rt>こきだけ</rt></ruby>に十倍す。故に孀婆業を失ふ。<ruby><rb>因</rb><rt>よ</rt></ruby>つて<ruby><rb>後家倒</rb><rt>ごけたお</rt></ruby>しと名づく。又近頃は鉄を以て歯と<ruby><rb>為</rb><rt>な</rt></ruby>し、鉄稲扱きと名づくるあり（以上）」。勿論この名称は事実を語るというよりも、寧ろ印象を鮮明ならしめるために、わざと奇警の語を採用し、したがって人が<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>く記憶したというに過ぎない。後家は必ずしもこの竹製稲扱器の発明のみに因って、倒されまた泣かされたのではなかったのであるが、ちょうどこの発明の採用せられた時代または地方において、次第に日本の農業はその作業組織から、<ruby><rb>寡婦</rb><rt>かふ</rt></ruby>や小児を排除するの傾向を示しつつあったのである。

主人が壮年にして死歿しまたはいなくなる百姓の家庭は、昔とても決して<ruby><rb>尠</rb><rt>すく</rt></ruby>なくはなかった。そういう家で家業を持続することは、農は他のいずれの業よりも殊に困難なる事情があった。現に今日ではそれが大抵は農廃業の一つの原因となり、また多くは離散<ruby><rb>零落</rb><rt>れいらく</rt></ruby>を伴のうている。作り高と村の戸数とを減少せしめざるを主義とした前代の農政では、とくにこの場合に向かって色々の方法を立てていたことが、『地方<ruby><rb>凡例録</rb><rt>はんれいろく</rt></ruby>』などを見てもよく<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>われる。娘があれば年が違っても<ruby><rb>聟</rb><rt>むこ</rt></ruby>を取る。後家には出来る限り<ruby><rb>入夫</rb><rt>にゅうふ</rt></ruby>をする。こういうことは必ず家族関係を複雑にし、年老いたる者を不幸にする種であったが、それすらも避けることが許されなかった。或いは十歳前後の男の<ruby><rb>児</rb><rt>こ</rt></ruby>ばかりで、母が末を案じて二度の夫を迎えまいとする場合などには、普通は一時家をたたみ、親子<ruby><rb>分</rb><rt>わ</rt></ruby>かれ分かれに奉公などをして相続人の成長を待つのであるが、その間の土地管理が困難で、

作り高は村内の者に都合よく分け持たせ、<ruby><rb>後々</rb><rt>のちのち</rt></ruby>再び<ruby><rb>有付</rb><rt>ありつ</rt></ruby>かせ<ruby><rb>候様</rb><rt>そうろうよう</rt></ruby>、

返し<ruby><rb>遣</rb><rt>つか</rt></ruby>はすべく候云々

という類の訓令は、各領ともに幾らでも発せられているが、もし租税が重ければ村内に引受手が得にくく、<ruby><rb>新田場</rb><rt>しんでんば</rt></ruby>などのように負担が軽ければ、喜んで預かってくれるかわりに返したがらず、また取戻しにくくなっていたのである。この際にあってその不幸な後家たちを泣かしめざらんとするには、何かまた別様の条件が伴のうていなければならなかったことは、今日からでもおおよそ推測することができるのである。

## 七

近世大小の諸藩においては、<ruby><rb>競</rb><rt>きそ</rt></ruby>うて孝義伝という種類の書物を公刊して、表彰せられたる節婦孝子の<ruby><rb>篤行</rb><rt>とっこう</rt></ruby>を伝えようとしているが、これを読んでみてもただちに感じられるのは、<ruby><rb>後家暮</rb><rt>ごけぐら</rt></ruby>しの立てにくかったこと、殊に水田地方の農業において、それが至難であったということである。いくら<ruby><rb>男勝</rb><rt>おとこまさ</rt></ruby>りの寡婦だと言っても、到底女の手に合わぬ力わざが米作には多かった。その中でも牛馬を<ruby><rb>飼</rb><rt>か</rt></ruby>って<ruby><rb>代起</rb><rt>しろおこ</rt></ruby>しや整地をする<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>では、女性が稲を栽培するということは、ほとんと断念すべき<ruby><rb>荒仕事</rb><rt>あらしごと</rt></ruby>であった。そこで一門に確かな者があり、または村の長老が慈悲深い者ならば、ようやくのことで<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>かの畠などを作らせてもらい、その他は<ruby><rb>日傭</rb><rt>ひやとい</rt></ruby>とか手伝とかの収入をもって生計を補充し、よく貞操を守って子どもの一人役になるまで、持田を失わずに取りつづくことを得たのであるが、それには何よりも村の普通の農場に、こうした女の中途半端な労力を外部に求める必要があるか否かが先決問題であった。田植は御承知の通り今でもほぼ昔のままに、<ruby><rb>早乙女</rb><rt>さおとめ</rt></ruby>を一家の外からも頼んでくる。近世色々の農事改良は行われたが、まだまだ田の植付けの作業に、自家の労力だけで間に合わせ得る方法は発見せられていない。殊に<ruby><rb>桑畠</rb><rt>くわばたけ</rt></ruby>の支度その他、新たなる春夏の交の仕事は増加して、この期は極度に労力の不足する時である。小学校にさえ農繁時休暇というものを認めている。<ruby><rb>苗打小野郎</rb><rt>なえうちこやろう</rt></ruby>などと名づけて十一二歳の少年までが、それぞれの一役を課せられた。苗打ちはカンナイドの役と、<ruby><rb>気仙</rb><rt>けせん</rt></ruby>郡などでは<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>っている。カンナイドは中部以西ではケンナイドと謂って、すなわちかかり人のことであった。<ruby><rb>後家</rb><rt>ごけ</rt></ruby><ruby><rb>孀婦</rb><rt>そうふ</rt></ruby>の淋しき人々にも、<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>この時には仕事があったが、それは一年の永い日数に比べると、幾らでもなかったのである。紀州などの<ruby><rb>俚諺</rb><rt>りげん</rt></ruby>に、「麦は百日の<ruby><rb>播</rb><rt>ま</rt></ruby>きしゅんに三日の<ruby><rb>苅</rb><rt>か</rt></ruby>りしゅん、稲は百日の苅りしゅんに三日の<ruby><rb>植付時</rb><rt>うえつきどき</rt></ruby>」ということがある。殊に品種の地方的統一を実行することになると、一段と忙しいのはこの田植の日ばかりで、そんな仕事はたちまち済んでしまう。お互いにそれのみを<ruby><rb>宛</rb><rt>あ</rt></ruby>てにして村内に住んでいることはできないのであった。他の一方に秋の収穫の際のごとく、農民の心が最も<ruby><rb>鷹揚</rb><rt>おうよう</rt></ruby>になって、<ruby><rb>落穂</rb><rt>おちぼ</rt></ruby>でも何でも拾って行けというような際に、後家が<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>って来てその作業に参与し得なくなったということは、彼らのために非常なる大打撃でなければならぬ。勿論<ruby><rb>養蚕</rb><rt>ようさん</rt></ruby>とか<ruby><rb>地機</rb><rt>じばた</rt></ruby>とか<ruby><rb>糸繰</rb><rt>いとく</rt></ruby>りとか、若干農村に縁のある内職も探し得たであろうが、何にしても労働が土と関係が薄くなるようでは、村に居住しても次第に異分子をもって目せられる結果は<ruby><rb>免</rb><rt>まぬか</rt></ruby>れ得なかったのである。

村の<ruby><rb>店屋</rb><rt>てんや</rt></ruby>・<ruby><rb>駄菓子</rb><rt>だがし</rt></ruby>店、小あきない等は、或いは寡婦等を自立せしめる一便法のごとく、考えられていたかとも思われるが、その影響は存外に大きなものがあった。是が<ruby><rb>博奕</rb><rt>ばくち</rt></ruby>とか売春とかいう目に立つ<ruby><rb>弊風</rb><rt>へいふう</rt></ruby>であるならば、むしろ自他ともに警戒したであろうが、それほど重きを置かれなくて、いつのまにか<ruby><rb>暗々裡</rb><rt>あんあんり</rt></ruby>に入り込んでいた生活変化は、第一段には飲食物の趣味である。栄養の問題などとは<ruby><rb>些</rb><rt>すこ</rt></ruby>しの関係もなしに、<ruby><rb>煮売</rb><rt>にう</rt></ruby>りと称していつでも出来合いの食物が得られることになると、冠婚葬祭の人間の大事を、意義あらしめたところの特殊飲食、殊に毎年の<ruby><rb>節供</rb><rt>せっく</rt></ruby>という<ruby><rb>式日</rb><rt>しきじつ</rt></ruby>の価値が、<ruby><rb>漸次</rb><rt>ぜんじ</rt></ruby>に<ruby><rb>稀薄</rb><rt>きはく</rt></ruby>とならざるを得なかった。節供は<ruby><rb>節日</rb><rt>せちにち</rt></ruby>の供物ということ、すなわち神霊と一家総員とが食物をともにすることであった。九州の各地で古語のままに、ノーレー（ナホラヒ、直会）と謂っているのもそれであった。暦の中の最も大切な日を定めて、神々とともに特定の食物を<ruby><rb>摂取</rb><rt>せっしゅ</rt></ruby>することを意味する語であった。<ruby><rb>餅</rb><rt>もち</rt></ruby>・ダンゴ・<ruby><rb>強飯</rb><rt>こわめし</rt></ruby>・何とか<ruby><rb>汁</rb><rt>じる</rt></ruby>の類に、それぞれの名があり時が定まってその数も決して少なからず、一年を通ずればその種類が四五十もあった。しかるに<ruby><rb>飴</rb><rt>あめ</rt></ruby>・菓子・餅類の店売りなるものは、単なる浪費・<ruby><rb>無駄食</rb><rt>むだぐ</rt></ruby>いという以上に、右の節日の共同飲食の快楽と<ruby><rb>厳粛味</rb><rt>げんしゅくみ</rt></ruby>とを半減し、コキンテ・コバシャゲの<ruby><rb>祝日</rb><rt>いわいび</rt></ruby>が来ても、それを<ruby><rb>只</rb><rt>ただ</rt></ruby>ごろごろと遊んでいるだけにしてしまった土地も多いのである。

是と同じ事情はまた飲酒の上にも現われている。<ruby><rb>居酒</rb><rt>いざけ</rt></ruby>の風習は起原必ずしも新しからず、少なくとも<ruby><rb>稲扱</rb><rt>いねこ</rt></ruby>き発明以前であったとは言える。旅の女が酒を造って、それを見ず知らずの人にも売ってあるいたことが、諸国<ruby><rb>銘酒</rb><rt>めいしゅ</rt></ruby>の根本となった例も多いのである。しかし是はもと神社仏閣などの周囲か、そうでなければ<ruby><rb>街道往還</rb><rt>かいどうおうかん</rt></ruby>の<ruby><rb>傍</rb><rt>はた</rt></ruby>に限られ、村で飲むべき日または<ruby><rb>場処</rb><rt>ばしょ</rt></ruby>以外に、いつでも酒が茶のように飲めることになったのは、村々の<ruby><rb>店屋</rb><rt>てんや</rt></ruby>が元であった。後家の生活方法の一つとして公認せられた職務が、偶然にも飲食法則の解放を促したのである。<ruby><rb>弘</rb><rt>ひろ</rt></ruby>く群書を<ruby><rb>渉猟</rb><rt>しょうりょう</rt></ruby>して見るまでもなく、我々の酒がもと入用に先だって<ruby><rb>醸</rb><rt>かも</rt></ruby>されたこと、全然太平洋島民のクヴァも同じであったことは、今なおこれを記憶する人があるくらいである。その酒は勿論今売る<ruby><rb>下</rb><rt>くだ</rt></ruby>り<ruby><rb>酒</rb><rt>ざけ</rt></ruby>のごとく<ruby><rb>旨</rb><rt>うま</rt></ruby>いものでなかったことは、<ruby><rb>丁度</rb><rt>ちょうど</rt></ruby>家々の餅と砂糖餅との差も同じであった。いわゆる<ruby><rb>一夜酒</rb><rt>ひとよざけ</rt></ruby>を<ruby><rb>酒甕</rb><rt>さかがめ</rt></ruby>に醸して置いて、その熟するを待つ心が、同時にまた祭や節日に対する微妙なる準備心理であった。ところが平常消費が許されまた盛んになって、<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>ついに酒造が地方資本の集積所とさえ進化し、手作りはすなわち軽蔑せられるに至ったのである。地主が多くは酒屋となり、<ruby><rb>御大家</rb><rt>ごたいけ</rt></ruby>が<ruby><rb>居酒</rb><rt>いざけ</rt></ruby>を飲みに来るはした人足を歓迎するなどは、実に珍しい国柄と謂ってもよかった。村に資本の利用法が少なかったのも原因だが、今一つはこういう古い家には、多分眼に見えぬ優良なる酵母があって、比較的うまい酒を造ることができたからであろう。

## 八

酒食の変遷はこのいわゆる「<ruby><rb>後家倒</rb><rt>ごけたお</rt></ruby>し」の影響の、たった一つの例を提示しただけで、まだそれ以外にも色々の史的結果は推測せられるのである。最後にもう一つだけ、特に農業経済と関係の浅からぬものを説いてみるならば、それは<ruby><rb>早乙女出稼</rb><rt>さおとめでかせぎ</rt></ruby>という新現象である。農場が分立して機械をもって外部労働の補給に代えようとすると、一年の内で手の足らぬのは田植の時だけになるから、<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>めてこれを他部落から招こうとするようになるのも自然である。そこで<ruby><rb>早稲</rb><rt>わせ</rt></ruby>どころや田の少ない地方から、群をなして女が雇われに来るのである。伊勢の<ruby><rb>一志</rb><rt>いちし</rt></ruby>郡などでいう島の女、信州川中島附近の<ruby><rb>越後</rb><rt>えちご</rt></ruby>の田植女、秋田県<ruby><rb>由利</rb><rt>ゆり</rt></ruby>郡などの<ruby><rb>荘内</rb><rt>しょうない</rt></ruby>の早乙女などは、今では年々の<ruby><rb>檀家</rb><rt>だんか</rt></ruby>のごときものができて、いつも<ruby><rb>定</rb><rt>き</rt></ruby>まった家の田に来て植えているが、新たにそういう契約を開始した土地も、だんだんに有るようである。従うて賃銀の支払方法も<ruby><rb>今風</rb><rt>いまふう</rt></ruby>で、きっと<ruby><rb>元締</rb><rt>もとじめ</rt></ruby>のような者がもうできていることと思うが、前からある者は田植の投資期にはただ食わせてもらうだけで帰って行き、秋の収穫季に今一度<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>って来て、約束の給米を受けるほかに、また落穂を拾わせてもらったという話である。すなわちおそらくは村内の寡婦が、稲作作業の全体に参加していた頃からの遺風かと思う。漁業の方でも<ruby><rb>地曳網</rb><rt>じびきあみ</rt></ruby>などの獲物に対しては、カンダラと称して至って<ruby><rb>鷹揚</rb><rt>おうよう</rt></ruby>なる分配法が認められている。豊収の際には農民の心持もまた別であった。ミレェの名画を見ると想い起こすごとく、西洋でも落穂拾いは寡婦の<ruby><rb>役徳</rb><rt>やくとく</rt></ruby>と認められていた。是が後家になっても容易には農作と絶縁しなかった古い理由であろうと思う。「俳諧小文庫」に見えている芭蕉翁の<ruby><rb>三吟</rb><rt>さんぎん</rt></ruby>（元禄六年）にも次のような俳諧の連句がある。

<ruby><rb>帷子</rb><rt>かたびら</rt></ruby>は日々にすさまじ<ruby><rb>鵙</rb><rt>もず</rt></ruby>の声　　　　　　<ruby><rb>史邦</rb><rt>ふみくに</rt></ruby>

<ruby><rb>籾</rb><rt>もみ</rt></ruby>一升を稲のこき<ruby><rb>賃</rb><rt>ちん</rt></ruby>　　　　　　　　　はせを

<ruby><rb>蓼</rb><rt>たで</rt></ruby>の穂に<ruby><rb>醤</rb><rt>ひしお</rt></ruby>の<ruby><rb>黴</rb><rt>かび</rt></ruby>をかき分けて　　　　　　<ruby><rb>岱水</rb><rt>たいすい</rt></ruby>

この一<ruby><rb>聯</rb><rt>れん</rt></ruby>のつけあいの意味は、<ruby><rb>百舌</rb><rt>もず</rt></ruby>の<ruby><rb>啼</rb><rt>な</rt></ruby>く頃までまだ帷子を着ているような人が、稲を<ruby><rb>扱</rb><rt>こ</rt></ruby>く仕事の手伝に来て一升の籾に有りつき、おまけに<ruby><rb>鮓</rb><rt>すし</rt></ruby>か何かの御馳走になって行く光景を想像したもので、私は多分第一句の主人公は女性であろうと思っている。俳聖芭蕉の<ruby><rb>行脚</rb><rt>あんぎゃ</rt></ruby>をしていた頃までは、<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>の秋にはまだこういう情趣が普通に見られたのである。

ところがこういう<ruby><rb>煩雑</rb><rt>はんざつ</rt></ruby>なる<ruby><rb>扱</rb><rt>こ</rt></ruby>き料を支給する必要もなく、さっさと家内の者限りで一日の中にも千<ruby><rb>把</rb><rt>ば</rt></ruby>二千把、機械を運転して籾落しが済むようになると、すなわち小農場は小さいながらに、独立の企業主体となることを得るのであるが、そのために他の一面には、改めて非常に<ruby><rb>厄介</rb><rt>やっかい</rt></ruby>なる農業労働供給方法の問題を、引き起こすことになるのである。貸地地主の一番大なる弱味は、将来土地の返還取戻しがあっても、どうしてこれを自営するかの見込が、絶対に立ちにくいことである。それは主としてこの労力の一時性の需要を、完全に補充する<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>が無いからであった。しかもこれを<ruby><rb>免</rb><rt>まぬか</rt></ruby>れるべく、一家内現存の労力のみをもって、田植時の仕事に応じ得るを限度として、各自の農場の大きさをきめるとすれば、小農はおそらく今よりも成長しまた強固となるべき希望は無く、依然として一年の他の半分三分の二は、今のような慢性失業状態の下に<ruby><rb>煩悶</rb><rt>はんもん</rt></ruby>せねばならぬであろう。すなわち日本の農業には、とくにこういう本質上の制限がある故に、小作が仮に好条件をもって自作農となっても、なお繁栄する農場を独立せしめることができぬのである。

自分は将来の学者の研究が、当然に何とかこの難問を解決することを信じている。がとにかくに現在の有様では、人はまだ何故に日本の農業が、こんなに<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>りにくくなって来たかの、原因をすらも知っておらぬ者が多かりそうなのである。それというのが一切の農業経済の知識を、あたかも後家女房の煮売り店の食物のごとく、すでに調理して食べられるばかりになっているもののように、また買いに行けばいつでも買えるように、誤解していた結果である。若い学徒が世の中へ出ての第一次の活躍は、観察でありまた思索でなければならぬ。自分の頭をもって判断を組立てることでなければならぬ。今日の世の中くらい、学問の受売りの困難になっている時代は、古今その例が無いのである。

筆者申す。この一文は数カ月以前、某学校での講演の手控えである故に、説明がだいぶ啓蒙的になっている。是を順序を立てて書き直そうとすると時間が足りない。先輩諸君がかくのごとき知ったかぶりに対して、反感を抱かれざらんことを切望する。

  


## 山伏と島流し

## 一

俳諧の連歌に難解の部分の多い理由は、ちょっと気づいただけでも三つはたしかに有る。その一つは永年許されて来た変則語法と省略とがだんだんとえらくなったこと、次には俳諧が<ruby><rb>突兀</rb><rt>とっこつ</rt></ruby>意外を常法とした結果、あまり附き過ぎるのを軽蔑する気風を生じたこと、<ruby><rb>談林派</rb><rt>だんりんは</rt></ruby>は<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>その功罪の七八割を負わねばならぬが、この趣味の誇張は末永く継承せられ、<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もらしくしてしかも取留めもないニホヒとかヒビキとかいう説法が繁昌するに至った。何も弁明したところで通じなければ結局は仕方があるまいと私たちには思えるのだが、それにはまた第三の理由として、<ruby><rb>連衆</rb><rt>れんじゅ</rt></ruby>の支持というものがあった。歌仙百韻の席に<ruby><rb>列</rb><rt>つら</rt></ruby>なるほどの者は、かねて経歴と心境との互いに<ruby><rb>似通</rb><rt>にかよ</rt></ruby>うたものが有ったうえに、改めて感興の統一によって、鋭敏に仲間の心持を理解し得た。それをまた指導して行こうとする中堅の力もあったのである。事によったら本人自身すらも、年経て回想して奇異の念に打たれたかも知らぬ。ましてや後代の読者のごときは、当時彼らの眼中に無かったことは明らかである。この点は本式の連歌も同じことで、あれほど豊富に精確な記録が保存せられているにもかかわらず、今読んでみただけではそれに<ruby><rb>携</rb><rt>たずさ</rt></ruby>わった人たちの、あの執心と<ruby><rb>耽溺</rb><rt>たんでき</rt></ruby>とは想像し得られない。しかもこの方は辞句に何らの不審も無いのだが、かえって高閣に<ruby><rb>束</rb><rt>つか</rt></ruby>ねられて省みる者も無く、一方俳諧の<ruby><rb>附合</rb><rt>つけあい</rt></ruby>のこんなにまで<ruby><rb>解</rb><rt>わか</rt></ruby>りにくいものを、なお我々が<ruby><rb>追縋</rb><rt>おいすが</rt></ruby>っても<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>こうとするのは、決してただ時代が近いからという親しみだけではなかった。今の時世の研究や<ruby><rb>穿鑿</rb><rt>せんさく</rt></ruby>は、むしろ<ruby><rb>遼遠</rb><rt>りょうえん</rt></ruby>の昔へこそ傾いて行こうとしているのである。

至って<ruby><rb>月並</rb><rt>つきなみ</rt></ruby>な言葉使いではあるが、俳諧には時代の生活が現われている。<ruby><rb>翰林詞苑</rb><rt>かんりんしえん</rt></ruby>の文章は言うに及ばず、軍書から人情本までの何万種という小説は有っても、なおその中には書き伝えておかなかった平凡人の心の<ruby><rb>隈々</rb><rt>くまぐま</rt></ruby>が、<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>かにこの偶然の記録にばかり、保存せられていて我々をゆかしがらせるのである。<ruby><rb>俚俗</rb><rt>りぞく</rt></ruby>と文芸とを<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>ぎ合わせようとする試みは、なるほど最初からの俳道の本志であったには相違ない。しかしその人を動かそうとした力の入れ<ruby><rb>処</rb><rt>どころ</rt></ruby>が、いつのまにか裏表にかわっていたのである。<ruby><rb>蕉翁</rb><rt>しょうおう</rt></ruby>の心構えは奇警にも<ruby><rb>奔</rb><rt>はし</rt></ruby>らず、さりとてまた<ruby><rb>常套</rb><rt>じょうとう</rt></ruby>にも堕せずして、必ず各自の実験の間から、直接に詩境を求めさせていたところに新鮮味があった。<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>が世の中の変り目の強い<ruby><rb>刺戟</rb><rt>しげき</rt></ruby>であったのやら、はたまた観察者の一般的の余裕であったのやら、これを<ruby><rb>究</rb><rt>きわ</rt></ruby>めんとしても私にはまだその能が無いが、とにかくに或る一人の優れたる師家が指導すれば、たちまち<ruby><rb>翕然</rb><rt>きゅうぜん</rt></ruby>として時代の<ruby><rb>風</rb><rt>ふう</rt></ruby>をなすまでに、<ruby><rb>貞享</rb><rt>じょうきょう</rt></ruby>・<ruby><rb>元禄</rb><rt>げんろく</rt></ruby>の俳感覚は<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>き活きとしていた。それが後衰えて、中興を説き、復活を<ruby><rb>唱</rb><rt>とな</rt></ruby>うる声が高く挙がるとともに、かえって擬古を助長して脚下の社会との縁を薄くしたことは、古来何度となく繰り返された国々の文学史であった。

我々がとくに蕉門の俳諧に対して抱いている愛着は、<ruby><rb>畢竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>はこの新興の意気または自由の魅力であった。<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>前にも<ruby><rb>萌芽</rb><rt>ほうが</rt></ruby>はあり、後にも遺風は伝わっておろうが、俳諧が芭蕉の世の東国を語るごとく、精彩を帯びたる生活描写はかつて無かったのである。江戸でも近代の<ruby><rb>市井</rb><rt>しせい</rt></ruby>学者の中には、俳諧を無意識の世相史料として、利用した人が幾人もあったが、どういうわけでかこの俳風の変化ということに、注意を払うことが<ruby><rb>疎</rb><rt>おろそ</rt></ruby>かであったように思われる。私などの見たところでは、<ruby><rb>貞徳</rb><rt>ていとく</rt></ruby>の門流は京都を本山とし、古式の風雅を尊重して止まなかった故に、いわゆる<ruby><rb>賤山</rb><rt>しずやま</rt></ruby>がつの生活の風景までは映写していないが、それでもまだ事物の名目形態、少なくともその古い存在だけは立証せしめる。ところが<ruby><rb>嗣</rb><rt>つ</rt></ruby>いで起こった<ruby><rb>宗因</rb><rt>そういん</rt></ruby>の一派に至っては、あまりにも空想が<ruby><rb>奔放</rb><rt>ほんぽう</rt></ruby>であった。故事と世事とを最も豊富に採用しつつも、自分たちは是によって抑留せられようとせずに、<ruby><rb>専</rb><rt>もっぱ</rt></ruby>らその学問見聞の向こう側に突進して、勝手な夢の世界を描き出していたのである。芭蕉の弟子の中でも、才子<ruby><rb>其角</rb><rt>きかく</rt></ruby>はほとんとその一生の間、他の人々も初期にはみなこの句風にかぶれている。うっかりと是をもあの時代の世相史料に取入れたならば、どんな間違った史観に<ruby><rb>陥</rb><rt>おちい</rt></ruby>るやら知れなかったのである。

だからこの<ruby><rb>正風</rb><rt>しょうふう</rt></ruby>の<ruby><rb>境目</rb><rt>さかいめ</rt></ruby>のはっきりと区切られるまでの間、あまり深々と立入って見ようとする人の無かったことは幸いでもあった。たとえば『冬の日』の中で人のよく知っているいわゆる<ruby><rb>神釈</rb><rt>じんしゃく</rt></ruby>の<ruby><rb>附句</rb><rt>つけく</rt></ruby>、

<ruby><rb>三日</rb><rt>みか</rt></ruby>の花<ruby><rb>鸚鵡</rb><rt>おうむ</rt></ruby><ruby><rb>尾長</rb><rt>おなが</rt></ruby>の<ruby><rb>鳥軍</rb><rt>とりいくさ</rt></ruby>　　　　　　　　<ruby><rb>重五</rb><rt>じゅうご</rt></ruby>

しら<ruby><rb>髪</rb><rt>かみ</rt></ruby>いさむ<ruby><rb>越</rb><rt>こし</rt></ruby>の<ruby><rb>独活苅</rb><rt>うどがり</rt></ruby>　　　　　　　<ruby><rb>荷兮</rb><rt>かけい</rt></ruby>

もしくはその第四の巻の、

<ruby><rb>流行</rb><rt>はやり</rt></ruby>来て<ruby><rb>撫子</rb><rt>なでしこ</rt></ruby>かざる正月に　　　　　　　<ruby><rb>杜国</rb><rt>とくに</rt></ruby>

つづみ<ruby><rb>手向</rb><rt>たむ</rt></ruby>くる弁慶の宮　　　　　　　<ruby><rb>野水</rb><rt>やすい</rt></ruby>

<ruby><rb>寅</rb><rt>とら</rt></ruby>の日の<ruby><rb>旦</rb><rt>あした</rt></ruby>を<ruby><rb>鍛冶</rb><rt>かじ</rt></ruby>の<ruby><rb>急</rb><rt>とく</rt></ruby>起きて　　　　　　翁

などは、今でも<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>かにそういう事実があるのだなどいう者があるが、私にはまったくの作り事としか思われない。春から夏の初へかけて<ruby><rb>忌</rb><rt>いま</rt></ruby>わしい凶事が続くと、早々その年をおしまいにするために、<ruby><rb>流行正月</rb><rt>はやりしょうがつ</rt></ruby>と名づけて六月の<ruby><rb>朔日</rb><rt>ついたち</rt></ruby>に、もう一度餅を<ruby><rb>搗</rb><rt>つ</rt></ruby>き正月の形をする風習は、いかにも江戸の初期には方々の<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>にあって、それを制止した法令なども残っている。しかしそういう日に<ruby><rb>撫子</rb><rt>なでしこ</rt></ruby>を飾りにすることも空想なれば、次の句の弁慶の宮とても実在ではない。もしもそんな宮があったら<ruby><rb>鼓</rb><rt>つづみ</rt></ruby>を打って<ruby><rb>手向</rb><rt>たむ</rt></ruby>けるだろうくらいなところで、この<ruby><rb>一聯</rb><rt>いちれん</rt></ruby>の句はできたのであった。それを<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じみち</span>の方へ引戻そうとして、<ruby><rb>寅</rb><rt>とら</rt></ruby>の日の一句は附けられたものと思うが、なお興味はそぞろいて次の「<ruby><rb>南京</rb><rt>ナンキン</rt></ruby>の<ruby><rb>地</rb><rt>つち</rt></ruby>」という句になったのである。<ruby><rb>爺</rb><rt>じい</rt></ruby>の<ruby><rb>独活苅</rb><rt>うどかり</rt></ruby>なども原因は是とよく似ている。一方に<ruby><rb>弥生</rb><rt>やよい</rt></ruby>の<ruby><rb>節供</rb><rt>せっく</rt></ruby>の<ruby><rb>鶏合</rb><rt>とりあわ</rt></ruby>せのかわりに、<ruby><rb>鸚鵡</rb><rt>おうむ</rt></ruby>を出されたというような思い切った趣向ができると、是に立向うためにはどうしてもまた一段と<ruby><rb>頓狂</rb><rt>とんきょう</rt></ruby>な空想が、浮んで来ずにはおられなかったので、それを静かに<ruby><rb>観</rb><rt>み</rt></ruby>て引締める者がなかったのが、すなわち<ruby><rb>談林</rb><rt>だんりん</rt></ruby>一流の花火のような結末であったろうと私は思う。

## 二

絵などの発達の経路も或る点までは是とほぼ併行している。当初<ruby><rb>稚</rb><rt>おさ</rt></ruby>なくしてまた上品な<ruby><rb>貞門</rb><rt>ていもん</rt></ruby>の俳諧を突破して、<ruby><rb>梅翁</rb><rt>ばいおう</rt></ruby>一派の豪胆なる<ruby><rb>悪謔</rb><rt>あくぎゃく</rt></ruby>が進出した際には、誰しも<ruby><rb>鳥羽僧正</rb><rt>とばそうじょう</rt></ruby>の画巻をくりひろげるような痛快さをもって、<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>び迎えざる者は無かったのであろうが、しかも百鬼夜行の<ruby><rb>路</rb><rt>みち</rt></ruby>は行き<ruby><rb>究</rb><rt>きわ</rt></ruby>まる<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>があった。そうそう際限も無く空想は展開するはずがない。やがては<ruby><rb>大津絵</rb><rt>おおつえ</rt></ruby>のごとく人間の姿態を写し出そうとする者に、その練熟した自在の手法を譲って、消えてしまったのもまた自然である。ただし俳諧の方には北斎・<ruby><rb>崋山</rb><rt>かざん</rt></ruby>・<ruby><rb>暁斎</rb><rt>ぎょうさい</rt></ruby>・<ruby><rb>清親</rb><rt>きよちか</rt></ruby>を経て、現在の漫画隆盛に到達したような閲歴は無く、人はただ<ruby><rb>発句</rb><rt>ほっく</rt></ruby>の<ruby><rb>出丸</rb><rt>でまる</rt></ruby>に<ruby><rb>籠城</rb><rt>ろうじょう</rt></ruby>して、みずから変化の豊かなる世相描写を制限することになったが、そのかわりには事業は最初から、大津の町に売っていたようなちっぽけなもので無かった。僅かな線と彩色とで代表し得るがごとき、手軽な人生のみを目標とはしていなかったのである。

<ruby><rb>附句</rb><rt>つけく</rt></ruby>を案ずる人たちは、通例はまず<ruby><rb>絵様</rb><rt>えよう</rt></ruby>を胸に画くべしと教えられていた。歌仙は三十五通りの<ruby><rb>男女</rb><rt>なんにょ</rt></ruby>僧俗の、絵額の排列を<ruby><rb>聯想</rb><rt>れんそう</rt></ruby>せしめ、今でも我々は便宜上、この毎二句の続けがらを絵様（タブロオ）と呼ぶことにしている。しかし俳諧のタブロオは固定した平らな画板ではなかった。第一に時の或る長さがあり、起伏動揺があり、きらめきがあり、また物を待つ<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>の沈黙とも名づくべきものがあった。こういう複雑をきわめた幻の組み合わせを、たとえ前の句の余韻を借りながらでも、たった十四文字か十七文字の日本語の力によって、鮮やかに一座の人々の胸に印象し得たとすれば、その範囲は狭くともすでに大きな事業であった。古風な田舎の<ruby><rb>仕事唄</rb><rt>しごとうた</rt></ruby>などの中には、<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>にはそれと同様な情景創造もあったか知らぬが、少なくとも世の文学と称するものの間には、是ほど手際よくまた物静かに、効果を挙げていたものは絶無である。他国に<ruby><rb>比儔</rb><rt>ひちゅう</rt></ruby>がない故に文学の定義に合わぬなどと言ってはいけない。むしろ文学の考え方をこそこれに準じて改造すべきであったのだ。

それも談林の大言壮語時代ならば、まだ是を一種の遊戯、いわゆる火まわし尻取文句の改良したものとも評し得るか知らぬが、<ruby><rb>正風</rb><rt>しょうふう</rt></ruby>初期の俳人たちのごときは、各自の生活経験の最も大切なものを是に持ち寄って、それを彼らの愛するメロディに順序立てて、心から悲喜し<ruby><rb>哄笑</rb><rt>こうしょう</rt></ruby>しようとしていたのである。純一なる彼らのエクスタアズは、二百余年の雲霧を隔ててもなおこれを<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>い知ることができる。こういう<ruby><rb>謎</rb><rt>なぞ</rt></ruby>のごとくまた<ruby><rb>楽屋落</rb><rt>がくやお</rt></ruby>ちに近い表現法の中から、辛苦して私たちがその本主の心持を<ruby><rb>把</rb><rt>とら</rt></ruby>えようと努めるのも、要するにただこの人たちだけの、語ろうとしていた真実があり、これを通じてでなければ消え去った或る昔を、復活させて見る<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>が無いからであった。何よりも有難いと思うことは、多くの古い知識は<ruby><rb>只</rb><rt>ただ</rt></ruby>からびた<ruby><rb>腊葉</rb><rt>おしば</rt></ruby>のような形で保存せられているに反して、俳諧の事物は各〻その当時の<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>きた姿のままで伝わっていることである。一旦声息の相通ずるに至れば、同じ国土に生まれてまだ幾代とも隔てない我々に、理解と感動との得られないはずは無かったのである。それが風俗慣習の僅か片つらの変化の故に、かくまで物遠く眺められていたのは不自然であった。歴史を一つの温か味のある学問とするためにも、我々はもう一度、古今の俳諧を見直さなければならなかったのである。

## 三

連句の不可解になって来た今一つの理由には、時代が改まって人の注意が脇にそれたということもあった。それを裏から言うと、この<ruby><rb>今人</rb><rt>こんじん</rt></ruby>から敬して遠ざけられているものの中に、かつてはさしも痛切であった人生の断片が、もう忘却せられて封じ籠められているのであった。それがいかなる種類の経験であったろうかを、知るだけならばそう<ruby><rb>難</rb><rt>かた</rt></ruby>いことでもない。数多い俳諧の巻々を見渡して、終始<ruby><rb>咏歎</rb><rt>えいたん</rt></ruby>の目的となっていた問題は限られている。それが我々の陰に陽に、今なお思い悩んでいる社交感覚、殊に血縁の恩愛義理、または男女の仲らいというがごとき、古今を一貫した不変の法則でも有るように考えられているものであって、しかも<ruby><rb>瞬</rb><rt>またた</rt></ruby>く間ばかりの時の経過によって、早くもこうした暗中摸索を事としなければならぬに至ったということは、それ自身がまず興味多き一つの発見であった。

家の生滅異動と婚姻制との交渉などは、俳諧を主要の史料として利用せぬかぎり、ほとんとその近世の変化を明らかにし得ないとまで私らは考えている。古来幾多の物語はただ<ruby><rb>定</rb><rt>き</rt></ruby>まった型を追い、もしくは優秀特異の事例のみを記述して、平凡日常の恋愛を無視していた。遊女の記録のごときも、この何物よりも重要なる社会事実の推移を、一つの側面から反映する点において意義はあったのだが、それも多くはまた都府の一角の、最も機械的なる生活をしか取扱わなくなって、末は完全に無用の文学となってしまった。ところが俳諧の恋の座の上には、ちょうどこの種の文学で馬鹿にされていた最も有りふれたる民間の小さな<ruby><rb>情痴</rb><rt>じょうち</rt></ruby>が、しばしば聯想によって引き出されて<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>っており、それがまた絵巻物にでも見るような<ruby><rb>上﨟</rb><rt>じょうろう</rt></ruby>のローマンスと交錯して、特に一巻の色彩を変化あらしめていたのである。その作者の多数が、もうこんな問題を行き抜けた<ruby><rb>法体</rb><rt>ほったい</rt></ruby>や隠居であるがために、<ruby><rb>囚</rb><rt>とら</rt></ruby>われない静かな洞察をしているということも我々には興味がある。<ruby><rb>滅多</rb><rt>めった</rt></ruby>に客観の冷やかな記述が得られない恋愛の歴史であるだけに、私は後代の社会学徒によって、この方面の資料のことごとく珍重せられる日の来べきことを予言し得る。

次に俳諧の連歌において、<ruby><rb>頻</rb><rt>しき</rt></ruby>りに用いられていたのが軍陣殺伐の生活、これに伴なう勇猛と<ruby><rb>武家気質</rb><rt>ぶけかたぎ</rt></ruby>などであって、是は感動の波瀾を高めるために、恋と表裏をなすべき大きな要素と認められていたようであるが、どういうものか<ruby><rb>此方</rb><rt>こちら</rt></ruby>には読書からの知識が多く、実験に基づかない概念ばかりが、<ruby><rb>玩</rb><rt>もてあそ</rt></ruby>ばれているような傾向が著しかった。それに沢山の<ruby><rb>武辺話</rb><rt>ぶへんばなし</rt></ruby>も世には伝わっていて、もう俳諧の集などから学ぶべきものはいくらも無い。これに反して第三のいわゆる<ruby><rb>神釈</rb><rt>じんしゃく</rt></ruby>の方面においては、かたのごとき達筆雄弁の人たちが、さしも数多く輩出しているにかかわらず、なお彼らの書き<ruby><rb>洩</rb><rt>もら</rt></ruby>し言い残した小さな光景が、幾らともなく俳人によって観察せられている。十何世紀を積み重ねた我々の信仰生活は、明治の代に移って<ruby><rb>俄然</rb><rt>がぜん</rt></ruby>として一変してしまった。神社仏閣の名と形は保存せられても、これを<ruby><rb>囲繞</rb><rt>いにょう</rt></ruby>する人の境涯は昔でない。以前盛んに世間から取持たれて、今は存在さえ認められぬ職業も色々あり、それを忘れてしまってなお古風の持続を説こうとする学者さえすでに現われた。図書文籍のその誤りを<ruby><rb>覚</rb><rt>さと</rt></ruby>らしめるものは、事があまりに平凡であっただけに、あらかじめ今日のために用意しておかれなかった。独り<ruby><rb>俚俗</rb><rt>りぞく</rt></ruby>の友であった俳諧の記録だけが、偶然にこれを我々には語っているのであった。

## 四

例は幾らもあろうが私はここに<ruby><rb>山伏</rb><rt>やまぶし</rt></ruby>のことを考えてみる。明治の新たなる政策で<ruby><rb>修験</rb><rt>しゅげん</rt></ruby>の立派は否認せられ、彼らの一半は法を慕うて忍耐して僧となり、他の一部分は<ruby><rb>御社</rb><rt>みやしろ</rt></ruby>の威徳を忘れかね、<ruby><rb>還俗</rb><rt>げんぞく</rt></ruby>して<ruby><rb>平</rb><rt>ひら</rt></ruby>の神職に編入せられた。関東・奥羽の田舎には、堂を抱えたままで農民になり切った者も少なくはなかったのである。是がただ職業の消滅によって、事もなく社会の他の組織に、融合しまた同化してしまうには<ruby><rb>年処</rb><rt>ねんしょ</rt></ruby>を要したはずである。山伏は血縁をもって相続した故に、彼らの伝統の記憶は濃厚であり、その数もまたなかなか多かった。現にその気風はよきにつけ<ruby><rb>悪</rb><rt>あし</rt></ruby>きにつけ、今も片隅には<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>っている。過去を<ruby><rb>顧</rb><rt>かえり</rt></ruby>みて現在を解説しようとする者が、この失われたる事実を<ruby><rb>詳</rb><rt>つまびら</rt></ruby>かにすべきは当然である。しかも私などは僅かにケムペルの『江戸参府紀行』によって、東国の下級修験等の常の日の生活を知り、さらに<ruby><rb>溯</rb><rt>さかのぼ</rt></ruby>っては能の狂言の何山伏の数篇を見て、<ruby><rb>辛</rb><rt>かろ</rt></ruby>うじてこの<ruby><rb>徒</rb><rt>と</rt></ruby>の社会上の地位を察するのみである。ところがこの俳諧の連句においては、<ruby><rb>表</rb><rt>おもて</rt></ruby>六句を除いては何度でも彼らの生活に触れてみようとしている。そうして是がまた常の浮世の、面白い一つのあや模様でもあったのである。

一二の句がらによって臆断を下すことはできぬが、比較を重ねて行こうと思えば、幸いにして豊富な資料はある。<ruby><rb>只</rb><rt>ただ</rt></ruby>今私の心づいた僅かな<ruby><rb>附句</rb><rt>つけく</rt></ruby>の中からでも、なお江戸中期の山伏の境涯、少なくとも世の俗人たちがそれをどう見ていたかだけは、おおよそは<ruby><rb>判</rb><rt>わか</rt></ruby>るように思われる。

<ruby><rb>鼠</rb><rt>ねずみ</rt></ruby>に月を<ruby><rb>吐</rb><rt>は</rt></ruby>き<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>だす雲　　　　　　　　<ruby><rb>夕菊</rb><rt>せきぎく</rt></ruby>

<ruby><rb>秋山</rb><rt>あきやま</rt></ruby>に<ruby><rb>荒山伏</rb><rt>あらやまぶし</rt></ruby>のいのる声　　　　　　　　翁

<ruby><rb>樵</rb><rt>こ</rt></ruby>る人も無くこけし神の木　　　　　　<ruby><rb>友五</rb><rt>ゆうご</rt></ruby>

<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>などは鼠は<ruby><rb>頼豪阿闍梨</rb><rt>らいごうあじゃり</rt></ruby>などの<ruby><rb>聯想</rb><rt>れんそう</rt></ruby>もあって、一つの物語風の作意であったかと思われるが、神木が自然に倒れたという風に、思い及んだのはこのころの常識であったろう。それから『深川集』の有名な一つづき、

<ruby><rb>我跡</rb><rt>わがあと</rt></ruby>からも<ruby><rb>鉦鼓</rb><rt>しょうこ</rt></ruby>打ち来る　　　　　　　<ruby><rb>嵐蘭</rb><rt>らんらん</rt></ruby>

山伏を切つて掛けたる関の前　　　　　　翁

<ruby><rb>鎧</rb><rt>よろい</rt></ruby>もたねば成らぬ世の中　　　　　　　<ruby><rb>洒堂</rb><rt>しゃどう</rt></ruby>

なども、明らかに一幅の歴史画ではあったが、当時この類の言い伝えはなお鮮かに印象せられていて、殊に念仏修行の光景を<ruby><rb>凄愴</rb><rt>せいそう</rt></ruby>ならしめたのである。戦国の頃には山伏はよく密偵に利用せられ、またしばしば武士に反抗して生命を奪われることを意としなかった。それをまた仲間のうちに語り伝えて、彼らの執念の深さを人に感ぜしめ、<ruby><rb>暗々裡</rb><rt>あんあんり</rt></ruby>に<ruby><rb>渡世</rb><rt>とせい</rt></ruby>の地を<ruby><rb>為</rb><rt>な</rt></ruby>したらしい形跡もあるのである。

<ruby><rb>飽</rb><rt>あ</rt></ruby>きはてし旅もこの頃恋しくて　　　　　<ruby><rb>左柳</rb><rt>さりゅう</rt></ruby>

歯ぬけとなれば貝も吹かれず　　　　　翁

月寒く<ruby><rb>頭巾</rb><rt>ずきん</rt></ruby>あぶりてかぶるなり　　　　　<ruby><rb>文鳥</rb><rt>ぶんちょう</rt></ruby>

この中の句なども老いたる山伏の境涯であった。旅が本業といってもよいくらい、いつも出あるいている修験者は多かったのである。

<ruby><rb>角力</rb><rt>すもう</rt></ruby>に負けていふことも無し　　　　　<ruby><rb>猿雖</rb><rt>えんすい</rt></ruby>

山かげは山伏村の<ruby><rb>一</rb><rt>ひと</rt></ruby>かまへ　　　　　　　翁

<ruby><rb>崩</rb><rt>くず</rt></ruby>れかゝりし<ruby><rb>軒</rb><rt>のき</rt></ruby>の<ruby><rb>蜂</rb><rt>はち</rt></ruby>の巣　　　　　　　<ruby><rb>卓袋</rb><rt>たくたい</rt></ruby>

他の地方にも有ったか知らぬが、<ruby><rb>近江</rb><rt>おうみ</rt></ruby>の地誌には山伏ばかりの部落の、幾つかあったことを記している。こんなのは旅行によって生活を営んでいたのだが、一部は街道に出て寄進を<ruby><rb>勧</rb><rt>すす</rt></ruby>めていた。そういう村の<ruby><rb>角力</rb><rt>すもう</rt></ruby>に飛入りしては、負けてもうっかり文句などは付けられない。それほど彼らはまた気の強い人たちであった。

いつやらも<ruby><rb>鶯</rb><rt>うぐいす</rt></ruby><ruby><rb>聞</rb><rt>きき</rt></ruby>ぬ<ruby><rb>此</rb><rt>この</rt></ruby>おくに　　　　　　<ruby><rb>落梧</rb><rt>らくご</rt></ruby>

山伏<ruby><rb>住</rb><rt>すみ</rt></ruby>て人しかるなり　　　　　　　　<ruby><rb>野水</rb><rt>やすい</rt></ruby>

くわら〱とくさび抜けたる<ruby><rb>米車</rb><rt>こめぐるま</rt></ruby>　　　　梧

是なども<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>の句は<ruby><rb>越</rb><rt>こし</rt></ruby>の<ruby><rb>大徳</rb><rt>だいとく</rt></ruby>の故事を<ruby><rb>踏</rb><rt>ふ</rt></ruby>んだものらしいが、まん中はやはり荒々しい山伏村の写実であった。そうかと思うと『<ruby><rb>続猿蓑</rb><rt>ぞくさるみの</rt></ruby>』の夏の夜の章には、

<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>から村へぬけるうら道　　　　　　　<ruby><rb>支考</rb><rt>しこう</rt></ruby>

<ruby><rb>喰</rb><rt>くい</rt></ruby>かねぬ<ruby><rb>聟</rb><rt>むこ</rt></ruby>も<ruby><rb>舅</rb><rt>しゅうと</rt></ruby>も口きいて　　　　　　　翁

何ぞの時は山伏になる　　　　　　　　<ruby><rb>曲翠</rb><rt>きょくすい</rt></ruby>

と言ったような例もあった。是は旅に出て活計を立てるかわりに、農の片手間に衆僧となって出るのであったが、それでも親子ともに口やかましくて、ただの百姓には<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>られていた様子が見える。それの今少しはっきりとしているのは『ひさご』の初の一巻に、

<ruby><rb>入込</rb><rt>いりごみ</rt></ruby>に<ruby><rb>諏訪</rb><rt>すわ</rt></ruby>の<ruby><rb>涌湯</rb><rt>いでゆ</rt></ruby>の夕ま暮　　　　　　　<ruby><rb>曲水</rb><rt>きょくすい</rt></ruby>

中にもせいの高き山伏　　　　　　　　翁

いふ事をたゞ一方へ落しけり　　　　　　<ruby><rb>珍碩</rb><rt>ちんせき</rt></ruby>

是などは次が至って花やかな恋の句に続くために、その方に気をとられて人は注意しなかったが、旅の山伏の気味の悪い言いがかりの<ruby><rb>癖</rb><rt>くせ</rt></ruby>を、かなり<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>き活きと写し出している。

<ruby><rb>夕雨</rb><rt>ゆうだち</rt></ruby>の<ruby><rb>篠懸乾</rb><rt>すずかけほ</rt></ruby>しに<ruby><rb>舎</rb><rt>やど</rt></ruby>りけり　　　　　　　<ruby><rb>斧卜</rb><rt>ふぼく</rt></ruby>

子を<ruby><rb>褒</rb><rt>ほ</rt></ruby>めつゝも<ruby><rb>難</rb><rt>なん</rt></ruby>少しいふ　　　　　　<ruby><rb>北枝</rb><rt>ほくし</rt></ruby>

に至っては、<ruby><rb>穿</rb><rt>うが</rt></ruby>ちに近いまでに山伏の山伏らしさを描いてある。禅僧も知らぬような鋭い<ruby><rb>機鉾</rb><rt>きぼう</rt></ruby>を蔵し、それをやたらに常人の上に濫用して、威圧をもって世を渡ろうとしたのが後世の旅山伏であったらしい。そうして職業は政治家・弁護士などと変っても、まだ同じ方法を用いて生きようとする者が、今の日本にも若干は出くわされる。是を苦々しいことだと思う人ならば、<ruby><rb>溯</rb><rt>さかのぼ</rt></ruby>ってこの山伏の歴史をもう少し細かに考える必要があったのである。

## 五

俳諧は日本にたった一つ、今も我々の保養のために残っている有閑文学である。それをそのような俗な研究に利用するのはけしからぬという人があるか知らぬが、私においてはそれがほとんとただ一つの未来に続くべき俳諧の功業のように思える。独り山伏の問題のみと言わず、他にもまだ幾つかの前代社会の特質が、今はこの感銘に<ruby><rb>充</rb><rt>み</rt></ruby>ちたる記録に<ruby><rb>由</rb><rt>よ</rt></ruby>ってのみ、<ruby><rb>辛</rb><rt>かろ</rt></ruby>うじて尋ねて行かれるという世の中になっているのである。たとえば常人が<ruby><rb>往々</rb><rt>おうおう</rt></ruby>口にしていた風流と野暮との差別なども、是が無かったらもう知りようが無いのであるが、それはあまりに皮肉だから<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いて<ruby><rb>説</rb><rt>と</rt></ruby>かない。いわゆる<ruby><rb>神釈</rb><rt>じんしゃく</rt></ruby>の句の中でも、人が尊重していた<ruby><rb>遁世</rb><rt>とんせい</rt></ruby>の味、たとえば「<ruby><rb>道心</rb><rt>どうしん</rt></ruby>の起りは花の<ruby><rb>蕾</rb><rt>つぼ</rt></ruby>む時」といったような、髪を<ruby><rb>剃</rb><rt>そ</rt></ruby>る前後の複雑した感覚、或いは「<ruby><rb>露霜</rb><rt>つゆじも</rt></ruby>の小村に<ruby><rb>鉦</rb><rt>かね</rt></ruby>を<ruby><rb>叩</rb><rt>たた</rt></ruby>き入る」という念仏旅行者の物悲しさ、さては万日千日の群衆心理、里の祭の日にばかり<ruby><rb>蘇</rb><rt>よみがえ</rt></ruby>った童心など、説いてみ考えてみたいことは色々ある。しかしそれは<ruby><rb>何</rb><rt>いず</rt></ruby>れも皆似たり寄ったりの方法で、つまりはこの節の川柳研究家の程度にまで、せめて我々が連句を鑑賞するならば<ruby><rb>判</rb><rt>わか</rt></ruby>ってくることである。

ただ最後に一つだけ、<ruby><rb>断</rb><rt>ことわ</rt></ruby>っておかずにいられぬことは、この同時代の同情豊かなる生活描写が、すべて各俳人の個々の実験に<ruby><rb>拠</rb><rt>よ</rt></ruby>って立つこと、たとえば現代の文学者の私有制のごときものでなかったことである。或る一人が物を知り世を観じて得たものを、常に自分ばかりの功名にしか利用しなかったなら、たとえ短い一期間にもせよ、<ruby><rb>正風</rb><rt>しょうふう</rt></ruby>の俳諧は是までは栄えなかったろう。地方に<ruby><rb>割拠</rb><rt>かっきょ</rt></ruby>した<ruby><rb>連衆</rb><rt>れんじゅ</rt></ruby>の群は小さかったけれども、彼らの間だけではその一人の感じたことが、いつのまにか他の朋輩の修養にもなっていた。是が俳諧の驚くべき感化であり、同時にまた模倣の根絶し難かった微妙なる理法でもあったと思う。芭蕉は優れたる指導者であると同時に、明敏無比なる世相の観察家でもあったが、なお自分でない者の経験の中から、間接にあの時代の人生を多く学んでいる。それが今日はもう衰えた夜話しというものの力か、またはしんみりとした旅人の聴き上手によるかは知らず、恋でも信仰でも明らかによその身の上であったものを、<ruby><rb>当</rb><rt>とう</rt></ruby>の自身の経歴であったと同様に体験している。是が後年の連句の書臭を帯び、または概念を追いまわすか、そうでなければ我から小さな見聞に<ruby><rb>跼蹐</rb><rt>きょくせき</rt></ruby>するものとの、争うべからざる一つの相違であった。私は近年島の<ruby><rb>流人</rb><rt>るにん</rt></ruby>の生活というものを考えてみているが、俳諧の方ではただ芭蕉翁のみが、二百何十年も以前に早くもこの問題の隠れたる<ruby><rb>隅々</rb><rt>すみずみ</rt></ruby>を知っていた。<ruby><rb>我翁</rb><rt>わがおう</rt></ruby>が島に渡り、または<ruby><rb>赦免</rb><rt>しゃめん</rt></ruby>に逢うて戻って来た人と、親しい交遊をしていたことはまだ聞かぬが、すくなくとも連句にしばしば<ruby><rb>咏歎</rb><rt>えいたん</rt></ruby>せられている島の生活だけは写生であり、しかも私の見たところでは、<ruby><rb>三宅</rb><rt>みやけ</rt></ruby>か<ruby><rb>八丈</rb><rt>はちじょう</rt></ruby>かとにかくに<ruby><rb>伊豆</rb><rt>いず</rt></ruby>の島々のうちであった。<ruby><rb>空</rb><rt>くう</rt></ruby>で想像したものとは思われぬのである。島流しの境遇は今でいうエキゾチックであり、且つその多くは江戸人のなれの<ruby><rb>果</rb><rt>はて</rt></ruby>で、下に人情の<ruby><rb>通</rb><rt>かよ</rt></ruby>いがあった。俳諧の題材として有用であったことは、旅や隠者や遊里の生活にも<ruby><rb>勝</rb><rt>まさ</rt></ruby>るものがあったろうと思うが、それにしたところでその情景を<ruby><rb>予</rb><rt>かね</rt></ruby>て心に貯えて、毎度程よき場合にこれを出して使ったということは、たとえようもなく床しい修養であった。元禄の俳諧に含まれている民俗史料の価値は、こうした点からでもこれを高く評価してよいと思う。それで沢山の例句は引くこともできぬが、<ruby><rb>爰</rb><rt>ここ</rt></ruby>には私たちの一読して、どうしていつのまにこんな事を知っておられたかと、びっくりした二つ三つを載せてこの篇を終ることにする。

<ruby><rb>魚</rb><rt>うお</rt></ruby>積む舟の岸に寄る月　　　　　　　　<ruby><rb>重辰</rb><rt>じゅうしん</rt></ruby>

露の身の島の<ruby><rb>乞食</rb><rt>こじき</rt></ruby>と黒みはて　　　　　　翁

次第にさぶき<ruby><rb>明暮</rb><rt>あけくれ</rt></ruby>の風　　　　　　　　<ruby><rb>知足</rb><rt>ちそく</rt></ruby>

<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>は『<ruby><rb>千鳥掛集</rb><rt>ちどりがけしゅう</rt></ruby>』の<ruby><rb>一聯</rb><rt>いちれん</rt></ruby>であった。流人は伊豆の島では自活が本則であった故に、いつも浜ばかりあるいてひどいものを拾って食っていた。入舟などのあるたびに、恥も忘れて近よってくるのが常の習いであったらしい。この句はその<ruby><rb>俊寛</rb><rt>しゅんかん</rt></ruby>のようなあわれな姿が目に浮かぶのである。次には『<ruby><rb>初茄子</rb><rt>はつなすび</rt></ruby>』の最初の一巻に、

朝づとめ<ruby><rb>妻帯寺</rb><rt>さいたいでら</rt></ruby>の<ruby><rb>鐘</rb><rt>かね</rt></ruby>の声　　　　　　　　<ruby><rb>曾良</rb><rt>そら</rt></ruby>

今日も命と島の<ruby><rb>乞食</rb><rt>こつじき</rt></ruby>　　　　　　　　　翁

<ruby><rb>悴</rb><rt>かじ</rt></ruby>けたる花し散るなと<ruby><rb>茱萸</rb><rt>ぐみ</rt></ruby>折りて　　　　<ruby><rb>不玉</rb><rt>ふぎょく</rt></ruby>

八丈の宗福寺などは昔から女房持で、且つ<ruby><rb>郷士</rb><rt>ごうし</rt></ruby>のように裕福であった。そういう御寺の鐘の音を聴きながら、自分はその日の食い物にも屈託している光景である。そうしてこの島の流人には<ruby><rb>僧侶</rb><rt>そうりょ</rt></ruby>がいつも多かった。

<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>くる夜の壁つき破る鹿の角　　　　　　曾良

島のお<ruby><rb>伽</rb><rt>とぎ</rt></ruby>の泣き伏せる月　　　　　　　翁

いろ〱の<ruby><rb>祈</rb><rt>いのり</rt></ruby>を花に<ruby><rb>籠</rb><rt>こも</rt></ruby>り居て　　　　　　<ruby><rb>等躬</rb><rt>とうきゅう</rt></ruby>

『奥の細道拾遺』の句である。伊豆の島には<ruby><rb>対馬</rb><rt>つしま</rt></ruby>・<ruby><rb>五島</rb><rt>ごとう</rt></ruby>などのように、鹿は住んでいなかったから是だけは無理な附け方であるかも知れぬ。しかし鹿の角に破られるような小屋の中でも、なお多くの流人は島の<ruby><rb>御伽</rb><rt>おとぎ</rt></ruby>を見つけて共に住んでいた。八丈ではその女を水汲みと呼ぶ習わしであった。それが男の懐旧談を聴いてもらい泣きをしたという、しおらしい情愛を<ruby><rb>咏</rb><rt>えい</rt></ruby>じたものと思われる。是がもし<ruby><rb>何人</rb><rt>なんぴと</rt></ruby>の実話でもなくて、単に作者の作意に過ぎなかったとすれば、その想像力はむしろ驚くべきであった。というわけは多くの島の流人は、いつもそういう同情の深い水汲みを見つけて、それをたった一つの<ruby><rb>慰藉</rb><rt>いしゃ</rt></ruby>として<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>きていたのが事実だからである。

  


## 生活の俳諧

## 一

国の文芸に対する我々の態度が、今まではあまりにも単純で、したがって一生の間、まるまる<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>と関係なしに暮してしまう人がちっと多過ぎた。出来ることならばこれを改めるか、少なくとも文芸の見方の、新しい種類を附加える必要がある。こういう趣意のもとに、私は日本の文学業績の中で、おそらく世界に類例が無いと思う<ruby><rb>俳諧</rb><rt>はいかい</rt></ruby>なるものの社会的地位、是と我々通常人との交渉が、特にどういう側面において意義が深いかを考えてみたい。

最初に一応<ruby><rb>御断</rb><rt>おことわ</rt></ruby>り申しておきたいことは、私は熱心においては<ruby><rb>何人</rb><rt>なんぴと</rt></ruby>にも譲らざる俳諧の研究者、殊に芭蕉翁の、今の言葉でいうファンであるが、自分では是まで俳句なんか<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>ってみようとしたことがない。多分出来ないからだろうと思うが、事実また作ってみようともしなかったので、一言でいうならば<ruby><rb>発句</rb><rt>ほっく</rt></ruby>はきらいである。むしろ発句の極度なる流行が、かえって俳諧の真の味を埋没させているのではないかを、疑い且つ<ruby><rb>憂</rb><rt>うれ</rt></ruby>いつつある一人なのである。この疑いには若干の根拠がある。芭蕉<ruby><rb>示寂</rb><rt>じじゃく</rt></ruby>して数十年の後に、有名なる『七部集』というものが<ruby><rb>結集</rb><rt>けつじゅう</rt></ruby>せられ、<ruby><rb>末法</rb><rt>まっぽう</rt></ruby>の<ruby><rb>徒</rb><rt>と</rt></ruby>の有難い経典となったが、この『七部集』には異本が多く、テキストのまだ確定しておらぬは<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>、何かというと誤写誤刻の推定のもとに、勝手放題なる各自の解釈を支持せんとする者の多いことは、まるで一千何百年の前にできて、久しく伝本の世に隠れていた『万葉集』と、<ruby><rb>撰</rb><rt>えら</rt></ruby>ぶところのない有様である。<ruby><rb>高</rb><rt>たか</rt></ruby>が二百四五十年ばかり昔の作品に、註解を要するということが既に珍しいのに、その註解がまた二つ以上を比べて見ると、互いに黒と白とほども違っている。いずれかたった一つを除けば、その他は出たら目であった証拠であり、事によるとどれもこれも間違いかも知れない。是がいずれも<ruby><rb>一</rb><rt>ひと</rt></ruby>かどの<ruby><rb>宗匠</rb><rt>そうしょう</rt></ruby>といわるる人の説なのだから、つまり彼らは『七部集』をすらも理解せずに主として発句だけを作っていたので、驚いた話である。

## 二

俳句という言葉は、明治以来の新語かと思われる。日本では第一高等学校を一高という類の略語が通用しているから、「俳諧の<ruby><rb>連歌</rb><rt>れんが</rt></ruby>の<ruby><rb>発句</rb><rt>ほっく</rt></ruby>」を略して俳句というのも気が<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>いている。しかしそのために<ruby><rb>我</rb><rt>わが</rt></ruby>芭蕉翁の生涯を捧げた俳諧が、一段と不可解なものになろうとしていることだけは争われない。この意味においては、新時代の文章道の功労者として、私たちの最も感謝している<ruby><rb>正岡子規</rb><rt>まさおかしき</rt></ruby>氏なども、俳諧道の<ruby><rb>中興</rb><rt>ちゅうこう</rt></ruby>開山ではなくて、或いは俳句という一派の新文芸の第一世ということになるかも知れぬ。子規はその著述の中において、<ruby><rb>附合</rb><rt>つけあい</rt></ruby>すなわち芭蕉翁の唱導した俳諧の連歌は、文学でないと明言しているのである。こうしていわゆる俳句を独立の地におけば安全であり、また今日のごとき俳句の新境地を<ruby><rb>拓</rb><rt>ひら</rt></ruby>くためには必要だったかも知れぬが、是は我々にとっては忍ぶべからざる抹殺であった。どうしてこの俳諧の最も歴史的なる部分が文学であり得ないのか。もしくは少なくとも何故に文学でないと、ある優れたる一人の文人によって断言せられ得たのか。<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>は将来日本の文化史を専攻しようとする少数の学生にとっては、大きなまた意義の深いテェマであろうと思うが、はたして一般の諸君にまで、興味を提供するかどうかは疑問である故に、正面から細かく是を論ずることは、今日はまず差控えて置く方がよいであろう。

ただ社会の最も顕著なる現象として、ここで私が諸君とともに取扱ってみたいのは、第一には外国から持って来た文学の定義では、或いは包容しきれないような特殊の文芸が、どうして日本にばかり出現することになったのか。是は全然俳諧の道に遊ばぬ日本人にも、なお考えずにはおられない一つの不審である。第二には<ruby><rb>正風不易</rb><rt>しょうふうふえき</rt></ruby>とまでたたえられた<ruby><rb>蕉門</rb><rt>しょうもん</rt></ruby>の俳諧が、発句ばかりをこの世に残して、その他は久しからずして振棄てられ、同じ流れを汲むという人々にすら、なお説明のできぬものになった理由や<ruby><rb>如何</rb><rt>いかん</rt></ruby>。この点もまた決して世の「古池や<ruby><rb>連</rb><rt>れん</rt></ruby>」だけの問題ではないのである。それよりもさらに一段と現世的意義ある疑問は、この一見不可解なる前代遺物が、その存在という明々白々なる事実によって、何か是から世に出て行こうとしている日本の若き学徒に語らんとしているかである。手短に申すならば、俳諧はその芸術的価値以外に、いかなる文化史的価値を我々に供与するか。わからぬ人が仮に皆無と言っても、それは<ruby><rb>軽々</rb><rt>けいけい</rt></ruby>に信じない方がよいのである。多くの大切なる科学は近世になって起こった。それが新たに唱えられるまでは、人は眼前に在るものをも無いのと同じにしか考えることができなかったのである。そうしてその無識の惰性は、かなり強力なまた<ruby><rb>怖</rb><rt>おそ</rt></ruby>るべきものだったのである。

## 三

右の三つの宿題に向かっては、残念ながら私はただ片端しか答えを得ていない。未来の多くの研究者の協力を<ruby><rb>募</rb><rt>つの</rt></ruby>るべく、今はただその解説の一つの方向を指そうとするのみである。俳諧または誹諧という言葉は、日本の古文学の中にも見えている。そうして<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby><ruby><rb>支那</rb><rt>シナ</rt></ruby>からの輸入であるが、この語この文字をあてはめた内容は、輸入以前からあったものと考えられる。二つの国の言葉の対訳が当っていたかどうかは、こういう無形名詞ではいつも問題になるが、この場合だけはそう大きな喰い違いはなかったようである。人の笑いというものの範囲は<ruby><rb>弘</rb><rt>ひろ</rt></ruby>いけれども、俳諧が目的としていたものはその全部ではなかった。笑いの一番に下品なものは<ruby><rb>放恣</rb><rt>ほうし</rt></ruby>、いわゆるしもがかりの秘密や欲情の満足に伴なうものであり、その最も有害なものは<ruby><rb>嘲罵</rb><rt>ちょうば</rt></ruby>であろうが、この二つのものは支那の方でも、誹諧のうちに含まれていなかったことは、『史記』に見えている<ruby><rb>東方朔</rb><rt>とうぼうさく</rt></ruby>の<ruby><rb>滑稽</rb><rt>こっけい</rt></ruby>が、宮廷で行われていたというのでも察せられる。日本の誹諧も上流の文学の中にもてはやされていた。直接相手を傷つける笑いでなかったことは明らかである。一つの特徴は<ruby><rb>真面目</rb><rt>まじめ</rt></ruby>なものに対する対立、わざとではあるが、<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>そこないのおかしみであった。自分の力が足らずして、すぐれた人のする通りをしようとしてできぬことを示すもので、私などは是を自嘲の笑いと名づけている。これを<ruby><rb>能</rb><rt>よ</rt></ruby>くする者には実は才智の衆に<ruby><rb>秀</rb><rt>ひい</rt></ruby>でた男が多かったのである。すなわち人を笑わせる職分のために、最も上手に<ruby><rb>韜晦</rb><rt>とうかい</rt></ruby>する者の技芸であった。トボケルと今ならば<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>うところで、古くはシレル・シレモノと謂い、それから移ってジラコクまたはジラなどともなり、<ruby><rb>戯</rb><rt>ざ</rt></ruby>れという語も是とよほど近かった。笑いの最も<ruby><rb>夙</rb><rt>はや</rt></ruby>く芸術化したものということができる。

是が<ruby><rb>我邦</rb><rt>わがくに</rt></ruby>において人の言語と行為の、とくに厳粛なものに附随していたことは、多分は国がらの<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>らしむるところで、人類共通の一般習性ではなかったろうと私は思う。狂言というものの起こり、すなわち正式なる儀礼の後にすぐ引続いて、それを間ちがえ真似そこない、もしくはまるまる縁の無い<ruby><rb>愚</rb><rt>おろ</rt></ruby>かな<ruby><rb>所作</rb><rt>しょさ</rt></ruby>をして見せて、観衆を大いに笑わせるという演技法は奇抜なものだが、私などから見ると、是は対照によって前の正しいものの印象を深め、且つ誤るということの不利損失を<ruby><rb>覚</rb><rt>さと</rt></ruby>らしめるのが本来の目的で、つまりは笑われることを<ruby><rb>怖</rb><rt>おそ</rt></ruby>れる人情を利用した設計のようである。上代のワザヲギすなわち俳優というものの役がそれであったことは、<ruby><rb>海幸彦</rb><rt>うみさちひこ</rt></ruby>・<ruby><rb>山幸彦</rb><rt>やまさちひこ</rt></ruby>の物語にもすでに見えている。昔話すなわち民間説話においては、我々の名づけて隣の<ruby><rb>爺型</rb><rt>じいがた</rt></ruby>というものが、古くからこれを代表していた。<ruby><rb>善</rb><rt>よ</rt></ruby>い<ruby><rb>爺</rb><rt>じい</rt></ruby>さんが<ruby><rb>測</rb><rt>はか</rt></ruby>らず大福運を得たすぐ<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>に、きっともう一度悪い爺さんが<ruby><rb>羨</rb><rt>うらや</rt></ruby>んで真似そこなって、ひどい失敗をする段が伴なっている。だから人は正直にしなければならぬとか、やたらに真似をするものでないというような教訓が、丁寧に附けてあるのも<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>ではない。これを<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>び笑う人の心持もすでに変り、今ではそんな笑話だけしか残っておらぬ土地も多くなったが、子どもの聴く昔話だけは、なおこの二つで一組になっているのである。<ruby><rb>神楽</rb><rt>かぐら</rt></ruby>の<ruby><rb>獅子舞</rb><rt>ししまい</rt></ruby>などにも、東北ではヲカシといい、関西では<ruby><rb>狂言太夫</rb><rt>きょうげんだゆう</rt></ruby>というものが附いていて、あの<ruby><rb>怖</rb><rt>おそろ</rt></ruby>しい面を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>ったものに向かって茶かそうとする。最近流行の何とか漫才というものにすら、きっと<ruby><rb>頓珍漢</rb><rt>とんちんかん</rt></ruby>な受返事をする相手の役があって、形だけは古いものを保存しているのである。是が文学の上に伝わった誹諧と、成立ちが一つであったように私たちは考えているので、かの『古今集』の<ruby><rb>勅撰</rb><rt>ちょくせん</rt></ruby>に入った有名なる数十章の誹諧歌のごときも、やはりまた和歌に随伴した一種の<ruby><rb>才蔵</rb><rt>さいぞう</rt></ruby>にほかならずと見てよいようである。

あひ見まく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ほし</span>は数々有りながら人に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つき</span>なみまどひこそすれ

耳無しの山のくちなし得てしがな思<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひの色</span>の<ruby><rb>下染</rb><rt>したぞめ</rt></ruby>にせむ

などというのは、今なら至って微弱なるダジャレに過ぎないが、形が歌の通りでこんな意外な<ruby><rb>口合</rb><rt>くちあ</rt></ruby>いを含んでいたのだから、あの時代の宮廷人は腹をかかえて笑ったに相違ないのである。

## 四

記録の上にはこの上代の誹諧は、<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>かしか残っていないが、歌が盛んに流行してまたやや行詰まったという状態に達すると、すなわち新味のある誹諧が飛出して来た。<ruby><rb>水無瀬</rb><rt>みなせ</rt></ruby>の離宮の風流の御遊びがいと盛んであった際には、古来の歌道の<ruby><rb>柿</rb><rt>かき</rt></ruby>の<ruby><rb>本</rb><rt>もと</rt></ruby>に対立して、新たに<ruby><rb>栗</rb><rt>くり</rt></ruby>の<ruby><rb>本</rb><rt>もと</rt></ruby>というたわれ歌の一団が生まれた。その一方を<ruby><rb>有心</rb><rt>うしん</rt></ruby>の<ruby><rb>座</rb><rt>ざ</rt></ruby>というに対して、是をまた無心の座とも申したそうである。しかも両者の名目こそは新しいが、この一種の逸脱はずっと前からあったらしいので、現に連歌というものが、元はそれ自身一つの誹諧であったかと思われ、すくなくとも今日伝わっているのは、笑うようなものばかりである。才分の豊かな男女の文人はいずれも少しずつこれに<ruby><rb>携</rb><rt>たずさ</rt></ruby>わっていた。例えば<ruby><rb>和泉式部</rb><rt>いずみしきぶ</rt></ruby>のごときは伝説かも知れないが、いつでも人の意表に出るような応酬をしていたように言われている。或る男が<ruby><rb>賀茂</rb><rt>かも</rt></ruby>に<ruby><rb>参詣</rb><rt>さんけい</rt></ruby>するとて、紙のはばきを巻いて家の前を通る。是に向かって<ruby><rb>即吟</rb><rt>そくぎん</rt></ruby>に、

千はやふるかみをも足に巻くものか

と言いかけると男も抜からず、

是をぞしもの<ruby><rb>社</rb><rt>やしろ</rt></ruby>とはいふ

と答えたとあるのは、早いというだけが取りえで、誠にたわいもない口合いであった。また朝日の<ruby><rb>阿闍梨</rb><rt>あじゃり</rt></ruby>という僧が、<ruby><rb>安倍</rb><rt>あべ</rt></ruby>の<ruby><rb>某</rb><rt>ぼう</rt></ruby>という<ruby><rb>陰陽師</rb><rt>おんようじ</rt></ruby>の家に忍び込んでいて、発覚して<ruby><rb>遁</rb><rt>に</rt></ruby>げ出そうとするところを見つけて、

あやしくも西に朝日の見ゆる<ruby><rb>哉</rb><rt>かな</rt></ruby>

と亭主がいうと坊主、

天文博士いかに見るらむ

是などはこしらえ話で、どうやら<ruby><rb>下</rb><rt>しも</rt></ruby>の句の方が前にできていたようにも見える。或いはまた下の句の十四字をまず提出して、<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>十七字の答を<ruby><rb>挑</rb><rt>いど</rt></ruby>む例もあった。是も一人の法師が、路傍で屋根を<ruby><rb>葺</rb><rt>ふ</rt></ruby>いているのを見て或る者が、

ひじりの屋をばめかくしに葺け

と言いかけると、

あめが<ruby><rb>下</rb><rt>した</rt></ruby>に<ruby><rb>漏</rb><rt>も</rt></ruby>れてきこゆることもあり

と附けたという話もある。ヒジリは修業僧で、女房を持たぬ者の名であったのに、この頃は隠すは<ruby><rb>上人</rb><rt>しょうにん</rt></ruby>せぬは仏というまでに、有りふれた秘密になっていた。それでこの贈答が聴く人の腹の皮をよらせたのである。諸君もよく知っておられる武人の風流、

<ruby><rb>衣</rb><rt>ころも</rt></ruby>のたてはほころびにけり

という<ruby><rb>八幡</rb><rt>はちまん</rt></ruby>太郎と<ruby><rb>貞任</rb><rt>さだとう</rt></ruby>との連歌のごときも、考えてみればただ単なる言葉のしゃれで、とうてい弓に<ruby><rb>箭</rb><rt>や</rt></ruby>つがえて<ruby><rb>馳</rb><rt>は</rt></ruby>せまわる勇士の頭の中に、浮かんでくるような文句ではない。すなわちただこの時代にあってこういう語り草がもてはやされたことを、<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>い知らしめる史料であるに過ぎぬ。

しかもこの連歌が追々に<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>を引き、百句五十句と<ruby><rb>鏈</rb><rt>くさり</rt></ruby>のように<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>いで行くという、また一段と悠長なものになって来たので、それを単簡なる一首両作の連歌と区別するために、後の方をば<ruby><rb>続</rb><rt>つ</rt></ruby>ぎ<ruby><rb>歌</rb><rt>うた</rt></ruby>とも<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>っている。このいわゆる続ぎ歌に方式が定められ、人がこれを守って際限もなく、同じようなことばかりを繰返すようになると、早くもその単調を破るために、別にまた俳諧の連歌の必要を生じて来るのであった。だから初期の俳諧師は、必ず連歌師の門から出ている。<ruby><rb>伊勢</rb><rt>いせ</rt></ruby>の<ruby><rb>荒木田守武</rb><rt>あらきだもりたけ</rt></ruby>のように、徹頭徹尾<ruby><rb>戯</rb><rt>ざ</rt></ruby>れの句ばかりを続けた人も無いではないが、本来は長ったらしい連歌の間へ、時々<ruby><rb>頓狂</rb><rt>とんきょう</rt></ruby>な俗な句や言葉を挟むのが興味であったことは、『<ruby><rb>犬菟玖波集</rb><rt>いぬつくばしゅう</rt></ruby>』などからも推測せられる。それが連歌は連歌、俳諧は俳諧と、両者全く別なもの見たいになったのは、言わば前者の零落であり形式化であった。もともと俳諧の連歌は、ただ俳諧をまじえた連歌でよかったのである。それを心得ちがいして荒木田守武式に、どこまでも<ruby><rb>駄洒落</rb><rt>だじゃれ</rt></ruby>と警句との連発でなければならぬと、思っている人ばかり多かった際に、わが芭蕉翁だけが立ち止まって、もう一度静かに考えられたのである。それが今我々を感動せしめる<ruby><rb>正風</rb><rt>しょうふう</rt></ruby>の俳諧であったように、私たちは思っている。

## 五

つまりは百韻三十六<ruby><rb>吟</rb><rt>ぎん</rt></ruby>の連続の中に、一句も俳諧の無い句があってはならぬという<ruby><rb>松永貞徳</rb><rt>まつながていとく</rt></ruby>などの意見を、認めるか否かが<ruby><rb>岐</rb><rt>わか</rt></ruby>れ<ruby><rb>目</rb><rt>め</rt></ruby>であった。もしもそれが動かすべからざる法則であったら、現今のいわゆる俳句などは、生まれ出づる余地は無かったのである。<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もそういう人々の俳諧の定義は勝手放題に<ruby><rb>弘</rb><rt>ひろ</rt></ruby>いもので、心の俳諧以外に形の俳諧だの言葉の俳諧だのを認め、単に用語が今風の俗言でありさえすればもうそれで<ruby><rb>宜</rb><rt>よろ</rt></ruby>しいようにしていたが、そうして見たところがやはり窮屈な話で、それだけで<ruby><rb>普</rb><rt>あまね</rt></ruby>く人生の森羅万象、あらゆる境涯・感情を表現するに足らぬのは当り前の話である。だから<ruby><rb>貞門</rb><rt>ていもん</rt></ruby>の俳諧などはあれだけ多く残っているが、おかしいながらにやはり退屈で、今は<ruby><rb>省</rb><rt>かえり</rt></ruby>みる人も少ないのである。芭蕉はこれに対して、決して急激なる革新論者ではなかった。<ruby><rb>半</rb><rt>なか</rt></ruby>ばは前代の解釈に追随しつつも、随処に自家の判断を実践に移して、大きな効果を挙げている。たとえば俳諧の主題としては、俗事俗情に重きをおくことが、初期以来の暗黙の約束であるが、是がかなり忠実に守られていた<ruby><rb>御蔭</rb><rt>おかげ</rt></ruby>に、単なる民衆生活の描写としても、彼の文芸はなお我々を感謝せしめるのである。それから是は<ruby><rb>後々</rb><rt>のちのち</rt></ruby>の評伝家のまだ言わぬことであるが、個々の叙述のレアリスム、是も芭蕉一派の独創ではなくて、言わば先行する俳諧師等の、永年積み<ruby><rb>貯</rb><rt>たくわ</rt></ruby>えた技術の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こつ</span>ともいうべきもので、それを出来るかぎり<ruby><rb>承</rb><rt>う</rt></ruby>け<ruby><rb>継</rb><rt>つ</rt></ruby>ぎまた包容しようとした故に、実際短い句でもみな<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>き活きと面白いのだが、その弟子たちはただ一部分ずつを分けて相続しているのである。

<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>らばどの点が芭蕉の<ruby><rb>出色</rb><rt>しゅっしょく</rt></ruby>であったかと申せば、一言でいうと俳諧をその本然の用途、笑いに対する我々の要望に応ずるようにしたことであろうと思う。或いはこれを総括して俳諧と呼んだことの、用語の当否は問題になるかも知れぬが、少なくとも笑いは芭蕉の俳諧の全部ではなかったと同時に、これを俳諧の欠くべからざる要素と、認めていた点は古い伝統とも合致している。すなわち<ruby><rb>正風</rb><rt>しょうふう</rt></ruby>と名のる権利があるのである。別の言葉で言い現わすならば、笑いを取扱わない<ruby><rb>蕉門</rb><rt>しょうもん</rt></ruby>の俳諧は一つも無かったとともに、<ruby><rb>発句</rb><rt>ほっく</rt></ruby>からまず人を笑わせようとするような<ruby><rb>連俳</rb><rt>れんぱい</rt></ruby>というものも一つだって無いのである。是はいかなる<ruby><rb>突拍子</rb><rt>とっぴょうし</rt></ruby>もない話し家でも、<ruby><rb>高座</rb><rt>こうざ</rt></ruby>に<ruby><rb>上</rb><rt>あが</rt></ruby>った<ruby><rb>早々</rb><rt>そうそう</rt></ruby>からおかしいことをいう者が無いと同じで、むしろ最初はさりげなく、やがて高調してくる<ruby><rb>滑稽</rb><rt>こっけい</rt></ruby>を、予想せしめただけでよいのであった。だから発句ばかりを引離して見れば、いずれも<ruby><rb>生真面目</rb><rt>きまじめ</rt></ruby>で格別笑いたくもないのが当り前で、すなわち俳諧という語の意味を、よほどこじつけて拡張しないかぎり、今日のいわゆる俳句は、それだけでは俳諧でないということになるのである。しかも芭蕉翁の俳諧の味わいは、こういう考え深い調理法によって、また一段と微妙のものになっているのである。私などの見たところでは、元禄の俳諧の大きな働きは、独り旧来の俳諧の活用であっただけでなく、同時にまた連歌を若返らせたことであった。一方にただ上品で<ruby><rb>艶</rb><rt>つや</rt></ruby>も香気も無く<ruby><rb>萎</rb><rt>しな</rt></ruby>びていたものと他の一方には活気はあるけれども<ruby><rb>只</rb><rt>ただ</rt></ruby>騒々しい<ruby><rb>幇間式</rb><rt>ほうかんしき</rt></ruby>の芸術とを、二つほどよく配合してそこに詩情を托せんとした、新しい試みにあったかと思う。それがあの当時の人心を<ruby><rb>風靡</rb><rt>ふうび</rt></ruby>したのも、要するに以前の笑いの文学には全然見られなかった<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しんみり</span>とした常人の感情、殊に笑いとは対立する憂いとか<ruby><rb>哀</rb><rt>かな</rt></ruby>しみとかが、自在に<ruby><rb>到</rb><rt>いた</rt></ruby>る<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>に盛られるようになったからで、その互いの移動<ruby><rb>牽聯</rb><rt>けんれん</rt></ruby>、もしくは遠く近くの反映を、サビとかホソミとかその他色々の新しい用語で説こうとはしていたけれども、<ruby><rb>宗匠</rb><rt>そうしょう</rt></ruby>は意外に早く世を去り、旧式の教育を受けた俳諧師はなお国内に<ruby><rb>充</rb><rt>み</rt></ruby>ち<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れていて、いずれも自分自分の器量だけにしか、これを解説し<ruby><rb>敷衍</rb><rt>ふえん</rt></ruby>することができなかったのである。是が一つの未完成交響楽、余韻はなお伝わって<ruby><rb>嗣</rb><rt>つ</rt></ruby>いで起こる者無く、あたかも花やかな花火の<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>の闇のように、淋しいものとなってしまった原因のようである。

## 六

この議論をあまり詳しくすると、退屈せられる人があっても困るから、方面を転じて少しく実例をもって説明する。『七部集』は私が殊に愛読しているので、この中からは例が引きやすい。この本と以前の各派の俳諧とを比べて見て、最もはっきりした相異は分量すなわち<ruby><rb>附合</rb><rt>つけあい</rt></ruby>の長さであった。『七部集』には百韻すなわち百句の連歌がたった一つあるのみで、他の六十何篇はみな歌仙、すなわち三十六句を<ruby><rb>連</rb><rt>つら</rt></ruby>ねたもののみである。この以外にも、『<ruby><rb>初懐紙</rb><rt>はつかいし</rt></ruby>』その他一二の例外はあるが、大体にまず『冬の日』の出た頃を<ruby><rb>堺</rb><rt>さかい</rt></ruby>として、それからはもっぱらこの形に<ruby><rb>由</rb><rt>よ</rt></ruby>ろうとしている。ところが<ruby><rb>談林</rb><rt>だんりん</rt></ruby>以前の連俳に至っては、こんな形もあるというだけで、原則としては百韻が常の形であった。中には<ruby><rb>十百韻</rb><rt>とっぴゃくいん</rt></ruby>と称して百句十篇を一度に興行し、<ruby><rb>西鶴</rb><rt>さいかく</rt></ruby>などは<ruby><rb>独吟</rb><rt>どくぎん</rt></ruby>千句をさえ試みているのである。この流行の変化は、俳諧の歴史としてはかなり重要なことで、もとは進展の興味をもっぱらとし、句ごとの<ruby><rb>推敲</rb><rt>すいこう</rt></ruby>がおろそかだったのである。<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>その結果は構造の上にも現われていて、以前はいわゆる一波万波で、ちょうど子どもがふざけ始めると、止めどもなく<ruby><rb>昂奮</rb><rt>こうふん</rt></ruby>して行くのとよく似ていた。これに反して『七部集』の歌仙などは、句ごとの<ruby><rb>聯絡</rb><rt>れんらく</rt></ruby>にポウズ（停止）があり、また<ruby><rb>苦吟</rb><rt>くぎん</rt></ruby>がある。それを一概に小味という名で片付けられぬわけは、後代の復興期などと言われる天明の俳諧と比べてみても、なお元禄だけの特徴ははっきりしているからで、つまり芭蕉翁の企図していたものは、前のものとも<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>のとも違っていた。完全に成功しなかったかも知らぬが、とにかくに全体としての調和を志していたように思われる。同じ<ruby><rb>滑稽</rb><rt>こっけい</rt></ruby>でも幾つかの階段を認めて、その最も高調したものは、かえってそのあと先を静かな淋しいもので包もうとしている。変化を主とすることは古今同じでも、<ruby><rb>毎</rb><rt>つね</rt></ruby>に均整に注意し<ruby><rb>偏倚</rb><rt>へんい</rt></ruby>を避けていた。起伏高低が大きいだけでなく、波動の中心を出来るだけ広い区域に、数多く設けようとした。それ故にまたその波紋の<ruby><rb>綾</rb><rt>あや</rt></ruby>が<ruby><rb>又無</rb><rt>またな</rt></ruby>く美しかったのである。

二つほど実例を挙げて説明すると、一つは最も有名な『冬の日』の第一篇の中ほどで、<ruby><rb>師翁</rb><rt>しおう</rt></ruby>の「<ruby><rb>暁</rb><rt>あかつき</rt></ruby>寒く火を<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>きて」という句を<ruby><rb>承</rb><rt>う</rt></ruby>けて、次のような一続きがある。

あるじは<ruby><rb>貧</rb><rt>ひん</rt></ruby>にたえし<ruby><rb>虚家</rb><rt>からいえ</rt></ruby>　　　　　　　<ruby><rb>杜国</rb><rt>とこく</rt></ruby>

田中なる<ruby><rb>小万</rb><rt>こまん</rt></ruby>が柳おつる頃　　　　　　　<ruby><rb>荷兮</rb><rt>かけい</rt></ruby>

霧に舟<ruby><rb>曳</rb><rt>ひ</rt></ruby>く人はちんばか　　　　　　　<ruby><rb>野水</rb><rt>やすい</rt></ruby>

たそがれを横に<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>むる月細し　　　　　　<ruby><rb>杜国</rb><rt>とこく</rt></ruby>

<ruby><rb>隣</rb><rt>となり</rt></ruby>さかしき町に<ruby><rb>下</rb><rt>お</rt></ruby>り<ruby><rb>居</rb><rt>い</rt></ruby>る　　　　　　　<ruby><rb>重五</rb><rt>じゅうご</rt></ruby>

田中の小万は世にもてはやされた美女であった。その門の岸の柳の散る夕を、物哀れに詠歎したあとへ、突如として舟曳く男の<ruby><rb>鄙</rb><rt>ひな</rt></ruby>びたる腰つきを、描写してしかも自然によく<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>がっている。それを再び物静かな、しかも夕顔の巻でも<ruby><rb>聯想</rb><rt>れんそう</rt></ruby>するような、別種の情景へ引戻して来たので、ちんばの滑稽が飛躍しているだけに、その後を一段と落付きのある上品な句で<ruby><rb>囲</rb><rt>かこ</rt></ruby>おうとした、<ruby><rb>連衆</rb><rt>れんじゅ</rt></ruby>の詩情はよく調和している。そうしてこの無言の約束は<ruby><rb>爰</rb><rt>ここ</rt></ruby>だけでなく、いつでも奇抜な笑いの句の出るたびに、必ずといってもよいほどよく守られているのである。それから今一つ、<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>は終の方の『<ruby><rb>続猿蓑</rb><rt>ぞくさるみの</rt></ruby>』の中にあって、<ruby><rb>宗匠</rb><rt>そうしょう</rt></ruby>は一句しか参加しておらぬので、人のあまりに注意していない<ruby><rb>附合</rb><rt>つけあい</rt></ruby>であるが、変化の面白さのよく現われているのは、「<ruby><rb>勇</rb><rt>いさ</rt></ruby>み立つ<ruby><rb>鷹</rb><rt>たか</rt></ruby>引すうる嵐かな」という<ruby><rb>発句</rb><rt>ほっく</rt></ruby>をもって始まっている<ruby><rb>一聯</rb><rt>いちれん</rt></ruby>である。これもその中程のところに、

売物の<ruby><rb>渋紙包</rb><rt>しぶがみづつ</rt></ruby>みおろし置き　　　　　　　<ruby><rb>里圃</rb><rt>りほ</rt></ruby>

けふの暑さはそよりともせぬ　　　　　<ruby><rb>馬莧</rb><rt>ばけん</rt></ruby>

砂をはふいばらの中のぎすの声　　　　　<ruby><rb>沾圃</rb><rt>せんぽ</rt></ruby>

別れを人が<ruby><rb>云</rb><rt>い</rt></ruby>ひ出せばなく　　　　　　　里

こたつの火いけて勝手をしづまらせ　　　　莧

<ruby><rb>一石</rb><rt>いっこく</rt></ruby>ふみしからうすの米　　　　　　　　沾

というのがある。暑さは昔から歌などには取扱われず、この一句は全部が常の人の言葉で、文芸の座では是だけでも俳諧になるのだが、やや弱いのでさらに次の句に<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>の事物を<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>ぎたしてある。ギスは上代のきりぎりすでなく、我々の今いうバッタである。真昼の日盛りにこの虫だけが鳴いている情景は、私などにはなつかしいもので、親の昼寝の間にそっと水浴びに行った、子どもの日のことなどが思い出される。ギスの声は<ruby><rb>蝉</rb><rt>せみ</rt></ruby>などと違って久しく途切れるので、別れを人がという次の句ともよく続くが、この軽い微笑の句を、たちまち恋の句に転回させようとするのだから、そこに若干の無理がある。そのかわりまた次の<ruby><rb>炬燵</rb><rt>こたつ</rt></ruby>の句とはよく合って、まるで一篇の<ruby><rb>草冊子</rb><rt>くさぞうし</rt></ruby>か何かを読むようである。全体に卑近な着想で、俳諧を下品にしたという評もあるが、とにかく一座心を合わせて、全体を一つの調和した美しいものに、こしらえ上げようとする努力はよく認められる。

## 七

中世の連歌道においても、<ruby><rb>附句</rb><rt>つけく</rt></ruby>の制限はかえって俳諧よりも多く、<ruby><rb>去嫌</rb><rt>さりきら</rt></ruby>いとか<ruby><rb>打越</rb><rt>うちこ</rt></ruby>しとかのやかましい<ruby><rb>沙汰</rb><rt>さた</rt></ruby>があって、それはいずれも個々の句の変化、場面の展開を念としたものばかりであったが、その分立には限りがあり感情の波動は小さかった。殊に作者の立場用意が相似ていた上に、道中が少し長かったために、どうかするとまた同じ<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>へ戻り、総体を通観すると板のような感じを免れなかった。俳諧はつまりその単調に<ruby><rb>堪</rb><rt>た</rt></ruby>え切れずして起こったのであるが、芭蕉翁の到達しても、実はまだ完全にこれを打破したとは言えない。我々はむしろ非常に愉快なる革新傾向の、中途にして停頓している姿を見るのである。この一つ一つの附句によって作られる変化、歌仙でいうなら三十五面の新情趣・新関係を、私たちはタブロオと呼んでいるが、これを<ruby><rb>絵様</rb><rt>えよう</rt></ruby>と<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>ってもまた場面と呼んでも、実は幾分か目の感覚に傾きすぎる非難がある。この中には前に挙げた「<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>を横にながむる月細し」のごとく、完全なる無声の詩もあるが、一方にはまた「<ruby><rb>棘</rb><rt>いばら</rt></ruby>の中のギス」およびその次の句のような、耳に訴えようとした情景もある。<ruby><rb>支那</rb><rt>シナ</rt></ruby>の<ruby><rb>聯句</rb><rt>れんく</rt></ruby>はもとよりのこと、俳諧でも談林派の時代までは、<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>をただ言葉の続きがらのように、考える<ruby><rb>癖</rb><rt>くせ</rt></ruby>が止まなかった。したがって今ある子どもの<ruby><rb>尻取文句</rb><rt>しりとりもんく</rt></ruby>や、火まわしなどの<ruby><rb>戯</rb><rt>たわむ</rt></ruby>れと近いものがあったのだが、<ruby><rb>蕉門</rb><rt>しょうもん</rt></ruby>の俳諧では勉強してこれを避け、できるだけ心持ちまた感じ、またはまぼろしの連鎖に依ろうとしている。ほんの一二の珍しい例外、たとえば、

いともかしこき<ruby><rb>五位</rb><rt>ごい</rt></ruby>の<ruby><rb>針</rb><rt>はり</rt></ruby><ruby><rb>立</rb><rt>た</rt></ruby>て

松の葉に<ruby><rb>宮司</rb><rt>ぐうじ</rt></ruby>の門は傾きて

とか、

食ふ<ruby><rb>柿</rb><rt>かき</rt></ruby>も<ruby><rb>又</rb><rt>また</rt></ruby>くふ柿も皆<ruby><rb>渋</rb><rt>しぶ</rt></ruby>し

秋のけしきのはたけ見る客

というような<ruby><rb>口合</rb><rt>くちあい</rt></ruby>に近いものを除いては、他の大部分はすべて想像の<ruby><rb>鎖</rb><rt>くさり</rt></ruby>もしくは感動のメロディとも名づくべきものにさしかえた。是は個人の生活実験においては最も自然なもの、すなわち我々の毎日の空想の、ひとりでに走ってあるく道とも同じだが、しかも文学の大きな一要件、人と自分との共同の経験、共同の記憶の最も期し難い部分であった。それを芭蕉翁は昔から伝わっている俳諧というものの改良利用によって、一つの珍しい形の文芸に化したのである。是には日本人だけしか通ってこなかった特殊なる文芸生活の数世紀が、基礎になっていることは争われないが、一方にはまた我々の社会組織の特殊性、すなわち小さく分かれて緊密に結合していた団体の力が、これを著しく可能ならしめたのである。この微小なる結合体を、古い日本語では<ruby><rb>連衆</rb><rt>れんじゅ</rt></ruby>といい、またはツレともトギともドシとも謂っていた。独り風流の交りだけに<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>まらず、<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>にもあれば児童の<ruby><rb>群</rb><rt>むれ</rt></ruby>にもある。この人々の間には通常ならぬ相互の理解があり、それからまた最も容易なる共同感銘の、言語の必要を超越するものが有り得た。是がこういった短い句形をもって、時には驚くような人情の深みにまで、入ってゆくことのできた理由であると同時に、時代環境を異にする門外漢には、よほど気をつけても<ruby><rb>判</rb><rt>わか</rt></ruby>らぬ点が、少なくない<ruby><rb>所以</rb><rt>ゆえん</rt></ruby>かと私は思っている。

もう一つ考えてみるべき点は、この俳諧というものの入用な時勢、境涯年齢のあることである。諸君も多分年を取るにつれて、この説に同感せられることが多くなってくるだろう。歴史にいわゆる世捨人または隠者というものには、存外に人世に冷淡な者は少なかった。気分態度からいうと今日の浪人、ないしは不平家という者とやや似ている。正面から時代と闘うことは<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>、大きな声では批評もできず、<ruby><rb>諷刺</rb><rt>ふうし</rt></ruby>も<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>かに<ruby><rb>匿名</rb><rt>とくめい</rt></ruby>の<ruby><rb>落首</rb><rt>らくしゅ</rt></ruby>をもって我慢する人々、大抵は中途で挫折して、酒や<ruby><rb>放埒</rb><rt>ほうらつ</rt></ruby>に身をはふらかす人々が、以前はこんなおかしな片隅に入って、文芸によって静かに性情を養って、一生を送っていたのである。こんな微温的なる人生の観察者の、少しも出ないですむような時代を、実現させることは我々の努力の目標であるが、そういう世の中はまだ当分来そうもない故に、今とてもやや形をかえて、この種局外者の清談文学はなお要求せられている。それがもう元禄の俳諧のように、温雅にして同情に<ruby><rb>充</rb><rt>み</rt></ruby>ちたるものでなくなったことは、この日本のために一つの大きな不幸であるように私は考えている。

## 八

私の講演の主たる目的は、日本固有のこの一つの特色ある文芸から、どれだけまで他の手段では得られない前代知識が、得られるであろうかを説くにあるのだが、その前にちょっと触れておかねばならぬのは、俳諧の弱点、すなわちそれほどよいものならなぜ永続しなかったかという問題である。是にも前に挙げた<ruby><rb>連衆</rb><rt>れんじゅ</rt></ruby>というものの特徴、すなわち作者側の能力ばかりが複雑に発達していて、読者側の要求がいかにも微弱であったことが、大きな原因の一つに<ruby><rb>算</rb><rt>かぞ</rt></ruby>えられる。是は独り俳諧だけでなく、一般の問題としても現在もなお存在している現象で、つまりは文芸の成長してゆく道の、日本は今まさに中途にあるのである。あの<ruby><rb>面倒</rb><rt>めんどう</rt></ruby>くさい西洋かぶれの小説ですらも、なお最も熱心なる読者は作者側にいる。少しく<ruby><rb>余分</rb><rt>よぶん</rt></ruby>に感歎する者は、すぐさま自分でも書いてみようとする。詩歌俳句は勿論のことで、いつの世にも読者の数よりは作者の数の方が多い。漢詩などはこの漢文の衰えた時代に無理な話だと思うが、えらい人になるとみな作りたがる。すなわち誰にも読まれることを期せざる文芸というものがまだあるのである。前代の俳諧のごときは殊に読者を限定して、いわば<ruby><rb>銘々</rb><rt>めいめい</rt></ruby>の腹の中のわかる者だけで鑑賞し合い、今日存する<ruby><rb>篇什</rb><rt>へんじゅう</rt></ruby>はその楽しみの<ruby><rb>粕</rb><rt>かす</rt></ruby>のようなものである。時代が改まって程なく不可解になるのも自然であった。面白味の<ruby><rb>判</rb><rt>わか</rt></ruby>らぬだけならまだ曲従することもできる。わかったような顔もしていられるが、どう考えても全然意味がとれない句、または人によって解説の裏へらになったものさえある。よい例は最近の俳諧研究書の中で、<ruby><rb>幸田露伴</rb><rt>こうだろはん</rt></ruby>さんの本などは大切なものであるが、どちらが正しいかは問題外として、私などが今まで解しているのと正反対にとっておられるのが幾つもある。たとえば『冬の日』の、

<ruby><rb>鶴</rb><rt>つる</rt></ruby><ruby><rb>看</rb><rt>み</rt></ruby>る窓の月かすかなり

風吹ぬ秋の日<ruby><rb>瓶</rb><rt>かめ</rt></ruby>に酒無き日

この「風吹ぬ」を私などは「風吹かぬ」と解し、先生は「風吹きぬ」だと見ておられた。また『猿蓑』の、

押合うて寝ては又立つ<ruby><rb>仮枕</rb><rt>かりまくら</rt></ruby>

たゝらの雲のまだ赤き空

是は普通は旅の<ruby><rb>鋳物師</rb><rt>いもじ</rt></ruby>の、朝早く立つ<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>と<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>っているが、幸田さんは雲まで赤くなるようなタタラ吹きは無いから、信州とか<ruby><rb>筑前</rb><rt>ちくぜん</rt></ruby>とかの地名だと言われる。東北大学の先生たちの共同研究も本になって出ているが、是などは初からまちまちの解釈で、意見のちがったままが報告せられている。古いところでは<ruby><rb>宜麦</rb><rt>ぎばく</rt></ruby>の『<ruby><rb>続絵歌仙</rb><rt>ぞくえかせん</rt></ruby>』などという<ruby><rb>絵解</rb><rt>えと</rt></ruby>きを見ると、あまりにも私らの胸に描いていたものと、ちがっているのがまず<ruby><rb>滑稽</rb><rt>こっけい</rt></ruby>である。一つだけ例を引くならば『<ruby><rb>炭俵</rb><rt>すみだわら</rt></ruby>』の<ruby><rb>一聯</rb><rt>いちれん</rt></ruby>、

<ruby><rb>算用</rb><rt>さんよう</rt></ruby>にうき世を立つる京<ruby><rb>住居</rb><rt>ずまい</rt></ruby>　　　　　　芭蕉

又<ruby><rb>沙汰</rb><rt>さた</rt></ruby>なしに娘よろこぶ　　　　　　　<ruby><rb>野坡</rb><rt>やば</rt></ruby>

この「うき世を立つる」というのは<ruby><rb>遊蕩</rb><rt>ゆうとう</rt></ruby>生活のことで、京ではそれをすら飯の種にしていると、<ruby><rb>太鼓持</rb><rt>たいこもち</rt></ruby>か何かのことを言った句であるが、それをこの絵本には<ruby><rb>眼鏡</rb><rt>めがね</rt></ruby>の老人が<ruby><rb>御産</rb><rt>おさん</rt></ruby>の<ruby><rb>枕屏風</rb><rt>まくらびょうぶ</rt></ruby>の外で、<ruby><rb>秤</rb><rt>はかり</rt></ruby>で銀を<ruby><rb>量</rb><rt>はか</rt></ruby>っているところが描いてある。どうしてまたこのようにも人々の解するところが異なるのであろうか。私などの想像では、一つには文法上の無理が多いこと、また一つには時代の推移に伴のうて、言葉も風俗も変ったからであろうが、主たる原因としては作者の境涯と教養、その他あらゆる生活の経験が、後世の読者とは共通でなかったことを挙げなければならぬ。連歌全盛時代の<ruby><rb>宗祇</rb><rt>そうぎ</rt></ruby>・<ruby><rb>兼載</rb><rt>けんさい</rt></ruby>の頃から、受け継いでいた俳諧師の学問というものは、近世の俳人ともまただいぶちがっている。彼らの読書の種類は『源氏』とか『古今集』とかいう一部の王朝文学に<ruby><rb>偏</rb><rt>へん</rt></ruby>し、それに<ruby><rb>禅門</rb><rt>ぜんもん</rt></ruby>の<ruby><rb>法語類</rb><rt>ほうごるい</rt></ruby>の知識が加わっていた。旅行は近世人もよくしているけれども、この人たちの旅行法はよほど<ruby><rb>行脚僧</rb><rt>あんぎゃそう</rt></ruby>に近く、日限も旅程も至って<ruby><rb>悠長</rb><rt>ゆうちょう</rt></ruby>で、且つかなりの困苦に<ruby><rb>堪</rb><rt>た</rt></ruby>え、素朴な生活に親しんでいたらしいのである。そういう類似の経験をもつ者だけが、相交わって互いに心理を理解し共鳴したうえに、時として詩の興味は<ruby><rb>昂揚</rb><rt>こうよう</rt></ruby>し、感覚が尖鋭化していたのである。彼らが目を見合わせてうなずいたり<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>を<ruby><rb>拊</rb><rt>う</rt></ruby>ったりしたことでも、我々には何の事やら<ruby><rb>合点</rb><rt>がてん</rt></ruby>の行かぬことが、多かったとしても不思議はないのである。かつて一度は同じ連衆に参加した者の間にすら、<ruby><rb>後々</rb><rt>のちのち</rt></ruby>は異説を生じ、<ruby><rb>越人</rb><rt>えつじん</rt></ruby>と<ruby><rb>支考</rb><rt>しこう</rt></ruby>、<ruby><rb>許六</rb><rt>きょりく</rt></ruby>と<ruby><rb>惟然</rb><rt>いぜん</rt></ruby>などは互いに<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>りまた争っていたのである。後世の追随者には誤解も師説であって、ふたたび新境地を<ruby><rb>拓</rb><rt>ひら</rt></ruby>くだけの人が出なかったために、程なくまた様式の中に没頭してしまい、<ruby><rb>蕪村</rb><rt>ぶそん</rt></ruby>も<ruby><rb>一茶</rb><rt>いっさ</rt></ruby>も<ruby><rb>発句</rb><rt>ほっく</rt></ruby>では大家のようであるが、天明・文化の俳諧は、ふたたびすでに甚だ単調になっている。前代文芸に対する我々の態度は改められなければならぬ。<ruby><rb>判</rb><rt>わか</rt></ruby>らぬ部分のあることは覚悟するがよいのであるが、それもだんだんに小さくしてゆく見込はある。とにかくに作者彼らの境涯に入って見ようとすること、是が時代を知る一つの<ruby><rb>要訣</rb><rt>ようけつ</rt></ruby>である。

## 九

学問としての文芸理解は、決して近頃になって始めて唱えられたものではない。或る種の新たなる文芸の、特に一つの時代一つの国に起こらねばならなかった事情、それが民衆の過去生活のいかなる部分を表現しているかということを、尋ね<ruby><rb>究</rb><rt>きわ</rt></ruby>めようとした人は江戸の町学者の中にも幾人かあった。事業があまりにも断片的であるために、随筆などといって軽んぜられているが、<ruby><rb>京伝</rb><rt>きょうでん</rt></ruby>や<ruby><rb>種彦</rb><rt>たねひこ</rt></ruby>のいくつかの著述は先駆であって、同じ態度を一段と精透に、進めて行ったのが<ruby><rb>喜多村節信</rb><rt>きたむらのぶよ</rt></ruby>、すなわち『<ruby><rb>嬉遊笑覧</rb><rt>きゆうしょうらん</rt></ruby>』『<ruby><rb>画証録</rb><rt>がしょうろく</rt></ruby>』『<ruby><rb>筠庭雑考</rb><rt>いんていざっこう</rt></ruby>』などの著者である。当然風雅の間に<ruby><rb>歯</rb><rt>よわい</rt></ruby>せられなかった<ruby><rb>市井人</rb><rt>しせいじん</rt></ruby>の以前の生活を、古い文芸の偶然なる記録の中から、探し尋ねてみようとした熱情は多とすべきであるが、なおその題目の都府に偏し、<ruby><rb>弘</rb><rt>ひろ</rt></ruby>く農漁の生活に及ばなかったのは欠点であった。その上にあれほど多くの文献を<ruby><rb>渉猟</rb><rt>しょうりょう</rt></ruby>したにもかかわらず、あまり時代が近いために、同じ方法を芭蕉翁の俳諧には及ぼさなかったのである。豊富なる資料は我々のために取残されている。この翁一門の俳諧に感謝しなければならぬことは、第一には古文学の模倣を事としなかったこと、ロマンチックの古臭い型を棄て、同時に<ruby><rb>談林風</rb><rt>だんりんふう</rt></ruby>なる空想の<ruby><rb>奔放</rb><rt>ほんぽう</rt></ruby>を抑制したことである。そうしてなお凡人大衆の生活を俳諧とする、古くからの言い伝えに忠実であったことである。それから最後には描写の技術の大いなる<ruby><rb>琢磨</rb><rt>たくま</rt></ruby>、殊に巧妙という以上の写実の親切である。彼の節度に服した<ruby><rb>連衆</rb><rt>れんじゅ</rt></ruby>の敏感を利用したとは言いながらも、とにかくに時代の姿を<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>ほどにも精確に、後世に伝え得た者も少ない。<ruby><rb>西鶴</rb><rt>さいかく</rt></ruby>や<ruby><rb>其磧</rb><rt>きせき</rt></ruby>や<ruby><rb>近松</rb><rt>ちかまつ</rt></ruby>の世話物などは、ともに世相の写し絵として、くりかえし引用せられているが、言葉の多い割には題材の範囲が狭い。是と比べると俳諧が見て伝えたものは、あらゆる階級の小事件の、劇にも小説にもならぬものを包容している。そうしてこういう生活もあるということを、同情者の前に展開しようとする、作者<ruby><rb>気質</rb><rt>かたぎ</rt></ruby>には双方やや似通うた点があるのである。

我々は<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いて無理なる解釈を下そうとせずに、最初にはまず今日難解を<ruby><rb>目</rb><rt>もく</rt></ruby>せられる部分が、どういうところにあるかを考えてみなければならぬ。だいたいに<ruby><rb>突飛</rb><rt>とっぴ</rt></ruby>な空想はその場の人にはおかしくても、時が立つとすぐに不明になってしまう。この<ruby><rb>風</rb><rt>ふう</rt></ruby>は談林とともに衰えたが、<ruby><rb>其角</rb><rt>きかく</rt></ruby>のごときはいつまでもそれを得意とし、また『冬の日』『春の日』の二集には、若干その気習が<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>っている。

はやり来て<ruby><rb>撫子</rb><rt>なでしこ</rt></ruby>飾る正月に　　　　　　　<ruby><rb>杜国</rb><rt>とこく</rt></ruby>

<ruby><rb>鼓</rb><rt>つづみ</rt></ruby><ruby><rb>手向</rb><rt>たむ</rt></ruby>くる<ruby><rb>弁慶</rb><rt>べんけい</rt></ruby>の宮　　　　　　　　　<ruby><rb>野水</rb><rt>やすい</rt></ruby>

などというのはその例であった。弁慶を祭った宮などは<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>を<ruby><rb>捜</rb><rt>さが</rt></ruby>してもあろうはずがないが、あまりに奇抜なために人がまごつくのである。撫子を正月に飾るというのも驚くが、是は<ruby><rb>流行正月</rb><rt>はやりしょうがつ</rt></ruby>と称して何か悪い年に、一般にもう一度年を取り直し、それから後を翌年にする俗習がしばしばくり返され、その日が多くは六月<ruby><rb>朔日</rb><rt>ついたち</rt></ruby>であったことを知れば、六月だから<ruby><rb>瞿麦</rb><rt>なでしこ</rt></ruby>でも飾るだろうという空想の、やや自然であったこともうなずかれる。

<ruby><rb>一陽</rb><rt>いちよう</rt></ruby>を<ruby><rb>襲</rb><rt>かさね</rt></ruby>正月はやり来て　　　　　　　　<ruby><rb>清風</rb><rt>せいふう</rt></ruby>

なんぢ<ruby><rb>桜</rb><rt>さくら</rt></ruby>よかへり咲かずや　　　　　　芭蕉

という<ruby><rb>附句</rb><rt>つけく</rt></ruby>などもほぼ似たる趣向であった。それからよく出てくるのは万日とか千日とかいう群衆念仏の興行、これもそういう仏事の頻繁にあった時代を、考えてみれば附け味はよくわかる。芭蕉には島流しの<ruby><rb>流人</rb><rt>るにん</rt></ruby>の生活を、句にしたものの多いこともちょっと有名であるが、是なども<ruby><rb>貞享</rb><rt>じょうきょう</rt></ruby>・元禄の<ruby><rb>交</rb><rt>こう</rt></ruby>が、殊に<ruby><rb>三宅</rb><rt>みやけ</rt></ruby>・<ruby><rb>八丈</rb><rt>はちじょう</rt></ruby>を刑罰に利用した時代であり、したがって江戸にその消息の<ruby><rb>頻</rb><rt>しき</rt></ruby>りに伝わったことを、想像してみればよくわかる。

## 一〇

我々にはまだおおよそは<ruby><rb>判</rb><rt>わか</rt></ruby>っていても、若い諸君には追々に不明になって行く生活も多いことと思う。他にその説明をする方法が無いとすれば、早く気づいてあべこべに是を史料とすることができるのである。二三の実例を『七部集』以外のものから引いてみるならば、

こんにやくの色の黒きも珍らしく　　　　<ruby><rb>沾蓬</rb><rt>せんほう</rt></ruby>

祭の末は殿の<ruby><rb>数槍</rb><rt>かずやり</rt></ruby>　　　　　　　　　　<ruby><rb>曾良</rb><rt>そら</rt></ruby>

見るほどの子供にことしいもの<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>　　　　芭蕉

<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>の祭だから、<ruby><rb>蒟蒻</rb><rt>こんにゃく</rt></ruby>の色が珍しく黒いと附けたところが俳諧である。その祭を見に出てくる子どもが、どれもこれも<ruby><rb>疱瘡</rb><rt>ほうそう</rt></ruby>の痕がある。今年は大分<ruby><rb>流行</rb><rt>はや</rt></ruby>ったなというのであるが、是なども<ruby><rb>種痘</rb><rt>しゅとう</rt></ruby>が普及してしまうと、もうこの句によらなければ思い浮べられぬ光景であり、またその祭の行列の一番後には、殿様から附けられた多くの<ruby><rb>槍持</rb><rt>やりも</rt></ruby>ち、今なら<ruby><rb>儀仗兵</rb><rt>ぎじょうへい</rt></ruby>に当るものが行くというので、それを見物に出て来たあばたの少年少女の姿が、一層活躍するのである。

<ruby><rb>小地頭</rb><rt>こじとう</rt></ruby>の前に<ruby><rb>並</rb><rt>な</rt></ruby>み<ruby><rb>居</rb><rt>い</rt></ruby>る<ruby><rb>萩</rb><rt>はぎ</rt></ruby><ruby><rb>芒</rb><rt>すすき</rt></ruby>　　　　　　　<ruby><rb>扇車</rb><rt>せんしゃ</rt></ruby>

終りの知れぬ<ruby><rb>下手</rb><rt>へた</rt></ruby>の<ruby><rb>舞舞</rb><rt>まいまい</rt></ruby>　　　　　　　<ruby><rb>以之</rb><rt>いし</rt></ruby>

舞まいは<ruby><rb>越前幸若</rb><rt>えちぜんこうわか</rt></ruby>などと同系統の、民間の古風な<ruby><rb>伎芸</rb><rt>ぎげい</rt></ruby>で、一派の家筋の者がこれを生計としていたのが、能や歌舞伎に押されて亡びてしまった。最初から長たらしい退屈なものだったようであるが、ちょうど芭蕉などの時代には、それがまた一段と下手になっていたらしいのである。萩芒というのは祝の日か何かで、そういう染模様を着た女たちが、幾人も見物している<ruby><rb>風情</rb><rt>ふぜい</rt></ruby>を句にしたのかと思う。

ゆひに屋根<ruby><rb>葺</rb><rt>ふ</rt></ruby>く村ぞ秋なる　　　　　　曾良

<ruby><rb>賤</rb><rt>しず</rt></ruby>の<ruby><rb>女</rb><rt>め</rt></ruby>が<ruby><rb>上総念仏</rb><rt>かずさねぶつ</rt></ruby>に茶を<ruby><rb>汲</rb><rt>く</rt></ruby>みて　　　　　芭蕉

このユヒには「雇」という漢字が宛ててある。農村の人たちが互いに仕事を助け合う慣例がユヒで、今でも全国に共通した方言であるが、東京の近くだけはもうこの語をあまり使っておらぬ。上総念仏の団体があるいていたのは、そう遠くの国まででなかったであろうから、是で関東にもあの頃はまだユヒがあったことが知れるのである。

夕まぐれ<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>おとして立帰り　　　　　　去来

<ruby><rb>泥</rb><rt>どろ</rt></ruby>打ちかはす<ruby><rb>早乙女</rb><rt>さおとめ</rt></ruby>のざれ　　　　　　芭蕉

田植の日は娘たちまでが<ruby><rb>昂奮</rb><rt>こうふん</rt></ruby>して、よく<ruby><rb>路</rb><rt>みち</rt></ruby>を行く人に<ruby><rb>泥苗</rb><rt>どろなえ</rt></ruby>などを投げる<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>をした。それを<ruby><rb>御祝儀</rb><rt>ごしゅうぎ</rt></ruby>とも苗祝とも名づけて、常例にしていた土地も遠国にはあるが、<ruby><rb>蕉門</rb><rt>しょうもん</rt></ruby>の人たちの熟知した<ruby><rb>京</rb><rt>きょう</rt></ruby><ruby><rb>江戸</rb><rt>えど</rt></ruby>中間の田舎には、近世はもうあまり聞かなかったのである。是もこの一句によって元禄にはあったことがわかってくる。

花散りて<ruby><rb>籾</rb><rt>もみ</rt></ruby>は<ruby><rb>二葉</rb><rt>ふたば</rt></ruby>にもえあがり　　　　　以之

春ともいはぬ<ruby><rb>火屋</rb><rt>ひや</rt></ruby>の<ruby><rb>白幕</rb><rt>しろまく</rt></ruby>　　　　　　　<ruby><rb>桃鯉</rb><rt>とうり</rt></ruby>

やう〱と<ruby><rb>峠</rb><rt>とうげ</rt></ruby>に<ruby><rb>掛</rb><rt>かか</rt></ruby>る<ruby><rb>雲霞</rb><rt>くもかすみ</rt></ruby>　　　　　　　　<ruby><rb>淡水</rb><rt>たんすい</rt></ruby>

火屋というのは火葬場に設けた仮小屋のことで、それを太陽の光に照されぬように、幕を張る習俗が以前にはあった。落花と<ruby><rb>苗代</rb><rt>なわしろ</rt></ruby>との<ruby><rb>艶麗</rb><rt>えんれい</rt></ruby>なる暮春の風景に対して、是はまた意外なる寂しい反映である。寛政頃の日光道中の紀行に、<ruby><rb>今市</rb><rt>いまいち</rt></ruby>附近でそれを見たという記事もあるが、この連衆はすでにみな、その物悲しい情趣をちゃんと体験していたのである。

<ruby><rb>露霜</rb><rt>つゆじも</rt></ruby><ruby><rb>窪</rb><rt>くぼ</rt></ruby>くたまる馬の血　　　　　　　　<ruby><rb>嵐雪</rb><rt>らんせつ</rt></ruby>

坊主とも<ruby><rb>老</rb><rt>おい</rt></ruby>とも言はず<ruby><rb>追立歩</rb><rt>おいたてぶ</rt></ruby>　　　　　　芭蕉

土の<ruby><rb>餅</rb><rt>もち</rt></ruby>つく<ruby><rb>神事</rb><rt>しんじ</rt></ruby>おそろし　　　　　　　同

<ruby><rb>追立</rb><rt>おいた</rt></ruby>て<ruby><rb>夫</rb><rt>ぶ</rt></ruby>というのは、誰彼なしに<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>をあるいている者をつかまえて、<ruby><rb>夫役</rb><rt>ぶやく</rt></ruby>に使ったことをいうかと思われる。それから直ちに土の餅を<ruby><rb>聯想</rb><rt>れんそう</rt></ruby>したのは、今でも型ばかりは残っている<ruby><rb>尾張</rb><rt>おわり</rt></ruby>の<ruby><rb>国府宮</rb><rt>こうのみや</rt></ruby>の<ruby><rb>儺追</rb><rt>なおい</rt></ruby>祭が、この連中には殊によく知られていたからであった。或る一人に土の餅を負わせ、<ruby><rb>鬼</rb><rt>おに</rt></ruby>に見たてて倒れるところまで追いあるくのがその祭の古例で、誰もその役に当たることを欲しないので、通りがかりの人を捉えて勤めさせたとも伝えられているのである。それから終りにもう一つ、是は『七部集』の中の著名な句であるが、

あと無かりける<ruby><rb>金</rb><rt>きん</rt></ruby>二万<ruby><rb>両</rb><rt>りょう</rt></ruby>

いとほしき子を他人とも名づけたり

やけどなほして見しつらき<ruby><rb>哉</rb><rt>かな</rt></ruby>

という<ruby><rb>其角</rb><rt>きかく</rt></ruby>と<ruby><rb>越人</rb><rt>えつじん</rt></ruby>の<ruby><rb>両吟</rb><rt>りょうぎん</rt></ruby>は、親がまじないのためにわが子に他人という名を付ける風習を<ruby><rb>咏</rb><rt>えい</rt></ruby>じたもので、この俗信は今でもまだ地方には<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>を留め、現に名士の中にも他人とか他人次郎などという名の人があった。外吉・外男などというのも同じ動機からかと思われる。我々が今日元禄の俳諧を読んで、難解としている部分の多くは、むしろいろいろの興味多き前代生活の、普通の記録には凡俗として省みなかったものを保存しているので、しかも至って<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>かなる注意と比較とによって、単に事実を明らかにし得るだけでなく、同情ある同時代人のこれに対して抱いていた感覚を、<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>うことができるのである。古文芸は後代の国民のために、無意識ながらも是だけの<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>きた史料を提供しているのである。文化の討究に<ruby><rb>志</rb><rt>こころざし</rt></ruby>ある者が、迎えてこれを利用しようとしなかったのは誤っている。

## 一一

<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby><ruby><rb>些々</rb><rt>ささ</rt></ruby>たる断片の珍奇を拾い上げて、やれビイドロの薬酒があったの、豚の寝姿をよんだ句があるのと、随筆風の博識をふりまわすべき時代ではない。諸君は<ruby><rb>汎</rb><rt>あまね</rt></ruby>くこの特殊なる文芸の総体から、滲透している民衆生活を味わってみることを心掛けなければならぬが、現在その一部分に事情があって、まだ真意の把捉し難い辞句があるかぎりは、一応の準備としては個々の細部の、成立ちにも注意する必要がある。自分などの俳諧の味わい方は、何か面白そうでまだはっきりと趣旨の呑込めぬ句は、折々思い出して口ずさんでいるのである。そうしているうちにはふいと思い当ることがある。それがまた一方には文化史のいろいろの方面を考察する際に、役に立ったことも何度かあるので、今までに公表している論文の中には、俳諧から気がついてわけもなく明らかになったものも二つや三つではない。それを並べてみると長くなるが、たとえば<ruby><rb>木綿</rb><rt>もめん</rt></ruby>が農村に入って、麻の衣類にかわっていった時代の様子、村に住する<ruby><rb>寡婦</rb><rt>かふ</rt></ruby>の生計が、農具の改良によって激変を受けたこと、いわゆる<ruby><rb>後家</rb><rt>ごけ</rt></ruby>泣かせという<ruby><rb>稲扱器</rb><rt>いねこきき</rt></ruby>の普及、それから久しい以前より問題にしている旅の女性、みことか<ruby><rb>歌比丘尼</rb><rt>うたびくに</rt></ruby>とかいうものの地方に与えた影響や、<ruby><rb>験者</rb><rt>げんじゃ</rt></ruby>・<ruby><rb>山伏</rb><rt>やまぶし</rt></ruby>という一派の宗教家の、<ruby><rb>常人</rb><rt>じょうじん</rt></ruby>の上に振うていた精神的威力など、それぞれ今日の世相を<ruby><rb>如是</rb><rt>かくのごとく</rt></ruby>ならしめている原因を明らかにするのに、しばしば芭蕉翁の文芸を利用することを得たので、しかもそれと同系同種と<ruby><rb>目</rb><rt>もく</rt></ruby>せられている初期の俳諧はもとより、後期の熱心なる追随者等の作品からは、ほとんと何らの参考になるものは得ていないのである。是を私などはこの<ruby><rb>正風</rb><rt>しょうふう</rt></ruby>の祖師の真骨頂が、今もなお正しく認められておらぬ結果かと考え、はたしてその仮定が当っているか否かを、もっと深く推究しようとしているのである。

そこでいよいよ最後にもう一つだけ、試みに問題を設けて諸君とともに考えてみたいのは、少し奇抜に失するかも知らぬが、昔の人たちはどういう場合に泣いたか、それが俳諧にはどの程度まで表現せられているか。是を単なる見本として抜出して実験に供する。現代はもう百年前と比べても、人の泣く分量は少なくなっているのみならず、泣く種もしくは場合もぐっと減じている。是は我々がきつくなったためではなく、小児の例を見てもわかるように、微細に内の感情を表白する言葉が、発達しまた普及したためかと思われる。今の人は何かというと涙ぐましいだの、<ruby><rb>目頭</rb><rt>めがしら</rt></ruby>が熱くなるだのという句を濫用するが、その実へんな顔をする程度で、声を<ruby><rb>揚</rb><rt>あ</rt></ruby>げる男などはもう無くなった。女にはそれでもまだ伝統的のものが残っていて、それが哀れにもまた美しくも認められているが、いわゆる男泣きはもう名称だけになろうとしている。つまりそういう単純な烈情というものが、事前に処理せられて常人の中にもめったに現われなくなったのである。俳諧花やかなりし頃には、芝居でなくとも男が泣いていたようである。たとえば、

<ruby><rb>西衆</rb><rt>にししゅう</rt></ruby>の<ruby><rb>若党</rb><rt>わかとう</rt></ruby>つるゝ草枕　　　　　　　　　<ruby><rb>洒堂</rb><rt>しゃどう</rt></ruby>

むかし<ruby><rb>咄</rb><rt>ばなし</rt></ruby>に野郎泣かする　　　　　　　<ruby><rb>許六</rb><rt>きょりく</rt></ruby>

きぬ〲は<ruby><rb>宵</rb><rt>よい</rt></ruby>の踊の<ruby><rb>箔</rb><rt>はく</rt></ruby>を着て　　　　　　芭蕉

<ruby><rb>東追手</rb><rt>ひがしおうて</rt></ruby>の月ぞ澄みきる　　　　　　　　<ruby><rb>嵐蘭</rb><rt>らんらん</rt></ruby>

この許六と<ruby><rb>師翁</rb><rt>しおう</rt></ruby>との<ruby><rb>附合</rb><rt>つけあい</rt></ruby>は、美少年が盛りの春をすでに過ぎて、懐旧に<ruby><rb>堪</rb><rt>た</rt></ruby>えぬ<ruby><rb>風情</rb><rt>ふぜい</rt></ruby>を叙したものかと思われるが、細かな感じは私には説明ができない。次に、

板のほこりに<ruby><rb>円座</rb><rt>えんざ</rt></ruby>かさぬる　　　　　　洒堂

すだれ戸に<ruby><rb>袖口</rb><rt>そでぐち</rt></ruby>赤き日の移り　　　　　　<ruby><rb>里東</rb><rt>りとう</rt></ruby>

君はみな〱<ruby><rb>撫子</rb><rt>なでしこ</rt></ruby>の時　　　　　　　　芭蕉

泣き出して<ruby><rb>土器</rb><rt>かわらけ</rt></ruby>ふるふ身の弱り　　　　　<ruby><rb>兀峰</rb><rt>こっぽう</rt></ruby>

是をやや詳しく説明すると、この一聯で気になるのは、第二・第四の句の結びの語形が似ていること、それから全体の場面のやや平板なことであるが、それでも前段は大きな<ruby><rb>古御殿</rb><rt>ふるごてん</rt></ruby>に、美しい姫君の<ruby><rb>幾方</rb><rt>いくかた</rt></ruby>か住んでおられる風情で、中古の絵巻物を見るようであり、芭蕉の<ruby><rb>附句</rb><rt>つけく</rt></ruby>の方は是をもう戦国の軍記ものまで引下げている。姫君・若様の成人なされた姿を見るにつけて、<ruby><rb>白髪</rb><rt>しらが</rt></ruby>の老臣が昔のことを思い出して泣くのである。だから兀峰の句はやや附き過ぎた嫌いもあるが、無骨な古武士の、殊に物いうことが<ruby><rb>下手</rb><rt>へた</rt></ruby>になって、戴いたかわらけの酒も飲み得ないで、悲喜感激する光景はよく描かれている。是を映画にでもしたら、さぞまた長ったらしい文句になったことであろう。俳諧のお蔭に我々はゆくりなく、この古風なエモーションに共鳴することができるのである。『七部集』にはこれ以外に今一つ、変った泣き方が出ている。是は『<ruby><rb>比佐古</rb><rt>ひさご</rt></ruby>』の中にあるのだが、

<ruby><rb>生鯛</rb><rt>いきだい</rt></ruby>あがる浦の春かな　　　　　　　　<ruby><rb>珍碩</rb><rt>ちんせき</rt></ruby>

この村の広きに医者の無かりけり　　　　<ruby><rb>荷兮</rb><rt>かけい</rt></ruby>

そろばん置けば物知りといふ　　　　　<ruby><rb>越人</rb><rt>えつじん</rt></ruby>

かはらざる世を退屈もせずに過ぎ　　　　　兮

また泣き<ruby><rb>出</rb><rt>いだ</rt></ruby>す酒のさめぎは　　　　　　　人

ながめやる秋の<ruby><rb>夕</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>ぞだゞ<ruby><rb>広</rb><rt>びろ</rt></ruby>き　　　　　　　兮

<ruby><rb>蕎麦</rb><rt>そば</rt></ruby>まつしろに山の<ruby><rb>胴中</rb><rt>どうなか</rt></ruby>　　　　　　　　人

この泣き<ruby><rb>上戸</rb><rt>じょうご</rt></ruby>は<ruby><rb>他処</rb><rt>よそ</rt></ruby>から来た<ruby><rb>寄留人</rb><rt>きりゅうにん</rt></ruby>かと思われるが、どうして泣き出したかは村の衆にもわからぬごとく、諸君ら現代人にも不審であり、また或いは本人にも説明ができなかったかも知れぬ。しかし少なくともこんな男が泣いたという事実だけはあったのである。同じ集にはその次にまた一つ、

月花に庄屋をよつて高ぶらせ　　　　　　珍碩

<ruby><rb>煮</rb><rt>に</rt></ruby>しめの塩のからき<ruby><rb>早蕨</rb><rt>さわらび</rt></ruby>　　　　　　　<ruby><rb>怒誰</rb><rt>どすい</rt></ruby>

来る春につけても<ruby><rb>都</rb><rt>みやこ</rt></ruby>忘られず　　　　　　里東

半気ちがひの坊主泣き出す　　　　　　珍碩

<ruby><rb>呑</rb><rt>の</rt></ruby>みに行く<ruby><rb>居酒</rb><rt>いざけ</rt></ruby>の荒の<ruby><rb>一</rb><rt>ひと</rt></ruby>さわぎ　　　　　<ruby><rb>乙州</rb><rt>おとくに</rt></ruby>

この珍碩というのは前の<ruby><rb>洒堂</rb><rt>しゃどう</rt></ruby>とたしか同じ人で、奇妙に泣くという附句の席にばかり<ruby><rb>連</rb><rt>つら</rt></ruby>なっている。<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>この人の趣味でもなく、特別の理解でもなかったであろうが、この時代までは折々彼の見たようなすね者、もしくは風狂人などと呼ばれた中年者が、風雅の人の間に<ruby><rb>伍</rb><rt>ご</rt></ruby>して、投げやりの生活を認められていたのである。彼らの酔泣きは精神病理の現象だったかも知れぬ。しかし少なくともその複雑な心境を、適切なる言語で言い現わす方法は、当時の日本にはまだ備わらなかったのである。酒はその結果として馬鹿々々しく歓迎せられ、古来のおみきの用法の外に逸脱したのみならず、ついには健全なる言語機能を有し、また何ら表現の手段を見いだすに苦しむような不平も<ruby><rb>煩悶</rb><rt>はんもん</rt></ruby>ももたぬ者までが、人を見真似に無用にこのナルコチックに向かって行ったのである。当代のごとく俳諧の乏しく、もしくは<ruby><rb>畸形</rb><rt>きけい</rt></ruby>に発育してしまった世の中に、生まれ合わせて来た我々は、殊に是を改善整頓して、人間の最も<ruby><rb>埋没</rb><rt>まいぼつ</rt></ruby>しやすい生活、いわゆる<ruby><rb>片隅</rb><rt>かたすみ</rt></ruby>の喜怒哀楽、ありふれたる民衆の幸福と不幸とのために、大きな記念碑を建てようとした先賢の事業を、尊敬せずにはおられないのである。

国の文芸の味わい方は、是がたった一つだと申すのでは決してない。単にこういう一つの鑑賞の態度もあると私は言うのである。将来制作をもって身を立てようとする少数の人たちを除き、その他の多数の有識者には私はこれを勧めてみたいのである。

  


## 女性史学

## 一

女を教育しようとする父兄なり先輩なりの考え方には、<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>まで二通りの種類があった。その一つは、男と同じ学問を<ruby><rb>授</rb><rt>さず</rt></ruby>けようとするもの、今一つは私などのように、どうかしてやや分業の<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>に<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>でしめようとするものである。いわゆる職業教育としては、女子の学問の種類を限定することは女のためには不利であろうも知れぬ。男なんかに負けるものかといきごんでいる独立婦人に、働くことのできぬ場合を多くし、余計な制約を加えることになるからである。しかし家庭の一員としての女性ならば、<ruby><rb>無暗</rb><rt>むやみ</rt></ruby>に女でもできるという仕事を見つけてやって、男と競争させることは家のためには損である。今日のごとき就職難時代すなわち人が多く仕事が少ない世の中では、男女協力して失業者を作る結果になるからである。<ruby><rb>雇</rb><rt>やと</rt></ruby>う者の側から申すと、来て働いてくれるならば、電気の技手でも煙突掃除でも、安くて<ruby><rb>辛抱</rb><rt>しんぼう</rt></ruby>する女の方を頼もうとするかも知れぬ。幸か不幸か今はまだ女の働きが鈍いから、賃銀は高くとも男を使うが、もしも能力が同等であったら、失職者は或いは男の方の専門にならぬとも限らない。実際また夫婦が<ruby><rb>共稼</rb><rt>ともかせ</rt></ruby>ぎをするばかりに、知らず知らず双方の最低賃銀を下げて、せずともよい我慢をしている家が多い。この点にかけては、一家で一人が働けば夫婦親子の者の衣食住を支えて行けるという、是までの立て前の方が実はよいので、問題はただ家にいて主人の養いを受ける者が、ごろごろと昼寝をしていたり、<ruby><rb>鉄棒</rb><rt>かなぼう</rt></ruby>を<ruby><rb>曳</rb><rt>ひ</rt></ruby>いて近所をまわってあるいて、日を送っていたりしてよいか悪いかの点に帰着するのである。

職業と修養とは、今日では実は二つのもので、殊に学問などは職業にならぬ方が、進みもすれば世の中の幸福にも貢献する。一方に現在都会に住む若い労働者などは、できることなら職業の余暇に、もっと修養になる学問をしたいと念じていて、しかも疲れ切ってそれが十分にできず、むしろ不自由な田舎に住んでいる青年の、いわゆる晴耕雨読の境涯を<ruby><rb>羨</rb><rt>うらや</rt></ruby>んでいる者は多いのである。彼らが日々の衣食のために働かねばならぬ時間を、<ruby><rb>努</rb><rt>つと</rt></ruby>めて短くしようとしている国家の目的も、主としては<ruby><rb>爰</rb><rt>ここ</rt></ruby>にあるのである。したがって婦人に職業が少なくまた軽いということも、それがその余力を今一段と尊いものに、向けさせる結果にならぬかぎりは、社会的に実は無意味である。今日のごとく女子の教育が盛んになっておりながら、なおいわゆる有閑夫人の多くできることは、たとえ少しも悪いことはせずとも、すでに社会の一つの<ruby><rb>病</rb><rt>やまい</rt></ruby>であった。まずは現在の教育方法がよくないという推論にもなり、またはそれくらいならばまだ職業をもたせる方がよいという意見も出てくるわけである。

## 二

女子の職業を軽んじ、または是に携わる者を気の毒がることは<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>まちがっている。ただ私などのおかしいと思っていることは、誰しも自分の娘や妹のために、できるかぎり安楽な、世に出て働く必要のないような境遇を、見つけて<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>りたいと念じておりながら、その教育はどうかというと、いわゆる万々一の場合、すなわち夫が病身であったり、酒呑みで失業したり、子どもをかかえて未亡人となったり、家が破産に<ruby><rb>瀕</rb><rt>ひん</rt></ruby>して昔なら<ruby><rb>身売奉公</rb><rt>みうりぼうこう</rt></ruby>でもしなければならぬ場合に、備えるような教育ばかりを与えたがり、また受けたがることである。「芸が身を助けるほどの不しあわせ」という近世の川柳もあるが、是はまだ意外な効果といってよい。始めからそのつもりで、まるまる役に立たずに<ruby><rb>済</rb><rt>す</rt></ruby>めばそれに越したことはないという教育に、全力を挙げているということは、再考する必要があると思う。新聞や雑誌に書立てるので、社会は不幸悲惨をもって<ruby><rb>盈</rb><rt>み</rt></ruby>ちているかのごとく印象せられるが、百分率からいうと九十八九の家庭では、女は平穏無事に小さな世事に<ruby><rb>屈托</rb><rt>くったく</rt></ruby>し、そうしてただ少しずつ学校で教えられたことを忘れて、生きているのが現状のようである。是から先の世の中をよくするも悪くするも、今はただこれらの人々の心掛け、そういう多数の人の毎日の暮しかた<ruby><rb>如何</rb><rt>いかん</rt></ruby>によるのであって、出てあるいて非難を受けるような変なことをする者が、時たま現われて問題になるよりも、この多数が<ruby><rb>閑</rb><rt>ひま</rt></ruby>で閑で何をしてよいのかに迷っているという方が、より一般的なる婦人界の恥辱だと思う。もしかの場合の覚悟も大切なことではあろうが、それは常の日の常の役目が、相当に用意せられてから<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>の話でなければならぬ。

女の学問、女らしい学問というと、今まではとかく食物のカロリイ計算だの、子どもの衛生だのにかぎるごとく考えられがちであった。それも生活に欠くべからざるものだが、是は技術である。学問というものは、私などの解しているところでは、その利得が自分の一身に止まらず、社会を今までよりも賢くすることでなければならぬ。すなわち<ruby><rb>弘</rb><rt>ひろ</rt></ruby>く人間の智慧の水準を高めることを目的とすべきものである。現在はちょうど世の中の一つの変り目で、古い<ruby><rb>仕来</rb><rt>しきた</rt></ruby>りと新しい思索とが抵触して、かつては直面しなかったいろいろの生活問題の、解決を今明日に迫られているものが多い。それを全然男たちに任せ、ないしは彼らの迷いまた誤まるのを、じっと坐視するだけが女の役かどうか。或る問題は職務に疲れきっている人々の手から引取り、または少なくとも良い考え、新しい見方を暗示することが、女には全然できないものと運命づけられているかどうか。賢明なる先覚者の再思三慮すべき点はここにあるのである。婦人参政権の問題は、御承知のごとく今は少し下火になっているが、やがてまた起こるにきまっている。今日の婦人は、またその教育方法は、はたして国の政治に参画して、女でなくてはできぬような社会奉仕を、なし得るだけに支度せられているかどうか。是が私には非常に気になるのである。

是は男の普通選挙も同じことで、女にも国事人事を憂えしめようという説は、理論として誰もこれを<ruby><rb>拒</rb><rt>こば</rt></ruby>む者は無い。ただ時期が<ruby><rb>尚</rb><rt>なお</rt></ruby><ruby><rb>早</rb><rt>はや</rt></ruby>いとか手続きがまずいとか言って、反対している者があるだけである。その実現はまったく時の政治がこれを決する。あすが日にもさあ<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>ってみようということになるかも知れぬ。はたしてこれを試みて何らかの効果があるかどうか。またはそのための用意が整うているかどうかということになると、それはおのずからまた別の問題になるのである。男の前例も同じように、普選は断行してみたが、格別これというだけの変りも無かったというような、一国として恥がましい結果に<ruby><rb>陥</rb><rt>おちい</rt></ruby>らぬことを、お互いに今から警戒しておかなければならぬ。現在の政治はあまりにも<ruby><rb>元</rb><rt>もと</rt></ruby>のままのやり口で、しかも実際の問題はあまりにも激増してきた。古風な政治家の手に合わぬという大事件が新たに生まれ、また省みられなかった事柄が省みられ出した。そうして国民の一般知識は、まだまだその問題を解く資料には不足だというまでは、明白になったのである。いかなる方法を尽してなりとも、我々の学問をもう一押し前へ進めて行かなければならぬ理由は確かにあるのである。男子はもとよりこれに必死となっているが、女性の側でも<ruby><rb>只</rb><rt>ただ</rt></ruby>これを傍観して、蔭であれあれと言っている時代ではあるまいと思う。

## 三

歴史が是らの難問題を、すべて解決してくれるものとは断言することはできない。しかし<ruby><rb>判</rb><rt>わか</rt></ruby>らぬこと説明が付かぬという事実には、必ず隠れたる原因があり、その原因は必ずみな今よりは前にある。すなわち歴史のいまだ書かれざる巻々である。女がそれを見つけ出し得るとも無論きまらないが、実は今まで彼女らが、あまりにこの方面に無関心だったお蔭に、特にその手近だけに、多くの大切な暗示がまだ残っておりそうなのである。だから新たにその持前の細微な注意力をもって、<ruby><rb>捜</rb><rt>さが</rt></ruby>そうとすれば大いに見つかるかも知れぬのである。しかしただ勉強して本を読み、本に教えてもらおうとしても失望する。書物は大抵が男の手に成り、彼らに<ruby><rb>合点</rb><rt>がてん</rt></ruby>の行くことまでしか書いていないからである。そういう私とても男だから、この男の言うことも<ruby><rb>只</rb><rt>ただ</rt></ruby>御参考にしかなるまいが、おおよそ人間の作り上げた世の中ほど、込み入っている組織は他には無い。事実は明白だなどと言ってすましていることでも、近よって細かに見ると、思いがけぬ原因が蔭の方から糸を引いている場合が<ruby><rb>毎</rb><rt>つね</rt></ruby>に多い。少なくとも我々の今もつ人間知識では、ほんの片端しか問題の<ruby><rb>綾</rb><rt>あや</rt></ruby>は解けていないものが多いのである。<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>今すぐに成績が挙がるとまでは楽観し得ないけれども、ともかくも日本の少しでも余力のある婦人たちは、その平日の心掛によって、もっと多くの知識を得、もっと多くの世の中の問題、殊に日本の現代の疑問を、解釈し得られることを目標として、この実地の史学を進めてゆくことが、社会に役立つ一つの<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>であると思う。

例に引くのも胸の痛くなる話だが、この四五年来急に目に立って増して来た親子心中、母がこの世をはかなんで見棄ててゆく場合に、まだ東西も知らぬ幼児を<ruby><rb>連</rb><rt>つ</rt></ruby>れてゆく風習、<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>などは正面からその悲惨事を防止しようという前に、是非ともまず何故に日本にばかり、特にかような死に方が多いのだろうかを、たとえ不可能なまでも一応は尋ねてみなければならぬ。そうでない限りはただ歎息するだけで、いつになったら止むという見込が立たぬからである。是には一種の感染ということも無いとは言われぬが、別にそれ以外に家の連帯感、すなわち小さなわが家を除いては孤児を愛する<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>もなく、どうせ親の不運は<ruby><rb>児</rb><rt>こ</rt></ruby>も分かたなければならぬという考え方がもとになっているか。もしくは小さな者の生命と霊魂が、家に所属するように思っていた以前の独立性否認がなお続いているか。ただしはまた人生の幸福と死後というものに対する特殊なる信仰が、無意識に今も残っているものか。とにかくいろいろの古風な考え方が、新たな誤れる感情と交錯して、かかる残虐なる決意を導いたことが無いとは言われない。しかもそれらの心理現象の底に横たわる消極的な思い切り、または女の勇気というべきものが、従順無抵抗を本位とした江戸期以来の道徳の制約を受けて、たった一つの「生命」より以外に、その自由処分に<ruby><rb>委</rb><rt>ゆだ</rt></ruby>ねられたものが残らなかったということが、もしやこういう情ない進路を指示したのではないか。仮にこの推測が当っているとすれば、その証拠は歴史の上に見つからなければならぬ。単なる或る一つの想像説として棄ておかずに、そのつもりで<ruby><rb>捜</rb><rt>さが</rt></ruby>して行けば、うそか本当かは今に必ず明らかになると思う。古い家々の<ruby><rb>躾</rb><rt>しつ</rt></ruby>けかたには、女子の勇気と<ruby><rb>胆力</rb><rt>たんりょく</rt></ruby>とを、ただ死の方面にしか発露せしめないような、わけのわからぬ方針が久しく立っていて、死ぬほどの不幸が家に起こらぬかぎり、烈女の名は世に現われる機会がなく、したがって手本とする前代の婦人の、大多数は<ruby><rb>剣</rb><rt>けん</rt></ruby>に<ruby><rb>伏</rb><rt>ふ</rt></ruby>しているのである。そんな昔の教科書を、よく考えもせずに受け継いだ結果が、思慮の浅い者を何かというと<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>へばかり向かわせるのではないか。もしそうだとすると、是は女の勇気の最も惜しむべき濫用であった。今はまだそれを断定することができぬなら、是には是非とも男子も参加して、もっと深くその根本を探り、いよいよそうと<ruby><rb>極</rb><rt>き</rt></ruby>まったら、倫理教育の<ruby><rb>本</rb><rt>もと</rt></ruby>を立て直さなければならぬ。

## 四

<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>はかなり大きなまたむつかしい問題で、最初から動かぬ答を期することは無理かも知れぬが、少なくとも永年の慣習というものの中には意外な拘束があることを気づいた人だけが、だんだんにこれを正しく考えることができると思う。そのためには若干の練修を積むように、もっと小さな日常卑近の問題から観察を始めるのも一つの方法であって、そういう問題ならば私はまだ幾つでも提出し得るのである。一つの例を挙げると日本人の体質、是が現在はまだ多くの民族と比べて見劣りがするように我も人も感じている。その事実ははたして昔からのものであり、すなわち日本人の一つの特徴であるのか。ただしはまた近世に入ってこうなったのか。是が一つの目前の問題である。古い記録には偉人の身長が折々書いてあり、小男ということもよく記されているが、普通というのはどのくらいであったか、確かには知れない。中世の武人の用いたというすばらしい大きな<ruby><rb>兜</rb><rt>かぶと</rt></ruby>だの、引きずるような長い<ruby><rb>鎧</rb><rt>よろい</rt></ruby>を見ると、どうやら今よりもずっと体格のすぐれた人が、彼らの中には多かったらしく思われる。とにかく腕力と<ruby><rb>膂力</rb><rt>りょりょく</rt></ruby>とだけは十分な記録があり、また記録外の証跡も残っている。村の青年たちが休日の慰みに、<ruby><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby>いで力を試した<ruby><rb>力石</rb><rt>ちからいし</rt></ruby>、北陸地方でバンブチとも番持ち石ともいうものには、驚くほど大きなのがあって、今ではさし上げ得る者も次第に少なくなっている。是らは近い頃の事だから尋ねたら多分すぐに<ruby><rb>判</rb><rt>わか</rt></ruby>る。すなわち以前の方が力の強い者が多かったのである。老人たちが<ruby><rb>二言目</rb><rt>ふたことめ</rt></ruby>にはよく言う昔の人の元気と勇気、それは多くの場合にはこの腕力の自信であった。もう一つ以前には力は信仰であった。神に<ruby><rb>祷</rb><rt>いの</rt></ruby>って授けられると信じ、また親から子孫に伝わるのも神意と考え、力の筋は女に伝わってよその家に行ってしまうとも言っていた。それから眼力と<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>って遠目の利くこと、じっと物を見つめて相手をへこませる力、こういう点にも元は傑出した人が多かったが、細かな書物の字を読むようになって、その力はたちまち衰えて、都会の青年は半分は<ruby><rb>眼鏡</rb><rt>めがね</rt></ruby>を掛けている。早足と<ruby><rb>食溜</rb><rt>くいだ</rt></ruby>めなども昔の人の<ruby><rb>長処</rb><rt>ちょうしょ</rt></ruby>であった。一度にうんと食べて二日も三日も食わずに働けるのは体力で、単なる<ruby><rb>痩我慢</rb><rt>やせがまん</rt></ruby>ではできない芸当である。今でも少しはまだ残っていると思うが、前夜自分の勝手で寝なかった者が、次の日は平気で働いて疲れた様子も見せぬこと、それから病気や<ruby><rb>怪我</rb><rt>けが</rt></ruby>をしても、少しも弱らずに<ruby><rb>直</rb><rt>す</rt></ruby>ぐに治ってしまう<ruby><rb>自癒力</rb><rt>じゆりょく</rt></ruby>ともいうべきもの、是らはいずれも近世に入ってひどく退歩した。それと今日の日常生活の変化とは、おそらく密接な関係があるであろうが、生理学の方からこれを考えている人は有るやら無いやら、第一にまず私などの思っているほど、大きな退歩があり変化があったことを、気づかぬ人も多いのである。

衣食住の変遷は、ごく近い頃の分は誰でも知っているであろうが、それがもう一つ前の時代から、永くかかって少しずつ地方的に変って来たことは、おそらく<ruby><rb>何人</rb><rt>なんぴと</rt></ruby>もまだ考えずにいる。この事は『<ruby><rb>三省録</rb><rt>さんせいろく</rt></ruby>』という<ruby><rb>類</rb><rt>たぐい</rt></ruby>の書物にも少しは載せてあるが、それよりもわが国現在の事実を比較して見れば、一層よく判明するのである。平民の生活ぶりは政治の歴史のように、一度にはっきりとは改まってしまわない。土地により環境によって一部は早く進み、他の各部は順次に遅れて進んで行く。それで今日のごとく新文化の普及した時代になっても、その方々の異なる生活状態を寄せ比べて見ると、変遷の各段階が現われてくるのである。たとえばわが家では親がいるうちだけで止めた行事を、隣村の親類では今でもまだ続けている。もう少し奥の<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>に行けば、うちの年寄の話だけに聴いているような食べ物なり着物なりが、現に今も用いられているという場合も多く、さらにその比較をなお一段と<ruby><rb>弘</rb><rt>ひろ</rt></ruby>く進めてみると、日本人の生活ぶりの次々に改まってきた道筋が、かなりはっきりと跡づけられて、変化は決して明治大正の代に入って、突如として始まったものでないことがわかるのである。

それを一つ一つ述べ立てることは、時間<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>しであり、まためいめい自分で知られる方がよいのだが、大体に日本人の食物などは、近世に入ってから追々と柔かくなり、甘くなり、且つ温かくて<ruby><rb>汁気</rb><rt>しるけ</rt></ruby>の多いものになってきている。この四つの変革が、胃腸の働きやまた歯の健康の上に、何らの影響を及ぼさずにいたとは思われない。その中でも歯医者は近世になって始めて現われ、金歯がきらきらと光り出したのは、ほんの二十年三十年来の現象であるが、それ以前ははたして盛りの男女まで、みんな歯抜けでぱくぱくしていたかというとそうでない。年が寄ると歯が落ちて早く衰弱したのは事実でも、壮年の者の歯は甚だ丈夫で、物を<ruby><rb>咬</rb><rt>か</rt></ruby>み割り喰い折ったという類の話は、今の人が驚くほど多く伝わっている。是がもし調理法の変遷に基づいて、いつとなく歯の弱い者を多くしたのだとしたら、何はさしおいてもその原因を改めなければならぬのだが、それを確かめようにも第一に食物の近世史を調べる人が無い。こういう問題は実は男たちには不向きなので、かかって調べるならそう困難な事業でもないのに、是まではほとんと打棄ててあった。婦人<ruby><rb>方</rb><rt>がた</rt></ruby>が携わってくれられぬかぎり、まだ当分はこの方面は明らかになるまいと思う。我々の生活技術は進んだとは申しても、その変化は必ずしも常に改善ばかりでない。隠れた弊害の<ruby><rb>副</rb><rt>そ</rt></ruby>うことを知らず、またはまるまる結果を考えずに、真似や流行によって誤ったことを始めた場合もあるのである。それを今頃とやかく言ってみても仕方がないようなものの、少なくともこれに<ruby><rb>由</rb><rt>よ</rt></ruby>って、社会も各個人と同じように時々は心得ちがいをしたり後悔したりすることがあるのだということに心づけば、将来はもう少し注意深くなるわけである。歴史の最も大切な教訓は実に<ruby><rb>茲</rb><rt>ここ</rt></ruby>にあるのであった。それは政治や戦争のように、男たちの事務だけに限らぬのみか、食物は毎日の生活であるだけに、むしろ人生の幸不幸に影響を及ぼすことが大きいのである。単に今後の参考になるだけでも、学問の効果は無限だと思う。

## 五

同じことはまた第二段に、衣服の変遷についても考えてみることができる。人が近世甚だしく風を引きやすくなったことは、金歯以上の大事件であった。カゼは以前には流行病の一つ、または眼に見えぬ悪霊の<ruby><rb>所為</rb><rt>せい</rt></ruby>とも想像せられていたことは、風邪という語からでもよくわかる。つまり今のように普通の<ruby><rb>病</rb><rt>やまい</rt></ruby>ではなかったので、この変遷と衣服とは関係があるらしいのである。我々の衣服はどう変ってきたかというと、是もやはり柔かくなり、また糸が細く目がこまかくなっている。「木綿以前の事」という一文に、かつて私はこの点を少しく考えてみたことがある。麻糸にも精粗の差はあるが、もともと手先の<ruby><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>だから<ruby><rb>常人</rb><rt>じょうじん</rt></ruby>の着物は糸が太く布が強くて突張っていた。まるまるとした人のからだの表面との間に、小さな三角形の空間が幾らでもできていた。日本は欧洲とは反対に珍しい夏湿の国で、住民はまたおそろしい汗かきである。汗は放散して冷を取るために出るかと思われ、扇はまたその水蒸気を、着物の下から追出すために用いられるのである。麻や<ruby><rb>栲</rb><rt>たえ</rt></ruby>を着ていた時代には、その扇は使わずともすぐに蒸発したのが、<ruby><rb>木綿</rb><rt>もめん</rt></ruby>になってそれをほとんと不可能にしたのである。だから夏分は肌がいつも<ruby><rb>沾</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れている。

しからばどうしてまた物ずきに、そんな木綿などを着ることにしたかというと、その方が第一に外観がよいからである。キゴコロという言葉は是に伴のうて普及した。木綿は平安朝のごく始めに、<ruby><rb>崑崙</rb><rt>コンロン</rt></ruby>人が種を携えて漂着したと古記にはあるが、実際それが普及したらしい形跡は無い。舶来品だけが久しい間<ruby><rb>珍重</rb><rt>ちんちょう</rt></ruby>せられ、国内で盛んに作り出したのは二百年ぐらい前からのことで、それも明治になってようやく一般化したものである。その特徴は何色にでもよく染まること、麻には不可能なる鮮かな染模様でも<ruby><rb>縞</rb><rt>しま</rt></ruby>でも、次々の工作によって自由に製品の改良ができる。遠目は絹に近くまた肌ざわりも柔かである上に、何よりも女に嬉しかったのは、衣裳の<ruby><rb>輪廓</rb><rt>りんかく</rt></ruby>の美しくなったことである。心がすぐに外に<ruby><rb>顕</rb><rt>あら</rt></ruby>われる身振り身のこなしが、麻だと隠れるが木綿ならばよく表現せられる。泣くにも笑うにも女は美しくなった。芭蕉翁の時代はちょうどその木綿の流行の初期で、「はんなりと細工に染まる紅うこん」だの、または「染めてうき<ruby><rb>木綿袷</rb><rt>もめんあわせ</rt></ruby>の鼠色」だのという句が、しばしば『七部集』の俳諧の中に見えている。

もう一つ、<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>はやや皮肉な見方だが、麻の衣服は少しく長く持ちすぎる。伊豆の<ruby><rb>新島</rb><rt>にいじま</rt></ruby>から友人が写してきた写真では、七十二三の老女が嫁入の時にこしらえたという<ruby><rb>藍無地</rb><rt>あいむじ</rt></ruby>の<ruby><rb>帷子</rb><rt>かたびら</rt></ruby>を着ている。木綿はこれと反対に早く悪くなってくれるから、安くさえなれば（実際また安くなった）次々に取替えて、変化の趣味を楽しむことができる。ここに<ruby><rb>縞織</rb><rt>しまおり</rt></ruby>やいわゆる<ruby><rb>中形</rb><rt>ちゅうがた</rt></ruby>の、発達した原因があるので、年齢に合わせて派手だとかじみだとかいう問題は、<ruby><rb>頻々</rb><rt>ひんぴん</rt></ruby>と取替えるからいよいよ細かくなってきて、ついには自分の手ではできない工場の品物に、求めるほかは無くなったのである。家に<ruby><rb>地機</rb><rt>じばた</rt></ruby>の置いてあった頃でも、夏は少なくとも<ruby><rb>買木綿</rb><rt>かいもめん</rt></ruby>を着る人が多くなっていた。それでも男たちはまだ洗濯物に<ruby><rb>糊</rb><rt>のり</rt></ruby>をこわくして、少しでも麻に近い感触と、蒸発区域とを保とうとしたが、女はまずそれを喜ばなくなってしまった。そうして機械ができて糸は極度に細くなったのみならず、男も<ruby><rb>後々</rb><rt>のちのち</rt></ruby>は<ruby><rb>小倉織</rb><rt>こくらおり</rt></ruby>のような地の詰まったものを<ruby><rb>詰襟</rb><rt>つめえり</rt></ruby>にして、ぴたりと身に着けて汗だらけになり、またすぐに裸になりたがる。この木綿糸の水を含む特質、是と<ruby><rb>肌膚</rb><rt>はだ</rt></ruby>の抵抗力とは、どうも関係がありそうなのである。

## 六

<ruby><rb>欧羅巴</rb><rt>ヨーロッパ</rt></ruby>人の経験した一つの悲しむべき失敗は、太平洋の島々においてはすでに承認せられている。あのフィリッピンの婦人の着物で見るような<ruby><rb>寒冷紗</rb><rt>かんれいしゃ</rt></ruby>というものが行われてから、かなり土人の体力を弱めている。この方面の伝道師には英国人が多いが、英人でなくともこういう地位の人は物固い。彼らの本国では夏が乾燥しているから、私らでも三十五六度という暑い日に、<ruby><rb>袷服</rb><rt>あわせふく</rt></ruby>を着てあるき扇などは忘れていた。裸の人などは見る機会の無い国が多い。女はなおさらで夫にすら見せないという人が幾らもあった。したがってその裸体を非常に嫌い、牧師の夫人たちが<ruby><rb>率先</rb><rt>そっせん</rt></ruby>して、この寒冷紗をはやらせたのである。それは土人もむしろ<ruby><rb>悦</rb><rt>よろこ</rt></ruby>ぶところで、現在はもうよほど多くの島に、この<ruby><rb>風</rb><rt>ふう</rt></ruby>が一般化しているのだが、一つ困ったことには彼らはそれを着たり脱いだりすることに<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れない。たとえば夕立が降ってずぶ<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れになっても、なお裸の時代と同様にごろりと寝転んで乾かそうとする。千九百十八九年の<ruby><rb>西班牙風邪</rb><rt>スペインかぜ</rt></ruby>の流行に、急性肺炎に<ruby><rb>罹</rb><rt>かか</rt></ruby>って死ぬ者が多く、時としては一部落が根こそげ滅びたというなどの、原因は是かららしいということは白人の調査委員も認めている。日本でもかつて陸軍の手で、<ruby><rb>脚気</rb><rt>かっけ</rt></ruby>と白米食との関係を調査し、それが今日のヴィタミン研究の<ruby><rb>刺戟</rb><rt>しげき</rt></ruby>を<ruby><rb>為</rb><rt>な</rt></ruby>したようだが、右の木綿の方は細糸<ruby><rb>綾織</rb><rt>あやおり</rt></ruby>の流行が新しいから、是と呼吸器病との関係までは、まだ深く注意する人が無いのである。あなた方の夏の衣服がすってんてんになって、私などのような心配家はほっと息をしているのだが、実はまだ<ruby><rb>靴</rb><rt>くつ</rt></ruby>の問題が残っている。是らを必ず健康の優劣と結びつけることは、<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>速断の嫌いがある。しかし少なくとも我々の注意は、ここまで及ばなければならぬ。二者の変遷すなわち衣食種類と国民健康とは、少なくとも併行して変ってきているので、とにかく過去歴代の生活改善なるものが、正しいか正しくないかは批判せられ、検討せられて<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>るべきものだということは言える。是まで人のしたことにも結果から考えて、<ruby><rb>為</rb><rt>ため</rt></ruby>になったこととならなかったこととがあった。それをよく知ってからでないと、新しい改善に責任を負うことはできぬはずである。私のようなおおよそ家政学と縁の無い人間が考えてみても、気のつくようなことは是ほどある。ましてやもし細心なる注意と同情とをもつ人たちが探したら、古来天運とあきらめまた人生の常と歎いていた不幸にも、もう将来は服従して行かずにすむものが、幾ら現われてくるか知れぬのである。勿論そんなら是からは<ruby><rb>乾物</rb><rt>ひもの</rt></ruby>ばかりをかじり、夏は裸で学校にも出ることにしようなどと、そんな無茶なことを申すのではない。<ruby><rb>本</rb><rt>もと</rt></ruby>に<ruby><rb>復</rb><rt>かえ</rt></ruby>れと言っても文化は複合している。或る部分だけを切離して、木綿以前にもなれないことはよく<ruby><rb>判</rb><rt>わか</rt></ruby>っている。ただ私の言うのは是からの社会対策には、あらかじめ知ってかからねばならぬ歴史が多く、それが今日はまだ荒野のままに、置かれているということだけである。

## 七

政治上のいつでも大きな問題は、結局は貧乏物語に帰着する。貧の原因は複雑を<ruby><rb>極</rb><rt>きわ</rt></ruby>めていて、その根本の法則というものを、突詰めたところに持って行こうとする人もすでに多い。それは仮に疑いの無いことだとしても、なおそのたった一つの原因を除き去ることによって、貧を絶滅することができるとは思えないわけは、これを取巻いて今はまだ<ruby><rb>茫漠</rb><rt>ぼうばく</rt></ruby>たる未知の歴史があるからである。日本の人口は明治の初めから、<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>か七十年足らずで倍以上になった。それ以前にもそれほど増加が著しくないというのみで、よほど大きな天災や戦争があっても、やはり少しずつは人が<ruby><rb>殖</rb><rt>ふ</rt></ruby>えている。この総数が減らないために、国民が全体で<ruby><rb>平</rb><rt>たい</rt></ruby>らに繁栄してきたように、ちょっとは考えられるけれども、それはどうも事実でなかったようである。すなわち繁昌する家だけはうんと大きくなって一門を<ruby><rb>殖</rb><rt>ふ</rt></ruby>やし、一方衰えかかった家はまた急に滅びて行く。家の栄枯盛衰は<ruby><rb>烈</rb><rt>はげ</rt></ruby>しく、今日いるものは金持も貧乏人も、ともにその一方の生き残りの者の子孫であって、別に絶えてしまった家筋というものが、非常に多かったことが想像せられる。そうしてその原因はと言うと、今ではこれを聴き出す手段のないものが多いが、近い頃の、たとえば老人たちの記憶の及ぶかぎりのものは、心がけて調べて行くと判るのである。ゆくゆくはもっと総括的な方法が見つかるかも知れぬが、一応はまず是に基づいて、その一つ以前を想像してみるのほかはない。是がまた今日はまるで手つかずに残っているのである。私も<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>ってみようと思いつつ、まだ片端に手を着けただけで、もう続けることもむつかしくなった。

その僅かな実験によって言うと、家の生活力ともいうべきものは、個人の体格や健康とは反対に、昔の方が今よりもずっと弱かったらしい。一度傷つくか<ruby><rb>躓</rb><rt>つまず</rt></ruby>くかすると、たとえば主人が死ぬ、病人になる、または家出でもすると、その<ruby><rb>疵</rb><rt>きず</rt></ruby>がなかなか<ruby><rb>恢復</rb><rt>かいふく</rt></ruby>せず、やがて絶家の原因にもなることは、今日に比べてずっと著しかったように思われる。前年<ruby><rb>相州</rb><rt>そうしゅう</rt></ruby>の或る山村の過去帳を調べた時に心づいたことだが、同じ一家の死亡者は三年五年と<ruby><rb>中</rb><rt>なか</rt></ruby>を置いてよく続いている。多分は栄養力が単原だったために、それが働き手の減少とともに、次第に乏しくなって行くらしいのである。明治二十九年の東北海岸の<ruby><rb>海嘯</rb><rt>つなみ</rt></ruby>の跡などもよい例であった。<ruby><rb>鰥寡孤独</rb><rt>かんかこどく</rt></ruby>は常の年には仲間によって支持せられるが、何か異常の大事変があると、まず是らの抵抗力の弱い者から<ruby><rb>掃蕩</rb><rt>そうとう</rt></ruby>せられるのである。貧しい家には配偶を得がたい者が、平和の時にもなかなか多かった。一生出て行かぬ独身の労働者、タネヲヂなどと<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>った者がそれである。子孫は現実にはあるかも知れぬが、死んでも祭ってくれずまた記憶してもくれぬ。すなわち家としては是で絶えるのである。この<ruby><rb>職蜂制</rb><rt>しょくほうせい</rt></ruby>の如き生産組織に対立して、新たに起こったのが、<ruby><rb>分家制</rb><rt>ぶんけせい</rt></ruby>であった。古くからの<ruby><rb>小前分家</rb><rt>こまえぶんけ</rt></ruby>に対して、是だけを特に<ruby><rb>新宅</rb><rt>しんたく</rt></ruby>という<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>もある。すなわち本家とほぼ同格の家を、新たにもう一つ作ることで、この村内新宅の<ruby><rb>風</rb><rt>ふう</rt></ruby>は近世になって始めて起こった。つまり是だけが村繁栄の余力なのであった。それ以外には<ruby><rb>入聟</rb><rt>いりむこ</rt></ruby>および<ruby><rb>入夫</rb><rt>にゅうふ</rt></ruby>の制、是は女しかおらぬ家を見つけて、そこへ<ruby><rb>余</rb><rt>あま</rt></ruby>ったヲンヂたちを配るのである。村役人の大切な一つの役目として、こういう男の手の欠乏を捜しまわり、絶えてしまう家を少なくし、村の戸数の減退を防ぐことが命令せられたのである。しかし大体からいうと、身分ちがいとか家風の相違などで、こういう外部からの補強は常には望み難く、次第に女あるじや<ruby><rb>後家暮</rb><rt>ごけぐら</rt></ruby>しの、水田の経営に向かぬ家が多くなってきた。一方に資力を蓄積した家だけは、田地があれば堂々たる分家を出し、町が近ければ店を作って与え、才能のある子には医者僧侶の修業をさせ、または武家志願をさせ、或いは<ruby><rb>敷銀</rb><rt>しきぎん</rt></ruby>というものを持たせて、都市の商家へ<ruby><rb>株取聟入</rb><rt>かぶとりむこいり</rt></ruby>をさせた。そういう条件のすべては具わらぬ者だけが、他村に奉公して有付くか、または年上の後家の所などに、入夫をして辛抱したので、結局は現在の増加している戸口は、大部分近世の優勝者の末ということになり、甚だ悲しむべき事実ではあるが、過去の敗残者の子孫は、もうほとんと生き残ってはいないらしいのである。

是はもとより日本に限った現象でない。またおそらくは人類社会だけを、支配した法則ではないかも知れぬ。貧窮が新たに我々の問題になり始めたのは、言わばこの家の虚弱ということが、個体の健康と同じく注意せられ始めた兆候である。お互いが自分の生存ばかりを、考えておればそれでよいように、思わなくなった結果である。我々がこの問題の根本に立入って、家の生活力を支持する外部の条件にも、検討を加えようとするのは進歩であって、是は統計の総数増減を見ていただけでは気がつかぬことである。我々の繁栄は全般的でなければならぬ。誰かが片隅で飢え<ruby><rb>凍</rb><rt>こご</rt></ruby>えてくれなければ、自分らは安穏に生きられぬというような情ない経験を、過ぎ去った昔の悪夢とする時代を運んでこなければ、一つの不正を征伐してしまうや否や、必ずまた第二の不正が発明せられるであろう。現在提出せられているいろいろの方策は、中には試験であり失敗の危険のあるものも多く、万全と思われるものは概して微温的であるが、こうして行くうちには追々に有効な方法が見つかってくると思う。<ruby><rb>只</rb><rt>ただ</rt></ruby>それには今はまだ明らかになっておらぬいろいろの原因を、少しでも多く確認する必要がある。歴史の実際的の目途は、<ruby><rb>爰</rb><rt>ここ</rt></ruby>にこそ非常に重要なものがあり、また婦人の細かな毎日の注意を、最後に人類一体の恩恵に化して行くこと、すなわち社会家政学の唯一の可能性も<ruby><rb>茲</rb><rt>ここ</rt></ruby>にあるのである。文化批評という言葉は、響きが好いために誰にでも共鳴せられるが、今日まで行われているものは主として<ruby><rb>演繹</rb><rt>えんえき</rt></ruby>的のものであった。私はそれとともに他の一方から、一つ一つの問題について、今までの生活ぶりの拙劣さ、長い眼で見て賢くなかった点を、反省する機会を作らねばならぬと考える。衣食その他の毎日の消費生活が、決して末端の小さ過ぎる問題でなかったことを知るにつけても、みなさんの学問の遅々として進まぬことを、私は<ruby><rb>歯痒</rb><rt>はがゆ</rt></ruby>く感ぜずにはおられぬのである。

## 八

女性と歴史の問題は、おおよそ三つの方面から考えて行かれる。第一に女性がこの研究に携わって行くことの意義と効果。是はすでに前にも説いたが、是を試みる以上は人の書いた本を読み、男の講演する説を聴くだけでなく、今までの学徒にまだ気づかれなかった点を発見することを目標としなければならぬ。すなわち研究の独立である。第二にはそれは望ましいことだが、はたして女性にできるかどうかということが問題になる。是は必ずしも素質が適しないという<ruby><rb>類</rb><rt>たぐい</rt></ruby>の、失礼な人を見くびった理由からでなく、女にそんな余力があるだろうかどうか、こういうことが考えの中に入ってくる。「女には別にすべき事がございます」。こういう言葉はあなたがたの先輩もよく口にせられる。勿論有るには相違ないが、それは一体何と何とであろうか。是を答えようとするにはさらに第三の最も興味深き観察点、すなわり前代社会における婦人の地位<ruby><rb>如何</rb><rt>いかん</rt></ruby>、これを今からでも認識することが必要だと思う。こういう問題などは、とうてい外部の人たちの成績を待っていて、いわゆる「読ませていただきます」で済まされるわけがない。現にそのために今まで散々に誤らされた後なのである。もう一度自分で考え且つ判断なさるほかはない。

私などの見たところでは、一つの大切な点が従来は見落されていた。それは一言でいうと女の立場が、実は昔から二通りあったということに気づかぬことである。考えてみれば誰にでもすぐ気づくことだが、ふとした原因からそれが埋もれていた。若い頃はしとやかで優しくて、また非常にはにかみ屋であった女たちが、年を取るときまってやかましく、またきつい人になることがそれである。「嫁が<ruby><rb>姑</rb><rt>しゅうと</rt></ruby>になるの早さよ」などという川柳もあって、後者を代表するものは概念上の「姑」であった。姑は江戸期の文学の主要人物で、文学は通例若い女たちが読むので、多くの姑は悪形をもって<ruby><rb>目</rb><rt>もく</rt></ruby>せられている。<ruby><rb>支那</rb><rt>シナ</rt></ruby>の文芸には、また是がもう一段と強く表現せられている。<ruby><rb>畏内</rb><rt>いない</rt></ruby>という語は笑話の主材であり、英語のカーテンレクチュアと<ruby><rb>偶合</rb><rt>ぐうごう</rt></ruby>した<ruby><rb>帳中説法</rb><rt>ちょうちゅうせっぽう</rt></ruby>という妙辞もある。彼女らの手には<ruby><rb>鞭</rb><rt>むち</rt></ruby>があった。まかりちがえば亭主までが打たれる。その<ruby><rb>怖</rb><rt>おそ</rt></ruby>ろしい古女房、是がみな昔は<ruby><rb>羅綺</rb><rt>らき</rt></ruby>にも<ruby><rb>勝</rb><rt>た</rt></ruby>えざりし美少女の、なれのはてであったのである。しかし中華民国には限らず、いずれの国の伝統においても、主婦には或る権力が認められていた。家長が野に出でて<ruby><rb>猟</rb><rt>りょう</rt></ruby>し、海を越えて戦いまた交易した時世を考えると、是は女の耕作よりもなお一層自然であり、またその力が昔に<ruby><rb>溯</rb><rt>さかのぼ</rt></ruby>るほど強かったことも想像せられるが、しかも今とても或る程度までは必要を認められているのである。西洋では是をマトロン、マトロンリーと呼んでいる。日本の古語では<ruby><rb>刀自</rb><rt>とじ</rt></ruby>であった。刀自には<ruby><rb>稀</rb><rt>まれ</rt></ruby>に<ruby><rb>内侍所</rb><rt>ないしどころ</rt></ruby>の刀自のように結婚をせぬ者もあって、語の本義はただ独立した女性を意味し、すなわち男の<ruby><rb>刀禰</rb><rt>とね</rt></ruby>に対する語であったかと思われるが、普通の用い方は<ruby><rb>家刀自</rb><rt>いえとじ</rt></ruby>、すなわち今いう主婦に限られていた。現在もこの語の<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>きて行われているのは沖縄県の島々で、ここでは<ruby><rb>妻覓</rb><rt>つまもと</rt></ruby>めをトゥジムトゥミ、またはトゥジカミユンという語もある。他の地方にはただ文語として存するのみで、実用にはかわりのいろいろの語が生まれている。その中でもやや古風なのはゴゼンまたはゴゼ、九州南部などは一般に嫁取をゴゼンケ、御前迎えと呼んでいる。ゴゼンはまたオマヘとも<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>って、或いは<ruby><rb>此方</rb><rt>こちら</rt></ruby>が一つ古いかも知れない。やはり嫁迎えのことを熊本県その他で、オミャトリまたはオメャモツなどとも謂っている。漢字に書けば是も御前であって、もとは対称敬語であったことは是でわかる。他の府県殊に東日本の方には、オカタというのがまた主婦のことで、是も決して新しい名称ではない。中古の記録には武家の母や妻女、たとえば<ruby><rb>足利尊氏</rb><rt>あしかがたかうじ</rt></ruby>のおっかさんなどを<ruby><rb>大方殿</rb><rt>おおかたどの</rt></ruby>と<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>っている。多分はオカタに大を<ruby><rb>冠</rb><rt>かぶ</rt></ruby>せたもので、田舎武士が郷里から携えてきた語だとしても、京都語の北の<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>や東の<ruby><rb>対</rb><rt>たい</rt></ruby>などと別のものでなく、起こりは御前の「前」も同然の「<ruby><rb>御方</rb><rt>おかた</rt></ruby>」で、敬称であったことは疑いがない。すなわち夫がそう呼んだのが始めてと思われるが、子どもは次第に父の語を真似て、カカサマ、カアチャン一系のいろいろの呼び方が始まった。人が他人の妻をオカカだのオッカアだのと謂うのは、<ruby><rb>畢竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>この舌足らずの音をまた真似したので、カカは決してハハの<ruby><rb>転訛</rb><rt>てんか</rt></ruby>ではないのである。

## 九

このオカカないしは<ruby><rb>刀自</rb><rt>とじ</rt></ruby>の地位は、慣習的にちゃんときまっていた。任務と権能と是に相応する尊敬とが附いていた。あらゆる若い娘たちの<ruby><rb>先途</rb><rt>せんど</rt></ruby>すなわち到達点、もっと<ruby><rb>大袈裟</rb><rt>おおげさ</rt></ruby>な語でいえば女の修養の目的が是にあったとこは、あらゆる若者が家長の地位を<ruby><rb>獲</rb><rt>う</rt></ruby>るのを目標に、努力したのも同じである。というわけは昔は一家族が今よりもはるかに大きく、女も男も一生働いても、すべてが主人となり主婦となり得るとも<ruby><rb>定</rb><rt>き</rt></ruby>まっていなかったからである。そうしてその刀自の役目というものは、事によると今日の良妻賢母よりも重かったかも知れぬ。私はそれをごく普通の日本人の家について、考えてみようとするのであるが、その前に言って置きたいことは、それと嫁、すなわちオカタ候補者の<ruby><rb>堺目</rb><rt>さかいめ</rt></ruby>が追々とぼんやりして来たことである。是はまったく一般の経済事情に伴なう婚姻制の変化、具体的に言うならば、今日行われている嫁入風習の普及に基づくようである。今日の嫁入というのは、婚姻が成立つや否や、先方の家にちゃんと現在のオカタが君臨しているにもかかわらず、すぐに嫁女を送りつけてしまう形式である。その結果としては、妻ではあるが刀自でない者、オカタとは謂わずにアネサマまたはアネエなどと呼ばなければならぬ家族の一員を、生じたことになるのである。むしろ平凡をきわめたる近代の家庭悲劇は、ことごとく是から起こった。権力の争奪は新しい道徳律を設けて、これを予防しなければならなかったのみでなく、一般に女性の気質の上にも、昔は無かった或るものを附加えることになった。

## 一〇

この面倒を避けようとした努力もいろいろある。その一つは隠居。長男が婚姻するとともに、親夫婦は家を若い者に渡して、次男以下をつれて別居する<ruby><rb>風</rb><rt>ふう</rt></ruby>は、伊豆の島々にもまた九州の海岸にもあり、<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>が同列<ruby><rb>分家</rb><rt>ぶんけ</rt></ruby>の一つの原因にもなったらしい<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>も方々にある。それとは反対に、<ruby><rb>本家</rb><rt>ほんけ</rt></ruby>の近くに小さな家を構えて、当分新夫婦をそこに置く風習、是は最近の都市生活にもやや行われているが、長崎市周囲の漁村などにもあるというから、新しい発明ではない。信州<ruby><rb>諏訪湖</rb><rt>すわこ</rt></ruby>の附近の例は、<ruby><rb>目下</rb><rt>もっか</rt></ruby>中川・塩田の二君が調査しておられるが、是も手順はまったく同じで、<ruby><rb>只</rb><rt>ただ</rt></ruby>最後の<ruby><rb>末子</rb><rt>ばっし</rt></ruby>が家に留まり、そのまま住宅を相続した点がちがうのである。すっかり調べてしまわぬうちは断言はできないが、末子相続の慣習があったために、兄夫婦が外に出たのではなく、親子二夫婦の共住せぬ理由から、自然に末の子が本家に残ることになったのかと、私は想像しているのである。とにかくに親が第二世の婚姻とともに、ただちに出て行くということもできぬ場合が多く、したがって婚舎すなわち一時的別居の方法も存せざるを得なかったので、<ruby><rb>未墾地</rb><rt>みこんち</rt></ruby>が多くて自由に家を移していた時代ならば、それが完全なる分家になってしまった諏訪のような異例も、新たに起こることが可能だろうと思うのである。

この婚舎の名称は<ruby><rb>三韓</rb><rt>さんかん</rt></ruby>の古い記録にもあるが、日本に行われていたものは前の長崎<ruby><rb>茂木浦</rb><rt>もぎうら</rt></ruby>などの例のごとく、<ruby><rb>聟</rb><rt>むこ</rt></ruby>の家に従属せしめたものはあまり多くない。それ以外の様式には、村共同の婚舎というべきものがあった。若い二人は家に入って主婦主人の地位を相続するまでの間、夜分は<ruby><rb>茲</rb><rt>ここ</rt></ruby>に来て宿したのである。それよりも今一段古い形かと思うものには、婚舎が嫁の家に附属しているのがある。是も現在まだ<ruby><rb>備中</rb><rt>びっちゅう</rt></ruby>西部の島々、<ruby><rb>伊予</rb><rt>いよ</rt></ruby>の<ruby><rb>上七島</rb><rt>かみしちとう</rt></ruby>を始め、多くの土地に行われている。すなわち嫁が<ruby><rb>聟</rb><rt>むこ</rt></ruby>の家に入って完全なる主婦になるまで、半分は聟が嫁の家の家族になっているものである。半分というと妙に聞えるが、<ruby><rb>昼中</rb><rt>ひるなか</rt></ruby>は自分の家の田畑や<ruby><rb>網代</rb><rt>あじろ</rt></ruby>で働き、休息の時間のみを嫁の家に送るのである。むろん二人の関係は双方の親が公認し、<ruby><rb>嫁方</rb><rt>よめかた</rt></ruby>には聟の食器、聟の夜具などを用意するというのもある。

是が中世以前の京都上流の間にも行われた婚姻方式であったことは、『源氏物語』その他の文学に明らかに現われているだけでなく、歴世の<ruby><rb>公家</rb><rt>くげ</rt></ruby>の日記にもよく見えている。婚姻と同時に嫁女が夫の家に引取られることを、珍しい風儀だ近頃始まったことだと、記した日記は鎌倉時代にも見いだされる。すなわち<ruby><rb>輿迎</rb><rt>こしむか</rt></ruby>えということは、いずれ<ruby><rb>早晩</rb><rt>そうばん</rt></ruby>しなければならぬことであるが、それは男の家に新たな主婦が入用になった時のことで、その前は子どもが生まれても妻はなお実家にいたのである。伊豆の島などはほんの近い頃までそれが普通の習わしで、婚姻の式は夫の家に来て挙げても、式が終ると嫁様は里の方へ行ってしまう。そうして毎日朝だけ来て水を汲み、<ruby><rb>薪</rb><rt>まき</rt></ruby>を<ruby><rb>採</rb><rt>と</rt></ruby>って<ruby><rb>一荷</rb><rt>いっか</rt></ruby>ずつ持ってくる。この状態が時としては三年も続くことがあったと聴いている。すなわち朝々の水と薪以外は、<ruby><rb>里方</rb><rt>さとかた</rt></ruby>の用をしていたのである。島には大体に古い<ruby><rb>仕来</rb><rt>しきた</rt></ruby>りが残るものと見えて、<ruby><rb>対馬</rb><rt>つしま</rt></ruby>でも<ruby><rb>種子島</rb><rt>たねがしま</rt></ruby>でも、この最初の足入れの日には、嫁はふだん着のままで来るという話が多い。そうして<ruby><rb>舅姑</rb><rt>しゅうとしゅうとめ</rt></ruby>の葬式の日に、始めて一世一代の晴着をすると、ここでも謂いまた伊豆大島でも謂っていた。すなわちこの日が主婦の就任式であったのである。荷物なども最初の足入れにはちっとも持ってこず、みな親の家に置いてあって、五年七年の間にぽつぽつと持ってくるという土地も、島々ばかりではなかった。そのかわりには堅い昔風の家では、嫁が土蔵に入ることを許さなかったというところが、<ruby><rb>近江</rb><rt>おうみ</rt></ruby>の高島郡にもある。つまり妻が夫の家に入るということと、婚姻の成立とは昔は全然別のものであったが、<ruby><rb>後々</rb><rt>のちのち</rt></ruby>その嫁引移りの際に大祝宴を開かぬ婚姻は、さも不合法のもののように考えられることになったのであって、仮にもし必ずそういうものだったら、昔は本式の婚姻は無かったと言わなければならぬわけである。

## 一一

婚姻のごとき古くからの人の大礼ですら、いつとなしに<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>だけ変化したのである。その原因は二つは少なくとも<ruby><rb>算</rb><rt>かぞ</rt></ruby>えることができる。一つは我々の謂う遠方婚姻、村の外との縁組の始まったことで、是には交通の改善が条件であった。是は武家上流の間にまず始まって、<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>追々にごく普通の家までが、部落内だけで婚姻をするには及ばなくなった。そうなってくると、第一に夫がしばしば妻の家にくることはできない。嫁も行ったらまた帰ってくることがむつかしい。それで<ruby><rb>箒</rb><rt>ほうき</rt></ruby>で掃き出したり、<ruby><rb>門口</rb><rt>かどぐち</rt></ruby>で送り火を<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>いたり、まるで葬式のようなことをして娘を送り出し、泣いて出て行くようなことにもなったのであるが、それよりももっと大きなもう一つの原因は、その娘の労働を里方で<ruby><rb>宛</rb><rt>あ</rt></ruby>てにしなくなったことである。女がよく働く土地では、親は惜しんでなかなか身柄までは聟の家へ<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>ろうとしない。今でも海岸の村などに古い形の婚姻方式が残るのはそのためで、未来の主婦権などには<ruby><rb>換</rb><rt>か</rt></ruby>えられない、大切な里方の労働力であったからである。それを聟方に必要があって、是非とも早くつれて行こうという際には、<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>二年なり三年なりの間、娘が働いて家に入れるくらいの財物を、<ruby><rb>結納</rb><rt>ゆいのう</rt></ruby>とともに送ってくる<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>も北九州の島にはある。隣国<ruby><rb>支那</rb><rt>シナ</rt></ruby>でいう<ruby><rb>聘金</rb><rt>へいきん</rt></ruby>が、今までの養育費を<ruby><rb>償</rb><rt>つぐな</rt></ruby>う意味であるらしきに反して、<ruby><rb>此方</rb><rt>こちら</rt></ruby>は是から入用なものを貰って行くかわりである。いずれもこれを人身売買と一つに見ることはひどいが、とにかくに家が失うものを<ruby><rb>補填</rb><rt>ほてん</rt></ruby>する意味はあった。だから家に置いても格別させる用は無く、ただ将来の地位を安全にすることが主になると、さあさあ早くお連れ下さいと、里方からかえって<ruby><rb>輿入</rb><rt>こしい</rt></ruby>れを急ぐようになる。若い女性としてはあまり名誉な話ではなかった。つまり家にいても食べるだけで、格別役に立たぬことを意味したからである。貰う方としても、ちゃんと現主婦が達者で働いている所へ、言わばその王座を<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆさ</rt></ruby>ぶる者がくるのだから、めでたいとは言い<ruby><rb>条</rb><rt>じょう</rt></ruby>、一方には不安でないこともない。それに家によっては家風の差が大きかった。是も以前は無かったことだが、職業が分化するにつれて、たとえば小売商人のごとく、新しい任務は主として男子に帰し、目に見えて女の権能の<ruby><rb>殺</rb><rt>そ</rt></ruby>がれている家と、主人の立場などから何でもかでも、女房に仕事を任せている家とができる。<ruby><rb>日向</rb><rt>ひゅうが</rt></ruby>の海岸などの昼中漁の盛んな村では、亭主は世事にうとく、女房が実印まで預っていて役場へも出てくる。武家も多くはこの方に属し、家の事務は女にさせたかと思うが、それも主人の気風や先代の例によって、家々で大きな相違があった。しかも娘は概して自分の家で見習ったものだけを知っていて、他はどうであるかに気がつかぬのである。こういうのが具体的に<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>う家風なるもので、その家風のひどくちがった家から嫁にくるものの不幸は一通りでなかった。よく家風に合わぬから返すなどと言われたのは、大抵は里の母の非常によく切ってまわすことを見習った娘で、つい独断で事を決しまたは余計な問題にも口を出そうとする。それを控え目な家の姑がひどく気にするのであった。けれども大体においては将来ある嫁の方が、譲歩しまた<ruby><rb>辛抱</rb><rt>しんぼう</rt></ruby>した。それで長命の家筋などになると、女は人生の盛りの半分を、文字通りの<ruby><rb>雌伏</rb><rt>しふく</rt></ruby>で暮し、ヒステリイにもなればまた妙な社会観を抱くことにもなるのである。この不幸を最も少なくする修養、いわゆるアネサマからオカタに移って行く女の一生に、打ってつけの教育案というものはそう容易に立つものではない。始めのうちはあちらを向けといえば半日でも向いているほどおとなしく、後にはきりりとして内外によく気のつく、一家の切り盛りにそつのない婦人になるように、娘を準備させることは決して簡単でない。その上になお配偶選定までに必要な資格としては、また別途の心構えと、表現法とを必要としていたのである。こんな手の込んだ教育は意識してはなかなか施せない。だから多くは行き当りばったりの修行で、その中でも嫁時代の苦しい経験が、ともすれば娘をただその期間の生活に適するようにしつけさせた。率直にいうと、貞淑と無能とが、どこかに似通うたところを生ずるようにもなったのである。

## 一二

社会が女をなるべく働かせまいとする計画は、現代までもなお続いている。その動機はむしろ愛情であるが、婦人小児と一括して保護をする法令は多い。男ならたやすくできる仕事にでも、彼女らが苦労するのを見るに忍びなかったのである。実際最近のスポーツ流行になるまでは、女は<ruby><rb>可憐</rb><rt>かれん</rt></ruby>などと謂って、いたいけな弱々しいのが町では好まれていた。カハイイという語は<ruby><rb>僅</rb><rt>わず</rt></ruby>かな変化をもって、<ruby><rb>憐憫</rb><rt>れんびん</rt></ruby>の意にも用いられ、またそのままで「小さい」という意味にもなる。地方の方言ではメグイとメンコイとムゴイ、またはムゾイとムジョケナイとムゾヤとが、ともに一つ言葉からの分化で、恋と<ruby><rb>哀</rb><rt>あわ</rt></ruby>れみとの両方を包括している。現代の気力旺盛なる若い女性が、かくのごとき取扱われ方に反抗すべきはもとよりのことであるが、僅かに百年の前に<ruby><rb>溯</rb><rt>さかのぼ</rt></ruby>っても、地方の婦人殊に<ruby><rb>刀自</rb><rt>とじ</rt></ruby>たちは、決してそのようなおなさけは予期していなかった。土地によっては今でも明らかに、女が男より弱い者だということを、承認していない<ruby><rb>処</rb><rt>ところ</rt></ruby>もある。<ruby><rb>土佐</rb><rt>とさ</rt></ruby>などの農家では近頃の婚姻でも、容貌よりも体格の大がらな女を歓迎するということをきいた。そういう例は他の<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>にも多く、<ruby><rb>只</rb><rt>ただ</rt></ruby>女に向く仕事と向かぬ仕事のあることを認めているが、<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>は男にもあることで異とするに足りない。ただし新しい労働は大抵男向きにできているので、それに女が携わると目に立つが、それでも時々は女が参加した。たとえば東京では二十年前まで、目黒・<ruby><rb>渋谷</rb><rt>しぶや</rt></ruby>の娘たちも仕事着になると、平気で<ruby><rb>肥料車</rb><rt>こえぐるま</rt></ruby>の後押しをして市内に入って来た。それが今日は<ruby><rb>野良</rb><rt>のら</rt></ruby>仕事もだんだんしなくなり、たまたまみなさんが郊外を散歩して、散歩が<ruby><rb>気恥</rb><rt>きはず</rt></ruby>かしいように考えられるような、女の働きぶりを見られることがあっても、それはもう単なる残留に過ぎない。元は是よりもはるかに一般的の状態であったのが、近世の傾向は何か一つの生産の始まるごとに、きまって女の手から取上げては男の手に移しているのである。この点はみなさんの歴史研究の初歩に注意して見られる練習の課題に適していると思う。

山と海との作業は、大昔も男を主としていたが、しかしその中にも女の役割があった。たとえば<ruby><rb>菌採</rb><rt>きのこと</rt></ruby>り青物採りなどはそれであったが、青物は採らなくなり菌も栽培にかわると、いわゆるナバ師はみな男になった。『万葉集』には「<ruby><rb>玉藻</rb><rt>たまも</rt></ruby><ruby><rb>苅</rb><rt>か</rt></ruby>るあま<ruby><rb>少女</rb><rt>おとめ</rt></ruby>ども」という歌がある。乾して肥料として田や畠に入れたのである。それがごく簡単な装置でも、<ruby><rb>二又</rb><rt>ふたまた</rt></ruby>の棒を小舟の中で使うようになると、はやまた男に任せて女は手を引いた。<ruby><rb>海女</rb><rt>あま</rt></ruby>のかつぎは<ruby><rb>由緒</rb><rt>ゆいしょ</rt></ruby>ある労働だけれども、潜水夫という方が追々と多くなった。農業の方でいうと、馬耕牛耕の始まる以前から、<ruby><rb>代掻</rb><rt>しろか</rt></ruby>き用に大きなマグハが用いられだすと、これをあやつるのはみな男である。<ruby><rb>販女</rb><rt>ひさめ</rt></ruby>と<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>って<ruby><rb>市</rb><rt>いち</rt></ruby>に出てくる女が元はあった。女は日返りに往来して家に寝る故に、行商が一日程以上の区域に行くことになると、<ruby><rb>牛方</rb><rt>うしかた</rt></ruby>・馬方の隊商は男ばかりになる。それからなお一段と遠方の売買には、<ruby><rb>高野聖</rb><rt>こうやひじり</rt></ruby>という旅僧が参与した時代もあった。高野聖は一名を<ruby><rb>呉服聖</rb><rt>ごふくひじり</rt></ruby>とも謂い、江戸の呉服町などはこの呉服聖が開いたと、『<ruby><rb>慶長見聞集</rb><rt>けいちょうけんもんしゅう</rt></ruby>』という書には出ている。とにかくに町は男がこしらえ、女はそこへ出てくるともう是という用が無くなっていたので、何か不幸な女でないと内職はしなかった。

## 一三

独り外部と交渉ある生産事業のみと言わず、家の中の直接消費に供する生産についても、女の役目は減る一方であった。たとえば<ruby><rb>舂女</rb><rt>つきめ</rt></ruby>はもと<ruby><rb>籾</rb><rt>もみ</rt></ruby>から米にする作業にまで関与しておった。三本の<ruby><rb>手杵</rb><rt>てぎね</rt></ruby>で調子を取り<ruby><rb>唄</rb><rt>うた</rt></ruby>を歌って、儀式の日の米を<ruby><rb>精</rb><rt>しら</rt></ruby>げ、それをさらに<ruby><rb>小搗</rb><rt>こづ</rt></ruby>いて粉にはたくのも、彼女らの手わざであった。穀粉の方は<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>に<ruby><rb>石臼</rb><rt>いしうす</rt></ruby>を<ruby><rb>挽</rb><rt>ひ</rt></ruby>くようになっても、なお女性の労働であったけれども、<ruby><rb>米搗</rb><rt>こめつ</rt></ruby>きは杵が大きな横杵に変ると、水車以前からすでに男に任せきりになって、その臼唄だけが「つく」という動作の関係から、小娘の<ruby><rb>手毬唄</rb><rt>てまりうた</rt></ruby>なんかになってまだ残っている。食物の家でととのえるものは、飯以外にも数かぎりなく多く、是にこそ刀自の<ruby><rb>口伝</rb><rt>くでん</rt></ruby>と工夫とが光を放っていたのであった。ゴールドスミスの「<ruby><rb>荒村行</rb><rt>こうそんこう</rt></ruby>」の詩にも見えているように、旧家には独得のおいしい<ruby><rb>漬物類</rb><rt>つけものるい</rt></ruby>が、評判となって伝わっていた。それを平凡きわまる食料品店の商品にしたのが、つまりは近代の文化である。それよりもさらに著しい変化は衣類で、<ruby><rb>手機</rb><rt>てばた</rt></ruby>も糸引き車も今は博物館に行って見るばかりになった。<ruby><rb>欧羅巴</rb><rt>ヨーロッパ</rt></ruby>の方も是と同じで、女たちはそれを写真にとったり画で見たりして、<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>をしている有様であるが、しかもそれがことごとく最近の産業革命の所産でもないのは、日本などでは<ruby><rb>木綿</rb><rt>もめん</rt></ruby>が入って来た際に、すでに一つの激変があったのである。木綿は<ruby><rb>我邦</rb><rt>わがくに</rt></ruby>では暖かい土地にしか作れない。関東地方が多分その北限であった。すなわち東北隅の三分の一だけは、綿を輸送しまたは古綿を買い入れていた。中央部の木綿を栽培する地方では、<ruby><rb>綿桃</rb><rt>わたもも</rt></ruby>を<ruby><rb>摘</rb><rt>つ</rt></ruby>むのからが女の仕事で、小さな綿繰り器を家々に持っていたが、それでも綿打ちだけはもう男の職人があった。彼らは綿を打つ大きな弓を携えて、村から村へ渡りあるいていた。その専門家に打ってもらった<ruby><rb>繰綿</rb><rt>くりわた</rt></ruby>を、よく働く家では女たちが、<ruby><rb>篠巻</rb><rt>しのま</rt></ruby>きという<ruby><rb>管</rb><rt>くだ</rt></ruby>に巻いてヨリコを作った。ヨリコはまた<ruby><rb>綿飴</rb><rt>わたあめ</rt></ruby>ともいう土地があり、<ruby><rb>上方</rb><rt>かみがた</rt></ruby>ではジンキとも呼んでいた。綿を<ruby><rb>栽</rb><rt>う</rt></ruby>えぬ土地ではこのヨリコを買い入れて、めいめいの糸を<ruby><rb>紡</rb><rt>つむ</rt></ruby>いだのである。それから糸にしてからも、<ruby><rb>紺</rb><rt>こん</rt></ruby>は手染めができないので、あの頃ぽつぽつできていた職業の<ruby><rb>紺屋</rb><rt>こんや</rt></ruby>に<ruby><rb>誂</rb><rt>あつら</rt></ruby>えて染めさせ、<ruby><rb>機</rb><rt>はた</rt></ruby>を立てる段になって始めて女の手わざに移ったのである。東北では取替木綿と称して、織上がりを商店へ持参して糸と替え、またはヨリコと換える慣習が生まれ、女はその僅かな差額を宛てに、人のために働くことをもう始めているが、とにかくにこの頃からすでに木綿の衣服だけは、全部が女性の管轄とも言えなくなっていたのである。

これに反して麻は完全なる手作りであった。その家庭工業は麻苅りの日から始まり、また若干のほかに売るものまで、すべて女の手で生産した。「麻ごろも着ればなつかし<ruby><rb>紀</rb><rt>き</rt></ruby>の国のいもせの山に麻<ruby><rb>蒔</rb><rt>ま</rt></ruby>くわぎも」という古歌のあるのを見ると、山を焼いて麻の<ruby><rb>種子</rb><rt>たね</rt></ruby>を<ruby><rb>播</rb><rt>ま</rt></ruby>く日から、もとは女が参与していたのである。その<ruby><rb>苧糸</rb><rt>おいと</rt></ruby>を紡ぐということは、ジンキの篠巻きよりもはるかに<ruby><rb>辛気</rb><rt>しんき</rt></ruby>な作業で、一枚の衣物になるのはその糸の全長の総計だけ、指のさきで<ruby><rb>捻</rb><rt>よ</rt></ruby>らなければならなかったのである。是はもとより少しでも<ruby><rb>羨</rb><rt>うらや</rt></ruby>ましいことではないが、女はその生涯の半ば以上、夜も雨の日もこの糸引きと終始していたので、ヲボケまたはヲゴケとも謂わるる苧糸の<ruby><rb>桶</rb><rt>おけ</rt></ruby>は、朝夕ともに身の<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>を離さず、したがって是が女の私有財産を意味する一つの名詞にもなっていた。「<ruby><rb>三</rb><rt>み</rt></ruby>すじそ」という習わしは、今でも東北へ行くと、年とった女たちが記憶している。是は普通の働きのほかに、別にもう三筋だけ余分に、毎日心を<ruby><rb>籠</rb><rt>こ</rt></ruby>めた白糸を<ruby><rb>紡</rb><rt>う</rt></ruby>み<ruby><rb>貯</rb><rt>たくわ</rt></ruby>えて置くので、それが老いたる父母のあの世へ着て行く着物になったのである。或いは親々はそれがあまりに嬉しいので、ちょうどその<ruby><rb>一反</rb><rt>いったん</rt></ruby>の織り上がる頃には、自然に快く死んでしまう気にもなったろうかと思うばかりである。歴代の女たちがわが子のためまたはわが夫のためにも、是は彼に着せる布と、心に念じつつ糸を引いていたことは察するに<ruby><rb>難</rb><rt>かた</rt></ruby>くない。そうでなければ大昔神に仕えた清い女が、泉のほとりに<ruby><rb>忌機殿</rb><rt>いみはたどの</rt></ruby>を建てて、<ruby><rb>三月</rb><rt>みつき</rt></ruby><ruby><rb>二月</rb><rt>ふたつき</rt></ruby>その中に<ruby><rb>忌籠</rb><rt>いみごも</rt></ruby>りして、神の衣を織っていたという伝説は、これを理解することができぬのである。是と同じような心持は、今でもまだ<ruby><rb>幽</rb><rt>かす</rt></ruby>かに田舎には残っている。嫁入する者が男の帯を織って持って行く<ruby><rb>風</rb><rt>ふう</rt></ruby>は南の方の島にもある。織るとは言っても<ruby><rb>組紐</rb><rt>くみひも</rt></ruby>のようなものだから、持ってあるいて<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>ででも織りつづけたかと思う。私も二十何年か前に、<ruby><rb>日向</rb><rt>ひゅうが</rt></ruby>の或る山村を旅行してそういうのを見た。ちょうど盆の休み日であったが、五軒三軒と人家のある処には娘たちが集まって、手に手に何か白いものを持っている。近づいて見ると幅三寸足らずの、木綿<ruby><rb>真田紐</rb><rt>さなだひも</rt></ruby>を組んでいるのであった。私を案内してくれた老村長は<ruby><rb>曰</rb><rt>いわ</rt></ruby>く「あれは未来の夫に贈る帯を織っているのです。あれをもらうのが私たちも嬉しかったものです」と謂った。この村長さんは今七十幾つになって丈夫でおられる。是などは単に一本の帯を織るというだけでなく、その中には中世京都の貴婦人淑女たちが、かつて優雅なる<ruby><rb>三十一文字</rb><rt>みそひともじ</rt></ruby>によって、表現していたような情熱と感覚とを、織り込もうとしていたものと思われるのである。

## 十四

働く日の多かった以前の女たちは、晴着はただ<ruby><rb>紺</rb><rt>こん</rt></ruby>や花色の無地にしても、その労働服だけは<ruby><rb>夙</rb><rt>はや</rt></ruby>くから派手なものを好んでいた。五月田植の日の支度などは、近世は白い<ruby><rb>菅笠</rb><rt>すげがさ</rt></ruby>に<ruby><rb>紅</rb><rt>あか</rt></ruby>い<ruby><rb>襷</rb><rt>たすき</rt></ruby>をかけ、<ruby><rb>桔梗染</rb><rt>ききょうぞ</rt></ruby>めの<ruby><rb>手拭</rb><rt>てぬぐい</rt></ruby>などを<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>り、着物は<ruby><rb>紺絣</rb><rt>こんがすり</rt></ruby>の<ruby><rb>単衣</rb><rt>ひとえ</rt></ruby>を着ていたが、その一つ前には布に白糸の<ruby><rb>刺繍</rb><rt>ししゅう</rt></ruby>などをしたようである。<ruby><rb>肩裾</rb><rt>かたすそ</rt></ruby>と称して、芝居で見る<ruby><rb>熨斗目</rb><rt>のしめ</rt></ruby>の着物などとは反対に、わざわざ肩と裾の部分を<ruby><rb>縫取</rb><rt>ぬいと</rt></ruby>りして丈夫にしたのである。その<ruby><rb>風</rb><rt>ふう</rt></ruby>が遠い田舎にはまだ伝わっていて、秋田地方ではこれをチヂミサシ、<ruby><rb>津軽</rb><rt>つがる</rt></ruby>は一般にこれをコギンと<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>っている。コギンは小衣、すなわち労働の時に着る短い衣服のことであって、土地によってはまたコギノともコイノとも謂い、中央部はもとより九州地方までも共通した地方語である。ただその中でも津軽のコギンは、あるいは<ruby><rb>古錦</rb><rt>こきん</rt></ruby>の<ruby><rb>音</rb><rt>おん</rt></ruby>だなどと謂った人もあるくらいに、殊に精巧な美しいものが多かったのである。それを作るのも容易のわざではなかった。忙しい家の嫁や娘は、一日にせいぜい五<ruby><rb>分</rb><rt>ぶ</rt></ruby>か一<ruby><rb>寸</rb><rt>すん</rt></ruby>、一枚に十年もかかったというものを自慢にしていた。是が見られなくなったのはほんの近頃のことで、今でも<ruby><rb>捜</rb><rt>さが</rt></ruby>せば<ruby><rb>箪笥</rb><rt>たんす</rt></ruby>の底から出して見せてくれる。是をこしらえた女たちは、たとえば野ら働きの最もせわしい日でも、持って行って田の<ruby><rb>畔</rb><rt>くろ</rt></ruby>に包んで置き、男が茶を飲み<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>を吸う時間にも、<ruby><rb>一針</rb><rt>ひとはり</rt></ruby>でも是を<ruby><rb>刺</rb><rt>さ</rt></ruby>して置こうとしたのだそうである。それからまた男に着せるシボハッピ、<ruby><rb>薩摩</rb><rt>さつま</rt></ruby>の<ruby><rb>下甑島</rb><rt>しもこしきじま</rt></ruby>でニンブという<ruby><rb>裂織</rb><rt>さきおり</rt></ruby>なども、材料はいずれも粗末なものであったが、色の取合せや織り上りの美しさに、女たちは全身の力と心とを<ruby><rb>籠</rb><rt>こ</rt></ruby>めていたのである。こういうのは或いは一地方かぎりの趣味流行でもあろうが、一般に女の仕事着は、荒い淋しい田舎に行くほど、一層深い注意が払われていたので、現在はそれを見ようとすると、よほど汽車から離れた土地へ入って行かなければならぬ。東京近郊の女の人などは、よく働くとは言っても、もうよほど以前から、仕事着などは知っていない。それというのが不断の衣類が悪くなって、それをそのまま働くときにも着るからでもあるが、しかしなお労働が規則正しく且つ激しいものであったら、到底このようなぞろぞろと手足にからまるものを着てはいられない。半日は家に居て昼からちょっと出るというようになって、着替えるのも手数だから、長い着物の<ruby><rb>尻</rb><rt>しり</rt></ruby>をくるりとまくり、または腕まくりもできないから<ruby><rb>襷</rb><rt>たすき</rt></ruby>を掛けるので、是を<ruby><rb>甲斐々々</rb><rt>かいがい</rt></ruby>しいなりをしているというのは間違いである。襷は古くからの女の服装の一部であるが、本来は晴着に伴なうものであった。目的は今日のネクタイなどと近く、わざと色模様の鮮明なものを、ただ首から掛けて飾りにしていたのである。よく<ruby><rb>浄瑠璃</rb><rt>じょうるり</rt></ruby>や<ruby><rb>琵琶</rb><rt>びわ</rt></ruby>の曲などに、「襷十字にあやどりて」という文句を聴くが、是は婦人が<ruby><rb>突嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>の場合に仮に働けるなりを作るためにするので、常は襷はそうして用いるものでない故に、わざわざ十字に<ruby><rb>綾取</rb><rt>あやど</rt></ruby>りてと謂ったのである。つまりは<ruby><rb>上﨟</rb><rt>じょうろう</rt></ruby>が急に<ruby><rb>起</rb><rt>た</rt></ruby>って働く場合を形容した文句である。ところが町に来て住むと、女はただそういう中途半ぱの形でのみ働き、襷がけというと、大いに活躍することを意味することになったのは変遷である。日本のキモノの労作に不便であることは、外国人がまずこれを評し、ついで日本人も盛んにこれを唱えるようになったが、おおよそ世の中に是くらい当り前のことはない。何となればこの衣裳は、本来労働をしない時の衣裳であったからである。ちょうど百人一首のお姫様たちが少しも活気のないのと同じことで、あのようなものを着ているところを見て、日本の女が働くことを知らなかったごとく、考えるならばこちらが悪いのである。この三千年間の永い辛苦の歴史を、あらゆる日本の女性がこれを着て越えて来たかのごとく、想像している人がもし一人でもあったら、それは<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を伏せ顔を<ruby><rb>赭</rb><rt>あから</rt></ruby>めても、到底追付かないほどの<ruby><rb>恥</rb><rt>はず</rt></ruby>かしい無知である。そんな人を無くしてしまうように、みなさんは学問をしなければならぬ。

## 十五

ただしこういった事実を知るためには、本を読んだだけでは何も得るところがないであろう。それには現実に各地に今なお残っている生活ぶりを、自分の眼と耳で観察するか、それがもしできなければ、めいめい手近のものから心づいた事実を、互いに比べ合って行っても追々には<ruby><rb>判</rb><rt>わか</rt></ruby>ってくる。とにかくに実地から学ぶのほかはないのである。その問題を一つ一つ、説き立てて行くことは、時間も足らず私の力にも及ばない。ただ<ruby><rb>茲</rb><rt>ここ</rt></ruby>には一言だけ、我々の今まで気づかずにいたことが多いということをみなさまに力説しておけば、それでこの講演の目的は達するので、あとは自分自分で今後注意深く、観察なされることと私は信じている。ただこの場合にどうしても附加えておきたいのは、<ruby><rb>我邦</rb><rt>わがくに</rt></ruby>の女性殊に完成した<ruby><rb>家刀自</rb><rt>いえとじ</rt></ruby>の任務が、どんな貧しい家庭でも、昔から決して簡単なものではなかったということである。身を動かし汗を流してさえおれば、それでオカタの役目は済むというものでなく、頭を働かせまた判断才能を<ruby><rb>耀</rb><rt>かがや</rt></ruby>かさなければならぬ任務が、いつの世にもきまって沢山にあったということである。育児法も無論その一つであり、留守番もまた大切な役目ではあったが、なおその以外にも夫が手を出さない部分、女房のみに<ruby><rb>委</rb><rt>ゆだ</rt></ruby>ねられていた仕事が、生産よりも分配の方面にはいろいろあった。それが彼女から取上げられて、家庭の不幸は生じたのであるが、それはやはり女の労働の軽減と、比例していたのだから<ruby><rb>已</rb><rt>や</rt></ruby>むを得ない。世帯という語の女性の所属になっているわけは、今日ではもうほとんと尋ねることができなくなったが、古く<ruby><rb>溯</rb><rt>さかのぼ</rt></ruby>るほど、すなわち単純なる自給経済の世に返ってみるほど、だんだんとはっきりしてくる。世帯が今謂う会計と異なることは、家の生産をそれぞれの用途に持って行くこと、もっと平たくいうと、家に属する人々に衣食住を供することであって、いるから生産するという昔の経済において、是が殊に明らかにわかる理由である。その中でも住だけは、一度生産したらそれぞれの用途がすぐにきまり、旅人でも<ruby><rb>泊</rb><rt>と</rt></ruby>めてやる場合でないとその有難味は見えないが、衣服になると永く持つとは言っても、その一部分だけは毎年主婦の手によって、家内の者にそれぞれ配給する。木綿の世になっては春秋に一度ずつ、オシキセとかソウブツとか謂って貰うことにきまっていた。食物に至ってはそれが毎日、各人に入用なだけ、むだにならぬ程度に主婦がこれを分配する。それがすなわち世帯のキリモリであった。子とか孫とかの最愛の者へだけならば、鳥獣にも共通な自然の発意に任せてもおけるが、前代の一家族はその構成がずっと複雑だったのである。先代先々代からの種ヲヂもおれば、<ruby><rb>貰</rb><rt>もら</rt></ruby>い<ruby><rb>子</rb><rt>ご</rt></ruby>も<ruby><rb>寄子</rb><rt>よりこ</rt></ruby>も奉公人もいる。また時々の手伝いやユヒの人もくる。これらの人々に十分に食わせ、且つ<ruby><rb>餅</rb><rt>もち</rt></ruby>とかホウトウとかその日に相応したものを食わさぬと、主婦は必ず馬鹿にせられ悪くいわれるのみか、指図をしても言う通りには働いてくれない。青年の男子だけは別として、男も少年のうちは主婦に用を言いつけられる。また主人が<ruby><rb>男衆</rb><rt>おとこしゅう</rt></ruby>に命令をするにも、常に細君からの注文は<ruby><rb>容</rb><rt>い</rt></ruby>れられる。女はなおさらのことで、嫁でも娘でも雇い女でも、これを機嫌よく働かせるのはみなこの分配の手加減一つであった。「<ruby><rb>居候</rb><rt>いそうろう</rt></ruby>三ばい目にはそつと出し」などという狂句は、江戸近世のものであるが、働いてくれる者に対しては、是が女房の気前気性の現われるところで、この権能を最も巧妙に利用する家刀自が、実際は家を明朗にし、また繁栄に導いていた。彼らがその研究に全力を傾け、また自分自分の発明なり流儀なりのあったことは想像に難くない。

だから来年は相続させるという年ばえの嫁女にも、断じてこの権能は代行せしめなかったのである。奥州などは村が遠くて、家と田畠との間の七八町もあるところは普通である。それを日ざしを見ていて午飯の刻限近しと見るや、飛んで帰ってきて<ruby><rb>飯焚</rb><rt>めした</rt></ruby>きの支度をしたのは主婦である。ケシネビツすなわち<ruby><rb>糧米櫃</rb><rt>ろうまいびつ</rt></ruby>の中に<ruby><rb>桝</rb><rt>ます</rt></ruby>が入っている。それを手に取ることは他の女にはさせぬようにした。この桝はしばしば<ruby><rb>古椀</rb><rt>ふるわん</rt></ruby>などを代用しているが、一ぱいというのはおおよそ二合五<ruby><rb>勺</rb><rt>しゃく</rt></ruby>、西の方の国では是を「ゴ一つ」とも謂う。すなわち一かたけ、一人一度の食料であって、<ruby><rb>稗</rb><rt>ひえ</rt></ruby>でも<ruby><rb>粟</rb><rt>あわ</rt></ruby>でも<ruby><rb>引割麦</rb><rt>ひきわりむぎ</rt></ruby>でも、かねて米と混淆して洗って<ruby><rb>炊</rb><rt>かし</rt></ruby>ぐばかりにしてあるのを、その日働いている人の数だけ<ruby><rb>量</rb><rt>はか</rt></ruby>り出すのである。掛け算は新しい技術だから尋常の主婦は利用しない。ただ一人一人外で働いている人を思い出しつつ、<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>れなくその頭数を桝で<ruby><rb>算</rb><rt>かぞ</rt></ruby>えるのである。こんな事ぐらいは嫁なり女中なりに任せたってよさそうに見えるが、固い家では決してそれをさせなかったといっている。

## 一六

家の<ruby><rb>囲炉裏</rb><rt>いろり</rt></ruby>の周囲の座も<ruby><rb>定</rb><rt>き</rt></ruby>まっていた。奥の正面の<ruby><rb>蓆</rb><rt>むしろ</rt></ruby>を横に敷いた席が<ruby><rb>横座</rb><rt>よこざ</rt></ruby>で、ここには主人があぐらをかく。その横座から見て右の側が客座、客の無い日には長男も<ruby><rb>聟</rb><rt>むこ</rt></ruby>もここに<ruby><rb>坐</rb><rt>すわ</rt></ruby>った。それと相対する向う側はカカ座、また<ruby><rb>腰元</rb><rt>こしもと</rt></ruby>ともたな元とも謂い、九州では<ruby><rb>茶煮座</rb><rt>ちゃにざ</rt></ruby>とも謂って、争う者のない<ruby><rb>家刀自</rb><rt>いえとじ</rt></ruby>の座席である。この夫婦の間にある一隅に、普通は<ruby><rb>鍋敷</rb><rt>なべしき</rt></ruby>があってここで<ruby><rb>惣菜</rb><rt>そうざい</rt></ruby>を煮た。盛るのは当然に主婦の権限で、家を譲った母さえも手は出さぬ。娘が多ければ少し引下ってそのまわりに坐り、嫁は<ruby><rb>勿論</rb><rt>もちろん</rt></ruby>その中に交っている。或る家では<ruby><rb>姑</rb><rt>しゅうと</rt></ruby>のちょっと席を立っているうちに、嫁が<ruby><rb>杓子</rb><rt>しゃくし</rt></ruby>を握ったという<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>により離縁をされたという一つ話もある。そんなことが滅多にないのは、決してそういう事をしなかったからだという。杓子はこれを要するに主婦のスタッフ、大臣・<ruby><rb>大納言</rb><rt>だいなごん</rt></ruby>などの<ruby><rb>笏</rb><rt>しゃく</rt></ruby>に該当し、また楽長の指揮棒のごときもので、すなわち家刀自の権力のしるしであった。だから女房を山の神と謂うのだとの説もある。江戸などで山の神の祭をした頃は、神に<ruby><rb>扮</rb><rt>ふん</rt></ruby>して舞う者は、必ず杓子を手に持っていた。その杓子は山で働く人がこしらえて、山の神に献上する習いがあった。それ故に里で家々の杓子を握る女性まで、山の神というのだと言っているが、是は実はどちらが元だかわからない。山の神も女神でまた山全体の刀自と認められていたために、<ruby><rb>後々</rb><rt>のちのち</rt></ruby>杓子を献ずることになったのかも知れないのである。とにかくに嫁に世帯を引継ぐことを、今でも東日本では「杓子をわたす」、または「へらを渡す」とも謂っている。

<ruby><rb>添</rb><rt>そ</rt></ruby>うて七年子のある仲だ嫁に杓子をわたしゃんせ

という歌が、<ruby><rb>佐渡</rb><rt>さど</rt></ruby>の島にはあって有名である。山本修之助氏の『佐渡の民謡』という書の中には、このほかにもなおいろいろと嫁の心情を歌った<ruby><rb>名吟</rb><rt>めいぎん</rt></ruby>が出ている。この杓子渡しという語は、形容であろうと最初は思っていたところが、事実その通りの事をしているという話を、近頃になって岩手県の友人から聴いた。いよいよ母親が年を取って、家の管理を嫁に引継ごうという日には、新しい<ruby><rb>鍋</rb><rt>なべ</rt></ruby>の<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>の上に新しい杓子を一本載せ、それを両手に持って嫁に手渡しするのが方式だったという。信州の北アルプス地方でも、まだこの事を記憶している老人があった。男の方も財布に若干の<ruby><rb>銭</rb><rt>ぜに</rt></ruby>を入れて、長男に手渡しして相続の式としたというが、是に伴のうて行われた杓子渡しの儀の方が、多分は一段と古いものだろうと思う。というわけは売って金にする物のほとんと無かった時代には、財布は何の用も無かったのであるが、杓子はその前から、またいかなる場合にも、重要であったからである。

## 一七

それからさらに一歩を進めて、主婦の分配権の特に意義があったのは、成長した男子のみに供与する酒であった。この権能がもし男の手にあったならば、家族はもっと早く分裂したはずである。酒の供せられる日は時代とともに追々と増加した。最初は朝廷でいうなら恒例臨時の行事、殊に正月と祭礼の日、それから定まったる人生の大事件、すなわち祝い事と称して人の心の常の日と異ならねばならぬときに限られていた。イハフという語の本来の意味は、辞書を見ればすぐにわかる。「<ruby><rb>忌</rb><rt>い</rt></ruby>む」という語ともとは多分一つで、特殊に<ruby><rb>昂奮</rb><rt>こうふん</rt></ruby>する日でもあれば、同時に特別に戒慎すべき日でもあった。酒が無くては男たちにはその心理状態が得られなかったのである。しかもその酒がいつでも有ったわけでなく、造り酒屋の一般になったのは、京都附近ですら足利期の中頃、それも奈良とか<ruby><rb>河内</rb><rt>かわち</rt></ruby>の<ruby><rb>天野</rb><rt>あまの</rt></ruby>とかの、おかしな話だが御寺から譲ってもらうものになっていた。それが追々にヰナカと名づけて、ただの農家に<ruby><rb>醸</rb><rt>かも</rt></ruby>してあるものが貯えまた贈答せられることになって来たのである。寺以外の造り酒の管理は、始めはすべて女性に属していたのである。秋の終りになると秋祭があり、また原料の米が豊かになる。それを<ruby><rb>甕</rb><rt>かめ</rt></ruby>の中に作り込んで、その一部分を正月の用に、また或る量を京への<ruby><rb>土産</rb><rt>みやげ</rt></ruby>などに残しておくほかは、多くの家々ではその折り限りにみな飲んでしまったのである。祭や祝宴の翌日を<ruby><rb>瓶底飲</rb><rt>かめぞこの</rt></ruby>み、または<ruby><rb>残酒</rb><rt>のこりざけ</rt></ruby>などと称して、女までが集まって飲食したのは、つまりはその酒が、時に入用なだけしか造られなかった証拠である。

女が酒の醸造を<ruby><rb>掌</rb><rt>つかさど</rt></ruby>ったことは、近昔の文学では狂言の「<ruby><rb>姥</rb><rt>うば</rt></ruby>が酒」に実例がある。<ruby><rb>無頼</rb><rt>ぶらい</rt></ruby>の<ruby><rb>甥</rb><rt>おい</rt></ruby>が鬼の面を<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>り、<ruby><rb>伯母</rb><rt>おば</rt></ruby>の老女を<ruby><rb>脅</rb><rt>おど</rt></ruby>して貯えの酒を飲むのである。それからまた<ruby><rb>加賀</rb><rt>かが</rt></ruby>の<ruby><rb>白山</rb><rt>はくさん</rt></ruby>の<ruby><rb>菊酒</rb><rt>きくざけ</rt></ruby>の由来として、昔或る美女が路傍の家で酒を売っていたので、男たちがみな迷い、村の女が怒って火を掛けたという伝説もある。上代の例としては『<ruby><rb>日本霊異記</rb><rt>にほんりょういき</rt></ruby>』に、紀州に酒を造る女のあった話が出ている。独りそれのみならず、『<ruby><rb>延喜式</rb><rt>えんぎしき</rt></ruby>』に見えている宮中の<ruby><rb>造酒司</rb><rt>みきのつかさ</rt></ruby>でも、その酒造り役は女だったようである。

<ruby><rb>酒殿</rb><rt>さかどの</rt></ruby>はけさはな掃きそ<ruby><rb>舎人女</rb><rt>とねりめ</rt></ruby>が<ruby><rb>裳</rb><rt>も</rt></ruby>ひき<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>ひき<ruby><rb>今朝</rb><rt>けさ</rt></ruby>は掃きてき

という<ruby><rb>催馬楽</rb><rt>さいばら</rt></ruby>の酒ほがいの歌なども伝わっている。トネリメはすなわち<ruby><rb>刀自</rb><rt>とじ</rt></ruby>であったろうと思う。刀自という名前はその造酒司にあった三つの<ruby><rb>大酒甕</rb><rt>おおさかがめ</rt></ruby>の名として残っていたのが、<ruby><rb>後三条院</rb><rt>ごさんじょういん</rt></ruby>の<ruby><rb>御時</rb><rt>おんとき</rt></ruby>とかの火災に割れてしまったことは、たしか『<ruby><rb>古事談</rb><rt>こじだん</rt></ruby>』に出ている。現在でも酒屋の酒造り、<ruby><rb>灘</rb><rt>なだ</rt></ruby>で<ruby><rb>蔵人</rb><rt>くらびと</rt></ruby>とも<ruby><rb>百日男</rb><rt>ひゃくにちおとこ</rt></ruby>ともいう者を、トウジと呼ぶのは普通で、「<ruby><rb>杜氏</rb><rt>とじ</rt></ruby>」の字を宛てた理由というのが出たら目である。疑もなくもとは独立した女性の職務であったのが、刀自という名の意味が不明になった結果、男子にもこれを謂うようになったのである。すなわち本来は酒はこの刀自の力になるものであり、家々ではまた家刀自の手を<ruby><rb>煩</rb><rt>わずら</rt></ruby>わすにあらざれば、酒の分配にはあずかり得なかったのである。

## 一八

<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>には信仰上の隠れたる理由があったとしか考えられない。すなわち人のイハヒのために欠くべからざる特別の飲み物は、女でなくてはこれを作ることを得ないか、または女のみがこれを<ruby><rb>醸</rb><rt>かも</rt></ruby>す力を、持っているように考えられていたのである。カモスという日本語は、古くはまたカムとも<ruby><rb>謂</rb><rt>い</rt></ruby>っている。沖縄の島では近い頃まで、神を<ruby><rb>祀</rb><rt>まつ</rt></ruby>るための酒だけは、なお若い<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>な娘たちによく歯を清めさせ、米を<ruby><rb>嚼</rb><rt>か</rt></ruby>んでは器の中に吐き出させて、それを<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>しておいて<ruby><rb>醗酵</rb><rt>はっこう</rt></ruby>させたものが用いられており、カミザケという語も残っていた。すなわちこの最も貴重なる<ruby><rb>酵母</rb><rt>こうぼ</rt></ruby>は、清き処女の口の中からしか求め出されぬように見ていたのである。是と同じ例はまたタヒチその他の南太平洋の島にもある。ポリネシア人の中には洋酒搬入以前、クヴァというのが唯一の催酔飲料であったが、是も或る植物の根を女に<ruby><rb>嚼</rb><rt>か</rt></ruby>ませて、木の器の中へ吐き出させたものを、<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>に彼女らも参加して共々に廻り飲みしたのであった。

女が酒の席に参与することは、我邦でもむしろ法則であって、九州の二三の島では、今なおその場合だけを酒盛りと呼んでいるものがある。我々の婚礼の祝宴に、酒を欠くべからざるものとした遠い原因は、<ruby><rb>茲</rb><rt>ここ</rt></ruby>にあるかと私は考える。もしそういう大きな歴史が無かったら、酒と女との二つのものが今日のごとく、あらゆる弊害を伴ないつつも、なお相提携している理由は説明し得られぬのである。酒の害悪は今や飲む人みずからもこれを認め、何とかしてその悪結果を抑制しようとする計画は、すでに政治上の問題となっているのである。ところが世の禁酒運動に対する防衛説は、いつでもきまって神祭りはどうする、婚礼の祝には昔から飲むではないかという二つの点で、是でもって始終歴史にうとい人を、ぎゃふんと言わせている。勿論酒の弊害は少しでもこの二つの点からは出ていない。彼らが勝手に忘れている主要なる歴史は、昔は酒屋の無かったことである。寝酒でも朝酒でも、ほしいときは<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>でも得られるということが、昔は絶対に無かったという点である。時の変化が加われば、何にだって弊害は生ずる。酒に伴なう固有の信仰はみなすたれて、その<ruby><rb>昂奮</rb><rt>こうふん</rt></ruby>の面白さだけが記憶せられ、おまけに一方はどこにも有り、且つ大いにうまくなったとすれば、元来が我を忘れしめるのが目的の酒である。多数の飲んだくれと、是に<ruby><rb>由</rb><rt>よ</rt></ruby>って不幸を<ruby><rb>被</rb><rt>こうむ</rt></ruby>る者とを、生ずるのは当然の結果であろう。弊害がないものなら考える必要はない。しかもその弊害はみな現代のものなのである。またみなさんの問題なのである。

この点は必ずしも酒ただ一つではない。酒ほど大きな災いはせぬかも知れぬが、女の<ruby><rb>紅白粉</rb><rt>べにおしろい</rt></ruby>などもやはり酒と同様に、本来は祭とか式典とか、おおよそ酒の用いられなければならぬような日に、女を常の女でなくするために施したのが<ruby><rb>化粧</rb><rt>けしょう</rt></ruby>であった。<ruby><rb>阿弗利加</rb><rt>アフリカ</rt></ruby>の内陸や濠州の蛮地に行くと、今でも是に面を被るのと同じような効果を認めている。我邦の女性も神の言葉を伝え、また神の姿をして舞うためには、塗り立てた顔でなくてはならなかったのである。後々そういう神舞の役を商売にして方々あるく女ができて、生活のために人に招かれ、祭や式の日でなくとも、所望せられると紅白粉を顔につけて歌いまた舞った。素朴なる村の住民は、これを目して<ruby><rb>上﨟</rb><rt>じょうろう</rt></ruby>と呼んでいた。上﨟はただ貴女の別名で、もと尊敬すべき婦人を意味したことは、<ruby><rb>辻君</rb><rt>つじぎみ</rt></ruby>・<ruby><rb>立君</rb><rt>たちぎみ</rt></ruby>のキミも同じである。しかるにその上﨟が現在はどれほどまで<ruby><rb>淪落</rb><rt>りんらく</rt></ruby>しているか。我々の婚礼の日に、白粉をつける婦人だけを待ち女郎とか、または連れ女郎とか謂うのをさえ、悪い<ruby><rb>聯想</rb><rt>れんそう</rt></ruby>を<ruby><rb>厭</rb><rt>いと</rt></ruby>うて多くのいわゆる心ある人は、その名を使うまいとしているのである。女性が酒に対する反感の<ruby><rb>極</rb><rt>きわみ</rt></ruby>、その年久しい分配供与の任務を抛擲し、<ruby><rb>賤</rb><rt>いや</rt></ruby>しい身分の者の独占に<ruby><rb>委</rb><rt>ゆだ</rt></ruby>ねた結果は、今日はまた一段と酒の消費を無節制にしたので、是はまったく世人が歴史の沿革を、省みなかった不幸なる収穫である。酒の供与が或る者の職業になれば、買おうとさえ言えば幾らでも売るのが当り前で、殊に貨幣をもって統一せられた家の世帯は、いつの間にか家刀自の手を離れ、衣食住の配給においては、彼女らはもはや<ruby><rb>諮詢</rb><rt>しじゅん</rt></ruby>機関にすらもなっていないのである。国民相互の間の分配の正義が、是ほどやかましく論ぜられている今日、家の中の分配というものは不公平を極め、主人が入るだけの収益をみな飲んでしまう家さえできているのである。よしや今となってはこの権能を恢復することは望まれなくとも、少なくとも以前<ruby><rb>儼存</rb><rt>げんそん</rt></ruby>していた事実だけは明らかにして、是をまだ考える力をもつ男たち、たとえばわが子や年若い弟たちだけにでも、知らせて今一度新たに考えさせることが、刀自たちの任務ではあるまいかと私は思っている。

## 一九

時間が足らなくなって、もう一つの肝要な問題を詳しく説くことができないが、この女性の忠言というものは、少なくとも我邦ではもとは甚だ価値の高いものであった。内に隠れての援助だけではなく、外に対する場合にも、女はかなりよく夫の相談相手になっている。勿論ただ<ruby><rb>牝鶏</rb><rt>ひんけい</rt></ruby>の<ruby><rb>晨</rb><rt>あした</rt></ruby>するのではなしに、或る範囲の承認せられたる任務があったのである。古代日本人の間においては、女は一段と神に近くまた一段と祖先の霊に親しいものと認められていた。単なる女一生の経験だけからは、発言することのできぬ問題でも、或るものは先例の確かな記憶により、また或るものは神秘なる神の<ruby><rb>告</rb><rt>つ</rt></ruby>げに基づいて、しばしば迷うている男たちを<ruby><rb>頓悟</rb><rt>とんご</rt></ruby>させ啓発せしめた事跡は、記録には載らぬのを原則とするが、しかも相応に記録せられている。是も元来は酒と同様に、家の内の労働の所産であったものが、<ruby><rb>後々</rb><rt>のちのち</rt></ruby>専門の職業が外にできたのに譲って、幾つかの弊を生じたことは、「<ruby><rb>巫女考</rb><rt>ふじょこう</rt></ruby>」という長い論文で、前に私も述べてみたことがある。神託霊示はこれを信じない者には、笑うべき空言として軽んぜられるのは<ruby><rb>已</rb><rt>や</rt></ruby>むを得ぬが、しかも今日の合理的科学から考えても、女性のこの忠言の裏には、誠実なる援助心と無意識の人生経験とがあったはずで、そのためにまたしばしば家の生活指針に役立ったのである。いかに彼らが超自然の言を吐こうとも、その空想には制約があった。すなわち時代としてまた社会として、知りまたは経験していることより外へ、夢語りは到底飛び出すことはできなかったのである。新しいよい思案を生み出そうとするには、今でも準備としてまずその資料の知識を増加しておかなければならぬ。そうしてただインスピレーションをもってこれを純化する以上に、できるならばそれを系統立てて、意識して自由に利用したいと思う。それにも練修を要しまた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こつ</span>があることであろうが、私は女性がもし幸いにその古来の地位と本務とに心づき、今はその領分が不当に<ruby><rb>狭</rb><rt>せば</rt></ruby>まっていることを認識するならば、もうそれだけでも大きな進境であろうと思う。現在はすでに学問の朗らかな<ruby><rb>東雲</rb><rt>しののめ</rt></ruby>が<ruby><rb>白</rb><rt>しら</rt></ruby>みはじめた。過去の常人の生活に関しても、多くの新しい事実が発見せられている。時代の知識は増加しているのである。婦人ばかりが独り<ruby><rb>退</rb><rt>しりぞ</rt></ruby>いて、もう自分たちの不満な境遇を歎いている時ではなくなった。その前にまず自由に時代の学問に触れて、その空気の中で<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>き活きと飛び<ruby><rb>翔</rb><rt>かけ</rt></ruby>るようにしなければならぬ。いかなる賢母も賢婦人も、私などの見たところでは、ただ子を<ruby><rb>懐</rb><rt>おも</rt></ruby>い我家を思って、一般人生に対する愛情がまだよほど足りないように感じられる。あるいは大いにそうではないのかも知れないが、何分今はまだあまり働かれぬので、どうもそう見られやすいのである。