大正八年十一月

  


遠いところで私を呼ぶ声がするので、ふと眼をさますと、枕もとに宿のおかみが立っていた。それを見ながら私はまたうとうとと深い睡りに落ちかかった。

「是非会わなければならないと言って、そとで<ruby><rb>誰方</rb><rt>どなた</rt></ruby>か待っていらっしゃいます。おやすみになっていらっしゃいますと言っても、是非会わなければならないって――。」

私はゆめうつつに聴いていたが、もしやと思ってはっとした。すると、ふしぎに頭がいちどに冷たくなった。

「どんな人です。」

「眼の鋭い、いやな人です。とにかくおあいになったらどう。いらっしゃいますと私はそう申しておいたのですから。」

「じゃ階下へいま行きます。」

私は着物をきかえると、袂のところに泥がくっついたのが何時の間にか乾いたのであろう、ざらざらとこぼれた。

階下へ降りると、玄関の格子戸のそとに、日に焼けた髯の長い男が立っていた。見ると同時に、額からだらだらと流れた血を思い出した。ふらふらして宿へかえったとき、宿の時計が午前二時を指していたことと、宿のものが皆寝込んでひっそりしていたことを思い出した。

「あなたですか。××さんと言われるのは。」

いきなり田舎訛りのある言葉で言った。

「そうです。御用は。」

「私はこんなものです。」と一枚の名刺を出した。駒込署刑事何某とあった。

「すぐ同行してもらいたいのです。昨夜は遅くおかえりでしたろうな。」

私はすぐに、

「二時にかえったのです。みな分っています。いま着換えしますから。」と言った。

私は二階へあがると、泥のつかない着物を押入から取り出して着た。そして室の中を丁寧に見廻した。ガマ口の金を半分だけ机の曳出しに入れたが、こんどは辞書の中へ挿み込んだ。何故かこんなことをしなければならないような気がした。くしゃくしゃになった敷島の殻を<ruby><rb>反古籠</rb><rt>ほごかご</rt></ruby>に投げ込んで、ぬぎすてた着物も畳んだ。室が乱れていないのを見て、ほっと安心した。

階下へ下りる、すぐ男とつれ立って街路へ出た。男は私とならんで歩いていたが、私はその顔を「見ないように」して歩いた。もう朝日が昇りはじめていた。商家の小僧らが表に水をまいたり、女中らが拭き掃除をしたりしていた。

駒込林町の裏町のまがりくねった道を、私どもは黙って歩いた。男の紺の褪めた袖がちらちらと見えた。かれは私の右に添ってあるいていたからだ。この樹木の多い緑深い静かな町のとある垣根を越えた幾本かの<ruby><rb>日向葵</rb><rt>ひまわり</rt></ruby>の花が、しずかに朝日をあびながらゆらりと揺れているのが、特に山の手の朝らしく目に触れた。表の通りを白いむっちりした二の腕を露わして掃いている、若い細君らしいのが、<ruby><rb>凝然</rb><rt>じっ</rt></ruby>と私どものあとを見送ったりしていた。総てが静かに穏かな、晴れ亘った夏の朝の心に充ちていた。

私は深酒したのと酷い疲れとで、あたまがふらふらしていたが、それとは反対に心はハッキリと昨夜の出来事の逐一を辿っていた。まるで蜘蛛が糸を操るように、素早く、その光景を描いていた。

――――――――――――

Ｓ酒場は団子坂からやや根津へ寄ったところの、鳥屋や、淫売屋の小路の中に、そまつな<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>戸を立てこんだ新しい建物からなり立っていて、そこの鍵形になったテエブルの正面に、いろいろな酒瓶が処せまく並べてあって、そこにおかみが何時も坐っていた。おかみは目の大きな、いきなところがあったし、お世辞もよかった、というより、何よりも料理らしいものがなくて、ほんの酒専門であった理由から貧しい私など、晩食前にはつい近くの下宿からよく通って行ったのであった。そこには鶴のようにやせた十二、三の女の子がいて、よくお酌をしていた。ときとするとこの少女は<ruby><rb>睡</rb><rt>ねむ</rt></ruby>りながら酌をすることがあるほど、ひどい睡眠不足にかかっているらしかったが、睡りながら酌いでいても、特に酒を<ruby><rb>零</rb><rt>こぼ</rt></ruby>すというようなこともないほど上手であった。たとえば上野などのあの繁華な人通りや車馬の<ruby><rb>劇</rb><rt>はげ</rt></ruby>しく通るところで能く睡りながら車をひく商家の小僧がいるように、それが特に自動車に轢かれるということもなく完全に役目を果すように、この少女もときどき睡りながら、ゆめを見ながら酌をしていたのである。

この少女の二重になった目は大きく、<ruby><rb>微笑</rb><rt>わら</rt></ruby>うと可憐な、どこかドストイエフスキイの中に出てくる少女によく似ていた。私などのように毎日行くものに対しても別に何もしゃべらないで、

「いらっしゃいまし。」とか、「おかえりなさいまし。」としか言わないほど、黙った子であった。ただかの女をとり立てて言えば、いつも<ruby><rb>渝</rb><rt>こだわ</rt></ruby>りない不断な、やさしい少女らしい微笑みをもっていたことであった。心から可笑しいということが無くとも、ただ、平和な、純潔な、持って生れたままの微笑であった。

私はこの少女を見ていると、この少女の母親のことがよく考えられた。この子のようにやはり善良な微笑につつまれた女のように、わけても自分の子供さえ手にかけて育てられない運命をもっている女のように思われた。事実、彼女の母はある飲屋に彼女を生み落すと同時に行方不明になっていた。やはり街裏の垢じみた一室に苦しい淫をひさいでいたのであったことは、おかみからよく私は聴いていて知っていた。

おかみはこの少女をよく叱った。けれども持ち前の微笑みは、叱られながらも、彼女の顔に浮ぶので、よくおかみは、

「この子はまるで馬鹿ちゃんだ。何を言っても笑っている。いやな子だ。」

と言ってよく小衝くことがあった。そんなとき、この小さな子は、

「ごめんなさいまし。」と謝まった。

その大きな目は悲しそうにまたたいていたが、すぐ私たちの方を向くと、人の善い微笑が<ruby><rb>靨</rb><rt>えくぼ</rt></ruby>と一しょに自然に流れるように浮んでくるのであった。私はその泣き笑いする目の複雑な、その自然さにいつも惹きつけられた。ときとすると、白痴のようにさえ思われるほど、ぼうっとしたところに私は何だか大変清純なものがあるように思われた。性格的な微笑は私がＳ酒場へはいると同時にいつも向けられてくるのであった。それが私の方に向くと、私は私で、どういう気むずかしい時にでも、すぐ柔らかい心持になって、可憐な微笑に対して、つい目で<ruby><rb>微笑</rb><rt>わら</rt></ruby>い返してやるのであった。

あるとき、

「お前は何かすきなものがあったら言いなさい。買ってきて上げるから。」というと、かの女は<ruby><rb>羞</rb><rt>はに</rt></ruby>かんで、れいのあどけない微笑をしながら、すぐには返事をしないでいた。

「ね。言ってごらん。」

私はその顔をさしのぞくように言った。

「何んにもほしくないの。私、ほんとに何も買ってほしくないんです。」

心で欲しいと思っても、いつも頑固に口ではいらないと言っていた。しかし時たまおつりなどがあると、そっとこの子に握らせると、嬉しそうに小さい手の中で揉んだり<ruby><rb>撫</rb><rt>な</rt></ruby>でたりしていた。

こんな親しみがあったので、私のみならずこの界隈の画かきなども、夜おそくまで飲んでいることがあった。

ある晩、私はふらふらこの酒場の前までくると、そこにＨとＯとが椅子に坐りながら飲んでいるのが見えた。止そうかと思いながら通りすぎようとすると、れいの少女がすぐ硝子戸越しに私を見つけた。

ＨとＯとはかなりに酔っていた。Ｏは酔えば酔うほど酔わない振りをする男で、いつでも鵞鳥のように喉の奥で笑うくせがあった。

Ｈはときどき、女の子の大きな目を見ていたが、

「気味のわるい目だ。」などと言っていた。

涼しい風がときどき通りから吹いてきたりして、私はつい深酒をしてしまった。そこへ表から踊り込んだ男があった。大学の制帽を被っていたが、だいぶ飲んで来たらしく胸が拡がってかなり酔っていたらしかった。

「君達に一杯あげよう。酒は一人じゃつまらない。」

その大学生は徳利を持って、私達についで廻った。こうした酒場にありがちな、だらしのない飲み仲間が得て出来るものであるが、この晩もみんな酔って訳の判らないことを<ruby><rb>饒舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>りながら騒いでいた。

そこへ遊び人風な、日焼けのした、下駄のように粗雑な感じの男が、その妻らしい厭に肥った女をつれて這入って来た。間もなく酒が遅いとか何とか言って、可愛想な少女を脅かしつけていた。そういうとき、彼女はかなりに慣れていたけれど、その目は悲しそうにむしろ<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>を静かに慎しませるような表情をするのであった。

「早くしてくださいな。なんてのろまな子だろう。」

その妻らしい女も言葉を添えた。

少女は、ちらとその妻らしい女に目をくれたが、すぐまた悲しそうに「そんなに言うものじゃありません。」とでも囁くような目をした。まもなく例の微笑をたたえて奥の方へ酒をとりに行った。

「あんなに叱らなくてもよさそうだね。あの子に何のつみがあるものか。」私はＨに囁いた。

男はたえず私達の方を見ていたが、こんな酒場にありがちな、無遠慮な幾分<ruby><rb>蔑</rb><rt>さげ</rt></ruby>すみを含んだ視線が互いにとり交されていた。酒の癖のわるいＯは舌打さえして、Ｏらしい顰め面をしたりした。得てこのＯはよくこんな見え透いたことをやった。

医科の学生は聞えよがしに、

「弱いものさえ見ればいじめたがる奴があるものさ。」

などとやや毒気をふくんだ声で言った。すると、かれは嶮しい目つきをして<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>をにらんだ。

私はあの男が這入って来た瞬間から、何かしら不吉な、一種の挑み合うた相互の感情が暗暗裡に次第に膨脹されるのを知った。何処となく張りつめたような、反感的な窮屈な気分が、静かに時の移るにしたがって、だいぶ危険な空気をさえ予覚させた。

私達は何か高く話していたが、どっと一時に笑い声をあげた。それがいくらか<ruby><rb>当</rb><rt>あ</rt></ruby>てつけがましく聞えたらしく、耐えかねていたように男はどなった。

「ずいぶん騒ぎやがる。」

すると一番酔っていた学生は、ぐっと蛇のように首をあげて叫んだ。

「騒ごうが騒ぐまいが此方の勝手だ。引込んでいた方がいい。」

と言い返すと、

「もう一度言って見ろ。なまいきな。」

男は少し中腰になって大学生を憎憎しげに睨んだ。それがいかにも図図しいゴロツキ肌な、厭味たっぷりなものであった。大学生は、はっと思う間もなく、もう手に持っていた<ruby><rb>玻璃</rb><rt>はり</rt></ruby>の盃を男を目がけて投げつけた。

男は野獣のように毒毒しく何か叫んだが、盃はかれの頭をかすめて、うしろの壁にあたって微塵に砕けた。男は「何をする。」と大学生に飛びかかった。二人は拳固でなぐり合っていたが、すぐ表の方へ組み合ったまま飛び出した。Ｈも出た。Ｏも出た。

すると、かれの連れて来た女は、さっきからはらはらしていたが、組み合って外へ出るのを見ると、いきなり私に飛びついた。

「あたしの旦那をどうしようとするんです。」と、まるで気狂いのように、私の胸もとにむしゃぶりついたので、私は呆れかえって、その女の生白い、きかぬ気な尖った鼻を見つめていたが、

「表です。おかどちがいです。」と、私は汚らわしい気がして、表へつき出すようにした。女はすぐ表へ出て行った。私はその瞬間、兇暴な、動物的な荒い呼吸がからだのどこから<ruby><rb>吐</rb><rt>つ</rt></ruby>かれるかと思うほど、ひどい鼓動を到るところに感じた。何者にむかって発せられるということのない激しい怒りが、まるで私の上からと下からとから圧してくるのであった。

私はそのとき、酒場の隅の方に小くなって恐怖にわなないている少女を見た。かの女の目はこれより外に大きくはなるまいと思われるほど大きく開かれて、その中にかつて見たことのない深い悲しさが<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えているのを見た。手も足もその目も、すべて小さな体躯が凝ったように動かないで、じっと酒樽の陰に<ruby><rb>跼</rb><rt>しゃが</rt></ruby>んでいるのを見た。それは雀のようにすくみ上っても見えたし、また別な、厳粛な、荒荒しい外部を<ruby><rb>慎</rb><rt>いま</rt></ruby>しめている小さな怒りに燃えているようにも思えた。

酒場のそとは荒荒しい土を踏む音や、土に踵の擦られるけはいや、叫びや、肉体と肉体とが揉み合ったり撲り合ったりしているような音がした。例の男の太い掠れた叫びや、金切声をあげている女、酒場の亭主の仲裁する声などが、交錯された一瞬間に最も<ruby><rb>暴暴</rb><rt>あらあら</rt></ruby>しい生命の動物性を煽り立てた、私は表へとび出して行った。

例の大学生はむしゃぶりついてくる女を、溝際へ押しよせていた。男はそれを見ると、火のようになって大学生に飛びついて行って、その頭蓋骨をめがけて撲りつけた。大学生はふらふらとしたが、すぐにかれの額を撲り返したが、そのとき、かれは素早く、そこにあった下駄を投げつけておいて、くらい路次から逃げ出した。Ｈはもういなかった。何事についても自分の不利なことのきらいなかれは、もうそこらにいそうもなかった。

Ｏは硝子戸ぎわに立っていた。まるでかれはそこを動けなかったほど、あのゴロツキから叩かれたのであった、ゴロツキは喧嘩上手であったばかりでなく、腕も強かった。

私が酒場のそとへ、ひょこりと出かけると男はいきなり私の前に立ち塞がった。

「てめえもぐるだな。」と、凄い兇暴な、野獣のように飛びかかった。

私は先方の手をくぐっておいて、その後頭から、殆んど覆いかぶさるようにして、仰向けに引きずり倒した。そのとき私の着物の裾がゴロツキの下駄に踏まれて、めりめりと綿類独特の裂かれる弱いようで鋭い音を立てたのを聞いた。

私はいきなりかれを溝際へ押し込んだ。偶然にそこは溝だったので、私をよい位置にした。ところがかれは溝にはまったまま、いきなり下駄で私の頭をがんとはりつけた。頭がぶんと鳴って、私は足をさらわれたようにふらふらとうしろ<ruby><rb>退</rb><rt>ず</rt></ruby>さりした。そして酒場の硝子窓に凭れた。私はその瞬間、今夜は室にいて静かに本をよんでいればいいと思ったが気が遠くなるような気がした。そこへ男がいきなり飛びかかって来た。そのとき、よこから誰か来て男の頭を太い杖で撲ったらしかった。私はハッキリした意識のもとに、うしろの硝子戸につかまりながら……男の額からだらだらと血の流れるのを見た。表は一方空地であったために暗かったが、酒場のあかりでぼんやりしていたが、その日焼した顔の皺という皺に溝をつくって流れるどす黒いものを私はじっと見た。そしてあの杖がこうしてかれの額を割らなかったら、私はやられていると思った。

かれはふらふらと背後へ倒れかかると、その妻の手に抱かれた、かれの<ruby><rb>容貌</rb><rt>かお</rt></ruby>は見る見るうちに蒼ざめて行った。

「旦那のあたまを割った奴はどいつだ。」

女は高い、狂い上ったように叫び立てた。

「皆さん。巡査を呼んで下さい。」と<ruby><rb>疳</rb><rt>かん</rt></ruby>高い声で叫んだ。

いつの間にか群衆は一杯になって、かれのまわりをとりまいた。私はそのとき、この群衆のどよみのうちから、まるで群衆の一人のようになって、すりぬけた。それほど、人込みが多かった。

私は太田ヶ原から湧く清水が、この酒場からそんなに遠くないことを知っていたので、いたむ頭をかかえながら千駄木町の裏から裏へと小走りに歩いた。うしろから<ruby><rb>趁</rb><rt>お</rt></ruby>われるような、絶えざる強迫観念におそわれながら、まるで一人のさびしい犯罪者の落ちてゆくように、小路のまがり角などで、ていねいに今来た方を地べたに眼をくっつけるように透して見たりして、尾行者の有無をたしかめた。不意に垣根のところから手が出てくるような気がしたり、また、ふと靴音がきこえて来たりした。酒はさめかかっていたが、頭の底にからみついた疼痛がずきずきして、耳は絶えず早鐘のように鳴ったり、叫びごえが、ふいときこえたりした。ことに女の引き裂けたような金切声がありありと背後から叫び立てているような気がした。

夜は静かに更けてしっとりした雑草の囁きとともに、清水の流れのあたりには、青く澄んだ星の一つ一つが映っていた。私はハンカチを冷たい水にひたして、熱気のあるあたまをひたした。水の冷たさがあたまの熱をだんだんに醒ましてゆくに従って、私は今夜の出来事をまるで一つの夢のように、ずっと遠いところにあるような気がし出した。ああして挑み合った恐ろしい光景が、その理由が何であっても決して許されるものでないことを考えると、私は烈しい後悔のために、自分の生涯を汚したような気がした。ただ、あれらの出来事にかかわっただけでも、自分のなかに悪い兇暴なもののあるのを知った。

私は永い間清水の溜りにしゃがんでいた。からだの節節はひどく痛み出して、すぐ立って歩けそうにも思われなかった。東京には珍らしいこの太田ヶ原の林のなかは、若い灌木のしげみからも雑草のくらい高まったところからも、いろいろの秋近い虫の声がしていて、もう深夜近かったので人通りさえもなかった。私はときおり新聞などで泥坊や殺人犯人などが潜伏する場所もきっとこんな夜で、こんな処にちがいないと考えると、急に大きな犯罪を負っているような重みと苦しみを感じ出した。私は過敏になって聴耳を立てたり、人が来はしないかとくらい星あかりのしたやや白い道路のかなたを眺めたりした。

もういちど酒場へ行って見ようと思ったが、足がふらふらして行けそうもなかった。いま下手に行って詰らない目に会ってはならないという考えと、また、いま行けば非常な不幸があるような気もするのであった。

私はしばらくして宿の方へ帰って行った。どこの家もみな深く睡り込んで、それがいかにも幸福な、私にかかわっていない平和な睡りであるように思われた。私もああして、静かにねむっていられたのだと、灯のもれる二階を眺めたりした。どこかの時計が二つ打った。午前二時であることがハッキリと頭のなかに入った。遠く鶏が鳴いた。

――――――――――――

駒込警察署の門の前まで来ると、刑事はわざと背後に<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて私をさきに歩かせた。私は花崗石の厳めしい門を<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>ったとき烈しい胸さわぎと辱しめとを殆んど同時に感じた。

私は小使室のところで「待っていてくれるように」と言われて、そこに腰をおろしていたが間もなく、さきの男がやって来て、

「此処へ来たまえ。」と言って拘留室の前の、小さな<ruby><rb>床几</rb><rt>しょうぎ</rt></ruby>を指さした。私はそこに腰をおろした。ふと気がつくと其処にＯも来ていた。Ｏは私を見ると苦笑しながら、目で「とうとう来たかね。」と言うようであった。

私を見るとＯは、

「昨夜から此処に来ているんだ。対手が悪かった。」と低い声で囁いた。

「私は寝込みを起されたのだ。君が住所を言ったのだろう。」

「でもこうなっちゃ仕方がないじゃないか。」

その蒼白い、睡眠不足な顔はところどころ腫れたようになって、眼が疲れて光がなかった。

私は黙って今まで薄暗くてよく見えなかった<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>を見た。私たちのいる両側は厳丈な格子になっていて、ちょうど、芝居などで見る牢屋と同じだった。左の方に入口がついていて、そこに重い錠がかかっていた。それからもう一つは、食物や水を入れる口がついていた。明り窓から射す鈍い光線でよく見ると、二人ばかり拘留されているのが、時時、憂鬱な内部でむずむずと動いたりしていて、まるで檻の中の獣のように重重しく陰気であるばかりではなく、とき折、小さな控え目な咳をしたりするのが何となく不自然な気がするのであった。なぜというにその精悍な咳の音はあまりに健康で、こんな病的な暗い檻の中から起ってくるものとは思えないからであった。

この陰気な湿り気のある、蒸したような空気のなかに実に非常な沢山な蚊が群をつくっては私を襲うた。精神的にも肉体的にも弱点を持った人間を<ruby><rb>毎時</rb><rt>いつ</rt></ruby>もこうして襲うだろうと思われる蚊のむれは、私の足や手や顔や、そういう着物から外部へ出た肉体を目がけて、殆んど暴君のような逞しい勢いで払っている<ruby><rb>暇</rb><rt>ま</rt></ruby>もなく襲ってくるのであった。しかも憎むべきこの蚊を見分けることのできないあたりの薄暗さは、刺してしまって痒さを感じたあとでなければ、それらを追い払うことができなかった。たとえば足の一部を払っている間に、こんどは頬のあたりを刺して来たりして、<ruby><rb>苛苛</rb><rt>いらいら</rt></ruby>しい、しかしどうにもならない苦しさを感じるのであった。

私は<ruby><rb>彼</rb><rt>あ</rt></ruby>の男を傷つけはしない。あの男の額を破ったものは私より別にある。しかしあの時の杖がかれに加えられなかったら私はどうなるだろう。きっと頭を割られているにちがいないと考え込んだ。そしてＯの蒼い顔を眺めた。Ｏはだいぶさきから<ruby><rb>脚気</rb><rt>かっけ</rt></ruby>で足をわるくしていたので、ぺたんこになって板敷の上に坐っていた。

「ひどい蚊だね。」

Ｏは嗄れたような、睡い声で言った。

「ほんとにひどい蚊だ。」

私は心からこの小さな憎悪すべき昆虫の襲撃を呪うた。殆んど無抵抗な条件の下に坐らされた檻の内部からも、力のない蚊をはらう音がぱたぱた聞えた。それが実に衰えた寂しい音だ。

拘留室の巡査は一時間ごとに交代した。そのたびごとに騒騒しい靴の音ががりがりした。黒板に私とＯとの名前が記された。私はそれをふしぎにしかも別人のような心持でながめていた。他に拘留二、とあった。

巡査はＯに檻房の中に入るように言った。Ｏはしかめ面をしながら、小さな入口から這入りかけると、

「帯を解くんだ。」とどなられた。

私は持物を調べられたあとになっても、別に内部へ這入れということを言われないので私はＯ一人入れるのは不当なようで、気の毒にも思った。

「僕も一しょに入れてくれませんか、二人とも同じい事件にかかわっているんですから……」

「此方に考えがあるのだ。君はそこにいればいい。」と、投げつけるように言った。

私は脣をかんだ。そしてＯが杖でやったことを警察でも知っているんだなと思った。私はＯをじっと見詰めた。Ｏはその蒼白な顔をそとの方に向けて坐っていた。Ｏと私とは十年来の友であった。私はかれの心持を考えると、どんなにつらいだろうと考えた。私は看視している者の帯剣からからだを動かすたびごとに金属的な不快な音を立てるのをききながら、この役人どもがやはり優しい人並みな感情を持っているだろうかとさえ、極端な憎悪をもって憎憎しく眺めた。

私の坐っているところからすぐ廊下になって、街路の明るい日光に照らされている一部をも眺めることができた。わずか二時間あまりもこの暗いところに坐っている間に、私は街路や世間の生活が非常に遠いところにあるような気がしだした。<ruby><rb>羅宇</rb><rt>らお</rt></ruby>屋や学生や、若い女などが通ってゆくのが皆楽しく明るく幸福で、しかも私どものような暗い心持でいる人間がこの世界に存在していないように、またそういう想像をさえしたことがないほど、みな喜ばしく歩いてゆくように思われた。ことに町家の屋根の上から覗いている木のゆれるのが、実に爽やかで瑞瑞しく美しい緑をたたえて、私の心の奥までしみ亘った。そのうららかに晴れあがった夏の午前らしい日光の鮮かさ快活さ喜ばしさが、これまでに見たことも経験したこともない強く深い愛をもって眺められるのであった。私はその明るい芳ばしい日光の匂いをさえ嗅ぐようにそっと顔を街路の方へさしのぞくようにしたのであった。

私はとても<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>を出られそうにも思われなかった。たとえどういう理由があるにしても、私どもは示談ですむことを知っていたし、また私自らが加えた傷でないことも分っていたが、それらの出来事とは全然別な意味で、殆んど精神的に病的な憂鬱な、いろいろな暗いものがよってたかって「此処を永久に出られないよう」にさえ思わせるのであった。ことにああいう明るい街路の存在が、もう二時間以内ここに坐ってからというものは、とても再び愉快にそこを考えてゆけないように思わせるのであった。

私は私のあの静かな下宿の窓を埋めて繁った椎の葉や、落ちついて仕事をしている自分の姿を思い浮べて、さらにこの暗い限られた世界の窮屈さをしみじみ感じた。

そこへ一人の若い酌婦らしい女が、これもやはり鳥打帽をかむった刑事に連れられて入ってきた。そして、すぐ私の傍の床几に坐らせられた。

「ここで暫らく待っているんだ。」と鳥打帽子は荒く言って去った。

女は垢ぬけのした、いろの白い、あだっぽい何処か酌婦らしい艶艶した手足が、よく肥り込んで見えた。この女がくると同時に、一種の安っぽい香料ではあったが、それでもまるで春が来たように静かな匂いをあたりに漂わした。それからまた女の肉体から蒸せあがるような、しつこい匂いが煙を投げつけるように、すぐ隣にいる私ににおうて来た。

巡査が来て黒板に淫売一、と書き加えた。女はそれを見ると何か口のうちでぶつぶつ言いながら、脣を結んだようにして、皮肉に薄笑をした。それが反抗的な、執念深いような強い目つきの中にも読まれた。

監房の中のくらやみから、何時の間にかそっと猫のように這い出してきた二つの顔が、格子の間からしつこく女の方に向って現われてきて、じっと動かない餓えた目の光が看視の隙をねらっては発せられた。一週間も二週間もこの暗いところに生活しているかれらは、ただ、それは一疋の這うものとしか思われなかった。（事実において監房は頭がつかえるほど天井が低かったとあとでＯが言っていた。）かれらは水を貰うときも何時も膝頭で歩くので、いつも中腰になったりしていた。ことに女を眺めに出てきた二つの顔は、まるで這っているもののうちでも最も畸形な獣のように見えた。

女はすぐに格子のすきから覗くいくつかの目の光を、殆んど直覚的に感じ出すと、軽蔑したような笑いを催して、これもまた格子の内部をじいっと窺うていた。これらの光景は一人の看視のからだの動くのにつれて、あるものは稲妻のように調子をかえて真面目な顔をよそおい、這うものは鼠のように音をも立てずに姿をかくした。そうかと思うとまたすぐ顔があらわれたりした。

私はまるで一枚の紙片のように白く浮いている女の素足を見るともなく見ているうちに、Ｏの鋭い視線を自分の額にそれと感じると、私は監房のなかのかれを見た。かれは端然と坐ってそして私を正面に見た。期せずして両方から何者を冷笑したということもない標準のない冷たい微笑をとり合わした。それは、ただ、その中に挿まれた両方の感情を直覚することによって理解された。明らかに、Ｏは持前の図図しいような目つきで、私とならんでいる女のことを、なにか囁いているらしかった。

しばらくすると、女は膝に手を置いて、しずかに居睡りをはじめ出した。その疲れた、ぐったりした餅のように<ruby><rb>乱次</rb><rt>だらし</rt></ruby>のないからだは、まるで柔らかく居睡りするたびごとに、全体を少しずつ動かしていた。私はかの女がこの内部にあってもそれほど恐怖していない常習犯であることを知った。かの女にとっては、まるで一疋の鈴虫が籠から籠へ移されるより簡単に、町から警察へと生活をうつしてゆくもののように思われた。ここではあまりに見られない平和な夢がしずかにそれと感じられる優しい呼吸づかいを、私の方にすーすーと伝えてくるのであった。私は何よりも看視がこの女の夢をさまさないように、かれの帯剣や靴の板じきにふれるのを聞くごとに、自分のようにはっとした。しかしかの女の前にあらわれた一瞬のやさしい天国の光景は、なかなか彼女をさまそうとしなかった。彼女は見えざる何者かの魔手によって、ちょうど、蜘蛛の糸を引くように、おちついて静かに永く居睡っていた。

単調な、物憂い、どうにもならない時がすこしずつ移って行ったけれど、まだ私らは調べられなかった。街路の日光はしだいに烈しく、暑さはこの中にあっては随分ひどかった。いろいろな物売の声がしたりした。

「君は弁当をたべるかね。自分で買うかどうか。」

と看視は私とＯとに尋ねた。

「ほしくないから要らない。」と断った。

女はわざとらしくにっと厚い微笑みをうかべると、

「おかねはあるんですから、上等なおべんとうを言って下さい。」と言った。看守は微笑して、

「よしよし。」と言った。

私は看守に、

「僕に湯か水か、願えたら茶を一杯くれませんか。」

「茶はぜいたくだ。一しょに来たまえ。湯ならあるよ。」と小使室へつれて行った。そこに温かい大きな茶釜が湧き立っていた。

「その急須はまだ出るだろう。やりたまえ。」と深切に言ってくれた。

私は出ながれの茶を静かに味った。うまかった。

しばらくしてＯは呼ばれて出て行った。私は軽い胸さわぎを感じた。しかし私は私のしたことを正直に言うより仕方がないと思って、蚊をはらったりして待っていた。

間もなく呼ばれた。

白い服を着た剣をさげていない巡査どもがそれぞれテエブルに向って調べ物をしているところを通りぬけて、部長室へ行った。Ｏは私とすれちがいに入れ換った。

部長は鈍感げな、ぶくぶく肥えた、どんよりと曇ったような声で、一枚の図面をひろげて言った。

「君は此処に坐っていたのか。」と、酒場の図面の一部を指した。

「そうです。」

「このステッキはＯの所有だね。」

Ｏの杖を出した。それに血の斑点がついていた。

「そうです。」

「君は撲った覚えがあるかどうか。」

私はこの問題を永く考えたので、いっそ自分の責任にした方がいいと思っていた。Ｈも逃げて行ったし、大学生もいなかったから、結局Ｏか私かだ、Ｏは脚気で足が立たなかった。それが杖をふりあげたと言っても、私が一番健康でその加害者らしい可能性をもっていたわけだ。

「僕がやったかもしれません。しかし酔っていてしっかり覚えていません。しかしＯは足がわるかったから、Ｏでないことは実際です。」

部長はじっと私の顔を見つめた。そして微笑した。

「Ｏも自分でやったといっているし、君もやったというが、君らは友人同士だからどちらでもいいらしいが……」とまた微笑した。

「ともかく酒はあまりやらない方がいいね。被害者は全治二週間の傷を負っている。で示談にする気があるかね。」

「私も示談にしたいと思っているんです。」

「では告訴は三日間の期限があるから、それで先方と示談したまえ。それからこんどの事件以後は許さないから、そう思いたまえ。」

部長は柔和な、重い調子でいって書類を二つに折った。

「承知しました。」

「どうも酒はいけないね。ことに画かきだのって連中は、酒くせがよくないね。」

「ではもう帰ってよろしい。」

私が頭が軽くなったような気で廊下へ出た。そこへ呼び出されたＨも新しい服などを着込んで来ていた。

私達は三人揃ってそとへ出ようとした。私はもう一度ふりかえって拘留室の暗いところを眺めた。そこに女がこちらの方をじっと眺めていた。ほの白い顔を私は一種の親しさをもって見返した。

街路は暗いところから出て行った目には、明るすぎて眩しかった。私は帽子をとって歓喜のために日光をあびた。烈しい夏の日光はじりじりと頭の地にしみ込んで、針ででも刺すように熱かった。

ＯはＨに皮肉にえぐりつけるように言った。

「昨夜はさっそく逃げたね。」

「めんどうだったから。」

「おかげで一ト晩蚊に食われちゃった。」と、れいの喉の奥で笑った。

私はＨに、

「君はいいことをしたよ。あんなところへ君をいちど入れておく必要もあるような気がするね。君のように問題をそらすことのすきな人はね。」と私は笑いながら言った。

「僕よりＯが入ってきたことはいいことだ。」

それはＯは図図しいから懲りてもいいだろうという意味も交った。Ｏはいやな顔をした。

「誰でもあんなところへは一度だけは――一度きりだよ。入っていてもわるいことはないね。」

私は二人を見た。ＨもＯも、ずるそうに微笑った。

私達は先方の男の傷の治療代や、示談を開始することのために今夜Ｓ酒場へあつまることにして別れた。私とＯとは駒込の浴場に入ってからだを洗った。たえまない蚊の襲撃や、汗や、きたないもので体躯が一杯のような気がしていたので。

晩方、私はＳ酒場へでかけた。昨夜のああいう騒ぎがあったと思われないほど、道路はよく掃き清められて涼しげに打水がしてあった。私は地上をじっと見つめた。寂しい後悔が胸に起ってきた。そこらにまだ兇暴な呼吸が残っているような気もした。

酒場へ這入ると、おかみが出て来て、

「昨夜はおけがもなさいませんでしたか。わたし、一時はどうなるかと気が気じゃありませんでした。」

「すこし頭がいたむだけです。たいへん御迷惑をかけました。」

「いえ。よくあることですから、それに<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>は淫売屋の亭主なんですって。対手が悪うござんした。」

「私もあまり質のよい人とは思わなかったのですが……」

「この界隈でも厭がられている暴れ者なんですよ。」

「そうですか。では示談もなかなかむつかしいでしょうね。」

「金をほしがるでしょうね。」

「傷も二、三日に癒るのをああして二週間なんて診断をお医者から取ったらしいのですよ。」

私は紅茶をのみながら、昨夜の出来事がかつて起ったようにも思われないほど、きちんと形づけられたあたりを眺めた。おかみが去ると、れいの女の子がでてきた。

「いらっしゃいまし。」と私の方へきた。深い<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえみ</rt></ruby>をいつものように漏らしながら……。

「昨夜はこわかっただろうね。」

私はひくい声で言った。

「わたし皆見ていましたの。あなたのおつむがどうかならなくって――」

彼女は上目をして私を見た。

「すこし痛むが大したことはないよ。これからあんな喧嘩はしないからね。」

私はこの小さな魂を慰めるように優しくいうと、

「え。しないで下さいね。」と悲しそうに言った。

この小さい子供は私のあのときの容貌をきっとどんなに恐ろしく感じたであろう。そして人間が大きくなると何という獣に近い兇暴になることであろうと感じたにちがいないと思った。私はかの女の瘠せた肩や、手や足を見た。それらがどんなに昨夜震えながら恐怖の<ruby><rb>念</rb><rt>おも</rt></ruby>いに充たされたことかと、幾分の恥かしさを感じた。本当にはずかしい事だ。

「あのときあんたはどんな気がしていたの。言ってごらん。」

私は<ruby><rb>柔</rb><rt>やさ</rt></ruby>しく言った。

「みなさんがお怪我をなさらないように祈っていましたわ。」

「ほんと。」

「ええ。」

彼女はにごらない刻みつけたような微笑をした。目はしずかに、むしろ平和にかがやいていた。

その色の白い、どこか品のある顔は澄んで、どこということもない別な神聖なものが漂っていた。

私は心でこの少女に感謝した。この小さい魂の前で私は決してああいう出来事に再び加わってはならないと心で誓うような純な感情になった。

「男のひとはみんなああして喧嘩するものでしょうか。」

「そんなことはないよ。善い人は決して喧嘩なんぞしないよ。」

私は答えて顔が赤くなるような気がした。喧嘩した私どもはそうなると悪い人間だ。私もそれに違いない。

少女は黙って、紅茶の道具をひいてゆくと、そこへＯとＨとが来た。三人の頭には昨夜の事件が顔を合すと同時に想起された。その微笑には何処か破れたようなところがあった。

「ともかく誰か見舞いに行かなければならない――」ということになった。私は、

「僕が行こう。」と言った。

ＨもＯも行こうとしないことを知っているので、私がビール半ダースを提げて示談にでかけることになった。私はいやではあったがしかし今となれば、この忌わしい事件の渦中から遁れたい願いをもっていた。一日でもこの事件のために頭をいためることは不愉快でもあり、無益なことでもあったからである。

「なるべくならばだ、そのビールだけで向うが我慢するようにして来てくれたまえ。金だとかなりやられるからな。」

Ｏが抜目なく言った。Ｈもそれに賛成した。

「どうでもビールでさよならをするんだね。」とＨも言った。

「額を破っておいてビール半ダースで、けりがつけば面倒はないがね。」私は苦笑した。

私はともかくビールを持って、すぐ近所にあるかれの開いている料理店――といっても、ほんの小さな飲屋を訪ねた。昨夜私に食ってかかった女がでてきて、私を見ると同時に手みやげを見た。

「すこしお待ち下さいまし。」と言って奥へ這入った。

間もなく男が出て来た。額から頭一面に繃帯を施した、見るからに不愉快な容貌をしていた。眼の円い小悧巧そうなところがあった。

「さあ。どうかお上り下さい。」

お世辞よく言った。私は頭の方は痛むかどうかと、私としては落ちついた丁寧な言葉で言うと、

「かなり痛みますので寝ていたのです。飛んでもない災難でした。」

私の出したビールをじろりと横目に見たが、すぐに、

「かまわないで下さい。」とかれは挨拶がわりに言って煙草を喫った。私は言い出し憎くかったが、

「実は警察でも示談にしたらどうかと言ってくれたのでお伺いしたのですが……」

「え。話によっては示談にしてもいいんですが、何しろ二週間も治療しなければならないんですからね。」

そういう言葉は明らかにそう簡単ではだめだという押しの強い、商人にも見ることのできないゴロツキ肌なところがあった。それにまた言った。

「何しろ男が額を破られたのですからね。署長が示談にしろと言わなければ此方にも考えがあったんです。」

悪意のある冷たい調子で言った。私は非常に不愉快な、ありありと侮辱されているような気がし出した。

「失礼ですが治療代の方はどれだけ差上げたらいいでしょうか。」

と私の言葉の終らないうちに、向うはもう疾くに考えてあったらしく、

「二十円は是非貰わないでは足りませんね。」

こう言って私の顔をちらと見た。その視線は明らかに勝利者の苛酷な、むしろ毒毒しい光を帯びていた。

私は脣を噛んだ。

「それだけ差上げれば示談にしてくれますか。」

「もとより私も内分に済ましたいのですから、喜んで示談にします。」

いくらか私の方で承諾するらしい様子を素早く見て取って声を低く落して言った。私は刻刻に募る不快さに耐えられない苛苛しい気で、外へ出た。玄関のところで、

「三日以内の規定ですね。告訴は――」と確かめるように言った。

私は黙って裏町を歩いた。私は私の内に住んでいる魂までが卑屈なものになったような汚らわしさと憤怒とを同時に感じた。

ＯとＨは私のこの報告をきくと、Ｏはすぐに私をなじった。

「二十円なんて馬鹿馬鹿しいじゃないか。拙い談判をしたものだ。」

不平らしく脣を尖らした。Ｈもまた私から金額を示してでも来たように取って、

「君は下手だよ。そんな金があるものか。」と言った。

私は脣を噛んだ。

「金は向うで言ったのだ。君達は僕のせいだと思うのか。」

つい私は怒りに燃えた声をあげた。私は心のそこから不愉快と忍耐との爆発したものを押えてはいたものの、もう耐らないような気がした。

「そう怒るな。怒っているときではない。」

Ｏは持前のわざとらしい冷やかな態度をとった。

私は黙り込んだ。

ＨとＯとが酒を命じた。私はほしくもないのと、もう一緒にのみたくないのとで、一滴も口にしなかった。

「頑固だな。」とＯは言った。

「頑固だ。しかし君たちのような分らずやではない――。」

私はまた黙り込んだ。

私は頭の中で昨夜のようなことも、今夜もまた起りそうな気がした。あの人間の霊魂を相互にどうにもならないまで辱しめ合う醜い争いや、再び回復しがたいような感情的な致命傷を闘い合わすことや、それらによって人間そのものの性格に荒い苦しみを刻みつけたり、よくない経験によって<ruby><rb>益益</rb><rt>ますます</rt></ruby>よくない傾きに墜ちさせてゆくことを考えると、私は慄然とした。外部からそれらの耐えがたい争いを見るとき、どんなに醜くく卑しい心を人人に起させることだろう――私は床几に腰かけている少女を見つめた。あんな小さな子供の心にまで、吾吾は動物的な争闘の瞬間を押し拡げて見せた。かの女をして鳩のように震わせたのは誰だったか。

「人はみな自分の内によくないものを持っている。」という言葉が浮んだ。一人ずつが性格的になろうとしたりするとき、とても他を容れられるものではない。

そのときＯはまた言った。

「あのビールは無駄なことだった。つまらないことをしたね。」

ＨはＨで、本来は優柔な、美しい線を愛している作家であったが、酒気を帯びていたので、すぐに賛成した。

「考えるとばかばかしくなる。」とも言った。

私はこれらの言葉を聞くと、益益物憂い低められた感情をありありと見るような気がした。しかし私も決してこの友らを責めるほどの高いものをもたない。私はかれらを責めてはならないと感じた。私の内の内なるものの醜くさ卑しさこそ掘り出して責めなければならない。

――私達はその翌日、みんなで金をまとめて、料理屋へ持って行った。ＯとＨとは、千駄木町のうらに待っていて、私が彼を料理店にたずねた。

私は金の包みを彼の男に渡すと、急にいやらしい笑顔になって、

「これで私も治療できます。御心配をかけました。」

と言って、上包みをとって内容を改めた。そこに紫色の紙幣が四枚はいっていた。かれは日焼のした指さきで数えて見てから、もとの通りにつつんで、

「では警察の方は取下げをしておきますから。」と言った。

「受取のしるしになるようなものを一つ書いてくれませんか。」

「あ、そうですか。」

とかれは、治療代の受取りをかいた。私はかれと別れた。

ＯとＨは、涼しい垣根に添うた樹のかげに、私のかえって行くのを待った。私は受取書をかれらに見せた。

「これで一段落だ。」

Ｏは睡眠不足らしい蒼い顔を私の方に向けた。

私も心が軽くなったような気がした。

そうして吾吾はただ疲労だけを各各に与えられただけだ。三人ともぐったりしたような心持で、白く光る道路を眺めたまま、しばらくぼんやり佇んでいた。まるで外からはよくないことでも相談している群のように見えた。

そのとき、私達の前を通ろうとする一人の大学生を見た。向うでも、叫びをあげるほど驚いた。それは例の医科の男だ。あの晩行方をくらました男であった。私たちは初めて会った人だったし、警察でもしらべがつかなかった温和な共犯者であった。

「この間の晩は失礼しました。」

Ｏはすぐ傍へ寄って行って、

「君にちょいと話がある。」と言った。そうしてあの晩のいきさつを話した。

「そうですか。では僕も一部分の責任がありますね。出しますとも。」

あの晩、ひどく酔って暴れたこの人は、おとなしい性質をもっているらしかった。そして、

「実は試験中なんで本当は逃げを張っていたんです。あなた方にたいへん迷惑をかけました。」

かれは一部分の負担額を財布から<ruby><rb>抓</rb><rt>つま</rt></ruby>み出した。Ｏはそれを受取った。

Ｏは自分の住所書きを手渡したりして、

「とにかく事件は済んだのだから安心したまえ。」と言った。

学生は去った。Ｏは、

「負担させたもののもう事件は済んだのだからこれで一つ飲もうじゃないか。」

Ｈもすぐ酒のみらしく、

「よかろう。君はどうか。」と私をかえり見た。

「僕は気がすすまない。今日はこれで失敬する。」と別れにかかると、

「一しょに来たまえ。」とＯがいうのを背後にききながら、沈んだ心で宿へかえった。

私は午後から谷中の方面を歩いて、新しい宿をさがした。自分の宿にいても絶えず私は監視されているようで落ちつかなかった。ことに朝、目がさめると、鳥打帽をかむった褪めた紺絣をきた男が、いつも玄関に夢にさえまで現われたりして、佇んでいるような気がするのであった。

何となく不吉な経験をさせられたこの宿を越して行って静かな宿に、全然心持の汚れや疲れをあらためたい願望をもつようになった。椎の葉のしげみや、その葉の上にそそぐ雨は懐しかったが、それよりも、夜など、散歩から帰ったりするとき、ふいと表にれいの鳥打帽が立っているような気がして、落ちつくことができなかった。

谷中もやや根津の通りに近い高台の、とある坂の上に小さな離れを見つけた。室もきれいで静かで、入口も自由であった。

表は、大きな屋敷の楓ばかりの美事な垣がつづいて、静かな通りが曲って谷中の墓地や上野の方へと続いたりしていた。

私はさっそくそこへ越して行った。

一間の窓の前に小さな庭があって、<ruby><rb>鳳仙花</rb><rt>ほうせんか</rt></ruby>の幾本かが田舎めいた質素な赤い花をつけていた。その他に見るものもない庭のこととて、私はその正面に机を据えた。

日暮れまでにすっかり荷物の始末をして、ひと風呂浴びてかえると、門のところに十ばかりの女の子がにこにこしながら、小さい弟と遊んでいた。貴族的な、血色のよい、品のある顔立であった。私は可愛らしい子だと思いながら室へはいった。

この家には私の外に二つの家族が住んでいた。一人は年寄夫婦で、一人はれいの女の子のお母さんの一族であった。

朝、台所で女の子のお母さんに会った。上品な、鼻の高い中年の女のひとだ。

私は引越しの挨拶をすると、向うでもていねいにあいさつをしていた。

「子供がいるものですから、さぞおやかましいことと思います。どうか、御遠慮なくお叱りくださいまし。」と言った。

「どういたしまして。」

私は自分の室へかえった。

朝のおそい私はおひると一しょの食事をしているとき、彼女はよく、大きな高い、女の子供らしいはね上るような声で、

「かあさん。ただいま。」と言って、縁側に本をつつんである包みを投げ出すのが、毎日のように私の室にきこえてきた。そんなとき時計をもたない私はちょうど午後一時ころにあたるのを何時も知るのであった。

よく庭で弟と遊んでいる声が聞えた。

私はあの事件以後、めったに外へ出ることがなかった。ことに家の込み合った町の有様や、小さな酒場やカッフェを見るごとに、私は自分の心に痛みをかんじた。まるで犯罪者のように室にばかり籠って、創作に苦しんだり古い日記の整理などをしてくらしていた。

ときには、表へ出て通りを眺めることもあった。ことに寺の多い谷中のこととて、晩方、涼しい風に送られてよく上野の寛永寺の時鐘がきこえた。しずかな夕方など、都会の騒音にまぎれない、しめやかさをふくんだ音色は、よくきき得られた。

彼女は弟と、も一人の男の子とで、庭のところで石をたたいては鐘の音を読んでいたりした。

……<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いま鳴るかねは</span>、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いくつのかねじゃ</span>、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">六つのかねじゃ</span>……とお国のうたらしいのを、少女らしいあどけない、どこか鋭い哀切な調子でうたっていた。私はそれを夏もやや暮れちかい涼爽な、どこか冷やかさをもった空気のなかに、じっと跼んできいていると、少年時代の微妙な生活を考え出すのであった。人間がどれだけ成長して行っても、いつも衰弱しきった、思索しつづけた心のそこに何時も湛えられているものは、あの少女のいまうたっている心境だ。それを思い出すことによって、しずかに、うっとりしてくる<ruby><rb>彼</rb><rt>あ</rt></ruby>のたのしい瞬間だ。

私はその小さな花のような顔を見た。敏り深い聡明な清い瞳を見た。まるで<ruby><rb>蝗</rb><rt>いなご</rt></ruby>のようにはしこくデリケートな足や手や、それらが絶えず目まぐるしいほどよく運動しているのを見ると、この地上において、何者にも恐れることをしらない自由な、山嶽のなかに咲いたひとむれの花のようにさえ思われるのであった。

女の子と、その弟とは、人懐かしげに私の方にやって来た。そして<ruby><rb>総</rb><rt>すべ</rt></ruby>て中流に育った子供等のあどけない品のある悪びれない無邪気さで、寂しそうに立っている私にはなしかけるのであった。

「おじさんはそこに何していらっしゃるの。」

「あなたらの遊んでいるのを見ているんです。あなたはうたが上手ですね。」

私は微笑しながら言った。

「あたしよりね。弟が上手なの。」

弟は姉さんの手にぶらさがるようにして甘えた。

「姉ちゃんは僕より上手だ。」

私はこの小さな姉弟を眺めた。私にも深切な姉があった。ちょうど今ここにいるこの姉弟は期せずして、私の遠い子供のときの空気を思わせるほどであった。

「あなたは何んと呼ぶの。」と問うと、すぐに、

「ふじ子って言うんです。弟は敬宗っていうの。」

彼女は明るいつやつやした目で私を見上げた。誰でも一度は、この子のように美しい透明な瞳をしている時期があるものだ。五つ六つころから十六、七時代までの目の美しさ、その澄みわたった透明さは、まるで、その精神のきれいさをそっくり現わしているものだ。すこしも他からそこなわれない美だ。内の内な生命のむき出しにされた輝きだ。

それがだんだんに、宛然、世間の生活に染みてゆくように、すこしずつ濁ってゆき、疲れを感じるようになり、ねむれなくなってゆくのであった。私はいまこの濁った自分のひとみの中にうつした瞳を、その瞳の清浄な光によって、いくらか洗われているような、清さを伝えて貰えるような気がした。

「いくつになったんですか。」

「九つ。弟はね。六つになったの。」

私は間もなく自分の室の方へかえった。晩夏の永い日もややくらみをおびた。

……<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いま鳴るかねはいくつのかねじゃ</span>……といううたごえが、こんどは、お母さんの室の方にきこえた。

私は机にむかった。

そこへＯが訪ねてきた。あの日以来、私どもは会わなかった。さまざまな感情の機微がこの友を厭うたりして、しばらく会わない方がいいような気がした。

Ｏは這入ると、すぐに、

「いい室だね。それから君は芝の方へまだ行かないそうだね。」と言ったが、私には訳が解らなかった。

「芝の方へとは。」

「芝の区裁判さ。僕もＨも呼出されて検事から説諭されちゃった。そのときにね。君が出て行かないものだから、ぶつぶつ言っていたよ。」

「でも僕は越したので通知を受取らないから仕方がない――明日行って見よう。」

「そうしたまえ。めんどうだからな。」とＯは言った。

私がまだあの出来事が網の目のように、私の行く先に張られていたことを知って、不幸な、煮えるような苛苛しい気分になってゆくのであった。

「検事はいったい<ruby><rb>何</rb><rt>ど</rt></ruby>んなことを言うんだ。」

「ただいわゆる説諭だ。なんでもないよ。駒込から通知が行ったんだね。」

Ｏは寂しい顔をした。

「おかみのことは正確だね。」と私はいった。

「仕事だから正確だね。」

私はやっと落ちついて、これから始めようと思っていた仕事が、また明日ああしたとこへ行くことによって破壊される不幸な予覚をさえ感じた。みなこの小さな私の成長の上に様様な苦しみと邪魔をすると思った。今夜はまた私はしずかに詩作に耽ることを考えていた。人間の心が眼の光に働きかける心持を詩で現わそうと楽しんでいたのに、もうＯの持ってきた毒矢はぴったりと私の優しい心をつき刺した。そして自棄に、荒荒しく煮え立てさせた。

私はＯに言った。

「飲もう。くさくさしてきて室にいられないから。」

Ｏにはこの心持が見えていたらしく、冷やかに笑った。私はそれを感じると、心は二重の意味で限りない怒りに叫んでいるように苛苛しくなった。

「かねがあるか。」

「かねは作ればできるんだ。さあ出かけよう。」

私は二、三冊の書物を抱えて出た。私はいつもゆく質屋へはいった。そして書物を叩きつけておいて幾枚かの紙幣を袂に捩じ込んだ。

Ｓ酒場へは、かりがあって厭だというＯを無理につれて行った。私もこの酒場へ行きたくなかった。厭な暗い陰気な心持になるばかりでも、他の明るいカッフェへ行きたかったが、今夜は此処へ来たかった。

私達は盃をなめはじめた。私は深い飲酒者が永い時間をかけて愛飲するように、ちびりちびりと深い溝そこへはまり込んで行くように、次第に意識を円満にやわらげてゆくようにした。酒は意識を五彩あやなす錯然とした或る夢幻的な心持に、たびたび誘おうとした。しかし私はもはや酔えなかった。あたまの中にシンが立ったように、醒めて冷えきったものがあった。

れいの少女は、自分の坐るところにいて、私達の方を見つめていた。……間違いのないように、あんな恐ろしいことが起らないように……とその大きな目が謹ましい深い或る一点に、しかも黒黒と据えられているようであった。しかもあの永久にそうあろうとも思われる<ruby><rb>微笑</rb><rt>ほほえ</rt></ruby>みは、ときとすると、老人のするような枯れたようなところが浮んできて、大きな悲しそうな、とても現わそうと思っても、わざとは現わしきれない複雑な光とともに、しずかに私の上にそそがれていた。私はにっとほほえんで見せると、かの女は立って、私たちの方へ来た。

私はこのごろになってから、彼女に酒をつがせることをしなかった。何かしらこの少女の霊魂までをおもちゃにするような、変な或る道徳的でない別な感情的な意味で、いつも自分でついでは飲んでいた。しかし私は今夜はその細い麻のような手でついでもらいたかった。

かの女は酒をついだ。そして黙って立っていた。……このひとたちはいつまでも酒をのむのだろう……というような言葉が、その小さい胸に呼ばれているように思われた。

私はだんだん酔ってくると、妙に人の叫びごえや、荒い組み合っているような音を、遠いところで感じ出した。頭をがんとやられた。むこうの頭蓋骨をがんとやり戻した。血がたらたらと流れた――私はまだ脅迫されたようにいろいろなことを考え合せた。

「かえろう。ふらふらするな。」

私はＯをいましめた。そういう私もふらふらした。地上が静かに大きな円をえがいて、波のように揺れて行った。

「さよなら。あぶないわね。」

彼女は走って来て私をささえようとした。小さな一疋の蝗のように清く瘠せた神聖な<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>の生きものの声は、私の奥の奥まで、しかも雷のようにひびいた。酔ってはならないと心で誓いながら、私は何という人間の屑であろうかと思った。

「大丈夫だ。おかえりなさい。心配しなくていいからね。」

「そう。さよなら。」と酒場へ入って行った。

私は袂からありたけの金を彼女にあたえようとしたが、そういう<ruby><rb>浅猿</rb><rt>あさま</rt></ruby>しい見えすいた寂しい心を自分で叱り飛ばした。決してしてはならない寂しいしかもしなければならない心持を私はいくたびとなく考えた。

街へ出た。

別れるときＯはまた言った。

「明日行くんだよ。忘れないようにしたまえ。」

私はこれには答えないで歩いた。根津の通りのゴチャゴチャした商店のつらなりは、私の目を<ruby><rb>眩</rb><rt>まぶし</rt></ruby>くした。

私は坂を上って帰ろうとした。が、すぐ私はそこの町角にあったカッフェへ這入って行った。

私はそこで黙って飲んだ。一つのことをしっかりと考え合せる意識が、例え存在していても、いつの間にかばらばらになって行くほど酔った。

女が私の向いに坐っていた。おしろいがチョオクのように乾いていて、すこしもあぶら気のない顔であった。それは醜いといえば極端に醜くかった。他の女はみな客と<ruby><rb>巫山戯</rb><rt>ふざけ</rt></ruby>ていた。しかしこの女は自分を知っているように温和しかった。私はその醜いがゆえに哀れをかんじた。

――宿へ辿りつくと、ビール瓶のように室に転げ込んだ。蒼白い睡眠が間もなく私の上に覆いかぶさった。

朝、目をさますと、私は忌わしい心で、着物をきかえると芝の区裁判所へ向けて出頭して行った。暑い明るい焼きつくような日光は、街路の並木の葉を<ruby><rb>凋</rb><rt>しぼ</rt></ruby>ませていた。街のなかにも、そこここに珍らしく蝉の啼くのが遠くきこえたりした。

区裁判所の受附に名刺を出して、引越したあとで通知を受取らなかったが、今日聞いて出頭した旨を、かかりの検事につたえた。私は夏羽織をひらひらさせたり、土くさい浴衣がけの群と一しょに控所の腰掛けにもたれていた。私はここに集っている人人が、みな私のように或る種類の背景と、何処となく心にくらみをもっているように思われた。それと同時にまるで塵埃のようにゴミゴミした、人間の屑の屑ばかりが蚊のように群れている気もした。汗の匂いや、手足をむき出しにしている人人は、ことに私の嫌悪の激しい対照をしていた。私は私自らをこの埃のなかに見出すことを不愉快に感じた。たえず精神の仕事を目ざしてゆこうとする私の魂だけは、何人にもふれさせないし、触れるものもなかったけれど、外部から沁みついてくるような、暗い憂鬱な心持をどうすることもできなかった。

私は呼ばれた。給仕は私を若い、いろの白い検事のテエブルの前につれて行った。私は心が<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えがちなのを「しずかに」制して検事の顔を凝視した。

「引越したのか。道理で君だけが来なかった訳だ。」と言って印の沢山押してある書類をしらべた。

「著述業というのはいくら位収入があるものかね。」と、バスで言った。

「書かなければ一文もありません。」

私は冷やかに答えた。

「ではどうして生活をする――収入が無くては生活が出来ないではないか。」

私はできるだけ落ちついた。

「著述家は財産をもっています。で、しょっちゅう書かなくとも平常から余裕をつけてあるから書かなくとも平気です。」

私はある苦笑を感じながら言った。

「そうか。ではそれでいいとして――この度の事件は示談にしたそうだが本当かね。」

「そうです。」

「で、このつぎにこんな事件が起ると容赦なく告発するからそう思いたまえ。」

「承知しました。」

検事は間もなく帰ってよろしいと言ったので、私は外へ出て行った。

ぶしつけな、機械を取扱うような固い検事の物の言いかたも不快であった。――私の心は汚され通しのような、汚濁されたまま<ruby><rb>喘</rb><rt>あえ</rt></ruby>いでいた。

宿へかえると疲れていた。

小さい庭の雑草を見るともなく眺めていると、そこへ、ふじ子さんが庭づたいにやって来て、

「先刻、お客様がいらしってよ。」

「どんな人でしたか。」

「髪の長いひとよ。おじさんみたいにおひげもあったわ。」

「そう。どうもありがとう。」

血色の透った頬はまるで磨いたような、美しい少女期の光沢に張り切っていた。

「おじさんのお室へはいりませんか。敬宗さんも一しょに呼んでいらっしゃい。」

「母さんに言って来なければわるいわ。母さんがね、いいって<ruby><rb>仰有</rb><rt>おっしゃ</rt></ruby>ったら弟と一しょに来ますわ。」と悧巧な目を<ruby><rb>瞬</rb><rt>またた</rt></ruby>いた。

「その方がいい。じゃおゆるしが出たらいらっしゃい。」

私はその母なるひとのしつけのよいのを感じた。主人は、通訳官を勤めていて今満洲に行っているということであった。母なるひとは、いつも新聞を毎日のように満洲へ郵送していた。ふじ子さんは、いつも学校からかえると、開封の新聞をもって、通りの郵便局へ行くのをたびたび見ることがあった。

私はそんなときに出会すと、

「それは何処へ送るの。」と問うと、

「お父様にお送りするの。切手はここに貼ればいいんですね。」

いつもしていることながら、子供らしく小さい不安な顔をした。

「そこでいいんです。」

ふじ子は敬宗と一しょに、この離れへやって来た。

「母さんのおゆるしが出ましたか。」

「え。おとなしくしていればいいって言っていらしったの。」と言って、弟を顧みて、

「敬宗もおとなしくしていなければ駄目よ。」と、姉らしい調子で言った。

ふじ子は、室のなかを見廻して、一枚の額の絵の上に瞳を凝した。

「あの絵は何んでしょうか。わからないわね敬宗。」と弟をかえり見た。

私は言った。

「あかくなっているのは<ruby><rb>煉瓦</rb><rt>れんが</rt></ruby>の塀です。そう見えるでしょう……」

「ええ。」

「その前を人が歩いているでしょう。うつ向いて――空に雲が出てあかくなっているでしょう。それからいっぱいに草が生えているでしょう。あれは野です。」

「夕方ですわね。」

「そうです。あのひとは大変寂しそうに見えるでしょう。」

「そうね、何処へゆくんでしょうか。」

「さあ、何処へ行くのか。」

私は言い詰って黙って、絵を見つめた。一人の男が町端れから野のある方へ向って、重く歩いているさまが描かれてあった。Ｈの絵だ。Ｈはよく憂鬱な寂しい自画像を書いた。かれはいつも好んで、自然の中に投げ出された自分を描いた。

ふじ子は、こんどは、もう一枚の<ruby><rb>燻</rb><rt>いぶ</rt></ruby>し金のふちに入った絵に目をとめた。

「二人で何をしているのでしょう。」

「お祈りをしているのです。夕方、<ruby><rb>田圃</rb><rt>たんぼ</rt></ruby>の仕事が済んでから、お祈りをしてから家へかえるんです。」

「……晩鐘……ってどんなことでしょうか。そうかいてあるわね。」

「晩方、よく鐘が鳴るでしょう。あれをいうのです。この間ふじ子さんが……いま鳴るかねはいくつのかねじゃ……とうたっていたでしょう。あんな夕方のかねのことを晩鐘って言うんです。」

「そう。」

彼女は感心したように言った。室の中の絵を一枚一枚に彼女は私に説明させた。その注意深い、智識に餓えている少女時代が、今かの女の総てに溢れていた。

「おじさんは毎日何をしていらっしゃるの。何を書いていらっしゃるの。」

こう直接に言われると、

「おじさんはね。……」

私は<ruby><rb>詰</rb><rt>つま</rt></ruby>った。どう言い表わしていいか判らなかった。私はなぜだか、こう問いつめられると赤面するような気がした。

「おじさんの書いていることは、ふじ子さんがもっと大きくなると、ひとりで解ってくるようになるの。」

「それまでどうしても解らないの。」

「そう。なかなか解らない。」

彼女は不審そうな心で、私を見たが、すぐまた忘れてしまったような顔をした。

彼女らが去ると、私はぼんやりと、窓にもたれていた。子供の魂には、どうしても解らせることのできない仕事を、つくづく考え込んだ。

ふじ子は時時私の室をたずねた。そして開け放した、寛大な花のような言葉を私に話してきかせた。そのあどけない微笑のうちに静かに私を落ちつかせるものがあった。私はもはや街へは永く出て行かなかった。夜も昼も室にばかり籠って、少しずつ創作を発表して行った。

創作は――主として詩の精神に没頭することは、苦しいながら一つの幸福であった。なにごともこの内にあっては、他からそこなわれるものがなかった。自由な空気はあたらしい私の生命をよび<ruby><rb>醒</rb><rt>さま</rt></ruby>させた。

ふじ子はよく言った。

「おじさんはいつもちゃんとお坐りしているのね。」

ときには、彼女はその生れた鹿児島の市街からやや離れた自家のことを話しすることがあった。

「鹿児島はちっとも雪がふらないの。毎日温かくていいの。大きなボンタンが実ってよ。そりゃ大きいのがあるわ。こんなのがあるわ。」

少女らしく昂奮して、手で大きさを示したりなどした。濃やかな緑葉のあいだに、輝いているボンタンの重い美しい黄金色の実を、かの女は目にちらちらと思い浮ばせながら話した。

「それからお家のうらの山に、蜜柑なんかいっぱい実っていて、私だって採れるような低い枝もあるの。」

「じゃ、ふじ子さんは田舎がすきでしょう。行きたくない？」

「もうじきかえるの。お父様が満洲から田舎の方へおかえりになるので、さきに私らが田舎で待つの。」

「いつころですか。」

「まだ分らないがもうじきよ。わたし田舎が好きよ。お庭が広くっていいわ。」

私は母なるひとから帰国することをきいていたが、この可憐な少女のかえってゆくところをよく想像したりした。

低い山畑に揉みついたように熟れている柑橘類の烈しい芳醇な匂いに沁みた新しい空気や、そこを馳け廻る少女の姿などを描いて見たりした。

「お国へかえったらおじさんにボンタンを送ってあげるわ。大きい大きいのを。」

あどけなく今にも送ってくれるような顔をした。

「ほんとですか。」

「え。お父さんに言ってね。お父さんは私のいうことは何んだってきいて下さるわ。ほしいものは皆買って下さるわ。」

私はその父なるひとの愛を感じた。

私は時おり寂しくなると表へ出た。秋近くなってから道路に静かなしめりが行きわたって、<ruby><rb>何処</rb><rt>どこ</rt></ruby>か清涼な気があった。ふじ子は学校からかえると、よく、

「おじさん。ただいま。」と微笑しながら言うことがあった。

「おかえりなさい。」

私も微笑した。

母なるひとは、

「いつもふじ子が出ましてお邪魔してすみません。」とつつましく言っていた。

母なるひとは、私の方から行きもしなかったし、訪ねて来もしなかった。ふじ子がなかにいて、時おり、私のことなどを言うらしかった。

私はこのあどけない子供を見ない日は、寂しい心がした。なにかしら温かい特別な空気が、いつも平和に彼女をつつんでいるようであった。

ある晩、画家のＳが訪ねて来た。この温和な友だちは、久しく会わなかったので、私はしみじみ話した。

「この間来たときに、小さい女の子がいたね。美しい子だね。」

Ｓらしい口早やに言った。

「君だったのか。留守をしてすまなかった。あの子は隣の子だ。ああいう子供を見ると何ともいわれない綺麗な気がするね。」

「ほんとにいい子だ。」

Ｓは、その日は陰気に黙り込んでいた。何か話そうとしながら、それを自分でおさえるようにしたり、つとめて話そうとしたりして、苦しい心の内で努力しているように思われた。私はそれが静かに理解できるような気がした。

「やはり苦しいかい。」

友の蒼白な、つかれたような顔を見た。

「看板絵をかいても見たが、やはり駄目だ。どうしてもペンキ屋にはなれない。」

「君にはとても我慢できないだろうな。でも暫く行っていたじゃないか。」

「一と月ばかり行っている間に、すっかり頭を荒されてしまった。もう行かない。自分の堕落が恐ろしくなる――」

<ruby><rb>温和</rb><rt>おとな</rt></ruby>しいかれは、寂しそうに私を見た。この友は非常に貧しかったが、その精神はいつも純潔な、まるで優柔なものをもっていた。

「では、このごろはやはり苦しいね。」

「うん。」

「じゃまだ食事前だな。」

「うん。」

かれはすこし赤くなって微笑した。私も金の用意がなかった。私は押入をあけて行李の中を見た。一枚二枚と失われて行ったなかに、まだこの友の食事に足りるものがあった。私はそれを一枚とり出した。

「これをかねにしないか。なるかね。」

かれは恥かしそうに見たが、

「なる、ありがとう。」

「おたがいだ。」

私はかれを表まで送って出た。

「からだを大切にしたまえ。」

「じゃ暫く借りるよ。」

「いつまでもつかってくれたまえ。」

友は闇の中を行った。

私の心は沈んだ。あの友と同じいように私も貧しかったからだ。

二、三日すると、Ｓはやって来た。そして金をとり出した。

「返さなくともいいじゃないか。」

「ある時には返したい気がするのだ。返さないと落ちつかない。」と、かれは言った。

「あのふじ子さんという女の子を見ていると、僕らと人間の種類が異っているような気がするね。」

感傷的なかれはこう言葉を添えて言った。

「そうだね。余りに清浄なものと、余りに<ruby><rb>涜</rb><rt>けが</rt></ruby>れたものの相違は、ときとすると人間の隔離を遠くするね。」

二人は黙って<ruby><rb>対</rb><rt>むか</rt></ruby>い合った。私はこのＳとともに苦しんだ千駄木町時代を思い出した。私たちはよく飲みに出かけた。

かれはいつも街裏の貧しい屋根裏で、食うや食わずの多くの日を送った。私もよくそこでかれと会った。かれはいつも仕事にはぐれて蒼くなって、

「君のように仕事をしなければならない場合でも、よく仕事をしないで平気でいられるね。」とよく私のことを言った。

私は、仕事が自分の内に起るものに限っては、やったけれど、仕事から金をとることができなかった。そういう仕事はやっても<ruby><rb>必然</rb><rt>きっと</rt></ruby>努まらなかった。

私は私の詩作によって僅かな報酬を得ることと郷里からの僅かな送金とでくらしていた。私はよく饑餓に瀕した。

私は日没頃の寂しい下宿で、どうにもならない永い時間を送った。私は机にかじりついたまま、自分の仕事の完成をいそいだ。仕事のみが魂によき慰めや鞭撻をあたえた。……

「今も苦しいが千駄木町も苦しかったね。」

私はＳに言った。

「あのころの君は凄かったね。あのころの君はまるで一と処ばかり見ているような、いつもじっと動かない目をしていたよ。」

かれは私の目を見つめた。

「苦しんでいる時は、すぐ目の色が<ruby><rb>変化</rb><rt>かわ</rt></ruby>ってしまうね。」

私は自分でも、だんだん目が据わってゆくのや、荒い図図しい、ときには狡猾な光を帯びるのがよく分って行った。そのたびごとに澄んだところがなくなってゆくのだ。ただ、冷たい濁った澄みかたをしてゆくのだ。

「たいがいの人間は目を見れば分るよ。内の内まではっきり分るよ。」とＳがいう。

かれもまた疲れ喘いでいるような目をしていた。そして「Ｏの目を見たまえ。実にあの男の性格を現わしている。やさしそうで、深い狡猾さをもっているのが内の内の分まで、はっきり分ってくるじゃないか。」と、かれは附け加えた。

Ｏの目、その特質的で、対手次第で変ってゆく表情は、いつも濁った感情を現わしていた。

「あいつは目にそっくり出ているね。しかしＨをどう思う。」

「Ｈは――性慾的な汚なさと淫蕩さを有っている。しかし微笑うとそれがなおよく出るのだ。ともかく他人を正視しない目は卑劣だ。わざとらしい凝視をする奴は、内面に虚偽を有った奴だ。（Ｏにはこの特長があるよ。）やはり静かに眺める目の人に、質の善良さがある――。」と彼は言って立上った。

「帰るか。」

「ながくいたから失敬する。」

私達は別れた。かれの足音が表へ消えると私は静かに貧しかった<ruby><rb>時代</rb><rt>とき</rt></ruby>の自分を考えた。

――Ｓは屋根裏のような室を借りて、パンばかり食っていて、ひょろひょろしていた。私がゆくと西洋皿の上に幾切れかの、彼のためには高貴な唯一な、しかもバタのついてないのが狐色に焼き上っていた。

「飯かい。」

「飯だ。」

彼は粉っぽい奴をがりがりやり初めた。

「君もやるかね。」

「僕も必要に迫られている。」

笑いながら、二人は黙ってたべはじめた。

二人は、別な不安な生活に追われていることを、期せずして考え合せていた。どうしたらこの苦しみから遁れることができるかということが、明日の糧のない私の身の上にも及んだ。

「僕はこのごろ淫売婦を笑えなくなった。教養のない女があそこまで堕落してゆくのがむしろ当り前かと思うね。」

Ｓは言った。私も同感した。

「ほんとだね。すくなくとも、今の僕らがもう肉体を切り放しても金が<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>るんだからね。」

「女が自分の肉体から自分の糧を得ることは殆んど自然に近いね。人間をもっと原始的に解剖して考えると、ことに女にあってはそうするより外に方法とてないだろうじゃないか。」

「本当だね。」

私だちは、黙り合って、友は友で別な窓の外を見た。熱烈な生活にたいする愛慕が、いつも私だちにそむいたに係わらず、私だちはどうにかして其処に辿りつきたいと思っていた。

「君は生活のらくな連中を見ると、どんな気がする。」

「その存在はその人にとって運命だからね。羨望もなければ特別な愛もない。しかし、僕らのように貧しいものは決してあの連中に劣らないという自信を強くするね。」と私は答えた。

何者をもその存在する事実は許さなければならない。たとえ盗人でも殺人でも、そうしたものの必然に生れてゆくことを根絶することはできない。ただ、その事実に愛をもてない。喜べない。

Ｓは、

「ともかく偉くなるまでは楽しみだ。いまの苦しみにも酬いられるときがあるに違いないのだ。」

「幸福はいちどに寄せてくるらしいね。苦しいときは何も彼も苦しいように、よくなるときは一度によくなれるね。」

私は心の中に燃えるような、高揚された熱情をかんじた。今に見ろ、私をくるしめたもの、軽蔑したもの、低めたもの等が、ひとりで私のあたいを感じなければならない<ruby><rb>時代</rb><rt>とき</rt></ruby>があるに違いないと、強く信じた。

私達はまずしい食事を終えた。

……その日のことが、今、私にはっきりと浮んだ。饑えも決して私どもの燃え立つ願望の上からは、問題ではなくなっていた。どうしても出るときは出ずにいられない、烈しい発芽時代だったのだ。

私は間もなく床についた。友や自分にたいする一種の祈祷的な、円満に近い心を抱いて、静かに睡った。

ある朝、私はふじ子と動物園へ行った。

ふじ子と私とは、秋がくるとすぐに黄葉がちになった公園の桜の並木の、よく掃かれた道路を歩いて行った。水いろのうすい単衣の上から、<ruby><rb>繊</rb><rt>ほそ</rt></ruby>い彼女の頸が、小さい頭をささえて、それがまるで<ruby><rb>瑪瑙</rb><rt>めのう</rt></ruby>のように透いて見えた。

私たちは、鶴を見た。この首の長い丹頂のある動物は、ときどき、秋晴の高い空に向って、鋭い高い啼きごえを上げた。それは、一つの祈りの叫びのようでもあり、地上の生活をあたかも天上に向って囁くところの、絶えざる倦まない永久な報告者のように見えた。

一つはこの白鳥のもつ伝奇的興味が、いかにも清浄な、上品な、しかもゆったりした高踏的な歩みに依って表現されていた。

そこには愛すべき二羽の雛鳥が、灰色の柔らかい着物をふわふわにして遊んでいた。

「おじさん。鶴でも子供があるの。あれは鶴の赤ちゃんでしょう。」

「そうです。鶴でも何でも生きたものは子供があるんです。」

鶴は長い首をさしのべて、この少女のそばへ来た。

「やっぱり卵から生れるんでしょうか。」

「そう。」

小さい雛鳥は、よちよちと親鳥のそばにまつわりついて遊んでいた。餌をやると、すぐ自分の子供の方へ<ruby><rb>咥</rb><rt>くわ</rt></ruby>えては持って行くのであった。

私どもは象を見た。この巨大な、岩のような荒い皮膚をした動物は、たえず藁や塩せんを拾っては口のところへ持って行って食べたりして、おとなしい子供のような善い性質を、見物している人人に開いて見せた。何よりも私の注意を惹いたのは、この大きな室内に、非常に正確な、しかも非常に真摯な八角時計が、がさがさな象の背中越しに、チクタク動いているのを見たときに、私はすぐに変な気がした。しかも建物の煉瓦の調子と象そのものの伝奇的興趣とが相待って、実によい調和をあたえているのを見た。

それは私どもの幼年の時代に、何かしらお<ruby><rb>伽噺</rb><rt>とぎばなし</rt></ruby>のなかに見たような時計のような気がしたり、また、ああいう原始的な巨大な動物との対照上、<ruby><rb>時代錯誤的</rb><rt>アナクロニズム</rt></ruby>な、文明と野蛮とでもいうような感じを起させるのである。

「ふじ子さんは象がすきですか。」

「くさくて、きらい。」

「けれども温和しいから好きでしょう。」

「きらい。お猿を見ましょうよ。」

猿はかなり広い檻のなかに、追ったり<ruby><rb>馳</rb><rt>はし</rt></ruby>ったり、喧嘩したりした。その悧巧な、快活に<ruby><rb>巫山戯</rb><rt>ふざけ</rt></ruby>るさまは総ての人に面白がられた。何かしら歯痒い一種の憎悪に類似した感覚があるにもかかわらず、かえってその無邪気だとまで思われる憎憎しさは、人人の笑いをさえ起させた。

私はその檻をかこんで眺めている人が、金網一枚を隔っているにかかわらず、猿の方でこちらを眺めていたら、どういう心持になるであろうと、気味悪くかんじた。

「お猿は可愛いわね。」と、ふじ子がいうので、

「どうしてです。あんな憎らしい顔をしているじゃありませんか。」

「顔じゃないわ。面白いことをするからですわ。」

私はすぐ答えができなかった。

「魚のぞき」は彼女を喜ばした。彼女は象や鶴やお猿を見たときとは、全然別な心からの愛をもって、そのお友達のような美しい<ruby><rb>阿蘭陀</rb><rt>オランダ</rt></ruby>金魚の紅い尾や<ruby><rb>鰭</rb><rt>ひれ</rt></ruby>ふるさまを眺めていた。

「ほんとに綺麗ね。」

その絢爛と光る魚を指した。

私はこの金魚というものの、どこか病的な、虚偽な色彩のようなものを好まなかった。その娼婦のように長い尾や鰭に何かしら人間と共通な、わけても娼婦などと一しょなもののあるのが嫌いであった。ときには、汚なくさえ感じた。

「おじさんはどうして嫌いなの。」

「あんまりぴかぴか光るでしょう。あんなおさかなより黒い鯉の方がすきなんです。」

鯉は、じっと水中に澄んで、落ちつき払って尾と鰭を震わせた。あのぴかぴかした金魚よりは、その立派さが際立って、静かさ寂しさをさえ私の胸につたえた。ことに私たち人間から見れば、どことなく寂しい気がする魚族の幽邃さは、この健康な生きものの上にも充分に読まれた。その動かない目はちょうど重い牛の眼を思わせるほど、あやしい神秘的な、しかも思慮深そうに蒼蒼と澄んでいた。

<ruby><rb>山椒魚</rb><rt>さんしょううお</rt></ruby>や鰻は、ふじ子をいやがらせたばかりではなく、

「おじさん。出ましょうよ。わたしあんなおさかなを見ると恐くなるのよ。」とさえ言わせた。

大きな椎の蔭に、らくだが長い首を柵のそとへ出していた。そこらの赤土が白っぽく乾いて暑そうに見えた。

私たちはライオンを見た。虎を見た。ふじ子は恐がった。

私は虎の美しい毛並みの下から隆起する肉体の肥りように、手を触れて見たいような、猛獣にたいする懐かしさをかんじた。しかも、自分に危険の及ぼさない檻の中を覗き込んで、私は安心しながら、そういう空想をする自分を卑劣にかんじた。

二疋の豹。それはまるで美しい<ruby><rb>絨氈</rb><rt>じゅうたん</rt></ruby>の飽くことのない深い<ruby><rb>天鵞絨</rb><rt>ビロード</rt></ruby>を眺めているような、それでいて、絶えず自由に柔らかい光沢をもって、しきりに、<ruby><rb>巫山戯</rb><rt>ふざけ</rt></ruby>ちらしていた。しかも長い斑点のある尾は、一疋の蛇のように自由に捲きあげられたり、床の上に引きずられたりした。

私はこれらの猛獣の棲む高原や森林や、暗い渓谷、あるいは広茫とした沙漠のありさまを一瞬の間に、あたまに描いた。その引き続いた気分のもとに、その如何なる高価な宝石にも見ることのできない眼底の光芒や、真紅な脣をあくこともなく眺めた。そこに烈しい生きた美があり、美はたえず荒い呼吸をつづけて自分の中にまで注いだ。自分の中に住んでいる思想的な、あたかも仕事に<ruby><rb>対</rb><rt>むか</rt></ruby>って絶えず傾注されているような内の内なる生命の本体が、いまありありとかれらの魂と相囁いているような、烈しい歓喜をしずかに感じさせて来た。

ふじ子は私を急がせた。この小高い丘からすぐ下にサンフランシスコを思わせるような、水族の鳥類がさまざま啼き声を、あたかも一つのコーラスのように形作って、たえず叫ばれ啼き立っているのが見えた。

私たちはそこへ行った。いろいろな種類がこうして啼き立てたり、泳いだり、ぱたぱた羽掻きをやったりする眩しさは、その一羽ずつの美しい観賞を<ruby><rb>削</rb><rt>そ</rt></ruby>いだばかりではなく、人間的な、どこかで出会ったある夜の群衆を思わせた。または、その雑然とした中に、一つのものを永く眺めていられない焦躁した気持ちになったのである。

しかし私はその騒騒しい中に、一羽の鷺が静かに白い冠毛を立てながら、ゆっくりと歩行しているのに目をとめたときは、かなり落ちつけたのであった。野の沼や水面にいつも淋しそうにしているかれは、あたかも、このなかにあってひとり厳粛な孤独をまもっているように思われた。

私達は二頭の白熊が、静かに水の中に、仰向けになって浸っているのを、殆んど想像することのできない奇怪なしかも珍らしい心になって眺めた。かれらは子供が背中を水底に向けて泳ぐような無邪気さと、いかにも楽な放逸された気分で水に浸っているのを見た。その白く矢のような光沢をもった毛並みは、みるみるうちに濡れかがやいた。しかもかれらが水中から上って来て、身震いをして水や水のしずくをはね飛ばしたとき、実に立派な豊富な純白な毛並みを立てたのであった。

私にこの動物を眺めたときから起りかけた心は、一つには北極の寂しい空気であった。あたかも視野をさえぎるもののない広大な氷の海に、夢かうつつに想像されるところの、世にも珍らしい光景であった。そこに一切の緑樹もなかった。光もないような冷厳な、思うてもひとびとの心を厳粛に表情づける奥の奥なる自然の巧緻があった。恐ろしい死のような荒涼と、流れ去る氷山の群があるのだ。

しかもかれは人間の世界に、こうした小さな水壺を与えられて生活しているのを見ると、いつの間にか優しくなりかけた相貌の中に、なれなれしい馴致性な、<ruby><rb>凡</rb><rt>すべ</rt></ruby>ての生きものの本然な共通的のやさしさ親しさがあった。

「ふじ子さん。これは氷の国にいる動物ですよ。」

と、私は子供のように彼女にささやいた。誰しもこれらの動物を眺めているうちに、ふしぎと調和されてくる総ての動物的な、珍らしい<ruby><rb>睦</rb><rt>むつ</rt></ruby>まじさ親密さをかんじるのであった。

私たちはこの氷原に別れた。そして小高い丘に登った。

人間さえ見ればぴょこぴょことおじぎをする熊がいた。習慣的に堕落して行ったものか、あるいは<ruby><rb>野師</rb><rt>やし</rt></ruby>の手によって教えられたものか、かれは、ふじ子の前にもおじぎをたえ間なくくり返した。

「まあ悧巧な熊さんだこと。」

ふじ子は言って餌をあたえた。

かれは後足で坐るようにして、前足で柵をつかまえておじぎした。ちょうど、虎やライオンがいつまでも檻の中をぐるぐる廻っていることを仕事としているように、この哀れな熊はおじぎばかりして暮しているようだった。私はいくたびとなく苦笑をした。

私は狡猾な狼を見た。

狐を見た。

最後にこの動物園にみなぎる、ある異臭と苦しい何かしら頭をおもくするような空気とを嗅いだ。何人もこの中にあっては、離れがたい執拗な生きものの幻影と同時に、たえまない空想的なあどけなさを感じるに相違ない。

私は彼女がもう帰途についたとき、非常に行きよりも快活で、しかもその目がいきいきしているのに気がついた。それが非常に空想的な光を帯びていたことは実際であった。

「面白かったでしょう。」とたずねると、

「熊さんのおじぎはずいぶんおかしいわね。わたし一番すきなのは、うさぎよ。あの赤い目が一番すき。」と言った。少女らしいことをいう。

「一番きらいなのは――。」

「火喰鳥ってのがいたのでしょう。あれは一番きらいなの。」

私だちは公園から谷中の通りへ出た。

「ふじ子さんはいつお国へかえるんですか。」

「まだ分らないの。けどもうすぐだわ。あなたはずっとあすこの家にいるのでしょう。」

「たぶんいるでしょう。」

「越しちゃつまらないわね。わたし、鹿児島へ行ったらてがみを上げますわ。ほんとよ。」

「きっと下さい。私も出しますから。」

「ええ。きっとよ。そして、一年ばかり経つとまた東京へこんどはお父様もみな一緒に出てくるの。」

「そりゃいいね。」

「そのころは根津へ電車が通るようになるでしょうね。」

「来年できるんだから、きっと通るでしょう。」

私らは坂から根津一帯の谷間の町の見えるところに立って、夕方近い混雑された、物売の呼び声の寂しく起ってくるのに耳をすました。それらの町の家家から漂う煙は、低く這うて殊に凡てを物悲しく沈ませて見せた。

この少女があの家からいなくなることは、私にとって友を失うような、あいてが<ruby><rb>小</rb><rt>ちい</rt></ruby>さく可憐なだけ寂しさも一層深いような気がした。

「お父様も出ていらしったら、みんなで植物園へゆきましょうね。」

「え。きっとよ。」

私達は家へかえると、母なるひとが今日は大変おせわになったと、礼をのべて行かれた。私は配達されてくる、まずい夕食をひとりで待った。その夕食を待つ心持には、いつも私を陰気にした。それは町の方から定刻になると運ばれてくる貧しいものばかりであった。私はひとりでよくそれを机の上にひろげた。そうしながらも、自分は自分を信じるちからが大きかったため、いまある生活がきっと自分を善くしてくれることを考えていた。茶ものめなかった旅行中のドストイエフスキイや、いつも愛と餓えとの永い彷徨をつづけたヴェルレエヌ、ミレエの窮乏、ミケランゼエロの苦しみ、そうした先人の道程を考えるとき、私はかえって指してゆくところに明るみ光り望み<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>を感じた。まだ来ない幸福や喜びや芸術の出生やを、私はあたかも一つの山嶽を前方に凝視するような心持で、それに近づくために忍ばなければならないもの一つ一つに、耐えゆかねばならないと感じた。日は暮れた。

ある日、私の家を訪うものがあった。出て見ると巡査だ。自分は<ruby><rb>突嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に、この夏の苦しいあの出来事があたまに殺到して浮んできたのであった。

しかしそれは自分の錯誤であった。巡査は戸籍をしらべに来たのであった。私はかれがかえると、古い傷のいたみを感じた。そればかりではなく、自分は自分をたずねてくるものを恐れた。あたかも、窓の下を人の足音がすると、自分の全身の神経はピリリと感電したように震えた。同時に小さな胸さわぎが、目的のない恐怖の発作のように湧き起ってくるのであった。そういうときは私はペンをとり落したほど驚いたばかりではなく、その不安な足音の持主の誰であるかということを考えるだけでも、不快で、心寂しいことがあった。

私はよくそういうとき、ふじ子に玄関へ出てもらった。

「おじさんは今お留守よ。」と、いう声がよく私のところまで、きこえて来た。

「いついるんですか。いつ来たっていやしない。」

太い声でそういうのをきくと、私はかれが私の負債の権利者であることを知った。私は彼のために昼も夜も考え通したけれど、それはどうにもならない負債であった。私にとってはもはや今それがとうてい義務的に支払うことが出来ない事情にあったのだ。

「だっておじさんは、いらっしゃるときはいらっしゃるのよ。またこんどいらしったらいいわ。」

「じゃ、こんなものが来たって言って下さい。おたのみします。」

彼はすぐ窓のところから帰って行った。

「名刺をおいていらっしたの。」

ふじ子はそれを私に見せた。私はその権利者の苛酷な冷たい顔をつきつけられたような不快さで面をそむけた。

私はふじ子に感謝した。

「どうもありがとう。」

「わたし、あんな人はきらいよ。家のなかをじろじろ見まわすんですもの。」と、彼女は眉をよせた。

しかし私はこのあどけない少女に何故嘘を言わせなければならなかったか。自分が立派に申訳をすればいいのだ。彼女が無関心であるとはいえ、私は何というさもしい心から、一時のがれの言葉をつたえなければならなかったのだ。私は心でこの少女の魂に謝罪した。私は決していまのこの苦難な時代を通り過ぎてしまえば、私以外の人人をそこなうことはしない。私にもきっと美しい義務の正当な履行の「時」がくるにちがいない。私はそう思いながらふじ子の好意を謝した。

しかし彼らは聖書にも記されているように、その最後の一銭をも償わなければならないように、また、最後の一銭を取らねばならない人人であった。かれらは<ruby><rb>繁繁</rb><rt>しげしげ</rt></ruby>と私をたずねた。私は極度に不安な心でくらした。

ふじ子は、しまいに腹を立てて、

「おじさんはお留守だったらお留守だわ。わたし、知らないわ、そこをあけちゃおじさんに叱られてよ。」と、高い声で叫ぶことがあった。

そのたびごとにこの優しい少女のためにかれらは追い帰された。私は机にもたれて、彼女のそうした声をきくと涙ぐんでいた。私はまるで彼女に感謝の言葉をさえ完全にいえなかった。

「おじさん。もうかえったのよ。それでいいでしょう。」

彼女は、私の顔を覗くようにした。そういうとき、なぜか彼女も悲しそうであった。

「ありがとう。」

私は言って顔をそむけた。制止することのできない涙があふれた。

――或る時、Ｓはハンドスケッチ形の、額に入った小さな肖像をもって、訪ねて来た。

私はそれを見た。それは、ふじ子の肖像で殆んどあのやさしい呼吸をしているかと思われるほど、底からな表情をくみ取って描かれていた。

「よく似ているね。いつか見ただけで能くこれほど描けたものだ。」

私は彼の烈しい洞察がいつも<ruby><rb>物象</rb><rt>もの</rt></ruby>の魂につき刺されるのに驚いた。

「僕はあの子供の顔を見た瞬間、いきなり花のようなものを投げつけられたような気がしたのだ。第一あの柔らかい色彩は、ああいう子供でなければ見られない色彩だ。すこしも<ruby><rb>雑</rb><rt>まじ</rt></ruby>ったものがない本当の色だ。」

彼は熱をふくんだような目をした。

「君はいきなり能く中心をつかむね。」

「僕は永い間かかって見ているよりも、第一印象が一等正確に映るのだ。」

そのとき、表に誰か来たような足音がした。もしやと思うと、私はまた胸さわぎした。その執拗な、殆んど毎日のようにやってくる権利者を憎んだ。

「オイ、誰か来たようだぜ。出て見たまえ。」と、Ｓはいった。私は低い声で、

「借金取りさ。毎日のようにやって来て困るんだ。」

「あれか、ふじ子さんがよく追払ってくれると言って君の感謝しているのは――で、やるあてがあるか。」

「当分どうにもならなくて困っている。」

「そう待ちたまえ。僕が出て話をしてあげよう。」

Ｓは出て行った。長い押問答がきこえた。Ｓの鋭い声と、先方の鈍感な煮え切らない曇ったような声とが入交ってきこえたが、暫くするとＳはかえって来て、

「僕はちょっと行ってくるからね。君、<ruby><rb>彼奴</rb><rt>あいつ</rt></ruby>を表に待たしておくけれど、会わないでいてくれ。」

「だって何処へゆくんだ。今にどうにか僕がするんだから構わないでいてくれ。」

「いや彼奴が癪にさわることを言うからね。まあ、待っていたまえ。」

彼はそとへ出て行った。私はＳが金をつくりに行ったのを直覚しながら、この友に心配させたのをつらく感じた。Ｓの性格として思い立ったら、それを完成しなければ<ruby><rb>歇</rb><rt>や</rt></ruby>まないし、それを停めるということも出来ないほど劇しい男だ。

私は不安な<ruby><rb>擽</rb><rt>くす</rt></ruby>ぐられるような時を送った。戸外にはれいの男が立って、ときどき、そこらを歩いているようだった。その退屈そうな足音が一定の場所を行ったり来たりしているらしく、その足音の一つ一つが、私の呼吸をつまらせるように重くした。

Ｓが帰ってきた。

彼は戸外の男に何かいうと、

「いただくものさえ貰えさいすれば、私はべつに何とも申しません。」と、いうのがきこえた。

「じゃもうお帰りなさい。わずかなことで人の感情をそこなうものでないことを記憶したまえ。」

Ｓは私の室へ這入ってきて、

「君、もう帰してしまったよ。金は払ってやったから安心したまえ。」

「そうか。」

私は彼が大切にしていた羽織を着ていないのに気がついた。

「羽織は――。」

彼は少し赤くなって、

「金にしたのさ。ああいう奴に苦しめられているのを見ていられるものかね。」

「それまでしてくれなくともよかったんだが、本当にすまない。」

私達は、こうした事柄の後にありがちなお互いの昂奮したような心持を、押し隠すようにして坐りあっていた。Ｓは、思った通りのことをやりぬけた安らかな顔をして、じっと額の肖像をながめた。私は心に重苦しいものを感じながらも深い感謝を感じた。

二人は永い間、そうして坐り合いながら、おたがいの視線を逃れあっていた。あまりにセンチメンタルに思われはしないかという懸念のために、ときどきＳはせかせかと額の絵を眺めたり、窓のそとを見たりした。私は私でああした友の善良な、あまりに過激なやり方のために心は慌てたようにバランスを失った状態をつづけているのを苦しくかんじた。

Ｓは突然に、

「久しぶりで飲もうじゃないか。」と言った。

私もそれがこの押し黙ったところから切り抜けるために必要なような気がした。

私達は、日暮に近い街路へ出て行った。私の家からすこし行くと、根津へ下りる坂があって、桜がふた側に並木をつくっていた。本郷高台のあたりにまだ秋の日の静かな微光が漂うていた。

Ｓ酒場へはもう私達は行かなかった。街かどの小さなカッフェで、私どもは盃をなめ始めた。

「君がさきに世の中へ出たら、僕は君の地盤に坐り込む。君が僕を引立ててくれるだろうな。」

彼は赤くなった顔をあげた。

「喜んでやるよ。君の方がさきでも同じいことだ。どちらかが<ruby><rb>先</rb><rt>さき</rt></ruby>に出るんだね。」

「それにね。もう間もなく世間に出られるような気がするんだ。苦しんだだけでも出ずにいられない気がするからな。」

「ほんとだ。僕らは少し黙り過ぎるのだ。お互に永く忘れないで行くんだね。」

私達は話しながら、もう胸の中がすっかり溶け合ったことを感じた。

「さきのことを考えると楽しみだ。君もそう思うだろう。」

「一日でも早く出たいな。」

こう語りながら間もなく私どもは街路へ出た。すべての夜の<ruby><rb>街衢</rb><rt>がいく</rt></ruby>のよそおいが晴晴しく輝いて、私どもの健康なからだに触れるものを懐しがった。美しい逞しい女の散歩する姿もひとりでに今夜は、わけてもしめやかに眼にうつった。

「今夜は女がばかにきれいに見える。しかもいやな女に一人もあわないね。みな優しい顔の人ばかりだ。」

Ｓは嬉しそうに、通る女らの、白い、あるいは、なよやかな肩つきや、髪のかたちなどを喜んだ。まるで地上にこうしたいろいろな女がおろされて、寂しいもののために充分な慰めを頒けあたえてくれる命令者があるように、ことに、いつものようにつんとした女や、毛ぎらいばかりしている厭な表情をもったものが歩いていなかった。すべてがよく調和された美事な夜の天国が、いま下されたばかりの新しさで、私どもの歩いてゆく到るところな街衢に輝いていた。

それは、Ｓのいうように、「みんなにキスをして上げたくなる」晩であり、「みんなと腹をさらけ出して話したくなる」晩でもあった。一人の喜びは決して一人のみに限られたものではない。それは、みんな人間が知覚しないあいだに、人間と人間とが静かに分け与えられているものにちがいない。心や神経の外に、別な、人間同志さえ知ることのできない微妙な霊的なるものが、ひそかに囁き合っているのにちがいない。見えない命令者がいるように、霊のみが住み合った世界があるにちがいない。

「Ｓバーへ行って見よう。あそこの子供の顔を見にゆこう。」

Ｓは言い出した。私はすぐに暗い気になったが、しかし、あの女の子はどうしているかも知りたかった。それに永く行かなかった。

私たちがあの不吉な思いにみたされてバーへ這入ると、そこには、まだ見たことのない若い女がいた。見るからに、うすぺらな、いやな感じのする型であった。

「おひさしゅうございますのね。」と言っておかみが出て来た。

私達は酒を註文した。しかし何かしら物足りなかった。いつも坐っているはずの女の子がいないためであることは無論ではあったが、他に客もなく、しんと寂しかった。

私はおかみにたずねた。

「この間いた女の子はどうしたんです。きょうはいないじゃありませんか。」

おかみは、

「あの子ですか。すこしからだを悪くしてやすんでいますの。」

「どんな病気なんです。」

「いやな病気らしいのです。私どもも困っているのでございますよ。」と、眉を<ruby><rb>顰</rb><rt>ひそ</rt></ruby>めた。その頬は冷やかな、あまり小さな病人をいたわりそうにも思えなかった。

「それや可愛想だね。」

Ｓは私の顔を見た。

私はすぐに、あの鶴のように瘠せた彼女の病気が、そのせまい胸を思うただけでも判るような気がして、一時に、どっと気分が沈んでしまった。

「よほど悪い方ですかね。」とＳがいうと、

「もう三週間もねているんですが、医者がむずかしいといっていました。」

私とＳとはまた顔を見合せた。あの小さい魂――それが今私にありありと考え出された。いつも浮べた善良な微笑と、それにはひきかえ<ruby><rb>彼</rb><rt>あ</rt></ruby>のいつも耐らないように、大きく開いた悲しそうな眼の静かさ。

Ｓと私とは勘定の外に金を出して「あの子のすきなものを買ってやってくれるように。」と言って、そとへ出た。

私達は街路へ出た。二人とも沈んで歩いて行った。

「あの子は死にそうな子だよ。あの子はきっと死ぬ――。」とＳはまるで信じ切っているように言った。

「僕もそう思う。きっと近いうちにはね。あの子は一種の宗教的なものを、それが何だということをはっきり言えないが、そういう厳粛なものを容貌の内にもっていた。それはたしかだ。」

そう言いながらも、私はいつも悲しそうに、ときには居睡りしていたりした姿を思い出した。おかみの叱責のひまひまに隠れてやっていた<ruby><rb>彼</rb><rt>あ</rt></ruby>の平和な居睡り――私にはそれがあの子の最も幸福な瞬間であったような気がした。そういうとき、ふいと目をさまして、にっと微笑するときのつみのない美しさ――。それも思い出された。

「あの子が死んだら花でもやりたいな。しかし余り出しゃばるようでいやだね。」

「そう。花はすこし変だね。しかし君でも僕でも、あの子のために祈ってやりたいね。なんだかことさらに祈るという言葉はいやだけれど、祈ってやりたいね。」

私は心からそう思った。あの短い苦しい生涯の花のない道を通ったかの女のために、私は心で、しずかにあの子を祝福してやりたいと思った。

二人はいつの間にか池の端へ出た。もう蓮はやぶれ初めて、水分をふくんだ風はすこし寒さをかんじた。

広小路で二人は別れた。二、三歩すぎると、Ｓは思い出したように、つと走って来て、

「今夜は握手して別れよう。ね、いいだろう。」

「よかろう。」

二人は鍵のように握手した。

私はいつもふじ子をボンタン、ボンタンと呼んでいた。なぜかしら、そう呼んだほうがこの少女の心持が出ているような気がしてくるからであった。

「ボンタン。お出で。」

庭に出ている彼女を呼ぶと、いつも<ruby><rb>定</rb><rt>きま</rt></ruby>って、

「ボンタン、なあに。」

向うでもボンタンをくりかえして私を呼ぶのであった。

「おかあさん。<ruby><rb>妾</rb><rt>わたし</rt></ruby>のことをおじさんがね。ボンタンだって、おかしいわね。」

彼女は、よく笑って母親に言っていた。

それからまた私が勉強していると、すぐ窓のところへ来て、

「ボンタンなにしているの。」などと言うことがあった。

「おじさん。妾、鹿児島へかえったらきっとボンタンを送ってあげてよ。お父様にそう言ってね。きっと。」

彼女は約束した。

「皮をむくと、なかが紫になっていて、そりゃいい匂いがしてよ。おじさんはたべたことがあって――。」

「一度もないの。」

「そう。いまに送ってあげるわ。」

「きっとだね。」

私は笑いながら約束した。

「それまで此処ンちにいるでしょう。」

「いますとも。ボンタンの来るのを待っていますよ。」

私どもはまるで子供のように、しゃべくっていると、ふじ子は表に目をやると、

「おじさん。誰か来てよ。いやなひとよ。わたしあっちィ行ってよ。」と小声で言った。

「え。あとでまたいらっしゃい。」

私はすぐ不安にとらわれた。このごろは定って人さえ来れば胸さわぎを感じた。ことに今日ははげしくそれがした。

「ごめんなさい。」という、太い声がした。

私は玄関へ出て行った。

そこに黒の木綿の羽織袴という姿で、色の黒い顔の、眼の底深い男が立っていた。私が出ると、

「あなたが室生さんですか。」と言った。私は、

「そうです。君は<ruby><rb>誰方</rb><rt>どなた</rt></ruby>です。」

というと、かれは一枚の名刺を出した。手にとって見ると、駒込署高等掛刑事××とあった。私は背後に水をあびたような不快さを感じた。

「何か御用でしたか。ともかくお這入り下さい。」

「では失礼します。」と室へ上った。かれは私の室をじろじろ見廻した。その目はたえずあたりに向って、鋭く、細密な観察をしているのであった。たとえば、ある一点から一点まで、非常に素早く視野を転じたりした。

「この頃は何か書いていらっしゃいますか。」

「別に取立ててお話しするほどのものを書いておりませんが……。」

「そうですか。御自分で雑誌でもお出しになっていませんか。」

「いえ。別になにも出していません。」

「そうですか。」

彼は落ちついて、煙草をふかした。何を調べに来たのか私には分りかねた。が、やはりこの間のＳ酒場の一件から、こうして訪ねて来たものらしく思われた。

「××という雑誌が発売禁止になったのは、あなたの詩からではないのですか。」

私はひやりとした。それは「急行列車」という詩で風俗を乱すものとして禁止となったらしかった。

「あるいはそうかもしれません。私にはわかりかねているのです。」

「内容はどんなんです。」

「一種の恋愛をとりあつかった詩です。つまらないものなんです。」

私はいやな気がした。自分の詩がこの人人にわかってほしくないような気がした。

かれは話を転じて、

「この間のＳ酒場のことは示談になったそうですな。」

「え。つまらない事をしてしまいました。」

かれは、ゆっくり落ちついているらしかったので、私はもどかしかった。私ははやく仕事をしたいと思った。はやく帰ってくれればいいと思った。

「お酒はよほどおやりになりますか。」

「ほんの少しです。毎日やりません。」

「酒の上ではよく失敗があるものですね。酒は慎むべきです。」

「いや大変お邪魔をしました。私が来たって御心配に及びませんから。」と出て行った。かれを表へ送り出すと、あの晩の出来事がいつまでも自分のまわりに、いつも自分の気分や仕事の上に覆いかかって、自分を暗くすることを感じた。

私は永い間、窓のところに佇んでいた。私のまわりがすっかり網を張られているような、たえまない犯罪者の恐怖をかんじることが、もう二タ月後にまで襲ってくることを忌忌しく感じた。これらの苦しい想念から遁れるために、私は旅行のことを考えたりした。

そこへボンタンが来た。

「お客様がおかえりになって――。」

「帰ってしまったの。」

「おじさんのお友だち――？　あの方は。」

「いや、ちがう。何んでもない人。」

「おじさんはあの人をきらいでしょう。おじさんはいやな顔をなすっていらしったもの。」

「まあ、きらいな<ruby><rb>方</rb><rt>ほう</rt></ruby>ですね。――」

私はこの敏感な少女の目を見た。この目こそ本当のものと嘘のものとを、直覚的に見る目だと思った。

私はふいと姉のことを考えた。やさしい魂につつまれた姉を思った。

「いっそ帰国しよう。そして頭をすこし休めなければならない。」

私は考えた。そうだ。今、一切から別れて<ruby><rb>彼</rb><rt>あ</rt></ruby>の緑深い国へ行こう。私はそう思いながら静かに室を見廻した。

「ふじ子さん。あなたより先きに国へかえりますよ。」と言うと、

「ほんとう。おじさんがお国へかえってしまっちゃ詰らないわね。」

「だってふじ子さんも帰るんでしょう。」

「ええ。」

「だからまた東京へ来たらいいじゃありませんか。」

「そうね。じゃおじさんも、また東京へいらっしゃるの。」

「え。一年ほどするとね。」

「じゃ、また遊べるわね。」

――ふじ子が去ると、私はＳに会いに行った。Ｓは屋根裏で仕事をしていた。

「僕は一年ばかり国へ帰ってくるつもりだ。何だかひどく疲れたから。」と言って私は友の顔を見つめた。

Ｓは、じっと見かえして、

「そうだな。しばらく休んで来たまえ。きっと元気がもり返すよ。」

「いまはいい時季だしね。」

「永くいるといけないよ。なるべく早くかえってくるんだね。」と言った。そしてまた、

「あまり田舎になれすぎると、かえってわるいから、いいかげんにまたやって来るんだ。仕事は田舎だって出来るからね。」

「来年の春あたりまでいようと思う。」

「その方がいい。」

私はＳに別れを告げてかえった。

私はもう一日も早く田舎へ帰りたいと思った。小さな荷物をまとめながら、都の生活の記念のために、Ｓの絵や、Ｈのスケッチなどを鞄のなかにしまい込んだ。それから本郷の青木堂で小さな買物などをした。そういう小さな忙しさ慌しさは、間もない秋深い故郷へかえってゆく楽しさと、一つはまたこの都会と別れてゆくつらさを感じた。

ボンタンがやって来た。

「あのね。お母さんが晩ごはんを食べないでいらっしゃいって、そう言っていらしったの。」

「そう、御馳走するの。」

「え。お別れだって――いいものがあるのよ。」

「ではお母さんにね、遠慮なくあがりますって言って下さい。」

「え。」

彼女は去った。

時間を繰ると、九時三十分の直行がある。今夜それに乗って<ruby><rb>発</rb><rt>た</rt></ruby>とうと思った。

しばらくすると、ふじ子が迎えに来た。

「一しょにいらっしゃいな。」

彼女は嬉しそうに私の手をひっぱって室へつれて行った。お母さんは、

「今夜お発ちなんですて。たいへん急におかえりになるんでございますね。」

「思い立ったものですから急に帰ることにしました。」

母なるひとは、ちゃぶだいにいろいろな物をならべながら、

「やっとお<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじ</rt></ruby>みになったのに、ほんとに惜しゅうございます。」と言った。

ふじ子は、

「おじさんは<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>よ。そのつぎが敬宗、それから妾――これでいいんでしょう。」とお母さんにいう。

「あ、それでいいとも。」と、こんどは私にむかって、

「何もございませんが、お別れのしるしまでにいたしたのでございますから、おあがりになって下さいまし。」

何処か国なまりのある、静かな快い調子で言った。

「ではいただきます。」

私はちゃぶ台にむかった。永い間、いつも一人で食事をしていた時は、ことにこの少数な美しい家庭の一員になって、食事をともにすることは、私の心をしずかに温め柔らげた。

ふじ子も嬉しそうにくすくす笑いながら私のかおを見たり、弟をしかったりした。母なるひとは、

「いずれ私どもも月末には帰国しますので、主人からも手紙を出すように申しますが、またおたよりを下さいまし。」と、処書きを教えた。

「私こそ沢山おせわになりました。御主人によろしくお伝えなすって下さい。」

ふじ子が、

「おじさん。わたしも手紙をあげますわ。いいでしょうお母さん。」と母親の方へ小さい顔を向けた。お母さんは微笑しながら、

「おじさんに笑われないように勉強して上手におてがみを書かなければいけません。」

「え。妾、きっと書いてよ。あなたからも下さるでしょう。」

「あげますとも。」

私たちは、くつろいでふじ子を中心にした晩餐を終えた。私は間もなく別れをつげて、室にかえった。

車が来た。

門のところにふじ子とその弟、お母さん等が出ていて、私の寂しい旅を見送ってくれた。

母なるひとに、

「ではこれで失礼します。御主人によろしく言って下さい。」

「おからだを大切になさいまし。」

母なるひとも私の苦しかった生活をいたいたしそうに見送るような表情をして、ふじ子の肩に手を置いた。

「ふじ子さん。あなたにもたいへんお世話になりましたね。」と言いながら私は車に乗った。

「おじさん。来年また遊びましょうね。」

「あ、あそびましょうね。さよなら。」

「さよなら。」

私達は別れた。さっきから快活だったふじ子は車がうごくと少女らしく涙ぐんで、いきなり母親の帯のところに顔をおしつけた。ひくい忍び泣きをあげながら――。

明治四十四年十月三日、私は第一回の都落ちをした。越えて十二月、父なる山元椿荘氏から一封の手紙をうけとった。ひらくと、ふじ子は腸に病を得て亡くなったことが記されてあった。生前いろいろお世話になった旨を感謝すると書いて、なお、ふじ子はいつも「髪の長いおじさん」のことを言い言いしたと書き添えてあった。

私はその手紙を見て烈しい涙を感じた。そして、私のためには小さな救い主であった今はむなしい彼女の魂に向って合掌した。

悼詩

ボンタン実る樹のしたにねむるべし

ボンタン思へば涙は流る

ボンタン遠い鹿児島で死にました

ボンタン九つ

ひとみは真珠

ボンタン万人に可愛がられ

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いろはにほへ</span>　<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">らりるれろ</span>

ああ　<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">らりるれろ</span>

可愛いその手も遠いところへ

天のははびとたづね行かれた

あなたのおぢさん

あなたたづねて　すずめのお宿

ふぢこ来ませんか

ふぢこ居りませんか

これはその当時、ある雑誌に書いた悼詩の一章である――