Soranoha

断酒片

だんしゅへん

牧野 信一

止やめる止めるとこぼしながらうまくゆかないのが多くの飲酒者の通例であるが、止めようと思つたら飲まなければ好いのにと僕は思ひそんなことは口にもせず飲みつゞけてゐたところ急に具合が悪くなつたので止めて見たところ、一向僕には未練もない、性根は余り酒好きでもなかつたのか知ら、他人ひとの酔つてゐるのを見ても白々としたもので、自分も酔つてゐた時はあんな風だつたのか! と思つても別段羨しくもなければ、後悔もなく、まこと変哲のなさの至りである。――左う口で云ふほどのきまりがつかぬのが、云はゞ酒の妙味であり、それは恰も返さうと念じながら容易に返済も適はぬ負債ある生活――即ち人生を髣髴する慨だなんて、僕のとりとめもない飲酒家であるところの友達がくだを巻いて行つたが、どうやらそんな人生なんて僕には想像されない気もするのであつた。酒を止めて見ると金なども要らず、別に欲しいものなんて一つもあるわけではないので、自然と負債なども少しづゝ片づいてゆくのである。人生観の一部に多少の変動は現れ、誰を見てもまた自分を見ても、朝から晩まで変哲もなく真面目さうであり、自分など斯んなに真面目さうな顔をして居るものゝ、心は案外それほど生真面目でもないのが、何だか折にふれては空々しくなつて来るのである。僕は十余年来、酒の他に何の道楽もなかつた。婦人の御機嫌をとるのは大変に苦手であり、随つて浮気ごゝろなど起したためしもなく、単に酔へば酔ふほど他人に迷惑と反感を与へる程度の酔つ払ひに過ぎなかつた。どう考へても、あれらの吾ながらの酔つ払ひ振りに吾ながら弁解の余地もなく、引いては自分の書いたものなどに関しても、どんな場合にも一言の抗弁の楯をとつたこともなかつた。第一僕は主張を持つたことがなかつたのだ。

さて斯う毎日白々しく机に向つてゐる次第であるが、自分の云ひ草なんて面白くもなく、これはどうしても所謂客観的に物事を見物するより他に暮しようも、考へ方もないような気がして来るのである。何も酔つてはゐないまでも、心の何処かには酔つたやうなものがあつて、容易につまらぬ自分からも離れ難いものであるが、左うするより他に道も道楽もなく追ひ詰められるならば、物事の好き嫌ひなどは頓着もなく、少くとも好き嫌ひを持たうとする自分の気持の自由の上に、自ら君臨するより他に術もないのである。酒のことなど別段のこともないに決つてゐるが、思考上の焦点を求めるよすがには、やはり相当役立つものだなどゝ、誌すと厭に尤もらしいが夢の中では仲々の嵐である。

底本 / Source edition

底本:「牧野信一全集第六巻」筑摩書房
2003(平成15)年5月10日初版第1刷
底本の親本:「Home line(ホーム・ライン) 第二巻第七号(十一月号)」玉置合名会社
1935(昭和10)年11月15日発行
初出:「Home line(ホーム・ライン) 第二巻第七号(十一月号)」玉置合名会社
1935(昭和10)年11月15日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年9月30日作成
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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牧野 信一「断酒片」(新字旧仮名)、底本『牧野信一全集第六巻』筑摩書房、2003年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 052860_000183, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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