Soranoha

わが生活より

わがせいかつより

牧野 信一

今年になつて――。

四月――鞄を一つぶらさげて、三崎、城ヶ島のあたりを独りでさ迷つてゐた。随筆風のものを折々書いてゐたが、どうしても短篇小説を一つその月ぢうに書きあげなければならぬと力んで、こつこつと夜を更してゐたが何としても捗らなかつた。無理矢理に書きかけたものを読み返して見ると、見るまでもなく沮喪したもので、いつかな発表の勇気が持てなかつた。わたしだつてもう十何年も文筆生活を続けてゐるので、別段に大それた自負を抱くといふほどのこともなかつたが、わたしは何んな場合でも、表面的な出来事は一先づ目をつむるとしても、何時もその作品として、その作としてのかたちをかりぬ限りは絶対に云ひ得べくもない明瞭なる一個の意志が働かぬ限り、決してものにならなかつた。それが働いてゐなかつた。書き直しても駄目だつた。所詮破棄しなければならぬと決心するのであつたが間もなく二十日が過ぎ、三日、四日と経つて、そこここに滞在費が三月以来溜つてゐることなどを考へると、急に心臓が半鐘のやうに鳴り出し、夜々、その未定稿をつかんで、恰も芝居の忠兵衛さん見たいな煩悶に逆上せた。窓から見あげる灯台の光を仰いで沁々と灯台守が羨望された。否応なくまたその月の大ミソカが迫り、止むなくわたしは原稿の皺を伸して一気呵成に書き続けようと、冷水浴を行つて部屋に取つて返すと、偶然国元から符箋のついた書留郵便が届いてゐた。△百円封入され、それはわたしの長男の学資金と註されてあつた。わたしは一年ちかくも国元へ戻らず音信不通だつた。

わたしは観音崎の断崖へ駆け登つて、滑稽なる未定稿を実に爽々しく粉となし、雪のやうに空へ吹き飛ばした。

五月――横須賀の寓居へ戻り、また改めて書きはじめるうちに、また日が経つて、そろそろ胸が半鐘と鳴りかからうとすると、また国元の母から為替が届いた。またわたしは未定稿を破り、やけ酒をあふつた。

六月――折角治りかゝつた持病を再発して、わたしは母と共に箱根の温泉へ来た。母は孫のことだけを余程案じてゐるやうだつた。母と子は睦じく一本の酒で陶然とした。おばあちやんとパパが左うしてゐるところを写してやらうと土曜をかけて遊びに来たわたしの息子は、達磨のやうに何故か威張つたかの如き愚かな父と、優しい祖母とを明るい宿のサロンに引き出して撮影した。わたしは酒を止め、昼は蝶を採り、夜はベロナールの利くまでの間母に音楽を聴かせた。

七月――飄然と旅立つ予定である。

底本 / Source edition

底本:「牧野信一全集第六巻」筑摩書房
2003(平成15)年5月10日初版第1刷
底本の親本:「新潮 第三十二巻第八号(八月号)」新潮社
1935(昭和10)年8月1日発行
初出:「新潮 第三十二巻第八号(八月号)」新潮社
1935(昭和10)年8月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年9月30日作成
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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牧野 信一「わが生活より」(新字旧仮名)、底本『牧野信一全集第六巻』筑摩書房、2003年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 052856_000183, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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