Soranoha

坂口安吾君の『黒谷村』を読む

さかぐちあんごくんの『くろたにむら』をよむ

牧野 信一

一

坂口安吾の作品集が出たことは近頃僕にとつての稀なる快心の一つだ。といふのは友情的な心懐を全く別にして予かね々僕はこれらの作品については、その厭世の偏奇境から沸然として発酵し奇天烈無比なる滑稽演説家「風博士」との会合以来、澄明の大気の彼方にありあり髣髴する蜃気楼の夢に眼を視張らせられて恍惚の吐息に愉悦を味はふこと幾度いくたび――その都度口を極めて筆を執つて嘆賞――おそらくは砂漠に道をうしなひ、味気なき旅路をたどる折から、忽然として烈風の彼方にその煌めく城門えるどらどおの篝火を発明して以来……どうかして一人でも多く友を誘つて、あれらの滋味深き森蔭を眺め不思議な城砦を案内したい、人生の淙々茫々なる美麗と果敢なき夢の深潭こゝに極まれり、と吹聴したかつたのだ。

*

これは断じて僕の単なる偏狭な数奇眼からでなしに(超絶論者でもない限り、特にそんな奇矯癖を振り廻すはずもなく、一人の僕が読んでこれほど欣快至極であつたものが、正直誰にとつてだつて小説本を読むほどの趣味と教養のある人々ならば、これが退屈であらう筈はないのだ)何時何処で聞いても不滅なる音譜を聞くが如く、つきざる夢の幻妙さに酔はされるものであつた。

*

それが、どうした世の中のハズミであつたか知らぬが、むかうの城砦の倉に蔵はれたまゝになり、次第には僕ひとり位ひが折々の虫干日に取り出して、寧ろ専有感の快を貪つてゐた折から突然、此処に改めて展覧される機会を得たことは、吝嗇なる僕としては稍物惜しみの自負心さへも手伝ふ位ひであるが、兎も角大方の紳士淑女よ、試みに夕べの窓ぎわでなりと「黒谷村」一巻を繙かれるならば、なるほど君のいつた通りおもしろく夜の更けるのも忘れたよとばかりに僕に握手を求められるであらうとさへ秘かに期待してゐる次第である。

二

いろ〱な騒ぎに聾せられて、否応なく趣味と人生観の低下を余儀なくされてゐる折から、偶たまたま真の文学的凜気爽かなるこの如き書に接しられたならば Pitt Diamon とも申すべく得難き読書の快はやはりこの如き純粋なる文学書のなかにこそ、万遍なく求められるといふことをお気づきになるであらう。

*

要するにおもしろい本は、君にとつても僕にとつてもおもしろいといふだけのことで、もともと「純文学」が特に専門的であるなんていふ莫迦気た話しがある筈もないではないか。言葉が足りぬが、ともかく一本を繙かれるならば、少くとも一掬の文学の妙に酔はれるであらうことは、僕としては疑ひを持たない。

文学は理屈ではなく、比べるならば香気深き酒に似たものであり、これは徒らなる推賞文でもなく、僕は五六年も前から安吾のこれらの小説については再参公言もなく、また秘かに繰返して愛誦してゐるものである。

新しき友よ、読後の感を、僕にもきかせてくれ給へ。あれは酒だ、僕は酔はされた。

(独り山をのぼり箱根の宿にて六月牧野信一記)

底本 / Source edition

底本:「牧野信一全集第六巻」筑摩書房
2003(平成15)年5月10日初版第1刷
底本の親本:「新潟新聞(夕刊) 第一九四五一号、第一九四五二号」新潟新聞社
1935(昭和10)年6月28日、29日
初出:「新潟新聞(夕刊) 第一九四五一号、第一九四五二号」新潟新聞社
1935(昭和10)年6月28日、29日
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年9月30日作成
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リリース / Release
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
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牧野 信一「坂口安吾君の『黒谷村』を読む」(新字旧仮名)、底本『牧野信一全集第六巻』筑摩書房、2003年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 052850_000183, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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