Soranoha

読んだ本

よんだほん

牧野 信一

今僕の枕元には、ジイド全集の第四巻と久保田万太郎氏の「月あかり・町中」の二部があるのみ。ろく〱本も読めぬ病弱つゞきで、この幾ヶ月、たゞ窓外の風景を眺めるばかりをことゝして、あちこちの田舎ばかりを転々として漸くこゝに落ついたところだ。薬瓶とブロバリンと二三個のトランクと廻送される郵便と、だから本は何も持ち歩けなかつた。久保田氏のものは大概発表の当座読むのだが、この二篇とも本になるまで知らなかつた。吾ながら随分とあちこちと歩きまはつてゐたものだとあきれた。

そんな間に、あれらの海村の漁家の二階で、あの寒村の水車小屋の炉端で熱ばかりを気にしながら読んだ本を回想すると、宇野浩二氏の「枯木のある風景」「子の来歴」瀧井孝作氏の「慾呆け」織田正信氏訳「D・Hローレンスの手紙」永井龍男氏の「絵本」などがかぞへられる。「絵本」の中の「黒い御飯」といふのは一昔に近い文藝春秋で読み、愛読といふ言葉に最もふさはしい感を享けたことを忘れぬので、本を手にした時も先づそれを読んだ。はじめて読んだ時は、作者とは未知のころで次の作が未だか〱と随分と待ち構へたことを覚えてゐる。知るに及んでからは何か僕が悪友のやうな思ひで云ひそびれ、酔払つてばかりゐたが、久しく筆を断つてゐた彼がこの本の出る前後からぼつ〱と新作を発表しはじめたことに就いては、一昔前と変らぬ期待で逃さず読んでゐるつもりだ。

織田氏訳の「ローレンスの手紙」から、僕は漁村の二階で斯んな章を抜書してゐる。

「僕の信じる偉大な宗教とは、理智よりも賢明なものとして、血を、肉を信じることだ。精神は我々を誤らせる。けれども、我々の血が感じ、血が信じ、血が説くものは、常に真理である。理智は単に、拘束であり制御である。知識は僕の与り知らぬ所。僕の欲する凡ては、我が血の欲求に答へることだ。精神・道徳とか何でもさう言つたものゝくだらぬ干渉を受けず、直接答へることだ。」

読んだものゝ感想といふ程度にもならぬが、読んでいつまでも記憶してゐるものといふものは、病気になどなつて見ると反つてはつきりと、わづかであることが解る。以上挙げた本及び作家については健康をとり戻した別の機会に述べさせて貰はう。

底本 / Source edition

底本:「牧野信一全集第五巻」筑摩書房
2002(平成14)年7月20日初版第1刷
底本の親本:「文藝通信 第二巻第十一号(十一月号)」文藝春秋社
1934(昭和9)年11月1日発行
初出:「文藝通信 第二巻第十一号(十一月号)」文藝春秋社
1934(昭和9)年11月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年8月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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リリース / Release
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TEI
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プレーンテキスト / Plain text
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書誌 / Bibliography
/works/052834_000183/

牧野 信一「読んだ本」(新字旧仮名)、底本『牧野信一全集第五巻』筑摩書房、2002年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 052834_000183, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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