悪い酒であります。憎い酒であり、野蛮な酒でありますが、決して酒に罪があるのではありません。偏へに小生の酩酊振りが悪く、憎く、そして極めて野卑であるばかりなのだ。あゝ小生は常に悪酔の失策と後悔に身をやかれ、生活の軒を傾け、やがては自堕落の淵にめり込むやも知れません。その癖一度だつてうまいぞ、こいつは飲まずには居られんと止み難い欲望に駆られて酒徳利に振ひつくといふわけではありません。久保田万太郎先生の酒は、真に美しくいつも懐しく、大きく立派であつて、吾が酒の不しだらさを思ふにつけ、十年の昔から敬愛と羨望の念とを忘れた験しとてもありませんが、たゞひとつ、うまいぞ、こいつは飲まずには居られんぞといふ類ひの理由から、グラスを手にするのではないとの点だけは、この小生も稍先生の下流に属するものかと思考もせらるゝ次第であります。そしてまた小生は、更に飲まうがために文句を附け足すわけではないが、矢張り左う易々とは酒を止めようともしないといふのは、いつかは己れも、悪くなく、憎くもなく、然して野蛮に走ることのないうつとりとした盃の持ち手になりたいものよと念じて止まぬからであります。小生の部屋の壁にはいつも「われ事に於て後悔をせず」といふ菊池寛先生の筆蹟が、懸けてあります。後悔ばかりが余りに小生は多いのであります。それが悉く酒なのではありませんか。小生はその額の下に終日端座して涙を流すことが、度々であります。やがて双鬢に霜をいたゞく頃ともなつて、万一悪くもない盃の持ち手ともなり得て永らへてゐたならば、その額面ともうひとつ万先生の「ぬれそめてあかるき屋根の夕しぐれ」との二つは、若き日の多くの悲しみや憂ひ、または愚かなる酒に追はれてあちらこちらと引越車を曳いて転々としたことなどを、なつかしく明るく思ひ出されるかも知れぬ――などゝ、秋深き一日、また新しく移り転じて来た池田山といふところのアパートの一室で、部屋の飾りつけなどを終つて、この稿の机に向ひながら夢見るのでありました。所詮は夢とうつゝの境を忘れ勝ちな屋根裏の wet だ。
僕の酒
ぼくのさけ
牧野 信一
底本 / Source edition
2002(平成14)年7月20日初版第1刷
底本の親本:「モダン日本 第五巻第一号(新年特大号)」文藝春秋社
1934(昭和9)年1月1日発行
初出:「モダン日本 第五巻第一号(新年特大号)」文藝春秋社
1934(昭和9)年1月1日発行入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年8月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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- プレーンテキスト / Plain text
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- 書誌 / Bibliography
- /works/052825_000183/
牧野 信一「僕の酒」(新字旧仮名)、底本『牧野信一全集第五巻』筑摩書房、2002年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 052825_000183, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079