Soranoha

推賞寸言

すいしょうすんげん

牧野 信一

田舎の明るい竹林のほとりに住んでゐる、私の或る知人の簡素な茶室に、一幄の懸物がかゝつてゐた。たしか五つの漢文字であつたが、うろ覚えだから誌すのは遠慮しておくが、私がその意味を問ふたら、これは、斯うして小さな一つのひしやくを持つて、一杯の湯を酌む――が、この一つの小さなひしやくを持つて酌んだ一杯の湯は、即ち一杯の宇宙を酌んだものである――と云ふやうな意味のことを説明された。私は、感心し、愉快であつた。そして私は、すゝめられた茶に不思議に微妙な、そして広大な風味を覚えながら、懸物の文字を眺めたことがあつた。

その後私は、佳き作品に出遇ふと屹度あの時の光景を思ひ出すのである。

変な前置を誌してしまつたが。

私は、この間「経済往来」(十一月号)で「当世胸算用」(近松秋江作)を読んで非常に感心した。沁々と、大家の作である――と思つた。正に、あの竹林の茶室で味ふた一喫の茶の味であつた。

その筆致の、悠々として迫らざる、その態度の清澄を極めたる着実さ、その微妙な人心の生むいとも朗らかな自然の飄逸味に、私は惻々と、胸を打たれながら読了した。

題材を特に云々するわけではない。作品としての傑れたる味はひである。佳き作品は、その題材の如何を問はず、何んな読者にも和やかな妙味を覚えしむるものである――など今更のやうに考へた。

その他「新潮」所載、嘉村礒多作、「秋立つまで」に感嘆した。

余白がないから、「当世胸算用」に就いても、「秋立つまで」に関してもいろいろなことは述べきれぬが、逸作であるといふことの吹聴だけで沢山だらうと思はる。未読の方に、すゝめたい。

今月は、未だ以上の二雑誌で、この二作しか読んでゐないのであるが、共々に稀なる作品であつたといふことは、近来の快事であつた。

底本 / Source edition

底本:「牧野信一全集第四巻」筑摩書房
2002(平成14)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋 第八巻第十四号(十二月号)」文藝春秋社
1930(昭和5)年12月1日発行
初出:「文藝春秋 第八巻第十四号(十二月号)」文藝春秋社
1930(昭和5)年12月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年8月1日作成
2016年5月9日修正
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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牧野 信一「推賞寸言」(新字旧仮名)、底本『牧野信一全集第四巻』筑摩書房、2002年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 052791_000183, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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