Soranoha

淪落の女の日記

りんらくのおんなのにっき

牧野 信一

「もう少し愛があれば、誰もこんなところに落ち込みはしないのだ。」

これが、この物語の主題である。「パンドラの箱」は見損つたが、次のルイズ・ブルツクスものと聞いて、ブルツクスは常々僕の西洋映画女優中の最も好きな女優で――余談を許したまへ、僕の田舎の書斎の壁には、彼女のために二つの額ぶちが備へられてあり、その一つの小さい丸額には彼女の半身の素顔が収まつて、時々僕の冷い凝視を浴び、別の稍大きな角額には、新しい彼女の写真が出来る度の、その扮装の姿が次々に入れ換へられてゐる位ひなのだ――だから僕は、勇んで観せて貰つた。あの女優さへ出れば他のことは何うでも好い――といふ類ひの甚だ心細い見物人である。

*

僕は感化院の光景を興味深く見物した。彼女(薬剤師へニングの娘テイミアン――ブルツクスの役)は、マイネルトといふ薬局助手の「毒牙にかゝつて」――この場面は公開の時にはおそらくカツトされるであらうといふことだが、仲々凄惨な情景が、重い独逸ドイツらしい影にかこまれて微細に展開されてゐる。

卒倒、接吻、マイネルトが、あたりを気遣ひながら女を抱きかゝへて帷の中へ消えて行く。だからテイミアンは、何事も知らなかつたのである。そして母とならせられて、挙句の果に感化院に送られてしまふのである。

*

そして、次々に、所謂「淪落の女」に落ちて行き、

「テイミアンよ、お前は魂を失つた女だよ。」といふことになるのであるが、いろ〱な意味でブルツクスの持つ、冷い強さ、弱さ……といふ風な風格が、僕が観たブルツクス映画のうちではおそらく遺感なく取り入れられてゐる――と思ふ。

見応への充分にあつた証拠には、愉快なものとか、さわがしいものとか、ギヤグ沢山なものでゞもないと、稍もすれば退屈しようとする気の毒なフアンである僕が(ブルツクス映画では、いつも僕は別なのだが)――、特別なブルツクスフアンといふことを別にしても、あの静かな長さを、息を殺して見続けてゐたといふことでも自ら点頭けるのである。

*

僕は、試写で観たといふ経験は数へるほどの少数なのであるが、そして大概の時は途中で解らなくなつて、別のことを考へてゐたりするようになつてしまふのだつたが、この「淪落の女の日記」は、そんなことが殆どなく、はじめから終ひまで稍六ツヶし気な顔を保つたまゝ神妙に見続けられたのである。そんな例は、つまらぬ話だらうが、僕のやうな無知なフアンを、音楽も説明も何もない試写の場合で、あの位ひ凝然と見透せさせたといふことは、たしかに佳き映画の資格があるものだらうと思はれる。僕は、写真の切れ目になると、隣席の斎藤龍太郎君に、

「仲々面白いぢやないか。」とか「これ位ひのは安々とは見つからないものだらうね。」とか「退屈しさうで、決して退屈しないのが妙だね。」などゝ、さゝやき、同意を求めた。

*

僕は、これが公開されたら再び見物に赴き「試写」と「公開」の時との差違に就いて試して見ようと思つてゐる。――そして、感化院の体操場で薄シヤツ一枚で体操をするブルツクスの写真を探しもとめて、当分の間壁にかゝげておかう――などゝ思つてゐる。

底本 / Source edition

底本:「牧野信一全集第三巻」筑摩書房
2002(平成14)年5月20日初版第一刷
底本の親本:「映画時代 第八巻第五号(五月号)」文藝春秋社
1930(昭和5)年5月1日発行
初出:「映画時代 第八巻第五号(五月号)」文藝春秋社
1930(昭和5)年5月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年8月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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リリース / Release
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書誌 / Bibliography
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牧野 信一「淪落の女の日記」(新字旧仮名)、底本『牧野信一全集第三巻』筑摩書房、2002年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 052782_000183, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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