## 飢餓山河

## 一

「彦太承知だの」

「む、行く」

「二十日の寄合いにゃ、きっと、顔を出してくれや。村の者あ、おぬしが力だ。腕も弁もあるしの、学問だって、<ruby><rb>青梨村</rb><rt>あおなしむら</rt></ruby>じゃ、何というても、彦太だもんのう」

大庄屋の息子と、老百姓が二、三名と、それを<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>きつけてる<ruby><rb>郷士</rb><rt>ごうし</rt></ruby>の伜とが、こっそり<ruby><rb>籾蔵</rb><rt>もみぐら</rt></ruby>から帰って行った。

彦太は、家の裏口を見張りながら、時候ちがいの冷露で、黒い枯れッ葉になった桑畑へ消えて行く人々を、見送っていた。

この子四ツじゃに

<ruby><rb>糠</rb><rt>ぬか</rt></ruby>より軽い

軽いはずだよ

<ruby><rb>稗糧</rb><rt>ひえか</rt></ruby>と夫婦の<ruby><rb>坊子</rb><rt>ぼこ</rt></ruby>じゃもの

<ruby><rb>坊子</rb><rt>ぼこ</rt></ruby>にゃ出ぬ乳も

運上にゃしぼる

藁で髪ゆい、縄帯しめて――

<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せた畑を、小作の子が、聞き覚えの<ruby><rb>味噌煮唄</rb><rt>みそにうた</rt></ruby>をどなって通った。彦太は、この<ruby><rb>痩地</rb><rt>やせち</rt></ruby>と百姓との宿命を、<ruby><rb>呪</rb><rt>のろ</rt></ruby>うように、腕ぐみしていた。日が暮れても、たね油の灯が<ruby><rb>燈</rb><rt>とも</rt></ruby>せない村だった。

「いッそ、<ruby><rb>鍬</rb><rt>くわ</rt></ruby>を捨てて、<ruby><rb>馬口労</rb><rt>ばくろう</rt></ruby>か、<ruby><rb>木挽</rb><rt>こびき</rt></ruby>かになろうとしても、役銀をとられるし、油屋、酒屋も株もの、川船で稼げば<ruby><rb>川運上</rb><rt>かわうんじょう</rt></ruby>、<ruby><rb>雑魚</rb><rt>ざこ</rt></ruby>を<ruby><rb>漁</rb><rt>と</rt></ruby>っても、網一つに幾らの税だ。――とても食えぬと、他領へ逃げるにも、もし捕れば<ruby><rb>打首</rb><rt>うちくび</rt></ruby>。子を生めば<ruby><rb>胞衣金</rb><rt>えなきん</rt></ruby>、死ねば<ruby><rb>寺金</rb><rt>てらきん</rt></ruby>。――一体、どうしたらいい百姓だ」

と考えた。

飢えて死ぬより、<ruby><rb>強訴</rb><rt>ごうそ</rt></ruby>だ、<ruby><rb>一揆</rb><rt>いっき</rt></ruby>だ！

と今、<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いて行った人々の言葉だの、もがいている眼つきだのが、ひしと、心を噛む。

「どうしても、二十日には、顔を出さねばならないかな。俺が出れば、<ruby><rb>弱音</rb><rt>よわね</rt></ruby>はふけぬ。自分の火が、村を何十ヵ村も、火にしてしまうが――」

彦太は、自分の熱っぽい性格が怖かった。

一人の犠牲で、何十ヵ村の飢えが、救えるものならいいが、この<ruby><rb>真田伊賀守</rb><rt>さなだいがのかみ</rt></ruby>の領土では、<ruby><rb>繭糸一揆</rb><rt>まゆいといっき</rt></ruby>だの、<ruby><rb>千曲川</rb><rt>ちくまがわ</rt></ruby>の運上騒動だの、また、領主がお庭焼の陶器に<ruby><rb>凝</rb><rt>こ</rt></ruby>って、莫大な費用の出所を、百姓の<ruby><rb>苛税</rb><rt>かぜい</rt></ruby>に求めたので起った須坂の<ruby><rb>瀬戸物</rb><rt>せともの</rt></ruby>一揆だのと、彦太がもの心ついてからでも、数えきれぬ程、むしろ旗が騒いだが、一つも、成功した例がなかった。

人国記にもいわれてる通り、<ruby><rb>由来</rb><rt>ゆらい</rt></ruby>信州人は、智慾は<ruby><rb>旺</rb><rt>さかん</rt></ruby>なるも、争気に富み、郷党和せず、という<ruby><rb>欠陥</rb><rt>けっかん</rt></ruby>があるのと、痩地の十万石で、貧乏財政をやりくりしてる藩役人は、<ruby><rb>狡策</rb><rt>こうさく</rt></ruby>に<ruby><rb>長</rb><rt>た</rt></ruby>け、一揆の対抗には<ruby><rb>狎</rb><rt>な</rt></ruby>れきっているし、そういう方面でも、兵法の家筋だった。だから、騒いだ後は、いつも、千曲川が赤くなるほど、首謀者の首が、並べて斬られ、結局、百姓は又、何も得るところはなく、

<ruby><rb>坊子</rb><rt>ぼこ</rt></ruby>にゃ出ぬ乳も

運上にゃしぼる

と、味噌煮唄でもうたって、<ruby><rb>欝憤</rb><rt>うっぷん</rt></ruby>をやるだけのものになってしまう。

## 二

近年は、その真田伊賀守の家臣で、<ruby><rb>佐久間修理</rb><rt>さくましゅり</rt></ruby>という名が、百姓たちの<ruby><rb>怨嗟</rb><rt>えんさ</rt></ruby>の<ruby><rb>的</rb><rt>まと</rt></ruby>だった。修理は、号を<ruby><rb>象山</rb><rt>しょうざん</rt></ruby>といい、学者で、砲術家で、経世家だと聞えている。<ruby><rb>一頃</rb><rt>ひところ</rt></ruby>は、目付役兼検見方として、千曲川を改修し、山には檜を植林し、低地には、<ruby><rb>林檎苗</rb><rt>りんごなえ</rt></ruby>を奨励した。又、温泉の利用だの、火薬の製法だの、<ruby><rb>葡萄酒</rb><rt>ぶどうしゅ</rt></ruby>の作り方などをも、才学にまかせて試みた。それはいいが、<ruby><rb>定例</rb><rt>じょうれい</rt></ruby>の<ruby><rb>助郷</rb><rt>すけごう</rt></ruby>のほかに、毎日、植林その他、無給仕事に、お助けと称して一家の働き手を<ruby><rb>徴発</rb><rt>ちょうはつ</rt></ruby>される百姓たちは、食えない上に、食えなくなった。

その佐久間象山が、やっと、藩命で京坂の方へ、派遣されたので、百姓たちは、<ruby><rb>疫病神</rb><rt>やくびょうがみ</rt></ruby>でも追ったように、

「佐久間ばらい」

といって、祝ったくらいだったが、間もなく、その象山の献策とかで、藩の<ruby><rb>松代</rb><rt>まつしろ</rt></ruby>では、大砲だの小銃、弾薬、科学器械などを、金もないのに買いこんで、毎日、千曲川では、調練兵が、どかん、どかん、ぶっ放していた。

当然、その金は、百姓の上へ、税となってかかって来た。百姓たちは、<ruby><rb>四斤</rb><rt>よんきん</rt></ruby>砲一発、いくらという値を知ってから、どかあん、という音を聞くと、自分たちの<ruby><rb>膏血</rb><rt>こうけつ</rt></ruby>がぶッぱなされるように、気がひけた。

武器の購入は、年々、莫大な額だった。国事<ruby><rb>御多端</rb><rt>ごたたん</rt></ruby>の<ruby><rb>秋</rb><rt>とき</rt></ruby>――という諭令が出たが、どう多端なのか、<ruby><rb>尊王攘夷</rb><rt>そんのうじょうい</rt></ruby>ということばや、京都江戸あたりの騒がしいくらいな事は、耳にもしてるが、百姓たちには、その必然性が、認識できなかった。

で――飢え死にするよりは、と何度も苦い経験のある一揆を、又ぞろ、繰返すらしい<ruby><rb>不穏</rb><rt>ふおん</rt></ruby>さが、何十ヵ村の同じ痩せ村にうずいていた。

彦太の家は、割に、戸数の少ない村の小庄屋だったが、遺伝的に、血の気の多い人間を代々生んでるので、<ruby><rb>萎縮</rb><rt>いしゅく</rt></ruby>してる百姓たちからは、事があると、頼られ、反対に、藩からは、<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>まれていた。

「親父が亡くなって、まだ、百日も経たねえだから――」

と、彦太は、それを理由に、<ruby><rb>廻状</rb><rt>かいじょう</rt></ruby>がきても、寄合いに出なかったが、もう、<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>ッぴきならないものが、彼へ迫っていた。そして、顔を出せば、三代前の祖父のように、狂的に、火となって、闘うだろう事は、自分の血液が予感しているが、さて、その祖父のやった犠牲が、どれ程後の百姓を生かしたかと考えると、二の足をふまざるを得なかった。百姓は今も飢え、今も苦しい。

「はて、おらは、この生命を、そんな無駄には捨てられぬぞ」

彦太は、迷っていた。

その時、表の土間口で、

「彦よ。おるか」

「誰だあ」

「おらよ。<ruby><rb>中野宿</rb><rt>なかのじゅく</rt></ruby>の茂作よ」

「お。上がらっしゃい」

「うんにゃ、上がるめえ、迎えに来たのじゃ。延徳沖の酒屋の息子な、要助どんじゃ。七年ぶりで、故郷へ<ruby><rb>帰</rb><rt>け</rt></ruby>えったで、一目会いたいといわっしゃる。来られるかの」

「ほっ、要助が、――そうけ。――長う会わんの、おらたあ、<ruby><rb>腕白</rb><rt>わんぱく</rt></ruby>友達じゃ、行くとも、すぐ行く」

もう星が出てるが、野良に出ている者は、まだ帰らなかった。彦太は、広い、真っ暗な家を、空っぽにして、出て行った。

## 三

<ruby><rb>幼</rb><rt>おさな</rt></ruby>友達の要助は、中野宿の川魚茶屋で、酒の支度をして、彼を待っていた。

彦太は、会って、驚いた。

「ほッ、おめえ、侍になったんか」

「む、ずっと京都にいたが、今度、佐久間先生のお供を兼て、松代藩へ用事があって帰郷したよ。<ruby><rb>達者</rb><rt>たっしゃ</rt></ruby>かい、彦太」

「ふーム」

彦太は、うめいて、急に、対等な口がきけなくなった。この地方で、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">てッぱ</span>屋と俗にいう、<ruby><rb>馬口労</rb><rt>ばくろう</rt></ruby>相手の居酒屋の<ruby><rb>伜</rb><rt>せがれ</rt></ruby>が大小、<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>、<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby>や言葉つきまで、見違えるようになっている。彦太は、<ruby><rb>羨望</rb><rt>せんぼう</rt></ruby>と、反抗と、それから自恥を感じた。

「よく二人で、この中野宿の道場へ、毎晩通ったもんだったけな。あの、棒振り剣術の先生は、まだやっとるか」

「おるが、この頃は、<ruby><rb>中風</rb><rt>ちゅうぶ</rt></ruby>で剣術どころでねえでの。片手に<ruby><rb>鍬</rb><rt>くわ</rt></ruby>、片手に鎌で、箸を持つ手は、百姓にはねえだ。何んせい、こッぴどい運上やら、助郷やら」

「相変らず、<ruby><rb>年貢</rb><rt>ねんぐ</rt></ruby>の<ruby><rb>愚痴</rb><rt>ぐち</rt></ruby>か。村は、変らんなあ」

「佐久間修理が悪いというこった」

「象山先生は、<ruby><rb>達観</rb><rt>たっかん</rt></ruby>の士だ。百姓たちには、あのお方の<ruby><rb>偉</rb><rt>えら</rt></ruby>さがわからん。それは、時勢が分らんからだが」

「そうかの。おめえ、象山びいきになったか」

「む。……ウム。……それや拙者も、村にいた頃は、無智の仲間じゃったから、象山先生の<ruby><rb>馬面</rb><rt>うまづら</rt></ruby>が、<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>で、石を抛った事もあるが、<ruby><rb>上方</rb><rt>かみがた</rt></ruby>へ参って、分ったな。今度、<ruby><rb>高島秋帆</rb><rt>たかしましゅうはん</rt></ruby>先生の砲式を入れるために帰国されたのじゃ」

「あんな、大砲など、莫大な金をかけて、どうするつもりだ。やくたいもねえ」

「ははは。今に、わかる」

「今に――今にといってれば、<ruby><rb>一揆</rb><rt>いっき</rt></ruby>が起るぞ。百姓は、もう<ruby><rb>絞</rb><rt>しぼ</rt></ruby>る血もねえで」

「一揆」

と、要助は<ruby><rb>憫笑</rb><rt>びんしょう</rt></ruby>するように、

「おぬし、やる気か」

「おらあ、やりともねえが」

「台所喧嘩、よい程に、やめんか。――今はそんな場合じゃない。<ruby><rb>外夷</rb><rt>がいい</rt></ruby>と<ruby><rb>内憂</rb><rt>ないゆう</rt></ruby>と、日本は、重大な<ruby><rb>秋</rb><rt>とき</rt></ruby>だ」

「日本――外夷――」

彦太の頭は、信州の何ヵ村だけの死活でいっぱいだったが、そういわれると、自分の眼界と知識が、要助とは、格段にかけ違っている気がして、

「そうかなあ」

と、屈してしまった。

英、露、仏など、各国の黒船に、日本が好餌として沿海を<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>われている事実や、それを<ruby><rb>攘</rb><rt>う</rt></ruby>てという朝廷の攘夷派と、幕府の開港策とが、対立してる事や、志士、各藩の動向――水戸学の運動化――それから、支那の阿片戦争と日本の場合との比較までを――約<ruby><rb>二刻</rb><rt>ふたとき</rt></ruby>も、彦太は、要助から、たてつづけに聞かされて、頭へ詰めきれない程、充血を持って、外へ出た。

「――そうかなあ」

彼は、<ruby><rb>漠</rb><rt>ばく</rt></ruby>と、感動し、漠として、百姓以外の天地と生存を考え、青梨村の家へ、帰るまでに、

「自分が生きるにも、人を生かすにも、百姓では駄目だ」

と、己れへ結論を与えた。

そして、馬も鶏も、生きるにたえないような<ruby><rb>痩地</rb><rt>やせち</rt></ruby>を見わたして、

「要助は、台所喧嘩じゃといいよった。それも、そうかな。領主も食えんので、百姓を食う。海から、外夷が日本を食おうとするなら、大砲もなけれゃなるまい。――飢えて死ぬより、一揆なら、一揆で首をチョン斬られるより、外夷と戦って死ぬ方がましだぞ。第一、男らしい。第二には、家名も<ruby><rb>挙</rb><rt>あが</rt></ruby>る」と、<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。

## 末期百態

## 一

「犬も飯を食うだろうに、江戸って所は、何処を曲がっても、野良犬が多いなあ。これだけの犬の食物があれゃ、俺の村は、一揆など起さずに済むが」

と、彦太は思った。

その野良犬と、町廻りに、何度か<ruby><rb>脅</rb><rt>おびや</rt></ruby>かされながら、真っ暗な問屋町を、彼は、探して歩いた。そう夜半という程でもないのに、どこ一軒、<ruby><rb>灯</rb><rt>あか</rt></ruby>りの洩れている家はない。今こえて来た狭い橋の下から湧くのであろう、腐った汐の匂いがいっぱいにする<ruby><rb>闇</rb><rt>やみ</rt></ruby>だった。

「あ。<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>ここ」

幼少の時、一度見た記憶がある。戸を<ruby><rb>卸</rb><rt>おろ</rt></ruby>した六<ruby><rb>間</rb><rt>けん</rt></ruby><ruby><rb>間口</rb><rt>まぐち</rt></ruby>の<ruby><rb>艾屋</rb><rt>もぐさや</rt></ruby>の軒下に、すばらしい<ruby><rb>大釜</rb><rt>おおがま</rt></ruby>が看板に<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>えてあった。釜で覚えていたのである。

彦太が、立ちどまったのは、その釜屋艾のすじ向い――弁当仕出し屋の政右衛門の店口だった。

「今晩は――」

幾度も、戸をたたいて、どなった。

「青梨村の彦太でがす。<ruby><rb>伯</rb><rt>お</rt></ruby>ッ<ruby><rb>様</rb><rt>さま</rt></ruby>、信州の彦太でがすよ。開けてくんなさい。今晩はっ」

寝たにしても、このくらい叩いたら――と思っていると、程経て、

「どなた様で――」

見当違いな、土蔵の金網窓に、灯影がゆらいで、首の影が二つ、

「押し込みの御用意でもねえようだな」と、<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>き合ってから、

「唯今、お開けしますから、お待ちなすって」と、答えた。

主人の弁政は、奥で、<ruby><rb>妾</rb><rt>めかけ</rt></ruby>あがりの後妻と、寝酒を<ruby><rb>酌</rb><rt>く</rt></ruby>んでいたが、<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れたように、

「えっ、信州の<ruby><rb>甥</rb><rt>おい</rt></ruby>野郎が来たと。あの、彦太のやつ、とうとう、出て来てしまったのか」

彦太は、店の若者について、もう<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>の内に立っていた。丸ッこい顔に、<ruby><rb>羞恥</rb><rt>しゅうち</rt></ruby>を<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>えて、そこへ、ちょこなんと<ruby><rb>畏</rb><rt>かしこ</rt></ruby>まった。三十近くにみえるが、まだ二十四歳で、小肥りで背が短かった。百姓<ruby><rb>縞</rb><rt>じま</rt></ruby>の下に、稽古着を着、紺の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もんぺ</span>をはいているのである。初めは、にやにや笑っていたが、坐ると、大きな口を真面目にむすび、伯父の顔いろを、<ruby><rb>団栗</rb><rt>どんぐり</rt></ruby>のような眼でじっと見ていた。

<ruby><rb>厄介</rb><rt>やっかい</rt></ruby>なやつだ――

そういわんばかりに、弁政は、山国から風で飛んで来てそこへ座ったような<ruby><rb>朴訥</rb><rt>ぼくとつ</rt></ruby>な甥を、いつまでも黙って、眺めていた。頭髪を、使いからしのハタキみたいに束ねて後ろへ下げた<ruby><rb>態</rb><rt>てい</rt></ruby>や、<ruby><rb>稽古襦袢</rb><rt>けいこじゅばん</rt></ruby>を近頃の<ruby><rb>壮士風</rb><rt>そうしふう</rt></ruby>に襟元から見せてる態や、百姓とも浪士ともつかない<ruby><rb>稚気満</rb><rt>ちきまん</rt></ruby>な<ruby><rb>恰好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>に、思わず吹き出したくなったが、

「――む。出て来たのか、とうとう」

おかしさを抑えて、わざと苦りきッた。

彦太は、思いつめた野望と、羞恥とを、脂肪でぶつぶつしてる顔へ、赤く燃やして、

「へい、出てめえりました。<ruby><rb>伯</rb><rt>お</rt></ruby>ッ<ruby><rb>様</rb><rt>さま</rt></ruby>のお手紙にゃ、江戸へのぼる事アなんねえという御異見でしたが」

「来たはいいが、――いいがだ。――てめえ一体、田舎の家は、どうして来たのか」

「田地も、馬も、家財も、金に代えて、ここに七十両程、持って来ましただ。伯ッ様の手紙も、よく分りますだが、何せい、思い止まれねえでがす。わしは、誓って、侍になって家名を<ruby><rb>興</rb><rt>おこ</rt></ruby>すと<ruby><rb>肚</rb><rt>はら</rt></ruby>を堅めましたもんでな。どうか伯ッ様、わしを、侍にしてくんなさい」

「馬鹿ッ」

「へい」

「おおたわけの見本だぞ、てめえは」

「…………」

「いくら、山国で、ぬうと、陽あたりよく育ちやがったとはいえ、馬鹿さ加減にも、程があら。そんな世間か、江戸はな、浪人や無職者で、押し合ってるんだ。お<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>でも、持て余して、越中島の寄せ場へ、無宿人を集めたり、台場人足で、仕事をこさえたり、浪人徴募ってんで、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ごろ</span>浪人へ飯をくれて京都へ向けたり――」

「ま。あなた」

後妻のお村が、気の毒そうに、<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>ったが、弁政は耳の蠅でも追うように首を振って、

「――いいか、そういう江戸だぞ。それでも、夜は、<ruby><rb>八刻</rb><rt>やつ</rt></ruby>といや、戸を<ruby><rb>卸</rb><rt>おろ</rt></ruby>し、御用党とか、攘夷党とか、浪士の押込みに、ふるえ上がってる不景気さだ。勿体ねえ、てめえなんざ、田舎に、じっとしてりゃ、庄屋の小旦那で、<ruby><rb>炉</rb><rt>ろ</rt></ruby>ばたの地酒でも食らってるか、茶のみ話に、稲の穂の勘定でもしてりゃいい身分。それを打ッちゃって、江戸へ来る。――けッ、馬鹿も底の知れねえ<ruby><rb>牛蒡</rb><rt>ごぼう</rt></ruby>野郎だ」

「<ruby><rb>伯</rb><rt>お</rt></ruby>ッ様。ちょ……ちょっと、それは違いますだ」

「何が、違う。去年から、おかしな手紙をよこすと思ったら、侍になりてえ？　……。笑わかすな、何だ、てめえの頭は、<ruby><rb>襦袢</rb><rt>じゅばん</rt></ruby>は」

「これや、国境で、藩の者に捕まると、いけねえで、変えたのでがす。わしが、村の近くで、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">てッぱ</span>酒売る家の息子で、要助って者も、<ruby><rb>上方</rb><rt>かみがた</rt></ruby>へ行って、立派な侍になったで、わしにもなれねえ事は」

「<ruby><rb>人真似</rb><rt>ひとまね</rt></ruby>かあ、てめえの<ruby><rb>発心</rb><rt>ほっしん</rt></ruby>は」

「心外でがす。田舎も、<ruby><rb>伯</rb><rt>お</rt></ruby>ッ様の考えてるようなもんではなく、一揆か、飢え死にかの<ruby><rb>境</rb><rt>さかい</rt></ruby>でがす。わしら、村にいる以上、そんな家の声を聞けば、犬死と知りながらも、どんな事、<ruby><rb>仕出来</rb><rt>しでか</rt></ruby>さぬとも限らねえ性質でがすし、それで、百姓衆が、救えるもんならいいが、何度やっても、<ruby><rb>揚句</rb><rt>あげく</rt></ruby>は裏切者が出て、正直者が、獄門に<ruby><rb>梟</rb><rt>か</rt></ruby>かるだけのもんで、領主は領主、百姓は百姓、これや元々、痩せ地の上の台所喧嘩でがす。そんな、一揆のお先棒にかつがれて、河原で首をぶち斬られるよりは、<ruby><rb>侍</rb><rt>さむらい</rt></ruby>になって、自分も生き、人も生かす工夫をしてえと思うのでがす。侍にならなけれゃ、その力は、持てねえと思いますで」

感情が先に走って、彦太は、いいたい事が、いえないのだった。鼻を熱くして、<ruby><rb>拳</rb><rt>こぶし</rt></ruby>でぼろぼろ流れる涙をこすった。お村は、義理の仲だし、弁政も、江戸人の通癖で、口ではくそけなしにしてるが、肚の中では決してそうでない事を読んでるので、

「ま、ま。話は明日にして、彦さん、どてらを上げるから、<ruby><rb>脚絆</rb><rt>きゃはん</rt></ruby>だの、そんな物、脱いでおしまい、それに、お腹も減ったろうし、支度のできる間、銭湯へでも行っといでなさい。店の者をつけて上げよう。――誰か、彦さんに、町の湯を、教えておあげよ」

無理に、立たせて、彼を湯へ出してやった。

## 二

彦太は、弁政の店の帳場へ坐った。

故郷の家産一切をまとめて来た七十余両は、そのまま、伯父の手へ預けて、帳付けだの、若い者の手伝いをしていた。

田舎の食えないと、江戸の食えないとは、根本的に違ったものであることに、彦太は驚いた。

弁当の<ruby><rb>空</rb><rt>あ</rt></ruby>き<ruby><rb>殻</rb><rt>がら</rt></ruby>には、白い飯が、ろくに箸もつけず、残って来るし、料理屑は、どんどん捨てるし、これじゃ、野良犬が<ruby><rb>殖</rb><rt>ふ</rt></ruby>えるはずだと思った。

「どうして、これで江戸が不景気か」

彦太には、<ruby><rb>判</rb><rt>わか</rt></ruby>らなかった。

問屋町辺の町人生活は、彼の眼で眺めると、松代藩の武士や、お城の生活よりは、よほど贅沢で放漫だった。この中にこそ、……と思ったが、誰も、そんな話にふれる者はなく、河岸の者や、附近の町人が集まると、黒船がどうの、尊攘党がどうのと、昂奮した。時々には、近くに、時事を諷した落首が貼られたり、瓦版の呼売りが、京都の志士の暗躍や、市井の押込み沙汰などを、触れ廻った。

「小塚ッ原で、京都の梅田<ruby><rb>雲浜</rb><rt>うんぴん</rt></ruby>、<ruby><rb>頼三樹三郎</rb><rt>らいみきさぶろう</rt></ruby>、橋本左内、その他、京都の志士が、首を並べて、斬られるそうだ」

そんな、噂もあって、彦太は、胸が躍った。そうした若い人達が、新しい社会を<ruby><rb>興</rb><rt>おこ</rt></ruby>すために、幕府<ruby><rb>顛覆</rb><rt>てんぷく</rt></ruby>を<ruby><rb>目企</rb><rt>もくろ</rt></ruby>んでいることも、少し分ってきた。百姓の食えない事が、結局、藩主の所為である前に、幕府の制度がさせている事であるのも分った。

「要助がいったのは、ほんとなのだ。そして俺が、侍になって、自分も生き、人を生かすと決めた方針にも、誤りはないぞ」

彦太は、帳場の<ruby><rb>暇</rb><rt>ひま</rt></ruby>を見て、撃剣を習いに通った。

<ruby><rb>楓河岸</rb><rt>かえでがし</rt></ruby>に、伊能一雲の子、伊能矢柄が住んでいた。一刀流で人格者だった。

「出精すれば、上がる質だ。<ruby><rb>飽</rb><rt>う</rt></ruby>まずに、やんなさい」

代稽古が、いった。

彦太は、多少田舎で下地があったし、何でも、侍になろうという気ごみが、竹刀にも燃えてるので、伊能矢柄にも、愛された。

弁政は、女房のお村に、

「どうだ、あいつ、思いとまる風はないか」

時々、訊ねた。

「思いとまるどころですか、伊能先生の道場へ通って、この頃は、まるで侍気取り、弁政には、浪人が帳場をしてるって人がいってるくらいですよ」

「しようがねえな」と、苦笑した。

しかし、弁政は、<ruby><rb>甥</rb><rt>おい</rt></ruby>のそうした熱心さが、可愛くもあった。

「何とか、してやらなければなるまい」

「<ruby><rb>御家人株</rb><rt>ごけにんかぶ</rt></ruby>でも買っておやんなさいな。侍の株は、この頃、値も<ruby><rb>下落</rb><rt>さが</rt></ruby>っているし、売りたい方は、ザラだって事ですよ。何でも、二本差せさえすれば、本人も気が済むんでしょうから」

「心当りへ、頼んではあるのだが」

「<ruby><rb>割下水</rb><rt>わりげすい</rt></ruby>の御隠居などは」

「<ruby><rb>笹本</rb><rt>ささもと</rt></ruby>様なら、顔はひろい」

「きょう、さらいの<ruby><rb>撒札</rb><rt>ちらし</rt></ruby>が来てるんですよ。彦さん連れて、行ってみましょうか」

「あんな、がさつ者を連れて行ったら、御連中が、眉をひそめやしねえか」

「いつまで、あの人も、田舎者じゃありませんよ。私に<ruby><rb>任</rb><rt>まか</rt></ruby>しておいて御覧なさい」

伯父によばれて、彦太は、<ruby><rb>畏</rb><rt>かしこ</rt></ruby>まった。

「何か、御用ですか」

「お村と一緒に、お旗本笹本金十郎様のお屋敷へゆくのだ。稽古着など、下に着てねえで、きちんと支度をしろ。事によったら、侍の株を、<ruby><rb>御周旋</rb><rt>ごしゅうせん</rt></ruby>して下さるかも知れねえ」

「有り難うございます。それがかなえば、わしも――」

彦太は、もう希望をつかんだように、胸をわくわくさせ、伯父夫婦へ、額をつけて、礼をいった。

「礼は、はやい。店の大事なお<ruby><rb>花客</rb><rt>とくい</rt></ruby>だし、先はお旗本の御隠居、どじをするなよ」

「はいっ」

彦太は、堅くなって答えた。

## 三

芽柳が、南割下水のゆるい流れと人通りの少ない往来に添って、並木になっていた。

「ここが<ruby><rb>本所</rb><rt>ほんじょ</rt></ruby>か」

彦太は、大川からこっちへは、初めて来たのだった。お村は、

「この辺、晩になると、<ruby><rb>夜鷹</rb><rt>よたか</rt></ruby>が出て、彦さんなんぞ、通れない所だよ」

と、教えた。

「夜鷹って、何ですか」

「ホホホ。まだ、知らないの」

訊き返す間もなく、お村は立ちどまって、顎をしゃくった。

広い宅地と、それを囲む塀や木立や、そして<ruby><rb>厳</rb><rt>いかめ</rt></ruby>しい<ruby><rb>錆</rb><rt>さび</rt></ruby>を持った<ruby><rb>冠木門</rb><rt>かぶきもん</rt></ruby>に、彦太は、

「ここか」

と、<ruby><rb>唾</rb><rt>つば</rt></ruby>をのんだ。

六尺でもいそうな袖門の<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>りを、お村が、気軽に入って行ったので、彦太は、はらはらした。そして、玄関の前までくると、奥の方で、三味線の水調子が聞えたので、又意外に思った。

式台の下には、<ruby><rb>粋</rb><rt>いき</rt></ruby>な女下駄や、<ruby><rb>日和</rb><rt>ひより</rt></ruby>や、駒下駄や草履が、いっぱいに並んでいた。取次について、長い一間廊下を、書院まで通ると、

「おう、小網町の内儀か、めずらしいのう」

音声の高い――年五十がらみの面長で人品のいい老旗本が、正面の脇息からそういって、

「きょうは、社中が寄って、<ruby><rb>渫</rb><rt>さら</rt></ruby>いやら、新曲の評をし合うているのじゃ。ゆるりと、遊んでゆけ」

「いつも、お弁当の御註文をいただきながら、店の者まかせに、御不沙汰ばかりを」

「ま。商売の話はよせ」

「ほんに、皆様も、お揃いのところで」

「弁政の夫婦は、金溜め屋じゃという評だぞ。お前も、社中になって、ちと、芸事にでも金を<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>かんと、わしが、御用党になって押込むぞよ」

「ま、殿様、<ruby><rb>御冗戯</rb><rt>ごじょうだん</rt></ruby>ばかりを」

すると、旗本隠居の笹本金十郎を取り巻いて、ずらっと、書院いっぱいに居並んでいた男女が一斉に、手を打って、

「ようよう、お村さん、わちきなどもす、覆面して、当世<ruby><rb>流行</rb><rt>はや</rt></ruby>りの押借りと出かけやすぜ。なあ、みんな」

「<ruby><rb>繰込</rb><rt>くりこ</rt></ruby>もうじゃござんせんか、今夜あたり」

「この同勢で――」

と、一人が、俳優の<ruby><rb>声色</rb><rt>こわいろ</rt></ruby>もどきで、

「御時勢よそに<ruby><rb>不埒</rb><rt>ふらち</rt></ruby>な金持、軍用金の調達申しつける、嫌と申さば――てな事で、一つ、畳へ刀を突き立てるんでげすな」

「ははは、その事その事」

<ruby><rb>蓮</rb><rt>はす</rt></ruby>ッ<ruby><rb>葉</rb><rt>ぱ</rt></ruby>な女達の笑い声も交じった。

仲の町の老妓らしいのや、辰巳の羽織かと思われる仇ッぽいのや、堅々しい奥様風や、町娘や、雑多にいた。

男たちの方は、なお、階級が<ruby><rb>区々</rb><rt>まちまち</rt></ruby>で、武士もいれば、本多髷の旦那もいる。又、銀鎖の<ruby><rb>莨</rb><rt>たばこ</rt></ruby>入れでヤニさがっている唐桟縞のゲビた町人、町医者や、指のふしの太い職人ていの男も、げたげたと、<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>りなく、笑っていた。

次の間には、緋もうせんが敷いてあって、見台と、華やかな座蒲団が二つ、<ruby><rb>細棹</rb><rt>ほそざお</rt></ruby>の三味線が一挺、その前においてある。

「旗本？　これが旗本の？」

彦太は、あっけにとられていた。

すると、その笹本金十郎が、

「お村。うしろへ連れて来たのは、誰じゃ」

「申し遅れました。うちの人の甥で、彦太という者でございますが、折入って、殿様に、お願いがあって、連れて参りました、どうぞ、よろしゅう……」と、お村のことばが終る頃、彦太は、気がついて、頭を下げた。

金十郎は、のみこんで、

「<ruby><rb>破歌</rb><rt>はうた</rt></ruby>の入門か」

「いえ、その方は、からきし、不器ッちょな人間でございまして――」

「ム、そうか。後で聞こう、後で聞こう」

気軽に、うなずくと、金十郎は、男女の中から、畳屋<ruby><rb>寅右衛門</rb><rt>とらえもん</rt></ruby>の顔を拾って、

「<ruby><rb>日本堤</rb><rt>にほんづつみ</rt></ruby>。一つ<ruby><rb>唄</rb><rt>や</rt></ruby>らんか」

寅右衛門は、<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>で、自分の座から三人目の男をしゃくって、

「<ruby><rb>薪梅</rb><rt>まきうめ</rt></ruby>さん、どうかお先へ」

すると、その男は又、向う側に、羽織袴でいかめしく座っている武家へ、辞儀を送って、

「<ruby><rb>出淵</rb><rt>でぶち</rt></ruby>様。いつぞや、御家中の岡村の旦那から伺いますに、<ruby><rb>其角</rb><rt>きかく</rt></ruby>の句を読み入れた新作をお<ruby><rb>作</rb><rt>つ</rt></ruby>くんなすって、それを藤七が<ruby><rb>節付</rb><rt>ふしづ</rt></ruby>けしたってお話じゃござんせんか。そういうものを一つ伺わせて戴きたいもんで」

「いやあ、あれはまだ、お耳に入れるほどでない」

「<ruby><rb>御謙遜</rb><rt>ごけんそん</rt></ruby>でげしょう。のう、みんな」

「それは、聞きたい」

金十郎も、一緒に和して、

「出淵氏、<ruby><rb>所望</rb><rt>しょもう</rt></ruby>じゃのう」

「唄うは苦手、身ども、どうも声が悪うて」

「どういたしまして――」

と、側にいる老妓が、

「姫路侯のお留守役は、お留守居役中での渋い<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>だそうで、<ruby><rb>平清</rb><rt>ひらせい</rt></ruby>や両国あたりでは、<ruby><rb>専</rb><rt>もっぱ</rt></ruby>ら評判でござんすが。ねえ、小秀ちゃん」

「御卑怯ですよ」

自分の持ちものらしい若い妓に、出淵は、突きだされて、年がいもない顔を赤らめた。しかし、内心は得意でもあるらしく、

「然らば」

と、次の間の<ruby><rb>見台</rb><rt>けんだい</rt></ruby>の前へ坐った。

「役不足でござんしょうが」

と、老妓が、側へ坐って、<ruby><rb>細棹</rb><rt>ほそざお</rt></ruby>を膝へのせ、糸をあわせた。

姫路侯の留守居役、出淵惣次は、くちびるを<ruby><rb>舐</rb><rt>な</rt></ruby>め、そして、眼をつぶった。成程、老妓がいったのは、世辞ではなく、多年酒席に洗練されきった、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さび</span>のある美音だった。

わがものと思えば軽し

傘の雪

恋の重荷を

肩にかけ

彦太は茫然として留守居役の顔を見ていた。さしも粋な<ruby><rb>破歌</rb><rt>はうた</rt></ruby>も、細棹の調べも、彼の耳には、一種の物音に過ぎなかった。頭の中には、田舎の痩せた田地と百姓の影が映っていた。そして松代藩の江戸の藩邸にも、留守居役はいる筈だと思った。

「――出来ましたあっ」

ぱちぱちと、人々は手を叩いた。

それから、畳屋の寅右衛門だの、誰だの、彼だのが、交わる交わる、唄自慢をし合って、日の暮れるのを知らない。

彦太には、後で聞いた知識だったが、旗本隠居の金十郎を中心にしてるこの社中は、江戸の破歌を革命して、<ruby><rb>歌沢</rb><rt>うたざわ</rt></ruby>という低徊趣味な小唄を<ruby><rb>興</rb><rt>おこ</rt></ruby>そうとして、ひどく<ruby><rb>凝</rb><rt>こ</rt></ruby>り固まっている連中だった。職業、貴賤をとわず、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふし</span>の工夫と、<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>のしぶいところを、競い合って、仲の町や、柳橋や、<ruby><rb>辰巳</rb><rt>たつみ</rt></ruby>へもうひろまっていることを、得意にしていた。

灯がともると、酒宴になった。弁政の折ですませる日もあろうが、きょうは、平清から板前が出張って、贅沢な<ruby><rb>向付</rb><rt>むこうづけ</rt></ruby>や熱い椀を膳にして配った。

彦太は、自分の置場をもちあつかって、

「伊能先生の道場へ行かなくっちゃなりませぬで、わしは、一足先に……」と、お村へささやいた。

お村は、帰りそびれて、酌された盃を幾つも前にならべていた。

「じゃ私は、皆さんがおひらきになった後で、殿様へ、あの事をお願いしておくから」

といった。

彦太は、もうどうでもいい気がした。門の外へ出て、芽柳の上の夕星を仰いで、ほっと、<ruby><rb>生</rb><rt>い</rt></ruby>き<ruby><rb>甦</rb><rt>かえ</rt></ruby>ったような心地だった。すると、<ruby><rb>樹蔭</rb><rt>こかげ</rt></ruby>から、白壁みたいな顔に<ruby><rb>猥</rb><rt>みだ</rt></ruby>らな笑みをもって、にやにや、近づいてきた女が、

「ちょいと」

彦太の<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>を、手に巻きつけた。

彦太は、びっくりして、

「なんだっ」

「ね……いいんでしょう」

「なにが、なにが」

「あそんで……さ」

頑固な彦太の腕が、いきなり、夜鷹の胸をつきとばした。袂が<ruby><rb>綻</rb><rt>ほころ</rt></ruby>びて、ばくばく口をあいているのも知らずに、彼の逃げ飛んでゆく<ruby><rb>脚</rb><rt>あし</rt></ruby>は、後も見なかった。

## 江戸の花嫁

## 一

雪の江戸が、朝の一瞬によごされて、騒いだ。

「井伊<ruby><rb>掃部頭</rb><rt>かもんのかみ</rt></ruby>が――御大老が、桜田で、水戸の浪人たちに、やられたってえぞっ」

<ruby><rb>弁当殻</rb><rt>べんとうがら</rt></ruby>を集めてきた店の若い者が、昂奮して、帳場の彦太へも、小僧へも、奥へもどなった。

彦太は、憂欝な眼をあげて、雪に埋った三月の往来をぼんやり眺めた。

弁政は、<ruby><rb>脚絆</rb><rt>きゃはん</rt></ruby>をかけて、店口で草鞋をはきながら、

「彦太、行って見ねえか」

彦太は、首を振った。

「行っといでなさいまし……」

急激に、社会はうごいて行った。首が集まれば、世間は、この状態が、どうなるか？　という話題だった。大老殺害の記憶が消えないうちに、又、坂下門に、白昼、安藤<ruby><rb>対馬守</rb><rt>つしまのかみ</rt></ruby>の兇変があった。次の年には、もう<ruby><rb>大和</rb><rt>やまと</rt></ruby>や<ruby><rb>上方</rb><rt>かみがた</rt></ruby>は、<ruby><rb>戦</rb><rt>いくさ</rt></ruby>だという、つきつめた噂が、江戸を暗く<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>った。

久世様お留守居屋敷、上弁七十人

浜町様、仕出し、椀だね十七人

清風亭へ、月ざらい弁当百二十人

彦太は毎日、そんな文字を帳面へなすりつけていた。無口が彼の性格になりかかって、店の者は、彼の人間が変って来たといった。

「はやく、どうかしてやらなくちゃいけねえ。預かってる七十両を、俺が、<ruby><rb>融通</rb><rt>ゆうずう</rt></ruby>でもしちまったように思ってるんじゃねえか」

「そんな事はありませんよ」

お村と弁政も、彦太が、帳場から往来ばかりじっと見ている眼に気づいて、時々、心配はしているらしかった。

帳場格子に、<ruby><rb>肱</rb><rt>ひじ</rt></ruby>をついて、彦太はまったく往来ばかりじっと見ていた。夜こそ淋しいが、昼間は、無数の脚がそこを通った。――<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>りきれた浪人の草履、女の白い<ruby><rb>踵</rb><rt>かかと</rt></ruby>、<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>の折目正しい<ruby><rb>白足袋</rb><rt>しろたび</rt></ruby>、<ruby><rb>裾模様</rb><rt>すそもよう</rt></ruby>、と思うと――あだな<ruby><rb>左褄</rb><rt>ひだりづま</rt></ruby>、物売りの疲れた足。

それから、野良犬、野良犬、野良犬。

「地べたが流れてゆく――世の中が移ってゆく――。して俺は」

<ruby><rb>発作的</rb><rt>ほっさてき</rt></ruby>に、彦太は、帳場の中から突っ立ったりする事があった。だが、この<ruby><rb>紛雑</rb><rt>ふんざつ</rt></ruby>した世相のどこへ一体自分を投げこんだら正しいのか、彦太には、見当がつかない。

<ruby><rb>帳面</rb><rt>ちょうづら</rt></ruby>で見ると、<ruby><rb>高値</rb><rt>たか</rt></ruby>い仕出しの料理や、贅沢な重箱物が、船宿や、妾宅や、ばくち場や、およそ享楽的な集合所へ、どんどん出ている。何が不景気で、どこが<ruby><rb>戦</rb><rt>いくさ</rt></ruby>だか、数字は、反対を示している。

「一体、世の中ア、どうなるんだ？」

口癖にいうその言葉を、地震に<ruby><rb>狎</rb><rt>な</rt></ruby>れた感能とひとしく、江戸の半面は、享楽してるようにも見える。

で、彦太も、<ruby><rb>嘆</rb><rt>た</rt></ruby>め<ruby><rb>息</rb><rt>いき</rt></ruby>みたいに、時々、独りいうことがあった。

「一体、どうなるんだ！　この世間は」

## 二

伯父の弁政も、お村も、一緒になって、腹を立てた。

「今になって、嫌だなんていわれちゃ、私たち夫婦が、何といって、割下水の殿様へ、顔向けがなるえ。それじゃ、笹本様へ、まるで、からかい半分にお願いした事になるじゃないか」

「彦太。てめえは、余り話が長びいたので、すねたんじゃねえか。一度、ひきうけたからにゃ、黙っていても、骨身を砕くのが俺たち夫婦の性分なんだ。<ruby><rb>御家人株</rb><rt>ごけにんかぶ</rt></ruby>なんざ、売り手は<ruby><rb>腐</rb><rt>くさ</rt></ruby>る程があるが、先へゆく程、値は<ruby><rb>下落</rb><rt>おち</rt></ruby>る様子だし、又、先の家がらや、娘があるなら娘も、出来るだけいい筋をと、殿様も、念を入れて探して下さるからこそ、長くもなったんだ。――それをてめえ、有り難えと思わず、<ruby><rb>欝</rb><rt>ふさ</rt></ruby>いで、さアあったという段になってから、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じぶくる</span>なんざあ<ruby><rb>吾儘</rb><rt>わがまま</rt></ruby>すぎるッてもんだぞっ。俺たち夫婦を、板ばさみにして、<ruby><rb>腹癒</rb><rt>はらい</rt></ruby>せする気かっ」

二人の言い条である。

彦太は、<ruby><rb>平謝</rb><rt>ひらあやま</rt></ruby>りに謝った。その話は、時間と無言のうちに、解消されて、伯父夫婦も忘れ去った事だとばかり思っていた。

ところが、伯父夫婦と、割下水の笹本との間に、話は、すっかり進んでいて、急にきょう、例の道楽者の社中である船宿の薪梅で、取引をしようというのだった。その士格の<ruby><rb>売主</rb><rt>うりぬし</rt></ruby>は、<ruby><rb>小普請目見得格</rb><rt>こぶしんめみえかく</rt></ruby>で<ruby><rb>小牧甚三郎</rb><rt>こまきじんざぶろう</rt></ruby>という<ruby><rb>御家人</rb><rt>ごけにん</rt></ruby>、一人娘があるから、<ruby><rb>聟</rb><rt>むこ</rt></ruby>の形式をもって継いでくれれば、<ruby><rb>万端</rb><rt>ばんたん</rt></ruby><ruby><rb>都合</rb><rt>つごう</rt></ruby>がいいという。――そして、こっちの身がらは、一切承知だし、株の値段も、最初は百二十両を希望していたのを、弁政夫婦が、こぎつけて、<ruby><rb>纒</rb><rt>まとま</rt></ruby>ったら、七十五両に負けようとまで、内談はできているのだった。

「うんか、嫌かは、家付の娘をてめえが見ての上だが――」

と、弁政は、ここで、りきんだ。

「自慢じゃねえが、掘出し物だ。<ruby><rb>別嬪</rb><rt>べっぴん</rt></ruby>だ。それに、歌沢の社中で、糸もいける。まあ、見てからにしろ、なあ彦太」

四囲の事情は、彦太のためらいを許さなかった。彦太は、<ruby><rb>肚</rb><rt>はら</rt></ruby>をきめた。

「伯父さん、見なくっても、ようございますから、何分――」

「それがいけねえ、承知なら、<ruby><rb>機嫌</rb><rt>きげん</rt></ruby>よく、<ruby><rb>小牧</rb><rt>こまき</rt></ruby>の<ruby><rb>父娘</rb><rt>おやこ</rt></ruby>に、会ったらいいじゃねえか」

で――彦太は、連れて行かれた。

娘は、お<ruby><rb>縫</rb><rt>ぬい</rt></ruby>といって、二十二だという。彦太は、単純に、美人だと感じた。しかし、七十幾両の金が、美人の娘の前で、<ruby><rb>垢</rb><rt>あか</rt></ruby>くさい御家人の父親と、取引される時、彼は、顔をそむけた。

帰り道に、伯父と別れて、彦太は、撃剣の師である伊能矢柄の道場へ寄った。きょうは、稽古よりも、師の矢柄に、直接、訴えてみたい気持だの疑問を、いっぱいに抱いていた。

しかし、彦太は、例の<ruby><rb>訥弁</rb><rt>とつべん</rt></ruby>で、師の前に坐ると堅くなってしまった。矢柄は、彼が近く御家人の跡目をついで、士格になるという事をおよそ聞くと、

「それはよかった。腕では、もう立派に武士だけのものはある。大小を帯びて、大小に恥かしい貴公ではない。そう、謙遜せんでもよいわ。何か、祝おう」

と、いった。

彦太は、空しい気持で帰った。入家の日どりや支度が、伯父夫婦の手ですすめられた。彦太は、帳場から往来を見ながら爪を噛んだ。

「俺の生きる所は、娘付きの御家人の屋敷でもなし、江戸でもなし、<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>にあるぞ」

じっと、うごく地面を見た。<ruby><rb>緋</rb><rt>ひ</rt></ruby>ぢりめん、福草履、<ruby><rb>八幡黒</rb><rt>やわたぐろ</rt></ruby>の<ruby><rb>鼻緒</rb><rt>はなお</rt></ruby>、物乞いの黒い足――野良犬、野良犬。――絶えまなく、雑多な人間の<ruby><rb>脚</rb><rt>あし</rt></ruby>は時を織っている。

「まちがいはない、この人間達の脚を、一度、焼ッ原から、出直させるこった」

彦太は、信念の唇を噛んだ。

「俺の体を、役立てる仕事は、<ruby><rb>千曲川</rb><rt>ちくまがわ</rt></ruby>のお<ruby><rb>刑置場</rb><rt>しおきば</rt></ruby>へ坐るほかに、<ruby><rb>慥</rb><rt>たしか</rt></ruby>に、もっとしていい事があった。――七十両は、どうせ今に、路頭に迷う父娘へ涙金をくれたと思え」

入家の日が来た。

彦太は、<ruby><rb>聟殿</rb><rt>むこどの</rt></ruby>だった。

派手ッぱりな伯父夫婦は、その一夜のために、神田祭りみたいな金づかいをした。割下水の笹本隠居を初め、社中の祝い物は、根太も土台も腐りかけている古い御家人屋敷へ、積みこまれた。師の伊能矢柄や、同門からも、柳樽が届いた。

「めでたい」

と、みんないった。

娘付きで、祖先からの士格を売った老御家人も、

「いよっ、めでとうござる」

と、抜け歯の間から、ほざいた。

彦太だけは、浅ましいものへそむけるように、顔を伏せていた。そして、無駄に消費される酒だの、祝い物だのを、今でもかすかに残っている彼の百姓気質が、勿体ないものだと感じていた。しかし、それを贈ってくれた人々の好意も、伯父夫婦の派手な散財も、気の毒とは、ちっとも思わなかった。

「どうせ今に、炎の中へ、捨てられる物だ」

そう考えていたからである。

## 三

酔う者は、酔いつぶれ、帰る人々は、帰った。聟である彦太と、花嫁である家付きの娘とは、当然、一室へはいった。

「悪い気持じゃないなあ」

彦太は、生れて始めて、ひっそりした深夜の灯と金屏風とに囲まれて、女性と向いあうのだった。

家付きのお<ruby><rb>縫</rb><rt>ぬい</rt></ruby>は、灯のそばに、凍った<ruby><rb>寒椿</rb><rt>かんつばき</rt></ruby>みたいに、じっと、俯向いていた。彦太は、こんな美しい襟あしを見たことはなかった。

生涯、この家に、踏みとどまる気のない彦太は、肚をきめた最初に、売物の士格の添え物に過ぎない娘には、当然、<ruby><rb>良夫</rb><rt>おっと</rt></ruby>としての行為は避けようと考えていた。今夜の席にいる間も、その考えは、変らなかった。

だが、彦太は、彼女のにおいと襟あしが誘うものに、勝てなかった。

ふいと、気が変った。

「代価が払ってあるのだ。親と同意でないわけはなし、俺が去れば、又、後の男へ、土蔵付き売家で、売りに出る娘。何を、<ruby><rb>憐</rb><rt>あわ</rt></ruby>れがることがあるものか。――割下水の柳の下から<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>をひっぱる女と思っても、不徳じゃない」

でも、彦太は、体がふるえた。

お縫は、俯向いてる上に、さらに、花嫁の重げな髪を、うつ向けた。

「…………」

彦太は、彼女の手へ、手を触れた。

何もいえないのである。

すると、お縫は、とうとう顔を、畳までくッ付けてしまった。そして、<ruby><rb>蚊</rb><rt>か</rt></ruby>の泣くような声で、

「ゆ、ゆるして下さいまし、父の、苦境を救いたいばかりに、こ、こんな御縁を結びましたが、私には、さる<ruby><rb>御直参</rb><rt>ごじきさん</rt></ruby>の御次男で、言いかわしたお方があるのでございます……」

「えっ？」

「ほかに、<ruby><rb>女子</rb><rt>おなご</rt></ruby>をお持ちなさろうとも、決して、苦情がましい事は申しませぬ故、あなた様を、あざむいた罪は、ゆるすと、仰っしゃって下さいませ。ゆるさぬと、仰っしゃられたら、私はここで、自害するよりほかございませぬ」

畳へつけた顔の下に、懐剣を持って、すすり泣くのだった。

「ウーム、成程っ」

毎日、往来の脚を見ていた彦太も、江戸が、ここまで墜ちて来ているとは、考え及ばなかった。

戸外では、野良犬の群れが、さかんに<ruby><rb>吠</rb><rt>ほ</rt></ruby>えだした。その中で、人間らしい物が――呼び売り屋が――精いっぱいで呶鳴りだした。

「――さあっ、大変じゃっ、見たか、聞いたか、たった今出た<ruby><rb>瓦版</rb><rt>かわらばん</rt></ruby>じゃ、瓦版じゃ。大和五条の<ruby><rb>天誅組</rb><rt>てんちゅうぐみ</rt></ruby>が、<ruby><rb>下火</rb><rt>したび</rt></ruby>と見えたら又しても乱が興った。<ruby><rb>平野国臣</rb><rt>ひらのくにおみ</rt></ruby>や、<ruby><rb>沢主水正</rb><rt>さわもんどのしょう</rt></ruby>、そのほか、京方の志士浪人ばら、<ruby><rb>生野</rb><rt>いくの</rt></ruby>の銀山に旗挙げしたとある！　うっかりしたら江戸へも飛び火じゃぞっ！　<ruby><rb>詳</rb><rt>くわ</rt></ruby>しいことは読んでお知り――さあっ、瓦版じゃあ、瓦版じゃ」

彦太は、裏の戸をしずかに開けた。

草履が足にさわる。

後ではまだ、すすり泣きが聞えた。彼は、戸の外から、<ruby><rb>低声</rb><rt>こごえ</rt></ruby>でいった。

「もう、泣かなくともいい。俺は、急に先がいそがれて来た。何年かのうちには、鉄砲かついで、西の方から、逢いに来よう、<ruby><rb>小網町</rb><rt>こあみちょう</rt></ruby>の<ruby><rb>伯父貴</rb><rt>おじき</rt></ruby>へも、<ruby><rb>割下水</rb><rt>わりげすい</rt></ruby>へも、同じようにいっといてくれればいい。……じゃ、お<ruby><rb>寝</rb><rt>やす</rt></ruby>み」

閉めると、暁闇の頭上に、星だけが白かった。彦太は、塀をのりこえた。

きゃッん！

野良犬が、彼の脚もとから、横っ跳びに走った。すると、辻から、その犬へ蹴つまずきそうに駈けてきた町役人の<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>が、

「こらっ、呼び売り屋、待てっ。――<ruby><rb>不埒</rb><rt>ふらち</rt></ruby>な奴め、又、御禁止の瓦版を売りおるなッ。――待たんかッ、こらっ！」

犬も迅い。

呼び売り屋もなお迅い。

「ははは。ははは」

彦太は、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おどけ</span>絵画の影絵でも見るように、腹をかかえて見送っていた。