## <ruby><rb>女被衣</rb><rt>おんなかぶり</rt></ruby>

## 一

「蒲団は――お<ruby><rb>炬燵</rb><rt>こた</rt></ruby>は――入れたかえ」

船宿のお<ruby><rb>内儀</rb><rt>かみ</rt></ruby>さんだ。暗い<ruby><rb>河岸</rb><rt>かし</rt></ruby>に立って、いつもの、<ruby><rb>美</rb><rt>い</rt></ruby>い<ruby><rb>声</rb><rt>こえ</rt></ruby>を、張りあげている。

息が、白く、冬の夜の闇に見えた。

寒々と<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>けた大川の中で、

「おう」

と、船頭の答えをきくと、かの女は、河岸づたいに、五明楼の庭へ戻って、

「あの……船のお支度が」

と、女中へ告げた。

上杉家の国家老、<ruby><rb>千坂兵部</rb><rt>ちさかひょうぶ</rt></ruby>は、茶屋の若主人や、<ruby><rb>廓</rb><rt>なか</rt></ruby>から送ってきた女たちの<ruby><rb>小提灯</rb><rt>こぢょうちん</rt></ruby>にかこまれて、ひょろりと、手拍子に、

さても見事になあ

振って振りこむ花槍は

雪かあらぬか

さっさ　ちらちら白鳥毛

振れさ　どっこい

「お<ruby><rb>履物</rb><rt>はきもの</rt></ruby>を――」

「殿様、おあぶない、肩にお手を」

<ruby><rb>兵部</rb><rt>ひょうぶ</rt></ruby>は、眸のながれたような眼で、明りにつれて、<ruby><rb>海月</rb><rt>くらげ</rt></ruby>みたいに、ふわふわとうごく、無数の女の顔を、見まわして、

「――船は、どこじゃ。船は」

「庭に、船は上がりませぬ。お履物をはいて、河岸の<ruby><rb>桟橋</rb><rt>ふなばし</rt></ruby>まで、おひろいを」

さても是非なや

兵部はまた、広間に聞える槍踊りの丹前節に、<ruby><rb>低声</rb><rt>こごえ</rt></ruby>をあわせて、

――なびかんせ

台傘、立傘、恋風に

ずんとのばして

しゃんとうけたる柳腰

「きゃーッ」

前へ歩いて行った女の小提灯が、ふいに、人魂みたいに、宙へ躍った。――と、一緒に、後のすべての灯りと、人影も、

「あっッ」

と、悲鳴をあげて、ばたばたと、兵部を捨てて、<ruby><rb>逃</rb><rt>に</rt></ruby>げ<ruby><rb>転</rb><rt>まろ</rt></ruby>んでしまった。

「――な、何とした事。これやひどい、<ruby><rb>此方</rb><rt>このほう</rt></ruby>、一人を置いて」

兵部は、よろめいた腰を、とんと、庭石へ落して植込みの闇を見つめた。――すぐ、うしろが大川の水であるために、黒い人影が二つ、眼の前に立っているのが、くっきりと、分った。

じっと、兵部の眼が、それへ行くと、二本の白い刃が、だまって、彼の方へ迫って来た。兵部は、心のうちで、すぐ、

（来たな！）

と、<ruby><rb>眉間</rb><rt>みけん</rt></ruby>に、直感の熱痛を感じて、同時に、

（いつか、来るはずのものが来たのだ。赤穂の浪士――かれらの<ruby><rb>刺客</rb><rt>せっかく</rt></ruby>だ。もうやむを得ん）

と、静かな、覚悟の中に、策を、そしてまた、執るべき態度を、考えていた。

## 二

「ふいに、驚かせて、失礼いたした。――ちと、お訊ねいたすが」

案外だった。――その言葉のていねいなのに。

のっそりと、兵部に近づいて来たのは、浪士らしくない。肩や、袖の、<ruby><rb>綻</rb><rt>ほころ</rt></ruby>びから、痛々しい血汐をにじませている。蒼白な顔に、<ruby><rb>鬢</rb><rt>びん</rt></ruby>をみだし、一人は十手を、一人は白刃をさげていた。

「町方じゃの」

兵部がいうと、

「左様――」と、肩で、<ruby><rb>喘</rb><rt>あえ</rt></ruby>ぎながら一礼して、

「たった今、この庭へ、二十七、八の浪人が、女の<ruby><rb>生首</rb><rt>くび</rt></ruby>をかかえ、血刀を引ッさげたまま、逃げこんで参ったのを、御承知はあるまいか」

「存ぜぬ」

と、兵部は、無駄だった気がまえを<ruby><rb>弛</rb><rt>ゆる</rt></ruby>めて、

「――狂人かの」と、訊ねた。

「いや、狂人ならとにかく、正気を持ちながら、毎日、<ruby><rb>廓</rb><rt>さと</rt></ruby>や盛り場で、喧嘩をしては、狂人ほど人間を斬る奴。町方も、ちと持てあましておる男で」

「ふむ……それが、女の生首を抱えてとは」

「実は、この堀の涙橋に」と、同心は、兵部の人物と、軽い<ruby><rb>誘</rb><rt>さそ</rt></ruby>いに、つり込まれて、

「――江戸唄の師匠をしておる、<ruby><rb>里次</rb><rt>さとじ</rt></ruby>という女があります。今申した浪人者はそれと、だいぶ<ruby><rb>深間</rb><rt>ふかま</rt></ruby>で、何でも、二、三百石の<ruby><rb>知行</rb><rt>ちぎょう</rt></ruby>を、その女一人のため棒に振ってまで、国元を、出奔してきた程な仲だったらしいので。――だが女は男の不身持と、斬ったの、殺したのと、血なまぐさい行状ばかり見ているので、<ruby><rb>愛想</rb><rt>あいそ</rt></ruby>もつき、<ruby><rb>恐</rb><rt>こわ</rt></ruby>くもなって、近頃は、町道場の林崎という男をひき入れておった訳です」

「む……」

「だが、一方の浪人と、どうして手を<ruby><rb>絶</rb><rt>き</rt></ruby>ったものかと、今夜も、林崎や悪友のならず者が、里次の家へ寄って、飲みながら話しておると、<ruby><rb>伊勢詣</rb><rt>いせまい</rt></ruby>りに行くといって、五日ほど前に、家を出た浪人が、台所から、ふいに、今帰って来た――というが早いか、一瞬の間に、居合した七人ばかりの――それも江戸ではかなり有名な林崎や、ごろ剣客を、ばたばたっと一人も余さず、たたっ斬って、最後に、女の<ruby><rb>生首</rb><rt>くび</rt></ruby>を片手に」

「わかった」

と、兵部は、もう興味がないように、

「それから先は、お察しできる、町方は、飛んだお怪我、はやく、手当をせぬと、この冬風に」

「かたじけない。御免を」

と、二人の同心は、彼にいわれて、急に手傷の痛みと、場合とを、思い出したらしく、何か、<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いて出て行った。

そこに、腰かけたまま、兵部は、手を鳴らして、

「女ども、女ども」

しかし、誰も来なかった。ただ、気のつよい船宿のお<ruby><rb>内儀</rb><rt>かみ</rt></ruby>だけが、

「は……はい」

と、<ruby><rb>四阿亭</rb><rt>あずまや</rt></ruby>の蔭で、寒さと、恐さに<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えながらも低く答えた。

「お前は、そこにいたのか。――羽織を脱いで、貸してくれい」

「羽織は、着ておりませぬ」

「いかさま……では、いや、あれにある、<ruby><rb>伊達羽織</rb><rt>だてばおり</rt></ruby>を」

兵部が、指さしたのは、羽織ではない。小座敷の窓に掛けてある、派手な、女小袖だった。お内儀が、それを<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>して来て渡すと、

「――頭巾には、ちと、<ruby><rb>綺麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>」

と、<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>きながら、ふわりと、後ろへ投げた。

闇が、<ruby><rb>咥</rb><rt>くわ</rt></ruby>え込むように、小袖はすすすと、<ruby><rb>丁字</rb><rt>ちょうじ</rt></ruby>の葉蔭へ、うごいて行った。――内儀は、さっきから、見まいとしているそこの物に、また、<ruby><rb>慄然</rb><rt>りつぜん</rt></ruby>として、唾をのんだ。

初めから――かの女は、知っていた。

それは、役人より早く、女たちの眼を、<ruby><rb>吃驚</rb><rt>びっくり</rt></ruby>させた影だった。みんなが、きゃっといって、逃げる<ruby><rb>突嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に、兵部の後ろへ廻って、<ruby><rb>屈</rb><rt>かが</rt></ruby>み<ruby><rb>込</rb><rt>こ</rt></ruby>んだのである。兵部は、とたんに、<ruby><rb>刺客</rb><rt>せっかく</rt></ruby>の一人かと――鋭い眼を投げたが、同心との対話のうちに、何もかも、解けたらしく、知らぬ顔を装っていた。

けれど、気のつよい、船宿のお内儀の背すじを凍らせたのは、その人影でも血刀でもなかった。――それは、兵部が同心と話している間に、極めて、ひそやかに、ある目的を遂行していた暗闇の動作である。作業である。

憎むが如く、笑うが如く、また泣くが如く――そこに屈んでいた人間は、女の<ruby><rb>生首</rb><rt>くび</rt></ruby>を、手から、転がして、また<ruby><rb>頬摺</rb><rt>ほおず</rt></ruby>りをした。そして、すばやく<ruby><rb>小柄</rb><rt>こづか</rt></ruby>をもって、<ruby><rb>丁字</rb><rt>ちょうじ</rt></ruby>の根を、掘りかえして、<ruby><rb>生首</rb><rt>くび</rt></ruby>を<ruby><rb>埋</rb><rt>い</rt></ruby>けてしまったのだった。

――そこへ。

<ruby><rb>絢爛</rb><rt>けんらん</rt></ruby>な女小袖が、ふわと、落ちたので、男は、それを頭からかぶると、

「武士のお情け――」

四尺ばかり、進んで、兵部のすぐ後ろへ、ひたと、両手をついた。

「どなたか存ぜぬが、忘れはいたさん」

「――無事な所まで、<ruby><rb>此方</rb><rt>このほう</rt></ruby>の船で」

「それは、あまり」

「いや……」と、兵部は立って、

「内儀」

「はい。今――お<ruby><rb>提灯</rb><rt>あかり</rt></ruby>を」

「足もとは、水明り、それには及ばん。やがて、万字屋から、家来どもが、引揚げてくるであろうが、此方は、船で先に下屋敷へ――と、よいか、最前の、<ruby><rb>言伝</rb><rt>ことづ</rt></ruby>てを」

「覚えておりまする」

「そして……」

と、自分の後ろから、小袖を、<ruby><rb>女被衣</rb><rt>おんなかぶり</rt></ruby>にして、忍びやかに、尾いてくる者を<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>で指して、

「夢――人には告げるな。――わしの浮気を」

## 三

<ruby><rb>両河岸</rb><rt>りょうがし</rt></ruby>は、<ruby><rb>霜</rb><rt>しも</rt></ruby>が白い。

<ruby><rb>灯</rb><rt>とも</rt></ruby>さない<ruby><rb>屋形船</rb><rt>やかた</rt></ruby>が一<ruby><rb>艘</rb><rt>そう</rt></ruby>、氷をすべるように、大川を下って行った。

「――寒かろう、はいってはどうだ」

中の兵部は、こう、外へ声をかけた。

小袖をかぶったまま、<ruby><rb>鷺</rb><rt>さぎ</rt></ruby>のように、<ruby><rb>舳</rb><rt>みよし</rt></ruby>に屈んでいた男は、振り向いた弾みに、刀の<ruby><rb>鐺</rb><rt>こじり</rt></ruby>を、かたんと、屋形の角に音をさせて、

「何、ここで……。すぐ其処の<ruby><rb>百本杭</rb><rt>ひゃっぽんぐい</rt></ruby>あたりで、降ろして貰おう」

「まあ、そう申すな、<ruby><rb>炬燵</rb><rt>こたつ</rt></ruby>の火も、ちょうどよい加減、酒も<ruby><rb>温</rb><rt>あたた</rt></ruby>まっておる。はいって、<ruby><rb>一献</rb><rt>いっこん</rt></ruby>やってはどうじゃ――河千鳥の声をさかなに」

それを、<ruby><rb>兵部</rb><rt>ひょうぶ</rt></ruby>の<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>り<ruby><rb>語</rb><rt>ごと</rt></ruby>のように、外の男は、そら耳にうけて、じっと、暗い川波を見つめていたが、

「オッ、寒いっ」

と、思わず、くさめを一つして、小袖で口を<ruby><rb>抑</rb><rt>おさ</rt></ruby>えた。

「風邪をひくぞよ、<ruby><rb>一角</rb><rt>いっかく</rt></ruby>」

「えッ？」

男は、そう言った兵部の声を、疑うように、

「俺を、一角と知っているおめえは？」

「うとい奴じゃの。たとえ、わずかな間でも、禄を<ruby><rb>食</rb><rt>は</rt></ruby>んだ旧主の声を、忘れる奴があろうか」

<ruby><rb>舷</rb><rt>ふなべり</rt></ruby>に、身を<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>わせて、小障子の隙間から、中を覗いていた一角は、途端に、

「あっ、しまったッ」

<ruby><rb>弾</rb><rt>はじ</rt></ruby>かれたように、突っ立った。そして、河へ飛び込もうとするのを、兵部の手が、<ruby><rb>鐺</rb><rt>こじり</rt></ruby>を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>んで、

「何で逃げる。――たとえ路傍の人間であろうと、危急を救われた礼も述べずに、姿を消すが、作法か、武士か」

「――面目次第もございませぬ」

屈み込んで、がばと、顔を伏せた。その手を、兵部は、すくい取って、ずるずると中へ、

「清水一角と申したの」

「はっ、御、御意にござります」

「たしか、村上寛之助の推挙で、上杉藩の剣道方に、一年か、二年……。あれは、<ruby><rb>何日</rb><rt>いつ</rt></ruby>頃であったかの」

「もはや、四、五年前、流浪中の事にござります」

「只今も、流浪中ではないのか」

「はっ」

一角は、穴でもあったらはいりたかった。なぜこの人に救われたかを後悔するのだった。

「そちの仕官中に、<ruby><rb>国許</rb><rt>くにもと</rt></ruby>で、一、二度見かけた事がある。腕のたつ武士と、噂をきいていたが、いつの間にか、<ruby><rb>此方</rb><rt>このほう</rt></ruby>の在府中に出奔したという事じゃった」

「この姿で、お目にかかったのが、残念にござります。どうぞ、御慈悲をもって、このまま、お<ruby><rb>見遁</rb><rt>みのが</rt></ruby>しを」

「見遁せとは」

「何事も、お<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねなく。――犬でも助けたと<ruby><rb>思</rb><rt>おぼ</rt></ruby>し<ruby><rb>召</rb><rt>めし</rt></ruby>て」

「<ruby><rb>卑下</rb><rt>ひげ</rt></ruby>いたすな。若い時代の<ruby><rb>過</rb><rt>あやま</rt></ruby>ちは、生涯の評価にはならぬ。その<ruby><rb>慚愧</rb><rt>ざんき</rt></ruby>をなぜ有為な身に、すぐれた腕に、<ruby><rb>鞭</rb><rt>むち</rt></ruby>とせぬか」

「立ち直って、身を固めたいと念じながら、持ったが<ruby><rb>病</rb><rt>やまい</rt></ruby>、<ruby><rb>自暴</rb><rt>やけ</rt></ruby>から自暴へ、持ちくずした身の傷は、<ruby><rb>癒</rb><rt>なお</rt></ruby>るどころか、殖えるばかりで、今後のことも今となって、その<ruby><rb>冷</rb><rt>ひや</rt></ruby>っこい川風の中で考えてみると……」

「それや、無理もない。<ruby><rb>惰性</rb><rt>だせい</rt></ruby>というもの、そこに、転機が来なければの」

兵部は、つぶやいて、<ruby><rb>酒瓶</rb><rt>ちろり</rt></ruby>のくびを<ruby><rb>抓</rb><rt>つま</rt></ruby>んだ。一角へ、杯を与えて、

「ひとつ、飲まんか」

「恐れいります。御大身のお<ruby><rb>酌</rb><rt>しゃく</rt></ruby>では」

「あとも、<ruby><rb>燗銅壺</rb><rt>かんどうこ</rt></ruby>についておる。では、そちの手酌にまかせて」と、膳ぐるみ、押しやって、

「――だがの一角、もうこの辺が、考え所ではないかの。人間も年三十に近いとなれば」

炬燵ぶとんへ、兵部は、顔を横に当てて、うつうつと、何か考え込んでいるふう。大きな宿題が――苦労が――胸にあるらしい。そういえば、才識に経世に、<ruby><rb>米沢</rb><rt>よねざわ</rt></ruby>の宝といわれたこの人にも、めっきりと<ruby><rb>老</rb><rt>ふ</rt></ruby>けてきた影がみえる。――いかに、事の内容が容易でないかを、その眉が、語っている。何か、<ruby><rb>尠</rb><rt>すく</rt></ruby>なくもそれは、主家上杉藩の浮沈にもかかわる程な。

## 四

で、実は。

この三月でいい出府を、彼は、<ruby><rb>二月</rb><rt>ふたつき</rt></ruby>も繰上げて急に、国元の米沢から上ってきたわけだった。問題の重点は、世間からも注意されている<ruby><rb>吉良上野介</rb><rt>きらこうずけのすけ</rt></ruby>の身についてである。いうまでもなく、上野介の夫人は、上杉家の当主<ruby><rb>綱憲</rb><rt>つなのり</rt></ruby>の母にあたる――吉良家と上杉、これは、<ruby><rb>断</rb><rt>き</rt></ruby>っても断れない関係のものである。

上杉家では――いや藩の輿論よりは、太守の綱憲自身が、しきりと聞える、赤穂浪士たちの潜行的な噂に対して、

（もし、父を討たれては）

と、躍起となった。

（そして上杉家の名折れ、謙信以来の武門の恥、どうかせねば）

と、江戸家老の<ruby><rb>沢根</rb><rt>さわね</rt></ruby>伊兵衛に<ruby><rb>謀</rb><rt>はか</rt></ruby>って、

（<ruby><rb>飯倉</rb><rt>いいぐら</rt></ruby>か――桜田か――いや白金の下屋敷が、最も、堅固）

と本所から上野介の身を夜陰、そこに移して、秘密の上にも、秘密を守って、警戒していた。

（大事！　<ruby><rb>社稷</rb><rt>しゃしょく</rt></ruby>の危機）

と、兵部は、その、余りにも無謀な――浪士と上杉家との対立を敢てする策に――驚いて国元から駈けつけるとすぐ、綱憲に、その失計を説きたてた。

<ruby><rb>社稷</rb><rt>しゃしょく</rt></ruby>か父子の情かである。一人の上野介か、上杉家全藩の生命かである。

綱憲も、その非を覚って、兵部の<ruby><rb>諫</rb><rt>いさ</rt></ruby>めどおり、また上野介を、本所の彼自身の<ruby><rb>邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>に戻した。だが、兵部の心は、それだけに、負担を感じている。公然とはできない吉良邸の警戒に、赤穂の浪士たちの行動が、潜行的になればなる程、水も洩れてはならないのである。

何よりも、彼が第一に、

（さて、人間はいないものだ）

とつくづく、当惑したのは、上野介の身辺を警戒するにたる腕のしっかりした人物だった。

（剣客などは、いくらでも）

と、ふだんは考えられる江戸にも、さてとなって、求めると、実に、その人がない。

町道場で、相当に、認められている人物でも、ひそかに交渉させてみると、

（吉良の屋敷では）

と、断るのが、多いし、上杉の藩士を<ruby><rb>詰</rb><rt>つ</rt></ruby>めさせては、赤穂との対立になるし、素姓の知れない人間は、敵方の諜者を入れこむ<ruby><rb>惧</rb><rt>おそ</rt></ruby>れがある。

今――およそ兵部の<ruby><rb>眼鏡</rb><rt>めがね</rt></ruby>で、八、九名の浪人を抱えて、付け人にさせてはあるが、とても、まだ安心はできない。赤穂の浪士たちに対しては、物の数でない。

で――兵部は、そういう点で、ふと、清水一角の名を、思い出した事があったし、また、米沢の国元にも、藩士でさえなければ、眼ぼしいのが、二、三名はいるが……などと<ruby><rb>炬燵</rb><rt>こたつ</rt></ruby>ぶとんへ、横にした頭の中で、船の揺れを感じながら眼をふさいで、じっと考えつめるのだった。

今夜なども、飲めない酒を飲んでまで――また、老いと苦悩の、<ruby><rb>億劫</rb><rt>おっくう</rt></ruby>な気もちをも曲げて、花街へ、人を招んで、おかしくもない夜更かしに帰るのも、みな、上野介のために、幕府側の人々を、手なずけておくためだった。

（これが、自分が大石の立場であるなら、ふえる<ruby><rb>白髪</rb><rt>しらが</rt></ruby>も、苦労<ruby><rb>栄</rb><rt>ば</rt></ruby>えというものだが……）

と、心で、自嘲しながら、ふっと、頭をもたげた時、

「――殿様、<ruby><rb>百本杭</rb><rt>ひゃっぽんぐい</rt></ruby>で」

と、船が、急に<ruby><rb>舵</rb><rt>かじ</rt></ruby>をまげていた。

冷たい杯を置いたまま、じっと、俯向いていた一角が、すぐ首を出して、

「お、着けてくれ。――俺はそこで」

と、立ちかけると、兵部が、

「いや、そのまま、行け、着けてはならん」

と、船を河心へ返させて、一角へ、<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>で、<ruby><rb>陸</rb><rt>おか</rt></ruby>の人影をさしていった。

「さすがに、町方というものは、鼻がきくの。あれを見い、根気よく、河岸づたいに、この船を<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>けてくる」

「あ……」

一角は、小障子を<ruby><rb>閉</rb><rt>た</rt></ruby>てた。

船が、<ruby><rb>永代</rb><rt>えいたい</rt></ruby>に着くと、<ruby><rb>橋袂</rb><rt>はしたもと</rt></ruby>に、迎えの灯が待っていた。千坂の家来たちに囲まれて、そこから近い兵部の下屋敷へはいってゆく浪人を、清水一角と、はっきり分っていながら、町方とその捕手たちは、どうにも、手が<ruby><rb>下</rb><rt>くだ</rt></ruby>せないで、

「ちッ、<ruby><rb>忌々</rb><rt>いまいま</rt></ruby>しいなあ」

と、<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>まえて見ているだけだった。

## 首の番

## 一

ゆすり、辻斬、ばくち場荒し。一角の兇状は、一つや二つの首では足りない。

「一歩でも、出て来たら」

と、町方は、意地にもなって、

「千坂の屋敷から、半年でも一年でも、眼を離すな」

と、伏せを<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>いて、張込んでいた。

「物騒だが……<ruby><rb>其方</rb><rt>そち</rt></ruby>ならば」

と、当の兵部は、召使から邸外の様子を聞いて、苦笑しながら――

「急ぐことゆえ、今宵にも、米沢表へ」

と、あれから急に、旅立つことになった一角へ、<ruby><rb>餞別</rb><rt>せんべつ</rt></ruby>とはいえない、かなりな額の金を、こっそりと、渡した。

旅といっても、一角は、相変らずな着ながし一枚、もう<ruby><rb>寒明</rb><rt>かんあ</rt></ruby>け、寒さもここらが関と、<ruby><rb>多寡</rb><rt>たか</rt></ruby>をくくって、

「では、いずれまた」

と、貰った編笠を、横に抱いて、書院の縁に立った兵部の姿へ、目礼を。兵部はそこから、うなずいて、

「<ruby><rb>確</rb><rt>しか</rt></ruby>と、そちを見込んで」

と、特に、見込んで――に力をいれて、

「……頼んだぞ」

といった。

ひらりっと、庭戸を押して、一角は、裏門の外へ走っていた。――と、すぐばたばたっと附近から<ruby><rb>雁</rb><rt>がん</rt></ruby>のように立った跫音を、兵部は、知っていたが、黙然と、空を見ていた。家来たちも、主人の気持のまま、じっと、問わず聞かずに、黙っているよりほかなかった。

だいぶ、<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>を<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>いてから、やはり不安でならないように、兵部は<ruby><rb>唐突</rb><rt>だしぬけ</rt></ruby>に、

「誰か、見届けて来い」

と、いいつけた。

やがて、およそ半日も経って、やっと帰って来た家臣の口から、彼が、難なく町方のかこいを<ruby><rb>衝</rb><rt>つ</rt></ruby>いて、一気に、板橋口から街道を北へ、立って行ったと聞いて、

「――そうか」

と、初めて、ほっと、<ruby><rb>脇息</rb><rt>きょうそく</rt></ruby>に、気づかれを、落して、

「人は使いよう……。一角も、こんどは胆に<ruby><rb>沁</rb><rt>し</rt></ruby>みて、立ち直ったとみえる」

頼もしげに、そしてまた、一つの心の負担をも、軽くしたように、<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。

## 二

春だが、寒かった。

山の<ruby><rb>襞</rb><rt>ひだ</rt></ruby>には、雪が深い。

（四年ぶりだ――）

と、数えながら、一角は、笠のつばを上げて、<ruby><rb>板谷峠</rb><rt>いたやとうげ</rt></ruby>の上に立った。

そこから、米沢城下の町、川、橋、黒い天主、さまざまな思い出の一廓を見出すと、なつかしさ、などという常人のする感情は、すぐ消えて、

（しまッた。なぜ俺は、<ruby><rb>兵部</rb><rt>ひょうぶ</rt></ruby>の手に――）

と、いつか、屋根船に救われた夜と、同じ後悔を、ここでも、<ruby><rb>苦</rb><rt>にが</rt></ruby>く繰返して、

「思えば、飛んでもねえ事を、頼まれてしまった」

と、呟いた。

自分では、<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>り切れてしまったと思っていた武士根性が、まだ幾分か、どこかに潜んでいたかとも苦笑されて、

「うまく、兵部に抱き込まれた。――だが、どうせ、どう捨てても転んでも、惜しくはねえ体だから、いいようなものの……」

城下へはいった一角は、その翌日、藩の<ruby><rb>湧井</rb><rt>わくい</rt></ruby>半太夫と<ruby><rb>青砥</rb><rt>あおと</rt></ruby>弥助をふいに訪ねた。どっちも、一角が仕官時代の旧友ではあり、また、米沢では――いや奥羽の剣人としては、五指のうちに数えられる若者たちだった。

「どうしたんだ？　一角」

ふたりは、眼を<ruby><rb>瞠</rb><rt>みは</rt></ruby>って、彼を迎えた。

お互いに、<ruby><rb>飲</rb><rt>い</rt></ruby>ける<ruby><rb>口</rb><rt>くち</rt></ruby>を知っているので、松川岸の<ruby><rb>隣松亭</rb><rt>りんしょうてい</rt></ruby>へ行って、

「まあ、<ruby><rb>久闊</rb><rt>きゅうかつ</rt></ruby>は、酒から」

と、すぐに、<ruby><rb>寛</rb><rt>くつろ</rt></ruby>ぎあった。

「――風の便りに、江戸にいるとは聞いていたが」

「いや、面目ねえ、相変らずといいてえが、<ruby><rb>尾羽</rb><rt>おは</rt></ruby><ruby><rb>打</rb><rt>う</rt></ruby>ち枯らしてこの姿だ」

「勿体ないものだね、貴様ほどの腕をもって」

「そいつがかえって、世の中を、真っ直ぐに歩くにゃ邪魔らしい」

「どうだ、吾々も尽力をするが、もう一度、御奉公しては」

「今さら――」

と、苦笑して、

「実あ、こんな体でも、売れ口はついているのだ。それも、俺にゃ相当な条件で」

「そいつは、目出度い話だ、どこへ」

「相手の名をいう前におめえ達にも、相談があるが……。どうだ、乗るか」

「吾々は、藩に籍のある体、そうままには」

「そこは、万々、心得ての上だ。――五年約束で、前金を一人あてに、二百両渡す、ある時期がすんだら、ちゃんと、藩籍へもどして、今の禄より、加増もしようという、うめえ話だ。悪かあねえだろう」

「誰だ、相手というのは。――どこの藩だかそれを先に」

<ruby><rb>青砥</rb><rt>あおと</rt></ruby>が、少し乗り気になると、湧井は、笑い消して、

「あまり話がうま過ぎる。一角、久しぶりに来て、人を<ruby><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby>ぐのも、程にしろよ」

「なに、嘘だものか」

<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>から、百両の封金を、一つ、二つ、三つ――と眼の前へ<ruby><rb>転</rb><rt>ころ</rt></ruby>がして、

「見てくれ、手金さえ、持って来ている」

「ふふむ……」

「いくら、腕はできても、こう泰平つづきでは、軽輩のうだつが上がる時はねえ。――それを、どうだ、近頃にしちゃ、耳よりだろうが」

「――つまり、俺たちを、召抱えたいというのか」

「まあ、そんなものだ。肉縁の者を捨てて、脱藩してくれというのだから」

「それで、五年後には帰参させて、禄も増すというのは、どういうわけだ。合点がゆかぬが」

「そこが、相談。うん、といえ」

「だが先に――」

「いや、先にゃ、話せねえ。――何しろ、洩れたら」

「では、誓う」

「脱藩をか」

「いや、他言を――」

「友達を、疑いたかあねえが、これだけは。――何しろ肉縁を捨てるほどな、覚悟のいることだしまた、家中へも、秘密だ。ぜひとも、うん、といって貰わないうちは」

「じゃ、俺は……」

と、<ruby><rb>青砥</rb><rt>あおと</rt></ruby>が、言いかけるのを、<ruby><rb>湧井</rb><rt>わくい</rt></ruby>はあわてて、

「待て待て。――返辞はいつまでか」

「早いに、越した事はねえ。<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>のうちにでも」

「じゃ、<ruby><rb>明夕</rb><rt>みょうせき</rt></ruby>までに、熟考して」

「花沢屋に泊っているから、そこへ、返辞をしてくれ、待っているぜ」

と、一角は、二人に別れて、宿へ帰った。

## 三

「なぜ、俺ほど、やくざな人間が、兵部に頼むといわれた時、いやだと、断りきれなかったろう？」

宿屋の一間で、腹ン這いになりながら、一角はまたしても、同じ悔いを、胸の中で、呟いた。

「やっぱり――<ruby><rb>彼女</rb><rt>あいつ</rt></ruby>の魂が、おれを国へ……」

ぽろんと、<ruby><rb>銀脚</rb><rt>ぎんあし</rt></ruby>の<ruby><rb>釵</rb><rt>かんざし</rt></ruby>を、指先から落して、

「お里のにおいが」

と、ぞっと、背中に寒いものを、感じた。

まだ、女の<ruby><rb>髪油</rb><rt>かみあぶら</rt></ruby>が、<ruby><rb>生々</rb><rt>なまなま</rt></ruby>と、曇っている。見つめていると、ありし日の女の姿が、ぼっと、眸にひろがって来る気さえする。

かっと一時の感情で、自分の手に<ruby><rb>斬</rb><rt>か</rt></ruby>けた里次の<ruby><rb>釵</rb><rt>かんざし</rt></ruby>――。その<ruby><rb>生首</rb><rt>くび</rt></ruby>をつかんで、堀の茶屋へ逃げこんだ際、あの<ruby><rb>突嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に、<ruby><rb>生首</rb><rt>くび</rt></ruby>は、丁字の木の蔭に<ruby><rb>埋</rb><rt>い</rt></ruby>けたのであるが、釵は、釵だけは――自分が殺した程な女なのに、何となく、捨てきれずに、肌へつけて、持っていた。

「――いけねえ、どう考えても、お里の弟だ。その木村丈八郎へ、<ruby><rb>直</rb><rt>じか</rt></ruby>に会って今度の事を話すのは、気が<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>める。……おれが、お里を<ruby><rb>誘拐</rb><rt>かどわ</rt></ruby>かして、連れ出した事は、いまだに、知らねえらしいが」

そこへ、女中が、

「おふたり連れで……。<ruby><rb>湧井</rb><rt>わくい</rt></ruby>様、<ruby><rb>青砥</rb><rt>あおと</rt></ruby>様と仰っしゃるお方が」

「お、来たか」

あわてて、釵をふところに、

「――通してくれ」

青砥弥助と、湧井半太夫は、

「よくよく、思案してみると、今の世の中では、<ruby><rb>軽輩者</rb><rt>けいはいもの</rt></ruby>は、生涯つとめても軽輩者、百金の手当があれば、肉親の者の保証は充分になる。――うん、と言おう。抱える相手を明かしてくれ」

と、同意の返答だった。

「有難い、それで俺も顔が立つ」

ふたりへ、百金ずつの金を渡して、

「実は、貴公たちをお<ruby><rb>抱</rb><rt>かか</rt></ruby>えになるのは、当地でも、噂になっているだろう、赤穂の浪士に狙われている吉良殿だ」

「げっ、あの吉良か」

「表立って、上杉藩から、剣士を引き抜いて、吉良の首の番に、付けるわけにも行かねえ。――で、妙な縁で、俺が、国家老の<ruby><rb>千坂兵部</rb><rt>ちさかひょうぶ</rt></ruby>様から頼まれて、この米沢表から、湧井半太夫、青砥弥助、木村丈八郎――と、こう三人を、引ッこ抜くことを頼まれたというわけだ」

「なるほど、じゃ、千坂様の才覚なのか。――それで、謎は解けたが、あの吉良の首の番は、少し、世間へ」

「それは、誰も考えるが、やはり一つの上杉家の奉公――五年という年を限っての話だし」

「もうひきうけた事だ。嫌とはいわん。――けれど、もう一名の木村丈八郎へは、話がついたのか」

「いや、まだ丈八郎へは」

「あれ程、急いでおるのに」

非常な苦痛のように――

「丈八郎へは、貴公たちから、<ruby><rb>懸合</rb><rt>かけあ</rt></ruby>ってくれまいか」

「む……話してもよいが」

## 四

痛いものを<ruby><rb>怺</rb><rt>こら</rt></ruby>えるような眼を、ふと、<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>らして、

「たのむ、是非」

と、一角は言った。――ほんとに、腹の底から、頼む、という語韻で、

「実あ、あの男だけが、ちと、俺にゃ苦手なのだ」

「何か、弱味でも、あるのか」

「丈八郎は、おそらく、知るまいと思うが、あれの姉のお里」

「ム。米沢きっての美人だった。――不思議と、あの家すじには、美人ばかり生れる」

「今さらいうのも、<ruby><rb>懺悔</rb><rt>ざんげ</rt></ruby>めくが、同藩の市岡へ、<ruby><rb>嫁</rb><rt>とつ</rt></ruby>ぐ約束になって、<ruby><rb>結納</rb><rt>ゆいのう</rt></ruby>まですんでいたあの女を、婚礼の<ruby><rb>間際</rb><rt>まぎわ</rt></ruby>に隠したのは、俺だ、この一角なのだ」

「えっ？　……。じゃあ、嫁ぐのを嫌って、川へ、身を沈めたというのは嘘か」

「川<ruby><rb>縁</rb><rt>べり</rt></ruby>の下駄も、<ruby><rb>遺書</rb><rt>かきおき</rt></ruby>も、俺のさせた狂言で、うまく国許をずらかってから、<ruby><rb>彼女</rb><rt>あいつ</rt></ruby>は、江戸で女師匠、俺は、持ったが<ruby><rb>病</rb><rt>やまい</rt></ruby>の<ruby><rb>博奕</rb><rt>ばくち</rt></ruby>、酒。……四年のあいだ苦労をさせたが、つい先頃、<ruby><rb>風邪</rb><rt>かぜ</rt></ruby>が<ruby><rb>原因</rb><rt>もと</rt></ruby>で、死なしてしまった」

「ふーむ、そうか。じゃあお里は、江戸で貴公と暮していたのか」

「そんな、こんなで、今さらあれの弟の丈八郎へ、いくら兵部様の名指しといっても、俺からは、ちと」

「なるほど、尤もだ。――そして御家老の兵部様が、木村丈八郎へお眼をつけなすッたのも、<ruby><rb>遉</rb><rt>さす</rt></ruby>がに、鋭い。年は若いが、あれなら、吉良殿の<ruby><rb>付人</rb><rt>つけびと</rt></ruby>として申し分はない。腕では、赤穂の浪士のうちでも、丈八郎ほどなのは少ないだろう」

「だが、今の話は、貴公たちだけに、打ち明けたのだ。――行っても、丈八郎には、どこまで、俺とお里の事は内密に」

「いいとも、もう先でも、諦めていること、何も好んで……。それよりは、吉良殿の方の一件を」

「すぐ、行ってくれるか」

「吉報を、待っていろ」

翌日は――と首を長くしていたが、沙汰がない。次の日も、二人は、見えなかった。

「こじれているな、話が」

そう感じて、一角は、なお二人から返辞のいいことを祈った。自分の役目ばかりでなく、もし、兵部の秘策を明かして、先が、聞き入れない場合は、首にして、帰らなければならないからだった。

「お里を手に<ruby><rb>斬</rb><rt>か</rt></ruby>けたさえ、後では、いい気持ではないのに、その弟まで、万一にも」

と、考えると、祈らずに、いられなかった。――どうか、難なく、丈八郎が、吉良家へ身売りする事を、承知してくれればいいがと。

「そうだ、返辞を待っている間に」

顔を、笠でかくして、彼は、急に思い立ったらしく、宿屋を出て行った。

すぐ、分った。

城下の南郊、梅が、ふくらんでいる。生前に、お里から聞いていた木村家の<ruby><rb>菩提寺</rb><rt>ぼだいじ</rt></ruby>である。

「む、ここか」

と、探しだした、一つの墓。

あたりを見廻した。――<ruby><rb>梅花</rb><rt>うめ</rt></ruby>が明るい。

今日まで、肌に、抱いているにも、捨ててしまうにも、気にかかって、このまま、なお持っていると、病気にでも取ッつかれそうな気がしていた<ruby><rb>簪</rb><rt>かんざし</rt></ruby>を――あの里次の<ruby><rb>生首</rb><rt>くび</rt></ruby>のにおいを持つ簪を――、そっと、墓石のそばの土中へ、ふかく、差し込んだのである。

悪夢を、封じたように、

「ああ、これで、さっぱりだ」

と、一角は、<ruby><rb>掌</rb><rt>て</rt></ruby>の土をたたいた。

春の雲が白い。――紅梅が紅い。

からん、からん、と笑いたいように、心が軽くなった。

「気一つだ」

だらだらと、丘を降りて来た。

すると――<ruby><rb>麓</rb><rt>ふもと</rt></ruby>から、若い、一人の女が、上ってくる。

「オヤ、何処かで？」

と、初めは、そんな程度の注意だったが、両方から近づくにつれて、

「やっ？」

<ruby><rb>愕然</rb><rt>がくぜん</rt></ruby>として、喉でさけんだ。

何ものかに、押し返されるように、彼は、たたたと、後へ戻った――いや<ruby><rb>蹌</rb><rt>よろ</rt></ruby>めいた。そして、樹の蔭にかくれて、あらい息を、肩で、

「不思議だ、お里が来る、お里が？」

――と、一角にしては、おかしいくらい、あわてて、顔いろさえ変えて、呟いた。

## 美人系

## 一

「丈八郎という男は、今時の、若いに似あわぬ<ruby><rb>一徹者</rb><rt>いってつもの</rt></ruby>だ。二人が、何と説いて聞かせても、金で身売りなどとは、剣士の恥。たとえ、一時の方便でも、藩へ無断で、脱走するなどとは、以てのほか――とばかりで、俺たちも、口をすッぱくして通ったが、<ruby><rb>匙</rb><rt>さじ</rt></ruby>を投げた。あれは、諦めものだぞ」

宿へ帰ると――青砥弥助に湧井のふたりが待っていて、一角の顔を見るなり、こう言って、

「どうする？」

と、彼の決意を聞くのだった。

「じゃ、兵部様の腹中を、<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>らしたのだな」

「少しは、<ruby><rb>格好</rb><rt>かっこう</rt></ruby>を話さなければ、所詮、耳をかす男ではないもの」

「しかたがねえ。話が、不調とあれば、首にして、江戸へ連れて帰るだけの事。――貴公たちは、先へ、<ruby><rb>発足</rb><rt>ほっそく</rt></ruby>してくれ。そして、兵部様へ、丈八郎の方は、百に一つ、見込みが難しいとお告げしておいて貰いたいが」

「承知した」

その晩のうちに、湧井と青砥は、脱藩して、城下から姿を消してしまった。――軽輩だけに大した余波もないらしいが、一角は、後に残って、これからが、仕事だと思った。

（丈八郎を、<ruby><rb>暗討</rb><rt>やみう</rt></ruby>ちするか――もう一度、ぶつかって、心を<ruby><rb>翻</rb><rt>ひるがえ</rt></ruby>させてみるか――）

に、彼は、迷った。

五日目ぐらいには、宿をかえて、宵になると、番士小路の木村丈八郎の家の附近をうろついていた。丈八郎は、米沢城の<ruby><rb>乾門</rb><rt>いぬいもん</rt></ruby>番士、<ruby><rb>禄</rb><rt>ろく</rt></ruby>は、高々百石たらずである。<ruby><rb>夜勤</rb><rt>よづめ</rt></ruby>交代で一日おきには、家にいない事になるらしい。

（討つ気なら、<ruby><rb>造作</rb><rt>ぞうさ</rt></ruby>はねえが？）

一角は、そう考えたが、毎夜のようにのぞく彼の家に、留守をしている二人の<ruby><rb>姉妹</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>を見ると、そんな気もちは失せて、

「成程、青砥弥助が言っていたが、この家は、美人の<ruby><rb>血統</rb><rt>ちすじ</rt></ruby>だ」

と、感心した。

自分と逃げて、江戸で終ったお里は一番娘であった。そのお里に、まるで、生写しに、似ているのが、いつぞや、墓地で見かけた、二番娘のお八重。――三番目のお<ruby><rb>信</rb><rt>のぶ</rt></ruby>は、十五、六か、まだ、至ってあどけない小娘で、これは少し丸顔、兄の丈八郎の方に似ている顔だ。

「――どう見ても、お里そっくりだ。いくら<ruby><rb>姉妹</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>とはいえ、ああも」

<ruby><rb>機</rb><rt>おり</rt></ruby>があったら、口をきいて見たい気がした。

墓地で、ふいに会った時は、場所も場所だし、自分の気持も、妙に尖っていたので、そんな心は出なかったが――。

夜と、昼も、彼はお八重の顔を頭に描いた。――お八重か、お里か、けじめのない一つの眸が、いつも、彼の前にちらついた。

「はてな、俺は恋を？　……」

一度思った女は、きっと、命がけでも取ってきた一角の経験と興味が、また、春と一緒に、胸の中に、頭を<ruby><rb>擡</rb><rt>もた</rt></ruby>げだした。水っぽい春の月――風のぬるい春の晩が――妙に彼の血を駆り立てた。

だが、恋はしても、恋には悩まない一角だった。いや、悩んでいる時間すら持たない男だった。<ruby><rb>押</rb><rt>おし</rt></ruby>というか、自信というか、ぶつかってゆく。――その手で、お里も、ほかの多くの女をも、経験してきた彼は、やがて、お八重がよく町医の関口<ruby><rb>琦庵</rb><rt>きあん</rt></ruby>の所へ通うのを知って、ある夜、わざと、

「お里どの。お里」

と、呼びとめた。

「え？」

案のじょう、お八重は、びっくりした眼を、彼に向けて、

「――姉の名を、お呼びになって、貴方様は」

「や、人違い。――余りよく似ているので」

「どこかで、お見かけしたような？」

「四年ほど前に、浪人した清水一角」

「あ、よく姉がお噂をしていた……」

「そのお里どのが<ruby><rb>慕</rb><rt>した</rt></ruby>わしく、旅のついでに、そっと、当地へ立ち寄ったが、今ではどこに」

「姉はもう果てました。ちょうど、あなたが御浪人なさった頃に」

「えっ、死んだ……。それは、ちっとも知らなかったが」

「私たち<ruby><rb>姉妹</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>ほど、薄命なものは、ございませぬ。姉のお里も、嫁ぐ先が心に染まないで、身を投げたのでございますし、私も、嫁ぐとすぐに<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>に死なれて」

もう、美人薄命が真に近いように、美人は<ruby><rb>多淫</rb><rt>たいん</rt></ruby>であるという言葉がほんとなら、お里も、その一人だったし、このお八重も、そうではないかと、一角は、肩をならべて歩くうちに、勝手な異性観を、描いていた。

人なつこい――柔らかな感じ。そして、男のことばを、怖ろしく、異性的にうけて、<ruby><rb>蠱惑</rb><rt>こわく</rt></ruby>に反射してくるお八重を、彼は、幾十人もの女を手がけた経験から、

「これは、思いのほか、手なずけ易い。……それに出戻りの女は」

と、もう甘い香を――雪国の女の特有な肌を――官能の中に<ruby><rb>弄</rb><rt>もてあそ</rt></ruby>んでいた。

「いち度、お訪ねして、いろいろと、伺いたい事もあるし……」

「ええ、どうぞ」

「また、何かと、話したいこともあるが、実は、この間うち、脱藩した青砥弥助の口から、弟御へ、ちと、内密を洩らしてあるので、一角が、訪ねては」

「丈八郎ならば、この頃は、相役が病気なので、たいがいな夜はおりませぬ。……お信はいても」

と、お八重の求めている気持は、眼で分った。一角は、編笠の中に、暗い笑みを、<ruby><rb>泛</rb><rt>う</rt></ruby>かべながら、

「では、近いうちに」

と、彼女を、辻に捨てて、ぷいと横丁へ曲がってしまった。

## 二

渡り鳥が、夜ごとに空をよぎって行く。

「<ruby><rb>女庭訓</rb><rt>おんなていきん</rt></ruby>で育った武家娘なんて、男にかかると、から、意気地はねえ」

一角は、つぶやいた。

反撥のある、妙に強気な、江戸の女を知ってから、お里に、不足を覚えたように、そのお里に似ているという、ほんの、軽い出来心だった彼の<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>は、お八重を、自分のものにした夜から――

「俺も、物好き」

と、彼を、微苦笑させた。

美人にはちがいないが、お八重は、<ruby><rb>癆咳病</rb><rt>ろうがい</rt></ruby>だった。――そういえば、死んだお里も、よく、悪い<ruby><rb>咳</rb><rt>せき</rt></ruby>をしていたが――と考えると、丈八郎の家系には、その血のあることが、<ruby><rb>慥</rb><rt>たしか</rt></ruby>である。美人系は、一つの、病系なのだ。

「旦那様、あの、お手紙が」

宿屋の女中が、取次いできたのを、一角は封をきらないで、

「少し、風邪ぎみで、寝ているといってくれ」

すぐ、お八重の文字と分るのであるが、――一角は、五、六度の遊戯で、もう何の感興も燃えなかった。同時に、この頃は、前のお里のことも、ふッつりと、頭にこだわらなくなった。

「べら棒な。――ほかに男をこしらえた女、俺が手に<ruby><rb>斬</rb><rt>か</rt></ruby>けて、成敗したのは、当りめえだ」

明くる日もまた、女中が、

「旦那様」

「また、手紙か」

根負けがして、彼は、次の夜にお八重をたずねた。――しかし、<ruby><rb>勃然</rb><rt>ぼつぜん</rt></ruby>として、かれの気持は、その日から一変していた。

「丈八郎に出会ったら一討ち！」

と、むしろそれを、希望していた。

が、その夜も、丈八郎は留守で、裏の木戸には、末娘のお信が立っていた。この<ruby><rb>娘</rb><rt>こ</rt></ruby>は、また何というほがらかに出来ているのか、出戻りの姉にいいつけられて、いつも、恋の番をしているのである。

お八重は、彼を見ると、

「まあ、憎い……」と、<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>に、恨んで、

「あんなに、お手紙をあげたのに、たった一度の御返辞も下さらないで」

「いつか、遅く帰った時から、風邪心地で寝ていたのだ」

「でも、返辞を書くぐらいな事……。それ程なお心も、私には、ないのでございましょう」

ああ、平凡だ。

<ruby><rb>尠</rb><rt>すく</rt></ruby>なくも、一角が経験した女の数では、こんな会話では、<ruby><rb>欠伸</rb><rt>あくび</rt></ruby>を感じる。

でも――<ruby><rb>無碍</rb><rt>むげ</rt></ruby>には、あしらえなかった。出戻りのお八重は、丈八郎の留守の間を、<ruby><rb>貪</rb><rt>むさぼ</rt></ruby>るように<ruby><rb>戯</rb><rt>たわむ</rt></ruby>れた。

すると、外にいたお信が、

「あっ、兄様が！」

ばたばたっと家の中へ、駈けこんで来て、姉へ告げた。

「帰って来ました。兄様が」

「えっ、丈八郎が」

お八重は、ふるえ声で、

「あなた。はやく……。裏口から」

一角は、うごかなかった。後ろの脇差へ飛びついて、片膝を立てたのみである。お八重は、顔いろを――身の置場を失って、意味の聞きとれない言葉を発しながら、一角の手をつかんで、無理に、<ruby><rb>無性</rb><rt>むしょう</rt></ruby>に、

「ここにいては。裏！　……あっ、いけない、そこの<ruby><rb>納戸</rb><rt>なんど</rt></ruby>へ」

一角は、その手を、振り払って、

「――<ruby><rb>退</rb><rt>ど</rt></ruby>いていろッ」

## 三

途端に。

ばさっと、庭先の<ruby><rb>連翹</rb><rt>れんぎょう</rt></ruby>の花が、嵐みたいに揺れた。垣を踏みこえて来た激しい物音から、一箇の人影が、縁側へ、躍り上がった。

「――おのれっ、一角だな」

「おっ、木村丈八郎か」

「人の噂は、嘘でなかった。近頃、城下をうろついている犬みたいな浪人が、わしの留守へも、忍んでくると言っていたが、おのれ、何しにここへ――」

と、<ruby><rb>鐺</rb><rt>こじり</rt></ruby>を上げて、ぶるぶると、右手の<ruby><rb>拳</rb><rt>こぶし</rt></ruby>に、<ruby><rb>鍔音</rb><rt>つばおと</rt></ruby>をさせた。

（この男か）

と、一角は、そういって、ジリジリと前へ迫ってくる鋭い<ruby><rb>眉目</rb><rt>びもく</rt></ruby>を見上げた。彼の淡い四年前の記憶では、まだ<ruby><rb>竹刀</rb><rt>しない</rt></ruby>をかついで、よく道場通いの途中で見かけた前髪の<ruby><rb>小童</rb><rt>こわっぱ</rt></ruby>であったが、今仰ぐと、<ruby><rb>二十歳</rb><rt>はたち</rt></ruby>か、一か、末娘のお信の方に似てやや丸顔な、<ruby><rb>唇</rb><rt>くち</rt></ruby>の大きな、そして、健康にはちきれている<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しい青年だ。

（……ウーム、なるほどできるな）

直感的に一角も、ぴりっと、構えを、<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>を、反射しながら、

「丈八！」

と、威圧的に、あびせて、

「いつぞや、青砥弥助と湧井半太夫の両名から、貴様に伝えたことがあろう」

「だまれ、この場合に。――それを問うのではない、何で！　何の用があって！　女ばかりの留守を<ruby><rb>狙</rb><rt>ねら</rt></ruby>って」

「それは、てめえの姉に<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>け。おれは、お八重の<ruby><rb>媚</rb><rt>こび</rt></ruby>に釣られて来たまでの<ruby><rb>戯</rb><rt>たわ</rt></ruby>れ<ruby><rb>男</rb><rt>お</rt></ruby>」

「な、なにっ」

「しかも、こっちは旅の人間、不義をあらだてては女の損――まあ、それは後の裁きにまかせる。――俺は、さし当って、会ったが幸い、てめえに<ruby><rb>糺</rb><rt>ただ</rt></ruby>す一言がある」

「恥知らずめ」

丈八郎は、憎悪そのものの眸を、<ruby><rb>俯</rb><rt>う</rt></ruby>つ<ruby><rb>伏</rb><rt>ぶ</rt></ruby>している姉へも投げた。が、すぐそれが、一角の眼を見ると、よけいに、<ruby><rb>焔</rb><rt>ほむら</rt></ruby>となって、

「不義を見つけられて、居直る所存だな」

と、<ruby><rb>罵詈</rb><rt>ばり</rt></ruby>した。

あざ笑って、

「てめえは、まだ、女を知らぬな。そう野暮に、<ruby><rb>棘立</rb><rt>とげだ</rt></ruby>つものじゃない。俺の聞きたいという一言は、いつぞやの返答。――どうしても、嫌か。――千坂兵部殿の<ruby><rb>苦衷</rb><rt>くちゅう</rt></ruby>を買って、吉良家へ行ってやる気はないか」

「賢明人の御家老様が、何で、おのれ如き素浪人に、そんな大事なお打明けなさるものか。よしまた、<ruby><rb>真</rb><rt>まこと</rt></ruby>であるにもせよ。丈八郎には上杉家の藩君がある。――ばかなッ。脱藩して吉良殿の付人に、身売りなどとは、思いよらぬ沙汰だ」

「では、どうあっても、嫌か」

「とっとと、この米沢から退去すればよし、いつまでも、うろついていると、命はないぞ」

「待てっ。――俺のいう事を先にいうな。命がないぞとは、こッちの切り札。千坂殿の密策を聞かしたからには」

立つ――同時に、

「丈八郎、命はもらった」

と、<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>はうしろに飛ぶ、刀身は前に、そして、一角のからだは畳一枚、踏み出していた。

## 四

風を切って――横に。

ばすっと、丈八郎が一角の出ばなを<ruby><rb>薙</rb><rt>な</rt></ruby>いだ。

「あっッ……兄様っ」

「お信、あぶない」

「やめて！　やめて！」

「ええ、邪魔」

と、妹をつき倒して。――<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>を持ち直して。

「さあ、来い一角」

「おう、<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>くな」

「何を」

ち、ち、ち、ち……と刃と刃の先が鳴り合った。

押す。もどす。――丈八郎は、<ruby><rb>挑</rb><rt>いど</rt></ruby>みかけた。――フウッと、一角の<ruby><rb>技</rb><rt>わざ</rt></ruby>に引かれて、はいると一気に、

（この顔ッ）

と、真っ向を睨んで、斬りつけた。

だっッと、一角は、退がった。背なかを、<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>にぶつけたので、襖は、次へ倒れた。ベリッと、それを踏んで、よろめくと、

（しめた）

と、丈八郎は、盲目的に、躍って、<ruby><rb>揮</rb><rt>ふ</rt></ruby>り下ろしたが、一角は、反対の方へ、ぽんと、飛びかわして、

（それは柱だっ）

と、<ruby><rb>罵倒</rb><rt>ばとう</rt></ruby>した。

丈八郎の刀は、<ruby><rb>斜</rb><rt>はす</rt></ruby>かいに、隅柱へ斬りこんだまま、抜けなかった。とたんに、うしろへ一角の刃を、感じたので、手を離して、振り向くせつなに、さっと、真っ赤なものが、自分の腕にも、胸にも、部屋にも、眸いっぱいに見えた。

ウーム……と、誰か、分らない<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>きがながれた。<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>は、消えて、倒れた<ruby><rb>弾</rb><rt>はず</rt></ruby>みに、ころころと、灯皿が白い煙の糸をひいて、<ruby><rb>独楽</rb><rt>こま</rt></ruby>みたいに、部屋を廻った。

ウウム……と、二度目の苦鳴を聞いたとたんに、

「あッ――お信が」

と、発狂したように、お八重がさけんだ。

丈八郎も、一角も、はッと気を抜いて、

「おうっ？」

と、跳びひらいたまま、一瞬、<ruby><rb>茫</rb><rt>ぼう</rt></ruby>となって、畳に、もがいている意外な犠牲者の影を見つめたが、丈八郎は、自分を目がけた一角の刃が、弾みに、罪のないお信を斬ったことに、気がついたので、

「妹の仇っ」

と、<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>いて、

「――動くなっ、そこを」

と、小脇差で、突っかけた。

組長屋である、裏の屋敷でも、隣でも、深夜の物音にさわぎ出した様子である。一角は、書院窓を蹴やぶって、縁から、飛び下りた。

盗賊。――盗賊。

そんな声が、八方に聞えて、彼はよけいに戸惑ったが、うしろから、

「卑怯ッ」

と、よぶ丈八郎へ、

「後日っ」

と、言い返して、木戸へ、肩をぶつけて突き破るがはやいか、地を躍って、深い闇へ、<ruby><rb>魔形</rb><rt>まぎょう</rt></ruby>に似た<ruby><rb>提</rb><rt>さ</rt></ruby>げ<ruby><rb>刀</rb><rt>がたな</rt></ruby>の光を、何処ともなく、<ruby><rb>晦</rb><rt>くら</rt></ruby>ましてしまった。

## 五

「――斬られたと？　だ、だれが」

「盗賊ではないのか」

「灯りを。――どなたか、灯りを先に<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>けてください」

組長屋のものが寄って、そこに、ぶち<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>かれた鮮麗な血と、お信の、むごい姿とを、見た時は、いつのまにか、姉のお八重は家の中にいなかった。

勝手口の戸が一枚、開いていた。――恥かしい！　と丈八郎はくちびるを噛んだが、人々が、驚きと、<ruby><rb>焦燥</rb><rt>しょうそう</rt></ruby>に、気づかずにいるので、口に出さなかった。

「――助かる。背すじだ、<ruby><rb>薄傷</rb><rt>うすで</rt></ruby>だ」

来あわせた老人が、お信の黒髪を、膝にかかえ入れて、<ruby><rb>白晒布</rb><rt>しろさらし</rt></ruby>を、勢いよく裂いているのに、丈八郎は、初めてわれに返って、

「た、助かるでしょうか」

「切ッ尖だからの。もう二寸、肩へはいったら。――<ruby><rb>焼酎</rb><rt>しょうちゅう</rt></ruby>を早く、焼酎を」

「お信っ。お信っ……」

丈八郎の眼はうるんでいた。

医者がくる。お信は、意識をひらくとすぐ、

「姉さんは……」

と、ほそい声で、訊ねた。

「そんな事、訊いてくれるな」

夜具の下で、手を握りあって、丈八郎とお信は泣いた。――<ruby><rb>淫</rb><rt>みだ</rt></ruby>らをしたお八重こそあの場で、斬られてしまえばとさえ思うのだった。

（お八重さんが見えない――）

（男と逃げたらしい）

組長屋から、家中へ、そんな噂が、ぱっと立った。

傷は、日にまして<ruby><rb>快</rb><rt>よ</rt></ruby>くなって行ったが、お信も、それを心に<ruby><rb>病</rb><rt>や</rt></ruby>むらしかった。兄に対して、何か、<ruby><rb>悔悟</rb><rt>かいご</rt></ruby>と、<ruby><rb>叱責</rb><rt>しっせき</rt></ruby>を、<ruby><rb>恟々</rb><rt>おどおど</rt></ruby>と待つ気ぶりも見える。

「兄は留守がちだが、お前は、いつも家にいたのだ。あの一角と、姉と、不義のほかに、何か<ruby><rb>事情</rb><rt>わけ</rt></ruby>でもあったのではないか」

丈八郎が、ある日、こう問いつめると、

「いいえ」

と、お信は、首を振った。

「ふいに、兄様が帰るとか、人が訪ねてくるといけないから、外を見ていよといわれて、いつも、<ruby><rb>垣根</rb><rt>かきね</rt></ruby>の所に、立っていただけです」

「そうではあるまい、何か、他に仔細があろう。言え。兄は、どんな事があっても、お前には、怒りはしない」

「じゃ……」と、お信は、考えて、

「何もかも、話しますけれど、兄様、怒ってはいやですよ」

「む……」

「一番上の――お里姉様を殺した人は、あの一角じゃないでしょうか」

「えっ。どうして」

「でも、私は知らなかったけれど、お八重姉さんが、そう言いました。だから、私も今に、きっと、あの一角に殺されるのかも知れないって。――それでも――殺されても<ruby><rb>関</rb><rt>かま</rt></ruby>わないから、私は、あの人を忘れることはできないと、私にだけ、口ぐせに、言っていました」

## 六

「不審だな。一番上の姉のお里は、同藩の市岡<ruby><rb>氏</rb><rt>うじ</rt></ruby>へ、嫁ぐ約束になった時、それを嫌って<ruby><rb>入水</rb><rt>じゅすい</rt></ruby>したのだから」

「いいえ、嘘です。――それもこれも、一角のつけ智恵で、ほんとは、江戸へ行って一緒に暮しているうち、一角に、殺されたのです」

「どうしてお前は、それを、はっきり言える」

「お八重姉さんが、この間、拾って来た物があるんです。うちのお墓のそばに、差し込んであった銀の<ruby><rb>釵</rb><rt>かんざし</rt></ruby>、不思議に思って、寺男に聞くと、三十近い浪人が姉さんのお<ruby><rb>詣</rb><rt>まい</rt></ruby>りをする前に、<ruby><rb>埋</rb><rt>い</rt></ruby>けて行ったというではありませんか。それが、一角なのです」

「お八重は、自分の姉と、そうした悪縁のある一角と知りながら、なぜまた、あんな男に引きずられて……」

「だから、私にも、お八重姉さんの気持はわからない。なん度、泣いて、意見をしたか知れませんが」

「血だなあ」

丈八郎は、ほっと、重い吐息をついて、

「――争えないものは、血すじだ、親から生みづけられている人間の血の運命だ。――お信、その釵はここにあるか」

「いいえ、お八重姉さんは、お墓から、それを見つけて来た日から、肌身に離したことはありません」

「そうか。……いやそうだろう。あの銀の釵なら、<ruby><rb>二女</rb><rt>ふたり</rt></ruby>の母親が、若い頃に<ruby><rb>挿</rb><rt>さ</rt></ruby>していた品、その釵が、<ruby><rb>淫奔</rb><rt>いんぽん</rt></ruby>な血とつき<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>って、お里に愛され、お八重にまで持たれて行った――怖ろしい気がする」

「兄様。いま仰っしゃった<ruby><rb>二女</rb><rt>ふたり</rt></ruby>の母とは――それは、私たちのおっ母さんとはちがうのですか」

「<ruby><rb>亡父</rb><rt>ちち</rt></ruby>の<ruby><rb>過失</rb><rt>あやまち</rt></ruby>。わしも、深くは知りとうないし、きょうまで、<ruby><rb>姉妹</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>の気持にけじめは持たなかったが、<ruby><rb>異母胎</rb><rt>はらちがい</rt></ruby>じゃという事は、さる人から、聞いていた。――その母という人は、美人ではあったが、<ruby><rb>癆咳</rb><rt>ろうがい</rt></ruby>で、若死にをしたという話も……」

夜具の襟が、さめざめと、ふるえるのだった。丈八郎は、

「泣くな」

と、<ruby><rb>宥</rb><rt>なだ</rt></ruby>めて、

「おまえと、わしは。……おまえと、わしだけは。ほんとの武士の子だ、武士の娘だ」

と、蒲団ぐるみ、抱きしめた。

そこへ、裏町の――軽輩な家中へ内職の<ruby><rb>仲継</rb><rt>なかつ</rt></ruby>ぎをしている老人が、見舞に来て、憤然と、

「丈八郎殿、貴公、とんだ<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れ<ruby><rb>衣</rb><rt>ぎぬ</rt></ruby>をきておるぞ」

と、尖った<ruby><rb>拳</rb><rt>こぶし</rt></ruby>を、膝において、いうのだった。

「何事ですか、この、丈八郎の<ruby><rb>冤罪</rb><rt>えんざい</rt></ruby>とは」

「貴公、清水一角から、金を取っておるか」

「ばかな」と、一苦笑に、

「なんで、<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>のごとき、人非人から。――恨みこそあれ、<ruby><rb>金子</rb><rt>きんす</rt></ruby>などを」

「ところが、世間は、そう視ておらん。――例の、湧井と青砥の二人が、脱藩した事から、貴公にも、疑いがかかっておる。一角とぐるになって、米沢藩の<ruby><rb>腕利</rb><rt>てき</rt></ruby>きを、他藩へ引きぬいたのだと申しおる。――でなければ、お八重どのが」

と、硬骨老人も、そこだけは、少し、遠慮していうように、

「――一角について、逃げるわけもないし、それを、兄たる丈八郎が、黙って見ておる<ruby><rb>理</rb><rt>わけ</rt></ruby>もないと。――ま、一理あるな。そう申しおる」

「ウウム……左様でござりますか」

「処分せいとか、斬れとかいう声が高い。もし、重役が、家中の声に動かされると、切腹とくる。絶家、物笑い。――わしは近所に住んで、御気性も知っておるで、犬死にはさせとうない。逃げたらどうだ、今のうちに」

「あなたまでが、拙者を、左様な、卑怯者と……」

「いや、逃げるといったのは、わしが悪い。<ruby><rb>冤</rb><rt>えん</rt></ruby>を<ruby><rb>雪</rb><rt>そそ</rt></ruby>ぐのだ、潔白を立てるのだ。――それには」

「は」

と、丈八郎の眼が光った。

「一角の首を、米沢へ、引ッさげて帰藩する。それより<ruby><rb>潔</rb><rt>いさぎよ</rt></ruby>いことは、あるまいが」

「有難う存じます。よくこそ、御注意を」

で、――なくとも、燃えるような憎悪。血こそちがえ、姉の<ruby><rb>仇</rb><rt>あだ</rt></ruby>。

彼の家も、それから、ここ二、三日の後には、住み手のない空家となった。まだ、<ruby><rb>狼藉</rb><rt>ろうぜき</rt></ruby>の夜の<ruby><rb>足痕</rb><rt>あしあと</rt></ruby>の残る、裏庭の<ruby><rb>連翹</rb><rt>れんぎょう</rt></ruby>の花は、春をいたずらに、みだれて咲いて――。

「若いな。……は、は、は」

その二人を、門口から見送った朝、何か、意味ありげに、こう笑って、<ruby><rb>吾家</rb><rt>うち</rt></ruby>へはいった老人は、これまた、<ruby><rb>俄</rb><rt>にわ</rt></ruby>かに、旅支度をして、いつの間にか、米沢からいなくなっていた。

## いなずま八荒

## 一

（おや？　ここでも会った。――妙に何処でも会う老人）

と、思うまに、<ruby><rb>駕</rb><rt>かご</rt></ruby>のタレを<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ね上げた一角の姿を見つけて、先でも、同じように、

（おや）

と、いう眼いろを<ruby><rb>閃</rb><rt>ひらめ</rt></ruby>かせた。

涼しい木蔭では必ず会う。酒を売る所、三味線のある所、この老人に、出会わないことはない。

「駕屋、一汗拭け」

「ありがとう存じます。――旦那あ、短気だから<ruby><rb>堪</rb><rt>たま</rt></ruby>らねえ、この炎天に、こんなに飛ばしたこたアありませんぜ」

「<ruby><rb>心太</rb><rt>ところてん</rt></ruby>でもすするがいい、ああ、ここは涼しそうだ。<ruby><rb>老爺</rb><rt>おやじ</rt></ruby>、<ruby><rb>床几</rb><rt>しょうぎ</rt></ruby>を借りるぜ」

<ruby><rb>須賀川</rb><rt>すかがわ</rt></ruby>並木の一軒茶屋。

松の根がたに、駕を置かせて、ずっと日蔭へはいると、さっきから、馴つッこい顔を向けていた<ruby><rb>旅商人</rb><rt>たびあきんど</rt></ruby>の老人が、

「おっと、と、と。旦那あ、其処は」

「なんだ」

「よけいなお世話のようですが、さっき掛けた女衆が、<ruby><rb>嬰児</rb><rt>あかご</rt></ruby>に<ruby><rb>粗相</rb><rt>そそう</rt></ruby>をさせたんでまだ、<ruby><rb>尿</rb><rt>しし</rt></ruby>で<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れている筈で、――お値だんは同じ事、こちらへ、お腰かけなさいまし」

「そうか、女衆の粗相ならよいが、嬰児のでは、あやまるとしよう」

「はははは。<ruby><rb>飯坂</rb><rt>いいざか</rt></ruby>では、だいぶお<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>やかなことで」

「二、三度、<ruby><rb>温泉壺</rb><rt>ゆつぼ</rt></ruby>の中で、ぶつかったな」

「旦那も、覚えておいでになりますか」

ぷっと、<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>の火玉をふいて、風に、ころがり出したのを、<ruby><rb>雁首</rb><rt>がんくび</rt></ruby>で抑えながら、

「足かけ<ruby><rb>二月</rb><rt>ふたつき</rt></ruby>、永い<ruby><rb>御湯治</rb><rt>ごとうじ</rt></ruby>で。――てまえが、仙台から、会津福島の<ruby><rb>花客</rb><rt>とくい</rt></ruby>を、ぐるりっと、一廻りして来ても、まだ御滞在と聞いたには驚きましたな」

「何屋だい――老人は」

「どう見えますかの。町人には、相違ございませぬが」

「そうだな……。<ruby><rb>黒焼屋</rb><rt>くろやきや</rt></ruby>か」

「さすがに、女向きな所を仰っしゃる。だが、違います」

「薬屋でもなし、呉服屋でも」

「だんだんお近くなりますな。実は、その辺――<ruby><rb>繭仲買</rb><rt>まゆなかがい</rt></ruby>の銀六と申して、こ覧の通り、<ruby><rb>秤</rb><rt>はかり</rt></ruby>一本、腰にさしたのが飯の種です。出店は、諸国の<ruby><rb>桑</rb><rt>くわ</rt></ruby>ある所、住居は、繭の中とでもいいましょうか、いやもう、のん気な風来商売で、歩いてばかりおりまする」

「繭買か。なるほど」

「いやですぜ、顔を見て。――顔が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さなぎ</span>に似ているなんぞは」

「人間の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さなぎ</span>は、<ruby><rb>老人</rb><rt>としより</rt></ruby>ばかりじゃねえ。俺なんぞも、若い<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さなぎ</span>の方だろうよ」

と、自嘲をうかべた。

「<ruby><rb>御謙遜</rb><rt>ごけんそん</rt></ruby>で」

と、銀六老人は、首を振って、

「どうして、飯坂あたりの夜ごと日ごと、酒よし、女よしの、あのぶん流し振り、いやもう、恐れ入ったものでした」

「ひどく、感心するな」

「いたしますとも、真昼、北上川の<ruby><rb>温泉壺</rb><rt>ゆつぼ</rt></ruby>の中に、白い首と、旦那の首と、二つならべて、<ruby><rb>河鹿</rb><rt>かじか</rt></ruby>を聞いているなんざあ、言語道断」

「よくねえ<ruby><rb>老人</rb><rt>としより</rt></ruby>だ。いつのまにか、俺の悪い所ばかりを、<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いていやがる」

「は、は、は、は。それからまだ――福島から来ていた後家殿を何して」

「もう沢山」

と、<ruby><rb>焼酎</rb><rt>しょうちゅう</rt></ruby>の茶椀をさしあげて、

「亭主、代りを」

しゃべっているまに、軽く五合はのんでいる。

## 二

近頃は、酒が、水みたいに飲めるのである。

（<ruby><rb>自暴</rb><rt>やけ</rt></ruby>に、身を腐らすというものは、底のねえものだ）

と、一角は、自分で自分の早い転落を、あきれた眼で、ながめられた。

<ruby><rb>千坂兵部</rb><rt>ちさかひょうぶ</rt></ruby>に、

（人間も三十に近いとなれば――）

と、心機の一転を啓発されて、江戸を、立った頃は、もう底まで行ったやくざ者と、自分の<ruby><rb>堕落</rb><rt>だらく</rt></ruby>を嘆いたものだったが、今を<ruby><rb>省</rb><rt>かえり</rt></ruby>みると、それから更に、一歩も二歩も、やくざの沼に<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>り込んでいる。

（<ruby><rb>己惚</rb><rt>うぬぼ</rt></ruby>れではなく、人並以上の腕を持つ一角が――）

と、腐ってゆく、身の<ruby><rb>脆</rb><rt>もろ</rt></ruby>さを、殊に、若さを、口惜しく思わぬでもないが、どうにもならない――宿命的なものが、折角、志した米沢でも、<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて廻った。

第一の原因は、木村丈八郎の話の不調。それから、こっちの密策が洩れたこと。お八重が、うすうす自分とお里の秘事を知ったらしいこと。清水一角ともあるものが、罪もない小娘を、<ruby><rb>過</rb><rt>あやま</rt></ruby>ってでも、斬った事。

一つも、いい事はない。

（千坂兵部へ、何といって、顔をあわせよう。――見込んでといわれて、米沢へ。――ああいけねえ。男が、男に、見込んでといわれる程、苦手なものはねえ）

<ruby><rb>悶々</rb><rt>もんもん</rt></ruby>として、あれからの一角は、旅が、<ruby><rb>捗</rb><rt>はかど</rt></ruby>らなかった。悪い原因は、もう一つある。それは<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>に、兵部から貰った多分な金があることだ。

で、つい――

（ままよ）

と、酒。女。――若い骨が、腐るまでと、五十年の道中を、たった、三月か半年に、縮めようと努力している一角だった。

「どれ、そろそろ」

と、腰を上げると、<ruby><rb>繭買</rb><rt>まゆかい</rt></ruby>の銀六老人が、

「今夜は、白河で」

「いや、陽いッぱいに、大田原までは、のせるだろう」

「ついでの事に、夜旅をかけてもいい。<ruby><rb>今市</rb><rt>いまいち</rt></ruby>とまで、突っ走りとうございますね」

「行くか、<ruby><rb>交際</rb><rt>つきあ</rt></ruby>え」

異存はなかった。

駕へ、酒をつませて、今市を指して飛ばした。夜を越して、草露に濡れた駕が、へとへとに疲れて、酒と白粉の宿場へ、<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>りこまれたのはその翌日――。

三日ほど遊んでいるうちに。

「驚いた<ruby><rb>老人</rb><rt>としより</rt></ruby>だ。酒も強いが、何ていう芸人だろう。してみると、俺などは、<ruby><rb>極道</rb><rt>ごくどう</rt></ruby>にかけると、まだまだ<ruby><rb>嘴</rb><rt>くちばし</rt></ruby>が青いのかも知れねえ」

と、繭買の銀六老に、一種の尊敬をもってきた。<ruby><rb>猥談</rb><rt>わいだん</rt></ruby>、酒談、<ruby><rb>博戯</rb><rt>ばくぎ</rt></ruby>、悪事と諸芸、道楽の百般にわたって、この老人の<ruby><rb>該博</rb><rt>がいはく</rt></ruby>さは、驚くべきものだった。――といって決して一角を、女たちの前で、子供あしらいにするではなく、実際に飲んで遊ぶとなればなお、面白い。彼自身が、苦労も何も忘れているばかりでなく、相手をして、ほんとに、<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>を<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>して遊ばせるのである。

「なぜ、おめえは、<ruby><rb>秤量</rb><rt>はかり</rt></ruby>なんぞを、腰に差していねえで、<ruby><rb>幇間</rb><rt>たいこもち</rt></ruby>にならなかったか」

と、一角が、上わ唇を<ruby><rb>舐</rb><rt>な</rt></ruby>めあげて聞くと、

「あいつが、楽な商売に見えますかい」

と、老人は、一蹴に答えて、

「それよか、旦那あ、なぜ一本ですむ物を二本差して、<ruby><rb>窮屈</rb><rt>きゅうくつ</rt></ruby>がっているよりも、さらりと、<ruby><rb>博奕打</rb><rt>ばくちうち</rt></ruby>にでもならないのか、わしゃあ、ふしぎ……」と、真面目にいった。

女たちが、話の深味を、はきちがえて、

「<ruby><rb>博奕</rb><rt>ばくち</rt></ruby>ならば、今、日光には、大きな<ruby><rb>賭場</rb><rt>とば</rt></ruby>ができていますから、私たちが、男だったら」

「そうそう」と、老人は、膝を打って、

「陽明門の御修築で、諸国から、職人たちが集まっているせいだろう。あれはすばらしい。日光の賭場を知らずに、博奕は語るな。旦那あ、どうですな」

「行こう」

思い立つと、すぐだった。

気まぐれではない――ここの払いをしてみると、一角は、もう底の透いてみえる持ち金に、少し、心細さもあったのである。

## 三

あぶら<ruby><rb>蝉</rb><rt>ぜみ</rt></ruby>、みんみん蝉、日光山がジイ――ッと啼いているようだ。

「馬鹿なやつじゃねえか。あれが、ほんとの、<ruby><rb>自暴</rb><rt>やけ</rt></ruby>のやん八」

香りの高い<ruby><rb>檜</rb><rt>ひのき</rt></ruby>の板を、削り台にそろえて、十人ばかりの大工が、絹よりうすい<ruby><rb>鉋屑</rb><rt>かんなくず</rt></ruby>を舞わせながら、

「ふふむ、あの浪人者か。山の<ruby><rb>大賭場</rb><rt>おおとば</rt></ruby>へ割りこんで、素ッ裸に、取られたっていうなあ」

「<ruby><rb>素人</rb><rt>しろうと</rt></ruby>のくせにしやがって、諸国の親分が出張っている盆へ行って、商売人の金を取ろうっていう量見が、第一、押しがふてえ」

「だが、毎日、そっちこっちの工事場で、寝てばかりいやがって、邪魔になってしようがねえな」

「先へ行く路銀も失くなったんだろう。<ruby><rb>賭場</rb><rt>とば</rt></ruby>をのぞいちゃ、金をゆすッて、ああして、酒ばかり食らってやがる。――まさか、左官や<ruby><rb>塗師</rb><rt>ぬし</rt></ruby>の手伝いもできず、侍もああなっちゃお仕舞だな」

「<ruby><rb>叱</rb><rt>し</rt></ruby>ッ……。やたらに、<ruby><rb>大</rb><rt>で</rt></ruby>けえ声を出すな。眼をさますぞ」

<ruby><rb>鉋音</rb><rt>かんなおと</rt></ruby>を止めて、職人たちは、後ろを見た。板小屋の横の板束の上に、清水一角は、<ruby><rb>涎</rb><rt>よだ</rt></ruby>れをたらして、寝ていた。

連れの銀六老人は、いつともなく、別れたものと見える。

「ううむ……」と、寝返りを打って、あぶなく、板束の上から、転がりかけて抱きついた。

<ruby><rb>毛脛</rb><rt>けずね</rt></ruby>が、出ている。<ruby><rb>鋸屑</rb><rt>おがくず</rt></ruby>だらけな<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby>が、そッくり返っている。二寸ほど<ruby><rb>鞘辷</rb><rt>さやすべ</rt></ruby>りしている大刀の刀身も、賭場で、勝負をしてしまったのか、あわれにも、竹である。

「<ruby><rb>態</rb><rt>ざま</rt></ruby>あねえな」

職人たちは、べっと、<ruby><rb>唾</rb><rt>つば</rt></ruby>をして、<ruby><rb>鉋</rb><rt>かんな</rt></ruby>に腕の<ruby><rb>縒</rb><rt>より</rt></ruby>をかけ初めた。

「おう、何をしているんだお八重、はやく来ねえか」

向う側の参道並木――杉や<ruby><rb>燈籠</rb><rt>とうろう</rt></ruby>で<ruby><rb>鬱蒼</rb><rt>うっそう</rt></ruby>として、人影は見えないが、<ruby><rb>胴間声</rb><rt>どうまごえ</rt></ruby>で、こう<ruby><rb>呶鳴</rb><rt>どな</rt></ruby>っている者がある。

板小屋の横をのぞいた女の顔が、それへ、あわてながら、

「はい、今すぐに――」と、答えながら、一角の寝すがたへ、何か、結んだ<ruby><rb>紙片</rb><rt>かみきれ</rt></ruby>らしいのを、<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>りつけて、ばたばたと連れの方へ、駈けて行った。

ひら、ひら、と白い結び文は、<ruby><rb>鉋屑</rb><rt>かんなくず</rt></ruby>といっしょに舞っていた。

今、眼をさましたのか、寝ているはずの一角の眼は、赤く濁った眼を開いて、じっとそれを見ているのだった。今、通りすぎた<ruby><rb>男女</rb><rt>ふたり</rt></ruby>の足数でも心に測っているように。

やがて。

むっくりと起きて、それを拾った。読むとすぐ、裂いて、<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>に突っこみながら、

「ああ、喉が<ruby><rb>渇</rb><rt>かわ</rt></ruby>いた」

と、まだ幾分か、<ruby><rb>宿酔</rb><rt>しゅくすい</rt></ruby>の眼まいを感じるらしく、ふら、ふら、と<ruby><rb>御手洗</rb><rt>みたらし</rt></ruby>の方へあるいて行った。

風が、山をうごかしてきた。喬木の<ruby><rb>魔形</rb><rt>まぎょう</rt></ruby>が雲のはやい空に揺れて、唸っている。足場の人影は、あわただしく、活溌になって、木ッ葉や、鉋くずが、地に舞った。

「ちょっと伺います。――職人衆、仕事のお手を止めて、恐れ入ります」

仕切帳でも包んであるのか、小風呂敷を腰から前へ結んで、矢立に、道中差、<ruby><rb>千種</rb><rt>ちぐさ</rt></ruby>の<ruby><rb>股引</rb><rt>ももひき</rt></ruby>を見せて、<ruby><rb>尻端折</rb><rt>しりはしょり</rt></ruby>をしている、若い<ruby><rb>商人</rb><rt>あきんど</rt></ruby>ていの旅人だった。

「――来るぜ、ひと夕立」

と、<ruby><rb>雪脚</rb><rt>くもあし</rt></ruby>に<ruby><rb>趁</rb><rt>お</rt></ruby>われて、ばたばたと、片づけ仕事に<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てていた大工たちが、

「なんだい。物売りなら、<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>来ねえ」

いい加減に、答えていると、

「いえいえ、てまえは、<ruby><rb>縮布屋</rb><rt>ちぢみや</rt></ruby>の手代で、物売りではございません」と、若者は、ていねいに挨拶をし直して、

「<ruby><rb>伺</rb><rt>うかが</rt></ruby>いたいのは、実はこの日光の<ruby><rb>御普請場</rb><rt>ごふしんば</rt></ruby>に、<ruby><rb>賭場</rb><rt>とば</rt></ruby>があるそうで」

「おい。邪魔だな、あぶねえぜ」

「はいはい、相済みません。――その賭場に、十日ほど前から、清水一角という浪人が、遊びに来ているという事を、ちらと<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>から耳にしたのでございますが、どなたか、御存じでございましょうか」

「知らねえよ、一角なんていうな」

「でも、<ruby><rb>慥</rb><rt>たしか</rt></ruby>な所から……おかしい。間違いはないような話なのですが」

「<ruby><rb>幾歳</rb><rt>いくつ</rt></ruby>ぐらいな浪人だい」

「やがて三十近い――どこか<ruby><rb>凄味</rb><rt>すごみ</rt></ruby>のある<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せた男でございます」

「じゃ、あれじゃねえか。<ruby><rb>縮布屋</rb><rt>ちぢみや</rt></ruby>さん、あの板屋の横に、昼寝をしていたが」

「えっ」

と、身をかわすように、縮布屋は飛び<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>いて、

「――何処に？」

「おや、いつのまにか、見えねえようだ。何処へ行っちまったのか」

すると、一人が、

「あの浪人者なら、たった今、町から<ruby><rb>帰</rb><rt>けえ</rt></ruby>ってくる途中で<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>つかったが、何か、一本槍に、宇都宮街道の方へ、急いで行ったぜ」

「え、宇都宮の方へ。――そうですか、いや大きに」

縮布屋の手代は、そう聞くと、笠を持ち直して、まっしぐらに、<ruby><rb>神橋</rb><rt>しんきょう</rt></ruby>の方へ、走ったが、姿を見つけると、橋の<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>から、

「あっ兄様。ここに」

と、十五、六の順礼娘が、

「分りましたか」

と、側へ駈けてきた。

「おお、お信。よろこんでくれ」

と、息の弾みにも、その欣びを<ruby><rb>昂</rb><rt>たかぶ</rt></ruby>らせて、

「相手は、分った。やっぱり、ゆうべそっと<ruby><rb>報</rb><rt>し</rt></ruby>らせてくれた人の告げは、嘘ではなかった。……しかし、あれは誰だったろう」

「ほんとに、不思議な。――今朝<ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>を立ってから、ふと見ると、兄様の菅笠の裏に、そんなお告げが書いてあったなんて。……まるで神様が」

「いや人間の字だよ」と、<ruby><rb>縮布屋</rb><rt>ちぢみや</rt></ruby>は、笠の裏を返して、読み直しながら、

「お前は、そうして順礼姿、わしは、縮布屋の丈八と身なりまで変えて、こうして相手の一角を<ruby><rb>狙</rb><rt>つ</rt></ruby>けているなんていう事は、旅先で、知ってる者はない筈だが？　……」

ぽつと、雨が、顔に触った。

「オオ」と、丈八は、落着かない眼を空に、

「今、普請場できいた話には、その一角は、たった今ほど、宇都宮の方へ行ったというのだ。――お前は女の足、わしと一緒には、駈けきれまいし、といって、ここで一歩の差は、百里の差になる。……ああ困ったな」

と、<ruby><rb>焦心</rb><rt>あせ</rt></ruby>り顔に、つぶやいた。

すると、さっきから、森の薄暗がりに、黙然と腕を<ruby><rb>拱</rb><rt>く</rt></ruby>みあわせて、こっちをながめていた<ruby><rb>繭買</rb><rt>まゆかい</rt></ruby>の銀六老人が、のそ、のそ、と歩いて来ながら、

「丈八さん、お信どのは、わしが預っておる。そんな事に、気をひかれずに、早く相手を追ッて行きなさい」

## 四

「やっ、御老人」

と、丈八はびっくりして、

「あなたは、米沢の裏町にいた――」

「まあ、そんな事は、どうでもよい。実は、貴公たちが、<ruby><rb>発足</rb><rt>ほっそく</rt></ruby>して後、わしも江戸の<ruby><rb>親戚</rb><rt>みより</rt></ruby>に急用が出来てな」

「もしや、ゆうべのお報らせは」

「実は、おせっかいだが、わしの教えた事だ。今市へ泊った晩に、<ruby><rb>相宿</rb><rt>あいやど</rt></ruby>の者からひょいと聞き込んだので」

「存ぜぬために、お礼も申さず」

「いやいや、こッちに都合のわるい連れがいたので、わざと、お会いしなかったのじゃ。――だが、今聞けば、一足ちがいで、ここを立ったという事。はやく行かっしゃい、時遅れては」

「では、お信は、まだあの<ruby><rb>傷手</rb><rt>いたで</rt></ruby>の病み上がり、どうぞ」

「ああ、心配しなさるな。どうかけ違っても、わしが、ひきうける」

「安心しました、それでは」

「一角も、剣を把ると、名だたる<ruby><rb>腕利</rb><rt>てき</rt></ruby>き。ぬかりはあるまいが、油断はせまいぞ」

「その儀は」

と、初めて、明るい一笑を投げて、丈八は、宙を<ruby><rb>翔</rb><rt>かけ</rt></ruby>るように、街道を急いで行った。

みだれる雲――<ruby><rb>疾風</rb><rt>はやて</rt></ruby>の叫び――<ruby><rb>行</rb><rt>ゆ</rt></ruby>く<ruby><rb>方</rb><rt>て</rt></ruby>は<ruby><rb>宵闇</rb><rt>よいやみ</rt></ruby>ほど暗かった。時々、青白くひらめく稲妻が<ruby><rb>眸</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>を射、耳には、おどろおどろ、遠い<ruby><rb>雷鳴</rb><rt>かみなり</rt></ruby>がきこえてきた。

×　　　×　　　×

「あっ――傘が」

と、<ruby><rb>男女</rb><rt>ふたり</rt></ruby>は、<ruby><rb>柄</rb><rt>え</rt></ruby>を持ちあった。

び、び、び、と傘の耳を鋭い風の<ruby><rb>戦慄</rb><rt>せんりつ</rt></ruby>と、<ruby><rb>雹</rb><rt>ひょう</rt></ruby>みたいな雨つぶの音が、横に、なぐッて行く。

<ruby><rb>鹿沼</rb><rt>かぬま</rt></ruby>の、<ruby><rb>博奕打</rb><rt>ばくちうち</rt></ruby>、玉田屋の<ruby><rb>酉兵衛</rb><rt>とりべえ</rt></ruby>は、この一夏で、日光の<ruby><rb>出開帳</rb><rt>でかいちょう</rt></ruby>から上げた寺銭の大部分を、今、連れてゆく、孫のようなお八重の身代金に、投げだしたといわれていた。

お八重は、今市の茶屋へ、出たばかりな女だった。道中悪にかどわかされて、そこへ、捨て売りにされただけに、<ruby><rb>素人</rb><rt>しろうと</rt></ruby>くさいのと、武家出の女という事が、酉兵衛の心をうごかした。金で、<ruby><rb>花街</rb><rt>まち</rt></ruby>から抜くとすぐ、中禅寺の<ruby><rb>乾分</rb><rt>こぶん</rt></ruby>の家にあずけて、時折、

（どうだ、景気は）

などと、そのお八重を連れて、二人で、見せびらかしにでも歩くように、<ruby><rb>賭場</rb><rt>とば</rt></ruby>へ出ることもあった。

で、一角とも、場所で、二度か三度は、会ったはずである。――だが、お八重は、<ruby><rb>噯</rb><rt>おくび</rt></ruby>にも、彼との事などを、<ruby><rb>酉兵衛</rb><rt>とりべえ</rt></ruby>に<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>らしている<ruby><rb>気遣</rb><rt>きづか</rt></ruby>いはなかった。

きょうは、細尾の身内に、祝い事があるので、山を降りた。お八重は、それをどんなに待ちかねたろう。酉兵衛が、駕でというのを、何のかのと、歩かせて来たのも、彼女の考えからだった。

「みろ、言わねえ事じゃねえ。ぽつぽつ、降ッて来たじゃねえか」

「でも、相傘なら、いいじゃありませんか」

傘の蔭から、お八重は、時々、後ろを気にしていた。そして、跫音を感じると、

「あらっ」

と、不意に、傘の手を離して、それを、追うように見せて、身を<ruby><rb>交</rb><rt>か</rt></ruby>わした。

「あぶねえ。<ruby><rb>大谷川</rb><rt>だいやがわ</rt></ruby>へ<ruby><rb>墜</rb><rt>は</rt></ruby>まるなよ」

雨に、眼をつぶりながら、振向いたとたんである。<ruby><rb>蓑</rb><rt>みの</rt></ruby>を、頭からかぶって、向う見ずに駈けてきた男が、どんと、胸いたへ肩をぶつけて来たと思うと、酉兵衛の脇差の<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>へ、手を伸ばした。

「何をしやがる」

「かッ！」

蓑を<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ねた浪人者の顔を、酉兵衛は、あっと、一眼見たきりだった。ずばっ――と片手なぐりに、<ruby><rb>肋骨</rb><rt>あばら</rt></ruby>へ斬り下げられて、

「ウーム……」と、真ッ赤なものを吐く<ruby><rb>爬虫類</rb><rt>はちゅうるい</rt></ruby>みたいに、手も足も縮め込んで、雨の中を、転がった。

どぼうん――と大谷川に、<ruby><rb>飛沫</rb><rt>しぶき</rt></ruby>が立った。

激流は、人間の血あぶらと、背なかだけを見せた丸っこい死骸とを、一瞬のまに、流して行った。

「しばらくだったなあ……」

一本のやぶれ傘の中で、<ruby><rb>男女</rb><rt>ふたり</rt></ruby>は、笑い顔をながめ合って歩いた。<ruby><rb>雷光</rb><rt>いなびか</rt></ruby>りが、絶えず、白い雨を見せて、<ruby><rb>睫毛</rb><rt>まつげ</rt></ruby>のさきに<ruby><rb>閃</rb><rt>ひらめ</rt></ruby>いていた。

## 五

きょうまで、どんなに苦労をしたろう、探したろう、そして、寝る間も――というような事を、女は、雨も<ruby><rb>雷鳴</rb><rt>かみなり</rt></ruby>も――<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れる冷たさも、うつつに、<ruby><rb>昂奮</rb><rt>こうふん</rt></ruby>してしゃべった。

「金は」

一角は、お八重が、いい加減、言いくたびれるのを待って、

「――持って来たろうな」

「金なんか……。江戸へゆけば、思案の上で、どうにかなるでしょう。路銀さえあれば」と、帯を、ちらと覗いた。

「じゃ、支度をして来なかったのか」

「ええ。……だって、とても<ruby><rb>乾分</rb><rt>こぶん</rt></ruby>たちの眼があって」

女は、一角の期待していた重点には、まるで、無関心のように、

「でも、私は、嬉しい」

と、傘の柄にある男の手を、上から、痛いほど、重ねて握りしめた。

（馬鹿。馬鹿。馬鹿）

自分へか、女へか、一角はむらむらと、やり場のない、怒りを感じた。――まるで食い違っている女と自分とが、こんな吹き降りの中を、一本の傘で、歩いている物好きさが！

（金なのだ。俺がいま欲しいのは。――江戸へゆけば、兇状だらけ。千坂の屋敷以外には、身のおき所もねえ体）

だが、足は、この日光街道は、まっ直ぐに、中仙道から江戸へ向いている――

「ちッ」と、思わず、唇をゆがめて、

「ああ、酒がさめた。酒が恋しい」

「そんなに、この頃は、飲むのですか」

「半日も、<ruby><rb>一刻</rb><rt>いっとき</rt></ruby>も、酒がなしじゃいられねえ」

「私が、側にいるようになったら、そんな毒なものは、もう<ruby><rb>飲</rb><rt>あ</rt></ruby>げない。そして可愛がってばかりあげる」

一角は、ふいに、傘の下を、脱け出した。

「あら、何処へ」

「居酒屋だ」

戸を細めている真暗な居酒屋の軒下に立って、一角は、<ruby><rb>枡</rb><rt>ます</rt></ruby>をうけ取った。<ruby><rb>樋</rb><rt>とい</rt></ruby>の雨水が、ざっざと、背なかを打つのであった。

ぐうっと、眼をねむって一息に――

「おお、<ruby><rb>美味</rb><rt>うめ</rt></ruby>え。――亭主亭主、もう五合」

一升の<ruby><rb>冷酒</rb><rt>ひや</rt></ruby>は、一角の体温をほどよく温めた。あきれて、後ろへ立っているお八重へ、

「オイ。銭を払え」

お八重が、帯の間から数える小銭を見て、彼は、さらに、女の貧しさを憎んだ。それは、二晩の<ruby><rb>旅籠代</rb><rt>はたごだい</rt></ruby>にもたりない。

「面倒だ――<ruby><rb>剰銭</rb><rt>つり</rt></ruby>は――こう亭主、剰銭の分だけ、追い足しに」

さすがに、<ruby><rb>酔</rb><rt>よい</rt></ruby>が、いっぺんに、発して、一町ばかり歩く頃から、雨が、逆さに降ッてるように見えた。

「濡れますよ。傘の中に、はいっていないと」

「ええ、小うるせえ」

と、女の手を、肩を振って、振り落して、

「――てめえは一体、どこへ行く気だ？」

「あんな事をいって。江戸へでしょう。そして、私には、お里姉さんのように、江戸唄のお師匠様にはなれないけれど、針仕事ぐらいはできるから」

「だれが、そんな夢を見ろと言った。一角は、天下の無宿、おめえなどと、巣を持つ土地さえありゃしねえ。――ばかばかしい、金でも持って来るかと思やあ……」

「清水さん。おまえ、それは本気で」

「本気も嘘もあるものか。元々、一角は、浮気者だ。浮気者なればこそ、禄にありついたと思うと、そいつに身を破る。こっちの身を破らせておいて、女は、後じゃ恨みつらみ……。それを思うと、酒は可愛い。おれはこれから宗旨をかえて、生涯酒を無宿の女房ときめる。……へッ、へッ、へ、へ。よくもここまで俺も……は、は、は」

「何が……何がおかしいのですえ。……じゃ清水さんは、初めから私を」

「あたりめえだろう。てめえも、武家の出戻りでありながら、ただ、行きずりの一角に、すぐ手を出せば乗るなんざ、<ruby><rb>女庭訓</rb><rt>おんなていきん</rt></ruby>を外れている。身から出た<ruby><rb>錆</rb><rt>さび</rt></ruby>」

「な、なんですッ」

「おっ――あ、あぶねえ、食いつくのか」

「口惜しいっ……。く、口惜しいっ……」

「泣け泣け。肩なら、いつまででも貸してやる。……おお、何か落ちた、<ruby><rb>髪</rb><rt>あたま</rt></ruby>の物が」

お八重は、雨の中へ、手をのばして、

「あ……姉さんの<ruby><rb>罰</rb><rt>ばち</rt></ruby>」

「姉さん？」

「――堪忍して、堪忍して」

と、拾った小さい物を、抱きしめた。

ぎょっと、彼女の手へ、一角は――酒と血とを、交ぜたような、どろんとした眼を、すえて、

「何だ？　……それは」

「<ruby><rb>釵</rb><rt>かんざし</rt></ruby>」

「畜生ッ」

雨が――きゃあッ――という悲鳴を吹き<ruby><rb>攫</rb><rt>さら</rt></ruby>ッた。

小脇差で、たった一打ちに、お八重の首を、ぶらんと、斬って伏せた一角は、どっどと、<ruby><rb>雷</rb><rt>いかずち</rt></ruby>にあわせて鳴る大谷川の<ruby><rb>激潭</rb><rt>げきたん</rt></ruby>のふちを、<ruby><rb>蹌々</rb><rt>そうそう</rt></ruby>と――<ruby><rb>踉々</rb><rt>ろうろう</rt></ruby>と――刃の血を、雨に、洗わせながら歩いて行く。

どこの追分で、道をちがえたか、それとも、裏街道と、早まって、先へ追い越してしまったのか、<ruby><rb>縮布屋</rb><rt>ちぢみや</rt></ruby>丈八は、とうとう、一角の姿を見出さなかった。

## 吉良家の人々

## 一

江戸らしい。どうしても。

あらゆる物証からも、六感からも、丈八はそう教えられて、日ごとに、江戸中を探していた。

初秋の二百十日過ぎ。――町には、祭りの<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>、<ruby><rb>花車</rb><rt>だし</rt></ruby>、シャンギリの音が――そして空には赤とんぼが、江戸の秋を染めている澄んだ日だった。

「御用っ」

左衛門橋を、ばらばらっと人が――声が飛んでった。

砂利場の砂利に、腰を下ろして、

（銀六老人にも、あのまま、別れっ放しだが、お信は、守っていてくれてるだろうか。あの物堅い老人ゆえ、安心は安心だが）

と、すこし疲れた面もちに、考えていた<ruby><rb>縮布屋</rb><rt>ちぢみや</rt></ruby>丈八は、

「何か？」

と、橋の跫音に、顔を上げた。

とたんに――一箇の物体が、視線をかすって、橋の袂から、河へ。――と思うと、どぼうんと、白い<ruby><rb>飛沫</rb><rt>しぶき</rt></ruby>が、丈八の顔にまでかかった。

「石？」

と、丈八は、思ったが、橋の<ruby><rb>欄</rb><rt>てすり</rt></ruby>に、足をとめた町方や、捕手や、弥次馬の群れは、

「飛びこんだ、飛びこんだ」

「あの辺に――」

「水がうごいている」

わいわいと、指さしているうちに、町方同心が、指図をする。捕手たちが、そこらの舟へ飛びうつる。<ruby><rb>竿</rb><rt>さお</rt></ruby>で突く、<ruby><rb>鉤</rb><rt>かぎ</rt></ruby>を投げる。

「――はてな？」

丈八だけは、その人々が、みんな視力の錯覚にかかっているように見えた。で――何気なく、そこを離れて、<ruby><rb>橋袂</rb><rt>はしたもと</rt></ruby>から、<ruby><rb>欄干</rb><rt>らんかん</rt></ruby>にかけて、背中ばかり並べている群集の空地を見ると、今、捕手たちが追い込んで来た元の方へ、ふところ手にして、にやりと、笑いを<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>めながら戻ってゆく男がある。

ごくッ……と、丈八は、<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>に<ruby><rb>生唾</rb><rt>なまつば</rt></ruby>をつかえさせた。似ている！　と思う直感と、たしかに！　という直感と、一時に、十文字に、胸をつきぬいて、大きく心臓が呼吸した。

場所――地の理――<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>けまわして、ちょうと、<ruby><rb>黄昏頃</rb><rt>たそがれごろ</rt></ruby>。

どこの仮巣へ帰るのか。

祭りの赤い宵空に、夕月の映るを見ながら、竹屋河岸の酒屋の軒ばを出て、ぶら、ぶら、と<ruby><rb>火除地</rb><rt>ひよけち</rt></ruby>の桐ばたけを、一角は、よろめいて行った。

（よしっ、今だ）

と見て、丈八が、

「待てっ。一角っ」

と、するどく、ぶつけて、<ruby><rb>突嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に、前へ突っ立つと――分らない――<ruby><rb>朦朧</rb><rt>もうろう</rt></ruby>と<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>でも隔てて見るように、

「だ、誰だ」

「酔をさませ。木村丈八郎だ」

「来たかっ、丈八」

「米沢への江戸<ruby><rb>土産</rb><rt>みやげ</rt></ruby>に、その首を貰った」

「ばッ、ばかなッ。……わ、笑わすなよ、丈八。俺こそ、貴様の首がぜひとも入用だ。江戸への、米沢土産に、てめえの首をぶら下げてゆけば、ちと、<ruby><rb>閾</rb><rt>しきい</rt></ruby>はたかいが、一時の身の置き場はある」

「だまれ、姉の怨みも」

「それで来るなら、それもよし、返り討ちだぞ」

「何の」

「くそうッ」

## 二

ちかッと、青い夕月の光が、脇差の刃に<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ねた時、一角の体は、肩を落して、<ruby><rb>豹</rb><rt>ひょう</rt></ruby>のように、丈八のふところに、はいっていた。

だっッ、と足で<ruby><rb>搏</rb><rt>う</rt></ruby>った。

（不覚）

と、丈八は、<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>がしらで、一角の小手を突いたが、とたんに、足が浮いた。――投げ――食ったな――と宙で感じると、逆さまに見える敵の影を、

（おのれっ！）

と、払ッた。

びゅっと、風の立つような勢いで、一角は後へ跳んでいた。でも、切っ尖は、彼の<ruby><rb>睫毛</rb><rt>まつげ</rt></ruby>から、三寸とは、離れていなかった。

とたんに丈八は、見事に五体を、抛られていたのである。本能的に、刀だけは、ぴたっと、前へかまえていた、そして、一角はと見ると、大刀は抜かず、小脇を払って、あれが、ほんとの一角の眼か――と見られる<ruby><rb>凄</rb><rt>すご</rt></ruby>い眸を、ジッと刃のみねから真っ直ぐにつけている。

「止めろっ。おいっ！　あぶない！」

突然、誰か、こう呶鳴った。

そして、一角のうしろからも、丈八郎の後ろからも、むずと、抱きすくめた者がある。

「や、<ruby><rb>青砥</rb><rt>あおと</rt></ruby>弥助」

「おう、<ruby><rb>湧井</rb><rt>わくい</rt></ruby>半太夫じゃねえか」

丈八郎も、一角も、同じように驚いた。そして、互いに、叫び、<ruby><rb>悶</rb><rt>もだ</rt></ruby>え、抱きとめている手を振りもいで、<ruby><rb>挑</rb><rt>いど</rt></ruby>みあうのを抑えながら、

「待てっ、<ruby><rb>任</rb><rt>まか</rt></ruby>せろ。――御家老もおいで遊ばしている事だ。御家老に対しても」

と、二人は、必死に制した。

「え。千坂様が」

さらに、意外に<ruby><rb>衝</rb><rt>う</rt></ruby>たれているまに、青砥は、手をあげて、

「駕、駕」

と、桐ばたけの蔭の灯を呼んだ。

飛んできた、町駕が二つ。――湧井は、無理やりに、

「さ、はいってくれ。討つとも、討たれるとも、とにかく、話はお屋敷で」

<ruby><rb>微行</rb><rt>しのび</rt></ruby>の塗駕が、すぐそばを通った。<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>のしるし、まぎれもない、千坂家のものである。

その後に<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて、

「――早く、早く」

と、湧井半太夫と、青砥弥助とは、駕を<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>き立てて、たッたと駈けだした。そして、真っすぐに浜町の千坂家の下屋敷へ。

祭りを見せるといって、<ruby><rb>馬喰町</rb><rt>ばくろちょう</rt></ruby>の<ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>から、お信を連れて、出あるいていた<ruby><rb>繭買</rb><rt>まゆかい</rt></ruby>の銀六老人は、お信には、分らぬ、知れぬ、とばかりいっていた丈八郎の行動を、どうして、そう心得ているのか、

「さ、見つかった」

と、<ruby><rb>火除地</rb><rt>ひよけち</rt></ruby>へ、急いで来たが、案外な――という顔をして、

「はてな、何処へ」

と、遠ざかった駕を、必死に、追いかけて行った。

だが――それがやがて、千坂家の表門へ、駕通しに、ずっと呑まれてしまったのを見届けると、

「ああ、しまった！」

と、何もかも、<ruby><rb>泡沫</rb><rt>ほうまつ</rt></ruby>に帰したように、しばらく、茫然と、<ruby><rb>厳</rb><rt>いかめ</rt></ruby>しい<ruby><rb>門扉</rb><rt>もんぴ</rt></ruby>を<ruby><rb>眺</rb><rt>なが</rt></ruby>めていた。

「どうも、しかたがない。――やはりそれだけ、千坂兵部の手が大きいのだ。お信さんや……」と、振り向いて、

「お前も、いろいろ、苦労をしなすったね。だが、これからは、大きな人物のふところで、雨にも、風にもあたるまい。木村丈八郎の妹だといって、そこの家をたずねなさい。……何、わしかい？　わしはまあ、遠慮しよう。じゃ、御機嫌よく」

と、お信を置いて、それなり、風のように姿をかくしてしまった。

## 三

<ruby><rb>呉</rb><rt>ご</rt></ruby>と<ruby><rb>越</rb><rt>えつ</rt></ruby>と、<ruby><rb>仇</rb><rt>あだ</rt></ruby>と<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>とが、こうして一つの<ruby><rb>釜</rb><rt>かま</rt></ruby>の飯を食う、食うのが、間違っているか、宿命なのか。

本所松坂町の吉良家の侍部屋で、もう一年と幾月かを、思わず暮してしまった丈八郎は、

（なんと、人間は、ふしぎな生きもの）

と、感ぜざるを得なかった。人がではない、自分がである。自分の変化がわからないのである。

一つ釜の飯の同化力はおそろしいものだ、と思った。――この、吉良殿の首番としてごろごろしている侍部屋には、今、十一人の剣客がいる。自分もそのひとり、清水一角も、その一人だ。

「――たのむ。お家のために、吉良殿ではない、上杉家の<ruby><rb>社稷</rb><rt>しゃしょく</rt></ruby>のために」

あの、<ruby><rb>直江</rb><rt>なおえ</rt></ruby>山城以来の人物といわれている国家老の千坂兵部が、軽輩も軽輩――とるにたらない<ruby><rb>若輩</rb><rt>じゃくはい</rt></ruby>の自分へ、

「私怨は、わすれてくれ。わしが、たのむ」

と、手をついたではないか。手を。

（<ruby><rb>衝</rb><rt>う</rt></ruby>たれずにいられるか）

丈八郎は、<ruby><rb>否</rb><rt>いな</rt></ruby>やなく、

（一角とは、桐ばたけで、<ruby><rb>刺</rb><rt>さ</rt></ruby>し<ruby><rb>交</rb><rt>ちが</rt></ruby>えたと思って、吉良殿へ、参りまする）

と答えたのだった。

ところが――初めは、朝夕に、顔をみるさえ、影をみるさえ、むらっと、殺意に燃えた一角が、誰より、一番ふかい自分の友だちになっている。一つ釜の飯の感化なのか、今では、憎もうとしても、憎めない。

「さあ来い。酒を賭けるか」

と、<ruby><rb>毛脛</rb><rt>けずね</rt></ruby>をむきだして、脛押しをしている一角。酔えば十一人の部屋を、ひとり顔に、寝ている一角。

「よく、無宿者が集まりやあがったぜ。ここは、人間のさなぎが寄った無宿人の国だ。どうだい、今日は、おれが、貸元になるから、無宿者の真似をして、遊ぼうじゃねえか」

飲むか、寝るか、女ばなしか、する事がないので、大びらに、<ruby><rb>博奕</rb><rt>ばくち</rt></ruby>なども初めるが、自分の首の番をしてもらっている吉良殿は、弱身があるので、

「左様な事は、相成らぬ」

とも、いえなかった。

丈八郎は、たった一つの希望、お信のことだけを、時折、思いだしたが、その将来は、千坂兵部が誓ってくれている。何の、思いのこす事はないのである。

（いつでも）

と、死を待つ、さわやかな気持が、非常に、彼を自由にした。どんな<ruby><rb>遊戯</rb><rt>ゆうぎ</rt></ruby>、どんな、見下げるような浪人とも、楽につきあえて、面白く、相手の人間性を見ることができた。

――殊に一角に対する考えは、前とは、まるで変っていたし、一角も、やや心の落着きと、その居所を得たというのか、だいぶ、<ruby><rb>荒</rb><rt>すさ</rt></ruby>んだ影がとれてきた。

「雪だ」

というので、まかない方へ、

「こん夜は、<ruby><rb>鮟鱇鍋</rb><rt>あんこうなべ</rt></ruby>を出せ。酒も、よけいに」

と、それを、十一人でとり囲んで、ぐっすり寝込んだ晩だった。まさに、十二月の十四日である。

屋根の雪なだれ――かと、思っていた物音に、耳をすますと、陣太鼓。

がばっと、真っ先に、一角が、

「丈八郎」

と、蒲団を<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ねて――

「起きているか」

「お……。いぶかしいぞ」

「来たっ。は、は、は、は。丈八郎、俺は、なんだか、嬉しくってたまらない。とうとう来た――俺の、俺の待ちかねた日だ。ぬかるなッ」

もう、<ruby><rb>青砥</rb><rt>あおと</rt></ruby>弥助も、湧井半太夫も、十一人すべてが躍りあがって、

「赤穂の浪士、何ほどのことがあろう」

<ruby><rb>長押</rb><rt>なげし</rt></ruby>の槍へ、手をのばす者、日ごろ、<ruby><rb>稽古</rb><rt>けいこ</rt></ruby>をしていた、半弓の<ruby><rb>弦</rb><rt>つる</rt></ruby>を鳴らす者――。

「丈八郎！　俺と一緒に働け」

一角は、一枚の雪戸を蹴ってさけんだ。眼を<ruby><rb>射</rb><rt>い</rt></ruby>るような白夜の光が、さッと、室内へ冷たい空気をふきこんだ。

## 四

裏門、表門。――室内へ、庭口へ。

烏のような人数が、どっと、なだれ込んだ。誰が将、誰が<ruby><rb>某</rb><rt>なにがし</rt></ruby>とも、わかたない。

<ruby><rb>付人</rb><rt>つきびと</rt></ruby>側の十一人、鳥居与右衛門、須藤与一、<ruby><rb>左右田</rb><rt>そうだ</rt></ruby>孫八たちは、みるまに、奮戦して、ばたばたと討死した。

一角は、<ruby><rb>朱</rb><rt>あけ</rt></ruby>になって、

「丈八郎、いるか。――丈八郎」

と、たえず、彼を呼びながら、

「けなげな、赤穂の浪人、清水一角のいるからには、ここは一歩も」

と、奥書院にかよう、中門に立った。

「推参ッ」

と、<ruby><rb>萩垣</rb><rt>はぎがき</rt></ruby>の横から、槍が走った。――若い、赤穂浪士の一人だった。

「うぬ！」

だっと追って、片手に大刀を、左手に、小脇差をもって、飛びかかった。雪をもった、松の梢が、間へ、ばさっと落ちた。

「<ruby><rb>矢頭</rb><rt>やとう</rt></ruby>。あぶないッ」

それを、ささえるように、がっしりと、武装をした一人が、さけんで、

「――赤穂の旧藩士、<ruby><rb>奥田</rb><rt>おくだ</rt></ruby>孫太夫重盛、一角どのへ、参る！」

と、槍をくりのばした。

「何ッ」

ふと、声に覚えがあったので、片手を、上段に、ふり向いた一角は、<ruby><rb>鉢金</rb><rt>はちがね</rt></ruby>の下とはいえ、あざやかに見える敵の顔に、

「あッ？　老人」

と、ど肝を抜かれて、叫んだ。

敵は、笑って、

「<ruby><rb>繭買</rb><rt>まゆかい</rt></ruby>の銀六、お覚えか」

「さては、老人、赤穂の廻し者であったな」

「むろん、米沢あたりにも、一人や二人の<ruby><rb>間諜</rb><rt>かんちょう</rt></ruby>は。――これも、尽きぬ御縁」

「おっ、よい敵だ」

半弓の矢が、どこからか、飛んで来た。二、三合、刃まぜをする間に、奥田孫太夫は、あっと<ruby><rb>深股</rb><rt>ふかもも</rt></ruby>を抑えて、

「残念ッ」と、いいながら、雪の上に、腰をくだいた。

「弱いぞ、銀六。――いや奥田老人」

振りすてて、走り去ると、奥田老人は、

「卑怯卑怯、返せ、一角」

と、どなった。

乱れ髪に雪を――全身に血を、浴びて、一角は、斬りまわった。もう、白い雪と、赤い血としか、何ものも見えなかった。人影と見れば、双方から、ぶつかッて、刃をあわせた。

「――おッ、そこにいたか」

池のふちに、苦戦の丈八郎を見出して、

「――助太刀ッ」

と、味方へ、気勢をつけて、その群れへ、斬りこんだ。

誰か、雪を真っ赤にして俯ッ伏していた赤穂方の一人が、ふいに見た、一角の足を、刀でなぐった。

「ええッ、<ruby><rb>此奴</rb><rt>こいつ</rt></ruby>」

<ruby><rb>踉</rb><rt>よろ</rt></ruby>けながら、後ろへやった刀が、かつんと、鉢金に弾んだと思うと、鍔から三、四寸の所から、折れて、<ruby><rb>氷柱</rb><rt>つらら</rt></ruby>のように、すッ飛んだ。

しきりと、室内から、半弓を射て、味方を助ける者があった。――また、ひと群れが、庭木戸から、押しもどって、どっと、雪が、まっ黒になるほど、<ruby><rb>紛雑</rb><rt>ふんざつ</rt></ruby>する。

「丈八……俺を……丈八……俺を……」

そこを、斬り破って、刀を杖に、よろめいてゆく一角の顔は、もう、あらかた血と、青い皮膚だった。

木村丈八郎の腕を、自分の脇の下へ、かたく抱きこみながら、

「さ。……どこか。……何処でもいい、人眼にかからない、所で、俺の首を……斬れ……。斬ってくれ」

「しっかりしろ！　一角、まだ、まだ」

「いや、御奉公はした。千坂殿への奉公はした。……貴様だって……立派だ……立派に頼まれただけの事はやった。<ruby><rb>上野介</rb><rt>こうずけのすけ</rt></ruby>の首なんか、千坂殿だって、いつかはと、覚悟はしている。ただ……上杉家の立場が……ただそれだけだ。討て、はやく、人の来ないうちに」

「もう、そんな私怨は、千坂殿のまえで忘れた約束だ。俺は、斬らん。――二人で、もう一度、赤穂の浪人の中へはいって、斬り死にをしよう。なあ、一角」

「いけねえ。……それでは、俺の気がすまない。この雪の夜を、こんな、<ruby><rb>誂</rb><rt>あつら</rt></ruby>え向きな晩を、さばさば……と」

彼は、雪をつかんで、<ruby><rb>唇</rb><rt>くち</rt></ruby>に入れた。

「――赤穂の敵は、立派だなあ。戦いながら、<ruby><rb>惚々</rb><rt>ほれぼれ</rt></ruby>した。<ruby><rb>武士</rb><rt>さむらい</rt></ruby>はやっぱり武士に、成り切らなくっちゃ、嘘なんだ。丈八……貴様あ、立派な武士になれ」

「ばかなっ、俺も、今夜は死ぬ身――」

「よせ。吉良の庭に、犬死するな。庭ざかいの塀を越えて、上杉家へ、駈け込め。――千坂殿が、きっと来ている。千坂殿は、きっと、貴様の生きて帰ってきたのを欣ぶ！」

丈八郎は、初めて、一角の眼に、涙というものを見た。口へ押しこんだ、雪をかみながら、濡れた<ruby><rb>睫毛</rb><rt>まつげ</rt></ruby>を、しばたたくのである。

「……さっ、斬れ、おいっ。頼むから、きれいに、<ruby><rb>斬</rb><rt>や</rt></ruby>ってくれ。年三十にならねえうちに、生きるに持てあましたこの首を」