## 立つ秋

<ruby><rb>湯槽</rb><rt>ゆぶね</rt></ruby>のなかに眼を閉じていても、世間のうごきはおよそわかる――。ふた月も病人を装って辛抱していたこの有馬の<ruby><rb>湯治場</rb><rt>とうじば</rt></ruby>から、世間の陽あたりへ歩き出せば、すぐに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あし</span>のつくというくらいな寸法は、なにも、気がつかずに立った<ruby><rb>治郎吉</rb><rt>じろきち</rt></ruby>ではなかった。

<ruby><rb>素袷</rb><rt>すあわせ</rt></ruby>の肌ごこちや、女あそびを思わせる初秋の風は、やたらに、治郎吉を退屈の殻から<ruby><rb>唆</rb><rt>そそ</rt></ruby>った。

――で、<ruby><rb>無性</rb><rt>むしょう</rt></ruby>に、あぶない世間が恋しくなって、有馬の<ruby><rb>槌屋</rb><rt>つちや</rt></ruby>を立ったのが七十日ぶりの爽やかな秋の朝で、湯治中すっかり馴染になった<ruby><rb>湯女</rb><rt>ゆな</rt></ruby>のお仙が、彼の<ruby><rb>振分</rb><rt>ふりわけ</rt></ruby>を持って、坐頭谷まで送ってくれた。

「もうこの辺で結構だ。お仙さん、また来年会おうぜ」

治郎吉がいうと、

「いえ、<ruby><rb>武庫川</rb><rt>むこがわ</rt></ruby>まで」

と、お仙は、いつまでも振分を渡したくないように抱えこんで、蛍草の咲く道をふんでいた。

「おこころざしは有難えが、そいつは、かえって名残がますというもんだ。宿でも、変に思うといけねえから、ここらで、帰った方がいいぜ」

「――だから、旅のお客は、たよりがない」

「どっちにしても、生涯、有馬にいるわけにはいかねえもの」

「わたしも、江戸へ、連れて行ってくださいな」

「じょ、じょうだんだろう」

「ほんとにさ！　ね、治郎さん」

人通りが絶えていた。女は、ついと小戻りをして、治郎吉の<ruby><rb>袷</rb><rt>あわせ</rt></ruby>の<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>を、ねじきるようにつかんだ。

「……ね、治郎さん」

「よせやい」

胸へ、もってくる顔を、<ruby><rb>邪慳</rb><rt>じゃけん</rt></ruby>にかかえて、

「みッともねえ、泣くやつがあるもんか」

「わたし、行きたい」

「どこへ」

「どこへでも、治郎吉さんと、いっしょにさ」

「そんな約束じゃなかったぜ。……さ、人が通ると、評判にならあ、はやく、<ruby><rb>帰</rb><rt>けえ</rt></ruby>ンねえ」

「<ruby><rb>嫌</rb><rt>いや</rt></ruby>！　……わたしは急に、帰るのが嫌になった。連れて行ってください、どこへでも」

「わからねえことを言っちゃ困る」

「だって、お前さんの足手まといにさえならなけれや、いいんでしょう」

「そうはゆかねえ」

<ruby><rb>嘆息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>のように言ったのである。

ありふれた湯女とお客の御多分なみに、ほんの、退屈まぎれな、いたずら心でした事を、軽く後悔するように。

第一、相手の女にもよる。こう、<ruby><rb>後腹</rb><rt>あとばら</rt></ruby>を痛めるほど、値うちのある<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きりょう</span>とは、惚れられている彼の眼にも踏めていなかった。

「<ruby><rb>帰</rb><rt>けえ</rt></ruby>ンねえってことよ」

振分をもぎ取って、治郎吉は、先へ歩きだした。

女は、黙って、武庫川の見えるまで<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて来た。――ちッと、舌うちを鳴らしながら、

「お仙、どうしても、<ruby><rb>帰</rb><rt>けえ</rt></ruby>らねえのか」

「…………」

「おめえはまだ、おれの、ほんとの素姓を知らねえからそう慕ってくるんだ。実あ、おらあ江戸をずらかって来た兇状持ちだ。悪いこたあいわねえから、おれと、なんかあったなンていうこたあ、<ruby><rb>噯</rb><rt>おくび</rt></ruby>にも、<ruby><rb>他人</rb><rt>ひと</rt></ruby>にいわねえ方がおめえのためだぜ」

「そんなことは、とうに、知っています」

女は、驚きもしなかった。

「えっ、知ってる？」

「有馬へだって、何度、お役人や人相書が廻って来たか知れませんもの」

「ふーム」

「そのたびに、わたしだって、<ruby><rb>槌屋</rb><rt>つちや</rt></ruby>の御亭主に、ずいぶん腹を探られていました。いちどなんか、自身番まで呼ばれて、たたかれたことだって、あるんです」

「じゃ、おれが、<ruby><rb>盗</rb><rt>ぬす</rt></ruby>っ<ruby><rb>人</rb><rt>と</rt></ruby>だということを承知のうえで」

「え。わたしは、惚れているんです。江戸をあらした鼠小僧の」

「しっ……」

口軽い女の二の腕を、ふいに、男の指が突いた。ぞろぞろと、<ruby><rb>渡舟</rb><rt>わたし</rt></ruby>を下りた旅人たちが河原から上って来たのである。治郎吉は、お仙のからだを、からだで押すように、足を早めて、

「――乗りねえ、ちょうど着いた、あの<ruby><rb>渡舟</rb><rt>わたし</rt></ruby>へ」

## <ruby><rb>色元結</rb><rt>いろもとい</rt></ruby>

パチ、パチ、と音がする。中で、<ruby><rb>将棋</rb><rt>しょうぎ</rt></ruby>をやっているらしい。

「ははあ、<ruby><rb>此家</rb><rt>ここ</rt></ruby>だな」

と、治郎吉は、立ちどまって、<ruby><rb>髯</rb><rt>ひげ</rt></ruby>の伸びた<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>をなでた。

太左衛門橋の河岸ぶちである。<ruby><rb>道頓堀川</rb><rt>どうとんぼりがわ</rt></ruby>を隔てて、芝居茶屋のお内緒の<ruby><rb>桐箪笥</rb><rt>きりだんす</rt></ruby>や、赤い座ぶとんや、長火鉢がのぞかれる。秋の陽がからんと、明るく<ruby><rb>映</rb><rt>さ</rt></ruby>しているその家の土間障子には、大きな<ruby><rb>奴髷</rb><rt>やっこまげ</rt></ruby>と、そばに<ruby><rb>自雷也床</rb><rt>じらいやどこ</rt></ruby>と書いてあった。

「ごめんよ」

がらりと開けて、棒立ちに、

「すぐ、やって貰えますか」

「お掛けなさいまし」

<ruby><rb>下剃</rb><rt>したぞり</rt></ruby>が、腰の掛け場を片づけて、

「<ruby><rb>月代</rb><rt>さかやき</rt></ruby>ですか」

「なに、こいつあ、このままでいい。髯だけだ」

「おひとり様だけ、お待ちねがいます。ま、いっぷく、お<ruby><rb>吸</rb><rt>つ</rt></ruby>けなすって」

煙草盆を、そこへ出しておいて、下剃は、流し元で、<ruby><rb>青砥</rb><rt>あおと</rt></ruby>をすえて、ごしごしと、<ruby><rb>剃刀</rb><rt>かみそり</rt></ruby>を<ruby><rb>磨</rb><rt>と</rt></ruby>ぎはじめた。二階が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やわ</span>なので、地震のように、家がうごく。

治郎吉は、<ruby><rb>真鍮</rb><rt>しんちゅう</rt></ruby><span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のべ</span>で、すぱりと、一服くゆらしながら、家のなかを見まわした。床屋といえば、江戸も<ruby><rb>上方</rb><rt>かみがた</rt></ruby>も、似たりよったりなものだった。隅では、一組、将棋盤をかこんでいる。壁には、三座の絵番付やら、<ruby><rb>素人浄瑠璃</rb><rt>しろうとじょうるり</rt></ruby>のビラなどが、辻便所ほど貼りつけてあって、そのまえに、油染みた桐の<ruby><rb>櫛箱</rb><rt>くしばこ</rt></ruby>や、<ruby><rb>鬢</rb><rt>びん</rt></ruby>だらいなどをすえつけて、今、一人の客の髪を結い上げているのが、親方の<ruby><rb>仁吉</rb><rt>にきち</rt></ruby>らしかった。

二十七、八の苦みばしった男である。胸から二の腕にかけて、<ruby><rb>蟇</rb><rt>がま</rt></ruby>の<ruby><rb>肌</rb><rt>はだ</rt></ruby>のように、入墨の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぼかし</span>が見える。その背なかに彫ってある自雷也が通称になって、自雷也床の親方で通っている彼だった。

「……ちっとも、似ていねえな。腹ちがいにしても、<ruby><rb>兄妹</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>なら、どこか似ているところがありそうなもんだが」

治郎吉の眼は、<ruby><rb>煙草</rb><rt>たばこ</rt></ruby>のけむりの中で、そう見ていた。<ruby><rb>湯女</rb><rt>ゆな</rt></ruby>のお仙から、兄の仁吉が、太左衛門橋で、髪結床をしているということは有馬の逗留中に、度々聞いていたが、今日ここへ来たのは、伸びた髯を剃るだけの用事ではなかった。――<ruby><rb>旁〻</rb><rt>かたがた</rt></ruby>、彼女から<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>られたある問題の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かた</span>をつけるためだったが、ほかの客がいては、ちょっと、話のぐあいが悪いのである。

ま、髯でも剃っているうちに、ほかのてあいも帰るだろうと、腰をすえていると――

「お待たせいたしました」

と、仁吉の眼が、はじめて、治郎吉をふり顧った。

「もう、私の番ですか。先のお客があるんでしょう、どうぞ」

「なに、旦那」

と、仁吉は、銀歯をちらと見せて、

「あの通り、夢中なんですから……」

と、将棋の一組を<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>で指して、苦笑いをもらした。

「そうですか、じゃあ」

と、<ruby><rb>梳</rb><rt>す</rt></ruby>き<ruby><rb>場</rb><rt>ば</rt></ruby>へ腰を持ち上げて行ったものの、実は、治郎吉にとっては、後の方が都合がよかったのである。

仁吉はもう、<ruby><rb>鬢</rb><rt>びん</rt></ruby>だらいの湯を代えて、<ruby><rb>下剃</rb><rt>したぞり</rt></ruby>から<ruby><rb>剃刀</rb><rt>かみそり</rt></ruby>をうけながら、

「旦那、江戸ですね」

「わかるかい」

「わかり過ぎまさあ」

「江戸の野郎は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がさつ</span>だからね」

「なに、その歯切れのいいところですよ。上方の女が好くはずです。……何ですか、御見物かなにかで？」

「ま、そんなものさ。<ruby><rb>金比羅</rb><rt>こんぴら</rt></ruby>から、有馬にすこしばかり落着いて、御多分にもれない、上り大名の下り乞食」

「そういう乞食になら、あっしも、<ruby><rb>稀</rb><rt>たま</rt></ruby>にゃなってみたい。有馬では、どこへお泊りで」

と、仁吉は、天井から、治郎吉の顔を見直していった。

この<ruby><rb>緒口</rb><rt>いとぐち</rt></ruby>に、お仙の話を匂わせてみようかと、治郎吉は、次のことばを喉まで出しかけたが、やっぱり、人がいては、まずい気がした。

――というのが、自分よりは、向うにとって、余り人聞きのいい懸合ではないからだった。お仙の話によると仁吉と彼女とは、腹ちがいの<ruby><rb>兄妹</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>で、この兄貴は、かなり、極道者で通っている男らしいのである。

で、湯女奉公をしている彼女へも、常々、小銭の無心は珍しくなかったが、こんどは何かまとまった<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>り<ruby><rb>用</rb><rt>よう</rt></ruby>があるとかで、<ruby><rb>守口</rb><rt>もりぐち</rt></ruby>の双葉屋という遊女屋から、お仙のからだを<ruby><rb>抵当</rb><rt>かた</rt></ruby>に、百両ほど借りてしまった。――ついては、<ruby><rb>槌屋</rb><rt>つちや</rt></ruby>から暇をとって早速帰って来いという話が来たために、治郎吉の立つ四、五日まえから、お仙は、眼を<ruby><rb>腫</rb><rt>は</rt></ruby>らしていた。

気まぐれが、また、気まぐれを生んで、先はどうでも、こっちでは、さほどにも考えていない女を、つい、あのまま、この大坂まで連れて来てしまった治郎吉が、後で、こうと打ち明けられてみると、恋ばかりではない女の気もちに、その時は、ちょっと、興もさめたが、また、抛ってもおけない彼でもあった。

――よし。おれが、話してやろう。

と、ちょうど伸びた<ruby><rb>髯</rb><rt>ひげ</rt></ruby>を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">だし</span>に、それとなく、様子を見に来たわけだったが、仮に、相客がいないで、すぐ問題の話にかかったとしても、相手の仁吉は、ちょっと<ruby><rb>栂指</rb><rt>おやゆび</rt></ruby>と人差指で、<ruby><rb>抓</rb><rt>つま</rt></ruby>んで食うようなわけには行かない男だと彼は<ruby><rb>睨</rb><rt>にら</rt></ruby>んだ。相当に、小悪党らしい小骨が歯にも、舌にも、かかりそうに思われた。

「――こんにちは。親方さん、<ruby><rb>元結</rb><rt>もとい</rt></ruby>はまだでございますか」

そこへ、若い女の声がした。外の陽が、治郎吉の仰向いている顔へ映した。

仁吉は、<ruby><rb>剃刀</rb><rt>かみそり</rt></ruby>を止めて、

「あ、お<ruby><rb>喜乃</rb><rt>きの</rt></ruby>さんか。待っていたんだ。――はいりな、そこを閉めて」

「まいど、有難うぞんじます」

「だいぶ、お世辞が、うまくなったな」

「いえ、まだちっとも、<ruby><rb>商売</rb><rt>あきない</rt></ruby>に馴れませんで」

「さ、荷を下ろして、そこへ掛けな。馴れねえ商売ってものは、気づかれのするもんだ」と仁吉は、治郎吉との話をけろりと、忘れッ放して――「元結もきれたから貰いてえし、ほかにも、ちょっと話があるんだが、このお客様のすむまで、しばらく待ってくんな」

「はい。ごゆっくり」

と、お喜乃は元結箱を下ろして、陽にあたって来た<ruby><rb>鬢</rb><rt>びん</rt></ruby>の汗を、そっと<ruby><rb>小菊紙</rb><rt>こぎく</rt></ruby>で抑えていた。

仁吉に、顔をまかせながら、治郎吉の眸は、眼の隅へ寄って、お喜乃の方へながれていた。――見ると、これはすばらしい、十九か、<ruby><rb>二十歳</rb><rt>はたち</rt></ruby>くらい、単に、きりょうが<ruby><rb>美</rb><rt>い</rt></ruby>いというばかりでなく、品がいい、髪の毛がいい、唇がいい、眼もとがいい。

それに背や、肉づきまでが、治郎吉が描いて持っている好みにぴったりと来ている。彼は、とても、お仙の比じゃないと思った。

――どこの娘じゃろう。剃刀の刃が、<ruby><rb>髯</rb><rt>ひげ</rt></ruby>の<ruby><rb>根</rb><rt>ね</rt></ruby>を、気もちよくとおってゆく音を聞きながら、そんなことを考えはじめた。

――この年ごろで、木綿帯は可哀そうだ。着物もそまつだし、<ruby><rb>安櫛</rb><rt>やすぐし</rt></ruby>をさして、なりにもふりにも<ruby><rb>関心</rb><rt>かま</rt></ruby>わないでいるところは、問うまでもなく、貧乏人だ。そして、床屋廻りの元結売りをしているという事はわかるが、根からの、<ruby><rb>裏店</rb><rt>うらだな</rt></ruby>育ちとは、思われない。

――惜しいもんだ。

と、治郎吉は考えるのだ。同時に、有馬の気まぐれが、よけいに馬鹿らしくもなるし、一歩まちがえば、あぶない体でこんな所へ、お仙から頼まれて来たことも、軽い後悔になって来た。

「おらあ、止めた……」

肚のなかで、治郎吉は、呟いた。

「お待ち遠さまで」

と、仁吉は剃り上げた剃刀の毛を、指でしごいて、

「松、洗い水を」

と、<ruby><rb>下剃</rb><rt>したぞり</rt></ruby>へ<ruby><rb>吩咐</rb><rt>いいつ</rt></ruby>けた。

だが、すっぺりと剃り上がった顔を撫でて立ったとたんに、治郎吉のするどい感覚が、<ruby><rb>恟</rb><rt>ぎょ</rt></ruby>ッとして、うしろへ走った。

店と奥との、<ruby><rb>中仕切</rb><rt>なかじきり</rt></ruby>の<ruby><rb>内緒暖簾</rb><rt>ないしょのれん</rt></ruby>が、彼の眼が走ると共にうごいていた。そして、その暖簾の下に細かい茶縞の着物の裾と、<ruby><rb>塗鞘</rb><rt>ぬりざや</rt></ruby>の大小の<ruby><rb>鐺</rb><rt>こじり</rt></ruby>が、ちらと見えて、すぐ消えた。

「おっと、下剃さん。どうせ、風呂へゆくから、洗い水にゃ、及ばねえよ」

抛るように、髪結銭をおくと、治郎吉は、われながら、慌てすぎると思いながら、さっと、土間障子をはやく開けて、往来へ、出てしまった。

## <ruby><rb>夕鴉</rb><rt>ゆうがらす</rt></ruby>

二度も三度も、彼はうしろを振り顧りながら走った。往来の人の声が、みんな、鼠小僧、鼠小僧と、指さすように、思われた。

わざと、道頓堀の人混みへはいって、細い路地から千日原まで抜けて来た。そして、はじめて、<ruby><rb>豆絞</rb><rt>まめしぼ</rt></ruby>りをつかんで、<ruby><rb>腋</rb><rt>わき</rt></ruby>の<ruby><rb>下</rb><rt>した</rt></ruby>の汗を拭きながら、

「ああ、びっくりした」

と、呟いた。

歯磨き売りや、古着屋や、野天にいろいろな露店が出ていた。治郎吉の眼は、まだ落着かずに、そんなものにまで、気をくばりながら、草むらへ、手拭を敷いて、両膝を抱えこんだ。

「はてな……」

来たら――と脇差の<ruby><rb>鯉口</rb><rt>こいぐち</rt></ruby>を切って、逃げる先の先まで、微細な工夫をしていたが、こう見まわしたところでは、ひとりとして自分へ向って光って来る眼はなかった。岡ッ引くさい者も、捕手くさい人間も通りはしなかった。

「こいつあ、大笑いだ」

治郎吉は、自分へ<ruby><rb>嗤</rb><rt>わら</rt></ruby>った。

「ふた月も、稼ぎを忘れて、<ruby><rb>燗徳利</rb><rt>かんどくり</rt></ruby>みてえに、湯にばかりつかっていたせいか、俺も、すこし焼きが戻ったよ。……だが、驚くのも無理はねえ。床屋の奥に、<ruby><rb>紺足袋</rb><rt>こんたび</rt></ruby>で、茶縞の侍と来た日にゃ、誰だって、<ruby><rb>脛</rb><rt>すね</rt></ruby>に傷のあるやつなら、奉行所風と思うのは当りめえだ」

しかし、それはまったく、勘違いだと彼にも分った。治郎吉は、自分の早合点がおかしくなると共に、あの侍は、何者だろうと考えた。居候にしては、刀が上物すぎるし、着物も渋い。床屋の客にしては、奥にいるというのが変だ。

それと、彼は何よりも、お喜乃という、あの元結売りの娘が眼に残った。お喜乃と、茶縞の侍と、自雷也の入墨とをむすびつけて、考えた。なにかそこにあるような気がしてならなかった。

ちょっと、<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めきれない気がする。お喜乃の<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>だけでも知りたい気がするのである。これも、彼の持ち前な気まぐれの一つかも知れないけれど、今まで経てきた女へ対するものでは、もっとも、根強い気まぐれに違いなかった。

「ごめんよ」

彼はまた、とある床屋へはいって行った。床屋の男は、治郎吉の剃ったばかりな青い髯痕をながめて、ふしぎそうな顔をした。

「――なにか、御用ですか」

「てまえは、江戸のもんですが」

「ああそうか」

と、床屋は、<ruby><rb>草鞋銭</rb><rt>わらじせん</rt></ruby>を鼻紙につつみかけた。

「待っとくんなさい。あっしゃあ、渡り職人じゃありません。実あ、知り人を尋ねて来たんですが、その人の娘が、床屋廻りの元結売りをしていると聞いたんですが、もしや所を御存じじゃありますめえか」

「ヘエ、何ていうんですか」

「若い女で、お喜乃さんというんですが」

「お喜乃さんなら、天王寺裏のお<ruby><rb>鉄漿</rb><rt>はぐろ</rt></ruby>長屋に住んでいる、感心な娘さんだ。何でも親父さんは、御浪人だということを聞いていました」

「そうそう、それに違いねえ。いや、大きに有難う」

すっぱりと、こだわりの<ruby><rb>霽</rb><rt>は</rt></ruby>れたように、治郎吉は宿へ帰りだした。<ruby><rb>旅宿</rb><rt>はたご</rt></ruby>は北久太郎町の鈴木屋、お仙といっしょに、そこの裏二階に、十日あまり泊っていた。

裏二階の下は東堀。思案橋を隔てて、川向うはすぐに、西奉行所だった。女とふざけながら、治郎吉はそこからよく奉行所の屋根にとまっている鴉を見ていた。

「おや、お帰り」

お仙は、風呂から上がって、こっそりと、厚化粧をしていた。膳も来ていた。長火鉢もきれいに、すっかり、女房気どりである。

「兄さんはいましたか」

「いたよ」

「話は」

「止めにした」と、あぐらをくんで、「仁吉はいたが、少し考え直して、おめえの話は、出さずにしまった。なあに、抛っときゃあいい」

「よかあないんですよ。こうといったら、どんなことをしても、きっと<ruby><rb>我</rb><rt>が</rt></ruby>を通す兄なんですから。その話の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かた</span>がつかないうちは、恐くって、私は、外へも出られない」

「べら棒め。三都はおろか<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>城下にまで、人相書の廻っているこの治郎吉ですらこうして、真っ昼間、大手を振って歩いて来らあ。……なんだ、<ruby><rb>多寡</rb><rt>たか</rt></ruby>の知れた」

お仙はちょっと、<ruby><rb>暗鬱</rb><rt>あんうつ</rt></ruby>になった。

治郎吉は、膳の盃にも手が出なかった。窓の<ruby><rb>肱掛</rb><rt>ひじかけ</rt></ruby>へもたれて、女の憂鬱を慰める責任も感じないように、思案橋の往来をながめていた。

お仙は、いきなり、ヒステリックに男の膝に寄って、

「治郎吉さん」

「よせ。泣いてばかりいやがる」

「だって……だって……一日増しにおまえさんが、私に冷たくなって行くんだもの」

「へえ、いつおれが、おめえに熱かったことがある？　俺は、初めからこの通りだ」

「いいえ、違って来ています。このごろはもう、前みたいな、優しいことばなんか、薬にしたくも……」

「おいおい、てめえは一人で、何か、夢を見ているんじゃねえか。何も俺が<ruby><rb>誘拐</rb><rt>かどわか</rt></ruby>したわけじゃあるめえし、嫌なら、いつでも帰るがいいぜ」

「その口が、私は、私は、口惜しい」

「何……てやんで」

治郎吉は、突っ放して、ことさら、<ruby><rb>錐</rb><rt>きり</rt></ruby>のようなことばで、

「てめえは、熱病にかかっている。のべつ、あぶねえ風をくぐって、世間の裏をあるいているお尋ねもんが、いちいち、ねちねち、色恋にしろ、<ruby><rb>捏</rb><rt>こ</rt></ruby>ね<ruby><rb>返</rb><rt>かえ</rt></ruby>しちゃいられるもんけえ、飽いたら、別れるまでのことよ」

窓がまちに、頬杖をのせて、東堀の水に、眼を落した。西奉行所の黒い屋根に、きょうも夕鴉が啼いていた。

「<ruby><rb>鴉啼</rb><rt>からすな</rt></ruby>きが悪い……」

その時、<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>が開いた。

「まいにち御退屈様で」

「あ、番頭さんか」と、ちょっと、膝を直して――「勘定だろう」

と、先手を打った。

「へ。毎度うるさく申し上げて恐れ入りますが、帳場の方で、いちど、お極りをつけて戴きたいと申しますんで」

「あ、いいとも。だがきょうは少し都合がわるい。知り人の家をたずねたところが、<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>と留守でな」

「それでは<ruby><rb>明日</rb><rt>あす</rt></ruby>には、ぜひともひとつ」

「<ruby><rb>諄</rb><rt>くど</rt></ruby>くいいなさんな」

客の顔いろを、<ruby><rb>敏</rb><rt>さと</rt></ruby>く見て、

「今夜は、お酒は」

「お、膳が来ていたのか。酒はいらねえ。宿屋の飯にも飽きたから、<ruby><rb>稀</rb><rt>たま</rt></ruby>にゃ外で、何か美味いものでも拾い食いしてみたい」

番頭がもどるとすぐ、治郎吉は、一枚かんばんの<ruby><rb>素袷</rb><rt>すあわせ</rt></ruby>を着直して、きゅっと、帯を鳴らした。

「お仙、行って来るぜ。<ruby><rb>不味</rb><rt>まず</rt></ruby>かろうが、飯はひとりで食ってくんな」

「どこへ」

と、彼女の眼には不安があった。

「どこったって、べら棒め、<ruby><rb>白浪</rb><rt>しらなみ</rt></ruby>の行く先がいえるもんけ」

とん、とん、とん、と<ruby><rb>梯子</rb><rt>はしご</rt></ruby>を下りて行った。

## 川波

「――秋だよ。治郎吉が金に<ruby><rb>乾</rb><rt>ひ</rt></ruby>あがるなんてこたあ、近年珍しい秋かぜだ」

と、治郎吉は、自分のふところの空虚を<ruby><rb>嗤</rb><rt>わら</rt></ruby>いながら、あてもなく、宵を歩いた。

今夜のうちに、その工面を、どうかしなければ、<ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>からぼろの出る<ruby><rb>惧</rb><rt>おそ</rt></ruby>れがある。――だが、いくら詰っても、江戸の鼠が、上方でケチな仕事をしたとは人にいわれたくない。

女に気まぐれで、仕事に見栄坊な治郎吉だった。彼が好んで、大名の屋敷にはいるのは土蔵の現金と、<ruby><rb>閨房</rb><rt>ねや</rt></ruby>の上淫がのぞかれるからであった。武家、旗本の屋敷を選んでいるのは、比較的そういう階級の方が、町家の家庭よりは、生活がみだれているし、権門を<ruby><rb>恃</rb><rt>たの</rt></ruby>んで、かえって彼等に、不用心が多いからである。

何かそれを、武家階級に反抗する特殊な思想的泥棒のように、ふしぎと、世間の人気は盗まれた方へ寄らないで、盗む鼠の方を礼讚しはじめたので、治郎吉はすっかり、自分の職業に信仰をもってしまった。女と、ばくちの<ruby><rb>費</rb><rt>つか</rt></ruby>い残りを、貧民街に少しばかり<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>くと、たちまち、義賊という名が、鼠の肩書に、位階のように名づけられても来るし……。

だが、その江戸を食い詰めて上方落ちを極めてからは、華やかな悪運も、そういう目ばかりは出なかった。人相書こそ廻っているが、江戸で仕事をするほど、反響はない。鼠の人気も、無論なかった。

なければこそ、悠々と、宵の町を、ふところ手で歩けるのだけれども、それもまた、治郎吉には淋しかった。

彼の特徴のある草履の音は、ぴた、ぴたと何時のまにか、<ruby><rb>辻行燈</rb><rt>つじあんどん</rt></ruby>の灯よりしかない屋敷町を歩いていた。

ふと「<ruby><rb>洗心洞塾舎</rb><rt>せんしんどうじゅくしゃ</rt></ruby>」という看板が眼についた。

「洗心洞」

聞いたような名である。

「あ、そうか。有名なる大塩<ruby><rb>中斎</rb><rt>ちゅうさい</rt></ruby>の屋敷だな。するとこの辺りは、与力町と見える」

歩いているうちに、同じ程度の構えの、とある屋敷へ、新町と書いた<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>をつけた駕籠が、三挺、横づけになって、<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>りの中へ、人影を送りこんだのを、治郎吉は、物蔭から見ていた。

一<ruby><rb>挺</rb><rt>ちょう</rt></ruby>には、<ruby><rb>仲居</rb><rt>なかい</rt></ruby>か、芸子か、とにかく送って来た女らしいのが、門にははいらずに、見届けて、そのまま空駕籠といっしょに、引っ返して行った。

「よし、仕事は、あの屋敷と極まった」

治郎吉は、呟いた。――主人が遊里から遊び疲れて帰った家などは、彼にとって、またとない仕事場だった。そういう屋敷へはいって、失敗した例はほとんどない。

草履をたたんで、腹巻と帯のあいだへ。そして、彼は、ぽんと、塀の<ruby><rb>見越</rb><rt>みこし</rt></ruby>へ跳び乗った。――後は、音もしない。

中で、ゆっくりと寝こみを待つ考えなのである。

泉水がある、<ruby><rb>築山</rb><rt>つきやま</rt></ruby>がある。庭は、松が多い。かなり<ruby><rb>清楚</rb><rt>せいそ</rt></ruby>な、そしてひろい庭である。

屋敷のひろい割あいに、女気は乏しいらしい。<ruby><rb>厨</rb><rt>くりや</rt></ruby>、風呂場、座敷、どうもそういう匂いがする。治郎吉は、すっかり<ruby><rb>夜更</rb><rt>よふ</rt></ruby>けの成算を立てて、奥の書院らしい、一間だけ灯のともっている座敷の縁下に、屈みこんでいた。

「ウ……聞いた声だ」

彼は、すぐ感じた。――それも生々しい記憶だ。

その男が座敷のうちで、いうのである。

「――旦那、もし、<ruby><rb>重松</rb><rt>しげまつ</rt></ruby>様。うたた寝をなすっちゃ困るじゃございませんか。ここはもう新町じゃございませんぜ。夜が更けますから仁吉も、お暇をいたします」

「……なんじゃ、帰る？」

これは酔っている。ひどく、ろれつが廻らない。

「仁吉」

「へい」

「帰ってはならん。ならんぞ」

「だって、旦那」

「ならんと申すに。女は、いかがいたした。女を連れて来い。女を」

「仲居は、御門前まで送って来て、もう帰りましたんで」

「あんな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すべた</span>ではない。お喜乃をどうしたというんじゃ」

「どうも、弱りましたなあ」

「なにが弱る。そちが、たしかに、ひきうけておるのではないか。――連れて来い」

「でも、先は何しろ、<ruby><rb>素人</rb><rt>しろうと</rt></ruby>ですから、そう御短気に仰っしゃっても」

「たわけが！」

起き直ったらしい。体の大きな侍とみえて、治郎吉の<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby>に、床の塵が落ちた。

「昼間なんといった。今夜のうちには、何とかすると申したではないか。先の娘へ百金、そちの礼に二十金、金もたしかに受け取ったであろうが」

「ま、旦那、そう筋を立っちゃ困ります。金はたしかに、夕刻、お喜乃の家へ行って渡しましたが、何しろ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うぶ</span>でさ、恥かしくて、茶屋へなんざ、行かれないというんです……そうした女の気もちも、少しゃ、考えてやっておくんなさいな」

「だから、ここへ連れて来いというのだ」

「もう何しろ、遅うございます。それに、<ruby><rb>彼女</rb><rt>あれ</rt></ruby>の親爺が長わずらいで、床についているところですから、もう四、五日のところ、折を見てやって下さいまし。きっと、仁吉が、腕にかけても、嫌たあ、いわせません」

「きっとか」

「あれだ……。旦那ときたひにゃ、まったく<ruby><rb>邪推</rb><rt>じゃすい</rt></ruby>ぶけえんだから」

「よし。では、日限三日かぎりだぞ」

「これや、きびしい。そのかわりに旦那、あの方もひとつ、ぜひ、お願いいたします」

「なんだ、あの方とは」

「お忘れなすっちゃ困りますぜ」

「ム。町役の株か」

「へい。旦那のさしがねで、<ruby><rb>十手預</rb><rt>じってあず</rt></ruby>かりにして戴ければ、これから先、どんなことにも、お尽しができるだろうと思いますんで」

「そんなに十手が持ちたいのか」

「町内で、幅がききますからね」

「何とかしてやる。しかし、お喜乃をはやくどうかしろ」

「よほど、お気に召したとみえますね」

「ちょっといいぞ」

「ちょっとですか」

「うるさい。帰れ」

「やっとお暇が出た。――じゃ明晩にでもまた、お喜乃の家へ行ってみますから、その返辞次第で、お伺いいたします」

自雷也床の仁吉だった。こういって、彼が帰ってゆくと、間もなく、寝所へ、召使が出はいりして、雨戸が閉まった。

それから、<ruby><rb>一刻</rb><rt>いっとき</rt></ruby>ばかり間をおいて、治郎吉は仕事にかかった。彼の通ったあとには、足跡もなかった。大工が建具をいじるように、楽に戸を外して、後まで、きちんと、閉めて出て行った。

<ruby><rb>旅館</rb><rt>やど</rt></ruby>へ帰るには、遅すぎるし、歩いて時をつぶすには、早すぎた。治郎吉は、手拭にくるんだ重い金を、ふところ手で、<ruby><rb>臍</rb><rt>へそ</rt></ruby>の上に抑えながら、天満河岸をぶらついて、川の中をのぞいて歩いた。

「ちょいと……ちょいと……お兄さん」

橋の下から、石垣の蔭から、時々<ruby><rb>艶</rb><rt>なまめ</rt></ruby>かしい<ruby><rb>鼠鳴</rb><rt>ねずみな</rt></ruby>きが聞える。白い、手が招く。

船<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まんじゅう</span>、という、売女たちである。――治郎吉は、その<ruby><rb>一艘</rb><rt>いっそう</rt></ruby>の<ruby><rb>苫</rb><rt>とま</rt></ruby>の中に隠れた。そして興味も、素ッ気もない、女を買って、とうとう川波に夢を揺られながら、お喜乃の顔を描いていた。

## 路地の闇

ちょうど、<ruby><rb>昨日</rb><rt>きのう</rt></ruby>と同じ<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>ごろ、治郎吉はまた、宿の鈴木屋に、お仙と夕飯の膳をのこして、出かけて行った。

今朝、<ruby><rb>藍</rb><rt>あい</rt></ruby>みじんの<ruby><rb>袷</rb><rt>あわせ</rt></ruby>の<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>に、白粉っぽい物がついていたので、お仙は、一日ふさいでいた。男が、軽くあしらえば<ruby><rb>扱</rb><rt>あしら</rt></ruby>うほど、女は<ruby><rb>焦</rb><rt>じ</rt></ruby>れて、粘って、そして、錯覚に疲れた。

「こんな男だよ、俺は」

――出がけに、治郎吉がいった。

「いつまで、付いていたって、面白くもあるめえ、火鉢の<ruby><rb>抽斗</rb><rt>ひきだし</rt></ruby>に百両入れておいたからそいつを、兄貴にくれてやって、有馬へ帰るとも、身の振り方をつけるとも、いいようにしたらどうだ」

外に出ると、彼はすぐに、辻駕籠を呼んだ。

「――やってくれ、<ruby><rb>賑</rb><rt>にぎ</rt></ruby>やかな所まで」

法善寺横丁で、いっぱい飲んで、治郎吉はすっかりいい気もち……。

道頓堀の人混みを縫う。

それからまた、ぶらぶらと、天王寺まで歩いて行った。お<ruby><rb>鉄漿</rb><rt>はぐろ</rt></ruby>長屋というのを聞いてその路地をのぞいてから、少し、酔がさめ加減だった。

暗い、狭い、どぶ板をふんではいると、突き当りに、<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>があった。藪に添って、また長屋がある。

「ここだな」

<ruby><rb>角</rb><rt>かど</rt></ruby>の竹窓から、そっと覗いてみると、奥に病人の寝床が見えた。<ruby><rb>煤</rb><rt>すす</rt></ruby>けた<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>のわきに、自雷也床で見たあの娘が、枕元に、しょんぼりと、袂を噛んで、<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>いている。

「……あ。来ていやがる」

治郎吉が、そう見たのは、うしろ向きに坐り込んでいる客だった。ゆうべも、声を聞いた床屋の仁吉にちがいなかった。

「どうだね、お喜乃さん。<ruby><rb>諄</rb><rt>くど</rt></ruby>いたようだが、決して、悪いこたあすすめねえから、とにかく四、五日お屋敷へ、勤めてみちゃあどうだい」

仁吉は、しきりと、雄弁をふるっていた。その話の内容がどんなものかは、治郎吉には分りすぎていた。

お喜乃は、病人を<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>るように、

「親方さん、もうその話なら、なんど伺っても同じですから」

「嫌かい、やっぱり」

「いくら先様が、立派な武家様でも、妾奉公などということは、父が承知するはずもございませんし、私も、死んでも……」

「おっと、待ちな。……だが、俺がちらと聞いた噂によると、おめえは、何か<ruby><rb>纏</rb><rt>まとま</rt></ruby>った金の要り用があって、新町の紅梅から<ruby><rb>芸妓</rb><rt>げいこ</rt></ruby>に出るという話じゃねえか。芸妓になるがいいか、与力衆の<ruby><rb>重松</rb><rt>しげまつ</rt></ruby>左次兵衛様のお世話になるのがいいか、それくらいなこたあ、<ruby><rb>比較</rb><rt>くらべ</rt></ruby>てみたって、分りそうなもんだが」

「ま……誰にそんなことを、聞きましたか」

「それや、おめえの世話をしようという以上、身許から内輪のことまで、すっかり調べねえでどうするものか。紅梅から百両借りる約束をしたろう」

「親方さん、まだ病人には、聞かせてないんですから……」

と拝むように声を制す手へ仁吉は、五両の封金をにぎらせて、

「旦那からだ、いいかい」

「あら、いけません、こんなものを」

「取っておきねえな、折角、支度金にくれたものを」

「いけません、いけません」

「とにかく預けておく」

と、仁吉はもう、下駄をはいていた。

「――あれ、親方さん」

と、お喜乃は、あわてて、金を持って外へ出て来た。どぶ板を踏み鳴らして、往来まで追い駈けて行った。

「甘い手だ」

と、治郎吉は、暗がりから見送って、すぐその眼を、竹窓のあいだから、じっと、家の中へしのび入れた。

病人は、<ruby><rb>干</rb><rt>ほ</rt></ruby>し<ruby><rb>鰈</rb><rt>がれい</rt></ruby>のように平たくなって、<ruby><rb>昏睡</rb><rt>こんすい</rt></ruby>していた。枕元には、<ruby><rb>煎</rb><rt>せん</rt></ruby>じ<ruby><rb>薬</rb><rt>ぐすり</rt></ruby>も見えない。うす寒い空気と壁があるだけで、台所にも、一粒の米粒すらなさそうである。

豆絞りの手拭から、ころりと、百両包を二つ出して、竹窓のあいだから、手をさし入れて、小壁の下に置いた。そして治郎吉は、路地を出て来た。

「……あっ、ごめんなさいまし」

暗かった。

それに、お喜乃は、うろたえてもいたし……。

どんと、治郎吉の胸にぶつかった<ruby><rb>弾</rb><rt>はず</rt></ruby>みに、手に持っていた封金を<ruby><rb>溝板</rb><rt>どぶいた</rt></ruby>のうえに落した。治郎吉は、拾い取って、

「これだろう」

と、渡してやった。

「有難うぞんじます」

「病人があったり、悪い親切に<ruby><rb>取</rb><rt>と</rt></ruby>ッ<ruby><rb>憑</rb><rt>つ</rt></ruby>かれたり、おまえさんも、たいていじゃありませんね」

「え？」

と、眸をこらして、

「どなたでございますか」

「ちっとばかり、お前さんを、知ってるものさ」

「どなた様でしょう、思い出せませんが」

「いつぞや、自雷也床で」

「あ、あの時の」

「よけいな差し出口をするようだが、その金は、<ruby><rb>費</rb><rt>つか</rt></ruby>っちゃいけねえ」

「え、今も、追いかけて行って、お返ししようと思ったんですけど、もう姿が見えないんです」

「あっしが、その金は、<ruby><rb>彼奴</rb><rt>あいつ</rt></ruby>に返して上げましょう。また、どんな金の要り用があるのか知らねえが、<ruby><rb>芸妓</rb><rt>げいこ</rt></ruby>に出るなんて、まずい智慧も思い直した方がようがすぜ」

「ご親切に」

と、お喜乃はもう涙ぐんでいる。

いかに、温かさに、飢えているかがわかる。治郎吉は、もっと、もっと、優しいことばを与えたかったが、何だか、お仙や、売女にいうように、すらすらとことばが出なかった。

「どうしてそんなに金が要るんだね。病人の薬代にしちゃ、すこし、<ruby><rb>多寡</rb><rt>たか</rt></ruby>が大きいが」

「すこし、<ruby><rb>事情</rb><rt>わけ</rt></ruby>がございまして」

「あの大病人をおいて、芸妓に出ようという決心をするくらいだから、よくよくだろうとは察しるが」

「実は、父が浪人したもとの御主人様へ、年に八十金ずつ御返済するお金があるのでございます」

「もとの主人へ返す金なんか、浪人した以上は、どうでもいいじゃありませんか」

「そうは行かないお金なんです。父の落度のために、その旗本の御主人も、<ruby><rb>御番頭</rb><rt>ごばんがしら</rt></ruby>やら同役のお方たちから、千何百両という大金を立て替えていただいて、一時、公儀のお帳面の表を埋めてあるのでございますから」

「じゃ、おまえさんたちは、江戸にいたのかい」

「丹後町の、<ruby><rb>脇坂佐内</rb><rt>わきざかさない</rt></ruby>様というお旗本の用人を勤めておりました」

「で、その主人が、公儀のお納戸金か何かを遊びに、<ruby><rb>費</rb><rt>つか</rt></ruby>いこんだというわけだね」

「いいえ、脇坂様は、<ruby><rb>御普請</rb><rt>ごふしん</rt></ruby>方をしておりますところから、永代橋のお<ruby><rb>架</rb><rt>か</rt></ruby>け<ruby><rb>替</rb><rt>か</rt></ruby>えに、職人達へ支払う公金を、たった一晩、お屋敷の土蔵にとめておいたのが間違いだったのです。どうしてそれを知ったものか、その晩、鼠小僧という賊がはいって、盗まれてしまったのでございます」

「ヘエ……」

治郎吉は、寒くなった。

「鼠小僧？」

「すごい泥棒だそうで、父が、寝ずの番をしていたのに、千両あまりの金を盗んで行くのに、音もしなかったと申します」

「……ふうむ」

「つまらない愚痴を申しあげました」

「だが、年に八十両ずつ返しても、十年以上かかる。これから先、どうするつもりだい」

「父が丈夫なうちは、<ruby><rb>堂島</rb><rt>どうじま</rt></ruby>へ出て、<ruby><rb>米商</rb><rt>こめあきな</rt></ruby>いをしていましたが、それも、相場に<ruby><rb>焦心</rb><rt>あせ</rt></ruby>って、<ruby><rb>資本</rb><rt>もと</rt></ruby>も子も失くしたうえ、あの重病でございますから、これから先は、私が、芸妓にでもなって一心に、働けるだけ働くつもりでございます」

「じょ、じょうだんいっちゃ、いけねえ」

と、お喜乃の世間知らずに呆れたが、決して<ruby><rb>嗤</rb><rt>わら</rt></ruby>う<ruby><rb>気</rb><rt>き</rt></ruby>にはなれなかった。

「芸妓をして、千両稼ぐうちには、おまえさんが<ruby><rb>婆</rb><rt>ばばあ</rt></ruby>になる。――ま、とにかく、家へ<ruby><rb>帰</rb><rt>けえ</rt></ruby>って考えなせえ。そして、この金は、さっきいったとおり、俺の手から、先へ、返してやろう」

「でも、<ruby><rb>他人</rb><rt>ひと</rt></ruby>様の手からでは」

「おれを、疑うのかい」

「そんなことはございませんが」

「じゃ、心配しねえで、預けなせえ。こう見えても――」と、いいかけたが、治郎吉は気がさして、きれいなことがいえなかった。

寒い。いやに、背すじが寒い。

往来を斜めに切って、向う側から、振り顧ると、路地のかどに、白い顔が、まだ立っていた。

## はらちがい

窓の戸を閉めようとした時、お喜乃の足の指に、<ruby><rb>二包</rb><rt>ふたつつみ</rt></ruby>の金が触った。

びっくりして、唇のいろが変った。二百両である。――誰が？　と胸がわくわくした。

「ああ、きっと、<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>の人が……」

と、思わず心のうちで拝んだ。何となく、さっきの言葉にも、情があった。父を起して話そうかと、昂奮した気もちにもなったが、病人の寝顔を見て、黙って、棚のうえに乗せて、眠りについた。

彼女はいつまでも寝られなかった。路地の暗がりで見た男のすがたと、二包の金が、眼について寝られなかった。そのうちに、頭が思案につかれて、眠りに落ちた。

――もう明け方。

何か、冷たい手にでも撫でられたような気がして、ふと、眼をあけると、うつつな、渋い<ruby><rb>網膜</rb><rt>もうまく</rt></ruby>に、大きな人影が映った。<ruby><rb>絞</rb><rt>しぼ</rt></ruby>りの手拭で、<ruby><rb>頬冠</rb><rt>ほおかむ</rt></ruby>りをして、壁の下を、這ってゆくのであった。

「おやっ？」

夢中で、彼女が、ふとんを<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ね<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>けたとたんに、男は、ぬっと立って、裏口へ飛び出そうとした。だが、その<ruby><rb>弾</rb><rt>はず</rt></ruby>みに、病人の枕に<ruby><rb>蹴躓</rb><rt>けつま</rt></ruby>ずいたので、気丈な、彼女の父は、自分の病体をも忘れて、

「誰だッ」

と、賊の片足をつかんだ。

いきなり、青い針金のような光が、賊の手元から走ったと思うと、ばすッと、生れてから聞いたことのない異様な音が、お喜乃の耳を<ruby><rb>衝</rb><rt>う</rt></ruby>った。

「あっ！　……お父さん」

飛びついて、無我夢中に抱えこんだ時には、もう、父に<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>はなかった。<ruby><rb>温</rb><rt>ぬる</rt></ruby>い、むず<ruby><rb>痒</rb><rt>かゆ</rt></ruby>い、虫のように生きてる液体が、どこからともなく噴き出して、彼女の手に、膝に、ふとんに、気の遠くなるほど溢れた。

「血だッ」

彼女は死骸と共に、倒れながら、初めて大きな声でさけんだ。

「――来てくださいッ。御近所の方。父が殺されました。父がッ……父が」

血のなかに、お喜乃は、泣き転んでいた。

そして、夜が明けてみると、二包の金はなかった。

×　　　×　　　×

「金が子を生む？　金が子を生んだ」

店を、<ruby><rb>下剃</rb><rt>したぞり</rt></ruby>の松にまかせて、仁吉は、独りで二階に上がっていた。

両方の掌に、百両包を、一つずつ乗せて腹ン這いに寝ころびながら、猫が<ruby><rb>鞠</rb><rt>まり</rt></ruby>を<ruby><rb>弄</rb><rt>もてあそ</rt></ruby>ぶように、

「ふしぎだ、金が子を生んだ」

と、呟いている。

「たしかに、一包の金が半夜のうちに二包に化けていやがるから、ちょっと、呆れてものがいえねえ」

包のこばを、歯で破って小判の山吹色をのぞいたり、<ruby><rb>目量</rb><rt>めかた</rt></ruby>を手で計ってみたり、独りで、首をかしげ、錯覚を起し、そして、妙な幸運さに、陶酔をしている。

ぎしっと、梯子に跫音がしたので、彼は、あわてて、金を、<ruby><rb>欄間</rb><rt>らんま</rt></ruby>の<ruby><rb>額</rb><rt>がく</rt></ruby>のうらへ隠した。

「誰だッ」

妙に、尖って云った。

――と、消え入るような声で、

「わたし」

「わたし？　……あ。お仙じゃねえか、てめえは」

「兄さん」

お仙は、間がわるそうに、そして力のない肩を落して、そこへ坐った。

「……こんにちは」

「どうしたんだ、お仙。すっかり痩せこけてしまって、見違えるようだ。<ruby><rb>槌屋</rb><rt>つちや</rt></ruby>でも大変な騒ぎをしたらしい。おれも、心配していたところだ」

「有馬から、何か、いって来ましたか」

「あたりめえだ。送って行ったまま、旅の客といっしょに逃げてしまったんだというじゃねえか。とんだ浮気をしやがって、男に捨てられて来たんだろう」

「兄さん、私が逃げたのは、それだけの<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>じゃありませんよ。おまえだって、あまりじゃないか。人の身体を何だと思ってるのさ」

「む、守口へ、おめえを身売りの一件か。……実あ、その事なら、少しほかで工面ができたから、まあ当分は間に合うよ」

「当分は間にあっても、お金につまるたんびに、私の身体をあてにされていちゃたまらないよ。――きょうは、その入り用の百両を上げますから、これッ<ruby><rb>限</rb><rt>き</rt></ruby>り、<ruby><rb>兄妹</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>の縁を切ってくださいね」

「なに、百両持って来た？」

「え。縁切り金」

と、お仙は、帯のあいだから、それを出して、

「切る？　切らない？」

「べら棒め、<ruby><rb>兄妹</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>の縁なんざ、望みとあれやいつでも切ってやらあ」

「じゃ、くれてやるから、これっ限りだよ」

ぽんと投げて、それでも、涙でいっぱいになった眼をそむけながら、梯子段を下りて行こうとすると、

「やい。お仙、ちょっと待てよ」

「なあに？」

「てめえ、この金を、どこから持って来たんだ」

そういった仁吉の<ruby><rb>掌</rb><rt>て</rt></ruby>は、落せば爆発する火薬玉でも乗せたように、百両の封金をふたつの手に持って、<ruby><rb>蚤</rb><rt>のみ</rt></ruby>の顔を調べるような眼で、封の目や、紙の<ruby><rb>手摺</rb><rt>てず</rt></ruby>れなどを、じっと見つめていた。

「どこから持って来たッてんだよ、この金を。――ま、ちょっとそこへ坐れ。訊かねえうちは、受けとれねえ」

お仙は、坐り直して、

「貰ったのさ。世の中にゃ、妹の体を食い物にする鬼ばかりはいないからね」

「誰に貰った」

「お客ときまっているじゃないか」

「というと、てめえと、ずらかった相手の男だな」

「そうよ」

「おかしいなあ……」と腕を<ruby><rb>拱</rb><rt>く</rt></ruby>んで、じっとお仙をするどく睨みながら、「もしや、てめえは、その男に何かふくませて、俺の家へ、様子を見させによこした事がありゃあしねえか」

「あったかも知れない」

「畜生」

仁吉はいきなり、<ruby><rb>用箪笥</rb><rt>ようだんす</rt></ruby>にとびついて、がたがたと<ruby><rb>抽斗</rb><rt>ひきだし</rt></ruby>を鳴らして、四ツに畳んだ人相書をそこへひろげた。

「お仙、てめえの男は、こいつだろう」

「…………」

お仙の眼は、兇状廻しの人相書へ、<ruby><rb>惚々</rb><rt>ほれぼれ</rt></ruby>と吸われていた。胸のなかには、すぐその男の声や、冷たさや、強さや、いろいろな感情が脈を<ruby><rb>搏</rb><rt>う</rt></ruby>ってひびいてくる。

「これだな！　よし、分った」

と、妹の顔いろを読んで、

「てめえ、帰ると承知しねえぞ、禁足だ」

「縁を切ったおまえから、足止めをされるおぼえはない」

「ばかッ」

いきなり、立ちかける腰を<ruby><rb>擦</rb><rt>さす</rt></ruby>って、

「こいつ、どうかしていやがる。盗ッ人に惚れるやつがあるか」

「大きなお世話じゃないか」

「降ろさねえぞ、この梯子段から」

「帰りますよ、御勝手に」

「松ッ」

と、下へ怒鳴った。

「――手を貸せ。はやく上がって来い。この色情狂をふん縛って、押入のなかへつないでおくんだ」

## <ruby><rb>自暴駕</rb><rt>やけかご</rt></ruby>

「二階の雨戸を閉めておけ。可哀そうだなんて思っちゃいけねえぞ」

下剃の松に<ruby><rb>吩咐</rb><rt>いいつ</rt></ruby>けると、仁吉は、ひどく忙しい用事でもあるように、出て行った。

間もなく、彼のすがたが、天王寺裏の路地へはいって行った。長屋の人たちが、口もきかずに、出はいりする様子や、近所の囁きなどを不審そうに見廻しながら、お喜乃の家の門に立って、

「おやっ。何かあったんですか」

と、首を突っこんだ。

奥には、七、八人、長屋の者が集まって、畳を代えたり、仏事の道具をならべていた。

「あ、自雷也床の親方ですか」

「お喜乃さんは」

「おります」

「一体、どうしたんで」

そろそろと、上がり込みながら、

「じゃ、<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>のうちに、御病人の容態でも変ったんですか」

「なに、それならまだ諦めようもございますが……」と、長屋の人々は、<ruby><rb>沈鬱</rb><rt>ちんうつ</rt></ruby>に、ひとしく首を垂れて、

「可哀そうに、こんな家へ、泥棒がはいって、斬られなすったんでございます」

「えっ、親父さんが」

「はい」

「ほ、ほんとですか」

「お喜乃坊が、かあいそうでござんす。な、なんていう、運の悪い<ruby><rb>娘</rb><rt>こ</rt></ruby>でしょう」

粛然として、みんな<ruby><rb>嗚咽</rb><rt>おえつ</rt></ruby>した。――仁吉も、拳を膝に突っ張って、眼をしばたたきながら、

「そうですか――」と、息をふかくついて、「するってえと、ゆうべ、あっしが帰った後ですね」

「もう明け方に近かったそうです」

「ふてえやつだ。病人を斬り殺すなんて、憎んでも憎み足りねえ畜生だ。……ああ、だが考えてみると、その種は、あっしが<ruby><rb>蒔</rb><rt>ま</rt></ruby>いたようなものだ。実あ、皆さんの前ですが、ふだんからお喜乃さんの心ばえに感服して、さるお武家から、大金を戴いてやったんです。それをゆうべ届けたんで、盗ッ人のやつに見込まれたのかも知れねえ」

「長屋中で、どうにかして上げるつもりではおりますが、何しろ、幾ら寄っても、貧乏人と貧乏人、お寺への心づけさえないんでしてね」

「心配しなさんな」

すぐ財布を解いて――

「一両と、小粒を少しばかり持ち合わせていますから、これで万端」

「あ、親方さん……」

棺桶のまえに泣き伏していたお喜乃が、あわてて、それを押しやって、

「もう、そんな御心配は」

「お喜乃さん、飛んだことだったなあ。おめえの心のうちは察しる」と、ほろりと声を落して、

「だが、力を落しなさんなよ。及ばずながら、後々は、どうにでも、相談相手になってあげる」

「ほんとに、御親切な親方だ」

と、長屋の人々は、いい<ruby><rb>囃</rb><rt>はや</rt></ruby>すように――

「どうぞよろしくお願いいたします」

「ご検視は」

「はい、今し方、すみました」

「何か、泥棒の、証跡になるような物は」

「窓の外に、手拭が一本落ちていただけだそうで」

「え、手拭」と、思わずふところへ動きそうな手を、膝へつき直して、

「どんな手拭が？」

「<ruby><rb>豆絞</rb><rt>まめしぼ</rt></ruby>りの」

ほっとしたように、

「それっ<ruby><rb>限</rb><rt>き</rt></ruby>りじゃ大した手懸りにもなるまい。ことによると、こいつも、鼠小僧の<ruby><rb>仕業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>かも知れませんぜ」

「鼠小僧というのは」

「江戸を荒した大泥棒で、なんでも近頃は、上方へ立ち廻っているという評判だ。方々の橋袂にも、この二、三日、人相書が出ているはずだが」

「あ、そういえば、いろんな噂がありますね」

「とにかく、後々まで、御相談になりますから、ここのところは、諸事よろしく皆さんにお願い申します。ちょうどきょうは、町方の用向きをもって、西与力の重松左次兵衛様のお屋敷まで伺うことがあって、先を急ぎますから」

と、下駄をはきかけて――

「お目にかかったついでに、重松様に、一日も早く下手人が<ruby><rb>捕</rb><rt>あ</rt></ruby>げられるように、よくあっしからも頼んでおこう」

路地を出ると、仁吉はあたふたと急ぎ出した。駕籠をとばして、その足で、与力町の重松左次兵衛を訪ねた。

「旦那、ひょんなことが持ち上がりましたぜ」

左次兵衛は、<ruby><rb>暗鬱</rb><rt>あんうつ</rt></ruby>な顔をして、<ruby><rb>脇息</rb><rt>きょうそく</rt></ruby>から、庭を見ていた。

「なんだ、ひょんなこととは」

「お喜乃の親父が殺されたんで」

「殺された。――病人のはずじゃないか」

「押込みに斬られたんです。ゆうべ無理に百両置いて来たのが、かえって仇になっちまいました。――だが、親切の効き目は、こういう時じゃねえでしょうか」

「もう百両出せというのか」

「何しろ、盗まれちまったんで」

「ない」

と噛んで吐くように、

「月でも変って、蔵米でも払わなければ、拙者も、一文もない」

ひどく不機嫌な顔いろに、仁吉は、口をつぐんで、

「へ……」

と、頭を下げた。

「恥をいわねば分らんが、実は、拙者も、盗賊に遭って、文庫の金を<ruby><rb>悉皆</rb><rt>しっかい</rt></ruby><ruby><rb>攫</rb><rt>さら</rt></ruby>われてしまった」

「えっ、お屋敷へも」

「む。貴様に送られて帰った晩だ」

「旦那、あっしじゃありませんぜ」

「誰がそちだといった。――何しろ当惑している」

「それや御災難でございましたね。下手人の見当はついているんですか」

「分らん。<ruby><rb>雑巾</rb><rt>ぞうきん</rt></ruby>で拭いて行ったようだ」

「――じゃ、どうしましょう、お喜乃の方は」

「どうとは？」

「ここんところで、もう一度、金をやるかやらないかの思案で」

「金をやらずに、お喜乃を手に入れる工夫をしろ。来月になれば、どうかなろうが」

「じゃ、やっぱり、新町へ突っ転ばすに限りますね。――ム、そいつに限る、いったん<ruby><rb>芸妓</rb><rt>げいこ</rt></ruby>に出れや、あとは、本人の意志よりは、金次第、取り巻き次第というわけになりますから」

「何とかいたせ、何とか」

「<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>っておいても、そうなるでしょうが、後始末のつき次第に、ひとつ、責めてを変えてみましょう」

「貴様、案外、役に立たんな」

「恐れ入りました。きょうは、御機嫌がわるいようで」

「飲もう、一つ」

また、新町へであった。<ruby><rb>自暴</rb><rt>やけ</rt></ruby>の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やん八</span>で、駕籠が飛ぶ。

## 後の月

天保山の磯茶屋から、月見舟がたくさん出る。酒をつんで、<ruby><rb>妓</rb><rt>おんな</rt></ruby>をのせて、川尻の<ruby><rb>澪標木</rb><rt>みおつくし</rt></ruby>のあたりまで浮かび出るのである。

十三夜の晩だった。水の上では、もう息さえ白く見えそうに薄ら寒かった。

磯茶屋を離れた二艘の月見舟がある。与力の重松左次兵衛と、自雷也床の仁吉を客に、仲居や新町の妓たちが、<ruby><rb>月釵</rb><rt>げっさい</rt></ruby>をかがやかせて、幾人か、乗っていた。

そのうちに、<ruby><rb>諜</rb><rt>しめ</rt></ruby>しあわせてあった事とみえて、一艘は、ひとりの<ruby><rb>妓</rb><rt>おんな</rt></ruby>と、仁吉と、左次兵衛だけをのせて、末広橋から海の方へ、離れはじめた。

「あ、船頭さん、戻してください。連れの舟の方へ」

<ruby><rb>妓</rb><rt>おんな</rt></ruby>は、水が怖いのか、ふるえながら、遠さかる連れの舟へのび上がっていた。――この秋、紅梅から出た、淋しい<ruby><rb>新妓</rb><rt>しんこ</rt></ruby>だった。

「お喜乃さん、怖がるこたあねえよ。月を見ながら、今夜あ、住吉の<ruby><rb>曙</rb><rt>あけぼの</rt></ruby>へ行って泊るのさ。紅梅家でも承知のうえだから、案じなさんな」

お喜乃は、<ruby><rb>罠</rb><rt>わな</rt></ruby>に落ちた自分を知った。手をかさねた<ruby><rb>舷</rb><rt>ふなべり</rt></ruby>へ、がっくりと、額をつけて、肩をきざんで、泣いていた。

「――ずいぶん、今夜までに手間がかかったぜ。とうせ、<ruby><rb>水稼業</rb><rt>みずしょうばい</rt></ruby>にはいった体じゃねえか。いい加減に、世間なみになりねえ。さ、盃をやろう。そして、きげんを直して旦那に一つ<ruby><rb>酌</rb><rt>さ</rt></ruby>してくんねえ。一度は、そうしてくんなくっちゃ、どうも、この仁吉の<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>も立たねえから」

「…………」

「え、おい」

「…………」

「お喜乃……。ちッ」

と、仁吉は、<ruby><rb>癇</rb><rt>かん</rt></ruby>を起しかけたが、じっと<ruby><rb>怺</rb><rt>こら</rt></ruby>えて、

「強情だな。酒ぐらい飲むもんだ。さ、気を直しな、盃だけでも取ってくんな」

お喜乃が、肩を外したとたんに、ちりんと、盃が、舟ばたに躍って、水の底へ、沈んで行った。

「これだ……」

と、白い眼を、左次兵衛に振り向けて、

「旦那、精がつきましたよ」

左次兵衛は、ぐび、ぐび、と酒ばかり重ねていたが、仁吉の<ruby><rb>眼交</rb><rt>めま</rt></ruby>ぜを、苦々とうけて、

「船頭」

と、<ruby><rb>艫</rb><rt>とも</rt></ruby>へ呼んだ。

「へい」

「ちょっと、その辺の岸へつけて、暫時、<ruby><rb>陸</rb><rt>おか</rt></ruby>へ<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>していてくれないか」

黙々と、そして緩やかに、艪をうごかしていた船頭は、<ruby><rb>頬冠</rb><rt>ほおかむ</rt></ruby>りをした手拭の耳に、ひらひらと風をうけながら、

「あっしに、陸へ上がっていろというんですか」

と、訊き直した。

「そうだ。――少し混み入った話があるから」

「嫌だ！」

「なにッ」

「嫌なこッた」

「これっ、船頭の分際として、客のいいつけをきかぬという法があるか。船をつけろ」

「笑わしゃがる」

豆しぼりの手拭が、つばさをひろげて、波の上へ飛んだ。

治郎吉だった。

「こうお喜乃さん。落ちるとあぶねえよ。<ruby><rb>艫</rb><rt>とも</rt></ruby>へ来て、おれの足に、しがみついているがいい」

「やっ」

仁吉は、<ruby><rb>恟</rb><rt>ぎょ</rt></ruby>っとしながら飛び<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>いて、

「てめえは、鼠小僧だな」

「む」

と、治郎吉は、<ruby><rb>盗</rb><rt>ぬす</rt></ruby>ッ<ruby><rb>人</rb><rt>と</rt></ruby>にありそうもない<ruby><rb>笑靨</rb><rt>えくぼ</rt></ruby>を見せて、

「感心に、てめえも、知っているか。――<ruby><rb>大兄哥</rb><rt>おおあにき</rt></ruby>の面をよく見ておけ」

とたんに、左次兵衛は、羽織を脱いで、舟から水面へ躍りこんだ。岸へ向って、泳ぎ出したのである。

「しまった」

と、治郎吉は舌打ちをして、

「仕事は急がざなるめえ。やい、自雷也」

どこに置いてあったか、道中差を、抜くよりはやく、ふりかぶって、

「命はもらった！」

ばっと、風を割って落した。

かつんと、仁吉の膝がしらに、石でも割れたような音がした。二度目の刀は、肩さきへ来た。仁吉は、尻もちをつきながら、<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>で月光を斬った。

「――ひッ、人殺しだあっ」

絶叫が、月の<ruby><rb>安治川</rb><rt>あじかわ</rt></ruby>から、海へ走った。

「けッ、<ruby><rb>女々</rb><rt>めめ</rt></ruby>しい声を出しやがる。病人を斬って逃げ出すような、ケチな盗ッ人ほど<ruby><rb>不愍</rb><rt>ふびん</rt></ruby>なものはねえ。せめて、俺ぐらいにあやかるように、もう一度、生れ直して来い」

五ツ六ツ、撲るように刀でたたくと、仁吉の体は、魚の臓物のように、船底に<ruby><rb>俯</rb><rt>う</rt></ruby>つ<ruby><rb>伏</rb><rt>ぶ</rt></ruby>して、声も音も消してしまった。

白い月と、川波と、そして、お喜乃の<ruby><rb>銀釵</rb><rt>ぎんさい</rt></ruby>が、かすかに、ふるえているばかりである。

ざぶりっ、と<ruby><rb>舷</rb><rt>ふなべり</rt></ruby>から手を洗って、

「あ、もう来やがった」

と、治郎吉は、帯を締め直した。

船番所が近いので、案外に早かった。<ruby><rb>蕭条</rb><rt>しょうじょう</rt></ruby>たる<ruby><rb>蘆</rb><rt>あし</rt></ruby>のあいだを、捕手の灯が、いっさんに岸へ廻りはじめている。

「まごついちゃいられねえ」と、死骸を蹴落して、<ruby><rb>艪</rb><rt>ろ</rt></ruby>をつかんで、

「お喜乃さん、何処へ送ろうか」

「……もしっ」

ふいに、盲目的に、彼女は、治郎吉の裾にすがりついた。

「どこへでも」

「えっ」

治郎吉は、躍るような快感と、満足に、思わず口走った。

「ほんとにか」

――だが、彼はすぐに考え直した。

「いけねえ、いけねえ。おれは気まぐれもんだ。いつまた飽きが来ねえとも限らねえ。仕置場の空に眼を<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>ぐ最期にだって、生涯のうち、一つぐらいは、きれいな憶い出がねえのは淋しい。十三夜の晩だけを覚えて、おめえとは、このまま、別れることにするよ」

「…………」

お喜乃は、何もいえなかった。氷の中の花のように、凍っていた。

「達者でいねえ」

――十三夜だ、後の月だ、治郎吉は、こんな月は、生れてから、見たことがないと思った。

「おれも、もう少しゃ、生きているぜ。そうよ、俺の稼ぎは、金じゃねえ、自分の寿命を稼ぐようなもんだ。――そして、きっとその間に、脇坂佐内の土蔵の中へ、千両だけは<ruby><rb>返</rb><rt>けえ</rt></ruby>してやるぜ。<ruby><rb>父</rb><rt>とっ</rt></ruby>さんへの<ruby><rb>手向</rb><rt>たむ</rt></ruby>けだ。――じゃあ、あばよ」

「あっ、待って！」

お喜乃は、<ruby><rb>飛沫</rb><rt>しぶき</rt></ruby>をあびて、わっと、泣き倒れた。治郎吉の影は、もう、水面の下にかくれて、ただ一すじ、波の影だけが、北岸の方へよれて行った。

また泥棒がはいった。

しかも、仁吉が、安治川のもくずになった晩に、その仁吉の家に、はいった泥棒である。

<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>では、まだ弟子の松が、常連を相手に将棋をさしていた。――で物干しから用心のない戸を開けて、こんばんはといいたいくらい、楽々と、二階へはいって来た。

むろん治郎吉である。<ruby><rb>藍</rb><rt>あい</rt></ruby>みじんは、<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>も裾も、ぐっしょりと濡れていた。<ruby><rb>用箪笥</rb><rt>ようだんす</rt></ruby>の<ruby><rb>抽斗</rb><rt>ひきだし</rt></ruby>や、そこらの間を、かた、こと、といっている間に、<ruby><rb>欄間</rb><rt>らんま</rt></ruby>の額のうらから、手もつけない三つの封金を見つけておかしくなったように、口を押えた。

「あいつの着物じゃ、ちっと、気色がわるいが、間にあわせだ、何かあるだろう」

咳きながら、押入に手をかけて、四、五寸、開けたとたんに、彼は、胆をつぶした。

「あっ、治郎吉さん！」

「シッ」

絞め殺すように、そこにいた、お仙の口を押えつけて、

「おめえは、こんな所にいたのか」

「連れ出しに来てくれたんですか。<ruby><rb>欣</rb><rt>うれ</rt></ruby>しい！　ああ欣しい！」

お仙は、泣いて喜んだ。彼の膝へ、顔をこすりつけて、縛られている体を、押入の中から這わせた。

「さ、はやく、連れて逃げてください」

「待ってくれ、おらあ、おめえを救いに来たわけじゃねえ。この家の総勘定をつけに来たんだ」

そんなことばは、お仙の耳にもはいらなかった。

「何でもいいから、縄を解いて、外へ出してください。私はもう、この世の中に、おまえさんよりほかに、頼る人はないんだから。ね、治郎さん」

「おめえは、まだ俺に、<ruby><rb>懲</rb><rt>こ</rt></ruby>りねえのか」

「どんな苦労をしてもいい」

「なるほどなあ、おめえにもいい所がある。それは、いつ捨てても、大して、悪い気がしねえことだ。きっと、俺はまた、おめえを捨てるぜ」

「見捨てないで下さいよう、見捨てないで……」

そういいながら、お仙は、治郎吉に解かれた縄をふり払って、物干しから、屋根へ、怖さも忘れて這い出したけれど、裏口はもう真っ赤に染まるほど、御用<ruby><rb>提灯</rb><rt>ぢょうちん</rt></ruby>が<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>もっていた。

「あっ、治郎吉さん」

と、座敷を駈けぬけて、表窓を開けてみたけれど、治郎吉のすがたは、そこにも見えなかった。

太左衛門橋も、河の中も、ただ灯である、軽装した捕方の影ばかりである。