## お<ruby><rb>千絵様</rb><rt>ちえさま</rt></ruby>

さて、その後またどうしたろうか、お<ruby><rb>千絵</rb><rt>ちえ</rt></ruby>様は？

かの女の今の環境はしずかであった。<ruby><rb>爽</rb><rt>さわ</rt></ruby>やかな京の秋がおとずれている。

部屋の前はひろい河原で、玉砂利と雑草とを<ruby><rb>縫</rb><rt>ぬ</rt></ruby>う幾すじもの<ruby><rb>清冽</rb><rt>せいれつ</rt></ruby>は、<ruby><rb>加茂</rb><rt>かも</rt></ruby>の水と<ruby><rb>高野川</rb><rt>たかのがわ</rt></ruby>の末がここで落ちあっているのだと、<ruby><rb>和</rb><rt>やわ</rt></ruby>らかい京言葉をもつ小間使に教えられた。

そこは、京の<ruby><rb>下加茂</rb><rt>しもかも</rt></ruby>にある、所司代の茶荘であった。柳の並木を境に、<ruby><rb>梶井伏見</rb><rt>かじいふしみ</rt></ruby>家などの寮園があり、森の隣には<ruby><rb>日光別坊</rb><rt>にっこうべつぼう</rt></ruby>の屋根が<ruby><rb>緑青</rb><rt>ろくしょう</rt></ruby>をのぞませている。

河原に向った数寄屋作りは、お千絵のために建てたように<ruby><rb>居心地</rb><rt>いごこち</rt></ruby>のピッタリ合った部屋だった。

お千絵はそこの窓から、毎日、加茂の水を見ていた。今も、侍女とは口もきかずに、じっと、そうしているのである。

「弦之丞様……弦之丞様は？」

と、ひねもす河原に<ruby><rb>啼</rb><rt>な</rt></ruby>いている虫とひとつに、思いつめて水を見ている。

しかし、その愛人の消息はおろか、まだ自分自身の境遇さえ、いったい、どう変って、どこへ向っているのか、夢のようで思い当たれないお千絵であった。

病気は、江戸にいた頃から、少しずつよくなっていたので、<ruby><rb>墨屋敷</rb><rt>すみやしき</rt></ruby>以来のことは、かすかに想像がついた。けれど、周囲の者は、あの乱心が二度ぶり返ってきたら、こんどこそは<ruby><rb>癒</rb><rt>なお</rt></ruby>るまいと医者の注意をうけているので、何をたずねても、<ruby><rb>肝腎</rb><rt>かんじん</rt></ruby>なことは、少しも話してくれなかった。

「お千絵様、殿様はいつもこうおっしゃっておいででございます――」と、そばに<ruby><rb>侍</rb><rt>かしず</rt></ruby>く小間使がいうのである。

「ある時節がまいりますまで、あなたは松平家の御息女のおつもりで、夏は夏を、秋は秋をたのしんで、気を賑やかに、わがままに、こうしておいでになればよろしいのじゃと……」

「だって私は……」とお千絵は、慰められる言葉にいつも気が沈んで……。

「そんな気もちになっていられませぬ」

「なぜでございますか。殿様の仰せつけ、お気がねはいりませぬのに」

「でも、誰ひとりとして、私のたずねることに、はっきり<ruby><rb>返辞</rb><rt>へんじ</rt></ruby>をしてくれたことがない」

「それは、お千絵様、あなたのお体を思うからでございます」

「……じゃあ私は……といっても、また教えてくれないかも知れぬが、どうして、この京都へくるようになったのでしょう？」

「別に深い意味でございませぬ。あなた様のお体を預かっている<ruby><rb>松平左京之介</rb><rt>まつだいらさきょうのすけ</rt></ruby>様が、京都の所司代にお<ruby><rb>更役</rb><rt>かえやく</rt></ruby>になったので、それにつれて私たちまで、江戸のお<ruby><rb>下邸</rb><rt>しも</rt></ruby>からこちらへ移ってまいりました」

「そして、よく私を慰めて下さった、<ruby><rb>常木鴻山</rb><rt>つねきこうざん</rt></ruby>様は？」

「御用があって、大阪表へお越しになったとやら？　……それもよくは存じませぬが」

「じゃ、そなた、万吉という人を知りませぬか」

「存じませぬ」

「お綱という人の噂は？」

「聞いたこともございませぬ」

「では……法月弦之丞という方の御様子を、どこかで耳にしたことはないかえ？」

<ruby><rb>侍女</rb><rt>こしもと</rt></ruby>は困った顔をして部屋の外へ目をそらした。そして、いいものを見つけたように、

「あ、今日もまた、昨日のお客様が奥で殿様をお待ちになっておりまする」

と、お千絵の気をまぎらわそうとして、

「あのお武家様おふたりは、はるばる江戸から御密談で<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>ったお方でございます。江戸と聞けば、お千絵様もおなつかしゅうございましょう」

と、顔をさし<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いた。

なんの意味もなく、急に涙がさしかけてきたので、お千絵は窓へ顔を逃げた。

<ruby><rb>侍女</rb><rt>こしもと</rt></ruby>が何かの用に立ってゆくのを知った後も、そこにもたれて、この頃の癖のように、加茂の水をみつめていた。ピチ、ピチ、と小魚のはねる流れの<ruby><rb>瀞</rb><rt>とろ</rt></ruby>に、<ruby><rb>糺</rb><rt>ただす</rt></ruby>の森をこしてくる初秋の風が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さざ</span>波を立てている……。

見る心は違うが、庭向うの別室に来ているふたりの侍も、しきりと、そこから見える四<ruby><rb>明</rb><rt>めい</rt></ruby>ヶ<ruby><rb>岳</rb><rt>たけ</rt></ruby>や、向うの河添いをゆく<ruby><rb>大原女</rb><rt>おはらめ</rt></ruby>の群れなどを珍しそうに見廻していた。

ふたりは、昨日京へ着いたばかりの、江戸町奉行の使いであった。その用向きを伝えて二条<ruby><rb>千本屋敷</rb><rt>せんぼんやしき</rt></ruby>の所司代を訪れたところ、下加茂の茶荘で逢おうからといわれて、昨日も今日も、ここへ来て左京之介を待つ者であった。

にわかな役替えで、二条城へ移ってきたばかりの左京之介には、公務のうけつぎがつかえていて、体をぬく隙がなかった。ふたりは、今日もおよそ待ちくたびれを覚悟している。

と、その<ruby><rb>無聊</rb><rt>ぶりょう</rt></ruby>な目が、ふと、お千絵の姿を見出して、

「や、似ている女もあるものではないか」

とささやきだした。

「あの横顔……な、どうだ」

「ウウム、なるほど」

「左京之介様には御息女がなかった。<ruby><rb>御寵愛</rb><rt>ごちょうあい</rt></ruby>の女なら、まさかここへはおくまい。誰だろう、あの<ruby><rb>女性</rb><rt>にょしょう</rt></ruby>は？」

「たいそう沈んでいる、<ruby><rb>憂</rb><rt>うれ</rt></ruby>わしげな姿だ。しかし、いわれてみると、姿まであの書付と同じようではないか」

ふたりは、一種の好奇心をもってうしろに置いた<ruby><rb>振分</rb><rt>ふりわけ</rt></ruby>をほどき、所司代へ公務をつたえたついでに、京町奉行所へ寄って打合せをするはずの一<ruby><rb>束</rb><rt>たば</rt></ruby>の書類を出した。

そして、一枚ひろげたのは、女の人相書である。それをお千絵と見くらべていた。

## いきうつし

<ruby><rb>南町奉行所</rb><rt>みなみまちぶぎょうしょ</rt></ruby>の用命をおびて江戸から出張してきたふたりの<ruby><rb>上役人</rb><rt>かみやくにん</rt></ruby>は、急に、振分からとり出した女の人相書と、庭向うの小窓によっているお千絵の横顔とを見くらべて、しばらく小首をかしげあっていたが、

「ウーム、似ている」

「<ruby><rb>生</rb><rt>いき</rt></ruby>うつしだ！」

と、小声を重ねて、不審がっていた末、

「場所がここでなければ、どんな姿をしていようと、無論、<ruby><rb>有無</rb><rt>うむ</rt></ruby>をいわすのではないが……」と、ひとりが<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。

「役儀がら<ruby><rb>糺</rb><rt>ただ</rt></ruby>してみなければ気がすまぬが、まさか、松平家の茶荘に、女<ruby><rb>掏摸</rb><rt>すり</rt></ruby>がアアしている<ruby><rb>筈</rb><rt>はず</rt></ruby>はないからの」

「しかし、念のため、人違いにしろ一応……」と一人が懐疑の誘惑にやまれぬように、とうとう、庭下駄をはいて、お千絵の姿を、もっと間近から見なおそうとした。

ところが、そこへ、左京之介が見えられたという知らせである。で、茶荘の用人が、すぐ別席へと案内に立った。

庭に出ていた者は、あわてて席へ戻り、ひとりのほうもちょっとうろたえて、ひろげていた人相書を振分の下へ<ruby><rb>挟</rb><rt>はさ</rt></ruby>んでそこへ置いたまま、所司代と逢うべき密室へ通されて行った。

左京之介が待っていた。

<ruby><rb>智慧伊豆信綱</rb><rt>ちえいずのぶつな</rt></ruby>の血をひいている人だけに、どこか才気<ruby><rb>煥発</rb><rt>かんぱつ</rt></ruby>の風がある。それに今度は、<ruby><rb>難治</rb><rt>なんち</rt></ruby>の京都へ移って、所司代の要務をみることになったので、かれは寝るまもない<ruby><rb>忙</rb><rt>いそが</rt></ruby>しさに追われながら、一面得意でもあった。

ふたりは、その前へ、<ruby><rb>窮屈</rb><rt>きゅうくつ</rt></ruby>に手をつかえて、

「南町奉行<ruby><rb>付</rb><rt>づき</rt></ruby>の<ruby><rb>与力</rb><rt>よりき</rt></ruby>、<ruby><rb>中西弥惣兵衛</rb><rt>なかにしやそべえ</rt></ruby>でございます」

「私めは、<ruby><rb>評定所</rb><rt>ひょうじょうしょ</rt></ruby>与力、<ruby><rb>熊谷</rb><rt>くまがい</rt></ruby>六次郎と申すものにござります」

と、挨拶をした。

ウム、と左京之介はうなずいてみせるだけだった。評定所与力と町与力ふたり組で密使をよこしたのは何か、公然と大目付のくるよりは重要な使いだな、と察している。

案の<ruby><rb>定</rb><rt>じょう</rt></ruby>、ひとりの与力は肌につけてきた密封の公書を左京之介の前へさしだして、

「評定所七の日の<ruby><rb>御決定書</rb><rt>ごけっていがき</rt></ruby>でございます。御覧の上は、<ruby><rb>封皮</rb><rt>ふうひ</rt></ruby>へ御入手のおしるしをいただきとう存じまする」といった。

「大儀だった」

左京之介はその場では読まないで、封皮の<ruby><rb>黒印</rb><rt>こくいん</rt></ruby>だけを切り破り、<ruby><rb>証</rb><rt>しるし</rt></ruby>を与えてふたりへ返した。

<ruby><rb>公</rb><rt>おおやけ</rt></ruby>の密書には返辞がないのが普通である。返辞のいる場合には、改めて別な密使をこっちから立ててやる。或いは、<ruby><rb>空文</rb><rt>からぶみ</rt></ruby>を持たせて、本ものはわざと通常の文書の<ruby><rb>定飛脚</rb><rt>じょうびきゃく</rt></ruby>にまぎれこませてやったりする例がある。で、内容はとにかく、中西、熊谷、ふたりの役目はそれですんだことになった。

左京之介はその後で、まだ読まない評定所からの書状をもって居間へ入った。

ここは公務の疲れをいやす茶荘で、<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>屋敷でも<ruby><rb>下</rb><rt>しも</rt></ruby>屋敷でもないところから、十分、くつろげる家である。しかし、また二条の役所へ戻る用もあるとみえてかれは<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>を解かない。

人なき一室で、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とっくり</span>とそれを読んでゆくうちに、かれの<ruby><rb>眉宇</rb><rt>びう</rt></ruby>に、ある決意がうごいた。それがもたらした評定所の議決に共鳴した様子であった。

問題は――かれが心ひそかに待っていた蜂須賀家の<ruby><rb>剔抉</rb><rt>てっけつ</rt></ruby>であった。阿波へは、ひそかに弦之丞をやってある。将軍家の意思もほぼある程度までうごかしてある。しかし、要路の者たちの議がまとまらないので、かれは、所司代として京都へのぞみながら、まだ充分に、反幕府の<ruby><rb>癌</rb><rt>がん</rt></ruby>と睨む<ruby><rb>公卿</rb><rt>くげ</rt></ruby>たちへ手をのばしかねていた。

ところが、今かれの手へ届いた書状によってみると江戸表にも一つの事件が起こった。<ruby><rb>長沢町</rb><rt>ながさわちょう</rt></ruby>の<ruby><rb>柳荘堂山県大弐</rb><rt>りゅうそうどうやまがただいに</rt></ruby>、三千人の門下を<ruby><rb>擁</rb><rt>よう</rt></ruby>して、ひそかに、京の堂上方、阿波の蜂須賀、宇治の<ruby><rb>竹内式部</rb><rt>たけのうちしきぶ</rt></ruby>などと気脈を通じて、ある大事を着々とすすめているというのだ。

密訴の者があって、それを知った幕府の老中たちが、今さらのように狼狽している様が、左京之介に見えるようだった。

「<ruby><rb>迂遠</rb><rt>うえん</rt></ruby>なものだ……」と彼は苦笑して、たびたび、それについて予言したことが、証拠だてられてくるのを愉快に思った。

「しかし、弦之丞はどうしたであろうか。彼さえ、首尾よく戻ってくれば、もう、反逆人どもの機先を制して、徳島城をはじめ天下の野心家どもを、一網に取りくじいでいい時分だが」

と、<ruby><rb>辛辣</rb><rt>しんらつ</rt></ruby>な腕のうずきをおぼえた。

「誰じゃ？」

左京之介は不意に立って、廊下を二、三度行き戻りする小侍を呼び止めた。

「は、最前の方でござります」

「最前の？」と、<ruby><rb>解</rb><rt>げ</rt></ruby>せぬように反問していると、そこへまた用人のひとりが奥から出てきて、

「どうも見当たりませぬ」

と、左京之介には覚えのないことを復命した。

「なにが、見当たらぬのじゃ」

「はい、只今お帰りになった、江戸表のお役人ふたりが、振分を持ってお帰りでございましたが、その下へ、取り急いで四ツに折った紙片を忘れて行ったと、また戻ってみえたのでござります」

「ふム？　……しかし紙片とは何なのか。あまり<ruby><rb>漠然</rb><rt>ばくぜん</rt></ruby>ではないか」

「よくお話になりませぬが、なんでも、これから京都町奉行所の方とお打合せをするための人相書だそうでございます」

まがきの<ruby><rb>萩</rb><rt>はぎ</rt></ruby>に、一枚の紙きれが吹きつけられていた。

ひと風さわさわとそよいだら、今にも、萩の枝を離れて加茂の河原へ逃げてゆきそうに、先刻からヒラヒラしている。

いくら座敷をたずねても見当たらない筈であった――風の<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>？　――こんなところに運ばれていたのである。

青くなって、取りに戻った江戸の与力両名は、ぜひなく、後の発見を用人に頼んで帰ったが、用人は雑事にまぎれてふたりが帰るとともに忘れていた。

で、萩に吹きよせられている紙片は、誰にも探しだされずにあるが、ふと目にとめたのは窓によっていたお千絵様。しかしまた、お千絵は皆がそんなに騒いでいたものとは知らない。

ただ、さっきからの空虚な目のやりばとしていた。

すると。

白い紙きれはまた少しの風に萩の枝を離れて、お千絵の視線を慕ってきた。

「おや？」

かの<ruby><rb>女</rb><rt>じょ</rt></ruby>は初めて好奇の眼を見ひらいて、竹縁から庭下駄をはいた。そして、元の窓へ返ってきてよく見ると、<ruby><rb>西判</rb><rt>にしばん</rt></ruby>の<ruby><rb>生紙</rb><rt>きがみ</rt></ruby>に美女の顔が描いてある。絵には違いないが、雅味も線の妙味もなくて、おそろしく無駄を<ruby><rb>省</rb><rt>はぶ</rt></ruby>いた人相本にあるような<ruby><rb>描</rb><rt>か</rt></ruby>き<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>であった。

だがお千絵は、それを見たとたんに不思議とひきつけられて、思いがけない人に逢ったような<ruby><rb>動悸</rb><rt>どうき</rt></ruby>さえうった。

「どこかで見たようなお方？　……」

と、ジッと見つめていると、単調な線描きの女の顔が、自分に微笑を向けてくるように感じられだした。

<ruby><rb>魚眼</rb><rt>ぎょがん</rt></ruby>という<ruby><rb>張</rb><rt>は</rt></ruby>りのある眼、<ruby><rb>彫</rb><rt>ほ</rt></ruby>りのふかい鼻すじ、<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>の形、いい唇、個々に見れば見るほど、なおどこかで記憶のある女の顔であった。

その<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>にはまたこういうことが書いてあった。

――身長<ruby><rb>並</rb><rt>なみ</rt></ruby>、痩せ形、髪くろく色白、右の眉尻に<ruby><rb>黒子</rb><rt>ほくろ</rt></ruby>、他に特徴なし、年二十四、当時無宿、<ruby><rb>江戸浅草孔雀長屋人別</rb><rt>えどあさくさくじゃくながやにんべつ</rt></ruby>、<ruby><rb>紋日</rb><rt>もんび</rt></ruby>の<ruby><rb>虎</rb><rt>とら</rt></ruby>五<ruby><rb>郎</rb><rt>ろう</rt></ruby>娘、女賊見返りお綱。

――<ruby><rb>右</rb><rt>みぎ</rt></ruby><ruby><rb>兇状</rb><rt>きょうじょう</rt></ruby>の女スリ上方すじへ立廻りたる形跡これあり似より<ruby><rb>下手人</rb><rt>げしゅにん</rt></ruby>召捕りのせつは人相書照合一応江戸南町奉行まで<ruby><rb>示達</rb><rt>じたつ</rt></ruby>あるべきもの。

「あっ……」

お千絵は針で突かれたような記憶をさました。

駿河台の墨屋敷で、すでに焼け死ぬところを助けだしてくれた恩人！　あの<ruby><rb>紅蓮</rb><rt>ぐれん</rt></ruby>の火をくぐって、切り破った板壁の穴から、「お千絵様！」と呼びかけた顔を、かの女は今まざまざと眼に浮かべて、唇をふるわせた。

「女スリ？　……あのお綱様が、おそろしい女賊？　……」嘘のような気がする。いや、嘘にちがいないとお千絵は信じた。

現に、自分は、弦之丞の消息を忍ぶにつれて、たえず、この<ruby><rb>女</rb><rt>ひと</rt></ruby>のことをも忘れたことがなかった。なぜかしらぬが、常にある思慕が燃えている。どうかしてもいちど会いたいと念じている。

その<ruby><rb>女</rb><rt>ひと</rt></ruby>の人相書であろうとは？

「いまわしい……きっと誰かの<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>であろう」

お千絵様は口惜しく思った。

「鴻山様のお口が洩れたこともあったが、お綱様とおっしゃるお方は、そんな、悪いお人ではないわけじゃ」

細かに破り裂いて、河原へ捨ててしまおうと思ったが、また、この不愉快な人相書も、あの<ruby><rb>女</rb><rt>ひと</rt></ruby>の似顔と思えば、慕わしい気も起こって、しばらく膝にのせて眺めていた。

「お千絵様」

いつの間にか、後ろに立っていた小間使のお<ruby><rb>君</rb><rt>きみ</rt></ruby>が、

「――何を見ていらっしゃいますの？　……」とそばへ坐った。

「こんなものが、あの萩垣根の下に落ちていたので」

「まア！　……」とお君は<ruby><rb>仰山</rb><rt>ぎょうさん</rt></ruby>に、「この<ruby><rb>女</rb><rt>ひと</rt></ruby>の顔とあなた様と、<ruby><rb>生</rb><rt>いき</rt></ruby>うつしでございますよ」

不用意に、突然そういってしまってから、小間使のお君はハッと思った。

お千絵の顔色もうすく変っていた。

「これはあの、さっき、江戸表からお越しになった与力方が、殿様とお話中に見えなくして、たいそうさがしておりました人相書、御用人様へ返してあげて下さいませ」

子供をすかすように取りあげて、せかせかと持って行った<ruby><rb>素振</rb><rt>そぶり</rt></ruby>を、かの女は、いつになくひがんで見ていた。

その晩から、お千絵はまた寝苦しい様子……秋の長夜。

「生うつし！」と口走ったお君の言葉も、妙に心のこだわりとなって、無意味を有意味に考えられてならない。

それに。

周囲の者はみな左京之介に命じられて、かの女にかの女の境遇を知らせまいとしていたが、お千絵の心は、だんだんに、その秘密の霧をとおして、断片的ないろいろの不審を、想像の糸でかがっていた。

そして、おぼろに<ruby><rb>輪郭</rb><rt>りんかく</rt></ruby>を察してきた。

<ruby><rb>禍</rb><rt>わざわ</rt></ruby>いと悩みは知ることから起こりがちなものだ。かの女の心も外へうごきかけている。

――それから四、五日後であった。

「お千絵殿……お千絵殿……」

と、寝所の戸の外で呼ぶものがある。

加茂は暗い深夜であった。

## <ruby><rb>闇</rb><rt>やみ</rt></ruby>の<ruby><rb>手招</rb><rt>てまね</rt></ruby>き

その晩も、寝つかれずに悩んでいたかの女は、また時たって、

「お千絵どの」

と、どこかで呼ぶ声に、つい雨戸を開けた。

見ると――

細い明りがさしたのを知って、すぐ垣の<ruby><rb>際</rb><rt>きわ</rt></ruby>まで寄ってきた男が、

「こなたへ――」

と、萩の外から顔を伸ばして手招きをしている。

ゾッと身の毛を立てて、お千絵は戸を閉めてしまった。そして、巣にもぐった小鳥のように、おびえた目をして、夜具の中で動悸を抑えた。

<ruby><rb>真夜半</rb><rt>まよなか</rt></ruby>である。河の水音が雨のようだ。

「小間使たちを起こそうかしら……」お千絵はふるえながら考えていた。そして、後悔していた。

「なぜ私はうかつに戸などを開けたのだろう？」と。

しかし、心の迷いがあるから、<ruby><rb>茫漠</rb><rt>ぼうばく</rt></ruby>としたものへあせる気がうごいているから。という自省はその時お千絵にはなかった。

「今のお方……」

外の男は、そこを去らずに、<ruby><rb>根</rb><rt>こん</rt></ruby>よく声をかけていた。

「もし、お千絵殿。弦之丞殿から、頼まれてまいったものだが……」

「えっ、弦之丞様に？」

お千絵はまた起き上がった。

内と外で、しばらく返辞を待つ心が探りあっていた。あたりの虫の音がまたしげく聞かれる程、外の影もジッとしている。

「お千絵どの」

「はい」

釣り込まれるように返辞をしてから、いよいよ身を<ruby><rb>硬</rb><rt>こわ</rt></ruby>めている。

「わしは<ruby><rb>山科</rb><rt>やましな</rt></ruby>の僧院にいる<ruby><rb>寄竹派</rb><rt>きちくは</rt></ruby>の<ruby><rb>普化僧</rb><rt>ふけそう</rt></ruby>です。同じ僧院に、<ruby><rb>法月弦之丞</rb><rt>のりづきげんのじょう</rt></ruby>というものが近頃まいっておる。彼に逢ってみれば分るが、わしとは<ruby><rb>別懇</rb><rt>べっこん</rt></ruby>な間がら、その<ruby><rb>宗友</rb><rt>しゅうゆう</rt></ruby>に頼まれてきたのですがな」と<ruby><rb>独語</rb><rt>ひとりごと</rt></ruby>のように外でいう。

「オオ、では……」と皆まで聞かずに、お千絵の恐怖は別なものにおどって、乱れ<ruby><rb>筥</rb><rt>ばこ</rt></ruby>の衣類をかけ、帯を結んで戸を開けなおした。そして、おずおずと竹縁に出ると、

「ぜひ、あなたに会いたいといって、弦之丞殿が待っておられる」

と、向うの影が、前のように手招きした。

お千絵はもう弦之丞自身が、そこへ来ているような気もちに誘われていた。ありあわす小間使の草履をはいたかの女の足は、一寸先の闇に向いて、なんの分別もなかった。

ふらふらと<ruby><rb>柴折</rb><rt>しおり</rt></ruby>を押して、庭の外へ出てみると、深い天蓋をかぶった虚無僧の姿が、河原のヘリをスタスタと先へ歩いてゆく。

「用があるならば待っていそうなものを」と、お千絵はそこでまたちょっと不審を起こして足を止めた。すると、先の虚無僧の影、ヒラリとふりかえって、

「早く」

と、手を振ってまたさしまねいて行く――。

「もし……」

糸にひかれているように、お千絵は思慮もなく走った。ひとたび闇へ進んだかの女は、闇の怖ろしさを忘れていた。

そして、追いすがらずにはいられない場合のように、

「……弦之丞様は、弦之丞様は？」

と影について息をせいた。

「まだ。まだ。まだ！」

虚無僧は次第に大股になって行った。河原づたいから三本木の<ruby><rb>仮橋</rb><rt>かりばし</rt></ruby>を東へ渡って、少し町屋を離れると、岡崎の<ruby><rb>畷</rb><rt>なわて</rt></ruby>にかかるさびしい<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>のあちらこちらに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かまぼこ</span>小屋の影が幾つか見えはじめた。お千絵はもう息がつづかなくなって、

「待って下さいまじ！　……もし！」

と半ば、涙声になって虚無僧の<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>にすがりついた。

「なんだい？」

と、<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>の声は急に冷たく<ruby><rb>尖</rb><rt>と</rt></ruby>がって、

「黙ってサッサと歩きねえよ。そしたら、やがてお<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>の好きなお方と逢わせてやる」

「露にしめって、草履の緒が、少しほぐれかけてまいりましたので……」

「じゃ、<ruby><rb>裸足</rb><rt>はだし</rt></ruby>になりねえな」

「<ruby><rb>山科</rb><rt>やましな</rt></ruby>の僧院とやらまでは、これからまだ、たんと道のりがございましょうか」

「そうさな」

冷然と、<ruby><rb>高台寺</rb><rt>こうだいじ</rt></ruby>の黒い峰の背を指さして、

「あの山の向う側だと思えばいい」

「そこの普化宗の僧院にまいれば、あの……弦之丞様が私を待っておいで遊ばすのでございますね？」

「弦之丞？」

突然、その虚無僧、クックッと妙な笑いをこみあげて、

「なるほど、あいつが深い<ruby><rb>執心</rb><rt>しゅうしん</rt></ruby>だけあって、お千絵様はまるで<ruby><rb>初心</rb><rt>うぶ</rt></ruby>だ。これじゃ、<ruby><rb>策</rb><rt>て</rt></ruby>にのせても一向<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>し<ruby><rb>甲斐</rb><rt>がい</rt></ruby>がねえな」

みはっている純な眼は、何を<ruby><rb>嘲</rb><rt>あざけ</rt></ruby>られているのか、<ruby><rb>解</rb><rt>げ</rt></ruby>せないふうだった。

怪しげな虚無僧姿の男、やがて、白ばッくれた調子で言い放した。

「ナニ、僧院へ行けば弦之丞がいるかって？　誰がそんなことをいったい？　弦之丞なんてやつが今頃そこらにいてたまるものか」

「ええッ」

お千絵は水をかけられたようにすくんだ。

<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>された！

そう知って逃げ<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>こうとした時は、もう自分の腕くびが、固く<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>につかまれていた。

「第一、山科に虚無僧寺なんてあったかい？　おめえはほんとに、可愛らしいお人形様だ」

「じゃあ……そなたは……」必死に男の指を一本一本もごうとして<ruby><rb>悶</rb><rt>もだ</rt></ruby>えながら、

「さっき、弦之丞様に頼まれて来たといやったのは、この身を、誘いだす<ruby><rb>虚言</rb><rt>いつわり</rt></ruby>であったのか」

「知れている！」

「ア、あれッ――」

「おッと、お姫様、手を折りますぜ、今になって逃げようたッて、<ruby><rb>遅蒔</rb><rt>おそまき</rt></ruby>だ」

「おのれ、無体なことをしやると……ちッ……離して！　離してッ」

「何も無体はしやしねえ。弦之丞には逢わせかねるが、江戸表以来<ruby><rb>何人</rb><rt>なんぴと</rt></ruby>よりは一番そなたに執心だった、人情深い男に逢わせてやろうと思って、この間から、しきりに心を砕いていたんだ」

「……シ、知らぬッ、離せ」

お千絵が帯をさぐるのを、男は冷笑して見ていた。唯一の守り刀は、腕をつかみ取られた途端に、道のむこうへ捨てられていた。

<ruby><rb>鷲</rb><rt>わし</rt></ruby>の爪にかかった小鳥の弱さを知ると、お千絵は、今さら屋敷の者に無断で、この真夜中に見知らぬ人間についてきた自分のあさはかが悔いられて、泣くにも泣けぬ心地がした。

「この先はもう岡崎の<ruby><rb>田圃</rb><rt>たんぼ</rt></ruby>だ。人通りといえば南禅寺の坊さんか、家といえば<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かまぼこ</span>小屋があるばかり。救いを呼んだところでムダだからよしたがいい。それよりは、何のために、俺がお前を手招きしたか、そのほうがもっと知りたくはないか。エ、お千絵殿」

「……頼みじゃ、<ruby><rb>後生</rb><rt>ごしょう</rt></ruby>じゃ、どうぞ、私をここで帰して下さいませ」

「勝手なことをいうもんじゃない。自分からついてきたんじゃねえか。まあ俺の話を聞け、その上、逃げようとも人を呼ぶとも勝手の思案にしろ」

と、天蓋のかげには怖ろしい眼が光った。

「――江戸<ruby><rb>墨屋敷</rb><rt>すみやしき</rt></ruby>にいた当時から、そなたに生涯の恋を<ruby><rb>賭</rb><rt>か</rt></ruby>けている男というのは、近い日のうちに、すばらしい出世の<ruby><rb>鍵</rb><rt>かぎ</rt></ruby>を握って<ruby><rb>上府</rb><rt>じょうふ</rt></ruby>することになっている。また、<ruby><rb>栄達</rb><rt>えいたつ</rt></ruby>のついでに、宿望の恋人のほうも、ぜひこの際探しだして<ruby><rb>携</rb><rt>たずさ</rt></ruby>えて帰りたいから、支度をして待っていてくれと、実は、こう俺が頼まれているのだ」

男は、そこで言葉の息をついた。

墨屋敷――あの焼けた自分の<ruby><rb>邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>を、どうしてこの人間が知っているのであろうか？　お千絵はいよいよ身が<ruby><rb>縮</rb><rt>ちぢ</rt></ruby>むようになって、

「どうぞ、情けと思うて、私をここから帰して下さい。加茂のお屋敷を無断で出ては、左京之介様や<ruby><rb>鴻山</rb><rt>こうざん</rt></ruby>様に、申しわけがありませぬ」

と、ありのままの心に叫んだ。

一方は、そんな哀訴に耳もかさないで、

「いいさ、いいさ。末の心配などは、男にすべて任せるこッた」と別な意味に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すげ</span>違えて、

「――今もいった通り、そなたを連れて帰ろうという男は、今度徳川家にとってある重大な<ruby><rb>殊勲</rb><rt>しゅくん</rt></ruby>をかがやかせて立ち帰るそうだ。そこで安く積っても四千石や五千石の<ruby><rb>捨扶持</rb><rt>すてぶち</rt></ruby>と、<ruby><rb>笹</rb><rt>ささ</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby><ruby><rb>詰</rb><rt>づめ</rt></ruby><ruby><rb>番頭</rb><rt>ばんがしら</rt></ruby>のお役付が、帰る先にはブラ下がっている。同時にお千絵様と婚礼の式をあげ、昔にまさる駿河台の墨屋敷に納まろうという寸法、それが、彼の宿望なンだ」

と、ニヤリとした。

「――しかし、以上の話だけでは、まだ胸に落ちまいから、彼という人間の姓名だけを洩らしておこう。いいかい、お千絵殿、つまり未来の<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>と<ruby><rb>侍</rb><rt>かしず</rt></ruby>く人の名だぜ――それは、あの旅川周馬さ！　おれかい！　おれはやはり駿河台にいた組仲間の一人で、彼とは竹馬の悪友だ。けれど、腕こそ立たないが、悪智悪謀、すべてにかけて、周馬はおれの先輩と<ruby><rb>敬</rb><rt>うやま</rt></ruby>っている男なので、実は前から」

不意に、ぷツリと、言葉を切ったかと思うと、いきなりお千絵の口へ<ruby><rb>手拭</rb><rt>てぬぐい</rt></ruby>を押しこんだ。

そして、ザワザワと一方の<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>へ隠れるとともに、ひとつの四ツ<ruby><rb>手</rb><rt>で</rt></ruby><ruby><rb>籠</rb><rt>かご</rt></ruby>の灯が、白川橋の方角から飛んでくる。

垂れをあげて刀にもたれ、うつらうつらと駕の中の武士、編笠をうつむけて居眠っていたらしいが、そこまで来ると、駕屋の爪先に何かカラリと蹴られた音があったので眼をさまして、

「これ、駕屋」

「へい」

「ちょッと待て、駕をおろせ」

と、不意に足を止めさせた。

「――何か今、息杖の先で、刀の<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>のようなものを蹴りはせぬか」

「さあ？　……」

「でなければ、短刀、そんな物を」

「何しろ、千本屋敷まで急げとおっしゃったんで、夢中で駆けておりましたので」

「ウム、気がつかなかったか。では、その<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>を<ruby><rb>揚</rb><rt>あ</rt></ruby>げてみろ。イヤ、この辺へ……」

「へい」

と、棒鼻からはずした提灯を取って、駕屋がそのあたりをかざして見せると、侍は、駕から半身をのり出して、黄色く浮きあがった夜露をジッと眺め廻していた。

笠の<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>に、二重に結ばれた<ruby><rb>頤</rb><rt>おとがい</rt></ruby>をさし<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>くと、がっしりした中年以上の武家、それは、大阪表から久しく姿を見せずにいた常木<ruby><rb>鴻山</rb><rt>こうざん</rt></ruby>であった。

## <ruby><rb>踊</rb><rt>おど</rt></ruby>らぬ<ruby><rb>人影</rb><rt>ひとかげ</rt></ruby>

剣山は常時の<ruby><rb>態</rb><rt>てい</rt></ruby>にかえった。

<ruby><rb>麓</rb><rt>ふもと</rt></ruby>のかためも形ばかりに解かれた。

あれから、夜明けに、山を下って<ruby><rb>龍耳</rb><rt>りゅうじ</rt></ruby>老人が、

「ふたりは、わしが討ってとった」

と、力強くいったことばを、誰とて信じて疑わない。

当然、そうあるべき帰結のように、耳から耳へ<ruby><rb>瞬伝</rb><rt>しゅんでん</rt></ruby>した。

「隠密を殺せば不吉がおこる、殺してはならぬという蜂須賀家の<ruby><rb>掟</rb><rt>おきて</rt></ruby>じゃ。それを破って殺してきた。ことのついでと、死骸も谷間へ蹴こんできたが、ほっておいて、後日の<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めを待つよりは、このこと、わしから<ruby><rb>太守</rb><rt>たいしゅ</rt></ruby>へ御報告に出かけよう」

いったん川島へ帰った老人は、<ruby><rb>原士</rb><rt>はらし</rt></ruby>仲間へこういって旅装をしなおし、従僕次郎ひとりを連れて、徳島の城下へ出かけて行った。

その途中で、次郎がきいた。

「<ruby><rb>龍耳軒</rb><rt>りゅうじけん</rt></ruby>様」

「ウム」

「どうも私には分りませぬ」

「なにが？」

「剣山のことでございます」

「あの時のわしの処置を知っているのはお前だけだ。面白かろう、徳島の城下へ行って評判するか」

「ど、どういたしまして、決して、おくびにも洩らしは致しません」

「そう秘密にせんでもよろしい。いずれ、今にばれてくる。殺さぬものを殺したといったところで、その人間がいつまで世間を歩かずにはいないからな」

「で、なおのこと、次郎めには、あなた様の心のうちが解せませんので」

「よいではないか、分らなければ分らぬなりで」

「ところが、分らぬこと程、よけいに聞いてみたいので困ります」

「貴様、やはり秘密をしゃべる<ruby><rb>性</rb><rt>たち</rt></ruby>だな」

「しゃべらぬつもりでございますが、やはりそんな<ruby><rb>性</rb><rt>たち</rt></ruby>に見えましょうか」

「冗談じゃ。お前は口が固い」

「では、お話し下さいませ」

「またか」

「うるさい奴でございます」

「考えてみろよ。分るじゃないか」

「ずいぶん考えておりますが」

「法月弦之丞という男、どうも、わしの気に入ったのさ。好きな人間は殺せまいが、おぬしにしたところでな」

「ははあ、それだけでございますか」

「理由をつければ幾らもある。第一、弦之丞やお綱を殺さぬことは、蜂須賀家のおんため、後にいたっていいことなのだ」

「なぜでございましょう」

「幕府の怒りを少なくする」

「でも公然と、討幕の兵をさえ挙げますのに」

「ところが、それはものにならない。いざとなる<ruby><rb>間際</rb><rt>まぎわ</rt></ruby>の日に、必ず、堂上二十七家のうちから、グラつきだす者が出て、禁門お味方と称する西国大名も、素早く旗色を引っこめる。まずそこいらがオチで、後はまた、幾十年かの歳月を待たなければ、ほんとの<ruby><rb>尊王攘幕</rb><rt>そんのうじょうばく</rt></ruby>の声はあがるまい」

「とすると、お家はどうなりましょう」

「一番損な立場になる。阿波守様のあの御気質がそれを招いた。上手にという技巧をなさらないお方だからな」

「ではなおさら、弦之丞を無事に江戸へ帰すのは、お家の不利でございませぬか」

「あれは江戸の武士であっても徳川家の味方ではない。大義の正しいことを心得ておる人物だ。むずかしくいえば、思想的には尊王家で、身は江戸方に籍を置く人間なのだ。したがって、かれの肉親や周囲のきずなは、みな幕府の人につながっている。かれの<ruby><rb>沈鬱</rb><rt>ちんうつ</rt></ruby>はそこにある。また、わしの見解があやまったにしろ、ひとりや二人の人物を助けたとて、<ruby><rb>大勢</rb><rt>たいせい</rt></ruby>の上にどれほどな違いを来たすものじゃない。ことに、弦之丞が<ruby><rb>詳密</rb><rt>しょうみつ</rt></ruby>な報告を江戸にせぬまでも、もう御当家や堂上のもくろみは、うすうす徳川家の<ruby><rb>気</rb><rt>け</rt></ruby>どるところとなっておる。その証拠には京都の所司代が役替えになった。<ruby><rb>辣腕</rb><rt>らつわん</rt></ruby>のきこえある松平左京之介が、二条城へ入れ代ったのは、ひッ腰の弱い<ruby><rb>公卿</rb><rt>くげ</rt></ruby>たちにとって、おそろしい<ruby><rb>脅威</rb><rt>きょうい</rt></ruby>であろう。まだいけない、機はほんとうに熟してはこない。<ruby><rb>所詮</rb><rt>しょせん</rt></ruby>、阿波守様のお考えはものにはなるまい。そうしてみれば、弦之丞を助けてやったことは、個人として武士道的、また蜂須賀家のおためとしても、決して悪い結果にはならん」

次郎にはわからぬ点もあったが、常に天下の機微をみている老人のことば、ひとつの信仰をもって聞いた。

「悪いというのは、何よりも、この際、無謀な兵をあげてしまうことだ。やってしまってはおしまいだ。幕府に気味悪がられる程度はいいが、<ruby><rb>弦</rb><rt>げん</rt></ruby>を放っては万事休す。――で、わしは徳島城へやってきた、何でもかでも、阿波守様に、その無謀を思い止まらせんためじゃ。命がけで<ruby><rb>諫言</rb><rt>かんげん</rt></ruby>する！　な、次郎、わかったであろう」

徳島へついてみると、城下はすばらしく景気だっていた、<ruby><rb>出丸廓</rb><rt>でまるぐるわ</rt></ruby>の<ruby><rb>竣工</rb><rt>しゅんこう</rt></ruby>と、おびただしい買上げもので<ruby><rb>黄金</rb><rt>こがね</rt></ruby>が町へ降っている。

そして、<ruby><rb>城普請</rb><rt>しろぶしん</rt></ruby>のできた祝いに、城下は五日の踊りがある騒ぎだった。

鳴門音頭、そこぬけ<ruby><rb>囃子</rb><rt>ばやし</rt></ruby>。

<ruby><rb>一昨日</rb><rt>おととい</rt></ruby>、昨日、今日とつづいている城下の踊りは、<ruby><rb>夜半</rb><rt>よなか</rt></ruby>にかけても<ruby><rb>倦</rb><rt>う</rt></ruby>むいろなく、<ruby><rb>絃歌</rb><rt>げんか</rt></ruby>と仮装の踊りの陣が、幾組もいく組も、<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>に<ruby><rb>彩</rb><rt>いろど</rt></ruby>られた徳島の町々を渦にまいて流れていた。

踊りの陣にまじる人は、武士と町人の階級なく、若い娘と後家の恥らいなく、老人も青年も、百姓も<ruby><rb>船夫</rb><rt>ふなこ</rt></ruby>も、<ruby><rb>流行病</rb><rt>はやりやまい</rt></ruby>にかかったように、疲れるまで踊りぬく。

蜂須賀家の<ruby><rb>名祖</rb><rt>めいそ</rt></ruby><ruby><rb>蓬庵公</rb><rt>ほうあんこう</rt></ruby>以後、二、三代の頃から、国によろこびある時に、こういう<ruby><rb>習慣</rb><rt>ならわし</rt></ruby>ができたという。

「これや、見ておく値打がある」

と、旅川周馬はお十夜をムリに誘って見物に出た。

ふたりは剣山から一緒に帰った竹屋三位卿の屋敷にいる。三位卿の屋敷といっても、めったにかれはそこに落ちついていないが、元槍組<ruby><rb>頭</rb><rt>がしら</rt></ruby>の住んだ別宅を阿波守から貰っていた。

その日も有村はいない。

城中に祝宴があるので出かけた。<ruby><rb>出丸廓</rb><rt>でまるぐるわ</rt></ruby>落成の<ruby><rb>賜酒</rb><rt>ししゅ</rt></ruby>である。有村はまた、いい気持で<ruby><rb>鼓</rb><rt>つづみ</rt></ruby>でも鳴らしているのであろう。夜になっても下城しなかった。

で――周馬とお十夜は町へ出かけた。

「踊らないか、周馬」

踊りの輪を眺めながらお十夜が冗談にいうと、周馬は<ruby><rb>羨</rb><rt>うらや</rt></ruby>ましそうに。

「踊りたいな。踊りたいよ、拙者も」

「踊ったらいいじゃねえか、遠慮はいらない」

「だが、踊れない……」

「でたらめでいいのさ、あの中へ飛びこめば、ひとりでに踊れてくる」

「手振のことじゃない。あの気持になりきれないというのだ。お十夜、お前、踊ってみる気になれるか」

「そうだな……」と考える。

「踊れまい」

「ばかばかしいのが先に立って」

「実はそこに、自分を<ruby><rb>裸体</rb><rt>はだか</rt></ruby>にさせない気持が<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそ</rt></ruby>んでいるからさ。見たまえ、夢中になって踊っている人間は皆ムキ出しの人間だ――」

と、周馬はニキビを押しながら、踊りの流れを軒下へよけて、

「遠い昔は、踊りたいと思えば、いつでも踊るのが人間の当り前な動作で、それを、賢そうな顔をして、<ruby><rb>冷視</rb><rt>れいし</rt></ruby>している人間なぞはいなかったろうと思うよ」

「そうかな？」

「そうとも、本能だもの」

「くだらねえ講釈、よそうぜ。――踊る<ruby><rb>阿呆</rb><rt>あほう</rt></ruby>に踊らぬ阿呆、どうせ阿呆なら踊らにゃ損じゃ――って歌っていやがる。なんだか、あてこすられているようだ」

「真理だ、皮肉だ」

「そんなに感服するなら踊れよ、周馬」

「貴公もおれも踊れない人間だ。ああして、何もかも忘れ果てて踊るべく、あまりに<ruby><rb>屈託</rb><rt>くったく</rt></ruby>があり過ぎる」

「おれや今のところ、屈託も何もねえつもりだが」

「嘘をつけ、お十夜。周馬をそんなに甘くみるな」

「いやにからんだ言い方をする！」

「そうさ、そっちで水臭い<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>をするから、拙者にしたって面白くない」

「何をひがんでいるんだ。踊りを見に来て、そんなまずい<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>をして歩く奴があるもんか。オイ周馬、今夜はおれが<ruby><rb>奢</rb><rt>おご</rt></ruby>ろうぜ。<ruby><rb>松源</rb><rt>まつげん</rt></ruby>か、<ruby><rb>万辰</rb><rt>まんたつ</rt></ruby>か、<ruby><rb>淀屋</rb><rt>よどや</rt></ruby>か」

「どこへでも案内してくれ、少し、飲みながら談判がある」

「おそろしい<ruby><rb>権柄</rb><rt>けんぺい</rt></ruby>だな、怒るなよ、周馬。死んだ天堂が、草葉の蔭で笑っているぜ――。またあいつが持前を出してジブクッているって――、だが、おれは気の練れた<ruby><rb>悪玉</rb><rt>あくだま</rt></ruby>だ、いくらお前が、駄々をこねたって、天堂みたいに<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>のガン首をほうりもしねえし、その代りにまた、お<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>のいうことをすなおにきく人間でもねえんだ。まア、つまらねえ不平を持たずに、おれの<ruby><rb>奢</rb><rt>おご</rt></ruby>る酒でも飲んで、気のくさくさを取って話すなら話してやろう」

<ruby><rb>新町川</rb><rt>しんまちがわ</rt></ruby>のそばにある浜茶屋へ、孫兵衛は黙って先に入ってしまった。

「ついてくるならついてこい、いやなら帰れ！」そういわないばかりの態度。

周馬の<ruby><rb>眉間</rb><rt>みけん</rt></ruby>にムッとした色が燃える。が、孫兵衛が強く変ったのを見ると、にわかに、腰の弱い妥協性を出して、

「おい、お十夜お十夜」と、茶屋の門口へまですがってゆき、そこで、

「貴公、何か少し勘ちがいをしている。そう悪くとらんでもいいじゃないか」

また、何かくどくどと言いわけをしているうちに、赤前だれの茶屋の女が、秋草を植えこんだ奥の浜座敷へふたりを案内した。

気まずくなった気持はなかなか<ruby><rb>溶</rb><rt>と</rt></ruby>けないで、孫兵衛も旅川周馬も、黙って、<ruby><rb>手酌</rb><rt>てじゃく</rt></ruby>の<ruby><rb>苦</rb><rt>にが</rt></ruby>い<ruby><rb>杯</rb><rt>さかずき</rt></ruby>をかさねている。

「なんだか酒がうまくねえ」

こじれたお十夜は、酔うほど青くなり、周馬は胸にいちもつ、かれの狂酔を恐れるように、

「おれが悪かったよ……」

とうつむいていた。

「なにもお<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>のせいじゃない。おれの気分で、今夜は酒がうまくねえんだ」

周馬が折れて出たので、お十夜の機嫌も少し<ruby><rb>和</rb><rt>やわ</rt></ruby>らいだ。

「イヤ、拙者があまり愚痴ッぽかった」と、その上にも相手の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こじれ</span>たふうをなだめて――「重々拙者の<ruby><rb>狐疑心</rb><rt>こぎしん</rt></ruby>が悪い。まあ不快を<ruby><rb>溶</rb><rt>と</rt></ruby>いてくれたまえ。<ruby><rb>酌</rb><rt>つ</rt></ruby>ごうか、一ツ」

「ウム」

お十夜は不承不承に杯を出したが、<ruby><rb>幇間</rb><rt>ほうかん</rt></ruby>のように屈してくる周馬を見ると、それ以上怒れもせず、

「おれや、奥歯に物の挟まったような話は、大嫌いだからな」と、熱いのをグッと<ruby><rb>乾</rb><rt>ほ</rt></ruby>して、周馬へ渡した。周馬もすぐ応じて<ruby><rb>酌</rb><rt>つ</rt></ruby>ぎ返しながら、

「どうも拙者には一ツよくない性格がある。物を明らさまにいえないことだ」

「いったいお<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>は陰険だ。同じ悪党なら悪党らしく、おれのように図太くなれ」

「まったく拙者は陰険だ。計画的な悪事はやりとげてみせるが、貴公のように、線の太い押しのある<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>はできない」

「ばかに今夜は<ruby><rb>下手</rb><rt>したて</rt></ruby>に出るぜ」

「いや、これからは、永く貴公の<ruby><rb>下風</rb><rt>かふう</rt></ruby>に立つよ。どうか弟だと思って、足らないところは遠慮なく叱ってくれ。けれど、お十夜……」

「ウム？」孫兵衛はだいぶ気分をなおして、しきりと、手酌をかさねていた。

「――貴公を兄と慕っているだけに、あれを秘密にしているのは、どう考えても水臭くっていけない。ふたりの友情にヒビの入る<ruby><rb>原因</rb><rt>もと</rt></ruby>というものだ」

「何を？」

「剣山でよ」

「剣山で……？」と、孫兵衛はそらうそぶく。

「天堂一角の<ruby><rb>亡骸</rb><rt>なきがら</rt></ruby>を見つけた時、かれの死首がくわえていた一ツの<ruby><rb>秘冊</rb><rt>ひさつ</rt></ruby>を、貴公、すばやく<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>へ隠したじゃあないか。その後、どうして拙者に<ruby><rb>実</rb><rt>じつ</rt></ruby>を明さない」

「何も、<ruby><rb>秘</rb><rt>ひ</rt></ruby>し隠しにしやしねえ」

「じゃ、見せてくれてもいいではないか」

「それ程、大したものじゃねえというのに、お<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>もばかにアレを気にしているな」

「それや、拙者にしたって気になるよ。あの<ruby><rb>洞窟</rb><rt>どうくつ</rt></ruby>から天堂がつかみだした物は、当然、甲賀<ruby><rb>世阿弥</rb><rt>よあみ</rt></ruby>が何か書き止めておいた重要な遺書に違いないからの……」と、周馬の<ruby><rb>眼</rb><rt>まな</rt></ruby>ざしが<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>ごしに、杯を含んでいる<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>へ光った。

「ふン……」と、孫兵衛は薄笑いを含んでいたが、

「じゃ話すが、実は、あれや何の値打もねえものだぜ」

「なぜ？」と、周馬は、思わず鋭くなった自身に気がついて、食慾のない<ruby><rb>箸</rb><rt>はし</rt></ruby>の先にわざと小皿の料理を突ッついていた。

「――見たところ、血で書いたような文字が、<ruby><rb>小法帖</rb><rt>こほうじょう</rt></ruby>の<ruby><rb>鳴門水図</rb><rt>なるとすいず</rt></ruby>のあきへ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">べた</span>一面に書いてあったが、てんで、読みようのない<ruby><rb>文言</rb><rt>もんごん</rt></ruby>、何が何の意味やら分らねえんだ」

「なるほど、それはそうあるはず。隠密組には、甲賀派、伊賀派、おのおの別な暗語、隠語ができている。世阿弥のものも、おそらくその隠文で<ruby><rb>綴</rb><rt>つづ</rt></ruby>ってあるに違いない」

「そうか、そりゃ俺も初めて知った」

「だから物は何事も打明けてみるものだよ。して、その一帖は、今も貴公がそこに持っているのか」

「なアに。三位卿をへて太守のお手元へ差し出してしまった」

「また見えすいた嘘をいうぜ」と、周馬は冗談のようにいって、

「そんなにじらさずに、拙者に見せてくれてもいいじゃあないか」

「いや、めったにお<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>には見せられない。なぜといえば、周馬！　おめえはまだ江戸と気脈を通じている！　……」

青白く酔った唇から、<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>のような語句が吹かれて出る。

周馬は<ruby><rb>黙然</rb><rt>もくねん</rt></ruby>と、<ruby><rb>鯛</rb><rt>たい</rt></ruby>の眼肉をセセっていた。

孫兵衛は酔ってきた。

「……てめえは口先じゃ、御当家へ推挙してくれの、俺を兄と思っているのと、うめえことをいっているが、ど、どうして！　まだなかなか毛色の分らねえ<ruby><rb>獣</rb><rt>けだもの</rt></ruby>だ」

「……それで？」

「と――おれは睨んでいるのさ！」

「ふウン……」

「この間から、俺が黙って様子を見ていれば、京都の<ruby><rb>山科在</rb><rt>やましなざい</rt></ruby>へ、二、三度、妙な手紙を出したらしい」

「出している」

「内通していやがるんだろう！　所司代へ出した密書だろうッ」

周馬は<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>の酒癖を知っているように、好きに<ruby><rb>猛</rb><rt>たけ</rt></ruby>らしておいて、冷然と――

「そんなものか、あれあ、色女の用向きだ」

と澄ましていた。

「し、白をきるなッ……周馬」

「<ruby><rb>酌</rb><rt>つ</rt></ruby>ごうか、もうひとつ」

「くッ、く……」

「どうしたえ？　おい、お十夜孫兵衛殿」

「ううウ……」

「しっかりしたまえ」

「……よ、酔った！　あーッ苦しい！」と、孫兵衛、いきなり、膳の上へ、妙な形にかがみこんでしまった。

不意に、部屋の中の灯を周馬が吹ッ消すと、それとともに、水明りの映る浜座敷の丸窓へ、ボウと、ふたりの虚無僧の影法師がさした。

それから一<ruby><rb>刻</rb><rt>とき</rt></ruby>もたったろうか。

孫兵衛は胃の<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>からこみ上げる苦い<ruby><rb>唾液</rb><rt>だえき</rt></ruby>をふくんで、ムックリと首をもたげた。

浜座敷のひと間はまッ暗だった。新町川に燃える祭りの灯に、そこの天井板へかすかな波紋がゆれている。

橋を練りわたる踊り手の列や、また、ほかの座敷はみな宵のような賑わいだが、自分のまわりだけが、明りをさらわれて墓場のようだった。

周馬の姿が見えない！

何よりも先に、こう気がついたことで、孫兵衛ははじかれたように突ッ立った。

「あの野郎、悪く<ruby><rb>下手</rb><rt>したで</rt></ruby>になっていたが？　……」

かれはあわてて手を鳴らして、仲居を呼ぼうとするらしかった。が、ふと、頭巾の結び目が解けているのに気がついて、

「あっ！　ち、畜生」

思わず胴ぶるいをさせて、ドッタリと坐ってしまった。

「うぬ、おれの袖やふところの中まで、すっかり探って行きやがったな……」

と、ハミ出している胴巻や、めくり返されている襟元などを掻きあわせている間に、かれの両眼、<ruby><rb>焼酎火</rb><rt>しょうちゅうび</rt></ruby>のような<ruby><rb>憤怒</rb><rt>ふんぬ</rt></ruby>がトロトロと燃えあがった。

「だ、だれかいねえか！　仲居！　やい！　仲居はいねえのか」

――その仲居たちはさっきから、庭先へなだれてきた花笠、<ruby><rb>手拭</rb><rt>てぬぐい</rt></ruby>、<ruby><rb>道化面</rb><rt>どうけめん</rt></ruby>などの人々と一緒に、乱舞の渦にまきこまれ踊り狂っているたけなわなので、孫兵衛のそれほどな呶鳴り方も通らなかった。

「ちぇッ、こうしちゃアいられねえ、悪くすると周馬の野郎め、後へ戻っておれの留守を……」と、わななく怒りの手に、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そぼろ</span>助広をつかんだ孫兵衛、いざるようにして縁側へ出たが、そこの<ruby><rb>沓石</rb><rt>くつぬぎ</rt></ruby>へ片足をおろした途端に、ガッと、苦い水が口から走った。

「いけねえ！　……どうもただな痛みじゃねえ。うーム……」と、強気だが、よほど胸苦しいとみえて、縁側に仰むけに寝てしまった。そして、腰の<ruby><rb>印籠</rb><rt>いんろう</rt></ruby>を引ッちぎり、二ツに割って中の薬を頬ばるように口へ入れた。

手を伸ばして、<ruby><rb>盃洗</rb><rt>はいせん</rt></ruby>の水を……。

ゴク、ゴク……と飲み<ruby><rb>干</rb><rt>ほ</rt></ruby>すと一緒に、指を口にさし入れて、のめるように庭へ下りる。

しばらくかがみ込んでいるうちに、毒気のさめた孫兵衛の顔――白く青味の蔭をもって、常の悪相に加えて、ひときわ鋭い<ruby><rb>険</rb><rt>けん</rt></ruby>が立った。

「青二才奴！」

助広をひっさげて走りだした。

茶屋の裏であったか表だったか、出た所すら彼自身知っていない。<ruby><rb>疾風</rb><rt>しっぷう</rt></ruby>という勢いであった。

なにせよ、三味、笛、太鼓の<ruby><rb>囃子</rb><rt>はやし</rt></ruby>、<ruby><rb>鹿</rb><rt>か</rt></ruby>の子や赤い<ruby><rb>布</rb><rt>きれ</rt></ruby>や笠や手拭が渦巻く町を走っていた。

悪魔そのままな<ruby><rb>形相</rb><rt>ぎょうそう</rt></ruby>をして！

そして、仮の住居、住吉島の屋敷へ飛んで帰った。

門が開かない。

されば周馬と一緒にここを出た時は、召使のない屋敷なので、表門は<ruby><rb>閂</rb><rt>かんぬき</rt></ruby>をおろし、裏門から出たのである。当然、開かない筈。

だが、この際、裏門へ廻ってゆくのも面倒と、見越しへ手をのばしてヒラリと<ruby><rb>跳</rb><rt>は</rt></ruby>ね越え、いきなり案じられる一間の外へ駈けて行った。

と――雨戸が一枚はずれている。

三位卿帰ったらしい様子もなし、下男も門番もいないこの家に、先に入ったものがあるとすれば、それは、周馬以外に思いあたる人間はない。

だのに？　――かれが塀を越えると一緒に、その、はずれている雨戸の内から、風のように出ていったのは、ふたりの虚無僧。

たしかに、<ruby><rb>天蓋</rb><rt>てんがい</rt></ruby>、わらじ、<ruby><rb>鼠木綿</rb><rt>ねずみもめん</rt></ruby>の<ruby><rb>対</rb><rt>つい</rt></ruby>の姿――。

「やッ？　……」

それは孫兵衛の<ruby><rb>危惧</rb><rt>きぐ</rt></ruby>を五里霧中にさせた。かれはそこに周馬が家探ししている影を、何より心配にして駆け戻ってきた。――だのに、そこから風のごとく消え去ったのは虚無僧のふたり連れ。

「はてな？　……」と、いぶかしさにうたれているまに、虚無僧は開け放しになっている裏門から闇へ走りだしてしまった様子。

あとには、<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>が<ruby><rb>灯</rb><rt>とも</rt></ruby>っていた。

とにかく、かれは一応、その部屋の安否をたしかめなければ胸さわぎがしずまらない。そこには、彼が剣山で手に入れた秘帖、<ruby><rb>世阿弥</rb><rt>よあみ</rt></ruby>の血書が<ruby><rb>隠蔽</rb><rt>いんぺい</rt></ruby>してある。

周馬にちょっと口を<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>らしたとおり、孫兵衛にはあの<ruby><rb>秘冊</rb><rt>ひさつ</rt></ruby>に<ruby><rb>血汐</rb><rt>ちしお</rt></ruby>の細字で<ruby><rb>綴</rb><rt>つづ</rt></ruby>られている隠密組の隠語が読めないのであった。けれど、世阿弥が精血をそそいだ遺書というだけでも、それが、いかに蜂須賀家にとっても幕府にとっても、重大な<ruby><rb>渦乱</rb><rt>からん</rt></ruby>をまき起こすひとつの<ruby><rb>鍵</rb><rt>かぎ</rt></ruby>であるかは想像に難くない。

<ruby><rb>乃至</rb><rt>ないし</rt></ruby>、それをつかむ者には、出世の<ruby><rb>鍵</rb><rt>かぎ</rt></ruby>だ！

どう転んでも、あの鍵をさえ握っていれば、生涯安楽な大禄にありつけることはあきらかだ。

「周馬の奴がジロジロするのもムリはない」

と常に、油断はせずに、肌身を離さずにいると見せて、実は、その部屋の<ruby><rb>床脇</rb><rt>とこわき</rt></ruby>にある、<ruby><rb>色鍋島</rb><rt>いろなべしま</rt></ruby>の壺の底へ隠しておいたのだ。

「あッ！　<ruby><rb>盗</rb><rt>や</rt></ruby>られたッ――」

部屋へ入るやいなや、何より先に、その壺の中へ手をつっこんだ孫兵衛は、みるまに顔色をかえて叫んだ。

けれど――壺はまったくの<ruby><rb>空</rb><rt>から</rt></ruby>ではなかった。<ruby><rb>秘帖</rb><rt>ひじょう</rt></ruby>にかわる別な物が、かれの指先にゴソとさわった。

壺の底には巻紙がまるめ込んであった。

何か？　と孫兵衛、ズルズルと畳へ長くひき伸ばしてみると、どうだろう！　まるで<ruby><rb>悪戯書</rb><rt>いたずらが</rt></ruby>きをしたような大きな文字で、墨黒々、こんな文句がなすってある。

あわれむべき<ruby><rb>小悪</rb><rt>しょうあく</rt></ruby>よ！

汝はきょうまで余の手先に踊らされていた悪魔の子分だ！

ういやつ！

秘帖は貰ってゆく！

おれは元来阿波を見物にきた<ruby><rb>閑人</rb><rt>ひまじん</rt></ruby>ではない！

一角はこの嘲笑と徒労を知らずに死んだ幸福者！

さらば、余は急がねばならぬ、帰府のゆくてには出世の栄座と恋人と新しき屋敷とが待っているので！

去るにのぞんで名乗っておこうか！　おぼえておけ！　大府駿河台墨屋敷の隠密組旅川周馬。

庭前の大石にあたって<ruby><rb>色鍋島</rb><rt>いろなべしま</rt></ruby>の<ruby><rb>大花瓶</rb><rt>おおかびん</rt></ruby>、ガラガラッと粉になって砕けた。真ッ青になったお十夜が、無念のあまり投げつけた力に――。

「岡崎の港だ！」

痛烈な響きを<ruby><rb>弾</rb><rt>はず</rt></ruby>みにして、かれは<ruby><rb>吠</rb><rt>ほ</rt></ruby>えて立った。

だがまた、ふと不審を起こして、巻紙の一端をつかんでみる。

見ると、巻紙には筋目の<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>がついてある。だのに、鳥の巣のように丸めこんであったのはなぜだろう？

と怪しむとひとしく、またかれの錯覚を起こしてくるのは、帰った途端に、この部屋から消え去った<ruby><rb>謎</rb><rt>なぞ</rt></ruby>めいた虚無僧の幻影。

周馬が秘帖を盗み去った後へ、あの虚無僧がここへ入り、同じ<ruby><rb>花瓶</rb><rt>かびん</rt></ruby>に目をつけて、手紙を読みかけているところへ、自分が帰ってきたものと判断すれば、一応前後の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つじつま</span>が合うように考えられるが、その虚無僧ふたりが、そも何者で？　なんの<ruby><rb>目途</rb><rt>もくと</rt></ruby>？　すべて孫兵衛には見当がつかない。

しかし、今はそれを考えて、前後の処置をとっている落ちつきも時間もなかった。

何はともかく、本土に近い海路の<ruby><rb>咽喉</rb><rt>いんこう</rt></ruby>岡崎の港――<ruby><rb>撫養</rb><rt>むや</rt></ruby>街道を駆けぬけて周馬を追い越し、そこできゃつを引っ捕えなければならぬ。

うまうまと永い間、こっちの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふところ</span>へ飛び込んでいて、あくまで一角や自分へ加担をするとみせかけ、最後の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どたん</span>場へ来て、仮面をぬぐやいな、秘帖をさらって逃げたニキビ侍！　きゃつを捕えて思いしるほど<ruby><rb>懲</rb><rt>こ</rt></ruby>らしめてくれねば、お十夜の腹の虫がおさまらない。

きゃつを油断のならない人物とは、<ruby><rb>疾</rb><rt>と</rt></ruby>くから思わぬのでなかったが、永い道中をともにし、<ruby><rb>苦艱</rb><rt>くかん</rt></ruby>にも本心をみせず、常に冗談や軽口を言いあうにつれて、

「あいつも、うわべは悪人であるが、真に愛すべきところがあるよ！」

などと、一角がいうので自分までが、いつか周馬を皮相に見、かれの<ruby><rb>道化</rb><rt>どうけ</rt></ruby>の所作を信じたことが不覚だった。

もともと、かれは江戸で、お千絵様という女性を<ruby><rb>墨屋敷</rb><rt>すみやしき</rt></ruby>の穴蔵部屋へ押し込めていた当時からして、<ruby><rb>金箔付</rb><rt>きんぱくつき</rt></ruby>の隠密組のひとりという<ruby><rb>身柄</rb><rt>みがら</rt></ruby>は、こっちも知っていたのに！

返す返すも不覚だった。

といって、もう追いつく沙汰じゃあない。そんな愚痴や<ruby><rb>繰言</rb><rt>くりごと</rt></ruby>は、逃げてゆくきゃつの嘲笑を値打づけるばかりだ。

「くそウ！　そう鮮やかな芸当を、まんまとやり遂げさせてたまるものか」

お十夜は、ふたたび、裏門を蹴って町へ走りだした。

城下の辻は夜もすがらの笛だ、太鼓だ！　踊ってる！　踊ってる！　踊ってる！　かれが<ruby><rb>韋駄天</rb><rt>いだてん</rt></ruby>と飛んでゆく先、走ってゆく先の町には、必ず幾組もの男女が仮装して、<ruby><rb>囃子</rb><rt>はやし</rt></ruby>とともに踊りの渦を巻いている。

「ちイッ！」と、かれは歯ぎしりを噛んだ。

まるでこの人間どもは、おれの今を<ruby><rb>囃</rb><rt>はや</rt></ruby>していやがる。おれのこの形相を<ruby><rb>嘲笑</rb><rt>わら</rt></ruby>っていやがる。

なにが面白い⁉

何がなんで踊りを踊る晩なんだ。

全身は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あぶら</span>、<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>にも汗をしぼって、お十夜の息はあらく苦しげだった。

いきなり、景気のいいひと<ruby><rb>群</rb><rt>む</rt></ruby>れの踊りの輪を駆けぬけた時、かれは、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そぼろ</span>助広を抜いていた。

――どッと、孫兵衛の狂気じみた影が、十数<ruby><rb>間</rb><rt>けん</rt></ruby>も先へ駆けぬけてから、うしろにあたって、今さらのように、ヒイーッとたまげる声がして、歓楽の人渦はぶっ掛けられたような血を見てさわぎあっていた。

## <ruby><rb>渦</rb><rt>うず</rt></ruby>と<ruby><rb>渦</rb><rt>うず</rt></ruby>と<ruby><rb>渦</rb><rt>うず</rt></ruby>

<ruby><rb>網雪洞</rb><rt>あみぼんぼり</rt></ruby>にほの暗く照らされた本丸から二の丸への廻廊を、何か、あわただしい声と<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>とがなだれてくる。

「お<ruby><rb>退</rb><rt>さが</rt></ruby>りなさい」

「お退りなさい！」

徳島城の奥用人たちは、手をひろげて、ひとりの興奮した老人を、廊下へ押し出してくるのであった。

「殿様は、ただならぬお怒りですぞ」

「お目どおりはならんという<ruby><rb>御諚</rb><rt>ごじょう</rt></ruby>！」

「お沙汰をお待ちなさい！」

最前までこの城中も、奥は夜宴に、お表は<ruby><rb>賜酒</rb><rt>ししゅ</rt></ruby>の無礼講で、たいそう平和であったのが、この老人ひとりの言葉から、たちまち、<ruby><rb>凄愴</rb><rt>せいそう</rt></ruby>な気が城内にみなぎってしまった。

「邪魔をするなッ」

<ruby><rb>龍耳</rb><rt>りゅうじ</rt></ruby>老人は<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>に太い筋を立てていた。

「わしは原士の<ruby><rb>長</rb><rt>おさ</rt></ruby>、<ruby><rb>郷高取謁見格</rb><rt>ごうたかとりえっけんかく</rt></ruby>、お前たちが退れの、下におれのというのは<ruby><rb>僭越</rb><rt>せんえつ</rt></ruby>じゃ。殿様にもう<ruby><rb>一言</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>いわねばならぬことがある、離せ」

「いや、上意です」

「かまわん！　御立腹をおそれて<ruby><rb>諫言</rb><rt>かんげん</rt></ruby>はできぬ、御当家のために、わしはあえて非礼をするのだ、殿様がまた、病床に<ruby><rb>臥</rb><rt>ふ</rt></ruby>すまでやッつけてやる」

「なんとおっしゃろうが、お目通りはかないませぬ。老人！　あなたも少々気がたかぶっておいでられる」

「ばかな」

「とにかく、お表の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>へ退って、ご休息をなさるがよろしい」

家臣たちは<ruby><rb>頑</rb><rt>がん</rt></ruby>として老人の意思を拒んだ。そして無理にひと間へつれ込んで<ruby><rb>錠口</rb><rt>じょうぐち</rt></ruby>を隔ててしまうと、そこへ竹屋三位卿が、おそろしく青ざめた顔色をして通った。

「――殿のおことばを伝えます」

こう言い放して厳格にかまえた。

「…………」

老人は不平にみなぎっていたが、とにかく上意を聞くべく、態度を改めて坐りなおる。

「高木龍耳軒！」

三位卿は読みあげるようにひと息で言った。

「――<ruby><rb>其方儀</rb><rt>そのほうぎ</rt></ruby>、藩の御法を無視し、おのれ一個の我意をもって、弦之丞を逃がしたとは不都合<ruby><rb>至極</rb><rt>しごく</rt></ruby>、その上御前をおそれぬ暴言、死を<ruby><rb>与</rb><rt>あと</rt></ruby>うべきやつなれど、乱心であろうとありがたい<ruby><rb>御斟酌</rb><rt>ごしんしゃく</rt></ruby>、即刻、川島へひきとって、後のお沙汰を待っておれ」

それに対して、老人が何か叫ぼうとするまに、有村は身をかわすように、フイと部屋の外へ出てしまった。

大手の玄関へ出てみると、そこにも若侍の多くが右往左往して騒いでいた。

すでに盟約のある<ruby><rb>公卿</rb><rt>くげ</rt></ruby>大名の密使たちと、手筈をすませて、この秋、将軍家が日光<ruby><rb>参廟</rb><rt>さんびょう</rt></ruby>の機会に、大事をあげようと阿波守の目算がすっかりついていたところ――。

そこへ突然、龍耳老人が登城したのであった。目通りに出ると<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>をおかして、大事の不成功を予言した。そしてその無謀と時機でないことを痛烈に<ruby><rb>直諫</rb><rt>ちょっかん</rt></ruby>し、あえて、阿波守の意にさからったので、興たけなわであった<ruby><rb>鳴門舞</rb><rt>なるとまい</rt></ruby>の夜宴は、殿の激怒と、老人の抗争の声とでめちゃめちゃになってしまったのである。

――で、それからのこの騒動。

何よりも、阿波守や三位卿が驚いたのは、法月弦之丞を逃がしていると老人のいった一言である。

「わたくし一存の信念をもって、御当家後事のおんためと、かれの一命助けました」と、老人は平然と御前で言ってのけた。

乱心者ッ！

阿波守が<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>をかえて奥へ立つと、三位卿も<ruby><rb>鼓</rb><rt>つづみ</rt></ruby>をほうりだして、太守の後を追った。

狼狽と困惑は、徳島城を<ruby><rb>暗澹</rb><rt>あんたん</rt></ruby>にした。

奉行所へ、船手組へ、各郡代官所へ、急に<ruby><rb>手配</rb><rt>てくば</rt></ruby>りを命ずべく、若侍の早馬が次々に大手の橋から城下へわかれる。

その中にまじって、ひとり、有村も阿波守の<ruby><rb>旨</rb><rt>むね</rt></ruby>をうけて、別な方角へムチを打った。

<ruby><rb>撫養</rb><rt>むや</rt></ruby>街道を真一文字に岡崎の船関へ。

淡路街道と<ruby><rb>丁字</rb><rt>ていじ</rt></ruby>形になる追分から北へ走って、<ruby><rb>林崎</rb><rt>はやしざき</rt></ruby>のひろい塩田の闇に、<ruby><rb>潮焼</rb><rt>しおやき</rt></ruby>小屋の<ruby><rb>竈</rb><rt>かまど</rt></ruby>のけむりが並木越しに白く眺められた頃である。

「あ、あぶないッ」

と有村、突然に手綱をしぼったので、馬は棒立ちになって横へ狂った。

すると、<ruby><rb>馬蹄</rb><rt>ばてい</rt></ruby>をかわしてふりかえったひとりの影、そのまま、ムチを持ちなおして急ごうとする有村の<ruby><rb>鞍</rb><rt>くら</rt></ruby><span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つぼ</span>へ飛びかかってきた。

「孫兵衛ではないか」

と、馬上からだしぬけにいわれて、

「お？　……」

と、一方は、暗闇を探るような眼。

あぶなく、<ruby><rb>悍馬</rb><rt>かんば</rt></ruby>に蹴られるところであった人影は、城下から一散に旅川周馬を追ッかけてきた、お十夜であった。

「どこへゆく？　孫兵衛」

「あ、三位卿。あなたはどこへ？」

「孫兵衛！　実にしまったことが起こった」

有村は気が<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>いているので、口輪に泡をかませながら馬をグルグル廻していた。

「えっ、何か？」

「されば！　味方の内に思わぬ異端者があって、大事はついにくつがえされたぞ」

「周馬でござろう！　裏切者は」

「イや、原士の<ruby><rb>長</rb><rt>おさ</rt></ruby>だ」

「えッ、龍耳老人？」

「法月弦之丞を討ったといつわり実は剣山から逃がしおった！　あの、お綱という女までも」

と、手綱に口惜しさをふるわせる。

「じゃアあの時……ウーム……」

と<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>いたまま、孫兵衛も茫然。

<ruby><rb>落寞</rb><rt>らくばく</rt></ruby>たる夜風がふたりを払ってゆく。

「ちぇッ、いまいましいおやじ」と、孫兵衛は歯ぎしりをかみ鳴らした。

「そして、どういうことになったんで」

「なんといっても、きゃつは原士を自由に動かす権力家、殿のお怒りもなみではないが、目下の場合に内部から騒乱が起こってはならぬと、ひとまず川島へ<ruby><rb>蟄居</rb><rt>ちっきょ</rt></ruby>を命じ、それより先に、弦之丞めをという手配になった。そこで、わしはこれから岡崎の船関へいそごうと思う」

「ウウム、なんてえ<ruby><rb>凶</rb><rt>わる</rt></ruby>い晩だろう。おまけに、まだこっちにも大変なことが起こっていますぜ」

「なに、この上にも、一大事があるッ？」

「周馬のやつが寝返りをうって、この孫兵衛の手もとから、世阿弥が、書き残した<ruby><rb>秘帖</rb><rt>ひじょう</rt></ruby>をさらって逃げたんで」

「秘帖？　……」

「<ruby><rb>法帖形</rb><rt>ほうじょうがた</rt></ruby>の半面に、<ruby><rb>鳴門水陣</rb><rt>なるとすいじん</rt></ruby>の図がひいてあって、そこへ」

「あ！　それは剣山で、わしがいつか落したものだ」

「その余白へいちめんの細字、血汐で書いた隠密の暗号文字。そいつをさらって周馬のやつ、たッた今、風を食らって逃げだしやがった」

「オオ、それも江戸へやっては大変だ」

有村は落馬しそうな目まいを感じながら、<ruby><rb>拳</rb><rt>こぶし</rt></ruby>でこめかみを打っていた。

「察するに、世阿弥の血書は、かれが半生に知り得た阿波の秘密全部であろう。それが幕府の手へ入っては、もう万事休すとせねばならぬ。<ruby><rb>壮図</rb><rt>そうと</rt></ruby>の<ruby><rb>覆滅</rb><rt>ふくめつ</rt></ruby>はもちろん、一味堂上の人々、盟約のある諸侯、みな断絶か自滅か、アア、それ以外にえらぶ道はない」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あぶみ</span>を踏ン張って悲痛な<ruby><rb>吐息</rb><rt>といき</rt></ruby>をもらした。

孫兵衛はその時、住吉島の家で自分と入れちがいに影を消した、ふたりの虚無僧を思いうかべていた。

「もしや、あれが、弦之丞とお綱ではなかったろうか」

いまさら、しきりと、そう考えだせてならない。

「そうだ！」

<ruby><rb>慄然</rb><rt>りつぜん</rt></ruby>として毛穴がよだつ。

「――弦之丞とお綱にとっても、なくてはならないあの秘帖だ。ふたりがまだ生命のあるものとすれば、当然、つけ狙っていたろう。ことによると周馬とおれとの話も、どこかで聞かれていたかもしれねえ。そして周馬が家探しをして出た後へふたり忍んでゆき、そこへおれが帰ったんじゃねえかしら？　……」

その想像を<ruby><rb>足</rb><rt>た</rt></ruby>して有村に<ruby><rb>逐一</rb><rt>ちくいち</rt></ruby>のことを話していると、さらにまた五、六騎、大地をうってくる<ruby><rb>蹄</rb><rt>ひづめ</rt></ruby>の音が、闇の街道を乱れあってきた。

そこに、有村の姿を見ると、

「オオ！」バラバラと馬首をあつめてきて、口々に、各方面の模様を告げる。

城下、諸街道の口、海の要所、すでに十分な手が廻ったが、まだ弦之丞に似よりの者も見当らない。残るは、岡崎口、鳴門の方面。

で、万一の場合を案じて、阿波守から命じられた人々、ここへ三位卿の助勢に追いついてきた。それは、藩のうちでも屈指な剣道家ばかりで、中にただひとり、<ruby><rb>筑後柳川</rb><rt>ちくごやながわ</rt></ruby>の藩士がいた。

<ruby><rb>柳剛流</rb><rt>りゅうごうりゅう</rt></ruby>をよく使うことで、<ruby><rb>斯道</rb><rt>しどう</rt></ruby>のものに相当な敬意を払われている<ruby><rb>湧井道太郎</rb><rt>わくいどうたろう</rt></ruby>――四、五日まえに、柳川の使者についてきて徳島城にいあわせた。

周馬のことを城内へ報じるため、中のひとりを徳島へ帰して、三位卿まッ先に急ぎだした。

お十夜はその者の馬を借り、道太郎や他の人々とあとに続く――だが、騎馬にかけては三位卿、めったに余人の<ruby><rb>追従</rb><rt>ついじゅう</rt></ruby>をゆるさない。

またたくまに岡崎の船関。

「すわ！」

乗りつけてみると案の定、水はここの堤をきったか、関の<ruby><rb>警鼓</rb><rt>けいこ</rt></ruby>が陰々と鳴っていた。

「さては！」

と、馬をすてるが早いか、ばらばらと一同、番所の黒門へかかる。

柵門に常備の六尺がいないので、駆けこんで、波うち際の<ruby><rb>桟橋</rb><rt>さんばし</rt></ruby>に立ってみると、湖水のような<ruby><rb>土佐泊</rb><rt>とさどまり</rt></ruby>の<ruby><rb>内海</rb><rt>うちうみ</rt></ruby>、どッぷりと暗い水上いったいに、御用<ruby><rb>提灯</rb><rt>ぢょうちん</rt></ruby>をふる無数の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かんこ</span>船と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かんどり</span>船。

<ruby><rb>半刻</rb><rt>はんとき</rt></ruby>ほど前。

見張のきびしい岡崎の船関をやぶって、対岸<ruby><rb>水浦</rb><rt>みずうら</rt></ruby>へ、矢のように逃げた小舟がある。

関所やぶり！

番所の<ruby><rb>警板</rb><rt>けいばん</rt></ruby>が急をつげると、たちまち無数の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かんこ</span>船、捕手のかざす御用提灯の火を<ruby><rb>盛</rb><rt>も</rt></ruby>って、<ruby><rb>蛍</rb><rt>ほたる</rt></ruby>をブチまけたように海上へ散らかった。

浦から浦へそれを伝える太鼓、いんいんと水にひびいてものすごい。

が――その前後に明らさまに手形を示し、鳴門村へ越えたふたりの虚無僧を<ruby><rb>何人</rb><rt>なんぴと</rt></ruby>も疑わなかった。かれは明け方に鳴門の<ruby><rb>渦潮</rb><rt>うずしお</rt></ruby>を見物する者と称して、土佐泊へ<ruby><rb>上陸</rb><rt>あが</rt></ruby>ったが、そこから<ruby><rb>忽然</rb><rt>こつぜん</rt></ruby>と影をかくしていた。

やがて……。

疲れたように警鼓の音もやみ、捕手の灯の数も減るともなく気抜けして、別な方角へ散ってしまった頃。

<ruby><rb>紀貫之</rb><rt>きのつらゆき</rt></ruby>の<ruby><rb>歌碑</rb><rt>うたぶみ</rt></ruby>がある<ruby><rb>潮明寺</rb><rt>ちょうめいじ</rt></ruby>の床下からソロリ……と這いだして、目を光らせ、かがみ腰に、あたりをうかがっている人間がある。

旅川周馬だった。

周馬は、大丈夫――と見る、ソッと立って、<ruby><rb>貫之堂</rb><rt>つらゆきどう</rt></ruby>の端に腰をおろして、<ruby><rb>足拵</rb><rt>あしごしら</rt></ruby>えをなおしにかかった。

ポト！　と冷やッこい<ruby><rb>雫</rb><rt>しずく</rt></ruby>が<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>もとへ落ちてくる。

びっくりしたように首すじを撫でて上を仰ぐと、松の枝が堂の屋根にかぶさっている。しかし、それを揺するものは静かな潮風。

「ある……ふン……」

周馬はニンマリと笑って、内ぶところへ両手を突っこみ、品物を確かめながらその触覚を楽しんでいるふうだ。

お綱から一角が奪い、一角の死骸からお十夜がかすめ取った世阿弥の<ruby><rb>秘帖</rb><rt>ひじょう</rt></ruby>は、とうとう思うつぼに、自分のふところへ転げこんで納まっている。

ふところの体熱は、今、しっかりと幸福の卵をだいて<ruby><rb>孵</rb><rt>かえ</rt></ruby>している！　かれはそう思って、また微笑を禁じ得なかった。

「天堂一角もお十夜も、おれから見れば善人だよ」

周馬はひとりで空うそぶいた。

「いや、世の中自体が甘えもンだ。これでおれが帰府すれば、幕府のやつらは驚嘆して、旅川周馬様の隠密術に礼拝するぜ。お上は御加増、御<ruby><rb>賞辞</rb><rt>しょうじ</rt></ruby>とくる。駿河台の世阿弥のあとに宅地をたまわり、栄光一身にあつまってくるンだからありがたい、<ruby><rb>滑稽</rb><rt>こっけい</rt></ruby>だな、皮肉なもんだな、運というサイコロは」

――なんだか彼はおかしさがこみ上げてきた。

「ちょっとした頭の働き――<ruby><rb>下手</rb><rt>へた</rt></ruby>か上手かの違いで、骨を折ってヘタばる奴と、楽をしてうまい汁を吸う者とができる。まあよかったよ！　これでお千絵様の方さえ<ruby><rb>首尾</rb><rt>しゅび</rt></ruby>よく運んでくれれば、万事上々吉。申し分のないところだが……」

つぶやきながら、そこを立った。

捕手の網も、もうだいぶゆるんでいるとは思ったが、大事をとって忍び忍び潮明寺の門を出ようとすると、

「あっ？　……」

出会いがしら？

ひとりの虚無僧が、ちょうど今、門を入ってこようとした。そして、周馬の姿を見つけたとたんに、飛鳥のごとく後へ戻って、闇へ低く――

「弦之丞様ッ……弦之丞様ッ……」

と、呼びたてている様子。

「やッ？　……」――周馬は度を失った。おぼえのある女の声、そしてたしかに、弦之丞と呼んだ。ふたりはとッくに、龍耳老人の手にかかって、世に<ruby><rb>亡</rb><rt>な</rt></ruby>いものと信じていた旅川周馬。

水をかけられたように、ぎょッとして、元の貫之堂まで、夢中で駆け戻ってきた。

「はてな？　……」とそこで、

「お綱……どうもお綱のようだった。しかし、あいつや弦之丞が生きている<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>はないのだが」

と、ジッと<ruby><rb>生唾</rb><rt>なまつば</rt></ruby>をのんですくまっていると、境内を斜めに切って、<ruby><rb>疾風</rb><rt>しっぷう</rt></ruby>のように自分の方へ駈けてくるふたつの天蓋が闇をかすッて見える。

周馬はあわててまた逃げ出した。

<ruby><rb>庫裏</rb><rt>くり</rt></ruby>の横から裏へ廻ると、そこには永い土塀があった。うしろを見ると、虚無僧ふたり、のがさじという勢いで追いかけてくる。

土塀のそばに一本の<ruby><rb>椋</rb><rt>むく</rt></ruby>の木があった。

それへ跳びついて手をかけると、

「周馬ッ、周馬――ッ」

と後ろの者は、もうすぐそこまで飛びこんできた。

「あっ、<ruby><rb>法月</rb><rt>のりづき</rt></ruby>！」

かれの体は<ruby><rb>栗鼠</rb><rt>りす</rt></ruby>のように木の枝を回転して、その勢いで、土塀のミネへ片足を伸ばす。

パラパラッと青い<ruby><rb>椋</rb><rt>むく</rt></ruby>の実と、そして、椋の葉の露がこぼれた。

途端に。

下へ駈けよった虚無僧の手が、

「待てッ、旅川！」

と、次の片足をつかんだのと、かれが夢中で、椋の枝から手を放したのと一緒だった。

足をつかまれて、土塀の上にしがみついた周馬。

「うぬッ」

抜き落しに、一刀、下の影をサッと<ruby><rb>薙</rb><rt>な</rt></ruby>ぐと、その勢いと、放された不意とで、ドンと土塀の向うがわへ、もんどりうって転げ落ちた。

「お綱ッ――」

という声を頭上で聞いた。

腰をなでている間もない周馬、夢中で走ったかと思うと、また突然、雑木の<ruby><rb>窪地</rb><rt>くぼち</rt></ruby>へドドドドッとすべりこむ。

<ruby><rb>椋</rb><rt>むく</rt></ruby>の木の上には、天蓋の虚無僧、すぐその後に、手をのばして叫んでいる。

「お綱ッ、拙者につかまれ！」

「はい」

「手を、手を」

上から引きあげて、枝づたい、土塀へ移るやいな、ふたつの影、ヒラリと外側の闇へとび降りた。

「あ<ruby><rb>痛</rb><rt>つ</rt></ruby>ッ……」

塀を越えたはずみに弦之丞、右の肩を<ruby><rb>椋</rb><rt>むく</rt></ruby>の枝にはねられて、まだ<ruby><rb>癒</rb><rt>い</rt></ruby>えきらぬ鉄砲傷、抱きしめてキッと唇を噛んだ。

「あ……またそこのお痛みが」

ふと、お綱の声であった。吾にもあらず寄りつくのを、振りもぐようにして眸は先に、

「いや、気づかうなッ」と鋭く――「それよりはあの<ruby><rb>秘帖</rb><rt>ひじょう</rt></ruby>を！　秘帖を！　ウヌ、旅川周馬ずれに」

と、まッしぐら。

窪地の茂みへ一散に駈け下りて、逃げゆく影をのがさじと追いまくる。

周馬は時々、狐のような目をしてふりかえりながら、

「弦之丞？　弦之丞？　弦之丞？」

と、口の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>で叫びつづけた。どうして彼が生きているのだろう⁉

逃げても逃げても天蓋の影、屈せずに後を慕ってくるので、周馬の<ruby><rb>元結</rb><rt>もとゆい</rt></ruby>なしの総髪はベットリと汗にぬれ、頬、耳、手の甲、<ruby><rb>茨</rb><rt>いばら</rt></ruby>に掻かれた血のすじで赤くなった。

雑木帯の丘の<ruby><rb>窪</rb><rt>くぼ</rt></ruby>を出ると、裸石の層が崖をなしてつづいている。周馬は必死でその石山の背を這って行った。

時々ふところへ手をやった。そして、あることを確かめた。秘帖はいつかしら生命以上の値うちになって、かれに抱きしめられている。

ドドドドブン……ザアーッ……と珠を洗うような波の音。

闇に白くうねうねと鳴門へつづく千鳥ヶ浜。

――二丈あまりの石山の上から、旅川周馬、目をねむって飛びおりた。ザクッと、足が埋まりこんだが、案の定そこは砂地――しめたッ――と躍る姿は海風にばたばた鳴って、つづく限りの波明りに添い、時々、どぶりッと<ruby><rb>飛沫</rb><rt>しぶき</rt></ruby>に足をすくわれながら、無二無三、逃げていった。

「おッ、<ruby><rb>足痕</rb><rt>あしあと</rt></ruby>」

一瞬のまをおいて、同じ波うち際を二ツの影が<ruby><rb>疾駆</rb><rt>しっく</rt></ruby>する！　潮風が傷に<ruby><rb>沁</rb><rt>し</rt></ruby>みるのか、弦之丞は右腕のつけ根をつかむようにおさえて駈けた。途中で、サッと空へ舞ったのは、風にさらわれたお綱の天蓋――そして夜目にも白いあの素顔は、ふさふさとした黒髪を散らして。

千鳥ヶ浜、二十余町、またたくまに駈けちぢめた。そして、やがてジッと立つならば、鳴門の渦潮百千の<ruby><rb>鼓</rb><rt>つづみ</rt></ruby>の<ruby><rb>遠音</rb><rt>とおね</rt></ruby>とも聞えるであろう頃。

「あ、あっ！」

と、先の周馬が狼狽した。

行く手をさえぎっている砂山の松木立から、ボカリと浮きだした朱文字の<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>。

問わでわかる船関の役所じるしだ。

「ちぇッ」と周馬、舌うちを鳴らして――「まずい所へ来やがった」

あわてて横へ飛んでそれたが、向うもいちはやく怪しいと知って、かれの先へ廻るようにバラバラと迫ってきた。

振り向けた黄色い明りに、ひと目、<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>の影を見ると先は<ruby><rb>愕然</rb><rt>がくぜん</rt></ruby>と、

「オオ、関所やぶりの旅川周馬だッ」とうしろへどなった。

そして提灯を振りあげたが、その時、周馬の抜いた大刀は、かがみ腰に横へ流れて、男の胴を通っていた。

「なにッ、周馬だ？」

と三、四人、血煙の立った所へ、砂を蹴ってとんでくると、すばやく、周馬は位置をかわして、かえって、それを追ってきた<ruby><rb>男女</rb><rt>ふたり</rt></ruby>の虚無僧に、

「や、や、やッ！」

偶然！　そこで稲妻と稲妻とがぶつかったように、会うやいな、こっちも向うも、パッと後へ飛びひらいて、

「オオ、てめえは弦之丞とお綱だなッ」

と叩きつけるようなお十夜孫兵衛の声であった。

「ウーム」と弦之丞、天蓋をむしり取って、

「――三位卿と孫兵衛であるか！」

「いい所であった」

と、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そぼろ</span>助広、抜いて躍らんとする先に、<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>は<ruby><rb>疾風</rb><rt>しっぷう</rt></ruby>――

「お綱ッ」

と叫んで、それにかまわず、先の周馬を追おうとした。

秘帖をもって逃げる周馬と、剣山を脱してきた弦之丞にお綱。

そのいずれへ向おうか？　瞬間、三位卿は迷ってしまった。

明瞭な分別もなく、大きな声で何か叫んだ。そして自分も疾走しながら、<ruby><rb>皎刀</rb><rt>こうとう</rt></ruby>を手に振っていた。

二、三度、お十夜が斬りつけた時、弦之丞の手からひらめいた刀は<ruby><rb>左剣</rb><rt>さけん</rt></ruby>であった。

「きゃつ、右の腕が利かないぞ！」

孫兵衛も、三位卿も、<ruby><rb>柳剛流</rb><rt>りゅうごうりゅう</rt></ruby>の使い手、道太郎も、それを知って、ひとしく心強く感じた。

意外な敵が横からひとつ<ruby><rb>殖</rb><rt>ふ</rt></ruby>えたため、周馬はかえって、そのまに小半町ほど逃げ越していた。しきりと道は登りになる。と思うと――<ruby><rb>轟</rb><rt>ごう</rt></ruby>ッ――とすさまじい<ruby><rb>潮</rb><rt>うしお</rt></ruby>の<ruby><rb>渦鳴</rb><rt>うずな</rt></ruby>り！

<ruby><rb>崖松</rb><rt>がけまつ</rt></ruby>をすかして下をのぞくと真っ白だ。<ruby><rb>乱岩</rb><rt>らんがん</rt></ruby>に散る波の<ruby><rb>銀屑</rb><rt>ぎんせつ</rt></ruby>である。そして白い無数の渦潮、或いは青黒い渦である。

そこの<ruby><rb>岬</rb><rt>みさき</rt></ruby>からひと<ruby><rb>跨</rb><rt>また</rt></ruby>ぎに見える淡路の鳴門崎までの間十五<ruby><rb>間</rb><rt>けん</rt></ruby>、<ruby><rb>飛島</rb><rt>とびしま</rt></ruby>、<ruby><rb>裸島</rb><rt>はだかじま</rt></ruby>の岩から岩を拾ってゆけば、歩いても渡れそうだが、そうはゆかない。

しかし、関を破って一散に、ここへ逃げてきた周馬である。本土へのがれる確信と相応な用意はしてある筈だ。

ヒュッと何か投げたかと思うと、松にひとすじの縄を廻して、その結び目を送るが早いか、スルスルと断崖を<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>って行く――。

そこを降りれば<ruby><rb>岬</rb><rt>みさき</rt></ruby>の根に、手ごろな舟が幾つもあった。鳴門<ruby><rb>若布</rb><rt>わかめ</rt></ruby>を採る舟である。周馬はヒラリとそれに乗って、大胆にも渦巻く狂浪の中へ突いて出た。有名な大鳴門！　おそろしい渦の海峡！　そこへなんたる無謀だろうと思われたが、実は彼、この渦潮の海峡を難なくわたる秘密の瀬を知っていた。

どうして？　といえば。

最初にそれへ気がついたのが三位卿で、ここの天険に軍船の配置をする場合のため、<ruby><rb>克明</rb><rt>こくめい</rt></ruby>に鳴門一帯を測量した時、水陣図のおぼえ書に、その<ruby><rb>渦路</rb><rt>うずみち</rt></ruby>の秘密も書き加えておいた。

まだ書きかけであった鳴門水陣の一帖は、その後、かれが剣山で落し、甲賀世阿弥の血汐と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぎらん</span>草の汁に染まって、転々、今では周馬のふところの<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>にある。

で――周馬は怖れ気もなく、木の葉みたいな<ruby><rb>若布舟</rb><rt>わかめぶね</rt></ruby>を、渦まく海潮へ漕ぎ入れた。

「ざまア見ろ！」

かれは絶壁を仰いで渦の中から嘲笑した。

「あははははッ……もう追ッつくめえ。斬りあえ！　斬り合え！　そこで弦之丞とお十夜と、お綱と三位卿とで、双方傷だらけになるまで斬りあっていろ。ばかめッ。そのまにおれは本土へ帰るよ。じゃア阿波の国！　おさらばだぜ！」

浪にゆられながら、<ruby><rb>快</rb><rt>かい</rt></ruby>を叫んでいたが、旅川周馬、まだよろこぶのは少し早かった。

<ruby><rb>海蛇</rb><rt>かいだ</rt></ruby>のごとき一本の<ruby><rb>捕縄</rb><rt>とりなわ</rt></ruby>が、<ruby><rb>突</rb><rt>とつ</rt></ruby>！　あるまじき渦潮の中からおどりだして、<ruby><rb>櫓</rb><rt>ろ</rt></ruby>をつかんでいる周馬の首へピューッ、水を切って巻きついた。

「あっッ――」

縄をつかむとその力で、舟はグルグル<ruby><rb>潮</rb><rt>しお</rt></ruby>に巻かれた。そして飛島の岩の蔭からも、それに曳かれてまた一<ruby><rb>艘</rb><rt>そう</rt></ruby>渦に誘われて廻ってくる。

舟と舟をつなぐ不思議な捕縄！

それは渦に巻かれ込みながら、両方の危険を助けあっていた。――しかし、周馬にとってはまったく不意な敵である。致命な縄だ。

「えいッ、畜生」

片手に巻き込んだ捕縄を、いきなり<ruby><rb>前差</rb><rt>まえざし</rt></ruby>で切って払った。

ぶつッと縄が切れてはねる！　とたんに周馬その者は、剣光を空にひらめかし、ドンと舟底へもんどりを打つ。

一<ruby><rb>抹</rb><rt>まつ</rt></ruby>の浪しぶきが、横に砕けて舟影をくるんだかと思うと、どうなったか、その最後は分らずに、周馬の舟は<ruby><rb>征矢</rb><rt>そや</rt></ruby>のように流されていった。

「いけねえッ」

と、後の一艘は絶叫している。

「巻かれこんだぞ！　悪い渦に！」

「<ruby><rb>鈎</rb><rt>かぎ</rt></ruby>をッ」

「アっ、岩だ、底を噛まれた」

「なに、大丈夫だ、鈎を早くッ」

「おっと！」

舟の中に、クルクル舞いしていた男ふたり、ひとりがつかんだ<ruby><rb>鈎綱</rb><rt>かぎつな</rt></ruby>を、ヤッと一ツの岩へ投げかけた。

幾たびかはずし、幾たびか死神の<ruby><rb>棲</rb><rt>す</rt></ruby>む渦の中心へ誘われようとして、ようようゆるい瀬へのがれ出し、<ruby><rb>岬</rb><rt>みさき</rt></ruby>の岸へガリガリッと<ruby><rb>手繰</rb><rt>たぐ</rt></ruby>り着けると、

「ウム、しめた！」

と、ひとりはすばやく磯へ飛びあがって、

「今の野郎といい、さっきの、浦一帯の<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>といい、どうもこの辺がちょっと臭い。とにかくおれは様子を見てくるから、後の舟をしっかり頼むぜ」

と、登るたよりもなさそうな絶壁の岩脈をズウと見上げた。

そこを見上げると、周馬が断崖へ垂らしておいた一本の綱が目にとまる。

「おお、今の奴の置き捨てだな」

男はグンと引っぱって試した上に、それへつかまったが、また舟の者を顧みて、

「<ruby><rb>大勘</rb><rt>だいかん</rt></ruby>――」と呼んだ。

「おう」

「この上へあがると、たしか、阿波守の<ruby><rb>潮観</rb><rt>しおみ</rt></ruby>のお茶屋があるはずだ」

「ウム」

「事件は今夜だという気がするが、もし夜が明けたら、おれはそこへ<ruby><rb>潜</rb><rt>もぐ</rt></ruby>っているから、帰らなくっても、心配してくれるな」

「承知した、安心して探ってきねえ」

そう返辞をする声は、弦之丞とお綱を剣山の手まえまで見送って<ruby><rb>星越</rb><rt>ほしごえ</rt></ruby>から土佐境へ逃げた、<ruby><rb>日和佐</rb><rt>ひわさ</rt></ruby>の<ruby><rb>棟梁</rb><rt>とうりょう</rt></ruby><ruby><rb>大勘</rb><rt>だいかん</rt></ruby>であった。

「おれも<ruby><rb>若布採</rb><rt>わかめと</rt></ruby>りに化けすまして、幾日でも鳴門の辺をウロついている」

「ウム、若布採りは思いつきだ」

「変ったことがあったら合図だぜ」

「合点だ、忘れやしねえ」

男は綱にすがって絶壁に足をかけ、ひと握りずつ<ruby><rb>手繰</rb><rt>たぐ</rt></ruby>ってゆく。

ふりあおいでいる大勘は、<ruby><rb>腋</rb><rt>わき</rt></ruby>の下に冷たいものを感じた。

<ruby><rb>飛沫</rb><rt>しぶき</rt></ruby>の霧と、強い海風は、綱にすがってのぼる男の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>を吹き払って、かれの努力をさえぎっている。

その男？

かれは天満の目明し<ruby><rb>万吉</rb><rt>まんきち</rt></ruby>だ。

弦之丞とお綱とが、阿波へわたる船出の間際に、猫間川に兇刃をあびて、<ruby><rb>桃谷</rb><rt>ももだに</rt></ruby>の家にむなしく怨みをのんでいた万吉。

その後――。

腰、肩、二ヵ所の深い太刀傷も、平賀源内の<ruby><rb>外科</rb><rt>げか</rt></ruby>の治療をうけて、思いのほか早く<ruby><rb>癒</rb><rt>い</rt></ruby>えた。

かれは弦之丞がお吉に残していった手紙から、体が本復するとすぐに四国屋のお<ruby><rb>久良</rb><rt>くら</rt></ruby>をたずねた。

そこには、お<ruby><rb>三輪</rb><rt>みわ</rt></ruby>と<ruby><rb>乙吉</rb><rt>おときち</rt></ruby>が、預けられていた。そして<ruby><rb>常木鴻山</rb><rt>つねきこうざん</rt></ruby>は、居所もさだめず、何かの<ruby><rb>画策</rb><rt>かくさく</rt></ruby>のため、<ruby><rb>奔走</rb><rt>ほんそう</rt></ruby>しているという。

万吉は自分の落伍に落胆していた。ところが、ある夜、<ruby><rb>抜荷屋</rb><rt>ぬきや</rt></ruby>の船から<ruby><rb>上陸</rb><rt>あが</rt></ruby>って、四国屋の寮へしのんできた男がある。

それが、大勘だった。

こうして、ふたりは淡路から鳴門附近に幾日か小舟をただよわせて、弦之丞がその後の消息を探っていた。

常に気をつけている岡崎の船関で、今夜、時ならぬ<ruby><rb>警鼓</rb><rt>けいこ</rt></ruby>がひびき、<ruby><rb>浦曲</rb><rt>うらわ</rt></ruby>や鳴門の山にかけて、しきりと、提灯の点滅するのを海から眺めたふたりは、

「今夜だ！」

そう叫びあって飛島の蔭へ舟をつけた。

関所破り！

その声は、弦之丞とお綱が、剣山から斬りぬけてきた騒ぎに違いない。と――思っていると、旅川周馬、秘密の<ruby><rb>渦路</rb><rt>うずみち</rt></ruby>へ<ruby><rb>若布舟</rb><rt>わかめぶね</rt></ruby>をのりだして逃げてきた。

――飛んだのは万吉が、絶えて久しぶりに腕っかぎり試みた、<ruby><rb>方円流</rb><rt>ほうえんりゅう</rt></ruby>二丈の<ruby><rb>捕縄</rb><rt>とりなわ</rt></ruby>。

しかし、距離、闇、渦、<ruby><rb>飛沫</rb><rt>ひまつ</rt></ruby>――それを周馬と知らず、周馬のふところにこそ、大事な秘帖が奪いとられているとも知らず――渦と渦と渦の間に、別れ去ったのはぜひもなかった。

……一方。

周馬が断崖へ<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>り降りてから間もなく、千鳥ヶ浜の方からその影をつけてきたのは、弦之丞とお綱。――さらにそれを追っかけてくる者は、お十夜であり、三位卿であり、柳川藩の<ruby><rb>湧井道太郎</rb><rt>わくいどうたろう</rt></ruby>であった。

この場合、弦之丞は、後からくるお十夜を先に討つべきか、それとも、旅川周馬を先に追おうか？　前後の敵、<ruby><rb>腹背</rb><rt>ふくはい</rt></ruby>の難――さすがに迷いみだれていた。

が、<ruby><rb>疾駆</rb><rt>しっく</rt></ruby>する間に、かれは、私意や憎悪にとらわれて、人を目標とする剣争のムダなことを悟った。

<ruby><rb>鍵</rb><rt>かぎ</rt></ruby>！　阿波の秘密を語る鍵！　幸福の<ruby><rb>扉</rb><rt>とびら</rt></ruby>をひらく大事な鍵！

世阿弥が精血をそそいだ<ruby><rb>隠密遺書</rb><rt>おんみついしょ</rt></ruby>。

それが<ruby><rb>眼目</rb><rt>がんもく</rt></ruby>だ。

今は――それが最後の努力をかける焦点だ。あれを周馬の手で江戸へ持たれて、かれの野望に功名をとげさせては、自分の周囲にある者の不幸さ加減はどうだろう。

いや、生ける者の不幸とともに、あの<ruby><rb>秘帖</rb><rt>ひじょう</rt></ruby>にそそぎこまれてある、甲賀世阿弥の尊い血汐に対して会わせる顔があろうか。

「わしの精血を恥かしめるな、わしの苦心を悪人に利用せしめるな、わしは浮かばれぬぞ！　秘帖を<ruby><rb>趁</rb><rt>お</rt></ruby>え！　秘帖を趁え」

暗い天に、そういう、しわがれた世阿弥の声がきこえるようだ。

周馬の影が、渦潮のしぶきに見失われた頃、ふたりは、かれが残した<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>の綱を見つけて、手をかけた。

ばらばらとこぼれゆく岩の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かけら</span>に、磯の下からよじ登ってきた万吉。

「あっ……」

土に目をふさいで、途中の岩角へ足を休ませた。――と知らずにお綱と弦之丞の体は、ズズズズ――と急激にかれの頭の上へ<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>ってきた。

刹那。

断崖の上へ来た一<ruby><rb>閃刃</rb><rt>せんじん</rt></ruby>、梢をしなわせている綱を切った。

## <ruby><rb>成</rb><rt>な</rt></ruby>れの<ruby><rb>果</rb><rt>は</rt></ruby>て

同じ綱を頭の上から<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>り降りてきた者があるので、万吉は、驚きとともに小松の枝をつかみ、綱を離して崖の途中に身をかわした。

とたんに。

目の前をふたりの虚無僧が、落ちるような勢いで辷って行った。

「あっ！」と、のぞき込んだ時に、綱は切れて空から磯へ落ちた。

「戻って来いよーッ」

しばらくすると、下で、大勘の呼ぶ声があわただしく聞こえる。その前に万吉は、足がかりを探していたが、いくら<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>いて呼ばれても、にわかに、おいそれとは降りられぬ。

「早く来い」

「おウ、今ゆく」

大勘はまだ何か狂ったように叫んでいる。そして万吉を早く早くと呼ぶのを止めない。

綱の切られたせつな、弦之丞もお綱ももう磯の砂辺に近かったので、さしたる<ruby><rb>怪我</rb><rt>けが</rt></ruby>もうけなかった。

大勘のおどろき、奇遇のよろこび。

それを早く万吉に知らせてやりたいと呼び立てるのだった。

万吉はすッ飛んできた。

「おお……」

「そちか！　……」

「や？　……お綱さんッ……」

海潮の激音と風の間に、きれぎれな声がかすれて飛んだ。白い激浪の泡立つ瀬戸に、四人の影はひとつ舟の中にかたまった。

――みるまに渦潮のかなたへ。

夜が明けた。

竹屋三位と、お十夜と<ruby><rb>湧井</rb><rt>わくい</rt></ruby>道太郎は、淡路の蔭をゆるく縫う番船の胴の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に仆れていた。

夜来の疲れで、刀を抱いて、寝ていた。

柔和な<ruby><rb>海面</rb><rt>うみづら</rt></ruby>。

ソヨソヨと撫でる微風。

秋の陽だけがカッと強く帆や船板や、三人の肩に照りついている。

＊　　　　　＊　　　　　＊

「おい、お千絵様。おめえがそうメソメソ泣いてばかりいると、飯も酒もまずくってしようがねえ」

旅川周馬と同腹になって、お千絵を<ruby><rb>山科</rb><rt>やましな</rt></ruby>の自分の家へかどわかしてきた偽虚無僧――今はそれを脱いで<ruby><rb>垢</rb><rt>あか</rt></ruby>じみた博多の帯に<ruby><rb>黒紬</rb><rt>くろつむぎ</rt></ruby>を着流している<ruby><rb>堀田伊太夫</rb><rt>ほったいだゆう</rt></ruby>。

<ruby><rb>煤</rb><rt>すす</rt></ruby>だらけな浪宅に竹脚の膳をすえ、裂いた<ruby><rb>松茸</rb><rt>まつたけ</rt></ruby>に<ruby><rb>鮒</rb><rt>ふな</rt></ruby>の<ruby><rb>串焼</rb><rt>くしやき</rt></ruby>、貧乏徳利をそばにおいて、チビリ、チビリ、昼の酒。

あぐらをくんだ<ruby><rb>毛脛</rb><rt>けずね</rt></ruby>まで真っ赤にして、伊太夫、濁った眼をドンヨリとお千絵様にすえて、

「いい加減にしやアがれ」

と、口をゆがめた。

大津絵が<ruby><rb>貼</rb><rt>は</rt></ruby>りまぜしてある押入れ戸棚のすみに、お千絵は、小さくうずくまっていた。

「ばかな女だ！」

グイと、横にくわえた鮒焼の<ruby><rb>串</rb><rt>くし</rt></ruby>で、ムシャムシャ<ruby><rb>食</rb><rt>や</rt></ruby>ったあとの歯をせせりながら、毒々しいことばづかい。

「――考えてみるがいい、お<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>は親も屋敷も身寄りもねえひとりぼっち、<ruby><rb>孤児</rb><rt>みなしご</rt></ruby>だろう、宿なしだろう。――それを旅川が<ruby><rb>不憫</rb><rt>ふびん</rt></ruby>がって、自分の妻に立て、駿河台の元の屋敷に住むように――いや、それよりもっと<ruby><rb>栄耀</rb><rt>えいよう</rt></ruby>をさせてやろうというんじゃねえか。何をメソメソ泣くことがあるんだ」

「嫌です……」

お千絵は泣きふしながら<ruby><rb>頭</rb><rt>かぶり</rt></ruby>をふった。

「嫌だ？」

「…………」

「罰があたるぞ、<ruby><rb>冥利</rb><rt>みょうり</rt></ruby>を知らねえと」

「いやです……」

「生意気な」

くわえていた鮒の串を<ruby><rb>弾</rb><rt>はじ</rt></ruby>いて、堀田伊太夫、膝を立てかけてきたので、お千絵は思わず身をちぢめた。

と、かれは、縁がわの方へ足を運んだ。

飛脚屋が何か渡して、破れ垣根の外へ出てゆくのを見送ってから、

「……噂をすれば……」

うなずいて封を切る。

そして切った封を裏返してみて、

「――おう、旅川はもう大阪表へ来ていたのか」

とつぶやきながら読みだした。

伊太夫の顔の筋が異様にひきしまってきた。読むと、周馬は今大阪の某所に潜伏しているとのこと、しかし<ruby><rb>秘帖</rb><rt>ひじょう</rt></ruby>をとり返そうとする阿波の追手や、弦之丞が血眼なので、容易に姿を出すことができない。

で、そのために、万一を思って、この手紙にも居所を書かないが、自分は今、今の潜伏している場所を出るために、鳴門の渦潮をのがれ出た時以上の苦しみをしているという消息。

「ウム、なるほど」

伊太夫はうなずいて次へ移った。

――しかし、ここまで来て、いつまで<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>してはいられない。隙をうかがって勇敢に江戸へ向って立とう。

日は、およそ××日。

落ちあう場所は――大阪から<ruby><rb>河内</rb><rt>かわち</rt></ruby>裏街道をとって大津へ<ruby><rb>迂回</rb><rt>うかい</rt></ruby>するつもり――その方が人目に立つまいと思う。で、途中の<ruby><rb>禅定寺峠</rb><rt>ぜんじょうじとうげ</rt></ruby>を待ちあわす場所と定めておく。

どっちが早くとも、必ず、一方の<ruby><rb>来</rb><rt>きた</rt></ruby>るを待つこと。

<ruby><rb>早駕</rb><rt>はやかご</rt></ruby>三挺ご用意。十分に<ruby><rb>酒代</rb><rt>さかて</rt></ruby>をくれ、道中肩つぎなし、なるべくは通し約束、賃銀にかけかまいなく、足ぶし腕ぶしの達者をえらんでおくこと。

等、等、等、なおさまざまにわたるしめしあわせであった。

日の来るのを待つらしく、酒のみの堀田伊太夫、ロクにない浪宅の道具を片っぱしから<ruby><rb>屑屋</rb><rt>くずや</rt></ruby>に売っては、気前よく酒をのんでいる。

その朝は、いきなりお千絵に猿<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐつわ</span>をかけて、押入れに押しこみ、板戸の外から<ruby><rb>錠</rb><rt>じょう</rt></ruby>をおろして<ruby><rb>戸外</rb><rt>おもて</rt></ruby>へ出かけた。

黄八丈に襟かけの丹前、茶いろになった<ruby><rb>白博多</rb><rt>しろはかた</rt></ruby>へ、ボロ<ruby><rb>鞘</rb><rt>ざや</rt></ruby>の大小を落してはいるが、江戸へ帰りゃあという意気がある。

朝酒に赤い<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>をして、

「駕屋で達者なやつを、六人もというと……この村にはあるめえな」

と<ruby><rb>山科</rb><rt>やましな</rt></ruby>を出て行った。

肩つぎなしに江戸まで通しの<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>きそうな、雲助の達者を探し集めに。

――道具もなければ人もいない留守の浪宅はがらんとしている。たまたま赤<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とんぼ</span>がぶつかってくる。

すると、窓の外で、

「ははあ、駕をあつらえに行きやあがったな」

と、伊太夫を見送って、<ruby><rb>竹格子</rb><rt>たけごうし</rt></ruby>の外へ、のっそり顔を出した<ruby><rb>乞食</rb><rt>こじき</rt></ruby>があった。

<ruby><rb>月代</rb><rt>さかやき</rt></ruby>もひげも伸びきって、頬は青くこけているが、よく見ると、まだ真の乞食道に徹しきって安心して生きているほど余裕のある乞食ではなかった。どこかにまだ落ちぶれきれぬ所と、自分の姿を知っているふうがある。そわそわしている。

のそり、のそり、きたない足で畳の上へあがってきた。そして、家のまん中に立って、

「ふうん……？」

うなりながら、見廻していた。

「……なんにもねえや、徳利と茶碗、火鉢が一ツ、あとは、戸棚に女？　……」と感心して、それから悠々と壁に懸けてあった<ruby><rb>振分</rb><rt>ふりわけ</rt></ruby>の<ruby><rb>真田紐</rb><rt>さなだひも</rt></ruby>を解いた。

周馬から伊太夫へ来た手紙だけをひき抜き、あとは元の通り壁へかけた。

むさぼるように、その手紙を読みはじめて、

「オオ……ウウム……じゃ、最後に周馬のやつが？　……こりゃ大事、江戸へ……蜂須賀家の致命傷だ……ウム、なるほど、それで……そうか」

乞食の顔に<ruby><rb>紅味</rb><rt>あかみ</rt></ruby>がさしてきた。

驚いたりうなずいたりして、しきりと、手紙の文面をくり返していたその乞食は、森啓之助の成れ果てた姿であった。

――三位卿に<ruby><rb>面罵</rb><rt>めんば</rt></ruby>されて<ruby><rb>足蹴</rb><rt>あしげ</rt></ruby>にまであった上、女の死体を抱えて、安治川屋敷を<ruby><rb>放逐</rb><rt>ほうちく</rt></ruby>された侍らしくない侍。

お米の死骸はその晩のうちに、大川へ捨てたが、その時の女の死顔と血のにおいは、いつまでもかれについて廻った。

木賃宿でひどい<ruby><rb>永病</rb><rt>ながわずら</rt></ruby>いをやった<ruby><rb>揚句</rb><rt>あげく</rt></ruby>、大阪から影を隠したかれは、やがて、岡崎<ruby><rb>田圃</rb><rt>たんぼ</rt></ruby>の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かまぼこ</span>小屋に<ruby><rb>死霊</rb><rt>しりょう</rt></ruby>と世間におびえた目をして、ものうげに倒れていた。

ある晩のこと。

その<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かまぼこ</span>小屋の近くで、怪しげな偽虚無僧が、品のよい娘を<ruby><rb>威嚇</rb><rt>いかく</rt></ruby>しているのを見て後をつけた。

毎日、浪宅のまわりをウロウロしている間に、その堀田伊太夫と旅川と微妙な関係があるのを知って、いっそう気をつけていると、その旅川周馬からの飛脚。

あの日も、<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>をかぶって、かれは、窓の外にかがみこんでいたのだ。

「ウム……」周馬の手紙をふところにねじ込んで――「そうだ！」と啓之助、今、いつになく生々と顔色をかがやかせた。

「――帰参のかなう日が来たぞ。この、重大なことを安治川屋敷へ知らせてやれば、その功は、おれの前の不始末の罪を<ruby><rb>償</rb><rt>つぐな</rt></ruby>って余りがある。三位卿も孫兵衛も、嫌だって、おれの帰国をとりなさないわけにはゆくまい」

泥の<ruby><rb>足痕</rb><rt>あしあと</rt></ruby>を畳に残して、<ruby><rb>盗</rb><rt>ぬす</rt></ruby>ッ<ruby><rb>人</rb><rt>と</rt></ruby>猫のように台所から出てゆこうとすると、

「アア！　もしッ……」と不意に、うしろの押入れで苦しそうな女の声。

「おや」

ふりかえってみると、中から揺すぶる板戸の<ruby><rb>錠前</rb><rt>じょうまえ</rt></ruby>がガタガタとおどっていた。

「どなた様か存じませぬが、こ、ここを、どうぞ出して……。でなければ、二<ruby><rb>条</rb><rt>じょう</rt></ruby><ruby><rb>千本屋敷</rb><rt>せんぼんやしき</rt></ruby>の松平様へ、わたくしがここにいることを急いでお知らせ下さいまし」

「あ、いつかの晩、かどわかされてきた娘だな……」とはすぐに分ったが、啓之助の心はもう別なほうへ<ruby><rb>逸</rb><rt>はや</rt></ruby>っていた。――と知らずに、戸棚の中の悲しい声が、なおも何事か訴えているまに、かれの姿は、裏の竹藪を駆けぬけていた。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あられ</span>のぶッ<ruby><rb>裂</rb><rt>さ</rt></ruby>き羽織に、艶の光る菅笠、十手袋をさして、<ruby><rb>布</rb><rt>ぬの</rt></ruby>わらじを<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いている。誰の目にも、一目<ruby><rb>瞭然</rb><rt>りょうぜん</rt></ruby>たる、その筋の上役人。

<ruby><rb>勧修寺</rb><rt>かんじゅじ</rt></ruby>の池だった。

その役人と配下の者数名が、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わらじ</span>がけの足をそろえて、池の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふち</span>を歩いてくると、こっちへ向って駆けてきた乞食が、ふいと、反対のほうへ戻りだした。

「？　……」

眉をよせて立ち止まった菅笠。

かれは、所司代への密使をかねて、江戸南町奉行所の命をうけ、お綱の人相書を携えてその<ruby><rb>逮捕</rb><rt>たいほ</rt></ruby>に上方へ来た、敏腕の与力、<ruby><rb>中西弥惣兵衛</rb><rt>なかにしやそべえ</rt></ruby>である。

京奉行所の諒解をえて、弥惣兵衛は、人相書の女スリを召捕るため、先頃から京大阪の間にその手がかりを<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ぎ廻っていた。

今、挙動の妙な非人を見ていた弥惣兵衛は、

「あいつ、ふところに何か持っているな」

と、<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>をすくっていった。

## <ruby><rb>飴売</rb><rt>あめう</rt></ruby>り<ruby><rb>傀儡師</rb><rt>くぐつし</rt></ruby>

さきごろ、<ruby><rb>下加茂</rb><rt>しもかも</rt></ruby>の茶荘へふたりの密使が訪れてきて以来、次いで、二条城、或いは所司代の千本屋敷へ、江戸からの密書密使のたえまがない。

何か起こるぞ。

そういう空気が京都に濃くなった。

重なる役人は帰宅をとめられ、目を赤くして、固く口を結んでいた。

「中西弥惣兵衛と申す方から御急報でござります」

連日の多忙に疲れている下役の者が、こういって、所司代左京之介の役室の次の間へ、一封の書状を置いた。

<ruby><rb>祐筆</rb><rt>ゆうひつ</rt></ruby>がうけとって<ruby><rb>近侍</rb><rt>きんじ</rt></ruby>にわたす。近侍から左京之介の手へ。

かれは<ruby><rb>衝立</rb><rt>ついたて</rt></ruby>を隔てて、常木<ruby><rb>鴻山</rb><rt>こうざん</rt></ruby>と何か低声で密談していた。

「――中西？」

いつぞや茶荘へ人相書を取りに戻った、与力のひとりを思い浮かべながら封を切った。

中に巻きこんである別な手紙があった。それは、中西弥惣兵衛が<ruby><rb>勧修寺</rb><rt>かんじゅじ</rt></ruby>の池のほとりで、挙動のあやしい非人をとらえて<ruby><rb>糺</rb><rt>ただ</rt></ruby>してみた結果、思いがけなく手に入った、旅川周馬の筆跡である。

「さては」

左京之介は二つの文面を読みくらべて、

「お千絵をかどわかしたのも旅川の<ruby><rb>指</rb><rt>さ</rt></ruby>し<ruby><rb>金</rb><rt>がね</rt></ruby>であったと見える。おお、しかも明日は、<ruby><rb>禅定寺</rb><rt>ぜんじょうじ</rt></ruby>で待ちあわせて」

「な、なんでござりますと？　――」鴻山は待ちきれずに膝を進めて、同じ所に目を<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>らせた。

「やっ、周馬め、秘帖をつかんで江戸へ」

「ウム、そうなっては、弦之丞の立場があるまい」

「ござりませぬとも！」

鴻山は暗然と――強く、

「すぐに、早飛脚を立てて、この手紙のままを、万吉の家へ廻して急を知らせてやりとう存じます」

「よかろう、さっそく、取り計らっておくように」

「承知いたしました。では、一刻も早く」

「待とう」と、ひき止めた。

「は」

「お千絵のほうは？」

「――なんとも心がかり、拙者自身で、<ruby><rb>山科</rb><rt>やましな</rt></ruby>の伊太夫とかいう浪人の家へ出向いて見ることにいたします。いずれ、安否はまた途中から使いを立てまする」

周馬の筆跡を<ruby><rb>状筥</rb><rt>じょうばこ</rt></ruby>に厳封して、早飛脚を大阪の桃谷に立たせ、かれ自身はひとりで、いつもの深編笠、山科の村へ入って、堀田伊太夫というものの住居を探り歩いた。

しかし。

かれがそこを尋ねあてた時にはもう家主の男が、中の<ruby><rb>塵</rb><rt>ちり</rt></ruby>を掃きだして、戸を締めにかかっていた。

<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>くと。

堀田伊太夫は、<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>ごろ、にわかに三<ruby><rb>挺</rb><rt>ちょう</rt></ruby>の駕を雇ってきて、家を明け渡し、江戸へ帰ったという話。

禅定寺までは半日の道のり、周馬の手紙に明日とあるので、さまでに急がなかった不覚を悔いて、鴻山は、大津へ出る本街道を逆に<ruby><rb>醍醐</rb><rt>だいご</rt></ruby>から、<ruby><rb>西笠取</rb><rt>にしかさとり</rt></ruby>のほうへ、それらしい影を血眼でさがして行った。

…………

構えにふさわしくない所司代公用の<ruby><rb>赤状筥</rb><rt>あかじょうばこ</rt></ruby>が、桃谷の目明し万吉の門口へ届いた。

「なんであろう？」

と、お<ruby><rb>吉</rb><rt>きち</rt></ruby>は不安に思いながら、それを持って中二階へ上がってゆく。

ふりかえってみれば、剣山の<ruby><rb>険</rb><rt>けん</rt></ruby>、岡崎の船関、鳴門の<ruby><rb>渦潮</rb><rt>うずしお</rt></ruby>――、よくも、ここまで戻ってこられたものと、いまさら、自身さえ不思議な心地がして、お綱はそこの中二階にいるのであった。

周馬の身辺をつけ廻しつ、めったに、家にいることのない万吉と弦之丞、ふたりもちょうどいあわせて、

「おお、どこから？」

あわただしく<ruby><rb>状筥</rb><rt>じょうばこ</rt></ruby>をひらきあった。

吉報！

その刹那のお綱の笑顔。弦之丞の<ruby><rb>鬱雲</rb><rt>うつうん</rt></ruby>のはれてみえる眉。万吉のよろこびよう。それは何にたとえようもない。

時機は来た――悪魔め！

万吉は<ruby><rb>雀踊</rb><rt>こおど</rt></ruby>りしたい気もちを抑えて、幾たびも、鴻山の手紙についてきた、周馬の筆跡をみつめた。

大阪へ<ruby><rb>上陸</rb><rt>あが</rt></ruby>った旅川周馬は、身辺の危険をさとって、わずかな縁故をたよりに、<ruby><rb>酒井讃岐守</rb><rt>さかいさぬきのかみ</rt></ruby>の蔵役人、本田<ruby><rb>某</rb><rt>なにがし</rt></ruby>の屋敷の奥に身を<ruby><rb>匿</rb><rt>かくま</rt></ruby>ってもらっている。

ほとぼりのさめたところと<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>を狙って、江戸へ走ろうという魂胆。――なぜかまた、本田某は周馬の口に乗せられて、あくまで彼を<ruby><rb>匿</rb><rt>かくま</rt></ruby>いだてした。

<ruby><rb>奸智</rb><rt>かんち</rt></ruby>な狐の隠れこんだ穴が悪い。

大阪城代の蔵屋敷、ことに、本田某は酒井家の権臣で、指もささせぬぞというふうがあった。どうしても周馬がその門を出ないうちは、秘帖を<ruby><rb>奪</rb><rt>と</rt></ruby>り返すこともできない。

阿波のほうでも、うすうす周馬の潜伏をつきとめてはいた。

しかし、これも手が出ない。

初めは万吉も阿波のほうでも、根くらべに、昼も夜中も蔵屋敷を見張っていたが、これでは、周馬がそこを出るはずがないと察して、わざと近頃は、双方で少し見張りをゆるめていた折。

吉報は思わぬ方角から来たものである。

それからしばらく、中二階ではひそかな話し声がつづく。

お吉は、静かに<ruby><rb>箪笥</rb><rt>たんす</rt></ruby>をあけて、<ruby><rb>調</rb><rt>ととの</rt></ruby>えておいた肌着や用意の品をもって、静かに、二階の<ruby><rb>梯子</rb><rt>はしご</rt></ruby>を通った。

やがて、家の中から天蓋をつけた<ruby><rb>男女</rb><rt>ふたり</rt></ruby>の影が、姿をそろえて、土間に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わらじ</span>をはきかけた。お吉は先に外へ出て、空の模様を気づかったり家のまわりを見張っている。

「じゃ、おふたり様」

と、後について、草履を突っかけて外へ出た万吉。

「<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>」

とだけいって、意味は言外に、小腰をかがめると、

「ウム」

弦之丞もうなずいただけで、そこから左右に<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>を分ちかけたが、女は女同士のお綱とお吉、両方からすり寄って何かしきりと、別離を惜しんでいる様子。

ふっ……と涙ぐましいものがこみあげてくるのをまぎらすべく、万吉は、ひと足先に駆けだした。

まもなく、かれが行きついた家は、四国屋の寮であった。

そこでも、お<ruby><rb>久良</rb><rt>くら</rt></ruby>とは裏縁の立ち話で用向きだけを告げるとまたすぐに、忙しそうに出て行った。

＊　　　　　＊　　　　　＊

「御門番。おい、御門番」

同じ夜の宵の口。

安治川屋敷の<ruby><rb>袖門</rb><rt>そでもん</rt></ruby>のかげに立って、あたりをはばかるような声が呼んでいる。

「御門番」

それも、よくよく思いきって呼ぶのらしく、一声かけては、またあとへ戻ったり、うろうろと帰ってきたりして、その<ruby><rb>揚句</rb><rt>あげく</rt></ruby>にやはり、

「ちょッと顔を貸してくれんか、オイ、御門の衆」

と、こわごわ首をさし伸ばしている。

「誰じゃい」

と、不承不承な<ruby><rb>喜平</rb><rt>きへい</rt></ruby>の返辞がやっと聞えた。

コトンと、六尺棒を突く音がして、てらりとした<ruby><rb>薬鑵頭</rb><rt>やかんあたま</rt></ruby>が出てくると、

「おう、喜平だな」

と、妙に人なつこく、外の影が寄ってきた。

「なんだ、てめえは……」

門番の喜平おやじ、六尺棒を中に隔てて、わざと、近寄りがたい構えをする。

そういわれると、<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>は急に、穴へでも入りたそうにうつむいた。<ruby><rb>酒菰</rb><rt>さかごも</rt></ruby>をかぶっているので人相はわからないが、とにかく、乞食であることは、一目で分る。

「――<ruby><rb>物乞</rb><rt>ものご</rt></ruby>いじゃないか、てめえは、ふざけた奴だ、顔を貸せの、喜平だのと」

「すまなかった、実は……」

「なにが実はだ、この野郎、少し<ruby><rb>抜作</rb><rt>ぬけさく</rt></ruby>とみえるわえ、さあさあ向う河岸へ渡んな、向う河岸へ」

きたない物でも<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>けるように、六尺棒の先で小突くと、そいつをつかんで、唐突に、

「おいッ、お、おれは、森啓之助だよ……」

と顔を寄せた。

あッけにとられて、

「ヘエ……？」と、いったまま喜平おやじ、しばらく<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>を見つめていたが、なるほど、森啓之助にちがいはない。

「どうなさいましたえ？　……森様」

「面目ない。実に、きまりが悪い」

「お屋敷を出た後に、たいそうひどいご病気で<ruby><rb>難渋</rb><rt>なんじゅう</rt></ruby>していらっしゃるというお噂は聞きましたが」

「しかし、今夜は、きまりが悪いも面目ないもいっていられない急用で、<ruby><rb>山科</rb><rt>やましな</rt></ruby>から急いできたのだ。三位卿はいるか？」

「先頃からお越しでございます」

「……どう考えても、あの人には会えない」

「なんぞ火急な御用でも？」

「お家の興亡にかかわるほどの大事をお告げしに来たのだ、あの、<ruby><rb>天堂</rb><rt>てんどう</rt></ruby>は」

「剣山で御最期です」

「えっ、一角が死んだ？　フーム、そうか。孫兵衛はどうしているな？」

「いらっしゃいまする」

「じゃ、気の毒だが、ちょッとここまで顔を貸すように伝えてくれないか」

そう頼んで、塀の蔭にうずくまっていた。

啓之助が何か火急なことを告げにきたと聞いて、孫兵衛は、何かというふうに、奥から出てきた。

ふたりは、ちょろちょろと水のせせらぐ<ruby><rb>小溝</rb><rt>こみぞ</rt></ruby>の<ruby><rb>縁</rb><rt>へり</rt></ruby>にしゃがみあって、足のしびれるほど長い時間を<ruby><rb>費</rb><rt>つい</rt></ruby>やしている。

「もういちど、お船手へ帰参のなるように運動をしてくれぬか」というのが、啓之助の要求するところで、その代りに、旅川周馬の行動について、かれが山科で、ふと知り得たところは、残らずその<ruby><rb>媚</rb><rt>こび</rt></ruby>に話してしまった。

物蔭には、三位卿、そっとたちぎきして、苦笑していた。

そして、孫兵衛と啓之助が話しているまに、屋敷の中へ隠れて、<ruby><rb>湧井</rb><rt>わくい</rt></ruby>道太郎にそのことを伝え、一方、原士へ何かの支度を命じだした。

外ではお十夜。

「よいことを<ruby><rb>報</rb><rt>し</rt></ruby>らせてくれた。とにかく、三位卿の耳へ入れてくる」

と、啓之助を残して、屋敷の中へ隠れた。

内部ではもうなんとなく物々しい空気だった。

有村と密談しばらく、やがてふたたび、門の外へ姿をあらわして、

「おい……」と、塀に貼りついている影を手招きする。

耳打ち……。

「ウム、ウム、じゃ、おれはそのほうへ」

啓之助はうなずいて、<ruby><rb>酒菰</rb><rt>さかごも</rt></ruby>に肩をつつみ、周馬の潜伏している土佐堀の蔵屋敷へ向って飛んで行った。

かれはそこで旅川周馬の出立を見届け、安治川屋敷の者たちは、未明、淀川を小舟でさかのぼって大阪の外に出、<ruby><rb>枚方</rb><rt>ひらかた</rt></ruby>の茶店で支度、津田の並木で周馬の来るのを待ち伏せようという約束。

で、啓之助は、

「このひと役さえ<ruby><rb>首尾</rb><rt>しゅび</rt></ruby>よくやってのければ、元の船手組へ帰参ができるだろう」と<ruby><rb>懸命</rb><rt>けんめい</rt></ruby>なところだ。

<ruby><rb>酒菰</rb><rt>さかごも</rt></ruby>をかぶって蔵屋敷の用水桶のかげに、犬のように寝ている中に、土佐堀の<ruby><rb>櫓韻</rb><rt>ろいん</rt></ruby>、<ruby><rb>川面</rb><rt>かわも</rt></ruby>からのぼる白い霧、まだ人通りはないが、うッすらと夜が明けかけてくる。

と。かなたの浜蔵の<ruby><rb>廂</rb><rt>ひさし</rt></ruby>の蔭にも、前の晩から寝ている男があった。

宿をとりそこねた旅人のように、<ruby><rb>頬冠</rb><rt>ほおかぶ</rt></ruby>りをして、その上へ菅笠、あたりの<ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>を集めて腰に敷き、浜蔵の壁に腕ぐみで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐんにゃり</span>とよりかかっている。

だが、眼だけは、たえず<ruby><rb>真向</rb><rt>まむこ</rt></ruby>うの酒井家<ruby><rb>蔵用人</rb><rt>くらようにん</rt></ruby><ruby><rb>本田頼母</rb><rt>ほんだたのも</rt></ruby>の屋敷に注意していた。啓之助はそれを天満の万吉だとは夢にも知らなかったが、万吉の方では<ruby><rb>疾</rb><rt>と</rt></ruby>くから気がついていた。

間もなく――もう雀の声が聞かれる頃、ガタン、蔵屋敷の<ruby><rb>閂</rb><rt>かんぬき</rt></ruby>が鳴る、寝不足そうな<ruby><rb>仲間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>が<ruby><rb>箒</rb><rt>ほうき</rt></ruby>を持って<ruby><rb>掃</rb><rt>は</rt></ruby>く、用人らしい男が出てゆく。

だが、周馬らしい者は出てこない。

「おや？」

万吉がちょっと目を放している間に、啓之助は、すっぽり、<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>をかぶって用水桶の蔭から這いだしていた。

で、万吉も、あわててそこを立ち上がる。

ちょうどその時、細目に<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>かった裏門の隙から、スッと外へ出てきた男があった。

柿色の<ruby><rb>投頭巾</rb><rt>なげずきん</rt></ruby>に、横筋の<ruby><rb>袖無</rb><rt>そでなし</rt></ruby>、丸ぐけの太い<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>で、胸に人形箱をかけた、この頃町でよく見る<ruby><rb>飴売</rb><rt>あめう</rt></ruby>りの<ruby><rb>傀儡師</rb><rt>くぐつし</rt></ruby>という姿の者。

中から四、五人の声が、門の内でその傀儡師を見送った。男も挨拶をつげ、礼をのべているふうだったが、すぐと、要心深い挙動をして、霧の深い町の辻へスタスタと<ruby><rb>大股</rb><rt>おおまた</rt></ruby>に歩きだした。

「……オオ周馬！」

<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>をかぶった啓之助は町側の向うを、そして、万吉はこっち側を、中に<ruby><rb>挟</rb><rt>はさ</rt></ruby>んでつけて行った。

「傀儡師――なるほど、考えやがったな。今日ということを知らなけりゃ、うまうまと、あいつに出し抜かれていたかもしれねえ」

万吉は笠に隠した横目で、巧妙なそして周馬らしい機智の変装ぶりを眺めながらついてゆく。

<ruby><rb>玉造口</rb><rt>たまつくりぐち</rt></ruby>から<ruby><rb>河内路</rb><rt>かわちじ</rt></ruby>へふみ出して、<ruby><rb>鴫野</rb><rt>しぎの</rt></ruby>へくると周馬は茶店で一服した。万吉も物腰を変えて同じ軒下の<ruby><rb>床几</rb><rt>しょうぎ</rt></ruby>へ腰をおろし、朝飯をとりながら、いよいよ<ruby><rb>飴売</rb><rt>あめう</rt></ruby>り傀儡師、周馬に相違ないことをたしかめてよろこんだ。

茶店を出ると、またどこからか、酒菰をかぶった啓之助が、後先について歩いてくる。で万吉は、いちはやく、阿波方のものも今日のことを知って、周馬の行く先を<ruby><rb>要</rb><rt>よう</rt></ruby>すべく待ちかまえているのを察した。

「はて、邪魔な野郎だ、どうしてやろうか？　……」と万吉、<ruby><rb>私部</rb><rt>きさべ</rt></ruby>の並木あたりから、何かしきりと考えていたが、その頃から、わざと少し周馬におくれて、前へゆく<ruby><rb>酒菰</rb><rt>さかごも</rt></ruby>へ、

「おい、お<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>さん」

と、手をあげた。

啓之助、ちょっとふりかえったが、聞こえぬ振りをして急ごうとすると、万吉はまた、

「待たねえか、そこへゆく<ruby><rb>物乞</rb><rt>ものご</rt></ruby>い」

「ヘエ、私のことですか」

先を気にしながら立ち止まった。

「そうよ、<ruby><rb>合力</rb><rt>ごうりき</rt></ruby>してやろうと思って、せっかく人が呼んでいるのに、なんですぐに待たねえんだ」

「ありがとうぞんじます……ですが」

「ですが、なんだ」

「少し、先を急いでいますので」

「ふふん……」お<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>の肩を叩いて冷やかすように、

「よしねえ、今日は、急いだところでムダだろう」

「？　……」

「それよりは、<ruby><rb>怪我</rb><rt>けが</rt></ruby>のねえところで、<ruby><rb>成行</rb><rt>なりゆ</rt></ruby>きを見ていねえ、悪いことはいわねえから」

「やッ」啓之助は初めて気がついて、

「てめえは万吉だなッ」

と、胸板を突いてくるのを、

「何をしやがる」

と、十手でその手を叩きつけた。

啓之助は驚いて前へ駆けた。しかし、二、三間ゆくといつのまにか体についていた<ruby><rb>捕縄</rb><rt>ほじょう</rt></ruby>に引かれて反動的にぶっ仆れる。

グルグル巻きに縛りあげて、万吉は啓之助を<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>の中へ抱え込んだ。首のない石地蔵が仆れてあった。そいつを抱かせてもうひと巻き縄をかけ、ヒラリと、藪から並木へ戻った。

「オオ」

あなたを見ると、周馬の姿はもう遠い……。

江戸に限りのない栄達を夢み、お千絵に思いの遂げられるのを夢みして、旅川周馬の足は軽い！

――急ぐほどに津田の<ruby><rb>追分</rb><rt>おいわけ</rt></ruby>。

そこで、<ruby><rb>弾</rb><rt>はず</rt></ruby>んできた周馬の足はハッとすくんだ。

けれど、考えてみると、自分の姿は、人形箱と柿色の頭巾<ruby><rb>袖無</rb><rt>そでなし</rt></ruby>にくるまれていた。かれは、図太く<ruby><rb>多寡</rb><rt>たか</rt></ruby>をくくって、折から混んできた、野菜車や旅人や<ruby><rb>小荷駄</rb><rt>こにだ</rt></ruby>の群れの往来にまじって、ゆっくりと通りぬけた。

「ああ、びっくりした」

次の<ruby><rb>立場</rb><rt>たてば</rt></ruby>を眺めてから考えた。

「どうして<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ぎつけやがったのだろう？」

津田の辻の<ruby><rb>葭簀</rb><rt>よしず</rt></ruby>を張った一軒の家に、たしかに、阿波の侍と、三位卿らしい者と、おぼえのあるお十夜の頭巾が見えた。皆、物々しい<ruby><rb>装</rb><rt>よそお</rt></ruby>いでかたまっていた。

「あぶねえ、あぶねえ」

<ruby><rb>薄氷</rb><rt>はくひょう</rt></ruby>をふんできたような心境が、後になってゾッと背すじを這いあがった。

おびえがさめて安心がつくと、周馬、こんどは先頃手紙をやっておいた堀田伊太夫の方の首尾を案じだした。

お千絵を<ruby><rb>山科</rb><rt>やましな</rt></ruby>まで連れだしたということは、その前にかれから知らせをうけていたが、うまく今日、時刻を計って、禅定寺峠の<ruby><rb>麓</rb><rt>ふもと</rt></ruby>へ来あわせてくれればいいが？　……

とかく、それも悪くない心配だ。空想は道のりを忘れさせて、いつか<ruby><rb>郷</rb><rt>ごう</rt></ruby>の<ruby><rb>口</rb><rt>くち</rt></ruby>、程なく静かな村をぬける。禅定寺の山門と真ッ黄色な<ruby><rb>銀杏</rb><rt>いちょう</rt></ruby>の<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>があなたに見えた。

<ruby><rb>鵯</rb><rt>ひよ</rt></ruby>の声がする、<ruby><rb>百舌鳥</rb><rt>もず</rt></ruby>が高く啼いている。ハラハラハラハラ<ruby><rb>扇形</rb><rt>おうぎなり</rt></ruby>の葉が降りしきっている。

寺は峠路の口にあった。

先に来ていれば、たいがいこの辺にいるはずと思ったが、見当らないので、周馬は山門の石段の下に腰を下ろし、しばらく、秋の<ruby><rb>陽</rb><rt>ひ</rt></ruby>ざしに温まっている。

柿色の投頭巾に、<ruby><rb>銀杏</rb><rt>いちょう</rt></ruby>の葉が三ツ四ツ<ruby><rb>溜</rb><rt>たま</rt></ruby>った。

「おや、<ruby><rb>飴</rb><rt>あめ</rt></ruby>売り」

「人形使いの飴屋さん」

そこいらへ栗拾いに来た子供たちが、<ruby><rb>知己</rb><rt>ちき</rt></ruby>を見つけたように周馬のまわりへ寄ってきた。

じろじろとかれの姿を見て、何か物いいたそうであったが、首をあげた周馬の目のおそろしさに驚いて、無邪気な少童少女は、散るともなく、顔を見あって、こそこそ村のほうへ帰ってしまう。

その後は、絵のような秋の<ruby><rb>木洩</rb><rt>こも</rt></ruby>れ<ruby><rb>陽</rb><rt>び</rt></ruby>の中を、ひとりの<ruby><rb>尼</rb><rt>あま</rt></ruby>が通ってゆく。

一<ruby><rb>刻</rb><rt>とき</rt></ruby>ばかりの間の変化はこれだけであった。

だが、周馬は退屈しなかった。

待つという<ruby><rb>空</rb><rt>くう</rt></ruby>な時間を、こんな愉悦にみちて、<ruby><rb>恍惚</rb><rt>こうこつ</rt></ruby>と過ごすなんていうことは、一生のうちにそうめったにはない。どっち道、楽園の扉は開いて、おれはそこへ、迎え入れられるばかりになっているのだ。少しは、待つのもよかろうではないか。

そう考えて落ちついていると――。

やがてであった。

しっかりした道中<ruby><rb>駕</rb><rt>かご</rt></ruby>三<ruby><rb>挺</rb><rt>ちょう</rt></ruby>に<ruby><rb>背丈</rb><rt>せい</rt></ruby>のそろった駕かき、別に、肩代りが二人ついて、こなたへさしてくるのが見えた。

禅定寺の門前にかかると、ぴたりと足が止まる。一挺のタレをはねて堀田伊太夫、

「ご苦労」

と、草履をとらせて外へ出た。

「オオ伊太夫、ここだ、ここだ」

と、周馬は手をあげて、その姿を呼んだ。

「やあ、旅川。ばかにちょうどよく出会ったな」

「少しもちょうどいいことはない。最前から<ruby><rb>生</rb><rt>なま</rt></ruby>あくびをかんで待ちくたびれているんだ」

「実は、山科のほうは、昨日のうちに引き払って出たんだが、途中からつけてくる、うさんくせえ奴をまくために、思いのほか暇どってしまった」

「そうか……がまず、何より心配なのはお千絵だが？」

「お察し申すよ」

「笑ってくれるな、真剣だ」

「あの駕の中にいるから、ひと目<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いてきたらどうだ」

「そういわれると、少しテレるな。しかし、あらかた<ruby><rb>得心</rb><rt>とくしん</rt></ruby>している様子かな？」

「どうして、これからウンといわせるには、まだなかなか骨が折れるふうだぜ」

「江戸へ着くまでの間には、なんとか始末がつくだろう。オ……駕が来れば、もうこんな物をつけている必要はなかった」

胸にかけていた人形箱、頭巾、袖無、脱いでひとつにクルクルとまとい、自分の乗るべき<ruby><rb>空駕</rb><rt>からかご</rt></ruby>の中へ突っ込んだ。

下には周馬、いつもの<ruby><rb>黒紬</rb><rt>くろつむぎ</rt></ruby>の<ruby><rb>袷</rb><rt>あわせ</rt></ruby>を着ていた。<ruby><rb>膝行袴</rb><rt>たっつけ</rt></ruby>はそのままで見苦しくない。道中差は野刀一本、身軽のせいか、なんだかサバサバとした気持になった。

ついでに、もうひとつの駕をのぞいて、

「お千絵殿、少し駕の外でも眺めてはどうだな」と、<ruby><rb>垂</rb><rt>た</rt></ruby>れを解いた。

<ruby><rb>霜除</rb><rt>しもよ</rt></ruby>けをかぶった<ruby><rb>牡丹花</rb><rt>ぼたん</rt></ruby>のように、お千絵様は中にかがまっていた。

手には縄、ほつれ髪、青い顔には猿<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐつわ</span>。

「お千絵殿、江戸にいたころから見ると、だいぶ頬がやつれましたなあ」

周馬は、駕の棒にもたれて、白い<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>もとへ<ruby><rb>賤</rb><rt>いや</rt></ruby>しげな目を落した。

「……だが、美女のやつれというやつは、美しさに<ruby><rb>研</rb><rt>とぎ</rt></ruby>がかかって、いっそう<ruby><rb>凄艶</rb><rt>せいえん</rt></ruby>という<ruby><rb>趣</rb><rt>おもむき</rt></ruby>が深い。おう、泣いていらっしゃるか、あまり久しぶりでうれし涙が出るのでしょうな……周馬もお<ruby><rb>懐</rb><rt>なつ</rt></ruby>かしく思いますよ、いろいろあれ以来のお話もあるがまあ、それは宿へでも着いて」

<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>きおろしていた体をだんだん駕の前へかがみこませた。そして、わざとらしく、

「可哀そうに」

と、お千絵の猿<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐつわ</span>だけはずしてやる。

「――むごいようだが、手のほうは道中だけ辛抱して貰おうか。その代り江戸表へ入りさえすれば、どんな気まま、どんな<ruby><rb>華奢</rb><rt>かしゃ</rt></ruby>も自由としよう、旅川周馬様の奥方、まんざら悪い身分ではないでしょう」

と、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">からかい</span>半分、頬へ指をついてゆくと、冷やかに、覚悟を決めてきたお千絵の耳元が、怒りに血の色をさしてきた。

きりっと吊りあがった<ruby><rb>蘭瞼</rb><rt>らんけん</rt></ruby>が、周馬の軽薄な唇をひるまずに睨まえて、

「気の狂った男！　お前はなにをいっているんです」

「狂ってはいない、真剣だ」

「千絵には、何の意味やらいうことが分りませぬ」

「おぬしは拙者の妻だぞということをいい聞かせているのじゃないか。もしお千絵殿、そなたがよく<ruby><rb>性分</rb><rt>しょうぶん</rt></ruby>をご存じの旅川ですぞ、ムダな<ruby><rb>足掻</rb><rt>あが</rt></ruby>きや愚痴はおよしなさい」

「おだまり、千絵はまだ、そなたのような<ruby><rb>人非人</rb><rt>ひとでなし</rt></ruby>を、<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>とゆるした覚えはない」

「ちッ、また優しさに<ruby><rb>狎</rb><rt>な</rt></ruby>れやがると、駿河台の穴蔵部屋で、ヒイヒイ叫んだような痛い目に会わしてくれるぞ。こういうふうにッ」

と、襟がみをつかんで引きずり出した周馬、無情な平手でお千絵の頬をピシリと打った。そしてまた打ち、また打ちした。それが一種の快感であるように、周馬は打つ手を止められなかった。

自分の腕が疲れた時に、蹴こむようにお千絵を駕にぶちこんで、

「おい堀田、出かけようぜ」

と、見ぬふりをして休んでいる駕屋へも声をかける。伊太夫は<ruby><rb>冷</rb><rt>ひや</rt></ruby>かすように、

「旅川、お<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>は案外、女には手荒だな」

「そうでもないが、つけあがるからよ。それにお千絵の姿を見ると、なんだかおれは昔から<ruby><rb>撲</rb><rt>なぐ</rt></ruby>りたくなる癖がある」と、駕のタレに隠れた。

「旦那！」

駕屋はそろって肩を入れた。

「やりますぜ――峠の上りへ」

「オオ、やってくれ」

ギシッ。三つの<ruby><rb>駕尻</rb><rt>かごじり</rt></ruby>が上がる。

「陽のあるうちに越えきれるかな」

「まだまだ」と、駕かきはいさぎよく<ruby><rb>杖</rb><rt>つえ</rt></ruby>をふり初めて、

「こんなくらいじゃゆっくりでさ」

タッタッタッと加速度に足がそろってくる――禅定寺の大屋根から吹きおろす秋らしい力のある風に、満地の<ruby><rb>銀杏</rb><rt>いちょう</rt></ruby>落葉が<ruby><rb>旋風</rb><rt>つむじ</rt></ruby>を描いて舞いめぐったかと思うと――その<ruby><rb>黄風</rb><rt>こうふう</rt></ruby>の<ruby><rb>渦</rb><rt>うず</rt></ruby>を衝いて突然！

「待て待てッ、その駕に用がある」

否やをいわせず、<ruby><rb>棒鼻</rb><rt>ぼうばな</rt></ruby>を突き返して大手をひろげた虚無僧と虚無僧。

ひょいと、まン中の駕の内から、顔を出した周馬が、あっ弦之丞！　とおどろいて向うへ抜けだそうとすると、お綱がすばやく駈け寄って、

「おのれ」

と、駕の<ruby><rb>簀</rb><rt>す</rt></ruby>とともに、周馬の<ruby><rb>横鬢</rb><rt>よこびん</rt></ruby>を切ってかすめる。

「わっ……」と、満顔に染まる血を吹いて、周馬、やぶれかぶれの声で、

「伊太夫、手を貸せッ」

お綱へ<ruby><rb>盲目刀</rb><rt>めくらがたな</rt></ruby>を振るって、バッと中から飛びだしたが、とたんに、伊太夫を居合討ちに仆した弦之丞が――<ruby><rb>飛鳥</rb><rt>ひちょう</rt></ruby>――左手使いの<ruby><rb>冷刃</rb><rt>れいじん</rt></ruby>を<ruby><rb>逆薙</rb><rt>ぎゃくな</rt></ruby>ぎに流して、

「卑怯者――ッ」

と<ruby><rb>肋骨</rb><rt>ろっこつ</rt></ruby>をはねつける。

「うーむッ……」とおめいたが、旅川周馬、<ruby><rb>血達磨</rb><rt>ちだるま</rt></ruby>のように染まってまだ走った。しかし、それも六、七間、りゅうッと風を泳いできた捕縄に足を巻かれて地ひびきを打つ。

万吉であった。お綱も駆けよった。

弦之丞はすぐに<ruby><rb>止刀</rb><rt>とどめ</rt></ruby>を<ruby><rb>刺</rb><rt>さ</rt></ruby>してふたりへいった。

「お綱、<ruby><rb>秘帖</rb><rt>ひじょう</rt></ruby>を<ruby><rb>奪</rb><rt>と</rt></ruby>りかえせ」

万吉やかの<ruby><rb>女</rb><rt>じょ</rt></ruby>の手がよろこびにふるえながら周馬の死骸を探った。まだ体温のある胸、胴巻、背中、<ruby><rb>袴腰</rb><rt>はかまごし</rt></ruby>……はては<ruby><rb>脚絆</rb><rt>きゃはん</rt></ruby>の<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>までといて<ruby><rb>検</rb><rt>あらた</rt></ruby>めたが、どうしたのだろう？　目的の秘帖はどこからも出てこない。

<ruby><rb>呆然</rb><rt>ぼうぜん</rt></ruby>と心にみる黒い霧が、三人の歓喜を、一瞬に、吹き荒した。と、その時、あなたの<ruby><rb>疎林</rb><rt>そりん</rt></ruby>を一群の人が疾走してくる。

## お綱の<ruby><rb>両難</rb><rt>りょうなん</rt></ruby>

疎林の影をよぎってまっしぐらにこなたへ向ってくる一群の武士、まごうべくもあらず、安治川屋敷の原士たちと、三位卿、孫兵衛、助太刀の<ruby><rb>湧井</rb><rt>わくい</rt></ruby>道太郎がその先頭。

朝まだきに淀川を<ruby><rb>上</rb><rt>あ</rt></ruby>がって、津田の辻の茶店に、啓之助の知らせを待っていた人々は、その<ruby><rb>肝腎</rb><rt>かんじん</rt></ruby>な伝令が、途中の<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>だたみに石地蔵を抱いて沈んでしまったため、思わぬ手違いをふんで、それと、気がついた時には、すでに先の周馬よりは、二里もおくれていたのであった。

「来やがった！」

周馬の体に秘帖が隠されていないので、もしやと、伊太夫の死骸をみていた万吉は、それにも絶望しながら、近づいてくる殺気を眺めた。

一難、また一難。

周馬は斬り仆したが大事な<ruby><rb>秘帖</rb><rt>ひじょう</rt></ruby>は見当たらない。弦之丞はまだ右腕の<ruby><rb>銃痕</rb><rt>じゅうこん</rt></ruby>がまったく<ruby><rb>癒</rb><rt>い</rt></ruby>えていないし、駕のうちには、かよわいお千絵様がいる。

どうしよう？　この場合を。

万吉の足どりにも<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>がからみついた。

ともあれ、かれは急いでお千絵の縄目を切ることを先にした。――と、もう安治川屋敷の者はすぐそこまで近づいて、鮮血を踏んで立ったお綱と弦之丞の姿を指さしながらひしめいて迫る。

「ウム、まいったな、またここへも」

弦之丞は動じない<ruby><rb>唇元</rb><rt>くちもと</rt></ruby>でつぶやいたが、さすがに、事ここまで運んできながら、ついに、秘帖を手に見ない落胆のかげはどこかにさびしい。

と。早口でふりかえった。

「お綱ッ。そちはお千絵どのを助けて、<ruby><rb>禅定寺</rb><rt>ぜんじょうじ</rt></ruby>の峠へしばらく姿を隠しておれ。早く行け、お千絵どのをつれてこの場を<ruby><rb>退</rb><rt>ど</rt></ruby>け！」

「お、それがいい」

と万吉はお綱の帯をもって引きずるように<ruby><rb>後</rb><rt>うし</rt></ruby>ろへ連れた。驚きと疲れとに、夢心地でいるお千絵の手をつかませて、

「ここにいてはかえって弦之丞様の足手まとい、早く早く」と手を振って峠路へ追い立てる。

この際、何をいい返す間があろう！　お千絵の<ruby><rb>嫋々</rb><rt>なよなよ</rt></ruby>した体を抱くようにして走りだしたお綱がふりかえって見た時には、もう、弦之丞万吉ふたりの姿が、陣をなす白刃の光と、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さんさん</span>と降りかがやく<ruby><rb>銀杏</rb><rt>いちょう</rt></ruby>の葉にくるまれていた。

<ruby><rb>左手</rb><rt>さしゅ</rt></ruby>といえど弦之丞の<ruby><rb>夕雲流</rb><rt>せきうんりゅう</rt></ruby>には少しの不自由さも見えなかった。またたくまに数人の<ruby><rb>手負</rb><rt>てお</rt></ruby>いが、大地に仆れ、禅定寺の石垣の根へ這った。

この日のかれの働きに、やや<ruby><rb>左刃</rb><rt>さじん</rt></ruby>の弱さかと思われた点は、ひと太刀で絶命するような斬れぶりのないことだった。瞬一瞬、手負いは増して行ったが、まだ一名の死者も出ない。そしてやがてまた、弦之丞自身も数ヵ所のかすり傷をうけた。

万吉も道中差をふりかぶって、命をまともに斬り廻った。腕というよりはその暴れかたに、阿波方の者は<ruby><rb>衆</rb><rt>しゅう</rt></ruby>の力を雄敵ひとりへ集めきることができない。それに、かなり修養のあるものでも、こう乱闘になると血があがってくる、ところへ散りしきる落葉の<ruby><rb>旋舞</rb><rt>せんぶ</rt></ruby>が視覚を<ruby><rb>眩惑</rb><rt>げんわく</rt></ruby>させて、ともすると弦之丞の左刃ひとつに駈け廻される。

その間に。

たえずかれの<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>をつけて、ひるむのを<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>っていた三位卿は、ぶっ仆れている駕の一つの内から、<ruby><rb>傀儡師</rb><rt>くぐつし</rt></ruby>のもち歩く一個の人形箱が蹴とばされているのを見た。

その箱のそばにまた、<ruby><rb>気息奄々</rb><rt>きそくえんえん</rt></ruby>たる原士と堀田伊太夫の死骸が仆れている。そして、その人形箱は砕けていた。

首の細いお<ruby><rb>染</rb><rt>そめ</rt></ruby>人形や久松人形も<ruby><rb>血泥</rb><rt>ちどろ</rt></ruby>によごれて、箱と一緒に踏みつぶされていたが、ふと、有村が隙を狙って拾い取ったのは、その人形とともに箱の中から飛びだしていた<ruby><rb>桐油紙</rb><rt>とうゆ</rt></ruby>で包んだ一<ruby><rb>帖</rb><rt>じょう</rt></ruby>の<ruby><rb>秘冊</rb><rt>ひさつ</rt></ruby>。

「おッ！」

つかんだ触覚で秘帖と分った。

「しめたッ――」と三位卿、<ruby><rb>翡翠</rb><rt>かわせみ</rt></ruby>が<ruby><rb>魚</rb><rt>うお</rt></ruby>をさらったように、それをつかんで飛び立ったが、とたんに、目をつけた万吉が、横合から引っ<ruby><rb>奪</rb><rt>た</rt></ruby>くって、

「秘帖あった！」

道中差を振るってヒラリと飛び<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>き、

「弦之丞様、秘帖は万吉が手に入れましたぞ！」

と、かれに力をつけさせるべく叫んだ。

今や、道太郎とお十夜を<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>に斬ッつ斬られつ――

「オオ、お綱の手へ――お千絵をたのむ」

<ruby><rb>剣戟</rb><rt>けんげき</rt></ruby>のあいだに弦之丞のかすれ声。

「合点です！」と、高く返辞を投げたものの、万吉はたじろがざるを得なかった。

<ruby><rb>柳剛流</rb><rt>りゅうごうりゅう</rt></ruby>の<ruby><rb>猛者</rb><rt>もさ</rt></ruby><ruby><rb>湧井</rb><rt>わくい</rt></ruby>道太郎と、悪鬼のように斬ってかかる孫兵衛の死にもの狂いに、さしもの弦之丞、刻一刻と苦闘に迫っている。

右の<ruby><rb>股</rb><rt>もも</rt></ruby>、左の<ruby><rb>小手</rb><rt>こて</rt></ruby>に一ヵ所、浅からぬ傷さえうけた様子である。

「死ぬ気だな――弦之丞様は？」と万吉、どうしてもそこを去りかねて、道太郎の横を<ruby><rb>衝</rb><rt>つ</rt></ruby>こうとすると、

「何をぐずぐずしているのじゃ。万吉、早く行かぬかッ」と弦之丞がまた叱りつけた。

ぜひなく万吉。

「おのれその秘帖を」

と追いすがる有村へ、脇差を投げつけて、両手でおさえたふところの秘冊！　幾多の<ruby><rb>犠牲</rb><rt>にえ</rt></ruby>をかけられて<ruby><rb>奪</rb><rt>と</rt></ruby>り奪られした阿波の大秘！　宝石のように抱きしめながら、お綱のあとを追って禅定寺の峠路を熱い息で駆けのぼる。

――危機は刻々とせまる、かくて、弦之丞の青白い<ruby><rb>眉間</rb><rt>みけん</rt></ruby>は、死相をあらわしてきたのではないかと思われた……。

そこを避けて、一方、禅定寺の<ruby><rb>寂</rb><rt>さび</rt></ruby>しい峠路。

お綱は、心をあとに残して、<ruby><rb>半</rb><rt>なか</rt></ruby>ば、<ruby><rb>喪心</rb><rt>そうしん</rt></ruby>しているお千絵を助けながら登ってゆく。

あの人のことである、今に血路をひらいて、きっと追いついてくるに違いない。と、道々もふりかえっては、お千絵のために安全な地を探した。

ひとつの山蔭を廻った時である。

仰むいてみた崖の上を、幾人もの足が土をくずして駆けたかと思うと山蔭にすがって、ばらばらと目の前へ<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>り降りてきた役人らしい者があった。

寝耳に水といおうか。

菅笠、<ruby><rb>割羽織</rb><rt>わりばおり</rt></ruby>を着けたひとり、岩のごとく道を<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>いで立つかと思うと、威圧のこもった<ruby><rb>音声</rb><rt>おんじょう</rt></ruby>で、

「見返りお綱、御用だッ――」

と、なんたる不意！　眼に痛いような磨きすました十手を向けた。

「あっ……」と、お綱は真っ青になった。

「<ruby><rb>浅草孔雀長屋</rb><rt>あさくさくじゃくながや</rt></ruby>の女スリ見返りお綱、旧悪の<ruby><rb>兇状</rb><rt>きょうじょう</rt></ruby>はのこらずお上のお調べずみとなって、人相書は上方へも廻ったぞ。わしは、召捕りのために向った江戸与力中西<ruby><rb>弥惣兵衛</rb><rt>やそべえ</rt></ruby>じゃ。いずれにしてものがれぬ場合、お手数をわずらわさずに、江戸奉行の手当をちょうだいして神妙に<ruby><rb>縛</rb><rt>ばく</rt></ruby>につけッ！」

この時ほど、お綱の気の弱々しく、そして<ruby><rb>総身</rb><rt>そうみ</rt></ruby>のすくんだことはなかった。

旧悪！　まったくお綱の記憶は自分の過去のそれを忘れていた。ことに今この場合、突然、女スリと呼びかけられた刹那の驚きは、胸のわるいめまいと、浅ましい嘆きだった。

よろめきそうな足を、一心にふみしめていたかの女は、やがて、<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>に<ruby><rb>乾</rb><rt>から</rt></ruby>びつくような声を<ruby><rb>捕手</rb><rt>とりて</rt></ruby>へ投げた。

「<ruby><rb>後生</rb><rt>ごしょう</rt></ruby>です、ま、待って下さい！　……」

「なに？」

弥惣兵衛は意外なというふうに、

「支度をする間か」

「いえ……ここしばらくの間……幾日かたてば、きっと、奉行所へ私から名乗って出ます」

「だまれ、法は<ruby><rb>峻厳</rb><rt>しゅんげん</rt></ruby>、<ruby><rb>枉</rb><rt>ま</rt></ruby>ぐべからざるもの、さような自由は相成らん。<ruby><rb>縛</rb><rt>ばく</rt></ruby>につかぬとあらば、押しくるんで召し捕る分じゃ」

「ああ！　わたしは、もう心から生れ代ったお綱だと思っていたが……」

「御法のさばきをうけぬうちは、<ruby><rb>汝</rb><rt>なんじ</rt></ruby>の罪は<ruby><rb>滅</rb><rt>めっ</rt></ruby>していない、どこまでも兇状が追って廻るのじゃ」

「でも今は、たとえ何とおっしゃっても、また、この上罪が重なろうとも、お縄をうける訳にはゆきません」

「ぜひがない！」

弥惣兵衛は身を<ruby><rb>退</rb><rt>しりぞ</rt></ruby>いて、

「それ、召し捕ってしまえ」

「お願いです！　……」新藤五の刀を構えながら、お綱は、神に祈るように、

「お見のがし下さいまし、お慈悲！　お願いでございます」

「<ruby><rb>手抗</rb><rt>てむか</rt></ruby>いするかッ」

「どうしても、あることの終りを見届けないうちには――」

叫ぶのも終らぬまに、捕手は前後から打ってかかった。絶体絶命、縄をうけるか切りぬけるか、このふたつよりない<ruby><rb>切迫</rb><rt>せっぱ</rt></ruby>。

お綱は突然ひとりを切った。わッと捕手の<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>くところを、お千絵の手をつかんで必死に駆けだした。

わっと乱れたが、すぐにまた捕手は彼女へ追いかかった、「御用」「御用」「御用」それは<ruby><rb>仮借</rb><rt>かしゃく</rt></ruby>のない<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ごずめず</span>が針の山へ罪のものを追いあげてゆく責め声のように。

中西弥惣兵衛は割羽織をぬぎすてて、

「うぬ、<ruby><rb>捕</rb><rt>と</rt></ruby>った！」

のめるようにかけだして、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きゅっ</span>と<ruby><rb>捕縄</rb><rt>とりなわ</rt></ruby>の一端をしごいたが――その時、一人の男、宙を飛んでくるなり弥惣兵衛の腕にしがみついて、

「待ってくれ」と絶叫した。

「何？」

手もとを狂わせて、弥惣兵衛は、腹立たし気な目をその男にくれた。

「私は<ruby><rb>天満</rb><rt>てんま</rt></ruby>の目明し万吉と申すものでござります――。しばらく、<ruby><rb>御猶予</rb><rt>ごゆうよ</rt></ruby>を願いとう存じます」

「だまれ、そちは天満組の名をかざしてこの捕り物に故障をいおうとするか」

「いえ、決してそういうわけではございませぬが、今ここでお綱がお手あてになりましては、ある一つの事件と、さる方々の上に、実に当惑する難儀がひそんでおるのでございます。で、どうか、今この場だけを御寛大に」

「いや、うすうすそんな様子も察しているが、わしの役儀は町方与力だ。たとえ、事情や場合はどうあろうと、あくまで、<ruby><rb>法縄</rb><rt>ほうじょう</rt></ruby>は公明に十手は正大にうごかなければならん」

と中西弥惣兵衛、頑として<ruby><rb>肯</rb><rt>き</rt></ruby>く<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>はない。

「ごもっともでございます、けれど、わっしも天満組の目明し、必ずそちらのお役目に泥をぬるようなことは致しませぬ。どうか<ruby><rb>枉</rb><rt>ま</rt></ruby>げてもお綱のお手当は、<ruby><rb>暫時</rb><rt>ざんじ</rt></ruby>、万吉にお任せおき願いとう存じます」

中西与力も強硬だが、万吉もまた、熱誠を<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>にあらわして頼むのだった。

それにうたれたか弥惣兵衛は、

「では、天満組の目明し」

「へい」

「誓って、そちの手でお綱に縄をかけて、このほうへ渡すというか！」

と、開きなおった。

「…………」万吉はグッと返辞につまってしまった。けれど、顔色を悟られないうちに、キッパリと断言しなければ、弥惣兵衛の<ruby><rb>叱咤</rb><rt>しった</rt></ruby>がふたたびお綱を追うであろう。

鉛の熱湯をのむよりは苦しい、あとはどうこの気持がもてるか、自分にさえ分らぬ万吉、目をねむって一時のがれに、

「え……へい、きっと、承知いたしました」

「間違いあるまいな！」と強く念を押して、

「では、そちが召捕ってくる猶予として一<ruby><rb>刻</rb><rt>とき</rt></ruby>ほど待ってつかわそう。ウム、あの<ruby><rb>七刻</rb><rt>ななつ</rt></ruby>下りの陽が、あなたの奥甲賀の<ruby><rb>山間</rb><rt>やまあい</rt></ruby>に落ちるまでだぞ」

そう言いわたして中西弥惣兵衛は、少し横道に隠れ、附近の<ruby><rb>山神</rb><rt>やまがみ</rt></ruby>の<ruby><rb>祠</rb><rt>ほこら</rt></ruby>に捕手の者をまとめて、<ruby><rb>江州甲賀</rb><rt>ごうしゅうこうが</rt></ruby>あたりの連峰の上にうすれかけている秋の陽の<ruby><rb>釣瓶</rb><rt>つるべ</rt></ruby>落しを待つのであった。

「アア……」

ひとつの難を切り抜けてホッと息をつくと、万吉は瞬間、頭の<ruby><rb>髄</rb><rt>ずい</rt></ruby>がぼうとしてしまった。いつか阿波をのがれてきた夜、あの黒い<ruby><rb>渦潮</rb><rt>うずしお</rt></ruby>に舟をグルグルグルグル廻されたまま、何としても出られなかった時と同じような気持である。

が、こんなことで、と万吉は自分に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">むち</span>を打って心をしめなおした。そして、白い尾花が<ruby><rb>斑</rb><rt>まだら</rt></ruby>になびいている向うの平地に、お綱とお千絵の姿を見つけて足を早めた。

すると、思わぬ所の崖道から、低い木をゆすぶって、誰か、

「万吉か？」と呼びとめた。

「オオ」ふりかえってみると、弦之丞であった、血ぬられた太刀を左にさげて上がってきた。

「そちが秘帖を持って駆けだした後を、湧井道太郎が追いかけて行ったが、別条はなかったか」

「へい、道太郎にも逢いませぬし、秘帖もここに持っております」

「それが案じられて拙者も近道を廻ってきたのじゃ。しかし、まだ油断はならぬぞ。わしの後からは原士をつれた孫兵衛と有村、また道太郎めもやがて追いついてくるに相違ない」

と話しながら、<ruby><rb>布</rb><rt>ぬの</rt></ruby>を裂いて万吉に左の小手傷をしばらせていると、突然、すぐ向うの草原にあたって、お綱の絶叫と、けたたましいお千絵の悲鳴が流れた。

「やっ？」

「――道太郎じゃ！　いつの間に」

「<ruby><rb>卑怯</rb><rt>ひきょう</rt></ruby>なやつ」

ふたりは足を飛ばして駆けた。いつのまに抜け道をしたか、ひとりの巨漢が白刃をかざして、小鳥のようなお千絵を追っかけ廻している。そして自分の身に代えて防いでいるのはお綱であった。

それさえハラハラさせられているところへ、また<ruby><rb>忽然</rb><rt>こつぜん</rt></ruby>と一方からおどり立って女ふたりを取り囲んだ者がある。お十夜孫兵衛と三位卿だ。――万吉は宙をとんでゆく間にそれを見て、アア駄目だ！　もう危ない！　と思わず腰をついてしまいそうになった。

ところが――意外の上にまた一ツの意外が重なった。

逃げ場を失ったお千絵様、<ruby><rb>芒</rb><rt>すすき</rt></ruby>の根につまずいて、あわや、道太郎の烈しい<ruby><rb>大刀</rb><rt>だいとう</rt></ruby>の下になった時、意外ではあるまいか、かえってその道太郎が、もののみごと、<ruby><rb>袈裟</rb><rt>けさ</rt></ruby>がけにされてぶッ仆れたのである。

驚きひるむ原士の前に、降って湧いたように立っていた編笠は、前の日、<ruby><rb>山科</rb><rt>やましな</rt></ruby>から三挺の駕の行方を追跡していた常木<ruby><rb>鴻山</rb><rt>こうざん</rt></ruby>。

「やあ、阿波の人々、そこにいる三位卿もよく聞かれい！」と、かれは道太郎を斬った勢いで大音をあげた。

「――今日を期して幕府の<ruby><rb>大命雷発</rb><rt>たいめいらいはつ</rt></ruby>、京都では<ruby><rb>公卿</rb><rt>くげ</rt></ruby>の間に、いっせい所司代の陰謀しらべが開始され、上下騒動をきわめておるぞ。同時に、町々は浪人の<ruby><rb>狩立</rb><rt>かりた</rt></ruby>て、江戸表では長沢町の<ruby><rb>山県大弐</rb><rt>やまがただいに</rt></ruby>、一昨夜南町奉行所の捕手にからめられて、一味のこらず、<ruby><rb>揚屋入</rb><rt>あがりやい</rt></ruby>りとあいなった。また、宇治の竹内式部へも召捕りの人数が向い、公儀より正式に徳島城へ向って、<ruby><rb>大目付副使</rb><rt>おおめつけふくし</rt></ruby>、ふたりの上使が立てられ、すでに<ruby><rb>今朝</rb><rt>こんちょう</rt></ruby>は大阪を出発した筈――もう多くの弁にも及ぶまい、すなわち、<ruby><rb>陰謀露顕</rb><rt>いんぼうろけん</rt></ruby>、惜しむべし、<ruby><rb>蓬庵公</rb><rt>ほうあんこう</rt></ruby>以来の阿波二十五万六千石、近くお<ruby><rb>取潰</rb><rt>とりつぶ</rt></ruby>しのお<ruby><rb>沙汰</rb><rt>さた</rt></ruby>であろうぞ！」

## <ruby><rb>頭巾</rb><rt>ずきん</rt></ruby>と<ruby><rb>侏儒</rb><rt>こびと</rt></ruby>

機智は功を奏して、鴻山の高くいった声は、青天の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">へきれき</span>ほど<ruby><rb>阿波方</rb><rt>あわがた</rt></ruby>の者を驚かせた。

むらがってきた原士は、足もとの大地を<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆ</rt></ruby>すられたように、剣をつかんでいる手すらも茫然と、

「ウーム、では、幕府に先手を打たれたのか」

と、悲痛なつぶやきに、<ruby><rb>暗澹</rb><rt>あんたん</rt></ruby>な面持を見あってしまった。

突如――それは三位卿の、口から血を吐いたような叫びであった。

「大事は破れたッ……ああ京都……王室の御迷惑、<ruby><rb>諸卿</rb><rt>しょきょう</rt></ruby>の難儀……罪は有村にある」

とたんに、かれは<ruby><rb>頸動脈</rb><rt>けいどうみゃく</rt></ruby>に<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>をあてて、おのれの身を<ruby><rb>芒</rb><rt>すすき</rt></ruby>むらへ、どうと、横ざまに仆したのであった。

「やっ？」

「あ、有村様ッ」

「おおっ、三位卿が自刃された」

八、九人の原士は、かれのまわりへ黒くなって集まった。だが、抱き起こされた三位卿はもう悲壮な死顔をしていた。

<ruby><rb>慷慨</rb><rt>こうがい</rt></ruby>の気にとむ<ruby><rb>白皙</rb><rt>はくせき</rt></ruby>の青年<ruby><rb>公卿</rb><rt>くげ</rt></ruby>がいさぎよい自害は、さすがに、そこへ駆け寄ってきた弦之丞の心をもうった。

鴻山も万吉も、口もとを固くして、それを見つめる。

「かれも一個の志士であった。世に<ruby><rb>遇</rb><rt>あ</rt></ruby>わない不幸児であった。もし、尊王討幕の実があがる暁はあっても、ついにかれは無名の一公卿に終るだろう」

人は知らず、弦之丞だけは、ひそかに一<ruby><rb>掬</rb><rt>きく</rt></ruby>の涙をもって、かれの死を見まもった。

すると、その様子などには目もくれないで、ひとり無念そうにたたずんでいた孫兵衛は、<ruby><rb>衆</rb><rt>じゅう</rt></ruby><ruby><rb>皆</rb><rt>みな</rt></ruby>、有村の自殺に気をとられている隙をみて、

「ええ、気が<ruby><rb>弱</rb><rt>よえ</rt></ruby>えッ」

と自他を<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>るごとくいって、またも、不意に大刀を<ruby><rb>揮</rb><rt>ふる</rt></ruby>った。

かれの眼に映じたものは第一にお綱であった。狙われたお綱は、サッと見た<ruby><rb>流刃</rb><rt>りゅうじん</rt></ruby>に肩をちぢめたが、吹かれた髪の毛を助広の<ruby><rb>尖</rb><rt>さき</rt></ruby>にかすられた。

「うぬ、てめえと弦之丞だけは」

悪鬼は破れかぶれとなって、

「――<ruby><rb>冥途</rb><rt>めいど</rt></ruby>の道づれだッ」

と盲目的に斬ってかかるやつを「野郎！」と万吉、飛びついて孫兵衛の腕くびをねじおさえ、

「もうこの辺が運のつきだろう、往生ぎわをよく観念してしまえ」

<ruby><rb>捕縄</rb><rt>とりなわ</rt></ruby>の輪を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こか</span>そうとすると、

「ちッ、くそでもくらえ！」<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>がしらに小手を叩かれて、万吉はかれの足もとへ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もんどり</span>打つ。孫兵衛は狂った<ruby><rb>夜叉</rb><rt>やしゃ</rt></ruby>のように、こんどは常木鴻山へ跳びかかった。鴻山は身をかまえてとび開く。万吉ははね起きて捕縄を走らせた。――が捕縄はかれの<ruby><rb>刃</rb><rt>は</rt></ruby>に当たって用をなさなかった。

荒れ狂う助広の光に、草の葉が<ruby><rb>塵</rb><rt>ちり</rt></ruby>になって飛んだ。ともう、孫兵衛は次の行動に移っていた――お綱の避けた姿を見て、それをふりかぶって行ったのである。

だが、途端に孫兵衛、わッと<ruby><rb>獣</rb><rt>けもの</rt></ruby>じみた<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>きをあげ、爪先立ちに身をもがいた。最前から見すましていた弦之丞が、左剣、わき腹をえぐったのだ。

お綱お綱と、鴻山に声をかけられて、かの女はハッと吾に返った。新藤五の刀で夢中で孫兵衛の<ruby><rb>右手</rb><rt>めて</rt></ruby>を斬って落した時、弦之丞もえぐった<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>をスッと放して<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>の体を反対に突いた。

「ううっ……」と、仰むけにぶっ仆れたお十夜は、ひとつ、大きな波を<ruby><rb>肋骨</rb><rt>あばら</rt></ruby>に打って、こんこんと<ruby><rb>噴</rb><rt>ふ</rt></ruby>きでる黒血の中に断末をとげた。

「…………」

瞬間は無言。

皆、ほっと、息を<ruby><rb>吐</rb><rt>つ</rt></ruby>いているばかりだった。

原士の残る者たちは、阿波本国の<ruby><rb>取潰</rb><rt>とりつぶ</rt></ruby>しと聞いて、闘う気もくじけ、いつのまにか三位卿の死骸を抱えて、麓のほうへ逃げ散っていた。

「……頭巾を？　……」

兇悪な孫兵衛を討ち止めるとともに、ふと、剣山での父の死を目にうかべて、熱い涙がにじみだしてくるのを感じていたお綱は、どこかで、こういう声にささやかれた。

「孫兵衛の頭巾を？　……」

それは、<ruby><rb>世阿弥</rb><rt>よあみ</rt></ruby>が、死のまぎわに、口に洩らしかけてこと<ruby><rb>切</rb><rt>ぎ</rt></ruby>れた謎のことばであった。

このことは、桃谷の家で、弦之丞にも万吉にも話してあった。で今、弦之丞は<ruby><rb>止刀</rb><rt>とどめ</rt></ruby>を刺した後に、孫兵衛のその頭巾をさし伸べた。

鴻山も一種の猟奇心に駆られてジッと立っている。今は、解かれることを拒み得ないお十夜頭巾。

めくりだされるものはなんであろうか？　一同、思わず<ruby><rb>固唾</rb><rt>かたず</rt></ruby>をのんで、弦之丞の手に解かれてゆく黒布に<ruby><rb>眸</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>を吸われていると、

「しばらく」

と、一同の<ruby><rb>後</rb><rt>うし</rt></ruby>ろから、ゴソゴソと草むらをかき分けて、そこへ、這いかがんだ者がある。

「？　……」

<ruby><rb>甲虫</rb><rt>かぶとむし</rt></ruby>のように、手をついた男を見ると、かつて見かけたことのない、町人とも武士ともつかぬひとりの<ruby><rb>侏儒</rb><rt>こびと</rt></ruby>だ。

だしぬけに<ruby><rb>風態</rb><rt>ふうてい</rt></ruby>見当のつかぬ侏儒が、「しばらく！」といってそこへかがまったので、この場合ではあったが皆、思わずいぶかしげにふりかえると、

「私の役目は、<ruby><rb>今日</rb><rt>こんにち</rt></ruby>をもって終りました。それについてお願いの儀、お聞き届け願いとうございます」

と、ばかにていねいな切口上で、その侏儒がまたいった。

「そちはいったい何者であるか？」

こう訊ねたのは鴻山である。

侏儒はやや<ruby><rb>怖</rb><rt>おそ</rt></ruby>るるような目色をしたが、

「はい、私は阿波の者でござります」と悪びれずに――「ご承知でもございましょうが、原士の<ruby><rb>長</rb><rt>おさ</rt></ruby>、<ruby><rb>龍耳</rb><rt>りゅうじ</rt></ruby>老人とおっしゃる方の<ruby><rb>飛耳張目</rb><rt>ひじちょうもく</rt></ruby>に使われまする者で、永年の間、私のいいつけられていた役目は、関屋孫兵衛の頭巾を監視することでございました。――関屋孫兵衛をご承知のお人でも、私の影を、きょうまで見たお方はございますまい、けれど手前はここ数年来、かれが江戸へまいれば江戸へ、上方へくれば上方に、寸刻も離れることなく、影と形のように、つきまとうていたのでございます」

侏儒は、その<ruby><rb>隠身</rb><rt>おんしん</rt></ruby>の働きぶりを、やや自慢らしい顔で話しつづける。

「――で手前は役目としまして、月に一度は某所某時刻で、きっと孫兵衛の頭巾のうちをあらためることになっておりました。そして、龍耳老人に別状のない儀を知らせてまいりました。けれど、その関屋孫兵衛も、ここに最期を遂げましたからには、自然、手前の役目も終ったわけで、もう用のない体、阿波へ立ち帰ろうと存じまする」

万吉もお綱も、奇異な侏儒の話は、幻奇な物語を聞くような心地がしていたが、弦之丞には、かれの頭巾と侏儒の関係が、今は明らかにうなずけて、鴻山に代って一歩前へ出た。

「龍耳老人、あの方なら拙者も存じておる。してそちが今、吾々に願いがあるといったのは、どういうことであるな？」

「ほかでもございませんが」

「うむ、申してみい」

「関屋孫兵衛の首をお貰い申したいのでございます。かれの首を持って、阿波へ立ち帰りたいと存じますので」

「孫兵衛の首をくれろというのか」

「役目を終りました<ruby><rb>証</rb><rt>あかし</rt></ruby>として、頭巾ぐるみ、川島<ruby><rb>郷</rb><rt>ごう</rt></ruby>へ持って帰りたいのでございます」

「しかし、待て、一応は、かれの頭巾を<ruby><rb>検</rb><rt>あらた</rt></ruby>めてみねば」

というと、<ruby><rb>侏儒</rb><rt>こびと</rt></ruby>は心得たさまで、

「もう徳島城の御陰謀も、幕府のほうへ知られました今日、ほかの、小さな秘密を固持する必要はございますまい。――といったところで、それはこのたびの事件とは、まったく縁のない、別のものでございますが」

「おお、ではそちの手であれを解くか」

「明らさまに申し上げましょう、しばらく、そこにお待ちを願います」

こういうと侏儒は、<ruby><rb>矮短</rb><rt>わいたん</rt></ruby>な身を起こして、孫兵衛の死骸のそばへ歩いていった。

その<ruby><rb>酸鼻</rb><rt>さんび</rt></ruby>に、<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>をそむける様子もなく、孫兵衛の頭巾の上から<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もとどり</span>をつかみ、胸をもって押しつけるような形をしていたかと思うと、ぶっすり、首を切り離して草の上へ置き、短い<ruby><rb>刃物</rb><rt>はもの</rt></ruby>の<ruby><rb>血糊</rb><rt>のり</rt></ruby>を拭いて、ニヤリと意味のない、不気味な笑みをこちらへ向けた。

「……？」

斬りさいなんでも飽きたらない<ruby><rb>仇</rb><rt>あだ</rt></ruby>とはいえ、侏儒の刃物で無造作に切りはなされた孫兵衛の<ruby><rb>生首</rb><rt>なまくび</rt></ruby>には、お綱も思わず<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>をそむけたくなった。

いつか、お千絵は、まだやまないふるえを歯の根にかんで、お綱の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>にすがっていた。

弦之丞、鴻山、万吉。

いよいよ不思議な侏儒の<ruby><rb>所作</rb><rt>しょさ</rt></ruby>を見まもって、そこに立ち並んでいる。

侏儒は、首となった孫兵衛の頭巾を、その人々の<ruby><rb>凝視</rb><rt>ぎょうし</rt></ruby>の前にとって見せた。

「関屋孫兵衛の悩みはこれでございました」

黒布を<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>いでみればお十夜孫兵衛、死首ながら立派な男前である。

兇悪遂に身をほろぼした、かれの<ruby><rb>凄味</rb><rt>すごみ</rt></ruby>と、断末の無念そうな<ruby><rb>眉間</rb><rt>みけん</rt></ruby>の影は消えていないが、頭巾をとれば年頃まだ三十に足らず、<ruby><rb>白蝋青隈</rb><rt>はくろうあおくま</rt></ruby>の死相、ほつれ毛たれて<ruby><rb>耳朶</rb><rt>みみたぶ</rt></ruby>に一点の血、生ける時の兇相よりは、むしろ美男に見えたくらいである。

髪は浪人<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たぶさ</span>に結っている。

「<ruby><rb>月代</rb><rt>さかやき</rt></ruby>を<ruby><rb>剃</rb><rt>そ</rt></ruby>ること、また、これを自由に抜くことなりませぬ」と、かれの母が遺言で、龍耳老人に誓わせられたその<ruby><rb>頭</rb><rt>つむり</rt></ruby>には、何が与えられてあったろうか！

侏儒が黒布を解いたせつなに、生首の<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby>に、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さんらん</span>と、見る者の眼を射るものが<ruby><rb>挿</rb><rt>さ</rt></ruby>してあった。そして<ruby><rb>月代</rb><rt>さかやき</rt></ruby>の<ruby><rb>青額</rb><rt>あおびたい</rt></ruby>には、当時、きびしい禁教の象徴として<ruby><rb>忌</rb><rt>い</rt></ruby>みおそれられている十<ruby><rb>字</rb><rt>じ</rt></ruby><ruby><rb>架</rb><rt>か</rt></ruby>の傷が<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>になって残っていた。

<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby>にさしてあった<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さんらん</span>たる美光の品も、それにゆかりのある、<ruby><rb>泰西</rb><rt>たいせい</rt></ruby>名工の<ruby><rb>彫琢</rb><rt>ちょうたく</rt></ruby>、<ruby><rb>白金彫</rb><rt>はっきんぼり</rt></ruby><ruby><rb>聖母</rb><rt>せいぼ</rt></ruby>マリヤの<ruby><rb>笄</rb><rt>こうがい</rt></ruby>なのであった。生首の<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby>に挿されてある白金のマリヤの笄――それをみると、話の先に、侏儒はなぜか、ぼろりと涙をこぼしたのである。

弦之丞をはじめ五人の人々が、<ruby><rb>固唾</rb><rt>かたず</rt></ruby>をのむ疑惑の目の前に、それから、涙をこぼしながら、<ruby><rb>侏儒</rb><rt>こびと</rt></ruby>の話すことであった。

<ruby><rb>泰西彫工</rb><rt>たいせいちょうこう</rt></ruby>の<ruby><rb>鏤刻</rb><rt>るこく</rt></ruby>、かがやかしい白金のマリヤ<ruby><rb>像</rb><rt>ぞう</rt></ruby><ruby><rb>肉彫</rb><rt>にくぼり</rt></ruby>の笄。

――ごらん下さいまし、これがどうして、孫兵衛の<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby>に縫われ、また、抜けない約束のものとなったでしょう？

ご存じはございますまい。

これも阿波では他国へ秘密としていた一ツでございますから。

関屋孫兵衛の母。

あのお方は、イサベラ様とおっしゃいます。<ruby><rb>元和</rb><rt>げんな</rt></ruby>以前、海をこえて、日本へ宣教に来られた、スペインの<ruby><rb>女修士</rb><rt>おんないるまん</rt></ruby>、ご承知でもございましょう。五十五聖徒の殉教者のひとり、老女ルシヤ様のつれていた娘が、後に、<ruby><rb>天草</rb><rt>あまくさ</rt></ruby>の<ruby><rb>原</rb><rt>はら</rt></ruby>ノ<ruby><rb>城</rb><rt>しろ</rt></ruby>へ入りました。

孫兵衛の<ruby><rb>母者人</rb><rt>ははじゃびと</rt></ruby>イサベラ様はマリヤの笄とともに、その異国の人の血をひいてきたお方でございます。ほんとに円満な、聖母そのままな、慈愛の深いお方でした。

あのお方のことを思うので、私はつい涙ぐまれるのでございます……。

そんないいお人のイサベラ様の子に、<ruby><rb>悪魔</rb><rt>サタン</rt></ruby>孫兵衛が生れました。なんという皮肉、イサベラ様は生涯孫兵衛のことでご苦労なさいました。死ぬまぎわまで……。

ですが。

どうしてそういう人が、阿波にいるかというご不審をおもちでしょう。川島郷の七人衆の原士、あの方々も<ruby><rb>寛永</rb><rt>かんえい</rt></ruby>の昔、<ruby><rb>島原</rb><rt>しまばら</rt></ruby>の一<ruby><rb>揆</rb><rt>き</rt></ruby><ruby><rb>戦</rb><rt>せん</rt></ruby>がみじめな敗れとなった時、<ruby><rb>天草灘</rb><rt>あまくさなだ</rt></ruby>から海づたいに、阿波へ<ruby><rb>漂泊</rb><rt>ひょうはく</rt></ruby>してきた落武者の子孫なのでございました。

孫兵衛の母イサベラ様の幾代目かの御先祖――<ruby><rb>黄金</rb><rt>こがね</rt></ruby>色の髪の毛に愛くるしい<ruby><rb>琥珀</rb><rt>こはく</rt></ruby>の眼をもった異国娘も、その時、武装した<ruby><rb>切支丹</rb><rt>きりしたん</rt></ruby>武士に手をひかれて、阿波の海辺へ上がりました。

そのような話、冬ごもりの<ruby><rb>炉</rb><rt>ろ</rt></ruby>べりでは、私の子供の時など、よく年寄から聞かされたものでございます。

当時、阿波の御領主は、有名な<ruby><rb>義伝公</rb><rt>ぎでんこう</rt></ruby>で、あのとおり<ruby><rb>豪邁</rb><rt>ごうまい</rt></ruby>で、徳川家に楯をついたお方――天草の余党はあの君のお情けで、阿波の奥地へ棲むようになりました。原士の中に七家の切支丹族が今日まで<ruby><rb>連綿</rb><rt>れんめん</rt></ruby>としてきて、しかも、秘密に信仰を保ってこられたのは、ひとつの奇蹟と申されます。

マリヤの笄は代々孫兵衛の家につたえられ、仏間と見せかけて実は<ruby><rb>祈祷</rb><rt>きとう</rt></ruby>の部屋である柱の<ruby><rb>切嵌</rb><rt>きりは</rt></ruby>めに埋めて、七家のものの信仰の<ruby><rb>像</rb><rt>かたち</rt></ruby>とあがめておりました。その笄が、今孫兵衛の<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby>に刺さっておるこの品なのでございます。

慈恩の笄でございます、母性愛の光でございます、子を<ruby><rb>憂</rb><rt>うりょ</rt></ruby>うる孫兵衛の母が、いまわの<ruby><rb>際</rb><rt>きわ</rt></ruby>の意見を縫いつけた<ruby><rb>呪縛</rb><rt>じゅばく</rt></ruby>の針でございます。

申すまでもなく、切支丹は禁教。

<ruby><rb>天主</rb><rt>デウス</rt></ruby>を口にとなえることはおろか、刀の<ruby><rb>鍔</rb><rt>つば</rt></ruby>の裏に、十字に似た模様が彫ってあっただけでさえ、<ruby><rb>逆磔</rb><rt>さかはりつけ</rt></ruby>になった侍がありまする。

<ruby><rb>月代</rb><rt>さかやき</rt></ruby>に十字の<ruby><rb>傷痕</rb><rt>きずあと</rt></ruby>、<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby>にマリヤの笄を刺された孫兵衛は、まったくひとつの呪縛にかかりました。

頭巾をとけば禁教者とみなされ、<ruby><rb>月代</rb><rt>さかやき</rt></ruby>をのばし笄を抜きすてれば、イサベラ様の臨終の枕元で、七家の<ruby><rb>衆</rb><rt>しゅう</rt></ruby><ruby><rb>立会</rb><rt>たちあ</rt></ruby>いで誓わせられたとおり、<ruby><rb>龍耳</rb><rt>りゅうじ</rt></ruby>老人の暗殺の手が下ります。そして私という者が、たえず影にいて、それを監視してまいったのですから、さすがの<ruby><rb>悪魔</rb><rt>サタン</rt></ruby>孫兵衛も、あれで、自分の思う悪事を百にひとつもやれなかったのでございます。

孫兵衛の悩み。

十夜頭巾の呪縛。

もう、これで、皆様にも、すべてお分りでございましょう。

けれど私は、孫兵衛の永い間の苦痛よりも、その悩みを子に与えて、かれを<ruby><rb>改悟</rb><rt>かいご</rt></ruby>させようとした、イサベラ様の臨終のお心持を、お察し申さずにおられませぬ。

信仰の力もございましょう。しかし、女親の愛、ことに悪人の子をもったイサベラ様、深い慈愛をお見せ下さいました。弦之丞殿の手にかかって、孫兵衛はついに無残な死を遂げましたようなものの、もし、愛の呪縛がなかったら、もっと世の中に悪名を売り、一族を<ruby><rb>亡</rb><rt>な</rt></ruby>くして、その身も、刑吏の<ruby><rb>錆槍</rb><rt>さびやり</rt></ruby>でえぐられたに違いありますまい。

慾でかかった仕事とはいい条、恩義のある阿波方に組して、これ以上の悪名をのがれただけでも、母親のお心に届いております。

で……手前、孫兵衛の首を郷里に持ち帰り、龍耳老人や七家の衆に、この次第をつぶさに話し、白金の笄は、イサベラ様の墓石の下へお返しいたしたいと存じますので。

どうか、孫兵衛の首は笄をさしたまま、私におつかわし願いとうございます。はい、最前お頼みと申しましたのは<ruby><rb>右様</rb><rt>みぎよう</rt></ruby>な次第、皆様、このとおり、両手をついてお願い申しまする。

と、<ruby><rb>侏儒</rb><rt>こびと</rt></ruby>は話し終って<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>を下げた。それと一緒に、ほっと、誰ともなく息をついた。

<ruby><rb>黙然</rb><rt>もくねん</rt></ruby>と、うす目を閉じて、侏儒の語るのを聞いていた弦之丞は、その時、何思ったか、万吉の手からお綱へ渡されていた<ruby><rb>秘帖</rb><rt>ひじょう</rt></ruby>をとって、ピリッと、二ツに引き裂いた。

「あっ？」

色をかえた人々の目は、とびつくように、弦之丞の手もとを見あった。

## <ruby><rb>山千禽</rb><rt>やまちどり</rt></ruby>

「よし、孫兵衛のことは、そちの自由にするがよい」

キッパリといった上に弦之丞は、二つに破った<ruby><rb>秘帖</rb><rt>ひじょう</rt></ruby>の一半を、<ruby><rb>侏儒</rb><rt>こびと</rt></ruby>の手へさずけた。

「これは？」

「これは龍耳老人へおくる弦之丞の寸志じゃ。帰国の上は、何もいわずに、孫兵衛の<ruby><rb>首級</rb><rt>しるし</rt></ruby>にそえて、お渡しいたしてくれい」

ああ、さてはと、いちどは<ruby><rb>驚目</rb><rt>きょうもく</rt></ruby>をみはった万吉も<ruby><rb>鴻山</rb><rt>こうざん</rt></ruby>も、弦之丞の言外にある心を汲んで、ひそかに思った。

お綱と弦之丞とは、さきに、剣山でとうていのがれ得ぬはずの危地を、龍耳老人のために救われている。それは、老人の思想と主家の将来を思うところによるとはいえ、救われた者には、大なる恩義であらねばならぬ。

理由もいわずに弦之丞が、せっかく手に入れた秘帖の一端を裂いて老人へ贈ったのは、それに<ruby><rb>酬</rb><rt>むく</rt></ruby>う武道の情義であった。いいかえれば、<ruby><rb>恩讐</rb><rt>おんしゅう</rt></ruby>を超えた心と心の答礼だった。

「ありがとうぞんじます」

侏儒はそれをふところに納め、孫兵衛の<ruby><rb>首級</rb><rt>しるし</rt></ruby>を袖にくるんで、

「では、皆様」と、もう一度辞儀をして、阿波川島の郷里へ帰るべく、急ぎ足に<ruby><rb>麓</rb><rt>ふもと</rt></ruby>の近道を拾っていった。

後に思いあわせれば――。

徳島城の<ruby><rb>城地没収</rb><rt>じょうちぼっしゅう</rt></ruby>、二十五万石<ruby><rb>取潰</rb><rt>とりつぶ</rt></ruby>しの審議が<ruby><rb>老中議判</rb><rt>ろうじゅうぎはん</rt></ruby>となった時、唯一の証拠である、<ruby><rb>世阿弥</rb><rt>よあみ</rt></ruby>血筆の秘帖の一部が裂きとられてあったため、そこの数ヵ条の<ruby><rb>肝腎</rb><rt>かんじん</rt></ruby>な個所が不明となり、蜂須賀家の申しひらきが幾分か立って、あやうく断絶の<ruby><rb>憂</rb><rt>う</rt></ruby>き<ruby><rb>目</rb><rt>め</rt></ruby>をまぬがれ、<ruby><rb>重喜</rb><rt>しげよし</rt></ruby>の<ruby><rb>永蟄居</rb><rt>えいちっきょ</rt></ruby>だけで、一大名の<ruby><rb>瓦解</rb><rt>がかい</rt></ruby>を見ずに落着したのは、まったくその時、侏儒のふところに持ち帰された一紙片の力といえるもので、思えば弦之丞が龍耳老人へ<ruby><rb>酬</rb><rt>むく</rt></ruby>いたものは、大きな贈り物であった。

しかし、それは後日になって、当面の人たちだけが思い当たって感謝したことだ。……今、侏儒の姿が麓へ小さく隠れてゆくのを見送っている弦之丞には、頬の微笑と、快い感情の波が人知れず胸にうった。

かれは手に残った秘帖の一部を鴻山に渡して、これは自分の使命のしるし、所司代松平左京之介殿の手をへて、幕府へ委細の復命をたのみたいといった。

「いや」

と鴻山は固く辞退した。

「この事件になんの功もない拙者が、それを<ruby><rb>携</rb><rt>たずさ</rt></ruby>えて幕府の歓待にのぞむのは<ruby><rb>僭越</rb><rt>せんえつ</rt></ruby>でもあり、第一資格のない自身として恥入りまする。京都の左京之介様、また江戸表でも将軍家をはじめ、貴殿の肉親の人々も、どれほどか、噂をきいてそこもとの偉功をたたえて待っているか知れますまい。いわば<ruby><rb>栄</rb><rt>はえ</rt></ruby>ある<ruby><rb>凱陣</rb><rt>がいじん</rt></ruby>の将、拙者も万吉もほかの者も皆、御同道申しあげよう。ぜひとも、それは御自身で江戸表へ」

と、すすめるのを、弦之丞は手を振って、

「御厚意のほどはありがたく思いまするが、実は、自分の一個の存念で、このまま、江戸へは帰らぬ覚悟でござります」

「えっ」

と鴻山は、その心を計りかねるように、

「そりゃ、なぜでござるか？」と<ruby><rb>弾</rb><rt>はず</rt></ruby>みこんでまたすぐに、

「何か、徳川家に対して、ご不平でも？　……」と探るように顔色を見た。

なぜ？

それはお綱にも万吉にも、同時に怪しまれたことだった。ことに、お千絵はなつかしい人の姿を目の前にしながら、まだあたりの人の手前、ひとことも口をかわされないでいたが、にわかに悲しげな色が眉を曇らしている。

「決して」

弦之丞は鴻山の言葉を否定して、

「不平などは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みじん</span>ござりませぬ。そう誤解して下されては困る。そのことは、とうから心にもっていた拙者の宿望です。――幸いにして、なかるべき筈の一命をたもち、<ruby><rb>父祖</rb><rt>ふそ</rt></ruby><ruby><rb>食禄</rb><rt>しょくろく</rt></ruby>をうけてきた幕府へも、いささか報恩の労をつくし得たことは、法月家の<ruby><rb>不肖児</rb><rt>ふしょうじ</rt></ruby>弦之丞としてできすぎた<ruby><rb>僥倖</rb><rt>ぎょうこう</rt></ruby>。なんで、それが誇り、なんで、望外な出世をのぞみましょうや。ただ、慾には、この微功をもって、お千絵殿の家名が立ち、また、ほかの方々にも何らかのお沙汰がありとすれば、拙者の本分、これ以上はないのでござる」

「いや、それでは、お千絵殿をはじめ、他の者も、第一この鴻山にしても、自身の本望はとげたにしても寝ざめのよくない心地がする。ぜひ、貴殿もいちどは江戸へ御帰府あるようにおすすめいたす。いや、お願いする！」

と、鴻山は熱をこめて言った。

その言葉は、お千絵の秘している心を代弁してくれるようであった。同時に、万吉もいわんとする気持を鴻山がつくしてくれたような気がした。

しかし、お綱の考えはどうであったろうか？　すくなくも今のお綱の胸のうちは<ruby><rb>千々</rb><rt>ちぢ</rt></ruby>にみだれているに違いない。ひとり、<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>に深く手をさし入れてうつむいている姿を見ても、その悩ましさが思いやられる。

いつか<ruby><rb>陽脚</rb><rt>ひあし</rt></ruby>が傾いてきた。紫の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひだ</span>を濃くしてゆく山の姿は夕暮の近さを示してきた。

と――あなたの小高い林をぬけてくる人数が見えた。奥甲賀の<ruby><rb>山間</rb><rt>やまあい</rt></ruby>に陽がおちるまでと約束した、与力中西<ruby><rb>弥惣兵衛</rb><rt>やそべえ</rt></ruby>と、その手の<ruby><rb>捕方</rb><rt>とりかた</rt></ruby>の影であった。

弦之丞はまたこういった。

「自分は純然たる幕府方の人間のようであって、まことは幕府に忠実な者ではござらぬ。それは今、秘帖の一半を裂いて阿波へ返してやった不審な行為でもお分りになろう」

と、あくまで、鴻山の切なすすめを拒んで、

「――<ruby><rb>底意</rb><rt>そこい</rt></ruby>を申せば、弦之丞めも、当今、皇学尊重のふうを非義とは存じられませぬ、むしろ、ひそかに王室の<ruby><rb>御衰微</rb><rt>ごすいび</rt></ruby>をなげいている一人なのでござります」

と、<ruby><rb>矛盾</rb><rt>むじゅん</rt></ruby>な気持を初めて明かした。

江戸に籍をおく身であって、一面、反幕府派と称せらるる皇学中心の運動をも、どうしても否定しきれないところに、かれの憂鬱が常にあった。

その<ruby><rb>矛盾</rb><rt>むじゅん</rt></ruby>を乗りこえて、かれをここまで勇躍させてきた力は、幕府のためというよりも、剣山で<ruby><rb>龍耳</rb><rt>りゅうじ</rt></ruby>老人に告白したとおり、恋、義理、涙、そういう<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きずな</span>にはきわめて弱いかれの個性――<ruby><rb>凡人凡智</rb><rt>ぼんじんぼんち</rt></ruby>の情熱である。

今またその告白をくり返して――

「なんでこのふた心と矛盾を抱いて、これ以上、幕府の<ruby><rb>栄禄</rb><rt>えいろく</rt></ruby>を<ruby><rb>食</rb><rt>は</rt></ruby>み得ましょうか！」

というのだった。

「多少、江戸表にも、心のひかれることがない身ではござらぬが、果てしのない凡情の延長へ<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>ってゆくより、むしろこのまま帰府を断念して、元の虚無僧、一管の<ruby><rb>竹笛</rb><rt>ちくてき</rt></ruby>に余生を任して旅に終るほうが、自由で本望に思われます。拙者のためにと仰せ下さるならば、もうこの上のおすすめ、ひらに御無用に願いたい」

もう鴻山にも万吉にも、出世の無理<ruby><rb>強</rb><rt>じ</rt></ruby>いをすすめるようなありあわせな厚意は、かれの真実と潔癖の前にいいだされなくなった。

で――黙然とうなだれてしまったが、その沈黙がくるとすぐに、わっと、こらえを破って泣く声をきいた。

はっと、皆の目は、泣き伏したお千絵の姿に吸いつけられる。

お千絵は最前から弦之丞の心もちをきいているうちに、あたりが真っ暗におぼえる程な失望に血を<ruby><rb>激</rb><rt>げき</rt></ruby>しながら、今ここで、自分の心をいいだす勇気もなく、目の前を通りすぎて行こうとする運命に対しても、悲しむよりほかの力をもたないかの女であった。

「ああ……」

しかし、その痛々しい姿は、弦之丞の心をみだし、また責める。

ひとつの矛盾をしりぞければ、また新しくひとつの矛盾がなだれてくる。

神のごとき純なお千絵に、生涯の<ruby><rb>傷手</rb><rt>いたで</rt></ruby>を与えて去ることは、かの女を幸福にすべく起った初志をみずから裏切っていないだろうか。

また、ちょうど同じこの<ruby><rb>禅定寺</rb><rt>ぜんじょうじ</rt></ruby>峠で、去年の夏――お千絵様を！　と合掌して落命した<ruby><rb>唐草銀五郎</rb><rt>からくさぎんごろう</rt></ruby>に対しても、<ruby><rb>破誓</rb><rt>はせい</rt></ruby>の罪がないだろうか。

理性はそれを問う、良心は弦之丞にそれを責める。

といって？

ここまで永い苦難をともにしてきたお綱を。ああ、お綱をどうしよう？

弦之丞も今はそのお綱を、分りきっている嘆きの底に突き落して顧みぬほど、<ruby><rb>冷</rb><rt>ひや</rt></ruby>やかにはなりきれない。

ましてや、ふたりは義理のある仲である。かれも、それを思いこれを思う時は、凡智の男になって断腸の思いがするのだ。いや、弦之丞でなくとも、誰かよくこの<ruby><rb>数奇</rb><rt>さっき</rt></ruby>に結ばれた運命を公平に裁き得るだろうか。

「ゆるしてくれ」

苦しい、心の遠くで、

「旅だ、果てのない旅だ。わしは未来の<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>に姿を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぼか</span>して行こう。忘れてくれ、お綱も、お千絵も……」

と思いきる。

ふと、かれは唇のふるえを噛んで、あらぬ<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>へ<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>をそむけた。

さっきから、お綱は何ごともいわず、化石したように、じっとうつむいたきりであったが、苦悶の横顔に、ありありと弦之丞の胸を察して、今は、いたたまれないような気持に迫られていた。

と――不意に、お綱は自身から、悲嘆や<ruby><rb>愛執</rb><rt>あいしゅう</rt></ruby>や、すべての情感を切り破って出るように、

「もし！　……」

と叫んで、その人の足もとへ、ふっさりした黒髪を体ぐるみ投げ伏せた。

「弦之丞様！」

両手をついて、紙のような顔色をあげたが、目や鼻へ熱いものが胸もとからこみあげて、激情の<ruby><rb>剃刀</rb><rt>かみそり</rt></ruby>でズタズタに切り裂かれてゆくような神経は、まとまりもなく乱れた脈を全身にうって、

「弦之丞様！　もし弦之丞様！　今のおことば、ご無理ではございませぬが、お可哀そうなお人のために、どうか、江戸表へ帰って上げて下さいまし、わ、わたしも、一緒になってこの通りお願いします……、お、お千絵様をつれて、どうぞ江戸へ……」

と一念になって言ったが、自分でも何を叫んでいるのか分らない<ruby><rb>悩乱</rb><rt>のうらん</rt></ruby>にくるまれていた。

<ruby><rb>榛</rb><rt>はん</rt></ruby>の木の上に、夕月が浮いて出た。

その時。

ガサ、ガサとこっちへ寄ってきた中西与力と捕手の者は、もう約束をすぎて、夕月さえ見る刻限となったので、少し、じれだしながら、<ruby><rb>咳払</rb><rt>せきばら</rt></ruby>いをした。

無情を公明という<ruby><rb>法縄十手</rb><rt>ほうじょうじって</rt></ruby>は、ともすると、折や場合に仮借なく、暗い<ruby><rb>榛</rb><rt>はん</rt></ruby>の木の蔭からここへ飛ぼうとする<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>！

ギクッと胸に釘を打たれながら天満の万吉、前には、お綱の今の言葉に泣くまいとする程男泣きの涙がもろくこぼれるし、うしろのほうへは、人知れずハラハラと気がねをして、

「頼む、頼む、もう少しの間」

と、それも口には出せず、目まぜで哀願しているのであった。

中西弥惣兵衛の考えでは、万一そこにいる者たちが違約をして、お綱を逃がすことがないとも限らぬ――という<ruby><rb>懸念</rb><rt>けねん</rt></ruby>があるので、そっと、麓から捕手の加勢を呼びあげて、十分に手を固め、目も放たずに見張っていた。

万吉は板ばさみの苦境に立った。

固い<ruby><rb>言質</rb><rt>げんち</rt></ruby>をとられている！

自身十手もちの目明しでありながら、十手にびくびくおびやかされなければならない万吉も、弦之丞がもつ苦しみとともに、これまた、人情が生んだ不思議な矛盾だ。

「どうぞ思いなおして、お千絵様のために、江戸へ帰って上げて下さいまし」

と、重ねて手をついて頼むお綱の手を、吾知らず、弦之丞はすくい取っていた。

「お前の心はよく分る！」

というように。

指へ痛くしびれてくるふるえが、お綱の涙をいっぺんに誘いかけた。だが、お綱は、ここでは決して泣き顔を見せまいとして、暴風のような激情と闘っていた。

「わしは幕府へ仕える気がすすまぬのだ。ゆるしてくれ、このわがままを。何と思いなおしても、江戸へ帰る気にはなれない拙者だ。で……それよりは、お前たち<ruby><rb>姉妹</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>こそ」

と弦之丞は、お千絵の顔をジッと見て、

「ゆく末、むつまじく暮らしてくれ」

と力をこめて、ふたりにいった。

「えっ……？」

お千絵は耳を疑った。

姉妹？　誰と？

今、弦之丞はそういったのではないか。と泣きはれた目をみはったが、思い当たったものか、サッと顔の色をさめさせて、その眸を、お綱のほうへ向けかえたのであった。常木鴻山も、今はつつんでいた仔細を話して、お千絵に義理の姉をひきあわせる時機であろうと考えて、唇をうごかしかけたが、

「いいえ！　いいえ！」

と、その間もないような早口で、お綱はすべてをさえぎって、名乗ることも避けて言った。

「弦之丞様、もうなんにも申しますまい。江戸へ帰ってくれともお頼みいたしません。ですけれど、たとえ旅から旅でお暮らしなさるにしても、お千絵様の身だけは永く見てあげて下さいね……ご、後生でございます。お綱があなたに最後のお願いは、たった、それひとつでございます。それさえかなえて下されば、わ、わたしは、自分があなたと暮らす身になったのと同じように、うれしいと思います！　……本望です！　……江戸の女の負け惜しみではございませぬ、心の底から、蔭にいても、おふたりのお幸せを祈っています」

「…………」

「返辞はどうなさいました。おっしゃって下さい、弦之丞様、承知したというひと<ruby><rb>言</rb><rt>こと</rt></ruby>！　それを聞いて、わたしはもう……行かなければならない所があるのです。そこへ、迎えが来ている体でございますから」

「や！　……」とふりかえる弦之丞。

鴻山もお千絵も、いつぞやの人相書を思いあわせて、初めて、救いがたいお綱の危機が、支度をしてのぞんでいる<ruby><rb>態</rb><rt>てい</rt></ruby>に気がついた。

弦之丞は何ともいえぬすくみを、自身におぼえた。そして、棒立ちになっている万吉とともに、暗然とした顔を見あわせてしまったが、やがて、<ruby><rb>衝</rb><rt>つ</rt></ruby>きあげる感情にたまらなくなって、ふたりとも声を洩らさず、背中合せに腕を曲げて、熱涙のたばしる<ruby><rb>瞼</rb><rt>まぶた</rt></ruby>をおさえていた。

――待ちくたびれた様子の捕手は、果てしがないと見てか、急にいらいらとした空気をゆるがせて、

「まだか！」

と、むこうで呶鳴りだした。

エヘン！　と職分、ただそれにだけ忠実な中西<ruby><rb>弥惣兵衛</rb><rt>やそべえ</rt></ruby>は、再三<ruby><rb>咳</rb><rt>せき</rt></ruby>ばらいをして、かれの耳へ冬の風より辛く、<ruby><rb>刻限</rb><rt>こくげん</rt></ruby>の約束をうながした。

「おお……」と万吉。

あれ程な男も、今は、<ruby><rb>目睫</rb><rt>もくしょう</rt></ruby>にせまった当惑と、足もとの<ruby><rb>情涙</rb><rt>じょうるい</rt></ruby>に、意気地もなくうろたえて、手を合して、拝まないばかりに。

「もうしばらく……もうしばらく」

と、一<ruby><rb>時</rb><rt>とき</rt></ruby>きざみに、弥惣兵衛や捕手の影へ向って、はかない猶予を頼むのであった。

その、切なげな万吉の立場は、お綱の心に映っている。

で――覚悟をきめたらしく、ほつれ髪を指で<ruby><rb>梳</rb><rt>す</rt></ruby>いて、

「それでは、皆さま」

と、声を澄ませた。

一<ruby><rb>涙</rb><rt>るい</rt></ruby>の<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>もみせず、泣いていない顔は、ただ白かった。<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>のように、うごかない表情の白さだった。

「とうとう時節がまいりました、おそろしい程間違いなく、旧悪の埋合せを取りに来ました。けれど、見返りお綱の兇状を、いっそ、<ruby><rb>牢舎</rb><rt>ろうや</rt></ruby>で洗われてくることは、先が楽しみのような気がいたします。で……皆さま、そういうわけで、私だけは、ここからひと足お先にお別れ申さなければなりませぬ。……永い間、ずいぶんお世話になりました。さようならば、ご機嫌に……法月弦之丞様、お千絵様、常木様、万吉様」

ひとりひとりへ<ruby><rb>会釈</rb><rt>えしゃく</rt></ruby>をして、<ruby><rb>梳</rb><rt>な</rt></ruby>であげる<ruby><rb>鬢</rb><rt>びん</rt></ruby>の毛に<ruby><rb>肱</rb><rt>ひじ</rt></ruby>を白く、ツイと立ったかと思うと、その痛ましい足どりの影へ――

「ア……お綱さま」と、お千絵が悲しげな声を風にかすらせる。

「おお、お綱、待て」

と、弦之丞も、剣をとる時の彼とは別人のように、みだれた音を重ね呼びに、

「――お綱、お綱」

と無意識に止めたが、それにさえ、耳をおさえて逃げるように、かの女は、疲れきった姿の細い影法師を、ふらふらと、青い月の色へよろめかせて行った。

大地いッぱいに光る草露は、みんな、泣かぬ自分の涙かとも思えて、

「ああ、ぜひがねえ」

今は！　……と天満の万吉。

<ruby><rb>惑</rb><rt>まど</rt></ruby>いがちな私情に<ruby><rb>鞭打</rb><rt>むちう</rt></ruby>って、そのうしろから走りだした。ガッキと口にくわえた銀みがきの十手は、心を鬼にもつうわべの<ruby><rb>牙</rb><rt>きば</rt></ruby>。

飛び寄ったが万吉、うしろから廻した手はいたわるように<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そっ</span>と抱き止めて、

「お綱、御用……」

と、力のない涙の<ruby><rb>捕縄</rb><rt>とりなわ</rt></ruby>。

やわらかに掛けて廻した。

かの女の指は帯のうしろで、自分から捕縄をつかんでいた。そして、かれと自分との<ruby><rb>奇</rb><rt>く</rt></ruby>しき因縁を回顧するように、

「……万吉さん」

と、感慨を目にこめてふりかえった。

すぐに、中西弥惣兵衛は<ruby><rb>組子</rb><rt>くみこ</rt></ruby>をつれてバラバラと駆けてくる。

<ruby><rb>捕渡</rb><rt>とりわた</rt></ruby>しの法則どおり一<ruby><rb>札</rb><rt>さつ</rt></ruby>を渡されたが、万吉には見る気力もなく、縄尻が先方の手に移るとともに、お綱はもうなんら同情もない人相書一枚の女スリとして扱われた。

「歩けッ！」

と、月にひとすじのむごたらしい縄が、黒い影と影とをつないで、万吉も鴻山もお千絵も思わず<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>をそむけさせられた。

ひとり、弦之丞だけは、黙然とそこを去って、あなたの<ruby><rb>榛</rb><rt>はん</rt></ruby>の木のかげへ歩んでいた。

すると、ちょうどその夕暮に、<ruby><rb>麓</rb><rt>ふもと</rt></ruby>の禅定寺の寺男に様子を聞きただしていた女が、ふたりの幼い者の手をひいて、月明りをたよりに、この峠へ息をせいて登ってきた。

「さぞ疲れたろう、くたびれたろうね。お前たちの足では無理な道だったもの。けれど、寺の人の話から推して考えてみても、きっと、この上にいるに違いない。もう少しの道だろうから、辛抱おしよ、ね、我慢をして歩いておくれ」

こういっているのは四国屋のお<ruby><rb>久良</rb><rt>くら</rt></ruby>。

「おばさん、おいらはちっとも足が痛くないよ、こんな道ぐらい何でもないや」

と、それに答えて元気なのは、手をひかれている乙吉だった。

「あたいだって……」

と姉のお三輪も負けない気でいう。

「暗くっても怖くはない。お綱姉さんに会えるんだもの。ねエ、おばさん」

「ほんとに、お綱姉さんはこの上にいるの？」

と、乙吉はその尾について、足を<ruby><rb>弾</rb><rt>はず</rt></ruby>ませながら、連れられてゆくお久良の手をグングンと引っ張って行く。

「<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>わざわざ万吉さんが、禅定寺で落ちあうからと、寮へ知らせてきたことだから、決して、<ruby><rb>嘘</rb><rt>うそ</rt></ruby>じゃないだろう、お綱さんは、きっとお前たちを待っていますよ」

「うれしい！」

「あたいの姉ちゃん！　お綱姉ちゃん！」

ふたりは童心を躍らせた。

月光はむごく冴えつける。

お綱は、あさましい自分の影を大地に見た。

「お前は、なんていう<ruby><rb>数奇</rb><rt>さっき</rt></ruby>な因果を、ひとりであつめた人間だえ？　……」と他人になって、その影を、しみじみといたわり慰めてやりたかった。

そして――

「歩けッ」「いそぐんだ！」

と、口癖にどなる捕手に<ruby><rb>縄尻</rb><rt>なわじり</rt></ruby>を突かれて、峠の坂路を、暗い沼へ<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>ってゆくような気持で、ひと足ずつ、名残おしい人々からも遠ざかってゆくのであった。

が――より以上、切ない、胸苦しいかたまりは、むしろ、無情な成行きを、傍観的に見送っていなければならない、後の人々に残された。

お千絵は泣きはれた目を――鴻山は<ruby><rb>憮然</rb><rt>ぶぜん</rt></ruby>とした腕ぐみを――また万吉は魂を抜かれたような哀別を――みな茫然と下りてゆく影へ送っていた。

それが、見えなくなった後も、<ruby><rb>喪心</rb><rt>そうしん</rt></ruby>した人間のごとく、じっと立ちつくしている。<ruby><rb>夜虹</rb><rt>よにじ</rt></ruby>のような<ruby><rb>天</rb><rt>あま</rt></ruby>の川と秋風のささやきがその上にあった。

突然！　谷底へでも突き落とされたような悲鳴が、ヒイーッと山の<ruby><rb>静寂</rb><rt>せいじゃく</rt></ruby>を破った。それは、ただの恐怖や単純な驚きとは思えぬ、強く胸を衝ってくる<ruby><rb>稚</rb><rt>おさな</rt></ruby>い者の絶叫だった。

「姉ちゃアン！　姉ちゃんを助けてッ……」

と、たった一声。

「あっ……そうだ！」

と万吉は、初めて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どや</span>されたように思いだしたことがあって、

「悪かった！　途中で出っ<ruby><rb>会</rb><rt>くわ</rt></ruby>したか。ウウム、こういうことになるなら、知らせておくんじゃなかったのに」

と、足もとも見ずに、駈け下りて行った。

と、やがて万吉は、お久良と一緒に汗をかいて、泣きわめくお三輪と乙吉を、ひきずるように抱えてきた。

けれど聞き分けのない童心は、どんなになだめすかす言葉もうけ入れないで、あらん限りの声を<ruby><rb>木魂</rb><rt>こだま</rt></ruby>につンざかせて、

「いやだ、おさえちゃいやだッ」

「助けてよう！　姉ちゃんがつれられてゆく」

「お綱姉ちゃアん！　……」

「離してッ、おさえちゃいやだ。おじさん、ばか！　ばか！　ばか！」

と、抱き止めるものの手を夢中で引ッ掻いた。

だがそれも、どこからか、思いがけない<ruby><rb>一節切</rb><rt>ひとよぎり</rt></ruby>の音が流れてくるとともに、たかぶっていた幼い神経をなだめられて、シーンと深い<ruby><rb>静寂</rb><rt>しじま</rt></ruby>に返ってバッタリと泣きやんだ。

<ruby><rb>葛</rb><rt>くず</rt></ruby>、山萩、<ruby><rb>女郎花</rb><rt>おみなえし</rt></ruby>、雑草にまじる青白い<ruby><rb>蕎麦</rb><rt>そば</rt></ruby>の花、盛りあがった土のまわりに、<ruby><rb>離々</rb><rt>りり</rt></ruby>と露をたたえている。その<ruby><rb>土</rb><rt>ど</rt></ruby><span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まんじゅう</span>の上にのせてある一ツの石こそ、前の年、この禅定寺峠で、犠牲的な死をとげた唐草銀五郎の<ruby><rb>空骸</rb><rt>むくろ</rt></ruby>を<ruby><rb>埋</rb><rt>い</rt></ruby>けた跡の目じるし。

弦之丞はそこへ来ていた。

<ruby><rb>瞑目</rb><rt>めいもく</rt></ruby>していた。

心の平調をとり戻すことにかれは苦しんだ。そして、ふと珍しく<ruby><rb>一節切</rb><rt>ひとよぎり</rt></ruby>の竹を手にとって、歌口をしめした。<ruby><rb>嫋々</rb><rt>じょうじょう</rt></ruby>とすさびだされる音は、かれの乱れた<ruby><rb>心腸</rb><rt>しんちょう</rt></ruby>をだんだんにととのえてきた。無我、無想、月の秋。

大津<ruby><rb>時雨堂</rb><rt>しぐれどう</rt></ruby>の夜が思いだされる。銀五郎は自分の望みが達しられた今日、うれしい<ruby><rb>手向</rb><rt>たむけ</rt></ruby>と聞くであろう。かなたの木の蔭でも、万吉やお千絵やお久良や、ほかの者も、みな影を一ツに寄せて聞きとれていた。――そして、なおまだ遠くへは行くまい縄付のお綱も、せめて、淡い満足を感じて月にニッコとしたであろう。よしや、月夜の<ruby><rb>風邪</rb><rt>かぜ</rt></ruby>、また新しい寒さを骨身に<ruby><rb>沁</rb><rt>し</rt></ruby>みてよび起こされても、かの女の好きな<ruby><rb>山千禽</rb><rt>やまちどり</rt></ruby>の曲。

＊　　　　　＊　　　　　＊

<ruby><rb>却説</rb><rt>さて</rt></ruby>。<ruby><rb>江州甲賀</rb><rt>ごうしゅうこうが</rt></ruby>の山奥<ruby><rb>木賊</rb><rt>とくさ</rt></ruby>村庄屋<ruby><rb>家記</rb><rt>かき</rt></ruby>によると、弦之丞は両刀をすて、農となってその地で終っている。子孫があった点や<ruby><rb>隠栖</rb><rt>いんせい</rt></ruby>した土地の縁故を考えても、明るい山村の耕地に、麦を踏み、<ruby><rb>鍬</rb><rt>くわ</rt></ruby>をもって、<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>とともに働いた<ruby><rb>女性</rb><rt>にょしょう</rt></ruby>は、お千絵であったと思われる。

かれが裂いて返した秘帖の一片で、阿波は一城とりつぶしの<ruby><rb>厄</rb><rt>やく</rt></ruby>をまぬがれ、禁門堂上の<ruby><rb>騒擾</rb><rt>そうじょう</rt></ruby>もきわめて軽微にすんだ。が、<ruby><rb>阿波守重喜</rb><rt>あわのかみしげよし</rt></ruby>だけは、当面の人物だけに、すぐ家督を子の<ruby><rb>千松丸</rb><rt>せんまつまる</rt></ruby>にゆずり、親族<ruby><rb>秋元摂津守</rb><rt>あきもとせっつのかみ</rt></ruby>へ預けの身となった。

後に、秋元家から徳島へ帰ったが、幽閉は解かれず、<ruby><rb>籠居</rb><rt>ろうきょ</rt></ruby>およそ四十二年、三十五歳から七十余歳まで例のない<ruby><rb>終身蟄居</rb><rt>しゅうしんちっきょ</rt></ruby>のまま、文化十四年三月、<ruby><rb>謫所</rb><rt>たくしょ</rt></ruby>で生涯をおえている。

一国の大名として<ruby><rb>稀有</rb><rt>けう</rt></ruby>なかれの不幸が、なんとなく、剣山の終身牢を思わせるような生涯だったのは奇であるが、死後二十年の後には、かれの理想どおり、尊王の声が国内にみちていた。

江戸へ差立てになるかと思ったお綱は、京都町奉行所の<ruby><rb>仮牢</rb><rt>かりろう</rt></ruby>を、たった一晩の牢舎でゆるされて出た。

無論、背後に、松平左京之介の<ruby><rb>庇護</rb><rt>ひご</rt></ruby>があった。

鴻山はすぐにお綱の身がらを引取りに出た。けれど、かの女はその夜、両手にお三輪と乙吉を連れて出たまま、どこともなく姿を隠した。お綱のあの性格が、どこまでもそういう運命を作るようにできているのか、ついに、その行方さえ知らずとなん。