## お千絵様

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みぞれ</span>模様の冬空になった。<ruby><rb>明和</rb><rt>めいわ</rt></ruby>二年のその年も十一月の<ruby><rb>中旬</rb><rt>なかば</rt></ruby>を過ぎて。

ここは江戸表――お茶の水の南添いに起伏している<ruby><rb>駿河台</rb><rt>するがだい</rt></ruby>の丘。日ごとに葉をもがれてゆく<ruby><rb>裸木</rb><rt>はだかぎ</rt></ruby>は、女が<ruby><rb>抜毛</rb><rt>ぬけげ</rt></ruby>を<ruby><rb>傷</rb><rt>いた</rt></ruby>むように、寒々と風に泣いている。

<ruby><rb>虱</rb><rt>しらみ</rt></ruby>しぼりの<ruby><rb>半手拭</rb><rt>はんてぬぐい</rt></ruby>を<ruby><rb>月代</rb><rt>さかやき</rt></ruby>に掛けて、<ruby><rb>継</rb><rt>つぎ</rt></ruby>の当った<ruby><rb>千種</rb><rt>ちぐさ</rt></ruby>の<ruby><rb>股引</rb><rt>ももひき</rt></ruby>を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>き、背中へ鉄砲<ruby><rb>笊</rb><rt>ざる</rt></ruby>をかついだ男が、

「<ruby><rb>屑</rb><rt>くず</rt></ruby>ウーイ。屑ウーイ」

<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れない声で、鈴木町の裏を流していた。

「エエ寒い。こいつが関東の<ruby><rb>空</rb><rt>から</rt></ruby>ッ風か……」

と、胴ぶるいをした屑屋の肩へ、パラパラと落葉の雨が舞いかかった。

「寒いのはとにかくだが、さっぱり呼んでくれねえのは心細い。せめてこの近所に<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじみ</rt></ruby>ができれば、ちッたあ様子も聞かれるだろうと思うが……なにしろすること、なすことはずれてきやがる。考えてみると俺は三十六、今年は<ruby><rb>大厄</rb><rt>たいやく</rt></ruby>だったんだなア」

愚痴をこぼしてフラフラと一、二町、うつむいたまま歩いて来ると、頭の上の窓口から、

「屑屋さん」

と、女の声で呼び込まれた。

呼ばれたので急に思い出したように、

「屑ウーイ」と、商売声を出したから、呼んだ女もおかしくなれば、屑屋も自分ながら<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">てれ</span>臭そうにあおむいた。

「屑屋でございますが……」と、もう一度、窓に見える女の顔へ頭を下げると、

「あッちへ廻って下さいな」

「へ、お勝手口へ？」

「そこに<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>り戸があるだろう」

「ございます、ございます」ガラリと開けた<ruby><rb>水口</rb><rt>みずぐち</rt></ruby>の戸も開けっ放しに、鉄砲<ruby><rb>笊</rb><rt>ざる</rt></ruby>と一緒に入り込んだ。

「たいそうお寒うございますな」

「縁側のほうへお廻りよ、少しばかり<ruby><rb>古反古</rb><rt>ふるほご</rt></ruby>を払いますから」

打ち見たところ、五人<ruby><rb>扶持</rb><rt>ぶち</rt></ruby>ぐらいな<ruby><rb>御小人</rb><rt>おこびと</rt></ruby>の住居でもあろうか。勝手つづきの庭も<ruby><rb>手狭</rb><rt>てぜま</rt></ruby>で、気のよさそうな木綿着の<ruby><rb>御新造</rb><rt>ごしんぞ</rt></ruby>が<ruby><rb>払</rb><rt>はら</rt></ruby>い<ruby><rb>物</rb><rt>もの</rt></ruby>を出してきた。

煙草の火を借りて話し込んだ屑屋、さっきからこの<ruby><rb>界隈</rb><rt>かいわい</rt></ruby>の<ruby><rb>噂</rb><rt>うわさ</rt></ruby>ばなしをしきりに聞きたがって、

「時に御新造様……、この駿河台にある甲賀組というのは、たしか、この前の囲いの中にある、真っ黒なお屋敷のことじゃございませんでしたか」

「そうだよ、<ruby><rb>墨屋敷</rb><rt>すみやしき</rt></ruby>といってね、二十七家の<ruby><rb>隠密役</rb><rt>おんみつやく</rt></ruby>の<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>ばかりが、この<ruby><rb>一</rb><rt>ひと</rt></ruby>つ<ruby><rb>所</rb><rt>ところ</rt></ruby>にお住まいになっている」

「二十七軒もありますか。フーム、ずいぶん広いものでございますなア」とわざとらしく感心して、ちょっと相手の<ruby><rb>容子</rb><rt>ようす</rt></ruby>をみたが、その<ruby><rb>眸</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>の底に鋭い光が<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそ</rt></ruby>んでいた。

「申しちゃ失礼でございますが、隠密役なんていう方は、<ruby><rb>平常</rb><rt>ふだん</rt></ruby>は何の御用もねえでしょうに、これだけの<ruby><rb>家筋</rb><rt>いえすじ</rt></ruby>をそれぞれ立てておく将軍様の世帯も、大きなもんじゃありませんか」

「だからだんだんとその家筋を、お<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>でも<ruby><rb>減</rb><rt>へ</rt></ruby>らすようにしているという話だね」

「そうでしょう。権現様の時代には、<ruby><rb>戦</rb><rt>いくさ</rt></ruby>もあれば敵も多い、そこで自然と甲賀組だの伊賀者だのも、大勢お召し抱えになる必要がありましたろうが、今じゃ天下泰平だ。なんとか口実をつけて減らす算段もするでしょうさ」

「現にツイ先頃も、また一軒のお古い屋敷が<ruby><rb>絶家</rb><rt>ぜっけ</rt></ruby>になって<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>れたという話だよ」

「そうそう、それは<ruby><rb>甲賀世阿弥</rb><rt>こうがよあみ</rt></ruby>様という、二十七軒の中でも、<ruby><rb>宗家</rb><rt>そうけ</rt></ruby>といわれた家筋でございましょう」

「オヤ、お前よく知っておいでじゃないか」

「実は、御新造様……」と屑屋はあたりへ気配りして、にわかに声を低くした。

「わっしの不馴れな様子でもお分りでしょうが、まったくは、これは本業じゃございませんので」

「えっ……」と<ruby><rb>内儀</rb><rt>ないぎ</rt></ruby>は少し<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>ずさって、「まあ、気味の悪い屑屋さんだ。毎日この辺ばかり歩いているし、それに<ruby><rb>稼業</rb><rt>かぎょう</rt></ruby>馴れないふうだから、可哀そうに思って呼んでやったのに……、じゃ、屑屋は<ruby><rb>世間態</rb><rt>せけんてい</rt></ruby>だけなのね」

「もし、御新造様。そうお驚きなすッちゃ困ります」

「困るのは私のほう、そんな<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>をかぶって世渡りするような者なら、迷惑ですから、サッサと帰って下さいまし」

「決して、<ruby><rb>盗</rb><rt>ぬす</rt></ruby>ッ<ruby><rb>人</rb><rt>と</rt></ruby>や<ruby><rb>騙</rb><rt>かた</rt></ruby>りじゃございませぬ。どうかご安心なすって、その甲賀家のことについてご存じだけ、お聞かせなすって下さいませんか」

「いいえ、<ruby><rb>素姓</rb><rt>すじょう</rt></ruby>の知れない者などと、めったな話はできません」

「じゃ、その身柄を正直に明かします。もし……御新造様、わっしはこれが本業なのでございます」と、<ruby><rb>内懐</rb><rt>うちぶところ</rt></ruby>から抜いた紺房の十手を、そッと内儀の前に出して、<ruby><rb>虱</rb><rt>しらみ</rt></ruby>しぼりの手拭をとった。

「まあ」と、内儀は十手を見て、いっそう気味悪そうな<ruby><rb>面持</rb><rt>おももち</rt></ruby>をした。とんだ屑屋を呼び入れてしまったと、今になって後悔する色がありありとみえる。

「ですが、決してこちらさまへ、ご迷惑をおかけ申しは致しません」と、<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby>からはずした手拭を折り畳んで、縁先へ腰を入れた男は、目明し<ruby><rb>万吉</rb><rt>まんきち</rt></ruby>、彼であった。

「深い事情は申されませんが、わっしは大阪東奉行所の手先です。といっても<ruby><rb>内々</rb><rt>ないない</rt></ruby>は、少し道楽半分な<ruby><rb>目的</rb><rt>めあて</rt></ruby>に<ruby><rb>憂</rb><rt>う</rt></ruby>き<ruby><rb>身</rb><rt>み</rt></ruby>をやつしておるので……」出された茶を<ruby><rb>啜</rb><rt>すす</rt></ruby>って、素姓を明かした目明し万吉。後は程のいいこしらえごとを口実に、近頃、絶家になってしまったという甲賀家の消息を根掘り葉掘り<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>きはじめた。

<ruby><rb>禅定寺</rb><rt>ぜんじょうじ</rt></ruby>峠の上から、<ruby><rb>弦之丞</rb><rt>げんのじょう</rt></ruby>と西東に立ち別れ、一足先に江戸へ入った万吉は、まだ何かの都合で、お<ruby><rb>千絵</rb><rt>ちえ</rt></ruby>様にも会ってはいないらしかった。

という次第は。

彼が江戸へ入ると真っ先に、この<ruby><rb>駿河台</rb><rt>するがだい</rt></ruby>の<ruby><rb>墨</rb><rt>すみ</rt></ruby>屋敷、甲賀家の門を訪れたのは無論だったが、ひょいと見ると門札の名が変っている。その門札には、甲賀<ruby><rb>世阿弥</rb><rt>よあみ</rt></ruby>の代りに「<ruby><rb>旅川周馬</rb><rt>たびかわしゅうま</rt></ruby>」という文字が書かれてあった。

しまッた！　遂に間に合わなかったのである。つまり第一に阿波へ立った銀五郎がああいうはめとなり、何の便りもなく半年以上の日が過ぎたため、隠密組の法規通り、満十年帰らぬ甲賀世阿弥は、<ruby><rb>客死</rb><rt>きゃくし</rt></ruby>したものとお<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>に見なされ、そのお家は断絶の命が下されてしまったのだ。

ああ、何もかも<ruby><rb>鶍</rb><rt>いすか</rt></ruby>の<ruby><rb>喙</rb><rt>はし</rt></ruby>――と<ruby><rb>落胆</rb><rt>がっかり</rt></ruby>したが、とにかく、その<ruby><rb>代</rb><rt>だい</rt></ruby>がわりになっている旅川周馬という者に会い、絶家したお千絵様が、どこに身を落ちつけたか、それを尋ねてみるにしかずと門をくぐった。

ところが、玄関はピッタリ釘付け、庭口も<ruby><rb>錠</rb><rt>じょう</rt></ruby>を下ろしてある様子。呼べど出てくる人はなく、昼だというのにすべての雨戸も閉じきってある。

黒い<ruby><rb>板塀</rb><rt>いたべい</rt></ruby>の<ruby><rb>周</rb><rt>まわ</rt></ruby>りを巡ってみると、十年も<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>がいなかった甲賀<ruby><rb>宗家</rb><rt>そうけ</rt></ruby>。この附近の墨屋敷の中では、最も宏壮な構えだが、広いだけに荒れ方も甚だしく、雑草<ruby><rb>離々</rb><rt>りり</rt></ruby>として<ruby><rb>古社</rb><rt>ふるやしろ</rt></ruby>ででもあるような<ruby><rb>相</rb><rt>すがた</rt></ruby>だ。

と――<ruby><rb>瓦腰</rb><rt>かわらごし</rt></ruby>の<ruby><rb>隅</rb><rt>すみ</rt></ruby>座敷、そこの窓だけが細目に一ヵ所<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いていた。万吉がふと目をつけて、塀の穴から<ruby><rb>差</rb><rt>さ</rt></ruby>し覗いてみると、やッぱり人の気配はない。シーンとして<ruby><rb>狐狸</rb><rt>こり</rt></ruby>の<ruby><rb>棲家</rb><rt>すみか</rt></ruby>かと思われるくらい。

だが――ここに必ず誰か<ruby><rb>棲</rb><rt>す</rt></ruby>んでいることを、その時、万吉に教えてくれたものがあった。何かといえば、その部屋の<ruby><rb>腰壁</rb><rt>こしかべ</rt></ruby>と垣の間に落ちていた丸い<ruby><rb>紙屑</rb><rt>かみくず</rt></ruby>だ――雨に打たれた様子もなく、フワリと草の上に浮いているのは、捨てたばかりの<ruby><rb>手拭紙</rb><rt>てふきがみ</rt></ruby>に相違ない。

いつか<ruby><rb>俵</rb><rt>たわら</rt></ruby>一八郎に、今度のことは目的が大きい、必ずケチな目明し根性を出すなよ、といわれてもいたが、こんな物が目に触れると<ruby><rb>検索心</rb><rt>けんさくしん</rt></ruby>がムラムラする。万吉はそこらの棒切れを拾って、塀の穴から腕を伸ばし、その紙屑の玉をかきよせて手に取った。

<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>いでみると、プーンと<ruby><rb>伽羅油</rb><rt>きゃらゆ</rt></ruby>のにおいがする。そして<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>をのばした紙の中から<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もつれ</span>た髪の毛が四、五本出た。その一本を指に伸ばして見て、彼は女の毛だということを知った。

「してみるとこの屋敷は、お千絵様が立ち<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>いた後へ、旅川周馬とかいう奴や、女も住んでいるらしい。とすると、おかしいなあ……なんだって、こう草<ruby><rb>茫々</rb><rt>ぼうぼう</rt></ruby>としたまま方々釘付けにしてあるんだろう？」

耳をつねって考えても、どうもはっきりした見当がつかないふう。

で、今度はこの一<ruby><rb>廓</rb><rt>かく</rt></ruby>の、ほかの墨屋敷を訪れて尋ね廻った。ところが、誰の答えも一致して、

「アア、お千絵様でございますか。お気の毒でございますねえ。ですけれど、手前方では、あのお方のことについて、何の存じ寄りもございません」と、ことに話を避けるのみか、姿を見たこともないという家ばかりだ。

毎日、同じ姿で聞き歩くのも変なので、<ruby><rb>俄屑屋</rb><rt>にわかくずや</rt></ruby>を思いついた。これなら<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どこ</span>の横丁へでも自由に入れる。日に一度ずつ墨屋敷の近所を歩き廻ったところで怪しまれる気づかいはない。

そうしてようよう今日呼びこまれた家の内儀が、どうやら甲賀家や墨屋敷の事情に詳しい口ぶりなので、万吉は、わざと<ruby><rb>生地</rb><rt>きじ</rt></ruby>をはいでみせて、この手がかりを<ruby><rb>遁</rb><rt>のが</rt></ruby>すまいとしたのである。

万吉が上手に<ruby><rb>口裏</rb><rt>くちうら</rt></ruby>を探ってみると、そこの<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>は元甲賀組とも多少<ruby><rb>由縁</rb><rt>ゆかり</rt></ruby>のあった者らしく、初めは気をすくませていた内儀も、だんだん<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>を<ruby><rb>緩</rb><rt>ゆる</rt></ruby>めてしゃべりだした。

「では何でございますか、そのお千絵様の<ruby><rb>居所</rb><rt>いどころ</rt></ruby>さえ、お分りになればよろしいので」

「ええ、それさえ知れれば、こんな寒空に<ruby><rb>鉄砲笊</rb><rt>てっぽうざる</rt></ruby>を<ruby><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby>いで、毎日歩き廻ることもねえんです。で御新造様、一体お千絵様は、どこへ立ち退いてしまったものでしょうね？」

「さあ、そこには深い事情があるようでして……」

「な、なるほど。わっしもちっとばかり小耳に挟んでおりましたが、同じ甲賀組の中の者で、あのお方の<ruby><rb>縹緻</rb><rt>きりょう</rt></ruby>と、<ruby><rb>世阿弥</rb><rt>よあみ</rt></ruby>の残した財宝に目をつけて、つきまとっている奴もあるそうですな」

「それなんですよ。あのお千絵様のお苦しみはね」

「して、そいつの名は？」

「旅川周馬というお人……。ア、うっかりよそで、私がしゃべったなどというて下さいますなえ」

「ええ、おっしゃるまでもございません」

「その周馬が、あの滅亡したお屋敷を、お<ruby><rb>代地</rb><rt>かえち</rt></ruby>としてお<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>からいただいたのをよいことにして、世間へはお千絵様が他へ立ち退いたように言いふらし、その実、門も戸も釘付けにしたまま、あの屋敷の奥に押しこめてあるのでございます。ええ、それは組仲間の者でもうすうす知っている人もあるでしょうが、なにしろ悪智にたけた周馬に<ruby><rb>仇</rb><rt>あだ</rt></ruby>をされるのが恐ろしさに、誰も、知らぬ顔をよそおっているのでございます」

「へえ？　じゃお千絵様は、やっぱりあの屋敷にいるんですか。ナーンだ、それじゃいくら<ruby><rb>屑籠</rb><rt>くずかご</rt></ruby>を<ruby><rb>背負</rb><rt>しょ</rt></ruby>って、世間を<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ぎ歩いても知れねえ訳だ。……イヤ、大きにどうもありがとう存じました、それだけ教えていただけば、後は商売商売というやつで、どんなことをしてもきっとお目にかかります」

と万吉は礼をいって、また<ruby><rb>虱</rb><rt>しらみ</rt></ruby>しぼりの手拭を頭にのせ、鉄砲<ruby><rb>笊</rb><rt>ざる</rt></ruby>を背中へ廻して往来へ出た。

やがてその姿は、出た所から遠くない墨屋敷の<ruby><rb>堤囲</rb><rt>どてがこ</rt></ruby>いへ入り、甲賀家の古い黒塀に沿って、ピタ、ピタと<ruby><rb>藁草履</rb><rt>わらぞうり</rt></ruby>の音をすりながら、

「屑ウーイ。屑ウーイ」

張りしまっている心とは反対に、わざと間の抜けた<ruby><rb>濁</rb><rt>だ</rt></ruby>み声を流していった。

と――万吉は立ち止まって、ズウと後ろを見廻した。あっちこっちに黒い屋敷の塀や樹木が見えるのみで、この囲い内は人通りのない所だ。

万吉が立ち止まった所は、いつか初めてここを訪れた時、細目にあいている小窓を見たあの辺である。そこへ立つと目明し万吉、<ruby><rb>耳朶</rb><rt>みみたぶ</rt></ruby>をつねってちょっと何か考えこむ。

そして塀の節穴へ目を当てた。<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いてみると屋敷の中、相変らず<ruby><rb>森閑</rb><rt>しんかん</rt></ruby>とはしているが、今日もあの窓の戸が四、五寸ほど<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いている。

「ははあ、やッぱりここだな。ここより外に人臭い様子がねえ。いつか草の中に、髪の毛のついた<ruby><rb>手拭紙</rb><rt>てふきがみ</rt></ruby>が捨ててあったのもこの辺だ。ほかに女気もないという話、きっと座敷牢とでもいう按配になっているのかも知れねえ、一つ当ってみようか……」

何の<ruby><rb>造作</rb><rt>ぞうさ</rt></ruby>もなく、万吉は<ruby><rb>塀</rb><rt>へい</rt></ruby>の朽ちた穴を探して犬のように這い込んだ。どうせ犬の<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>をしたついでだ、と思ったのでもなかろうが、そのまま膝で歩き寄って、<ruby><rb>隅</rb><rt>すみ</rt></ruby>座敷の窓の下へ<ruby><rb>屈</rb><rt>かが</rt></ruby>み込む。

そして、ややしばらく、じっと耳を澄ましていたが、時折黄色い<ruby><rb>銀杏</rb><rt>いちょう</rt></ruby>の葉が、<ruby><rb>廂</rb><rt>ひさし</rt></ruby>を打ってハラハラと落ちてくるほか、物音らしい音はない。

はてな、やっぱり誰もいないのかしら？　……と思っていると、家の中でごく<ruby><rb>密</rb><rt>ひそ</rt></ruby>やかに袋戸棚でも<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>けたような<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>り<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>がした。そして柔らかい<ruby><rb>絹</rb><rt>きぬ</rt></ruby>ずれが窓の近くへ寄ってきた。

窓を開けて、お千絵様が顔でも出してくれるような都合になれば、まことにありがたい偶然だが、なかなかそう願って<ruby><rb>叶</rb><rt>かな</rt></ruby>う訳には行かない。

で、万吉。遂に<ruby><rb>痺</rb><rt>しび</rt></ruby>れがきれてしまったので、試みに羽目板をコツンコツンと指の<ruby><rb>尖</rb><rt>さき</rt></ruby>で叩いてみた。だがやはり、いつまでたっても、中からあけて覗く気配がなかった。

しかしそれにあせって、もし人違いな旅川<ruby><rb>周馬</rb><rt>しゅうま</rt></ruby>とでも、面と向ってしまった際には、それこそだいぶこと面倒になるだろう。としばらく我慢してみたが、どうもこっちから当りをつけるより仕方がなくなって、万吉は、いざといえば、半分逃げ支度の気構えを取って、

「お千絵様……」と、聞き取れぬほど低い声をかけてみた。窓は屋敷作りなので背が届かぬほど高目にあった。

「お千絵さま」

二度目に呼ぶと、

「誰……？」

すぐ低い<ruby><rb>答</rb><rt>いら</rt></ruby>えが洩れてきた。しかもきわめて優しい女の<ruby><rb>返辞</rb><rt>へんじ</rt></ruby>！　万吉はドキンと胸を躍らすと一緒に思わず「ありがてえ」と心の奥で<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いたことである。

「そうおっしゃるのは、お千絵様でございましょうか」

姿は隠して、眼だけを白く<ruby><rb>上</rb><rt>うわ</rt></ruby>ずらせながら、も一度こう呼んでみると、今度はしばらく何の<ruby><rb>答</rb><rt>いら</rt></ruby>えもなかったが、やがてよほど<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>をおいてから、

「誰……？」

かすかな女の声が前と同じに繰り返された。

「その私は、お目にかかった上でなければ申されませぬが」

万吉はソロソロ身を伸ばして、

「あなたは、甲賀<ruby><rb>世阿弥</rb><rt>よあみ</rt></ruby>様の御息女、あの、お千絵様でございましょうな」

くどいようだが、なお念を押すと、

「エエ」

とはばかるようなうなずきが、万吉の耳へやっと届いてきた。その声を聞くと、一<ruby><rb>遍</rb><rt>ぺん</rt></ruby>に重荷が下りた心地がして、彼は、初めてのびのびと腰を立てて、雨戸の<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>が四、五寸ほど障子になっている高窓の口を見上げたが、背が足らないので隙見をすることができない。

だが、まアこれで安心というもの。やはりここがお千絵様の部屋だったものと見える。

とかく、目明しなどという者は、八ツ当りに当った時と慢心の味に<ruby><rb>狎</rb><rt>な</rt></ruby>れて、いつでも物の裏を観よう、裏を行こうとする<ruby><rb>癖</rb><rt>くせ</rt></ruby>があるから、正直に、<ruby><rb>表</rb><rt>おもて</rt></ruby>が表で来たり、白が白で目の前に存在していたりすると、かえって己れの<ruby><rb>小智慧</rb><rt>こぢえ</rt></ruby>にからかわれて、<ruby><rb>神楽</rb><rt>かぐら</rt></ruby>堂の外で神楽舞をやっているような、お話にならない骨折損をやるものだ――ということを、この時万吉、<ruby><rb>悟</rb><rt>さと</rt></ruby>ったかどうだか。

「では、お千絵様でいらっしゃいますな。さようなら申しあげますが……」と<ruby><rb>閉</rb><rt>し</rt></ruby>まっている窓の下から頭を下げて、

「実はわっしは、大阪表からまいりましたもので、はい、是非折り入って内密にお目にかかりたいと存じますが」こういって、彼はまた向うの声を待っていた。しかし、こっちでさんざん疑心を抱いたように、先でも多少の警戒をもつとみえて、待てど容易に返辞がない。

で万吉は、その疑惑を先に解いて貰うために、

「決して、お案じなさる者じゃございません。あなた様のよくご承知な、<ruby><rb>法月弦之丞</rb><rt>のりづきげんのじょう</rt></ruby>様からの使いで、大事な用をおびてまいった者でございますから」

「えっ……」と驚く声。

「はい」

<ruby><rb>応</rb><rt>こた</rt></ruby>えがあったと万吉は<ruby><rb>固唾</rb><rt>かたず</rt></ruby>をのむ。

「法月さんから？」

「ご存じでございましょうが」と、その図に乗って、何の気もなく<ruby><rb>爪先立</rb><rt>つまさきだ</rt></ruby>ちになり、上の<ruby><rb>窓框</rb><rt>まどわく</rt></ruby>へ手をかけると、不意に！　窓の隙からその手をグイとつかみ取りに引き込まれて、<ruby><rb>格子</rb><rt>こうし</rt></ruby>へ<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>みつけるように、強く<ruby><rb>捻</rb><rt>ね</rt></ruby>じつけられてしまった。

「あッ」

と彼は羽目板へ足を踏んがけたが、もがけばもがくほど窓の角に手が<ruby><rb>縊</rb><rt>くび</rt></ruby>れてしまうばかりだ。

ちぇッ、不覚！　優しい女の声であったばかりに、油断しぬいていたのは俺にも似げなかったと、万吉は歯を食いしばって振りほどこうと試みたが、<ruby><rb>窓縁</rb><rt>まどぶち</rt></ruby>を力に両手で<ruby><rb>抑</rb><rt>おさ</rt></ruby>えつけている家の中の者と、<ruby><rb>爪尖</rb><rt>つまさき</rt></ruby>立ちをして<ruby><rb>締木</rb><rt>しめぎ</rt></ruby>にかけられている下の者とは、地の利において大変な相違がある。

こういう結果になってみると、やはり世の中には<ruby><rb>二一天作</rb><rt>にいちてんさく</rt></ruby>の五ばかりには行かず、<ruby><rb>二四</rb><rt>にし</rt></ruby>が九であったり、<ruby><rb>三五十九</rb><rt>さんごじゅうく</rt></ruby>である場合も常に心得ておかなければならないかも知れぬ。

そんなことは<ruby><rb>釈迦</rb><rt>しゃか</rt></ruby>が<ruby><rb>経文</rb><rt>きょうもん</rt></ruby>をそらんじているより、百も千も<ruby><rb>合点</rb><rt>がてん</rt></ruby>している万吉にしてこの失策は<ruby><rb>遺憾至極</rb><rt>いかんしごく</rt></ruby>といわねばならぬ。彼は、懸命に力をしぼってもがき<ruby><rb>遁</rb><rt>のが</rt></ruby>れようとじれながらも、<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>はそも何者であろうかと、必死に考えずにおられなかった。

噂に聞いていた旅川周馬か？　イヤそれにしてはたしかにさっきの<ruby><rb>答</rb><rt>いら</rt></ruby>えが女の<ruby><rb>音声</rb><rt>おんじょう</rt></ruby>であった。声ばかりでなく、ひしとつかまれている手の触感でも、それはあきらかに柔らかく<ruby><rb>温</rb><rt>ぬく</rt></ruby>い女の手だと知れる、だが女にしてはなんと<ruby><rb>粘</rb><rt>ねば</rt></ruby>り強い指の力だ。

「ちッ、畜生ッ……」と目明し万吉、腕が抜けるか離すかとばかり、再度の<ruby><rb>強引</rb><rt>ごういん</rt></ruby>を試みると、家の中の女は憎いほど落ちつきすまして、

「あぶないよ」

と静かにいったものである。

「――騒ぐのはおよしなさい。わたしの側には手頃な<ruby><rb>小刀</rb><rt>こづか</rt></ruby>がありますからね、じたばたすると<ruby><rb>掌</rb><rt>てのひら</rt></ruby>を窓板へ、<ruby><rb>鰻</rb><rt>うなぎ</rt></ruby>の首を<ruby><rb>刺</rb><rt>と</rt></ruby>めるように、プツンと縫ってしまいますよ……」

小刀で掌を刺し止められては堪らない。万吉はひやりとして、その女の手を<ruby><rb>羅生門</rb><rt>らしょうもん</rt></ruby>の鬼かとも強く感じた。

だが、それが旅川周馬でなく、お千絵様でもないとすれば、一体誰と判じていいか。この甲賀<ruby><rb>世阿弥</rb><rt>よあみ</rt></ruby>の廃家になった跡には、周馬が入れ代り、周馬はお千絵様をとりこにして、<ruby><rb>密</rb><rt>ひそ</rt></ruby>かに監禁しているのだと、あの内儀がまことしやかに話したではないか。

するとあの女の話はうそだったかしら。いやいや、万吉の眼では、そんな<ruby><rb>虚言</rb><rt>きょげん</rt></ruby>を吐く人間とは思われなかった。

彼は頭の<ruby><rb>昏迷</rb><rt>こんめい</rt></ruby>と無駄力に疲れてしまった。

「静かにおしよ、騒ぐとかえってお前のほうの<ruby><rb>不為</rb><rt>ふため</rt></ruby>だからね」

家の中でそういう声の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>に笑いが含んでいた。万吉はいまいましさに唇を噛みしめたが、所詮ムダだと知ったので、もういたずらに逆らわなかった。

「なにも、こんなにいじめることはないのだけど、逃げようとするからこっちも捕まえる気になるというもの……。実は少しお前さんに、訊きたいことがあるのだけれど、この屋敷では都合が悪いから、改めて私の<ruby><rb>宅</rb><rt>うち</rt></ruby>まで来てくれないかえ」

万吉はオヤッと思った。

こう落ちついて聞くと、女の語調にどこか聞き覚えがあるばかりでなく、いう注文がいよいよ<ruby><rb>出</rb><rt>いで</rt></ruby>ていよいよ不思議に聞かれたのである。

「じゃ、お<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>は、この屋敷の者じゃねえんだね」

「誰がこんな、<ruby><rb>草茫々</rb><rt>くさぼうぼう</rt></ruby>とした<ruby><rb>化</rb><rt>ば</rt></ruby>け物屋敷に住んでいるものかね。万吉さん」

「えっ……？」

「ぜひ、頼みますから私の宅へ来て下さいな。そっちは<ruby><rb>捕縄</rb><rt>とりなわ</rt></ruby>を持つ<ruby><rb>渡世</rb><rt>とせい</rt></ruby>、私は裏の闇に棲む人間だけれど、思案に余っていることがあるんだから、渡世を捨てて会ってくれる訳には行きませんか。そういうこの私の家は本郷<ruby><rb>妻恋</rb><rt>つまごい</rt></ruby>一丁目――」

「あっ、お綱⁉」

「――分ったでしょう」

不意に手を離されたのと、意外なおどろきにうたれたのとで、万吉はヨロリと後ろへ足を踏み乱しながら、窓の細目へ<ruby><rb>瞠目</rb><rt>どうもく</rt></ruby>した。と、白い手が<ruby><rb>嫋</rb><rt>なよ</rt></ruby>やかに動いて、雨戸の障子を二尺ばかり押し<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>けた。

急に流れこむ外の光線をうけてまぶしげな微笑を含んでいる女の半身――見ると<ruby><rb>蔵前風</rb><rt>くらまえふう</rt></ruby>な<ruby><rb>丸髷</rb><rt>まるまげ</rt></ruby>くずしに<ruby><rb>被布</rb><rt>ひふ</rt></ruby>を着て、琴か茶か<ruby><rb>挿花</rb><rt>はな</rt></ruby>の師匠でもありそうな<ruby><rb>身装</rb><rt>みなり</rt></ruby>、姿はまるで変っているが、それは見返りお綱に違いなかった。

万吉はただ<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れ顔である。

家違いでもしたのではないかと見廻したが、やはりここは元の甲賀家、今では旅川周馬の門標が打ってあるその屋敷には相違ないのである。そこに見返りお綱がいる！　あの<ruby><rb>妖艶</rb><rt>ようえん</rt></ruby>なお嬢様姿や、<ruby><rb>粋</rb><rt>いき</rt></ruby>な引っかけ帯とは、また打って変った被布姿でいるのが、いよいよ不思議にたえぬのであった。

お綱は片えくぼに万吉の<ruby><rb>気振</rb><rt>けぶ</rt></ruby>りを見ながら、

「とんだ人の<ruby><rb>声色</rb><rt>こわいろ</rt></ruby>を使って、定めし<ruby><rb>胆</rb><rt>きも</rt></ruby>を<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>したでしょうね」

「さすがの俺もびっくりしたよ。おまけに人の腕首をねじつけて、ひでえ<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>をするじゃねえか」

「堪忍しておくんなさい。半分は私のいたずら、半分はお前さんを逃がすまいと思ってね……」

「だが、どうしてこんな所にいたのだ」

「貸したお金の<ruby><rb>催促</rb><rt>さいそく</rt></ruby>に来ておりますのさ。ところがこの通りな<ruby><rb>荒屋敷</rb><rt>あれやしき</rt></ruby>、いつ来てみても釘付けなので、<ruby><rb>業腹</rb><rt>ごうはら</rt></ruby>だから今日は向うをコジ開けて、この部屋へ上がり込んで周馬の戻りを待っていたところが、たいそう<ruby><rb>草双紙</rb><rt>くさぞうし</rt></ruby>が積んであるから、<ruby><rb>肘枕</rb><rt>ひじまくら</rt></ruby>をして読んでいると、窓の外からお前さんの見当違い……まったく妙な所で会いましたねえ」

「じゃ、ここの旅川周馬という者とお前とは、ずっと以前から<ruby><rb>懇意</rb><rt>こんい</rt></ruby>なのか」

「いいえ、時々<ruby><rb>賭場</rb><rt>どば</rt></ruby>で落ちあうので、懇意というのでもないけれど、二、三百両ほどの立て替えがあるんですよ……あ、こんな話は目明しさんには禁句だっけ、ご免なさいよ、ホ、ホ、ホ、ホ」

「なに、目明しは目明しでも、この万吉はほかに大きな望みを<ruby><rb>賭</rb><rt>か</rt></ruby>けている体だ。ケチな十手をピカつかせることはしねえつもりだから、お<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>の者とひがまねえで、何なりと明けすけに話してくれ」

「じゃ、女<ruby><rb>掏摸</rb><rt>すり</rt></ruby>でも<ruby><rb>捕</rb><rt>つか</rt></ruby>まえませんか」

「さア、そいつは、どうともいえねえが、見返りお綱という人には、住吉村で助けられた恩義がある。そいつを忘れちゃすまねえからな……」

「恩も<ruby><rb>糸瓜</rb><rt>へちま</rt></ruby>もありませんが、どうか、さっきもいった通り、一度妻恋の私の家へ来て下さいな」

「そして何だか相談があるといったが」

「エエ、法月さんのその後の様子を、よくご存じのようですから、それやこれやも聞きたいし……また私の思い余っていることも……」

<ruby><rb>口</rb><rt>くち</rt></ruby>ごもって、お綱は、フイと心に何ものかをえがく様子である――<ruby><rb>打出</rb><rt>うちで</rt></ruby>ヶ浜の<ruby><rb>夜寒</rb><rt>よさむ</rt></ruby>から、月夜の<ruby><rb>風邪</rb><rt>かぜ</rt></ruby>はいっそう根深いものとなったらしい。

## 旅川周馬

「ではお千絵様、エエ違った！　お綱さん。どういう話か知らないが、お前のほうの相談はいずれ場所を改めて、ゆっくり聞くとしようじゃないか」

「そう、では妻恋の私の家へ」

「日を改めて訪ねましょう」

「必ずね。固く約束しましたよ」

「万吉、義理は固いつもりです」

「ああ、それは私も見込んでいる……<ruby><rb>掏摸</rb><rt>すり</rt></ruby>と目明し、オランダ<ruby><rb>骨牌</rb><rt>カルタ</rt></ruby>で結べましたね」

「一つ仲好くやりましょうぜ」

「え、待っていますよ」と、お綱は<ruby><rb>蠱惑</rb><rt>こわく</rt></ruby>にニッコリ笑って、すうと障子を<ruby><rb>閉</rb><rt>し</rt></ruby>めかけた。

驚いたのは目明し万吉。尋ねてきた者は尋ね当てないで、尋ねもしないお綱から口約束を取られた上に、窓を閉められてしまっては、<ruby><rb>虻蜂</rb><rt>あぶはち</rt></ruby>とらずな訳である。

「オット！」と、あわてて背伸びをした。

「こう、お綱さん、自分の用だけはすんだからといって、俺の頼みをきいてくれねえのは<ruby><rb>酷過</rb><rt>ひどす</rt></ruby>ぎるだろう」

「オヤ、何か私にも頼みがあるの？」

「あるからこそ、かりそめにも、目明したる者の万吉が、チボのお<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>と手を握ろうというんじゃねえか」

「ほんに、これはわたしが現金過ぎたね。なるほど誰かがいったっけ……。<ruby><rb>恋飛脚</rb><rt>こいびきゃく</rt></ruby>の<ruby><rb>梅川</rb><rt>うめがわ</rt></ruby>にしろ、<ruby><rb>河庄</rb><rt>かわしょう</rt></ruby>の<ruby><rb>小春</rb><rt>こはる</rt></ruby>にしろ、月夜の風邪をひいた女は、<ruby><rb>他人</rb><rt>ひと</rt></ruby>の都合はお構いなしで、みんな自分だけの世間のように、勝手な気持ちになるものだって」

「冗談じゃねえ、そんな手前勝手な奴らには、この万吉はつきあえねえ」

「私だって、今にどうなるか知れないよ。自分で自分の心が少し変に思えてきたからね」

「そこで、チボの足でも洗いなせえ」

「とんだ所でご意見でした。そのうち、ゆっくり考えましょう」

「エエ、また話がそれちまった。お綱さん――」と万吉、今度はいよいよ真剣に、窓の格子へつかまった。

「この屋敷の奥かどこかに、まだ誰か人がいやしねえか」

「イイエ誰もいないようだね……どこの部屋も真っ暗だし、第一<ruby><rb>鼠</rb><rt>ねずみ</rt></ruby>がいないのは、食い物なしの証拠だから、時々、<ruby><rb>旅川周馬</rb><rt>たびかわしゅうま</rt></ruby>が帰ってくるくらいなものに違いない」

「おかしいなア……？　たしかに、お千絵様という、前の<ruby><rb>世阿弥</rb><rt>よあみ</rt></ruby>様の御息女が、ここに押し込められているという話なんだが」

「アアその御息女と私を間違えて呼んだのだね。お綱もはすっぱな姿を見せないと、これでも武家のお娘様に買いかぶられるのかしら」

「どうだろう、お綱さん」

「なに？」

「お前の相談はまだ聞いていねえが、この万吉が、命にかけてもきっとひきうけるから、現在俺の弱っている一つの大事へ、ウンと<ruby><rb>片肌</rb><rt>かたはだ</rt></ruby>をぬいでくれないか」

「ほんとにかい」

気味の悪いほど<ruby><rb>真味</rb><rt>しんみ</rt></ruby>な顔色で、お綱がトンと<ruby><rb>肘掛</rb><rt>ひじかけ</rt></ruby>へ身を<ruby><rb>凭</rb><rt>もた</rt></ruby>せてきたので、万吉は目の前へタラリと下がった<ruby><rb>被布</rb><rt>ひふ</rt></ruby>の色地をみつめながら、ちょっと後の言葉を絶句した。

彼の推量では、お綱の頼みごとを、奉行所筋のことか、手先仲間の扱い事か、くらいに考えていたのである。

まさか、<ruby><rb>法月弦之丞</rb><rt>のりづきげんのじょう</rt></ruby>に<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>まる、<ruby><rb>伊達</rb><rt>だて</rt></ruby>の女の<ruby><rb>初心</rb><rt>うぶ</rt></ruby>な恋とは――露ほども気がつかなかった。

彼が、お綱をここで利用しようとしたのは賢明だが、この時、フイと頼みごとの交換をした一事のため、後々、万吉がどれほどの<ruby><rb>艱難</rb><rt>かんなん</rt></ruby>苦労をし、どれほど骨を<ruby><rb>削</rb><rt>けず</rt></ruby>り<ruby><rb>髄</rb><rt>ずい</rt></ruby>を<ruby><rb>抉</rb><rt>えぐ</rt></ruby>られる原因となったか知れない。

これが近世人<ruby><rb>気質</rb><rt>かたぎ</rt></ruby>なら、頼んだことはやらしておいて、頼まれたことはケロリと忘れてしまうだろうが、そうでない時代、また、そうでない気性の万吉。

「誰が嘘をいうものですか」

キッパリと言ってしまった。

お綱は、ほッと嬉しそうな顔をする。

江戸へ帰って以来、いよいよはかなきものと悩んでいた、弦之丞への接近へ、<ruby><rb>一縷</rb><rt>いちる</rt></ruby>の望みが<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>がれて――。

「話してごらん、万吉さん」と、吾から頼まれたがる。

「ほかじゃねえが、お前が<ruby><rb>懇意</rb><rt>こんい</rt></ruby>なのは何より<ruby><rb>倖</rb><rt>しあわ</rt></ruby>せ。旅川周馬のやつを<ruby><rb>欺</rb><rt>だま</rt></ruby>して、お千絵様をこの屋敷から誘い出してくれねえか」

「いいとも」

一も二もなくのみ込んだ。と――お綱がフイと眼をそらし、ジッと神経を耳に澄ます様子。

悪い所へ、旅川周馬が戻ってきたのではないか、その時、<ruby><rb>塀</rb><rt>へい</rt></ruby>の向うに忍びやかに、チャラリ、チャラリ……と<ruby><rb>雪踏</rb><rt>せった</rt></ruby>の音。

「周馬だろう！」

万吉は、ペタリと羽目板へ背中をつけてしまった。

そして、逃げ口を探すような<ruby><rb>眼配</rb><rt>めくば</rt></ruby>りして、

「ちぇッ、悪い所へ<ruby><rb>帰</rb><rt>けえ</rt></ruby>ってきやがった」

「そうじゃないよ……」お綱は少し身を<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>いて、半分窓障子の蔭に隠れながら、

「あの足音は別な者らしい……」

「そうですか」と、ホッとしたらしい首をもたげて、「まだ<ruby><rb>一言</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>話し残りがあるんです。それは、幾ら周馬に押し込められているお千絵様でも、ただ、屋敷から逃げだせといったところで、お綱さんを疑って、出る<ruby><rb>気</rb><rt>き</rt></ruby>づかいはございません」

「それは大きにもっともだね」

「ですから、こういっておくんなさい。――近いうちに法月様が江戸へきて、ぜひいろいろなご相談がある、それには旅川周馬なンて、亀の子だか<ruby><rb>泥亀</rb><rt>すっぽん</rt></ruby>だか分らねえ奴の屋敷では工合が悪い――と、ようがすか」

「オオ、それじゃ何かい、弦之丞様もお近いうちに」

「へえ、わっしの後から来る筈なんで」

「まア……」

<ruby><rb>牡丹</rb><rt>ぼたん</rt></ruby>が花を開き切ったように、お綱の顔が明るく笑った。

「いいよ、いいよ。お千絵様とかいうお<ruby><rb>女</rb><rt>ひと</rt></ruby>、きっと、私が周馬をうまく<ruby><rb>欺</rb><rt>だま</rt></ruby>して、誘いだして上げるから」

「じゃ、吉報は妻恋へ」

「アア、四、五日うちに聞きにおいで」

「ありがとう！」

と万吉は、八ツ手の葉蔭から、もう一度お綱へ頭を下げて、前の穴からズルズルと塀の外へ這いだした。ヒューッと寒い<ruby><rb>空風</rb><rt>からかぜ</rt></ruby>が目に砂を入れて行った。

塀の穴から出てみると、もう夕暮に近そうだ。

渡世道具の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">てっぽう</span><ruby><rb>笊</rb><rt>ざる</rt></ruby>。チャンとそこに待っていた。

笊もし人間なれば、怒っている。

「エエ寒い」

すぐ水ッ<ruby><rb>洟</rb><rt>ぱな</rt></ruby>を<ruby><rb>啜</rb><rt>すす</rt></ruby>ったのは、目明し万吉、屑屋に早変りの心支度が、自然にそうさせたものなのだ。膝や<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>の土を払って、鉄砲笊を斜めにかつぎ、

「屑ウーイ」

<ruby><rb>濁</rb><rt>だ</rt></ruby>み声を淋しくひいて、二足三足あるきだしたのである。すると――すぐ。

万吉は水でも足へ掛けられたように、ハッと驚いて道を避けた。

<ruby><rb>墨渋</rb><rt>すみしぶ</rt></ruby>を塗った黒塀へ、一人の男、<ruby><rb>守宮</rb><rt>やもり</rt></ruby>のように貼りついて、じっと、横目でこっちを睨んでいる。

向う側を廻りながら、万吉もグイと横目で睨んだ……。

<ruby><rb>黒縮緬</rb><rt>くろちりめん</rt></ruby>の頭巾、<ruby><rb>鉄漿染</rb><rt>おはぐろぞめ</rt></ruby>の羽織。

黒い塀の所へ黒い人間が、ジッと立っていたのだから、ウッカリ気がつかなかったのも当然で、<ruby><rb>茶柄</rb><rt>ちゃづか</rt></ruby>の大小、<ruby><rb>銀鐺</rb><rt>ぎんこじり</rt></ruby>、骨太だがスラリとして、<ruby><rb>鮫緒</rb><rt>さめお</rt></ruby>の<ruby><rb>雪踏</rb><rt>せった</rt></ruby>をはいている<ruby><rb>背恰好</rb><rt>せかっこう</rt></ruby>。

お<ruby><rb>十夜孫兵衛</rb><rt>じゅうやまごべえ</rt></ruby>！

きゃつだ！　まぎれもなき十夜頭巾。

――野郎、どうしてこの江戸表へ来たのかしら？　と万吉、鋭い眼をくれながら、ソロリ、ソロリ、と草履を<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>って廻ると、お十夜もまた同じ気構え、同じ敵意。

岡ッ引きめ。

来おったナ、命を捨てに。

どうしても、おれの差している<ruby><rb>助広</rb><rt>すけひろ</rt></ruby>の<ruby><rb>錆</rb><rt>さび</rt></ruby>になれと、三<ruby><rb>世相</rb><rt>ぜそう</rt></ruby>に書いてあるような奴だ。

大阪以来ここしばらく、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そぼろ</span>助広にもうまい<ruby><rb>生血</rb><rt>いきち</rt></ruby>を<ruby><rb>舐</rb><rt>な</rt></ruby>めさせない。

斬ッてやろうか！　バッサリと。

「だが待てよ……ここは俺にゃ大事な<ruby><rb>瀬戸際</rb><rt>せとぎわ</rt></ruby>だ。せっかく今日、お綱を見かけてこれまで突きとめてきたものを、また関の山の時のように、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とち</span>狂われちゃ堪らねえ。まア、向うでそしらぬ顔をするなら、こっちも横を向いていよう」

こういう腹で見ているのだ。

万吉は腕がムズムズしてきた。

彼の心もまた叫ぶ。

<ruby><rb>獣</rb><rt>けだもの</rt></ruby>め！

見ていろよ。見ていろよ。

<ruby><rb>方円流</rb><rt>ほうえんりゅう</rt></ruby>二丈の<ruby><rb>捕縄</rb><rt>とりなわ</rt></ruby>が、今に、てめえの<ruby><rb>喉首</rb><rt>のどくび</rt></ruby>をお見舞い申して、その五体を俵ぐくりに締めあげるぞ。

ああ、腕が<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>って堪らねえ。

だが、当分は<ruby><rb>見遁</rb><rt>みのが</rt></ruby>してやら。おれにゃ別の大望があるからよ。けッ！　それさえなけりゃ、<ruby><rb>汝</rb><rt>うぬ</rt></ruby>なんぞ、半日だッてこの人間界へおくもんけえッ！

とは思いながら――思わず十手の<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>を握ってブルブルッとふるえた。

殺気を感じて、お十夜の手も、<ruby><rb>雷光</rb><rt>いなずま</rt></ruby>のように刀の<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>へ飛ぶ。

あわや！　とみえた。

と。塀の中から、お綱であろう、周馬を待つ間の退屈しのぎに、探し出した三味線の糸をなおして、<ruby><rb>薗八節</rb><rt>そのはちぶし</rt></ruby>か<ruby><rb>隆達</rb><rt>りゅうたつ</rt></ruby>か、こッそりと爪で気まぐれな<ruby><rb>水調子</rb><rt>みずちょうし</rt></ruby>を<ruby><rb>洩</rb><rt>も</rt></ruby>らしている。

水調子の三味の音が、フッと万吉と孫兵衛の殺気を消して、二人を理性に返らせた。

殊に万吉は、

「大事な体だ、おれの体は」

一八郎の<ruby><rb>訓戒</rb><rt>くんかい</rt></ruby>を思いだし、目をつぶるように気を持って、バラバラッと、早足に駈けだしてしまった。

駈ける背中を<ruby><rb>凩</rb><rt>こがらし</rt></ruby>が吹き<ruby><rb>拯</rb><rt>すく</rt></ruby>って、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">てっぽう</span><ruby><rb>笊</rb><rt>ざる</rt></ruby>の紙屑を、蝶か千鳥かと、<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>の空へ吹き散らした。やがて高く舞ったのが、どこかの屋敷の<ruby><rb>屋根瓦</rb><rt>やねがわら</rt></ruby>へ、気永にヒラ――と白く落ちてくる。

一方は、お十夜孫兵衛。

相変らず<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">りゅう</span>として、<ruby><rb>縮緬</rb><rt>ちりめん</rt></ruby><span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぞッき</span>の<ruby><rb>懐手</rb><rt>ふところで</rt></ruby>だ。それは万吉とあべこべのほうへ、黒塀に添って歩きだした。歩きださぬときゃつの眼が、またうるさくつけてくるだろうと、それをまぎらす足どりである。だから、いたって悠々としたもの、<ruby><rb>雪踏</rb><rt>せった</rt></ruby>の<ruby><rb>裏金</rb><rt>うらがね</rt></ruby>も鳴らぬ程に。

ここに、お十夜の姿をみるのは、大津以来のことであるが、困れば、相変らず持病の辻斬りを<ruby><rb>稼</rb><rt>かせ</rt></ruby>ぐとみえて、<ruby><rb>身装</rb><rt>みなり</rt></ruby>持物、<ruby><rb>穿物</rb><rt>はきもの</rt></ruby>に至るまで、どうしてなかなかこっている。

帯も<ruby><rb>流行</rb><rt>はやり</rt></ruby>の伝九郎好み、羽織の<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>とておろそかではない。だいぶ江戸ふうにかぶれたところがある。お綱好みの<ruby><rb>迎合</rb><rt>げいごう</rt></ruby>をやらかし、これでお綱が参らなければ、また一工夫という腹だろうが、さりとはお十夜、どこまで<ruby><rb>根</rb><rt>こん</rt></ruby>のいい男だろう。

しかしながら孫兵衛自身は、決してさまで精根を<ruby><rb>費</rb><rt>つい</rt></ruby>やしている様子もなく、むしろ、精根のやり場に困っている姿だ。

そうだろう、あの好色なお十夜が、お綱を見てから禁慾同然、ボロ買いをせず辻斬りも無駄にはせず、かつ、職業というものがない。すべての精と力と時間とを、お綱を手に入れることだけに<ruby><rb>懸</rb><rt>かか</rt></ruby>っている。無論、妻恋にあるお綱の家も、<ruby><rb>執念</rb><rt>しゅうね</rt></ruby>くうかがっていたのであるが、遂に今日までいい折がなかった。

そのうちに、お綱が時々、<ruby><rb>挿花</rb><rt>はな</rt></ruby>の<ruby><rb>外稽古</rb><rt>そとげいこ</rt></ruby>に出るような姿をして、紀州屋敷の<ruby><rb>仲間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>部屋に、<ruby><rb>賭博</rb><rt>なぐさみ</rt></ruby>ごとをしに行くという話。今日も、紫<ruby><rb>被布</rb><rt>ひふ</rt></ruby>を着たその女が来ていると聞いて、お十夜はただちに出向いて行った。

ところが、その日お綱に<ruby><rb>酷</rb><rt>ひど</rt></ruby>い落ち目が続いたため、金の工面をしに行くといって帰ってしまった、という後であった。その金の工面の行き先を<ruby><rb>糺</rb><rt>ただ</rt></ruby>すと、同じく、ここへしばしば来たことのある甲賀組の旅川周馬。お綱が前に貸しがあるので、今日はどうでも取ってくるといって出たから、あの女のことだ、多分、<ruby><rb>居催促</rb><rt>いざいそく</rt></ruby>をしているだろう。――こういう道筋を<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>って、お十夜孫兵衛、ここへゆらりと現れたものである。

そこで様子をうかがえば、お綱はたしかにこの<ruby><rb>荒屋敷</rb><rt>あれやしき</rt></ruby>の中にいる。さっき、チラと洩れてきた<ruby><rb>爪弾</rb><rt>つまびき</rt></ruby>の<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>でも知れる。だが、旅川周馬とかいう奴、一体留守なのか、いるのだろうか。留守とすればいい都合だがな……と孫兵衛は、<ruby><rb>獰猛</rb><rt>どうもう</rt></ruby>な猫が鶏の<ruby><rb>籠</rb><rt>かご</rt></ruby>を巡るように、心の爪を<ruby><rb>研</rb><rt>と</rt></ruby>ぎ澄ました。

そして、いつか<ruby><rb>懐手</rb><rt>ふところで</rt></ruby>のまま、広い屋敷の外廓を、ブラブラ一<ruby><rb>周</rb><rt>まわ</rt></ruby>り廻ってしまう。

さて、やッぱり<ruby><rb>妙策</rb><rt>みょうさく</rt></ruby>もない。

自体、はっきりと、女のほうからご免をこうむられているお十夜だ。どう懐手をしてみたところで、妙案のある筈もなし、にわかに、お綱の心を<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>く手段のあろう<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>もない。

だがお十夜は、ないとは決して考えていない。あると固く信じている。まだまだお綱をなびかせる方法は山ほどある！　金ずく。腕ずく。根気ずく。あるいは<ruby><rb>脅</rb><rt>おど</rt></ruby>し。あるいはホロリとさせる泣き落し。でなければ迫害だ、<ruby><rb>呪</rb><rt>のろ</rt></ruby>い廻す助広だ。

「ふウン……いくらでもあるじゃねえか」

<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>り<ruby><rb>語</rb><rt>ごと</rt></ruby>を洩らした孫兵衛、ひょいと気がついてみると、いつかグルリと廻って表門の前に来ていた。

「旅川周馬」という門札は掛かっていたが、草<ruby><rb>茫々</rb><rt>ぼうぼう</rt></ruby>として無住寺のような<ruby><rb>寂寞</rb><rt>せきばく</rt></ruby>さ。

ドンと一つ押してみたが、門も<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐり</rt></ruby>戸も開く様子がない。お綱はどこから入ったか知らぬが、孫兵衛、<ruby><rb>縮緬</rb><rt>ちりめん</rt></ruby><span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぞッき</span>の風采で、塀の中からは<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>りかねた。

折からあたりもたそがれてきたし、人の見る眼もない様子なので、彼は門前の捨て石を足がかりとし、塀の<ruby><rb>見越</rb><rt>みこし</rt></ruby>へ片手をかけて、ヒラリと上へ<ruby><rb>攀</rb><rt>よ</rt></ruby>じ登った。

そして。

ポンと囲いの中へ、身軽に跳び下りようとすると、疾走してきた人影が、

「待てッ」

と、お十夜の片足を<ruby><rb>捕</rb><rt>と</rt></ruby>って、ズルッ――と外へ引きずり下ろしてしまった。

驚くまに、お十夜の体、何者かに足を取られて、ズルーッと、塀の上から<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>り落ちてしまった。

「こやつッ」

と、跳びかかってきた男は、小泥棒でもあしらうように、ムズと孫兵衛の<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>がみを引っつかむ。

好きにつかませておいて、お十夜は、ゆるりと右の足を前へ出し、暗い地面を<ruby><rb>爪先</rb><rt>つまさき</rt></ruby>で探っていたかと思うと、脱げていた雪踏に足を突ッこんで、固くはきなおした。

いかにも図々しい落ちつきよう。そして、ギラリと凄い<ruby><rb>上目</rb><rt>うわめ</rt></ruby>を<ruby><rb>射</rb><rt>い</rt></ruby>た。

<ruby><rb>己</rb><rt>おのれ</rt></ruby>の<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>がみをつかんでいるのは、二十七、八の小男であった。若い侍のくせに、髪を<ruby><rb>総髪</rb><rt>そうはつ</rt></ruby>にして後ろへ垂れ、イヤにもったいぶった<ruby><rb>風采</rb><rt>ふうさい</rt></ruby>。ハハア、こいつだな、旅川周馬という男は――と孫兵衛、わざと力も出さずにいる。

<ruby><rb>丹石流</rb><rt>たんせきりゅう</rt></ruby>の、<ruby><rb>据物</rb><rt>すえもの</rt></ruby>斬りの達人、お十夜孫兵衛の<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>がみをとって、どう料理する気か。

こいつは面白い、一つ、彼の好きに任せておいて、周馬の腕をみてやろうと、お十夜は、おとなしく身を<ruby><rb>屈</rb><rt>かが</rt></ruby>ませて様子をみた。

さて、あぶない話になった。

周馬は孫兵衛の襟がみをつかんでいるが、<ruby><rb>右手</rb><rt>めて</rt></ruby>が使えず。孫兵衛は、相手に襟を取られているが、<ruby><rb>右手</rb><rt>めて</rt></ruby>は早くも助広の<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>を握って、胴払い！　横一文字の抜打ちを気構えている。

この<ruby><rb>竦</rb><rt>すく</rt></ruby>みあいはあきらかにお十夜の利だ。

旅川周馬なるものが、かりにも剣道に眼があるなら、今は危険な瀬戸際と知るところである。襟がみを離して悪し、引いて悪し、押して悪し、どう行っても変る途端に抜けてくる。胴払いの殺剣をのがれて抜きあわせる工夫はない。

「はッはッはははは」

不意に笑いだしたのは周馬である。

何の気だか分らないが、また、

「はははは……」と笑いつづけ、かつ、笑いながら手を離して、いかにも軽快な言葉づかい、

「いや、これはこれは」といったものである。

「お見うけ申すところ、どなたかは知らぬが、ご風采も<ruby><rb>賤</rb><rt>いや</rt></ruby>しからぬ様子。まさか、<ruby><rb>空巣狙</rb><rt>あきすねら</rt></ruby>いではござるまい。何で拙者の屋敷へ、無断でお踏みこみなさるか、<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>がござろう、それをお聞かせ願いたい」

こう真面目になられると孫兵衛も弱った。

「いや……」と襟を掻き合せながら、「武士にあるまじき無作法をして、<ruby><rb>慇懃</rb><rt>いんぎん</rt></ruby>な武士扱いをなされては、なんと面目もない次第で」

「いやいや、拙者は常に<ruby><rb>外出勝</rb><rt>そとでが</rt></ruby>ち、事情によってはお<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めも致すまい。何かこのほうの屋敷内に、急な御用事でもありますかな」

若いけれど旅川周馬、総髪で納まっているだけに、なかなか能弁で如才がない。お十夜の腕と殺念の燃えた気ぶりを、巧みにかわした上、こういいながら、おもむろに相手の真意を読もうとする<ruby><rb>眼</rb><rt>まな</rt></ruby>ざし。ここに猫をかぶった悪玉と悪玉とが、双方、微妙な腹探りをやりだした。

「されば」

と孫兵衛、まことに神妙な様子でいう。

「実は手前の女房が、お屋敷のうちにおりますので、それを訪ねてまいりました」

「ほほう……これは<ruby><rb>異</rb><rt>い</rt></ruby>なことを」

旅川周馬、いかにも<ruby><rb>恍呆</rb><rt>とぼ</rt></ruby>けた返辞をして、

「そこもとの女房といわっしゃるのは？」

「貴殿は前からご承知のある筈。見返りお綱と申す女で……。いや、まことにお恥かしいわがまま者。無断で国表を<ruby><rb>出奔</rb><rt>しゅっぽん</rt></ruby>して、この江戸表に遊び暮らしているというのを聞き、はるばる尋ねてまいりましたような訳……。ところが、今日、何かそこもとに用事があって、昼からお屋敷内で待っているとか承ります。はなはだ恐れ入りますが、ここへ呼び出していただきたいものでござるが」

「やあ、ではお綱が来ておりますか」

「たしかに、中にいる様子」

「これは困った」

と周馬は頭をかいて、

「あのお綱には、少し借財がござってな。それを取りに来ているのでござろう」

「いや、<ruby><rb>借貸</rb><rt>かりかし</rt></ruby>などのことはどうでも。とにかくちょっと、お綱を呼んで下さらぬか」

「承知いたした。して貴公のお名前は？」

「拙者は」グッと詰まったが孫兵衛、「藤田三四郎と申す者……」口から出まかせにいってみた。

「アア藤田殿で？　心得ました、しばらくそこでお待ち願いたい」

いたって気軽に<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いた旅川周馬、腰から<ruby><rb>鍵</rb><rt>かぎ</rt></ruby>をだして<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>り門を開け、中へ入ってお十夜にちょっと笑ってみせたが、門を閉めてスウとどこかへ消えてしまうと、半<ruby><rb>刻</rb><rt>とき</rt></ruby>、一刻、二刻あまり、待てど暮らせどそれッきり出てこない。

## 鏡の裏

いくら待っても出てこない筈。旅川周馬は荒屋敷の庭を素通りに裏門の戸をコッソリ開けて、どこともなく立ち去ってしまった。

家の中に待ちうけているお綱と、門の外に待ちぼけているお十夜とを捨てて、彼は、その夜も翌日も、とうとう、この荒屋敷へ帰ってこなかった。

お十夜が、それと知った時には、既に喧嘩相手の周馬がそこにいない時で、さすがの孫兵衛も、もう一度<ruby><rb>塀</rb><rt>へい</rt></ruby>を躍り越えてみる勇気も<ruby><rb>失</rb><rt>う</rt></ruby>せ、また後日の策を描いて、その夜はむなしく引き揚げて行った。

がしかし、お綱はすッかり腰をすえて、その屋敷を当分の住居のように心得ている。

女だけに<ruby><rb>居催促</rb><rt>いざいそく</rt></ruby>も要領がよい。一<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>どころをこぎれいに掃除して、<ruby><rb>納戸</rb><rt>なんど</rt></ruby>の隅から見つけてきた<ruby><rb>置炬燵</rb><rt>おきごたつ</rt></ruby>、赤い友禅の<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>をかけてその中にうずくまり、側には持ち出した草双紙を、より取り勝手に見散らかしていた。

なるほど、居催促もこういう<ruby><rb>按配</rb><rt>あんばい</rt></ruby>に行けば、三日はおろか一月が百日でも続くわけ。ただ不便なのは食事だが、これもいつか当座だけの用意を求めてきたらしく、<ruby><rb>呉須</rb><rt>ごす</rt></ruby>の<ruby><rb>急須</rb><rt>きゅうす</rt></ruby>に茶を入れて、<ruby><rb>栗饅頭</rb><rt>くりまんじゅう</rt></ruby>まで添えたのが、読み本の側においてある。

<ruby><rb>緋友禅</rb><rt>ひゆうぜん</rt></ruby>の炬燵蒲団に、草双紙と三味線に、<ruby><rb>玉露</rb><rt>ぎょくろ</rt></ruby>と栗饅頭。そこに<ruby><rb>蔵前風</rb><rt>くらまえふう</rt></ruby>な<ruby><rb>丸髷</rb><rt>まるまげ</rt></ruby>の美女が、冬の陽ざしを<ruby><rb>戸閉</rb><rt>とざ</rt></ruby>していたら、誰が目にも、この屋敷の若奥様か或いはお<ruby><rb>妾</rb><rt>めかけ</rt></ruby>様、――まさかに<ruby><rb>掏摸</rb><rt>すり</rt></ruby>の見返りが居催促とは見えなかろう。

だが、華やかなお<ruby><rb>側女</rb><rt>そばめ</rt></ruby>様の生活にも、人知れない苦労があるごとく、今のお綱の腹の中も、なかなかのんきな置炬燵ではない。

旅川周馬が帰ってきたら、どういう<ruby><rb>手段</rb><rt>てだて</rt></ruby>で、お千絵様の居所を聞き出そうか、ということも一つの心配なら、また、今日あたりは万吉が、妻恋の方へ吉報を聞きに来ていやしまいか、というのも気が気ではない苦労である。

そうかと思うと、お綱はまた、お<ruby><rb>伽草子</rb><rt>とぎぞうし</rt></ruby>の拾い読みに、はかない女の恋物語などを見出して、<ruby><rb>弦之丞</rb><rt>げんのじょう</rt></ruby>のことに思いくらべ、思わず知らず一日を暮らしてしまうこともある。

――こうしてここの<ruby><rb>空屋敷</rb><rt>あきやしき</rt></ruby>に、七日ばかり落ちついてしまった。

八日とたっても、まだ旅川周馬は帰ってこない。

「どうしたのだろう？」

お綱も少しあきあきしてきた。

「こんなにいつまで戻らないところをみると、この屋敷に門標は打ってあるが、ここには、住んでいないのかしら？」とも考えられてくるのである。

「第一に、お千絵様――」お綱はそれをしきりに思索した、「万吉はああいうけれど、この屋敷のどこにもいる気配はない。七日の間に奥の座敷から女中部屋まで、くまなく探していないのだもの、きっと、周馬のやつがどこかほかへお千絵様の身を隠し、そこへ行っているに違いない……。とすると、根よくここにいるのも、何だかばかばかしい話だが」

あしたは一度妻恋の家へ帰ろうと思った。

そして、万吉にこの事を話そう。

この先とも、お千絵様の居所を尋ねるについて、自分も、どこまで骨身を砕くかわりに、弦之丞様のこともあの人に頼んでおこう。

そう思いながら、お綱はいつか、<ruby><rb>炬燵</rb><rt>こたつ</rt></ruby>の上に横顔をのせて、トロトロとうたた寝していた。

お綱は何を夢みるのであろうか、寝顔に笑くぼがういている。その耳には、<ruby><rb>川長</rb><rt>かわちょう</rt></ruby>の座敷で聞いた<ruby><rb>一節切</rb><rt>ひとよぎり</rt></ruby>、その眼には打出ヶ浜の月の色がみえるのであろう。

このあたりは、みな<ruby><rb>軒</rb><rt>のき</rt></ruby>のかけ離れた隠密屋敷。ましてや広い家の中には、お綱のほかに<ruby><rb>人気</rb><rt>ひとけ</rt></ruby>とてなく、まだ宵らしいが、うたた寝をさますカタンという物音もしない。

と――氷へ物の<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>ったように、部屋の<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>が音なく開いた。

ヌッと立った男がある。

<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>の明りを、<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>から逆にうけたのが怖ろしい<ruby><rb>容貌</rb><rt>ようぼう</rt></ruby>にみえた。しばらく、黙然として、うたた寝の美しい寝顔を見下ろしている……。

それはお十夜孫兵衛だった。

この間は、周馬のためにさえぎられたが、今夜は、念入りに忍びこんで来たものとみえる。

「お綱！」

と呼ぼうとしたが、孫兵衛は、この美しい寝顔をさましてしまうのは惜しいと思った。

関の山の月見草の崖に、うっとりと寝転んでいた時のお綱も<ruby><rb>凄艶</rb><rt>せいえん</rt></ruby>にみえたが、緋の友禅に寝顔をつけて、<ruby><rb>埋火</rb><rt>うずみび</rt></ruby>のほてりに上気している今のお綱は、お十夜の眼を<ruby><rb>眩惑</rb><rt>げんわく</rt></ruby>するにありあまる<ruby><rb>濃艶</rb><rt>のうえん</rt></ruby>さである。

孫兵衛は、静かに坐って、<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>の中へ手を入れる。

そして、お綱の髪の香をかぐように、<ruby><rb>炬燵</rb><rt>こたつ</rt></ruby>の<ruby><rb>縁</rb><rt>へり</rt></ruby>へ<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>をのせた。

炬燵に<ruby><rb>蒸</rb><rt>む</rt></ruby>れる<ruby><rb>伽羅油</rb><rt>きゃらゆ</rt></ruby>の匂いに、孫兵衛、もう<ruby><rb>恍惚</rb><rt>こうこつ</rt></ruby>となって、

「どんなことがあろうとも、おそらく、俺には、この女だけは殺し得まい……」

十夜頭巾にくるんだ顔を、炬燵にのせ、こんなことを思うらしい。

そして、頬へ冷たく触ってきたお綱の<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby>のほつれ毛を、一筋、自分の唇にくわえながら、目は、ほれぼれと、寝伸びた女の<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>あしに燃えついていた。

と、お綱は。

うたた寝の耳へ、人の<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>が冷たくふれてきたのに、

「おや」

パチリと、<ruby><rb>棗形</rb><rt>なつめがた</rt></ruby>に眼を見ひらいた。

それのみか、炬燵の中の自分の手に、誰かの大きな<ruby><rb>掌</rb><rt>て</rt></ruby>が重なっていたのに驚いて、思わず蒲団から飛び離れた。

「驚くことはなかろう、お十夜だ」

「アア……」とお綱は後ろへ手を<ruby><rb>支</rb><rt>ささ</rt></ruby>えて、黒猫に似た孫兵衛の姿をみつめながら、

「……とうとうここまでやってきたね」

さすがに、胸は少し動悸を打ったが、語気にひるみは見せなかった。

「なんで来ずにいるものか」と孫兵衛は、<ruby><rb>凄</rb><rt>すご</rt></ruby>くニヤリとしてみせながら、

「てめえが江戸へ来れば江戸表へ、北へ逃げれば北の果てまで、<ruby><rb>我</rb><rt>が</rt></ruby>を折って俺の心に従うまで、付きまとってやるということは、オオ、いつか<ruby><rb>関</rb><rt>せき</rt></ruby>の<ruby><rb>明神</rb><rt>みょうじん</rt></ruby>でも、たしかに言い渡してある筈だ」

「ご苦労さまだねエ」

お綱はツンと横を向いて、

「道理でこの間うちから、妻恋坂の私の家やこの辺を、きざな雪踏がチャラついていると思ったら……」

「じゃうすうすは、おれの真意を感づいていたろうに、ずいぶんてめえも<ruby><rb>薄情</rb><rt>うすなさ</rt></ruby>けな、血の<ruby><rb>冷</rb><rt>つめ</rt></ruby>てえ女だの」

「ホ、ホ、ホ……」お綱は鼻であしらうように、

「うす情けだなんていう言葉は、お十夜さん、お前の<ruby><rb>柄</rb><rt>がら</rt></ruby>にはまらない文句だよ。私の血の冷たいのは生れつき――そう育ってきたのだからしかたがないやね。嫌いな者には氷のよう、その代りにまた、好きな人へは火よりも熱い心になるのさ」

「そんな熱に浮かされている年頃には、どこの女も、みんなてめえと似たようなたわごとをいってるものなのさ。それがだんだん、世の中を知り、苦労の味を<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>みしめてくると、実意のある男を嫌ったことが後じゃもったいなくなるものだ」

「ご親切さま。はるばる<ruby><rb>上方</rb><rt>かみがた</rt></ruby>くんだりから、そんな月並をいいに来るのは、まったく、お前さんでもなければできない芸だよ」

「おれもいつまで血なまぐさい、辻斬り<ruby><rb>稼</rb><rt>かせ</rt></ruby>ぎをしているのは嫌だし、お<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>も、いつまで指先の危ねえ世渡りでもなかろうが。のうお綱、ここらで一つ気を締めて、二人で大きな仕事を最後に、堅気な世帯でも持とうじゃねえか」

「ほんとに、私もいつもそう思いますよ……。だがね、お十夜さん、お前とだけは嫌ですとさ」

「なぜ⁉」

「だって、それは気持だもの」

「じゃ、誰かほかに思う男が」

「お綱にもあるんですよ」

「ウム、誰だ、そいつは」

「聞きたいの……」

「オオ、聞いておこう！」と孫兵衛。

助広の鯉口をつかんで、凄い<ruby><rb>血相</rb><rt>けっそう</rt></ruby>、一膝前へすりだしてきた。

お綱は、冷えた茶をグッとすすって、<ruby><rb>苦</rb><rt>にが</rt></ruby>っぽい<ruby><rb>笑</rb><rt>え</rt></ruby>みでお十夜の剣幕を斜めに冷視した。

こうした脅迫をうければうけるほど、お綱の意地は<ruby><rb>捻</rb><rt>ねじ</rt></ruby>けるばかりで、むしろ、<ruby><rb>紅舌</rb><rt>こうぜつ</rt></ruby>に男を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のた</span>打たせ、思うさま冷然と<ruby><rb>揶揄</rb><rt>やゆ</rt></ruby>してやりたいような度胸まですわってくる。

「それは……いっておいたほうがいいかも知れない。そうすれば、お前さんも、自分のしていることが、どんな無駄だか、はっきり分ってくるだろうから」

「そんなことはどうでもいい！　その男の名を聞こう。それをいえ」

「私の胸に誓っている人は、天涯無住の御浪人でね……」

「ウム、してそいつは」と、お綱の<ruby><rb>揶揄</rb><rt>やゆ</rt></ruby>がやや深刻にすぎたので、孫兵衛、左につかむ助広の<ruby><rb>鍔</rb><rt>つば</rt></ruby>をブルルとふるわせ、<ruby><rb>瞋恚</rb><rt>しんい</rt></ruby>の炎を燃えたたせる。

「……<ruby><rb>法月弦之丞</rb><rt>のりづきげんのじょう</rt></ruby>というお方。お十夜さん、私に指でもさす気なら、すみませんが、その人に<ruby><rb>断</rb><rt>ことわ</rt></ruby>ってきて下さいよ」

「よし！　おれもお十夜孫兵衛だ」

「どうするの」

「よくも恥をかかせたな！」ジリジリと寄ってきたので、さては抜き<ruby><rb>浴</rb><rt>あ</rt></ruby>びせるのかと思うと、孫兵衛は、ふッ……と<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>を吹き消してしまった。

部屋の中は真ッ暗となった……。

すばやく、行燈を吹き消したお十夜の<ruby><rb>意</rb><rt>こころ</rt></ruby>は、問わでものこと。

お綱はトンと身を<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>いた。

が――<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に立とうとした体は<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>の重みと、瀬戸物へつまずいて、よろりと、元の所へ仆れてしまった。

「おい、どこへ行く気だ」

憎々しいお十夜の<ruby><rb>嘲</rb><rt>あざけ</rt></ruby>り顔が、闇にも目に見えるような気がして、お綱はまたカッとなった<ruby><rb>声走</rb><rt>こわばし</rt></ruby>りで、

「お離しよ、わたしの裾を！」

どんと、<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>の胸を突いたのが悪く、かえって、孫兵衛のために、そのきき腕をつかまれた上、<ruby><rb>触</rb><rt>ふ</rt></ruby>るるも<ruby><rb>忌</rb><rt>いま</rt></ruby>わしい膝の上へ捻じつけられて、あたら<ruby><rb>丸髷</rb><rt>まるまげ</rt></ruby>の根を<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>み<ruby><rb>壊</rb><rt>こわ</rt></ruby>されてしまった。

「お綱ッ、<ruby><rb>情</rb><rt>じょう</rt></ruby>の<ruby><rb>強</rb><rt>こわ</rt></ruby>いのも程にしろよ」

「わたしには、弦之丞様という、心に誓った人があるというのに、まだそんなくどいことを」

「おう、恋仇があるときけば、なおさら俺の根性として、てめえを弦之丞のものにさせねえのだ」

「ええ、誰が、お前なんぞに！　……」腕に腕を<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>んでもぎ離そうとしたけれど、孫兵衛の膝はビクともせずに折り敷いて、なおかつ、女の<ruby><rb>足掻</rb><rt>あが</rt></ruby>き<ruby><rb>悶</rb><rt>もだ</rt></ruby>える<ruby><rb>態</rb><rt>さま</rt></ruby>を心の奥で<ruby><rb>陶酔</rb><rt>とうすい</rt></ruby>している。

「<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>け喚け、いくらでもジタバタいたせ。ここは関の明神と違って、何とてめえが騒いだところが、無住な<ruby><rb>伽藍</rb><rt>がらん</rt></ruby>も同じ<ruby><rb>空屋敷</rb><rt>あきやしき</rt></ruby>……、旅川周馬のいねえうちは、この孫兵衛と二人よりほかに、誰も出てくる者はいない場所だ。は、は、は、はは……お綱！　もういい加減に<ruby><rb>我</rb><rt>が</rt></ruby>を折れよ」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひし</span>と抱きすくめた孫兵衛、歯を食いしばるお綱の顔を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いて、その頬へ自分の頬をすりつけて行こうとする。

お綱は、苦しまぎれに顔をそむけて、すり寄せてきた十夜頭巾の端に、ムズと爪を立てたのである。

ズル――とそれが脱げそうになる。

と、孫兵衛は、あたかも、忘れていた神経を、針の先で、突かれたように、ハッと、両手で頭巾を抑えた。

その<ruby><rb>間髪</rb><rt>かんはつ</rt></ruby>に、お綱はさっ――と立ち上がった。

「うぬ！」

と追いかかる孫兵衛、浅ましい獣心の<ruby><rb>沸</rb><rt>たぎ</rt></ruby>り狂うままに、真っ暗な空屋敷の間ごと間ごとを追い廻して、今は、眼にお綱よりほかの何ものもない。

お綱はまた必死に逃げ廻った。

けれど、運の悪いことには、このダダッ広い屋敷は、昼でもすべての戸が閉めきッてあったため、外へは一歩も逃げだせないのだ。ただ、お綱のかすかな強味は、万吉に頼まれて、お千絵様の居所を探した時、念のため、一<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>のこらず歩いてあったし、押入れ<ruby><rb>納戸</rb><rt>なんど</rt></ruby>の勝手まで覗いているので、茶の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>から客間、中廊下から奥の間と、ほどけた帯を巻くひまもなく、尾長鳥が尾を曳くように駈け廻った。

だが、かかる場合、逃げれば逃げるほど、お十夜の執念は増すばかり、お綱を傷ついた<ruby><rb>色鳥</rb><rt>いろどり</rt></ruby>と見れば、彼は情炎の猟犬に等しい。

今しも、だんだんに追いつめてきた奥廊下。

<ruby><rb>鉤</rb><rt>かぎ</rt></ruby>の手に曲るところを、そのままそれればまたもとの茶の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>あたりへ入るのだが、そこへ行っては、いよいよ袋詰めにされてしまう。

で、一方をまっすぐ走ったのである。

そこは九<ruby><rb>間</rb><rt>けん</rt></ruby>の橋廊下。渡るとすぐに部屋がある。右は書院、左は居間、昔、この屋敷の<ruby><rb>主人</rb><rt>あるじ</rt></ruby>、甲賀<ruby><rb>世阿弥</rb><rt>よあみ</rt></ruby>のいた頃は、ここを<ruby><rb>居所</rb><rt>きょしょ</rt></ruby>と定めていたものらしく、すべて木口もしっかりとした別棟である。

お綱はそこへ逃げてきた。

すぐに書院を開けようとした。ところが――開かない！

はッと思って、居間の杉戸へ手をかけた。もう、お十夜の影、バタバタッと橋廊下まで追いついてきた。

「ああ！　どうしよう」

お綱は絶望の声を洩らした。

そこもやっぱり開かないのであった。

不思議な！　と、思う余裕はなかったろうが、いつか、ここをあらためた時には、たしかに、どッちの部屋も開いて、内から<ruby><rb>錠</rb><rt>じょう</rt></ruby>を下ろせるようになっていた筈――？

「待てッ、お綱！」

悪魔の爪が<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>もとへさわった。お綱はそれを<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>り抜けた。だが、もう廊下はドン詰り！

是非がない。お綱はそこで振りかえった。猫を噛むの<ruby><rb>窮鼠</rb><rt>きゅうそ</rt></ruby>となって、帯の間から引き抜いた<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>を<ruby><rb>逆手</rb><rt>さかて</rt></ruby>にもち、寄らば、お十夜にズタズタに斬られるまでも、こっちも、相手のどこかしらへ、一突き刺し<ruby><rb>貫</rb><rt>ぬ</rt></ruby>いてやろうという女の一念。

紅をさいて吊りあがった<ruby><rb>眦</rb><rt>まなじり</rt></ruby>、<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby>も<ruby><rb>笄</rb><rt>こうがい</rt></ruby>もどこかへ落ちて、ありあまるお綱の黒髪、妖艶といおうか<ruby><rb>凄美</rb><rt>せいび</rt></ruby>といおうか、バラリと肩へ流れている。

お十夜の血は狂いに狂った。<ruby><rb>意馬心猿</rb><rt>いばしんえん</rt></ruby>――という<ruby><rb>相</rb><rt>すがた</rt></ruby>である。

浅ましや孫兵衛。その廊下のつきあたりまで、お綱を追いつめてきたかと思うと、いきなり、跳びついてゆこうとした。

飢えた<ruby><rb>狼</rb><rt>おおかみ</rt></ruby>が、鶏へかかったように。

と――かれの血眼を、キラリとさえぎったものがある。お綱が、死をきわめて、待ちかまえていた<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>の色！　寄らば、という気ぐみが、その<ruby><rb>切</rb><rt>き</rt></ruby>ッ<ruby><rb>尖</rb><rt>さき</rt></ruby>に張りつめていた。

はっと、お十夜は気をすくめた。

つり上がったお綱の眼と、月形の<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>が、こんどはあべこべに、お十夜のほうへ、一、二寸ずつ迫ってくる。

前にもいったように、お綱のうしろは廊下の行き詰りで、左右は、居間と書院の<ruby><rb>檜戸</rb><rt>ひのきど</rt></ruby>だ。逃げようとて逃げられる場所ではない。お綱の身は、今こそ、お十夜の爪にかきむしられるか、その<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>をもぎとられて、かれに心臓を刺されるか、<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>は二つを出ないのである。

死ぬのがましか。どうあろうと、助かるのがまだしもか。誰が！　こんな男にゆるすものか。お綱はそう思うほど強くなった。

けれど孫兵衛は、ひとかどの男さえ、歯の立たない<ruby><rb>丹石流</rb><rt>たんせきりゅう</rt></ruby>の達者だ。なんで、女の<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>に、身を<ruby><rb>掠</rb><rt>かす</rt></ruby>らせるような隙があろう。<ruby><rb>獣情</rb><rt>じゅうじょう</rt></ruby>と殺気に、らんらんと燃える<ruby><rb>眼</rb><rt>まな</rt></ruby>ざしをして、ジリジリ……となおも彼女の手元へよってきた。

ええ、<ruby><rb>口惜</rb><rt>くちお</rt></ruby>しい！

お綱は、唇をかみしめ、匕首の<ruby><rb>切</rb><rt>き</rt></ruby>ッ<ruby><rb>尖</rb><rt>さき</rt></ruby>をブルブルさせた。けれど、ともすると、孫兵衛の体が、それを<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>ってきそうになるので、一足<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>き、二足さがり、いよいよ袋廊下の壁ぎわまで攻めつけられてしまった。

「もうだめだ！」

心の奥で叫びをあげた。と一緒に、彼女の心は意気地なく<ruby><rb>萎</rb><rt>な</rt></ruby>えかけたが、ふとみると、お十夜は、何か<ruby><rb>物</rb><rt>もの</rt></ruby>の<ruby><rb>怪</rb><rt>け</rt></ruby>にでも逢ったように、一、二間ほど前で、急にじっとなったまま、寄りついてこなくなった。

なぜ！　というに。

お綱のうしろから、もの凄い顔をした、黒頭巾の男が、ぬッと、彼に見えたから――

「あっ……」

お十夜の<ruby><rb>情血</rb><rt>じょうけつ</rt></ruby>がいっぺんに冷たくなった。残ったのは兇暴な殺気だけだ。彼は、女のうしろから、ヌッと<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いた男を、そも、誰かと、五体を<ruby><rb>硬</rb><rt>こわ</rt></ruby>ばらしている……。

お綱には、うしろをかえりみる余裕がなかった。

よもや、自分のうしろから、そんな男が見えたために、<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>が二の足をふんだとは知らない。ただ一念に、<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>を<ruby><rb>逆手</rb><rt>さかて</rt></ruby>にかまえ、最後の心支度をして待った。

刻……一刻、穴のような闇に、二人の、息づかいだけが数えられる。

そのうちに、お十夜が、

「おウ……」とかすかな<ruby><rb>唸</rb><rt>うめ</rt></ruby>きをもらした。

かれが、<ruby><rb>脅</rb><rt>おびや</rt></ruby>かされた向うの男は、どこからか、きわめてほのかにさす光線で、自分のかげを自分の目に映した一面の姿見なのであった。<ruby><rb>舶載物</rb><rt>はくさいもの</rt></ruby>であろう、幅二尺七、八寸、長さ五尺ほどな<ruby><rb>玻璃</rb><rt>ギヤマン</rt></ruby>の鏡――、それが、行きづまりの壁に、戸のようにはめこんであったのだ。

闇に馴れた目で、それを知ると孫兵衛は、なんのこったといわんばかりの様子、前にもまして、猛然と、ふたたび、お綱へ迫ってきた。

途端に、お綱。

「ちくしょうッ！」

命がけの匕首をふるッて、かれの<ruby><rb>脾腹</rb><rt>ひばら</rt></ruby>を狙ってきた。

「ええ、<ruby><rb>往生際</rb><rt>おうじょうぎわ</rt></ruby>の悪い女だッ」

孫兵衛は苦もなく身を避けた。そして、お綱の手くびをつかみ止め、<ruby><rb>手強</rb><rt>てづよ</rt></ruby>く<ruby><rb>捻</rb><rt>ねじ</rt></ruby>り<ruby><rb>曲</rb><rt>ま</rt></ruby>げようとする。

「ちイッ」と、歯を食いしばるお綱の息！　振り動かす匕首と、お十夜の手が、同じ角度を幾たびも<ruby><rb>閃</rb><rt>ひら</rt></ruby>めいた。

「あっ<ruby><rb>痛</rb><rt>つ</rt></ruby>！」

不意に小指を<ruby><rb>咬</rb><rt>か</rt></ruby>まれたので、孫兵衛は女の胸をドンと突き放した。

ヨロヨロとあおむけになったお綱は、思わず、うしろの鏡へ手をついた。――とたんに、壁はクルリと一転して、あっというまにお綱の体は、車返りにはねこまれて姿を消し、孫兵衛の前には、ただ冷たい鏡だけが立っていた。

<ruby><rb>掌</rb><rt>て</rt></ruby>のうちの玉を見失って、あッ気にとられた孫兵衛は、

「や？　<ruby><rb>龕燈返</rb><rt>がんどうがえ</rt></ruby>し――」

泳ぐように壁ぎわへきて、その<ruby><rb>大鏡面</rb><rt>だいきょうめん</rt></ruby>をグンと押してみた。

すると、鏡は自然に壁を離れて、くるりと廻る仕掛になっている。

孫兵衛も、うッかりすると、その中へはねこまれそうになったが、はっと驚いて身を<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>いた。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんどう</span>返しと呼ぶ非常口は、武家屋敷の主人の居間近くには、必ずどこかに伏せられてあると聞いたが、当時、珍しい<ruby><rb>南蛮渡</rb><rt>なんばんわた</rt></ruby>りの大鏡を壁にはめこんで、そこから一体どこへつづいているのだろう。

「うぬ、ここまで追いつめて、逃がして堪るものか」

彼は、も一度それへ手をかけた。すると、

「あぶのうござるぞ」

不意に後ろで声がした。

同時に、なれなれしく肩に手をかけて、

「はははは。うッかりその鏡の裏を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>き召さるな。鏡の裏は<ruby><rb>奈落</rb><rt>ならく</rt></ruby>の闇、ドーンとはねこまれたが最後でござるぞ」

嘲笑をふくんでいう者がある。あっ、誰かと驚いて、孫兵衛、ヒョイとふりかえってみると、例の総髪の若侍、旅川周馬という男だ。

周馬は、とにかく屋敷の<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>である。どこから出てこようと不審ではないが、お十夜はさすがにちょっと戸まどいをして、<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>の言葉が見つからない。

「孫兵衛殿」

かれはすでにお十夜の名まで知っていた。ニヤリと皮肉な笑い方をして、

「とうとう<ruby><rb>塀</rb><rt>へい</rt></ruby>をのり越えてまいられたな。なかなかお忍びがお上手なもので、周馬感服しましたわい。それはいいが、鏡の裏へ呑まれたお綱、ありゃそこもとの妻だと仰せられたが、嘘でござろう、分っている。はははは、お互いにな、強情な女には手を焼くものでござるて」

何もかも呑みこんでいるような口ぶり、若いくせに、年よりじみた言葉づかいで、さっさと、書院の戸を開けて、スッと中へ入りながら、

「お綱は<ruby><rb>質</rb><rt>しち</rt></ruby>にとりましたぞ、この周馬がな。ところで、あとのご相談、どういうご希望があらっしゃるか、ここで聞こうじゃござらぬか」

カチッ、カチッ……と<ruby><rb>燧石</rb><rt>ひうちいし</rt></ruby>をすりながら、書院の中でいっている。やがて、ぼうと灯がついて、あたりへ<ruby><rb>燻</rb><rt>くす</rt></ruby>んだ灯影が流れてきた。

「お入りなされ、お十夜殿」

いよいよいけない。<ruby><rb>足許</rb><rt>あしもと</rt></ruby>を<ruby><rb>見透</rb><rt>みすか</rt></ruby>している。

孫兵衛も、こいつは少し<ruby><rb>苦手</rb><rt>にがて</rt></ruby>なやつだと思った。<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>め立てをするとか、いきり立って斬りかかるとかいう奴は、かれにとって、まだ<ruby><rb>扱</rb><rt>あしら</rt></ruby>いいいが、いやにねッとりした旅川周馬、白いのか黒いのか、腹の底が知れないので、しばらく<ruby><rb>閾</rb><rt>しきい</rt></ruby>をふみかねていた。

「ご遠慮はない、ここは周馬の居間でござる。拙者はどうでもよろしいが、お綱を質に取られたままでは、そこもとの立場として、まさか、このままお帰りになれますまい。受け出すか、お流し召さるか、ご相談があろうというもの。さ、さ、ずっとこちらへ――」

「ウム！」と孫兵衛、余儀なく大きく<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いて、ズッとそこへ引っ<ruby><rb>提</rb><rt>さ</rt></ruby>げ刀で入りこんだ。

「いかにも、お綱を申しうけて帰りたいが、まさか、鏡の裏から屋敷の外へなど、抜け道があるのではあるまいな」

「お案じなさるまい。只今も申したような奈落の闇、逃げてくれればまだよいが、悪くすると、あのまま、息が絶えたかもしれぬ」

「えっ！」

死なしてしまっては玉なしである。お十夜はやや<ruby><rb>狼狽</rb><rt>ろうばい</rt></ruby>して、また鏡のところへ立とうとすると、周馬は、人の悪い<ruby><rb>薄</rb><rt>うす</rt></ruby>ら<ruby><rb>笑</rb><rt>え</rt></ruby>みを浮かめて、

「したが、まアお待ちなされ、生死のところは、いずれこの周馬が後に見届けてまいるであろう。その前に、そこもとのご希望を一つ……いやなに、それは伺うまでもなかった。つまり、お綱を手に入れたいご一念、問うだけ野暮でござりますな。いや<ruby><rb>万々</rb><rt>ばんばん</rt></ruby>承知いたしてござる。じゃあ、こんどは一つ、拙者側の注文を申し出よう、それをきいて貰わにゃならぬ」

「うむ、お綱を身どもに渡すかわりに……？」

「さよう、貴殿にお頼みがござるので」

「話によっては引きうけよう」

「お<ruby><rb>嫌</rb><rt>いや</rt></ruby>ならば、なアに別に、無理とは申さぬ。ただ、お綱があのまま、ふたたび息を吹っかえさぬだけのことに終るので」

「ま、とにかく、そちらの希望を、承ろう」

孫兵衛をじらしておいて、

「では言いましょう」と、旅川周馬、悪賢い目で、<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>ごしにお十夜の顔を見つめた。

## 悪玉と悪玉

「それは、つまり……」

と、旅川周馬、

「ほかでもないが、そこもとの得意なものを、お借り申せばよろしいので」

「身どもの得意なものを？」

お十夜は<ruby><rb>解</rb><rt>げ</rt></ruby>しかねた<ruby><rb>面</rb><rt>おも</rt></ruby>もちである。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんどう</span>返しの<ruby><rb>穽</rb><rt>おと</rt></ruby>し<ruby><rb>穴</rb><rt>あな</rt></ruby>に<ruby><rb>墜</rb><rt>お</rt></ruby>ちた、お綱の身を<ruby><rb>質</rb><rt>しち</rt></ruby>にとって、その交換条件に、得意なものをかせとは、一体なんのことかしら？　……と旅川の顔をみつめ返した。

「さよう」

周馬は悪く落ちついて、

「そこもとのお得意といえば、<ruby><rb>裏書</rb><rt>うらがき</rt></ruby>していうまでもなく、そこにお持ちの助広で」

「うむ？」

「人を殺していただきたいのじゃ」

「なるほど」と、思わずうなずいてしまったが、孫兵衛はおどろいた。この周馬のやつ、いつのまに、おれの辻斬り<ruby><rb>稼</rb><rt>かせ</rt></ruby>ぎをしていることや、刀の<ruby><rb>銘</rb><rt>めい</rt></ruby>までみていたのだろう？

「どうでござる。ウンと一つ呑みこんでは」

「まず、ゆるりと、考えてみた上にいたそう」

「いかにも、安受け合いは頼もしくない、どうぞごゆるりと、<ruby><rb>算盤</rb><rt>そろばん</rt></ruby>をとってごらんなさるがよい」

「なかなか念入りなお頼みだ」

「どうして、こちらでは、これでも至って、手軽な注文をつけたつもりなので……」と<ruby><rb>銀延</rb><rt>ぎんのべ</rt></ruby>の<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>をだし、<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>の<ruby><rb>灯口</rb><rt>ほぐち</rt></ruby>から、周馬は、すぱりと一服吸いつけながら、

「それをご承知下さるなら、鏡の裏へ落ちこんだお綱の体は、このほうが必ずお渡しいたすであろう。嫌と仰せあらば、それまでのこと、まず物別れとなるよりしかたがありますまい。したがって、お綱の生死、この周馬には責任もなし、或いは、妙な<ruby><rb>依怙地</rb><rt>えこじ</rt></ruby>になって、かえって、女の味方になり、よそへ逃がしてしまうかも知れませんて……とかく人間というやつ、その依怙地のほうへ曲りたがるものでしてな」

<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>り<ruby><rb>言</rb><rt>ごと</rt></ruby>のように、そそのかしたり、おびやかしたりするのである。

お十夜のような<ruby><rb>曲者</rb><rt>しれもの</rt></ruby>を、こう呑んでかかる旅川周馬には、邪智に富んだ一面があって、たえず、悪心が陰謀的に、また打算的に働く性格をもっている。

それに反して、孫兵衛の<ruby><rb>質</rb><rt>たち</rt></ruby>は、<ruby><rb>慓悍</rb><rt>ひょうかん</rt></ruby>なる一本気で、計画もなく<ruby><rb>衒</rb><rt>てら</rt></ruby>いもなく、本能にまかせて、悪を悪とも思わずに、なんでもやってのけようとする先天的なほうであった。

どっちも物騒きわまる人物だが、周馬を、江戸という都会型の悪党とみるならば、孫兵衛は、元<ruby><rb>阿波</rb><rt>あわ</rt></ruby>の<ruby><rb>原士</rb><rt>はらし</rt></ruby>であるところの、野性的な悪党だということができる。

この悪玉と悪玉。

妙なはずみで、お綱の体を渡すか渡さぬかの、<ruby><rb>懸引</rb><rt>かけひき</rt></ruby>くらべになってしまった。

けれど、三寸の舌先では、とても孫兵衛は周馬の敵ではない。まるで、さっきから、いやこの間、この屋敷の門前で逢った時から、<ruby><rb>翻弄</rb><rt>ほんろう</rt></ruby>されぬいているようなものだ。

「こましゃくれた青二才め」

お十夜はむっと<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>にさわっていた。

お綱を渡すも渡さぬもあるものか、面倒くさい、こいつから先に<ruby><rb>片</rb><rt>かた</rt></ruby>づけて、あの鏡の裏の穴蔵をあらためてみよう。

と――密かに殺気をふくんでいると、周馬はまた、<ruby><rb>薄</rb><rt>うす</rt></ruby>ッぺらな笑い方をして、

「だいぶご熟考でござりますな。ご決断はまだでござるか。はははは……<ruby><rb>造作</rb><rt>ぞうさ</rt></ruby>もないではござらぬか、辻斬り屋の孫兵衛殿が、一晩暇をつぶせば、それですむので」

「まあ、もう少々考えさせて貰いたい」

じらしてやろうという気と、隙を計る<ruby><rb>心支度</rb><rt>こころじたく</rt></ruby>とで、孫兵衛は、<ruby><rb>上眼</rb><rt>うわめ</rt></ruby>づかいに腕ぐみをしていた。

「さようか、夜が長うござるから、お考えもゆるゆるでよろしかろう。しかし、<ruby><rb>煎</rb><rt>せん</rt></ruby>じつめた話が、そこもとの運命は、つまりお綱と似たり寄ったりなもので、この周馬の手に握られてしまったのだ。イヤまったく、<ruby><rb>偽</rb><rt>いつわ</rt></ruby>りのないところじゃ。命と惚れた女がほしいなら、孫兵衛先生、ウンとご承知あるよりほかに行き道はありませんぜ」

いい終るのを待たず、お十夜が、

「えい、生意気なッ！」

とつかみとった助広の一刀。

脇の下に<ruby><rb>鍔</rb><rt>つば</rt></ruby>を抱き、サッと抜き打ちに、相手の<ruby><rb>眉間</rb><rt>みけん</rt></ruby>へ斬りつけると、

「おッと、あぶない！」

と、旅川周馬、手をつかえて身をかわし、<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>の<ruby><rb>雁首</rb><rt>がんくび</rt></ruby>を<ruby><rb>青眼</rb><rt>せいがん</rt></ruby>の構えにとって、

「――なるほど、そいつが丹石流か、これじゃお綱も嫌うだろう、よし給えよ、そんな<ruby><rb>野暮</rb><rt>やぼ</rt></ruby>は……」

腰も浮かさずにひやかした。

冷やかされたので、お十夜の<ruby><rb>怒気</rb><rt>どき</rt></ruby>は、ムラムラと燃えた。

「周馬！」

と<ruby><rb>睨</rb><rt>ね</rt></ruby>めて、片膝をたて、

「ふざけやがッて！　この孫兵衛を甘くみたな。お綱はもとよりおれの女だ。渡してやるもやらねえもあるものか」

助広の<ruby><rb>鎬</rb><rt>しのぎ</rt></ruby>に、<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>の灯をギラギラとよじらせながら、その<ruby><rb>切</rb><rt>き</rt></ruby>ッ<ruby><rb>尖</rb><rt>さき</rt></ruby>を、周馬の鼻ッ先へ寄せて行った。

「――さ、お綱をつれて<ruby><rb>帰</rb><rt>けえ</rt></ruby>るんだから、鏡の裏の穴蔵へ案内しろ！　イヤの応のといやあ真ッ二つだからそう思え」

「冗談いっちゃいけない」

煙管を構えて、旅川周馬、五、六寸ほど<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>ずさりして、

「そんな刀を引ッこぬいて、こけ<ruby><rb>脅</rb><rt>おど</rt></ruby>しをする貴様の方が、よッぽど甘くみている。そりゃ、腕にかけたら、貴様の方が強いだろう。しかし、ここは甲賀組の<ruby><rb>墨屋敷</rb><rt>すみやしき</rt></ruby>、おまけに悪智にたけた周馬様がお住みの家だ、どんなカラクリがしてあるか、よく<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>や足もとを見廻してから、手出しをするならするがいいぞ」

と、いわれたので、お十夜もぎょッとした。

みると周馬の左の手が、いつのまにか、部屋の<ruby><rb>角柱</rb><rt>すみばしら</rt></ruby>に伸びていて、そこにある<ruby><rb>鈎</rb><rt>かぎ</rt></ruby>のようなものへ指をかけている。

「引くぞ、こいつを」

周馬は相手の眼色に、そのうろたえを察しながら、

「<ruby><rb>床板</rb><rt>ゆかいた</rt></ruby>ぐるみ奈落へ行くか、上の天井がズンと落ちてくるか、一つ仕掛けの種明しをやって見せてもいい。だが、そんなことで命を無駄にするのももったいないじゃないか。ええ、お十夜。まだお互に、これから花も<ruby><rb>実</rb><rt>み</rt></ruby>も結ぼうという悪党同士だ、そう<ruby><rb>怖</rb><rt>こわ</rt></ruby>い<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>をしておらずに、周馬の相談に乗るほうが<ruby><rb>得策</rb><rt>とくさく</rt></ruby>だろう」

「ウーム……」と、さすがな孫兵衛も、やや薄気味わるくなって、抜いた助広のヤリ場がなくなってしまった形。

いうまでもなく、この部屋には、なにか危険なカラクリ<ruby><rb>普請</rb><rt>ぶしん</rt></ruby>がしてあるのだ。さもなくて、自分の口から、腕ではかなわぬと告白している周馬が、アア落ちつきはらっていられるものではない。

と、周馬は、相手のひるんだ色を、すぐ心に読んできて、その足もとへまた<ruby><rb>懸合</rb><rt>かけあ</rt></ruby>いをもちだした。

「まず、その刀を<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>いてはどうだ、<ruby><rb>分</rb><rt>ぶ</rt></ruby>の悪い相談ならともかく、この周馬が、貴様に殺してくれと頼むのは、そッちに取っても、遅かれ早かれ、生かしておけぬ奴なのだ……。してみれば、まんざら他人のためばかりじゃない、その上に、ウンといって手を貸してくれれば、お綱を渡そうという条件ではないか。こんな割のいい仕事を振られて、<ruby><rb>野暮</rb><rt>やぼ</rt></ruby>な刀をふり廻すなどとは、さてさて頭の悪い悪党だ」

「ふウム、じゃ何か……そっちで殺してくれという奴は、俺にとっても<ruby><rb>仇</rb><rt>あだ</rt></ruby>のある人間なのか」

「さよう。二人にとって、生かしておけぬ男なのだ」

「というのは……どうも俺には見当がつかねえ。一体誰だ？」

「実を申すと、この周馬の<ruby><rb>恋仇</rb><rt>こいがたき</rt></ruby>でな」

「けッ、ばかにするなッ」

「怒るまい――。拙者にとっても恋仇だが、そっちの身にも恋仇にあたるやつ。それは<ruby><rb>法月弦之丞</rb><rt>のりづきげんのじょう</rt></ruby>！　いくら頭のわるいそこもとでも、この名を忘れてはおるまいが」

「ヤ、弦之丞を？」

「どうかして殺したい！　手を砕いても、きゃつを<ruby><rb>亡</rb><rt>な</rt></ruby>きものにせねばならぬ」

「ウーム、そうか！　相手が法月弦之丞なら、この孫兵衛も手を貸してやろう」

「そうだろう、イヤ、そう来なければならぬ筈だ。あいつに息がある間は、一生涯、<ruby><rb>脅</rb><rt>おびや</rt></ruby>かされていなければならぬ、この周馬と同様に、貴様にとってもお綱の恋仇、頼まれないでも、急に殺したくなってきたに違いない」

「そうならそうと、最初から相手の名をいえば、おれだって、こんな<ruby><rb>刀</rb><rt>もの</rt></ruby>は抜きゃあしねえ」

と、孫兵衛は助広を<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>に戻して、

「だが、お<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>の恋仇とは初耳だ。一体、そっちの恨みという事情は……？」

「それは一<ruby><rb>朝</rb><rt>ちょう</rt></ruby>一<ruby><rb>夕</rb><rt>せき</rt></ruby>に話せぬが、つまるところ、お千絵という<ruby><rb>世阿弥</rb><rt>よあみ</rt></ruby>の娘も、弦之丞に思いをよせて、あいつに逢うのを一念で待っているのだ」

「そのお千絵に、お<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>が嫌われているという筋か」

「ちょうど、お身がお綱に嫌われているごとく」

「エエ、口が<ruby><rb>減</rb><rt>へ</rt></ruby>らねえ。だが、弦之丞という奴は、どこまで女に<ruby><rb>果報</rb><rt>かほう</rt></ruby>のある奴だろう」

「だから殺してしまうがいい」

「して、今の居所は？」

「あしたは江戸へ着くという所を、たしかに、拙者がつきとめている」

法月弦之丞が江戸へ帰る！

これは、旅川周馬にとって、まことに、<ruby><rb>由々</rb><rt>ゆゆ</rt></ruby>しい<ruby><rb>脅威</rb><rt>きょうい</rt></ruby>である。

かれは今、世阿弥の残した秘財と、美しいその息女とに、<ruby><rb>色慾</rb><rt>しきよく</rt></ruby>の<ruby><rb>二道</rb><rt>ふたみち</rt></ruby>かけて、さまざまな<ruby><rb>画策</rb><rt>かくさく</rt></ruby>をやりぬいている最中だ。

そのお千絵様はどこにいるか？

その財宝とは何をさすのか？

これはひとり周馬の黒い腹の中にあることで、もとより、お十夜などには、おくびにも洩らす筈がない。

かれはただ、この<ruby><rb>凄腕</rb><rt>すごうで</rt></ruby>のある孫兵衛――丹石流の<ruby><rb>据物斬</rb><rt>すえものぎ</rt></ruby>りに、<ruby><rb>妖妙</rb><rt>ようみょう</rt></ruby>な<ruby><rb>技</rb><rt>わざ</rt></ruby>をもつお十夜を、うまく利用しようというつもりなのである。

で、この間うちから、ここへ来ているお綱を、孫兵衛がつけ廻しているのも知っていながら、わざとそしらぬ顔をして、すべての様子を<ruby><rb>察知</rb><rt>さっち</rt></ruby>した上、予定どおり、巧みに孫兵衛を抱きこんでしまった。

しかし。

お十夜とて、一<ruby><rb>筋縄</rb><rt>すじなわ</rt></ruby>でいく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しれ</span>者ではない。かれがお綱の口から法月弦之丞という名を洩らされていなかったら、おそらく、周馬の舌も<ruby><rb>操</rb><rt>あやつ</rt></ruby>ることがむずかしかった。

ところが、相手という者が、お綱の恋する弦之丞――ときいて、彼の心がにわかに変ったのである、すぐに<ruby><rb>加担</rb><rt>かたん</rt></ruby>する気になった。

「よし！　おれが<ruby><rb>殺</rb><rt>ばら</rt></ruby>してやろう」

その言葉に、<ruby><rb>多寡</rb><rt>たか</rt></ruby>をくくった調子が十分にあった。で、今度は、周馬が大事をとって、

「待ちたまえ」

と、かれの<ruby><rb>暴虎</rb><rt>ぼうこ</rt></ruby>の勇を押さえた。

「なんで⁉」

「<ruby><rb>下手</rb><rt>へた</rt></ruby>をやると失敗する。なにせよ法月弦之丞は、<ruby><rb>夕雲</rb><rt>せきうん</rt></ruby>流の使い手で、江戸の剣客のうちでも鳴らした腕前、さよう……貴公と拙者と二人がかりで、やッとどうかと思われるくらいだ」

「ほほう、夕雲流をやるやつか……」これは孫兵衛の初めてしるところだった。イヤ、その人となりのみならず、お十夜は、まだ今日までの間に、弦之丞という者に、面接したことがないのである。

もとより、その腕前が、どれほどなものか、尺度は周馬の話でも分らない。

とにかく、<ruby><rb>撰</rb><rt>よ</rt></ruby>りに<ruby><rb>撰</rb><rt>よ</rt></ruby>った悪玉と悪玉とが、この夜、手を結んだのは、弦之丞の身にとって、怖るべき不幸の<ruby><rb>兆</rb><rt>ちょう</rt></ruby>だ。

「では仲なおりに――」

と、話<ruby><rb>半</rb><rt>なか</rt></ruby>ばに、周馬はその部屋から立ち上がって、

「どこかへまいって一杯<ruby><rb>酌</rb><rt>や</rt></ruby>ろう。細かい話や、あしたの<ruby><rb>手筈</rb><rt>てはず</rt></ruby>は、そこで飲みながらのことと致して」

「だが、待ってくれ」

お十夜は出渋った。

「お綱は一体どうなったんだ？」

「死にはしまい……、ただし、気絶ぐらいはしているかもしれないが」

「じゃ、なんとか手当をしておかなくっちゃ……」

「ご無用ご無用、今にひとりでに気がつくであろう。また気がついたところで、逃げられる気づかいのない穴蔵だ」

スタスタと廊下を先に歩きだした。

お十夜の方は、まだ幾らか、お綱に気がかりを残すらしかったが、ぜひなく、周馬についてそこを出る。

玄関へ出るのかと思っていると、そうではなかった。

真っ暗な、奥の一間へ入って、<ruby><rb>床脇</rb><rt>とこわき</rt></ruby>の壁をギーと押した。壁に<ruby><rb>蝶番</rb><rt>ちょうつが</rt></ruby>いがついていて<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>くのである。と、床下へ向って深く、石の段がおちこんでいる。

二人の影がそこへ消えた。

表構えを釘づけにしてあるとみせて、周馬は、たえずここから出入りしているものらしく、馴れた足で、まっ暗な道を、サッサと先に歩いてゆく。

と。――星がみえ、木の葉が見えて、やがて数十歩で出た所を見廻すと、お茶の水の崖である。

## <ruby><rb>日蔭</rb><rt>ひかげ</rt></ruby>の花

「あ……っ……」

と、かすかに動いた影がある。

お綱は、やっと意識づいた。――気がついて、ジッとあたりを見廻したが、そこは、音もなく、光もない、まったくの暗黒。

どこへ――という気もなく、お綱は、よろりと立ち上がった。

「オオ、どうしたのだろう……私は？　私は？　――ああ、<ruby><rb>墜</rb><rt>お</rt></ruby>ちたのだっけ！　妙な所へ」

何物へか触れようとして、泳ぐように歩きだしたお綱は、墜ちた時の体の痛みに、思わずそこへ仆れてしまった。

だが、痛くなかった。

そこには畳が敷いてある。プーンと、<ruby><rb>湿</rb><rt>しめ</rt></ruby>っぽい<ruby><rb>煤</rb><rt>すす</rt></ruby>の匂いが鼻をうった。そして、どうやら<ruby><rb>伽藍</rb><rt>がらん</rt></ruby>のように広い部屋だという気がした。

<ruby><rb>深々</rb><rt>しんしん</rt></ruby>と、毛の根のしまる寒さと、所々、骨ぶしの痛むのをこらえながら、かれはまた、暗黒の部屋を探りだした。

けれど、そこは、<ruby><rb>手探</rb><rt>てさぐ</rt></ruby>りで<ruby><rb>測</rb><rt>はか</rt></ruby>りきれないほどな広さであった。<ruby><rb>畳</rb><rt>たたみ</rt></ruby>数にしたら、およそ七、八十畳も敷けているかと思われる。

太い<ruby><rb>角柱</rb><rt>かくばしら</rt></ruby>にさわった――八寸角ぐらいの堅い柱である。

また、氷のように冷たい羽目板も撫で廻した。二<ruby><rb>間</rb><rt>けん</rt></ruby>おきに柱があり、また羽目板がつづいていた。

こうして、グルリと一巡探ってみると、この部屋は、目鼻のない顔のごとく、障子もなければ出口もなく、無論、床の間とか書院窓のような造作もない。

「アア、やっぱりここは、屋敷の<ruby><rb>地底</rb><rt>ちぞこ</rt></ruby>へ建てた隠し部屋に違いない……」

冷静にかえると同時に、ふだんのお綱に戻ったかれは、その時、初めてハッキリと、自分の居場所が分ってきた。

そして何やら、カラリと、足にふれて鳴った物がある。手を伸ばしてみると<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>だ！　自分が鏡の裏からここへ<ruby><rb>墜</rb><rt>お</rt></ruby>ちた時まで、握りしめていたあの匕首だ。

こんな場合、<ruby><rb>刃物</rb><rt>はもの</rt></ruby>というものは、不思議な強味を与えるのである。お綱は、それを拾って、暗闇の畳の上へ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">く</span>の字形に体を投げた。

「――<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>いたところで、しようがありゃしない」

自分で自分の心にいいきかせるように。

「ジッと落ちついていれば、そのうちになんとかいい智慧もあろうというものさ……。眼が馴れてくれば暗闇でも見えるというし、夜が明ければどこからか、少しぐらいな明りが射してくるかも知れない」

こう思い決めるとともに、努めて、無駄に疲れまいと心がけた。いたずらに心身を疲らしてしまうことが、何より恐ろしいことだ、という点に気がつくほど、お綱は、取り乱していなかった。

と……。お綱の澄みきった神経が、やがて、不思議なものを感じてきた。

目に感じたものでもなく、耳から感じたものでもない。どこからともなく、忍びやかに、きわめてほのかに、プーンと<ruby><rb>薫</rb><rt>かお</rt></ruby>ってきた<ruby><rb>得</rb><rt>え</rt></ruby>ならぬ香気なのである。

「おや？　……」

かれは、ハッとしてあたりの闇を見廻した。

身動きをしてすら、その<ruby><rb>妙</rb><rt>たえ</rt></ruby>な<ruby><rb>薫</rb><rt>かお</rt></ruby>りは、掻き消えてしまいそうにかすかであった。

しかし、お綱は、その一脈の芳香に、全身の神経をあつめて不思議に思った。こんな地底の穴蔵に、あり得べからざるいい<ruby><rb>匂</rb><rt>にお</rt></ruby>いが、一体、どこから流れこんでくるのだろう？　……と。

惑うているまにも、お綱は、あまりに好ましい香気に、酔わされるような、<ruby><rb>溶</rb><rt>と</rt></ruby>けゆくような気持になった。その香気は、<ruby><rb>日向</rb><rt>ひなた</rt></ruby>に<ruby><rb>蒸</rb><rt>む</rt></ruby>れる<ruby><rb>薫梅</rb><rt>くんばい</rt></ruby>のような陽香ではない。ちょうど、日かげにつつましく<ruby><rb>匂</rb><rt>にお</rt></ruby>っている<ruby><rb>丁子</rb><rt>ちょうじ</rt></ruby>の花を思わせる陰香である。

いつのことであったか。

お綱は、<ruby><rb>挿花</rb><rt>はな</rt></ruby>の師匠になりすまして、さるお屋敷の<ruby><rb>聞香</rb><rt>ぶんこう</rt></ruby>の席にまじっていたことがある。

その時、<ruby><rb>雁金香</rb><rt>かりがねこう</rt></ruby>であるとか、菊水であるとか、新月、<ruby><rb>麝香木</rb><rt>じゃこうぼく</rt></ruby>などと、おのおのが自慢に<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>くのを眺めて、まア、この人たちは、なんというばかばかしい<ruby><rb>悠長</rb><rt>ゆうちょう</rt></ruby>な遊びをしているのだろう、小判を欠いて<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>くような、たかい名香を煙にするくらいなら、<ruby><rb>骨牌</rb><rt>カルタ</rt></ruby>でもしたらよかろうに、と隅であくびを噛んでいたことであった。

で――この匂いを、<ruby><rb>何香</rb><rt>なにこう</rt></ruby>とさぐり当てる力はないまでも、それに近い物の薫りだ、というだけは確かめられた。

それはそれと分ったが、さて、誰が？　どこで？　このいい匂いをたてているのか――となると、<ruby><rb>皆目</rb><rt>かいもく</rt></ruby>判断がつかなくなる。

お綱は、も一度、<ruby><rb>眸</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>をこらして見廻した。

しかし何べん見ても、そこ一面は、やはり厚ぼったい闇が<ruby><rb>陰湿</rb><rt>いんしつ</rt></ruby>にこめてあるのみだ。

と。お綱の目が、向うの隅へ、はッと、吸いつけられたのである。

<ruby><rb>暗</rb><rt>あん</rt></ruby><span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たん</span>たる中に、ツウ――と赤い、一筋の光がみえた。まさに<ruby><rb>無明</rb><rt>むみょう</rt></ruby>の底から<ruby><rb>碧落</rb><rt>へきらく</rt></ruby>を仰いだような狂喜である。お綱は、われを忘れて闇を泳いだ。

そこへ駈け寄ってみると、いよいよ<ruby><rb>香</rb><rt>か</rt></ruby>ぐわしい匂いが強く感じられた。細い明りは、隅の太柱と羽目板との境の、わずかな隙間から洩れている。

<ruby><rb>丁子</rb><rt>ちょうじ</rt></ruby>の<ruby><rb>薫</rb><rt>かお</rt></ruby>るに似た香煙も、その隙から、忍びやかに流れてくるのだ。お綱は、この板壁の向うにいるのが、何者であろうと考えてみる余裕もなく、

「おっ、誰かいる！」

<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>の<ruby><rb>柄</rb><rt>え</rt></ruby>を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みずおち</span>に当てて、力いっぱい、板壁を<ruby><rb>突</rb><rt>つ</rt></ruby>いてみた。だが、<ruby><rb>欅</rb><rt>けやき</rt></ruby>かなんぞの厚板とみえて、刃物の<ruby><rb>尖</rb><rt>さき</rt></ruby>がツウ！　と<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>った。

「あ、これを折っては……」と、匕首の<ruby><rb>尖</rb><rt>さき</rt></ruby>を<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>かしてみたが、折れていなかったのでホッとした。

偶然、この短い<ruby><rb>刃金</rb><rt>はがね</rt></ruby>を握って離さなかったのが、奈落をのがれるただ一つの活路である。お綱は、そう思って、鉄のような欅の羽目板に向い、こんどは、きわめて大事をとりながら、サクリ、サクリ……と<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>でも彫るようにえぐり始めた。

白い短刀の切ッ<ruby><rb>尖</rb><rt>さき</rt></ruby>から、削らるる<ruby><rb>木屑</rb><rt>きくず</rt></ruby>が、シュッシュッと顔や胸へ散ってくる。かれは知らず知らず一心になれた。そして、一寸一寸と、彫りこまれてゆくのが、自分の最善な<ruby><rb>活</rb><rt>い</rt></ruby>き<ruby><rb>路</rb><rt>みち</rt></ruby>であるように信じられてきた。

と。さすがに鉄壁のような欅張りも、ようやく、<ruby><rb>眸</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>の<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>かれるぐらいな穴が彫れた。サクリッ……とえぐりこんだ短刀の肌に、<ruby><rb>淡明</rb><rt>うすあか</rt></ruby>りがだんだんと濃くなった。

そこで、お綱は、初めて、しぼるような汗の<ruby><rb>冷々</rb><rt>ひやひや</rt></ruby>と肌をぬらしているのに、ホッと息をついて、乱れ毛を耳の根へなでつけたのである。

「誰だろう？　こんな所に住んでいるのは」

初めて、<ruby><rb>疑惑</rb><rt>ぎわく</rt></ruby>をもつだけの余裕がでた。<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>の刃を<ruby><rb>手裏</rb><rt>てうら</rt></ruby>にして、ジッとえぐりこんだ穴へ眼をあてて覗いてみると、――おお、まさしく、そこには、お綱の想像もしなかった景色が<ruby><rb>深沈</rb><rt>しんちん</rt></ruby>と、不可思議なる夜の底に沈まれてあったのだ。

どうだろう！

そこにはありありとして二人の婦人がいたのである。

部屋は、お綱のいる所の、暗<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たん</span>たる板と柱の穴蔵と違い、普通と変らぬ部屋づくり、むしろ、<ruby><rb>美々</rb><rt>びび</rt></ruby>しい結構である。

<ruby><rb>金砂子</rb><rt>きんすなご</rt></ruby>の袋戸棚、<ruby><rb>花梨</rb><rt>かりん</rt></ruby>の<ruby><rb>長押</rb><rt>なげし</rt></ruby>、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うんげん</span>べりの畳――そして、<ruby><rb>淡</rb><rt>あわ</rt></ruby>き<ruby><rb>絹行燈</rb><rt>きぬあんどん</rt></ruby>の光が、すべてを、春雨のように濡らしている……。

その<ruby><rb>床</rb><rt>とこ</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に向って、<ruby><rb>﨟</rb><rt>ろう</rt></ruby>たけた一人の<ruby><rb>女性</rb><rt>にょしょう</rt></ruby>が黒々とした髪をうしろにすべらかし、ジッと合掌したまま、作りつけた人形のごとく、或いはこの部屋のまま、この<ruby><rb>灯</rb><rt>ほ</rt></ruby>かげのともったまま、ミイラになっているのではないか？　……と思われるほど、動かずにいるのである。

その<ruby><rb>側</rb><rt>わき</rt></ruby>には、また、もう一人の女がいた。

両手をついて、合掌している女性のごとく、これも果てしなくうつむいている。<ruby><rb>縷々</rb><rt>るる</rt></ruby>としてのぼるのは香の煙である。

糸より細い煙のすじが、床の<ruby><rb>香炉</rb><rt>こうろ</rt></ruby>から夢のように立っている。そして、日蔭の<ruby><rb>丁子</rb><rt>ちょうじ</rt></ruby>に似るゆかしい香りが板一重を隔てたお綱をも<ruby><rb>酔</rb><rt>え</rt></ruby>わせて、恍惚と、身のある所を忘れさせる。

「ああ、誰だろう……？　ここは一体どこなのであろう？」と、お綱の頭脳がその時、一心に考え迷った。

と一緒に、かれの記憶を、ピーンとよみがえらせたのは。

お<ruby><rb>千絵</rb><rt>ちえ</rt></ruby>様？

その人の名であった。

「たみや……」

ひッそりとした<ruby><rb>静寂</rb><rt>しじま</rt></ruby>のなかに、鈴をふるような声がした。<ruby><rb>床</rb><rt>とこ</rt></ruby>に向って、名香を<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>き、石のごとく目を閉じていた<ruby><rb>﨟</rb><rt>ろう</rt></ruby>やかな<ruby><rb>女性</rb><rt>にょしょう</rt></ruby>――その人の口から、やがて、低く洩れた言葉なのである。

「はい」

<ruby><rb>侍</rb><rt>かしず</rt></ruby>いて、手をつかえていた中年の女。心もち顔をあげて、ジッと、<ruby><rb>仕</rb><rt>つか</rt></ruby>えるお方の姿を見上げているうちに、何の意味か……ポロポロと<ruby><rb>畳</rb><rt>たたみ</rt></ruby>に落つる涙の音……。

女は、泣いているのである。

と。床に向っている<ruby><rb>女性</rb><rt>にょしょう</rt></ruby>の、うしろ姿も、ソッと涙を拭くらしい。

絹に<ruby><rb>漉</rb><rt>こ</rt></ruby>されるほのかな灯が、あたりを柔らかに照らしてはいるが、さすがに夜、ましてや地の底――、部屋の調度の<ruby><rb>美</rb><rt>うる</rt></ruby>わしさも、若い女性の住む所にある明るさも、すべてが、深沈とした鬼気にかき消されて、一味の<ruby><rb>凄</rb><rt>すご</rt></ruby>さ、というようなものさえ流れているかにみえる。

おっ。たしかに、お千絵様。

お綱は、胸をドキッとさせた。

そことは、板一重の穴蔵部屋で、やっと小指の入るくらいな隙まを作った所から、お綱は、息を殺して<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いている。

そして、その人こそ、お千絵様にまぎれのない方――と思いながら、お綱は、何とは知らずゾーッとして、髪の毛から足の先まで、全身の血が、凍ってくるかのような心地をおぼえた。

<ruby><rb>凄</rb><rt>すご</rt></ruby>いといって、生れてから、こんな凄い気がしたことはない――と、お綱は後で、万吉にもしみじみ話したことである。

でも、じっと、息をひそめて覗いていると。

「たみや……」

夜の淋しさに堪えぬかのようにまたこう呼んで、若い<ruby><rb>女性</rb><rt>にょしょう</rt></ruby>は、はふり落つる涙をふく。

凄いとみれば、<ruby><rb>円山応挙</rb><rt>まるやまおうきょ</rt></ruby>の美女の<ruby><rb>幽精</rb><rt>ゆうせい</rt></ruby>。チリにもふれぬ深窓の処女とみれば、<ruby><rb>花水仙</rb><rt>はなすいせん</rt></ruby>の気高さを思わせる姿である。その女性こそ、甲賀家の家付きの娘、お千絵様なのであった。

かかる冬の<ruby><rb>冷々</rb><rt>ひえびえ</rt></ruby>とするのに、下には色地の<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>をみせているが、上には、<ruby><rb>白絖</rb><rt>しろぬめ</rt></ruby>の雪かとばかり白い<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かいどり</span>を着て、うるしの<ruby><rb>艶</rb><rt>つや</rt></ruby>をふくむ黒髪は、根を<ruby><rb>紐結</rb><rt>ひもむす</rt></ruby>びにフッサリと、<ruby><rb>曲下</rb><rt>わさ</rt></ruby>げにうしろへ垂れている。

「お嬢様……」

同じように、涙の目をふいて、側の女が静かに手を伸べると、お千絵はその<ruby><rb>掌</rb><rt>て</rt></ruby>へ、ま白な珠をサラサラと鳴らしてのせた。水晶の玉をつらねた<ruby><rb>数珠</rb><rt>じゅず</rt></ruby>である。

今日は、まる十年と二月前に、<ruby><rb>世阿弥</rb><rt>よあみ</rt></ruby>が江戸を出た日であった。

<ruby><rb>床</rb><rt>とこ</rt></ruby>に、一幅の<ruby><rb>軸</rb><rt>じく</rt></ruby>がかけられてある。<ruby><rb>端厳</rb><rt>たんげん</rt></ruby>な肖像が描かれてあった。それがお千絵の父である、阿波へ入ったまま消息をたって、今に知れぬ甲賀世阿弥の像である。

幕府は死んだものとみなして、<ruby><rb>絶家</rb><rt>ぜっけ</rt></ruby>の命を下してしまった。お千絵とても、今では、すでに世に<ruby><rb>亡</rb><rt>な</rt></ruby>い父と<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めている。

「たみや」

今、お千絵は永い<ruby><rb>回向</rb><rt>えこう</rt></ruby>をすました。

「はい」

「しんしんと寒くなりましたことねえ……」

「師走といえば、夜霜の立つ頃でございますから」

「さだめし外の世間には、<ruby><rb>寒風</rb><rt>さむかぜ</rt></ruby>が吹いておりましょうね」

「ここへは、<ruby><rb>凩</rb><rt>こがらし</rt></ruby>の声もきこえてまいりませぬ」

「ああ凩は嫌……浮世の寒風は<ruby><rb>嫌</rb><rt>いや</rt></ruby>……。千絵はこのまま、この<ruby><rb>地底</rb><rt>ちぞこ</rt></ruby>の部屋に埋もれてしまいたい」

「たみもご一緒に埋もれまする。……けれどお嬢様。朽ちた落葉の下からも、いつか春が芽ぐむではございませぬか。ヒョッとして、たみの兄が帰ってくるか、また、弦之丞様でも江戸へおいでになれば」

「阿波へ様子を見に行ってくれたお前の兄の銀五郎が、帰ることはあろうけれど……」

「いいえ、弦之丞様にしましても、いつか一度は」

「アア、たみや……もうそれをいうておくれでない」白い<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かいどり</span>姿が、雪くずれをしたように、ガバと、<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>を顔にして泣き伏した。

「お嬢様、お嬢様。あなたに泣かれてこの<ruby><rb>乳母</rb><rt>うば</rt></ruby>がどうしましょう。もっと……お強くなって下さいませ。いいえ、今が、アア今が、大事な時でござります。あなたはもっとお強くならなければなりませぬ」

「お前までが、そんな無理を」

「もうわずかな御辛抱……ジッとこらえて下さいませ。お嬢様のお手紙を持って、阿波へ行った兄の銀五郎が、今に、きっといい<ruby><rb>報</rb><rt>し</rt></ruby>らせを持って戻りましょう程に……」

お千絵は、どうしてこんな地底の部屋にいるのだろうか！

いうまでもなく、恋と慾の<ruby><rb>二道</rb><rt>ふたみち</rt></ruby>をかけている、<ruby><rb>旅川周馬</rb><rt>たびかわしゅうま</rt></ruby>の<ruby><rb>奸策</rb><rt>かんさく</rt></ruby>である。

鏡の裏から、お綱の<ruby><rb>墜</rb><rt>お</rt></ruby>ちこんだ所は、昔、事あるごとに、甲賀組の者が、ここへ集合して隠密の<ruby><rb>諜</rb><rt>しめ</rt></ruby>しあわせをした<ruby><rb>評定</rb><rt>ひょうじょう</rt></ruby>場所。かれらの手にかかることは、みな、秘密であり<ruby><rb>他聞</rb><rt>たぶん</rt></ruby>をはばかるので、相談や打ち合せには、必ず、宗家の<ruby><rb>穴蔵</rb><rt>あなぐら</rt></ruby>部屋に寄るものにきまっていた。

で、組仲間の者は、そこを<ruby><rb>符牒</rb><rt>ふちょう</rt></ruby>に呼んで、「お<ruby><rb>鏡下</rb><rt>かがみした</rt></ruby>」ともまた「おしゃべりの<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>」ともいっていた。しかし、世間が泰平になるにつれて、ものものしい集合もなく、<ruby><rb>世阿弥</rb><rt>よあみ</rt></ruby>の代になっては、一度も使ったことがない。

その隣はというと。そこは「<ruby><rb>密見</rb><rt>みっけん</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>」といった跡で、深い企らみをしている旅川周馬は、自分が、この屋敷へ移ると同時に、お千絵と乳母とを、ここへ押しこめて、世間には行方しれずになったと、言いふらしていたのだ。三日に一度、周馬は、鏡下へ<ruby><rb>縄梯子</rb><rt>なわばしご</rt></ruby>を下ろして、密見の間をおとずれる。

その日が、お千絵の地獄であった。針の山、血の池へ<ruby><rb>趁</rb><rt>お</rt></ruby>わるるより、なおまだ辛い<ruby><rb>苛責</rb><rt>かしゃく</rt></ruby>をうける日なのである。

周馬が責める。

おれの意に従え！　旅川周馬の妻になれ！

ここに伝わる、甲賀流の秘書私財の隠してある所を教えろ！

こういって<ruby><rb>羅刹</rb><rt>らせつ</rt></ruby>のごとく責めさいなむのだ。

「そちが指でも触れれば、千絵はすぐ死にまするぞ――」

お千絵の防ぎは、この<ruby><rb>一語</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>であった。

周馬はあの通りな横着者である、またお千絵が必ず死のうことも知っている。死なしては玉なしだ。彼はどこまでもジリジリづめに弱らせる策をとった。三日目にきて一責め責めると、あと三日の食べ物をおいて、鏡の裏から抜けだしてゆく。

お千絵は幾度か死のうとした。周馬ずれの恥かしめに、こうまでたえては行かれない。けれど、乳母のおたみは、兄の唐草銀五郎が吉報をもたらしてくれるまで――と、それこそ、一日のばしに、お千絵の死を思い止まらしてきたのである。

ああ。その待ちに待っている唐草銀五郎が、すでに、<ruby><rb>禅定寺</rb><rt>ぜんじょうじ</rt></ruby>峠の土になっているとは、<ruby><rb>夢寐</rb><rt>むび</rt></ruby>にも知らぬのであった。

その、間違いをひき起した、そもそもの<ruby><rb>禍因</rb><rt>かいん</rt></ruby>を、今深くかえりみてみると、まったく、お綱の指である。

見返りお綱の指わざが、天王寺で、あの紙入れを<ruby><rb>掏</rb><rt>す</rt></ruby>ったばかりに、<ruby><rb>渦</rb><rt>うず</rt></ruby>が渦を呼ぶ鳴門の海のように、それからそれへ波瀾の絶えぬことになった。

だが、その下手人であるお綱自身は、自分の指一本から、そんな大きな悪闘の渦が、この人々の運命を<ruby><rb>覆</rb><rt>くつがえ</rt></ruby>していようとは夢にも知らない。事実、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みじん</span>も知らずにいるのだ。

かれはただ、<ruby><rb>弦之丞</rb><rt>げんのじょう</rt></ruby>という初恋の対象だけに吸いよせられて、この渦紋を離れずにいるが、さもなければ、毒を散らして飛び去った、いたずらな蝶に過ぎなかったであろう。

さらに、そのお綱の磁力に、お十夜がひきずられている。

この二人だけは、阿波にも江戸にも、何ら中心の事件にかかわりなく、今日まできたが、いつかは必ず、その渦紋の真ッただ中に巻かれ込むに違いない。

すでに、お千絵とお綱の恋人である<ruby><rb>法月</rb><rt>のりづき</rt></ruby>弦之丞は、東海道八ツ山口から、あすは、江戸に入るという周馬の話。

その弦之丞を狙い打つため、あとを追ってきた蜂須賀家の<ruby><rb>刺客</rb><rt>しかく</rt></ruby>天堂一角も、同時に江戸入りをするであろう。

一歩、かれが江戸へ入れば、そこには、周馬、お十夜などの毒刃が伏せてあり、うしろには、天堂一角の<ruby><rb>虚</rb><rt>きょ</rt></ruby>をつけ狙う殺刀がある。

物慾の争奪、血刀の乱舞、恋と恋の<ruby><rb>生々</rb><rt>なまなま</rt></ruby>しい争い――それらの悪気をふくんだ<ruby><rb>険</rb><rt>けわ</rt></ruby>しい嵐の前兆が、今や、どこからとなくソヨソヨと、江戸の近くへ見舞ってきた。目明し万吉、かれの神経が、この模様を、<ruby><rb>敏</rb><rt>さと</rt></ruby>くも感じているかどうか？

女スリの指一本。

かくも、怖ろしい<ruby><rb>葛藤</rb><rt>かっとう</rt></ruby>と、果て知れぬ<ruby><rb>修羅</rb><rt>しゅら</rt></ruby>を現じてきてしまった。この禍いの元が、おのれの罪と知った日に、見返りお綱は、どう変るだろう？

あえていう。鳴門秘帖の眼目とする狂瀾は、これから本題に入るのである。

さて、お綱は、<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>に懸命をこめた。

「おしゃべりの間」の暗闇に立って、かれは一心不乱に、<ruby><rb>欅</rb><rt>けやき</rt></ruby>の厚みをえぐッて行く。

ザクリ、ザクリッと木屑が散る！　一分二分ずつ、隣とそことの境が削りとられてゆき、近づいてゆくのだ。一人の弦之丞を恋う、お綱とお千絵との境目が――。

メリッ――と、お綱の<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>が、一念に欅の板をえぐり抜いて、<ruby><rb>柄元</rb><rt>つかもと</rt></ruby>まで向うへ通った。

<ruby><rb>密見</rb><rt>みっけん</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>にいる、お千絵とおたみとは、その音にハッと驚かされて、等しい目色を、思わず後ろの方へ射向けた。

「おッ！」

おたみは、のけぞるばかりに気を消した。無論、お千絵の眉のあたりにも、不安と、<ruby><rb>怪訝</rb><rt>けげん</rt></ruby>におびやかされた表情が<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>った。

そこから見ると、ちょうど、部屋の一面から、謎のごとき刃ものの<ruby><rb>切</rb><rt>き</rt></ruby>ッ<ruby><rb>尖</rb><rt>さき</rt></ruby>が、不意に突きぬけて見えたのである。

刃がかりを得た切れ<ruby><rb>刀</rb><rt>もの</rt></ruby>はみているまにも、必死に躍って、たちまち切れ目をひろげてきた。

「た、たれじゃッ」

おたみの声が鋭く<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めた。

お綱のほうには、それが耳に入らなかった。<ruby><rb>半刻</rb><rt>はんとき</rt></ruby>あまりの死力が、そこに<ruby><rb>酬</rb><rt>むく</rt></ruby>いられてきたうれしさにみちていた。

躍る匕首は、木屑を雪のごとくちらして、たちまち、一尺ばかりもうがってきた。

「誰じゃッ、たれじゃ！」

「オオ……」お綱は初めて手を休めた。そして、こっちから中の様子を明らかに見なおすことができたように、お千絵のほうからも、<ruby><rb>凄艶</rb><rt>せいえん</rt></ruby>なお綱の顔を見たであろう。

「もし」

「たれじゃ、そなたは」

「あ――、私は、お綱と申すものでございますが、あなた様は、甲賀家の御息女、お千絵様ではありませぬか」

「や？　……どうしてそれを知っていやる」

「お千絵様！　ああ、やっぱりそうでございましたか。では、お<ruby><rb>言伝</rb><rt>ことづて</rt></ruby>申します、目明し万吉という者が、はるばる遠い<ruby><rb>上方</rb><rt>かみがた</rt></ruby>から、あなた様に会いたいために、この江戸表へまいっております。ところが、このお屋敷ときた日には、いつも釘付けになっていて、おまけに、旅川周馬の眼があるので、その万吉が、大事なお話をすることができません」

「待って下さい」

おたみは少し安心して、側から、お綱の早口な言葉を聞きなおした。

「上方から来た目明しの万吉とやら、いっこうおぼえのない人ですけれど、それは一体、お嬢様に何の用があって来た者でござりますか」

「さあ……実は私も、そこのところは、深く聞いていないんですけれど、<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>があって、あなた方を、この屋敷から救いだしてくれ――、こう頼まれているうちに、嫌な奴に見つけられ、思わぬ所へ落ち込んだのが、かえってお目にかかる<ruby><rb>倖</rb><rt>しあわ</rt></ruby>せとなったんでございます。詳しい話は、その万吉からお聞きなすッて下さいまし」

「お嬢様……」と、おたみはそれをうけついで、「あのように申しますが、どうしたものでございましょう」

と、いうのを待たず、お綱はまた、万吉から頼まれた通りの言葉をつけ足した。

「それで、何でございます……万吉という者を、さだめし御不審にお思いなさりましょうが、決して悪い者ではなく、<ruby><rb>法月</rb><rt>のりづき</rt></ruby>様から、大事な御用をいいつかって、一足先に、ここへまいったのだということでございます」

「えっ。あの法月様から？」

「はい、弦之丞様も<ruby><rb>近々</rb><rt>きんきん</rt></ruby>のうちに、この江戸表へお越しなさいますそうな」

「まあ！　……」といって乳母のおたみ、お千絵の顔を振りかえると、かの<ruby><rb>女</rb><rt>じょ</rt></ruby>は、あまり意外なお綱の言葉を、よろこんでいいか、疑っていいか、<ruby><rb>茫然</rb><rt>ぼうぜん</rt></ruby>として聞いている。

「お綱さんとやら、それは真実でございますか」

「なんで、こんな<ruby><rb>憂</rb><rt>う</rt></ruby>き目にあってまで、お二人様へわざわざ嘘を言いにきましょう。さ、周馬の眼にかからぬうちに、ここから逃げるご思案をして下さいまし。本郷妻恋の、私の家までご案内して、どうなと後はおかくまい申します」

「お嬢様。いよいよ時節がまいりました」

「だけれど、たみや……」とお千絵は、躍りたつよろこびを、冷たい理性で打ちけしながら、

「どう考えてみても、弦之丞様が、江戸へお戻りなされる筈がない。これは何かの間違いでありましょうが」

「たとえ、間違いであったにしろ、せっかく、お綱とやらがああ申します程に、ここを<ruby><rb>遁</rb><rt>のが</rt></ruby>れ出ようではございませぬか。どうなろうと、この上運の悪いほうへ、転ぶ気づかいはありませぬ」

「といって、たみや、お前にこの厳重な所から、逃げ出られる工夫がありますか」

「さあ？」

おたみは、初めて悲しい当惑を知った。周馬が、抜け目なく出口を<ruby><rb>断</rb><rt>た</rt></ruby>ってある、八方封じの地底の部屋――。お綱の帰り<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>もない筈である。

「お嬢様」

おたみは励ますように語を強めて、

「――逃げられます！　そこの境さえ切り破れれば、あの鏡の裏の出口から」

「お千絵様」

またこちらから、お綱がいった。

「ここの境は、この<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>で、わたしが必死に破ります。さ、早くお支度をなさいまし。もし周馬のやつが帰ってきた日には、それこそもう百年目――」

と。お綱はまた匕首をとりなおして、人の体が抜け出られるまで、無二無三に切り開け始めた。

そのまに、おたみは<ruby><rb>甲斐甲斐</rb><rt>かいがい</rt></ruby>しく身支度をした。けれど、お千絵にはまだ幾分かためらう様子がある。それを見ると、おたみは乳母らしい言葉で、

「お嬢様！」と強く叱った。

「こんな<ruby><rb>穴蔵</rb><rt>あなぐら</rt></ruby>の地獄に、なんの御未練でございます。御先祖様からの財宝を、残してゆくのが惜しいとでも……」

「いいえ、たみや、そんなものに未練はない……私はただ」

と、乳母の胸へ抱きついて、

「家に伝わる甲賀流のあまたの秘書を、そッくり、あの<ruby><rb>人非人</rb><rt>ひとでなし</rt></ruby>の旅川周馬へ、残してゆくのが、お父上様にすまぬと思うて……」

「いえ。今の場合は、お嬢様という大事なお体にはかえられませぬ。家名は<ruby><rb>潰</rb><rt>つぶ</rt></ruby>れても、あなた様さえお<ruby><rb>恙</rb><rt>つつが</rt></ruby>なければ、甲賀家のお<ruby><rb>血筋</rb><rt>ちすじ</rt></ruby>だけは残ります。あ！　よいことがございます」

おたみはきっと心をきめて、

「あの悪人の手へ、すべての物を残してゆくよりは、お嬢様、いッそのこと、ここへ火を<ruby><rb>放</rb><rt>か</rt></ruby>けてまいりましょう」

「火を⁉」

「エエ、惜しいようではござりますが、このお屋敷に隠されてある財宝や秘書を、周馬ずれの悪党にふみにじられてしまうよりは……」ホロリとたまる目がしらの露を押さえて――「すべてを灰になさいませ……そして、お嬢様という甲賀家の血だけをお残し遊ばしませ」

「たみや」

「お分りなさいましたかえ」

「わかりました、だけれど……」

と、お千絵は、怖ろしい<ruby><rb>紅蓮</rb><rt>ぐれん</rt></ruby>の炎を思いうかべて、うつろな眼で、古い歴史のある<ruby><rb>地底</rb><rt>ちぞこ</rt></ruby>の部屋を眺めた。

「出られますよ！」

その時、お綱が<ruby><rb>弾</rb><rt>はず</rt></ruby>んだ声で呼んだ。

みると、もう出入りができるほど、そこが切り破られてあった。

「さ、お千絵様――」手をのばして救い出した。たみは、火を<ruby><rb>放</rb><rt>か</rt></ruby>けるために後へ残って、<ruby><rb>反古</rb><rt>ほご</rt></ruby>や木屑や乱れ箱などを、手当り次第に、部屋の中ほどへ積み上げる。

だだッ広い闇の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>を、お綱の持つ<ruby><rb>蝋</rb><rt>ろう</rt></ruby>の<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>がユラユラと走りぬけた。

さっき、自分が<ruby><rb>墜</rb><rt>お</rt></ruby>ちこんだ所を、鏡の裏の下から仰ぐと、一丈あまりの高さであって、<ruby><rb>梯子</rb><rt>はしご</rt></ruby>のない二階同様、上がる<ruby><rb>術</rb><rt>すべ</rt></ruby>がないのである。

と、向うでは、残っているおたみが、

「お綱さんとやら、逃げる出口が見つかったら、いいと、声をかけて下さいましね、すぐに火を<ruby><rb>放</rb><rt>か</rt></ruby>けて、私もそこへ行きますから」

こう声をかけておいて、<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>の<ruby><rb>油壷</rb><rt>あぶらつぼ</rt></ruby>をとりあげ、<ruby><rb>反古</rb><rt>ほご</rt></ruby>の上へタラタラと<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>いていた。

「ま、待っていて下さいよ」

気ばかりは<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>いているが、お綱も少しうろたえた。

一丈余りの高さでは、飛びつかれる筈はなし、足をかける所もないので、さすがに思案がつきてしまった。

「分りましたかえ？」おたみも向うで<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>いていた。

「そこにたしか、<ruby><rb>数珠梯子</rb><rt>じゅずばしご</rt></ruby>が垂れている筈です。――数珠梯子が」――と、そういわれて、お綱の目にフイと止まったのは、柱のかげに隠れて、上から垂れていた一本の<ruby><rb>縄</rb><rt>なわ</rt></ruby>。

向うから、教えたのはこれであろう。所々に、結びコブシが作られていて、<ruby><rb>攀</rb><rt>よ</rt></ruby>じるに都合よくできている。

「あったでしょう。そこに」

「ええ！」こんどは、お綱もいきいきと返辞をして、

「ありましたよ！　縄梯子が」

「では、ようござんすね――」

と、念をおして、おたみはすぐに反古の山へ行燈の火をくつがえした。

ボッ――と、まっ黒に<ruby><rb>匍</rb><rt>は</rt></ruby>い揚がった煙をくぐって、<ruby><rb>乳母</rb><rt>うば</rt></ruby>のおたみが、お綱がえぐり抜いた穴から、バタバタと逃げだしてきた。

途端に、お綱が、

「あッ、いけない！」絶望的な声をあげた。

お千絵様を先に――と思って引いた<ruby><rb>数珠縄</rb><rt>じゅずなわ</rt></ruby>の梯子が、どうしたのか、ぷッつり、<ruby><rb>断</rb><rt>き</rt></ruby>れてしまったのである。

奥の炎は、遠慮なく燃えだして、そこを、カーッと赤く照らしてきた。

## <ruby><rb>江戸大火</rb><rt>えどたいか</rt></ruby>

<ruby><rb>縄</rb><rt>なわ</rt></ruby>の朽ちていた数珠梯子は、三人の望みを絶って、途中からプツリと切れ、お綱の手もとへ躍ってきた。

「あっ――」

「しまった！」

等しく悲痛そのものの声だ。お綱は、お千絵の手をとって、第二の逃げ口を探し廻った。だが――もとより、そこ以外に、別な出口のある筈はない。

と。奥のほうから、ムーッと<ruby><rb>温</rb><rt>ぬる</rt></ruby>い<ruby><rb>火</rb><rt>か</rt></ruby>ッ<ruby><rb>気</rb><rt>き</rt></ruby>が流れてきて、うろたえ廻る<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>や<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>に、渦になった黒煙が<ruby><rb>真綿</rb><rt>まわた</rt></ruby>のようにまつわりだす。

「アア、大変なことになった――」おたみは狂わしく駈け戻って、はやまって<ruby><rb>放</rb><rt>か</rt></ruby>けた奥の火を消そうとした。けれど、<ruby><rb>密見</rb><rt>みっけん</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>の<ruby><rb>反古</rb><rt>ほご</rt></ruby>と油は、もう消し伏せもならぬ<ruby><rb>焔</rb><rt>ほのお</rt></ruby>となっている。

まっ黒な煙の中に、ピラピラ、ピラピラ……と、青い火、赤い火の<ruby><rb>舌尖</rb><rt>したさき</rt></ruby>が、うす気味悪く<ruby><rb>舐</rb><rt>な</rt></ruby>めずりだした。

「お嬢様！　お綱さん！　早くどこからか逃げて下さい。火が！　火が！　火が……」

必死の力で、おたみは、二、三枚の<ruby><rb>畳</rb><rt>たたみ</rt></ruby>をはねあげ、前の板境へ立てかけて、お綱の切り破った穴を密閉した。そしてそれを、自分の背中で支えながら、

「お綱さん！　早く<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しごき</span>を<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>ぎ合せて、今の数珠梯子へ、結び足して……早く、早く、お嬢様を助けてあげて下さいよウ！」

後の声は煙に<ruby><rb>咽</rb><rt>むせ</rt></ruby>んでしまった。こうして、おたみが自分の背なかの焦げるまで、畳で穴を<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>いでいるうちは、しばらく、流れでる煙も防げ、また火の廻りも幾分かは遅くなろう……。

だが。

奥の焔が燃えぬけてこないまに、どうして上へ<ruby><rb>遁</rb><rt>のが</rt></ruby>れだすことができよう。

さはあれ、ここは、死ぬか生きるかの境。

お綱は、手早く二本の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しごき</span>を<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>ぎあわせた。

そして、お千絵の体を、高く抱きあげて、<ruby><rb>断</rb><rt>き</rt></ruby>れた数珠<ruby><rb>縄</rb><rt>なわ</rt></ruby>の端へ、その<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しごき</span>を結び足そうとした。

お千絵の白い手が伸びた。生きんとする力かぎり伸びた……。だが、もう二尺――ある、せめて、もう八、九寸、そこへ触れようとして、指が届かぬ。

「お嬢様ッ……」

<ruby><rb>主思</rb><rt>しゅおも</rt></ruby>いな乳母のおたみは、ジリジリと背中の熱くなるのをこらえて、狂わしく、声をふりしぼった。

「ま、まだですか！　……早く、ああ、あ<ruby><rb>熱</rb><rt>つ</rt></ruby>……早く逃げて下さいまし」

「アア、たみや、駄目ですよ――」

お千絵は、遂に疲れはてて、ガックリと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しごき</span>の手を落した。と一緒に、さすがに勝気なお綱も、ムラムラと巻く煙に<ruby><rb>咽</rb><rt>む</rt></ruby>せ、お千絵の体を抱いたまま、

「ちィッ……」

と、糸切歯を<ruby><rb>咬</rb><rt>か</rt></ruby>んで、横に坐りくずれてしまった。

＊　　　　　＊　　　　　＊

さて。

やはりその夜のことなのである。

外神田の<ruby><rb>河岸</rb><rt>かし</rt></ruby>ッぷちを、風に吹かれてすッ飛んできた、<ruby><rb>角兵衛獅子</rb><rt>かくべえじし</rt></ruby>の二人の子。

<ruby><rb>軍鶏</rb><rt>しゃも</rt></ruby>の赤毛をお<ruby><rb>頭</rb><rt>つむ</rt></ruby>にのせて、<ruby><rb>萌黄</rb><rt>もえぎ</rt></ruby>木綿のお<ruby><rb>衣</rb><rt>べべ</rt></ruby>をきせたお<ruby><rb>獅子</rb><rt>しし</rt></ruby>の面を、パックリと背中へ引っくり返して、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ほお</span>歯の<ruby><rb>日和</rb><rt>ひより</rt></ruby>下駄をカラカラ鳴らし、

「オオ寒、オオ寒……」

駈けて、ころんで、また駈けて、一<ruby><rb>膳</rb><rt>ぜん</rt></ruby><span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">めし</span>屋へ飛びこんだ。

縄<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すだれ</span>でもその中は。

お芋の匂いや、酒の湯気や、汁に煮える<ruby><rb>葱</rb><rt>ねぎ</rt></ruby>のかおりで、別世界ほど暖かい。

「<ruby><rb>小父</rb><rt>おじ</rt></ruby>さん――」

こういったのはお獅子の子である。

姉と弟であるらしい、十四ぐらいな女の子と、十一ぐらいな男の子だ。

かじかんだ手を口に当てて、ハアハア息をかけながら、

「小父さん――御飯をちょうだい」

「あいよ」

と奥のほうで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">めし</span>屋のおやじ。

「たいそう今日は遅かったな。今すぐに、<ruby><rb>暖</rb><rt>あった</rt></ruby>かいのを<ruby><rb>拵</rb><rt>こし</rt></ruby>らえてやるから、そのお客さんの火鉢へ、少しあたらして貰っていねえ。オイオイ<ruby><rb>三輪</rb><rt>みわ</rt></ruby>ちゃん、紙をやるから、<ruby><rb>乙坊</rb><rt>おとぼう</rt></ruby>の<ruby><rb>洟</rb><rt>はな</rt></ruby>をカンでやんな。水ッ<ruby><rb>洟</rb><rt>ぱな</rt></ruby>をチュチュさせて、お客様のそばへ寄るとな、それ……お客様の<ruby><rb>鮟鱇鍋</rb><rt>あんこうなべ</rt></ruby>がまずくならあ」

「なに、かまやしねえ」

と隅にいた客。

「こっちへ来てあたるがいい」と、火鉢を向けて、お獅子の<ruby><rb>姉弟</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>を手招きした。

それは目明しの万吉であった。

お獅子の子は、人なつこく、

「おじさん、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あた</span>らしておくれ」

と、万吉の側の火鉢へ、しがみつくように寄ってきた。

姉と弟の手が二本、<ruby><rb>凍</rb><rt>こご</rt></ruby>えきッていたとみえて、炭火の上に、がツがツとふるえている。

「<ruby><rb>偉</rb><rt>えれ</rt></ruby>えなあ、おめえたちは」

「おじさん」

「なんだい」

「どうして偉いの？　あたいたちが」

「それを知らないところがなお偉い。よく働くなあ、小さいのに。人間、なんでも、働かなくちゃいけねえや。それを偉いといったのさ」

と万吉、<ruby><rb>鮟鱇鍋</rb><rt>あんこうなべ</rt></ruby>から、<ruby><rb>葱</rb><rt>ねぎ</rt></ruby>を挟んでフウと吹いて口へ入れた。

いつぞや、墨屋敷の窓の下で、お綱と約束したことがあるので、彼は、例の<ruby><rb>鉄砲笊</rb><rt>てっぽうざる</rt></ruby>を肩にかけて、その日妻恋坂のお綱の家を、ソッと<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いてきたのである。

まだ帰っていない様子なので、そのままブラブラ戻りながら、駿河台へ行ってみようか、<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>を待って、もいちど妻恋へ出なおすとしようか、と迷った末に、この<ruby><rb>縄暖簾</rb><rt>なわのれん</rt></ruby>へとびこんで、とにかく、寒さしのぎに一合取った。

飲めそうでいて、あまり飲めない目明しの万吉。

徳利一本で、たくさんになったので、飯を貰おうと思っていると、可愛いお獅子の<ruby><rb>姉弟</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>が、人なつこく寄ってきたので、思わず、もう一本取ってしまった。

「いい子だなあ」

万吉は、<ruby><rb>冷</rb><rt>ひや</rt></ruby>ッこい手を、<ruby><rb>暖</rb><rt>あたた</rt></ruby>めてやる気で、二人の手を一ツずつ握ってやりながら、

「なんていう名だい」と訊くと、

「あたい？」と弟のほう。

「<ruby><rb>乙吉</rb><rt>おときち</rt></ruby>っていうの。姉ちゃんは、お<ruby><rb>三輪</rb><rt>みわ</rt></ruby>ちゃん」

「フム。お三輪に乙吉か。いい名だ……そして、どこだい、お前たちの家は？」

「吉原だよ」

「へえ、<ruby><rb>豪気</rb><rt>ごうぎ</rt></ruby>に<ruby><rb>粋</rb><rt>いき</rt></ruby>な所へ住んでいるじゃねえか」

「おじさんも行くかい」

「どこへ」

「吉原さ」

万吉、思わず吹きだしそうになって、

「おじさんは<ruby><rb>野暮天</rb><rt>やぼてん</rt></ruby>だから、まだ吉原を見たこともねえのさ。だが、まさかお前たちだって、あの<ruby><rb>廓</rb><rt>くるわ</rt></ruby>の中じゃないだろう」

「ああ、五十<ruby><rb>間</rb><rt>けん</rt></ruby>の裏だよ。<ruby><rb>孔雀長屋</rb><rt>くじゃくながや</rt></ruby>という所にいるの」

「そんな所があるのかい」

「見返り柳のすぐ下でね、オハグロ<ruby><rb>溝</rb><rt>どぶ</rt></ruby>が側にあるよ、いつ帰っても、賑やかだから<ruby><rb>怖</rb><rt>こわ</rt></ruby>かない」

「おっ<ruby><rb>母</rb><rt>か</rt></ruby>さんはいるのかい」

「おっ<ruby><rb>母</rb><rt>か</rt></ruby>アは、死んじゃった」

「おやじさんは」

「生きてるよ」

「じゃアまあ結構だ。なあ、片親だけでもいりゃ、これに越したことはねえ。で、姉弟は二人ッきりかい」

「ううん……大きな姉ちゃんが二人いる」

「それでいて、お<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>たちまで、角兵衛獅子をして<ruby><rb>稼</rb><rt>かせ</rt></ruby>ぐのは、ああ、<ruby><rb>親父</rb><rt>おやじ</rt></ruby>さんでも体が悪くって、<ruby><rb>永患</rb><rt>ながわずら</rt></ruby>いをしているとみえるな」

「違うの……」姉のほうが、悲しい顔をした。

「じゃ、どうなんだい、一体？」

「<ruby><rb>父</rb><rt>と</rt></ruby>ッちゃんは、ピンピンしているけれど、お酒呑みなんだもの」

「フーム、で<ruby><rb>姉</rb><rt>あね</rt></ruby>さんは何しているな？」

「小ッちゃいほうの姉ちゃんはね、吉原の<ruby><rb>花魁</rb><rt>おいらん</rt></ruby>に売られてしまったの」

「だ、誰によ？」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちゃん</span>に――」と弟のほうがいって、ポロポロと涙をこぼした。

こぼれた涙が火鉢に落ちて、ジューッと、炭火の中で泣き消える。

「可哀そうに……」と万吉、思いだしたように皿に残っていた<ruby><rb>里芋</rb><rt>さといも</rt></ruby>を<ruby><rb>箸</rb><rt>はし</rt></ruby>に刺して、

「サ、食べな」

と、一本ずつ持たせてやる。お獅子の子は、それを貰って、すぐムシャムシャと食べ始めた。

この優しい小父さんが、ふところに十手を呑んでいる怖い目明しだとは、その子も思わなければ、万吉もまた、おのれが、悪党にも恐れられる目明しだということを忘れている。

そこへ、亭主が、お<ruby><rb>焦</rb><rt>こ</rt></ruby>げの御飯を塩<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">にぎり</span>にして、一杯ずつの味噌汁をつけ、奥から持ってきて<ruby><rb>飯台</rb><rt>はんだい</rt></ruby>にのせると、角兵衛獅子のお三輪乙吉、いつもだけの小銭を出して、すぐ、ムシャとふるいつく。

何もかも忘れて、真から、おいしそうに食べていた。

「おやじさん、<ruby><rb>俺</rb><rt>おれ</rt></ruby>にも、飯をくれないか」

万吉も茶漬を貰って、熱い飯に番茶をぶッかけ、<ruby><rb>新菜</rb><rt>しんな</rt></ruby>の漬けもので、ザブザブとかッこみ始めた。

そこでまた、箸休めに、

「――で、何かい？」

と、今の話しかけを、こっちから訊きほじる。

「もう一人の姉っていうのは、家にいるのか」

「大きいほうの<ruby><rb>姉</rb><rt>ねえ</rt></ruby>ちゃんはネ……」

指の飯粒をシャブりながら、女の子のお獅子がいう。

「あたいたちが、小ッちゃい時――、おっ<ruby><rb>母</rb><rt>か</rt></ruby>アが死んじまってから後に、どっかへ、行ってしまったの」

「オヤオヤ……親爺さんが呑んだくれで、一人の姉は吉原へ売りとばされ、その上、一番年上の姉までが家出をしてしまったのか」

万吉は、これだけの話で、ホボその家のありさまが想像された。そして、なんだか、<ruby><rb>他人事</rb><rt>ひとごと</rt></ruby>ではないように腹が立ってきた。

「フーム、そうか。それで小せえお<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>たちが、毎日、外へ角兵衛獅子に出ているのか……。気の毒だなあ。この空ッ風の吹く町へ出て、テンツクテンツク、氷のような地<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">べた</span>へ逆さにオッ立って、お前たちが稼いだ銭も、おおかた、おやじの寝酒になってしまうんだろう。よく世間にあるやつだ。殊に色街の<ruby><rb>掃溜</rb><rt>はきだめ</rt></ruby>には、怠け者の<ruby><rb>地廻</rb><rt>じまわ</rt></ruby>りとかなんとかいって、そういう野郎がいかねない。……だがまア、よくお前たちは辛抱してるなあ、今におやじも眼をさますだろう。また、大きい姉ちゃんが<ruby><rb>帰</rb><rt>けえ</rt></ruby>ってきたら、きッと、両手をついてあやまるだろうぜ」

「あたいたち、その姉ちゃんに逢いたくてしようがない。おじさん、いたら、教えておくんなね」

「ウン、そうだろう、そうだろう」

「毎日、お獅子に出ていても、そればっかり見てるんだけれど」

「じゃ、うすうすおぼえているとみえる。そしてその<ruby><rb>姉</rb><rt>あね</rt></ruby>さんは、幾つぐらいでどんな女よ」

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちゃん</span>がいったよ。まだ若いし、いい女だから、あいつがおれば、千両に売れるッて」

「いい女で、若くって、ふーん……そして名前は？」

「お<ruby><rb>綱</rb><rt>つな</rt></ruby>ッていうの」

「え、お綱ッ？」

「おじさん！　知ってるね」

「ま、まってくんねえ」

「おじさん――」

<ruby><rb>飯</rb><rt>めし</rt></ruby>つぶだらけな手のままで、両方から、万吉の袖へ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たか</span>って来る。

「知ってるなら、教えてくんな、よウ小父さん」

「ま、まちねえッてことよ。今おじさんが考えている所だわなあ。……フーム、すると何だね、お前たちの姉というのは、見返り柳の下にいた、お綱ッていういい女かい？」

「アア」

ジィと、二人の顔を見つめていた万吉が、思わず、手の<ruby><rb>箸</rb><rt>はし</rt></ruby>をポロリと落して、

「ム……似てらあ！」

お獅子の姉と弟の手を、強く握った時である。

ジャーン！

すぐ、程近い<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すじかい</span>見附の夜を見守るお火の見の上から、不意に、耳おどろかす半鐘の音。

時刻は、まさに、宵の<ruby><rb>五刻</rb><rt>いつつ</rt></ruby>（午後八時）。

それは、ちょうど。

かの、<ruby><rb>駿河台</rb><rt>するがだい</rt></ruby>の墨屋敷――鏡の裏の穴蔵部屋で、お綱や、お千絵や、その<ruby><rb>乳母</rb><rt>うば</rt></ruby>たちが、<ruby><rb>密見</rb><rt>みっけん</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に火をかけて、唯一つの力と思ってすがった<ruby><rb>数珠梯子</rb><rt>じゅずばしご</rt></ruby>が、プツンと切れた――その時刻である。

どたどたと、飯屋の二階から、三、四人の若い者が、ころげるように降りてきた。

「火事だ！」

「火事、火事、火事」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちんば</span>の下駄を突ッかけて、ワラワラと外へ飛びだして行ったので、皿を洗っていた亭主も、万吉も、お獅子の子も、それに巻かれて、<ruby><rb>縄</rb><rt>なわ</rt></ruby><span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のれん</span>の外へ駈けだしてみた。

師走初めの冷たい風が、向う<ruby><rb>柳原</rb><rt>やなぎわら</rt></ruby>から神田川の水をかすって、ヒュッ――と町の横丁へまで入ってくる。

「どこだ、火事は？」

「今、二階の<ruby><rb>物干</rb><rt>ものほ</rt></ruby>しから、たしかに見えていたんだ」

「だってちッとも赤くねえじゃねえか」

「火の手は上がっていなかったが、お茶の水の森あたりで、ボウ――と、白い煙がのぼった」

「よせやい。<ruby><rb>夜靄</rb><rt>よもや</rt></ruby>か、湯屋の煙を見まちがいしやがッて」

闇を仰いでいた首が、いっせいに、なアンだ――という顔をして、少し<ruby><rb>拍子</rb><rt>ひょうし</rt></ruby>抜けしていると、<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れもない二度目の半鐘。

ジャーン！　ジャーン！　ジャーン。

つづけざまに、乱打の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すり</span><ruby><rb>鐘</rb><rt>ばん</rt></ruby>。

「おおッ、<ruby><rb>近</rb><rt>ちけ</rt></ruby>え！」というと、あたりの者たちは、いなごのようにワラワラワラッと駈けて散る。

「どこだ、おい！」

飯屋の亭主が、軒さきの大樹をふり仰いでどなった。もう、はしッこいのが、いつのまにか、高い枯木の<ruby><rb>突</rb><rt>と</rt></ruby>ッ<ruby><rb>尖</rb><rt>さき</rt></ruby>に<ruby><rb>攀</rb><rt>よ</rt></ruby>じのぼっていて、物見の役を承っている。

「<ruby><rb>近</rb><rt>ちけ</rt></ruby>えッ。そぐそこだ！」

と、上から、<ruby><rb>素頓狂</rb><rt>すっとんきょう</rt></ruby>な声がしてきた。

「すぐそこだって⁉」

「お茶の水、お茶の水――」

「おお、じゃ<ruby><rb>風上</rb><rt>かざかみ</rt></ruby>だ」

「おまけにかなり風が強い――」

と、その北風の吹き<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆ</rt></ruby>する<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>に、<ruby><rb>寒鴉</rb><rt>かんがらす</rt></ruby>のようにとまった男、なおもジッと見ていたが、

「――やッ。火事は駿河台の甲賀組らしいぞ。あの<ruby><rb>墨屋敷</rb><rt>すみやしき</rt></ruby>の下の森から、真っ黒な煙が吹き出しているンだ！」

火の手をたしかめたものであろう、それを最後に樹の上の男は、スルスルスルと下へ<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>って来る。

「えっ、駿河台の墨屋敷だと⁉」

こう仰天して叫んだのは、今が今まで、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よそ</span>ごとに聞いていた万吉だった。

いまだに帰らぬお綱の消息や、あの屋敷にいる筈で、そして姿の見えないお千絵様――。この二人の運命が<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>に、火！　という不安な<ruby><rb>旋風</rb><rt>せんぷう</rt></ruby>に結びついて万吉の<ruby><rb>敏</rb><rt>びん</rt></ruby>な神経へ、不吉な<ruby><rb>予覚</rb><rt>よかく</rt></ruby>を与えた。

「おお！　駿河台と聞いちゃア……」内ぶところへ手を入れて、ギュッと<ruby><rb>晒</rb><rt>さらし</rt></ruby>の腹巻をしめ、帯もしっかりと後ろへ廻す。

火事が近いと聞いて、泣きだしそうになった角兵衛獅子のお三輪と乙吉は、やさしい言葉をかけてくれた、万吉の側を離れたくないように、

「おじさん――」

と、寄りついて、頭の<ruby><rb>鶏毛</rb><rt>とりげ</rt></ruby>を寒そうにそよがせ、歯をガタガタと鳴らしている。

一番<ruby><rb>鐘</rb><rt>がね</rt></ruby>をついた見附の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すり</span><ruby><rb>鐘</rb><rt>ばん</rt></ruby>に合せて、やがて遠く、両国のやぐらや鳥越あたりのお火の見でも、コーン、コーンと、冴えた二ツ鐘をひびかせてきた。

自身番から<ruby><rb>板木</rb><rt>ばんぎ</rt></ruby>が廻る。ドーン、ドーンと、裏通りを打ってくる番太郎の太鼓<ruby><rb>報</rb><rt>じ</rt></ruby>らせ。

万吉の胸も、早鐘を打ってきた。

「ええ、こうしちゃアおられねえ！」

吾を忘れて走りだすと、腰につかまっていたお獅子の乙吉が、<ruby><rb>日和</rb><rt>ひより</rt></ruby>下駄を引ッくり返して、そこへ転び、ワーッと、大声で泣きだした。

「あッ、堪忍しなよ！」

ふりかえったが、万吉は、戻ろうとはしなかった。と、

「だ、だんなッ――」と呼び返したのは飯屋の亭主。

「おお、<ruby><rb>違</rb><rt>ちげ</rt></ruby>えねえ、勘定か」

屑屋の<ruby><rb>資本</rb><rt>もと</rt></ruby>の<ruby><rb>縞</rb><rt>しま</rt></ruby>の財布を、首からはずして、<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>ぐるみ、クルクルと巻いたかと思うと、万吉は、それをポーンとほうってやって、

「おやじさん、おつりはお獅子にやってくンな」

というや否や。

後も見ずに、目明しの万吉、もう、バラバラと<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>の駈けみだれている、<ruby><rb>紅梅河岸</rb><rt>こうばいがし</rt></ruby>を一散にぬけて、息もつかずに、駿河台まで<ruby><rb>韋駄天</rb><rt>いだてん</rt></ruby>と飛んできた――。

針を吹ッかけられるような寒風なのに、万吉は、あぶら汗をタラタラ流して、紅梅河岸から<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>り<ruby><rb>道</rb><rt>みち</rt></ruby>、突きあたる奴を突きとばして、まっしぐらに、駿河台へ駈け上がった。

お千絵様の墨屋敷――

燃えあがっていやしまいか、と思ったが、そこまで来てみると、あなたこなたの組屋敷も、また、案じていたそのお屋敷も異常はなかったので、ホッとしたり、急に、拍子抜けがしたりした。

だが、ホッとするのは、まだ早かった。

あたり一面、<ruby><rb>夜靄</rb><rt>よもや</rt></ruby>のような薄けむりが、どこからともなくもうもうと立ち迷っている。

「出火ですぞ、出火でござるぞ」

わめいて廻る組屋敷の者。

「どこだ、どこだ」

「火元はどこだ、火元は⁉」

後から後からと、ここへ、駈け上がってきた人々も、やや戸まどいの<ruby><rb>態</rb><rt>てい</rt></ruby>だったが、やがて、その煙が、人家のないお茶の水の崖ぷちからだと知れて、それッ、<ruby><rb>怪</rb><rt>あや</rt></ruby>し<ruby><rb>火</rb><rt>び</rt></ruby>だとばかり、皆そのほうへ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">なだれ</span>ていった。

その崖には、<ruby><rb>旅川周馬</rb><rt>たびかわしゅうま</rt></ruby>が上なる墨屋敷の中へ、常に出入りをしている隠し道があった。今夜も周馬は、お十夜孫兵衛と出会って、一<ruby><rb>刻</rb><rt>とき</rt></ruby>ばかり前に、その穴口から出ていったばかりである。

とは、誰あって、知ろう筈はない。不思議な所から、不思議な煙――と、怪し火の騒ぎはいよいよ大きくなる。

万吉は、方角違いな、怪し火騒ぎには目もくれなかった。なにせよ、墨屋敷にはまだお綱がいる筈、もし大火にでもなった日には、お千絵様の身も心もとない――と思ったので、例の、覚えのある塀の下から、つッと中へ<ruby><rb>潜</rb><rt>もぐ</rt></ruby>りこんだ。

そして。

ズウと、家のまわりを見渡すと同時に、かれは、

「あっ！」

といって、<ruby><rb>顛倒</rb><rt>てんとう</rt></ruby>した。

何ぞ計らん、怪し火の火元はここだ！

かれが、そと見渡した家まわり――、相変らず、数ある雨戸も窓の戸も、箱のように、ピッタリと<ruby><rb>閉</rb><rt>た</rt></ruby>てきってあったが、その、戸と戸との細い隙間や、<ruby><rb>廂</rb><rt>ひさし</rt></ruby>の蔭などからは、まるで、<ruby><rb>蒸</rb><rt>む</rt></ruby>された<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">せいろう</span>のごとく、家の中から白い煙が、ソヨソヨと洩れだしているではないか。

「オオ！　こいつア大変だ」

はね返されたように目明しの万吉、いつか、お綱に手をつかまれた、あの、窓へと飛びついて行ったが、今夜に限って閉めきってある。ええ、じれッてえ！　と足もとの、石を拾って叩き破り、さらに<ruby><rb>窓格子</rb><rt>まどごうし</rt></ruby>を五、六本、バラバラッと<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>ちこわす。

指をかけると、万吉の体は、ヒラリと家の中へ、躍り込んでいった。

と――どうしたか、

「あア――！」

と、口を抑えて、畳へ顔をうッ<ruby><rb>伏</rb><rt>ぷ</rt></ruby>せた。

煙――煙――煙――目もあけない黒煙だ。

思わず、太い息を吸ったので、涙をこぼしてむせかえッた。

いよいよ、火はこの屋敷の、どこかしらに<ruby><rb>籠</rb><rt>こも</rt></ruby>ってるときまった。風を入れては、<ruby><rb>一煽</rb><rt>ひとあお</rt></ruby>りに燃えぬける<ruby><rb>惧</rb><rt>おそ</rt></ruby>れがある、と感づいたので、万吉はあとの戸をピンと閉めてしまった。

こうなるとかれの身は、<ruby><rb>煙蒸</rb><rt>けむりむ</rt></ruby>しの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">せいろう</span>の中へ、みずから封じてしまったようなもの。

危険は危険だが、お綱の安否が気づかわれる。それに、お千絵様の消息も知れない今！　火の中へも飛びこむ意気とは、この場合の万吉の覚悟であったろう。

上を向いて息を吸わぬように心がけて、まず、あたりを撫で廻してみると、やわらかい友禅の<ruby><rb>炬燵</rb><rt>こたつ</rt></ruby>ぶとん――<ruby><rb>温</rb><rt>ぬく</rt></ruby>みがある――四、五冊の草双紙――コロコロと<ruby><rb>湯呑</rb><rt>ゆのみ</rt></ruby>茶碗が手にふれて転がった。

そいつをつかんで、<ruby><rb>盲滅法</rb><rt>めくらめっぽう</rt></ruby>、闇の中へ投げつけて、

「お綱ア！　――」

力いッぱい呼んでみた。

答えやあると待っている……。

だが、なんらの反応もない。

口を抑え、耳をすまし、目にしむ涙をこらえながら、しばらくジッとしていたが、かれの耳に聞こえるものは、ただムクムクと漂ってくる煙の音――、イヤ、煙に音はなかろうが、この時、万吉の神経には、たしかにそれが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ありあり</span>と聞こえた。

煙の底を<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>ってゆく――低い所ほど煙がうすい。次の間から次の間へと、目明しの万吉は、だんだん深入りをしていった。

「お千絵様ア！」

呼べど、答える声はない。

「お綱ア！　お綱アーッ」

と二声三声。

もう、一番奥と思うところに、長廊下から杉戸があって、ピンと固く閉まっている。

何か、ぶちこわす物はないかと、あたりを撫で廻してみると、あった！　あったが一枚の<ruby><rb>櫛</rb><rt>くし</rt></ruby>である。これじゃあ戸をコジ開ける物にもならない。

しかし、ここに一枚の櫛が落ちていたのは、たしかに、女のさまよっていた証拠！

万吉は、いよいよあせった。と――廊下の一<ruby><rb>隅</rb><rt>ぐう</rt></ruby>で、<ruby><rb>唐金</rb><rt>からかね</rt></ruby>の水盤らしいものにさわった。

それを持って、力まかせに、ドーンと突いて行くと、仕切戸がさっと開いた。

<ruby><rb>空洞</rb><rt>うつろ</rt></ruby>のような橋廊下――、口を開くと一緒にその奥から、ムーッとするばかりな熱風が<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を<ruby><rb>衝</rb><rt>う</rt></ruby>ってきた。

「ここだ！　火はッ」

猛然と身を起こした万吉。

左の<ruby><rb>肱</rb><rt>ひじ</rt></ruby>をまげて口をふせぎ、何のためらいもなくダッ――と奥まで駈けこんで行った。

すると！

その突き当りとおぼしき闇に、いきなり、何者だろう？　かれの目をさえぎって、ギラリと躍った人影がある。

血相をかえた男の<ruby><rb>相貌</rb><rt>そうぼう</rt></ruby>。

「あっ畜生！」

不意だったので万吉も夢中である。

<ruby><rb>右手</rb><rt>めて</rt></ruby>につかんでいた<ruby><rb>唐金</rb><rt>からかね</rt></ruby>の水盤、その男の影を狙って、力の限り投げつけた。

うまく当った！　――と思うと、こはそも何？

グワラグワラッ！　と、ものすさまじい響きがして、<ruby><rb>燦然</rb><rt>さんぜん</rt></ruby>と八方へ飛んだのは、まっ白なギヤマンの<ruby><rb>破片</rb><rt>かけら</rt></ruby>！　あの大鏡が<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みじん</span>になって砕け、その口からは、赤い火の粉がチラチラと噴き出した。

モクッ――と一つ、違った煙の<ruby><rb>渦</rb><rt>うず</rt></ruby>が、鏡の裏の地底から、かれの顔へ吹きつけてきた。

「ア！　アッ！」

と万吉。

思わず後ろへ飛びのくと――、煙に声がまじってきた、かすかに叫ぶ地底の声！　オオ、女の悲鳴――まぎれもなく耳に入った。

「やっ、お綱じゃねえか！　あの声は」

ザクザクとギヤマンの<ruby><rb>破片</rb><rt>かけら</rt></ruby>を踏んで、<ruby><rb>框</rb><rt>わく</rt></ruby>だけになった鏡の口へ寄ってゆくと、いよいよ濃い煙が巻き揚ってくる。

呼ぼうとしては<ruby><rb>咽</rb><rt>むせ</rt></ruby>び、咽んでは叫んだのである。

「だッ、だッ、だれがいるンだッ――誰がいるんだッ」

と、中を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いてみる――

<ruby><rb>漠々</rb><rt>ばくばく</rt></ruby>たる密雲に、夕陽が<ruby><rb>射</rb><rt>さ</rt></ruby>しているような有様。深い<ruby><rb>穴蔵</rb><rt>あなぐら</rt></ruby>の底へ万吉の声がひびいた。

よみがえったような叫びがしてきた。

「お綱……お綱……お綱だよう！」

「おお、やっぱりそうだッたか、おれは万吉だ、万吉だぞッ」

「あッ……」というと声が消えた。

「お綱ッ、しっかりしろよ！　今すぐに助けてやるから、眠ってしまっちゃいけねえぞ。地面へ口をつけて辛抱していろ」

「ま、万吉ッつぁん――、縄を！」

「待て待て、待ってくれよ！　今すぐだ」

もう、たえられぬかのような苦しい声で、またお綱が下から叫ぶ……。

「早くしてーッ。万吉ッつぁん――わ、わたしよりもお千絵様が！」

「げッ、お千絵様が？　や、やや！　お千絵様もそこにいたのか。チェーッ、一大事！」

と万吉は、その時こそ、まったく、煙を吸う苦しさも<ruby><rb>火</rb><rt>か</rt></ruby>ッ<ruby><rb>気</rb><rt>き</rt></ruby>も、身に感じなくなっていた。

「縄だ、縄だ、縄だ、縄だ！」

心の底でガリガリどなる。

眼は<ruby><rb>吊</rb><rt>つ</rt></ruby>り上がってしまっている。足もつかずに廊下の<ruby><rb>彼方此方</rb><rt>あなたこなた</rt></ruby>を、無我夢中で探し廻った。

「縄はないか、縄は――、縄だ、縄だ、縄だ！」

グズグズしている間には穴蔵のものが、<ruby><rb>紅蓮</rb><rt>ぐれん</rt></ruby>の舌さきに焼き殺されてしまう。鏡の口が開いたので、火の早さは一<ruby><rb>散</rb><rt>さん</rt></ruby>になるであろう。

その身自身が、<ruby><rb>焦熱地獄</rb><rt>しょうねつじごく</rt></ruby>に焼かるるよりは、むしろ万吉の苦しさのほうが百倍。

かれは極度にうろたえた、<ruby><rb>悩乱</rb><rt>のうらん</rt></ruby>した、半狂乱の<ruby><rb>態</rb><rt>てい</rt></ruby>になった。

縄！　縄！　縄！　救いの縄。

こんな所に、あろう筈のないものを、かれは<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に求めなければならない。

<ruby><rb>紅蓮</rb><rt>ぐれん</rt></ruby>の地獄――焦熱の地獄。

それは今、三人の<ruby><rb>女性</rb><rt>にょしょう</rt></ruby>が、<ruby><rb>喘</rb><rt>あえ</rt></ruby>ぎ<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>いている穴蔵部屋のけしきである。

こもりきッた黒煙が、お茶の水の抜け道へまで<ruby><rb>噴</rb><rt>ふ</rt></ruby>きだした程であるから、お千絵様のいた<ruby><rb>密見</rb><rt>みっけん</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>は、あらかた、火になったものと思われる。

それを、命がけで、外から防いでいるのは、おたみであった。

今日まで、<ruby><rb>檻</rb><rt>おり</rt></ruby>となっていた厳重な厚板が、今は、わずかに身を焼かぬ防火壁となっている。ただ、お綱が<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>で切り破った口があるので、おたみは、そこから<ruby><rb>焔</rb><rt>ほのお</rt></ruby>をふき出させまいとして、幾枚もの<ruby><rb>畳</rb><rt>たたみ</rt></ruby>を立て重ね、身をもっておさえながら、最後の努力をつくしていた。

けれど、悲しや、密見の間の<ruby><rb>焔</rb><rt>ほのお</rt></ruby>は、口をふさがれた怒りをこめて、ジリジリと<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>を<ruby><rb>焦</rb><rt>こ</rt></ruby>がし天井を焼き、さしも厚い<ruby><rb>欅</rb><rt>けやき</rt></ruby>の板を焼きぬいて、ペロリ……と、<ruby><rb>真</rb><rt>ま</rt></ruby>っ<ruby><rb>赤</rb><rt>か</rt></ruby>な火の色を吹いてきた。

怒れる<ruby><rb>紅蓮</rb><rt>ぐれん</rt></ruby>は、あなやと見るまに、隣りの穴蔵部屋の方へ、ゴウッと――<ruby><rb>火唸</rb><rt>ひうな</rt></ruby>りをして這いだした。

「――お嬢様ッ……」

おたみは、声を限りに叫んだ。

百千の<ruby><rb>火龍</rb><rt>かりゅう</rt></ruby>は、かの女の肩の上から、メラメラッと音を立てて、近づいてくる。

お千絵は、お綱にかばわれて、地底の土に顔をうっ伏せ、わずかに煙を防いでいたが、<ruby><rb>乳母</rb><rt>うば</rt></ruby>の声が聞こえるたびに、声をしぼって呼び返した。けれど、おたみは、背中からジリジリと身が焦がされてくるのに、そこを離れようとしなかった。

「た、たみやア……」

「――お嬢様ア！　――」

もう両方で、呼びあう力もなくなってしまった。たみの黒髪にチリチリッと火が燃えついた。

兄の唐草銀五郎に似て、気丈な乳母のたみも、さすがに、

「あッ……<ruby><rb>熱</rb><rt>つ</rt></ruby>ッつつ……お嬢様ッ」

火の黒髪を振って、<ruby><rb>悶絶</rb><rt>もんぜつ</rt></ruby>した。

と同時に、<ruby><rb>半</rb><rt>なか</rt></ruby>ばまで火となっていた畳の<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>が、ドッと、かの女の体へ倒れかかった。一瞬……ボウ……といったきり、あとは、なんの声もしない……。

ただ、真ッ黒な渦と、火の粉の<ruby><rb>微塵</rb><rt>みじん</rt></ruby>がもうもうとそこを立てこめてしまった。

そこへ、目明し万吉が、こうとは知らずに、鏡を叩き砕いたのである。

「万吉ッつぁん――縄を！」

と、<ruby><rb>紅蓮</rb><rt>ぐれん</rt></ruby>の底から叫ばれて、かれは面食らった、歯ぎしりを<ruby><rb>咬</rb><rt>か</rt></ruby>んだ、地団駄をふんだ。

「ええッ、情けねえッ、縄がねえ、縄が、縄が、縄が！　……」

ヒ――ッという、悲鳴が一声揚ったようだ。いよいよお綱も<ruby><rb>断末魔</rb><rt>だんまつま</rt></ruby>か？

お千絵様の黒髪にも、無残な火が燃えついてしまったのであろうか？

万吉はもう<ruby><rb>堪</rb><rt>たま</rt></ruby>らなくなった。

知らぬことならぜひもないが、みすみすここに自分がいて、お綱を見殺しにするのみか、お千絵様を焼き殺してしまっては、<ruby><rb>法月弦之丞</rb><rt>のりづきげんのじょう</rt></ruby>に対して、なんと、男の<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>が立とう。

いや、男一匹の面が立つの立たぬのという、そんなケチな問題ではない。

ここで、お千絵様の身に、万一があったひには、銀五郎の死も犬死となり、弦之丞が初志をひるがえして<ruby><rb>起</rb><rt>た</rt></ruby>った意味も、まったく<ruby><rb>空</rb><rt>むな</rt></ruby>しいものとなる。

ひいては、<ruby><rb>世阿弥</rb><rt>よあみ</rt></ruby>の消息をつきとめ、阿波の密境を探ろうとする中心力を失ってしまい、すべてはもとの<ruby><rb>晦冥</rb><rt>かいめい</rt></ruby>に帰って、遂に、俵一八郎や常木<ruby><rb>鴻山</rb><rt>こうざん</rt></ruby>なども、あのまま、<ruby><rb>永世</rb><rt>えいせい</rt></ruby>に浮かばぬ人となって<ruby><rb>亡</rb><rt>ほろ</rt></ruby>びるであろう。

無論、目明し万吉としても、そうなっては、今日まで可愛い女房にさえ居所を知らせずに、江戸<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くんだり</span>までやッてきて、屑屋をしたり、犬の<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>をしたりして、<ruby><rb>悲雨惨風</rb><rt>ひうさんぷう</rt></ruby>をなめている苦労がみんな水の泡だ。

と。その時、万吉、

「エエッ、この間抜け野郎め！」

自分で自分をドヤシつけるように、ハッと思いついたのである。

縄はある！　縄があった！　縄は目明しの商売道具。肌身離さぬ二丈の<ruby><rb>捕縄</rb><rt>とりなわ</rt></ruby>が、チャンと自分のふところにある。

悪党と見れば目明しの縄は、放たずとてひとりでにスルスルと飛びだすものを、人を助けんとする<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>には、こうまで<ruby><rb>血眼</rb><rt>ちまなこ</rt></ruby>に探し廻った最後まで、頭に浮かんでこなかったのである。

ほとばしる火の粉を浴び、紅蓮の大波をくぐり抜けくぐり抜けて――目明しの万吉。

グワラッ！　と、大廊下の戸を二、三枚蹴破った。ふウ――ッと巻きだす煙と共に、庭先へ跳び下りたかと思うと、

「お綱あアッ――」

よろめきながら、<ruby><rb>喘</rb><rt>あえ</rt></ruby>ぐ声！　……。

「しッ、しッかりしろッ。しッかりしてくれ！」

辛くも投げた人助けの<ruby><rb>捕縄</rb><rt>とりなわ</rt></ruby>で、<ruby><rb>焔</rb><rt>ほのお</rt></ruby>の底から救い上げたお千絵様であろう――右手には、<ruby><rb>浄瑠璃</rb><rt>じょうるり</rt></ruby>人形のように、ダラリとなった女の体を抱き、左に、お綱の帯をつかんだ――。

手をとってやる余裕がない。

だが、お綱はさすがに、気が張っていた。

「――だッ、大丈夫だよッ……」

こう叫んだようである。とたちまち、<ruby><rb>炎々</rb><rt>えんえん</rt></ruby>たる狂い火が、蹴破られた雨戸から<ruby><rb>大廂</rb><rt>おおびさし</rt></ruby>の<ruby><rb>梁</rb><rt>はり</rt></ruby>を流れて、いっせいに燃えあがり、凍りきっている冬の夜の空へ、カアーッと火柱が立ったのは、それから、ほんの一瞬の後――。

こけつ、<ruby><rb>転</rb><rt>まろ</rt></ruby>びつ、お千絵を抱えた万吉と、お綱の姿だけは、渦まく<ruby><rb>火塵</rb><rt>かじん</rt></ruby>を泳ぎぬけて、裏門の外へ出たらしいが、ああ、遂に、乳母のおたみだけは、すでに穴蔵部屋の火の畳に押し伏せられてしまったとみえて、声もなければ姿も見せぬ……。

折もあれ。

吹き<ruby><rb>催</rb><rt>もよお</rt></ruby>していた<ruby><rb>北風</rb><rt>ならい</rt></ruby>の<ruby><rb>一煽</rb><rt>ひとあお</rt></ruby>りに、火の魔の跳躍はほしいままとなり得た。さしも、由緒のある墨屋敷――甲賀流の宗家<ruby><rb>世阿弥</rb><rt>よあみ</rt></ruby>のあとは、<ruby><rb>幾多</rb><rt>いくた</rt></ruby>の秘書財宝をかくしたまま、ここにバリバリと惜しげもなく燃えに燃えて、ドーッとものすさまじい地響きをして焼けくずれる……。

風はいよいよ吹き<ruby><rb>荒</rb><rt>すさ</rt></ruby>んで、見る見るうちに、辺り二十七家の組屋敷から、町つづきの鈴木町、紅梅坂の武家屋敷の、ここかしこに飛び火した。

場所は高台、火は強し、空いちめんを真ッ赤にして、江戸から見えぬ所はない。

ピューッ……ピューッと、いよいよ<ruby><rb>募</rb><rt>つの</rt></ruby>る<ruby><rb>魔風</rb><rt>まかぜ</rt></ruby>の絶え間に、近くの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すり</span><ruby><rb>鐘</rb><rt>ばん</rt></ruby>、遠くの鐘、陰々と和して町々の人を呼びさます。

その頃はもう、お綱の姿も万吉の姿も、どこに見ることもならず、神田一帯、駿河台の上り口、すべて、人と<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>と火事<ruby><rb>頭巾</rb><rt>ずきん</rt></ruby>と、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ばれん</span>と<ruby><rb>鳶口</rb><rt>とびぐち</rt></ruby>の光ばかりに<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>まっている。

……………………

所は京橋、<ruby><rb>桜新道</rb><rt>さくらしんみち</rt></ruby>――長沢町の裏あたりである。

「オヤ？」

と、飲みかけていた盃を下に置いて、

「火事ではないか」

今頃になって、<ruby><rb>迂濶</rb><rt>うかつ</rt></ruby>至極なことをいいながら、ガラリと、裏二階の<ruby><rb>障子</rb><rt>しょうじ</rt></ruby>を開けて首を出した者がある。

お十夜孫兵衛と、旅川周馬であった。

もっともそこは、<ruby><rb>喜撰</rb><rt>きせん</rt></ruby>という<ruby><rb>額風呂</rb><rt>がくぶろ</rt></ruby>の奥で、<ruby><rb>湯女</rb><rt>ゆな</rt></ruby>を相手に、世間かまわず騒げるような作りなので、さっきからの半鐘も、聞こえぬくらいに静かなのである。

「オオ、大変な火の粉――」

空を仰いで、お十夜がこういうと、旅川周馬、バラバラッと、表二階へ駈けだして行った。と――すぐにまた、そこへ取って返してきて、

「お十夜、大火だ！　大火だ！　しかも火元は神田だそうだ」

少し酒の<ruby><rb>気</rb><rt>け</rt></ruby>は<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>ましている。

「大丈夫だろう……」孫兵衛は席へ戻って、<ruby><rb>手酌</rb><rt>てじゃく</rt></ruby>の<ruby><rb>一盞</rb><rt>いっさん</rt></ruby>を、チビリと<ruby><rb>唇</rb><rt>くち</rt></ruby>に鳴らしながら、

「いくら風が<ruby><rb>強勢</rb><rt>ごうせい</rt></ruby>でも、まさか、あの高台までは燃えてゆくまい」

「イヤ、そう安心はしていられない。とにかく、ここを引き揚げて、屋敷の安否を見届けねばならぬ」あわてて刀を差しかけるのを見ると、

「おい周馬、ちょっと待ちねえ」

お十夜は、何か不服があるらしい。

「イヤに落ちつき払ったな。ま、とにかく、外へ出て様子を聞いた上にいたそう」

「じゃ、あのほうは止めにする気か？」

「止めるものか！　ばかなことを」

「そうだろう、初めからその手筈を相談するために、わざわざここへ落ち着いたのだ。まア火事なんざあどうでもいい、いよいよあすは江戸へ入るという、法月弦之丞から先に片づけてしまうことのほうが、今夜の火事より急だろうぜ」

「それも一理あるな？　……」

と、旅川周馬は、耳につく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すり</span><ruby><rb>鐘</rb><rt>ばん</rt></ruby>の音と、弦之丞のことを、<ruby><rb>半々</rb><rt>はんはん</rt></ruby>に思い迷って棒立ちとなっている。

お十夜がいうとおり、今夜、わざわざこの喜撰風呂へまできて、女気なしにくつろいでいる目的は、<ruby><rb>翌日</rb><rt>あした</rt></ruby>の相談や、手筈を<ruby><rb>諜</rb><rt>しめ</rt></ruby>しあわすのが眼目であった。

翌日というのは、法月弦之丞が、江戸へ着くのをさすのである。かれが江戸の地をふまないうちに、かれの命を絶ってしまうことは、周馬にとりまた孫兵衛にとっても、最上なる手段に相違なかった。

東海道から江戸へ入るには、是非ともさしかかる<ruby><rb>八</rb><rt>や</rt></ruby>ツ<ruby><rb>山口</rb><rt>やまぐち</rt></ruby>か<ruby><rb>高輪</rb><rt>たかなわ</rt></ruby>の浦あたり――、その辺に、必殺の策を伏せておいて、<ruby><rb>殺</rb><rt>ばら</rt></ruby>してしまおうという二人が大体の<ruby><rb>目算</rb><rt>もくさん</rt></ruby>。

で、そのために。

<ruby><rb>使屋</rb><rt>つかいや</rt></ruby>に手紙を持たせて、二、三ヵ所の<ruby><rb>賭場</rb><rt>どば</rt></ruby>へ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ならず</span>者の狩り集めにやってあるところだ。しかるに、返事もこないうちに、周馬が<ruby><rb>中座</rb><rt>ちゅうざ</rt></ruby>しかけたから、お十夜が少しムッとした。

「まア落ちつけよ」

と、孫兵衛は、周馬の浮き腰を<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>で抑えて、

「大事をもくろむ矢先に立って、気を散らすのは<ruby><rb>禁物</rb><rt>きんもつ</rt></ruby>だ。そんな<ruby><rb>量見方</rb><rt>りょうけんかた</rt></ruby>なら、この俺は俺で、勝手な道をとるとして、お<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>と組むのはお断りだから、そう思って貰いたい」

「お十夜、そう腹を立てては困る」

「だが、考えてみるがいい。なるほど、弦之丞はおれの<ruby><rb>恋仇</rb><rt>こいがたき</rt></ruby>、生かしておいては都合の悪いやつだ。しかし、お<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>のほうは、女のほかにあの屋敷の、すばらしい財宝まで、<ruby><rb>鷲</rb><rt>わし</rt></ruby>づかみにしようとする、<ruby><rb>分</rb><rt>ぶ</rt></ruby>の勝っている所がある。いわば、この仕事はそっちが七分で、おれが三分、その三分がとこで、<ruby><rb>丹石流</rb><rt>たんせきりゅう</rt></ruby>の腕前を貸してやるようなものだ。少しは恩に思って貰いてえな」

「分っている、分っている……」周馬も、ここでお十夜に、グズられては困るので、またほどよく<ruby><rb>扱</rb><rt>あしら</rt></ruby>いながら、腰をすえて飲み始めた。

と。まっ白に塗った<ruby><rb>湯女</rb><rt>ゆな</rt></ruby>が、銚子の<ruby><rb>代</rb><rt>か</rt></ruby>えを持ってきながら、

「旦那様」

「なんだ」

「使屋の<ruby><rb>半次</rb><rt>はんじ</rt></ruby>が戻ってまいりました」

「たいそう早いな、連れてきてくれ」

<ruby><rb>湯女</rb><rt>ゆな</rt></ruby>が出てゆくとすれ違いに、一人の男が入ってきた。

「ご苦労だった」と、周馬が言葉をかけて、

「頼んでやった者は、みんな来るといったろうな」

「ところが旦那――」と、使屋は、この寒いのに汗をふいて、

「お手紙を持って行った賭場先には、どこにも、誰もおりませんです」

「フーム……どうして？」

「なにしろ、旦那、とても、神田一帯は火の海になりそうな騒ぎです。大概のお屋敷は、見舞を出すやら、火事頭巾で<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くり</span>だすやらで、いくらのんきな部屋でも、今夜ばかりは、人の影もございませんよ」

「なるほど――」いわれてみれば道理であった。

「火事はそんなにひどくなってきたか」

「ひどいのなんのって、高台から焼け拡がったので、八方移りに燃えそうです。こっち側は<ruby><rb>昌平橋御門</rb><rt>しょうへいばしごもん</rt></ruby>から<ruby><rb>佐柄木町</rb><rt>さえぎちょう</rt></ruby>すじ、<ruby><rb>連雀町</rb><rt>れんじゃくちょう</rt></ruby>から<ruby><rb>風呂屋町</rb><rt>ふろやまち</rt></ruby>の辺りまで、すっかり火の粉をかぶっています」

「と、すると……」周馬は急に色を変えて、

「火元はどこじゃ、火元は？」

「なんでも、<ruby><rb>怪</rb><rt>あや</rt></ruby>し<ruby><rb>火</rb><rt>び</rt></ruby>だという噂ですがね」

「怪し火？　フーム……して駿河台の、甲賀組の<ruby><rb>墨屋敷</rb><rt>すみやしき</rt></ruby>などは、かけ離れてもいるから、さしたることはあるまいな」

「どう致しまして、旦那、その怪し火てえのが、そもそも墨屋敷の、何とかいう古い家から出たんです」

「げッ！」と、<ruby><rb>仰天</rb><rt>ぎょうてん</rt></ruby>したのは、周馬ばかりか、お十夜も同様、カラリと手の盃を取り落して、言いあわしたようにヌッと立った。

「使屋、今の話に間違いはあるまいな」

「ええ、嘘なんざア申しませんが、このお手紙はどうしましょう」

「ウーム、弱った……」と、<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>の手筈も急なら、今夜も急！　周馬も孫兵衛も当惑したが、それは、使屋に頼んでおいて出なおすことにきめ、二人はバラバラと<ruby><rb>喜撰</rb><rt>きせん</rt></ruby>風呂の二階から駈け下りてきた。

怪し火とは気がかり、周馬の胸は、穴蔵部屋の財宝と、そこに押しこめてあるお千絵の安否に騒ぎ立ち、お十夜はまた、とり残してきたお綱の身が、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もしや</span>と心配になってきた。

空を仰ぐと一面の火の粉！

二人は、肩をならべて駈けだした。

「ちぇッ。しまった！」

<ruby><rb>護持院</rb><rt>ごじいん</rt></ruby>ヶ原まで飛んでくると、周馬はそこで、<ruby><rb>茫然</rb><rt>ぼうぜん</rt></ruby>と足を止めてしまった。

「ウーム、だめだ！　やっぱり火元は墨屋敷だった。今さら駈けつけてみたところで、間に合わねえ」

それを聞くと、お十夜も、ガッカリとして太い息を<ruby><rb>吐</rb><rt>つ</rt></ruby>きながら、

「駄目だろうか」

「あれだもの！　……」

周馬はいまいましそうに、そこからあきらかに仰がれる高台の<ruby><rb>焔</rb><rt>ほのお</rt></ruby>を指さして、

「無論、屋敷は焼け落ちてしまったさ」と、<ruby><rb>捨鉢</rb><rt>すてばち</rt></ruby>のように言い放った。

「――残念だな。すると……お綱はどうなってしまったろう。オイ」と急に思いついたように孫兵衛。

「あの、鏡の裏から、どこかへ逃げ道があったのか」とききはじめた。

「逃げ道なぞがあるものか。ないからこそ安心して、お綱を置いてきたのではないか」

「えッ、じゃ今頃は」

「灰になってしまったろう。あアあ……そっちは女だけのことだが、この周馬の身になってみろ、多年心を砕いて、手に入れようと計っていた財宝と恋人、二ツとも一緒に<ruby><rb>失</rb><rt>な</rt></ruby>くしてしまった……」

泣かんばかりの<ruby><rb>落胆</rb><rt>らくたん</rt></ruby>である。

と、お十夜が、不意にまた、

「オイ、周馬――」と呼びかけてきた。

「なんだ。おれはもう、返辞をするのもいやになった」

「そうしょげるのはまだ早い。さッきの使屋の話では、火元は、墨屋敷から出た怪し火だといった」

「ウム、怪し火だといった」

「その怪し火に、何か<ruby><rb>曰</rb><rt>いわ</rt></ruby>くがありそうじゃねえか。とにかく、ここでベソを掻いていたところで始まらねえわけだ、もう一息駈けだして、現場の様子を見た上の思案としよう」

「なるほど、それももっともだ」

くじけた元気をとりなおして、お十夜孫兵衛と旅川周馬、ふたたび、<ruby><rb>韋駄天</rb><rt>いだてん</rt></ruby>の足を飛ばした。

<ruby><rb>鳶</rb><rt>とび</rt></ruby>の光、火事頭巾、<ruby><rb>火消目付</rb><rt>ひけしめつけ</rt></ruby>の<ruby><rb>緋</rb><rt>ひ</rt></ruby><span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">らしゃ</span>などが、煙にまじって<ruby><rb>渦</rb><rt>うず</rt></ruby>まく中を抜けて、<ruby><rb>勧学坂</rb><rt>かんがくざか</rt></ruby>から<ruby><rb>袋町</rb><rt>ふくろまち</rt></ruby>を突ッきり、やがて<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>れの<ruby><rb>棲家</rb><rt>すみか</rt></ruby>まで来てみると、すでにそこは一面の火の海。

<ruby><rb>世阿弥</rb><rt>よあみ</rt></ruby>の家のあとを初め、二十七家の隠密組の屋敷は、あとかたもなく焼け落ちて、<ruby><rb>坩堝</rb><rt>るつぼ</rt></ruby>を砕いたような<ruby><rb>余燼</rb><rt>よじん</rt></ruby>の焔は、二人を<ruby><rb>嘲</rb><rt>あざけ</rt></ruby>るごとくメラメラと紫色に這っていた。

「ウーム……」と<ruby><rb>唸</rb><rt>うめ</rt></ruby>いてしまったきり、二人は口もきかずにいた。

その紫の火の色は。

お十夜の眼には、お綱の焼け<ruby><rb>溶</rb><rt>と</rt></ruby>ろける火かとも見え、また、周馬の眼には、お千絵様の焼ける焔、惜しい財宝が、燃えきれずにいる火かと<ruby><rb>恨</rb><rt>うら</rt></ruby>めしく映る。

「オオ、大変だ！」

いつか風が変っている。ヒョイと気がついた孫兵衛が、ふりかえってみると、袋町を縫った火は、下町へまで移りだして、まごまごしていると逃げ道を<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>がれそうな形勢だ。

「それ、あぶねえぞ」

<ruby><rb>幻滅</rb><rt>げんめつ</rt></ruby>の悲哀を抱いて、火に追われた二人の悪玉は、足に力もなく走りだした。大樹があるので焼け止まった<ruby><rb>堤</rb><rt>どて</rt></ruby>がある。そこをヒラリと躍り越えると、<ruby><rb>落莫</rb><rt>らくばく</rt></ruby>とした冬木立の下に、サーッと響いてゆく水音が聞こえた。

柳原へ落ちてゆく、神田川の流れらしい。

バラバラ、バラバラと、<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆ</rt></ruby>するたびに落ちてくる枯葉を浴びて、<ruby><rb>崖伝</rb><rt>がけづた</rt></ruby>いに下りてゆくと、そこは、<ruby><rb>太田媛</rb><rt>おおたひめ</rt></ruby>神社の境内であった。枯柳や梅にとり囲まれ、神田川の水にのぞんで、火事をよそに<ruby><rb>森深</rb><rt>しんしん</rt></ruby>と更けている。

「おや⁉」

崖から境内へ、ポンと飛び下りた孫兵衛は、何か、柔らかなものが足へ<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>んだので、それを手に拾って、常夜燈のそばへ寄って行ったが、一目見るとともに、

「やッ、こいつア？　……」

よみがえったような、また意外に<ruby><rb>衝</rb><rt>う</rt></ruby>たれたような<ruby><rb>唸</rb><rt>うめ</rt></ruby>き――。

「なんだ？」

周馬が横から顔を出すと、お十夜は、手にしていたのをクルクルと丸めて、

「畜生ッ。――やっぱり逃げたに違いねえ！」

腹立たしげに投げ捨てた。

見るとそれは、ところどころ火に焦がされた女の<ruby><rb>被布</rb><rt>ひふ</rt></ruby>、<ruby><rb>浮織</rb><rt>うきおり</rt></ruby>唐草の江戸紫は、まぎれもなく、お綱の着ていたものである。

火焔の中から、無我夢中で躍りだした万吉は、<ruby><rb>喪心</rb><rt>そうしん</rt></ruby>しているお千絵様を肩にかけ、またお綱を励ましながら、やッとのことで、<ruby><rb>太田媛</rb><rt>おおたひめ</rt></ruby>神社の境内へ逃げ下りてきた。

ここは、お茶の水の崖を<ruby><rb>屏風</rb><rt>びょうぶ</rt></ruby>にしているので、火が森を焼き抜いてこぬ限りは、まず安全な場所であった。

ホッ……と一息。

万吉は、拝殿の前へ、お千絵の体を<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>り下ろした。<ruby><rb>紅蓮</rb><rt>ぐれん</rt></ruby>に巻かれた苦しさと<ruby><rb>愕</rb><rt>おどろ</rt></ruby>きの果てに、かの<ruby><rb>女</rb><rt>じょ</rt></ruby>は意識を失っている。

<ruby><rb>白絖</rb><rt>しろぬめ</rt></ruby>の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かいどり</span>にくるまれたまま、グッタリそこへ仆れる……。お綱は驚いて肌をさわってみた。

肌は温かであった。美しい<ruby><rb>曲下</rb><rt>わさげ</rt></ruby>の黒髪も、幸いにして焼かれなかった。

「おう、お綱――」と万吉は、すぐに気転を働かせて、

「すまねえが、<ruby><rb>御手洗</rb><rt>みたらし</rt></ruby>の水を<ruby><rb>掬</rb><rt>すく</rt></ruby>ってきて、お千絵様を介抱して上げてくれ。おれはその間に渡し船を探してくる。とても、この火事騒ぎじゃ、橋を越しちゃ行かれねえから」

「あい、よござんす――」

気を失っているものの、ここに<ruby><rb>凍</rb><rt>こご</rt></ruby>えさせておいてはと――お綱は、お千絵の体へ、自分の<ruby><rb>被布</rb><rt>ひふ</rt></ruby>を<ruby><rb>脱</rb><rt>ぬ</rt></ruby>いで着せかけようとした。

で――初めて、気がついたのである。

「おや、どこで脱げてしまったのだろう？　……」と。

何を思い出す<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ゆとり</span>もなかった。お綱の頭は今のところ、何もかもが<ruby><rb>昏迷</rb><rt>こんめい</rt></ruby>している。万吉とても同じであろう、<ruby><rb>川縁</rb><rt>かわべり</rt></ruby>へ駈けだして行くと、無論、誰か持主のある物だろうが、<ruby><rb>委細</rb><rt>いさい</rt></ruby>かまわず<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もやい</span>を解いて、手頃な小舟を<ruby><rb>社</rb><rt>やしろ</rt></ruby>の裏へ<ruby><rb>曳</rb><rt>ひ</rt></ruby>いて来る。

その<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に。

白い素足を闇に見せて、お綱は向うへ走って行った。<ruby><rb>御手洗</rb><rt>みたらし</rt></ruby>に張った<ruby><rb>薄氷</rb><rt>うすごおり</rt></ruby>を割って、<ruby><rb>小柄杓</rb><rt>こびしゃく</rt></ruby>に水を<ruby><rb>掬</rb><rt>すく</rt></ruby>ったのである。

気はいらいらと<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>きながら、掬って来た<ruby><rb>柄杓</rb><rt>ひしゃく</rt></ruby>の水をこぼさぬように、お綱は小刻みに戻ってきた。

赤い空から地の闇へ、火の粉がバラバラと降ってくる――。火事はまだまださかんらしい。神田川は夕焼のようだ。

「あっ……」

柄杓の水がこぼれてしまった。

お綱の足もとへ、何かフワリとした物が、<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>みついてよろけたので――。

常夜燈の前だった。淡い明りが流れているので、ヒョイと見ると、それは、自分の着ていた江戸紫の<ruby><rb>被布</rb><rt>ひふ</rt></ruby>であった。

「こんな所へ落したのか……」と、お綱は一目に思ったが、もとよりそれを拾う気はなく、<ruby><rb>小柄杓</rb><rt>こびしゃく</rt></ruby>を持ってもう一度、水を掬いに戻りかけた。

すると、その時だ。

ここに落ちていた被布を見て、先ほどから、しきりに人の気配を探っていたお十夜孫兵衛が、常夜燈のうしろからヌッとうねりだして、

「むッ！　……」

物もいわずに、お綱の<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>をつかんでしまった。

「あっッ」と、お綱。

<ruby><rb>右手</rb><rt>めて</rt></ruby>に持っていた小柄杓で、驚きの力任せに、かれの<ruby><rb>真眉間</rb><rt>まみけん</rt></ruby>を狙ってヒュッと打った。

さッと、身をかわされて柄杓の首は、お十夜の<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>に当ってパキンと割れる！

さらに、首の抜けた柄杓の<ruby><rb>柄</rb><rt>え</rt></ruby>で、お綱はお十夜へ突いてかかった。が、身は綿のように疲れているので、苦もなくそれをもぎ取られた上に、ドンと一と突き飛ばされた。

乳のあたり！

お綱は、ふたたび<ruby><rb>起</rb><rt>た</rt></ruby>つ力がなかった。精がきれて、<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>る声も出なかった。

「…………」

ただ、口惜し涙と<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>みをこめて、カッと孫兵衛を睨みつけた。と、相手のほうも、女に反抗力がないことを知ると、ぬッと片手を<ruby><rb>懐</rb><rt>ふところ</rt></ruby>へ入れて、物もいわずにその姿を見すえていた、いわなくッても分っているだろう、フフン、ざまを見やがれ――というふうに。

何の悲鳴も立てないので、万吉は、こうとは知らずに小舟を<ruby><rb>曳</rb><rt>ひ</rt></ruby>いて、近くの岸へその縄を<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>げていた。

と、誰かの<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>が、後ろを抜けた様子なので、ヒョイと振りかえってみると、<ruby><rb>総髪</rb><rt>そうはつ</rt></ruby>にした若い侍が、いきなり拝殿の前へ寄って、気絶しているお千絵の体へ手をかけた。

その人影は旅川周馬であった。

万吉が、アッ――とおどろくまに、周馬は、何の<ruby><rb>拒</rb><rt>こば</rt></ruby>みもない白い<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かいどり</span>姿を横に抱いて、

「おい、お十夜！　そんな女一匹を持て余して、いつまでグズグズしているのだ」

とばかり、一方へ声を投げながら、自分は自分の恋人を取り戻して、一足先にスタスタと急ぎだした。

周馬だ！　万吉はなんとなくこう思った。

「畜生ッ」

ブルブルッと身をふるわせて、

「<ruby><rb>焔</rb><rt>ほのお</rt></ruby>の中から、命がけで救ってきたお千絵様を、うぬに、取り返されて堪るものか！」

何の<ruby><rb>猶予</rb><rt>ゆうよ</rt></ruby>があるものではない。

彼は、周馬の影が、ものの二十歩と拝殿の前を去らぬまに、一気に、うしろへ追いついた。

「待てッ」

ムズと、その腰帯をひッつかむ。

一振りふってねじ倒すつもりだったが、周馬もさる者、どッこい、そうはさせねえと万吉の手を払って、横へ七尺ばかり、つッ――と体を避けたかと思うと、

「なんだ、てめえは？」

怖ろしい目で、万吉を<ruby><rb>睨</rb><rt>ね</rt></ruby>めた。

あの総髪を風にそよがせ、美女の姿を引っ抱えた旅川周馬の影、その時、昔物語にでもありそうな悪鬼かなんぞのように見える。

万吉は、こいつの<ruby><rb>度胆</rb><rt>どぎも</rt></ruby>を抜いてやろうという気で、

「おお、おれは法月弦之丞様に頼まれて、お千絵様の<ruby><rb>蔭身</rb><rt>かげみ</rt></ruby>に添う万吉という者だ」

ふところの十手をつかんで、明らさまに名乗ってしまった。それで、ぎょッとするかと思うと、周馬は、鼻の先で、

「ふム……弦之丞の<ruby><rb>差金</rb><rt>さしがね</rt></ruby>か」

「その弦之丞様が江戸へ帰ると、うぬの首も危なくなるぞ。悪いことはいわねえから、お千絵様を俺に渡して、今のうちに、どこかへ姿を隠す算段でもしやがれ」

「よけいなことを申すな」

<ruby><rb>片腹痛</rb><rt>かたはらいた</rt></ruby>い――というふうに、旅川周馬、ゲタゲタ笑っているのである。

万吉はかッとなって、

「野郎ッ、どうでも渡さねえといや、十手にかけても受けとるからそう思え！」

「だまれッ、察するところ、墨屋敷へ火を放ったのも<ruby><rb>汝</rb><rt>なんじ</rt></ruby>であろう」

「悪因悪果、天罰の火よ！　<ruby><rb>呪</rb><rt>のろ</rt></ruby>いの火よ！　こうなるなア当り前だッ」

「よし！　そう聞く上はなおのこと、お千絵を渡すことはならねえ。弦之丞に逢ったら、いってくれよ、世阿弥の娘のお千絵様は、旅川周馬が可愛がってやりますとな」

「エエ、しぶといことを<ruby><rb>吐</rb><rt>ぬ</rt></ruby>かすな！」

「待てッ、万吉」

「くそッ――」とばかり、十手を<ruby><rb>真</rb><rt>ま</rt></ruby>っ<ruby><rb>向</rb><rt>こう</rt></ruby>に飛びかかッてゆくと、周馬はまたも五、六歩逃げて、キラリと<ruby><rb>前差</rb><rt>まえざし</rt></ruby>の<ruby><rb>小太刀</rb><rt>こだち</rt></ruby>を抜いた。

片手に引っ抱えているお千絵の<ruby><rb>咽</rb><rt>のど</rt></ruby>へ、その<ruby><rb>切</rb><rt>き</rt></ruby>ッ<ruby><rb>尖</rb><rt>さき</rt></ruby>をピタリと向けて、

「おい」と周馬、万吉と<ruby><rb>切</rb><rt>き</rt></ruby>ッ<ruby><rb>尖</rb><rt>さき</rt></ruby>とを、七分三分の眼くばりで、

「<ruby><rb>下手</rb><rt>へた</rt></ruby>に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あが</span>くと玉なしになるぞ。どうせ墨屋敷の財宝を灰にして、破れかぶれになっている旅川周馬だ。さ、おれに指でもさすなら、差してみろ、その代りにゃ、貴様が一足ふみ出す前に、お千絵の<ruby><rb>咽笛</rb><rt>のどぶえ</rt></ruby>を突きぬいてくれる」

ハッと思ったが、万吉は、ただちにそれが、周馬の<ruby><rb>狡</rb><rt>ずる</rt></ruby>い<ruby><rb>脅</rb><rt>おど</rt></ruby>しにすぎないことをみやぶった。

「ふざけた<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>をするなッ」

鋭い気構えを見せて、彼の小太刀を、十手で叩き落そうとしながら、ジリジリと近寄って行ったが、今度は旅川周馬、あとへも<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>かずにニヤリと白い歯を見せた。

と――思うといつの間にか、万吉の後ろへ、ぬウと立ったお十夜が、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そぼろ</span>助広に手をかけて、<ruby><rb>据物斬</rb><rt>すえものぎ</rt></ruby>り！　息を計っていたのである。

あッ！

声と、<ruby><rb>剣</rb><rt>つるぎ</rt></ruby>と、孫兵衛の気合い。

三ツの力が瞬間にそこを割って、ほとばしった孫兵衛の<ruby><rb>切</rb><rt>き</rt></ruby>ッ<ruby><rb>尖</rb><rt>さき</rt></ruby>から、あやうくも、髪の毛一すじの命拾いをした目明し万吉、

「ちイッ……畜生！」

<ruby><rb>歯軋</rb><rt>はぎし</rt></ruby>りをかんだが、力の相違はぜひもなく、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">りゅう</span>と、しごきなおしてくる孫兵衛の<ruby><rb>銀蛇</rb><rt>ぎんだ</rt></ruby>に追われて、タタタタタ……と十歩、二十歩。

追い詰められた<ruby><rb>土壇場</rb><rt>どたんば</rt></ruby>である。

「かッ！　……」と、孫兵衛が口を曲げた。

含み気合いに斬りつけた、片手伸ばしの助広の切ッ先へ、ザ――ッと揚がったのは血けむりではなかった、神田川の水しぶき――。

足をすべらして、目明し万吉、<ruby><rb>真</rb><rt>ま</rt></ruby>ッ<ruby><rb>逆</rb><rt>さか</rt></ruby>さまに落ち込んだのである。大きな波紋が<ruby><rb>蛇</rb><rt>じゃ</rt></ruby>の<ruby><rb>目</rb><rt>め</rt></ruby>を描く……。

それを見捨てて、お十夜と旅川周馬は、思いがけなく取り戻したお綱とお千絵とを、これからどこへ運んで行こうか――と、暗闇に立ってコソコソ相談しはじめた。

「お綱は？」

と、周馬は義理でたずねると、孫兵衛は刀を<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>に納めながら、

「ちょっと<ruby><rb>当身</rb><rt>あてみ</rt></ruby>をくれておいた」

<ruby><rb>悦</rb><rt>えつ</rt></ruby>に入った顔である。もう、あの女はどこへ持って行こうが、どうしようが、完全におれのものだと安んじているものらしい。

「それはよかった。だが、万吉とかいう奴は？　……大丈夫だろうな」

「なアに、この寒さだ。川の水を食らって、たいがい<ruby><rb>凍</rb><rt>こご</rt></ruby>え死んでしまうにきまっている。――ところで周馬、お前はその女を引っ抱えて、これからどこへ落ちつく気だ」

「なにしろ、かんじんな巣から焼け出されてしまったので、それにはこのほうも当惑いたした」

「まさか、お千絵様とかいう<ruby><rb>別嬪</rb><rt>べっぴん</rt></ruby>を抱いて、そこらへ野宿もできねえしなあ」

「しかたがないから、一時、<ruby><rb>喜撰風呂</rb><rt>きせんぶろ</rt></ruby>の奥でも借りて、そこへ隠しておくとしようか」

「永えことはおられねえが、それも一時の妙案だろう。女をきれいに洗い上げて、ゆっくり楽しむには<ruby><rb>誂</rb><rt>あつら</rt></ruby>え向きだ……。ウム。おれもお綱を連れて、一緒にそこへ落ちつくとしよう」

「だが、どうする、途中を？」

なるほど、いくら惚れた女にしても、あの通りな火事騒ぎの中を、背中に掛けて京橋まで歩いちゃ行かれなかった。

「どこかで<ruby><rb>駕屋</rb><rt>かごや</rt></ruby>を呼んでまいろう」

「待ちねえ。駕といやあ、さっきそこの<ruby><rb>鳥居側</rb><rt>とりいわき</rt></ruby>に、<ruby><rb>提灯</rb><rt>かんばん</rt></ruby>が二つ見えていた筈だが……」

「えっ、駕が置いてあるッて」

「悪運の強い時には、何もかもトントン拍子というやつよ。ここは<ruby><rb>太田媛</rb><rt>おおたひめ</rt></ruby>神社の境内だ、神様は<ruby><rb>粋</rb><rt>すい</rt></ruby>をきかして、呼んでおいてくれたのだろう」

「なにしろ、時にとってありがたい。どこだ、その駕は？」

二人はノソノソと歩き出した。

周馬はお千絵を引っ抱え、お十夜は当身をくれたお綱の体を抱いている。

鳥居につづく玉垣の蔭、そこに、なるほど最前から、二<ruby><rb>挺</rb><rt>ちょう</rt></ruby>の駕がすえてあった。

提灯は<ruby><rb>灯</rb><rt>とも</rt></ruby>っているが、駕屋もいず、<ruby><rb>垂</rb><rt>た</rt></ruby>れもシンと下ろしてあるところをみると、そこらへ来かかった者が、火事に道をさえぎられて、ここに<ruby><rb>避難</rb><rt>ひなん</rt></ruby>したものか、或いは、不用意にここへ来た矢先、周馬とお十夜の暴行をみて、ビックリして駕屋が逃げてしまったものであろうか。

なにしろ、二人にとっては、渡りに舟。

周馬は先に、その一挺の駕へ寄り、お千絵の体を<ruby><rb>垂</rb><rt>た</rt></ruby>れの中へはねこんだ。そして、手早く<ruby><rb>細曳</rb><rt>ほそびき</rt></ruby>を引ッぱずして、駕のまわりを<ruby><rb>蜘蛛手</rb><rt>くもで</rt></ruby>にかがりだす。

と――後からお十夜も、その側にある駕へ寄って、片手にお綱の体を支え、片手で何の気もなく駕の垂れをはね上げたのである。

するとその途端に。

駕の中からヌッと出た手が、不意に、お十夜の足をさっとすくった。

一挺が<ruby><rb>空駕</rb><rt>からかご</rt></ruby>だったので、全く油断しきっていた孫兵衛、もろくも仰むけざまにひっくり返されたが、

「おのれ！」というと、助広を<ruby><rb>鞘走</rb><rt>さやばし</rt></ruby>らせて、地へ腰をつくと同時に、手ははね上がった駕の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すだれ</span>を、パラリと<ruby><rb>虚空</rb><rt>こくう</rt></ruby>へ向けて斬っていた。

「な、なに奴だッ」

さすがなお十夜孫兵衛も、立って身構えを取りなおしたものの、<ruby><rb>語勢</rb><rt>ごせい</rt></ruby>ははなはだしく乱れている。

「周馬、手を貸せ、手を！」

こうあわてて息まくと、旅川周馬も驚いた。いくら悪党づきあいで<ruby><rb>狡</rb><rt>ずる</rt></ruby>く立ち廻っているとはいえ、まさかにここでこの場をはずしもならず、また得意な<ruby><rb>詭弁</rb><rt>きべん</rt></ruby>でゴマ化しているいとまもない。

ぜひなく周馬、ギラリと一刀を抜きつれた。

「おお、心得た」

剣の光をジリジリとよじらせて、お十夜と共に、怪しげな<ruby><rb>駕</rb><rt>かご</rt></ruby>を挟み打ちに、左右から肉迫して行った。

で――二人は、中の奴が駕からヒョイと出たが最後と、充分大事な気構えを取っておいて、さて何者だろうか？　と<ruby><rb>密</rb><rt>ひそ</rt></ruby>かに相手をうかがってみると、向うの者は、一向静かなものごしである。

吾から、お十夜の足をすくい飛ばしたからには、それ相当な用意もあるべきに、ガタとも騒ぐ<ruby><rb>気色</rb><rt>けしき</rt></ruby>がない……。

見ると、駕の中にいることはたしかにいる――一人の侍。

ゆったりと<ruby><rb>駕蒲団</rb><rt>かごぶとん</rt></ruby>に身を埋めて、怒りに燃えた二本の白刃が、身に迫りつつあることも、どこ吹く風かという様子でだ。かれは、<ruby><rb>深編笠</rb><rt>ふかあみがさ</rt></ruby>の<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>を結んでいるのである。

相手の者が、あまり落ちつきはらっているので、<ruby><rb>業</rb><rt>ごう</rt></ruby>を煮やしたお十夜が、

「ヤイ出ろ！」というと、

「お、ただ今――」

皮肉な答えと一緒に、駕の中から一本の<ruby><rb>鉄扇</rb><rt>てっせん</rt></ruby>が、ヌーと二人の間へ伸びてきた。

それにしたがって、侍の体が、周馬と孫兵衛の斬りこみに充分な要意を備えながら、徐々と<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>りだして駕の外へ立ち上がった。

孫兵衛の注文は見事にはずれてしまった。鉄扇の隙なき構え、立ち上がる<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>の<ruby><rb>気配</rb><rt>きくば</rt></ruby>り――どこにも斬りつける<ruby><rb>破綻</rb><rt>はたん</rt></ruby>がない。

ちイッ……この野郎！　と孫兵衛は刀の<ruby><rb>背</rb><rt>みね</rt></ruby>から鋭い目を通して相手を睨んだ。

「<ruby><rb>意趣</rb><rt>いしゅ</rt></ruby>か<ruby><rb>遺恨</rb><rt>いこん</rt></ruby>か、何でおれの足をすくった！」

「だまれ」

「何をッ」

「なんで足をすくったと問われる前に、なんでこのほうの駕へ無断で手をかけたか、それをこのほうから訊ねたい」

「ええ、<ruby><rb>小癪</rb><rt>こしゃく</rt></ruby>なッ――」と、応答の隙を狙って、周馬がいきなり<ruby><rb>切</rb><rt>き</rt></ruby>ッ<ruby><rb>尖</rb><rt>さき</rt></ruby>を飛ばしてしまった。

<ruby><rb>空</rb><rt>くう</rt></ruby>を斬ると編笠の侍は、<ruby><rb>右手</rb><rt>めて</rt></ruby>の鉄扇に力をくれて、旅川周馬の顔をハタキつけた。こうなっては孫兵衛も、大事をとっていられない。

「おのれッ」と叫んで<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そぼろ</span>助広を振りかぶった。――途端に、周馬を打った鉄扇が、ポンと返って、孫兵衛の目つぶしに飛んで来る。

顔をかわしたので、鉄扇は肩越しに通り抜けたが、刹那に、手元へ躍ってきた<ruby><rb>深編笠</rb><rt>ふかあみがさ</rt></ruby>が、孫兵衛の<ruby><rb>肱</rb><rt>ひじ</rt></ruby>を平手で打った。

「くそうッ」

勢いよくふり下ろしたが、<ruby><rb>切</rb><rt>き</rt></ruby>ッ<ruby><rb>尖</rb><rt>さき</rt></ruby>の行き所は見事に狂っていた。あっ――と二の太刀、飛び<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>いて持ちなおそうとしたが、その<ruby><rb>腕首</rb><rt>うでくび</rt></ruby>はもう相手にねばり強くつかまれていた。えい！　えい！　えい！　二、三度もぎ離そうとしたが、離れればこそ、足を割り込まれて<ruby><rb>将棋倒</rb><rt>しょうぎだお</rt></ruby>れに、デンとそこへ組み敷かれる。

「周馬！　周馬！」

苦しまぎれに助太刀を求めたが、相手が<ruby><rb>手強</rb><rt>てごわ</rt></ruby>いと見たので、旅川周馬は、いつのまにか姿を隠してしまっている。

「周馬ッ……後ろを、後ろを」

もがく孫兵衛を押し伏せて、深編笠の侍、ウム、と何かうなずいた。

「最前から、どうも覚えのある奴と思ったが……果たしてそうじゃ。汝はこの夏頃まで、住吉村の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぬきや</span>屋敷にいたお十夜孫兵衛という浪人者だな」

<ruby><rb>胆</rb><rt>きも</rt></ruby>をつぶして、下から笠の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いた途端に、孫兵衛、思わずブルブルッと身をふるわせた。しまった！　そう感じたものらしい。<ruby><rb>右手</rb><rt>めて</rt></ruby>に持っている助広の<ruby><rb>柄頭</rb><rt>つかがしら</rt></ruby>で、イヤという程、<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>を締めている相手の腕を<ruby><rb>撲</rb><rt>なぐ</rt></ruby>った。

<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>の力が<ruby><rb>緩</rb><rt>ゆる</rt></ruby>んだので孫兵衛は死に身になってはね返った。と一緒に、突き飛ばした深編笠の影へサッと斬りつけたが、かれも<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に尺ばかりな物を<ruby><rb>懐</rb><rt>ふところ</rt></ruby>から抜いて受けとめた。

小太刀かと見えたが、それは<ruby><rb>銀磨</rb><rt>ぎんみが</rt></ruby>きの十手である。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もぎり</span>へ<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>りこんだ孫兵衛の<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>が、<ruby><rb>鏘然</rb><rt>しょうぜん</rt></ruby>として火を降らした。

と、孫兵衛は、腕の筋へ稲妻が来たように、ブルブルとしびれを感じた。十手の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もぎり</span>に刀を<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>み込まれたのである。あっ！　と引っぱずしたがその刹那に、駄目だ！　歯が立つ相手ではない！　こういう見きりをつけてしまった。

で、お十夜孫兵衛は、心に周馬の卑劣を<ruby><rb>憤</rb><rt>いきどお</rt></ruby>りながら、やむなく、自分もそこを逃げだした。

<ruby><rb>編笠</rb><rt>あみがさ</rt></ruby>の侍は、<ruby><rb>野袴</rb><rt>のばかま</rt></ruby>の土をはらって後ろに立っていた。そして周馬が念入りにからげておいた駕の方を差し<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いて、

「オオ……やはりお千絵殿に相違ない」とうなずいた。

やがて駕屋を呼び立てると、その侍は、にわかにどこかへ向って<ruby><rb>息杖</rb><rt>いきづえ</rt></ruby>を急がせた――一挺の駕にはお千絵様の体をそのまま乗せ、後の駕には自身が乗って――

<ruby><rb>焔</rb><rt>ほのお</rt></ruby>の空はまだ<ruby><rb>真</rb><rt>ま</rt></ruby>ッ<ruby><rb>赤</rb><rt>か</rt></ruby>だ。

<ruby><rb>駿河台</rb><rt>するがだい</rt></ruby>から<ruby><rb>蜿蜒</rb><rt>えんえん</rt></ruby>と下町へのびた火は、その夜、川を越えて外神田の一角を焼き、東は<ruby><rb>勧学坂</rb><rt>かんがくざか</rt></ruby>から小川町の火消屋敷を<ruby><rb>舐</rb><rt>な</rt></ruby>めつくし、<ruby><rb>丹後殿前</rb><rt>たんごどのまえ</rt></ruby>の<ruby><rb>風呂屋町</rb><rt>ふろやまち</rt></ruby>、<ruby><rb>雉子町</rb><rt>きじちょう</rt></ruby>あたりの<ruby><rb>脂粉</rb><rt>しふん</rt></ruby>の町も、春を控えてみじめに焼けた。

その火の海を遥かにみて、お千絵様をのせた二挺の駕、牛込見附から番町の台へ上ったが、さて、それから先はどこへ行ったか、皆目行方が知れなくなった。

<ruby><rb>倖</rb><rt>さいわ</rt></ruby>いにして目明しの万吉は、<ruby><rb>墜</rb><rt>お</rt></ruby>ちた所が浅瀬であったので、やッと河から這い上がってきた。――けれどそこには、気を失っているお綱の姿を見出しただけで、お千絵様の姿は遂に見えなかったのである。

## <ruby><rb>自来也鞘</rb><rt>じらいやざや</rt></ruby>

こんな日に、気まぐれな返り花が咲くのであろう。めったにない、暖かな冬<ruby><rb>日和</rb><rt>びより</rt></ruby>である。

<ruby><rb>神奈川宿</rb><rt>かながわじゅく</rt></ruby>の<ruby><rb>立場</rb><rt>たてば</rt></ruby>を出て、少しあるくと、左は<ruby><rb>鵙</rb><rt>もず</rt></ruby>の<ruby><rb>啼</rb><rt>な</rt></ruby>く並木のままつづいて、右は松の途切れた所から、きれいな砂浜の眺めがひらけ、のたりのたりと波うつ浦が江戸まで六里。

風が<ruby><rb>東南風</rb><rt>いなさ</rt></ruby>とみえて、<ruby><rb>寒色</rb><rt>かんしょく</rt></ruby>の海の青さもさまでには覚えない。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ざこ</span>場の小屋にも人影がなく、海草や貝がらや、<ruby><rb>蟹</rb><rt>かに</rt></ruby>の甲羅などが<ruby><rb>陽</rb><rt>ひ</rt></ruby>に乾いていた。

と、どこかで、<ruby><rb>一節切</rb><rt>ひとよぎり</rt></ruby>の音が流れた……。

尺八は近くがよく、一節切は<ruby><rb>遠音</rb><rt>とおね</rt></ruby>がいい。さて、どこの風流子であろうかと思うまに、その音はふッと絶えてしまった。

やがてであった。

ふと見ると浦づたいに、江戸のほうへ向って、サク、サク、ときれいな砂へ<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>のあとをつけて行く、一人の<ruby><rb>虚無僧</rb><rt>こむそう</rt></ruby>の姿がみえる。

一節切の<ruby><rb>吹</rb><rt>ふ</rt></ruby>き<ruby><rb>人</rb><rt>て</rt></ruby>であろう。

それらしい竹を、<ruby><rb>紫金襴</rb><rt>しきんらん</rt></ruby>の笛袋へおさめて、<ruby><rb>平</rb><rt>ひら</rt></ruby>ぐけの帯の横へ刀のように差しこんで、そして、とある所へ立ち止まったかと思うと、かれの天蓋は、強い感慨に<ruby><rb>衝</rb><rt>う</rt></ruby>たれでもしたように、沖を眺めて動かなくなった。

「おお、江戸が見える！　……」

こうつぶやいたようである。

波に<ruby><rb>縒</rb><rt>よ</rt></ruby>れ、波に散りひろがる陽のかげが、笠の下から虚無僧の顔へ映っている。白い<ruby><rb>腮</rb><rt>あぎと</rt></ruby>、<ruby><rb>丹</rb><rt>たん</rt></ruby>の如き唇――もっと深くさし覗くと<ruby><rb>凛</rb><rt>りん</rt></ruby>とした<ruby><rb>明眸</rb><rt>めいぼう</rt></ruby>が、海をへだてた江戸の空を、じっとみつめているのであった。

何を思い<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>っているのか、美男の虚無僧、そこにややしばらく忘我の<ruby><rb>態</rb><rt>てい</rt></ruby>で立っていたが、やがてまた少し足を早めて、スタスタと立ち去って行く――。<ruby><rb>子安</rb><rt>こやす</rt></ruby>、<ruby><rb>生麦</rb><rt>なまむぎ</rt></ruby>、<ruby><rb>鶴見</rb><rt>つるみ</rt></ruby>、川崎――、浦づたいの道はそこで切れて、六<ruby><rb>郷</rb><rt>ごう</rt></ruby>川の<ruby><rb>渡舟</rb><rt>わたし</rt></ruby>――、乗合いの客はこんでいた。

「まったく、この年の暮へきて、えらいこッてございましたなあ」

「えらいにもなにも、お話にゃなりませんて」

「いッたい、どこが火元だったのでしょう？」

「さア、そいつはよく分りませんがね、なんでも怪し火だということで」

「怪し火……ふウン、まア<ruby><rb>魔火</rb><rt>まび</rt></ruby>でございますな」

「そうでもなければ、あんな宵に、<ruby><rb>駿河台</rb><rt>するがだい</rt></ruby>から外神田まで焼けッちまうなんて、ばかなことはありますまい。おまけに、小川町にはお火消屋敷があるんですからな」

<ruby><rb>合羽</rb><rt>かっぱ</rt></ruby>をきた旅の者と、風呂敷づつみを持った手代ふうの男。どうやら話は火事のことらしい。

「ちょッと伺いますが」

<ruby><rb>舷</rb><rt>ふなべり</rt></ruby>へあわただしく<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>をハタいて、横から口をだしたのは、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とちめん</span>や<ruby><rb>北</rb><rt>きだ</rt></ruby>八といったような、<ruby><rb>剽軽</rb><rt>ひょうきん</rt></ruby>な顔をした男である。

「なんですか、どこかに火事でもあったんで？」

「知らないのかい、お前さんは」

「ちッとも。――いったい全体、その火事ってえのは、どこでいつの話なんです」

「ゆうべさ」

「へえ、ゆうべ？」

「しかも大火だ、おまけに目ぬきな神田から駿河台、あの辺のお屋敷町まで、この暮へきて焼け野が原だ」

「とすると――佐久間町あたりは、どんなものでござンしょう」

「まず、たいがい焼けたでしょうよ」

「ば、ばかにしてやがら」

「怒ったってしようがねえやな。お前さん、やっぱり神田かい？」

「その佐久間町の四ツ<ruby><rb>角</rb><rt>かど</rt></ruby>でさ。<ruby><rb>願掛</rb><rt>がんか</rt></ruby>けがあって、大山の<ruby><rb>石尊様</rb><rt>せきそんさま</rt></ruby>へお詣りに行ってきたんですからね、冗談じゃありませんや、神詣りに行った留守に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まる</span>焼けになっちまうなんて、そんな<ruby><rb>箆棒</rb><rt>べらぼう</rt></ruby>なチョボイチがあるもんじゃねえ。もし帰ってみて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まる</span>焼けになっていたら、この正月を控えてどうするンだと、女房子をつれて石尊様へ掛合いに行かなくッちゃならねえ。ねえ<ruby><rb>虚無僧</rb><rt>ぼろんじ</rt></ruby>さん――そんなものじゃありませんか」

と、側に腰をかけている虚無僧の方へ向って、その笠のうちを<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>きこむようにいった。

渡しが六郷へつくと、舟の客はわれがちに<ruby><rb>陸</rb><rt>おか</rt></ruby>へ上がった。神田大火の噂――駿河台も焼けたという話――などを小耳にはさんで、不安らしい色を浮かべていた虚無僧も一番あとから<ruby><rb>渡舟場</rb><rt>わたしば</rt></ruby>を上がってきた。

そして、<ruby><rb>蒲田</rb><rt>かまた</rt></ruby>、鈴ヶ森、浜川と足を早めて、一歩一歩と江戸の府内へ急いでゆく。

心なしか浜川の海岸へ立って、ふたたび、江戸の方角をみると、大火の<ruby><rb>余燼</rb><rt>よじん</rt></ruby>がまだ残っているのであろうか、どんよりした黒いものがはるかな空をおおっている。

なんとも案じられて堪らなくなったかのごとく、品川へかかるやただちに<ruby><rb>宿役人</rb><rt>しゅくやくにん</rt></ruby>らしい者の<ruby><rb>溜</rb><rt>たま</rt></ruby>りの前に立って、

「ちと、ものを伺いまするが……」

と<ruby><rb>天蓋</rb><rt>てんがい</rt></ruby>の<ruby><rb>縁</rb><rt>へり</rt></ruby>へ指をかけた。

「はい、なんでございますな」

「昨夜御府内に、大火がありましたとやらでござるが……」

「さよう。ございました」

「駿河台の辺はどうでございましょう」

「焼けました」

「お茶の水の上にある組屋敷は？」

「組屋敷……というと？」

「<ruby><rb>大府</rb><rt>だいふ</rt></ruby>の隠密方、甲賀組の家ばかりがあります所で」

「おお、あれも皆焼けたそうです」

「えっ、焼けましたか」

「そんなふうで」

「ウーム……」と思わず太い<ruby><rb>嘆息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>をもらして、<ruby><rb>茫然</rb><rt>ぼうぜん</rt></ruby>としてしまった。

この虚無僧こそは、いうまでもなく<ruby><rb>法月弦之丞</rb><rt>のりづきげんのじょう</rt></ruby>、かれであった。

大阪表から東海道へ下ってきた――。かなり急いできたのである。

<ruby><rb>禅定寺</rb><rt>ぜんじょうじ</rt></ruby>峠の上で、あえない死を遂げた<ruby><rb>唐草銀五郎</rb><rt>からくさぎんごろう</rt></ruby>の真心にうごかされて、初志をひるがえした弦之丞は、まず、安治川の蜂須賀家の様子をほぼ見届け、阿波守が帰国する船出までを確かめて大急ぎに、江戸へ引っ返してきたのである。

江戸には、先に万吉をよこしてある。いずれ万吉はもうお<ruby><rb>千絵</rb><rt>ちえ</rt></ruby>様と会って、銀五郎がああなったことや、また自分が来るべきことを、とうの昔に話して手筈をしているだろう――とばかり思ってここまで来た。

意外や、その墨屋敷は、前の夜の怪し火とやらで焼失したという。

もしお千絵殿の身に<ruby><rb>異変</rb><rt>いへん</rt></ruby>があったら、すべては<ruby><rb>水泡</rb><rt>すいほう</rt></ruby>に帰してしまうがと、彼の心は気が気ではなくなった。何のために、二度と足をふむまいと誓った江戸へ、急いで帰る必要があるか、弦之丞の奮起はまったく徒労にならねばならぬ。

そうだ、かれは江戸へ帰るべき筈の人でなかった。終生、旅で暮らそうと誓っていた弦之丞である。銀五郎が死の<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>に、ああまでの熱と<ruby><rb>侠気</rb><rt>おとこぎ</rt></ruby>とを見せてすがったればこそ、では――と、お千絵様のために、かれの意思をついで<ruby><rb>起</rb><rt>た</rt></ruby>ったのだ。でなければ、まだ五年も十年も、いや、あるいは死ぬまでも、一<ruby><rb>管</rb><rt>かん</rt></ruby>の竹にわびしい心を託して<ruby><rb>普化</rb><rt>ふけ</rt></ruby>の旅をつづけて終るつもりであった。

がしかし、神奈川の浦に立ち、品川の海辺に立って、江戸の姿を眺め、だんだんと御府内へ近づいてゆくにつれて、かれはなんともいえぬ愛着をよびさましていた。やはり郷土というものには、母性のような魅力がある。そこには<ruby><rb>仇</rb><rt>あだ</rt></ruby>があり、迫害があり、うるさい情実や<ruby><rb>陥穽</rb><rt>かんせい</rt></ruby>があるにしても、土地そのものだけには懐かしまずにはいられない力がある。

ではなぜ、そんな親しみのある江戸を捨てたのであろう？

二度と、帰るまいとまでして、かれは求めて漂泊していたのか、深い<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>がなければならない。

それは、なすべからざる恋をしたためにである。お千絵と恋をしたことが、かれを余儀なくそうさせた。

お千絵と恋をしたことが、なぜいけないかといえば、かの<ruby><rb>女</rb><rt>じょ</rt></ruby>は甲賀組の娘である。幕府の政策として、隠密方の者は、必ず、同役以外の者とは縁を結べぬ<ruby><rb>掟</rb><rt>おきて</rt></ruby>であった。

<ruby><rb>笹</rb><rt>ささ</rt></ruby>の<ruby><rb>間詰</rb><rt>まづめ</rt></ruby>、お庭の者、などと称される隠密の役は、駿河台の甲賀組、四谷の伊賀組、牛込の<ruby><rb>根来</rb><rt>ねごろ</rt></ruby>組、こう三ヵ所に組屋敷があった。

いずれも<ruby><rb>柳営</rb><rt>りゅうえい</rt></ruby>の出入り自由で、将軍家と会う時も、笹の間かお<ruby><rb>駕台</rb><rt>かごだい</rt></ruby>とよぶ所で、<ruby><rb>直問直答</rb><rt>じきもんじきとう</rt></ruby>のならわしである。いわば当時の御用<ruby><rb>探偵</rb><rt>たんてい</rt></ruby>で将軍自身のささやきをうけて、疑わしき諸国の大名を探りに出るのであるから、一倍その機密のもれるのをおそれたのだ。で、この三組の者にかぎって、同役以外の家すじとの養子縁組が固く禁じられて、みな<ruby><rb>神文血判</rb><rt>しんもんけっぱん</rt></ruby>の御<ruby><rb>誓書</rb><rt>せいしょ</rt></ruby>を上げてある。

だのに――お千絵は恋をした。

弦之丞にとっても、それは、なすべからざる恋であった。

その恋は、旅川周馬に<ruby><rb>呪</rb><rt>のろ</rt></ruby>われて幕府の耳に入ることになり、かれが江戸に止まる以上は、かれの父法月<ruby><rb>一学</rb><rt>いちがく</rt></ruby>の家も、またかれ自身も、恋人の身も亡びることになるのであった。

弦之丞が虚無僧寺にかくれ、そのまま旅へ去ったのは、こうした<ruby><rb>切</rb><rt>せつ</rt></ruby>ない理由からであった。

「とにかく急いでみるに<ruby><rb>如</rb><rt>し</rt></ruby>くはない。御府内へ入れば、なお詳しい様子も分り、いずれお千絵どのの安否もおよそ知れるであろう」

弦之丞は、<ruby><rb>茫然</rb><rt>ぼうぜん</rt></ruby>と気ぬけのしてゆく、吾とわが心に<ruby><rb>鞭</rb><rt>むち</rt></ruby>を打った。

江戸<ruby><rb>朱引内</rb><rt>しゅびきうち</rt></ruby>の境、八ツ山下の木戸を通りこえたのは、やがてその日の<ruby><rb>七刻</rb><rt>ななつ</rt></ruby>過ぎ――。

こうして、法月弦之丞は、いよいよ江戸へ着いたのである。

旅川周馬の脅威。

お十夜が恋の仇と<ruby><rb>寝刃</rb><rt>ねたば</rt></ruby>をとぐ彼、そして、お綱の思いあくがれている彼の姿が、江戸の地へ立ったのである。

すると。

「おお、弦之丞だ」

と一歩、かれが江戸へ入るとすぐに、こういって、その姿を<ruby><rb>凝視</rb><rt>ぎょうし</rt></ruby>した者がある。

その男は、<ruby><rb>高輪岸</rb><rt>たかなわぎし</rt></ruby>の<ruby><rb>支度</rb><rt>したく</rt></ruby>茶屋に腰かけて、<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>ごろから、しきりに往来を見張っていたのであるが、弦之丞の過ぐるを見ると同時に、

「これ、茶代は置いたぞ」

あわててそこを飛びだした。

とも知るや知らずや、弦之丞は大木戸から裏通りへ入って、三田から芝のほうへ急いだ。

後からそれをつけて行った者は<ruby><rb>軽捷</rb><rt>けいしょう</rt></ruby>な旅いでたちで、まず<ruby><rb>服装</rb><rt>なり</rt></ruby>のいい武芸者という風采、<ruby><rb>野袴</rb><rt>のばかま</rt></ruby>を短くはき、<ruby><rb>熊谷笠</rb><rt>くまがいがさ</rt></ruby>をかぶり、腰には長めな大小をさし、それは朱色の<ruby><rb>自来也鞘</rb><rt>じらいやざや</rt></ruby>であるように見られる。

弦之丞が右すれば右へ――辻で立ちどまれば止まり、歩めばそれに<ruby><rb>従</rb><rt>つ</rt></ruby>いて歩みだすのである。いわゆる影の形に添うごとく、どこまでも後をつけまわして行った。

その者こそ、蜂須賀阿波守から、弦之丞を<ruby><rb>刺殺</rb><rt>しさつ</rt></ruby>せよと命ぜられて、大阪表から後になり先になって、ここまで尾行してきた<ruby><rb>原士</rb><rt>はらし</rt></ruby>の<ruby><rb>天堂</rb><rt>てんどう</rt></ruby>一<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>だ。

五十三<ruby><rb>次</rb><rt>つぎ</rt></ruby>の宿駅をこえてくる間に、かれは幾度か、弦之丞の身に接近したが、遂にここまで斬りつける<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>がなかった。

一角の目算ははずれていた。

相手の姿が江戸の<ruby><rb>雑沓</rb><rt>ざっとう</rt></ruby>へまぎれこむと、容易に討ち難くもあり、影もくらまされる怖れもあるので、ぜひとも、東海道を旅する間に、討ってしまうつもりでいたのが――とうとうそれを果たされなかった。

「今日こそ、どこかで――」

一角の殺意はしきりと動いていた。折から相手の弦之丞は、都合よく人通りのある道を避けて、芝の<ruby><rb>山内</rb><rt>さんない</rt></ruby>へ歩いてゆく様子――、増上寺の山内は、もうドップリと暮れていた。

と――先にゆく弦之丞は、

「また一角がつけて来るな……うるさい奴」

と、舌うちをした。

かれは後から身を狙っている<ruby><rb>刺客</rb><rt>しかく</rt></ruby>のあることを、とうに<ruby><rb>覚</rb><rt>さと</rt></ruby>っていたのである。

「――はて、どうしてくりょう」

<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>いて影をくらます思案をしているらしかった。ヒョイと立ち止まって後ろを見る――、と、後ろの一角も、素速く足を止めて物かげへ身を<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそ</rt></ruby>めた。

途端に、弦之丞は、何思ったか、増上寺の門内へ、ツイと身をひるがえして駈けこんだ。

<ruby><rb>以心伝心</rb><rt>いしんでんしん</rt></ruby>。

その挙動が飛鳥のようだったので、天堂一角はハッとした。

「あっ、これは油断がならぬ。弦之丞めは感づいているのだ。うぬ、見のがしてなるものか――」

早足に駈けだしてきて、石段の下へ身を潜め、そッと、中へ入った影を見送ってみると、そこは通りぬけのならぬ道だと知ったか、弦之丞らしい<ruby><rb>白衣天蓋</rb><rt>びゃくえてんがい</rt></ruby>の人影が、ふたたびこっちへ戻ってくる……。

「おお、今だ！」

と考えた一角は、ヒラリと山門の外に身を寄せて、刀の<ruby><rb>柄糸</rb><rt>つかいと</rt></ruby>へ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しめり</span>をくれた。

ピタリ、ピタリ……とこっちへ戻ってくる人の<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>。……と何気なく山門の外へ、ひょいと白い人影が出てきたので、天堂一角が、躍りかかッて、一刀の<ruby><rb>下</rb><rt>もと</rt></ruby>に斬って伏せた。

「うッ――む……」

といって白衣の影は、肩の<ruby><rb>傷手</rb><rt>いたで</rt></ruby>をおさえたまま、天蓋をあおむけにして、よろよろと石畳の上へぶっ仆れた。

夜気にただよう<ruby><rb>血腥</rb><rt>ちなまぐ</rt></ruby>さい闇の中に、斬ッて曳いた一角の<ruby><rb>白刃</rb><rt>しらは</rt></ruby>と、しめた！　という<ruby><rb>笑</rb><rt>え</rt></ruby>みに<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>んだ顔とが、物凄く<ruby><rb>泛</rb><rt>う</rt></ruby>いて見えた。

不意を狙って、見事に相手を斬って仆したことは仆したが、いかにも、無造作だったことと、弦之丞にしては、余りにもろかったと気がついて、天堂一角、

「や、これは、いぶかしい」

と、すぐに自身の得意をあやしみだした。そして、<ruby><rb>虚空</rb><rt>こくう</rt></ruby>をつかんで仆れた者の側へ、血刀をさげてソッと寄って行った。

違っている。

虚無僧には違いないが、それは似ても似つかぬ別人であった。

とすると――弦之丞は、折よく山門の中から出て来る虚無僧があったので、尾行の眼をくらますために、わざと姿をそらしたに違いない。

「ええ、<ruby><rb>騙</rb><rt>たば</rt></ruby>かられた」と一角は、われとわが不覚を<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>りながら、地団駄をふんで、ふたたび相手のかげを血眼で探しはじめた。

そのころ。

一方の法月弦之丞は、<ruby><rb>御霊廟</rb><rt>みたまや</rt></ruby>のわきの<ruby><rb>築土</rb><rt>ついじ</rt></ruby>をヒラリと越えて、もうとっくに、芝の山内を駈け抜けていたのである。

「まず、これで一角の目も、当分の間は、自分を見つけだせぬであろう」と、かれの心は<ruby><rb>爽</rb><rt>さわ</rt></ruby>やかに晴れていた。

そして、疲れと寒さをこらえながら、その夜のうちに、駿河台まで<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>ってきた。

見るにたえない焼け跡のさまが、<ruby><rb>荒涼</rb><rt>こうりょう</rt></ruby>として彼を迎えたのみである。

墨屋敷のあともなければ、お千絵様の姿もない……。

ここまで来たら、その人の安否や、難を避けている所も聞かれようかと、かすかな望みをつないできたのも<ruby><rb>空</rb><rt>むな</rt></ruby>しかった。

<ruby><rb>余燼</rb><rt>よじん</rt></ruby>は消されつくしても、まだ人の不安と怖ろしい<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>の騒ぎは消えていない。火消改めの<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>だの<ruby><rb>町与力</rb><rt>まちよりき</rt></ruby>の列だの、お<ruby><rb>布施米</rb><rt>ふせまい</rt></ruby>の小屋だのが、大変な混雑である。

その血眼の人たちに、お千絵の消息をたずねたところで、もとより分かる筈がないのは知れていた。で弦之丞は、「ぜひがない……」と、空しい<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めの心をいだいて、何物もない闇を<ruby><rb>茫然</rb><rt>ぼうぜん</rt></ruby>と見つめていた。

すると、自分の立っている所から、四、五間ほど離れた所にも、同じように、茫然たるかたちで、立ちすくんでいる者があった。

二人の侍である。

二人は腕ぐみをして突っ立ったまま、石のように肩を並べて、いつまでも、<ruby><rb>黙然</rb><rt>もくねん</rt></ruby>として焼跡を眺めていた。

そのうちに、チラ、チラと白いものが空から落ちてきた。

雪である――<ruby><rb>牡丹雪</rb><rt>ぼたんゆき</rt></ruby>が降ってきた。

でもまだ、向うの二人は立っていた。弦之丞も立っていた。

「ウム。そこにいるのは、やはり家を失ったこの辺の組屋敷の者であろう……。同じ甲賀組の者とすれば、多少のことは分るかも知れない」こう思って、弦之丞は、しずかに側へ歩み寄った。

「少々、おたずね致しますが……」

二人の侍は虚無僧ずれの会釈をうるさく思うのか、または、焼け出された<ruby><rb>憂</rb><rt>うれ</rt></ruby>いに暗然としていて耳に入らぬのか、それにも答えず、チラチラと、顔や袖にかかる雪も払わずに立っていた。

「おたずね致しますが……」

もう一度こういうと、

「なんだ」

と、にべもなく、端の一人がふり向いた。

「まことに失礼なことを伺いまするが、やはり貴公方は、甲賀組のお武家でござりますか」

「なに？」

「焼けた組屋敷のお人でござるか」

「そうだ」

「おお、それならば、或いはご承知ではござりますまいか？　……」

「何をじゃ」

「組屋敷のうちでは第一の旧家――<ruby><rb>世阿弥</rb><rt>よあみ</rt></ruby>殿の娘お千絵と申す者の行方を？」

「や、お千絵を！」

「はい」

「貴様、たずねているのか」

「いかにも」

と弦之丞が、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふと</span><ruby><rb>天蓋</rb><rt>てんがい</rt></ruby>の<ruby><rb>小縁</rb><rt>こべり</rt></ruby>をあげて、その侍の顔を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いた刹那である。

ほとんど、双方が一緒に、

「おお！」

「あっ！」

とおどろいて、火と水とが触れ合ったように<ruby><rb>弾</rb><rt>はじ</rt></ruby>き返った。

と――弦之丞が、次の言葉をかける間もあらばこそ、怪しげな二人の侍――<ruby><rb>霏々</rb><rt>ひひ</rt></ruby>とふる雪のあなたへ、<ruby><rb>脱兎</rb><rt>だっと</rt></ruby>のごとく逃げだしてゆく――。

家の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うつばり</span>がミシリミシリと<ruby><rb>軋</rb><rt>きし</rt></ruby>むほかは、音もなく降り通していたゆうべの大雪。今朝は厚ぼったく積っていた。

カラン、カタンと、小桶の音。

<ruby><rb>喜撰</rb><rt>きせん</rt></ruby>風呂の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ざくろ</span>口には、もう湯気の中に<ruby><rb>洒落本</rb><rt>しゃれぼん</rt></ruby>の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">だじゃれ</span>をまる呑みにしているような、きざで<ruby><rb>通</rb><rt>つう</rt></ruby>がりで、ケチで、色男ぶった糸びん頭の怠け者が、ふさ<ruby><rb>楊子</rb><rt>ようじ</rt></ruby>をくわえて真っ赤にゆだりながら、

「アアいい気持だ、どうも、こたえられねえ」

「朝風呂はオツでげす」

「この雪を見ちゃ、また今日も帰られませんて」

「おぬしの買った女はなんという<ruby><rb>湯女</rb><rt>やつ</rt></ruby>だっけ」

「エヘヘヘヘヘ」

「いやに納まってるじゃねえか。<ruby><rb>浅黄</rb><rt>あさぎ</rt></ruby>はおよしよ」

「どうも、すみません。なんしろここに来ると、めっきり<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せてしまうんで、やりきれませんて」

などと、神田<ruby><rb>界隈</rb><rt>かいわい</rt></ruby>では、この大雪に焼け出された人々が路頭に<ruby><rb>凍</rb><rt>こご</rt></ruby>えているのも思わずに、いけしゃアしゃアと、気のいいことを<ruby><rb>吐</rb><rt>ぬ</rt></ruby>かしている。

客を相手に夜をふかして、まだねむたげな<ruby><rb>湯女</rb><rt>ゆな</rt></ruby>たちは、しどけない寝乱れ姿で板の間の<ruby><rb>雑巾</rb><rt>ぞうきん</rt></ruby>がけ、<ruby><rb>暖簾口</rb><rt>のれんぐち</rt></ruby>の水そうじ、雪をかいたあとへ<ruby><rb>盛塩</rb><rt>もりじお</rt></ruby>を積んで、

「オオ寒い、まだ降ってるよ」

とあわてて重い戸を閉める。

<ruby><rb>朱塗</rb><rt>しゅぬり</rt></ruby>の<ruby><rb>広蓋</rb><rt>ひろぶた</rt></ruby>へ、ゆうべの皿小鉢や徳利をガチャガチャさせて、またそこへ、だらしのない女が二階から持って降りてくる。

「どうしたの、奥は？」

「まだ寝ているんだよ」

「今日もいるつもりかしら？」

「なんだか知らないけれど、二人とも、神田で焼け出されて宿なしになったんだから、ここで正月をするっていっていたよ」

「ああ、そういえば旅川さん、あの人は駿河台とかいっていたから、ほんとに焼けだされてしまったのかもしれない」

「だけれど、もう一人のお十夜さんとかっていうお浪人、何だろうあの人は、気味の悪いお侍だね」

「<ruby><rb>額風呂</rb><rt>がくぶろ</rt></ruby>へきて泊りながら、ちっとも風呂へ入らないじゃないか」

「なに、入ることは入るんだよ。だがね……それもいつでも<ruby><rb>仕舞風呂</rb><rt>しまいぶろ</rt></ruby>さ、そして流しの戸口を閉めきって、誰もいない時にだけ入るんだから、まったく妙<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちくりん</span>じゃあないの」

「だれ？　あの人へ出ているのは」

「いやだね、まア」

「あら、お前さん」

「ああ」

「よかったね」

「おからかいでないよ、ひとを！」

「だって、まんざらな男振りじゃないじゃあないか」

「だれかに代って貰いたいよ」

「どうしてさ」

「<ruby><rb>怖</rb><rt>こわ</rt></ruby>くって……なんとなく怖くって」

「人<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みしり</span>をする<ruby><rb>柄</rb><rt>がら</rt></ruby>でもない癖に」

「だけれど、恐ろしい声をだして寝言をいうんだよ。女の名を呼んでね、そうかと思うと、人でも斬りそうな<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>き声を出すし……。まだそればかりじゃない、あのお十夜頭巾を、寝てまでとった<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ためし</span>がないんだもの……」

<ruby><rb>梯子段</rb><rt>はしごだん</rt></ruby>をふむ音がしたので、二人の<ruby><rb>湯女</rb><rt>ゆな</rt></ruby>はびっくりして奥のほうへ隠れてしまった。だが、そこへ来たのは噂をしていた者ではなく、丹前を着た別なお客、<ruby><rb>太</rb><rt>ふと</rt></ruby>り<ruby><rb>肉</rb><rt>じし</rt></ruby>でいい年をして、トロンとした目で<ruby><rb>手拭</rb><rt>てぬぐい</rt></ruby>を探している。よくもよくもこの家の<ruby><rb>軒下</rb><rt>のきした</rt></ruby>には、やくたいもない人間ばかりがたむろをしているとみえて、ひょこひょこと出てくる者が、一人としてロクな人物ではない。

ひとつ二階を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いてみようか。

梯子を上がると<ruby><rb>鐚文</rb><rt>びたもん</rt></ruby>部屋、ビタモン部屋というのは小銭百文か二百文で<ruby><rb>湯札</rb><rt>ゆふだ</rt></ruby>を買って、半日ここで湯気をさまして遊んでいる、金にならないお客をさす<ruby><rb>湯女</rb><rt>ゆな</rt></ruby>の悪口。<ruby><rb>碁</rb><rt>ご</rt></ruby>、将棋、貸本、<ruby><rb>細見</rb><rt>さいけん</rt></ruby>などが散らかっているが、ここは<ruby><rb>七刻限</rb><rt>ななつぎ</rt></ruby>りといって夕方は追い出しとなり、夜は<ruby><rb>屏風</rb><rt>びょうぶ</rt></ruby>を立て廻して、ボロ三味線に下手な<ruby><rb>甚句</rb><rt>じんく</rt></ruby>や<ruby><rb>弄斎節</rb><rt>ろうさいぶし</rt></ruby>がはじまるのである。

あとは小部屋がいくつもある。

その一番奥の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かけ</span>離れた二間つづき、裏梯子があるので人と顔を合せずに出入りができるので、<ruby><rb>喜撰</rb><rt>きせん</rt></ruby>では特別いい部屋としてある。

そこには、お十夜と、そして周馬。

いろんなことのあてが外れて、少しばかり、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やけのやん八</span>気味――けさもまだ起きないで、

「雪の一丈もふればいい」

と、フテ寝をしている恰好である。

「おい、周馬」

夜具の中から首をだして、こういったのはお十夜である。体を腹ンばいにして枕の上に<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>をのせ、<ruby><rb>朱羅宇</rb><rt>しゅらう</rt></ruby>のきせるで、

「まだ寝ているのか」

と<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>にいる周馬の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふとん</span>をソッと突いた。

<ruby><rb>湯女</rb><rt>ゆな</rt></ruby>の開けて行った小窓の障子は、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こんにゃく</span>色に明るくなっているが、世間の音もしない雪の日は、朝とも昼ともケジメがつかない。

「もう眼をさましたらどうだ」

というと、<ruby><rb>不承不承</rb><rt>ふしょうぶしょう</rt></ruby>に、

「うむ？　……」

と周馬は、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふとん</span>を猫の背のようにして、ムクムクとこっちを向いた。

<ruby><rb>総髪</rb><rt>そうはつ</rt></ruby>の毛が寝くたれて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">にきび</span>だらけの顔の<ruby><rb>脂肪</rb><rt>あぶら</rt></ruby>にこびりつき、二日酔いの赤い目を、渋そうにしばたたいたかれの顔は、けだし女性に好意をもたれる顔でなく、いかにも手のつけられない都会の青年武士が、恋と慾の幻滅で、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やけのやん八</span>、どうでもなれという顔だ。

まだその時代には、<ruby><rb>耽溺</rb><rt>たんでき</rt></ruby>という字がなかった。だが、そんな<ruby><rb>按配</rb><rt>あんばい</rt></ruby>が二人の今の気持だろう。

「どうだい、お十夜」

「なにが」

「考えついたかってことよ」

「ウム、あいつか」と、<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>の口を前歯に鳴らして、

「やっと思いついた、分ったよ」

こういって後は眉をしわめたまま黙ってしまった。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あいつ</span>という<ruby><rb>符牒</rb><rt>ふちょう</rt></ruby>は、無論、大火の夜に、<ruby><rb>駕</rb><rt>かご</rt></ruby>のなかからヌッと鉄扇を出した侍を指すので、それを考えあぐねていたのである。

「分ったと？」と周馬がやっと眼をさました声を出す。

「ウン」

「誰だ。なにせよ、よほどな腕達者だ」

「ありゃ、常木<ruby><rb>鴻山</rb><rt>こうざん</rt></ruby>という、<ruby><rb>元天満与力</rb><rt>もとてんまよりき</rt></ruby>をしていた奴にちげえねえ」

「ふウん。そいつが、何で江戸表へ来ているのだ」

「おれにも合点がゆかねえが、たったいっぺん……そうだ、住吉村の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぬきや</span>の巣にいた時、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あいつ</span>に踏み込まれたことがある」

「とすると、何かを探しに来ているのかな」

「まさか、俺をつけているのでもあるめえ」

「しかし、お千絵とお綱の二人は、いったいどうしてしまったろうな。そのほうが眼目だ」

「あの後で、<ruby><rb>太田媛</rb><rt>おおたひめ</rt></ruby>神社の境内へ行ってみたが、駕もなければ二人の姿もみえず、まったく、何が何やら判断がつかなくなった」

「その鴻山とかいうやつが、どこかへ連れて行ったのではないか」

「まずそう考えるより思案がない」

「弱ったなあ」

「当分はお綱の行方を探し廻らなけりゃならねえ」

「身どもはお千絵をつきとめる」

「わかるかい」

「広いようでも江戸の中なら、きっと知れるにきまっている」

「じゃあ、余りあせらぬことにしよう」と、孫兵衛、腹<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ばい</span>がくたびれたので、ゴロと仰むけに寝ざまを変えたが、まだ起き出そうという気は出ずに、じっと天井へ眼を向けている。

周馬も、それを<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>して仰むけになる。

しばらくは、どっちからも口を開かずに、沈思黙考、天井板と相談をしているというふうである。

雪の日だ。悪智をめぐらす頭も、自然にシンと落ちついてくるらしい。

「ウーム……」やがて周馬がこう<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>った。

「どうした？」

「<ruby><rb>凶兆歴々</rb><rt>きょうちょうれきれき</rt></ruby>。どうも吾々の前途は暗いな」

「ばかいやがれ」

お十夜が、<ruby><rb>肯</rb><rt>がえ</rt></ruby>んぜない。

「イヤしかし、ゆうべも焼け跡で、現に、法月弦之丞の姿を見かけたではないか」

「あんなに<ruby><rb>肝</rb><rt>きも</rt></ruby>を消して、逃げる奴があるものか。そっちが泡を食って駈けだしたので、おれまで釣り込まれてしまったが、今度いい折があった時は、叩ッ斬ってしまうことだぜ。いいか周馬、また逃げ腰にならねえようにな」

「ムウ……」といって目を閉じたが、旅川周馬、悪党のくせに大火以来、また、弦之丞の姿を見たりしてから、少し神経衰弱の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きみ</span>で、スッカリ気をめいらせてしまった。

空しい日が幾日か過ぎて、いよいよ年の瀬も押しつまってきた。<ruby><rb>喜撰</rb><rt>きせん</rt></ruby>風呂の奥にいるお十夜と周馬は、弦之丞を討つ機会をつかめずお綱やお千絵の消息も知れずに、ただ、いらいらと暮らしている。今日も二人は酔っていた。そのご機嫌を見計らって、取りまきの<ruby><rb>湯女</rb><rt>ゆな</rt></ruby>のお<ruby><rb>勘</rb><rt>かん</rt></ruby>とお千代が、しきりに浅草の景気をそそったので、つい、<ruby><rb>駕</rb><rt>かご</rt></ruby>を四つあつらえてしまった。

茶屋町で駕を降りる――そして二人は二人の湯女を連れて、いい身分でもありそうに、<ruby><rb>仲店</rb><rt>なかみせ</rt></ruby>から観音堂の<ruby><rb>界隈</rb><rt>かいわい</rt></ruby>へわたる、<ruby><rb>羽子板市</rb><rt>はごいたいち</rt></ruby>のすばらしい景気の<ruby><rb>雰囲気</rb><rt>ふんいき</rt></ruby>につつまれて行った。

「あら、いいこと」

「もう、ふるいつきたいねエ」

「成田屋の<ruby><rb>暫</rb><rt>しばらく</rt></ruby>――」

「あたい、浜村屋が好きさ、<ruby><rb>菊之丞</rb><rt>きくのじょう</rt></ruby>の<ruby><rb>女鳴神</rb><rt>おんななるかみ</rt></ruby>――当たったねえ、あの狂言は」

「<ruby><rb>佐野川万菊</rb><rt>さのがわまんぎく</rt></ruby>、悪くないね」

「あれは？」

「宗十郎じゃないか、梅の<ruby><rb>由兵衛</rb><rt>よしべえ</rt></ruby>だよ。あの由兵衛のかぶっている<ruby><rb>頭巾</rb><rt>ずきん</rt></ruby>から、宗十郎頭巾というのが、今年の冬たいへんな<ruby><rb>流行</rb><rt>はやり</rt></ruby>になったンだとさ」

「オヤ、お十夜さんみたいだね」

湯女のお勘とお千代が、こくめいに、端から一軒ごとに見て歩くので、周馬と孫兵衛は、つまらない所へ来たものだと、今さら人に<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>まれて後悔している。こういう所へ来ると、女を連れてきた男は、いつも女の<ruby><rb>随属</rb><rt>ずいぞく</rt></ruby>になって、吾ながらテレた顔を撫でているよりほかはない。

「あれは誰だろう。見かけない役者だねえ」

お勘がまた立ち止まって指さしたのを、不思議に、お十夜だけが知っていた。

で、少し得意に、

「あれか、ありゃ大阪の<ruby><rb>姉川新四郎</rb><rt>あねがわしんしろう</rt></ruby>よ」

「<ruby><rb>自来也</rb><rt>じらいや</rt></ruby>ですね」

「新四郎の自来也ときては、もう古いものだ。今頃江戸の市へ出るなんて……」

「へえ、そんなに当たり役？」

「あの<ruby><rb>押絵</rb><rt>おしえ</rt></ruby>の自来也がさしている朱塗の荒きざみの<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>は、新四郎の自来也が舞台でさして<ruby><rb>流行</rb><rt>はや</rt></ruby>らせたものだ。で、阿波の侍でもさしている者がある」

「おや、じゃあお十夜さんの<ruby><rb>故郷</rb><rt>くに</rt></ruby>は、阿波なんですね」

「はははは……つまらねえところで、お里を出してしまったものだ」笑ってそこを立ち去った。

奈良<ruby><rb>茶飯</rb><rt>ちゃめし</rt></ruby>か何かへ寄って、まだ少し早い支度をすましてから、観音堂を一周りして、さて、帰ろうかと、雷門から並木の方へブラブラと出てくると、湯女のお勘が、

「あら、さっきの人――」とつぶやいた。

わき見をしていた周馬が、それを聞きとがめて、

「だれだ、さっきの人というのは」

「いいえ、羽子板の自来也が歩いて行くから――」と、他愛のないことをいっている。

「なんだ、くだらない」

「だって、そっくりじゃありませんか、あの前へスタスタ行くお侍の姿が。笠といい、<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>といい、そして何より差している刀が、押絵にあった自来也<ruby><rb>鞘</rb><rt>ざや</rt></ruby>と同じ物ですよ」

「そういわれてみると、江戸には見かけぬ珍しい<ruby><rb>朱鞘</rb><rt>しゅざや</rt></ruby>を差している」

「押絵が、抜けだして、<ruby><rb>市</rb><rt>いち</rt></ruby>の景気に浮かれているんじゃないかしら……」

「まさか」と、お千代も周馬も笑ってしまった。

だが、孫兵衛は笑っていない。

お勘の見つけた自来也<ruby><rb>鞘</rb><rt>ざや</rt></ruby>の侍を、じっと見つめていたかと思うと、にわかに、

「周馬、おれはここで別れるから――一足先へ帰ってくれねえか」

プイとそれて、人と人との間を縫いながら、暮れかける町を足早に行く、自来也鞘のあとをつけて行った。

「オイ、天堂一角」

ふいに、肩を叩かれたので、

「おう」と、少しびっくりして振りかえった自来也鞘の侍。

<ruby><rb>熊谷笠</rb><rt>くまがいがさ</rt></ruby>を横に向けて――、この江戸表にこう親しく呼びかけられる者はない筈だが、と<ruby><rb>怪訝</rb><rt>けげん</rt></ruby>そうにしていたが、

「ウム。<ruby><rb>関屋孫兵衛</rb><rt>せきやまごべえ</rt></ruby>か」

と膝を打って、<ruby><rb>踵</rb><rt>きびす</rt></ruby>をめぐらした。

関屋とはお十夜の本名である。かれも元は阿波の<ruby><rb>原士</rb><rt>はらし</rt></ruby>であるから、天堂一角とは、その当時の剣友か飲み友達であるらしい。

「<ruby><rb>奇遇</rb><rt>きぐう</rt></ruby>だなあ」

「変ったなあ」

同じ言葉を投げあった。

「珍しい……何年ぶりになるであろう」

「もう、ざっと一昔だろう。なにしろ、おれが阿波を飛びだしてから、ぶらついているのも七、八年だ」

「では、いまだに御浪人か」

「不思議に食えてゆけるものだから、ツイ、この着流しがやめられねえのよ」

「<ruby><rb>縮緬</rb><rt>ちりめん</rt></ruby><span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぞっき</span>に<ruby><rb>雪駄</rb><rt>せった</rt></ruby>ばきかなんぞで、たいそう<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">りゅう</span>としているではないか」

「どうして、ふところ手をしている代りにゃ、暮がきても米一粒の<ruby><rb>的</rb><rt>あて</rt></ruby>はねえ身だ。なかなか苦労があるンだよ。は、は、は、は……。そりゃそうと、九鬼弥助、森啓之助、あの連中はどうしているな？」

「弥助はこの秋、<ruby><rb>禅定寺峠</rb><rt>ぜんじょうじとうげ</rt></ruby>という所で、間違いがあって落命いたした。だが、森啓之助の方は、只今お<ruby><rb>国詰</rb><rt>くにづ</rt></ruby>めで相かわらずにやっている」

「そうか――そして貴公は」

「どうして分った？」

「あまり江戸で見かけない、自来也鞘をさしているので、ちょっと、ハテなと目をつけたのよ」

「ウム、なるほど、これは自分でも気がつかずにいたが、そういわれてみれば悪く目立つの」

「目立ったほうがいいじゃねえか。この江戸表という所は、剣術使いは使い手らしく、いい女はいいらしく、何でも人に目立たせなけりゃ損な所だ」

「それでは少し都合が悪い。実は、少しつけ狙っている者があるのだから」

「ふウむ……だいぶ話が面白そうだ。じゃあ一角、貴公は<ruby><rb>仇討</rb><rt>かたきうち</rt></ruby>にでも出ているのか？」

「なにさ、そんな<ruby><rb>読本物</rb><rt>よみほんもの</rt></ruby>の筋ではない」

「じゃあ、どうなんだ」

「ちと、手軽には、話しかねる」

「水くせえことはよそうじゃねえか。おれも昔の関屋じゃねえ、お十夜孫兵衛とかっていう、妙な通り名をつけられて、少し<ruby><rb>垢抜</rb><rt>あかぬ</rt></ruby>けをしかけている人間だ。やくざ者はやくざなりに、打ち明けてくれりゃ、力にもなろうし、儲かることなら乗ってもいいし、また縁のない話なら、口外ご無用、それでアバヨとしようじゃねえか」

「それは、話さぬと申す訳ではないが、殿様より<ruby><rb>直命</rb><rt>じきめい</rt></ruby>をうけてまいった大事……<ruby><rb>路傍</rb><rt>ろぼう</rt></ruby>ではちと<ruby><rb>畏</rb><rt>おそ</rt></ruby>れ多い気も致してな」

「と、いわれると、なお聞きたい」

「実は、お家にとって、生かしておけぬ一人の男をつけてきたのじゃ」

「男だけでは分らねえが……それは？」

「――法月弦之丞というやつ」

「おい！」

いきなり腕くびをつかんできたので、一角はぎょッとした。

「なんだ」

「法月弦之丞？」

「いかにも」

「ちょッとこっちへ寄ろうじゃねえか。ここは土手へ出る<ruby><rb>馬道</rb><rt>うまみち</rt></ruby>の本通りだ、<ruby><rb>吉原</rb><rt>なか</rt></ruby>へゆく四ツ手や人通りが多くって、おちおち話もしていられない」

と、手を引っ張って、<ruby><rb>人気</rb><rt>ひとけ</rt></ruby>のない所へしゃがみこんだ。隅田川の<ruby><rb>西河岸</rb><rt>にしがし</rt></ruby>である。

<ruby><rb>猪牙舟</rb><rt>ちょき</rt></ruby>がのぼる――猪牙舟がくだる――。

吉原がよいの舟である。

川向うは<ruby><rb>三囲</rb><rt>みめぐり</rt></ruby>の土手、<ruby><rb>枕橋</rb><rt>まくらばし</rt></ruby>から向島はちょうど墨絵の夕べである。宵闇を<ruby><rb>縫</rb><rt>ぬ</rt></ruby>って、チラチラ飛んでゆく駕の<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>も見えだしたが、まだ空も明るく川も明るかった。

<ruby><rb>陸</rb><rt>おか</rt></ruby>へ上がった水鳥のように、そこへしゃがみこんだ十夜頭巾と自来也<ruby><rb>鞘</rb><rt>ざや</rt></ruby>。

だいぶ話に<ruby><rb>実</rb><rt>み</rt></ruby>が入ったとみえて、陽の落ちたのを忘れていたが、やがて孫兵衛が、

「いや、そういうわけか……」

と、聞き終って、腕組みをした両の袖に、三ツ<ruby><rb>鱗</rb><rt>うろこ</rt></ruby>の紋が白く浮く。

「今話したこと――なにせよ、阿波の大秘事でござる。必ずとも、<ruby><rb>他言</rb><rt>たごん</rt></ruby>してくれては困る」

「浪人はしても、おれも元は阿波の原士だ。なんで国元の秘密をペラペラしゃべるものか」

と、お十夜も、一角の口から大阪表のことを、聞けば聞くほど不思議な思いに、たえなかった。

旧主の阿波守をめぐって、影絵のごとく動いている、法月弦之丞をはじめ常木<ruby><rb>鴻山</rb><rt>こうざん</rt></ruby>や目明しの万吉や、それはみな、自分と妙な因縁をもっている者ばかりで、一角の話がいちいち自分の過去であるのが妙である。

それのみか。

聞けば天堂一角も、阿波守の内命を受けて、どこまでも弦之丞の命を絶たんために、この江戸表までつけてきたのだというから、かれはいよいよ驚きもし、また乗気にもなった。

これはまったく、何かの<ruby><rb>巡</rb><rt>めぐ</rt></ruby>りあわせみたいなものである。――旅川周馬、天堂一角、そして、おれ自身――期せずして弦之丞を殺害せんとする者が、ここで三人数えられる。いよいよ<ruby><rb>事</rb><rt>こと</rt></ruby><ruby><rb>成就</rb><rt>じょうじゅ</rt></ruby>の前兆だ。

これは一つ、天堂一角に出世の<ruby><rb>蔓</rb><rt>つる</rt></ruby>をつかませる<ruby><rb>態</rb><rt>てい</rt></ruby>にケシかけて、<ruby><rb>喜撰</rb><rt>きせん</rt></ruby>風呂へ連れこんでやろう――こうお十夜は考えた。

そこで周馬にひきあわせる。

ざッくばらんに話しあう。

話は早いだろう――目的は一つだ。

弦之丞を、暗殺か、惨殺か、どっちみち片づけてしまうことが、三人ともに一致しているから、すこぶる都合がいい。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ばら</span>した上の<ruby><rb>報酬</rb><rt>ほうしゅう</rt></ruby>は。

おれはお綱を自由にする。周馬はお千絵を探して勝手にするだろう。そして一角は、国元へ帰ってこの由を阿波守へ報告する。<ruby><rb>莫大</rb><rt>ばくだい</rt></ruby>な恩賞と<ruby><rb>加増</rb><rt>かぞう</rt></ruby>と面目をほどこすのは分りきったこと、これもずいぶん悪くない。

「うむ、一角」

「なんだ」

「その話なら安心しろ」

天堂一角は、まだ自分の目的を洩らしただけで、孫兵衛のほうの話はきいていないので、何を安心していいのか分らなかった。

「三人組だ。おめえと俺と旅川周馬と」

「周馬？　それは一体何者なのだ」

「まあいいから、俺と一緒に<ruby><rb>桜新道</rb><rt>さくらしんみち</rt></ruby>の喜撰風呂まで来るさ。そこでその男にもひきあわせるし、うまい相談もしようじゃねえか」

「いや、拙者は一刻も早く、見失った弦之丞の宿だけでも突きとめねばならぬせわしい体、これでご免をこうむるといたそう」

「野暮をいうなよ、<ruby><rb>湯女</rb><rt>ゆな</rt></ruby>遊びをすすめるのじゃねえ、底を割って話すと、この孫兵衛も、そこにいる周馬という男も、少し<ruby><rb>仔細</rb><rt>しさい</rt></ruby>があって、弦之丞めをつけ狙っていたところなのだ」

「えっ、きゃつを？」

「だから、ひとつ三人組で、それを相談しようというのだ」と、熱を上げて説きつけていると、ちょうどそこの河岸ッぷちへ、バラバラと駈け寄ってきた二人の子供。

見ると、お獅子の<ruby><rb>姉弟</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>である。

きょうも角兵衛を稼いで、家へ帰る途中だろうに、そこらの小石を拾い取ったかと思うと、

「――二アつ切った――」

「三ツ切った！」

「――こんどは四ツ」

<ruby><rb>掬</rb><rt>すく</rt></ruby>い投げに小石を打って、その小石が川の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を、つッ――つッ――と千鳥に水をかすって飛ぶ数をかぞえて興がりだした。

「えい、びっくりした」と、お十夜が睨みつけると、その血相に<ruby><rb>縮</rb><rt>ちぢ</rt></ruby>みあがって、逃げだしながら、お<ruby><rb>三輪</rb><rt>みわ</rt></ruby>と<ruby><rb>乙吉</rb><rt>おときち</rt></ruby>。

「こわいおじさん」

「泥棒ずきん」

「ずきん<ruby><rb>流行</rb><rt>ばやり</rt></ruby>はロクでもない」

「ないしょ話はみな聞いた」

「いいこと聞いた、二度聞いた」

「三度目にゃア<ruby><rb>忘</rb><rt>わ</rt></ruby>アすれた」

「四たび目にゃ言いつけた――」

かわりばんこに歌いつづけて、ドンドン向うへ行ってしまった。

## <ruby><rb>見返</rb><rt>みかえ</rt></ruby>り<ruby><rb>柳</rb><rt>やなぎ</rt></ruby>

目明しの万吉は、その後もたえず<ruby><rb>駿河台</rb><rt>するがだい</rt></ruby>の焼け跡に立ち廻っていた。

暮から正月の二日をおいて、明けて――明和三年となった四日目のこと。

<ruby><rb>鉄砲笊</rb><rt>てっぽうざる</rt></ruby>をかつがずに、<ruby><rb>素</rb><rt>す</rt></ruby>のままの姿で、今日も万吉が例の焼け跡へ来てみると、そこに果たして、彼がこの間うちから心待ちにしていた消息があった。

人目につかぬ<ruby><rb>石塀</rb><rt>いしべい</rt></ruby>の隅へ、消し炭で書いてあった文字である。それは、<ruby><rb>法月弦之丞</rb><rt>のりづきげんのじょう</rt></ruby>が、自分へ意思を伝えようとしたものであるのはあきらかであった。

＝＝<ruby><rb>予</rb><rt>よ</rt></ruby>は江戸に着いて、お千絵どのの<ruby><rb>居所</rb><rt>いどころ</rt></ruby>を求めつつあり。また予をたずねんとする者は、<ruby><rb>下谷</rb><rt>したや</rt></ruby>一<ruby><rb>月寺</rb><rt>げつじ</rt></ruby>、<ruby><rb>普化宗</rb><rt>ふけしゅう</rt></ruby>関東支配所にて問われなば知れん＝＝。としてある。「うむ。弦之丞様も、やっぱりこっちで察していた通り、江戸へ着いて迷っているのだ」

万吉は、それを読むとすぐに引っ返してきた。

かれの心は、一刻も早く、一月寺の支配所へ急いでいたが、大火の晩以来、万吉も<ruby><rb>妻恋</rb><rt>つまごい</rt></ruby>の家へ身を寄せていたので、とにかく、お綱にもこのよろこびを早く知らしてやる義務があると思った。

「いるかい？」

と、少しはずんだ足どりで、お綱の家の<ruby><rb>門口</rb><rt>かどぐち</rt></ruby>を開けて入ると、

「おや、万吉さん――」

奥の長火鉢で、何か考えこんでいたらしいお綱が、猫板から<ruby><rb>肘</rb><rt>ひじ</rt></ruby>を離して、いきいきとした万吉の顔色を見つめた。

「お綱、よろこんでくれ、やっと一方の目星がついた」

「そうですか、じゃああの晩、お千絵様を連れて行った者が誰だか、その見当がついたのですね？」

「なにさ、そのほうは残念ながら、まだ手懸りはねえんだが、いい<ruby><rb>按配</rb><rt>あんばい</rt></ruby>に、弦之丞様の居所がやっと分った」

「あら法月さんの？　……」

お綱の顔に美しい赤味がさした。

年の暮の火難から、怖ろしいあの夜の出来ごと――<ruby><rb>倖</rb><rt>さいわ</rt></ruby>いに、万吉に助けられて、この妻恋の家へ帰って正気づいたものの、お綱は今年ばかりは暮も元日も夢のように何も手がつかないのであった。

だが――今万吉の口からよろこばしい便りを聞いて、初めて、お綱の心と顔が、<ruby><rb>福寿草</rb><rt>ふくじゅそう</rt></ruby>のように明るく笑った。

「まあ、それが本当なら、これで一つの苦労はとけたというもの……、早く弦之丞様にお目にかかって、何かの相談をしようじゃありませんか」

「――で、すぐにこれから、一<ruby><rb>月寺</rb><rt>げつじ</rt></ruby>の支配所へ、訪ねて行こうと思うんだが……」

「じゃあ、私も一緒に行きましょうよ」お綱は手早く支度をした。そして、羽織は着ずに、<ruby><rb>葡萄染</rb><rt>ぶどうぞめ</rt></ruby>の<ruby><rb>縮緬</rb><rt>ちりめん</rt></ruby>頭巾をかぶり、火鉢の側の煙草入れを帯に<ruby><rb>挟</rb><rt>はさ</rt></ruby>んだ。

万吉は、にわかにはずんで、いそいそとするお綱の気持がよく分った。そして、それを<ruby><rb>拒</rb><rt>こば</rt></ruby>むことはできないのである。

「お<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>がお千絵様を救いだしてくれれば、おれも、どんなことでも力を貸してやろうじゃねえか」と、墨屋敷の窓の所で、固く約束したことがある。そのために、お綱は命がけで、あの屋敷の穴蔵部屋へまで身を<ruby><rb>墜</rb><rt>おと</rt></ruby>したのだ。よしや今ここに、お千絵が完全に助けきれていないにしても、その約束を破ることはできなかった。

「困ったなあ……」

口には出さないが、万吉は心の底で<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>いていた。――とんだ約束をしてしまったものだ――と今さら後悔するのでもあった。

やがて、弦之丞に会った時、お綱から、約束を迫られて、恋の橋渡しをせがまれた時には、さて、どうして<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めさしたものだろう？

実をいうと万吉は、今度のいきさつがあってから、お綱の気性を見込んで、すべての真相を残らず打ち明けていたのである。

だが――たった一つ、弦之丞とお千絵との仲だけは話さなかった。それは、それを話す前に、お綱の方から先に、切ない胸を打ち明けられてしまったから――。

お綱はまた、自分の胸だけで、どこまでも、弦之丞や万吉たちの、阿波の密事をさぐるという目的のために、力を貸そうと誓っていた。

万吉から、いろいろな話を聞いた時に、かれはどんなに、自分の罪を怖ろしく思ったろう。天王寺で<ruby><rb>掏</rb><rt>す</rt></ruby>り取った紙入れ一つが、やがて多市の死となり、銀五郎の最期となり、ひいてはこの江戸の空へまで、幾多の怖ろしい<ruby><rb>禍</rb><rt>わざわ</rt></ruby>いを波及してきた。

それは皆、自分のこの指がしたいたずらから起った罪だ。お綱は初めてスリという商売の何と怖ろしい悪業かということを知った。そして、唐草銀五郎にも弦之丞にも、それを何よりすまなく考えてきた。

これから後は、見返りお綱の命にかけても、その罪を<ruby><rb>償</rb><rt>つぐな</rt></ruby>わなければならないという、けなげな意気を持たずにはおられなかった。

それはまた、弦之丞へひそかに寄せる恋の力もあるので、<ruby><rb>鉄石</rb><rt>てっせき</rt></ruby>のように強かった。

妻恋からお<ruby><rb>成道</rb><rt>なりみち</rt></ruby>へ出て、二人は無口に歩きつづけた。お綱のいそいそと燃えてゆく気持は、自然と足を早くさせ、万吉が密かに持つ苦労は、ともすると遅れがちの足どりになった。そしてやがて、

<ruby><rb>普化宗</rb><rt>ふけしゅう</rt></ruby>江戸番所、一月寺<ruby><rb>末頭</rb><rt>まっとう</rt></ruby>――

山門の札を読んで立った二人は静かな寺内へ入って、松の多い境内を見廻した。ここは、<ruby><rb>勤詮派</rb><rt>きんせんは</rt></ruby>の虚無僧が足だよりとする<ruby><rb>宿寺</rb><rt>しゅくじ</rt></ruby>であるので、境内へ入ると、稽古の<ruby><rb>尺八</rb><rt>たけ</rt></ruby>や<ruby><rb>一節切</rb><rt>ひとよぎり</rt></ruby>の音がゆかしくもれて聞こえた。

万吉が訪れて、ここに、法月弦之丞という者が、宿泊しているかどうかという由をただすと、院代の者が寄宿帳を<ruby><rb>繰</rb><rt>く</rt></ruby>ってみて、

「うむ……法月弦之丞……<ruby><rb>寄竹派</rb><rt>きちくは</rt></ruby>の者でござるが、都合によってお泊め申してある。どういう御用向きでござりますな」

「じゃあ、たしかにおいででございますか――」

万吉は初めてホッと安心した。

お綱はそのうしろに待ちながら、もう、奥から洩れる<ruby><rb>一節切</rb><rt>ひとよぎり</rt></ruby>の音に、吾を覚えず胸騒ぎをさせていた。

「――では、まことに恐れいりますが、万吉という者がお目にかかりにまいったとお取次ぎ願います。へい、万吉とさえおっしゃって下さりゃ、ご存じの筈でございますから」

「ああさようでござるか。では、<ruby><rb>六刻</rb><rt>むつ</rt></ruby>過ぎに出なおしてお訪ね下さい。その<ruby><rb>御人</rb><rt>ごじん</rt></ruby>は、今朝から市中へ<ruby><rb>合力</rb><rt>ごうりき</rt></ruby>に出ておられます」

「へえ、では今はお留守でございますか」

「<ruby><rb>夕景</rb><rt>ゆうけい</rt></ruby>には戻られるであろう。戻った節にはお<ruby><rb>言伝</rb><rt>ことづけ</rt></ruby>いたしておく」

「じゃあ、またその頃に伺いますから……」二人は是非なくそこを出てきた。けれど、それは軽い失望にもあたらぬものであった。むしろ、久しぶりで、さまざまな話したいことを持って会うには、会うという楽しみと心のゆとりをつけておくに好ましい時間であった。

「これから妻恋の家へ帰って、また出なおすほどの間もねえから、そこらで飯でも食べて待ちあわせようじゃありませんか」

「そうだね……」とお綱もちょっと首をひねって、

「じゃあ、私の行きつけた<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>があるから、<ruby><rb>池</rb><rt>いけ</rt></ruby>の<ruby><rb>端</rb><rt>はた</rt></ruby>まであるいてくれないか」

「江戸のことは<ruby><rb>他人</rb><rt>ひと</rt></ruby>任せがいい、どこへでもお供をしますよ」

「お供なんていわれちゃ気恥かしいけれど、やはり食べ物はあの辺がいいから……。それに、弦之丞様に会う前に、改めて私から、お前さんに頼んでおきたいこともあるし」

万吉の胸底へ、その言葉が強くひびいた。

あの時の約束をふんでくれ、そして弦之丞との恋をとりもってくれ――こう迫られるに違いない。

二人の姿は、まもなく、<ruby><rb>不忍</rb><rt>しのばず</rt></ruby>の<ruby><rb>池</rb><rt>いけ</rt></ruby>を見晴らした<ruby><rb>蓮見</rb><rt>はすみ</rt></ruby>茶屋に上がっていた。

日が暮れたら、もう一度弦之丞をたずねる筈なので、酔うまいと気を締めていながら、蓮見茶屋で二、三本の<ruby><rb>銚子</rb><rt>ちょうし</rt></ruby>をかえている間に、お綱もホンノリと耳を染め、万吉もポッと赤い顔色をしてきた。

「勘定を払って、そろそろ出ようじゃないか」

「だって、今から行ったところで」

お綱は座敷の障子を細目にあけて、

「ごらんな、<ruby><rb>陽</rb><rt>ひ</rt></ruby>があたっているじゃないか」

「待つという時刻は永えものだ」

「それよりは万吉さん、これから、私が一つたずねたいことがあるんだから、まあ、もう少し腰を落ちつけておくれなね」

「うむ、そりゃ何でも聞くけれど……」と万吉、飲めない口のくせにまたうっかり<ruby><rb>一盃</rb><rt>ひとつ</rt></ruby>ほして、

「おれにゃあおよそ分っている」と独りでうなずいたものである。

「分っている？　まあ、<ruby><rb>八卦屋</rb><rt>はっけや</rt></ruby>さんみたいだこと」

「そりゃあ、ヘボにしろ目明しの万吉だ。お<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>がおれにはッきりと話しておきてえことというのは、いつか墨屋敷の窓の下で、お千絵様さえ見つけてくれたら<ruby><rb>俺</rb><rt>おれ</rt></ruby>も何なりと相談相手になるといった、あの約束をふんで、弦之丞様へ、お前の恋を取次いでくれというのだろう。どうだお綱……」

「万吉さん……」お綱は酒の上の頬に<ruby><rb>紅</rb><rt>べに</rt></ruby>を増して、「……察しておくんなさいよ」

<ruby><rb>繻子</rb><rt>しゅす</rt></ruby>の<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>へあごを埋めて、聞こえぬほどな声でいった。

「だが……そのことは、もう少し時機を待っていねえ。な、いつかもお前に話したように、弦之丞様は本来なら法月一学という<ruby><rb>大番組頭</rb><rt>おおばんぐみがしら</rt></ruby>の御子息だ。恋に身分の分けへだてはねえにせよ、一方には、おめえも知っている通り、これから俺たちと<ruby><rb>手筈</rb><rt>てはず</rt></ruby>をあわして、阿波の本国へ忍び込んで、蜂須賀家の内部をすっかり探りきわめてしまおうという大望のある人だ」

「ええ、そりゃあもう、深い事情を<ruby><rb>伺</rb><rt>うかが</rt></ruby>っておりますから、今が今とはいいませんけれど……。どうか、その末になった後にでようござんすから、私という気のねじけた女、日蔭の女を救うと思って……」

「そりゃ、いつか一度は話してみるがね……」

「浮いた話じゃございません、<ruby><rb>真</rb><rt>しん</rt></ruby>から思っているのでござんす。心の底から、今の私を打ちなおしたい、見返りお綱の根性を、真人間に近づけたいと――がらにもなく苦しんでいるのでございますから」

帯の間へ手を入れて、石のようにこわばったお綱の物言いぶりが、あまりにも<ruby><rb>真味</rb><rt>しんみ</rt></ruby>に迫っているので、よいほどにあしらっていられない責任感が、万吉の心をまで、<ruby><rb>締木</rb><rt>しめぎ</rt></ruby>にかけてきたのである。

「ふうむ……、するとなにか、お<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>は今の自分というものを、本当に、ねじけた女だ、浅ましい<ruby><rb>境界</rb><rt>きょうがい</rt></ruby>だ――イヤ、もっとはッきりいえば、<ruby><rb>外道</rb><rt>げどう</rt></ruby>の渡世をしている女スリだということを、自分で恥じる気になってきているのか」

「天王寺で<ruby><rb>掏</rb><rt>す</rt></ruby>った紙入れ一つが、あんなにまで、多くの人へ迷惑をかけた<ruby><rb>因果</rb><rt>いんが</rt></ruby>を聞かないうちは、まだそんなにまでは思いませんでしたが、江戸へ帰った後にお前さんから、いろいろな話を打ち明けられてみて、初めてスリという渡世が、自分ながら怖ろしくなったんです。万吉さん、私ゃあ、今度かぎり、きッと悪事の足は洗うつもり――そしてその<ruby><rb>罪滅</rb><rt>つみほろ</rt></ruby>ぼしに、及ばずながら弦之丞様が望みを遂げなさるまで、この身を<ruby><rb>粉</rb><rt>こ</rt></ruby>にしてもいいとまで、ひとりで覚悟をしております」

「うむ、なるほどなア！　そうなくっちゃならねえ筈だ」と万吉も、お綱が<ruby><rb>悔悟</rb><rt>かいご</rt></ruby>した真情に<ruby><rb>衝</rb><rt>う</rt></ruby>たれて、思わずこう共鳴してしまったが、そうなるといよいよかれは、お綱がスリの足を洗うためにも、あの約束を固く守ってやらなければならない負担を強く感じる。事実、こうした<ruby><rb>性悪</rb><rt>しょうわる</rt></ruby>の女を、その<ruby><rb>本然</rb><rt>ほんねん</rt></ruby>な純情へ立ちかえらせてやるには、神の力よりも、仏の<ruby><rb>功力</rb><rt>くりき</rt></ruby>よりも、はたまた、幾度とない<ruby><rb>獄吏</rb><rt>ごくり</rt></ruby>の<ruby><rb>責</rb><rt>せ</rt></ruby>めよりも、ただ一人のよき恋人が手を取って明るい道へいざなってやるにかぎる。

お綱はそうして、怖ろしい魔道から救われたいと思った。自分だけの悔悟や意志ではなおりきれない悪心の習性も、弦之丞のそばにいたら、きッと、子供の昔に返って、まじめな女に帰れるに違いないと信じられた。

自分だとて――女スリのお綱だとても――まだ若い女だもの。

奥座敷の客が呼びこんだのであろう、<ruby><rb>初春</rb><rt>はつはる</rt></ruby>らしい<ruby><rb>太神楽</rb><rt>だいかぐら</rt></ruby>のお<ruby><rb>囃子</rb><rt>はやし</rt></ruby>が鳴りだした。

外には<ruby><rb>羽子</rb><rt>はね</rt></ruby>の音、<ruby><rb>万歳</rb><rt>まんざい</rt></ruby>の<ruby><rb>鼓</rb><rt>つづみ</rt></ruby>――。そして、ふと万吉の耳に、角兵衛獅子の寒げな太鼓が耳についた。

<ruby><rb>楊子</rb><rt>ようじ</rt></ruby>をくわえて、二人が茶屋の軒を出たのは、それから間もないことであった。ちょうど、陽もころあいに暮れてきた時分――。

すると、その出合いがしらに<ruby><rb>忍川</rb><rt>しのぶがわ</rt></ruby>の方から、いっさんに、バラバラッと駈けてきた二人の角兵衛獅子があった。

オヤ？　と目をみはっていると、すぐ駈けつづいてきた三人の浪人に追い詰められて、向うの空地でヒーッという悲鳴を揚げた。

いきなり、<ruby><rb>殴</rb><rt>なぐ</rt></ruby>りつけられたものらしい。

「ごめんなさい！　ご免なさい！　……」という泣き声まじりに、おさないお獅子が二人、地<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">べた</span>へ<ruby><rb>蹴仆</rb><rt>けたお</rt></ruby>されていた。

「なんだなんだ、喧嘩か」

「喧嘩じゃねえ、いつも来る角兵衛獅子だ」

「可哀そうに、<ruby><rb>無礼打</rb><rt>ぶれいうち</rt></ruby>だ、浪人に何かして斬られるところだ」などと、もう口々にいって、それを見かけたあたりの<ruby><rb>弥次馬</rb><rt>やじうま</rt></ruby>が、ワラワラと寄って人垣を作る。

万吉は足をすくませて、

「お！　ありゃいつぞや、外神田の飯屋で見かけた、お三輪と乙吉――」

思いあたって、お綱の顔色をソッと<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>くと、お綱も酒の気をさまして、まっ青になっていた。

「万吉さん、ちょッと待っていておくれな」眼色を変えて駈けだしたので、かれもただちに、

「おれも行く！」

こういって後から続いた。

が、すでにそこには、寄っても付けない人だかりとなっていた。角兵衛獅子のお三輪と乙吉は、蹴仆されたまま土まみれとなって、オイオイ泣き声をあげている様子。

「この<ruby><rb>餓鬼</rb><rt>がき</rt></ruby>め！」と、その上にも土足をあげて、この抵抗力のない<ruby><rb>姉弟</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>をさいなんでいる三人組の浪人は、よりによってたくましい者ばかりだ。ふと見ると、それは<ruby><rb>自来也鞘</rb><rt>じらいやざや</rt></ruby>をおびた天堂一角と、総髪の旅川周馬とお十夜孫兵衛なのである。

「まあ、いい加減にゆるしてやれ」

あまり人だかりがしてきたので、周馬がこういうと、孫兵衛は<ruby><rb>頑</rb><rt>がん</rt></ruby>として、

「いいや、いけねえ」と、<ruby><rb>姉弟</rb><rt>ふたり</rt></ruby>の<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>がみを両の手に吊るして、

「今日だけのことならとにかく、いつぞやも<ruby><rb>山</rb><rt>やま</rt></ruby>の<ruby><rb>宿</rb><rt>しゅく</rt></ruby>の河岸ッぷちで、おれと天堂一角との話を立ち聞きして、なにやら<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">悪たい</span>をついて逃げやがったのだ。これッ、あの時の角兵衛獅子も、たしかにてめえたちに違いなかろう」

「あッ――小父さん！　かんにんして」

「ごめんなさい！　……あれーッ」

乙吉とお三輪が、金切り声をしぼって<ruby><rb>謝</rb><rt>あや</rt></ruby>まるのを、お十夜は耳にも貸さないで、

「こいつめ、ヒイヒイいうとぶった斬るぞ。ではなぜ、今も今とて、向うの<ruby><rb>田楽屋</rb><rt>でんがくや</rt></ruby>で飲んでいたおれたちの後ろへ廻って、<ruby><rb>葭簀</rb><rt>よしず</rt></ruby>のかげから人の話をぬすみ聞きしていたのだ。このすれっからしめ、餓鬼だといって油断のならねえ奴だ」

そういえば三人とも、<ruby><rb>三橋</rb><rt>みはし</rt></ruby>の田楽屋で飲んでいたものか、少し酒気をおびているふうだ。泣き叫ぶお獅子の<ruby><rb>姉弟</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>を軽々と引っさげて、なおも何か問いつめるつもりなのであろう。

「どけどけ」

と弥次馬を追いちらして、向うの森へ連れ込んで行こうとする。それを見ると無心な群集も、これを単なる<ruby><rb>路傍</rb><rt>ろぼう</rt></ruby>のものとばかり、興味に眺めてもおられないとみえて、

「あっ、誰か口をきいてやれよ」

「どうするんだ、お獅子が可哀そうじゃねえか。誰か助けてやらねえか、あれッ、連れて行かれてしまうぞ」

「<ruby><rb>試</rb><rt>ため</rt></ruby>し<ruby><rb>斬</rb><rt>ぎ</rt></ruby>りにされるんだ、試し斬りに――」口々に騒ぎたててはいるものの、相手が<ruby><rb>生</rb><rt>なま</rt></ruby>やさしい<ruby><rb>御家人</rb><rt>ごけにん</rt></ruby>やなんぞと違って、いかにも一癖ありそうなのが、三人までも揃っているので、ただいたずらにわめいてみるにすぎないのである。

と――その混雑の中をくぐって、走り寄ってきた見返りお綱は、今しも孫兵衛や、一角の手に引きずられてゆくお獅子の姿を見ると、吾を忘れて、

「あッ――お三輪ちゃん」

肉親の愛情、その<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>が何者であるかも目には止めないで、帯の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あい</span><ruby><rb>首</rb><rt>くち</rt></ruby>に手をやるが早いか、キラリと抜いたのを袖裏へ<ruby><rb>逆手</rb><rt>さかて</rt></ruby>に隠して、

「おい、お待ちッ！」と、<ruby><rb>癇走</rb><rt>かんばし</rt></ruby>った声を投げた。

可憐な<ruby><rb>姉弟</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>を取り返そうとする一心である。お綱がその時の血相の前には、お十夜の怖るべきことも、周馬や一角の<ruby><rb>太刀</rb><rt>たち</rt></ruby>の凄みもなかった。

お綱が向う見ずに駈けだしたので、万吉は、あッと<ruby><rb>胆</rb><rt>きも</rt></ruby>をつぶして、その後ろから力の限り抱き止めた。

「ど、どこへ行くんだ！」

「知れているじゃないか――。あれ、可哀そうに」

「まあ、待ちねえ。待ちねえッてことよ！」

「ええ畜生。ま、万吉さん――そんな<ruby><rb>悠長</rb><rt>ゆうちょう</rt></ruby>なことをしちゃいられない――今向うへ引きずられて行く<ruby><rb>姉弟</rb><rt>ふたり</rt></ruby>は、ありゃ実の私の小さい<ruby><rb>妹弟</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>なんだよ……」

「うむ、お三輪と乙吉――それがお<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>の<ruby><rb>親身</rb><rt>しんみ</rt></ruby>だというこたあ、おれもうすうす知っているが、なにしろ対手がお十夜にまだ二人の連れがある。でなくてせえあいつらは、お<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>の姿を探し廻っているところだ」

「かまわない！　かまわないから離しておくれ」

「ばかをいっちゃいけねえ、<ruby><rb>飢</rb><rt>う</rt></ruby>えた狼のような者の前へ、自分で<ruby><rb>餌</rb><rt>えさ</rt></ruby>になってゆく奴があるものか。イザといやあ俺だって、黙って眺めていやしねえから、まアも少し様子を見ていねえ」と、今の騒ぎに崩れだした人混みにまぎれて、万吉は、力の限りお綱の体を抱き止めていた。

すると、そのちりぢりになった<ruby><rb>人群</rb><rt>ひとむれ</rt></ruby>の中から、ただ一人、足早に駈けぬけて、向うへゆくお十夜の三人組へ、「しばらく！」と声を打って<ruby><rb>響</rb><rt>ひび</rt></ruby>かせた者がある。と、すぐにバラバラッと追いついて行った。

<ruby><rb>鼠木綿</rb><rt>ねずみもめん</rt></ruby>の<ruby><rb>手甲脚絆</rb><rt>てっこうきゃはん</rt></ruby>に<ruby><rb>掛絡</rb><rt>けらく</rt></ruby>、<ruby><rb>天蓋</rb><rt>てんがい</rt></ruby>。いうまでもなく虚無僧である。

「待て待て、浪人ども待て！」

こう浴びせかけたが、周馬も一角も、場所がらではあり白昼なので、知りつつ知らぬふりを<ruby><rb>装</rb><rt>よそお</rt></ruby>いながら、お三輪乙吉の背なかを突いて急ぎだすと、虚無僧はムッとした様子で、大股に寄るが早いか、今度は無言で、

「待てと申すにッ」

強く、孫兵衛の<ruby><rb>利腕</rb><rt>ききうで</rt></ruby>をとって、いたいけな角兵衛獅子の<ruby><rb>姉弟</rb><rt>ふたり</rt></ruby>を、かばうように左の手で後ろに寄せた。

「なにをするッ？」

周馬と一角が<ruby><rb>肘</rb><rt>ひじ</rt></ruby>を並べて<ruby><rb>柄手</rb><rt>つかで</rt></ruby>をかける。虚無僧は冷然とそれを見すえて、

「あまりといえば<ruby><rb>不愍</rb><rt>ふびん</rt></ruby>でござる。このいじらしい角兵衛獅子の<ruby><rb>姉弟</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>――なんと、放しておやりなすッてはどうじゃ」

「やっ、てめえは⁉」

そういう横合いから、こうおめいたのはお十夜である。左右の手を<ruby><rb>綾</rb><rt>あや</rt></ruby>にして不意に虚無僧の胸倉を引っとらえた。

「――おのれは<ruby><rb>法月弦之丞</rb><rt>のりづきげんのじょう</rt></ruby>だな」

「なにッ、弦之丞だ？」

周馬と一角とは、その途端に、足元から<ruby><rb>白刃</rb><rt>しらは</rt></ruby>をずり上げられたように、パッと踏みのいて物々しい構えをとった。

こうなると、事はにわかで、お獅子の<ruby><rb>姉弟</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>などは問題のほかである。お十夜たるものは、一たんねじ取った弦之丞の襟もとを、締めて攻めるか、投げて倒すか、あるいは腰の助広にものをいわすか、どッちみち、ただでは別れ難き<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いきさつ</span>となってしまった。

だが、弦之丞はそうでない。あたりまえの態度である。

ニヤリとして<ruby><rb>天蓋</rb><rt>てんがい</rt></ruby>を払った。

<ruby><rb>普化</rb><rt>ふけ</rt></ruby>の作法として、とるべからざる天蓋をとったのは、<ruby><rb>間髪</rb><rt>かんはつ</rt></ruby>を思う心支度である筈だが、それが、<ruby><rb>白刃</rb><rt>しらは</rt></ruby>を渡す宣言とは思えぬほど、あくまで神妙に見せて脱いだのだった。

脱げば――フッサリと切り下げた<ruby><rb>根元</rb><rt>ねもと</rt></ruby>、色糸で巻き締めたのが<ruby><rb>凛</rb><rt>りん</rt></ruby>としている。かれが天性の色の白さも<ruby><rb>際</rb><rt>きわ</rt></ruby>だつのであるが、こう見くらべたところ、お十夜の<ruby><rb>色悪</rb><rt>いろあく</rt></ruby>な、一角の<ruby><rb>魁偉</rb><rt>かいい</rt></ruby>な、周馬の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">にきび</span>だらけの面相などとは、やや性格なり修養なりの奥行の差を現わしているように見える。

で、やんわりと<ruby><rb>棘</rb><rt>とげ</rt></ruby>をたてずに、お十夜の<ruby><rb>諸手</rb><rt>もろで</rt></ruby>を抜けて、法月弦之丞。

「おお、旅川周馬――天堂一角――お十夜孫兵衛殿――いずれも珍しいお揃いで」

と、いとニコやかに<ruby><rb>会釈</rb><rt>えしゃく</rt></ruby>をした。

すると、そこを離れた<ruby><rb>三橋</rb><rt>みはし</rt></ruby>の<ruby><rb>角</rb><rt>かど</rt></ruby>では、やっと、お綱のはやり立つのを抱きとめていた万吉が、

「おや、ありゃあ弦之丞様じゃねえか」

地獄で仏のよろこばしさをそのままに、ここで幾月かの間、張りつめていた神経がいっぺんにゆるんで、<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>ッ<ruby><rb>骨</rb><rt>ぽね</rt></ruby>の<ruby><rb>蝶番</rb><rt>ちょうつが</rt></ruby>いがクタクタになるかと思われると、お綱も<ruby><rb>遠見</rb><rt>とおみ</rt></ruby>に気がついて、

「ああ、法月さんが――」と、思わず背を伸ばして、もう懐かしさをからませる。

だがしかし、それが弦之丞であると知ると、江戸の大道で、かくも明白に<ruby><rb>出会</rb><rt>しゅっかい</rt></ruby>した<ruby><rb>仇</rb><rt>あだ</rt></ruby>と仇が、どうなりゆくのか、それも心配。

面と面とを向いあわせた途端に、ハッと思ったが、弦之丞の<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>、意外に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いんぎん</span>であったので、かえって薄気味悪く思ったお十夜と一角とは、ひそかに<ruby><rb>鯉口</rb><rt>こいぐち</rt></ruby>を整えて、顔の筋を怖ろしげにこわばらせてしまった。

そこへゆくと、旅川周馬、腕に器量はないが人を食ってもいるし、鼻ッ先の機智もあるので、ギョッとした<ruby><rb>気振</rb><rt>けぶり</rt></ruby>も見せずに、

「よう、<ruby><rb>法月氏</rb><rt>のりづきうじ</rt></ruby>か！　意外な所でお目にかかった。いつもご壮健か、イヤ、それは何より<ruby><rb>重畳</rb><rt>ちょうじょう</rt></ruby>、して、いつ江戸表へお帰りでござった」

<ruby><rb>久濶</rb><rt>きゅうかつ</rt></ruby>の情を誇張して、いかにも親しげな表情である。もう少し弦之丞が白い歯をみせれば、その図に乗って肩を叩き、あわよくば襟首にでもからみついてきそうな<ruby><rb>按配</rb><rt>あんばい</rt></ruby>。

だが、もとより弦之丞は、この<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">にきび</span>侍の<ruby><rb>軽佻</rb><rt>けいちょう</rt></ruby>浮薄と<ruby><rb>邪心</rb><rt>じゃしん</rt></ruby>とを以前から見抜いている。ましてや、ここには蜂須賀家の天堂一角や、大阪表でチラチラ噂に聞いたお十夜という悪浪人まで道づれだ。

油断のならぬ三人連れである――。ははあ、さてはこの三人、一味同腹となって、自分をつけ狙っているのではあるまいか。

彼の<ruby><rb>炯眼</rb><rt>けいがん</rt></ruby>は、<ruby><rb>疾</rb><rt>と</rt></ruby>く、こう見破っていた。

だが、この人通りの多い盛り場で、それを表に現わして立ち争っては面白くない。第一、自分は本来まだ公然と白昼笠をはらって江戸の<ruby><rb>巷</rb><rt>ちまた</rt></ruby>を歩くことのできぬ身――という立場からも、弦之丞はあくまでここを無事に別れようとする。

で、周馬の<ruby><rb>空表情</rb><rt>そらひょうじょう</rt></ruby>を、<ruby><rb>他意</rb><rt>たい</rt></ruby>なくうけいれるさまに、

「そこもともいつに変らぬご様子で」

微笑をもってむくいると、周馬。

「イヤ、ところが大変りなのでござる――」浅黒い唇を上へ<ruby><rb>舐</rb><rt>な</rt></ruby>めた。

「まだご承知ないか、墨屋敷を初め、甲賀組一帯が焼けたことを」

「おお、その話は聞いているが、いずれお<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>から<ruby><rb>相応</rb><rt>そうおう</rt></ruby>なお<ruby><rb>代屋敷</rb><rt>かえやしき</rt></ruby>を賜わるであろう」

「さあ、それは平常、まじめにお役目を勤めている連中のこと。拙者はもう隠密組などという、泰平の世に無用なお役儀には飽き果てましたよ。で、こん度をいい<ruby><rb>機</rb><rt>しお</rt></ruby>に浪人いたして、これからはちと自由なほうへ生き道を伸ばす考え」

「結構でござります」

「無論、そう行かねば生き甲斐がござらん。ところで、弦之丞殿、お身も<ruby><rb>大番頭</rb><rt>おおばんがしら</rt></ruby>の子息の身で、自由な恋をし、拘束のない境地へ去られたのは賢明でござるよ。その段、周馬も敬服いたしている。イヤ実際、五百や六百石のこぼれ<ruby><rb>米</rb><rt>まい</rt></ruby>を貰って朝夕<ruby><rb>糊付</rb><rt>のりづ</rt></ruby>けの<ruby><rb>裃</rb><rt>かみしも</rt></ruby>で、寒中に<ruby><rb>足袋</rb><rt>たび</rt></ruby>一つはくのにも、奉書のお届を出さなければ足袋がはけないなんていうような幕府勤めはまッぴらでござるよ。アハハハハハ。おう、それはさておき、<ruby><rb>法月氏</rb><rt>のりづきうじ</rt></ruby>、江戸へお帰りになったからには、さだめし、お千絵殿とお逢いであろう。ただ今あの方は、どこにおられますな？」

と、余談にまぎらして、巧妙な探りを入れる。この<ruby><rb>貉</rb><rt>むじな</rt></ruby>め！　と弦之丞は心で<ruby><rb>冷蔑</rb><rt>れいべつ</rt></ruby>して、

「その消息は、トンと<ruby><rb>承</rb><rt>うけたまわ</rt></ruby>りませぬ。お千絵殿の行くえはこのほうより、むしろそこもとのほうが百も二百もご承知あっていい筈だが……」

逆に言葉の<ruby><rb>鉾先</rb><rt>ほこさき</rt></ruby>をねじ向けると、

「と、とんでもない！」と周馬はあわてて、「知っているくらいならおたずねは致さん。――いずれそのうちには分りましょうよ、分った節には、誰より先に貴公の所へご通知いたす。で<ruby><rb>法月氏</rb><rt>のりづきうじ</rt></ruby>、ただ今のご宿所は？」

「一<ruby><rb>月寺</rb><rt>げつじ</rt></ruby>関東の支配所」

「アア下谷の虚無僧寺でござるか。そのうちに、是非とも一度おたずねいたす」

「その節には――」と弦之丞、右と左へギラリと眼光をやって、「――そこにおいでの、一角殿や孫兵衛殿をも、ぜひお誘い合せてお越しありたい」

「ウム……」と一角は、その言葉の裏を胸にこたえて、<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ばつ</span>のいい返辞に窮した。

お十夜は目知らせで、しきりに、抜こう！　斬ってしまおう！　という殺気を誘ったが、一角の常識でも、今は地の利と時とを得ていないと思った。ことに、中に挟まった旅川周馬が、優柔不断で髪の毛ばかりを撫であげて大事な機を逸してしまったので、一角は、まずい、抜くな、と目と目でお十夜をおさえている。

こなたの<ruby><rb>人群</rb><rt>ひとむれ</rt></ruby>の中に隠れて、ハラハラしていたお綱と万吉も、どうやら、この分ならばとホッとしていた。

「ではまた、時を改めて会うとしよう。ただし――その節には、このほうから、ちと所望するものがあるかもしれぬが」と天堂一角が、少し<ruby><rb>凄味</rb><rt>すごみ</rt></ruby>をみせた気で、弦之丞へ捨てぜりふを投げたのをきッかけに、お十夜、周馬の三人組、互に目くばせをし合って、スタスタと辻から横丁へ立ち去ってしまった。

かかる<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いきさつ</span>の間に、角兵衛獅子のお三輪と乙吉は、賢い気転をきかして、人立ちのした間かどこかへ素早く姿をひそめている。

「なんだ、ばかばかしい……」

群集は失望した。

「あの<ruby><rb>按配</rb><rt>あんばい</rt></ruby>では、さだめし斬合いになるだろうと思っていたら、イヤに馴れ合ってしまやがった」弥次馬声をヒソヒソ交わして、皆ちりぢりに歩きだした。――弦之丞は禁じ得ぬ微苦笑を笠のうちに隠して、誰よりも大股に上野の山の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>にそって急ぎ足になる――。

それを見つけるとお綱も急に、「万吉さん、早く行かないと、法月さんの姿を見失ってしまう……」人を<ruby><rb>縫</rb><rt>ぬ</rt></ruby>って小走りに追い慕った。そのあわてようを見ると万吉は、あれほど、気の勝っている見返りお綱も、恋という魅力のためには、こうももろくなるものかと、心でおかしく思いながら、

「なアに、もう急ぐことはねえ。弦之丞様の帰る先は、いずれ一月寺ときまっている。それに、向うもこっちもなるたけ世間から忍んでいたい体だ。もう少し、人通りのねえ所へ行って声をかけよう」と、場所を計ってついて行く。

四、五町来ると、<ruby><rb>屏風</rb><rt>びょうぶ</rt></ruby>坂から<ruby><rb>鶯谷</rb><rt>うぐいすだに</rt></ruby>のさびしい山蔭、もう、ここらでよかろうと万吉、

「もし、弦之丞様、弦之丞様」

と、呼びかけた。向うでハッとふりかえると、お綱は胸を躍らせて、思わず足を止めてしまった。――弦之丞は<ruby><rb>天蓋</rb><rt>てんがい</rt></ruby>をこなたに<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>かして、

「おお、万吉ではないか」ピタピタと戻ってきて、お綱には目もくれずに、

「どうしたのじゃ？　江戸表へまいって以来、どれほどそちの姿を探していたかしれぬぞ」

「イヤどうも、お話にならねえ手違いだらけで、私もあなたの居所を知るまでどんなに、気をもんだかしれません」

「ではこのほうが、先日焼け跡へ印してきた文字を読んだか」

「あれを見なかった日にゃ、それこそ、まだお目にかかることはできなかったでしょう。で、実は早速、一<ruby><rb>月寺</rb><rt>げつじ</rt></ruby>の方へ伺いましたところ、今日は<ruby><rb>合力</rb><rt>ごうりき</rt></ruby>に出ていてお留守だという話。もう夕方までは間もねえからと、今しがたまで池の端の茶屋に休んでおりますと、あなたをつけ狙っている三人組の奴らが、角兵衛獅子の子をいじめているので、思わずあの弥次馬の中にまじっていたのでございます」

「おお、そうか」

「ところが、あの二人の角兵衛獅子というのが……まことに妙な因縁でして……」と万吉は、<ruby><rb>不得要領</rb><rt>ふとくようりょう</rt></ruby>に、ちょッと<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby>を掻きながら、うしろに隠れているお綱を指した。

「――そこにいる見返りお綱の、実の<ruby><rb>妹弟</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>なんでございます。で、本人に聞いてみると、弦之丞様とは、大津の<ruby><rb>打出</rb><rt>うちで</rt></ruby>ヶ<ruby><rb>浜</rb><rt>はま</rt></ruby>とやらで、一度シンミリとお話をしたこともあるそうで……かたがた只今のお礼も言いたいそうですから」

と、うまくひきあわせをしてしまった。で、初めて弦之丞は、そこにあだめいた女がはにかましげに立っているのを見出したように、

「大津の打出ヶ浜と申すと？　……ウム、あの嵐のあとの月夜に、<ruby><rb>瓦小屋</rb><rt>かわらごや</rt></ruby>で会うた<ruby><rb>女子</rb><rt>おなご</rt></ruby>か」

「はい……お久しゅうござりました」

お綱は精いッぱいに、これだけいった。そして、後はなんにもいい得ないで、ポッと耳の根を<ruby><rb>紅</rb><rt>あか</rt></ruby>くしたまま、万吉へ、救いを求めるような眼を向けた。

「で、弦之丞様、このお綱でございますが」と、なんのことはない、とりなし役になってしまった万吉。ここで手っ取り早く、お綱の過去と今の気持や、また墨屋敷の変事をも、話してしまおうと語をつぎかけると、

「まあ待て」と、弦之丞が軽くおさえて、

「この路傍では、何かの話もなりかねる。一月寺の宿院はすぐこの先じゃ、そこへ落ちついてきこうから、私の後についてまいるがいい」

「へい、それじゃそこへまいりましてから」

「万吉さん、私は？　……」お綱は少し甘えるように、万吉の<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>を取ってはにかんだ。

「二人ともに来るがよい」

笠でさしまねいて弦之丞が、先に立って歩きだしたので、お綱の心は甘い喜びにとけそうだった。宿院へ来いとゆるされただけを、もうすべてのことのように思って――。

そして、前へゆく弦之丞の後ろ姿に、磁力のような<ruby><rb>愛執</rb><rt>あいしゅう</rt></ruby>を感じながら、足も心もその人へ引きずられて行く見返りお綱。

「私は……私は……」お綱はついて歩く足もともうつろに、めくるめくばかりな熱情でこう思った。

「死んでもこの人を忘れまい！　命がけでこの人の胸にすがろう……、そしたら、怖ろしい<ruby><rb>掏摸</rb><rt>すり</rt></ruby>の足もきッと洗える」

するとその時、<ruby><rb>屏風坂</rb><rt>びょうぶざか</rt></ruby>の辺から近道をして追いついてきたのであろう。こけつ<ruby><rb>転</rb><rt>まろ</rt></ruby>びつ――声を揚げて追いついてきた角兵衛獅子のお三輪と乙吉。

「<ruby><rb>姉</rb><rt>ねえ</rt></ruby>ちゃん！　……姉ちゃん！」

「姉ちゃん、待ッて――」

なかば、必死の泣き声で呼び止めた。

「姉ちゃアん！　――」

と、お獅子の声のありッたけが、弦之丞の後ろについてゆくお綱の<ruby><rb>吾</rb><rt>われ</rt></ruby>をハッとさました。

常々も、忘れてはいない<ruby><rb>可憐</rb><rt>いと</rt></ruby>しい妹！　可愛い弟！　それを、今は、なんという魔がさしたのか、弦之丞の姿を見た<ruby><rb>刹那</rb><rt>せつな</rt></ruby>にフイと忘れて、あそこへ置き去りにしてきてしまった。

耳をつんざかれて、甘い幻想は霧のように散った。そして、なぜか、お綱はうろたえた。

「あっ……」

こう洩らして、ふりかえるまもあらばこそ、息せき切って飛んできた乙吉とお三輪は、永い間、氷のようにカジカんでいたおさな心に、会いたい会いたいと念じていた姉を見つけて、それこそ本当の<ruby><rb>児</rb><rt>こ</rt></ruby>獅子が<ruby><rb>牝</rb><rt>め</rt></ruby>獅子の乳へでも狂い寄るように、お綱の<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>がほころびるほど、両方から、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">むしゃぶり</span>ついてきたのである。

「おお！　三輪ちゃんだったかい」

と、両の袂へ、鉛のような<ruby><rb>情</rb><rt>じょう</rt></ruby>の<ruby><rb>重目</rb><rt>おもめ</rt></ruby>をかけられて、お綱は、飲ンだくれな父はとにかく、自分という大きな姉がありながら、こんな無邪気な者へ、こんな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しが</span>ない<ruby><rb>稼業</rb><rt>かぎょう</rt></ruby>をさせておいた、自責の念にせめられて、思わずよろよろと足を乱した。

「姉ちゃんだ！　姉ちゃんだ！　あたいの姉ちゃんだ！」

「まア、乙吉も――」と、本能的に、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひし</span>と二人を抱きしめて、見返りお綱、血の気もなく横にそむけた顔をおののかせて、

「もう久しい間、<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へもよりつかないこの姉を、よく覚えていておくれだッたね。おお、ほんとにお前たちも、すッかり大きくおなりだこと……」弦之丞や万吉の前も忘れて、止めあえぬ熱い涙を、さすがに女らしく<ruby><rb>注</rb><rt>そそ</rt></ruby>ぎかけた。

お三輪もシャクリあげていた。

乙吉も大粒の涙をこぼして、<ruby><rb>筒袖</rb><rt>つつそで</rt></ruby>の腕をあてていた。

「三輪ちゃんご免よ――、乙吉もかんにんしておくれよね。今に私が家へ帰ったら、角兵衛獅子なンかさせておきゃあしないから。――いい着物も買ってあげる……おいしい物も食べさせてあげる……そして寺小屋へも勉強に通わせてあげるから……ねえ」

「うん、姉ちゃん、ほんとにネ」

「ああ、嘘なんかいうものじゃない。――だから……いい子だから、暫く我慢して働いていておくれ、私が家へ帰るまで……」

「…………」

「分ったかい！　姉さんはこれから、ほれ、向うにいるお二人の方と一緒に、大事な用があって行く途中なのだから、日が暮れないうちに、早く家へお帰りなさい」

「いや！」

ハッキリと<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かぶり</span>を振った。

そして、どこまでも離れまいとするように、<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>の端を握りしめる。無邪気なだけに、純情であるがゆえに、こうなるといくらいいすかしたり、わけをいってきかせても、ウンと承知して帰る気ぶりはないのであった。

お綱は、当惑してしまった。

無理はない、無理はない！　この子たちには、酒飲みで無理解で乱暴な男親はあるが、貧しい中にも、<ruby><rb>稚</rb><rt>おさな</rt></ruby>い心を温めてくれる女親の肌がない。――吉原裏の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おはぐろ</span><ruby><rb>溝</rb><rt>どぶ</rt></ruby>、黒い泡がブツブツと立つ、あの濁り水のような<ruby><rb>裏店</rb><rt>うらだな</rt></ruby>で、情けも<ruby><rb>仮借</rb><rt>かしゃく</rt></ruby>もなく育てられては、こんな姉でも、こうまで強く慕う気になるのであろう。

そうも思うし――お綱はまた一方には、ここで、弦之丞にすげなく別れてしまうのが、一時にせよ、何としても辛かった。それは、幼い二人がたまたま巡り会った姉に別れるより、お綱にとっては、なおさらせつなく感じられる。

法月弦之丞は、わざと少し道ばたへ身を避けて、何かしきりと、万吉がささやくのを聞いていたが、

「お綱とやら――<ruby><rb>不愍</rb><rt>ふびん</rt></ruby>ではないか」

「は、はい……」

「およその事情は万吉から聞いたが、そちを慕うて離れぬのは無理ではない。拙者も万吉も、どの道しばらくは一月寺の宿院に滞在することになろうから、とにかく<ruby><rb>妹弟</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>どもを送り届けて、明日なり、また四、五日おいてなり後に、改めて一月寺へ尋ねてまいるがよい」

「そうだ！」万吉も口を合せて、

「そうしねえそうしねえ。なんぼなんでもお<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>、あれほどまでにすがる者を、<ruby><rb>蛇</rb><rt>じゃ</rt></ruby>か鬼じゃあるめえし、振りもぎッて行かれるものか。弦之丞様がおっしゃる通り、その子たちを送り届けて、家の様子も見てきた上に、後から訪ねておいでなさい。――え、大丈夫だよお綱さん、その間に、弦之丞様が消えてなくなる気づかいはねえから――」

お綱はそこで、弦之丞と万吉に別れた。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がんぜ</span>ない<ruby><rb>妹弟</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>たちを得心させた上、後からきっと一月寺へお訪ねします――と固く誓って。

お獅子のお三輪と乙吉は、すッかり元気がよくなった。<ruby><rb>嬉々</rb><rt>きき</rt></ruby>として、お綱の後になり先になりして目まぐるしく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">じゃれ</span>歩く。

「姉ちゃん」

「あいよ」

「姉ちゃん」

「なんだい」

「なんでもないの」

<ruby><rb>無上</rb><rt>むじょう</rt></ruby>に嬉しくってたまらない。

用もないのに呼んでばかりいた。そして、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あたい</span>の姉ちゃんなる人の顔を見ては、ニッコリ笑って寄り添った。お綱もニッコリ笑ってやる。求め難い男に<ruby><rb>執着</rb><rt>しゅうじゃく</rt></ruby>し、求めがたい恋に苦しみあえぐより、無邪気な目下に喜ばれるって、なんていいものだろう。けれど人は、淡いものには飽きたらないで血みどろな恋の修羅場を選んでゆく。なぜだかお綱にも分らない。お綱もやっぱりそうだから。

「姉ちゃん」

「ええ」

「なぜ姉ちゃんは家にいないの」

お三輪にきかれて、お綱はギクリと言いつまった。江戸はおろか東海道から上方へかけて、<ruby><rb>掏摸</rb><rt>すり</rt></ruby>を働いているなんていうことを、どうして、この純な神様たちへ話されよう。

「あの、私はね、よそのお屋敷へご奉公に出ているからさ……。それで、お前たちのことを思い出しても、めったに家へ帰れないのだよ」

「そう？　……じゃ姉ちゃんは、立派なお屋敷に出ているんだね。それを、<ruby><rb>角</rb><rt>かど</rt></ruby>の荒物屋の小母さんてば、お前たちの姉さんは、見返りお綱っていう<ruby><rb>金箔付</rb><rt>きんぱくつ</rt></ruby>きだッていったよ。姉ちゃん――金箔付きって何のこと？」

「そら、立派な、お屋敷のことさ」

「それで姉ちゃんは、家みたいな、きたない所へ寝るのがいやなの？」

「そんなことがあるものかね。たとえ、お<ruby><rb>施米</rb><rt>せまい</rt></ruby>小屋のような中へ、<ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>をかぶって寝ればとて、みんなで一緒に暮らしているほど、<ruby><rb>倖</rb><rt>しあわ</rt></ruby>せなことはないんだよ」

<ruby><rb>解</rb><rt>げ</rt></ruby>せないような顔つきで、お三輪は姉を見上げていた。それならば、なぜ家にいないのだろう、という疑問がおさな心にもあるとみえる。

町通りにポチポチ灯の色が見え初めた。松の内の夕暮は、道行く人も店飾りもことのほか美しい。サヤサヤと竹に吹く風が耳に痛くなってきたので、お綱は、折り畳んでいた頭巾を出して、形よくかぶった。

黙っているが、ひもじそうに見えたので、観音堂の境内で、<ruby><rb>串</rb><rt>くし</rt></ruby>にさした<ruby><rb>芋田楽</rb><rt>いもでんがく</rt></ruby>を買ってやると、お三輪も乙吉も、歩きながらムシャムシャ食べる。あんな物が、どんなに味覚をよろこばせるのかと思うと、熱い涙がにじみ出て、お綱は、<ruby><rb>放縦</rb><rt>ほうじゅう</rt></ruby>にぜいたくのし放題をやってきたことが、この二人だけにすまない気がする。

観音堂から田町の<ruby><rb>裏田圃</rb><rt>うらたんぼ</rt></ruby>――向うを見ると吉原の一廓が宵の空に薄黒く浮いていた。赤い灯の数の一ツ一ツは<ruby><rb>花魁</rb><rt>おいらん</rt></ruby>たちの部屋なのであろう、田圃をこえて、<ruby><rb>大尽舞</rb><rt>だいじんまい</rt></ruby>の笛や、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すががき</span>の三味線や太鼓が、賑やかに流れてくる。

その<ruby><rb>廓</rb><rt>くるわ</rt></ruby>を取りまいている<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おはぐろ</span><ruby><rb>溝</rb><rt>どぶ</rt></ruby>のふちに添って、頭巾のお綱はうつむき加減に、お獅子の二人は<ruby><rb>後先</rb><rt>あとさき</rt></ruby>に、トボトボ歩いてゆくのである。

文字どおりな<ruby><rb>鉄漿</rb><rt>おはぐろ</rt></ruby>の使い水や、風呂の<ruby><rb>垢</rb><rt>あか</rt></ruby>や、台の物の洗い流しや、あらゆる廓の醜悪がこの下水へ流れこんで、どす黒い泡を立てていた。そこへは、籠の鳥の女がしぼる涙もしたたり落ちてくるであろうし、あたりの空気もその下水のように濁っている気がして、なんとなく、息づまるものが<ruby><rb>澱</rb><rt>よど</rt></ruby>んでいた。そしてこの<ruby><rb>溝</rb><rt>どぶ</rt></ruby>どろの空気の漂う町が、お綱の育った<ruby><rb>故郷</rb><rt>ふるさと</rt></ruby>である。

「じゃあ……」かれは思いきって足を止めた。

「もう家の側まで来たから、姉ちゃんはここでお別れするよ。ね、またそのうちに、お屋敷のご奉公がすんだら、お前たちの側へ帰ってたくさん可愛がって上げるからね……」

こういって、帯の間からつまみ出した小判を四、五枚、お三輪の手へ握らせてやったが、小判はチラチラと足元へこぼれ、お三輪も乙吉も、目に涙をいっぱいためて、急に悲しい顔をした。

「さっきも話した通り、お屋敷奉公をしている身だから、この姉ちゃんは、家へ泊ってゆかれない体なんだよ。ネ、いい子だから聞きわけて、今日はここで別れておくれ」

「え……」

「分ったかい。そのうちに、きっとお前たちを<ruby><rb>幸福</rb><rt>しあわせ</rt></ruby>にして上げるからね。<ruby><rb>廓</rb><rt>なか</rt></ruby>へ売られた姉ちゃんも、今に私が身うけをして、家へ戻れるようにする。だから、そんなに泣かないで……」

お綱にだまし<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すか</span>されて、やっとうなずいたお三輪と乙吉は、ぜひなくトボトボと歩きだした――別れともない泣き顔で。

その影が、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おはぐろ</span><ruby><rb>溝</rb><rt>どぶ</rt></ruby>のドンドン橋を左に越えて、九尺二間の軒と軒とが<ruby><rb>挟</rb><rt>はさ</rt></ruby>み合っている<ruby><rb>孔雀長屋</rb><rt>くじゃくながや</rt></ruby>の<ruby><rb>路次</rb><rt>ろじ</rt></ruby>へションボリ消える。

細い月が空にあった。

<ruby><rb>廓</rb><rt>くるわ</rt></ruby>は人出の潮時である。

大きな<ruby><rb>雪洞</rb><rt>ぼんぼり</rt></ruby>を向けたように、<ruby><rb>不夜城</rb><rt>ふやじょう</rt></ruby>の空は赤く<ruby><rb>映</rb><rt>は</rt></ruby>えていた。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おはぐろ</span><ruby><rb>溝</rb><rt>どぶ</rt></ruby>の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">へり</span>にしゃがんで、お綱は肩をすぼめたまま、子供のようにしばらくすすり泣きに泣いていた。

ここは自分の育った土地で、この溝もこの廓もこの辺の家も、皆昔ながらであるだけに、なんとなく小娘頃の気もちがヒタヒタとよみがえってくる。それがいっそう悲しかった。

「お母さんさえ生きていたら、私はこんな女にもならず、ほかの<ruby><rb>妹弟</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>たちも、あんな<ruby><rb>不幸</rb><rt>ふしあわ</rt></ruby>せにはならなかったろうに……」しみじみ思いだされるのである。

親父は廓の遊び人で、<ruby><rb>紋日</rb><rt>もんび</rt></ruby>の<ruby><rb>虎</rb><rt>とら</rt></ruby>という手のつけられない<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あぶれ</span>者だが、死んだ母だけは、今も温かく甘く涙ぐましく、お綱の胸に残っている。

その母は、お<ruby><rb>才</rb><rt>さい</rt></ruby>といって、やはり根は<ruby><rb>廓者</rb><rt>さともの</rt></ruby>であったけれど、いわゆる<ruby><rb>仲之町</rb><rt>なかのちょう</rt></ruby>の江戸前芸者で、<ruby><rb>名妓</rb><rt>めいぎ</rt></ruby>といわれた<ruby><rb>女</rb><rt>ひと</rt></ruby>であったそうな。だのに、どうして紋日の虎なんて、<ruby><rb>箸</rb><rt>はし</rt></ruby>にも棒にもおえない地廻りと夫婦になったのか――お綱は子供心の頃から、それが不思議に目に映った。

で、ある時、まだ母のお才が生きていた頃、聞いてみたことがある。

「お前、そんなことに気がついているのかい。油断のならない子だね」

睨むようにいったけれど、また、抱き込んで、頬へ頬をつけながら、たッた<ruby><rb>一語</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>、こういった。

「お前だけはネ、今のお父さんの子じゃないんだよ」

この謎は、解いて聞かせてくれなかった。

女親のお才が死ぬと、怠け者で飲んだくれな紋日の虎は、家財をあらかた<ruby><rb>博奕</rb><rt>ばくち</rt></ruby>でハタいて、お綱を<ruby><rb>廓</rb><rt>なか</rt></ruby>へ売ろうとした。

「イヤなこッた」という調子で、お綱は家を飛びだしたのである。こうした家庭と罪悪の町中で育ったかれには、いつか立派に、一本立ちのできる技術がついていた。それは虎のところへ遊びにくる商売人が、おもしろ半分に教えたスリだ。

養父の非人道な行いに反抗して、家をとびだしたお綱も、いつか、人の道からそれてしまった。おもしろ半分に覚えた指<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わざ</span>で、思う存分な日を暮らした。でも、たとえ捨てるほどな金があった日も、養父へ<ruby><rb>貢</rb><rt>みつ</rt></ruby>ごうと思ったことは一度もなかった。ただ、<ruby><rb>不愍</rb><rt>ふびん</rt></ruby>なのは、お三輪と乙吉と――<ruby><rb>廓</rb><rt>なか</rt></ruby>へ売られたもう一人の義理の妹。

「どう考えても、ほかの子たちは可哀そうだねえ」そこを立って、沈みきった足どりを運ばせたが、お綱はふと<ruby><rb>廓</rb><rt>くるわ</rt></ruby>の灯を仰いで、この中にも、むごい男親に売られた妹が一人いるのかと思って、ほッと太い息がもれた。

ああ、救ってやりたい。

養父の行いは憎いが、罪のない妹たちを。

一つ――久しぶりに、たんまりとありそうなふところを狙って、妹の<ruby><rb>身請</rb><rt>みうけ</rt></ruby>の金と、あとの二人が<ruby><rb>幸福</rb><rt>しあわせ</rt></ruby>になれるだけの金を稼いでやろうか。――なんの<ruby><rb>造作</rb><rt>ぞうさ</rt></ruby>もない朝飯前のひと仕事に。

ふッと、そんな気がさした。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おはぐろ</span><ruby><rb>溝</rb><rt>どぶ</rt></ruby>の暗いかげから、お綱は明るい方へあるきだした。しだれ柳、<ruby><rb>辻行燈</rb><rt>つじあんどん</rt></ruby>、<ruby><rb>編笠</rb><rt>あみがさ</rt></ruby>茶屋の灯などが雨のように光る中を、土手から大門へと、四ツ手が駈ける、うかれ客が流れこむ、投げ<ruby><rb>節</rb><rt>ぶし</rt></ruby>がよろけて行く。

お綱の名と姿に似る、<ruby><rb>衣紋坂</rb><rt>えもんざか</rt></ruby>の見返り柳――その小暗いかげにたたずんで、かれは、<ruby><rb>密</rb><rt>ひそ</rt></ruby>かに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あて</span>を狙っていた。

金のありそうな人間のふところ。

## <ruby><rb>変化小路</rb><rt>へんげこうじ</rt></ruby>

二百両もあったらいい。

<ruby><rb>廓</rb><rt>くるわ</rt></ruby>にいる妹をひかして、余った金は意見に添えて、養父にくれてやるとしよう。そしたら、少しは心を入れ代えて、お三輪や乙吉にも、あんなむごい稼ぎはさせまい。

二百両――大したことでもありやしない。

だが、その金は、お綱が自分のふところの物を勘定するのではなく、これから、行きずりの人様から、拝借しようというのである。

かれは、頭巾姿の身をすぼめて、見返り柳から土手のあたりを、小刻みに歩きだした。

田中田ン<ruby><rb>圃</rb><rt>ぼ</rt></ruby>の寒風もいとわず、土手はチラチラと<ruby><rb>廓通</rb><rt>さとがよ</rt></ruby>いの人影がたえない。と――向うから、<ruby><rb>俳諧師</rb><rt>はいかいし</rt></ruby>か何かを取巻きにつれて、おさまった若旦那がほろ酔いでくる。

お綱の目が輝いた。

あいつ！　と目星をつけたら、決して<ruby><rb>遁</rb><rt>のが</rt></ruby>したことがないお綱だったが、妙に指先がこわばって、その人間をやりすごしてしまった。

「ちッ……」と舌うちをして、残り惜しそうに振り向いたが、やがてまたもう一人、たのもしい金持ちがお綱の前を歩いて行った。

それは<ruby><rb>紺股引</rb><rt>こんももひき</rt></ruby>にわらじをはいた爺さんである。わらじがけであってみれば吉原帰りでないことは知れている。お綱の目をそそったのは、蛇が蛙を呑んだように胴<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぶくれ</span>のしている内ぶところ。たしかに、まとまった金がある。

<ruby><rb>今戸</rb><rt>いまど</rt></ruby>、馬道の四ツ<ruby><rb>角</rb><rt>かど</rt></ruby>へきた。

人通りが乱れている。今だ！　と思いながら、お綱は、フッ――と前へ駈けぬけようとしたが――。

なんだか、妙に、気が重くなっていた。

「魔がさしたね！　見返りお綱！　お前のもち前の魔がさしたね！」

それは自分で自分にいう、心の底の声であった。

そう思った刹那に、お綱はなぜか、ブルブルと身がふるえてきた。かくも、自分をはッきりと意識するようでは、とても、<ruby><rb>隼</rb><rt>はやぶさ</rt></ruby>に人の物を<ruby><rb>掏</rb><rt>す</rt></ruby>るなどという<ruby><rb>神技</rb><rt>かみわざ</rt></ruby>に近い芸ができるものではない。

「お綱の腕のヤキが戻ってしまったのかしら？　……」こう思う間に、いつか自分は自分ひとりで、涙橋の上に立っていた。

「ああ、よそう、よそう……とんでもないことをするところだった。スリはやめると万吉さんに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ざんげ</span>をした私じゃないか。自分でも、二度とこの悪い指は使うまいと、心に誓っていたんじゃないか……。<ruby><rb>上方</rb><rt>かみがた</rt></ruby>の四天王寺で<ruby><rb>掏</rb><rt>す</rt></ruby>った紙入れ一つから、どんな因果がむくわれて、幾多の人を不幸な目に会わしたか、その怖ろしい<ruby><rb>輪廻</rb><rt>りんね</rt></ruby>を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まざまざ</span>見ている今じゃないか……」

今夜のお綱の心というものは、まったく冷静であり純であった。お三輪や乙吉の感化かも知れない。けれど、そのために、不幸な<ruby><rb>妹弟</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>が救えなくなった。

「すみません……」

誰にいうのでもなく、お綱はこういって、涙橋の欄干へうッ伏した。過去の罪を思うて、唐草銀五郎にわびるのか、<ruby><rb>不憫</rb><rt>ふびん</rt></ruby>な<ruby><rb>妹弟</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>たちへ詫びるのか、或いは、神のような形なきものへ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひれ</span>伏したのか。

橋の夜霜が袖に着く。

下には堀の水がゆるやかに流れていた。隅田川から入ってくる<ruby><rb>猪牙舟</rb><rt>ちょき</rt></ruby>や<ruby><rb>屋形船</rb><rt>やかた</rt></ruby>が夜寒の灯を伏せて漕ぎぬけてゆく。

頭の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しん</span>が痛んできたのか、お綱は顔を上げなかった。――早く弦之丞様の所へ帰って、一切を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ざんげ</span>してゆるして貰いたい気もち。また、あの浮世の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おはぐろ</span><ruby><rb>溝</rb><rt>どぶ</rt></ruby>に埋められている<ruby><rb>妹弟</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>を見捨ててもいられぬ悩み――。

声もなく、川千鳥が白く渡った、<ruby><rb>待乳</rb><rt>まつち</rt></ruby>の山から<ruby><rb>水神</rb><rt>すいじん</rt></ruby>の森あたりへ。

と。

お綱がうっ伏しているまに、かれの足元へ、黒々と、<ruby><rb>蟇</rb><rt>がま</rt></ruby>のような人かげが這いつながった。

橋の右と左から、その影は、欄干の根を這って、ジリ、ジリ……と寄りつめてきつつある。

<ruby><rb>捕手</rb><rt>とりて</rt></ruby>だ！　足がついた。密かに伏せた、十四、五本の十手。霜より真っ白に光ってみえる。

もう手が廻った！　およそ悪事に名を染めた者が、その<ruby><rb>故郷</rb><rt>ふるさと</rt></ruby>や肉親のいる家の近くに立ち廻れば、必ず、足がつくにきまっている。

ああ、それを知らない、お綱でもなかったが……。

元は知らず、未来は知らず、今、涙橋の上に、うっ伏している間のお綱は、まことに<ruby><rb>浄心</rb><rt>じょうしん</rt></ruby>純情な女であった。

だが、なんで捕手に、<ruby><rb>仮借</rb><rt>かしゃく</rt></ruby>があろう。

五十<ruby><rb>間</rb><rt>けん</rt></ruby>の番屋にいあわせた町役人が、いち早く、お綱の姿を見かけて、ここに手を廻してきた以上、もう袋の鼠とみられている。

先に這い寄った一人の捕手が、いきなりお綱の足を狙って、

「御用ッ！」

すくい飛ばしたのが合図となる。

「あっ！　――」不意をくッて、お綱は霜の欄干をツウ――と五尺ばかり<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>った。きっとみると、もう八方は、黒々とかがんだ捕方の影。

「御用だッ！」

「御用ッ、御用ッ！」

続けざまに二、三人、銀磨きの光を<ruby><rb>射</rb><rt>い</rt></ruby>さして躍ってきた。飛びかかるが早いか、お綱の驚きのまも与えず、

「神妙にしろッ」

欄干の<ruby><rb>楯</rb><rt>たて</rt></ruby>をもぎ離して、タタタタタと橋のまん中までひっ立ててくる。

「な、なにをするんだい！」

と<ruby><rb>癇走</rb><rt>かんばし</rt></ruby>ったお綱の声に耳も貸さないで、いきなり頭巾に手をかけた一人が、

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しら</span>を切ってもムダだ！　てめえは女スリの見返りお綱、とうから立ち廻ってくるのを待っていたのだ」

力まかせに頭巾を引いた。

「あっ――」というと、夜目にもきわだつ<ruby><rb>凄艶</rb><rt>せいえん</rt></ruby>な顔がむきだされて、頭巾に飛ばされた<ruby><rb>珊瑚</rb><rt>さんご</rt></ruby>の<ruby><rb>釵</rb><rt>かんざし</rt></ruby>、お綱に、もうこれまでと思わせた。

「笑わせちゃいけないよ。番屋廻りの下ッ端に、見返りお綱が自由になって堪るものか」

<ruby><rb>肘</rb><rt>ひじ</rt></ruby>をはずして、一人の<ruby><rb>捕手</rb><rt>とりて</rt></ruby>を勢いよく投げつけた。途端に、サッと持った<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>が、青い<ruby><rb>光流</rb><rt>こうりゅう</rt></ruby>を描いて横に走った。

「うーむッ……」

血が飛んだ！　お綱の白い手へもサッと返り血が散ってくる。

「うむ、<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>役人に手向いするか」

同心とみえる。十手よりやや長めなハチワリを持って、<ruby><rb>真</rb><rt>ま</rt></ruby>っ<ruby><rb>向</rb><rt>こう</rt></ruby>から、かれの小手を叩き伏せようとした。――が、お綱はヒラリと横に避けて、近づくものを斬りとばしながら、まッしぐらに駈けだした――<ruby><rb>今戸河岸</rb><rt>いまどがし</rt></ruby>から<ruby><rb>聖天町</rb><rt>しょうでんちょう</rt></ruby>のほうへ。

続いて十四、五人の捕手、バタバタとあとを慕う。霜の夜の御用の声は、ひときわすごくひびいて戸を<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>ける窓もない。

「どこへ曲った」

「たしかにこの路次」

「抜けられるな――しまッた――早く先へ廻れ、番屋の前をみたらお手を拝借とどなれ、おお、みんなそっちへ行っちゃいけねえ、半分はここから後を追いつめろ」

長蛇は二つに別れて横丁へ入る。

路次から路次をかけ廻りながら捕手は、ゴミための<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>から空家の床下まで<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いていったが、とうとう姿が見あたらなかった。

だがどうしても、この一<ruby><rb>劃</rb><rt>かく</rt></ruby>から出たとは思われないので、番屋の者の手を借りあつめて、なおもくまなく尋ねたが、それに似よった女にも出あわない。

では、お綱は一体どこへどう消えてしまったのだろう？　というに、あえて女だてらに屋根や<ruby><rb>高塀</rb><rt>たかべい</rt></ruby>伝いの離れ<ruby><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>をしたのでもなく、また<ruby><rb>変幻自在</rb><rt>へんげんじざい</rt></ruby>な<ruby><rb>忍</rb><rt>しの</rt></ruby>びの<ruby><rb>技</rb><rt>わざ</rt></ruby>を<ruby><rb>弄</rb><rt>ろう</rt></ruby>したのでもない、明々白々と、<ruby><rb>裸体</rb><rt>はだか</rt></ruby>になっているのである。

どこにというと、それが少しおかしい。

<ruby><rb>鵜</rb><rt>う</rt></ruby>の目<ruby><rb>鷹</rb><rt>たか</rt></ruby>の目の捕手や、六尺棒をもって<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つきあい</span>に出た<ruby><rb>番太郎</rb><rt>ばんたろう</rt></ruby>が、みすみす二度も三度も前を通っている、横丁の銭湯へ七文の<ruby><rb>湯銭</rb><rt>ゆせん</rt></ruby>を払って、そこの女湯に、のびのびとして温まっている。

もうもうと白い湯気が立ちこめて、<ruby><rb>数多</rb><rt>あまた</rt></ruby>の女の肌が人魚のように混んでいるので、誰が誰とも分らないが、風呂へつかって、

「ああ、いいお湯加減……」

こういったのがお綱らしい。

「ええ、<ruby><rb>人参湯</rb><rt>にんじんゆ</rt></ruby>でございますからね」と、<ruby><rb>乳呑</rb><rt>ちの</rt></ruby>み<ruby><rb>児</rb><rt>ご</rt></ruby>を抱えた、近所の若いお<ruby><rb>内儀</rb><rt>かみ</rt></ruby>さんらしいのが話しかける。

「お子さんがあると、お風呂もたいていじゃありませんね」

「まったくですよ。それに冬は、<ruby><rb>風邪</rb><rt>かぜ</rt></ruby>をひかしてはと思うもんですから、自分の体も洗えやしません」

「少し、<ruby><rb>抱</rb><rt>だ</rt></ruby>っこしていてあげましょうか」

「いいえ、いいんですよ」

その時、番台の<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>の戸が<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いた。

向うからもこっちからも、湯気でよく見えないからいいようなものの、いきなり女湯の戸を開けたのは、一人の男だ。

「あ、お間違いでしょう」

と番台がいうと、かぶりを振って、下から、何かささやいた。と、みるまに番台のおやじ、青くなって<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ざくろ</span>口の湯気を見つめた。

安永頃にはもう江戸は混浴禁止になっている。男のくせに大手を振って、女湯へ入ってくるのは、お<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>の<ruby><rb>御威光</rb><rt>ごいこう</rt></ruby>でもなければできないこと。

無論、それは捕手の一人。

ことによったらという疑念をもって、銭湯をねらってみたが、まさか、自分も裸になって、湯気の中の<ruby><rb>女</rb><rt>もの</rt></ruby>を一人一人あらためてみることもできないので、何か、番台のおやじに吹っかけている。

「入ったろう、そんなふうな女が……」

「さア、なにしろこの通り混んでおりますから」

「不注意な奴だ」

「申し訳がございません……ですが、どうぞ流し場でおあらためだけは一つご勘弁を。へい、男湯の方なら、ちッともかまやしませんが、その……ほかのお客様がお気の毒でございます。なんなら、その脱いである着物をごらんくださいまして」

「夜分なので、衣服にはよく覚えがないのだ。では、必ず裏口などから突っ走らぬように気をつけてくれ」

「へい、その辺はよろしゅうございます」

「きッとだぞ」

ツウと外へ出て行った。

湯屋の<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>を出た男は、左右の路次を向いて、手をさし招いた。ゾロゾロとすぐに十八、九人の人数が集まる。ヒソヒソと耳うちをして、やがてあたりの物蔭へシンと<ruby><rb>鳴</rb><rt>な</rt></ruby>りをひそめてしまう。

驚いたのは番台のおやじ。

えらいお客がまぎれこんでしまった。いったいその女<ruby><rb>掏摸</rb><rt>すり</rt></ruby>というのは、どの客であろうかと、<ruby><rb>銭筥</rb><rt>ぜにばこ</rt></ruby>の<ruby><rb>抽出</rb><rt>ひきだし</rt></ruby>から<ruby><rb>眼鏡</rb><rt>めがね</rt></ruby>をだして、上がってくるのを一人一人見張っている。

たいがいなお客は入れ代ってしまったほど、かなり時間がたったが、どうもそれらしい女は上がってこない。みんな、近所の顔見知りな人ばかりだ。ばかにしてやがる、<ruby><rb>不浄役人</rb><rt>ふじょうやくにん</rt></ruby>め、女湯<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>きをして行きやがった。

おやじは眼鏡をはずして手に持った。すると、その時、近所の若いお<ruby><rb>内儀</rb><rt>かみ</rt></ruby>さん――<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじみ</rt></ruby>なので顔を知っているが、その内儀さんと親しい口をききながら、一緒に出て行った<ruby><rb>小粋</rb><rt>こいき</rt></ruby>なのがチラと目についた。

オヤ！　といいたかったが、そうもいえないので、番台から、

「ありがとう、おしずかに――」

ひょいと振りかえるまに戸を閉めて下駄を取っている様子。何かいいながら、馴染の方の<ruby><rb>内儀</rb><rt>かみ</rt></ruby>さんは、湯道具やら<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おむつ</span>やらをいっぱい抱えて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ねんねこ</span>にくるんだ乳呑み児の方は、も一人の女の手へ預けていた。

「すみませんです、ほんとにご親切様な」

「どういたしまして、お互い様ですもの」

「おかげ様で今夜ばかりは」

「おう、外へ出るといい気もち――<ruby><rb>赤児</rb><rt>やや</rt></ruby>もスヤスヤ寝ていますよ」

「まア、のんきなものでございます。どうもありがとうぞんじました」

「せっかく、いい気持そうにしているのに、目をさますといけませんから……」

カラカラと夜寒に下駄をひびかせて、濡れ手拭を下げながら湯上がり姿を風に吹かせて出ていった。

捕手は足をしびらせていた。今か今かと息をひそめて待ち切ったが、まさか、今乳呑み児を抱いて出てきたものが、見返りお綱であろうとは、誰も見破る者がなかった。

そのうちに、アラ、私の下駄がない、と湯屋の<ruby><rb>門</rb><rt>かど</rt></ruby>で騒ぎだしたものがある。

さてはと、初めて思いあたったが、もう長蛇はとッくに逸していた。お綱は、風呂の中で、女同士のありがちな親しみを向けて、その人を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おとり</span>に、まんまと重囲を脱してしまった。

しかし、今夜<ruby><rb>虎口</rb><rt>ここう</rt></ruby>はひとまず<ruby><rb>遁</rb><rt>のが</rt></ruby>れ得たにしろ、お綱がお三輪と乙吉に会ってから、一そう切実になった悪と善心の闘い、恋と環境の添わぬなやみは、かれの行くところまた走るところへ、影身にからんでつきまとって行くであろう。

そのせいか。

一月寺では万吉が、弦之丞とともに、お綱の訪れを待っているのに、二、三日たっても、その姿が見えなかった。

## 投げ<ruby><rb>十手</rb><rt>じって</rt></ruby>

お江戸日本橋。いつも織るような人どおりだ。

ついそこの<ruby><rb>魚河岸</rb><rt>うおがし</rt></ruby>から、威勢のいいのが<ruby><rb>鮪</rb><rt>まぐろ</rt></ruby>や<ruby><rb>桜鯛</rb><rt>さくらだい</rt></ruby>をかついで、向う見ずに駈けだしてくるかと思うと、お<ruby><rb>練</rb><rt>ね</rt></ruby>りの槍が行く、お<ruby><rb>駕</rb><rt>かご</rt></ruby>が<ruby><rb>従</rb><rt>つ</rt></ruby>く――武士や町人、雑多な中に<ruby><rb>鳥追</rb><rt>とりおい</rt></ruby>の女太夫が、編笠越しに富士をあおいでゆくのも目につく。

「あら……」

と驚いて、<ruby><rb>太鼓反</rb><rt>たいこぞ</rt></ruby>りの橋の上で、<ruby><rb>塗歯</rb><rt>ぬりば</rt></ruby>の下駄の<ruby><rb>踵</rb><rt>かかと</rt></ruby>を上げた女があった。

<ruby><rb>蔵前</rb><rt>くらまえ</rt></ruby>ふうの<ruby><rb>丸曲髷</rb><rt>まるわまげ</rt></ruby>に、<ruby><rb>曙染</rb><rt>あけぼのぞめ</rt></ruby>の<ruby><rb>被布</rb><rt>ひふ</rt></ruby>をきて、手に小風呂敷をかかえている――、で、二、三日前とは、すっかり<ruby><rb>服装</rb><rt>したく</rt></ruby>が違っているので、ヒョイと見違えてしまうけれど、それはまぎれもないお綱の変身。

「ちイ……」と、舌打ちをして<ruby><rb>踵</rb><rt>かかと</rt></ruby>を上げたのは、向うへ駈けだしていった子供の<ruby><rb>奴凧</rb><rt>やっこだこ</rt></ruby>が、お綱の白い<ruby><rb>脛</rb><rt>はぎ</rt></ruby>へからんだのである。

「<ruby><rb>辻占</rb><rt>つじうら</rt></ruby>が悪い」

面倒くさそうに糸を取りのけて、そのまま四、五間歩きだしたが、橋の<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>で、ちょっと足を止めていた。

そこには今日も相変らず、珍しからぬ人立ちがしていた。何かというと、心中のしぞこないだ。<ruby><rb>御法</rb><rt>ごほう</rt></ruby>によって<ruby><rb>男女</rb><rt>ふたり</rt></ruby>とも、生きながらの<ruby><rb>曝</rb><rt>さら</rt></ruby>し者となり、<ruby><rb>鰒</rb><rt>ふぐ</rt></ruby><ruby><rb>食</rb><rt>く</rt></ruby>ったむくいとはいえ、<ruby><rb>浮名</rb><rt>うきな</rt></ruby>というには、あまりにもひどい人の目や指にとり巻かれている。

「あれッ？」

馬鹿な顔をして、それを見ていた一人の男が、不意に、すっ<ruby><rb>頓狂</rb><rt>とんきょう</rt></ruby>な声をだして、ふところや<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>をハタき始めた。

「す、す、<ruby><rb>掏摸</rb><rt>すり</rt></ruby>にやられたッ」

「えっ、掏摸？」

「今、<ruby><rb>瀬戸物町</rb><rt>せとものちょう</rt></ruby>で、四十両の勘定をとってきたばかりなンだ。それがねえ！　財布ぐるみだ！　財布ぐるみ<ruby><rb>掏</rb><rt>す</rt></ruby>られてしまった」

血眼になって騒ぎだした。

誰だ、誰だ、というふうに、群衆の目が、お互いにウサン臭い目つきをし合う。<ruby><rb>掏</rb><rt>す</rt></ruby>られた男は、狂気のようになって番屋へ訴えに駈けだすと、おせッかいな人間が、それ、向うへ大股で行った<ruby><rb>法被</rb><rt>はっぴ</rt></ruby>が怪しいの、今おれの後ろに立っていた男の人相が悪かったのと、その間にもワイワイと騒ぎ立っていた。

お綱は、いつのまにか、河岸通りを右へそれて、金座後藤の淋しい裏を歩いていた。ずいぶん澄ましたものである。

ちょっとあたりを見廻して、<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>の八ツ口から出したのは、<ruby><rb>商人持</rb><rt>あきんども</rt></ruby>ちの<ruby><rb>革</rb><rt>かわ</rt></ruby>財布、<ruby><rb>中身</rb><rt>なかみ</rt></ruby>を抜いて、

「しようがありやしない――、こんな<ruby><rb>端</rb><rt>はし</rt></ruby>た――」

財布の<ruby><rb>殻</rb><rt>から</rt></ruby>を、ぽんと、河の中へ投げ捨てた。そして、少しじれ気味に、

「ああ、もう少し、まとまった金が手に入らないかしら？　そしたら、これを最後に、スリの足をきれいに洗って」

いつもならば、同じ場所で一日に、二度と仕事はしないものを、しきりにあせっているお綱は、また金座屋敷の長い塀に添って、本町の問屋町を、軒づたいに歩きだした。

すると、<ruby><rb>山善</rb><rt>やまぜん</rt></ruby>という薬問屋の店に、一人の侍が、編笠をかぶったまま、買物をしていた。侍は、<ruby><rb>真鍮</rb><rt>しんちゅう</rt></ruby>の<ruby><rb>獅噛</rb><rt>しが</rt></ruby>み火鉢に片手をかざして、

「ウム、では、<ruby><rb>薬種</rb><rt>やくしゅ</rt></ruby>はこれで残らず揃うたの」

と、書きとめてきた<ruby><rb>処方</rb><rt>しょほう</rt></ruby>と薬の数とを読み合している。

「はい」

<ruby><rb>手代</rb><rt>てだい</rt></ruby>は、五、六種の小袋をまとめてあらためながら、

「揃いましてござります。この中の、南蛮薬草などは、手前どもの店以外にはございません物で、はい、ありがとうぞんじました」

「今日はこの処方を揃えるために、かなり尋ね歩いたわい。して、代は何程になるの」

といいながら、紙入れを出しかけると、手代は侍の風采を見て、

「いえ、そのうちに、お屋敷の方へ、ちょうだいに伺わせますから、どうぞお持ち帰りを」

「いやいや、わしは浪人者じゃ。取りに来るというても、定まる屋敷などはない」

「ご<ruby><rb>冗談</rb><rt>じょうだん</rt></ruby>を……。ではかえってお手数でございましょうから」と、<ruby><rb>算盤</rb><rt>そろばん</rt></ruby>をパチと<ruby><rb>弾</rb><rt>はじ</rt></ruby>いて、

「どれもお値の高い物ばかりなので……、ちょうど、三両二分に相成りますが」

「さようか。ではこれで取ってくれい」と、払っている紙入れを、通りすがりに、お綱がチラと見てしまった。

何の薬を求めたのか、本町通りの薬種問屋をでた編笠の侍は、そのままスタスタと大通りへ向ったが、フイと道をかえて、横丁の<ruby><rb>刀研屋</rb><rt>かたなとぎや</rt></ruby>へ入り、そこの店さきで、また<ruby><rb>小半刻</rb><rt>こはんとき</rt></ruby>ほど話していた。

やがて出てきた。

前ともつかず、後ろともつかずに、お綱の姿がからんでゆく。

刀屋の店にいた間も、<ruby><rb>眉深</rb><rt>まぶか</rt></ruby>にかぶっている編笠をとらないので、その<ruby><rb>面</rb><rt>おも</rt></ruby>ざしはうかがえぬが、一見、<ruby><rb>丈</rb><rt>たけ</rt></ruby>高く肩幅広く、草履をすって<ruby><rb>外輪</rb><rt>そとわ</rt></ruby>に歩いてゆく足どりなど、どうも、心得のある武士らしく思われる。年はザット四十前後か、衣服大小も立派、ただちょっと<ruby><rb>異</rb><rt>い</rt></ruby>なことには、御府内だというのに、<ruby><rb>緞子</rb><rt>どんす</rt></ruby>の<ruby><rb>野袴</rb><rt>のばかま</rt></ruby>をはいている。

野袴は、野<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がけ</span>支度、または旅中の物である。<ruby><rb>主持</rb><rt>しゅも</rt></ruby>ちの侍が市内で<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby><span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">べり</span>の旅袴をはいている筈がない。では、浪人かというに浪人ふうでもなし、また旅の途中という様子もない。

しかも、人品<ruby><rb>賤</rb><rt>いや</rt></ruby>しからず、という<ruby><rb>風格</rb><rt>ふうかく</rt></ruby>。

なんだろう。この侍は？

<ruby><rb>密</rb><rt>ひそ</rt></ruby>かに、こんな細かい観察をしながら、お綱は、間髪の隙を心に計っていた。

しかし、容易にその機会がなかった。編笠の姿は、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どこ</span>吹く風かという態度で、<ruby><rb>石町</rb><rt>こくちょう</rt></ruby>から裏道へそれ、やがて、呉服橋をこえて、丸の内へ入ってゆく。

はてな？

この橋から向うは、江戸城の<ruby><rb>外濠</rb><rt>そとぼり</rt></ruby>、大手門、<ruby><rb>桔梗門</rb><rt>ききょうもん</rt></ruby>、<ruby><rb>日暮門</rb><rt>ひぐらしもん</rt></ruby>、それを取り巻く家屋敷というものも、およそは皆大名の邸宅で、普通の住居はない筈だが、あの侍、一体どこへ帰るのだろう。

「ええ、そんなことに、気をとられている場合じゃない」

お綱は度胸をきめて、その侍へ近づいて行った。

と――都合よく、とある屋敷の角から、<ruby><rb>絢爛</rb><rt>けんらん</rt></ruby>な乗物と<ruby><rb>供人</rb><rt>ともびと</rt></ruby>が列をなして流れてきた。それがちょうど、出あいがしらであったので、前へゆく編笠の侍が、トンと足を踏み戻した。

「あっ――」

その瞬間に、お綱の体は、小石にでもつまずいたように、侍の横へ、フワリとよろけていったのである。

「おお」

「あぶない」

からんですり抜けた<ruby><rb>緋縮緬</rb><rt>ひぢりめん</rt></ruby>の蹴出しは、その時、もう二、三間行き<ruby><rb>交</rb><rt>か</rt></ruby>わしていて、

「ごめん遊ばせ……」

<ruby><rb>艶</rb><rt>えん</rt></ruby>に笑って、チラとこっちへ振りかえった。

そしてそのまま、見返りお綱、<ruby><rb>燕</rb><rt>つばくろ</rt></ruby>の飛ぶかとばかり<ruby><rb>逸早</rb><rt>いちはや</rt></ruby>く走って、あッと思うまに、宏壮な屋敷<ruby><rb>塀</rb><rt>べい</rt></ruby>の角を曲って、ヒラリと姿を隠しかけた。

途端に！

ブーンと<ruby><rb>閃</rb><rt>ひら</rt></ruby>めいてゆく一本の短剣。

キラキラと風を縫って、<ruby><rb>飛魚</rb><rt>ひぎょ</rt></ruby>のごとく飛んだかと見るまに、今しも、<ruby><rb>角</rb><rt>かど</rt></ruby>をそれようとした、お綱の真白い<ruby><rb>踵</rb><rt>かかと</rt></ruby>のあたりへ――。

なんでたまろう。

「あッ！」といってよろめいた。

足をすくって、カラリと地に落ちた銀の光――短剣かと見えたのは、<ruby><rb>房</rb><rt>ふさ</rt></ruby>のつかない尺四、五寸の十手であった。

「ア<ruby><rb>痛</rb><rt>つ</rt></ruby>ッ……」と足を押さえながら、お綱が身を泳がせるやいな、一<ruby><rb>足</rb><rt>そく</rt></ruby><ruby><rb>跳</rb><rt>と</rt></ruby>びに寄ってきた編笠の侍は、

「これッ」

と一<ruby><rb>喝</rb><rt>かつ</rt></ruby>して、お綱の<ruby><rb>利腕</rb><rt>ききうで</rt></ruby>をねじ上げてしまった。

「<ruby><rb>掏摸</rb><rt>すり</rt></ruby>だな<ruby><rb>汝</rb><rt>なんじ</rt></ruby>は？　虫も殺さぬような顔をして、武士の懐中物をかすめるとは大胆な<ruby><rb>女</rb><rt>やつ</rt></ruby>じゃ」

「ア<ruby><rb>痛</rb><rt>つ</rt></ruby>ッ、ア<ruby><rb>痛</rb><rt>つ</rt></ruby>……旦那、今わたしの<ruby><rb>掏</rb><rt>す</rt></ruby>った紙入れは返しますから、どうか、このところは、<ruby><rb>見遁</rb><rt>みのが</rt></ruby>してやっておくンなさいまし……、どうしても、せっぱに詰まることがあって、魔がさしたのでございます」

「イヤ、ならぬ！　たとえ一流の武芸者でも、めったに斬りかけられまいこの身の<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>を計って、見事に、ふところの物を抜きおった汝の<ruby><rb>手際</rb><rt>てぎわ</rt></ruby>、出来心とは思われない……ウム」とうなずくと侍は、お綱の利腕を取ったまま、有無をいわせず、グングンと歩き出した。

そして、宏壮な一構えの大屋敷、<ruby><rb>漆喰塗</rb><rt>しっくいぬり</rt></ruby>の塀際に沿ってしばらく歩いたかと思うと、その屋敷の裏門へ、ポンと、お綱をほうりこんだ。

自分に屋敷は持たぬ――といったこの侍、お綱を<ruby><rb>引</rb><rt>ひ</rt></ruby>っ立てて、その裏門から、さッさと奥庭へ進んで行った。

しかもそこは、善美をつくした庭作り、<ruby><rb>丘</rb><rt>おか</rt></ruby>あり<ruby><rb>池泉</rb><rt>ちせん</rt></ruby>あり<ruby><rb>馥郁</rb><rt>ふくいく</rt></ruby>と咲く花あり、書院茶室の結構はいうまでもなく、夜を待つ<ruby><rb>春日燈籠</rb><rt>かすがどうろう</rt></ruby>の灯が、早くもここかしこにまたたいている。

## かなしき<ruby><rb>友禅</rb><rt>ゆうぜん</rt></ruby>

<ruby><rb>捕</rb><rt>つか</rt></ruby>まえられた恐怖よりも、引っ立てられてきた屋敷のすばらしさに、お綱は気を奪われてしまった。

なんという豪華な庭、<ruby><rb>数寄</rb><rt>すき</rt></ruby>な建築。

いずれ何十万石という、大名の屋敷には相違なかろうが、<ruby><rb>女掏摸</rb><rt>おんなすり</rt></ruby>を<ruby><rb>成敗</rb><rt>せいばい</rt></ruby>するため、わざわざ引き出した<ruby><rb>白洲</rb><rt>しらす</rt></ruby>にしては、あまり舞台が勝ちすぎる。

「これ」

編笠の侍は、お綱の肩を軽く押して、

「しばらくそこに控えておれ」と初めて笠の<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>を解きにかかった。

ひょいと見ると、色浅黒く、眉毛の濃い顔だち。――オヤ、どこかで一度見たような……とお綱はフイとびっくりしたが、どこで見たというほどな、はっきりとした記憶はない。

「<ruby><rb>御前様</rb><rt>ごぜんさま</rt></ruby>、御前様――、只今帰りました」

廊下へ身を寄せてこういうと、すぐ前の一室、書院か主人の居間であろう、スーと一方の障子が開いた。

<ruby><rb>銀泥</rb><rt>ぎんでい</rt></ruby>の<ruby><rb>利休屏風</rb><rt>りきゅうびょうぶ</rt></ruby>に、<ruby><rb>切燈台</rb><rt>きりとうだい</rt></ruby>の<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>がチカチカと照り返していた。<ruby><rb>青螺</rb><rt>せいら</rt></ruby>つぶしの<ruby><rb>砂床</rb><rt>すなどこ</rt></ruby>には、<ruby><rb>雨華上人</rb><rt>うげしょうにん</rt></ruby>の白椿の軸、部屋の中ほどに厚い<ruby><rb>褥</rb><rt>しとね</rt></ruby>を重ね、<ruby><rb>脇息</rb><rt>きょうそく</rt></ruby>を前において、頬杖をついている人物があった。

いうまでもなく、当屋敷の殿。<ruby><rb>金目貫</rb><rt>きんめぬき</rt></ruby>、<ruby><rb>白鮫巻</rb><rt>しらさめまき</rt></ruby>の短い<ruby><rb>刀</rb><rt>の</rt></ruby>を差し、<ruby><rb>黒染</rb><rt>くろぞめ</rt></ruby>の絹の袖には、白く、三ツ<ruby><rb>扇</rb><rt>おうぎ</rt></ruby>の紋所が抜いてあった。――三ツ扇は誰も知る<ruby><rb>松平左京之介輝高</rb><rt>まつだいらさきょうのすけてるたか</rt></ruby>の紋だ。

輝高は、かの寛永年間に腕の冴えをみせた<ruby><rb>智慧伊豆</rb><rt>ちえいず</rt></ruby>、<ruby><rb>松平信綱</rb><rt>まつだいらのぶつな</rt></ruby>の孫にあたる人物である。智慧伊豆の名声に圧せられて、その孫の左京之介輝高には、さしたる聞えもなかったが、今から十一年前、かれが<ruby><rb>所司代</rb><rt>しょしだい</rt></ruby>として京都に在職していた当時――宝暦の事変が起った時には、自身、<ruby><rb>竹内式部</rb><rt>たけのうちしきぶ</rt></ruby>をしらべ<ruby><rb>公卿</rb><rt>くげ</rt></ruby>十七家の処分をして、相当にその手腕をみせたものである。

「おお、今帰ったか」

と、左京之介は、茶をすすりながら、

「当分の間は、なるべく、外出無用であるぞ」

「心得ております。しかし、今日はちと是非ないことで、自身買物に出かけました」

「買物にじゃ？　はて、なぜ家来どもにいいつけぬか」

「それが、ちとむずかしい<ruby><rb>蘭薬</rb><rt>らんやく</rt></ruby>の<ruby><rb>調</rb><rt>ちょう</rt></ruby>じ合せをいたしますため、薬名や何かも、自分でなければなりませぬので」

「ほほう、さては、あの病人にのます薬かの」

「御意にございます。<ruby><rb>所詮</rb><rt>しょせん</rt></ruby>、ああまでの状態になりましては、漢薬の利き目おぼつかなく存じますので、実は、今日ふと思いつきました蘭薬の処方を持ち、<ruby><rb>本町薬種屋町</rb><rt>ほんちょうやくしゅやまち</rt></ruby>の問屋を一軒ごとに歩きまして、ようよう望みどおりの薬種を揃えてまいりました」

「ふーむ、そちも、かなり博識と聞いたが、医学にまで精通しているとは、今日初めて知った。近頃はだいぶ<ruby><rb>蘭薬流行</rb><rt>らんやくばやり</rt></ruby>であるようじゃな」

「いえ、なかなかもって、この処方は、手前の<ruby><rb>究学</rb><rt>きゅうがく</rt></ruby>ではござりませぬ。大阪表におりました頃、しばらく一緒におりました、<ruby><rb>鳩渓</rb><rt>きゅうけい</rt></ruby><ruby><rb>平賀源内</rb><rt>ひらがげんない</rt></ruby>と申す男の秘とする処方で」

「ああ、源内であるか。なるほど、あれなら蘭学の方も詳しい筈じゃ。して、その源内は、ただ今どこにおろうな」

「いつか、殿にもお話しいたした通り、住吉村で別れまして以来、トンと<ruby><rb>音沙汰</rb><rt>おとさた</rt></ruby>もござりませぬ」

住吉村と聞いた刹那に、お綱は初めて、アッと思い当った。今、左京之介輝高となれなれしく話している深編笠の侍――それは、自分がお十夜と一緒に、住吉村の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぬきや</span>屋敷にいた時、目明し万吉を救うべく、俵一八郎や源内と一緒に、不意に、そこを襲ってきた、もと<ruby><rb>天満与力</rb><rt>てんまよりき</rt></ruby>の常木<ruby><rb>鴻山</rb><rt>こうざん</rt></ruby>！　おお、その鴻山に違いない。

どうしてあの常木鴻山が、この松平家にいるのであろう？　イヤイヤ、そんなことよりは、知らぬこととはいえ、とんだ人のふところを狙ったものだ。天満の鴻山といえば、常木流の十手術にかけて天下に比のない人だとはお綱も噂を聞いている。

その人の<ruby><rb>懐</rb><rt>ふところ</rt></ruby>へ手をかけたのだもの、捕まるのが当然であった。知って見れば、今さら身の毛がよだつ心地がする。

「誰じゃ、そこにいるのは？」

気がついたか、松平輝高、<ruby><rb>脇息</rb><rt>きょうそく</rt></ruby>から頬杖を外して、不思議そうに庭先を見透かした。

「御前、これにおります者は、見返りお綱と申す、名うてな、女<ruby><rb>掏摸</rb><rt>すり</rt></ruby>でござります」

「なに、掏摸じゃと申すか。女だてらに――」

「これでどうやら、尋ねる者の手がかりがあろうかと存じます。で、おそれ多うござりますが、じきじきに一つお調べを願いとう存じます」

「では、この<ruby><rb>女</rb><rt>もの</rt></ruby>が、たしかに弦之丞の居所を存じていると申すのじゃな」

左京之介が、<ruby><rb>褥</rb><rt>しとね</rt></ruby>をずらせて前へ進むや、お綱も弦之丞という一言をきいて、思わずハッと正面へ顔をあげた。

「手がかりになる者とあらば、<ruby><rb>貴賤</rb><rt>きせん</rt></ruby>を問う場合ではない、鴻山、まずそちが口を<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>かせてみい」

左京之介は、上からジッと、お綱の姿を見つめていた。

「はっ」と、一礼をして、常木鴻山。

「お綱――」と、おごそかに向きなおった。

「そちは拙者を知っているであろうな」

「ハイ、存じております」

「ウム、たしか二度ほど見かけている。一度は大阪表にいた当時、住吉村でそちを見た。また、一度はツイ先日じゃ――おお、<ruby><rb>駿河台</rb><rt>するがだい</rt></ruby>大火の節、<ruby><rb>太田媛</rb><rt>おおたひめ</rt></ruby>神社の境内で……」

「えっ……」お綱はあきれたような顔をして、

「あの<ruby><rb>墨屋敷</rb><rt>すみやしき</rt></ruby>が焼けた晩に？」

「そうじゃ、しかし、そちは知るまい。気を失っていた筈だからの。ちょうどあの夜、この鴻山は所用あって、飯田町から戻る途中であった。火に行く先をふさがれて、ぜひなく<ruby><rb>駕</rb><rt>かご</rt></ruby>を休めていると、そこへそちと、もう一人、<ruby><rb>由</rb><rt>よし</rt></ruby>ありげな<ruby><rb>女子</rb><rt>おなご</rt></ruby>とが、気を失って引きずられてきた」

「あ！　その、もう一人の女子こそ、お千絵様でありました！」と、お綱は心で叫んだが、口には出ずに、ただ鴻山の言葉に気をとられていた。

「しかし、その晩には、そちを助ける気はないので、もう一人の女子だけを駕に乗せて、はるか、四谷の台を<ruby><rb>迂回</rb><rt>うかい</rt></ruby>して、焔の中から逃れてきたのじゃ。ところが、後になって後悔いたした。なぜ、その時、そちをも一緒に連れてこなかったかと……」

アア、さてはお千絵様の身は、あの時、無事に鴻山の手に救われて、この屋敷の内に守られているのかと、お綱は初めてうなずいた。

が、どうして、常木鴻山がこの屋敷にいて、そして、かくも<ruby><rb>詳</rb><rt>くわ</rt></ruby>しく、何かを知っているのであろうか。

それにも、<ruby><rb>径路</rb><rt>けいろ</rt></ruby>がなければならぬ。

去年の夏――、蜂須賀家の<ruby><rb>原士</rb><rt>はらし</rt></ruby>に斬りこまれて、住吉村を去ったかれは、あれから幾月かを、紀伊の山奥に暮らしていた。

その後、かれは、阿波守が安治川屋敷を引きあげたと聞いて、ソッと平賀源内の<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>を訪れ、そこで、<ruby><rb>法月弦之丞</rb><rt>のりづきげんのじょう</rt></ruby>の話をきいた。

かけ違って、弦之丞と会わなかったため、鴻山もすぐに、江戸へ立った。

そして彼は、松平<ruby><rb>輝高</rb><rt>てるたか</rt></ruby>の門を訪れた。

左京之介とは古くから面識がある。

十一年前、鴻山が宝暦の事変で血眼になって活躍していたころ、左京之介も京都にあって、事件の要路にあたる所司代であった。

で、かれは、今日までの苦心を、つぶさに打ち明けた。

与力や目明しの中には、一つの事件に、四年五年の根気をつづける者もあるが、十一年――しかも、職をはがれて今なお意志をかえない鴻山の話には、左京之介も、心を動かされずにはいられない。

折も折とて、<ruby><rb>輝高</rb><rt>てるたか</rt></ruby>は、ちょうどこの頃、江戸<ruby><rb>長沢町</rb><rt>ながさわちょう</rt></ruby>に兵法講堂を開いている、<ruby><rb>山県大弐</rb><rt>やまがただいに</rt></ruby>という者に目をつけていた。

この大弐も、十一年前に事変を起こした、竹内式部と何らかの連脈がありそうで、京の堂上たちと事を結んで、幕府の虚をうかがっているらしい疑いがある。

けれど、確たる証拠はない。

ところへ、<ruby><rb>鴻山</rb><rt>こうざん</rt></ruby>の話があった。

宝暦変――反幕府思想――不平な<ruby><rb>公卿</rb><rt>くげ</rt></ruby>――竹内式部――その一味――山県大弐――。こう考えあわせてみると、その黒幕に、阿波という謎の強国が、ありありと浮かんでくる。

禍根は阿波だ。

公卿を踊らす者は阿波だ。無禄の兵学者を踊らすものは公卿だ。不平な浪人を踊らすものは兵学者だ。まず、この<ruby><rb>禍</rb><rt>わざわ</rt></ruby>いの根を刈るには鴻山のいうがごとく、阿波の密謀をさぐり、その確証をつかんで、取りひしいでしまわなければならぬ。

こう気づいたので、左京之介は、鴻山を自邸にとめて、<ruby><rb>密</rb><rt>ひそ</rt></ruby>かに、いろいろな便宜を与えることを約した。

で、鴻山は、まず、弦之丞と万吉を見出して、力を<ruby><rb>協</rb><rt>あわ</rt></ruby>せたいと願った。また一方には、<ruby><rb>世阿弥</rb><rt>よあみ</rt></ruby>の残した、甲賀家のあとの様子、お千絵の身などについても、ぽつぽつと調べていた。

だから、お綱のあきれるほど、すべてを知っていたわけである。

けれど、一つ困っていることがある。

そのために鴻山は、今日も自身で、源内秘伝の蘭薬を買いに出かけたのだが、はたして、それが利くかどうか、すくなからぬ心配である。

というのは。

大火の晩に、この屋敷へ運んできたお千絵が、あのまま、意識を狂わして、気はついても、あらぬことのみ口走っている。

医薬の<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>かぬ、もの狂いの<ruby><rb>兆</rb><rt>きざし</rt></ruby>がみえる。お千絵は、狂気してしまった。

「お綱、こういう訳じゃ――」と、一通り話してから、常木鴻山、こん度はほんとの調べ口調になった。

「そちは、弦之丞と万吉のいる所を存じておろう。前夜の様子から<ruby><rb>推</rb><rt>お</rt></ruby>しても、知っておらねばならぬ筈じゃ。そこへ拙者を案内してくれぬか。――さすれば、そちの罪はゆるしてやる。そして、何か事情は分らぬが、せっぱにつまる金とあらば、<ruby><rb>要用</rb><rt>いりよう</rt></ruby>だけはそちにくれる」

刀試しか、きびしい<ruby><rb>糺問</rb><rt>きゅうもん</rt></ruby>をうけるかと思いのほか、弦之丞と万吉の居所へ案内してくれれば、いるだけ金はやろうという、鴻山の言葉に、お綱は思わず手をついて、

「悪うござりました……悪うございました」ただ、嬉しさに、泣き伏してしまった。

「いや、<ruby><rb>罪科</rb><rt>ざいか</rt></ruby>を<ruby><rb>糺</rb><rt>ただ</rt></ruby>すのではない。もとより初めに、このほうをつけてきた時から、そちが<ruby><rb>掏摸</rb><rt>すり</rt></ruby>だということは見抜いていた。しかし、前にも話したとおり、こちらにも聞きたいことがあったゆえ、わざとここまで釣り込んでまいった次第――、罪の半分はこの鴻山にもある訳じゃ」

「恐れ入りました。そうおっしゃられると見返りお綱も、穴があったら入りたいほどでございます」

「ウム、それほどまでに、しかとした<ruby><rb>性根</rb><rt>しょうね</rt></ruby>をもちながら、なんで、あのようなあぶない芸をいたすのじゃ」

「一時のがれの、嘘いつわりは申しませぬ。実は自分の心でも、<ruby><rb>真</rb><rt>しん</rt></ruby>から悪いと悟って、もう<ruby><rb>金輪際</rb><rt>こんりんざい</rt></ruby><ruby><rb>掏摸</rb><rt>すり</rt></ruby>は働かぬと誓っていたのでございますが、どうしても、救ってやりたい<ruby><rb>不愍</rb><rt>ふびん</rt></ruby>な目下がございますため、この一仕事で、足を洗おうと思ったのが、私の誤りでございました……。どうぞこの上は、お腹のいえるように、御成敗なすって下さいまし」

「その言葉に偽りはなさそうじゃ。最前、そちの手にかかったこの紙入れ、過分にはないが納めておくがよい、そして、これを最後に、きッと邪心を起こさぬことだぞ」

「あ、ありがとう存じます……、これさえあれば、心がかりな<ruby><rb>妹弟</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>たちを救ってやれます上に、お綱も生れ代りまする」

「わずかのことで、そちまで生れ代った女になれるとは何よりうれしい。してお綱、弦之丞殿と万吉は、ただ今どこにいるであろうか、一日も早く逢いたいのだが……」

「御恩返しという程でもございませんが、いつでも、すぐに御案内申しましょう、下谷根岸の一<ruby><rb>月寺</rb><rt>げつじ</rt></ruby>においでなさいます」

「おお、では虚無僧の宿院にいるのか」

と、鴻山は、廊下の端から、左京之介の居間の方へ向って、

「お聞きの通りでござりますが、こちらから出向いたものでございましょうか、それとも、書面でもつかわして、密かにここへ<ruby><rb>招</rb><rt>しょう</rt></ruby>じ寄せましょうか」

「そうじゃの？　……」

輝高は少し考えてから、

「当家へ、あまり出入りの多いは人目につくかも知れぬ。その女を案内に、ともかく、そちが訪ねてまいったらどうじゃ」

「手前も、それがよいように考えておりまする。ではお綱、これからすぐに案内を頼むぞ」

「乗物は？」

左京之介がいうと、鴻山は支度をなおして、いつもの<ruby><rb>眉深</rb><rt>まぶか</rt></ruby>い編笠をいただきながら、

「町へ出てから求めます」

「ウム、それもよかろう。いずれ今宵のうちに、<ruby><rb>吉左右</rb><rt>きっそう</rt></ruby>が知れるであろうから、心待ちに帰邸を待っておるぞ」

「はっ、では……」

と、庭先に立って一礼すると、常木鴻山は、お綱を目で<ruby><rb>促</rb><rt>うなが</rt></ruby>して、ピタピタとそこから歩きかけた。所詮、生きては、この屋敷を出られまいと<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めていた結果が、思いがけなく、妹や弟を救うだけの金を恵まれた上に、これからすぐに、弦之丞のいる所へ訪ねて行かれようとは、何から何まで、夢のようなトントン拍子。お綱は、嬉しいといってよいか、悲しいといっていいか、また、恥かしいといってよいか、自分で自分が分らぬような感激につつまれていた。

そして、四、五間歩きかけた。

すると不意に、長廊下の向うから、晴々とした女の高笑いが聞こえた。と思うとまた、

「弦之丞様！　アレ、アレ、弦之丞様ッ――」

絹を裂くように叫びながら、バタバタと走りだしてきた美しい女がある。

続いて後から、付き添いの女や家来たちが、ワラワラと手を振って、

「アアお千絵様――、お千絵様がまたお狂い遊ばして――」と、あっちこっちへ追い廻してくる。

背すじへ水を浴びたように、お綱はそこに立ちすくんでしまった。そして、<ruby><rb>麗</rb><rt>うるわ</rt></ruby>しい友禅に身をつつみ、<ruby><rb>蝋</rb><rt>ろう</rt></ruby>より青白い顔をカラカラと笑みくずしながら、大勢の者に抱き戻されてゆく、お千絵の姿をありありと見た。

「おお大事な薬を忘れていた」

鴻山は別な<ruby><rb>用口</rb><rt>ようぐち</rt></ruby>へ廻って、奥坊主の者に、源内秘方の蘭薬を、お千絵にのますことを言いのこして、急ぎ足に裏門の<ruby><rb>潜戸</rb><rt>くぐり</rt></ruby>をぬけ出した。

## <ruby><rb>夕雲流真髄</rb><rt>せきうんりゅうしんずい</rt></ruby>

春の夜の寒さは、<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>と爪の先からしみてくる。

<ruby><rb>炉</rb><rt>ろ</rt></ruby>にはトロトロと紫色の火が崩れていた。

「どうしたのだろう？　……今日でもう七日目だが」

また同じことをいって、万吉は指を繰っていた。炉に対して<ruby><rb>弦之丞</rb><rt>げんのじょう</rt></ruby>は、ピシリと二、三本の枯れ枝を折り、衰えかけた<ruby><rb>榾</rb><rt>ほた</rt></ruby>の火へつぎ足している。

「――あんなに熱く言っていたんだから、もう訪ねてこなけりゃならねえ筈だが。はてな、悪くすると、またお<ruby><rb>十夜</rb><rt>じゅうや</rt></ruby>にでも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふん</span>捕まってしまったのじゃねえかしら？　……」

<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>りごとを洩らすまでに、案じぬいているふうである。無論、それはお綱の<ruby><rb>身</rb><rt>み</rt></ruby>の<ruby><rb>上</rb><rt>うえ</rt></ruby>。

ここは根岸の奥の一<ruby><rb>月寺</rb><rt>げつじ</rt></ruby>、<ruby><rb>普化僧</rb><rt>ふけそう</rt></ruby>仲間で、俗に<ruby><rb>風呂入</rb><rt>ふろいり</rt></ruby>とよぶ宿院である。一<ruby><rb>枝</rb><rt>し</rt></ruby>の<ruby><rb>竹管</rb><rt>ちくかん</rt></ruby>をもって<ruby><rb>托鉢</rb><rt>たくはつ</rt></ruby>する者は、誰でも宿泊できるが、弦之丞は京都<ruby><rb>寄竹派</rb><rt>きちくは</rt></ruby>の本則をうけているので、この寺とはまったくの派違いだ。で、本院へは寄宿をゆるされず、境内にある別棟の客房を借りうけていた。

それがかえって、気ままでもあり、都合もいい。

折から目明しの万吉も、あれ以来、起居を共にして、昼は外にお千絵様の行方を探し、夜は炉の火をかこんでヒソヒソと、やがて阿波へ入り込む日の密議やうち合せに余念がない。

しかしここ数日、かなりの努力をつくしたが、お千絵の所在について皆目手がかりがなく、お綱もあのまま、<ruby><rb>此寺</rb><rt>ここ</rt></ruby>へ訪ねてこず、二人のかこむ炉には<ruby><rb>焦躁</rb><rt>しょうそう</rt></ruby>と<ruby><rb>沈鬱</rb><rt>ちんうつ</rt></ruby>の夜がつづいた。

と。――敷石をふむ<ruby><rb>木履</rb><rt>ぼくり</rt></ruby>の音がしてきて、客房の<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>れ<ruby><rb>縁</rb><rt>えん</rt></ruby>に、誰か人の気配がする……。

「客僧どの」

「はい」

「まだお<ruby><rb>寝</rb><rt>やす</rt></ruby>みではございませんでしたか」

聞き馴れた番僧の言葉づかいである。

「起きておいでのご様子、ちと急用でございます。この障子を開けますが……」

「おお、<ruby><rb>差支</rb><rt>さしつか</rt></ruby>えはござらぬ、どうぞ」

内から弦之丞が手を伸ばすと、番僧も外から障子へ手をかけた。部屋にこもっている<ruby><rb>煤煙</rb><rt>すすけむり</rt></ruby>が、ムーッと軒へ吸いだされて、入れ代りに、寒梅の香をふくむ<ruby><rb>冷</rb><rt>ひや</rt></ruby>やかな夜気がそこへ<ruby><rb>浸</rb><rt>ひた</rt></ruby>ってくる。

「ただ今、<ruby><rb>御院代</rb><rt>ごいんだい</rt></ruby>のお手元へ、こういう手紙を届けてまいった男がございます」

縁に膝をついて一月寺の番僧、敷居ぎわへ一通の手紙をさしおく。

「なに、このほうへの書状？」

「はい、すぐご返事がほしいそうで、使いの者が待っております。どうぞ、ご一見下さいまし」

「はて、誰からであろう？　……」と弦之丞、封を切って読み下したが、巻き返しながらジイッと天井を見上げて、何か思案をしているらしかった。

「弦之丞様、この<ruby><rb>夜中</rb><rt>やちゅう</rt></ruby>に、一体どこからのお手紙なので？」

と万吉が、不審そうにきいたのには答えないで、弦之丞、番僧のほうへ向って、

「<ruby><rb>委細</rb><rt>いさい</rt></ruby>承知いたしたと、使いの者へお伝え願いたい」という。

「はい、それだけでよろしゅうございますか」

「後よりすぐにまいりますゆえ」

「では、そう申して、使いを帰せばよろしいので」

「ご苦労ながら」

「いえ、どう致しまして……」と番僧は<ruby><rb>木履</rb><rt>ぼくり</rt></ruby>を鳴らして本院の方へ戻って行く。――その後で、弦之丞二、三服の煙草をくゆらしてから、ゆったりと立ち上がった。

「万吉、拙者はちょっと行ってみるから、先に<ruby><rb>寝</rb><rt>やす</rt></ruby>んでいてくれい」

「えっ、これからお出かけなさいますッて？」

「ウム、その手紙を見るがいい……。少し<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>に落ちぬことではあるが、何ぞの手がかりがあるかもしれぬ」

「へえ……」と万吉、あわてて炉べりにおいてある今の手紙を開いてみると何ぞ計らん、差出人は旅川周馬――、お千絵殿の所在が知れたから、至急、<ruby><rb>鶯谷</rb><rt>うぐいすだに</rt></ruby>の古梅庵という料亭までご足労を願いたい――という文意。

先日、路傍でお目にかかった節は、連れがいたし<ruby><rb>雑沓</rb><rt>ざっとう</rt></ruby>の中で失礼いたしたが、今夜はゆるりと<ruby><rb>旧交</rb><rt>きゅうこう</rt></ruby>を温めたく思う、そして、自分がつきとめたお千絵殿の所在をお告げする。それを以て、自分の誠意を認めてほしい。などという<ruby><rb>美言</rb><rt>びげん</rt></ruby>が巧妙につらねてある。

「<ruby><rb>貉</rb><rt>むじな</rt></ruby>め！」

万吉は、おッぽりだすように読み捨てて、

「こいつアいけねえや！　もし弦之丞様、こんな物騒なものに誘われて、うっかりお出かけなさいますと、どこにどんな死神が待ち伏せしているかも知れませんぜ。およしなせえ、およしなせえ！　万吉は大不承知でございます」

と、真剣になって止めはじめた。

「なんの……」と弦之丞は、万吉の<ruby><rb>危惧</rb><rt>きぐ</rt></ruby>を笑い、その不服を軽く聞き流して、「必ずともに、深く案ずることはない。<ruby><rb>夕餉</rb><rt>ゆうげ</rt></ruby>の後の腹ごなしじゃ、無駄足をすると思うて行ってくるから、きっと留守をしていてくれよ」

「じゃ、どうしても、お出かけなさるおつもりなので？」

と、なおも心配そうにいう、万吉の言葉には答えないで、身軽に帯をしめなおして、外出の支度をすました弦之丞。

「だいぶ風が吹いてきそうな……周馬や一角や孫兵衛などよりは、火の用心がおそろしい。宿院を拝借して、<ruby><rb>炉</rb><rt>ろ</rt></ruby>に火を残したまま<ruby><rb>無人</rb><rt>ぶにん</rt></ruby>に致しては、寺則を破ることになる。万吉、必ずわしが留守の間に、ここをあけては相ならぬぞ」

「へえ……」といったが万吉は、一緒について行こうと考えていた矢先なので、こう釘を打たれてしまうと、いよいよ面白くない。口が<ruby><rb>尖</rb><rt>とが</rt></ruby>ってくる。

「わっしもお供いたしましょう。なアに、炉の火はスッカリ<ruby><rb>埋</rb><rt>い</rt></ruby>けてまいりますよ」

「これこれ万吉、つまらぬ<ruby><rb>情</rb><rt>じょう</rt></ruby>を張って、拙者の足手まといになってくれるな。いよいよ阿波へ入り込む時やまた、向うへ着いて働く場合には、随分そちの腕も借ろうが、今はまだ目的の本道に入っていない」

「へい……」阿波と聞くと、万吉も、すなおに首を垂れてしまった。

「前途の多難は今宵ばかりでない。どこまでも大事を取って進まねばならぬ。<ruby><rb>騎虎</rb><rt>きこ</rt></ruby>の勇にはやって、二つとない身を傷つけたら何といたす」

「さ、それだから<ruby><rb>俺</rb><rt>わっし</rt></ruby>もまた、いっそうあなたのお体を、お案じ申すのでございます」

「ウム、その心は過分である。いずれ周馬の手紙には、深い魂胆があり、企らみがあるものとは拙者も察しているが、この弦之丞の眼からみれば、およそは<ruby><rb>多寡</rb><rt>たか</rt></ruby>の知れたあの三人……あはははは、久しく試みぬ<ruby><rb>夕雲流</rb><rt>せきうんりゅう</rt></ruby>、場合によっては――」

と、無銘の一腰、笛袋に入れて腰に落した。

「そりゃ、弦之丞様には、腕に覚えもございましょうが、足場の悪い根岸の闇、<ruby><rb>欺</rb><rt>だま</rt></ruby>し<ruby><rb>討</rb><rt>う</rt></ruby>ちや、飛び道具という<ruby><rb>策</rb><rt>て</rt></ruby>もございますから、必ず、ご油断をなさいますな」

「そこまで物を案じては、いわゆる取越し苦労というもの。大望をもつ身でなくとも、こんな例は、道場通いの修業中にもママあることじゃ。申せば武士の日常茶飯事……」

スタスタと板縁から土間へ出て、<ruby><rb>塗下駄</rb><rt>ぬりげた</rt></ruby>を突っかけ、<ruby><rb>行乞</rb><rt>ぎょうこつ</rt></ruby>の深笠をとって<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>につけた。そして、みずから戸を開け、みずから後を閉めて、万吉が何と口をさし挟むいとまもなく、

「では頼むぞ――」といい残して、境内を<ruby><rb>斜</rb><rt>はす</rt></ruby>かいに抜けて寺門へ出て行った――。万吉は、最初の不安がまだ<ruby><rb>拭</rb><rt>ぬぐ</rt></ruby>われないらしく、その足音の消えてゆく闇を、戸の隙間から見送っていた。

「暗い晩だな……。ああ、行ってしまった」祈るようにつぶやいた。

<ruby><rb>如月</rb><rt>きさらぎ</rt></ruby>近くを思わせる、<ruby><rb>冷</rb><rt>ひや</rt></ruby>やかな<ruby><rb>東風</rb><rt>こち</rt></ruby>が吹きだして、小さい風の<ruby><rb>渦</rb><rt>うず</rt></ruby>が、一月寺の闇に幾つもさまよっているようだ。<ruby><rb>桜吹雪</rb><rt>さくらふぶき</rt></ruby>のような<ruby><rb>濃艶</rb><rt>のうえん</rt></ruby>さはないが、もみ散らされる梅の点々が、白く、チラチラと、人の姿を追っている。

弦之丞の細い影が、梅の香に吹かれて寺門を出た。二、三十歩の石畳の上を、カタ、カタと塗下駄の音が静かに運んでゆく――、そしてやがて、正面の石段を降りかけたが、フイと、足もとからさす明りに足をとめてみると、草履を持ってしゃがみこんだ一人の男、そばに、<ruby><rb>仮名</rb><rt>かな</rt></ruby>書きで「こばいあん」とした<ruby><rb>朱文字</rb><rt>しゅもじ</rt></ruby>の<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>をおいて、ゆるんだ鼻緒を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すげ</span>なおしている。

ポッ、ポッと、提灯の明りが、男の周りに、大きく明滅の輪を描いていた。

弦之丞がその前をスッと通りぬけると、

「まず、これでよし」

と、緒を直した草履をはき、<ruby><rb>小提灯</rb><rt>こぢょうちん</rt></ruby>を手に持って、その男も、ピタピタと弦之丞について歩きだした。

「こばいあん」としるしてある小提灯が、弦之丞の影に添って、ゆらゆらとついてきたかと思うと、

「もし……」と、その男が声をかけた。

「一月寺においでの方は、みんな同じようなお姿なので、間違ったらご免下さいまし」と、念入りに断わっておいて――「あなた様は、もしや私が今手紙を持って、お迎えに参りました<ruby><rb>法月</rb><rt>のりづき</rt></ruby>様ではいらっしゃいませんか」

「いかにも、わしはその弦之丞だが……」

「ああ、それはよい所でご一緒になりました。私はごらんのとおり……」と、提灯の朱文字を少し前へかざして、

「古梅庵の若い者で、旅川様からお手紙をいいつかってきた男でございます」

「そうか。では何分とも案内を頼む」

「エエよろしゅうございますとも、なにしろ、<ruby><rb>御行</rb><rt>おぎょう</rt></ruby>の松から<ruby><rb>御隠殿</rb><rt>ごいんでん</rt></ruby>――あの<ruby><rb>水鶏橋</rb><rt>くいなばし</rt></ruby>の辺は、昼でも薄気味のわるい所でございますからな……。夜のお使いは、あんまりゾッとしませんや。それに来る時は一人ぽッちなんで、びくびくものでございましたが、おかげ様で、まず帰りは気強いというものでございます」

「<ruby><rb>所々</rb><rt>ところどころ</rt></ruby>に見える灯は、どこかの<ruby><rb>寮</rb><rt>りょう</rt></ruby>か<ruby><rb>隠居所</rb><rt>いんきょじょ</rt></ruby>だの」

「へえ、お旗本の別荘とか、上野の宮様の別院とか、吉原に<ruby><rb>大店</rb><rt>おおだな</rt></ruby>を持っている人の寮だとか……そんなものばかりでございますから、淋しいわけでございまさ。……ア、旦那、そこに小さな流れがございますぜ」

闇から闇をフワフワと来る小提灯。いつか御行の松の前を右にそれて、一面の<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>だたみ、ザザザザッという笹鳴きの声を聞きながら、男は<ruby><rb>縞</rb><rt>しま</rt></ruby>の着物の<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>で提灯の灯をかばってゆく。弦之丞は、しきりとしゃべっている男の話には、よい程な<ruby><rb>生返辞</rb><rt>なまへんじ</rt></ruby>をしていながら、ひそかに<ruby><rb>笛嚢</rb><rt>ふえぶくろ</rt></ruby>の紐を解き、<ruby><rb>秘差</rb><rt>かくしざ</rt></ruby>しの一刀へ左の手をかけて、プツンと<ruby><rb>拇指</rb><rt>おやゆび</rt></ruby>で<ruby><rb>鍔裏</rb><rt>つばうら</rt></ruby>を押しきっていた。

どうせこの男も、古梅庵の若いものではあるまい。旅川周馬の手先になって、自分を誘い出しにきた<ruby><rb>囮</rb><rt>おとり</rt></ruby>に違いない――と見抜いたので。

そのせいか、男はわざとらしからぬように、いつも、弦之丞の左へ左へと寄って、小提灯の明りを、たえず、自分よりは<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>の前へ寄せて歩いている。この分でみると、或いは、万吉がいったように、飛び道具の<ruby><rb>惧</rb><rt>おそ</rt></ruby>れがあるかもしれない。

提灯の明りは、暗夜の狙い撃ちに、何よりな<ruby><rb>的</rb><rt>まと</rt></ruby>であるから、心得のある武士は、くわえ<ruby><rb>煙管</rb><rt>ぎせる</rt></ruby>と提灯は決して持たない。

藪だたみがつきて、道が二<ruby><rb>股</rb><rt>また</rt></ruby>にわかれる所へ来ると、男はツウと、また右寄りへ進もうとした。

「待て、道が違うようではないか」

弦之丞が立ち止まると、男はギョロリとすごい眼をくれたが、それは<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>に感づかせない程な瞬間に笑い消して、

「へへへへへ。旦那、ご心配なさいますな、私はこれでも根岸にゃ四年も住んでおりますから、決して道に迷うなんていうことはございませんよ」

「しかし、<ruby><rb>鶯谷</rb><rt>うぐいすだに</rt></ruby>へ出るには、ちと、方角違いな気がするが」

「ところが、ズッと近道なんで……」グングン先に立って進んだが、やがて赤土の<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>りそうな崖を上がると、闇ながら四方がひらけて、どこかを行く水の音がザアーッと低く響いている。

「ええ、寒いッ……」と男は一つ身ぶるいして、「旦那、ここはどこだか知っていましょう」

「ウム、<ruby><rb>御隠殿下</rb><rt>ごいんでんした</rt></ruby>であろう」

「あすこに見えるのが<ruby><rb>水鶏橋</rb><rt>くいなばし</rt></ruby>で……、あれを渡って向う岸を入りますと、古梅庵はもうじきでございます。さだめし、旅川様もお待ちかねでございましょう」

「だいぶ遅いが、周馬は宵のうちからまいっているのか」

「へえ、私がお使いに出る<ruby><rb>二刻</rb><rt>ふたとき</rt></ruby>ほど前から、奥の座敷でチビチビ飲んでおいででした」

「その周馬だけではなかろうが」

ジッと<ruby><rb>眸</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>に力をこめて、<ruby><rb>眉間</rb><rt>みけん</rt></ruby>を睨みながらこうきくと、男は少しドギマギして、

「へい」と、うろたえ気味の<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>を、フイとこっちへさし出して、二ツ三ツお辞儀をした。

「旦那、まことに申しかねますが、<ruby><rb>提灯</rb><rt>これ</rt></ruby>をちょッと持っていて下さいませんか……どうも<ruby><rb>尾籠</rb><rt>びろう</rt></ruby>なお話ですが、すこし小用がつかえまして……」

うさん臭い古梅庵の男が、先に立って、御隠殿の下まで道案内をしてきたかと思うと、そこで、

「旦那、すみませんが……」

と、弦之丞の手へ提灯を預け、小用をたすふりをして、スッ――と横ッ飛びに身を交わした。

「おう」と、なんの気もなく、明りを手に持った途端に、かれは異様な臭気を知った。

プーンと、闇に<ruby><rb>漂</rb><rt>ただよ</rt></ruby>ってくる臭気！　火縄だ、火縄のいぶるあの<ruby><rb>臭</rb><rt>にお</rt></ruby>い！

「あッ――」

と弦之丞が、その提灯を<ruby><rb>空</rb><rt>くう</rt></ruby>へ捨てたのが早かったか、<ruby><rb>轟然</rb><rt>ごうぜん</rt></ruby>とゆすッた鉄砲の音が早かったか？　――ほとんど、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">けじめ</span>のない一瞬。

上野の森の裏山へ、一発の銃声が、ドーンと<ruby><rb>木魂</rb><rt>こだま</rt></ruby>返しにひびいてきた刹那、はッと眼をこすって見直すと、空に躍った提灯の行方は知れず、それを持っていた弦之丞の影もあらず、ただ、強い火薬の匂いと、白い<ruby><rb>硝煙</rb><rt>しょうえん</rt></ruby>とが、玉になってモクリッと闇をかすっていた。

「うまくあたった！」

水鶏橋の袂へ、横ッ飛びに逃げだした男は、こうつぶやいて、枯草の中から、そろそろと<ruby><rb>亀首</rb><rt>かめくび</rt></ruby>をもたげだす。

こいつ、古梅庵の提灯を、どう工面してきたものか、まことは使屋の半次といって、周馬や孫兵衛が、京橋の<ruby><rb>喜撰</rb><rt>きせん</rt></ruby>風呂にごろついている間に、<ruby><rb>手馴</rb><rt>てな</rt></ruby>ずけられたあぶれ者。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かまきり</span>のように、<ruby><rb>橋袂</rb><rt>はしだもと</rt></ruby>からゴソゴソと四つン這いに寄ってきて、半次、しばらく息を殺しながら、ジイと地面をすかしてみると、そこに<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>をはずした提灯の落ちているのは見えたが、弦之丞の姿は見当らない。

「おや……」と、いったが、またすぐに、

「野郎。とうとうまいってしまやがった」

すッかり安心した様子で、のッそり腰を伸ばしかけた。

と、<ruby><rb>水鶏橋</rb><rt>くいなばし</rt></ruby>のほうから一人。向うのかげから一人、そして御隠殿のほうからまた一人……。

いかにも厳しい身構えで、一歩、一歩と、闇を探りながら、寄り集まってくる者があった。かかる夜、魔手をふるって、跳躍するには屈強な、黒<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いでたち</span>という<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>え。かすかに、その者の<ruby><rb>帯</rb><rt>おび</rt></ruby>ぎわにキラキラ光るのは、金か銀か<ruby><rb>四分一</rb><rt>しぶいち</rt></ruby>か、<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>がしらの金具であろう。

「半次か」

「周馬様で？」

「ウム」

「手ごたえは？　……」

と、また一方の<ruby><rb>黒装束</rb><rt>くろしょうぞく</rt></ruby>。

「<ruby><rb>関金</rb><rt>せきがね</rt></ruby>にこたえがあった。あたった<ruby><rb>弾</rb><rt>たま</rt></ruby>は分る」

こう応じたのは、木立の中から短銃を引っさげてきた者の声だ。半次をのぞいて、同じ黒<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いでたち</span>の頭数三人――、たしかに、旅川周馬、お十夜孫兵衛、天堂一角、この以外の者でないにはきまっているが、闇ではあり、<ruby><rb>覆面同装</rb><rt>ふくめんどうそう</rt></ruby>、誰がそれとも見分けがつかない。

「どこだ、<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>の仆れた所は？　……」

「あ、その辺……。いえ、もう少し向うへ寄った<ruby><rb>笹</rb><rt>ささ</rt></ruby>の中で」

「はてな」

「そ、そこに、白いものがぶっ仆れているじゃありませんか」と、半次、及び腰で指をさした。

「違う……」

「道しるべの石だ」

「と、すると、もう少し向うだったかしら」

「油断を致されるな！」

それは、明らかに、天堂一角の声らしかった。

「仆れたに致せ、<ruby><rb>弾</rb><rt>たま</rt></ruby>が急所をはずれていることもある」

「おう！」と思わず三方に開き分れて、ふたたび、念入りな構えを取りながら、いざといわば三本の白刃を、一度に抜き浴びせる気で、ジリジリと寄りつめて行った。

「や？　……」

「なんといたした」

「妙だ、いない。イヤ、何者も仆れておらんぞ」

「ばかな、そんな筈が……」

と、誰か、三人のうちの一人がいいかけて、グルリと、後ろを睨み廻した刹那だった。

すぐ、<ruby><rb>傍</rb><rt>かたわ</rt></ruby>らの木の幹に、ベタリと身を<ruby><rb>貼</rb><rt>は</rt></ruby>りつけていた影が、

「弦之丞はここだッ！」

と、大声でいった。

剣の行く前に、まず<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>の心胆を、真ッ二つにする<ruby><rb>気殺</rb><rt>きさつ</rt></ruby>！

それと一緒に、声と五体と剣の光流！　一ツになって飛び斬りの<ruby><rb>真</rb><rt>ま</rt></ruby>ッ<ruby><rb>向落</rb><rt>こうおと</rt></ruby>し、あッというまに、一人の影を前伏せに斬ッて仆した。

<ruby><rb>測</rb><rt>はか</rt></ruby>らぬ虚をつかれて、まっ先に、斬られた者は誰だったか？

「あッ」

と、いったのは使屋の半次。

斬られたような声をあげて、木立のほうへすッ飛んでしまったが、その逃げようでは<ruby><rb>怪我</rb><rt>けが</rt></ruby>をしたふうもないから、さしずめそこで、

「ウウーム！」と、陰惨な<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>きを血煙につつまれたのは、お十夜か、周馬か、でなければ天堂一角――、その中の運の悪い一人であるには違いない。

「ちぇッ！　やられた！」

危なく、後の二人は跳び開いて、パッと<ruby><rb>居合抜</rb><rt>いあいぬ</rt></ruby>きに大刀を払ったが、その瞬間、一方でパチン！　と火花を降らしたかと思うと、すぐ<ruby><rb>焼刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>のすり合う音がして、<ruby><rb>鍔</rb><rt>つば</rt></ruby>と鍔とが<ruby><rb>競</rb><rt>せ</rt></ruby>りあうまもあらず、デン！　と一方が蹴仆された。

仆されたまま、エエッ！　と、持ったる刀で地を払ったのは黒装束のほうの男。

「うぬッ――」と叫んで起き上がり、弦之丞の姿を八、九間ほど追いかけたが、その時うしろで、

「お十夜！　おい、おいッ」

と、しきりに呼びとめる声がする。それは旅川周馬らしい。

怖るべき<ruby><rb>早技</rb><rt>はやわざ</rt></ruby>で、一人を斬り、一人を蹴仆し、疾風<ruby><rb>迅雷</rb><rt>じんらい</rt></ruby>に駈け去った弦之丞の姿は、時既に、遠い闇に消えていた。

「ええ、しまった。<ruby><rb>意気地</rb><rt>いくじ</rt></ruby>のねえ奴が揃っている」孫兵衛は舌うちをして振りかえったが、その途端にハッとして、鋭い<ruby><rb>眼</rb><rt>まな</rt></ruby>ざしで闇を探った。

「誰だ……誰だ、今<ruby><rb>斬</rb><rt>や</rt></ruby>られたのは？」

「一角だ、一角が<ruby><rb>深傷</rb><rt>ふかで</rt></ruby>を負ってしまった」

周馬は色を失ったような声で、<ruby><rb>怪我人</rb><rt>けがにん</rt></ruby>を抱き起こしながらお十夜の応援を求めた。

すると、その時になって、木立の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>をつつんだ<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>だたみが、嵐のように、ザワザワと揺れだした。そして、その中から、四人、五人、三人と、得物を持った<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あぶれ</span>者が、張合いぬけのした顔で、怪我人のまわりへ寄り集まる。

「間抜けめ！」と、お十夜は、時機をはずしてノコノコと出てきた大勢の<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>へ、<ruby><rb>唾</rb><rt>つば</rt></ruby>を吐きつけるように腹を立てた。

「なんで、俺が抜いた時に、すぐに<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>を押ッ包んでしまわなかったのだ。見ろッ、弦之丞の奴はとうの昔に逃げ出してしまった。やい、半次はどうした、半次は？」

「へえ、ここにおりますが」

「なぜ、てめえは、みんなに合図をしなかったのだ。ざまを見やがれ！　<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>は<ruby><rb>夕雲流</rb><rt>せきうんりゅう</rt></ruby>の使い手だ、てめえがまごまごしている間に、この辺にはまだミッシリと人数が伏せてあると気取ったから、素早く影を隠してしまった」

「おい、孫兵衛、孫兵衛」

と、<ruby><rb>深傷</rb><rt>ふかで</rt></ruby>を負った一角を抱えて、旅川周馬がよろよろと立ち上がった。

「今さらそんなことをいって、ぷんぷん当り散らしていたところで始まるまい。早くこの怪我人を、どこかへ落ちつかせて手当てをしなけりゃあ……」

「<ruby><rb>深傷</rb><rt>ふかで</rt></ruby>か？」

「深傷だ。――だが、急所じゃない」

「助かるものなら背負って帰ろう。何をするにも、この暗闇じゃ、しようがねえ」

「ウム、さし当って、血止めはギリギリと巻いておいた。だが、おれの手は<ruby><rb>血糊</rb><rt>のり</rt></ruby>でヌラヌラしてきたから、貴公、少しの間代ってくれ」

「いや、そう皆で血みどろになっては、町へ出てから人目につく。おい半次、半次、てめえ、どこか町医者の所まで、天堂一角を肩にかけて行け。そしてな、役にも立たねえ、あとの<ruby><rb>有象無象</rb><rt>うぞうむぞう</rt></ruby>は、もう用はねえからと追い返してしまうがいい」

「ええ、返します。ですが、旦那」

「なんだ」

「あいつらが、<ruby><rb>酒代</rb><rt>さかて</rt></ruby>を貰ってくれというんですが……」

「ふざけたことを申すなッ」

「それや、きッかけが悪くって、お役には立ちませんでしたが、<ruby><rb>賭場</rb><rt>どば</rt></ruby>のゴロや駕<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かき</span>なんぞを、呼び集めてきたんですから、手ぶらじゃ帰りません」

「太い奴だ。手ぶらで帰るのが嫌なら<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のべ</span><ruby><rb>金</rb><rt>がね</rt></ruby>をやろう！　どいつだ、<ruby><rb>酒代</rb><rt>さかて</rt></ruby>がほしいのは」と、さなきだに、弦之丞を討ち損じた腹立ちまぎれ、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">そぼろ</span>助広を抜いて<ruby><rb>脅</rb><rt>おど</rt></ruby>しにふりこむと、頼まれて来た<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あぶれ</span>者は、<ruby><rb>胆</rb><rt>きも</rt></ruby>をつぶして逃げだしてゆく。

「ああ、とても大変な血だ……」

やがて、一角を肩にかけて歩きだした半次は、顔をしかめて襟首を撫でた。周馬とお十夜は苦りきッてその後につき、手負いの一角は、時折、ウーム、ウーム、と虫の息をもらしていた。

## <ruby><rb>目安箱</rb><rt>めやすばこ</rt></ruby>

その夜、<ruby><rb>法月弦之丞</rb><rt>のりづきげんのじょう</rt></ruby>が外へでるとまもなく、一<ruby><rb>月</rb><rt>げつ</rt></ruby><ruby><rb>寺</rb><rt>じ</rt></ruby>の宿院へ、二人の客があった。

どう考えても、今夜のことは不安で、今も<ruby><rb>炉</rb><rt>ろ</rt></ruby>にいらいらとした万吉が、軽く叩く戸の音に立ち上がってみると、忍びやかに入ってきた<ruby><rb>深編笠</rb><rt>ふかあみがさ</rt></ruby>の侍と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のしお</span>頭巾の若い女。

女は、心待ちにしていたお綱、ということが、万吉にも一目で分ったが、はてな？　連れの侍は何者だろう――と膝をついて下から仰ぐと、訪れた常木<ruby><rb>鴻山</rb><rt>こうざん</rt></ruby>。

「突然まいって、さだめしびっくりしたであろう」と笠をぬいでお綱に渡す。

「やッ、あなたは！」といったきり万吉はただあきれ顔だ。そうだろう、<ruby><rb>天満組</rb><rt>てんまぐみ</rt></ruby>三人のうち、<ruby><rb>俵</rb><rt>たわら</rt></ruby>一八郎は阿波屋敷に捕えられ、鴻山は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぬきや</span>屋敷を去って以来、紀州の奥にでも隠れているのだろうという噂をきいたままで、今は、実際のもくろみにかかって働いているのは、自分一人と思っていたところだ。

それさえあるに、その鴻山が、見返りお綱と一緒に、突然、この宿房へ訪ねてきたのだから、かれの<ruby><rb>驚愕</rb><rt>きょうがく</rt></ruby>はもっともだ。しかし、この訪れは、同じ意外でも、一<ruby><rb>刻</rb><rt>とき</rt></ruby>前に来た周馬の訪れと違って、まことにうれしい<ruby><rb>邂逅</rb><rt>かいこう</rt></ruby>である。

「まず、ともあれこちらへ」

と、<ruby><rb>炉</rb><rt>ろ</rt></ruby><span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">べり</span>にいざなってきたが、さて、渋茶をくんで出すいとまも惜しい。大阪以来のつもる話、江戸表へ来てからのこと……何から何を話していいやら。

一通りの話をきき、万吉の<ruby><rb>苦衷</rb><rt>くちゅう</rt></ruby>のある所に、鴻山も<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とく</span>とうなずいて、次には、自分がここへ来るまでの経路を、<ruby><rb>飾</rb><rt>かざ</rt></ruby>り気なく物語った。

「この女に、ふところの金を<ruby><rb>掏</rb><rt>す</rt></ruby>られて、投げ十手を打ったのが、そちの居所を知る機縁となった。そこで一刻も早く、弦之丞殿へも会いたく存じたので、<ruby><rb>夜中</rb><rt>やちゅう</rt></ruby>を押してまいったのじゃ」

と、笑いながらでも、あの時のことを、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あけすけ</span>にいわれた時には、見返りお綱、顔をまッ赤に染めて恥じ入った。

「いったん心を入れ代えるといっておきながら、<ruby><rb>面目</rb><rt>めんぼく</rt></ruby>のない訳ですけれど、それにも、こうした切ない事情があったんです」

偽らぬお綱の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ざんげ</span>話にも、二人は強く心をうたれた。そこへ、足音しずかに、法月弦之丞が帰ってきた。

常にかわらぬ落ちつきようだ。

万吉もその様子を見てホッとしたが、ヒョイと見ると<ruby><rb>鼠甲斐絹</rb><rt>ねずみかいき</rt></ruby>の袖に、点々たる返り血の<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>――。ああ、斬ったな、何かあったな、とは思ったが、折からの来客、それを問うまもなく、また弦之丞も話をそれに触れず、常木鴻山と初対面の挨拶をかわした。

その部屋には、夜の明けがたにいたるまで、<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>き足す<ruby><rb>榾</rb><rt>ほた</rt></ruby>の火がつきなかった。しっかりと手を握り合って、互に、奥底までの<ruby><rb>胸襟</rb><rt>きょうきん</rt></ruby>をひらいたので、常木鴻山は、年来の目的を達することに、はッきりとした<ruby><rb>曙光</rb><rt>しょこう</rt></ruby>を感得し、翌朝、眠らずとも晴々しい顔で、一月寺を辞し、<ruby><rb>左京之介</rb><rt>さきょうのすけ</rt></ruby>の屋敷へ帰って行った。

そしてまた、四、五日おきに、幾度となく、ここと大手町との間を往復した。

かくて、左京之介と、鴻山と、弦之丞との間に、なんらかの密約が成り立ったらしい。

ある日である。

月はじめの<ruby><rb>如月日和</rb><rt>きさらぎびより</rt></ruby>。

ひそかに、大手町の松平家をでた女乗物は、左京之介が茶席や閑居にのみ建ててある、江戸郊外の<ruby><rb>代々木荘</rb><rt>よよぎそう</rt></ruby>へ急いでいった。その駕には、狂ったお千絵がのせられている。

鴻山が心をこめてのませた<ruby><rb>南蛮薬草</rb><rt>なんばんやくそう</rt></ruby>のききめもなく、お千絵の心はとりとめもなく乱れていた。

代々木荘には、前の日から左京之介が滞在し、その朝は、弦之丞と鴻山がきて、奥の一室を密閉し、家臣を遠ざけ、何かヒソヒソ半日余り密議をこらしていたのである。

代々木荘の密議の半日。午後になって、ようやく何かの<ruby><rb>諜</rb><rt>しめ</rt></ruby>しあわせが一決したとみえ、

「では、早速がよいぞ」

と、窓の内で左京之介の声がした。その時、紅白の<ruby><rb>山茶花</rb><rt>さざんか</rt></ruby>がポトリと黒土の上へこぼれて、上の障子が細目に<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>く。

<ruby><rb>脇息</rb><rt>きょうそく</rt></ruby>を離れて、窓ぎわへもたれた左京之介の半身と三ツ<ruby><rb>扇</rb><rt>おうぎ</rt></ruby>の紋がみえた。

「只今、<ruby><rb>予</rb><rt>よ</rt></ruby>が申したような順序をふめば、いずれお<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>より、何らかのお沙汰があるに違いない。天下の大事、よも、お捨ておきになる筈はない」

「はっ」

密話がすんだので、弦之丞と常木鴻山、二、三尺ほど後へ<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>って、きちんと両手を膝に正していた。

「さすれば、その儀について、この<ruby><rb>輝高</rb><rt>てるたか</rt></ruby>がお召をうけるは<ruby><rb>必定</rb><rt>ひつじょう</rt></ruby>である。その時、お上のお<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねに対して、そちたちの願望、足かけ十年の<ruby><rb>苦衷</rb><rt>くちゅう</rt></ruby>、つぶさに申し上げる所存。また、この輝高の意見としても、阿波探索の必要をおすすめ申し上ぐるであろう」

「ひとえに、御助力のほど願わしゅう存じます」

「いや、そち達に頼まれいでも、大公儀にとって<ruby><rb>由々</rb><rt>ゆゆ</rt></ruby>しい問題じゃ。必ずこの上ともに、輝高をうしろ<ruby><rb>楯</rb><rt>だて</rt></ruby>と思うがよい。しかし、京の<ruby><rb>公卿</rb><rt>くげ</rt></ruby>たちと気脈を結んで、幕府を倒そうとする阿波そのものの陰謀、たとえ歴然たるにいたせ、確たる証拠をつかまぬうちは、どこまでも、この儀世間に洩らしてはならぬぞ」

「は、それは法月殿も、とくと心得ておりますし、拙者も、大事に大事をとって秘密を守っておりまする」

「そういう点からも、これを、密々お<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>のお耳にだけいれて、弦之丞が大公儀の隠密役となり、阿波へ探索に入りこむということは、何より、よい策のように考える。ただ弦之丞は<ruby><rb>大番頭</rb><rt>おおばんがしら</rt></ruby>法月一学の<ruby><rb>伜</rb><rt>せがれ</rt></ruby>、公儀の隠密役としての<ruby><rb>御印可</rb><rt>ごいんか</rt></ruby>あるや否や、その点だけがちと心配であるが……」

「段々とありがたいお取り計らい、お礼の申しようもござりませぬ」と弦之丞は、この日、左京之介から何か重大な策を授けられたもののごとく、いんぎんに礼をのべて、

「この上は、少しも早く一月寺へ立ち帰り、<ruby><rb>委細</rb><rt>いさい</rt></ruby>の下書を作りました上、仰せのように致して、またのお沙汰を待ちまする。では、これにてお<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>を……」と、立ちかけると、

「あいや」と左京之介が止めて、

「その話はすんだが、今日をよい<ruby><rb>機</rb><rt>しお</rt></ruby>と存じて、鴻山がそちに一人の婦人と引き合わせると申している」

「弦之丞殿。それは先日お話しいたしたお千絵殿でござりますが……」と、常木鴻山は気の毒そうに<ruby><rb>語韻</rb><rt>ごいん</rt></ruby>を沈めた。

「<ruby><rb>蘭薬</rb><rt>らんやく</rt></ruby>を試み、いろいろ手当てを尽くしてみましたが、まだ幾分か乱心のところがあって、時折狂いだしまする。で、騒がしいお<ruby><rb>上屋敷</rb><rt>かみやしき</rt></ruby>よりは、この代々木荘なれば養生にもよし、人目にもつかぬであろうという、御当家のお取り計らいで、ちょうど、今日駕にのせて、ひそかにここへ移してまいる筈……。どうでござりますな、よそながら、お会いになっておいでになっては」

「は……なんと、お礼の言葉もござりませぬ……」弦之丞は冷静になるべく<ruby><rb>悶</rb><rt>もだ</rt></ruby>えていた。乱れだした情熱をおさえきるまで、ジッとうつむいていたが、やがて、思慮をきめて、

「勝手のようではござりますが、只今会いましたところで、拙者を拙者とも分りませず、積もる話をすることもなりますまい。御当家のお情けに甘えて、何とぞ、このまましばらくの間お預りを……」

「なるほど」と、鴻山は、弦之丞の気持が分るようにうなずいた。

「よろしゅうござる。医養の及ばぬ病とはきくが、この鴻山が手をつくしても、御養生の方はおひきうけ致す」

「それにて<ruby><rb>安堵</rb><rt>あんど</rt></ruby>いたしました。何分ともここしばらくの間を」と、弦之丞はそこを辞して、茶荘の門を淋しく出てきた。

すると、入れ違いにスウと門へ入って行った一<ruby><rb>挺</rb><rt>ちょう</rt></ruby>の<ruby><rb>蒔絵駕</rb><rt>まきえかご</rt></ruby>。

「あ、今のが――」

と、思わず天蓋を振りかえらせた時、玄関の方で、何か、とりとめなく口走るお千絵の声が、かれの胸へ針のような辛さをうった。

「おお……」

門柱の蔭にすがって、弦之丞は、駕から奥へ連れられてゆく、痛ましい人の姿を見送っていたが、やがて、両眼へ<ruby><rb>掌</rb><rt>て</rt></ruby>を当てたまま、<ruby><rb>鼠甲斐絹</rb><rt>ねずみかいき</rt></ruby>のかげ寒く、代々木の原を走っていた。

弦之丞は、今朝、起きるとすぐに机に向っていた。

何であろうか、わき目もふらず、奉書七、八枚に達筆を走らせ、<ruby><rb>草</rb><rt>そう</rt></ruby>し終ると、二重に厳封して、封の表に太く強く、「<ruby><rb>上</rb><rt>じょう</rt></ruby>」と書いて机にのせ、しばらく腕をくんでいた。

これでよかろう――というふうに、やがて次の部屋に向いて、

「万吉。用事がなかったら、ちょッとここへまいってくれぬか」

「へい」というと<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>が<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いた。炉べりに<ruby><rb>砥</rb><rt>と</rt></ruby>の<ruby><rb>粉</rb><rt>こ</rt></ruby>と<ruby><rb>紅殻</rb><rt>べにがら</rt></ruby>と<ruby><rb>十手</rb><rt>じって</rt></ruby>が置き放してある。暇にあかして磨きをかけていたのだろう、十手が<ruby><rb>燦然</rb><rt>さんぜん</rt></ruby>と光ってみえる。

「何か御用でございますか」

「ウム」といって、机の上の奉書封じを取りあげたが、ふと次の部屋を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いて、

「お綱は？」と、万吉の顔を見た。

「何を思いだしたか、今朝は朝飯も食べずに、妻恋の家を畳んでくるのだといって出て行きましたが」

「どうも<ruby><rb>解</rb><rt>げ</rt></ruby>せぬ女ではある」

「わっしには、少しばかり、お綱の心が分っております。だが、それをこうとは、あなたへいえない話なんで……。まあ当分のうち、あの女のすることを、見ていてやって下さいまし」

「それは困る。今の場合、お綱がこの宿院におることすら、密かに迷惑と存じている」

「けれど、あの女のことですから、一念思いこんでいることは、きっとやり通すだろうと思うんで」

「<ruby><rb>不審</rb><rt>ふしん</rt></ruby>なことを申す。なぜじゃ」

「ゆうべ、弦之丞様が代々木からお帰りなすって、いよいよ阿波へ立つ日も近づいたぞ――と<ruby><rb>俺</rb><rt>わっし</rt></ruby>へおっしゃった<ruby><rb>一言</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>を聞いてすら、今日はもう、早速、妻恋坂の家を片づけ、いつでも一緒に旅立つ覚悟をしているくらいですから」

「すると、拙者について、あれも阿波までまいるつもりでいるのか」

「それをお綱は、四天王寺で犯した、自分の罪の<ruby><rb>償</rb><rt>つぐな</rt></ruby>いだと信じているのですから、<ruby><rb>止</rb><rt>と</rt></ruby>めるわけにも行きません」

「何とあろうが、さようなことはまかりならぬ。拙者が阿波へ渡るのは、大きくは公儀のお為、小さくは甲賀<ruby><rb>世阿弥</rb><rt>よあみ</rt></ruby>の消息をつきとめ、お千絵殿の……」といいかけて、弦之丞は、ふと暗い顔になった。駕から出て、代々木荘の奥へ入ったあの姿が――あの狂わしい声が、まざまざと思い浮かぶ。

と、またきッとなって、万吉を責めるように、

「そちもまたそちではないか。お綱がさような心得違いをしておるなら、なぜとくと意見をしてやらぬ。ただの旅やいたずらごとではないぞ、<ruby><rb>他領者禁制</rb><rt>たりょうものきんせい</rt></ruby>の関をくぐって忍びこむ命がけの探索。女づれの同行がなるか成らぬか、つもってみても知れたことじゃ」

「…………」万吉は、一<ruby><rb>言</rb><rt>ごん</rt></ruby>もなかった。俺はまったく、お綱の心を買いすぎている、と自分でもはっきり気づいている彼であった。

そのくせ、お綱の今の<ruby><rb>真向</rb><rt>まむ</rt></ruby>きな気持――それはやっぱり事情のゆるすかぎり、<ruby><rb>容</rb><rt>い</rt></ruby>れてやりたい気がするのだ。けれど、弦之丞へ恋していることだけは、万吉には、どうも話しにくくって、ついそのまま、おくびにも出さずにいる……。

だから弦之丞には、お綱が、天王寺で紙入れを<ruby><rb>掏</rb><rt>す</rt></ruby>った罪を深く悔悟している心もわかり、また、その悪い渡世の<ruby><rb>境界</rb><rt>きょうがい</rt></ruby>から、生れ代ろうとしている悩みも分っているが、より以上、どこまでも、自分について――しかも阿波へ渡る秘密の旅先まで、つきまとおうとする心のほどが<ruby><rb>解</rb><rt>げ</rt></ruby>せないのである。

恋の力！　ときけば、彼にも一語でうなずけよう。その代り、今の如き真剣味でいる弦之丞は、キッと、お綱を悲嘆の底に落すだろう。

あの、<ruby><rb>不愍</rb><rt>ふびん</rt></ruby>なお千絵を忘れて、お綱の恋をうけいれるような弦之丞でないことは、万吉にも、あまりに分りすぎている。

「おっしゃられてみれば、まことに、ごもっともでございます」と、引き<ruby><rb>退</rb><rt>さが</rt></ruby>るよりほかにない。

「折があったら、よく言い<ruby><rb>悟</rb><rt>さと</rt></ruby>して、<ruby><rb>得心</rb><rt>とくしん</rt></ruby>させておくがよい」

「なんとか、<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めさせましょう」と、ぜひなく答えたものの、いつか板挟みになっている万吉、<ruby><rb>肚</rb><rt>はら</rt></ruby>の底では、密かに弱りぬいている。

「オオ、話がそれた――」と、弦之丞は改まって、「ご苦労だが、今日は一つ頼みがある。この密封の書付を持って、大急ぎにまいってくれい」

「承知しました。して行く先は？」

「<ruby><rb>辰</rb><rt>たつ</rt></ruby>の<ruby><rb>口</rb><rt>くち</rt></ruby>の<ruby><rb>評定所</rb><rt>ひょうじょうしょ</rt></ruby>――あの右側の御門にある目安箱へ、この上書をソッと投げ込んで来てくれまいか――つまりこの一書は、弦之丞がいよいよ阿波へ発足する口火となるもの。早速、行ってきて貰いたい」

「エ？」と万吉。それへ出された密封の書付へ目をみはって、

「では、これを評定所の目安箱へ、ほうりこんでこいとおっしゃいますか」

「そうじゃ。ちょうどきょうは七の日にあたる。月に三度の御<ruby><rb>開錠日</rb><rt>かいじょうび</rt></ruby>。目安箱が<ruby><rb>柳営</rb><rt>りゅうえい</rt></ruby>へあがる日である、<ruby><rb>午</rb><rt>うま</rt></ruby>の<ruby><rb>刻</rb><rt>こく</rt></ruby>を過ぎぬうちに、急いでそれを入れてきてくれい」

「かしこまりました」

帯をしめなおして、三尺と<ruby><rb>臍</rb><rt>へそ</rt></ruby>の間へ、シッカリとそれをしまいこんだ。ついでに、磨きかけていた十手を内ぶところへ逆に差して、

「じゃあ行ってまいります――」

「頼んだぞよ」弦之丞も立って、書き損じの<ruby><rb>反古</rb><rt>ほご</rt></ruby>をまるめ、<ruby><rb>炉</rb><rt>ろ</rt></ruby>の中へくべて、ボッと<ruby><rb>焔</rb><rt>ほのお</rt></ruby>にしてしまった。

「一走りでございます」

煙といっしょに、威勢よく、宿院の軒を出た目明しの万吉。大股に急ぎながら、しきりと首をかしげている。

「目安箱へこれを入れる？　……目安箱へ？　……ははア、さてはいよいよ<ruby><rb>昨日</rb><rt>きのう</rt></ruby>の相談で、常木様と弦之丞様と、そして<ruby><rb>松平</rb><rt>まつだいら</rt></ruby>の殿様と、何かの話がまとまったな。それだ！　そこでこの<ruby><rb>御上書</rb><rt>ごじょうしょ</rt></ruby>だ、ウム違えねえ！　とすると、阿波の怪しい様子を将軍様のお耳に入れて、表向きのお沙汰となるか、それともまた、弦之丞様と俺とが、こッそり阿波へ探索に入る段取りとなるか、なんとか目鼻がつくんだろう」

ひとり問いひとり答えて、一月寺の横門から、根岸<ruby><rb>田圃</rb><rt>たんぼ</rt></ruby>を<ruby><rb>斜</rb><rt>はす</rt></ruby>かいに切ッてゆく万吉。<ruby><rb>笹</rb><rt>ささ</rt></ruby>の<ruby><rb>雪</rb><rt>ゆき</rt></ruby>から車坂の途中、幾つも駕屋を抜いて、タッタと元気な足を飛ばしていた。

「時節到来。時節到来」

こんなことをつぶやきながら、ニヤニヤ笑って駈けて行った。ドンと誰かに突き当たったが、

「おッと、ごめんよ！」振りかえりもせずにまた駈ける。足はドンドン加速度になって、またたくうちに外神田から鎌倉河岸――<ruby><rb>評定所</rb><rt>ひょうじょうしょ</rt></ruby>のある<ruby><rb>辰</rb><rt>たつ</rt></ruby>の<ruby><rb>口</rb><rt>くち</rt></ruby><ruby><rb>和田倉門</rb><rt>わだくらもん</rt></ruby>はもうすぐそこだ。

「春が来たぜ、春が来たぜ！　お<ruby><rb>濠</rb><rt>ほり</rt></ruby>の柳が芽を吹いてら！　丸の内へも渡り鳥がやってきたぜ！　三本鳥毛の槍先にチラチラ蝶々が舞っている。――こういう春は毎年だが、この万吉には十一年目で、やッと<ruby><rb>巡</rb><rt>めぐ</rt></ruby>りめぐってきた春なんだ！　なんだか今年はすてきもねえいいことがありそうだ。時節到来、時節到来」

かれの心が、こう叫んだ。

実際今の万吉は、春の鳥のように軽快だ、前途に<ruby><rb>耀々</rb><rt>ようよう</rt></ruby>たる<ruby><rb>曙光</rb><rt>しょこう</rt></ruby>がある。まだ深い話を弦之丞から打ち明けられていないが、この御上書を辰の口の目安箱へ投げ入れてこいというからには、ほぼ想像のつく内容――すなわち、急転直下に、いや急転直上に、阿波の内密、<ruby><rb>公卿</rb><rt>くげ</rt></ruby>浪人の策動、甲賀<ruby><rb>世阿弥</rb><rt>よあみ</rt></ruby>のことなど、すべてを<ruby><rb>箇条書</rb><rt>かじょうが</rt></ruby>きにして、将軍家の御覧に達し、そして？　そして？　さアその先は万吉には分らないが、なにか、いい<ruby><rb>吉兆</rb><rt>きっちょう</rt></ruby>のある気がする。

まもなく<ruby><rb>外濠</rb><rt>そとぼり</rt></ruby>、和田倉御門。

評定所はその筋向いにみえる。

「おお、あれだな」

と万吉、スタスタと門前へ寄って行った。

<ruby><rb>厳</rb><rt>いか</rt></ruby>めしい<ruby><rb>冠木門</rb><rt>かぶきもん</rt></ruby>から奥まった式台まで、ズーと細かい玉川砂利が敷きつめてある。

その<ruby><rb>袖門</rb><rt>そでもん</rt></ruby>、門柱から二、三尺離れた所に、いわゆる目安箱というものがかかっていた。

これは、八代将軍<ruby><rb>吉宗</rb><rt>よしむね</rt></ruby>の時代から設けられた一つの制度で、百姓、町人、僧侶、神官、誰でもかまわぬ、何か治政上についての得失利害、役人の<ruby><rb>奸曲</rb><rt>かんきょく</rt></ruby>、奉行の圧政など、<ruby><rb>上申</rb><rt>じょうしん</rt></ruby>したいことがあったら、書面にしたためて箱の中へ投げ入れておくことをゆるされたもの。

<ruby><rb>開錠日</rb><rt>かいじょうび</rt></ruby>は、月三回、七の日と決まっている。お錠番は評定所付きの<ruby><rb>御小人目付</rb><rt>おこびとめつけ</rt></ruby>、その日の正午に箱ごとピンとはずして、<ruby><rb>柳営</rb><rt>りゅうえい</rt></ruby>の奥坊主へ届ける、奥坊主はすぐこれを本丸の小姓<ruby><rb>頭</rb><rt>がしら</rt></ruby>の部屋にもちこみ、そこで御用取次の役人がついて、将軍家休息の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>の中央にすえておく。この間は<ruby><rb>何人</rb><rt>なんぴと</rt></ruby>でも、その箱の中の書類に指をふれることは無論、<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>くこともゆるされない。

その目安箱の側へよって、万吉は、ふところから弦之丞のしたためた密封をさぐり出し、<ruby><rb>生唾</rb><rt>なまつば</rt></ruby>をのみながら、箱の口へ、ポンと入れた。

「さて、このあとの御沙汰が、吉とくるか、凶とくるか。……この書付一本が、<ruby><rb>天満組</rb><rt>てんまぐみ</rt></ruby>の俺たちや、甲賀家のお千絵様、また弦之丞様たちが、一生涯<ruby><rb>浮沈</rb><rt>ふちん</rt></ruby>の分れ目……」

自分の手で入れた書類が、箱の底へゴソリと落ちこんだ音に、かれは一種の昂奮と<ruby><rb>動悸</rb><rt>どうき</rt></ruby>をおぼえて、そこに<ruby><rb>茫</rb><rt>ぼう</rt></ruby>となっていた。

「町人！　早く歩けッ」

門番にどなられて、万吉は初めてハッと吾にかえり、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">からくり</span>人形のように、春風の中へ、ふわりと足を運びだした。

一方、その日の目安箱は、常例のとおり、評定所づきの役人の手から、<ruby><rb>御小人目付</rb><rt>おこびとめつけ</rt></ruby>、<ruby><rb>奥坊主</rb><rt>おくぼうず</rt></ruby>、<ruby><rb>御用番</rb><rt>ごようばん</rt></ruby>の順をへて、江戸城本丸の将軍家休息の次の間にすえられていた。

やがて、将軍自身の<ruby><rb>出御</rb><rt>しゅつぎょ</rt></ruby>がある。

<ruby><rb>月番御用取次</rb><rt>つきばんごようとりつぎ</rt></ruby>は、<ruby><rb>立花出雲守</rb><rt>たちばないずものかみ</rt></ruby>。

ズーと、お座所の前へそれをすすめて、

「ただ今、評定所の目安箱、お<ruby><rb>表</rb><rt>おもて</rt></ruby>より上がりました」といった。

「ウム」

当時の将軍家は、十代<ruby><rb>家治</rb><rt>いえはる</rt></ruby>であった。軽くうなずいて<ruby><rb>紅錦</rb><rt>こうきん</rt></ruby>の<ruby><rb>嚢</rb><rt>ふくろ</rt></ruby>をとりだす。いわゆる<ruby><rb>肌着</rb><rt>はだつき</rt></ruby>のお<ruby><rb>巾着</rb><rt>きんちゃく</rt></ruby>、守り<ruby><rb>鍵</rb><rt>かぎ</rt></ruby>とともに添えてあるのを、

「<ruby><rb>開錠</rb><rt>かいじょう</rt></ruby>せい」と、小姓<ruby><rb>頭</rb><rt>がしら</rt></ruby>高木万次郎の手に渡した。

ピンと、箱の錠をあけて、中の投書を揃え、将軍家の前へさし出して、<ruby><rb>空箱</rb><rt>からばこ</rt></ruby>は元どおりの順に下げ渡される。

家治はそれを持って、<ruby><rb>楓</rb><rt>かえで</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>へ入った。

四、五通の書類であった。楓の間は密室なので、小姓頭以外のものは<ruby><rb>近侍</rb><rt>きんじ</rt></ruby>しない。上から順にくり拡げて目を通してゆくと、やがて、将軍家の眼に、異様なかがやきが流れた。

それは、弦之丞が書いて、万吉が投げこんだあの奉書七、八枚の長文である。

「ウーム……これは容易ならぬことじゃ」

息を殺して黙読して行くうちに、家治は強い衝動をうけた。今、柳営の春は<ruby><rb>和光</rb><rt>わこう</rt></ruby>にみち、天下は<ruby><rb>凪</rb><rt>なぎ</rt></ruby>のごとく治まっていると思いのほか、いつか<ruby><rb>西都</rb><rt>せいと</rt></ruby>に皇学の義が盛んに唱えられ、<ruby><rb>公卿</rb><rt>くげ</rt></ruby>と西国大名の間に、恐るべき<ruby><rb>叛逆</rb><rt>はんぎゃく</rt></ruby>の密謀が着々として進んでいるというのは、なんとしても彼だけには、不審であった。

しかも、弦之丞の上書には、歴然と、それが箇条書きに並べられてある。そして、蜂須賀阿波守がその反幕府派の<ruby><rb>盟主</rb><rt>めいしゅ</rt></ruby>であることが、指摘されてあった。

阿波第一の不審は、十年前から、領土に他国人を入れぬ制度をとったこと。

第二は、安治川の<ruby><rb>船屋敷</rb><rt>ふなやしき</rt></ruby>で、堂上公卿たちとしばしば<ruby><rb>密</rb><rt>ひそ</rt></ruby>かな会合を催すこと。

第三は、宝暦変の時に、倒幕の先鋒であった竹屋三<ruby><rb>位</rb><rt>み</rt></ruby><ruby><rb>卿</rb><rt>きょう</rt></ruby>が、幕府の目をくらまして失踪の後、いつか同家の食客となっていること。

等、等、等、いろいろ家治の心胆を驚かさぬものはない。さらに、<ruby><rb>別札</rb><rt>べっさつ</rt></ruby>には、それについて、弦之丞の目的である、一通の嘆願書がそえてあった。

願書は、甲賀家の私事に筆をおこしている。

今から十一年前に、その内秘をさぐるため阿波へ入国した<ruby><rb>世阿弥</rb><rt>よあみ</rt></ruby>の<ruby><rb>顛末</rb><rt>てんまつ</rt></ruby>。また、その一子が女であるため、昨年<ruby><rb>改易</rb><rt>かいえき</rt></ruby>されて甲賀家のたえたことを<ruby><rb>誌</rb><rt>しる</rt></ruby>し、最後に、自分は仔細あって、阿波守の身辺に接しもし、また世阿弥の所在を知りたいこともあるので、<ruby><rb>烏滸</rb><rt>おこ</rt></ruby>ながら、公儀の隠密として、阿波探索の密命を仰せつけられたい――という熱願の文面であった。そしてなお委細のことは<ruby><rb>伝手</rb><rt>つて</rt></ruby>を求めて、元の京都所司代、松平左京之介の手もとまで、<ruby><rb>言訴</rb><rt>げんそ</rt></ruby>してある由をつけ加えてある。

弦之丞が、目安箱を利用して、わざとこうした手段をとったのは、代々木荘で鴻山と左京之介との相談でやったことだが、一つには、お千絵の幸福のため、甲賀家の再興のためでもあった。いかに自分が苦心しても、<ruby><rb>公</rb><rt>おおやけ</rt></ruby>ならぬ、一個の法月弦之丞としてやった仕事では、無意味である。

目安箱の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ききめ</span>はあった。

それから十数日の後、松平左京之介、突然お<ruby><rb>召状</rb><rt>めしじょう</rt></ruby>をうけて本丸へ<ruby><rb>伺候</rb><rt>しこう</rt></ruby>した。果たして、将軍家は、<ruby><rb>楓</rb><rt>かえで</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>の御用<ruby><rb>箪笥</rb><rt>だんす</rt></ruby>から、弦之丞の嘆願書をとりださせ、阿波の嫌疑や、甲賀家のことや、弦之丞の身がらについて、さまざまな<ruby><rb>下問</rb><rt>かもん</rt></ruby>があった。

この日、将軍家は左京之介に、何か、大事な密命をさずけたらしい。それかあらぬか、左京之介は、屋敷へ帰るとすぐに、常木鴻山を別室に招いて、密談数刻の後、使いを飛ばして、一月寺にいる弦之丞を呼びにやった。

吉報を待ちわびていた弦之丞、この日だけは歩くのももどかしく思ったか、駕を急がせて、駈けつけてきた。

そして、松平家の奥へ入った――。

たしかに、この夜、かれは松平家の<ruby><rb>脇門</rb><rt>わきもん</rt></ruby>から、奥座敷へ入ったに相違なかった。だが――どうしたのだろう？　幾日たっても、法月弦之丞、あれッきり屋敷から出た様子もなし、また、一月寺へも帰ってこない。

## <ruby><rb>悪行善心</rb><rt>あくぎょうぜんしん</rt></ruby>

「喧嘩だッ」

「喧嘩だ、喧嘩だ」

朝ッぱらからの騒ぎである。

五十<ruby><rb>間</rb><rt>けん</rt></ruby>の両側に、<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>をならべている飲食店の内から、客や女が、いっせいに外へ飛びだしてみると、<ruby><rb>廓</rb><rt>くるわ</rt></ruby>の<ruby><rb>大門口</rb><rt>おおもんぐち</rt></ruby>から<ruby><rb>衣紋坂</rb><rt>えもんざか</rt></ruby>の方へ、一人の侍が、血刀を持ったまま、<ruby><rb>盗</rb><rt>ぬす</rt></ruby>ッ<ruby><rb>人</rb><rt>と</rt></ruby>のように逃げて行った。

「<ruby><rb>斬</rb><rt>や</rt></ruby>られた！」

「誰だ誰だ、<ruby><rb>斬</rb><rt>や</rt></ruby>られたのは」

「<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>は逃げてしまった――早く、早くしろいッ」

「オオ、こいつア助からねえ、<ruby><rb>肋</rb><rt>あばら</rt></ruby>にかけて<ruby><rb>斬</rb><rt>や</rt></ruby>られている」

「助からねえッて、見ている奴があるものか」

「オイ弥次馬、ばかな<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>をして見物していねえで、手を貸せよ、手を！」

ちょうど、<ruby><rb>大門</rb><rt>おおもん</rt></ruby>の<ruby><rb>高札場前</rb><rt>こうさつばまえ</rt></ruby>。

喧嘩や斬合いは、この<ruby><rb>廓</rb><rt>さと</rt></ruby>の年中行事。別に珍らしいほどでもないが、夜と違って朝ッぱらの血まみれ騒ぎ、真っ黒になってワラワラと駈け集まった。

肩から背すじにかけて、むごい太刀傷を浴びせられ、そこにうっ伏していた男は、この辺の者とみえて吉原<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つなぎ</span>の<ruby><rb>袷袢纏</rb><rt>あわせばんてん</rt></ruby>に、<ruby><rb>算盤玉</rb><rt>そろばんだま</rt></ruby>の三尺をしめ、ウーム、ウームと、土を吹いて苦しげに<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>いている。

「や、こりゃ<ruby><rb>孔雀長屋</rb><rt>くじゃくながや</rt></ruby>の者じゃねえか」

「<ruby><rb>紋日</rb><rt>もんび</rt></ruby>の<ruby><rb>虎</rb><rt>とら</rt></ruby>だ。紋日の虎五郎だ」

虎といえば、知らぬ者はない程な<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あぶれ</span>者、驚きながら抱き起こすと、朝酒でもあおっていたところを斬られたとみえて、おびただしい血がこんこんと吹き流れている。

「この野郎め、また酒を食らやがって、人の<ruby><rb>見境</rb><rt>みさかい</rt></ruby>なく喧嘩でも吹ッかけやがったに違いねえ。ざまア見やがれ、といってやるところだが、悪い奴でも、こんな<ruby><rb>深傷</rb><rt>ふかで</rt></ruby>を負っちゃ可哀そうだ。オオ、番屋の戸板を外してきねえ」

気転のいいのが三尺を解いて、傷口を押さえているまに、持ってきた戸板へ<ruby><rb>怪我人</rb><rt>けがにん</rt></ruby>をのせ、祭りのように、ヤッサヤッサと五十間を急ぎだした。

ゾロゾロとついてくる弥次馬を追ッ払って、四、五人の顔役だけが戸板と一緒に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おはぐろ</span><ruby><rb>溝</rb><rt>どぶ</rt></ruby>の小橋を渡り、路次の狭い長屋の奥へ入って行った。

「オオここだぜ、虎の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>は」

「誰かいるのか」

「ガラ<ruby><rb>空</rb><rt>あ</rt></ruby>きだ――誰もいやしねえ」

「隣で聞いてみねえ、隣でよ」

戸まどいをしている間にも、虎五郎の顔は土色に変ってきて、戸板の隙からポタポタと垂れる血汐も力なく細ってくる。

「オイ、隣の衆――」と、一人が台所から首を突っこんで、

「この虎五郎の家はガラ空きだが、誰か家の者はいねえんですか、大変が起きたんだ、大変が」

「アア、お隣の人ですか」と<ruby><rb>羅宇屋煙管</rb><rt>らうやきせる</rt></ruby>の<ruby><rb>親爺</rb><rt>おやじ</rt></ruby>が、なんの気もなく破れ障子を<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>けて言った。

「稼ぎに出る子供がいますよ、三輪ちゃんに<ruby><rb>乙坊</rb><rt>おとぼう</rt></ruby>というのがネ――。それが今朝、ひもじそうにふるえているので、よけいなおせッかいだが、お隣の<ruby><rb>飯櫃</rb><rt>めしびつ</rt></ruby>をのぞいてみると、御飯なんざ一粒だってありゃアしねえ。空ッぽだア。で――今私のところで、お茶漬を食べさせてやっているところなンだが、何か御用ですかい」

「子供じゃ、しようがねえなア」

「じゃ、親父さんを探したらいいでしょう。またお<ruby><rb>決</rb><rt>き</rt></ruby>まりの<ruby><rb>茶飯</rb><rt>ちゃめし</rt></ruby>屋へでも行って、勝手な大<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たくら</span>を吹いているに違いない」

「ところがよ、その紋日の虎が、どこかの侍に斬られたンだ」

「えッ、き、きられたンですか、虎さんが」

「戸板にのせて持ってきてやったのだが、それじゃ、手当てをする者もねえだろう。もっとも、どうせお<ruby><rb>陀仏</rb><rt>だぶつ</rt></ruby>になることは、相場がきまっている<ruby><rb>怪我人</rb><rt>けがにん</rt></ruby>だがネ」

「そ、そいつア<ruby><rb>大事</rb><rt>おおごと</rt></ruby>だ！」

と、色を失った<ruby><rb>羅宇屋</rb><rt>らうや</rt></ruby>の親爺が<ruby><rb>裸足</rb><rt>はだし</rt></ruby>で外へ飛びだした<ruby><rb>途端</rb><rt>とたん</rt></ruby>に、そこの家で、朝飯を貰っていたお三輪と乙吉が、手に持っていた飯茶碗をとり落して、ワーッと一緒に泣いてしまった。

その騒ぎに、長屋中が総出になって、とにかく、<ruby><rb>怪我</rb><rt>けが</rt></ruby>人を戸板から移したが、近所<ruby><rb>合壁</rb><rt>がっぺき</rt></ruby>の同情は、瀕死の紋日の虎よりは、むしろ、そばにメソメソと泣いている、お三輪と乙吉の方に集まって、

「泣くンじゃない、泣くンじゃない」

と、菓子や食べ物を持ってくる者があるし、

「心配おしでない、今夜は、わたしが<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>にいて、面倒をみてあげるから」と、<ruby><rb>吾家</rb><rt>うち</rt></ruby>をほうって、泊りにきてくれるお婆さんもある。

苦悶のあとは昏睡に落ちて、この界隈で鼻つまみな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あぶれ</span>者も、息の細りとともに<ruby><rb>断末</rb><rt>だんまつ</rt></ruby>へ近づいてゆく。

「もう、駄目でしょうよ」

と、怪我人のほうへは見きりをつけて、あしたは早速、虎五郎の枕元で、長屋の誰彼三、四人がヒソヒソと<ruby><rb>善後策</rb><rt>ぜんごさく</rt></ruby>の相談。まず何よりの問題は、お葬式の費用であった。

「しかたがありませんから、<ruby><rb>町年寄</rb><rt>まちどしより</rt></ruby>へ泣きついて、いくらかお慈悲を仰ごうじゃありませんか」

「駄目駄目。およしなさいよ」

「虎さんじゃネ――なにしろ、可哀そうだと、いってくれる者はありますまい」

「ひどい<ruby><rb>悪者</rb><rt>わるもの</rt></ruby>で通っているから――こんな時には」

「じゃ、長屋の衆に、もう少しずつ泣いて貰って、<ruby><rb>棺桶</rb><rt>かんおけ</rt></ruby>と線香代……」

「お寺は？」

「<ruby><rb>箕輪</rb><rt>みのわ</rt></ruby>の<ruby><rb>浄閑寺</rb><rt>じょうかんじ</rt></ruby>、あすこの、投込みへ、<ruby><rb>無料</rb><rt>ただ</rt></ruby>で頼むよりしようがないでしょう」

「浄閑寺の投込みは、<ruby><rb>廓</rb><rt>くるわ</rt></ruby>の女郎衆で、<ruby><rb>引取</rb><rt>ひきと</rt></ruby>り<ruby><rb>人</rb><rt>にん</rt></ruby>のない者だけを埋葬する所。<ruby><rb>地廻</rb><rt>じまわ</rt></ruby>りの<ruby><rb>無縁仏</rb><rt>むえんぼとけ</rt></ruby>まで、ひきうけてくれるでしょうか」

「困ったなア。といって、ほかに方法はないから、そこを一ツ、泣きついてみましょうよ」

虎五郎は、ドンヨリした<ruby><rb>眸</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>を天井へ向けて、<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>のような、<ruby><rb>怖</rb><rt>こわ</rt></ruby>い<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>をよせていた。と、その<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>の足の方へ、うっ伏していたお三輪がヒョイと、

「お隣の小父さん。困るッて、お金のことなの？」

泣き<ruby><rb>腫</rb><rt>は</rt></ruby>れている顔をあげた。

「ウム、お金だ。だがネ、お三輪坊。おめえなんか子供だから、なにも、そんなことを心配するにゃ当らないよ」

「でも小父さん、お金なら、まだ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちゃん</span>のふところに、小判がたくさん残っている」

「えッ、小判が？」

半信半凝で相談の上、虎五郎の胴巻をほどいてみると、お三輪のいったとおり、<ruby><rb>垢</rb><rt>あか</rt></ruby>もつかない<ruby><rb>鋳</rb><rt>ふ</rt></ruby>き立ての小判が、古畳の上にザラザラと二百両余り。

「あ！　小判だ」

「ほんものだ！」と、一同は、ぎょッとして手を引ッこめたまま、ただ<ruby><rb>茫然</rb><rt>ぼうぜん</rt></ruby>としてしまう。

さて、難儀な中にまた厄介な<ruby><rb>代物</rb><rt>しろもの</rt></ruby>が出てきた。無職で<ruby><rb>性質</rb><rt>たち</rt></ruby>の悪い紋日の虎が、金座の<ruby><rb>坩堝</rb><rt>るつぼ</rt></ruby>から出たばかりの、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うぶ</span>な小判をこう持っているのは怪しいよりは怖ろしい。この金の<ruby><rb>素姓</rb><rt>すじょう</rt></ruby>も問わずに、手でもつけたら、それこそどんな災難が降ってくるかも知れない……と、まず筋向うの<ruby><rb>糊屋</rb><rt>のりや</rt></ruby>の婆さん、妙に、シンミリと声を落して、

「お三輪坊……」と、側へよった。

「いッたい、どうして、こんな大金を虎さんが持っているのか、お前、なんだか知っていそうだね……」

「ええ。知っている」

お三輪は、率直に答えていう。

「こないだの晩、お綱姉ちゃんが、窓の下へきて、ソッと、あたいにくれて行ったの……」

「えっ、お綱さんがかい？」と、みんな顔を見あわせて――「なんだッて、お前にそれを渡して行ったの」

「このお金で、<ruby><rb>廓</rb><rt>なか</rt></ruby>にいる、小ちゃい姉ちゃんを<ruby><rb>落籍</rb><rt>うけだ</rt></ruby>して、あとのお金で店でも出して、みんなで仲よく働いてお暮らしよ――、そうして、細かいことは、この手紙に書いてあるから、お父さんが帰ったら、よく、読ンでくれるように、頼むンだよ……って、そういったまま――」

話しているうちに、お三輪はシクシクしゃくりあげて、後のことは言いにくそうに、蒲団の中へ顔を埋めた。

「ふウーム……」と、等しく、長屋の者が、目と目を見あわせていると、今まで、<ruby><rb>昏々</rb><rt>こんこん</rt></ruby>としていた紋日の虎。

「ア<ruby><rb>痛</rb><rt>いて</rt></ruby>……、ア痛ててて……」と、苦悶の<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>を深くよせて、火のような<ruby><rb>喘</rb><rt>あえ</rt></ruby>ぎと一緒に、なんとしてか、ポロポロと涙を流した。

「す、すまねえ。……お綱にすまねえ、お長屋の衆、<ruby><rb>後生</rb><rt>ごしょう</rt></ruby>ですから、わっしが目をつぶる前に、あいつに一目会わして下せえ。……お、お綱は、ここにおりますから」

おののく手で、つかみ出した手紙の端――、それもベットリと黒い血にひからびて、一月寺――という字が<ruby><rb>淡</rb><rt>うす</rt></ruby>く書いてある。

死期を悟ったものであろう、紋日の虎五郎、苦しい息で、しきりに<ruby><rb>悪行</rb><rt>あくぎょう</rt></ruby>を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ざんげ</span>する。

「悪かった、すまなかったよ……」

唇をワナワナさせて、繰り返した。

「お三輪や、乙吉や、<ruby><rb>廓</rb><rt>なか</rt></ruby>へ売り飛ばした娘は、みんな、おれと、お才との間にできた子だ。すまねえが、おれのような悪い<ruby><rb>親父</rb><rt>おやじ</rt></ruby>を持った因果。……だが、お綱は、わっしの子じゃアありません。そのお綱から、意見手紙をつけてくれた、三百両の金まで、いい気になって、飲んだり打ったりしておりやした。<ruby><rb>罰</rb><rt>ばち</rt></ruby>があたったンです、罰だ。こうなったのも……」

つかんでいた手紙を、力なく離して、

「下谷の一月寺におるッて書いてあります。お長屋の衆、<ruby><rb>後生</rb><rt>ごしょう</rt></ruby>ですから、お、お綱にちょッと知らせておくんなさい。あ……あいつに<ruby><rb>一言</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>、い、いい残すことがあります。わっしがこのまま<ruby><rb>死</rb><rt>い</rt></ruby>ってしまうと、お綱は、とうとう一生知らずにいるでしょう……」

何か深い仔細があるらしい。

それをお綱にいわないうちは、さすがな虎も、<ruby><rb>両掌</rb><rt>りょうて</rt></ruby>を合すことができないふうだ。一月寺といえば、根岸の奥、誰か一走り行ってこい――イヤ、あぶないぞという者がある。アレは名うてな女<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">スリ</span>、この辺へ立ち廻ったら届けろという五人組のお沙汰だ。

といって、死なんとする<ruby><rb>善</rb><rt>よ</rt></ruby>き声を、無情にほうッてもおけまい、長屋一同が口どめの誓約をして、今夜こッそり呼んできて、すぐ帰したら、まさか、番屋へも知れやしまい。

よかろう、ではこのことを、<ruby><rb>他言</rb><rt>たごん</rt></ruby>するような不人情者は、この<ruby><rb>孔雀長屋</rb><rt>くじゃくながや</rt></ruby>からお構いだぞ。――というので、

「オイ、虎さん。今お綱さんを呼んできてやるから、それまで、気をしっかりしていなよ。いいかい！」

と、中で、年の若い男が、<ruby><rb>尻切</rb><rt>しりき</rt></ruby>れ<ruby><rb>草履</rb><rt>ぞうり</rt></ruby>を突ッかけて、あたふたと、長屋の路次を飛びだして行った。

＊　　　　　＊　　　　　＊

目安箱の上書が<ruby><rb>効</rb><rt>こう</rt></ruby>を<ruby><rb>奏</rb><rt>そう</rt></ruby>して、<ruby><rb>楓</rb><rt>かえで</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>の密議となり、元京都所司代であった松平<ruby><rb>輝高</rb><rt>てるたか</rt></ruby>は、召されて将軍家から内々に秘命をうけた。

その結果。

<ruby><rb>法月弦之丞</rb><rt>のりづきげんのじょう</rt></ruby>は、松平家から火急な使者をうけて、いよいよ吉報と、よろこんで駈けつけたが、不思議や、そのまま行方不明となってしまった。

よもやに引かれて、今日は帰るか、明日は松平家から、なんとか沙汰があるかと、一月寺の宿院には、万吉とお綱とが、痩せる思いで待っている。不安な、さびしい日が二人に続いた。

けれど、遂に、弦之丞は、帰らなかった。

お綱は<ruby><rb>憂鬱</rb><rt>ゆううつ</rt></ruby>になった。

「やッぱり私は、あの人に嫌われている……」

万吉は万吉でまた、

「こいつは、目安箱が、悪い方へたたったかな？　……」と考えて、とかく<ruby><rb>凶事</rb><rt>きょうじ</rt></ruby>にばかり想像される。

で、<ruby><rb>焦躁</rb><rt>しょうそう</rt></ruby>のあまり、かれは今朝早く飛びだして行った。

松平家へ出向いて様子をきき、もし、そこで要領を得ないようなら、代々木荘まで行って、常木<ruby><rb>鴻山</rb><rt>こうざん</rt></ruby>に会い、その後の成行きや、また弦之丞の帰らぬわけを<ruby><rb>糺</rb><rt>ただ</rt></ruby>してくる、とお綱にいい残した。

すると、午後になって、目明しの万吉。どこで支度をととのえたか、<ruby><rb>旅合羽</rb><rt>たびがっぱ</rt></ruby>に<ruby><rb>道中差</rb><rt>どうちゅうざし</rt></ruby>、一<ruby><rb>文字</rb><rt>もんじ</rt></ruby><ruby><rb>笠</rb><rt>がさ</rt></ruby>を首にかけて、

「お綱、とうとうお別れだ」

不意に、妙なことをいって、帰ってきた。

しかし、出て行った時の不安な顔とは、ガラリと変って、ばかに元気づいている。そして、<ruby><rb>遠旅</rb><rt>とおたび</rt></ruby>にでも出るように、振分けや<ruby><rb>畳</rb><rt>たた</rt></ruby>み<ruby><rb>桐油紙</rb><rt>とうゆ</rt></ruby>まで肩に掛け、上がりもしないで、

「常木様に会った話の都合で、急に、おれはこれから、西へ素ッ飛ぶことになった。――だが、お前に断わりなしで出先から立ってしまうのも、あんまり<ruby><rb>寝覚</rb><rt>ねざめ</rt></ruby>がよくねえから、ちょッと、お別れをいいに戻ったが……、お綱、ここはなんにもいわないで、お前は一ツ、別に考えなおしてくれ」

お綱はあッ気にとられてしまった。

万吉の口裏では、恋はともあれ、真心だけは、弦之丞も<ruby><rb>不愍</rb><rt>ふびん</rt></ruby>なやつと、認めてくれているらしいので、妻恋の家も畳み、<ruby><rb>妹弟</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>たちの始末もみて、いつでも、江戸に未練のないように、心支度をしているものを――。

その弦之丞は、出先から姿を隠し、万吉はまた万吉で、突然、帰ってきたかと思うと、上がりもせずに腰掛け話で、

「おれは急に西へ立つから、お前はお前で、別に身の落ちつきを考えなおすがいい」と、いわんばかりな、<ruby><rb>突</rb><rt>と</rt></ruby>ッ<ruby><rb>拍子</rb><rt>ぴょうし</rt></ruby>もない言葉。

サッと、お綱の顔色が変った。

自分はまだ、弦之丞様にも、誰にも信じられていない！　だから振り捨てられるのだ――。厄介な女と、二人が腹を合せて<ruby><rb>態</rb><rt>てい</rt></ruby>よく私を振りきッてゆく――。西へ？　それは無論、阿波への旅であろう。

こう思うと、お綱は、ワナワナと唇をふるわせた。勝気なだけに、ジッとこらえてはいるが、こみあげてくる悲しさの後から熱い涙が、とめどもなく<ruby><rb>睫毛</rb><rt>まつげ</rt></ruby>に<ruby><rb>溜</rb><rt>たま</rt></ruby>った。

「万吉さん――」

いきなりすりよると、万吉の手を痛いほど握り取って、

「な、なぜ、こうならこうと、明らさまにいっておくれでない。私も江戸の女、事情を明しておくれなら、どうでも自分の<ruby><rb>情</rb><rt>じょう</rt></ruby>を張ろうとは言いはしない……」

「だから、その<ruby><rb>訳</rb><rt>わけ</rt></ruby>を話して、得心して貰いてえと思って、急ぐところを引ッ返してきたのじゃねえか。まア、落ちついて、おれの話を聞いてくれ」

「いいえ、聞かないでも、およそのことは分っています。だけれど、それじゃお前……」

「おッと、その後をいってくれるな。墨屋敷の窓の下で、約束したことは、必ず忘れていやしねえ。またお前が命がけで、お千絵様を<ruby><rb>探</rb><rt>さぐ</rt></ruby>りだしてくれたことも、弦之丞様としてみれば、心じゃ礼をいっているくらいだ。だが、ままにならねえのは今度の旅立ち……、弦之丞様は、この万吉にさえ<ruby><rb>一言</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>も洩らさずに、もう半月も前に、中仙道から<ruby><rb>上方</rb><rt>かみがた</rt></ruby>へ、お立ちになってしまったのだ」

「えッ……。では法月さんは、もうこの江戸にいないのだね……」

「そうよ。俺もずいぶん<ruby><rb>半間</rb><rt>はんま</rt></ruby>だったが、弦之丞様も弦之丞様だ。松平様のお屋敷に呼ばれて、常木様と三人で、コッソリ相談をきめるとすぐに、代々木荘から夜にまぎれて、甲州街道をお急ぎなすってしまったという話――」

「じゃ、万吉さんまでを置き残して？　……」

「だから俺も、そう聞いた時にゃ、常木様へさんざん不服を並べてしまった。けれど、深い仔細を聞くと……」と、にわかに声を低めて、ソッとあたりを見廻しながら、上がり<ruby><rb>框</rb><rt>がまち</rt></ruby>から身を延ばした。

「目安箱の<ruby><rb>御上書</rb><rt>ごじょうしょ</rt></ruby>やら、<ruby><rb>左京之介</rb><rt>さきょうのすけ</rt></ruby>様のお計らいで、弦之丞様へ、ごく密々なお墨付が下ったのだ、早くいえば将軍家のお<ruby><rb>声</rb><rt>こえ</rt></ruby>がかり――、阿波の<ruby><rb>間者牢</rb><rt>かんじゃろう</rt></ruby>にいる<ruby><rb>世阿弥</rb><rt>よあみ</rt></ruby>に会い、蜂須賀家の陰謀をあばく一ツの証拠を聞き取ってまいれ――という御内命であったそうな」

「では、とうとうそのことが、将軍様のお指図とまでなって？」

「公儀で表沙汰となさるには、まだ<ruby><rb>拠</rb><rt>よ</rt></ruby>り<ruby><rb>所</rb><rt>どころ</rt></ruby>が充分でない。といって、これから大がかりに、所司代やお目付が手を廻せば、向うで<ruby><rb>気取</rb><rt>けど</rt></ruby>ってしまうから、この探索は弦之丞様一人がいいという御方針になったらしい。そこで弦之丞様が、首尾よく甲賀世阿弥に会って、何ぞ、蜂須賀家の急所を押すような証拠をつかんでおいでになれば、即座に、阿波二十五万石はお<ruby><rb>取潰</rb><rt>とりつぶ</rt></ruby>しとくる段取になっている。無論そうなれば、あのお方一代の<ruby><rb>誉</rb><rt>ほま</rt></ruby>れ、甲賀の家にもふたたび花が咲こうし、十年以上も暗闇の手探りをしていた<ruby><rb>天満組</rb><rt>てんまぐみ</rt></ruby>の俺たちも、さすがに目が<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>いていたといわれるだろう――。けれど俺は不服だった」

包みきれぬ昂奮に、いつか調子を張っている自分の声に気がついて、万吉は、ここでちょっと言葉をきった。

「阿波の海陸二十七<ruby><rb>関</rb><rt>せき</rt></ruby>、そこを<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>って<ruby><rb>剣山</rb><rt>つるぎさん</rt></ruby>の間者牢までまぎれこむのは、なるほど、できるだけ<ruby><rb>密</rb><rt>ひそ</rt></ruby>かがいいし、弦之丞様の身になっても、<ruby><rb>足手</rb><rt>あしで</rt></ruby>まといがねえほうがいい。けれど俺は大不足さ、ここまできて、大事な、本舞台へのり出さなくっちゃ、目明し万吉の一分が立たねえ。イヤ、そういうと、たいそう<ruby><rb>見得</rb><rt>みえ</rt></ruby>をきるようだが、大した出世にも金にもならず、ただこういう山を当てることだけを楽しみに、家や女房まで捨てて歩いている、目明し根性にしてみりゃア、ちっとばかり、役不足にも思うだろうじゃねえか」

「おれも<ruby><rb>天満</rb><rt>てんま</rt></ruby>の万吉だ。ポカンとした<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>をして、江戸に待っていられるものか。弦之丞様に追いついて、どうでも一緒に阿波へ渡る――と、じつあ、常木様のお<ruby><rb>諭</rb><rt>さと</rt></ruby>しもきかねえで、ぷいと、代々木を飛びだした帰り途――、これ見てくンな、柳原の<ruby><rb>吊</rb><rt>つる</rt></ruby>しん棒で、<ruby><rb>合羽</rb><rt>かっぱ</rt></ruby>や<ruby><rb>脚絆</rb><rt>きゃはん</rt></ruby>の急仕立て、すぐに旅へ立とうとしたが、ハッと気がついたなアお前のことだ……」

しんみりと声を落すと、今まで、<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>みがましく、邪推した心も解けてお綱は、ほつれ毛の濡れついた顔をジッとうつむかせた。

「その気持だけを買ってくれ。くどいようだが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あか</span>の他人で、俺ほどお<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>の今の気持を、よッく呑み込んでいる者はあるめえと思う。その万吉がこうして頼む。どうか、お<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>は得心して、今の望みを<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めてくれないか」

万吉の言外にも、まだいろいろな事情があろう。まして、将軍家の内密なお墨付までうけたといえば、弦之丞が、万難を排して、阿波へ急いだのも無理ではない。

なおかつ、万吉の<ruby><rb>衷情</rb><rt>ちゅうじょう</rt></ruby>も、いっそう同情にたえないことだ。

ただ切ないのはお綱の胸――。

<ruby><rb>事情</rb><rt>こと</rt></ruby>をわけて頼まれてみれば、なおさら辛い立場であった。恋の幻滅、<ruby><rb>甦生</rb><rt>こうせい</rt></ruby>の失望。お綱の胸を割ってみれば、今は悪行の享楽もなく、帰る望みを持つ家庭もない。ただかすかに、心淋しくも、はかない思慕と、生れ代ろうとする<ruby><rb>本善</rb><rt>ほんぜん</rt></ruby>の<ruby><rb>性</rb><rt>さが</rt></ruby>だけがある。

「分りました……」お綱はやっとこう洩らして、

「けれど、ねえ、万吉さん、今の私の心にもなってみておくれ。どうしても、私は、あの弦之丞様にすがっていなくっては、生きておられない身なんだよ……」

「そりゃ俺も充分に承知している。承知しながら何もかも、諦めてくれと頼むのは、ちょうど、お前に<ruby><rb>尼</rb><rt>あま</rt></ruby>になれという難題を吹ッかけるようなものだが」

「いいえ、尼になれる私なら、いッそ、そうなったほうがましだけれど、とても私の性質では、尼寺へなぞは住めないし、といって、弦之丞様やお前さんの側を離れて、このまま江戸に<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>まれていれば、いつかまた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">より</span>が戻って、<ruby><rb>癖</rb><rt>くせ</rt></ruby>の悪い<ruby><rb>指技</rb><rt>ゆびわざ</rt></ruby>の出来心が起こらないとも限らない……。私はね、万吉さん、それが一番怖ろしいと思っている」

「じゃ、お綱、これほど俺が頼んでも、得心してくれねえのか」

「決して、分らない<ruby><rb>我</rb><rt>が</rt></ruby>を張るのではないけれど、万吉さん、私のほうからもこの通り、一生涯のお願いだから……」

「ええ、お<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>にそう手をつかれちゃ、いよいよ俺の立つ瀬がねえ」

「私という女一人を、助けると思って、もし――お願いだから、お願いだから」

「幾ら何といわれても、俺をさえ、置き残して行った弦之丞様のお覚悟を思うと、ウンと承知ができねえじゃねえか」

「ああ……それじゃどうしても――」

「オ、オ、オ、おい！　お綱ッ」

「<ruby><rb>見遁</rb><rt>みのが</rt></ruby>しておくれ」

「な、なにをするんだッ」

「私はもう、死ぬよりほかに……」お綱の手に、いつか<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>が光っていた。袖に巻いて、あわや、自分の<ruby><rb>喉笛</rb><rt>のどぶえ</rt></ruby>――グサッと突き立てそうにしたので、万吉があわてて袖を引っ張ると、お綱はそれを振りもぎって、パタパタと奥の部屋へ。

「とッ、とんでもねえ<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>をッ」

<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>ばきのまま飛び上がって後から追いかぶさった。あやうく<ruby><rb>外</rb><rt>そ</rt></ruby>れた<ruby><rb>切</rb><rt>き</rt></ruby>ッ<ruby><rb>尖</rb><rt>さき</rt></ruby>が、キラリと見えたのに冷やりとしながら、無理にそれをもぎ取って、

「ばッ、ばかな！　そんな、つまらぬ短気を起こす奴があるものか、てめえも、見返りお綱といわれた女じゃねえか！　……」

と、肩に大きな波を打たせて、<ruby><rb>真</rb><rt>ま</rt></ruby>ッ<ruby><rb>青</rb><rt>さお</rt></ruby>になった目明しの万吉、<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>るごとく、叱るごとく、こう呶鳴りつつ涙は頬をボロボロと流れてくる。

乱れ髪に顔を埋めて、お綱もそこへ泣き伏してしまった。――ややしばらくのすすり泣き、万吉も棒立ちになったまま。

すると、そこへ、戸まどいをしたような一人の男、バタバタと裏口へ入ってきて、座敷の中を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>きながら、

「御本院で<ruby><rb>伺</rb><rt>うかが</rt></ruby>いましたが、こちらに、お綱さんがおいでになるそうですが」

「あ、誰だい、お前は？」

畳の上に、<ruby><rb>脚絆</rb><rt>きゃはん</rt></ruby>わらじで<ruby><rb>突</rb><rt>つ</rt></ruby>ッ立っている万吉、あわてて<ruby><rb>匕首</rb><rt>あいくち</rt></ruby>を後ろへ隠して、土足のまま坐ってしまった。

「へい。私は、吉原の<ruby><rb>孔雀長屋</rb><rt>くじゃくながや</rt></ruby>にいる者ですが、お綱さんの親父さんが<ruby><rb>大門口</rb><rt>おおもんぐち</rt></ruby>で喧嘩をして<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>の侍に斬られました。え、昨日の朝の出来事なんで……。<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>はどうにか持ち越しましたが、今夜あたりは、とても<ruby><rb>難</rb><rt>むず</rt></ruby>かしそうだから、すぐに、私と一緒に来て貰いたいと――へい、長屋中の相談で、お知らせに飛んできたような訳で……」

「ああ、間に合ってくれればいいが」

枕元にいる長屋の者は、時々、深い<ruby><rb>溜息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>でこう祈った。そして、お互いに、痛い心をジッと抑えて、虎五郎の容体を見まもっていた。

灯のつく頃に、だいぶ苦痛に疲れた<ruby><rb>怪我</rb><rt>けが</rt></ruby>人は、もう<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>く力も失せたらしい。汐の<ruby><rb>落刻</rb><rt>おちどき</rt></ruby>に向うのではないか。皮膚の色、吸う息のもよう、刻々と悪いほうへ変ってくる。

「どうしたのでしょう？」

「もう来そうなものだが……」

「会わせてやりたいものだ、間に合ってくれればいい。私たちはちっとも知らなかったが、お綱さんは虎さんの血を分けた娘じゃないのだそうだ……それだけにねえ」

低い声でささやいていると、また痛みが来たのか、<ruby><rb>怪我</rb><rt>けが</rt></ruby>人は眉をしかめて、<ruby><rb>蝦</rb><rt>えび</rt></ruby>のようにそりだした。と、その<ruby><rb>門口</rb><rt>かどぐち</rt></ruby>へ、一月寺へ使いに走った男が帰りついて、

「来ましたよ、一緒に……」と汗を拭いた。

「エ、来たかい？」と、みんな自分のことのようにホッとすると、静かな下駄の音がして、土間の中に、お綱と見馴れぬ男が立った。

「じゃ、そこで」

「エエ、私は、待っておりますから」と土間の隅ッこに腰かけたのは万吉で、不意な知らせと行きがかり上、ここへ一緒に来たのであった。

頭巾をぬいで上がると一緒に、

「あ、姉ちゃん……」

と、<ruby><rb>乙吉</rb><rt>おときち</rt></ruby>とお三輪が、蒲団の<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>から飛びつくのを、側の者があわてて、

「しッ……いい子だからね」

と両の手へ抱き抑える。

その声に、意識を<ruby><rb>茫</rb><rt>ぼう</rt></ruby>とさせていた怪我人は、かすかな気を呼び起こしたとみえ、あらぬ方へ力のない目をみはった。

枕元の者は、その耳へ口をよせて、

「お綱さんが見えましたよ。お前さんの、待ちぬいていたお綱さんが――」

顔の近くへ、指をさして示してやると、虎五郎の鈍い目は、それにしたがって、その姿を見ようとするらしく必死にみはった。

そして、しばらくするうちに、薄暗い<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>の<ruby><rb>灯</rb><rt>ほ</rt></ruby>かげへ、ソウ……と寄ってくるお綱の姿が、やっと、彼の眸に入ったのであろう、<ruby><rb>下瞼</rb><rt>したまぶた</rt></ruby>の肉をビクとさせて、ボロボロと涙を流したかと思うと、

「オオ……」

異様な感情の<ruby><rb>昂</rb><rt>たか</rt></ruby>ぶりに唇をふるわせた。

「お<ruby><rb>父</rb><rt>と</rt></ruby>っさん――」

その刹那に、お綱は何も忘れて、虎五郎の側へ飛びついていった。そして、養父の出した手の上へ、自分の両手と顔をうつ伏せた。

「ア――」不意に、まわりの者が中腰になって、<ruby><rb>怪我</rb><rt>けが</rt></ruby>人の顔を見なおした。瞬間であったけれど、見違えるほど皮膚の色が変って、動かぬ眸が吊り上がっている。

「お父っさん！」

「おやじさん！」

「もし、もし……」

「気をしっかりしておくれよ。せっかく、お綱さんが来て間に合ったものを」

「アア、もう難かしそうだ。お綱さん、せめて、お前、抱いてあげなさいよ」

「私も<ruby><rb>一言</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>お<ruby><rb>詫</rb><rt>わび</rt></ruby>をします――お父っさん！　お綱はほんとに親不孝でございました」

泣きすがると、虎五郎はホッと太い息を<ruby><rb>吐</rb><rt>つ</rt></ruby>いた。そして、ゴクリと水が<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>へ落ちると、

「お、お綱ッ」

こう<ruby><rb>一言</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>、洩らした。

「すまなかった……。もう、く、口ではいえない、後で、あ、あの押入れの奥を見てくれ、刀と……」

それだけであった。

それが、紋日の虎の死であった。

墓場のような無言のうちに、みんなのすすり泣きが起こった。万吉も土間の隅で、ジッと首をうなだれている。

ところへ、勝手口から、あわただしく入ってきた男が、お綱に大変を告げてきた。その者が、<ruby><rb>口忙</rb><rt>くちぜわ</rt></ruby>しくいうことには、何だか今、手先臭い男が、<ruby><rb>此家</rb><rt>ここ</rt></ruby>を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いているなと思うと、一散に、番屋の方へ駈けだして行きました。

目前には、今息をひきとったばかりの養父の<ruby><rb>空骸</rb><rt>なきがら</rt></ruby>があり、側には、泣きじゃくるお三輪と乙吉のいじらしい姿がある。

そして、お綱の身辺には、もうひそかにその筋の目が光っている。という知らせだ。

さすがのお綱も、当惑して、この成行きがどう神の手に裁かれるのか。これも、自分のなせる<ruby><rb>罪業</rb><rt>ざいごう</rt></ruby>のむくいかとしみじみと思う。

「逃げて下さい、逃げて下さい」

長屋の者は、お綱を、そこから引き離すようにして、「後の始末は、みんながどうにでも致します。なアに、お三輪ちゃんや乙坊だって、決して、心配することはないから」

上がり<ruby><rb>框</rb><rt>がまち</rt></ruby>に腰かけていた万吉も、

「そうしたほうがいいだろう。ここへ<ruby><rb>捕手</rb><rt>とりて</rt></ruby>が<ruby><rb>踏</rb><rt>ふ</rt></ruby>ン込んで、枕元から縄付きになった日には、<ruby><rb>養父</rb><rt>おやじ</rt></ruby>さんも安々と行く所へも行かれまい」

それでも、お綱は動かなかった。けれど、そのお綱自身よりも長屋の者が度を失って心配した。そして、追い立てるように支度をさせる。

「おお、あれを調べてみなくっちゃいけない。虎さんの遺言した物を……何やら押入れの奥に、お綱さんへ渡したい物があるといった……」

「刀――と<ruby><rb>一語</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>いったようだが」

「それだけが気がかりで、ああして一目会いたいといっていたのだろうから、忘れては大変だ」

狼狽している騒ぎの中にも、こう気づく者があって、押入れの中へ首を突ッこみ、ガタガタと何かかき廻していたが、やがて、二尺四、五寸程な細長い紙包みを探しだして、

「<ruby><rb>此品</rb><rt>これ</rt></ruby>じゃあないか？」

と<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>を引き寄せた。

そして、<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>だらけな渋紙をはいでみると、その下にもまた二重に<ruby><rb>桐油紙</rb><rt>とうゆがみ</rt></ruby>が掛かっていて、丹念に麻糸を巻いてあるが、もうその中はあらためるまでもなく、脇差――ということが手ざわりでも知れる。

「失礼だが、こんな物のある家ではないのに、大事に<ruby><rb>納</rb><rt>しま</rt></ruby>ってあったところをみても、刀――といったのはこれでしょう。ではお綱さん、<ruby><rb>養父</rb><rt>おやじ</rt></ruby>さんの遺言どおり、これはお前さんに渡すから、とにかく、一時どこかへ落ちのびて、番屋の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ほとぼり</span>をさますがいい。――そしてな、まじめになって、世間の噂を消しなさいよ。この<ruby><rb>養父</rb><rt>おやじ</rt></ruby>さんがいいお手本だ」

口をそろえて、長屋の者、遠い旅立ちの<ruby><rb>門</rb><rt>かど</rt></ruby>でも見送るように、涙にくれるお綱を<ruby><rb>促</rb><rt>うなが</rt></ruby>して、手を取らんばかり、<ruby><rb>否応</rb><rt>いやおう</rt></ruby>なく外へ出る……。

と、遅かったか！

見馴れぬ<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>と侍の影が、あたりを見廻しながらこの路次へ入ってきた。

一同が、ハッと胸を躍らして、そこにいすくんでしまっていると、上役人らしくない若党を連れた年配の武士。

「紋日の虎と申す者の家はどこであろうか」

「は、その家なら……」となお、何事かと怪しみながら、「ここでございますが」というと、

「わしは龍泉寺に住む、<ruby><rb>小池喜平</rb><rt>こいけきへい</rt></ruby>という<ruby><rb>御徒士</rb><rt>おかち</rt></ruby>の者じゃが」侍から先に身分を<ruby><rb>明</rb><rt>あか</rt></ruby>して、立話のまま来意を話しだした。

その言葉を一同が聞いていると、こうである。

自分の<ruby><rb>甥</rb><rt>おい</rt></ruby>が、<ruby><rb>昨日</rb><rt>きのう</rt></ruby>吉原へきてフトした間違いから人を斬ったというので、密かに調べてみると、それは、いつも附近で見かける角兵衛獅子の<ruby><rb>姉弟</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>の、たった一人の男親だということ。実は、その獅子舞の姉弟のことは、常に家内が<ruby><rb>不愍</rb><rt>ふびん</rt></ruby>がって、詳しいことを知っているので尋ねてきた。まことに気の毒ではあり<ruby><rb>甥</rb><rt>おい</rt></ruby>の罪も<ruby><rb>償</rb><rt>つぐな</rt></ruby>わねばならぬ、なんと、<ruby><rb>孤児</rb><rt>みなしご</rt></ruby>となったお三輪と乙吉を、自分の家にくれたと思って、養育させてくれまいか。

思いがけない相談であった。

長屋の者は、聞くと共に、嬉し涙にくれてしまう。

お綱にも、この場合、二人のために、もとより異議のない話である。なおもう一人、<ruby><rb>廓</rb><rt>くるわ</rt></ruby>にいる妹の身は、この間の金の余りで、充分始末がつくだろうと、それも心安かった。

「では、皆さん」

お綱は一同へ声低く腰をかがめて、

「お言葉に甘えて、後々のことは……」

ソッと、別れを告げたが、その侍には、わざと姉と名乗らなかった。そして、ただ心のうちで、浮世のドン底に<ruby><rb>棲</rb><rt>す</rt></ruby>む人々の美しい心を伏し拝みながら、<ruby><rb>桐油紙</rb><rt>とうゆ</rt></ruby>ぐるみの脇差を袖にかかえ、万吉と一緒にその路次から<ruby><rb>忍</rb><rt>しの</rt></ruby>び忍びに歩きだした。

## <ruby><rb>大慈大悲閣</rb><rt>だいじだいひかく</rt></ruby>

ひとりになった。

もう親のない一人ぽッち。

女<ruby><rb>掏摸</rb><rt>すり</rt></ruby>という兇状をもった姉は、あの<ruby><rb>妹弟</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>たちにもない方がいい。ただ、どうぞ、<ruby><rb>倖</rb><rt>しあわ</rt></ruby>せであっておくれ、いい<ruby><rb>芽</rb><rt>め</rt></ruby>をまッすぐに育っておくれ……。

お綱は祈りながら、そッと頭巾の端で目を抑えた――。だが、無意識の間にも、足は自然に、暗い道を暗い道をと<ruby><rb>選</rb><rt>よ</rt></ruby>っている。

いつになったら明るい道を、明るい気もちが選ぶのだろうか。

悪い<ruby><rb>渡世</rb><rt>とせい</rt></ruby>の足は洗いました！

そう叫んでいるのに、誓っているのに、世間はそうと信じてくれない。養父が息をひきとる晩も、十手は影身につきまとう。

アア、歩けど歩けど道は暗い。今の足元も遠い先も――。

<ruby><rb>彼岸</rb><rt>ひがん</rt></ruby>のない暗夜行路、それが、終生<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>らねばならない自分の生涯だろうか――と、お綱がホッと息をした時、<ruby><rb>睫毛</rb><rt>まつげ</rt></ruby>の涙の光ではなく、ボウとあたりが明るくみえた。

いつか、お綱のいる所は、<ruby><rb>冷寂</rb><rt>れいじゃく</rt></ruby>とした<ruby><rb>仏地</rb><rt>ぶっち</rt></ruby>である。吉原<ruby><rb>尻</rb><rt>じり</rt></ruby>から<ruby><rb>千束</rb><rt>せんぞく</rt></ruby>をぬけてきたとすれば、そこは多分、浅草の観音堂。

ふり仰ぐと、堂閣の千<ruby><rb>本</rb><rt>ぼん</rt></ruby><ruby><rb>廂</rb><rt>びさし</rt></ruby>に、<ruby><rb>錆</rb><rt>さ</rt></ruby>びた金色の<ruby><rb>仏龕</rb><rt>ぶつがん</rt></ruby>が、ほの明るく廻廊を照らしている。

「待って……」

お綱がそこでそういうと、同じように、黙々として、先へ歩いていた万吉は、下駄の緒でも切らしたかと、

「…………」

黙って、向うに立ち止まった。

「万吉さん」

「ウム？」

「ちょっと、待ってくれないか」

「いいとも、ゆっくり休むがいい。俺も旅支度までしているくらいだから、実をいうと、<ruby><rb>肚</rb><rt>はら</rt></ruby>の中じゃ先をあせっているんだが、こう夜が<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>けちゃしようがねえ。<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>の朝の早立ちとしよう」

「私も、別に休みたい訳じゃないけれど、お父っさんが<ruby><rb>臨終</rb><rt>いまわ</rt></ruby>にまで、アア言い<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>して行ったこの紙包みに、何か、深い仔細があるような気がするので、早く開けてみたいと思ってね……」

「ウム。詳しいことは知らないが、俺もそう考えていた。じゃお綱、向うの廻廊がいいだろう。<ruby><rb>御灯</rb><rt>みあかし</rt></ruby>が下がっている」

更けているので参詣の人影もない。

たまたま、人影らしいものがあるかと見れば、宿のない病人や順礼が、<ruby><rb>大慈</rb><rt>だいじ</rt></ruby>の<ruby><rb>御廂</rb><rt>みひさし</rt></ruby>を借りて、<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>にくるまッている冷たい寝息……。

<ruby><rb>淡島堂</rb><rt>あわしまどう</rt></ruby>の池で、キキ……と亀の<ruby><rb>啼</rb><rt>な</rt></ruby>くのも聞えるほど、<ruby><rb>伽藍</rb><rt>がらん</rt></ruby>の空気は<ruby><rb>森</rb><rt>しん</rt></ruby>としていた。

「俺もさっきは、土間の隅で待ちながら、思わず、貰い泣きをしていたが、なんだか、<ruby><rb>其品</rb><rt>それ</rt></ruby>は刀だという話じゃないか」

「それが、どうも私にゃ<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>に落ちない一ツなのさ……。私の家は小さい時から、今も同じな長屋暮らし、こんな刀がある筈はないのだもの」

「フーム、するとそりゃなんだろう、お<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>が小さい時に死んだという、お袋さんに由緒のある<ruby><rb>刀</rb><rt>もの</rt></ruby>じゃねえかな」

「私も……もしや、そうじゃアないかと思っているんだがね……何か、私とお<ruby><rb>母</rb><rt>っか</rt></ruby>さんの……」

二人は、廻廊の隅へしゃがみこんだ。

ちょうど、内陣の薄い明りが、横の扉から流れているので、ほどこうとする、麻糸の結び目もどうやら分る。

その糸を解き終えると、お綱はフイと、

「万吉さん」

考えるような眸をあげて、

「なんだか私は、これを開いてみるのが、少し怖いような気がしてきたよ」

「何か思い当ったかい？」

「こんなシーンとした晩に、この観音様のお堂に立ったせいか、初めてフイと思いうかんだことがある……。それはもう、十何年か前のことだけれど」

「と、すると、お<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>が八ツか九ツごろ？」

「なんでも、うすら覚えに考えると、あの弁天山や仁王門の桜が、チラチラと、散りぬいている晩でしたっけ。――その小さな時分の私が、お<ruby><rb>母</rb><rt>っか</rt></ruby>さんの手に引かれて、この観音堂へ来たのですよ、それもたしかに<ruby><rb>夜半</rb><rt>よなか</rt></ruby>のよう……」

刀の包みを解きかけて、お綱はこう語りだした。なつかしい、その頃の夢をおうように。

「万吉さんにも、一度話したことがあるけれど、お<ruby><rb>母</rb><rt>っか</rt></ruby>さんはお才といって、<ruby><rb>仲之町</rb><rt>なかのちょう</rt></ruby>では売れた<ruby><rb>芸妓</rb><rt>げいしゃ</rt></ruby>、たいそうきれいな<ruby><rb>女</rb><rt>ひと</rt></ruby>でした――。そのお<ruby><rb>母</rb><rt>っか</rt></ruby>さんに手を引かれて、なんの気もなくこのお堂へ連れられてきてみると、そこに、ジッと待っていたお武家様がありました。オオ<ruby><rb>恐</rb><rt>こわ</rt></ruby>い、というような気がして、私はお<ruby><rb>母</rb><rt>っか</rt></ruby>さんにすがりつくと、そのお侍は、いきなり私の手を取って、<ruby><rb>見飽</rb><rt>みあ</rt></ruby>かぬように、涙ぐむじゃアありませんか」

<ruby><rb>磬</rb><rt>けい</rt></ruby>の<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>ひとつ洩れないで<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>けてゆく<ruby><rb>伽藍</rb><rt>がらん</rt></ruby>の下には、ただ、水底のような夜気があった。

万吉には、今夜のお綱が、十か九ツぐらいな小娘にみえた。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おばこ</span>か、お<ruby><rb>煙草盆</rb><rt>たばこぼん</rt></ruby>みたいな髪に<ruby><rb>結</rb><rt>ゆ</rt></ruby>って、母の手にひかれているお綱がそのまま目にうかぶ。

かの<ruby><rb>女</rb><rt>じょ</rt></ruby>が、幼かりし頃の思い出ばなしに。

「どんなにびっくりしたことか――今でも分るくらいでしたよ」と、お綱は、うッとりとなって、話の息をつぎたした。

「――そして、この観音堂に、お<ruby><rb>母</rb><rt>っか</rt></ruby>さんと私を待っていた妙な侍は、ややしばらく、怖がる私の手をとって、ジッと涙ぐんでいましたが、そのうちに、今度は、お<ruby><rb>母</rb><rt>っか</rt></ruby>さんに、シンミリと別れの言葉をいいのこして――そうでした――旅へでも立つように、名残を惜しんで、<ruby><rb>幾度</rb><rt>いくたび</rt></ruby>も幾度も振り返りながら、<ruby><rb>花吹雪</rb><rt>はなふぶき</rt></ruby>の闇の中へ、姿が消えてしまったのです……影絵みたいなそのお侍の姿が行ってしまったのでした」

「ふウむ、そして？」

「それから先は、小さい私は無我夢中、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おはぐろ</span><ruby><rb>溝</rb><rt>どぶ</rt></ruby>の<ruby><rb>裏店</rb><rt>うらだな</rt></ruby>で、お<ruby><rb>転婆娘</rb><rt>てんばむすめ</rt></ruby>に育ってきましたが、お<ruby><rb>母</rb><rt>っか</rt></ruby>さんと死に別れた頃から、時々、その影絵のお侍が、妙に思いだされてくるんですよ――、そしてね万吉さん、どうして私のお<ruby><rb>母</rb><rt>っか</rt></ruby>さんが、そのお侍と別れる時に、あんなに泣いていたのだろうか？　……とそれが解けない<ruby><rb>謎</rb><rt>なぞ</rt></ruby>でした」

「ウム、そう話されて、俺にはうッすら分ってきた」

「私も年頃になってから、それを<ruby><rb>覚</rb><rt>さと</rt></ruby>ってきたのです」

「花の散る晩に、ここへ別れにきた侍は、お<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>の――」

「私の、ほんとの、<ruby><rb>父親</rb><rt>てておや</rt></ruby>でしょう？　……」

「そうよ、それに<ruby><rb>違</rb><rt>ちげ</rt></ruby>えねえ」

「養い親の人情で、虎五郎は私にそれを<ruby><rb>秘</rb><rt>ひ</rt></ruby>し<ruby><rb>隠</rb><rt>かく</rt></ruby>しにしていましたが、息をひきとる時になって、初めて、それを明かそうとしたのじゃないかと思うのです」

「なるほど……、そうすると、お<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>に渡した刀と一緒に、何か<ruby><rb>由緒</rb><rt>ゆいしょ</rt></ruby>が書いてあるかもしれねえ」

「このお堂の<ruby><rb>御廂</rb><rt>みひさし</rt></ruby>を仰いで、ふいと思い浮かんだのも、何か深い因縁ずく……と、急に開けてみたくなったもんだから……」

「まア、とにかくそれじゃ、早く中をあらためてみるがいい」

「ええ……」と、いって、お綱はまた現実のときめきにうたれながら、膝にのせていた刀の包み紙を、クルクルと、静かにはいでゆくのであった。

と――その下には、<ruby><rb>卯黄</rb><rt>うこん</rt></ruby>の<ruby><rb>布</rb><rt>きれ</rt></ruby>。

固く<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こま</span>結びにしてあるのを、糸切歯で解こうとして、口の辺りへ持ってゆくと、その<ruby><rb>布</rb><rt>ぬの</rt></ruby>の隙間からバラバラと散りこぼれたのは七、八通の<ruby><rb>書付</rb><rt>かきつけ</rt></ruby>と――手紙と――そして守り袋。

怖ろしい運命の<ruby><rb>神籤</rb><rt>みくじ</rt></ruby>でもひくように、お綱が、こわごわと、その一通を手に拾ってみると、なつかしや、死んだ母の名。

お才どのへ。

また、一ツの手紙を取ってみると、それにも同じ<ruby><rb>手蹟</rb><rt>しゅせき</rt></ruby>で同じように。

お才どのへ。

としてあった。

そして、順々に、見ては膝へのせながら、何気なく、最後に拾った一本の手紙の裏――。

「万吉さん、――ちょ、ちょッと体を少し<ruby><rb>避</rb><rt>よ</rt></ruby>けて」

<ruby><rb>御堂</rb><rt>みどう</rt></ruby>の内陣から洩れる<ruby><rb>灯</rb><rt>あか</rt></ruby>りの方へ、その手紙をさし向けて、お綱がおののく手に持ったのを見ると、ああ、それはなんという不思議な人の名――不思議な<ruby><rb>輪廻</rb><rt>りんね</rt></ruby>のあらわれであろう。

<ruby><rb>甲賀世阿弥</rb><rt>こうがよあみ</rt></ruby>。

――と書いてある。

甲賀世阿弥？

甲賀世阿弥？

なん度ジイと読み返してみても、それはやはり甲賀世阿弥としか読めない。

だが、しかし！　これはまたどうしたということだろう。

甲賀世阿弥といえば、今さら、こと新しく考えだすまでもなく、幕府<ruby><rb>笹</rb><rt>ささ</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>づめ甲賀組<ruby><rb>宗家</rb><rt>そうけ</rt></ruby>の人。お千絵様の父なる人。そして、阿波の<ruby><rb>間者牢</rb><rt>かんじゃろう</rt></ruby>に<ruby><rb>囚</rb><rt>とら</rt></ruby>われたまま、十年あまりも生死の消息をすら絶たれていた人。

また近くは法月弦之丞が、<ruby><rb>大府</rb><rt>たいふ</rt></ruby>の秘命をふくんで、<ruby><rb>深秘</rb><rt>しんぴ</rt></ruby>の間者牢を訪れるべく、単身江戸を立って行った目標の人ではないか。

その甲賀世阿弥の名が、お綱の母へ――お才どのへ――と宛てた手紙の封の裏に、ありありと読まれた不思議さにうたれて、お綱は、<ruby><rb>渺茫</rb><rt>びょうぼう</rt></ruby>とした迷宮に疑心をさまよい、万吉も、それへ<ruby><rb>驚目</rb><rt>きょうもく</rt></ruby>をみはったまま、ゴクリと、<ruby><rb>生唾</rb><rt>なまつば</rt></ruby>をのんでいるばかり……まったく、いうべき言葉を忘れているとは瞬間、二人の姿であった。

「ウーム……？」と、やがて万吉が<ruby><rb>思惑</rb><rt>おもわく</rt></ruby>に疲れてうなっていた。お綱もそれにつりこまれて、深い息をホッと洩らして、

「……ああ、わからない……」と、指から封を取り落すと、万吉がすぐに拾い取って、中の巻紙をサラサラと夜風に流して読み始めた。

<ruby><rb>多度津</rb><rt>タドツ</rt></ruby>ユキ<ruby><rb>渡船</rb><rt>トセン</rt></ruby>ヲ待ツ間、コレヲ最後ニ一<ruby><rb>札</rb><rt>サツ</rt></ruby><ruby><rb>便別</rb><rt>ビンベツ</rt></ruby>申シオキ候。在府中、ソモジトノ永キ縁モ、マタ江戸出立ノミギリ、観音堂ニテ<ruby><rb>綱女</rb><rt>ツナジヨ</rt></ruby>ノ顔ヲ見オサメ申シ候<ruby><rb>夜</rb><rt>ヨ</rt></ruby>ノコトモ、今ナオマザマザシク覚エ<ruby><rb>候</rb><rt>ソウラ</rt></ruby>エド、コノタビコソハ、阿波ニテステベキ一命、ソモジニハ、スベテヲ忘レクルルコソ、何ヨリモヨキ<ruby><rb>餞別</rb><rt>センベツ</rt></ruby>ニコソ……。

こう読みかけて万吉は、あッ！　とお綱の顔をみつめてしまった。

「お、おい！　今読んだのを聞いていたか」

「聞いていました……そ、それから」

「だんだんに読んでいったら、すッかり仔細も分るだろうが、お綱さん！　お<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>はまさしくこの人の娘だ！　ア――甲賀世阿弥の血をうけているお嬢様だ」

「でも……」お綱はまだ信じきれないで――

「世阿弥様のお嬢様には、あの、墨屋敷においでになった、美しいお千絵という方が？　……」

「さ、だからなおのこと、お<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>が世阿弥様の娘だということが分る。というなア、最前きいた話にも、また、この手紙の様子をみても、お前の死んだお<ruby><rb>母</rb><rt>っか</rt></ruby>さんは、<ruby><rb>仲之町</rb><rt>なかのちょう</rt></ruby>の江戸<ruby><rb>芸妓</rb><rt>げいしゃ</rt></ruby>だろう……。いいかい、そこで何かの機縁から、甲賀様と<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじ</rt></ruby>みになって、いつか、日蔭の腹違いに、生れたものがお<ruby><rb>前</rb><rt>めえ</rt></ruby>なのだ……イヤ、お綱さんだったのに違いない。まア待ちねえ。もッと先を読んでみるから……」

<ruby><rb>紙背</rb><rt>しはい</rt></ruby>を<ruby><rb>透</rb><rt>とお</rt></ruby>すような<ruby><rb>眼</rb><rt>まな</rt></ruby>ざしで、万吉が、その手紙、またほかの四、五通、残らず読んでみた時に、すべての疑雲は晴れていた。かれの想像は当っていた。

吉原の仲之町、そこの夜桜よりは<ruby><rb>桐佐</rb><rt>きりさ</rt></ruby>のお才といわれたお綱の母と、まだ三十二、三であった世阿弥とは、かなり永い<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじ</rt></ruby>みだった。

そして、二人の仲にお綱が生れた。

芸と意気張りで売る仲之町<ruby><rb>芸妓</rb><rt>げいしゃ</rt></ruby>だ。年増となっても、よしや引手茶屋の店先に自分の子供をあそばせておいても、人気に<ruby><rb>廃</rb><rt>すた</rt></ruby>りはなかったが、やがて、宝暦の何年かに、世阿弥は阿波へ去ってしまった。

お才の名は、それからまもなく、<ruby><rb>桐佐</rb><rt>きりさ</rt></ruby>の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たそや</span><ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>から隠れて、<ruby><rb>廓</rb><rt>なか</rt></ruby>の馴染みな人を相手に、<ruby><rb>薗八節</rb><rt>そのはちぶし</rt></ruby>の女師匠と変った。そして、淋しい<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しもたや</span>にお綱の育つのを楽しみにしていたが、<ruby><rb>紋日</rb><rt>もんび</rt></ruby>の<ruby><rb>虎</rb><rt>とら</rt></ruby>につきまとわれて、何かやむない事情にしばられ、なさぬ仲のお三輪を生み、乙吉を生み、そして、さすがな色香も年ごとに<ruby><rb>褪</rb><rt>あ</rt></ruby>せて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おはぐろ</span><ruby><rb>溝</rb><rt>どぶ</rt></ruby>の長屋に散った――。

「名妓の末路はなぜああでしょう？」

仲之町では、そう噂した。

そうした古い記録のほかにも、まだ確かな証拠があった。

一緒に出てきた<ruby><rb>紅錦</rb><rt>こうきん</rt></ruby>の<ruby><rb>守</rb><rt>まも</rt></ruby>り<ruby><rb>札袋</rb><rt>ぶくろ</rt></ruby>――それには、<ruby><rb>紺紙金泥</rb><rt>こんしきんでい</rt></ruby>の観音の<ruby><rb>像</rb><rt>すがた</rt></ruby>に添えて、世阿弥とお才とが仲の一女、お綱の<ruby><rb>干支</rb><rt>えと</rt></ruby>生れ月までが、明らかに<ruby><rb>誌</rb><rt>しる</rt></ruby>してあった。

もう、疑う余地もないが、残る脇差の方をしらべてみると、これは世阿弥がかたみとして、阿波入国の前にお才へ渡したものであろう、六角の<ruby><rb>象嵌鍔</rb><rt>ぞうがんつば</rt></ruby>に<ruby><rb>藍</rb><rt>あい</rt></ruby><span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">より</span>の<ruby><rb>柄糸</rb><rt>つかいと</rt></ruby>、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">めぬき</span>は四代<ruby><rb>光乗</rb><rt>こうじょう</rt></ruby>が作らしく、<ruby><rb>観世水</rb><rt>かんぜみず</rt></ruby>に<ruby><rb>若鮎</rb><rt>わかあゆ</rt></ruby>が<ruby><rb>埋</rb><rt>う</rt></ruby>めこまれ、柳<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しぼり</span>の<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>ごしらえ、なんともいえない品格がある。

「すばらしい。<ruby><rb>大名物</rb><rt>だいみょうもの</rt></ruby>といってもいいくらいな刀だ。お綱さん、ひとつ中身をあらためさしておくんなさい」

こういって万吉はなおも深く、<ruby><rb>装剣</rb><rt>そうけん</rt></ruby>の美術に見とれた後、しずかに<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>を払ってみた。

抜いてみると、目づもりは二尺二、三寸、片手<ruby><rb>斬</rb><rt>なぐ</rt></ruby>りに頃あいな肉づきである。<ruby><rb>刃紋</rb><rt>はもん</rt></ruby>は<ruby><rb>朧夜</rb><rt>ろうや</rt></ruby>の雲に似る<ruby><rb>五</rb><rt>ぐ</rt></ruby>の<ruby><rb>目</rb><rt>め</rt></ruby><ruby><rb>乱</rb><rt>みだ</rt></ruby>れ、<ruby><rb>星</rb><rt>ほし</rt></ruby>の青さを吸って散らすかとばかりかがやかしい、<ruby><rb>鵜首作</rb><rt>うくびづく</rt></ruby>りの<ruby><rb>鋩子</rb><rt>きっさき</rt></ruby>に特徴のある太刀の<ruby><rb>相</rb><rt>すがた</rt></ruby>は――まず<ruby><rb>相州系</rb><rt>そうしゅうけい</rt></ruby>、<ruby><rb>新藤</rb><rt>しんとう</rt></ruby>五<ruby><rb>国光</rb><rt>くにみつ</rt></ruby>とみてまちがいはない。

「ウーム、こう見ていると、背骨の<ruby><rb>髄</rb><rt>ずい</rt></ruby>まで<ruby><rb>凍</rb><rt>こご</rt></ruby>えてきそうだ。こんな名刀をさしていた人の、若い姿が<ruby><rb>偲</rb><rt>おも</rt></ruby>われるなあ」

抜いてあるまま、その鞘と<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>とを、お綱の手へ返すと、お綱もそれをうけてややしばらく、深味のある<ruby><rb>錵</rb><rt>にえ</rt></ruby>の色に、ジッと心を吸いこませたが、やがてわれを忘れかけたように、

「阿波へ行けば――」

突然に、こう独りで強く叫んだ。

「お目にかかることができる！　血を分けた<ruby><rb>父親</rb><rt>てておや</rt></ruby>に会われる！　オオ私はどうしても、<ruby><rb>剣山</rb><rt>つるぎさん</rt></ruby>の間者牢へ行かなければならない」

「よし！」

と、その<ruby><rb>独</rb><rt>ひと</rt></ruby>りごとへうなずいて、万吉も、ここに固く意を決したらしく、

「一緒に行こう！　阿波へ」とキッパリ言いきった。

「えッ、じゃあ、承知してくれますかえ？」

「こう分ってみる上は、俺が<ruby><rb>止</rb><rt>と</rt></ruby>めだてをするいわれがねえ。夜明けを待ってすぐに立とう！　弦之丞様のあとを慕って、木曾街道から<ruby><rb>上方路</rb><rt>かみがたじ</rt></ruby>へ――」

「なんだか、私の目の前が、急にほんのりと明るくなったような気がする……。そうなれば、弦之丞様へお尽しもできるし、<ruby><rb>真</rb><rt>まこと</rt></ruby>の<ruby><rb>父親</rb><rt>てておや</rt></ruby>にも会われるというもの。これも、死んだお<ruby><rb>母</rb><rt>っか</rt></ruby>さんのおひきあわせであるかも知れない……」

<ruby><rb>無明</rb><rt>むみょう</rt></ruby>の底から、一道の光をみたように、お綱は手に持ちささえていた新藤五の刀の肌を見まもっていた。そこに、亡き母親の面影がういて、自分に、ものをいいかけるかと――。

すると……。あやしむべし、ジッと<ruby><rb>眸</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>をこらしている刀の<ruby><rb>刃紋</rb><rt>はもん</rt></ruby>へ、ありありと、人間の顔らしいものが映った。

が――しかし、それは美しい仲之町の名妓お才の面影ではなかった。鋭い<ruby><rb>双眸</rb><rt>そうぼう</rt></ruby>をもった男の悪相！　ギラリと、お綱を睨むようにかすって消えた。

「あッ」

と、肩のうしろを振り仰ぐと、いつのまにか、内陣の<ruby><rb>御灯</rb><rt>みあかし</rt></ruby>を横にうけて、一人の男が立っている。長やかな大小と、<ruby><rb>眉深</rb><rt>まぶか</rt></ruby>に結んだ十夜頭巾、それは、まぎれもない孫兵衛の姿だ。

油がきれたか、<ruby><rb>格子天井</rb><rt>こうしてんじょう</rt></ruby>の<ruby><rb>仏龕</rb><rt>ぶつがん</rt></ruby>が、パッ、パッ……と大きな明滅の息をついて、そこへヌッと<ruby><rb>反身</rb><rt>そりみ</rt></ruby>に立っているお十夜の影を、<ruby><rb>魔魅</rb><rt>まみ</rt></ruby>のようにゆらゆらさせた。

「おお、てめえはッ」

見るがいなや、万吉は<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>を鳴らして躍り立った。と一緒に、お綱もサッと飛びのいたので、膝にのせていた手紙の<ruby><rb>反古</rb><rt>ほご</rt></ruby>が、あたりへ白く散らばッたが、もう拾っている間はなかった。

「邪魔だッ、おのれは！」

こう呶鳴ったのは孫兵衛の<ruby><rb>錆</rb><rt>さ</rt></ruby>び声。足をあげて、躍り込んできた万吉を蹴返した。<ruby><rb>弾</rb><rt>はず</rt></ruby>みをくって目明しの万吉、ドーンと廻廊へ腰をついたが、その強敵を向うへ<ruby><rb>避</rb><rt>よ</rt></ruby>けて、

「早く！」と、お綱へ目くばせをした。

そうだ！　こんな者にかまっていられる場合ではない、とお綱も<ruby><rb>覚</rb><rt>さと</rt></ruby>って、本堂の正面へ、バラバラと走りだしてゆくと、ちょうど廻廊の曲り角、太い丸柱の蔭から、

「待てッ――」と一本の白刃が出た。

それは旅川周馬である。

同じようにその廻廊を、裏手へ向って駈けだした万吉の前にも、いきなり、<ruby><rb>平青眼</rb><rt>ひらせいがん</rt></ruby>の大刀が、ヌーと光をよじってきて、かれの行く手をふさいでしまった。アッ――と欄干を<ruby><rb>楯</rb><rt>たて</rt></ruby>にして<ruby><rb>見透</rb><rt>みす</rt></ruby>かすと、左の片腕を<ruby><rb>繃帯</rb><rt>ほうたい</rt></ruby>して、白布で首に吊り下げている。これ、天堂一角であった。

「ビクとでもすると命がないぞ！　動くな、そこをッ」

一角が片手に持った大刀は、ヌーと寄って、相手の精気をすくませ、みるまに、その<ruby><rb>剣尖</rb><rt>けんさき</rt></ruby>に立った者を、死相に変らせてしまうかと思われる。

「エエ、しまった！　さてはさっきからの様子を、残らず聞いていやがッたな」

と、おのれの油断に<ruby><rb>臍</rb><rt>ほぞ</rt></ruby>を噛みつつ、十手に必死をこめた万吉。――かれの切ッ<ruby><rb>尖</rb><rt>さき</rt></ruby>が一寸寄れば一寸、二寸よれば二寸ずつ、ジリジリと、欄干に添って<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>ずさりした。

と――お綱もまた、廻廊の<ruby><rb>角</rb><rt>かど</rt></ruby>で、旅川周馬の白刃に<ruby><rb>支</rb><rt>ささ</rt></ruby>えられたが、ハッと驚いたのは一時で、手に提げていた<ruby><rb>新藤</rb><rt>しんとう</rt></ruby>五<ruby><rb>国光</rb><rt>くにみつ</rt></ruby>の<ruby><rb>鵜首作</rb><rt>うくびづく</rt></ruby>りを、無意識に、サッと構えるなり、周馬の小手へ一<ruby><rb>閃</rb><rt>せん</rt></ruby>くれた。

シュッと、青い火花が双方の目を射る。

その、無法な<ruby><rb>胆気</rb><rt>たんき</rt></ruby>と、国光の<ruby><rb>五</rb><rt>ぐ</rt></ruby>の<ruby><rb>目</rb><rt>め</rt></ruby><ruby><rb>乱</rb><rt>みだ</rt></ruby>れにおびやかされて、周馬は少し気を乱しながら、<ruby><rb>真</rb><rt>ま</rt></ruby>ッ<ruby><rb>向</rb><rt>こう</rt></ruby><ruby><rb>兵字構</rb><rt>ひょうじがま</rt></ruby>えに直って、寄らば――と<ruby><rb>眼</rb><rt>まなこ</rt></ruby>をいからせた。

お綱もふだんのお綱ではなかった。

甲賀世阿弥という武士の血をうけている――と明らかに自覚したお綱。意気地を肌と一緒に<ruby><rb>研</rb><rt>みが</rt></ruby>く江戸の女の気質をも、多分にうけている見返りお綱だ。

永い間、甲賀家に仇なし、お千絵様に仇なしたニキビ侍の旅川周馬には、お綱の方から<ruby><rb>怨</rb><rt>うら</rt></ruby>むべき理由がある。

だが――今はこんな者に、カケかまっている場合ではない。一刻も早く、阿波へ！　阿波へ！　遥かな空へ、お綱の心は急いでいる。

「お<ruby><rb>退</rb><rt>ど</rt></ruby>きッ――」

と横に<ruby><rb>薙</rb><rt>な</rt></ruby>いで、小太刀の光と共に飛び抜けようとすると、その時まで、廻廊の真ン中に立って、双方を眺めていたお十夜は、「これッ」と、お綱のうしろから抱きすくめた。

そして、<ruby><rb>無碍</rb><rt>むげ</rt></ruby>に<ruby><rb>利腕</rb><rt>ききうで</rt></ruby>をねじあげようとするのを、お綱は振り払って、お十夜の影へサッと小太刀の光を投げた。――そして、素早く廻廊の<ruby><rb>欄干</rb><rt>らんかん</rt></ruby>を躍ったかとみれば、翼をひろげた<ruby><rb>鳳凰</rb><rt>ほうおう</rt></ruby>のように、一丈ほどな御堂の下へ飛び下りた。

「うぬ！」

「<ruby><rb>逃</rb><rt>のが</rt></ruby>すな。お綱を！」

と、孫兵衛に周馬は、すぐ欄干へ足をかけて、お綱のあとから跳ぼうとすると、どこからか、<ruby><rb>轟然</rb><rt>ごうぜん</rt></ruby>と夜気を<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆ</rt></ruby>すって、一発の銃声、ズドーンと<ruby><rb>鼓膜</rb><rt>こまく</rt></ruby>をつんざいた。

「や？　……」

ぎょッとして、向うを見ると、その時、天堂一角が<ruby><rb>飛龍</rb><rt>ひりゅう</rt></ruby>とみせて斬りつけた剣光の先から、万吉も、十手をくわえて観音堂から跳びおりた様子――と同時に、

「オオ、向うへ！」

と叫んだのは万吉の声。お綱の影と一ツになって、バラバラと、<ruby><rb>淡島堂</rb><rt>あわしまどう</rt></ruby>の石橋を越え、お<ruby><rb>火除地</rb><rt>ひよけち</rt></ruby>の桐畑へと走って行った。

「それッ、見失うな」

と、お十夜は真ッ先に、周馬と一角もその後から追いつづいたが、ふとみると、いつのまに横道から出てきたのか、二つの<ruby><rb>駕</rb><rt>かご</rt></ruby>に、四ツ五ツの<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>を振って、先の者と後の間を、邪魔するように散らばってゆく人数がある。

そして、その駕と提灯に添ってゆく中の一人が、足をとめて、こッちをふりかえったかと思うと、チリチリと<ruby><rb>火縄</rb><rt>ひなわ</rt></ruby>の粉を赤く散らして、ドーン！　と短銃の<ruby><rb>関金</rb><rt>せきがね</rt></ruby>を引き放した。

「あッ！」

後の者は三方に飛び別れて、思わず大地へ身をうッ伏せる。

そしてまた身を起こそうとすると、しばらくの間隔をおいて、さらに凄じい三ツ目の<ruby><rb>弾</rb><rt>たま</rt></ruby>がうなってくる。

そのまに、先の駕と人数と提灯とは、前へゆくお綱や万吉の姿をも引っくるんで、無二無三に、桐畑の<ruby><rb>坊主林</rb><rt>ぼうずばやし</rt></ruby>を走りぬけ、どこへともなく急ぎに急いだ。

虎口をのがれたお綱と万吉も、それが、誰の人数か、提灯の<ruby><rb>印</rb><rt>しるし</rt></ruby>が何かも気がつかずに、一本道のつづく限り、その人々の中にまぎれて走ったが、やがて、下谷の<ruby><rb>四</rb><rt>よ</rt></ruby>ツ<ruby><rb>目</rb><rt>め</rt></ruby>の<ruby><rb>辻</rb><rt>つじ</rt></ruby><ruby><rb>新堀端</rb><rt>しんぼりばた</rt></ruby>まできた時に、ヒョイと道を交わそうとすると、

「万吉、もう少し先まで」

と、短銃を持った侍が言った。

何を問うまもなく、ふたたび駈けだした駕と人数は、堀端の<ruby><rb>施行</rb><rt>せぎょう</rt></ruby>小屋の前から横道へそれて、佐竹ッ原の野中へグングンと入って行った。

<ruby><rb>朧夜</rb><rt>おぼろよ</rt></ruby>ほどの空明りもないが、若草の匂いがどことなく<ruby><rb>漂</rb><rt>ただよ</rt></ruby>って、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わらじ</span>にふむ露湿りの感じも、夜ながら春らしい。

「もうこの辺でよかろうから、駕を下ろしてお待ち申そう」

待つとは誰のことか分らないが、火薬袋の<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>をクルクルと短銃の<ruby><rb>筒</rb><rt>つつ</rt></ruby>に巻いて、<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>ッ<ruby><rb>裂</rb><rt>さき</rt></ruby><ruby><rb>羽織</rb><rt>ばおり</rt></ruby>の後ろへ差した最前の武士が、こういって止め合図をかけると、その露をふくんだ春草の上へ駕尻軽く下ろされて、若党らしい者三、四名、小侍が二人ほど、小膝を折って駕のまわりへズラリと休んだ。

ところで、お綱と万吉も、そこで初めてホッと息をつきながら、短銃を<ruby><rb>携</rb><rt>たずさ</rt></ruby>えていた侍の顔をみると、なんと意外なことだろう？

それは、虎五郎が息をひきとった際に、<ruby><rb>御徒士</rb><rt>おかち</rt></ruby>の小池喜平と名乗って長屋をおとずれ、その場でお三輪と乙吉の養育をひきうけて行った、あの若党連れの侍であった。

「おや、あなた様は？」

思わず目をみはると、その武士はニヤリと笑って、

「先程は失礼いたした。手前は松平<ruby><rb>左京之介</rb><rt>さきょうのすけ</rt></ruby>の家臣で、さだめし御不審に思われようが、只今、あのお方が後よりまいって、いずれ詳しいお話をいたすことであろう」と、控え目にいってそれ以上のことは口をつぐんでいる。

と、まもなく、佐竹ッ原の野道を、人影でも探すように歩いてくる武士があった。

「おお、常木様、こちらにお待ちうけ申しております」と、声をかけると、深編笠のその影がツカツカと近づいてきたが、その時、驚いたのは万吉で、常木<ruby><rb>鴻山</rb><rt>こうざん</rt></ruby>がどうしてここへ来たのか？　とただ不審に思っていた。

「大儀でござった」

鴻山は<ruby><rb>駕側</rb><rt>かごわき</rt></ruby>の者をねぎらって、少し離れた所に、茫然と立っている、お綱と万吉のそばへ寄ってきた。そして不意に、

「お綱殿――」と呼びかけた。

いつぞやこの人の紙入れを<ruby><rb>掏</rb><rt>す</rt></ruby>ろうとしたことから、身の素姓を話して、何百両の金まで恵まれている鴻山に改まって、お綱殿と、丁重に呼ばれたから、ひそかに<ruby><rb>卑下</rb><rt>ひげ</rt></ruby>を持つかの<ruby><rb>女</rb><rt>じょ</rt></ruby>の心はハッとしたらしかった。

「万吉と一緒に、阿波へお渡りあろうという御決心、けなげに存ずる。で――鴻山が心ばかりの<ruby><rb>餞別</rb><rt>はなむけ</rt></ruby>、おうけとり願いたい」

と、唐突にいって、<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>から取り出したものをお綱の手へ渡した。それは美濃の<ruby><rb>垂井</rb><rt>たるい</rt></ruby>の<ruby><rb>宿</rb><rt>しゅく</rt></ruby>、<ruby><rb>国分寺</rb><rt>こくぶんじ</rt></ruby>の<ruby><rb>割印</rb><rt>わりいん</rt></ruby>を<ruby><rb>捺</rb><rt>お</rt></ruby>した<ruby><rb>遍路切手</rb><rt>へんろきって</rt></ruby>で、それを持って国分寺にゆけば、この三月の中旬に、阿波八十八ヵ所の遍路にのぼる<ruby><rb>道者船</rb><rt>どうじゃぶね</rt></ruby>の便乗をゆるされるということだ。

今、阿波二十七関は、一切、他領の者を入れぬが、<ruby><rb>宗法</rb><rt>しゅうほう</rt></ruby>の者ばかりは、それを拒むことができないので、春と秋二度の道者船に限ってそれをゆるす<ruby><rb>掟</rb><rt>おきて</rt></ruby>である――と、常木鴻山は、さらに詳しく説明した。

先に江戸を立って行った法月弦之丞も、垂井の国分寺に行って、ひそかに、それへ便乗する用意をしている筈、今から、道を急いで行ったら、或いはそこで落ちあうことができるであろう。――とも言い足した。

なお――今夜、自分がここへ来たことについては、こういって、二人の不審を解いた。

注意深い鴻山は、いつとなく、町年寄に頼んで、お綱の身の上を調べさせていた。そこへ、虎五郎の不慮の死を知ったので、代々木荘から松平家の者をやって、龍泉寺町にすむ<ruby><rb>御徒士</rb><rt>おかち</rt></ruby>といわせて、その身がらを引き取ってくると、ちょうど、<ruby><rb>浅草寺</rb><rt>せんそうじ</rt></ruby>の闇の中に、お十夜や周馬や一角などが、何か待ち伏せでもしているようなので、あの観音堂の内陣の扉に隠れて、一<ruby><rb>伍</rb><rt>ぶ</rt></ruby><ruby><rb>一什</rb><rt>しじゅう</rt></ruby>の様子を、のこらず聞いていたのだった。

前に、五十<ruby><rb>間</rb><rt>けん</rt></ruby>の町年寄から、お綱は甲賀という由緒ある侍の娘だということを、鴻山にいってきてはあったが、現在、阿波の<ruby><rb>間者牢</rb><rt>かんじゃろう</rt></ruby>にいる世阿弥の血をうけたものとは、自分も、その時に初めて知って、実に意外な心地がした――。とかれは感慨の深い面持ちで、お綱の顔をしげしげと見なおした。

いくら<ruby><rb>早立</rb><rt>はやだち</rt></ruby>といっても、まだ人影もない<ruby><rb>真夜半</rb><rt>まよなか</rt></ruby>。

江戸から中仙道へ踏みだす第一関門、本郷<ruby><rb>森川宿</rb><rt>もりかわじゅく</rt></ruby>のとある茶店をたたき起こして、そこに、一<ruby><rb>刻</rb><rt>とき</rt></ruby>ばかり前に佐竹の原にいたままの<ruby><rb>駕</rb><rt>かご</rt></ruby>や人数が休んでいた。

「では万吉、道中必ず気を配って、不慮のことがないように致せよ――、また弦之丞殿は何も知るまいから、落ちあった節は、よく、その後の事情を話すがよい」

この、街道口まで、わざわざ見送ってきた常木鴻山は、いよいよ夜にまぎれて江戸を立つ二人の者へ、何くれとない注意を与える。

お綱は、<ruby><rb>姿</rb><rt>なり</rt></ruby>も形もそのままな上に、寝ているところを起こした<ruby><rb>立場</rb><rt>たてば</rt></ruby>茶屋から、笠と<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わらじ</span>と<ruby><rb>杖</rb><rt>つえ</rt></ruby>だけを求め、<ruby><rb>床几</rb><rt>しょうぎ</rt></ruby>を借りて、はきなれぬ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">わらじ</span>の<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>を結んでいた。

支度がすむと、やがて二人は笠を揃えて、常木<ruby><rb>鴻山</rb><rt>こうざん</rt></ruby>の前に立ち、情け深い今日の取りなしに真心からの礼をのべる。

「おお、お綱殿にも<ruby><rb>堅固</rb><rt>けんご</rt></ruby>にして、どうぞ、無事に、お父上に会われてまいるよう、鴻山も、蔭ながら祈りますぞ」

「何から何までのお心尽し、たとえ、途中で阿波の土となりましょうとも、決して忘れは致しません」

「なアに鴻山様、たとえ体が<ruby><rb>舎利</rb><rt>しゃり</rt></ruby>になっても、きっと、剣山まで行きついて、望みを達してまいりますから、どうか、御安心なすって下さいまし」

「<ruby><rb>遍路</rb><rt>へんろ</rt></ruby>切手がある以上は、関所や便船になやむことはあるまいが、飽くまでもと、そちや弦之丞殿をつけ狙っている者もあることゆえ、ひとたび江戸を踏みだした後は、いっそう油断をしてはならぬぞ」

「よく承知いたしております。では鴻山様、めでたく大事を成し遂げて立ち帰りました後に、また改めてお目にかかります」

「おお」と鴻山も、<ruby><rb>門出</rb><rt>かどで</rt></ruby>へ気味よくうなずいたが、

「お綱どの、一目別れを告げて行ったらどうじゃ」と、向うに<ruby><rb>据</rb><rt>す</rt></ruby>えてある駕の<ruby><rb>垂</rb><rt>た</rt></ruby>れをソッとめくった。と見ると中には、お三輪と乙吉がグッタリと無心な顔をして眠り落ちている。

「何も知らずにおりますから、このまま言葉をかけないでまいります」

「ウム。せっかく罪もなく、寝入っているものを起こして、また辛い涙をしぼらせるのも、心ない<ruby><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>かもしれぬ。では、後々のことは案ぜられるな。殿も御承知の上、代々木荘で養育して取らせい、とおっしゃられたことでもあるから」

「ハイ、もうこれで、<ruby><rb>塵</rb><rt>ちり</rt></ruby>ほども心残りはございません。ただ慾には、お千絵様に一目会ってまいりたいとは思いましたが……」

「そのお千絵殿も、今の容体では、まだ何を話してもお分りあるまい、いずれ病気が<ruby><rb>癒</rb><rt>い</rt></ruby>えた後に、晴れて名乗りあう時節もござろう」

「じゃアお綱さん――」と<ruby><rb>促</rb><rt>うなが</rt></ruby>しながら、万吉は笠の<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>を結んだついでに、今宵かぎりの江戸の空をふり仰いだ。

つるべ<ruby><rb>撃</rb><rt>う</rt></ruby>ちに鳴った短銃が、観音堂の境内をゆすッてから、一刻ほどたった後だ。

しきりに、あっちこっちを見廻しながら、町人<ruby><rb>態</rb><rt>てい</rt></ruby>の男が、バタバタとそのあたりを駈け廻っていたが、お堂の西側にしゃがみ込んで、<ruby><rb>蝋</rb><rt>ろう</rt></ruby>の<ruby><rb>裸火</rb><rt>はだかび</rt></ruby>に顔を集めている三人の人影を見つけると、

「孫兵衛様で……」と身をかがめた。

「半次か」

三人の目が、一様にギラリとこっちへ向いた。最前、お綱が廻廊へ落していった<ruby><rb>反古</rb><rt>ほご</rt></ruby>を見つけて、ヒソヒソと読みあっていたところらしい。

「どうした、先の様子は？」

「佐竹ッ原までつけて行って、すッかり様子を見届けて来ました。案の<ruby><rb>定</rb><rt>じょう</rt></ruby>、邪魔をして行った奴らは、常木鴻山の廻し者でさ。まアそれはいいが、愚図愚図していられなくなったのは、お綱と万吉の方で、あの二人はとうとう今夜かぎりで江戸表にはいないことになりましたぜ」

「えッ、江戸におらぬと⁉」

「鴻山の手から、阿波へ渡る<ruby><rb>遍路</rb><rt>へんろ</rt></ruby>切手をうけとって、中仙道から、木曾路の<ruby><rb>垂井</rb><rt>たるい</rt></ruby>へ急いで行きました。そこにゃ、先に姿を消してしまった法月弦之丞もいて、この春の道者船にのる支度をしているとかということです」

「あっ！」と三人は、あっ気にもとられたが、また<ruby><rb>躁狂</rb><rt>そうきょう</rt></ruby>として、一刻も早く、万吉とお綱の道をくい止め、弦之丞と<ruby><rb>合</rb><rt>がっ</rt></ruby>しぬうちに、非常手段を講じなければ――と騒ぎ立った。

しかし、それは、あくまで弦之丞を討たんとする天堂一角と、あくまでお綱に執着をもつお十夜のことで、ひとり旅川周馬だけは、割合に冷淡であった。

かれが一頃野望の爪を<ruby><rb>研</rb><rt>と</rt></ruby>ぎぬいていた甲賀家の財宝は焼け尽し、お千絵様そのものは、恋すべきようもない乱心の人となっている。