## <ruby><rb>普賢</rb><rt>ふげん</rt></ruby>

## 一

木曾路へはいると、随所にまだ雪が見られる。

峠の<ruby><rb>凹</rb><rt>くぼ</rt></ruby>みから、<ruby><rb>薙刀</rb><rt>なぎなた</rt></ruby>なりに走っている白い<ruby><rb>閃</rb><rt>ひらめ</rt></ruby>きは、駒ヶ岳の雪のヒダであり、<ruby><rb>仄紅</rb><rt>ほのあか</rt></ruby>い木々の芽を<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>かして彼方に見える白い<ruby><rb>斑</rb><rt>まだら</rt></ruby>のものは、<ruby><rb>御岳</rb><rt>おんたけ</rt></ruby>の肌だった。

だがもう畑や往来には、浅い緑がこぼれている。季節は今、なんでも育つ<ruby><rb>盛</rb><rt>さか</rt></ruby>りなのだ。踏んづけても踏んづけても、若い草は伸びずにいない。

まして城太郎の胃ぶくろと来ては、いよいよ、育つ権利を主張する。この頃殊に、髪の毛が伸びるように、背の寸法までが伸びそうに見えて、将来の大人ぶりも思いやられる風がある。

もの心つくと、世間の波へ<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り出されて、拾われた手はまた、<ruby><rb>流転</rb><rt>るてん</rt></ruby>の人であった。勢い、旅から旅の苦労を<ruby><rb>舐</rb><rt>な</rt></ruby>め、どうしても<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おませ</span>になるべく環境が迎えてくるので仕方がないが、近頃、時々あらわす生意気さ加減には、お通もよく泣かされて、

（なんだってこんな子に、こう<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>つかれてしまったのかしら）

と、ため息ついて、睨んでやることもある。

しかし<ruby><rb>効</rb><rt>き</rt></ruby>き目のあろうわけはない。城太郎は知り抜いているのだ。そんな<ruby><rb>怖</rb><rt>こわ</rt></ruby>い顔したって、心のなかでは、おいらが可愛くてならないくせに――と。

そういう横着と、今の季節と、飽くことを知らない胃ぶくろが、行く先々、食べ物とさえ見れば、

「よう、よう、お通さんてば。あれ買っておくれよ」

と、彼の足を、往来へ釘づけにしてしまう。

先ほど、通りこえた<ruby><rb>須原</rb><rt>すはら</rt></ruby>の<ruby><rb>宿</rb><rt>しゅく</rt></ruby>には、木曾将軍の四天王、今井<ruby><rb>兼平</rb><rt>かねひら</rt></ruby>の<ruby><rb>砦</rb><rt>とりで</rt></ruby>の<ruby><rb>址</rb><rt>あと</rt></ruby>があるところから「<ruby><rb>兼平</rb><rt>かねひら</rt></ruby>せんべい」を軒並み売っていたため、とうとうそこでは、お通が根負けして、

「これだけですよ」

念を押して、買って与えたが、<ruby><rb>半里</rb><rt>はんみち</rt></ruby>と歩かない<ruby><rb>間</rb><rt>うち</rt></ruby>に、それもぼりぼり食べ終ってしまい、ややともすると、なにか物欲しそうな顔をする。

<ruby><rb>寝覚</rb><rt>ねざめ</rt></ruby>では、宿場茶屋の端をかりて、早目な昼めしを喰べたので、事なく済んだが、やがて一峠越えて、<ruby><rb>上松</rb><rt>あげまつ</rt></ruby>のあたりへかかると、

「お通さん、お通さん。干し柿が下がっているぜ。干し柿喰べたくないかい？」

そろそろ謎をかけ始める。

牛の背に乗って、牛の顔のように、お通が聞えない振りをしているので、<ruby><rb>空</rb><rt>むな</rt></ruby>しく、干し柿は見過ごしてしまったが、程なく木曾第一の<ruby><rb>殷賑</rb><rt>いんしん</rt></ruby>な地、<ruby><rb>信濃</rb><rt>しなの</rt></ruby>福島の町中へさしかかると、折から陽も<ruby><rb>八刻</rb><rt>やつ</rt></ruby>頃だし、腹も<ruby><rb>減</rb><rt>へ</rt></ruby>り頃なので、

「休もうよ、そこらで――」

と、また始め出した。

「ね、ね」

こう鼻で<ruby><rb>捏</rb><rt>こ</rt></ruby>ね出すと、駄々に<ruby><rb>粘</rb><rt>ねば</rt></ruby>りが出るばかりで、歩けばこそ、テコでも動く顔つきではない。

「よう、ようっ。<ruby><rb>黄粉餅</rb><rt>きなこもち</rt></ruby>たべようよう。……嫌かい？」

こうなっては一体、ねだっているのか、お通を脅迫しているのか、分らない。彼女の乗っている牛の手綱は、城太郎の手に曳かれているため、彼の歩き出さぬうちは、どう<ruby><rb>焦々</rb><rt>いらいら</rt></ruby>思っても、黄粉餅屋の軒先を、通り越えることができないからである。

「いい加減におしなさい」

遂に、お通も意地になってしまう。城太郎と共謀して、往来の地面を<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>めまわしている<ruby><rb>牝牛</rb><rt>めうし</rt></ruby>の背から、眼に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かど</span>を立てて、

「ようござんす。そんなに私を困らすなら、先へ歩いていらっしゃる武蔵様へ、いいつけて上げるから――」

そして彼女は、牛の背から降りそうな真似をしたが、城太郎は笑って見ている。止める真似もしないのである。

## 二

城太郎は、意地わるく、

「どうするの……？」

彼女が、先へ行く武蔵へ、いいつけに行かないことは、百も承知の顔つきでいう。

牛の背から降りてしまったので、お通は、仕方なしに、

「さ、はやくお喰べなさい」

と、黄粉餅屋の陰へはいって行く。

城太郎は威勢よく、

「餅屋のおばさん、二盆おくれ――」

呶鳴っておいてから、軒先の<ruby><rb>馬繋</rb><rt>うまつな</rt></ruby>ぎに牛をつなぐ。

「わたしは喰べませんよ」

「どうしてさ」

「そんなに喰べてばかりいると、人間が<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>になりますから」

「じゃあ、お通さんのと、二盆喰べてしまうぜ」

「――まあ、呆れた子」

なんといわれようが、喰べているうちは、耳のないような城太郎の姿である。

がらにもない大きな木剣が、<ruby><rb>屈</rb><rt>かが</rt></ruby>みこむと<ruby><rb>肋骨</rb><rt>あばら</rt></ruby>に<ruby><rb>触</rb><rt>さわ</rt></ruby>って、<ruby><rb>欣</rb><rt>よろこ</rt></ruby>ぼうとする官能の邪魔になる気がするのであろう、中途から、その木剣をぐるりと背中へ廻して、一度、むしゃむしゃやりながら往来へ眼を遊ばせた。

「はやく喰べてしまいませんか。よそ見などしていないで」

「……おや？」

城太郎は、盆に残っている一つを、あわてて口へ<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>りこむと、なにを見たか、往来へ駈け出して、小手をかざした。

「もういいんですか」

<ruby><rb>鳥目</rb><rt>ちょうもく</rt></ruby>をおいて、お通も後から出て来ようとすると、城太郎は彼女を<ruby><rb>床几</rb><rt>しょうぎ</rt></ruby>へ押しもどして、

「待ちなよ」

「まだなにかねだるつもり？」

「今、<ruby><rb>彼方</rb><rt>むこう</rt></ruby>へ、又八が行ったからさ」

「嘘」

お通は信じない。

「――こんな所を、あの人が通るわけがないではありませんか」

「ないかあるか知らないけれども、たった今、<ruby><rb>彼方</rb><rt>むこう</rt></ruby>へ行ったもの。編笠をかぶっていたぜ。そして、お通さんは気がつかなかったかい。おいらとお通さんをじっと見てたよ」

「……ほんとに」

「嘘なら呼んで来ようか」

――飛んでもないことである。又八という名を聞いただけでも、彼女はまた、元の病人へ帰ったように、顔の血がさっと<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>いている程ではないか。

「いいよ、いいよ、心配しないでも、もし何かして来たら、先へ歩いている武蔵様のとこへ駈けて行って、呼んで来るから」

その又八を怖れて、いつまでもここにいれば、自分たちより何町か先へ歩いている武蔵とも、自然かけ離れてしまうことになろう。

お通は、再び牛の背に腰かけた。まだ、病後の体は決してほんとではない。ふと、今のようなことを聞いても、動悸がなかなかしずまらない。

「ね？　お通さん。おいらには、ふしぎでならないよ」

ふいに城太郎はこういって、彼女の<ruby><rb>褪</rb><rt>あ</rt></ruby>せた唇を、思い遣りなく、牛の前から振り仰いだ。

「――何がふしぎかっていえばさ、<ruby><rb>馬籠峠</rb><rt>まごめとうげ</rt></ruby>の滝つぼの上までは、お師匠さんも口をきき、お通さんも口をきき、仲よく三人づれで来たのに、あれからこっち、ちっとも口をきかないじゃないか」

お通が答えないので、彼はまた、

「どうしてなのさ、え？　お通さん。――道も離れて歩くし、晩もちがった部屋に寝るし……喧嘩でもしたのかい？」

## 三

――またよけいなことを訊く。

喰べ物のことをいわなくなったと思うと、今度は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ませ</span>た口で休みなくお<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>りなのだ。それもよいが、お通と武蔵との仲を、とやかくと<ruby><rb>穿</rb><rt>うが</rt></ruby>ってみたり、探ってみたり、からかってみたりする。

（子供のくせに）

と、お通は、胸に<ruby><rb>傷</rb><rt>いた</rt></ruby>いところであるだけに、真面目に答える気にはなれない。

こうして牛の背をかりて旅の出来るほどには、体のぐあいも<ruby><rb>癒</rb><rt>よ</rt></ruby>くなっては来たが、彼女の<ruby><rb>病</rb><rt>やまい</rt></ruby>以上の問題は、決してまだ解決はしていない。

あの<ruby><rb>馬籠</rb><rt>まごめ</rt></ruby>峠の――<ruby><rb>女滝</rb><rt>めたき</rt></ruby>と<ruby><rb>男滝</rb><rt>おたき</rt></ruby>の<ruby><rb>滝津瀬</rb><rt>たきつせ</rt></ruby>には、まだあの時の、自分の泣き声と、武蔵の怒った声が、どうどうと、<ruby><rb>淙々</rb><rt>そうそう</rt></ruby>と<ruby><rb>咽</rb><rt>むせ</rt></ruby>び合って、そのまま二人の喰い違った気持を百年も千年も、この心が解けあわぬうちは、怨みに残していることであろう。

思うたびに、今でもそれが彼女の耳へ<ruby><rb>甦</rb><rt>よみがえ</rt></ruby>ってくる。

（なぜ私は？）

と彼女はあの折に、武蔵が自分へ迫って求めた烈しいそして率直な欲望を、自分もまた、満身の力で<ruby><rb>拒</rb><rt>こば</rt></ruby>んでしまったことを、幾たびも、

（なぜか？　なぜか？）

と心の中で悔いてみたり、分ろうとする努力をしてみたり、頭から離れぬものとなっているが、果ては、

（男というものは、誰でもあんなことを、女に<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いるものなのかしら？）

と、悲しくなり、浅ましくなり、年久しく独り抱き秘めていた恋の聖泉は、この旅先の女滝男滝の山を越えてから、その滝水のように狂おしく烈しく胸を揺りつづけるものと変っていた。

そして、もっと彼女自身、分らなくなっていることは、武蔵の強い抱擁を<ruby><rb>交</rb><rt>か</rt></ruby>わして逃げたくせに、その後の旅でも、こうして武蔵の姿を絶えず見失うまいとしながら、後に<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて行く<ruby><rb>矛盾</rb><rt>むじゅん</rt></ruby>であった。

勿論、あれからというものは、変に気まずくなって、お互いに口も滅多にきかないし、道中も並んでは歩かない。

しかし先へ行く武蔵の足も、後から来る牛の歩みに合せて、初めの約束の如く、江戸表まで共に出ようといった言葉を破棄してしまう考えはないらしく、城太郎のため時々道草をして遅くなっても、何処かで必ず待っていてくれた。

五町七辻の福島を<ruby><rb>出端</rb><rt>ではず</rt></ruby>れると、<ruby><rb>興禅寺</rb><rt>こうぜんじ</rt></ruby>の曲り角から登りになって、<ruby><rb>彼方</rb><rt>かなた</rt></ruby>に関所の<ruby><rb>柵</rb><rt>さく</rt></ruby>が見える。関ヶ原の<ruby><rb>戦</rb><rt>いくさ</rt></ruby>から後は、牢人調べや女の通行がやかましいと聞いていたが、烏丸家からもらって来た手形がものをいって、ここも難なく通り、両側の関所茶屋から眺められながら牛に揺られて来ると、

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふげん</span>て、なんだろう。――お通さん、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふげん</span>て何のこったい？」

と、城太郎がいきなり訊ねだした。

「今ネ。あそこの茶屋に休んでいた坊さんだの旅の者が、お通さんを指して、そういったんだよ。――牛に乗った<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふげん</span>みたいじゃのう……ってね」

「<ruby><rb>普賢菩薩</rb><rt>ふげんぼさつ</rt></ruby>のことでしょう」

「普賢菩薩のことか。じゃあおいらは、<ruby><rb>文殊</rb><rt>もんじゅ</rt></ruby>様だ。普賢菩薩と文殊菩薩は、どこでも並んでいるからね」

「食いしん坊の文殊様ですか」

「泣き虫の普賢様となら、ちょうど似合うだろう」

「また！」

とお通が、嫌がって顔を<ruby><rb>紅</rb><rt>あか</rt></ruby>らめると、

「文殊と普賢菩薩は、どうしてあんなに並んでるんだろう。男と女でもないくせに」

と、奇問を発する。

お寺で育ったお通であるから、それについてなら、説明はできるが、城太郎の執拗な反復を<ruby><rb>惧</rb><rt>おそ</rt></ruby>れて、ただ手短に、

「文殊は知慧を現し、普賢は<ruby><rb>行願</rb><rt>ぎょうがん</rt></ruby>を現している仏様です」

といった時、いつのまにか何処からか、<ruby><rb>蠅</rb><rt>はえ</rt></ruby>のように牛の尻尾へついて来た一人の男が、

「おいっ」

と、<ruby><rb>尖</rb><rt>とが</rt></ruby>った声で呼び止めた。

さっき福島で、城太郎がちらと見かけたという、本位田又八であった。

## 四

そこらで待ちうけていたものに違いない。

――卑劣な男。

お通は彼の顔を見るや、すぐこみあげてくる<ruby><rb>侮蔑</rb><rt>ぶべつ</rt></ruby>の念を、どうしようもない。

「…………」

又八は又八で、彼女のすがたを見ると、愛憎こもごも、血を駆け<ruby><rb>巡</rb><rt>めぐ</rt></ruby>って、おのずから<ruby><rb>眉間</rb><rt>みけん</rt></ruby>に感情の<ruby><rb>錐</rb><rt>きり</rt></ruby>が立ち、まったく常識というものを欠いてしまう。

まして彼は、武蔵とお通が、京都を出てから連れ立っていた姿を見ている。その後、口もきかずよそよそしく歩いているのも、<ruby><rb>畢竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>、昼間だけ人目を<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>っているに過ぎないものと見ていた。それだけに人目のない二人だけの時にはどんなに――と<ruby><rb>瞋恚</rb><rt>しんい</rt></ruby>の<ruby><rb>炎</rb><rt>ほむら</rt></ruby>に燃えて邪推もされる。

「降りろ」

命じるように、彼は、牛の背に<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>いているお通へやがていった。

「…………」

お通には答える言葉もない。<ruby><rb>疾</rb><rt>と</rt></ruby>うに心からない人なのだ。いやもう数年も前に、先の方から<ruby><rb>許嫁</rb><rt>いいなずけ</rt></ruby>という未来の日を破棄したあげく、先頃、京都の清水寺の谷間では、<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>を持って自分を追い、危うく殺されかけた程、怖ろしい目に会わせられた人間。

答えるならば、

（今になって何の用が――）

という以外、挨拶がないではないかと、黙っている眼のうちに、いよいよ、彼に対する憎悪と<ruby><rb>蔑</rb><rt>さげす</rt></ruby>みが<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>ってくる。

「おいっ、降りないか！」

又八は、二度さけんだ。

この息子も、あのお杉婆という母親も、村にいた頃からの口ぐせを未だに持って、もう許嫁でもなんでもない彼女へ、権ぺいに<ruby><rb>吩咐</rb><rt>いいつ</rt></ruby>けがましくいうことが、今のお通には、<ruby><rb>謂</rb><rt>いわれ</rt></ruby>なく思われて、<ruby><rb>憤</rb><rt>む</rt></ruby>っと反感をあおられてならない。

「なんでございますか。わたくしには降りる用はございませんが」

「なに」

又八は、側へ来て、その<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>をつかみ、

「なんでもいいから降りろっ。お前にはなくても、俺には用があるのだ」

声で脅すように、往来の<ruby><rb>見得</rb><rt>みえ</rt></ruby>もなく、そう呶鳴った。

――と、それまでは、黙って見ていた城太郎が、牛の手綱を捨てて不意に、

「嫌だっていうもの、無理じゃないか！」

又八に負けない声を出していっただけならよいが、手を出して、相手の胸いたを突いたから納まらない。

「おやっ――<ruby><rb>此奴</rb><rt>こいつ</rt></ruby>」

又八は、踏み<ruby><rb>蹌</rb><rt>よろめ</rt></ruby>いた足を、草履の緒へかけ直すと、尻込みする城太郎へ、物々しい肩を<ruby><rb>昂</rb><rt>あ</rt></ruby>げて、

「なんだか、見たような鼻<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くそ</span>だと思ったら、てめえは北野の酒屋にいた小僧ッ子だな」

「大きなお世話だ。自分こそあの頃は、よもぎの寮のお甲っていうおかみさんに、いつも叱られて、<ruby><rb>小</rb><rt>ち</rt></ruby>っちゃくなっていたくせに」

これは又八に取って何をいわれるより痛かったに違いない。ましてお通をそこにおいてはである。

「このチビ」

<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>みかかると、城太郎はすばやく、牛の鼻先から向う側へ逃げ廻って、

「おいらが鼻<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くそ</span>なら、自分なんか何だい。鼻の下の長い<ruby><rb>洟</rb><rt>はな</rt></ruby>たれだろう」

もう勘弁ならぬという顔を示して、又八が近づくと、城太郎は牛を楯にして、二、三度、お通の下をぐるぐると逃げ廻ったが、とうとう襟がみをつかまれてしまい、

「さあ、もう一遍いってみろ」

「いうともッ」

長い木剣を半分まで引き抜いた時、彼の体は、並木の外の<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>へ、猫みたいに<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り飛ばされていた。

## 五

藪の下は、<ruby><rb>畦</rb><rt>あぜ</rt></ruby>の小川であった。城太郎は<ruby><rb>泥鰌</rb><rt>どじょう</rt></ruby>のようになって、元の並木へ這いあがった。

「……おやッ？」

往来を見廻すと、牛は、お通を背に乗せたまま、重い体を<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆ</rt></ruby>さ<ruby><rb>振</rb><rt>ぶ</rt></ruby>って、彼方へ駈出しているではないか。

その手綱を引っ張りながら、手綱の一端をムチに打ち振り、共に砂を上げて、駈けてゆく影は、又八に相違ない。

「ちっ、畜生」

彼の血は、それを見るや、一時に頭へのぼって、自分の責任感と小さい力のみを奮い起し、急を他へ告げて、はやく策をとることを忘れてしまった。

動いているのであろうが、白い雲の帯は、動いているとも目には見えない。

<ruby><rb>雲表</rb><rt>うんぴょう</rt></ruby>にある駒ヶ岳は、その広い<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>の一つの波ともいえる丘に足を休めている一人の旅人へ、何か無言のことばをかけているように、鮮やかに仰がれた。

（はて。おれは何を考えていたろう？）

武蔵はふと、われに返って、わが身を見直した。

眼は山を見ながら、心はそこになく、お通のことばかりがつき<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>う。

彼には解けないのだ。

いくら考えてみても、<ruby><rb>処女</rb><rt>おとめ</rt></ruby>ごころの真の<ruby><rb>相</rb><rt>すがた</rt></ruby>がわからない。

やがては、腹が立ってしまうのだった。なぜ彼女へ率直に迫ったことがいけないか。その火を自分の胸から呼び出したのは彼女ではないか。自分は、自分の情熱の<ruby><rb>相</rb><rt>すがた</rt></ruby>をそのまま彼女に見せた。すると彼女の手は、案に相違して自分を<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ね<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>け、自分を見下げ果てたもののように、身を<ruby><rb>躱</rb><rt>かわ</rt></ruby>してしまった。

あの後の<ruby><rb>慚愧</rb><rt>ざんき</rt></ruby>、恥ずかしさ、<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>り<ruby><rb>場</rb><rt>ば</rt></ruby>もない苦い男の気持。それを滝つぼに投げこんで、心の<ruby><rb>垢</rb><rt>あか</rt></ruby>を洗い上げたつもりであったが、日が経つに従い、またどうにもならない迷妄がわいてくる。幾度か、自分の愚を<ruby><rb>嘲</rb><rt>わら</rt></ruby>って、

（女など、振り切って、なぜ先へ行ってしまわぬか！）

武蔵は、自己に命じてみたが、それはただ、おろかな自分に、<ruby><rb>言</rb><rt>い</rt></ruby>い<ruby><rb>訳</rb><rt>わけ</rt></ruby>の虚飾をつけてみるに過ぎない。

江戸表に出て、<ruby><rb>貴女</rb><rt>あなた</rt></ruby>は好きな道を習え、自分も志す所へ邁進して――と、暗に未来の誓いを与えて、こうして京都から立って来たについては、十分自分にも、責任がある。途中で振り捨てては行かれるものではないと思う。

（――どうなるのだ、こうして二人は。おれの剣は！）

山を仰いで、彼は唇を噛んでいた。余りにも小さい自分が恥じられてくる。そうして、駒ヶ岳と<ruby><rb>対</rb><rt>むか</rt></ruby>い合っていることさえ苦しくなってくる。

「まだ来ない」

<ruby><rb>耐</rb><rt>たま</rt></ruby>りかねて、ぬっと立った。

それは、もう<ruby><rb>疾</rb><rt>と</rt></ruby>うに、後から見えて来なければならないはずの、お通と城太郎へいった<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>きである。

今夜は<ruby><rb>藪原</rb><rt>やぶはら</rt></ruby>で泊るといってあるのに、宮腰の宿場もまだ遥かてまえなのに、すでに陽は暮れかけているではないか。

ここの丘から見ていると、十町も先の森まで、一<ruby><rb>眸</rb><rt>ぼう</rt></ruby>に街道は見渡されるが、それらしい人影はいつまでも見出せない。

「はてな？　……。関所でなにか暇どっているのだろうか」

捨てて行こうかとすら惑いながら、その影が、うしろに見えなくなれば、武蔵はすぐ心配になって、一歩も先へは出られなかった。

そこの低い丘から彼は駈け降りた。この地方に多い放し飼いの野馬が、彼の影に<ruby><rb>愕</rb><rt>おどろ</rt></ruby>いたもののように、薄陽の原を八方へ逃げて飛ぶ。

「もしもし、お侍さま。あなたは牛へ乗った<ruby><rb>女子衆</rb><rt>おなごしゅう</rt></ruby>の、お連れ様じゃございませんか」

彼が、街道へ出るとすぐ、往来の一人が、そういいながら側へ寄って来た。

「えっ、その者に、なにか間違いでもござったか」

先のことばを聞かないうちに、虫の知らせか、武蔵は早口に問い返した。

## <ruby><rb>木曾冠者</rb><rt>きそかんじゃ</rt></ruby>

## 一

さっき関所茶屋から程遠からぬ場所で、本位田又八が、お通の牛に<ruby><rb>鞭打</rb><rt>むちう</rt></ruby>って、彼女ぐるみ、何処かへ<ruby><rb>攫</rb><rt>さら</rt></ruby>って行ったということは、目撃していた旅人の口から伝わって、もうこの街道筋では、隠れもない噂ばなしにのぼっている。

丘にいたため、それを知らずにいたのはかえって武蔵一人であった。

その武蔵は今、<ruby><rb>倉皇</rb><rt>そうこう</rt></ruby>と、もと来た道の方へ駈け戻って行ったが、すでに事件が伝わってから半刻ほども経た後のことである。

――もし彼女の身に何らかの危急が襲ったとすれば、間に合うかどうか。

「亭主、亭主」

関所の<ruby><rb>柵</rb><rt>さく</rt></ruby>は、<ruby><rb>六刻</rb><rt>むつ</rt></ruby>で閉まる。それと一緒に、<ruby><rb>床几</rb><rt>しょうぎ</rt></ruby>をたたんでいた茶店のおやじは、後ろに立って、こう<ruby><rb>喘</rb><rt>あえ</rt></ruby>ぎ声でよぶ人影に、

「なにかお忘れ物でも？」

と、ふりかえった。

「いや、<ruby><rb>半刻</rb><rt>はんとき</rt></ruby>ほど前に、ここを通った<ruby><rb>女子</rb><rt>おなご</rt></ruby>と少年を探しておるのだが」

「ああ、牛に乗った<ruby><rb>普賢様</rb><rt>ふげんさま</rt></ruby>のようなお女中でございましたな」

「それだ。その二人を、<ruby><rb>牢人体</rb><rt>ろうにんてい</rt></ruby>の男が、<ruby><rb>無体</rb><rt>むたい</rt></ruby>に連れ去ったというが、その行く先を知るまいか」

「見ていたわけではございませぬが、往来の噂では、この店の首塚のある所から横道へ曲って、<ruby><rb>野婦之池</rb><rt>のぶのいけ</rt></ruby>の方へ、どんどん駈けて行ったと申しますが」

その指さす薄暮の中へ、武蔵の影はもう宙を飛んで<ruby><rb>淡</rb><rt>うす</rt></ruby>れて行く。

<ruby><rb>途々</rb><rt>みちみち</rt></ruby>、聞きあつめた噂を綜合してみても、なんのために、何者が、彼女を<ruby><rb>拉</rb><rt>らっ</rt></ruby>して行ったのか、見当がつかない。

その下手人が又八であるなどとは、彼には想像もできなかった。いずれこの道中で後から追いついて来るか、江戸表で落合うかすることにはなっているが、いつぞや<ruby><rb>叡山</rb><rt>えいざん</rt></ruby>の無動寺から峰越えして大津へかかる途中の峠茶屋で五年越しの誤解を解き、お互いが<ruby><rb>幼</rb><rt>おさな</rt></ruby>友達の昔に返って、

（きょうまでのことは水に流して）

と手を握り、

（貴様も真面目になって、希望を持て）

と武蔵が励ませば、又八も目に涙すらたたえて、

（勉強する。きっと真人間になって<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>り<ruby><rb>直</rb><rt>なお</rt></ruby>すから、おれを弟とも思って、これからは導いてくれ）

と、あれほど<ruby><rb>欣</rb><rt>よろこ</rt></ruby>んでいった又八。

その又八が？　――などとどうして疑われようか。

疑えば、戦後の各地に、職を求めながら職にも就けず、結局、浮浪の徒とよばれている牢人の中のよからぬ者か。或は、世の中の推移にかかわらず世間の抜け目ばかり<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>っているゴマの灰とか、<ruby><rb>人買</rb><rt>ひとかい</rt></ruby>とかいう、道中荒らしの<ruby><rb>鼠賊</rb><rt>そぞく</rt></ruby>か。さもなければ、<ruby><rb>剽悍</rb><rt>ひょうかん</rt></ruby>なるこの地方の野武士か。

武蔵としては、そんなふうにしか下手人を考えられなかったが、それとて闇をつかむようなもので、<ruby><rb>野婦之池</rb><rt>のぶのいけ</rt></ruby>の方角というだけを目あてに急いでみたが、陽が暮れると、冴え切った星空に反して、地上の暗さは、一尺先の足元も<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>つかない。

第一、野婦之池とか聞いたが、その池らしい所へもなかなか出て来なかった。そして田も畑も森も、ゆるい傾斜に乗って、道も少しずつ登り気味なのを考えると、すでに駒ヶ岳の<ruby><rb>裾野</rb><rt>すその</rt></ruby>を踏んでいるらしいが――と武蔵は立ち迷い、

「道を間違えたな？」

と、思った。

行く手を見失ったように――そうして広い闇を見まわしていると、駒ヶ岳の巨大な壁を負って、<ruby><rb>一叢</rb><rt>ひとむら</rt></ruby>の防風林に囲まれた農家から、なにか外で<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>いている明りか、<ruby><rb>竈</rb><rt>かまど</rt></ruby>の火か、ぼうと赤い光が木立ちの垣に<ruby><rb>映</rb><rt>さ</rt></ruby>して見えた。

近づいて、そこの地内を覗いて見ると、武蔵にも見覚えのある<ruby><rb>斑</rb><rt>まだら</rt></ruby>の<ruby><rb>牝牛</rb><rt>めうし</rt></ruby>が――ただしお通のすがたはどこにも見えないが――その牛だけは健在に、明りの<ruby><rb>映</rb><rt>さ</rt></ruby>している百姓家の<ruby><rb>厨</rb><rt>くりや</rt></ruby>の外に繋がれて、無事に啼いているではないか。

## 二

「……お？　あの<ruby><rb>斑牛</rb><rt>ぶち</rt></ruby>だが」

ほっとして武蔵は胸をなで下ろした。

この<ruby><rb>家</rb><rt>や</rt></ruby>に、お通の乗っていた牛が繋がれているからには、お通の身も、共にここへ連れ込まれていることはもう疑う余地もあるまい。

だが。

この防風林の中の百姓家はいったい何者の<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>か。――不覚に踏み込んで、再度、お通を隠されるようなことになってはならないと、同時に、武蔵は戒心する。

で、しばらくの間、影を<ruby><rb>密</rb><rt>ひそ</rt></ruby>めて、中の様子を窺っていると、

「おっ<ruby><rb>母</rb><rt>かあ</rt></ruby>、いいかげんにもう止めんかい。眼がわるい眼が悪いといいながら、そんな暗れえとこでいつまで、仕事してるだ」

<ruby><rb>薪</rb><rt>まき</rt></ruby>や<ruby><rb>籾殻</rb><rt>もみがら</rt></ruby>の散らかっている隅の暗がりから、途方もない大声でいう者がある。

次の気配に耳を澄ましていると赤々と火の影の揺れているのは、<ruby><rb>厨</rb><rt>くりや</rt></ruby>の次の<ruby><rb>炉部屋</rb><rt>ろべや</rt></ruby>で、その部屋か、次の破れ障子の閉まっている辺りで、微かに、糸をつむぐ糸車の音がする。

しかし、すぐその音が止んだのは、おっ<ruby><rb>母</rb><rt>かあ</rt></ruby>と今呼んだ怖ろしく威張った息子のいうことを聞いて、すぐ仕事を片づけているものと思われた。

隅の小屋で、なにか働いていた息子は、やがてそこを閉めながらまた、

「今、足を洗うからすぐ飯が喰えるようにしといてくれえ、いいかあおっ<ruby><rb>母</rb><rt>かあ</rt></ruby>」

草履を持って、<ruby><rb>厨</rb><rt>くりや</rt></ruby>のそばを流れている<ruby><rb>溝</rb><rt>みぞ</rt></ruby>ぎわの石に腰かけ、二、三度足をざぶざぶやっていると、その肩へ、<ruby><rb>斑</rb><rt>まだら</rt></ruby>の<ruby><rb>牝牛</rb><rt>めうし</rt></ruby>がのっそりした顔をつき出した。

息子は牝牛の鼻づらを撫でながら、いっこう返辞もない母屋の人へ向ってまた大きな声でいう。

「おっ<ruby><rb>母</rb><rt>かあ</rt></ruby>、後で手があいたら、ちょっとここへ来て見さっしゃい。おらあ今日、飛んでもねえ拾い物をして来たぜよ。――何だと思う？　分るめえが、牛だよ、しかもすばらしい牝牛だ。畑にも使えるし、乳も<ruby><rb>搾</rb><rt>と</rt></ruby>れる」

その言葉も、外に<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んでいた武蔵が、よく耳に入れて、その人間の何者かをもっと見届けていたら、後の間違いもなかったであろうに――<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>と彼はもうあらかたの空気を察して、この木立ち囲いの一軒の入口を求め、家の横へ迫っていた。

農家としては、かなり広そうだし、壁造りを見ても、旧家に間違いないが、小作もいない女気もない、<ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>屋根も<ruby><rb>苔</rb><rt>こけ</rt></ruby>に朽ちながら、その<ruby><rb>屋根葺</rb><rt>やねふき</rt></ruby>の手も乏しい無人の家らしく思われた。

「……？」

明いている横の小窓。その小窓の下の石を踏み台にして、武蔵は、母屋の内をまずそっと<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いてみた。

なにより先に、彼の眼を射たのは、黒い<ruby><rb>長押</rb><rt>なげし</rt></ruby>に掛かっている一筋の<ruby><rb>薙刀</rb><rt>なぎなた</rt></ruby>だった。めったに民間にあっていい品物ではない。尠なくも、一かどの武将が手艶にかけた<ruby><rb>業物</rb><rt>わざもの</rt></ruby>で、<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>の<ruby><rb>揉皮</rb><rt>もみかわ</rt></ruby>には金紋の<ruby><rb>箔</rb><rt>はく</rt></ruby>すら<ruby><rb>朧</rb><rt>おぼ</rt></ruby>ろに残って見える。

――さては。

と、武蔵は思い合わせて、よけいに疑いを深くした。

さっき、隅の小屋から足を洗いに飛び出した若い男の<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>がまえは、ちらと<ruby><rb>火影</rb><rt>ほかげ</rt></ruby>に見ただけであるが、到底、<ruby><rb>凡者</rb><rt>ただもの</rt></ruby>の<ruby><rb>眼</rb><rt>まな</rt></ruby>ざしではなかった。

腰きりの野良着に、泥まみれな<ruby><rb>脚絆</rb><rt>きゃはん</rt></ruby>を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>き、一本の<ruby><rb>野差刀</rb><rt>のざし</rt></ruby>を腰にぶちこんでいるが、丸っこい顔に、そそけ立つ髪の毛を、眼尻あがりに藁でつかね、背は五尺五寸に足るまいが、胸の肉づきといい、足腰のよく地にすわっている動きといい、一見、

（こいつ<ruby><rb>曲者</rb><rt>くせもの</rt></ruby>）

と感じないでいられないものを武蔵は先に見ていたのである。

案のじょう、母屋には、百姓の持つべきでない<ruby><rb>薙刀</rb><rt>なぎなた</rt></ruby>などがある。そして、<ruby><rb>藺</rb><rt>い</rt></ruby>を敷いた床に人も見えず、ただ大きな炉の中に、ばちばちと<ruby><rb>松薪</rb><rt>まつまき</rt></ruby>が燃え、その煙は、一つの窓からむうっと外へ吐き出されてくる。

「……あっ」

武蔵は、<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>で口をおおったが、忽ち<ruby><rb>咽</rb><rt>むせ</rt></ruby>んで、<ruby><rb>怺</rb><rt>こら</rt></ruby>えようとする程――<ruby><rb>咳</rb><rt>せき</rt></ruby>をしてしまった。

「誰じゃ？」

<ruby><rb>厨</rb><rt>くりや</rt></ruby>の中で、老婆の声がした。武蔵が窓の下にかがみ込んでいると、炉部屋にはいって来たらしく、再びそこで、

「権之助っ。――小屋は閉めたか。また、<ruby><rb>粟</rb><rt>あわ</rt></ruby>泥棒がそこらへ来て、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くさめ</span>をしておるぞよ」

## 三

――来たら幸い。

まずあの<ruby><rb>猪男</rb><rt>ししおとこ</rt></ruby>を手捕りにして、お通をどこに隠したか詮議はそれからのことにしよう。

老婆の息子らしい勇猛そうなその男のほかに、いざとなれば、まだ二、三名の敵は飛び出すかも知れないが、彼さえ取ッちめれば、物の数ではない。

武蔵は母屋の中の老婆が、権之助権之助と呼び立てると共に、小窓の下を離れて、この家を囲む立木の一部に身を隠していた。

するとやがて、

「どこにっ？」

と、権之助とよばれた息子は、裏から大股に素ッ飛んで来て、もいちど<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>で、

「おっ<ruby><rb>母</rb><rt>かあ</rt></ruby>、なにがいたんだ？」

と呶鳴って訊く。

小窓に、老婆の影が立って、

「その辺で、今<ruby><rb>咳声</rb><rt>しわぶき</rt></ruby>が聞えたがの」

「耳のせいじゃないか。おっ母はこの頃、眼も悪くなったし、耳もとんと遠くなったからなあ」

「そうでない。誰か、窓から家の内を覗き見していたに違いない。煙に<ruby><rb>咽</rb><rt>む</rt></ruby>せた声じゃった」

「ふうん……？」

権之助は、十歩二十歩、その辺を、あたかも城郭でも見廻るように歩いて、

「そういえば、何だか、人間臭いぞ」

と、<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。

武蔵が<ruby><rb>迂濶</rb><rt>うかつ</rt></ruby>に出なかった<ruby><rb>理</rb><rt>わけ</rt></ruby>は、闇に光る権之助の眼の実にらんらんと害意に燃えているためであった。

それと、足のつま先から胸いたにかけて、ちょっと当り難い構えを備えているので、それも不審に思い、何を持っているのか<ruby><rb>得物</rb><rt>えもの</rt></ruby>を確かめるつもりで、彼の歩みまわる影を凝視していると、右の<ruby><rb>手裡</rb><rt>てうら</rt></ruby>から小脇を後ろに抜け、約四尺ばかりの丸棒をしのばせていることが分った。

その棒も、そこらの<ruby><rb>麺棒</rb><rt>めんぼう</rt></ruby>や<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しん</span><ruby><rb>張棒</rb><rt>ばりぼう</rt></ruby>を、有り合うまま、引っ抱えて来たものとは違い、一種の武器としての光を持っている。――のみならず、棒と、棒を持つ人間とが、武蔵から見ると、まったく二つにして一つのものとなっている。いかにこの男が、常にその棒と共に暮しているかが分るほどなのだ。

「やっ、<ruby><rb>誰奴</rb><rt>どいつ</rt></ruby>だッ？」

ふいに棒は風を呼んで、権之助の背から前へ伸びた。武蔵はその唸りに吹かれたように、棒の先から、やや斜めに、身を移して立った。

「連れ人を引取りに来た」

――相手が、自分を<ruby><rb>睨</rb><rt>ね</rt></ruby>めすえたまま黙っているので、

「街道からこれへ<ruby><rb>誘拐</rb><rt>かどわか</rt></ruby>して来た<ruby><rb>女子</rb><rt>おなご</rt></ruby>と<ruby><rb>童</rb><rt>わらべ</rt></ruby>を返せ。――もし無事に戻して詫びるならば免じておくが、怪我などさせてあったら承知せぬぞ」

と、重ねていった。

この辺の塀といってもよい駒ヶ岳の雪渓から、里とはひどく温度の差のある冷たい風が、星の下を、時折そよそよ忍んでくる。

「――渡せッ。連れて来いっ」

三度めである。

武蔵がその雪風よりも鋭い声で斬るようにいうと、<ruby><rb>逆手</rb><rt>さかて</rt></ruby>に棒を握って、喰い付くような眼をすえていた権之助の髪の毛が、針ねずみのように、<ruby><rb>颯</rb><rt>さ</rt></ruby>っと立った。

「この<ruby><rb>馬糞</rb><rt>まぐそ</rt></ruby>め！　おれを<ruby><rb>誘拐</rb><rt>かどわか</rt></ruby>しだと？」

「おう、連れもない、<ruby><rb>女</rb><rt>おんな</rt></ruby><ruby><rb>童</rb><rt>わらべ</rt></ruby>と見くびって、これへ誘拐して来たに違いあるまい。――出せっ、隠した者を」

「な、なんだとッ」

権之助の体から突然、四尺余の棒が噴いて出た。――棒が手か、手が棒か、その<ruby><rb>迅</rb><rt>はや</rt></ruby>いことは眼にもとまらない。

## 四

武蔵は避けるより仕方がなかった。驚くべきこの男の練磨と<ruby><rb>技</rb><rt>わざ</rt></ruby>の体力を前にしては。

で、一応、

「おのれ、<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>に悔ゆるな」

警告を与えておいて、自分は数歩<ruby><rb>跳</rb><rt>と</rt></ruby>び<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>いたが、不可思議な棒の使い手は、

「なにを、<ruby><rb>洒落</rb><rt>しゃら</rt></ruby>くせえ」

と<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>きながら、決して一瞬の<ruby><rb>仮借</rb><rt>かしゃく</rt></ruby>もするのではなかった。十歩<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>けば十歩迫り、五歩<ruby><rb>躱</rb><rt>かわ</rt></ruby>せば五歩寄ってくる。

武蔵は相手から跳び開く間髪ごとに、二度ほど、刀の柄へ手をやりかけたが、その二度とも、非常な危険を感じて、遂に、抜き放つ<ruby><rb>遑</rb><rt>いとま</rt></ruby>すらもない。

なぜならば、手を柄にかける一瞬でも、敵の前に<ruby><rb>肘</rb><rt>ひじ</rt></ruby>を<ruby><rb>曝</rb><rt>さら</rt></ruby>す隙となるからである。敵によって、そんな危険は感じない場合と、戒心する場合があるが、当面の相手が振りこんで来る棒の唸りは、武蔵が心で用意する行動の神経よりは遥かに迅速で、それへ無謀な勇をむりに<ruby><rb>奮</rb><rt>ふる</rt></ruby>って、

（この土民めが何者ぞ）

と、敢て誇れば、当然、棒の一撃にのめるであろうし、<ruby><rb>焦心</rb><rt>あせ</rt></ruby>りを持つだけでも、呼吸にうける圧迫から、身体のみだれをどうしようもなくなってしまう。

それにまた、もう一つ武蔵を自重させた理由は、相手の権之助なる人間が、一体何者か、咄嗟に、見当がつかなくなったことである。

彼の振る棒には、一定の法則があるし、彼の踏む足といい、五体のどこといい、武蔵から見て、これは立派な<ruby><rb>金剛不壊</rb><rt>こんごうふえ</rt></ruby>の体をなしている。かつて出会った幾多の達人中にも考え出されないほど、この泥くさい<ruby><rb>田夫</rb><rt>でんぷ</rt></ruby>の体の爪の先までが、武術の「道」にかない、そして武蔵も求めてやまない、その道の精神力に光っているのだった。

――こう説明してくると武蔵にも権之助にも、お互いが敵を観る<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>を持って悠々構えているように思われるであろうが、事実は寸秒に次ぐ寸秒で、わけても権之助の棒は、<ruby><rb>眼</rb><rt>ま</rt></ruby>ばたきする間も停止していない。

――おおうっ。

と、満身から息をしたり、

――えおおうッ！

と、<ruby><rb>踵</rb><rt>かかと</rt></ruby>を蹴って来たり、また、りゅうりゅうと棒の攻撃を改めてかかり直して来るたびに、

「この、どたぐそ」

とか、

「かったい坊め」

とか、口汚い方言で悪<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たれ</span>つきながら、打ちこんで来るのであった。

いや、棒に限っては、打ち込むという言葉は当らない。――それは打ち込みもするし、<ruby><rb>薙</rb><rt>な</rt></ruby>ぎもするし、突きもするし、<ruby><rb>旋</rb><rt>まわ</rt></ruby>しもするし、片手でも使うし、両手でも使う。

また、太刀は<ruby><rb>切先</rb><rt>きっさき</rt></ruby>と、柄の部分とが、はっきり分れていて、その一方しか活用できないが、棒は両端が切先ともなり、穂先ともなって、それを自由自在に使いわける権之助の練磨は、<ruby><rb>飴屋</rb><rt>あめや</rt></ruby>が飴をのばすように、長くもし、短くもするのではないかと眼に怪しまれる程だった。

「<ruby><rb>権</rb><rt>ごん</rt></ruby>っ。気をつけいよ、その相手は、<ruby><rb>凡者</rb><rt>ただもの</rt></ruby>でないぞ！」

不意に、その時、母屋の窓から、彼の老母がこう叫んだ。――武蔵が敵に感じていることを、老母も息子の身になって、同じように感じているのであった。

「でえじょうぶだよっ、おっ<ruby><rb>母</rb><rt>かあ</rt></ruby>！」

権は、すぐ横の小窓から、母が案じながら見ていることを知って、その勇猛に拍車をかけたが、一<ruby><rb>颯</rb><rt>さつ</rt></ruby>のうなりを肩越しに<ruby><rb>躱</rb><rt>かわ</rt></ruby>してはいって来た武蔵の体が、権の小手をつかんだと思うと、<ruby><rb>巨</rb><rt>おお</rt></ruby>きな石でも<ruby><rb>降</rb><rt>お</rt></ruby>ろしたように、ずしんと地ひびきして権は背中で大地を打ち、足は高く星の空を蹴っていた。

「待たッしゃい！　牢人」

わが子の一命が今や危うしと思ったか、小窓に<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>っていた老母は、そこの竹格子を突き破って、凄まじい一声を武蔵に浴びせ、その血相は、武蔵の次の行動に思わずためらいを与えた。

## 五

その時、老母の髪の毛が逆立って見えたのは、肉親として、さもある筈のところであろう。

息子の権が投げられたことは、この老母には、非常な意外であったらしい。――投げつけた武蔵の手は当然、次の<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>には、<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ね起きる権之助の真っ向へ、抜打ちに一太刀行くべきであった。

だが、そうではなくて、

「おう、待ってやる」

武蔵は、権之助の胸へ馬のりになり、なお、棒を離さない右の<ruby><rb>手頸</rb><rt>てくび</rt></ruby>を足で踏みつけたまま老母の顔の見えた小窓を振り仰いだ。

「……？」

はッと、武蔵はしかしすぐ眼を<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>らした。

なぜならば、老母の顔は、もうその窓に見えなかったからである。――組み伏せられながらも権之助は、絶えず武蔵の手を<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>そうともがいているし、武蔵の制圧も届かない彼の二本の脚は、<ruby><rb>空</rb><rt>くう</rt></ruby>を蹴ったり、地へ突っ張ったり、その腰車の<ruby><rb>脚技</rb><rt>あしわざ</rt></ruby>のあらゆる努力をあげて、敗地を<ruby><rb>挽回</rb><rt>ばんかい</rt></ruby>しようとしているのだった。

それも決して、油断はできない上に、窓から消えた老婆の影は、すぐ<ruby><rb>厨</rb><rt>くりや</rt></ruby>の蔵からさっと走り出て来て、敵に組み敷かれている息子を<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>っていうことには、

「何の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ざま</span>じゃ、この不覚者が。母が助太刀して取らす、負くるな」

――窓口から待てという言葉だったので、武蔵は必ずや老母がこれへ来て、<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>を地にすりつけて、わが子の助命を乞うのかと思っていたところ、案に相違して、九死一生の淵にある息子を励まし、なお戦おうというつもりらしい。

見れば、老母の小脇には、<ruby><rb>皮鞘</rb><rt>かわざや</rt></ruby>を払った<ruby><rb>薙刀</rb><rt>なぎなた</rt></ruby>が星明りを吸って、後ろ隠しに持たれている。そして武蔵の背を<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>いながら、

「ここな痩せ牢人めが、土民とあなどって、<ruby><rb>小賢</rb><rt>こざか</rt></ruby>しい腕立てしやったの。ここをただの百姓家と思うてか」

と、いう。

背中へ迫られることは武蔵にとって苦手であった。組み敷いているものが生き物なので、自由に向き直るわけにゆかないのだ。権之助はまた、背中の着物も皮膚も破れるであろう程、地上を<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>りうごいて、母に有利な位置を作ろうと、敵の下から<ruby><rb>計</rb><rt>はか</rt></ruby>っている。

「なアに、こんなもの。――おっ<ruby><rb>母</rb><rt>かあ</rt></ruby>、<ruby><rb>心配</rb><rt>しんぺえ</rt></ruby>しねえでもいい。あんまり近寄ってくれんな。今、刎ね<ruby><rb>返</rb><rt>け</rt></ruby>えしてみせる」

<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>きながら、権がいうと、

「<ruby><rb>焦心</rb><rt>あせ</rt></ruby>るでない！」

と、老母はたしなめて、

「元よりこのような野宿者に負けてよいものか。御先祖の血をふるい起せ。<ruby><rb>木曾殿</rb><rt>きそどの</rt></ruby>の<ruby><rb>御内</rb><rt>みうち</rt></ruby>にも人ありと知られた太夫房<ruby><rb>覚明</rb><rt>かくみょう</rt></ruby>の血はどこへやったぞ」

すると、権之助は、

「ここに持っている！」

いいながら、首を<ruby><rb>擡</rb><rt>もた</rt></ruby>げて、武蔵の<ruby><rb>膝行袴</rb><rt>たっつけ</rt></ruby>の上から、<ruby><rb>股</rb><rt>もも</rt></ruby>の肉へ喰いついた。

すでに棒を離して、両手も下から働きかけ、武蔵をして何の技をする余地も与えないのだ。加うるに老母の影は、<ruby><rb>薙刀</rb><rt>なぎなた</rt></ruby>の光を曳いて、背中へ背中へと<ruby><rb>狙</rb><rt>つ</rt></ruby>け廻って来る。

「待てっ、老母」

遂にこんどは武蔵からそういった。争う愚が分ったからである。これ以上のことは、斬られるか、どっちかが死を受けなければ解決しない。

それまで行っても、お通が救われるとか、城太郎が助かるとかいうならよいが、その点はまだ疑いに過ぎないのである。――ともあれ一応穏やかに事情を打明けてみるのがいいのではあるまいか。

そう考えたので、武蔵はまず老母に向って、<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>を<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>けというと、老母はすぐおうとはいわないで、

「権。どうしやるか」

と、組み伏せられている息子へ、和協の申し<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>でを、<ruby><rb>容</rb><rt>い</rt></ruby>れるか容れないか、相談するのであった。

## 六

<ruby><rb>炉</rb><rt>ろ</rt></ruby>の<ruby><rb>松薪</rb><rt>まつまき</rt></ruby>はちょうど燃え<ruby><rb>旺</rb><rt>さか</rt></ruby>っていた。この<ruby><rb>家</rb><rt>や</rt></ruby>の<ruby><rb>母子</rb><rt>おやこ</rt></ruby>が、そこへ武蔵を<ruby><rb>伴</rb><rt>ともな</rt></ruby>って来たことは、やがてあれから、話し合った末、双方の誤解が溶けたものであろう。

「やれやれ、危ないことではあった。とんだ行き違いからあのような――」

さも、ほっとしたように、老母はそこへ膝を折ったが、共に坐りかけた息子を抑えて、

「これ権之助」

「おい」

「坐らぬうち、そのお侍をご案内して、念のために、この<ruby><rb>家</rb><rt>や</rt></ruby>の内を<ruby><rb>隈</rb><rt>くま</rt></ruby>なくお見せ申したがよい。――今外で、お訊ねをうけた<ruby><rb>女子</rb><rt>おなご</rt></ruby>や<ruby><rb>童</rb><rt>わらべ</rt></ruby>が隠してないことを、よう見届けて戴くために」

「そうだ、おれが街道から、女など<ruby><rb>誘拐</rb><rt>かどわか</rt></ruby>して来たかと、疑われているのも残念。――お武家、おれに<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて、この家のどこでも改めてもらおう」

上がれ――と招ぜられたまま、武蔵はわらじを解いて、もう炉の前に席を占めていたが、母子の者の共々なことばに、

「いやもう、ご潔白は分りました。お疑い申した罪は、ご勘弁ねがいたい」

詫び入るので、権之助も間が悪くなって、

「おれも良くなかった。もっとそっちの用向きを<ruby><rb>糺</rb><rt>ただ</rt></ruby>した上で怒ればよかったのだが」

と、炉べりへ寄って、あぐらを組む。

だが武蔵としては、こう打解けたところで訊ねたい疑問がまだある。それは<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>、外から見届けておいた<ruby><rb>斑</rb><rt>まだら</rt></ruby>の<ruby><rb>牝牛</rb><rt>めうし</rt></ruby>で、あれは自分が<ruby><rb>叡山</rb><rt>えいざん</rt></ruby>から曳いて来て、途中から病弱なお通のため道中の乗物に与えて、城太郎に、<ruby><rb>確</rb><rt>しか</rt></ruby>とその手綱を預けておいたものである。

その牝牛が、どうして、この<ruby><rb>家</rb><rt>や</rt></ruby>の裏に繋がれているのか？

「いや、そんな<ruby><rb>理</rb><rt>わけ</rt></ruby>なら、おれを疑ぐったのもむりはねえ」

権之助はそれに答えていう。――実は自分はこの辺に田を少しばかり持って百姓をしている者だが、夕方、<ruby><rb>野婦之池</rb><rt>のぶのいけ</rt></ruby>から<ruby><rb>鮒</rb><rt>ふな</rt></ruby>を網に打って帰って来ると、池尻の川に一頭の牝牛が足を突っこんで<ruby><rb>踠</rb><rt>も</rt></ruby>がいている。

沼がふかいので、もがく程、牛は沼に<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>り込み、その図ウ体を持てあまして、哀れな啼き声をあげている様子。引き上げてやって見ると、まだ乳ぶさも若い牝牛であるし、辺りをたずねても飼主の姿はみえぬし、てっきりこれは何処からか盗み出して来た野盗が持ち扱って、捨てて行ったものに違いあるまい――と独りぎめにきめてしまった。

「牛一匹あれば、ヘタな人間の半人前は野良仕事をするので、これはおれが貧乏で、おっ<ruby><rb>母</rb><rt>かあ</rt></ruby>にろくな孝養もできねえから、天が授けてくれたものと――あはははは良い気になって曳っぱって来ただけのものさ。飼主が分っちゃ仕方がねえ、牛はいつでも返すよ。だが、お通とか城太郎とか、そんな人間のこと、おらあ一切知らねえぞ」

話が分ってみると、権之助なるこの若者は、いかにも粗朴な<ruby><rb>田舎漢</rb><rt>いなかもの</rt></ruby>で、最初の間違いは、その率直な美点からむしろ起ったものといえる。

「じゃが旅のお侍、さだめしそれは心配なことでござろう」

と老母はまた老母らしく側から案じて、息子にいう。

「権之助、はよう晩飯を掻っこんで、その気の毒なお連れを一緒に探してあげい。野婦之池あたりにうろついていてくれればよいが、駒ヶ岳のふところへでもはいりこんだら、もう<ruby><rb>他国者</rb><rt>よそもの</rt></ruby>の衆に知れることじゃない。――あの山には、馬や野菜物さえのべつ<ruby><rb>攫</rb><rt>さら</rt></ruby>ってゆく<ruby><rb>野伏</rb><rt>のぶせ</rt></ruby>りが、たんと巣を喰うているそうな。おおかたそんな<ruby><rb>無頼者</rb><rt>ならずもの</rt></ruby>の<ruby><rb>仕業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>であろうが」

## 七

ぶすぶすと、<ruby><rb>松明</rb><rt>たいまつ</rt></ruby>の先っぽに風が燃える。

<ruby><rb>巨</rb><rt>おお</rt></ruby>きな山岳の裾は、風が来たと思うと、ぐわうと草木もふき捲いて、凄い<ruby><rb>一瞬</rb><rt>ひととき</rt></ruby>の鳴りを起すが、止んだとなると、ハタと息をひそめて、不気味なほど静かな星のまたたきばかりとなる。

「旅の者」

権之助は、手に持つ松明を挙げて後から来る武蔵を待ちながら――

「気の毒だが、どうしても知れねえのう。これから野婦之池までゆく途中、もう一軒、あの丘の雑木林のうしろに、<ruby><rb>猟</rb><rt>りょう</rt></ruby>をしたり、百姓したりしている家があるが、そこで訊いても知れなければ、もう探しようがねえというもんだが」

「ご親切に、<ruby><rb>辱</rb><rt>かたじけな</rt></ruby>い。これまで十数軒を訊き歩いても、なんの手懸りもなければ、これは拙者が方角ちがいへ来ているのであろう」

「そうかも知れねえ。女を<ruby><rb>誘拐</rb><rt>かどわか</rt></ruby>す悪党などというものは、悪智恵に<ruby><rb>長</rb><rt>た</rt></ruby>けているから、滅多に追いつかれるような方角へ逃げる筈はねえ」

もう<ruby><rb>夜半</rb><rt>よなか</rt></ruby>を過ぎていた。

駒ヶ岳の裾野――<ruby><rb>野婦村</rb><rt>のぶむら</rt></ruby>、樋口村、その附近の丘や林など、宵からおよそ歩き尽くしたといってもいい。

せめて、城太郎の消息でも知れそうなものだが、誰一人、そんな者を見かけたという者もない。

わけてお通の姿には特徴があるから、見た者があればすぐ知れるわけだが、どこで訊いても、

「はてねえ？」

と、気永に首をかしげる土民ばかりであった。

武蔵は、その二人の安否に胸を<ruby><rb>傷</rb><rt>いた</rt></ruby>めると共に、縁もゆかりもないのに、この労苦を<ruby><rb>倶</rb><rt>とも</rt></ruby>にしてくれる権之助にすまない気がしてくる。明日も野良へ出て働かなければならない体だろうにと思う。

「とんだ迷惑をおかけ申したのう。そのもう一軒を尋ねてみて、それでも知れぬとあれば、ぜひがない、<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めて戻るといたそう」

「歩くぐれいなこと、夜どおし歩いた所で、何のこともねえが、いったいその<ruby><rb>女子</rb><rt>おなご</rt></ruby>と<ruby><rb>童</rb><rt>わらべ</rt></ruby>というのは、お武家の召使か、それとも<ruby><rb>姉弟</rb><rt>きょうだい</rt></ruby>たちかね」

「されば――」

まさか、その<ruby><rb>女性</rb><rt>おんな</rt></ruby>の方は恋人で、子供は弟子とも、答えられないので、

「身寄りの者です」

と、いうと、そういう肉親の少ない身を淋しく考え出してでもいるのか、権之助は無口になって、ひたすら野婦之池へ出るという雑木の丘の細道を先に歩いて行く。

武蔵は今、お通と城太郎を案じる気持で、胸もいっぱいになっていたが、その中にも心のうちでは、この機縁を作ってくれた運命の<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>に――たとえ悪戯であろうと感謝せずにはいられなかった。

もしお通にその災難がかかって来なかったら、自分は、この権之助に会う機会はなかったろう。そしてあの棒の秘術も見る折がなかったに相違ない。

流転の中で、お通と行きはぐれてしまったことは、彼女の生命につつがない限り、やむを得ない災難と思うしかないが、もしこの世において、権之助の棒術に出会わずにしまったら、武芸の道に生涯する自分として、大なる不幸であったろうと思う。

――で、折もあらば、彼の素姓を問い、その棒術についても深く<ruby><rb>糺</rb><rt>ただ</rt></ruby>してみたいと<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>から考えていたが、武道のことと思うと、<ruby><rb>不</rb><rt>ぶ</rt></ruby>しつけに訊きかねて、つい折もなく歩きつづけていると、

「旅の者、そこに待っていろ。――あの家だが、もう寝ているにきまっているから、おれが起して訊いて来てやる」

木々の中に沈んで見える一軒の藁屋根を指さすと、権之助はひとりで、そこらの<ruby><rb>崖藪</rb><rt>がけやぶ</rt></ruby>を掻きわけ、がさがさと駈け降りて、そこの戸を叩いていた。

## 八

程なく戻って来た権之助が、武蔵へ向って告げることには。

どうも雲をつかむような返辞ばかり、ここに住む<ruby><rb>猟師</rb><rt>りょうし</rt></ruby>の夫婦も、こちらの尋ね事については、さっぱり要領を得ないが、ただ<ruby><rb>内儀</rb><rt>かみ</rt></ruby>さんが夕方、買物に出た帰り<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>、街道で見かけたという話は、ことによると<ruby><rb>一縷</rb><rt>いちる</rt></ruby>の手懸りといえるやも知れない。

その内儀さんの話によると、もう星の白い宵の<ruby><rb>時刻</rb><rt>ころ</rt></ruby>、旅人の影も途絶え、並木の風ばかりが淋しい道を、おいおいと泣き声あげながら、向う見ずに素ッ飛んでゆく小僧がある。

手も顔も泥まみれのままで、腰には木刀を差し、<ruby><rb>藪原</rb><rt>やぶはら</rt></ruby>の宿場の方へ駈けて行くので、内儀さんがどうしたのかと訊いてやると、

（代官所はどこにあるか教えておくれ）

となお泣いていう。

代官所へ何しに行くかと、根を掘って訊くと、

（連れの者が、悪者に<ruby><rb>攫</rb><rt>さら</rt></ruby>われて行ったから、<ruby><rb>奪</rb><rt>と</rt></ruby>り返してもらうんだ）

との答え。

それならば代官所へ行ってもむだなことだ。お役所という所は、誰か偉い人が旅で通るとか、<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>からのお<ruby><rb>吩咐</rb><rt>いいつ</rt></ruby>けとでもあれば、てんてこ舞して、道の<ruby><rb>馬糞</rb><rt>ばふん</rt></ruby>を取って砂まで<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>くが、弱い者の訴えなどに、どうして本気に耳をかして捜してなどくれるものか。

殊に、女が<ruby><rb>誘拐</rb><rt>かどわか</rt></ruby>されたとか、<ruby><rb>追剥</rb><rt>おいはぎ</rt></ruby>にあって裸にされたとかいう小事件は、街道筋には朝に夕にあることで、めずらしくもなんともない。

それよりは藪原の宿一つ先へ越して、奈良井まで行くとよい。町の四ツ辻だからすぐ知れる所に奈良井の<ruby><rb>大蔵</rb><rt>だいぞう</rt></ruby>さんというて、お百草を薬にして<ruby><rb>卸</rb><rt>おろ</rt></ruby>している問屋がある。その大蔵さんにわけをいうて頼めば、この人はお役所と反対に、弱い者のいうことほど、親切に聞いてもくれるし、正しいことなら、人のために身銭を切ってなんでもひき受けてくれるから――

<ruby><rb>内儀</rb><rt>かみ</rt></ruby>さんの言葉をそのまま、権之助は口うつしにそこまで語って、

「こういってやると、その木刀を差した小僧は、泣きやんでまた、後も見ずに駈けて行ったということなんだが――もしや連れの城太郎とかいう子供が、それじゃあるめえか」

「オオ、それです」

武蔵は、城太郎の姿を、見るが如く想像しながら、

「――すると、拙者が探しに来たこの方角と、まるで違った方へ行ったわけですな」

「それやあ、<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>は駒の<ruby><rb>麓</rb><rt>ふもと</rt></ruby>だし、奈良井へ行く道からは、ずっと横へ入っている」

「何かと、お世話でござった。それでは早速、拙者もその奈良井の大蔵とかを、尋ねて参ろう。――お蔭で<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かながら、<ruby><rb>緒口</rb><rt>いとぐち</rt></ruby>の<ruby><rb>解</rb><rt>ほぐ</rt></ruby>れて来た心地がする」

「どうせ途中になるから、おれの家へ寄って、<ruby><rb>一寝</rb><rt>ひとやす</rt></ruby>みした上で、朝飯でも喰って立つといい」

「そう願おうか」

「そこの野婦之池を渡って、池尻へ出ると、半分道で<ruby><rb>帰</rb><rt>け</rt></ruby>えれる。今、断っておいたから、舟を借りてゆくとしよう」

そこから少し降りてゆくと、<ruby><rb>楊柳</rb><rt>かわやなぎ</rt></ruby>に囲まれた太古のような水がある。周囲ざっと六、七町もあろうか。駒ヶ岳の影も、いちめんの星も、ありのままに、池の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>に<ruby><rb>泛</rb><rt>うか</rt></ruby>んでいた。

なぜなのか、この地方にそう見えない<ruby><rb>楊柳</rb><rt>かわやなぎ</rt></ruby>が、この池の周りだけには生い茂っている。権之助は<ruby><rb>棹</rb><rt>さお</rt></ruby>を持ち、その代りに、彼の手にあった<ruby><rb>松明</rb><rt>たいまつ</rt></ruby>は武蔵が持ち、<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>るように池の中央を横切って行った。

水の上を行く<ruby><rb>松明</rb><rt>たいまつ</rt></ruby>の火は、暗い水に映って、一倍赤々と見えた。――その流るる焔を、お通はその時、眼に見ていたのである。人の世の皮肉といおうか、飽くまで薄縁な二人の仲といおうか、場所も、そう遠くない所から。

## <ruby><rb>毒歯</rb><rt>どくし</rt></ruby>

## 一

水に映る<ruby><rb>火影</rb><rt>ほかげ</rt></ruby>と、小舟の中に人のかざしている火と、深夜の池心を行く<ruby><rb>松明</rb><rt>たいまつ</rt></ruby>は、一つの光でありながら、ちょうど二羽の火の<ruby><rb>鴛鴦</rb><rt>おしどり</rt></ruby>が泳いでゆくように遠くからは見える。

「……オオ？」

お通がそれを知った時、

「やっ、誰か来る」

と、<ruby><rb>狼狽</rb><rt>あわて</rt></ruby>ぎみに、声を出して、お通の縄尻を引っ張ったのは又八で、大それたことをやるくせに、何か事にぶつかると、臆病な持ち前はすぐ体に出してしまう。

「どうしよう？　……そうだ、こっちへ来い。やいっ、こっちへ来やがれ」

そこは<ruby><rb>楊柳</rb><rt>かわやなぎ</rt></ruby>につつまれている<ruby><rb>池畔</rb><rt>ちはん</rt></ruby>の<ruby><rb>雨乞堂</rb><rt>あまごいどう</rt></ruby>であった。なにを<ruby><rb>祠</rb><rt>まつ</rt></ruby>ってあるか郷土の人もよく知らないが、ここで夏の<ruby><rb>旱</rb><rt>ひでり</rt></ruby>に雨を祈ると、うしろの駒ヶ岳からこの<ruby><rb>野婦之池</rb><rt>のぶのいけ</rt></ruby>へ沛然と天恵が降るということが信じられている。

「いやです」

お通は動くまいとする。

堂の裏手にひきすえられて、<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>から又八に、<ruby><rb>責</rb><rt>せ</rt></ruby>め<ruby><rb>苛</rb><rt>さいな</rt></ruby>まれていた彼女だった。

<ruby><rb>縛</rb><rt>いまし</rt></ruby>められている両手がきくものならば、及ばぬまでも、突きとばしてやりたいと思うがそれも出来なかった。隙があったら眼の前の池に飛びこんで、堂の棟に上がっている<ruby><rb>絵馬</rb><rt>えま</rt></ruby>のように、楊柳の幹を巻いて、<ruby><rb>呪</rb><rt>のろ</rt></ruby>う男を呑まんとしている蛇身になっても――と思うが、それも出来なかった。

「立たねえか」

又八は、手に持っている<ruby><rb>篠</rb><rt>しの</rt></ruby>を<ruby><rb>鞭</rb><rt>むち</rt></ruby>にして、お通の背を、いやという程打った。

打たれる程、お通は意志が強くなる。もっと打ってみろと望みたくなる。……黙って又八の顔を<ruby><rb>睨</rb><rt>ね</rt></ruby>めつけていた。すると又八は、気が<ruby><rb>挫</rb><rt>くじ</rt></ruby>けて、

「歩けよ、おい」

と、いい直す。

それでもお通が起たないので、今度は猛然と、片手で襟がみをつかみ、

「来いっ」

ずるずると、地を引き摺られながらお通が、池心の火へ向って、悲鳴をあげようとすると、又八はその口を手拭で縛って、引っ担ぐように、堂の中へ<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>りこんだ。

そして、<ruby><rb>木連</rb><rt>きつれ</rt></ruby>格子を抑えながら、彼方の火影がどう来るか<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>っていると、その小舟はやがて雨乞堂から二町ほど先の池尻の入江へ<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>り込んで、<ruby><rb>松明</rb><rt>たいまつ</rt></ruby>の火もやがてどこかへ立ち去ったらしい。

「……あ。いい按配」

ほっとして、それには胸を撫でたが、又八の気持はまだ落着きを得なかった。

お通の体は今、自分の手の中にあるが、お通の心はまだ自分の物となりきれない。心のない肉体だけを持ち歩いていることの実に大変な辛労であるということを、彼はつぶさに宵から経験した。

無理に――暴力をもっても、彼女のすべてを、自分のものにしてしまおうとすると、お通は死の血相を見せるのであった。舌をかみ切って死のうとするのである。それくらいなことはきっとやるお通であることは幼少から知っている又八なので、

（殺しては）

と、つい盲目な力も情慾も<ruby><rb>挫</rb><rt>くじ</rt></ruby>けてしまう。

（どうして俺をこんなに嫌い、武蔵を飽くまで慕うのだろうか。――以前は、彼女の心のなかに、俺と武蔵はちょうどあべこべであったものを）

又八は、分らなかった。武蔵より自分の方が、女に好かれる素質を持っているのに――という自信がどこかにある。事実彼は、お甲を始め、幾多の女に、そうした経験がある。

これはやはり武蔵が、最初にお通の心を誘惑し、手なずけてからは、折あるごとに、自分を悪くいって、お通につよい嫌悪を抱かせるようにしたためにちがいない。

そして自分に出会えば、自分にはいかにも友情の深いようなことをいって――

（俺は、お人好しだ。武蔵に<ruby><rb>騙</rb><rt>たばか</rt></ruby>られたのだ。その<ruby><rb>偽</rb><rt>にせ</rt></ruby>ものの友情に涙をこぼしたりなどして……）

と、彼は木連格子に<ruby><rb>倚</rb><rt>よ</rt></ruby>りかかりながら、<ruby><rb>膳所</rb><rt>ぜぜ</rt></ruby>の色街でさんざいわれた――佐々木小次郎の忠言を今、心のうちで呼び返していた。

## 二

今になって思いあたる――

あの佐々木小次郎が、自分のお人好しを<ruby><rb>嗤</rb><rt>わら</rt></ruby>い、武蔵の<ruby><rb>肚</rb><rt>はら</rt></ruby>ぐろいことをさんざん<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>って、

（尻の毛まで抜かれるぞ）

といった言葉。

それが今、彼の心にぴったりする忠言として、<ruby><rb>甦</rb><rt>よみがえ</rt></ruby>って聞えて来る。

同時に、武蔵に対しての、又八の考えは一変した。これまでも、何度となく<ruby><rb>豹変</rb><rt>ひょうへん</rt></ruby>してはまた持ち直して来た友情ではあるが、今度は今までの憎悪に輪をかけて、

「よくも俺を……」

と、心の底からわき上がる<ruby><rb>呪</rb><rt>のろ</rt></ruby>いとなって、唇を深く噛んだ。

人を憎んだり<ruby><rb>嫉</rb><rt>そね</rt></ruby>んだりすることは、日常、人一倍烈しい<ruby><rb>質</rb><rt>たち</rt></ruby>の又八であるが、<ruby><rb>呪咀</rb><rt>じゅそ</rt></ruby>するほどの強い意力は、人を恨むことにすら出来ない<ruby><rb>質</rb><rt>たち</rt></ruby>の又八であった。

けれど今度という今度こそは、武蔵に対して、七生までの<ruby><rb>仇</rb><rt>かたき</rt></ruby>のような<ruby><rb>怨念</rb><rt>おんねん</rt></ruby>が<ruby><rb>醸</rb><rt>かも</rt></ruby>されてしまった。彼と自分とは、同郷の友として育ちながら、どうしても、生涯の仇に生みづけられて来た悪縁かのように思われて来るのだった。

<ruby><rb>似非君子</rb><rt>えせくんし</rt></ruby>め。――と思う。

そもそも、あいつが自分を見るたびに、いかにも<ruby><rb>真</rb><rt>まこと</rt></ruby>しやかに、やれ真人間になれの、発奮しろの、手を取り合って世の中へ出ようのと、いう<ruby><rb>口吻</rb><rt>こうふん</rt></ruby>からして、思えば<ruby><rb>面憎</rb><rt>つらにく</rt></ruby>い限りである。

その泣き落しにのせられて、涙をこぼしたかと考えると、又八は、<ruby><rb>業腹</rb><rt>ごうはら</rt></ruby>でたまらない。自分のお人好しを、武蔵に見すかされて<ruby><rb>翻弄</rb><rt>ほんろう</rt></ruby>されたかのように、体じゅうの血が、<ruby><rb>呪</rb><rt>のろ</rt></ruby>いと口惜しさに<ruby><rb>沸</rb><rt>たぎ</rt></ruby>り立ってくる。

（世の中の善人なんていう者は、みんな武蔵のような<ruby><rb>君子面</rb><rt>くんしづら</rt></ruby>した奴ばかりだ。ようし、おれはその向うに廻ってやろう。くそ勉強して、窮屈をしのんで、そんな<ruby><rb>似非者</rb><rt>えせもの</rt></ruby>のお仲間入りは<ruby><rb>真</rb><rt>ま</rt></ruby>っ<ruby><rb>平</rb><rt>ぴら</rt></ruby>だ。悪人というならいえ。おれはその<ruby><rb>悪方</rb><rt>あくがた</rt></ruby>へ廻って、一生涯、野郎の出世を<ruby><rb>邪</rb><rt>さまた</rt></ruby>げてくれよう）

何事につけ、いつもよく出す又八の根性ではあったが、今度の場合に限っては、彼が生れて以来胸に抱いた精神力のうちの最大のものであった。

――どんと、ひとりでのように、彼の足は、後ろの<ruby><rb>木連</rb><rt>きつれ</rt></ruby>格子を蹴とばしていた。たった今、そこへお通を押籠めた前の彼と、外に立って<ruby><rb>腕拱</rb><rt>うでぐ</rt></ruby>みして入り直して来た彼とは、わずかな間に、ヘビが<ruby><rb>蛇</rb><rt>じゃ</rt></ruby>になった程、変っていた。

「――ふん、泣いてやがら」

雨乞堂の中の暗い<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>を眺めやって、又八は、こう吐き出すように冷たくいった。

「お通」

「…………」

「やいっ。……さっきの返辞をしろ、返辞を」

「…………」

「泣いていちゃ分らねえ」

足をあげて、蹴ろうとすると、お通は早くもそれを感じて、肩を<ruby><rb>躱</rb><rt>かわ</rt></ruby>しながら、

「あなたへする返辞などはありません。男らしく、殺すならお殺しなさい」

「ばかをいえ」鼻で<ruby><rb>嗤</rb><rt>わら</rt></ruby>って――

「おらあ今、肚を決めた。てめえと武蔵とが、俺の生涯を誤らせたのだから、おれも生涯、てめえと武蔵とに、<ruby><rb>復讐</rb><rt>しかえし</rt></ruby>してやるのだ」

「うそをおいいなさい。あなたの生涯を間違えたのは、あなた自身です。それから、お甲という女のひとではありませんか」

「何をいやがる」

「あなたといい、お杉ばば様といい、どうして、あなたの家のお血すじは、そう他人を<ruby><rb>逆恨</rb><rt>さかうら</rt></ruby>みするのでしょう」

「よけいな口をたたくな。返辞をしろといったのは、おれの家内になるか嫌か、それを一言聞けばよいのだ」

「その返辞ならば、何度でもいたしまする」

「おう<ruby><rb>吐</rb><rt>ぬ</rt></ruby>かせ」

「生きているあいだはおろかなこと、未来まで、わたくしの心に結んだお人の名は宮本武蔵様。そのほかに、心を寄せるお人があってよいものでしょうか。……まして<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>のような<ruby><rb>女々</rb><rt>めめ</rt></ruby>しい男、お通は、嫌いも嫌い、<ruby><rb>身慄</rb><rt>みぶる</rt></ruby>いの出るほど嫌いでございます」

## 三

これ程にいえば、どんな男でも、殺すか、<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めるか、どっちかにするであろう。

お通はそういってから、なんだか胸がすいた。そして又八に、どうされてもやむを得ないと観念していた。

「……ウウム、いったな」

又八は、体のふるえを<ruby><rb>怺</rb><rt>こら</rt></ruby>えながら、努めて冷笑して見せようとした。

「それ程、おれが嫌いか。――はっきりしていていいや。――だがお通、おれもはっきりいっておくぜ。それは、てめえが嫌おうが好こうが、俺はてめえの体を、今夜から先は、自分のものにしてしまうということだ」

「……？」

「なにを<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えるんだ？　……ええおい、てめえも今の言葉は、相当な覚悟をもっていったのだろうが」

「そうです、私はお寺で育ちました。生みの親の顔すら知らない<ruby><rb>孤児</rb><rt>みなしご</rt></ruby>です、死ぬことなど、いつでも、そう怖いとは思っておりません」

「冗談いうな」

又八は、<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>へしゃがみ込んで、<ruby><rb>反向</rb><rt>そむ</rt></ruby>ける顔へ、意地悪く顔を持って行きながら、

「誰が殺す？　――殺してたまるものか。こうしておくのだ！」

いきなり彼は、お通の肩と左の<ruby><rb>手頸</rb><rt>てくび</rt></ruby>をかたくつかまえた。そして着物の上から――彼女の二の腕のあたりを、がぶっと、深く噛みついた。

――ひいイっ、お通は思わず悲鳴をあげた。

身を<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>にもがいて暴れた。そして、彼の歯を<ruby><rb>捥</rb><rt>も</rt></ruby>ぎ離そうとするほど、彼の歯の<ruby><rb>尖</rb><rt>さき</rt></ruby>を肉へ深く入れてしまった。

<ruby><rb>淋漓</rb><rt>りんり</rt></ruby>たる血しおが、小袖の下を這って、縛られている手の指先までぽとぽと垂れてきた。

又八は、それでもなお、<ruby><rb>鰐</rb><rt>わに</rt></ruby>のような<ruby><rb>唇</rb><rt>くち</rt></ruby>を離さなかった。

「…………」

お通の顔は、月明りでも受けているように、見るまに白くなってしまった。又八はぎょッとして、唇を離し、そして彼女の顔の猿ぐつわを<ruby><rb>脱</rb><rt>と</rt></ruby>って、彼女の唇を調べてみた。――もしや舌でも噛み切ったのではなかろうかと。

余りの痛さに、<ruby><rb>喪心</rb><rt>そうしん</rt></ruby>したのであろう、鏡の曇りのような薄い汗が顔に浮いていたが、唇の中にはなんの異常もなかった。

「……おいっ、堪忍しろ。……お通、お通」

身を揺すぶると、お通は、われにかえったが、途端に、ふたたび体を床に転ばせて、

「痛い。……痛い。……城太さアん、城太さあん！　……」

と、うつつに叫び出した。

「痛てえか」

又八は、自分も蒼白になって肩で息をつきながらいった。

「血は止まっても、歯型の<ruby><rb>痣</rb><rt>あざ</rt></ruby>は何年も消えることじゃねえ。おれの、その歯の<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>を、人が見たら何と思う？　……。武蔵が知ったら何と考えるか。……まあ当分の間、いずれ俺の物となるてめえの体に、それを手付の証印として預けておくぜ。逃げるなら逃げてもいい。おれは天下に、おれの歯型のある女に触れた奴は、おれの<ruby><rb>女讐</rb><rt>めがたき</rt></ruby>だといって歩くから」

「…………」

<ruby><rb>梁</rb><rt>うつばり</rt></ruby>の<ruby><rb>塵</rb><rt>ちり</rt></ruby>を微かにこぼして、真っ暗な堂内の床には、よよと泣きむせぶ声ばかりだった。

「……止せっ、いつまで、泣いてやがって。気が<ruby><rb>滅入</rb><rt>めい</rt></ruby>ってしまわあ。もう<ruby><rb>苛</rb><rt>いじ</rt></ruby>めねえから黙れ。……うむ、水をいっぺい持って来てやろうか」

祭壇から<ruby><rb>土器</rb><rt>かわらけ</rt></ruby>を取って、外へ出て行こうとすると、そこの木連格子の外に立って、誰か、覗き見していた者がある。

## 四

誰か？　――とぎょっとしたが、堂の外に見えた人影は、途端にあわてて逃げ<ruby><rb>転</rb><rt>まろ</rt></ruby>んで行く様子なので、又八は猛然と、木連格子を<ruby><rb>排</rb><rt>お</rt></ruby>して、

「野郎っ」

と、追い駈けて出た。

捕まえてみると、この附近の土民らしく、馬の背に、穀物の俵を積み、夜を通して、<ruby><rb>塩尻</rb><rt>しおじり</rt></ruby>の問屋まで行く途中だという。そしてなお、<ruby><rb>諄々</rb><rt>くどくど</rt></ruby>と、

「べつに、どういう<ruby><rb>心算</rb><rt>つもり</rt></ruby>でもなく、お堂の中に、<ruby><rb>女子</rb><rt>おなご</rt></ruby>の泣き声が聞えたので、不審に思って、<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いてみただけでござります」

と、言い訳して、<ruby><rb>平蜘蛛</rb><rt>ひらぐも</rt></ruby>のように、詫び入るだけだった。

弱い者にはどこまでも強くなれる又八であるから、忽ち、<ruby><rb>反身</rb><rt>そりみ</rt></ruby>になって、

「それだけか。――それだけの考えに相違ないか」

と、まるで代官のように威張っていう。

「へい、まったく、それだけのことで……」

と、一方が<ruby><rb>愈〻</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>ふるえ<ruby><rb>顫</rb><rt>おのの</rt></ruby>くと、

「うむ、それなら勘弁してつかわそう。だが、その代りに、馬の背の俵をみんな降ろせ。そして、俵のあとへ、あのお堂の中にいる女を<ruby><rb>括</rb><rt>くく</rt></ruby>しつけて、俺がもうよいという所まで乗せて行くのだ」

勿論、こんな無理を押しつける場合は、又八でない人間でも、必ず刀をひねくり返して見せることは忘れない。

<ruby><rb>嫌応</rb><rt>いやおう</rt></ruby>なしの<ruby><rb>脅</rb><rt>おど</rt></ruby>しである。お通は馬の背中へ<ruby><rb>括</rb><rt>くく</rt></ruby>しつけられた。

又八は、竹を拾って、馬を曳く人間を<ruby><rb>撲</rb><rt>なぐ</rt></ruby>る<ruby><rb>鞭</rb><rt>むち</rt></ruby>としながら、

「こら土民」

「へい」

「街道すじへ出てはならねえぞ」

「では、どこへお越しなさるのでございますか」

「なるべく、人の通らない所を通って、江戸まで行くのだ」

「そんなことを仰っしゃっても無理でございまする」

「何が無理だ。裏街道を行けばいいのだ。さしずめ、<ruby><rb>中山道</rb><rt>なかせんどう</rt></ruby>を<ruby><rb>避</rb><rt>よ</rt></ruby>けて、伊那から甲州へ出るように歩け」

「それやあ、えらい山路で、<ruby><rb>姥神</rb><rt>うばがみ</rt></ruby>から権兵衛峠を越えねばなりませぬで」

「越えればいいじゃねえか。骨惜しみすると、これだぞ」

と、馬を曳く人間へ、絶えず<ruby><rb>鞭</rb><rt>むち</rt></ruby>を鳴らして、

「飯だけはきっと喰わせてやるから、心配せずに歩け」

百姓は、泣き声になって、

「じゃあ旦那、伊那までお供いたしますが、伊那へ出たら放しておくんなさいますか」

又八は、かぶりを振った。

「やかましい。俺がいいという所までだ。その間に、変な素振りをしやがると、ぶッた斬るぞ。俺の<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>り<ruby><rb>用</rb><rt>よう</rt></ruby>なのは、馬だけで、人間なぞは、かえって邪魔くせえくらいなものだ」

道は暗い、山にかかるほど、<ruby><rb>嶮</rb><rt>けわ</rt></ruby>しくなってゆく。そして馬も人も疲れた頃、やっと<ruby><rb>姥神</rb><rt>うばがみ</rt></ruby>の中腹までかかり、足もとに、海のような雲の波と、朝の光を微かに見た。

馬の背にしがみついたまま、<ruby><rb>一言</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>も物をいわずにきたお通も、朝の光を見ると、それまでの間に、もう心をすえてしまったかのように、

「又八さん。後生ですから、もうそのお百姓さんを放してやってください。この馬を返してあげて下さい。――いいえ、私は逃げはしませぬ。ただ、そのお百姓さんが可哀そうですから」

又八はなお、疑ぐっていたが、再三再四、お通が訴えるので、遂に、彼女を馬の背から解いて降ろした後、

「じゃあきっと、素直に俺について歩くな」

と、念を押した。

「ええ、逃げはしませぬ。逃げても、<ruby><rb>蛇歯型</rb><rt>へびはがた</rt></ruby>が消えないうちはむだですから――」

二の腕の<ruby><rb>傷</rb><rt>いた</rt></ruby>みをおさえながら、お通はそういって、唇を噛んだ。

## 星の中

## 一

いかなる場所でも場合でも、武蔵は、寝ようと思う時にすぐ眠り得る修養と健康を持っていた。しかしその時間は、至って短かった。

ゆうべも――

権之助の家へ戻って来てから、着のみ着のまま、<ruby><rb>一間</rb><rt>ひとま</rt></ruby>を借りて横になったが、小鳥の声がし始める頃は、もう眼をさましていた。

けれど昨夜、<ruby><rb>野婦之池</rb><rt>のぶのいけ</rt></ruby>から池尻へ出て、ここへ戻って来たのがもう<ruby><rb>夜半</rb><rt>よなか</rt></ruby>過ぎであった。あの息子も疲れているだろうし、老母もまだ眠っているに違いない。――そう察しられるので、武蔵は小鳥の声を耳にしながら、寝床の中で、やがて雨戸の音のするのをうつらうつらと待っていた。

――すると。

隣の部屋ではない。もう一間ほど先の<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>らしかった。そこで誰やら、しゅくしゅくと<ruby><rb>啜</rb><rt>すす</rt></ruby>り泣いている者がある。

「……おや？」

耳を澄ましていると、泣いているのは、どうやらあの<ruby><rb>精悍</rb><rt>せいかん</rt></ruby>な息子らしく、時々、子どものように<ruby><rb>慟哭</rb><rt>どうこく</rt></ruby>して、

「おっかあ、それやああんまりだ。おらだって、口惜しくねえことがあるものか。……おらのほうが、おっかあよりも、どんなに、口惜しいか知れねえけれど」

と、言葉も、とぎれとぎれにしか聞き取れない。

「大きな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">なり</span>をして、何を泣く――」

こう<ruby><rb>三</rb><rt>み</rt></ruby>ツ<ruby><rb>児</rb><rt>ご</rt></ruby>でもたしなめるように、しっかりした声で――しかし静かに叱っているのは、かの老母に間違いなく、

「それ程、無念と思うなら、この後は心を<ruby><rb>戒</rb><rt>いまし</rt></ruby>めて、一心に道を<ruby><rb>究</rb><rt>きわ</rt></ruby>めて行くことじゃ。……涙などこぼして、見苦しい。その顔を拭きなされ」

「はい。……もう泣きませぬ。<ruby><rb>昨日</rb><rt>きのう</rt></ruby>のような不覚な<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ざま</span>をお目にかけました罪は、どうかお<ruby><rb>宥</rb><rt>ゆる</rt></ruby>し下さいまし」

「――とは叱りましたが、深く思うてみれば、<ruby><rb>下手</rb><rt>へた</rt></ruby>と<ruby><rb>上手</rb><rt>じょうず</rt></ruby>の差。また、無事がつづくほど、人間は<ruby><rb>鈍</rb><rt>なま</rt></ruby>るという。そなたが負けたのは、当り前なことかも知れぬ」

「そうおっかあにいわれるのが、なによりおらあ辛い。<ruby><rb>平常</rb><rt>ふだん</rt></ruby>も朝夕に、お叱りをうけながら、<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>のような未熟な負け方。あんなざまでは、武道で立つなどという大それた志も、われながら恥ずかしい。この上は、生涯、百姓で終るつもりで、武技を磨くよりは<ruby><rb>鍬</rb><rt>くわ</rt></ruby>を持ち、おっかあにも、もっと楽をさせまする」

何事を歎いているのかと、初めは武蔵も<ruby><rb>他事</rb><rt>よそごと</rt></ruby>に聞いていたが、どうやら、<ruby><rb>母子</rb><rt>おやこ</rt></ruby>の対象としている者は、自分以外の他人ではないらしい。

武蔵は、<ruby><rb>憮然</rb><rt>ぶぜん</rt></ruby>として、寝床のうえに坐り直した。――なんというつよい勝敗への執着だろうか。

昨夕の間違いは、もうお互いの間違い事と、心に済ましているのかと思えば、それはそれとして、武蔵に負けたという点を、ここの<ruby><rb>母子</rb><rt>おやこ</rt></ruby>は、今もって、飽くまで不覚な恥辱として、涙にくれるほど無念がっているのである。

「……怖ろしい負けず嫌い」

武蔵は<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いて、そっと次の部屋へかくれた。そして夜明けの薄い光の洩れているそのまた次の一室の内を、隙間からそっと<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いてみた。

見ると、そこは、この家の仏間であった。老母は仏壇を背にして坐り、息子はその前に泣き伏している。――あの逞ましい大男の権之助が、母の前には他愛もなく顔をよごして泣いている。

武蔵が、ふすまの陰から見ているとも知らず、老母はその時また、何が気に<ruby><rb>障</rb><rt>さわ</rt></ruby>ったのか、

「なんじゃと、……これ権之助、今、なんといやったか」

ふいに、声を励まして、息子の<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>がみをつかんでいた。

## 二

年来の志望であった武道を捨てて、<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>からは、生涯百姓で終るつもりで孝養するといった息子のことばが――気に添わないのみか、かえって、老母の心を怒らせたものの如く、

「なに。百姓で終るとか」

息子の襟がみを膝へ引き寄せると、三ツ児の尻でもたたくように、彼女は、歯がゆそうに、権之助を叱るのだった。

「どうぞして、そなたを世に出し、まいちど家名を<ruby><rb>興</rb><rt>おこ</rt></ruby>させたいものと願えばこそ、母もこの年まで、世に望みを繋いでいたものを、このまま、草屋に朽ち終るほどなら、なんで幼少からそなたに書を読ませ、武道を励まし、<ruby><rb>稗粟</rb><rt>ひえあわ</rt></ruby>に細々生きてまで、露命の糸をつむいで来ようぞ」

老母は、ここまでいうと、子の襟がみを抑えたまま、声も<ruby><rb>嗚咽</rb><rt>おえつ</rt></ruby>になってしまって――

「不覚を取ったら、なぜその恥をそそごうとは思わぬか。幸いなことには、あの牢人はまだこの家に泊っておる。眼をさましたら改めて手合せを望み、その<ruby><rb>挫</rb><rt>くじ</rt></ruby>けた気持に信念を取り戻したがよい」

権之助は、やっと顔を上げたが、<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>が悪そうに、

「おっかあ、それが出来るほどならば、おらが何で弱音を吐くものか」

「常の<ruby><rb>其方</rb><rt>そなた</rt></ruby>にも似あわぬこと。どうしてそのように意気地のうなりやったか」

「ゆうべも、半夜のあいだ、あの牢人を連れ歩くうち、絶えず、<ruby><rb>一撃</rb><rt>ひとう</rt></ruby>ちくれてやろうと、狙い続けていたが、どうしても、打ち撲ることができなかった」

「そなたが、<ruby><rb>怯</rb><rt>ひる</rt></ruby>みを抱いているからじゃ」

「いいや、そうでねえ。おらの体にも<ruby><rb>木曾侍</rb><rt>きそざむらい</rt></ruby>の血は流れている。<ruby><rb>御岳</rb><rt>おんたけ</rt></ruby>の神前に二十一日の祈願をかけ、夢想の中に、<ruby><rb>杖</rb><rt>じょう</rt></ruby>の使い方を悟ったこの権之助だ、なんで名もない牢人ずれに――と、幾度も自分では思ってみるが、あの牢人の姿を見ると、どうしても、手が出ねえだ。手を出す先に、駄目だと思ってしまうのだ」

「<ruby><rb>杖</rb><rt>じょう</rt></ruby>をもって、必ず一流を立てますると、御岳の神に誓ったそなたが――」

「でも、よくよく考えてみると、今日までのことは皆、おらの独りよがりだった。あんな未熟で、どうして、一流を<ruby><rb>興</rb><rt>おこ</rt></ruby>すことなどできるものか。そのために貧乏して、おっかあに<ruby><rb>飢</rb><rt>ひも</rt></ruby>じい思いをかけるより、きょう限り、杖を折って、一枚の田でもよけいに<ruby><rb>耕</rb><rt>たがや</rt></ruby>したほうがいいとおらあ考えただが」

「今まで、多くの人々と手合せしても、一度として、負けたということのないそなたが、きのうに限って敗れたのも、思いように依っては、そなたの慢心を、御岳の神がお叱りなされて下されたのかも知れぬが、そなたが杖を折って、わしに不自由なくしてくれても、わしが心は、美衣美食で楽しみはせぬ」

そう<ruby><rb>諭</rb><rt>さと</rt></ruby>してから、老母はなおもいうのだった。奥のお客が<ruby><rb>眼醒</rb><rt>めざ</rt></ruby>めたら、改めてもう一度、<ruby><rb>技</rb><rt>わざ</rt></ruby>を競ってみるがよい。それでも敗れたら、お前の気の済むように、杖を折って、志を断つもよかろうが――と。

ふすまの陰で始終の事を聞いてしまった武蔵は、

（さて、困ったことが……）

と、当惑しながら、そっと去って、ふたたび自分の<ruby><rb>寝床</rb><rt>とこ</rt></ruby>のうえに坐りこんだ。

## 三

どうしたものだろう？

やがて、自分が顔を見せれば、必ず<ruby><rb>母子</rb><rt>おやこ</rt></ruby>の者から、試合を求められるに違いない。

試合えば、自分は、きっと勝つ。

武蔵はそう信じる。

けれども、今度もまた、自分に敗れたなら、あの権之助は、今日まで誇っていた<ruby><rb>杖</rb><rt>じょう</rt></ruby>の自信を失って、ほんとに志を断つであろう。

また、わが子の達成を、唯一の生きがいとして、貧困の中にも子の教育を忘れずに今日まで来た――あの母親の身になったら、どんなに落胆するだろうか。

「……そうだ、この試合は、<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>すに限る。だまって、裏口から逃げ出そう」

縁の戸をそっと開けて、武蔵は外へ出た。

もう朝の<ruby><rb>陽</rb><rt>ひ</rt></ruby>が木々の<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>から薄白くこぼれている。ふと納屋のある片隅を見ると、きのうお通にはぐれて<ruby><rb>此家</rb><rt>ここ</rt></ruby>へ拾われて来た<ruby><rb>牝牛</rb><rt>めうし</rt></ruby>が、今日は今日の陽を豊かに浴びて、そこらの草を喰べていた。

（おい、達者で暮せよ）

そんな気持がふと牛に向ってもわくのであった。武蔵は防風林の垣を出て、駒の裾野の畑道を、もう大股に歩いていた。

片方の耳はひどく冷たいが、今朝は<ruby><rb>鮮</rb><rt>あき</rt></ruby>らかに全姿を見せている駒の<ruby><rb>頂</rb><rt>いただき</rt></ruby>から落ちてくる風に、足元から払われて行くと、ゆうべからの疲れも<ruby><rb>焦躁</rb><rt>しょうそう</rt></ruby>も<ruby><rb>颯</rb><rt>さ</rt></ruby>っと遠方のものになってしまう。

仰ぐと、雲が遊んでいる。

ちぎれちぎれな無数の白い綿雲。各〻が、各〻の<ruby><rb>相</rb><rt>すがた</rt></ruby>を持ち、気ままに自由に屈託なく、<ruby><rb>碧空</rb><rt>あおぞら</rt></ruby>をわがもの顔に戯れてゆく。

「――<ruby><rb>焦心</rb><rt>あせ</rt></ruby>るまい、あまりこだわるまい。会うも別れるも、天地の何ものかがさせている力だ。幼い城太郎にも、弱いお通にも、幼ければ幼いなりに、弱ければ弱いなりに、世間のなかの――それが神だともいえる――<ruby><rb>善性</rb><rt>ぜんしょう</rt></ruby>の人の加護があるであろう」

<ruby><rb>昨日</rb><rt>きのう</rt></ruby>から<ruby><rb>迷</rb><rt>はぐ</rt></ruby>れかけた――いや、<ruby><rb>馬籠</rb><rt>まごめ</rt></ruby>の<ruby><rb>女滝男滝</rb><rt>めたきおたき</rt></ruby>からずっと<ruby><rb>外</rb><rt>そ</rt></ruby>れがちに<ruby><rb>彷徨</rb><rt>さまよ</rt></ruby>ってばかりいた武蔵の心が――ふしぎにも今朝は、自分の歩むべき大道へ、しっかと返っている心地だった。お通は？　――城太郎は？　――とか、そんな眼の<ruby><rb>傍</rb><rt>そば</rt></ruby>のことのみでなく、死後の先までかけている生涯の道の行く手がこの朝――、彼には見えていた。

<ruby><rb>午刻</rb><rt>ひる</rt></ruby>過ぎごろ。

彼の姿は奈良井の宿場の中に見かけられる。軒先の<ruby><rb>檻</rb><rt>おり</rt></ruby>に生きた熊を飼っている<ruby><rb>熊</rb><rt>くま</rt></ruby>の<ruby><rb>胆屋</rb><rt>いや</rt></ruby>だの、獣皮を懸け並べた<ruby><rb>百獣屋</rb><rt>ももんじや</rt></ruby>だの、<ruby><rb>木曾櫛</rb><rt>きそぐし</rt></ruby>の店だの、ここの宿場もなかなかの<ruby><rb>雑鬧</rb><rt>ざっとう</rt></ruby>。

その熊の胆屋の一軒。なんの意味か「大熊」と看板に書いてある<ruby><rb>角店</rb><rt>かどみせ</rt></ruby>の前に立って、

「ものを訊ねたいが」

と武蔵がのぞく。

後ろ向きに釜の湯を、自分で汲んで呑んでいた熊の胆屋のおやじが、

「はあ、何でござりますか」

「奈良井の大蔵殿というお人の店はどこであろうか」

「ああ、大蔵殿のお店ならば、これからもう一つ先の辻で――」

と、湯呑み茶碗を持ったまま、おやじは、<ruby><rb>店頭</rb><rt>みせさき</rt></ruby>まで出て来て道を指さしたが、折ふし、外から帰って来た<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">とんぼ</span>頭の<ruby><rb>丁稚</rb><rt>でっち</rt></ruby>の顔を見かけると、

「これこれ。こちら様はの、大蔵殿のお店を尋ねて行かっしゃるという。あのお店構えは、ちょっと分らんによって、前まで、お連れ申して<ruby><rb>来</rb><rt>こ</rt></ruby>う」

と、いいつけた。

<ruby><rb>丁稚</rb><rt>でっち</rt></ruby>は、<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いて、先にてくてく歩いてゆく。武蔵は心のうちで、その親切にも感じたが、かねて権之助から聞いていた言葉も思い合せて、奈良井の大蔵という者の徳望のほどが<ruby><rb>偲</rb><rt>しの</rt></ruby>ばれた。

## 四

お百草の<ruby><rb>卸問屋</rb><rt>おろしや</rt></ruby>といえば、軒並みにある旅人相手の店の一つのようなものかと思って来たところ、見れば、まるで想像は<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>れている。

「お侍さん、ここが奈良井の大蔵様のお宅でございますよ」

案内してくれた熊の胆屋の丁稚は、なるほど、側まで連れて来て貰わなければそれとも分るまいと思われる――目の前の<ruby><rb>大家</rb><rt>たいけ</rt></ruby>を指さして、すぐ走り戻って行った。

店と聞いていたが、<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>も看板も懸けてはない。<ruby><rb>渋</rb><rt>しぶ</rt></ruby>で塗った三間の出格子に、<ruby><rb>二</rb><rt>ふ</rt></ruby>た<ruby><rb>戸前</rb><rt>とまえ</rt></ruby>の土蔵がつづき、その他は高塀で取り<ruby><rb>繞</rb><rt>めぐ</rt></ruby>らしてある。入口には、<ruby><rb>蔀障子</rb><rt>しとみしょうじ</rt></ruby>が<ruby><rb>下</rb><rt>お</rt></ruby>りていて、訪れるにも、ちょっと<ruby><rb>億劫</rb><rt>おっくう</rt></ruby>なほど、大きな<ruby><rb>老舗</rb><rt>しにせ</rt></ruby>の奥ふかさを持っている。

「ご免」

武蔵はそこを開けていう。

中は暗い。そして、醤油屋の土間のように広くて、冷たい日陰の空気が顔に触れた。

「どなたさまで――」

と、帳場<ruby><rb>箪笥</rb><rt>だんす</rt></ruby>の隅から程なく立って来る者がある。武蔵は、後ろを閉めて、

「それがしは宮本と申す牢人者ですが、連れの城太郎――ようやく十四歳ほどの<ruby><rb>童</rb><rt>わらべ</rt></ruby>が、昨日か――ことによると今朝あたり――ご当家を頼って来たように途中で聞いて参りました。もしやご当家のお世話になってはおりますまいか」

武蔵のことばが終らないうちに、番頭の顔には、ああその子供か――という<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>きが漂い、

「それはそれは」

と、丁寧に敷物をすすめたが、辞儀をした後の返辞は、武蔵を失望させるものだった。

「それは、残念なことをいたしましたわい。その子供なら、ゆうべ<ruby><rb>夜半</rb><rt>よなか</rt></ruby>に、ここの表戸をどんどん叩きましてな――ちょうど手前どもの主人大蔵様には旅立ちの立ち振舞いで、まだ賑やかに大勢して起きておりました折なので――何事かと開けてみますと、ただ今、あなたのお訊ね遊ばしたその城太郎という子供が、門に立っておりましたようなわけで」

<ruby><rb>老舗</rb><rt>しにせ</rt></ruby>の奉公人の常として、実直すぎて<ruby><rb>前措</rb><rt>まえお</rt></ruby>きも<ruby><rb>諄々</rb><rt>くどくど</rt></ruby>しいが、つづまる所、要旨は、次のようなことだった。

（この街道のことなら何でも奈良井の大蔵さんの所へ頼みに行け）

と、武蔵も誰かに教えられた通り、城太郎もまた、お通を<ruby><rb>攫</rb><rt>さら</rt></ruby>われたわけを告げて、此処へ泣きこんで来たところ、<ruby><rb>主人</rb><rt>あるじ</rt></ruby>の大蔵がいうには、

（そいつは<ruby><rb>容易</rb><rt>たやす</rt></ruby>くないぞ。念のため、手配はしてやるが、この近くの野武士や荷持人足の<ruby><rb>仕業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>ならすぐ分るが、旅の者が旅の者を<ruby><rb>誘拐</rb><rt>かどわか</rt></ruby>したことだ。いずれ往来の街道を<ruby><rb>避</rb><rt>よ</rt></ruby>けて、間道へ出てしまったにちがいない）

そう見込みはつけたが、つい今朝方まで、八方へ人を派して、捜索したけれど、大蔵の予言のとおり、なんの手懸りも得られなかった。

<ruby><rb>愈〻</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>、知れないとなると、城太郎はまた、ベソを掻き出したが、ちょうど今朝は、大蔵が旅立ちの日なので、

（どうだ、おれと一緒に歩かないか。そうしたら、<ruby><rb>途々</rb><rt>みちみち</rt></ruby>も、そのお通さんとやらを探せるし、また、ひょいと、武蔵とかいうお前のお師匠さんに会えない限りもないからなあ）

<ruby><rb>慰</rb><rt>なぐさ</rt></ruby>め半分に、大蔵がいったところ、城太郎は地獄で仏に会ったように、ぜひ一緒に行くといい――一方もそれではと、急に連れて行く気になって、旅の空へ立ったばかり――という番頭の話なのである。

それも、時間にすれば、わずか<ruby><rb>二刻</rb><rt>ふたとき</rt></ruby>ばかりの違いなのに――

と、いかにも気の毒そうに、繰返していった。

## 五

二刻の差があっては、いくら急いで来たところで、間に合わなかったことは確実だが、それにしても――と武蔵は残念な気がする。

「して、大蔵殿のお旅先は、いずれでござろうか」

訊ねると、番頭の答えはまた、甚だ<ruby><rb>漠</rb><rt>ばく</rt></ruby>としたもので、

「ご覧の通り、手前どもの店は、表を張っておりませぬし、薬草は山で<ruby><rb>製</rb><rt>つく</rt></ruby>り、売子は春秋の二回に、仕入れた荷を背負って、諸国へ<ruby><rb>行商</rb><rt>あきない</rt></ruby>に出てしまいまする。それゆえ、<ruby><rb>主人</rb><rt>あるじ</rt></ruby>は<ruby><rb>閑</rb><rt>ひま</rt></ruby>の多い体で、<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>があれば神社仏閣に詣でたり、湯治に日を暮したり、名所を見たりするのが道楽なのでござりましてな――今度も、多分、善光寺から、越後路を見物して、江戸へはいるのではないかとは思いますが」

「では、お分りにならぬのか」

「とんともう、はっきりと、行く先をいって出た<ruby><rb>例</rb><rt>ためし</rt></ruby>のないお方で」

それから、番頭は、

「まア、お茶をひとつ」

と、一転して、店からそこまで、歩くにもかなりかかるような奥へ茶を取りにはいって行ったが、武蔵は、ここに落着いている気にもなれない。

やがて、茶を運んで来た番頭に向い、主人の大蔵の容貌や年配を訊いてみると、

「はいはい、道中でお会いなされましても、てまえどもの御主人なら、一目でお分りになるに違いございません。お年は五十二におなりでございますが、どうして、まだ屈強な骨ぐみで、お顔は、どちらかといえば<ruby><rb>角</rb><rt>かく</rt></ruby>で<ruby><rb>赭</rb><rt>あか</rt></ruby>ら<ruby><rb>顔</rb><rt>がお</rt></ruby>のほうで、それに<ruby><rb>痘瘡</rb><rt>ほうそう</rt></ruby>の<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>がいっぱいござりましてな、右の<ruby><rb>小鬢</rb><rt>こびん</rt></ruby>に、少々ばかり<ruby><rb>薄禿</rb><rt>うすはげ</rt></ruby>が見えまするで」

「<ruby><rb>背丈</rb><rt>せたけ</rt></ruby>は」

「並の方とでも申しましょうか」

「衣服は、どんな物を」

「これは、今度のお旅には、<ruby><rb>堺</rb><rt>さかい</rt></ruby>でお求めなされたとかいう唐木綿の<ruby><rb>縞</rb><rt>しま</rt></ruby>を着て行かれました。これは珍しいもので、まだ世間一般には着ているお方も稀でございますから、主人を追っておいで遊ばすには、何よりもよい目印になろうかと存じまする」

彼の人柄はそれであらまし分った。なおこの番頭を相手にして話をしていたら<ruby><rb>限</rb><rt>き</rt></ruby>りもあるまい。折角なので、茶を一<ruby><rb>喫</rb><rt>きつ</rt></ruby>するとすぐ武蔵はそこを出て、先へと急いだ。

明るいうちにはもう難かしいかも知れないが、夜を通して、<ruby><rb>洗馬</rb><rt>せば</rt></ruby>から塩尻の宿場を過ぎ、今夜のうちに、峠まで登って待ちかまえていれば、その間に、二刻の<ruby><rb>道程</rb><rt>みちのり</rt></ruby>は追い越し、やがて夜明けと共に、後から奈良井の大蔵と城太郎が通りかかるにきまっている。

「そうだ。先へ越えて、<ruby><rb>彼処</rb><rt>あそこ</rt></ruby>で待てば――」

<ruby><rb>贄川</rb><rt>にえがわ</rt></ruby>、洗馬も過ぎて、<ruby><rb>麓</rb><rt>ふもと</rt></ruby>の宿場までかかると、すでに陽はかげって、夕煙の這う往来に、軒ごとの<ruby><rb>燈火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>が、春の<ruby><rb>晩</rb><rt>くれ</rt></ruby>ながら、なんともいえない山国の<ruby><rb>佗</rb><rt>わび</rt></ruby>しさを<ruby><rb>瞬</rb><rt>またた</rt></ruby>いている。

そこから塩尻峠の頂までは、なお二里以上はある。武蔵は、息もつかず登りつめた。そしてまだそう<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>けぬうちに、いの字ヶ原の高原に立ち、ほっと息をつきながら、身を星の中に置いて、しばらく<ruby><rb>恍惚</rb><rt>こうこつ</rt></ruby>となっていた。

## <ruby><rb>導母</rb><rt>どうぼ</rt></ruby>の<ruby><rb>杖</rb><rt>じょう</rt></ruby>

## 一

武蔵はふかく眠った。

今、彼の眠っている小さい<ruby><rb>祠</rb><rt>ほこら</rt></ruby>の<ruby><rb>廂</rb><rt>ひさし</rt></ruby>には、<ruby><rb>浅間</rb><rt>せんげん</rt></ruby>神社という額が見える。

そこは高原の一部から、<ruby><rb>瘤</rb><rt>こぶ</rt></ruby>のように盛り上がっている岩山の上で、この塩尻峠では、さし当って、ここより高い所は見当らない。

「おおうい。登って来いよ。富士山が見えるで」

ふいに耳元で人声がしたので、<ruby><rb>祠</rb><rt>ほこら</rt></ruby>の縁に手枕で寝ていた武蔵は、むっくりと起きあがって、いきなり<ruby><rb>眩</rb><rt>まばゆ</rt></ruby>い暁雲に眼を射られたが、人影は見えないで、はるか<ruby><rb>彼方</rb><rt>かなた</rt></ruby>の雲の海に、真っ赤な富士のすがたを見出した。

「ああ、富士山か」

武蔵は少年のように驚異の声を放った。絵に見ていた富士、胸に描いていた富士を、<ruby><rb>眼</rb><rt>ま</rt></ruby>のあたりに見たのは、今が生れて初めてなのだった。

しかも寝起きの唐突に、それを自分と同じ高さに見出して、<ruby><rb>対</rb><rt>むか</rt></ruby>い合ったのであるから、彼はしばらくわれを忘れ、ただ、

「――ああ」

というため息を胸の中に曳いて、<ruby><rb>瞬</rb><rt>まじろ</rt></ruby>ぎもせず眺め入っていた。

何を感じたのであろうか、そのうちに武蔵の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>には涙の玉が<ruby><rb>転</rb><rt>まろ</rt></ruby>びはしっている。拭こうともしないで、その顔は朝の陽に<ruby><rb>灼</rb><rt>や</rt></ruby>かれて涙のすじまで紅く光って見えた。

――人間の小ささ！

武蔵は<ruby><rb>衝</rb><rt>う</rt></ruby>たれたのである。宏大な宇宙の下にある小なる自己が悲しくなったのであった。

明らかに彼の胸を割れば、一乗寺下り松で、吉岡の遺弟何十名という数を、まったく自己の一剣の下に征服してからは、いつのまにか彼の胸にも、

（世の中は甘いぞ）

と、ひそかに自負の芽が<ruby><rb>萌</rb><rt>きざ</rt></ruby>していた。天下の剣人と名乗る者は数あっても、およそ何程のものでもあるまいという慢心が首を<ruby><rb>擡</rb><rt>もた</rt></ruby>げかけていた。

だが。

たとい剣において、望むがごとき大豪となったところで、それがどれほど偉大か、どれほどこの地上で持ち得る<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>か。

武蔵は、悲しくなる。いや富士の悠久と優美を見ていると、それが口惜しくなってくる。

<ruby><rb>畢竟</rb><rt>ひっきょう</rt></ruby>、人間は人間の限度にしか生きられない。自然の悠久は真似ようとて真似られない。自己より偉大なるものが厳然と自己の上にある。それ以下の者が人間なのだ。武蔵は、富士と対等に立っていることが<ruby><rb>恐</rb><rt>こわ</rt></ruby>くなった。彼はいつのまにか地上にひざまずいていた。

「…………」

そして合掌していた。

合わされたふたつの<ruby><rb>掌</rb><rt>て</rt></ruby>を通して、彼は母の冥福を祈った。国土の恩を感謝した。お通や城太郎の無事を祈った。また神の天地のごとく、偉大なるわけにはゆかないが、人間として、小ならば小なりに偉くなりたい――と自己の希望をも心のそこで祈った。

「…………」

なお、彼は掌をあわせていた。

すると、

――ばか、なぜ人間が小さい。

と、いう声がした。

――人間の眼に映って初めて自然は偉大なのである。人間の心に通じ得て初めて神の存在はあるのだ。だから、人間こそは、最も<ruby><rb>巨</rb><rt>おお</rt></ruby>きな<ruby><rb>顕現</rb><rt>けんげん</rt></ruby>と行動をする――しかも生きたる霊物ではないか。

――おまえという人間と、神、また宇宙というものとは、決して遠くない。おまえのさしている三尺の刀を通してすら届きうるほど近くにあるのだ。いや、そんな差別のあるうちはまだだめで、達人、名人の域にも遠い者といわなければなるまい。

合掌のうちに、武蔵がそんな<ruby><rb>閃</rb><rt>ひらめ</rt></ruby>きを胸に<ruby><rb>享</rb><rt>う</rt></ruby>けていると、

「なアるほど！　よく見えらあ」

「お富士様が、このように拝める日は、すくのうござりますよ」

下から這い上がって来た四、五名の旅人たちが、手をかざして、ここの景観を<ruby><rb>称</rb><rt>たた</rt></ruby>え合っていた。その町人たちの中にも、山を単なる山としている者と、神として仰ぐ者と、<ruby><rb>自</rb><rt>おのずか</rt></ruby>らふたつあった。

## 二

<ruby><rb>瘤山</rb><rt>こぶやま</rt></ruby>の下の高原の道には、もう西と東から行き<ruby><rb>交</rb><rt>か</rt></ruby>う旅人の影が、蟻のように見下ろされる。

<ruby><rb>祠</rb><rt>ほこら</rt></ruby>の裏へ廻って、武蔵は、その道を見張っていた。――やがて奈良井の大蔵と城太郎が、麓から登って来るにちがいない。

そしてもし<ruby><rb>此方</rb><rt>こちら</rt></ruby>で見つけ損ねても、先方があれを見落す気づかいはあるまい――と安心していた。

なぜならば、彼は入念に、この岩山の下の道ばたに、板切れを拾って、それへこう書いて目につく崖に立てかけて置いてあるからである。

奈良井の大蔵どの

御通過のみぎりは

お会い申したく、

上の<ruby><rb>小祠</rb><rt>しょうし</rt></ruby>にて、お

待ち申しおり候

城太郎の師　武蔵

ところが、往来の多い朝の一刻を過ぎ、高原のうえに陽の高くなる頃まで待っても、似た人も通らないし、彼の立ててきた札を見て、下から声をかける者もない。

「おかしいなあ？」

と、<ruby><rb>怪訝</rb><rt>いぶか</rt></ruby>らざるを得ない気持に<ruby><rb>囚</rb><rt>とら</rt></ruby>われてしまう。

「来ないわけはないが？」

と、どうしても思う。

この高原の嶺を境にして、道は甲州、<ruby><rb>中山道</rb><rt>なかせんどう</rt></ruby>、北国街道の三方にわかれているし、水はみな北へ<ruby><rb>駛</rb><rt>はし</rt></ruby>って、越後の海へ落ちてゆく。

奈良井の大蔵が、たとい善光寺<ruby><rb>平</rb><rt>だいら</rt></ruby>へ出るにしても、中山道へ向うにしても、ここを通らないという理窟は考えられない。

だが、世間のうごきを、理窟で<ruby><rb>推</rb><rt>お</rt></ruby>してゆくと、とんだ間違いが往々に起る。何か急に、方角を変えたか、まだ手前の<ruby><rb>麓</rb><rt>ふもと</rt></ruby>に泊まっているかもしれない。腰に一日の用意は提げているが、朝飯と<ruby><rb>午飯</rb><rt>ひるめし</rt></ruby>をかねて、麓の宿場まで戻ってみようか？

「……そうだ」

武蔵は、岩山を降りかけた。

その時である。

岩山の下から、

「あッ、いたっ」

と、ぶしつけな呶鳴り方をした者がある。

その声には、殺気があった。おとといの晩、いきなり身をかすめた棒の唸りに似ていた。はっと思いながら武蔵が岩につかまりながら下を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>くと、果たせるかな、声を投げて仰向いている眼はあの時の眼であった。

「――客人、追って来たぞ」

こう呼ばわる者は、駒ヶ岳のふもとの土民権之助で、見ると、あの百姓家にいた母親までを連れている。

その老母を牛の背にのせ、権之助は、例の四尺ほどの棒と手綱を持って、武蔵の姿を<ruby><rb>睨</rb><rt>ね</rt></ruby>めあげていうのだった。

「客人！　いい所で会った。だまって俺の宿から逃げ出したのは、こっちの肚を察して、<ruby><rb>躱</rb><rt>かわ</rt></ruby>したつもりだろうが、それでは俺の立つ瀬がねえ。もういっぺん試合をしろ。おれの<ruby><rb>杖</rb><rt>じょう</rt></ruby>をうけてみろ」

## 三

――降りかけた足を止めて、武蔵は岩と岩の間の急な細道の途中で、しばらく、岩に<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>ったまま、下を見ていた。

降りて来ない、と見たか、下なる権之助は、

「おっかあ、ここで見ていさっしゃい。なにも、試合するには、<ruby><rb>平地</rb><rt>ひらち</rt></ruby>と限ったこたあねえ。登って行って、あの相手を、眼の下へたたき落してみせる」

母の乗っている牛の手綱を放し――小脇の杖を持ち直して――やにわに岩山の根へ取りつこうとすると、

「これ！」

彼の母はたしなめた。

「いつぞやも、そのような<ruby><rb>粗忽</rb><rt>そこつ</rt></ruby>が不覚の<ruby><rb>因</rb><rt>もと</rt></ruby>ではないか。いきり立つ前に、なぜよう敵の心を読んでおかぬのじゃ。もし上から石でも落されたらどうしやる」

なお何か、<ruby><rb>母子</rb><rt>おやこ</rt></ruby>のあいだで、交わしている声は聞える。しかし意味は武蔵の所までは聞きとれない。

その間に、武蔵は肚を決めていた。――やはりこの挑戦は避けるに<ruby><rb>如</rb><rt>し</rt></ruby>くはないという考えである。

すでに自分は、勝っているのだ。彼の杖の技倆もわかっている。改めてなお勝つ要はさらにない。

のみならず、あの一敗を口惜しがって、母子してここまで自分の後を慕って来たところを見ると、<ruby><rb>愈〻</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>、負けずぎらいな母子の恨みの程が怖ろしい。吉岡一門を敵とした例を見ても、怨みののこるような試合はすべきでない。益は少なくて、まちがえば、天命を縮めてしまう。

それにまた、武蔵は、子を盲愛するの余り人を呪う無知な老母の恐ろしさは、身にも骨にも沁みて、一日一度は必ず思い出すほどだった。

あの又八の母親――お杉ばばの影を。

何を好んで、また人の子の母から、呪いを買おう。どう考えても、これは逃げるの一手、ほかに当り<ruby><rb>障</rb><rt>さわ</rt></ruby>りなく通る道はなさそうに思われる。

で、彼は無言のまま、半ばまで降りて来た岩山を、またふたたび上へ向って、のそのそと登りかけた。

「――あっ、お武家」

その背へ、下からこう呼んだのは、気の荒い息子の方ではなく、今、牛の背を降りて地上に立った老母の方であった。

「…………」

声の力にひかれて、武蔵は足もとを振りかえってみた。

見ると、老母は、岩山の根の辺りに坐って、じっと自分を見上げている。武蔵の眸が下へ振向いたと知ると、老母は両手をついているのである。

武蔵はあわてて、向き直らずにいられなかった。一夜の恩にこそ預かっているが、そして、なんの礼ものべずに裏口から逃げ出してしまってこそいるが、この長上から、地へ両手をついて、辞儀されることは何もしていない。

（お老母、勿体ない、お手を上げてください）

そういいたそうに、武蔵は思わず、伸ばしていた膝を<ruby><rb>屈</rb><rt>かが</rt></ruby>めてしまった。

「――お武家、さだめし、<ruby><rb>我</rb><rt>が</rt></ruby>のつよい者、他愛ない奴と、お<ruby><rb>蔑</rb><rt>さげす</rt></ruby>みでございましょうの。恥かしゅうござりまする。しかし……遺恨の、<ruby><rb>自惚</rb><rt>うぬぼ</rt></ruby>れのと、思い<ruby><rb>募</rb><rt>つの</rt></ruby>るのではございませぬ。年頃、杖をつかい馴れて、師もなく、友もなく、またよい相手に巡り会わぬこの<ruby><rb>伜</rb><rt>せがれ</rt></ruby>を、<ruby><rb>不愍</rb><rt>ふびん</rt></ruby>と思し召して、もう一手のお教えをうけたいのでござりまする」

武蔵はなお、無言であった。けれど老母が、届きかねる声を一心に張って、こう下からいう言葉には、耳を洗って聞かなければならない<ruby><rb>真</rb><rt>まこと</rt></ruby>がこもっていた。

「このままお別れ申しては、どうにも残念でござります。ふたたび貴方のようなお相手に会えるやらどうやら。――なおなお、あの見苦しい敗れ方のままでは、この子も、この母も、以前は名だたる武門であった御先祖に、どう顔向けがなりましょう。意趣ではございませぬぞ。敗けるにしても、あれではただの土民がねじ伏せられただけのものでござります。折角、巡り会うた貴方のようなお方から、なにも得ずに過ぎては、それこそ口惜しい限りでございます。わしは、それを伜に叱って連れて参りました。――どうぞわしの願いをかなえて<ruby><rb>試合</rb><rt>しあ</rt></ruby>ってやって下されい。お願い申しまする」

いい終ると、老母は、武蔵の<ruby><rb>踵</rb><rt>かかと</rt></ruby>を拝むように、また、大地へ両手をつかえていた。

## 四

武蔵は黙って降りて来た。そして<ruby><rb>道傍</rb><rt>みちばた</rt></ruby>の老母の手を取って、牛の背へ押しもどし、

「権どの、手綱を持て、歩きながら話そう。――<ruby><rb>試合</rb><rt>しあ</rt></ruby>うか、試合わぬかは、わしも歩きながら考えるとして」

と、いった。

次に彼は、黙々と、その背を母子の者に向けて歩いて行く。話しながら歩こうといったのに、その沈黙は変らない。

武蔵が何を迷っているか、権之助にはその肚が<ruby><rb>酌</rb><rt>く</rt></ruby>めないのである。疑いの眼を彼の背へ光らしている。そして一歩でも<ruby><rb>距</rb><rt>へだ</rt></ruby>つまいとするもののように、<ruby><rb>遅</rb><rt>のろ</rt></ruby>い牛の脚を叱咤しながら<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて行った。

<ruby><rb>嫌</rb><rt>いや</rt></ruby>というか。

応か。

牛の背の老母もまだ不安そうな顔に見えた。そして、十町か二十町も高原の道を歩いたかと思う頃、先に歩いていた武蔵が、

「ウム！」

と独り返辞をしながら、くるりと、<ruby><rb>踵</rb><rt>きびす</rt></ruby>をめぐらし、

「――立合おう」

と、いきなりいった。

権之助は手綱を捨て、

「承知か」

即座にもと思ったらしく、もう足場を見まわすと、武蔵は、意気ごむ相手を眼の外に<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>いて、

「じゃが――母御」

牛の背へいうのである。

「万が一のことがあってもよろしいか。試合と斬合とは持ち物がちがうだけで、紙一重ほどの相違もないが」

念を押すと、老母は初めてにこと笑って、

「御修行者、お断りまでもないことを仰せられる。<ruby><rb>杖</rb><rt>じょう</rt></ruby>を<ruby><rb>習</rb><rt>まな</rt></ruby>び出してからもう十年。それでもなお、年下のあなたに負けるような伜であったら、武道に思いを断つがよい。――その武道に望みを断っては、生きるかいもないといいやる。さすれば、打たれて死んだとて当人も本望である。この母も、恨みにはぞんじませぬ」

「それまでにいうならば」

と、武蔵は、眸を一転して、権之助の捨てた手綱をひろい、

「ここは往来がうるさい。どこぞへ牛を繋いで、心ゆくまで、お相手いたそう」

いの字ヶ原のまっただ中に、枯れかけている一本の<ruby><rb>巨</rb><rt>おお</rt></ruby>きな<ruby><rb>落葉松</rb><rt>からまつ</rt></ruby>が見える。あれへと指して、武蔵はそこへ牛を導き、

「権どの。支度」

と、促した。

待ちかねていた権之助は、おうと武蔵の前に棒をひっ提げて立った。武蔵は直立したまま、相手を静かに見た。

「…………」

武蔵には木剣の用意がない。そこらの得物を拾って持つ様子もなかった。肩も張らず、二本の手は柔かに下げたままである。

「支度をしないのか」

今度は権之助からいった。

武蔵は、

「なぜ？」

と、反問した。

権之助は、<ruby><rb>憤</rb><rt>む</rt></ruby>っと、眼から出すような声で、

「得物を<ruby><rb>把</rb><rt>と</rt></ruby>れ、何でも好む物を」

「持っておる」

「無手か」

「いいや……」

首を振って、武蔵は、左の手をそっと忍ばすように、刀の<ruby><rb>鍔</rb><rt>つば</rt></ruby>の下へ移して、

「此処に」

といった。

「なに！　真剣で」

「…………」

答えは、唇の端に<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>めた微笑を以てした。低い一声、静かな呼吸の一つも、もう<ruby><rb>徒</rb><rt>いたず</rt></ruby>らに<ruby><rb>費</rb><rt>つい</rt></ruby>やすことはできないものになっている。

<ruby><rb>落葉松</rb><rt>からまつ</rt></ruby>の根元へ、濡れ仏のように、べたっと坐り込んでいた老母の顔は、途端にさっと蒼ざめた。

## 五

――真剣で。

武蔵がいったために、老母は急に<ruby><rb>動顛</rb><rt>どうてん</rt></ruby>したのであろうか。

「ア。待って<ruby><rb>賜</rb><rt>た</rt></ruby>も」

ふいに横からいった。

だが、武蔵の眼、権之助の眼、そう<ruby><rb>双</rb><rt>ふた</rt></ruby>つのものは、もうそれくらいな制止では、針程も動かなかった。

権之助の棒は、この高原の気をみんな吸って、一撃の唸りにそれを噴き出そうとするもののように、じっと小脇に含んで構え、武蔵の片手は、<ruby><rb>鍔</rb><rt>つば</rt></ruby>の下に<ruby><rb>膠着</rb><rt>こうちゃく</rt></ruby>したまま、相手の眼の中へ、自分の眼光を突っこむような眼をしているのである。

もう二人は、内面において、斬り結んでいるのである。眼と眼とは、この場合、太刀以上、棒以上に相手を斬る。まず眼を以て斬り伏せてから、棒か<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>か、どっちかの得物がはいって行こうとするのである。

「待たッしゃれ！」

老母は、また叫んだ。

「――何か？」

と、答えるためには、武蔵は四、五尺も後へ身を退いていた。

「真剣じゃそうな」

「いかにも。――木剣でいたしても、真剣でいたしても、拙者の試合は同じことですから」

「それを止めるのではないぞえ」

「お分りならばよいが、剣は絶対だ……手にかける以上、五分までの、七分までの、そんな<ruby><rb>仮借</rb><rt>かしゃく</rt></ruby>があるものではない。――さもなくば、逃げるかがあるばかり」

「元よりのこと。――わしが止めたは、それではない。これほどな試合に、後で名乗り合わなんだことを悔やんではと――ふと思い寄ったからじゃ」

「うむ、いかにも」

「怨みではなし、しかし、どちらから見ても、会い難きよい相手、この世の<ruby><rb>縁</rb><rt>えにし</rt></ruby>。――権よ、そなたから名乗ったがよい」

「はい」

権之助は、素直に一礼して、

「遠くは、木曾殿の幕下、太夫房<ruby><rb>覚明</rb><rt>かくみょう</rt></ruby>と申し、その人を家祖といい伝えております。なれども、覚明は木曾殿の滅亡後、出家して、<ruby><rb>法然</rb><rt>ほうねん</rt></ruby>上人の<ruby><rb>室</rb><rt>しつ</rt></ruby>に参じておりますゆえ、その一族やも知れませぬ。年久しく、土民として今、私の代に至りましたが、父の世の頃、或る恥辱をうけ、それを無念におもいまして、母と共に誓いをたて、<ruby><rb>御岳</rb><rt>おんたけ</rt></ruby>神社に参籠して、必ず、武道をもって世に立つことを神文に誓ったのです。――そして神前において、会得したこの杖術を、自ら<ruby><rb>夢想</rb><rt>むそう</rt></ruby>流と称し、人はてまえを呼んで、夢想権之助といっております」

彼が口を結ぶと、武蔵も礼儀を返して、

「拙者の家は、<ruby><rb>播州</rb><rt>ばんしゅう</rt></ruby>赤松の支流、平田<ruby><rb>将監</rb><rt>しょうげん</rt></ruby>の末で、<ruby><rb>美作</rb><rt>みまさか</rt></ruby>宮本村に住し、宮本無二斎とよぶものの一子、<ruby><rb>同苗</rb><rt>どうみょう</rt></ruby>武蔵であります。さして、有縁の者もおりませず、また、元より武辺に身をゆだねて世にさすろう以上は、たとえこれにおいて、<ruby><rb>其許</rb><rt>そこもと</rt></ruby>の杖の下に、<ruby><rb>敢</rb><rt>あえ</rt></ruby>なく一命を終ろうとも、毛骨のお手数などはご無用な<ruby><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>です」

と、いった。そして、

「では」

と、立ち直ると、権之助も杖を<ruby><rb>把</rb><rt>と</rt></ruby>り直して、

「では」

と、応じた。

## 六

松の根もとに坐りこんだ老母はその時、息もしていないように見えた。

降りかかった災難とでもいうならばともかく、われから求めて、追いかけて来てまで、わが子を今、<ruby><rb>白刃</rb><rt>しらは</rt></ruby>の前に立たせている。――常人には到底考えられない心理の中に、しかし、この老母は<ruby><rb>自若</rb><rt>じじゃく</rt></ruby>としているのだ。万人が何といおうが、自分だけは深く信じるところがあるもののような姿をして――。

「…………」

べたんと、坐ったまま、肩をすこし前へ落し、行儀よく両手を膝にかさねている。幾人の子を生み、幾人の子を<ruby><rb>亡</rb><rt>な</rt></ruby>くして、貧苦の中に耐えてきた肉体か、その姿はいかにも小さい。そして<ruby><rb>萎</rb><rt>しぼ</rt></ruby>みきっている。

――だが今、武蔵と権之助とが、何尺かの土の間に対峙して、

「では」

と、戦端を切ったせつなに、老母の眸は、天地の仏神が皆集まってそこから覗いているような、巨大な光を発した。

彼女の子は、すでに武蔵の剣の前に、その運命を<ruby><rb>曝</rb><rt>さら</rt></ruby>していた。武蔵が<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>を払った瞬間に、権之助はもう自分の運命がわかったような気がして、体がさっと冷たくなった。

（はて、この人間は？）

と今、<ruby><rb>観</rb><rt>み</rt></ruby>えて来たのである。

いつぞや、わが家の裏で、不用意に闘って感得した敵とはまるでその<ruby><rb>体</rb><rt>たい</rt></ruby>が違う。文字でいうならば、彼は、草書の武蔵を見て、武蔵の人間を律していたが、きょうの厳粛で、一点一画もゆるがせにしない、武蔵の楷書の<ruby><rb>体</rb><rt>たい</rt></ruby>を見て、自分が敵を<ruby><rb>量</rb><rt>はか</rt></ruby>るに、意外なまちがいを抱いていたことを<ruby><rb>覚</rb><rt>さと</rt></ruby>ったのである。

また、それが覚れる権之助であるから、いつぞやは自信にまかせて、滅多打ちに振りこんだ<ruby><rb>杖</rb><rt>じょう</rt></ruby>も、きょうは、頭上へたかく振りかぶったまま――まだ一打の唸りすら呼び起すことができない。

「…………」

「…………」

いの字ヶ原の<ruby><rb>草靄</rb><rt>くさもや</rt></ruby>は、かかるあいだに<ruby><rb>薄</rb><rt>う</rt></ruby>ッすらと<ruby><rb>霽</rb><rt>は</rt></ruby>れかけていた。遠くかすんでいる山の前を、一羽の鳥影が悠々と横ぎってゆく。

――ぱッと、二人のあいだの空気が鳴った。飛ぶ鳥も落ちるような見えない震動である。それはまた、杖が空気を<ruby><rb>搏</rb><rt>う</rt></ruby>ったのか、剣が大気に鳴ったのか、いずれともいえないことは、禅でいう、隻手の声は<ruby><rb>如何</rb><rt>いかん</rt></ruby>というのと同じことである。

――のみならず双方の五体と<ruby><rb>得物</rb><rt>えもの</rt></ruby>の一<ruby><rb>如</rb><rt>にょ</rt></ruby>なうごき方は、とても肉眼に依って見て取ることは難かしい。はっと、視覚から脳へそれが直感する一秒間の何分の一かわからない一瞬に、すでに眼に<ruby><rb>映</rb><rt>うつ</rt></ruby>る二人の位置と姿勢はまるで変っている。

権之助が振り落した一撃は、武蔵の体の外を<ruby><rb>搏</rb><rt>う</rt></ruby>ち、武蔵が小手を<ruby><rb>翻</rb><rt>ひるがえ</rt></ruby>して、中位から上位へ向けて<ruby><rb>薙</rb><rt>な</rt></ruby>ぎ上げた<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>は、権之助の体の外とはいいながら、殆ど右の肩から<ruby><rb>小鬢</rb><rt>こびん</rt></ruby>の毛をかすめるくらいに<ruby><rb>閃</rb><rt>ひらめ</rt></ruby>いていた。

同時に、この場合も、武蔵の刀は、彼のみの持っている特質として、相手の身を<ruby><rb>外</rb><rt>そ</rt></ruby>れて行く所まで行くと、ヒラと、すぐ松葉<ruby><rb>形</rb><rt>なり</rt></ruby>に切先を返して来た。この返す切先の下こそ、いつも彼の相手の地獄となるところであった。

ために、第二撃を、敵に与える<ruby><rb>遑</rb><rt>いとま</rt></ruby>もなく、権之助は杖の両端を持って、武蔵の刀を、頭上で受け止めた。

かんと、彼の<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>の上で、杖は鳴った。<ruby><rb>白刃</rb><rt>しらは</rt></ruby>と杖とのこんな場合、杖は当然両断になってしまいそうなものだが、刃が斜めに来ない限り、決して切れるものでない。従って、受ける方にも、その手心があって、権之助が頭上へ横に<ruby><rb>翳</rb><rt>かざ</rt></ruby>した杖は、敵の手元へ深く左の<ruby><rb>肱</rb><rt>ひじ</rt></ruby>を突ッこみ、右の肱をやや高く折り曲げて、咄嗟、武蔵の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みずおち</span>を、杖の突端で突かんとしながら受けたものであった。しかし武蔵の<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>はたしかに止まったが、その捨て身な<ruby><rb>迅業</rb><rt>はやわざ</rt></ruby>は、成功しなかった。――なぜならば、杖と刀とが、彼の頭上で、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がっき</span>と十字に噛み合ったせつな、<ruby><rb>杖</rb><rt>じょう</rt></ruby>の先と武蔵の胸のあいだには、惜しくも、ほんの一寸ほどな空間を残していたからである。

## 七

引きもならない。

押してもゆけない。

<ruby><rb>無碍</rb><rt>むげ</rt></ruby>にそれをやろうとすれば、忽ち、<ruby><rb>焦心</rb><rt>いら</rt></ruby>だつほうが敗れるにきまっている。

これが、刀と刀との場合ならば、つば<ruby><rb>競</rb><rt>ぜ</rt></ruby>りというのであろうが、一方は刀でも、一方は杖である。

杖には<ruby><rb>鍔</rb><rt>つば</rt></ruby>がない、刃がない、また、切先も<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>もない。

けれど、丸い四尺の杖は、その全部が刃であり、切先であり、また、柄であるともいい得る。従って、これを上手に使われると、杖の千変万化なことは、到底、剣の比ではない。

剣の六感で、

（こう来るな）

というような測定をもったらとんだ目にあう。杖は、時によって、刀のような性格を持って、短槍と同じ働きもするからである。

十文字になった杖と刀の上から、武蔵が刀を引けない理由は、その予測がゆるされないからであった。

権之助の方はなおさらである。彼の杖は、武蔵の刀を、頭上に支えているのであるから、受身の<ruby><rb>体</rb><rt>たい</rt></ruby>であった。――引くはおろか、もし、満身の<ruby><rb>気魄</rb><rt>きはく</rt></ruby>を、びくとでも<ruby><rb>弛</rb><rt>ゆる</rt></ruby>めたらば、

（得たり）

と、武蔵の刀は、そのまま一押しで、彼の頭を砕いてしまうであろう。

<ruby><rb>御岳</rb><rt>おんたけ</rt></ruby>の夢想をうけて、杖の自由を体得したという権之助も、今はどうすることも出来なかった。

見ているまに、彼の顔は蒼白になって行った。下唇へ前歯がめりこんでいる。吊るしあがった眼じりから<ruby><rb>脂汗</rb><rt>あぶらあせ</rt></ruby>がねっとりと流れ出す。

「…………」

頭上に受けとめている杖と刀の十字が波を打ってくる。その下に、権之助の息が刻々に荒くなっていた。

――すると。

その権之助以上、蒼ざめた形相となって、松の根がたから凝視していた老母が、

「権ッ」

と、さけんだのである。

権――と絶叫した瞬間に老母はわれを忘れていたに違いない。坐っていた腰を伸び上げて、その腰を自分で<ruby><rb>強</rb><rt>したた</rt></ruby>かに打ちながら、

「腰じゃわえ！」

と<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>って、そのまま血でも吐いたのか、前へのめってしまった。

武蔵も権之助も、ふたりとも石に<ruby><rb>化</rb><rt>な</rt></ruby>るまで離れそうにも見えなかった杖と刀が、とたんに、噛み合ったせつなよりも凄まじい力を持って、ぱッと離れた。

武蔵の方からである。

<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>いたのも、二尺や三尺ではない。右か左か、どっちかの<ruby><rb>踵</rb><rt>かかと</rt></ruby>が、土を掘ったような勢いであった。その反動、彼の体は七尺も後ろへ移っていた。

しかし、その距離は、権之助の飛躍と、四尺の杖に、すぐ迫られて、

「――あッ」

と、武蔵は辛くも横へ払い<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>けた。

死地から攻勢に立ったとたんに払い捨てられたので、権之助は、頭を大地へ突っこむような勢いで、だッと、前へのめった。そして、強敵に会った<ruby><rb>隼</rb><rt>はやぶさ</rt></ruby>が、死にもの狂いとなったように、髪逆立てた武蔵の眼の前に、明らかに、空いている背中を<ruby><rb>曝</rb><rt>さら</rt></ruby>してしまった。

一本の雨のような細い閃光が、その背を切った。――うううっと、仔牛のように<ruby><rb>唸</rb><rt>うめ</rt></ruby>きながら、権之助はなお、ととととと、三足ほど歩いてそのまま仆れ、武蔵も片手で<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みずおち</span>を抑えながら、草の中へ、どたっと、腰をついて坐ってしまった。

そして、

「――負けた！」

と叫んだ。

武蔵がである。

権之助は声もない。

## 八

前のめりに仆れたまま、権之助はいつまでも動かなかった。――それを見入っているうちに、老母も<ruby><rb>喪心</rb><rt>そうしん</rt></ruby>してしまった。

「<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みね</span>打ちです」

武蔵は、老母へ向って、こう注意を与えた。それでもまだ、老母が起って来ないので、

「はやく、水をおやりなさい。御子息には、何処も怪我はない筈だ」

「……えっ？」

老母は、初めて顔を上げ、やや疑うように権之助の姿を見ていたが、武蔵のいうとおり、血にまみれてはいなかったので、

「オオ」

次には、<ruby><rb>蹌</rb><rt>よろ</rt></ruby>めいて、いきなりわが子の体へ、<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>りついた。水を与え、名を呼んで、老母がその体を揺り動かすと、権之助は息をふき返した。――そして茫然と坐っている武蔵を見ると、

「怖れいりました」

いきなりその前へ行って土に<ruby><rb>額</rb><rt>ぬか</rt></ruby>ずいた。武蔵はわれに還ると共に、慌ててその手を握り取って、

「いや、敗れたのは、<ruby><rb>其許</rb><rt>そこもと</rt></ruby>ではない、拙者の方です」

彼は、<ruby><rb>襟元</rb><rt>えりもと</rt></ruby>を<ruby><rb>披</rb><rt>ひら</rt></ruby>いて、自分の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みずおち</span>を、二人へ見せた。

「<ruby><rb>杖</rb><rt>じょう</rt></ruby>の先が、赤い<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>になっているでしょう。もう少し入ったら、恐らく拙者の<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>はなかったに違いない」

いいながらも、武蔵はまだ、茫然としているのである。どうして敗れたかを理解し切るまでは。

同じように、権之助も老母も、彼の皮膚にある一点の紅い<ruby><rb>斑点</rb><rt>はんてん</rt></ruby>をながめて、口もきけなかった。

武蔵は襟を合わせて、老母に訊ねた。――今、二人が試合のうちに、腰！　と叫んだのは何のためか。あの場合、権之助殿の腰構えに、そも、どういう虚を見出されて、あんな声を発しられたのか。

すると、老母は、

「お恥かしいことじゃが、せがれはただ、あなたの刀を杖で支えるに必死となって、両足を踏まえておりました。<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>いても危ない、突いても危ない、絶体絶命の縛りに会っての。――それを横から見ておるうち、はっと、武術も何も判らぬわしにすら見えた虚がある。それは――あなたの刀に心のすべてを奪われていたから縛りに会ったのじゃ。手を引こうか、手をもって突こうかと、<ruby><rb>逆上</rb><rt>うわず</rt></ruby>っているので更に気がつかぬようじゃったが、あの体のまま、手もそのまま、ただ腰を落しさえすれば、自然に杖の先が、相手の胸元へどんと伸びる……そこじゃと、思うたので、何を叫んだのやら思わず口走ったのでござりました」

と、いう。

武蔵はうなずいた。よい教えを受けたと、この機縁に感謝した。

黙然と、権之助も聞いていた。彼にも何か会得するところがあったに違いない。これは、<ruby><rb>御岳</rb><rt>おんたけ</rt></ruby>の神の夢想ではない、眼の前に、子が斬られるか生きるかの境を見て、現実の母が、愛の中からつかみ出した「窮極の活理」であった。

木曾の一農夫権之助、後に、夢想権之助と称して、夢想流<ruby><rb>杖術</rb><rt>じょうじゅつ</rt></ruby>の始祖となった彼は、その伝書の奥書に、

“<ruby><rb>導母</rb><rt>どうぼ</rt></ruby>の一手”

なる秘術を<ruby><rb>誌</rb><rt>しる</rt></ruby>して、母の大愛と、武蔵との試合を<ruby><rb>審</rb><rt>つまび</rt></ruby>らかにしているが「武蔵に勝つ」とは書いていない。彼は生涯、武蔵に負けたと人にも語り、その負けたことを尊い記録としていた。

それはそうと、この<ruby><rb>母子</rb><rt>おやこ</rt></ruby>の多幸を祈って別れ、いの字ヶ原を去って、武蔵が<ruby><rb>上諏訪</rb><rt>かみすわ</rt></ruby>の辺りまで行き着いたかと思わるる頃、

「この道筋を、武蔵という者が通らなかったであろうか。たしかに、この道へ来たわけだが――」

と、馬子の<ruby><rb>立場</rb><rt>たてば</rt></ruby>だの行き交う旅人に、<ruby><rb>途々</rb><rt>みちみち</rt></ruby><ruby><rb>訊合</rb><rt>ききあ</rt></ruby>わせながら、後を慕ってゆく一名の武家があった。

## <ruby><rb>一夕</rb><rt>いっせき</rt></ruby>の<ruby><rb>恋</rb><rt>こい</rt></ruby>

## 一

どうも痛む……。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みずおち</span>の中心を<ruby><rb>外</rb><rt>そ</rt></ruby>れて少し<ruby><rb>肋骨</rb><rt>ろっこつ</rt></ruby>にかかっている。夢想権之助からうけた<ruby><rb>杖</rb><rt>じょう</rt></ruby>の痛みである。

<ruby><rb>麓</rb><rt>ふもと</rt></ruby>か、<ruby><rb>上諏訪</rb><rt>かみすわ</rt></ruby>のあたりに足をとめて、城太郎の姿を探し、お通の消息を知らねばならぬと思うのであったが、なんとなく気が冴えない。

彼は、下諏訪まで足を伸ばした。下諏訪まで行けば<ruby><rb>温泉</rb><rt>ゆ</rt></ruby>がある。そう思ってから急に真っ直に歩いたのである。

湖畔の町は、町屋千軒といわれていた。本陣の前の屋根のある風呂小屋が一ヵ所見えたが、後は往来<ruby><rb>傍</rb><rt>ばた</rt></ruby>にあって、誰が<ruby><rb>入浴</rb><rt>はい</rt></ruby>ろうと怪しむ者はない。

武蔵は、着物を立木の枝に懸け、大小を<ruby><rb>括</rb><rt>くく</rt></ruby>り付けた。そして、野天風呂の一つに体を<ruby><rb>浸</rb><rt>つ</rt></ruby>けて、

「ああ」

と、石を枕に、眼をふさいだ。

今朝から<ruby><rb>革</rb><rt>かわ</rt></ruby>ぶくろのように硬ばっていた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みずおち</span>を、そうして湯の中で<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>んでいると、眠くなるような快さが血管を<ruby><rb>繞</rb><rt>めぐ</rt></ruby>ってくる。

<ruby><rb>陽</rb><rt>ひ</rt></ruby>が傾きかけている。

<ruby><rb>漁師</rb><rt>りょうし</rt></ruby>の家でもあろうか。湖畔の家と家の間から見える水面には、<ruby><rb>茜色</rb><rt>あかねいろ</rt></ruby>の<ruby><rb>淡靄</rb><rt>うすもや</rt></ruby>が立って、それも皆湯のように感じられる。二、三枚の畑を隔てたすぐそこの往来には、馬や人間や車の行き交う物音が頻繁であった。

と――その辺の油や荒物を売っている<ruby><rb>小</rb><rt>ささ</rt></ruby>やかな店先で、

「<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>を一足くれぬか」

と<ruby><rb>床几</rb><rt>しょうぎ</rt></ruby>を借りうけて、<ruby><rb>足拵</rb><rt>あしごしら</rt></ruby>えを直している侍がいっているのである。

「うわさはこの辺へも聞えておろう。京都一乗寺の下り松で、吉岡方の大勢を一身にうけ、近頃ではめずらしい、よい試合ぶりをした男だ。確かに通ったに違いないが、気づかなかったかの」

塩尻峠を越えると間もなくから、往来を訊いて歩いている例の武家であった。そのくせ、そうよくは知らないと見えて、問われた者から、服装や年頃などを反問されると、

「さあ、その程は」

と、あいまいなのである。

しかし、何の用があるのか、熱心は熱心で、そこでも見かけないという返辞を聞くと、ひどく落胆して、

「何とか、会いたいものだが……」

と、草鞋の<ruby><rb>緒</rb><rt>お</rt></ruby>をくくり終えても、まだ愚痴のように繰返している。

自分のことではないか。

武蔵は、畑越しに、湯の中からその武家を<ruby><rb>篤</rb><rt>とく</rt></ruby>と見ていた。

<ruby><rb>旅焦</rb><rt>たびや</rt></ruby>けのしている皮膚――四十ぐらいな年配――牢人ではない<ruby><rb>主持</rb><rt>しゅもち</rt></ruby>である。

笠の<ruby><rb>紐癖</rb><rt>ひもぐせ</rt></ruby>でそそけているのかも知れないが、<ruby><rb>小鬢</rb><rt>こびん</rt></ruby>の毛が荒く立って、これが戦場に立ったら、<ruby><rb>武者面</rb><rt>むしゃづら</rt></ruby>のほども<ruby><rb>偲</rb><rt>しの</rt></ruby>ばれる骨柄である。裸にしたら<ruby><rb>鎧</rb><rt>よろい</rt></ruby>ずれや具足だこで鍛え抜かれている体だろうとも思われる。

「はて……覚えがないが」

考えている間に、武家は立ち去ってしまった。吉岡の名を口にしたところから見て、事によったら、吉岡の遺弟ではあるまいかなどとも思ってみる。

あれだけの門下のうちだ。気骨のある人間もいよう。<ruby><rb>奸計</rb><rt>かんけい</rt></ruby>をめぐらして、復讐しようとつけ狙っている者がないとはいえない。

体を拭き、衣服を着けて、武蔵がやがて往来へ姿を現すと、何処からか出て来た最前の武家が、

「お訊ね申すが」

と、ふいに彼の前に会釈して、しげしげと顔を見ながらいった。

「もしや尊公は、宮本殿ではござるまいか」

## 二

不審顔に、武蔵がただ<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>くと、彼を<ruby><rb>糺</rb><rt>ただ</rt></ruby>したその武家は、

「やあ、さてこそ」

と、自分の六感に凱歌をあげて、また、さもさも懐かしげに、

「とうとうお目にかかることが出来、大慶至極。……いや何かしら、今度の旅では、何処かでお目にかかれるような気持が、初めからいたしておった」

と、独りで<ruby><rb>欣</rb><rt>よろこ</rt></ruby>んでいる。

そして武蔵が、何を問う<ruby><rb>遑</rb><rt>いとま</rt></ruby>もなく、とにかく今夜はご迷惑でも同宿ねがいたいといい、

「さりとて、決して不審な者ではござらぬ。こう申しては、<ruby><rb>烏滸</rb><rt>おこ</rt></ruby>のようなれど、いつも道中には、供の者十四、五名は連れ、乗り換え馬の一頭も曳かせて歩く身分の者でござる。念のため名乗り申すが、奥州青葉城の<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>、<ruby><rb>伊達</rb><rt>だて</rt></ruby>政宗公の臣下で、<ruby><rb>石母田外記</rb><rt>いしもだげき</rt></ruby>という者でござる」

とつけ足した。

意にまかせて伴われてゆくと、外記は湖畔の本陣に泊りを<ruby><rb>定</rb><rt>き</rt></ruby>め、通るとまず、

「風呂は」

と、自分で訊ねながら、すぐ自分で打ち消して、

「いや、尊公はもう、野天風呂でおすみじゃな。では失礼して」

と、旅装を解き、気軽に手拭を持って、出て行ってしまう。

おもしろそうな男ではある。しかし武蔵にはまだ分っていない。一体、何であんなに自分の後を尋ね、自分に親しみを持っているのか？

「おつれ様も、お召替えなさいませぬか」

と、宿の女が、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どてら</span>を出して彼へすすめる。

「わしは<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>らぬ。都合によっては、ここへ泊るか泊らぬか、まだ分らぬのだから――」

「おや、左様でございますか」

開け放してある縁へ出て、武蔵はようやく暮れてきた湖水へ<ruby><rb>眸</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>をやり、その眸に、またふと、

「どうしたか？」

と物思わしく、彼女の悲しむ時の<ruby><rb>睫毛</rb><rt>まつげ</rt></ruby>などを、描いていた。

うしろで女中が膳をすえている物音が静かにする。やがて<ruby><rb>燈火</rb><rt>あかり</rt></ruby>が背から<ruby><rb>映</rb><rt>さ</rt></ruby>す。そして<ruby><rb>欄</rb><rt>てすり</rt></ruby>の前のさざ波は、見ているうちに<ruby><rb>濃藍</rb><rt>のうらん</rt></ruby>から真っ暗になってゆく。

「……はてな、この道へ来たのは、方角を取り違えたのではないか。お通は<ruby><rb>誘拐</rb><rt>かどわか</rt></ruby>されたという。女を誘拐す程な悪い奴が、こんな繁華な町へさしかかるわけはない」

そんなことを考えたりしていると、耳に彼女の救いをよぶ声が聞えるような気がする。何事も天意だと達観していながら、すぐ居ても立ってもいられない心地がしてくる。

「いや、どうも、大きに失礼を<ruby><rb>仕</rb><rt>つかまつ</rt></ruby>った」

<ruby><rb>石母田外記</rb><rt>いしもだげき</rt></ruby>が戻って来た。

「さ、さ」

と早速、膳の前へ、着座をすすめたが、自分だけの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どてら</span>姿に気づいて、

「尊公も、どうぞ、お着替えくだされい」

と、<ruby><rb>強</rb><rt>た</rt></ruby>っていう。

それを武蔵も、<ruby><rb>強</rb><rt>た</rt></ruby>って固辞して、常に樹下石上のおきふしに馴れている身、寝るにもこのままの姿、歩くにもこのままの姿、それでなかなか<ruby><rb>寛</rb><rt>くつろ</rt></ruby>げもすれば窮屈でもございませぬと答えると、

「いや、それよ」

と、<ruby><rb>外記</rb><rt>げき</rt></ruby>は膝を叩いて、

「政宗公のお心がけは、行住坐臥、やはりそこにござる。かくもあろうお人とは思っていたが、ウウムさすがは」

と、燈火を横にうけている武蔵の顔を、穴のあく程、見惚れているのだった。

そしてわれに返ると、

「いざ。おちかづきに」

と、杯を洗って、これからの夜を心ゆくまで楽しもうとするもののように、<ruby><rb>慇懃</rb><rt>いんぎん</rt></ruby>に一<ruby><rb>献</rb><rt>こん</rt></ruby>向ける。

辞儀だけして、手は膝においたまま、武蔵は初めて訊ねた。

「外記殿。これは一体どうしたご好意でござりますか。路傍の拙者を追って、このお親しみは？」

## 三

改まって、何のために？　と武蔵から訊かれると、外記は初めて、自分の独りのみ込みに気づいたらしく、

「いや成程、ご不審はごもっともじゃ。――しかしべつだん意味はないので、<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いて、何のために、路傍のそれがしが路傍の尊公に、かくまでも親しみを持つかと問わるるならば――一言で申さば――惚れたのでござるよ」

と、いってまた、

「あははは。男が男に、惚れたのでござるよ」

と、いい重ねる。

石母田<ruby><rb>外記</rb><rt>げき</rt></ruby>は、これで十分、自分の気持を説明したつもりらしいが、武蔵にとっては、少しも説明されたことにはならない。

男が男に惚れるということはあり得よう。けれど武蔵はまだ、惚れる程な男に会った経験がない。

惚れるという対象に持つには、沢庵は少し<ruby><rb>恐</rb><rt>こわ</rt></ruby>すぎるし、光悦とは住む世の中が<ruby><rb>隔</rb><rt>へだ</rt></ruby>たりすぎ、柳生石舟斎となるともう余りに先が高すぎて、好きな人とも呼びかねる。

かくて過去の知己を振向いてみても、男が惚れる男などが、そうある筈のものではない。――それをこの石母田外記は無造作に、

（あなたに惚れた）

と、自分へいう。

お<ruby><rb>追従</rb><rt>ついしょう</rt></ruby>であろうか。そんなことを軽々しくいう男はよほど軽薄と思ってもよい。

けれど外記の剛毅な風貌から見ても、そんな軽薄な徒ではないことは、武蔵にも何だか分る気がするのである。

そこで彼は、

「惚れたと仰っしゃるのは、いかなる意味でございましょうか」

<ruby><rb>愈〻</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>、真面目に、こう問い直すと、外記はもう次にいうことばを待っていたように、

「――実は、一乗寺下り松のお働きを伝え聞いて、失礼ながら、今日まで、見ぬ恋にあこがれておったのじゃ」

「ではその頃、京都に<ruby><rb>御逗留</rb><rt>ごとうりゅう</rt></ruby>でございましたか」

「一月より上洛して、三条の<ruby><rb>伊達</rb><rt>だて</rt></ruby>屋敷におりましたのじゃ。あの一乗寺の斬合いがあった翌日、何気なくいつも参る烏丸光広卿をお<ruby><rb>館</rb><rt>やかた</rt></ruby>にたずねてゆくと、そこで<ruby><rb>種々</rb><rt>さまざま</rt></ruby>な尊公の噂。お館は一度、尊公とも会ったことがあると仰せられ、お年ばえや、<ruby><rb>閲歴</rb><rt>えつれき</rt></ruby>なども承って、愈〻思慕のおもいに駆られ、どうかして一度、会いたいものと念じていた願いかなって――今度の<ruby><rb>下向</rb><rt>げこう</rt></ruby>に、計らずも尊公が、この道を下っているということを――あの塩尻峠に書いておかれた立札で承知したのでござる」

「立札で？」

「――されば、奈良井の大蔵とかをお待ちになる由を、札に書いて、道ばたの崖へ立てて置かれたであろう」

「ああ、あれを御覧になられたのですか」

武蔵はふと世の中の皮肉をおぼえた。――<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>で探し求める者とは巡り会わずに、かえって、思いがけない無縁の人にこうして探し当てられているとは――

だが、外記の心を聞いてみれば、この人の<ruby><rb>衷情</rb><rt>ちゅうじょう</rt></ruby>は身に過ぎて勿体ない。三十三間堂の果し合いといい一乗寺の血戦といい、武蔵にとっては、むしろ<ruby><rb>慚愧</rb><rt>ざんき</rt></ruby>な<ruby><rb>傷心</rb><rt>いたみ</rt></ruby>が多く、誇る気もちなどは毛頭ないが、あの事件は、相当世間の耳目を<ruby><rb>聳動</rb><rt>しょうどう</rt></ruby>して、うわさの波を天下に拡げているらしい。

「いや、それは面目ないことです」

武蔵は、心からいった。そして心から恥ずかしかった。こんな人に惚れられる資格など自分にないと思うのであった。

ところが外記は、

「百万石の<ruby><rb>伊達</rb><rt>だて</rt></ruby>武士のうちにも、よい侍はずいぶんいる。また、こう世間を歩いてみるに、剣の達人上手も少なくない。したが、尊公のようなのは稀でござろう。末たのもしいというのは尊公のような若者じゃ。まったくそれがしは惚れました」

と、称揚して<ruby><rb>熄</rb><rt>や</rt></ruby>まない。――そしてまた、

「で、今夜は、それがしが<ruby><rb>一夕</rb><rt>いっせき</rt></ruby>の<ruby><rb>恋</rb><rt>こい</rt></ruby>を遂げた訳。ご迷惑でも、どうか一<ruby><rb>献</rb><rt>こん</rt></ruby>お過ごしあって、存分、わがままをいってもらいたいのじゃ」

と、手の杯を洗い直した。

## 四

武蔵は心を開いて杯をうけた。そして例のごとくすぐ赤くなってしまう。

「雪国の侍は、みな酒が強うござるよ。――政宗公がおつよいので、勇将の<ruby><rb>下</rb><rt>もと</rt></ruby>、弱卒なしで」

と、<ruby><rb>石母田外記</rb><rt>いしもだげき</rt></ruby>は、まだなかなか酔うほどに行っていない。

酒を運ぶ女に、幾度か、灯を<ruby><rb>剪</rb><rt>き</rt></ruby>らせて、

「ひとつ今夜は、飲み明かし、語り明かそうではないか」

武蔵も腰をすえて、

「やりましょう」

と、笑みを含め、

「――外記殿は最前、烏丸のお<ruby><rb>館</rb><rt>やかた</rt></ruby>へはよく参ると仰せられたが、光広卿とご懇意でございますか」

「ご懇意という程でもないが――主人の使いなどで、しげしげ参るうちに、あのように<ruby><rb>御気</rb><rt>ごき</rt></ruby><span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">さく</span>なので、いつのまにか、<ruby><rb>馴々</rb><rt>なれなれ</rt></ruby>しゅう伺っておるので」

「<ruby><rb>本阿弥</rb><rt>ほんあみ</rt></ruby>光悦どののお<ruby><rb>紹介</rb><rt>ひきあ</rt></ruby>わせで、私もいちど、柳町の扇屋でお目にかかりましたが、<ruby><rb>公卿</rb><rt>くげ</rt></ruby>にも似あわぬ、快活な御気性と見うけました」

「快活？　……それだけでござったかの……」

と外記はすこしその評に不満らしく、

「もっと長く話してみたら、必ずあの<ruby><rb>卿</rb><rt>きみ</rt></ruby>が抱いている情熱と智性でもお感じになったであろうに」

「何分、場所が、遊里でござりましたゆえ」

「なるほど、それではあの<ruby><rb>卿</rb><rt>きみ</rt></ruby>が、世間を化かしている姿しかお見せなさるまい」

「では、あの方の、ほんとの<ruby><rb>相</rb><rt>すがた</rt></ruby>はどこにあるのですか」

何気なく、武蔵が問うと、外記は坐り直して、ことばまで改め、

「<ruby><rb>憂</rb><rt>うれ</rt></ruby>いの中にあるのでござる」

と、いった。

そして、なお、

「――その憂いはまた、幕府の横暴にあるのでござりまする」

と、いい足した。

湖水のゆるい波音のあいだに、白々と<ruby><rb>燈</rb><rt>ひ</rt></ruby>は揺れていた。

「武蔵どの。――尊公はいったい、誰のために、剣を磨こうとなされるか」

こんな質問は、受けたことがない。武蔵は率直に、

「自分のために」

と、答えた。

外記は大きく、

「ム。それでいい」

と<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いたが、またすぐ、

「その自分は、誰のために」

と、たたみかける。

「…………」

「それも自分のためか。まさか尊公ほどな<ruby><rb>精進</rb><rt>しょうじん</rt></ruby>を持つ者が、小さな自己の栄達だけでは、ご満足がなるまいが……」

話は、こんな<ruby><rb>緒口</rb><rt>いとぐち</rt></ruby>から始まったのである。いやむしろ外記がこんな緒口を自分でつくって、自分の話したい本心を<ruby><rb>披</rb><rt>ひら</rt></ruby>き出したといったほうが適切かも知れない。

彼の話によると、今、天下は家康の手に<ruby><rb>帰</rb><rt>き</rt></ruby>して、一応、四海万民みな泰平をたたえているやに見えるが、いったい、ほんとに民のために幸福な世の中が出来たろうか。

北条、足利、織田、豊臣――と長いあいだにわたって、いつも<ruby><rb>虐</rb><rt>しいた</rt></ruby>げられてきたものは、民と皇室である。皇室は利用され、民は<ruby><rb>値</rb><rt>あたい</rt></ruby>なき労力のみにこき使われ――両者のあいだにただ武家の繁栄だけを考えて来たのが、頼朝以後の武家政道――それを<ruby><rb>倣</rb><rt>なら</rt></ruby>った、今日の幕府制度ではあるまいか。

信長は、ややその<ruby><rb>弊</rb><rt>へい</rt></ruby>に気づき、<ruby><rb>大内裡</rb><rt>だいだいり</rt></ruby>を造営して見せたり、秀吉も後陽成天皇の行幸を仰いだり、一般を賑わし楽しませる庶民の福祉政策を取ったりもしたが、家康の政策が本意とする所は、飽くまで徳川家中心で、ふたたび庶民の幸福も皇室も犠牲にして、幕府ばかり<ruby><rb>肥</rb><rt>こ</rt></ruby>え太ってゆく専横時代がやって来るのではなかろうかと、世の<ruby><rb>趨</rb><rt>ゆ</rt></ruby>く先が案じられる――。

「それを案じている者は、天下の諸侯中でも、わが主君伊達政宗公より<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>にはござらぬ。――そして公卿では烏丸光広卿などで」

と、石母田外記は、いうのであった。

## 五

自慢というものは元より聞きづらいものだが、主人の自慢だけは聞いていても悪い気はしない。

わけてこの石母田外記は、主人自慢であるらしかった。今の諸侯の中で、心から国を憂い、また皇室へも、心から<ruby><rb>直</rb><rt>すぐ</rt></ruby>な心をよせている者は、政宗を<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>いて誰もいない――というのである。

「……ははあ」

武蔵はただそう<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>く。

彼には、正直なところ、そう頷くだけの知識しかなかった。関ヶ原の以後、天下の分布図は一変したが、

（世の中がだいぶ変ったな）

と思うだけで、秀頼方の大坂系大名がどう動こうとしているか、徳川系の諸侯が何を<ruby><rb>目企</rb><rt>もくろ</rt></ruby>みつつあるか、島津や伊達などの惑星が、その中にどう厳存しているか――などという大きな時勢への眼は、改めて向けてみたこともないし、それらの常識は、至って浅かった。

それも加藤とか、池田とか、浅野、福島などといえば、武蔵にも、二十二歳の青年なみの観察は持っているが、伊達などというと、もう<ruby><rb>漠</rb><rt>ばく</rt></ruby>として、

（<ruby><rb>表高</rb><rt>おもてだか</rt></ruby>は、六十余万石だが、内容は百万石以上もある<ruby><rb>陸奥</rb><rt>みちのく</rt></ruby>の大藩）

という以外、これぞという知識も持ち合せていない。

だから、ははあと、<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>くばかりで、時には疑い、時には、

（政宗とは、そんな人物か）

と、聞き入るのであった。

外記は、数々な例証をあげて、

「わが主人政宗は、一年二回は必ず国内の産物を挙げて、<ruby><rb>近衛家</rb><rt>このえけ</rt></ruby>の手より禁中へ献上なされる。――どんな戦乱の年でも、この伝献を怠られたことはござらぬ。――今度、自分が都へ上ったのも、その伝献の荷駄について上洛いたしたので、無事お役を果したので、帰り途だけ<ruby><rb>閑暇</rb><rt>ひま</rt></ruby>を賜わって、ひとり見物がてら仙台までもどる途中でござる」

といい、また――

「諸侯のうちで、城内に、帝座の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>を<ruby><rb>設</rb><rt>しつ</rt></ruby>らえてあるのは、わが青葉城があるばかりでござろう。御所の改築の折、古材木をいただいて、遠く船で運んで来たものとか申しまする。とはいえ、いとも質素なもので、主人は朝夕、遠く仰拝する室としているばかりでござるが、武家政道の歴史に<ruby><rb>鑑</rb><rt>かんが</rt></ruby>みて、一朝、見るに見かねる暴状でも世に行われれば、いつ<ruby><rb>何時</rb><rt>なんどき</rt></ruby>でも、朝廷方の御名をかりて、武家をあいてに戦うお心を抱いておられるのじゃ」

外記は、そういってなお、

「そうじゃ、こういうお話もある。それは、朝鮮御渡海のとき――」

と、話しつづける。

「あの<ruby><rb>役</rb><rt>えき</rt></ruby>の折には、小西、加藤など、各〻が功名争いして、いかがわしい聞えもござったが、政宗公のお態度はどうであったか。朝鮮陣中で、背に日の丸の旗差物をさして戦われたのは、政宗公おひとりでござったぞよ。お家の御紋もあるに、何故に左様な旗差物をお用いあるかと人が問われた時、公はこう仰せられた。――いやしくも海外に兵をひっさげて参った政宗は、一伊達家の功名などで戦い申そうか。また、一太閤のために働き申すのでもない。この日の丸の旗を<ruby><rb>故郷</rb><rt>ふるさと</rt></ruby>のしるしと見て身を捨て申す覚悟――とお答えになったとか」

武蔵は、何しろ興味ふかく聞いていた。外記は杯を忘れている。

## 六

「酒が冷えた」

外記は手をたたいて女を呼んだ。そしてなお、酒をいいつけそうなので、武蔵はあわてて、

「もう十分です。私は<ruby><rb>湯漬</rb><rt>ゆづけ</rt></ruby>を頂戴いたしたい」

固辞すると、

「……何の、まだ」

と外記は、残り惜し気に<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いたが、相手の迷惑を思ったか、急に、

「では、飯を貰おうか」

と、女へいい直した。

湯漬を喰べながらも、外記はまだ頻りと主人自慢を話しつづけている。中で武蔵が心を傾けさせられたものは、政宗公という一箇の武辺を中心として、伊達藩の者がこぞって、

（如何に武士たるべきか）

と――武士の本分を、「士道」というものを、磨き合っている風の<ruby><rb>旺</rb><rt>さかん</rt></ruby>なことだった。

今の社会に、「士道」はあるかないか、といえば、武士の興った遠い時代から、漠とした士道はあった。けれど漠としたままそれは古い道徳となり、乱世のつづくうちに、その道義も乱れ果てて、今では太刀を持つ人間の間に、かつての古い士道さえ見失われてしまっている。

そしてただ、

（武士だ）

（弓取りだ）

という観念だけが、戦国のあらしとともに強まっているのみである。新しい時代は来つつあるが、新しい士道は立っていない。従ってその武士だ、弓取りだと自負する者のうちには、<ruby><rb>屡〻</rb><rt>しばしば</rt></ruby>、田夫や町人にも劣る下劣なのが見かけられる。勿論、そういう下劣なる武将は、自ら滅亡を招いてはゆくが、そうかといって、真に「士道」を<ruby><rb>研</rb><rt>みが</rt></ruby>いて、自国の富強の根本としてゆこうと自覚している程な将は――まだ豊臣系や徳川系の諸侯を見わたしても極めて少ないのではあるまいか。

かつて。

それは姫路城の天主の一室へ、武蔵が、沢庵のために、三年のあいだ幽閉されて、陽の目もみずに書物ばかり見ていたあの頃である。

あの沢山な池田家の蔵書の中に、一冊の写本があったことを覚えている。それには、

<ruby><rb>不識庵様日用修身巻</rb><rt>ふしきあんさまにちようしゅうしんかん</rt></ruby>

という<ruby><rb>題簽</rb><rt>だいせん</rt></ruby>がついていた。不識庵とは、いうまでもなく、上杉謙信のことである。書物の内容は、謙信が自身の日用の修身を書きならべて、家臣へ示したものであった。

それを読んで武蔵は、謙信の日常生活を知ると共に、あの時代、越後の富国強兵ないわれを知った。――けれど「士道」というものにまではまだ思い至らなかった。

ところがこよい、石母田外記の話をいろいろ聞いていると、政宗はその謙信にも劣らない人物と思われて来るのみでなく、伊達一藩には、この<ruby><rb>乱麻</rb><rt>らんま</rt></ruby>の世の中にあって、いつのまにか、幕府権力にも屈しない「士道」を生み、それを磨き合っている風が<ruby><rb>勃々</rb><rt>ぼつぼつ</rt></ruby>として、ここに在る、石母田外記一人を見ても、分る気もちがするのであった。

「いや、思わず、それがしばかり勝手なことを<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>ったが……どうじゃな武蔵殿。いちど仙台へもお越しなさらぬか。主人は至って無造作なお方でござる。士道のある侍なら、牢人であろうと、誰であろうと、お気易くお会いなされる<ruby><rb>質</rb><rt>たち</rt></ruby>じゃ。それがしから御推挙もいたそう。ぜひおいでなされ。――ちょうどこうした御縁の折、何ならば、御同道申してもよいが」

膳を下げてから、外記は、熱心にこうすすめたが、武蔵は一応、「考えた上で」と答えて、<ruby><rb>臥床</rb><rt>ふしど</rt></ruby>にわかれた。

べつな部屋へわかれて、枕についてからも、武蔵は眼が冴えていた。

――士道。

じっと、そこに、思索をあつめているうちに、彼は、<ruby><rb>忽然</rb><rt>こつねん</rt></ruby>と、それを自己の剣に<ruby><rb>省</rb><rt>かえり</rt></ruby>みて悟った。

――剣術。

それではいけないのだ。

――剣道。

飽くまで剣は、道でなければならない。謙信や政宗が唱えた士道には、多分に、軍律的なものがある。自分は、それを、人間的な内容に、深く、高く、突き極めてゆこう。小なる一個の人間というものがどうすれば、その生命を托す自然と<ruby><rb>融合調和</rb><rt>ゆうごうちょうわ</rt></ruby>して、天地の宇宙大と共に呼吸し、安心と<ruby><rb>立命</rb><rt>りつみょう</rt></ruby>の境地へ達し得るか、得ないか。行ける所まで行ってみよう。その完成を志して行こう。剣を「道」とよぶところまで、この一身に、徹してみることだ。

――そう心に決定をつかんでから、武蔵はふかく眠りに落ちた。

## <ruby><rb>銭</rb><rt>ぜに</rt></ruby>

## 一

眼をさますと、武蔵はすぐ思い出す。――お通はどうしたろう。また、城太郎はどこを歩いているだろう。

「やあ昨夜は」

と、朝の膳で、石母田外記と顔をあわせる。忘れるともなく話に<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れて、やがて<ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>を立ち出ると、この二人も、<ruby><rb>中山道</rb><rt>なかせんどう</rt></ruby>を往還する旅人の流れの中に交じって行く。

武蔵は、その行き来の流れに、絶えず無意識のうちにも眼をくばっていた。

似た人の後ろ姿にも、はっとして、

（もしや？）

と、すぐそれかと思う。

外記も気がついたのか、

「<ruby><rb>誰方</rb><rt>どなた</rt></ruby>か、お連れでも、お探しかの」

と、訊く。

「さればです」

と、武蔵は<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>いつまんで<ruby><rb>事情</rb><rt>わけ</rt></ruby>を話し、江戸へ参るにしても、<ruby><rb>途々</rb><rt>みちみち</rt></ruby>、その二人の安否を心がけて行きたいから、ここでべつな道を取りたいと、それを<ruby><rb>機</rb><rt>しお</rt></ruby>に、夜来の礼をのべて別れかけた。

外記は、残念そうに、

「折角よい道連れと存じたが、それではぜひもござらぬ。――したが、昨夜も<ruby><rb>諄々</rb><rt>くどくど</rt></ruby>お話ししたが、ぜひ一度、仙台の方へお越しください」

「<ruby><rb>忝</rb><rt>かたじけの</rt></ruby>う存じます。――折もあらばまた」

「<ruby><rb>伊達</rb><rt>だて</rt></ruby>の士風を見ていただきたいのじゃ。さもなくば、さんさ<ruby><rb>時雨</rb><rt>しぐれ</rt></ruby>を聞くつもりでおざれ。歌もいやならば、松島の風光を<ruby><rb>愛</rb><rt>め</rt></ruby>でに渡らせられい。お待ち申すぞ」

そういって、一夜の友は、すたすたと和田峠の方へ一足先に行ってしまった。何となく心ひかれる姿だった。そして武蔵は心のうちで、いつか、伊達の藩地を訪ねてみようとその時思った。

その時代、こういう旅人に出会うことは、武蔵ばかりでなかったろう。なぜならば、まだ<ruby><rb>明日</rb><rt>あす</rt></ruby>をも知れぬ天下の風雲である。諸国の雄藩は頻りと人物を求めている。路傍からよい人物を見出して行って、主君へ推挙することは、家臣として、大きな奉公の一つだからであった。

「旦那、旦那」

後ろで誰か呼びかける。

一度和田の方へかかりながら武蔵がまた、足を<ruby><rb>回</rb><rt>めぐ</rt></ruby>らして、<ruby><rb>下諏訪</rb><rt>しもすわ</rt></ruby>の入口へもどり、甲州街道と中山道のわかれに立って、思案にくれていると、その姿を見かけて来た宿場人足たちの声なのである。

宿場人足といっても、<ruby><rb>荷持</rb><rt>にもち</rt></ruby>もあれば馬曳きもあるし、これから和田へかけては登りなので、極めて原始的な山駕の駕かきもいる。

「――何か？」

と、武蔵はふり返った。

その姿を、無作法に眼で撫で廻しながら、人足たちは<ruby><rb>木像蟹</rb><rt>もくぞうがに</rt></ruby>のような腕を<ruby><rb>拱</rb><rt>く</rt></ruby>んで近づいて来た。

「旦那あ。さっきからお連れを探している様子だが、お連れは<ruby><rb>別嬪</rb><rt>べっぴん</rt></ruby>ですかえ。それともお供でもおあんなさるかね」

## 二

持たせる荷物もないし、<ruby><rb>山駕</rb><rt>かご</rt></ruby>を雇う気もない。

武蔵はうるさくて思って、

「いや……」

と、首を振ったのみで、黙々と、人足たちの群れを離れて、歩みかけたが、彼自身まだ、

（西せんか？　東せんか？）

心に迷っている姿だった。

一度は、何事も天意にまかせて、自分は江戸表へと、心にきめたが、やはり城太郎をふと考え、お通の身を思うと、そうも行かない。

（そうだ、きょう一日だけでも、この附近を尋ねてみよう。……もしそれでも知れなければ、ひとまず<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めて先へ立つとして）

彼の考えがきまった時、

「旦那、もしや何か、お探しになることでもあるなら、どうせあっしらは、こうして陽なたぼッこして遊んでいるのでございますから、お指図なすっておくんなさいまし」

また、寄って来た人足の一人がいうと、<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>の者も、

「駄賃なんざあ、いくらくれとは申しません」

「一体お探しになっているのは、お女中でござんすか、ご老人ですかえ」

余りいうので、武蔵も、

「実は――」

と仔細を話して、誰か、そんな少年と若い女を、この街道筋で見かけた者はないかと訊くと、

「さあ？」

と、彼らは顔を見合わせ、

「誰もまだ、そんなお人は、見かけねえようですが、なあに旦那、こちとらが手分けをして、<ruby><rb>諏訪</rb><rt>すわ</rt></ruby><ruby><rb>塩尻</rb><rt>しおじり</rt></ruby>の三道にかけて、探すとなれやあ造作アありませんぜ。<ruby><rb>誘拐</rb><rt>かどわか</rt></ruby>された<ruby><rb>女子</rb><rt>おなご</rt></ruby>だって、道のねえ所を越えてゆく筈はなし、そこは<ruby><rb>蛇</rb><rt>じゃ</rt></ruby>の道はヘビってもんで、訊き廻るにも、土地に明るいこちとらでなけれやあ分らねえ穴がございますからね」

「なるほど」

武蔵はうなずいた。大きにそれは理窟がある。土地にも不案内な自分が、いたずらに歩いてみたり焦躁するよりは、こういう<ruby><rb>輩</rb><rt>やから</rt></ruby>を使えば忽ち、二人の消息は分るかも知れない。

「――では頼む、ひとつ<ruby><rb>其方</rb><rt>そのほう</rt></ruby>たちの手で、探してくれまいか」

率直にいうと、人足たちは、

「ようがす」

と、一斉にひき受けてから、しばらくがやがや手分けの評議をしていたが、やがて一名の代表者が前へ出て、<ruby><rb>揉手</rb><rt>もみで</rt></ruby>をしながら、

「ええ、旦那え。エヘヘヘ、<ruby><rb>寔</rb><rt>まこと</rt></ruby>に申しかねますが、なにしろ裸商売、こちとらあまだ、朝飯も喰べておりません。夕方までにゃあ、きっと、お尋ねのお人を突き止めますから、半日の日雇い賃と、わらじ銭とを、ちっとばかりやっておくんなさいませんか」

「おう、元よりのこと」

武蔵は当然に思って、貧しい路銀をかぞえてみたが、彼の要求する額には、その全部をはたいても足りなかった。

武蔵は金の貴重なことを人よりも身に沁みて知っている。なぜならば、孤独である。また旅にばかり暮しているから。――しかし武蔵はまた、金に執着を持ったことがない。それは、孤独の彼には、誰を扶養する責任もない。その身一つは、寺に宿り、野に臥し、時には知己の清浄を恵まれ、なければ喰べずにいても、そう<ruby><rb>痛痒</rb><rt>つうよう</rt></ruby>には感じない。――そのうちに何とかなって来たのが今日までの流浪生活の常であった。

考えてみると、ここまで来た道中の<ruby><rb>費</rb><rt>つい</rt></ruby>えも、一切お通が見てくれたのだった。お通は、烏丸家から莫大な路銀を恵まれ、それをもって、道中の経済をしていた上、武蔵へもなにがしかの金を<ruby><rb>頒</rb><rt>わ</rt></ruby>けて、

（お持ちになっていらっしゃいまし）

と、渡してくれたものだった。

そのお通からもらった全部を、武蔵は人足たちに皆渡して、

「これでよいか」

といった。人足たちは、<ruby><rb>掌</rb><rt>てのひら</rt></ruby>へ銭を<ruby><rb>頒</rb><rt>わ</rt></ruby>け合って、

「ようがす。負けておきましょう。――じゃあ旦那は、<ruby><rb>諏訪</rb><rt>すわ</rt></ruby>明神の楼門でお待ちなすっていておくんなさい。晩までにゃ、きっと、<ruby><rb>吉</rb><rt>よ</rt></ruby>いお<ruby><rb>報</rb><rt>し</rt></ruby>らせをいたしますから」

と、<ruby><rb>蜘蛛</rb><rt>くも</rt></ruby>の子みたいに散らかって行った。

## 三

八方、人手を分けて、探しているとはいえ、この一日を、空しく待っているのも智慧がないので、武蔵は武蔵で、高島の城下から、諏訪一円を歩き暮した。

お通と城太郎の消息を尋ね歩いていると、武蔵は、こうして暮れてゆく一日が惜しかった。彼の頭には、絶えず、この辺の地勢とか、水理とか、また、誰か聞えた武術家などはいないかなどと――そのほうへ頻りと心が動く。

だが、その両方ともに、大した収穫もなく、やがて<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>頃、人足たちと約束した諏訪明神の境内へ来てみると、楼門の辺にも、まだ誰も来ている様子がない。

「ああ、疲れた」

<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>きながら、彼は楼門の石段へどっかり腰をおろした。

気づかれというのか、こんな呟きが、<ruby><rb>嘆息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>のように出ることは滅多にない。

誰も来ない。

やや退屈を感じて広い境内を、一巡りしてまた戻って来た。

まだ約束した人足は一人も見えていなかった。

闇の中で、時々、<ruby><rb>戛</rb><rt>か</rt></ruby>つ、戛つ、と何か蹴るような響きがするので、武蔵は、時々、はっとわれに返るような眼をみはった。――それが気にかかるらしく、楼門の石段を降りて、ふかい木蔭の中にある一棟の小屋を<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>ってみると、その中には、白い<ruby><rb>神馬</rb><rt>しんめ</rt></ruby>が繋がれているのだった。耳についた物音は、神馬が床を蹴って暴れる音だった。

「御牢人、なんじゃ」

馬に<ruby><rb>飼糧</rb><rt>かいば</rt></ruby>をやっていた男が、武蔵の影を振向いて訊ねた。

「何ぞ、社家に御用事でもあるのか」

<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めるような眼つきでいう。

そこで武蔵が、わけを話して、一応怪しい者でないことを弁明すると、<ruby><rb>白丁</rb><rt>はくちょう</rt></ruby>を着ているその男は、

「あははは。あははは」

腹を抱えて笑い止まないのである。

<ruby><rb>憤</rb><rt>む</rt></ruby>っとして武蔵が、何を笑うかというと、その男はなお笑って、

「あんたは、そんなことで、よう旅が出来なさるの。なんであの道中の<ruby><rb>蠅</rb><rt>はえ</rt></ruby>みたいな悪人足が、先に銭を取って、正直に一日中、そんなお人を探して歩いているものか」

と、いうのであった。

「では、手分けをして、探すといったのは嘘であろうか」

武蔵が<ruby><rb>糺</rb><rt>ただ</rt></ruby>すと、こんどはむしろ気の毒になったように、その男も真顔になっていった。

「お前さんは、<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>されたのじゃ。――道理で、きょう十人ばかりの人足が、裏山の雑木林で、昼間から車座になって、酒をのみながら<ruby><rb>博奕</rb><rt>ばくち</rt></ruby>などしておった。おおかた、その連中であったかもしれぬ」

それから、その男は、この諏訪塩尻あたりの往還で、旅客が人足の悪手段にのって路銀をせしめられる<ruby><rb>屡〻</rb><rt>しばしば</rt></ruby>の実例を幾つも挙げて、

「わたる世間も同じ事ですよ、これからはよく御用心なさるがよい」

と、空になった<ruby><rb>飼糧桶</rb><rt>かいばおけ</rt></ruby>をかかえて、彼方へ行ってしまった。

武蔵は、茫然としていた。

「…………」

何か、大きな未熟を自己に発見したような気持で。

剣を持っては、隙がないと自負している自身も、世わたりの俗世間に立ち交じる、無智の宿場人足にも<ruby><rb>翻弄</rb><rt>ほんろう</rt></ruby>される自分でしかなかった――と明らかに世俗的な不鍛錬が分ってくる。

「……仕方がない」

武蔵はつぶやいた。

口惜しいとも思わないが、この未熟は、やがて三軍を動かす兵法のうえにも現れる未熟である。

これからは謙虚になって、もっと俗世間にも習おうと思う。

――そして彼はまた、楼門の方へ足を返して来たが、ふと見ると、自分の去った跡へ来て、誰か一人立っている。

## 四

「オ。旦那」

楼門の前で辺りを見廻していたその人影は、武蔵の姿を見つけると、石段を降りてきて、

「お探しになっているお人の、一方だけ分りましたから、お<ruby><rb>報</rb><rt>し</rt></ruby>らせに参りましたんで」

と、いった。

「え？」

武蔵はむしろ意外な顔して――よく見るとそれは、今朝、半日の駄賃をやって、八方へ手分けして走らせた宿場人足の中の一人であった。

たった今、

（<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>されたのだ）

と、<ruby><rb>神馬小舎</rb><rt>しんめごや</rt></ruby>の前で<ruby><rb>嘲</rb><rt>わら</rt></ruby>われて来ただけに、武蔵は、意外だったのである。

同時に彼は、自分から半日の駄賃と<ruby><rb>酒代</rb><rt>さかて</rt></ruby>を<ruby><rb>詐取</rb><rt>さしゅ</rt></ruby>した十幾人もの人間が世間に満ちてはいるが、

（世間の全部が、<ruby><rb>詐欺師</rb><rt>さぎし</rt></ruby>ではない）

と分って、それが先ず、<ruby><rb>欣</rb><rt>うれ</rt></ruby>しかった。

「一方が分ったとは、城太郎という少年の方か、お通の方が知れたのか」

「その城太郎っていう子を連れている、奈良井の大蔵さんの足どりが分ったのでございます」

「そうか」

武蔵は、それだけでも、ほっと心の一面が明るくなった。

正直者の人足は、こう話した。

――今朝、駄賃をせしめた<ruby><rb>仲間</rb><rt>なかま</rt></ruby>の<ruby><rb>手輩</rb><rt>てあい</rt></ruby>は、元よりそんな者を探すつもりは毛頭ないので、皆、仕事を怠けて、<ruby><rb>博奕</rb><rt>ばくち</rt></ruby>に耽っているが、自分だけは、ご事情を聞いてお気の毒だと思い、一人で塩尻から<ruby><rb>洗場</rb><rt>せば</rt></ruby>まで行って、立場立場の仲間に、尋ねあるいてみると、お女中衆の消息はさっぱり知れないが、奈良井の大蔵さんなら、ついきょうの<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>頃、<ruby><rb>諏訪</rb><rt>すわ</rt></ruby>を通って、和田の山越えにかかって行ったということを、<ruby><rb>中食</rb><rt>ちゅうじき</rt></ruby>をした<ruby><rb>旅籠屋</rb><rt>はたごや</rt></ruby>の女中から聞きました――というのである。

「よく知らせてくれた」

武蔵は、この人足の正直と功労に対して、酒代を<ruby><rb>酬</rb><rt>むく</rt></ruby>いたいと思ったが、ふところに手を当ててみると、路銀はみなほかの<ruby><rb>狡</rb><rt>ずる</rt></ruby>い連中に取られてしまったので、考えてみると、今夜の飯代しか残っていない。

（――でも、何かやりたい）

と、彼はなお、考えた。

しかし、身につけている物で、<ruby><rb>値</rb><rt>あたい</rt></ruby>のある物などは何一つもない。彼は遂に、今夜は食べずにしのぐときめて、一度の飯代にと残しておいたわずかな銭を、<ruby><rb>革巾着</rb><rt>かわぎんちゃく</rt></ruby>の底を払って、皆、その男に与えてしまった。

「ありがとうございます」

正直者は、当然なことをして、過分な礼に会ったので、銭を<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>に押しいただくと、ほくほくして立ち去った。

――もう一箇の銭もない。

武蔵は、無意識の中に、銭の後ろ姿を見送っていた。与えながら、与えた後は、ちょっと途方に暮れた気持になった。<ruby><rb>空腹</rb><rt>すきばら</rt></ruby>はもう夕刻から頻りに迫っていたのでもあるし――。

けれど、あの銭が、あの正直者に持ち帰られれば、自分の空腹をみたす以上、何かよいことに<ruby><rb>費</rb><rt>つか</rt></ruby>われるにちがいない。それからあの男は、正直に酬われることを知って、<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>もまた、街道へ出て、ほかの旅人へも正直に働くだろう。

「そうだ……この辺で一宿の軒端を借りて朝を待つより、これから和田峠を越えて、先へ行ったという奈良井の大蔵と城太郎に追いつこう」

今夜のうち和田を越えておけば、明日は何処かでその人と城太郎に出会うかも知れない。――武蔵は忽ち思い立って、やがて<ruby><rb>諏訪</rb><rt>すわ</rt></ruby>の宿場を出はずれ、久しぶりに暗い道を、独りすたすたと夜旅の味を踏みしめて行った。

## 五

――独り夜を歩む。

武蔵は好きだった。

これは彼の孤独な生来から来るものかも知れない。自分の踏む<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>をかぞえ、耳に天空の声を聞いて真っ暗な夜道を、黙々と歩いていると、すべてをわすれて、楽しいのであった。

人中の賑やかな中にいると、彼のたましいはなぜか独り淋しくなる。淋しい<ruby><rb>暗夜</rb><rt>やみよ</rt></ruby>を独り行く時は、その反対に、彼の心は、いつも賑わしい。

なぜならば、そこでは、人中では心の表に現れないさまざまな実相が<ruby><rb>泛</rb><rt>うか</rt></ruby>んでくるからであった。世俗のあらゆるものが冷静に考えられると共に、自分の姿までが、自分から離れて、あかの他人を見るように、冷静に<ruby><rb>観</rb><rt>み</rt></ruby>ることができた。

「……オ。<ruby><rb>燈</rb><rt>ひ</rt></ruby>が見える」

しかし――

行けども行けども闇の夜道に、ふと一つの燈を見出すと、やはり武蔵もほっと思う。

人の住む<ruby><rb>燈</rb><rt>ひ</rt></ruby>！

われに返った彼の心は、人恋しさや、なつかしさに、<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えるほどだった。もうその<ruby><rb>矛盾</rb><rt>むじゅん</rt></ruby>を自分に問うている<ruby><rb>遑</rb><rt>いとま</rt></ruby>もなく、

「――<ruby><rb>焚火</rb><rt>たきび</rt></ruby>をたいているらしい。夜露にぬれた<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>をすこし乾かしてもらおう。ああ、腹もすいた。<ruby><rb>稗粥</rb><rt>ひえがゆ</rt></ruby>なとあらば無心して」

と、足はおのずとその燈へ向って急いでいる。

もう<ruby><rb>夜半</rb><rt>よなか</rt></ruby>であろう。

諏訪を出たのは宵だったが、落合川の<ruby><rb>渓橋</rb><rt>たにばし</rt></ruby>を越えてからはほとんど山道ばかりだった。一の峠は越えたが、まだ先に和田の大峠と<ruby><rb>大門峠</rb><rt>だいもんとうげ</rt></ruby>が、星空に重なっている。

その二つの山の尾根と流れ合っている広い沢の辺りに、ポチと、<ruby><rb>燈</rb><rt>ひ</rt></ruby>が見えたのである。

近づいてみると、たった一軒の立場茶屋だった。<ruby><rb>廂</rb><rt>ひさし</rt></ruby>の先には「<ruby><rb>馬繋</rb><rt>うまつな</rt></ruby>ぎ」と呼ぶ<ruby><rb>棒杭</rb><rt>ぼうぐい</rt></ruby>が四、五本打ち込んであり、この山中のしかも深夜に、まだ客があるのか、土間のうちからパチパチと火のはぜる音に<ruby><rb>混</rb><rt>ま</rt></ruby>じって、粗野な人声が洩れてくる。

「――さて？」

と、当惑した顔つきで、武蔵はその軒端に立ち迷った。

ただの百姓家か<ruby><rb>木樵</rb><rt>きこり</rt></ruby>の小屋でもあれば、<ruby><rb>暫時</rb><rt>ざんじ</rt></ruby>の休息も頼めるし、<ruby><rb>稗粥</rb><rt>ひえがゆ</rt></ruby>の無心ぐらいはきいてもくれるであろうが、旅人を相手に商売している茶店では、一ぱいの茶も、茶代をおかずに立つわけにはゆかない。

どう考えても、金はもう一枚の<ruby><rb>鐚</rb><rt>びた</rt></ruby>も持っていないのだ。しかし、温かそうな煙に混じって洩れる煮物のにおいは、彼の飢えをつよく思い出させて、もう到底、去り得ないほどだった。

「そうだ、仔細をいって、<ruby><rb>彼品</rb><rt>あれ</rt></ruby>でも、一飯の<ruby><rb>値</rb><rt>あたい</rt></ruby>の代りに取ってもらおう」

そう思いついた抵当の品というのは、背に負っている武者修行包みの中の一品だった。

「……ごめん」

彼がそこへ入るまでには以上のような当惑やら苦心のあげくであったが、中でがやがやいっていた連中には、まったく唐突な姿だったに違いない。

「……？」

びっくりしたように皆、黙ってしまった。そして彼の姿を、いぶかしげに見まもった。

土間の真ン中に大きな<ruby><rb>自在鉤</rb><rt>じざい</rt></ruby>が懸っている。土足のまま囲めるように<ruby><rb>炉</rb><rt>ろ</rt></ruby>は土へ掘ってあり、鍋には、<ruby><rb>猪</rb><rt>しし</rt></ruby>の肉と大根がふつふつ煮えていた。

それを<ruby><rb>肴</rb><rt>さかな</rt></ruby>に、<ruby><rb>樽</rb><rt>たる</rt></ruby>や<ruby><rb>床几</rb><rt>しょうぎ</rt></ruby>へ腰かけて、酒壺を灰へ突っこみながら、茶碗を廻していた野武士ていの客が三人。――<ruby><rb>老爺</rb><rt>おやじ</rt></ruby>は後ろ向きのまま今、漬物か何か刻みながら、その客たちと、馬鹿ばなしでもしていたらしい。

「なんだ？」

老爺に代って、そういったのは、中でも眼のするどい、五分<ruby><rb>月代</rb><rt>さかやき</rt></ruby>の男だった。

## 六

<ruby><rb>猪汁</rb><rt>ししじる</rt></ruby>のにおいや、この家の暖かい火の気につつまれると、武蔵の<ruby><rb>飢渇</rb><rt>きかつ</rt></ruby>は、もう一<ruby><rb>刻</rb><rt>とき</rt></ruby>もしのべなくなった。

居合せた野武士ていの男が、何かいったが、それに答えもせず、ずっと通って、空いている<ruby><rb>床几</rb><rt>しょうぎ</rt></ruby>の隅を占め、

「おやじ、湯漬でもよい、はやく飯を支度してくれい」

亭主は<ruby><rb>冷飯</rb><rt>ひやめし</rt></ruby>と<ruby><rb>猪汁</rb><rt>ししじる</rt></ruby>を運んで来て、

「夜どおしで、峠をお越えなされますか」

「ウム、夜旅じゃ」

武蔵はもう箸を取っている。

猪汁の二杯目を取って、

「きょうの昼間、奈良井の大蔵という者が、一名の<ruby><rb>童</rb><rt>わらべ</rt></ruby>を連れて、峠を越えて行かなかったであろうか」

「さあ、存じませんなあ。――藤次どのや、他の衆のうちで、そんな旅の者を見かけた者はございませんか」

おやじが、土間炉の<ruby><rb>鍋越</rb><rt>なべご</rt></ruby>しに訊ねると、首を寄せて、<ruby><rb>酌</rb><rt>つ</rt></ruby>ぎ合ったり<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いたりしていた三名は、

「知らねえ」

<ruby><rb>膠</rb><rt>にべ</rt></ruby>もなく皆、顔を振った。

武蔵は満腹して、一<ruby><rb>碗</rb><rt>わん</rt></ruby>の湯をのみほし、体も温まると共に、さて食事の<ruby><rb>価</rb><rt>あたい</rt></ruby>が気がかりになった。

最初に、<ruby><rb>事情</rb><rt>わけ</rt></ruby>を告げて、それからにすればよかったが、<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>に三名の客が飲んでいるし、慈悲を乞うつもりでもないので、先に腹を拵えてしまったが、もし亭主がきき入れてくれなかったらどうしよう。

その時には、刀の<ruby><rb>笄</rb><rt>こうがい</rt></ruby>でも――と思いきめて、

「おやじ、<ruby><rb>寔</rb><rt>まこと</rt></ruby>に相済まぬ頼みだが、実は、鳥目を一銭も持ち合せておらぬ。――と申しても、無心を頼むわけではない、<ruby><rb>此方</rb><rt>このほう</rt></ruby>が持ち合せておる品物を、その価として取っておいてくれまいか」

いうと、案外気やすく、

「ええ、よろしゅうござりますとも。――したが、そのお品とは、なんでございますな」

「観音像じゃ」

「え、そんな物を」

「いや、<ruby><rb>某</rb><rt>なにがし</rt></ruby>の作というような品ではない。拙者が旅のつれづれに、梅の古木へ小刀<ruby><rb>彫</rb><rt>ぼ</rt></ruby>りで彫った小さい坐像の観世音。一飯の価には足らぬかもしれぬが……。まあ、見てくれい」

背に負っている武者修行包みの結び目を解きかけると、炉の向う側にいる三名の野武士たちは、杯を忘れて皆、武蔵の手を凝視していた。

武蔵は、包みを膝にのせた。それは<ruby><rb>雁皮</rb><rt>がんぴ</rt></ruby>の<ruby><rb>紙縒</rb><rt>こより</rt></ruby>に<ruby><rb>渋汁</rb><rt>しぶ</rt></ruby>を引いた一種の糸で、袋のように編んだ物である。武者修行して歩く者は皆、その袋へ、大事な物を押し籠めて負っているが、武蔵の包みの中には、今彼のいった<ruby><rb>木彫</rb><rt>きぼり</rt></ruby>の観音と、一枚の肌着と貧しい文房具しかはいっていなかった。

<ruby><rb>編袋</rb><rt>あみぶくろ</rt></ruby>の一方を持って、武蔵はそれを振り動かした。すると、中からずしりと、土間へ転がった物がある。

「……やっ？」

これは、茶屋のおやじとまた、炉の向う側にいた三名の口から出た声だった。――武蔵は自分の足元へ眼を落したまま、ただ<ruby><rb>唖然</rb><rt>あぜん</rt></ruby>たる顔でしかない。

金の包みである。

慶長小判や銀や<ruby><rb>金色</rb><rt>こんじき</rt></ruby>のかねが、そこらまで散らばった。

（――誰の金？）

と、武蔵は思った。

四人も、そう疑ぐっているらしく、息をのんで、土間の金へ、眼を奪われていた。

武蔵は、もう一度武者修行袋を振ってみた。すると、金の上へ、さらにまた、一通の書面がこぼれた。

## 七

怪しみながら<ruby><rb>披</rb><rt>ひら</rt></ruby>いてみると、それは<ruby><rb>石母田外記</rb><rt>いしもだげき</rt></ruby>の置手紙であった。

それもたった一行、

当座の御費用に<ruby><rb>被成</rb><rt>なさる</rt></ruby>べく候外記

としか書いてない。

けれど少なからぬ金である。この一行が何をいっているか。武蔵にはわかる気もする。要するにこれは、伊達政宗ばかりでなく、諸国の大名がやっている一つの政策である。

有為の人材を常に召し抱えておくことはむずかしい。しかし時代の風雲は、愈〻、有為な人材を要望している。関ヶ原くずれの浮浪人は、路傍に満ちて、禄を<ruby><rb>漁</rb><rt>あさ</rt></ruby>りあるいているが、さて、これはという人材は極めてない。あれば忽ち、家の子郎党の厄介者付きでも、何百石、何千石の高禄で、すぐ売れ口がついてしまう。

いざ<ruby><rb>戦</rb><rt>いくさ</rt></ruby>――という日でも、集まる雑兵はいくらでも集まるが、求めても<ruby><rb>容易</rb><rt>たやす</rt></ruby>く来ないような人物を、今は各藩で<ruby><rb>血眼</rb><rt>ちまなこ</rt></ruby>に探しているのだ。そして、これはと思う人物には、何らかの方法で、必ず恩恵を売っておく。或は<ruby><rb>黙契</rb><rt>もっけい</rt></ruby>をむすんでおく。

その、大物どころでは、大坂城の秀頼が、後藤又兵衛に捨て扶持をやっていることは天下の周知である。九度山に引籠っている<ruby><rb>真田幸村</rb><rt>さなだゆきむら</rt></ruby>へ、年ごとに、大坂城からどれほどな金銀が仕送りされているかくらいなことは――関東の家康でも調べ上げているところであろう。

閑居している<ruby><rb>佗</rb><rt>わ</rt></ruby>び牢人に、そんな生活費のいるはずはない。しかし、幸村の手から、その金銀はまた、零細な幾千人の生活費になってゆくのである。そこには、<ruby><rb>戦</rb><rt>いくさ</rt></ruby>のある日まで、遊んで暮している沢山な人間が町に隠れていることはいうまでもない。

一乗寺下り松のうわさから、後を追いかけて来た伊達家の臣下が、すぐ武蔵の人物に、食指をうごかしたことは当然すぎる。――既にこの金が、明らかに、外記の<ruby><rb>底意</rb><rt>そこい</rt></ruby>を証拠だてていると見て間違いはない。

――困った金である。

<ruby><rb>費</rb><rt>つか</rt></ruby>えば恩を買う。

なければ？

（そうだ、金を見たから、惑うのではないか。なければ、ないでもすむものを）

武蔵はそう思って、足もとに落ちている金を拾い集め、元通りに武者修行袋へつつみこんで、

「――では亭主。これを飯の代に、取っておいてくれい」

自分の手すさびに彫った<ruby><rb>木彫</rb><rt>きぼり</rt></ruby>の観世音をそこへ出すと、茶店の<ruby><rb>老爺</rb><rt>おやじ</rt></ruby>は、今度は甚だしく不平顔で、

「いけませんよ旦那、これやあ、お断りしますべ」

と、手を出さない。

武蔵がなぜ？　というと、

「なぜって、旦那は今、持合せが一文もねえと仰っしゃるから、観音様でもいいといったのじゃが……見ればないどころか、持て余している程、お金を持ってござらっしゃるではねえか。どうか、そんなに見せびらかさねえで、お金で払っておくんなさいまし」

最前から、酒の酔をさまして、<ruby><rb>固唾</rb><rt>かたず</rt></ruby>をのんでいた三名の野武士は、おやじの抗議を、尤もだというように、後ろでうなずいていた。

## 八

自分の金ではない――というような弁解をしてみるのも、この場合は、愚の至りである。

「そうか……では仕方がない」

武蔵は、やむなく一箇の銀片を出して、おやじの手に渡した。

「はて、<ruby><rb>剰銭</rb><rt>つり</rt></ruby>がないが。……旦那様、もっと細かいお鳥目で下さいませ」

武蔵はまた、金を調べてみた。しかし包みは慶長小判と、それがいちばん小さくて安い<ruby><rb>銀片</rb><rt>ぎんぺん</rt></ruby>であった。

「<ruby><rb>剰銭</rb><rt>つり</rt></ruby>はいらぬ、茶代に取っておくがいい」

「それは、どうも」

と、おやじは急に打って変る。

もう手をつけた金なので、武蔵はそれを腹巻へ巻いた。そして、茶店のおやじから嫌われた木彫の観音像を、元のように、武者修行袋に入れて背中へ背負う。

「まあ、あたって行かっしゃれ」

と、おやじは<ruby><rb>薪</rb><rt>まき</rt></ruby>をくべ足したが、武蔵はそれを<ruby><rb>機</rb><rt>しお</rt></ruby>に、<ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>へ出た。

夜はまだ深い。けれど腹ごしらえもまずできた。

夜明けまでに、この和田峠から大門峠まで踏破してしまおうと思う。昼ならば、この辺りの高原は、<ruby><rb>石楠花</rb><rt>しゃくなげ</rt></ruby>やりんどうや薄雪草も数あるらしいが、夜はただ<ruby><rb>渺</rb><rt>びょう</rt></ruby>として、真綿のような露が地を這っているばかり。

花といえば、空こそ、星のお花畑とも見える。

「おおオいっ」

立場茶屋を離れておよそ二十町も来た頃である。

「――今の旦那あ、お忘れ物をなされたぞよ」

さっき茶店に居合せた野武士ていの中の一人であった。

側へ駈けて来て、

「早いお脚だの、あんたが出て行ってから、しばらくしてから気づいたのじゃ。――このお金は、あんたの物じゃろうが」

<ruby><rb>掌</rb><rt>てのひら</rt></ruby>に、一粒の<ruby><rb>銀片</rb><rt>ぎんぺん</rt></ruby>をのせて、武蔵に見せ、それを返そうと追いかけて来たのだという。

いやそれは自分の物ではあるまいと武蔵はいったが、野武士ていの男は、かぶりを振って、確かにあなたが金包みを落した時、この一片が土間の隅へ転がったものに違いない、と押し戻して来る。

数えて持っている金ではないので、そういわれてみると、そうかも知れないと武蔵は思うほかなかった。

で、礼をいって、それを<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>に納めたが、武蔵は、この男の正直な行為が、なぜか少しも自分の感激に触れないことに気づいた。

「失礼じゃが、あんたは、武道を誰に<ruby><rb>習</rb><rt>まな</rt></ruby>びなされた」

用がすんでからも、男は要らぬ話をしかけて、側へついて歩く。それもおかしい。

「我流ですよ」

と、武蔵は、投げっ放しな語調でいう。

「わしも、今は山に籠ってこんな<ruby><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>をしておるが、以前は侍でな」

「ははあ」

「さっき居合せた者も皆そうじゃ。<ruby><rb>蛟龍</rb><rt>こうりょう</rt></ruby>も時を得ざれば空しく<ruby><rb>淵</rb><rt>ふち</rt></ruby>に潜むでな、みな<ruby><rb>木樵</rb><rt>きこり</rt></ruby>をしたり、この山で、薬草採りなどして<ruby><rb>生計</rb><rt>たつき</rt></ruby>をたてているが、時到れば、鉢の木の佐野源左衛門じゃないが、この山刀<ruby><rb>一腰</rb><rt>ひとこし</rt></ruby>に、ぼろ<ruby><rb>鎧</rb><rt>よろい</rt></ruby>を<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>っても、名ある大名の陣場を借りて、日頃の腕を振うつもりじゃが」

「大坂方ですか、関東方でございますか」

「どっちでもいい。まずやはり旗色を見て加わらぬと、一生を棒にふるからなあ」

「はははは、大きに」

武蔵は、まるで相手にしない。なるべく足も大股に努めてみたが、男もそれにつれて大股になるので何の<ruby><rb>効</rb><rt>か</rt></ruby>いもない。

そしてなお、気になることには、自分の左側へ左側へと、男は好んで寄り添ってくるのだった。これは、心ある者は最も忌むところの、抜討ちを仕かける時の姿勢である。

## 九

――だが武蔵は兇暴な道連れの狙っているその左側を、わざと<ruby><rb>空</rb><rt>あ</rt></ruby>けて、甘んじて相手に<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>わせておいた。

「どうじゃな修行者。もし嫌でなかったら、おれたちの住居へ来て、今夜は泊ってゆかないか。……この和田峠の先には、大門峠がある。夜明けまでに越えるというても、道馴れない者にはどうして大変だ。これから先は、道も<ruby><rb>嶮</rb><rt>けわ</rt></ruby>しくなるばかりだし」

「ありがとう存じます。おことばに甘えて、泊めて戴きましょうかな」

「そうするがいい、そうするがいい。――だが何も、もてなしはないぜ」

「元より、体さえ横たえれば、それでいいのでございます。して、お<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>は」

「この谷道から、左の方へ五、六町ほど登った所さ」

「えらい山中にお住いですな」

「さっきもいった通り、時節の来るまで、世から隠れて、薬草採りをしたり、<ruby><rb>猟師</rb><rt>りょうし</rt></ruby>の<ruby><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>をまねたりして、あの者たちと三人して暮しているのじゃ」

「そういえば、後のお二人は、どうなされましたか」

「まだ立場で飲んでいるじゃろう。いつも<ruby><rb>彼家</rb><rt>あすこ</rt></ruby>で飲むと酔いつぶれて、小屋まで担いで行く役がおれときまっているが、今夜は、面倒なので置いて来た。……おッと、修行者、そこの<ruby><rb>崖</rb><rt>がけ</rt></ruby>を降りるとすぐ<ruby><rb>谿川</rb><rt>たにがわ</rt></ruby>の河原だ、あぶないから気をつけろよ」

「<ruby><rb>彼方</rb><rt>むこう</rt></ruby>へ、渡るのですか」

「ム……その流れの狭い所の丸木橋を渡って、谿川づたいに、左へ登ってゆく……」

と、男は低い崖の途中に立ち止まっている様子だった。

武蔵は、振り向きもしない。

そして丸木橋を渡りかけていた。

崖の中途からぽんと跳んだ男は――いきなり武蔵の乗っている丸木橋の端に手をかけて、彼の姿を、激流の中へ振り落そうとして、持ち上げたが、

「何をする？」

と、河の中の声にぎょっとして首を上げた。

武蔵の足は、橋を離れて、<ruby><rb>飛沫</rb><rt>しぶき</rt></ruby>の中の岩の上に、<ruby><rb>鶺鴒</rb><rt>せきれい</rt></ruby>が止まったように立っていた。

「――あッ」

<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り出した丸木橋の端が、白い<ruby><rb>飛沫</rb><rt>しぶき</rt></ruby>を途端に散らした。その水玉の傘が地まで落ちないうちに、河中の<ruby><rb>鶺鴒</rb><rt>せきれい</rt></ruby>はぱっと跳んで返って、いわゆる抜く手も見せない間髪に、<ruby><rb>狡智</rb><rt>こうち</rt></ruby>に<ruby><rb>長</rb><rt>た</rt></ruby>けたその卑怯者を斬り<ruby><rb>撲</rb><rt>なぐ</rt></ruby>った。

――こんな場合、武蔵は、斬った死骸には眼もくれなかった。死骸がまだ<ruby><rb>蹌</rb><rt>よろ</rt></ruby>めいているうちに、彼の剣は、もう次の何ものかを待っている。彼の髪は、<ruby><rb>鷲</rb><rt>わし</rt></ruby>の<ruby><rb>逆毛</rb><rt>さかげ</rt></ruby>のように立って、満山皆敵と<ruby><rb>観</rb><rt>み</rt></ruby>るもののようであった。

「…………」

果たして、ぐわあん！　と谷間の<ruby><rb>擘</rb><rt>さ</rt></ruby>けるような音が渓流の向う側からとどろいた。

いうまでもなく、猟銃の<ruby><rb>弾</rb><rt>たま</rt></ruby>である。弾は<ruby><rb>正</rb><rt>まさ</rt></ruby>しく、武蔵の在った位置を、ぴゅんと通りぬけ、後ろの崖土の中へ<ruby><rb>潜</rb><rt>もぐ</rt></ruby>った。

弾が土の中へ入った後から武蔵も同じところへ仆れた。そして対岸の沢を見ていると、蛍の火みたいな赤いものがチラチラする。

――二つの人影が、そろそろと河べりまで這い出して来る。

一足先に<ruby><rb>冥土</rb><rt>めいど</rt></ruby>へ立った卑怯者は、後の二人の仲間は、立場の居酒屋でのみつぶれていると嘘をいったが、先へ廻って、待ち伏せの手ぐすね引いていたのである。

それも、武蔵の考えていた通りであった。

猟師だとか、<ruby><rb>薬草採</rb><rt>くすりと</rt></ruby>りだとかいっていたのは勿論うそで、この山に巣喰う賊であることは疑ぐってみるまでもない。

けれど、さっき、

（時節が来るまで）

と、<ruby><rb>途々</rb><rt>みちみち</rt></ruby>いった言葉は、ほんとであろう。

どんな盗賊でも、子孫まで盗賊でやって行こうと考えている者は一人もあるまい。乱世の方便としての世渡りに、諸国には今、山賊と野盗と市盗が急激にふえつつある。そして、いざ天下の合戦となると、これが皆、一かどの<ruby><rb>錆槍</rb><rt>さびやり</rt></ruby>とボロ<ruby><rb>鎧</rb><rt>よろい</rt></ruby>をかついで、陣借りして、真人間に生き<ruby><rb>甦</rb><rt>かえ</rt></ruby>るのだ。――ただ惜しいかなこの<ruby><rb>手輩</rb><rt>てあい</rt></ruby>は、雪の日、客に梅を<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>いて、時節を待ちながらも時節を度外している<ruby><rb>雅懐</rb><rt>がかい</rt></ruby>はないのである。

## <ruby><rb>虫焚</rb><rt>むした</rt></ruby>き

## 一

<ruby><rb>火縄</rb><rt>ひなわ</rt></ruby>を口に<ruby><rb>咥</rb><rt>くわ</rt></ruby>え、一人は二度目の<ruby><rb>弾込</rb><rt>たまご</rt></ruby>めをしているらしい。

もう一人は、身を<ruby><rb>屈</rb><rt>かが</rt></ruby>めて、こっちを見ている。対岸の崖の下へ、武蔵の影が仆れはしたが、なお疑って、

「……大丈夫か」

と<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いているのだった。

鉄砲を持ち直したのが、

「確かだ」

と、うなずいて、

「<ruby><rb>手応</rb><rt>てごた</rt></ruby>えがあった」

という。

それで安心して、二人は丸木橋を頼って、武蔵の方へ渡って来ようとした。

鉄砲を持った方の影が、丸木橋の中ほどまでかかって来ると、武蔵は起き上がった。

「――あッ」

引金に懸けた指は、もちろん、正確を失っていた。どうんと、弾は空へ走って、ただ大きな<ruby><rb>谺</rb><rt>こだま</rt></ruby>を呼んだ。

ばらばらっと、二人は引っ返して、<ruby><rb>谿川</rb><rt>たにがわ</rt></ruby>ぞいに逃げ出した。武蔵が追いかけてゆくと、<ruby><rb>業腹</rb><rt>ごうはら</rt></ruby>になったものか、

「やいやい、逃げる奴があるものか、相手はひとり、この藤次だけでも片づくが、引っ返して助太刀しろ」

鉄砲を持たない方がけなげにもこういって立ち止まった。

自分で藤次と名乗っているし、物腰から見ても、これが<ruby><rb>山寨</rb><rt>さんさい</rt></ruby>に住む賊の頭目であろう。

呼び返されて子分か分らぬが、もう一名の賊は、それに励まされて、

「おうっ」

と答え、火縄を<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>りすてたと思うと、鉄砲を逆手にして、これも武蔵へかかって来た。

武蔵はすぐ感じた。これはそう根からの野武士ではない。わけても、山刀を揮って来た男の腕に多少筋がある。

――だが、彼のそばへ近づくと、賊の二人とも、一撃に<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ね飛ばされたように見えた。鉄砲を持った方の男は、完全に肩から<ruby><rb>袈裟</rb><rt>けさ</rt></ruby>にふかく割りこまれて、渓流の<ruby><rb>縁</rb><rt>ふち</rt></ruby>から、だらんと半身落ちかけている。

口程もなく、藤次と名乗った賊の頭目は、小手の傷を抑えながら、逃足早く、沢から上へ駆け上ってゆく。

ざざざ、と土の落ちてくる後を<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>って、武蔵も何処までも、追って行った。

ここは和田と大門峠の境で、<ruby><rb>山毛欅</rb><rt>ぶな</rt></ruby>が多いまま<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぶな</span>谷と呼ばれている。沢を登りつめた所に、<ruby><rb>一叢</rb><rt>ひとむら</rt></ruby>の山毛欅につつまれた家があった。その家もまた、山毛欅の丸太で組み建てたような<ruby><rb>巨</rb><rt>おお</rt></ruby>きな山小屋に過ぎない。

ボッと、そこに<ruby><rb>燈</rb><rt>ひ</rt></ruby>が見えた――

家の内にも明りが<ruby><rb>映</rb><rt>さ</rt></ruby>しているが武蔵の眼に見えたのは、その家の軒先に、誰か、<ruby><rb>紙燭</rb><rt>ししょく</rt></ruby>を持って立ってでもいるらしい<ruby><rb>燈</rb><rt>ひ</rt></ruby>であった。

賊の頭目はばたばたっと、それへ向って逃げて行きながら、

「<ruby><rb>燈</rb><rt>ひ</rt></ruby>を消せっ」

と呶鳴った。

すると、<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>で<ruby><rb>燈</rb><rt>ひ</rt></ruby>をかばいながら、<ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>に立っていた影が、

「どうしたのさ」

と、いった。

女の声であった。

「まあ、ひどい血になって――。<ruby><rb>斬</rb><rt>や</rt></ruby>られたのかえ。今、谷の方で鉄砲の音がしたから、もしやと思っていたら？　……」

賊の頭目は、うしろから迫る跫音に、振向きながら、

「ば、ばかっ。はやくその燈を消してしまえ。家の中の燈も」

と、息を<ruby><rb>喘</rb><rt>き</rt></ruby>って、また呶鳴った。

彼が、土間の中へ転げ込むと、女の影も、燈をふき消して、あわてて姿を隠してしまった。――やがて武蔵が、その前へ来て立った時は、家の中の明りも洩れず、手をかけてみても、戸はかたく閉まっていた。

## 二

武蔵は怒っていた。

だが、この怒りは、卑劣だとか<ruby><rb>偽</rb><rt>あざむ</rt></ruby>かれたとか、対人的に怒っているのではない。元より虫けらのような<ruby><rb>鼠賊</rb><rt>そぞく</rt></ruby>と思いながら、社会的に<ruby><rb>免</rb><rt>ゆる</rt></ruby>しておけない気持がする。いわゆる公憤なのである。

「開けろっ」

いってみた。

当然、開ける筈はない。

足で蹴っても破れそうな雨戸だが、万一を<ruby><rb>惧</rb><rt>おそ</rt></ruby>れて、武蔵は戸から四尺ほど離れている。それへ手をかけて叩いたり、がたがた試みたりするような不用意は、武蔵でなくとも、多少心得のある人間のすべき<ruby><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>ではない。

「開けないか」

戸の中は、なお、しんとしている。

武蔵は<ruby><rb>抱</rb><rt>かか</rt></ruby>え易い程度の岩を両手に持った。いきなりそれを戸に向って<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>りつけたのである。

戸の継ぎ目を狙ったので、二枚の戸が内側へ仆れた。その下から山刀が素っ飛び、続いて、一人の男が、這い起きて、家の奥へ逃げ<ruby><rb>転</rb><rt>まろ</rt></ruby>んでゆく。

武蔵が跳びかかって、その<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>がみをつかむと、

「あっ、<ruby><rb>免</rb><rt>ゆる</rt></ruby>せっ」

と、悪人が悪事に<ruby><rb>失策</rb><rt>しくじ</rt></ruby>ると、きまって<ruby><rb>吐</rb><rt>ほ</rt></ruby>ざく<ruby><rb>脆</rb><rt>もろ</rt></ruby>い声をあげた。

そのくせ、<ruby><rb>平蜘蛛</rb><rt>ひらぐも</rt></ruby>になって、<ruby><rb>謝</rb><rt>あやま</rt></ruby>るのではなく、間断なく隙を狙って、武蔵へ肉闘してくるのである。最初から武蔵も感じていたとおり、賊の頭目だけに、この男の<ruby><rb>小手技</rb><rt>こてわざ</rt></ruby>には、かなり鋭いところがある。

その小手技を、ぴしぴし封じて、武蔵が許す気色もなく、<ruby><rb>捻</rb><rt>ね</rt></ruby>じ伏せかけると、

「く、くそっ」

猛然、この男は、生来の暴勇をふるい起し、短刀を抜いて、突っかけて来た。

引っぱずして、

「この<ruby><rb>鼠賊</rb><rt>そぞく</rt></ruby>」

と<ruby><rb>体</rb><rt>たい</rt></ruby>を<ruby><rb>抄</rb><rt>すく</rt></ruby>い込み、どんと、次の部屋まで投げつけると、その脚か手が、炉の上の<ruby><rb>自在鉤</rb><rt>じざいかぎ</rt></ruby>へぶつかったのであろう。朽ち竹の折れる響きと共に、炉の口から、火山のような白い灰が<ruby><rb>噴</rb><rt>ふ</rt></ruby>き<ruby><rb>騰</rb><rt>あが</rt></ruby>った。

武蔵を近づけまいとして、その<ruby><rb>濛々</rb><rt>もうもう</rt></ruby>と煙る中から、釜のふただの、薪だの、火箸だの、土器などを、所きらわず投げつけてくる。

――やや灰が落着いたところで、よく見ると、それは賊の頭目ではない。彼はすでに、どこか強く打ちつけたとみえて、柱の下に長く伸びているのである。

――それなのになお、

「畜生、畜生」

と、必死になって、手当り次第に、物を取っては、武蔵へ向って投げつけて来るのは、賊の妻らしい女であった。

武蔵は、すぐその女を組み敷いた。――女は組み敷かれながらもまだ、髪の<ruby><rb>笄</rb><rt>こうがい</rt></ruby>を<ruby><rb>逆手</rb><rt>さかて</rt></ruby>に抜いて、

「畜生」

と、突きかけていたが、その手を、武蔵の足に踏まれてしまうと、

「――お前さん、どうしたのさ！　意気地のない、こんな若僧に」

と、歯がみをしながら、もう気を失っている賊の<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>を、無念そうに、叱咤していた。

「……あっ？」

武蔵は、その時、思わず身を離した。女は男以上に勇敢だった。刎ね起きざま、良人の捨てた短刀を拾って、再び、武蔵へ斬りつけて来たが、

「……おっ、おばさん？」

武蔵が意外な言葉を与えたので、賊の妻も、

「――えっ？」

息をひいて、<ruby><rb>喘</rb><rt>あえ</rt></ruby>ぎながら相手の顔をしげしげと――

「あっ、おまえは？　……。オオ<ruby><rb>武蔵</rb><rt>たけぞう</rt></ruby>さんじゃないか」

## 三

今もまだ、幼名の武蔵を、そのまま自分へ呼ぶ者は、本位田又八の母のお杉ばばを<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>いて、誰があろう？

怪しみながら、武蔵は、そう馴々しく自分を呼んだ賊の妻を見まもった。

「まあ、<ruby><rb>武</rb><rt>たけ</rt></ruby>さん、いいお武家におなりだねえ」

さもさも懐かしそうな女のことばだった。それは、伊吹山の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">よもぎ</span>造り――後には娘の<ruby><rb>朱実</rb><rt>あけみ</rt></ruby>を<ruby><rb>囮</rb><rt>おとり</rt></ruby>に、京都で遊び茶屋をしていた、あの後家のお甲であった。

「どうして、こんな所にいるのですか」

「……それを訊かれると恥ずかしいが」

「では、そこに仆れているのは……あなたの良人か」

「おまえも知っておいでだろう。元、吉岡の道場にいた、<ruby><rb>祇園</rb><rt>ぎおん</rt></ruby>藤次の成れの果てですよ」

「あっ、では吉岡門の祇園藤次が……」

<ruby><rb>唖然</rb><rt>あぜん</rt></ruby>としたまま、武蔵は、後のことばも出なかった。

師家の傾く前に、藤次は、道場の<ruby><rb>普請</rb><rt>ふしん</rt></ruby>にと集めた金を持って、お甲と駈落ちしてしまい、侍にあるまじき卑劣者と――当時京都で悪い噂を立てられたものだった。

武蔵も、小耳にはさんでいる。その成れの果てがこの姿か――と、<ruby><rb>他人</rb><rt>ひと</rt></ruby>の身の末とはいえ、淋しくならずにいられなかった。

「おばさん、早く介抱してやるがよい。あなたの亭主と知ったなら、そんな目に<ruby><rb>遭</rb><rt>あ</rt></ruby>わせるのではなかったが」

「穴でもあったらはいりたい気がする」

お甲は藤次のそばへ寄って、水を与え、傷口を縛り、そしてまだ半ばうつつな顔つきへ、武蔵との縁故を話した。

「えっ？」

と、藤次は、活を入れられたように白眼を上げて、

「じゃあ<ruby><rb>其許</rb><rt>そこもと</rt></ruby>が……あの宮本武蔵どのか。――ああ、面目ない」

さすがに恥は知っている。藤次は頭を抱え、それへ詫び入ったまま、しばらくは上げる<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>もない様子。

武門を落ちて、<ruby><rb>山沢</rb><rt>さんたく</rt></ruby>の賊となって生きてゆくのも、大所から<ruby><rb>観</rb><rt>み</rt></ruby>てやれば、<ruby><rb>流々転相</rb><rt>るるてんそう</rt></ruby>の世の中の泡つぶ、こうしてまで、生きてゆかねばならぬほどに落ちたのかと思えば、あわれともいえる、<ruby><rb>不愍</rb><rt>ふびん</rt></ruby>ともいえる。

武蔵はもう憎む気もちを忘れていた。夫婦の者は、時ならぬ<ruby><rb>賓客</rb><rt>ひんきゃく</rt></ruby>を迎えたように、<ruby><rb>塵</rb><rt>ちり</rt></ruby>を掃き、炉ぶちを拭いて、薪を新たにくべ足した。

「何もございませぬが」

と、酒など<ruby><rb>燗</rb><rt>つ</rt></ruby>ける様子に、

「もう、山の立場で、腹はできておる。かもうてくれるな」

「――でも、久しぶりに、山の夜語り、わたしの心づくしを喰べてくださいませ」

と、お甲は、炉の上に鍋などかけ、酒壺を取ってしきりにすすめる。

「伊吹山のふもとを思い出しますなあ」

外は、ごうごうと、峰の夜あらしであった。閉めきっても、炉の焔は、黒い天井へめらめらと背を伸ばす。

「もう、いうて下さいますな。……それよりも、朱実はその後、どうしたでしょうか。何か噂を聞きませんか」

「<ruby><rb>叡山</rb><rt>えいざん</rt></ruby>から大津へ出る途中の山茶屋で、数日、わずらっていたそうですが、連れの又八の持物を奪って、逃げてしまったとその折ちょっと耳にしたが……」

「では、あの子も」

と、お甲は自分の身にひき較べて、さすがに、暗い<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を伏せた。

## 四

お甲だけではない。<ruby><rb>祇園</rb><rt>ぎおん</rt></ruby>藤次もふかく恥じ入った様子で、今夜のことは、まったく出来心に<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>ならないといい、他日、世に出た時は、必ず元の祇園藤次になってお詫びするから、どうか今夜のところは、水に流して見のがしてくれという。

山賊まがいの藤次が、以前の祇園藤次に返ったところで、大した変りばえもないが、それだけ道中の旅人は明るくなれよう。

「おばさん、あなたも、もう危ない世渡りは、よした方がいいでしょう」

<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いられた酒に少し酔って、武蔵がこう意見すると、お甲も、

「なあに、あたしだって好きこのんで、こんなことをしているわけじゃないけれど、<ruby><rb>京都落</rb><rt>みやこお</rt></ruby>ちを極め込んで、御新開の江戸で一稼ぎと来る途中、この人が、<ruby><rb>諏訪</rb><rt>すわ</rt></ruby>で<ruby><rb>博奕</rb><rt>ばくち</rt></ruby>に手を出して、持物から路銀までみんなはたいてしまい、やむなく、元の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もぐさ</span>採りから思いついて、ここで薬草を採って町へ売っては喰べるような始末になってしまったのさ。……もう今夜に<ruby><rb>懲</rb><rt>こ</rt></ruby>りたから悪い出来心は起さないようにしますよ」

相変らず、この女は、酔うと以前の<ruby><rb>婀娜</rb><rt>あだ</rt></ruby>な調子が出る。

もう<ruby><rb>幾歳</rb><rt>いくつ</rt></ruby>だろうか。この女に<ruby><rb>年齢</rb><rt>とし</rt></ruby>はないようである。猫は家に飼うと人間の膝に媚態を作るが、これを山に放つと、暗夜にも<ruby><rb>爛々</rb><rt>らんらん</rt></ruby>と光る<ruby><rb>眼</rb><rt>まなこ</rt></ruby>の持主となって、行路病者の生きた肉へも、野辺の送りの<ruby><rb>柩</rb><rt>ひつぎ</rt></ruby>を目がけても跳びついてくる。

お甲はそれに近い。

「……ねえ、お前さん」

と、藤次を顧みて、

「今、<ruby><rb>武蔵</rb><rt>たけぞう</rt></ruby>さんから聞けば、朱実も江戸へ行ったらしい。わたし達も、何とか、人中へ出る算段をして、もう少し人間らしい暮しをしようじゃありませんか。あの<ruby><rb>娘</rb><rt>こ</rt></ruby>でも捕まえれば、また何とか商売の思案もあろうというものだし……」

「うむ、うむ」

と藤次は、膝を抱えて、生返辞を与えていた。

この男もまた、この女と同棲してみて、先にこの女から捨てられた本位田又八と、同じような後悔を、もう抱いているのではあるまいか。

武蔵は、藤次の顔が気の毒に見えた。そして又八の身を<ruby><rb>憐</rb><rt>あわ</rt></ruby>れみ――やがては自分も一度この女の招く魔の淵に誘われたことなども思い出されて、ふと肌がそそけ立つ思いがした。

「――雨ですか、あの音は」

武蔵が、黒い屋根を仰ぐと、お甲はほんのり酔ったながし眼で、

「いいえ、風がつよいから、木の葉や、木の小枝が、折れては降って来るんですよ、山の中というものは、夜になると、何か降らない晩はない。――月は出ても、星は見えても、木の葉が降ったり、山土がぶつけて来たり、霧が降ったり、滝の水がしぶいて来たり」

「おい」

藤次は、顔を上げて、

「――もうじきに夜が白んで来る頃だ。おつかれだろうから、あちらへ寝道具をのべて、おやすみになるようにしたらどうだ」

「そうしましょうかね。<ruby><rb>武蔵</rb><rt>たけぞう</rt></ruby>さん、暗いから気をつけて来てください」

「では、朝までお借りしようか」

<ruby><rb>武蔵</rb><rt>むさし</rt></ruby>は起って、お甲の後から暗い縁を<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて行った。

## 五

彼の寝た板小屋は、谷間の崖に建てた丸太の上に支えられていた。夜なのでよくわからないが、おそらく床下は、すぐ<ruby><rb>千仭</rb><rt>せんじん</rt></ruby>の谷底へ通じているのではあるまいか。

霧が降ってくる。

滝水が吹きつけてくる。

ぐわうという度に、寝小屋は、船のようにうごいた。

――お甲は、白い足を、<ruby><rb>簀</rb><rt>す</rt></ruby>の<ruby><rb>子</rb><rt>こ</rt></ruby>にしのばせて、そっと、前の炉部屋へもどって来た。

炉の火を見つめて、考えこんでいた藤次が、するどい眼を振向けて、

「……寝たか」

と、問う。

「寝たらしいよ」

お甲は、側へ膝を立てて、

「どうする、え？」

と藤次の耳へいう。

「呼んで来い」

「やるかえ」

「あたりめえだ。慾ばかりじゃねえ、<ruby><rb>彼奴</rb><rt>あいつ</rt></ruby>を<ruby><rb>殺</rb><rt>や</rt></ruby>ってしまえば、吉岡一門の仇を取ったということにもなる」

「じゃあ、行って来るよ」

どこへ行くのか。

お甲は、<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>を端折って、<ruby><rb>戸外</rb><rt>おもて</rt></ruby>へ出て行った。

深夜である。深山である。真っ暗な風の中を、<ruby><rb>驀</rb><rt>まっ</rt></ruby>しぐらに駈けてゆく白い足と、うしろに流れる髪の毛とは、<ruby><rb>魔性</rb><rt>ましょう</rt></ruby>の<ruby><rb>猫族</rb><rt>びょうぞく</rt></ruby>でなくて何であろう。

<ruby><rb>大山</rb><rt>たいざん</rt></ruby>の<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>に棲むものは、鳥獣ばかりとは限らない。彼女が駈け歩いた峰や沢や山畑の<ruby><rb>遠方此方</rb><rt>おちこち</rt></ruby>から、忽ちにして、<ruby><rb>簇</rb><rt>むらが</rt></ruby>り集まって来た人間は、二十名以上もある。

しかもその行動には、訓練があった。地を<ruby><rb>掃</rb><rt>は</rt></ruby>いて来る木の葉よりも静かに、藤次の小屋の前に集まると、

「ひとりか？」

「<ruby><rb>武士</rb><rt>さむらい</rt></ruby>か」

「金は持ってるのか」

などと<ruby><rb>密々</rb><rt>ひそひそ</rt></ruby><ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>き交わし、<ruby><rb>指真似</rb><rt>ゆびまね</rt></ruby>や、眼くばせで、各〻、いつも通りの部署につくべく分れて行く。

<ruby><rb>猪突</rb><rt>ししつ</rt></ruby>き槍や、鉄砲や、<ruby><rb>大刀</rb><rt>どす</rt></ruby>を持って、その一部は、寝小屋の外を<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>い、また、半分は小屋のわきから絶壁を下りて、確か、谷底へ廻ったらしい。

なお、その中から、べつに二、三人の賊は、崖の中途を這って、ちょうど武蔵の眠っている小屋の下へ<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>りついた。

準備は出来たのである。

谷間へ<ruby><rb>懸出</rb><rt>かけだ</rt></ruby>してあるこの小屋は、つまり彼らの<ruby><rb>罠</rb><rt>わな</rt></ruby>なのである。その小屋は、<ruby><rb>莚</rb><rt>むしろ</rt></ruby>を敷き、たくさんな薬草の乾草を積み、<ruby><rb>薬研</rb><rt>やげん</rt></ruby>や製薬の道具などわざと置いてあるが、それはここへ入れる人間の安眠剤であって、元より彼らの職業は、<ruby><rb>薬刻</rb><rt>くすりきざ</rt></ruby>みや、薬草を<ruby><rb>乾</rb><rt>ほ</rt></ruby>すことではない。

武蔵も、そこへ横になると、<ruby><rb>快</rb><rt>こころよ</rt></ruby>い薬草のにおいに、眠りを誘われて、手足の先にまで、<ruby><rb>腫</rb><rt>は</rt></ruby>れぼったい疲れが出て来たが、山で生れ、山で育った武蔵には、この谷間の<ruby><rb>懸出</rb><rt>かけだ</rt></ruby>し小屋に、一応、<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>けないものがあった。

自分の生れた<ruby><rb>美作</rb><rt>みまさか</rt></ruby>の山々にも、薬草採りの小屋はあるが、薬草はすべて湿気を<ruby><rb>忌</rb><rt>きら</rt></ruby>う。こんな、<ruby><rb>鬱蒼</rb><rt>うっそう</rt></ruby>と雑木の枝をかぶって、しかも滝しぶきの来るような所に、<ruby><rb>乾小屋</rb><rt>ほしごや</rt></ruby>は持っていない。

枕元には、<ruby><rb>薬研台</rb><rt>やげんだい</rt></ruby>の上に、<ruby><rb>錆</rb><rt>さ</rt></ruby>びた<ruby><rb>鉄</rb><rt>かね</rt></ruby>の<ruby><rb>灯皿</rb><rt>ひざら</rt></ruby>がおいてある。その微かな燈心の揺らぎで見返しても――また合点のゆかないふしがある。

それは、<ruby><rb>四隅</rb><rt>よすみ</rt></ruby>の材木と材木との継ぎ目である。<ruby><rb>鎹付</rb><rt>かすがいづ</rt></ruby>けになっているが、その鎹の穴がやたらに見える。そして継ぎ目と、木の肌の新しい所とが一、二寸ずつ喰い違っている。

「ははあ」

彼の寝顔は、苦笑をうかべた。しかしまだ彼は木枕に顔をつけていた。――

しとしとと霧の音につつまれるように、ふしぎな気配をうつつに感じながら。

## 六

「……<ruby><rb>武蔵</rb><rt>たけぞう</rt></ruby>さん。……寝たんですか。もうお<ruby><rb>寝</rb><rt>やす</rt></ruby>みかえ」

障子の外へ、そっと<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>り寄っていうお甲の小声であった。

寝息を聞きすますと、すうと<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>をあけて、お甲は、武蔵の枕元まで忍び寄り、

「ここへ、お水を置きますからね」

わざと、寝顔へ断りながら、盆をおいて、また静かに、障子の外へもどって行った。

<ruby><rb>母屋</rb><rt>おもや</rt></ruby>を闇にして、待っていた祇園藤次が、

「いいか」

囁くと、お甲は眼に手つだわせて、

「ぐっすりだよ……」

藤次は、しめたというように、縁先から裏へ飛び出して、谷間の闇を覗きこみ、手に持っている火縄をチラチラ振って見せた。

それが合図であった。

武蔵の眠っている一棟の板小屋は、それと共に、崖の中途で、支えている<ruby><rb>床柱</rb><rt>ゆかばしら</rt></ruby>を<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>され、ぐわうーんと凄い音をたてながら、棟も板も、乱離となって、<ruby><rb>千仭</rb><rt>せんじん</rt></ruby>の底へ呑まれてしまった。

「それっ」

鳴りをひそめていた賊は、もう仕止めた<ruby><rb>猟人</rb><rt>かりゅうど</rt></ruby>が姿を見せるように、公然と、声をあげて、<ruby><rb>猿</rb><rt>ましら</rt></ruby>の如く思い思いに、谷底へ<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>り降りて行った。

手に余る人間と見れば、彼らはいつも、こうして寝小屋もろとも、旅人を谷へ落して、その死骸からやすやすと、目的の物を<ruby><rb>奪</rb><rt>と</rt></ruby>り上げていた。

そして簡単な寝小屋はまた、次の日のうちに、絶壁へ<ruby><rb>懸出</rb><rt>かけだ</rt></ruby>して組むのであった。

谷底にも<ruby><rb>一群</rb><rt>ひとむれ</rt></ruby>の賊が、先へ廻って待っていた。寝小屋の板や柱がばらばらに<ruby><rb>墜</rb><rt>お</rt></ruby>ちて来ると、彼らは、骨に跳びつく犬のように、それへ<ruby><rb>集</rb><rt>たか</rt></ruby>って、武蔵の死骸を求め始めた。

「どうした？」

上の人数も降りて来て、

「あったか」

と、共に探しまわる。

「見えねえぞ」

誰かいう。

「何が」

「死骸がよ」

「ばかあいえ」

しかしまた、やがて同じあぐねた声が放たれた。

「いねえや、はてな？」

誰よりも<ruby><rb>血眼</rb><rt>ちまなこ</rt></ruby>に藤次が呶鳴りつけた。

「そんな筈はねえ。途中の岩にぶつかって、<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ね飛ばされているのかも知れねえ。もっと、そっちも探してみろ」

その言葉の終らないうちに、彼の見廻している谷間の岩も水も<ruby><rb>雪崩</rb><rt>なだれ</rt></ruby>の草も、いちめんに夕焼色にぱっと明るく染まった。

「――あっ？」

「――おやっ？」

賊は皆、<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>を空へ振り上げた。およそ七十尺もある絶壁である。その上に乗っていた藤次の住居は、棟、障子、窓、四方から真っ赤な焔を噴き出しているではないか。

「あれえっ。あれえっ。来ておくれよっ」

ただ独りで、気も狂わんばかりな悲鳴をあげているのは、お甲にちがいない。

「大変だ、行ってみろ」

道を<ruby><rb>攀</rb><rt>よ</rt></ruby>じ、藤<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">づる</span>を攀じ、賊はまた、上へ這い上がった。断崖の上の一軒屋、焔と山風にはよい<ruby><rb>弄</rb><rt>なぶ</rt></ruby>り物だった。お甲はと見れば、火の粉をかぶりながら、近くの樹の根に後ろ手を<ruby><rb>縛</rb><rt>くく</rt></ruby>りつけられている。

いつの間に、どうして抜けたろうか。逃げたという武蔵が、賊には何だか信じられなかった。

「追っかけろ、これだけいれば――」

藤次はいう勇気もなかったが、武蔵を知らぬ他の賊はそのままではいる筈もない。<ruby><rb>旋風</rb><rt>つむじ</rt></ruby>になってすぐ後を追った。

けれども武蔵の影はもう見当らなかった。道のない横道へ<ruby><rb>外</rb><rt>そ</rt></ruby>れたのか、樹の上で今度はほんとに熟睡でもしているのか、そうこうする<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に、美しい山の火事の中に、和田峠も大門峠も、白々と朝の姿を見せていた。

## <ruby><rb>下</rb><rt>くだ</rt></ruby>り<ruby><rb>女郎衆</rb><rt>じょろしゅう</rt></ruby>

## 一

甲州街道には、まだ街道らしい並木も整っていないし、<ruby><rb>駅伝</rb><rt>えきでん</rt></ruby>の制度も、頗る不完備であった。

その昔――というほど遠くもない、<ruby><rb>永禄</rb><rt>えいろく</rt></ruby>、<ruby><rb>元亀</rb><rt>げんき</rt></ruby>、天正へかけての武田、上杉、北条、その他の交戦地であった軍用路を、そのまま後の旅人が往還しているだけで、従って、裏街道も表街道もありはしない。

上方から来た者が、もっとも弱るのは、<ruby><rb>旅舎</rb><rt>りょしゃ</rt></ruby>の不便で、一例をいえば、朝立ちの際に、弁当ひとつ拵えさせても、餅を笹の葉で巻いた物とか、飯をいきなり<ruby><rb>柏</rb><rt>かしわ</rt></ruby>の<ruby><rb>乾葉</rb><rt>ほしば</rt></ruby>でくるんで出すとか――藤原朝時代の原始的な<ruby><rb>慣</rb><rt>なら</rt></ruby>わしを、今でもやっているという風。

ところが、<ruby><rb>笹子</rb><rt>ささご</rt></ruby>、初狩、<ruby><rb>岩殿</rb><rt>いわどの</rt></ruby>あたりの草深いそんな<ruby><rb>旅籠屋</rb><rt>はたごや</rt></ruby>でも、この頃の客の混みあう様は、<ruby><rb>凡事</rb><rt>ただごと</rt></ruby>とも思えない。そしてその多くが上りよりも、下りの客だった。

「やあ、きょうも通る――」

と、<ruby><rb>小仏</rb><rt>こぼとけ</rt></ruby>の上で休んでいた旅人たちは、今、自分たちの後ろから登って来る一団の旅の群れを、これは<ruby><rb>観物</rb><rt>みもの</rt></ruby>と、<ruby><rb>道</rb><rt>みち</rt></ruby>ばたで迎えていた。

やがて、がやがやとそれへ来た人数を見ると、なるほど、これは大変。

若い女郎衆だけでも、およそ三十名ぐらいはいよう。子守ッ子みたいな<ruby><rb>禿</rb><rt>かむろ</rt></ruby>ばかりでも五人、<ruby><rb>中年増</rb><rt>ちゅうどしま</rt></ruby>や婆さんや、男衆など合せると、総勢四十人からの大家族である。

その他、荷駄には、つづらや、長持や、一方ならぬ荷物を積み、この大家族の主人と見える四十がらみの男は、

「<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby><span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まめ</span>ができたら、草履に代えて、<ruby><rb>緒</rb><rt>お</rt></ruby>を縛ってあるけ。なに、もう歩けないと、何をいう。子どもを見なさい、子どもを」

と、坐りぐせのついている女郎衆を歩かせるのに、口を<ruby><rb>酢</rb><rt>す</rt></ruby>っぱくしている。

（今日も通る）

と<ruby><rb>路</rb><rt>みち</rt></ruby>ばたで声のするように、こうした<ruby><rb>上方</rb><rt>かみがた</rt></ruby>女郎衆の輸送は、三日にあげず通った。もちろん流れてゆく先は、新開発の江戸表である。

新将軍の秀忠が江戸城に坐ってから、いわゆる<ruby><rb>御新開</rb><rt>ごしんかい</rt></ruby>の<ruby><rb>膝下</rb><rt>ひざもと</rt></ruby>へは、急激に上方の文化が移動して行った。東海道や船路のほうは、ためにほとんど、官用の輸送や、建築用材の運搬や<ruby><rb>大小名</rb><rt>だいしょうみょう</rt></ruby>の往来でいっぱいで、こういう女郎衆の行列などは不便をしのんで、中山道や甲州筋を選ぶほかなかった。

きょうこれまで来た女郎衆の親方は伏見の人で、どういう<ruby><rb>了見</rb><rt>りょうけん</rt></ruby>か侍のくせに、遊女屋の主人となって、<ruby><rb>目端</rb><rt>めはし</rt></ruby>や才覚も<ruby><rb>利</rb><rt>き</rt></ruby>くところから、伏見城の徳川家へ手づるを求め、江戸移住の官許を取って、自分ばかりでなく、他の同業者にもすすめて、続々と、女を西から東へ移動させている<ruby><rb>庄司甚内</rb><rt>しょうじじんない</rt></ruby>という者だった。

「さあ、休め休め」

<ruby><rb>小仏</rb><rt>こぼとけ</rt></ruby>の上まで来ると、甚内は程よい所を見つけ、

「すこし早目だが、ついでに、弁当をつかってしまおう。お<ruby><rb>直</rb><rt>なお</rt></ruby>婆さん、女郎衆や<ruby><rb>禿</rb><rt>かむろ</rt></ruby>たちに、弁当をくばっておくれ」

荷駄の上から、<ruby><rb>一行李</rb><rt>ひとこうり</rt></ruby>もある弁当が下ろされて、<ruby><rb>乾葉巻</rb><rt>ほしばまき</rt></ruby>の飯が、一つ一つ渡されると、女郎たちは、思い思いにわかれてそれへ<ruby><rb>貪</rb><rt>むさぼ</rt></ruby>りつく。

どの女の皮膚も黄いろく、髪は、笠や手拭をかぶっても、みな白っぽく<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>になっている。湯茶もなく、ぽそぽそと、舌つづみ打っている姿には、行く末は<ruby><rb>誰</rb><rt>た</rt></ruby>が肌ふれん<ruby><rb>紅</rb><rt>べに</rt></ruby>の花――などという色も香もない。

「アア、お<ruby><rb>美味</rb><rt>いし</rt></ruby>かった」

親が聞いたら、涙をこぼすであろうような声を出して、しんから叫ぶ。

すると中の<ruby><rb>妓</rb><rt>おんな</rt></ruby>の二、三が、折ふし通りかけた旅すがたの若衆を見つけて、

「あら、いい恰好だ」

「ちょっとしてる」

などと囁き合っていると、べつな<ruby><rb>妓</rb><rt>おんな</rt></ruby>はまた、

「あの人なら、わたしゃあよく知っているよ。吉岡道場の門人衆と、たびたび来たことがあるお客だもの」

といった。

## 二

上方から関東といえば、関東の者が、みちのくを思うより遠かった。

（これからどんな土地で店を張るのやら）

と、心細い気持に<ruby><rb>囚</rb><rt>とら</rt></ruby>われている彼女たちは、たまたま、伏見で<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじみ</rt></ruby>の客が通ると聞いて、

「どの人さ」

「どの人さ？」

と、忽ち<ruby><rb>姦</rb><rt>かしま</rt></ruby>しい眼をそばだてた。

「大きな刀を背中へ懸けて、威張って歩いて来る若衆だよ」

「アアあの前髪の武者修行」

「そうそう」

「呼んでごらん、名前はなんていうの」

思いがけぬ小仏峠の上などで、自分がこんなに大勢の女郎衆に注目されているとは知らず、佐々木小次郎は、手を振って、荷駄や人足の間を通り抜けた。

すると、黄いろい声で、

「佐々木さん、佐々木さん――」

それでもまだ、まさか自分とは思わず、振向きもしないで行くと、

「前髪さん――」

と、来たので、これは<ruby><rb>怪</rb><rt>け</rt></ruby>しからぬことだと、眉をしかめて振り向いた。

荷駄の脚元に坐りこんで、弁当をつかっていた<ruby><rb>庄司甚内</rb><rt>しょうじじんない</rt></ruby>は、<ruby><rb>妓</rb><rt>おんな</rt></ruby>たちを叱りつけて、

「何じゃ、御無礼な」

といって、小次郎の姿を仰ぐと、これはいつか、吉岡の門人達が大勢して、伏見の店へあがった時、挨拶に出た覚えがあるので、

「これはこれは」

と、草をはたいて立上がり、

「佐々木様ではございませんか。どちらへお越しなさいますか」

「やあ、<ruby><rb>角屋</rb><rt>すみや</rt></ruby>の親方どのか。わしは江戸へ下向するが、問いたいのは、おぬしたちの行く先、大層な引っ越しじゃないか」

「てまえどもは、伏見を引払って、江戸の方へ移りますので」

「なぜあんな古い<ruby><rb>廓</rb><rt>くるわ</rt></ruby>を捨て、まだどうなるかも知れない江戸表へなど移るのだ」

「あまり<ruby><rb>澱</rb><rt>よど</rt></ruby>んでいる水には、<ruby><rb>腐</rb><rt>す</rt></ruby>えた物ばかり<ruby><rb>湧</rb><rt>わ</rt></ruby>いて、水草は咲きません」

「御新開の江戸へ行ったところで、<ruby><rb>城普請</rb><rt>しろぶしん</rt></ruby>だの弓鉄砲の仕事はあろうが、まだ遊女屋などの、悠長な商売は成り立つまい」

「ところが、そうじゃございません。<ruby><rb>灘波</rb><rt>なにわ</rt></ruby>の葦を<ruby><rb>拓</rb><rt>き</rt></ruby>り開いたのも、太閤様より<ruby><rb>妓</rb><rt>おんな</rt></ruby>の方が先でございますからね」

「何よりも、住む家があるまいが」

「今、どしどし家を建てている町中の、<ruby><rb>葭原</rb><rt>よしわら</rt></ruby>という沼地を、何十町歩と、私たちのために、お<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>から下さいました。――でもう<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>の<ruby><rb>同業者</rb><rt>なかま</rt></ruby>が、先へ行って地埋めをしたり、<ruby><rb>普請</rb><rt>ふしん</rt></ruby>をいたしておりますから、路頭に迷うような心配はございません」

「なに、徳川家では、おぬしのような者にまで、何十町歩という土地をくれているのか。――それは<ruby><rb>無料</rb><rt>ただ</rt></ruby>か」

「たれが、<ruby><rb>葭</rb><rt>よし</rt></ruby>の生えている沼地など、金を出して買うものがございましょう。そればかりでなく、普請の石材木なども、多分にお下げくださるので」

「ははあ……なるほど、それでは上方から、世帯を<ruby><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby>いで、皆下るはずだ」

「あなた様も、何か、御仕官の口でもあって」

「いいや、わしは何も仕官は望んでいないが、新将軍の<ruby><rb>膝下</rb><rt>しっか</rt></ruby>となり、新しく天下へ政道を<ruby><rb>布</rb><rt>し</rt></ruby>く中心地ともなることだから、見学をしておかねばならない。もっとも、将軍家の指南役になら、なってもよいと思っているが……」

甚内は、黙ってしまった。

世間の裏、景気のうごき、人情の種々相にくわしい彼の眼から見て、剣術は上手かどうか知らないが――今の<ruby><rb>口吻</rb><rt>くちぶり</rt></ruby>では、語るに足らないと思ったのである。

「さあ、ぼつぼつ出かけようかな」

小次郎を<ruby><rb>他</rb><rt>よそ</rt></ruby>にして、一同へこう<ruby><rb>促</rb><rt>うなが</rt></ruby>すと、女郎衆の人数を読んでいたお直という奉公人が、

「おや、女郎衆の頭数が一人足らないじゃないか。いないのは一体誰だえ。――<ruby><rb>几帳</rb><rt>きちょう</rt></ruby>さんか、<ruby><rb>墨染</rb><rt>すみぞめ</rt></ruby>さんか。ああそこに、二人ともいるね。おかしいねえ、誰だろう？」

## 三

まさか、江戸へ移住して行く女郎衆の同勢と、道連れになる気もないので、小次郎は先へ一人で歩き出したが、後に残った<ruby><rb>角屋</rb><rt>すみや</rt></ruby>の大家内は、一人の落伍者のために皆<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>を立ちかねて、

「つい、その辺まで、私たちの中に、姿が見えていたのに」

「どうしたのであろ？」

「ひょっと、逃げたのではあるまいか」

などと頻りにうわさしては、二、三の者は、わざわざ探しに道を戻って行った。

その<ruby><rb>噪</rb><rt>さわ</rt></ruby>ぎに、小次郎へわかれを述べて、<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>へ顔を向けた親方の甚内は、

「おいおいお直、逃げたとは、誰がいったい逃げたのだ」

自分の責任でも問われたように、お直と呼ばれた年よりは、

「<ruby><rb>朱実</rb><rt>あけみ</rt></ruby>という女でございますよ。……ほれ、親方様が、木曾路で見かけて、女郎にならぬかといって、お抱えになった、旅の娘っ子で」

「見えないのか――その朱実が」

「逃げたのじゃないかと、今、若い者が麓まで見つけに行きましたが」

「あの娘なら、何も証文を取って、<ruby><rb>身代金</rb><rt>みのしろきん</rt></ruby>を貸したわけじゃなし、女郎になってもよいから、江戸まで連れて行ってくれろというし、<ruby><rb>容貌</rb><rt>きりょう</rt></ruby>も踏める玉だから<ruby><rb>抱</rb><rt>かか</rt></ruby>えようと約束したまでのこと。ここまでの旅籠代が少しばかり損は損だが、まあ仕方がない。そんな者は<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>っておいて、出かけようぜ」

今夜八王子泊りとなれば、あしたは江戸に入ることができる。

少しは、夜にかかっても、其処まではと、親方の甚内は、<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>き立てて先に立つ。

すると、道の傍らから、

「皆さん、どうもすみません」

と、探しぬいていた朱実が姿をあらわして、もう歩き出している一行の中へ交じって、自分も共に<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて歩きだした。

「どこへ行っていたのさ」

と、お直は叱るし、

「おまえさん、黙って横道へ行っちゃいけないよ。逃げるつもりならいいけれど」

と、朋輩の女郎たちはいかに心配したかということを、さも<ruby><rb>大仰</rb><rt>おおぎょう</rt></ruby>にいって、たしなめる。

「でもネ……」

と、朱実は、叱られても、怒られても、笑ってばかりいた。

「わたしの知った人が通ったから、会うのは嫌でしょう、だから、後ろの<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>の中へ、あわてて隠れてしまったの。そしたら、下が崖で、この通り<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>っちまって……」

着物を破いたことだの、<ruby><rb>肱</rb><rt>ひじ</rt></ruby>をすりむいたことばかりいって、済みませんとはいっているが、少しも済まないような顔つきはしていない。

先に歩いていた甚内は、ふと小耳にはさんで、

「おい、娘っ子」

「わたしですか」

「ああ、朱実といったっけな。覚えにくい名前だな。ほんとに女郎衆になる気なら、もっと、呼びいい名にしなくちゃ困るが、おめえほんとに遊女になる覚悟か」

「遊女になるのに、覚悟なんているでしょうか」

「ひと月勤めてみて、いやになったら、やめるというような<ruby><rb>理</rb><rt>わけ</rt></ruby>にはゆかないからなあ。何しろ遊女になったら、客の求めることは<ruby><rb>嫌応</rb><rt>いやおう</rt></ruby>はいえないのだ。それだけの決心がなくちゃ困る」

「どうせ、わたしなんか、女の大事な<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>ともいうものを、男の奴に、滅茶苦茶にされたんですから――」

「だからといって、もっと滅茶苦茶にしていいという法はない。江戸へ着くまでのあいだに、よく考えておくがいいよ。……なあに、途中の<ruby><rb>小遣</rb><rt>こづか</rt></ruby>いや<ruby><rb>旅籠銭</rb><rt>はたごせん</rt></ruby>ぐらいは、何も返してくれとは、いいはしないから」

## <ruby><rb>火悪戯</rb><rt>ひいたずら</rt></ruby>

## 一

ゆうべ<ruby><rb>高雄</rb><rt>たかお</rt></ruby>の薬王院に<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>を解いた何処かの御隠居がある。

下男に挟み<ruby><rb>筥</rb><rt>ばこ</rt></ruby>を<ruby><rb>担</rb><rt>にな</rt></ruby>わせ、もう一人、十五ぐらいな少年を供に連れ、

「参詣は明日とし、お宿にあずかり申したい」

と、<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそが</rt></ruby>れ頃、薬王院の玄関へ立った者である。

今朝は<ruby><rb>夙</rb><rt>と</rt></ruby>く起きて、供の少年を連れ、一山を<ruby><rb>巡</rb><rt>めぐ</rt></ruby>って<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>近くに帰って来たが、ここも上杉、武田、北条以後、戦乱に荒れ果てているのを見て、

「御修理の屋根<ruby><rb>葺</rb><rt>ふ</rt></ruby>き料にも」

と、黄金三枚を寄進して、すぐ<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>をはきかけた。

薬王院の別当は、この奇特な人の少なからぬ寄進に驚いて、<ruby><rb>倉皇</rb><rt>そうこう</rt></ruby>と見送りに出、

「お名前をどうぞ」

と、訊ねたところ、他の僧が、

「いえ、宿帳にいただいてございます」

と、それを示した。

見ると、

木曾<ruby><rb>御岳山下</rb><rt>おんたけさんした</rt></ruby>百草房　　　　奈良井屋大蔵

とあるので、

「――あああなた様が」

と別当は見上げて、ゆうべからの粗略を、かえすがえす口惜しげに詫び入った。

奈良井の大蔵という名は、全国到る所の神社仏閣の寄進札に見かける名であった。必ず黄金何枚ずつか――或る霊場には、黄金何十枚という寄進をしている所もあった――それは道楽か、売名か、まったくの奉公心か、本人以外に分らないが、とにかく、今の世の中に変った奇特家として、別当も<ruby><rb>夙</rb><rt>つと</rt></ruby>にその名を聞いているものとみえる。

――で、<ruby><rb>遽</rb><rt>にわか</rt></ruby>に、ひき止めてみたり、宝物を御覧にと、すすめたりしたが、大蔵はもう供の者と門を出て、

「しばらく江戸におるつもりですから、またそのうち拝観に出ましょう」

と、辞儀して去る。

「では、山門まで、お送り申しあげましょう」

と、別当は<ruby><rb>従</rb><rt>つ</rt></ruby>いて来て、

「今夜は、府中でお泊りなされますか」

「いや、八王子でと思うているが」

「それならお楽に参れまする」

「八王子は今、<ruby><rb>誰方</rb><rt>どなた</rt></ruby>の所領でござりますな？」

「ついこの頃から大久保長安様の御支配になりました」

「ああ、奈良奉行から移った――」

「佐渡のお<ruby><rb>金山奉行</rb><rt>かねやまぶぎょう</rt></ruby>も、御支配だそうで」

「えらい才人だからの」

山を下りると、陽の高いうちに、大蔵以下三人は、もう繁華な八王子二十五宿の往来に姿を見せて、

「城太郎、どこへ泊ろうかな？」

と、<ruby><rb>巾着</rb><rt>きんちゃく</rt></ruby>のように、腰へ<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて歩いている彼を振向く。

城太郎は、直ちに答えた。

「おじさん、お寺は止そうよ」

そこで、町の中でも一番大きな<ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>と見える家構えを選んで、

「ごやっかいになるよ」

大蔵の人品もよし、<ruby><rb>挟</rb><rt>はさ</rt></ruby>み<ruby><rb>筥</rb><rt>ばこ</rt></ruby>まで担がせて歩いている旅客なので、

「おはやいお着きで」

中庭を隔てた奥の間へ通して、下へも<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>かない扱いである。

だが、やがて陽も暮れて、どやどやと客の混む頃おいになると、<ruby><rb>主人</rb><rt>あるじ</rt></ruby>と番頭が顔を揃えて来ていうには――

「まことにご無理なお願いでございますが、よんどころのない大勢の相客で、下座敷はかえってお騒がしゅうございましょうから、ひとつ二階へお部屋がえを……」

と、恐縮して、頼むのだった。

「ああ、いいとも。ご繁昌で結構だ」

大蔵は、気軽に承知して、手廻りの荷物を持たせ、急に二階へ引っ越しとなったが、それと入れ<ruby><rb>交</rb><rt>ちが</rt></ruby>いに、ここへ入って来たのは<ruby><rb>角屋</rb><rt>すみや</rt></ruby>の女郎衆の同勢であった。

## 二

「さてさて。とんだ<ruby><rb>旅籠</rb><rt>うち</rt></ruby>へ泊りあわせたものだて」

大蔵は、二階へ来てから、こう愚痴めいて、自分の落着きを見まわした。

時ならぬ混雑に、いくら呼んでも、召使は来ない。お膳も来ない。

やっと、食事が来たと思うと、こんどはそれを<ruby><rb>退</rb><rt>さ</rt></ruby>げに来ない。

それに、どたばたと、<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>も二階も忙しげな跫音が絶えなかった。腹も立つが、ああして目をまわしている雇人も気の毒と思うと、怒りもされないのである。

片づかない部屋の中に、奈良井の大蔵は手枕で横になっていたが、ふと、何か思い立ったように首を<ruby><rb>擡</rb><rt>もた</rt></ruby>げ、

「<ruby><rb>助市</rb><rt>すけいち</rt></ruby>」

と、下男を呼んだが、見あたらないので、

「城太郎、城太郎」

と、呼び直して坐る。

その城太郎もまた、何処へ行ったか、影が見えないので、部屋を出てみると、中庭を下へ臨んで、ここの<ruby><rb>縁</rb><rt>えん</rt></ruby>の<ruby><rb>欄干</rb><rt>てすり</rt></ruby>には、まるで花見でもしているように、二階の客が揃いも揃って、<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>の奥座敷を見おろしながら、何やらわいわい騒いでいるのであった。

その中に<ruby><rb>交</rb><rt>ま</rt></ruby>じって、城太郎も一緒になって<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>をのぞいていたのを見出し、

「これ」

と、<ruby><rb>抓</rb><rt>つま</rt></ruby>んで来て、

「何を見ているのだ」

と、大蔵が眼で叱ると、城太郎は、家の中でも離さずにいる長やかな木剣を、畳につかえて坐りながら、

「だって、みんな見てるんだもの――」

と、<ruby><rb>尤</rb><rt>もっと</rt></ruby>もなことをいう。

「みんなは、何を見ているのだい」

大蔵も多少、興をひかれていないわけでもない。

「何って……あの、<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>の奥へ泊った、沢山な女の人を見ているんだろ」

「それだけか」

「それだけだよ」

「何がそんなものおもしろい」

「わからない」

城太郎は、<ruby><rb>有体</rb><rt>ありてい</rt></ruby>に首を振る。

大蔵を落着かせぬ原因は、雇人の跫音よりも、<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>へ泊り合せた角屋の女郎衆よりも、むしろそれを上から覗いている、二階の客どもの騒ぎにあった。

「わしは少し、町を歩いて来るからな、なるべく、部屋にいなくてはいけないよ」

「町へ行くなら、おいらも連れて行っておくれよ」

「いや、晩はいけない」

「なぜ」

「いつもいっている通り、わしの夜歩きは、遊びではない」

「じゃあ、何さ？」

「信心だ」

「信心は昼間しているからたくさんじゃないか。神様だって、お寺だって、晩は寝てるだろ」

「社寺をお参りすることばかりが信心ではない。ほかに祈願もあることでな」

と、相手にしないで、

「その<ruby><rb>挟</rb><rt>はさ</rt></ruby>み<ruby><rb>筥</rb><rt>ばこ</rt></ruby>から、わしの<ruby><rb>頭陀袋</rb><rt>ずだぶくろ</rt></ruby>を出したいが、開くか」

「開かない」

「助市が鍵を持っているはずじゃ、助市はどこへ行ったな」

「<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>へ行ったぜ、さっき」

「まだ風呂場か」

「<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>で、<ruby><rb>女郎衆</rb><rt>おんなしゅう</rt></ruby>の部屋をのぞいてたよ」

「あいつもか」

と、舌打ちして、

「――呼んで来い、早く」

大蔵は、そういって、帯を締め直しにかかった。

## 三

四十人からの同勢である。<ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>の下座敷は、ほとんど、<ruby><rb>角屋</rb><rt>すみや</rt></ruby>の連中で占めている。

男たちは、帳場寄りの部屋に、<ruby><rb>女郎</rb><rt>おんな</rt></ruby>たちは、中庭の向うの部屋に。

何しろ、賑やかを通り越して、<ruby><rb>姦</rb><rt>かしま</rt></ruby>しいこと一<ruby><rb>方</rb><rt>かた</rt></ruby>でない。

「あしたはもう、歩けんがなあ」

と、大根のような白い足に、大根おろしを<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>って、足の裏の<ruby><rb>火照</rb><rt>ほて</rt></ruby>りに塗ってもらっている<ruby><rb>傾城</rb><rt>けいせい</rt></ruby>もある。

元気なのは、<ruby><rb>破</rb><rt>や</rt></ruby>れ三味線を借りて来て<ruby><rb>爪弾</rb><rt>つめび</rt></ruby>きをしているし、皮膚の青白いのは、もう夜の<ruby><rb>具</rb><rt>もの</rt></ruby>を<ruby><rb>被</rb><rt>かず</rt></ruby>いで、壁に向って寝こんでいる。

「おいしそうだね、あたいにも、よこしなよ」

と、喰べ物を引ッ張りっこ。――また、<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>とさし向いで、<ruby><rb>上方</rb><rt>かみがた</rt></ruby>の空に残して来た<ruby><rb>契</rb><rt>ちぎ</rt></ruby>りある男へ、筆を走らせている<ruby><rb>苦界</rb><rt>くがい</rt></ruby>の後ろ姿もある。

「あしたはもう江戸とやらへ、着くのかえ」

「どうだかね。ここで訊けば、まだ十三里もあるってえもの」

「勿体ないね、夜の<ruby><rb>灯</rb><rt>あか</rt></ruby>りを見ると、こうしているのは」

「おや、たいそう、親方思いだね」

「だって……。ああじれったい、髪の根がかゆくなった。<ruby><rb>釵</rb><rt>かんざし</rt></ruby>をおかし」

こんな風景でも、京女郎衆と聞くからに、男の眼はそばだったのであろう。風呂場から上がった下男の助市は、湯ざめをするのも忘れて中庭の植込み越しに、いつまでも、見惚れていた。

すると、後ろから耳を引張って、

「いい加減におしよ」

「ア痛」

と振向いて、

「なんだ、この城太郎め」

「助さん、呼んでるぞ」

「誰が」

「お前の主人がさ」

「うそいえ」

「うそじゃないよ。また、歩きに出かけるんだとさ。あの<ruby><rb>小父</rb><rt>おじ</rt></ruby>さん、年がら年中、歩いてばかりいるんだな」

「あ、そうか」

助市の後から、城太郎も駈出して行こうとすると、庭木の陰から思いがけなくも、

「城太さん――。城太さんじゃないの？」

と、呼ぶ者があった。

はっと、城太郎の眼が、真剣になって<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>った。何もかも忘れ切って運命に<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて歩いているかのようでも、彼の心のどこかには絶えず、見失った武蔵とお通の身を気にとめているらしかった。

今、呼んだのは、若い女の声であった。もしや？　――とすぐ胸がどきっとしたものとみえる。じっと、大きな八ツ手の陰をすかして、

「……誰？」

おずおず寄ると、

「わたし」

と、木陰の白い顔は、葉の下を<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>って、城太郎の前に立った。

「なアんだ」

がっかりしたように、城太郎がいい放ったので、朱実は舌うちして、

「なあに、この子はまあ」

と、自分の寄せかけた感傷のやり場を失って、憎そうに、城太郎の背を打った。

「ずいぶん久し振りじゃないの。どうして、お前、こんな所へ来ているの」

「自分こそ、どうしたのさ」

「あたしはネ……知ってるだろ。よもぎの寮の<ruby><rb>養母</rb><rt>おっか</rt></ruby>さんとも別れちまって、それからいろんな目に会ってね」

「あの……大勢の女郎衆と、一緒なのかい」

「でも、まだ、考えてるの」

「何をさ」

「<ruby><rb>傾城</rb><rt>けいせい</rt></ruby>になろうか、やめようかと思って」

こんな子供にと思っても、朱実には、こんな<ruby><rb>嘆息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>を、ほかに聞いてもらう人はなかった。

「……城太さん、武蔵様は今、どうしていらっしゃるの？」

やがて、そっといったが、彼女が初めから訊きたいことは、むしろそれだけらしかった。

## 四

武蔵の消息を訊かれると、城太郎は、そのことなら、<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>から訊きたいところだと、いわぬばかりに、

「知らないよ、おいらは」

「なぜ、あんたが知らないのさ」

「お通さんとも、お師匠様とも、途中でみんな、<ruby><rb>迷</rb><rt>はぐ</rt></ruby>れてしまったんだもの」

「お通さんて――誰？」

朱実は、急に、彼のことばに、注意をかたむけ、そして、何か憶い出したように、

「……ああそうか。……あのひとは、いまだに武蔵様の後を追いまわしているのね」

と、<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。

朱実が常に想像している武蔵は、行雲流水の修行者であった。<ruby><rb>樹下石上</rb><rt>じゅげせきじょう</rt></ruby>の人だった。それゆえに、いくら想いを懸けたところで、届き<ruby><rb>難</rb><rt>がた</rt></ruby>い心地がして、同時に、自分の<ruby><rb>荒</rb><rt>すさ</rt></ruby>びかけた境涯も顧みられ、

（<ruby><rb>所詮</rb><rt>しょせん</rt></ruby>、かなわぬ恋）

という弱気な<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めにつつまれてしまうのだった。

けれど、その武蔵の生活の影に、もうひとり、べつな女性の影が重なっていると想像すると――朱実の諦めは、到底、灰をかぶせられた<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>め火のままではない。

「城太さん、ここじゃ、他の人の目がうるさいから、<ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>へ行かない？」

「町へかい」

出たくて耐らなかった折なので、そう誘われると、一も二もない。

<ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>の庭木戸をあけて、ふたりは宵の往来へ出る。

二十五宿といわれる八王子の<ruby><rb>燈</rb><rt>ひ</rt></ruby>は、今までの何処よりも繁華に見えた。<ruby><rb>秩父</rb><rt>ちちぶ</rt></ruby>や甲州境の山の影が、どっぷり町の西北を囲ってはいるが、ここに<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>まっている宵の<ruby><rb>燈</rb><rt>ひ</rt></ruby>には、酒のにおいだの――<ruby><rb>博労</rb><rt>ばくろう</rt></ruby>の声だの、<ruby><rb>機屋</rb><rt>はたや</rt></ruby>の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おさ</span>の響きだの、問屋場役人の呶鳴る声だの、町芸人の<ruby><rb>佗</rb><rt>わび</rt></ruby>しい音楽だのがつつまれて、人間の<ruby><rb>聚楽</rb><rt>じゅらく</rt></ruby>を賑わしていた。

「あたし、お通さんていうひとのことは、又八さんからよく聞いてたけれど、いったい、どんな<ruby><rb>女</rb><rt>ひと</rt></ruby>――」

朱実は、ひどくそれが、気になり出したらしい。

武蔵のことは、ひとまず胸の隅へあずけておいて、彼女の胸には、お通という者に対して、何か、燃えるようなものが、<ruby><rb>焦々</rb><rt>いらいら</rt></ruby>、立ちはじめていた。

「いいひとだぜ」

と、城太郎がことさらに――

「やさしくって、思いやりがあって、綺麗でサ――。おいら、大好きだ、お通さんは！」

と、いったので、朱実の胸はよけいに、或る脅威を感じてきた。

けれど、そういう脅威は、どんな女性でも決してあらわには顔色に出さない。反対に、彼女も、ほほ笑むのであった。

「そう、そんないいひと」

「ああ、そして、何でもよくできるよ、歌もよむし、字もうまいし、笛も上手だしね」

「女が、笛なんか上手だって、なんにもなりやしないじゃないの」

「けれど、<ruby><rb>大和</rb><rt>やまと</rt></ruby>の<ruby><rb>柳生</rb><rt>やぎゅう</rt></ruby>の大殿様でも、誰でも、お通さんのことは<ruby><rb>賞</rb><rt>ほ</rt></ruby>めるぜ。……ただおいらにいわせれば、いけないことがひとつあるけれど」

「女には、誰にだって、いけない性分が沢山あるものよ。ただそれを、あたしみたいに、正直にうわべに出しているか、おしとやか<ruby><rb>振</rb><rt>ぶ</rt></ruby>って、うまく包んでいるかの違いしかありやしないものよ」

「そんなことないよ。お通さんのいけないのはたった一つしかないよ」

「どんな性分があるの」

「すぐ泣くんだよ。泣虫なのさ」

「泣くの。……まあ、どうしてそう泣くんでしょう」

「武蔵様のことを思い出しちゃあ泣くんだろ。一緒にいると、それだけが、陰気になって、おいら嫌いさ」

――もう大概に、相手の顔いろを見て<ruby><rb>喋</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>ればいいのに、城太郎はおかまいなしに、まだこの上にも、朱実の胸はおろか、全身を<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>の火で焼きかねないほど――無邪気を通り越していた。

## 五

<ruby><rb>眸</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>の底にも、皮膚にも、<ruby><rb>蔽</rb><rt>おお</rt></ruby>いきれない嫉妬のいろをたたえながら――なおなお、朱実は求めて訊きたがった。

「いったい、お通さんて、<ruby><rb>幾歳</rb><rt>いくつ</rt></ruby>なの？」

城太郎は、見較べるように、彼女の顔をながめて、

「<ruby><rb>同</rb><rt>おんな</rt></ruby>じぐらいだろ」

「わたしと？」

「だけど、お通さんの方が、もっと、綺麗で若いよ」

そのくらいでこの話題が打切れればよかったのに、朱実の方からまた、

「武蔵様は、人なみ以上、武骨だから、そんな泣虫のひとは嫌いだろう。そうだよきっと、そのお通ってひとは、泣いて男の気持をひきつけようとする――<ruby><rb>角屋</rb><rt>すみや</rt></ruby>の女郎衆みたいなひとに違いない」

どうかして、お通を、城太郎にだけでも、好く思わせまいと努めるのであったが、結果はかえって反対に、

「そうでもないぜ。お師匠様も、うわべは優しくしないけれど、ほんとは、お通さんが好きらしいんだよ」

とまで、いわせてしまった。

<ruby><rb>凡</rb><rt>ただ</rt></ruby>ならぬ顔いろはもうとうに通り過ぎている朱実であった。歩いている側に河でもあれば、すぐ飛びこんで見せてやりたいような火の塊りが胸へこみあげてくる。

これが、子供相手でもなければ、もっといってやりたいことはあるけれど、城太郎の顔いろを見ては、その張合いもない。

「城太さん、おいで」

ふいに、彼女は、町の辻から横町の赤い<ruby><rb>燈</rb><rt>ひ</rt></ruby>を見て、引っ張った。

「ア、居酒屋じゃないか、そこは」

「そうさ」

「女のくせにおよしよ」

「何だか、急に飲みたくなったのよ。ひとりじゃ間がわるいから――」

「おいらだって、間がわるいや――」

「城太さんは、何でも喰べたいものを喰べればいいじゃないか」

覗いて見ると、幸いにも、ほかの客はいないらしい。朱実は、河へ飛び込むよりもっと強い<ruby><rb>盲目</rb><rt>めくら</rt></ruby>になって、中へはいるなり、

「……お酒を」

と、壁へ向っていった。

それから彼女は矢つぎばやに酒を体に<ruby><rb>容</rb><rt>い</rt></ruby>れた。城太郎が恐れて止めた頃には、もう城太郎の手におえなかった。

「うるさいね、何サ、この子は――」

と、<ruby><rb>肱</rb><rt>ひじ</rt></ruby>で振払って、

「もっと、お酒を……お酒をくださいな」

そのくせ、もう焔のような顔して、<ruby><rb>俯</rb><rt>う</rt></ruby>っ<ruby><rb>伏</rb><rt>ぷ</rt></ruby>しながら、息もくるしげなのである。

「いけないよ、やっちゃあ」

城太郎が、間に立って、心配そうに断ると、

「いいよ、お前はどうせ、お通さんが好きなんでしょ。……あたしはね、泣いて男の同情を買うような、そんな女、大っ嫌いさ」

「おいら、女のくせに、酒なんか飲むやつ、大っ嫌いだ」

「わるかったね。……お酒でも飲まなけれやいられないあたしの胸は……おまえみたいなチンチクリンには分りません――だよ」

「はやく勘定をお払いよ」

「おかねなんて、あるかとさ」

「ないのかえ」

「そこの<ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>に泊っている、京の<ruby><rb>角屋</rb><rt>すみや</rt></ruby>の親方さんから貰っておくれ。どうせもう売った体……」

「アラ、泣いてら」

「わるいかえ」

「だって、お通さんの泣虫を、さんざん悪くいった癖に、自分で泣くやつがあるもんか」

「あたしの涙は、あのひとの涙とは、涙がちがいますよ。――アア面倒くさい、死んでやろうか」

ふいに身を起すと、<ruby><rb>戸外</rb><rt>おもて</rt></ruby>の闇を目がけて駈け出したので、城太郎は、びっくりして抱き止めた。

こういう女客も、稀にはあるとみえて、居酒屋の者は笑っていたが、ふと、隅に寝ていた牢人者が、むっくり<ruby><rb>酔眼</rb><rt>すいがん</rt></ruby>をさまして見送っていた。

## 六

「朱実さあん。朱実さあん。――死んじゃいけないよ」

城太郎は追いかけてゆく。

朱実は先へ走ってゆく。

暗い方へ、暗い方へと。

先が闇であろうと、沼であろうと無鉄砲に駈けているもののように見えるが、朱実は、城太郎が泣き声だして、後ろで呼んでいることを知っている。

ひそかな<ruby><rb>芽生</rb><rt>めば</rt></ruby>えを乙女の胸にもちながら、その芽を、あらぬ男に――あの吉岡清十郎にふみにじられて――住吉の海へまっしぐらに駈けこんだ時には、ほんとに、死の<ruby><rb>彼方</rb><rt>あなた</rt></ruby>まで行く気であったが――今の朱実には、その口惜しさだけがあっても、それまでの純真さはすでにない。

（誰が、死ぬものか）

と、自分へいいながら、ただわけもなく、城太郎が後ろから駈けて来るのが面白くて、世話をやかせてやりたいのだった。

「あっ、あぶないっ」

城太郎は、呶鳴った。

彼女の先に、<ruby><rb>濠</rb><rt>ほり</rt></ruby>の水らしいものが、闇に見えたからであった。

たじろぐ彼女を後ろからひしと抱き止めて、

「朱実さん、およしよ、およしよ。死んだってつまらないじゃないか」

引きもどすと、よけいに、

「だって、おまえだって、武蔵様だって、みんなあたしを、悪者のように思ってるじゃないか。あたしは、死んでこの胸に、武蔵様を抱いてゆく。……そして添わせるものか、あんな女に」

「どうしたのさ。何が、どうしたのさ」

「さあ、その濠の中へ、あたしを突きとばしておくれ。……よ、よ、城太さん」

そして両手を顔に当て、さめざめと、泣きぬくのであった。

城太郎は、その姿を見て、ふしぎな<ruby><rb>恐</rb><rt>こわ</rt></ruby>さに取り<ruby><rb>憑</rb><rt>つ</rt></ruby>かれていた。自分も泣きたくなったらしく、

「……ネ。帰ろう」

と、<ruby><rb>宥</rb><rt>なだ</rt></ruby>めると、

「ああ、会いたい。城太さん――探して来ておくれ。武蔵様を」

「だめだよ、そんな方へ歩いてゆくと」

「――武蔵様」

「あぶないッたら」

この二人が居酒屋の横町を駈け出した時から、すぐ後を<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>けて来た牢人者は、その時、狭い濠を<ruby><rb>繞</rb><rt>めぐ</rt></ruby>らした屋敷の角から、<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ぎ寄るように歩いて来て、

「こら、子ども。……この女は、おれが後から送り届けてやる。お前は帰ってもいい」

と、朱実の体を、いきなり小脇に抱きしめて、城太郎を突き<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>けた。

<ruby><rb>身丈</rb><rt>みのたけ</rt></ruby>のすぐれた三十四、五の男である。かなつぼ<ruby><rb>眼</rb><rt>まなこ</rt></ruby>に<ruby><rb>青髯</rb><rt>あおひげ</rt></ruby>のあとが濃い。関東風というのか、江戸へ近づくに従って、ひどく眼につくのが、着物や<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>の短いことと、刀の大きいことだった。

「おや？」

見上げると、<ruby><rb>下顎</rb><rt>したあご</rt></ruby>から右の耳へかけて、刀の切先で撫であげられた古傷が、桃の割れ目のように<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>んでいる。

（強そうなやつだぞ）

と思ったのであろう。城太郎は<ruby><rb>生唾</rb><rt>なまつば</rt></ruby>をのんで――

「いいよ、いいよ」

朱実を連れ戻そうとすると、

「みろ、この女は、やっと虫が納まって、いい気持そうに、おれの腕の中に締められて寝てしまった。おれが連れて帰ってやる」

「だめだよ、おじさん」

「帰れっ」

「……？」

「帰らないな」

ゆっくり、手をのばして、城太郎の襟がみをつかむと、城太郎は、<ruby><rb>羅生門</rb><rt>らしょうもん</rt></ruby>の綱（渡辺綱のこと）が鬼の腕に耐えるように踏んばって、

「な、なにをするのさ」

「この餓鬼め、<ruby><rb>溝</rb><rt>どぶ</rt></ruby>の水を喰らって帰りたいか」

「なにをっ」

この頃は、体以上の木剣も、やや手について、ひねり腰に抜くがはやいか、牢人の横腰をなぐりつけた。

――しかし、自分の体も途端に、あざやかな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もんどり</span>を宙に打って、<ruby><rb>溝</rb><rt>どぶ</rt></ruby>へは落ちなかったが、どこか、そこらの石にでもぶつけたらしく、ううむと<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>って、それなり動きもしなかった。

## 七

ひとり城太郎に限らず子供というものはよく気絶する。大人のような<ruby><rb>遅疑</rb><rt>ちぎ</rt></ruby>がないので、事にぶつかると、素純なたましいは、この世とあの世の境を、つい<ruby><rb>弾</rb><rt>はず</rt></ruby>みでも、超えてしまうのであろう。

「おーい、子どもう」

「お客さん」

「子ども……ウ」

耳元で、かわるがわるに呼ばれて、城太郎は、大勢の中に介抱されている自分を、ぱちぱち見まわした。

「気がついたかい」

皆に問われて、城太郎は、間がわるそうに、自分の木剣を拾うが早いか、歩き出した。

「これこれ、お前と一緒に出た<ruby><rb>女子</rb><rt>おなご</rt></ruby>はどうした」

宿屋の手代は、あわてて彼の腕をつかまえた。

そう訊かれて、彼は初めて、この人々が、奥に泊っている<ruby><rb>角屋</rb><rt>すみや</rt></ruby>の者と、<ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>の雇人たちで、朱実を探しに来たものと知った。

誰が発明したのか、<ruby><rb>重宝</rb><rt>ちょうほう</rt></ruby>がられて上方でも流行っている「ちょうちん」と呼ぶ物が、もう関東にも来ているとみえ、それを持った男だの、棒切れを持った若者などが、

「おまえと、角屋の女子が、侍につかまって、難儀をしていると、知らせてくれた者があるのだ。……何処へ行ったかおまえは知っているだろうが」

城太郎は、首を振って、

「知らない。おいらは、何も知らない」

「何も？　……ばかをいえ、何も知らぬことがあるものか」

「何処か、<ruby><rb>彼方</rb><rt>むこう</rt></ruby>のほうへ、抱えて行ったよ。それきりしか、知らない」

城太郎は、とかく返辞をいいしぶった。<ruby><rb>関</rb><rt>かか</rt></ruby>り合いになって、後で奈良井の大蔵に叱られることが<ruby><rb>恐</rb><rt>こわ</rt></ruby>かったのと、もう一つの理由は、相手に<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>りつけられて、気絶してしまった不覚を、大勢の前でいうのが、<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>がわるいのであった。

「どっちだ。その侍の逃げた方は」

「あっちだ」

指さしたのも、いい加減であったが、それっと、大勢が駈け出すとすぐ、ここにいた、ここにいたと、先で叫ぶ者がある。

<ruby><rb>提燈</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>や棒が駈け集まってみると――朱実はしどけない姿を農家の<ruby><rb>藁小屋</rb><rt>わらごや</rt></ruby>らしい陰に<ruby><rb>曝</rb><rt>さら</rt></ruby>していた。その辺に積んである<ruby><rb>乾草</rb><rt>ほしくさ</rt></ruby>の上に押し仆されていたものとみえ、人の跫音に驚いて、髪も着物も、わらや乾草だらけになって、起き上がっていたが、襟はひらいているし、帯はだらりと解けている――

「まあ、どうしたのじゃ」

提燈の明りに、それを見た人々は、すぐ或る犯行を直感したが、さすがに、口へいい出す者もなく、犯行者の牢人者を追うことも忘れていた。

「……さ、お帰り」

手をひくと、その手を払って、彼女は小屋の<ruby><rb>羽目</rb><rt>はめ</rt></ruby>へ顔を当てたまま、よよと、声をあげて、泣きじゃくった。

「酔っているらしいね」

「何でまた、<ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>で酒など？」

人々は、しばらく、彼女の泣くにまかせて、見まもっていた。

城太郎も、遠くからその様子を覗いていた。彼女がどんな目に遭ったのか、彼にははっきり頭に描くことはできなかったが、彼はふと、朱実とはまるで縁のない過去の或る体験を思いだしていた。

それは、<ruby><rb>大和</rb><rt>やまと</rt></ruby>の柳生の庄のはたご屋に泊った時、はたごの小茶ちゃんという少女と、<ruby><rb>馬糧</rb><rt>まぐさ</rt></ruby>小屋のわらの中で、<ruby><rb>抓</rb><rt>つね</rt></ruby>ったり、かじりついたりして、ただ<ruby><rb>狆</rb><rt>ちん</rt></ruby>ころのように、人の跫音を恐れるおもしろさを味わった――あの経験であった。

「行こうッ――と」

すぐ、つまらなくなって、城太郎は駈けだした。駈けながら、たった今、あの世のてまえまで行った魂を、この世に遊ばせて歌いだした。

野なかの、野中の

<ruby><rb>金</rb><rt>かな</rt></ruby>ぼとけ

十六娘をしらないか

迷った娘を知らないか

打っても、カーン

訊いても、カーン

## <ruby><rb>草雲雀</rb><rt>くさひばり</rt></ruby>

## 一

帰る<ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>は、分りきったつもりでいたらしいが、向う見ずに飛んで来るうちに、

「おや、違ったかな？」

城太郎は初めて、自分の駈けている道に、疑いを抱き、前や後ろを見まわして、

「来る時には、こんな所は歩かなかったぞ」

と、やっと気がついたような顔つきである。

この辺には、古い<ruby><rb>砦</rb><rt>とりで</rt></ruby>の<ruby><rb>蹟</rb><rt>あと</rt></ruby>を中心に、一<ruby><rb>廓</rb><rt>かく</rt></ruby>の武家町がある。砦の石垣は、かつて他国の軍に占領されて、ひどく<ruby><rb>壊</rb><rt>こわ</rt></ruby>されたまま荒れているが、一部を修復して、今ではこの地方を支配する大久保長安の役宅か住居になっている模様である。

戦国以後に発達した<ruby><rb>平城</rb><rt>ひらじろ</rt></ruby>とちがい、極めて旧式な――土豪時代の<ruby><rb>砦</rb><rt>とりで</rt></ruby>なので、<ruby><rb>濠</rb><rt>ほり</rt></ruby>も<ruby><rb>繞</rb><rt>めぐ</rt></ruby>らしてないし、従って城壁も見えない。唐橋もない。ただ、<ruby><rb>漠</rb><rt>ばく</rt></ruby>とした一面の<ruby><rb>藪山</rb><rt>やぶやま</rt></ruby>であった。

「あっ？　……誰だろう……あんな所から人間が？」

城太郎が<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んでいた道の片側は、<ruby><rb>砦</rb><rt>とりで</rt></ruby>の下を<ruby><rb>繞</rb><rt>めぐ</rt></ruby>っている侍屋敷の塀であった。

そして一方は、<ruby><rb>田圃</rb><rt>たんぼ</rt></ruby>と沼であった。――

その沼と田圃の<ruby><rb>端</rb><rt>はず</rt></ruby>れからすぐ、<ruby><rb>嶮</rb><rt>けわ</rt></ruby>しい藪山の裏が、<ruby><rb>生</rb><rt>は</rt></ruby>えたように急に<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>え立っている。

道もないし、石段も見えないから、恐らく、この辺は砦の<ruby><rb>搦手</rb><rt>からめて</rt></ruby>であろう。――だのに今、城太郎が見ていると、その藪山の絶壁から、綱を垂らして、降りて来る人間がある。

綱の先には、カギがついているとみえて、その綱の端まで降りてくると、足の先で、岩や木の根を探り、下から振ってカギを<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>し、またさらに下へ綱をのばして、スルスルと降りて来る。

――そして遂に、<ruby><rb>田圃</rb><rt>たんぼ</rt></ruby>と山の境まで下がって来ると、その人影はいったん其処らの雑木<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>の中に見えなくなってしまった。

「なんだろ？」

城太郎の好奇心は、自分の身が宿場の灯から遠い所へ迷って来ていることをも忘れさせてしまった。

「……？」

だがもう、彼がいくら眼をまるくしていても、何も見えて来なかった。

それだけにまた、彼の好奇心は、そこを去りかねた様子で、往来の<ruby><rb>樹陰</rb><rt>こかげ</rt></ruby>にひたと身をつけて、やがて<ruby><rb>田圃</rb><rt>たんぼ</rt></ruby>の<ruby><rb>畦</rb><rt>あぜ</rt></ruby>を渡って、自分の前へ来そうな気のする――<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>の人影を待ちぬいていた。

彼の期待は<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>れなかった。ずいぶん<ruby><rb>時</rb><rt>とき</rt></ruby><ruby><rb>経</rb><rt>た</rt></ruby>ってからであったが、やがて、畦道からのそのそと<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>へ来る人間が見える。

「……なんだ<ruby><rb>薪拾</rb><rt>まきひろ</rt></ruby>いか」

他人の山の薪を盗む土民は、一背負いの薪のために、夜を選んで、随分あぶない崖も越えるが、もしそんな者だったら――と城太郎はふとつまらない待ちくたびれを感じた。しかし再び、驚くべき事実を<ruby><rb>眼</rb><rt>ま</rt></ruby>のあたりに見せられて、彼の好奇心は、満足を通り越え、恐怖の<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えに襲われた。

――田圃の<ruby><rb>畦</rb><rt>あぜ</rt></ruby>から往来端へ上がった人影は、彼の小さい影が、樹の陰にへばりついているとも知らず、悠々、彼の側を通って行ったが、そのせつな、城太郎はよくも、

「あっ！」

という声を出さなかったものである。

なぜなら、それは<ruby><rb>慥</rb><rt>たし</rt></ruby>かに城太郎が先頃から身を託している奈良井の大蔵に違いないからである。

けれど彼はまたすぐ、

「いや、<ruby><rb>人間違</rb><rt>ひとまちが</rt></ruby>いだろ？」

と、自分の眼で見た瞬間のものを、打ち消そうとした。

そう打ち消してみると、間違いかとも信じられた。――<ruby><rb>彼方</rb><rt>かなた</rt></ruby>へすたすたと行く後ろ姿を見れば、黒い布で顔をつつみ、黒い<ruby><rb>膝行袴</rb><rt>たっつけ</rt></ruby>や脚絆もはいて、足も身軽なわらじ<ruby><rb>穿</rb><rt>ば</rt></ruby>きではないか。

そして背中には、なにやら重たげな包みを<ruby><rb>確乎</rb><rt>しっか</rt></ruby>と背負っている。その頑健な肩といい、腰ぼねといい、どうして、五十を越えた奈良井の大蔵であるものか――と、思われぬでもなかった。

## 二

見ていると、先へ行く人影は、また、往来から左の丘の方へ向って、曲がって行く。

べつに深い考えもなく、城太郎も後に<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて歩いていた。

どっちにしても、彼も、帰る方角をきめて、歩き出さなければならない場合にあったので、ほかに道を問う人影はなし、漫然、その男の後に<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて行ったら、宿場の<ruby><rb>燈火</rb><rt>あかり</rt></ruby>が見えて来るだろう――ぐらいな思案にすぎなかったのである。

ところが。

先の男は、横道へはいると、<ruby><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby>いでいた<ruby><rb>嚢</rb><rt>ふくろ</rt></ruby>のような物を、重そうに、<ruby><rb>道標</rb><rt>みちしるべ</rt></ruby>の下におろして、石の文字を読んでいた。

「あら？　……変だな……やっぱり大蔵様に似ている人だ」

それから城太郎は、いよいよ不審を増して、今度はほんとに、見え隠れに、その男を<ruby><rb>尾行</rb><rt>つけ</rt></ruby>てみる気になった。

男が、もう丘の道を登っているので、後から、<ruby><rb>道標</rb><rt>みちしるべ</rt></ruby>の<ruby><rb>碑</rb><rt>ひ</rt></ruby>の文字を読んでみると、

首塚の松

このうえ

と、彫ってある。

「ああ、あの松か」

その<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>は、丘の下からも仰がれた。後からそっと行ってみると、先に着いた男はすでに、松の根方に腰をおろし、煙草をつけて<ruby><rb>喫</rb><rt>す</rt></ruby>っている。

「いよいよ、大蔵様にちがいないぞ」

と、城太郎は<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。

なぜならば、その頃、ここらの<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>の人や町人が、滅多に煙草など持っているはずがない。煙草の味を教えたのは、南蛮人だそうであるが、日本で栽培するようになってからでも、高価なので、上方あたりでも、よほど贅沢な者でなければ<ruby><rb>喫</rb><rt>す</rt></ruby>わない。値だんばかりでなく、日本人の体はまだ喫煙の害に馴れないので、<ruby><rb>眩</rb><rt>めま</rt></ruby>いを起したり、泡をふいたりする者が多いので、<ruby><rb>美味</rb><rt>うま</rt></ruby>いけれど、魔薬であると考えられている。

だから、奥州の伊達侯などは、六十余万石の領主であり、大の煙草の<ruby><rb>好者</rb><rt>すきしゃ</rt></ruby>といわれているが、<ruby><rb>祐筆</rb><rt>ゆうひつ</rt></ruby>の<ruby><rb>御日常書</rb><rt>ごにちじょうがき</rt></ruby>によると、

朝、お三ぷく

夕、<ruby><rb>御</rb><rt>おん</rt></ruby>四ふく

<ruby><rb>御寝</rb><rt>ぎょしん</rt></ruby>、ご一ぷく

などと誌されてある。

そんなことは、城太郎の知ったわけのものでないが、城太郎にも、滅多な者が喫うべきものでないことは分っている。――また、それを奈良井の大蔵が、日常時をきらわず、陶器製の<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>で喫っていたことも見ていた。もっとも大蔵が喫っているのは、木曾一の<ruby><rb>大家</rb><rt>たいけ</rt></ruby>の主人であるから、不審には思わなかったが、今、首塚の松の下で、スパリスパリと喫っている蛍火ほどな煙草の火には、恐ろしい疑念がわいた。

「何をしてるんだろ？」

彼は、冒険に<ruby><rb>狎</rb><rt>な</rt></ruby>れて来て、いつのまにか、かなり近くの物陰まで、這い寄ってながめていた。

やがてのこと。

悠々と、煙草入れを仕舞うと、男はぬっくと起ち上がった。そしてかぶっている黒い<ruby><rb>布</rb><rt>ぬの</rt></ruby>を<ruby><rb>脱</rb><rt>と</rt></ruby>ったので、顔もよく見えた。やはり奈良井の大蔵なのである。

覆面に使っていた黒布を、手拭のように腰に挟むと、彼は、大地にはびこっている巨松の根を、<ruby><rb>一周</rb><rt>ひとまわ</rt></ruby>りぐるりと巡ってあるいた。そしてどこから拾い出したのか、手には、いつのまにか、一<ruby><rb>挺</rb><rt>ちょう</rt></ruby>の<ruby><rb>鍬</rb><rt>くわ</rt></ruby>を持っている。

「……？」

鍬を杖に立てて、大蔵はしばらく夜の景色でも眺めるように突っ立っている。城太郎もそれで気づいた。この丘は、町場のある本宿と、<ruby><rb>砦</rb><rt>とりで</rt></ruby>や屋敷ばかりの住宅地との境になっている丘であった。

「うむ」

大蔵は、独りでうなずいた。そしてやにわに、松の根の北側にある一個の石を転がし、その石のあった下を目がけて、ざくと、<ruby><rb>一鍬</rb><rt>ひとくわ</rt></ruby>入れはじめた。

## 三

鍬を振りだした大蔵は、わき目もふらずに、土を掘りのけた。

みているうちに、人間の体が立ったままであらかたはいるぐらいな穴になった。――そこで彼は、腰の黒い手拭で、ひと汗拭いた。

「……？」

草むらの石の陰に、石みたいになって、眼をまろくしていた城太郎は、その人間が、大蔵にちがいないと見てはいるが、それでもまだ、自分の知っている奈良井の大蔵とは、人がちがう気がしてならなかった。世の中に、奈良井の大蔵という者が、二人いるような気がして来るのだった。

「……よし」

大蔵は、穴の中にはいって、地面から首だけ出して、そういった。

穴の底を、足で踏み固めているのだった。

自分を埋めて、土をかぶるつもりなら、止めなければならない――と城太郎は考えていたが、そんな心配はいらなかった。

穴から跳び出すと、彼は松の木の下に置いてあった<ruby><rb>嚢</rb><rt>ふくろ</rt></ruby>のような重い物を、穴のそばまで、ずるずる引き摺って来て、嚢の首を<ruby><rb>括</rb><rt>くく</rt></ruby>ってある麻の<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>を解いている。

風呂敷かと思ったら、それは<ruby><rb>革</rb><rt>かわ</rt></ruby>の陣羽織であった。陣羽織の下に、もう<ruby><rb>一重</rb><rt>ひとえ</rt></ruby>、幕みたいな<ruby><rb>布</rb><rt>ぬの</rt></ruby>で包んである物を開けると、驚くべき黄金の<ruby><rb>海鼠</rb><rt>なまこ</rt></ruby>があらわれた。二つ割りの竹の節のあいだに、<ruby><rb>熔</rb><rt>と</rt></ruby>かした黄金を流したもので、竹流しの<ruby><rb>竿金</rb><rt>さおきん</rt></ruby>ともよぶ地金で、それが何本もあった。

それだけかと思っていると、彼はこんどは帯を解いて、腹巻だの、背中だの、体じゅうから、慶長判に<ruby><rb>鋳</rb><rt>ふ</rt></ruby>き上げてある金を、何十枚となく振りこぼした。それを手早く掻き集めて黄金の地金といっしょに、陣羽織にくるむと、穴の中へ犬の死骸でも蹴込むように、ずしーんと落した。

土をかぶせる。

足で踏みつける。

そして石を、元のとおりな位置へすえ、新しい<ruby><rb>土塊</rb><rt>つちく</rt></ruby>れが、そこらに目立たぬように、枯草や木の枝などを<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>きちらし、こんどは、自分の<ruby><rb>身装</rb><rt>みなり</rt></ruby>を、平常の奈良井の大蔵に変えているのだった。

<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>や<ruby><rb>脚絆</rb><rt>きゃはん</rt></ruby>や、不用になった物は、<ruby><rb>鍬</rb><rt>くわ</rt></ruby>にくくし付けて、人のはいらない藪の中へ投げこんだ。そして十徳を着、十徳の胸へ、雲水の掛けているような<ruby><rb>頭陀袋</rb><rt>ずだぶくろ</rt></ruby>をさげ、草履まで<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>きかえると、

「アア、<ruby><rb>一骨</rb><rt>ひとほね</rt></ruby>だった」

<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いて、丘の彼方へ、さっさと降りて行ってしまった。

その後で、城太郎はすぐ、生き埋めになった黄金のあとに立ってみた。どう見ても、掘りかえしたらしい<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>は残っていない。彼は魔術師の<ruby><rb>掌</rb><rt>てのひら</rt></ruby>を見つめるように、大地を見ていた。

「……そうだ。先へ帰っていないと、変に思われるぞ」

町場の<ruby><rb>燈火</rb><rt>あかり</rt></ruby>が見えているので、もう帰り途の見当はついている。彼は、大蔵とちがう道をえらんで風の子みたいに丘から駈けだした。

何喰わぬ顔をして、旅籠の二階へあがり、自分たちの部屋へ入ってゆくと、いいあんばいにまだ大蔵は戻っていない。

ただ、<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>の下に、下男の助市が、<ruby><rb>挟</rb><rt>はさ</rt></ruby>み<ruby><rb>筥</rb><rt>ばこ</rt></ruby>へよりかかって、孤影悄然と、よだれをたらして眠っていた。

「おい、助さん、<ruby><rb>風邪</rb><rt>かぜ</rt></ruby>ひくよ」

わざと、揺り起すと、

「あ。城太か……」

助市は、眼をこすって、

「こんな遅くまで、御主人様へも無断で、わりゃあ何処へ行っていたのだ」

「何いってんだい」

城太郎はやり返して、

「おいらはもう、とっくの昔に帰っていたじゃないか。寝ぼけて、知りもしないくせに」

「嘘をつけ。わりゃあ、<ruby><rb>角屋</rb><rt>すみや</rt></ruby>の<ruby><rb>妓</rb><rt>おんな</rt></ruby>を引っぱり出して、外へ行ったというじゃねえか。――今から、そんなまねしやがって、末恐ろしいやつだ」

間もなかった。

そこへ奈良井の大蔵が、

「今もどったよ」

障子を開けて入って来た。

## 四

どう歩いても、十二、三里はある。陽のあるうちに江戸へ着こうとすれば、よほど早立ちをしなければならない。

角屋の一行は、まだ暗いうちに八王子を立った。奈良井の大蔵の組は、悠々、朝食をしたため、

「さて」

と宿を立ち出でたのが、もう陽のたかい時分。

挟み<ruby><rb>筥</rb><rt>ばこ</rt></ruby>の下男と、城太郎とは、例によって、お供に<ruby><rb>従</rb><rt>つ</rt></ruby>いていたが、きょうの城太郎は、ゆうべの事実があるので、何となく、大蔵に対する気ぶりが違っていた。

「城太」

大蔵はふり向いて、浮かない彼の顔つきへ、

「どうした、きょうは」

「へ？　……」

「どうかしたのか」

「どうもしません」

「ひどく、きょうに限って、むっつりしているじゃないか」

「はい……、大蔵様。実は、こうしていてはお師匠様にいつ行き会えるか分らないから、おいら、おじさんと別れて捜そうと思うんだけれど……いけないかな」

大蔵は<ruby><rb>膠</rb><rt>にべ</rt></ruby>なくいった。

「いけないな」

すると城太郎は、いつものように、<ruby><rb>馴々</rb><rt>なれなれ</rt></ruby>しく<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>りかけたが、急に手を引っ込めて、

「どうして」

と<ruby><rb>恟々</rb><rt>おずおず</rt></ruby>いう。

「一ぷくしよう」

大蔵はそういって、武蔵野の草に腰をおろした。そして挟み<ruby><rb>筥</rb><rt>ばこ</rt></ruby>を<ruby><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby>いでいる助市へ、先へ行けと手を振って見せる。

「おじさん、おいら、どうしても、お師匠様をはやく捜したいもの。だから一人で、歩いたほうがいいと思って――」

「いけないというのに」

難かしい顔を示しながら、大蔵は<ruby><rb>陶器</rb><rt>すえもの</rt></ruby>の<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>で、すぱりとくゆらしながら、

「お前は、きょうから、おれの子になるのだ」

と、いった。

問題が重大なので、城太郎は<ruby><rb>唾</rb><rt>つば</rt></ruby>をのんだ。だが、大蔵はもうにやにや笑っているので、冗談をいわれたのだと解して、

「いやなこった。おじさんの子になんかなるのは嫌だ」

「どうして」

「おじさんは、町人だろ。おいらは<ruby><rb>武士</rb><rt>さむらい</rt></ruby>になりたいんだもの」

「奈良井の大蔵も、根を洗えば、町人ではない。きっと、偉い武士にさせてやるから、わしの養子になれ」

どうやら本気らしいので、城太郎は身ぶるいを覚えながら、

「なぜおじさんは、急にそんなことをいい出すのだい？」

――すると大蔵は、いきなり城太郎の手を引き寄せて、ぎゅっと、<ruby><rb>羽交締</rb><rt>はがいじ</rt></ruby>めに抱き込みながら、彼の耳へ、<ruby><rb>唇</rb><rt>くち</rt></ruby>をつけて、小声にいった。

「見たな！　小僧」

「……え？」

「見たろう！」

「……な、なにをさ」

「ゆうべ、おれがしたことを」

「…………」

「なぜ見た！」

「…………」

「なぜひとの秘密を見る！」

「……ごめんよ、おじさん、ごめんよ。誰にもいわないから」

「大きな声を出すな。もう見てしまったことだから、<ruby><rb>叱言</rb><rt>こごと</rt></ruby>はいわぬ。その代りに、わしの子になれ。それが嫌なら、可愛い奴だが、殺してしまわなければならぬのだ。――どうだ、どっちがいい？」

## 五

ほんとに殺されるかも知れないと思った。生れて初めて<ruby><rb>恐</rb><rt>こわ</rt></ruby>いというものに出会った気持であった。

「ごめんよ、ごめんよ。殺しちゃ<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>だい。死ぬのは厭だい」

抑えられた<ruby><rb>雲雀</rb><rt>ひばり</rt></ruby>のように、城太郎は、大蔵の腕の中で軽くもがいた。大きく暴れると、すぐに死の手が<ruby><rb>圧</rb><rt>お</rt></ruby>しかぶさってくるように<ruby><rb>惧</rb><rt>おそ</rt></ruby>れもするのであった。

そのくせ大蔵の手は、決して、彼の心臓がつぶれる程、強い力で締めつけているのではない。

やんわりと、膝のなかへ抱えこんで、

「じゃあ、おれの子になるか」

と、まばらな<ruby><rb>髯</rb><rt>ひげ</rt></ruby>を城太郎の頬へ<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>りつけていう。

その髯が痛い。

そのやんわりとした力がとても怖ろしい。大人臭いにおいが体を<ruby><rb>縛</rb><rt>しば</rt></ruby>ってしまう。

どうしてだろう。城太郎にも分らなかった。危険というだけなら、これ以上あぶない目には何度も出会っているし、それに対しては、むしろ向う見ずな<ruby><rb>性質</rb><rt>たち</rt></ruby>なのに、声も手も出ないで、<ruby><rb>嬰児</rb><rt>あかご</rt></ruby>のように、大蔵の膝から逃げることができなかった。

「どっちだ。どっちがいい？」

「…………」

「おれの子になるか、殺されたほうがいいか」

「…………」

「これ、はやくいえ」

「…………」

城太郎はとうとうベソを掻き始めた。汚い手で顔をこするものだから、涙が黒いしずくになって小鼻のそばに<ruby><rb>溜</rb><rt>たま</rt></ruby>っている。

「なにを泣くか。おれの子になれば、倖せじゃあないか。<ruby><rb>武士</rb><rt>さむらい</rt></ruby>になりたければ、なおさらのことだ。きっといい武士に仕立ててやる」

「だって……」

「だってなんだ」

「…………」

「はっきりいえ」

「おじさんは……」

「うむ」

「でも」

「<ruby><rb>焦</rb><rt>じ</rt></ruby>れったい奴。男というものは、もっと何でもはっきり物をいうものだ」

「……だってね……おじさんの商売は、泥棒だろ」

もし大蔵の手が、軽くでもかかっていなければ、途端に彼は、雲をかすみと駈け出していたに違いないが、その膝が深い<ruby><rb>淵</rb><rt>ふち</rt></ruby>のように、起つこともできなかった。

「あはははは」

大蔵は、泣きじゃくる背を、ぽんとたたいて、

「だから、おれの子になるのは、嫌だっていうのか」

「……う、うん」

城太郎がうなずくと、彼はまた、肩をゆすって笑いながら、

「おれは、天下を盗む者かもしれないが、けちな<ruby><rb>追剥</rb><rt>おいはぎ</rt></ruby>や空巣ねらいたあ違う。家康も秀吉も信長も、みな天下を<ruby><rb>奪</rb><rt>と</rt></ruby>った人間じゃないか。――おれに<ruby><rb>従</rb><rt>つ</rt></ruby>いて長い目で見ていると、今にわかって来る」

「じゃあおじさんは、泥棒でもないの」

「そんな割の合わない商売はしない。――おれはもっと太い人間さ」

もう城太郎の思案では、どう答えていいか、背が足りなかった。

大蔵は、膝の上から、ぽんと彼を離して、

「さあ、泣かずに歩け。きょうからはわしの子だ。可愛がってやる代りに、<ruby><rb>噯</rb><rt>おくび</rt></ruby>にも、ゆうべのことをひとに<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>るな。――<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>るとすぐ、その首を捻じ切ってしまうぞよ」

## <ruby><rb>草分</rb><rt>くさわけ</rt></ruby>の<ruby><rb>人々</rb><rt>ひとびと</rt></ruby>

## 一

本位田又八の母が、江戸表へ来たのは、その年の五月末頃であった。

気候は、めっきり暑くなっていた。ことしは<ruby><rb>空梅雨</rb><rt>からつゆ</rt></ruby>か、ひと粒の雨も見えない。

「こんな草原や<ruby><rb>葭</rb><rt>よし</rt></ruby>の多い沼地へ――なんでまたこんなに家が建つのじゃろ？」

江戸へ来て、彼女の第一印象は、そんな<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>きであった。

京の大津を出てから約二ヵ月近くもかかって、彼女はやっと今、着いたのである。道は東海道をとって来たものらしく、途中では、持病やら信心詣りやら、道草も多いので、都をば<ruby><rb>霞</rb><rt>かすみ</rt></ruby>とともに出でしかど――という歌どおり遥けくふり返られる。

<ruby><rb>高輪</rb><rt>たかなわ</rt></ruby>街道には、近頃植えた並木や、一里塚もできていた。<ruby><rb>汐入</rb><rt>しおいり</rt></ruby>から日本橋へゆく道は、新しい市街の幹線道路なので、わりあいに歩きよいが、それでも、石や材木をつんだ牛車がひっきりなしに通るのと、人家の<ruby><rb>普請</rb><rt>ふしん</rt></ruby>や、<ruby><rb>埋地</rb><rt>うめち</rt></ruby>の土運びなどで、足もとも悪く、雨もふらないので、<ruby><rb>濛々</rb><rt>もうもう</rt></ruby>と、白い<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>が立っている。

「――ア、なんじゃ？」

彼女は、目角を立てて、普請中の新しい民家の中を<ruby><rb>睨</rb><rt>ね</rt></ruby>めつけた。

中で笑う声がした。

左官屋が壁を塗っているのである。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こて</span>の先から飛んできた壁土が、彼女の着物をよごしたのであった。

年は<ruby><rb>老</rb><rt>と</rt></ruby>っても、こういうことには我慢のならない<ruby><rb>婆</rb><rt>ばば</rt></ruby>であった。ついこの年頃まで、郷里では、本位田家の隠居で通った<ruby><rb>権式</rb><rt>けんしき</rt></ruby>ぐせが、とたんに<ruby><rb>憤</rb><rt>む</rt></ruby>っと出るのである。

「往来の者へ、壁土をはね返しながら、詫びもせず、笑うているという法があろうか」

郷里の畑でこういえば、小作や村の者は、<ruby><rb>慴伏</rb><rt>しょうふく</rt></ruby>したものであった。しかし、御新開の江戸へ<ruby><rb>遽</rb><rt>にわか</rt></ruby>に流れて来て、荒い土をこねている左官屋職人は、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こて</span>をうごかしながら鼻で笑った。

「なんだって。――変なばばあが、なにか、ぶつぶついってるぜ」

お杉婆は、いよいよ怒って、

「今、笑うたのは、いったい誰じゃ」

「みんなだよ」

「なんじゃと」

ばばが肩をいからせる程、職人たちは笑っていた。

年がいもない――よせばいいのにと、足を止めた往来の者は、はらはらしていたが、ばばの性格がそれではすまなかった。

黙って、彼女は土間の中へ入って行った。そして左官たちが、足場にして乗っている板へ手をかけながら、

「おのれであろうが」

と、板を<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>した。

左官たちは、<ruby><rb>漆喰</rb><rt>しっくい</rt></ruby>板の泥を浴びて、板の上からころげ落ちた。

「こん畜生」

<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ね起きると、左官たちは、ひとつかみにしてしまいそうな<ruby><rb>権</rb><rt>けん</rt></ruby>まくで、お杉ばばの前に立ったが、

「さあ、外へ出い」

婆は、脇差に手をかけて、少しも年よりらしい<ruby><rb>怯</rb><rt>ひる</rt></ruby>みは見せない。

その勢いに、職人たちは、気をのまれてしまった。こんな婆さんがあろうかと意外であった。すがたや言葉づかいから考えて、侍のおふくろであることは知れているし、へたな真似をしては――と、急に<ruby><rb>惧</rb><rt>おそ</rt></ruby>れをなした顔いろである。

「この後、今のような無礼をしやると、承知せぬぞよ」

これでいいのだ、ばばは気がすんだとみえて、往来へ出て行った。往来の者は彼女のきかない気らしい後ろ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つき</span>を見送ってちらかった。

すると、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かんな</span><ruby><rb>屑</rb><rt>くず</rt></ruby>を泥足にひきずった左官屋の小僧が、ふいに普請場の横から駈け出して行って、

「この、ばばめ」

いきなり、手桶の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">へどろ</span>を、彼女の体へぶちまけて、隠れてしまった。

## 二

「何するかっ」

振り向いた時は、もう<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>の下手人はいなかった。

自分の背に浴びた壁土に気づくと、彼女の顔は、無念そうなうちに、泣き出しそうな顔を<ruby><rb>顰</rb><rt>しか</rt></ruby>めて、

「何を笑う？」

と、こんどは、笑っている往来の者へ向って、いいちらした。

「げらげらと、何がおかしゅうて、笑い召さるのじゃ。老いぼれは、わしのみではないぞえ。おぬしらも、やがては年を<ruby><rb>老</rb><rt>と</rt></ruby>るのじゃぞ。はるばると遠国から越えて来たこのとしよりを、親切に<ruby><rb>宥</rb><rt>いたわ</rt></ruby>ろうとはせず、<ruby><rb>捏</rb><rt>こ</rt></ruby>ね土を浴びせたり、歯をむいて<ruby><rb>嘲笑</rb><rt>あざわら</rt></ruby>うたりするのが江戸の衆の人情か」

<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>るために、往来はよけい足を止め、また<ruby><rb>愈〻</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>、笑い声を増すことが、お杉婆には分らぬらしい。

「お江戸お江戸と、日本じゅうでは今、この上もない<ruby><rb>土地</rb><rt>ところ</rt></ruby>のように、偉いうわさじゃが、何のことじゃ、来てみれば、山を崩し、<ruby><rb>葭沼</rb><rt>よしぬま</rt></ruby>を埋め、堀を掘っては海の<ruby><rb>洲</rb><rt>す</rt></ruby>を盛っている<ruby><rb>慌</rb><rt>あわた</rt></ruby>だしい<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>ばかり。おまけに人情は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">すすど</span>うて、人がらの<ruby><rb>下品</rb><rt>げび</rt></ruby>ていることは、京から西には見られぬことじゃ」

これで、婆は少し胸がすいたとみえる。なお笑う群衆を捨てて、<ruby><rb>忌々</rb><rt>いまいま</rt></ruby>しげに、脚をはやめて行った。

町はどこを見ても、木口も壁も新しくて、ぎらぎらと眼を射るし、空地へ出ると、まだ埋めきれない土の下から、<ruby><rb>葭</rb><rt>よし</rt></ruby>や<ruby><rb>蘆</rb><rt>あし</rt></ruby>の根が枯れて<ruby><rb>喰</rb><rt>は</rt></ruby>み出している。乾いた牛の<ruby><rb>糞</rb><rt>ふん</rt></ruby>は、眼や鼻にはいる気がするのであった。

「これが江戸か」

彼女は、事々に、江戸が気に入らなかった。新開発の江戸の中でいちばん古い物が、自分の姿のように思われた。

実際、ここの土に活動しているものは、<ruby><rb>悉</rb><rt>ことごと</rt></ruby>くが若い者に限られていた。<ruby><rb>店舗</rb><rt>てんぽ</rt></ruby>を持っている主人も若いし、騎馬で歩いている役人も、編笠を抑えて大股に過ぐる侍も、労働者も、<ruby><rb>工匠</rb><rt>こうしょう</rt></ruby>も、物売りも、歩卒も部将も、すべてが若かった。若い者の天地だった。

「尋ねる者でもない旅なら、こんな所に、一日とて、居てくれるのではないが……」

ぶつぶついっているまに、婆はまた、足を止めた。ここもまた、堀を掘っているので、道を曲がらなければならなかった。

掘り出した土の山は、どんどんと、土車で運ばれてゆく。そうして、<ruby><rb>葭</rb><rt>よし</rt></ruby>や蘆が埋ってゆくそばから、大工は家を組み、大工のはいっているうちに、もう<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>の女が、<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>の陰で眉を<ruby><rb>刷</rb><rt>は</rt></ruby>いていたり、酒を売ったり、<ruby><rb>生薬</rb><rt>きぐすり</rt></ruby>の看板をかけたり、呉服反物を積みあげていたりしていた。

ここらは以前の千代田村と日比谷村のあいだを通っている奥州街道の<ruby><rb>田圃道</rb><rt>たんぼみち</rt></ruby>が開けているので、もっと、江戸城の周囲に寄れば、太田<ruby><rb>道灌</rb><rt>どうかん</rt></ruby>以後、天正の御入国以来のまとまった<ruby><rb>大名小路</rb><rt>だいみょうこうじ</rt></ruby>や屋敷町もあって、多少、城下としての落着きもあるのであったが、婆はまだ、そこへは足を踏んでいない。

そして、昨日今日、急拵えにできかかっている新開地を見て、江戸の全体を考えているので、ひどく落着かないのであった。

掘りかけている<ruby><rb>空堀</rb><rt>からぼり</rt></ruby>の橋のたもとに、ふとみると、一軒のほったて小屋がある。四方は<ruby><rb>蓆張</rb><rt>むしろば</rt></ruby>りで、<ruby><rb>削</rb><rt>そ</rt></ruby>ぎ<ruby><rb>竹</rb><rt>たけ</rt></ruby>を抑えに打ち、入口に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">のれん</span>を掛けて、そこから一本の小旗が出ている。

見ると、一字、

「ゆ」

と書いてある。

永楽の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">びた</span>銭一枚を、湯番にわたして、ばばは、湯にはいった。汗をながすのが<ruby><rb>目的</rb><rt>めあて</rt></ruby>ではなかった。<ruby><rb>竿</rb><rt>さお</rt></ruby>を借りて、<ruby><rb>抓</rb><rt>つま</rt></ruby>み洗いをした着物を小屋の横に<ruby><rb>干</rb><rt>ほ</rt></ruby>し、それの乾くあいだ、<ruby><rb>襦袢</rb><rt>じゅばん</rt></ruby>一枚で、洗濯物の下にほそい<ruby><rb>脛</rb><rt>すね</rt></ruby>をかかえて、往来をながめていた。

## 三

時々、<ruby><rb>干</rb><rt>ほ</rt></ruby>し<ruby><rb>竿</rb><rt>ざお</rt></ruby>の着物を手で触ってみる。陽が強いのですぐ乾きそうに思われたが、なかなか乾かないのである。

襦袢一枚に、湯巻の上へ帯を巻いたきりで、これを待っているので、<ruby><rb>見得</rb><rt>みえ</rt></ruby>を知らないばばも、往来から見えないように、銭湯小屋の陰に、いつまでも<ruby><rb>縮</rb><rt>ちぢ</rt></ruby>まっていた。

すると、往来の向う側で、

「<ruby><rb>幾坪</rb><rt>いくつぼ</rt></ruby>あるのだい、この地所は――安けれやあ相談に乗ろうじゃないか」

「総坪で、八百坪からござんすよ。値だんは、申し上げたより負かりません」

「高いなあ。すこし、べら棒じゃないか」

「どういたしまして、土盛りの人足賃だって、安かあございません。――それにサ、もうこの<ruby><rb>界隈</rb><rt>かいわい</rt></ruby>には地所はありませんぜ」

「なあに、まだ、あの通り埋立てているじゃないか」

「ところが、<ruby><rb>葭</rb><rt>よし</rt></ruby>の生えているうちから、みんな<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あばき</span>合いで、買手を待っている地所なんざ、十坪だってありませんや。――もっとも、ずっと隅田川の河原寄りなら幾らかありやすがね」

「ほんとに、八百坪あるのかい、この地面は」

「だから念のために、<ruby><rb>縄</rb><rt>なわ</rt></ruby>を引いてごらんなすって」

四、五名の町人どうしで、頻りと、土地売買の取引をしているのだった。

その値だんを、往来ごしに聞いて、お杉ばばは、眼をまろくした。田舎なら米のできる田が何十枚という値が、ここの一坪か二坪の値だった。

江戸の町人のあいだには今、熱病のように、土地売買の<ruby><rb>思惑</rb><rt>おもわく</rt></ruby>が行われているので、こんな風景は、随所に見られるのであったが、

「米も<ruby><rb>実</rb><rt>な</rt></ruby>らなければ、町なかでもない地面を、どうしてここらの衆はあんなに買うのか」

と、彼女には、不思議でならなかった。

そのうちに取引の相談がまとまったのであろう。埋地に立っていた人影は、手打ちをして散らかって行った。

「――おやっ？」

ぼんやりと、そんな物を見ているうちに、誰か<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>へ来て、自分の帯へ手を入れた者があるので、ばばはその手を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>んで、

「泥棒っ」

と、さけんだ。

小出しの財布はもう帯の間を抜けて、土工か<ruby><rb>駕</rb><rt>かご</rt></ruby>かきらしい男の手に掴まれたまま、往来の方へ飛んでいた。

「――泥棒じゃっ」

自分の首を持って行かれたように、ばばは追い<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>って、男の腰へしがみついた。

「――来てくだされッ。往来の衆ッ。盗人じゃっ」

一つや二つ、顔を<ruby><rb>撲</rb><rt>は</rt></ruby>っても、容易にばばの手が離れないので、持て余した<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>っ<ruby><rb>攫</rb><rt>さら</rt></ruby>いは、

「うるせえっ」

と、いいながら、足をあげて、ばばの<ruby><rb>脾腹</rb><rt>ひばら</rt></ruby>を蹴とばした。

並たいていの老婆と心得たのがその小泥棒には不覚であった。うむうっ――と<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>いてばばは仆れたものの、それと共に、<ruby><rb>襦袢</rb><rt>じゅばん</rt></ruby>一重になっても差していた小脇差を、抜きざまに<ruby><rb>酬</rb><rt>むく</rt></ruby>いて、相手の足くびを斬っていた。

「ア<ruby><rb>痛</rb><rt>い</rt></ruby>ててて」

財布を持った小泥棒は、ちんばを曳いたままそれでも十間ばかり逃げたが、<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しい血がこぼれるのを見て、貧血して、往来へ坐ってしまった。

今、埋地で土地の手打をして、一人の<ruby><rb>乾児</rb><rt>こぶん</rt></ruby>と共に歩いていた<ruby><rb>半瓦</rb><rt>はんがわら</rt></ruby>の<ruby><rb>弥次兵衛</rb><rt>やじべえ</rt></ruby>は、

「――やっ？　そいつあこの間まで、部屋にごろついていた甲州者じゃねえか」

「そうのようです。財布を握っていますぜ」

「泥棒という声が聞えたが、部屋を出ても、まだ<ruby><rb>手癖</rb><rt>てくせ</rt></ruby>がやまねえな。……おお<ruby><rb>彼方</rb><rt>むこう</rt></ruby>に<ruby><rb>老婆</rb><rt>としより</rt></ruby>が仆れている。甲州者はおれが捕まえているから、あの<ruby><rb>老婆</rb><rt>としより</rt></ruby>を<ruby><rb>労</rb><rt>いたわ</rt></ruby>って来い」

半瓦は、そういうと、逃げかける<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ちんば</span>の襟がみを<ruby><rb>抓</rb><rt>つま</rt></ruby>んで、<ruby><rb>螽</rb><rt>ばった</rt></ruby>でも叩きつけるように、空地の方へ<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り出した。

## 四

「親分、そいつが、婆さんの財布を持っている筈ですが」

「財布はおれが<ruby><rb>奪</rb><rt>と</rt></ruby>り返して預かっている。としよりはどうした」

「たいして<ruby><rb>怪我</rb><rt>けが</rt></ruby>もございません。気を失っていましたが、気がつくとすぐあの通り財布財布と<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>いております」

「坐っているじゃねえか。起てねえのか」

「そいつに、<ruby><rb>脾腹</rb><rt>ひばら</rt></ruby>を蹴とばされたんで」

「よくねえ奴だ」

<ruby><rb>半瓦</rb><rt>はんがわら</rt></ruby>は、小泥棒を<ruby><rb>睨</rb><rt>ね</rt></ruby>めつけて、<ruby><rb>乾児</rb><rt>こぶん</rt></ruby>の男へいいつけた。

「<ruby><rb>丑</rb><rt>うし</rt></ruby>。<ruby><rb>杭</rb><rt>くい</rt></ruby>を打て」

杭を打て――と聞くと甲州者の小泥棒は、刃物を当てられたより<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えあがって、

「親分、それだけは、どうぞご勘弁を。以後は改心して、よく働きますから」

ひれ伏して、拝んだが、半瓦は首を振って、

「ならねえ、ならねえ」

その間に、走って行った乾児は仮橋<ruby><rb>普請</rb><rt>ぶしん</rt></ruby>をしている大工を二人連れて来て、

「この辺へ打ってくれ」

と、空地の中ほどを足で示して大工へいう。

ふたりの大工は、そこへ一本の<ruby><rb>杭</rb><rt>くい</rt></ruby>を打ちこんで、

「半瓦の親分、これでようがすか」

「よしよし。野郎をそこへふん縛って、頭の上のあたりへ、板を一枚打ってくれ」

「なにか、お書きになるので」

「そうだ」

大工の墨つぼを借りて、それへ<ruby><rb>差尺筆</rb><rt>さしがねふで</rt></ruby>で、

一ツ　泥棒一ぴき

せんだって迄、半瓦の部屋の飯食い者、再度悪事のかど<ruby><rb>之有</rb><rt>これあ</rt></ruby>り候につき、雨ざらし<ruby><rb>陽</rb><rt>ひ</rt></ruby>ざらし、七日七晩きゅうめいさせ<ruby><rb>置候</rb><rt>おきそうろう</rt></ruby>ものなり。

大工町

弥次兵衛

「ありがとう」

墨<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つぼ</span>を返して、

「すまねえが、死なねえ程に、弁当飯のあまりでも、時々エサをやっといてくれ」

と、<ruby><rb>橋普請</rb><rt>はしぶしん</rt></ruby>の大工や、近くで働いている土工たちへ頼んだ。

一同は口を揃えて、

「承知いたしました。たんと笑ってやりやしょう」

と、いった。

笑ってやるということは、町人社会でさえ、この上もない制裁であった。年久しく武家は武家と戦争ばかりしていて、民治や刑法がゆき届かないために、町人社会はそれ自体の秩序のために、こういう私刑の方法を持っていた。

新興の江戸政体には、もう町奉行の組織だの、大庄屋制度をそのまま<ruby><rb>厳</rb><rt>いか</rt></ruby>めしく延長したような職制や民治が体をなしかかっていたが、民間の旧習というものは、上ができたからといって、<ruby><rb>遽</rb><rt>にわか</rt></ruby>に余風が<ruby><rb>革</rb><rt>あらた</rt></ruby>まるものではない。

けれど、私刑の風などは、新開発の半途にある混雑な社会には、まだ当分あってもよいものとして、町奉行でも、べつにこれを取締ることはしなかった。

「<ruby><rb>丑</rb><rt>うし</rt></ruby>、そのとしよりへ、財布を返してやれ」

<ruby><rb>半瓦</rb><rt>はんがわら</rt></ruby>は、それをお杉ばばの手へ戻してから、また、

「かあいそうに、この年して、ひとり旅の様子じゃねえか。……着物はどうしたんだ」

「風呂小屋の横に、洗濯して、<ruby><rb>乾</rb><rt>ほ</rt></ruby>してありますが」

「じゃあ着物を持って、としよりを負ぶって来い」

「家へ連れて帰るんで？」

「そうよ、<ruby><rb>盗</rb><rt>ぬす</rt></ruby>っ<ruby><rb>人</rb><rt>と</rt></ruby>だけ<ruby><rb>懲</rb><rt>こ</rt></ruby>らしたってこのとしよりを捨てておいたら、またどいつかが悪い量見を起さねえとも限るまい」

<ruby><rb>生乾</rb><rt>なまがわ</rt></ruby>きの着物を抱え、彼女を背なかに負ぶって、<ruby><rb>乾児</rb><rt>こぶん</rt></ruby>の男が、半瓦のあとに<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いてそこを立ち去ると、往来につかえていた人垣も、ぞろぞろと東西へ崩れだした。

## 五

日本橋は、<ruby><rb>竣工</rb><rt>でき</rt></ruby>てからまだ一年も踏まれていなかった。

後の錦絵などで見るよりも、そこの河幅はずっと広くて、両岸から新しい石垣の<ruby><rb>築出</rb><rt>つきだ</rt></ruby>しが築かれ、そこにまだ新しい白木の欄干が<ruby><rb>架</rb><rt>か</rt></ruby>かっていた。

鎌倉船や、小田原船が、橋の<ruby><rb>際</rb><rt>きわ</rt></ruby>までいっぱいにはいって行った。その向う河岸に、魚くさい人間がわいわいと市を立てている。

「……痛い。うう痛い」

ばばは、<ruby><rb>乾児</rb><rt>こぶん</rt></ruby>の背なかで、顔をしかめながらも、魚市場の人声に何事かと、眼をみはった。

半瓦は、乾児の背から、時々聞える<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>きをふり向いて、

「もう<ruby><rb>直</rb><rt>じ</rt></ruby>きだよ、辛抱しねえ、<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>に別条があるじゃなし、余り<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>りなさんな」

往来の者が、頻りと振向くので、こう注意したのである。

それからは、おとなしくなって、ばばは<ruby><rb>嬰児</rb><rt>あかご</rt></ruby>みたいに、乾児の背へ顔を寝かせていた。

<ruby><rb>鍛冶</rb><rt>かじ</rt></ruby>町だの、槍町だの、<ruby><rb>紺屋</rb><rt>こんや</rt></ruby>町だの、畳町だの、職人色に町がわかれていた。大工町の半瓦の家は、その中でひどく変っていた。屋根の半分が瓦で<ruby><rb>葺</rb><rt>ふ</rt></ruby>いてあるのが、誰の眼にもついた。

二、三年前の大火以後、町の家は<ruby><rb>板屋葺</rb><rt>いたやぶき</rt></ruby>になったが、その以前は、<ruby><rb>草葺</rb><rt>くさぶき</rt></ruby>屋根がおおかたであった。<ruby><rb>弥次兵衛</rb><rt>やじべえ</rt></ruby>は往来に向った方だけ、瓦で葺いたので、

（半瓦、半瓦）と、それが通り名になってしまい、自分も得意だった。

江戸へ移住して来た初めは、弥次兵衛はただの牢人者だったが、才気と<ruby><rb>侠気</rb><rt>きょうき</rt></ruby>が備わっているので、人を<ruby><rb>御</rb><rt>ぎょ</rt></ruby>すのが上手、町人になって、屋根<ruby><rb>請負</rb><rt>うけお</rt></ruby>いを始め、やがて、諸侯の<ruby><rb>普請</rb><rt>ふしん</rt></ruby>人足を請負うようになり、また、土地の売買をやったりして、今では<ruby><rb>懐手</rb><rt>ふところで</rt></ruby>をして「親分」という特殊な敬称をうけている。

「親分」とよばれる特殊な権力家は、新しい江戸には今、彼のほかにも、<ruby><rb>簇生</rb><rt>ぞくせい</rt></ruby>してきた。しかし彼はその中でも顔のひろい「親分」であった。

町の者は、武家をさむらいと尊敬するように、彼らの一族をも「男<ruby><rb>伊達</rb><rt>だて</rt></ruby>」と敬称して、むしろ武家の下風にある自分たちの味方の者としていた。

この男伊達も、江戸へ来てから、風俗だの精神は大いに変化したが、江戸の町から発生した<ruby><rb>生</rb><rt>は</rt></ruby>え抜きではない。<ruby><rb>足利</rb><rt>あしかが</rt></ruby>の末の乱世には、もう<ruby><rb>茨組</rb><rt>いばらぐみ</rt></ruby>などという徒党があって――もちろんそれは男伊達などとは敬称されなかったが、「室町殿物語」などによると、

ソノ装束ハ、<ruby><rb>赤裸</rb><rt>セキラ</rt></ruby>ニ<ruby><rb>茜染</rb><rt>アカネゾメ</rt></ruby>ノ下帯、<ruby><rb>小王</rb><rt>コワウ</rt></ruby>打チノ上帯ハ幾重ニモマハシ、三尺八寸ノ<ruby><rb>朱鞘</rb><rt>シユザヤ</rt></ruby>ノ刀、柄ハ一尺八寸ニ巻カセ、二尺一寸ノ<ruby><rb>打刀</rb><rt>ウチガタナ</rt></ruby>モ同ジニ仕立テ、頭ハ髪ヲツカミ乱シ、荒縄ニテ鉢巻ムズトシメ、<ruby><rb>黒革</rb><rt>クロカハ</rt></ruby>ノ<ruby><rb>脚絆</rb><rt>キヤハン</rt></ruby>ヲシ、<ruby><rb>同行</rb><rt>ドウカウ</rt></ruby>常ニ二十人バカリ、熊手、<ruby><rb>鉞</rb><rt>マサカリ</rt></ruby>ナド<ruby><rb>担</rb><rt>ニナ</rt></ruby>フモアリテ……

そして群集はそれを見ると、

（当時聞ゆる<ruby><rb>茨組</rb><rt>いばらぐみ</rt></ruby>ぞ、あたりへ寄るな、物いうな）

と、<ruby><rb>怯</rb><rt>お</rt></ruby>じ<ruby><rb>怖</rb><rt>おそ</rt></ruby>れて、道をあけて通したほどな威勢であったとある。

その茨組は、口には王義を唱えながら、時には、

（<ruby><rb>物奪</rb><rt>ものと</rt></ruby>り強盗は武士の慣い）

と出かけ、市街戦の時には、<ruby><rb>乱破</rb><rt>らっぱ</rt></ruby>に化けて、敵へも味方へも節操を売りなどしたため、平和になると、武家からも民衆からも追われてしまい、素質の悪いのは、山野に封じこめられて<ruby><rb>追剥稼</rb><rt>おいはぎかせ</rt></ruby>ぎに落ち、<ruby><rb>性骨</rb><rt>しょうぼね</rt></ruby>のある者は、新開発の江戸という天地を見つけて、ここに起りかけてある文化に眼ざめ、

（正義を骨に、民衆を肉に、義と侠の男らしさを皮にして――）

新興男伊達なるものが、いろいろな職業や階級の中から今、名乗りをあげているのだった。

「帰ったぞ、どいつか、出て来ねえか。――お客さまをお連れ申しているのだ」

半瓦は、自分の家に入ると、大まかな町屋造りの奥へ向って、こう呶鳴った。

## 喧嘩河原

## 一

よくよく居心地がよいとみえ、お杉ばばが<ruby><rb>半瓦</rb><rt>はんがわら</rt></ruby>の家に<ruby><rb>起臥</rb><rt>おきふし</rt></ruby>を始めてから、月日はいつか一年半も巡っている。

その一年半の間、ばばは何をしていたかというと、体が、がっしり<ruby><rb>癒</rb><rt>なお</rt></ruby>ってからは、

（思わず長いお世話になりましたわいの。もうお<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>をせにゃならぬ）

と、今日は明日はと、いい暮して来たに過ぎない。

しかし、暇を乞おうにも、<ruby><rb>主人</rb><rt>あるじ</rt></ruby>の半瓦弥次兵衛とは、めったに顔を合わすこともない。たまたま、いたと思えば、

（まあまあ、そう気のみじかいことをいわずに、ゆるりと、<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>をさがしなされ。身内の者も、絶えず心がけているのだから、追っつけ、武蔵の居所をつきとめ、ばば殿に、助太刀しようというているのに）

そういわれると、彼女もまた、ここの軒から立つ気も失せる。

初めのうちは、およそ江戸という土地<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がら</span>や風俗を、<ruby><rb>忌</rb><rt>い</rt></ruby>み嫌っていた彼女も、この半瓦の家に一年半も過ごすうちに、

（江戸の人の親切さ）

を身に沁みて、

（何という、気ままな暮し）

と、目を細めて、この土地の人間を眺めるようになっていた。

わけても、半瓦の家はそうだった。ここには百姓出の怠け者もいるし、関ヶ原くずれの牢人も、親の金を<ruby><rb>蕩尽</rb><rt>とうじん</rt></ruby>して逃げて来た極道者も、おととい牢屋から出て来た<ruby><rb>入墨者</rb><rt>いれずみもの</rt></ruby>もいるが――それが弥次兵衛という戸長の<ruby><rb>下</rb><rt>もと</rt></ruby>に、大家族式な生活を営み、ざッかけない、<ruby><rb>粗</rb><rt>あら</rt></ruby>っぽい、極めて不しだらな――中にも整然たる階級を持って、

（男を磨きあう）

ということを<ruby><rb>御神燈</rb><rt>みあかし</rt></ruby>に立てて、一種の<ruby><rb>六方者</rb><rt>むほうもの</rt></ruby>道場を世帯としているのだった。

この六方者道場には、親分の下に<ruby><rb>兄哥</rb><rt>あにき</rt></ruby>があり、兄哥の下に<ruby><rb>乾児</rb><rt>こぶん</rt></ruby>があり、その乾児のうちにも古参新参の区別がやかましく、他の客分格だの、仲間の礼儀作法も、誰が立てたともなく、非常に厳密であった。

（ただ遊んでござるのが退屈だったら、若い者の世話などみてくれると有難い）

と、弥次兵衛にいわれたところから、お杉ばばは、<ruby><rb>一間</rb><rt>ひとま</rt></ruby>にあって、沢山な<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がさつ</span>者の洗濯とか、縫物などを、お針子を集めて来ては、整理してやっている。

（さすがに、<ruby><rb>士</rb><rt>さむらい</rt></ruby>のご隠居だ。本位田家とやらも、相当な家風を持った家筋とみえる）

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がさつ</span>者は、噂し合った。お杉ばばの厳格な起居と家政ぶりは、ひどく彼らを感嘆せしめた。また、それが六方者道場の風紀を正すうえに役立った。

六方者ということばは、無法者にも通じる。<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>の長い大小を突出し、二本の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">から</span><ruby><rb>脛</rb><rt>ずね</rt></ruby>と、二本のこじりを突っ張って歩く男<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">だて</span>の姿から来た町の<ruby><rb>綽名</rb><rt>あだな</rt></ruby>なのである。

「宮本武蔵という侍が立ち廻ったら、すぐあのばば殿へ知らせてやれ」

半瓦の身内は、等しくこう心がけていたが、すでに一年半からになるが、その武蔵の名は<ruby><rb>杳</rb><rt>よう</rt></ruby>としてこの江戸には聞かなかった。

半瓦弥次兵衛は、お杉ばばの口から、その意志や境遇を聞いて、甚だしく同情を抱いたのである。で、彼の持った武蔵<ruby><rb>観</rb><rt>かん</rt></ruby>は、当然、お杉ばばの武蔵観であった。

「えらい婆殿だ。憎むべき野郎は武蔵とやらだ」

そうして彼は、お杉ばばのために、裏の空地へ一室を建ててやったり、家にいる日は、<ruby><rb>朝夕</rb><rt>ちょうせき</rt></ruby>、挨拶に出たりして、賓客に仕えるように、このばばを大事にした。

乾児が、彼に訊ねた。

「お客を大事になさるのはいいが、親分ともあろう者が、どうして、そんなに鄭重になさるんですかえ」

すると、半瓦はこう答えた。

「この頃おれは、他人の親でも年よりを見ると、親孝行がしたくなるんだ。……だから俺が、どんなに、自分の死んだ親には、親不孝だったか分るだろう」

## 二

町なかの野梅は散った。江戸にはまだ桜はほとんどなかった。

わずかに、山の手の崖に、山桜が白く見られる。近年、<ruby><rb>浅草寺</rb><rt>せんそうじ</rt></ruby>の前に、桜の並木を移植した奇特家があって、まだ若木ではあるが、ことしはだいぶ<ruby><rb>蕾</rb><rt>つぼみ</rt></ruby>を持ったという。

「ばば殿、きょうは一つ、浅草寺へお供しようと思うが、行く気はないか」

半瓦の誘いに、

「おう、観世音は、わしも信仰じゃ。ぜひ<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れて行ってたも」

「では――」

と、いうので、お杉ばばも加えて、乾児の<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>の十郎に、お<ruby><rb>稚児</rb><rt>ちご</rt></ruby>の小六の二人に弁当など持たせて、京橋堀から舟に乗った。

お<ruby><rb>稚児</rb><rt>ちご</rt></ruby>といえば優しげに聞えるが、これが向う傷のある肉のかたじまりな、いかにも喧嘩早い生れつきに出来ているような小男で、<ruby><rb>櫓</rb><rt>ろ</rt></ruby>はうまい。

堀から隅田のながれへ漕ぎ出すと、半瓦は、<ruby><rb>重筥</rb><rt>じゅうばこ</rt></ruby>を開けさせて、

「おばあさん、実は今日は、わしのおふくろの命日なのです。<ruby><rb>墓詣</rb><rt>はかまい</rt></ruby>りといっても、<ruby><rb>故郷</rb><rt>くに</rt></ruby>は遠国なので、<ruby><rb>浅草寺</rb><rt>せんそうじ</rt></ruby>へでもお詣りして、何か一つ、今日は善いことをして帰ろうと思うのだ。……だから遊山のつもりで、<ruby><rb>一献</rb><rt>ひとつ</rt></ruby><ruby><rb>飲</rb><rt>や</rt></ruby>りましょう」

と、杯を持って、<ruby><rb>舷</rb><rt>ふなべり</rt></ruby>から手をのばし、大川の水を<ruby><rb>杯洗</rb><rt>はいせん</rt></ruby>にしてさっと<ruby><rb>雫</rb><rt>しずく</rt></ruby>を振って婆へ<ruby><rb>酌</rb><rt>さ</rt></ruby>した。

「そうか。……それはそれは優しいお心がけじゃな」

お杉はふと、自分にもやがて来る命日を考えた。それはすぐ、又八を考えることでもあった。

「さ、少しは<ruby><rb>飲</rb><rt>い</rt></ruby>けるでしょう。水の上だが、わしらがついているから、安心して酔うておくんなさい」

「御命日なのに、酒をのんでも、悪いことはござりませぬか」

「<ruby><rb>六方者</rb><rt>むほうもの</rt></ruby>は、嘘や飾りの儀式が大嫌い。それに<ruby><rb>此方人</rb><rt>こちとら</rt></ruby>は、門徒だから、物知らずでいいのです」

「久しゅう、酒も飲まなんだ。――酒はたべても、このように、<ruby><rb>暢々</rb><rt>のびのび</rt></ruby>とはのう」

お杉は、杯を重ねた。

<ruby><rb>隅田宿</rb><rt>すみだじゅく</rt></ruby>の方から流れてくるこの大河は満々として広かった。<ruby><rb>下総</rb><rt>しもうさ</rt></ruby>寄りの岸の方には、<ruby><rb>鬱蒼</rb><rt>うっそう</rt></ruby>とした森が折り重なり、河水に樹の根の洗われている辺りは、水もまっ蒼な日陰の<ruby><rb>瀞</rb><rt>とろ</rt></ruby>になっている。

「オオ、<ruby><rb>鶯</rb><rt>うぐいす</rt></ruby>が啼きぬいて」

「梅雨頃には、昼間も、昼ほととぎすが啼きぬくが……まだ<ruby><rb>時鳥</rb><rt>ほととぎす</rt></ruby>は」

「ご返杯じゃ。……親分様、きょうは婆もよい供養のおこぼれにあずかりましたわえ」

「そう、<ruby><rb>欣</rb><rt>よろこ</rt></ruby>んでくれると、わしも有難い。さあ、もっと重ねぬか」

すると、<ruby><rb>櫓</rb><rt>ろ</rt></ruby>を<ruby><rb>漕</rb><rt>こ</rt></ruby>いでいるお稚児が、羨ましそうに、

「親分、こっちへも、少し廻してもらいてえもので」

「てめえは、櫓がうまいから連れて来たのだ。行きに飲ますとあぶねえから、帰りにはふんだんに飲め」

「我慢は辛いものだ。大川の水がみんな酒に見える」

「お稚児、あそこで網を打っている船へ寄せて、<ruby><rb>肴</rb><rt>さかな</rt></ruby>を少し買い込め」

心得て、お稚児が漕ぎよせて、<ruby><rb>漁師</rb><rt>りょうし</rt></ruby>にかけ合うと、なんでも持って行きなされと、漁師は船板を開けてみせる。

山国で老いたお杉ばばには、目をみはるほど珍しかった。

船底にバチャバチャ生きている魚を見ると、鯉、<ruby><rb>鱒</rb><rt>ます</rt></ruby>がある。すずき、<ruby><rb>鯊</rb><rt>はぜ</rt></ruby>にくろ鯛がある。手長えびや<ruby><rb>鯰</rb><rt>なまず</rt></ruby>もある。

半瓦は、<ruby><rb>白魚</rb><rt>しらうお</rt></ruby>をすぐ醤油につけて喰べ、彼女にもすすめたが、

「生ぐさは、よう喰べぬ」

と、ばばは首を振って、おぞけをふるった。

舟は間もなく、隅田河原の西へついた。河原を上がると、波打ち際の森の中に、すぐ浅草観音堂の<ruby><rb>茅葺</rb><rt>かやぶき</rt></ruby>屋根が見えた。

## 三

人々は河原へ降りた。ばばは少し酔っている。年のせいか舟から足を移すのに、よろめく気味であった。

「あぶない、手をとろう」

半瓦が手をひくと、

「なんの、やめてくだされ」

婆は手を振る。

年より扱いが元から嫌いな<ruby><rb>性</rb><rt>たち</rt></ruby>なのである。<ruby><rb>乾児</rb><rt>こぶん</rt></ruby>の<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>の十郎とお稚児の小六は、舟をつないで後から<ruby><rb>従</rb><rt>つ</rt></ruby>いた。河原は<ruby><rb>渺々</rb><rt>びょうびょう</rt></ruby>として眼の限り石ころと水であった。

するとその河原の石ころを起して、<ruby><rb>蟹</rb><rt>かに</rt></ruby>でも捕まえているらしい子供が、たまたま、河から上がった珍しい人影を見て、

「おじさん、買っとくれ」

「ばばさん、買っとくれよ」

と、半瓦とお杉のまわりに集まって来て、うるさく<ruby><rb>強請</rb><rt>せが</rt></ruby>む。

子供が好きとみえて、半瓦の弥次兵衛はうるさがりもせず、

「なんだ<ruby><rb>蟹</rb><rt>かに</rt></ruby>か。蟹なんざいらねえよ」

子供らは、一斉に、

「蟹じゃないよ」

と、着物の裾をふくろにしたり、ふところに入れたり、手に持っている物を示して、

「矢だよ、矢だよ」

と争っていう。

「なんだ、<ruby><rb>鏃</rb><rt>やじり</rt></ruby>か」

「ああ、鏃だよ」

「浅草寺のそばの<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>に、人間や馬を埋めた塚があるよ。お詣りする人は、そこへこの鏃を上げて拝むよ。おじさんも上げてくれよ」

「鏃は要らない。だが、銭をやるからいいだろう」

半瓦が、銭を与えると、子供たちはまた、散らかって、鏃を掘っていたが、すぐ附近の<ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>屋根の家から、子供たちの親が出て来て、銭だけを取り上げて行った。

「ちぇっ」

半瓦は、嫌な気がしたとみえ、舌打ちして、眼をそらしたが、ばばは<ruby><rb>恍惚</rb><rt>こうこつ</rt></ruby>と、広い河原の眺めに見惚れていた。

「この辺から、あのように<ruby><rb>鏃</rb><rt>やじり</rt></ruby>がたんと出るところを見ると、この河原にも、合戦があったのじゃろうのう」

「よくは知らぬが、<ruby><rb>荏土</rb><rt>えど</rt></ruby>の庄といわれていた頃、<ruby><rb>戦</rb><rt>いくさ</rt></ruby>がたびたびあったらしいな。遠くは、治承の昔、源頼朝が、伊豆から渡って、関東の兵をあつめたのもこの河原。――また、南朝の<ruby><rb>御世</rb><rt>みよ</rt></ruby>の頃、新田<ruby><rb>武蔵守</rb><rt>むさしのかみ</rt></ruby>が<ruby><rb>小手指</rb><rt>こてさし</rt></ruby>ヶ原の合戦から駈け渡って、<ruby><rb>足利</rb><rt>あしかが</rt></ruby>方の矢かぜを浴びたのもこの辺りだし――近くは、天正の頃、太田<ruby><rb>道灌</rb><rt>どうかん</rt></ruby>の一族だの、千葉氏の一党が、幾たびも興り、幾度も亡んだ跡が――この先の石浜の河原だそうな」

話しながら、歩き出すと、<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>の十郎とお<ruby><rb>稚児</rb><rt>ちご</rt></ruby>のふたりは、もう<ruby><rb>浅草寺</rb><rt>せんそうじ</rt></ruby>の<ruby><rb>御堂</rb><rt>みどう</rt></ruby>の縁へ行って、先に腰かけている。

見れば、寺とは名のみの、ひどい<ruby><rb>茅葺堂</rb><rt>かやぶきどう</rt></ruby>が一宇と、僧の住むあばら屋が、堂の裏にあるだけに過ぎない。

「……なんじゃ、これが江戸の衆がよくいう金龍山浅草寺かいな」

ばばは、一応失望した。

奈良京都あたりの古い文化の遺跡を見た眼には、余りにも原始的であった。

大川の水は、洪水の時、森の根を洗って<ruby><rb>浸</rb><rt>ひた</rt></ruby>るとみえ、御堂のすぐ側まで、平常でも、<ruby><rb>支</rb><rt>わか</rt></ruby>れ水がひたひたと寄せていた。御堂を囲む木は皆、千年も年経ったような喬木であった。――何処かでその喬木を仆す<ruby><rb>斧</rb><rt>おの</rt></ruby>の音が、怪鳥でも啼くように、時々、コーン、コーンとひびく。

「やあ、おいでなされ」

不意に、頭の上で、挨拶する声が聞えた。

（――誰？）

と驚いて、ばばが眼をあげてみると、御堂の屋根の上に坐って、<ruby><rb>茅</rb><rt>かや</rt></ruby>で屋根の修繕をしている観音堂の坊主たちであった。

半瓦の弥次兵衛の顔は、こんな町の端にも知られていると見える。下から挨拶を返しながら、

「ご苦労様。きょうは、屋根でござりますかな」

「はあ、この辺の木には、<ruby><rb>巨</rb><rt>おお</rt></ruby>きな鳥が棲んでおりますでな、<ruby><rb>繕</rb><rt>つくろ</rt></ruby>っても繕っても、茅をついばんでは、巣へ持って行ってしまうので、雨漏りがして弱りますわい。……今<ruby><rb>降</rb><rt>お</rt></ruby>りますゆえ、しばらく、おやすみ下さいませ」

## 四

<ruby><rb>神燈</rb><rt>みあかし</rt></ruby>をあげて、堂の中へ坐ってみると、なるほど、これでは雨も漏ろう、壁からも屋根裏からも星のように、昼の明りが洩れてみえる。

<ruby><rb>如日虚空住</rb><rt>にょにちこくうじゅう</rt></ruby>

<ruby><rb>或被悪人逐</rb><rt>わくひあくにんちく</rt></ruby>

堕落<ruby><rb>金剛山</rb><rt>こんごうせん</rt></ruby>

<ruby><rb>念彼観音力</rb><rt>ねんぴかんのんりき</rt></ruby>

不能損一毛

<ruby><rb>或値怨賊遶</rb><rt>わくじおんぞくにょう</rt></ruby>

各執刀加害

<ruby><rb>念彼</rb><rt>ねんび</rt></ruby>観音力

<ruby><rb>咸</rb><rt>げん</rt></ruby>即起慈心

<ruby><rb>或遭</rb><rt>わくそう</rt></ruby>王難苦

<ruby><rb>臨刑欲寿終</rb><rt>りんぎょうよくじゅじゅう</rt></ruby>

念彼観音力

刀尋<ruby><rb>段々壊</rb><rt>だんだんね</rt></ruby>

半瓦と並んだお杉は、<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>から、<ruby><rb>数珠</rb><rt>ずず</rt></ruby>をとり出し、もう無想になって、<ruby><rb>普門品</rb><rt>ふもんぼん</rt></ruby>を<ruby><rb>称</rb><rt>とな</rt></ruby>えていた。

初めは<ruby><rb>低声</rb><rt>こごえ</rt></ruby>であったが、そのうちに半瓦や<ruby><rb>乾児</rb><rt>こぶん</rt></ruby>がいることも忘れ果てた有様で、朗々と声の高まるにつれて、顔の形相も、物に<ruby><rb>憑</rb><rt>つ</rt></ruby>かれたように変ってしまう。

一巻を<ruby><rb>誦</rb><rt>よ</rt></ruby>み終ると、打ちふるえる指に数珠を押し揉み、

「――衆中八万四千衆生、<ruby><rb>皆発無</rb><rt>かんぱつむ</rt></ruby>等々、<ruby><rb>阿耨多羅三藐</rb><rt>あのくたらさんみゃく</rt></ruby>三<ruby><rb>菩提心</rb><rt>ぼだいしん</rt></ruby>。――南無大慈大悲<ruby><rb>観世音菩薩</rb><rt>かんぜおんぼさつ</rt></ruby>――なにとぞ、ばばが一念をあわれみたまい、一日もはやく、武蔵を討たせたまえ。武蔵を討たせたまえ。武蔵を討たせたまえ」

それからまた、<ruby><rb>遽</rb><rt>にわか</rt></ruby>に、声も体も沈めて、ひれ伏しながら、

「又八めが、よい子になり、本位田家の栄えまするよう」

彼女の祈りが終った様子をさし覗いて、堂守の僧が、

「あちらへ、湯を沸かしておきました。渋茶などお上がり下さいまし」

半瓦も乾児も、ばばのために、しびれをさすりながら起ち上がった。

乾児の十郎は、

「もう、ここなら、飲んでもようございましょう」

許しをうけると早速、堂裏にある僧の住居の縁側に、弁当をひろげ、舟で買い求めた魚などを焼いてもらって、

「この辺に、桜はねえが、花見に来たような気がするぜ」

と、お<ruby><rb>稚児</rb><rt>ちご</rt></ruby>の小六を相手に、すっかり落着きこむ。

半瓦は、<ruby><rb>布施</rb><rt>ふせ</rt></ruby>をつつんで、

「お屋根料の<ruby><rb>足</rb><rt>た</rt></ruby>しに」

と、<ruby><rb>若干</rb><rt>なにがし</rt></ruby>かを寄進したが、ふと壁に見える参詣者の寄進札のうちに、眼をみはった。

寄進の多くは、今彼がつつんだ程度の金か、それ以下の額であったが、中にたったひとり、ずば抜けた篤志家がある。

黄金十まい

しなの奈良井宿　大蔵

「お坊さん」

「はい」

「さもしいことをいうようだが、黄金十枚といっちゃ当節大金だ。いったい奈良井の大蔵というのは、そんな金持かな」

「よう存じませんが、昨年、年の暮に、ぶらりとご参詣なさいまして、関東一の<ruby><rb>名刹</rb><rt>めいさつ</rt></ruby>が、このお<ruby><rb>相</rb><rt>すがた</rt></ruby>はいたましい、ご<ruby><rb>普請</rb><rt>ふしん</rt></ruby>の折には、お材木代の端に加えてくれといって、置いて行かれましたので」

「気持のいい人間もあるものだな」

「ところが、だんだん聞きますと、その大蔵様は、湯島の天神へも、金三枚ご寄進なさいました。神田の明神へは、あれは<ruby><rb>平</rb><rt>たいら</rt></ruby>の<ruby><rb>将門</rb><rt>まさかど</rt></ruby>公を<ruby><rb>祠</rb><rt>まつ</rt></ruby>ったもので、将門公が<ruby><rb>謀叛人</rb><rt>むほんにん</rt></ruby>などと伝えられているのは、甚だしいまちがいだ。関東が開けたのは、将門公のお力もあるのに――といって黄金二十枚も献納したということでございますが、世には、ふしぎな奇特人もあるもので……」

と――その時、河原と寺内との境の森を、向う見ずに、ばらばらと駈け込んで来る<ruby><rb>狼藉</rb><rt>ろうぜき</rt></ruby>な<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>があった。

## 五

「<ruby><rb>童</rb><rt>わっぱ</rt></ruby>どもっ。遊ぶなら河原で遊べ、寺内へ入って来て乱暴するじゃないっ」

番僧は、縁側に立って、こう呶鳴った。

駈け込んで来た子供らは、<ruby><rb>目高</rb><rt>めだか</rt></ruby>の群れのように、その縁側へと集まって来て口々に、

「たいへんだよ、お坊さん」

「何処かのお侍さんと、何処かのお侍さん達が、河原で喧嘩してるよ」

「一人と四人で」

「刀を抜いて」

「はやく行ってごらんよ」

番僧たちは、聞くとすぐ草履へ足を下ろして、

「またか」

と、<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。

すぐ駈け出そうとしたが、半瓦やお杉たちを顧みて、

「お客様方、ちょっと失礼いたします。なにせい、この辺の河原は、喧嘩には足場がよいので、なんぞというと、果し合いの場所になったり、<ruby><rb>誘</rb><rt>おび</rt></ruby>き出しだの、<ruby><rb>撲</rb><rt>なぐ</rt></ruby>り合いだの、絶えず血の雨のふる所でしてな。――その度に、お奉行所から始末書を求められますので、見届けておかぬと」

子供たちはもう、河原の森の<ruby><rb>際</rb><rt>きわ</rt></ruby>へ行って、なにか声をあげて昂奮している。

「斬合か」

嫌いでない半瓦の<ruby><rb>乾児</rb><rt>こぶん</rt></ruby>二人も、その半瓦も、駈けて行った。

お杉ばばは、一番後から森を抜けて、河原境の樹の根に立って見渡した。――だが、彼女の足がおそかったので、彼女がそこへ出てみた時は、なにも、それらしい者は見えなかった。

また、あれほど<ruby><rb>躁</rb><rt>さわ</rt></ruby>いでいた子供も、駈け出した大人も、その他この界隈の漁村の男女も、皆、森の際や<ruby><rb>木</rb><rt>こ</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>がくれに、しいんと、<ruby><rb>生唾</rb><rt>なまつば</rt></ruby>をのんでしまって、声一つ立てる者がない。

「……？」

婆はいぶかしく思ったが、すぐ彼女も、同じように息をひそめ、ただ凝視の眼を、じっとすえていた。

見わたす限り、石ころと水ばかりな広い河原であった。水は澄んだ空と同じ色をしていた。燕の影が、その天地を独り自由に<ruby><rb>翔</rb><rt>か</rt></ruby>けている。

――見ると今、そのきれいな流れと、石ころの道を踏んで、彼方から澄ました顔をして歩いて来る一名の侍がある。人影といっては、それしか見当らない。

侍はまだうら若い男で、背に大太刀を負っているのと、<ruby><rb>牡丹色</rb><rt>ぼたんいろ</rt></ruby>の<ruby><rb>舶載地</rb><rt>はくさいじ</rt></ruby>の武者羽織を着ている<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>がひどく派手やかであった。そして、かくも大勢の眼に、木陰から見られているのを、知ってか知らずにいるのか、いっこう無関心らしく、ふと、立止まった。

「……ア。ア」

と、その時、ばばの近くにいた傍観者が、低い声をもらした。

ばばも、はっと、眼をひからした。

牡丹色の武者羽織が立ちどまった所から、約十間ほど後に、四つの死骸が、算をみだして、斬りふせられていたことがわかった。喧嘩の勝敗はもうそれでついていたのである。四人に対して、一人の若い武者羽織の方が、決定的に、勝ちを占めたものらしい。

ところが、まだその四人のうちには、<ruby><rb>薄傷</rb><rt>うすで</rt></ruby>の程度で、多少<ruby><rb>呼息</rb><rt>いき</rt></ruby>のある者があったとみえ、牡丹色の武者羽織が、ハッと振向くと、そこの死骸から、人魂のように、血まみれな一箇が、

「まだッ、まだッ。勝負はまだだっ。逃げるなっ」

と、追いかけて来た。

武者羽織は、向き直って、尋常に待ちかまえていたが、火の玉のような<ruby><rb>負傷</rb><rt>ておい</rt></ruby>が、

「まだ、お、お、おれはまだ、生きてるぞっ」

<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>いて、斬りかかると、<ruby><rb>此方</rb><rt>こなた</rt></ruby>は、一歩<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>いて、相手を泳がせ、

「これでも、まだかっ」

<ruby><rb>西瓜</rb><rt>すいか</rt></ruby>を割ったように、人間の顔が斬れてしまった。斬った刀は、武者羽織の背中に負っていた「物干竿」とよぶ長剣であったが、肩越しに、<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>を持った手も、斬り下げた手元も、眼には見えないほどな<ruby><rb>技</rb><rt>わざ</rt></ruby>であった。

## 六

刀を<ruby><rb>拭</rb><rt>ぬぐ</rt></ruby>っている。

それから、流れで、手を洗っている。

度々、この辺で、斬合を見つけている者でも、その落着きぶりに、<ruby><rb>嘆息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>をもらしたが、また余りにも、凄愴なものに打たれて、なかには観ているだけで、蒼ざめてしまった者もある。

「…………」

とにかく誰も、その間、一語を発しる者もなかった。

手を拭いた牡丹色の武者羽織は身を伸ばして、

「岩国川の水のようだ。……<ruby><rb>故郷</rb><rt>くに</rt></ruby>を思い出すなあ」

と、つぶやいて、しばらく、隅田河原のひろさや、水をかすめて飛び<ruby><rb>翻</rb><rt>かえ</rt></ruby>る燕の白い腹を見送っていた。

――やがて彼は、急に足を早めた。もう死骸が追いかけて来る憂いはなかったが、後の面倒を考えたらしい。

河原の<ruby><rb>水瀬</rb><rt>みなせ</rt></ruby>に、彼は、一<ruby><rb>艘</rb><rt>そう</rt></ruby>の小舟を見つけた。<ruby><rb>櫓</rb><rt>ろ</rt></ruby>も付いているし、恰好な乗物と思ったのであろう。それへ乗って、繋いでいる綱を解きかけるのであった。

「やいっ、侍」

半瓦の乾児の、<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>の十郎とお<ruby><rb>稚児</rb><rt>ちご</rt></ruby>の小六の二人だった。

こう木の間からいきなり呶鳴って、河原の水際へ駈け出して行き、

「その舟を、どうする気だ」

と、<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めた。

武者羽織の体には、近づくとまだ<ruby><rb>血腥</rb><rt>ちなまぐさ</rt></ruby>いにおいが感じられた。<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>にもわらじの緒にも、返り血がこびりついていた。

「……いけないのか」

解きかけた<ruby><rb>繋綱</rb><rt>もやい</rt></ruby>を放して、その顔がにっと笑うと、

「あたりめえだ。これは、俺たちの<ruby><rb>持舟</rb><rt>もちぶね</rt></ruby>だ」

「そうか。……駄賃をやったらよろしかろう」

「ふざけるな、俺たちは、船頭じゃあねえ」

たった今、そこで四人を一人で斬り捨てた侍に対して、こういう口がきける気の<ruby><rb>暴</rb><rt>あら</rt></ruby>さは、お稚児や<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>の口を借りて、関東の勃興文化がいうのである。新将軍の威勢や江戸の土がいうのである。

「…………」

悪かったとはいわない。

しかし、牡丹色の武者羽織も、それに横車は押せなかったと見え、小舟から出ると、黙ってまた河原を<ruby><rb>下流</rb><rt>しも</rt></ruby>の方へ歩き出した。

「小次郎どの。――小次郎どのじゃないか」

お杉はその前に迫って立っていた。顔を見あわすと、小次郎は、やあといって、初めて<ruby><rb>凄愴</rb><rt>せいそう</rt></ruby>な青白さを、顔から捨てて笑った。

「いたのか。こんな所に。――いや、その後は、どうしたかと思うていたが」

「身を寄せている半瓦の<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>や若い者と、観世音へ参詣にの」

「いつであったか、そうそう、<ruby><rb>叡山</rb><rt>えいざん</rt></ruby>でお目にかかった折、江戸へと聞いていたので、会いそうなものと思うていたが、こんな所でとは」

と、振りかえって、<ruby><rb>呆気</rb><rt>あっけ</rt></ruby>にとられている菰やお稚児を眼でさしながら、

「では、あれが婆殿の連れの者か」

「そうじゃ。親分というお人は出来ている人間じゃが、若い者たちは、ひどく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がさつ</span>揃いでの」

ばばが小次郎と馴々しく立話しを始めたことは、衆目をそばだたせたばかりでなく、半瓦の弥次兵衛も、意外であった。

で、半瓦はそれへ来て、

「なにか唯今、<ruby><rb>乾児</rb><rt>こぶん</rt></ruby>の者が、不作法を申しあげたらしゅうございますが」

と、丁寧に詫び、

「てまえどもも、もう帰ろうとしている所、何ならば、お急ぎの先まで、舟でお送り申しましょう」

と、すすめた。

## かんな<ruby><rb>屑</rb><rt>くず</rt></ruby>

## 一

帰りの小舟の中。

同舟という言葉があるが、ひとつ舟に身を託すとなれば、いやでもお互いに心の<ruby><rb>溶</rb><rt>と</rt></ruby>けあうものである。

まして、酒もある。

新鮮な<ruby><rb>魚鱗</rb><rt>ぎょりん</rt></ruby>もある。

それに、婆と小次郎とは、以前からふしぎに、気心も合い、その後の話も積もるほどあって、

「相変らず、御修行かの」

と、ばばがいえば、

「そちらの大望はまだか」

と、小次郎が訊く。

ばばの大望とは、いうまでもなく「武蔵を討つ」ことにあるが、その武蔵の消息が、この頃はとんと知れないので――といえば、小次郎が、

「いや、昨年の秋から冬頃までの間に二、三の武芸者を訪れたうわさがある。まだ多分、江戸表にいるにちがいない」

と、小次郎が力づける。

<ruby><rb>半瓦</rb><rt>はんがわら</rt></ruby>も口を出して、

「実は、手前も及ばずながら、ばば殿の身の上を聞いてお力添えをしておりますが、武蔵とやらの足どりが今のところ皆目、分らねえので」

と、話は婆の境遇を中心としてそれからそれへ結びつき、

「どうぞ、これからご懇意に」

と、半瓦がいえば、

「わしからも」

と、小次郎は、杯を洗って、彼のみでなく、<ruby><rb>乾児</rb><rt>こぶん</rt></ruby>たちへも、順々に廻して<ruby><rb>酌</rb><rt>つ</rt></ruby>ぐ。

小次郎の実力は、たった今、河原で見ているので、打ち解けると、お<ruby><rb>稚児</rb><rt>ちご</rt></ruby>も<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>も、無条件に尊敬をはらった。また、半瓦の弥次兵衛は、自分の世話している婆の味方というので、<ruby><rb>肝胆</rb><rt>かんたん</rt></ruby>を照らし合うところがあり、婆は婆でまた、多くの後ろ楯に囲まれて、

「渡る世間に鬼はないというが――ほんに小次郎殿といい、半瓦の身内の衆といい、わしのような老いさらぼうた者を、ようして<ruby><rb>賜</rb><rt>た</rt></ruby>もる志……何というてよいやら。これも観世音の<ruby><rb>御庇護</rb><rt>ごひご</rt></ruby>でがなあろう」

と、<ruby><rb>洟</rb><rt>はな</rt></ruby>をかまないばかり、涙ぐんでいうのだった。

話がしめっぽくなりかけたので半瓦が、

「――時に小次郎様。最前、あなた様が河原で討ち果しなすった四人は、あれはどういう人間どもでござりますな」

と、訊ねると、待っていたように、小次郎が、それからの得意な雄弁であった。

「アア、あれか――」

と、先ず最初は事もなげに一笑して、

「あれは、<ruby><rb>小幡</rb><rt>おばた</rt></ruby>の門に出入りする牢人で、先頃から五、六回ほど、わしが小幡を訪れて議論しておると、いつも横合から口をさし挿み、軍学上のことばかりか、剣についても<ruby><rb>小賢</rb><rt>こざか</rt></ruby>しくいうので、さらば隅田河原に来い、幾名とでも<ruby><rb>立対</rb><rt>たちむか</rt></ruby>って、<ruby><rb>巌流</rb><rt>がんりゅう</rt></ruby>が秘術と、物干竿の斬れ味を見せて進ぜるといったところ、今日五名して待つというので出向いたまでです。……一人は立合うとたんに逃げおったが、いやはや、江戸には、口ほどもないのが多くて」

とまた、肩で笑う。

「小幡というのは？」

と、訊ね返すと、

「知らんのか。甲州武田家の<ruby><rb>御人</rb><rt>ごじん</rt></ruby><ruby><rb>小幡</rb><rt>おばた</rt></ruby>入道<ruby><rb>日浄</rb><rt>にちじょう</rt></ruby>の末で――<ruby><rb>勘兵衛景憲</rb><rt>かんべえかげのり</rt></ruby>。――大御所に拾い出され、今では秀忠公の軍学の師として、門戸を張っておる」

「アアあの小幡様で」

と、<ruby><rb>半瓦</rb><rt>はんがわら</rt></ruby>は、そういう名だたる大家を、まるで友達のようにいう小次郎の顔を、見まもった。

そして心の<ruby><rb>裡</rb><rt>うら</rt></ruby>で、

（いったいこの若い侍は、まだ前髪でいるが、どんなに偉いのか？）

と、思った。

## 二

<ruby><rb>六方者</rb><rt>むほうもの</rt></ruby>は、単純である。市井の事々は複雑だが、その中を、単純に生きようというのが、男<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">だて</span>である。

半瓦はすっかり、小次郎に傾倒してしまった。

（この人は偉い）

と思うと、こういう持前の男<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">だて</span>は、一本槍に惚れこんでゆく。

「いかがでしょう一つ」

と、早速にも、相談であった。

「てまえどもには、しょッ中、ごろついている若い奴らが四、五十人はおります。裏には空地もあるし――そこへ道場を建ててもよろしゅうございますが」

と、小次郎の身を自宅で世話をしたいらしい<ruby><rb>意嚮</rb><rt>いこう</rt></ruby>を漏らすと、

「それは、教えてやってもいいが、わしの体は、三百石での、五百石でのと、諸侯から袖を引かれて、弱っているのだ。自分は、千石以下では奉公せぬ所存で、まだ当分は――今の<ruby><rb>邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>に遊んでおるが、その方の義理もあるから、急に身を移すわけにもゆかぬ。――そうだな、月に三、四度ぐらいならば、教授に出向いて<ruby><rb>遣</rb><rt>つか</rt></ruby>わそう」

と、いう。

それを聞くと、半瓦の<ruby><rb>乾児</rb><rt>こぶん</rt></ruby>は、いよいよ小次郎を大きく買った。小次郎のことばには、常に、単純でない伏線で自己宣伝が<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそ</rt></ruby>んでいるが、それを噛みわけないのである。

「それでも結構です。ぜひ一つお願い申したいもので」

辞を低くして、

「また、お遊びに」

と半瓦がいえば、お杉ばばも、

「待っていますぞよ」

と、小次郎のことばをつがえた。

小次郎は京橋堀へ舟が曲る角で、

「ここで降ろしてくれ」

と、<ruby><rb>陸</rb><rt>おか</rt></ruby>へ上がった。

小舟から見ていると、<ruby><rb>牡丹色</rb><rt>ぼたんいろ</rt></ruby>の武者羽織は、すぐ町中の<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>にかくれてしまった。

「たのもしい人だ」

と半瓦はまだ感心していたし、ばばも、口を極めて、

「あれが、<ruby><rb>真</rb><rt>まこと</rt></ruby>の武士じゃろう。あのくらいな人物なら、五百石でも、大名の口がかかりましょうわえ」

と、いった。

そして、ふと、

「せめて又八も、あのくらいに、人間が出来てくれれば……」

と<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。

それから五日程後、小次郎はぶらりと、半瓦の家へ遊びに来た。

四、五十名もいる<ruby><rb>乾児</rb><rt>こぶん</rt></ruby>が、代る代る彼のいる客間へ、挨拶に出て来た。

「おもしろい<ruby><rb>生活</rb><rt>くらし</rt></ruby>をしておるものだな」

小次郎は、そういって、心から愉快になったらしい。

「ここへ、道場を、建てたいと思いますが、ひとつ地所を見てくださいませんか」

と、半瓦は、彼を誘って、家の裏へ連れ出した。

二千坪ぐらいの空地だった。

そこには、<ruby><rb>紺屋</rb><rt>こうや</rt></ruby>があって、染め上げた<ruby><rb>布</rb><rt>ぬの</rt></ruby>を、たくさんに干していた。その地所は、半瓦が貸しているので、いくらでも広く取れるというのである。

「ここなら、往来の者が、立ちもすまいし、道場などは要るまい。野天でいい」

「でも、雨降りの日が」

「そう、毎日は、わしが来られないから、当分、野天稽古としよう。……ただし、わしの稽古は、<ruby><rb>柳生</rb><rt>やぎゅう</rt></ruby>や町の師匠などより、うんと手荒いぞ。――<ruby><rb>下手</rb><rt>へた</rt></ruby>をすれば、片輪もできる。死人もできる。それをよく承知しておいてもらわんと困るが……」

「元より、合点でございます」

半瓦は、乾児を集めて、承知の旨を誓わせた。

## 三

稽古日は、月三回、三の日と極めて、その日になると、半瓦の家へ小次郎の姿が見えた。

「<ruby><rb>伊達者</rb><rt>だてしゃ</rt></ruby>の中にまた一倍の伊達者が加わった」

と、近所では噂した。小次郎の派手姿は、何処にいても、人目立った。

その小次郎が、<ruby><rb>枇杷</rb><rt>びわ</rt></ruby>の長い木太刀を持って、

「次。――次！」

と、呼ばわりながら、紺屋の干し場で、大勢に稽古をつけている姿は、なおさら、目ざましかった。

いつになったら元服するのか、もう二十三、四歳にもなろうというのに、相変らず前髪を捨てず、片肌ぬぐと、眼を奪うような桃山<ruby><rb>刺繍</rb><rt>ぬい</rt></ruby>の<ruby><rb>襦袢</rb><rt>じゅばん</rt></ruby>を着、掛け<ruby><rb>襷</rb><rt>だすき</rt></ruby>にも、紫革を用いて、

「枇杷の木で打たれると、骨まで腐ると申すから、それを覚悟でかかって来い。――さっ、次の者、来ないか」

<ruby><rb>身装</rb><rt>みなり</rt></ruby>の<ruby><rb>艶</rb><rt>あで</rt></ruby>やかなだけに、言葉の<ruby><rb>殺伐</rb><rt>さつばつ</rt></ruby>なのが、よけい凄くひびく。

それに稽古とはいえ、この指南者は、少しも<ruby><rb>仮借</rb><rt>かしゃく</rt></ruby>しないのだ。きょうまでにこの空地の道場は、稽古初めをしてから三回目だが、半瓦の家には一人の片輪と、四、五人の怪我人ができて、奥で<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>って寝ている。

「――もうやめか、誰も出ないのか。やめるならわしは帰るぞ」

例の毒舌が出始めると、

「よしっ、一番おれが」

と、溜りの中から、ひとりの<ruby><rb>乾児</rb><rt>こぶん</rt></ruby>が、口惜しがって立ちかけた。

小次郎の前へ出て来て、木剣を拾おうとすると、――ぎゃっと、その男は、木剣も持たずにへたばってしまった。

「剣法では、油断というものを最も<ruby><rb>忌</rb><rt>い</rt></ruby>む。――これはその稽古をつけたのだ」

小次郎は、そういって、<ruby><rb>周</rb><rt>まわ</rt></ruby>りにいる三、四十人の顔を見まわしている。皆、<ruby><rb>生唾</rb><rt>なまつば</rt></ruby>をのんで、彼の厳しい稽古ぶりに<ruby><rb>顫</rb><rt>おのの</rt></ruby>いた。

へたばった男を、井戸端へ<ruby><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby>いで行って、水をかけていた乾児たちは、

「だめだ！」

「死んだのか」

「もう<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>はねえ」

後から駈け寄る者もあって、がやがや騒いでいたが、小次郎は、見向きもしなかった。

「これくらいなことに恐れるようでは、剣術の稽古などはしないがいい。お前らは、<ruby><rb>六方者</rb><rt>むほうもの</rt></ruby>だの<ruby><rb>伊達者</rb><rt>だてもの</rt></ruby>だのといわれて、ややもすると、喧嘩するではないか」

<ruby><rb>革足袋</rb><rt>かわたび</rt></ruby>で、空地の土を踏んで歩きながら、彼は講義口調でいう。

「――考えてみろ、六方者。おまえらは、足を踏まれたからといっては喧嘩をし、刀のこじりに<ruby><rb>触</rb><rt>さわ</rt></ruby>ったといってはすぐに抜き合うがだ――いざ、改めて、真剣勝負となると、体が固くなってしまうのだろう。女出入りや意地張りの、ツマらぬことには<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>も捨てるが、大義に捨てる勇を持たない。――なんでも、感情と鼻っぱりで起つ。――それじゃあいかん」

小次郎は、胸を伸ばして、

「やはり修行を経た自信でなければ、ほんものの勇気でない。さあ、起ってみろ」

その広言を<ruby><rb>凹</rb><rt>へこ</rt></ruby>ましてやろうと、一人が後ろから<ruby><rb>撲</rb><rt>なぐ</rt></ruby>りかかった。しかし、小次郎の体は地へ低く沈み込み、不意を襲った男は前へもんどり打った。

「――<ruby><rb>痛</rb><rt>いて</rt></ruby>えっ」

と、叫んだままその男は坐ってしまった。<ruby><rb>枇杷</rb><rt>びわ</rt></ruby>の木剣が、腰の骨に当った時、がつんといった。

「――もう今日はやめ」

小次郎は、木剣を<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り出して、井戸端へ手を洗いに行った。たった今、自分が木剣で撲り殺した<ruby><rb>乾児</rb><rt>こぶん</rt></ruby>が、井戸の流しに、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こんにゃく</span>みたいに白っぽくなって死んでいたが、その顔のそばで、ざぶざぶと手を洗っても、死人には、気の毒という一言もいわなかった。――そして、肌を入れると、

「近頃、たいへんな人出だそうだな、<ruby><rb>葭原</rb><rt>よしわら</rt></ruby>とやらは。……お前たちは皆、明るいのだろう。誰か今夜案内せぬか」

と、笑っていった。

## 四

遊びたい時は、遊びたいというし、飲みたい時は、飲ませろという。

<ruby><rb>衒</rb><rt>てら</rt></ruby>いとも見えるが、率直だともいえる。小次郎のそういう気性を、半瓦はいい方に買っている。

「<ruby><rb>葭原</rb><rt>よしわら</rt></ruby>をまだ見ねえんですか。そいつあ一度は行って見なくちゃいけねえ。手前がお供をしてもいいが何しろ死人が一人出来ちまって、そいつの始末をしてやらなけれやなりませんから――」

と、弥次兵衛は乾児のお<ruby><rb>稚児</rb><rt>ちご</rt></ruby>と<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>の両名に金を預けて、

「ご案内してあげろ」

と、小次郎に付けて出した。

出かける際、彼らは親分の弥次兵衛からくれぐれも、

「今夜は、<ruby><rb>汝</rb><rt>てめえ</rt></ruby>たちが遊ぶんじゃねえ。先生のご案内をして、よく観せてお上げ申すのだぞ」

といわれて来たが、<ruby><rb>門</rb><rt>かど</rt></ruby>を出るとすぐ忘れて、

「なあ兄弟、こういう御用なら、毎日仰せつかってもいいなあ」

「先生、これから時々、葭原が見てえと、仰っしゃっておくんなさい」

と、はしゃいでいる。

「はははは。よかろう、時々いってやる」

小次郎は先に歩む。

陽が暮れる途端に、江戸は真っ暗だった。京都の端にもこんな暗さはない。奈良も大坂も、もっと夜は明るいが――と江戸へ来て一年の余になる小次郎でも、まだ足元が不馴れだった。

「ひどい道だ。<ruby><rb>提燈</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>を持って来ればよかったな」

「<ruby><rb>廓</rb><rt>くるわ</rt></ruby>へ提燈なんぞ持ってゆくと笑われますぜ。先生、そっちは堀の土を盛りあげてある土手だ。下をお歩きなさい」

「でも、水溜りが多いではないか。――今も<ruby><rb>葭</rb><rt>よし</rt></ruby>の中へ<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>って、草履を濡らした」

堀の水が、<ruby><rb>忽然</rb><rt>こつねん</rt></ruby>と、赤く見え出した。仰ぐと、川向うの空も赤い。一<ruby><rb>廓</rb><rt>かく</rt></ruby>の町屋の上には、柏餅のような晩春の月があった。

「先生、あそこです」

「ほう……」

眼をみはった時、三人は橋を渡っていた。小次郎は渡りかけた橋をもどって、

「この橋の名は、どういうわけだな」

と、<ruby><rb>杭</rb><rt>くい</rt></ruby>の文字を見ていた。

「おやじ橋っていうんでさ」

「それはここに書いてあるが、どういうわけで」

「庄司甚内ってえおやじがこの町を開いたからでしょう。<ruby><rb>廓</rb><rt>くるわ</rt></ruby>で<ruby><rb>流行</rb><rt>はや</rt></ruby>っている小唄に、こんなのがありますぜ」

<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>の十郎は、<ruby><rb>廓</rb><rt>くるわ</rt></ruby>の灯に浮かされて、低い声で唄い出した。

おやじが前の竹れんじ

その<ruby><rb>一節</rb><rt>ひとふし</rt></ruby>のなつかしや

おやじが前の竹れんじ

せめて一夜と<ruby><rb>契</rb><rt>ちぎ</rt></ruby>らばや

おやじが前の竹れんじ

いく世も千代も契るもの

ちぎるもの……

仇にな引くな

切れぬ<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>を

「先生にも、貸しましょうか」

「何を」

「こいつで、こう顔を隠してあるきます」

と、<ruby><rb>稚児</rb><rt>ちご</rt></ruby>と<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>のふたりは、<ruby><rb>茜染</rb><rt>あかねぞめ</rt></ruby>の手拭を払って、頭からかぶった。

「なるほど」

と、小次郎も<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>て<ruby><rb>袴腰</rb><rt>はかまごし</rt></ruby>に巻いていた<ruby><rb>小豆</rb><rt>あずき</rt></ruby>色の<ruby><rb>縮緬</rb><rt>ちりめん</rt></ruby>を、前髪のうえからかぶって、顎の下にたっぷり結んで下げた。

「<ruby><rb>伊達</rb><rt>だて</rt></ruby>だな」

「よう似合う」

橋を渡ると、ここばかりは、往来も<ruby><rb>燈</rb><rt>ひ</rt></ruby>に染まり、格子格子の人影も、織るようであった。

## 五

<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>から暖簾へ、小次郎たちはわたり歩いていた。

<ruby><rb>茜染</rb><rt>あかねぞめ</rt></ruby>の暖簾や、紋を染めぬいた浅黄の暖簾などもある。或る<ruby><rb>楼</rb><rt>うち</rt></ruby>の暖簾には、鈴がついて、客が割って入ると、<ruby><rb>鈴</rb><rt>すず</rt></ruby>の<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>を聞いて、遊女たちが、窓格子まで寄って来た。

「先生、隠したってもうだめですぜ」

「なぜ」

「初めて来たと仰っしゃいましたが、今、はいった<ruby><rb>楼</rb><rt>うち</rt></ruby>の遊女の中で、先生の姿を見ると、声を出して<ruby><rb>屏風</rb><rt>びょうぶ</rt></ruby>の陰へ、顔をかくした女があった。もう泥を吐いておしまいなせえ」

菰もお稚児も、そういうが、小次郎には覚えがなかった。

「はてな。どんな女が……？」

「<ruby><rb>空恍</rb><rt>そらと</rt></ruby>ぼけたって、もういけません。<ruby><rb>登楼</rb><rt>あが</rt></ruby>りましょう、今の<ruby><rb>楼</rb><rt>うち</rt></ruby>へ」

「まったく、初めてだが」

「<ruby><rb>登楼</rb><rt>あが</rt></ruby>ってみれば分るこってさ」

今出て来たばかりの<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>の内へ、二人はもう引っ返している。大きな三ツ<ruby><rb>柏</rb><rt>がしわ</rt></ruby>の紋を三つに割って、端に、<ruby><rb>角屋</rb><rt>すみや</rt></ruby>としてある暖簾であった。

柱も廊下も、寺のように大<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まか</span>な建築だが、まだ縁の下には枯れない<ruby><rb>葭</rb><rt>よし</rt></ruby>が埋まっているのである。なんの<ruby><rb>煤</rb><rt>くす</rt></ruby>みもなければ<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>しさもない。家具も<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>も、すべてが目に痛いほど新しかった。

三人が通ったのは、往来に向いた二階の広座敷であったが、前の客の<ruby><rb>残肴</rb><rt>ざんこう</rt></ruby>やら鼻紙などが、まだ<ruby><rb>掃</rb><rt>は</rt></ruby>きもせず散らかっている。

下働きの女たちは、まるで女の労働者のように、ぶっきら棒にそれを片づける。お<ruby><rb>直</rb><rt>なお</rt></ruby>という年寄が来て、毎晩、寝る間もない忙しさで、こんなことが三年も続いたなら死ぬかも知れませんという。

「これが<ruby><rb>遊廓</rb><rt>くるわ</rt></ruby>か」

と、小次郎は、<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しい天井の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ふし</span>だらけなのを眺めて、

「いや、殺伐な」

と、苦笑した。するとお直は、

「これはまだ<ruby><rb>仮普請</rb><rt>かりぶしん</rt></ruby>で、いま裏の方に、伏見にも京にもないような本普請にかかっているのでございますよ」

と、弁解する。そしてじろじろ小次郎を見ながら、

「お武家様には、どこかでお目にかかっておりますよ。そうそう昨年、私たちが伏見から下って来る道中で」

小次郎は忘れていたが、そういわれて、<ruby><rb>小仏</rb><rt>こぼとけ</rt></ruby>の上で出会った<ruby><rb>角屋</rb><rt>すみや</rt></ruby>の一行を思い出し、その<ruby><rb>庄司</rb><rt>しょうじ</rt></ruby>甚内が、ここの<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>ということも分って、

「そうか。……それは浅からぬ縁だ」

と、やや興に入る。菰の十郎は、

「それやあ、浅くねえわけでしょう。何しろ、<ruby><rb>此楼</rb><rt>ここ</rt></ruby>には、先生の知っている女がいるんだから」

と、<ruby><rb>揶揄</rb><rt>やゆ</rt></ruby>して、その遊女をはやくここへ呼んでくれとお直へいう。

こんな顔の、こんな衣裳の、と菰が説明するのを聞いて、

「ああ、わかりました」

お直は立って行ったが、いつまで待っても、連れて来ないのみか、菰とお稚児が廊下まで出てみると、なんとなく楼内が<ruby><rb>躁</rb><rt>さわ</rt></ruby>がしい。

「やいっ、やいっ」

二人が手をたたいて、お直を呼び、どうしたのだと極めつける。

「いないんでございますよ。あなたが呼べと仰っしゃった遊女が」

「おかしいじゃねえか、どうしていなくなったんだ」

「今も、親方の甚内様と、どうもふしぎだと、話しているのでございます。以前も、小仏の途中で、お連れのお武家様と甚内様が話していると、その間に、あの<ruby><rb>娘</rb><rt>こ</rt></ruby>の姿が見えなくなってしまったことがあるんでございますからね」

## 六

<ruby><rb>棟上</rb><rt>むねあ</rt></ruby>げをしたばかりの<ruby><rb>普請場</rb><rt>ふしんば</rt></ruby>であった。屋根は<ruby><rb>葺</rb><rt>ふ</rt></ruby>きかけてあるが、壁もない、羽目板も打ってない。

「――<ruby><rb>花桐</rb><rt>はなぎり</rt></ruby>さん、花桐さん」

遠くのほうで呼ぶ声がする。山のように<ruby><rb>溜</rb><rt>たま</rt></ruby>っている<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かんな</span><ruby><rb>屑</rb><rt>くず</rt></ruby>や、材木の間を、何度も、自分を探しまわる人影が通った。

「…………」

<ruby><rb>朱実</rb><rt>あけみ</rt></ruby>はじっと息をころして隠れていた。花桐というのは、角屋へ来てからの自分の名である。

「……いやなこった。誰が出てやるものか」

初めは、客が小次郎と分っていたので、姿を隠したのであるが、そうしている間に、憎らしいものは、小次郎だけではなくなった。

清十郎も憎い、小次郎も憎い、八王子で、酔っている自分を<ruby><rb>馬糧</rb><rt>まぐさ</rt></ruby>小屋へ引きずりこんだ牢人者も憎い。

毎夜のように、自分の肉体をおもちゃにして行く遊客たちもみな憎い。

それはみんな男というものだ。男こそは<ruby><rb>仇</rb><rt>かたき</rt></ruby>だと思う。同時に彼女はまた、男を探して生きている。武蔵のような男を――である。

（似ている人でもいい）

と、彼女は思った。

もし似ている人に出会ったら、愛の真似事をしても、慰められるだろうと朱実は思っていた。だが、遊客の中に、そんな者は見つからなかった。

求めつつ、恋しつつ、だんだんにその人から遠くなるばかりな自分が朱実にはわかっていた。酒はつよくなるばかりだった。

「花桐っ……。花桐」

<ruby><rb>普請場</rb><rt>ふしんば</rt></ruby>とすぐくっ付いている角屋の裏口で、親方の甚内の声が近く聞え、やがて空地の中へは、小次郎たち三名の姿も見えている。

さんざん詫びをいわせたり、文句をいったあげく、三名の影は空地から往来の方へ出て行った。多分、あきらめて帰ったものと見える。朱実は、ほっとして、顔を出した。

「――あら花桐さん、そんな所にいたのけ？」

台所働きの女が、頓狂な声を出しかけた。

「……<ruby><rb>叱</rb><rt>し</rt></ruby>っ」

朱実は、その口へ手を振って、大きな台所口を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>きながら、

「<ruby><rb>冷酒</rb><rt>ひや</rt></ruby>でひと口くれないか」

「……え。お酒を」

「ああ」

彼女の顔いろに怖れをなして、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かたくち</span>へ<ruby><rb>満々</rb><rt>なみなみ</rt></ruby>と<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>いでやると、朱実は、眼をつむって、<ruby><rb>器</rb><rt>うつわ</rt></ruby>と共に、白い<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を仰向けにのみほした。

「……ア、何処へ。花桐さん、何処へ」

「うるさいね、足を洗ってあがるんだよ」

台所の女は、安心して、そこを閉めた。けれど朱実は、土のついた足のまま、有合う草履に足をかけて、

「ああいい気もち」

ふらふらと、往来のほうへ歩み出した。

赤い<ruby><rb>灯影</rb><rt>ほかげ</rt></ruby>に染まっている往来を、たくさんな男ばかりの影が、ぞめき合ってながれていた。朱実は<ruby><rb>呪</rb><rt>のろ</rt></ruby>うように、

「なんだいこの人間たちは」

と、<ruby><rb>唾</rb><rt>つば</rt></ruby>をして、そこを走った。

すぐ道は暗くなった。白い星が堀の中に浮いている。――じっと覗きこんでいると、後ろのほうから、ばたばたと駈けて来る跫音がする。

「……あ、角屋の<ruby><rb>提燈</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>らしい。ばかにしてやがる、あいつらはあいつらで、ひとが路頭に迷っているのをいい気になって、骨まで<ruby><rb>削</rb><rt>けず</rt></ruby>らせて<ruby><rb>稼</rb><rt>かせ</rt></ruby>がせる気なんだろう。――そしてあたい達の血や肉が、普請場の材木になりゃあ世話あないや。……誰がもう帰ってやるものか」

世間のあらゆるものが敵視されるのであった。朱実は、まっしぐらに、<ruby><rb>的</rb><rt>あて</rt></ruby>もなく闇の中へ駈け去った。髪についていた<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かんな</span>屑が一ひら、闇の中にひらひら動いて行った。

## <ruby><rb>梟</rb><rt>ふくろう</rt></ruby>

## 一

したたかに小次郎は酔っていたのである。もちろん、その程度に、どこかの<ruby><rb>揚屋</rb><rt>あげや</rt></ruby>で遊びぬいた<ruby><rb>挙句</rb><rt>あげく</rt></ruby>に違いない。

「肩……肩だおい……」

「ど、どうするんで？　先生」

「両方から肩を貸せというのだ――もう、あるけない」

<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>の十郎とお<ruby><rb>稚児</rb><rt>ちご</rt></ruby>の小六の肩にすがって、汚れた<ruby><rb>夜更</rb><rt>よふ</rt></ruby>けの<ruby><rb>色街</rb><rt>いろまち</rt></ruby>を、<ruby><rb>蹌踉</rb><rt>そうろう</rt></ruby>ともどって来るのだった。

「だから、泊ろうと、おすすめしたのに」

「あんな<ruby><rb>楼</rb><rt>うち</rt></ruby>に、泊れるか。……おい、もういちど、角屋へ行ってみよう」

「およしなさい」

「な、なぜ」

「だって、逃げ隠れするような女を、むりに、つかまえて、遊んだって……」

「……む。そうか」

「惚れているんですか、先生はその女に」

「ふ、ふ、ふ、ふ」

「何を思い出しているんで」

「おれは、女になど、惚れたことはないな。……そういう<ruby><rb>性格</rb><rt>たち</rt></ruby>らしい。もっと、大きな野望を抱いているから」

「先生の望みってえのは？」

「いわずとも知れている。剣を持って立つ以上、剣の第一人者にならずにはおかない。――それには将軍家の指南になるのが上策だが」

「<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>と……もう柳生家があるし……小野<ruby><rb>治郎右衛門</rb><rt>じろうえもん</rt></ruby>という人も近頃、御推挙されましたぜ」

「治郎右衛門……あんな者が。……柳生とて<ruby><rb>惧</rb><rt>おそ</rt></ruby>るるには足らん。……見ていろ、わしは今に、<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>らを蹴落してみせる」

「……あぶねえ。先生、自分の足元の方を、気をつけておくんなさいよ」

もう<ruby><rb>廓</rb><rt>くるわ</rt></ruby>の灯は、後ろだった。

通う人影もとんとない。行きがけにも悩んだ掘りかけの堀端へ出て来たのである。盛り上げた土に柳の木が半分も埋まっているかと思うと、一方は低い<ruby><rb>蘆</rb><rt>あし</rt></ruby>や<ruby><rb>葭</rb><rt>よし</rt></ruby>の水たまりがまだ残っていて、白い星の影が<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>けている。

「<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>りますぜ」

この<ruby><rb>堤</rb><rt>どて</rt></ruby>から下へ、厄介者を<ruby><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby>いで、菰とお稚児が降りかけた時だった。

「――あっ」

叫んだのは、小次郎であったしまた、その小次郎に、突然、振り飛ばされた<ruby><rb>両人</rb><rt>ふたり</rt></ruby>でもあった。

「何者だっ」

と、小次郎は、<ruby><rb>堤</rb><rt>どて</rt></ruby>の腹へ、仰向けに身を伏せながら、再び呶鳴った。

その声を、びゅっと、虚空へ斬りながら、背後から不意を襲った男の影は、自分の足先を、余勢に踏み<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>して、これも、あっ――といいながら下の沼地へ飛びこんでしまった。

「わすれたか、佐々木」

と、何処かでいう。

「よくもいつぞやは、隅田河原で同門の四名を斬りすてたな」

べつな者の声である。

「おうっ」

小次郎は、<ruby><rb>堤</rb><rt>どて</rt></ruby>の上へ跳ね上がって、そこらの声を見廻した。――見ると、土の陰、木の陰、蘆の中、十人以上の人影が数えられた。彼がそこに立ったと見ると、すべてが、むらむらと<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>を向けて、足元へ寄りつめてきた。

「――さては、<ruby><rb>小幡</rb><rt>おばた</rt></ruby>の門人どもだな。いつぞやは、五人で来て四人を失い、こん夜は何名で来て何名が死にたいのだ。望みの数だけ斬ってやろう。……卑劣者めッ、来いっ」

小次郎の手は肩越しに、背なかの愛剣、物干竿の<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>に鳴った。

## 二

<ruby><rb>平河天神</rb><rt>ひらかわてんじん</rt></ruby>と背なか合せに、森を負っている屋敷だった。旧家の<ruby><rb>草葺</rb><rt>くさぶき</rt></ruby>屋根へ、新しい講堂や玄関を継ぎ建てて、小幡勘兵衛<ruby><rb>景憲</rb><rt>かげのり</rt></ruby>は、軍学の門人を取っていた。

勘兵衛は元、武田家の<ruby><rb>家人</rb><rt>けにん</rt></ruby>で、甲州者の中でも武門の聞えの高い小幡入道<ruby><rb>日浄</rb><rt>にちじょう</rt></ruby>の流れである。

武田の滅亡後久しく野に隠れていたが、勘兵衛の代になって家康に召出され、実戦にも出たが、病体だし、もう老年なので、

（願わくは、年来の軍学を講じて、余生を奉じたい）

と、今の所へ移ったのである。

幕府は、彼のためにも、下町の一区画を宅地として与えたが、勘兵衛は、

（甲州出の武辺者が、<ruby><rb>華奢</rb><rt>かしゃ</rt></ruby>な邸宅が軒を並べている間に住むのは、不得手でござれば――）

と、辞退して、平河天神の古い農家を屋敷構えに直し、いつも病室に閉じこもって、近頃は、講義にも滅多に顔を見せない。

森には、<ruby><rb>梟</rb><rt>ふくろう</rt></ruby>が多くいて、昼間も梟の声がする程なので、勘兵衛は、

<ruby><rb>隠士梟翁</rb><rt>いんしきょうおう</rt></ruby>

と自ら名乗り、

（わしも、あの仲間の一羽か）

と、わが病骨を、さびしく笑ったりしていた。

病気は今でいう神経痛のようなものであった。<ruby><rb>発作</rb><rt>ほっさ</rt></ruby>が起ると、坐骨のあたりから半身が猛烈に痛むらしい。

「……先生、少しはおよろしくなりましたか。水でも一口おあがりなされては」

いつも彼の側には、北条新蔵という弟子がつき添っていた。

新蔵は、北条<ruby><rb>氏勝</rb><rt>うじかつ</rt></ruby>の子で、父の遺学を継いで、北条流の軍学を完成するために、勘兵衛の内弟子となって、少年の頃から、<ruby><rb>薪</rb><rt>まき</rt></ruby>を割り水を<ruby><rb>担</rb><rt>にな</rt></ruby>って、苦学して来た青年だった。

「……もうよい。……だいぶ楽になった。……やがて夜明け近くであろうに、さだめし眠たかろう。やすめ、やすめ」

勘兵衛の髪の毛は、まっ白であった。体は、老梅のように痩せて<ruby><rb>尖</rb><rt>とが</rt></ruby>っている。

「お案じくださいますな。新蔵は、昼寝しておりますから」

「いや、わしの代講ができる者は、そちのほかにはない。昼間も、なかなか眠る間もあるまい……」

「眠らないのも、修行と存じますれば」

新蔵は、師の薄い背中をさすりながら、ふと、消えかける<ruby><rb>短檠</rb><rt>たんけい</rt></ruby>を見て、<ruby><rb>油壺</rb><rt>あぶらつぼ</rt></ruby>を取りに起った。

「……はての？」

枕に<ruby><rb>俯</rb><rt>う</rt></ruby>つ<ruby><rb>伏</rb><rt>ぷ</rt></ruby>していた勘兵衛が、ふと肉の<ruby><rb>削</rb><rt>そ</rt></ruby>げた顔をあげた。

その顔に、灯が冴えた。

新蔵は、油壺を持ったまま、

「何でござりますか？」

と、師の眼を見た。

「そちには聞えないか……水の音だ……石井戸の辺りに」

「オオ……人の気配が」

「今頃、何者か。……また、弟子部屋の者どもが、夜遊びに出おったのかもしれぬ」

「おおかた、そんなことかと存じますが、一応見て参りまする」

「よく、<ruby><rb>窘</rb><rt>たしな</rt></ruby>めておけ」

「いずれにせよ、お疲れでございましょう。先生は、おやすみなされませ」

夜が白みかけると、痛みもやみ、すやすや寝つく病人であった。新蔵は、師の肩へ、そっと寝具をかけて、裏口の戸を開けた。

見ると、石井戸の流しで、<ruby><rb>釣瓶</rb><rt>つるべ</rt></ruby>を上げて、二人の弟子が、手や顔の血を、洗っていた。

## 三

北条新蔵は、それを見ると、はっとしたらしく眉をひそめた。<ruby><rb>革足袋</rb><rt>かわたび</rt></ruby>のまま石井戸の側まで駈け出して、

「出かけたな！　貴様たちは」

と、いった。

その言葉には、あれほど止めたのに――と叱っても今は及ばないものを見た嘆息と驚きがこもっていた。

石井戸の陰には、二人が背負って来た<ruby><rb>深傷</rb><rt>ふかで</rt></ruby>の門人が、もう一名、今にも息をひきとりそうに、<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>いていた。

「あっ、新蔵殿」

手足の血を洗っていた同門の二人は、彼の姿を仰ぐと、男泣きに泣き出しそうな<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>を顔に刻んで、

「……ざ、残念です！」

弟が兄に訴えるような、甘えた<ruby><rb>嗚咽</rb><rt>おえつ</rt></ruby>と、歯がみをして叫んだ。

「馬鹿っ」

<ruby><rb>撲</rb><rt>なぐ</rt></ruby>らないだけがまだいい新蔵の声だった。

「馬鹿者っ」

と、もう一度つづけて、

「――貴公たちに討てる相手ではないから<ruby><rb>止</rb><rt>よ</rt></ruby>せと、再三再四、わしが止めたのになぜ出かけたか」

「でも……でも……。ここへ来ては、病床の師を<ruby><rb>辱</rb><rt>はずか</rt></ruby>しめ、隅田河原では、同門の者を四名も討った――あの佐々木小次郎<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ずれ</span>を、何でそのままに置けるものでしょうか。……無理ですっ、意地も抑え、手も抑えて、黙って<ruby><rb>怺</rb><rt>こら</rt></ruby>えていろと仰っしゃる新蔵殿の方が、ご無理というものです」

「何が無理だ」

年こそ若いが、新蔵は小幡門中の高足であり、師が病床にあるうちは、師に代って弟子達に臨んでいる位置でもあった。

「貴公たちが出向いていい程なら、この新蔵が真っ先に行く。――先頃からたびたび道場へ訪れて来て、病床の師に、無礼な広言を吐きちらしたり、われわれに対しても、傍若無人な小次郎という男を、わしは怖れて捨てておいたのではないぞ」

「けれど、世間はそうは受けとりません。――それに、小次郎は、師のことや、また兵学上のことまでも、<ruby><rb>悪</rb><rt>あ</rt></ruby>しざまに、各所でいいふらしているのです」

「いわせておけばいいではないか。老師の真価を知っている者は、まさか、あんな青二才と論議して、負けたと誰が思うものか」

「いや、あなたはどうか知りませんが、われわれ門人は、黙っていられません」

「では、どうする気だ」

「<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>を、斬り捨てて、思い知らせるばかりです」

「わしが止めるのもきかずに、隅田河原では、四人も返り討ちにあい、また今夜も、かえって彼のために敗れて帰って来たではないか。――恥の上塗りというものだ。老師の顔に泥をぬるのは、小次郎ではなくて、門下の各〻たちだという結果になるではないか」

「あ、あまりなお言葉。どうして吾々が、老師の名を」

「では、小次郎を討ったか」

「…………」

「今夜も、討たれたのは、恐らく味方ばかりだろう。……各〻にはあの男の力がわからないのだ。なるほど、小次郎という者は、年も若い、人物も大きくはない、粗野で高慢な風もある。――けれど彼が持っている天性の力――何で鍛え得たか――あの物干竿とよぶ大剣をつかう腕は、否定できない彼の実力だ。<ruby><rb>見縊</rb><rt>みくび</rt></ruby>ったら大間違いだぞ」

喰ってかかるように、門下の一人は、そういう新蔵の胸いたへ不意に迫って来た。

「――だから、<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>に、どんな振舞いがあっても仕方がないと仰っしゃるのですか。――それほど、あなたは、小次郎が怖ろしいのでござるかっ」

## 四

「そうだ。そういわれても仕方がない」

新蔵は、<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いて見せながら、

「わしの態度が、臆病者に見えるなら、臆病者といわれておこう」

――すると、地に<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>いていた<ruby><rb>深傷</rb><rt>ふかで</rt></ruby>の男が、彼と二人の友の足元から苦しげに訴えた。

「水を……水をくれい」

「お……もう」

二人が、左右から掻い抱いて、<ruby><rb>釣瓶</rb><rt>つるべ</rt></ruby>の水を<ruby><rb>掬</rb><rt>すく</rt></ruby>ってやりかけると、新蔵があわてて止めた。

「待て。水を<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>っては、すぐこときれる」

二人がためらっている間に、<ruby><rb>負傷</rb><rt>ておい</rt></ruby>は首をのばして釣瓶にかぶりついた。そして水を一口吸うと、釣瓶のなかに顔を入れたまま、眼を落してしまった。

「…………」

朝の月に、<ruby><rb>梟</rb><rt>ふくろう</rt></ruby>が啼いた。

新蔵は、黙然と立ち去った。

家にはいると、彼はすぐ師の病室をそっと<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>った。勘兵衛は<ruby><rb>昏々</rb><rt>こんこん</rt></ruby>とふかい寝息の中にある。ほっと胸をなでて、彼は自分の居間へ<ruby><rb>退</rb><rt>さ</rt></ruby>がった。

読みかけの軍書が机のうえに開いてある。書に親しむ間もない程、毎夜の看護である。そこへ坐って、自分の体に<ruby><rb>回</rb><rt>かえ</rt></ruby>ると、同時に夜ごとのつかれが一時に思い出された。

机の前に、腕を<ruby><rb>拱</rb><rt>く</rt></ruby>んで、新蔵は思わず太い息をついた――自分を<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>いて今、誰が老いたる師の病床を見る者があろう。

道場には幾人かの内弟子もいるが、皆、武骨な軍学書生である。門に通う者はなおさら、威を張り、武を談じ、孤寂な老師の心情をふかく<ruby><rb>酌</rb><rt>く</rt></ruby>んでいる者は少ない。ややともすれば、ただ外部との意地や争闘にのみ走りやすい。

すでに今度の問題にしてもそうである。

自分の留守のまに、佐々木小次郎が、何か兵書の質疑で、勘兵衛に<ruby><rb>糺</rb><rt>ただ</rt></ruby>したいことがあるというので、門人が彼を師の勘兵衛に会わせたところ、教えを乞いたいといった小次郎が、かえって、<ruby><rb>僭越</rb><rt>せんえつ</rt></ruby>な議論をしかけて、勘兵衛をやりこめるために来たかのような<ruby><rb>口吻</rb><rt>くちぶり</rt></ruby>なので、弟子たちが、別室へ彼を<ruby><rb>拉</rb><rt>らっ</rt></ruby>して、その<ruby><rb>不遜</rb><rt>ふそん</rt></ruby>をなじると、かえって小次郎は大言を放ち、そのうえ、

（いつでも相手になる）

と、いって帰ったとかいうのが原因なのである。

原因は常に小さい。しかし結果は大きなことになった。それというのも小次郎がこの江戸で、小幡の軍学は浅薄なものだとか、甲州流などというが、あれは古くからある<ruby><rb>楠流</rb><rt>くすのきりゅう</rt></ruby>や唐書の<ruby><rb>六韜</rb><rt>りくとう</rt></ruby>を焼直して、でッち上げたいかがわしい兵学だとか、世間で悪声を放ったのが、門人の耳に伝わって、よけいに感情が悪化したせいもあるが、

（生かしてはおけぬ）

と、<ruby><rb>小幡</rb><rt>おばた</rt></ruby>の門人がこぞって、彼に復讐をちかい出したのであった。

北条新蔵は、その議が持ち上がると、最初から反対した。

――問題が小さい事。

――師が病中にある事。

――相手が軍学者でない事。

それからもう一つ、老師の子息の余五郎が旅先にいることも理由として、

（断じてこちらから喧嘩に出向いてはならぬ）

と、<ruby><rb>戒</rb><rt>いまし</rt></ruby>めて来たのであった。――にもかかわらず、先頃は新蔵に無断で隅田河原で小次郎と出会い、また、それにも<ruby><rb>懲</rb><rt>こ</rt></ruby>りず衆を語らって、ゆうべも、小次郎を待ちぶせ、かえって<ruby><rb>手酷</rb><rt>てひど</rt></ruby>い目に遭って、約十名のうち生きて還ったのは幾人もない様子なのである。

「……困ったことを」

新蔵は、消えかける<ruby><rb>短檠</rb><rt>たんけい</rt></ruby>へ、何度も嘆息をもらしては、また、腕ぐみの中に<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を沈めていた。

## 五

机に肘をのせて<ruby><rb>俯</rb><rt>う</rt></ruby>つ<ruby><rb>伏</rb><rt>ぷ</rt></ruby>したまま、北条新蔵はうとうとと眠ってしまった。

ふと醒めると、何処かで騒がしい人声が<ruby><rb>幽</rb><rt>かす</rt></ruby>かに聞える。すぐ門弟たちの<ruby><rb>寄合</rb><rt>よりあい</rt></ruby>だと分った。明け方のことが、それと共に、頭にはっと<ruby><rb>甦</rb><rt>よみがえ</rt></ruby>った。

――だが、声のする所は遠かった。講堂を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いても誰もいない。

新蔵は、草履を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いた。

裏へ出て、若竹のすくすくと青い竹林を越えると、垣もなく、平河天神の森へつづいてゆく。

見るとそこに、大勢してかたまっているのは、案のじょう、小幡軍学所の門下生たちだった。

明け方、石井戸で傷を洗っていた二人は、白い布で腕を<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>に吊っている。そして蒼白な<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を並べて、同門たちに、ゆうべの惨敗を告げているのだった。

「……では何か、十名も行って、小次郎一人のために、その半分までも返り討ちになったというのか」

一人が問うと、

「残念だが、何分、<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>が物干竿と<ruby><rb>称</rb><rt>よ</rt></ruby>んでいるあの<ruby><rb>大業刀</rb><rt>おおわざもの</rt></ruby>には、どうしても、刃が立たんのだ」

「村田、<ruby><rb>綾部</rb><rt>あやべ</rt></ruby>など、ふだん剣法にも、熱心な男なのに」

「かえって、その二人などが、真っ先に、割りつけられ、後もみな<ruby><rb>深傷</rb><rt>ふかで</rt></ruby><ruby><rb>薄傷</rb><rt>うすで</rt></ruby>。<ruby><rb>与惣兵衛</rb><rt>よそべえ</rt></ruby>など、ここまで気丈に帰って来たが、ひと口、水をのむと、井戸端でこときれてしまった……。かえすがえす無念でならぬ。……御一同、察してくれ」

暗然と、皆、口をつぐんでしまう。平常、軍学に傾倒しているこの派の人々は、いわゆる剣というものを、あれは歩卒の<ruby><rb>習</rb><rt>まな</rt></ruby>ぶもので、将たる者の励むことではないように思っている者が多かった。

それが<ruby><rb>端</rb><rt>はし</rt></ruby>なくこんな事態を生じて、一人の佐々木小次郎に<ruby><rb>出会</rb><rt>であい</rt></ruby>を仕掛けながら、二度まで、多くの同門が返り討ちになってみると、痛切に、ふだん軽蔑していた剣法に自信のないのが悲しまれてきた。

「……どうしたものか」

と、そのうちに誰か<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>く。

「…………」

重い沈黙の上に、きょうも<ruby><rb>梟</rb><rt>ふくろう</rt></ruby>が啼いている。――と、突然、名案が<ruby><rb>泛</rb><rt>う</rt></ruby>かんだように一人がいった。

「おれの<ruby><rb>従弟</rb><rt>いとこ</rt></ruby>が、柳生家に奉公している。柳生家へご相談して、お力を借りてはどうだろう」

「ばかな」

と、幾人もいった。

「そんな外聞にかかわることができるか。それこそ、師の顔に泥を塗るようなものだ」

「じゃあ……じゃあどうするか？」

「ここにいる人数だけで、もう一度佐々木小次郎へ、出会い状をつけようではないか。暗闇で待ち伏せるなどということはもうしない方がよい。いよいよ、小幡軍学所の名折れを増すばかりだ」

「では、再度の果し状か」

「たとい、何度敗れても、このまま<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>くわけにはゆくまい」

「もとよりだ。……だが、北条新蔵に聞こえるとまたうるさいが」

「勿論、病床の師にも、あの秘蔵弟子にも、聞かしてはならない。――では、<ruby><rb>社家</rb><rt>しゃけ</rt></ruby>へ参って、筆墨を借り、すぐ書面を<ruby><rb>認</rb><rt>したた</rt></ruby>めて、誰か一名、小次郎の手許へ使いに立つとしよう」

腰を上げて、大勢がひっそりと、平河天神の社家のほうへ歩みかけると、先に歩いていたのが不意に、あッと口走って、身を<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>いた。

「……や？」

誰の足も皆、とたんに棒立ちに<ruby><rb>竦</rb><rt>すく</rt></ruby>んでしまった。そして眼は――一様に平河天神の拝殿の裏にあたる――古びた廻廊の上へ、うつろに<ruby><rb>注</rb><rt>そそ</rt></ruby>がれた。

陽あたりのよい壁に、<ruby><rb>青梅</rb><rt>あおうめ</rt></ruby>の<ruby><rb>実</rb><rt>み</rt></ruby>のついた老梅の影が描かれていた。そこの<ruby><rb>欄</rb><rt>らん</rt></ruby>に、片足をのせて、佐々木小次郎は、<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>から、森の集まりを見ていたのであった。

## 六

大勢の顔は、一瞬、<ruby><rb>胆</rb><rt>きも</rt></ruby>を奪われて、蒼白い<ruby><rb>腑抜</rb><rt>ふぬ</rt></ruby>けになっていた。

そして、自分たちの眼を疑うように、廻廊の上に小次郎を見あげ、声を出すのはおろか、<ruby><rb>呼息</rb><rt>いき</rt></ruby>も止まったように、身を<ruby><rb>硬</rb><rt>こわ</rt></ruby>め合っている。

小次郎は、<ruby><rb>傲岸</rb><rt>ごうがん</rt></ruby>な微笑を含んでその人々を<ruby><rb>見下</rb><rt>みくだ</rt></ruby>しながら、

「今、そこで聞いていれば、まだ<ruby><rb>懲</rb><rt>こ</rt></ruby>りもせず、この小次郎へ果し状を付けるとか付けぬとか、談合しておられたな。――使いの世話には及ばんことだ。わしは昨夜の血の手も洗わず、いずれ揺り返しがある筈と、卑怯者の後を慕って、この平河天神へ来て夜明けを待ちあぐねておった」

例の壮烈な舌を<ruby><rb>呵</rb><rt>か</rt></ruby>して、一気に小次郎はこういったが、それに気を呑まれて、大勢の顔から<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐ</span>の<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>も出ないので、また――

「それとも小幡の門人らは、果し合いをするにも、大安とか仏滅とか、<ruby><rb>暦</rb><rt>こよみ</rt></ruby>と相談でなければ出来ないのか。昨夜のように、相手が<ruby><rb>酩酊</rb><rt>めいてい</rt></ruby>して帰る途中を待ち伏せして、<ruby><rb>暗討</rb><rt>やみう</rt></ruby>ちをしかけなければ刃物はぬけないと申すのか」

「…………」

「なぜ黙っている。生きている人間は一匹もおらぬのか。一人一人来るもよし、<ruby><rb>束</rb><rt>たば</rt></ruby>になってかかるもよし、佐々木小次郎は、汝らごときが、たとい鉄甲に身を固め、<ruby><rb>鼓</rb><rt>つづみ</rt></ruby>を鳴らして<ruby><rb>襲</rb><rt>よ</rt></ruby>せて来たとて、<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>を見せるような武芸者ではないぞ」

「…………」

「どうしたっ」

「…………」

「果し合いは、見合せか」

「…………」

「骨のある奴はいないのか」

「…………」

「聞け。よく耳に留めておけ、刀法は富田五郎左衛門が歿後の弟子、抜刀の<ruby><rb>技</rb><rt>わざ</rt></ruby>は、片山<ruby><rb>伯耆守久安</rb><rt>ほうきのかみひさやす</rt></ruby>の秘奥をきわめて、自ら<ruby><rb>巌流</rb><rt>がんりゅう</rt></ruby>とよぶ一流を工夫した小次郎であるぞ。――書物の講義ばかり<ruby><rb>齧</rb><rt>かじ</rt></ruby>って、<ruby><rb>六韜</rb><rt>りくとう</rt></ruby>がどうの<ruby><rb>孫子</rb><rt>そんし</rt></ruby>が何といったのと、架空な修行しておる者とは、この腕が違う、胆が違う」

「…………」

「貴様たちは、平常、小幡勘兵衛から何を学んでいるか知らぬが、兵学とは何ぞや？　わしは今、その実際を汝らに、身をもって教訓してつかわしたのだ。――なんとなれば、広言ではないが、ゆうべのような暗討ちに出会えば、たとい勝っても、大概な者なら<ruby><rb>逸早</rb><rt>いちはや</rt></ruby>く安全な場所へ引揚げて、今朝あたりは、思い出してホッとしておる所だ。――それを、斬って斬って斬り捲り、なお、生きのびて逃げるを追い、突然、敵の本拠に現れ、<ruby><rb>足下</rb><rt>そっか</rt></ruby>らが善後策を講じる間もなく不意を衝いて、敵の<ruby><rb>荒胆</rb><rt>あらぎも</rt></ruby>を<ruby><rb>挫</rb><rt>ひし</rt></ruby>ぐという――この行き方が、つまり軍学の極意と申すもの」

「…………」

「佐々木は、剣術家ではあるが軍学家ではない。それなのに軍学の道場へ来てまで、<ruby><rb>小癪</rb><rt>こしゃく</rt></ruby>をいうなどと、誰やら<ruby><rb>何日</rb><rt>いつ</rt></ruby>か<ruby><rb>此方</rb><rt>このほう</rt></ruby>を<ruby><rb>罵倒</rb><rt>ばとう</rt></ruby>した者もいたが、これで佐々木小次郎が、天下の剣豪であるばかりでなく、軍学にも達していることが、よく分ったろう。……あはははは。これはとんだ軍学の代講をしてしまった。この上、商売ちがいの<ruby><rb>蘊蓄</rb><rt>うんちく</rt></ruby>を傾けては病人の小幡勘兵衛が<ruby><rb>扶持</rb><rt>ふち</rt></ruby>ばなれになろうも知れん。……ああ<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>が<ruby><rb>渇</rb><rt>かわ</rt></ruby>いた。おい小六、十郎、気のきかぬ奴だ。水でも一杯持って来い」

振向いていうと、拝殿の横で、へいと威勢のよい答えがする。<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>の十郎とお<ruby><rb>稚児</rb><rt>ちご</rt></ruby>の小六の二人だった。

<ruby><rb>土器</rb><rt>かわらけ</rt></ruby>へ水を<ruby><rb>酌</rb><rt>く</rt></ruby>んで来て、

「先生。やるんですか、やらねえんですか？」

小次郎は、飲みほした<ruby><rb>土器</rb><rt>かわらけ</rt></ruby>を、茫然としている小幡の門人達の前へ投げつけて、

「訊いてみろ。あのぼやっとした顔に」

「あははは。なんてえ<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>だ」

小六が<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>ると、十郎も、

「ざまあ見やがれ。意気地なしめ。……さ先生、行きましょう。どう見たって、一匹でも、<ruby><rb>蒐</rb><rt>かか</rt></ruby>って来られる<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>はないじゃアございませんか」

## 七

ふたりの<ruby><rb>六方者</rb><rt>むほうもの</rt></ruby>を連れた小次郎の姿が、肩で風を切って、平河天神の鳥居の外へ消えてゆくまで――物陰から北条新蔵は見送っていた。

「……おのれ」

新蔵はつぶやいた。

それと共に、<ruby><rb>苦汁</rb><rt>くじゅう</rt></ruby>をのむような<ruby><rb>堪忍</rb><rt>かんにん</rt></ruby>の<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えが体のなかを廻った。しかし今は――

「今に見ろ」

と、念じておくよりほか彼にはなかった。

出鼻を逆に衝かれて、拝殿の裏に立ち<ruby><rb>竦</rb><rt>すく</rt></ruby>んでしまった大勢の者は、まだ一語を洩らす者もなく<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しん</span>と白けたまま、かたまっていた。

小次郎が弁じ立てて行ったように、まったく、彼らは小次郎の戦法に乗ぜられてしまったのだ。

一度、臆病風に吹かれた顔に、最初の活気はもう<ruby><rb>甦</rb><rt>よみがえ</rt></ruby>って来なかった。

同時に、心頭に燃えるほどだった彼らの怒りも、<ruby><rb>女々</rb><rt>めめ</rt></ruby>しい灰になってしまったらしい。誰あって、小次郎の後ろ姿へ向って、

（おれが）

と、進んで追って行く者もなかったのである。

そこへ、講堂の方から、<ruby><rb>仲間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>が駈けて来て、今、町の<ruby><rb>棺桶屋</rb><rt>かんおけや</rt></ruby>から棺桶が五つも届いて来ましたが、そんなに棺桶を注文したのでしょうか――と訊ねて来た。

「…………」

口をきくのも嫌になったように皆、それにも答える者がない。

「棺桶屋が、待っておりますが……」

と<ruby><rb>仲間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>の催促に、初めて一人が、

「まだ取りにやった死骸が届かぬから、よく分らぬが、多分、もう一つぐらい要るだろうから、後のも頼んで、届いたのは、物置へでも一時仕舞っておけ」

と、重たい<ruby><rb>口吻</rb><rt>くちぶり</rt></ruby>でいった。

やがて棺桶は、物置のなかにも積まれ、めいめいの頭の中にも、その幻影が、一個ずつ積まれた。

講堂で、<ruby><rb>通夜</rb><rt>つや</rt></ruby>が営まれた。

病室へは知れぬように、極めてそっと送ったが、勘兵衛もうすうすわけを知ったらしく見える。

しかし、何も訊かないのだ。

そこへ<ruby><rb>侍</rb><rt>かしず</rt></ruby>いている新蔵もまた、何も告げなかった。

激していた人々は、その日から殆ど<ruby><rb>唖</rb><rt>おし</rt></ruby>みたいに黙って<ruby><rb>暗鬱</rb><rt>あんうつ</rt></ruby>になり、誰よりも消極的で、誰からも臆病者に見えていた北条新蔵のひとみには、もう我慢ならないといったようなものが常に底に燃えていた。

そうして彼は独り、

（今に、今に）

と、来る日を待っていた。

その待つ日の間に、彼はふと、或る日、病師の枕元から見える<ruby><rb>巨</rb><rt>おお</rt></ruby>きな<ruby><rb>欅</rb><rt>けやき</rt></ruby>の木の<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>に、一羽の<ruby><rb>梟</rb><rt>ふくろう</rt></ruby>が止まっているのを見つけた。

その梟は、いつ眺めても、同じ所の<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>にとまっていた。

昼間の月を見ても、どうかすると、その梟は、ほうほうと啼くのであった。

夏を越えると、秋ぐちから、師の勘兵衛の<ruby><rb>病</rb><rt>やまい</rt></ruby>は<ruby><rb>篤</rb><rt>あつ</rt></ruby>くなった。余病が出たのである。

（近い、近い）

と、梟の声が、師の死期を知らせるように、新蔵には、聞えてならない。

勘兵衛の一子<ruby><rb>余五郎</rb><rt>よごろう</rt></ruby>は旅先にあったが、変を聞いて、すぐ帰ると書面でいって来た。――その人の着くのが早いか、死の迎えが早いか――と憂えられていたこの四、五日であった。

どっちにせよ、北条新蔵には、自分の決意を果す日が近づいたのであった。彼は、もう<ruby><rb>明日</rb><rt>あす</rt></ruby>は師の子息余五郎がここへ着くという前夜、遺書を残して小幡軍学所の門にわかれを告げた。

「無断で立ち去ります罪は、どうぞお<ruby><rb>宥</rb><rt>ゆる</rt></ruby>し下さいまし」

樹陰から、老師の病間へ向って、彼はいんぎんな挨拶を残して行った。

「もはや明日は、御子息余五郎様が御帰宅ゆえ、ご病間のことも、安心して去りまする。――したが、果たして、小次郎の<ruby><rb>首級</rb><rt>しるし</rt></ruby>をさげて、御生前に、再びお目にかかれるや否や。……万一にも、私もまた、小次郎の手にかかり、返り討ちになった時は、一足先に死出の山路でお待ちしておりまする」

## <ruby><rb>通夜童子</rb><rt>つやどうじ</rt></ruby>

## 一

そこは<ruby><rb>下総国</rb><rt>しもうさのくに</rt></ruby>行徳村からざっと一里程ある寒村だった。いや村というほどな<ruby><rb>戸数</rb><rt>こすう</rt></ruby>もない。一面に<ruby><rb>篠</rb><rt>しの</rt></ruby>や<ruby><rb>蘆</rb><rt>あし</rt></ruby>や雑木の生えている<ruby><rb>荒野</rb><rt>こうや</rt></ruby>であった。里の者は、<ruby><rb>法典</rb><rt>ほうてん</rt></ruby>ヶ<ruby><rb>原</rb><rt>はら</rt></ruby>といっている。

<ruby><rb>常陸路</rb><rt>ひたちじ</rt></ruby>の方から今、ひとりの旅人が歩いて来る。<ruby><rb>相馬</rb><rt>そうま</rt></ruby>の<ruby><rb>将門</rb><rt>まさかど</rt></ruby>が、<ruby><rb>坂東</rb><rt>ばんどう</rt></ruby>に暴勇をふるって、矢<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>りを<ruby><rb>恣</rb><rt>ほしいまま</rt></ruby>にした頃から、この辺りの道も<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>もそのままにあるように<ruby><rb>蕭々</rb><rt>しょうしょう</rt></ruby>としたものだった。

「――はてな？」

武蔵は、行き暮れた足を止めて、野路の<ruby><rb>岐</rb><rt>わか</rt></ruby>れに立ち迷っていた。

秋の陽は野末に落ちかけ、ところどころの野の水も赤い。もう足元も<ruby><rb>仄暗</rb><rt>ほのぐら</rt></ruby>く、草木のいろも定かでない。

武蔵は、<ruby><rb>燈</rb><rt>ひ</rt></ruby>を探した。

ゆうべも野に寝た。おとといの夜も山の石を枕に寝た。

四、五日前、<ruby><rb>栃木</rb><rt>とちぎ</rt></ruby>あたりの峠で豪雨にあい、それから後、少しからだが<ruby><rb>気懶</rb><rt>けだる</rt></ruby>い。<ruby><rb>風邪気</rb><rt>かぜけ</rt></ruby>などというものは知らなかったが――なんとなくこよいは夜露がもの<ruby><rb>憂</rb><rt>う</rt></ruby>いのである。<ruby><rb>藁屋</rb><rt>わらや</rt></ruby>の下でもよい。灯と、温かい<ruby><rb>稗飯</rb><rt>ひえめし</rt></ruby>がほしかった。

「どことなく潮の香がする……。四、五里も歩けば海があるとみえる。……そうだ、潮風を<ruby><rb>的</rb><rt>あて</rt></ruby>に」

と、彼はまた、野道を歩いた。

しかし、その勘があたるかどうかわからない。もし海も見えず家の灯も見えなければ、こよいも秋草のなかに、萩と<ruby><rb>添寝</rb><rt>そいね</rt></ruby>をするしかないと思う。

赤い陽が沈みきれば、こよいも大きな月がのぼるであろう。満地は虫の<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>に耳もしびれるばかりだった。彼一人の静かな<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>にさえ<ruby><rb>愕</rb><rt>おどろ</rt></ruby>いて、虫は武蔵の<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>や刀のつかにも飛びついてくる。

自分に風流があるならば、この行き暮れた道をも楽しんで歩くことが出来ように――とは思うのであったが、武蔵は、

（汝、楽しむや）

と、自分へ訊ねて、

（<ruby><rb>否</rb><rt>いな</rt></ruby>）

と、自分で答えるしかない気持であった。

――人が恋しい。

――食物がほしい。

――孤独に<ruby><rb>倦</rb><rt>う</rt></ruby>みかけた。

――修行に肉体がつかれかけている。

と正直に思う。

元より、これでいいとしている彼ではない。<ruby><rb>苦</rb><rt>にが</rt></ruby>い反省を抱きつつ歩いているのだ。――木曾、<ruby><rb>中山道</rb><rt>なかせんどう</rt></ruby>から江戸へと志して、その江戸にはいること僅か数日で、再び<ruby><rb>陸奥</rb><rt>みちのく</rt></ruby>の旅へ去った彼であった。

ちょうどあれから一年半余――武蔵は先に<ruby><rb>逗留</rb><rt>とうりゅう</rt></ruby>し残した江戸へこれから出るつもりなのである。

なぜ、江戸を後にして、<ruby><rb>陸奥</rb><rt>みちのく</rt></ruby>へいそいだか。それは<ruby><rb>諏訪</rb><rt>すわ</rt></ruby>の宿で会った仙台家の家士<ruby><rb>石母田外記</rb><rt>いしもだげき</rt></ruby>の後を追ったのであった。自分の知らぬまに、旅包みの中にあった大金を、外記の手へ返すためであった。あの物質の恩恵を受けておくのは、彼にとって、大きな心の負担であった。

「仙台家へ仕える程なら……」

武蔵は、<ruby><rb>自尊</rb><rt>じそん</rt></ruby>をもつ。

たとい修行に疲れ、<ruby><rb>食</rb><rt>しょく</rt></ruby>に<ruby><rb>渇</rb><rt>かわ</rt></ruby>いて、<ruby><rb>露衣風身</rb><rt>ろいふうしん</rt></ruby>の<ruby><rb>漂泊</rb><rt>さすら</rt></ruby>いに行き暮れていても、

「おれは」

と、そのことを考えると、微笑がわいてくる。彼の大きな希望は伊達公六十余万石を挙げて迎えてくれても、まだ、満足とはしないに違いなかった。

「……おや？」

ふと、足の下で、大きな水音がしたので、武蔵は踏みかけた土橋に立ち止って、暗い小川の<ruby><rb>窪</rb><rt>くぼ</rt></ruby>を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>きこんだ。

## 二

なにか、ばちゃばちゃと水音をたてている。まだ野末の雲が赤いだけに、<ruby><rb>川崖</rb><rt>かわがけ</rt></ruby>の<ruby><rb>窪</rb><rt>くぼ</rt></ruby>はよけいに暗く、土橋の上に<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んだ武蔵は、

「<ruby><rb>河獺</rb><rt>かわうそ</rt></ruby>か？」

と、眼を<ruby><rb>凝</rb><rt>こ</rt></ruby>らした。

しかし、彼はすぐ、幼い土民の子を、そこに見出した。人間の子とはいいながら、河獺と大差のない顔をしていた。怪しむように、その子は土橋の上の人影を下から見上げている。

そこで武蔵が、声をかけた。子供を見ると言葉をかけたくなるのは、彼には、いつものことで、特に理由のあることではない。

「子ども、何しているのだ」

すると土民の子は、

「<ruby><rb>泥鰌</rb><rt>どじょう</rt></ruby>」

とだけいって、またざぶざぶ<ruby><rb>小笊</rb><rt>こざる</rt></ruby>を小川に<ruby><rb>浸</rb><rt>ひた</rt></ruby>して振っていた。

「あ、泥鰌か」

なんの意味もないこんな会話も、この<ruby><rb>曠野</rb><rt>こうや</rt></ruby>の中では親しくひびく。

「たくさん捕れたか」

「もう秋だから、そういないけど」

「拙者に少し分けてくれぬか」

「泥鰌をかい？」

「この手拭にひとつかみほど包んでおくれ。銭はやる」

「折角だけど、きょうの泥鰌は、お<ruby><rb>父</rb><rt>とっ</rt></ruby>さんに上げるんだから<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>れないよ」

<ruby><rb>笊</rb><rt>ざる</rt></ruby>を抱えて小川の窪から飛びあがると、子供は、野萩の中を<ruby><rb>栗鼠</rb><rt>りす</rt></ruby>みたいに駈け去ってしまった。

「……<ruby><rb>迅</rb><rt>はし</rt></ruby>こい奴」

武蔵は、取残されたまま苦笑をうかべていた。

自分の幼い時の姿が思い出された。友達の又八にもあんな時があったなあと思う。

「……城太郎も、初めて見た頃は、ちょうどあのくらいな<ruby><rb>童</rb><rt>わっぱ</rt></ruby>だったが」

――さて、その城太郎はその後どうしたろうか。何処に何をしていることぞ？

お<ruby><rb>通</rb><rt>つう</rt></ruby>と共に<ruby><rb>迷</rb><rt>はぐ</rt></ruby>れてから、その年から数えれば足かけ三年目――あの時十四、去年で十五、

「ああ、もうあれも、十六歳になる」

彼はこんな貧しい自分をも、師とよび、師と慕い、師として仕えてくれた。――だが自分は彼に何を与えたか。ただ、お通と自分とのあいだに挟まりながら、旅路の苦労をさせたにすぎない。

武蔵はまた、野中に<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んだ。

城太郎のこと、お通のこと、さまざまな<ruby><rb>追憶</rb><rt>おもいで</rt></ruby>に、しばらくつかれを忘れて歩いていたが、道はいよいよ分らない。

ただ<ruby><rb>倖</rb><rt>しあわ</rt></ruby>せなことには、秋の月がまんまると空にある。啼きすだく虫の音がある。こんな夜にお通は笛をふくのが好きだったと思う。……虫の音が皆、お通の声、城太郎の声に聞えてくる。

「……お。家がある」

灯を見つけた。武蔵は、しばらく何もわすれて、その一ツ灯へ向って歩いた。

近寄ってみると、まったくの一ツ<ruby><rb>家</rb><rt>や</rt></ruby>で、傾いた軒よりも、すすきや萩の背のほうが高く見える。大きな露と見えるのは、やたらに壁を這っている夕顔の花だった。

彼が近づくと、突然、大きな鼻息を鳴らして怒るものがあった。家の横につないであった裸馬である。馬の気配ですぐ知ったとみえ、明りのついている家の中から、

「誰だっ」

と呶鳴る者があった。

――見ると、<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>、<ruby><rb>泥鰌</rb><rt>どじょう</rt></ruby>を分けてくれなかった子どもである。これはよくよく縁があると、武蔵は思わず微笑んで、

「泊めてくれぬか。夜明けにはすぐ立去るが――」

いうと、子どもは、先刻とはちがって、武蔵の顔や姿をしげしげ眺めていたが、

「あ。いいよ」

と、素直に<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いた。

## 三

これはひどい。

雨が降ったらどんなだろう。月明りが屋根からも壁からも洩る。

旅装を解いても、掛ける<ruby><rb>釘</rb><rt>くぎ</rt></ruby>もなかった。床板に<ruby><rb>蓆</rb><rt>むしろ</rt></ruby>は敷いてあるが、そこからも風が洩る。

「おじさん、先刻、泥鰌が欲しいといったね。泥鰌、好きかい」

童子は、前に<ruby><rb>畏</rb><rt>かしこま</rt></ruby>って訊く。

「…………」

武蔵は、それに答えるのを忘れて、この子供を見つめていた。

「……何を見ているのさ」

「<ruby><rb>幾歳</rb><rt>いくつ</rt></ruby>になるの」

「え」

と、童子はまごついて、

「おらの年かい？」

「うむ」

「十二だ」

「…………」

土民の中にもよい<ruby><rb>面魂</rb><rt>つらだましい</rt></ruby>の子があるもの――と武蔵はなお<ruby><rb>惚々</rb><rt>ほれぼれ</rt></ruby>と見るのであった。

洗わない蓮根みたいに<ruby><rb>垢</rb><rt>あか</rt></ruby>で埋まった顔をしている。髪は<ruby><rb>蓬々</rb><rt>ぼうぼう</rt></ruby>と伸びて、小鳥の<ruby><rb>糞</rb><rt>ふん</rt></ruby>みたいな匂いがする。しかし、よく肥えていることと、<ruby><rb>垢</rb><rt>あか</rt></ruby>の中にくるりと光っている眼のきれいなことはすばらしい。

「<ruby><rb>粟飯</rb><rt>あわめし</rt></ruby>も少しあるよ。<ruby><rb>泥鰌</rb><rt>どじょう</rt></ruby>も、もうお<ruby><rb>父</rb><rt>とっ</rt></ruby>さんに上げたから、喰べるなら、下げて来てやるよ」

「すまないなあ」

「お湯ものむのだろ」

「湯も欲しい」

「待っといで」

童子は、がたぴしと、板戸をあけて、次の部屋にかくれてしまう。

柴を折る音や、七輪をあおぐ音がする。家の中は忽ち煙で充ちてくる。天井や壁にたかっていた無数の昆虫が煙に追われて外へ出て行く。

「さ、できた」

無造作に、食べ物が<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>へじかに並んだ。塩からい<ruby><rb>泥鰌</rb><rt>どじょう</rt></ruby>、黒い味噌、粟飯。

「うまかった」

武蔵がよろこぶと、人の<ruby><rb>欣</rb><rt>よろこ</rt></ruby>びを童子もよろこぶ性質とみえ、

「うまかったかい？」

「礼をのべたいが、この<ruby><rb>家</rb><rt>や</rt></ruby>の<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>はもうお<ruby><rb>寝</rb><rt>やす</rt></ruby>みかの」

「起きてるじゃないか」

「どこに」

「ここに」

と、童子は、自分の鼻を指さして、

「ほかに誰もいないよ」

と、いう。

職業を訊くと、以前は少しばかり農もやっていたが、親がわずらってから、農はやめて自分が<ruby><rb>馬子</rb><rt>まご</rt></ruby>をして稼いでいるという。

「……ああ油がきれてしまった。お客さん、もう寝るだろう」

明りは消えたが、月洩る家は何の不便もなかった。

うすい<ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>ぶとんに、木枕をかって、武蔵は壁に添って寝た。

とろとろと眠りかけると、まだ風邪気が抜けきらないせいか、軽い汗が毛穴にわく。

そのたびに武蔵は、夢の中で雨のような音を聞いた。

夜もすがら啼きすだく虫の音は、いつか彼をふかい<ruby><rb>睡</rb><rt>ねむ</rt></ruby>りに誘った。――もしそれが<ruby><rb>砥石</rb><rt>といし</rt></ruby>を<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>る刃物の音でなかったら、その深い眠りは覚めなかったに違いない。

「……や？」

彼は、ふと、身を起していた。

ずし、ずし、ずし――と微かに小屋の柱がうごく。

板戸の隣で、<ruby><rb>砥石</rb><rt>といし</rt></ruby>へ物を当てている力がひびいて来るのである。何を<ruby><rb>研</rb><rt>と</rt></ruby>いでいるのか？　――それは問題でない。

武蔵はすぐ、枕の下の刀を握った。すると、隣の部屋から、

「お客さん、まだ寝つかれないのかい？」

## 四

どうして自分が起きたのを、隣の部屋で知ったろうか。

童子の敏感に<ruby><rb>愕</rb><rt>おどろ</rt></ruby>きながら、武蔵は、その答えを<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>して、斬り返すように、<ruby><rb>此方</rb><rt>こなた</rt></ruby>からいった。

「この深夜に、なんで<ruby><rb>其方</rb><rt>そち</rt></ruby>は、刃物など<ruby><rb>研</rb><rt>と</rt></ruby>いでいるのか」

すると少年は、げらげら笑いながら、

「なアんだ、おじさんは、そんなことに<ruby><rb>恟々</rb><rt>びくびく</rt></ruby>して、寝つかれなかったのかい。強そうな恰好をしているけれど、内心は臆病なんだなあ」

武蔵は、沈黙した。

少年の姿を借りた<ruby><rb>魔魅</rb><rt>まみ</rt></ruby>と、問答でもしているような気持に打たれたからである。

ごし、ごし、ごしっ……と童子の手はまた、<ruby><rb>砥石</rb><rt>といし</rt></ruby>のうえに動いているらしい。不敵な今の言葉といい、<ruby><rb>砥</rb><rt>と</rt></ruby>を揺する底力といい、武蔵はいぶからずにいられなかった。

「……？」

で、板戸の隙間から覗いてみたのである。そこは台所と、<ruby><rb>蓆</rb><rt>むしろ</rt></ruby>を敷いた二坪の寝小屋になっている。

引窓から白い月明りが<ruby><rb>映</rb><rt>さ</rt></ruby>しこんでいる下に、童子は、<ruby><rb>研桶</rb><rt>とぎおけ</rt></ruby>を据え、刃渡り一尺五、六寸の<ruby><rb>野差刀</rb><rt>のざし</rt></ruby>を持って、一心に<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>をかけているのであった。

「何を斬るのか」

隙間から武蔵がいうと、童子は、その隙間をちょっと振向いたが、一言も発せず、なお懸命に研いでいる。そしてやがてのこと、<ruby><rb>晃々</rb><rt>きらきら</rt></ruby>と<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ね返す光と<ruby><rb>研水</rb><rt>とぎみず</rt></ruby>のしずくを<ruby><rb>拭</rb><rt>ぬぐ</rt></ruby>いあげて、

「おじさん」

と<ruby><rb>此方</rb><rt>こなた</rt></ruby>を見て訊ねた。

「これでね、おじさん。人間の胴中が、二つに斬れる？」

「……さ。腕に依るが」

「腕なら、おらにだっておぼえがある」

「一体、誰を斬るのか」

「おらのお<ruby><rb>父</rb><rt>とっ</rt></ruby>さんを」

「何……？」

武蔵は、<ruby><rb>愕</rb><rt>おどろ</rt></ruby>いて、思わずそこの板戸を開け、

「<ruby><rb>童</rb><rt>わっぱ</rt></ruby>。<ruby><rb>戯</rb><rt>たわむ</rt></ruby>れにいったか」

「だれが、冗談など、いうものか」

「父を斬る？　……それが本気ならおまえは人間の子ではない。こんな<ruby><rb>曠野</rb><rt>こうや</rt></ruby>の一ツ家に、野鼠か土蜂のように育った子にせよ、親とは何かぐらいなことは、自然分っていなければならない。……<ruby><rb>獣</rb><rt>けもの</rt></ruby>にすら親子の本能はあるに、おまえは親を斬るために、その刀を研いでいた」

「ああ……。だけど、斬らなければ、持って行けないもの」

「どこへ」

「山のお墓へ」

「……え？」

武蔵は改めて眼を壁の隅へ向けた。<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>からそこに気になるものを見ていたが、まさか、少年の父の死骸とは思いもつかなかったのである。熟視すると、死骸には、木の枕をさせ、上から汚い百姓着がかぶせてある。そして一碗の飯と水と――さっき武蔵にもくれた<ruby><rb>泥鰌</rb><rt>どじょう</rt></ruby>の煮たのが木皿に盛って<ruby><rb>供</rb><rt>そな</rt></ruby>えてある。

この仏は、生前<ruby><rb>泥鰌</rb><rt>どじょう</rt></ruby>が、無二の好物であったとみえる。少年は、父が死ぬと、父が一番好きな物は何であったかを考え――もう秋も半ばというのに、懸命に、泥鰌をさがして、あの小川で洗っていたものにちがいない。

――とも知らずに、

（泥鰌を分けてくれぬか）

といった自分の心ない言葉が武蔵は恥ずかしく思い出された。同時にまた、父の遺骸を、山の墓地へ持って行くのに、一人の力では運ばれないから、死骸を両断して持って行こうという――この童子の剛胆な考え方に、舌を巻いて、しばらくその顔を見つめてしまった。

「いつ死んだのだ？　……おまえの父は」

「今朝」

「お墓は遠いのか」

「<ruby><rb>半里</rb><rt>はんみち</rt></ruby>ばかし先の山」

「人を頼んで、寺へ持って行けばよいではないか」

「おかねがないもの」

「わしが、<ruby><rb>布施</rb><rt>ふせ</rt></ruby>をしよう」

すると、童子は、かぶりを振っていった。

「お父さんは、人から物を恵まれるのは、嫌いだった。お寺も嫌いだった。――だから、いらない」

## 五

一言一句、この少年のことばには、奇骨がある。

父という仏も、察するに、<ruby><rb>凡</rb><rt>ただ</rt></ruby>の<ruby><rb>田夫野人</rb><rt>でんぷやじん</rt></ruby>ではなかろう。<ruby><rb>由縁</rb><rt>よし</rt></ruby>ある者の末にちがいはない。

武蔵は彼のことばに任せ、山の墓所へ、仏を運ぶ力だけ貸した。

それも、山の下までは、仏を馬の背にのせて行けばよいのであった。ただ<ruby><rb>嶮</rb><rt>けわ</rt></ruby>しい山道だけ、武蔵が仏を背負って<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>った。

墓所といっても、大きな栗の木の下に、丸い<ruby><rb>自然石</rb><rt>じねんせき</rt></ruby>が一つ、ぽつねんとあるだけで、ほかに<ruby><rb>塔婆</rb><rt>とうば</rt></ruby>一つない山だった。

仏を<ruby><rb>埋</rb><rt>い</rt></ruby>け終ると、少年は花を手向け、

「<ruby><rb>祖父</rb><rt>おじい</rt></ruby>も、<ruby><rb>祖母</rb><rt>おばあ</rt></ruby>も、おっ母さんも、みんなここに眠ってるんだぜ」

と、<ruby><rb>掌</rb><rt>て</rt></ruby>をあわせた。

――何の宿縁。

武蔵も共に仏の冥福を念じて、

「墓石もそう古くないが、おまえの祖父の代から、この辺に土着したとみえるな」

「ああそうだって」

「その以前は」

「<ruby><rb>最上家</rb><rt>もがみけ</rt></ruby>の侍だったけど、<ruby><rb>戦</rb><rt>いくさ</rt></ruby>に負けて落ちのびる時、系図も何もみんな焼いちまって、何もないんだって」

「それほどな家柄なら墓石にせめて、祖父の名ぐらい刻んでおきそうなものだが、<ruby><rb>紋印</rb><rt>もんじるし</rt></ruby>も年号もないが」

「祖父が、墓へは、何も書いてはいけないといって死んだんだって。<ruby><rb>蒲生家</rb><rt>がもうけ</rt></ruby>からも、<ruby><rb>伊達家</rb><rt>だてけ</rt></ruby>からも、<ruby><rb>抱</rb><rt>かか</rt></ruby>えに来たけれど、侍奉公は、二人の主人にするものじゃない。それから、自分の名など、石に彫っておくと、先の御主人の恥になるし、百姓になったんだから、紋も何も彫るなっていって、死んだんだって」

「その祖父の、名は聞いていたか」

「<ruby><rb>三沢伊織</rb><rt>みさわいおり</rt></ruby>というんだけれど、お父さんは、百姓だから、ただ三右衛門といっていた」

「おまえは」

「三之助」

「身寄りはあるのか」

「姉さんがあるけれど、遠い国へ行っている」

「それきりか」

「うん」

「明日からどうして生きてゆくつもりか」

「やっぱり<ruby><rb>馬子</rb><rt>まご</rt></ruby>をして」

と、いってすぐ、

「おじさん。――おじさんは武者修行だから、年中旅をして歩くんだろ。おらを連れて、何処までもおらの馬に乗ってくれないか」

「…………」

武蔵は<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>から、白々と、明けてくる曠野を見ていた。そして、この<ruby><rb>肥沃</rb><rt>ひよく</rt></ruby>な野に住む人間が、どうして、かくの如く貧しいかを考えこんでいた。

<ruby><rb>大利根</rb><rt>おおとね</rt></ruby>の水の、<ruby><rb>下総</rb><rt>しもうさ</rt></ruby>の<ruby><rb>潮</rb><rt>うしお</rt></ruby>があって、坂東平野は幾たびも泥海に化し、幾千年のあいだ、富士の火山灰はそれを埋め――やがて<ruby><rb>幾世</rb><rt>いくよ</rt></ruby>をふるうちに、<ruby><rb>葭</rb><rt>よし</rt></ruby>や<ruby><rb>蘆</rb><rt>あし</rt></ruby>や雑木や<ruby><rb>蔓草</rb><rt>つるくさ</rt></ruby>がはびこって、自然の力が人間に勝ってしまう。

人間の力が土や水や自然の力を自由に利用する時、はじめてそこに文化が生れる。坂東平野はまだ人間が自然に圧倒され、征服され、人間の智慧の<ruby><rb>眸</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>は、茫然とただ天地の大をながめているにすぎない。

陽がのぼると、そこらを、小さい野獣が跳ぶ、小鳥が<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ねる。未開の天地では、人間よりも、鳥獣のほうが、自然の恵みを、より多く<ruby><rb>享</rb><rt>う</rt></ruby>け、より多く楽しんでいるかに見えた。

## 六

やはり、子どもは、子どもである。

土の下に、父を葬って帰るさには、もう父のことを忘れている。いや忘れてもいまいが、葉の露から昇る曠野の日輪に、生理的に、悲しみなどは、吹きとんでいた。

「なあ、おじさん、いけないかい。おらは、今日からでもいい――。この馬に、何処までも乗って行って、何処までも、おらを連れて行ってくんないか」

山の墓所を降りてからの帰り途――

三之助は、武蔵を、客として、馬にのせ、自分は、馬子として、手綱を引いていた。

「……ウム」

と、うなずいてはいるが、武蔵は明瞭な返辞はしない。そして心のうちでは、この少年に、多分な望みをかけていた。

けれど、いつも<ruby><rb>流浪</rb><rt>るろう</rt></ruby>の身である自分が先に考えられた。果たして、自分の手によって、この少年を幸福にできるかどうか、将来の責任を、自分に問うてみるのであった。

すでに、城太郎という先例がある。彼は、素質のある子だったが、自分が流浪の身であり、また自分にさまざまな<ruby><rb>煩</rb><rt>わずら</rt></ruby>いがあるために、今では、手元を離れて、その行方もわからない。

（もし、あれで悪くでもなったら――）

と、武蔵は、いつもそれが、自分の責任でもあるかのように、胸をいためている。

――しかし、そういう結果ばかり考えたら、結局人生は、一歩も、あるくことが出来ない。自分の寸前さえ分らないのである。ましてや、人間の子、ましてや、育ってゆく少年の先のこと、誰が、保証できよう。また、<ruby><rb>傍</rb><rt>はた</rt></ruby>の意志をもって、どうしよう、こうしようと思うことからして、むりである。

（ただ、本来の素質を、<ruby><rb>研</rb><rt>みが</rt></ruby>かせて、よい方へ歩む導きをしてやるだけなら――）

それならば、できると彼も思う。また、それでいいのだと、自身に答えた。

「ね、おじさん、だめかい、いやかい」

三之助は<ruby><rb>強請</rb><rt>せが</rt></ruby>む。

武蔵は、そこでいった。

「三之助、おまえは、一生涯、馬子になっていたいか、侍になりたいか」

「それやあ、侍になりたいさ」

「わしの弟子になって、わしと一緒に、どんな苦しいことでもできるか」

すると、三之助は、いきなり手綱を<ruby><rb>放</rb><rt>ほう</rt></ruby>り出した。何をするのかと見ていると、露草の中に坐って、馬の顔の下から、武蔵へ両手をついていった。

「どうか、お願いです。おらを侍にしてください。それは死んだお<ruby><rb>父</rb><rt>とっ</rt></ruby>さんもいい暮していたんだけど……きょうまで、そういって、頼む人がなかったんです」

武蔵は、馬から降りた。

そしてあたりを見廻した。一本の枯れ木の手頃なのを拾い、それを三之助に持たせて、自分も有り合う木切れを取って、こういった。

「師弟になるかならぬか、まだ返辞はできぬ。その棒を持って、わしへ打ち込んで来い。――おまえの手すじを見てから、侍になれるかなれないか決めてやる」

「……じゃあ、おじさんを打てば、侍にしてくれる？」

「……打てるかな？」

武蔵はほほ笑んで、木の枝を構えてみせた。

枯れ木をつかんで立ち上がった三之助は、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">むき</span>になって、武蔵へ打ちこんで来た。武蔵は、<ruby><rb>仮借</rb><rt>かしゃく</rt></ruby>しなかった。三之助は、何度も、<ruby><rb>蹌</rb><rt>よろめ</rt></ruby>いた。肩を打たれ、顔を打たれ、手を打たれた。

（今に、泣き出すだろう）

と思っていたが、三之助は、なかなかやめなかった。しまいには、枯れ木も折れてしまったので、武蔵の腰へ武者ぶりついて来た。

「<ruby><rb>猪口才</rb><rt>ちょこざい</rt></ruby>な」

と、わざと大げさに、武蔵は彼の帯をつかんで、大地へたたきつけた。

「なにくそ」

と、三之助はまた、<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ね起きてかかってくる。それをまた、武蔵は、つかみ寄せて、高々と、日輪の中へ<ruby><rb>双手</rb><rt>もろて</rt></ruby>で差し上げながら、

「どうだ、参ったか」

三之助は、<ruby><rb>眩</rb><rt>まぶ</rt></ruby>しげに、宙で<ruby><rb>踠</rb><rt>もが</rt></ruby>きながら答えた。

「参らない」

「あの石へ、叩きつければ、おまえは死ぬぞ。それでも参らないか」

「参らない」

「強情な奴だ。もう、貴様の敗けではないか。参ったといえ」

「……でも、おらは、生きてさえいれば、おじさんに、きっと勝つものだから、生きているうちは参らない」

「どうして、わしに勝つか」

「――修行して」

「おまえが十年修行すれば、わしも十年修行して行く」

「でも、おじさんは、おいらよりも、年がよけいだから、おらよりも、先へ死ぬだろう」

「……む。……ウム」

「そしたら、おじさんが、<ruby><rb>棺桶</rb><rt>かんおけ</rt></ruby>へはいった時に、<ruby><rb>撲</rb><rt>なぐ</rt></ruby>ってやる。――だから、生きてさえいれば、おらが勝つ」

「……あッ、こいつめ」

真っこうから一撃喰ったように、武蔵は、三之助のからだを、大地へ<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り<ruby><rb>出</rb><rt>だ</rt></ruby>したが、石のところへは、投げなかった。

「……？」

ぴょこんと<ruby><rb>彼方</rb><rt>かなた</rt></ruby>に立った三之助の顔をながめて、むしろ愉快そうに、武蔵は手を叩いて笑った。

## 一指さす天

## 一

「弟子にする」

武蔵は、その場で、三之助に言葉をつがえた。

三之助の<ruby><rb>欣</rb><rt>よろこ</rt></ruby>びは、非常なものだった。子供は、欣びをつつまない。

二人は、一度、家へ戻った。――<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>はもうここを去るというので、三之助は、こんな<ruby><rb>茅屋</rb><rt>あばらや</rt></ruby>でも、自分まで三代も住んだ小屋かとながめて、夜もすがら、<ruby><rb>祖父</rb><rt>おじい</rt></ruby>の思い出や、<ruby><rb>祖母</rb><rt>おばあ</rt></ruby>や<ruby><rb>亡母</rb><rt>はは</rt></ruby>のことなどを、武蔵へ話して聞かせた。

そうして、翌る日の朝。

武蔵は、支度して、先へ軒を出ていた。

「――<ruby><rb>伊織</rb><rt>いおり</rt></ruby>、伊織。はやく来い。持って行くような物は何もあるまい。あっても、未練を残すな」

「はい。今参ります」

三之助は、後ろから、飛び出して来た。着のみ着のままの支度である。

今、武蔵が、「伊織」と彼を呼んだのは、彼の祖父が、最上家の臣で、三沢伊織といい、代々伊織を称して来た家だと聞いたので、

（おまえも、わしの弟子となって、侍の子に返った<ruby><rb>機</rb><rt>しお</rt></ruby>に、祖先の名を<ruby><rb>襲</rb><rt>つ</rt></ruby>いだがよい）

と、まだ元服には早い<ruby><rb>年齢</rb><rt>とし</rt></ruby>であったが、ひとつの心構えを抱かせるために、ゆうべからそう呼ぶことにしたのであった。

しかし、今飛び出して来た姿を見ると、足にはいつもの<ruby><rb>馬子草鞋</rb><rt>まごわらじ</rt></ruby>を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>き、背中には、<ruby><rb>粟飯</rb><rt>あわめし</rt></ruby>の弁当風呂敷を背負って、尻きり着物一枚、どう眺めても、侍の子ではない、蛙の子の旅立ちである。

「馬を遠くの樹へ持って行って<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>いでおけ」

「先生、乗って下さい」

「いや、まあいいから、<ruby><rb>彼方</rb><rt>あっち</rt></ruby>へ繋いで帰って来い」

「はい」

きのうまでは、何かの返辞も、ヘイであったが、今朝からは急に、ハイに変っている。子供は、自分を改めることに、何のためらいも持たなかった。

遠くへ馬を繋いで、伊織はまた、そこへ帰って来た。武蔵は、まだ軒下に立っている。

（何を見てるんだろう？）

伊織には、不審であった。

武蔵は、彼の<ruby><rb>頭</rb><rt>つむり</rt></ruby>に、手を乗せて――

「おまえは、この<ruby><rb>藁屋</rb><rt>わらや</rt></ruby>の下で生れた。おまえの<ruby><rb>肯</rb><rt>き</rt></ruby>かない気性、屈しない魂は、この藁屋が育ててくれたものだ」

「ええ」

と、武蔵の手をのせたまま、小さい<ruby><rb>頭</rb><rt>つむり</rt></ruby>はうなずいた。

「おまえの祖父は、二君に仕えぬ節操をもって、この野小屋にかくれ、おまえの父は、その人の晩節を<ruby><rb>全</rb><rt>まっと</rt></ruby>うさせるために、百姓に甘んじて、若い時代を、孝養に送り、そして、おまえを残して死んだ。――けれどおまえはもう、その親も送って、きょうからは一本立ちだ」

「はい」

「偉くなれよ」

「……え、え」

伊織は、眼をこすった。

「三代、雨露をしのがせて貰った小屋に、手をついて、別れをいえ、礼をのべろ。……そうだ、もう名残はよいな」

いうと、武蔵は、屋内へはいって、火を<ruby><rb>放</rb><rt>つ</rt></ruby>けた。

小屋は見るまに、燃えあがった。伊織は、熱い眼をして見ていた。その<ruby><rb>眸</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>が、余り悲しげなので武蔵は、<ruby><rb>説</rb><rt>と</rt></ruby>いて聞かせた。

「このままにして立ち去れば、後には野盗や<ruby><rb>追剥</rb><rt>おいはぎ</rt></ruby>が住むにきまっている。それではせっかく忠節な人の跡が、<ruby><rb>社会</rb><rt>よのなか</rt></ruby>を毒する者の便宜になるから焼いたのだ。……分ったか」

「ありがとうございます」

見ているうちに、小屋は<ruby><rb>一山</rb><rt>ひとやま</rt></ruby>の火となり、やがて、十坪もない灰に<ruby><rb>化</rb><rt>な</rt></ruby>ってしまった。

「さ。行きましょう」

伊織はもう先を<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>く。少年の心は、過去の灰には、何の感奮もなかった。

「いや、まだまだ」

武蔵は、首を振ってみせた。

## 二

「まだって？　……これからまだ、何をするんですか」

伊織は、いぶかしそう。

その不審顔を笑って、

「これから、小屋を建てにかかるんだよ」

と、武蔵がいう。

「え？　どうしてだろ。……たった今、小屋を焼いちまったのに」

「あれは、きのうまでのおまえの御先祖の小屋。きょうから建てるのは、われわれ二人の<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>から住む小屋だ」

「じゃあ、またここへ住むんですか」

「そうだ」

「修行には出ないんですか」

「もう出ているではないか。わしも、おまえに教えるばかりではなく、わし自身が、もっともっと修行しなければならないのだ」

「なんの修行？」

「知れたこと、剣の修行、武士の修行――それはまた、心の修行だ。伊織、あの<ruby><rb>斧</rb><rt>おの</rt></ruby>をかついで来い」

指さす所へ行くと、いつの間にか、そこの草むらの中には斧だの<ruby><rb>鋸</rb><rt>のこぎり</rt></ruby>だのまた、農具などだけが、炎をかけずに、取り残されてあった。

伊織は、大きな斧をかつぎ、武蔵の歩む後に<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて行った。

栗林がある。そこには松も杉もあった。

武蔵は、肌を脱ぎ、斧を<ruby><rb>揮</rb><rt>ふる</rt></ruby>って樹を<ruby><rb>伐</rb><rt>き</rt></ruby>り出した。<ruby><rb>丁々</rb><rt>ちょうちょう</rt></ruby>と、生木の肉が白く飛ぶ。

――道場を拵える？　この平野を道場に修行する？

伊織には、いくら説明されても分る程度しか分らなかった。旅へ出ないで、この土地に止まることが何だかつまらない。

どさっ――と樹が<ruby><rb>仆</rb><rt>たお</rt></ruby>れる。次々に斧が仆してゆく。

血のさした武蔵の栗色の皮膚には、黒い汗がりんりと流れ出した。この日頃からの<ruby><rb>惰気</rb><rt>だき</rt></ruby>、<ruby><rb>倦怠</rb><rt>けんたい</rt></ruby>、孤愁などはみな汗となって流れるかのようだ。

彼は昨日の未明、一個の農民で終った伊織の父の墓のある山から――坂東平野の未開をながめて、<ruby><rb>勃然</rb><rt>ぼつぜん</rt></ruby>と、今日のことを、思い立ったのであった。

（しばらく、剣を<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>いて、<ruby><rb>鍬</rb><rt>くわ</rt></ruby>を持とう！）

という発願だった。

剣を<ruby><rb>研</rb><rt>みが</rt></ruby>くべく――禅をする、書をまなぶ、茶にあそぶ、画を描く、仏像を彫る。

鍬を持つ中にも、剣の修行はあるはずだと思う。

しかも、この<ruby><rb>広茫</rb><rt>こうぼう</rt></ruby>な大地は、さながらそのまま行道を待つ絶好な道場であり、また鍬と土には、必ず開墾が生じ、その余恵は、幾百年の末まで、幾多の人間を養うことにもなる。

武者修行は、由来、<ruby><rb>行乞</rb><rt>ぎょうこつ</rt></ruby>を本則としている。人の<ruby><rb>布施</rb><rt>ふせ</rt></ruby>に依って学び、人の軒端をかりて雨露をしのぐことを、禅家その他の<ruby><rb>沙門</rb><rt>しゃもん</rt></ruby>のように、当りまえなこととしている。

けれど、一<ruby><rb>飯</rb><rt>ぱん</rt></ruby>の尊さは、一粒の米でも一<ruby><rb>茎</rb><rt>くき</rt></ruby>の野菜でも、自分で<ruby><rb>栽</rb><rt>つく</rt></ruby>ってみて初めてわかることである。それをしない坊主のことばがまま口頭禅としか聞えないように、布施で生きている武者修行が剣のみを<ruby><rb>研</rb><rt>みが</rt></ruby>いても、それを治国の道に生かすことを知らず、また、<ruby><rb>社会</rb><rt>せけん</rt></ruby>ばなれな武骨一偏になってしまい易いことも当然である――と武蔵は思った。

武蔵は、百姓の<ruby><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>は、知っている。母と共に、幼い頃は、郷士屋敷の裏畑へ出て、百姓のすることもしたものだった。

けれど、今日からする百姓は、朝夕の<ruby><rb>糧</rb><rt>かて</rt></ruby>のためではない、心の糧を求めるのだった。また、<ruby><rb>行乞</rb><rt>ぎょうこつ</rt></ruby>の生活から、働いて喰らう生活を学ぶためだった。

さらにまた、<ruby><rb>野茨</rb><rt>のいばら</rt></ruby>や沼草の繁茂にまかせ、洪水や風雨の暴力にも、すべて自然に対して、<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めの眼しか持たない農民に――子々孫々、骨と皮ばかりの<ruby><rb>生活</rb><rt>くらし</rt></ruby>を伝えて来ながらも、依然、眼をひらかない彼らに、身をもって、自分の考えを、植えつけてやろうという望みもかけた。

「伊織、縄を持って来て、材木をしばれ。――そして河原の方へ曳いてゆけ」

<ruby><rb>斧</rb><rt>おの</rt></ruby>を立てて、ほっと、汗を<ruby><rb>肱</rb><rt>ひじ</rt></ruby>で拭いながら、武蔵は命じた。

## 三

伊織は、縄を結びつけて、材木を曳いた。武蔵は、斧や<ruby><rb>手斧</rb><rt>ておの</rt></ruby>で、面皮をとる。

夜になると、手斧<ruby><rb>屑</rb><rt>くず</rt></ruby>で<ruby><rb>焚火</rb><rt>たきび</rt></ruby>をし、火のそばに、材木を枕にして寝る。

「どうだ伊織、おもしろいだろうが」

伊織は正直に答えた。

「ちっとも、おもしろいことなんかないや。百姓するなら、先生の弟子にならなくたって、できるんだもの」

「今におもしろくなる」

秋が<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>けてゆく。

夜ごとに、虫の音は減って行った。草木は枯れてゆくのである。

もうその頃には、この法典ヶ原に、二人の寝小屋が建ち、二人は毎日、<ruby><rb>鋤</rb><rt>すき</rt></ruby>と<ruby><rb>鍬</rb><rt>くわ</rt></ruby>を持って、まず足元の一坪から開墾し始めた。

もっとも、それにかかる前に、彼は一応この附近一帯の荒地を足で踏んで、

（なぜ、この天然と人とが離反したまま雑木雑草に<ruby><rb>委</rb><rt>まか</rt></ruby>されているか）

を考査してみた。

（水だ）

と、まず第一に、治水の必要が考えられた。

小高い所に立ってみると、ここの荒野は、ちょうど応仁以後から戦国時代にわたる人間の社会みたいな図であった。

ひとたび、坂東平野に大雨がそそぐと、水は各〻、勝手に河を作り、流れたい方へ奔流し、激したいままに石ころを動かす。

それらを収める主流というものがないのだ。天気の日眺めると、それらしいものは幅の広い河原を作っているが、天地の大に対する包容力が足らないし、元々、あるがままに出来た河原なので、秩序もないし、統制もない。

もっとなくてならないのに無いものは、群小の水を集めて、一体に指してゆくべき方角を持たないのだ。主体自らが、その折々の気象や天候にうごかされて、或る時は、野にあふれ、或る時は、林を貫き、もっと甚だしい時は、人畜を<ruby><rb>冒</rb><rt>おか</rt></ruby>して、<ruby><rb>菜田</rb><rt>さいでん</rt></ruby>まで泥海にしてしまう。

（容易でないぞ）

と、武蔵は、踏査した日から思った。

それだけに、彼はまた、非常な熱と興味をこの事業に抱いた。

（これは政治と同じだ）

と思う。

水や土を相手に、ここへ<ruby><rb>肥沃</rb><rt>ひよく</rt></ruby>な人煙をあげようとする治水開墾の事業も、人間をあいてに、人文の<ruby><rb>華</rb><rt>はな</rt></ruby>を咲かせようとする政治<ruby><rb>経綸</rb><rt>けいりん</rt></ruby>も、なんの変りもないことと考える。

（そうだ、これはおれの理想とする目的と、偶然にも合致する）

この頃からのことである。――武蔵は剣に、おぼろな理想を抱き始めた。人を斬る、人に勝つ、飽くまで強い、――といわれたところで何になろう。剣そのものが、単に、人より自分が強いということだけでは彼はさびしい。彼の気持は満ち足りなかった。

一、二年前から、彼は、

――人に勝つ。

剣から進んで、剣を道とし、

――おのれに勝つ。人生に勝ちぬく。

という方へ心をひそめて来て、今もなおその道にあるのであったが、それでもなお、彼の剣に対する心は、これでいいとはしない。

（<ruby><rb>真</rb><rt>まこと</rt></ruby>に、剣も道ならば、剣から悟り得た道心をもって、人を生かすことができない筈はない）

と、<ruby><rb>殺</rb><rt>さつ</rt></ruby>の反対を考え、

（よしおれは、剣をもって、自己の人間完成へよじ登るのみでなく、この道をもって、治民を<ruby><rb>按</rb><rt>あん</rt></ruby>じ、経国の<ruby><rb>本</rb><rt>もと</rt></ruby>を示してみせよう）

と、思い立ったのである。

青年の夢は大きい、それは自由である。だが、彼の理想は、今のところ、やはり単なる理想でしかない。

その抱負を実行に移すには、どうしても政治上の要職に就かなければできないからだ。

しかし、この荒野の土や水を相手としてそれをやる分には、要職もいらなければ、衣冠や権力をもって臨む必要もない。武蔵は、そこに熱意と歓びを燃やしたのであった。

## 四

木の<ruby><rb>根瘤</rb><rt>ねこぶ</rt></ruby>を掘る。また、石ころを<ruby><rb>篩</rb><rt>ふる</rt></ruby>う。

高い土を崩してならし、大きな岩は、水利の<ruby><rb>堤</rb><rt>どて</rt></ruby>にするために並べる。

そうして日々、<ruby><rb>晨</rb><rt>あした</rt></ruby>は未明から、夕方は星のみえる頃まで、武蔵と伊織とが、<ruby><rb>孜々</rb><rt>しし</rt></ruby>として、法典ヶ原の一角から開墾に従事していると、時折、河原の向うに、通りがかりの土民たちが立ち止って、

「何をしてるだ？」

と、いぶかり顔に、

「小屋あ、ほっ建てて、あんな所に、住む気でいるのか」

「ひとりは、死んだ三右衛門とこの<ruby><rb>餓鬼</rb><rt>がき</rt></ruby>でねえけ」

うわさが拡がる。

<ruby><rb>嘲</rb><rt>わら</rt></ruby>う者ばかりでもなく、中にはわざわざやって来て、親切に呶鳴ってくれる者もあった。

「そこなお侍よう、おめえッちら、そんなとこを、せッせと<ruby><rb>開墾</rb><rt>きりひら</rt></ruby>いても、だめなこったぜよ。いっぺん<ruby><rb>暴風雨</rb><rt>あらし</rt></ruby>がやって来て見さっせ、百日の<ruby><rb>萱</rb><rt>かや</rt></ruby>だがなあ」

幾日か経って、また来てみても、黙々と、伊織を相手に、武蔵が労働しているのを見ると、親切者も少し、腹を立てたように、

「おウい。くそ骨折って、つまらねえところに、水<ruby><rb>溜</rb><rt>たま</rt></ruby>りを<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えるでねえだ」

また――数日おいて来てみたところ、相変らず、二人の耳のないような姿が働いているので、

「<ruby><rb>阿呆</rb><rt>あほう</rt></ruby>よっ」

と、こんどは、ほんとに怒ってしまい、そして武蔵を、ふつうの智恵のない馬鹿者と見なして、

「<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>や河原に、喰える<ruby><rb>物</rb><rt>も</rt></ruby>ンの芽がでるくらいならよ、おらたちゃあ、<ruby><rb>太陽</rb><rt>てんとう</rt></ruby>さまに腹あ干して、笛ふいて暮らすがよ」

「<ruby><rb>飢饉年</rb><rt>ききんどし</rt></ruby>は、ねえわい」

「止めさらせ、そんなとこ、掘りちらすなあ」

「むだ骨折る奴あ、くそ袋もおんなじだよ」

鍬を打ち振りながら、武蔵は土へ向ったまま笑っている。

たしなめられてはいたが、伊織は時々、むッとして、

「先生、あんなこと、大勢していってるよ」

「ほっとけ、ほっとけ」

「だって」

と伊織は、小石をつかんで、<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>りそうにするので、武蔵はくわっと眼をいからせて、

「これッ。師のことばを聞かぬやつは、弟子ではないぞ。――何する気かっ」

と、叱りつけた。

伊織は耳がしびれたようにハッとした。けれど、手に握った石は素直に捨てられもせず、

「……畜生っ」

と、近くの岩にたたきつけて、その小石が、火花を出して、二つに割れて飛んだのを見ると、何だか悲しくなってしまい、<ruby><rb>鋤</rb><rt>すき</rt></ruby>をすてて、しくしくと泣き出してしまった。

（泣け、泣け）

といわないばかりに、武蔵は、それも<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>っておく。

すすり泣いていた伊織は、だんだん声を高めて、果ては、天地にただ独りいるように、声をあげて、大泣きに泣き出した。

父の死骸を二つに<ruby><rb>断</rb><rt>き</rt></ruby>って、山の墓所へひとりで埋めに行こうとしたくらいな剛気を持っているかと思うと、泣けばやはり、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">から</span>子供であった。

――お<ruby><rb>父</rb><rt>とっ</rt></ruby>さん！

――おっ母さん！

――<ruby><rb>祖父</rb><rt>おじい</rt></ruby>。<ruby><rb>祖母</rb><rt>おばあ</rt></ruby>っ。

届かぬ地下の人へ、届けよとばかり、訴えているかのように、武蔵には、強く胸を打ってくる。

この子も孤独。われも孤独。

余りの伊織の泣き声に、草木も心あるもののように、<ruby><rb>蕭々</rb><rt>しょうしょう</rt></ruby>と、冷たい風に、<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそがれ</rt></ruby>近い曠野は<ruby><rb>晦</rb><rt>くら</rt></ruby>く<ruby><rb>戦</rb><rt>そよ</rt></ruby>ぎはじめた。

ポツ、ポツ、とほんとの雨もこぼれて来て――。

## 五

「……降って来た。ひと<ruby><rb>暴</rb><rt>あ</rt></ruby>れ来そうだぞ。伊織、はやく来い」

<ruby><rb>鍬</rb><rt>くわ</rt></ruby>や<ruby><rb>鋤</rb><rt>すき</rt></ruby>の道具をまとめて、武蔵は小屋の方へ駈け出した。

小屋の中へ飛びこんだ時は、雨はもう真っ白に、天地を一色に降りくだいていた。

「伊織、伊織」

後から<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて来たものとばかり思っていたところ、見ると彼の姿は、側にもいない、軒端にも見えない。

窓から眺めやると、凄まじい<ruby><rb>雷光</rb><rt>いなびかり</rt></ruby>が、雲を斬り、<ruby><rb>野面</rb><rt>のづら</rt></ruby>をはためき、それに眼をふさぐ瞬間――思わず手は耳へ行って、五体に<ruby><rb>雷神</rb><rt>かみなり</rt></ruby>のひびきを聞くのであった。

「…………」

竹窓のしぶきに顔を濡らしながら、武蔵は<ruby><rb>恍惚</rb><rt>こうこつ</rt></ruby>と、見とれていた。

こういう豪雨を見るたびに、風のすさぶ度に、武蔵は、もう十年近い昔になる――七宝寺の千年杉を思い出す、<ruby><rb>宗彭沢庵</rb><rt>しゅうほうたくあん</rt></ruby>の声を思い出す。

まったく自分の今日あるのは、あの大樹の恩だと思う。

その自分が、今は、たとえ幼い童子にせよ、伊織という一弟子を持っている。自分に果たして、あの大樹のような無量広大な力があるか、沢庵坊のような肚があるか。――武蔵は顧みて、自分の成長を思うと気恥ずかしい心地がする。

だが、伊織に対しては、どこまでも自分は千年杉の大樹の如くであらねばならぬと思う。沢庵坊のような<ruby><rb>酷</rb><rt>むご</rt></ruby>い慈悲も持たねばならぬと思う。また、それが、かつての恩人に対しての、いささかな報恩ではないかとも思った。

「……伊織っ、伊織っ」

外の豪雨に向って、武蔵は再三再四呼んでみた。

何の返辞もない。ただ<ruby><rb>雷</rb><rt>いかずち</rt></ruby>と、どうどうと軒先の水音が騒がしいのみである。

「どうしたのか」

武蔵すら、出てみる勇気もなく、小屋に閉じこもっていたが、そのうちに、はたと雨が小やみになったので、外へ出て見まわすと、何という強情な性質の童子だろうか、伊織はまだ依然として、前にいた耕地の所から一尺も動かずに立っているのだった。

（すこし<ruby><rb>白痴</rb><rt>ばか</rt></ruby>か）

とすら、疑えないこともない。

あんぐりと口を開いて、<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>、大泣きに泣いたままな顔をして、――もちろん頭からズブ濡れになって、泥田になった耕地に<ruby><rb>案山子</rb><rt>かかし</rt></ruby>みたいに立っているのだ。

武蔵は、近くの、小高い所まで駈けて行って、思わず、

「ばかっ」と、叱った。

「はやく小屋へはいれ、そんなに濡れては体に毒だ。ぐずぐずしておると、そこらに河が出来て、戻れなくなるぞ」

――すると、伊織は、武蔵の声をさがすように見廻して、にやりと笑って、

「先生は、あわてもンだなあ。この雨はやむ雨だよ。この通り、雲が<ruby><rb>断</rb><rt>き</rt></ruby>れて来たじゃないか」

と、一指を天にさしていった。

「…………」

武蔵は、教える子に、教えられたような気がして、沈黙していた。

だが、伊織は、単純なのである。――武蔵のようにいちいち考えていったりしたりしているのではない。

「おいでよ、先生。まだ明るいうちにゃ、だいぶ仕事ができるよ」

と、その姿のままで、また、前の労働をつづけ始めた。

## この師この弟子

## 一

ここ四、五日青空をみせて、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひよ</span>、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もず</span>の高音に穂すすきの根の土も乾きかけて来たかと思うとまた、野末の果てから背のびをした密雲が、見るまに坂東一帯を、<ruby><rb>日蝕</rb><rt>にっしょく</rt></ruby>のように暗くしてしまった。伊織は、空を見て、

「先生、こんどは、ほんものが<ruby><rb>襲</rb><rt>や</rt></ruby>ってきたよ」

と、心配そうにいった。

いううちにも、墨のような風が吹く。帰る所へ帰り遅れた小鳥は、ハタキ落されたように地に墜ち、草木の葉はみな葉裏を白く見せて<ruby><rb>戦</rb><rt>おのの</rt></ruby>き立つ。

「一降り来るかな？」

武蔵が訊くと、

「一降りどころじゃないぜ、この空は――。そうだ、おらは村まで行って来よう。先生は道具をまとめて、早く小屋へ引揚げたほうがいいよ」

空を見ていう伊織の予言は、いつも<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>れたことがない。今も、武蔵へそういい残すと、野分をよぎる鳥のように、見え隠れして草の海をどこともなく駈けて行った。

果たして、風も雨も、伊織のいったとおり、いつものとは変って、兇暴に<ruby><rb>募</rb><rt>つの</rt></ruby>ってくる。

「――何処へ行ったのか」

武蔵はひとり小屋へ帰ったが、案じられて時々外を見た。

きょうの豪雨は常と違う。おそろしい雨量である。そして一瞬にハタとやむ。やんだかと思うと前にも増して降ってくる。

夜になった。

雨はよもすがらこの世を湖底としてしまうかとばかり降りぬいた。ほっ建て小屋の屋根はいくたびも飛ぶかと危ぶまれ、屋根裏に<ruby><rb>葺</rb><rt>ふ</rt></ruby>いてある杉皮が、いっぱいに散りこぼされた。

「困ったやつ」

伊織はまだ帰らない。

夜が明けてもなお見えない。

いや夜が白みかけて、きのうからの豪雨のあとを見渡すと、なおのこと、伊織の帰りは絶望された。日頃の<ruby><rb>曠野</rb><rt>こうや</rt></ruby>は、一面の泥海となっている。所々、草や木が、<ruby><rb>浮洲</rb><rt>うきす</rt></ruby>のように見えるだけだった。

ここの小屋は、やや高い所を選んであるので、幸いに、<ruby><rb>冒</rb><rt>おか</rt></ruby>されないが、すぐ下の河原は、濁流が押し流れて、さながら大河の奔激である。

「……もしや？」

武蔵はふと案じ出した。その濁流に流されてゆく<ruby><rb>種々</rb><rt>さまざま</rt></ruby>な物を見て、ゆうべ闇夜に帰ろうとした伊織が、<ruby><rb>過</rb><rt>あやま</rt></ruby>って、溺れでもしてしまったのではあるまいか――と聯想されたからである。

だが、彼はその時、ごうごうと地も空も水に鳴る<ruby><rb>暴風雨</rb><rt>あらし</rt></ruby>の中で、伊織の声をどこかに聞いた。

「せんせーいっ。……先生ーッ」

武蔵は、鳥の浮巣みたいにみえる<ruby><rb>彼方</rb><rt>かなた</rt></ruby>の<ruby><rb>洲</rb><rt>す</rt></ruby>に、伊織らしい影を見た。いや伊織にちがいない。

何処へ行ったのか、彼は牛の背に乗って帰って来たのだ。牛の背には自分のほかに、何か縄で<ruby><rb>絡</rb><rt>から</rt></ruby>げた大きな荷物を、後先に<ruby><rb>縛</rb><rt>くく</rt></ruby>しつけている。

「おおう……？」

と見ているまに、伊織は、牛を濁流へ乗り入れた。

濁流の赤いしぶきと<ruby><rb>渦</rb><rt>うず</rt></ruby>は忽ち彼と牛をつつんでしまう。流され流され、やっと、<ruby><rb>此方</rb><rt>こなた</rt></ruby>の岸へ着くと牛も彼も、身ぶるいしながら、小屋のある所へ駈け上がって来た。

「伊織！　何処へ行ったのだ」

半ば怒るように――半ばほっとしたように、武蔵がいうと、伊織は、

「何処へって、おら、村へ行って、食い物をうんと持って来たんじゃないか。この<ruby><rb>暴風雨</rb><rt>あらし</rt></ruby>は、きっと半年分も降ると思ったから。――それに暴風雨がやんでも、この<ruby><rb>洪水</rb><rt>みず</rt></ruby>はなかなか<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>かないにきまってるもの」

## 二

武蔵は、伊織の悧発なのに<ruby><rb>愕</rb><rt>おどろ</rt></ruby>いたが、考えてみれば彼が悧発なのではない、自分が鈍なのである。

天候の悪兆候をみたら、すぐ食物の準備を考えておくことは、野に住む者の常識で、伊織は、<ruby><rb>嬰児</rb><rt>あかご</rt></ruby>の時から、こういう場合を、何度も、経験しているにちがいない。

それにしても、牛の背から下ろした食物は、少ないものではない。<ruby><rb>莚</rb><rt>むしろ</rt></ruby>を解き、<ruby><rb>桐油</rb><rt>あぶら</rt></ruby>びきの紙を解いて伊織が――

「これは<ruby><rb>粟</rb><rt>あわ</rt></ruby>、これは<ruby><rb>小豆</rb><rt>あずき</rt></ruby>、これは<ruby><rb>塩魚</rb><rt>しおうお</rt></ruby>――」

と、幾つもの袋をならべ、

「先生、これだけあれば、ひと月やふた月、水が<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>かなくっても、安心だろ」

と、いう。

武蔵の眼には涙が<ruby><rb>溜</rb><rt>たま</rt></ruby>った。<ruby><rb>健気</rb><rt>けなげ</rt></ruby>よとも<ruby><rb>忝</rb><rt>かたじけな</rt></ruby>いともいいようがない。自分はここを開拓して、農土に寄与するものと、ただ気概のみを高く抱いて、自分の<ruby><rb>餓</rb><rt>う</rt></ruby>えるのを忘れていたが、その飢えは、この小さい者に依って、からくも<ruby><rb>凌</rb><rt>しの</rt></ruby>がれているのだった。

だが、自分たち師弟を、狂人呼ばわりしている村の者が、どうして、食物を施してくれたろうか。村の者自身さえ、この洪水では、自身の飢えにおののいているに違いない場合に。

武蔵が、その不審を<ruby><rb>糺</rb><rt>ただ</rt></ruby>すと、伊織は事もなげに、

「おらの<ruby><rb>巾着</rb><rt>きんちゃく</rt></ruby>を預けて、徳願寺様から借りて来た」

と、いう。

「徳願寺とは？」

と聞くと、この法典ヶ原から一里余り先の寺で、いつも彼の<ruby><rb>亡父</rb><rt>ちち</rt></ruby>が、

（おれの<ruby><rb>亡</rb><rt>な</rt></ruby>き後、独りで困った時は、この巾着の中にある砂金を少しずつ<ruby><rb>費</rb><rt>つか</rt></ruby>え）

といわれていたのを思い出し、常に、肌身に持っていたその巾着を預けて、寺の<ruby><rb>庫裡</rb><rt>くり</rt></ruby>から借りて来たのだ――と、伊織は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">したり</span>顔に答える。

「では<ruby><rb>遺物</rb><rt>かたみ</rt></ruby>ではないか」

と武蔵がいうと、

「そうだ、古い家は焼いちゃったから、お<ruby><rb>父</rb><rt>とっ</rt></ruby>さんの遺物は、あれと、この刀しかない」

と、腰の<ruby><rb>野差刀</rb><rt>のざし</rt></ruby>を撫でる。

その野差刀も、武蔵は一見したことがあるが、生れからの野差刀ではない。無銘とはいえ、名刀の部に入ってよい品である。

思うに、この子の<ruby><rb>亡父</rb><rt>ちち</rt></ruby>が遺物として、肌身に持たせておいた巾着にも、少しの砂金ばかりでなく、何か由緒ある物ではなかろうか――それを食物の<ruby><rb>値</rb><rt>あたい</rt></ruby>に、巾着ぐるみ預けて来たのは、やはり子どもらしいが――また、<ruby><rb>可憐</rb><rt>いじ</rt></ruby>らしい、と武蔵は思った。

「親の遺物など、滅多に、人に渡すものではない。いずれわしが、徳願寺へ行って、貰い返してやるが、以後は、手離すではないぞ」

「はい」

「ゆうべは、その寺に、泊めてもらったのか」

「和尚さんが、夜が明けてから帰れといいましたから」

「朝飯は」

「おらもまだ。先生も、まだだろう」

「ウム。<ruby><rb>薪</rb><rt>まき</rt></ruby>はあるか」

「薪なら、くれてやる程あるよ。――この縁の下は、みんな薪だよ」

<ruby><rb>蓆</rb><rt>むしろ</rt></ruby>を巻いて、床下へ首を突っ込むと、日頃、開墾するうちに心がけて運んだ木の<ruby><rb>根瘤</rb><rt>ねこぶ</rt></ruby>だの、竹の根だのが、山をなすほど<ruby><rb>蓄</rb><rt>たくわ</rt></ruby>えてある。

こんな幼い者にでも経済の観念がある。誰がそれを教えたか。まちがえばすぐ飢え死ぬ未開の自然が生活の師であった。

<ruby><rb>粟飯</rb><rt>あわめし</rt></ruby>をたべ終ると、伊織は、武蔵の前へ一冊の書物を持って来て、

「先生、水が<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>かないうちは、どうせ仕事にも出られないから、<ruby><rb>書</rb><rt>ほん</rt></ruby>を教えてください」

と、<ruby><rb>畏</rb><rt>かしこ</rt></ruby>まっていった。

外は、その日も終日、吹き<ruby><rb>歇</rb><rt>や</rt></ruby>まない<ruby><rb>暴風雨</rb><rt>あらし</rt></ruby>であった。

## 三

見ると、論語の一冊である。これもお寺で貰ったのだという。

「学問をしたいのか」

「ええ」

「今までに、少し<ruby><rb>書</rb><rt>ほん</rt></ruby>を読んだことがあるか」

「すこし……」

「誰に教わった」

「お<ruby><rb>亡父</rb><rt>とっ</rt></ruby>さんから」

「何を」

「小学」

「すきか」

「すきです」

伊織は、その体から知識を燃やしていった。

「よし、わしの知ってる限り教えてやろう。わしに及ばない所は、今に、学問のよい師を見出して就くがよい」

暴風雨の中に、ここの一軒だけは、素読の声と講義に一日暮れて、屋根はふき飛んでも、この師弟は、びくとも膝を立てそうもなかった。

翌日も雨。次の日も雨。

それがやむと、野は湖水になっていた。伊織は、むしろ欣んで、

「先生、今日も」

と、<ruby><rb>書</rb><rt>ほん</rt></ruby>を出しかけると、

「<ruby><rb>書</rb><rt>ほん</rt></ruby>はもういい」

「なぜ」

「あれをみろ」

武蔵は、濁流を指さして、

「河の中の魚になると、河が見えない。余り書物に<ruby><rb>囚</rb><rt>とら</rt></ruby>われて書物の虫になってしまうと、生きた文字も見えなくなり、<ruby><rb>社会</rb><rt>よのなか</rt></ruby>にもかえって暗い人間になる。――だから今日は、<ruby><rb>暢気</rb><rt>のんき</rt></ruby>に遊べ、おれも遊ぼう」

「だって、きょうはまだ、外へも出られないぜ」

「――こうして」

と、武蔵はごろりと横になって手枕をかいながら、

「おまえも、寝ころべ」

「おらも、寝るのか」

「起きているとも、足を投げ出すとも、好きにして」

「そして何するんだい」

「話をしてやろう」

「<ruby><rb>欣</rb><rt>うれ</rt></ruby>しいなあ」

と、伊織は、腹這いになって、魚の尾のように、足をばたばたさせ、

「何の話？」

「そうだな……」

武蔵は自分の少年時代を胸にうかべ、少年の好きそうな合戦の話をした。

多くは源平盛衰記などで聞き覚えた物語である。源氏の没落から平家の全盛にくると、伊織は憂鬱だった。雪の日の<ruby><rb>常磐</rb><rt>ときわ</rt></ruby>御前に、眼をしばたたき、鞍馬の<ruby><rb>遮那王</rb><rt>しゃなおう</rt></ruby>牛若が、僧正ヶ谷で、夜ごと、<ruby><rb>天狗</rb><rt>てんぐ</rt></ruby>から剣法をうけて、京を脱出するところへくると、

「おら。義経は好きだ」

と、<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ね起きて、坐り直した。そして、

「先生、天狗ってほんとにいるの」

「いるかも知れぬ。……いやいるな、世の中には。――だが、牛若に剣法を授けたというのは、天狗ではないな」

「じゃあ何？」

「源家の残党だ。彼らは、平家の<ruby><rb>社会</rb><rt>よのなか</rt></ruby>に、公然とは歩けなかったから、皆、山や野にかくれて、時節を待っていたものだ」

「おらの、<ruby><rb>祖父</rb><rt>おじい</rt></ruby>みたいに？」

「そうそう、おまえの<ruby><rb>祖父</rb><rt>そふ</rt></ruby>は、生涯、時を得ず終ってしまったが、源家の残党は、義経というものを育てて、時を得たのだ」

「おらだって――先生、祖父のかわりに、今、時を得たんだろ。……ねえそうだろう」

「うむ、うむ！」

武蔵は、彼のその言葉が気に入ったとみえ、いきなり伊織の首を寝たまま抱きよせて、脚と両手で手玉に取って天井へ差し上げた。

「偉くなれ。こら」

伊織は、<ruby><rb>嬰児</rb><rt>あかご</rt></ruby>が欣ぶように、<ruby><rb>擽</rb><rt>くすぐ</rt></ruby>ッたがって、きゃッきゃッといいながら、

「あぶないよ、あぶないよ先生。先生も僧正ヶ谷の天狗みたいだなあ。――やあい天狗天狗、天狗」

と上から手をのばし、武蔵の鼻を<ruby><rb>抓</rb><rt>つま</rt></ruby>んで戯れ合った。

## 四

五日たっても十日たっても、雨はやまなかった。雨がやんだと思うと、野は洪水に<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>って、容易に濁流が<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>かないのである。

自然の下には、武蔵も、じっと<ruby><rb>沈吟</rb><rt>ちんぎん</rt></ruby>しているしかない。

「先生、もう行けるぜ」

伊織は太陽の下へ出て、今朝から呶鳴っている。

二十日ぶりで、二人は道具を<ruby><rb>担</rb><rt>かつ</rt></ruby>いで、耕地へ出て行った。

そしてそこに立つと、

「あっ……？」

と、ふたりとも茫然としてしまった。

二人が<ruby><rb>孜々</rb><rt>しし</rt></ruby>として開拓しかけた面積などは、なんの跡形も残していない。大きな石ころと、一面の砂利であった。前にはなかった河が幾筋もできて小さな人力を<ruby><rb>嗤</rb><rt>わら</rt></ruby>うが如く、<ruby><rb>奔々</rb><rt>ほんぽん</rt></ruby>と、その大石や小石を<ruby><rb>弄</rb><rt>もてあそ</rt></ruby>んでいた。

――阿呆。<ruby><rb>狂人</rb><rt>きちがい</rt></ruby>。

土民たちが<ruby><rb>嘲</rb><rt>わら</rt></ruby>った声も思い出される。思い知ったのである。

手の下しようもなく、黙然と立っている武蔵を見上げて、伊織は、

「先生、ここはだめだ。こんな所は捨てて、もっと<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>のよい土地を探そう」

と、策を述べる。

武蔵はそれを容れない。

「いやこの水を、<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>へ引けば、ここは立派な畑になる。初めから地理を按じて、ここと決めてかかったからには――」

「でもまた、大雨が降ったら」

「こんどは、それが来ないように、この石で、あの丘から堤をつなぐ」

「たいへんだなあ」

「元よりここは道場だ。ここに麦の穂を見ぬうちは、尺地も<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>かぬぞ」

水を一方に導き、<ruby><rb>堰</rb><rt>せき</rt></ruby>を築き、石ころを<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>けて、幾十日の後には、やっとそこに、十坪の畑が出来かかった。

けれど、一雨降ると、一夜のうちに、また元の河原になってしまった。

「だめだよ先生。むだ骨ばかり折るのが、何も、<ruby><rb>戦</rb><rt>いくさ</rt></ruby>の上手でもないだろ」

武蔵は、伊織にまでいわれた。

でも、耕地を変えて、ほかへ移る考えは、武蔵は持たなかった。

彼はまた、雨後の濁流と闘って、前と同じ工事をつづけた。

冬に入ると、<ruby><rb>屡〻</rb><rt>しばしば</rt></ruby>、大雪が降った。雪が融けると、また濁流に荒らされてしまう。年を越えて、翌年の一月、二月になっても、二人の汗と<ruby><rb>鍬</rb><rt>くわ</rt></ruby>から一<ruby><rb>畝</rb><rt>せ</rt></ruby>の畑も生れなかった。

食物がなくなると、伊織は、徳願寺へもらいに行った。寺の者もよくいわないとみえて、戻って来ると、伊織の顔つきに、憂いが見えた。

そればかりでなく、この二、三日は武蔵も<ruby><rb>根負</rb><rt>こんま</rt></ruby>けしたか、鍬を持たないのである。防いでも防いでも濁流になる耕地に立って、終日黙然と何か考えこんでいた。

「そうだ！　……」

或る時、何か大きな発見をしたように、武蔵は伊織へいうともなく、

「きょうまでおれは、土や水へ対して、<ruby><rb>烏滸</rb><rt>おこ</rt></ruby>がましくも、政治をする気で、自分の経策に依って、水をうごかし、土を<ruby><rb>拓</rb><rt>ひら</rt></ruby>こうとしていた」

と、<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>きだした。

「――間違いだった！　水には水の性格がある。土には土の本則がある。――その物質と性格に、素直に<ruby><rb>従</rb><rt>つ</rt></ruby>いて、おれは水の従僕、土の保護者であればいいのだ。――」

彼は今までの開墾法をやり直した。自然を征服する態度を改めて、自然の従僕となって働いた。

次の<ruby><rb>雪融</rb><rt>ゆきどけ</rt></ruby>にも、大きな濁流が押しよせたが、彼の耕地は、被害から残された。

「これは政治にも」

と、彼は悟った。

同時に、旅手帳へも、

――世々の道に<ruby><rb>反</rb><rt>そむ</rt></ruby>かざる事。

と、自戒の一句を覚え書きしておいた。

## <ruby><rb>土匪来</rb><rt>どひらい</rt></ruby>

## 一

長岡<ruby><rb>佐渡</rb><rt>さど</rt></ruby>は、度々この寺へ姿を見せる<ruby><rb>大檀那</rb><rt>おおだんな</rt></ruby>の一人だった。彼は、名将の聞えの高い<ruby><rb>三斎公</rb><rt>さんさいこう</rt></ruby>――<ruby><rb>豊前小倉</rb><rt>ぶぜんこくら</rt></ruby>の城主細川<ruby><rb>忠興</rb><rt>ただおき</rt></ruby>の家職であるから、寺へ来る日は、もちろん縁者の命日とか、公務の小閑に、杖を曳いて来るのである。

江戸から七、八里あるので、一泊になる場合もある。従者はいつも侍三名に小者一名ぐらい召連れ、身分からすれば極めて質素であった。

「寺僧」

「はい」

「あまりかもうてくれるな。心づくしは<ruby><rb>欣</rb><rt>よろこ</rt></ruby>ばしいが、寺で贅沢をしようとは思わぬでの」

「恐れいります」

「それよりは、わがままに、くつろがせて貰いたい」

「どうぞお気ままに」

「無礼を許されよ」

佐渡は、横になって、白い<ruby><rb>鬢</rb><rt>びん</rt></ruby>づらへ手枕をかった。

江戸の藩邸は、彼の体を寸暇もなく忙殺させる。彼は、寺詣りを口実に、ここへ<ruby><rb>遁</rb><rt>のが</rt></ruby>れてくるのかもしれない。野風呂を浴びて、<ruby><rb>田舎醸</rb><rt>いなかづく</rt></ruby>りの一<ruby><rb>酌</rb><rt>しゃく</rt></ruby>をかたむけた後、手枕のうつらうつらに、<ruby><rb>蛙</rb><rt>かわず</rt></ruby>の声を聞いていると、何もかも<ruby><rb>現世</rb><rt>げんぜ</rt></ruby>のものでなくなるように忘れてしまう。

こよいも佐渡は<ruby><rb>此寺</rb><rt>ここ</rt></ruby>へ泊って、<ruby><rb>遠蛙</rb><rt>とおかわず</rt></ruby>の音を聞いていた。

寺僧は、そっと、<ruby><rb>銚子</rb><rt>ちょうし</rt></ruby>や膳を下げてゆく。従者は、壁際に坐って明りの<ruby><rb>瞬</rb><rt>またた</rt></ruby>きに、手枕の主人が、風邪をひきはすまいかと、案じ顔にながめていた。

「ああよい心地。このまま<ruby><rb>涅槃</rb><rt>ねはん</rt></ruby>に入るかのようじゃ」

手枕をかえた<ruby><rb>機</rb><rt>しお</rt></ruby>に、侍が、

「おかぜを召すといけません。夜風は露をふくんでおりますから」

注意すると、佐渡は、

「捨てておけ。戦場で鍛えた体、夜露で<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くさめ</span>をするような気遣いはない。この暗い風の中には、菜の花のにおいが<ruby><rb>芬々</rb><rt>ふんぷん</rt></ruby>とする――<ruby><rb>其方</rb><rt>そち</rt></ruby>たちにも<ruby><rb>香</rb><rt>にお</rt></ruby>うか」

「とんと、分りませぬ」

「鼻のきかぬ男ばかりじゃの。……ははははは」

彼の笑い声が大きいせいでもあるまいが、その時、<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>の蛙の声がハタと止んだ。

――と思ううち、

「こらっ、<ruby><rb>童</rb><rt>わっぱ</rt></ruby>ッ！　そんなところへ立ってお客様のお居間をのぞいてはならん」

佐渡の<ruby><rb>哄笑</rb><rt>こうしょう</rt></ruby>よりも、遥かに大きい寺僧の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がなり</span>声が、書院の横縁で聞えた。

侍たちは、すぐ立って、

「何じゃ」

「何事じゃ？」

と見まわした。

その影を見ると、誰か、小さな跫音がバタバタと<ruby><rb>庫裡</rb><rt>くり</rt></ruby>の方へ逃げて行ったが、<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めた僧は、後に残って、頭を下げていた。

「お詫びいたしまする、何せい土民の親なし子、お見のがし下さいませ」

「<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>き見でもしておったのか」

「そうでござります。ここから一里ほど先の法典ヶ原に住んでいた馬子のせがれでございますが、<ruby><rb>祖父</rb><rt>おじい</rt></ruby>が以前、侍であったとかで、自分も大きくなるまでに、侍になるのだと口癖に申しております。――で、貴方がたのようなお武家様を見かけると、指を<ruby><rb>咥</rb><rt>くわ</rt></ruby>えて、覗き見をするので困りまする」

座敷の中に寝ころんでいた佐渡は、その話にふと起き直って、

「そこの<ruby><rb>御房</rb><rt>ごぼう</rt></ruby>」

「はい。……アアこれは長岡様で、お目ざめに」

「いやいや<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>め立てではない。――その<ruby><rb>童</rb><rt>わっぱ</rt></ruby>とやら、おもしろそうな奴。<ruby><rb>徒然</rb><rt>つれづれ</rt></ruby>の話し相手には、ちょうどよい。菓子でも<ruby><rb>遣</rb><rt>と</rt></ruby>らせよう。これへ、呼んでおくれぬか」

## 二

<ruby><rb>伊織</rb><rt>いおり</rt></ruby>は、<ruby><rb>庫裡</rb><rt>くり</rt></ruby>へ来て、

「おばさん、<ruby><rb>粟</rb><rt>あわ</rt></ruby>がなくなったから取りに来たよ。粟を入れておくれ」

と、一斗もはいる<ruby><rb>穀袋</rb><rt>こくぶくろ</rt></ruby>の口を開けて、呶鳴っていた。

「なんじゃこの餓鬼は。まるで貸した物でも取りに来るように」

大きな暗い台所から、寺の婆やは呶鳴りかえした。

いっしょに洗い物を手伝っていた<ruby><rb>納所</rb><rt>なっしょ</rt></ruby>坊も、口をそろえて、

「お住持が、かあいそうじゃから遣れと仰っしゃるので、くれて遣るのじゃぞ。なんだ、大きな<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>して」

「おらの顔、大きいかい」

「物貰いは、あわれな声を出して来るものだ」

「おらは、物乞いじゃない。和尚さんに、<ruby><rb>遺物</rb><rt>かたみ</rt></ruby>の<ruby><rb>巾着</rb><rt>きんちゃく</rt></ruby>を預けてあるんだもの。――あの中にゃあ、おかねもはいっているんだぞ」

「野中の一軒家の、馬子のおやじが、どれ程なおかねを餓鬼に<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>すものか」

「くれないのかい、粟を」

「だいいちおまえは阿呆だぞ」

「なぜさ」

「どこの馬の骨かわからない<ruby><rb>狂人牢人</rb><rt>きちがいろうにん</rt></ruby>にこき使われて、あげくに、喰い物までおまえが<ruby><rb>漁</rb><rt>あさ</rt></ruby>って歩くなどとは」

「大きなお世話だい」

「田にも畑にもなりッこないあんな土地を<ruby><rb>掘</rb><rt>ほじ</rt></ruby>くり返して、村の衆は皆わらってござるぞ」

「いいよウだ」

「おまえも少し、<ruby><rb>狂人</rb><rt>きちがい</rt></ruby>にかぶれてきたな。あの牢人者はお<ruby><rb>伽草子</rb><rt>とぎぞうし</rt></ruby>の黄金の塚でもほん気にして、野たれ死にするまで、掘りちらしているだろうが、おまえはまだ鼻<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たれ</span>ンぼのくせに、今から自分の墓穴を掘るのは早いじゃないか」

「うるさいな、粟を出しておくれよ、はやく、粟をおくれよ」

「アワといわないで、アカといってみろ」

「アカ」

「んべ！　……だ」

<ruby><rb>納所</rb><rt>なっしょ</rt></ruby>坊は、調子に乗って<ruby><rb>揶揄</rb><rt>からか</rt></ruby>いながら、眼の玉を<ruby><rb>剥</rb><rt>む</rt></ruby>いて、ぬっと顔を突き出した。

ぐしゃっと、濡れ雑巾のようなものが、その顔へ貼りついた。納所坊は、きゃっと悲鳴をあげて青ざめた。彼の大嫌いな大きなイボ<ruby><rb>蟇</rb><rt>がえる</rt></ruby>であった。

「このお<ruby><rb>玉杓子</rb><rt>たまじゃくし</rt></ruby>め」

納所坊はおどり出して、伊織の首根ッこをつかまえた。そこへ奥に泊っている<ruby><rb>檀家</rb><rt>だんか</rt></ruby>の長岡佐渡様がお召しになっている――というべつな寺僧の迎えであった。

「なにか、粗相でもあったのか」

と、住持までが、案じ顔してそこへ来たが、いえいえただ佐渡様が<ruby><rb>徒然</rb><rt>つれづれ</rt></ruby>に呼んでこいと仰っしゃるまでで――と聞いて、

「それならよいが」

と住持はほっとしたが、なお、心配は去らないとみえて、伊織の手を引っぱって、自身、佐渡の前へ連れて来た。

書院の隣室には、もう夜の<ruby><rb>具</rb><rt>もの</rt></ruby>が<ruby><rb>展</rb><rt>の</rt></ruby>べてある。老体の佐渡は、横になりたかった所だが、子どもが好きとみえて、伊織が、ちょこなんと住職のそばに坐ったのをみると、

「<ruby><rb>幾歳</rb><rt>いくつ</rt></ruby>じゃな」

と、訊ねた。

「十三。ことしから、十三になりました」

と伊織は、相手を心得ている。

「侍になりたいか」

と、訊かれると、伊織は、

「うん……」

と<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いた。

「では、わしの屋敷へ来い。水汲みから、<ruby><rb>草履取</rb><rt>ぞうりとり</rt></ruby>を勤めあげたら、末は若党に取立ててやろう程に」

というと、伊織は、黙って<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かぶり</span>を振った。そんな筈はない、きまりが悪いのじゃろう、明日は江戸へ連れて帰る――と重ねて佐渡がいうと、伊織は、<ruby><rb>納所</rb><rt>なっしょ</rt></ruby>坊がしたように、アカンベーをして、

「殿様、お菓子をくれなければ嘘つきだぜ。はやくおくれよ、もう帰るんだから」

住職は青くなって、眼から離した彼の手を、ピシャリと打った。

## 三

「叱るな」

と、佐渡は、住職の気遣いを、かえって<ruby><rb>窘</rb><rt>たしな</rt></ruby>めて、

「侍は嘘をつかぬ。今、菓子を<ruby><rb>遣</rb><rt>と</rt></ruby>らすであろう」

と、従者に、すぐいいつけた。

伊織は、それを貰うと、すぐ<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>へ入れてしまった。佐渡がそれを見て、

「なぜ、ここで喰べぬか」

と、訊ねると、

「先生が、待ってるから」

「ホ……先生とは？」

佐渡は、異な顔をした。

もう用はないといった<ruby><rb>容子</rb><rt>ようす</rt></ruby>で、伊織は答えずに、その部屋から<ruby><rb>素迅</rb><rt>すばし</rt></ruby>ッこく飛出してしまった。長岡佐渡が笑いながら寝所へはいってゆく姿へ、住職は、再三再四、低頭平身していたが、やがて、追いかけるように、<ruby><rb>庫裡</rb><rt>くり</rt></ruby>へ来て、

「小僧、どうしたか」

「今、粟を背負って、帰ってゆきましたが」

と、そこにいる者の答え。

耳を澄ますと、真っ暗な外の何処かを、頓狂な木の葉笛の音が流れてゆく――

ぴき、ぴー

ぴッぴッき、ぴーの

ぴよ助、ぴゅー

伊織は、いい歌を知らないのが残念だった。馬子の唄う<ruby><rb>謡</rb><rt>うた</rt></ruby>は、木の葉の音に乗らないのである。

お盆になると、踊りにうたうこの地方の歌垣から<ruby><rb>転訛</rb><rt>てんか</rt></ruby>したような<ruby><rb>謡</rb><rt>うた</rt></ruby>も、木の葉笛には複雑すぎてだめだった。

結局、彼は、<ruby><rb>神楽囃子</rb><rt>かぐらばやし</rt></ruby>の<ruby><rb>律調</rb><rt>しらべ</rt></ruby>を頭に描きながら、木の葉を<ruby><rb>唇</rb><rt>くち</rt></ruby>に当て、しきりと妙な音を吹きたてて道の遠さを忘れて来たが、やがて法典ヶ原の近くまで来たかと思う頃、

「おやっ？」

と、唇の木の葉を、<ruby><rb>唾</rb><rt>つば</rt></ruby>と一緒に吐き出して、同時にがさがさと傍らの<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>へ這いこんでしまった。

二筋の野川は、そこから一つになって、部落の方へ流れている。その土橋のうえに三、四人の大男が、顔を寄せて何かひそひそ声を交わしているのである。

伊織は、その人間たちを見たとたんに、

「――あっ、来た」

と、先おととしの秋の<ruby><rb>晩頃</rb><rt>くれごろ</rt></ruby>の、或る事を思い出したのであった。

子を持つこの辺の母親は、ふた言めにはすぐ、

（山神さまの<ruby><rb>輿</rb><rt>こし</rt></ruby>へ入れて、山の衆へくれっちまうぞ）

と、子を叱る。

小さい頭に<ruby><rb>沁</rb><rt>し</rt></ruby>みついたその怖さを――伊織も忘れていない。

ずっと昔は、その山神様の白木の<ruby><rb>輿</rb><rt>こし</rt></ruby>が、ここから八里も十里も先の山の<ruby><rb>社</rb><rt>やしろ</rt></ruby>に、何年目かの順番が廻って来ると、据えられたもので、土民は、<ruby><rb>報</rb><rt>し</rt></ruby>らせをうけると、稼ぎ<ruby><rb>蓄</rb><rt>た</rt></ruby>めた五穀やら、大事な娘までも、因果をふくめて化粧させ、わざわざ<ruby><rb>松明</rb><rt>たいまつ</rt></ruby>行列を作って、そこへ納めに行ったものだそうであるが、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>頃からか、山神様の正体は、やはり人間だと分ってから、土民のほうも<ruby><rb>狡</rb><rt>ずる</rt></ruby>をきめこんで怠ってしまった。

ところが、戦国以来は、その山神様の徒党が、山の<ruby><rb>社</rb><rt>やしろ</rt></ruby>に白木の輿をおいて報らせても、<ruby><rb>貢物</rb><rt>みつぎ</rt></ruby>が来ないので、<ruby><rb>猪突</rb><rt>ししつ</rt></ruby>き槍だの、熊射ち弓だの、斧だの手槍だの、なるべく土民が見ただけでも縮み上がってしまいそうな武器を携え、三年目とか二年目とか、物資の貯えられている状態を見ておいて、自身の方から、部落部落へ、出張して来るようになって来た。

この辺には、その<ruby><rb>兇匪</rb><rt>きょうひ</rt></ruby>の群れが、先おととしの秋やって来た。――その時の惨たる光景で、<ruby><rb>幼心</rb><rt>おさなごころ</rt></ruby>にも怖かった記憶が、今――土橋の上の人影を見ると共に、いなずまのように彼の頭に呼び起されたのであった。

## 四

――やがてのこと。

彼方からまた、<ruby><rb>一群</rb><rt>ひとむれ</rt></ruby>の人間が、隊伍を作って野を駈けて来た。

「おうい」

と、土橋の上の影が呼ぶ。

「おおうい」

と、野の声が答える。

声は、幾つも、方々から聞えて来て、<ruby><rb>夜霞</rb><rt>よがすみ</rt></ruby>の果てへ流れてゆく。

「……？」

伊織は、息づまるような眼をみはって、<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>の中から覗いていた。いつのまにか、土橋を中心として、約四、五十名の<ruby><rb>土匪</rb><rt>どひ</rt></ruby>が真っ黒にかたまっているのだった。そして、<ruby><rb>一群</rb><rt>ひとむれ</rt></ruby>一群が、何やら首を寄せて<ruby><rb>凝議</rb><rt>ぎょうぎ</rt></ruby>していたが、或る手筈が整ったものとみえ、

「それ――」

と、首領らしい男が手をさし挙げると、一<ruby><rb>群</rb><rt>ぐん</rt></ruby>の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いなご</span>のように、そのすべてが、村の方へ向って、一散に駈けて行った。

「たいへんだ！」

と、伊織は、藪の中から、首を伸ばして、怖ろしい光景を目に描いた。

平和な<ruby><rb>夜霞</rb><rt>よがすみ</rt></ruby>につつまれて、眠りに落ちていた村には、忽ち、<ruby><rb>消魂</rb><rt>けたたま</rt></ruby>しい<ruby><rb>夜鶏</rb><rt>よどり</rt></ruby>の啼き声が起り、牛が鳴き、馬がいななき、<ruby><rb>老人</rb><rt>としより</rt></ruby>や子どもの泣き<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>くのが、手にとるように聞えだした。

「そうだ……徳願寺に泊っているお侍さまへ」

伊織は、藪を飛びだした。

そしてこの大変を、そこへ<ruby><rb>報</rb><rt>し</rt></ruby>らせようと思って、<ruby><rb>健気</rb><rt>けなげ</rt></ruby>にも、後へ戻りかけると、もう人影は見えないとばかり思っていた土橋の陰から、

「やいっ」

人間の声がした。

伊織は、つンのめるように、逃げだしたが、大人の足には及ばなかった。そこに張番していた二人の<ruby><rb>土匪</rb><rt>どひ</rt></ruby>のために、襟がみをつかまえられてしまった。

「どこへ行く」

「なんだ、てめえは」

――声をあげて、わアと泣いてしまえばいいのである。だが、伊織には、泣けなかった。自分の襟がみを吊るしあげている逞しい腕を、<ruby><rb>生半可</rb><rt>なまはんか</rt></ruby>、<ruby><rb>引掻</rb><rt>ひっか</rt></ruby>きなどしたので、<ruby><rb>土匪</rb><rt>どひ</rt></ruby>は、この小さい者にも疑いぶかい眼を光らした。

「こいつ、おれたちを見かけて、何処かへ、知らせに行くつもりか何かだぞ」

「そこらの田に叩ッこんでしまえ」

「いや、こうして置こう」

土橋の下へ、彼は蹴落された。すぐ後から飛び下りて来た<ruby><rb>土匪</rb><rt>どひ</rt></ruby>は、彼を、<ruby><rb>橋杭</rb><rt>はしぐい</rt></ruby>に<ruby><rb>縛</rb><rt>くく</rt></ruby>りつけてしまった。

「よし」

と、見捨てて、二人は上へ跳ね上がって行った。

ごうん、ごうん……と寺の鐘が鳴りだした。もう寺でも、土匪の襲来は知ったものとみえる。

村の方に、火の手が揚がった。土橋の下を流れる水が、血のように赤く染まってみえる。<ruby><rb>嬰児</rb><rt>あかご</rt></ruby>の泣き声が走る。女の悲鳴がながれてくる。

そのうちに、伊織の頭の上を、ぐわらぐわらと、車の<ruby><rb>轍</rb><rt>わだち</rt></ruby>が通った。四、五名の土匪は、牛車や、馬の背に、盗んだ財物を満載して、そこを駈け通るのだった。

「畜生ッ」

「なにを」

「おらの<ruby><rb>嬶</rb><rt>かか</rt></ruby>を返せ」

「<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>しらずめ」

何か――土橋の上で始まった。土民と土匪との格闘だった。凄まじい<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>き声や跫音が、そこでみだれ合う。

――と思うまに、伊織の前へ、<ruby><rb>朱</rb><rt>あけ</rt></ruby>にまみれた死骸が、一つまた一つ――と続けさまに蹴落されて来て、彼の顔へ、しぶきを浴びせかけた。

## 五

死骸は流れて行き、まだ息のある者は、水草につかまって、岸へ這い上がった。

<ruby><rb>橋杭</rb><rt>はしぐい</rt></ruby>に縛られて、<ruby><rb>眼</rb><rt>ま</rt></ruby>のあたりにそれを見ていた伊織は、

「おらの縄を解いてくれ。おらの縄を解けば、<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>を取ってやるぞ」

とさけんだ。

斬られた土民は、岸へは這い上がっても、水草の中に<ruby><rb>俯</rb><rt>う</rt></ruby>っ伏したままで動かなかった。

「おいっ、おらの縄を解かないか。村の者を助けるんだ。おらの縄を解け」

伊織の小さい魂は、その小さい身を忘れて大喝した。意気地ない土民を叱咤して、命令するようにいった。

昏倒した者は、まだそれでも気がつかなかった。そこで伊織は、もう一度、自分の力で自分の縄目を切ろうとするらしく、懸命にもがいてみたが、<ruby><rb>所詮</rb><rt>しょせん</rt></ruby>、切れる筈はなかった。

「おいッ」

彼は、体を<ruby><rb>摺</rb><rt>ず</rt></ruby>らして、伸びるだけ足を伸ばし、昏倒している<ruby><rb>負傷</rb><rt>ておい</rt></ruby>の肩を蹴った。

泥と血にまみれた顔を上げて――土民は、伊織の顔を、にぶい眼で見た。

「はやく、この縄を解くんだよ、解くんだよ」

土民は、這って来た。そして伊織の縄を解くと、そのまま、こときれてしまった。

「見てろ」

伊織は、土橋の上を見て、唇を噛んだ。<ruby><rb>土匪</rb><rt>どひ</rt></ruby>たちは、追って来た百姓を皆、そこで殺害してしまったが、財物を乗せた牛車の<ruby><rb>轍</rb><rt>わだち</rt></ruby>が、土橋の腐った所へ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">めり</span>込んでしまったので、それを引き出すのに騒いでいた。

伊織は、水に沿って、<ruby><rb>河崖</rb><rt>かわがけ</rt></ruby>の陰を夢中で走った。そして、浅瀬を渡って向う側へ這いあがった。

彼は、一目散に、野を駈けた。田も畑も家もない法典ヶ原を半里も駈けた。

武蔵と二人で住んでいる丘の小屋へやがて近づいた。見ると小屋の側に誰か立って空をながめている――武蔵であった。

「先生――っ」

「おお、伊織」

「すぐ行ってください」

「どこへ」

「村へ」

「あの火の手は？」

「山の者が<ruby><rb>襲</rb><rt>よ</rt></ruby>せて来たんですよ。先おととしも<ruby><rb>襲</rb><rt>き</rt></ruby>た奴が」

「山の者？　山賊か」

「四、五十人も」

「あの鐘の<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>はそれを告げておるのか」

「はやく行って、たくさんな人を、助けてやって下さい」

「よしっ」

武蔵は、一度小屋の中へ引っ返したが、すぐ出て来た。足拵えをして来たのである。

「先生、おらの後に、<ruby><rb>従</rb><rt>つ</rt></ruby>いといでよ。おらが案内するから」

武蔵は、首を振って、

「おまえは、小屋で待っておれ」

「え、どうして」

「あぶない」

「あぶなかないよ」

「足手<ruby><rb>纒</rb><rt>まと</rt></ruby>いじゃ」

「だって、村へゆく近道を、先生は知るまい」

「あの火が、よい道案内。よいか――小屋の中でおとなしく待っているのだぞ」

「はい」

仕方なしに、伊織はうなずいたが、今までの、正義に<ruby><rb>昂</rb><rt>たか</rt></ruby>ぶった小さい魂は、飛躍のやりばを失って、急にぽつねんと、淋しい顔をしてしまった。

村は、まだ焼けていた。

その炎に、赤く見える<ruby><rb>野面</rb><rt>のづら</rt></ruby>を、鹿のように駈けてゆく影が、武蔵であった。

## 征夷

## 一

親や良人は殺され、子は見失って、<ruby><rb>数珠</rb><rt>じゅず</rt></ruby>つなぎに捕われてゆく<ruby><rb>贄</rb><rt>にえ</rt></ruby>の女たちは、オイオイと手放しに泣きながら、野を追い立てられて行った。

「やかましいっ」

「歩かねえか」

<ruby><rb>土匪</rb><rt>どひ</rt></ruby>たちは、<ruby><rb>鞭</rb><rt>むち</rt></ruby>を振って、彼女らを<ruby><rb>撲</rb><rt>なぐ</rt></ruby>りつけた。

ひいイっと、一人が仆れる。<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>がっている前の女、後ろの女も仆れる。

<ruby><rb>土匪</rb><rt>どひ</rt></ruby>は、綱をつかんで、引起しながら、

「こいつら、<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めのわるいやつらだ、<ruby><rb>稗粥</rb><rt>ひえがゆ</rt></ruby>をすすって、痩せ土を耕しながら、骨と皮ばかりになっているより、おれ達と暮してみろ、世の中が面白くて堪らなくなるから」

「面倒だ、その綱を、馬に繋いでしょッ引かせろ」

馬の背には、どの馬にも<ruby><rb>掠</rb><rt>かす</rt></ruby>めて来た財物や穀類が山と積んである。その一頭へ<ruby><rb>数珠</rb><rt>じゅず</rt></ruby>つなぎの綱の端を結びつけ、そして、馬の尻をぴしぴし打った。

女たちは悲鳴をあげながら、駈ける馬と一緒に駈け出した。仆れる者は黒髪を地に引き摺って、

「腕が抜けるッ、腕が抜ける――」

とさけんだ。

わははは、あははは、大笑いしながら、土匪たちは、その後から一団になって<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて行った。

「やいやい、こんだあ少し早すぎら。加減しろやい」

後ろからいううちに、馬も女の群れも止まった。――だが馬の尻を打っていた土匪の仲間は、うんともすんとも答えなかった。

「あれ、こんだあ止めて待ってやがる。ドジめ」

げらげら笑う声がすぐそれへ近づいて行った。<ruby><rb>嗅覚</rb><rt>きゅうかく</rt></ruby>のつよい彼らは、すぐぷんと血のにおいをそこに感じた。――オヤ？　と眼もいっせいに<ruby><rb>竦</rb><rt>すく</rt></ruby>み合った。

「だ、だれだッ」

「…………」

「だれだッ、そこにいるなあ」

「…………」

彼らが認めた一個の人影は、のそのそと草を踏んで向って来た。手に提げている<ruby><rb>白刃</rb><rt>しらは</rt></ruby>からは、霧のように血のにおいが立っていた。

「……や、や」

前の者から<ruby><rb>踵</rb><rt>かかと</rt></ruby>を<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>いて、ず、ず、ず、と後ろへ押し合った。

武蔵は、その間に、賊の人数を目づもりで、ざっと十二、三人と読んで、その中にも、<ruby><rb>手強</rb><rt>てごわ</rt></ruby>そうな男へ眼をつけていた。

<ruby><rb>土匪</rb><rt>どひ</rt></ruby>たちは山刀を抜きつれた。また、<ruby><rb>斧</rb><rt>おの</rt></ruby>を持った男は横へ飛んで来た。<ruby><rb>猪槍</rb><rt>ししやり</rt></ruby>の穂も、それと共に、斜めから武蔵の<ruby><rb>脾腹</rb><rt>ひばら</rt></ruby>を<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>うように低くつめ寄って来る。

「いのち知らずめ」

と、ひとりが<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>く。

「――一体うぬあ、どこから来た風来人だ。よくも、仲間のものを」

いっている間に、

「……ぐわッ」

<ruby><rb>斧</rb><rt>おの</rt></ruby>を持っていた右側の男が、舌でも噛んだような声を出して、武蔵の前をよろよろと泳ぎ抜けた。

「知らぬかッ」

と、血けむる中で、武蔵は刀の切先を引きざまにいった。

「おれは、良民の土を護る、<ruby><rb>鎮守</rb><rt>ちんじゅ</rt></ruby>の神のおつかいだ！」

「ふざけるな」

<ruby><rb>掠</rb><rt>かす</rt></ruby>め<ruby><rb>去</rb><rt>さ</rt></ruby>った<ruby><rb>猪突</rb><rt>ししつ</rt></ruby>き槍を捨てておいて、武蔵は、山刀の群れの中へ一刀をかざして、駈け入った。

## 二

土匪が、自分らの力を過大に盲信し、ただ一名だという点に、敵を<ruby><rb>侮</rb><rt>あなど</rt></ruby>りきっているうちは、武蔵も苦戦であった。

けれど<ruby><rb>眼</rb><rt>ま</rt></ruby>のあたりに、その一名のため、仲間の多数が駈け散らされ、ばたばたと<ruby><rb>斃</rb><rt>たお</rt></ruby>れ出した事実を見ると、土匪どもは、

（こんなことが一体あることか）

と、<ruby><rb>錯乱</rb><rt>さくらん</rt></ruby>し始め、

（おれが）

と、気負って進む者から、次々に、醜い<ruby><rb>死屍</rb><rt>しかばね</rt></ruby>を、<ruby><rb>曝</rb><rt>さら</rt></ruby>して行った。

駈け入って、一当て当ってみると、武蔵にはおよそ当面の敵の力量がもうわかっている。

数ではなく、一団の力をである。多数を制する剣法は、彼の得意とはしないまでも、彼にとっては、生死を賭した中にのみ学び得る大きな興味ではあった。個々の試合には体得し得ないものを、多数の敵から教えられるからであった。

で――彼はこの場合、最初、ここを離れた<ruby><rb>彼方</rb><rt>あちら</rt></ruby>の場所で、<ruby><rb>数珠</rb><rt>じゅず</rt></ruby>つなぎの女たちを馬に引かせていた一人の土匪を血まつりに斬り捨てた時から、敵の山刀を奪って用い、まだ、自分の帯びている大小は、使っていなかった。

こんな<ruby><rb>鼠賊</rb><rt>そぞく</rt></ruby>を斬るのに、自己のたましいともする刀を<ruby><rb>穢</rb><rt>けが</rt></ruby>すまでもない――というような高踏的な考えからではなく、もっと実際的な、武器の愛護を念とするからであった。

相手の<ruby><rb>得物</rb><rt>えもの</rt></ruby>は雑多である。それと闘えば忽ち刃こぼれを生じる、刀の折れる<ruby><rb>惧</rb><rt>おそ</rt></ruby>れも勿論ある。また最後の絶対的な場合に、身に帯びる物がないために、不覚をとるような例はいくらもある。

だから彼は、容易に自分の物は抜かない。これはいつの場合でもである。敵の武器を奪って敵を斬る。その神速の技に、彼は知らず知らず練磨も積んでいた。

「うぬ、覚えてろ」

土匪は、逃げはじめた。

約十名余りが五、六人になって、元来た方へ走って行った。

村には、まだ沢山な仲間が残って、<ruby><rb>狼藉</rb><rt>ろうぜき</rt></ruby>の限りを尽している最中であろう。思うに、そこへ逃げ戻って、他の猛獣どもを<ruby><rb>糾合</rb><rt>きゅうごう</rt></ruby>し、<ruby><rb>捲土重来</rb><rt>けんどちょうらい</rt></ruby>して眼にもの見せてやろうというつもりとみえる。

武蔵は一応、そこで自分も一息入れた。

そして先ず後へもどって、数珠つなぎにされて、野に仆れている女たちの<ruby><rb>縛</rb><rt>いまし</rt></ruby>めを斬りほどき、まだ起てる気力のある者に、起てない者を介抱させた。

彼女らは、もう礼をいう口さえ失っている。武蔵のすがたを仰いで、ただ<ruby><rb>唖</rb><rt>おし</rt></ruby>のように、こもごも手をつかえて泣くばかりだった。

「もう安心するがよい」

武蔵はまずいって――

「村には、まだおまえたちの親や子や良人が残っているのだろう」

「ええ」

と、彼女らは<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>く。

「それも救わなければなるまい。おまえ達だけが助かって、老いた者や、子たちが助からなかったら、おまえ達はやはり不幸だろう」

「はい」

「おまえ達は、自分を護り、人を救い合う力を持っている筈なのだ。その力をお前たちは、結びあうことも、出すことも知らないので、賊にいたされるのだ。わしが手伝ってやるから、おまえ達も剣を持て」

と彼は、<ruby><rb>土匪</rb><rt>どひ</rt></ruby>がそこらへ落して行った武器を拾い<ruby><rb>蒐</rb><rt>あつ</rt></ruby>め、彼女らの手にめいめい持たせて、

「おまえ達は、わしに<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて来ればよい。わしがいう通りになっておれ、炎と賊の中から、親や子や良人を救いに行くのだ。皆の上には、<ruby><rb>鎮守</rb><rt>ちんじゅ</rt></ruby>の神様が加勢についている。怖れることはない」

と、いいきかせ、土橋を渡って、村の方へ近づいて行った。

## 三

村は焼けている。しかし、民家が散在しているため、火の手は一部らしい。

道は火光に赤く<ruby><rb>映</rb><rt>は</rt></ruby>えて、影法師が地にうつる程だった。武蔵が、彼女らを<ruby><rb>率</rb><rt>ひき</rt></ruby>いて、村へ近づいてゆくと、

「おう」

「われか」

「いたのか」

と、そこらの物陰に逃げ<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそ</rt></ruby>んでいた土民たちが、次々に集まり寄って、たちまち、何十名かの一団になった。

彼女らは、わが親、わが兄弟、わが子などの姿に出会うと、抱き合って号泣した。

そして、武蔵を指さし、

「あのお方に」

と、助けられた仔細を、<ruby><rb>訛</rb><rt>なま</rt></ruby>りのひどい言葉に――しかし心からの歓びを現わして告げるのだった。

土民たちは、武蔵を見て、初めは皆、異様な眼をした。なぜならば、法典ヶ原の<ruby><rb>狂人</rb><rt>きちがい</rt></ruby>牢人よと、常々、自分たちが、<ruby><rb>口汚</rb><rt>くちぎたな</rt></ruby>く<ruby><rb>嘲笑</rb><rt>あざわら</rt></ruby>っていた人だからである。

武蔵は、その男どもへも、先ほど、彼女らに告げた時と同じ言葉をもって教え、

「皆、得物を<ruby><rb>把</rb><rt>と</rt></ruby>れ。――そこらに有り合う、棒切れでも、竹でも」

と、命じた。

ひとりも<ruby><rb>反</rb><rt>そむ</rt></ruby>く者はなかった。

「村を荒している賊は、すべてで何十人ぐらいいるか」

「五十名ばかしで」

と、誰か答える。

「村の戸数は」

と訊くと、七十戸ほどはあるという。まだ大家族的な遺風のある土民であるから、一戸当り少なくも十名以上の家族はあるとみていい。すると約七、八百名の土民が住んでいるわけで、そのうち幼児と老人と病人をのぞいても、男女五百名以上の壮者はいるであろう。それが五、六十名の土匪のために、年ごとの収穫を掠奪され、若い女や家畜など、<ruby><rb>蹂躪</rb><rt>じゅうりん</rt></ruby>し尽されても、

「しかたがない」

と、<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めなければならない理由が、武蔵には発見できない。

それは、為政者の不備にもあるが、また彼ら自身に、自治と武力のないせいもある。武力のない者に限って、ただ漫然と武力に絶対な恐怖をもつが、武力の性質を知れば、武力はそう恐いものではなく、むしろ平和のために在るものである。

この村に、平和の武力を持たせなければ、この惨害は根を絶つまい。武蔵は、今夜の土匪を討つことが目標ではなく、それがすぐ意図されていた。

「法典ヶ原の牢人様。さっき逃げ込んで行った賊が、大勢ほかの仲間を呼んで、今こっちへやって来るだぞ」

駈けて来た一人の土民が、武蔵と村の者へ、手を振って、急を告げた。

得物は持っても、山の暴れ者は怖ろしいと先入主になっている土民たちは、すぐ浮き腰になって、動揺しはじめた。

「そうだろう」

武蔵は、まず彼らに安心を与え――そして命令した。

「道の<ruby><rb>両側</rb><rt>わき</rt></ruby>へかくれろ」

土民たちは、われがちに木の陰や畑にかくれた。

武蔵は一人残って、

「やがて来る賊は、わし一人で迎えて闘う。そしてわしは、一度逃げる」

彼らのかくれた左右を見まわして独り言のようにいう。

「――だが、お前たちはまだ出て来なくともよい。そのうちに、わしを追いかけて来た賊が、反対にまたここへ、<ruby><rb>散々</rb><rt>ちりぢり</rt></ruby>に逃げて来るにちがいない。その時は、お前たちがわっと声をあげ、不意に横から衝け、足を払え、真っ向を<ruby><rb>撲</rb><rt>なぐ</rt></ruby>りつけろ。――そしてまた<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそ</rt></ruby>んでは出、隠れては出、一匹も余さず打ちのめすのだ」

いっている間に、もう彼方から<ruby><rb>一群</rb><rt>ひとむれ</rt></ruby>の土匪が、魔軍のように殺到した。

## 四

彼らのいでたちや隊伍ぶりは、まるで原始時代の軍隊みたいだった。彼らの眼には、徳川の世もない、豊臣の世もない、山は彼らの天地であり、里は彼らのあらゆる飢えを一時に満たす所だった。

「あ、待て」

先頭の一人が、足を止めて、後に続くなかまの者を制した。

二十名も来たろうか、稀れな<ruby><rb>大鉞</rb><rt>おおまさかり</rt></ruby>を<ruby><rb>提</rb><rt>さ</rt></ruby>げたのや、<ruby><rb>錆</rb><rt>さ</rt></ruby>びた<ruby><rb>長柄</rb><rt>ながえ</rt></ruby>をかかえ込んだのが、赤い火光をうしろに背負い、黒々と立ち<ruby><rb>淀</rb><rt>よど</rt></ruby>んで、

「いたか」

「あれがそうじゃねえか」

すると、中のひとりが、

「オオ、あれだ」

と、武蔵の影を指さした。

約十間ほど隔てて、武蔵は、道を<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>いで突っ立っていた。

これほどな殺到に、いっこう無感覚な様子で、彼が立っているのを見ると、この猛獣の群れも、

（おや、こいつ？）

と一応、自分の威勢を疑ってみたり、彼の態度に不審を起して、足をとめずにいられなかった。

――が、それは僅かな間だった。すぐずかずかと二、三名が進み出で、

「うぬか」

と、いった。

<ruby><rb>爛</rb><rt>らん</rt></ruby>とした眼で、武蔵は近づいた者を見つめた。彼の眼に縛り寄せられたように、賊も武蔵を<ruby><rb>睨</rb><rt>ね</rt></ruby>めすえたまま、

「うぬか、おれたちの邪魔に来た野郎というのは」

武蔵が、一言、

「――そうだッ！」

いった時は、ぶら下げていた彼の剣が、賊を真っ向に割りつけていた時であった。

わっ――と<ruby><rb>動揺</rb><rt>どよ</rt></ruby>めいた後は、もう誰彼の見わけもつかなかった。小さな<ruby><rb>旋風</rb><rt>つむじ</rt></ruby>の中に、かたまり合って吹かれてゆく<ruby><rb>羽蟻</rb><rt>はあり</rt></ruby>の群れみたいに乱闘が始まったのだ。

しかし、片方は水田だし、片方は並木の<ruby><rb>堤</rb><rt>どて</rt></ruby>になっている道なので、地の利は、土匪どもに不利で、武蔵には絶好だった。それに土匪は、兇猛ではあるが、武器の統一も、訓練もないので――これを<ruby><rb>一乗寺</rb><rt>いちじょうじ</rt></ruby><ruby><rb>下</rb><rt>さが</rt></ruby>り<ruby><rb>松</rb><rt>まつ</rt></ruby>の決戦の時から思うと――武蔵はまだ生死の境にふみこんでいる心地はしなかった。

それと彼は、機を見て、<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>くことを考えていたせいもあろう。吉岡門下の大勢と闘った時は、一歩も「<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>く」などという考えはもたなかったが、今はその反対に、彼らと互角に闘おうなどとは毛頭思っていないのである。ただ彼は兵法の「策」をもって彼らを<ruby><rb>馭</rb><rt>ぎょ</rt></ruby>そうとしているのである。

「あっ、野郎」

「逃げやがったッ」

「逃がすな」

土匪たちは、駈けてゆく武蔵を追いつめ追いつめて――やがて野の一端にまで誘われて来た。

地の利は、さっきの狭い場所よりも、ここの何物もない広い野原の方が、武蔵には当然不利に見えたが、武蔵は、<ruby><rb>彼方</rb><rt>あっち</rt></ruby>へ逃げ、<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>へ駈け、彼らの密集を存分に分散させてから、突然、攻勢に変った。

「かっッ」

一<ruby><rb>颯</rb><rt>さつ</rt></ruby>！

また一颯！

血しぶきから血しぶきへ、武蔵の影は<ruby><rb>跳</rb><rt>と</rt></ruby>び移ってゆく。

<ruby><rb>麻幹</rb><rt>おがら</rt></ruby>を斬るという言葉はあながち誇張ではない。斬られるものが、狼狽のあまり半ば<ruby><rb>喪心</rb><rt>そうしん</rt></ruby>してしまい、斬る者は手に入って、斬るごとに無我心業の境になってゆくのである。土匪どもは、物々しい<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いでたち</span>ほどもなく、わっと、元の道へ逃げ出した。

## 五

「――来たっ」

「来たぞ」

道を挟んで、物陰にかくれていた土民たちは、そこへ逃げて来る賊の跫音を聞くと、

「わッ」

と、いちどに<ruby><rb>蜂起</rb><rt>ほうき</rt></ruby>して、

「こなくそ」

「けだものめが」

竹槍、棒、雑多な得物を<ruby><rb>揮</rb><rt>ふる</rt></ruby>いながら、押しつつんでは撲り殺した。

そしてまたすぐ、

「かくれろ」

と、身を伏せ、やがて<ruby><rb>散々</rb><rt>ちりぢり</rt></ruby>になって来る賊を見ると、再び、わっと包んで、

「野郎」

「野郎」

<ruby><rb>蝗</rb><rt>いなご</rt></ruby>を退治るような衆の力で、賊の個々を、一人一人打ちのめしてしまった。

「こいつら、口ほどもねえがよ」

土民たちは、<ruby><rb>遽</rb><rt>にわか</rt></ruby>に、気負い出した。そこらに数えられる賊の死骸を見て、今までは観念的に、ないと思っていた力が、自分たちにもあると新しく発見したのだった。

「また、来たぞ」

「ひとりだ」

「やってしまえ」

土民たちは、<ruby><rb>犇</rb><rt>ひし</rt></ruby>めいた。

駈けて来たのは、武蔵だった。

「おう、違う違う。法典ヶ原の御牢人だ」

彼らは、将を迎える従卒のように、道の両側へ身を交わして、武蔵の<ruby><rb>朱</rb><rt>あけ</rt></ruby>にまみれた姿と、手の血刀を見まもった。

血刀の刃は<ruby><rb>鋸</rb><rt>のこぎり</rt></ruby>のように刃こぼれしていた。武蔵はそれを捨てて、落ちている賊の槍を拾った。

「賊の死骸が持っている刀や槍を、おまえたちも拾って持て」

彼がいうと、土民の若者たちは、われがちに武器を拾った。

「さ、これからだ。おまえ達は力を<ruby><rb>協</rb><rt>あわ</rt></ruby>せて、自分の村から賊を追い払え。自分の家と家族を<ruby><rb>奪</rb><rt>と</rt></ruby>り戻しに行け」

そう励ましながら、武蔵は先頭に駈け出した。

もう<ruby><rb>怯</rb><rt>ひる</rt></ruby>んでいる土民は一人もなかった。

女や老人や子供までが、得物を拾って、武蔵の後から走って行った。

村へはいると、昔ながらの大きな農家が、今、<ruby><rb>熾</rb><rt>さかん</rt></ruby>に燃えていた。土民の影も、武蔵の姿も、木も道も、真っ赤に見えた。

家を焼いた火が竹林へ燃えついたとみえ、青竹の爆裂する音が、パンパンと、炎の中で凄まじくはねている。

また、何処やらで、<ruby><rb>嬰児</rb><rt>あかご</rt></ruby>のさけび声がする。火を見て狂う牛小屋の牛の<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>りも物凄い。――しかし、降りしきる火の粉の中には、一人も賊の影が見えなかった。

武蔵はふと、

「どこだ、酒のにおいがする所は？」

と、土民にたずねた。

土民たちは、煙にばかり<ruby><rb>晦</rb><rt>くら</rt></ruby>んでいたので、酒のにおいを感じなかったが、そういわれて、

「<ruby><rb>酒甕</rb><rt>さかがめ</rt></ruby>に酒をたんと貯めてあるのは、<ruby><rb>村長</rb><rt>おさ</rt></ruby>の家しかねえが」

と、いい合った。

賊は、そこを<ruby><rb>屯</rb><rt>たむろ</rt></ruby>にしていると武蔵は教え、一同へ、策を授け、

「わしに続け」

と、また駈けた。

その頃、<ruby><rb>彼方此方</rb><rt>あっちこっち</rt></ruby>から戻ってきた村の者は、もう百名を越えていた。床下や、<ruby><rb>藪</rb><rt>やぶ</rt></ruby>の中に逃げこんでいた者も、次第に出て来て、彼らの団結は、強大になるばかりだった。

「<ruby><rb>村長</rb><rt>おさ</rt></ruby>の家はあれだ」

土民たちは、遠くから指さした。形ばかりの土塀に囲まれ、村では大きな家だった。近づいて行くと、そこらに酒の泉でも流れているように、酒の香が鼻を打ってくる。

## 六

土民たちが、附近の物陰へ隠れ込まないうちに、武蔵は、土塀をこえて、ただ一人、土匪の<ruby><rb>本拠</rb><rt>ほんきょ</rt></ruby>としている農家の中へはいって行った。

<ruby><rb>土匪</rb><rt>どひ</rt></ruby>の首領と、<ruby><rb>主</rb><rt>おも</rt></ruby>なる者は、広い土間の中に<ruby><rb>屯</rb><rt>たむろ</rt></ruby>して、<ruby><rb>酒甕</rb><rt>さかがめ</rt></ruby>を開け、若い女をとらえて、酔いつぶれていた。

「あわてるな」

土匪の首領は、なにか怒っていた。

「<ruby><rb>多寡</rb><rt>たか</rt></ruby>がひとりの邪魔者が出たからって、おれの手を<ruby><rb>煩</rb><rt>わずら</rt></ruby>わすまでのことはあるめえ、てめえ達の手で片づけて来い」

そんな意味らしい言葉だった。そして今ここへ急を告げに来た手下を、頭から叱りとばしているのだった。

――その時、首領は、異様な声をすぐ外に聞いた。<ruby><rb>炙</rb><rt>あぶ</rt></ruby>った鶏の肉を裂き、酒を<ruby><rb>仰飲</rb><rt>あお</rt></ruby>っていた<ruby><rb>周</rb><rt>まわ</rt></ruby>りの賊も、

「やっ、なんだ？」

一斉に突っ立ち、また無意識のうちに、得物をつかんだ。

その瞬間、彼らの前面は、心に何のまとまりもない<ruby><rb>虚</rb><rt>うつろ</rt></ruby>になっていた。そして不気味な絶叫の聞えた土間の入口にばかり気を<ruby><rb>奪</rb><rt>と</rt></ruby>られていた。

武蔵はその時、<ruby><rb>疾</rb><rt>と</rt></ruby>くに家の横手へ走っていた。そして母屋の窓口を見つけると、槍の<ruby><rb>柄</rb><rt>え</rt></ruby>を足懸りとし、家の内へ飛び込んで、土匪の首領の後ろへ立った。

「おのれかっ、賊の<ruby><rb>首領</rb><rt>かしら</rt></ruby>は」

声に振向いたとたん、彼の胸いたは、武蔵の突き出した槍に縫い<ruby><rb>貫</rb><rt>とお</rt></ruby>されていた。

<ruby><rb>獰猛</rb><rt>どうもう</rt></ruby>なその男は、

「うわっ」

と、血にまみれながら、その槍をつかんで起ちかけたが、武蔵が軽く手を離したので、胸に槍を突き立てたまま土間へ転げ落ちた。

もう彼の手には、次にかかって来た賊の手から引っ<ruby><rb>奪</rb><rt>た</rt></ruby>くった刀があった。それで一人を浴びせ、一人を突くと、蜂の子の出るように、土匪はわれがちに土間の外へ跳び出した。

その群れへ、武蔵は、刀を投げつけて、すぐその手へまた、死骸の胸いたから槍を抜いて持った。

「うごくな」

鉄壁でも――という勢いで彼は槍を横にしたまま外へ駈け出した。<ruby><rb>竿</rb><rt>さお</rt></ruby>で水面を打ったように、土匪の群れは、さっと分れたが、もう槍の自由な広さである。武蔵は<ruby><rb>樫</rb><rt>かし</rt></ruby>の黒い<ruby><rb>柄</rb><rt>え</rt></ruby>が<ruby><rb>撓</rb><rt>しな</rt></ruby>うほど、それを振っていた、また突いてはねとばした、また上から<ruby><rb>撲</rb><rt>なぐ</rt></ruby>りつけた。

<ruby><rb>敵</rb><rt>かな</rt></ruby>わぬと思った土匪は、土塀の門へ向って逃げ出したが、そこは得物を持った村の者が<ruby><rb>犇</rb><rt>ひし</rt></ruby>めいていたので、塀をこえて、外へ転び落ちた。

多くは、そこで皆、村の者に打ち殺された。おそらく逃げた者も、片輪にならなかった者は少なかったであろう。村の者は、老いも若きも、女も、生れて初めての声を出して、しばらくは凱歌に狂い、少し経つと、わが子や、わが妻や、父母たちを見つけ合って、<ruby><rb>欣</rb><rt>うれ</rt></ruby>し泣きに抱き合っていた。

すると誰かが、

「後の仕返しが怖い」

といった。土民たちは、またそれに<ruby><rb>動揺</rb><rt>どよ</rt></ruby>めきだしたが、

「もう、この村には来ぬ」

と、武蔵が<ruby><rb>諭</rb><rt>さと</rt></ruby>したので、やっと落着いた顔いろを取り戻した。

「――だがお前たちは、過信するな。お前たちの本分は、武器ではない<ruby><rb>鍬</rb><rt>くわ</rt></ruby>なのだ。<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>きちがえて、生なかな武力に誇ると、土匪より恐ろしい天罰が下るぞ」

## 七

「見て来たか」

徳願寺に泊りあわせていた長岡佐渡は、寝ずに待っていた。

村の火は、原や沼の<ruby><rb>彼方</rb><rt>かなた</rt></ruby>に、すぐ間近く見えていたが、もう火の手は<ruby><rb>鎮</rb><rt>しず</rt></ruby>まっていた。

ふたりの家臣は、

「はっ、見届けて参りました」

と、口を揃えていった。

「賊は、逃げたか。村の者の被害は、どんなふうだ」

「われわれが、駈けつける<ruby><rb>遑</rb><rt>いとま</rt></ruby>なく、土民たちが、自分の手で、賊の半ばを打ち殺し、後は追いちらしましたようにござります」

「はてな？」

佐渡は、のみこめない顔つきである。もしそうだとすれば、佐渡は、自分の主人細川家の領土の民治についても、だいぶ考えさせられることがある。

とにかく今夜はもう遅い。

そう考えて、佐渡は、<ruby><rb>臥床</rb><rt>ふしど</rt></ruby>へ入ってしまったが、<ruby><rb>翌朝</rb><rt>よくあさ</rt></ruby>は江戸へ帰る身なので、

「ちと、廻りになるが、ゆうべの村を通って参ろう」

と、駒をそこへ向けた。

徳願寺の寺僧が一名、案内に付いて来た。

村へかかると、佐渡は、二人の従者を顧みて、

「そち達は昨夜、何を見届けて来たのか。今、道ばたで見かけた賊の死骸は、百姓が斬ったものとは見えんが」

と、不審を抱いた。

村の者は、寝ずに、焼けた家やそんな死骸を片づけていたが、佐渡の馬上姿を見ると、みな家の中へ逃げこんだ。

「あ、これ。何かわしを思い違いしておるぞ。誰かすこし話の分りそうな土民を一名つれて来い」

徳願寺の僧が、どこからか一人連れて来た。佐渡はそれで初めて昨夜の真相を知ることが出来、

「そうだろう」

と、うなずいた。

「して、その牢人というのは、何という者か」

佐渡が、重ねて訊くと、その土民は首をかしげて、名は聞いたことがないという。佐渡は、ぜひ知りたいというので、寺僧はまた、聞き歩いて、帰って来た。

「宮本武蔵という者だそうでござります」

「なに、武蔵」

佐渡はすぐ、ゆうべの少年を思い起して、

「では、あの<ruby><rb>童</rb><rt>わっぱ</rt></ruby>が、先生と呼んでいたものだの」

「平常、あの子供を相手に、法典ヶ原の荒地を開墾し、百姓のまね事などをしておる、風の変った牢人にござります」

「見たいな、その男を」

佐渡は、つぶやいたが、――藩邸に待っている用事が思い起されて、

「いや、また参ろう」

と、駒をすすめた。

<ruby><rb>村長</rb><rt>むらおさ</rt></ruby>の門まで来ると、ふと佐渡の目をひいた物がある。今朝建てたばかりのような、真新しい制札に、墨色まで水々と、こう書いてあるのだった。

村の者心得べき事

鍬も剣なり

剣も鍬なり

土にいて乱をわすれず

乱にいて土をわすれず

<ruby><rb>分</rb><rt>ぶん</rt></ruby>に依って一に帰る

又常に

世々の道にたがわざる事

「ウウム……誰が書いたか、この高札は」

<ruby><rb>村長</rb><rt>むらおさ</rt></ruby>が出て来て、地に平伏しながら答えた。

「武蔵さまでござりまする」

「おまえ達に、分るのかこれが……」

「今朝、村の衆が、みな集まっている中で、このわけを、よく説いて下さいましたで、どうやら分りまする」

「――寺僧」

佐渡は振向いて、

「戻ってよろしい。ご苦労であった。残念じゃが、心が<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>く。また来るぞ、おさらば」

と、駒を早めて去った。

## <ruby><rb>卯月</rb><rt>うづき</rt></ruby>の<ruby><rb>頃</rb><rt>ころ</rt></ruby>

## 一

当主の細川三斎公は、<ruby><rb>豊前</rb><rt>ぶぜん</rt></ruby>小倉の本地にいて、江戸の藩邸にいることはなかった。

江戸には、長子の<ruby><rb>忠利</rb><rt>ただとし</rt></ruby>がいて、補佐の老臣と、たいがいなことは、裁断していた。

忠利は<ruby><rb>英邁</rb><rt>えいまい</rt></ruby>だった。年歯もまだ、二十歳を幾つも越えてない若殿なので、新将軍秀忠を<ruby><rb>繞</rb><rt>めぐ</rt></ruby>って、この新しい城府に移住していた天下の<ruby><rb>梟雄</rb><rt>きょうゆう</rt></ruby>や豪傑的な大名のあいだに伍しても、父の細川三斎の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こけん</span>を落すようなことは決してなかった。むしろ、その新進気鋭なことと、次の時代に活眼をもっている点では、諸侯の中の新人として、戦国育ちの腕自慢ばかりを事としている<ruby><rb>荒胆</rb><rt>あらぎも</rt></ruby>な老大名よりは、遥かに立ち<ruby><rb>勝</rb><rt>まさ</rt></ruby>っているところもある。

「――若殿は？」

と、長岡佐渡は探していた。

御書見の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>にも見えない。馬場にもお姿はない。

藩邸の地域はずいぶん広かったが、まだ庭などは整っていない。一部には元からの林があり、一部は<ruby><rb>伐木</rb><rt>ばつぼく</rt></ruby>して馬場となっている。

「若殿は、どちらにお<ruby><rb>在</rb><rt>い</rt></ruby>で遊ばすな」

佐渡は、馬場の方から戻りながら、通りかかった若侍にたずねた。

「お<ruby><rb>的場</rb><rt>まとば</rt></ruby>でござります」

「ああお弓か」

林の<ruby><rb>小径</rb><rt>こみち</rt></ruby>を縫って、その方角へ歩いてゆくと、

――ぴゅうん

と、<ruby><rb>快</rb><rt>こころよ</rt></ruby>い矢うなりがもう的場の方に聞える。

「おう、佐渡どの」

呼びとめる者があった。

同藩の岩間角兵衛である。実務家で<ruby><rb>辣腕</rb><rt>らつわん</rt></ruby>で、重く見られている人物だった。

「どちらへ」

と、角兵衛は寄って来た。

「御前へ」

「若殿は今、お弓のお稽古中でござるが」

「<ruby><rb>些事</rb><rt>さじ</rt></ruby>ゆえ、お弓場でも」

行き過ぎようとすると、

「佐渡どの、お急ぎなくば、ちとご相談申したいことがあるが」

「なんじゃの」

「立話でも――」

と、見まわして、

「あれで」

と、林の中の数寄屋の<ruby><rb>供待</rb><rt>ともまち</rt></ruby>へ誘った。

「ほかではないが、若殿との間に、何かのお話が出た折に、ひとり御推挙していただきたい人物があるのじゃが」

「御当家へ奉公したいという人間かの」

「いろいろな<ruby><rb>伝手</rb><rt>つて</rt></ruby>を求めて、同じような望みを申し入れて来る者が、佐渡どのの所へなども沢山あろうが、今、てまえの邸に置いてある人物はちと少ない人物かと思うので」

「ほ。……人材は御当家でも求めておるのじゃが、ただ、職にありつきたい人間ばかりでなあ」

「その<ruby><rb>手輩</rb><rt>てあい</rt></ruby>とは、ちと質からして違う男でござる。実はそれがしの家内とは縁故もあって、<ruby><rb>周防</rb><rt>すおう</rt></ruby>の岩国から来てもう二年もわしの<ruby><rb>邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>にごろごろしているのじゃが、何としても、御当家に欲しい人物でしてな」

「岩国とあれば、<ruby><rb>吉川家</rb><rt>きっかわけ</rt></ruby>の牢人かの」

「いや、岩国川の郷士の子息で、佐々木小次郎といい、まだ若年でござるが、<ruby><rb>富田流</rb><rt>とだりゅう</rt></ruby>の刀法を<ruby><rb>鐘巻自斎</rb><rt>かねまきじさい</rt></ruby>にうけ、<ruby><rb>居合</rb><rt>いあい</rt></ruby>を吉川家の食客片山<ruby><rb>伯耆守</rb><rt>ほうきのかみ</rt></ruby>久安から<ruby><rb>皆伝</rb><rt>かいでん</rt></ruby>され、それにも甘んじないで自ら<ruby><rb>巌流</rb><rt>がんりゅう</rt></ruby>という一流を立てたほどの者で」

と、口を極めて角兵衛は、その人間を佐渡に<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>かせようとする。

誰でも、人物の推薦には、一応このくらいには肩入れするものである。佐渡はそう熱心に聞いていなかった。――むしろ彼は、彼の意中に、一年半も持ち越したまま、つい忙しいままに忘れていた、べつな人間を、ふと思い出していた。

それは、<ruby><rb>葛飾</rb><rt>かつしか</rt></ruby>の法典ヶ原で開墾に従事している、宮本武蔵という名であった。

## 二

武蔵という名は、彼の胸に、あれ以来、忘れ得ないものになって深く刻まれていた。

（ああいう人物こそ、御当家でお<ruby><rb>抱</rb><rt>かか</rt></ruby>えになっておくとよいが）

と、佐渡は、<ruby><rb>密</rb><rt>ひそ</rt></ruby>かに胸に秘めていたのであった。

だがもう一度、法典ヶ原を訪れ、親しくその人物を見極めた上で、細川家へ推挙するつもりでいたのである。

今――思い出してみると、そういう考えを抱いて帰った徳願寺の一夜から、いつか、一年の余も経っていた。

公務の忙しさにも<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れ、あれきりまた、徳願寺へ詣る折がなかったためである。

（どうしているか）

と、佐渡がふと、ひとの話から思い出していると、岩間角兵衛は、自分の<ruby><rb>邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>に置いている佐々木小次郎の推薦に、佐渡の助力を期待して、なおしきりと小次郎の履歴や人物を話して、彼の賛同を求めた末、

「御前へ参られたら、どうぞひとつ、<ruby><rb>貴方</rb><rt>あなた</rt></ruby>からもお口添えを」

と、くれぐれも頼んで立ち去った。

「承知した」

と、佐渡は答えた。

けれど彼の胸には角兵衛から頼まれた小次郎のことよりも、やはり武蔵という名に何となく心が惹かれていた。

<ruby><rb>的場</rb><rt>まとば</rt></ruby>へ行ってみると、若殿の<ruby><rb>忠利</rb><rt>ただとし</rt></ruby>は、家臣を相手に、<ruby><rb>旺</rb><rt>さかん</rt></ruby>に弓をひいていた。忠利の射る矢は、一筋一筋、おそろしく正確で、その矢うなりにも、気品があった。

彼の侍者が、或る時、

（これからの戦場では、鉄砲がもっぱら用いられ、槍が次に使われ、太刀、弓などは、余り役立たぬように変遷しておるようにござりますから、お弓は、武家の飾りとしても、作法だけの御習得でよろしくはないかと存じますが）

と、<ruby><rb>諫</rb><rt>いさ</rt></ruby>めた時、忠利は、

（わしの弓は、心を<ruby><rb>的</rb><rt>まと</rt></ruby>に射ておるのだ。戦場へ出て、十や二十の武者を射る稽古をしているように見えるか）

と、かえってその侍者に反問したという若殿である。

細川家の臣は、大殿の三斎公には勿論、心から心服していたが、そうかといって、その三斎公の余光に伏して、忠利に仕えている者は一人もなかった。忠利の身辺に近侍している者は、三斎公が偉くあってもなくっても、問題ではなかった。忠利その人を心から、英主と仰いでいるのだった。

――これはずっと晩年の話であるが、その忠利をどんなに藩臣が畏敬していたかというよい話がある。

それは細川家が<ruby><rb>豊前</rb><rt>ぶぜん</rt></ruby>小倉の領地から熊本へ移封された時のこと――その入城式に、忠利は熊本城の大手の正門で駕籠を下り、衣冠着用のまま、<ruby><rb>新莚</rb><rt>あらむしろ</rt></ruby>に坐って、今日から城主として坐る熊本城へ向って手をついて礼拝したそうである。――すると、その時、忠利の<ruby><rb>冠</rb><rt>かんむり</rt></ruby>の<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>が城門の<ruby><rb>蹴放</rb><rt>けはなし</rt></ruby>――つまり門の<ruby><rb>閾</rb><rt>しきい</rt></ruby>――に<ruby><rb>触</rb><rt>さわ</rt></ruby>ったというので、それから以後忠利の家臣は勿論、代々の家来も皆、朝夕、この門を通行するのに、決して真ん中を<ruby><rb>跨</rb><rt>また</rt></ruby>ぐことはしなかったということである。

当時の一国の国守が「城」に対してどれほど厳粛な観念を抱いていたか、また、家臣がその「<ruby><rb>主</rb><rt>しゅ</rt></ruby>」に対して、どれほどな尊崇を抱いていたか、この一例はよくその辺の侍の気持を示している話であるが、壮年時代から既にそうした気宇のあった忠利であるから、その君へ家臣を推挙するにしても、うかつな者は、当然、推薦し<ruby><rb>難</rb><rt>にく</rt></ruby>かった。

長岡佐渡はお弓場へ来て忠利の姿を見ると、すぐさっき岩間角兵衛へわかれ際に、うっかり、

（承知いたした）

と、いってしまった軽率なことばを胸に悔いていた。

## 三

若侍の中に<ruby><rb>立</rb><rt>た</rt></ruby>ち<ruby><rb>交</rb><rt>ま</rt></ruby>じって、競射に汗をながしている細川忠利は、やはり一箇の若侍としか見えないほど無造作な姿だった。

今、一息ついて、何か侍臣たちと哄笑しながら、弓場の<ruby><rb>控</rb><rt>ひかえ</rt></ruby>へ来て、汗を<ruby><rb>拭</rb><rt>ぬぐ</rt></ruby>っていたが、ふと老臣の佐渡の顔を見かけて、

「<ruby><rb>爺</rb><rt>じい</rt></ruby>、そちも一射、試してみないか」

と、いった。

「いや、このお仲間では、<ruby><rb>大人</rb><rt>おとな</rt></ruby>げのうて」

と、佐渡も戯れると、

「何をいう。いつまでわし達を<ruby><rb>角髻</rb><rt>あげまき</rt></ruby>の子供と見おって」

「されば、てまえの<ruby><rb>弓勢</rb><rt>ゆんぜい</rt></ruby>は、山崎の御合戦の折にも、<ruby><rb>韮山城</rb><rt>にらやまじょう</rt></ruby>の<ruby><rb>城詰</rb><rt>しろづめ</rt></ruby>の折にも、しばしば大殿の御感にあずかった、極めつきの弓でござる。的場のお子供衆の中ではお慰みになりませぬ」

「はははは、始まったぞ、佐渡どののご自慢が」

侍臣たちが笑う。

忠利も苦笑する。

肌を入れて、

「何か用か」

忠利は、真面目に返った。

佐渡は、公務の用向きを、ちょっと耳に入れて、その後で、

「岩間角兵衛から、誰か御推挙の人物がある由でございますが、その<ruby><rb>仁</rb><rt>じん</rt></ruby>を、御覧になりましたか」

と、訊ねた。

忠利は、忘れていたらしく、いやと、顔を振ったが、すぐ思い出して、

「そうそう。佐々木小次郎とかいう者を、頻りと、推挙しておったが、まだ見ておらん」

「御引見なされてはいかがでござりますな。有能の人物は、諸家でも、争って高禄をもって誘いますゆえ」

「それほどな者かどうか？」

「ともかく、一度、お召寄せのうえで」

「……佐渡」

「は」

「角兵衛に、口添えを頼まれたかの」

と、忠利は苦笑した。

佐渡はこの若い殿の英敏を知っているし、自分の口添えが、決してその英敏を<ruby><rb>晦</rb><rt>くらま</rt></ruby>すものでないことも分っているので、ただ、

「御意」

と、いって笑った。

忠利はまた、<ruby><rb>弓掛</rb><rt>ゆがけ</rt></ruby>を手に<ruby><rb>嵌</rb><rt>は</rt></ruby>めて、侍臣の手から弓を受取りながら、

「角兵衛の推挙いたした人物も見ようが、いつか、そちが夜話しに申した、武蔵とかいう人物も一度見たいものだな」

といった。

「若殿には、まだご記憶でございましたか」

「わしは覚えておるが、そちは忘れておったのではないか」

「いや、その後はついぞ徳願寺へも、<ruby><rb>詣</rb><rt>もう</rt></ruby>でる折がございませぬために」

「一箇の人材を求めるためには、<ruby><rb>忙</rb><rt>せわ</rt></ruby>しい用を<ruby><rb>省</rb><rt>はぶ</rt></ruby>いても苦しゅうあるまい。他用の<ruby><rb>序</rb><rt>つい</rt></ruby>でになどとは、<ruby><rb>爺</rb><rt>じい</rt></ruby>にも似あわぬ横着な――」

「怖れいりました。したが、諸方より御奉公申したいと、御推挙も多い所、それに若殿にも、お聞き流しのようでござりましたゆえ、ついお耳に入れたまま、怠っておりましたが」

「いやいや、余人の<ruby><rb>眼鏡</rb><rt>めがね</rt></ruby>なら知らぬこと、爺の眼で、よかろうというその人物。わしも心待ちにしていたのじゃ」

佐渡は、恐縮して、藩邸から自分の邸に帰ると、すぐ駒の支度をさせ、従者もただ一人連れたきりで、<ruby><rb>葛飾</rb><rt>かつしか</rt></ruby>の法典ヶ原へいそいだ。

## 四

こよいは、泊っていられない。すぐ行ってすぐ帰るつもりである。心が<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>くので、徳願寺にも立ち寄らず、長岡佐渡は、駒を早めた。

「源三」と従者を顧みて、

「もはやこの辺りが、法典ヶ原ではないかの」

<ruby><rb>供侍</rb><rt>ともざむらい</rt></ruby>の佐藤源三は、

「てまえも、そうかと存じますが――まだここらには、御覧の通り、青田が見えますから、開墾しておる場所は、もそっと、野の奥ではございますまいか」

と、答えた。

「――そうかの？」

もう徳願寺からかなり来ている――これより奥へすすめば、道は<ruby><rb>常陸路</rb><rt>ひたちじ</rt></ruby>へかかってしまう。

陽が暮れかけた――青田には、白い<ruby><rb>鷺</rb><rt>さぎ</rt></ruby>が、粉のようにこぼれたり舞い立ったりしている。河原のへりや、丘の陰や、ところどころに、<ruby><rb>麻</rb><rt>あさ</rt></ruby>も植わっている。麦も<ruby><rb>戦</rb><rt>そよ</rt></ruby>いでいる。

「おお、御主人様」

「なんじゃ」

「あれに沢山、農夫がかたまっておりますが」

「……ム？　……なるほど」

「訊ねてみましょうか」

「待て。何をしているのか、代る代るに地へ<ruby><rb>額</rb><rt>ぬか</rt></ruby>ずいて、拝んでおる様子ではないか」

「ともあれ、参ってみましょう」

源三は、馬の口輪をつかみ、河原の浅瀬を瀬ぶみしながら、主人の駒をそこへ導いた。

「これ、百姓たち」

声をかけると、彼らはびっくりした眼をして、群れを崩した。

見ると、そこに一箇の掘建小屋がある。また、小屋の横には、鳥の巣箱ほどな、小さい御堂が出来ていて、彼らは、それを拝んでいたのだった。

一日の労役を終えた土民たちは、およそ五十名もそこにいた。めいめいがもう帰る<ruby><rb>間際</rb><rt>まぎわ</rt></ruby>であったらしく洗った道具を携えていた。そして何かがやがやいっていたが、その中から一人の僧が出て来て、

「これはこれは、<ruby><rb>誰方</rb><rt>どなた</rt></ruby>かと存じましたら、お<ruby><rb>檀家</rb><rt>だんか</rt></ruby>の長岡佐渡様ではございませぬか」

「おう、おぬしは、昨年の春、村に騒ぎのあった折、身の案内に立たれた徳願寺の僧侶じゃの」

「さようでござります。今日もご参詣でございましたか」

「いやいや、ちと思い立って急に出向いて来たまま、真っ直にこれまで参ったのじゃ。――早速に訊ねたいが、その折、当所で開墾していた牢人の武蔵と申す者と――伊織という<ruby><rb>童</rb><rt>わっぱ</rt></ruby>は――今でも健在かの？」

「その武蔵様は、もうここにはいらっしゃいませぬ」

「なに、いない？」

「はい、つい半月ほど前に、ふと何処かへ、立ち去っておしまいになりました」

「何ぞ、<ruby><rb>事情</rb><rt>わけ</rt></ruby>でもあって、立ち<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>いたのか」

「いえ。……ただその日だけは皆の衆も仕事を休んで、このように水ばかり出ていた荒地が、青々と、新田に変りましたので、青田祭りの欣びをいたしました。すると、その翌朝はもう、武蔵様もあの伊織も、この小屋に姿が見えなかったのでござりまする」

と、その僧侶は、まだそこらに武蔵様がいるような気がしてなりませぬ――といいながら、次のような仔細を話すのであった。

## 五

あの時以来。

<ruby><rb>土匪</rb><rt>どひ</rt></ruby>を<ruby><rb>懲</rb><rt>こ</rt></ruby>らし、村の治安が強固になり、めいめいの生活が平和に<ruby><rb>回</rb><rt>かえ</rt></ruby>ると、誰ひとりこの地方では、武蔵の名を呼び捨てにする者はなかった。

――法典の御牢人さま。

とか、または、

――武蔵さま。

とか敬称して、今まで<ruby><rb>狂人</rb><rt>きちがい</rt></ruby>扱いにしたり、悪口を叩いた者も、彼の開墾小屋へ来て、

（わしにも、お手伝いをさせて下され）

というように、変ってしまった。

武蔵は、誰にも平等に、

（ここへ来て手伝いたい者は手伝え。豊かになりたい者は来い。自分だけ喰って死ぬことは<ruby><rb>鳥獣</rb><rt>とりけだもの</rt></ruby>もする。少しでも、子孫のために、自分の働きを<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>して行こうとする者はみんな来い）

そういうと忽ち、

（わしも、わしも）

と、彼の開墾地には、日々四、五十人ずつ、手空きの者が集まった。農閑期には、何百人も来て、心を<ruby><rb>協</rb><rt>あわ</rt></ruby>せて、荒地を<ruby><rb>拓</rb><rt>ひら</rt></ruby>いた。

その結果、去年の秋には、今までの<ruby><rb>出水</rb><rt>でみず</rt></ruby>もそこだけは防ぎ止め、冬には土を耕し、春には<ruby><rb>苗代</rb><rt>なわしろ</rt></ruby>に<ruby><rb>種子</rb><rt>たね</rt></ruby>を<ruby><rb>蒔</rb><rt>ま</rt></ruby>き水を引き、この初夏には、わずかながら新田に青々と稲もそよぎ、麻も麦も一尺の余も伸びていた。

土匪は来なくなった。村の者は気をそろえてよく働き出した。若い者の親たちや女房たちは、武蔵を神のように慕い、草餅や初物の野菜ができると、小屋へ運んで来た。

（来年は、田も畑も、この倍になるぞ。その次の年には、三倍になる）

と彼らは、土匪征伐と村の治安に信念を持つと共に、荒地の開墾にも、すっかり信念を持った。

その感謝の<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れから、村民たちは、一日仕事を休んで、小屋へ酒壺をかついで来た。そして、武蔵と伊織を取り巻いて、里<ruby><rb>神楽</rb><rt>かぐら</rt></ruby>の太鼓や笛をあわせて青田祭りをしたのであった。

その時、武蔵がいった。

「わしの力じゃない。おまえ達の力だ。わしはただ、おまえ達の力を引出してやっただけのものじゃ」

そして、その祭りに来あわせていた徳願寺の僧へ、

「わしの如き、一介の<ruby><rb>漂泊士</rb><rt>ひょうはくし</rt></ruby>を、皆が頼りにしていては、末が心もとない。――いつまでも、今の信念と一致が<ruby><rb>縒</rb><rt>より</rt></ruby>の戻らぬように、これを、心の<ruby><rb>的</rb><rt>まと</rt></ruby>としたがよかろう」

と、一体の<ruby><rb>木彫</rb><rt>きぼり</rt></ruby>の観世音を包みから出して授けた。

その翌朝――来てみると武蔵はもう小屋にいなかった。伊織を連れて、行く先も告げず、夜明け前に、何処かへ旅立ったものと見え、旅包みもなかった。

「武蔵さまがいない！」

「どこぞへ、消えてしまいなすった――」

土民たちは、慈父を見失ったように、その日は、仕事も手につかず、ただ彼のうわさと哀惜に暮れた程だった。

徳願寺の一僧は、武蔵のことばを、思い当って、

「それでは、あの方にすむまいぞ、青田を枯らすな。畑を<ruby><rb>殖</rb><rt>ふ</rt></ruby>やせ」

と、一同を励ました。そして小屋のそばに、小さい堂を作り、そこへ観音像を納めると、土民たちは、いわれるまでもなく、朝夕仕事にかかる前、仕事の終った後には、武蔵へ挨拶するように、必ずそこへ<ruby><rb>額</rb><rt>ぬか</rt></ruby>ずいた。

――僧の話はそれで終った。だが、長岡佐渡の悔いはいつまでも、胸を噛んで、

「……ああ遅かった」

卯月の夜は、<ruby><rb>草靄</rb><rt>くさもや</rt></ruby>にぼかされて来た。佐渡は、むなしく駒を返しながら、

「惜しいことをした……こういう怠慢は、ひとつの不忠も同じこと。……遅かった、遅かった」

何度も口のうちで<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた。

## 入城府

## 一

両国という地名も橋が出来てから後のことである。まだ両国橋も、その頃はなかった。

けれど、<ruby><rb>下総領</rb><rt>しもうさりょう</rt></ruby>から来る道も、奥州街道から<ruby><rb>岐</rb><rt>わか</rt></ruby>れて来る道も、後の橋の<ruby><rb>架</rb><rt>か</rt></ruby>けられた辺りへ来て、大川に突き当っていた。

渡し場には、関門と呼んでよいくらいな、厳しい木戸があった。

そこには、江戸町奉行の職制ができてから、初めての初代町奉行、青山<ruby><rb>常陸介忠成</rb><rt>ひたちのすけただなり</rt></ruby>の手の者が、

「待て」

「よろしい」

などと、いちいち通行人<ruby><rb>検</rb><rt>あらた</rt></ruby>めをしていた。

（ははあ、だいぶ江戸の神経も、<ruby><rb>尖</rb><rt>とが</rt></ruby>っておるな）

と、武蔵はすぐ思った。

三年前、中山道から江戸へ足を入れて、すぐ奥羽の旅へ向った時、まだ、この都市の出入りはさほどでなかった。

それが、急激にこう厳重になったのはなぜか？

武蔵は、伊織を連れて、木戸口に順々に並んでいる間に考えた。

都市が都市らしくなって来ると必然に、人間が<ruby><rb>殖</rb><rt>ふ</rt></ruby>える、人間の中の<ruby><rb>種々</rb><rt>さまざま</rt></ruby>な善業悪業が<ruby><rb>相剋</rb><rt>そうこく</rt></ruby>し合う。制度が<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>る、制度の法網を<ruby><rb>潜</rb><rt>くぐ</rt></ruby>る方も活溌になる。そして栄えを祈る文化を打ち建てながら、その文化の下で、もう浅ましい生活や慾望が血みどろで地上に噛み合う。

それもあろう。

がまた、ここが徳川家の将軍所在地となると共に、大坂方に対する警戒も、日に増して厳密を要するのであろう。――何しろ大川を隔てて見ても、この前、武蔵が見た江戸とは、家々の屋根が<ruby><rb>殖</rb><rt>ふ</rt></ruby>えていることや、緑が目立って減っていることだけでも、<ruby><rb>隔世</rb><rt>かくせい</rt></ruby>の感があった。

「御牢人は――？」

そう呼ばれた時は、もう<ruby><rb>革袴</rb><rt>かわばかま</rt></ruby>を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いた二人の木戸役人に、武蔵は、<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>から背や腰の――体じゅうを撫でまわされていた。

べつな役人が、側から厳しい目で詰問した。

「御府内へ、何用を帯びて行かっしゃるか」

武蔵はすぐ答えた。

「何処とて、<ruby><rb>的</rb><rt>あて</rt></ruby>もなく歩く修行者でござる」

「<ruby><rb>的</rb><rt>あて</rt></ruby>もなく？」

と、<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>め立てして、

「修行するという的があるではないか」

「…………」

苦笑を見せると、

「生国は？」

と、たたみかける。

「<ruby><rb>美作</rb><rt>みまさか</rt></ruby>吉野郷宮本村」

「主人は」

「持ちませぬ」

「然らば、路用その他の出費は、誰から受けておらるるか」

「行く所でいささか余技の彫刻をなし、<ruby><rb>画</rb><rt>え</rt></ruby>などを書き、また寺院に泊り、乞う者があれば<ruby><rb>太刀技</rb><rt>たちわざ</rt></ruby>もおしえ、人々の合力に依って旅しておりますが……それもない時には、石にも臥し、草の根や木の実を喰ろうておりまする」

「ふーム……。で、いずれからお越しなされた」

「<ruby><rb>陸奥</rb><rt>みちのく</rt></ruby>に半年あまり、<ruby><rb>下総</rb><rt>しもうさ</rt></ruby>の法典ヶ原に、百姓の<ruby><rb>真似事</rb><rt>まねごと</rt></ruby>して、二年ほどを過ごし、いつまで、土いじりもと存じて、これまで、参ってござります」

「連れの<ruby><rb>童</rb><rt>わっぱ</rt></ruby>は」

「同所で拾い上げた<ruby><rb>孤児</rb><rt>みなしご</rt></ruby>――伊織と申し、十四歳に相成ります」

「江戸で泊る先はあるのか。無宿の者、縁故のない者は、一切入れぬが」

<ruby><rb>限</rb><rt>き</rt></ruby>りがない。後ろにはもうたくさんな往来人がつかえている。素直に答えているのも<ruby><rb>莫迦</rb><rt>ばか</rt></ruby>らしく、ひとにも迷惑と考えて、武蔵は答えた。

「あります」

「何処の、誰か？」

「柳生<ruby><rb>但馬守宗矩</rb><rt>たじまのかみむねのり</rt></ruby>どの」

## 二

「何、柳生どのへ」

役人は、ちょっと、鼻白んで黙った。

武蔵は、おかしく思った。柳生家とは、われながら、いみじくも思い付いたものだと自分で感心する。

かねて<ruby><rb>大和</rb><rt>やまと</rt></ruby>の柳生石舟斎とは、面識はないが、<ruby><rb>沢庵</rb><rt>たくあん</rt></ruby>を通じて相知る仲である。問い合せられても、

（そんな人間は知らぬ）

とは柳生家でも答えまい。

ひょっとしたら、その沢庵も江戸表へ来ているような気がする。石舟斎には、遂に、<ruby><rb>面謁</rb><rt>めんえつ</rt></ruby>も遂げず宿望の一太刀も合せなかったが、その<ruby><rb>嫡子</rb><rt>ちゃくし</rt></ruby>で――かつ柳生流の<ruby><rb>直流</rb><rt>じきりゅう</rt></ruby>を<ruby><rb>享</rb><rt>う</rt></ruby>け、秀忠将軍の指南に就任して来ている但馬守宗矩には、ぜひとも、会いもしたいし、試合も受けてみたい。

そう、日頃から思っていたのが――思わず直ぐ行く先かのように、木戸役人の質問に出てしまったのである。

「いや、それでは、柳生家に御縁故のあるお方でござったか。……失礼いたした。何分、うろんな侍どもが、御府内に入り込むため、牢人方と見れば、<ruby><rb>一際</rb><rt>ひときわ</rt></ruby>、厳密な取調べを要す――という上司からの厳達なので」

役人は、こう言葉も態度もあらためて、後の調べは、ほんの形式だけですまし、

「お通りなさい」

と、木戸口から送った。

伊織は後から<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて来て、

「先生、なぜ侍だけ、あんなにやかましいんだろ」

「敵方の<ruby><rb>間者</rb><rt>かんじゃ</rt></ruby>に備えてであろうな」

「だって、間者なら、牢人のふうなんかして、通るもんか。お役人って、頭がわるいね」

「聞えるぞ」

「たった今、<ruby><rb>渡船</rb><rt>わたし</rt></ruby>が出ちまったよ」

「待つ間に富士でも眺めておれというのだろう。――伊織、富士が見えるぞ」

「富士なんて、めずらしくないや。法典ヶ原からだって、いつも見えるじゃないか」

「きょうの富士はちがう」

「どうして」

「富士は、一日でも、同じ姿であったことがない」

「同じだよ」

「時と、天候と、見る場所と、春や秋と。――それと観る者のその折々の心次第で」

「…………」

伊織は、河原の石を拾って、水面を切って遊んでいたが、ひょいと跳んで来て、

「先生、これから、柳生様のお屋敷へ行くんですか」

「さあ、どうするか」

「だって、あそこで、そういったじゃないか」

「一度は、行くつもりだが……<ruby><rb>先様</rb><rt>さきさま</rt></ruby>は、大名だからの」

「将軍家の御指南役って、偉いんだろうね」

「うむ」

「おらも大きくなったら、柳生様のようになろう」

「そんな小さい望みを持つんじゃない」

「え。……なぜ？」

「富士山をごらん」

「富士山にゃなれないよ」

「あれになろう、これに成ろうと<ruby><rb>焦心</rb><rt>あせ</rt></ruby>るより、富士のように、黙って、自分を動かないものに作りあげろ。世間へ<ruby><rb>媚</rb><rt>こ</rt></ruby>びずに、世間から仰がれるようになれば、自然と自分の値うちは世の人がきめてくれる」

「渡船が来たよ」

子供は、人に遅れるのが嫌いだ。伊織は、武蔵をさえ捨てて、真っ先に乗合の<ruby><rb>舷</rb><rt>ふなべり</rt></ruby>へ跳び移った。

## 三

広い所もあれば、狭い所もある。河の中には<ruby><rb>洲</rb><rt>す</rt></ruby>もあるし、流れの早い瀬も見える。何しろ当時のすみだ川は、自由気ままな姿であった。そして両国はもう海に近い入江であり、波の高い日は、濁流が両河岸を<ruby><rb>浸</rb><rt>ひた</rt></ruby>して、<ruby><rb>平常</rb><rt>ふだん</rt></ruby>の二倍にも見える大河になった。

渡船の<ruby><rb>棹</rb><rt>さお</rt></ruby>は、ガリガリと、川底の砂利を突いてゆく。

空の澄んだ日は、水も澄み切って、<ruby><rb>舷</rb><rt>ふなべり</rt></ruby>から魚の影が覗かれた。赤く<ruby><rb>錆</rb><rt>さ</rt></ruby>びた<ruby><rb>兜</rb><rt>かぶと</rt></ruby>の鉢金などが、小石の間に埋っているのもまま見えた。

「どうだろう、このまま天下泰平に治まるものだろうか」

<ruby><rb>渡船</rb><rt>わたし</rt></ruby>の中の話である。

「そうは行くめえなあ」

と、ひとりがいう。

その連れが、連れの者の言葉に裏書して、

「いずれ、<ruby><rb>大戦</rb><rt>おおいく</rt></ruby>さ。――なけれやそれに越したことはねえが」

話は、<ruby><rb>弾</rb><rt>はず</rt></ruby>みかけて弾まなかった。中には、よせばいいにという顔して水を見ている者もある。役人の耳が怖いからだった。

だが、お<ruby><rb>上</rb><rt>かみ</rt></ruby>の怖い目や耳を<ruby><rb>掠</rb><rt>かす</rt></ruby>めながら、民衆はそういう物へ触れるのを好む。わけもなくただ好むのである。

「その証拠には、ここの渡船の木戸調べでもそうだ。こう往来<ruby><rb>検</rb><rt>あらた</rt></ruby>めが厳しくなったのは、つい近頃のこったが、それというのも、上方からどしどし隠密が入り込んでいるからだという噂だぜ」

「そういえば、この頃、大名屋敷へよくはいる盗賊があるそうだ。――外聞に洩れては、見っともないので、はいられた大名は皆、口を拭いているらしいが」

「それも、隠密だろうぜ、いくら金の欲しい奴でも、大名屋敷などは、<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>を捨ててかからなければはいれねえ所だ。ただの泥棒である筈はねえ」

渡船の客を見渡すと、これは江戸の一縮図といっていい。<ruby><rb>鋸屑</rb><rt>おがくず</rt></ruby>を着けている材木屋、上方流れの<ruby><rb>安芸人</rb><rt>やすげいにん</rt></ruby>、<ruby><rb>肩肱</rb><rt>かたひじ</rt></ruby>を突ッ張っている無法者、井戸掘りらしいひとかたまりの労働者、それとふざけている売笑婦、僧侶、虚無僧――そして武蔵のような牢人者。

船が着くと、それらの人々がぞろぞろと、流れになって、岸へ上がって行く。

「もし、御牢人」

武蔵を追いかけて来た男があった。見ると、船の中にいた背のずんぐりした無法者で――。

「お忘れ物をなすったろう。こいつあ、おめえさんの膝ッ子から落ちたんで、拾って来たが」

と、赤地錦の――といっても余りに古びて<ruby><rb>金襴</rb><rt>きんらん</rt></ruby>の光よりは、<ruby><rb>垢光</rb><rt>あかびか</rt></ruby>りの方がよけいにする巾着の耳を<ruby><rb>抓</rb><rt>つま</rt></ruby>んで、武蔵の顔の前へ出した。

武蔵は、顔を振って、

「いや、てまえの所持品ではありませぬ。誰ぞ、ほかの乗合の衆の物でござろう」

いうと、その横合から、

「ア、おらのだ」

と、無法者の手から、いきなりそれを<ruby><rb>奪</rb><rt>と</rt></ruby>って、<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>へ仕舞った者がある。

武蔵の側にいると、あまり背の違いがあるので、よく見ないと気がつかないほど小さい、伊織であった。

無法者は、怒った。

「やいやい、いくら<ruby><rb>汝</rb><rt>てめえ</rt></ruby>の物だって礼もいわずに、引ッ<ruby><rb>奪</rb><rt>た</rt></ruby>くるという奴があるか。もいちど、今の巾着を出せ。改めて三べん廻ってお辞儀をしたら<ruby><rb>返</rb><rt>け</rt></ruby>えしてやるが、さもなければ、河ン中へ、叩っ込んでしまうから」

## 四

無法者の怒りようも大人げなく思われたが、伊織の仕方も重々よくない。――だが子供のことであるから自分に免じて<ruby><rb>寛</rb><rt>ゆる</rt></ruby>してくれ、と武蔵が代って<ruby><rb>詫</rb><rt>あやま</rt></ruby>ると、無法者は、

「兄か、主人か、何か知らねえが、じゃあおめえの名を聞いておこう」

と、いう。

武蔵は、辞を低く、

「名乗るほどの者ではありませんが、牢人宮本武蔵という者です」

すると、無法者は、

「えっ？」

と、目をみはって、しばらく凝視していたが、

「これから気をつけろ」

伊織へ<ruby><rb>一言</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>、捨て<ruby><rb>科白</rb><rt>ぜりふ</rt></ruby>を置いて、さっと身を<ruby><rb>翻</rb><rt>かわ</rt></ruby>すように立去ろうとした。

「待てっ」

処女のように柔和だった者の口から、こう不意に一<ruby><rb>喝</rb><rt>かつ</rt></ruby>くって、無法者はびくっとしながら、

「な、なにしやがんでい」

つかまれている脇差のこじりを<ruby><rb>捥</rb><rt>も</rt></ruby>ぎ払おうとして振向いた。

「汝の名を申せ」

「おれの名」

「ひとの名を聞いたまま、会釈もなく立ち去る法があろうか」

「おらあ、<ruby><rb>半瓦</rb><rt>はんがわら</rt></ruby>の身内のもんで、<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>の十郎ってんだ」

「よし、行け」

突っ放すと、

「覚えてやがれ」

と、菰はのめッたまま素っ飛んで行った。

伊織は、自分のかたきを打って貰ったように、

「いい気味だ、弱虫」

またとない頼母しい人のように武蔵を見上げて、その側へくッついた。

町へと、歩き出しながら、

「伊織」

「はい」

「今までのように、野原に住んで、<ruby><rb>栗鼠</rb><rt>りす</rt></ruby>や狐が<ruby><rb>隣近所</rb><rt>となりきんじょ</rt></ruby>のうちはよいが、このように多くの人の住んでいる町なかへ来たら、礼儀作法を持たねばならぬぞ」

「はい」

「人と人とが円満に住んでゆければ地上は極楽だが、人間は生れながら神の性と、悪魔の性と、誰でも二つ持っている。それが、ひとつ間違うと、この世を地獄にもする。そこで、悪い性質は働かせないように、人なかほど、礼儀を重んじ、体面を尊び、また、お上は法を設けて、そこに秩序というものが立ってくる。――おまえが<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>したような不作法は小さいことだが、そういう秩序の中では人を怒らせるのだ」

「はい」

「これから、何処へどう旅して行くか知れぬが、行く先々の<ruby><rb>掟</rb><rt>おきて</rt></ruby>には素直に、人には礼儀をもって<ruby><rb>対</rb><rt>むか</rt></ruby>うのだぞ」

噛んで含めるようにいい聞かせると、伊織は、<ruby><rb>何遍</rb><rt>なんべん</rt></ruby>もこっくりして、

「分りました」

と、早速に言葉もていねいになったり、取って付けたようなお辞儀もしてから、

「先生、また落すといけませんから、これを、済みませんが、先生のふところに持っていて下さい」

と、さっき<ruby><rb>渡船</rb><rt>わたし</rt></ruby>の中へ忘れてしまうところだった<ruby><rb>襤褸</rb><rt>つづれ</rt></ruby>の巾着を、武蔵の手に預けた。

それまでは、かくべつ気にも止めなかった武蔵は今、手にしてふと思い出した。

「これはお前が父から<ruby><rb>遺物</rb><rt>かたみ</rt></ruby>にもろうた品ではないのか」

「ええそうです。徳願寺へ預けておいたら、今年になって、お住持さんが、黙って返してくれた。おかねも元のままはいっているよ。なにか<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>る時には、そのおかね、先生が<ruby><rb>費</rb><rt>つか</rt></ruby>ってもかまわないよ」

## 五

「ありがとう」

武蔵は、伊織へそういった。

他愛もない言葉ながら、伊織の気持は<ruby><rb>欣</rb><rt>うれ</rt></ruby>しいものだった。彼は自分の<ruby><rb>侍</rb><rt>かしず</rt></ruby>いている先生が、いかに貧しいかを、子供ごころにも常に案じているふうなのだ。

「では、借りておくぞ」

おしいただいて、武蔵は、彼の巾着を<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>に預かった。

そして歩きながら思うには、伊織はまだ子供だが、幼少から、あの痩せた土と<ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>の中に生れ、<ruby><rb>審</rb><rt>つぶ</rt></ruby>さに生活の困窮を<ruby><rb>舐</rb><rt>な</rt></ruby>めてきたので、童心の中にもおのずから「経済」というものの観念が、つよく養われている。

それに較べると、武蔵は自分ながら、自分には「かね」を軽視し、経済を度外視している欠点があることに気づく。

大きな経策には関心をもつのであるが、自己の小さい経済には、ほとんど無関心なのである。そして幼い伊織にさえその「私の経済」には、いつも心配を<ruby><rb>煩</rb><rt>わずら</rt></ruby>わしている。

（この少年は、自分にはない才能を持っているようだ）

武蔵は、馴じむほど、伊織の性格の中に、次第に磨かれてくる聡明をたのもしく思った。それは彼自身にもまた、別れた城太郎にもないものだと思った。

「どこへ泊ろうな、今夜は」

武蔵には、<ruby><rb>的</rb><rt>あて</rt></ruby>がない。

伊織は、めずらしげに、町ばかり見廻していたが、やがて異郷の中に、自分の友達でも見つけたように、

「先生、馬がたくさんいるよ。町の中にも馬市が立つんだね」

と軽い昂奮をして指さす。

<ruby><rb>博労</rb><rt>ばくろう</rt></ruby>が集まって、博労茶屋や博労宿が無秩序に<ruby><rb>殖</rb><rt>ふ</rt></ruby>えだしたので、近頃「ばくろ<ruby><rb>町</rb><rt>ちょう</rt></ruby>」と呼ばれている辻の辺りから――馬の背が無数に並んでいる。

<ruby><rb>市</rb><rt>いち</rt></ruby>へ近づくと、<ruby><rb>馬蠅</rb><rt>うまばえ</rt></ruby>と人間がわんわんいっている。関東<ruby><rb>訛</rb><rt>なま</rt></ruby>りの、あらゆる地方語で<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>いているので、なんの意味やら分らない騒音になっている。

従者をつれた武家の者が、頻りと名馬を探し求めていた。

世間に人材が乏しいように、馬の中にも、名馬が少ないものとみえ、その侍は、

「もう帰ろうわえ、一匹も殿へお<ruby><rb>薦</rb><rt>すす</rt></ruby>めできるような馬はおりやせん」

こういい放って、馬の間から大股に身を<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>らした時、はたと、武蔵と正面に出会った。

「おう」

と、その侍は、胸を<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>らし、

「宮本<ruby><rb>氏</rb><rt>うじ</rt></ruby>ではないか」

武蔵もその顔を見つめて、同じように、

「おう」

と、顔を<ruby><rb>綻</rb><rt>ほころ</rt></ruby>ばせた。

それは<ruby><rb>大和</rb><rt>やまと</rt></ruby>の柳生ノ庄で、親しく新陰堂へ招かれたこともあるし、一夜を剣談に<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>かしたこともある――柳生石舟斎の高足木村助九郎であった。

「いつから江戸表へござったな。意外な所で、お目にかかったのう」

と、助九郎は、武蔵のすがたを見て、武蔵が今なお、修行の<ruby><rb>途</rb><rt>と</rt></ruby>にまみれている様子を見て取ったようにいった。

「いや、たった今、<ruby><rb>下総領</rb><rt>しもうさりょう</rt></ruby>から来たばかりです。大和の大先生にも、その後、お<ruby><rb>健</rb><rt>すこ</rt></ruby>やかでおられますか」

「ご無事でござる。したが、もう何分、ご高齢でな」

といって、すぐ、

「いちど但馬守様のおやしきにも、お越しがあるとよい。お<ruby><rb>紹介</rb><rt>ひきあ</rt></ruby>わせもしようし……それに」

と助九郎は、何の意味か、武蔵の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を見つめながら、にっと笑った。

「貴公の美しい落し物が、お邸へ届いておるぞ。ぜひ一度、訪ねてござらっしゃい」

――美しい落し物。

はて？　何だろう。助九郎は<ruby><rb>仲間</rb><rt>ちゅうげん</rt></ruby>を連れてもう往来の向う側へ、大股に移っていた。

## <ruby><rb>蠅</rb><rt>はえ</rt></ruby>

## 一

ここは裏町――つい今し方、武蔵の<ruby><rb>彷徨</rb><rt>さまよ</rt></ruby>っていた<ruby><rb>博労町</rb><rt>ばくろちょう</rt></ruby>の裏通りである。

隣も<ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>屋、その隣も旅籠屋、一町内の半分が、汚い旅籠屋であった。

泊り賃が安いので、武蔵と伊織はそこへ泊った。ここの家にもあるが、何処の旅籠屋にも、<ruby><rb>馬舎</rb><rt>うまや</rt></ruby>が付きものになっていて人間の宿屋というより、馬の宿屋といったほうが近かった。

「お侍さま、表の二階だと、少しは<ruby><rb>蠅</rb><rt>はえ</rt></ruby>が少のうございますで、部屋をお取替いたしますべ」

と、博労でない客の武蔵を、ここの旅籠では少し持ち扱い気味。

勿体ない、きのうまでの開墾小屋の生活から較べれば、ここはこれでも畳のうえ。――にも<ruby><rb>関</rb><rt>かかわ</rt></ruby>らずつい、

（ひどい蠅だなあ）

と<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いたのが、気にでも<ruby><rb>障</rb><rt>さわ</rt></ruby>ったふうに、旅籠のかみさんの耳にはいったものとみえる。

だが――好意のままに、武蔵と伊織は、表二階へ移った。ここはまた、かんかんと<ruby><rb>西陽</rb><rt>にしび</rt></ruby>が<ruby><rb>映</rb><rt>さ</rt></ruby>している。――すぐそう思うだけでも、気持が贅沢に変っているのだと思いながら、

「よしよし。ここでいい」

と、独り<ruby><rb>宥</rb><rt>なだ</rt></ruby>めて落着いた。

ふしぎなのは人間をつつむ文化の雰囲気である。つい昨日までいた開墾小屋では、強い西陽は<ruby><rb>苗</rb><rt>なえ</rt></ruby>の育ちを思い、あしたの晴朗な気が<ruby><rb>卜</rb><rt>ぼく</rt></ruby>されて、この上もない光明であり希望であった。

汗の肌にたかる蠅を、土に働いている時は気にもならないし、むしろ、

（おまえも生きているか。おれも生きて働いているぞ）

といいたいくらい、自然の中に生命を持つ友達にさえ思えるのに、大河を一つ越えて、この<ruby><rb>熾</rb><rt>さかん</rt></ruby>な勃興都市の一員となるとすぐ、

（西陽があつい。蠅がうるさい――）

などという神経と共に、

（なんぞ<ruby><rb>美味</rb><rt>うま</rt></ruby>い物でも喰いたいなあ）

と、思う。

そういう人間の横着な変り方は、伊織の顔にもありありと出ている。むりもないことには、すぐ横隣で博労の一群れが、鍋に物を煮て、騒がしく酒を飲んでいるのだ。法典の開墾小屋では、<ruby><rb>蕎麦</rb><rt>そば</rt></ruby>を喰べたいと思えば、春先<ruby><rb>種子</rb><rt>たね</rt></ruby>を<ruby><rb>蒔</rb><rt>ま</rt></ruby>き、夏花を見て、秋の暮に実を乾し、ようやく冬の夜粉を<ruby><rb>挽</rb><rt>ひ</rt></ruby>いて喰べるのだが、ここでは手一つ叩いて、打ってもらえば、<ruby><rb>一刻</rb><rt>いっとき</rt></ruby>もすると、蕎麦が出てくる。

「伊織、蕎麦を喰おうか」

武蔵がいうと、

「うん」

と、伊織は<ruby><rb>唾</rb><rt>つば</rt></ruby>をのんで<ruby><rb>欣</rb><rt>うれ</rt></ruby>しそうに<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>く。

そこで<ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>のかみさんをよんで、<ruby><rb>蕎麦</rb><rt>そば</rt></ruby>を打って貰えるかと<ruby><rb>計</rb><rt>はか</rt></ruby>ると、<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>のお客からもご注文があるから、きょうは打って上げてもいいという。

蕎麦のできて来る間、西陽の窓に頬杖ついて、下の往来をながめていると、すぐ<ruby><rb>斜向</rb><rt>すじむこ</rt></ruby>うに、

<ruby><rb>御</rb><rt>おん</rt></ruby>たましい<ruby><rb>研所</rb><rt>とぎどころ</rt></ruby>

<ruby><rb>本阿弥</rb><rt>ほんあみ</rt></ruby>門流<ruby><rb>厨子野</rb><rt>ずしの</rt></ruby>耕介

と読める板が軒先に出ている。

それを先に見つけたのは、眼のはやい伊織で、さも驚いた顔しながら、

「先生、あそこに、御たましい研所と書いてあるけれど、何の商売でしょう？」

「本阿弥門流とあるから、刀の<ruby><rb>研師</rb><rt>とぎし</rt></ruby>であろう。――刀は武士のたましいというから」

そう答えて、武蔵は、

「そうだ、わしの刀も、いちど手入れしておかねばなるまいな。後で、訊ねてみよう」

と、呟いた。

その時、<ruby><rb>襖隣</rb><rt>ふすまどなり</rt></ruby>で、なにか喧嘩が始まった。いや喧嘩ではなく、賭博のもつれで、なにか<ruby><rb>紛争</rb><rt>あらそい</rt></ruby>が起ったらしいのだ。――武蔵は、なかなか来ない蕎麦の待ち遠しさに、手枕をかって、とろとろしていたが、ふと眼をさまして、

「伊織。隣の衆へ、少しお静かにしてくださいと申せ」

といいつけた。

## 二

そこの境を開ければ、すぐ事は済むが、武蔵の横になっている姿が先に見えるので、伊織は、わざわざ廊下へ出て、隣の部屋へ、いいに行った。

「おじさん達、あんまり騒がないでおくれよ。<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>に、おらの先生が寝ているんだから」

すると、

「何？」

と、博労たちは、賭博の<ruby><rb>紛争</rb><rt>もつれ</rt></ruby>に血ばしった眼を、一<ruby><rb>斉</rb><rt>せい</rt></ruby>に伊織の小さい姿へ移した。

「なんだと、小僧」

伊織は、その無礼に、むっとして口を<ruby><rb>尖</rb><rt>とが</rt></ruby>らしながら、

「蠅がうるさいから、二階へ越して来たら、またみんなが騒いでいて<ruby><rb>喧</rb><rt>やかま</rt></ruby>しくってしようがないや」

「てめえがいうのか、てめえの主人でも、そういって来いといったのか」

「先生がさ」

「いいつけたんだな」

「誰だって、うるさいよ」

「ようし、てめえっちのような、兎の<ruby><rb>糞</rb><rt>くそ</rt></ruby>みてえなチビに、挨拶しても仕方がねえ、後から、<ruby><rb>秩父</rb><rt>ちちぶ</rt></ruby>の熊五郎が返答にゆくから引っ込んでろ」

秩父の熊か<ruby><rb>狼</rb><rt>おおかみ</rt></ruby>か分らないが、なにしろ<ruby><rb>獰猛</rb><rt>どうもう</rt></ruby>そうなのが、その中に二、三人いる。

その<ruby><rb>手輩</rb><rt>てあい</rt></ruby>に睨まれて、伊織はあわてて帰って来た。武蔵は、手枕の<ruby><rb>肱</rb><rt>ひじ</rt></ruby>へ薄く眼をつぶって眠っている。その<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>に西陽もだいぶ<ruby><rb>陰</rb><rt>かげ</rt></ruby>って、足の先と、<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>の端の残り陽に、大きな蠅が真っ黒にたかっていた。

起してはいけないと思って、伊織はそのまま黙って、また往来を<ruby><rb>視</rb><rt>み</rt></ruby>ていた。――しかし、隣の部屋の<ruby><rb>喧</rb><rt>やかま</rt></ruby>しさは前と少しも変りはない。

こちらから持って行った抗議の衝動をうけて、賭博の紛争は沙汰止みになったらしいが、その代り今度は団結して、無礼にも、境のふすまを細目に開けて覗いたり、暴言を放ったり、<ruby><rb>嘲笑</rb><rt>あざわら</rt></ruby>ったりしているのだった。

「ええこう、どこの牢人か知らねえが、江戸の真ン中へ風に吹かれて来やがって、しかも博労宿にのさばりながら、うるせえもねえもンじゃねえか。うるせえなあ、おれっちの持ち前だ」

「つまみ出しちまえ」

「わざと、ふてぶてしそうに、寝ていやがるぜ」

「侍なんぞに、驚くような骨の細い博労は、関東にゃいねえってことを、誰か、よく聞かして来いよ」

「いっただけじゃだめだ、裏へ<ruby><rb>抓</rb><rt>つま</rt></ruby>み出して、馬の小便で顔を洗わせちまえ」

すると<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>の――秩父の熊とか鷹とかいう男が、

「まあ、待て。ひとりや二人の<ruby><rb>乾飯</rb><rt>ほしい</rt></ruby>ざむらい、騒ぐにゃ当らねえ。おれが懸合いに行って、<ruby><rb>謝</rb><rt>あやま</rt></ruby>り証文を取って来るか、馬の小便で顔を洗わせるか、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かた</span>をつけてやるから<ruby><rb>汝</rb><rt>てめえ</rt></ruby>たちは静かに呑みながら見物していろやい」

「おもしれえ」

と、博労たちは、<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>の陰に鳴りをしずめた。

その者たちから見ると、頼みがいある<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>だましいを持った博労の熊五郎は、腹帯を締め直して、

「へい、御免なすって」

と、<ruby><rb>間</rb><rt>あい</rt></ruby>の襖をあけ、上眼づかいに、相手を見ながら、膝で這いずりこんだ。

武蔵と、伊織のあいだに、<ruby><rb>誂</rb><rt>あつら</rt></ruby>えておいた<ruby><rb>蕎麦</rb><rt>そば</rt></ruby>がもう来ていた。大きな<ruby><rb>塗</rb><rt>ぬり</rt></ruby>の蕎麦箱の中に、蕎麦の玉が六ツ並んでいて、その一山を、<ruby><rb>箸</rb><rt>はし</rt></ruby>で<ruby><rb>解</rb><rt>ほぐ</rt></ruby>しかけていた所である。

「……あ、来たよ先生」

伊織はびっくりして、そこを<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>いた。熊五郎は、その後へ、大あぐらを掻いて坐りこみ、両手の<ruby><rb>肱</rb><rt>ひじ</rt></ruby>を膝へついて、<ruby><rb>獰猛</rb><rt>どうもう</rt></ruby>な<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>がまえを頬杖に乗せながら、

「おい牢人。喰うなあ後にしちゃあどうだ。胸につかえているくせに、何も落着きぶって、無理に喰うにゃあ当らねえだろうに」

――聞えているのかいないのか、武蔵は笑いながら、次の箸にまた蕎麦をほぐして、<ruby><rb>美味</rb><rt>うま</rt></ruby>そうに<ruby><rb>啜</rb><rt>すす</rt></ruby>りこんだ。

## 三

熊はかん筋を立てて、

「止せっ」

と、ふいに呶鳴った。

武蔵は、箸と、蕎麦汁の茶わんを持ったまま、

「そちは、誰だ？」

「知らねえのか。博労町へ来ておれの名を知らねえ奴あ、もぐりか、つんぼぐれえなものだぞ」

「拙者もすこし耳が遠いほうだから、大きな声でいえ。どこのなにがしだ」

「関東の博労なかまで、秩父の熊五郎といやあ、泣く子もだまる暴れ者だが」

「……ははあ。馬仲買か」

「侍あいての商売で、生き馬を扱ってる人間だから、そのつもりで挨拶しろい」

「なんの挨拶？」

「たった今、その<ruby><rb>豆蔵</rb><rt>まめぞう</rt></ruby>をよこしやがって、うるせえとか、<ruby><rb>喧</rb><rt>やかま</rt></ruby>しいとか、きいたふうな<ruby><rb>御託</rb><rt>ごたく</rt></ruby>を並べやがったが、うるせえな博労の地<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がね</span>だ。ここは殿様<ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>じゃねえぞ、博労の多い博労宿だ」

「心得ておる」

「心得ていながら、おれっちが遊び事をしている場所へ、何でケチをつけやがるんだ。みんな腐って、あの通り、壺を蹴とばして、てめえの挨拶を待っているんだ」

「――挨拶とは？」

「どうもこうもねえ、博労の熊五郎様、<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>一統様へ宛て、<ruby><rb>詫証文</rb><rt>わびじょうもん</rt></ruby>を書くか、さもなけれや、てめえを裏口へしょッぴいて、馬の小便で<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>を洗わしてくれるんだ」

「おもしろいな」

「な、なにを」

「いや、おまえ達の仲間でいうことは、なかなかおもしろいと申すのだ」

「たわ言を聞きに来たんじゃねえ。どっちとも、はやく返答しろい」

熊は、自分の声に、昼間の<ruby><rb>酔</rb><rt>よい</rt></ruby>をよけいに顔へ出して呶鳴った。額の汗が、西陽に光って、見る者の眼にも暑苦しい。それでもまだ、熊は<ruby><rb>威嚇</rb><rt>いかく</rt></ruby>が足らないと思ったか、胸毛だらけな<ruby><rb>諸肌</rb><rt>もろはだ</rt></ruby>を脱いで、

「返答に依っちゃ、ただは<ruby><rb>引退</rb><rt>ひきさ</rt></ruby>がらねえぞ。さ、どっちとも、早く<ruby><rb>吐</rb><rt>ぬ</rt></ruby>かせ」

<ruby><rb>肚巻</rb><rt>はらまき</rt></ruby>から出した短刀を、<ruby><rb>蕎麦</rb><rt>そば</rt></ruby>箱の前へ突き立てて、あぐらの<ruby><rb>脛</rb><rt>すね</rt></ruby>をさらに大きく組み直した。

武蔵は、笑みをつつみながら、

「――さ。どっちにしたがよいかなあ」

汁茶碗の手を少し下げ、箸の手を蕎麦箱へ伸ばして、蕎麦の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たま</span>にたかっている<ruby><rb>塵</rb><rt>ごみ</rt></ruby>でも取っているのか、何か<ruby><rb>挟</rb><rt>はさ</rt></ruby>んでは、窓の外へ<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>っていた。

「…………」

てんで相手にされていないふうなので、熊は青筋を太らせて、ぐいと眼だまを<ruby><rb>剥</rb><rt>む</rt></ruby>き直したが、武蔵はなお黙然と、蕎麦のうえの塵を箸で取り<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>けている。

「……？」

ふと、その箸の先に気のついた熊は、剥いた眼を、いやが上にも大きくして、息もせずに、武蔵の箸に、気もたましいも抜かれてしまった。

<ruby><rb>蕎麦</rb><rt>そば</rt></ruby>の上にたかっている黒いものは、無数の蠅であった。武蔵の箸が行くとその蠅は、逃げもせず、黒豆を挟むように素直に挟まれてしまうのだった。

「……<ruby><rb>限</rb><rt>き</rt></ruby>りがないわい。伊織、この箸を洗って来い」

伊織が、それを持って、外へ出ると、その隙間に、博労の熊も、消えるように隣の部屋へ逃げこんで行った。

しばらくごそごそしていたかと思うと、またたくまに、部屋替えをしたものとみえ、<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>の向うには人声もしなくなった。

「伊織、せいせいしたな」

笑い合って、蕎麦を食べ終えた頃、夕陽も<ruby><rb>陰</rb><rt>かげ</rt></ruby>って、<ruby><rb>研屋</rb><rt>とぎや</rt></ruby>の屋根の上に、細い夕月が見えていた。

「どれ、おもしろそうな前の研師へ<ruby><rb>研</rb><rt>とぎ</rt></ruby>を頼みに行って来ようか」

だいぶ荒使いをして<ruby><rb>傷</rb><rt>いた</rt></ruby>めている無銘の<ruby><rb>一腰</rb><rt>ひとこし</rt></ruby>――それを<ruby><rb>提</rb><rt>ひっさ</rt></ruby>げて、武蔵が立上がった時、

「お客さん、どっかのお侍が手紙を置いて行かしゃりましたが」

と、黒い<ruby><rb>梯子</rb><rt>はしご</rt></ruby>だんの下から、宿のおかみさんが、一通の封書をつき出した。

## 四

（はて、何処から？）

と封の裏を見ると、

助

とただ一字しか書いてない。

「使いは？」

武蔵が問うと、宿のおかみさんは、もう帰りましたといいながら、帳場に坐る。

梯子だんの途中に立ったまま武蔵は封を切ってみた。「助」の字は、きょう馬市で出会った木村助九郎のこととすぐ読めた。

けさ程のお出会い、殿のお耳に入れ候処、<ruby><rb>但馬守</rb><rt>たじまのかみ</rt></ruby>様、

なつかしき男と<ruby><rb>被仰</rb><rt>おおせな</rt></ruby>され候

お越しの日、いつ頃にやとのおことば、折返してお便り待入申候

すけくろう

「お<ruby><rb>内儀</rb><rt>かみ</rt></ruby>、そこの筆をかしてくれぬか」

「こんなので、よろしゅうございましょうか」

「うむ……」

と帳場のわきへ立ち寄って、助九郎の手紙の裏へ、

武辺者には、ほかに用もなし。ただたじま<ruby><rb>守</rb><rt>のかみ</rt></ruby>様、御試合たまわるなれば、何時なりと<ruby><rb>伺候</rb><rt>しこう</rt></ruby>申すべく候

政名

政名というのは武蔵の名のりである。そう書いて巻き直し、封も先の裏をつかって、

柳生どの御内

助どの

と宛てて書く。

梯子だんの下から見上げて、

「伊織」

「はい」

「使いに行ってくれ」

「どこへですか」

「柳生但馬守さまのお<ruby><rb>邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>へ」

「はい」

「所はどこか、知っておるまい」

「聞きながら参ります」

「む、賢い」

と、武蔵は頭をなでて、

「迷わずに行って来いよ」

「はい」

伊織はすぐ草履を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>く。

宿のおかみさんはそれを聞いて、柳生様のお邸なら誰でも知っているから、聞きながら行っても分るが、ここの本通りを出て、街道をどこまでも真っすぐに行き、日本橋を渡ったら、河に沿って左へ左へとおいで――そして<ruby><rb>木挽町</rb><rt>こびきちょう</rt></ruby>と聞いて行くんだよと、親切に教えてくれる。

「あ。あ。わかったよ」

伊織は、外へ出られるのが<ruby><rb>欣</rb><rt>うれ</rt></ruby>しかった。しかも使いの行く先が、柳生様だと思うと、手を振って歩きたくなった。

武蔵も、草履を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いて、往来へ出た。――そして伊織の小さい姿が、博労宿と鍛冶屋の四つ角を左へ曲がったのを見届けて、

（すこし<ruby><rb>賢</rb><rt>かしこ</rt></ruby>すぎる）

と、ふとそんなことを思いながら――宿の<ruby><rb>斜向</rb><rt>すじむか</rt></ruby>いの「<ruby><rb>御</rb><rt>おん</rt></ruby>たましい<ruby><rb>研所</rb><rt>とぎどころ</rt></ruby>」の板が出ている店を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いた。

店といっても、格子のないしもた<ruby><rb>家</rb><rt>や</rt></ruby>みたいな構えで、商品らしい物は何も見あたらない。

はいるとすぐ、奥の<ruby><rb>細工場</rb><rt>さいくば</rt></ruby>から台所まで<ruby><rb>繞</rb><rt>めぐ</rt></ruby>っているような土間だった。右側は一だん高い<ruby><rb>框</rb><rt>かまち</rt></ruby>になっていて六畳ばかり敷いてある。そして、そこを店とすれば、店と奥との<ruby><rb>堺</rb><rt>さかい</rt></ruby>には、<ruby><rb>注連</rb><rt>しめ</rt></ruby>が張り廻してあるのが――すぐ武蔵の眼についた。

「御免」

と、武蔵は土間に立った。――わざわざ奥へ向っていったのではない。――すぐそこの何もない壁の下に、たった一つある頑丈な刀箱に頬杖をついて、絵に描いた<ruby><rb>荘子</rb><rt>そうし</rt></ruby>のように、居眠りをしている男がある。

それが亭主の<ruby><rb>厨子野耕介</rb><rt>ずしのこうすけ</rt></ruby>という男らしいのである。肉の薄い、そして<ruby><rb>粘土</rb><rt>ねんど</rt></ruby>のような青い顔には研師のようなするどさも見えない。<ruby><rb>月代</rb><rt>さかやき</rt></ruby>から<ruby><rb>顎</rb><rt>おとがい</rt></ruby>までは、怖ろしく長い顔に見えた。その上にまた、長々と、刀箱から<ruby><rb>涎</rb><rt>よだれ</rt></ruby>をたらして、何時覚むべしとも見えない<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>なのである。

「ごめん！」

少し声を張って、武蔵はもう一度、荘子の寝耳を訪れた。

## かたな談義

## 一

武蔵の声が、ようやく耳にはいったとみえ、厨子野耕介は、百年の眠りから今<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>めたように、おもむろに顔を上げて、

「……？」

おや、といいたげに、武蔵のすがたを、まじりまじり眺めている。

<ruby><rb>程</rb><rt>ほど</rt></ruby><ruby><rb>経</rb><rt>へ</rt></ruby>て、

「いらっしゃいまし」

やっと、自分が居眠っていたところへ客が来て、何度も起されたことを<ruby><rb>覚</rb><rt>さと</rt></ruby>ったらしい。にたりと、<ruby><rb>涎</rb><rt>よだれ</rt></ruby>のあとを<ruby><rb>掌</rb><rt>て</rt></ruby>でこすって、

「何か御用で」

と、膝を直していう。

怖ろしく<ruby><rb>暢</rb><rt>の</rt></ruby>んびりした男である。看板には「御たましい<ruby><rb>研所</rb><rt>とぎどころ</rt></ruby>」と高言しているが、こんな男に武士の魂を研がせたら、とんだ<ruby><rb>鈍</rb><rt>なまく</rt></ruby>ら<ruby><rb>刀</rb><rt>がたな</rt></ruby>になってしまうのではあるまいか――一応案じられもする。

だが、武蔵が、

「これを」

と、自分の一腰を差し出して、<ruby><rb>研</rb><rt>と</rt></ruby>ぎをかけてもらいたいというと、耕介は、

「拝見いたします」

さすがに、刀に<ruby><rb>対</rb><rt>むか</rt></ruby>うと、痩せた肩を、<ruby><rb>突兀</rb><rt>とっこつ</rt></ruby>と<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>え立て、片手を膝に、片手を伸ばして、武蔵の腰の<ruby><rb>刀</rb><rt>もの</rt></ruby>を取って、<ruby><rb>慇懃</rb><rt>いんぎん</rt></ruby>に頭を下げた。

人間が来た時には、ぶあいそに下げもしなかった頭を、刀に対しては、まだそれが名刀か鈍刀かも知れないうちから――まず鄭重にこの男は礼儀をする。

そして懐紙をふくみ、<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>をはらって、静かに、肩のあいだに白刃を立てながら、せっぱから切先まで、ずっと眼をとおしているうちに、この男の眼は、どこからかべつな物を持って来て<ruby><rb>篏</rb><rt>は</rt></ruby>めこんだように、<ruby><rb>爛</rb><rt>らん</rt></ruby>として、<ruby><rb>耀</rb><rt>かがや</rt></ruby>きだした。

ぱちんと、鞘におさめ、何もいわずにまた、武蔵の顔を見ていたが、

「お上がりくだされい」

ずっと膝を<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>いて、初めて円座をすすめる。

「では」

と、武蔵は辞退せずに上がって坐った。

刀の手入れも手入れであるが、実をいえば、ここの板看板に<ruby><rb>本阿弥</rb><rt>ほんあみ</rt></ruby>門流としてあったので、<ruby><rb>京出</rb><rt>きょうで</rt></ruby>の<ruby><rb>研師</rb><rt>とぎし</rt></ruby>に違いないと思うと同時に、恐らく本阿弥家の<ruby><rb>職方</rb><rt>しょくかた</rt></ruby>長屋の一門下であろうとも考えられ、その後久しく消息を欠いている光悦はご無事か――また、いろいろ世話になった光悦の母<ruby><rb>妙秀尼</rb><rt>みょうしゅうに</rt></ruby>もご息災か――そうしたことも聞けるであろうと思って、にわかに、<ruby><rb>研刀</rb><rt>とぎ</rt></ruby>の頼みをかこつけて来たわけであった。

だが耕介は、元よりそんな縁故を知ろうはずもないので、並扱いにしているにちがいないが、武蔵の腰の<ruby><rb>刀</rb><rt>もの</rt></ruby>を見てから、どこか改まって、

「お刀は、重代のお持ち<ruby><rb>刀</rb><rt>もの</rt></ruby>でござりますか」

と、訊く。

武蔵は、いやべつにそんな来歴のある品ではないと答えると、耕介はまた、では戦場で使った刀か、それとも常用の刀かなどと訊ね、武蔵が、

「戦場で使ったことはない。ただ、持たないには<ruby><rb>勝</rb><rt>まさ</rt></ruby>ろうかと、常に帯びている刀で、銘も素姓もない<ruby><rb>安刀</rb><rt>やすがたな</rt></ruby>でござる」

と、説明すると、

「ふむ……」

と、耕介は、相手の顔を見まもりながら、

「これを、どう<ruby><rb>研</rb><rt>と</rt></ruby>げというご注文ですか」

と、いう。

「どう研げとは？」

「斬れるように研げと仰っしゃるのか、斬れぬ程でもよいと仰っしゃるのか」

「元より、斬れるに越したことはない」

すると耕介は、さもさも驚嘆するような顔をして、

「え。この上にも」

と、舌を巻いていった。

## 二

斬れるべく研ぐ刀である、斬れるだけ斬れるように研ぐのが研師の腕ではないか。

武蔵が<ruby><rb>不審</rb><rt>いぶか</rt></ruby>り顔に、耕介の顔を見ていると、耕介は首を振って、

「てまえには、この刀は、お研ぎできません。どうか<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>へ研ぎにやって下さるように」

と、武蔵の腰の<ruby><rb>刀</rb><rt>もの</rt></ruby>を押しもどした。

わけのわからない男、なぜ研げないというのかと、断られた武蔵は、やや不快な顔いろをつつめなかった。

――で、彼が黙っていると、耕介も、ぶあいそに、いつまでも、口を<ruby><rb>緘</rb><rt>つぐ</rt></ruby>んでいる。

すると門口から、

「耕介どん」

と、近所の者らしい男が覗きこんで――

「お宅に、<ruby><rb>釣竿</rb><rt>つりざお</rt></ruby>があったら貸しておくれぬか。――今なら、そこの河端に、上げ<ruby><rb>汐</rb><rt>しお</rt></ruby>に乗って、うんとこさと魚が来て跳ねているので、いくらでも釣れるでな、釣ったら晩のお菜を分けて上げるから、釣竿があったら貸して下され」

と、いった。

すると耕介は、他にも、機嫌のわるいものが胸にあったところとみえて、

「わしの家には、殺生をする道具などはないっ。ほかで借りたがいい」

と、呶鳴った。

近所の男は、びっくりしたように行ってしまった。――そして後は、武蔵を前に、<ruby><rb>苦</rb><rt>にが</rt></ruby>りきっているのであった。

だが、武蔵は、漸くこの男のおもしろさを見出していた。そのおもしろさというのは、才や機智のおもしろさではない。古い<ruby><rb>陶器</rb><rt>やきもの</rt></ruby>に見立てていうならば、巧みも<ruby><rb>見得</rb><rt>みえ</rt></ruby>もない土味を<ruby><rb>剥</rb><rt>む</rt></ruby>き出しに、どうなと見たいように見てくれとしているノンコウ茶碗か<ruby><rb>唐津</rb><rt>からつ</rt></ruby>徳利みたいな味の男だった。

そういえば、耕介の横びんに<ruby><rb>薄禿</rb><rt>うすはげ</rt></ruby>があって、鼠に<ruby><rb>齧</rb><rt>かじ</rt></ruby>られたような<ruby><rb>腫物</rb><rt>できもの</rt></ruby>に、<ruby><rb>膏薬</rb><rt>こうやく</rt></ruby>が貼ってあるところなど――<ruby><rb>窯</rb><rt>かま</rt></ruby>の中で<ruby><rb>傷</rb><rt>きず</rt></ruby>になった<ruby><rb>陶器</rb><rt>やきもの</rt></ruby>の自然の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くッつき</span>とも見えて、一だんと、この男の<ruby><rb>風情</rb><rt>ふぜい</rt></ruby>を増して見えないこともない。

武蔵は、こみあげて来るおかしさを、顔には見せぬ程に<ruby><rb>和</rb><rt>なご</rt></ruby>んで、

「御主人」

と<ruby><rb>程経</rb><rt>ほどへ</rt></ruby>ていった。

「はい」

と気のない答えよう。

「――なぜこの刀は、研げないのでござろうか。研いでも<ruby><rb>効</rb><rt>か</rt></ruby>いのない<ruby><rb>鈍刀</rb><rt>なまくら</rt></ruby>というわけであろうか」

「うんにゃ」

と、耕介は首をふって、

「刀は、持主のそこもと様が、誰よりようご存じじゃろが、<ruby><rb>肥前物</rb><rt>ひぜんもの</rt></ruby>のよい刀でおざる。――ですがの、実をいえば、斬れるようにというお望みが気にくわんでな」

「ほ。……なぜで」

「誰も彼も、およそ刀を持って来る者が、一様にまずいう注文が――斬れるように――じゃ。斬れさえすればいいものと思うておる。それが気に喰わぬ」

「でも、刀を研ぎによこすからには」

いいかける武蔵のことばを、耕介は、手で抑えるような恰好をして、

「まあ、待たっしゃい。そこのところを説くと話は長くなる。わしの家を出て、門の看板を読み直してもらいたい」

「<ruby><rb>御</rb><rt>おん</rt></ruby>たましい<ruby><rb>研所</rb><rt>とぎどころ</rt></ruby>――としてござった。<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>にまだ読みようがござりますか」

「さ。そこでござる。わしは刀を研ぐとは看板に出しておらぬ。お侍方のたましいを研ぐものなりと――人は知らず――わしの習うた<ruby><rb>刀研</rb><rt>かたなとぎ</rt></ruby>の宗家では教えられたのじゃ」

「なるほど」

「その教えを奉じますゆえ、ただ斬れろ斬れろと、人間を斬りさえすれば偉いように思うているお侍の刀などは――この耕介には研げんというのじゃ」

「ウム、一理あることと聞え申した。――してそういう風に子弟に教えた宗家とは、何処の誰でござるか」

「それも、看板に<ruby><rb>誌</rb><rt>しる</rt></ruby>してあるが――京都の<ruby><rb>本阿弥光悦</rb><rt>ほんあみこうえつ</rt></ruby>さまは、わしの師匠でございます」

師の名を名乗る時は、それが自分の誇りのように、耕介は猫背をのばして<ruby><rb>昂然</rb><rt>こうぜん</rt></ruby>というのであった。

## 三

そこで武蔵が、

「光悦どのなら、実は自分も面識のある間で、<ruby><rb>母御</rb><rt>ははご</rt></ruby>の妙秀尼様にもお世話になったことがある」

と、その当時の頃の思い出を一つ二つ話すと、<ruby><rb>厨子野耕介</rb><rt>ずしのこうすけ</rt></ruby>は非常な驚き方をして、

「ではもしや貴方は、一乗寺下り松で、一世の剣名を<ruby><rb>轟</rb><rt>とどろ</rt></ruby>かせた、宮本武蔵様ではございませぬか」

と、眼をすえていう。

武蔵は、彼のことばが、誇張に聞えて、少しむず<ruby><rb>痒</rb><rt>がゆ</rt></ruby>く思いながら、

「されば、その武蔵でござる」

いうと耕介は、貴人へ<ruby><rb>対</rb><rt>むか</rt></ruby>い直すように、ずっと席を<ruby><rb>退</rb><rt>さ</rt></ruby>げて、

「よもや武蔵様とは知らず、先ほどから<ruby><rb>釈迦</rb><rt>しゃか</rt></ruby>に説法も同様な過言――どうぞ真っ平おゆるしのほどを」

「いやいや、御亭主のお話には、拙者も教えられるふしが多い。光悦どのが、弟子に<ruby><rb>諭</rb><rt>さと</rt></ruby>されたという言葉にも、光悦どのらしい味がある」

「ご承知の通り、宗家は室町将軍の中世から、刀のぬぐいや<ruby><rb>研</rb><rt>とぎ</rt></ruby>をいたして、<ruby><rb>禁裡</rb><rt>きんり</rt></ruby>の<ruby><rb>御剣</rb><rt>ぎょけん</rt></ruby>まで承っておりまするが――常々師の光悦が申すことには――由来、日本の刀は、人を斬り、人を害すために鍛えられてあるのではない。<ruby><rb>御代</rb><rt>みよ</rt></ruby>を<ruby><rb>鎮</rb><rt>しず</rt></ruby>め、世を護りたまわんがために、悪を<ruby><rb>掃</rb><rt>はら</rt></ruby>い、魔を追うところの<ruby><rb>降魔</rb><rt>ごうま</rt></ruby>の剣であり――また、人の道を<ruby><rb>研</rb><rt>みが</rt></ruby>き、人の上に立つ者が自ら<ruby><rb>誡</rb><rt>いまし</rt></ruby>め、自ら<ruby><rb>持</rb><rt>じ</rt></ruby>するために、腰に帯びる侍のたましいであるから――それを<ruby><rb>研</rb><rt>と</rt></ruby>ぐ者もその心をもって研がねはならぬぞ――と<ruby><rb>何日</rb><rt>いつ</rt></ruby>も聞かされておりました」

「む。いかにもな」

「それゆえ、師の光悦は、よい刀を見ると、この国の泰平に治まる光を見るようだと申し――悪剣を手にすると、<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>を払うまでもなく、身がよだつと、嫌いました」

「ははあ」

と、思い当って、

「では、拙者の腰の<ruby><rb>刀</rb><rt>もの</rt></ruby>には、そんな悪気が御亭主に感じられたのではありませんか」

「いや、そうした<ruby><rb>理</rb><rt>わけ</rt></ruby>でもございませんが、てまえが、この江戸へ下って、多くの侍衆から、お刀を預かってみますと、誰あって、刀のそういう大義を分ってくれるお人がないのでござります。ただ、四つ胴を払ったとか、この刀は、<ruby><rb>兜金</rb><rt>はちがね</rt></ruby>から脳天まで切ったとか、斬れることだけが、刀だとしているような風でござります。で――、てまえはほとほと、この商売が<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>になりかけましたが、いやいやそうでないと思い直し、数日前から、わざと看板を書きかえて、<ruby><rb>御</rb><rt>おん</rt></ruby>たましい研所と<ruby><rb>認</rb><rt>したた</rt></ruby>めましたが、それでもなお、頼みに来る客は、斬れるようにとばかりいって見えますので、気を腐らしていた所なので……」

「そこへ、拙者までが、<ruby><rb>又候</rb><rt>またぞろ</rt></ruby>同様なことをいって来たので、それでお断りなされたのか」

「あなた様の場合は、また違いまして――実は先ほど、お腰の物を見たせつなに、余りにひどい刃こぼれと、むらむらと、<ruby><rb>拭</rb><rt>ぬぐ</rt></ruby>いきれない無数の<ruby><rb>精霊</rb><rt>しょうりょう</rt></ruby>の<ruby><rb>血脂</rb><rt>あぶら</rt></ruby>に――失礼ながら、益なき殺生をただ誇る<ruby><rb>素牢人</rb><rt>すろうにん</rt></ruby>が――といやな気持に打たれたのです」

耕介の口を<ruby><rb>藉</rb><rt>か</rt></ruby>りて、光悦の声がそこにしているように、武蔵は、さし<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>いて聞いていたが、やがて、

「おことばの数々、よう分りました。――なれどお案じ下さるまい、物心ついてより持ち馴れている刀なので、その刀の<ruby><rb>精神</rb><rt>こころ</rt></ruby>を特に考えてみたこともなかったが、今日以降は、よく胸に銘じておきまする」

耕介は、すっかり気色を好くして、

「ならば、研いでさし上げましょう。いや、あなた様のような侍のたましいを、研がせていただくのは研師の<ruby><rb>冥加</rb><rt>みょうが</rt></ruby>と申すもので」

と、いった。

## 四

いつか<ruby><rb>燈火</rb><rt>あかり</rt></ruby>が<ruby><rb>点</rb><rt>とも</rt></ruby>っている。

刀の<ruby><rb>研</rb><rt>とぎ</rt></ruby>を頼んで、武蔵が戻ろうとすると、

「失礼ですが、代りの差料をお持ちでござりますか」

と、耕介がいう。

ないと答えると、

「では、たいして良い刀ではございませんが、<ruby><rb>一腰</rb><rt>ひとこし</rt></ruby>、その間だけ、宅にある物をお用い下さいまし」

と、奥の部屋へ招く。

そして刀<ruby><rb>箪笥</rb><rt>だんす</rt></ruby>や刀箱から、耕介が選び出した数本をそれへ並べて、

「どれでも、お気に召した物を、どうぞ」

と、いってくれた。

武蔵は、眼も<ruby><rb>眩</rb><rt>くら</rt></ruby>む心地がして、選び取るのに迷った。元より彼も、良い刀は欲しかったが、今日まで、彼の<ruby><rb>貧嚢</rb><rt>ひんのう</rt></ruby>ではそれを望んでみる余裕すらなかった。

けれど、良い刀には、必然な魅力がある。武蔵が今、数本の中から握り取った刀には、<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>の上から握っただけでも、何かしら、それを<ruby><rb>鍛</rb><rt>う</rt></ruby>った刀鍛冶の魂が手にこたえてくるような気がした。

抜いて見ると、案のじょう、吉野朝時代の作かと思われるにおいの<ruby><rb>麗</rb><rt>うるわ</rt></ruby>しい刀である。武蔵は自分の今の境遇や気持には、やや優雅に過ぎるかと思ったが、燈下にそれを見入っているまに、もうその刀を手から離すのも惜しい気がして、

「では、これを――」

と、所望した。

拝借するといわなかったのは、もう是非に<ruby><rb>関</rb><rt>かか</rt></ruby>わらず、返す気持が起らなかったからである。名工の<ruby><rb>鍛</rb><rt>う</rt></ruby>った名作には、人の気持をそこまでつかむ怖ろしい力が必然あるのであった。武蔵は心のうち、耕介の返辞を待つまでもなく、どうかしてこれを、自分の持物にしたいと思った。

「さすがに、お目が高い」

耕介は後の刀を、仕舞いながらいった。

武蔵は、その間も、所有慾に<ruby><rb>煩悶</rb><rt>はんもん</rt></ruby>した。売ってくれといえば、莫大な刀であろうし……などと思い惑ったが、どうしても抑えきれなくなって、いい出した。

「耕介どの、これを拙者に、お譲りくださるわけにはゆかないでしょうか」

「差上げましょう」

「お代は」

「てまえが求めた元値でよろしゅうございます」

「すると何程」

「金二十枚でございます」

「…………」

武蔵は、よしない望みと、よしない煩悶を、ふと<ruby><rb>悔</rb><rt>く</rt></ruby>いた。そんな金のある身ではなかった。で、彼はすぐ、

「いや、これは、お返しいたしましょう」

と、耕介の前へ戻した。

「なぜですか」

と、耕介はいぶかって――

「お買いにならずとも、いつまでも、お貸し申しておきますから、どうかお使いなさいまして」

「いや、借りておるのは、なおさら心もとない。一目見ただけでも、持ちたいという慾望にくるしむのに、持てぬ刀と分りながら、しばしの間身に帯びて、またそちらへ返すのは辛うござる」

「それほど、お気に召しましたかな……」

と耕介は、刀と武蔵とを見くらべていたが、

「よかろう、それまでに、恋いなされた刀なら、<ruby><rb>此刀</rb><rt>これ</rt></ruby>はあなたへ嫁にあげるとしよう。その代りに、あなたも手前に、何か、身に応じたことをして下さればよい」

<ruby><rb>欣</rb><rt>うれ</rt></ruby>しかった。武蔵は遠慮なく、まず貰うことを先に決めた。それから礼を考えるのであったが、無一物の一<ruby><rb>剣生</rb><rt>けんせい</rt></ruby>には、何も<ruby><rb>酬</rb><rt>むく</rt></ruby>いる物がなかった。

すると耕介が、あなたは彫刻をなさるそうで、そんなことを、師の光悦から聞いていましたが、何か、観音像のような物でも、ご自分で彫った物があったら、それを手前に下さい。それと取換えということにして、刀は差上げましょう――と、彼の<ruby><rb>工面顔</rb><rt>くめんがお</rt></ruby>を、救うようにいってくれた。

## 五

手すさびの観音像は、久しく旅包みに負って持ち歩いていたが、法典ヶ原に<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>して来たので、今はそれもない。

で数日の余裕を与えてくれれば特に彫っても、この刀を所望したい――と武蔵がいうと、

「元より、直ぐでなくても」

と、耕介は当然のこととしているのみか、

「<ruby><rb>博労宿</rb><rt>ばくろうやど</rt></ruby>にお泊りなさるくらいなら、てまえどもの細工場の横に、中二階の一<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>が空いておりますが、そこへ移っておいでなさいませんか」

と、願ってもないことだった。

では、<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>からそこを拝借して、事の<ruby><rb>序</rb><rt>ついで</rt></ruby>に観音像も彫りましょうと、武蔵がいうと耕介も<ruby><rb>欣</rb><rt>よろこ</rt></ruby>んで、

「それでは一応、そこの部屋を見ておいて下さい」

と、奥へ案内する。

「然らば」

と、武蔵は<ruby><rb>従</rb><rt>つ</rt></ruby>いて行ったが、元よりさして広い家でもない。茶の間の縁を突き当って五、六段のはしごを上がると、八畳の一室があり、窓のわきの<ruby><rb>杏</rb><rt>あんず</rt></ruby>の<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>が、若葉に夜露をもっていた。

「あれが、<ruby><rb>研</rb><rt>とぎ</rt></ruby>をする仕事場なので――」

と<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>が指さす小屋の屋根は、<ruby><rb>牡蠣</rb><rt>かき</rt></ruby>の貝殻で<ruby><rb>葺</rb><rt>ふ</rt></ruby>いてあった。

いつの間に<ruby><rb>吩咐</rb><rt>いいつ</rt></ruby>けたのか、耕介の女房がそこに<ruby><rb>膳</rb><rt>ぜん</rt></ruby>を運んで来て、

「まあ、一<ruby><rb>献</rb><rt>こん</rt></ruby>」

と、夫婦してすすめる。

杯が交わされてからは、客でもなく<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>でもなく、膝をくずして、お互いに<ruby><rb>胸襟</rb><rt>きょうきん</rt></ruby>をひらき合ったが、話は、刀のほかには出ない。

その刀のこととなると、耕介は眼中に人もない。青い頬は少年のように<ruby><rb>紅</rb><rt>あか</rt></ruby>らみ、口の両端に<ruby><rb>唾</rb><rt>つば</rt></ruby>を噛み、ともすれば、その唾が相手へ飛んで来ることも意に介さない。

「刀は、わが国の神器だとか、武士のたましいだとか、皆口だけでは仰っしゃるが、刀をぞんざいにすることは、侍も町人も神官も、みな甚だしいものですな。――てまえは或る志を抱いて、数年間、諸国の神社や旧家を訪れ、古刀のよい物を<ruby><rb>観</rb><rt>み</rt></ruby>ようものと歩いたことがありますが、古来有名な刀で満足に秘蔵されている物が余りに<ruby><rb>尠</rb><rt>すく</rt></ruby>ないので悲しくなりましたよ。――例えば、信州<ruby><rb>諏訪</rb><rt>すわ</rt></ruby>神社には三百何十<ruby><rb>口</rb><rt>ふり</rt></ruby>という古来からの奉納刀がありますが、この中で、<ruby><rb>錆</rb><rt>さび</rt></ruby>ていなかったのは、五<ruby><rb>口</rb><rt>ふり</rt></ruby>ともありませんでしたな。また、<ruby><rb>伊予国</rb><rt>いよのくに</rt></ruby>の大三島神社の<ruby><rb>刀蔵</rb><rt>かたなぐら</rt></ruby>は有名なもので、何百年来の所蔵が三千<ruby><rb>口</rb><rt>ふり</rt></ruby>にも上っておりますが、凡そ一ヵ月も<ruby><rb>籠</rb><rt>こも</rt></ruby>って調べたところ、三千口のうち光っている刀は十口ともなかったという、実に呆れた有様です」

――それからまた、彼は、こうもいう。

「伝来の刀とか、秘蔵の名剣とか、聞えている物ほど、ただ大事がるばかりで、<ruby><rb>赤鰯</rb><rt>あかいわし</rt></ruby>にしてしまっているのが多いようです。かあいい子を盲愛しすぎて、お馬鹿に育ててしまう親のようなものですな。いや人間の子は、後からでも良い子が生れるから、数の中には、世間の賑わいに、少しはお馬鹿が出来てもいいかも知れませんが、刀はそうは参りませんぞ――」

と、ここでは口ばたの<ruby><rb>唾</rb><rt>つば</rt></ruby>をいちど収め、眼の光を改めて、痩せた肩をいちだんと<ruby><rb>尖</rb><rt>とが</rt></ruby>り立てる。

「刀は、刀ばかりはですな。どういうものか、時代が下るほど、悪くなります。室町から下って、この戦国になってからは、<ruby><rb>愈〻</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>、鍛冶の腕が<ruby><rb>荒</rb><rt>すさ</rt></ruby>んで参りました。これから先も、なおなお、悪くなって行くばかりじゃないかと思われるんで――古刀は大事に守らなければいけないとてまえは思う。いくら今の鍛冶が、<ruby><rb>小賢</rb><rt>こざか</rt></ruby>しく、真似てみても、もう二度と、この日本でもできない名刀を――実に、<ruby><rb>可惜</rb><rt>あたら</rt></ruby>くやしいことじゃございませんか」

と、いうと、何思ったか、ふと立ち上がって、

「これなども、やはり<ruby><rb>他</rb><rt>よそ</rt></ruby>から<ruby><rb>研</rb><rt>とぎ</rt></ruby>を頼まれて、預かっている名刀の一つですが、ごらんなさい、惜しい<ruby><rb>錆</rb><rt>さび</rt></ruby>をわかせています」

と、怖ろしく長い太刀作りの一刀を持ち出して来て、武蔵の前へ、話題の実証として置いた。

武蔵は、その長剣を何気なく見て、はっと驚いた。これは佐々木小次郎の所有する「物干竿」にちがいなかった。

## 六

考えてみれば不思議はない。ここは<ruby><rb>研師</rb><rt>とぎし</rt></ruby>の家であるから、誰の刀が預けられてあろうとも、べつだん奇とするには当らない。

けれど、佐々木小次郎の刀を、ここで見ようとは思いがけないことと、武蔵は追想に耽りながら、

「ほ、なかなか<ruby><rb>長刀</rb><rt>ながもの</rt></ruby>でござりますな。これほどな刀を差しこなす者は、相応な侍でございましょう」

と、いった。

「さればで」

と、耕介も合点して、

「多年、刀は<ruby><rb>観</rb><rt>み</rt></ruby>ていますが、これほどな刀は、まあ<ruby><rb>尠</rb><rt>すく</rt></ruby>ない。ところが――」

物干竿の<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>をはらい、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みね</span>を客の方へ向けて<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>を手渡しながら、

「ごらんなさい、惜しい<ruby><rb>錆</rb><rt>さび</rt></ruby>が三、四ヵ所もある。しかし、そのままだいぶ使ってもいる」

「なるほど」

「幸い、この刀は、鎌倉以前の稀れな名工の鍛刀ですから、骨は折れますが、<ruby><rb>錆</rb><rt>さび</rt></ruby>の曇りも<ruby><rb>脱</rb><rt>と</rt></ruby>れましょう。古刀の錆はサビても薄い<ruby><rb>膜</rb><rt>まく</rt></ruby>にしかなっておりませんから。――ところが近世の新刀となると、これほど錆させたらもうだめですわい。新刀の錆は、まるで<ruby><rb>質</rb><rt>たち</rt></ruby>のわるい<ruby><rb>腫物</rb><rt>できもの</rt></ruby>のように<ruby><rb>地鉄</rb><rt>じがね</rt></ruby>の<ruby><rb>芯</rb><rt>しん</rt></ruby>へ腐りこんでいる。そんなことでも、古刀の鍛冶と、新刀の鍛冶とは、<ruby><rb>較</rb><rt>くら</rt></ruby>べ<ruby><rb>物</rb><rt>もの</rt></ruby>になりはしません」

「お納めを」

と、武蔵もまた、刃を自分のほうに向け、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">みね</span>を耕介の方にして刀を返した。

「失礼ですが、この刀の依頼主は、この<ruby><rb>家</rb><rt>や</rt></ruby>へ、自身で見えましたか」

「いえ、細川家の御用で伺いました時、御家中の岩間角兵衛様から、戻りに<ruby><rb>邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>へ寄れと申され、そこで頼まれて参りましたので。――何か、お客の品だとかいいましたよ」

「<ruby><rb>拵</rb><rt>こしら</rt></ruby>えもよい」

<ruby><rb>燈</rb><rt>ともし</rt></ruby>の下に、武蔵がなお、しげしげと見入りながら<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>くと、

「太刀作りなので、今までは肩に負って用いていたが、腰へ差せるように、<ruby><rb>革</rb><rt>あらた</rt></ruby>めてくれという注文ですが、よほどな大男か、腕に覚えがないと、この<ruby><rb>長刀</rb><rt>ながもの</rt></ruby>を腰にさして扱うには難しい」

と、耕介も、それを見ながら、呟くようにいった。

酒も体にまわり、だいぶ<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>の舌もくたびれて来たらしい。武蔵は、この辺でと思い立ち、<ruby><rb>程</rb><rt>ほど</rt></ruby>よく辞去して<ruby><rb>戸外</rb><rt>おもて</rt></ruby>へ出てきた。

外へ出てすぐ感じたことは、町の何処一軒も起きていない暗さであった。そう長い時間とも思わなかったが、案外長坐していたものとみえる。夜はもうよほど<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>けているに違いなかった。

しかし<ruby><rb>旅宿</rb><rt>やど</rt></ruby>はすぐ<ruby><rb>斜向</rb><rt>すじむか</rt></ruby>いなので何の苦もない。開いている戸の間からはいって、寝臭い暗闇を撫でながら二階へ上がった。――そして伊織の寝顔をすぐ見ることであろうと思っていたところ、二つの蒲団はしいてあるが、伊織の姿は見えないし、枕もきちんと並んでいて、まだ人の<ruby><rb>温</rb><rt>ぬく</rt></ruby>みに触れた気配もない。

「まだ帰らぬのであろうか」

武蔵は、ふと、案じられた。

馴れない江戸の町――どこをどう道に迷っているのかもわからない。

梯子だんを降り、そこに寝そべっている寝ずの番の男を揺り起して訊ねると、寝ぼけ<ruby><rb>眼</rb><rt>まなこ</rt></ruby>で、

「まだ帰っておいでなさらねえようですが、旦那と一緒じゃなかったのでございますか」

と、武蔵が知らないことを、かえって<ruby><rb>不審</rb><rt>いぶか</rt></ruby>り顔にいう。

「――はてな？」

このまま寝られもしない。武蔵は再び<ruby><rb>漆</rb><rt>うるし</rt></ruby>のような外の闇へ出て、軒下に立っていた。

## 道草ぎつね

## 一

「ここが<ruby><rb>木挽町</rb><rt>こびきちょう</rt></ruby>か」

と、伊織は疑った。

そして途々、道を教えてくれた者に対して、

「こんな所に、お大名の家なんかあるものか」

と、腹を立てて独り思った。

彼は、河岸に積んである材木に腰かけて、<ruby><rb>火照</rb><rt>ほて</rt></ruby>った足の裏を、草でこすった。

材木の<ruby><rb>筏</rb><rt>いかだ</rt></ruby>は、堀の中にも、水が見えないほど浮いていた。そこから二、三町先の<ruby><rb>端</rb><rt>はず</rt></ruby>れはもう海で、闇の中に、<ruby><rb>潮</rb><rt>うしお</rt></ruby>の白い<ruby><rb>仄</rb><rt>ひら</rt></ruby>めきだけしか見えはしない。

それ以外は、<ruby><rb>渺</rb><rt>びょう</rt></ruby>とした草原と、近頃、埋めたばかりの広い土だった。もっとも其処此処と、ポチポチ<ruby><rb>灯</rb><rt>あか</rt></ruby>りの影は見えるが、近づいて見ると、それは皆、<ruby><rb>木挽</rb><rt>こびき</rt></ruby>や<ruby><rb>石工</rb><rt>いしく</rt></ruby>の寝小屋だった。

水に近い所には、材木と石ばかりが、山をなしていた。考えてみると、江戸城も<ruby><rb>旺</rb><rt>さかん</rt></ruby>に修築しているし、市街にもどんどん家屋が建って行くので、町というほど、木挽の小屋が集まっているのも道理である。けれど、柳生但馬守ともある人の<ruby><rb>邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>が、こんな職人小屋の部落と並んであるのは変だ――いやあるものじゃない――と伊織の幼い常識でも考えられるのであった。

「困ったな」

草には夜露がある。板みたいに硬くなった草履を脱いで、<ruby><rb>火照</rb><rt>ほて</rt></ruby>った足で草を<ruby><rb>弄</rb><rt>なぶ</rt></ruby>っていると、その冷たさに、体の汗も乾いてきた。

尋ねる邸は知れないし、余りに夜も更けてしまって、伊織は、帰るにも帰れなかった。使いに来て、使いを果さずに帰ることは、子ども心にも、恥辱に思われた。

「宿屋のおばあが、いい加減なことを教えたから悪いんだ」

彼は、自分が、<ruby><rb>堺町</rb><rt>さかいちょう</rt></ruby>の芝居町で、さんざん道草をくって遅くなったことは、頭から忘れていた。

――もう訊く人もいない。このまま夜が明けてしまうのかと思うと伊織は、突然悲しくなって、木挽小屋の者でも起して、夜の明けないうちに、使いを果して帰らなければならないと、責任感に責められて来た。

で――彼はまた、歩き出した。そして掘建小屋の灯を頼りに歩き出した。

すると、一枚の<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>を、番傘のように肩に巻いて、その掘建小屋を覗き歩いている女があった。

鼠鳴きして、小屋の中の者を、呼び出そうとしては、失望して、<ruby><rb>彷徨</rb><rt>さまよ</rt></ruby>っている売笑婦であった。

伊織は、そういう種類の女が、何を目的にうろついているのか、元より知らないので、

「おばさん」

と、馴々しく声をかけた。

壁みたいな白い顔をしている女は、伊織をふり<ruby><rb>顧</rb><rt>かえ</rt></ruby>って、近くの酒屋の<ruby><rb>丁稚</rb><rt>でっち</rt></ruby>とでも見違えたのか、

「てめえだろ、さっき、石をぶつけて逃げたのは」

と、睨みつけた。

伊織は、ちょっと、驚いた眼をしたが、

「知らないよ、おらは。――おらはこの辺の者じゃないもの」

「…………」

女は歩いて来て、ふいに、自分でおかしくなったように、げたげた笑いだした。

「なんだい。何の用だえ」

「あのね」

「かあいい子だね、おまえ」

「おら、使いに来たんだけど、お<ruby><rb>邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>が分らないで困っているんだよ。おばさん、知らないか」

「どこのお邸へゆくのさ」

「柳生但馬守様」

「何だって」

女は、何がおかしいのか、下品に笑い<ruby><rb>転</rb><rt>こ</rt></ruby>けた。

## 二

「柳生様といえば、お大名だよおまえ」

と女は、そんな大身の所へ用があって行くという伊織の小さな身なりを、<ruby><rb>見下</rb><rt>みくだ</rt></ruby>してまた笑った。

「――おまえなんぞが行ったって、御門を開けてくれるもんかね。将軍様の御指南番じゃないか。中のお長屋に、誰か知ってる人でもあるのかえ」

「手紙を持って行くんだよ」

「誰に」

「木村助九郎という人に」

「じゃあ、御家来かい。そんなら話は分ってるけれど、おまえのいってるのは、柳生様を懇意みたいにいうからさ」

「どこだい、そんなことはいいから、お邸を教えておくれよ」

「堀の向う側さ。――あの橋を渡ると、紀伊様のおくら屋敷、そのお隣が、<ruby><rb>京極</rb><rt>きょうごく</rt></ruby>主膳様、その次が加藤喜介様、それから松平<ruby><rb>周防守</rb><rt>すおうのかみ</rt></ruby>様――」

女は、堀の向うに見える、浜倉だの、塀だのの棟を、指で数えて、

「たしか、その次あたりのお屋敷がそうだよ」

と、いう。

「じゃあ、向う側も、<ruby><rb>木挽町</rb><rt>こびきちょう</rt></ruby>っていうのかい」

「そうさ」

「なあんだ……」

「人に教えてもらって、なあんだとは何さ。だけど、おまえは可愛い子だね。あたしが、柳生様の前まで、連れて行って上げるからおいで」

女は、先に歩き出した。

<ruby><rb>傘</rb><rt>からかさ</rt></ruby>のお化けみたいに、<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>をかぶっている姿が、橋の中ほどまでゆくとすれ<ruby><rb>交</rb><rt>ちが</rt></ruby>った酒くさい男が、

「ちゅっ」

と、鼠鳴きして、女の<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>に戯れた。

すると女は、連れている伊織のことなどは、すぐ忘れて、男のあとを追いかけて行き、

「あら、知ってるよこの人は。――いけない、いけない、通すもんか」

男を<ruby><rb>捉</rb><rt>とら</rt></ruby>えて、橋の下へ、引きずり込もうとすると、男は、

「はなせよ」

「いやだよ」

「かねがないよ」

「なくてもいいよ」

女は、モチみたいに男にねばりついたまま、ふと、伊織の呆ッ気にとられている顔を見て――

「もう分ってるだろ。わたしはこの人と用があるんだから先へおいで」

と、いった。

だが伊織は、まだ不思議な顔して、大人の男と女が、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">むき</span>になって争っている<ruby><rb>状</rb><rt>さま</rt></ruby>を眺めていた。

そのうちに、女の力が勝ったものか、男がわざと曳かれて行くのか、<ruby><rb>男女</rb><rt>ふたり</rt></ruby>は橋の下へ、一緒に降りて行った。

「……？」

伊織は、不審を覚えて、こんどは橋の欄干から、下の河原をのぞいた。浅い河原には雑草が<ruby><rb>萌</rb><rt>も</rt></ruby>えていた。

ふと、上を見廻すと、女は、伊織が覗きこんでいるので、

「ばかッ」と、怒った。そして、<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>ちかねない顔つきをして、河原の石を拾いながら、

「ませてる餓鬼だね」

と、投げつけた。

伊織は、胆をつぶして、橋の彼方へ、どんどん逃げだした。曠野の<ruby><rb>一</rb><rt>ひと</rt></ruby>ツ<ruby><rb>家</rb><rt>や</rt></ruby>に育った彼だが、今の女の白い顔ほど、<ruby><rb>恐</rb><rt>こわ</rt></ruby>いものを見たことはなかった。

## 三

河を背なかにして、倉がある、塀がある。また、倉がつづく、塀がつづく。

「あ、ここだ」

伊織は、独り言に、思わずそういった。

浜倉の白壁に、二階笠の紋が、夜目にもはっきり見えたからだ。柳生様は二階笠ということは、<ruby><rb>流行歌</rb><rt>はやりうた</rt></ruby>でよく唄うので、はっと思い出したのであろう。

倉のわきにある黒い門が、柳生家にちがいない。伊織は、そこに立って、閉まっている門をどんどん叩いた。

「何者だっ」

叱るような声が、門の中から聞えた。

伊織も、声いっぱい、

「わたくしは、宮本武蔵の門人でございます。手紙を持って、使いに参りました」

と、呶鳴った。

それからも、ふた<ruby><rb>言</rb><rt>こと</rt></ruby><ruby><rb>三言</rb><rt>みこと</rt></ruby>、門番は何かいったが、子供の声をいぶかりながら、やがて、門を少し開けて、

「なんだ今時分」

と、いった。

その顔の先へ、伊織は、武蔵からの返事をつき出して、

「これを、お取次して下さい。ご返事があるなら、貰って帰ります。なければ、置いて帰ります」

門番は、手に取って、

「なんじゃ……？　……おいおい子ども、これは、御家中の木村助九郎様へ持って来た手紙じゃないか」

「はいそうです」

「木村様はここにはおらんよ」

「では、どこですか」

「<ruby><rb>日</rb><rt>ひ</rt></ruby>ヶ<ruby><rb>窪</rb><rt>くぼ</rt></ruby>だよ」

「へ。……みんな木挽町だって、教えてくれましたが」

「よく世間でそういうが、こちらにあるお邸は、お住居ではない。お蔵やしきと、<ruby><rb>御普請</rb><rt>ごふしん</rt></ruby>お手伝いのためにある材木の御用所だけだ」

「じゃあ、殿様も御家来方も日ヶ窪とやらにいるんですか」

「うむ」

「日ヶ窪って、遠いんですか」

「だいぶあるぞ」

「どこです」

「もう御府外に近い山だ」

「山って？」

「<ruby><rb>麻布</rb><rt>あざぶ</rt></ruby>村だよ」

「わからない」

伊織はため息をついた。

だが、彼の責任感は、なおさら彼をこのままで帰る気持にはさせない。

「門番さん、その日ヶ窪とやらの道を、絵図に書いてくれないか」

「ばかをいえ。今から、<ruby><rb>麻布</rb><rt>あざぶ</rt></ruby>村まで行ったら、夜が明けてしまうぞ」

「かまわないよ」

「よせよせ、麻布ほど、狐のよく出る所はない。狐にでも<ruby><rb>化</rb><rt>ば</rt></ruby>かされたらどうするか。――木村様を知ってるのかおまえは」

「わたしの先生が、よく知っているんです」

「どうせ、こう遅くなったんだから、米倉へでも行って、朝まで、寝てから行ったらどうだ」

伊織は、爪を噛んで、考えこんでしまった。

そこへ蔵役人らしい男も来て、仔細を聞くと、

「今から、子供一人で、麻布村へなど行けるものか。辻斬りも多いのに――よく博労町から一人で来たものだな」

と、つぶやき、門番と共に、夜明けを待てとすすめてくれた。

伊織は、米倉の隅へ、鼠のように、寝かしてもらった。しかし彼は、余りに米が沢山にあるので、貧乏人の子が黄金の中へ寝かされたように、少しとろとろとすると<ruby><rb>魘</rb><rt>うなさ</rt></ruby>れていた。

## 四

寝るともう直ぐ、正体もない顔つきは、伊織も、まだやはり他愛のない少年でしかない。

蔵役人も、彼を忘れてしまい、門番からも忘れられて、米倉の中にぐっすり眠り込んだ伊織は、翌る日の<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>も過ぎた頃、

「おや？」

がばと、<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>めるなり直ぐ、

「たいへんだ」

と、使いの任務を思い出して、狼狽した眼をこすりながら、<ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>と<ruby><rb>糠</rb><rt>ぬか</rt></ruby>の中から飛び出して来た。

陽なたへ出ると、彼は、ぐらぐらと眼が<ruby><rb>眩</rb><rt>まわ</rt></ruby>った。ゆうべの門番は、小屋の中で、<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>の弁当を喰べていたが、

「子ども。今起きたのかい」

「おじさん、日ヶ窪へ行く道の絵図を書いておくれよ」

「寝坊して、<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てたな。お<ruby><rb>腹</rb><rt>なか</rt></ruby>はどうだ？」

「ペコペコで、眼がまわりそうだよ」

「ははは。ここに一つ、弁当が残っているから喰べてゆくがいい」

――その間に、門番は、麻布村へ行くまでの道すじと、柳生家のある日ヶ窪の地形を、絵図に書いてくれた。

伊織は、それを持って、道を急ぎだした。使いの大事なことは、頭に<ruby><rb>沁</rb><rt>し</rt></ruby>みているが、ゆうべから帰らないで、武蔵が心配しているだろうということは、少しも考えていなかった。

門番の書いてくれた通り、<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しい市街を歩き、その町を貫いている街道を横ぎって、やがて江戸城の下まで行った。

この辺は、何処も<ruby><rb>彼処</rb><rt>かしこ</rt></ruby>も、夥しい<ruby><rb>濠</rb><rt>ほり</rt></ruby>が掘られ、その<ruby><rb>埋土</rb><rt>うめつち</rt></ruby>の上に侍屋敷だの、大名の豪壮な門ができていた。そして濠には、石や材木を積んだ船が、無数にはいっているし、遠くみえる城の石垣や<ruby><rb>曲輪</rb><rt>くるわ</rt></ruby>には、朝顔を咲かせる助け竹のように、丸太足場が組まれてあった。

日比谷の原には<ruby><rb>鑿</rb><rt>のみ</rt></ruby>の音や、<ruby><rb>手斧</rb><rt>ちょうな</rt></ruby>のひびきが、新幕府の威勢を謳歌していた。――見るもの、耳に聞えるもの、伊織には、めずらしくない物はなかった。

<ruby><rb>手折</rb><rt>たお</rt></ruby>るべい

武蔵の原の

りんどう、<ruby><rb>桔梗</rb><rt>ききょう</rt></ruby>

花はとりどり

迷うほどあるが

あの<ruby><rb>娘</rb><rt>こ</rt></ruby>思えば

手折れぬ花よ

露しとど

ただ<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>が濡れべい

石曳き<ruby><rb>普請</rb><rt>ぶしん</rt></ruby>の石曳きたちは、おもしろそうに歌っているし、鑿や手斧が、木屑を飛ばしている仕事にも、彼は、足を止められて、思わず道草を喰っていた。

新しく、石垣を築く、物を建てる、創造する。そうした空気は少年の魂と、ぴったり合致して何となく、胸がおどる。空想が飛びひろがる。

「ああ、早く、<ruby><rb>大人</rb><rt>おとな</rt></ruby>になって、おらも城を築きたいな」

彼は、そこらに監督して歩いている侍たちを見て、恍惚としていた。

――そのうちに、濠の水は、<ruby><rb>茜色</rb><rt>あかねいろ</rt></ruby>にそまり、<ruby><rb>夕鴉</rb><rt>ゆうがらす</rt></ruby>の啼く声をふと耳にして、

「あ。もう陽が暮れる」

と、伊織はまた、急ぎ出した。

眼をさましたのが、<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>過ぎである。伊織は一日の時間を、きょうは勘違いしていた。気がつくと、彼の足は、地図をたよりに、あたふたと急ぎ出し、やがて、麻布村の山道へさしかかっていた。

## 五

暗やみ坂とでも<ruby><rb>称</rb><rt>い</rt></ruby>いそうな、<ruby><rb>木下闇</rb><rt>このしたやみ</rt></ruby>を登りきると、山の上には、まだ西陽があたっていた。

江戸の麻布の山まで来ると、人家は稀れで、わずかに、彼方此方の谷底に、田や畑や農家の屋根が、点々と見えるに過ぎない。

遠いむかし、この辺りは、<ruby><rb>麻生</rb><rt>あさお</rt></ruby>う里とも、<ruby><rb>麻布留山</rb><rt>あさふるやま</rt></ruby>とも<ruby><rb>称</rb><rt>よ</rt></ruby>ばれ、とにかく麻の産地であったそうだ。――<ruby><rb>天慶</rb><rt>てんぎょう</rt></ruby>年中、<ruby><rb>平将門</rb><rt>たいらのまさかど</rt></ruby>が、関八州にあばれた頃は、ここに源<ruby><rb>経基</rb><rt>つねもと</rt></ruby>が<ruby><rb>対峙</rb><rt>たいじ</rt></ruby>していたことがあり、またそれから八十年後の長元年間には、平<ruby><rb>忠恒</rb><rt>ただつね</rt></ruby>が叛乱に際し、源頼信は征夷大将軍に補せられて、鬼丸の御剣を賜わり、討伐の旗をすすめて、ここ麻<ruby><rb>生</rb><rt>お</rt></ruby>う山に陣を張り、八州の兵をまねき集めたともいい伝えられている。

「くたびれた……」

一息に上って来たので、伊織はつぶやきながら、芝の海や、渋谷、青山の山々、今井、<ruby><rb>飯倉</rb><rt>いいぐら</rt></ruby>、三田、あたりの里を、ぼんやり見廻していた。

彼のあたまには、歴史も何もなかったが、千年も生きて来たような木だの、<ruby><rb>山間</rb><rt>やまあい</rt></ruby>を流れてゆく水だの、ここらの山や谷のたたずまいは、麻<ruby><rb>生</rb><rt>お</rt></ruby>う<ruby><rb>往古</rb><rt>むかし</rt></ruby>、平氏や源氏のつわもの<ruby><rb>輩</rb><rt>ばら</rt></ruby>が、野に生れた道の――武家発生の<ruby><rb>故郷</rb><rt>ふるさと</rt></ruby>だった時代の景色を――何とはなく感じさせるものが、まだ残っていた。

どーん

どん、どん、どーん

「おや？」

どこかで太鼓の音がする。

伊織は、山の下をのぞいた。

鬱蒼とした青葉の中に、神社の屋根の<ruby><rb>鰹木</rb><rt>かつおぎ</rt></ruby>が見える。

それは今、登って来る時に見て来た、<ruby><rb>飯倉</rb><rt>いいぐら</rt></ruby>の大神宮さまだった。

この辺には、御所のお米を作る<ruby><rb>御田</rb><rt>みた</rt></ruby>という名が残っていた。そして伊勢大神宮の<ruby><rb>御厨</rb><rt>みくりや</rt></ruby>の土地でもあった。飯倉という地名も、そこから起ったのであろう。

大神宮さまとは、どなたを<ruby><rb>祀</rb><rt>まつ</rt></ruby>ったものであるか。これは伊織もよく知っていた。武蔵に就いて勉強しない前からだって、それだけは知っていた。

――だからこの頃急に、江戸の人たちが、

（徳川様、徳川様）

と、<ruby><rb>崇</rb><rt>あが</rt></ruby>め奉るようにいうと、伊織はへんな気もちがした。

今も、たった今、江戸城の大規模な改修工事をながめ、大名小路の<ruby><rb>金碧</rb><rt>こんぺき</rt></ruby>さんらんたる門や構えを見て来た眼で――ここの暗やみ坂の青葉の底に、そこらの百姓家の屋根と変らない――ただ鰹木と<ruby><rb>注連</rb><rt>しめ</rt></ruby>だけが違う――<ruby><rb>佗</rb><rt>わび</rt></ruby>しいお宮を見ると、<ruby><rb>猶々</rb><rt>なおなお</rt></ruby>、へんな気もちがして、

（徳川のほうが偉いのかしら）

と、単純に<ruby><rb>不審</rb><rt>いぶか</rt></ruby>った。

（そうだ、こんど、武蔵さまに訊いてみよう）

やっと、そのことは、それで頭にかたづけたが、肝腎な柳生家の屋敷は？　――さてここからどう行くのか。

これはまだちっともはっきりしていないのである。そこで彼はまたふところから門番にもらった絵図を出し、ためつすがめつ、

（はてな？）

と、小首を<ruby><rb>傾</rb><rt>かし</rt></ruby>げた。

何だか、自分のいる位置と絵図とが、ちっとも、符合しないのだ。絵図を見れば、道が分らなくなり、道を眺めると、絵図が分らなくなる。

（変だなあ）

よく陽のあたる障子の中にいるように、辺りは陽が暮れるほど反対に、明るくなって来る気がするが――それへ薄っすらと<ruby><rb>夕靄</rb><rt>ゆうもや</rt></ruby>がかかって、眼をこすってもこすっても、<ruby><rb>睫毛</rb><rt>まつげ</rt></ruby>の先に、虹みたいな光が<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>ってならなかった。

「けッ！　こん畜生っ」

何を見つけたか。

伊織は、やにわに跳ね飛んで、いきなり後ろの草むらを目がけ、いつも差している野刀の小さいので抜き打ちに斬りつけた。

ケーン！

と、狐が躍った。

草と、血とが、虹いろの夕陽の<ruby><rb>靄</rb><rt>もや</rt></ruby>に、ぱっと舞った。

## 六

枯れ尾花のように、毛の光る狐だった。尾か脚かを、伊織に斬られて<ruby><rb>甲</rb><rt>かん</rt></ruby>だかい啼き声を放ちながら<ruby><rb>征矢</rb><rt>そや</rt></ruby>みたいに逃げ走った。

「こん畜生」

伊織は、刀を持ったまま、やらじとばかり追いかける。狐も<ruby><rb>迅</rb><rt>はや</rt></ruby>い、伊織も迅い。

<ruby><rb>傷負</rb><rt>ておい</rt></ruby>の狐は、すこし<ruby><rb>跛行</rb><rt>びっこ</rt></ruby>をひく気味で、時々、前へのめる様子なので、しめたと思って、近づくと、やにわに神通力を出して、<ruby><rb>何間</rb><rt>なんげん</rt></ruby>も先へ跳んでしまう。

野に育った伊織は、母の膝に抱かれていた頃から、狐は人を<ruby><rb>化</rb><rt>ば</rt></ruby>かすものだという実話を沢山に聞かされていた。<ruby><rb>野猪</rb><rt>のじし</rt></ruby>の子でも兎でも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">むささび</span>でも愛すことが出来たが、狐だけは憎かった、また、<ruby><rb>怖</rb><rt>こわ</rt></ruby>かった。

――だから今、草むらの中に居眠りしていた狐を見つけると、彼は、とたんに、道に迷っている自分が、偶然でない気がした。こいつに<ruby><rb>誑</rb><rt>たぶら</rt></ruby>かされているのだと考えたのである。――否、すでに<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>から、この狐が、自分のうしろに<ruby><rb>憑</rb><rt>つ</rt></ruby>き<ruby><rb>纏</rb><rt>まと</rt></ruby>っていたに違いないという気持さえ<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に起った。

<ruby><rb>忌々</rb><rt>いまいま</rt></ruby>しいやつ。

殺してしまわないとまた<ruby><rb>祟</rb><rt>たた</rt></ruby>る。

そう思ったから伊織はどこまでも追いかけたのであったが、狐の影は、忽ち、雑木の生い茂った崖へ跳びこんでしまった。

――だが伊織は、<ruby><rb>狡智</rb><rt>こうち</rt></ruby>に<ruby><rb>長</rb><rt>た</rt></ruby>けた狐のことだから、そう人間の眼には見せて、実は自分の後ろにかくれておりはしないかと、そこらの草むらを、足で蹴ちらしながら、<ruby><rb>詮議</rb><rt>せんぎ</rt></ruby>してみた。

草にはもう夕露があった。赤<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まんま</span>とよぶ草にも、ほたる草の花にも露があった。伊織は、へなへなと坐りこんで、<ruby><rb>薄荷草</rb><rt>はっかそう</rt></ruby>の露を<ruby><rb>舐</rb><rt>な</rt></ruby>めた。口が<ruby><rb>渇</rb><rt>かわ</rt></ruby>いてたまらなかったのである。

それから――彼はようやく肩で息をつきはじめた。とたんに滝のような汗がながれてくる。心臓が、どきどきと、あばれてうつ。

「……アア、畜生、どこへ行ったろう？」

逃げたら逃げたでいいが、狐に<ruby><rb>傷</rb><rt>て</rt></ruby>を負わせたことが、不安になった。

「きっと、何か、仇をするにちがいないぞ」

という覚悟を、持たざるを得なかった。

果たせるかな。――すこし気が落着いたと思うと、彼の耳に、妖気のこもった<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>が聞えて来た。

「……？」

伊織は、キョロキョロ眼をくばった。<ruby><rb>化</rb><rt>ば</rt></ruby>かされまいと、心を固めた。

妖しい音は近づいて来る。それは笛の音に似ていた。

「来たな……」

伊織は、眉に<ruby><rb>唾</rb><rt>つば</rt></ruby>を塗りながら、用心して起ち上がった。

見ると、彼方から女の影が<ruby><rb>夕靄</rb><rt>ゆうもや</rt></ruby>につつまれてくる。女は、<ruby><rb>羅衣</rb><rt>うすもの</rt></ruby>の<ruby><rb>被衣</rb><rt>かつぎ</rt></ruby>をかぶり、<ruby><rb>螺鈿鞍</rb><rt>らでんぐら</rt></ruby>を置いた駒へ横乗りに<ruby><rb>騎</rb><rt>の</rt></ruby>って、手綱を、鞍のあたりへただ寄せあつめていた。

馬には、音楽が分るとかいうが、いかにも笛の音が分るように、馬上の女がふく横笛に聞き<ruby><rb>恍</rb><rt>と</rt></ruby>れながら、のたり、のたりと、<ruby><rb>緩</rb><rt>のろ</rt></ruby>い脚を運んで来るのだった。

「化けたな」

と、伊織はすぐ思った。

うすずく陽を<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>にして、馬上に笛をすさびながら来る被衣の麗人は、まったく彼ならでも、この世の人とも思えなかった。

## 七

伊織は、青蛙のように、小さくなって、草むらに<ruby><rb>屈</rb><rt>かが</rt></ruby>みこんでいた。

そこはちょうど、南の谷へ降りる坂道の角になっていた。――もし女が馬上のまま、ここまで来たら、不意に斬りつけて、狐の正体を<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>いでやろう――と、そう考えていたのである。

真っ赤な日輪は今、渋谷の山の端に沈みかけて、<ruby><rb>覆輪</rb><rt>ふくりん</rt></ruby>をとった夕雲が、むらむらと宵の空をつくりかけていた。地上はもう夕闇だった。

――おつうどの。

ふと、何処かで、そんな声がしたようだった。

（――おつウどの）

伊織は、口のうちで、口真似してみた。

疑ってみると、その声も、何だか人間放れのした五音であった。

（仲間の狐だな）

狐の友が、狐をよんだ声にちがいない。――伊織は、近づいて来る騎馬の女を、狐の化けたものと、飽くまで信じて疑わないのであった。

草の中からふと見ると、馬の背へ横乗りになった麗人は、もう坂の角まで来ていた。

この辺りには、樹が少ないので、馬上の姿は、宵闇の地上からぼかされて、上半身は、赤い夕空に、くッきりと明瞭に描かれていた。

伊織は、草むらの中に、身づくろいをしながら、

（おらの隠れていることを知らないな）

と、思って、刀をかたく持ち直していた。

そして彼女が、もう十歩ほど出て、南の方の坂道を降りかけたら、飛び出して、馬の尻を斬ってやろうと考えていた。

狐というものは大概――化けている<ruby><rb>象</rb><rt>かたち</rt></ruby>から何尺か後ろに身を置いているものだと――これも幼少からよく聞いていた<ruby><rb>俚俗</rb><rt>りぞく</rt></ruby>の狐狸学を思い出して、伊織は<ruby><rb>固唾</rb><rt>かたず</rt></ruby>をのんでいたのである。

だが。

騎馬の女性は、坂の口のてまえまで来ると、ふと、駒を止めてしまい、吹いていた笛を、<ruby><rb>笛嚢</rb><rt>ふえぶくろ</rt></ruby>に納めて、帯のあいだに<ruby><rb>手挟</rb><rt>たばさ</rt></ruby>んだ。――そして――眉の上に当る<ruby><rb>被衣</rb><rt>かつぎ</rt></ruby>の端に手をかけて、

「……？」

何か、探すような眼をして、鞍の上から見まわしているのであった。

――おつうどのう。

またしても、どこかで同じ声が聞えた。――と思うと、馬上の佳人は、ニコと白い顔を<ruby><rb>綻</rb><rt>ほころ</rt></ruby>ばせて、

「お。――<ruby><rb>兵庫</rb><rt>ひょうご</rt></ruby>さま」

と、小声にさけんだ。

するとやっと、南の谷から、坂道を上って来たひとりの侍の影が――伊織の眼にも分った。

――オヤッ？

伊織は、<ruby><rb>愕然</rb><rt>がくぜん</rt></ruby>とした。

何とその侍は、<ruby><rb>跛行</rb><rt>びっこ</rt></ruby>をひいているではないか。さっき、自分が斬りつけて逃がした狐も跛行だった。察するところ、この狐めは、自分に脚を斬られて逃げた狐のほうに違いない。よくもよくもこう<ruby><rb>巧</rb><rt>うま</rt></ruby>く化けて来たものと――伊織は舌を巻くと共に、ぶるぶるッと、身ぶるいを覚えて、思わず、<ruby><rb>尿</rb><rt>いばり</rt></ruby>を少し洩らしてしまった。

その間に、騎馬の女と、跛行の侍は、何か、ふた<ruby><rb>言</rb><rt>こと</rt></ruby><ruby><rb>三言</rb><rt>みこと</rt></ruby>話していたが、やがて侍は馬の口輪をつかんで、伊織のかくれている草むらの前を通りすぎた。

（今だ！）

と、伊織は思ったが、体がうごかなかった。――のみならずその<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かな身動きをすぐ気どったらしく、馬のそばから振り<ruby><rb>顧</rb><rt>かえ</rt></ruby>った跛行の若い侍は、伊織の顔を、ぐいと睨みつけて行った。

その<ruby><rb>眼</rb><rt>まな</rt></ruby>ざしからは、山の端の赤い日輪よりも、もっとするどい光が、ぎらりと射したような気がした。

で――伊織は、思わず草の中に<ruby><rb>俯</rb><rt>う</rt></ruby>ッ<ruby><rb>伏</rb><rt>ぷ</rt></ruby>してしまった。生れてから十四の年まで、こんな怖いと思ったことはまだなかった。自分の位置を覚られる<ruby><rb>惧</rb><rt>おそ</rt></ruby>れさえなかったら、わっと、声をあげて泣き出したかも知れなかった。

## <ruby><rb>懸</rb><rt>かか</rt></ruby>り<ruby><rb>人</rb><rt>ゅうど</rt></ruby>

## 一

坂は急であった。

兵庫は、駒の口輪をつかみ、<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>り<ruby><rb>身</rb><rt>み</rt></ruby>になって馬の脚元を<ruby><rb>撓</rb><rt>た</rt></ruby>めながら、

「お通どの、遅かったなあ」

鞍の上を振り仰いでいった。

「――参詣にしては、余り遅いし、日も暮れかかるので、叔父上は案じておられる。――で、迎えに来たわけだが、何処ぞへ、廻り道でもして来たのか」

「ええ」

お通は、鞍の前つぼへ、身を<ruby><rb>屈</rb><rt>かが</rt></ruby>めながら、それには答えず、

「<ruby><rb>勿体</rb><rt>もったい</rt></ruby>ない」

と、いって、駒の背から降りてしまった。兵庫は、足をとめて、

「なぜ降りるのじゃ。乗っておればよいのに」

と、顧みる。

「でも、あなた様に口輪を<ruby><rb>把</rb><rt>と</rt></ruby>らせて、<ruby><rb>女子</rb><rt>おなご</rt></ruby>のわたくしが……」

「相変らず遠慮ぶかいなあ。さりとて、女子に口輪をつかませて、わしが乗って帰るのもおかしい」

「ですから、二人して、口輪を<ruby><rb>把</rb><rt>と</rt></ruby>って参りましょう」

と、お通と兵庫は、駒の<ruby><rb>平首</rb><rt>ひらくび</rt></ruby>を挟んで、両側から口輪を持ち合った。

坂を降りるほど、道は暗くなった。空はもう白い星だった。谷の所々には、人家の明りがともっている。そして渋谷川の水が音をたてて流れてゆく。

その谷川橋のてまえが、<ruby><rb>北日</rb><rt>きたひ</rt></ruby>ヶ<ruby><rb>窪</rb><rt>くぼ</rt></ruby>であり、向うの崖を、南日ヶ窪とこの辺では<ruby><rb>称</rb><rt>よ</rt></ruby>んでいる。

その橋手前から北側の崖一帯は、看栄<ruby><rb>稟達和尚</rb><rt>りんたつおしょう</rt></ruby>の創始されたという、坊さんの学校になっていた。

坂の途中に今見えた「<ruby><rb>曹洞宗</rb><rt>そうとうしゅう</rt></ruby>大学林<ruby><rb>栴檀苑</rb><rt>せんだんえん</rt></ruby>」と書いてあった門がその入口なのである。

柳生家の邸は、ちょうど、その大学林と向い合って、南側の崖を占めているのであった。

だから、谷あいの渋谷川に沿って住んでいる農夫や、<ruby><rb>小商人</rb><rt>こあきんど</rt></ruby>たちは、大学林の学僧たちを北の衆とよび、柳生家の門生たちを南の衆と呼んでいた。

柳生兵庫は、門生たちの中に交じっているが、宗家石舟斎の孫にあたり、但馬守からは<ruby><rb>甥</rb><rt>おい</rt></ruby>にあたるので、ひとり別格な、そして自由な立場にあった。

<ruby><rb>大和</rb><rt>やまと</rt></ruby>の柳生本家に対して、ここはまた、江戸柳生と称されていた。そして本家の石舟斎が、最も可愛がっていたのは、孫の兵庫なのだった。

兵庫は二十歳を出ると間もなく、加藤清正に懇望されて、破格な高禄で、いちど肥後へ召抱えられてゆき、禄三千石を<ruby><rb>喰</rb><rt>は</rt></ruby>んで熊本へ居着くことになっていたが――関ヶ原以後の――いわゆる関東お味方組と、<ruby><rb>上方</rb><rt>かみがた</rt></ruby>加担の大名との色わけには、複雑極まる政治的な底流があるので去年、

（宗家の大祖父が危篤のため）

というよい口実を得た折に、いちど大和へ帰り、その以後は、

（なお、修行の望みあれば）

と称して、それなり肥後へ帰らず、一両年のあいだ諸国を修行にあるいて、去年からこの江戸柳生の叔父の許に、足をとめている身であった。

その兵庫は、ことし二十八歳であった。折から、この但馬守の屋敷には、お通という一女性も居合わせた。年頃の兵庫と、年頃のお通とは、すぐ親しくなったが、お通の身の上には複雑な過去があるらしいし、叔父の眼もあるので、兵庫はまだ、叔父にも彼女にも、自分の考えは、一度も口に出したことはなかった。

## 二

――だが、なおここで、説明しておかなければならないことは、お通がどうして、柳生家に身を寄せていたかということである。

武蔵の側を離れて、お通が、その消息を絶ってしまったのは、もう足掛け三年も前――京都から木曾街道を経て、江戸表へ向って来た――あの途中からのことだった。

福島の関所と、奈良井の宿のあいだで、彼女を待っていた魔手は、彼女を脅迫して、馬に乗せ、山越えを押して、甲州方面へ逃げのびた足どりだけは前に述べておいた。

その<ruby><rb>下手人</rb><rt>げしゅにん</rt></ruby>は、まだ読者の記憶にもそう遠くはなっていない筈の――例の<ruby><rb>本位田又八</rb><rt>ほんいでんまたはち</rt></ruby>であった。お通は、その又八の監視と<ruby><rb>束縛</rb><rt>そくばく</rt></ruby>をうけながらも、<ruby><rb>珠</rb><rt>たま</rt></ruby>を<ruby><rb>抱</rb><rt>いだ</rt></ruby>くように、貞操を護持して、やがて武蔵、城太郎など、行き<ruby><rb>迷</rb><rt>はぐ</rt></ruby>れた人々が、それぞれの道を<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>って江戸の地を踏んでいたであろう頃には――彼女も江戸にいたのであった。

何処に。

また、何をして。

と――今それを<ruby><rb>審</rb><rt>つぶ</rt></ruby>さに書き出すとなると、再び、二年前に<ruby><rb>遡</rb><rt>さかのぼ</rt></ruby>って語り直さなけれはならなくなるから、ここでは、以下簡略に、柳生家へ救われた経路だけを概説することに<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>めておく。

又八は、江戸へ着くと、

（とにかく喰う道が先だ）

と、職を捜した。

元より、職をさがして歩くにも、お通は一刻も放さない。

（上方から来た夫婦者で――）

と、どこへ行っても、自称していたのである。

江戸城の改築をしているので、<ruby><rb>石工</rb><rt>いしく</rt></ruby>、左官、大工の手伝いなどならその日からでも、仕事があったが、<ruby><rb>城普請</rb><rt>しろぶしん</rt></ruby>の労働の辛い味は、伏見城でもさんざん<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>めているので、

（どこか、夫婦して働けるような所か、家にいてやる筆耕みたいな仕事でもありますまいか）

と、相変らず、優柔不断なことばかりいい歩いているので、多少肩身を入れかけてくれた者も、

（いくら江戸でも、そんな虫のいい、お前方の注文どおりな仕事があるものか）

と、あいそをつかして、見向きもされなくなってしまうという風であった。

――そんなことで、幾月かを過ごすうち、お通は、努めて、彼に油断させるよう、貞操にふれない限りでは、何でも、素直になっていた。

そのうち、彼女は或る日、往来を歩いていると、二階笠の紋をつけた<ruby><rb>挟</rb><rt>はさ</rt></ruby>み箱や塗り<ruby><rb>駕籠</rb><rt>かご</rt></ruby>の行列に行き会った。路傍に避けて礼を執る人々の<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>きを聞くと、

（あれが、柳生様じゃ）

（将軍家のお手をとって、御指南なさる<ruby><rb>但馬守</rb><rt>たじまのかみ</rt></ruby>様じゃ）

――お通はふと、大和の柳生ノ庄にいた頃を思い出し、柳生家と自分との<ruby><rb>由縁</rb><rt>ゆかり</rt></ruby>を考え、ここが大和の国であったらなどと、<ruby><rb>儚</rb><rt>はかな</rt></ruby>い頼りを胸に抱いて、その時も、又八が側にいたので茫然と見送っていると、

（オオ、やはり、お通どのだ。――お通どの、お通どの）

と、路傍の人々の散らかる中を捜し求めて、後ろからこう呼び止めた人がある。

今、但馬守の駕わきに歩いていた<ruby><rb>菅笠</rb><rt>すげがさ</rt></ruby>の侍で――何と、顔を見合えば、柳生ノ庄でよく見知っている――石舟斎の高弟木村助九郎ではないか。

慈悲光明の<ruby><rb>御仏</rb><rt>みほとけ</rt></ruby>が救いの使いを向け給うたかとばかり――お通は、取り<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>って、

（オ。あなたは）

と、又八を捨てて、彼のそばへ走り寄った。

その場から、彼女は、助九郎に連れられて、日ヶ窪の柳生家へ救われて行った。もちろん<ruby><rb>鳶</rb><rt>とんび</rt></ruby>に油揚を<ruby><rb>攫</rb><rt>さら</rt></ruby>われた形の又八も、黙っている筈はなかったが、

（話があるなら、柳生家へ来い）

と、助九郎の一言に、口惜しげに<ruby><rb>唇</rb><rt>くち</rt></ruby>を<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひん</span>曲げたまま、例の<ruby><rb>臆心</rb><rt>おくしん</rt></ruby>と、柳生家の名に、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぐ</span>の音もいえず見送ってしまったわけである。

## 三

石舟斎はいちども江戸表へは出て来なかったが、秀忠将軍の指南役という大任をうけて、江戸に新邸を構えている但馬守の身は、本国柳生ノ庄にいながらも、たえず案じているらしかった。

今、江戸はおろか、全国的にまで、

（御流儀）

といえば、将軍家の学ぶ柳生の刀法のことであり、

（天下の名人）

といえば、第一指に、誰しも、但馬守<ruby><rb>宗矩</rb><rt>むねのり</rt></ruby>を折るほどであった。

けれど、その但馬守でも、親の石舟斎の眼から見れば、

（あの癖が出ねばよいが）

とか、

（あの気ままで勤まろうか）

などと、昔ながらの子供に思えて、遠くから、明け暮れ取りこし苦労をしていることは、およそ剣聖と名人の<ruby><rb>父子</rb><rt>おやこ</rt></ruby>も、<ruby><rb>凡愚</rb><rt>ぼんぐ</rt></ruby>と俗才の父子も、その<ruby><rb>煩悩</rb><rt>ぼんのう</rt></ruby>さにおいては何のかわりもない。

殊に、石舟斎は、昨年あたりから<ruby><rb>病</rb><rt>やまい</rt></ruby>がちで、そろそろ天寿をさとると共に、よけいに、子をおもい、孫の将来についての<ruby><rb>念</rb><rt>おも</rt></ruby>いが深くなって来たようであった。また、多年自分の側においた門下の四高足、出淵、庄田、村田なども、それぞれ越前家だの、<ruby><rb>榊原</rb><rt>さかきばら</rt></ruby>家だの、<ruby><rb>知己</rb><rt>ちき</rt></ruby>の大名へ推挙して、一家を立てさせ、この世の<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>の心支度をしているかに見えた。

また、その四高足の中の一人、木村助九郎を<ruby><rb>国許</rb><rt>くにもと</rt></ruby>から江戸へよこしたのも、助九郎のような世馴れた者が但馬守のそばにいれば、何かと役に立つであろうという、石舟斎の親心からであった。

以上で、ざっと、柳生家のここ両三年の消息は伝えたと思うが、そうした江戸柳生の新邸へ――否、もっと家庭的に、但馬守の<ruby><rb>許</rb><rt>もと</rt></ruby>には、ひとりの女性と、ひとりの<ruby><rb>甥</rb><rt>おい</rt></ruby>とが、どっちも、<ruby><rb>懸</rb><rt>かか</rt></ruby>り<ruby><rb>人</rb><rt>ゅうど</rt></ruby>として身を寄せていたのである。

それが、お通と、柳生<ruby><rb>兵庫</rb><rt>ひょうご</rt></ruby>とであった。

助九郎がお通を連れて来た場合は、それが石舟斎に<ruby><rb>侍</rb><rt>かしず</rt></ruby>いていたこともある女性なので、但馬守も、

（心おきなく、<ruby><rb>何日</rb><rt>いつ</rt></ruby>までも足を留めておるがよい。奥向きの用なども手伝うてもらおう）

と、気軽であったが、後から甥の兵庫も来て、共に寄食するようになると、

（若いふたり）

という眼をもって<ruby><rb>視</rb><rt>み</rt></ruby>なければならなくなったので、何か、絶えず家長としての気ぼねを抱くようになっていた。

――だが、甥の兵庫という人物は、<ruby><rb>宗矩</rb><rt>むねのり</rt></ruby>とちがって、至って気楽な性質とみえ、叔父がどう見ようが思おうが、

（お通どのはいい。お通どのはわしも好きだ）

と、いって<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>らないふうであった。しかし、その好きだ――というにも多少の<ruby><rb>見得</rb><rt>みえ</rt></ruby>はつつんでいるとみえ、

（妻に）

とか、

（恋している）

とか、そんなことは、叔父にもお通にも、決して口に出すことはなかった。

さて。

――その二人は今、駒の口輪を挟んで、とっぷり暮れた日ヶ窪の谷へ降り、やがて南面の坂を少し上ると、すぐ右側の柳生家の門前に足をとめ、兵庫がまずそこを叩いて、門番へ呶鳴った。

「平蔵、開けろ。――平蔵。――兵庫とお通さんのお戻りだぞ」

## <ruby><rb>飛札</rb><rt>ひさつ</rt></ruby>

## 一

<ruby><rb>但馬守宗矩</rb><rt>たじまのかみむねのり</rt></ruby>は、まだ四十に二つ間があった。

彼は、<ruby><rb>俊敏</rb><rt>しゅんびん</rt></ruby>とか剛毅とかいう<ruby><rb>質</rb><rt>たち</rt></ruby>ではなかった。どっちかといえば<ruby><rb>聡明</rb><rt>そうめい</rt></ruby>な人で、精神家というよりも、理性家であった。

その点が、<ruby><rb>英邁</rb><rt>えいまい</rt></ruby>な父の石舟斎とも違っていたし、<ruby><rb>甥</rb><rt>おい</rt></ruby>の兵庫の天才肌とも多分に違っていた。

大御所家康から柳生家に、

（誰ぞひとり、秀忠の師たるべき者を江戸へさし出すように）

と、いう<ruby><rb>下命</rb><rt>かめい</rt></ruby>があった時、石舟斎が、子や孫や甥や門人や、多くの一門からすぐ選んで、

（<ruby><rb>宗矩</rb><rt>むねのり</rt></ruby>、参るように）

と、いいつけたのも、宗矩の聡明と温和な性格が、適していると見たからであった。

いわゆる御流儀といわれる柳生家の<ruby><rb>大本</rb><rt>たいほん</rt></ruby>とするところは、

――天下を治むる兵法

であった。

それが石舟斎の晩年の信条であったから、将軍家の師範たるものは、宗矩のほかにないと推挙したのであった。

また、家康が、子の秀忠に、剣道のよい師をさがして、それに就かせたのも、剣技に長じさせるためではなかった。

家康は、自分も奥山<ruby><rb>某</rb><rt>ぼう</rt></ruby>に師事して、剣を学んでいたが、その目的は、

（見国の機を悟る――）

にあると常にいっていた。

だから御流儀なるものは、従って、個人力の強い弱いの問題よりも、まず大則として、

――天下統治の剣

であること。また、

――見国の機微に悟入する

のが、その眼目でなければならなかった。

だが、勝つ、勝ちきる、飽くまで何事にも打ち勝って生き通す――ことが剣の発足であり、また最後までの目標である以上、御流儀だから個人試合においては弱くてもよいという建前はなり立たない。

いや、むしろ、他の諸流の誰よりも、柳生家はその威厳のためにも、絶対に、優越していなければならなかった。

そこに、絶えず、宗矩の苦悶があった。――彼は、名誉を負って江戸へ上ってから一門のうちで一ばん恵まれた幸運児のように見えているが、事実は、最も辛い試練に立たされていたのだった。

「甥は<ruby><rb>羨</rb><rt>うらや</rt></ruby>ましい」

と、宗矩はいつも、<ruby><rb>兵庫</rb><rt>ひょうご</rt></ruby>の姿を見ては、心の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>でつぶやいた。

「ああなりたいが」

と思っても、彼には、その立場と性格から、兵庫のような自由にはなれないのだった。

その<ruby><rb>兵庫</rb><rt>ひょうご</rt></ruby>は今、<ruby><rb>彼方</rb><rt>かなた</rt></ruby>の橋廊下を越えて、<ruby><rb>宗矩</rb><rt>むねのり</rt></ruby>の部屋のほうへ渡って来た。

ここの邸は、豪壮を尊んで建築させたので、<ruby><rb>京大工</rb><rt>きょうだいく</rt></ruby>は使わなかった。鎌倉造りに<ruby><rb>倣</rb><rt>なら</rt></ruby>わせて、わざと田舎大工に<ruby><rb>普請</rb><rt>ふしん</rt></ruby>させたものである。この辺は樹も浅く山も低いので、宗矩はそうした建築の中に住んで、せめて、柳生谷の<ruby><rb>豪宕</rb><rt>ごうとう</rt></ruby>な<ruby><rb>故郷</rb><rt>ふるさと</rt></ruby>の家を<ruby><rb>偲</rb><rt>しの</rt></ruby>んでいた。

「叔父上」

と、兵庫がそこをさし覗いて、縁に膝まずいた。

宗矩は、知っていたので、

「兵庫か」

中庭の坪へ眼をやったままで答えた。

「かまいませぬか」

「用事か」

「べつに用でもございませぬが……ただお話に伺いましたが」

「はいるがよい」

「では」

と、兵庫は初めて<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>へ坐った。

礼儀の実にやかましいことは、ここの家風であった。兵庫などから見ると、祖父の石舟斎などには、ずいぶん甘えられる所もあったが、この叔父には寄りつく<ruby><rb>術</rb><rt>すべ</rt></ruby>がなかった。いつも端然と、真四角に坐っていた。時には、気の毒のような気持さえするほどだった。

## 二

宗矩は、ことば数も<ruby><rb>尠</rb><rt>すく</rt></ruby>ないたちであったが、兵庫の来た<ruby><rb>機</rb><rt>しお</rt></ruby>に、思い出したらしく、

「お通は」

と、訊ねた。

「戻りました」

と、兵庫は答えて、

「いつもの、氷川の<ruby><rb>社</rb><rt>やしろ</rt></ruby>へ参詣に行って、その帰り道、<ruby><rb>彼方此方</rb><rt>あちこち</rt></ruby>、駒にまかせて歩いて来たので、遅くなったのだと申しておりました」

「そちが迎えに行ったのか」

「そうです」

「…………」

宗矩は、それからまた、<ruby><rb>短檠</rb><rt>たんけい</rt></ruby>に横顔を照らされたまま、しばらく口を<ruby><rb>緘</rb><rt>つぐ</rt></ruby>んでいたが、

「若い<ruby><rb>女子</rb><rt>おなご</rt></ruby>を、いつまで邸に止めおくのも、何かにつけ、気がかりなものだ。助九郎にもいっているが、よい折に、暇を取って、どこぞへ身を移すようにすすめたがよいな」

「……ですが」

兵庫は、やや異議を抱くような<ruby><rb>口吻</rb><rt>くちぶり</rt></ruby>で、

「身寄りもなにもない、<ruby><rb>不愍</rb><rt>ふびん</rt></ruby>な身の上と聞きました。ここを出ては、<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>に行く所もないのではございますまいか」

「そう思い遣りを懸けたひには限りがない」

「心だての好いものと――<ruby><rb>祖父様</rb><rt>おじいさま</rt></ruby>も仰せられていたそうで」

「気だてが悪いとは申さぬが――何せい若い男ばかりが多いこの邸に、美しい女がひとり立ち交じると、出入りの者の口もうるさいし、侍どもの気もみだれる」

「…………」

暗に自分へ意見しているのだ、とは兵庫は思わなかった。なぜなら、自分はまだ妻帯していないし、またお通に対しても、そう人に訊かれて恥じるような不純な気持は持っていないと信じているからだった。

むしろ、兵庫は、今の叔父のことばを、叔父自身が、自身へいっているように思われた。宗矩には格式のある権門から<ruby><rb>輿入</rb><rt>こしいれ</rt></ruby>している妻室があった。その妻室は、表方とはかけ離れていて、宗矩と<ruby><rb>琴瑟</rb><rt>きんしつ</rt></ruby>が和しているかいないかも分らないほど奥まった所に生活しているが――まだ若いし、そうした深窓にいる女性だけに――良人の身辺にお通のような女性が現われたことは、決して、よい眼で見ていないことは想像に<ruby><rb>難</rb><rt>かた</rt></ruby>くないことであった。

こん夜も、浮いた顔いろでないが――時々、宗矩が、表の部屋で、ただひとり<ruby><rb>寂然</rb><rt>じゃくねん</rt></ruby>としている姿など見ると、

（何か奥であったのではないか）

と、兵庫のような、独身者の神経にも、思い<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>られることがある。殊に、宗矩は、真面目な<ruby><rb>質</rb><rt>たち</rt></ruby>だけに、女のいうことばだからといって、大まかに、

（黙っておれ）

と、一<ruby><rb>喝</rb><rt>かつ</rt></ruby>しておくことができない<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>であった。

表に対しては、将軍家師範という大任を感じていなければならない良人はまた、妻室へはいっても何かと<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>らない気をつかわなければならなかった。

――といって、そんな顔いろも愚痴も人には示さない宗矩だけに、ふと、<ruby><rb>沈湎</rb><rt>ちんめん</rt></ruby>と独りの想いに耽ることが多かった。

「助九郎とも、相談してお<ruby><rb>煩</rb><rt>わずら</rt></ruby>いのないようにしましょう。お通どののことは、てまえと助九郎におまかせおきください」

叔父の心を察して、兵庫がいうと、宗矩は、

「はやいがよいな」

と、つけ加えた。

その時、用人の木村助九郎がちょうど、次の間まで来て、

「――殿」

と、<ruby><rb>文筥</rb><rt>ふばこ</rt></ruby>を前に、灯影から遠く坐った。

「なんじゃ」

振顧ると、その宗矩の<ruby><rb>眼</rb><rt>まな</rt></ruby>ざしに向って、助九郎は膝をすすめ直して告げた。

「お国<ruby><rb>許</rb><rt>もと</rt></ruby>から、ただ今早馬のお使いが到着いたしました」

## 三

「――早馬？」

宗矩は、思い当ることでもあるように、声を<ruby><rb>弾</rb><rt>はず</rt></ruby>ませた。

兵庫も、すぐ察して、

（さては）

と、思った。しかし口に出していいことではないので、無言のまま助九郎の前から文筥を取次ぎ、

「何事でございましょうか」

と、叔父の手へ渡した。

宗矩は、手紙を<ruby><rb>披</rb><rt>ひら</rt></ruby>いた。

本国柳生城の家老――庄田喜左衛門からの早打であって、筆のあとも走り書きに、

大祖（石舟斎）さま御事

又々、御風気のところ

此度は御模様ただならず

畏れながら<ruby><rb>旦夕</rb><rt>たんせき</rt></ruby>に危ぶまれ申候

然し<ruby><rb>乍</rb><rt>なが</rt></ruby>ら、猶御気丈に<ruby><rb>在</rb><rt>おわ</rt></ruby>し、

たとえ身不慮のことあるも、

但馬守は将軍家指導の大任あるもの故、

帰郷に及ばずとの仰せに候

さは仰せられ候ものの臣下の者、

談合のうえ、とりあえず<ruby><rb>先</rb><rt>まず</rt></ruby>は飛札かくの如くにござ候

月　　　日

「……御危篤」

宗矩も、<ruby><rb>兵庫</rb><rt>ひょうご</rt></ruby>も、<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いたまま、しばらく暗然としていた。

兵庫は、叔父の顔いろの中に、もうすべてが解決しているのを見た。こういう場合にあたっても<ruby><rb>惑</rb><rt>まど</rt></ruby>わず乱れず、すぐ<ruby><rb>肚</rb><rt>はら</rt></ruby>のきまるところは、やはり宗矩の聡明な点に依るものといつも感服する。兵庫となると、ただ<ruby><rb>徒</rb><rt>いたず</rt></ruby>らに、情がみだれて、祖父の死に顔だの、<ruby><rb>国許</rb><rt>くにもと</rt></ruby>の家来たちの嘆きだの――そうしたものばかり見えて<ruby><rb>時務</rb><rt>じむ</rt></ruby>の判断はつかなかった。

「兵庫」

「はあ」

「わしに代って、すぐに<ruby><rb>其方</rb><rt>そち</rt></ruby>は発足してくれぬか」

「承知いたしました」

「江戸表の方――すべて何事もご安心なさるように――」

「お伝えいたします」

「ご看護もたのむ」

「はい」

「早打の様子では、よほどおわるいらしい。神仏の御加護をたのみ参らすばかり……急いでくれよ。お枕べに、間にあうように」

「――では」

「もう行くか」

「身軽な拙者。せめて、こんな時のお役にでも立たねば」

兵庫は、そういって、すぐ叔父に<ruby><rb>暇乞</rb><rt>いとまご</rt></ruby>いをし、自分の部屋へ<ruby><rb>退</rb><rt>さ</rt></ruby>がった。

彼が、旅支度をしている間に――もう国許の凶報は、召使の端にまで分って、邸内には、どこともなく、人々の<ruby><rb>憂</rb><rt>うれ</rt></ruby>わしげな気もちが<ruby><rb>漂</rb><rt>ただよ</rt></ruby>い合った。

お通も、いつのまにか旅支度をして、彼の部屋を、そっと訪れ、

「――兵庫様。どうぞ私も、お連れ遊ばしてくださいませ」

と、泣き伏して頼んだ。

「できないまでも、せめて、石舟斎様のお枕べに参って万分の一の御恩返しでもさせて戴きとうございます。柳生ノ庄でも深い御恩をうけ、江戸のお邸においていただいたのも、恐らくは、大殿様の御余恵と存じあげておりまする。……どうぞ、お召し連れ下さいますように」

兵庫は、お通の性質をよく知っていた。叔父なら断るであろうと思いながら、彼は、その願いを断れなかった。

むしろ、<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>宗矩からの話もあったところなので、ちょうどよい折かも知れないとさえ考えられて、

「よろしい。しかし、一刻も争う旅。馬や<ruby><rb>駕</rb><rt>かご</rt></ruby>を乗りついでも、わしに<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて来られるかな」

と、念を押した。

「はい。どんなにお急ぎ遊ばしても――」

と、お通は<ruby><rb>欣</rb><rt>うれ</rt></ruby>しげに、涙をふいて、兵庫の身支度をいそいそ手伝った。

## 四

お通はまた、<ruby><rb>但馬守宗矩</rb><rt>たじまのかみむねのり</rt></ruby>の部屋へ行って、自分の心もちを述べ、長い月日の恩を謝して、暇乞いをすると、

「おお、行ってくれるか。そなたの顔を見たら、さだめし御病人もお<ruby><rb>欣</rb><rt>よろこ</rt></ruby>びになるであろう」

と、宗矩も異存なく、

「大事に参れよ」

路銀や小袖の<ruby><rb>餞別</rb><rt>はなむけ</rt></ruby>など、何くれとなく、さすがに離情をこめて心づけてくれる。

家臣たちは、門をひらき、<ruby><rb>挙</rb><rt>こぞ</rt></ruby>ってその両側に並行して見送った。

「おさらば」

と、兵庫は一同へあっさり挨拶を残して出て行く。

お通は腰帯を<ruby><rb>裾短</rb><rt>すそみじか</rt></ruby>にくくり、<ruby><rb>塗</rb><rt>ぬり</rt></ruby>の市女笠に、杖を持っていた。――その肩に藤の花を<ruby><rb>担</rb><rt>にな</rt></ruby>わせたら、大津絵の藤娘になりそうな――と人々はその<ruby><rb>優婉</rb><rt>たおや</rt></ruby>かな姿が、あしたからここに見られないのを惜しんだ。

乗物は、<ruby><rb>駅路</rb><rt>うまやじ</rt></ruby>の行く先々で、雇うことにして、夜のうちに、三軒家あたりまでは行けようと兵庫とお通は、日ヶ窪を立った。

まず大山街道へ出て、玉川の<ruby><rb>渡船</rb><rt>わたし</rt></ruby>を<ruby><rb>経</rb><rt>へ</rt></ruby>、東海道へ出ようと兵庫はいう。お通の塗笠には、もう夜の露が濡れ<ruby><rb>初</rb><rt>そ</rt></ruby>めていた。草深い<ruby><rb>谷間川</rb><rt>たにあいがわ</rt></ruby>に沿って歩くと、やがてかなり道幅のひろい坂へかかった。

「道玄坂」

と、兵庫が独り言のように教える。

ここは鎌倉時代から、<ruby><rb>衝要</rb><rt>しょうよう</rt></ruby>な関東の往来なので、道は<ruby><rb>拓</rb><rt>ひら</rt></ruby>けているが、<ruby><rb>鬱蒼</rb><rt>うっそう</rt></ruby>とした樹木が左右の小高い山をつつみ、夜となると、通る人影は稀れだった。

「さびしいかね」

兵庫は、大股なので、時々足を止めて待つ。

「いいえ」

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">にこ</span>として、お通は、そのたびに幾分か脚を早めた。

自分を連れているために、柳生城の御病人の枕元へ着く日が、少しでも遅れてはすまないと心のうちに思う。

「ここは、よく山賊の出たところだ」

「山賊が」

彼女が、ちょっと、眼をみはると、兵庫は笑って、

「昔のことだ。和田<ruby><rb>義盛</rb><rt>よしもり</rt></ruby>の一族の道玄太郎とかいう者が、山賊になって、この近くの<ruby><rb>洞穴</rb><rt>ほらあな</rt></ruby>に住んでいたとかいう」

「そんな怖い話はよしましょう」

「さびしくないというから」

「ま、お意地のわるい」

「はははは」

兵庫の笑い声が、<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>の闇に<ruby><rb>木魂</rb><rt>こだま</rt></ruby>する。

なぜか兵庫は、心が少し浮いていた。祖父の危篤に<ruby><rb>国許</rb><rt>くにもと</rt></ruby>へいそぐ旅路を――済まないと責めながらも、<ruby><rb>密</rb><rt>ひそ</rt></ruby>かに、楽しかった。思いがけなく、お通とこんな旅をすることのできた機会を、<ruby><rb>欣</rb><rt>よろこ</rt></ruby>ばずにいられなかった。

「――あらっ」

何を見たか、お通は、ぎくと脚をもどした。

「なにか？」

兵庫の手は無意識に、その背を<ruby><rb>庇</rb><rt>かば</rt></ruby>う。

「……何かいます」

「どこに」

「おや、子供のようです。そこの<ruby><rb>道傍</rb><rt>みちばた</rt></ruby>に坐って。……何でしょう、気味のわるい、何か、独り言をいって、<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>いているではございませんか」

「……？」

兵庫が近づいて見ると、それは今日の暮れ方、お通と邸へもどる途中、草むらの中にかくれていた見覚えのある童子であった。

## 五

兵庫とお通のすがたを見ると、

「――あっ」

何を思ったか、伊織は、やにわに跳ね起きて、

「ちくしょうッ」

と、斬りつけて来た。

「あれっ」

お通がさけぶと、お通へも、

「狐め。この狐め」

子供の小腕だし、刀も小さいが、<ruby><rb>侮</rb><rt>あなど</rt></ruby>り<ruby><rb>難</rb><rt>がた</rt></ruby>いのは、その血相である。なにか、<ruby><rb>憑</rb><rt>の</rt></ruby>り移っているように<ruby><rb>蒐</rb><rt>かか</rt></ruby>って来る向う見ずな切先には、兵庫も、一歩<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>かなければならなかった。

「狐め。狐め」

伊織の声は、老婆みたいにシャ<ruby><rb>嗄</rb><rt>が</rt></ruby>れていた。兵庫は不審に思って、彼の鋭鋒を、そのなすがままに避けて、しばらく眺めていると、やがて、

「――どうだッ！」

伊織は、その刀を<ruby><rb>揮</rb><rt>ふる</rt></ruby>って、ひょろ長い一本の灌木をズバリと斬り、木の半身がばさっと草むらへ仆れると、自分も共に、へなへなと坐って、

「どうだ！　狐」

と、肩で息をついているのであった。

その<ruby><rb>容子</rb><rt>ようす</rt></ruby>が、いかにも、敵を斬って血ぶるいでもしているような<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>なので、兵庫は初めて<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>きながら、お通を顧みて微笑した。

「かあいそうに、この<ruby><rb>童</rb><rt>わっぱ</rt></ruby>は、狐に<ruby><rb>憑</rb><rt>つ</rt></ruby>かれているらしい」

「……ま、そういえば、あの恐い眼は」

「さながら狐だ」

「助けてやれないものでしょうか」

「<ruby><rb>狂人</rb><rt>きちがい</rt></ruby>と馬鹿は<ruby><rb>癒</rb><rt>なお</rt></ruby>らないが、こんなものはすぐ癒る」

兵庫は、伊織の前へ廻って、彼の顔をじいっと、<ruby><rb>睨</rb><rt>ね</rt></ruby>めつけた。

くわっと、眼をつりあげた伊織はまた、刀を持ち直して、

「ち、畜生、まだいたかっ」

起ち上がろうとする出鼻を、兵庫の大喝が、彼の耳をつきぬいた。

「ええーいッ」

兵庫はいきなり、伊織の体を、横抱きにして駈け出した。そして坂を下ると、さっき渡った街道の橋がある。そこで、伊織の両脚を持って、橋の下から欄干の外へ吊り下げた。

「おっ<ruby><rb>母</rb><rt>か</rt></ruby>さあん！」

<ruby><rb>金切声</rb><rt>かなきりごえ</rt></ruby>で、伊織はさけんだ。

「お<ruby><rb>父</rb><rt>とっ</rt></ruby>さん！」

兵庫はまだ、離さずに、吊り下げていた。すると三声目は、泣き声で、

「先生っ。たすけて下さいっ」

といった。

お通は後ろから駈けて来て、兵庫の<ruby><rb>酷</rb><rt>むご</rt></ruby>い仕方に、自分の身が苦しむように、

「いけません、いけません、兵庫さま！　よその子を、そんな<ruby><rb>酷</rb><rt>むご</rt></ruby>いことをしては――」

いう間に、兵庫は、伊織の体を橋の上へ移して、

「もうよかろう」

と、手を離した。

わあん、わあん……と伊織は大声で泣き出した。この世に自分の泣き声を聞いてくれる者が一人もないことを悲しむように、愈〻、声をあげて泣いた。

お通は、そばへ寄って、彼の肩をそっと触ってみた。もう先刻のように、その肩は硬く尖っていなかった。

「……おまえ、どこの子？」

伊織は、泣きじゃくりながら、

「あっち」

と指さした。

「あっちって、どっち」

「江戸」

「江戸の？」

「ばくろ町」

「まあ、そんな遠方から、どうしてこんな所へ来たの」

「使いに来て、迷子になっちまったんだ」

「じゃあ、昼間から歩いているんですね」

「ううん」

と、かぶりを振りながら、伊織はすこし落着いて答えた。

「<ruby><rb>昨日</rb><rt>きのう</rt></ruby>からだい」

「まあ。……二日も迷っていたのかえ」

お通は、<ruby><rb>憐</rb><rt>あわ</rt></ruby>れを<ruby><rb>催</rb><rt>もよお</rt></ruby>して、笑う気にもなれなかった。

## 六

彼女は、重ねて、

「そして、お使いとは、どこへお使いに？」

訊くと、伊織は、訊いてくれるのを、待っていたように、

「柳生様」

と、言下だった。

そしてそれ一つだけは、<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>がけで持っていたように、<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>み苦茶になった手紙を、<ruby><rb>臍</rb><rt>へそ</rt></ruby>の辺りから取り出し、<ruby><rb>上書</rb><rt>うわがき</rt></ruby>の文字を星に透かして、

「そうだ、柳生様の中にいる、木村助九郎様ってえ人へ、この手紙を持って行くんだよ」

と、さらにいい加えた。

ああ、伊織は何でその手紙を、折角、親切な人へ、ちょっとでも見せないのか。

使命を重んじているのか。

または、目に見えない運命の何ものかがこんな場合、物の陰にいて、わざとそうさせずにいるのか。

伊織が、彼女のすぐ前で、<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>だらけにして握っている手紙は、お通にとって、<ruby><rb>七夕</rb><rt>たなばた</rt></ruby>の星と星とよりも稀れに、ここ幾年、夢にのみ見て、会いも得ず、便りもなかった人の――天来の機縁に恵まれるものではないか。

それをまた。

――知らないということはぜひもない。お通もべつに、眼をとめて、見ようともせず、

「兵庫さま、この子は、お邸の木村様を尋ねて来たのだそうです」

と、あらぬ方へ、顔を向けてしまう。

「ではまるで、方角ちがいを<ruby><rb>彷徨</rb><rt>さまよ</rt></ruby>っていたな。――だが子供、もう近いぞ。この川の流れに沿ってしばらく行くと、左の方へ登りになる。そこの<ruby><rb>三叉道</rb><rt>みつまたみち</rt></ruby>から、<ruby><rb>巨</rb><rt>おお</rt></ruby>きな<ruby><rb>女男松</rb><rt>めおとまつ</rt></ruby>のある方を望んでゆけ」

「また、狐に<ruby><rb>憑</rb><rt>つ</rt></ruby>かれないように」

と、お通は危ぶむ。

だが、伊織は、ようやく霧のはれたような心地がして、もう大丈夫と自信を持ったらしく、

「ありがとう」

と、駈け出した。

渋谷川に沿って、少し行ったかと思うと、彼は、足をとめて、

「左だね。――左の方へ登るんだね」

と、念を押しながら、指さしていう。

「うむ」

兵庫は<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>きを送って、

「暗い所があるぞ。気をつけて行けよ」

――もう返辞もしない。

伊織の影は、若葉のふかい<ruby><rb>丘道</rb><rt>おかみち</rt></ruby>の中へ、吸われるように隠れ去った。

兵庫とお通は、まだ橋の<ruby><rb>欄</rb><rt>らん</rt></ruby>に残って、何を見送るともなく見ていた。

「鋭いな、あの<ruby><rb>童</rb><rt>わっぱ</rt></ruby>は」

「賢いところがありますね」

彼女は、胸の中で、城太郎と思いくらべていた。

彼女の描いている城太郎は、今の伊織に少し背を足したぐらいなものであるが、数えてみると、今年はもう十七歳になる。

（どんなに変ったろう）

と、思う。

ひいてはまた、武蔵を恋う痛いような物思いが、胸さきへ<ruby><rb>募</rb><rt>つの</rt></ruby>りかかって来たが、

（いや、ひょっとしたら、思いがけない旅先で、かえってお目にかかれようも知れぬ）

と、<ruby><rb>儚</rb><rt>はかな</rt></ruby>い頼みに<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>らわしてしまうべく、この頃は、恋の苦しみに耐えることにも馴れた心地である。

「おう急ごう。こよいは仕方がないが、この先々では、もう道ぐさはしておられぬぞ」

兵庫は、自分を<ruby><rb>誡</rb><rt>いまし</rt></ruby>めていう。どこか<ruby><rb>暢気</rb><rt>のんき</rt></ruby>な兵庫には、そういう弱点のあることを、自分でも感じているらしいのだ。

――かくてお通も、道を急いだが、心は道の<ruby><rb>辺</rb><rt>べ</rt></ruby>の草にも<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>いて、

（あの草の花も、武蔵さまが踏んだ草ではなかろうか）

などと、連れにも語れぬ想いばかりを独り胸に描いては歩いた。

## <ruby><rb>仮名</rb><rt>かな</rt></ruby>がき<ruby><rb>経典</rb><rt>きょうてん</rt></ruby>

## 一

「オヤ、おばば、手習いか」

今、外から戻って来たお<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>の十郎は、お杉ばばの部屋をのぞき込むと、呆れたようなまた感心したような――顔をした。

そこは、<ruby><rb>半瓦</rb><rt>はんがわら</rt></ruby>弥次兵衛の家。

ばばは振向いて、

「おいのう」

と答えたのみで、うるさそうにまた、筆を執り直し、何か書き物に余念がない。

お菰は、そっと側へ坐って、

「なんだ、お<ruby><rb>経文</rb><rt>きょうもん</rt></ruby>を写しているんだな」

と、<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>く。

ばばが耳も傾けないので、

「もういい年よりのくせに、今から手習いなんぞして、どうするつもりだ。あの世で手習い師匠でもする気かえ」

「やかましい。写経は、無我になってせねばならぬ。<ruby><rb>去</rb><rt>い</rt></ruby>んでくだされ」

「今日は外で、ちと耳よりな拾い物をしたので、はやく聞かしてやろうと思って帰って来たのに」

「後で聞きましょう」

「いつ終るのか」

「一字一字、<ruby><rb>菩提</rb><rt>ぼだい</rt></ruby>の心になって、ていねいに書くので、一部書くにも三日はかかる」

「気の永げえこったな」

「三日はおろか、この夏中には、何十部も<ruby><rb>認</rb><rt>したた</rt></ruby>めましょう。そして<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>のあるうちには、千部も写経して世の中の親不孝者に、<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>して死にたいと思っているのじゃ」

「ヘエ、千部も」

「わしの悲願じゃ」

「その写した経文を、親不孝者へ遺すというのは、いったいどういう<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>か、聞かしてもらいてえもんだな。自慢じゃねえが、こう見えても、親不孝の方じゃあ、おれも負けねえ組だが」

「おぬしも、不孝者か」

「ここの部屋にごろついている極道者は、みんな親不孝峠を越えて来た崩れにきまってらアな。――孝行なのは、親分くれえのもんだろう」

「嘆かわしい世の中よの」

「あはははは。ばあさん、ひどくおめえ<ruby><rb>悄気</rb><rt>しょげ</rt></ruby>てるが、おめえの子も、極道者とみえるな」

「あいつこそ、親泣かせの骨頂。世に、又八のような不孝者もおろうかと、この<ruby><rb>父母恩重経</rb><rt>ぶもおんじゅうぎょう</rt></ruby>の写経を思い立ち、世の中の不孝者に読ませてやろうと悲願を立てたが――親泣かせは、そんなにも、多いものかのう」

「じゃあ、その父母恩重経とやらを、生涯に千部写して、千人に<ruby><rb>頒</rb><rt>わ</rt></ruby>けてやる気か」

「一人に<ruby><rb>菩提</rb><rt>ぼだい</rt></ruby>の<ruby><rb>胚子</rb><rt>たね</rt></ruby>をおろせば、百人の衆を化し、百人に菩提の苗を生ずれば、千万人を化すともいう。わしの悲願は、そんな小さいものじゃない」

と、お杉はいつか筆を<ruby><rb>擱</rb><rt>お</rt></ruby>いてしまって、傍らに重ねてある写し終りの薄い写経五、六部のうちから一冊をぬいて、

「――これを<ruby><rb>其方</rb><rt>そなた</rt></ruby>に与えますから、暇のあるたびに<ruby><rb>誦</rb><rt>よ</rt></ruby>んだがよい」

と、<ruby><rb>恭</rb><rt>うやうや</rt></ruby>しく授けた。

お<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>は、ばばの真面目くさった顔に、ぷッとふきだしかけたが、鼻紙のように<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>へねじこむわけにもゆかず、写経を<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>に当てて、ちょっと拝む恰好をしながら、

「ところで」

と、身を交わすように、急に話の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ほこ</span>をすげ替えた。

「――おばば、てめえの信心が届いたか、今日、<ruby><rb>外出</rb><rt>そとで</rt></ruby>の先で、おれはえらい奴に<ruby><rb>出</rb><rt>で</rt></ruby>ッ<ruby><rb>会</rb><rt>く</rt></ruby>わしたぜ」

「何。えらい者に会ったとは」

「おばばが、<ruby><rb>仇</rb><rt>かたき</rt></ruby>とねらって探している、宮本武蔵という野郎よ。――隅田川の<ruby><rb>渡船</rb><rt>わたし</rt></ruby>から降りた所で見かけたんだ」

## 二

「えっ、武蔵に出会ったと？」

聞くと、ばばはもう、写経どころではない。机を押しやって、

「して、どこへ行きましたぞえ。その行く先を、突き止めてくれたかよ」

「そこは、お<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>の十郎だ、抜け目はねえ。野郎と別れるふりをして、横丁にかくれ、後を<ruby><rb>尾行</rb><rt>つけ</rt></ruby>てゆくと、ばくろ町の<ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>でわらじを脱いだ」

「ウウム、ではこの<ruby><rb>大工町</rb><rt>だいくちょう</rt></ruby>とは、まるで目と鼻の先ではないか」

「そう近くもねえが」

「いや近い近い。きょうまでは、諸国をたずね、幾山河を隔てている心地がしていたのが、同じ土地にいるのじゃもののう」

「そういやあ、ばくろ町も日本橋のうち、大工町も日本橋の内、十万億土ほど遠くはねえ」

ばばは、すっくと立って、袋戸棚の中をのぞきこみ、かねて秘蔵の伝家の短い一こしを<ruby><rb>把</rb><rt>と</rt></ruby>ると、

「お菰どの、案内してたも」

「どこへ」

「知れたことじゃ」

「おそろしく気が永げえかと思うとまた、怖ろしく気が短けえなあ。今からばくろ町へ出向く気か」

「おいの。覚悟はいつもしていることじゃ。骨になったら、<ruby><rb>美作</rb><rt>みまさか</rt></ruby>の吉野郷、本位田家へ骨は送ってくだされ」

「まあ、待ちねえ。そんなことになったひにゃあ、折角、耳よりな手懸りを見つけて来ながら、おれが親分に叱られてしまう」

「ええ、そのような、気遣いしておられようか。いつ武蔵が、旅籠を立ってしまわぬとも限らぬ」

「そこは、大丈夫、すぐ部屋にごろついているのを一匹、張番にやってある」

「では、逃がさぬことを、おぬしがきっと保証しやるか」

「なんでえまるで……それじゃあこっちが恩を着るようなものじゃねえか。――だがまあ仕方がねえ、年よりのことだ、保証した保証した」

と菰は、なだめて、

「こんな時こそ、落着いて、もちッとその写経とやらをやっていなすっちゃどうだ」

「弥次兵衛どのは、きょうもお留守か」

「親分は、講中のつきあいで、<ruby><rb>秩父</rb><rt>ちちぶ</rt></ruby>の<ruby><rb>三峰</rb><rt>みつみね</rt></ruby>へ行ったから、いつ帰るか分らねえ」

「それを待って、相談をしてはおられまいが」

「だから一つ、佐々木様に来てもらって、ご相談をしてみなすっちゃどうですえ」

翌る日の朝。

ばくろ町へ行って、武蔵の張番に立っている若い者からの<ruby><rb>諜報</rb><rt>ちょうほう</rt></ruby>によると、

（武蔵はゆうべ<ruby><rb>晩</rb><rt>おそ</rt></ruby>くまで、旅籠の前の刀屋へ行って話しこんでいたらしいが、今朝は旅籠を引払って<ruby><rb>斜向</rb><rt>すじむか</rt></ruby>いの<ruby><rb>刀研</rb><rt>かたなとぎ</rt></ruby><ruby><rb>厨子野耕介</rb><rt>ずしのこうすけ</rt></ruby>の家の中二階へ移った）

とある。

お杉ばばは、それ見たことかといわんばかりに、

「見やれ、先も生きている人間じゃ、じっと、<ruby><rb>何日</rb><rt>いつ</rt></ruby>まで一つ所にいるものかいの」

と、お<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>へいって、今朝は、<ruby><rb>焦々</rb><rt>いらいら</rt></ruby>と、写経の机に坐りかねている<ruby><rb>容子</rb><rt>ようす</rt></ruby>。

だが、ばばの気性は、お菰も<ruby><rb>半瓦</rb><rt>はんがわら</rt></ruby>の部屋の者も、今では皆よく知りぬいている所となっているので、気にもかけず、

「いくら武蔵だって、羽が生えているわけじゃなし、まあそう、<ruby><rb>焦心</rb><rt>あせ</rt></ruby>りなさんなッてえことよ。あとで、お<ruby><rb>稚児</rb><rt>ちご</rt></ruby>の小六が、佐々木様の所へ行って、<ruby><rb>篤</rb><rt>とく</rt></ruby>と相談して来るといっているから――」

菰がいうと、

「なんじゃ、小次郎殿のところへ、<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>行くといっていながら、まだ行っていないのか。――面倒な、わしが自身で行って来る程に、小次郎殿の<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>は何処か教えてたも」

と、ばばは、自分の部屋にあって、もう身支度に<ruby><rb>忙</rb><rt>せわ</rt></ruby>しない。

## 三

佐々木小次郎が江戸の住居は、細川藩の重臣で岩間角兵衛が邸内の<ruby><rb>一棟</rb><rt>ひとむね</rt></ruby>――その岩間の私宅というのは、<ruby><rb>高輪</rb><rt>たかなわ</rt></ruby>街道の<ruby><rb>伊皿子</rb><rt>いさらご</rt></ruby>坂の中腹、俗に「月の<ruby><rb>岬</rb><rt>みさき</rt></ruby>」ともいう地名のある高台で、門は赤く塗ってある。

――と、眼をつぶっても行けるように、半瓦の部屋の者が、教えて聞かすと、

「わかった。分った」

お杉ばばは、年よりの<ruby><rb>鈍</rb><rt>どん</rt></ruby>を、若い者たちから見くびられたように取って、

「造作もない道、<ruby><rb>行</rb><rt>い</rt></ruby>て来る程に、後をたのみますぞ。親分どのもお留守、わけて火の用心に気をつけての」

草履の<ruby><rb>緒</rb><rt>お</rt></ruby>を<ruby><rb>結</rb><rt>ゆ</rt></ruby>い、杖をつき、腰には伝家の一こしを差し、半瓦の家を出て行った。

何か用をして、ふと、出て来た菰の十郎が、

「おや、ばあさんは」

見廻して、訊ねると、

「もう、出かけましたぜ。佐々木先生の<ruby><rb>住所</rb><rt>ところ</rt></ruby>を教えろというから教えてやると、早のみこみに、たった今」

「しようのねえ婆さんだな。――おいおい小六<ruby><rb>兄哥</rb><rt>あにい</rt></ruby>」

広い若者部屋へ、声をかけると、遊び事をしていたお稚児の小六が、飛び出して来て、

「なんだ<ruby><rb>兄弟</rb><rt>きょうでえ</rt></ruby>」

「なんだじゃねえ、おめえが呑み込んだまま、ゆうべ佐々木先生の所へ行かなかったものだから、ばあさんが、<ruby><rb>癇癪</rb><rt>かんしゃく</rt></ruby>を起して、一人で出かけちまッたじゃねえか」

「自分で行ったら、行ったでいいだろう」

「そうもゆくめえ。親分が<ruby><rb>帰</rb><rt>け</rt></ruby>えって来てから、告げ口するにちげえねえ」

「口は達者だからな」

「そのくせ、体はもう、<ruby><rb>蟷螂</rb><rt>かまきり</rt></ruby>みてえに、折ればポキリと折れそうに痩せこけてやがる。気ばかり強いが、馬にでも踏まれたら、それっ<ruby><rb>限</rb><rt>き</rt></ruby>りだぞ」

「ちぇっ、世話がやけるな」

「すまねえが、今出かけて行ったばかりだから、ちょっくら、追いかけて行って、小次郎先生の<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>まで、連れて行ってやってくれよ」

「てめえの親の面倒さえ見たことがねえのに」

「だから、<ruby><rb>罪亡</rb><rt>つみほろ</rt></ruby>ぼしにならアなあ」

遊び事を半ばにして、小六はあわてて、お杉のあとを追いかけて行った。

<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>の十郎は、おかしさを噛みながら、若者部屋へはいって、ごろりと、片隅に寝ころんだ。

部屋は三十畳も敷ける広さで、<ruby><rb>藺莚</rb><rt>いむしろ</rt></ruby>が敷いてあり、<ruby><rb>大刀</rb><rt>どす</rt></ruby>、手槍、<ruby><rb>鈎棒</rb><rt>かぎぼう</rt></ruby>などが、手を伸ばす所にいくらでも備えてある。

板壁には、ここに<ruby><rb>起臥</rb><rt>おきふし</rt></ruby>する無法者の<ruby><rb>乾児</rb><rt>こぶん</rt></ruby>が、手拭だの、着替えだの、火事頭巾だの、<ruby><rb>襦袢</rb><rt>じゅばん</rt></ruby>だのを雑多に釘へ掛けつらね、中には、誰も<ruby><rb>着手</rb><rt>きて</rt></ruby>のいるわけがない、<ruby><rb>紅絹裏</rb><rt>もみうら</rt></ruby>のあでやかな女小袖なども掛け、<ruby><rb>蒔絵</rb><rt>まきえ</rt></ruby>の鏡立ても、たった一つ置いてあった。

誰かが、或る時、

（何だ、こんな物を）

と、<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>そうとすると、

（外しちゃいけねえ。それは佐々木先生が掛けといたんだから）

と、いったことがある。

理由を<ruby><rb>糺</rb><rt>ただ</rt></ruby>すと、

「野郎どもばかりを大勢部屋に詰めておくと、<ruby><rb>癇</rb><rt>かん</rt></ruby>が立って、ふだんのケチなことにばかり殺気立ち、ほんとの死に場所へ出てから役に立たねえと、先生が親分へいっていたぜ」

と、説明した。

しかし――女の小袖と蒔絵の鏡台ぐらいでは、なかなかここの殺気は<ruby><rb>和</rb><rt>なご</rt></ruby>むべくもない。

「やい、<ruby><rb>胡魔化</rb><rt>ごまか</rt></ruby>すな」

「だれが」

「てめえがよ」

「ふざけるな、いつおれが」

「まあ、まあ」

今も、大部屋の真ん中では、壺か<ruby><rb>加留多</rb><rt>かるた</rt></ruby>か、半瓦の留守をよいことにして、賭け事にかたまっている連中の<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>から、その殺気がもうもうと立ち昇っている。

## 四

菰は、その<ruby><rb>態</rb><rt>てい</rt></ruby>を見て、

「よくも飽きもせず、やってやがるなあ」

ごろんと仰向けに寝て、脚を組んだまま、天井を見ていたが、わいわい連の勝った負けたに、昼寝もならない。

そうかといって、三下の仲間にはいって彼らのふところを<ruby><rb>搾</rb><rt>しぼ</rt></ruby>ってみたところではじまらないので、眼をつむっていると、

「ちぇっ、きょうは、よくよく芽が出ねえ」

と、矢も<ruby><rb>弾</rb><rt>たま</rt></ruby>も尽き果てたのが、惨澹たる顔をして<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>のそばへ来ては共に、ごろんと枕を並べる。一人<ruby><rb>殖</rb><rt>ふ</rt></ruby>え、ふたり殖え、ここへ来て寝ころぶのは皆、時利あらずの惨敗組だった。

ひとりがひょいと、

「菰の<ruby><rb>兄哥</rb><rt>あにき</rt></ruby>これやあ何だい」

彼の<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>から落ちていた――一部の<ruby><rb>経文</rb><rt>きょうもん</rt></ruby>へ、手をのばして、

「お経じゃねえかこれやあ。がらにもねえ物を持ってるぜ。<ruby><rb>禁厭</rb><rt>まじない</rt></ruby>か」

と、めずらしがる。

やっと少し眠くなりかけていた<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>は、しぶい眼をあいて、

「ム……それか。そいつあ、本位田のばあさんが、悲願を立てて、生涯に千部写すとかいってる写経だよ」

「どれ」

少し文字の見えるのが、手へ奪って、

「なるほど、ばあさんの<ruby><rb>手蹟</rb><rt>て</rt></ruby>だ。<ruby><rb>児童</rb><rt>こども</rt></ruby>にも読めるように、<ruby><rb>仮名</rb><rt>かな</rt></ruby>まで振ってあら」

「じゃあ、<ruby><rb>汝</rb><rt>てめえ</rt></ruby>にも、読めるか」

「読めなくってよ、こんな物」

「ひとつ、節をつけて、<ruby><rb>美</rb><rt>い</rt></ruby>い声で<ruby><rb>誦</rb><rt>よ</rt></ruby>んで聞かせてくれ」

「じょうだんいうな。小唄じゃあるめえし」

「なあにおめえ、遠い昔にゃあ、お経文をそのまま、<ruby><rb>歌謡</rb><rt>うた</rt></ruby>にうたったものだあな。――<ruby><rb>和讃</rb><rt>わさん</rt></ruby>だってその一つだろうじゃねえか」

「この文句は、和讃の節じゃあやれねえよ」

「何の節でもいいから聞かせろッていうに。聞かせねえと、取っちめるぞ」

「やれやれ」

「――じゃあ」

と、そこで男は、余儀なく仰向けのまま、写経を顔の上にひらいて、

仏説<ruby><rb>父母恩重経</rb><rt>ぶもおんじゅうぎょう</rt></ruby>――

かくの如くわれ聞けり

ある時、ほとけ

王舎城の<ruby><rb>耆闍崛</rb><rt>ぎしゃくつ</rt></ruby>山中に

菩薩、<ruby><rb>声聞</rb><rt>しょうもん</rt></ruby>の衆といましければ

<ruby><rb>比丘</rb><rt>びく</rt></ruby>、<ruby><rb>比丘尼</rb><rt>びくに</rt></ruby>、<ruby><rb>憂婆塞</rb><rt>うばそく</rt></ruby>、<ruby><rb>憂婆夷</rb><rt>うばい</rt></ruby>

一切諸天の人民

龍神鬼神など

法を聴かんとして来り集まり

一心に宝座を<ruby><rb>囲繞</rb><rt>いにょう</rt></ruby>し

またたきもせで尊顔を

仰ぎ<ruby><rb>瞻</rb><rt>み</rt></ruby>たりき――

「なんのこッたい」

「比丘尼ってえな、近頃、鼠色におしろいを塗って、<ruby><rb>傾城町</rb><rt>けいせいまち</rt></ruby>より安く遊ばせるという、あれとは違うのか」

「しっ、黙ってろい」

<ruby><rb>是</rb><rt>こ</rt></ruby>の時、ほとけ

<ruby><rb>乃</rb><rt>すなわ</rt></ruby>ち法を説いて<ruby><rb>宣</rb><rt>のたま</rt></ruby>わく

一切の善男子善女人よ

父に慈恩あり

母に悲恩あり

そのゆえは

人のこの世に生るるは

宿業を因とし

父母を縁とせり

「なんだ。おやじと、おふくろのことか。お<ruby><rb>釈迦</rb><rt>しゃか</rt></ruby>なんぞも、知れ切った<ruby><rb>御託</rb><rt>ごたく</rt></ruby>しか並べやしねえ」

「<ruby><rb>叱</rb><rt>しっ</rt></ruby>……。うるせえぞ<ruby><rb>武</rb><rt>たけ</rt></ruby>」

「みろ、<ruby><rb>誦</rb><rt>よ</rt></ruby>み手が、黙っちまったあ。聞きながらトロトロいい気持で聞いていたのに」

「よし、もう黙ってるから、先を<ruby><rb>謡</rb><rt>うた</rt></ruby>えよ。もっと、節をつけて――」

## 五

――父にあらざれば生れず

母にあらざれば育せず

ここをもって

気を父の<ruby><rb>胤</rb><rt>たね</rt></ruby>に<ruby><rb>稟</rb><rt>う</rt></ruby>け

形を母の<ruby><rb>胎内</rb><rt>たいない</rt></ruby>に<ruby><rb>托</rb><rt>たく</rt></ruby>す

<ruby><rb>誦</rb><rt>よ</rt></ruby>み手は、行儀わるく、仰向けの寝相をかえて、鼻<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くそ</span>をほじりながら――

この因縁を以ての故に

<ruby><rb>悲母</rb><rt>ひも</rt></ruby>の子を<ruby><rb>念</rb><rt>おも</rt></ruby>うこと

世間に<ruby><rb>比</rb><rt>たぐ</rt></ruby>いあることなく

その恩、未形に及べり

こんどは、余り皆、黙っているので<ruby><rb>誦</rb><rt>よ</rt></ruby>む方が、張合いがなくなって、

「オイ聞いているのか」

「聞いてるよ」

始め<ruby><rb>胎</rb><rt>たい</rt></ruby>を受けしより

<ruby><rb>十月</rb><rt>とつき</rt></ruby>をふるの間

<ruby><rb>行</rb><rt>ぎょう</rt></ruby>、<ruby><rb>住</rb><rt>じゅう</rt></ruby>、<ruby><rb>坐</rb><rt>ざ</rt></ruby>、<ruby><rb>臥</rb><rt>が</rt></ruby>

もろもろの苦悩をうく

苦悩<ruby><rb>休</rb><rt>や</rt></ruby>む時なきが故に

常に好める<ruby><rb>飲食</rb><rt>おんじき</rt></ruby><ruby><rb>衣服</rb><rt>えふく</rt></ruby>を得るも

欲執の念を生ぜず

一心ただ安く<ruby><rb>生産</rb><rt>しょうさん</rt></ruby>せんことを思う

「くたびれた、もういいだろ」

「聞いてるのに、なぜやめるんだよ。もっと<ruby><rb>謡</rb><rt>うた</rt></ruby>えよ」

月<ruby><rb>充</rb><rt>み</rt></ruby>ち日足りて

<ruby><rb>生産</rb><rt>しょうさん</rt></ruby>の時いたれば

<ruby><rb>業風</rb><rt>ごうふう</rt></ruby>ふきて<ruby><rb>是</rb><rt>これ</rt></ruby>を<ruby><rb>促</rb><rt>うなが</rt></ruby>し

<ruby><rb>骨節</rb><rt>ほねふし</rt></ruby>ことごとく痛み苦しむ

父も心身おののき<ruby><rb>懼</rb><rt>おそ</rt></ruby>れ

母と子とを憂念し

諸親<ruby><rb>眷族</rb><rt>けんぞく</rt></ruby>みな苦悩す

すでに生れて草上に<ruby><rb>堕</rb><rt>お</rt></ruby>つれば

父母、欣び限りなく

猶、<ruby><rb>貧女</rb><rt>ひんにょ</rt></ruby>の<ruby><rb>如意珠</rb><rt>にょいじゅ</rt></ruby>を得たるが如し

初めはふざけていた彼らも、次第に意味が<ruby><rb>酌</rb><rt>く</rt></ruby>めて来ると、聞くともなく聞き惚れていた。

――その子、声を発すれば

母も此の世に生れ出たるに似たり

<ruby><rb>爾来</rb><rt>それより</rt></ruby>

母の<ruby><rb>懐</rb><rt>ふところ</rt></ruby>を<ruby><rb>寝処</rb><rt>ねどこ</rt></ruby>とし

母の膝を遊び場とし

母の乳を<ruby><rb>食物</rb><rt>しょくもつ</rt></ruby>となし

母の情けを<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>となす

母にあらざれば、着ず脱がず

母<ruby><rb>飢</rb><rt>う</rt></ruby>えに<ruby><rb>中</rb><rt>あた</rt></ruby>る時も

<ruby><rb>哺</rb><rt>ふく</rt></ruby>めるを吐きて子に<ruby><rb>啗</rb><rt>くら</rt></ruby>わしめ

母にあらざれば養われず

その<ruby><rb>闌車</rb><rt>らんしゃ</rt></ruby>を離るるに及べば

十指の爪の中に

子の不浄を食らう

……計るに人々

母の乳をのむこと

一日八十<ruby><rb>斛</rb><rt>こく</rt></ruby>

<ruby><rb>父母</rb><rt>ちちはは</rt></ruby>の恩重きこと

天の<ruby><rb>極</rb><rt>きわ</rt></ruby>まり無きがごとし

「…………」

「どうしたんだい、おい」

「今、<ruby><rb>誦</rb><rt>よ</rt></ruby>むよ」

「オヤ、泣いてるのか。ベソを掻きながら誦んでやがら」

「ふざけんない」

と、虚勢を出してまたつづけた。

母、東西の<ruby><rb>隣里</rb><rt>りんり</rt></ruby>に<ruby><rb>傭</rb><rt>やと</rt></ruby>われ

或は水汲み、或は火<ruby><rb>焼</rb><rt>た</rt></ruby>き

或は<ruby><rb>碓</rb><rt>うすつ</rt></ruby>き、或は<ruby><rb>磨</rb><rt>うす</rt></ruby>ひく

家に還るの時

未だ至らざるに

わが児家に啼き<ruby><rb>哭</rb><rt>こく</rt></ruby>して

我を恋い慕わんと思い起せば

胸さわぎ心<ruby><rb>愕</rb><rt>おどろ</rt></ruby>き

乳ながれ出でて<ruby><rb>堪</rb><rt>た</rt></ruby>うる<ruby><rb>能</rb><rt>あた</rt></ruby>わず

<ruby><rb>乃</rb><rt>すなわ</rt></ruby>ち、走り家に還る

児、遥かに母の来るを見

<ruby><rb>脳</rb><rt>なずき</rt></ruby>を<ruby><rb>弄</rb><rt>ろう</rt></ruby>し、<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>をうごかし

<ruby><rb>嗚咽</rb><rt>そらなき</rt></ruby>して母に向う

母は身を曲げて、両手を<ruby><rb>舒</rb><rt>の</rt></ruby>べ

わが口を子の口に<ruby><rb>吻</rb><rt>つ</rt></ruby>く

両情一致、恩愛の<ruby><rb>洽</rb><rt>あまね</rt></ruby>きこと

<ruby><rb>復</rb><rt>ま</rt></ruby>たこれに過ぐるものなし

――二歳、<ruby><rb>懐</rb><rt>ふところ</rt></ruby>を離れて始めて行く

父に非ざれば火の身を焼く事を知らず

母に非ざれば<ruby><rb>刀</rb><rt>はもの</rt></ruby>の指を<ruby><rb>堕</rb><rt>おと</rt></ruby>すを知らず

三歳、乳を離れて始めて食らう

父に非ざれば、毒の命を落すを知らず

母に非ざれば薬の<ruby><rb>病</rb><rt>やまい</rt></ruby>を救うを知らず

父母、<ruby><rb>外</rb><rt>そと</rt></ruby>の座席に<ruby><rb>往</rb><rt>ゆ</rt></ruby>き

美味<ruby><rb>珍羞</rb><rt>ちんしゅう</rt></ruby>を得るあれば

みずから<ruby><rb>喫</rb><rt>くら</rt></ruby>わず<ruby><rb>懐</rb><rt>ふところ</rt></ruby>に収め

<ruby><rb>喚</rb><rt>よ</rt></ruby>びて子に与え、子の喜びを歓ぶ

「やい。……またベソを掻いてんのか」

「何だか、思い出しちまった」

「よせやい、てめえがベソを掻き掻き<ruby><rb>誦</rb><rt>よ</rt></ruby>むもんだから、おれっちまで、変てこに、涙が出て来やがるじゃねえか」

## 六

無法者にも、親があった。

粗暴な、<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>知らずな、その日暮しな、あらくれ部屋のゴロン棒も木の<ruby><rb>股</rb><rt>また</rt></ruby>から生れた子ではない。

ただここの仲間では平常、親のことなど口にすると、

（てッ、<ruby><rb>女々</rb><rt>めめ</rt></ruby>しい野郎だ）

と、片づけられるので、

（ヘン、親なんぞ）

と、<ruby><rb>有</rb><rt>あ</rt></ruby>ってもない顔をしているのを、<ruby><rb>潔</rb><rt>いさぎよ</rt></ruby>しとしている風なのだ。

その父母がふと今、彼らの心の底から<ruby><rb>喚</rb><rt>よ</rt></ruby>び起されて、急にしんみりしてしまったのであった。

初めは、鼻からちょうちんを出すように、ふざけた節をつけて、<ruby><rb>謡</rb><rt>うた</rt></ruby>に唄って<ruby><rb>誦</rb><rt>よ</rt></ruby>んでいた<ruby><rb>父母恩重経</rb><rt>ぶもおんじゅうぎょう</rt></ruby>のことばも、それが<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">いろは</span>のように平易なので、<ruby><rb>誦</rb><rt>よ</rt></ruby>むにつれ、聴くに従い、だんだん分って来たものとみえる。

（おれにも親があった）

ことを思い出すと、その身が、乳をのみ、膝に<ruby><rb>這</rb><rt>は</rt></ruby>った頃の、<ruby><rb>幼心</rb><rt>おさなごころ</rt></ruby>に返って――形こそ皆、腕枕をかったり、足の裏を天井にあげたり、<ruby><rb>毛脛</rb><rt>けずね</rt></ruby>をむき出したりして、ごろごろ寝転んではいたが、知らず知らず頬に涙を垂れていた者が<ruby><rb>尠</rb><rt>すく</rt></ruby>なくなかった。

「ヤイ……」

と、そのうちに一人が、<ruby><rb>誦</rb><rt>よ</rt></ruby>み<ruby><rb>人</rb><rt>て</rt></ruby>の男へいう。

「まだ、その先が、あるのか」

「あるよ」

「もちっと、聴かしてくれ」

「待てよ」

と<ruby><rb>誦</rb><rt>よ</rt></ruby>み<ruby><rb>人</rb><rt>て</rt></ruby>の男は、起きあがって、鼻紙で<ruby><rb>洟</rb><rt>はな</rt></ruby>をかんでから、こんどは坐って先を<ruby><rb>誦</rb><rt>よ</rt></ruby>んだ。

――子、やや成長して

<ruby><rb>朋友</rb><rt>とも</rt></ruby>と相交わるに至れば

父は子に<ruby><rb>衣</rb><rt>きぬ</rt></ruby>を<ruby><rb>索</rb><rt>もと</rt></ruby>め

母は子の髪を<ruby><rb>梳</rb><rt>くしけず</rt></ruby>り

<ruby><rb>己</rb><rt>おの</rt></ruby>が美好はみな子に捧げ尽し

<ruby><rb>自</rb><rt>みずから</rt></ruby>は<ruby><rb>故</rb><rt>ふる</rt></ruby>を着、<ruby><rb>弊</rb><rt>やぶ</rt></ruby>れたるを<ruby><rb>纒</rb><rt>まと</rt></ruby>う

――既に子、<ruby><rb>婦</rb><rt>よめ</rt></ruby>を<ruby><rb>索</rb><rt>もと</rt></ruby>めて

他の<ruby><rb>女子</rb><rt>おなご</rt></ruby>を家に<ruby><rb>娶</rb><rt>めと</rt></ruby>れば

父母をば<ruby><rb>転</rb><rt>うたた</rt></ruby>、疎遠にして

夫婦は特に親近にし

私房の中に語らい楽しむ

「ウーム、思い当るぞ」

と、誰かうなる。

……父母年<ruby><rb>高</rb><rt>た</rt></ruby>けて

気老い、力衰えぬれば

<ruby><rb>倚</rb><rt>よ</rt></ruby>る所の者はただ子のみ

頼む所の者はただ<ruby><rb>婦</rb><rt>よめ</rt></ruby>のみ

しかるに<ruby><rb>朝</rb><rt>あした</rt></ruby>より暮まで

未だ敢えて一たびも来り問わず

夜半<ruby><rb>衾</rb><rt>ふすま</rt></ruby><ruby><rb>冷</rb><rt>ひ</rt></ruby>ややかに

五体安んぜず、<ruby><rb>復</rb><rt>また</rt></ruby>談笑なく

孤客の<ruby><rb>旅寓</rb><rt>たび</rt></ruby>に宿泊するが如し

――或は<ruby><rb>復</rb><rt>また</rt></ruby>、急に事ありて

<ruby><rb>疾</rb><rt>と</rt></ruby>く子を呼びて命ぜんとすれば

十たび<ruby><rb>喚</rb><rt>よ</rt></ruby>びて、九たび違い

遂に来りて給仕せず

却って怒り<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>りていわく

老い<ruby><rb>耄</rb><rt>ぼ</rt></ruby>れて世に残るよりは

早く死なんに<ruby><rb>如</rb><rt>し</rt></ruby>かずと

父母聞きて<ruby><rb>怨念</rb><rt>おんねん</rt></ruby>胸に<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>がり

<ruby><rb>涕涙</rb><rt>ているい</rt></ruby>、<ruby><rb>瞼</rb><rt>まぶた</rt></ruby>を衝き目くらみ

<ruby><rb>噫</rb><rt>ああ</rt></ruby>、汝幼少の時

吾れにあらざれば養われざりき

吾れに非ざれば育てられざりき

<ruby><rb>噫</rb><rt>ああ</rt></ruby>、吾れ汝を……

「もう、おらあ、おらあ……<ruby><rb>誦</rb><rt>よ</rt></ruby>めねえから、誰か誦んでくれ」

経を<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>って、<ruby><rb>誦</rb><rt>よ</rt></ruby>み<ruby><rb>人</rb><rt>て</rt></ruby>の男は泣きだしてしまった。

ひとりとして、声を出す者がない。横になっている者も、仰向けにひっくり<ruby><rb>転</rb><rt>かえ</rt></ruby>っている者も、<ruby><rb>胡坐</rb><rt>あぐら</rt></ruby>の中へ<ruby><rb>鴨</rb><rt>かも</rt></ruby>のように首を突ッこんでいる者も――

同じ部屋の、すぐ向うの組では、勝った敗けたの賭け事に、慾の餓鬼が修羅のまなじりを吊りあげているかと思えば――ここの一組は、がらにもない無法者が、しゅくしゅく<ruby><rb>啜</rb><rt>すす</rt></ruby>り泣いている。

その奇妙な部屋を見まわしながら入口に立って、

「<ruby><rb>半瓦</rb><rt>はんがわら</rt></ruby>は、まだ旅先から帰らぬのか」

佐々木小次郎が、ぶらりと訪れて、姿を見せた。

## <ruby><rb>血五月雨</rb><rt>ちさみだれ</rt></ruby>

## 一

一方では、賭け事に熱中しているし、ここでは皆、沈みこんで泣いているし、返辞をする者もないので、小次郎は、

「これ、どうしたのだ」

両腕で顔をおおい、仰向けに寝ている<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>の十郎のそばへ立つと、

「あ。先生で」

菰も、<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>の者も、あわてて眼を拭いたり<ruby><rb>洟</rb><rt>はな</rt></ruby>をかんだりして起上がり、

「ちっとも、存じませんで」

と、<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>が悪そうに、揃って辞儀をする。

「泣いておるのか」

「いえ、なあに、べつに」

「おかしな奴だの。――<ruby><rb>稚児</rb><rt>ちご</rt></ruby>の小六は」

「おばばに<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて、今し方、先生のお<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>へ出かけましたが」

「わしの住居へ」

「へい」

「はて、本位田のばばが、わしの住居へ、何用があって出かけたのか」

小次郎の姿が見えたので、賭博に<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>っていた組も、あわてて散らかってしまい、<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>のまわりにベソを掻いていた連中も、こそこそ姿を消してしまう。

菰は、きのう自分が、<ruby><rb>渡船</rb><rt>わたし</rt></ruby>口で武蔵に出会ったことから話して、

「<ruby><rb>生憎</rb><rt>あいにく</rt></ruby>、親分が旅先なんで、どうしたものか、とにかく先生にご相談した上のことにしようというので出かけましたが」

――武蔵と聞くと、小次郎の眼には、ひとりでに<ruby><rb>爛</rb><rt>らん</rt></ruby>として燃えるものが<ruby><rb>充</rb><rt>み</rt></ruby>ちて来るのだった。

「ううむ、然らば武蔵は今、ばくろ町に<ruby><rb>逗留</rb><rt>とうりゅう</rt></ruby>しておるのか」

「いえ、<ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>は引払って、そこのすぐ前にある<ruby><rb>刀研</rb><rt>かたなとぎ</rt></ruby>の耕介の家へ移ったそうで」

「ほ。それはふしぎな」

「何がふしぎで」

「その耕介の手許には、わしの愛刀<ruby><rb>物干竿</rb><rt>ものほしざお</rt></ruby>が<ruby><rb>研</rb><rt>とぎ</rt></ruby>に<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>ってある」

「ヘエ、先生のあの長い刀が。――なるほどそいつあ奇縁ですね」

「実はきょうも、もうその研ができていてもよい頃と、取りに出かけて来たのだが」

「えっ、じゃあ耕介の店へ寄ってお<ruby><rb>在</rb><rt>い</rt></ruby>でなすったんで？」

「いや、ここへ立ち寄ってから参るつもりで」

「ああ、それでよかった。うッかり先生が知らずに行ったりなどしたら、武蔵が<ruby><rb>気取</rb><rt>けど</rt></ruby>って、どんな先手を打つかもしれねえ」

「なんの、武蔵如きを、そう恐れるには当らん。――だが、それにしても、ばばがおらねば何の相談もならぬが」

「まだ<ruby><rb>伊皿子</rb><rt>いさらご</rt></ruby>までは行きますまい。すぐ、足の<ruby><rb>迅</rb><rt>はや</rt></ruby>い野郎をやって、呼び戻して参りましょう」

小次郎は、奥で待った。

――やがて<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>ともし頃。

ばばが町駕に<ruby><rb>舁</rb><rt>かつ</rt></ruby>がれ、お<ruby><rb>稚児</rb><rt>ちご</rt></ruby>の小六と迎えに行った男はわきに付き、<ruby><rb>慌</rb><rt>あわただ</rt></ruby>しく戻って来る。

夜、奥では<ruby><rb>凝議</rb><rt>ぎょうぎ</rt></ruby>。

小次郎は、<ruby><rb>半瓦</rb><rt>はんがわら</rt></ruby>弥次兵衛の帰りを待つほどのことはない。自分がいるからには、助太刀して、きっと、ばばに武蔵を討たせてみるという。

菰もお稚児も、相手は近頃うわさにも上手と聞えた武蔵ではあるが、小次郎ほどの腕とは、どう高く買っても想像できない。

「じゃあ、やるか」

となる。

ばばは元より、

「おう、討たいでおこうか」

と、気がつよい。

けれどただ、ばばも<ruby><rb>年齢</rb><rt>とし</rt></ruby>だけは<ruby><rb>如何</rb><rt>いかん</rt></ruby>とも仕方がない。伊皿子まで往復した疲れに、今夜は腰が痛いというのだ。――そこで小次郎の<ruby><rb>研</rb><rt>とぎ</rt></ruby>の刀を取りに行くのは差控え、<ruby><rb>翌日</rb><rt>あす</rt></ruby>の夜を待つことになった。

## 二

翌日の昼間。

彼女は<ruby><rb>行水</rb><rt>ぎょうずい</rt></ruby>を浴び、歯をそめたり、髪を染めたりした。

そして、<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそが</rt></ruby>れとなれば、物々しくも<ruby><rb>扮装</rb><rt>いでたち</rt></ruby>にかかった。彼女の<ruby><rb>死装束</rb><rt>しにしょうぞく</rt></ruby>とする<ruby><rb>白晒布</rb><rt>しろさらし</rt></ruby>の肌着には、紋散らしのように、諸国にわたる神社仏閣の印が<ruby><rb>捺</rb><rt>お</rt></ruby>してある。

<ruby><rb>浪華</rb><rt>なにわ</rt></ruby>では住吉神社、京では<ruby><rb>清水寺</rb><rt>きよみずでら</rt></ruby>、男山八幡宮、江戸では浅草の<ruby><rb>観世音</rb><rt>かんぜおん</rt></ruby>、そのほか旅の先々で受けた所の神々や諸仏天は、今こそ、自分の肌身を固め給うものと信じて、ばばは、<ruby><rb>鎖帷子</rb><rt>くさりかたびら</rt></ruby>を着たよりも、心丈夫だった。

――でも、<ruby><rb>帯揚</rb><rt>おびあげ</rt></ruby>の中には、子の又八へ宛てた遺書を入れておくのを忘れていない。自分で<ruby><rb>写経</rb><rt>しゃきょう</rt></ruby>した「父母恩重経」の一部にそれを挟んで、ふかく秘めておく。

いや、もっと驚くべき用心は、金入れの底にはいつも、次のように書いた一札を入れていることである。

わたくし事、老齢にてありながら、大望のためさすらい居り候えば、いつなん時、返り討たれんも知れず、行路に病躯をさらし候わんも計られず、その<ruby><rb>砌</rb><rt>みぎり</rt></ruby>は、御ふびんと思召し、このかねにていかよう共、御始末たまわりたく、途上の仁人とおやくにん様方へ、おねがい申上げおきそろ

作州吉野郷士

本位田後家　すぎ

自分の骨の届け先にまで心が届いていた。

さてまた、腰には一刀、<ruby><rb>脛</rb><rt>すね</rt></ruby>には<ruby><rb>白脚絆</rb><rt>しろきゃはん</rt></ruby>、手にも<ruby><rb>手甲</rb><rt>てっこう</rt></ruby>、<ruby><rb>袖無</rb><rt>そでなし</rt></ruby>の上からさらに<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">くけ</span>帯をしかと締めなし、すっかり身支度が成ると、自分の居間の写経机に、一<ruby><rb>椀</rb><rt>わん</rt></ruby>の水を汲み、

「<ruby><rb>行</rb><rt>い</rt></ruby>んで来るぞよ」

と、生ける人へいうように、しばらく、<ruby><rb>瞑目</rb><rt>めいもく</rt></ruby>していた。

おそらく旅で死んだ、河原の権叔父へ告げているのであろう。

障子を細目に、<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>の十郎は、そっと<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いて、

「おばば、まだか」

「支度かの」

「もう、よさそうな時刻だから――小次郎様も待っている」

「いつでもよいがの」

「いいのか。じゃあ、こっちの部屋へ来てくれ」

奥では、佐々木小次郎と、お<ruby><rb>稚児</rb><rt>ちご</rt></ruby>の小六、それに菰の十郎を加えて、こよい助太刀三名、<ruby><rb>疾</rb><rt>と</rt></ruby>くから身支度して待っていた。

ばばのために床の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>の席は<ruby><rb>空</rb><rt>あ</rt></ruby>けてあった。ばばはそこへ備前焼の置物みたいに硬くなって坐った。

「<ruby><rb>門出</rb><rt>かどで</rt></ruby>の祝いに」

と、三方の<ruby><rb>土器</rb><rt>かわらけ</rt></ruby>をとって、お稚児は、ばばの手に持たせ、銚子を<ruby><rb>把</rb><rt>と</rt></ruby>ってそっと<ruby><rb>酌</rb><rt>つ</rt></ruby>ぐ。

次に小次郎。

順に飲みわけて――ではと四名はそこの灯を消して立ち出でた。

おれも、てまえもと、こよいの<ruby><rb>途</rb><rt>と</rt></ruby>に、気負って助太刀をいい出した<ruby><rb>乾児</rb><rt>こぶん</rt></ruby>も多かったが、多人数はかえって足手まとい、それに夜とはいえ、江戸の町なか、世上の聞えもあるからと、それらの希望は小次郎が退けたのであった。

「お待ちなすッて」

と、<ruby><rb>門</rb><rt>かど</rt></ruby>を踏み出す四名の背なかへ、乾児のひとりが、カチカチと<ruby><rb>切火</rb><rt>きりび</rt></ruby>を<ruby><rb>磨</rb><rt>す</rt></ruby>った。

外は、雨雲の空もよう。

ほととぎすのよく鳴くこの頃の闇であった。

## 三

犬がしきりと闇で吠える。

どこか四人の影に、<ruby><rb>凡事</rb><rt>ただごと</rt></ruby>ならぬものが、<ruby><rb>獣</rb><rt>けもの</rt></ruby>の眼にもわかるとみえる。

「……はてな？」

暗い辻で、お<ruby><rb>稚児</rb><rt>ちご</rt></ruby>は後ろを振り<ruby><rb>顧</rb><rt>かえ</rt></ruby>った。

「なんだ、小六」

「変な奴が、さっきから、後を<ruby><rb>尾行</rb><rt>つけ</rt></ruby>て来るようなんで」

「ははあ、部屋の若い奴だな。なんでも<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">かん</span>でも、助太刀に一緒に連れて行けと<ruby><rb>強請</rb><rt>せが</rt></ruby>んで肯かない奴が、一、二名いたではないか」

小次郎のことばに、

「しようのねえ奴だな。<ruby><rb>斬合</rb><rt>きりあい</rt></ruby>が飯より好きだという野郎ですからね。――どうしましょう」

「<ruby><rb>抛</rb><rt>ほ</rt></ruby>っておけ。来るなと叱られても、<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて来るような人間なら頼もしいところがある」

で――気にも止めず、そのまま四名は、ばくろ町の角を曲がった。

「ム……そこだな。<ruby><rb>刀研</rb><rt>かたなとぎ</rt></ruby>の耕介の店は」

遠く離れて、向い側の<ruby><rb>廂</rb><rt>ひさし</rt></ruby>の下に小次郎は<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>む。

もうお互いに、声をひそめて、

「先生は、今夜、初めて来たんですか」

「刀の研を頼む折は、岩間角兵衛どのの手から頼んだからな」

「で。どうしますか」

「先程、打合わせておいた通り、おばばも、其方たちも、そこらの物陰に<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそ</rt></ruby>んでおれ」

「だが、悪くすると、裏口から逃げやしませんか、武蔵のやつ」

「大丈夫、武蔵とわしとの間には、意地でも<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>を見せられぬものがある。万一、逃げたりなどしたら、武蔵は剣士としての生命を失うことになろう。だがあれは、それでも逃げるほど反省力のない男ではない」

「じゃあ両側の軒下に、わかれていますか――」

「家の中から、わしが武蔵を連れ出して、肩を並べながら往来を歩いて来る。足数にして、十歩ほども、歩いた頃に、わしが一太刀、抜き打ちに浴びせておくから――そこを、おばばに斬ってかからせるがよい」

お杉は、何度も、

「ありがとうござりまする……。あなた様のおすがたが、八幡の<ruby><rb>御化身</rb><rt>ごけしん</rt></ruby>のように見えまする」

と、<ruby><rb>掌</rb><rt>て</rt></ruby>をあわせて拝んだ。

自己の影を拝まれながら「<ruby><rb>御</rb><rt>おん</rt></ruby>たましい<ruby><rb>研所</rb><rt>とぎどころ</rt></ruby>」の<ruby><rb>厨子野</rb><rt>ずしの</rt></ruby>耕介の門口へ歩み寄って行った小次郎の心には、自分の行為に対する正義観が、他人には想像もつかないほど、大きく胸に拡がっていた。

彼と、武蔵のあいだには、初めから、そう宿怨というほどなことは何もなかった。

ただ、武蔵の名声が高まるにつれて、小次郎は、何となく<ruby><rb>快</rb><rt>こころよ</rt></ruby>くなかったし、武蔵はまた、小次郎の人よりもその力を、尋常でなく認めているので、彼に対しては、誰よりも特殊な警戒を抱いて迎えた。

それが数年も前から続いて来たのである。要するに、当初は双方がまだ若く、<ruby><rb>衒気</rb><rt>げんき</rt></ruby>や覇気や壮気に充ちきっていた。そして力の互角した者同士が起しやすい摩擦から<ruby><rb>醸</rb><rt>かも</rt></ruby>された感情と感情のくいちがいに過ぎなかった。

だが――

顧みると、京都以来、吉岡家の問題を挟み、また、火を<ruby><rb>咥</rb><rt>くわ</rt></ruby>えて<ruby><rb>彷徨</rb><rt>さまよ</rt></ruby>って歩くような<ruby><rb>朱実</rb><rt>あけみ</rt></ruby>という女性を挟み、今また、本位田家のお杉ばばという者を、その喰い<ruby><rb>交</rb><rt>ちが</rt></ruby>いの感情に挟んで、小次郎と武蔵とのこの世における面識は、宿怨といえないまでも、決して再び溶けないほどな、対立的な<ruby><rb>渠</rb><rt>みぞ</rt></ruby>を深めて来つつあることは<ruby><rb>否</rb><rt>いな</rt></ruby>み難い。

――ましてや、小次郎が、お杉ばばの観念を、そのまま自己の観念に加えて、あわれむべき弱者を<ruby><rb>扶</rb><rt>たす</rt></ruby>けるという形に似た自己の行為のもとに、自己の<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>んだ感情をも、正義化して考えるようになって来ては、もう二人の<ruby><rb>相剋</rb><rt>そうこく</rt></ruby>は、宿命というほかあるまい。

「……寝たのか。……刀屋、刀屋」

耕介の店の前に立つと、小次郎は、閉まっているそこの戸を、かろく叩いた。

## 四

戸の隙間から明りが洩れている。店に<ruby><rb>人気</rb><rt>ひとけ</rt></ruby>はないが、奥では起きているに違いない――と小次郎はすぐ察していた。

「――どなたで？」

<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>の声らしい。

小次郎は、戸の外から、

「細川家の岩間角兵衛どのの手から、<ruby><rb>研</rb><rt>とぎ</rt></ruby>を頼んである者じゃ」

「あ、あの長剣ですかな」

「ともあれ、開けてくれい」

「はい」

――やがて戸が開く。

じろりと、双方で<ruby><rb>観</rb><rt>み</rt></ruby>る。

耕介は立ち<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>がったまま、

「まだ<ruby><rb>研</rb><rt>と</rt></ruby>げておりませぬが」

無愛想にいう。

「――そうか」

と、返辞をした時は、小次郎はもう<ruby><rb>関</rb><rt>かま</rt></ruby>わず中へはいって、土間わきの部屋の<ruby><rb>框</rb><rt>かまち</rt></ruby>へ、腰をすえこんでいたのである。

「いつ研げる？」

「さあ」

耕介は自分の頬を<ruby><rb>抓</rb><rt>つま</rt></ruby>む。長い顔がよけいに伸びて眼じりが下がる。何か人を<ruby><rb>揶揄</rb><rt>やゆ</rt></ruby>しているように見え、小次郎はすこし<ruby><rb>焦々</rb><rt>いらいら</rt></ruby>した。

「あまり日数がかかりすぎるではないか」

「ですから、岩間様にも、お断りしておいたわけで。日限のところは、おまかせ下さいと」

「そう長びいては困る」

「困るなら、お持ち帰りねがいたいもので」

「なに」

職人ずれがいえる口幅ではない。小次郎は、そのことばや形を見て、人間の心を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>こうとしないので、さては、自分の訪れを早くも知って、武蔵が背後にひかえていることを、この男、強がっているに違いないと受け取った。

で、かくなっては、早いがいいと考え、

「時に、話はちがうが、其方の家に、作州の宮本武蔵どのが泊っているということではないか」

「ほ……。どこでお聞きなさいましたな」

それには、耕介も少し不意を受けた顔つきで、

「おるには、おりますが」

と、いい<ruby><rb>濁</rb><rt>にご</rt></ruby>る。

「久しく会わぬが、武蔵どのとは、京都以来存じておる。ちょっと、呼んでくれまいか」

「あなた様のお名前は」

「佐々木小次郎――そういえばすぐわかる」

「何と仰っしゃいますか、とにかく申しあげてみましょう」

「あ、ちょっと待て」

「なんぞまだ」

「余り唐突だから、武蔵どのが疑うといけないが、実は、細川家の家中で、武蔵どのとよく似た者が、耕介の店におると話していたので、訪ねて来たわけだ。よそで一<ruby><rb>献</rb><rt>こん</rt></ruby>上げたいと思うから、お支度して来られるように、ついでに申してくれ」

「へい」

耕介は、<ruby><rb>暖簾口</rb><rt>のれんぐち</rt></ruby>の見える縁を通って、奥へかくれた。

小次郎は後で、

（万一、逃げないまでも、武蔵がこっちの手にのらず、出て来ない場合にはどうするか？　いっそ、お杉ばばに代って、名乗りかけ、意地でも、出て来ずにいられぬように仕向けるか？）

二段、三段の策までを、その間に考えていると――突然、彼の想像を遥かに跳び越えて、<ruby><rb>戸外</rb><rt>おもて</rt></ruby>の闇で、

「――ぎゃっ」

と、ただの肉声ではない。<ruby><rb>直</rb><rt>じか</rt></ruby>に他人の生命へもひびいて、ぞっと戦慄を覚えさせるような悲鳴が走った。

## 五

――しまったっ。

と、小次郎は<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り上げられたように、腰かけていた<ruby><rb>店框</rb><rt>みせがまち</rt></ruby>から突っ立った。

――こっちの策は破れた！

いや、策のウラを掻かれた！

武蔵はいつのまにか、裏口から<ruby><rb>戸外</rb><rt>おもて</rt></ruby>へまわり、お杉ばばや、<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>や、お<ruby><rb>稚児</rb><rt>ちご</rt></ruby>や、<ruby><rb>手易</rb><rt>てやす</rt></ruby>い者へ先に挑戦して行ったらしい。

「よしっ、その分なら」

彼は、闇の往来へ、ぱっと躍り出した。

時は来た！

と、思う。

体じゅうの肉がぎゅっと<ruby><rb>緊</rb><rt>しま</rt></ruby>りながら、血ぶるいするように闘志がいきり立つ。

（いつかは剣を<ruby><rb>把</rb><rt>と</rt></ruby>って会おう）

それは<ruby><rb>叡山</rb><rt>えいざん</rt></ruby>から大津越えの峠の茶屋で、別れに誓ったことばである。

忘れてはいない。

その時が来たのである。

たといお杉ばばは返り討ちになっても、ばばの冥福には自分が武蔵の血をもって供養してやろう。

――と瞬間、小次郎の頭には、そんな義侠と正義の念が、火花みたいに突きぬけたが、十歩も跳ぶと、

「せ、先生っ」

道ばたに、苦悶していた人間が、彼の跫音に<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>って、悲痛な声でさけんだ。

「やっ、小六？」

「……<ruby><rb>斬</rb><rt>や</rt></ruby>られた！　……や、<ruby><rb>斬</rb><rt>や</rt></ruby>られました……」

「十郎は、どうした。……お<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>は」

「お菰も」

「なにっ」

見れば、そこから五、六間離れたところに、もう虫の息となっているお菰の十郎の<ruby><rb>朱</rb><rt>あけ</rt></ruby>にまみれた体が見出された。

見えないのはお杉ばばの影である。

だが、それを探す眼の<ruby><rb>遑</rb><rt>いとま</rt></ruby>もなかった。小次郎自身が、自身の警戒にそそけ立っているのだ。八方の闇がみな、武蔵のすがたである如く、彼の五体には構えを要した。

「小六、小六」

ことぎれかかるお<ruby><rb>稚児</rb><rt>ちご</rt></ruby>へ、彼は早口に呶鳴って、

「武蔵は――武蔵はどこへ行ったか。武蔵は？」

「ち、ちがう」

小六は、上がらない首を、地で振りながら、やっといった。

「武蔵じゃねえ」

「何」

「……む、武蔵が、相手じゃねえのです」

「な、なんだと？」

「…………」

「小六っ、もういちどいえ。武蔵が相手ではないというのか」

「…………」

お稚児はもう答えなかった。

小次郎の頭は、もんどり打ったように掻き乱れた。武蔵でなくて誰が、一瞬にこの二人を斬って捨てたか。

彼は、こんどは、菰の十郎の仆れているそばへ行って、血でびしょ濡れになっている襟がみをつかみ起した。

「十郎っ、<ruby><rb>確乎</rb><rt>しっか</rt></ruby>りせいっ。――相手は誰だ、相手は、どっちへ行った？」

すると、菰の十郎は、びくっと眼を開いたが、小次郎の訊ねたこととも、この場合の事件とも、まったく関聯のないことを、<ruby><rb>臨終</rb><rt>いまわ</rt></ruby>の息で、泣くように呟いた。

「おっ母あ、……おっ母あ……ふ、ふ、不孝を」

きのう、彼の血の中に<ruby><rb>浸</rb><rt>し</rt></ruby>みこんだばかりの「父母恩重経」が、破れた傷口から噴きこぼれたのである。

――小次郎は知らず、

「ちいっ、何をくだらぬ」

と襟がみを突き放した。

## 六

――と。何処かで、

「小次郎どのか。小次郎どのかよ」

と、お杉ばばの声がする。

声をあてに、駈け寄ってみると――これも無残な。

下水<ruby><rb>溜</rb><rt>だめ</rt></ruby>の中に、ばばは<ruby><rb>墜</rb><rt>お</rt></ruby>ち込んでいるのだった。髪や顔に、<ruby><rb>菜屑</rb><rt>なくず</rt></ruby>だの<ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>だのこびりつけて、

「上げて下され。はやく、上げて下され」

と、手を振っている。

「ええ、この<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>は、いったい何としたことだ」

むしろ腹立ち<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れである。力まかせに引ッぱり上げると、ばばは、雑巾のようにべたっと坐って、

「今の男は、もう何処ぞへ走ってしもうたか」

と、小次郎の問いたいことを、却って問う。

「ばば！　その男とはそも、何者なのだ」

「わしには<ruby><rb>理</rb><rt>わけ</rt></ruby>が分らぬ――ただ先ほども、途中で誰か気づいたが、わし達の後を<ruby><rb>尾行</rb><rt>つけ</rt></ruby>て来たあの人影に違いない」

「いきなり、菰とお稚児へ、斬りつけて来たのか」

「そうじゃ、まるで<ruby><rb>疾風</rb><rt>はやて</rt></ruby>のようにな、何かいう間もない、陰から不意に出て来て、菰どのを先に<ruby><rb>仆</rb><rt>たお</rt></ruby>し、稚児の小六が、驚いて抜き合わす<ruby><rb>弾</rb><rt>はず</rt></ruby>みに、もう何処か斬られていたような」

「して、どっちへ逃げたか」

「わしも、<ruby><rb>傍杖</rb><rt>そばづえ</rt></ruby>くって、こんな<ruby><rb>汚</rb><rt>むさ</rt></ruby>い所へ<ruby><rb>墜</rb><rt>お</rt></ruby>ちてしまったので、見もせなんだが、跫音はたしかに、あっちへ遠のいて行った」

「河の方へだな」

小次郎は宙を駈けた。

よく馬市の立つ空地を駈けぬけ、柳原の<ruby><rb>堤</rb><rt>どて</rt></ruby>まで出て見た。

<ruby><rb>伐</rb><rt>き</rt></ruby>った柳の材木が、原の一部に積んである。そこに人影と灯が見えた。近づいてみると四、五<ruby><rb>挺</rb><rt>ちょう</rt></ruby>の駕を置いて、駕かきが<ruby><rb>屯</rb><rt>たむろ</rt></ruby>しているのだった。

「オオ、駕屋」

「へい」

「この横丁の往来に、連れの者がふたり斬られて仆れている。それに下水溜りへ墜ちた老婆とがいるから、駕にのせて、大工町の<ruby><rb>半瓦</rb><rt>はんがわら</rt></ruby>の家まで送り届けておいてくれい」

「えっ、辻斬ですか」

「辻斬が出るのか」

「いやもう、物騒で、こちとらも、<ruby><rb>迂濶</rb><rt>うかつ</rt></ruby>にゃ歩けやしません」

「下手人はたった今、そこの横丁から逃げ走って来たはずだが、其方たちは、見かけなかったか」

「……さあ、今ですか」

「そうだ」

「嫌だなあ」

駕かきは、<ruby><rb>空駕</rb><rt>からかご</rt></ruby>の三挺を、残らず<ruby><rb>舁</rb><rt>かつ</rt></ruby>いで、

「旦那、駄賃はどちらで戴くんですえ？」

「半瓦の家でもらえ」

小次郎はいい捨てて、また、そこらを駈け廻った。河べりを覗いてみたり、材木の陰を<ruby><rb>検</rb><rt>あらた</rt></ruby>めてみたりしたが、どこにも見当らなかった。

（辻斬だろうか？）

少し戻ると<ruby><rb>火除地</rb><rt>ひよけち</rt></ruby>の桐の木畑がある。そこを通って、彼はもう半瓦の家へ戻ろうと考えていた。出鼻の不首尾ではあるし、お杉ばばがいないでは意味がない。また、こう乱れた気持で武蔵と剣のあいだに相見ることは、避けるほうが賢明で、当ってゆくのは<ruby><rb>愚</rb><rt>おろか</rt></ruby>であると考えたからである。

すると。

桐林の道のわきから、ふいに刃らしい光がうごいた。ハッと眼を向ける間もなかった。頭の上の桐の葉が四、五枚ばさっと斬れて散りながら、その<ruby><rb>迅</rb><rt>はや</rt></ruby>い光はすでに彼の頭へ臨んでいた。

## 七

「――卑怯ッ」

と、小次郎はいった。

「卑怯でない」

と二の太刀は、ふたたび、彼の<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>いた影を追い――ばさっと青桐の木陰から、闇を破って、<ruby><rb>跳</rb><rt>は</rt></ruby>ね出した。

三転して、小次郎は、七尺も<ruby><rb>跳</rb><rt>と</rt></ruby>び<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>き、

「武蔵ともあろう者が、なぜ尋常に――」

と、いいかけたが、そのことばを途中から驚きの声に変えて、

「やッ、誰だっ？　……。おのれは何者だ。人ちがいするな」

と、いった。

三の太刀まで交わされた男の影は、はや肩で息をついていた。四の太刀はもう、自己の戦法の非を知って、中段にすえたまま、眼を刀の<ruby><rb>錺子</rb><rt>ぼうし</rt></ruby>に燃やし、じりじり迫り直して来るのである。

「だまれ。人違いなどいたそうか。<ruby><rb>平河天神</rb><rt>ひらかわてんじん</rt></ruby>境内に住む<ruby><rb>小幡</rb><rt>おばた</rt></ruby>勘兵衛<ruby><rb>景憲</rb><rt>かげのり</rt></ruby>が一弟子、北条新蔵とはわしがこと。こういったら、もう腹にこたえたであろうが」

「あっ、小幡の弟子か」

「ようもわが師を恥かしめ、また重ねて同門の友を、さんざんに討ったな」

「武士の<ruby><rb>慣</rb><rt>なら</rt></ruby>い、討たれて口惜しければ、いつでも来い。そういえば、佐々木小次郎、逃げかくれする侍ではない」

「おおっ、討たいでおくか」

「討てるか」

「討たいでか」

尺――また二寸――三寸。

詰め寄って来るのを見つめながら、小次郎はしずかに、胸をひらき、右手を腰の大刀へ移して、

「――来いっ」

と誘う。

はっと、その誘いに、相手の北条新蔵が、<ruby><rb>戒心</rb><rt>かいしん</rt></ruby>を持ったせつなに、小次郎の体が――いや腰から上の上半身だけが――びゅっと折れて、<ruby><rb>肱</rb><rt>ひじ</rt></ruby>の<ruby><rb>弦</rb><rt>つる</rt></ruby>を切ったかと見えたが、

――ちりん！

次の瞬間に、彼の刀の<ruby><rb>鍔</rb><rt>つば</rt></ruby>は、彼の<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>へ戻っていた。

むろん、<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>は鞘を脱し、そして鞘へ返っていたのであるが、肉眼で見える速度ではない。ただ、一線のほそい光が、相手の北条新蔵の首すじのあたりへ、キラと、届いたか、届かないかと、思えたくらいなものであった。

だが――

新蔵の体は、まだ<ruby><rb>股</rb><rt>また</rt></ruby>を踏みひらいたまま立っているのだ。血らしいものは、どこにも流れてはいない。けれど、何かの打撃をうけたことは事実である。なぜなら、刀は中段に支えたまま持っているが、左の片手は、左の首すじを、無意識に抑えていた。

――と。その体を挟んで、

「あっ？　……」

これは、小次郎の声とも、後ろの闇でした声とも、どっちつかない所から起ったのである。小次郎もそれに依ってすこし<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>て、闇の中から駈けて来た跫音も、それに依って、足を速めて来た。

「おおっ、どうなされた」

駈けつけて来たのは、耕介であった。棒立ちの男の姿勢が、すこしおかしいと思ったので、抱き支えようとすると、とたんに北条新蔵の体は、どたっと朽木だおれに、あやうく大地へ仆れかけた。

耕介は、両の手に不意の重みをかけられて驚きながら、

「やっ、斬られてるな。――誰か来てくれいっ。往来の衆でも、この近くのお人でも、誰か来てくれ。人が斬られているっ――」

と、闇へ向ってどなった。

その声と共に、新蔵の首すじから、ちょうど<ruby><rb>蛤</rb><rt>はまぐり</rt></ruby>の片貝ほど、肉を<ruby><rb>削</rb><rt>そ</rt></ruby>ぎとられている傷口が、ぱくと赤い口をあいて、こんこんと<ruby><rb>温</rb><rt>ぬる</rt></ruby>い液体を、耕介の腕から<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>へそそぎかけた。

## <ruby><rb>心形無業</rb><rt>しんぎょうむぎょう</rt></ruby>

## 一

ぼとっ――と、時折、中庭の闇で青梅の<ruby><rb>実</rb><rt>み</rt></ruby>の落ちる音がする。武蔵は、一<ruby><rb>穂</rb><rt>すい</rt></ruby>の<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>に向って<ruby><rb>屈</rb><rt>こご</rt></ruby>みこんだまま顔も上げない。

<ruby><rb>灯皿</rb><rt>ひざら</rt></ruby>から燃えゆらぐ小さな<ruby><rb>燈火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>は、側近く<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>いている彼の<ruby><rb>蓬々</rb><rt>ぼうぼう</rt></ruby>とした<ruby><rb>月代</rb><rt>さかやき</rt></ruby>を<ruby><rb>鮮</rb><rt>あざ</rt></ruby>らかに照らして余す所がない。彼の髪は毛の<ruby><rb>硬</rb><rt>こわ</rt></ruby>い<ruby><rb>性</rb><rt>しょう</rt></ruby>と見えた。そして油気がなくてやや赤っぽい。またよく見ると、その毛の根には、大きな<ruby><rb>灸</rb><rt>きゅう</rt></ruby>の<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>みたいな古傷がある。幼少の時に病んだ<ruby><rb>疔</rb><rt>ちょう</rt></ruby>という<ruby><rb>腫物</rb><rt>できもの</rt></ruby>のあとで、

（こんな育て<ruby><rb>難</rb><rt>にく</rt></ruby>い子があろうか――）

と、よく母を<ruby><rb>嘆</rb><rt>なげ</rt></ruby>かせたそのころの、きかない<ruby><rb>性分</rb><rt>しょうぶん</rt></ruby>の<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>は、まだ、まざまざと消えきらずにあった。

――彼は今、心のうちで、その母をふと思いうかべ、<ruby><rb>刀</rb><rt>とう</rt></ruby>の先で彫り刻んでいる顔が、だんだん母に似てくるように思われた。

「…………」

<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>。

いや、たった今し方。

ここの中二階の障子の外から、この<ruby><rb>家</rb><rt>や</rt></ruby>の<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>の耕介が、はいるのを<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>って、

（まだ、御精が出ていらっしゃいますか。ただ今、店先へ佐々木小次郎とかいう者がみえ、お目にかかりたいようなことをいっていますが、お会いなさいますか、それとも、もうお<ruby><rb>寝</rb><rt>やす</rt></ruby>みだと、ていよく断っておきましょうか……どうなさいますかな？　……どうにでも、お気のままに、返事をしておきますが）

二、三度、部屋の外でいったようには思ったが――武蔵はそれに返辞をしたかしないか――自分自身で<ruby><rb>弁</rb><rt>わきま</rt></ruby>えていない。

そのうちに、耕介が、

（あっ？）

と、何か物音を聞きつけて、<ruby><rb>忽然</rb><rt>こつぜん</rt></ruby>と去ってしまったらしいが――それにもべつに気を<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>かれず、武蔵はなお、依然として小刀の先を、八、九寸ほどな彫刻の木材に向けて、そこの小机から、膝から身のまわりまで、いっぱいな木屑にして<ruby><rb>屈</rb><rt>かが</rt></ruby>み込んでいるのであった。

彼は、観音像を彫ろうとしていた。――耕介から申し受けた無銘の名刀のかわりに――観音様を彫ってやる約束をしたので、きのうの朝から、それにかかっているのである。

ところで、その依頼について、<ruby><rb>凝</rb><rt>こ</rt></ruby>り<ruby><rb>性</rb><rt>しょう</rt></ruby>な耕介には、特別な望みがあった。

それは何かというと、

（折角あなたに彫っていただくものなら、自分が、年来秘蔵している古材があるので、それをお用い下さいませんか）

とて、<ruby><rb>恭</rb><rt>うやうや</rt></ruby>しく取り出して来たのを見ると、なるほど、それは少なくも六、七百年の年数は枯らしてあったろうと思われる一尺ほどな枕形の角材。

だが、こんな古材木の切れ端がなんで有難いのか、武蔵には<ruby><rb>怪訝</rb><rt>けげん</rt></ruby>であったが、彼の説明を<ruby><rb>口吻</rb><rt>こうふん</rt></ruby>のままかりていうと、これなん<ruby><rb>河内</rb><rt>かわち</rt></ruby>石川郡東条<ruby><rb>磯長</rb><rt>しなが</rt></ruby>の<ruby><rb>霊廟</rb><rt>れいびょう</rt></ruby>に用いられてあった天平年代の古材で、年久しく荒れていた聖徳太子の<ruby><rb>御廟</rb><rt>ごびょう</rt></ruby>の修築に、その柱の取代えをなしていた心なき寺僧や工匠が、これを割って<ruby><rb>庫裡</rb><rt>くり</rt></ruby>の<ruby><rb>竈</rb><rt>かまど</rt></ruby>へ<ruby><rb>薪</rb><rt>たきぎ</rt></ruby>として運んでいたのを見かけ、旅先ではあったが、勿体なさの余り、一尺ほど切ってもらって来たものだとある。

木目はよし、小刀の<ruby><rb>触</rb><rt>さわ</rt></ruby>りもよいが、武蔵は、彼が珍重して<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>かないのみでなく、<ruby><rb>失敗</rb><rt>しくじ</rt></ruby>ると、懸け替えのない材で――と思うと、<ruby><rb>刀</rb><rt>とう</rt></ruby>の刻みが、つい硬くなった。

――がたんと、庭の<ruby><rb>柴折</rb><rt>しおり</rt></ruby>を、夜風が<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>す。

「……？」

武蔵は顔を上げた。

そして、ふと、

「伊織ではないかな？」

と、<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いて、耳を澄ました。

## 二

案じている伊織が戻って来たのではなかった。また裏の木戸が開いたのも風のせいではないらしい。

<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>の耕介が、呶鳴っていた。

「はやくせい、女房。なにを<ruby><rb>呆</rb><rt>あ</rt></ruby>っけにとられている。<ruby><rb>刻</rb><rt>とき</rt></ruby>を争うほど、重い怪我人じゃ。手当次第で助かるかもしれぬ。寝床？　――どこでもよいわ、はやく静かな所へ」

耕介のほかに、その怪我人を<ruby><rb>担</rb><rt>にな</rt></ruby>って、<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて来た人々も、

「傷口を洗う<ruby><rb>焼酎</rb><rt>しょうちゅう</rt></ruby>はあるか。なくば<ruby><rb>自宅</rb><rt>うち</rt></ruby>から取って来るが」

とか――

「医者へは、わしが飛んで行ってくる」

とか、ややしばらく、ごたごたしている気配であったが、やがてひと落着きすると、

「ご近所の衆、どうも有難うございました。どうやら、お蔭様で命だけは、取り止めそうな様子でございますから、安心して、お<ruby><rb>寝</rb><rt>やす</rt></ruby>みなすって下さいまし」

挨拶しているのを聞くと、どうやらここの<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>の家族でも、不慮な災難に出会ったかのように――武蔵には思われた。

そこで、捨て置けない気がしたのであろう、武蔵は、膝の<ruby><rb>木屑</rb><rt>きくず</rt></ruby>を払って、中二階の箱段を降りて行った。そして廊下のいちばん隅から灯りが洩れているのでさし<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>くと、そこに寝かしてある<ruby><rb>瀕死</rb><rt>ひんし</rt></ruby>の<ruby><rb>負傷</rb><rt>ておい</rt></ruby>の枕元に、耕介夫婦が、顔を寄せていた。

「……オオ、まだ起きておいでなされましたか」

振返って、耕介は、そっと席をひらく。

静かに、武蔵も、枕元へ坐って、

「どなたでござるか」

燈下の蒼い寝顔をのぞきながら訊くと、

「驚きました……」

と、耕介はさも驚いたふうを示して、

「知らずにお<ruby><rb>救</rb><rt>たす</rt></ruby>けしたのでございますが、ここへ連れて来てみると、わたくしのお出入り先で、わたくしの最も尊敬している甲州流の軍学者、<ruby><rb>小幡</rb><rt>おばた</rt></ruby>先生の御門人ではございませんか」

「ホ。この<ruby><rb>人</rb><rt>じん</rt></ruby>が」

「はい。北条新蔵と<ruby><rb>仰有</rb><rt>おっしゃ</rt></ruby>いまして、北条<ruby><rb>安房守</rb><rt>あわのかみ</rt></ruby>の御子息――兵学を御修行なさるために、小幡先生のお手許に、長年お仕えをしているお方でございます」

「ふーム」

武蔵は、新蔵の首に巻いてある白い<ruby><rb>布</rb><rt>ぬの</rt></ruby>をそっとめくってみた。今焼酎で洗ったばかりの傷口は赤貝の肉片ほど、見事に刀で<ruby><rb>抉</rb><rt>えぐ</rt></ruby>り飛ばされていた。<ruby><rb>灯影</rb><rt>あかり</rt></ruby>は<ruby><rb>凹</rb><rt>へこ</rt></ruby>んだ傷口の底まで届き、<ruby><rb>淡紅色</rb><rt>ときいろ</rt></ruby>の頸動脈はありありと眼に見えるほど、露出していた。

髪一すじ――とよくいうが――この<ruby><rb>負傷</rb><rt>ておい</rt></ruby>の<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>は、正に髪一すじの差で取りとめていた。それにしても、この凄い――冴え切った太刀の使い手は、いったい何者だろうか。

傷口に依って考えると、この太刀は、下から<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しゃくり</span>上げて、しかも<ruby><rb>燕尾</rb><rt>えんび</rt></ruby>に<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ね返したものらしい。さもなければこう鮮やかに、頸動脈を狙って、貝の肉を<ruby><rb>削</rb><rt>そ</rt></ruby>ぐように<ruby><rb>抉</rb><rt>えぐ</rt></ruby>れている筈はない。

――燕斬り！

ふと、武蔵は、佐々木小次郎が得意とする太刀の手を思いうかべ、とたんに先刻の、<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>の耕介が自分の室の外から、その訪れを告げた声を――今になってハッと思いあわせたのであった。

「事情は、分っておるのか」

「いえ、何もまだ」

「そうであろう。――しかし、下手人は分った。いずれ、<ruby><rb>負傷</rb><rt>ておい</rt></ruby>が本復したうえで聞いてみるがよい。相手は佐々木小次郎と見えた」

武蔵はそういって、自身のことばに自身で<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>くのであった。

## 三

部屋へ戻ると、彼は手枕で、木屑の中へごろりと横になった。

夜具が<ruby><rb>展</rb><rt>の</rt></ruby>べてないわけではないが、夜具の中にはいる気持がしないのである。

きょうで二日ふた晩。

伊織はまだ帰って来ない。

道に迷っているにしては永すぎる。もっとも使い先が柳生家であり、木村助九郎という知人もいるので、子供だし、まあ遊んで行けと、ひき止められて、いい気になっているのかも知れない――

で、案じながらも、それについては、さして心を労してはいないが、きのうの朝から、<ruby><rb>刀</rb><rt>とう</rt></ruby>を持って向っている観音像の彫りには、だいぶ心身のつかれを彼は覚えていた。

武蔵は、その彫りに向って、技巧を心得ている<ruby><rb>玄人</rb><rt>くろうと</rt></ruby>ではない。また、賢い逃げ道や、上手らしい小刀の<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>をつけて<ruby><rb>誤魔化</rb><rt>ごまか</rt></ruby>してゆく方法を知らない。

ただ彼の心のなかには、彼の描いている観音の<ruby><rb>象</rb><rt>かたち</rt></ruby>だけがある。彼は、無念になって、その心のなかの<ruby><rb>象</rb><rt>もの</rt></ruby>を、木彫として現わそうとするだけに過ぎないが、その<ruby><rb>真摯</rb><rt>しんし</rt></ruby>な狙いどころが、手となり、小刀の先の動きにまでくるあいだに、<ruby><rb>種々</rb><rt>さまざま</rt></ruby>な雑念が、狙うところの<ruby><rb>心形</rb><rt>しんぎょう</rt></ruby>を散漫に乱してしまう。

そこで彼は、折角、彫るところの物が、観音の形になりかけると、それを削って、また彫り直し、また乱れては、また彫り直し――何度もそれを繰り返しているうちに、ちょうど<ruby><rb>鰹魚節</rb><rt>かつおぶし</rt></ruby>を<ruby><rb>費</rb><rt>つか</rt></ruby>い削ってしまうように、与えられた<ruby><rb>天平</rb><rt>てんぴょう</rt></ruby>の古材も、いつか八寸に縮み、五寸ほどに痩せ、もうわずかに、三寸角ぐらいまで、小さくしてしまっていた。

――<ruby><rb>時鳥</rb><rt>ほととぎす</rt></ruby>の声を二度ほど聞いたと思ううちに、彼は半刻ほど、とろとろと眠った。ふと眼をさますと、彼の健康な体力は、頭の隅々の疲労まで洗い去っていた。

「今度こそ」

と、起きると共にすぐ思う。

裏の井戸へ行って、顔を洗う、口を<ruby><rb>嗽</rb><rt>すす</rt></ruby>ぐ。そして彼は、もう暁に近い灯を<ruby><rb>剪</rb><rt>き</rt></ruby>り直し、気を<ruby><rb>革</rb><rt>あらた</rt></ruby>めて、また、彫刀を持ち直した。

サク、サク、サク……

と、眠らない前と、眠った後とでは、小刀の刃味までが違ってくる。古材の新しい木目の下には、千年前の文化が細やかな渦を描いている。もうこれ以上彫り損じては、この貴重な古材はふたたび木屑から一尺の角材に帰るよしもないのだ。どうしても、今夜はうまく彫り上げなければならないと思う。

剣を<ruby><rb>把</rb><rt>と</rt></ruby>って敵に立ち<ruby><rb>対</rb><rt>むか</rt></ruby>った時のように、彼の眼はらんらんとし、彼の小刀には力がこもっていた。

背も伸ばさない。

水も飲みに立たない。

夜が白んで来たのも――小鳥の声がし始めて来たのも――またこの家の戸が、彼の部屋を余す以外すべて開け放されたのもまったく知らずに――彼は三<ruby><rb>昧</rb><rt>まい</rt></ruby>にはいっていた。

「武蔵さま」

どうしたのか？　――と案じて来たように、<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>の耕介がうしろを開けてはいって来たので、彼は初めて、背ぼねを伸ばし、

「……ああ、だめだ」

初めて、小刀を投げていった。

見るともう、削り削りして痩せた木材は、その原型はおろか、<ruby><rb>拇指</rb><rt>おやゆび</rt></ruby>ほども残らず、すべて、木屑となって、彼の膝からまわりに、雪を積んだようになっていた。

耕介は、眼をみはって、

「……あっ、だめですか」

「ウム、だめだ」

「天平の古材は」

「みんな削ってしまった。――削っても削っても、木の中から、とうとう<ruby><rb>菩薩</rb><rt>ぼさつ</rt></ruby>のおすがたが出て来なかったよ！」

こう、われに<ruby><rb>回</rb><rt>かえ</rt></ruby>って、嘆声をもらすと、武蔵は初めて、<ruby><rb>菩提</rb><rt>ぼだい</rt></ruby>と煩悩の中間から地上へ放し落されたように、両手を頭の後ろに結んで、

「だめだ。これから少し禅でもやろう」

と仰向けに寝ころんだ。

そして、眠るべく目を閉じてから、やっと、種々な雑念が去って、なごんだ脳膜のうちに、ただ「<ruby><rb>空</rb><rt>くう</rt></ruby>」という一字だけが、うとうとと、頭の中に漂っていた。

## 四

朝立ちの客が物騒がしく土間から出てゆく。多くは<ruby><rb>博労</rb><rt>ばくろう</rt></ruby>たちだった。この四、五日立っていた馬市の総勘定も、きのうで片づいたとかで、ここの<ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>もきょうから<ruby><rb>閑散</rb><rt>ひま</rt></ruby>になるらしい。

伊織は、今朝、そこへ帰って来て、すたすたと二階へ上がりかけると、

「もしもし。子ども衆」

と、宿の<ruby><rb>内儀</rb><rt>かみ</rt></ruby>さんが、帳場からあわてて呼ぶ。

梯子段の中途から、伊織は、

「なんだい」

と、振向いて、お内儀さんの<ruby><rb>頭髪</rb><rt>あたま</rt></ruby>の<ruby><rb>禿</rb><rt>はげ</rt></ruby>をそこから見下ろす。

「どこへ行きなさるのかね」

「おらか？」

「ああさ」

「おらの先生が二階に泊ってるから、二階へ行くのに、ふしぎはあるまい」

「へえ……？」と、呆れ顔して、

「一体、おまえさんは、<ruby><rb>何日</rb><rt>いつ</rt></ruby>ここを出かけたんだえ」

「そうだなあ？」

指を繰って――

「おとといの前の日だろ」

「じゃ、先おとといじゃないか」

「そうそう」

「柳生様とかへ、お使いに行くといっていたが、今帰って来たのかえ」

「あ。そうだよ」

「そうだよもないものだ、柳生さまのお邸は江戸の内だよ」

「おばさんが、<ruby><rb>木挽町</rb><rt>こびきちょう</rt></ruby>だなんて教えたから、とんだ廻り道をしちまったじゃないか。あそこは<ruby><rb>蔵屋敷</rb><rt>くらやしき</rt></ruby>で、<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>は麻布村の<ruby><rb>日</rb><rt>ひ</rt></ruby>ヶ<ruby><rb>窪</rb><rt>くぼ</rt></ruby>だぜ」

「どっちにしたって、三日もかかる所じゃないじゃないか。狐にでも化かされていたんだろ」

「よく知ってるなあ。おばさん、狐の親類かい」

<ruby><rb>揶揄</rb><rt>からか</rt></ruby>いながら伊織が、梯子段をのぼりかけるのを、<ruby><rb>内儀</rb><rt>かみ</rt></ruby>さんはまた、あわてて止めて、

「もう、おまえの先生は、<ruby><rb>此宿</rb><rt>ここ</rt></ruby>には泊っていないよ」

「嘘だい」

伊織は、ほんとにせず、駈け上がって行ったが、やがてぼんやり降りて来て、

「おばさん、先生は、<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>の部屋へ代ったんだろ」

「もうお立ちになったというのに疑ぐりぶかい子だね」

「えっ、ほんとかいっ」

「嘘だと思うなら、帳面をごらんよ、この通り、お勘定だって済んでいる」

「ど、どうしてだろう、どうして、おらの帰らないうちに、立っちまったんだろ」

「あんまり、お使いが遅いからさ」

「だって……」

伊織は、ベソを掻き出して、

「おばさん、先生は、どッちへ立って行ったか、知らないか、何か、いい置いて行ったろ」

「何も聞いてないね。きっと、おまえみたいな子は、お供に連れて歩いても、役に立たないから、捨てられたんだよ」

眼いろを変えて、伊織は往来へ飛び出した、――そして西を見、東を見、空をながめて、ぽろぽろ泣き出した様子に、<ruby><rb>中剃</rb><rt>なかぞり</rt></ruby>の<ruby><rb>禿</rb><rt>はげ</rt></ruby>を<ruby><rb>櫛</rb><rt>くし</rt></ruby>の歯で掻きながら、お<ruby><rb>内儀</rb><rt>かみ</rt></ruby>はケタケタ笑った。

「嘘だよ、嘘だよ。おまえの先生は、すぐ前の刀屋さんの中二階へ引っ越したのさ。そこにいるから、泣かずに行ってごらん」

今度は、ほんとのことを教えてやると、その言葉が終るや否、内儀さんのいる帳場の中へ、往来から馬の<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>が飛びこんできた。

## 五

寝ている武蔵のすその方へ、伊織は<ruby><rb>畏</rb><rt>おそ</rt></ruby>る畏るかしこまって、

「ただ今」

と、いった。

彼を、ここへ通した耕介は、すぐ跫音をひそめて、<ruby><rb>母屋</rb><rt>おもや</rt></ruby>の奥の病室へかくれた様子――

どことなく、きょうのこの<ruby><rb>家</rb><rt>や</rt></ruby>は<ruby><rb>陰気</rb><rt>いんき</rt></ruby>だった。伊織にも、感じられる。

それに、武蔵の寝ているまわりには、木屑がいっぱい散らかっていて、<ruby><rb>燈</rb><rt>とも</rt></ruby>しきって、油の<ruby><rb>渇</rb><rt>かわ</rt></ruby>いた燭台もまだ片づけてない。

「……ただ今」

叱られることが、何よりも彼の心配であった。で、大きな声が出ないのであった。

「……誰だ」

武蔵がいう。

眼をあいたのである。

「伊織でございます」

すると武蔵は、すぐ身を起した。そして足の先にかしこまっている伊織の無事をながめると、ほっとしたように、

「伊織か」

と、いったが、それきり何もいわなかった。

「遅くなりました」

それにも何もいわず、伊織がふたたび、

「すみません」

と、お辞儀しても、べつだん次の問いを発せず、帯を締め直して、

「窓を明けて、ここを掃除しておけ」

いいつけて、出て行った。

「はい」

伊織は、家人に<ruby><rb>箒</rb><rt>ほうき</rt></ruby>を借りて、部屋の掃除にかかったが、なお、心配になるので、武蔵が何をしに行ったのかと、裏庭をのぞくと、武蔵はそこの井戸ばたで口を<ruby><rb>嗽</rb><rt>すす</rt></ruby>いでいた。

井戸端のまわりには、青梅の<ruby><rb>実</rb><rt>み</rt></ruby>がこぼれている。伊織は、それを見るとすぐ、塩をつけて<ruby><rb>齧</rb><rt>かじ</rt></ruby>る味を思った。そして、あれを拾って<ruby><rb>浸</rb><rt>つ</rt></ruby>けこんでおけば、一年中梅干に困らないのに、ここの人はなぜ拾って漬けないのかと考えたりした。

「耕介どの。怪我人の容態はどうじゃな」

武蔵は、顔を拭きながら、そこから裏の端の部屋へ、ことばをかけていた。

「だいぶ、落着いたようで」

と、耕介の声もする。

「おつかれでござろう。後で少し代りましょうかな」

武蔵がいうと、耕介は、それには及ばない由を答えて、

「ただ、このことを、平河天神の<ruby><rb>小幡景憲</rb><rt>おばたかげのり</rt></ruby>様の塾まで、お知らせしたいと思いますが、人手がないので、どうしたものかと、それを案じておりますが」

と、相談する。

それなら、自分が行くか、伊織を使いに出すから――と武蔵がひきうけて、やがて中二階の箱段をのぼって来ると、部屋は手ばやくもう<ruby><rb>掃</rb><rt>は</rt></ruby>かれてある。

武蔵は、坐り直して、

「伊織」

「はい」

「使いの返事は、どうであったな」

――多分、いきなり叱られるに違いないと<ruby><rb>惧</rb><rt>おそ</rt></ruby>れていた伊織は、やっとニコついて、

「行って参りました。そして柳生様のお邸にいる木村助九郎様からここに、御返事をもらって来ました」

<ruby><rb>懐</rb><rt>ふところ</rt></ruby>の奥のほうから、返書の一通を出して、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">したり</span>顔をした。

「どれ。……」

武蔵は手を伸ばし、伊織は、膝をすすめてその手へ渡した。

## 六

木村助九郎からの返辞には、ざっと、こうした文言が<ruby><rb>認</rb><rt>したた</rt></ruby>めてあった。

（――せっかくの御所望ではあるが、柳生流は将軍家のお<ruby><rb>止流</rb><rt>とめりゅう</rt></ruby>。<ruby><rb>何人</rb><rt>なんぴと</rt></ruby>とも、公然の試合はゆるされない。しかし、試合としてお越しあるのでなければ、時に依って、主人<ruby><rb>但馬守</rb><rt>たじまのかみ</rt></ruby>様が、道場で御挨拶のある場合もある。――なお、<ruby><rb>強</rb><rt>た</rt></ruby>って、柳生流真骨法に接したいというお望みならば、柳生兵庫様とお立合いになるのが最上と思うが――折わるく、その兵庫様には、本国<ruby><rb>大和</rb><rt>やまと</rt></ruby>の石舟斎様の御病気再発のために、にわかに昨夜、大和へ向けてお立ちになってしまった。かえすがえす遺憾であるが、そういう御心配もある折なので、但馬守様を御訪問の儀も他日になされてはどうか）

と、結んで、

（その時にはまた、自分が御周旋申しあげてもよい）

と、追伸してある。

「…………」

武蔵は、ほほ笑みながら、長い巻紙をゆるゆる巻き納めた。

彼の微笑を見ると、伊織はよけい安心した。その安心をしたところで、窮屈な脚を伸ばして、

「先生、柳生さまのお<ruby><rb>邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>は、<ruby><rb>木挽町</rb><rt>こびきちょう</rt></ruby>じゃないぜ。麻布の日ヶ窪ってとこさ、とても大きくて、立派な家だよ。そしてね、木村助九郎様が、いろんな物を、ご馳走してくれた」

<ruby><rb>狎</rb><rt>な</rt></ruby>れて、話し出すと、

「伊織」

武蔵の眉が、すこし<ruby><rb>難</rb><rt>むずか</rt></ruby>しく変っている。その気色に、伊織はあわててまた、足を引っ込めて、

「はい」

と改まる。

「道を間違えたにせよ、きょうは三日目、あまり遅過ぎるではないか。どうしてこんなに遅く帰って来たか」

「麻布の山で、狐に化かされてしまったんです」

「狐に」

「はい」

「野原の一軒家に育って来たおまえが、どうして狐になど化かされたのか」

「わかりません。……けれど半日と一晩中、狐に化かされて、後で考えても、何処を歩いたのか、思い出せないんです」

「ふーム……。おかしいな」

「まったく、おかしゅうございます。今まで狐なんか、何でもないと思っていましたが、田舎より江戸の狐のほうが、人間を化かしますね」

「そうだ」

彼の<ruby><rb>真面目顔</rb><rt>まじめがお</rt></ruby>を見ていると、武蔵は叱る気も失せて、

「そちは、何か<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>したろう」

「ええ、狐が<ruby><rb>尾行</rb><rt>つけ</rt></ruby>て来ましたから、化かされないうちにと要心して、脚だか尻尾だか斬りました。その狐が、<ruby><rb>仇</rb><rt>あだ</rt></ruby>をしたんです」

「そうじゃない」

「そうじゃありませんか」

「うム、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あだ</span>をしたのは、眼に見えた狐でなくて、眼に見えない自分の心だ。……ようく落着いて考えておけ。わしが帰って来るまでに、その<ruby><rb>理</rb><rt>わけ</rt></ruby>を解いて、答えるのだぞ」

「はい。……けれど先生は、これから何処かへ行くんですか」

「<ruby><rb>麹町</rb><rt>こうじまち</rt></ruby>の<ruby><rb>平河</rb><rt>ひらかわ</rt></ruby>天神の近所まで行ってくる」

「今夜のうちに、帰って来るんでしょうね」

「はははは、わしも狐に化かされたら、三日もかかるかも知れぬぞ」

きょうは伊織を留守において、武蔵は<ruby><rb>梅雨</rb><rt>つゆ</rt></ruby>ぐもりの空の下へ出て行った。

## <ruby><rb>雀羅</rb><rt>じゃくら</rt></ruby>の<ruby><rb>門</rb><rt>もん</rt></ruby>

## 一

平河天神の森は、<ruby><rb>蝉</rb><rt>せみ</rt></ruby>の声につつまれていた。<ruby><rb>梟</rb><rt>ふくろ</rt></ruby>の声もどこかでする。

「ここだな」

武蔵は、足を止めた。

昼間の月の下に、物音もしない一構えの建物がある。

「たのむ」

まず玄関に立ってこう訪れた。<ruby><rb>洞窟</rb><rt>どうくつ</rt></ruby>へ向ってものをいうように、自分の声が自分の耳へがあんと返ってくる。――それ程、<ruby><rb>人気</rb><rt>ひとけ</rt></ruby>が感じられなかった。

――しばらく経つと、奥の方から跫音がして来た。やがて彼の前に、取次の小侍とも見えぬ青年が、<ruby><rb>提</rb><rt>さ</rt></ruby>げ<ruby><rb>刀</rb><rt>がたな</rt></ruby>で立ち現れ、

「<ruby><rb>誰方</rb><rt>どなた</rt></ruby>だな？」

立ちはだかったままでいう。

年ばえ二十四、五歳、若いが、<ruby><rb>革足袋</rb><rt>かわたび</rt></ruby>の先から髪の毛まで、一見して、<ruby><rb>能</rb><rt>のう</rt></ruby>もなく育って来た骨<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">がら</span>でないものを備えていた。

武蔵は、姓名を告げて、

「<ruby><rb>小幡勘兵衛</rb><rt>おばたかんべえ</rt></ruby>どのの小幡兵学所はこちらでございますな」

「そうです」

青年は、<ruby><rb>膠</rb><rt>にべ</rt></ruby>がない。

次にはさだめし、兵法修行のため諸国を遊歴しておる者で――と武蔵がいうに違いないと、見ているような<ruby><rb>体</rb><rt>てい</rt></ruby>だったが、武蔵が、

「御当家の一弟子、北条新蔵と申さるる<ruby><rb>人</rb><rt>じん</rt></ruby>が、仔細あって、ご存じの刀<ruby><rb>研</rb><rt>と</rt></ruby>ぎ耕介の家に救われて、療養中にござりますゆえ、右まで、耕介の依頼に依って、お<ruby><rb>報</rb><rt>し</rt></ruby>らせにうかがいました」

と述べると、

「えっ、北条新蔵が、返り討ちになりましたか」

と、青年は驚愕して、気を落着けると、

「失礼いたしました、わたくしは勘兵衛<ruby><rb>景憲</rb><rt>かげのり</rt></ruby>の一子、小幡余五郎にございます。わざわざのお<ruby><rb>報</rb><rt>し</rt></ruby>らせ有難う存じまする。まず、端近ですが御休息でも」

「いやいや、一言、お伝えすればよいこと、すぐお<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>をいたす」

「して、新蔵の生命は」

「今朝になって、いくらか持直したようです。お迎えに参られても、今のところでは、まだ動かされますまいから、当分は耕介の家に置かれたがよいでしょう」

「何分、耕介へも、頼み入るとお<ruby><rb>言伝</rb><rt>ことづて</rt></ruby>ねがいたい」

「伝えておきましょう」

「実は当方も、父勘兵衛がまだ病床から起ち得ぬところへ、父の代師範をつとめていた北条新蔵が昨年の秋から姿を見せませぬため、このように講堂を閉じたまま、人手のない始末、<ruby><rb>悪</rb><rt>あし</rt></ruby>からずお推察を」

「佐々木小次郎とは、何かよほどな御宿怨でもござるのか」

「私の留守中ゆえ、詳しくは存じませぬが、病中の父を、佐々木が恥かしめたとかで、門人たちの間に遺恨を<ruby><rb>醸</rb><rt>かも</rt></ruby>し、幾たびも彼を討とうとしては、かえって彼のために、返り討ちになる始末に、遂に、北条新蔵も意を決して、ここを去って以来、小次郎をつけ狙っていたものとみえまする」

「なるほど。それでいきさつが相分った。――しかし、これだけは御忠告しておく。佐々木小次郎を相手にとって争うことはおやめなされ。彼は、尋常に刃向っても勝てぬ相手、策をもってもなお勝てぬ相手。――<ruby><rb>所詮</rb><rt>しょせん</rt></ruby>剣でも、口先でも、策略でも、およそ一かどぐらいな器量の者では、太刀打ちにならぬ人物です」

武蔵が、小次郎の凡物でない点を揚げて称揚すると、余五郎の若い眸には、ありありと不快ないろが燃えた。武蔵は、それを感じるのでなおさら、未然の警戒を、繰返したくなって、

「誇る者には誇らしておくに限る。小さな宿怨に、大禍を招いてはなりますまい。北条新蔵が仆れたからには、自分がなどと重なる遺恨を追って、また、前車の血の<ruby><rb>轍</rb><rt>てつ</rt></ruby>をお踏みなさるなよ。愚かです、愚かなことです」

そう忠言すると、彼は、玄関先からすぐ帰って行った。

## 二

――その後で、余五郎は、壁に<ruby><rb>倚</rb><rt>よ</rt></ruby>りかかったまま、独りで腕を<ruby><rb>拱</rb><rt>く</rt></ruby>んでいた。

多感な<ruby><rb>唇</rb><rt>くち</rt></ruby>が、かすかに、

「残念な……」

と、<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えを洩らした。

「新蔵までが、とうとう、返り討ちにされたのか……」

うつろな眼で、天井を見る。広い講堂も<ruby><rb>母屋</rb><rt>おもや</rt></ruby>も、今では、ほとんど無人のようにしんとしていた。

自分が旅先から帰って来た際には――新蔵はもういなかったのである。ただ、自分へ宛てた遺書だけがあった。それには、佐々木小次郎をきっと討って帰るとあった。討てなければ今生でお目にかかる折はもうあるまいとしてあった。

その、<ruby><rb>希</rb><rt>ねが</rt></ruby>わぬことの方が、今は、事実となってしまった。

新蔵がいなくなってから、兵学の授業も自然やすみとなり、世間の評は、とかく小次郎に加担して、この兵学所に通う者を卑怯者の集まりのように、また、理論だけで実力のない人間の<ruby><rb>屯</rb><rt>たむろ</rt></ruby>のように悪くいった。

それを、<ruby><rb>潔</rb><rt>いさぎよ</rt></ruby>しとしない者だの、父勘兵衛<ruby><rb>景憲</rb><rt>かげのり</rt></ruby>の病気や、甲州流の衰微を見て、長沼流へ移ってゆく者だの――いつのまにか門前はさびれてしまい、近頃では内弟子のほんの雑用をする者が二、三止まっているきりだった。

「……父にはいうまい」

彼は、すぐそう心に決めた。

「――後は後のことだ」

とにかく、老父の重病に手を尽すことが、子としては、今は最善なつとめだと思う。

しかし、その恢復は、到底、<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>つかないことだとは、医者からもいわれていることだった。

――後は後のこと。

と、そこで悲しい我慢が胸をさするのだった。

「余五郎っ。余五郎っ」

奥の病室から、こう父の声がその時聞えた。

子の眼からは、今にもと危ぶまれる病父も、何かに激して、子を呼ぶ時の声は、病人とも思われなかった。

「――はいっ」

あわてて、余五郎は、駈けて行った。

そして次の間から、

「お呼びですか」

ひざまずいて見ると、病人はいつも寝くたびれた時するように、自分で窓をあけ、枕を<ruby><rb>脇息</rb><rt>きょうそく</rt></ruby>にして、床のうえに坐っていた。

「余五郎」

「はい。ここにおります」

「今――門の外へ行った武士があったな。――この窓から、後ろ姿だけを見たのだが」

もう、父はそれを知っていたのかと、包んでいるつもりだった余五郎は、ややうろたえた。

「は……。では……ただ今見えた使いの者でございましょう」

「使いとは、どこから」

「北条新蔵の身に、ちと変事がござりまして、それを知らせに来てくれた――宮本武蔵とか申すお人です」

「ふム？　……宮本武蔵。……はてな、江戸の者ではあるまいが」

「作州の牢人とか申しておりましたが――お父上には只今の人間に、何ぞお心当りでもあるのでござりまするか」

「いや――」

勘兵衛景憲は、白い<ruby><rb>髯</rb><rt>ひげ</rt></ruby>のまばらに伸びた<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>の先をつよく振って、

「なんの<ruby><rb>由縁</rb><rt>ゆかり</rt></ruby>も見おぼえもない。したが、この景憲も、若年からこの年まで、数々の戦場はおろか平時のあいだに、随分人らしい人は見たが、まだ真に武士らしい武士に出会うたのは<ruby><rb>幾人</rb><rt>いくたり</rt></ruby>もない。――ところが、今立ち去った侍には、何か、心が<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>かれた。――会いたい。ぜひその宮本殿とやらに会って話してみたい。――余五郎、すぐ追いかけて、これへ、ご案内申して来い」

## 三

あまり長く話してもいけない――と医者からも注意されている病人である。

――呼んでこい。

と、病人が、やや昂奮していうだけでも、余五郎は、父の容態に<ruby><rb>障</rb><rt>さわ</rt></ruby>りはしないかと、案じられるのだった。

「かしこまりました」

一応は、病人に従って、彼はこういったが立とうとはせず、

「しかしお父上、今のさむらいの何処がそんなにお気に召しましたか。この御病間の窓から、後ろ姿をご覧になっただけでしょうに」

「おまえには分るまい。――それが分る頃になると人間も、もはやこの通り<ruby><rb>寒巌枯木</rb><rt>かんがんこぼく</rt></ruby>に近くなる」

「でも、何か<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>が」

「ないこともない」

「お聞かせ下さいませ。余五郎などには後学にも相成りましょう」

「わしへ――この病人にさえ――今の侍は油断をせずに行った。それが偉いと思う」

「父上が、こんな窓の中に、お<ruby><rb>在</rb><rt>い</rt></ruby>でになることを、知る筈はありませぬが」

「いや、知っていた」

「どうしてでしょう」

「門をはいって来る時、そこで一足止めて、この家の構えと、明いている窓や明いていない窓や、庭の抜け道、その他、<ruby><rb>隈</rb><rt>くま</rt></ruby>なく一目に彼は見てしまった。――それは少しも不自然な<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">てい</span>ではなく、むしろ<ruby><rb>慇懃</rb><rt>いんぎん</rt></ruby>にさえ見える身ごなしではいって来たが、わしは遥かにながめて、これは何者がやって来たかと驚いておったのじゃ」

「では、今の侍は、そんな<ruby><rb>嗜</rb><rt>たしな</rt></ruby>みのふかい武士でしたか」

「話したら、さだめし尽きぬ話ができよう。すぐ追いかけて、お呼びして来い」

「でも、お体に<ruby><rb>障</rb><rt>さわ</rt></ruby>りはいたしませんか」

「わしは、年来、そういう知己を待っていたのだ。わしの兵学は、子に伝えるため積んで来たのではない」

「いつも、お父上の仰っしゃっておらるることです」

「甲州流とはいうが、勘兵衛<ruby><rb>景憲</rb><rt>かげのり</rt></ruby>の兵学は、ただ甲州武士の方程式陣法を弘めてきたのではない。信玄公、謙信公、信長公などが、覇を争っていた頃とは、第一時世がちがう。学問の使命も違う。――わしの兵学は、あくまで小幡勘兵衛流の――これから先、真の平和を築いてゆく兵学なのだ。――ああ、それを誰に伝えるか」

「…………」

「余五郎」

「……はい」

「そちに伝えたいのは山々だ。だけど、そちは今の武士と、面と<ruby><rb>対</rb><rt>むか</rt></ruby>ってさえ、まだ相手の器量がわからぬほど未熟者じゃ」

「面目のう存じます」

「親のひいき目に見てすらその程度では――わしの兵学を伝えるよしもない。――むしろ他人の<ruby><rb>然</rb><rt>しか</rt></ruby>るべき者に伝えて、そちの後事を託しておこう――と、わしはひそかにその人物を待っていたのじゃ。花が散ろうとする時は、必然に、花粉を風に託して、大地へこぼして散るようにな……」

「……ち、父上、散らないでください。散らないように、御養生遊ばして」

「ばかをいえ、ばかを申せ」

二度繰り返して、

「はやく行け」

「はい」

「失礼のないように、よくわしの旨を申しあげて、これへ、お連れ申して来るのじゃぞ」

「はっ」

余五郎は、いそいで、門の外へ駈け出して行った。

## 四

――追って行ったが、武蔵の影はもう見えなかった。

<ruby><rb>平河</rb><rt>ひらかわ</rt></ruby>天神の辺りを探し、<ruby><rb>麹町</rb><rt>こうじまち</rt></ruby>の往来まで出て行ったが、やはり見当らなかった。

「しかたがない。――また折があろう」

余五郎は、すぐ<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めた。

父がいうほど、彼にはまだ、武蔵がそれほど<ruby><rb>優</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れた人間とは、受け取れなかった。

<ruby><rb>年齢</rb><rt>とし</rt></ruby>も、自分と同じくらいな彼が、たといどれ程、才分があったとしても、知れたものだとしか思われなかった。

それに、武蔵が帰り際に、

（佐々木小次郎を相手になさるのは愚かである。小次郎は凡物ではない。小さな宿怨はお捨てになったほうがお為であろう）

などといった言葉も、頭のどこかに<ruby><rb>閊</rb><rt>つか</rt></ruby>えている感じである。あたかも、わざわざ小次郎を称揚しに来たような印象を、余五郎は受けていた。

（何の！）

と、いう気持が、当然、それに対して、彼にはある。

小次郎に対しても抱くが如く、武蔵に対しても、それの軽いものを抱いているのだ。――いや、父に対してすら、従順には聞いていたが、心の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>では、

（私とても、そうお父上が<ruby><rb>見縊</rb><rt>みくび</rt></ruby>るほどな未熟ではございません）

と、<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>いた程だった。

一年、時には二年、三年と、余五郎も許された<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>のあるたびに、武者修行にも歩いたり、他家へ兵学の内弟子となったり、時には、禅家へも通ったり、一通りな鍛錬は積んで来たつもりなのである。――それを父はいつまでも乳くさいように自分を<ruby><rb>視</rb><rt>み</rt></ruby>ている。そしてたまたま窓越しに見た武蔵のような若輩者を、おそろしく過賞し、

（すこし貴様も見ならえ）

と、いわないばかりな<ruby><rb>口吻</rb><rt>くちぶり</rt></ruby>であった。

「――戻ろう」

と、決めて、家のほうへ帰りながら、余五郎はふと淋しかった。

「親という者は、いつまでも子が乳くさく見えてならないのだろうな」

いつかはその父に、お前もそんなになったかといわれてみたい。しかし、その父は明日も知れない病身である。それが淋しかった。

「おう、余五郎どの。――余五郎どのじゃないか」

呼びかける声に、

「やあ、これは」

と、余五郎も<ruby><rb>踵</rb><rt>きびす</rt></ruby>を<ruby><rb>回</rb><rt>かえ</rt></ruby>して、双方から近づいて行った。

細川家の家士で、近頃はあまり見えないが、一頃はよく講義を聞きに来ていた<ruby><rb>中戸川範太夫</rb><rt>なかとがわはんだゆう</rt></ruby>であった。

「大先生の御病気はその後いかがでございますな。公務に追われて、ごぶさたを致しておりますが」

「相変らずでございます」

「なにせい、御老齢のことでもあるしの。……オオ時に、教頭の北条新蔵どのが、またしても、返り討ちにされたという噂ではござらぬか」

「もうご承知ですか」

「つい今朝方、藩邸で聞きましたが」

「ゆうべのそれを――もう今朝細川家で」

「佐々木小次郎は、藩の重臣、岩間角兵衛殿の<ruby><rb>邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>に食客しておるので、その角兵衛どのが、早速、<ruby><rb>吹聴</rb><rt>ふいちょう</rt></ruby>したものでござろう。若殿の<ruby><rb>忠利</rb><rt>ただとし</rt></ruby>公すら、すでにご存知のようでござった」

余五郎の若さでは、それを冷静に聞いていることはできなかった。そうかといって、顔いろの動きを見られるのも嫌だった。さり気なく範太夫には別れて家へ戻ったが、その時はもう、彼の肚は決まっていた。

## <ruby><rb>街</rb><rt>まち</rt></ruby>の<ruby><rb>雑草</rb><rt>ざっそう</rt></ruby>

## 一

耕介の妻は、<ruby><rb>粥</rb><rt>かゆ</rt></ruby>を煮ている。

奥の病人のためにである。

その台所を覗いて、

「おばさん、もう梅の<ruby><rb>実</rb><rt>み</rt></ruby>が黄色くなったよ」

と伊織が教えた。

耕介の妻は、

「ああ、<ruby><rb>熟</rb><rt>う</rt></ruby>れて来たね、<ruby><rb>蝉</rb><rt>せみ</rt></ruby>も啼き出すし」

と、なんの感激もない。

「おばさん、どうして、梅の実を漬けないのさ」

「小人数だもの。あれだけ漬けるには、塩だって沢山いるだろ」

「塩は腐らないけれど、梅の実は漬けとかないと腐っちまうじゃないか。小人数だって、戦争の時だの、洪水の時には、ふだんに要心しておかないと困るぜ。――おばさんは病人の世話で忙しいから、おらが漬け込んでやるよ」

「まあ、この子は、<ruby><rb>大洪水</rb><rt>おおみず</rt></ruby>の時のことまで考えているのかえ。子供みたいじゃないね」

伊織はもう、物置へ入って、<ruby><rb>空樽</rb><rt>あきだる</rt></ruby>を庭へ持ち出している。そして梅の樹を仰いだ。

<ruby><rb>他家</rb><rt>よそ</rt></ruby>の世話女房を<ruby><rb>窘</rb><rt>たしな</rt></ruby>める程、子供に似げない才覚や生活の自衛を心得ているかと思うと、もうすぐ樹の肌に止っているミンミン<ruby><rb>蝉</rb><rt>ぜみ</rt></ruby>を見つけて、それに気を<ruby><rb>奪</rb><rt>と</rt></ruby>られていた。

そっと寄って、伊織は、蝉をおさえつけた。蝉は彼の<ruby><rb>掌</rb><rt>て</rt></ruby>の中で、老人の悲鳴みたいに啼き立てた。

自分の<ruby><rb>拳</rb><rt>こぶし</rt></ruby>をながめて、伊織は不思議な感に打たれている。蝉には血がない筈なのに、蝉の体は自分の掌よりも熱かった。

血がない蝉でも、死ぬか生きるかの境には、火のような熱を体から燃やすのであろう。――伊織は、そこまでは考えなかったが、ふと怖くなって、また可哀そうになって、その<ruby><rb>掌</rb><rt>て</rt></ruby>を大空へ上げて開いた。

蝉は、隣の屋根へぶつかって町の中へ<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>れて行った――。伊織はすぐ梅の樹へのぼり出した。

かなり大きな樹だった。<ruby><rb>恙</rb><rt>つつが</rt></ruby>なく育った毛虫は、驚くほど美麗な毛を着て這っていた。天道虫もいたし、青葉の裏には、青蛙の子もはりついていた。小さい蝶も眠っていた。<ruby><rb>虻</rb><rt>あぶ</rt></ruby>も舞っていた。

人間の世界を離れた別な世界を覗いたように、伊織は、<ruby><rb>見惚</rb><rt>みと</rt></ruby>れていた。いきなり梅の枝をユサユサ揺すって、昆虫の国の紳士淑女を<ruby><rb>愕</rb><rt>おどろ</rt></ruby>かすのは気の毒みたいな気がしたのかもしれない。まず薄く色づいた梅の<ruby><rb>実</rb><rt>み</rt></ruby>を一個<ruby><rb>捥</rb><rt>も</rt></ruby>いで、ボリッと、<ruby><rb>齧</rb><rt>かじ</rt></ruby>った。

そして手近の枝から、揺すぶり始めた。落ちそうに見えていて、梅の実は案外落ちない。手の届く実は手で<ruby><rb>挘</rb><rt>むし</rt></ruby>って、下の空樽へ<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り投げた。

「――あっ、畜生っ」

何を見たのか、伊織はふいにそう呶鳴って、家の横手の露地へ向って、ぱらぱらッと、三ツ四ツ梅の実を投げつけた。

垣根へ懸け渡してあった物干竿が、それと共に、大きな音を立てて地へ落ちた。続いて、<ruby><rb>慌</rb><rt>あわ</rt></ruby>てふためいた跫音が、露地から往来へ飛び出して行った。

きょうも、武蔵は外出していて、その留守中のことなのである。

細工場で、余念なく、刀を<ruby><rb>研</rb><rt>と</rt></ruby>いでいた耕介は、竹窓から顔を出して、

「なんだ？　今の音は」

と、眼をまるくした。

## 二

伊織は、樹の上から、飛び降りて――

「おじさん、露地の陰へ、また変な男が来て、しゃがみ込んでたよ。梅の実を<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>つけてやったら、びっくりして、逃げてったけれど、油断してると、また来るかもしれないぜ」

と、細工場の窓へ告げた。

耕介は、手を拭きながら出て来て、

「どんな奴だった？」

「無法者だよ」

「<ruby><rb>半瓦</rb><rt>はんがわら</rt></ruby>の<ruby><rb>乾児</rb><rt>こぶん</rt></ruby>か」

「こないだの晩も、店へ押し<ruby><rb>襲</rb><rt>か</rt></ruby>けて来たろ。あんな<ruby><rb>風態</rb><rt>ふうてい</rt></ruby>さ」

「猫みたいな奴らだ」

「何を狙いに来るんだろ」

「奥の怪我人へ、仕返しにやって来るのだ」

「あ。北条さんか」

伊織は、病人のいる部屋を、振返った。

病人は<ruby><rb>粥</rb><rt>かゆ</rt></ruby>を喰べていた。

その北条新蔵の<ruby><rb>負傷</rb><rt>てきず</rt></ruby>も、もう<ruby><rb>繃帯</rb><rt>ほうたい</rt></ruby>を<ruby><rb>脱</rb><rt>と</rt></ruby>っていい程に恢復していた。

「――御亭主」

新蔵がそこから呼ぶので、耕介は縁先へ歩いて行って、

「いかがですな」

と、<ruby><rb>慰</rb><rt>なぐさ</rt></ruby>めた。

食事の盆を片寄せて、新蔵は坐り直した。

「耕介どの。思わぬお世話に相成った」

「どういたしまして。仕事があるのでつい行き届きませんで」

「何かとお世話ばかりでなく、拙者を狙う<ruby><rb>半瓦</rb><rt>はんがわら</rt></ruby>の部屋の者が、絶えずこそこそ立ち廻るらしいな。長居するほど迷惑はかさむし、万一当家へ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あだ</span>をするようでは、この上にも申し訳がない」

「そんなご<ruby><rb>斟酌</rb><rt>しんしゃく</rt></ruby>は……」

「いやそれに、この通り、体も恢復いたしたから、今日はもうお<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>をしようと思う」

「え、お帰りですって」

「お礼には、後日改めてお伺いする」

「ま……お待ち下さい。ちょうど今日は、武蔵様も外へ出ていらっしゃいますから、帰った上で」

「武蔵どのにも、<ruby><rb>種々</rb><rt>いろいろ</rt></ruby>と手厚いお世話になったが、戻ったらよろしくいってくれい。――この通り歩行などにはもう少しも不自由はない程に」

「でも、半瓦の家にいる無法者たちは、いつぞやの晩、<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>の十郎と、お<ruby><rb>稚児</rb><rt>ちご</rt></ruby>の小六という者を、あなたのために斬り殺されたため、それを恨んで、あなたが一歩でも<ruby><rb>此家</rb><rt>このや</rt></ruby>の軒下を出たら喧嘩をしかけようと、待ち構えておりまする。それで毎日毎夜、あの通りちょいちょい様子を覗きに来ておりますのに、それを承知で、お一人でここから帰すことはできませぬ」

「何の、菰やお稚児を斬ったのは、こちらには、堂々と理由のあること。彼らのうらみは逆恨みじゃ。それを、事を構えて仕懸けて参れば――」

「と、いっても、まだその体では心もとのうござりまする」

「ご心配は<ruby><rb>忝</rb><rt>かたじけな</rt></ruby>いが大事はござらぬ。御家内はどこにおられるか。御家内へも礼を申して……」

と、新蔵はもう、身支度を直して、立ち上がった。

ひき止めても、きかないので、夫婦もぜひなく、送り出すと、ちょうどその店先へ、<ruby><rb>陽</rb><rt>ひ</rt></ruby>に<ruby><rb>焦</rb><rt>や</rt></ruby>けた顔に汗をたたえて、武蔵が外から戻って来た。

出合いがしらの眼をみはって、

「や。北条どの、何処へ出かけられるか。――何、御帰宅と。――そういう元気になってくれたことは<ruby><rb>欣</rb><rt>うれ</rt></ruby>しいが、一人では途中が物騒。よい所へ戻って来た。拙者が<ruby><rb>平河</rb><rt>ひらかわ</rt></ruby>天神までお送りしよう」

と、武蔵はいった。

## 三

一応は辞退したが、

「何。――まあよい」

武蔵は受けつけない。

で、好意に甘えて、北条新蔵は彼に<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れられて、耕介の家を出た。

「久しく歩かれなかったから、ご大儀ではないか」

「何か、こう、地面が高く見えるようで、足を踏み出すのに、<ruby><rb>蹌</rb><rt>よろめ</rt></ruby>きまする」

「無理もない。平河天神まではだいぶある。<ruby><rb>町駕</rb><rt>まちかご</rt></ruby>が来たら、あなただけお乗りなさい」

武蔵がいうと、

「申し遅れましたが、小幡兵学所へは帰りませぬ」

「では、<ruby><rb>何処</rb><rt>どちら</rt></ruby>まで」

「……面目ない気もいたしますが」

と、新蔵はさし<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>いて、

「――一時、父の許へ帰るといたしまする」

と、いった。そして、

「牛込です」

と、行く先を告げた。

武蔵は、町駕を見つけ、<ruby><rb>強</rb><rt>た</rt></ruby>って新蔵だけを乗せた。駕屋は、武蔵へもすすめたが、武蔵は乗ろうともしない。新蔵の駕のわきに付いて歩いて行くのだった。

「あ。駕へ乗せやがった」

「こっちを見たぞ」

「騒ぐな、まだ早い」

駕と武蔵が、<ruby><rb>外濠</rb><rt>そとぼり</rt></ruby>を見て右へ曲ると、町角に現われた一団の無法者が、各〻、<ruby><rb>裾</rb><rt>すそ</rt></ruby>をまくり、腕をたくし上げて、その後から、<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて行った。

<ruby><rb>半瓦</rb><rt>はんがわら</rt></ruby>の部屋の者である。今日の遺恨ばらしを待っていたぞという顔つき。どの眼もどの眼も武蔵の背と駕の中に飛びつきそうにぴかぴかしている。

牛ヶ<ruby><rb>淵</rb><rt>ふち</rt></ruby>まで来た時である。駕の棒へ小石が一つカンと<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ね返った。それと共に、遠巻きに拡がった無法者の群れが、

「やいっ、待て」

「野郎、待て」

「待て」

「待て」

すでに前から<ruby><rb>怯</rb><rt>おび</rt></ruby>えていた駕かきは、かくと見るや、駕をおいて、横っ飛びに逃げ出した。その姿を越えて、また二ツ三ツ石つぶてが武蔵へ向って飛んで来た。

卑怯と見られることは無念なように、北条新蔵は、刀を抱えてすぐ、駕から這い出し、

「待てとは、わしか」

と、突っ起って、応戦の身構えを取った。武蔵は、彼の身を<ruby><rb>庇</rb><rt>かば</rt></ruby>いながら、

「用事をいえ」

石の飛んで来る方へいった。

無法者たちは、浅瀬を探るように、だんだん寄り詰めて来たが、

「知れたことっ」

叩き返すようにいって、

「その野郎を渡せばよし、小生意気なまねをすると、てめえも共に生命がねえぞ」

味方の言葉に気勢が揚がって、無法者たちはそこで、どっと殺気を<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>らした。

――といって、誰あって、先に<ruby><rb>大刀</rb><rt>だんびら</rt></ruby>かざして斬りこんで来る者もない。また、武蔵の眼光がそうさせなかったともいえる。いずれにしろかなり距離をおいて一方は<ruby><rb>吠</rb><rt>ほ</rt></ruby>え、武蔵と新蔵は、それを眺めすえて沈黙していた。

「半瓦とか申す無法者の親分はその中におるのか。おるならばそれへ出てもらいたい」

時ならぬ時分に、武蔵がこういった。すると、無法者の中からも、

「親分はいねえが、部屋の留守は年寄役でおれが預かっている。おれは、<ruby><rb>念仏太左衛門</rb><rt>ねんぶつたざえもん</rt></ruby>という<ruby><rb>老爺</rb><rt>おやじ</rt></ruby>だが、何か挨拶があるなら聞いてやろう」

と、<ruby><rb>白帷子</rb><rt>しろかたびら</rt></ruby>を着て、<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>に大きな<ruby><rb>数珠</rb><rt>ずず</rt></ruby>を懸けている無法者の老人が、前へ進んで名乗った。

## 四

武蔵はいった。

「其方たちは、なんで、この北条新蔵どのに、恨みを抱くのか」

すると、念仏太左衛門は、一同に代って肩をそびやかした。

「部屋の兄弟分を二人まで叩っ斬られて、黙っていちゃあ、無法者の顔にさわる」

「だが、北条どのにいわせれば、その前に、<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>の十郎と<ruby><rb>稚児</rb><rt>ちご</rt></ruby>の小六とやらは、佐々木小次郎に手伝うて、小幡家の門人衆を、幾名も、闇打ちにしているというではないか」

「それはそれ、これはこれ、おれたちの兄弟分がやられた時は、おれたちの手で仕返しせねば、無法者の飯を喰って、男でござると歩いていられねえのだ」

「なるほど」

武蔵は、肯定を与えておいてからまた、いった。

「それは、おまえ達の住む世界ではそうだろう。だが、侍の世界は違う。――侍の中では、いわれのない意趣は立たぬ。<ruby><rb>逆恨</rb><rt>さかうら</rt></ruby>みや<ruby><rb>亦</rb><rt>また</rt></ruby>恨みは、許されぬ。――侍は義を尊び、名分のために、復讐はゆるされているが、遺恨のための遺恨ばらしは、<ruby><rb>女々</rb><rt>めめ</rt></ruby>しい振舞いと笑うのだ。――たとえば、其方たちのような」

「何、おれたちの振舞いが、女々しいと？」

「佐々木小次郎を先に立て、侍として、名乗り来るなら分っておるが、手伝い人の騒ぎ立てを、相手に取るわけにはゆかぬ」

「侍は侍の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ごたく</span>。何とでもぬかせ。おれたちは無法者だ。無法者の顔を立てにゃあならぬ」

「一ツの世間に、侍の仕方、無法者の仕方、二ツが立とうとすれば、ここばかりではない、街のいたる所に、血まみれが生じる。――これを裁くものは奉行所しかない。念仏とやら」

「なんだ」

「奉行所へ参ろう。そして是非を裁いて戴こう」

「くそでもくらえ。奉行所へ行くくれえなら、<ruby><rb>初手</rb><rt>しょて</rt></ruby>からこんな手間<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひま</span>はかけねえ」

「おぬし、<ruby><rb>年齢</rb><rt>とし</rt></ruby>は<ruby><rb>幾歳</rb><rt>いくつ</rt></ruby>だ」

「何」

「よい<ruby><rb>年齢</rb><rt>とし</rt></ruby>して、若い者の先に立ち、好んで無益な人死にを見ようとするか」

「つべこべと、理窟はおけ。こう見えても、太左衛門、喧嘩に<ruby><rb>年齢</rb><rt>とし</rt></ruby>は取っていねえぞ」

――太左衛門が脇差を抜いたのを見ると、後ろにひしめいていた無法者たちも、一度に声をあげて、

「やッちまえ」

「<ruby><rb>老爺</rb><rt>おやじ</rt></ruby>を打たすな」

と、かかって来た。

武蔵は、太左衛門の脇差をかわして、太左衛門の<ruby><rb>白髪首</rb><rt>しらがくび</rt></ruby>のどこかをつかむと、大股に十歩ほど持って来て、<ruby><rb>外濠</rb><rt>そとぼり</rt></ruby>の中へその体を<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>りこんでしまった。

そしてまた、無法者の群れへ駈け入ると、その乱争の間から、北条新蔵の体を拾って、横抱きに<ruby><rb>攫</rb><rt>さら</rt></ruby>い取り、彼らが、驚き<ruby><rb>躁</rb><rt>さわ</rt></ruby>ぐまに、早くも、牛ヶ<ruby><rb>淵</rb><rt>ふち</rt></ruby>の原を駈け出して、九段坂の中腹あたりを、その遠い影は、小さくなって、駈け上がっていた。

## 五

牛ヶ淵とか、九段坂とかいったのも、勿論ずっと後世の地名である。当時まだその辺は、蒼古とした樹林の崖や、外濠の淵へあつまる渓流だの、青い沼水を<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>えた湿地が見られるだけで、地名としても、こおろぎ橋とか、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もち</span>の木坂とか、極めて土俗的な称呼があるに過ぎなかったであろう。

――呆っ気にとられている無法者の群れを捨てて坂の中腹まで、駈けて来ると、

「もうよい。北条どの。さあ、逃げよう」

武蔵はいって、新蔵の体を、小脇から下ろし、ためらう彼を<ruby><rb>促</rb><rt>うなが</rt></ruby>して、なおも彼方へいそぎ出した。

無法者たちは、初めて、

「あっ、逃げたっ――」

と、われに<ruby><rb>回</rb><rt>かえ</rt></ruby>って、<ruby><rb>遽</rb><rt>にわか</rt></ruby>にまた、気勢を改め、

「逃がすな」

と、坂の下から、追い上がりながら、口々に<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>った。

「弱虫」

「口ほどもねえぞ」

「恥を知れ」

「それでも侍か」

「よくも、部屋がしらの太左衛門を、お濠へ叩っこんだな。返せ、野郎」

「もう武蔵も、相手だ」

「ふたりとも、待てっ」

「卑怯者め」

「恥知らずめ」

「駄ざむらいめ」

「待たねえか」

――その他、あらゆる<ruby><rb>罵詈讒謗</rb><rt>ばりざんぼう</rt></ruby>がうしろから飛んで来たが、武蔵は見向きもせず、また、北条新蔵にも、足を止めることを許さず、

「逃げるに<ruby><rb>如</rb><rt>し</rt></ruby>くはない」

と、呟いて逃げ出し、

「逃げるのも、なかなか楽ではない」

などと笑いながら、足のかぎり、彼らの追撃から<ruby><rb>遁</rb><rt>のが</rt></ruby>れてしまった。

振りかえってみると、もう追って来る影も見えない。病後の新蔵は、駈けただけでも、<ruby><rb>蒼白</rb><rt>まっさお</rt></ruby>になって、息を<ruby><rb>喘</rb><rt>き</rt></ruby>っていた。

「お疲れだな」

「い……いえ……さほどでもありませぬが」

「彼らの<ruby><rb>罵詈</rb><rt>ばり</rt></ruby>に甘んじて、残念だと仰っしゃるのか」

「…………」

「はははは。落着いてから分って来ます。逃げるのも、時には、心地よいものだということが。……そこに流れがある。水で口でもお<ruby><rb>嗽</rb><rt>すす</rt></ruby>ぎなさい。そしてお宿までお送りしよう」

赤城の森はもう見えていた。北条新蔵の帰る家は、赤城明神の下だという。

「ぜひ、屋敷へ寄って、拙者の父にも会っていただきたい」

と、新蔵はいったが、武蔵は、赤土の土塀が見える段の下で、

「また、お目にかかる折もあろう。ご養生なさい」

と、いって、そこで別れて立ち去った。

――こういうこともあって、武蔵の名は、それから後、いやが上にも、江戸の街に有名になった。

――彼は、喰わせ者だ。

――卑怯者の張本だ。

――恥知らず、武士道よごしの骨頂だ。あいつが京都で吉岡一門を相手にしたなどというのは、よくよく吉岡が弱かったか、逃げの一手で、巧く逃げて、虚名を売ったに違いない。

有名とは、そうした悪評の有名であって、誰ひとり、武蔵を弁護する者もなかった。

なぜならば、その後、半瓦の部屋の者が、口を極めて、いいふらしたばかりでなく、街の辻々に、公然と、こういう立て札を幾十となく江戸中へ建てたからであった。

いつぞや、おら衆に、うしろを見せて、突ン逃げた、

宮本武蔵へ、物いうべい。

本位田のおばばも、<ruby><rb>讐</rb><rt>かたき</rt></ruby>と尋ねてあるぞ。おら衆にも、

兄弟ぶんの意趣があるぞ。出て来ずば、侍とはいわれまいが。

半瓦いちまきの者