Soranoha

宮本武蔵

みやもとむさし

吉川 英治

枯野見かれのみ

一

丹波街道の長坂口ながさかぐちは、指さして彼方かなたに望むことができる。並木越しに、白い電光いなずまかのように眼を射るのは、その丹波境の標高で、また、京都の西北の郊外を囲っている山々の襞ひだをなしている残雪だった。

「火を放つけろ」

と誰かいう。

春先なのだ。まだ正月の九日という日である。衣笠きぬがさのふき颪おろしは、小禽ことりの肌には寒すぎた。チチチチチ野に啼く声も稚おさなく聞えて耳に寒い。人々は、鞘さやの中の刀から腰の冷えて来る心地がした。

「よく燃えるな」

「火が飛ぶぞ、気をつけぬと、野火になる」

「案じ給うな。いくら燃え拡がっても、京都中は焼けッこない」

枯れ野の一端に放つけた火は、音を立てて、四十人以上もいる人々の顔を焦こがした。焔は、朝の太陽へ、背を伸ばして、届きそうにまでなった。

「あつい、あつい」

と今度は呟つぶやく。

「もうよせ」

草を投げる者へ向って、植田良平が、煙たい顔して叱った。

そんなことをしている間に半刻はんときは経っていた。

「もうやがて、卯うの刻こく過ぎじゃないかな」

誰かいい出して、

「さよう?」

期せずしてみなの眉が、陽を仰いでみる。

「卯の下刻。――もはやその時刻だが」

「どうしたろう、若先生は」

「もう来る」

「そうさ、来る頃だ」

なにか緊迫してくるものを各〻めいめいが顔に湛たたえ出した。自然とそれが人々を無口にさせた。誰の眼も一様に、そこから街端まちはずれの街道を眺めて、生唾なまつばを溜めて待ちしびれている様子に見える。

「どうなされたのだろう?」

のろまな声をして、どこかで牛が長く啼いた。ここは元、禁裏のお牛場うしばで、乳牛院にゅうぎゅういんの跡とも呼ばれていた。今でも、野放しの牛がいるとみえ、陽が高くなると、枯れ草と糞ふんのにおいが蒸れて来るのである。

「――もう武蔵むさしは、蓮台寺野れんだいじののほうへ来ていやしないか」

「来てるかもしれん」

「誰か、ちょっと、見て来ないか。――蓮台寺野とこことは、五町ほどの距離しかあるまい」

「武蔵の様子をか」

「そうだ」

「…………」

すぐ行こうといって出る者もない。煙の蔭にみな煤いぶったい顔をして沈黙した。

「――でも、若先生は、蓮台寺野へ出向かれる前に、ここでお支度をして行くという手筈になっているのだからな。もう少し、待ってみようじゃないか」

「それは、間違いのない手筈なのか」

「植田殿が、ゆうべ若先生から、確しかといい渡されたことだ。よも間違いはあるまい」

植田良平は、そういう同門の者のことばを裏書して、

「その通りだ。――武蔵はもう約束の場所へ、先に来ているかも知れないが、敵を焦立いらだたせようという清十郎先生のお考えで、わざと、遅刻しているのかも知れない。門下の者が、下手へたに動いて、助太刀したなどと評判されては、吉岡一門の大きな名折れだ。相手は多寡たかの知れた牢人ろうにん武蔵ひとり。静かにしていよう。若先生が颯爽とここへ見えられるまで、林のように、我々は、静観していることだ」

二

その朝。

この乳牛院の原へ、寄るともなく集まった者たちは、勿論、数から見ても、吉岡門下のほんの一部の人々に過ぎなかったが、その顔ぶれの中には、例の植田良平がいるし、京流の十剣と自称している高弟組の半分は見えているから、まず四条道場の中堅どころは、出張でばっているといってもさしつかえない。

師の清十郎は、ゆうべ、

(助太刀の事、かたく無用)

と、これは誰へも同様にいい渡したことらしかった。

また、門下のすべての者は、きょうの師の相手である武蔵という者を、決して、

(多寡たかの知れた相手)

とは軽視していなかったが、そうかといって、師の清十郎が、たやすく彼に敗れようなどとは、どうしても考えられないのであった。

(勝つに決まっているが)

という考えの上に、万が一にもという常識を乗せているのである。それにまた、五条大橋へ高札を掲げたりして、きょうの試合を公開した手前、吉岡一門の威容を張って、かたがた、清十郎の名を、この際、大いに晴れがましく世間へ喧伝させたいという――門下の者としては当然な力瘤ちからこぶも入れる気になって、試合場所の蓮台寺野からそう遠くないこの原にかたまり、やがてここへ立寄るはずの吉岡清十郎を待ちわびているのだった。

ところで――

その清十郎はどうしたのか、いっこう姿が見えないのである。

卯の下刻は、陽あしを見ても、もう迫っている。

「おかしいなあ?」

ここでは、三十余名の者が、そう呟きだして、植田良平の諭さとす静観の態度もすこしだれ気味になっていると、この乳牛院の原の一群を見て、きょうの試合の場所を、ここと思い違えた群衆がまた、

「どうしたのだ、試合はいったい」

「吉岡清十郎は、どこに来ている?」

「まだ見えんが」

「武蔵とやらは」

「それもまだ来ていないらしい」

「あの侍衆は、何か」

「あれは、どっちかの、助太刀だろう」

「なんのこった、助太刀だけが来て、かんじんな、武蔵も清十郎も来ないとは」

人のいるところへ、人は殖ふえて来るのだった。

後から後からと、弥次馬はここへたかって来る。そして、

「まだか」

「まだか」

「どれが武蔵?」

「どれが清十郎で」

と、ざわ声を立てている。

さすがに、吉岡門下の一かたまりが見える附近へは立ち入って来ないが、乳牛院の原の彼方此方あなたこなたには、萱かやのあいだや樹の枝にまで、人の頭が、無数に見えた。

――その中を、城太郎は歩いていた。

例の体より大きな木剣を横たえて、足よりも大きな藁草履わらぞうりを履はいて、乾いた土のうえをボクボクと埃ほこりを立てて歩きながら、

「いないな、いないな」

と、人の顔をキョロキョロ物色しながら、この広い原のまわりを周めぐって歩いてゆく。

「――どうしたんだろ? お通さんは、きょうのことを、知らないはずはないのになあ。……あれから烏丸様のお館やかたへも、いちども来ないし」

彼のさがしているのは、武蔵よりも先ず、その武蔵の勝敗を案じて、きっと、今日ここへ来ていなければならないはずの、お通の姿であった。

三

小指に怪我けがをしてもすぐ蒼くなるくせに、女は、案外、残忍なことだの血を見ることに、男とは違った興味をそそられるものらしい。

きょうの試合は、とにかく、京洛中きょうらくじゅうの耳と眼をそばだたせている。それを見ようとして来ている雑沓のうちには、かなり女の姿があった。数人で、手をつないで歩いて来る女たちさえあった。

けれど、その女の中に、お通のすがたは、いくら捜しても見当らなかった。

「変だなあ」

城太郎は野のまわりを、くたびれるほど歩いた。

(もしかしたら、あの日から――五条大橋でわかれた元日から――病気でもしているんじゃないかしら?)

そんな臆測を描いてみたり、なお突きすすめて、

「お杉婆ばばは、あんな巧いことをいっていたけれど、お通さんを騙だまくらかして、どうかしているのかも知れないぞ? ……」

彼は、そう考えると、不安で不安でたまらなくなった。

その心配さ加減は、きょうの試合の結果がどうなるかというどころの比ではない。城太郎は、きょうの勝負を、少しも心配にはしていなかった。

野を繞めぐって、それを待っている数千の見物人が、すべてといってよいほど、吉岡清十郎の勝ちを信じているように、城太郎ひとりは、

(お師匠さまが勝つ!)

と、信じて疑わないのであった。

大和やまとの般若野はんにゃので、宝蔵院衆のたくさんな槍を相手にまわして闘った時の武蔵のたのもしい姿を、彼は、ここでも頭にえがいて、

(負けるものか、みんな蒐かかっても――)

と、乳牛院の原に屯たむろしている吉岡方の門人まで、敵の数に入れて、なおかつ、堅く武蔵の腕に信頼を持っていた。

――だから、そのほうにはなんの取り越し苦労もしていないが、お通の来ていないことは、彼を落胆がっかりさせた程度でなく、なにか、お通の身の上に、凶わるい事が起っているような胸騒ぎを駆りたててくる。

彼女が――

五条大橋からお杉隠居に従って別れてゆく時、

(暇を見ては、わたしも、烏丸様のお館やかたへ行きますからね。城太さんは、当分、お館におねがいして、あそこに泊っておいでなさいね)

そういった。

たしかに、そういった。

だのに――あれから今朝けさで九日目――そのあいだの正月の三ガ日にも、七くさにも、ついにいちども、お通は訪ねて来なかったではないか。

(どうしたんだろう?)

という城太郎の不安は、もう二、三日前から持ち越して来ているものであった。それも今朝、ここへ来るまでは、一縷るの望みをつないでいたのであったが――

「…………」

ぽつねんと、城太郎は、原の真ン中をながめていた。焚火たきびのけむりを囲んでいる吉岡の門人は、遠方から数千人の見物の眼につつまれて、物々しげにかたまってはいるが、まだ清十郎の来ないせいか、なんとなく、気勢が昂あがっていない。

「おかしいなあ、高札には蓮台寺野とあったのに。試合場ばはここかしら?」

誰もみな不審がらないでいる点を、城太郎だけが、ふと不審に感じ出していた。すると、彼の左右をながれて行く人混みのあいだから、

「わっぱ。――こら、こら、それへ参る童わっぱ」

と、横柄に誰か呼ぶ。

見ると、それは城太郎にも覚えのある――つい八日前の元日の朝――五条大橋のたもとで、朱実あけみと囁ささやいていた武蔵へ向い、人をばかにしたような大笑いを捨てて去った佐々木小次郎であった。

四

「なんだい、おじさん」

一度でも顔を見ているだけに、城太郎は、馴々しくいう。

小次郎は、彼のそばへ寄って来た。なにかものをいう前に、先に足もとから頭へ、じろりと眸を上げるのが、この若者のくせであった。

「いつぞや、五条で会ったことがあるな」

「おじさんも、覚えていたかい」

「おまえは、女の人と一緒だったね」

「アアお通さんと」

「お通さんというのか、あの女ひとは――。武蔵と、なにか縁故のある者か」

「あるんだろ」

「従兄妹いとこか」

「ううん」

「妹か」

「ううん」

「じゃあ、なんだ」

「すきなんだよ」

「誰が」

「お通さんが、おいらの、お師匠様を」

「恋人か」

「……だろう?」

「すると、武蔵はおまえの先生というわけか」

「うん」

これは、明確に、誇りをもって、うなずいた。

「ははあ、それで今日も、ここへ来たのだな。――しかし、清十郎のほうも、武蔵のほうも、まだ姿が見えぬというて、見物が気をもんでいるが、おまえは知っているだろう、武蔵はもう、旅宿やどから出かけたろうな」

「知らないよ、おいらも、捜しているんだもの」

後ろから二、三名、ばらばらと駈けて来る跫音がした。小次郎の鷹に似ている眼はすぐそれへ振向いた。

「や、それにおられるのは、佐々木殿ではないか」

「オ、植田良平」

「どうしたんです」

良平は、そばへ来て、捕まえるように、小次郎の手をにぎった。

「年暮くれから、ふっと、道場へお帰りがないので、若先生も、どうしたのかと口癖に申していました」

「ほかの日には帰らなくても、今日さえ、ここへ来れば、それでよいのだろうが」

「ま、とにかく、あちらまでお越しを」

と、良平や他の門下たちは、態ていよく彼を取りかこんで、自分たちの屯たむろしている原の中ほどへ、引込むように、伴つれて行った。

大刀を背に負っている小次郎の派手な身仕度を、遠くから見つけると、見物の眼はすぐ、

「武蔵、武蔵」

「武蔵が来た」

と、ささやき合った。

「ホ、あれか」

「あれだ――宮本武蔵は」

「ふうむ……たいそう伊達者だてしゃだな、だが、弱くはなさそうだ」

取り残された顔つきの城太郎は、辺りの大人たちが真顔になってそれを受けとっているので、

「ちがうよ、ちがうよ、武蔵様はあんな人だもんか、あんな歌舞伎かぶきの若衆みたいなかっこうをしているもんか」

むきになってその誤謬ごびゅうを正していた。

彼の訂正の届かない所にいる見物たちも、やがて、様子を見ていると、どうもそれらしくないことに気づいて、

「はてな?」

と、首をかしげはじめる。

原の真ン中へ出て行った小次郎は、そこに立つと、吉岡門下の四十名ばかりの者を、例の高慢な態度で見くだして、なにか演舌えんぜつしているらしいのである。

「…………」

植田良平以下、御池みいけ十郎左衛門だの太田黒兵助おおたぐろひょうすけだの、南保なんぽう余一兵衛、小橋蔵人くらんどなどとよぶ十剣の人たちは、その演舌が気にくわない顔つきで、むっと黙りこくったまま小次郎のよくうごく唇くち元を怖い眼をして見つめているのであった。

五

そこで、佐々木小次郎が、一同へ向って、演舌していうことには、

「まだここへ、武蔵も清十郎も来ないというのは、吉岡家の天佑てんゆうですぞ。諸氏はよろしく、手わけをして、清十郎どのがここへ来ぬうち、はやく途中から道場へ連れてお帰りなされ」

それだけでも、吉岡方の人たちを激昂させるに十分であるのに、その上にまた、

「わしのこの言葉は、清十郎どのへ対して、無二の助太刀でござりますぞ。この言葉以上の助太刀がどこにあろう。わしは、吉岡家にとって、天来の予言者だ。はっきりと、予言しておく。――やれば、清十郎どのは、気の毒だがきっと敗まける。武蔵という者のために、きっと生命いのちをとられる」

かりそめにも吉岡門の人間として、これが、いい顔をして聞いていられるはずはない。植田良平の如きは、土気いろになって、小次郎をねめつけていた。

十剣の中の御池十郎左衛門は、我慢がならなくなったのであろう、小次郎がまだなにかいおうとする胸元へ、ぐっと自分の胸を寄せて行って、

「なにをいうのか、貴様は」

右手の肱ひじを、顔と顔のあいだへあげたのは、いうまでもなく、居合の身がまえで、手練の一颯さつを見せようかという意思の表示である。

ニコと、小次郎は笑靨えくぼをこしらえてそれを眺めた。ずんと上背丈うわぜいがあるので、笑靨までが高慢に人を見下げて見えるのだった。

「お気にさわったか」

「あたりまえだ」

「それは失礼」

軽くかわして――

「では、助太刀はしないことにしよう。気ままになされというほかはない」

「た、たれが、汝ごときに、助太刀を頼もうや」

「そうでもありますまい。毛馬堤けまづつみからわしを四条の道場へ迎えてゆき、あんなに、わしの機嫌をとったではないか。其許そこもとたちも、清十郎どのも」

「それは、ただ客として、礼を与えたまでのこと。……思い上がったやつだ」

「ハハハハ、よそう、ここでまた、其許そこもとたちと、試合の飛び火をこしらえても始まるまい。だが、わしの予言を、後になって、涙で悔いの種になすまいぞ。――わしが眼をもって見くらべたところでは、清十郎殿には九分九厘まで勝目がない。この正月の一日の朝、五条大橋の欄らんに武蔵という男を見かけ、その途端にこれはいけないと思ったのだ。……あの橋のたもとへ貴公たちの手で掲げた試合の高札が吉岡家の衰亡を自分で書いている忌中札きちゅうふだのようにわたしには見えたのだ。……だが、人間の衰凋すいちょうは、その人間にはわからないのが世の常かもしれん」

「だ、だまれッ、貴様は、きょうの試合に対して、吉岡家へ、ケチをつけに来たのだな」

「人の好意すら、素直に受け取れなくなるということが、そもそも、衰運の人間のもつ根性だ。なんとでも思うがよい。明日あしたとはいわない。もうやがて一刻の後には、その眼がいやでも醒めずにいまい」

「いったな!」

険悪きわまる声が、唾つばとともに、小次郎へ浴びせかけられた。怒りきった四十名からの人数が、一歩ずつうごいても、その殺気は、真っ黒に野原をおおうほどなものがある。

だが、小次郎は心得たものなのである。逸いちはやく飛びのいて、売る喧嘩なら買ってもよいという血気が隠されなかった。せっかく、彼が自分で説いていた好意というものも、これでは怪しみたくなるようなものである。わるく解釈すれば、ここに集まった群衆心理を利用して、武蔵と清十郎との試合の人気を、自分が攫さらってしまうつもりでやっている仕事ではないかと取られても仕方がないほどにまで、小次郎の眼は、途端に、好戦的であった。

六

群衆が遠くからその様子をながめて、どよめき出したところであった。

その人混みを突きぬいて、一匹の小猿が、原へ向って、まるで鞠まりでも転がすように跳んで行った。

小猿の前には、若い女が、これもまた、転ばんばかりの迅はやさで、見得みえもなく、駈けて行くのが見える。

朱実あけみであった。

吉岡門下の人々と、小次郎とのあいだに、すんでのこと、血でも見るかと思われた険悪な空気は、その朱実が、ふいに後ろからさけんだ言葉で掻き消された。

「小次郎様、小次郎様ッ。……どこですか、武蔵様のいるところは。……武蔵様はいませんか」

「……あ?」

小次郎が振向く。

吉岡方の、植田良平や、他の人々も、

「ヤ、朱実じゃないか」

と、つぶやいて、一瞬ではあったが、すべての者の眼と怪訝いぶかりとが、彼女と小猿の姿にとらわれてしまった。

小次郎は叱るように、

「朱実、なんでお前はここへ来たのか。――来てはならんといっておいたはずだ」

「わたしの体です。来ては悪いのですか」

「いけないッ」

朱実の肩をかるく突いて、

「帰れ」

小次郎のいう言葉を、彼女は息を喘きりながら烈しく顔を横に振って拒んだ。

「いやです。――私は貴方あなたのお世話にはなりましたが、貴方の女ではないでしょう。……それを」

急に、朱実は、声をつまらせてしゃくり上げた。あわれっぽい嗚咽おえつに、男たちの荒すさびていた感情が水をかけられたような気がしたと思うと、その気持を裏切って、朱実の次のことばは、男性のどんな場合のものよりも強い血相をふくんでいた。

「それを、なんですか、あなたは私を数珠屋ずずやの二階に縛りつけたりなどしてッ。――わたしが、武蔵様のことを心配すると、あなたは、わたしを憎いように苛いじめて来たではありませんか。……その上……その上……きょうの試合には、きっと、武蔵は討たれるだろう、わしも、吉岡清十郎には義理があるから、よしや清十郎が及ばなくても、助太刀して、武蔵を討ってしまわなければならぬ。……そういって、ゆうべから泣き明していた私を、数珠屋の二階に縛りつけて、あなたは今朝、出て行ったのではありませんか」

「……気が狂ちがったか、朱実、大勢の人中だぞ、青空の下だぞ、なにをいうのか」

「いいます。気も狂ちがいましょう、武蔵様は、わたしの心の中の人です。……その人が、なぶり殺しになるかと思えば、じっとしてはいられません。数珠屋の二階から、大きな声を出して、近所の人に来てもらい、わたしの体の縛いましめを解いてもらって駈けつけて来たのです。わたしは、武蔵様に会わなければならない。……武蔵様を出してください。武蔵様はどこにいますか」

「…………」

小次郎は、舌うちをして、彼女の凄まじい饒舌じょうぜつの前に黙ってしまった。

逆上していることは確かだが、朱実の口走っていることに嘘はないらしい。それが嘘でないとすると、小次郎という男は、この女性に温かい世話をかけながら、半面にはまた、この女性の心と体とを極端に虐待ぎゃくたいして楽しんでいるのではないかと疑われる。

それを、人前で――しかもこうした場所で――忌憚きたんなく女の口から暴あばかれたのでは、小次郎も、間まの悪いことはもちろんだし、むかむかと腹も立って、女の顔をじっと睨ねめすえていた。

――すると。

いつも清十郎の供について歩く奉公人で、若党の民八たみはちという男が、街道の並木からここへ鹿のように走って来て、手をあげながら呶鳴った。

「た、たいへんだッ、皆さん、来て、来てくださいッ。――若先生が、武蔵のために、やられました。や、やられました」

七

民八の絶叫は、一同の顔から血の気を奪ってしまった。足もとの大地がふいに陥没して行くような驚きを、

「な、なにっ?」

異口同音に口走って、

「若先生が――武蔵に?」

「ど、どこで」

「いつのまに」

「ほんとか、民八」

上うわずったことばがめいめいの口から不統一に吐き散らされた。――しかし、ここへ立ち寄って身支度して行くといっていた清十郎が、ここへは姿を見せもせずに、もう武蔵と勝敗を決してしまったという民八の報しらせは、なんだか、まだ真実ほんとのような気がしない。

奉公人の民八は、

「早く、早く」

と、呂律ろれつのまわらない声をつづけながら、そこで息もやすまずに、元来た道のほうへ向って、また、のめるように駈け戻って行く。

半信半疑であったが、嘘や間違いとも思われないのである。植田良平や御池十郎左衛門などの四十余名は、

「すわ……」

と、民八の後につづき、野火の焔ほのおを越えてゆく獣けもののような迅さで、草埃くさぼこりを揚げながら、街道の並木へ出た。

その丹波街道を北へ向って、五町ほども走ってゆくと、また、並木の右手にわたって、渺びょうとしたまま、静かに、春先の陽に伏している広い枯野がある。

つぐみや鵙もずが、なんのこともないように啼いていたが、パッと空へ立った。――民八は、気狂きちがいのように草の中へ駈け込んだ。そして、なにかの古塚の跡らしく饅頭まんじゅう形に土の盛られている辺りまで来ると、

「若先生っ、若先生っ」

もういちど、ありったけな声をふり絞って、大地へしがみつくように膝を折った。

「……やっ?」

「お、お」

「若先生だ」

突き当った事実のまえに、後から駈けて来る足がみな釘付けになった。見ると、藍花染あいばなぞめの小袖に革のたすきをかけ、白い布で、額ひたいから後鬢うしろびんへ汗止めをきりっと締めている侍が、草の中に顔を埋めて、俯うつ伏しているのである。

「――若先生」

「清十郎様っ」

「しっかりして下さいっ」

「われわれです」

「門下達でござる」

抱き起された頭は首すじの骨がくだけているように、ぶらんと重く傾かしいでしまう。

白い汗止めの鉢巻には、一滴の血もついていなかった。袂たもとにも、袴はかまにも――辺りの草にも血らしいものはこぼれていない。けれど、眉も眼も苦しげに塞ふさいだまま、清十郎の唇は野葡萄のぶどうのような色をしていた。

「……息は、息は、あるのか」

「かすかに」

「おいっ、た、たれかはやく若先生のからだを」

「担になうのか」

「そうだ」

ひとりが背を向けて、清十郎の右の手を肩にかけて立ち上がろうとすると、

「痛いっ……」

清十郎が苦悶して、叫んだ。

「戸板、戸板」

と、いいながら、三、四名の者が、並木を駈け出して行ったと思うと、やがて附近の民家から、雨戸を一枚外して持って来た。

清十郎の体は、戸板の上へ仰向けに寝かされた。呼吸いきをふき甦かえしてからというものは、苦痛にたえかねて暴れまわるので、やむなく、門下たちは帯を解いて、彼の体を戸板にしばりつけ、四隅を持って、葬式のように暗然とあるき出した。

戸板が割れるかと思うほど、清十郎は、その上で足をばたばたさせながら、

「武蔵は……武蔵はもう立ち去ったか。……ウウム、痛い。右の肩から腕の付け根だ。骨が、砕けたものとみえる。……ウウムたまらぬ。門人衆、右の腕を、付け根から斬り落してくれ。――斬れっ、誰か、わしの腕を斬れっ」

空へ眼をすえて、清十郎は喚わめきつづけていた。

八

あまり怪我人けがにんが痛がるので、戸板の四隅を持って歩いてゆく門人たちは――殊にそれが師とよぶ人であるだけに、思わず眼を反そむけてしまう。

「御池殿、植田殿」

立ち淀みながら、その者たちは後ろを振向いて、先輩に計はかった。

「あのように苦しがって、腕を斬れと仰っしゃるんですから、いっそのこと、斬って上げたほうがお楽になるんじゃありませんか」

「ばかをいえ」

良平も、十郎左衛門も、一言のもとに叱しかりとばした。

「いくら痛んでも痛むだけなら生命いのちに別条はないが、腕を切って出血が止まらなかったら、そのままになってしまうかも分らない。とにかく、早く道場へお連れして、武蔵の木剣が、どの程度に打ちこんでいるものか、若先生が打たれたという右の肩骨をよく調べた上、腕を斬るなら、血止めや手当の用意をよくととのえておいてからでなければ斬れん。――そうだ、誰か、先に駈けて行って、道場のほうへ、医者を呼んでおけ」

二、三名が、その支度に先へ駈け出して行った。

街道の方を見ると、並木の松の間々あいだあいだに、乳牛院の原の方から慕って来た群衆が、蛾のように並んで、こっちをながめている。

それもまた、忌々いまいましいものの一つだった。植田良平は、ただ暗い顔をして黙々と戸板の後に尾ついてゆく人々へ、

「各〻、先へ行って、あいつらを追っ払ってくれ。若先生のこのすがたを、弥次馬どもの見世物に曝さらして歩けるか」

「よしっ」

鬱憤うっぷんのやり場をそこに見つけたように、門下達のおおかたの人数が、血相を向けて駈け出したので、敏感な群衆は、蝗いなごが散るように、埃ほこりを上げて逃げ出した。

「民八」

と良平はまた、主人あるじの戸板のそばに付いて泣きながら歩いている奉公人の民八をつかまえて、

「ちょっと、こっちへ来い」

と、彼へも鬱憤を向けて、咎とがめるように問い糺ただした。

「な、なんですか」

民八は、植田良平の恐い眼を見て、歯の根のあわない声を出した。

「貴様は、四条の道場を出る時から、若先生のお供をして出たのか」

「はい、さ、さようでございます」

「若先生は、どこで身支度をなさったのだ」

「この、蓮台寺野へ、来てからでございました」

「我々が乳牛院の原で、お待ちうけしていることを、若先生には、ご存じないはずはないのに、どうして、いきなりここへ真直まっすぐに来てしまったのか」

「手前には、なぜだか、一向にわかりません」

「武蔵は――先へここへ来ていたのか、若先生より、後から来たのか」

「先へ来て、あそこの、塚の前に立っていました」

「一人だな、先も」

「へい、一人でした」

「どう試合しあったのだ? 貴様は、ただ見ていたのか」

「若先生が、手前に向って、万一、武蔵に敗まけた時は、わしの骨はおまえが拾って行け。乳牛院の原には、明け方から門下たちが出張って騒いでいるが、武蔵との試合が決するまでは、あの者達へ、報しらせに行ってはならんぞ――兵法者が、敗れをとるのは、時にとってぜひもないことだ。卑怯な振舞いして勝つほどの不名誉者にはなりたくない。――断じて、横から手出しはならんぞ――と、こう仰っしゃって、武蔵の前へすすんで行かれました」

「ふ……ウム、そして」

「武蔵の少し笑っている顔が、若先生の背せなを越して、私の方に見えました。なにか静かに、二人は挨拶を交わしているなと思ううちに、するどい声が野に響きわたって、ハッと思う眼に、若先生の木剣が空くうへ飛びあがったように見えますと、途端にもう、この広い野に突っ立っているのは、柿いろの鉢巻に、鬢びんの毛をそそけ立てている武蔵の姿がひとつしか見えなかったのでございます――」

九

大風が掃いて行ったように、並木の道にはもう弥次馬の影も見えない。

清十郎の呻うめきを乗せた戸板の一群れは、敗旗を巻いて故山に帰るつかれた兵馬のように、悄然しょうぜんと、怪我人の苦痛を気づかうような足なみで歩いて来た。

「……おや?」

ふと足を止めると、戸板を支えてゆく前の者が、自分の襟くびへ手をやった。後の者は、空を仰いだ。

戸板の上へも、ハラハラと松の枯れ葉がこぼれて来たのである。見ると、並木のこずえに、一匹の小猿が、キョトンとした眼を下へ向け、わざとのように、尾籠びろうな姿態を示している。

「ア痛ッ」

仰向いた顔の一つへ、松の実みが飛んで来たのである。顔を抑えて、

「ちくしょうッ」

その男が、小柄こづかを投げた。小柄は、細やかな葉の隙間を光って通りぬけた。

口笛がどこかで鳴った。

小猿は、とんぼを打って、並木の樹蔭へ跳び下りた。そして、そこに佇たたずんでいた佐々木小次郎の胸から肩の上へ、ヒョイと乗る。

「……オ!」

戸板をかこんでいる吉岡門下の人たちは、初めて、小次郎の姿と、もう一人の朱実をそこに見出したもののように、ギクと、眼の光を革あらためた。

「…………」

担架たんかのうえに横たわっている怪我人をじっと見ていたが、小次郎は決して、それへ向って嘲笑らしいものは泛うかべてはいなかった。むしろ、敬虔けいけんな様子を示して、敗者の痛ましい呻うめきに眉をひそめたほどであったが、吉岡門下の人たちは、さっきの彼のことばをすぐ思い出して、

(嗤わらいに来たな)

と、感じたらしいのである。

植田良平か誰かが、

「――猿だッ、人間でない奴の仕業しわざだ、相手にするな、早くやれ」

戸板を促うながすと、

「しばらく」

駈け出して来たかと思うと、小次郎はいきなり戸板の上の清十郎へ向って、話しかけた。

「――どうしたッ、清十郎殿、――武蔵めにやられましたな。――打ちどころはどこ? なに右の肩か……アアいかん、袋に砂利を入れたように骨は微塵みじんだ。だが、仰向いて揺られて行ってはよくないぞ、体の内部にあふれている血が、臓器を侵おかし頭脳あたまへも逆上あがってしまうかも知れん」

周まわりの者へ向って、彼は、例の高飛車な態度でいいつけた。

「――戸板を下ろしなさい。なにを、ためらっているのか。下ろせ、いいから下ろしたまえ」

そしてまた、瀕死の態ていになっている清十郎へ、

「清十郎殿、起ってはどうだ。起てぬことがあるものか。傷手いたでは軽い、多寡たかが右手一本ではないか。左の手を振って、歩けば歩けるにちがいない。拳法先生の子清十郎ともある者が、京都の大路を、戸板で戻ったといわれては、あなたはとにかく、亡き先生の名は地に墜おちる。これ以上の不孝はありますまい」

そういう小次郎の顔を、清十郎はじいっと見つめていた。眼まばたきをしない白い眼であった。

ふいに、がばっと、清十郎は起ち上がった。左の手に比べて、右の手は一尺も長いようにぶらんと他人の物みたいに彼の肩からぶら下がっていた。

「御池、御池」

「は……」

「斬れ」

「な、なにをですか」

「ばか、さっきからいっているではないか、わしの右手をだ」

「……でも」

「ええ、意気地のない……。植田っ、おまえやれ、はやくせい」

「ハ。……ハ」

すると、小次郎がいった。

「私でよければ」

「オ、たのむ」

小次郎は側へ寄った。清十郎のぶらんとしている手の先をつまんでぐっと上げ、同時に、前差まえざしの短い刀を抜いていた。なにかと怪しまれるような音が、どすっと周まわりの者の耳にひびいたと思うと、栓せんを抜いたような血しおとともに、腕は付け根から落ちていた。

十

体の重心を失いかけたように、清十郎は少しよろめいた。弟子達はそれを支えながら、傷口を抑おさえ合った。

「歩く。おれは、歩いて帰るっ」

死人がものを叫んでいるような清十郎の顔つきであった。

弟子たちに囲まれたまま、彼は十歩ほどあるいた。ポトポトと、その跡には血が黒く大地に吸われていた。

「……先生」

「……若先生」

門下の人々は、桶のように清十郎の身を囲んで立ち止まった。そして気遣わしげに、

「戸板で急いだほうが、はるかに、お楽であったろうに、小次郎めが、出洒張でしゃばって、いらざる真似を」

と、彼の無責任な仕方を、ことばのうちに皆、憤いきどおっていた。

「あるく!」

一息つくと、清十郎はまた二十歩ほど歩いた。足が歩くのではない、意地が歩いてゆくのである。

しかし、その意力は、永くは持たなかった。およそ半町ほど行くと、ばたっと、門人達の手へ仆れてしまった。

「それ、はやく医者を」

狼狽した人々は、もう拒む力のない清十郎を、死体を扱うように担にない合ってわらわら駈け去った。

それを、見送ってしまうと、小次郎は、並木の下にじっと立っている朱実のすがたを振りかえって、

「見ていたか、朱実。――おまえにすれば、いい気味だったろうが」と、いった。

朱実は、青ざめた面持おももちをして、そういう小次郎の平気な笑い顔を、憎むかのように白い眼で見つめた。

「おまえがいつも、口ぐせのように、寝てもさめても呪のろっていた清十郎だ。さだめし、胸がすっと透すいたろう。……え、朱実、おまえの奪われた処女おとめのみさおは、あれで、見事に報復されたというものじゃないか」

「…………」

朱実は、小次郎という人間が、とたんに、清十郎以上、呪わしい、怖ろしい、嫌な人間に思われてきた。

清十郎は自分をこうさせた、けれど清十郎は悪人ではない、悪人という程腹の黒い人ではない。

それから比べると、小次郎は悪人だ、世間で定義されているような悪人型ではないが、人の幸福を欣ばないで、人の禍わざわいや苦しみを傍観して、自分の快楽けらくに供する変質人である、そういう者は、盗賊をするとか、横領するとかいう型の如き悪人よりは、もっと質たちのわるい、油断のできない悪人という者ではないだろうか。

「帰ろう」

小猿を肩にのせて、小次郎はいいだした。朱実は、この男の側から逃げたいと思った。――しかし、妙に逃げきれないものを感じて、その勇気が出ないのである。

「……武蔵を捜してみたって、もう無駄だ。いつまで、この辺りにうろついているはずはない」

ひとり語ごとをいいながら、小次郎は先へ歩いてゆくのである。

(なぜ、この悪党のそばを、離れられないのか、この隙に、逃げてしまわないのか)

と、朱実は自分の愚かさを怒りながら、やはりその後に尾ついて、歩かずにいられなかった。

小次郎の肩に止まっている小猿が、その肩の上から後ろ向きになって、キキと、白い歯を剥むいて彼女に笑いかけてくる。

「…………」

朱実は、小猿と同じ運命の者が自分であると思った。

そして心のうちで、ふと、あんな無慙むざんなすがたになった清十郎が可哀そうに思われてきた。――武蔵というものはまた、べつな者として、彼女は、清十郎にも、小次郎にも、各〻、違った愛憎をもって、男性というものを、この頃は、複雑に考えはじめて来た。

十一

――勝った。

武蔵は、心のうちで、自分へ凱歌をあげてみる。

(――吉岡清十郎に、おれは勝った。室町以来の京流の宗家、あの名門の子を、おれは倒した)

だが、彼の心は、すこしも歓んではこないのである。彼は、俯向うつむきがちに、野を歩いていた。

ぴゅっ――と、低く掠かすめてゆく小禽ことりの影が、魚のように腹を見せてゆく。やわらかい枯草と枯葉の中に、一足一足を沈め込むようにして歩いていた。

勝った後のさびしさ――というのは、賢い人たちの世俗的な感傷である。修行中の兵法者にはない言葉だ。けれど武蔵は、たまらない淋しさにつつまれて、果てなき野を独りあるいている。

(……?)

ふと彼は振向いてみた。

清十郎と出会った蓮台寺野の丘の松が、ひょろりと彼方に見える。

(二太刀とは打たなかった。生命いのちにかかわるようなことはあるまいと思うが)

彼は、そこへ打ち捨ててきた敵の容態をふと案じた。手に引っ提げている木剣の刃はを検あらためて見たが、木剣には血はついていない。

今朝――この木剣を帯びて場所へ来るまでは、敵には定めし大勢の介添かいぞえもついていようし、わるくすれば、卑怯な計画はかりごともあろうにと、死所の覚悟はもちろんのこと、死に顔のわるくないよう、歯も白く塩でみがき、髪まで洗って出向いたものだった。

そこで、当の相手の清十郎に出会ってみると武蔵は、自分の想像していた人物とは、まったく違った人間のように思われて、

(これが、拳法の子だろうか)と疑った。

武蔵の眼に映った清十郎は、京流第一の兵法者とはどうしても見えない――いわば都会的な線のほそい公達きんだちだった。

ひとりの奉公人を召し連れて来ているほか、介添も助太刀もいないらしいのである。お互いに名乗り合って立ち合う途端に、武蔵は、

(これは、やる試合でなかった)

と、胸のうちで悔いた。

武蔵が、求めているのは、常に自分以上のものだった。しかるに今、この敵を正視すると、一年も腕をみがいて会うほどの敵でなかったことが一目で視みてとれたのである。

その上に、清十郎の眸には、まったく自信がなかった。どんな未熟な相手にも闘うとなれば、猛烈な自尊心はあるものだが、清十郎には、眼ばかりでなく、全身に生気が燃えていないのだ。

(なぜ今朝、ここへ来たのか、こんな自信がない心構えで――。むしろ、破約したがよかろうに)

そう思い遣やってみると、武蔵は、敵の清十郎があわれになった。彼は、それの出来ない名門の子である。父から受けついだ千人以上の門下の上に、師と仰がれてはいるが、それは、先代の遺産であって、彼の実力ではなかった。

――なんとか、口実を作って木剣をひいたほうが相互のためだと武蔵は考えた。しかし、その機会はなかった。

「……気の毒なことをした」

武蔵は、もいちど、ひょろ長い松の生はえている塚を振向いて、清十郎のために、自分の与えた木剣の傷手いたでが、はやく癒いえてくれればよいがと、心のなかで祈った。

十二

いずれにしろ、今日の事は終ったのだ。勝ったにせよ、敗けたにせよ、後までこだわっているのは兵法者らしくないことだ、未練というものである。

――そう気づいて、武蔵が足を早めだした時であった。

この枯野に、なにを探しているのか、草むらの中にうずくまって、土を掻き分けていた老媼おうなが、彼の跫音あしおとにふと顔をあげ、

「オ、ほ? ……」

驚いたような眼をみはった。

枯草と同じような淡うすい無地の着物をその老媼おうなは着ていた。綿のふっくら入っている胴衣どうぎの紐ひもだけが紫色なのである。俗服を着てはいるが、円い頭つむりには頭巾をかぶり、年もはや七十頃であろう、どことなく上品で小がらな尼あまさんなのだった。

「……?」

武蔵も実はびっくりしたらしかった。道もない草むらだし、まるで野面のづらと同じような色をしているこの年老としとった尼さんのからだを、もすこしうっかりしていたら、あぶなく踏みつけたかも知れないからである。

「……おばあさん、なにを採とっているんですか」

人懐かしい武蔵の気持だったのである。こう、彼はやさしいことばのつもりで話しかけた。

「…………」

老尼ろうには、そこへ屈かがみこんだ、武蔵の顔を見てふるえていた。

南天なんてんの実みを聯つらねたような珊瑚さんごの数珠ずずが袖口の手にちらと見える。そして、その手には、草の根を掻きわけて探した、まだ若い嫁菜よめなだの、蕗ふきのとうだの、いろいろな菜根が小笊こざるの中へ摘つみこまれて持たれていた。

その指先も、その朱あかい数珠も、かすかに顫わなないているので、武蔵はこの尼さんがなにをそんなに恐怖しているのかを怪しんだ。――で、彼は、尼さんが自分を野伏のぶせりの追剥おいはぎとでも誤解しているのではなかろうかと思い、

「オオ、もうそんなに青い菜が出ていますか、春だからなあ、芹せりも採れていますね、すず菜も、母子草も、ああ、摘つみ草ですね、おばあさん」

殊さらに親しみを見せ、そばへ寄って、小笊こざるの中の青いものを覗きかけると、老尼は、愕然がくぜんと小笊をそこへ捨てて、

「――光悦こうえつや」

誰かを呼びながら、彼方あなたへ駈けてしまった。

「…………」

武蔵は、あっけにとられたように、老尼の小さい体の行く先を見ていた。

ただ見れば、平ひらたい野面のづらにすぎないが、平たい野の中にもゆるい起伏がある。老尼の姿が、そのわずかに低い地の蔭になった。

人の名を呼んだところから考えると、そこには誰か、老尼の連れがいるにちがいない。そういえば、かすかな煙がその辺から漂ただよっている。

「せっかく、あの老尼が丹精して摘つんだものを……」

武蔵は、そこらへこぼれた青い種々くさぐさのものを、小笊こざるの中へ拾いあつめた。そして、自分は飽くまでやさしい心を示すつもりで、その小笊を持って、老尼の後から歩いて行った。

老尼のすがたは、またすぐ見ることができた。一人ではない――ほかに二人の連れの者がいた。

その三人は一家族の者とみえ、北風を避けるために、ゆるい傾斜の蔭を選び、陽なたに毛氈もうせんを敷いて、そこへ茶の道具だの、水挿みずさしだのまた、釜などもかけ、青空と大地を茶室として、自然のながめを庭としながら、風流に遊んでいるのだった。

生きる達人

一

三人のうちの一人は下男で、もう一人はこの尼すがたの老母の息子らしかった。

息子といっても、もう四十七、八かとも見える人物で、京焼の殿人形とのにんぎょうをそのまま大きくしたような色の白さと、豊かな艶のいい肉体を、頬にも、腹にも、ゆったりと持っている男だった。

さっき、この老母が、

(光悦こうえつや――)

と呼んだことを思い合せてみると、この人の名は、光悦とよぶに違いない。

光悦といえば、今、京都の本阿弥ほんあみの辻には、天下に聞えわたっている同じ名の人間が住んでいる。

加賀の大納言だいなごん利家としいえから二百石ぐらいの仕送りをうけているのだと人は羨うらやんでよく噂にいう。町家に住んでいて、二百石の蔭扶持かげぶちをもらっていれば、それだけでも豪勢なくらしができるであろうに、なお、その上にも徳川家康からは特別に目をかけられているし、公卿くげ堂上へは出入りをするし、天下の諸侯もこの一町人の家の前では、なんとなく気が措おけて、馬上から店を見下ろしては通り難いというほどなのである。

本阿弥の辻に住んでいるところから、人呼んで本阿弥光悦というが、本名は次郎三郎、また本業は刀の鑑定めききと、研とぎと、浄拭ぬぐい。――その三事の業わざをもって、足利あしかがの初世から、室町の世に栄え、今川家、織田家、豊臣家と代々の執権から寵遇ちょうぐうをうけて今につづいて来ている旧ふるい家すじでもあった。

そのうえに、光悦は、絵もよく描くし、陶器もやれば蒔絵まきえもする――わけても、書においては、彼自身もいちばん自信のあるところで、まず今の名筆家をかぞえるならば、男山八幡に住む松花堂昭乗しょうじょうか、烏丸光広卿か、近衛信尹公このえのぶただこう――あの三藐院風さんみゃくいんふうと世間でいうところの書風の創始者か――この光悦といわれるほどなのである。

けれど、光悦自身は、それほどな評価さえ、まだ自分を尽しているものとは受取っていなかった。

こういう話さえ巷間こうかんに伝わっている――

或る時。

光悦が、日ごろ親しい近衛三藐院さんみゃくいんをそのお館やかたに訪ねた。公は、氏長者前関白うじのちょうじゃさきのかんぱくという家がらの貴公子であり、現職は左大臣というおごそかな顕官であったが、性格はそんな野暮な人でなかったらしい、なんでも朝鮮の役のあった年には、

(これは、秀吉一箇の業とはいえない、国家の興廃にかかわることだから、わしは日本のために坐視していられない)

といい、時の天子に奏上して、征韓の役に従軍したいことを願ってやまなかったという風の変ったところもある。

また、秀吉がそれを聞いて、

(天下、無益の大なるもの、是れに如しくなし)

と、喝破したということであるが、そう嗤わらった秀吉の朝鮮征略そのものが、後では天下最大の無益と、世の人たちから時評されたのはおかしなことであった。それはそうと――その近衛三藐院を光悦が訪問した折、いつもの書道の話から花がさいて、

(光悦、おまえ今、書において天下の名筆を三人かぞえるとしたら、たれを選ぶな)

と、訊いた。

光悦は、さればにて候という態ていで、即座に、

「――まず次はあなた様、その次は、八幡の滝本坊たきもとぼう――あの昭乗でございましょうかな」

すこしのみ込めない顔つきをして、三藐院は、もういちど問い直した。

「まず次は……とおまえはいったが、その最初の第一番は誰なのじゃ」

すると、光悦は、にやりともせず相手の眼を見ていった。

「わたくしでございます」

――こういう本阿弥ほんあみ光悦なのである。だが今、武蔵のまえにいる下男づれの母子おやこがその本阿弥の辻の光悦かどうか、その家族にしては、供も一人しか連れていないし、衣服やあたりの茶道具なども、あまりに質素すぎる気がしないでもない。

二

光悦は、指に絵筆をはさんでいた。膝には一帖の懐紙かいしが載っている。その懐紙には、彼が先刻さっきから丹念に写生していた枯野の流れが描きかけになっていた。そばに散らかしてある反古ほごにも皆、同じ水の線ばかりが手習いでもするように描いてあるのであった。

――ふと、振向いて、

(どうなされたのです?)

と問うように、光悦は、下男のうしろに顫おののいている母のすがたと、そこに立っている武蔵のすがたとを静かな眼まなざしで見くらべた。

その穏やかな眸に触れた時、武蔵は自分の気も和なごんでくる心地がした。しかし親しみというには余りに遠いものなのだ。自分らの近くには見当らない型の人間であって、そのくせ非常に懐かしみを覚えさせる眸なのである。腹の豊かなように、底の深い光をたたえて、その眼はまたいつのまにか、武蔵に対して、旧知のような笑みをにこにこ示していた。

「御牢人さま。……なんぞ母が過あやまちでもいたしましたかな。せがれの私がもう四十八にもなりまする、この母の年もそれでお察しくださいませ。体はすこやかでございますが、ちと、眼がかすむなどとこの頃は申しまする。母の粗相は幾重にも私がおわびいたしましょう。ご勘弁くださいまし」

膝の懐紙と指の絵筆を、毛氈もうせんのうえに置いて、ていねいに手をつかえようとするので、武蔵は、いよいよもって、そんな理由で自分が老母の驚きを求めたわけでないことを、明白にしなければならなくなった。

「あいや……」

自分も膝を地へ落して、武蔵はあわてて、光悦の辞儀をさえぎった。

「あなたがご子息でござるか」

「はい」

「おわびは、拙者からせなければならぬ。なんで、お驚きなされたか、自分にはとんと分らぬが、此方のすがたを見ると、ご老母が、この小笊こざるを捨ててお逃げなされた。……見ればお年寄が、せっかく摘つまれた若菜や芹せりなどの種々くさぐさが後に散っているではないか。この枯野からこれだけの青い物をお採りなされたご老母の丹精を思うと、自分がご老母を驚かした理由はわからぬが、済まないと存じたのです。……で、菜を小笊へ拾いあつめて、これまで持って来ただけのことです、どうかお手をあげてください」

「ああ、そうですか」

光悦は、それですっかり分ったように暢々のびのびと笑いながら、母のほうへ向って、

「お聞きあそばしたか、母者人ははじゃびとは、なんぞ思い違いをなされたのでございましょうが」

すると、彼の母は、いかにもほっとしたらしく隠れていた下男の背の蔭から少し出て来て、

「光悦や、それでは、その御牢人様は、なにもわし達に危害を加えようとするお人ではありませぬか」

「害意どころか、あなた様が小笊の若菜を捨てておいでなさったので、この枯野からそれだけの青い物をさがして摘つんだ年寄の丹精がいとしいと仰っしゃって、これへ持って来てくだされたほど、若い武人にしては心のやさしいお方でございます」

「それはまあ、済まぬことを……」

と、老母は武蔵の恐縮する前へ、手頸てくびの数珠ずずへ顔がつくほど低い辞儀をして謝り入るのであった。

それから、心も打ち解けたように、この老母まで笑いこぼれながら、息子の光悦にこう話すのであった。

「わしは、今思うと、まことに済まんことじゃったが、この御牢人様を一目見た時、なにか、血臭いものが眼の前へ来たようで、体じゅうの毛あながぞくとひき緊められるように恐かったのじゃ。今、こうして見れば、なんの事もないお人じゃがの」

そう聞いて、武蔵こそ、この老母の何気ないことばに、はっと胸を衝つかれた。われに返って、われという自身の相すがたを、他人から見せつけられた気がしたのである。

三

――血臭いお人。

世辞のない光悦の老母ははは彼のことをさしてそういった。

おのれの身についているにおいというものは、誰でも自分には分らないものに違いないが、武蔵はそういわれて、卒然と、自分の影にこびりついている妖気と血なまぐささに気づいた。そして、この老母の澄んだ感覚に、かつて知らない羞恥しゅうちをおぼえた。

「武者修行どの」

光悦は、それを見のがさなかった。武蔵の烱々けいけいと光っている異様な眼ざしだの、油気のない殺伐な髪の毛だの――体のどこを触れても斬れそうな様子をしているこの青年に、彼はなにかしら、愛せるものを見出しているらしいのである。

「おいそぎでなくば、少しおやすみなさらぬか。まことに静寂しずかでござりますぞ、黙っていても、清々すがすがと、よい気もちで、心が空の青さに溶けてゆくような」

老母もまた、共に、

「もすこし菜を摘つんだら、やがて草粥くさがゆを炊たいて、馳走しよう。お嫌いでなくば、茶も一ぷくまいらせよう程に……」

とこの母子おやこの間に交じわっていると武蔵は、自分のからだに生えている殺気の棘とげが除とれてゆくように気が和なごんでくる。他人の中とは思われない温か味なのだ。――いつとはなく草鞋わらじを解いて毛氈もうせんのうえに坐ってしまう。

うち解けて、だんだん聞いてみると、この老母は妙秀みょうしゅうといって、都でもかくれのない賢婦人であるし、息子の光悦も、本阿弥ほんあみの辻に住む有名な芸林げいりんの名匠で、まぎれもなくあの本阿弥光悦であることがわかってくる。

およそ刀をさす人間で、本阿弥家の名を知らない人間はない。けれど武蔵は、その光悦という人や、光悦の母の妙秀という人を、その先入主にある有名なものとは結びつけて考えられなかった。この母子おやこが、そういう由緒ゆいしょのある家がらの当人であると聞いても、やはりこの広い枯野で偶然に出会った、ただの人としか思えないし、またそれがゆえに抱いていられる懐かしみや親しみを遽にわかに、固くなって捨ててしまいたくなかった。

妙秀は、茶釜かまの湯の沸たぎりを待ちながら、

「このお子は、幾歳いくつじゃろ」

と、息子へいう。

息子の光悦は、

「さあ、二十五、六歳でもございましょうかな」

と、武蔵を見て答える。

武蔵は首を振って、

「いえ、二十二歳です」

すると妙秀は、さも驚いたように眼をあらため、

「まだそんなにお若いのか、二十二ではちょうど、わしの孫というてもよい」

それからまた、故郷くにはどこか、両親はあるのかないのか、剣は誰に習ったかなどと、妙秀はいろいろ訊ねてやまない。

やさしい老母としよりから孫あつかいにされると、武蔵は、童心をよび起されて、ことばづかいまでおのずと子供らしくなってしまう。

常に、厳しい鍛錬の道に起き臥して、自分を刃鉄はがねのように鍛きたえ固めること以外には、生命いのちを呼吸させたことのない武蔵だった。今、妙秀とそうして話していると、ありのままにそこへでも寝ころがって、甘えてみたいような心持を、久しく風雨にばかり曝さらされて忘れていた肉体の中に、ふいに思い出した。

だが、武蔵には、それができない。

妙秀も、光悦も、この一枚の毛氈もうせんのうえに乗っている物は、茶腕「茶腕」はママ一つまでが皆、空の碧あおさと溶とけあい、自然と一つになり、野を飛ぶ小禽ことりとも同じになって、静かに遊び楽しんでいるように見えるが――武蔵ひとりは、継子ままこのようにぽつねんと在って、その姿はどうしても自然とはべつ物の存在としか見えなかった。

四

なにか話を交わしているうちはいいのである、その間は武蔵も、この毛氈のうえの人たちと溶け合って、自分は慰められている。

けれど、やがて妙秀が茶釜かまに対して沈黙し、光悦が絵筆を持って背を向けてしまうと、武蔵は、たれと語りようもなく、また、なにを楽しむすべも知らず、憶い出されるものは、ただ退屈と、孤独のさびしさだけだった。

(なにが面白くて――この母子おやこはまだ春も浅いのに、こんな枯野へ来て、寒い思いをしているのか?)

武蔵には、この母子おやこの生活が不思議なものに見えてならない。

摘つみ草が目的なら、もっと暖かくなって人出が賑にぎわう頃にもなれば千種ちぐさも萌えているし花も咲いていよう。――茶をたてて楽しむことが目的ならば、なにもわざわざ茶釜かまや茶碗を持って来て、物好きな不自由をしないでも、本阿弥家ともいわれる旧家である。住居すまいにはよい茶室もあるに違いない。

(絵を描くためか?)

と、武蔵はまた考えて、光悦の広い背中を見まもった。

すこし身を横へねじって、その光悦の筆をのぞいてみると、先刻さっきもそうであったが、今もまた懐紙へ描いているのは、水の流ればかりであった。

ここから少し離れている枯草のあいだに、うねうねと細い野川の水が這っていた。光悦は、その水の相すがたを線に現そうとして他念もない様子なのである。つかもうとしても墨を通して紙のうえへ象かたちとして現してみると、なにもつかまれていないので、光悦は、何十遍でも、水の相すがたをつかむまで、飽かずに同じ線を描いているのだった。

(……ははあ? 絵もなかなか易やさしくないものだ)

武蔵はふと、そこへ自分の退屈を預けて見恍みとれる。

(――敵の相すがたを剣のさきへおいて、自分が無我になった時――自分と天地がひとつの物になったような気持――いや気持などというものさえ失なくなった時、剣はその敵を斬っている。――光悦どのは、まだあの水を敵として睨んでいるから描けないのだろう、自分があの水になればよいのだ)

なにを観みるにも、武蔵は、剣というものを離れては考えられない。

剣から画を考えても、ぼんやりとその程度には理解できる。――けれどなお分らないのは、妙秀や光悦が、いかにも楽しげにいることだ。母子おやことして、黙って背中を向け合っているが、その姿がどっちを見ても、今日という一日を楽しんで、飽かないさまでいることが不思議でならない。

(閑人ひまじんだからだろう)

彼は、単純にそう片づけ、

(この険けわしい時勢の中に、絵をかいたり、茶をたてたり、こういう人もいるものかなあ。……おれには縁のない世界の人間だ、親代々の財産をだいじに抱かかえて、時勢のそとに遊んでいる上等な逸民いつみんという者だろう)

退屈はやがて、気懶けだるいものを誘ってくる。懶気だきは禁物と誡いましめている武蔵にとって、そう気がつくと、わずかな間も、こんな所にいられない気がしてくる。

「お邪魔をしました」

武蔵は、脱いだ草鞋わらじをはきかけた。思わぬ暇つぶしでもしたように、その様子が遽にわかに取って付けたように見えた。

「……ホ、お立ちか」

妙秀は意外そうにいった。光悦も静かにふり向いて、

「せっかく、母が今、粗末ですが茶をさしあげようと思って、心をこめて釜の湯を見ております。まあよいではありませんか。――先ほど、あなたが母へ話していたのを伺うと、あなたは今朝、蓮台寺野で吉岡家の嫡子ちゃくしと試合をなされたお方でしょう。戦いくさの後の一ぷくの茶ほどよいものはない――と、これは加賀の大納言様も家康公もよく仰っしゃっていた言葉です。茶は養心です。茶ほど心を養ってくれるものはありません。動は静から生じるものと私は思う。……まあお話しなされ、わたくしもご相伴しょうばんいたしましょう」

五

かなり距離はあるが、やはりこの野つづきである蓮台寺野で、今朝がた自分と吉岡清十郎との試合があったことを、この光悦は知っていたのか。

それを知りながら、そんなことはまるで、よその世界の騒ぎとして、静かにこうしていたのか。

――武蔵は、もいちど光悦母子おやこの姿を見直した。そして、坐り直した。

「では、せっかくですから、頂戴してまいりましょう」

光悦はよろこんで、

「おひきとめするほどではありませんが」

と、すずり筥ばこの蓋ふたをして、絵の反古ほごがとばないように筥をのせておく。

光悦の手に持たれてそれが動いた時、厚い黄金こがねや白金しろがねや螺鈿らでんでくるまれているような筥の面おもてが、燦然さんぜんと玉虫の体みたいに光って眼を射たので、武蔵は思わず身をのばしてのぞき込んだ。

下に置かれてあるのを見ると、そのすずり筥の蒔絵まきえは、決して、眼を射るような絢爛けんらんではない。麗うるわしいことは、桃山城の豪華を小さく纒まとめ込んだほども麗しいが、その上に千年も経ったような匂いの高い燻くすみがかかっているのである。

「…………」

飽かないように、武蔵は見いっていた。

十方の碧落へきらくよりも、四方の野辺の自然よりも、武蔵にはこの小さい工芸品が、いちばん美麗に見えた。見ている間だけでも、慰められた。

「わたくしの手すさびですよ、お気にいりましたかな」

光悦のことばに、

「ほ? あなたは蒔絵まきえもするのですか」

光悦は黙って微笑するのみであった。手芸の美が、天然の美よりも、尊く見えるらしい武蔵をながめて、光悦は心のうちに、

(この青年も田舎者)

と、すこし嗤わらっているような趣おもむきである。

そういう大人おとなの高所から、自分が低く観られているとは知らないで武蔵は、

「見事ですな」

となおも、眼を離たずにいると、光悦はまた、

「今、わたくしの手すさびといいましたが、その構図に配してある和歌文字うたもじは、近衛三藐院さんみゃくいん様のお作で、またお書きになったのもあのお方です。ですから、ありようは二人の合作と申さなければなりません」

「近衛三藐院というと、あの関白家の」

「そうです、龍山公のお子様の信尹のぶただ公のことです」

「私の叔母の良人にあたる者が、近衛家に長年勤めておりますが」

「なんと仰っしゃる御人ごじん?」

「松尾要人かなめと申します」

「ほう、要人殿ならば、よう知っています。毎度近衛家にあがるので、お世話にあずかったり、また要人殿もよく、宅へ訪ねてくださるし」

「ア、そうでしたか」

「母者人」

と、光悦はまた、そのことを、母の妙秀にも話し直して、

「どこにご縁が繋がっているかわかりませぬな」

といった。

「おおそうか。ではこのお子は、要人殿の義理の甥御おいごか」

妙秀はそういいながら、風炉先ふろさきのそばを離れて、武蔵と息子の前へすすみ、優雅しとやかに茶式の礼儀をした。

もう七十ぢかい老母であったが、茶事ちゃじの作法が身についていて、自然な身ごなしや、細やかに動く指の先や、すべての振舞いが、いかにも女らしく、優しく、そして美しかった。

野人の武蔵は、光悦に倣ならって畏かしこまっていた。その窮屈らしい膝の前に、菓子の木皿が置かれた。菓子はつまらない淀饅頭よどまんじゅうであったが、この枯野には見あたらない青い木の葉を敷いていた。

六

剣に形、作法などがあるように、茶にも、法があると聞いている。

今も、妙秀のそれを、武蔵は、じっと見ていて、

(立派だ)

と、思った。

(隙がない)

彼の解釈は、やはり剣に拠よる。

達人が剣を把とって立った姿というものは、さながらこの世の人間とも思われない。その荘厳なものを今、茶をたてている七十の老母のすがたにも彼は見た。

(道――芸の神髄――何事も達すると同じものとみえる)

うっとりと彼は考えていた。

だが。

われに返ってみると、帛紗ふくさに乗せて膝のまえに置かれた茶碗を、武蔵は、どう持って、どう飲んでよいものかとためらった。茶事の席になど連つらなった経験もないのである。

そこらの土を子供が捏こねたように不器用に見える茶碗だった。しかし、その茶碗のいろの中にたたえられている濃い緑の泡つぶは、空よりも静かで深い色をしていた。

「…………」

光悦はと見ると、もう菓子を食べている。寒い夜に温かい物でも抱いだくように、両手で茶碗を持って、それもふた口か三口で飲んでしまう。

「――光悦どの」

武蔵はいってしまった。

「武骨者です、実は、茶などいただいたことがないので、飲むすべも、作法も知らないのですが」

すると、妙秀が、

「なんのい……」

と、孫でもたしなめるように、やさしく睨ねめた。

「茶に知るの、知らぬのという、智恵がましい賢さかしらごとはないものぞよ。武骨者なら武骨者らしゅう飲んだがよいに」

「そうですか」

「作法が茶事ではない、作法は心がまえ。――あなたのなさる剣もそうではありませぬか」

「そうです」

「心がまえに、肩を凝こらしては、せっかくの茶味が損じまする。剣ならば、体ばかり固うなって、心と刀の円通えんつうというものを失うでござりましょうが」

「はい」

武蔵は、思わず頭を下げて、次のことばに耳をすましていたが、ホ、ホ、ホ、ホ、と妙秀はその後を笑い消して、

「わたくしに、剣のことなどは、何もわかりませぬがの……」

と、いった。

「いただきます」

武蔵は、膝が痛いので、畏かしこまっていた膝をあぐらに組み直した。そして、飯茶碗から湯でも飲むようにがぶと飲んで下へ置いた。

(苦い)

と思った。

それだけのことで、美味うまいなどとは世辞にもいえない気がした。

「もう一ぷく、いかがでございますか」

「たくさんです」

どこが美味いのか、なんでこんな物を深刻らしく、味の侘わびの作法のというのか。

武蔵には、解げせなかった。しかし彼は、最前からこの母子おやこに持った疑問と共に、一概に軽蔑し去る気にもなれない。茶道が、自分が正直に感じただけのものならば、東山時代の長い文化を通じて、あのように発達してくるはずがない。――また、秀吉だの家康だのという人物が、その道の隆盛を支持するわけがない。

柳生石舟斎も、老後をその道にかくれていた。思い出すと、沢庵坊もよく茶のことはいっていた。

――武蔵は、帛紗ふくさの上の茶碗へ、もいちど眼を落した。

七

石舟斎を思いだしながら、その茶碗をまえにおいて見つめていると、ふとまた武蔵は、あの時、石舟斎から贈られた一枝の芍薬しゃくやくを思いだした。

――白芍薬の花をではない、あの枝の切り口を。あの時うけた強い戦慄を。

(おやっ)

と、口に出たかと思うほど、武蔵は、その茶碗から心へひびいて来るなにものかに烈しく打たれた。

手を伸べて、抱きこむように、茶碗を膝へ乗せて見る。

(……?)

今までの武蔵とはまるで人が違ったような熱をおびた眼の光が、つぶさに、茶碗のそこや箆目へらめに見いって、

(……石舟斎が切った芍薬の枝の切り口と、この茶碗の土を切ってある箆目のするどさと。……ウウム、どっちともいえない非凡人の芸の冴えだ)

肋骨あばらが膨ふくらむように息がつまってくる。――何ゆえにという説明は彼にもつかないのである。巨腕を持った名匠の力量がそこに潜ひそんでいるというほかはない。肉声で現しがたい無言のことばが、沁々しみじみと心へ浸しみ入ってくるのである。それを受け容れる感受性を、武蔵が人いちばい持っていることも事実である。

(誰だろう、この作つくり人ては)

手に持つと離せない気のするような触覚しょっかくなのだ。

武蔵は、訊かずにはいられなかった。

「光悦どの、私には、今もいったとおり、陶器やきもののことなど、皆目わからないのですが、この茶碗は、よほど名工の作ったものでしょうな」

「どうして?」

光悦のことばは、顔のようにやわらかい。厚ぼったい唇ではあるが、女みたいな愛嬌をこぼすことがある。少し眼まなじりは下がっているが、魚のように切れ長で、威があって、たまたま、揶揄やゆするような皺しわもよせる。

「――どうしてといわれると困るのですが、ふと、そんな気がするのです」

「どこか、何かを、お感じになったのでしょう、それを仰っしゃって下さい」

と、光悦は意地がわるい。

「さあ?」

武蔵は考えて、

「――では、いい尽くせませんが、いいましょう。この箆へらですぱっと切ってある土の痕あとですが……」

「ふむ!」

芸術家の持ち前を光悦も持っていた。芸術の理解などは程度がひくいものと相手をきめてかかって、武蔵も低く見ていたのだった。ところが案外、いい加減に聞いていられないことをいい出しそうなので、急に女のような優しくて厚い唇が、難しく大きく緊しまった。

「――箆へらの痕あとを、武蔵どのは、どう思いますか」

「するどい!」

「それだけですか」

「いや、もっと複雑だ。非常に太っ腹ですな、この作者は」

「それから」

「刀でいえば、相州物のように、斬ればどこまでも切れる。けれど麗うるわしいにおいでつつんでおくことを忘れない。また、この茶碗の全体のすがたからいえば、非常に素朴には見えるが、気位といいましょうか、どこかに王侯のような尊大な風があって、人を人とも思わないところもある」

「ウウム……なるほど」

「ですから、この作者は、人間としても、ちょっと底がわからないような人物だと私は思う。しかし、いずれ名のある名匠には違いありますまい。……ぶしつけですが、伺います、いったいなんという陶工ですか、この茶碗を焼いた人は」

すると光悦は、厚でな盃のふちみたいな唇を綻ほころばせて、よだれを湛たたえながらいった。

「わたくしですよ。……ハハハハ、わたくしがいたずらに焼いた器うつわですよ」

八

光悦もひとがわるい。

武蔵に批評させるだけ批評させておいてから、さて、その茶碗の作者なら実はわたくしです、といったものである。揶揄やゆされたような悪感あっかんを相手に抱かせないところなどは、なおさら罪がふかいといわなければならないが、四十八歳の光悦と、二十二歳の武蔵とでは、年齢としの差というものがやはり争えない。武蔵は、自分が試みられているなどとは少しも思わず、正直に感服して、

(この人はこんな陶器やきものまで自分で焼くのか。……この茶碗の作者がこの人だとは思えなかったが)

と、光悦の多芸多能の才に、いやその才よりも、粗朴な茶碗のような姿をしていて、実はその裡に隠している人間的な奥行の深さを――武蔵は気味わるいほどに思った。

彼が自負している剣の理から、この人物の底を計ろうとしても、持ちあわせの尺度ものさしでは寸法が足らないような尊敬を正直に持ってしまった。

こう感じて来たら、武蔵はもう弱い。その人間に対して、頭を下げずにいられない性分なのだ。自分の未熟さを、ここにも見出して、彼は大人の前に小さく羞恥はにかんでしまう一箇の未成年者でしかなかった。

「あなたも、陶器はおすきのようだな、なかなかよく観みる」

光悦がいうと、

「いや、拙者は、皆目そのほうのことはわかりませぬ、あて推量です。失礼なことを申して、おゆるし下さい」

「それはそうでしょう、いい茶碗一つ焼くにも、一生かかる道ですから。けれど貴方あなたには、芸術を理解する感受性がある、かなり鋭い――やはり剣をおつかいになるので自然に養われた眼でしょうな」

光悦も多分に、武蔵の人間を、心のうちでは認めていた。しかし大人というものは、感心しても口で賞ほめないものだった。

つい、時の経つのを武蔵は忘れていた。そのうちに、下男が、菜を摘つみ足してくると、妙秀は、粥かゆを煮、菜根さいこんを炊たいて、これを光悦の手づくりらしい小皿に盛り、瓶かめの芳醇ほうじゅんを開けて、ささやかな野の食事が始まる。

その茶料理も、武蔵には、余りに淡味すぎて、美味うまいとは思わなかった。彼の肉体は、もっと濃厚な味や脂あぶらを欲しているから。

――けれど彼は、素直に菜や大根のうすい味を味わおうとした。光悦からも妙秀からも、習っていいものが多分にあることを知ったからである。

――が何時いつ、吉岡方の者が、師の報復を企たくんで、ここへ迫って来ないとも限らない。武蔵は落着かない気持に時々駆られて、野の遠方此方おちこちを見まわした。

「ご馳走になりました。先を急ぐ身でもありませんが、試合に及んだ相手方の門人が参ると、ご迷惑がかからぬ限りもありませぬ。――いずれまた、ご縁があれば」

妙秀は、立って行く武蔵を見送って、

「本阿弥の辻へも、おついでの折になど、立ち寄ってくだされい」

光悦もうしろからいった。

「武蔵どの、折を改めて、宅のほうへ、お越し下さい。――ゆるりとまた、話しましょう」

「参ります」

来るか来るかと思っていた吉岡方の者の影は、野のどこにも見当らない。――武蔵はもういちど振りかえって、光悦母子おやこの遊んでいる毛氈もうせんの世界をながめた。

自分の歩いている道は、ただ一途ずで、細くて嶮けわしい道だと思う。光悦の楽しんでいる天地の明るくて広いことには及ぶべくもない。

「…………」

武蔵は黙々と、野末へ向って、前のとおり俯向うつむきがちに歩いて行った。

夜の道

一

「なんて態ざまだ、吉岡の二代目は。――いい気味だと思っておれは飲んでいるんだ、これで、グッと胸が下がったというものさ」

場末の牛飼町うしかいまちの中にある居酒屋だった。土間のうちは、薪まきの煙や煮物のにおいでもう暗かったが、外は、夕焼け空が火事のように道まで赤くしていて、暖簾のれんのうごくたび、東寺の塔の夕鴉ゆうがらすが黒い火の粉みたいに遠く見える。

「まあ飲めやい」

板を挟んで、対むかい合いに腰かけているのは三、四人の小商人こあきゅうど。また独りで黙々と飯を食べている六部ぶがあるし、銭独楽ぜにごまをまわして、酒を賭かけている労働者の一かたまりだの、せまい土間にいっぱいだった。

「暗いぞ、おやじ、鼻へ酒を入れちまうじゃねえか」

誰かがいうと、

「はい、はい、ただ今」

片隅の土間炉どまろから、薪まきの炎が大きく立つ。外が暮れてくるほどに、この中は赤々と浮いてきた。

「思い出しても、癪しゃくにさわってならねえ。おととしからの炭すみ薪まきや魚の代だ。あの道場で費つかうのだからちッとやそっとの物じゃあない。大晦日おおみそかこそ、と出かけて行ったところが、門弟どもが、勝手なごたくを並べたあげく、掛取のおれたちを、外へ抓つまみ出しゃあがったじゃねえか」

「まあ、そう怒んなさんな、蓮台寺野の一件で、おれたちの鬱憤うっぷんも因果はてきめん、あいつらへ返っていらあな」

「だからよ、今頃まで、怒っているわけじゃねえ、欣うれしくってたまらねえのだ」

「だが、吉岡清十郎も、話に聞けば、あんまり脆もろい負け方をしたものじゃねえか」

「清十郎が弱いのじゃない、武蔵という男が、途方もなく強いらしいんだ」

「なにしろ、たんだ一撃ちで、清十郎は左の手だか右の手だか、どっちか一本失なくしちまった。それが木剣だというからすごい」

「行ってみたのか、おめえは」

「おれは見ねえが、行ってみた連中の話を聞くと、そんなことだったらしい。清十郎は戸板にのせられて帰って来たが、生命いのちだけはまあ取り止めるらしいが、生涯、片輪者ということになってしまった」

「後は、どうなるんだろう」

「門弟たちは、どうあっても武蔵をぶち殺してしまわなければ道場に吉岡流の名はあげて置かれねえというんで、頻りにいきり立っているが、清十郎さえ刃が立たない相手とすると、武蔵に対むかって勝負のできそうな者は、弟の伝七郎よりほかにないというので、今――その伝七郎を探し廻っているといううわさだが」

「伝七郎というのは、清十郎の弟か」

「こいつは、兄よりはずんと、腕のほうは出来るらしいが、手に負えない次男坊で、小遣いのあるうちは、道場へも寄りつかないで、親父の拳法の縁故や名まえをだしにつかって、諸所方々、食いつめ者のように、遊び歩いているという厄介者だ」

「そろいもそろった兄弟だな。あの拳法先生みたいな偉いお人の血すじに、どうしてそんな人間ばかり出来たんだろう」

「だから、血すじだけじゃ、いい人間は出来ねえという証拠だな」

――炉ろの薪明まきあかりが、また暗くなりかけた。そのそばに腰かけたまま先刻さっきから壁へ倚よりかかって居眠っている男がある。だいぶ酒も入っているので、居酒屋のおやじはそっとして置いたが、炉へ薪を加えるたび、火がハゼて男の髪や膝へかかるので、

「旦那さま、着物のすそへ、火がつきますで、もすこし後ろへ床几しょうぎをお退さげなすって」

いうと、男は、酒と火で充血した眼を、鈍にぶそうに開けたが、

「ウム、ウム。わかっているよ、分っているんだ、そっとしておいてくれ」

腕ぐみも解かなければ、腰も上げないのである。悪酔いでもしているのか、ひどく鬱ふさぎこんでいるのだ。

その酒癖の悪そうな青すじの立っている顔をのぞいてみると、これは、本位田又八だった。

二

蓮台寺野の過ぐる日のことは、ここばかりでなく、行く先々でのうわさだった。

武蔵の名が有名になるだけ、本位田又八には、自分が惨みじめに見えて来てならない。――自分も何とか一人前のかっこうがつくまでは、武蔵の話も聞きたくない気がするが、耳をふさいでも、こうして少し人の寄る所というと話題に出るので、彼の憂鬱ゆううつは、酒にも紛まぎれきれない様子に見える。

「おやじ、もう一杯酌くんでくれ。――なに、冷酒ひやでいい、そこの大きな桝ますで」

「お客様、だいじょうぶでございますか、お顔いろがすこし」

「ばかをいえ、顔の青くなるのはおれの持ちまえだ」

もうこの桝で何度飲んだろう。飲んだ当人よりも、おやじの方が忘れているくらいである。喉のどを通ってゆく酒は一息だった。

飲みほすと、また黙然と、壁に倚りかかって腕ぐみしているのだ。あれだけの量を飲み、足元には炉の炎が立っているのにまだ顔には色が出ない酒だった。

(――なあに、おれだって今にやってみせる、なにも、人間成功するには、剣とは限るまい。金持になろうが、位持くらいもちになろうが、やくざになろうが、その道での一国一城の主あるじになれやあいいんだろう。おれも武蔵もまだ二十二だ、早く世間へ名を売ったやつに、大成した人間は少ねえ。天才だとか、なんとか思い上がって、三十ごろにもなれば、もうよぼよぼしてしまう、父っちゃん小僧というところが、そういう人間の極り相場だ)

耳にも聞きたくないと思いながら、腹ではそんな反感を繰返していた。今度のうわさを、大坂表で聞くとすぐ、京都へ足を向けて来たのも、べつになんの目的があるというわけでもない、ただ武蔵が気になってならないので、その後の様子を見に来ただけのことに過ぎない。

(――だが、今にあいつも、思い上がっているうちに、小ッぴどい目に遭あうだろう。吉岡にだって人物はいる、十剣士もいれば、舎弟の伝七郎もいる……)

武蔵の名声が一敗地にまみれるような日を、彼は絶えず心のどこかで待っていた。そして、自分の上には、僥倖ぎょうこうをさがしていた。

「……アア渇かわいた」

ひょろりと、火のそばから壁にすがって立ち上がった。ほかの客の顔はみな振向いて彼を見た。又八は、隅の大きな水瓶みずがめへ首を突っこむようにして、柄杓ひしゃくから水をのみ、その柄杓を抛ほうりすてると、そのまま、門口の暖簾のれんをわけて、ふらふらと外へよろめいて行く――

あきれ顔に、ぽかんとしていた居酒屋のおやじは、又八のすがたが、暖簾の外にかくれると、気がついたように、

「もしっ、だんな」

と、追って出て、

「――お勘定をまだいただいてございませんが」

ほかの客も、暖簾の隙からみな首を突き出した。又八は、あぶない腰つきで立ちどまりながら、

「なに? ……」

「旦那、うっかり、お忘れなすったんでございましょう」

「わすれ物はねえが」

「御酒ごしゅの……へへへへ……御酒のお払いを、まだいただいてございませんが」

「アア勘定か」

「おそれ入りますが」

「金はねえや」

「えっ」

「……困ったなあ、金はねえ。ついこの間まではあったんだが」

「じゃあ、てめえは、初手から文もんなしで飲みやがったんだな」

「……だ、だまれ」

又八は、懐中ふところや腰をさぐり廻して、一箇の印籠いんろうを手につかむと、それを居酒屋のおやじの顔へ向って投げつけていった。

「おれも二本差しているのだ。まだ、飲み逃げするほど落ちぶれちゃあいねえ。――酒の代にゃあ過ぎ物だが、取っておけ、剰銭つりはくれてやるから」

三

投げた物が印籠とは見えなかったのである。それを顔へぶつけられて、居酒屋のおやじが、痛いッといいながら両手で顔をおおうと、暖簾のれんの内から覗いていた客の大勢が、

「ひでえ奴だ」

と、又八の行為を憎み、

「飲み逃げ奴め」

罵ののしると、いっせいに、

「――たたんじまえ」

と、外へ出て来た。

いずれも多少なり酒気をおびている者ばかりだ。酒を飲む者ほどまた、酒の上の不徳漢をつよく憎むものである。

「くせになる、野郎、金を払ってゆけ」

と前後を取り囲んで、

「てめえのような奴は、おおかた年中、その手で飲み屋を飲み倒しているのだろう。――金がなければ、おれ達に、一つずつ頭を撲なぐらせろ」

こう連中がいきまいて、袋だたきの私刑しけいを宣言すると、又八は、刀の柄つかで身を護るように立って、

「なんだ? おれを撲る? 面白い、撲ってみろ。――貴様達は、おれを誰だと思っているか」

「乞食よりも意気地がなくて、盗ぬすっ人とよりも太ふてえ芥溜ごみため牢人と思っているが、それがどうした」

「いったな」

青じろい眉間みけんをよせて、自分の周まわりを睨ねめまわしながら又八は、

「おれの名を聞いて驚くな」

「誰が驚くものか」

「佐々木小次郎とはおれのことだぞ。伊藤一刀斎のおとうと弟子でし、鐘巻流かねまきりゅうのつかい手、小次郎を知らねえか」

「笑わかしやあがる。きいた風な文句はいいから、金を出せ、飲んだ金を」

一人が、手を出して責めると、又八は、それに返すことばの代りに、

「印籠で足らなければ、これもくれてやるっ」

抜き打ちに、刀を払って、その男の手首を斬って落した。きゃっ――と大げさな悲鳴をあげたので、まさかと多寡たかをくくっていた居酒屋の相客たちは、自分の血がこぼれたような錯覚に、尻と頭をぶつけ合って、

「抜いたっ」

と、われがちに逃げだした。

又八は白刃しらはをふりかぶってその手の下に、颯と急に冴えたような眼を光らし、

「今、なんといった。返って来い虫けらども、佐々木小次郎の手のうちを見せてやる。――待てっ、その首を、置いて行け」

宵闇の中で、又八は、一人で白刃を振りまわしていた。おれは佐々木小次郎だと、頻りに見得を切っていたが、もう相手はひとりもいないし、暮れてきた夜空には、鴉からすも啼いていなかった。

「…………」

擽くすぐられたように、又八は空へ向って、白い歯を見せて笑った。けれども泣き出しそうな淋しさが、すぐその面おもてをつつみ、あぶなげな手つきで刀を鞘にもどすと、ひょろ、ひょろ……と歩き出していた。

彼が居酒屋のおやじの顔へぶっつけた印籠は、おやじが逃げこんでしまったため、道ばたに落ちたまま、星の下に光っていた。

黒檀こくたんの木地きじに青貝の象嵌ぞうがんがしてあるだけで、大して高価な印籠とも見えないが、夜の道に捨てられてあると、その青貝模様の光が、蛍ほたるのかたまりが落ちているように、ひどく妖美ようびに燦々きらきらと見える。

「――おや?」

すぐ後から、居酒屋を出て来た六部がそれを拾った。六部はなにか急ぎ足だったが、もう一度軒下へもどって行って、隙洩すきもる燈火あかりにかざしながら、仔細に印籠の模様や緒〆おじめを調べていた。

「――あっ? これは旦那様の印籠だ、伏見城の工事場でむごい死に方をなされた草薙くさなぎ天鬼様が持っていた品。……これこの通り、天鬼と、印籠の底に小さく彫ってある」

見遁みのがしてはならないと急ぐように、六部の影は、又八の影を、すぐ追って行った。

四

「佐々木様、佐々木様」

誰かうしろで呼ぶとは思っていたが、自分の名でない証拠である。酔っている又八の耳には、通らなかった。

九条から堀川のほうへ又八は歩いてゆく。いかにも自分の身を持て余している影だった。

六部は足を迅はやめて来た。うしろから又八の刀のこじりをつかんで、

「小次郎殿、お待ちなさい」

と、いった。

又八は、エ? ――と、しゃっくりでもするように振向いて、

「おれか」

というと、

「おてまえは、佐々木小次郎殿ではないのか」

六部の眼には、険けわしい光がひそんでいた。又八は、酔いのさめかけた顔つきで、

「おれは、小次郎だが、……その小次郎だったら、なんとする?」

「訊きたいことがござります」

「な……なにをだ」

「この印籠はどこからお手に入れましたな」

「印籠?」

いよいよ彼の酒気はさめ加減になってくる。伏見城の工事場でなぶり殺しになった武者修行の顔つきが、ふと眼のそばにちらついた。

「どこからお手に入れた物か、さ、それが訊きたい。小次郎殿、この印籠は、どうしておてまえの持ち物になったのでございますか」

切り口上で六部は問いつめるのだった。年頃二十六、七の男で年齢としからいっても、ただ寺院を廻って碌々ろくろくと後生を願っているような、生気に乏しい人物ではない。

「……誰だ、おぬしは一体」

やや真顔に返って、又八がこう相手を探ると、

「誰でもいいではないか。それよりも、印籠の出所しゅっしょを仰っしゃい」

「元からおれの持ち物なのだ、出所もあるものか」

「嘘をいうな!」

急に、六部は、語気をかえて、

「ほんとのことをおいいなさい。場合によっては、飛んだ間違いごとになりますぞ」

「これ以上、ほんとはない」

「じゃあどうしても、おてまえは泥を吐かないな」

「泥とは何事だ」

勢い、又八も虚勢を張ると、

「この偽にせ小次郎めっ」

六部の携たずさえていた四尺二、三寸の樫かしの丸杖が、言葉より迅はやくびゅっと風を鳴らしていた。腰を退ひく本能はうごいたが、体そのものにまだ酒の痺しびれが残っていた。

「あっ――」

二、三間も蹌よろめいたあげく、腰をついたが、起ち上がるが早いか、後ろを見せて駈け出した。その迅さはちょっと六部を狼狽させた。

泥酔している相手なので、そう機敏な行動はできまいと軽蔑みくびっていた反動だった。六部は慌あわてて、

「おのれっ」

追いかけながら、樫の杖を、風へ乗せて又八の影へ投げた。

又八は、首をすくめた。杖はうなりを持って、耳のそばを通って行く――。これは堪らないと思ったらしい、又八は、いよいよ体たいを弾はずませて逃げた。

外はずれた杖を拾い取って、六部も宙を飛ぶのだった。そして頃合を計ると、もいちど杖を闇へ抛ほうった。

だが又八は、からくもその杖の先から二度まであぶないところを遁のがれた。総身の毛あなから酒の気が一瞬に消えて失なくなっていた。

五

焦やけつくように喉が渇かわく。

どこまで逃げて来ても、六部の跫音がうしろから聞える気がするのだ。はや六条か五条に近い町ならびである。又八は胸をたたいて、

「うう、ひでえ目に遭った。……もう来まい」

そこで、横町のせまい路地を覗きこんだのは、逃げ道を考えているのではなく、井戸を捜しているらしい。

その井戸が見つかったとみえ、又八は、路地の奥へはいっていった。細民街の中にある共同井戸である。

釣瓶つるべを上げると、又八は、それへ、かぶりつくようにして水を飲んでいた。ついでに釣瓶を下において、ざぶざぶと顔の汗を洗う。

「……なんだろう、あの六部は」

人心地に返ってみると、気味のわるさが、また甦よみがえってくる。

金の入っている紫革むらさきがわの巾着と中条流の目録と、そして先刻さっきの印籠と、こう三つの品は、去年の夏伏見城の工事場で、大勢のために虐殺された頤あごのない武者修行の死骸から抜き取って来たものだった。そのうち、金はきれいに費つかってしまい、懐中ふところに残っていたのは、中条流の印可目録と、あの印籠が一つ。

「六部のやつ、あの印籠は、おれの主人の持物だといっていたが、――するとあいつは、死んだ武者修行の奉公人だろうか」

世間の狭さに、又八は始終追いつめられている気持だった。肩身がひけて、日蔭を歩けば歩くほど、いろいろな偶然が、鬼の影みたいに、追ってくる。

「杖か棒か、なにしろすごい物を打ぶっつけやがった。あの唸うなって飛ぶ棒の先でこーんと一つ頭でもやられたらそれ限きりだ。――なにしろ油断はできねえぞ」

死人の金を費つかってしまったということが、絶えず又八の良心の中にあった。悪いことをしたと思うたびに、あの炎天の下もとで虐殺された頤あごのない武者修行の死顔が眼にちらついて来てならない。

――働いて儲もうけたらきっとなにより先に返す。出世したら石碑の一つも建てて供養もするから、と彼は心のうちで、絶えず死者に詫びていた。

「――そうだ、こんな物も、懐中ふところに持っていると、どんな疑いをかけられるかもしれねえ。いっそ捨ててしまおうか」

中条流の印可目録を、着物のうえから触ってみながら考えた。いつも胴巻の中に突っ張っている巻物がそれだった。持って歩くにも相当厄介な品である。

――だが、又八はすぐ、惜しいとも思う。すでに金は一文もないし、身に持っている財産といえばその巻物一つだった。なんとかこれを種にして、出世の蔓つるとはゆかないまでも、体の売れ口はないものかと僥倖ぎょうこうをたのむ気持が、そのために、赤壁八十馬やそまにうまうまと詐欺さぎにかかった後までも、いまだに量見からなくなっていない。

その印可に書いてある佐々木小次郎の名を詐称かたって歩くと、かなり都合のよい時もある。無名の小さい道場とか、剣術ずきの町人などに示すと、多大な尊敬をうけた上に、一宿一飯の礼儀は黙っていても先からとってくる。この正月の半月などは、ほとんどその巻物で食って歩いたといってもよい。

「なにも、捨ててしまうには当るまい。おれはだんだん気が小さくなるようだ。その気の小さいのが出世の邪さまたげかもしれないぞ。武蔵のように、太くなろう。天下を取った奴をみろ」

そう肚は極めたものの、今夜の寝床のあてもなかった。泥と草で傾いているようなそこらの細民窟くつの家でも、そこの人間には、廂ひさしと戸があると思えば、又八は羨ましくてならなかった。

二人小次郎

一

さもしい彼の眼は、つい、そこらの家を覗のぞいてみた。どこの家も、ひどく貧乏だった。

けれどそこには、一つ鍋に向い合っている夫婦がある。老母を囲んで夜業よなべの手内職をしている兄妹はらからがある。物質には極端にめぐまれていない代りに、秀吉や家康の家庭にはないものをお互いが持ち合っているらしい。それは、貧しいものほど濃い骨肉愛だった。そのいたわり合いがあるばかりに、この細民窟くつは、餓鬼の住み家かにならなかった。やはり人間のあたたかさを持っている。

「おれにも、老母ははがあった。――どうしたろう、おふくろは」

急に、又八は、思い出された。

つい去年の暮、行き会って七日ほど一緒にいただけで、すぐ、つまらない母子おやこ同士のわがままから、途中で捨てて別れてしまった限きりになっている。

「――悪いなあ、かわいそうなおふくろだもの……。どんなに好きな女をこしらえてみても、おふくろほど、心からおれを愛してくれる女はなかった」

ここから道程みちのりももうたくさんはない。又八は清水の観音堂へ行ってみようと考え出した。あそこの廂ひさしの下なら寝ることもできる。また――ことによったら老母に出会うかも知れないという空だのみも抱いてみる。

老母ははのお杉は、大の信心家である。神仏を問わず、そういうものの力を絶対に信じている人だ。いや信じるのみでなくなによりの頼みとしているところがある。いつか大坂で七日あまり又八と一緒になって歩いている間に、母子おやこの間にすぐ不和ができたのも、お杉が神社仏閣ばかり歩いて暇どっているのが又八に退屈を起させて、とても、このおふくろと永の旅はできないという倦怠けんたいを、息子に持たせたのが一因になっている。

その頃、又八は、よくお杉から聞かされていたのである。

(なにが顕あらたかじゃというて、清水寺の観世音さまほど、世に顕かな御みほとけはない。あそこへ、祈願をこめて、やがて三七日に近い頃、なんと、武蔵めに、ちゃんと行き会わせて下されたではないか。しかも御堂の前で、あの奴に。――おぬしも清水の観音様だけは、よう信心したがよいぞ)

――それからまた、春にでもなったら、お礼詣りをかね、後々も、本位田家のため御加護を祈請きせいするのだと、幾度も、又八は聞かされていた。

だから、或はもう、そこに老母は参籠さんろうしているかも知れない――と又八は考えたのである。するとあながち彼の考え方も、空だのみでないかも知れなかった。

六条坊門の通りから五条のほうへ歩いてゆくと、町ではあるが、この界隈かいわいの夜というものは、犬につまずきそうな暗さであった。――その野良犬がまた実に多い。

彼は、先刻さっきから、その野良犬の声に、取り巻かれていた。石を投げたくらいで沈黙する群れではなかった。しかし、彼という人間も、吠えられることにはこの頃馴れているので、いくら犬が牙をむいて尾ついて来ても、吠えるほうで張合いのなくなるほど平気で歩きつづけていた。

――だが、五条に近い松原の辺りまで来ると、犬の群れは、突然、吠える方向をかえて、又八の前後に尾つきまとっていた犬まで、わらわらと跳躍して、ほかの群犬と一緒になり、並木のうちの一本の松の樹を取り巻きながら、喧々けんけんと、空へ向って咆哮ほうこうしだした。

暗闇の中にうようよしている犬の影は、犬というよりは狼に近い。それが数えきれない数だった。中には、爪を立てて、その松の樹の五、六尺上まで跳びかかって牙きばをむいている恐こわい犬もある。

「……おや?」

又八は、樹の上を仰いで、眼をみはった。梢こずえの上には、チラと人影がある。星明りを透すかしてみると、女らしい美麗きれいな袂たもとと白い顔が、細やかな松の葉の中におののいているのである。

二

犬に追われて樹の上へ逃げ登ったのか、それとも、樹の上にかくれていたために、野良犬が怪しんでその下を取り巻いたものか、そこのところは明瞭ではないが、どっちにしても、梢に顫おののいている影は、年若い女であることに間違いない。

「――叱しッ! 畜生ッ。――叱いッ」

又八は、犬の群れへ、拳こぶしを振りあげてみせた。

「こん畜生」

二つ三つ石も投げた。

四つ脚のまねをして唸れば、どんな犬も逃げるとかねがね聞いていたので、又八は、獣けもののように四つ這いになって、

「ウウー」

と唸ってみたが、ここの犬たちには、なんの効きき目も顕あらわれない。

もっとも、相手は三疋や四疋ではないのだ、まるで深淵しんえんに群れている魚紋のような無数の影が、尾を振り、牙を剥むいて、樹の皮が裸になるほど、顫おののいている空の女へ向って、吠え猛っているのである。又八のごときが、遠くから四つ脚の真似をして見せたところで、この猛犬の群れには問題にされないわけだった。

「こいつら!」

憤然と又八は起った。

かりにも、両刀をおびている青年が、四つ脚の真似をしているのを、樹の上から、若い女に見られていた恥辱を突然気づいたからである。

キャッーンと、ただならぬ一疋の悲鳴が起ると、すべての犬が、又八の方へ眼を向けた。そして彼の手にある白刃しらはと、その下に斬り仆された友達の死骸を見ると、犬は、どっと一ひと所へかたまって痩せた脊ぼねを波のようにみな尖とがらせた。

「これでもか」

刀を振りかぶって犬の中へ駈けこむと、彼の顔へぱっと砂をくれて、犬は八方の闇へちらかった。

「――女ッ、おいッ、降りて来い! 降りて来い!」

空へ向って呼ぶと、松の梢のあいだで、り、り、り、りん……と金属製の美いい音ねが揺れた。

「おや、朱実あけみじゃないか。――おいッ」

袂たもとの鈴の音に覚えがあった。鈴を帯や袂につけている女子おなごは、なにも朱実だけに限ったこともないが、仄ほのかに白く見える顔の輪郭も、なんだか似ている気がしたのである。

――とやはり朱実の声だった。非常に驚いた様子で、

「誰? ……誰? ……」

「又八だ、わからないか」

「えっ、又八さんですって」

「なにしているんだ、そんな所で。――犬なぞ怖がるおまえでもないくせに」

「犬が恐いのでかくれているわけじゃありません」

「降りて来たらどうだ、とにかく」

「でも……」

朱実は、樹の上から、静かな夜の彼方此方あちこちを見まわして、

「――又八さん、そこを退どいていて下さい。あの人が、捜しに来たようですから」

「あの人? 誰だ、そいつは」

「そんなこと、いま話してはいられません。とても恐ろしい人です。わたしは去年の暮から、その男を、親切な人だと最初は思って、世話になっているうちに、だんだん私に酷むごい真似をするんです。……それで今夜、隙を見て、六条の数珠屋ずずやの二階から逃げ出して来たところ、すぐ感づいて、後から追って来たらしいんです」

「お甲のことじゃないのか」

「お養母っかさんなどじゃありません」

「祇園ぎおん藤次でもないのか」

「あんな人なら、なにも恐いことはありやしない。……あッ、来たらしい。又八さん、そこに立っていると、わたしも見つかるし、おまえも酷ひどい目に遭うから隠れて下さいよ!」

「――なに、そいつが来たと?」

又八は、うろうろして、態度を決しかねていた。

三

女の眼は、男を指図する。女の眼を意識すると、男はがらにもない金力を出したり、英雄ぶって見せたりしたがる。先刻さっき、誰も見ていないと思って、四つ脚の真似をして恥じたあの心理の延長が、まだ又八の心を占めていた。

だから朱実が、いくら樹の上から彼に向って、

(酷ひどい目に遭うといけない)

と教えても、

(はやく、隠れておしまいなさい!)

と危険を予報しても、そういわれればいわれるほど、彼は自分も男であることを我がに持ってしまって、

(それは大変)

と、急にあわてふためいて、そこらの暗がりへお尻を出して潜くぐりこむような醜状を、いくら愛人でないからといって、そうたやすく彼女の眼の下に見せることは出来なかった。

「――あっ? 誰だっ」

こういったのは、もうそこへ迅はやい跫音を弾はずませて来た男でもあったし、また、それに驚いて跳び退のいた又八の異口同音の声でもあった。

朱実の心配していた恐い男なる者が、ついに、ここへ来てしまったのである。又八の提げていた抜刀ぬきみには、犬の血が垂れていた。それを見たので、ここへ来た男は、又八の前へ立った途端から、又八をただ者でないように睨まえて、

「――誰だっ、汝は」

と、もう一声、頭から浴びせてかかった。

「…………」

朱実の恐がり方が大げさであったので、又八も一応はどきっとしたが、相手の影をよく見直すと、背こそ高くて逞しそうな骨格であるが、年齢としは自分と大差のない若さだし、髪は前髪に結い、着物は派手な若衆小袖を着ていて――

(なんだ、こんな青二才が)

と、一見して思わせる程度の柔弱な扮装いでたちなのである。

そこで又八は、ふふんと、鼻の先で安心したものなのだ。こんな相手ならいくらでもお相手申してさしつかえない。夕方ぶつかった六部のような人間では不気味だが、もう二十歳はたちも超えながら、前髪や若衆小袖でぺらぺらしているような柔弱者に、よも負ひけを取ろうとは思われない。

(こいつが、朱実を苦しめているのか。生意気な青びょうたん奴めが。どういう理わけかまだ聞いていないが、いずれ、朱実を追い廻して、ひどい目に遭わせているのだろう。――よし、懲こらしてやろう)

こう又八が胸のうちで、余裕のあるところを示して沈黙していると、前髪の若衆武士は三度みたび口をひらいて、

「何者だっ? ……汝は」

と、いった。

すがたに似あわない猛々たけだけしい声であって、三度目の一喝かつは殊さら辺りの闇を払うように颯爽としていたが、すでに相手のかっこうで頭から敵を呑んでいた又八は、

「おれか、おれは人間だ」

と、こう揶揄からかい半分に出て、笑う必要もないこの際に、強しいて、にんやりと顔を歪ゆがめて見せたものである。

果たせるかな、前髪は、くわっと血を顔へのぼせたらしい。

「名もないのか。――名もない人間だと卑下ひげするのか」

激越に突っかかって来るのを、又八は、綽々しゃくしゃくとして、

「てめえのような、氏素姓うじすじょうの知れねえ奴に問われて名乗る名はない」

と、やり返す。

「だまれっ」

若衆の背中には、中身だけでも三尺もあろうかと思われる大刀が斜めに乗っていた。

肩越しにのぞいているその柄つかがしらとともに前髪はずっと前へ身をかがめて、

「そちとわしとの争いは後で決めよう。わしは、この樹の上にかくれている女を降ろし、この先の数珠屋ずずやの宿まで連れ戻るから、それまで待っておれ」

「ばかをいえ、そうはさせねえ」

「なんじゃと」

「この娘は、おれが以前女房にしていた女の娘。今でこそ縁はうすいが、難儀を見すてては通れない。おれをさし措おいて、指でもさしてみろ、たたっ斬るぞ」

四

先刻さっきの犬の群れではないが、威嚇いかくしたらすぐ尾をたれて逃げるだろうと思いのほか――

「おもしろい」

と、相手の前髪男は、又八の予期とはちがって、ひどく好戦的な物腰となり、

「見うけるところ汝も武士さむらいの端はしくれらしい。久しくそういう骨っぽい人間に出会わないので、背中の物干竿ものほしざおが夜泣きをしていた折でもある。この伝家の宝刀も、自分の手に渡ってからまだ血に飽かせたことがないし、すこし錆さびも来ているから、汝の骨で研といでやろう。――だが、逃げるなよ、いざとなって」

退ひくに退けないようにして、相手は要心ぶかく、言葉で先に縛ってくるのだった。しかし、その手に乗せられてはなどという先見は持たない又八なのである。まだ十分、先をあまく見て、

「広言はよせ、考え直すなら今のうちだぞ、足もとの明るいうちに失うせてしまえ、生命いのちだけは助けてやる」

「その言葉は、そのまま、そちへ返上しよう。――ところで、そこな人間殿、先程黙って聞いておれば、わしなどへ名乗って聞かすような名でないと、だいぶ勿体もったいぶってござったが、そのご尊名をひとつ伺っておこうではないか。それが勝負の作法でもあるし」

「おお、聞かせてもいいが、聞いて驚くな」

「驚かないように、胆をすえておたずねしよう。――してまず、剣のお流儀は」

そんなことを喋々ちょうちょうする人間にかぎって強かった例ためしがない。又八は、いよいよ、こう見縊みくびったり、図に乗って、

「富田とだ入道勢源のわかれを汲んで、中条流ちゅうじょうりゅうの印可をうけている」

「え、中条流を?」

小次郎は、少し驚き始めた。

ここで、圧倒的に出なければ嘘だと思ったように、又八は押しかぶせて、

「ではこんどは、そっちの流儀を聞かせてもらおうじゃねえか。勝負の作法というもの」

口真似して、やり返したつもりでいると、小次郎は、

「あいや、わしの流儀姓名は後から申し告げる。してしてそこ許もとの中条流は、いったい、誰を師として学ばれたか」

問うも愚かというように、又八の答えは言下に出て、

「鐘巻自斎かねまきじさい先生」

「ホ? ……」

いよいよ、小次郎は驚いて、

「すると、伊藤一刀斎は、ご存じか」

「知っているとも」

又八は面白くなって来た。これはもう例の効きき目めが現われてきた証拠と見たのである。刃物沙汰に及ばないで、おそらくこの前髪は、なんとか妥協の緒口いとぐちを見つけてくるに違いないと考えていた。

そこで、彼は、すすんでいった。

「あの伊藤弥五郎一刀斎なら、なにをかくそう、おれには兄弟子でしにあたる人だ。つまり、自斎先生のところで同門の間がらだが、それが、どうしたっていうんだ」

「――では、重ねて伺いたいが、そういうあなたは」

「佐々木小次郎」

「え?」

「佐々木小次郎という者だ」

ていねいにも、二度までいったものである。

ここに至っては、小次郎も、驚きを超えて、唖然あぜんとしてしまうほかはなかった。

五

「フーム」

やがて小次郎は、そう唸りながら、笑靨えくぼをつくった。

まじまじと無遠慮に自分を見ている眼を、又八は、ぐっと睨ねめかえして、

「なんだっておれの面つらをそう見るのだ。おれの名を承って恐れ入ったか」

「イヤ、恐れ入った」

「帰れ!」

頤あごをすくって、又八が、刀の柄つかをセリ出していうと、

「アハハ、アハハハ……」

腹をかかえて小次郎は笑い出した。いつまでも、笑いの止まらない様子で、

「世間を歩くと、ずいぶん様々な人物にも出会うが、まだかつて、こんなに恐れ入った例ためしはない。――なんと佐々木小次郎どの、あなたに訊いてみるが、しからば、拙者は何者であろうか」

「なに?」

「わしは一体、何者かと、あなたに訊いてみるのだが」

「知ったことか」

「いやいやそうでない、よくご存知の筈である。執しつこいようだが念のため、もういちど承りたい。あなたのご姓名は、何といいましたかな」

「わからぬか、おれは佐々木小次郎という者だ」

「すると、わしは?」

「人間だろう」

「いかにも、それに違いない。しかし、わしという人間の名は」

「こいつが、おれを弄なぶる気か」

「なんの、大真面目。これ以上の真面目はない。――小次郎先生、わしは誰だ?」

「うるせえ、てめえの胸に訊くがいい」

「しからば、自分に問うて、おこがましいが、わしも名乗ろう」

「オオいえ」

「だが、驚くな」

「ばかな!」

「わしは、岸柳佐々木小次郎だが」

「えッ……?」

「祖先以来、岩国の住じゅう、姓は佐々木といい、名は小次郎と親からもらい、また剣名を岸柳ともよぶ人間はかくいう私であるが――はて、いつのまに、佐々木小次郎が世間に二つできたのだろうか」

「……や? ……じゃあ? ……」

「世間を歩くうちには、ずいぶん様々な人物にも巡り会うが、まだかつて、佐々木小次郎という人間に出会ったのは、この佐々木小次郎、生れて初めてだ」

「…………」

「実に、ふしぎなご縁、初めてお目にかかったが、さては、貴殿が佐々木小次郎どのか」

「…………」

「どうなすった、急に、ふるえておいでなさるようだが」

「…………」

「仲良くしよう」

小次郎は、寄って来た。そして、立ち竦すくんだまま青ざめている又八の肩をぽんとたたくと、又八はぶるっと体をふるわして、

「――あッ!」

と、大きな声でいった。

次の声は、小次郎の口から出たもので、まるで槍を吐くように彼の影を衝ついてくる。

「逃げると、斬るぞッ」

――一跳びに、二間もあいだが開いたように見えたが、その又八の逃げて行く影へ、例の物干竿の長刀ながものが、小次郎の肩越しから閃ひらめいて、びゅっと、銀蛇を闇に描くと、もうそれを小次郎は、ふた太刀とは使わなかった。

風に吹かれた木の葉虫のように、大地をごろごろと三つほど転がったまま、伸びてしまったのが又八だった。

六

背なかの鞘さやへ、三尺もある白刃しらはが吸われて、ぴいんと、辷すべり落ちたとたんに高い鍔鳴つばなりがひびく。

――と、小次郎はもう、呼吸いきのない又八などには、眼もくれていなかった。

「――朱実っ」

樹の下へ寄って、こう叫びながら梢こずえを見あげた。

「朱実、降りておいで。……もうあんなことはしないから降りておいで。……おまえの養母ははの亭主だったという男をつい斬ってしまった。降りて来て、介抱してやってくれ」

樹の上からは、いつまで、なんの声もなかった。こんもりと松葉の闇は濃いのである。小次郎はやがて、自分も樹の上へよじ登って行った。

「……?」

朱実はいなかった。いつのまにか隙を見て樹をすべり落ちるなり逃げてしまったものと見える。

「…………」

梢に腰をかけたまま、小次郎はしばらくそこにじっとしていた。颯々さっさつとふく松かぜの中に身を置いて、逃げた小鳥の行方を憶おもっているらしかった。

(どうして、あの女は、おれをああ怖こわがるのだろうか?)

小次郎には、それが分らなかった。自分で出来るだけの愛を彼女には注そそいだつもりだからである。その愛し方が、すこし、烈しすぎたことは自分でも認めている。しかし、その愛し方が、ふつうの人よりも違っていることは、彼自身では気づき得ないのであった。

女性に対しては、小次郎の愛し方が、どういうふうに人とは違っているかという点を知ろうとするならば、他人ならば、彼の剣にあらわれる性格――つまり太刀すじというものを気をつけて観みていると、やや解とけて来るのである。

いったい、この小次郎という者は、鐘巻自斎の手許で、子飼いからの修行を受けている頃から、もう、鬼才だとか、麒麟児きりんじだとかいわれていただけに、普通の人とは、まるで剣の質たちが変っていた。

それを一口にいうと「粘ねばり」であった。彼の太刀は実によく「粘る」ところに先天的な特色があった。自分以上の力の者に向えば向うほど、その「粘力ねんりょく」を出すのである。

もちろんこの時代の剣は、兵法として、手段は問わないのであるから、どんなふうに粘っても、それを、汚いとは誰もいわなかった。

(あいつに、かかられては、かなわん)

と怖れをなす者はあっても、小次郎の太刀を卑怯だという者はない。

たとえば、彼は少年の頃一度、日頃憎まれていた兄弟子たちから木剣で手痛く打ち伏せられて、気絶してしまったことがある。少しひどすぎたと悔いて、その兄弟子が、水をふくませて労いたわっていると、息をふっ返した小次郎は、猛然とふいに立って、その兄弟子の木剣で、兄弟子を撲り殺してしまったという履歴すらある。

また、いちど負けたら、その敵を、彼は決して忘れない。闇の晩であろうが、雪隠せっちんへはいった時であろうが、寝ている間であろうがつけ狙うのである。これも、その頃の兵法としては、

(ばか、試合は、試合の時にしろ)

というわけには行かないのであるから、小次郎を一度打ち込むと、敵持かたきもちになったのも同じだといって、そういう彼の異常な執拗しつようを、同門の者はよくいわなかった。

いつのまにか、また彼は、

(おれは天才だ)

と、自分でいっていた。

しかしそれは、彼の不遜ふそんな思い上がりばかりでなく、師の自斎も一刀斎も、

(あれは天才だ)

と、ゆるしていたことは事実なのである。

郷里の岩国へ帰って、錦帯橋のたもとで、毎日、燕斬りの手練をつんで、独自な太刀を工夫してからは、なおさら、

(岩国の麒麟児きりんじ)

と、人も称たたえ、彼も自負していた。

――だが、その粘りのある剣の異常な執拗さが、女性を愛す場合に、どういう形であらわれるかなどということは、誰も知る限りのことでないし、小次郎自身は、それとこれとは、まるでべつに考えているので、朱実が自分を嫌って逃げたことが、不思議でならない顔つきであった。

七

ふと気づくと、その時、樹の下に誰か人影がうごいていた。

小次郎が、梢の上にいることをその人間は知らないらしい。

「……や、誰か仆れているが」

と、又八のそばへ寄って、屈かがみ腰になりながら又八の顔を覗のぞいていたと思うと、やがて、

「あっ、こいつだ」

と、梢の上までよく聞えてくるような大声でいって、いかにも驚いたらしい態ていであった。それは手に白木の杖を持っている六部であった。六部は何思ったか、あわてて背の笈おいずるを下ろし、

「……はてな、斬られているようでもないし、体はまだ温ぬくいし、どうして此奴こやつめ、気を失っているのか」

呟きながら、又八の体を撫でまわしていたが、やがて腰についていた細曳ほそびきを解くと、又八の両手を後ろへやって、ぐるぐる巻きに縛ってしまう。

気絶していることなので又八はなんの抵抗もするわけはない。六部は、そうしておいてから、又八の背を膝がしらで抑え、鳩尾みぞおちのあたりへ、気合いをかけて押していた。

ウウム――と又八が太い声を出すと、六部はそうして手当した者を、まるで芋俵いもだわらでも引っ提げるような扱い方して、樹の下へ持って来た。

「起てっ、起つんだ!」

こう厳命して、足で彼を蹴飛ばした。

地獄の一丁目まで行って気がついたばかりの又八は、まだ十分われに返っていなかったであろう。半ば、夢中のように、体を刎はね起おこすと、

「そうだ、そうしていろ」

六部は満足して、彼の胴と脚の部分を、そのまま松の木の幹へ縛りつけてしまった。

「……あっ?」

又八は初めて、こう驚き声を洩らした。小次郎でなくて、六部であったことは、意外であったらしい。

「こら、偽にせ小次郎、よくも逃げ足早く逃げまわって、人に世話を焼かせおったな。……だが、もう駄目だぞ」

六部はこういって、おもむろに又八を拷問ごうもんし始めた。

まず最初の折檻が、平手でぴしりと頬を打って来た。その手でまた、額ひたいをつよく押されたので、又八の後頭部が樹の幹にぶつかってごつんと鈍にぶい音を出した。

「あの印籠は、どこから手に入れたものか、それを申せ、こら、申さぬか」

「…………」

「いわぬな」

と、六部は、又八の鼻をつよく抓つまむ。

抓んでおいて、又八の顔を、左右へ烈しく振り動かすので、又八は妙な悲鳴をあげて、

「……ひゅう、ひゅう」

いう、という意味らしいので六部は鼻から手を放し、

「申すか」

こんどは明瞭に、

「いう」

と、又八が眼からなみだをこぼして答える。

こんな拷問に遭わされないでも、又八はもうあの事を、秘し隠しにつつんでいる勇気はないのである。

「実は、去年の夏のことだったので――」

と、伏見城の工事場で自分が石曳いしびきをしているうちに遭遇した「頤あごのない武者修行」の死をつぶさに話し、

「……つい出来心で、その人の死骸から金入れと、中条流の印可と、それから先刻さっきの印籠とを持って逃げたに相違ありません。金は、費つかってしまいました、印可は懐中ふところに持っております。生命いのちをお助けくださるならば、今というわけには参りませんが、金もきっと後日までに、働いてご返済いたしまする。……はい、証文に書いてお渡しいたしておいてもようございます」

白状して、こう残らずいってしまうと、又八は、去年から絶えず心に病んでいた膿うみをいちどに切って出してしまったようで、急に気がらくになったせいか、なんだか怖いものもなくなって来た。

八

聞き終ると、六部は、

「それに相違ないか」

又八は、神妙に、

「相違ありません」

といって、すこし俯向うつむく。

しばらく黙っていたと思うと、六部は腰の小脇差を抜いて、彼の顔の前へすっと出した。又八は、びくりと斜めに顔を上げ、

「き、きるのか、おれを」

「ウム、生命いのちをもらう」

「おれは、一切を正直にいったじゃないか。印籠は返したし、印可の巻物も返す。それから、金も今は払えないが、後日、きっと返すといってるのに、なにもおれを、殺さなくてもいいだろう」

「おぬしの正直はよく分っている。だが、仔細をいえば、わしは上州下仁田しもにたの者で、伏見城の工事場で大勢の者に殺された草薙天鬼くさなぎてんき様の奉公人なのだ。――つまりあの武者修行に出ておられた草薙家の若党で、一ノ宮源八というのだが」

そんな言葉は、又八の耳には通らなかった。死に直面しているのである。身をもがいて、自分の縄目をかなしみ、どうかして遁のがれたいと思うことだけだった。

「――謝る、おれが悪かったのだ、おれはなにも、悪い量見で、あの死骸から物を盗んだわけじゃない。死人がいまわの際に、たのむ……といったので、初めはその遺言どおりに、死人の身寄りの者へ届けてやるつもりでいたのだが、金につまって、つい預かっていた金へ手をつけたのが悪かったのだ。いくらでも謝るから、勘弁してくれ、どんなようにでも謝るから――」

「いいや、謝られては困る」

六部は、強いて自己の感情を抑えつけているように、首を振って、

「その折の詳しい事情は、伏見の町で調べてあるし、おぬしが正直者だということも見ておるのだから。――だが、わしは国もとにいる天鬼様の遺族に対して、なにか、慰めるものを提げて行かなければ帰れない事情にあるのだ。そこには、いろいろな理わけがあるが、主なる理由は、天鬼様を殺あやめた下手人がないことだ。これにはわしも弱ってしもうた」

「おれが……おれが殺したのじゃないぞ。……おいっ、おいっ、間違えてくれては困る」

「わかってる、わかってる。――そこは十分承知しているが、遠い上州にある草薙家のご遺族たちは、天鬼様が、城ぶしんの作事場で、土工や石工いしくなどになぶり殺しになったのだとはご存じないし、また、左様なことは、外聞がいぶんがわるくて、身寄りの者や世間へも披露いたし難にくい。そこで、おぬしには気の毒な頼みだが、どうかおぬしが天鬼様を殺した下手人となり、この源八に、主しゅの敵かたきとなって、討たれてもらいたいのだが、なんと聞き入れてはくれまいか」

これこそ、ことをわけての頼みというものであるが、又八は、そう聞くと、いよいよもがいて、

「ば、ばかなことをっ……嫌だっ、嫌だっ、おれはまだ死にたくない体だ」

「ごもっともな仰せではあるが、さっき九条の居酒屋で飲んだ払いもできぬほど、その身一つさえ生きてゆくに持てあましておられるご様子ではないか。飢えてこのせち辛い世の中にうろついて、恥をかいておられるより、いっそ、さっぱりと頓証とんしょうなされてはどうでございまするな。――さてまた、お金のことならば、自分が所持のうち何分だけでも、おぬしの香奠こうでんとして進ぜますゆえ、これをお心残りの年寄りがあるならその年寄りへ、また回向えこうとして、先祖の寺へ納めてくれというならばそのお寺へ、必ずお届け申しておくが」

「滅相もねえ……おらお金なんぞはいらねえ、生命いのちが惜しい! ……嫌だっ、助けてくれっ」

「折角なれど、こう仔細を割っておたのみ申した上は、どうあってもおぬしに、主人の敵かたきとなってもらわねば仕方がない。その首をいただいて、上州へ立帰り、天鬼様のご遺族や世間に対して、事情を繕つくろう心底でござる。――又八どのとやら、これも宿世すくせの約束ごととあきらめて下さい」

源八は、刃やいばを持ち直した。

九

「待て待て! 源八」

と、誰かその時いった。

それが、又八の口から出た声であるならば、自分の無法の分っている感情を噛みころしても、目的のためには、

(何をっ)

といったような顔つきであったが――

「や……?」

眼を暗い空へ吊り上げて、耳のせいかとでも疑っているように、梢にうごく風を聴いていた。

すると、そこの宙の上からまた二度目の声がした。

「つまらない殺生をするなよ、源八っ――」

「あっ、誰だ?」

「小次郎だ」

「なに」

またしても小次郎だという人間が今度は空から降りて来そうなのだ。天狗の声にしては親しみがあり過ぎた。いったい幾人偽にせ小次郎がいるのだろうか。

源八は、

(もうその手は食わない)

というように、樹の下から飛び離れると、脇差の先を、宙へ構えて、

「ただ小次郎とだけでは分らぬ。どこの何の小次郎か」

「岸柳――佐々木小次郎さ」

「ばかなっ」

笑い飛ばして、

「その偽物はもう流行はやらぬぞ。今もここで一人、憂き目を見ているのが分らぬか。……ははあ、さては読めた、おのれもここにいる又八とやらの同類か」

「わしは真物ほんものだ。――源八、わしはそこへ跳び降りようと思うのだが、おまえは、降りて来たらわしを真二つに斬ろうとしているな」

「ウム、小次郎の化け物、幾人いくたりでも降りて来い。成敗してみせる」

「斬れたら、偽小次郎だろう、だが真物ほんものの小次郎は、斬れッこない。――降りるぞ、源八」

「…………」

「いいか、おまえの頭の上へ跳ぶぞ、見事に、斬れよ。――だが、わしを宙斬りにし損ねると、わしの背にある物干竿が、おまえの直身すぐみを、竹のように割ってしまうかも知れないぞ」

「アッしばらく――。小次郎様、しばらくお待ちください。……そのお声、思い出しました。また、物干竿の銘刀をご所持のうえは、真まことの佐々木小次郎様に違いありません」

「信じたか」

「けれど――どうして左様なところへは?」

「後で話そう」

――はっと源八は首をすくめたのであった。仰向いている顔を越えて、小次郎の袴はかまの風が、さっと、散り松葉と一緒に、自分のすぐうしろへ落ちて来た。

紛まぎれもない佐々木小次郎を眼の前に見直すと、源八は、かえって、不審の靄もやにつつまれてしまった。この人と自分の主人草薙くさなぎ天鬼とは同門の間がらである。従って、小次郎がまだ上州の鐘巻自斎の許もとにいた時分は、幾度も会ったことがある。

だがそのころの小次郎は、こんな美々しい若衆ではなかった。目鼻だちは幼少からきかない気性をあらわして、凜々りんりんとしていたが、師匠の自斎が、華美は嫌う人であったから、そこの水汲み小僧であった小次郎は、元より質素で色の真っ黒な田舎いなか少年でしかなかった。

(見違えるような――)

源八は見惚れていた。

木の根に腰を下ろして、

「ま、そこへかけないか」

と小次郎はいう。

それから――二人の間に交わされた話によって――師匠の甥おいであり、また同門である草薙天鬼が、自分へ渡す中条流の印可の巻物を持って遊歴中に、伏見城の工事場で、大坂方の間諜とまちがえられて惨死した事情もお互いによく分ってくる。

また、その事件が、世間の中に、佐々木小次郎を二人拵こしらえてしまったわけも分って来て、果ては、手をたたいて、真物ほんものの小次郎はそれを愉快がった。

十

そこでまた、小次郎がいうには――他人の名など騙かたって歩くような、こういう生活力の弱い人間などを殺してみても、いっこう面白くもなんともない。

懲こらすならば、もっとべつな方法がある。また草薙家の遺族や、国許くにもとの世間ていの問題ならば、なにもむりに敵討かたきうちに拵えて、事情を繕つくろわなくても、そのうち自分が上州方面へ下った折、十分死者の面目も立つように釈明して、追善の供養でも営むことにするから、それも自分にまかしておいたがいいではないか。

「――どうだな、源八」

小次郎のことばに、

「そう仰っしゃって下さるからには、私にはなにも異存はございません」

「――では、わしはこれで別れるぞ、おまえも国へ帰れ」

「え、このまま」

「されば、実はこれから、朱実という女子おなごの逃げた先をさがしに行く。――ちと気が急せくから」

「ア、お待ちください。まだ、大事なものをお忘れでございましょう」

「なにを」

「先師の鐘巻自斎様から、甥の天鬼様へ託して、あなたへお譲りなされた中条流の印可の巻」

「ウム、あれか」

「死んだ天鬼様の懐中ふところから抜き取って、この偽小次郎の又八と申す者が、今も肌身につけて所持しておるといいました。――それは当然、自斎先生から、あなたへ授けられたもの。……思えばこうしてお会い申したのも、自斎先生の霊や、天鬼様のおひきあわせであったかも知れません。どうかそれをこの場において、お受取りくださいまし」

源八は、そういって、又八の懐中ふところへ手を突っ込んだ。

どうやら生命は助かりそうな様子なので、又八は、腹巻の底からそれを引出されても、惜しい気もちなどは少しもしなかった。むしろ、その後、懐中ふところも気も軽々した。

「これです」

源八が、印可の巻物を、亡き人に代って小次郎の手へ授けると、小次郎は、押しいただいて感泣するかと思いのほか、

「――要いらない」

と、手も出さない。

意外な顔して、源八は、

「え? ……どうして」

「要らん」

「なぜですか」

「なぜでも、わしにはもうそんな物は、不要だと思うから」

「勿体ないことを仰っしゃる。自斎先生は、多くのお弟子のうちから、中条流の印可を授ける者は、あなたか、伊藤一刀斎か、こう二人よりないと見て、生前から心で許しておいでになったのですぞ。――やがて、いまわの際に、この一巻を、甥おいの天鬼様にあずけて、あなたへ渡せと仰っしゃったのは、伊藤一刀斎は、すでに独自の一派を立てて、一刀流を称しておりますゆえ、おとうと弟子ではあるが、あなたに印可目録をお許しになったものだろうと考えられます。……師恩の有難さ、おわかりになりませんか」

「師恩は師恩、しかし、わしにはわしの抱負があるのだ」

「なんですッて」

「誤解するな、源八」

「余りといえば、師に対して、無礼でございましょう」

「そんなことはない。ありようにいえば、わしは師の自斎先生よりも、もっと秀でた天稟てんぴんを持って生れていると思っている。だから、先生よりも偉くなるつもりなのだ。あんな片田舎かたいなかで晩年を埋うずもれてしまうような剣士で終りたくないのだ」

「本性で仰っしゃるのか」

「――勿論」

と、自分の抱負をいうのになんの遠慮があろうという態度の小次郎であった。

「せっかく、先生はわしへ印可を下すったが、今日においてすら、この小次郎の腕はもう先生以上のものになっていると、わしは自ら信じているのだ。それに中条流という流名も田舎びて、将来ある若い者には、かえって邪さまたげになる。兄弟子の弥五郎が、一刀流を立てたのだから、わしも一流を立てて、行く末は、巌流と称となえるつもりだ。……源八、そういうわしの抱負だから、そんな物は、この身に不要だ。国許くにもとへ持って帰って、お寺の過去帳とでも一緒にしまっておくがいい」

十一

謙譲などというものは、毛ほどもない言葉つきなのである。なんという思い上がった――高慢な男だろうか。

源八は、憎む眼で、小次郎のうすい唇を、じっとねめつけていた。

「――だがのう源八、草薙家くさなぎけの遺族たちへは、よろしくいってください。いずれ、東国へ下った折には、お訪ねするがと」

終りのことばは、こうていねいにいって、小次郎は、にやりと笑う。

高慢な者が意識していうていねいめいた言葉ほど、嫌味で小憎いものはない。源八はむかむかして、亡師に対するその不遜ふそんを詰問なじってやろうと思ったが、

(ばかげている!)

自嘲して――さっさと笈おいずるの側へゆき、印可の巻をその笈の内へ納めると、

「おさらば」

一言捨てて、たったと彼方あなたへ立ち去ってしまった。

後見送って――

「ハハハハ、憤おこって行きおったわい。田舎者め」

それから今度は、樹の幹に悄然しょうぜんとしている又八へ向い、

「偽者にせもの」

「…………」

「これっ偽者、返辞をせぬか」

「はい」

「おぬし、名は何という」

「本位田又八」

「牢人か」

「はあ……」

「意気地のない奴だ、師匠からくれた印可さえ返してやったわしを見習え。それくらいな気概がなくては、一流一派の祖にはなれんと思うからだ。……それをなんだ、他人の名をかたり、他人の印可を盗んで、世間を渡りあるくとは、さもしいにも程がある。虎の皮をかぶっても猫は猫でしかないぞ。あげくの果ては、こういう目に遇うのがオチだ。すこしは身にしみたか」

「以後気をつけます」

「いのちだけは助けてやる。しかし向後こうごのこともあるから、その縄目は、ひとりでに解ける時までそうしておく」

いい渡すと小次郎は、何思ったか、小柄こづかでそこの樹の皮を削りだした。又八の頭の上に、削られた松の皮が落ちて、襟えりの中まで入った。

「ア。矢立を持たなかった」

小次郎がつぶやくと、

「矢立がお入用なら、てまえの腰にたしか差してあったと思いますが」

と、又八が媚びていう。

「そうか、おぬしが持ち合わせておるか、じゃあ借りるぞ」

筆を投げて、小次郎は読み返していた。

巌流――これはふと今、思いついた変え字である。従来は、岸の柳、岩国の錦帯橋で、燕斬りの修練をした思い出を、剣号にしていたのであるが、それを流名とすれば――巌流――このほうがいかにもふさわしい。

「そうだ、これから流儀は、巌流と称いおう、一刀斎の一刀流などより、遥かにいい」

夜も更けた頃である。

紙一枚ほど削った樹の白い肌へ、小次郎は、矢立の筆を執ってこう書いた。

この者、それがしの姓をかたり、それがしの剣名を偽称し、諸国よからぬ事してあるきたれば、捕えて、面貌を衆に示すものなり

わが姓、わが流、天下に二なし

巌流 佐々木小次郎

「よし」

墨のような松かぜが、松林の中を、ぐわっと潮うしおみたいに鳴って行った。小次郎の鋭敏な若さは頭の中ですぐ活動の目標へ変化を取る。今、そんな抱負に燃えていたかと思うと、もう暗い松かぜへ、豹ひょうのような眼を光らせ、

「ヤ?」

朱実の影でも見つけたのか、突然、驀まっしぐらにどこかへ駈け去った。

次男坊

一

輿こしとか、箯輿あんだとか、一部の階級にはそういう乗物も古くから用いられていたが、庶民の交通に実用化されて、市中や街道に駕かごとよばれる物が見えはじめて来たのは、つい昨今の風景といってよい。

竹の四ツ手がついている笊ざるの中へ人間が乗って、後棒と先棒が、

「エ、ホ」

「ヤ、ホッ」

まるで荷物みたいに担かついで来るのだ。

駕かきの脚が幅を飛ぶと、笊が浅いので、乗っている人間は、振りこぼされないように、前後の吊竹つりだけへ両手でつかまって、

「エ、ホ。エ、ホ」

駕かきとともに、呼吸いきを合せて絶えず体を弾はずませていなければならない。

今――この松原の中の街道を、その駕が一挺に提燈ちょうちんが三つ四つ、人数が七、八名ばかり一団になって、東寺のほうから旋風つむじかぜみたいに駈けて来るのが見える。

夜半すぎると、この道すじにはよくそういった早駕や馬の鞭むちが鳴って通る。京都、大坂の動脈になっている淀川の交通が止まるので、火急となると、陸路を夜どおしして来るせいであろう。

「ヤ、サ」

「エ、サ」

「あ、ふ……」

「も少し」

「六条だぞ」

この一団も、三里や四里の近くから来たとは思われない。駕かきも、駕に添って駈けて来る連中も、綿のように疲れきっていて、口から心臓を吐き出してしまいそうな呼吸いきづかいなのである。

「六条か、ここは」

「六条の松原」

「もう一息」

携たずさえている提燈ちょうちんには、大坂の傾城町けいせいまちでつかう太夫紋がついている。しかし、駕の中には、駕からはみ出しそうな大男が乗っているし、それにつき従ってヘトヘトになっている徒歩かちの者もみな勇壮な若者どもばかりであった。

「御舎弟、四条はもうついそこでござりますぞ」

一人が駕へいったが、駕の中の巨漢は、張子の虎のようにガクガク首を振りながら、快こころよげに居眠っているのだった。

そのうちに、

「あっ、落ちる」

と、介添かいぞえの者が駕の外から居眠りを抑えると、この男、とたんに大きな眼をあいて、

「アア喉のどが渇かわいた。――酒をくれ、竹筒の酒をよこせ」

という。

ちょっとの折でもあれば、みな休みたい気持だったので、

「降ろせ、暫時ざんじ」

いうが早いか、

「ううう――」

抛ほうり出すように駕を地へおろして、駕かきも周まわりの若者輩ばらも、いっせいに手拭をつかみ、魚の肌みたいに濡れている胸毛の汗を拭く、顔をこする。

「――伝七郎様、もう沢山はありませぬが」

駕へ竹筒の酒を渡すと、受け取って、それを一息に飲みほしたあげく、

「アア、冷たい! 酒が歯にしみる」

伝七郎と呼ばれた男は、やっと眼を醒ましたように大きく呟く。

その首を、ぬっと、四ツ手の外へ突き出して、空の星を仰ぎながら、

「まだ夜が明けないのか。……おそろしく早かったな」

「お兄上の身になれば、まだかまだかと、一刻も千秋の思いで、お待ちかねでございましょう」

「おれの帰るまで、兄貴の生命いのちが保もっていてくれればいいが……」

「医者は保もつといっておりますが、何分ひどく昂たかぶっていらっしゃるので、時折傷口から出血するのがよくないそうで」

「……むむ、ご無念だろうな」

口を開いて、竹筒を逆さにしたが、もう酒はなかった。

「――武蔵めっ」

その竹筒を大地にたたきつけ、吉岡伝七郎は荒々しくいった。

「いそげっ!」

二

酒もつよいが、癇癖かんぺきもなお強いらしい。もっと強いのは、この男の腕ぶしであって、吉岡の次男坊といえば世間の通り者だった。兄とは両極端な性質で、父の拳法が生きていた頃から、父をしのぐ力量のあったことはほんとで、今の門下でもみな認めている。

(兄貴はだめだよ。あれやあ、親父の跡目など継がないで、おとなしく禄取ろくとりにでもなればよいのさ)

これは伝七郎が面と向ってもいう口吻こうふんなのである。従って兄との仲は至ってよくない。それでも拳法の在世中は兄弟してあの道場に励んでいたものだが、父の死去をきッかけに、伝七郎はほとんど兄の道場では刀とうを持った例ためしがない。去年のこと、友達二、三名と伊勢へ遊びに出かけ、帰りには大和の柳生石舟斎を訪ねるのだといって出たが、京都にはそれきり帰らず、消息もなかったのである。――一年も帰らないからといっても、誰も、この次男坊が飢えているとは案じなかった。わがままをいって、大酒を飲んで、兄貴の悪口をいって、自分は一切働かずに天下を見下みくだし、父の名を時々振廻しておりさえすれば、それで飢えもせずに結構通ってゆく――律義者から見ればふしぎな――次男坊の生活力というものがやはり伝七郎には備わっているからである。(この頃はなんでも、兵庫ひょうごの御影みかげあたりで、誰やらの下屋敷にごろついているそうな)そういう噂は聞えたが、かくべつ気にもとめないでいたところへ――今度の清十郎と武蔵との蓮台寺野事件であった。

瀕死の清十郎が、

(弟に会いたい)

と、あの後でいったことも門弟達の胸を衝いたが、そうでなくとも、一門の者は、

(この不覚を雪そそぐには、御舎弟よりほかにない)

と、善後策を思う途端に、彼の名が誰の頭にも呼び起されていたのだった。

――御影附近というだけで何も分らなかったが、即日、門下の中から五、六名の者が兵庫へ立ち、ようやく伝七郎をさがし当ててこの早駕へ乗せたのだった。

平素、不仲な兄とはいえ、吉岡の名を賭して立合った試合に、兄が瀕死の重傷と敗北の汚名をうけて、今わずかに生死の境にある口から(弟に)と、会いたいような言葉を洩らしたと聞くと、伝七郎は一も二もなく、

(よし、行ってやる)

と、駕に身をまかせ、

(早く、早く)

と叱咤するので、駕かきの肩を乗りつぶし、もうここまでの間に三度みたびか四度も、駕屋を雇い代えたほどだった。

それほど急せき立てるくせに、伝七郎は立場たてば立場へかかると、竹筒の中へ酒を買わせた。非常に感情が昂たかぶっているらしいので、それを慰めるためかも知れないが、ふだんでも大酒なほうだ。それに寒い淀川のふちや田圃たんぼの風に曝さらされて駕は飛ぶので、いくら飲んでも酔わないような気がしているのであろう。

生憎あいにくとまた、その酒が竹筒に切れたので、伝七郎は焦々いらいらしたらしい。――急げっと昂ぶった声を合図に竹筒を捨てたが、駕かきの男も門人達も、何へ不審を起しているのか、松風の闇の彼方かなたへ、

「――なんだろう?」

「ただの犬の声じゃないが」

耳も目も奪われている形で、伝七郎が急せいても、すぐ駕の側へ集まって来ない。

そこで伝七郎がまた、二度目の癇癖かんぺき声を出して、早く駕をやれと呶鳴ると、初めてびっくりしたように、

「――御舎弟、ちょっとお待ちなさい。あれは何事でしょう?」

なにが何事なのか、いっこう他ほかへ気もとめていない伝七郎へ、門人達はそう訊いた。

三

なにも事改まって、そう神経をつかうほどのことでもない。それは、何十匹か何百匹か知れないが、とにかく余程多いらしい犬の吠え合う声なのだ。

いくら沢山でも、犬の声は犬の声に止とどまる。一犬虚を伝えれば万犬――というくらい、あの仲間の騒ぎは余り当てにはならない。まして近頃は戦いくさがなくて人肉に飢えているので、野から町へ移ったいわゆる野良犬が街道筋には群ぐんをなしていることが珍しくない。

「行ってみろ!」

しかるに、伝七郎はこういい、先に立って自分もそれへ足を早めて行った。彼が起つからには、犬の声もただの犬の声でなく、何かの理由わけがあったのであろう。――つづく門人たちも、遅れじという足で駈けてゆく。

「――やっ?」

「――や?」

「――や? 奇態な奴」

果たせるかな、想像以上なものを見た。

木の根に縛られている又八と、その又八を三重四重みえよえに黒々と取り巻いて、彼の肉片でも要求しているような群犬の旋風つむじかぜである。

犬に正義をいわせれば、復讐というかも知れない。又八の刀は先刻犬の血をそこらへ撒まいた。彼の体には犬の血のにおいが沁みている。

そうでなく、犬の智能を人間の極く低い程度として見ると、こいつ意気地のない奴らしい、弄なぶってやれと、面白がっているのかも知れぬ。また、妙なかっこうをしている奴、木を背負って坐っている、泥棒か、躄いざりか、なんだろうかと不審を起して、吠えかかっているのかも分らない。

それがみな狼に似て、腹といえば薄く、脊骨は尖とがり立ち、歯はヤスリに削かけたようなのであるから、孤立無援の又八としては、先刻さっきの六部や小次郎よりも、時間的に数十倍もまさる恐怖だった。

手も足もきかないので、彼の戦闘は、顔と言葉とで防ぐほかなかった。しかし、顔は武器にならないし、言葉は犬に通じない。

そこで、犬にも通じる言葉と、犬にも受け取れる顔つきの二つをもって、先刻から悪戦苦闘の防禦に必死なところであった。

「うううっ――。うわうッ。……うわうッ……」

猛獣の唸る声色こわいろなのである。

犬はタジタジとして少し後退あとずさったが、この猛獣が唸りすぎて、水洟みずばなを垂らしたので、甘く見たか、忽ち効果がなくなってしまう。

声が武器にならなくなると、こんどは顔つきで犬を怖れしめようと計った。

くわっと大きな口を開いて見せると、これには犬も一驚したらしい。眼玉を剥むいて、眼まばたきを怺こらえて見せる。目や鼻や口を、皺苦茶しわくちゃに寄せて見せる。長いベロを伸ばして、鼻の頭まで届かせて見せる――

そのうち、彼も百面相にくたびれてしまい、犬もすこし飽きた様子で、再び険悪になりかかったので、今度は一生の智恵をここに絞って、おれも諸君の仲間であって、諸君とは同じ生き物であるという親善の意を示す考えで、

「――わん、わん、わん! きゃん、きゃん、きゃん!」

犬の啼き声を、犬たちとともに、又八もやってみせた。

ところが、これが却って犬どもの軽蔑と反感を買ったとみえ、俄然、喧々けんけんと争って、彼の顔のそばまで顔を持って来て吠えたり、そろそろ足の先から舐なめ始めて来たりしたので、又八は、ここで弱音よわねを揚げてはと思い、

かかりしほどに

法皇ほうおうは

文治二年の春の頃

建礼門院の大原の閑居

御覧ごろうぜまほしゅうは

思おぼし召されけれども

二月弥生きさらぎやよいのほどは

嵐烈しゅう余寒も未だ尽つきず

峰の白雪消えかねて

大声張りあげて、平家琵琶びわの大原御幸ごこうを夢中で呶鳴りだした。――眼を固く閉じ、顔をしかめ、自分の声でつんぼになれとばかり喚わめいていたところなのであった。

四

幸いにそこへ、伝七郎らが駈けつけて来たので、犬は群れを崩して八方へ逃げてしまい、又八は見得もわすれて、

「助けてくれっ、縄を解いてくれっ――」

吉岡門人のうちには、彼の顔を見知っている者が二、三あった。

「おや、こいつは、よもぎの寮で見たことがある」

「お甲の亭主だ」

「亭主。――亭主はなかったはずだが」

「それは祇園ぎおん藤次の手前だけで、ほんとはこの男がお甲に養われていたのだ」

とやかく取沙汰をし始めたが、かわいそうだ、解いてやれという伝七郎のことばに縄を解いて仔細を訊くと、ここにも又八のいいところはあって、ほんとのことは良心に恥じていわない。

吉岡の者と見たので、彼は自分の宿怨をちょうどよく思い出して、武蔵の名を引きあいに出し、自分と彼とは郷里も同じ作州であるが、彼は自分の許嫁いいなずけを奪って走り、郷土の者に対して顔向けのならない泥を家名に塗られている――

母のお杉は、そのため、もう老年なのに拘らず、武蔵を討ち、不貞の許嫁を成敗せねば郷土へ帰らぬと国を立ち、自分ともどもに、武蔵を討とうと狙っているような次第でもある――

最前どなたやら、自分をお甲の亭主だなどと仰っしゃったが、飛んでもない誤解で、よもぎの寮に身を寄せていたことはあるが、お甲と関係などはない、その証拠には、祇園藤次とお甲とは、あの通り親密で、今では手に手を取って他国へ駈落ちしている事実に徴ちょうしても証明できる――

であるから手前には、そんなことはどうでもよいことで、今最も気にかかるのは母のお杉と敵かたきの武蔵の消息でしかない。今度大坂表にあって聞くところによれば、吉岡殿の御長男は、彼と試合して不覚をとったそうである。そう聞くと矢も楯たてもなく、こうしてはいられないという気持に駆られ、ここまで来たところ十数名のよからぬ野武士に取巻かれ、所持の金子きんすを悉皆しっかい奪われてしまったが、老母を持ち敵を持つ大事な体と――じっと彼らのなすままに任せ、観念の目をふさいでいたところ――

「有難うございました。吉岡家といい、手前といい、武蔵は倶ともに天を戴かざるの仇敵、その吉岡一門の方に、縄を解いて貰ったのも、何かの御縁かもわかりませぬ。お見うけすれば清十郎様の御舎弟かのように存じますが、手前も武蔵を討とうとする者、あなたも武蔵を討とうとなさるお心に違いない。どっちが早く彼を仕とめるか、目的を達した上で、改めてまたお目にかかりましょう」

嘘というものは純粋の嘘ばかりでは成り立たないものと見える、又八がいっている中にも、多少のほんとは交じっている。

しかしさすがに、

(いずれが早く武蔵を討つか)

などとおしまいになって蛇足を加えたあたりから、自分でも気恥かしくなって来たとみえ、

「母のお杉が、清水堂に参籠さんろういたして、大望のため祈願いたしておりますれば、これからその母を訪ねて参るつもり、お礼には改めて、四条道場のほうへ近日出向きまする。お急ぎの場合、お足を止めてなんとも恐縮、では御免下さい」

ボロの出ないうちにとこういって、先へすたすた行ってしまったところなど、苦し紛まぎれとはいえ又八としては出来がよかった。

彼の語るのを、嘘かほんとか疑っているまに立ち去ってしまったのである。門下たちはあきれ顔に、伝七郎は苦笑をながして、

「なんだ……あいつは一体」

後見送って、思わぬ暇つぶしと、舌打ち鳴らしていた。

五

この数日があぶない――と医者がいってから四日目になる。その頃が最悪な容態だった。きのう辺りからはやや気分がよいらしく見える。

その清十郎は、今ぽやっと眸ひとみをひらいて、

(朝か? 夜か?)

と考えてみた。

枕元の有明行燈ありあけあんどんが消えなんとしていた。人はいなかった。次の間に誰やらの鼾声いびきが聞える。看護づかれの人々が、帯を解かずにごろ寝していた。

(鶏が啼いている)

まだこの世に生きている身かと改めて思う。

(生き恥!)

清十郎は、夜具の襟えりで、顔をおおった。

泣いているように指の端が痙攣けいれんしている。

(この先、どの面つら下げて)

こう思うのであろう、男泣きにしゅくっと、嗚咽おえつをのむ。

父の拳法けんぽうの名は、余りに世間へ大き過ぎていた。不肖ふしょうな子は、父の名声と遺産を担になって歩くだけで精いっぱいであったのみか、到頭、それあるがために、身をも家をも、ここへ来て敗やぶってしまった。

(終りだ、もう吉岡の家も)

ぼーっとひとりでに枕元の有明行燈あんどんが消える。部屋の中に、夜明けの光がほの白く映った。朝霜の白い蓮台寺野に立った時のことがまた思い出される――

あの時の、武蔵のまなざし!

今、思っても、毛穴がよだつ。所詮は初めから自分は彼の敵ではなかったのだ。なぜ、彼の前に木剣を投げて、この家名だけでも立つ工夫を未然にしなかったか?

(思い上がっていたのだ。父の名声がそのまま自分の名声であるかのように。――考えてみれば、おれは吉岡拳法の子と生れた以外、なんの修行らしいことをして来たか。おれは、武蔵の剣に敗れる前に、一家の戸主として、人間として、すでに敗北の兆きざしを持っていた。武蔵との試合は、その壊滅の最後へ拍車をかけただけに過ぎない――遅かれ早かれ、このままでこの吉岡道場だけが、いつまで社会の激流の外に繁栄をゆるされているはずはない)

閉じている睫毛まつげの上に涙が白く溜たまる。――ぽろりと、それが耳わきへ流れると彼の心も揺れて、

(なぜおれは蓮台寺野で死ななかったか。……生きたところで――)

と、右腕のない傷口の痛みに眉をふさぎ、悶々と、夜の明けるのを恐ろしく思った。

ど、ど、どっ――と門を打叩く物音がその時遠く聞えた。誰やらが次の間の人々を起しに来る。

「えっ、御舎弟が」

「今、お着きか」

あわただしく出迎えに立って行く者と、すぐ清十郎の枕元へ駈け寄って来る者とがあって、

「若先生、若先生、およろこび下さい。ただ今、伝七郎様が早駕でお着きになったそうでございます。すぐこれへ見えられましょう」

雨戸を開け、火鉢に炭をつぎ、敷物をおいて待つ間もなく――

「ここか、兄貴の部屋は」

伝七郎の声が襖ふすまの外に聞える。久しぶりな!

と思いながら、清十郎は、その弟に対してすら、いまの姿を見られるのが辛い気がした。

「兄上」

入って来た弟へ、清十郎は弱いひとみを上げて、笑おうとしたが笑えなかった。

ぷーん、弟の体から酒の香がにおう。

六

「どうなすった兄上」

伝七郎の余りに元気な様子は、病人の神経に重圧をおぼえるらしい。

「…………」

清十郎は、眼をふさいで、しばらく何もいわなかった。

「兄上、こんな時にはやはり、不肖ふしょうな弟でも、頼みになるでしょう。委細を使いの者から聞くと、取る物も取りあえず、御影みかげを立って、途中大坂の傾城町けいせいまちで旅支度や酒をととのえ、夜を冒おかして、駈けつけてまいったのですぞ。――ご安心なさるがいい、伝七郎がまいったからには、もうこの吉岡道場に、誰が来ようと、一指もささせませぬ」

そして、茶を入れて来た門人へ向い、

「おいおい、茶はいい。茶はいいから、酒を支度してくれ」

「はい」

退さがるとまた、

「おいっ、誰か来て、この障子を閉めろ、病人が寒いじゃないか、馬鹿」

膝を、あぐらに崩して、火桶をかかえ込み、黙っている兄の顔を覗き込んで、

「いったい、勝負はどんな立合い方をやったんです。宮本武蔵などという者は、近頃ちょっと聞え出した男ではありませんか、兄貴としたことが、そんな駈出しの青二才に不覚をとるなんて……」

門人が、ふすまの境から、

「御舎弟さま」

「なんだ」

「お酒の支度ができました」

「持って来い」

「あちらへ用意してございますゆえ、おふろにでもお入りになって」

「湯になんか入りたくもない。酒はここでのむから、ここへ持って来い」

「え、お枕元で」

「いいさ、兄貴とは久しぶりで話すのだ。永い間、仲も悪かったが、こういう時には、やはり兄弟に如しくものはないよ。ここで飲もう」

やがて、手酌で、

「うまい――」

と、二、三献こんつづけ、

「丈夫だと、兄上にも、久しぶりで一杯さすのだが」

などと独り語りにいう。

清十郎は、上眼づかいに、

「弟」

「ウム」

「枕元で、酒はよしてくれ」

「なぜ」

「いろいろ嫌なことが思い出されて、おれは不愉快だから」

「嫌なこととは」

「亡き父上が、さだめし、兄弟の酒には、眉をひそめておいでになろう。――おまえも酒の上から、おれも酒の上から、一つもいいことはしていない」

「じゃあ、悪いことをして来たというのか」

「……おまえにはまだ胆きもにこたえまい。しかし、わしは今、心魂に徹して、半生の苦杯をなめ味わっているのだ……この病褥びょうじょくの中で」

「ハハハハハ、つまらんことをいっている。そもそも兄者人あにじゃひとは線がほそくて、神経質で、いわゆる剣人らしい線の太さがない。ほんとをいえば、武蔵などとも、試合をするというのが間違っている。相手がどうあろうと、そんなことはあなたのがらにないことなのだ。もうこれに懲こりて、あなたは太刀を持たないがいい、そしてただ吉岡二代目様で納まっているんだな。――どうしても試合を挑む猛者もさがあって退のっ引きならなくなった場合は、伝七郎が出て立合ってあげる。道場もこの先は、伝七郎におまかせなさい、きっと、おやじの時代よりは、数倍も繁昌させてみせる。――おれの道場を乗っ取る野心だなどと、あなたさえ疑わなければ、拙者は、きっとやってみせるが」

銚子の底から、もうなくなった酒のしずくを杯へ切っていう。

「……弟!」

清十郎は、ふいに身を起しかけたが、片手のないために、夜具も自由に刎はねられなかった。

七

「伝七郎っ……」

夜具の中から伸びた片手は、弟の腕くびをつよく握った。病人の力は、健康な者にも痛かった。

「お……と、と、と、兄貴、酒がこぼれる」

握られた手の杯を、伝七郎はあわてて持ちかえながら、

「なんです、改まって」

「――弟、おまえに望み通りこの道場を譲ろう。だが、道場を継ぐことは、同時に家名を継ぐことであるぞ」

「よろしい、ひき受けましょう」

「そう無造作にいってくれるな――おれの轍てつをふんで、ふたたび亡父ちちの名を汚すようでは、今つぶした方がいい」

「馬鹿なことを仰っしゃい。伝七郎はあなたとは違う」

「心を入れかえてやってくれるか」

「待ってくれ、酒はやめませんぞ、酒だけは」

「よかろう、酒も程には。……わしが過あやまったのは、酒のせいではない」

「女でしょう。――女ずきはあなたのいけないところだ。こんど体が癒ったら、もう決まった妻をお持ちなさい」

「いや、この機会にわしはすっぱりと剣を捨てた、妻など持とうという気持もない。――ただ一人救ってやらなければならない人間がある。その者の幸福になるのを見届けたら、もう望みはない。野末に茅かやの屋根を結んで果てるつもりじゃ……」

「はて? 救ってやらなければならない人間とは」

「まあいい。――おまえには後を頼むぞ。こういう廃人の兄の胸にもまだ、幾分かの意地とか面目とかいうものは、武士であるからには、未練だが、燃えいぶっている……それを忍んで、おまえにこう手をついていう。……いいか、おれの踏んだ轍てつをまた踏んでくれるなよ」

「よしっ……きっとあなたの汚名は遠からず雪そそいでみせる。だが、相手の武蔵は今、何処にいるのか、その居処いどころはおわかりですか」

「……武蔵?」

と清十郎は、眼をみはって意外なことでもいい出されたように弟の顔を見つめるのだった。

「伝七郎、おまえは、おれが誡いましめているそばから、あの武蔵と立合うつもりか」

「なにを仰っしゃるのだ、今さら、いうまでもありますまい。この伝七郎を迎えによこしたのは、そのおつもりではありませんか。また、拙者も門人も、武蔵が他国へ足をふみ出さないうちにと思えばこそ即座に、取る物も取りあえず、駈けつけて来たのではございませんか」

「思い違いも甚だしい!」

清十郎は首を振った。

先行きを見ているような眼ざしをもって、

「やめろ」

弟へ命じる兄の態度だった。

それが気に入らなかったに違いない、伝七郎は、

「なぜ?」

と突ッかかってゆく。

病人の顔は、弟のその語気から血の気を呼び出されて、うす紅くなった。

「勝てないからだ!」

激越に、こう吐くと、

「たれに」

と、伝七郎も蒼くなっていう。

「武蔵に!」

「たれが」

「知れているではないか。おまえがだ。おまえの腕ではだ――」

「ば、ばかなことを」

わざと大きく笑うように、伝七郎は肩を揺すぶった。そして、兄の手をふりほどいて杯へ自分で酒をついだ。

「――おい門人、酒がないぞ、酒をもって来んか」

八

声を聞いて、弟子の一人が、厨房くりやから酒の代りを運んでゆくと、もうそこの病室に、伝七郎はいなかった。

「……おや」

眼をみはって、その門人は盆を下へ置くと、

「どうなさいました若先生」

夜具の中に俯うつ伏している清十郎の様子に、ぎょっとしたような顔いろを動かして、枕元へ取りすがった。

「呼べ。……呼んで来い。伝七郎にもいちどいうことがある。伝七郎をここへ連れて来い」

「ハ、ハイ」

弟子は、清十郎の語気が、はっきりしているので、ほっとしたらしく、

「はっ、ただ今」

と、あわてて伝七郎を捜しに出て行った。

伝七郎はすぐ見つかった。彼は道場へ出て、久しく見なかったわが家の道場の床に坐っていた。

周まわりには、これも久しぶりで会う植田良平とか、南保なんぽう余一兵衛とか、御池、太田黒などという古参門下が彼を取り囲み、

「お兄上とは、もうお会いになりましたか」

「ム。今会ってきた」

「お欣よろこびだったでしょう」

「そう欣うれしそうでもなかった。部屋へはいるまでは、俺も胸がいっぱいだったが、兄貴の顔を見ると、兄貴もむッつりしているし、俺もいいたいことをいったりして、またすぐにいつもの口喧嘩だ」

「え、口喧嘩を。……それは御舎弟がよくない。お兄上はきのう辺りから小康を得て、すこし容態を持ち直して来たばかりのお体。そういう病人をつかまえて」

「だが……待てよ、オイ」

伝七郎と古参門下とは、まるで友達づきあいの調子だった。

自分をたしなめかけた植田良平の肩をつかまえ、冗談の中にも自分の腕力を示すように揺すぶって、

「――兄貴はおれにこういうのだぞ。――おまえは、おれの敗北をすすぐために、武蔵と立合うつもりだろうが、所詮、おまえは武蔵に勝てん。おまえが斃たおれたらもうこの道場までが亡ぶ、家名が絶える。恥はわし一身のことにして、わしは今度のこと限り、生涯剣を手に把とらないという声明をして身を退ひくから、おまえはわしに代ってこの道場を支え、一時の汚名を、将来の精進で挽回してくれい……と、こういうのだ」

「なるほど」

「なにがなるほど!」

「…………」

捜しに来た門人が、その話のすきを機しおと見て、

「御舎弟様、お兄上が、もいちど枕元へ来てくれと仰っしゃっておりますが」

後ろに手をつくと伝七郎はじろッと、その門人の顔を見て、

「――酒はどうした」

「あちらに運んでおきました」

「ここへ持って来い、皆で飲みながら話そう」

「若先生が」

「うるさい。……兄貴はすこし恐怖症にとッ憑つかれているらしい。酒をこっちへ持って来い」

植田、御池、その他が口をそろえて、

「いやいや酒どころの場合ではない、吾々なら結構ですぞ」

伝七郎は、不機嫌に、

「なんだ貴様たちは。……貴様たちまで一人の武蔵に脅おびえているのか」

九

吉岡という存在が大きかっただけに、受けた打撃もまた大きかったのである。

武蔵から与えられた木剣の一撃は、当主の肉体をああしたばかりでなく、既成勢力の吉岡一門というものを、根底から不具にしてしまった形だった。

(よもや)

と、自尊しきっていた一門の気持がみな崩れ出して、その後始末にしても、以前のような一致は欠いている。

いちど受けた傷手いたでの深刻な苦にがさが、錯然さくぜんと、日が経っても皆の顔にただよっていて、なにを相談するにつけても敗者の傾きたがる消極か――また極端な積極へと走りたがってまとまらない。

伝七郎を迎える前から、

(武蔵へ二度の試合を申しやって、雪辱を試みるか)

(それとも、このまま自重策じちょうさくをとるか)

というこう二つの意見は、古参門下の中にも対立していて、今も伝七郎の意思に同意の顔つきを示す者、暗に、清十郎の考えに共鳴しているらしい者とふたいろあった。

――だが、

(恥は一時のこと、万一これ以上不覚をかさねることでもあっては)

というような隠忍いんにん主義は、清十郎なればこそいえるのであって、古参たちは、胸に思っても、口に出せないことだった。

殊に、覇気はき満々な伝七郎の前では、なおさらである。

「――そんな女々めめしい、卑怯未練な兄貴の言葉を、いくら病中とはいえ、素直に聞いていられるか」

ここへ運び移されて来た杯を取って、めいめいに酒をつがせ、伝七郎は、きょうから兄に代って自分が経営にあたるこの道場に、まず自分流の気分を醸かもそうとするらしい剛毅な風を見せた。

「おれは、断言するぞ、武蔵を打つと! ……。兄がなんといおうと、おれはやる。武蔵をこのまま抛ほうっておいて、家名大事に、道場の維持を考えて行けなどという兄貴のことばは、いったい武士の吐くことばか。そんな考えだから、武蔵に敗やぶれるのは当然だ。――貴様たちも、その兄貴とおれとを、一緒に視みるなよ」

「それはもう……」

と、口を濁した後で、南保なんぽう余一兵衛という古参がいった。

「御舎弟のお力は、我々も信じておりますが……だが」

「だが……なんだ?」

「お兄上のお考えにしてみると、相手の武蔵は一介の武者修行、こちらは室町家以来の御名家、秤はかりにかけてみても、これは損な試合で、勝っても敗けてもつまらない博奕ばくちだと、こう賢明に悟られたのではございますまいか」

「――博奕だと」

伝七郎の眼がキラとむつかしく光ったので、南保余一兵衛はあわてて、

「アア、失言でした。そのことばは取り消します」

皆まで聞かずに、

「これ」

と、伝七郎は彼の襟がみをつかんで突っ立ち、

「……出て行け! 臆病者」

「失言でした、御舎弟……」

「だまれっ、貴様のような卑劣者は、おれと同席する資格がない。――去れッ」

突き飛ばしたのである。

道場の羽目板へ背をぶつけたまま、南保余一兵衛は真っ蒼になっていたが、やがて静かに坐って、

「御一同、永々お世話に相成りました」

それから正面の神壇へも礼儀をして、ついと、邸の外へ出て行った。

――目もくれないで、

「さあ、飲め」

伝七郎は、一同へ酒をすすめていう。

「飲んだうえで、今日からひとつ武蔵の宿所を捜し出してくれい。なに、まだ他国へは出ていまい。勝ち誇って、そこらを肩いからして歩いているに相違ない。――いいか、そのほうの手配と、次にはこの道場だ。こう寂さびれさせて置いてはいかぬ。ふだんの通り稽古を励みあうことだな。……おれも一寝入りしてから道場へ出るよ。兄貴とちがって、おれのはちと烈しいぞ。そのつもりで、末輩にも、これからはびしびしやってもらいたい」

十

それから七日ほど後のこと。

「わかった!」

と外から喚おめきながら、吉岡道場へもどって来た一名の門人がある。

道場では、先頃から伝七郎自身が立って、予告しておいた通り、ひどく手荒い稽古をつけ始めた。

今も、彼のつかれを知らない精力に大勢が辟易顔へきえきがおして、次に名ざしを受けるのを恐れるかのようにみな隅へ寄り、古参の太田黒兵助ひょうすけがまるで子どもみたいに扱あしらわれているのを見ていたところだった。

「待て、太田黒」

伝七郎は木剣をひいて、今、道場の端へ顔をあらわして坐った男へ眼をやり、

「わかったか」

と、そこからいった。

「わかりました」

「どこにいたか、武蔵は」

「実相院町の東の辻――俗にあの辺で本阿弥ほんあみの辻とも呼んでおりますが、そこの本阿弥光悦こうえつの家の奥に、たしかに武蔵が逗留とうりゅうしておる様子なので」

「本阿弥の家に。――はてな? 武蔵のような田舎出の修行者ずれと、あの光悦が、どうして知り合いなのだろうか」

「縁故のほどはよく分りませぬが、とにかく、泊っていることは慥たしかです」

「よしっ、すぐ出向こう」

支度に――と奥へ大股に入ってゆくと、ついて行った太田黒兵助や、植田良平などの古参たちが押し止めて、

「ふいに出向いて行って討つなどということは、喧嘩の意趣めいて、勝っても、世間がよくいいますまい」

「稽古には礼儀作法もあろうが、いざという実地の兵法に、作法はない、勝ったほうが勝ちだ」

「ですが、お兄上の場合がそうではなかったのですから。――やはり、前もって書状をつかわし、場所、日、時刻を約しておいて、堂々とお試合になったほうが立派かと存じますが」

「そうだ、そうしよう、お前たちのいう通りにするが、まさかその間に、また兄貴の言にうごかされて、門人までが止めだてはすまいな」

「異論を抱く者や、また吉岡道場を見限った恩知らずは、この十日ほどの間に、すべてここの門から出てゆきました」

「それでかえって、この道場は強固になった。祇園藤次のような不届き者、南保余一兵衛のような臆病者、すべて恥を知らぬ腰抜けは自分から出て行ったがよい」

「武蔵へ書面をつかわす前に、一応はお兄上の耳へも」

「そのことなら、お前たちではだめだ、おれが行って話を決める」

兄弟ふたりのあいだに、この問題は、まだ十日前のままだった。あれ以来、どっちも自分の意見を曲げないのである。古参の者達は、また争いさかいにならねばよいがと案じていたが、大きな声が洩れてくる様子もないので、さっそく武蔵に宛てて指定してやる二度目の場所や日取を膝ぐみで相談していた。

――と清十郎の居間から、

「おいっ、植田、御池、太田黒、ほかの者も、ちょっと顔をかしてくれ」

清十郎の声ではない。

顔をそろえて行って見ると、伝七郎が一人きりでぼんやり立っているではないか、こんな顔つきの彼を古参の者たちも初めてみた。伝七郎の眼は泣きかけているのだった。

「見てくれ――みんな」

手にひろげていた兄の置手紙を一同へ示して、伝七郎は言葉では怒っていた。

「兄貴のやつ、おれに向ってまた、こんな長たらしい意見手紙を書き、これを残して家出してしまった。行く先も書いてないのだ……行く先も……」

ふくろ路地

一

ふと、針の手を止めて、

「……誰?」

お通つうはいってみた。

「どなた? ……」

縁の障子を開けてみたが誰もいないのである。気のせいであったと分ると、お通はさびしさに囚とらわれて、もう袖付そでつけと襟さえ縫えば仕立てあがる縫物ぬいものにも、つい身が入らなくなってしまう。

(城太さんかと思ったら?)

心の中で呟つぶやいているように、彼女はまだ人なき昼を未練そうに眺めていた。そこに誰か人でも通るような気配さえすれば、城太郎が尋ねて来たのではないかと、すぐ思ってしまうらしいのである。

ここは三年坂の下だった。

ごみごみした街中ではあるが、往来の一側ひとかわ裏には、藪やぶだの畑だのがいくらもあって、椿も咲いていれば、梅も綻ほころびかけている。

お通の姿が見えるそこの一軒家も、裏はよその庭らしい木立に囲まれ、前の百坪ほどは野菜畑になっていて、その畑のすぐ向うには、朝から晩までひどく忙しげな物音をさせている旅籠屋はたごやの台所がある。――つまり、この一軒家も、そこの旅籠屋の持もちで、朝夕ちょうせきの食事も、向うの台所から運んで来ることになっている。

今は――どこへ行ったのか姿はここに見えないが、お杉隠居がなじみの旅籠で、京都に来ればここと決めてあり、ここへ来ればこの畑の中の別棟べつむねがあの婆様ばばさまのお好みであるらしい。

「お通さあ、御飯時ごはんどきやが、もう運んでもようござりますかの」

畑の向うで、台所の女が、こっちへ呶鳴っていた。

お通は、考えごとから醒めて、

「アア御飯ですか。――御飯ならば、お婆様が帰って来てから一緒に食べますから後にして下さい」

すると、台所の女はまた、

「ご隠居さあは、きょうは帰りがおそうなるといって出やはりましたがの。おおかた晩方までのおつもりで出やはったのでございましょうが」

「じゃあ私も、あまりお腹なかがすいておりませんから、おひるはやめておきましょう」

「あんた、ちっとも物を召上がらんで、ようそうしておいでなはるなあ」

どこからともなく、松薪まつまきのいぶる濃い煙が流れて来て、畑の中の梅の樹も、向うの母屋おもやも隠してしまう。

この辺には、陶器やきものつくりの竈かまが所々しょしょにあるので、そこで火入れをする日には絶えず煙が近所をいぶしている。けれど、その煙が去った後は、春先の空がよけいに美麗きれいに見られた。

馬のいななきや清水の参詣人の跫音が、往来の方に騒々ざわざわと聞える。そういう町の騒音の中から、武蔵が吉岡を打ったという噂も聞いた。

お通は、飛び立つように思い、そして武蔵のすがたを瞼まぶたに描いた。

(城太郎さんは、蓮台寺野へ行ってみたに違いない、城太郎さんが来れば詳しいことも……)

と、同時に城太郎の訪れを待つことも痛切になる。

だが、その城太郎がちっとも来ないのだ。五条大橋で別れた限きりであるから――もう二十日余りにもなる。

(尋ねて来ても、ここの家が分らないのかしら? ……いいやそんなはずはない、三年坂の下と教えてあるのだもの、一軒一軒尋ねたって)

そう思ってみたり、また、

(もしや風邪かぜでもひいて寝こんでしまったのじゃないかしら?)

とも案じてみる。

けれど、あの城太郎が、風邪で寝ているなどとは信じられない。――きっと暢気のんきに春先の空へ紙凧たこでも揚げて遊んでいるのかも知れない。お通は、腹が立ってきた。

二

――けれどまた、考えようによれば、城太郎のほうでも同じように、

(なにも、遠い所じゃなし、お通さんだって一度ぐらいは、自分の方から来そうなものじゃないか。烏丸のお館やかたへだって、あのままでお礼もいわないでいるのは悪い)

そんなふうに待っているかも知れないと思う。

そこへ気のつかないお通でもなかったが、お通にしてみれば、城太郎のほうで来てくれるのはいと易やすかろうが、今のところ、自分のほうからお館へ行くということはむつかしい事情にある。お館へとは限らない、たとえどこへ出るにしても、お杉隠居のゆるしを得なければ出ることはできない。

今日のような留守をよい機しおに出かけてしまえばよいじゃないか。――こう事情わけを知らない者は思うかも知れないが、そこにぬかりのあるあの婆ではない。入口の旅籠はたごの者に頼みこんであるから、お通の身には絶えず誰かの眼が光っている。ちょっと往来をのぞきに出ても、

(お通さんどこへ?)

と、旅籠の母屋からすぐ、さり気ない声がかかるのである。

なにしろまた、お杉婆さんといえば、この三年坂から清水の界隈でも、長い馴染なじみだし、顔も通っているらしいのだ。去年、清水の辺で、武蔵をつかまえ、年よりの身で悲壮な真剣勝負を挑んでからのことである。当時、その実情を目撃していたこの土地の籠かごかきだの荷持にもちだのの口からそれが評判になって、

(あの婆は気丈だ)

(えらい気丈者よ)

(敵討に出ているのだとよ)

そんな沙汰からいつとなく、婆の人気はひろまって、一種の尊敬にさえなっている。――だから旅籠の者などなおさらのこと、お杉の口から一言ひとこと、

(ちと仔細ある女子おなごゆえ、留守のまに逃げぬよう看みていてくだされ)

とでも吹き込まれれば、それを守るに忠実なのは当然であった。

いずれにしても、お通はここから今では無断で出ることは許されない。文使ふみづかいをやるにしても、宿の者の手を経なければ出来ない芸だし、結局、城太郎の訪れを待つよりほかに策はなかった。

「…………」

障子の蔭へ身を退ひいて、彼女はまた針の目を運び始めていた。その縫物もお杉の旅着の仕立て直しだった。

するとまた誰か外に人影が映さして――

「オヤ? 違ったかしら」

聞き馴れない女の声がする。

往来から路地をはいって来て、ここの袋地内の畑や離屋はなれに、勝手がちがったらしくこう呟つぶやいているのである。

何気なく、お通は障子の蔭から顔を出してみた。葱畑ねぎばたけと葱畑の間にある道の梅の樹の下に、その女は佇たたずんでいたが、お通の顔を見て、

「あの……」

間まが悪そうに頭を下げ、

「……あの、こちらは、宿屋ではないんでしょうか。路地の入口に、はたごと書いた掛行燈かけあんどんが見えたので、はいって来たんですけれど」

と、引っ込みがつかないように、もじもじしていう。

お通は、それに答えるのも忘れて、女の顔から足の先までを見つめていた。その眸が異様に先へは受け取れたに違いない。袋路地と知らずに間違って入って来た女は、いよいよ、間まが悪そうに、

「どこの家でしょう」

囲まわりの屋根を見まわしたり、ふとまた側の梅の梢こずえへ、

「まあ、よく咲いている」

と、テレた顔を上げて、見恍みとれるような素振そぶりをしたりしていた。

(そうだ、五条大橋で!)

お通はすぐ思い出したが、また人違いではないかとも迷って、記憶へ念を押してみるのだった。――元日の朝であった。あの大橋の欄おばしまで、武蔵の胸に顔を押しあてて泣いていたきれいな娘。――先では知らなかったであろうが、お通には忘れ難い――なにか敵かたきででもあるように、あれ以来絶えず気にかかっていたその女性ではあるまいか。

三

台所の女が、帳場へ告げたとみえて、表から路地を廻って来た旅籠屋はたごやの手代が、

「お女中さま、お宿でございますか」

朱実あけみは落ちつかない眼で、

「ええ、どこなの?」

「ついそこの入口でございますよ、ヘイ、路地の右側の角かどで」

「まあ、じゃあ往来に向っているんですね」

「往来でも、お静かでございますが」

「出入りに眼がつかないような家をと、捜していると、ちょうど路地の角に掛行燈が見えたから、この奥ならと思ってはいって来たんだけれど」と、お通のいる一棟をのぞいて、――

「ここは、お宅の離屋はなれじゃないの」

「はい、手前どもの別棟でございますが」

「ここならばいいのね……。静かそうで……どこからも、見えない」

「あちらの母屋にも、よいお部屋がございますが」

「番頭さん、ちょうどここにいらっしゃるのは、女のお方のようだし……私もここに泊らせてもらえませんか」

「ところが、もうおひと方、ちと気ごころのむつかしいご隠居がいらっしゃいますのでな……」

「かまいません。私はいいけれど……」

「後ほど、お帰りになりましたらば、合宿あいやどをご承知くださるかどうか、伺ってみますが」

「じゃあその間、彼方むこうの部屋でやすんでいましょうか」

「どうぞ。……あちらの部屋だって、きっとお気に召すと存じますが」

手代に従ついて、朱実は旅籠の表口へまわって行った。

「…………」

お通は遂になにもいわずにしまった。なぜ一言ひとことでも訊いてみなかったかと、後では悔いるのであったが、それがいつもいけない自分の性質らしい――と独りで思い沈んでしまう。

今行った女と武蔵は、いったいどういう間がらなのか。

それだけでも知りたい。

五条大橋で見かけた時には、かなりな時間を二人で話していた、いやそれもただの程度ではない、果ては彼女が泣き、武蔵がその肩を抱いていたではないか。

(よもや、武蔵様に限って……)

とお通は、自分の妬ねたみが描く臆測を、みな打消してはみるが、やはりあれからの日は、そのために、ともすると今までは知らなかった複雑な傷いたみを、自分の心に見出すことが多かった。

――自分より美しい女。

――自分よりあの人に近づく機会の多い女。

――自分より才気があって男性のこころを巧みにつかむ女。

今までは、武蔵と自分としか考えていなかったが、お通は急に、同性の世界をながめて、自分の無力がかなしくなった。

――美しいなんて思えない。

――才もない。

――機縁にもめぐまれない。

こういう自分を、ひろい社会の多数の女性に見較みくらべると、彼女は自分の希望が、余りに自分の身に過ぎていて、なにか大それた夢かのように思えてしまうのだった。――ずっと以前、七宝寺の千年杉へよじ登って行ったころの、あの暴風雨あらしよりもつよい勇気は出ないで、五条大橋の朝、牛車の蔭に、しゃがみ込んでしまった時のような弱さばかりが、妙にこのごろの心には棲すむ。

(城太さんの手がほしい!)

痛切に、お通はそう思った。そしてまた、

(暴風雨あらしの中を、あの千年杉の上へよじ登っていたころの自分には、まだ城太さんのような無邪気さが幾らかあったからだろう)

と思い、この頃のように、独り悩んでいる複雑な気持は、そうした処女心おとめごころからいつのまにか遠くなっている証拠でもあろうかと考えて来て、針を運ぶ縫物ぬいもののうえに、何とはなくほろりと涙がこぼれた。

「――いるのか、いやらぬのか。――お通っ、なんでまた灯あかりを燈ともさぬのかやい」

いつの間にか夕闇の迫っていた軒先に、外から戻って来るなりこういうお杉隠居の声がしていた。

四

「お帰りなされませ。――今すぐ灯りの支度をいたしまする」

壁の後ろの小部屋へ立ってゆくお通の背へ、じろりと冷たい眼をくれながら、婆はほの暗い畳へ坐った。

灯りを置いた蔭へ手をつかえてお通が、

「お婆様、おつかれでございましょう。きょうはまたどちらまで……」

「問うまでもあるまいに」

と、お杉は、わざとのように厳いかめしい。

「せがれの又八を尋たずね、武蔵のありかを捜し歩いているのじゃ」

「すこし脚でもお揉もみいたしましょうか」

「脚はさほどでもないが、陽気のせいか、この四、五日は肩が凝こる。――揉んでやろうという気があるなら揉んで賜たもい」

なにかにつけて、この調子なのだった。しかし、それも又八を尋ねあてて、きれいに過去の話をつけてしまうまでの少しの間の辛抱――と、お通はそっと婆の背うしろへ寄って、

「ほんに、お肩が固うございますこと。これでは、呼吸いきがお苦しゅうございましょう」

「歩いていても、ふと胸がつまるように思うことがある。やはり年じゃ、いつなん時、卒中で倒れるかも知れぬ」

「まだ、まだ、若い者も及ばないお元気で、そんなことがあってよいものではございませぬ」

「でものう、あの陽気な権叔父ですら、夢のように死んで逝いった。人間はわからぬよ。……ただわしが元気になる時は、武蔵を思う時だけじゃ。おのれと、武蔵へ初一念を燃やす時は、誰にも負けぬ気が立って来る」

「お婆様……。武蔵様は、そんな悪い人では決してありませぬ。……お婆様のお考え違いでございます」

「……ふ……ふ」

肩を揉ませながら――

「そうじゃったの、そなたにとれば、又八を見みかえて惚れた男じゃもの。――悪ういうて済まなかった」

「ま! ……そんな理わけでは」

「ないとおいいやるか。又八よりは、武蔵が可愛ゆうてなるまいがの。そう明らさまにいうたほうが、物事すべて、正直というものじゃぞ」

「…………」

「やがて、又八に出会うたら、この婆が仲に立って、そなたの望み通り、きっぱり話はつけてやるが、そうなればそなたと婆とは、あかの他人、そなたはすぐ武蔵のところへ走って行って、さぞかしわしら母子おやこの悪口あっこうをいうことであろうわいの」

「なんでそんなことを……。お婆様、お通はそんな女子おなごではございませぬ。元の御恩は御恩として、いつまでも覚えておりまする」

「この頃の若い女子は、口がうまい。ようそのように優しくいえたものじゃ。この婆は正直者ゆえ、そのように言葉はかざれぬ。――そなたが武蔵の妻となれば、そなたも後にはわしが仇じゃ。……ホホホホホ、仇の肩を揉むのも辛かろうのう」

「…………」

「それも、武蔵と添いたいための苦労であろが。そう思えば、堪忍のならぬこともない」

「…………」

「なにを泣いておいやる?」

「泣いてはおりませぬ」

「では、わしの襟もとへ、こぼれたのはなんじゃ」

「……すみませぬ、つい」

「ええもう、むずむずと、虫が這うているようで気持がわるい、もっと力を入れておくれぬか。……めそめそと、武蔵のことばかり考えておいやらずに」

前の畑に提燈ちょうちんの灯りが見えた。いつものように旅籠はたごの小女こおんなが、晩の食事を運んで来たのであろうと思っていると、

「ごめん下さい。本位田様のご老母のお部屋はこちらでございますか」

と、僧形そうぎょうの者が縁先へ立った。

さげている提燈には――

音羽山清水寺おとわさんきよみずでら

と、書いてある。

五

「てまえは、子安堂の堂衆でおざるが……」

と提燈を縁において、使いの僧はふところから一通の書付をとり出し、

「何やらぞんじませぬが、黄昏たそがれ頃、寒々とした風態ふうていのお若い牢人が堂の内をのぞいて――この頃は作州のお婆は参籠に見えぬかと問われますゆえ、いや折々お見えでござる――と答えますと、筆を貸せといい、婆が見えたらこれを渡してくれといって立ち去りました。――ちょうど五条まで用達ようたしに出かけましたので、早速、お届けにあがったような次第で」

「それは、それは、ご苦労さまな」

と婆は人ざわりよく敷物などすすめたが、使いの僧はすぐ戻って行った。

「……はてのう?」

行燈あんどんの下で婆は手紙を繰りひろげた。顔いろが変ったところを見ると、なにかその内容が婆の胸を烈しく揺りうごかしたものと見える。

「お通っ……」

「はい」

と、小部屋の隅の炉ばたからお通が答える。

「もう茶など注ついでも無駄なことじゃ。子安堂の堂衆は帰ってしもうたがな」

「もうお帰りになってしまいましたか。それでは、お婆様に一ぷく」

「人に出しそびれたのでわしへ振向けておくれるのか。わしの腹は茶こぼしではないぞえ、そのような茶、飲みとうもない。それよりすぐ支度しやい」

「……え、どこぞへ、お供するのでございますか」

「そちの待っている話を今夜つけてやろうほどに」

「あ……では今のお手紙は、又八様からでございますか」

「なんなとよいがな、そなたは黙ってついて来ればよいのじゃ」

「それでは旅宿やどの厨くりやへ、早くお膳部を持ってくるようにいうて参りましょう」

「そなた、まだか」

「お婆様のお帰りを待っておりましたので」

「よけいな気づかいばかりしていやる。わしが出たのは午前ひるまえ、今まで食べずにおられようか。午ひると夜食をかねて外で奈良茶のめしを済ましてきました。わが身まだなら急いで茶漬なと食べなされ」

「はい」

「音羽山の夜はまだ肌寒かろう、胴着は縫えているか」

「お小袖はもう少しでございますが……」

「小袖を訊いているのじゃない、胴着を出してたも。それから足袋も洗うてあるか、草履の緒もゆるい。旅宿やどへ告げて、わら草履の新しいのをもろうて来ておくりゃれ」

返辞がしきれないほど、婆のことばが次から次へお通を追う。

なぜという理由もなく、お通はそのことばに一つも反抗はできなかった。黙って見ていられる眼にさえ、心が竦すくむのである。

草履をそろえて、

「お婆様、お出ましなさいませ、お供をいたしまする」

と、先へ出ていうと、

「提燈ちょうちんを持ったか」

「いえ……」

「うつけた女子おなごよの、音羽山の奥まで行くのに灯りなしでこの婆を歩ます気か、旅宿やどの提燈を借りて来なされ」

「気がつきませんでした――今すぐ」

と、お通は自分の身支度は何をする間もない。

音羽山の奥といったが、いったいどこへゆくのだろうか?

そんなこともふと考えたが訊いたら叱られるであろうと思い、お通は黙って灯りを提げながら三年坂を先に立って歩いて行く――

しかし、心の裡で、彼女もなんとなくいそいそしていた。先刻さっきの手紙は、又八からであったに違いない。――とすれば、かねがね婆とかたく約束してある問題の解決を今夜こそはっきり決めてくれることであろう。どんな嫌な思いも辛い気持も、もうわずかな間の辛抱である。

(話がついたら、今夜のうちにも烏丸様のほうへ戻って城太さんの顔を見なければならない――)

三年坂は辛抱坂だった。石ころの多い凸凹でこぼこな坂道を、お通は石を見ながら歩いた。

悲母悲心ひぼひしん

一

滝の音がする――水かさが増すわけでもないが夜は大きく耳へひびく。

「地主権現じしゅごんげんというのは確かこれじゃろが。……地主桜じぬしのさくらと、この樹の立札にも書いてある」

清水寺のわきの山道をかなり登って来たのである。しかし婆は、息が喘きれたともいわない。

「――伜せがれ、伜」

そこの堂の前に立つと、すぐ闇へこう呼ぶ。

顔つきにも、声にも、真実の愛情がふるえていた。後ろに立っているお通には、べつな老婆のように思えた。

「お通、提燈あかりを消すなよ」

「はい……」

「いない、いない」

婆は、口のうちで呟つぶやきながら、そこらを繞めぐり歩いて、

「手紙には、地主権現まで来てくれとあったが」

「今夜と書いてございましたか」

「きょうとも明日あすともしてないのじゃ、幾歳いくつになってもあの子ときては子供じゃでのう。……それより自分で旅宿やどへ来ればよいに、住吉のこともあるので、間まがわるいのじゃろ」

お通は袂たもとを引っぱって、

「お婆様、又八さんではありませんか。――誰か下から登って来るようです」

「エ、いたか」

崖の道をさし覗いて、

「伜――」

やがて登って来た者は、そういうお杉婆には目もくれないで、地主権現の裏へ廻り、またそこへ戻って来ると、立ちどまって、提燈の明りの上に浮いているお通の白い顔を、不遠慮な眼でじっと見る。

――お通は、はっと思ったが、先は何も感じない顔つきである。この元旦、五条大橋のそばでお互いに見かけているはずであるが、佐々木小次郎のほうには、覚えがなかったであろう。

「女子おなご、そこのおばば。お前たちは今ここへ登って来たのか」

「…………」

訊たずね方が唐突なので、お通もお杉婆も、ただ小次郎の派手はで派手しいすがたへ眼をみはっていた。

すると小次郎は、いきなりお通の顔を指さして、

「ちょうど、これくらいな年ごろの女だ。名は朱実あけみといって、もちっと丸顔、がらはこの女子おなごより小つぶだが、茶屋そだちの都会娘みやこむすめ、どこかもそっと大人おとなびている風がある……。見かけないか、この辺りで」

「…………」

黙って、二人が顔を振ると、

「おかしいな? 三年坂の辺りで、見た者があると訊いたのだが、さすれば、この辺の御堂で夜を明かすつもりにちがいないし……」

初めは相手を置いていた言葉であったが、途中から独り言のようになって、それ以上は問いようもなく、なにかまだ、ふたことみこと呟きながら、小次郎はどこともなく立ち去ってしまった。

婆は、舌打ちして、

「なんじゃあの若者は、刀を負うているところを見れば、あれでも侍じゃろが、これ見よがしの伊達だてすがたして、夜まで女のしりを追うていくさる。……ええ、こちらはそれどころじゃない」

お通は、お通でまた、

(そうだ、さっき旅籠はたごへ迷って来たあの女――あの女に違いない)

武蔵と――朱実と――小次郎と――そう三人の関係を、いくら考えても解せない想像の中にのぼせて、ぼんやり見送っていた。

「……もどろう」

婆は、がっかりしたように、諦あきらめの言葉を投げて歩き出した。たしかに地主権現と書いてあったのに、又八は来ないし、滝の音の寒さは毛穴をよだたせる。

二

すこし道を降りてゆくと、本願堂の門前で、また、さっきの小次郎に二人は出会った。

「…………」

顔を見あわせただけで、どっちも黙って通りすぎた。お杉が振向いて見ていると、小次郎の影は子安堂から三年坂のほうへ、まっ直すぐに降りてゆく様子――

「険けわしい眼づかいをするよのう。……武蔵のようじゃ」

つぶやいているうちに、婆の視線がなにへ触れたのか、ぎくと、背のまるい体に衝動を見せて、

「……ほう!」

梟ふくろの啼くような声を出した。

巨おおきな杉の樹の蔭だ。――たれかその蔭に立って、手まねきしている。

婆の目にだけは、闇でもわかる人影だった。又八にちがいない。

(――来てくれ、こっち)

手で物をいっているのはその意味らしい。なにか、憚はばかることがあるとみえる。おお、いじらしい奴――というように婆のひとみはすぐ子の心持を読んだ。

「お通よ」

うしろを見ると、お通は十間ほど先に立って、婆を待っていた。

「――そなた、ひと足先へ行かっしゃれ。そうかというて、あまり遠くへ去いんでもならぬぞよ、あの塵間塚ちりまづかのそばに立っていやい。すぐ後から行くほどに」

お通が、素直にうなずいて先へ行きかけると、

「これこれ、他ほかへ去いんだり、そのままどこぞへ走ろうとしても、婆の目がここから光っていることを知って置きゃい。よいか」

そして、すぐその体は、杉の樹蔭こかげへ走り寄っていた。

「又八ではないか」

「おばばっ」

暗がりから、待ちかねていたような手が出て、婆の手を固くつかんだ。

「なんじゃわれは、そんなところへ竦すくみこんで。……オ、まあ、この子は、氷のようなつめたい手をして」

もうすぐ、そんな些細ささいないたわり心が、婆の目を意気地なくうるませてしまう。

そう叱られても、又八は恟々おどおどした眼で、

「……でもなおばば、今も、たった今もここを通ったろうが」

「誰がじゃ?」

「太刀を背中に負おった、眼のするどい若衆だ」

「知っていやるのか」

「知らいでか、あいつが佐々木小次郎といって、つい先頃、六条の松原で、小っぴどい目にあわされた」

「――なに、佐々木小次郎? ……佐々木小次郎というのは、わがみのことではないのか」

「ど、どうして」

「いつであったか、大坂表でわがみが、わしに見せてくれた中条流の許し書がきの巻物に、そう書いてあったじゃろうが。その時、わがみは佐々木小次郎というのは自分の別名じゃというたではないか」

「嘘だ、あれは嘘なんだ。――その悪戯いたずらがバレてしまい、本物の佐々木小次郎奴めにひどい懲こらしめに遭わされたのだぞ。――実は、おばばのところへ手紙をたのんでから、約束の場所へ出向こうとすると、またもここで彼奴あいつのすがたを見かけたので、眼にとまっては大変と、あっちこっちに隠れ廻って、様子をながめていたというわけ。――もう大丈夫かしら、またやって来ると面倒だが」

「…………」

呆れてものがいえないように、お杉は黙ってしまったが、ひと頃よりはまた窶やつれて、正直に自分の無力と小胆を顔にあらわしている挙動を見ると、婆は、よけいにこの子が愛いとしくなってならないような様子だった。

三

「そんなことはどうなとよい」

婆はもう、わが子の弱音を、それ以上聞きたくもないという顔して、首を振った。

「それよりは又八、おぬしは、権ごん叔父の死んだことを知っていやるか」

「えっ、叔父御が? ……ほんとですか」

「たれがそのような嘘をいおうぞ。住吉の浜で、おぬしと別れるとすぐあの浜で亡くなったのじゃ」

「知らなかった……」

「叔父御の敢あえない死も、この婆がこの年して、こうした憂うい旅たびにさまようているのも、いったいなんのためか、おぬしは分っていやろうがの」

「いつか、大坂で会った折、凍いてた大地にひきすえられ、おばばに存分叱られたことは、胆きもに銘じて忘れてはいない」

「そうか……あの言葉を覚えているか。では、おぬしに欣よろこんでもらうことがあるぞよ」

「なんだ、おばば」

「お通のことよ」

「……あっ! じゃあ、おばばの側に添って、今彼方むこうへ行った女子おなごは」

「これっ――」

たしなめるように、又八の前へ立ちふさがって、

「汝わが身は、どこへおじゃるつもりじゃ」

「お通ならば……おばば……会わしてくれ、会わしてくれ」

うなずいて――

「会わしてやろうと思えばこそ連れて来たのじゃ。――したが又八、おぬし、お通に会ってどういう気か」

「悪かった――済まなかった――ゆるしてくれといって、おれは謝るつもりだ」

「……そして」

「……そしてなあ、おばば……おばばからも、おれの一時の心得ちがいを宥なだめてくれ」

「……そして」

「元のように」

「なんじゃあ? ……」

「――元のように仲をもどして、お通と夫婦いっしょになりたいんだ。おばば、お通はおれを今でも思っていてくれてるだろうか」

皆までいわせず、

「――ばッ、ばかっ」

お杉は、又八の横顔を、ぴしゃりと打った。

「アッ……な、なにをするんだ、おばば」

蹌よろめきながら又八は顔をかかえた。そして乳を離れてから今日まで見たことのない怖ろしい母の顔を彼は見た。

「たった今、おぬしはなんというたぞ。わしがいつかいうて聞かせた言葉は、胆きもに銘じているというたであろう」

「…………」

「いつ、このおばばが、お通のような不埒ふらちな女子おなごへ、汝わが身が手をついて謝れと教えたか。――本位田家の名に泥を塗って、あまっさえ、七生までの仇かたきぞと思うている武蔵と逃げた女子じゃぞよ」

「…………」

「許嫁いいなずけであった汝わが身を捨てて、汝が身とは、家名の仇あだの武蔵へ身をも心をもまかせている犬畜生のようなあのお通に、汝われは、手をついて謝る所存か。……謝る所存かよ! これっ――」

又八の襟がみを諸手もろてにつかんで、婆は振りうごかすのであった。

又八は、首をがくがく動かしながら、眼を閉じて、母の叱言こごとを甘受していた。閉じている眼からは涙がとまらなかった。

婆は、いよいよ歯がゆそうに、

「なにを泣くのじゃ。泣くほど犬畜生に未練があるのかっ。――ええ、もうおぬしという子はいのう!」

力まかせに、わが子を大地へ突き仆した。そして自分も諸仆もろだおれに腰をついて、一緒になって泣き出した。

四

「これ」

厳しい母に返って、お杉は大地に坐り直した。

「今が、汝わが身にとっても、性根しょうねのすえ時。――この婆とても、もう十年二十年先までは寿命も知れぬ。こういう声も、わしが死んでしもうた後は、二度と聞きたいと思うても聞けはせぬぞ」

――分りきったことを――というように、又八は横を向いたままなのである。

お杉は、わが子の機嫌を損じてもならないと、心の隅ではまた、気がねするように、

「のう、これ。お通ばかりが女子おなごではなし、あのような者に未練をのこしゃるな。もしこの先、おぬしが、ほしいと望む女子があれば、この婆がその女子の家へお百度踏んで通うても――いやわしが生命いのちを結納ゆいのうに進上しても、きっと貰うてやりまするがの」

「…………」

「――だがの、お通だけは、金輪際、本位田家の面目として、持たすことは相成らぬ。おぬしが、なんといおうが、まかりならぬ」

「…………」

「もし、飽くまでおぬしがお通と添う気なら、この婆が首打ってそれからどうなとしやるがよい。わしの生きているうちは――」

「おばば!」

突っかかって来たわが子の権けんまくにお杉はまた、膝に角を立てて、

「なんじゃ、そのいいざまは」

「じゃあ訊くが……いったいおれの女房にする女は、おばばが持つのか、おれが持つのか」

「知れたことをいやる、わが身のもつ妻でのうてなんとする」

「……な、ならば、お、おれが選ぶのが、あたりまえじゃないか。それを」

「まだそのように聞きわけのないことばかり……。汝わが身はいったい幾歳いくつになるのか」

「だって……い、いくら親だってあんまりだっ、勝手すぎる」

この息子とこの母親とは、どっちも余り隔てを知らないために、ややともすると感情と感情ばかりが先に立って、感情を出した後から言語が出るという始末だった。そのためにかえって、お互いが理解をはぐらかし、すぐ角つの突きあいになるくせがあった。それはたまたまの場合だけではなく、家庭にあったむかしから、そういう家風であったが、まだ習性となっているのだった。

「勝手とはなんじゃ、汝わが身はそもそも、たれの子か、たれの腹から、この世には生れて来たか」

「そんなこといったってむりだ。おばば……おれはどうしても、お通と添いたい。――お通が好きなんだっ」

さすがに、青ざめている母の顔へ向ってはいえずに、又八は、空へ向いてうめいた。

お杉の尖っている肩のほねが鳴るようにふるえ出した、――と思うと、やにわに、

「又八、本性か」

と、いって、いきなり自分の脇差を抜いて喉のどへ突きたてようとした。

「あッ、おばばなにするっ――」

「ええもう、止めだてしやるな。それよりはなぜ、介錯かいしゃくするといわぬか」

「ば、ばかなことを。……おばばが死ぬのを、おれが……子が見ていられるか」

「では、お通をあきらめて、性根を持ち直してたもるか」

「じゃあ、おばばは一体、なんのために、お通をこんなところへ連れて来たのだ。おれにお通のすがたを見せびらかすのだ。――おれには、おばばのその肚がわからぬ」

「わしの手で殺すは易いことじゃが、元々、汝わが身を裏切った不貞な女、汝が身の手で成敗させてやりたいと思う親ごころのそれも一つ、有難いとはなぜ思わぬか」

五

「それじゃあ、おばばは、おれの手でお通を斬れというのか」

「……嫌か!」

鬼のことばのようである。

又八は、自分の母の中に、こんな声を出す性質があったろうかと疑った。

「嫌なら嫌といえ。猶予ゆうよはならぬことじゃ」

「だ……だって、おばば」

「まだ未練をいいおるか。エエ、もうおのれのような奴、子でない、母でない! ……。女の首は斬れまいが、母の首なら斬れるであろう。介錯かいしゃくしやい」

元より脅おどしに違いないが、脇差を取り直して、婆は自害のていを見せた。

子のわがままもずいぶん親をてこずらすが、親の駄々も随分子どもをてこずらす場合がある。

お杉のもその一例に過ぎないが、この年寄は下手へたをすると、ほんとにやりかねまじき血相けっそうなのだ。息子の眼から見ても、ただの仕ぐさとは見えないのである。

又八はふるえ上がって、

「おばば! ……そ、そんな短気なことをしなくっても。……いいよ、わかった、おれは諦あきらめる」

「それだけか」

「成敗せいばいしてみせる。おれの手で……おれの手でお通を」

「殺やるかよ?」

「ム。殺やってみせる」

婆は、うれし泣きに泣いて、脇差を捨てた手で、子の手を押しいただいた。

「よういやった、それでこそ本位田家の世継ぎ息子、あっぱれ者と御先祖さまも仰っしゃろう」

「……そうかなあ?」

「討って来い。お通は、すぐこの下の塵間塚ちりまづかの前に待たせてある」

「ウム……今行くよ」

「お通を首にして、添状付けて、先に七宝寺へ送りとどけてやろうぞ。村の者のうわさだけでも、わしらの面目が半分は立つ。――さて次には武蔵めじゃが、これも、お通を討たれたと聞けば、意地でもわしら母子おやこの前へ出て来るじゃろう。……又八、はよう行って来い」

「おばばは、ここで待っているか」

「いや、わしも尾ついて行くが、わしが姿を見せると、それでは話がちがうのなんのと、お通めがわめいてうるさかろう。わしは少し離れた物蔭から見ております」

「……女ひとりだ」

よろりと又八は立って――

「おばば、きっとお通は首にして来るから、ここで待っていたらいいじゃないか。……女ひとりだ、大丈夫、逃がしゃあしない」

「でも、油断をしやるなよ、あれでも刃物を見れば、相当に手抗てむかいはするぞ」

「いいよ……なにくそ」

自分をこう叱咤しったしながら、又八は歩きだした。不安そうにお杉婆もその後に尾ついて、

「よいか、油断するなよ」

「なんだおばば、尾いて来るのか。待っていろ」

「よいわ、塵間塚ちりまづかは、まだその下――」

「いいといったら!」

又八は、癇かんを破って、

「二人でゆくくらいなら、おばば一人で行って来い。おれはここで待っている」

「なにを渋っていやるのじゃ、おぬしはまだ本心からお通を斬る気になっておらぬの」

「……あれだって人間だ、猫の子を斬るような気持じゃ斬れない」

「無理もない……たといどのように不貞の女でも、元はおぬしの許嫁いいなずけであったげな。……よいわ、ばばはここにいましょう、おぬし一人で行って見事にして来やれ」

又八は返辞もせず、腕ぐみをしたまま、ゆるい崖の道を降りて行った。

六

さっきからお通は、塵間塚のまえに佇たたずんでお杉婆の来るのを待っていた。

(いっそ、こんな時に)

と逃げる隙を考えないでもなかったが、それでは二十日はつかあまり怺こらえてきた忍苦がなんの意味もなさなくなってしまう。

(もう少しの辛抱)

お通は、武蔵を思い、城太郎のことを考え――そしてぼんやり星を見ていた。

武蔵を胸に描いていると、彼女の胸には無数の星が輝いた。

(今に。今に……)

夢みるように、将来ゆくすえの希望をかぞえてみる。また国境の山でいった彼のことばを――花田橋のたもとでいった彼の誓いを――胸のうちで繰返してみるのだった。

たとい年月が経っても、それを裏切る武蔵ではないことを、彼女はかたく信じていた。

――ただ朱実あけみという女性を思いうかべると、ふと厭な気持がして、希望に暗いかげを映さしてくるが、それとても、武蔵に対する強固な信頼にくらべれば物の数でもない、不安というほどな憂いでもない。

(花田橋で別れたきり、会えもしない、話せもしない……。それでも自分はなにかしら楽しい。沢庵たくあんさんは可哀そうなというけれど、こんな幸福でいるわたしが、どうして沢庵さんの眼には、不幸に見えるのかしら……)

針のむしろに坐って針の目を運んでいる間も――待ちたくない人を待って暗い淋しい中に佇んでいる間も――彼女はひとりで楽しむことに楽しんでいるのだった。そして他人には空虚に見える時が、いちばん彼女の生命の充実している時だった。

「……お通」

婆の声ではない。――誰かこう暗がりから呼ぶ者があった。お通はわれに返ったように、

「……え。どなたです」

「おれだよ」

「おれとは」

「本位田又八だ」

「えっ?」

跳とび退のいて――

「又八さんですって」

「もう声まで忘れたかい」

「ほんに……ほんに又八さんの声ですね。婆様に会いましたか」

「お婆は、彼方むこうに待たせておいた。……お通、おまえは変らないなあ。七宝寺にいた時分と――ちっとも変っていない」

「又八さん、あなたはどこにいるんですか。暗くてあなたの姿はわかりません」

「そばへ行ってもいいかい。……おれは面目ない気がして、先刻さっきからここへ来ていたが、しばらく後ろの闇にかくれて、おまえの姿を見ていたんだ。……おまえはそこで今、なにを考えていたのか」

「べつに……なにも」

「おれのことを考えていてくれたのじゃないのか。おれは一日だって、おまえのことを思い出さない日はなかったぜ」

そろそろ歩み寄って来る又八の姿がお通の眼に映った。お通は婆がいてくれないので、不安に襲われた。

「又八さん、お婆様から、なにか話を聞きましたか」

「ア、今この上で」

「じゃあ、私のことを」

「うむ」

お通は、ほっとした。

かねて婆も約束してくれた通りに、自分の意思は、婆の口から又八へ通じてくれたものと思った。そして又八はその承諾を与えてくれるために、ここへ一人で来たのであろうと解釈していた。

「婆様からお聞きならば、私の気持はもう分ってくれたはずですが、私からもお願いいたします、又八さん、どうぞ以前のことは、縁のなかったものと思って、今夜かぎり忘れてくださいましね」

七

老母ははとお通との間に、どんな約束が交わされていたのだろうか。元よりお婆のいい加減な子ども騙だましには違いない。そう考えられるので又八は、お通が今いったことばにも、

「いや、まあ、お待ち」

顔を先に振って、そのことばの底にある彼女の意思を問おうとしなかった。

「――以前のことなんかいわれると、おれは辛い。まったくおれが悪いのだ。今さら、おまえにあわせる顔もない次第で――おまえのいう通り、これが忘れられるものならば、忘れてしまいたいと山々思う。だが思うだけで、なんの因果か、おれはおまえを諦あきらめきれない」

お通は、当惑して、

「又八さん、二人の心と心のあいだには、もう通うもののない深い谷間ができました」

「その谷間に、五年の年月が流れて行ったのだ」

「そうです、年月が返らぬように、私たちのむかしの心も、もう呼びもどすことは出来ません」

「で、できないことはないよ! お通、お通っ」

「いいえ。――できません」

お通のそういう冷ひややかな語尾と顔いろに驚いて、今さらのように眸をすえてしまう又八であった。

情熱が表にあらわれる時は、真紅しんくの花と太陽の狂いあう夏の日を思わせるような性質のあるお通の一面に――こんな冷やかな――まるで白い蝋石ろうせきを撫でるような感じのする――そして指を触れれば切れそうな厳しい性格が、どこに潜ひそんでいただろうか。

そういう冷たい面おもての彼女を見ていると、又八の頭にはふと、七宝寺の縁側が思い出された。

――あの山寺の縁側で、なにか考えごとをしながら、うるみのある眼で、半日でも一日でも、空を見て黙っている時の孤児のすがたを。

母も雲――父も雲――兄弟はらからも友達も雲よりしかないと思っているような――孤児の生おい立ちの中に、いつのまにか、育はぐくまれていた、この冷たさに違いない。――又八はそう思った。

そう考えたので、彼は彼女のそばへそっと寄って、棘とげのある白薔薇しろばらへ触さわるように、

「……やり直そう」

頬へささやいた。

「……ね、お通。――返らない年月を呼んでみたって始まらないじゃないか。これから二人して、やり直そう」

「又八さん、あなたはどこまで考え違いをしているのですか。私のいっているのは、年月のことではありません、心のことです」

「だからさ、その心を、おれはこれから持ち直すよ。自分でいいわけしても変だけれど、おれがやった過あやまちぐらいは、若いうちは誰にだってあり勝ちな話じゃないか」

「どう仰っしゃっても、私の心はもうあなたの言葉を本気で聞こうといたしません」

「……わるかッたよ! こんなに男が謝っているのじゃないか……え、お通」

「およしなさい、又八さん、貴方もこれから男のなかへ生きてゆく男でしょう。こんなことに……」

「でも、おれには、生涯の重大事だ。手をつけというなら手をつく。おまえが、誓いを立てろというなら、どんな誓いでもきっと立てる」

「知りません!」

「そう……怒らないでさあ……ね、お通、ここじゃあ、しんみり話ができないから、どこか、ほかへ行こう」

「嫌です」

「おばばが来るとまずい。……早く行こう。おれには、とてもおまえを殺せない。どうして、おまえを殺せるものか」

手を取ると、その手は、又八の指をつよく振り切って、

「嫌ですッ。殺されても、あなたと一つの道を歩くのは嫌ですっ」

八

「嫌だと?」

「ええ」

「どうしても」

「ええ」

「お通、それではおまえは、今まで武蔵を思っていたのだな」

「お慕いしています――二世まで誓うお人はあのお方と心に決めて」

「ウウム……」

又八は身をふるわして、

「いったな、お通」

「そのことは、婆様の耳へも入れてあります。そして、婆様からあなたに告げ、この際、はっきりと話をつけた方がよいと仰っしゃるので、こういう折を今日まで待っていたのです」

「わかった……おれに会ってそういえと――それも武蔵の指図だろう。いいやそうに違いねえ」

「いいえ、いいえ。自分の生涯を決めること、武蔵様のお指図はうけません」

「おれも意地だ。――お通、男には意地があるぞ。てめえがそういう量見ならば……」

「なにするんですッ」

「おれも男だっ。おれの生涯を賭けても、武蔵と添わせてたまるものか。――許さぬっ! たれが許す!」

「許すの、許さぬのと、それは誰に向ってなんのことを仰っしゃるのですか」

「てめえにだ! また武蔵にだ! お通、貴様は武蔵と許嫁いいなずけではなかったはずだぞ」

「そうです……、けれども、あなたがそう仰っしゃる筋はございますまい」

「いや、ある! お通というものは、もともと本位田又八の許嫁だ。又八がうんといわねえうちは、誰の妻になることも出来ないはずだ。ましてや……武……武蔵ずれに!」

「卑怯です、未練です、今さらそんなことがよういえたもの。私はあなたとお甲という人との二人名前で、ずっと前に、縁切状をいただいてありました」

「知らないっ、そんな物をおれは出した覚えがない。お甲が勝手に出したのだろう」

「いいえ、その状には貴方が立派にない縁とあきらめて、他家へ嫁かたづいてくれと書いてありました」

「み、見せろ、それを」

「沢庵さんが見て、笑いながら鼻をかんで捨ててしまいました」

「証拠のないことをいっても世間へは通るまい。おれとお通とが許嫁だということは、故郷くにへ行けば知らない者はない。こっちには幾らでも証人が立てられるが、そっちには証拠のない話だ。……なあお通、世間を狭くしてまで、無理に武蔵と添ってみたって、倖しあわせに暮せるはずはないぜ。おまえは、お甲のことをまだ疑っているかも知れねえが、あんな女とは、もうきれいに手を切っているのだ」

「伺ってもむだなこと、そんな話、お通の存じたことではありません」

「……じゃあこれ程に、おれが頭を下げても」

「又八さん、あなたは今、おれも男だと仰っしゃったではありませんか。恥を知らない男などへ、どうして女の心がうごきましょう。女の求めている男は、女々めめしくない男です」

「なんだと」

「お離しなさい、袂たもとが切れますから」

「ち、ちくしょうっ」

「どうするんですっ――なにをなさるのです」

「もう……これまでいっても分らねえなら、破れかぶれだ」

「えっ……」

「生命いのちが惜しいと思ったら、武蔵のことなど思いませんと、ここで誓え、さあ誓え」

袂を離したのは、刀を抜くためであった。刃やいばを手に抜くと、刃が人間を持ったように、又八の人相はまるで変ってしまった。

九

刃物を持った人間はそう怖こわいものではないが――しかし、刃物に持たれている人間は怖い。

お通がとたんに、

ひいっ――と声をあげたのも、刃物の先よりも、又八の顔にあらわれたその恐こわさだった。

「よくも。――この阿女あま」

又八の刀は、お通の帯の結び目をかすめていた。

(逃がしては)

と、焦心あせって来て、又八は、

「おばば、おばばっ」

と、お通を追いかけながら、一方へは呼び立てる。

声が届いたとみえる、お杉婆は彼方あなたで、

「おう」

といった。

跫音を目あてに走って来ながら婆は、

「仕損じたか」

自分も小脇差を抜いて、うろうろ慌あわてまわる。

又八が彼方あなたから、

「そっちだ、おばば、捕まえろっ」

呶鳴りながら駈けて来るのを見て、婆は眼を皿のようにし、

「ど、どこへ」

と、道を塞ふさいでいた。

しかし、お通の影は見えないで、又八のからだが打ぶつかるように眼の前へ来た。

「斬やったかよ」

「逃がした」

「阿呆っ」

「――下だ。あれがそうだ」

崖へ臨んで駈け降りていたお通は、崖の下の樹の枝に袂たもとをとられて踠もがいていた。

滝つぼに近いところとみえ、水音が闇を走ってゆく。足もとなどは見ようともしないのだ。お通は綻ほころびた袂をかかえ、転ぶようにまた駈け出した。

母子おやこの跫音はすぐ迫って来た。婆の声で、

「しめたぞよ」

というのが耳の後ろから聞える。お通はもう逃げても無駄な気がしてしまった。それに、前も横も壁で囲まれているように暗いそこは崖の低地でもある。

「又八っ、はよう斬れ。――それ、お通めが倒れくさったぞ」

婆に叱咤されて、今は完全に刃物に躍らされている人間の又八は、豹ひょうのように前へ跳んで、

「――畜生っ」

と、萱かやの枯れ穂や灌木かんぼくの間へ転まろびこんだお通を目がけて、刀を振りおろした。

木の枝の折れる響きがしたと思うと、その下から――きゃっと、生きたものの絶命と血しおが刎はねあがった。

「この阿女あま、この阿女」

三太刀、四太刀、まるで血に酔ったように眼をつりあげた又八は、灌木の枝や萱の穂もろとも、刀も折れよとばかり、幾度もそこを撲りつづけた。

「…………」

撲りくたびれると、又八は血刀をさげたまま、茫然と、血の酔いから醒めかけた。

――掌てを見ると掌にも血。――顔を撫でると顔にも血。温ぬるい、粘ねばりのある液体が、燐りんのように体じゅうへ刎はねているのである。

その一滴一滴が、お通の生命いのちの分解されたものかと思うと、彼はふらふらと眩めまいを感じ、見る間まに、顔が青ざめてきた。

「……ふ、ふ、ふ。……伜せがれよ、とうとう斬りおったのう」

お杉婆は、茫然としている息子の後ろから、そっと顔を突き出して、滅茶滅茶に薙なぎ伏せられている灌木と草むらの底をじっと見入った。

「よい気味! ……もうびくともせぬわ。――出来でかしたぞよ伜。やれやれこれで胸のつかえが半分はさがったというもの。故郷くにの衆へ幾分か面目が立つわいのう。……又八、これ、どうしたぞよ。はよう首を斬れ、お通の首を揚げい」

十

「ホ、ホ、ホ」

婆は、息子の小胆をわらいながら、

「――意気地ないやつ。人間ひとり斬ったくらいで、肩で息をつくようなことでどうするぞ。汝わが身に首が掻けぬなら、婆が首を揚げてくれる。――そこを退どきゃい」

前へ出ようとすると、自失したように棒立ちになっていた又八の手が、握っている刀の柄頭つかがしらで、いきなり老母ははの肩をどんと突いた。

「――わっ、な、なにしやる」

あぶなく、婆も底のわからない灌木の中へ腰をつこうとしたが、辛からくも足元を支え止めた。

「又八、汝わが身は、気でもちごうたのか。老母ははに向って――なんたることをしやる」

「おふくろ!」

「……なんじゃア?」

「…………」

異様な声を、鼻と喉のどの境に呑みころしながら、又八は、血のついている手の甲で眼をこすった。

「……おら……おらあ……お通を斬った! お通を斬った」

「賞ほめてやっているではないかよ。――それをなんで汝わが身は哭なくか」

「哭かずにいられるかっ。……馬鹿、馬鹿っ、馬鹿婆アめ!」

「かなしいのか」

「あたりまえだ! おばばのようなくたばり損そこないが生きていなければ、おれは、どんなことをしても、もいちど、お通の気持を取りもどして見せたんだ。くそっ、家名がなんだ、故郷くにの奴らへの面目がなんだ。……だが、もう駄目だ……」

「知れた愚痴をいやる。それほど未練があるのなら、なぜ婆の首を打って、お通を助けなかったのじゃ」

「それが出来るくらいなら、おれは哭ないたり愚痴をいったりしやしねえ。世の中に、分らずやの老としよりを持ったくらい、不倖せなことはねえ」

「よしたがよい、なんのざまじゃ、それは……。折角、出来でかしおったと賞ほめているのに」

「勝手にしろ。……おれはもう一生涯、やりたい放題のことをやって、出たら目に送ってやるぞ」

「それが汝わが身の悪い気質たちじゃ。たんと駄々をいうて、この年老としとった母を困らせるがよいわ」

「困らしてやるとも、くそったれ婆め、鬼婆め!」

「オオ、オオ。なんとでもいうがよいわい。さあさあ、そこを退のきなされ。今、お通の首を掻き切って、それからとっくりと話して進ぜる」

「た、たれが、薄情婆の談義などを聞くかっ」

「そうでない、胴を離れたお通の首を見てからじっと考えてみるがよいわさ。美貌きれいがなんじゃあ……美しい女子おなごも死ねば白骨……色即是空しきそくぜくうを目に見せて進ぜよう」

「うるせえッ、うるせえッ」

又八は、狂わしげに、強くかぶりを振って、

「……アーア。考えてみると、おれの望みはやっぱりお通だった。時々、これじゃいけないと思って、なにか立身の途みちを捜そう、なにか一つ励みを出そうと、真面目な奮発が起るのも、その時には、お通と添うことを考えているからだった。――家名でもねえし、こんなくそ婆アのためでもねえ。――お通が望みにあったればこそ」

「よしないことをいつまで嘆いておじゃるぞ。その口で念仏でもいうてやったがまだましじゃぞ。……なむあみだぶつ」

いつの間にか、婆は又八の前へ出て、血を撒まき散らしたような灌木や枯草を掻き分けていた。

……その底に、黒い仏体が俯うつ伏している。

婆は、草や枝を折り敷いて、いんぎんにその前へ坐った。

「……お通、わしを恨むな、仏となれば、わしもそなたに恨みはない、すべては約束ごと。頓証菩提とんしょうぼだい」

手で探り寄りながら――探り当てた黒髪らしいものをきゅっとつかんだ。

「――お通さん!」

その時、音羽の滝のうえの辺りで、こう誰か呼んだ声が、樹の声か、星の声かのように、暗い風の中をまわって、この低地へも聞えて来た。

鍬くわ

一

どう巡りあわせて、こんな所へ、宗彭沢庵しゅうほうたくあんが今頃やって来たわけか。

元より、偶然であろうはずはないが、いかにも唐突に似て、いつも自然である彼の姿が、今夜ばかりは不自然に思える。まずその事情わけがらを先に糺ただしてみたいが、今はその由来因縁を彼に問うている遑いとまもなさそうなのである。

――なにしろ、あの何時いつも、のほほんの沢庵坊にしては、めずらしいほど慌あわてていて、

「おオい、どうじゃい、宿屋さん、見つかったかい?」

彼とは、べつな方角を捜しまわって来た旅籠はたごの手代が、彼の方へ駈けて来て、

「見当りませんよ、どこにも――」

と、あぐねたようにいって額ひたいの汗を拭く。

「変だね」

「おかしゅうございますな」

「おまえの聞き違いじゃないのか」

「いいえ、確かに、夕方清水堂のお使いが見えてから、急に、地主権現じしゅごんげんまで行ってくると仰っしゃって、手前どもの提燈ちょうちんをお持ちになったのですから――」

「その地主権現というのが、おかしいじゃないか。この夜中に、なにしに行ったのだい」

「どなたか其処そこで待ち合っていらっしゃるようなお話でしたが」

「ならばまだいそうなものだが……」

「誰もいませんな」

「さあて?」

沢庵が、腕を拱くむと旅籠の手代も共に頭をかかえて、独り言に、

「子安堂のそばの燈明番とうみょうばんに聞いたら、あのご隠居と若い女子おなごが、提燈を持って、登って行くすがたは見たといいましたね。……それから三年坂のほうへ降りたという者も誰もいないし」

「だから、心配になるんだよ。ひょっとすると、もっと山の奥か、もっと道のないような場所かも知れぬ」

「なぜでございます」

「どうやら、お通さんは、おばばのうまい口に乗せられて、いよいよ、あの世の門口まで、攫さらわれて行ったらしい……アア、こうしている間も心配になる」

「あのご隠居は、そんな恐ろしいお方ですか」

「なあに、いい人間だよ」

「でも、あなたのお話を伺うと……思い当ることがございますんで」

「どんなこと」

「きょうも、お通さんと仰っしゃる女子おなごが、泣いておりました」

「あれはまた、泣虫でな、泣虫のお通さんというくらいなんだよ。……だが、この正月の一日ついたちから側に引き寄せられていたといえば、だいぶチクチク虐いじめられたろうな。かあいそうに」

「息子の嫁じゃ嫁じゃと仰っしゃっておいででしたから、お姑しゅうとなれば、仕方がないと思っていましたが、……じゃあなにか恨み事があって、一寸だめし五分試しに虐いじめていたわけでございますね」

「さだめしお婆はたんのうしたろうが、夜陰やいん、山の中へ連れ込んだところを見ると、最後の思いをはらそうというつもりだろう。恐こわいのう女は」

「あの隠居様などは、女の部類へははいりませんよ。ほかの女子おなごたちが大迷惑をしまさあ」

「そうではないな、どんな女たちにも、ちょっぴりずつはあるものらしい。お婆のは、それがつよいだけだ」

「お坊さんだから、やはり女子はきらいとみえますな、そのくせ先刻さっきは、あの隠居様のことを、いい人間だといったりしたが」

「いい人間であることにまちがいはないのだよ。あのおばばでも、清水堂へ日参するというじゃあないか。観音さまへ数珠ずずをさげている間は、観音さまに近いおばばになっているわけだからの」

「よくお念仏もいっておりますぜ」

「そうだろう、そういう信仰家という者は世間にたくさんあるものだよ。外では悪いことをしてきながら、家へはいるとすぐお念仏。眼では悪魔のすることを捜しながら、お寺へ来ればすぐお念仏。人を撲っても、後でお念仏さえいえば、罪障消滅、極楽往生、うたがいなしと信じている信心家だ。こまるね、ああいうのは」

といって、沢庵はまたすぐ、そこらの闇をあるき出して、滝つぼのある山の沢へ、

「おーいっ、お通さあん」

二

又八は、ギョッとして、

「やっ? おばば!」

と、注意した。

お杉も、気づいていた。鏡のような眼を宙へ上げて、

「なんじゃろ? あの声は」

と、つぶやいた。

しかし、つかんでいる死骸の黒髪と――その死骸から首を斬り離そうとして持っている脇差は、びくとも手からゆるめていない。

「お通の名を呼んだようだぞ。オオ、また呼んでいる」

「いぶかしいことよの。――ここへお通をさがしに来る者があるとすれば、城太郎小僧よりほかにないが」

「大人おとなの声だ……」

「どこかで聞いたような」

「あっ、いけねえ! ……おばば、もう首など斬って持ってゆくのは止せ。提燈ちょうちんを持って、誰かこっちへ降りてくる」

「なに、降りてくると」

「二人づれだ。見つかるといけない、おばば、おばば!」

危急を感じると、啀いがみ合っていたこの母子おやこは、忽ち一体となって、又八は急々せかせかと、老母ははの落着いているのを案じた。

「ええ、待ったがいい」

と、婆は、死骸の魅力にひきつけられていた。

「ここまでして、かんじんな首級しるしを取らずに行ってよいものか。なにを証拠に、故郷くにの衆へ、お通を成敗したと証拠だてることができよう。……待て、今わしが」

「あ」

又八は、眼をおおった。

お杉は木の小枝を膝で踏み敷いて、死骸の首へ刃やいばを当てようとするのだった。又八には、見ていられなかった。

――と、突然、婆の口から意味のわからない言葉が走った。よほど驚いたものらしかった。持ち上げていた死骸の首を手から離して、後ろへ蹌よろめくと共に腰をついて、

「ちごうた! ちごうた!」

手を振って、起とうとするのであったが、起てないのである。

又八も、顔を寄せて、

「何が? 何が?」

と、吃どもった。

「これを見い」

「え」

「お通ではないわ! この死骸は乞食か、病人か、男であろが」

「あっ、牢人者だ」

じっと、死骸の横顔や風体ふうていをながめて、又八はなおさら驚きを加えた。

「変だな、この人間をおれは知っているが」

「なんじゃ、知人しりびとじゃと」

「赤壁八十馬やそまといって、おれはこいつに騙だまされて、持金もちがねを巻き上げられたことがある。生き馬の眼を抜くようなあの八十馬が、どうしてこんなところにへたばっていたのだろうか」

これはいくら考えてみても、又八には考え当らないはずである。ここから程近い小松谷の阿弥陀あみだ堂に住んでいる虚無僧の青木丹左衛門がいるか、でなければ、八十馬の毒牙にかかろうとして救われたことのある朱実あけみでもおればだが――他ほかにその説明をする者としては、宇宙あるのみであるが、こんな成れの果てを見るに至った虫けら同様な人間一個の解説を求めるには、宇宙は余りに大き過ぎて、また森厳しんげんであり過ぎる。

「――誰だっ。お通さんじゃないのか、そこにいるのは」

突然、二人の後ろへ、沢庵坊たくあんぼうの声と提燈あかりの影がさした。

「――あッ」

逃げるだんになれば、又八の若い跳躍は、当然、お杉が腰をあげてから走るよりも遥かに迅はやかった。

沢庵は、駈け寄りざま、

「おばばだな」

むずと、襟えりがみをつかんだ。

三

「そこへ、逃げてゆくのは又八ではないかっ。――これっ、老母ははをおいて、どこへ行くぞっ、卑怯者、不孝者、待たんかっ」

お杉の襟首を捻ねじ抑えながら、沢庵は闇へ向って、なおこういっていた。

婆は、沢庵の膝の下に苦しげにもがきながら、

「たれじゃ、何奴どやつじゃ」

と、なお虚勢を失わない。

又八が引っ返してくる様子もないので、沢庵は手をゆるめて、

「わからぬか、おばば。やはりおぬしもどこか耄碌もうろくしたのう」

「オーッ、沢庵坊主じゃの」

「おどろいたか」

「なんの!」

猛々たけだけしく婆は白髪しらがの光る首を横に振ってさけんだ。

「どこ暗くのう世間をうろついている物乞い坊主、今はこの京都に流れておじゃったか」

「そうそう」

沢庵はにこりと酬むくいて、

「ばばのいう通り、さきごろまでは柳生やぎゅう谷や泉州の辺りをうろついていたが、ついゆうべ、ぶらりと都へやって来てな、さるお方のお館やかたで、ちらと腑ふに落ちぬ沙汰を耳にしたので、これはいかん――捨ておけぬ大事と思い、黄昏たそがれからおぬし達を捜しあるいていたのじゃよ」

「何の用で?」

「お通にも会おうと思って」

「ふーム」

「おばば」

「なにかや」

「お通はどこへ行った」

「知らん」

「知らんことはあるまい」

「このおばばは、お通に紐ひもをつけて歩いてはおりませぬぞよ」

提燈ちょうちんを持って後ろに立っている旅籠はたごの手代が、

「……ヤ。お坊さま、血がこぼれております、生々しい血しおが」

明りへ俯向うつむいた沢庵の顔が、さすがに少し硬こわばってみえた。

――隙を見て、お杉婆は突然起ちあがって逃げだした。

振向いて、沢庵はそのまま、

「待たっしゃれ! おばば! おぬしは家名の泥をすすぐとて故郷くにを出て、家名に泥をなすって帰るのかっ。子が可愛ゆうて家を出ながら、その子を不幸にして戻るのかっ」

実に大きな声なのだ。

沢庵の口から出ているようには聞えないのである。宇宙が呶鳴ったようにそれは婆の全身をつつんで聞えた。

ぎくと、婆は足をとめた。顔の皺しわがみな負けん気を顔に描いて、

「なんじゃと、わしが家名に泥のうわ塗りをし、又八をよけいに不幸にするとおいいやるか」

「そうだ」

「阿呆な」

せせら笑って――しかしなにをいわれたよりも真剣になって、

「布施飯ふせめしくうて他人の寺に宿借して、野に糞くそしてばかり歩く人間に、家名じゃとか、子の愛じゃとかいう、世間のほんとの苦しみがわかって堪たまるものかいの。人なみな口をたたくなら、人なみに働いて食う米を食わッしゃれ」

「痛いことをいう。そういってやりたい坊主も世間にはあるから、わしにも少し痛い。七宝寺にいた頃から、口ではおばばに敵かなわないと思っていたが、相変らずその口が達者だのう」

「オオさ、まだまだこの婆にはこの世に大望がある、達者は口ばかりと思うてか」

「まあいい。――済んだことは仕方がないとして話そうじゃないか」

「なにを」

「おばば、おぬしはここで、又八にお通を斬らしたな。母子おやこでお通を殺あやめたであろうが」

そういうだろうと待っていたように、婆はとたんに首を突き伸ばして笑った。

「沢庵坊、提燈持ってあるいても、眼を持って歩かにゃ世の中は暗やみじゃぞ。おぬしの眼は、飾り物か、ふし穴か」

四

この婆に翻弄ほんろうされることには、沢庵もどうしようがないらしい。

無智はいつでも、有智よりも優越する。相手の知識を、恬てんとして無視し去ってしまう場合に、無智が絶対につよい。生半可なまはんかな有智は誇る無智へ向って、施ほどこすに術すべがないという恰好になってしまう。

ふし穴か、飾り物かと、婆に罵ののしられた眼をもって、沢庵がその場をよくよく検あらためると、なるほど、死骸はお通ではなかった。

で――ほっとした顔を彼がするとすぐ、

「沢庵坊、ほっとしたであろうが。おぬしは、そもそも、武蔵とお通とをくッつけた不義の媒人なこうどじゃほどにの」

と、多分に遺恨をふくんだ口ぶりでいう。

沢庵は、逆らわずに、

「そう考えているなら、そうしておくもよい。――だがおばば、おぬしの信心ぶかいことをわしは知っているが、この死骸をすててゆく法はあるまい」

「死に損そこのうていた行き仆れ、斬ったは又八じゃが、又八のせいじゃない。抛ほっておいても死ぬ人間であったじゃろ」

すると旅籠はたごの手代が、

「そういえば、この牢人者は、すこし頭脳あたまもおかしいようなあんばいで、先頃から涎よだれを垂らして町をふらふらしておりましてな、なにかでひどく打たれたような大疵おおきずを頭のてっぺんに持っておりましたよ」

と話す。

そんなことは、どうでもいいように、婆はもう先へ歩いて道を捜していた。沢庵は、死骸の始末を旅籠の手代にたのんで、婆の後から尾ついて行く。

気になるとみえ、婆は振り顧かえって、また毒口でも放ちたいような顔をしたが、

「――おばば、おばば」

樹蔭こかげから小声でよぶ者の影を見て、欣うれしそうにそこへ走り寄った。

又八だった。

さすがに子である、逃げたのかと思っていたら、やはり老母ははの身を案じて様子を見ていたのかと、婆はたまらないほど、わが子の気持を欣しく買う。

沢庵の影を振向いて、母子おやこは何かささやき合っていたが、やはり沢庵のどこかを恐れるもののように、二人は急に足を早め出し、麓ふもとのほうへ行くほど迅はやく走っていた。

「だめだ……あの様子では、まだなにをいって聞かせても受けつけまい。世の中から、思い違いというものだけ除いたら、ずいぶん人間の苦労は少なくなるがなあ」

母子おやこの影を見送りながら、沢庵はつぶやいていた。彼の足は、急ごうともしないのだ。――お通を捜すことを急務としているから。

だがいったい、お通はどうしてしまったものだろう。

あの母子おやこの刃やいばから、どうした機はずみかで逃げ終おおせたことは確実と見ていい。沢庵はこころの裡うちで、先刻さっきから大きな欣びを胸へ拾っていた。

けれど血を見たせいか、お通の生きている無事な顔を見ないうちは、なんとなく気が落着かない。夜が明けるまで、もひとつ捜してみようと思う。

そう決心していると、さっき崖を上がって行った旅籠の提燈ちょうちんが、そこらの堂守たちでも狩りあつめて来たらしく、七つ八つの灯の数に殖ふえて、ふたたび崖を降りて来た。

行き仆れ牢人の赤壁八十馬やそまの死骸を、そのまま崖の下に埋葬してしまうつもりらしく、早速かついで来た鍬くわや鋤すきを振るって、ドスッ、ドスッ、と夜陰の底へ不気味なひびきを震わせる。

その穴があらかた掘れたかと思える頃、

「や、ここにも一人死んでるぞ、ここのは美きれいな女子おなごだ」

誰かが喚わめいた。

穴を掘っている場所からものの五間と離れていない場所なのだ。滝水の流れが岐わかれて来て、小さな沼が木や草におおわれているその淵ふちだった。

「これは、死んでない」

「死んでいるものか」

「気を失っているだけだ」

集まった提燈ちょうちんが、がやがや騒いでいるのを見て、沢庵が駈けもどって来るのと同時に、旅籠の手代が、大声で沢庵を呼び返していた。

町人

一

ここの家ほど「水」というものの性能を巧みに生活の中へ活いかして使っている家は少ないだろう。

――家を繞めぐるその水音の快こころよいせせらぎを、ふと耳にとめながら、武蔵はそう思った。

本阿弥光悦ほんあみこうえつの家である。

所は、武蔵にとって記憶のふかい蓮台野からそう遠くない――上京かみぎょうの実相院址あとの東南にあたる辻の角。

その辻を、本阿弥の辻と町の者が呼ぶ所以いわれは、光悦の一軒があるのみでなく、彼の住む素朴な長屋門に隣りして、彼の甥おいとか、同業の職人たちとか、一族の者がみなこの辻の表や裏に、仲よく、その昔の土豪時代の大家族制度のように軒をならべて穏やかに町家暮らしの営いとなみをしているからだった。

(なるほど、こういうものか)

武蔵には、もの珍らかに見える世間なのである。下層部の町人たちの生活には、自分の生活も打ち混じって見て来ているが、この京都で誰それといわれるような大町人というものには、まったく縁のなかった彼である。

本阿弥家は、由緒のある足利家あしかがけの武臣の末であるし、現在でも前田大納言家から年禄二百石が来ているし、宮家にも知遇をたまわっているし、伏見の徳川家康も眼をかけたがっているし、――というわけで、職業こそ、刀剣の研とぎ拭ぬぐいをして、純粋な職人にちがいないが、ではその光悦は侍か町人かというと、ちょっとどっちともいえないような家がらである。しかし、やはり職人であり、町人であろう。いったい「職人」という名称が、このごろひどく下落して来たが、それは職人が自分で品性を落して来たからで、上代の世には、百姓は、天皇のおおみたから、とさえいわれて職業の上級なものであったが、世の下るにつれて、「この百姓めが」といえば侮蔑ぶべつの代名詞になるように変ってしまったのと同じで、職人という名称も、元は決して、下賤げせんの業わざの呼び名ではなかったのである。

また大町人の根を洗うと角倉素庵すみのくらそあんでも、茶屋四郎次郎でも、灰屋紹由はいやしょうゆうでも、みな武家出であることも一致している。つまり室町幕府の臣下が、初めは商業方面の一役所としてやっていた実務が、いつのまにか幕府の手を離れ、幕府から禄ろくをもらう必要もなくなって、個人の経営になり、経営の才や社交の必要が、武士という特権をも不必要にさせて、親から子へ孫へと身代のうつるうちに、いつとなく町人という者になり変ってしまったのが、今の京都の大町人であり、また金力の所有者なのであった。

だから、武家と武家との権力の争覇そうはが起っても、そういう大町人の門は、両方から保護されて、続くことも代々永く続いて来ているが、また御用立てを仰せつかることも、兵火で焼かれない税金のようになっているらしい。

実相院址あとの一廓は、水落寺みずおちでらの隣り地で、有栖川ありすがわの流れと、上小川かみこがわの流れと、ふた筋の水脈に挟まれていて、応仁の乱の折には、一帯に焼け野原となったところで、今でも庭木を植えなどする時は、赤い刀の折れや兜かぶとの鉢が出てくるといわれているが、本阿弥家の住居がここにできたのは、勿論応仁以後で、それ以後の家としては古いほうであった。

水落寺の境内を通って、上小川へ落ちてゆく有栖川のきれいな水は、中途から光悦の宅地をせんかんと通過してゆくのである。――その水はまず、三百坪ほどな菜園の間を走り、一叢ひとむらの林にすがたを隠すと、次には玄関の噴井戸ふきいどへ、千尺の地の底から出て来たような顔をして現われ、一部は台所へ走って、炊かしぎを手伝い、一部は風呂場へ入って垢あかを持ち去り、また閑素な茶室のどこかに、岩清水のような滴々てきてきな音をさせているかと思うと、ここの家族がみな「御研小屋おとぎごや」と敬称して、常に入口には注連縄しめなわの張ってある仕事場へ奔入ほんにゅうして――そこでは職人たちの手によって、諸侯からひきうけている正宗や村正や長船おさふねや――世に名だたる銘刀を始め、あらゆる刃やいばが研ぎぬかれている。

武蔵は、この家へ来て、この一間ひとまに旅装を解いて、今日でちょうど四日目か五日目になる。

二

此家ここの主あるじの光悦と妙秀母子おやこに、いつか野辺の茶の席で会ってから武蔵は、折もあらば、もいちど親しくしてみたいが――とは心のうちで思っていたことだった。

ところが、よくよく縁があったというものか、再会の機が、あれから幾日も経たたないうちにまたあった。

――というのは、この上小川から下小川の東寄りに、羅漢寺らかんじという寺がある。その隣地はむかし、赤松氏の一族がいた館やかたの址あとなので室町将軍家の没落とともに、そういった旧大名の宅址たくしも、今はあとかたもなく変ってはいるが、とにかく一度そこを捜してみたい気持がして、武蔵は或る日、その辺を歩いてみたのであった。

武蔵は幼少の時、よく父の口から、

(わしは今でこそ、こんな山家やまがの郷士で朽ちているが、祖先の平田将監しょうげんは、播州の豪族赤松の支族わかれで、おまえの血の中にはまさしく、建武の英傑の血もながれているのだ。それをおまえは自覚して、もっと自分を大事にしなければいかぬ)

といったようなことを常に聞かされていた。下小川の羅漢寺は、その赤松氏の宅地と隣り合っていた菩提寺ぼだいじなので、そこを訪ねてみたら、祖先の平田氏の過去帳などもあるかも知れない。父の無二斎も、京都みやこへ出た折は、一度訪ねて、祖先の供養を営んだことがある、とか聞いてもいたし――またそんな古いことが知れないまでも、そういう有縁うえんの地に立って、時には、自分の血液につながる遠い過去の人々を偲しのんでみることも無意味ではなかろうと――武蔵はしきりとその日、その羅漢寺をさがしていたのである。

下小川の流れに「らかん橋」というのが架かかっていた。しかし、羅漢寺というのは、尋ねても知れなかった。

「変ったのかなあ、この辺りも」

武蔵は、らかん橋の欄干らんかんに立ちながら――父と自分とのわずか人間一代のうちにも、激しく推移している都会のすがたというものを考えていた。

らかん橋の下を流れてゆく浅いきれいな水が、時々、粘土ねんどでも溶とかすように白く濁って、しばらくすると、また、それがきれいに澄んでいた。

見ると、その橋から見える左がわの岸の草むらから、チョロチョロと濁り水が吐き出されて、それが川へ注そそぎ込まれる度ごとに、白いささ濁りが拡がってゆくのであった。

(ははあ、刀を研といでいる家があるナ)

武蔵はそう思ったが、その家の客となって、それから四日も五日も泊ろうなどとは夢にも思っていなかった。

(武蔵どのじゃないか)

どこかへ出た戻りらしい妙秀尼みょうしゅうにに、こう呼びとめられて、そこが本阿弥ほんあみの辻の近所だったということも、後から初めて気がついたほどなのである。

(よう訪ねて来てくだされたのう――光悦もきょうはいるほどに、まあまあ、そう遠慮などせいで……)

と妙秀尼は、彼を路傍で見つけたことの偶然を欣よろこんで、武蔵がわざわざ自分の家へ来てくれたもののように思いこみ、長屋門の内へ連れて入って、下男をやってすぐ、光悦を呼んで来させる。

光悦といい、妙秀といい、いつぞや外で会った時も、こうして家庭で会う時も、少しも変らないよい人たちだった。

(私はただ今、大事なお研物とぎものを仕かけておりますので、しばらく母と話していて下さい。仕事をすませば、いくらでも悠ゆるりと話しますから)

光悦がいうので、武蔵は妙秀尼を相手にくつろいでいたが、その晩がつい遅くなってしまうと、まあ今夜はということになり、翌あくる日になるとまた武蔵のほうから光悦に、刀の研とぎや扱いについて教えを乞うと、光悦は自分の「御研小屋」へ彼を案内して、実際の上からいろいろ説いて聞かせるといったようなわけになって――いつか三晩も四晩もこの家の布団に武蔵は身を馴なじませてしまったような次第であった。

三

――しかし、人の好意に甘えるのも程度がある。武蔵は、きょうはもう暇いとまを乞おうと考えていたが、それをいい出さない矢先に、今朝もまた、光悦のほうから、

「碌ろくにかまいもしないで、引き留めるのも異いなものですが、あなたさえ飽きなかったら、幾日でも泊って行ってください。私の書斎には少々ばかり、古書やつまらない愛玩品あいがんひんもありますから、何を引っ張り出してご覧くださるとも差しつかえございません。そのうちにまた、庭の隅にある竈かまで、茶碗や皿を焼いてお目にかけましょう。刀剣も刀剣ですが、陶器やきものもなかなか興のあるものですから、あなたもなにか一つ、土を捏こねて試みてごらんなさい」

などといわれ、武蔵はまた、つい彼の落ちついた生活の中に、自分の落ちつきを許してしまった。

「お飽きになるか、急にまた御用事でも思い立たれた節は、見らるる通りな無人の家、ご挨拶などには及びませぬから、いつでも気持の向いたまま、ご出立なさればよいではございませんか」

とも光悦はいってくれるのであった。

武蔵は、飽きるどころではなかった。彼の書斎をながめても、そこには和漢の書籍から、鎌倉期の絵巻だの、舶載はくさいの古法帖だの、そのうちの一つを繰りひろげても、思わず一日は暮れてしまうものが沢山ある。

わけても、武蔵が心を引かれたものの一つに、宋の梁楷りょうかいの描いたという「栗の図」が床の間にあった。

たて二尺、横二尺四、五寸くらい、横幅で紙質も分らないほど古びた懸物かけものであったが、それを見ていると、武蔵はふしぎに半日でも飽くということを覚えない。

「御主人のお描かきになるような絵は、とても素人しろうとには及びもないという気がしますが、これを見ていると、これくらいなものなら素人の私にも描けるというような気がしますな」

武蔵が、ある時いうと、

「それは、あべこべでしょう」

と光悦が答えて、

「わたしの絵くらいな程度までは、誰にでも行き得る境地といってもかまいませんが、この辺になると、道高く、山深く、非凡過ぎて、ただ学べば行けるという境地ではありません」

といった。

「ははあ、そうでしょうか」

――そういうものかと、武蔵はこれから折あるごとにこの絵を眺めていたのであったが、光悦にいわれて見てから、なるほど、それは一見単純な墨一色の粗画に過ぎないが、その中に持っている「単純なる複雑」に、彼もようやく少しずつ眼をひらいて来た。

二個の落栗おちぐりがざっと描いてあって、一個は殻からを破っており、一個はまだイガの針を立てて固く殻を閉じている。それへ栗鼠りすが飛びついているだけの構図である。

栗鼠りすの生態は、いかにも自由性に富んでいて、人間の若さと、若さの持つ欲望とを、そのまま、この小動物の姿態にあらわしている。――しかし、栗鼠の意欲のままに、その栗を食らおうとすれば、イガに鼻を刺され、イガを怖れていれば、殻の中の実みは食うことができない。

作者は、そんな意図はなく描いたのかもしれないが、武蔵はそうした意味にもこれを眺めてみるのだった。絵画を見るのに、絵画以外の諷意ふういとか、暗示とか、そんな考え方をして煩わずらうのはよけいなことかも知れないが――と思いつつも、その絵は「単純なる複雑」のうちに、墨の美感や画面の音階のほかに、人をして思わず黙想に遊ばしめる無機的な作用を種々さまざまに備えているのだから仕方がない。

「武蔵どの、また梁楷りょうかいと睨めっこですか。よほど気に入ったとみえますな。何ならば、ご出立の時に巻いてお持ちなさい、差上げましょう」

無造作に、彼の姿を見ていいながら、光悦は今、何か用ありげに彼のそばへ坐った。

四

武蔵は、意外な顔して、

「え、拙者にこの梁楷の幅ふくを下さるというのですか。もっての外のことです、数日御厄介に甘えた上こんな御家宝を戴いてよいものではありませぬ」

と固く辞退した。

「でも、お気に召したのでしょうが……」

と、光悦は彼の律義りちぎに恥らう態さまを見やりながら、笑っていう。

「――かまいません、お気に召されたら、外はずしてお持ちくださるがよい。総じて、絵画などというものは、真にその作品を愛して、作中の真味を汲んでくれる人に持たれれば、その絵は倖しあわせであり、地下の作者も満足だろうと思われます。ですから、どうぞ」

「そう伺っては、なおのこと、私にはこの絵を頂戴する資格がございませぬ。――こうして拝見していると、頻りと、所有欲のようなものが動いて、自分も一つ、こんな名幅を持ってみたいという気持はして来ますが――持ったところで、家もなし、席も定まらぬ流寓るぐうの武者修行」

「なるほど、旅ばかりしているお体では、かえってお邪魔ですな。お若いから、まだそんなこころもちにおなりになるまいが、人間、どんなに小さくともよいが、わが家というものを持たない人は、いかに寂しかろうぞと、私は思いやられるのじゃが。――どうです、ひとつこの京都の隅あたりへ、ざっとした丸木で一庵をお拵えになっておいては」

「まだ家がほしいと思ったことはありません。それよりも、九州の果て、長崎の文明、また新しい都府と聞く東あずまの江戸、陸奥みちのくの大山たいざん大川たいせんなど――遠い方にばかり遊心が動いています。生れながら私には、放浪癖があるのかもわかりません」

「いや、あなたばかりでなく、誰でもでしょう、四畳半の茶室より、蒼空あおぞらを好むのが若い人の当り前です。同時に、自分の希望の達成が、自分の身近にはない気がして、常に遠くにばかり道があると思ってしまう弊へいもある。大事な若い日の空費はたいがい、その遠くにあこがれて居所に希望を誓わない――つまり境遇への不平に暮れてしまうのじゃないでしょうかな」

といって、ふと、

「ハハハハ、私のような閑人ひまじんが、若いお人へ、教訓めいて、こんなことをいうのはおかしい。……そうそう、ここへ来たのはそんなことではなく、あなたを今夜連れ出そうと思って来たのですが、どうですか武蔵殿、あなたは遊廓くるわを見たことがありますか」

「遊廓というと……遊女のいる廓さとのことですか」

「そうです。私の友達に、灰屋紹由はいやしょうゆうというて、気心のおけない人がいる。その紹由から、今誘い文が来たのですが、六条の遊び町を見にゆく気はありませんか」

武蔵は、彼の言葉のもとに、

「よしましょう」

といった。

光悦は、強しいてすすめず、

「そうですか。お気持がすすまなければ、お誘いしても仕方がありませんが、時には、ああいう世界に浸ひたってみるのもおもしろいものですよ」

すると――音もなく――いつのまにかそこへ来て、ふたりの話を興ありげに聞いていた母の妙秀尼にが、

「武蔵どの、よい折ではないか、一緒に行かれてはどうかの。灰屋の主人あるじとても、なんの気がねも要いらぬお人、せがれも折角、お連れしたいのであろう。さあ、行って来なされ、行って来なされ」

と、これはまた、光悦の気分まかせと違って、いそいそと衣裳箪笥いしょうだんすから小袖など出して来て、武蔵にもすすめ、わが子へも、遊びに出るのを励ましていう。

五

およそ、親と名のつく者なら、わが子が遊廓くるわへ行くなどと聞けば、それがたとい客の前であろうと、友達の前であろうと、苦にがり切って、

(また、極道ごくどうか)

と、嘯うそぶいているか、もっと厳やかましい親の場合は、

(もってのほかな!)

と、親子のあいだに一揉ひともめくらいはあるのが世間の通例なのに、この母子おやこはそうでない。

妙秀尼は、衣裳箪笥のそばへ寄って、

「帯はこれでよいか。小袖はどちらにしやるか?」

と、遊廓へ行くという息子の身仕度を、自分が遊山にでも出向くように、いそいそと気をくばる。

衣裳のみでなく、紙入れ、印籠、脇差なども派手やかなのを選よって揃え、わけても紙入れの中へは、男の中へ交わって恥かしい思いをせぬように、女の世界にはいって汚い仕方をせぬように、そっとべつな金箪笥かねだんすの内から、金子きんすの音をしのばせて、心づかいをずッしりと入れておく。

「さあさあ、行いて来なされ、遊廓は灯ともし頃の宵がよく、もそっとよいのは、黄昏たそがれ刻どきの通かよい路じというげな。武蔵どのも、行いておざれ」

そして、いつの間にか、武蔵の前にも、綿服ではあるが、肌着から上着まで、垢あかのつかない一襲ひとかさねがそろえてある。

初めは、腑ふに落ちぬことと怪しまれたが、この母御がこれ程すすめるところなら、悪所通あくしょがよいと世間でいうほど、行って悪い場所でもなさそうに思われる。

武蔵は考え直して、

「では、お言葉に甘えて、光悦どのに連れて行ってもらいます」

「オオ、そうなされ。――さ、衣裳もかえて」

「いや、拙者には、美服はかえって似合いませぬ。野に伏しても、どこへまいっても、この袷あわせ一枚が、やはり自分らしくて気ままですから」

「それはいけません」

妙秀尼は、変なところで、厳格になって、武蔵をこうたしなめた。

「貴方はそれでよいじゃろが、汚むさい身装みなりをしていては、綺羅きらやかな遊廓さとの席に、雑巾ぞうきんが置いてあるように見ゆるではないかの。世事の憂ういこと醜むさいこと、すべてを忘れて、一刻ときでも半夜でも、綺麗事につつまれて、さらりと屈託を捨てて来るのがあの遊廓さとでござりまするがの。――そう思うてみれば、わが身の化粧や伊達だても、廓景色さとげしきの一つ、わが身だけの見得みえと思うが間違いであろが。……ホ、ホ、ホ、ホ、そういうたとて、名古屋山三なごやさんざや政宗どの程な晴れ着でもない、ただ垢あかがついていぬというだけの衣もの、さあ世話をやかせずに袖を通してみなされ」

「は、……それでは」

武蔵が素直に分って、着がえを済ますと、

「おお、よう似合う」

と妙秀尼は二人のさばさばした身姿みなりをながめて、わけもなく喜ぶ。

光悦は、ちょっと仏間へはいって、そこへ小さい夕方の燈明を捧げていた。この母子おやこは日頃から厚い日蓮宗の信者であった。

そこから出て来て、待っている武蔵へ向い、

「さ、お供いたしましょう」

連れ立って、玄関まで歩いて来ると、母の妙秀尼は、もう先に出て二人の穿はく新しい緒の草履を沓石くつぬぎへ揃え、その後で、長屋門を閉めかけていた下男と、門の蔭でなにか小声で立ち話をしていた。

「おそれ入ります」

光悦は、草履へ向って頭を下げながら、足を下ろした。

「では母者人ははじゃびと、行って参ります」

すると、妙秀尼は振り顧って、

「光悦や、ちょっとお待ち」

あわてて手を振って、二人の足を止め、自分は潜くぐり門もんから外へ顔を出して、何事なのか、往来を見まわしているふうだった。

六

「――なんですか?」

光悦が、不審がると、妙秀尼は門の潜くぐりをそっと閉めて、戻って来た。

「光悦や、今のう、強きついかたちをした侍衆が、三名づれで、ここの門前へ来て、不作法な言葉を吐いて行ったというが。……大事はあるまいかの」

まだ空は明るいが、黄昏たそがれに向って出るわが子と客の身を、ふと案じるらしく、眉をひそめてそういった。

「……?」

光悦は、武蔵の顔を見た。

武蔵はすぐ、侍たちが、どういう者かを察したらしく、

「お案じなされますな、拙者へ危害を加えても、光悦どのへ害意のある者ではないと存じます」

「おとといも、そんなことがあったと誰かいうたの。おとといの侍は、一人であったらしいが、するどい眼まなざしして、門内まで案内ものうはいり込み、茶室の路地にかがみ込んで、武蔵どののいる奥の部屋を頻りとのぞいて立ち去ったそうな」

「吉岡の者でしょう」

武蔵がいうと、

「私もそう思う」

と、光悦もうなずいた。

そして下男へ、

「きょうの三人連れは、なんというて来たのか」

と、訊ねた。

それに答えて、わなわな顫ふるえながら、下男がいうには、

「はい……今し方、お職人衆もみなお帰りになりましたので、ここの門を閉めようといたしますると、どこにいたのか、三人連れのお侍方が、いきなり手前を囲んで、中の一人が、懐中ふところから書状のような物を取出し――これを当家の客へ渡せ――と恐ろしい顔して申しまする」

「うむ……客といって、武蔵どのとはいわなかったのか」

「いいや、その後で申しました――宮本武蔵と申す者が、数日前から泊っているはずだと――」

「そしてお前はなんといった」

「わしは、かねて旦那様から口止めされてありましたで――どこまでも、そのようなお客様はおらぬと首を振りますと、いちどは怒って、偽りを申すな――と高声を張りかけましたが少し年老としとった侍がそのお人を宥なだめて、皮肉な笑い方をしながら、それではよい、べつな仕方で、当人に会って渡すから――と、そういって彼方むこうの辻へ行ってしまいましたが」

武蔵はそれを側で聞いて、

「光悦どの、それではこうして戴きましょう。万一のことでもあって、あなたへお怪我でもさせたり、累るいを及ぼしては、申し訳がありませぬゆえ、一足先におひとりで」

「いや、何」

光悦は一笑に附して、

「そんなご斟酌しんしゃくは要りません。吉岡の侍と分っていればなおさらのことです、私が怖がる意味は少しもありません。……さあまいりましょう」

武蔵を促うながして、門の外へ出たが、光悦はまた、ふと、潜くぐりの内へ顔を見せて、

「母御様、母御様」

「忘れ物か」

「いいえ、今のことですが、もしあなた様が気がかりに思し召すなら、灰屋どのへ使いをやって、今夜のお誘いは断ことわりまするが、……」

「なんの、わしが案じたのは、そなたの身より、武蔵どのに万一のことでもないかと懸念したのじゃ。――その武蔵どのがもう先へ出て待っているものを、止めてもかいはあるまいし、折角、灰屋様のお誘いでもある。機嫌よう、遊んで来なされ」

光悦は、母の閉めた潜り戸に、もうなんの心がかりもなかった。待っていた武蔵と肩を並べて、川ぞいの片側町を歩きながら、

「灰屋殿の住居すまいは、この先の一条堀川なので、ちょうど途中、支度して待っているそうですから、ちょっと立ち寄って行きましょう」

と、断った。

七

まだ夕空は明るかった。水にそって歩くのはなんとなく心の暢のびるものである。人の忙せわしがる黄昏たそがれを、用もなげな顔をして歩くのはなおさらいい。

「灰屋紹由しょうゆうどの――お名前はよく耳にするお方のようですが」

武蔵がいう。

ぶらりぶらり足をあわせながら、それに答えて、光悦がいう。

「聞いているでしょうとも、連歌れんがのほうでは紹巴しょうはの門で、もう一家いっかを成している人ですから」

「ハハア、連歌師ですか」

「いえ、紹巴や貞徳のように、連歌で生活たつきを立てている人ではありません。――また私と同じような家がらで、この京都の古い町人です」

「灰屋という姓は」

「屋号ですよ」

「何を売る店なので」

「灰を売るのです」

「灰を? ――何の灰をですか」

「紺屋が紺染めに使う灰なので、紺灰こんぱいといっております。諸国の染座へ卸おろすので、なかなか大きな商売です」

「アアなるほど、あの灰汁水あくみずを作る原料もとですな」

「それは莫大な金額にのぼる取引なので、室町の世の初期はじめごろには、御所の直轄ちょっかつで、紺灰座奉行こんぱいざぶぎょうをやっておりましたが、中期なか頃から民営になりまして、紺灰座問屋というのが、この京都に三軒とか許されていたものだそうです。その一軒が、灰屋紹由の先祖でした。――けれど今の紹由殿の代になってからは、もうその家業はやめて、この堀川で余生を穏やかに送っているわけですが」

と、光悦はそこで彼方あなたを指さして――

「見えましょう、此処から。あの見るからに閑雅かんがな門のある一構えが、灰屋どののお住居すまいです」

「…………」

武蔵はうなずきながらふと、左の袂たもとの先を、袂たもとの外から握っていた。

(……はてな?)

と光悦の話を聞きながら考えているのであった。

――何が入っているのだろうか、右の袂は夕風がふいても軽くうごくが、左の袂がすこし重い。

懐紙かいしはふところにある。莨たばこ入れは持たないし――他ほかにべつに何も入れてある覚えはないが――とそっと手を落して、袖口に出してみると、よく鞣なめしてある菖蒲色しょうぶいろの革紐かわひもが、いつでも解けるように、蝶むすびに束たばねて入れてあったのである。

(……おお?)

光悦の母の妙秀尼が入れておいてくれた物にちがいない。これを革襷かわだすきにと。

「…………」

袂の中の革襷をにぎりながら、武蔵は振向いて、思わず頬へのぼってくる微笑を後ろの者へ見せた。

――その前からとく気がついていたことではあるが、本阿弥の辻を出るとすぐ、自分の後ろから一定の距離をおいて、のそのそと後を尾行つけて来る三人連れがあったのである。

それが、武蔵の微笑を見ると、はっとしたように一致して足を止め、なにか顔と顔を突き合せて囁ささやいていたが、やがて遠方から身がまえを作って、遽にわかに大股を踏んでこっちへ近づいて来る様子――

光悦はその時から、灰屋の門の前に立って、そこの鳴子に訪れを通じ、箒ほうきを持って出て来た下僕しもべに案内されて、前栽せんざいの中へ入っていた。

ふと、後ろに見えない武蔵に気がつくと、光悦はまたもどって来て、

「武蔵どの、さあ、お入りください。遠慮はいらぬ家ですから」

と、何事もないつもりで門の外へいった。

八

いかつい大太刀の柄つかがしらを反胸そりむねに突出して、肱ひじを張っている三名の侍が一人の武蔵を囲むように押し並んで、傲岸ごうがんに何かいい渡している様子を――光悦は門の外に見出した。

(先刻のだな)

光悦はすぐ思い当った。

相手の三名へ、なにか穏やかに答えておいてから、武蔵は光悦のほうを顧みていった。

「すぐ後から参りますゆえ――どうぞお先に」

光悦は、静かな眸ひとみで、彼の眸を読むように、顎あごを内へ引いて、

「では、奥で待っておりますから、御用がおすみになりましたらば」

光悦が門のうちへ隠れると、待っていたように、三名の中の一人が、口を開いて、

「逃げ隠れしたの、いや逃げ隠れはせんのと、もうここでの論議は止そう。そんな用事で参ったのではない。――それがしは今もいったが、吉岡門下の身内で十剣の一人太田黒兵助おおたぐろひょうすけという者だが」

袂を払って内懐中うちぶところへ両手を突っこみ、一通の書付かきつけを取り出すと、それを武蔵の眼さきへ突きつけた。

「御舎弟伝七郎どのから其許そこもとへの手翰しゅかん、たしかに渡し申すぞ。――ここで一読いたして、すぐ返辞を承りたい」

「ははあ……」

無造作に武蔵は披ひらいて読み下してからすぐ、

「承知した」

と、一言で答えた。

だがまだ、太田黒兵助は、猜疑さいぎぶかい眼の光を消さないで、

「確乎しかと?」

念を押して、武蔵の顔いろを糺ただすと、武蔵はさらにうなずいて、

「確乎しかと承知」

やっと三名は合点したらしく、

「異約あるにおいては、天下へ向って、嘲笑わらい申すぞ」

「…………」

武蔵は黙って、三名の硬こわばっている体つきに眼まなこを遊ばせていた。「笑而不答わらってこたえず」で済ましているのであった。

その態度がまた太田黒兵助には怪しまれてきたものか、

「よろしいか、武蔵」

と、執しつこく――

「時刻とても、これから間まのないことだぞ。場所は心得たか。支度はよいか」

と、釘を打つ。

くどいという顔つきはしなかったが、武蔵のことばは至って短い。

「よい」

ぽつりといって、

「――では後刻」

灰屋の門内へ入りかけると、兵助はまた追いかけにいい浴びせた。

「武蔵、それまでは、この灰屋にいるのだな」

「いや、宵には、六条の遊廓くるわを案内して下さるそうな。いずれかにいる」

「六条? よし。――六条かこの家やかどっちかにいるのだな。刻限が遅れたら迎えをよこすぞ。よもや卑怯な振舞はなかろうが」

背中で聞きながら、武蔵は灰屋の前栽せんざいへはいって、すぐ門を閉めていた。一歩そこへはいると騒音の世間は百里も後になったように、いとも静かな生活の天地をこの家の見えない塀が囲んでいた。

低い根笹と筆の軸じくほどな細竹とが、自然の小道のように配られてある石から石への通路を程よく湿しめらせている。歩むにつれて見えて来る母屋、表、離室はなれ、亭ちん、すべてが旧家の燻くすみと大まかな深さを持っていて、それを繞めぐる松はみな背が高く、屋おくを越してこの家の富貴を奏かなでてはいるが、下へかかって来る客へ対して、決して尊傲そんごうなふうは見えない。

九

どこかで蹴鞠けまりを蹴る音がしていた。公卿屋敷くげやしきだとよくその音を塀の外からも聞くが、町人の家にはめずらしいと武蔵は思った。

「すぐお支度してみえますが、どうぞしばらくここで」

と、茶や菓子を運んで来て、庭向きの座敷へ席をすすめた二人の小間使の起居たちいもしとやかで、家風のしつけを思わせる。

「陽が蔭ってきたせいか、急に寒くなって来た」

光悦はつぶやいて、開いている障子を閉めるように小間使へいいつけようとしたが、武蔵が、鞠まりの音に聞き入りながら、庭の彼方あなたに一段低くなっている梅林の花を見ているらしいので、自分も外へ眼をやって、

「叡山えいざんのうえが、曇って来ましたな。あの上にかかる雲は、北国から来る北雲です。――お寒くはありませんか」

「いやべつに」

武蔵は正直にそういったまでで、ちっとも光悦がそこを閉めたいと思っている気持などは考えなかった。

彼の皮膚は気候に対して革かわのように強靭だった。光悦のきめのこまかな皮膚とは、それだけ感度が違っていた。あながち気候に対してであるばかりでなく、すべての感触にも鑑賞にも、そのくらいな差が二人にはあった。ひと口にいえば、野人と都会人の差であった。

小間使が燭台を持って来たのを機しおに――外もつるべ落しに暗くなっても来たし――光悦がそこを閉めかけると、

「小父さま、来ていたの」

鞠まりを蹴っていた息子たちであろう、十四、五歳のが二、三人縁側からのぞいて、蹴鞠をそこへ抛ほうり出したが、武蔵のすがたを見ると、急におとなしくなって、

「おじい様、呼んで来てあげようか」

光悦がいいといっても肯きかないのである。先を争って奥へ駈けて行った。

障子を閉め、灯りがともると、この家のもつ和やかなものが、初めて坐った客にもよけいによくわかる。家族たちの遠い笑い声がかすかに洩れて来るのも居心地がいい。

もっともっと、武蔵が客として感じよく思えたことは、どこを眺めても、少しも金持くさくないことであった。むしろあらゆる素朴なもので、有る金のにおいを消そうとしているかのようにすら見える。どこか大きな田舎家いなかやの客間にいるような気持だった。

「いや、どうも、えろうお待たせして済まなんだ」

そこへ唐突に磊落らいらくな声がして、主あるじの灰屋紹由しょうゆうがすがたを見せた。

光悦とはあべこべに、この人は鶴のように痩せていたが、声は、低声こごえの光悦よりも、ずっと若々しくて大きくひびく。年も光悦よりは一まわりくらい上かも知れない。とにかく、気さくな性分といったふうで、光悦が武蔵を紹介ひきあわせると、

「あ、そうか。そうでおざるか。近衛家このえけの御用人松尾殿の甥御おいごであらっしゃるか。松尾殿は、わしもよう存じ上げておる」

ここでも、叔父の名が出たので武蔵は、こういう大町人たちと、堂上の近衛家あたりとの関係をなんとはなくうっすら察することができた。

「さっそく行きましょうぞや。明るいうちに出て、そぞろ歩きと思うたが、もう暗うなったゆえ、駕かごを呼ぼう。……武蔵どのも、もちろん交際つきあってくださるじゃろうな」

年に似あわずせかせかしている紹由と、おっとり構えこむと遊廓くるわへ行くことも忘れているような光悦と、それも変っている対照であった。

その二人を乗せてゆく町駕の後から、武蔵も生れて初めて、駕という物に乗って、堀川のふちを揺られて行った。

春の雪

一

「ウウ、寒」

「風が撲なぐって来よった」

「鼻が挘もげそうだの」

「なにか降るぞ、今夜は」

「――春だというのに」

駕かき同士の高声だった。白い息をふいて柳の馬場へかかっていた。

三つの提燈あかりはしきりに揺れ、しきりに明滅する。夕方、比叡ひえいのうえに見えた笠雲はもういっぱいに洛内の天へ黒々とひろがって、夜半よなかには何に変じるか、怖ろしい形相を兆きざしている夜空だった。

――だがそのかわりに、この広い馬場の彼方むこうに見える一かたまりの地上の灯の美しさといったらない。空に星一つない晩だけに地上の灯がよけいに燦きらめくのである。ちょうど蛍のかたまりを風が磨といでいるように。

「武蔵どの」

と、真ん中の駕のうちから後ろを振顧ふりかえって光悦がいう――

「あそこです。あれが六条の柳町で――この頃町家まちやが殖ふえてから、三筋町とも称よんでいますが」

「アア、あれですか」

「町中を出離れてから、またこんな広い馬場だの空地だのを通って、その彼方に忽然こつねんと、あんな灯の聚落しゅうらくが現れるのもおもしろいでしょう」

「意外でした」

「遊廓くるわも以前には、二条にあったものですが、大内裏だいだいりに近うて、夜半よなかなどには、民歌や俗曲が、御苑ぎょえんのほとりに立つとかすかに耳にさわるというので、所司代の板倉勝重いたくらかつしげどのが、急にここへ移転させたものです。――それからまだやっと三年しか経ちませんのに、どうです。もうあの通りな町になって、なお拡がって行こうとしている」

「では、三年前には、まだこの辺は」

「ええ、もう夜などは、どっちを見ても真っ暗で、つくづく戦国の火の禍わざわいが嘆じられるばかりであったものです。――けれど今では、新しい流行は皆、あの灯の中から出ているし、大げさにいえば、一つの文化をさえ生むところとなっているので……」

といいかけて、しばらく、耳を澄ましてからまた――

「かすかに聞えて来たでしょう……遊廓の絃歌が」

「なるほど、聞えます」

「あの音曲などにしても、新しく琉球りゅうきゅうから渡来わたってきた三味線を工夫したり、またその三味線を基礎にして今様いまようの歌謡ができて来たり、その派生から隆達りゅうたつぶしだの上方唄だのが作られたり、そういったものは、すべてあそこが母胎といってよい。あそこで興ったものを後から一般の民衆が受けとるのですから、そういう文化のほうでは、一般の町と遊廓とも、ふかい因果関係があるわけですな。だから、遊廓だから、町の隔離してあるところだからといって、あそこがどんなに穢きたならしくてもよいということはいえません」

駕がその時、急に道を曲ったので、武蔵と光悦の話も、それなり打ち切られてしまった。

二条の遊廓も柳町とよび、六条の遊廓も柳町と称よぶ。柳と遊廓とは、いつの頃からそう付き物のようになったものか、その柳並木に綴つづられた無数の灯が、もう近々と武蔵の眼に映ってきていた。

二

光悦も灰屋紹由しょうゆうも、ここの青楼うちは馴染なじみとみえ、門の柳へ、駕が下りると、

「船ばし様」

「水落みずおち様も」

と、林屋与次兵衛よじべえの店では、下へも置かないという迎えよう。

船ばし様というのは、堀川船橋に住居すまいがあるところから、紹由の遊里名さとな。また水落様というのも、同じく、光悦のここだけの遊び名前。

武蔵だけには、一定の住所もないし、従って隠し名もない。

名前の詮索せんさくばかりするようであるが、この林屋与次兵衛というのも、楼主の表名前であって、遊女屋としての暖簾名のれんなは、扇屋おうぎやというのであった。

扇屋といえば、今この、六条柳町に嬌名のたかい初代吉野太夫の名がすぐ思い出されるし、桔梗屋ききょうやといえば、室君太夫むろぎみだゆうの名をもってひびいている。

一流とゆるされる青楼いえは、その二軒に限っていた。光悦、紹由、武蔵の三人が客となって坐ったのは扇屋のほうなのである。

(――これは、絢爛けんらんな、城郭のようなものだな)

武蔵は、なるべく眼をうごかすまいとしても、つい、格天井ごうてんじょうや、橋架きょうかの欄干や、庭面にわもの様や、欄間らんまの彫刻ほりなど、歩くたびに、眼を奪われてしまう気がする。

「おや、どこへ行かれてしもうたのか」

杉戸の絵に見恍みとれているうちに、光悦や紹由を見失ってしまい、武蔵が廊下を迷っていると、

「こちらじゃ」

と、光悦が招いている。

遠州風の石組に、白砂を掃きならして、赤壁せきへきの景でも模した庭造り師のこころであろうか、北苑の画にでもありそうなそこの庭を抱いて、大きな二間の銀ぶすまが灯に濡れている。

「冷えるわい」

紹由は、猫背になって、ちょこなんと、もうその広い部屋の、一つの敷物に乗っかっている。

光悦も、先に坐り、

「さあ、武蔵どの」

と、真ん中に空いている敷物をすすめるのだった。

「いや、それは――」

と控えて、武蔵は下座に着いたまま、かたくなっていた。二人がすすめる座布団は、床の間の正面である。この物々しい建築と睨めッこして、そんな上座へ、殿様みたいに坐るのは、遠慮というよりも、武蔵はどうも嫌だった。しかし相手は、遠慮と取る。

「でも、こよいは、あなたがお客じゃから……」

紹由はすすめて、

「わしと、光悦どのとは、いつもいつも、まあ、こんなあんばいに、飽きもせで、飽かれもせで、日をつぶしている古友達。あなたとは初対面、まず、まず」

と、扱ってしまおうとする。

武蔵は、辞して、

「いや、それでは恐縮。わたくしのような若い者が」

すると、紹由しょうゆうが、

「遊廓くるわで年をいうやつがあるか」

と、突然くだけた調子でいって、ワハハハハと猫背の肩をゆすぶって笑った。

もう茶や菓子を持った女たちがうしろへ来ていた。席のきまるのを待っているのである。光悦は、武蔵の気持を救うつもりで、

「では、わしが」

と床の間へ直った。

武蔵は、光悦のあとへ坐って、幾分かいる所を得た気もちがしたが、なにかしら、大事な時間を、つまらなく費つぶしているような気もしていた。

三

次の間の隅には、ふたりの禿かむろが仲よく炉のそばに並んで、

「――これ、なあに?」

「――禽とり」

「じゃあ、これは」

「うさぎ」

「――こんどは?」

「……笠の人」

指と指を組みあわせて、屏風びょうぶへ影絵を映しながら、うしろ向きに遊んでいた。

炉はもちろん茶式のもの、釜口から昇る湯気は、部屋を暖めるに役立っている。いつのまにか隣には人が殖ふえ、酒のかおりや人肌も、外の寒さを忘れさせていた。

いやそれよりは、そこにいる人たちの血管に、ほどよく酒がめぐって来たのが、この部屋が暖かくなったと感じられてきたなによりの原因であろう。

「わしはなあ、こういうと、息子どもへ意見ができぬことになるが、世の中に、酒ほどよいものはないと思うておる。酒――はよくないものと、極道ごくどうの毒水みたいにいうのは、あれや酒のせいじゃあるまいて。酒はよいものじゃが、飲み人てがわるいのじゃ。何でも、人のせいにするのが人間のくせでな、気狂きちがい水などといわるる酒こそよい迷惑よ」

この中で、誰の声より大きいのが、この中で誰よりもいちばん痩せている灰屋紹由の声だった。

武蔵が、一、二献こん飲んだだけで後は辞退しているところから、紹由老人の――これは度々発表している持論らしい酒談義がはじまったのである。

いつ聞いても、それがいっこう「新説」でない蒸むし返かえしである証拠には、席に侍じしている唐琴からこと太夫も墨菊太夫も小菩薩こぼさつ太夫も、またほかの酌人や、物運びする女たちまでが、

(船ばし様が、また始まった)

といわないばかりに、皆同じ表情のものを唇に持って、くすぐッたそうに聞いている顔つきを見ても分るのである。

だが、船ばし様の紹由は、そんなことにはすこしも頓着なく、

「酒がわるいものなら、神様はお嫌いなはずだが、酒は悪魔よりも神様のほうがお好きじゃった。だから、酒ほど清浄なものはない。神代には、酒を造る時、純清の処女子おとめごたちの白珠しらたまのような歯で米よねを噛ませて酒を醸かもしたという。それほど清らかなものだった」

「ホホホ、まあ、きたない」

誰か笑うと、

「なにが、きたないか」

「お米を歯で噛んだりして造ったお酒が、なんできれいなことがあるものですか」

「ばかをいえ。おまえ達の歯で噛みつぶしたら、それや汚いどころじゃない、誰も飲み人てはありはせぬが、まだ、春も芽ばえのなんの穢けがれにもそまぬ、処女おとめが噛むのじゃ。花が蜜を吐くように噛んでは壺に溜ためて醸かもす酒。……ああわしはそのような酒に酔ってみたいがのう」

と、すでに酔っている船ばし様は、そばにいた十三、四の禿かむろの首へいきなり抱きついて、その唇へ肉の痩せた自分の頬を押しつける。

「――きゃアッ、いやあッ」

禿は悲鳴をあげて立つ。

すると、船ばし様は、にやにやと眼を右側へ転じて、

「ハハハ、怒るなよ、うちの女房――」

と、墨菊太夫の手をとって自分の膝の上に重ねて置く。それだけならよいが、顔と顔をつけて、一つ杯さかずきを、半分ずつ飲んだり、しどけなく凭もたれ合ったり、傍らに人間はいないようなまねをする。

光悦は、時折、杯に笑いをふくんで、女たちとも紹由とも、静かに戯たわむれたり話したりして同化しているが、ひとり武蔵は、ぽつねんとこの雰囲気ふんいきから遊離していた。べつに自分だけが、厳いかめしくなどしているつもりでは決してないが、恐いのか、女たちが第一彼のそばへ寄って来なかった。

四

光悦は強しいないが、紹由は思い出したように時々、

「武蔵どの、飲まないか」

とすすめ、またしばらくすると、武蔵のまえにつめたくなっている杯が気になってならないように、

「どうじゃ武蔵どの、それを空あけて、熱いのを一献こんゆきましょう」

と、飲ませたがる。

それが、度重なってくると、だんだん言葉もぞんざいになって、

「小菩薩こぼさつ太夫、その息子に一つ飲ませてやってくれ。これ飲まぬか息子」

「いただいています」

と、武蔵は、そんな時に返辞でもするのでなければ、口をきく折が見出せなかった。

「すこしも杯があかないではないか。はてはて意気地のない」

「弱いのです」

「弱いのは、剣術じゃろう」

と、ひどい皮肉をいう。

武蔵は、笑って、

「そうかもしれません」

「酒をのむと、修行の妨さまたげになる。酒をのむと、常の修養が乱れる。酒をのむと、意思が弱くなる。酒をのむと、立身がおぼつかない。――などと考えてござるなら、お前さんは、大したものになれない」

「そんなことは考えておりませぬが、ただ一つ、困ることがあるのです」

「なんじゃな、それは」

「眠くなってしまうことです」

「眠くなったら、ここでも、どこへでも、寝てしもうたがよいではないか。そんな義理を立てるすじは毛頭いらん沙汰じゃ」

といって、

「太夫」

と墨菊太夫へいった。

「この息子、飲むと眠くなるのが怖いというておる。それでもわしは飲ませてしまうから、眠くなったら、寝かせてやってくだされよ」

「はい」

と、太夫たちは皆、笹色に光る唇くちを小さくして笑う。

「寝かせてやってくれるか」

「ようござります」

「ところで、介抱役はこの中の誰だな。のう光悦どの、誰がよいか、武蔵どのに、気に入りそうなのは」

「さあ?」

「墨菊太夫は、わが家の女房――小菩薩太夫は、光悦どのが苦々しかろう。唐琴からこと太夫も……いけないな、ちと、さしあいが悪い」

「船ばし様、今に、吉野太夫がおみえなさりましょうが」

「それよ」

と、すっかり興に入っている紹由しょうゆうは、膝を打って、

「吉野太夫、あの太夫なら、お客にもご不足はあるまい。……だがその吉野太夫は、まだ見えぬではないか。はやく、この息子どのに見せて上げてほしいなあ」

すると、墨菊太夫が、

「わたくし達とちがって、あの太夫様は、それはもう、引く手数多あまたなお方、はやくと仰っしゃってもそうまいりませぬ」

「いいや、いいや、わしが来ていると告げれば、どんなお客も袖にして来るはずじゃ。誰か使い、使い」

のびあがって、紹由は次の間の炉のそばに遊んでいる禿かむろを見つけ、

「りん弥やがおるの」

「おりまする」

「りん弥、ちょっとおいで、そなたは、吉野太夫つきの禿かむろであろうが、なぜ太夫をつれて来ぬのじゃ。船ばし様が、待ちわびているというて、吉野をこれへ連れて来ておくりゃれ。――つれてきたら褒美をやるぞよ」

五

その、りん弥という禿かむろは、まだ十か十一ぐらいだったが、もう人の目につく天麗の質を持っていて、やがての二代目吉野に擬ぎせられている童女こどもだった。

「よいか、分ったか」

紹由のいうことばを、分ったような分らないような顔をして聞いていたが、

「はい」

素直に、つぶらな眼でうなずいて、廊下へ出て行った。

後ろの障子を閉めて、廊下へ立つと、りん弥はすぐ大きな声を弾はずませて、手をたたいた。

「采女うねめさん、珠水たまみさん、糸之助さん。――ちょっと、ちょっと!」

部屋の中の禿はみな、

「なアに?」

――明るい障子明りをうしろにして、そこに立ち並ぶと、禿たちは、りん弥といっしょに皆手を打ちたたいて、

「あら、あら」

「あら!」

「まあ!」

余りに部屋の外で、歓呼の足踏みが鳴るので、部屋の中で酒をのんでいる大人おとなたちも、なにごとかと羨望せんぼうに似た気持をおこして、

「なにを、はしゃいでいるのじゃ――開けてみなさい」

紹由のことばに、

「お開けいたしますか」

女たちが、そこの障子を左右へひろく開け放った。

「――あ、雪」

と皆、知らなかったように呟いた。

「寒いはず……」

と光悦は、もう白く見える自分の息へ杯を含ませ、武蔵も、

「オオ」

と、眼をそこへ移した。

廂ひさしから外のふかい闇を、春にはめずらしい牡丹雪ぼたんゆきが、ぼとぼとと音を立てて降りしきっている。その黒繻子くろじゅすのような闇に光る雪の縞しまの中に、禿かむろたちの姿が四つ、帯のうしろを見せて並んでいた。

「お退のきなさい」

太夫が叱っても、

「うれしい」

と、禿たちはお客などを忘れて、不意に訪れた恋人のように、沁々しみじみ、雪に見惚れていた。

「つもるかしら?」

「つもるでしょう」

「あしたの朝は、どんなかしら?」

「ひがし山が、真っ白になって――」

「東寺とうじは」

「東寺の塔だって」

「金閣寺は」

「金閣寺も」

「鴉からすは」

「鴉も――」

「嘘ばかり!」

袂たもとで打つまねをすると、ひとりの禿かむろは、廊下から下へ転げた。

いつもなら、わっと泣き出して度々ある禿同士の喧嘩が始まったであろうに、思いがけなく、降りしきる雪を浴びたので、落ちた禿は、偶然な喜びでも拾ったように、起きあがると、もっと雪の身にあたる外へ出て行って、

大雪、小雪

法然ほうねんさんは見えぬ

何してござろ

経きょう誦よんでおざった

雪食べておざった

突然、こう大声に歌いだして、口の中へ雪を吸いこむように身を反そらしながら、ふたつの袂たもとで、舞い始めた。

その禿が、りん弥だった。

怪我でもしたのではないかと驚いて起ちかけた部屋の中の人々も、その勇壮活溌な舞を見て、

「もういい、もういい」

「上がれ上がれ」

笑いながらいたわった。

その代りに、りん弥はもう、紹由しょうゆうにいいつけられて、吉野太夫を連れてくる使いをわすれていた。足がよごれたので、下部しもべの女にかかえられて、嬰あかン坊ぼうみたいに、どこかへ持って行かれてしまった。

六

かんじんなお使者がそんなことになってしまったので、船ばし様のご機嫌をそんじてはと、誰かが気転をきかして、吉野太夫の都合をうかがいに行ったとみえて、

「ご返辞を受けて参りました」

と、その女が、紹由のほうへ囁いた。

紹由はもう忘れていて、

「ご返辞?」

と、いぶかる。

「はい、吉野太夫様の」

「ああそうか、来るか」

「お越しになることは、どんなことをしてもお越しになると仰っしゃいましたが……」

「……ましたが……。なんじゃ」

「どうしても、今すぐとは、ただ今お見え遊ばしているお客様がご承知してくださいませぬ」

「――不見識な」

と紹由は、機嫌がわるくなった。

「ほかの太夫ならば、そういう挨拶も通るが、扇屋の吉野太夫ともある傾城けいせいが、買手どものわがままにまかせて、振り切って来られぬというのはどうしたものじゃ、吉野もいよいよ金で買われるようになったかな」

「いえ、そうではござりませぬが、こよいのお客様は、わけても、片意地で、太夫様が去いぬと仰っしゃれば、よけいに離してくれないのでござります」

「すべて、買手どもの心理は、みなそうしたものじゃろが。――いったいその意地のわるいお客とは誰じゃ」

「寒巌かんがんさまでございまする」

「寒巌さま?」

苦笑して、紹由が光悦のほうを見ると、光悦も苦笑して、

「かんがん様は、おひとりでお見えか」

「いいえ、あの」

「いつものお連れと? ……」

「ええ」

紹由は、膝をたたいて、

「いや、おもしろうなったぞ。雪はよし、酒はよし、これで吉野太夫が見えれば申し分のないところ。光悦どの、使いをやんなされ。――これ、これ女、そこの硯筥すずりばこ、硯筥」

と、取り寄せて、光悦の前へ、懐紙かいしとそれを突きつけた。

「何を書きますか」

「歌でもよいし……文でもよいが……歌がよいな、先がなんせい当代の歌人じゃから」

「こまりましたな。……つまり吉野太夫をこちらへくれという歌でしょう」

「そうじゃ。その通り」

「名歌でなければ先の意をうごかすことはできません。名歌などがそう即吟でできるものではございません。あなた様が一つ、連歌を遊ばして」

「逃げたの。……よろしい面倒じゃから、こう書いてやろう」

紹由は筆を執って――

わが庵いほへ

うつせ吉野の

ひと本もとを

それを見ると、光悦の吟興も、気が楽になったとみえて、

「じゃあ私が、下の句を書き添えてやりましょう」

花は高嶺たかねの

雲さむからめ

紹由はのぞき込んで、すっかり欣うれしがってしまい――

「よしよし。花は高嶺の雲さむからめ……か。これはいい、雲くもの上人うえびとも、ぎゃふんであろう」

と、結び封にして、墨菊太夫の手へわたした。そしてしかつめらしく、

「禿かむろや、ほかの女どもでは、なんとのう権威がない。太夫、ご足労じゃが、かんがん様のところまで使者に行っておくれぬか」

といった。

かんがん様とは、前さきの大納言の子烏丸参議光広のしのび名。いつものお連れというのは、おおかた徳大寺実久さねひさ、花山院忠長、大炊御門おおいみかど頼国、飛鳥井雅賢あすかいまさかたなどというようなところの顔ぶれであろう。

七

墨菊太夫はやがて、先方から返辞をもろうて来て、ふたたびそこへ坐り、

「かんがん様からお返し」

といって、紹由しょうゆうと光悦の前へ、うやうやしく文箱ふばこをさしおいた。

こちらからは、軽い気もちで、戯れの結び文でやったのに、作法振った文箱の返し方に、

「改まったな」

と、紹由はまず苦笑する。

そして光悦と顔を見あわせ、

「まさかこよい、わしどもが来ておろうとは思わなかったろうから、連中も、きっと驚いたに違いないわさ」

と、遊戯的に何かこう、してやったりというような気持で、さて、文箱のふたを開き、返辞の手紙をひろげてみると、それはなにも書いてないただの白紙ではないか。

「……? おや」

紹由はほかにこぼれた紙でもあるかと、自分の膝をながめ、念のため、文箱の中をもういっぺん覗のぞいてみたりしたが、その白紙一枚のほか、何物もはいっていない。

「墨菊太夫」

「はい」

「これはなんじゃ」

「なんですかわたくしには分かりませぬ。ただ、返辞を持ってゆけと仰っしゃって、これを、かんがん様から渡されたので持って来ただけでござりまする」

「ひとを、小馬鹿に召されたな。……それともこちらの名歌に、すぐ筆をとってよこすほどの返歌もうかばで、あやまったという降参状かな」

なんでも自己のよいように解釈して、やたらに興がるのが紹由のもちまえらしい。だが、その独りぎめに何も自信があるわけではないから、すぐ光悦へそれを示して、

「のう、いったい、その返しは、どういう量見じゃろう」

「やはりなにか、読めという意こころでございましょうな」

「何も書いてない白紙を、どう読みようもなかろうではないか」

「いえ、読めば読めないことはありません」

「では光悦どのは、これをどう読む?」

「――雪。……いちめんの白雪しらゆきとは読めましょう」

「ム、ウム、雪か。いやなるほど」

「吉野の花をこちらへ移してほしいという手紙の返しですから、これは、眺めて酒を酌くむならば、花ならずとも――という意味でしょう。つまり折からこよいは雪のながめにも恵まれているのだからそんなに多情を起さずに、障子でも開け放して、雪だけでまあ飲んでいるがよろしい――と、こういう返辞と私は思いますが」

「ヤ、小憎いことを」と、紹由はくやしがって、

「そんな寒い飲み方をしていられるものではない。先様がそう出てござれば、こちらも黙ってひっこんではおられぬ。なんとしてでも、吉野太夫は、こちらの座敷に植えてながめねば納まらぬぞ」

紹由老人は、躍起になって、唇の乾きを舐なめ始めた。光悦よりはずっともう年とっていてこのくらいだから、若い時分にはずんぶんトラになって人に世話をやかせたものだろうと思われる。

光悦が、まあそのうちに、と宥なだめるほうに努めると、紹由は是が非でも吉野太夫をつれて来いと女たちを手こずらせる、それがまた、吉野太夫そのものよりは、酒の興をたすけるものとなって禿かむろたちも笑い転げ、遊びの座敷はようやく、外の降りしきる雪とともに今が酣たけなわの景色と見えた。

武蔵は、そっと席を立った。

機おりがよかったので、誰も彼の席が空あいたのを気がつかなかった。

雪響き

一

何を思って、黙って酒席を抜けて来たのか、武蔵は廊下へ出ることは出たが、扇屋おうぎやの奥の広さに、勝手がわからないで、独りでまごついていた。

明るい表座敷のほうには、遊客の声や音曲が賑わいたっているので、そこを避けると、当然、うす暗い母屋おもやの布団ふとん部屋だの、道具部屋だのが目にふれて来る。台所に近いのであろう、厨くりやの持つ特有なにおいが暗い壁や柱からむしむし湧いていた。

「――あら、お客さま。こんなほうへ来てはいけません」

そこらの暗い部屋からひょいと出て来て、出合頭であいがしらに手をひろげ、こう、通せンぼをして立ちふさがった禿かむろがある。

座敷のあかりで見る時のあどけなさや可愛さはどこへかやって、ひどく自分たちの権利でも侵されたように、眼を咎とがめ立てて、

「いやなお人。こんなとこ、お客さまの来る所ではありません。はよう、あっちへ行ってください」

叱るように追い立てる。

美しく見せている自分たちの穢きたない生活の裏を、ちょっとでも他人に覗かれたのが、こんな小さい禿にも腹立たしかったのであろう。同時に、お客のたしなみを知らないお客と、武蔵を蔑さげすんでそういったのであろう。

「ア、……こっちへ来てはいけなかったのか」

武蔵がいうと、

「いけません、いけません」

禿かむろは、武蔵の腰を押して、自分も歩く。

武蔵はその禿を見て、

「お、そなたは、さっき縁がわから雪の中へ転げた、りん弥やという子だな」

「え、そうです。お客さまは、お後架こうかへ行こうと思って迷子になったんでしょう。わたしが連れて行ってあげましょう」

と、りん弥は、彼の手と自分の手をつないで先へ引っ張った。

「いやいや、わしは酔っているのじゃない。すまないが、そこらの開いている座敷で、茶漬を一わん喰べさせてくれないか」

「御飯?」

眼をまるくして、

「御飯なら、お座敷へ持って行ってあげますのに」

「でも、せっかく皆が、ああやって愉快に酒を飲んでいるところだから――」

武蔵のことばに、りん弥も首をかしげて、

「それもそうですね。では、ここへ持って来てあげましょう。ご馳走は、何がいいんです」

「なにもいらない、握り飯を二つほど――」

「おにぎりでいいんですか」

りん弥は、奥へ駈けて行った。武蔵の望んだものはすぐそこへ来た。明りもない空部屋あきべやで、武蔵はそれを喰べ終ってしまうと、

「そこの裏庭から、外へ出られるだろうな」

と、訊く。

そしてすぐ、武蔵が立って縁の降り口へ歩み出したので、りん弥は驚いて、

「お客さま、どこへ行くのですか」

「すぐ戻って来る」

「すぐ戻って来るといっても、そんなところから……」

「表口から出るのも億劫おっくう。それに、光悦どのや紹由しょうゆうどのが気づくと、また、なにかとあの人たちの遊興を妨さまたげるし、うるさくもあるからな」

「じゃあ、そこの木戸を開けてあげますから、すぐ帰っていらっしゃいね。もし帰って来ないと、わたしが叱られるかもしれません」

「よしよし、すぐ戻って来るよ。……もし光悦どのが訊ねたら、蓮華王院れんげおういんの近所まで、知人しりびとに会うために中座しましたが、間もなく帰ってくるつもりですといって出たと伝えてくれ」

「つもりではいけません、きっと帰って来てください。あなたのおあいての太夫様は、わたしの付いている吉野太夫様ですからね」

雪の柴折戸を開けて、禿かむろのりん弥は、彼を外へ送り出した。

二

遊廓くるわの総門のすぐ外に、編笠あみがさ茶屋というのがある。武蔵はそこを覗き、わらじはないかと訊ねたが、遊廓へ入る浮かれ男が、顔隠しの笠を求める店なので、元よりわらじを鬻ひさいでいるはずはない。

「すまないが、どこかで購あがのうて来てくれまいか」

そこの娘にたのみ、その間、武蔵は床几しょうぎの端をかりて、帯、腰紐を締め直していた。

羽織を脱いで、ていねいに畳みつけ、筆と紙をかりうけて、なにか一筆しるした物を、結び文にして、その袂たもとの中へしのばせ、

「ご亭主」

と、奥の炬燵こたつにうずくまっている年寄りへ、それを頼んだ。

「おそれいるがこの羽織を預かっておいてくれまいか。――もし拙者が、亥いの下刻(十一時)までにここへ帰らなかったら、この羽織と添えてある一通とを、扇屋におられる光悦どのまで、お届けしてもらいたいが」

「はいはい、おやすいことでございます。たしかにお預かりしておきまする」

「時に、時刻は今、酉とりの下刻(七時)か、戌いぬの刻(八時)ごろか」

「まだ、そうなりますまい。きょうは雪もようで、暗くなるのが早うござりましたからの」

「今、扇屋を出てくる前に、あそこの土圭とけいが鳴っていたが」

「ならば、それがおおかた、今、柝きを打って廻っていた酉とりの下刻でござりましょう」

「まだ、そんなものかのう」

「暮れたばかりでござりますもの。――往来の人通りを見ても知れまする」

そこへ娘が、わらじを買って来てくれた。武蔵は入念に、わらじの緒の縒よりを調べて、革足袋かわたびのうえに穿はいた。

彼の境遇としては多すぎる茶代をおいて、編笠を一つもらい、それはただ手に持って、頭のうえに翳かざしながら、散る花よりもやわらかな雪を払いながら雪の道をどこともなく立ち去った。

四条の河原近くには人家の灯もまばらに見えるが、祇園ぎおんの樹立ちへ一歩入ると、そこらは雪も斑まだらで、足もとも暗かった。

たまたま見える微かな明りは、祇園林に包まれた燈籠とうろうや神燈みあかしだった。神社の拝殿も社家の中も、人間はいないようにしんとしていて、ただ雪の音が、時折、樹々のこずえに響いて、その後をさらにしんとさせていた。

「さ、行こうか」

祇園神社の前に額ぬかずいて、なにか祈念していた一群むれの者が、今、どやどやと社殿の前から立ち上がった。

今し方、花頂山の寺々から、ちょうど戌いぬの刻――五ツの鐘がなりわたった。雪の夜のせいか今夜に限って、鐘の音は腸はらわたに沁みるほど冴えて聞えた。

「御舎弟さま。わらじの緒はだいじょうぶでござるか。こう寒い――凍るような晩には、きつい緒も、ぷつりと切れ易やすうござりますぞ」

「心配するな」

吉岡伝七郎だった。

親族の者や、門弟中の重おもなる者、十七、八人が彼を取り巻いて、寒いせいもあろうが皆、そそけ立った顔つきを揃えていた。彼のまわりを取り囲みながら、蓮華王院れんげおういんのほうへ歩いてゆくのである。

今、起って来た祇園神社の拝殿のまえで、伝七郎はもう全身一点のすきもなく決闘の身仕度を済まして来ていた。鉢巻、革だすき、いうまでもないことである。

「わらじ? ……わらじは、こういう折には布緒ぬのおとかぎっているものだ、おまえ達も覚えておけ」

伝七郎は雪を踏みしめながら、白い息を大きく吐き捨てて、一同の中に歩いていた。

三

日暮れまえに、太田黒兵助ひょうすけたち三名の使いの者から、武蔵の手へ、確乎しかとわたして承諾を取った果し合いの出合い状には、

場所 蓮華王院裏地

時刻 戌いぬの下刻げこく(九時)

と、してあったのである。

明日をも待たないで――今夜の戌いぬの刻という遽にわかな指定をしてやったのは、伝七郎もそれがよいと考えたし、親族や門下の者も、

(猶予を与えて、もし逃げ出されては、ふたたび京都で彼をつかまえることは出来ないから)

という想定のもとに一致した作戦であって、その使いに行った太田黒兵助が、この群れの中に見えないところをみると、彼だけは、あのまま堀川船橋の灰屋紹由しょうゆうの家の附近にうろついていて、その後の武蔵を、ひそかに尾行しているのかもしれない。

「……誰だ? 誰か先へ来ているようだな」

伝七郎はそういって、蓮華王院の裏の廂ひさしの下に、赤々と、雪の中に火を焚たいている者を、遠くから見つめた。

「御池みいけ十郎左と、植田良平でしょう」

「なに、御池や植田良平まで来ているのか」

伝七郎は、むしろ、うるさいといいたげな顔をして、

「武蔵ひとりを討つのに、仰山すぎる。たとえ、仕果しても、あれは大勢で討ったのだといわれてはおれの沽券こけんにもかかわるからな」

「いや、時刻が来たら、われわれは立ち退のきますから」

蓮華王院の長い御堂みどうの廊架ろうかは、俗に三十三間堂げんどうともよばれているところである。長い廊架は、矢を放つ距離といい、的場まとばを置くところといい、弓を射るには絶好の場所だとされて、いつのころからともなく、射具をたずさえて来て、独りで練技を試している者がぼつぼつ増えていた。

――そんなことからふとこの場所を思いついて、こよいの試合場として、武蔵へいってやったのであるが、来てみると、弓以上、果し合いにはなおさら足場がよい。

何千坪かの雪の地域には、雑草や根笹の凸凹でこぼこも見えず、きれいに淡雪あわゆきが積っている。ところどころに、松の樹はあるが、それも密生した林ではなく、極めて疎まばらに、この寺院の風致を添えている程度なのである。

「――やあ」

先に来て、そこで火を焚いて待っていた門人が、伝七郎を迎えるとすぐ火のそばから立って、

「お寒かったでございましょう。まだ時刻はよほどあります。十分、お体を暖めて、御用意にかかっても遅くはありません」

御池十郎左衛門と、植田良平のふたりだった。

良平の腰かけていたあとへ、伝七郎はだまって腰をおろした。支度はもう祇園神社のまえですっかり済まして来たのである。伝七郎は、焚火たきびの焔ほのおに手をかざして、両手の指の節を、一本一本ぽきぽきと鳴らしながら揉もんでいた。

「――ちと早すぎたかな」

煙けぶりに顔をいぶしながら、もうそろそろ殺気を帯びて来ている顔を顰しかめ、

「いま来た途中に、腰かけ茶屋があったなあ」

「この雪で、もう戸を閉めておりましたが」

「たたき起せば起きるだろう。――誰かそこへ行って、酒を提さげて来ないか」

「え、酒をですか」

「そうだ、酒がなくっちゃあ……とても寒いわ」

伝七郎はそういって、火を抱くようにかがみ込んだ。

朝でも晩でも、道場に出ている時でも、伝七郎の体から酒のにおいの消えたことがないことは知っているが、こん夜のような場合――やがて一族一門の浮沈を賭して当ろうとする敵を待つ今のわずかな間に、その酒が、伝七郎の戦闘力に、利となるか、不利となるかを、門弟たちは、いつもの酒とちがって、熟考せずにいられなかった。

四

この雪に、凍こごえた手肢てあしをして、太刀を持つよりは、少しぐらいの酒ならば、体に容いれたほうが、かえってよかろうと考える者のほうが多かった。

「それに、御舎弟が、ああいいだしたものを、その気持をこじらせるのは、なおよろしくない」

こういう尤もっともな意見もあって、門弟の中の二、三が駈け出して行って、間もなく酒を買って来た。

「やあ来たな、どんな味方よりも、以上の味方は、これだ」

焚火のぬく灰にあたためた酒を、伝七郎は茶碗につがせ、こころよげに飲んでは、争気に満ちた息を吐く。

いつものように、量をたくさんに参られてはよくないがと、側にいてはらはらしている者もあったが、そんな心配までに及ばず、伝七郎は心得ていつもより少なくしか飲まなかった。自己の生命にかかわる大事を、すぐ前にひかえているので、豪放には装よそおっていても、ここにいる誰よりも肚の底から緊張しているのは、やはり彼自身だった。

「――や、武蔵?」

不用意に、誰かがこう放った一声に、

「来たか」

焚火を囲んでいた面々が、腰を蹴られたように、一度にどっと立って、その袂たもとやその裾から、火の粉の塵ちりが雪の空へ赤く散った。

三十三間堂の長い建物の角に現われた黒い人影は、遠くから手をあげて、

「わしじゃ、わしじゃ」

と、断りながら近づいて来た。

袴はかまを短くからげて、かいがいしい支度はしているが、腰から背はもう弓になりかけている老武士なのである。門弟たちはそれを見ると、源左衛門様だ、壬生みぶの御老人だといい合って、ひそまり返った。

壬生の源左衛門というこの老武士は、先代吉岡拳法の実弟にあたる人で、つまり拳法の子の清十郎や、ここにいる伝七郎にとっては実の叔父にあたる者だった。

「おう、これは壬生みぶの叔父上、どうしてこれへ」

伝七郎も、この人が今夜ここへ来るなどとは思ってもいなかったらしく、意外な態ていで迎えると、源左衛門は火のそばに来て、

「伝七郎、おぬしほんとに、やるのじゃなあ。……いや、おぬしのその姿を見て、ほっと安堵あんどいたした」

「叔父上にも、一応ご相談にあがろうと思っていましたが」

「相談、なんの、相談などに及ぼうか。吉岡の名に、泥をぬられ、兄を片輪にされて、黙っているようだったら、わしが其方そちを責めに出向こうと思っていたくらいじゃ」

「ご安心ください。柔弱な兄とはちがうつもりですから」

「そこはわしも信頼しておる。そちが負けようとは思わんが、一言ひとこと、励ましてくれようと思って、壬生みぶから駈けつけて来たのじゃ。――だが伝七郎、あまり敵を軽視して臨むなよ、武蔵という者も、うわさを聞けば、なかなかな男らしい」

「心得ています」

「勝とう勝とうと焦心あせらぬがよいぞ。天命にまかせろ。万一のことがあったら、骨は源左衛門がひろってやる」

「ハハハハ」

伝七郎はわらって、

「叔父上、寒さ防よけに」

と、酒の茶碗を出した。

源左衛門はだまって、それを一杯飲んでしまうと、門弟たちを見まわして、

「各〻は、何しに来ているのか。よもや、助太刀ではあるまいな。――助太刀でなかったら、もうこの場所から引き揚げたほうがよかろう。こう物々しくかたまっているのは、一人と一人の試合に何やらこっちに弱味があるようでいかん。勝っても、人の口がうるさいものだ。……さ、そろそろ時刻も近づいたろうから、わしと共に、どこか遠くに退ひいていることにしよう」

五

すぐ耳元で大きく鐘が鳴ったのは、もう、だいぶ前のような気がする――

あれは確かに戌いぬの刻であった。そうすると、約束の戌の下刻は、もうやがて迫っているところだが――と思う。

(出遅れたな、武蔵は)

伝七郎は、白い夜を見まわしながら、ただ独り、燃え残りの焚火たきびをかかえている。

壬生みぶの源左衛門叔父の注意で、門弟たちはみな立ち去ってしまった。足痕あしあとだけが、その後の雪に際きわだって黒く数えられる。

――ぽきっと、時々、凄じい音がした。三十三間堂の廂ひさしの氷柱つららが折れて落ちるのである。また何処かで、雪の重さに樹の枝が裂けるのであった。その度ごとに、伝七郎の眼は鷹のようにうごいた。

その鷹の影にも似た男がひとり、その時雪を蹴って、彼方むこうの樹の間まから敏速に、伝七郎のそばへ馳せて来た。

武蔵の行動を監視しつつ、宵のうちからここと聯絡をとって報告していた数名の中の最後の一人太田黒兵助だった。

今夜の大事が、もう眉まゆを焦やく所まで迫って来たことは、その兵助の顔つきだけでも、訊かないうちに分った。

足も地につかない様子で、喘あえいで来た息の弾はずみを、

「来ましたぞッ!」

と、そのまま告げた。

伝七郎は、これを聞く前に、疾とく察して、火の側から立ち上がっていたのである。――そして、彼のことばを聞くとすぐ、

「来たか」

と、おうむ返しにいって、その足が無意識のように、燃え残りの焚火を踏みにじっていた。

「――六条柳町の編笠茶屋を出てから、雪がふるのに、武蔵め、牛のようにのそのそ歩いておりましたが、たった今、祇園神社の石垣をのぼって境内へはいりました。――拙者は、廻り道してここへ来ましたが、あののろい足つきでも、もう姿を見せるはずです、御用意を!」

「よしッ。……兵助」

「は」

「彼方あっちへ行っておれ」

「皆は」

「知らん。その辺にいては、眼ざわりだ、立ち去れ」

「はッ……」

といったが、兵助は、そこをはずして去る気にはなれなかった。伝七郎の足が、雪泥の中へ、火をすっかり踏みつぶし、武者ぶるいしながら廂ひさしの下から出て行くのを見届けると、彼は反対に、御堂の床下へもぐって、闇の中に屈かがみ込んでいた。

床下にいると、外にはないと思っていた風が冷々ひえびえと動いていた。太田黒兵助は、自分の膝を抱えこんだまま、骨まで冷えてゆく体がわかった。ガチガチと奥歯が鳴るのをどうしようもなかった。それは寒さのせいであると、自分の観念を強しいてうなずかせながら、時々、尿いばりでもつかえたように、腰の下から顔の先までぶるぶると身ぶるいを走らせていた。

(……はてなあ?)

外は昼間よりもよく見えるのである。伝七郎の影は三十三間堂の下から約百歩ほど離れて、背のたかい一幹ひとみきの松の根かたに足場を踏みしめ、武蔵のすがたが見えるのを、いまやおそしと待ち構えているのだ。

――だが、兵助が胸で計っていた頃あいは、とうに過ぎたのに、武蔵はまだここへ来なかった。宵のうちほどではないが、雪がまだチラチラとこぼれているし、寒さは肌に咬かみつくようだし、火の気も酒の気もさめてくるし――伝七郎の焦々いらいらしている態さまが、遠くからでもよく分るのであった。

――ざあッ、と突然伝七郎の神経を驚かしたものがあると思うと、それは、梢こずえから滝のように落ちて来た雪に過ぎなかった。

六

もっとも、こういう場合の一瞬ひとときというものは、待つ方になると、わずかな間も、耐えきれない焦躁しょうそうになるのは勿論である。

伝七郎の気持も、太田黒兵助の気持も、その例に洩れない。殊に兵助は、自分のした報告に責任を感じてくるし、寒さは体から霜が立つようだし――もう、一瞬ひととき、もう一瞬と、その焦躁を抑えていても依然として武蔵の影は見えて来ないし――

たまらなくなって、彼は、

「どうしたのかなあ?」

床下から出て、彼方かなたに立っている伝七郎へ何か呼びかけた。

「兵助、まだいたのか」

伝七郎も同じ気もちでこう声を返した。どっちからともなく二人は接近していた。そしてすべてがただ真っ白な雪の夜を見廻して、

「……見えぬ!」

と、呻うめきに似た不審いぶかりを繰返していた。

「彼奴きゃつ、逃げ失うせたな」

伝七郎がつぶやくと、

「いや、そんなはずは……」

太田黒兵助はすぐ打消した。そして極力、自分の確かめて来たところをもって、自分で保証づけるように喋舌しゃべっていると――

「や?」

聞いている伝七郎の眼が急に横へ反れた。

――見ると、蓮華王院の庫裡くりのほうに、ポチと手燭の灯が揺らぎ出している。灯を持って来るのは一人の僧で、後から誰やら尾ついてくる人影もわかる。

その二つの人影と、一点の小さな灯は、やがて、境の扉とを開けて、三十三間堂の永い縁の端へ立つと、こう低い声で話していた。

「――夜分は、どこもかしこも、閉め切っておりますので、よう存じませぬが、たしか宵の頃、この辺りで、暖を取っていたお武家方がございましたから、それが、あなたの尋ねているお方達かもわかりませんが、もう、誰もいないようでございますな」

それは、僧の言葉だった。

それに対して、ていねいに、なにか礼をのべているのは、案内されて来た方の者で――

「いや、せっかくお休みのところを、お邪魔いたして申しわけありません。……あの彼方むこうの樹の下に、二人ほど佇たたずんでおるようですから、あの者が、蓮華王院で待つといってよこした当人かも知れません」

「では、たずねて御覧なさい」

「ご案内は、もうここまでで結構です、どうぞお引取りくださるように」

「なにか、雪見でもなさろうという御会合で?」

「まあ、そんなものです」

と、一方は軽く笑う。

僧は手燭を消して、

「いわでもがなのことではありますが、もしこの廂ひさしのお近くで、さっきのように火でもお焚きになる場合は、どうぞ、後の残り火だけはご注意くださいますように」

「わかりました」

「では御免を」

僧は、そこの扉とを閉めて、庫裡くりのほうへ立ち去ってしまう。

残っていた一方の者は、じっと伝七郎の方を見ながらしばらく佇たたずんでいた。そこは廂ひさしの蔭で、ほかの雪明りが眼を刺すように強いために、そこの暗いのが、よけいに濃く感じられるのであった。

「誰? 兵助」

「庫裡くりの方から出てきたようですが?」

「寺の者ではないらしいぞ」

「はてな」

歩むともなく、二人は三十三間堂の縁のほうへ、二十歩ほど近づいて行った。

すると、御堂の端のほうに見えた黒い人影も位置を移し、長い縁の中程あたりまで来ると、その足をぴたりと止めた。そして結びかけていた革襷かわだすきの端を、左の袂たもとのわきで、きびしく締めているような様子であった。その様子までを眼に受け取れる距離までは――何気なく進んで行った二人であったが、ぎくっと、足の方が先に雪の中から抜けなくなってしまった。

そして、ふた息か三息、間をおいてから、

「――あっ、武蔵!」

伝七郎が大きくいった。

七

互いに正視し合って、

武蔵!

と伝七郎が最初の声を発した途端から、こう二人の立場は、すでに武蔵の方が、絶対に有利な地を占めていることをこの場合見のがすことはできない。

なぜ、というまでもなかろうが、一応、二人の対立している地歩を見るならば、武蔵は自分の身を、敵よりも何尺か高い縁の上に置いている。反対に伝七郎は、敵から眼の下に睥睨へいげいされている地上にある。

それのみでなく、武蔵はまた絶対に背後うしろが安全だった。三十三間堂の長い壁を背にしているのであるから、たとえ、左右の横から挟撃しようとする者があっても、縁の高さが自おのずから一つの防ぎをなしているし、後顧なく、一方の敵へ意力をそそぐことができる。

伝七郎の背後うしろはといえば、無限の空地くうちと雪風であった。かりに相手方の武蔵には、助太刀は来ていないと承知していても、その広い背中の空地を、決して無関心でいるわけにはゆかなかった。

だが、倖さいわいなことには、彼のそばには太田黒兵助がいた。

「退のけっ、退どいていろっ、兵助――」

こう、袖を払うように、伝七郎がいったのは、むしろ兵助が下手な手出しをしてくれるよりも、遠く離れて、一人と一人との絶対的なこの地域を、見守っていてくれた方が力に思われたに違いないのである。

「よいか」

これは、武蔵の言葉だった。

水をかぶせるような静かないいかただったのである。

伝七郎は、ひと目見るとともに武蔵の顔に対しても、その足の先までを、

(こいつか)

という憎念で見ずにいられなかった。肉親の意趣もある。巷ちまたの取沙汰に比較されている忌々いまいましさもある。また地方出の駈出かけだし剣客がという蔑さげすみも頭へ先に入っている。

「だまれっ」

刎はね返すように出た語気は、彼としては自然だった。

「――よいかとは、何がよいかというぞ。武蔵! 戌いぬの下刻は、もう過ぎておる」

「下刻の鐘と、きっちり、同時にとは約束していない」

「詭弁きべんを吐くなっ。こっちはとうに来て、この通り身支度して待ちぬいていた。――さっ、降りろ」

不利な立場のまま、無碍むげに進んでゆくほど、伝七郎も相手を軽んじてはいない。当然こういって敵を誘った。

「今――」

と、軽く答えておいて、武蔵はその間に、機を観みているような眼ざしだった。

機を観るといえば、伝七郎は武蔵のすがたを眼の前にしてから、満身の肉に戦いの生理を起していたが、武蔵のほうでは、彼の肉眼に自分を示す前から、とうに戦いを開始しているつもりで、戦いの中身を持って臨んで来ている。

証拠だてて、彼のその心事をいってみるならば、彼はまず、わざと道でもない寺院の中を通過していた。もう憩やすんでいる寺僧の世話までかけて、広い境内を歩かずに、この御堂の縁へ、いきなり建物伝いに来て立ったのでも分る。

祇園ぎおんの石段をのぼった時、彼はもう多数の人間の足痕を雪の中に見たに違いない。あらゆる即智はそこで働いた。自分のうしろを尾行つけていた者の影が自分から離れると、彼は、蓮華王院の裏地へ行くのに、わざとそこの表門へ入ってしまったのだった。

寺僧について、十分に、宵のうちからのこの附近の予備知識を得、そして茶ものみ、暖も取り、少し時刻が過ぎたのも承知しながら、唐突に、当の敵と面接するという策を取ったのである。

第一の機を、武蔵はこうして掴つかんだ。第二の機は、しきりと今、伝七郎の方から誘うのであった。その誘いに乗せて出るのもまた戦法だし、外そらして自身から機を作るのもまた戦法である。勝敗の相そうのわかれ目は、ちょうど水に映っている月影に似ている。理智や力を過信して的確にそれを掴もうとすればかえって生命を月に溺らせてしまうにきまっている。

八

「出遅れたうえ、まだ支度が整わぬのか。ここは、足場がわるい」

焦立いらだつ伝七郎へ、武蔵は飽くまで落着きはらって、

「今参る」

と、いった。

怒れば、必ず敗れる端をなすことを、伝七郎も知らないではない。だが、まるで故意のような武蔵の態度を見ていると、そういうふだんの修得と感情がばらばらにならずにいられないのである。

「来いっ! もっと広場のほうへ! お互いに、名はいさぎよくしておきたい。姑息こそくな振舞い、卑怯な立ち合い、そんなものへ、唾つばきして生きてきた吉岡伝七郎だっ。――武蔵っ、仕合わぬまえに、怯気おじけを抱くようでは、伝七郎の前へ立つ資格はないぞっ、降りろそこを!」

ようやく彼が、呶鳴どなりつづけ出すと、武蔵はニッと歯を少し見せた。

「なんの、吉岡伝七郎の如き、すでに去年の春、拙者が真二つに斬っている! きょう再び斬れば、おん身を斬ることこれで二度目だ!」

「なにっ! いつ、どこで」

「大和の国柳生の庄」

「大和の」

「綿屋という旅籠はたごの風呂の中で」

「や、あの時?」

「どっちも、身に寸鉄も帯びていない風呂の中であったが、眼をもって、この男、斬れるかどうかを自分は心のうちで計っていた。そして、眼で斬った、見事に斬れたと思った。しかし、そちらの体には何の形かたも現さないから、気づきもせずにおったろうが、おん身が、剣で世に立つ者と傲語ごうごするならば、余人のまえでいうなら知らぬこと、この武蔵のまえでいうのは笑止だ」

「なにをいうかと思えば、愚にもつかぬ吐ほざき言ごと。だが、少しおもしろい、その独りよがりを醒さましてやろう。来いっ。彼方むこうへ立とう」

「して伝七郎、道具は、木太刀か、真剣か」

「木太刀も持たずに参って何をいう。真剣は覚悟のうえで来たのと違うか」

「相手が木太刀を望みとあれば、相手の木太刀を奪って打つ」

「広言、やめろッ」

「では」

「おっ」

――伝七郎の踵かかとは、雪の上に黒い斜線を一間半も描いて、さっと武蔵の通る空間を与えた。――しかし武蔵は、縁の上を横へ二、三間つつつつと歩いてから雪の中へ降りていた。

ふたりは、御堂の縁からそう何十間も先までは歩いて行かなかった。そこまで行く間が伝七郎にはもう待ちきれないものになっていた。やにわに、相手へ重圧を加えるような一喝かつを浴びせると、彼の体格に均つり合っている長刀が、いかにも軽いもののように、びゅっ――と微かな鳴りを発して、武蔵のあった位置を正確に薙なぎ払っていた。

だが、力点の正確さが、敵を両断する正確さとはあながちいえない。対象のうごき方は、刀とうの速度よりも、もっと迅はやかった。――いやそれ以上に迅速だったのは、その敵の肋骨あばらの下から噴いて出た白刃であった。

九

きらっと、二すじの刀が、宇宙に閃ひらめいたのを見て後は、降る雪の地へ落ちてくるさまは如何にものろいものに見えた。

けれど、その速度にも、楽器の音階のように、徐じょ、破は、急きゅうがあった。風が加われば急になり、地の雪を捲いて旋風つむじになると、破を起す。そしてまた、白鵞はくがの毛が舞うような静かな雪景色に返って降った。

「…………」

「…………」

武蔵と伝七郎との、ふたりの刀も、お互いの刀が鞘さやを走ったと見えたその一瞬には、もうどっちかの肉体は、到底無事ではあり得ないと考えられるところまで迫り合い、同時に二つの刀の動き方にも複雑な光があったように見えたが、それが、ぱっとふたりの踵かかとが雪煙を揚げ、後方うしろへ離れあうと――どちらの身もまだ健在であって、白雪の大地に、一滴ひとたらしの血しおもこぼれていないことが、なんだかあり得ない奇蹟のようにしか思われなかった。

「…………」

「…………」

それきり、ふたすじの刀は、さっきから切っ先と切っ先との間に約九尺ほどな距離をおいたまま、空間に固着しているのである。

伝七郎の眉毛に雪がたかっていた。その雪が解けると、露になって、眉毛からまつ毛の中へながれ込むらしいのである。ために時々、顔を顰しかめると、その顔筋肉が無数の瘤こぶみたいに動き、そしては、くわっと大きな眼をひらき直していた。そこから飛び出しそうな眼孔は、まるで鉄を熔とかしている炉の窓のようであり、それとともに唇くちは、下腹からしている呼吸を、極めて平調に通わせているかのように見せていても、実は韛ふいごのような熱臭くさい火かッ気きをもっていた。

(――過しまった!)

伝七郎は、敵とこういう対峙たいじになるとすぐ、胸のなかでそう悔いていた。

(なぜ、きょうに限って、青眼につけてしまったか。いつものように頭高ずだかに振りかぶってしまわなかったか)

頻りと、その後悔が頭のなかを往来する。といっても人間のふだんにする思考のように脳だけで物事をのん気に判断していられる状態ではない。体じゅうの血管のうちを、どっどっと、音をたてて駈けている血がみな思考力を持ってそう感ずるのだった。頭の毛も、眉毛も、全身の毛髪はいうまでもなく、足の爪までが、生理的に動員されて、敵へ向ってそそけ立った戦闘の姿態を示しているのだった。

こう刀を構えて持つのは――青眼身せんがんしんとなって戦うのは――伝七郎は自分の不得手であることを知っていた。だから、肱ひじを上げ、真っ向に持ち直そうと、先程から幾度となく、切っ先を上げかけたが、どうしても上げられなかった。

――武蔵の眼が、その機を、待っているからである。

その武蔵もまた、青眼に刀をぴたりと――やや肱ひじをゆるめに構えていた。伝七郎の肱の屈曲しているところには、めりめりといいそうな力が見えるが、武蔵の肱には手で押せば下へも横へも動きそうな柔かさが見える。――そしてまた、伝七郎の刀が前にもいったように、時折、位置を改めようとして動いては止め動いては止めしているのと反対に、武蔵の手にある刀は、びくとも動かなかった。その細い刀背みねから鍔つばにかけて、微かに雪がつもるほど動かずにあった。

十

彼の破綻はたんを祈る、彼の隙をさがす、彼の呼吸を計る、彼に勝とうとする、飽くまで勝とうとする。八幡、ここぞ生死のわかれ目と思う。

そういう意識が、脳裡にちらついている間は、相手の伝七郎がまるで巨おおきな巌いわおのように見え、

(これは)

と、武蔵も、その豪壮な存在からうける一種の圧迫感を、はじめはどうしようもなかった。

(敵は、おれよりも上手うわてだ)

正直に、武蔵は、そう思ったのである。

同じ負ひけ目めは、小柳生城のうちで柳生の四高弟に囲まれた時にもうけた。彼のその負け目に似た自覚というのは、柳生流とか吉岡流とかいう正法な剣に向ってみると、自分の剣がいかに野育ちの型も理もない我法がほうであるかがよく分ることだった。

今――伝七郎の構えているさまを見ても、さすがに吉岡拳法というあれだけの先人が、一代を費やして工夫しただけのものが、単純のうちに複雑に、豪放なうちに賢密に、ひとつの整った剣のすがたを作なしていて、ただ力とか、精神とかいうだけのもので圧おして行っても、決して破り得ないものがあった。

生半可なまはんか、武蔵には、それが観みえるだけに、手も、足も出ない心地がしてしまうのだった。

で当然、武蔵は無謀になれなかった。

彼のひそかに自負している我法がほうも野人ぶりも振舞えなかった。こんなはずはないと思うくらい、こよいの肱ひじは伸びてゆかない。じっと、保守的に構えを持っているのが呼吸いっぱいであった。

その結果、心で払っても払っても、

(隙を)

と、眼に充血を来し、

(八幡)

と勝ちを祈り、

(勝たねば)

と、躍起な焦あせりが湧いて来て、心はいよいよ躁さわがしい。

多くの場合、たいがいな者が、ここで渦潮に巻込まれたように狼狽に墜おちて溺れるのであった。しかし武蔵は、なんの心機をつかむともなく、そのあぶない自分の昏迷からふと浮び上がっていた。これは彼が、一度も二度も、生死のさかい目を踏んで来た体験の賜物にほかならぬものであろう。――はっと眼を拭かれたように気が醒めていたのである。

「…………」

「…………」

依然として青眼と青眼との対峙のままだった。雪は武蔵の髪の毛に積り、伝七郎の肩にも積っていた。

「…………」

「…………」

巌いわおのような敵はもう眼の前になかった。同時に、武蔵という自己もなくなっていた。そうなる前に必然、勝とうという気持すらどこかへ消え失せてしまっている武蔵であった。

伝七郎と自分との約九尺ほどな距離の空間をチラチラと静かに舞っている雪の白さ――その雪の心が自分の心かのように軽く、その空間が、自分の身のようにひろく、そして天地が自分か、自分が天地か、武蔵はあって、武蔵の身はなかった。

すると、いつのまにか、その雪の舞う空間を縮めて、伝七郎の足が前へ出ていた。そして刀の先に、彼の意思が、ビクとうごきかけた。

――ぎゃっッ!

武蔵の刀は後ろを払っていたのである。その刃は、彼の背後から這い寄って来た太田黒兵助の頭を横に薙ぎ、ジャリッと、小豆袋あずきぶくろでも斬ったような音をさせた。

大きな鬼燈ほおずきみたいな頭が、武蔵の側を勢いよくよろけて、伝七郎の方へ泳いで行った。その歩いて行った死骸につづいて、武蔵の体も咄嗟に――敵の胸を蹴飛ばしたかと思われるほど高く跳んでいた。

十一

四方の静寂しじまを劈つんざいて「ア――ああっッ」と、亀裂ひびのはいった声だった。伝七郎の口からである。満身から発した気合いが、途中でポッキと折れたように、宙へその一声が掠かすれて行ったと思うと、彼の巨おおきな体が、後ろへよろめき、どっ――と真っ白な雪しぶきに包まれた。

「まッ、まてッ」

大地へ伸びた体を無念そうに曲げ、雪の中へ顔を埋めながら、伝七郎がこう呻うめくようにいった時はもう、武蔵の影は、彼のそばにはいなかったのである。

俄然、それに答えたものは、遥か彼方かなたで――

「おうっ」

「御舎弟の方だ」

「た、たいへんだ」

「みんな来いっ」

どどどどと、潮うしおの駈けて来るように、雪を蹴って、黒い人影がここへ集まって来る。

いうまでもなく、遠く離れて、かなり楽観的に、勝負のつくのを待っていた親類の壬生みぶ源左衛門やその他の門人たちだった。

「ヤ! 太田黒まで」

「御舎弟っ」

「伝七郎様っ」

呼んでも、手当しても、もういけないことはすぐ分った。

太田黒兵助の方は、右の耳から横へかけられた太刀が口の中まで斬られているし、伝七郎の方は、頭の頂上からやや斜めに鼻ばしらを少し外はずれて、眼の下の顴骨かんこつまで斬られている。

ともに、たった一太刀だった。

「……だ、だからわしが、いわんことではない。敵を侮あなどるからこんなことになったのじゃ。……伝、伝七郎っ、これっ、これっ、伝七……」

壬生みぶの源左衛門叔父は、甥おいのからだを抱いて、愚を知りながら、死骸に向って悔やんでいた。

いつのまにかその人々の踏みつけている雪はいちめん桃色に変っていた。――自分も死者の方にばかり気をとられていたが、壬生の源左老人は、ただうろうろと度を失っている他ほかの者に腹が立って、

「相手はどうしたっ」

と、呶鳴りつけた。

その相手の所在を、他の者も気にとめてないわけではなかったが、いくらキョロキョロしても、武蔵の影は、もう自分達の視野からは見出せなかったので、

「――いない」

「――おりません」

痴呆うつけのような返辞をすると、

「いない理わけがあるかっ」

源左衛門は歯がみをしながら、

「わしらが駈け出すまで、たしかに突っ立っていた影がここに見えたのじゃ。まさか、翼のあるわけでもあるまい、一太刀、武蔵に酬むくわんでは、吉岡の一族として、わ、わしの面目が立たぬ」

すると、そこにかたまっている大勢の中から一人があッといって、指さした。

自分たちの仲間から発だしたあッという声であるのに、その衝動をうけて皆、どっと一歩ずつ後方うしろへ身を退ひき、そして、指さした者の指先へじっと視線をそろえた。

「武蔵」

「オオあれか」

「うーむ……」

一瞬、なんともいえない寂寞じゃくまくの気が漲みなぎった。人のない天地の静かさよりも、人中の空気にふと湧いた寂寞のほうが不気味な霊魂をふくんでいた。鼓膜こまくも頭の中も真空になって、物を見る眼が、物を映しているだけで、思考に容いれることを忘れ果てたかのようになる。――

武蔵は、その時、伝七郎を倒した場所から最短距離の建物の廂ひさしの下に立っていたのである。

――それから。

相手方の様子を見つつ、壁を背にしたまま、徐々と横歩きにあるき、三十三間堂の西の端縁へのぼって、悠々とさいぜん立った所の縁の中ほどまで足を移していた。

そこから一応、

(襲くるか?)

と、体の正面を、彼方かなたにかたまっている群れへ向けたが、その気色もないと見定めたのであろう。ふたたび歩き出して、縁の北の角まで行ったかと思うと、忽然こつぜん、蓮華王院の横へと影を消してしまった。

今様六歌仙

一

「こちらの文のお返しに、白紙など遣よこされて、なんとも小憎い一座ではある。このまま黙って引っ込んでいては、愈〻いよいよ、あの公達輩きんだちばらをよい気にさせて置くようなもの。この上は、わしが行って直談合じかだんごうと出かけ、意地でも吉野太夫をこちらへ申しうけて来ねばならぬ」

遊びに年齢としはないものだそうであるが、酔うと興の乗じたまま、踏み止まりのない灰屋紹由しょうゆうであった。こういい出すとどうしても、自分の思い通りにならないうちは、そのひたぶるな遊びのわがままが納おさまらないとみえる。

「案内しやい」

と、墨菊太夫の肩につかまって立ち上がり、側から光悦が、

「まあ、まあ」

と、引き止めても、

「いいや、わしが行って吉野を連れてまいる――旗本ども、あの方々の席へわしを案内しやれ、おん大将の御出馬に候ぞ、われと思わんものは、尾つけ、尾け」

危なかしくってはらはらさせられるが、放ほっておいても決して危なくないのが酔っぱらいである。しかしそれを、危なくないからといって、見ている世の中では面白くない。やはり危ながったり、危なそうに見せたりするうちが、世の中の至妙でもあるし、遊戯の世界の滋味でもある。

わけてもまた、紹由老人のように、酢すいも甘いも知り尽くし、遊びの裏も表も心得ぬいている客になると、同じ酔っぱらいでも、扱あつかいいいようで大いに扱い難にくい。遊ぶ心と、遊ばせる方の心とが蹌々よろよろ、歩いている間も、不即不離、つまり阿呍あうんの呼吸というものである。

「船ばし様、おあぶのうございまする」

と妓おんなたちが庇かばえば、

「なんじゃ、馬鹿にするな。酔えば、足が、ひょろけるが、心は、ひょろけてはいないぞ」

と、むずかるし、

「では、おひとりでお歩き遊ばせ」

と離せば、廊下へ、ぺたと坐ってしまって、

「――すこし草臥くたびれて候。わしを負ぶってくれい」

と、いう。

いくら広いにしたところで、同じ家のべつな部屋へ行くのに、廊下続きでこうさんざん手間どらせて道中しているのも、紹由にいわせれば、これも遊びの一つというに違いない。

なんでも知らない顔をしながら、なんでも知っているこの酔客様は、途中でこんにゃくのようになって、妓おんなたちを手古てこずらせていたが、その寒巌枯骨ともいえるような細ッこい老躯の中には、なかなか利きかない気性が潜ひそんでいるらしく、さっき白紙の返書を遣よこしたり、あちらの別室で、吉野太夫を独占して、得意げに遊んでいるらしい烏丸光広卿などの一座に対して、

(青くさい公達輩きんだちばらが、なんの猪口才ちょこざいな――)

と、常々の剛毅が、酒に交じって、胸でむらむらしていることも事実であった。

公卿くげといえば、武家も憚はばかる厄介者であったが、今の京都の大町人は、そんな者を少しも厄介には思っていない。打割ったところをいえば、お人の良いどうにでもなる――ただいつも位階ばかり高くて金のない階級というだけのものである。従って、金をもって適当な満足を与え、風雅をもって上品に交わり、位階を認めて誇りを持たせておけば、それで彼らは自分たちの指人形のようにうごくことを――この船ばし様は十分に知りつくしている。

「どこじゃ、かんがん様の遊んでござるお座敷は。……ここか、こちらか」

奥まったところの、花やかな灯ひの映さしている障子を撫でまわして、紹由がそこを開けようとすると、出合頭であいがしらに、

「やあ、誰ぞと思えば」

こんな場所に似合わない僧の沢庵たくあんが、内からそこを開けて、顔を出した。

二

「あっ、ホウ?」

と、目をまろくし、かつ奇遇を欣よろこび合って、紹由の方から、

「坊主、おまえもいたのか」

沢庵の首すじへ抱きつくと、沢庵も口まねして、

「おやじ、おぬしも来ていたのか」

と紹由の首を抱えこみ、出合頭であいがしらの酔っぱらい同士が、恋人のように汚い頬と頬とをこすり合い、

「達者か」

「達者じゃ」

「会いたかった」

「うれしい坊主め」

しまいには、ぽかぽか頭をたたいたり、一方がまた一方の鼻の頭を舐なめ出したり、何をやっているのか、酒飲みの気持は分らない。

今そこにいた沢庵が、次の部屋から出て行ったと思うと、廊下のあたりで、しきりと障子ががたがた鳴り、恋猫と恋猫とがじゃれているような鼻声が聞えるので、烏丸光広は、対むかい合っている近衛信尹のぶただと顔を見あわせ、

「ははあん、案の如く、うるさいのが、やって来たらしい」

そっと、苦笑をもらした。

光広はまだ若い、見るところ三十ぐらいな貴公子だった。裸にしても堂上人どうじょうびとらしく白皙はくせきの美男であるから、実際の年はもっとよけいかも分らない。眉は濃く、唇は朱あかく、才気煥発なところが眸ひとみに出ている。

(武家ばかりが人間のような世の中に、なんで麿まろを公卿くげに生ましめたか)

というのがこの人の口癖であって、優しい容貌のうちに烈しい気性を蔵ぞうし、武家政治の時流に、鬱勃うつぼつたる不平を抱いているらしかった。

(頭脳あたまがよくて若い公卿で、今の世態に悩みを持たぬ奴は、馬鹿である)

これも光広が、いって憚はばからない持論なのだ。それを換言するとつまり、

(武家は武門の一門を世職とするものだが、それが、政治の権を戟ほこに翳かざし、右文左武うぶんさぶの融和もつりあいもこのごろではあったものではない。公卿は節句のかざり物、人形でも済むことだけを任されて、曲げてかぶれぬ冠かんむりを載せられているのだ。――そんなところへ自分のような人間を生ませたのが神かみの過あやまちというもの、われ人臣たらんとすれば、今の世の中では、悩むか、飲むか二つしかない。――如しかず、美人の膝を枕に、月を見、花を見、飲んで死のうか)

というような意味であるらしかった。

蔵人頭くろうどのかみから右大弁うだいべんに昇り、今も参議という現職にある朝臣あそんであるが、そこでこの貴公子はさかんに六条柳町へ通ってくる。この世界にいる時だけ腹の立つのを忘れるというのである。

その若くて悩む仲間には、飛鳥井あすかい雅賢だの、徳大寺実久さねひさだの、花山院忠長だのというもっと溌剌としたものもあって、武家とちがって、めいめい貧乏のくせにどう金の工面をしてくるのか、いつも扇屋に来ては、

(ここへ来ると、人間らしい心がしてくるぞ)

とばかり飲んで騒ぐことを例としていたが、その顔ぶれとすこし違って、今夜の彼のお連れは、寔まことにおとなしやかな人品だった。

そのお連れである近衛信尹のぶただというのは、光広よりは年も十ほどは上であろう。どこか重々しい風丰ふうぼうがあり、眉も秀ひいでているが、豊かに浅黒いその頬に薄あばたのあるのが世間並にいえば瑕きずである。

けれどその薄あばたなら、鎌倉一の男、源実朝みなもとのさねともににもあったということだからこの人だけの瑕瑾かきんではない。殊にこの人が、前さきの関白氏うじの長者ちょうじゃという厳いかめしい身分などをどこにも見せず、ただ余技の書道において聞えている近衛三藐院このえさんみゃくいんとして、吉野太夫の側でにやにやしているところはかえってなかなか床ゆかしい薄あばたであった。

三

顔じゅうを笑靨えくぼにして、近衛信尹のぶただはその薄あばたを、吉野太夫の顔に向け、

「あの声は、紹由しょうゆうだの」

と、いった。

吉野の紅梅よりも濃い唇がおかしさを噛みこらえながら、

「あれ、ここへお見え遊ばしたら、どうしたらようございましょう」

困ったような眼元をする。

烏丸光広は、

「起つな」

と、吉野の裾すそを抑えて、次の間越しに、廊下の境へ、

「沢庵坊、沢庵坊、そんな所で何をしておらるるか。寒いぞ、そこを閉めて出るなら出ろ、はいるならはいれ」

と、わざといい放ってみる。

するとその沢庵が、

「まあ、はいれ」

と障子の外から紹由老人を引っぱり込み、光広と信尹の前へ来て、ぺたりと坐った。

「よう、これは、思いがけぬお連れではあるぞ。いよいよ、おもしろい」

灰屋紹由は、こういうと、さすがにいくら酔っていても、少しも崩れない薄い膝の角かどをそのままずいと進めて、すぐ信尹の前へ手をさし出し、

「――お流れを」

と、辞儀した。

信尹はにやにや、

「船ばしの翁おきな、いつも元気でよいのう」

「かんがん様のお連れが、お館やかたとは露だに知らず……」

と、杯を返す手からもうこの古武士ふるつわものは、わざと酔いを誇張して酩酊めいていした太郎冠者たろうかじゃのように細い皺首しわくびを振りうごかした。

「……ゆ、ゆるされいお館。へ、平常の、ご無沙汰はご無沙汰、会った時は会った時、なんの……関白でおざろうと、参議でござろうと……ハハハハ、のう沢庵坊」

と、またそばの坊主頭を脇へかかえ込み、信尹と光広の顔を指した。

「――世の中に、気の毒なものは、こ、このお公卿くげという人達じゃ。関白の、左大臣のと、よい名は貰うが、実はくれぬ。まだまだ町人が遥かましよ。……のう坊主、そう思わんかい」

沢庵も、この酔老人すいろうじんには、すこし辟易へきえきのていで、

「思う、思う」

と、彼の腕の中からやっと首を外はずして、自分の物にすると、

「これ、御坊からは、まだ戴いておらぬが」

と杯をせがむ。

そしてその杯を顔に乗せるように傾けて、また――

「なあ坊主、おぬしなどは狡ずるい奴じゃぞ。――今の世の中で狡い人間は坊主、賢い者は町人、強い者は武家、おろかしき者は堂上方どうじょうがた。……アハハハ、そじゃないか」

「そじゃ、そじゃ」

「好きなこともよう出来ず、さりとて政事まつりごとからは戸閉とじめを喰い、せめて歌でも詠よむか、書でも書くか。そこより他ほかに力の出し場がないなどということが……アハハハハ、のう坊主、あろかいな」

飲んで騒ぐことなら光広も負けないし、雅談や酒の量なら信尹もおくれを取っていまいが、こういきなり捲まくし立てられたので、顔負けしたというか、さすがの二人も、この細ッこい闖入者ちんにゅうしゃのために、すっかり座興を攫さらわれてしまった形で沈黙していた。

その図に乗って紹由は、

「太夫。……太夫はなんと思おぼさるるな。たとえば、堂上方に惚れ召さるか、それとも町人に惚れ召さるか」

「ホ、ホ、ホ。まあ船ばし様が……」

「笑い事でない、真面目に女子おなごの胸をたたいてみるのじゃ。ウウムそうか、いや読めた、やはり太夫も町人がよいというか。――さらばわしの部屋へ来い、さあ太夫は紹由が貰うて行く」

吉野太夫の手を自分の胸に納めて、この古武者ふるつわもの、抜からぬ顔して起ちかけた。

四

光広はおどろいて、手の杯をこぼしながら下へ置き、

「戯れもほどこそあれ」

と、紹由の手を捥もぎ放して、吉野太夫を自分のそばへ抱え寄せた。

「なぜ、なぜ?」

紹由は、躍起となって、

「むりに連れて行くのではのうて、太夫が、来たそうな顔しているから連れて行くのじゃが。のう太夫」

間に挟まった吉野太夫は、ただ笑っているほかなかった。光広と紹由のふたりに左右の手を引っ張られて、

「まあ、なんとしようぞ」

と、困った顔をしていた。

ほん気な意地でも鞘当さやあてでもないが、ほん気にも躍起やっきにもなって困る者を困らせるのが遊びである。光広もなかなか肯きかないし、紹由も決して退いかない。そして吉野を両方の義理に挟んで、

「さあ太夫、どちらの座敷を勤めるか、この伊達引たてひきは、太夫の胸次第、太夫がなびきたい方へ靡なびくがよい」

と愈〻、彼女を困るような破目へ圧おして、苛いじめにかかる。

「これはおもしろい」

と沢庵は、事の納まりをながめていた。いや眺めているばかりでなく、

「太夫、どっちへ随つくのだ、どっちへ随くのだ」

と彼までが、側から気勢をケシかけて、この納まりを肴さかなにして飲んでいた。

ただ温厚な近衛信尹のぶただだけが、さすがにお人柄を見せて、

「さてさて、意地の悪い客どもよな。それでは吉野もいずれへともいえまいが、そう無理をいわずに、皆が仲よく一座してはどうじゃの」

と、助け舟を出し、

「そういえば、あちらの座敷には、光悦がただ一人で置き放しになっているというではないか。誰ぞ、光悦をここへ呼んで参れ」

と、ほかの女たちへいって、この場合を紛まぎらせてしまおうとした。

紹由は、吉野のそばへ坐り込んでしまったまま、

「いやいや、呼びに行くには及ばない。わしが唯今、吉野を連れてあちらへ行く」

手を振って止めると、

「なんのなんの」

と、光広もまた、吉野をかかえて離そうとしないのである。

「小癪こしゃくな公達きんだちめが」

と紹由は開き直って、酔いに耀かがやいている眼と杯を突きつけて、光広へいった。

「ではいずれが、花の吉野へわけいるか。この女じょの眼の前で、酒戦しゅせんないたそう」

「酒戦とな。ことも可笑おかし」

光広はべつの大きな杯を高坏たかつきへ乗せて、ふたりの間へ置き、

「実盛さねもりどの、白髪しらがを染めてござったか」

「なんのさ、骨細な公卿どのを相手にするに。――いざまいろう。勝負勝負」

「なんでまいるか。ただ交〻こもごも飲むだけでは、興もない」

「睨めッこ」

「やくたいもない」

「では貝合せ」

「あれは、汚むさい爺じじを相手にする遊戯あそびではない」

「憎いことを。しからば、じゃんけん!」

「よろしかろう。さあ」

「沢庵坊、行司行司」

「心得た」

ふたりは真顔になって、拳けんを闘わせた。一勝一敗のつくたびに、どっちかが、杯をのみ乾し、その口惜しがりようを見て、みんなが笑い崩れるのだった。

吉野太夫はその間に、音もなく席を起って、松の位の裳すそを楚々そそと曳き、雪の廊下を奥ふかく姿を消してしまった。

五

これは相討ちとなるほかあるまい。どっちも酒にかけては一かどの巧者こうしゃと強者つわもの、酒戦の勝負はいつ果つべしとも見えなかった。

吉野が去ると間もなく、

「わしも……」

急に思い立ったように、近衛信尹のぶただは館やかたへ帰ってしまったし、行司の沢庵も眠くなったとみえ、無遠慮な欠伸あくびを発だしてしまう。

それでもまだ二人は酒戦をやめない。勝手にやらせておいて沢庵も勝手に寝ころぶ。そして、近くにいた墨菊太夫の膝を見つけて、そこへ断りなしに頭をのせてしまう。

そのまま、うつらうつらしているのは快よい気もちだったが、沢庵はふと、

(淋しがっているだろうな、早く帰ってやりたいが)

城太郎とお通つうのことを思い出していた。

その二人は、いま烏丸光広の館に世話されているのだった。伊勢の荒木田神主かんぬしから届け物を頼まれて来て、城太郎の方は年暮くれから――お通はつい先頃から。

その先頃といえば。

いつぞや清水観音の音羽谷で、お通がお杉婆ばばのために追われた晩――不意に沢庵があの場へお通を捜しに行ったというのにも、前からあんな不安を予知して、彼をそこに赴おもむかせた理由のあったことなのである。

沢庵と烏丸光広とは、もう随分久しい交友であった。和歌に、禅に、酒に、悩みに、いわゆる道友の一人だった。

するとその友からこの間うち、

(どうだ、正月じゃないか、なにを好んで田舎いなかの寺になどくすぶっていられるか。灘なだの銘酒、京の女、加茂の川千禽ちどり、都は恋しくないか。眠たいなら田舎で禅をなされ、生きた禅をなさるなら人中でなされ。その都を恋しく思ったら出て来られてはいかが)

と、そんな消息が来たので、沢庵はこの春上洛のぼって来たのだった。

偶然、そこで彼は、城太郎少年を見かけた。館やかたの内で毎日飽かずによく遊んでいる。光広に聴いてみると、しかじかという理わけ。そこで城太郎を呼びよせ、詳しく聞いてみると、お通だけは元日の朝からお杉婆と共に婆の家へ行って、それきり便りもないし帰って来ないという事情がわかった。

(それは、とんでもないことだ)

沢庵はおどろいて、その日のうちに、お杉婆の宿を捜しに出かけ、三年坂の旅籠はたごをやっと突きとめたのがもう夜のことで――それからいよいよ不安を感じ、旅籠の者に提燈ちょうちんを持たせて、清水堂へ捜しに出かけた理わけである。

あの晩、沢庵はお通を無事に連れて、烏丸の家へもどって来たが、お杉のために極度な恐怖を経験させられたお通は、翌日から熱を病んで、今もって枕が上がらない。城太郎少年は枕元につき限きりで、彼女の頭つむりを水手拭で冷やしたり薬の番をしたりして、いじらしい程、看護に努めている――

「ふたりが、待っているだろうな」

だから沢庵は、なるべく早く帰ってやりたいと思っていたが、連れの光広は、帰るどころか、遊びはこれからだというように冴えている。

しかしさすがに、拳けんや酒戦も、やがて飽いて、勝負なしに今度は飲み始めたと思うと、膝つき合せて、なにか議論だった。

武家政治がどうとか、公卿の存在価値とか、町人と海外発展とか、問題は大きいらしい。

女の膝から、床ばしらへ移転して沢庵は眼をつぶって聞いている。眠っているのかと思うと、時々、ふたりの議論の端を耳にしてにやりと笑う。

そのうちに光広が、

「やっ、近衛どのは、いつの間に帰ってしもうたのか」

と、不平に醒め、紹由もまた、興ざめたように顔を革あらためて、

「それよりも、吉野がおらぬ」

と、いい出した。

「怪けしからぬこと」

光広は、隅の方で居眠っていた禿かむろのりん弥やへ、

「吉野を呼んで来やい」

と、いいつけた。

りん弥は、眠たげな眼をまろくして、廊下を立って行った。そしてさっき光悦や紹由の通った座敷を何気なく覗くと、そこにたった一人、いつの間に戻って来たのか、武蔵が白い灯と顔を並べて、寂然じゃくねんと坐っていた。

六

「あれ、いつの間に。……ちっとも知らなかった、お帰りなさいませ」

りん弥の声に、武蔵が、

「今戻って来ました」

「さっきの裏口から?」

「うむ」

「どこへ行って来たんですか」

「廓外そとまで」

「いい人と、約束があったんでしょう、太夫様へいいつけて上げよう――」

ませた言葉に、武蔵は思わず笑って、

「皆様のすがたが見えぬが、皆様はどうなされたか」

「あちらで、かんがん様やお坊様と一緒になって、遊んでいらっしゃいます」

「光悦どのは」

「知りません」

「お帰りだろうか。光悦どのが帰られたら、拙者も帰りたいと思うが」

「いけません。ここへ来たら太夫様のおゆるしのないうちは帰られないんですよ。黙って帰ると、あなたも笑われますし、私も後で叱られます」

禿かむろの冗談さえ、武蔵は、真顔になって聞いていた。そういうものかと信じているのである。

「ですから黙って帰っては嫌ですよ。私が来るまで、ここに待っていらっしゃい」

りん弥が出てゆくと、しばらく経って、そのりん弥から聞いたのであろう、沢庵がはいって来て、

「武蔵、どうした」

と、肩をたたいた。

「あっ?」

これはあっと驚くほどな出来事に違いない。さっきりん弥が、お坊様が来ているとはいったが、まさか沢庵であろうとは武蔵も思っていなかったのである。

「――しばらくでした」

座を辷すべって、武蔵が、両手をつかえると、沢庵はその手を握って、

「ここは遊びの里だ、あいさつはざっとにしよう。……光悦どのも共に来ているという話だが、光悦どのは見えないじゃないか」

「どこへ参られたやら?」

「捜して、一緒になろう。おぬしにはいろいろ話したいこともあるが、それは後にして」

いいながら、ふと沢庵が隣の襖ふすまを開けると、そこの炬燵布団こたつぶとんへ小屏風こびょうぶを囲い、雪の夜を心ゆくまで暖まりながら寝ている人がある。それが光悦だった。

あまり心地よげに寝ているので、揺り起すのも心なく思われたが、そっと顔を覗いているまに、光悦は自身から眼をさまし、沢庵と武蔵の顔を見くらべて、おや? と不審いぶかるような様子だった。

理わけを聞くと光悦も、

「あなたと、光広卿だけのお席なら、あちらへお邪魔してもよい」

と、打揃って、光広の席へもどって来た。

しかしもう光広も紹由も、遊びの興は尽きた態ていで、そろそろ歓楽の後の白しらけた寂しさが、誰の面おもてにもただよいかけている。

酒もそうなるとほろ苦いし、唇だけがやたらに乾き、水を飲めば家が思い出されて来る。殊に、あれなり吉野太夫が姿を見せないのが、なんとしてももの足らない。

「戻ろうではないか」

「帰りましょう」

一人がいう時は、誰の気もちもそこに一致していた。なんの未練もないというよりは、これ以上、折角のよい気持が醒めるのを惧おそれるように、皆すぐ立った。

――すると。

禿かむろのりん弥を先に立たせ、後から吉野太夫付きの引船ひきふね(しんぞの称)二人、小走りに来て、一同の前に手をつかえ、

「お待たせいたしました。太夫様からのお言伝ことづてには、ようよう、お支度ができました程に、皆様をお通しせよとのおことばにござりまする。お帰りもさることながら、雪の夜は更けても明るうございますし、このお寒さ、せめてお駕籠のうちも暖かにお戻り遊ばすよう、どうぞ、も少しの間、こちらでお飲すごしくださいませ」

と、思いがけない迎えである。

「はてな?」

――お待たせいたしましたとは何のことか、光広も紹由も、いっこう解げせない顔つきで眼を見合わせた。

七

いちど興醒きょうざめた心は呼び戻しようもない気がする、それが遊びの世界であるがゆえに、よけいに気持の妥協だきょうがつかないのである。

(どうしたものか?)

迷っているらしい一同の顔いろを見ると、二人の引船はまた口をそろえていった。

「太夫様が仰っしゃるには、先刻からお席を外はずし、定めし情こころない女子おなごと皆様がお思いに違いない。けれどあのような困ったことはない。かんがん様の御意ぎょいに任せれば、船ばし様のお心に反そむくし、船ばし様の仰せに従えば、かんがん様に済まないことになるし……。それゆえ黙ってお席を抜けて来たが、実は、おふた方ともにお顔の立つよう、こよいは改めて、吉野様が皆様をお客として迎え、自分のお部屋へお招きしたいという心組み。……どうぞそのお気持を酌くんで上げて、もうしばらくお帰りをおのばし下さいませ」

こう聞いてみると、無碍むげに断って帰るのも、なんだか狭量に思われるだろうし、吉野が主人となって、自分たちを招くという心意気にも、べつな感興が唆そそられないこともない。

「参ってみようか」

「せっかく、太夫がそういうものを」

そこで、禿や引船に案内されて従ついてゆくと、庭先へ鄙ひなびた藁草履わらぞうりを五名分そろえる。やわらかな春の雪はその人々の藁草履で痕あとも残さず踏まれてゆく。

武蔵を除く以外の者は、すぐその趣向に、

(ははあ、招きは茶だな)

と、想像していた。

吉野が茶の道に嗜たしなみのふかいことは今さらのことではない。また、こういう後で一わんの薄茶も悪くないなどと思いながら行くと、やがて茶室の側も素通りして、どうやら裏庭のずっと奥の風情ふぜいもない畑地まで来てしまった。

やや不安になって、

「これこれ、いったい麿まろたちをどこへ連れてゆくのじゃ。ここは桑畑ではないか」

光広が咎とがめた。

すると引船は、

「ホホホ、桑畑ではございませぬ。春の末には、毎年ここで皆様が床几しょうぎでお遊びになる牡丹畑ぼたんばたけでございまする」

しかし、光広の不興げな顔は、寒さと併あわせて、いとど苦々にがにがしく、

「桑畑であろうと、牡丹畑であろうと、こう雪が降り積って、蕭条しょうじょうととした有様では同じことじゃ。吉野は麿まろたちに風邪かぜを引かせる趣向か」

「おそれ入りました。その吉野様は先程から、そこでお待ちうけでございます。どうぞ、あれまでお徒歩ひろいを」

見れば畑の隅に一軒の茅葺屋根かやぶきやねが見える。この六条の里がまだ開けないうちからあったような純然たる百姓家だった。もちろん、後ろは冬木立に囲まれていて、扇屋の人工的な庭とは絶縁されているが、扇屋の地内であることは間違いない。

「さあ、こちらへ」

引船は、煤すすで黒くなっているそこの土間へはいって、一同を導き入れ、

「お越しでござりまする」

と奥へ告げる。

「ようこそ。――さあ、ご遠慮のう」

吉野の声が、障子の内で聞え、その障子に炉ろの火が赤々と映っていた。

「まるで都を遠く離れてでも来たような……」

と、人々は、土間先の壁にかけてある蓑笠みのがさなど見まわしつつ、そも吉野太夫が、どんな亭主ぶりで款待もてなすことやらと、順に部屋へはいって行った。

牡丹ぼたんを焚たく

一

浅黄無地の着物に、黒じゅすの帯をしめ、髪もつつましやかな女房髷にょうぼうまげに結い直し、薄化粧して、吉野は客を迎え入れた。

「ほう、これは」

「また、艶あでやかな」

と、一同は彼女のすがたを見ていった。

金屏きんびょう銀燭のまえに、桃山刺繍ぬいのうちかけを着、玉虫色のくちびるを嫣然えんぜんと誇示している時の吉野太夫よりも、この煤くすんだ百姓家の壁と炉のそばで、あっさりと浅黄木綿を着ている彼女のほうが、百倍も美しく見えたのであった。

「ウウム、これはまた、がらりと、気が変ってよい」

あまり物を賞ほめない紹由しょうゆうも、ちょっと毒舌を封じられた態ていである。敷物もわざと用いず、吉野はただ田舎炉いなかろのそばへ一同を招じて、

「ごらんの通りな山家やまがのこと、何もおかまいはできませぬが、雪の夜の馳走には、賤しずの夫おから富者貴顕にいたるまで、火に勝まさる馳走はないかとぞんじまして、このように、焚火たきびの支度だけは沢山にしておきました。夜もすがら語り明そうとも、薪たきぎだけは、鉢の木を燻くべずとも、尽きる気づかいはございませぬゆえ、お心やすくおあたり下さいまし」

と、いう。

なるほど――

寒い所を歩かせて来てここで榾火ほたびにあたらせる。馳走というのはそういう趣向であったのかと光悦もうなずき、紹由や光広や沢庵も膝をくつろぎ、めいめいが炉の榾火ほたびに手をかざしていると、

「さ、そちらのお方も」

と、吉野が少し席を頒わけて、うしろにいる武蔵を眼で招いた。

四角な炉を、六人して囲むので、自然緩ゆるやかではあり得ない。

武蔵はさっきから、ひどく律義に畏かしこまっていた。日本の民衆の中では今、大閤秀吉や大御所の名に次いで、初代吉野の嬌名は鳴りひびいていた。出雲の阿国おくによりも、高級な女性として敬愛を持っていたし、大坂城の淀君よりも、才色があって親しみもあるという点で、ずっと有名だった。

だから彼女に接する者は、買う客のほうが「買手かいてども」と呼ばれ、才色を売る彼女のほうは「太夫様」と称されていた。風呂に入るにも七人の侍女に湯を汲ませ、爪を切るにも二人の引船を侍はべらせているという生活などもかねがね聞いていたことである。――けれど、そういう有名な女性を相手にして遊んでいる光悦や紹由や光広などの、ここにいる買手どもは、いったいなにがこれで面白いのだろうか? ――武蔵には、いくら眺めていても、まるで分らなかった。

しかしその、面白そうでもない遊びのうちにも、客の作法とか、女性の礼儀とか、双方の心意気とかいうようなものは、厳然とあるらしいので、まるで不勝手な武蔵は、いきおい固くなっているほかなく、殊に、脂粉しふんの世界には初めて足を踏み入れたことでもあり、吉野の明眸めいぼうにちらと射られても顔が熱くなって、胸の鼓動も怪しげに鳴るのだった。

「なぜ、あなただけ、そうご遠慮なさるのですか。ここへお出でなされませ」

吉野に幾度もいわれて、

「は。……では」

恟々おどおどと、武蔵は彼女のそばへ座を占め、一同に倣ならって、ぎごちなく両手を炉へかざした。

彼が自分のそばへ坐る機しおに、吉野は彼の袂たもとの端をちらりと見ていたが、やがて人々が話に興じて紛まぎれ出したところを見はからい、そっと懐紙を持って、武蔵の袂の端をそれで絞しぼるように拭いていた。

「あ、恐れ入ります」

武蔵が澄ましていれば誰も気づかなかったのに、彼が、自分の袂をのぞいて、こう礼をいったので、皆の眼が、ふと吉野の手へ移った。

彼女の手に畳まれた懐紙には、べっとりと、赤いものが拭きとられていた。

光広は、眼をそばだてて、

「ヤ! 血ではないか」

と、口走った。

吉野はほほ笑んで、

「いいえ、緋牡丹ひぼたんの一片ひとひらでございましょう」

と、澄ましていた。

二

めいめいが、一つずつ杯を持って、好む程度に、それを愛し合っていた。炉に燃える榾火ほたびは、炉をかこんでいる六名の面おもてへ、やわらかな明滅となって揺らぎ、戸外そとの雪をしのびながら、その焔を見つめ合って、みな、黙思に耽ふけっているのであった。

「…………」

榾ほたの火が乏しくなると、吉野は傍らの炭籠のような物の中から、一尺ほどに揃えて切ってある細い薪まきを取って焚くべ足した。

――ふと、そのうちに人々は、彼女の焚くべている細い枯木が、ただの松薪まつまきや雑木のようでなく、まことによく燃える木であることに気づいた。いや、燃えのよいばかりでなく、その焔の色が、実に美しいのに見惚れてしまった。

(おや、この薪は)

と、誰かが注意はしていたが、誰もが皆黙っているのは、その焔の麗うるわしさに恍惚こうこつと心を奪われていたからであろう。

わずか四、五本の細い薪で、部屋中は白昼色になっていた。

その薪から立つやわらかな焔は、ちょうど白牡丹しろぼたんの風に吹かれているようで、時折、紫金色の光と鮮紅な炎とが入り交じって、めらめらと燃え狂うのであった。

「太夫」

ついに、一人が口を開いて、

「そなたが焚くべておるその薪のう――それはいったい何の木じゃ、ただの榾ほたとも思えぬが? ……」

光広が、こう訊ね出した時は、その光広も他の人々も、なにやら薫におわしいものが、この温かい部屋いっぱいに立籠めているのを感じ出していたのである。それもたしかに、この木の燃える匂いらしかった。

「牡丹ぼたんの樹でございます」

と、吉野はいった。

「え、牡丹? ……」

これは誰しも意外らしかった。牡丹といえば草花のように思っているので、こんな薪になるほどな樹があろうかと疑えて来るのだった。吉野は、焚くべかけたひと枝を、光広の手にわたして、

「ご覧ろうじませ」

と、いう。

光広は、それを紹由や光悦の眼にも示して、

「なるほど、これは牡丹の枝だ。……道理で……」

と、呻うめいた。

そこで吉野が説明していうには、この扇屋おうぎやの囲いの中にある牡丹畑は、扇屋の建つよりもずっと以前からあるもので、百年以上も経った牡丹の古株がたくさんある。その古株から新しい花を咲かせるには、毎年、冬にかかるころ、虫の蝕ついた古株を截きって、新芽の育つように剪定せんていしてやる。――薪はその時に出来るのであるが、もちろん、雑木のように沢山は出来ない。

これを短く切って炉に焚くべてみると、炎はやわらかいし眼には美しいし、また、瞼まぶたにしみる煙けぶりもなく、薫々くんくんとよい香りさえする。さすがに花の王者といわれるだけあって、枯れ木となって薪にされても、ただの雑木とは、この通り違うところを見ると、質の真価というものは、植物でも人間でも争えないもので、生きている間の花は咲かせても、死してから後まで、この牡丹の薪ぐらいな真価を持っている人間がどれほどありましょうか? ――

と、吉野は話し終って、

「そういう私なども、生きている間はおろか、ほんの、若いうちだけ見られて枯れて、後は香においもない白骨になる花ですけれど……」

と、淋しげに微笑ほほえんだ。

三

牡丹の火は、白々と燃えさかり、炉辺の人々は、更ふける夜を、つい忘れていた。

「なにもありませぬが、ここに灘なだの銘酒と、牡丹の薪だけは、夜が尽きても尽きないほどございますから」

という吉野のもてなしぶりに、人々はすっかり満足して、

「なにもないどころか、これは王者の奢おごりにも勝る」

と、どんな贅沢事ぜいたくごとにも飽いている灰屋紹由すらが、神妙に感嘆してしまう。

「その代りに、なんぞ、後の思い出となるように、これへ一筆ずつ、お残し下さいませ」

と吉野が、硯すずりを寄せて、墨をおろしている間に、禿かむろは次の部屋へ毛氈もうせんをのべ、そこへ唐紙とうしを展ひろげて行った。

「沢庵坊、太夫がせっかくの求めじゃ。なんぞ書いてつかわされい」

光広が、吉野に代って促うながすと沢庵はうなずきながら、

「まず、光悦どのから」

といった。

光悦は、黙って、紙の前へ膝をすすめ、牡丹の花を一輪描いた。

沢庵はその上に、

色香なき身をば

なにかは惜をしままし

をしむ花さへ

ちりてゆくよに

彼が歌を書いたので、光広はわざと詩を書いた。その詩は、

忙裏 山我ワレヲ看ミル

閑中 我山ヲ看ル

相看アヒミレド相似ルニアラズ

忙ハ総スベテ閑ニ及バズ

という戴文公たいぶんこうの詩であった。

吉野もすすめられて、沢庵の歌のすこし下へ、

咲きつつも

何やら花のさびしきは

散りなん後あとを

おもふ心か

と、素直に書いて筆を擱おいた。

紹由と武蔵とは、黙って見ていただけである。悪強わるじいして無理に筆を持たせる者などがいなかったのは、武蔵にとっては幸いであった。

そのうちに紹由は、次の間の床わきに、一面の琵琶びわが立てかけてあるのを見つけ、吉野に琵琶を所望した。彼女の弾だんじる一曲を聞いて、それを機しおに、今夜の散会としようではないかと提議する。

人々が、

「それこそ、是非に」

と求めると、吉野は悪びれぬ態ていで、すぐ琵琶を抱えた。それが、芸のあるを誇るという風でもないし、また芸がありながらひどく謙譲ぶるといったような嫌味でもなかった。いかにも素直なのである。

炉を離れて、次の間の仄暗ほのぐらい畳の中ほどに、彼女は、琵琶を抱いて坐った。炉辺の人々は、心をすまして、彼女の弾ひく平家の一節に、沈黙していた。

炉の炎が衰えて、暗くなりかけても、炉へ薪をくべ足すことを誰も皆忘れて聞き恍ほれていた。四絃のこまやかな音階が突として、急調になり破調に変ってくるかと思うと、消えかけていた炉の火もにわかに焔を上げて、人々の心を遠くから近くへ呼びもどした。

曲が終ると、吉野は、

「ふつつかな技わざを」

と、微笑しながら、琵琶を置いて、元の席へもどって来た。

それを機しおに、みんな炉を立って、帰りかけた。武蔵はもちろん、空虚から救われたように、ほっとした顔つきで、誰よりも先に、土間へ降りていた。

吉野は、彼を除いた以外の客へは皆、いちいち帰りの挨拶を交わしたが、武蔵にだけは、なにもいわなかった。

そして、他の人々に従ついて、武蔵も一緒にそこから戻ろうとすると、吉野は、彼の袂たもとをそっととらえて、

「武蔵さま、貴方あなたは、ここへお泊りなさいませ。なんとのう、今夜はお帰し申しとうございませぬ」

とささやいた。

四

武蔵は、処女のように、顔を赤らめた。聞えない振りを装よそおっても、どぎまぎして、答えに困っている様子が、側の人達の眼にも見えた。

「……ね、よろしいのでございましょう。このお方を、お泊め申しても」

吉野は、紹由へ向って、今度はそう訊いた。紹由は、

「よいともよいとも。たんと、可愛がってやって下され。わしらが、無下むげに連れ戻る筋合いはない。のう光悦どの」

武蔵はあわてて、吉野の手を振り払い、

「いや、私も、帰ります。光悦どのとご一緒に」

戸の外へ、無理に出ようとすると、どういう考えか、光悦までが、

「武蔵どの、まあそう仰っしゃらずに、今夜はここへお泊まりになって、明日、よい機しおにお引揚げになってはいかがですか。――太夫もせっかく、ああいって、心配しているのですから」

と一緒になって、彼一人を、ここへ残して行こうとするのである。

遊びの世界にも、女性というものにも、まったく初心うぶな未経験者を一人ぼっち残して置いて、後で笑いの種にしようという、この大人達の計画的な悪洒落わるじゃれではないかと、武蔵は邪推してみたが、吉野や光悦の真面目な顔を見ると、決して、そんな戯ざれごととも思えない。

もっとも、吉野と光悦以外の人達は、武蔵が困っている態ていを興がって、

「日本随一の果報者よ」

とか、

「わしが身代りになってもよいが――」

などと揶揄からかったりしていたが、やがて、その人々の戯ざれ口ぐちも、裏垣根の門から駈け込んで来た一人の男のことばに、冗談口を塞ふさがれて、

(さては)

と、今さらのように気づいたことであった。

ここへ駈けて来た男は、吉野のいいつけを受けて、遊廓くるわの外へ、様子を探りに行って来た扇屋の雇人やといにんであった。いつの間に、吉野がそんな周到な気くばりを働かせていたのかと人々は驚いていたが、光悦だけは、昼間から武蔵と行動を共にしていたし、また、吉野がさっき炉の側で、武蔵の袂についていた血しおをそっと拭ふき除とってやっていた時に、すべてを、察知していたらしかった。

「ほかのお方はともかく、武蔵様だけは、迂うかつに遊廓の外へ出られませぬぞ」

と、探って来たその男は、息を弾はずませて、吉野太夫へも、他の人々へも、目撃して来た事実を、多少誇張しているのではないかと思われるくらいな口吻くちぶりで告げるのであった。

「――もうこの遊廓さとの門は、一方口しか開いておりません。その総門を挟んで、編笠茶屋の辺にもあれから柳並木の物蔭にも、すごい身仕度をしたお武家たちが、眼を光らせ、あっちこっちに五人、十人ぐらいずつ、黒々とかたまって立っています。……それがみんな四条の吉岡道場の門人だといって、あの近所の酒屋でも商人家あきんどやでも、今になにが起るのかと、戸をおろして顫ふるえているんで。……いや、もう大変なことですよ、なんでも遊廓から馬場の方にかけて、百名ぐらいは来ているだろうといううわさですぜ」

そう報告する男が、がちがちと奥歯を顫ふるわせていうことであるから、話し半分として聞いても、事態の容易でないことは争えなかった。

「ご苦労だった。もうよいからお休み」

その男を退けると、吉野はまた武蔵へいった。

「今のようなことを聞けば、あなたはよけいに、卑怯者といわれたくないと思い、死んでも帰ると仰っしゃるかも知れませんが、そんな逸はやり気ぎはやめて下さいませ。こん夜卑怯者といわれてもあした卑怯者でなければよいではございませんか。まして今夜はお遊びに来たはずでございましょう。遊ぶ時は遊び限きるのがむしろ男の余裕ゆとりというものではございますまいか。――相手方はあなたの帰るのを待ちうけて、闇討ちにしようとしているので、それを避けたからといって、なんの名折れでもありませぬ。そこへ進んで打ぶつかってゆくのは、かえって、思慮のない者といわれるばかりか、この遊廓くるわでも迷惑をしますし、ご一緒に出れば、お連れの方々にも、巻きぞえを受けて、どんなお怪我けがのない限りもございませぬ。そこをお考え遊ばして、こん夜は、この吉野に、あなたのお体を預けてくださいませ。……吉野がきっとお預かりいたしましたほどに、皆様には途中お気をつけて、お引揚げ下さいますように」

断絃だんげん

一

もうこの世界でも起きている青楼うちはないらしい。ばったりと絃歌げんかの音ねもやんでしまった。丑満うしみつの告げはさっき鳴ったように思う。一同が引揚げてからでもやや一刻とき余りは経つ……

そのまま、夜明けを待つつもりなのか、武蔵は、ぽつねんと、土間の上がり框かまちに腰をかけていた。

――ただ一人、擒人とりこにでもなっているようにである。

吉野は、客がいた時も、去ってしまった今も、同じように同じ位置に坐って、炉へ、牡丹ぼたんの木を焚くべていた。

「そこでは、お寒うございましょうに。炉へお寄りなされませ」

この言葉は、彼女の口から幾度も繰返されていわれたが、武蔵はその都度、

「お関かまいなく、先へお寝やすみ下さい。夜が明け次第に、拙者は自由に帰りますから」

と、固辞するばかりで、吉野の顔をよく見ないのである。

二人きりになると、吉野もまたなんとなく羞恥はにかみ勝ちになって、口も重くなった。異性を異性と感じるようでは傾城けいせいの勤めは出来まいが――などという考えは、安女郎の世界だけを知って、松の位の太夫というものの育ちも躾しつけも知らない低い買手どもの常識である。

とはいえ、朝あしたに夕ゆうべに、異性を見ている吉野と、武蔵とでは、比較にならないほどな相違はある。実際の年齢からいっても、吉野のほうが、武蔵より一つか二つ上かも知れないが、情痴の見聞や、それを感じたり弁わきまえたりしていることでは、当然、彼女のほうが遥かに年上の姉といえる。――しかし、そうした彼女にしても、たった二人きりな深夜の相手が、自分の顔を見るのも眩まばゆそうに、動悸ときめきを抑えて、じっとそこに固くなっていると、自分もともに処女心おとめごころに返って、相手の者と同じような初心うぶな動悸ときめきを覚えるのだった。

事情わけを知らない引船と禿かむろは、さっきここを出て行く前に、次の部屋へ、大名の姫君でも臥ふせるような豪奢な夜よるの具ものを敷いて行った。繻子枕しゅすまくらに下がっている金の鈴が、ほの暗い閨ねやの気配のうちに光っていた。――それもまた、ふたりの寛くつろぎをかえって邪魔していた。

ときおり、屋根の雪や梢こずえの雪が落ちて、どさっと、地響きが耳を驚かせた。塀の上から人間でも跳び降りたように、その音は大きく聞えるのであった。

「……?」

吉野は、そっと武蔵を見た。――武蔵の影はその度に、針鼠はりねずみのように戦気で膨ふくらむかと見えた。眸は鷹たかのように澄みきっている。神経は、髪の毛の先まで働いているのだ。何物にもあれ、そんな時、彼の体に触ふれるものはみな斬れてしまわずにはいないであろうと思われた。

「…………」

「…………」

吉野は、なにかしら、ぞっとして来た。夜明け近くの寒さは骨の髄ずいまで沁しみる。しかしそれとはちがう戦慄である。

そういう戦慄と、異性へ搏うつ動悸ときめきと、ふたつの血の音が、沈黙の底を、こもごもに駆けていた。そのふたりの間に、牡丹ぼたんの火はあくまで燃えつづけているのである。そして――彼女がその火の上にかけた釜の口から、やがて松風が沸たぎりだすと、吉野の心は、いつもの落着きに返って、静かに、茶の点前てまえにかかっていた。

「もう程なく夜も明けましょう……武蔵さま。いっぷくあがって、此方こちらで、手なりとお焙あぶりなされませ」

二

「ありがとう」

言葉だけで、ちょっと会釈したまま、武蔵は依然と、背を向けていた。

「……どうぞ」

と勧める方の吉野も、これ以上は、諄くどくも当るので、ついにはまた黙ってしまうほかはない。

せっかく、心をこめて立てた茶も、帛紗ふくさのうえで冷えてしまう。――吉野は、ふと、腹を立てたのか、それとも、よしなき田舎者に、無用のことをと考えたのか帛紗を引いて、茶碗の茶を、傍らの湯こぼしへ捨ててしまった。

――そしてじっと、愍あわれむような眼を武蔵へ向けた。相変らず武蔵の姿は、背中から見ても身体じゅうを鉄の鎧よろいで固めているように、一分の隙も見えなかった。

「もし、武蔵さま」

「なんですか」

「あなたはそうやって、誰に備えているのですか」

「誰にではない、自身の油断を誡いましめている」

「敵には」

「元よりのこと」

「それでは、もしここへ、吉岡様の門人衆が、大勢して、どっと襲よせて来た時には、あなたは立ちどころに、斬られてしまうに違いない。わたくしにはそう思えてなりませぬ。なんというお気の毒なお方であろ」

「……?」

「武蔵さま。女のわたくしには、兵法などという道は分りませぬが、宵の頃から、あなたの所作や眼ざしを窺うかがっていると、今にも斬られて死ぬ人のように見えてならないのです。いわば、あなたの面おもてには死相が満ちているといってよいかも知れません。いったい、武者修行とか、兵法者とかいって世に立ってゆくお方が、大勢の刃やいばを前に控えながら、そんなことでよいものでございましょうか。そんなことでも人に勝てるものでございまするか」

詰問なじるように、吉野が、こう畳みかけて、言葉のうえで彼を愍殺びんさつしたばかりでなく、その小心さを蔑さげすむように微笑ほほえんでいったので、

「なに」

武蔵は、土間から脚を上げて、彼女の坐っている炉前にぴたと坐り直した。

「吉野どの、この武蔵を未熟者だと笑うたな」

「お怒りなされましたか」

「いうた者が女だ。怒りもせぬが、拙者の所作が、今にも斬られる人間に見えてならぬとはどういう理わけか」

怒らぬといいながらも、武蔵の眼は、決して、生やさしい光ではなかった。こうして夜明けを待っていても、自分をつつむ吉岡門の呪咀じゅそや、策や刃ものを磨ましている気配は、全身に感じている武蔵であった。それは何も、吉野が探りにやって知らせてくれないでも、その前からあらかじめ彼自身は覚悟に持っていたことである。

蓮華王院れんげおういんの境内から、あのまま他へ姿をかくすことも考えないでもなかったが、それでは、連れの光悦へ非礼に当るし、また禿かむろのりん弥やへ、帰って来るといった言葉が嘘になる。同時に、吉岡方の仕返しを怖れて姿をかくしたと、沙汰されては心外とも考えたりして、再び扇屋へ戻って、なんのこともなかったように、あの人々と同席していたのだった。それは武蔵として、かなり苦痛な辛抱でもあったし、自分の余裕を示していたつもりであったのに、なんで吉野は、その間かんの自分の挙止をながめて、未熟だと笑うのか、死相が面おもてに見えるような――と罵ののしるのか。

傾城けいせいの戯ざれ口ぐちならば咎めるまでもないが、なにか心得があっていうことならば、これも聞き捨てにならないことと彼は思う。たとえ今、この家を包む剣つるぎの林の中であっても、開き直って、その理わけを問い究きわめて見なければならないと、思わず真率な眼を輝かせて、武蔵は強きつく詰問なじったのであった。

三

ただの眼ではない、そのまま刀の先へつけてもいい眼が、じいっと吉野の白い顔を正視して、彼女の答えを待っているのである。

「――戯たわむれか!」

容易に開かない唇くちへ、武蔵がこう少し激げきしかかると吉野は、消していた笑靨えくぼをまたちらと見せ、

「なんの――」

嬌にこやかに、頭かぶりを振って、

「かりそめにも、兵法者の武蔵さまへ、今のような言葉、なんで戯ざれ言ごとに申しましょうか」

「では、聴かせい。どうして拙者の身が、そなたの眼には、すぐ敵に斬られそうなと、そんな脆もろい未熟な体たいに見えるのか。――その理わけを」

「それほどお訊ねならば、申してみましょう。武蔵さま、あなたは先刻、吉野が皆様へのお慰みに弾ひいた琵琶びわの音を聴いておいで遊ばしましたか?」

「琵琶を。あれと拙者の身と、なんの関かかわりがある」

「お訊ねしたのが愚かでした。終始何ものかへ、張はり緊つめていたあなたのお耳には、あの一曲のうちに奏かなでられた複雑こまやかな音の種々いろいろも、恐らくお聴き分けはなかったかも知れませぬ」

「いや、聴いていた。それほど、うつつにはおらぬ」

「では、あの――大絃、中絃、清絃、遊絃のわずか四つしかない絃いとから、どうしてあのように強い調子や、緩ゆるやかな調子や、種々さまざまな音色ねいろが、自由自在に鳴り出るのでしょうか。そこまでお聴き分けなさいましたか」

「要いらぬことであろう。拙者はただ、そなたの語る平曲の熊野ゆやを聴いていただけのこと、それ以上なにを聴こう」

「仰せの通りです。それでよいのでございますが、わたくしは今ここで琵琶を一箇の人間として喩たとえてみたいのでございます。――で、ざっとお考えなされても、わずか四つの絃いとと板の胴とから、あのように数多い音ねが鳴り出るというのは、不思議なことでございませぬか。その千変万化の音階を、譜ふの名で申し上げるよりも、あなたもご存じでございましょう、白楽天の『琵琶行びわこう』という詩のうちに、琵琶の音いろがよく形容されてありました。――それは」

吉野は、細い眉をちょっとひそめながら、詩を歌う節でもなく、そうかといって、ただの言葉でもない低声で、

大絃は嘈々さうさう 急雨の如く

小絃は切々 私語の如し

嘈々切々 錯雑さくざつに弾だんずれば

大珠小珠 玉盤に落つ

間関かんくわんたる鶯語あうご 花底に滑なめらか

幽咽いうえつ 泉流 水 灘たんを下る

水泉冷渋れいじふ 絃げん凝絶ぎようぜつし

凝絶して通ぜず 声暫し歇やむ

別に幽愁 暗恨の生ずる有あり

此時このとき声なきは 声あるに勝まさる

銀缾ぎんぺい乍たちまち破れて 水漿すゐしやう迸ほとばしり

鉄騎突出とつしゆつして 刀槍たうさう鳴る

曲終つて撥ばちををさめ 心むねに当てて画くわくす

四絃一声 裂帛れつぱくのごとし

「――このように一面の琵琶が複雑さまざまな音を生みまする。わたくしは禿かむろの頃から、琵琶の体が、不思議で不思議でなりませんでした。そしてついには、自分で琵琶を壊こわし、また自分で琵琶を作ってみたりするうちに、おろかなわたくしにも、とうとう琵琶の体の裡うちにある琵琶の心を見つけました」

そこで言葉を切ると、吉野はそっと立って、さっき弾ひいた琵琶をかかえて来て再びそこへ坐った。海老尾えびおを軽く持って、武蔵と自分の間に、それを立てて眺めやりながら、

「ふしぎな音色も、この板の体を割って、琵琶の心を覗いてみるとなんのふしぎでもないことがわかりまする。それをあなたへお目にかけましょう」

薙刀なぎなたの折れでもあるような細い鉈なたが、彼女の嫋しなやかな手に振上げられた。あっと、武蔵が息を嚥のむ間に、はやその鉈の刃は、琵琶の角こばへ深く入っていた。袈裟板けさいたのあたりから桑胴くわどうの下まで、丁々ちょうちょうと、三打ち四打ち、血の出るような刃音だった。武蔵は自分の骨へ鉈なたを加えられたような痛みを覚えた。

しかし、吉野は惜し気もなく、見る間に琵琶の体を縦たてに裂さいてしまっていた。

四

「ご覧ろうじませ」

吉野は、鉈なたをうしろへかくすと、もうさり気ない微笑みを泛うかべて武蔵へいった。

生々しい木肌を剥出むきだして、裂かれた琵琶の胴は胴の中の構造を、明らさまに燈ひの下に晒さらしている。

「……?」

武蔵は、それと吉野の面おもてとを見較べて、この女性のどこに、今のような烈しい気性があるのかと疑った。武蔵の頭脳あたまにはまだ今の鉈の音が消えさらないで、どこかが痛いように疼うずいているのに、吉野の頬は紅くもなっていなかった。

「この通り、琵琶の中は、空虚うつろも同じでございましょうが。では、あの種々さまざまな音ねの変化はどこから起るのかと思いますと、この胴の中に架わたしてある横木ひとつでございまする。この横木こそ、琵琶の体を持ち支えている骨であり、臓ぞうでもあり、心でもありまする。――なれど、この横木とても、ただ頑丈に真っ直に、胴を張はり緊しめているだけでは、なんの曲もございませぬ。その変化を生むために横木には、このようにわざと抑揚の波を削りつけてあるのでございまする。――ところが、それでもまだ真の音色というものは出てまいりません。真の音色はどこからといえば――この横木の両端の力を、程よく削そぎ取ってある弛ゆるみから生れてくるのでございまする。――わたくしが、粗末ながらこの一面の琵琶を砕いて、あなたに分っていただきたいと思う点は――つまりわたくし達人間の生きてゆく心構えも、この琵琶と似たものではなかろうかと思うことでござりまする」

「…………」

武蔵の眸は、琵琶の胴からうごかなかった。

「それくらいなこと誰でも分りきっていることのようで、実はなかなか琵琶の横木ほども、お肚なかに据えていられないのが人間でございますまいか。――四絃に一撥ひとばち打てば、刀槍も鳴り、雲も裂けるような、あの強い調子を生む胴の裡には、こうした横木の弛ゆるみと緊しまりとが、程よく加減されてあるのを見て、わたくしは或る時、これを人の日常として、沁々しみじみ、思い当ったことがあったのでございまする。……そのことを、ふと、今宵のあなたの身の上に寄せて考え合わせてみると……ああ、これは危ういお人、張り緊まっているだけで、弛ゆるみといっては、微塵みじんもない。……もしこういう琵琶があったとして、それへ撥ばちを当てるとしたら、音の自由とか変化はもとよりなく、無理に弾ひけば、きっと絃いとは断きれ、胴は裂けてしまうであろうに……、こうわたくしは、失礼ながらあなたのご様子を見て、密ひそかにお案じ申していたわけなのでござりまする。決して、ただ悪あしざまに申したり、戯ざれ口ぐちを弄もてあそんだ次第ではありませぬ。どうぞ、烏滸おこがましい女の取越し苦労と、お聞き流し下さいませ」

――鶏とりの声が遠くでしていた。

戸の隙まから、雪のために強い朝の陽がもう射さしていたのである。

白い木屑と断きれた四絃の残骸を見つめたまま、武蔵は、鶏とりの声も耳に覚えなかった。戸の隙まから陽の光がさしていたのにも気づかなかった。

「……お。いつの間にか」

吉野は、夜明けを惜しむように炉の火へ焚木たきぎを足そうとしたが、牡丹の木はもうなかった。

戸を開ける物音や、小禽ことりのさえずりや、朝の気配が遠い世間のようにきこえる。

けれど吉野は、いつまでも、ここの雨戸を開けようとはしない。牡丹の木はなくなっても、彼女の血はまだ温かだった。

禿かむろや引船も、彼女が呼ばないうちは、ここの戸を無断で開けて入ってくるはずもなかった。

春はるを病やむ人ひと

一

あわただしく解け去った春の雪であった。おとといの降りはもう痕あとかたもない。急につよく感じられる陽に、今日は綿の物は肌から皆捨ててしまいたくなった。温ぬるい風に騎のって、春はいっさんに駈けつけて来たかのように、すべての植物の芽を鮮あざらかに膨ふくらませていた。

「たのもう。物もうす」

背まで泥濘ぬかるみの刎はねを上げている若い旅の禅坊主だった。

烏丸家の玄関に立ち、さっきから、大声でこう申し入れていたが、出て来る者がないので、雑掌部屋ざっしょうべやの外へ廻り、そこの窓から背伸びして覗いていると、

「なんだい? お坊さん」

後ろからいう少年があった。

禅坊主は振向いたが、

(お前こそ何者だ?)

と問いたげな眼をして、その奇態な風態の子供を見まもった。

烏丸光広卿の館やかたの中に、どうしてこんな童わらべがいるのか、その不調和に眼をみはったのであろう。禅坊主は変な顔したまま、じろじろと城太郎の姿ばかり見ていて物をいわないのである。

相変らず長い木剣を腰に横たえ、なにを入れているのか、懐中ふところを大きく膨らませて、その上を城太郎は手で抑えながら、

「お坊さん、お施米せまいをもらうなら台所の方へ廻らなければだめだよ。裏門を知らないのかい」

と、いった。

「お施米。――そんな物をいただきに来たのじゃない」

若い禅坊主は、自分の胸にかけている文筥ふばこを眼で示し、

「わしは、泉州の南宗寺の者だが、このお館やかたへ来ている宗彭沢庵しゅうほうたくあんどのへ、急な御書面をお届けするために出て来たのだ。おまえは、お台所へ出入りの小僧か」

「おいらか、ここに泊っている者だよ。沢庵様と同じお客様なんだ」

「ほうそうか、然らば沢庵どのへ告げてくれぬか。――お国元の但馬たじまから寺中へ宛てて、なにか、火急なお手紙がまいりましたゆえ、南宗寺の者が持って伺いましたと」

「じゃあ待ッといで。今、沢庵さんを、呼んで来てやるから」

城太郎は玄関へ飛び上がった。汚い踵かかとの痕あとが式台にべたべた残る。そこの衝立ついたての脚に躓つまずいた弾はずみに、彼が手で抑えていたふところの中から、小さい蜜柑みかんが幾つも転がり出した。

あわてて、蜜柑を掻きあつめ、城太郎は往来を飛ぶように奥へ駈けて行った。ややしばらく経って彼はまたそこへ戻って来て、

「いないよ」

と、待っている南宗寺の使いへいった。

「いるかと思ったら、きょうは、朝から大徳寺へ行ったんだとさ」

「お帰りは分りませぬか」

「もう帰って来るだろ」

「では、待たせて置いてもらいます。どこかお邪魔にならないお部屋はありませんか」

「あるよ」

城太郎は外へ出て来た。この館のことならなんでも弁わきまえているように、心得顔して先に歩き、

「お坊さん、この中で待っているといいよ。ここの中なら邪魔にならないから」

と、牛小屋へ案内した。

藁わらだの、牛車くるまの輪だの、牛の糞だのが、いっぱいに散らかっている。南宗寺の使いは驚いた顔したが、城太郎はもう客を置いて彼方あなたへ駈け出していた。

広い邸内を庭づたいに走り、「西の屋おく」の陽あたりのよい一間ひとまを覗いて、

「――お通さん、蜜柑買って来たよ」

と、さけんだ。

二

薬を服のんでいるし、手当も十分なはずなのに、どうしたのか、こんどの熱症ねつはさがらない。

従って、食慾がなかった。

自分の面おもてへ手が触れるたびに、お通は、

(ああ、こんなに痩せて)

と、ふと驚く。

病気というような病気は自分でもないと信じているし、見舞ってくれた烏丸家の医師も、心配はないと保証していたが、どうしてこう痩せてしまうのかしら――そこについ神経質な悩みと熱症ねつがからむ。しきりに、唇くちが乾くので、

(蜜柑が喰べたい)

と、ふと洩らしたところ、この数日来、なんにも喰べないでいる彼女の容態をひどく心配していた城太郎は、

(蜜柑――)

と、問い返すと、早速、それを取りに、先刻さっきここを出て行ったのであった。

台所の役人に聞いたところが、蜜柑などはお館やかたにもないという。それから外へ出て、青物店だの食べ物屋を見て歩いたが、どこにも蜜柑はなかった。

京極きようごくの原に、市が立っていた。彼はそこへも行って、

(蜜柑はないか、蜜柑はないか)

と、捜し歩いたが、絹糸だの、木綿だの、油だの、毛皮だの、そんな店ばかり出ていて、蜜柑など一つだって見つからなかった。

城太郎は、どうかして、彼女の喰べたいという蜜柑を手に入れたいと思った。よその屋敷の塀の上にたまたま、その蜜柑があったと思って、盗んでもほしい気がして寄って見ると、それは橙だいだいであったり、喰べられない花梨かりんの実みであった。

京都の町を、半分も捜してあるいた。すると、あるお社やしろの拝殿にその蜜柑が見つかった。芋いもだの人参だのといっしょに、三方さんぽうに載って、神前に上がっていたのである。城太郎は蜜柑だけ懐中ふところに詰めこんで逃げて来たのだった。うしろから神様が、

(泥棒、泥棒)

と追いかけて来るような気持がした。城太郎は、それが怖くなって、

(私は喰べませんから、罰ばちをあてないでください)

と、烏丸家の門の中へ逃げ込むまで、胸の中で謝あやまっていた。

けれど、お通には、そんなことは話せない。枕元へ坐って、懐中の蜜柑を出して一つずつならべて見せ、そのうちの一個を取ってさっそく、

「お通さん、うまそうだぜ、喰べてごらん」

皮を剥むいて、彼女の手に持たせてやると、お通は、なにかつよい感情に衝つかれたとみえ、顔を横にかくしたまま、蜜柑は喰べようともしないのであった。

「どうしたのさ」

城太郎は、その顔をのぞきこんだ。

厭いとうように、お通は、よけいに枕へ顔を埋うずめてしまい、

「……どうもしやしない。どうもしやしない」

といった。

城太郎は、舌打ちして、

「また、泣虫が始まったね。歓よろこぶかと思って蜜柑を買って来たら、泣いちまうんだもの――つまらねえなあ」

「ごめんよ。城太さん」

「喰べないの」

「……ええ後で」

「剥むいたのだけ喰べてみなよ。ね……喰べてみれば、きっと、美味おいしいよ」

「美味しいでしょう、城太さんの気持だけでも。……だけど喰べ物を見ると、もう唇くちへ入れる気にならないんです。……勿体もったいないけれど」

「泣くからさ。なにがそんなに悲しいの」

「城太さんが、あんまり親切にしてくれるから、欣うれしくって」

「泣いちゃ厭だなあ、おいらも泣きたくなっちまわあ」

「もう泣かない……もう泣かない……かんにんしてね」

「じゃ、それ喰べてくれる。なにか喰べないと、死んじまうぜ」

「わたし、後でいただきます。城太さんお喰べ」

「おいらは、喰べない」

神さまの眼を恐れて、城太郎はそういいながら生唾なまつばをのんだ。

三

「いつも、城太さん、蜜柑は好きじゃないの?」

「好きだけれど」

「どうして、きょうは、喰べないの」

「どうしてでも」

「わたしが喰べないから?」

「え。……ああ」

「じゃあ、わたしも喰べるから……城太さんも、おあがり」

お通は、顔を仰向けに直して、細い指で、蜜柑のふくろの繊維すじを除とっている。城太郎は、困った顔して、

「ほんとはね、お通さん、おいら、途中でもう、たくさん喰べて来たんだよ」

「……そう」

乾いている唇くちへ蜜柑の一ふさを含みながら、お通はうつつのようにいった。

「沢庵さんは?」

「きょうは、大徳寺へ行ったんだって」

「おととい、沢庵さんは、よその家で、武蔵様に会ったんですってね」

「アア。聞いた?」

「え。……その時、沢庵さんは、わたしがここにいることを、武蔵様へ話したかしら」

「話したろ、きっと」

「そのうちに、武蔵様をここへ呼んでやると、沢庵さんは、わたしにおっしゃったけれど、城太さんには、なんにもいっていなかった?」

「おいらには、なんにもそんなことはいわないよ」

「……忘れているのかしら」

「帰って来たら、そういってみようか」

「ええ」

と、彼女は初めて、ニコと、枕の上から笑えみを向けて、

「……だけど、訊くならわたしがいないところでね」

「お通さんの前で訊いちゃいけないの」

「きまりが悪いから」

「そんなことないさ」

「でも、沢庵さんは、わたしの病気を、武蔵病むさしびょうだなんていうんだもの」

「アラ、いつの間にか、喰べちゃったぞ」

「なに、蜜柑」

「も一つ喰べない」

「もう、たくさん、美味しかったわ」

「きっと、これから、なんでも食べられるよ。こんな時に、武蔵様が来れば、きっと、すぐ起きられてしまえるんだがな」

「城太さんまで、そんなことをいって」

城太郎とこんな話をしているうちは、熱症ねつも体の痛さも忘れている彼女であった。

そこへ、烏丸家の小侍が、

「城太どの、いますか」

と、縁の外からいう。

「はい、おります」

答えると、

「沢庵どのが、あちらでお呼びです。すぐおいでなさい」

と告げて去った。

「おや、沢庵さん、帰って来たのかしら」

「行ってごらんなさい」

「お通さん、さびしくない」

「いいえ」

「じゃあ、用がすんだら、すぐ来るからね」

枕元を、立ちかけると、

「城太さん……あのこと、忘れずに、訊いてね」

「あのことって?」

「もう忘れたの」

「あ、武蔵様が、いつここへ来るのかって、それを催促することだね」

お通の痩せている頬に、紅い血がかすかにさした。その顔を夜具の襟で半分かくしながら、

「いいこと、忘れてはだめですよ、きっとね、きっと訊いてね」

と、念を押した。

四

沢庵は光広の居間へ来て、光広と何か話している折だった。

そこの襖ふすまを開けて、

「沢庵さん、なにか用?」

城太郎が後ろに立つと、

「まあ、坐りなさい」

と沢庵がいい、光広は、城太郎の不作法を寛ゆるしている眼元で、にやにや眺めていた。

側へ坐るとすぐ、城太郎は沢庵へ向っていった。

「あのね、沢庵さんとこへ、泉州の南宗寺から、沢庵さんみたいな坊さんが、急用の使いに来て待ってるよ。呼んで来てあげようか」

「いや、そのことなら、今聞いた」

「もう会ったの」

「ひどい小僧だと、あの使いがこぼしていたぞ」

「どうして」

「はるばる来た者を、牛小屋へ案内して、ここで待っておれといったまま、捨てておいたというじゃないか」

「でもあの人が、自分から、どこか邪魔にならないところへ置いてくれといったからさ」

光広は、膝を揺ゆすって、

「ハハハハハ、牛小屋へ入れておいたのか、それは酷ひどい」

と、笑った。

しかし、すぐ真顔に返って、

「では御坊には、泉州へ戻らずに、ここからすぐ但馬たじまへ御発足あるか」

と、沢庵へ向って訊く。

沢庵はうなずいて、なにぶん、気がかりな書面の内容であるから、ぜひそうしたいと答え、支度といってもべつだんない身でもあるし、明日あしたといわずに、今すぐお別れ申したいという。

ふたりの話の様子を、城太郎は不審いぶかって、

「沢庵さん、旅へ立つの」

「急に国元へ行かねばならぬことになってな」

「なんの用?」

「故郷くににいる老母が寝ついて、今度はだいぶ重態おもいという気がかりな報しらせだから」

「沢庵さんにも、おっ母かさんがあったの」

「わしだって、木の股またから生れた子ではないよ」

「今度はいつ帰って来るつもり」

「母の容子ようす次第で」

「すると……困ったなあ……沢庵さんがいなくなっちゃうと」

と、城太郎はそこで、お通の気持を思い遣ったり、また彼女と、自分の行く先なども考え出して、心細くなったものか、

「じゃもう、沢庵さんとは会えなくなるの?」

「そんなことはない。またきっと会える。おまえ達二人のことは、お館やかたへもようお頼みしてあるから、お通さんも、くよくよせずに、早く体を丈夫にするよう、おまえも勇気をつけてやってくれ。あの病人は薬よりも、心の力がほしいのだ」

「それが、おいらの力では駄目なんだよ。武蔵様が来てくれないと癒なおらないぜ」

「困った病人だのう。おまえも飛んでもない者と、この世の道連れになったものだ」

「おとといの晩、沢庵さんは、どこかで武蔵様に会ったんだろ」

「ウム……」

光広と顔を見あわせて、沢庵は苦笑をながした。どこでと、突っ込んで場所を訊かれては困りそうな顔つきであったが、城太郎の質問は、そういう枝葉しようには触れず、

「武蔵様は、いつここへ来るの。沢庵さんが、武蔵様をここへ呼んでやるといったもんだから、お通さんは、毎日、そればかり待ってるじゃないか。ねえ沢庵さん、おいらのお師匠さまは一体、今どこにいるのさ」

その住所ところさえ分れば、今すぐにでも、自分で迎えに行きたそうな城太郎の質問であった。

「ウム……あの武蔵のことか」

あいまいに、こういったが、沢庵もその武蔵とお通とを会わせてやろうという、親切を忘れてしまっているわけではさらさらない。今日もそれを心にかけて、大徳寺の帰り途に光悦の家へ立寄り、武蔵の在否を訊ねてみたところ、光悦が困った顔していうには、どういうものかおとといの晩以来武蔵はいまだに扇屋から戻って来ない。母の妙秀尼も案じるので早く帰してくれるように、今も吉野太夫へ手紙を遣つかわして、頼んでやったところです――という彼の話なのである。

五

「ホ。……では武蔵とやらいうあの夜の男は、あれきり吉野太夫の許もとから帰って来ぬのか」

光広は聞いて眼まなこをみはった。

半ばは、意外なこととして、半ばは軽い嫉妬も手伝って、大仰おおぎょうにそういったのである。

沢庵は城太郎のてまえ、多くをいわなかったが、ただ、

「あれもやはり、平凡な、つまらん人間でしかないとみえる。とかく若いうち天才らしく見える者ほど、行く末当てにならないものだ」

「したが、吉野も変りものじゃなあ。――どこがようて、あんな穢きたない武骨者に」

「吉野にせよ、お通にせよ、女の気心のみは沢庵にも解げしかねる。わしの眼からは皆ひとしい病人としか思えぬが、武蔵にもそろそろ人間の春が訪れて来たのでござろう……これからがほんとの修行、危ないのは剣よりは女子の手だが、他人の力でどうなるものではなし、抛ほっておくしかあるまいて」

独り言のように呟いてから、沢庵はふと旅の空へ心を急ぎ、光広へ向って、改めて別れを告げた上、なお当分の間ではあるが、病中のお通と、城太郎の身とをくれぐれも館やかたに託して、それから間もなく烏丸家の門を飄然ひょうぜんと出て行った。旅を朝立つものと決めているのは、普通の旅行者のことであって、沢庵には朝立ちも夕立ちもさしたる問題ではないらしい。今もすでに、陽脚ひあしは西にうすずいて、往来の人影にも、のろく通る牛車にも、虹いろの暮靄ぼあいが映さしていた。

沢庵さん、沢庵さん、と頻りに後から呼びかけて追って来る者がある。――城太郎だなと沢庵は困ったような顔つきを振り向ける。城太郎は息をきって、彼の袂たもとをとらえ、懸命に訴えた。

「後生だから沢庵さん、もいちど帰って、お通さんになんとかいっておくれよ。お通さんがまた泣き出しちまって、おいらには、どうしていいか分らないんだもの」

「おまえ、話したのか。――武蔵のことを」

「だって、訊くから」

「そしたら、お通さんが、泣きだしたというのか」

「ことによると、お通さんは、死んでしまうかも知れないぜ」

「どうして」

「死にたそうな顔しているもの。――こんなこといったよ。――もいちど会って死にたい、もいちど会ってから死にたいッて」

「じゃあ、死ぬ気づかいない。抛ほっとけ、抛っとけ」

「沢庵さん、吉野太夫って、どこにいる人」

「そんなこと訊いて、どうするつもりじゃ」

「お師匠さまは、そこにいるんじゃないか。さっき、お館さまと沢庵さんが、話していたろ」

「おまえは、そんなことまで、お通さんに喋しゃべったのか」

「ああ」

「それではあの泣虫さんが、死にそうなことを口走るわけじゃ。わしが戻ってみたところで、遽にわかにお通さんの病気を癒なおしてやる思案もないから、わしがこういったと、告げなさい」

「なんというの」

「御飯をお喰べって」

「なんだ、そんなことなら、おいらが一日に百遍ぺんもいってら」

「そうか。それはお前のいう言葉が、そのまま、お通さんにとっては無二の名言なのだが、それさえ耳に通らない病人ならば、仕方がないから、なにもかも正直にいって聞かせるのだな」

「どういう風に」

「武蔵は、吉野という傾城けいせいにうつつをぬかし、きょうで三日も扇屋から帰って来ぬという。それを見ても、武蔵がお通さんを少しも想っていないことがわかろう。そんな男を慕うて、どうする気じゃと、よく、泣虫のお馬鹿さんにいうてやるがよい」

聞くも忌々いまいましげに、城太郎は強くかぶりを振った。

「そんなこと、あるもんか。おいらのお師匠さまは、そんな武士じゃない。そんなことをいったらお通さんは、ほんとに自分で死んでしまうぞ。なんだい沢庵坊主め、おまえこそ大馬鹿だ、大馬鹿三太郎だっ」

六

「叱られたな。ハハハ、怒ったのか、城太郎」

「おいらのお師匠さまのこと悪くいうからさ。お通さんのことを馬鹿だなんていうからさ」

「おまえ可愛い奴だ」

頭を撫でてやると、城太郎は、その頭をうごかして、沢庵の手を振り落し、

「もういいよ。沢庵坊主なんか、なにも頼まないから。おいら一人で武蔵様を捜して来て、お通さんに会わせてやるからいい」

「知ってるか」

「なにをよ」

「武蔵のいる処を」

「知らなくたって、捜せば知れらい。よけいな心配するな」

「小癪こしゃくなことをいっても、おまえには、吉野太夫の家はなかなか分らぬぞ。教えてやろうか」

「頼まない、頼まない」

「そうぽんぽん当るな城太郎。わしじゃとて、お通さんの仇かたきじゃない、武蔵を憎む理由もない。それどころか、どうかして、あのふたりが二人とも、よい生涯を完まっとうしてくれるように蔭で祈っている者だ」

「じゃあどうして意地悪をするんだい」

「おまえには、意地悪と見えるのか。そうかも知れんな。だが、武蔵もお通さんも、今のところ、どっちもまあ病人のようなものだ。体の病やまいを癒なおすのが医者で、心の病を治なおすのが坊主ということになっているが、その心の病のうちでもお通さんのは重態だ、武蔵のほうは、抛っておけばどうにかなろうが、お通さんの方はわしにも今のところではどうにもならん。だから匙さじを投げていうのだよ――武蔵のような男に、片想いしてどうするんだ、さらりと思い切って、御飯をたんと喰べ直せとな。――そういうよりほかないじゃないか」

「だからいいよ、くそ坊主の汝てめえなんかに、なにも頼むといやしねえや」

「わしの言葉が、嘘だと思ったら、六条柳町の扇屋へゆき、そこで武蔵が、どうしているか、見届けて来い。そして見たままの事実を、お通さんに話してやれ。いちどは歎きかなしむだろうが、それで眼が醒さめれば結構じゃ」

城太郎は耳の穴へ、指で栓せんをして、

「うるさい、うるさい、どん栗坊主」

「なんじゃ、わしの後を追いかけて来たくせに」

「坊主坊主、お布施ふせはないぞ、お布施ほしけれや、唄うたえ」

沢庵の背へ、こう謡口調うたくちょうで罵ののしりながら、城太郎は耳をふさいだまま、遠くなってゆく姿を見送っていた。

しかし、沢庵の影が、彼方あちらの辻の横へかくれると城太郎の眼には、涙がせりあがって来て、それがぼろぼろと溢あふれ落ちるまで、ぼんやり佇たたずんでいた。

あわてて肱ひじを曲げ、涙の顔を横にこすると、彼は、迷っている犬の子が、急になにか思い出したように往来を見まわして、

「おばさん!」

被衣かつぎして通りかかった女房風の女のそばへ駈け寄った。

そして、いきなり、

「六条柳町ってどこ」

と訊ねた。

びっくりしたように女は、

「遊廓くるわでしょう」

「遊廓って何?」

「まあ」

「何するとこ」

「嫌な子だね!」

睨みつけて、その女は、通り過ぎてしまった。

なんでそうされたのか、城太郎はそんな不審にたじろいではいない。懲こりもせず次々に、六条柳町への道と、そこの扇屋という家を訊いて歩いた。

伽羅きゃらの君きみ

一

爛漫らんまんと、楼ろうに灯は入ったが、まだ三筋の柳町に、買手どもの影は見えない宵の口であった。

扇屋の若い者は、何気なく入口の人影を見てぎょッとした。大暖簾おおのれんのあいだから首を入れ、家の中をキョロキョロ覗のぞいている二つの眼まなこに驚いたのである。暖簾の裾に汚い草履と木剣の先が見えたので、なにか途端に、勘ちがいをしたものらしく、あわてて他ほかの男達をよび立てようとすると、

「おじさん」

と城太郎がはいって来て、いきなりこう訊ねた。

「ここの楼うちに、宮本武蔵様が来てるだろ。武蔵様は、おいらのお師匠さまだから、城太郎が来たっていえば分るんだけれど、取次いでくれないか。それでなければ、ここへ呼んでくれないか」

扇屋の若い者は、子供と分ってほっとしたような顔をした。けれど、先にぎょッとした驚きの反動がむかっと、その顔に筋を立てて、

「なんだ汝てめえは。もの貰いか。風の子か。――武蔵様なんて、そんな者は、いねえいねえ、宵の口から暖簾先へ、うす汚ねえ風体ふうていしてはいって来やがって、ササ出て行け出て行け」

襟えりがみを抓つまんで、外へ持って行こうとすると、城太郎は、虎河豚とらふぐのように勃然ぼつぜんと怒って、

「なにするんだ、おいらは、お師匠様に会いに来たんだぞ」

「ばか野郎、汝てめえの師匠だかなんだか知らねえが、その武蔵という人間のために、おとといから大迷惑をしているところだ。今朝も、今し方も、吉岡道場の使いが来て、それにもいってやった通り、もう武蔵はここにはとっくにいねえのだ」

「いないなら、大人しく、いないといえば分るじゃないか。なんだって、おいらの襟くびをつかむんだ」

「暖簾へ首を突っ込んで、気持のわるい眼で中を覗いていやがるから、おれはまた、吉岡道場の廻し者が来たかと思って、ひやりとしたじゃねえか。忌々いまいましい小僧ッ子奴めが」

「びっくりしたのは、そっちの勝手じゃないか、武蔵様は、何時頃いつごろ、そしてどこへ帰ったのか、教えてくれ」

「こいつ、さんざん人に悪たいをついていながら、今度は教えてくれなんて、虫のいいことを吐ぬかしやがる。そんな番をしているか」

「知らなきゃいいから、おいらの襟首を離せ」

「ただは離さねえ、こうして離してやる」

耳たぶを強く持って、一廻り振廻して暖簾の外へ突き放そうとすると、城太郎は、

「痛い、痛い、痛い」

さけびながら腰を落し、下から木剣を抜いて、若い男の顎あごをふいに撲なぐりつけた。

「あっ、このチビ」

前歯を折られて、真っ赤に染まった顎あごを抑えながら、彼を暖簾の外まで追いかけてゆくと、うろたえた城太郎は、

「誰か来てくれーッ。このおじさんがいけないよっ」

往来へ、こう大声で、危急を訴えながら、持っていた木剣は、その悲鳴とは反対に、いつか小柳生城で猛犬の太郎を擲なぐり殺したような力で、振り向きざま、ぐわんと男の脳天を打っていた。

みみずの鳴いたような、細い呻うめきを鼻血といっしょに洩らして、若い男は柳の樹の下へヘロヘロと仆れた。

――と、向う側の格子先で見ていた客引き女が、軒ならびの格子へ向ってさけんだ。

「あらっ、あらっ、あの木刀を持った小僧が、扇屋の若い者を殺して逃げたっ」

すると、夜中のように人影のなかった往来に、わらわらと駈け出す者の影がみだれて、

「人殺し――」

「人が殺された」

と、血なまぐさい声が宵の風にながれた。

二

喧嘩沙汰は年中のことだし、血なまぐさいものを、秘密裡にまた迅速に、処理してしまうことにもこの遊廓さとの者は馴れていた。

「どこへ逃げた?」

「どんな小僧か」

と、血相の恐こわい男たちが、捜しまわっていたのも一瞬のことで、程なく、編笠すがたや伊達だてすがたして、灯に群れる虫のように、ぞろぞろと、ぞめきに流れ込んで来た買手どもは、もう紅燈の下に、そんな事件が、半刻はんとき前に行われたという噂すら知らなかった。

三筋の往来は、更ふけるほど雑鬧ざっとうしてきたが、裏は、真っ暗な横町だの、田だの原だのが、しいんとしていた。

どこに隠れていたか、城太郎は頃あいを見すまして、暗い路地から犬の子みたいに這い出した。そしていっさんに暗い方へ向って駈けた。

そのまま、ここの闇は世間の闇へつづいているのかと単純に思っていたのである。ところが、一丈もある柵さくへ彼は突き当ってしまった。その柵は、この六条柳町を全部、城郭のように堅固にとり囲んでいる。先を尖とがらした焼丸太が結ゆいまわしてあって、いくらそれに沿って歩いてみても、外へ出られる木戸も隙間もなかった。

少し歩くと、明るい町尻の往来へ出てしまうので、城太郎はまた暗いほうへもどって来た。すると、彼の挙動に注意しながら、後から尾ついて来た女が、

「童こども。……童」

白い手で招いた。

最初――城太郎は疑わしげな眼を光らして、しばらく、闇の中に立ちどまっていたが、やがてのそのそ戻って来て、

「おいらのことかい」

女の白い顔に、害意のないことを確かめると、彼はまた一歩、近づいて行きながら、

「なんだい?」

と、いった。

女はやさしく、

「おまえかい、夕方、扇屋の入口へ来て、武蔵様に会わせてくれといっていたという子は」

「あ、そうだ」

「城太郎というんでしょう」

「うん」

「じゃあ、そっと、武蔵様に会わせてあげるからこちらへおいで」

「ど、どこへ」

と、今度は、城太郎が尻ごみしてしまう。そこで女が、彼の安心がゆくように説明してやると、城太郎は、

「じゃあおばさんは、吉野太夫っていう人の召使めしつかいなの」

地獄で仏に会ったような顔を見せ、初めて心をゆるしたように従ついて行った。

その引船のことばによると、夕方の騒ぎを耳にすると、吉野太夫はいたく心配して、もし捕まったら、自分が口をきいて助けてやるからすぐ知らせて来るように――もしまた、どこかに潜ひそんでいるのを見つけたら、そっと、裏庭の木戸から、例の田舎いなかの間まへ、導き入れて、武蔵に会わせてやるようにという吩咐いいつけをうけて来たのだという。

「もう、心配おしでない。吉野様がお声をかけて下さりさえすれば、この廓さとで通らぬことはないのだから」

「おばさん、おいらのお師匠様はほんとにいるんだろうね」

「いないものを、なんでおまえを捜して、こんなところへ連れて来ましょう」

「いったいこんなところでなにしてるんだろ?」

「なにしていらっしゃるか。……それはもう、そこに見える田舎家の内においでになるから、戸の隙間からのぞいてごらん。……では、わたしは彼方むこうのお座敷がいそがしいから」

引船は彼方あなたの庭の植込みへ、忍びやかに、影をかくした。

三

ほんとかなあ?

ほんとにいるのかしら。

どうも城太郎には、素直に信じられないらしいのである。

あれ程、捜しに捜しぬいていた師の武蔵が、今、自分の立っているすぐ眼の前の小屋の中にいる――それがどうも彼には余り簡単すぎて受けとり難い。

では諦あきらめて、止すかと思えば、それどころか、その田舎家を繞めぐり歩いて、しきりともう、中を覗のぞき得る窓をさがしている城太郎なのでもある。

家の横に、窓はあった。ただし彼の背丈せたけでは寸法がちと足らない。そこで城太郎は、植込みの間から石をころがして来てそれへ乗ってみた。――竹の櫺子れんじにやっと鼻が届く。

「……ア、お師匠様だ」

覗き見した行為に顧みて、彼は、声をのんでしまったが、そこからでも手を伸ばしたいような懐かしい人の姿に、城太郎は久し振りで出会った。

炉のそばに、武蔵は、手枕をかってうたた寝していた。

「――暢気のんきだなあ」

と、呆れ果てたような丸い眼が、そのまま、窓の竹格子に、貼り付いていた。

快こころよげに昼寝している武蔵のからだの上には、誰がそっとかけて行ったのか、桃山刺繍ぬいの重そうな裲襠うちかけが着せてあった。また、彼の身に着けている小袖も、常のごつごつした地味なものとは違い、伊達者だてしゃの好みそうな大柄の着物を着ていた。

少し離れて、一枚の朱い毛氈もうせんが敷いてあり、画筆えふでだの、硯すずりだの、紙だのが散らかっている。その反古ほごのうちには、手習いしたような茄子なすの絵や、鶏の半身などが見えた。

「こんな所で、絵なんぞ描いていたんだぜ。お通さんの病気を知らないでさ」

城太郎は、ふと、憤いきどおりに似たものを胸に抱いた。武蔵のからだにかけてある女の裲襠うちかけが気に喰わないのである。また、武蔵の着ている派手な着物に嫌厭けんえんがわくのであった。彼にも、そこらに漂っている艶なまめいたものの匂いは分っている。

この正月、五条大橋で彼が見つけた時も、武蔵は、若い娘に縋すがられて、往来中で泣かれていた。今見れば、またこの態ていだし、

(どうかしているぞ、この頃、おいらのお師匠さまは)

と、大人の慨嘆然がいたんぜんたりという顔つきに似たようなほろ苦さが、彼の幼い心にも、込み上げて来ずにいられないものらしいのである。

それからふと、

(よし、驚かしてやれ)

と、悪戯心いたずらごころが、忌々いまいましさを唆そそって来て、なにか、思いついたらしく、そっと石の上から脚を下そうとすると、

「城太郎、誰と来た?」

武蔵の声である。

「え?」

また、覗いてみると、眠っていた人は、うす眼を開いて、笑っていた。

「…………」

返辞よりも先に城太郎は表の戸口へ駈け廻って、そこを開けるや否や、中へ入って武蔵の肩に抱きついていた。

「お師匠さま!」

「おう……来たか」

仰向いたまま、肱ひじを伸ばして、武蔵は彼の埃ほこりくさい頭を胸へ抱えこみ、

「どうして分った? ……。沢庵坊にでも訊いて来たか。しばらくだったなあ」

むっくりと、武蔵は彼の首を抱いたまま身を起した。久しく忘れていた懐中ふところの温ぬくみに城太郎は、狆ちんがじゃれるように、いつまでも、その首を武蔵の膝から離そうともしなかった。

四

――今、お通さんは病やまいの床についている。そのお通さんは、どんなに、どんなに、お師匠さまに会いたがっているか知れない。

かわいそうだ!

お通さんは、お師匠さまのあなたに、会えばいいっていうんだ。それだけなんだ。

この正月の元日、五条の大橋でよそながら出会うことは出会ったが、お師匠さまが変ちくりんな女と仲がよさそうに話したり泣かれたりしていたので、お通さんはすっかり怒ってしまい、蓋ふたを閉しめた蝸牛まいまいのように、いくら手を引っ張ったって、出て来やしない。

むりもないや。

おいらだって、あの時、なんだかむしゃくしゃして、癪しゃくにさわったもの。

でも、そんなことはもういいから、これからすぐに、烏丸のお館やかたまで来てください。そして、お通さんに、来たよといってやってください。それだけでも、お通さんの病気はきっと癒なおってしまうに違いありませんから。

――以上の言葉は、城太郎が、未熟な弁を懸命にふるって、武蔵へうったえた沢山の口数くちかずのあらましである。

「……うん。……うん」

武蔵は何度もうなずいていう。

「そうか、……そうだったのか」

と、同じように。

そして肝腎かんじんかなめな――ではお通に会おうということは、なぜか、口を結んでいわないのである。

頼みに頼み、訴えに訴えぬいても、武蔵が、巌いわみたいに、こちらのいうことを肯きいてくれないと、城太郎はそれ以上いいようもなくなって、なんだか、武蔵という人が、あんなに好きだったお師匠さまが、急に嫌な奴にみえてきた。

(喧嘩してやろうか)

と、城太郎は、肚のなかで思ったほどだった。

だが、さすがに、武蔵へ向って、悪たい口は叩けないとみえ、彼は顔の表現をもって、武蔵の反省を求めていた。酢すを舐なめたような口をして、いつまでも、面つらを膨ふくらませていた。

彼が黙りこむと、武蔵は画手本えでほんを見ながら、描きかけの絵へ筆をとり始めた。城太郎は、彼が習っている茄子なすの絵を睨みつけ、

(下手へたクソ!)

と、心で罵ののしっていた。

その画にも倦うんだらしく、武蔵が筆を洗い出したので、もういっぺん頼んでみようかと、城太郎が唇を舐なめてなにかいいかけると、飛石を拾って来る木履ぼくりの音がして、

「お客さま。洗濯物が乾きましたから持ってまいりました」

と、さっきの引船が、きちんと畳みつけた袷あわせと羽織の一襲ひとかさねを抱えて来て、彼の前におく。

「ありがとう」

武蔵は入念に、洗えて来た衣服の袖や裾すそを調べて、

「きれいに落ちましたな」

「人間の血というものは、洗っても洗っても、なかなか落ちないものでございますね」

「これでよい。……時に吉野どのは」

「こよいも、お客方の席が、あちらにもこちらにもという有様で、わずかなお隙もございませぬ」

「思いがけないお世話になったが、こうしていると、ひとり吉野どのへ気づかいを煩わずらわすばかりでなく、扇屋の内緒ないしょへも、迷惑のかさむばかり。……こよいの夜更けを待って、そっとここを立ち去りますゆえどうぞ、そう伝えておいて下さい。くれぐれも、よろしゅうお礼を」

城太郎は顔つきを直して、やはりお師匠様は好い人だと思った。肚の中では、お通さんのところへ行ってやろうと、とうに決めていたに違いない。

そう独り決めして、にこにこしていると、武蔵は、引船が立ち去るとすぐ、小袖羽織のその一襲ひとかさねを、城太郎の前へ出していった。

「きょうは、よいところへ来てくれたな。この着物は、いつぞやこの遊廓くるわへ来る折、本阿弥ほんあみ様の御老母が、わしに着せてくれた着物。つまり借り着じゃ。これを光悦どののお邸へお返しに行って、わしの元の着物を持って来てくれぬか。城太郎、よい子だから、一走り行って来てくれい」

五

「はい、畏かしこまりました」

と、城太郎は神妙である。

この使いさえ済めば、武蔵はここを出て、お通さんの所へ来てくれるものと思い、それを楽しみに、

「じゃあ、行って来ます」

先方へ返す小袖羽織を風呂敷につつみ、べつに、武蔵から光悦へ宛てて書いた一通もその間へ挟んで背中へ負いかけていると、そこへ夜食を運んで来た以前の引船が、

(オヤ、どこへ)

と、眼をみはって武蔵からその理わけを聞くと、

「まあ、飛んでもないこと」と、固く止めた。

なぜならば――

と引船が武蔵へ話す。

この子は夕方に、扇屋の店先で、店の若い者を、がらにもない木刀で撲りつけ、打ちどころが悪かったとみえて、その男は床についてうんうん唸うなり通している。

遊廓くるわの喧嘩だから騒ぎはそれきりで済んでいるし、吉野様からお内緒へも若い衆へも、そっと、内済ないさいにと口をきいてはあるが、その子がやたらに、宮本武蔵の弟子だと威張りちらしたので、誰の口からともなく、武蔵はまだ扇屋の奥にかくれているという噂が宵からひろがり、それが遊廓の総門の外に、先ごろから網を張っている吉岡方の者へも聞えているらしい。

「……ははあ」

と、武蔵は初めて、そんな事件を知ったように、城太郎の姿を見直す。

城太郎は、隠していたことが武蔵にわかって、面目ないように、頭を掻き、だんだん隅すみへ退さがって、小さくなっている。

「だのに、そこへ今、ひょこひょことそんな物を背負って総門から行ってご覧――どうなるか」

と、引船はまた、それについて外部のもようを武蔵に告げるのであった。

――何分にも、おとといから昨日、今日と、三日にわたって、吉岡方の者が、あなたの身を尾つけ狙っていることはたいへんなもので、吉野様やお内緒でも、それを心痛している。

光悦様もおとといの夜、ここから帰る折にくれぐれも頼んで行かれたことだし、扇屋としても、そういう危地にあるあなたを、追い出すようなことはできない。殊に吉野様は細心な気づかいをして、あなたの身を庇かばっている。

……しかし。

困ったことは、吉岡方の者が執念深く、この遊廓くるわの出入りに見張をつけていることで、店へも昨日から、何度も吉岡門下の者というのが来て武蔵を匿かくまっているだろうとか、うるさく探りに来るので、それは態ていよく追い払ってはいるが、先方の疑惑は、なかなか解くべくもなく、

(扇屋から出て来たら)

と、その機会を、手に唾つばきして待っていることは知れている。

よくは分らないが一人のあなたを討つために、吉岡方の者は、まるで戦いくさのような物々しい段取をして、幾重にも見張を立て、どんなことをしても、今度は殺してしまうといっているそうです――とも引船はいって、

「ですから、もう四、五日、じっとここに隠れておいで遊ばした方がよかろうと、吉野様もお内緒も心配していらっしゃいます。そのうちには、吉岡の衆も飽いてしまって、見張りを退ひくでございましょうし……」

武蔵と城太郎の二人へ、夕飯の給仕をしながらも、あれやこれや親切に引船はいってくれたが、武蔵は好意だけを謝して、

「思うところもありますから」

と、今夜ここを立つ意思は翻ひるがえさなかった。

で――光悦の家へ遣やる使いの件だけは、引船の忠告を容れて、それからすぐ、扇屋の若い者を走らせてやることにした。

六

使いは間もなく帰って来た。光悦からの返辞には、

折もあらばまた会い候わん、長き短き人の世の道、たのみ参らすにつけお身大事にいそしみ給われとのみ、よそながら祈り申されてこそ候え

月   日光悦

武蔵どの

と書いてあった。短文ではあるが光悦の気持はよく酌くみ取れる。また武蔵が、今の身辺の累るいを、あの平和な母子おやこの生活におよぼすまいとして、わざと、彼の家へ立ち寄らないでいるこちらの気持も、十分理解してくれているようであった。

「そしてこれは、先日あなた様が光悦様のお家へ脱ぬいでおいた以前のお小袖だそうで」

と、使いの男は、こちらから届けた羽織小袖とひき換えに、武蔵が前から着ていた古い着物と袴はかまとを持って帰り、

「本阿弥ほんあみのお老母様としよりさまからも、くれぐれもよろしくと仰せられました」

と、口上を伝えて、扇屋の母屋おもやへ退さがって行った。

包みを解いて、以前の古い着物を見ると、武蔵はなつかしかった。あのやさしい気持の妙秀尼が着せてくれた小洒張こざっぱりした衣裳よりも、この扇屋で借着している伊達だてな袷あわせよりも、雨露に汚れた一着の木綿着物のほうが、彼には、自分の肌にぴったりした物のように思われた。これこそ、修行中の行衣ぎょういであり、これ以上の必要を少しも感じないのであった。

綻ほころびてもいたし、雨露や汗にも汚れていたはず、さだめし穢むさいにおいが畳まれていたであろうと思いながら、袖を通し袴はかまを着けてみると、意外にも折目が、ぴんとついていて、あの襤褸つづれにひとしい古小袖が、生れ代ったように、仕立て直してあった。

「老母としよりというものはよいものだ。自分にも母があったら」

武蔵はふと孤愁に囚とらわれて、これから生きて行こうとする生涯を、心の中で遥かに描いてみる。

すでに父母はない。自分を容いれない故山に、わびしい独りの姉があるばかりである。

彼は、しばらく沈湎ちんめんと燈ひに俯向うつむいていた。ここも、三日の仮の宿だった。

「さ、立とうか」

持ち馴れた刀を手に寄せ、固く締めた帯と肋骨ろっこつのあいだへぎゅっと差し込むと、彼のふとした寂しさはもう強い意思の外へ弾はじき出されていた。その刀こそ父母であり妻であり兄弟であるとしよう――と、そうかねがね心に誓っていたところへ彼の心は返っていた。

「行くの。――お師匠さま」

城太郎は先にそこを出て、欣うれしそうに今夜の星を見た。

(これから烏丸様のお館やかたまで行けば、ずいぶん遅くなるけれど、いくら夜が更けたって、お通さんはきっと、寝ずに待っているにちがいない。――どんなにびっくりするだろうな、きっと、あんまり欣しがって、また泣いちまうかも知れないぞ)

雪の晩からこっち、毎晩、空は美しかった。城太郎は、これから武蔵を連れて行って、お通に歓よろこんでもらうことのみ空想していた。星を仰ぐと、その星のまたたきまでが、自分とともに、歓んでくれているように思える。

「城太郎、おまえは、裏木戸からはいって来たのか」

「え。裏だか表だか知らないけれど、さっきの女のひとと一緒に、そこの門から」

「では、先へ出て、待っていてくれ」

「お師匠さまは」

「ちょっと、吉野どのに挨拶を申して、すぐ行くから」

「じゃあ、外へ出て、待っているよ」

そんなわずかな間も、彼のそばを離れるのは、多少不安がないでもなかったが、今夜の城太郎はもう、なにを命ぜられても、至って素直になりきっていた。

七

この三日ほどを、この隠れ家のうちで、武蔵は、われながら、愚に返ってよく遊んだと思う。

例えていうならば、今日までの自分の心神や肉体という物は、ちょうど、緊はりつめている厚氷のようなものであったと思う。

月にも情こころを閉とじ、花にも耳をふさぎ、太陽にも胸をひらかず、ただ冷たく凝結していた自分というものが、顧みられる。

そうした精進一途な自分のすがたにも、彼は、正しさを信じているが、同時に、狭くて小さい一個の頑固者にすぎないものが――自分となることを彼はおそれかけた。

沢庵からずっと前に、

(おまえの強さは、獣けものの強さと変りがない)

といわれたり、また奥蔵院の日観にっかんからも、

(もっと弱くなれ)

と忠告されたりしたことを思いあわせると、武蔵はこの先ともに、この二、三日のような悠暢ゆうちょうな日を持つことが、自分には大事であると考えた。

そういう意味で、今、ここの扇屋の牡丹ぼたん畑を去るにつけても、彼は無益むえきな日を費やしたとは少しも思わなかった。むしろ、余りに緊はりきっている生命へ、暢々のびのびと、天然放縦のわがままを与えて、酒ものみ、転寝うたたねもし、書も読み、画筆も弄もてあそび、欠伸あくびもしたりして、存分に過ごした日が得難い貴重な日であったと感謝されるのだった。

(――その礼を、吉野どのに一言ひとこといいたいが)

と、武蔵は、扇屋の庭に佇たたずみながら、彼方あなたの花やかな灯影ほかげを見ていた。けれど奥深い座敷の方には変らない「買手かいてども」の猥歌わいかや三絃が満ちていて、吉野にこっそり会って行く術すべもない。

(ではここから)

と武蔵は、胸のうちで、別れを告げ、また三日にわたるあいだの彼女の好意にも、心から礼を告げてそこを去った。

――裏木戸から外へ出て、待たせておいた城太郎の影へ、手をあげて、

「さ、行こうぞ」

呼びかけると、その後ろから、城太郎とはべつに、小走りに追いかけて来た者がある。

禿かむろのりん弥やであった。

りん弥は、武蔵の手へ、

「これ、太夫様から――」

となにか渡して、すぐ木戸の中へ駈けこんでしまった。

小さく結んだ一片の紙きれである。色紙ほどな懐紙であった。開いて、文字へ眼のゆく前に、ほのかな伽羅きゃらの移り香がする。

ちぎりてはちる夜々のあだ花の数々よりも、樹この間ま過ぎ行く月のおん影こそ忘れ得ざらめ

しみじみ、語ろういとまもなく雲間のおわかれ、よその杯に、嘆けばと、人はわらい候わめど、ただ一筆のみを

よしの

「お師匠さま、それ、誰から来たてがみ」

「誰からでもない」

「女の人」

「知らん」

「なんと書いてあるの」

「そんなこと、訊かなくてもよい」

武蔵が畳みかけると、城太郎は背のびをして、

「いいにおいがする。伽羅きゃらみたいなにおいだなあ」

と、覗のぞいていう。

伽羅のかおりは、城太郎の鼻にもわかるものとみえる。

門

一

さて、扇屋おうぎやは出て来たが、まだ遊廓くるわの内である。どうしたらこの囲いから無事に世間へ出られるだろうか。

城太郎は案じて、

「お師匠さま、そっちへ行くと、総門の方へ出ちまいますよ。総門の外には、吉岡の者が見張っているから危ないって扇屋の人もいっていた」

「うむ」

「だから、他ほかから出ましょう」

「夜は、総門以外の口は、みな閉まっているそうではないか」

「柵さくを越えて逃げれば――」

「逃げたといわれては武蔵の名折れになる。恥も外聞もなく、逃げさえすればよいと思うくらいなら、なんのこんな所から出てしまうのは易やすいが、それがわしには出来ないことだから、静かに折を待っていたのだ。――やはり総門から手を振って出て行こう」

「そうですか」

と城太郎はやや不安な顔色を見せたが、「恥」を重んじない者は、たとえ生きていても無価値な人間として扱われてしまう武士社会の鉄則は、彼にもよく分っているから、反対はできなかった。

「――だが、城太郎」

「え、なんです」

「おまえは子供だから、なにもわしの通りに行動する必要はない。わしは総門から出て行くが、おまえは先に遊廓くるわの外へ出て、どこかに身を避けて、わしを待っているがいい」

「お師匠様が総門から手を振って出て行くのに、おいら一人、どこから外へ出て行くの」

「そこの柵を越えるのだ」

「おいらだけ?」

「そうじゃ」

「いやだ」

「なぜ」

「なぜって、たった今、お師匠さまがいったくせに。――卑怯者といわれるだろう」

「おまえには、誰も、そんなことをいいはせぬ。吉岡方で相手としているのは、この武蔵一名で、そちなどは、数のうちにはいっていない」

「じゃあ、どこで待ってたらいいの」

「柳の馬場の辺りで」

「きっと来る?」

「うん、必ず行く」

「また、おいらに黙って、どこかへ行ってしまうんじゃない?」

――武蔵は顔を横に振って、

「おまえに、嘘は教えぬ。さ、人通りのないうちに、はやく越えろ」

城太郎は、辺りを見まわして、暗い柵さくの下へ駈け寄った。けれど、焼丸太の柵は、彼の背丈せいの三倍も高かった。

(だめだ、おいらにゃ、とても越えられそうもないや)

自信のない眼で、城太郎は柵の高さを見上げていた。すると武蔵は、どこからか、一俵の炭俵をさげて来て、柵の下においた。

そんな物を踏台にしたって駄目だといわないばかりに、城太郎は武蔵のすることを見ていた。武蔵は、柵の間から外を窺うかがって、しばらく、じっとなにか考えている。

「…………」

「お師匠様、誰か柵の外にいるんですか」

「この辺、柵の外は、蘆あしがいちめんに生えている。蘆の原だから水たまりがあるかも知れぬ、気をつけて跳び降りろよ」

「水なんかいいけれど、高くって、上まで手が届かない」

「総門のみでなく、柵の外部にも、要所要所には、吉岡の見張がいるものと思わなければならぬ。外が暗いから、それに用意をして跳び下りぬと、不意に、どんな者が、闇から刀を薙なぎつけて来るかも知れないのだ。――だから、わしが背丈せいを貸して上げてやるから、柵の上で一応体を止めて、よく下を見定めてから跳ぶのだぞ」

「はい」

「わしが下から、炭俵を外へ抛ほってやるから、その炭俵を見て、なにも変ったことがなかったら跳ぶがよい」

と城太郎の体を、肩ぐるまに乗せて立った。

二

「届くか、城太郎」

「まだ、まだ」

「では、わしの両方の肩に足をのせて、立ってみろ」

「でも、草履だから」

「かまわぬ、土足のままでよい」

肩車の上の城太郎は、脚をかわして、いわれた通り、武蔵の肩のうえに両足をのせて立った。

「こんどは、届いたであろう」

「まだです」

「やッかいな奴だの。身を弾はずませて、柵の横木まで跳びつけぬか」

「できないや」

「仕方がない、それでは、わしの両掌りょうてに足をのせろ」

「だいじょうぶ?」

「五人や十人乗っても大事はない。さ、よいか」

城太郎の足の裏に、自分の両掌りょうてを踏ませて、武蔵は、鼎かなえを差し上げるように、ぐっと自分の頭上より高く彼の体を上げた。

「――ア、届いた、届いた」

城太郎は、柵の上に取り付いた。武蔵は、先刻さっきの炭俵を片手に持ち、外の闇へぽうんと抛ほうった。

炭俵は、どさっと、蘆の中へ落ちた。――なんの異状もないと見えて、その後から城太郎が跳び降りた。

「なんだ、水たまりも、なにもありやしない。お師匠様、ここは、ただの原ッぱだぜ」

「気をつけて行け」

「じゃあ、柳の馬場で」

城太郎の跫音は、闇の遠くへ、遠ざかって行った。

その跫音の聞きとれなくなるまで、武蔵は、柵の隙間へ顔を寄せてじっと立っていた。

――そして彼の行った先に安心すると、初めて身軽そうに、足を早めだした。

それまでの薄暗い遊廓くるわ裏の道を捨てて、三筋のうちでもいちばん繁華な総門の通りへ出て来ると、そこをぞめき歩いている人影の中に、彼のすがたも、一個の嫖うかれ男おのように紛まぎれてしまう。

しかし――笠もかぶらずに、そのままの身装みなりで、一歩、総門を踏み出すと、

「あっ、武蔵!」

と、そこらに潜ひそんでいた無数の眼が、むしろ意外のように、一斉に、彼の姿へ向って光った。

総門の両側には、莚むしろがこいの駕屋かごやの溜たまりがある。そこにも、二、三名の侍が、股火またびをしながら、総門の出入りを睨んでいた。

そのほか、編笠茶屋の床几しょうぎだの、向い側の飲食店などにも、一組ずつ見張りが屯たむろしていたし、その中から四、五名の者が交代して、総門の際きわに立ちはだかり、廓内かくないから出てくる頭巾ずきんだの編笠の顔はいちいち無遠慮にのぞき込み、中を隠した駕が来れば、駕を止めて、その覆おおいの中を検あらためていた。

三日も前からのことである。

吉岡方の者は、武蔵が、あの雪の夜以来、ここから外へ出ていないことを確実につき止めていた。扇屋へ向けて、懸合いもしたし、探りもやってみたが、扇屋では、そんな客はいないというのみで取りあわない。

吉野太夫が彼の身を匿かくまっているらしいという見当も、全然つかないわけではなかった。けれど今この風流の別世界に限らず、貴顕から民間にまで人気のある吉野太夫へ、武士が徒党して、争いを仕掛けてゆくということも外聞の上から考えられた。

で――遠巻きに、持久戦の策をとって、武蔵が、廓内から出て来るのを厳しく見張っていたのであるが、その折には必ず当の武蔵が姿を変えて出て来るとか、覆駕おおいかごのうちに隠れて遁のがれるとか、でなければ、柵を越えて他から脱出するに違いないときめて、その用意にはおさおさ怠りない備えを立てていたのだった。

――ところが、平然と、ありのままな姿を灯ひに曝さらして、その武蔵が総門を出て来たので、彼らはむしろぎょっとして、いきなりその前へ立ち塞ふさがるものもなかった。

三

遮さえぎるもののない以上、武蔵の方で立ち止る理由もない。

大股な彼の足が、もう編笠茶屋の前も過ぎて、百歩も先をぐんぐんと歩いて行く頃になって、

「やるなッ――」

と、吉岡方の中から一人が叫んだようであった。

すると、声に合せて、

「やるなっ」

「やるな!」

同じ言葉を投げながら、どやどやと彼の後ろから前の方へと八、九名の影が駈け廻り、

「――武蔵待てッ」

と、ここに初めて、正面から激突をあげてきた。

――と、武蔵は、

「何かっ?」

と相手の耳へ不意と感じるような強さで答え、その答えとともに身を横へずっと退ひいて、道ばたの小屋を背にして突っ立った。

小屋の横に、巨おおきな材木が枕木に横たわっているし、辺りに大鋸屑おがくずが積もっているなどから見ても、これは木挽こびき職人の寝小屋らしかった。

物音に、

「喧嘩か」

と、中から戸を開けかけた木挽の男は、外の景色をひと目見ると、

「わっ」

あわてて戸を閉め、内側に心張り棒をかって、それなり布団ふとんでもかぶってしまったのか、しいんとして、中に人がいるとも思わせない。

吉岡方のものは、野犬が野犬を募つのるように、指笛を鳴らしたり、呼号をあげたりして、見る間にここへわらわらと集まって来た。こういう折の人数は、二十人が四十人にも、四十人が七十人にも、多く見えるものであるが、正確にかぞえても、三十人以下ではなかった。

真っ黒に、武蔵を取りまいた。

いや、その武蔵が、背中の一方を木挽小屋につけているので、その小屋もろとも、取り囲んだという形である。

「…………」

武蔵は、三面の敵の頭数を、じっと眼で読みながら、この状態が、どう変化してかかって来るか――それをじっと見ているような眸であった。

三十人の人間がかたまれば、それは三十人の心理ではない、一団はやはり一個の心理である。その心理が微妙な動きを取って来る機先を観みてしまうことは、そう難しいことではなかった。

案の如く、いきなり単独で、武蔵へ斬りつけて来るようなものはない。集合体の当然な姿勢として、多数が一つ個性にかたまるまでのしばらくの間は、ただがやがやと立ち騒いで、武蔵を遠巻きにしながら口々に罵ののしり、中には、市井まちのならずものみたいに、

「……野郎」

とか、また、単に、

「青二才奴め」

とか呻うめいて、自分たち個々の弱さを、いたずらに示すに過ぎない虚勢のまま、ややしばらく、桶のように円まるくなって、武蔵を囲んでいた。

最初から一個の意思と行動を持っている武蔵のほうは、その間、わずかな間にしろ、彼らよりは十分な余裕を持っていた。大勢の顔の中で、どれとどれが手強てごわいか、どの辺が脆もろいか、ぴかぴか光る眼つきを拾って、およそ心に備えておく余地すらあった。

「拙者に、待てといわれたのは誰だ。いかにも、拙者は武蔵だが」

彼が、見渡していうと、

「われわれだ。ここにいる一同が呼びとめたのだ」

「では、吉岡の御門下か」

「いうまでもなかろう」

「御用事とは」

「それも、改めて、ここでいう必要もないと思う。――武蔵、支度はいいか」

四

「支度?」

ちらと唇が歪ゆがむ。

鉄の桶みたいに、彼を囲んでいる殺気は、彼の白い歯から洩れた冷笑に、ふと毛穴の緊しまるようなものに面おもてを吹かれた。

武蔵は、語気を揚げて、すぐいいつづけた。

「武士の支度は、寝る間にも出来ておること、いつでも参られい。理も非もない喧嘩仕かけに、人間らしい口数や、武士らしい刀作法は、事おかしい。――だが、待て、一言聞いておきたい。各〻はこの武蔵を、暗殺したいか、正当に討ちたいか」

「…………」

「意趣遺恨で来たか、試合の仕返しで来たか。それを訊こう」

「…………」

言葉のうちにでも、勿論、武蔵の眼――またその体に斬り込める隙が見出せたなら、囲まわりの刃やいばは穴から水の噴くように、彼の虚へ向って衝いて出るはずであるが、そういう者もなく、数珠ずずのような沈黙に縛られている大勢のうちから、

「いわずとも知れたこと!」

と、大喝だいかつして、武蔵のことばに答えた者がある。

ぎらっと、武蔵はその顔へ眸を射向けた。年輩、態度、この中では、吉岡方の然るべき者らしく思える。

それは、高弟中の御池みいけ十郎左衛門だった。十郎左衛門は、自分がまず、初太刀の皮膜ひまくを切ろうとするものらしく、ズズと、摺すり足あしに身をすすめて、

「師の清十郎敗れ、つづいて御舎弟の伝七郎様を討たれ、なんのかんばせあって、われわれ吉岡門の遺弟が、汝を無事に生かしておけるかっ。――不幸、汝のために、吉岡門の名は泥地にまみれたれど、恩顧の遺弟数百、誓って師の御無念をはらさいではおかぬ。意趣遺恨のという狼藉ろうぜきではない、師の冤えんをそそぎ奉る遺弟の弔とむらい合戦だわ。武蔵っ、不愍ふびんだが、汝の首はわれわれが申しうけたぞ」

「おお、武士らしい挨拶を承った。そういう趣意とあれば、武蔵の一命、或はさし上げぬ限りもない。しかし、師弟の情誼じょうぎを口にし、武道の冤えんを雪そそごうという考えなれば、なぜ、伝七郎殿の如く、また清十郎殿の如く、堂々と、この武蔵へすじみち立てて正当な試合に及ばれぬか」

「だまれっ! 汝こそ、今日まで居所きょしょをくらまして、われわれの眼がなくば、他国へ逃げのびようといたしながら」

「卑劣者は、人の心事も卑劣に邪推する、武蔵は、かくの通り、逃げもかくれもしておらぬ」

「見つかッたればこそであろうが」

「なんの、姿を晦くらます心なら、これしきの場所、どこからでも」

「然らば、吉岡門の者が、あのまま、汝を無事に通すと心得ていたか」

「いずれ、各〻から挨拶はあるものと存じていた。しかし、かような繁華の町中で、人を騒がせ、野獣か、無頼者ならずもののような、理不尽な争いを演じては、われら、一個の名ばかりか、武士という者すべての恥さらし。各〻の申さるる師弟の名分も、却って、世の笑いぐさではあるまいか、師へ対しても恥のうわ塗りではござるまいか。――さもあらばあれ、師家は絶滅、吉岡道場は離散、この上、恥も外聞もあろうかと、武門を捨てた気とあらばなにをかいおう、武蔵五体と両刀のつづく限りは、相手になる、死人の山を築いてみせる」

「なにをッ」

十郎左衛門ではない。十郎左衛門の横あいから一人が、こう肱ひじの弦つるを切りかけると、どこかで、

「――板倉が来るぞっ」

呶鳴った者がある。

五

その頃、板倉といえば、怖い役人という代名詞になっていた。

大路おおじ打たすは

誰たが栗毛ぞ

伊賀の四郎左か

みなにげる

だの、

伊賀どのはそも

千手観音か天目天てんもくてんか

あまた目付に

百与力よりき

などと、童戯どうぎの群れまで謡うたっているのは、みなその板倉伊賀守勝重かつしげのことだった。

今の京都の繁昌は、特殊な発達と、変則な好景気に浮わついていた。それはこの都府が、政治的にも、戦略的にも、日本の分れ目を握っていて、重要な作用を持っているからである。

だから、全国中でも、ここがいちばん文化も進歩していたが、思想的に観みると、最も市政に厄介な土地でもあった。

室町時代の初めから、土着の市民は殆ど、武家の殻からをすてて町人になり、そしてただ保守的だった。今では、徳川か、豊臣か、そのどっちかの色を持った武士が、互いにこの分水嶺に拠よって、次の時代を、虎視眈々たんたんと窺うかがっている。

その上、素姓すじょうも知れない、またなんで生計を立てているのか分らないような武家が、ずいぶん郎党や一門を養って相当に根を張っている。

また、今に、徳川、豊臣の二つの勢力が、当然、なにかおっぱじめるに違いないから――犬も歩けば棒にあたるを空頼みにして、蟻ありのように、うようよしている牢人もたくさんある。

その牢人と組んで、博奕ばくち、ゆすり、かたり、誘拐ゆうかいを職業にして立とうとする無頼者ならずものも殖ふえるし、飲食店や売女もそれに灯あかりをつける。いつの世の中にも多い耽溺たんでき主義者だの、刹那主義的な人間も、信長の謡うたった「――人生五十年、化転けてんの夢にくらぶれば」を、たった一つの真理と奉じて、一生懸命に、酒と女と刹那の享楽で、早死はやじにを心懸けている。

それだけならいいが、そういう虚無的な人間も、いっぱしな政治観や社会観を放言し、そして、徳川とも豊臣とも色分けつかない偽装をもって、その時々の世情によって、狡ずるく泳いで、うまい蔓つるでもあったら掴つかもうとしているから、ここの市政は並大抵な奉行ではまず睨みがきかない。

そこで徳川家康の眼鑑めがねで、京都所司代にもって来たのが、板倉勝重だった。

慶長六年以来、与力三十騎、同心百名を付せられて、この勝重が、京都の睨み役に任命された時、ちょっとした話が伝わっている。

家康から、辞令をうけた時、勝重はすぐ命を拝さず、

(邸やしきにもどって、一応、妻とよく相談してから、お答え仕ります)

帰邸すると、勝重は妻に向い、任官の沙汰を告げていうには、

(古来から顕職けんしょくの栄位に擢ぬきんでられて、却ってために、家を亡ぼし、身を害した者が史上にも多い。その因もとを思うに、みな、門閥もんばつと内室のわずらいから起っておる。だから誰よりもおまえの心に相談するのだが、おまえは、わしが所司代となっても、市尹しいん〈市しの長おさ〉たるわしのすることには、一切口出ししないと誓うなら、任官しようと思うが)

すると妻は、つつしんで誓った。

(なんで婦女子が左様な口出しを致しましょう)

翌る朝、登城するとて、勝重が衣服を着ると、下着の襟を折って着ていた。妻が見て、それを直そうとすると、

(おまえはもう誓いを忘れているではないか)

と叱り、ふたたび妻を堅く誓わしめてから、はじめて家康の命を拝したというのである。

この覚悟で就職した勝重なので、彼のすがたは公明だった。同時に峻厳しゅんげんでもあった。――恐い役人を上に持つことは、嫌がりそうなものだが、事実その後の市民は、彼を父のようにあがめ、家の上に、父がいるように安心した。

さて、話はわき道へそれたが、今、

(板倉が来るぞ)

と、うしろで呶鳴った人間は誰だろうか。勿論、吉岡方の者はすべて、武蔵と対しているので、そんな言葉をいたずらに放つはずはない。

六

――板倉が来るぞ。

は当然、

――板倉の手先が来るぞ。

という意味に受取れたのである。

役人にでしゃばられては厄介な場合だった。けれど、こういう盛り場には、きまって見廻りが歩いている。それが、何事かと見て、駈けつけて来たのかも知れない。

それにしても、今の掛声は誰だろう。味方の者でなければ、往来の者の注意か?

――と、御池十郎左衛門はじめ、吉岡門下の眼が、思わず声の方へふと外それると、

「待て、待て」

押分けて、武蔵と吉岡門下のあいだへ、自ら立ち塞ふさがった若衆姿の侍がある。

「や?」

「お身は」

意外な眼を光らせて、自分へ集まる吉岡門下の大勢の眼と、武蔵の眼へ、その前髪は、

(わしだ! この顔は、双方とも前から記憶があるであろうが!)

そういわないばかりに傲然ごうぜんと自己を誇示して、佐々木小次郎はいうのだった。

「今、総門の前で駕をおりると斬合きりあいだという往来の声。よもやと思いのほか、かねがね、こんな事件も起ろうかと案じていた各〻ではないか。――わしは吉岡の味方でもないし、なおさら、武蔵の味方でもない。――だが、武士であり剣客である以上は、武門のために、武士総体のために、敢て各〻方にいう資格がある」

前髪の風采に似あわない雄弁だった。そしてその口吻こうふんといい、人を睥睨へいげいする眼まなこといい、飽くまで傲岸ごうがんそのものだった。

「――そこで、双方に問うが、もしここへ、板倉殿の手の者でも来て、巷ちまたを騒がす不逞ふていの狼藉ろうぜきと見なされ、始末書でも取られたら、双方ともよい恥さらしではあるまいか。役人の手をわずらわせば、この態ていは、ただの喧嘩沙汰としか扱われぬぞ。――場所もわるい――時もわるい――武士たる各〻が、社会の秩序をみだすような所業しょぎょうをなせば、武士総体の恥になる。わしは、武士を代表して双方にいう。止せ、ここでは止せ。剣のうえの解決は、剣の作法に従って、改めて時や場所を選んでなすべきではないか」

彼の演舌に圧倒されて、吉岡方の者はみな黙りこんでしまった形であった。御池十郎左衛門は、小次郎がいい終ると、その言葉じりをすぐ取って、

「よしっ」

と強くいった。

「いかにも、道理はその通りに違いない。――だが小次郎、必ずその他日まで、武蔵が逃げ失せぬという保証を貴公はするか」

「してもよいが」

「あいまいでは承諾できぬ」

「だが、武蔵も生き物だし」

「逃がす気だな」

「ばかをいえっ」

小次郎は叱咤して、

「左様な片手落ちをなせば、貴公らの遺恨はわしへかかるではないか。その程まで、この男を庇かばってやらなければならない友誼ゆうぎも理由もわしにはない。……だが武蔵とても、この期ごになってまさか逃げもすまい。もし、京都から姿を晦くらましたら、京都中に高札を建てて汚名を曝さらしてやればよかろう」

「いや、それだけでは、承知できぬ。――必ず、他日の果し合いまでおん身が武蔵の身を預かると保証するなら、一応、今夜のところは別れてもよいが」

「――待て、武蔵の腹を糺ただしてみるから」

小次郎はくるりと振向いた。さっきから、自分の背を射るように見ている武蔵のひとみを正面に睨ねめ返しながら、彼は、自分を押し出すように、ずっと胸を寄せて行った。

七

「…………」

「…………」

口のうごく前に双方の烈しい眼まなこであった。猛獣が猛獣を見た時のような沈黙であった。

このふたりは、先天的に合わない性格の持主とみえる。お互いが認めているものを、お互いに怖れ合っていた。若い自負心と自負心とが、触れるとすぐ摩擦まさつを起そうとするのであった。

で――それは、五条大橋の時もまた今も同じ心理が竦すくみ合いになりかけた。言葉を交わすまえに、眸と眸とが、もう小次郎の感情と、同時に武蔵の感情とを、完全にいい尽し、余すところなく無言の意思が闘っているのである。

――でも、一言はあった。

やがて小次郎の方からである。

「武蔵、どうだ」

「どうだとは」

「今、吉岡側のほうへ、わしが談合したような条件で」

「承知した」

「いいな」

「ただし、其許そこもとの条件には、異存がある」

「この小次郎に、身を預けるということの不満か」

「清十郎どの、ならびに伝七郎どのと、二度の試合にも、武蔵は、みじんも卑怯は致しておらぬ。なんで残余の遺弟たちに、かく名乗りかけられて、卑怯な背を見せようか」

「ウム、堂々たるものだ。その広言を、きっと聞き取っておこう。――然らば武蔵、望みの日取ひどりは」

「日も場所も、相手方の希望にまかせておく」

「それも潔いさぎよい。――して、今日以後、おぬしはどこに居所を決めておるか」

「さだまる住居すまいはない」

「住居がわからなくては、果し合いの牒状ちょうじょうが遣つかわせぬ」

「ここで、お決め下さらば、違約なくその時刻に、お出会い申す」

「ウム」

小次郎は頷うなずいて後へ退さがった。そして御池十郎左衛門や門下の者と、しばらく話し合っていたが、やがてまた一人離れて来て、武蔵へ、

「相手方は、明後日の朝――寅とらの下刻というが」

「心得申した」

「場所は、叡山道えいざんみち、一乗寺山のふもと、藪之郷やぶのごう下さがり松まつ。――あの下り松を出会いの場所とする」

「一乗寺村の下り松とな、よろしい、わかった」

「吉岡方、名目人は、清十郎、伝七郎の二人の叔父にあたる壬生みぶ源左衛門の一子、源次郎を立てる。源次郎は吉岡家の跡目相続人でもあれば、その者を立てるが、まだ年端としはもゆかぬ少年ゆえ、門弟何名かが、介添かいぞえとして立合いにつくということ……それも念のため申しておくぞ」

相互の約束を取り決めると、小次郎はそこの木挽小屋こびきごやの戸をたたき、中へはいって行って、戦おののいている二人の木挽に命じた。

「そこらに、なんぞ不用な板ぎれがあろう。高札に建てるのじゃ、程よくひいて、六尺ほどの棒杭ぼうぐいに打ちつけてくれい」

木挽が板をひいて出すと、小次郎は吉岡の者を走らせて、どこからか筆墨を取り寄せ、達筆を揮ふるって、それへ果し合いの主旨を書いた。

相互に神文しんもんを取交わすより、これを往来に建てることは、絶対な約束を天下へ公約することになる。

吉岡側の手で、それが最も人目につきやすい辻へ打ち建てられるのを見届けて、武蔵は他人事ひとごとのように、柳の馬場のほうへ足を早めて立ち去った。

八

ぽつねんと、柳の馬場に、武蔵が来るのを待っていた城太郎は、

「遅いなあ」

幾度いくたびか、嘆息ためいきして、広い闇を見まわしていた。

駕の灯あかりが駈けてゆく。

酔っぱらいの唄がよろけてゆく。

「――おそいぞ、ほんとに」

もしや? という不安が彼にもないではない。城太郎は突然、柳町のほうへ駈け出した。

すると、彼方かなたから、

「これ、どこへゆく」

「あ、お師匠さま、あまり遅いから見に行こうと思ったんです」

「そうか。あぶなく行き違うところだったな」

「総門の外に、吉岡の者が、沢山いたろ」

「いたよ」

「なにかしなかったか?」

「ああ何もしなかった」

「お師匠様を捕まえようとしなかったの」

「ウム、しなかった」

「そうかなあ」

城太郎は、武蔵の顔を覗き上げて、その顔いろを読むようにまた訊いた。

「じゃあ、なんでもなかったんだね」

「ウム」

「お師匠様、そっちじゃないよ。烏丸様へ行く道は、こっちへ曲るんだよ」

「あ、そうか」

「お師匠様も、早くお通さんに会いたいでしょう」

「会いたいなあ」

「お通さんも、きっと、びっくりするぜ」

「城太郎」

「なに」

「おまえとわしと、初めて会った木賃宿なあ。あれは、何町なにまちであったかのう?」

「北野のかい」

「そうそう、北野の裏町だったな」

「烏丸様のお館やかたは立派だぜ。あんな木賃宿みたいじゃないよ」

「ハハハハ、木賃宿とは、較べものにはなるまい」

「もう表門は閉まっているけれども、裏の下部門しもべもんをたたけば開けてくれるからね。お師匠様を連れて来たっていうと、きっと、光広様も出て来るかも知れないよ。それからねお師匠様、あの沢庵坊主ね、あいつ、とても意地わるだぜ。おいら癪しゃくにさわっちまった。お師匠様のことを、あんな者は抛ほッとけばいいんだっていうのさ。そして、お師匠様のいるところをちゃんと知っているくせに、なかなか教えてくれなかったんだぜ」

武蔵の無口を知りぬいているので、いくら武蔵が黙然と聞いていても、城太郎は独りで勝手にお饒舌しゃべりを休やめない。

やがて、烏丸家の下部門がそこに見えると、

「お師匠様あそこだよ」

指さして、ふいに立ち止まった武蔵の眼へ、教えるように、

「あの塀の上に、ぽっと明りが映さしてるだろ。あそこが北の屋おくで、ちょうど、お通さんが寝ている部屋があの辺なんだぜ。……あの灯りは、お通さんが起きて待っている灯りかも知れないね」

「…………」

「さ、お師匠様、はやくはいろう、今おいらが、門を叩いて門番さんを起すからね」

そこへ向って、駈け出そうとすると、武蔵は城太郎の手首をぐっと握って、

「まだ早い」

「どうしてさ、お師匠様」

「わしは、お館へははいらぬ。お通さんへは、おまえからようく言伝ことづてをしてもらいたい」

「え、なんだって。……じゃあお師匠様は、なにしにここまで来たのさ」

「おまえを送って来たまでだ」

九

ひそかに万一の変化をおそれて、敏感になっていた童心に、そのおそれていた予感が、ふいに事実となって、大きく映って見えたのであろう。

城太郎は、途端に、

「いけない、いけない」

絶叫に近い声を出し、

「だめだよ、お師匠様。――来なくっちゃだめだよ!」

武蔵の腕を懸命に引ッぱって、もうすぐそこの門の内にいるお通の枕元まで、どうしても連れて行こうとする。

「躁さわぐな」

武蔵は、夜気のうちにしんとしている烏丸家の邸内を憚はばかって、

「まあ、よう聞け。わしのいうことを」

「聞かない聞かない! お師匠様はさっき、おいらと一緒に行くといったじゃないか」

「だから、ここまで、おまえと共に来たではないか」

「門の前までといやしないじゃないか。おいらはお通さんに会うことをいってたんだ。お師匠様が弟子に嘘を教えていいのかい」

「城太郎、そう猛たけらずに、まあわしの言葉を落ちついて聞けよ。この武蔵にはまた、近いうちに、生死の知れぬ日が迫っておるのだ」

「侍はいつも、朝あしたに生れて夕べに死ぬる覚悟を勉強しているのだって、お師匠様は口癖にいってるじゃないか。それなら、そんなこと、今始まったことでもないだろ」

「そうだ、自分で常にいい馴れている言葉も、そうしてお前の口からいわれると、かえって教えられる気持がする。――今度という今度こそは、武蔵も覚悟のとおり、九死のうち一生も覚束おぼつかなかろう。それゆえ、なおさらお通さんには会わぬ方がよいのだ」

「なぜ。なぜ! お師匠様」

「それはお前に話してもわからぬ。お前も今に大きくなってみると分る」

「ほんとに……ほんとにお師匠様は、近いうちに、死ぬようなことがあるの」

「お通さんへはいうなよ。……病気なそうじゃが、体を堅固にして、ゆく末よい道を選んでたもれと……なあ城太郎……そうわしがいって行ったと申して、今のようなことは、聞かさぬがよいぞ」

「嫌だ。嫌だ。おいらはいうよ! そんなこと、お通さんに黙っていられるもんか。――なんでもいいからお師匠様、来ておくれよ」

「わからぬ奴!」

武蔵が振り離すと、

「でも! ……お師匠様」

城太郎は泣き出してしまい、

「でも! ……でも! ……それじゃあ、お通さんが、あんまり可哀そうだ……。お通さんに……今日のこと話したら、お通さんは、よけいに病気がわるくなっちまうにきまってら」

「――だからこういってくれ。所詮しょせん兵法修行のうちは、会うたとて、お互いの不為ふため。多艱たかんに克かち、忍苦を求め、自分を百難の谷そこへ捨ててみねば、その修行に光はついて来ないのだ。……なあ城太郎、お前もまた、その道を今に踏んで行かねば一人前の兵法者にはなれまいぞ」

「…………」

泣きじゃくっている城太郎の姿を見れば、武蔵はまた可憐いじらしくもなって、その頭をふところへ抱き寄せ、

「いつ果てるか知れないのが兵法者の常、おまえも、わしが亡い後は、よい師を捜せよ。お通さんにも、このまま会わぬ方が、行く末になってみれば、あの人の倖しあわせになり、武蔵の気持も、その時には、よく分ってくる筈だ。……おお、そこの塀の内に映さしている明りが、お通さんのいる部屋か。……お通さんも寂しかろ。さ、はやくおまえも戻って眠るがいい」

十

無茶はいうが、城太郎にも、武蔵の苦衷くちゅうの半分ぐらいは、なんとなく分っているらしいのである。泣きじゃくりながらも、拗すねた背中を向けているのは、一頃よりは物の理解が少しついてきた証拠で、お通さんには可哀そうだし、お師匠様にはこれ以上の無理もいえないし――と立ち往生している童心の嗚咽おえつが拗すねて見えるのだった。

「じゃあ、お師匠様」

手放しの泣き顔を、不意と、武蔵へ振向けると、最後の一縷るへ縋すがりつくように、

「――修行がすんだら、その時は、お通さんとも仲よく会うの。え、え。お師匠様の修行が、もうこれでいいと、いう時が来たら」

「それはもう、そうなればなあ……」

「それは何日いつ?」

「何日ともいえぬ」

「二年?」

「…………」

「三年?」

「修行の道には果てがない」

「じゃあ、一生涯もお通さんと会わないつもり」

「わしに天稟てんぴんがあれば、道に達する日もあろうが、わしに素質がなければ、生涯かかってもまだこのままの鈍物どんぶつでいるかも知れん。――それになによりは、目前に死を期していることがある。――死んで行く人間がなんで、これから花も咲こう実みも成ろうとする若い女子おなごと、ゆくすえの約束などを誓えよう」

武蔵が思わずその点まで口を辷すべらすと、城太郎には、そこの要点はまだよく理解し難がたいものと見え、すこし怪訝けげんそうに、

「だから、……お師匠様、そんな約束なんかしないことにして、ただお通さんと会えばいいじゃないか」

と、したり顔にいう。

武蔵は城太郎に対して、いえばいう程、自身のうちに矛盾むじゅんを感じ、迷いを覚えて、苦しくなった。

「そうはゆかないのだ。お通さんも若い女子、武蔵も若い男。しかも、おまえにいうのも恥ずかしいが、会えばわしはお通さんの涙に負けてしまう。きっと、お通さんの涙に今の堅い決心を崩されてしまう……」

柳生の庄で、お通の姿を見ながら逃げて去ったあの時の回避と――今夜の彼の気持とでは、同じ形にあらわれても、武蔵の心の内面には、大きな相違を自覚していた。

花田橋の時でも、柳生谷の時でも――以前はただ、青雲にあこがれる壮気と覇気――また潔癖に似た驀まっしぐらな道心が、火が水を弾はじくように、女性の情を反撥したに過ぎなかったが、今の武蔵には、元来の野性が、徐々と智育されてくるにつれて、そこから一面の弱さも当然に覚えて来つつあった。

またと生れ得ない世に生れてきた生命いのちの尊さを知っただけでも、それだけ恐こわさを知って来たのである。剣に生きる人間以外に、種々に生きる道を辿たどっている人生の視野を知っただけでも、それだけ、独りよがりの自負心を削そがれているのである。「女」というものについても武蔵は、その魅力を、吉野に見ているし、自分という実体の中からも多分に「女」に持つ人間のあらゆる惑情わくじょうを知りかけている――で今の武蔵は、その対象を恐れるよりも、自分の心を恐れるのだった。――殊にその対象の人がお通である場合において、彼には、それに克かてそうな自信もないし――また、彼女の一生というものを考えずに、彼女を考えることもできなかった。

しくしくと泣いている城太郎に、

(わかったか……)

と、武蔵のことばが耳のそばに聞えていたので、城太郎は肱ひじで顔を抑えていたが、ふとその泣き顔を上げると、もう彼の前には靄もやのこめた厚い闇しか見えなかった。

「――あッ、お師匠様っ」

ばたばたと城太郎は、長い築地ついじの角まで走って行った。

十一

大声あげて、城太郎は叫ぼうとしたが、叫んでも無駄なことが分っているので、彼は、わっと泣きながら、築地に顔を押し当てた。

「…………」

いいことと信じてやった幼い一心が、大人の思慮によって覆くつがえされると、それに服従はしても、理窟は分っても、口惜しくて口惜しくてたまらないらしいのである。

泣くだけ泣いて、声がつぶれると、肩で波打ちながら、まだしゃくりあげていた。

――と。

館やかたのお下婢すえの女ものでもあろうか、今、どこからともなく戻って来て、下部門しもべもんの外に佇たたずんだ人影がある。ふと、暗がりの嗚咽おえつが耳にふれたのであろう、被衣かずぎのひさしを向けて、弱々と近づいて来ながら――

「……城太さん?」

疑うように呼んだ。

「……城太さんじゃないの?」

ふた声目に、城太郎は、ぎょっとしたような顔を向け、

「あっ、お通さん?」

「まあ、なにを泣いているんです――そんなところで」

「お通さんこそ、病人のくせに、どうして外へなんか」

「どうしてって、おまえくらい人を心配させる者はない。わたしにも、お館やかたの人へも、なにもいわずに、いったい、今までどこを歩いていたんです……。灯あかりが点ついても帰って来ないし、御門が閉まっても姿が見えないし、どんなに心配したか知れません」

「じゃあ、おいらを捜しに出ていたの」

「もしやなにか、間違いでもあったのではないかと、寝ているにも寝ていられなくなって」

「ばかだなあ、病人のくせに。またこの後、熱が出たらどうするんだい。さあ、はやく寝床へ引っ込みなよ」

「それよりなんでお前は泣いていたの」

「後でいうよ」

「いいえ、凡事ただごとではないらしい。さ、事情わけをお話し」

「寝てから話すからさ、お通さんこそ、はやく寝てくれよ。明日あしたまた、うんうん唸っても、おいら知らないぜ」

「じゃあ、部屋へはいって寝ますから、ちょいとだけ話しておくれ。……おまえ沢庵たくあん様の後を追いかけて行ったのでしょう」

「ああ……」

「その沢庵様から、武蔵様のいらっしゃる所をきいておいた?」

「あんな情け知らずの坊さんは、おいら嫌いだ」

「じゃあ、武蔵様の居所いどころは、とうとう分らずじまいですか」

「ううん」

「分ったの」

「そんなこといいから、寝ようよ、寝ようよ。――後で話すからさ!」

「なぜ、わたしに隠すんですか。そんな意地悪をするなら、わたしは寝ずにここにいるからいい」

「……ちぇッ」

城太郎は、もいちど泣き直したいように、眉を顰しかめながら、お通の手を引っ張って、

「――この病人も、あのお師匠様も、どうしてそう、おいらを困らすんだろうなあ。……お通さんの頭にまた、冷たい手拭てぬぐいを当ててからでないと話せないことなんだよ。さ、おはいりよ! はいらなければ、おいらが担かついで行って寝床の中へ押しこむよ」

片手にお通の手をつかみ、片手で下部門の戸をどんどん叩きながら、癇癪かんしゃくまぎれに、城太郎は呶鳴った。

「門番さん! 門番さん! 病人が寝床から外へ抜け出しているじゃないか。――開けとくれよ。はやく開けないと病人が冷えちまうよ!」

明日待酒あすまちざけ

一

額ひたいに汗をにじませ、酒も少し手伝っているらしい顔色をして、本位田又八は、五条から三年坂へ傍見わきみもせず駈けて来た。

例の旅籠屋はたごやである。石ころの多い坂の途中から、汚い長屋門の下を駈けぬけ、畑の奥の離屋はなれまで来ると、

「おふくろ」

と、部屋のうちを覗のぞき、

「――なあんだ、また昼寝か」

と舌打ちして呟いた。

井戸端で一息つき、ついでに手足も洗って上がって来たが、老母はははまだ眼もさまさず、どこが鼻か唇くちかわからないほど、手枕に顔を押し潰つぶして鼾いびきをかいているので、

「……てえっ、まるで泥棒猫みたいに、暇さえあると、寝てばかりいやがる」

よく眠っていると思っていた老母ははは、その声にうす目をあいて、

「なんじゃあ?」

と起き上がってきた。

「おや、知ってたのか」

「親をつかまえて、なにをいうぞ。こうして、寝て置くのがわしの養生じゃ」

「養生はいいが、おれが少し落着いていると、若いくせに元気がないの、やれその暇に手懸りを探って来いのと、びしびし叱りつけながら、自分だけ昼寝しているのはなんぼ親でも勝手すぎようぜ」

「まあゆるせ、ずいぶん気だけは達者なつもりでも、体は年に勝てぬとみえる。――それにいつぞやの夜、おぬしと二人して、お通を討ち損そこねてから、ひどう落胆がっかりしてのう、あの晩、沢庵坊めにおさえられたこの腕の根が、いまだに痛んでならぬのじゃ」

「おれが元気になるかと思えば、おふくろが弱音を吐くし、おふくろが強くなるかと思えば、おれの根気がはぐれてしまうし、これじゃあ、いたちごッこだ」

「なんの、今日はわしも骨休めに一日寝ていたが、まだおぬしに弱音を聞かせるほど、年は老とらぬ。――して又八、なんぞ世間で、お通の行き先とか、武蔵の様子とか、耳よりな話は聞かなんだか」

「いやもう、聞くまいとしても、えらい噂だぞ。知らないのは、昼寝しているおふくろぐらいなものだろう」

「やっ、えらい噂とは」

お杉は膝をつき寄せて来て、

「なんじゃ? 又八」

「武蔵がまた、吉岡方と、三度目の試合をするというのだ」

「ほ、どこで何日いつ」

「遊廓くるわの総門前にその高札が建ててあったが、場所はただ一乗寺村とだけで、詳しくは書いてない。――日は明日あしたの夜明け方となっていた」

「……又八」

「なんだい」

「汝われは、その高札を、遊廓の総門のわきで見たのか」

「ウム、大変な人だかりさ」

「さては昼間から、そのような場所で、のめのめと遊んでいたのじゃろうが」

「と、とんでもねえ」

慌あわてて手を振りながら、

「それどころか、稀たまに酒ぐらい少し飲むが、おれは生れ代ったように、あれ以来、武蔵とお通の消息を探り歩いているじゃねえか。そうおふくろに邪推じゃすいされちゃ情けなくなる」

ふとお杉は、不愍ふびんを増して、

「又八、機嫌なおせ、今のは、ばばの冗談じゃ。汝われの心が定まって、元のような極道ごくどうもせぬことは、ようこの老母ははも見ているわいの。――したがさて、武蔵と吉岡の衆との果し合いが明日の夜明けとは急なことじゃな」

「寅とらの下刻というから、夜明けもまだ薄暗いうちだなあ」

「おぬし、吉岡の門人衆のうちに、知っている者があるといったの」

「ないこともないが……そうかといって、あまりいいことで知られているわけでもねえからなあ、なにか、用かい」

「わしを伴つれて、その吉岡の四条道場とやらへ案内してほしい。――直ぐにじゃ、汝われも支度したがよい」

二

年寄りのせっかちというものはひどく勝手である。悠々閑と、今まで昼寝していた自分のことは棚へあげ、

「又八、早うせんか」

と、人の落ちつきに、眉をしかめて、当って来る。

又八は、身支度もせず、けろりとして、

「なんだい慌あわてて、軒に火でもついたように、――第一、吉岡道場へ行って、いったいどうするつもりなのだ、おふくろの量見は」

「知れたこと、母子おやこして、お願いしてみるのじゃわ」

「なにを……」

「明日あすの夜明け、吉岡の門弟衆が武蔵を討つというたであろが、その果し合いの人数のうちへ、わしら母子おやこも加えていただき、及ばずながら力を協あわせて、武蔵めに、一太刀なりと、恨まにゃならぬ」

「アハハハ、アハハハ、……冗談じゃねえぞ、おふくろ」

「なにを笑うぞ」

「あまり暢気のんきなことをいってるからよ」

「それは、汝われのことじゃ」

「おれが暢気か、おふくろが暢気か、まア街へ出て、世間の噂をちっと聞いて来るがいい。――吉岡方は、先に清十郎を敗やぶられ、伝七郎を討たれ、今度という今度こそは、最後の弔とむらい合戦だ。破れかぶれも手伝って、血の逆あがった連中ばかりが、もう滅亡したも同様な四条道場に首をあつめ、この上は、多少の外聞にかかわろうとも、なんでも武蔵を打ち殺してしまえ、師匠の讐かたきを弟子が打つ分には、敢て、尋常な手段や作法にこだわっている必要はない――と公然、今度こそは大勢しても武蔵を討つと、言明しているのだ」

「ホウ……そうか」

聞くだけでも耳が娯たのしむように、お杉は眼をほそめて、

「それでは、いかな武蔵めも、こんどはなぶり斬りに遭あうじゃろう」

「いや、そこはどうなるか分らない。多分、武蔵の方でも、助太刀を狩りあつめ、古岡方が大勢ならば、彼も多勢で迎えるだろうし、さてそうなれば喧嘩は本物、戦いくさのような騒ぎになるのじゃないかときょうの京都みやこは、その噂で持ちきりなのだ。――そんな騒動の中へ、ヨボヨボなおふくろが助太刀にまいりましたなどと行って見たところで、誰も相手にするものか」

「ウーム……それやそうじゃろが、じゃといって、わしら母子おやこが、これまで尾つけ狙うてきた武蔵が、他人の手で討たれるのを、黙って見ていてよいものか」

「だから、俺はこう思うんだ。あしたの夜明けごろまでに一乗寺村まで行っていれば、果し合いのある場所も、その様子もきっと分る。――そこで、武蔵が吉岡の者に討たれたら、その場へ行って、母子おやこして両手をつき、武蔵とおれ達のいきさつを詳しく述べて、死骸に一太刀恨ませてもらう。その上、武蔵の髪の毛なり、片袖なりを貰って、かくの通り、武蔵を討ち取ったと故郷の衆に話せば、それでおれ達の顔は立つじゃねえか」

「なるほど……。汝われの考えも智慧らしいが、そうするより他ほかはあるまいの」

坐り直してお杉はまた、

「そうじゃ、それでも故郷くにへの面目は立つわけじゃ。……後はお通ひとり、武蔵さえ亡なければ、お通は木から落ちた猿も同様、見つけ次第、成敗するに手間暇はかからぬ」

独り言に、うなずいて、やっと年寄りのせっかちも、そこで落ちつくところに落ちついたらしい。

又八は、醒めた酒を思い出したように、

「さあ、そうきめたら、今夜の丑満うしみつごろまでは、ゆっくり骨を休めておかなけれやならねえ。……おふくろ、少し早いが、晩飯の一本を、今から酌つけて貰おうか」

「酒か。……ム、帳場へいうて来やい。前祝いに、わしも少し飲もう程に」

「どれ……」

と、億劫おっくうそうに、手を膝にかけて起ちかけたと思うと、又八は、なにを見たのか、あっと横の小窓へ大きな眼をみはった。

三

ちらと、白い顔が窓の外に見えたのであった。又八がびっくりしたのは、単にそれが若い女であったというだけではない。

「やっ、朱実あけみじゃねえか」

彼は窓へ駈けよった。

逃げそびれた小猫のように、朱実は木蔭に立ち竦すくんでいた。

「……まあ又八さんだったの」

彼女もびっくりしたような眼をそこにみはって。

そして、伊吹山のころから今もまだ、帯か袂たもとか、どこかに付けているらしい鈴が、顫ふるえるように彼女の身動きとともに鳴った。

「どうしたのだ、こんなところへ、どうして不意に来たのか」

「……でも、わたしここの旅籠はたごに、もうずっと前から泊っていたんですもの」

「ふウム……、そいつあちっとも知らなかった。じゃあ、お甲と一緒にか」

「いいえ」

「一人で?」

「ええ」

「お甲とはもう一緒にいないのか」

「祇園ぎおん藤次を知っているでしょう」

「ウム」

「藤次とふたりで、去年の暮、世帯をたたんで他国へ逐電ちくてんしてしまったんです。わたしはその前からお養母っかさんとは別れて……」

鈴の音がかすかに顫ふるえて鳴る。見れば袂たもとを顔に押し当てて、朱実はいつの間にか泣いているのだった。木蔭の光線の青いせいか、それの襟えりあしといい細い手といい、又八の記憶にある朱実とはひどく違って来たように思われる。伊吹山の家や、よもぎの寮で、朝夕見ていたような処女おとめの艶つやはどこにもない。

「――誰じゃあ? 又八」

と、うしろでお杉がいぶかって訊ねた。

又八は振顧ふりかえって、

「おふくろにも、いつか話したことがあるだろう。あの……お甲の養女むすめさ」

「その養女むすめが、なんでわしらの話を窓の外で立ち聞きなどしていたのじゃ」

「なにもそう悪く取らなくてもいいやな。この旅籠はたごに泊り合せていたのだから、何気なく立ち寄ってみたまでのことだろう。……なあ朱実」

「え、そうなんです。まさか、ここに又八さんがいようなんて、夢にもあたし知らなかった。……ただ、いつぞや、ここへ迷はぐれて来た時に、お通という人は見かけたけれど」

「お通はもういない。おめえ、お通となにか話したのか」

「なにも深い話はしなかったけれど、後で思い出しました。――あの人が、又八さんをお故郷くにで待っていた許嫁いいなずけのお通さんなのでしょう」

「……ム、まあ、以前は、そんなわけでもあったんだが」

「又八さんもお養母っかさんのために……」

「おめえはその後、まだ、独り身かい。だいぶ様子が変ったが」

「わたしも、あのお養母っかさんのためには、ずいぶん辛い思いを忍んで来ました。それでも育ててもらった恩義があるので、じっと辛抱して来たんですけれど、去年の暮、我慢のならないことがあって、住吉へ遊びに行った出先から、独りで逃げてしまったんですの」

「あのお甲には、おれもおめえも、これからという若い出ばなを滅茶滅茶にされたようなものだ……。畜生め、その代りにゃあ今に、碌ろくな死にざまはしやしねえから見ているがいい」

「……でも、これから先、あたしどうしたらいいのかしら?」

「おれだって、これから先の道は真っ暗だ……。あいつにいった意地もあるから、どうかして、見返してやりてえと思っているが……。あアあ……思うばかりで」

窓越しに、同じ運命を託かこち合っていると、お杉はさっきから一人で旅包みを拵こしらえていたが、舌うちして、

「又八、又八。用でもない人間と、なにをぶつぶついうているのじゃ。こよい限りでこの旅籠はたごも立つのじゃないか、汝わが身も少し手伝うて身仕舞でもしておかぬか」

四

なにかまだ話したそうな様子であったが、お杉に気がねして、朱実は、

「じゃあ又八さん、後でまた」

悄々しおしおと、立ち去った。

程なく――

ここの離屋はなれには灯あかりが点ともる。

夜食の膳には、眺あつらえた酒がつき、酌くみ交わしている母子おやこの間へ、勘定書が盆に載っている。旅籠の手代だの、亭主だの、かわるがわる別れの挨拶に来て、

「いよいよ今夜のお立ちだそうでございますなあ。長いご逗留にも、なんのおかまいも申しあげませんで。……どうぞこれにお懲こりなく、また京都みやこへお越しの折にはぜひとも」

「はい、はい。またお世話になろうも知れませぬ。年暮くれから初春はるを越して、思わず三月越みつきごしになりましたのう」

「なんだかこう、お名残り惜しゅうございますな」

「ご亭主、お別れじゃ、一盞ひとつあげましょう」

「おそれいりまする。……ところでご隠居様、これからお故郷元くにもとへお帰りで?」

「いえいえ、まだ故郷くにへは何日いつ帰れることやら」

「夜中に、お立ちだと伺いましたが、どうしてまたそんな時刻に」

「急にちと大事が起りましてのう。……そうじゃ、お宅に、一乗寺村の割絵図わりえずがあるまいか」

「一乗寺村といえば、白河からまだずんと端はずれで、もう叡山えいざんに近い淋しい山里。あんな所へ、夜明け前にお出いでなされても……」

亭主のいう腰を折って、又八が横から、

「なんでもよいから、その一乗寺村へ行く道筋を、巻紙の端にでも書いておいておくれ」

「承知いたしました。ちょうど一乗寺村から来ている雇人やといにんがおりますゆえ、それに聞いて分りよく絵図にして参りましょう。したが、一乗寺村というても広うござりまするが」

又八は少し酔っていた。やたらに鄭重ていちょう振る亭主の話がうるさそうに、

「行く先のことなんざ心配しなくともいい。道順だけ訊いているのだ」

「おそれ入りました。――では、悠々ゆるゆる、お支度を遊ばして」

揉手もみでしながら、亭主は縁へ退さがりかけた。

ばたばたと、母屋おもやから離屋はなれの周まわりを、そのとき、旅籠はたごの雇人たちが三、四名駈けていた。亭主のすがたをここに見ると、一人の番頭が、あわてていった。

「旦那、この辺へ逃げて来ませんでしたか」

「なんじゃ。……なにが?」

「あの――この間から奥に一人で泊っていた娘っ子で」

「えっ、逃げたって」

「夕方までは、たしかに、姿が見えたんですが……どうも部屋の様子が」

「いないのか」

「へい」

「阿呆どもが」

煮え湯を飲んだように亭主の顔は変った。客の部屋の閾際しきいぎわで揉手もみでをしている時とは別人のように口汚く、

「逃げられてから騒いだとて、後の祭りじゃ。――あの娘の様子といい、初手から事情わけのあるのは知れきっている。――それを七日も八日も泊めてから、お前らは初めて一文なしと気がついたのであろが。――そんなことで、宿屋商売が立ってゆかれるか」

「相済みません。つい、処女おぼこな娘と思って――まったく一杯食ってしまったんで」

「帳場の立て替えや、旅籠代はたごだいの倒れは仕方がないが、なにか、相宿のお客様の物でも紛失していないか、それを先に調べて来なさい。エエ忌々いまいましいやつめ」

舌打ちして、亭主も戸外そとの闇へ、眼いろを研といだ。

五

夜半よなかを待ちながら、母子おやこはなんべんか銚子を代えた。

お杉は、自分だけ先に、飯茶碗をとって、

「又八、おぬしも、もう酒はよくはないか」

「これだけ」

と、手酌てじゃくで酌ついで――

「飯はたくさんだ」

「湯漬けでも食べておかぬと、体にわるいぞよ」

前の畑や、路地口を、雇人の提燈ちょうちんがしきりと出入りしていた。お杉はそこから見て、

「まだ捕まらぬとみえる」

と、つぶやいた。そして、

「関かかり合いになってはつまらぬゆえ、亭主の前では黙っていたが、旅籠代を払わずに逃げた娘というのは、昼間、汝われと窓口で話していたあの朱実じゃないのか」

「そうかもしれねえ」

「お甲に育てられた養女むすめでは、碌ろくな者であろうはずはないが、あのようなものと出会うても、この後ごは口など交わしなさるなよ」

「……だがあの女も、考えれば、可哀そうなものさ」

「他人ひとに不愍ふびんをかけるもよいが、旅籠代はたごだいの尻ぬぐいなどさせられては堪らぬ。ここを発たつまで、知らぬ顔していやい」

「…………」

又八は、べつなことを考え出しているらしく、髪の根をつかみながら、横になって、

「忌々いまいましい阿女あまだなあ。思い出すと、彼女あいつの面つらが天井に見えてくる。……おれを過あやまらした生涯の仇は、武蔵でもねえ、お通でもねえ、あのお甲だ」

お杉は聞き咎めて、

「なにをいうぞ。お甲などという女を討ったところで、故郷くこの衆が、誉ほめもせぬし、家名の面目も立ちはせぬがな」

「……ああ、世の中が面倒くさくなった」

旅籠はたごの亭主が、その時、縁先から提燈と顔を見せていった。

「ご隠居さま。ちょうど丑うしの刻が鳴りましたが」

「どれ……発たちましょうか」

「もう出かけるのか」

又八は、伸びをして、

「亭主、さっきの食い逃げ娘は、捕まったかい」

「いや、あれ限ぎりでございますよ。縹緻きりょうが踏めるので、万一、旅籠代や立て替えが取れなくても、住み込ませる口はあると安心していたところ、先手を打たれてしまいましたわい」

縁先へ出て、草鞋わらじの緒をしめながら、又八は振返った。

「オイ、おふくろ、なにをしているんだい? ……。おれを急せきたてておいては何日いつも自分がまごまごしていやがる」

「まあ待たぬかい、気忙きぜわしない。……のう又八、あれは汝わが身に預けたであろうか」

「なにを」

「この旅包みの側へおいたわしの巾着きんちゃくじゃ。――宿の払いは、胴巻のお金で払い、当座の路銀をその巾着に入れておいたのじゃが」

「そんな物、おれは知らねえよ」

「ヤ、又八、来てみやい。この旅包みに、又八様として、なにやら紙きれが結ゆいつけてあるぞ。……なんじゃと? ……まアいけ図々しやな、元の御縁に免じて、拝借してゆく罪をゆるしてくれと書いてあるわ」

「ふウん……じゃあ朱実が攫さらって行ったのだろう」

「盗んで、罪をゆるしてくれもないものじゃ。……これ御亭主、客の盗難は、宿主やどぬしも責めを負わずばなりますまい。なんとして下さるのじゃ」

「へえ……それではご隠居様には、あの食い逃げ娘を、前からご存じでございましたので。――ならば、手前どもで踏み倒された勘定や立て替えのほうを先に、なんとかしていただきたいものでございますが」

亭主がいうと、お杉は、眼を白黒しながら、あわてて顔を横に振った。

「な、なにを仰っしゃる、あんな盗ぬすッ人と娘に知る辺べはない。ささ、又八、まごまごしていると鶏が啼きだすぞ、出ましょうわい、出ましょうわい」

必殺ひっさつの地ち

一

――まだ月がある。

朝といっても恐ろしく早いのだ。自分たちの影法師が白い道の上に、黒々と重なって動くのが、なんだか不思議に見える。

「案外だなあ」

「ウム、だいぶ見えない顔がある。百四、五十人は集まると思っていたが」

「この分では、半分かな」

「やがて後から見える壬生みぶ源左衛門殿や、御子息や、あの親類がたを入れて、まあ六、七十人だろうな」

「吉岡家も廃すたったなあ。やはり清十郎様、伝七郎様の二つの柱がもう抜けてしまったのだ。大廈たいかの覆くつがえるとはこのことか」

影法師の一かたまりが囁ささやいていると、彼方かなたの石垣の崩くずれに腰かけている一群ぐんが、

「気の弱いことをいうな。盛衰はこの世の常だ」

と、誰か呶鳴るようにこっちへ向っていう。また、べつな一団が、

「来ない奴は来ないにしておけばいいじゃないか。道場を閉じたからには、めいめい自活の道を考える奴もあろう。将来の損得を思慮する人間もあるだろう。当り前なことだ。――その中で、あくまで、意地と義気に生きようとする遺弟だけがここにおのずと集まるのだ」

「百の二百のという人数はかえって邪魔になる。討つべき相手はたった一人ではないか」

「アハハハ。誰かまた、強がっているわい。蓮華王院の時はどうした。そこにいる連中、あの折、居合せながら、みすみす武蔵の姿を見送っていたのじゃないか」

叡山えいざん、一乗寺山、如意ヶ岳、すぐ背後うしろの山は皆、まだ動かない雲の懐ふところに深く眠っている。

ここは俗称藪之郷やぶのごう下さがり松まつ、一乗寺址あとの田舎道と山道の追分で、辻は三つ股またにわかれている。

朝の月を貫いてひょろ長い一本松が傘枝かさえだをひろげていた。一乗寺山の裾野地ともいえる山の真下なので、道はすべて傾斜している上に石ころが多く、雨降りの時は流れになる水のない河の跡が幾すじも露出している。

下り松を中心に、吉岡道場の面々は、月夜蟹つきよがにのようにさっきからその辺りを占めて、

「この街道が三つに分れているので、武蔵がどこから来るかそれが考えものだ。同勢をすべて三手に分けて、途中に伏せ、下り松には名目人の源次郎様に、壬生みぶの源左どの、その他ほか、旗本格として御池十郎左、植田良平殿など、古参方が十名ほどひかえておられたらよろしかろう」

地形を案じていう者があると、また一人が、

「いや、ここの足場は狭隘きょうあいだから、あまり一ヵ所に人数をかためておいてはかえって不利だろう。それよりも、もっと距離をおいて、武蔵の通り道にかくれ、いちど、武蔵の姿をやり過してから、前と背うしろと、いちどに起って、ふくろ包みにすれば万ばん討ちもらすことはあるまい」

と、一説を立てる。

人数の多数からおのずとわきあがる意気は天をも衝くように見えた。離れたり集まったりする影法師には皆、長やかな刀の鐺こじりか、横たえている槍の影が串刺くしざしになっていた。そしてその中には、一人の卑怯者らしいものもなかった。

「――来た、来た」

まだ十分に時刻は早いと分っていながら、彼方あなたから一人が叫んで来ると、すぐに、ぎくっと肌のうぶ毛が凍るような心地して、影法師は皆しいんと黙りこくった。

「源次郎様だ」

「駕でござったな」

「なんといっても、まだお年若としわかだからな」

人々の眼の向いた方に――遠く提燈ちょうちんの灯が三つ四つ――その提燈よりも明るい月の下を叡山颪えいざんおろしに吹かれながら、ちらちら近づいて来るのが見えた。

二

「やあ、揃ったな、各〻」

駕を捨てたのは老人だった。次の駕からまだ十三、四歳の少年が降りた。

少年も老人も、白鉢巻をして、高く股立ももだちをかかげていた。壬生みぶの源左衛門父子おやこである。

「これ、源次郎」

老人は、子へいい聞かせた。

「そちはこの下り松のところに立っておればよい。松の根元から動くでないぞ」

源次郎は黙ってうなずいた。

その頭つむりを撫でながら、

「きょうの果し合いは、そちが名目人になっているが、戦いは、他の門弟衆がやる。おまえはまだ幼いからじっとここに控えていればよいのじゃ」

源次郎はこっくりして、正直にすぐ松の根元へ行き、五月人形のように凛々りりしく立った。

「まだよい、まだちと早い、夜明けまでにはだいぶ間があるでな」

腰を探って、がん首の大きな太閤張たいこうばりの煙管きせるを抜き、

「火はないか」

と、まず味方に余裕のあるところを示すつもりで見まわすと、

「壬生みぶの御老台、火打石はいくらもあるが、その前に、人数を手分けしておいてはどうか」

御池十郎左衛門が前へ出ていう。

「それも一理あるな」

たとえ血脈の間がらとはいえ、幼少の子を果し合いの名目人に提供して惜しまないほどの好々爺こうこうやである。一も二もなく他説に従って、

「――では早速、備え立てして敵を待とう。しかし、この人数をどう分けるというのか」

「この下り松を中心とし、三方の街道へ、各〻約二十間ばかりの距離をおいて、道の両側に潜ひそんでいることとする」

「して、ここには」

「源次郎様のそばには、拙者、また御老台、その他十名ほどの者がいて、護るばかりでなく、三道のどこからか、武蔵が来たとの合図が起ったら、すぐそれへ合体して一挙に彼を葬ほうむってしまう」

「待たっしゃい」

老人らしく、熟じっくり考えこんで、

「――幾ヵ所にも分割してしまうことになるなら、武蔵が、どの道から来るかわからぬが、真っ先に彼へぶつかる人数は、およそ二十名ぐらいにしか当るまい」

「それだけが、一斉に取り巻いているうちには」

「いや、そうでないぞ。武蔵にも、何名かの加勢がついて来るにきまっている。それのみでなく、いつぞやの雪の夜、伝七郎との勝負の果てに、あの蓮華王院での退きようを見ても、武蔵という奴、剣も鋭いかしらんが、退ひきも上手じゃ。いわゆる逃げ上手という兵法を知った奴じゃ。だから、手薄なところで、素ばやく三、四名に傷てを負わせ、さっと引き揚げて――後に一乗寺址あとにおいては、吉岡の遺弟七十余名を相手に、われ一人にて勝ったりと、世間へいい触らすかもわからぬて」

「いや、そうはいわさぬ」

「――というたところで後となれば水掛論みずかけろん。武蔵の方に、何名助太刀がついて来ても、世間は彼の名の一つしかいわぬ。その一人の名と大勢の名とでは、世間は相違なく、大勢らしい方を憎む」

「わかり申した。つまり今度という今度こそは、断じて、武蔵を生かして逃がすようなことがあってはならぬということでしょう」

「そうじゃ」

「仰っしゃるまでもなく、万が一にも、ふたたび武蔵を逃がすような失策を生じたら、後でどう弁解しても、われわれの汚名はもう拭ぬぐわれますまい。ですから今暁は、ただ一つに彼奴きゃつを討ち殺すのを目的とし、そのためには、手段も選ばない所存でござる。死人に口なし、殺してさえしまえば、世間はわれわれの宣のぶる言を信じて聞くしかないのですから」

御池十郎左衛門はそういって、辺りに群れを作っている人々のうちを見廻して、四、五人の名を呼びあげた。

三

半弓を携たずさえた門人が三名、鉄砲を持った門人が一名、

「お呼びですか」

と、前へ進んだ。

御池十郎左衛門は、

「ウム」

と頷うなずいたのみで、源左老人へ向っていった。

「御老台、実は、こういう用意までいたしているのでござる。もう御懸念は去りましたろう」

「ヤ、飛び道具」

「どこか、小高い場所か、樹の上に伏せておいて」

「醜い仕方と、世間の評がうるさくはないか」

「世評よりは武蔵を斃たおすことが第一だ。勝ちさえすれば世評も作れる。敗れたら真実をいっても、世間は泣き言としか聞いてくれまい」

「よし、そこまで、腹をすえてやる儀なら、異存はない。たとえ武蔵に、五人や六人の加勢がついて来ても、飛び道具があればよも討ち洩らしもいたすまい。……では評議に手間取っているうちに、不意を衝かれてもなるまいぞ。采配はまかせる。すぐ配備配備」

老人が、合点すると、

「では、潜ひそめ」

一同の頭の上へ、十郎左衛門が叱咤しったをながした。

三方の街道は、敵の出ばなを挫くじき、同時に、前後を挟撃するという戦法のもとにかくれている前衛であり、下り松は、本陣という形でここには十名ほどの中堅が残る。

蘆間あしまの雁かりのように、黒い影法師は駈け別れ、藪やぶに沈み、樹蔭に隠れ、田の畦あぜに腹這いになった。

また、その辺りの地を相そうして、高い樹の上に、半弓を負ってスルスルと登って行った影法師もある。

鉄砲を持った男は、下り松の梢こずえによじ登り、月明りを気にしながら、自分の影をかくすのに苦心をしていた。

枯れ松葉や木の皮が、ぱらぱらこぼれて来た。下に立っていた飾り人形のような源次郎少年は、襟えりくびへ手をやりながら身ぶるいをした。

見咎みとがめた源左老人が、

「なんじゃ、顫ふるえているのか。臆病者めが」

「背中へ松葉がはいったんです。なんにも怖くなどありません」

「それならよいが、おぬしにもよい経験というものだ。やがて斬合が始まるから、よく見ておくのだぞ」

すると、三方道のいちばん東にあたる修学院道の方で、突然、

(馬鹿ッ!)

と、大きな声が聞え、ざざざッ――とその辺の藪やぶが鳴り騒いだ。

潜ひそんでいた人間のうごきが方々でいるところを明らかにした。飾り人形の源次郎は、

「恐こわいッ」

と、口走って、源左老人の腰へしがみついた。

「来たのだ!」

御池十郎左衛門はすぐ気配の立ったほうへ向って駈け出した。――しかし駈けてゆくうちに、変だな? という気持がした。

案の定、待ち設けていた敵ではなかったのである。いつぞや六条柳町の総門の前で、双方のあいだに立って口をきいたあの前髪若衆、佐々木小次郎がそこに突っ立って、

「眼はないのか、戦う前から眼が上がっていられるな。わしを武蔵と間違えて突ッかかるような浮き腰では心ぼそい。わしは、今朝の試合の見届け人として来たのだ。立会人へ、藪から棒に――いや藪から槍を突きつける馬鹿者があるか」

と、例の大人びた高慢顔で、そこらの吉岡門人を叱りつけているのだった。

四

しかし、此方こっちも気の立っている折ではあるし、小次郎のそうした態度に、不審を抱く者もあって、

(こいつ、臭いぞ)

(武蔵に助太刀を頼まれて、先に様子を見に来たのかも知れぬ)

吉岡方の者は囁ささやいて、手出しは一応控えたものの、彼のまわりを解こうとはしないのであった。

そこへ十郎左衛門が駈けつけて来たので、小次郎のひとみはすぐ衆を捨てて、割り込んで来た十郎左衛門へ喰ってかかり、

「立会人として今暁これまでまいったるに、吉岡衆はわしをも敵と見てかかった。これはそもそも貴所のお指図でありまするか。しかるとせば、不肖ながら、佐々木小次郎も、久しく伝家の物干竿ものほしざおに生血の磨とぎを怠っていたところで――勿怪もっけの倖しあわせといいたいのだ。武蔵に助太刀する縁故はさらにないが、自分の面目上、相手となっても差しつかえないが。ご返答を聞こう!」

威猛高いたけだかな獅子吼ししくである。

こうした高飛車な物腰は、なんぞというと、この小次郎の常套的じょうとうてきな態度であるが、その姿や前髪の優しげなところだけ見ていた者は、ちょっと、度胆を抜かれてしまう。

――だが、御池十郎左衛門は、その手は喰わないという顔つきで、

「ハハハハ、これはひどいご立腹だな。しかし、今暁の試合に、貴公を立会人として、誰が頼んだか。――当吉岡一門の者としては依頼した覚えがないが、それとも武蔵からお頼みをうけて来られたか」

「だまんなさい。いつぞや六条の往来に、高札を立てた折、確しかと、わしから双方へいいおいた」

「なるほど、あの時貴公はいった。――自分が立会人に立つとか立たぬとか。――だがその折、武蔵も貴公に頼むとはいわなかったし、当方でもお願い申すといったつもりはない。要するに、貴公一人が事好みに、出る幕でもない幕へ、独りで役を買って出たのでござろう。そういうおせッ介者かいものは世間によくあるものだて」

「いうたな」

小次郎の激発は、もう虚勢ではなかった。

「――帰れっ」

十郎左衛門はさらにいって、

「見世物ではないっ」

と、唾つばするように苦りきった。

「……ウム」

息を引くように、青ざめた面おもてをうなずかせて、小次郎はすぐ身を翻ひるがえした。

「――見ておれ、うぬら」

彼が元の道のほうへ駈け出して行こうとすると、ちょうどそのとき、十郎左衛門より一足遅れてここへ来た壬生みぶの源左老人が、

「お若いの、小次郎殿とやら、待ちなされ」

と、あわてて後ろから呼び止めた。

「わしに、用はあるまい。いまの一言、後で眼にもの見せてくれるから待っておれ」

「まあ、そういわないで、しばらく、しばらく」

老人はそういって、息巻きながら立ち去ろうとしかけた小次郎の前に廻って、

「此方このほうは、清十郎の叔父にあたる者でござる。おてまえ様の儀は、かねて、清十郎からも、頼母しき御仁ごじんなりと承っておりました。どういう行き違いか、門弟どもの卒爾そつじは、この老人に免じて勘弁して下さるよう」

「そうご挨拶をされると恐縮します。四条道場には、以前、清十郎殿との好誼よしみもあるので、助太刀とまでは行かずとも、十分好意をもっているつもりなのに……余りといえば、雑言を吐くので」

「ご尤もっともじゃ、ご立腹は尤もじゃ。したが、唯今のことは、まあお聞き流しの上、どうぞ、清十郎、伝七郎ふたりのために、何分、ご加担をおねがい申す」

如才なく、源左老人は、この精悍せいかんな慢心青年を、いい気持にさせて、宥なだめぬいた。

五

これだけの備えがある以上、小次郎一人の助太刀など頼るにも当らない。けれど、この若者の口から自分たちの卑怯な戦法が吹聴ふいちょうされてはと、それを源左老人はおそれたにちがいない。

「なにとぞ、水に流して」

と、懇ねんごろな謝りように、小次郎は前の怒りようとは、打って変って、

「いや御老人、そう年上のあなたから何遍も頭を下げられると、若輩の小次郎はどうしてよいか分らなくなる。まずお手を上げてくだされい」

案外、あっさり機嫌を直して――それと共に、吉岡方の者へ、例の流暢りゅうちょうな弁舌で、こう激励の辞を述べ、そして、武蔵のことを、口を極めて罵ののしり出した。

「わしは元より、清十郎殿とはご懇意だったし、武蔵には、さっきもいうた通り、なんの由縁ゆかりもない人間です。――さすれば人情としても、知らぬ武蔵よりは、御縁故のある吉岡衆に勝たせたいと思うのが当然でござろう。――しかるになんたる不覚です、二度までの敗北とは。四条道場は離散、吉岡家は瓦滅がめつ。……ああ、見てはいられません。古来、兵家の試合多しといえども、こんな悲惨事は見たことも聞いたこともない。――室町家御指南役ともあろう大家が、名もなき一介の田舎いなか剣士のために、かかる悲運に立ち至ろうとはです」

小次郎は耳を紅くしているかと思われるような語気で演舌するのだった。源左老人を始め皆彼の熱力のある舌に魅せられて黙ってしまった。そして、これほど好意を持たれている小次郎に対してなんであんな暴言を吐いたかと、十郎左衛門などはありあり悔いている顔つきであった。

そういう空気を見わたすと、小次郎はわが独壇場のように、いよいよ舌に熱を加えて、

「わしも将来は、兵法をもって一家を成そうとする者なので、単なる好奇心からではなく、努めて試合、真剣勝負などの際は弥次馬に交じって出かけます。傍観者となっているのもよい勉強になるからでござる。――けれどおよそ今日まで、貴所方きしょがたと武蔵との試合ほど傍はたで見ていて焦々いらいらするものはなかった。――蓮華王院の時でも、また蓮台寺野でも、お付添もいたろうに、なぜ武蔵を無事に逃がしたのでござるか。師を討たれながら、武蔵をして、洛内らくないを横行させて、だまっておられる各〻の気もちがわしには分りません」

乾いた唇くちを舐なめてさらに、

「なるほど、渡り者の兵法者としては、武蔵はたしかに強い、驚くべき烈しい男にはちがいない。それはこの小次郎も、一、二度出会ってよく分っておる。――で実は、よけいなおせっかいに似たことだが、いったい彼奴きゃつの素姓生国はどういう者かと、先頃来、いろいろ調べてみたのです。もっとも、それには実は、彼を十七歳の頃から知っている或る女に出会ったのが、手がかりの緒口いとぐちとなったのですが」

――と、朱実の名は隠して、

「その女から訊き、また諸方いろいろ詮索せんさくしてみたところ、彼奴きゃつの生おい立たちは、作州の郷士の小せがれで、関ヶ原の役から帰国後、村で乱暴を働き、遂に国元を追われて諸方を流浪してきたという、取るに足らない人物なのです。けれど、あの剣は、天性とでもいうか、野獣の強さとでもいうか、そういう命知らずなので、無茶に道理が負ける喩たとえで、かえって、正法の剣が不覚をとるものとわしは思う。――故にです。武蔵を討つのに、尋常にかかっては敗れる、猛獣は罠わなに穽おとして獲とるしかないように、奇策を用いねばまたいたされますぞ。その辺のこと、十分、敵を観みてお考えなされておるかの」

源左老人が、好意を謝して、そこに抜かりのないことを説明すると、小次郎はうなずいて、なおいった。

「そこまで行き届いておれば万が一にも、討ち洩らしはあるまいが、まだ念のために、もう一度、突っ込んだ策があってもいいと思う」

六

「――策?」

と源左老人は、小次郎の賢さかしらな顔つきを見直して、

「なんの、これ以上、策も備えも要いりませぬ。ご好意はありがたいが」

いうと、小次郎はやや執しつこい。

「いやそうでないぞ御老人、武蔵がのめのめと、ここまで正直にやって参れば、それは各〻の術中にかかったも同様、もはや遁のがれる術すべはなかろうが、万一、ここにかような備えがあることを未然に知って、道を交わしてしまったらそれまでではありませぬか」

「そしたら、笑うてくれるまでのこと――。京の辻々へ、武蔵逃亡と、高札に掲げて、天下へ笑い者にしてやるわさ」

「貴所方の名分は、なるほど、それでも半分は立つだろうが、武蔵もまた、世間へ出て、各〻の卑劣を誇張して訴えましょう。さすれば、それで師の怨恨をそそいだことにはならぬ。――断じて、武蔵をここで刺殺してしまわねば意味がない。その武蔵を、きっと殺してしまうためには、この必殺の地へどうしても彼奴きゃつが来るように、誘いの策が要いるとわしは思うが」

「はて、そんな策が、あろうかな?」

「ある」

小次郎はいった。

いかにも自信のある口吻くちぶりで、

「ある! 策はいくらでも……」

と、声を落して、ふと、常の傲岸ごうがんな顔には見せない狎なれ易い眸をして、源左老人の耳へ口をよせ、

「……な。……どうです」

と、ささやいた。

「……ム、む、なるほど」

老人はしきりと頷うなずいて、今度はそのまま御池十郎左衛門の耳へ顔をよせて計はかった。

おとといの夜半よなか、ここの木賃宿を叩いて、久しぶりの訪れに、木賃の老爺おやじを驚かせた宮本武蔵は、一夜を明かすと、鞍馬寺くらまでらへ行って来ると断って出かけたまま、きのうは一日姿を見せなかった。

(晩には)

と、老爺おやじは雑炊を温めなどして待っていたが、その晩も帰らず、やがて翌る日のたそがれ近くに帰って来たかと思うと、

(鞍馬みやげじゃ)

と、苞つとに入った長芋ながいもを老爺にくれた。

それから、もうひとつの方は、近所の店で求めて来た品らしく、一巻ひとまきの奈良晒布ざらしを出して、これで肌着と腹巻と下紐したひもとを急に縫ってもらいたいという。

木賃の老爺は、すぐそれを持って、お針のできる近所の娘の家へ頼みにゆき、帰りの足も無駄をせず、酒屋から酒をさげて来て、山芋汁を肴さかなに、夜半を世間ばなしに費ついやしていると、そこへちょうど、頼んでやった肌着や腹巻もできて来た。

それを、枕元において、武蔵は眠りについたのであったが、ふと老爺が真夜中に眼をさましてみると、裏手の井戸ばたで、誰かさかんに水を浴びているような音がする。何気なく覗いてみると、武蔵はもう寝床をぬけて、月の光の下に沐浴もくよくを済まし、宵にできた真っ白な晒布さらしの肌着を着、腹巻をしめ、その上に、いつもの衣服を纒まとっているのであった。

まだ月もそう西へは傾よっていない。――今頃からそんな支度をしてどこへ? と老爺がいぶかって問うと、いや、先頃から洛中洛内を見、きのうは鞍馬にも登って、もうこの京都にも少し飽いた気がするので、これから暁の路をかけて、月の叡山えいざんに登ってゆき、志賀の湖うみの日の出を拝んで、それを鹿島立ちに、江戸表へ下向してみようと思い立った。――そう思い立つと、眼が冴えてしまい、おまえを起すのも気の毒と思ったから、旅籠はたご賃や酒代さかても、枕元に包んで置いてある。少ないが、あれを納めてくれ。また、三年後か四年後か、京都へ出たらおまえの家へ泊りに来よう。

――武蔵はそう答えて、

「おやじ、後を閉めておいてくれよ」

もうすたすたと、横の畑道から廻って、牛糞うしくその多い北野の往来へ出て行くのだった。

老爺が、名残なごり惜しげに、小さい窓から見送っていると、武蔵は、十歩ほど往来をあるくと、布緒ぬのおの草鞋わらじの緒を、ちょっと締め直していた。

月一つ

一

つかの間であったが熟よく眠ったと思う。頭脳あたまのうちはこよいの夜空のように冴え、澄み切ったそのものと、この身とが、恰あたかも、ひとつ物のようにすら見えて、一歩一歩なにものかの中へ、身は溶け入ってゆくのかと思う。

「ゆるりと歩もう」

武蔵は、意識的に、大股な足癖を惜しんで――

「……さて、人間の世をながめるのも、今夜かぎりとなったな」

なんの詠嘆えいたんでもない、悲嘆でもない、そう痛切なる感慨では決してなかった。ふと――しかしなんらの虚飾きょしょくもない心の底から――ふっとのぼった呟つぶやきであった。

まだ、一乗寺址あと下り松までは、だいぶ距離があるし、時刻も夜半を過ぎたばかりなので、死というものが、顔の前まで切実に感じられて来ないのだろうか。

きのう一日、鞍馬の奥の院へ行って、松籟しょうらいの中に、黙って坐りこんで降りて来たのであったが、無相無身になってみようと努力したその時のほうが、どうしても、死というものから離れられなくて、結局、なんのために坐禅などしに山へのぼったのかと、浅ましくさえ覚えた。

それに反して、今夜の清々すがすがしさは、どういうものだろうと、彼はわれを疑う。――宵に、木賃のおやじと少し含んでみた酒が、適度にまわって、熟睡して、醒めた肉体に井戸水を浴び、新しい晒布さらしの肌着でひき緊しまっているこの体というものが、どう思ってみても今死ぬものとは思われない。

(――そうだ、腫うんだ足を引き摺って、伊勢の宮の裏山へ登った時――あの晩の星もきれいだったな。あれは、冱寒ごかんの冬だったが、今ごろならば、氷花つららの樹々にも、もう山桜のつぼみが膨ふくらんでいる時分)

考えようともしないそんなことが頭脳あたまのうちに描き出され、考えようとする行く先の必死の問題にはなんの知性もわいて来ない。

あまりにも、覚悟し切ってしまった、その死に対して、彼の知性はもう間に合いもしない――死の意義、死の苦痛、死後の先などと百歳まで生きてみても、解決しそうもないそんな問題に、今さら、焦躁しょうそうする愚を熄やめてしまったのかも知れない。

こんな深夜なのに、道のどこからともなく、笙しょうに和してひちりきの音が冷々ひえびえとながれていた。

そこらの小路こうじの公卿くげ屋敷らしい。吹奏すいそうの律調しらべの厳かな裡うちにも哀調があるところから察すると、酒興に更ふけている公卿たちのすさびとも思われない。柩ひつぎをかこんで暁を待つ通夜つやの人々や、榊さかきの前の白い灯がふと武蔵の眼に泛うかぶ――

「――自分より一足先に死んでいる人がある」

あしたは、死出の山で、その人とも、どこかで知己になりそうな気がして、微笑ほほえまれる。

通夜のひちりきは、歩いているうち、もう余程さっきから耳には聞えていたのかもしれない。――その笙しょうやひちりきの音から伊勢の宮の稚児ちごの館たちが憶おもい出され、腫うんだ足をひき摺って登った鷲ヶ岳の樹々の氷花つららが、ふと考え出されたのであろう。

はて? ――と武蔵は、自分の爽さわやかな頭脳あたまをそこで疑って見ざるを得なかった。――このすずやかな心地は、実に、一歩一歩、死地へ足を向けている体から来るところの――自分でも意識しない極度な恐怖のうつつではあるまいかと。

そう、自分に訊ねて、ぴたと自己の足を大地に踏み止めてみた時、道はすでに相国寺しょうこくじの大路端れに出ていて、半町ほど先には、ひろい川面かわもの水が銀鱗ぎんりんを立てて、水に近い館やかたの築地ついじにまでその明るい光をぎらぎら映していた。

――と、その築地の角に、人影が一つ黒く、じっと立ってこっちを見ていた。

二

武蔵は足を止めた。

先に見せた人影は、反対にこっちへ歩き出して来る。その影に従ついて、もひとつ小さい影が月の道を転がって来る。近づいてから、それはその男の連れている犬だとわかった。

「…………」

手足の先にまでこめていた或る力を急に抜いて、武蔵は無言のまますれちがった。

犬を連れた通行人は、通り過ぎてから遽にわかに振向いて声をかけた。

「お武家さま。お武家さま」

「……わしか」

四、五間を隔てたまま、

「さようでございます」

腰のひくい凡下ぼんげだ。職人袴ばかまに烏帽子えぼしをかぶっている。

「なんだな?」

「ひょんなお訊ねをいたしますが、この道筋に、明々あかあかと点ともして起きていたおやしきはございませぬかな」

「さ。気がつかずにまいったが、なかったように思う」

「はて、それでは、この道筋でもないかしらて?」

「なにをさがしておるのか」

「人の死んだ家でございます」

「それならあった」

「お、お見かけなさいましたか」

「この深夜だが、笙しょうやひちりきの音ねがもれていた。そこではないか、半町ほど先だった」

「違いございません。先に神官方が、お通夜に行っておりますはずで」

「通夜にまいるのか」

「てまえは鳥部山の柩造ひつぎつくりでございまするが、うかつにも、吉田山の松尾様と合点して、吉田山へお訪ねいたしましたところ、もう二月ふたつきも前にお移りになったのだそうで……いやもう、夜は更けて問う家とてはございませぬし、この辺りも知れ難にくいところでございますなあ」

「吉田山の松尾? ――元吉田山にいてこの辺りへひき移って来た家と申すか」

「そうと知らなかったので、とんだ無駄足をいたしましてな。いや、ありがとう存じました」

「待て待て」

武蔵は二、三歩出て、

「近衛家の用人を勤めていた松尾要人かなめの家へゆくのか」

「その松尾様が、たった十日ほどわずろうて、お亡なくなりなされました」

「主人が」

「へい」

「…………」

――そうか。と呻うめくようにいったまま、武蔵はもう歩いていた。柩屋ひつぎやも反対な方へ歩いていた。取り残された小犬が、あわてて後から転がってゆく。

「……死んだか」

口の裡うちでいってみた。

しかし武蔵はそれ以上なんの感傷も抱いだかなかった。――死んだか。実に、そう思うだけだった。自己の死すら感傷になれないのである。いわんや、他人をや。爪に灯をともすように、生涯いじいじ小金を蓄えて死んで行った酷薄なる叔母の良人おっと――

それよりは、武蔵はむしろ、飢えと寒さにふるえた元日の朝、加茂川の凍った水のほとりで焼いて喰べた餅のにおいの方が今ふと思い出された。

(美味うまかったな)

と思う。

良人にわかれて独りで暮す叔母を思う。

すぐ彼の足は、上加茂の流れの岸に立っていた。河をへだてて、満目に三十六峰が黒々と空からせまる。

その山の一つ一つが、皆、武蔵に対して敵意を示しているように見えた。

――じっと、そこに立ち尽していることややしばらくの後、武蔵は、

「ウム」

と、独り頷うなずいた。

河原へ向って、堤どての上から降りて行く。そこには、鎖くさりのように小舟を繋つないだ舟橋が架かっていた。

三

上京かみぎょうの方面から叡山えいざん――志賀山越えの方角へ渡ろうとすれば、どうしても、この一路へかかることになる。

「おおう……いっ」

武蔵の影が、加茂の舟橋の中ごろまで渡って来た時である。こう呼ばわる声がする。

淙々そうそうと瀬の水の戯れは、月の白い限りの天地を占めて独り楽しんでいる。上流から下流まで、ここは奥丹波の風の通路のように冷々ひえびえと夜気が流れている。――誰が誰をよぶのか、どこに声の主ぬしがいるのか、遽にわかに知るには余りに天地が濶ひろい。

「おオーい」

またしても呼び抜く。

武蔵は、二度足を止めたが、もう心にかけず、糺ただすの中の洲すを越えて対岸へ跳び移ってしまった。

と、一条白河のほうから河原づたいに、手をあげながら駈けて来るものがある。見たようなと思った眼に誤りはなかった。佐々木小次郎なのである。

「やあ」

近づきながらこう親しそうに小次郎は声をかけた。そして、武蔵の姿をじっと見、また舟橋のほうを見渡してから、

「お一人か」

といった。

武蔵は頷うなずいて、

「一人です」

と、当然のようにいう。

挨拶が少し前後している。それから小次郎は改めていった。

「いつぞやの夜は失礼いたした。不行届な扱いを受けて下すって、有難くぞんじています」

「いやその折はどうも」

「さて、――これから約束の場所へ赴かれるのか」

「はい」

「お一人で?」

諄くどいと、承知しながら、小次郎はまたたずねた。

「一人です」

武蔵の返辞も、前と同じであったのが、かえって、小次郎の耳にはよく聞えた。

「ふふむ……そうですか。しかし武蔵どの、貴所はこの間、この小次郎が誌しるして六条へ建てたあの公約の高札表を、なにか、読みちがえてはおられぬか」

「いいやべつに」

「でもあの高札文には、この前の清十郎とそこ許との試合のように一名と一名に限るとは書いてないのでござるぞ」

「わかっております」

「――吉岡方の名目人は幼少のただ名だけのもの。あとは一門遺弟となっている。遺弟といえば、十人も遺弟、百人も遺弟、千人も……であるが、その点抜かられたな」

「なぜですか」

「吉岡の遺弟のうちでも、弱腰なものは逃げたり、不参らしく見ゆるが、骨のある門人は、こぞって、藪之郷やぶのごういったいに備え、下り松を中心に、貴所の来るのを待ちかまえている態ていに見ゆる」

「小次郎殿には、すでにそこをお見届けでござりますか」

「念のために。――そして今、こは相手方の武蔵どのにとって一大事なりと思慮いたしたので、一乗寺址あとから急いで引っ返してまいり、およそこの舟橋が貴所の通路ではないかと計はかって、お待ち申していたのでありまする。――高札表を認したためた立会人の務めでもござれば」

「ご苦労に思います」

「右様みぎようなわけでござるが、それでも貴所は、一人で行くおつもりか。――それとも、他の助人すけうどたちは、べつな道をとって行かれたか」

「自分一名のほか、もう一名、自分とともに歩いてまいりました」

「え。どこへ」

武蔵は、地上のわが影法師を指さして、

「ここに」

といった。

笑う歯が月に白かった。

四

冗談などいいそうもない武蔵が、ニコッと笑って不意に戯たわむれをいったので、小次郎は、ちょっとまごつきながら、

「いや、冗談ごとではありませぬぞ、武蔵どの」

よけい真面目づくると、

「拙者も、冗談はいいませぬ」

「でも、影法師と二人づれなどとは、人を小馬鹿にしたおことばではないか」

「しからば――」

武蔵は、小次郎以上、きっと真面目な態ていを示して、

「親鸞聖人しんらんしょうにんの申されたことばとやらに――念仏行者は常に二人づれなり、弥陀みだと二人づれなり。とあったように覚えておるが、あれも冗談ごとでしょうか」

「…………」

「何様なにさま、ただ、形のうえより観ずれば、吉岡衆はさだめし大勢でござろうし、この武蔵は、見らるる如くただの一名。勝負にはならぬと小次郎殿も、拙者を案じて賜たまわるのであろうが、乞う、お案じくださるな」

武蔵の信念は、言葉のひびきからも脈を搏うって、

「彼が十人の多勢を擁ようするゆえ、われも十人の勢をもって当ろうとすれば、彼は二十人の備えを立てて打ってくるに違いない。彼二十人なれば、われも二十人の勢をもって当らんとすれば、彼はまた三十名、四十名を呼号して集まるでしょう。さすれば、世間を騒がすことも甚だしく、多くの負傷ておいなども出して、治世の掟おきてを紊みだすばかりか、それが剣の道に益するところはいずれもない。百害あって一益なしです」

「なるほど、だが武蔵どの、みすみす負けと分っている戦いくさをするのは、兵法にないと思うが」

「ある場合もありましょう」

「ない! それでは兵法ではない、無法というものだ、滅茶だ」

「では、兵法にはないが、拙者の場合だけには、あるとしておこう」

「外はずれている」

「……ハハハハ」

武蔵はもう答えない。

しかし、小次郎は熄やまない。

「そんな兵法に外はずれている戦いくさの仕方をなぜなさるのじゃ。なぜもっと、活路をお取りなさらぬのだ」

「活路は、今歩いている、この道こそ、拙者にとっては活路です」

「冥途の道でなくば、倖さいわいだが――」

「或はもう、今越えたのが三途ずの川、今踏んでゆく道が一里塚、行くての丘は針の山かもしれません。――しかし、自分を生かす活路はこの一筋よりほかにあろうとも思われぬ」

「死神にとりつかれたようなことを仰っしゃる」

「なんであろうとよい。生きて死ぬる者もある。死んで生きる者もある」

「不愍ふびんな……」

独り語のように小次郎が嘲笑あざわらうと武蔵は、立ち止まって、

「小次郎どの――この街道は真っ直何処へ通じますな」

「花ノ木村から一乗寺藪之郷やぶのごう――すなわち、貴所の死場所の下り松を経て――これから叡山えいざんの雲母坂きららざかへ通っております。それゆえ、雲母坂道ともいう裏街道」

「下り松まで、道程みちのりは」

「ここからは、はや半里余り、ゆるゆる歩いて行かれても、時刻の余裕はまだ十分」

「では、後刻また」

武蔵がふいに、横道へ曲りかけると、

「ヤ、道がちがう。武蔵どの、そう行っては方角が違う」

あわてて小次郎は注意した。

五

武蔵はうなずいた。小次郎の注意に対して、素直にうなずいた。

しかし見ていると、曲った道をそのままなお歩いてゆく様子なので、小次郎はもいちど、

「道が違いますぞ」

声をかけると、

「はあ」

と、分っているような返辞。

並木のすぐ後ろで、窪地の傾斜に沿い、だんだん畑がある、茅かやぶき屋根が見える。その低い方へ武蔵は降りてゆくのである。雑木の隙間から後ろ姿が見える。――月を仰いでぽつねんと立っている姿がわかる。

小次郎は、独りで苦笑を頬に流しながら、

「……なんだ、小用か」

呟つぶやいて、彼も月を仰ぐ。

「だいぶ西へ傾いて来たなあ。……この月がかくれる頃には、何人かの人命も消えてゆくのだ」

彼の好奇心は頻りといろいろな予想を描く。

武蔵がなぶり殺しにされることは、結局においては確実だが、あの男のことである、仆れるまでに何人の敵を斬るか。

「そこが見ものだ」

と、彼は思う。そして今からそれを予想してみるだけでも、ぞくぞくして来て、肌は総毛だち、血は全身を駆けて待ち遠しがる。

「滅多に遭あい難がたいものにわしは遭った。蓮台寺野の折も、次の時も、実見できなかったが、今暁は見られる。……はてな、武蔵はまだか?」

ちょっと、低地の道を覗のぞいてみたが、まだ戻って来る影は見えない。小次郎は立っていてもつまらないので、木の根に腰をおろした。

そしてまた、密ひそかに空想を楽しんでいる――

「あの落ちつき澄ましている様子では、まったく死を決しているらしいから、かなりなところまで戦うだろう。なるべく、斬って斬って斬りまくってくれたほうが見ごたえがあっていい。……だが、吉岡のほうでは飛道具の備えまでしているといったな。……飛道具でどんと一発やられてしまっては、万事終ってしまう。……はて、それでは面白くないぞ。そうだ。そのことだけは、武蔵に耳打ちしておいてやろう」

だいぶ待った。

夜霧が腰に冷たくなる。小次郎は身を起して、

「武蔵どの」

呼んでみたのである。

おかしいぞ? ――と今頃になって思ってみることが、彼自身にもとたんに不安と焦あせりを呼び起していた。――タタタタタと小次郎は低地へ降りて行った。

「武蔵どの」

崖下の農家は真っ暗な竹むらに囲まれていて、どこかで水車の音がするが、その流れさえよく見えない。

「しまったッ!」

水を飛んで、小次郎は向う側の崖の上へすぐ出てみた。人影らしいものは見あたらない。白河あたりの寺院の屋根、森、眠っている大文字山、如意ヶ岳、一乗寺山、叡山えいざん――広い大根畑。

それから月が一つ。

「しまったッ。卑怯者め」

小次郎は武蔵が逃げたなと直覚した。あの落ちつきすましていた様子もそのせいであったかと今にして思う。道理で余りいうことも出来過ぎていた。

「そうだ、早く」

小次郎は身を翻ひるがえして、元の道へ出た。そこにも、武蔵の影はない。彼の足は宙をとんで駈け出した。――勿論、一乗寺下り松へ真っ直に。

木魂こだま

一

――遠く遠く、見ているまに駈け去って小さくなって行く佐々木小次郎の影を見送って、武蔵は思わずにたりと笑った。

たった今、その小次郎が立っていた所に、武蔵は立っているのである。なぜ、彼があんなにも捜したのに知れなかったのかを考えてみると、小次郎は居場所を捨てて他を捜したが、武蔵はかえってその小次郎のいたすぐ後ろの樹蔭に来ていたからであった。

――しかし、なにしろまずこれでよかった。と武蔵は思う。

他人の死に興味をもち、他人が鮮血を賭けてする生霊しょうりょうのやむなき大悲願事をふところ手で――後学のためとかなんとかいって――虫のよい傍観者に廻り、その上、双方へ恩着せがましく、いい子になっていようという横着者。

(その手は食わない)

武蔵は、おかしくなった。

頻りと敵の侮あなどれぬことを告げ、こちらへ対して助太刀の有無を訊いたのは、そういったら武蔵が膝を屈して武士の情けに一臂ぴの力を貸してたまわらぬか――とでもいうかと思っていたかしらぬが、武蔵は、その言葉にも乗らなかった。

(生きよう。勝とう)

と思えば助太刀もほしくなるかも知れぬが、武蔵には、勝てる気もない、明日あしたの後まで、生きようとも思われない――いやありのままにいえばそんな自信はなかったという方が正しかろう。

ひそかに、彼がここへ来るまでのあいだに探り得たところでも、今暁の敵は百数十名にものぼるらしく察しられた。あらゆる方法のもとに、自分を害さずば熄やまない状態にあることも頷うなずけたのである。――なんで生きる工夫に焦あせってみる余地があろう。

けれど武蔵は、その中でもかつて沢庵のいった――

(真に生命を愛する者こそ、真の勇者である)

という言葉を決して忘失してしまっているわけではない。

(この生命いのち!)

そしてまた、

(二度と生れ難いこの人生!)

を、今も、ひしと五体のうちに抱いだきしめているのであった。

だが。

――生命を愛する。

ということは、単に無為飽食を守っているということとはたいへんに意味が違う。だらだら長生きを考えるということではさらさらない。いかにしてこの二度と抱きしめることのできない生命いのちとの余儀なきわかれにも、そのいのちに意義あらしめるか――価値あらしめるか――捨てるまでも、鏘然しょうぜんとこの世に意義ある生命の光芒こうぼうを曳くか。

問題はそこにある。何千年何万年という悠久な日月じつげつの流れの中に人間一生の七十年や八十年は、まるで一瞬でしかない。たとえ二十歳はたちを出いでずに死んでも、人類の上に悠久な光を持った生命こそ、ほんとの長命というものであろう。またほんとに生命を愛したものというべきである。

人間のすべての事業は、創業の時が大事で難しいとされているが、生命だけは、終る時、捨てる時が最もむずかしい。――それによって、その全生涯が定まるし、また、泡沫ほうまつになるか、永久の光芒こうぼうになるか、生命の長短も決まるからである。

けれど、そういうふうな生命の愛しようも、町人にはおのずから町人の生命の持ち方があり、侍には侍の持ち方がある。武蔵の今の場合には、当然、さむらいの道に立っていかによくこの生命の捨て際を、侍らしくするかにあることはいうまでもない。

二

さて――

これから一乗寺藪之郷やぶのごう下り松の目的地へ行こうとするならば、武蔵の前には、ここに三つの道筋があった。

その一つは今、佐々木小次郎の駈けて行った雲母きらら越え叡山道えいざんみち。

これは最も近い。

そして一乗寺村までは、道も坦々たんたんとしていて、まず本道といっていい。

すこし迂回まわりにはなるが、田中の里から曲って高野川に沿い、大宮大原道をすすみ、修学院のほうへ出て下り松に至る――という道取りがその第二。

もう一つは、今、彼の立っている所から東へ真っ直に、志賀山越えの裏街道をとり、白河の上流から瓜生うりゅう山の麓ふもとをあるいて、薬師堂の辺りからそこへ行き着くという道も選べる――

そのいずれから行くも、下り松の追分は、ちょうど谷川の合流点のような場所に当っているので、距離にしても、そう大差はない。

だがこれを――まさにこれから、そこに雲集している大軍にぶつかって行こうとする寡兵かへいにも似ている武蔵の身にとると――兵法からみると――大差がある。生涯のこと、ここの一歩から、分れ目を持つことになる。

――道は三つ。

――どう行こうか。

当然、武蔵はそこで慎重に考えそうなものであったが、ひらりとやがて身軽に動き出した彼の影には、そんな重苦しげな迷いの影は従ついていない。

――ひら――ひら――ひらと木この間まや小川や崖や畑を跳ぶように越えて、月の下を見えつ隠れつ足早に、行きたい方へ歩いている。

では、三道のうち、いずれを選んだかというと、彼の足は、一乗寺方面とは反対な方角へ向いていた。三つの道のいずれも選ばなかったのである。その辺はまだ里ではあったが、狭い小道を通ったり畑を横切ったりして、一体、どこを目ざして歩いて行くのかちょっと気が知れない。

なんのためか、わざわざ神楽かぐらヶ岡おかのすそを越え、後一条帝の御陵みささぎの裏へ出る――この辺、ふかい竹藪だった。竹の密林を抜けるともう山気さんきのある川が月光を裂さいて里へ走っている。――大文字山の北の肩が、もう彼の上へ、のしかかって来るように近かった。

「…………」

黙々と、武蔵は、山ふところの闇へ向って登ってゆく。

今、通って来た右側の樹立の奥に見えた築地ついじと屋根が、東山殿どのの銀閣寺であったらしい。ふと、振顧ふりかえると、そこの泉が棗形なつめがたの鏡のように眼の下に見えたのである。

さらに、もう一息、山道を登ってゆくと、東山殿の泉は、余りに近すぎて足元の木蔭にかくれ、加茂川の白い蜒うねりがずっと眼の下へ寄っている。

下京から上京まで、両手をひろげて抱えきれるような展望だった。ここからは、遥かに、

(一乗寺下り松はあの辺り――)

と、指さして、ほぼ遠く察することもできる。

大文字山、志賀山、瓜生山、一乗寺山――と三十六峰の中腹を横に這って叡山の方へすすめば、ここからそう時を費ついやさずに、目的の一乗寺下り松のちょうど真後まうしろへ、山の上から望むこともできるのだった。

武蔵の考えは、その戦法は――もう疾とくから胸に決まっていたものらしい。彼は桶狭間おけはざまの信長に思い合わせ、鵯越ひよどりごえの故智に倣ならって、あの当然に選ばなければならないはずの三道のいずれをも捨てて、まるで方角ちがいな、歩くにも難儀なこの山道の中腹まで登って来たに違いない。

「……やっ、お武家」

こんな所で人声は思いがけなかった。不意に、道の上から人の跫音あしおとがしたと思うと、彼の前に、狩衣かりぎぬの裾をくくり上げて、手に松明たいまつを持った公卿屋敷の奉公人らしい男が立って武蔵の顔を燻いぶすように、松明の火を突き出した。

三

公卿侍くげざむらいの顔は、自分の持ち歩いている松明たいまつの油煙で、鼻の穴まで黒く煤すすけてい、狩衣も夜露や泥でひどく汚れている。

「や? ……」

と、行き合った最初に、なにか驚いたような声を出したので、不審に思って、武蔵がじっとその顔を凝視すると、急に少し恐れを抱いたように、

「……あの、あなた様は」

と、ひどく低く頭を下げ、

「もしや、宮本武蔵殿と仰せられはいたしませぬか」

と、問う。

武蔵の眼が、ぎらっと松明の赤い光の中に光った。――当然な警戒だったのはいうまでもない。

「……宮本殿でございましょうな」

重ねて、その男は訊ねたが、恐こわいのだ、武蔵の黙っている形相ぎょうそうの中には、人間のなかでは滅多にみつけないものがあったにきまっているから――そう訊きながらも、男の体は浮腰になっていた。

「誰だ? おん身は」

「はい」

「何者だ?」

「はい……烏丸家のものにござりますが」

「なに、烏丸家の……。わしは武蔵だが、烏丸家の御家来が、今頃、こんな山路へなにしに?」

「ア。……ではやはり宮本殿でござりますな」

いうと、その男は、後も見ずに山を駈け下ってしまった。松明たいまつの火が、赤い尾をひいて、見る間に、麓ふもとへ沈んで行った。

武蔵は、なにかはっと思い当ったように、足を早め出して、山伝いに、志賀山街道を横切り、どこまでも山の腹を、横へ横へと、急いで行った。

――一方。

慌あわて者の松明は、一目散に、銀閣寺のわきまで駈け降りて来た。

そして、片手を口にかざして、

「オオイ、内蔵殿くらどの、内蔵殿」

と、同僚の名を呼ばわっていると、その同僚とはちがうが、やはり烏丸家の内に、ここ永らく泊っている城太郎少年が、

「なんだアい――小父さん――」

と、二町も先の西方寺門前あたりから遠く返辞が聞えてくる。

「城太郎かあ――」

「そうだアい」

「はやく来ウいっ――」

すると、また遠くから、

「行かれないよーっ……。お通さんが、ここまでやっと来たけれど、もう歩けないッて、ここへ仆れちまったから、行かれないよーっ」

烏丸家の奉公人は、

(ちぇっ……)

舌打ちを洩らしたが、前よりも高い声を張りあげて、

「はやく来ないと、武蔵殿がもう遠くへ去いってしまうぞっ。――早く来いっ、たった今そこで、武蔵殿をわしが見つけた!」

「…………」

すると今度は、返辞がして来ないのである。

――と思ううちに、彼方あなたから二つの人影が、縒よれ合うように一つになって急いで来る。病人のお通を援たすけて来る城太郎であった。

「おお」

松明たいまつを振って、男は早くと急せき立てて見せる。いたましや、そうでなくてさえ、喘あえぎ喘ぎ駈けてくる病人の息は、遠くから聞えるほどだった。

近づくほどに、お通の顔は月よりも血の気がないものに見えた。痩せ細った手足に旅装よそおいを着けているのがあまりにも無理に見える。しかし、松明のそばまで来ると、その頬は、急に紅くなっていた。

「ほ、ほんとですか。……今仰っしゃったのは」

「ほんとだとも、たった今だ」

と、力をこめて話し、

「はやく、追って行けば会える。はやく行け早く!」

城太郎は、まごまごして、

「どっちへさ、どっちへさ。ただ早く行けじゃ分らないじゃないか」

病人と慌あわて者のあいだに立って一人で癇癪かんしゃくを起してしまう。

四

お通の体があれから急に快よくなっているという理わけはないから、お通がここまで歩いて来たのは、よくよく悲壮な覚悟でなければなるまい。

恐らく、いつぞやの晩、館やかたの病褥びょうじょくにはいってから、城太郎に詳しい話を聞き、

(武蔵様が死を決しておいでになるなら、わたしも病やまいを養って、こうして生き長らえる効かいもない)

といい出したことから始まり、やがてはまた、

(死ぬ前に一目でも)

という病人の一念になって、それまで水手拭みずてぬぐいを当てていた頭の髪を結び、病褥にいたわっていた痩せた足に草鞋わらじをつけ、誰が止めようと意見しようと耳を藉かさず、とうとう烏丸家の門から蹌よろ這ばい出たものではあるまいか。

さて、そうまでの一心を見ては、止めだてした烏丸家の人々も、

(捨てては措おけぬし)

と、能あたう限りこの病人の――ことによったらこの世の中の最後の望みになるかも知れぬ――希望を遂げさせてやりたいと、ともども、気を揉んだり騒いだりしたであろうことも想像がつく。

或は、光広卿の耳へも入って、この儚はかなき恋愛の末期まつごに対して、よそながらお館やかたの指図があったものかとも思われる。

とにかく、彼女の弱い足取りをもって、この銀閣寺下の仏眼寺の門前へかかるまでには、烏丸家の御内人おうちびとたちが、およそ武蔵の影のさしそうな方角へは、八方に手分けをして、尋ね求めていたらしいのである。

果し合いの場所は一乗寺とだけ分って、広い一乗寺村のどの辺かは明白でない。それにまた、武蔵が果し合いの場所に立ってしまってからでは追いつかないことなので、捜す者も、おそらく一乗寺方面へ通う道には、皆一人か二人ずつ奔走して、足を擂粉木すりこぎにしていたものであろう。

しかしその効かいはあって、武蔵は見つかったのであるから、後は、加勢の者の力よりは、お通の一心の如何によるほかはない。

たった今、如意にょいヶ岳たけの中途から、志賀山越えを横切って、北の沢へ降りて行ったという――それだけを聞けば、彼女ももうその先まで、他人の力を頼ってはいなかった。

「だいじょうぶ? お通さん、だいじょうぶかい?」

側についてはらはらして行く城太郎とも口もきかない。

いや、きけないのである。

死を覚悟して、無理無体に歩ませてゆく病躯びょうくであった。口は渇かわいてしまう。鼻腔はあらい呼吸いきにつかれる。そして蒼白な額ひたいに、髪の根から冷たい汗さえながれていた。

「お通さん、この道だ、この道から横へ横へと、山の腹を縫ってゆけば、自然ひとりでに叡山えいざんの方へ出てしまう。……もう登りはないから楽だよ、どこか、少しそこらで休んだらどう?」

「…………」

お通は黙ってかぶりを振った。一本の杖の両端を二人して持ち合いながら――永い人生の艱苦をこの一刻ときの道に縮ちぢめてしまうような喘あえぎとたたかいながら、懸命に、およそ二十町余りも山ばかり歩いた。

「お師匠様アッ。……武蔵さまアッ……」

時折、城太郎が、ありッたけな声を絞って、行く手の方へ向って、こう呼んでくれるのが、お通にとってはなによりの力だった。

だが遂に、その力も尽きたように、お通は、

「城……城太さん」

なにか、いいかけたと思うと、彼の引っ張っていた杖の先を離して、沢の石ころや草叢くさむらの中に、蹌よろりと、音もなく俯うつ伏ぶしてしまった。

削ったように細い両手の指が、口と鼻を抑えたまま、肩で戦慄しているので、

「ヤ! 血、血でも吐いたんじゃないか。……お通さん! ……お通さん……」

城太郎も泣き声出して、彼女の薄い胸を抱き起した。

五

かすかにお通は顔を横に振った。地に俯つ伏したままにである。

「どうしたの。どうしたのさ」

おろおろと、城太郎は彼女の背中を撫でていたわりながら、

「苦しいの」

「…………」

「そうだ、水かい、お通さん、水が欲しかないかね」

「…………」

お通はうなずいて見せた。

「待っといで!」

辺りを見まわして、城太郎は突っ立った。山と山の間のゆるい沢道である。水音は方々の草や木を潜くぐって、ここにある、ここにある、と彼に教えているように聞える。

だが、そう遠くまで駈けなくても、すぐ後ろに草の根や石塊いしころの下から湧いている泉がある。城太郎は跼しゃがみ込んで、両手に水を掬すくおうとした。

「…………」

水はよくよく澄んでいて、沢蟹さわがにの影も見えるくらいだった。月はもう傾いているので、この水には宿っていなかったが、鮮やかな月の雲は、空を仰いで直じかに見るよりも、水に映っている空のほうが一倍美しく見えた。

病人に掬すくって持って行くよりも、城太郎はふと、自分が先に飲みたくなったのであろう、五、六歩位置を移して、今度は水際みぎわに膝をつき、家鴨あひるのように水面へ首を伸ばしたが、

「……あッ?」

大きく叫んだまま、彼の眼はなにものかに吸いつけられ、河童頭かっぱあたまの毛はそそけ立って、じーっと、栗くりの実みみたいに、五体をかたく竦すくめてしまった。

「……?」

水の向う岸から五、六本の樹の影が、縞目しまめのように映っていた。その樹の端に人影が見えたのである。水に映っている武蔵の影を彼の眼は見たのである。

「…………」

びっくりしたことは勿論、びっくりしたに違いないが、水面に映っている武蔵の影だけでは、城太郎はまだほんとに――物の現実に向ってびっくりしたのではなかった。

ふいに、物ものの怪けの悪戯いたずらが、思いつめている心の武蔵の影を藉かりて、さっと、通り抜けて行ったような――そんな驚きであったのである。

怖々こわごわと、彼はその驚きの眼を水面から向う側の木蔭へ上げてみた。こんどはほんとに仰天したのだった。

武蔵はそこに立っていた。

「おッ、お師匠様っ」

静かな水面の持っていた月雲の空は、とたんに真っ黒に乱れ濁ってしまった。水の縁ふちを通って行けばよいのに、城太郎はいきなり飛び込んで水の中を駈け渡り、ばしゃばしゃッと顔まで濡らして武蔵の体へ飛びついて行ったのであった。

「いたっ、いたっ」

捕まえた者を引ったてるように、武蔵の手を、彼は夢中になって引っ張った。

「待て」

武蔵は顔をそ向けて、ふと瞼まぶたに指を当てながら、

「あぶない、あぶない。すこし待て、城太郎」

「いやだっ、もう離さない」

「安心せい、おまえの声が遥かに聞えたから、待っていたのだ。わしよりも、早くお通さんに水を持って行ってやれ」

「ア、濁ってしまった」

「向うにもよい水が流れている。それ、これを持って行け」

腰の竹筒を渡してやると、城太郎はなに思ったか、手を引っ込めて、武蔵の顔をじっと見、

「お師匠様。……お師匠様の手で汲んで行っておやりよ」

六

「……そうか」

吩咐いいつけに従うように、武蔵は素直に頷うなずいた。自分で竹筒に水を掬すくい、お通の側へ持って行った。

そして彼女の背せなを抱え、手ずから水を飲ませてやると、城太郎は傍らから、

「お通さん、武蔵様だよ、武蔵様だよ。……分る? 分る?」

と、ともどもいたわりを籠こめていう。

お通は喉のどへ水を落すと、幾分か胸がらくになったように、ほっと気のついたように息をついた。しかし、体は武蔵の手に凭もたれたままうっとりと眸ひとみはまだ遠くを見ていた。

「おいらじゃないんだぜ、お通さん、お通さんを抱いているのは、お師匠さまなんだよ」

城太郎がそう繰返すと、お通は遠くを見ている眸に、湯のような涙をいっぱいにたぎらせ、見るまに、その眼は、ぎやまん玉の曇りにも似て、やがて頬を下るふたすじの白珠とはふりこぼれると、

(……分っています)

と、いうように頷うなずいた。

「ああ、よかった」

城太郎は無性に欣うれしくなってしまい、わけもなく満足して、

「お通さん、これでいいだろ。もう、これで気がすんだろう。……お師匠様、お通さんね、あれから、どうしても、もいちど武蔵様に会うんだといって、病人のくせに、いうこと肯きかないんだよ。こんなこと度々やると死んじまうにきまっているから、お師匠様からよくそういっておくれよ、おいらのいうことなんか肯きかないんだもの」

「そうか」

武蔵は、彼女を抱かかえたまま、

「みんなわしが悪いのだ。わしの悪いところも詫び、またお通さんの悪いところもよくいって、体を丈夫にするように今話すから……城太郎」

「なに?」

「おまえは、ちょっと……しばらくの間、どこかへ離れていてくれぬか」

城太郎は、そう聞くと、

「どうして?」

と、口を尖とがらし、

「どうしてさ。どうしておいらがここにいちゃいけないの」

と、不平なようでもあり、不審にも考えるらしく、動こうとはしないのであった。

武蔵も、それにはふと困ったらしい様子に見えた。すると、お通が頼むように、

「城太郎さん……そんなこといわないで、ちょっと、あっちへ行っていてください。……ね、後生ですから」

武蔵には口を尖とがらした城太郎もお通にそういわれると、理窟もなにもなくなって、

「じゃあ……おいら、仕方がないからこの上に登っているとすらあ。用が済んだら呼んでおくれ」

崖の杣道そまみちを見上げて、城太郎はがさがさと攀よじ登って行った。

ようやく、少し元気を回復したらしく、お通は起って、鹿のように登って行く城太郎の影を見送り、

「――城太さん、城太さん。そんなに遠くへ行かなくってもいいのですよ」

そういったが、聞えたのか聞えないのか、城太郎はもう返辞もしない。

お通もまた、なにも今、そんな心にもないことをいって、武蔵に背を向けている必要もなかろうに――やはり城太郎という者が一枚抜けて、二人きりになったと思うと、遽にわかに胸がつまって、なにからいい出していいのか、急に自分の体が持て余されて来るのであろう。

羞恥はにかみは、健康な時よりも、病んでいる場合のほうが、生理的にも、強いものかもしれない。

七

いや、羞恥しゅうちは、お通ばかりではない。武蔵も横を向いていた。

一方は背を向けて俯向うつむき、一方は横を向いて空を仰いだまま……これが幾年も幾年も、会わんとしては会い難かった二人の、たまたま、許された一瞬ときの寄り添いだった。

「…………」

どういおう。

武蔵にはその言葉が見つからない。

どんな言葉をもっていっても、自分の心を現わすには足りないからであった。

すさび吹く千年杉の真っ暗な一夜――あの夜明けからのことを、武蔵は瞬間に胸にえがくことができる。眼には見て来なかったが、それからの五年あまりの彼女の歩いて来た道を――また一途に通して来た清純な気持を――武蔵は決して受け取っていないのではない、感じていないわけではない。

多岐たきな、複雑な、彼女の生活と、身に燃え現わされた純愛の炎と、唖おしのように無表情で、灰のように冷たく人には見せて来た自分の情熱の埋火うずみびと――いずれが強くいずれが苦しかったかといえば、武蔵は独り心の裡うちで、

(おれこそ)

と、いつも思う。今もまた、そう思うのだった。

――だが、そういうわがことよりも弥いやまして、このお通の可憐いじらしく、そして不愍ふびんでならないと思われるのは、男でさえ、片荷には重すぎる悩みを、女の身で、生活に克かちつつ、恋一つを生命として負い通して来た――その強さと健気けなげさにある。

(もう……一瞬ときの間まだ)

武蔵は、月の位置を見ている。自分の生きている間の時間を思わずにいられない。月はもう残月となっていた。いつのまにか、ずっと西に傾いて、光も白っぽく、夜明けはやがて近いのである。

その月と共に、死の山へ落ちてゆく寸前の自分である。今こそお通に向って、たった一言ひとことでも、真実をいいたい。またそれがこの女ひとに対して酬むくゆる最大な良心でもあるし――と武蔵は思う。

真実。

しかし、いえないのだった。

胸にはいっぱいに持っている真実が、その真実をいおうとするほど、口には出て来ないで、いたずらにただ、空を見、あらぬ方を見てしまう。

「…………」

同じように、お通もただ地を見つめて、地に涙をそそいでいるしかなかった。――ここへ来るまでには彼女の胸にも、七堂伽藍がらんも焼き包んでしまうような、恋以外には真理も神仏も利害もない、また、男の世界でいう意地も外聞もない――ただ恋のみの熱情があったのである。その熱情をもって武蔵をうごかし、その涙をもって二人きりで、浮世の外に住むことも出来ないことはないと信念していたのであった。

けれど――会ってみると、なにもいえない彼女だった。そんな熾烈しれつな望みはおろか会わない間の辛さ、世路せろにまよう身のかなしさ、武蔵の情つれないこと――なに一つとしていえないのだった。胸先まで突き上げてくるそれらの感情を、ふと思い切っていおうとすれば、ただ唇が顫わなないてしまうだけで、よけいに胸はつまり涙は眼をふさいで、もし、武蔵もそこにいない桜月夜の下でもあるならば、わッ……と大声あげて、嬰児あかごのように泣き転まろび、せめてこの世にいない母にでも訴える気もちで、心の済むまで、泣き明かしていたいと思うほどだった。

「…………」

どうしたものだろう。お通もいわず武蔵もいわず、こうしている間に時刻はいたずらに過ぎてしまう。

――はや暁に近いせいか、間の抜けた啼なき声をこぼして、帰る雁かりが六、七羽、山の背を越えて行った。

八

「雁かりが……」

武蔵はつぶやいた。この場合にそぐわない、取ってつけたような――と知りながら、

「お通さん、帰る雁が啼いてゆくなあ」

といった。

それを機しおに、

「武蔵さま」

と、お通もいった。

眸ひとみと眸が、初めてお互いを見合った。秋や春には雁かりの渡る故郷ふるさとの山が二人の心に憶おもい出された。

あの頃は、単純だった。

お通がいつも仲よくしていたのは又八で、武蔵は乱暴だから嫌いだといっていた。武蔵が悪たれをいうと、お通も負けないで罵ののしった。――そうした幼い頃の七宝寺の山が瞼まぶたに見える。吉野川の河原が憶い出される……

しかし、そんな追憶に耽ふけっていると、また、いたずらにこの二度とないこの世での尊い瞬間を、沈黙の裡うちに過ごしてしまいそうなので、武蔵からやがてまたいった。

「お通さん。そなたは今、体が悪いということだが、体はどうだね?」

「なんでもありません」

「もう快よい方なのか」

「それよりも、あなたは、これから、一乗寺の址あととやらで、死ぬお覚悟でございましょう」

「……う、む」

「あなたが、斬り死にあそばしたら、わたくしも生きていないつもりです。そのせいか、体の悪いことなど、忘れたように、なんともございません」

「…………」

武蔵は、そういうお通の顔の冴えを見て、自分の覚悟のほどが、いまだこの一女性にすら及ばない心地がした。

今の肚をすえるまでには、さんざん生死の問題に苦悩したり、日常の修養だの、さむらいとしての鍛錬だのを積んで来て、やっとこの覚悟になり得るまでになって来たと思うのである。――だのに、女は、そういう鍛錬も苦悩も経へずに、いきなりなんらの惑まどいもなく、

(――わたくしも生きていないつもりです)

と、すずやかにいう。

武蔵が、じっとその眼を見ているに、彼女のことばが、決して一瞬ときの興奮や嘘でないことはわかる。むしろ楽しんで自分の死に従ついて、共に死のうとしている気持すらかがやいている。どんな覚悟のよい侍でも及ばないほど静かな眸で死を見ているのである。

武蔵は愧はじ、かつ疑った。

(どうして女は、こうなれるのであろうか)

同時に彼は当惑と、そして彼女の一生のために恐れて、自分までが乱れた。

「ばっ、ばかなっ!」

突然、彼は自分の口から吐いた自分の声に驚いた程、激越な感情の上に自分を乗せていっていた。

「わしの死には、意義があるのだ。剣に生きる人間が剣で死ぬのは本望であるばかりでなく、乱脈なさむらい道のために、進んで卑怯な敵を迎えて死ぬのだ。その後からそなたがともに死ぬ――その気持はうれしいが、それがなんの役に立とうか。虫のように哀れに生きて、虫のように儚はかなく死んでどうするのか」

――見ればお通はふたたび大地に伏して泣いている様子なので、武蔵は、自分のことばのあまりに激し過ぎていたのに気づき、膝を折って、声を落し、

「だが、お通さん。……考えてみると、わしは知らず識しらず、そなたに嘘をついてきた。千年杉の時から、花田橋の時から、欺あざむく気持ではなくても、形はそうなって来てしまった。そして酷ひどい冷たい態さまを装よそおって来た。わたしはもう一刻後には死ぬ身だ。お通さん、今いう言葉は嘘ではない。わしはそなたが好きだ。一日でも思わぬ日のなかったほど好きだった。……なにもかも捨ててともに暮して終りたいとどれほど思い悩んだかしれない。――そなた以上好きな、剣というものがなかったら」

九

ことばを休めて、

「お通さん!」

とさらに、ことばに力をこめ直して、武蔵はなおいった。

いつも無口で無表情な彼がめずらしく感情のなかに没し切って、

「鳥将まさに死なんとするやだ。将まさに死なんとしているこの武蔵だ。お通さん、わしの今いう言葉には微塵みじん、嘘も衒てらいもないことを信じてくれ。――羞恥はじも見得みえもなくわしはいう。今日まで、お通さんのことを思うと、昼もうつつな日があった。夜も寝ぐるしくて熱い熱い夢ばかりに悩まされ、気の狂いそうな晩もあった。お寺に寝ても野に伏しても、お通さんの夢はつき纒まとい、しまいには薄い藁わらぶとんをお通さんのつもりで抱きしめて歯がみをして夜を明かした晩すらある。それほどわしはお通さんに囚とらわれていた。無性にお通さんには恋していた。――けれど。――けれどそんな時でも人知れず剣を抜いて見ていると、狂おしい血も水のように澄んでしまい、お通さんの影も、霧のようにわしの脳裡から薄れてしまう……」

「…………」

お通はなにかいおうとした。蔓草つるくさの白い花みたいに、嗚咽おえつしていた面おもてをあげたが、武蔵の顔が、恐ろしいほど真面目な熱情に硬こわばっているのを見ると、息づまって、再び地へ顔を打ち伏せてしまった。

「――そしてまた、わしは剣の道へ、身も心も打ち込んで行ったのだ。お通さん、この境さかいが、武蔵の本心だった。つまり恋慕と精進の道のふた筋に足かけて、迷いに迷い、悩みに悩みながら、今日までどうやら剣の方へ身を引ひき摺ずって来た武蔵だった。――だからわしは、誰より自分をよく知っている。わしは偉い男でも天才でもなんでもない。ただお通さんよりも、剣の方が少し好きなのだ。恋には死にきれないが、剣の道にはいつ死んでもいい気がするだけなのだ」

なにもかも正直に――少しの嘘もなく、武蔵は自分の本心を――心の奥底まで、今こそいってしまおうとするのであったが、いたずらに、言葉の美飾と、感情の顫ふるえのみが勝ってしまって、まだまだ、正直にいいきれないものが、胸につかえているようでならなかった。

「だから、人は知らないが、お通さん、武蔵という男は、そんな男なのだ。もっと、露骨にいえば、そなたのことを考え出して、ふと囚とらわれているときは、五体も焦やかれる気がするが、心が、剣の道に醒さめると、お通さんのことなんか、頭の隅へすぐ片づけてしまう。いや、心の隅にも失くなってしまう。この体、この心の、どこをさがしたって、お通さんの存在などは芥子粒けしつぶほどでもなくなってしまうのだ。――また、その時が、武蔵はいちばん楽しくて生きがいのある男となって歩いていたのだ。――わかったろう、お通さん。そういうわしに向って、お通さんは、心も体もすべてを賭として、今日まで一人で苦しんで来ている。すまないと心では思っても、どうしようもない。……それが自分なのだから」

――不意に、お通の細い手は、武蔵の逞しい手頸てくびを掴つかんだ。

もう眼は泣いていなかった。

「……知ってます! そ、そんなことぐらい……そういう貴方あなたであるぐらいなこと……し、しらないで……知らないで恋をしてはまいりませぬ」

「さすれば、わしがいうまでもなく、この武蔵と共に死のうなどという考えはつまらぬことと分っておろうが。わしという人間は、こうしているわずかな一瞬ときこそ、なにも思わず、そなたに心も身も与えているが――一歩別れて、そなたの側を離れれば、そなたのことなど、おくれ毛一筋ほどにも心に懸けていない人間。――そういう男に縋すがって男の死を追って、鈴虫のように死んではつまらぬことではないか。女には女の生きる道がある。女の生きがいはほかにもある。――お通さん、これがお別れのわしのことばだ。……では、もう時刻もないから――」

武蔵は、彼女の手をそっと解といて、立ち上がった。

十

解かれた手は、またすぐその袂たもとを追って、

「武蔵様、待って」

と、かたく縋すがった。

さっきから彼女にも、いいたいものが胸いっぱいに閊つかえていた。

武蔵が、

(虫のように生きて、虫のように死ぬ女の恋には、死の意義がない)

といったことばや、

(一歩、おまえから離れれば、わしはおまえのことなど、頭の隅にも置いていない男だ)

といったような言葉にも、お通は決して、そんなふうに武蔵を見て、穿はき違えた恋をしているのではないことをいいたかったが、なんとしても、

(もう二度と会えなくなるのだ)

と思うさし迫った感情に克かてなかった。それ以外のなにもいえなかったと、理性することもできなかった。――で今、

「……待って」

といって、袂たもとを引き留めたものの、やはりお通も、不可抗力なものでただ纒綿てんめんと泣くだけの女性をしか示すことが出来なかったのである。

しかし、いおうとすることのいえない――弱さの美しさ――単純なる複雑さ――に対して、武蔵も乱れずにいられなかった。彼の恐れている自分の性格の中の最も大きな弱点が、今、暴風のなかの根の弱い木みたいに揺すぶられていた。ともすればここまで持ち続けて来た「道への節操」も、地崩れのように、彼女の涙とともに泥になってなだれてしまいそうな気持がする。その気持を彼は恐怖する。

「わかったか」

武蔵が、ただいう言葉のためにそういうと、

「わかりました」

お通は微かに――

「けれど、わたくしはやはり、あなたがお死にになれば、後から死にます。男のあなたが、欣よろこんで死ぬる以上に、女のわたくしにも、死の意味が抱いて逝かれるのでございます。けっして虫のように――また一時の悲しみに溺れて死ぬのではございません。ですから、それだけはお通の心にまかせておいて下さいませ」

乱れずにいった。

そして、もう一言、

「あなたは、わたくしのような者でも、心のうちだけでも、妻としてゆるして下さいますでしょうね。もう、それだけでわたくしは、すべての望みが満ち足りました。……この気持、大きな歓び、それはわたくしだけの持っていられる幸福です。あなたはわたくしを、不幸にしたくないからと仰っしゃいましたが、わたくしは決して、不幸に敗れて死ぬのではございません。――わたくしを見る世の中の人達が、皆わたくしを不幸だといっても、わたくし自身は、ちっとも、そんな不幸ではないのでございます――むしろ、ああなんといっていいだろう、死の夜明けが、楽しみで待ち遠で、朝の小鳥の音ねの中に死んで行く身が――花嫁のようにいそいそ待たれてなりません」

長くものをいうと、息が喘きれるのであろう。彼女は自分の胸を抱きしめて、そして、夢みるように幸福な眼をあげた。

残のこんの月はまだ白々としていて少し樹々に霧は立たち初そめたが、夜明けにはまだ間まがあった。

――すると。

ふと彼女の眸を上げた崖の上の方で、

「キャーッ!」

突然、樹々の眠りをさまして翔かける怪鳥けちょうのように、一声、女の鋭い悲鳴がつんざいた。

たしかに女の絶叫だった。

さっき城太郎が、その崖の道を上へ登って行ったはずではあるが、その城太郎の声では決してなかった。

十一

凡事ただごととも思われない。

誰の叫びか。また、何事が起ったのか。

われを呼び醒さまされたように、お通は眼をやって、霧のかかっている峰の頂いただきを仰いでいたが、その機しおに武蔵は、つと彼女の側を離れ、

(おさらば)

ともいわず――彼方かなたの死地へさして行く足を大股に急ぎかけていた。

「あっ、もう……」

お通が十歩追うと、武蔵も十歩駈けて、そして振顧ふりかえった。

「お通さん、よく分った。――だが犬死をしてはならないぞ。不幸に追い詰められて、死の谷間へ辷すべり落ちて行くような、弱い死に方をしてはならないぞ。も一度その体を健康に戻してから、健康な心でよく考えてみるといい。わしだってこれから無駄に生命いのちを捨てに急ぐわけじゃない。永遠の生をつかむために一時、死のかたちを取るだけのことだ。――わしのあとに従ついて死んでくれるよりは、お通さん! 生き残って永い眼で見ていてくれ、武蔵の体は土になっても、武蔵はきっと生きているから!」

いい続けた息のまま、武蔵はもう一言、

「いいか、お通さん! わしの後に従ついて来るつもりで、見当ちがいな方へ一人で行ってしまうなよ。わしの死んだという形を見て、武蔵を冥途めいどに捜しても、武蔵は冥途には行っていない。武蔵がいるところは、百年後でも千年後でも、この国の人間の中だ、この国の剣の中だ。他ほかにはいない」

いい捨てると、もう、お通の次のことばが届かない方まで、彼の姿は遠ざかっていた。

「…………」

茫然とお通は残っていた。遠く去ってゆく武蔵の影は、自分の胸から抜け出した自分自体であるような心地だった。――別れという悲しみは、二つのものの離散から生じる感情なので、お通の今の気持には、別れの悲しみというような、そんなべつべつな意識の悲しみは持てなかった。ただ、大きな生死の濤なみに持って行かれようとしている彼身此身かのみこのみの、ひとつ魂にふと戦慄の眼をふさぐだけだった。

――ざ、ざ、ざ、ざ

とその時、崖の上から、土ころが彼女の足元まで崩れて来た。すると、その土音を追いかけるように、

「――わあっ」

と城太郎が、木や草を掻分かきわけて飛び下りて来た。

「まあっ!」

お通でさえ、ぎょっとした。

なぜならば、城太郎少年は、奈良の観世の後家からもらった鬼女の笑仮面わらいめんを、こんどは烏丸家へ帰らないものと思って大事にふところへ所持して出かけて来たらしく、見ると今、その仮面めんを顔にかぶって、

「ああ、驚いた!」

と、ふいに眼の前へ立って、両手を挙げたからである。

「なんですっ? 城太さん」

お通が問うと、

「なんだか、おいらも知らないけど、お通さんにも聞えたろ。キャーッっていった女の声がさ」

「城太さんは、それをかぶって、どこにいたの」

「この崖をずっと登って行ったら、そこにもこのくらいな道があってね、その道のもっと上の方に、ちょうど坐りいい巨おおきな岩があったから、そこに腰かけて、ぽかんと、お月様の落ちて行くのを見ていたのさ」

「それをかぶって?」

「うん、……なぜっていえば、そこいらでやたらに、狐が啼ないたり、狸だか狢むじなだか知れない奴がゴソゴソするから、仮面めんをかぶって威張っていたら寄りつけまいと思ったからさ。――するとね、どこかでふいにキャーッという声がしたんだ。なんだろうあの声は。まるで針の山からきた木魂こだまみたいな声だったぜ」

はぐれた雁かり

一

東山から大文字の麓ふもとあたりまではたしかに方角はついていたが、いつのまにか道を間違えていたとみえ、一乗寺村へ出るにはすこし山へ入り過ぎていた。

「これさ、なぜそうせかせか急ぐのじゃ。待たぬかよ。又八、又八」

先へ行く息子の足に遅れがちになると、お杉婆は、意地も我慢もなくなったように後から喘あえいでいう。

聞えよがしに、舌打ちして、

「なんだ口ほどもない。宿を立つ時、なんといっておれを叱りとばしたか」

待ってやらないわけにもゆかないので、又八はその度ごとに、足を止めて待ちはするが、こんな時とばかり、後からやっと追いついて来る老母ははを頭からやりこめた。

「なにをそう不機嫌にわしへ当りちらすのじゃ、汝わが身のように、生みの親のいうことを、いちいち根に持って遺恨がましゅう当る者がどこにあろうぞ」

皺しわの中の汗を拭いて、ほっと一息休もうとすると、又八の若い足は、立っている方が辛いので、もう直ぐ先へ歩き出すのだった。

「これ待たぬか。少し休んで行こうぞよ」

「よく休むなあ、夜が明けてしまうぜ」

「なんの、まだ朝までにはだいぶある。常ならば、これしきの山道、苦にもせぬが、この二、三日は風邪かぜ気味か体が気懈けだるうて歩くと息が喘きれてならぬ。悪い折にぶつかったものよ」

「まだ負け惜しみをいってるぜ。だから途中で、居酒屋をたたき起して、人が折角親切に休ませてやろうとすれば、そんな時には、自分が飲みたくねえものだから、やれ時刻が遅れるの、さア出かけようのと、おれがおちおちと酒も飲まねえうちに立ってしまうしよ。いくら親でも、おふくろぐれえ交際つきあい難にくい人間はねえぜ」

「ははあ、ではあの居酒屋で、汝わが身に酒を飲ませなかったというて、それを、まだ怒っていやるのか」

「いいよ、もう」

「わがままも程にしたがよい、大事をひかえて行く途中だぞよ」

「といったところでなにもおれたち母子おやこが刃やいばの中へ飛びこむわけじゃなし、勝負のついた後で吉岡方のものに頼み、武蔵の死骸へ一太刀恨んで、手出しのできない死骸から、髪の毛でも貰って故郷くにの土産みやげにしようというだけのものじゃねえか、大事も大変もあるものか」

「ままよいわ、ここで汝わが身と、母子おやこ喧嘩をしてみても始まるまいでの」

歩き出すと――又八はぶつぶつ独り語ごとに、

「ああ、ばかばかしいな。他人の殺した死骸から証あかしを貰って、これでめでたく本懐を達してございと故郷くにへ帰って披露する。故郷の奴らは、どうせあの山国、他ほかへ出たことのない人間ばかり、本気になって目出度めでたがることだろうが……嫌だなあ、またあの山国で暮すのは、考え出してもぶるぶるだ」

灘なだの酒だの都の女だの、又八の知った都会生活のあらゆるものが彼に未練をささやいてやまなかった。まして彼にはまだそれ以上の執着がこの都会にある。あわよくば、武蔵の歩いた道以外の道を見つけ、とんとん拍子に立身して、まだ不足な物質の世界の体験にその身を飽満させて、人間の生れがいをそこに自覚してみたいという――彼らしい希望さえまだ決して捨ててはいない。

(ああ嫌だ。ここから見てさえ町中が恋しい)

いつの間にやらまた、お杉婆はだいぶ後に取り残されていた。宿を立つ前から体が懈だるい懈いといっていたが、まったく幾らか体の調子が悪いのかも知れない。とうとう我がを折ったように、

「又八、少し負うてくれぬか。後生だによって、少し負うてくれい」

といった。

又八は、顔を顰しかめた。

面つらを膨ふくらませたまま、返辞もせずに待っていたのである。すると、お杉婆も彼もぎょっとしたように耳を欹そばだてた。――先に城太郎も驚き、お通も聞いた、あの針の山の悲鳴に似た女の叫びを、この母子おやこも聞いたのであった。

二

どこともわからない、たった一声したきりの悲鳴だった。次の悲鳴がしたら声の方角も的確に知れよう。――それを待つもののように、又八も婆も、じっと空虚うつろな顔して、疑惑の中に立ちすくんでいた。

「……あっ?」

突然、お杉婆がこういったのは、その不審な悲鳴がまた聞えたのではなく、なに思ったか、又八が不意に、崖の角につかまって、そこから谷へ降りて行こうとする様子を見たからであった。

「ど、どこへ行くのじゃ」

あわてて、咎とがめると、

「この下の沢だ」

もう崖道へ身を沈めかけながら又八がいう。

「おふくろ、ちょっと、そこに待っていてくれ。――見て来るから」

「阿呆あほう」

お杉婆は、つい、いつもの口癖を出して、

「なにを捜しに行くのじゃ、なにを? ……」

「なにをッて、今、聞えたじゃねえか、女の悲鳴が」

「そんなもの尋ねてどうする気かよ。――あれっ、阿呆、止やめいというに、止めいというに」

上から婆が喚おめいているまに、又八は耳もかさず、木の根にすがりながら深い沢へ降りてしまった。

「ばっ、ばか者っ」

と月へ罵ののしっている老母のすがたを、又八は深い沢の底から、木この間ま越しに見上げていた。

「――待ってろようっ、そこで」

下から呶鳴ったが、その声がお杉には届いて行かないほど、彼の降りて来た崖は深かった。

「はてな?」

又八はすこし後悔した。たしかにさっきの悲鳴はこの沢の辺りのように思われたが、もし違っていると、無駄骨を折ることになる。

――しかし月の光も届かないほどなこの沢も、よく眼を働かしてみると小道がある。山といっても元よりこの辺りの山なのでそう深かろうはずはない。それに京都から志賀の坂本や大津へ通う近道でもあるので、どこへ降りても市人いちびとの踏んだ足の痕あとが必ずついている。

さらさらと小さな滝や瀬になって落ちてゆく水に従ついて、又八は歩いて行った。すると、その流れを横断して左右の山の中腹へわたっている一筋の道があった。彼が発見したのは、ちょうどその道筋にあたっている渓流の側であった。

石魚いわな突きの寝泊りする石魚小屋かも知れない。ほんの人間ひとり入れるぐらいなほッ建小屋がそこにある。――その小屋の後ろに這はい屈かがまっている人間の白い顔と手とをちらと見たのである。

「……女だ?」

又八は、岩の蔭にかくれた。さっきの悲鳴も、女のであればこそ彼は猟奇な興奮に駆られたのである。男の声であったら最初からこんな沢へ降りては来ないだろう。――それが今、その正体を窺うかがってみると、確かに女で、しかも若いらしい。

――何をしているのか?

と最初は疑っていたが、見ていると、疑いはすぐ解けた。女は、流れのそばへ這い寄って、白い掌てに水を掬すくって、唇くちへ移しているのであった。

三

びくっと、女は鋭感に振ふり顧かえった。又八の跫音あしおとを、昆虫のように体で感じて、すぐ起たちかけそうな眼であった。

「――おやっ?」

又八が、声を放つと、

「あっ?」

女も同じように驚いていった。しかしそれは、恐怖から救われたような声だった。

「朱実あけみじゃねえか」

「……あ、あ」

そこの谷川で飲んだ水が、やっと今、胸へ下がったように、朱実は大きく息をついた。

けれどまだ何処かおどおどしているその肩をつかまえて、

「どうしたんだ朱実」

又八は、彼女の脚から顔を見上げて、

「おめえも、旅支度だな、旅へ立つにしても、こんな所を今頃――なにしに歩いているのだ」

「又八さん。あなたのおっ母さんは?」

「おふくろか、おふくろは、この谷間の上に待たせてある」

「怒っていたでしょう」

「あ、路銀のことか」

「わたしは急に、旅立ちしなければならなくなったのです。けれど、旅籠はたごの借銭も払えないし、路用のお金もないので、悪いことと知りながら、おばばさんの荷物と一緒にあった紙入れを、つい出来心で、黙って、持って来てしまった。……又八さん、堪忍してください。そして、わたしを見逃して下さい。きっと後で返しますから」

さめざめと泣き声の裡に、朱実が謝るのを、又八はむしろ意外な顔して、

「おい、おい。なにをそう謝るのだ。……アア分った。俺とおふくろが二人して、おめえを捕まえるために、ここへ追いかけて来たと勘違いしているんじゃねえか」

「でも、わたしは、出来心にしろ他人ひと様のお金を盗とって逃げたんですから、捕まれば、泥棒といわれても仕方がありませんもの」

「それやあ、俺のおふくろの云い草だ。俺にとれば、あれぐらいな金、おめえが真実困っているならこっちからやりたいくらいだ。なんとも思っちゃいねえから、そんな心配はしないがいい。――それよりはなんのために、急に旅支度して、こんな所を今頃歩いているのか」

「旅籠はたごの離れで、あなたがおっ母さんに話していたことを、ふと、蔭で聞いていたものですから」

「フーム、すると、武蔵と吉岡勢との、きょうの果し合いの一件だな」

「……ええ」

「それで急に、一乗寺村へ行くつもりでやって来たのか」

「…………」

朱実は答えなかった。

一つ家に暮していた頃から、朱実が胸に秘かくしていたものは何か、それは又八もよく知っていた。――で彼は、深くは問わずに、

「そうそう」

急に言葉を変えて、

「今し方、この辺で、キャーッという悲鳴が聞えたが、あれはもしや、おめえの声ではなかったか」

と、この沢へ降りて来た目的に返って、そう訊くと、

「エ。わたしでした」

朱実はうなずいた。

そしてまだなにか、恐怖の夢でも見ているように、この沢の窪くぼから突兀とっこつと空に黒く見えている山の肩を振り仰いだ。

四

そこでその事実を、彼女自身が話すところによると、こうである。

――つい今し方のこと。

彼女が、この沢の渓流を越え、そしてここからも見える眼の前の――突兀とっこつとした岩山の中腹までかかって行くと、ちょうどその山肌の肋骨あばらの辺りになる岩頭に、世にも怖ろしい妖怪が腰かけていて、月を眺めていたというのである。

真面目には聞かれない話のようだが、朱実は真面目になって、

「遠くから見たんですけれど、体は侏儒こびとみたいに小さいくせに、顔はといえば、大人並の女なのです。そして顔は、白いのを通り越して何ともいえない色を帯び、唇くちは耳までキュッと裂けていて、しかも、私の方を見て、ニヤリと笑ったような気がしたんです。――思わずその時、私はキャッと叫んでしまったものでしょう。無我夢中でした。気がついた時は、この沢に辷すべり落ちていたんです」

と、いう。

いかにも恐かったように、朱実がそう話すので、又八は、笑うまいとしながらもつい、

「ハハハハ。なアんだ」

と、揶揄やゆして、

「伊吹山のふもとで育ったおめえが、恐こわいなんていうと、化け物のほうで顔負けするだろう。燐りんの燃えている戦場いくさばを歩いて、死骸の太刀や鎧よろいを剥はいだことさえあるじゃねえか」

「でも、あの頃は、恐いこともなにも知らなかった子供ですもの」

「まんざら子供でもなかったらしいぜ。その頃のことを、いまだに胸に想って、忘れ切れずにいるのを見ても」

「それやあ、初めて知った恋ですもの。……だけどもう、私はあの人を、諦あきらめてはいるんですよ」

「じゃあなぜ、一乗寺村へなど出かけて行くのか」

「そこの気持が自分にも分らないんです。ただ、ひょっとしたら武蔵様に会えやしないかと思って」

「無駄なこった」

ひどくそこで、又八は言葉に力をこめ、万に一つも勝目のない武蔵の立場と、相手方の情勢とをいって聞かせた。

すでに清十郎から小次郎と――幾人かの男性を通って、処女しょじょであったきのうの自分が、もう思い出のものになっている彼女には、武蔵を考えたり想ったりすることも、もう処女おとめであった頃のように、未来の花を夢想して考えることはできなくなっていた。肉体的にその資格を失った自分を冷たく諦観ていかんして、死にはぐれ、生きはぐれながら、次の道をさがしている迷える雁かりの一羽に似ていた。

だから彼女は、又八から、武蔵が今刻々、死の危機へ近づいている様子を如実にょじつに聞いても、泣くほどな気持にはなって来なかった。――ではなぜ、こんなところまで、恋々と彷徨さまよってきたかと訊かれれば、その矛盾むじゅんも説明することのできない彼女であった。

「…………」

行くての方角を失ったような眸をして、朱実は、又八のことばを、夢うつつに聞いていた。又八は、その横顔を黙って見ていた。――なにかしら彼女の彷徨さまよっている所と、自分の彷徨っている所とが、似ているように思われてならない。

(この女は道づれを捜している――)

そう見える白い横顔だった。

又八は、ふいに、彼女の肩を抱えた。そして顔を押しつけるようにして、

「朱実。江戸へ逃げないか……」

と、囁ささやいた。

五

朱実は、息をのんだ。

疑うように、又八の眼をじっと見つめ、

「え。……江戸へ?」

ふと、自分に返って、現実の境遇を見直すように反問した。

彼女の肩へ廻している手に、又八はそっと力をこめて、

「なにも江戸表とは限らないが、人の噂に聞けば、関東の江戸表こそこれからの日本の覇府はふになるだろうという話だ。今までの大坂や京都はもう古い都とされ、新幕府の江戸城を繞めぐって、新しい町がどしどし建っているそうだ。――そういう土地へ行って逸早く割り込めばきっとなにかうまい仕事があるだろう。おめえも俺も、いわば群れからはぐれた迷い雁がりだ。……行かないか。……行ってみないか。……え、朱実」

囁かれている彼女の顔がだんだん熱心に聞いていた。又八はなお口を極めて、世の中の広さや、自分たちの若い生命いのちを称たたえて、

「面白く暮すんだ、したいことをして送るんだ。それでなけれや生れた甲斐はない。もっと俺たちは図太い肚を持とうじゃねえか。線の太い世渡りをしなけりゃあ嘘だ。生半可なまはんか、正直に、善良にと、量見を良くしようとするほど、却って運命ッて奴は、人を弄なぶったり皮肉ったり、ベソを掻くようなことばかり仕向けて来やがって、碌ろくな道は拓ひらけて来やしねえ。……え、朱実、おめえだってそうじゃねえか。お甲っていう女にしろ、清十郎という男にしろ、そんな者の餌えになって、食われているから悪いのだ。食う人間にならなけれやあ、この世は強く生きちゃ行かれねえぜ」

「…………」

朱実は心を動かされた。よもぎの寮という家から離れ離れに世間へ巣立って、自分はその世間に虐さいなまれて来ただけであるが、さすがに又八は男だけあって、以前よりもどこか慥しっかりしたところが人間に出来てきたように思われた。

けれど、彼女の頭のどこかに、まだ捨て難い幻影がちらちらしていた、それは武蔵の影であった。焼けた家の焼け跡へ行って灰でも眺めてみたいとする――愚かな執着にそれは似ていた。

「嫌か」

「…………」

黙って、朱実はかぶりを振った。

「じゃあ、行こう。嫌でなければ――」

「だけど、又八さん、おっ母さんは、どうするつもり?」

「ア。おふくろか」

又八は、彼方あなたを見上げて、

「おふくろは、武蔵の遺物かたみさえ手に入れれば、一人で故郷くにへ帰って行くさ。あのまま姥捨山うばすてやまのようなところに置き去りを食ったと知ったら、一時はかんかんに怒るだろうが、なあに今に俺が出世してやればそれで埋め合せはつく。――そうきまったら、急ごうぜ」

意気込んで、先へ歩いて見せると、朱実はまだなにか躊躇ためらって、

「又八さん、ほかの道を行きましょう、その道は」

と、竦すくんでいう。

「なぜ」

「でも、その道を登って行くとまた、あの山の肩に」

「アハハハ。口が耳まで裂けている侏儒こびとが出るというのか。俺がついているから大丈夫だ。……アッいけねえ。お婆の奴が彼方むこうで呼んでやがる。侏儒こびとの妖怪ばけものよりゃあ、おふくろの方がよっぽど怖いぞ。朱実、見つかると大変だ、早く来いっ」

――駈け上がって行く二つの影が岩山の中腹ふかく隠れ去った頃、待ちくたびれたお杉婆の声が谷間の上で、

「せがれようっ……又八ようっ……」

空しく彷徨さまよい歩いていた。

生死一路しょうしいちろ

一

チチ、チチ、チチ……

畷なわての大藪おおやぶに風が立ちそめて来た。風につれて、小禽ことりが立つ。しかしまだその鳥影も見えぬほど朝は暗いのである。

前に懲こりているので、佐々木小次郎は、

「わしだぞ。立会人の小次郎なるぞ」

こう断りながら、大息を喘きって、雲母越きららごえの十町畷なわてを魔のように駈け、下さがり松まつの辻までやがて来た。

跫音に、

「や、小次郎殿か」

四方に潜ひそんでいた吉岡勢は、まったく痺しびれの切れたような顔をして、彼の周囲をすぐ真っ黒に取り囲んだ。

「まだ見えませぬかの、武蔵奴めは――」

壬生みぶの源左老人の問いに、

「いや、出会った」

と、小次郎は語尾を上げ、その言葉に衝かれ、さっと自分へあつまる視線のひらめきを冷たく見廻しつつ、

「出会ったが、武蔵の奴、どう思ったか、高野川から五、六町ほど連れ立って歩くうちに、不意に姿を消してしもうたのです」

いいも終らず、

「さては、逃げたなっ」

これは御池十郎左衛門だった。

「いや!」

と、その動揺どよめきを抑えて、小次郎はいいつづけるのだった。

「落着き澄ました彼の容子ようす、また、わしにいった言葉のふしや、その他を考え合せてみるに、姿は消したが、どうも、あのまま逃げ去ったものとも考えられぬ。――思うに、この小次郎に知られては具合のわるい奇策を用いるため、わしを撒まいたものと思われる。油断は決してなりませぬぞ」

「奇策。――奇策とは?」

無数の顔が、彼を囲んで、彼の一言半句も聞き洩らすまいとするように犇ひしめいた。

「おおかた武蔵の助太刀のものたちが、どこかに屯たむろしていて、彼を待ち合せ、それと合してここへ襲よせて来るつもりではないかと思う」

「ウウウム。……それはありそうなことじゃ」

源左老人が呻うめくと、

「しからば、ここへ来るのも、もう間はないな」

十郎左衛門は、そういうと、持ち場を離れたり、樹の上から降りて集まって来た味方へ、

「戻れ戻れ。備えを崩しているところへ、武蔵方が不意に虚を衝いて来ようものなら、出鼻に不覚を取ってしまう。どれほどの助太刀を率ひき具ぐして参るかはしらぬが、いずれ多寡たかの知れたもの。手筈を過あやまたず討ち取ってしまえ」

「そうだ」

めいめいも、気づいて、

「待ちくたびれて、心に弛ゆるみの起る時が油断だ」

「部署につけ」

「おう、抜かるな」

いい交わしながらばらばらと分れて、再び、藪の中や樹蔭や、また、飛道具を携えて梢こずえの上へ影をかくした。

小次郎はふと、下り松の根方に、藁わら人形のように立っている源次郎少年を見て、

「眠いか」

と訊いた。

源次郎は強く、

「ううん」

首で否定して見せた。

その頭つむりを撫でてやりながら小次郎は、

「では寒いのか、唇の色が紫いろしているではないか。其許そこもとは吉岡方の名目人で、つまりきょうの果し合いの総大将だからの、確乎しっかりしていなければいかんぞ。もうすこしの辛抱、も少し経つと、面白いものが見られるからな。……どれ、わしもどこか地の利のよいところで」

と、いい捨ててそこを立ち去った。

二

――一方、思い合せると、ちょうどその時刻。

志賀山と瓜生山うりゅうやまの間あいノ沢さわあたりで、お通から別れ去った宮本武蔵は、

(ちと遅くなった!)

と、その遅刻した差を取り戻そうとするかのように、急に脚を早め出していた。

下り松での出会は、寅とらの下刻と約してある。この頃の日の出はおよそ卯うの刻過ぎであるからまだ暗いうちなのだ。場所が叡山道えいざんみちで三道の辻に当っているし、夜が白めば、当然往来人もあるからその点なども時間に考慮されていることはいうまでもない。

(お、北山御房ごぼうの屋根だな)

武蔵は、脚を止めた。そして自分の今踏んでいる山道のすぐ真下に見える伽藍がらんをのぞいて、

(近い!)

と感じた。

そこから下り松の辻まではもう七、八町しかない。北野の裏町から歩き出した距離も遂にここまでちぢまった。この間に月も彼とともに歩いていた。山の端にかくれたのか朝の月影はもう見えなかった。――しかし、三十六峰の懐ふところに重たく眠り臥している白雲の群れが、遽にわかに、漠々ばくばくと活動を起して天そらに上昇しはじめたのを見ても、天地は寂じゃくとした暁闇ぎょうあんのうちにすでに「偉大なる日課」へかかっていることが分る。

その偉大なる日課のまっ先に、もう幾つか呼吸する間に、自分の死が、一片の雲よりも淡く、その気象の中から消されてゆくのか――と武蔵は雲を仰いで思う。

雲の抱く巨おおきな万象の上から見れば、一匹の蝶の死も一個の人間の死も、なんらの変りもないほどなものでしかない。――けれど人類の持つ天地から観みれば、一個の死は、人類全体の生に関かかわってゆくのだ。人類の永遠な生に対して、よい暗示か、悪い暗示かを、地上へ描いてゆくことになる。

(よく死のう!)

と、武蔵はここまで来た。

(いかによく死ぬか?)

に彼の最大の最後の目的はあるのだった。

――ふと水音が耳につく。

一気に、ここまで脚を早めて来たので、彼は渇かわきを思い出した。岩の根へ屈かがんで水をすすった。水のうまさが舌に滲しみる。彼は自分で、

(おれの精神は紊みだれてない)

ということをそれでも知った。そして直前の死そのものへ対して、少しも卑屈を感じない自己をすずやかに思った。今こそ、自分の胆たんは踵かかとにこもっているという感。

――だが、足を止めて、一息つくとすぐ、なにかしら後ろで自分を呼ぶものがあった。お通の声である。また、城太郎の声である。

(元より気のせいだ)

そう彼は知っている。

(取り乱して、後を追って来るような女ではない。わかり過ぎるほど、自分の心もわかっている女だけに――)

ということも彼は知っている。

けれどそのお通が後ろから声をふり絞って来るような気持が、なんとしても頭から払えなかった。

ここまで駈けて来る間にも、ともすると振向いてみた。今も、足を止めるとすぐ、意識のうちに、

(もしや?)

と、耳はそれへ傾いてしまう。

時刻に遅れることは、約束を違たがえたといわれるのみでなく、彼として、戦う上に損である。無数の敵の中へ、単騎で斬り入るには、ちょうど月も落ち、夜もまだ明けきらないという、暁闇の一瞬こそ彼にとって利がある。勿論、武蔵もその考えで脚を急いで来たのであるが、また一つには、うしろ髪を引くようなお通のあらぬ声や姿を、心から振り捨てるためにも、ここまで眼をつぶるような気持で急いで来たものであろう。

三

外敵はこれを粉砕するも易やすし、心の敵は敗やぶるよしなし。――武蔵はふとこの言葉に思い当って、

(くそっ、こんなことで)

と、心に鞭むちを加え、

(女々めめしい!)

お通のことなど、塵ちりほども胸に止めまいとした。

さっき袂たもとを振り切る時、そのお通に向っても、いったばかりではないかと恥じる。

(男が男の使命に向って、挺身する時は、恋など、頭の隅にもおいていないのだ――)と。

そういいつつ今、果たして自分の頭の中から、お通のことは捨て切っているのだろうか?

(なんたる未練だっ)

心の中から、お通の幻影を蹴とばして、そしてそれから遁のがれ去るように、彼はまた、驀まっしぐらに駈けていた。

――と、眼の下の大竹藪からさらにずっと山裾へかけて展ひらけている樹林や畑や畷なわてを縫って、一筋の白い道が見えた。

「おっ!」

すでに近い。――一乗寺下さがり松まつの辻は近い。その一筋の道を眼で辿たどってゆくと、およそ二町ほど先の所で、他ほかの二筋の道と結び合っている。乳いろの霧の微粒が静かにうごいてゆく空に、傘枝かさえだを高くひろげた目印の松が、もう武蔵の目にも見えたのである。

――はっと、彼は地へ膝をついた。背うしろにも、前にも、いやこの山の樹木すら、すべて敵かのように、彼の五体は闘志のかたまりとなった。

岩の蔭、樹の蔭と、蜥蜴とかげのように素迅すばしこく身を移しつつ、下り松の真上に当る高地まで来たのであった。

(ウム、いるな!)

そこからはさらに近々と、辻にかたまっている人影までが幽かすかに読まれた。ちょうど松の根元を中心にして、十人ほどの一塊ひとかたまりが、霧の下にじっと槍を立てている――

どうっ――と山巓さんてんからふき颪おろしてくる暁闇の大気が、武蔵のからだへ雨かとばかり雫しずくを落し、松のこずえや大竹藪を潮騒しおさいのように山裾へ翔かけてゆく。

霧の下り松は、その傘枝を震わせて、なにか予感を、天地へ告げているようだった。

眼に見えた敵の数はわずかであるが、武蔵は、満山満地がみな敵の居場所に感じられた。すでに死界の中に来ている肌心地だった。手の甲まで鳥肌になっていた。呼吸はおそろしく深く静かに、足の指の爪までがもう戦闘しているのである。ジリジリと、一歩一歩にすすむ足の指が、掌ての指にも劣らない力で、岩の間を攀よじ登っていた。

――すぐ眼の前に、古い砦とりでの址あとででもあるような石垣があった。彼は岩山の腹を伝わって、その小高い地域へ出た。

見ると、麓の下り松のほうへむかって、石の鳥居がある。周囲は喬木と防風林でかこまれていた。

「オ。……お社やしろだ」

彼は、拝殿の前へ駈けて行くなりそこへひざまずいた。何神社とも思わず無意識にべたと両手をついていた。折も折、心魂のおののきを彼も禁じ得なかった。――真っ暗な拝殿のうちに、一穂すいの御明みあかしは消えなんとしながら消えもせず、颯々と風の中にゆらいでいた。

「――八大神社」

彼は、拝殿の額を仰いで、大きな力を味方にもったような気がした。

「そうだ!」

ここから真下の敵へ逆落さかおとしに斬り入ってゆく自分の背うしろには神があるとする強味――神こそはいつも正しきものに味方し給うものという強味――むかし信長が桶狭間おけはざまへ駈けてゆく途中でも熱田の宮へぬかずいたことなども思い合わされて、なんとなく欣うれしい吉瑞きちずい!

彼は、御手洗みたらしの水で口漱くちすすいだ。さらにもう一杓子ひとしゃくし含んで、刀の柄糸へきりを吹き、わらじの緒おにもきりを吹いた。

手ばやく革襷かわだすきをかけ、鬢止びんどめの鉢巻を木綿で締めた。そして足を踏み馴らしながら神前に戻って、拝殿の鰐口わにぐちへ手をかけた。

四

――手をかけて。

(いや! 待て)

と武蔵は、手を離した。

縒より合せた紅白の色も分らぬほど古びている木綿の綱――鰐口わにぐちの鈴から垂れている一条の綱――

(恃たのめ、これに縋すがれ)

といわないばかりな。

しかし、武蔵は自分の胸に、

(自分は今、ここへ、なにを願おうとしたのか)

をたずねてみて、はっと、手を竦すくめてしまったのであった。

(もう宇宙と同心同体になっているはずの自分ではないか!)

と思う。

(ここへ来るまでに――いや常々から、朝あしたに生きては夕べに死ぬる身と、死に習い死に習いしていた身ではないか)

と、われを叱る。

それが今、計らずも、平常へいぜいの鍛錬を、ここぞと思う間際に当って、一穂すいの明りを仰ぐと、なにか、暗夜に光でも見つけたように、欣しげに心は揺れ、手はわれを忘れて、この鰐口わにぐちの鈴を振り鳴らそうとしている。

さむらいの味方は他力ではない。死こそ常々の味方である。いつでもすずやかに、きれいに潔いさぎよく、はっと死ねるという嗜たしなみは、どんなに習っても、習いぬいても、容易に習いきれる修行でないことは勿論だが、ゆうべの月から今朝まで歩いて来た己れの身こそ、それを体得し切ったものと、心ひそかに、自分を誇ってさえいたのに――と、武蔵は石の如く神前に突っ立ったまま、じっと慚愧ざんきの首を垂れて、口惜し涙が頬を下ってくるのも覚えぬもののように、

(過あやまった!)

と、悔いを心に噛み、

(――自分では、玲瓏れいろうな身になり切っていたつもりでも、まだ五体のどこかには、生きたいとする血もうずいていたに違いない。お通のことやら、故郷ふるさとの姉のことやらが――そして藁わらをもつかみたいとする恃たのみが――ああ、無念な! われを忘れて鰐口わにぐちの綱へ手を差し伸べさせたのだ。――この期ごになって神の力を恃たのもうとしていた)

お通には泣かなかった涙を、武蔵は滂沱ぼうだと頬にながして、わが身に、わが心に、わが修行に、万恨の無念を持つのであった。

(――無意識であったのだ、恃たのもうとする気持も、祈ろうとする言葉も考えずに、ふと鰐口の綱を振ろうとした。――だが、無意識だから、なおいけないのだ!)

叱っても叱っても、叱りきれない慚愧ざんきなのである。自分が口惜しいのだ。こんな浅い修行をして来たきょうまでの日々であったかと思うと、

(愚鈍め)

憐あわれむべき自分の素質を考えるほかなかった。

すでに空身くうしん。なにを恃たのみなにを願うことがあろう。戦わぬ前に心の一端から敗やぶれを生じかけたのだ。そんなことで、なにがさむらいらしい一生涯の完成か。

だが――武蔵はまた卒然と、

「有難いっ」とも思った。

真実、神を感じた。まだ幸いにも、戦いには入っていない。一歩前だ。悔いは同時に改め得ることだった。それを知らしめてくれたものこそ神だとおもう。

彼は、神を信じる。しかし、「さむらいの道」には、たのむ神などというものはない。神をも超えた絶対の道だと思う。さむらいのいただく神とは、神を恃たのむことではなく、また人間を誇ることでもない。神はないともいえないが、恃たのむべきものではなく、さりとて自己という人間も、いとも弱い小さいあわれなもの――と観ずるもののあわれのほかではない。

「…………」

武蔵は、一歩退さがって、両手をあわせた。――しかし、その手は鰐口わにぐちの綱へかけた手とは違ったものであった。

そしてすぐ、八大神社の境内から、細い急坂きゅうはんを駈け下りて行った。坂を降りきった山裾の傾斜に下り松の辻はあった。

五

のめるような急坂きゅうはんだった。豪雨の日でもあればそのまま滝となるような道に、洗い出された石ころが脆もろい土にすがっている。

武蔵が、一気に駈け下りてゆくと、石ころや土が、彼の踵かかとを追いかけて静寂しじまを破った。

「あっ」

なにものかが目に触れたのであろう、武蔵は突然、体を鞠まりにして、草の中へ転がった。

草はまだ朝露を一滴もこぼしていない。膝も胸も水びたしになってしまう。かがみ込んだ野兎のうさぎのように、武蔵の眼は下り松の梢こずえを凝視ぎょうしする。

足数あしかずにしても、そこまではもう何十歩と眼でも測はかることができよう。そして下り松の辻の位置はこの坂下よりさらに幾分か低地になっているため、その梢も比較的低く見られる。

――武蔵は見た。

樹の上に潜ひそんでいる人影を。

しかもその男は飛道具を持っているらしい。それも半弓ではない、鉄砲らしいのだ。

(卑怯な!)

と、憤いきどおってまた、

(一人の敵に)

と、愍あわれみもしたが、さりとて予期していないことではなかった。これくらいな用意は当然あるものと心構えには入れていたことである。吉岡方でもまた、まさか自分がただ一名でここへ臨むものとは考えていないに違いない。そうすると飛道具の備えもある方がむしろ賢いことだし、それも一挺ちょうや二挺ではないものと見なければなるまい。

だが、彼の位置からは、下り松の梢だけにしか発見できなかった。飛道具の者が皆、樹の上に潜ひそんでいるものという見解を持つのも早計であり危険である。半弓ならば岩のかげや低地にもかくれていようし、鉄砲ならば、この山腹から撃ってもあたる。

しかし、たった一つ武蔵にとって有利だったのは、樹の上の男も、樹の下の一かたまりも、みなこっちに背を向けていることだった。追分から三方へ道がわかれているだけに、彼らは背後の山を忘れていた。

這うように武蔵は徐々と身をすすめた。刀のこじりの高さよりも頭の方を低くして出て行った。そして遽にわかに小走りになり、ツ、ツ、ツ、ツ、ツ――と巨松きょしょうの幹へ近づきかけると、二十間ほどてまえで、

「――あッ」

梢の男が、ふと、その影を発見して、

「武蔵だっ!」

と、叫んだ。

天空からその声が響いたにも関かかわらず、武蔵はまだ、同じ姿勢のまま十間は確かに駈けた。

彼は、その秒間だけは、決して弾たまが来ないということを、胸の裡うちで計はかっていた。なぜならば、梢の上の人間は、枝に跨またがって、三道の方へ銃口つつぐちを向けながら見張っていたからである。樹の上なので、身の位置も直さなければならない、また小枝に邪さまたげられて、銃身もすぐには向けられまい。

――こう計って、その秒間だけは安全と思っていた。

「なにッ――?」

「どこへっ」

これは、下り松の下を本陣として立ち並んでいた十名ほどの異口同音だった。

次の瞬間には、また、

「後ろだい」

と、宙ちゅうの男がいった。

喉のどの引ッ裂けそうな声でわめいたのである。その時はもう梢の上であわてて持ち直した銃口が、武蔵の頭へ正確に向いていた。

松の細かい葉を通って、火縄の火がチラ――とこぼれた。武蔵の肱ひじが大きな円を描いたのはその咄嗟とっさであった。手のうちに握られていた石は唸りをあげて、線香ほどに見える火縄の光へぴゅっと飛んで行った。

――みりっと樹の小枝の裂ける響きと、あッと其処そこでいった叫びとが一つになって、霧の上から地面へ一個の物体を勢いよく抛ほうり出した。勿論それは人間である。

六

「――オおっ」

「武蔵っ」

「武蔵だっ」

後ろに眼を持たない人間である限り、この驚きは当然に見えた。

三道それぞれな所に、水も漏らさぬ前衛の備えを固めていただけに、なんの予報もなく、この中核部で、いきなり武蔵の姿を迎えようなどとは、夢想だにもしていなかった吉岡方の狼狽ろうばいも無理ではない。

わずか十名に足らないそこの人数ではあったが、不意に大地を震ゆり上げられたかの如く、味方同士、腰の鞘さやと鞘をぶつけ合い、また、持ち直す槍の柄に味方の者の足もとを躓つまずかせ、また或る者は不必要なほど遠くへ横ッ跳びに身を交わし、そしてまだ驚き足らないように、

「こ、小橋っ」

「御池っ」

と朋友の名を、無用な高声で呼び合ったり、

「抜かるなっ!」

と自分の心胆さえ定まらないのに他を誡いましめたり、

「な、な、なにをッ」

「く、くッ! ……」

言葉にならない言葉の切れ端を歯の根から力み出したりして、どうにかぎらぎら抜きつれた刀と槍の幾筋とが、武蔵へ向って半円を備えかけたかと見えた時、当の武蔵は、

「約定やくじょうによって、生国美作みまさかの郷士宮本無二斎の一子武蔵、試合に出て参りました。名目人源次郎どのはいずれにおわすか。前さきの清十郎殿や伝七郎殿のごとき御不覚あるなよっ。ご幼少とのことゆえ助人すけびとは何十人たりとも存意のまま認めおく。ただし武蔵はかくの如く唯一名にて参ったり。一人一人かからるるとも、総がかりに来られるともそれも勝手。いでやっ!」

と、凛々りんりん、こういい放つ。

正しく挨拶されたのも彼らにはまた意外だった。礼儀に対して礼儀を取らない恥は骨身にこたえたらしいが、平常へいぜいのそれとは違って、この場合のそれは十分な余裕というものからでなければ生れて来ない。口の唾つばさえ途端に渇かわいている舌では、

「遅いぞッ、武蔵っ」

「怯おくれたかっ」

ぐらいなことしかいえなかった。

にも関かかわらず、武蔵が、唯一名にて参ったりという言葉だけは確かに受け取って、そうだ相手は一名なのだと、急に強味が甦よみがえってきたらしくも見える。けれど源左老人や、御池十郎左衛門らの老巧は、そういう裏を考えて、それをもってかえって武蔵の奇策となし、畢竟ひっきょう武蔵の助太刀はどこか附近に姿をかくしているものと疑心暗鬼の眼ざしが忙せわしない。

――びゅっ!

どこかで弦音つるおとがした。

武蔵の抜きはなった刀の刃風のようにもそれが聞えて、彼の顔へ向って飛んで来た一本の矢は、同時にパッと二つになって、肩のうしろと刀の切ッ先へきれいに落ちた。

――と見えた視線はもうそこへ置き残され、武蔵の体は髪を逆立てた獅子のように、松の幹に隠れていたそこの蔭のものへ向って一足跳びに躍っていた。

「キャッ。怖いっ!」

立っておれと吩咐いいつけられた通りに、最初からそこに立っていた源次郎少年は、悲鳴をあげて、松の幹へ抱きついた。

その叫びに、父の源左老人が、自分が真二つに割られたような声で、わあーッと彼方かなたで跳び上がったと思うと、武蔵の刀によって描かれた一閃せんが、どう斬り下げられたのか、松の皮二尺あまりを薄板のように削そぎ、その皮といっしょに前髪の幼い首を血しおの下に斬り落していた。

霧風むふう

一

まるで夜叉やしゃの行為にひとしい。

最初から重大視していた目的物でもあるかのように、武蔵はなにものも措おいて真っ先に、源次郎少年を斬ってしまったのだ。

酸鼻さんびとも残忍ともいいようがない。敵とはいえ、物の数ではない少年ではないか。

それを斃たおしたからといって先の勢力が微塵も減殺げんさいされるわけでもない。いや、かえって吉岡一門の者を極度に怒いからせ、全体の戦闘力を狂瀾のように激昂させるにはなによりも役立ったろう。

わけても源左老人は、哭なくかのような形相を作り、

「――しゃあッ、よくもッ」

顔中から喚わめきを発し、老いの腕には少し重げに見える大刀を頭の上に振りかぶったまま、武蔵のからだへ打つかるような勢いで向って来た。

一尺ほど――武蔵の右足が退がったと思うと、その足につれ体も両手も右へ斜めになり、源次郎少年の首すじを通って返ったばかりの切ッ先がすぐ、

「かッ」

刎はねて――ぴゅん――とばかり源左老人の下りかけた肱ひじと顔とを摺すり上げた。

「ウウふっ」

誰の唸うめきとも分らない。

なぜならば武蔵の後ろから槍を突き出した者が、同時に前へよろめき出し、源左老人と折重なって朱あけとなったし、なお眼を移す遑いとまもなく、武蔵の正面にはすでにまた次にとびかかった四人目の者が――これはちょうど彼の重心点へ踏み出したとみえ、肋骨あばらまで断たち割られて、首も手もだらんと下げたまま、二、三歩ほど生命のない胴を支えて足だけで歩いていたし――

「出会えッ」

「此処だっ」

後の六、七名は時々、絶叫をふり絞しぼって味方へ急を告げた。だが如何いかんせん三道へわかれている味方は皆、本陣とは相当な距離をおいて潜伏しているので、まだ極めて秒間に過ぎないここの異変を少しも知らず、また彼らの必死なさけびも、松風や大竹藪の戦そよぎにまぎれて、むなしく宙へ消えてしまう。

保元、平治の昔から、平家の落人おちゅうどたちが近江おうみ越えにさまようた昔から、また親鸞しんらんや、叡山えいざんの大衆が都へ往来ゆききした昔から――何百年という間をこの辻に根を張って来た下り松は今、思いがけない人間の生血を土中に吸って喊呼かんこして歓ぶのか、啾々しゅうしゅうとと憂いて樹心が哭なくのか、その巨幹を梢の先まで戦慄させ、煙のような霧風を呼ぶたびに、傘下さんかの剣と人影へ、冷たい雫しずくをばらばらと降らせた。

――一個の死者と三名の傷負ておいは、息一つする間にこの緊はりつめた圏内けんないから無視されてしまったのだ。相互がハッと呼吸いきを改めたせつなには、武蔵は自分の背を下り松の幹へひたッと貼りつけていた。ふた抱えもある松の幹は絶好な背の守りかに見える。しかし武蔵はそこに長く膠着こうちゃくしていることはかえって不利としているらしい。眼まなざしは、けわしく刀のみねから七つの敵の顔をひきつけながら次の地の利を案じていた。

梢の声――雲の声――藪やぶの声――草の声――あらゆるものが戦そよき戦おののいている風の中に、その時、

(下り松へ行けっ!)

何者かが、遥かから、声をからして教えていた。

近くの小高い丘の上だ。手頃なところを選んで、そこの岩に腰をかけていた佐々木小次郎が、いつのまにか岩の上に突っ起ち、三道の藪や木蔭に沈んでいる吉岡勢へ向って、

(わういッ、おおういっ。――下り松だっ、下り松へ出会えっ!)

二

鉄砲の音だった、その時、人々は強い音波に耳を蓋ふたされた。

かたがた小次郎の声も、大勢のうちの誰かには聞えたはずである。

――素破すわっ。

動揺どよめいた大竹藪や、木蔭や岩蔭や、あらゆる物蔭から蚊かの湧くように躍り出した三道の伏勢が、

「ヤ、ヤ?」

「既にっ」

「追分、追分」

「出し抜かれているぞッ」

道の三方から各〻、二十名以上の人が、地へ臨んで集まる奔流のように疾駆し出した。

武蔵は今――鉄砲の轟音ごうおんと同時に、下り松の幹をくるっと自分の背でこするように動いた。弾たまは彼の顔から少し外それて樹の幹へぶすんとあたった。――そしてその前に槍と刀を交まぜて七本の切ッ先を揃えたまま対峙たいじしていた、七名も、ズズズズズと彼の動きに釣られて樹の幹を廻ってゆく。

――と。いきなり武蔵は、七人の左の端にいた男へ、青眼の剣を向けたままだッと駈け出した。その男はしかも吉岡十剣の中の一人だった小橋蔵人くらんどであったが、余りにも迅はやい恐ろしい彼の勢いに、

「――あ、あッ」

浮き声をあげて、思わず、片脚立ちに身を捻ねじ交わすと、武蔵は、空間を突きながら、そのままタタタタッ――と果てしなくなお駈け出して行く。

武蔵の背を見て、

「やるなッ」

と、追い縋すがり、飛びかかり、一斉に斬り浴びせようとした刹那、彼らの結合はばらばらになり、彼らの個体もでたらめに構えを失っていた。

武蔵の体たいが、分銅のように刎はね返って、真っ先に追って来た御池十郎左衛門の横を撲なぐった。十郎左衛門は、直感に、

(彼の詭策きさく)

と覚さとって、追い足にふくみを持っていたので、武蔵の刀は、彼の反そり返った胸先を横へ掠かすめたに過ぎない。

けれど武蔵の刀は、世の常の術者が振り込むように、一振しん一刀とう――つまり斬り損じた刀の力がそれなり空間へ失われて、また二の太刀を持ち直して斬り込むというような――そんな速度ののろいものではなかったのである。

彼は、師というものにつかなかったために、その修行の上で、損もし苦しみもしたろうが、師を持たないために、益もあった。

それはなにかといえば、既成の流派の形に鋳込いこまれなかったことである。彼の剣法には従って形も約束も、また極意も何もない。六合りくごうの空間へ彼が描き出した想像力と実行力とが結びあって生れた無名無形の剣なのである。

例えばこの際――彼が下り松の決闘で御池十郎左衛門を斬った時の刀法などでもしかりで、十郎左衛門はさすがに吉岡の高足こうそくだけに、武蔵が逃げると見せて振り返りざま払った刀は、確かに交わし得ていたのである。――それが京流にせよ、神陰流にせよ、何流でもこれまでの既成剣法ならばそれで十分外はずし得たといっていい。

ところが、武蔵独自の剣はそうでなかった。彼の刀には必ず刎はね返りがある。右へ斬ってゆく刀は同時にすぐ左へ刎はね返ってくる原動力をふくんでいるのだった。ゆえに彼の剣が空間に描く光をよく気をつけてみると、必ず、その迅はやい光は松葉のように一根二針の筋をひいて走ってはすぐ返して敵を刎ね上げている。

わっ……とさけぶ間に、その燕尾の如く刎ね返った切ッ先にあたって、御池十郎左衛門の顔は、破れた鬼燈ほおずきのように染まった。

三

京流吉岡の伝統を負って立つべき十剣のうちの、小橋蔵人くらんどがまず先に斃たおれてしまい、今また御池十郎左衛門ともあろうほどの者が、つづいて大地へ俯うッ伏ぷした。

物の数には入れるわけにはゆかないが、彼らの命旗めいきとする、名目人の源次郎少年を加えると、すでにここの半数は、武蔵の刀にあたって序戦の贄にえに曝さらされ、惨たる血をここ一面に撒いてしまった。

――その時、十郎左衛門を斬った切ッ先の余勢をもって、彼らの乱れた虚につけ入ってゆけば、武蔵はさらに、幾つかの敵首てきしゅをつかみ、ここでの大勢を決することができたにちがいない。

だが彼はなに思ったか、驀まっしぐらに三本道の一方へ駈けた。

逃げるかと思えば、翻ひるがえっているし、向って来たなと構えを持ち直せば、地へ腹を摺すってゆく燕のように、武蔵の影はもう忽ち眼前にない。

「くそッ」

残った半数は歯がみをし、

「武蔵ッ」

「醜きたないぞッ」

「卑怯ッ」

「勝負はまだだぞ」

と吼ほえ――そして追った。

彼らの眼孔は、皆顔から飛び出しそうに光っていた。夥おびただしい血しおを見、血のにおいに吹かれて、彼らは酒蔵さかぐらへ入ったように血に酔っていた。血の中に立つと、勇者は常よりも冷静になるし、怯者きょうしゃはその反対になる。――武蔵の背を見て追いかけてゆく躍起な血相というものは、さながら血の池の鬼だった。

「行ったぞッ」

「逃がすなッ」

そんな叫びを聞き捨てながら、武蔵は、最初の戦端を切った丁字形ていじけいの辻を捨て、三道のうちでいちばん道幅のせまい修学院道へ向って駈け込んで行ったのである。

――当然そこからは今、下り松の変を知って、慌あわてふためいて駈けつけて来た吉岡勢の一団がある。ものの二十間とも駈けないうちに、武蔵はその先頭とぶつかって、後から追って来るものとの間に挟まってしまわなければならないはず。

二つの勢いは、その藪道やぶみちでぶつかった。味方は味方の雄々しい姿を見ただけだった。

「や。むむ武蔵はッ」

「来ないッ」

「いや、そんなはずはないが」

「でも――」

押問答をしている間に、

「ここだッ」

武蔵がいった。

路傍の岩の蔭からおどり出て、武蔵は、彼らの列が通り越して来た道の中央に立っていた。

――来いッ。といわんばかりな第二の準備が彼のからだにできていた。愕然がくぜんと、それへ動きかける吉岡勢は、道幅の狭さに出鼻から全体の力に集中を欠いてしまった。

人間の腕の長さと刀の長さとを加えて、体たいを中心に円を描くとなると、その狭い道幅では、二人の味方が並ぶのさえ危険である。のみならず、武蔵の前に立った者は、ダダダダッと踵かかとを鳴らして後ろへ退さがって来たし、後方の者は、争って前へ押して来るため、大勢おおぜいという力の自体が、咄嗟に混乱を起して、味方は味方の足手纒あしでまといとなるばかりだった。

四

――だが、衆の力というものはもとよりそう脆もろいものではない。

一度は武蔵の敏速と、彼の剥むき出しなたましいの圧倒に、

「ひッ、退ひくなっ」

腰も踵も、浮いて見えたが、

「多寡たかが唯一人」

と、衆が衆の力を自覚し、その強味を負って、先頭の二、三名が、

「うぬっ」

「おれが仕止めるっ」

身を挺ていして行くと、後しりの者ものもそれを見てはいなかった。わっという喊声かんせいだけでも、一個の武蔵よりは遥かに強い。

怒濤へ向って泳ごうとするように、武蔵は闘いつつ後へ後へと押されるのみで、敵を斬るより身を防ぐに急だった。

手許へのめり込んで来て、斬れば斬れる敵すら措おいてジリジリ退さがって行く。

この場合、二人や三人の敵を斬っても、相手は総体の力からいえば、なんの痛痒つうようも感じないばかりでなく、間髪を過あやまれば、槍が伸びてくるからである。――太刀の切ッ先には、およそ「間ま」を取っていることができるが、大勢の中にいて、穂先を縮めている槍には「間」を察している遑いとまがない。

吉岡方は、勢いに乗った。

タタタタッ――と武蔵の踵かかとは後退あとさがりに引くばかりなので、ここぞと飽くまで押したのである。武蔵の顔はすでに蒼白なのだ。どう見ても呼吸をしている顔ではない。木の根につまずくか、一すじの縄でもその足にからめばもんどり打ってしまうことは確かだと思う。しかし、死相をおびている人間の手許へはいって、死出の道づれになるのは誰も嫌だった。そのためにわッわッと刀や槍で押してゆきながらも、無数のそれが皆、武蔵の胸、小手、膝などへわずか二、三寸ずつ切ッ先の寸伸びが足りなかった。

「あッ――?」

不意にまた、彼らは眼前の武蔵を見失って、そこの狭い道幅とたった一人の相手には、余剰よじょうすぎる大勢の力を持て余して、自ら揉もみ返した。

――といってもべつに武蔵が、足に風を起して駈けたわけでも、樹の上に跳び上がったわけでもない。ただ、彼がたった一跳び、その道から藪の中へ身を反そらしたに過ぎないのである。

土のやわらかい孟宗竹の密林だった。青い縞目しまめを縫って飛ぶ鳥影のような武蔵の姿に、チカッと、金色こんじきの光が刎はねた。朝の太陽がいつのまにか叡山えいざん連峰の山間やまあいから、つと真まっ紅かな櫛くし形の角かどをあらわしているのだった。

「待てッ。武蔵」

「醜きたなし!」

「背を見せる法やあるっ」

思い思いに、大勢は竹と竹のあいだを駈けた。武蔵はもう藪の外はずれの小川を跳びこえている。そして一丈ほどな崖を跳び上がり、二つ三つそこで呼吸をやすめている様子。

崖の上はゆるい傾斜を持っている山裾やますその原だった。彼は一望に夜明けを見た。下り松の辻はすぐ下であり、その辻には、吉岡方の逸はぐれた人数が四、五十名もいて、彼が今、小高いところに立った姿を見つけると、一斉にわッとここへ寄せて来た。

今の人数の三倍に殖ふえたものが、真っ黒にこの山裾の原に集まった。吉岡方の全勢力である。一人一人手を繋げば、大きな剣の環わをもって、この原を包んでしまうこともできるほどな人数なのである。一剣、燦々きらきらと、針のように小さく、じっと青眼にすえたまま、武蔵は遠く立って待っていた。

五

どこかで駄馬がいなないた。里にも山にも、もう往来はあるはずの時刻。

 ことにこの辺は、朝の早い法師たちが、叡山から下りて来るし、叡山えいざんへ上って行くし、夜さえ明ければ、木履ぼくりを穿はいて、肩をいからして歩く僧侶の姿を見ない日はない。

そういう僧侶らしい者だの、木樵きこりだの、百姓だのが、

「斬合だっ」

「どこで」

「どこで」

人が騒ぎ出すと、里の鶏や馬までが騒ぎ立てた。

八大神社の上にも一群ひとむれかたまって見ていた。絶えず流れている霧は、山とともに、その見物人の影を、白く塗りつぶしてしまったかと思うと、またすぐ視野を展ひらいて見せた。

――その一瞬の間に武蔵のすがたは見る影もなく変っていた。鬢止びんどめに締めている額ひたいの布は、汗と血で、桃色に滲にじんでいた。髪は崩れてその血と汗に貼りついて見える。ために、彼の形相は、たださえ恐ろしくなっているところへ、魔王の隈くまを描いたように、世にもあるまじき物凄さに見えるのだった。

「…………」

さすがに、呼吸も全身でつき始めてきた。黒革胴くろかわどうのような肋骨あばらが大きな波を打つ。袴はかまはやぶれ、膝の関節を一太刀斬られていた。その傷口から柘榴ざくろの胚子たねみたいな白いものが見えている。破れた肉の下から骨が出ているのである。

小手にも一箇所かすり傷を負っていた。さしたる傷ではないらしいが、滴したたる血しおが胸から小刀の帯前おびまえまで朱に染めているので、さながら満身が纐纈染しぼりぞめになってしまい、墓場の下から起ち上がった人間でもあるかの如く、見る者の眼を掩おおわしめた。

――いや、それよりも酸鼻さんびなのは、彼の刀にあたって、処々しょしょに唸うめいたり、這ったりしている傷負ておいや死人だ。その山裾の原へ彼が駈け上がり、七十名もの人間が、どっと彼へ襲撃して行ったと思う途端にもう四、五名が斃たおれていた。

吉岡方の傷負が斃れている位置は、決して一所にまとまっていなかった。彼方あっちに一名、此方に一名、距へだたっている。それを見ても武蔵の位置が絶えず動いて、この広い原をいっぱいに足場を取り、大勢の敵をして、その力を集結させる遑いとまのないように闘っていることがわかる。

――といっても武蔵の行動には、いつでも一定の原則があった。それは、敵の隊伍の横へ当たらないことだった。努めて敵の展開してくる横隊の正面を避け、その群れの角かどへ角へと廻って、電瞬でんしゅんに薙なぎつける――末端の角かどを斬る――

だから、武蔵の位置からは、敵はいつでも、先刻さっきの狭い道を押して来たように、縦隊の端から見ているわけだった。同時に、七十人でも百人でも、彼の戦法からすれば、わずか末端の二、三名だけが当面の対手あいてであるにすぎない。

しかし、いかに飛鳥の敏速があっても、彼にもたまたま破綻はたんが生じるし、敵も彼のためにそう乗ぜられてばかりはいない。どっと、無数が無数の働きをして、同時に前後から喚わめきかかる秒間も起る。

その時が、武蔵の危機だった。

また、武蔵の全能が、無我無想のうちに、高度な熱と力を発する時だった。

彼の手にはいつか、二つの剣が持たれていた。右手の大刀は血ぬられて柄糸も拳こぶしも血漿けっしょうで鮮紅に染まり、左の小剣はまだ切ッ先がすこし脂あぶらに曇っているだけで、まだ幾人かの人間の骨に耐え得る光をしていた。

だが武蔵は、二刀を持って敵と闘いながらも、まだ二刀を使っているという意識などは全然ないのである。

六

浪と燕のようなものだ。

浪は燕を搏うち、燕は浪を蹴って、すぐ他ほかへ翻ひるがえってしまう。

一瞬でも、静止はないが、双方の刃やいばの下に仆れて、ばたッと大地に足掻あがく人間のすがたが眸に映るたびに吉岡方の大勢が、

「――あッ」

なんとはなく息をひいたり、

「――ウウム」

と、唸うめきを合せたり、気が眩くらんでくるような精神を醒さまそうとするように、

「…………」

ず、ず、ずーとただ土に草鞋わらじをずり合う音だけをさせて、武蔵を包囲しようとして来る。

――と、武蔵は。

ほっと、その間かんに呼吸いきをつく。

左剣は、前へかまえて、いつも敵の眼まなこにつきつけ、右手の大刀は横へひらいて、肩から腕――切ッ先まで、緩ゆるやかな水平に持ち――これは敵の眼まなこの外にあそばせておくというような形。

大小二剣の尺と、両腕をいっぱいにひろげた尺とを合わせると、彼の爛々らんらんたる双眸そうぼうを中心として、かなり広い幅になる。

敵が、正面を嫌って、

(――右)

と窺うかがってくれば、すぐ体ぐるみ右へ寄って、その敵を牽制けんせいし、

(左!)

と、直感すれば、ぱっと左剣が伸びて、その者を、二つの剣の中へかかえてしまう。

武蔵がそうして前へ突き向けている短い左剣には、磁石のような魔力があった。その先へかかった敵は、ちょうどモチ竿ざおにとまった蜻蛉とんぼのように、退ひく間も交わす間もなかった。――あっといううちに長い右剣が唸ってきて、一颯さつのもとに、一個の人間を、びゅッと、血しおの花火にしてしまった。後に、ずっと後年にである。武蔵のこういう戦法を「二刀流の多敵の構え」と人が称よんだ。しかし――今この場合の武蔵は、まったく無自覚でしていることだった。無我無思のうちに全能の人間力が、より以上の必要に迫られた結果、常には習慣で忘れていた左の手の能力を、われともなく、極度にまで有用に働かすことを、必然に呼びおこされていたに過ぎない。

けれど、剣法家としての彼は、まだ至って幼稚だったものといってよい。何流だの、何の形かただのと、理論づけたり、体系づけている間などが今日まであろうわけはない。彼の運命からでもあったが、彼が信じて疑わずに通って来た道は、なんでも実践だった。事実に当って知ることだった。――理論はそれから後、寝ながらでも考えられるとして来たのである。

それとはあべこべに、吉岡方の十剣の人々を始め、末輩のちょこちょこしている人間まで、皆、京八流の理論は頭につめこんでいて理論だけでは、一家の風ふうを備えたものも少なくない。けれど、恃たのむ師もなく、山野の危難と、生死しょうしの巷ちまたを修行の床ゆかとして、おぼろげながらも、剣の何物かを知らんとし、道に学ぶためには、いつでも死身となる稽古をして来た武蔵とは、根本からその心がまえも鍛えも違っている。――そういう吉岡方の人々の常識から見ると、もう呼吸もあらく、顔色もなく、満身朱あけになりながらも、まだ、二本の刀を持ち、触れれば何物も一颯さつの血けむりとしてしまいそうな、武蔵の阿修羅あしゅらそのままな姿が、なにか、不可思議なものに見えてきた。気は晦くらみ、眼は汗にかすんで、味方の血に戸惑うてくるにつれ、武蔵の姿が、いよいよ、捉とらえ難くなり、しまいには、なにか真っ赤な妖怪と闘っているような疲労と焦あせりが全体に見えた。

七

――逃げろうっ。

――一人の方ほうっ……

――逃げろ、逃げちまえっ。

山がいう。

里の樹々がいう。

また、白い雲がいう。

足を止めた往来の者や、附近の百姓たちが、遥かに、重囲の中の武蔵を見て、その危なさに気を揉もむのあまり、どこからともなく、われを忘れてあげた声であった。

たとえ地軸が裂け、天そらを覆くつがえす雷いかずちがあっても、武蔵の耳に、そんな声の届くわけもない。

彼の身は、彼の心力だけにうごいている。眼に見える彼の体は、仮の相すがたでしかなくなっている。

おそろしい心力が、身をもたましいをも、まったく焼き尽くしていた。武蔵は今や、肉体ではなくて、燃え熾さかっている生命の炎だった。

――と、突然!

わあっッと、三十六峰がいちどに谺こだまをあげた。山崩れのような喊声かんせいなのだ。それは遠く離れて見ていた人間も、武蔵の前にひしめいていた吉岡勢も、同様に大地から跳び上がって、その体の弾はずみから思わず出した声だった。

――た、た、た、たッ。

武蔵が、不意に、山裾から里へ向って、野猪やちょのように駈け出したからである。

もちろん。

七十名からの吉岡勢は、それに手を束つかねていたわけではない。

「それッ!」

真っ黒になって、武蔵へ追いすがり、追いつきざま、五、六名が、

「――かっッ」

「今になって!」

組まんとするばかり打ぶつかって行くと、武蔵は身を伏せ、

「ちいイッ」

右刀で、彼らの脛すねを薙ないだ。そして敵の一名が、

「こんな奴ッ」

上から撲り落してきた槍を、カーン、宙へ刎はねとばすと共に、乱れ髪の一すじ一すじまでが、皆、敵へ向って闘って行くかのように逆立って、

「――ちッ、ちッ、ちいっ」

右剣左剣、右剣左剣――とこもごもに火となり水と走って、食いしばっている武蔵の歯まで、口を飛び出して噛みついて来そうに見えた。

――わあっ、逃げたっ。

遠い所の動揺どよめきは、吉岡方のうろたえを同時に嗤わらったように響いた。武蔵の影は、とたんにもう原の西側の端はずれから青い麦畑にとび降りていたのである。

すぐ後から、

「返せッ」

「待てッ」

どうっと、続いて人数の一部がそこを降りたと思うと、そこでまた、思わず耳をおおうような絶鳴が二声ほど走った。崖の下にへばりついていた武蔵が、自分に倣ならって向う見ずに飛んだ者を、下で待ち伏せていたように斬ったのである。

――びゅっ。

――ぶすんっ。

麦畑の真ん中へ、二本の槍が飛んできて、土へ深く突っ立った。吉岡方の者が、上から投げつけた槍である。しかし、武蔵の姿は泥の塊かたまりのように山畑を駈けて跳び、またたく間に彼らとは、約半町ほどな距離をつくってしまった。

「里の方だ」

「街道の方へ逃げた」

という声が頻りと多かったが、武蔵は山畑の畝うねを這って、その人々の手分けして駈けまわるさまを時々、山の方から振返って見ていた。

やっと、その頃。

朝陽あさひはいつもの朝らしく草の根にまで映さしてきた。

菩提ぼだい一刀とう

一

大四明峰だいしめいのみねの南嶺に高く位くらいしているので、東塔西塔はいうまでもなく、横川よかわ、飯室いいむろの谷々も坐いながらに見える。三界のほこりや芥あくたの大河も遠く霞の下に眺められ、叡山えいざんの法燈鳥語もまだ寒い木この芽時めどきを――ここ無動寺むどうじの林泉りんせんは寂じゃくとして、雲の去来のうえにあった。

「……与仏有因よぶつういん

……与仏有縁

……仏法僧縁

……常楽我常じょうらくがじょう

……朝念観世音ちょうねんかんぜおん

……暮念観世音

……念々従心起じゅしんき

……念々不離心」

誰か?

無動寺の奥まった一間ひとまのうちから、誦じゅすともなく唱となうるともない十句観音経かんのんぎょうの声が――声というよりはおのずから出る呟つぶやきのように漏れてくる。

その独り語ごとは、いつのまにか、われを忘れたかの如く高くなり、気がつくとまた、低くなった。

墨で洗ったような大床の廻廊を白い衣ころもを着た稚児僧ちごそうが、粗末な御斎おときの膳を眼八分にささげ、その経音きょうおんの聞える奥の杉戸の内へ持って入った。

「お客様」

稚児僧は、膳を隅へおいた。

そしてまた、

「……お客様」

膝をついて呼んだが、呼ばれた者は、後ろ向きになったまま背をかがめており、彼の入って来たのも気づかない様子なのであった。

数日前の朝――見るかげもない血まみれな姿して、剣を杖に、ここへ辿たどりついて来た一修行者。

といえば、もう想像がつこう。

この南嶺から東に降くだれば、穴太村あなふとむら白鳥坂に出るし、西に降くだればまっすぐに修学院白河村――あの雲母坂きららざかや下さがり松まつの辻につながる。

「……お午餐ひるを持ってまいりました。お客様、ここへお膳をお置きいたします」

やっと、知ったように、

「オウ」

武蔵は、背をのばし、振りかえって膳と稚児僧のすがたを見ると、

「おそれいります」

坐り直して、礼儀をした。

その膝には、白い木屑がちらかっていた。細かい木屑は、畳や縁にもこぼれている。栴檀せんだんかなにかの香木とみえ、微かににおう心地がする。

「すぐ召しあがりますか」

「はい、戴きます」

「じゃあ、お給仕申しましょう」

「憚はばかりさまですな」

飯椀わんをうけて、武蔵は食べにかかる。稚児僧はその間、武蔵のうしろにキラキラ光っている小柄こづかと彼が今、膝のうえから下ろした五寸ほどの木材をじっと見ていたが、

「お客様、なにを彫ほっておいでになるんですか」

「仏様です」

「阿弥陀様あみださま?」

「いいえ、観音様を彫ろうとしているのです。けれど、鑿のみの心得がないので、なかなかうまく彫れない。この通り指ばかり彫ってしまう」

手をだして、指の傷を見せると、稚児僧はその指よりも、武蔵の袖口から見える肱ひじの白い繃帯ほうたいに眉をひそめて、

「脚や腕のお怪我けがは、どんなでございますか」

「……ア。その方も、お蔭でだいぶよくなりました。御住持にも、どうかお礼をいっておいてください」

「観音様をお彫りになるなら、中堂へ参りますと、誰とかいう名人の彫ったという作のよい観音様がありますよ。御飯がすんだら、それを見に行きませんか」

「それはぜひ見ておきたいが、中堂まで、道はどれほどあろうかな」

二

稚児僧ちごそうは、答えていう。

「ハイ。ここから中堂までの道は、わずか十町ほどしかございません」

「そんなに近いのか」

そこで武蔵は、食事が終ると、そのお小僧に伴ともなわれて、東塔の根本中堂こんぽんちゅうどうまで行ってみるつもりで、十幾日目で、久しぶりに大地を踏んだ。

もうすっかりよくなったつもりでも、土を踏んで歩いてみると、左の脚の刀痕とうこんがまだ傷いたむ。腕にうけた傷痕きずあとにも、山風が滲しみ入るここちがする。

けれど、颯々さっさつと、鳴りゆらぐ樹々のあいだに、山桜は散って飛雪を舞わせ、空はやがて近い夏の色を湛えかけている。武蔵は、萌もえ出いずる植物の本能のように、体のうちから外へ向って象あらわれようとして熄やまないものに、卒然そつぜんと、筋肉がうずいてくるのを覚えた。

「お客様」

と、稚児僧は、その頭を見あげ――

「あなた様は、兵法の修行者でいらっしゃいましょう」

「そうだ」

「なんで観音様なんか彫っているんですか」

「…………」

「お仏像を彫ることを習うよりも、その暇に、なぜ、剣の勉強をなさらないのです?」

童心の間いは時によると、肺腑はいふを刺す。

――武蔵は、脚と腕の刀痕とうこんよりも、その言葉に、ずきんと胸の傷いたむような顔をした。まして、そう問うこのお小僧の年頃も十三、四。

下り松の根元で、闘いに入ろうとするや否、真っ先に斬り捨てたあの源次郎少年と――ちょうど年ばえも体の大きさも似て見える。

あの日。

幾人の傷負ておいと、幾人の死者を作ったろうか。

武蔵は、今も、思い出すことができない。――どう斬ったか、どうあの死地を脱したのか、それもきれぎれにしか、記憶がない。

ただあれから後、眠りについても、ちらついてくるのは――下り松の下で、敵方の名目人である源次郎少年が、

(――怖いっ)

と、一声さけんだのと、松の皮といっしょに斬られて大地へころがった、あのいたいけな可憐な空骸なきがらだ。

(仮借かしゃくはいらぬ、斬れ!)

という信念があったればこそ、武蔵は断じて真っ先に斬ったのであるが――斬ってそしてこうして生きている後の彼自身は、

(なぜ、斬ったか)

と、そぞろに悔い、

(あれまでにしないでも)

と、自分の苛烈な仕方が、自分でさえ憎まれてならない。

われ事において、後悔せず

旅日誌の端に、彼はかつて、自分でこう書いて心の誓いに立てていた。――けれど源次郎少年のことだけは、いくらその時の信念をよび返して心に持ってみても、ほろ苦く、うら悲しく、心が傷いたんでたまらなかった。剣というものの絶対性が――また修行の道というものの荊棘けいきょくには、かかることも踏み越えてゆかねばならないのかと思うと、余りにも自分の行く手は蕭条しょうじょうとしている。非人道的である。

(いっそ、剣つるぎを折ろうか)

とさえ思った。

殊に、この法のりの山に分け入って幾日、迦陵頻伽かりょうびんがの音ねにも似た中に心耳しんじを澄まし、血しおの酔いから醒さめ、われとわが身にかえってみると、彼の胸には、菩提ぼだいを生じないではいられなかった。

手脚の傷の癒いえる日を待つつれづれに、ふと、観音像を彫りかけてみたのは、源次郎少年の供養のためというよりは、彼自身が自身のたましいに対する慚愧ざんきの菩提行ぼだいぎょうであった。

三

「――お小僧」

武蔵はやっと、答える言葉を見つけ出していった。

「じゃあ、源信僧都げんしんそうずの作だとか、弘法大師の彫りだとか、このお山にも聖ひじりの彫った仏像がたくさんあるが、あれはどういうものだろう」

「そうですね」

稚児僧は首をかしげて、

「そういえば、お坊さんでも、絵をかいたり、彫刻をしたりするんですね」

と、得心とくしんしたくない顔つきをしながら、頷うなずいてしまう。

「だから、剣者が彫刻をするのは、剣のこころを琢みがくためだし、仏者が刀とうを持って彫るのは、やはり無我の境地から、弥陀みだの心に近づこうとするためにほかならない。――絵を描くのも然り、書を習ならうんでも然り、各〻、仰ぐ月は一つだが、高嶺たかねにのぼる道をいろいろに踏み迷ったり、ほかの道から行ってみたり、いずれも皆、具相円満の自分を仕上げようとする手段のひとつにすることだよ」

「…………」

理に落ちかけると、お小僧はおもしろくなくなったとみえ、小走りに先へ駈けて、草むらの中の一基きの石を指さし、

「お客様、ここにある碑ひは、慈鎮じちん和尚というお方が書いたんですって」

と、案内役の方に移る。

近づいて、苔こけの中の文字を訓よんでみると、

法のりの水 あさくなりゆく

末の世を

おもへばさむし

比叡ひえの山かぜ

武蔵はじっとその前に立ちつくしていた。偉大な予言者のようにその苔石こけいしが見える。信長というおそろしく破壊的でまた建設者があらわれて、この比叡山にも大鉄槌だいてっついを下したため、それ以後の五山は、政治や特権から放逐され、今では寂じゃくとして、元の法燈一穂すいの山に回かえろうとしているが、今なお、法師のうちには、戒力横行の遺風が残っているし、座主ざすの位置をめぐって、相剋そうこくの権謀や争い事はやまないと聞いている。

俗生を救うためにある霊山が、人を救うどころか、却って俗生の人に飼われて、からくも布施ふせ経済の習慣によって生きているという現在の風を思いあわせると――武蔵は無言の碑の前にあって、無言の予言を聞かないではいられなかった。

「サ、参りましょう」

先をうながして、お小僧が歩みかけると後ろから手をあげて、呼ぶ者があった。

無動寺の仲間僧ちゅうげんそうである。

ふり顧かえる二人の前へ、その仲間僧は駈けて来て、まず、お小僧に向い、

「オイ清然せいねん、おまえは一体、お客様をご案内して、どこへ行くつもりじゃ」

「中堂まで行こうと思って」

「なにしに」

「お客様が、毎日観音様を彫っているでしょう。ところが、巧くほれないと仰っしゃるもんだから、それなら中堂に、むかしの名匠が作ったという観音様があるから、それを見にゆきませんかといって――」

「では、きょうでなくても、いいわけだの」

「さ、それは知らないが」

武蔵へ憚はばかって、あいまいにいうと、武蔵はそれを引き取って仲間僧へ詫びた。

「御用もあろうに、無断でお小僧を伴つれまいって悪いことを致したな。元より、きょうとは限らぬこと、どうぞお連れかえりください」

「いいえ、呼びにまいりましたのはこの稚児僧ではなく、あなた様におさしつかえなければ、戻っていただきたいと思いまして」

「なに、拙者に?」

「はい、折角、お出ましになった途中を、なんとも恐れ入りますが」

「誰か、拙者を訪ねて来た者でもあるのでござるか」

「――一応は、留守と申しましたが、いや今ついそこで見かけた、どうでも会わねばならぬから、呼び戻して来いというて、頑がんとして動かないのでございます」

――はて誰だろうか、武蔵は小首をかしげながらともかくも歩み出した。

四

山法師の横暴ぶりは、政権や武家社会からは、完全に追われていたが、尾羽おは打うち枯からしても、まだ山法師そのものの棲息は、この山に残存していることは勿論である。

雀百までの喩たとえのとおり、未だにすがたも革あらたまらないで、高木履たかぼくりをはき、大太刀を横たえているのがあるし、長柄刀ながえを小脇に持っているのもある。

それが一かたまり、ざっと十名ほど、無動寺の門前で、待ちかまえていた。

「……来た」

「あれか」

耳打ちし合いながら、朽葉色くちばいろの頭巾ずきんや黒衣の影が、もうそこに近く見えて来た――武蔵と稚児ちご僧と、その二人を迎えに行った仲間僧ちゅうげんそうのすがたとへ、じっと、視線をそろえた。

(何用だろうか?)

迎えに来た者が知らないのであるから、武蔵には元よりわかっていない。

ただ東塔山王院の堂衆だということだけは途中で聞いた。しかしその堂衆のうちに、一人として知合しりあいなどはいそうもないのである。

「大儀じゃった。おぬしらに用はない。門内へ退すッ込こんでおれ」

ひとりの大法師が、長柄刀ながえの先で、使いにやった仲間僧と稚児僧とを追い払った。

そして武蔵へ向い、

「そこもとが宮本武蔵か」

と、訊ねた。

先が礼を執とらないので、武蔵も直立したまま、

「されば」

と、頷うなずいてみせた。

すると、その後ろから、ずいと一足進み出した老法師が、

「中堂延暦寺えんりゃくじの衆判により申しわたす」

と奉書でも読むような口調でいった。

「――叡山は浄地たり、霊域たり、怨恨を負うて逃避するものの潜伏をゆるさず。いわんや、不逞闘争の輩やからをや――じゃ。ただ今、無動寺へも申しおいたが、即刻、当山より退去あるべし。違背あるにおいては、山門の厳則に照らして断乎だんこ処罰申そうぞ、左様心得られい」

「……?」

武蔵は、唖然あぜんとして、相手の厳いかめしさをながめていた。

なぜだろう。不審なわけだと思う。初めこの無動寺へたどりついて、身がらを依頼した折に、無動寺では念のため、中堂の役寮へ届けを出して、

(さし閊つかえない)

という許可をうけ、その上で、自分の滞在を許してくれたのであった。

それを急に、罪人でも追うように追い立てるには、なにか、理由がなくてはならない。

「仰せの趣おもむきは承知いたしました。支度もととのわず、今日はもはや明るい間まも乏しゅうござれば、明朝、発足つかまつりましょう。それまでの御猶予を」

武蔵は一応、そうおとなしく受けておいて、

「――しかし、これはなにか、司直しちょくのお指図でござろうか、それとも当山の役寮の沙汰であろうか。先に、無動寺よりの届けには、滞在のこと苦しからずと、おゆるしあったものを、遽にわかな御厳命、甚だその意を得ぬが」

突っ込むと、

「おう、そう訊くならばいってつかわそう。役寮においては最初、下り松にて吉岡方の大勢をただ一名で相手にしたさむらいと、おてまえに、満腔まんこうの好意をもっていたのであるが、その後、いろいろと悪評が伝わり、お山に匿かくまい置くべからず――という衆議になったからじゃ」

「……悪評」

武蔵は、さもあろうことのように頷うなずいた。その後の吉岡方が、世間でどう自分をいいふらしているか――想像するに難くないからである。

ここで、そんな噂をまた聞きした人々と、なにをかいい争おう。

武蔵は冷やかにもういちど、

「わかりました。否やもござらぬゆえ、明朝は、必ず立ち退のきまする」

答え放して、門内へはいろうとすると、その背へ、唾つばするようにべつの法師たちが口々に罵ののしった。

「見よ! 外道げどう」

「羅刹らせつめ」

「馬鹿ッ」

五

「なんじゃと」

憤むっとしたに違いない、武蔵は足を止め、そして自分に嘲罵ちょうばをあびせた堂衆をねめつけた。

「聞えたか」

こういったのは今、武蔵のうしろから、外道と呶鳴った法師だった。武蔵は心外そうに、

「役寮の命とあるゆえ、神妙に仰せごとを受け申しておるに、口ぎたない罵詈ばりは心得申さぬ。わざとそれがしに喧嘩でも売ろうと召さるか」

「み仏に仕えるわれわれ、喧嘩など売る気はみじんもないが、おのずから喉のどを破って、今のような言葉が出てしもうたのだから仕方がない」

すると、他の法師も、

「天の声だ」

「人をもっていわしめたのだ」

加勢するように、喚わめきかかった。

蔑さげすみの眼と――嘲罵ちょうばの唾つばとが、武蔵の身にあつまった。武蔵は、耐えられない恥辱を感じた。しかし、いかにも自分に挑いどむような彼らの態度に、固く自分を、警戒して黙っていた。

この山の法師といえば、舌長いことでは古来から有名である。堂衆というのはいわゆる学寮の生徒である。生意気ざかり、知識自慢、頭でっかちの衒気げんき紛々ふんぷんなのが揃っているのだった。

「なんじゃ、里のうわさが大きいので、然るべき侍かと思うたが、こう見たところ、つまらぬ奴じゃ、腹でも立てて来ることか、碌ろくに物もいえんではないか」

黙っていればいるで、なお、毒舌をふるうので、武蔵もやや色を作なした。

「人をしていわしめるといわれたな。天の声といわれたな」

「そうだ」

傲然ごうぜんと、いい押してくる。

「それは、なんの意味か」

「わからんのか。山門の衆判をいい渡されても、まだ気がつかんのか」

「……分らぬ」

「そうか。いや汝おのれの神経ではそうもあろうて。愍あわれむべき男は汝なんじだ。――だが、輪廻りんねはやがて思い知るであろう」

「…………」

「武蔵。……そこ許もとの世評はひどく悪いぞ。下山しても気をつけろよ」

「世評など、なにものでもござらぬ――いわしておけばいいのだ」

「ふふん、なにやら、自分が正しそうなことを」

「正しい! おれは寸毫すんごうも、あの試合において、卑劣はしていない。……俯仰ふぎょうして恥じるところはない」

「待て。そうはいわさん」

「どこに武蔵の卑屈があったか。卑怯未練をしたというか。剣に誓う、おれの戦いには、微塵も邪よこしまはない!」

「天晴あっぱれ顔して、大きくいいおるわ」

「ほかのことなら、聞き流しもするが、拙者の剣にかかわって、あらぬ誹謗ひぼうをいいたてると、許さぬぞっ」

「然らば、いおうか。この問いに対して明答できるものなら答えてみい。――なるほど、吉岡方は目にも余る大勢であった。敢然、一人であたって戦いぬいたそこ許もとの元気というか、暴勇というか、生命いのち知らずなところだけは大いに買おう。えらいと称たたえておいてもいい。――しかし、なにがゆえに、まだ十三、四歳の子供まで斬ったか。あの源次郎とよぶ幼少を、無残にも斬り伏せたか――」

「…………」

武蔵の面おもては、水をあびたように悄然しょうぜんと、血のいろを失った。

「二代目清十郎は、片輪となって遁世し、舎弟伝七郎も、汝の手にかかって果て、後に残る血筋といえば……あの幼少源次郎しかないのだぞ。源次郎を斬ったのは、吉岡家に断絶を与えたも同様なのだ。……いかに武道の上とはいえ、血も涙もない仕方ではあるまいか。外道、羅刹らせつの名をもってして、まだいいたらぬ気がするわ! それでもおぬしは人間か、いや、この国の山ざくら花と対ついに称いわれるさむらいといえるかどうじゃ」

六

じっと、さし俯向うつむいて沈黙しつづけている武蔵に対して、

「山門の憎しみもそのいきさつが知れて来たためじゃ、ほかのいかなる事情を酌くんでも、あんな幼少を、敵の数に入れて斬った武蔵の心はゆるし難い。この国のさむらいとは、そんなものじゃない。もっと、強ければ強いほど、傑出していればいるほど、優しいもの、ゆかしいもの、また、もののあわれを知っているもの……。叡山は、汝を追う! 一刻もはやく、このお山を出て失うせいっ」

あらゆる罵詈ばり、あらゆる嘲蔑ちょうべつ――武蔵の胸には少なくもそう応こたえた――を堂衆たちは彼に浴びせかけて、ぞろぞろと帰って行った。

「…………」

甘んじて、武蔵は、その笞しもとをうけ、ついに黙りとおしてしまった。

――が、しかし、それに対して答えがなかったのではない。

(おれは正しい! おれの信念はちがっていない! あの場合、ただ、あれ以上に出るしかおれの信念を徹する仕方はなかったのだ)

彼は、心のうちで、いいわけでは決してない――今もこの信条は取ってうごかないのである。

では、なぜ源次郎少年を斬ったのか。

それに対して、彼は自分の胸のうちでは、明らかにいい切れる。

(敵の名目人とあるからには、それは敵の大将である。三軍の旌旗はたである)

なぜ、それを切って悪いか。また、こういう理由もある。

(敵は、七十人からの人数であった。いかに、自分が舎利しゃりとなって戦っても、そのうち、十名も斬れば、善戦したものといわなければならない。だがもし、吉岡の遺弟ばかりを、たとえ二十人斬っても、残り五十人は、後で凱歌をあげるだろう。――だから自分が、勝名乗りを揚げるためにも、誰よりも真っ先に敵方の旌旗せいきであるところの大将首をまず先に挙げておく必要があったのだ。――全軍の護っている中心の象徴しるしに、自分の一撃を下しておきさえすれば、たとえ、自分があの際、斬り死にしても、後に、自分の勝利は証拠だてられる)

もっと、もっと、彼をしていわしめるならば、剣の絶対的な法則とその性質からでも、理由はなお幾言いくこともいうことができる。

けれど武蔵は、堂衆たちの面罵めんばに対して、とうとう、それを一言もいわずにしまった。

なぜなら、それほどの理由をかたく信念しても、他人でない彼自身の胸のうちに何ともいえない寝ざめの悪さ――傷いたましさやら慚愧ざんきやらを――彼ら以上に、生々なまなましく胸にもって傷いたんでいるからである。

「……ああ、修行なんて、もう止めようか?」

うつろな眼をあげて、武蔵はなお、門前に立ちつくしていた。

暮れかかって来る夕風夕空の中に、白い山ざくらは散りまよっている。きょうまでの一心不乱も、その花びらのように霏々ひひと砕けて宙にさまよう心地がする。

「……そして、お通つうさんと」

彼はふと、町人の気楽さを思いうかべた。光悦や紹由しょうゆうの住んでいる世間を考えた。

(いや! ……)

大股に、彼は、無動寺の中へ姿をかくした。

部屋にはもう明りがともっていた。ここも今夜かぎりに去らねばならない。

(巧拙は問うところでない、供養の心もちが、菩提ぼだいへとどけば足りるのだ。――今夜のうちに彫り上げて、この寺に遺のこしてゆこう)

武蔵は、短檠たんけいの下に坐った。

そして彫りかけの観音像を膝の上に抑え、彫刀こがたなを把とって、一念にまた、新しい木の屑を散らしはじめた。

――と、戸締りもない無動寺の大廊下へ、そっと這いあがって、のろまな猫のように、部屋の外にかがみこんだ者があった。

七

短檠たんけいの灯が翳くらくなる……

丁字ちょうじを剪きる。

すぐ、武蔵はまたかがみ込んで、彫刀こがたなを把とる。

宵のうちすでに、山は、深沈とふかい静寂しじまに囲まれていた。サクリ、サクリと彫刀の鋭利な先で木を削そいでゆくのが微かに雪の積むほどにひびく。

武蔵はまったく彫刀の先に没しきっていた。彼の性情はなにへ対しても、一度それに向うと直ちに没頭しきってしまう。今――刀とうを把とって観音像を彫りにかかっているのを見ても、体がへとへとになりはしないかと思われるような情熱に燃えきっている。

「…………」

口のうちで唱えていた観音経の声が、我を忘れて次第に大きな声になってゆく、気がつくと急に声を落し、また、燭ひを剪きっては、一刀三礼らいのこころを像に向って凝こらした。

「……ウム、どうやら」

背を伸ばした時は、東塔の大梵鐘だいぼんしょうが、二更を報じていた。

「そうだ、挨拶もせねばならぬし、この像も、今宵のうちに、住持におねがいしておこう」

ざっとした荒彫あらぼりではあった。けれど武蔵にとっては、自分のたましいを打ちこめ、慚愧ざんきの涙をもって、亡き一少年の冥福を祈りつつ彫りあげたものなのである。それを寺に遺のこしておいて、永く、自分の憂愁とともに、源次郎の霊を弔とむらってもらおうと発願したものであった。

で。――彼は彫り上げたそれを持って、やがて部屋を出て行った。

彼が去ると間もなく、入れ違いに稚児僧ちごそうがはいって来て、部屋の中の塵ちりを箒ほうきで掃き出した。そして夜具までのべた後、箒をかついで庫裡くりへ戻ってゆく。

――すると、誰もいないはずのそこの障子が、その後で、ズズズと静かに、すこし開いて、また閉った。

やがてのこと――

武蔵はなにも知らず帰って来たのである。住持から受けて来たらしい餞別せんべつの笠、草鞋わらじなど、旅装の具ものを枕べにおき、短檠たんけいの灯を消して、寝床とこについた。

戸閉りはしないので、風はじかに四方にあたる。外の星明りに障子は蒟蒻色こんにゃくいろに明るくて、樹々の影が海原の荒すさびを思わせる。

……かすかな鼾声いびきごえになってゆく。武蔵は眠りについたらしい。

眠りのふかくなるほど、寝息も長く数えられた。と――隅の小屏風こびょうぶの端がすこし動き、ず……と猫のように背の尖とがった人影が膝で這い寄って来る。

ふと、武蔵の寝息が休やむと、人影はぺたっと、布団より薄べたくなり、じっと寝息の深度を測りながら、根気よく大事をとって機を待っている。

――突然! ふわりっと、黒い真綿でもかぶさるように、武蔵の上へその人影がのしかかったのである――と見えたかと思うや否や、

「うっ、うぬっ。思い知れやっ!」

いきなり――脇差の切ッ先であった。寝首の喉のどへ、力まかせに、キッと走る。

すると、その切ッ先の行方も分らぬほど――だあんッ――と横手の障子に、その人間は飛んで行った。

重い風呂敷づつみのように投げつけられた人間は、ひッと一声呻うめいた限きり、障子とともにもんどり打って、外の闇へ転がり落ちた。

投げつけたせつな、武蔵はその曲者くせものの体重が軽いのではっと思った。猫ほどしか重量めかたのない曲者なのである。それに布で顔は包んでいたが、髪の毛も麻のように白かったし……。

だが、彼はそれには一顧もしないですぐ枕元の太刀をかかえ、

「待てっ」

と縁を飛び降り、

「折角の訪れ、ご挨拶を申すであろう。お返しなされ」

いいざま、大股に駈けて、闇の跫音を追いかけた。

しかし本気で追う気ではないらしく、乱れあって彼方かなたへ散って行く白い刃影や法師頭巾の影を嗤わらってすぐ引っ返して来た。

八

投げつけられた弾はずみに、ひどく体を打ったのであろう、お杉婆は大地に呻うめいていた。武蔵が戻って来たとは知ったが、逃げることも起つこともできなかった。

「……アッ。おばばではないか」

武蔵は抱き起こしてみた。

自分の寝首を狙いに来た首謀者が、吉岡の遺弟でも、この山の堂衆でもなく、老いさらぼうた同郷の友の母であったことは、彼にも意外であったとみえる。

「ああ、これで解けた。中堂へ訴え出て、わしの素姓すじょうや、わしのことを、悪しざまに告げた者は、おばばであったのだな。健気けなげな老婆としよりのことばと聞き、堂衆たちは一も二もなく信じたに違いない。また、同情もしたであろう……。その結果わしを山から追うことに決め、夜陰に乗じて、おばばを先達にここへ加勢にきたものとみえる……」

「……ウウム、くるしい、武蔵、もうこうなる上は、ぜひもない。本位田家の武運がないのじゃ。ばばの首を討て」

苦悶しながら、お杉はやっとそれだけいった。

しきりと藻もがくのであったが、武蔵の力を拒むだけの力すらないのだった。打ちどころも応こたえたに違いないが、もう三年坂の旅籠はたごをたつ頃から、お杉は風邪かぜをこじらしていて、微熱があったり、足腰が懶だるかったりして、とかく健康もすぐれなかった揚句あげくである。

その上、下り松へ行く途中、ああして又八から棄てられてしまったことも、さすがに老いの心へ大きな傷手いたでとなり、体にも利きいていたに相違ない。

「――殺せっ、この上は、ばばの首を斬れ」

と今、彼女がもがいていうのもそういう心理や肉体の衰えを考えてやると、あながち弱者のさけぶ捨てばちな狂言ではなく、真実、事ここにいたったと知って(もうこれまで)という観念のもとに、いっそ早く死にたいと願って、正直に喚わめいたものかも知れなかった。

だが武蔵は、

「おばば、痛いのか。……どこが痛い? ……わしがついているゆえ案じぬがよいぞ」

両の腕に、軽々と、彼女のからだを乗せ、自分の寝床の中へ運んで、その枕元に坐り、夜の明けるまで、看護していた。

夜が白みかけるとすぐ、お小僧が頼んでおいた弁当をつつんで持ってきてくれた。――しかし方丈からは、

「お急せき立てするようですが、昨日きのう、中堂からやかましくいい渡されておりますゆえ、今朝はすこしも早く御下山をねがいます」

という催促。

もとより武蔵もそのつもりなのである。すぐ旅装して立ちかけたが、さて困ったのは病人の老婆としよりだった。

これを寺に計ると、寺でも、そんな者を残されて行っては迷惑といったような顔つきで、

「では、こうなされては如何いかがです」

便宜をとってくれた。

大津の商人あきんどが荷をのせて来た牝牛めうしがある。その商人は牝牛を寺にあずけたまま、丹波路へ用達ようたしにまわっているから、その牛の背を借りて、病人をのせ、大津へ下山されたがよかろう。そして牛は大津の渡船場なりあの辺の問屋場なりへ置いて行ってくれればいい――というのであった。

乳

一

四明しめいヶ岳たけの天井を峰づたいに歩いて、山中やまなかを経て滋賀しがに下りてゆけば、ちょうど三井寺のうしろへ出ることができる。

「……ウウム……ウウム」

婆ばばは時々、陣痛をこらえるように、牛の背で呻うめいていた。

その婆を乗せた牝牛めうしの手綱を持って、武蔵は、牛の先に歩いてゆく。

振顧ふりかえって――

「おばば」

武蔵は、慰めていう。

「苦しければ少し休もうか。――おたがいに急ぐ旅ではないからな」

「…………」

牛の背に俯うッ伏ぷしたまま、お杉婆は無言だった。その無言のうちには、仇かたきと思う人間のために、こういう世話になるのを好まない性来の勝気が――むしろ無念そうに顔の底に潜んでいた。

で――武蔵が優しく劬いたわれば劬わるほど、

(なんの、汝おのれなどに、不愍ふびんをかけられて、怨みを忘れるような婆ではないぞ――)

と、強しいて憎悪に努め、よけいに反感を昂たかめるのだった。

けれど、まるで自分を呪うために長生きしているかのようなこの老婆に対して、なぜか武蔵はそれほど強い憎しみも敵愾心てきがいしんも持たなかった。

力と力との対立では、余りに弱過ぎる敵であるせいもあろうが、その実、きょうまでの間に、計はかられたり、陥おとしいれられたり、武蔵が一番苦しめられた敵は、この最も腕力のない年寄りの敵対行為であった。――にもかかわらず、どういうものか、武蔵にはこの年寄りを、心から敵だと思うことができないのである。

では、まったく、眼中にないのかといえば、故郷ではひどい目に遭わされているし、清水寺の境内では、群衆の中で、唾つばきせんばかり罵倒ばとうされているし――その他、きょうまでというもの、どれほどこの老獪ろうかいなばばのために、事を邪さまたげられたり、脛すねを掬すくわれるような思いを嘗なめさせられているか知れないので、その折々には、

(おのれ、どうしてやろう)

と、八つ裂きにしてもあき足らないほど、憎くも思い、憤いきどおりもするのであったが、さて――自分の寝首を掻かれ損そこなってみても、心底しんそこから、

(悪婆!)

と、怒りにまかせて、この細ッこい皺首しわくびを捻じ切る気にはなれなかった。

それに今度は、お杉婆そのものもまた、いつになく元気がない、ゆうべの打身うちみを痛がって呻うめいてばかりいるし、辛辣しんらつな毒舌も振わないので、武蔵は一しお不愍ふびんになり、はやく体だけでも丈夫にしてやりたいがと思うのだった。

「おばば――牛の背も辛かろうが、大津まで行けば何とか思案がつこうで、も少しの辛抱。……朝から弁当も食べていないが、腹は空すいていないかな。……水でも飲みとうはないか。なに? ……要いらぬ……そうか」

この峰づたいの天井から眸ひとみを四顧にやると、北陸の遠い山々から、琵琶びわの湖うみはいうまでもなく、伊吹もみえ、近くは瀬田の唐崎の八景まで一つ一つ数えられる。

「休もう。――おばばも牛の背から降りて、すこし、この草の上に体を横にしてはどうか」

武蔵は、牛の手綱を、樹につないで、お杉婆を抱いて下ろした。

二

「ア痛、ア痛」

お杉婆は顔をしかめ、武蔵の手を拒んで、草の上に俯うッ伏ぷした。

皮膚は土色に、髪はそそけ立ち、このまま、ほっておけば絶え入りそうな重態にも見える。

「おばば、水は欲しゅうないか。……なんぞ、食べ物でも少し口へ入れてみる気はないか」

武蔵はしきりと案じて、その背を撫でてやりながら訊ねたが、強情な婆は、頑かたくなに、首を横へ振って、水もいらぬ、食べ物もほしくないという。

「弱ったのう」

武蔵は途方に暮れ――

「ゆうべから、水一滴口に入れず、薬をやりたいとは思うが人家もなし……疲れてしまうばかりじゃないか。……おばば、せめて、わしの弁当を半分ほどでも食べてくれぬか」

「けがらわしい」

「なに。穢けがらわしいと」

「たとえ、野末に行き倒れて、烏や獣けものの餌食えじきになろうとも、仇と狙うおぬし如き者から、飯などもろうて口に入れようか。馬鹿な――うるさいッ」

背を撫でている武蔵の手を、自分の背から振ふり退のけて、婆はまた草の根にしがみついた。

「ウム」

武蔵は、腹が立たなかった。むしろ婆の気持に共感ができるのである。この婆の抱いている根本的な誤解さえ除くならば、自分の気持も婆によく分ってもらえるであろうにと、それだけがただ嘆息されるのであった。

自分の母の病やまいのように、武蔵はなにをいわれても甘んじて受け、そして病人の駄々を宥なだめるような根気をもって、

「でも、おばば、このまま死んでしまっては、つまらないじゃないか。又八の出世も見なければ……」

「な、なにをいう!」

噛みつきそうに、婆は歯を剥むいていった。

「そ、そのようなこと、おぬしの世話にならいでも、又八は又八でいまに一人前になって行くわ」

「……それはなって行くだろうと俺わしも思う。だから、おばばも元気を出して、ともどもに、あの息子を励ましてやらねばなるまい」

「武蔵! ……汝われは、似非えせ善人じゃの。そのような甘い言葉に騙たぶらかされて、怨みを解くようなわしではないぞ。……無駄なこと、耳うるさいわい」

とりつく島もない血相なのだ。たとえ好意にせよ、これ以上はかえって逆らうことになってしまおう。武蔵は、黙然と立って、婆と牝牛めうしをそこに残し、婆の眼にふれないところへ去って、弁当を解といた。

柏かしわの葉で巻いてある握り飯であった。飯の中には黒い味噌が入っている。武蔵には美味うまかった。その美味さにつけても、どうかしてこれを半分でも婆が喰べてくれればよいがと思い――残りの少しをまた、柏の葉でつつんで懐中ふところに残しておいた。

すると、婆のそばで、話し声が聞える。

岩の蔭から振向いてみると、通りかかった里の女房であろう、大原女おはらめのような山袴やまばかまを穿はき、髪は無造作に油けもなく束ねて肩へ垂さげている。

「なあ、お婆さんよ、わしの家にも、この間から病人が泊っていての、もうだいぶ癒よいが、この牝牛めうしの乳をやったらなおよくなろうと思うのさ。ちょうど壺つぼを持っているし、この牝牛の乳をすこし搾しぼらせてくれまいかのう」

女の話が、高声にひびく。

婆は顔をあげて、

「ほ、牝牛の乳が、病やまいによいとは聞いていたが、その牛から乳がとれるかの」

と、武蔵に向ける時とはちがう眼まなざしを耀かがやかして、そう訊ねていた。

山家やまがの女はなお婆となにかいい交わしている間に、牝牛の腹の下にかがみ込んで、抱えていた酒壺の中へ白い液を懸命に搾しぼり取っていた。

三

「有難うよ、おばあさん」

牝牛の腹の下から女は這い出した。搾しぼった乳の瓶かめを大事に抱えて、礼をいうとすぐ去りかけた。

「ア。――待たしゃれ」

お杉婆は、呼び止めた。ひどく慌あわてて手をあげたのである。

そして辺りを見廻した。武蔵のすがたが見えないので、婆は安心したもののように、

「女子おなご。……わしにも、その牝牛の乳をくれぬか。ひと口、飲ませてくれまいか」

渇かわき切ったような声をふるわせていう。

お易やすいことですと、女が乳の瓶かめをわたすと、婆は、瓶の口へ唇くちをつけて、眼をつぶりながらそれを飲んだ。唇の端から流れた白い汁が、胸を垂れて、草にもこぼれた。

「…………」

胃に満ちるまで飲んでから、婆は、ぶるっと身をふるわせ、すぐ吐きそうに顔をしかめた。

「……ああ、なにやら不気味な味よの。したが、これでわしも、達者になれるかも知れぬ」

「おばあさんも、どこか体がお悪いのかえ」

「なあに、大したことはない。風邪熱のあったところを少し手ひどく転んでの」

いいながらお杉婆はひとりで起ち上がっていた。牛の背に乗せられて、ウンウン呻うめいていた病態はその時少しも見えなかった。

「女子おなご……」

声をひそめて、寄り添いながら、もいちど鋭い眼を、武蔵のために配って、

「この山道を、真っすぐに行ったら、どこへ出るのじゃ」

「三井寺の上に出るがな」

「三井寺といえば、大津じゃの……。そこより他ほかに、裏道はないか」

「ないこともないが、おばあさんは一体、どこへ行きなさるのじゃ」

「どこへでもかまわぬ。わしはただ、わしを捕まえて離さぬ悪者の手から逃げたいのじゃよ」

「四、五町ほど先へ行ったら、北へ降りる小道があるで、そこをかまわず降りて行けば、大津と坂本の間へ出るがな」

「そうか……」

と、婆はそわそわして、

「では、誰か後から追いかけて来て、お許もとになにか訊いても、知らんというてくれよ」

いい捨てると、婆は、怪訝けげんな顔しているその女の歩みを追い越して、跛行びっこの蟷螂かまきりが急ぐように、先へ駈け去ってしまった。

「…………」

武蔵は見ていた。苦笑しながら岩蔭を起ってしずかに歩き出した。

瓶かめを抱えてゆく女房のうしろ姿が先へ見えた。武蔵が呼びとめると、女は立ち竦すくんで、なにも問わないうちから、なにも知りませんと答えそうな顔つきをした。

だが武蔵は、そのことには触れないで、

「おかみさん、おまえの家は、この辺のお百姓か、それとも木樵きこりか」

「わしの家かえ? わしの家は、この先の峠にある茶店だが」

「峠茶屋か」

「ヘエ」

「ならば、なおのこと、都合がよい。おまえに駄賃をやるが、洛内らくないまで一走り、使いに行ってくれないか」

「行ってもよいが、家に病人のお客人がいるでの」

「その乳は、わしが届けてやった上、おまえの家で、返事を待っているとしよう。ここからすぐ行ってくれれば、陽のあるうちに帰って来られよう」

「それやあ造作もねえこったが……」

「案じるな。わしは、悪者でもなんでもない、今の婆どのも、あの元気で走れるようなら心配ないから抛ほうっておくのだ。……今ここで手紙を書く。これを持って、洛内の烏丸家まで行って来てくれ。返事はおまえの茶店で待っている」

四

武蔵は、矢立の筆を抜いて、すぐ手紙を認したためた。

お通へ――である。

無動寺にいた幾日かのあいだにも、折あらば――と機を心がけていた彼女への便りを、

「では、頼むぞ」

と今、女に渡し、自分の牛の背にまたがって、そこから半里ほどを悠々と牛の歩みにまかせて歩いた。

ほんの走り書きの一筆であったが、使いに持たせてやった自分の手紙の中の文言を思い泛うかべ――それを受けとるお通の胸をも想像して、

「二度と、会えようとは思わなかったが」

と、呟いた。

彼の笑顔えがおには、明るい雲が映はえて見える。

生々と夏を待つ地上の何物よりも、晩春の碧落へきらくを彩いろどる虚空こくう何物よりも、彼の顔一つが、いちばん楽しそうであり、また、溌剌はつらつとしていた。

「……この間のあの容態では、まだ病床にいるかもしれない。でも、わしのあの手紙が届いたら、すぐ起きて、城太郎とふたりして追いついて来るだろう」

牝牛は時々、草を嗅かいで止まった。草の白い花も、武蔵には、星がこぼれているように見えた。

楽しいことだけしか考えられない今の武蔵であったが、ふと、

「おばばは? ……」

と、谷間を見渡し――

「一人でまた、仆れたまま苦しんでいるのじゃないか?」

などと心配してみたりする。――それもこれも、今なればこそある余裕だった。

もし人に見られたら恥かしいと思ったが、お通へやった手紙の中に、彼はこういう意味のことを書いたのである。

花田橋のときは、そなたが待った

こたびは、わたしがそなたを待とう

ひと足先に、大津へ出、瀬田の

唐橋に牛をつないでいる

くさぐさの話、その節

彼は、そう書いた自分の文言を詩のように、口のうちで幾たびも暗誦し、さて――くさぐさの話のたねまで今から胸に描いている。

峠の背に、旗亭が見えた。

「……あれだな」

と思う。

近づいて、彼は牛の背から降りた。手にはここの女房からの届け物である乳の入っている瓶かめを持っていた。

「ゆるせ」

軒先の床几しょうぎを占めると、土泥竈どべっついにせいろうをかけて、木を燃やしていた老婆が、ぬるい茶を汲んでくる。

武蔵は、その老婆に向い、ここの女房に逢って、途中から使いを頼んだ仔細を告げた。そして乳の瓶をも渡そうとすると、

「へえ、へえ」

とばかり聞いていた老婆は、耳が遠いのか、その瓶を持たされると、

「これはなんでござりまするか」

と、不審いぶかった。

武蔵が、これは自分の曳いている牝牛の乳で、ここの女房が病人の客とやらへ飲ませたいためにこれへ搾しぼったものだから、すぐその病人へ与えるがよかろうと、いい聞かせると、老婆は、

「ほう? ……乳でござりまするか……ほう?」

まだ分ったやら分らないような顔つきして、両手に瓶を支えていたが、やがて、処置に窮したように、

「――お客さあっ、奥のお客さあっ、ちょっくら来ておくんなされや。わしにゃあ、どうしてええか分らんがな」

狭い小屋の奥をのぞいて、唐突にどなった。

五

老婆に呼びたてられた奥の客なる者は、奥にはいなかった。

「――おう」

と、返事の聞えたのは裏口のほうで、やがてのそっと、一人の男が、茶店の横から顔を出して、

「なんだい、婆さん」

と、いった。

老婆はすぐ乳の瓶かめをその男の手へ渡した。けれど男は、その瓶を持ったまま、老婆の話を聞こうともしないし、乳をのぞいて見るでもない。

放心した人間のように、眼を武蔵の頬へ射向けているのだった。武蔵もまた凝然ぎょうぜんとして、その男を見ている――

「……お、おうっ」

どっちからともなくこう呻うめいた双方の足が前へ出ていた。

そして顔と顔とを接し合って、

「又八じゃないかっ!」

武蔵がさけんだ。

その男は、本位田又八だったのである。

変らない昔の友の声に耳を打たれると、又八もわれを忘れて、

「――やっ。武たけやんか!」

と、彼もむかしの呼び慣れた名をもって呶鳴った。武蔵が手を伸ばすと、又八も、うつつに抱えていた乳の瓶を思わず手から落して抱きついた。

瓶は砕けて、白い液が二人の裾すそへ刎はねかかった。

「ああ! 何年ぶりだろう」

「関ヶ原の戦いくさ――あれからだ! あれから会っていないのだ!」

「……すると?」

「五年ぶりだ。――おれは今年二十二になったから」

「わしだって、二十二だ」

「そうだ、同い年だったなあ」

抱き合っている友と友を、牝牛の甘い乳の香がつつんでいた。幼心おさなごころを二人ともそれにも思い出されていたかもしれなかった。

「偉くなったなあ、武やん。――いや今では、そう呼ばれても自分みたいな気がすまいな。おれも武蔵と呼ぼう。いつぞやの下り松の働き、その前のことども、噂は始終耳にしていた」

「いや、恥かしい。まだまだおれは未熟者だ。世間の奴が、余りにも不出来すぎるのだ。――だが又八、この茶店に泊っているという客は、おぬしのことか」

「ウム……実は江戸表へ行こうと思って都を立ったが、少し、都合があって十日ばかり」

「じゃあ、病人というのは? ……」

「病人」

又八は口籠くちごもって、

「あ――病人というのは、連れの者だ」

「そうか。……なにしろ無事な顔を見てうれしい。いつか、大和路から奈良へゆく途中で、城太郎からおぬしの手紙を受け取ったが」

「…………」

急に、又八は眼を伏せた。

あの時、手紙の中に、傲語ごうごして書いた言葉の一つでも、実行されていないことを思うと、彼は、武蔵の前に、面おもてを上げる勇気も出ない。

武蔵は、その肩に手をかけた。

ただわけもなく懐かしいのだ。

五年のあいだに生じた彼と自分との人間的な差などは念頭にもなかった。折もよし、ゆっくりと打ち寛くつろいで、心ゆくまで語りあいたいと思うのだった。

「又八、連れというのは、誰なのだ」

「いや……べつに、誰というほどの者でもないが、少しその……」

「じゃあ、ちょっと、外へ出ぬか。ここで余り饒舌しゃべるのも悪かろうゆえ」

「ウム、行こう」

又八も、それを望んでいたらしく、すぐ茶店の外へ歩き出した。

蝶と風

一

「又八、おぬしは今、なにをやって衣食しているのか」

「職業か」

「ウム」

「仕官の口には外はずれるし、まだこれぞといえる仕事もしていないが」

「では今日まで、遊んで暮してきたのか」

「そういわれると思い出す……。俺はまったく、あのお甲のやつのために、大事な一歩を過あやまったものだ」

その伊吹いぶきの麓ふもとが思い出されるような草原へ出ると、

「坐ろう」

武蔵は、草にあぐらを組んだ。そして自分に対して、何となく、負ひけ目めを感じているような友の弱気を、むしろ歯がゆく思った。

「お甲のためだというが――又八、そういう考え方は男の卑劣だぞ。自分の生涯を創つくってゆくものは自分以外の誰でもない」

「それやあもとより、俺も悪い。……だがどういうのかなあ。俺は自分へ向って来る運命を、かわせないのだ。つい引き摺られてしまうのだ」

「そんなことで今の時代をどうして乗り切るか。たとえ江戸へ出てみても、江戸は今、諸国から腹の空すいている人間が、眼を研といで集まっている新開地だ。とても人並なことでは立身も覚束おぼつかなかろう」

「俺もはやく剣術でも修行すればよかったが」

「なにをいう。まだ二十二じゃないか。なんだってこれからだ。……だが又八、おぬしには剣の修行は人がらでない。学問をせい、そしてよい主君を求めて奉公の途みちにつけ、それが一ばんいいと思うな」

「やるよ……俺も」

草の穂をむしり取って、又八は歯に咥くわえた。心から彼も自分を恥じるのだった。

同じ山間に生れ、同じ郷士の子に生れ、年も同じなこの友に対して、たった五年の歩みの違いが、彼と自分と、こんなにも大きな差を作っていたかと思うと、堪らないほど、徒食の日が後悔されてくる。

噂だけを聞いて、武蔵にあわないでいたうちは、なんの彼奴あいつがと、多寡たかをくくっていられたが、こうして五年ぶりで変った姿に出あってみると、いくら意地を張ってみても、又八はなにか友達らしくない威圧さえ彼から受けて、自分の影に負ひけめを抱かずにはいられない。そして常に胸に持っていた武蔵に対する反感も、気概も、自尊心までも同時に失って、ただ正直に自分の意気地なさばかり、心こころの裡うちで責めるのであった。

「なにを考え込んでいるのだ――。おいっ、慥しっかりしろよ」

武蔵は、友の肩を打って、叩いてみても手に感じられるような、その軟弱な意思を叱った。

「いいじゃないか、五年道草をくったら、五年遅く生れて来たと思うのだ。だが、考えようによっては、その五年の道草も、実は尊い修行であったかもわかるまいが」

「面目ない」

「……オオ、話に夢中になって忘れていたが、又八、たった今おれは、おぬしの母親とそこで別れたのだぞ」

「えっ、おふくろと、あったのか」

「なぜ、おぬしは、あの母親の強気と我慢を、も少し血の中に貰って生れて来なかったのだ」

二

この不肖な子を見ていると、武蔵は、あの不幸な母親のお杉婆を、哀れと思わずにいられない。

(なんたるやつだ)

と、腑ふがいない又八の銷沈しょうちんしている姿が、他人事ひとごとならずに、眺められる。

(幼少から母にわかれて、母のない俺のみじめな寂しさを見ろ)

と、いってやりたい。

そもそも。

お杉婆が、あの老齢よわいをもちながら、求めて旅の空に惨苦を舐なめているのも、また、自分を目もくして七生の仇敵とまで思いこんでいるのも、その根本の原因はただ一つ、

(又八が可愛い)

という以外の何ものでもない。その他ほかに原因はないのだ。盲愛から生じた誤解であり、誤解から生じた執念でしかないのである。

淡い幼少の夢の中にしか母を知らない武蔵には、痛切にそれが分る。羨うらやましくてならないのだ。あの婆に罵ののしられ、迫害され、謀はかられて、一時の憤怒から醒めた後では、かえって胸を噛まれるほど孤愁の身にそれが羨まれた。

(――だから、婆の呪詛じゅそを和やわらげるには?)

と、武蔵は今、又八の姿を見ているうちに胸の中で、独り問うて独り答えた。

(この息子が、偉大になってくれればいいのだ。武蔵以上の人間になり、俺を見返して、郷人きょうじんに誇ってくれたら、婆は、おれの首を討った以上、本望と思うだろう)

そう考えると、彼の又八に抱く友情は彼が剣つるぎに対するように、彼が観音像を彫る時のように、燃え上がらずにいなかった。

「なあ、又八。おぬしは思わないか」

その真実が、彼のことばを、友情の裡にも荘重にして、

「あんないいおふくろを持って、おぬしはなぜ、あのおふくろに、欣うれし涙なみだをこぼさせてやろうとはしないのだ。親のないおれから見ると、貴様は、勿体なさすぎるぞ。勿体ないということは、親を尊敬しないということじゃないのだ。人間の子の最大な幸福を持たせられていながら、折角の幸福を、余りにもおぬしは自分で踏みにじっている。――仮にだ、おれに今、あんなおふくろがあったとしたら、おれの人生は、何倍も暖かに膨ふくらむだろう。身を研みがくにも、功を立てるにも、どんなに張合いが持てるか知れないと思うのだ。なぜならば、親ほど正直に、子の功を欣よろこんでくれるものはないからだ。自分のしたことを、共々欣んでくれる者があるのは大きな張合いというものじゃないか。――それのある者には、陳腐ちんぷな道義の受け売りをしているように聞えるだろうが、こういう漂泊の空にある身でも、アアいい景色だなあと感じた時のような場合、側にもどこにもそれを語る者がいないということはその一瞬、実にさびしい心地の身になるものだぞ」

又八が、じっと耳を傾けて聞いてくれるので、武蔵も一息にそこまでいって、友の手頸てくびを握りしめた。

「又八っ……。そんなことは、おぬしだって、百も承知に違いない。おれは、友達として頼むのだ。同じ郷土で育ったのだ。……なあおいっ、関ヶ原の合戦を望んで、槍を担かついであの村を出た時の気持を、もいちどお互いに呼びかえして、勉強しようじゃないか。合戦は今、どこにもなく見えるが、関ヶ原の役は熄やんでも、平和の裏の人生の戦はあんなものどころか、いよいよ修羅しゅらと術策の巷ちまたを作っているのだぞ。その中で、克かちきる道は、自分を研みがくことしかない。……なあ又八、もいちど槍を担かついで出かける気で貴様も、真面目に世の中と取ッ組んでくれよ。勉強してくれよ、偉くなってくれよ。貴様がやる気ならおれもどんな力でも貸す、貴様の奴僕ぬぼくになってもいい、ほんとに貴様がやるという誓いを天地に立ててくれるならば――」

結び合っている二人の手へ、又八はぼろぼろ涙をこぼした。湯のようにそれは熱かった。

三

これが母の意見だと、耳にたこという顔を示して、いつも鼻で嗤わらい返す又八であるが、五年ぶりで会った友の言葉には、強く本心を衝うたれてつい涙すらこぼしてしまった。

「……分った、分った、有難う」

繰返して、手の甲で眼を抑おさえ、

「今日を心の誕生日として、おれも生れ直す。とてもおれは、剣で身を立てる素質はなさそうだから、江戸表へ行くなり、諸国を遍歴するなりして、そのうちに良師に出会ったら、就いて学問を励むことにする」

「おれも、ともに心がけて、良い師と良い主人を見つけてやろう。なにも学問は閑ひまでやるのじゃないから、主人に仕えながらでも修おさめられることだし」

「なんだか、広い道へ出た気がする。――だが、困ったことが一つある……」

「なんだ。どんなことでも話してくれ、将来ともに、この武蔵にできることで、そして、おぬしの身のためになることなら、どんなことでもきっとする。――それがせめて、おぬしのおふくろを怒らせた、わしの罪の償つぐないだから」

「いい難にくいなあ」

「些細ささいな秘かくしごとが、つい大きな暗い陰を作る。話してしまえ……間のわるいのは一瞬ひとときだし、友達の間に、なんの羞恥はにかむことがあるものではない」

「……じゃあいってしまうが」

「ウム」

「茶店の奥に寝ているのは、女の連れなんだ」

「女連れか」

「それも、実は……。アア、やっぱりいい難にくいなあ」

「男らしくない奴だ」

「武蔵、気を悪くしないでくれ。おめえも知っている女だから」

「はてな? ……誰だ一体」

「朱実あけみだよ」

「…………」

武蔵は、はっと思った。

五条大橋で会った朱実はもう以前の真っ白な野の花ではなかった。媚汁びじゅうをたたえた毒草のお甲ほどにはまだ荒すさんでいないまでも、危険な火を咥くわえて飛んでいる鳥だった。あの時、自分の胸へすがって泣きながらそれを告白もしていたし、折からその朱実と、なにか関係のありそうな若衆扮装いでたちの前髪が、キッと、橋の袂たもとから白い眼で睨ねめつけていたことなども思い出される。

武蔵が今、朱実と道連れと聞いて、友のためにハッと思ったのは、そうした複雑な事情と性格をもっている女性と、この弱気な友との人生の旅が、どんな暗黒の谷間へ入ってゆくことか、余りにも見えすいた不幸な道連れ――と直ぐ思われたからであった。

また、どうしてだろうか。お甲といい、朱実といい、選よりに選って、そういう危ない道連ればかりが、この男に付くのは。

「…………」

武蔵の黙っている面おもてを、又八は、又八らしく解釈して、

「怒ったのか。……おれは秘かくしていては悪いから正直にいってしまったが、おめえの身に取れば、いい気持はしないだろうからな」

と、いった。

憐あわれむように、武蔵は、

「ばかな」

と、顔色を払って、

「余りにも、不運に出来ているのか、不運を自分で作るのか――と、おぬしのために、おれは茫然とするのだ。……お甲に懲こりておりながら、なんでまた……」

口惜くちおしくすら武蔵は思って、そのいきさつを糺ただすと、又八は、三年坂の旅籠はたごで出会ったことから、過ぐる夜、瓜生山うりゅうやまで再び会って、ふと出来心のように、江戸へ駆落ちする相談を決め、連れの母親を捨ててしまったことまで、ありのままに話して隠すところもない。

「ところが、おふくろの罰があたったのか、朱実の奴が、瓜生山で辷すべった時の打傷うちみが痛いといいだし、それからこの茶店でずっと寝込んでしまったというわけ。おれも後悔はしたが、もう追いつかないことだしなあ」

その嘆息ためいきを聞けば、無理もない。火を咥くわえている鳥と、慈母の珠とを、この男は、取り替えてしまったのである。

四

そこへ、のっそり、

「お客さあ、ここにいなさったのけ」

模糊もことして風貌のどこかに耄碌もうろくした茶店の老婆が、両手を腰にまわし、お天気でも見に来たように空を見まわして、

「お連れの病人は、一緒に来ていなさらねえのかよ」

問う如くでもあり、問わざる如くでもある。

又八は直ぐ、

「朱実か。――朱実がどうかしたのか」

色を顔に出していう。

「寝床にいねえがな」

「いない」

「今し方までいただが」

武蔵には、なにか、説明はできないが、直感的に、思い当るものがあった。

「又八、行ってみい」

その又八に続いて、武蔵も茶店へ駈けもどり、彼女の寝床のあったという穢むさい一間を覗いてみると、老婆のことばに違うところがない。

「あっ、いけねえ」

又八は、きょろついて、叫んだ。

「帯もない、履物はきものもない。――やッおれの路銀も」

「化粧道具は」

「櫛も、釵かんざしも。どこへ突つっ奔ぱしって行きやがったのだろう。おれを置き去りにしやがって」

たった今、将来の発憤を誓って、涙をこぼした顔に、忌々いまいましさを漲みなぎらしていう。

老婆は、土間口から覗いて、独り語のように、

「なんたらことじゃ。あの娘ッ子はの、いうたら、お客さんに悪いかしらんが、ほんまの病気じゃのうて、仮病けびょうして、不貞寝ふてねしていよったのだによ。老婆としよりの眼から見たらようわかるがの」

そんな声には耳もかさない。又八は茶店の横へ出て、峰を蜿うねる白い道をぼんやり眺めていた。

もう花も黒く散りしいている桃の樹の下に、寝そべっている牝牛めうしが、思い出したように、長々と欠伸啼あくびなきをする。

「…………」

「又八」

「…………」

「おい」

「ウム?」

「なにをぼんやりしているのだ。去った朱実が行く先、せめて少しでもよい身の落着きを得るように、二人して祈ってやろう」

「ああ」

と、気のない顔の前に、小さな風の渦がながれていた。黄いろい蝶が一つ、見えない渦の中に弄もてあそばれながら、崖の下へ沈んで行った。

「さっき、おれを欣ばしてくれた言葉。あれは、おぬしのほんとの決心だろうな」

「ほんとだ、ほんとでなくて、どうするものか」

噛んだままの唇から、慄ふるえを洩らすように、又八は呟いた。

茫ぼうと遠くを見ている眸を奪いかえすように、武蔵はぐっと彼の手を引っ張って、

「おぬしの行く道は、自然に拓ひらけてきた。もう、朱実の落ちて行った方角がおぬしの道じゃないぞ。おぬしはすぐ、これから足に草鞋わらじをつけて、坂本と大津の間へ降りて行ったおふくろを捜し廻れ。――あのおふくろを貴様は見失ってはならないぞ。さ、直ぐに行け」

と、眼につくそこらの草鞋わらじや脚絆きゃはんなど、彼の旅具を取って、軒端の床几しょうぎまで持ち出してやる。

さらにまた、

「金はあるか、路銀は。……少ないがこれを持って行ったらどうだ。おぬしが江戸表へ出て志を立てる気なら、おれも一先ず江戸まで共に行こう。また、おぬしのおふくろ殿には、改めておれも心から話したいこともある。おれはこの牛を曳いて、瀬田の唐橋に行っておるから、きっと後から連れ立って来いよ。――いいか、おばばの手を曳いて来いよ」

道聴途説どうちょうとせつ

一

武蔵は後に残って、黄昏たそがれを待っていた、いや使いの戻りを待つのだった。

午ひる過ぎの小半日を、さて退屈に思う。日は長いし、飴あめのように体は伸びを欲する。緋桃ひももの下に寝ている牝牛にならって、武蔵も、茶店の隅の床几しょうぎに横になっていた。

今朝は早かった、昨夜もろくに眠っていない。いつのまにか夢は二つの蝶になっている。一羽はお通だと夢の中で思っている。連理れんりの枝を繞めぐっている。

――ふと眼をさますと、いつのまにか、陽は土間の奥まで映さし込んでおり、寝ているうちに、居場所でも変ったかと思ったくらい、この峠茶屋に騒々しい声がしていた。

この下の谷間から石を切り出しているので、そこで働いている石切いしきり職人たちが、毎日の例によって八刻やつというと、ここへ甘い物をたべに来て、一頻ひとしきり番茶を飲みながら饒舌じょうぜつを娯たのしむ。

「なにしろ、だらしがねえや」

「吉岡方か」

「あたりめえよ」

「ひどく沽券こけんをおとしたものだなあ。あんなに弟子がいて、一人も刃の立つ野郎はいなかったのかしら」

「拳法けんぽう先生が偉かったので、余り世間が買いかぶっていたのさ。なんでも偉いやつは初代に限るな。二代となるともうそろそろ生温なまぬるくなり、三代でたいがい没落、四代目になっても、てめえと墓石のつり合っている奴アめったにねえ」

「おれなんざ、こう見えても、つり合ってるぜ」

「親代々、石切いしきりだからよ。おれがいってるのは、吉岡家の話だ。嘘だと思うなら、太閤様の後をみねえ」

それからまた、話はもどり、下り松で果し合いのあった朝、おれはあの近所だから見ていたという石切いしきりが現れる。

その石切はまた、自分の目撃談を、もう何十遍も何百回も人中で聞かせているとみえて、おそろしく語ることがうまい。

百何十名の相手を敵にまわし、宮本武蔵という男が、こうやって、こう斬りこんでと、まるで自分が武蔵になった気かなにかで、おそろしく誇張して話している。

隅の床几しょうぎの上に寝ていた本人は、まだその話の酣たけなわな頃には、深く睡ねむっていたので倖せだった。もし眼がさめていたら、噴飯に堪えないどころか、面映おもはゆくてそこにいられなかったかも知れない。

ところが、それを聞いて甚だ面白くない顔をしている一組が、その前から軒先のべつな床几を占めて聞いていた。

中堂の寺侍三名と、その寺侍たちに、この峠茶屋まで見送られて来て、

(では、ここで――)

と別辞わかれを交わしていた好青年である。若衆小袖を旅扮装たびいでたちに凛々りりしく括くくり、前髪の元結もとゆいも匂やかに、大太刀を背に負い、身の拵こしらえ、眼まなざしや構え、なにしろ花やかに見うけられる。

石切たちは、その風采に恐れをなして、床几を去り、莚むしろの方に番茶を運んで、無礼のないようにしていたが、下り松の後日譚ごじつがたりは、そこへ移ってから、いよいよ調子づいて時々どっと笑ったり、またしばしば武蔵の名が謳うたわれた。

そのうちに、黙って聞いているに堪えない虫気が起ったのであろう、佐々木小次郎は、石切たちの方へ向って、

「これ、職人ども」

と、呼びかけた。

二

石切の職人たちは、小次郎のほうを振向いて、何事かと皆、居住いを直した。

風采花やかな若衆武士が、先刻さっきから側には中堂の寺侍を二、三名も据え、威風は辺りを払うが如く見うけられていたので、彼らは、

「へい」

と一様に頭を下げた。

「これ、これ。唯今、知ったか振りして、喋舌しゃべっていた男、前へ出い」

小次郎は、鉄扇をもって、彼らの頭かしらを麾さしまねき、

「そのほかの者も、ずっとこっちへ寄れ。……なにも恐こわがらんでもよい」

「へ、へい」

「今、聞いておると、其方どもは、口を極めて、宮本武蔵を讃たたえておるが、左様な出たらめを申し触らすと、以後承知せぬぞ」

「……は。……へい?」

「なんで武蔵が偉いか。其方どものうちにも、過日の件を目撃した者があるとのことだが、この佐々木小次郎もまた、当日の立会人として、親しくあの試合には双方の実情を審つぶさに検分いたしておる。――実はその後、叡山えいざんに上り、根本中堂の講堂にては、一山の学生がくしょうを集めて、その見聞と感想を演舌し、また、諸院の碩学せきがくたちの招請に応じても、自分の意見を忌憚きたんなく述べてまいったのだ」

「…………」

「然るに――其方たちが、剣の何物なるかも知らず、ただ形だけの勝敗を見、衆愚のうわさに惑わされて、武蔵如き者を稀世の人物だの、無双の達人だのと申すが、それでは、この小次郎が、叡山の大講堂で演舌した意見が、皆、嘘のように相成ってしまう。――無智な凡下ぼんげどもの沙汰すること、取るにも足らんが、ここに居合わす中堂の方々にも一応聞いていただく必要があるし、また、汝らのいう誤った見方は、世上を害するものだ。――事の真相と、武蔵の人物をよう聞かせてやるから、耳の穴を掘って聞け」

「……へ。……はい」

「そもそも――武蔵とはどんな肚の男か。あの試合を仕かけた彼の目的からそれを洞察どうさつすると、あれは武蔵の売名にやった仕事だ。自分の名を売るために洛内第一の吉岡家へ向って、うまく喧嘩を売ったもので、吉岡はその図に乗せられて彼の踏み台になったものとわしは観みる」

「……?」

「なぜならば、初代拳法時代のおもかげもなく、京流吉岡が衰えていることは、誰にだってもう分っていたことなのだ。樹なら朽木、人間なら瀕死の病人にひとしい。抛ほっておいても自滅するものを、押し倒したのが武蔵なのだ。――そんな者を倒す力は誰にでもあるが、それを敢てやらないのは、もう今日の兵法者の仲間では、吉岡の力など眼中にもない情勢にあったからと、もう一つは拳法先生の遺徳を思い、さむらいの情けで、あの門戸ぐらいは見遁みのがしておいてやろうという気持もあったに相違ない。それを武蔵は、わざと声を大にし、事件を拡大し、都の大路に高札を立て、巷ちまたの噂を高め、思うつぼに芝居を打って当てたのだ」

「……?」

「その心情のいやしいこと、駆引かけひきの卑屈なこと、挙げていえば限りもないが、清十郎と立会う時でも、伝七郎の時でも、一度として彼奴あいつは約束の時刻を守った例ためしがない。また、下り松の折なども、正面から堂々と闘わずに、奇道奇策を弄ろうしている」

「…………」

「なるほど、数の上で見れば、一方は大勢、彼は一人に違いなかった。しかし、そこに彼の狡智こうちと、売名上手が潜ひそんでおる。世の同情は彼の期したとおり、彼の一身に集まった。――けれどあの勝負などは、わしの眼からみればまるで児戯にひとしい。武蔵は飽くまで小賢こざかしく狡ずるく行動して、いい汐時しおどきにさっと逃げてしまった。――しかし、或る程度までは、かなり野蛮で強いことは強い。だが、達人だなどいう評判はあたらぬも甚だしい。――強しいて達人というならば、武蔵は『逃げの達人』だ。逃げ足の迅はやいことだけは、確かに名人といってもよい」

三

立て板に水を流すような小次郎の弁舌だった。叡山えいざんの講堂でも、この弁をふるって演舌したことであろうと思われる。

「――素人しろうと考えだと何十人と一人の闘いは、容易ならぬものと思うだろうが、何十人の力は、一人一人の実力が何十倍となったものでは決してない」

という論法から、小次郎は当日の勝負を、専門的知識にかけて、舌にまかせて論破する。

岡目八目という立場からいえば――武蔵のあれ程な善戦も、いくらでも非難することができた。

次にまたこの小次郎も、武蔵が名目人の一少年までを討ったということを、口を極めて、悪罵あくばした。単なる罵倒にととまらず、これを人道的にみて――また武士道の上からみて――剣の精神のうえからもゆるし難い人間であると断じつける。

さらに、彼の生おい立ちや、郷里でやって来た行状だの――現に今も、彼を仇とねらっている本位田なにがしという老母があるはずだということにまで及んで、

「偽りと思うならば、その本位田の老母に聞いてみるがよい。わしは中堂に泊っている間に、親しくその老母とも会って聞き取ったことなのだ。もう六十にもなろうという純朴な老婆としよりから、讐かたきと狙われているような人物がどうして偉いか。うしろ暗い仇持ちの人間を賞ほめ称たたえ、それが世道人心によい風を及ぼすであろうかどうか。そぞろ寒心に堪えないものがあるのでわしはいうまでだ。――断っておくが、わしは吉岡方の縁者でもなければ、武蔵に意趣のあるわけでもない。ただ自分も剣を愛し、この道に身を研みがくものであるゆえ、正しい批判をするまでの者じゃ。――わかったか、職人ども」

いい終って、さすがに喉のどが渇かわいたか、小次郎は茶碗を取って、がぶりと一口に飲み、

「アア、だいぶ陽が傾いて来ましたなあ」

と、連れのものを顧みる。

中堂の寺侍たちは、

「そろそろ、お立ちにならぬと、三井寺までゆかぬうち、山道で暗くなりましょう」

と注意しながら、自分たちも、痺しびれのきれかけた床几しょうぎを離れた。

石切いしきりの職人たちは、どうなることかと一言もなく硬こわばっていたが、その機しおを見ると、白洲しらすから解かれたように、われがちに起って谷間へ仕事に降りてゆく――

その谷間はもう紫ばんだ陽かげになり、ひよどりの声がけたたましく谺こだまを呼ぶ。

「では、ご機嫌よう」

「また、ご上洛の折には」

と寺侍たちも、ここに小次郎の旅先を餞別はなむけして、中堂の方へ帰って行った。

小次郎は一人残って、

「ばあさん」

と、奥へ呼び、

「茶代をここへおくぞ。――それから、途中で暗くなった時の用意に、火縄ひなわを二、三本貰って行くからの」

老婆は、夕餉ゆうげの物をかけた土泥竈どべっついの前にしゃがみ込んで、焚たきつけにかかったまま、

「火縄けい。火縄ならそこの隅っこの壁にいくらでもかけてあるで、要いるだけ持って行かっしゃい」

と、いう。

小次郎はずかずか茶店の奥へ入って、隅の壁にみえる火縄の束から二、三本引き抜いた。

――と、釘を外はずれた火縄の束が、ばさっと下の床几しょうぎに落ちた。何気なく手を伸ばした時、彼は初めて気がついた。その床几の上に横たわっている人間の二本の脚もとから――顔の方をずっと見上げて、どきっと、鳩尾みずおちに当身あてみを食ったような衝動をうけた。

――武蔵は、手枕の上から、眼を開けて、彼の顔を、まじまじと見ていたのである。

四

弾はじかれたように小次郎は跳とび退のいていた。ぱっと、無意識の敏捷さだった。

「……おう?」

と、いったのは武蔵。

白い歯を見せて、にやっと笑いながら、今眼が醒さめたように、やおらその後から身を起したのである。

やっと、床几を立ち上がった。そして軒先にいる小次郎の側へ歩いて来た。

「…………」

にこやかな唇元くちもとと、心の奥を見透みすかすような眼とを持って、武蔵は立った。小次郎もまた、笑みを持ってそれに応えようとしたが、意思と反対に、顔の筋は妙に硬ばってしまって、笑えなかった。

無意識に跳び退いた自分の敏捷を――必要のないあわて振りと――武蔵の眼が嗤わらっているように取れたからである。また、自分が、先刻さっきから石切たちに向って演舌していた事々を、武蔵も聞いていたに違いない――と思い、咄嗟にその狼狽も胸を塞ふさいだからであろう。

で――とにかく、小次郎の顔いろと態度は、すぐいつもの傲岸ごうがんな風ふうの裡うちへかえしてしまったが、一瞬は、しどろもどろだった。

「……や。武蔵どの。……これにいたのか」

「いつぞやは」

武蔵がいうと、

「おう、いつぞやは、眼ざましいお働き、人間業にんげんわざとも思われなかった。しかも、さしたるお怪我もなかったそうな。……祝着しゅうちゃくの至りです」

負け惜しみの底に、苦い矛盾を肯定しながら、つい、こう小次郎はいってしまった。そして自分で吐いた言葉を自分で忌々いまいましく思った。

武蔵は、皮肉であった。なぜなのか、この小次郎の風采ふうさいや態度に面と対むかうと、彼は皮肉を弄ろうしたくなった。わざとのように慇懃いんぎんに、

「その節は、立会人として、なにかとご配慮を。かつまた、ただ今は、いろいろ拙者に対して苦言を聞かしていただき、あれにて他よそながら、有難いと思って聞いていました。――自分から考える世間と、世間が観みている自分の真価とは大きな違いがあるが、滅多にほんとの世間の声は聞かれない。それを其許そこもとが、昼寝の夢に聞かせてくれたと思うと、忝かたじけない心地がする。――忘れずに憶おぼえておりますぞ」

「…………」

忘れずに憶えている――彼の一句に、小次郎は全身が鳥肌になった。これは穏やかな挨拶に似ているが、小次郎の胸に受けて聴けば遠い将来をかけて番つがえて来た挑戦として当然に響く。

また。

(ここではいわぬが)

という含みも言葉の裡にある。

おたがいが、さむらいだ。虚偽をゆるさないさむらいであり、曇りを捨ておけない剣の修行者である。是非を舌の先で争ってみたところで、水掛論に終るしかあるまいし、それで済むほど小さい問題でもない。尠すくなくとも、武蔵にとって下り松のあのことは、畢生ひっせいの大事業であり、道に参進する者の浄行じょうぎょうとも堅く信じているのである。そこに一点の不徳、一毫ごうの疚やましさも抱いていない。

だが小次郎の眼からそれをみれば、あのような観察が起るし、小次郎の口からいわしめると、今いったような結論になる――とすると、この解決は、どうしても、武蔵が言外に含めたように、

(今はいわぬが、忘れぬぞ)

という、言葉の味をもって、未来を番つがえておくほかにあるまい。

複雑な感情は働いていたにしても、佐々木小次郎もまた、まったく根底のない出たらめを放言したつもりではない。彼は自分の観たところから公正な判断を下したまでだと思っているし、いかに武蔵の実力をあの程度に見ても、その武蔵が自分以上の人間だとは今もなお決して思っていない彼であった。

「……ウム、よろしい。憶えているといった其許そこもとの一言、小次郎も慥たしかに覚えておこう。きっと忘れるなよ、武蔵」

「…………」

武蔵は黙ったまま、また微笑してうなずいた。

連理れんりの枝えだ

一

柴折戸しおりどの入口から、城太郎は声張りあげて、

「お通さん、ただ今」

奥へ呶鳴っておいてから、彼は、そこの家を繞めぐっているきれいな流れの側に坐りこみ、ざぶざぶと脛すねの泥を洗っていた。

山月庵さんげつあん。

茅葺かやぶきの合掌に、木額もくがくの白い文字が仰がれる。燕つばめの子が、そこらに白い糞ふんをちらし、ピチピチと囀さえずりながら、足を洗っている城太郎を見おろしていた。

「オオ、冷つめてえ。オオ冷てえ」

眉をしかめていながら、彼はいつまでも足を拭こうともせず、足で水を弄なぶっていた。

この水はすぐそこの銀閣寺の苑内から流れてくる清冽せいれつなので、洞庭どうていのそれよりも清く、赤壁せきへきの月のそれよりも冷たい。

だが、土は暖かく、彼の腰の下には、花すみれが拉ひしがれていた。城太郎は眼を細めて、こういう日月の下に生を享うけている身のほどを、ひとりで楽しんでいるらしく見える。

やがて彼は、濡れた足を草で拭いて、そっと縁側の方へ廻って行った。ここの家は、銀閣寺の別当某なにがしの閑宅であったが、ちょうど空あいているというので、過ぐる夜の――武蔵と瓜生山うりゅうやまで別れたあの翌日から、烏丸家の口添えで、お通のためにしばらく借りうけたものだった。

で――お通は、あれ以来、ずっとここに病やまいを養っていた。

勿論のこと、下り松における決戦の結果は逐ちく一、ここにも伝わっている。

黄母衣組きほろぐみのお使番のように、あの日、城太郎は下り松の戦場と、こことの間を、何十遍となく往復して、手にとる如く、お通の枕元へそれを報告していたからである。

城太郎はまた、彼女の今の体にとっては、薬餌やくじよりもなによりも、武蔵の無事なことを伝えてやるのが、最善な良法であると信じていた。

その証拠には、お通は日増ひましに血色を革あらため、今では机に倚よって坐っていられるくらいにまでなっている。――一度はどうなるかと、城太郎すら心配したほどであった。おそらく、武蔵が下り松で死んでいれば気持だけでも、彼女もあのまま逝いってしまったに違いなかった。

「ああ、お腹なかが減へった。――お通さん、なにしていたんだい」

お通は、彼の元気な顔を、眼に迎えて、

「わたしは朝からただ、こうして坐っていた限きり」

「よく飽きないなあ」

「体は動かさないでも、心はさまざまに、遊ばせていますから。――それより城太さんこそ、朝早くから、どこへ行ったんですか。そこのお重筥じゅうばこの中に、きのう戴いたちまきが入っているからお食べなさい」

「ちまきは後にしよう。お通さんに先に欣よろこばしてやることがあるから」

「なあに?」

「武蔵様ネ」

「ええ」

「叡山えいざんにいるとさ」

「ア……叡山へ」

「きのうも、おとといも、その前も、毎日のように、おいら方々聞いて歩いていたんだよ。――するとね、きょう聞いたのさ。武蔵様は、東塔とうとうの無動寺に泊っているって」

「……そう。……ではほんとに御無事でいらっしゃるのだわ」

「そう分ったら、一刻も早くがいい、またどこかへ行っちまうといけないからね。おいらも今、ちまきを食べたら支度するから、お通さんもすぐ支度をおしよ。――直ぐ行こう、これから訪ねて行こう、無動寺へ」

二

じっと、お通のひとみは、あらぬ方へ向いている。庵いおりの廂ひさしごしに見える空へ心を遠くしているのである。

城太郎は、ちまきを食べ、持つ物を身に持つと、再び、

「さ。行こうよ」

と、促うながした。

だが、お通が起つ気色もなく、いつまでも、坐っているので、

「どうしたんだい?」

やや不満と不平をあらわして問い詰めた。

「城太さん、無動寺へ行くのは、止しましょう」

「ヘエ?」

少し、おひゃらかすように、城太郎は不審いぶかりを口に尖らして、

「なぜさ」

「なぜでも」

「ちぇッ、女って、これだから嫌になっちまう。飛んでも行きたいくせにして、さあ、その人のいる所が分ったとなると、今度はヘンてこに澄まして、止そうのなんのとしぶくるんだもの」

「城太さんのいう通り、飛んでも行きたいほどですけれど」

「だから、飛んで行こうというのに」

「けれど。……けれどね、城太さん。わたしはいつぞや瓜生山で、武蔵様とお目にかかった時、これが今生こんじょうの最後だと思って、ありッたけな心の裡うちを話してしまいました。武蔵様も、生きては再び会わないと仰っしゃいました」

「だけど、生きているんだから、会いに行ってもいいじゃないか」

「いいえ」

「いけないの?」

「下り松の勝負はついても、まだ武蔵様の心としては、ほんとに勝ったと思っているか、どんな用心をして叡山に身を退ひいていらっしゃるのかそのお気持は分りません。――それに、私へ仰っしゃったお言葉もあるし、私も、必死で掴つかんでいたあのお方の袂たもとを離して、もう、今生の恩愛おんないを断ったと覚悟したのですから、たとえ、武蔵様の居所が分っていても、武蔵様のおゆるしがなければ……」

「じゃあ、このまま十年も二十年もお師匠様からなにもいって来なかったらどうする?」

「こうしています」

「坐ったきり、空を眺めて暮しているの」

「ええ」

「変な人だなあ、お通さんという人も」

「わからないでしょ。……だけどわたしには分っているの」

「なにが」

「武蔵様のお心がです。――瓜生山で最後のお別れをする前よりも、あの後になってからの方が、わたしには武蔵様のお心が、ずっと深く分って来たからです。それは、信じるということなのです。以前は、武蔵様を慕ってはいました。生命いのちがけで思っていました。城太さんの前だけれど、ほんとに苦しい恋をつづけて来ました。けれど、武蔵様をほんとに信じていたかといえば、どうだか分りませんでした。……今はもうそうではない。たとえ生きても死んでも、離れていても、お互いの心は、比翼ひよくの鳥のように、連理れんりの枝のように、固くむすばれているものと信じていますから、ちっとも淋しくなんかない。……ただ武蔵様が、武蔵様のお心のままに、修行の道へすすんでお出いで遊ばすように、祈っているばかりなんです」

黙って、おとなしく聞いていたと思うと、城太郎はいきなり呶鳴るようにいった。

「嘘いってらあ。――女って、嘘ばかりいってるんだ。――いいよ、じゃあもうきっとお師匠様に会いたいといわないね! これから先はいくらベソを掻いたって、おいらは知らないぜ」

この数日の努力を、無にされたように、城太郎は腹を立てた。そして晩まで口をきかなかった。

宵に入ると間もなくであった。庵いおりの外に松明たいまつの赤い光が映さし、そこをほとほとと打叩くものがあった。

三

烏丸家の侍は、一通の手紙を城太郎の手に授けて、

「これは、お通どのが、まだお館やかたにいられるものと考えて、武蔵どのが、使いに持たせてよこされたもの。――一応大納言様のお耳に入れると、すぐお通のもとに届けてつかわせとのことに、急いで持ってまいったのでおざる。――併あわせて大納言様よりも体を愛いとしめとの御意、お伝え申しあげまする」

すぐ、使いは帰って行く。

城太郎はそれを手に、

「アア、お師匠様の字だ。もし、下り松で死んでいたらお師匠様ももうこの手紙は書けなかったんだなあ。……お通どのへ、と書いてあらあ。……だが、城太郎どのへとは書いてない」

お通は、奥から立って来て、

「城太さん。今、お館やかたの人が持って来たのは、武蔵様からの手紙ではありませんか」

「そうだよ」

城太郎は意地を歪まげて、手紙を後ろにかくしながら、

「でも、お通さんには、用はないだろ」

「おみせ」

「いやだい」

「意地のわるい――そんなことをいわないで」

焦じれて、泣きそうになると、城太郎は手紙を彼女へ突きつけながら、

「それ御覧な。そんなに、見たがるくせにして。それを、おいらが会いに行こうといえば、痩せ我慢して、嫌いやに気取ってみたりして」

お通にはもう、そんな言葉を聞いている耳はない。

短檠たんけいの下に繰りひろげている手紙と白い指先は、燈芯とうしんの火とともにおののいている。

心なしか、こよいは、灯も鮮やかに、翳くもりなく点ともって、なんとなく胸も花やぐようなと、灯占ひうらをたてていたが――

花田橋では

お許もとに待たせたが、

こたびは

わしが待つであろう

瀬田の湖畔に

牛をつないで

と、武蔵からの便り。まざまざと、その人の筆、墨のにおい。

墨の光までが、虹いろに見え、彼女のまつ毛には、きらきらと、珠の涙が咲いていた。

――夢かと思う。

あまりの欣うれしさに、頭も茫ぼうとして。――お通は、なんだか、この世のことでないような心地がしてならなかった。

安禄山あんろくざんの叛乱に、兵車の軌わだちのもとに楊貴妃ようきひを失った漢皇かんおうが、のち貴妃を恋うのあまり、道士に命じて、魂魄をたずねさせ、道士はそれを、上かみは碧落の極み、下は黄泉にいたるまでさがしもとめ、遂に、海上の蓬莱宮ほうらいきゅう中にその花貌雪膚かぼうせっぷの仙子せんしを見出して、帝の意をつたえたというあの長恨歌ちょうごんかの中うちにある、貴妃の驚愕と喜びの章が――そのまま自分のことでもあるように、お通は茫然として、短い手紙を、見も飽かず、繰りかえしていた。

「……待つ身となると、待つ間の時の長さ。そうだ、少しでも早くお目にかかって」

こう、城太郎へ向って、語りかけているつもりではあったのだが、もう彼女の歓びは彼女を顛倒てんとうさせている。――相手へいったつもりでも、それは独り語の独り合点をしていたのである。

手早く身支度をし、庵いおりの持主や、銀閣寺の僧や、世話になった人々へは、一筆ずつ礼の辞ことばを置手紙にのこし、もう、足拵えまでして、先に戸外おもてへ出た。

そして、家の中にぶっ坐って、膨ふくれ顔がおしている城太郎に向い、

「城太さん、おまえはもう、先刻さっきお支度をしていたからそれでいいんでしょ。……さ、早く出ておいで。後を閉めて行かなければならないから」

「知らない、おいらは。――どこへ行くのさ」

てこでも動く顔つきではない。城太郎は、すっかりお臍へそをまげてしまった。

四

「城太さん、怒ったの」

「怒ったさ! 当り前だい」

「どうして」

「勝手だから、お通さんは。――おいらが折角捜し当てて来て、行こうという時には、行かないといっておきながら」

「でも、その理由わけは、よく話したでしょう。ところが今、武蔵様の方からお便りがあったんですもの」

「その手紙だって、自分だけで見て、おいらには、読ませてくれないじゃないか」

「アアほんとに、それは悪かった。御免よ、城太さん」

「もういいよ、もう見たくなんかない」

「そう、ぷんぷん怒らないで、この手紙を見ておくれ。ね、なんという珍しいことでしょう。あの武蔵様が、わたしに手紙を下すったことなんか、これが初めてです。また待っているから来いなんて、優しいことを仰っしゃってくれたのも、これが初めてです。――それからこんな歓ばしいことは、私にとっても、生れて初めてではありませんか。……だから城太さん、機嫌を直して、私を瀬田まで連れて行ってください。……ね、後生だから、そんなに膨ふくれていないで」

「…………」

「それとも、城太さんは、武蔵様にもうお目にかかりたくないの」

「…………」

城太郎は黙って例の木刀を横に差し、先刻せんこく作っておいた風呂敷づつみを斜めに背負い、ぽんと、庵いおりの外へ飛び出して、まごまごしているお通へ剣突くを食わせた。

「行くなら行くで、早くお出でよっ! 愚図愚図してると、戸外そとから閉めてしまうぜ」

「まあ、怖い人」

それから二人は、志賀山越えの道を、夜にかけ歩き出したが、先に怒った手前がある、道は寂しいが、城太郎は口をきかない。

すたすたと、先を歩いて行きながら、そこらの木の葉を挘むしって、木の葉笛を吹いてみたり、俗歌を唄ってみたり、石を蹴ってみたり、なにか遣場やりばのない気持を抱いているらしいので、お通がまた、

「城太さん、わたし、いい物持っていたのに、忘れていたのよ。あげましょうか」

「……なにさ」

「笹飴ささあめ」

「……ふん」

「おととい、烏丸様から、いろいろお菓子を持たせてよこして下すったでしょう。それがまだ残っているのだけれど」

「…………」

くれとも、要いらないともいわずに、城太郎が黙々と歩いて行くので、お通は、苦しい喘あえぎを我慢して、側へ追いつき、

「城太さん、食べない? わたしも食べよう」

それからやっと、城太郎の機嫌がすこし直った。

志賀山越えを登りつめた時は、もう北斗ほくとは白く薄れて、雲は夜明けのたたずまいであった。

「草臥くたびれたろ、お通さん」

「ええ、登りばかりだったから」

「もうこれからは、下り道だから、楽なものだよ。……ああ、湖水が見える」

「あれが鳰におの湖うみね。……瀬田はどの辺?」

「あっち」

と指さして、

「待っているといっても、お師匠様は、こんなに早く行っているかしら」

「でも、まだ瀬田まで行くには、半日以上もかかるでしょう」

「そうだ、ここから見ると、すぐそこのようだけれど」

「少し休まない?」

「休もうか」

すっかり気持も解けたとみえ、城太郎はいそいそ休み場所をさがし歩いていたが、

「お通さん、お通さん、この樹の下だと朝露がなくっていいよ。ここへお出いでよ、ここへ腰かけよう」

と、手招きした。

二本の巨おおきな合歓ねむの樹の下だった。

五

倚より合っている二本の喬木の下に腰をおろして、

「なんの樹だろ?」

城太郎がいう。

お通も、眸を上げながら、

「合歓ねむの樹です」

と教える。そして、

「わたしや武蔵様が、まだ幼い時分によく遊んだことのある、七宝寺というお寺の庭にも、この樹がありましたっけ。六月ごろになると、糸のような淡紅色ときいろの花が咲いてね、夕月が出るころになると、あの葉がみんな重なり合って眠ってしまう」

「だから、ねむの木というのかしら」

「でも、文字で書くと、眠ねむるという字は書きません、合あい歓よろこぶと書いて、合歓ねむと訓よむんですの」

「どうしてだろ?」

「どうしてでしょうね。きっと誰かが拵こしらえた当字あてじでしょう。……だけど、この二本の樹の姿を見ると、そんな名がなくても、いかにも歓び合っているといったような姿じゃありませんか」

「樹なんか、歓ぶも悲しむも、あるもんか」

「いいえ城太さん、樹にも心があるんです。よく御覧、この山の樹々のうちにも、よく見ると、独り楽しんでいる樹もあるし、独り傷いたましそうに嘆いている樹もある。また城太さんのように、歌を謡うたっているのもあれば、大勢して、世を怒っている樹の群れもあるでしょう。石でさえ、聞く人が聞けば物をいっているというくらいですもの、なんで樹にもこの世の生活がないといえましょう」

「そういわれてみると、そんな風にも見えてくるなあ。――するとこの合歓ねむの木なんか、どう思っているんだろう」

「わたしから見ると羨ましい樹に見えます」

「どうして」

「長恨歌を知ってるでしょう。白楽天という人の作った詩」

「ああ」

「あの長恨歌の終りのほうに――天に在っては願わくは比翼の鳥と作ならん、地に在っては願わくは連理の枝と為ならん――という句があるでしょ。あの連理の枝というのは、こんな樹のことをいうのじゃないかしらと、さっきから思っているんですの」

「連理って? ……何」

「枝と枝、幹と幹、根と根、二つの物でありながら、一つの樹のように仲よく立って、天地あめつちの中に、春や秋を楽しんでいる樹のこと」

「なんだあ……自分と武蔵様のことをいってるんじゃないか」

「いけない、城太さん」

「勝手におしよ」

「――夜が明けてきた。なんという美しい今朝けさの雲だろう」

「鳥がお喋舌しゃべりをし始めたね。ここを下りたら、おいら達も、朝飯を食べようぜ」

「城太さんも歌わない」

「なんの歌」

「白楽天といったので思い出したんです。いつか、城太さんが、烏丸様の御家来に教わっていた詩があったわね。覚えている? ……」

「長干行ちょうかんこうか」

「ええ、あれ。あの詩を、聞かせて下さいな。書ほんを読むような節で結構ですから」

「……妾ショウガ髪始メテ額ヒタイヲ覆ウ

花ヲ折ッテ門前ニ戯タワムレ

郎ロウハ竹馬ニ騎シテ来リ

牀ショウヲ遶メグッテ青梅セイバイヲ弄ロウス……」

城太郎はすぐ口誦くちずさんで、

「この詩かい」

「そう。もっと続けて」

「……同トモニ長干チョウカンノ里ニ居リ

両小嫌猜ケンサイナシ

十四、君ノ婦フトナッテ

羞顔シュウガン未ダ嘗カツテ開カズ

頭コウベヲ低タレテ暗壁アンペキニ向イ

千喚カン一トシテ廻カエラズ

十五、始メテ眉ヲ展ノベ

願ワクハ塵チリト灰ヲ同トモニセン

常ニ存ス抱柱ノ信

豈アニ上ノボランヤ望夫台

十六、君遠クヘ行ク……」

城太郎はふいに起って、じっと聞き入っていたお通を促うながした。

「詩よりも、おいらは、お腹なかが減へっちゃったい。早く、大津へいって朝飯を食べようよ」

送春譜そうしゅんふ

一

まだ天地は濡れている。

家ごとの炊煙すいえんは、曙あけたばかりの町の上へ、戦いくさのように立ちのぼっていた。大津の宿駅は、湖北から石山までぼかしている朝がすみと、その熾さかんな煙の下に見えてきた。

夜来、飽々あきあきするほど山道を歩いて来て――いや牛の歩みにまかせて来て、黎明れいめいと共に、人間のいる里に接した武蔵は、牛の背から思わず、

「オオ」

と、眼を、拭ぬぐって眺めた。

――同じ時刻に、お通と城太郎のふたりも、志賀山越えの道から、この大津の屋根を眺め、湖畔へ向って、希望の足を躍らせているはず――

峠の茶屋から峰を繞めぐって降りてきた武蔵は、今、三井寺の裏山から八詠楼えいろうのある尾蔵寺坂びぞうじざかにかかって来たが、お通はどこの道から降りて来るのやら。

湖畔の瀬田で落ち合うまでもなく、ひょいと、そこらで打ぶつかっても、そう偶然でないほど、時刻も道も、ほとんど同じように辿たどって来たのであったが、武蔵の視野の前には未だ彼女の姿は見えなかった。

――といって、武蔵は決して、失望もしないし、会いそうなものだとも思っていなかった。

烏丸家へやった茶店の女房の返事によれば、お通は烏丸家にいないということであり、手紙は、烏丸家からお通の養生している先へこよいのうちに届けておくという消息であった。

その返事から考えると、自分の手紙が、お通の手にとどいたのは昨夜ゆうべのうちとしても、あの体であるし、女のことゆえ、身支度もあろう。――まず早くても、そこを立つのは今朝あたり、約束の場所へ姿を見せるのが、今日の夕刻頃になるにちがいない。

そう武蔵は、胸づもりに、想像していた。

それに今はまた、これぞといって、先を急ぐ何事も心にはないし――牛の歩みも遅いと思わなかった。

牝牛めうしの巨おおきな体は、山の夜露に濡れていた。朝の草の色を見ると、牛は頻りに草を食った。けれど武蔵は、それも牛の意のままにまかせていた。

――すると、民家と向い合っている伽藍がらんの辻に、なんとか桜と、名所名なにでもありそうな桜の老木があって、その下の塚に、歌を刻んだ碑ひが見える。

誰の和歌か。――思い出そうともせず、武蔵は、そこを二、三町行き過ぎてからふと思い出して、

「そうだ……太平記の中で」

と、つぶやいた。

太平記は、彼の少年の頃の愛読書の一つだったので、或る箇所は、暗誦しているくらいだった。

で――今見かけたその和歌うたから、少年の頃の記憶が甦よみがえって来たのであろう。緩々かんかんたる牛の背で武蔵はなにげなく、その和歌うたの載のっていた太平記の一章を、口のうちでそら読みした。

――志賀寺の上人しょうにんは、手に一尋ひとひろの杖をたずさえ、眉に八字の霜を垂れ、湖水の波に水想観すいそうかんを念じたもうに、折りふし、京極の御息女所みやすどころ、志賀の花園の帰るさを、上人ちらと見そめ給い、妄想起りて、多年の行徳も潰ついえ、火宅の執念に一切を喪うしない給う……

「少し忘れたな」

武蔵はそう思いながらまた、うろ覚えのまま、

――柴の庵いおいに立ちかえり、本尊仏にむかい奉るといえども、観念の床ゆかには妄想の化けの立たちそい、称名のおん声だに、煩悩ぼんのうの息とのみ聞えたもう。暮山ぼざんの雲をながむれば、君が花釵かんざしかと心も憂く、閑窓かんそうの月にうそぶけば、玉顔ぎょくがんわれに笑み給うかと迷うも浅まし。

――今生の妄念ついに離れずば、往生の障さわりともなりぬべければ、御息女所みやすどころに会い奉り、わが思いのふかき一端を申して、心やすく臨終もせばやと、上人杖をつき、御所へ参りて、鞠まりの坪の下もとに、一日一夜ぞ立ちたりける……

「おオいっ、旅の衆、牛に乗ってゆくおさむれえ」

誰か、その時、後ろから呼ぶ者があった。

いつか、牛は町の中にはいっていたのである。

二

問屋場の人足だった。

駈けて来て、牝牛の鼻づらを撫で、牛の頭越しに、武蔵を見あげて、

「おさむれえさん、無動寺から来なすったな」

といいあてる。

「ほ、よう知っているなあ」

「この斑牛ぶちは、いつぞや荷を乗せて、山の無動寺へ行った商人あきんどに、牛方なしで貸した牛だ。おさむれえさん、いくらか牛賃をおくんなせえ」

「なるほど、おまえが飼主か」

「おれの持牛じゃねえが、問屋場の牛小屋にいる牛だあな。無賃ただじゃいかねえぜ」

「よしよし、飼料かいりょうをつかわそう。――だが、その賃さえ払えば、この牝牛は、どこまで曳いて参ってもよろしいのか」

「金さえ払えば、どこまで乗って行こうと、かまわねえさ。三百里先へ行こうと、道中の宿場問屋に渡しておいてさえくれれば、下くだりのお客が荷物を積んで、いつか大津の問屋小屋へ帰けえって来ることになっているんだから」

「では、江戸表まで、いかほど払ったらよいのか」

「じゃあ、通り道だ、問屋場へ寄って、お名前を書いて行っておくんなさい」

なにかの支度にも好都合、武蔵はいわるるままにそこへ立ち寄る。

問屋場は打出ヶ浜の渡口場わたしばに近かった。船着きから上がる者、乗る者、ここは旅人の屯たむろなので、草鞋わらじをひさぐ店もあるし、旅の垢あかを落したり髪を整える備えもある。武蔵はゆっくり朝飯をすまし、まだ、早過ぎるとは思ったが、間もなく、牛の背の人となって、その問屋場から再び先へ立って行く。

瀬田はもう程近い。

湖畔のうららかな風光を、牛の足にまかせて行っても、大丈夫、午ひるまでにはそこへ着く。

(まだ、来ていまい)

武蔵はそう思い、そして、今度お通に会うことには、なにかしら心に安んじるものを抱いていた。

それは、彼女に対する彼の、安心であった。下り松の死地を乗り越える前までは、武蔵は、女性というものに、堅い構えを持っていた。お通に対しても同様な危惧きぐを抱いていた。

けれど、あの時の、お通の澄みきった態度、聡明な意思の処理を見てから、武蔵の彼女に対する気持は、ただの愛以上、深いものに改まっていた。

一般の女性を危惧するような眼で、お通をも危惧して来た自分の小心さが、彼女に対して済まなかったように今では思う。

そういう男の気持――安んじて女性にゆるしている気持――それは同じように、お通も、男性に対する信頼として、あれから後、胸のふかくに抱いだいていた。

武蔵はもう、何もかも、彼女にゆるしきっていた。今日会ったら、どんなことでも、彼女の願いなら容いれてやろう。

剣を、歪ゆがめない限りのことは。修行の道から堕落しない限りのことは。

今までは、それが恐こわかった。女の黒髪には、剣つるぎも鈍り、道も喪うしなってしまうものと、それを惧おそれていたのである。しかし、お通のような覚悟のいい、聞きわけのよい、理性と情熱の処理を誤らない女性ならば、決して、男性の道に情痴な茨いばらを横たえはしない。なんの足手纒まといになるわけはない。――ただ溺るることを誡いましめて、自分さえ、乱れなければ。

(そうだ、江戸表まで一緒に行って、お通には、もっと女性として学ぶべき修養の道に就かせ、自分は城太郎を連れて、さらに高い修行の道にのぼろう。そして、或る時節が来たら――)

そんな空想に耽ってゆく武蔵の顔に、湖水の波紋の光が、幸福の笑みを投げかけるように、揺々ゆらゆらと映はえていた。

三

二十三間の小橋と、九十六間の大橋をつないでいる中之島には、古い柳の木があった。

瀬田の唐橋を、青柳橋とも呼ぶのは、その柳がよく旅人の目印にされるからであろう。

「あっ、来たよ」

と、その中之島の茶店から駈け出して、小橋の欄干につかまりながら城太郎は、一方には指をさし、一方の手では茶店の床几しょうぎをさしまねいて、

「お師匠様だっ。……お通さんお通さん、お師匠様が牛に乗って来たよ」

往来の旅人も、この少年が、なにをそんなに狂喜するのかと、眼をそばだてて不審いぶかるほど、彼の足は雀躍こおどりしていた。

「おお、ほんに!」

転ころぶように駈けて来て、お通もそこに顔を並べる――

二人して、

「お師匠さまあっ」

「武蔵さま」

打ち振る笠、打ち振る手。

にこりとした武蔵の顔もはや間近であった。

牛はやがて、柳の木に繋がれる。――川を隔てて遠く見た姿には、狂喜の手を振ったり名を叫んだりしていたのに、その人の側に立つと、お通はもうなにもいい得ないのである。にこと眼で笑ったほかは、すべて城太郎が一人で引きうけて喋舌しゃべっていた。

「お師匠さま、もう傷は癒なおったの。おいら、お師匠様が牛に乗って来たから、あの時の傷がまだ痛んで歩けないので乗って来たのかと思ったよ。……え? どうしてこんなに早く来ていたかって。……そりゃあ、お通さんに聞いたほうが早いや。お通さんと来たらお師匠様、ほんとに勝手なんだからね。お師匠さまから手紙が来たら、この通り一遍に元気になってしまうんだもの」

「ふム、そうか、ふム……」

と武蔵も一々にこやかに頷うなずいていたが、ほかに客もある茶店先、お通のことをいわれると、見合いに来た聟むこ殿のように甚だてれる。

裏に、藤棚で掩おおわれた小座敷がある。そこへ三名は寛くつろいだ。といっても相変らず、お通はもじもじしてばかりいるし、武蔵も無口に固くなってしまう。ありのままに歓び、歓びのままに喋舌しゃべり、この景地と生命いのちを楽しんでいるものは独り城太郎と、そして、藤の花に噪さわいでいる虻あぶと蜂ばかりだった。

「オヤいけない、石山寺の上があんなに暗くなりました。一雨来ますよ。もっと奥へおはいりなすって下さい」

茶店の亭主が、あわてて葭簀よしずを巻き、雨戸を横に囲い始める。なるほど、江こうの水はいつのまにか鉛色に見え、そよ風は雨気を囁ささやきはじめて、藤の花の紫は、まさに死なんとする楊貴妃ようきひの袂のように、遽にわかに咽むせぶような薫においを散らして顫おののいている。

――サアッと、その弱々しい花から真ッ先に目がけられたように石山颪いしやまおろしが小雨をぶっつけてくる。

「アッ、雷さまだぞ。ことしの初雷だ。お通さん、濡れちまうよ。お師匠さまも奥へおはいりなさいよっ、座敷のほうへさ。アアいい気持だ。この雨は、ちょうどいいや! ちょうどいいや」

なにが丁度いいのやら、深い意味でいうわけでは勿論ないが、そう彼にいい囃はやされては、武蔵もよけいにはいり難い。お通も顔を紅あからめて、雨に砕ける藤の花と共に、縁の端に立って濡れていた。

「オオ、ひでえ!」

菰こもをかぶって、白い雨の中を、傘みたいに飛んで来た男がある。

四宮明神しのみやみょうじんの楼門の下へ馳け込むなり、ほっと、髪のしずくを撫でて、

「まるで、夕立だ」

と、迅はやい雲あしへ呟つぶやいた。

見るまに四明ヶ岳も湖水も伊吹も乳色になって、ただ滌々じょうじょうと雨の音しか耳になかった。――と思ううちに眸を断たたれたように雷光いなびかりを感じると、どこか近くに雷が落ちたらしかった。

「……あっ」

雷ぎらいの又八は、耳の穴をふさいで、楼門の雷神の下に縮こまっていた。

雲が断きれると、嘘のように、陽ひが射してきた。雨がやみ、往来も元に還かえって、どこかで三味線の音さえ聞えだした。すると、婀娜あだなすがたの女が、向う側から往来を越えて来て、用ありげに、又八へ笑いかけた。

四

見かけない女である。

「あなた、又八様と仰っしゃるのでしょう」

そういうのだ。

又八が不審いぶかって用事を問うと、今、家へ上がっていらっしゃるお客様が、あなたのお友達だそうで、二階からお姿を見かけ、ぜひ引っ張って来いというお吩咐いいつけです、という。

いわれて見ると、なるほど、この神社の界隈には、娼家しょうからしい構えが幾軒も見える。

「……御用がおありならば、直ぐお帰りになってもよござんすから」

と、使いに来た女は、又八のためらいなどは無視して導いて行く。そして近くの娼家しょうかへ引っ張って来ると、他の女たちも出て、足を洗ってくれるやら、濡れた着物を脱がすやら下へも措おかない。

いったい、おれの友達というお客は誰かと訊いてみても、二階へ行ってみれば分ると、座興にするつもりで明かさない。

何分、雨に逢って、着物もずぶ濡れだから、一時娼家ここの物を借り着するが、実は今日瀬田の唐橋で約束の者が待っているはず。――で直ぐ帰るのだから、その間に衣類を乾かし、引き留めないでもらいたい。

「頼むぞ、いいか」

何度も念を押すと、

「はい、はい。よい機しおに、きっとお帰し申しますよ」

女たちは、安請合やすうけあいにいって、又八を梯子段の下から押し上げる。

(二階の客とは一体誰だろうか)

又八は頻りと考えてみたが思い当る者がない。けれどこういうところに場馴れない又八ではないし、またこういう雰囲気の中に入ると、彼の頭のつかい方や身ごなしは、ふしぎに冴えて精彩を発揮してくる。

「やあ、犬神先生」

いきなり先方の者からいった。人違いだったかと又八は閾しきいぎわで足を止めたが、座敷の中に坐っているその客を見ると、満ざら知らない人間ではなかった。

「や? ……おぬしは」

「お忘れか、佐々木小次郎を」

「犬神先生といわれたのは?」

「貴公のことさ」

「おれは本位田又八だが」

「そんなことは心得ているが、かつて六条松原の闇で、群犬に取り巻かれ、野良犬どもの中に坐って、百面相をしてござったのを思い出したから、お犬の神様と尊称申し上げ、犬神先生と呼んだのでござる」

「よしてくれ、冗談じゃあねえ。あの時は、ひどい目に遭わせやがったぜ」

「その代りに、きょうはよい目に遭わせてやろうと思い、迎えにやったわけだが、よく来てくれた。まあ、坐るがいい。――おい女輩おんなども、この人に杯を酌させ、杯を」

「瀬田で、待っている者があるから、すぐお暇いとまする。……おっと、おい、そう酌してもだめだぜ、きょうは飲めない」

「瀬田で、誰が待っているのか」

「宮本という、おれの幼少からの友達で――」

と、いいかけるのを引ひっ奪たくって、小次郎は早口に、

「なに、武蔵が。……ウウムそうか。峠の茶屋で約束したのか」

「よく知っているな」

「貴公の生い立ち、武蔵の経歴、みな詳細に聞いている。其許そこもとの母親――お杉どのといわれたな――。叡山えいざんの中堂でお目にかかったぞ。そしてつぶさにあの老母から、今日までの苦心を聞かされた」

「え。おふくろと会ったって? ……実あ、きのうから俺も捜し歩いているのだが」

「えらい老母としよりだ、見上げたもの。中堂の僧も皆、同情していた。わしも屹度きっと、助太刀しようと、力づけて別れた」

杯を洗って、

「さ、又八。旧怨を雪すすいで酌くみ交わそう。武蔵ぐらいな相手、恐れるな。広言ではないが、佐々木小次郎がついている」

頬を紅くれないにして杯を出した。

だが又八は、手を出さない。

五

見栄っ張りな小次郎も、酔うとひとりでに、常の容態や端麗も構えから忘れてしまう。

「又八、なぜ飲まぬ」

「もうお暇いとまだ」

左の手が走ると、ぐっと又八の腕くびをつかみ、

「いかん!」

「でも、武蔵と」

「ばかをいえ。貴様一人で、武蔵と名乗り合ったら、立ちどころに返り討ちだぞ」

「そんな争いさかいはもうお互いに捨てたんだ。俺は、あの親友に縋すがって、これから江戸へ行って真面目に身を立てるつもりだ」

「なに、武蔵に縋ってだと? ――」

「世間は武蔵を悪くいうが、それは俺のおふくろが悪くいい触らすからだ。おふくろは武蔵を思い違いしている。つくづく今度はそれが分った。同時に俺自身も悟った。おれはあの善友に習まなんで、遅れ走ばせだがこれから志を立てる所存だ」

「アハッハハハ。わははは」

小次郎は手を打って笑い、

「お人好し! おいっ、おふくろ殿もいっていたが、なるほど、貴様は世にも稀なお人好しだ。武蔵に悉ことごとく騙だまされたな」

「いや、武蔵は」

「まあ、黙れ、いうな。第一おふくろを裏切って仇かたきに加担する不孝者がどこにあろう。他人の佐々木小次郎でさえ、あの老母としよりの言葉には義憤を感じ、将来助太刀をしようとまで誓っているのに」

「なんといわれても、おれは瀬田へ行く。放してくれ。――おい女ッ、着物が乾いたろう、おれの着物を出してくれ」

「出すなっ」

小次郎は、酔った眼を吊り上げて、

「出すときかないぞ。――これ又八、貴様武蔵とそうなるならば、一応、おふくろに会って、よく得心させてゆけ。おそらくあの老母としよりは、そんな屈辱に、合点はすまい」

「そのおふくろを捜しても見当らないので、一先ず俺は武蔵と一緒に、江戸表へ下くだろうと思う。おれが一かどの人間になりさえすれば、すべての宿怨はひとりでに解けてしまう」

「その口吻こうふんは、武蔵のいった口吻に違いない。あしたになったら、わしも共に捜して遣つかわすから、とにかく、おふくろの意見を訊いた上でゆくがよい。そうして今夜は飲もう、嫌でもあろうが、小次郎に交際つきあえ」

もちろん、ここは娼家しょうか、女達も皆、そういう小次郎に加勢して、又八の着物など返してくれるはずもない。

日が暮れる、遂に、夜も更ける。

しらふでは小次郎に頭も上がらないが、酔えば俄然又八は、とらになり得るのだ。見ていやがれという気で彼は宵から飲み始めた。酒の勢いを駆って、小次郎を手古摺てこずらし、さんざん鬱憤をはらして潰つぶれてしまった。

寝たのが夜明け、眼をさましたのは既に午ひる過ぎ。

小次郎はまだべつの部屋で熟睡しているという。昨日きのうの初雷はつらいできょうの陽ざしは一倍澄んでいる。又八は、まだ耳に新しい武蔵の言葉を思い泛うかべ、ゆうべの酒を吐き出したくなった。

階下したへ降りて、着物を出させ、それを身に纏まとうと逃げるように戸外そとへ駈け出した。そして瀬田の橋まで来て見た。

赤く濁った瀬田川の水に、石山寺の残んの花もこれ限きりのように流され、藤茶屋の藤のふさも砕け、山吹も散っていた。

「牛を繋いで――といったが」

その牛は、小橋の袂たもとにも、中之島にも見えなかった。

諸所を捜したあげく、中之島の茶店で聞くと、その牛に乗ったおさむらい様ならば、きのう店の閉まる頃までここに待ってござったが、夜に入ったので旅籠はたごへ移り、今朝またここへ来て、しばらく人待ち顔に佇たたずんでおられたが、やがて手紙を認したためて、後からわしを尋ねて来た者があったら渡してくれいと軒先の青柳の枝に、書いた物を結びつけて先にお立ちになりました、という。

見ると、なるほど、白い蛾がの止まっているように、柳の枝の結び文。

「済まなかった。――では一足先に立って行ったか」

又八は、蛾がの翼を解いた。

女滝めたき男滝おたき

一

初夏に向ってゆく旅だ。木曾路の新緑を浴びて、中山道なかせんどうを牛の足にまかせて行く。

(待っているぞ、後から追いついて来るがいい)

柳の枝に結び文を残して行った武蔵を慕って、又八は道を急いだが、草津まで行っても行き会わない、彦根、鳥居本とりいもとまで来ても見当らない。

「ハテ、先に来過ぎてしまったのかな?」

摺鉢峠すりばちとうげでは、峠の上で、半日往来を眺めていたが、その日も無駄。

牛に乗った武士と訊いても、牛馬に騎のって行く旅人は多い。それに又八は、武蔵一人と思っていたが、武蔵には、お通、城太郎の道連れがあった。

美濃路みのじへ来ても知れないので、彼は、小次郎の言を思い出して、

「やっぱり俺は、お人好しかな?」

迷い出すと限きりがない。

彼自身の惑いが、道を戻ったり、曲ってみたりするために、当然会えるはずの者に、よけいに行き会えないことになってしまう。

だが遂に、中津川の宿場端れで、彼は、先へ行く武蔵の姿を見つけた。

幾日目だろう。それは実に又八としては珍しいほどな熱意で追いついて来た目標だった。しかし彼は、武蔵の後ろ姿を見るとともに顔色を変えて武蔵を疑った。

牛の背に乗って行くのは、武蔵ではなくて、七宝寺のお通ではないか。――そのお通を乗せて牛の手綱を持って行くのが武蔵ではないか。

側にくッついてゆく城太郎の如きは、又八の眼中にはない、問題でもない。又八をして猜疑さいぎに顫おののかしめたものは、お通と武蔵との、睦むつまじそうな姿だった。

今日までのどんな場合の憎悪の嫉視しっしよりも、このせつなほど又八は、友の姿を悪魔に見たことはない。

「……アアやっぱり、思えばおれは、お人好しだったに違ちげえねえ。あいつに唆そそのかされて関ヶ原へ出かけた時から今日に至るまで。――だが俺も、こう踏みつけられちゃあ、何日いつまでお人好しじゃいねえぞ。野郎、今にどうするか、覚えていろよ」

「暑い暑い。こんなに汗をしぼる山道って初めてだ。ここはどこ? お師匠様」

「木曾で一番の難所、馬籠峠まごめとうげへかかり出したのだ」

「きのうも二つ峠を越したっけねえ」

「御坂みさかと十曲とまがりと」

「おらあ、峠に飽々あきあきしちゃった。はやく江戸の賑やかな所へ出たいなあ。ねえお通さん」

お通は、牛の背から、

「いいえ城太さん、わたしは何日いつまでも、こんな人のいない所を歩くのが好き」

「ちぇっ、自分は、歩かないもんだからね。――お師匠様、あそこに滝が見えるよ、滝が」

「オオ、少し休もうか。城太郎、そこらへ牛を繋いで置け」

滝の音を心あてに、細道を分け入ってゆくと、滝つぼの崖の上には、人もいない滝見小屋があり、辺りには、霧に濡れた草の花が一面に咲きみだれていた。

「……武蔵様」

お通は、立札の文字を見て、その眼を武蔵に移してほほ笑んだ。女男めおとの滝たきとそれは読まれた。

大小二すじの滝が、一つ渓流へ落ちている。やさしいほうが女滝めたきとすぐわかる。歩けば休もう休もうというくせに、城太郎は少しも落着いてはいない。滝つぼの狂瀾や、岩間にぶつかってゆく奔流の相すがたを見ると、その水と自分のけじめが分らなくなったように、躍り跳ねて、崖の下へ駈け下りて行った。

「お通さあん、魚がいるよ」

答えないでいると、

「石で捕とれるよ。石をぶつけると、腹を出して浮くぜ」

やがてまた、しばらく経つと、

「わアあい」

と、飛んでもない方角に谺こだまが聞え、なかなか戻って来そうもない。

二

山の端から陽が映さした。霧に濡れている草の花の上に、無数の小さい虹が描き出された。

滝見小屋の蔭に寄り添いながら二人は滝の音につつまれていた。

「どこまで行ってしまったんでしょう」

「城太郎か」

「ええ。ほんとに、しようのない子」

「そうでもないぞ、おれの子供時分にくらべると、まだまだ」

「あなたは、べつ者でしたもの」

「反対に又八はおとなしかったなあ。……又八といえば、とうとう彼奴あいつ、来なかったが、あいつこそ、どうしたのか」

「でも、わたしは、ほっとしました。もし又八さんが来たら、隠れてしまおうと思っていました」

「隠れる必要はない。話してわからない人間はないはずだ」

「本位田家の母子おやこは、すこしご気性がちがいます」

「お通さん……。おまえ、もいちど考えなおさないか」

「どういうふうに」

「思い直して、本位田家の人になる気はないかと訊くのさ」

お通はびくっと色を顔にうごかして、きっぱりいった。

「ありません!」

そして、蘭の花のように紅あからんだ瞼まぶたから、みるまに涙がこぼれそうになった。

武蔵は、よしないことをいったと心のうちで悔いた。今さら、分りきったことなのだ。時が経たって冷さめたり迷ったりする女性と同視されたように思って、お通は心外なのであろう。指で顔をおおって、微かに肩を顫ふるわせた。

(……貴方のものです!)

白い襟えりあしは、武蔵の目に、そう訴えているようだった。辺りの若楓わかかえでの樹は、浅いみどりでここの場所を人目から隠している。

とうとうと地軸を震わせている滝の音は、そのまま自分の血の音のように武蔵は思われた。滝つぼの狂瀾と奔流を見て、遽にわかに駈け出して行った城太郎の本能と似たようなものが武蔵の体にも、もっと烈しい性能を帯びて潜ひそんでいる。

それにここ幾日の間、宿屋の燈火ともしびの下に、らんらんたる太陽の下もとに、お通の肉体を種々さまざまな光で彼は見ていた。或る時は、芙蓉ふようの花のように汗ばんだ皮膚を、或る夜は屏風びょうぶをへだてていても漂ってくる黒髪のにおいを。――年久しく、磐石ばんじゃくの下もとに虐ひしがれていた愛慾の芽はそうして、遽にわかに彼の胸に育てられていた。草いきれのように鬱陶うっとうしいものが、むらむらと、眸ひとみを曇らして来るのであった。

「…………」

ふいと、武蔵はそこを離れた。いや、逃げるようにであった。

お通を置き放して、彼方あなたの道もない草むらへはいって行った。なにか、突然くるしくなったのである。口から炎でも吐くように、膨はちきれそうな血を、体から少し捨ててでもしまいたいような心地だった。城太郎のように、暴れ出したかった。そして、まだ冬草の枯れたのが、背高く生い茂っている静かな陽だまりを見出すと、

「ああ」

と、そこへ身を投げて坐った。

お通は、どうしたのかと疑って、すぐ追いかけて来るなり、彼の膝に縋すがりついた。堅くなって、沈黙していた武蔵の顔が恐く見えた。なにか怖ろしく不機嫌に見えておろおろした。

「どうしたんですか。武蔵様……武蔵様っ……。なにか、お気に障さわったのなら、堪忍してください、堪忍して」

「…………」

「武蔵様っ、もしッ……」

彼が堅くなっていればいるほど――また、恐い顔をしていればいるほど、お通はその胸へ、必死にしがみついて、揺れ騒ぐ花のように、花の気づかない香においに彼を咽むせ返かえらせた。

「――おいっ!」

武蔵はいきなりそういった。猛然と、彼の巨おおきな腕はお通を抱きしめて枯草の中へ仆たおれた。お通は白い喉首のどくびを伸ばして、声もあげ得ずに、彼の胸の中でもがいた。

三

槙まきの樹に、尾の長い縞鳥しまどりが、まだ少し雪のある、伊那山脈の空をながめていた。

山つつじが真まっ紅かに燃えている。――からんとして空は青い。枯草の下には、深山みやますみれが匂っていた。

猿が啼く、栗鼠りすがちらと跳ぶ、原始の地上だった。そこの一叢ひとむらの枯草は深く折れていた。悲鳴をあげたのではないが、悲鳴に近い驚きをあげて、お通は、

「いけないッ、いけませんッ、武蔵様ッ」

栗の辣とげみたいに自衛して、堅く身を縮めた。

「そ、そんなことっ……。貴方ともあろうお人が」

と、悲しげに、彼女が、嗚咽おえつしたので――武蔵はハッとした。焔の身に、ぞッと総毛立つような理智の冷たい声を浴びて、

「なななぜだっ? 何故なにゆえだっ?」

呻うめきに似た彼の声こそ今にも泣き出しそうだった。誰も知らない秘密にせよ、これは男性には耐え難い侮辱と感じるのだ。遣やり場のないその憤いきどおりと恥かしさを、彼は自分へ怒るように喚わめいたのだった。

――だが、手を放した途端に、お通はもうそこにいなかった。小さい匂い袋が一つ、紐ひもが切れて落ちている。彼の眼は茫然と、それを見て泣きかけていた。浅ましい自己のすがたを冷たく客観することができた。ただ分らないのはお通の心なのだ。お通の眸、お通の唇、お通のことば、お通の全姿――あの髪の毛までが、絶えず自分の情熱を誘いかけて、きょうに至ったのではないか。

自分で、男性の胸に火を放つけておきながら、火がつくと、びっくりして逃げてしまうのと同じである。故意ではないにしても、結果においては、愛する者を欺あざむき、陥おとしいれ、苦しめ、恥かしめたことになるではないか。

「……ア、ア」

武蔵は、顔を俯つ伏せて、草へ泣き伏した。

きょうまでの切瑳琢磨せっさたくまも、一敗地にまみれて、すべての精進苦行も、ここに空しく崩れてしまったかと思うと彼は悲しい。童わらべが掌ての中の木の実を失ったように悲しいのだ。

自分に唾つばきしたいような忌々いまいましさから、さも忌々しげな忍び泣きを洩らして大地へ伏していた。日輪へ対して顔を上げ得ないようにいつまでもそうしていた。

(おれは悪くない!)

自分の行為に対して、彼が心の中で頻りにそう呶鳴ってみるもののそれで心は澄んで来なかった。

(分らないっ、分らない)

彼には、処女心おとめごころの清純というものを、この時、可憐いとしいと思うような余裕はなかった。たとえ白珠しらたまのように顫おののきやすく、感じやすく、無碍むげなる人の手を恐れるものにしろ、それを女性の一生を通じて、ある期間だけにある、最高な心情の美であるとか、尊いものであるとかで、そんな愛いつくしみを持って、今、この時、思い遣ることはできなかった。

しばらくの間――そうして俯ッ伏したまま、土のにおいを嗅かいでいるうちに、彼はやや落着いた。むくりと起ち上がった。もう先刻の充血した眼ではない。その顔はむしろ蒼白かった。

――落ちているお通の匂い袋を、足の下に踏みにじって、じっと、山の声を聞くかのように俯向うつむいていたかと思うと、

「そうだ」

真っ直ぐに、滝のほうへ向って歩いて行った。あの下り松の剣の中へ、身を投げこんで行く時のように、濃い眉毛をがっきりと寄せて。

……鋭い小鳥の声が、劈つんざくように翔かけ去ってゆく。風のせいか滝の轟きが急に耳へついて、一朶いちだの雲の裡うちに、陽の光も淡うすれて来たかのように思える。

――お通は、武蔵のいたその場所から、わずか二十歩ほどしか逃げていなかった。白樺の幹にひたと身をつけて、彼女は先刻さっきからじいっとこっちを見ていたのである。自分が武蔵をそんなに苦しめたことが明らかに分ると、いまいちど、武蔵が自分の側に来てほしいと思った。さもなければ、自分から走り寄って詫びようかとも思って迷う様子であったが、しかし、脅おびえた小鳥の心臓のように、まだ強い戦慄ふるいが止まないで、体は他人ひとのもののようだった。

四

泣いていないお通の眼には、泣いている以上の、恐怖だの、迷いだの、悲しみだのが、掻き曇っていた。

この人こそと、信頼していた武蔵は、彼女が、自分の胸の中で、自分勝手に描いていた、幻想の男性ではなかった。

幻想の心臓の中に、忽然、赤裸せきらの男性を見出した彼女は、死ぬかと思うほどな愕おどろきに打たれた。悲しくて悲しくてならなかった。

けれど、その恐怖と慟哭どうこくの中に、彼女はまだ、ふしぎな矛盾が残っていることを気づかない。

もし先刻さっきの烈しい圧迫が、武蔵でなくて、他の男性であったとしたら、彼女の逃げ走った足は、決して、二十歩や三十歩ではなかったろう。

なぜ、二十歩ほどで足を止めて、後に心を惹かれているのか。――それのみでなく、やや動悸が落着いてくるに従って、彼女の心の中には醜い人間の本能の相すがたを、他の男性のそれと、武蔵のそれとは、べつな物として、考えようとさえしていた。

(……怒ったんですか。……怒らないでくださいね。あなたが嫌いやだったわけではありません。……怒らないで)

暴風に吹き飛ばされたような独りぼっちを感じながら、彼女の胸の中の言葉は、ひたすら詫びているのだった。――武蔵自身が、自責したり苦悶したりしているほどに、お通は、彼のなした烈しい行動を、醜く思ってはいなかった。他の男性のように浅ましくは思えないのである。

むしろ、ふと、

(なぜ、わたしは? ……)

自分の盲目的な恐怖が、淋しくすら考えられ、その刹那の火花のような血の狂いが、後になるほどなにか慕わしくさえ思い出された。

(……おや? どこへ? ……。武蔵様は)

いつのまにか、そこに見えない武蔵の影に、お通はすぐ、自分が捨てられたのではないかと思った。

(きっと、怒って。……そうだ、怒って。……あ、どうしよう?)

恟々おどおどと、彼女は歩いて、元の滝見小屋の所まで戻って来た。そこにも、武蔵の姿は、見当らなかった。ただ真っ白なしぶきが、滝壺から霧となって山風に吹きあげられ、満山の樹々を揺すぶって、絶え間のない滝のとどろきが、ぐわうと、耳を塞ふさぐばかり冷ややかに面おもてを打って来るだけであった。

すると、どこか高い所から、

「あっ、たいへんだ。お師匠様が滝へ身を投げたぞっ。――お通さアん!」

城太郎の声だった。

渓流を渡って、向う側の山の鼻に城太郎は立っていた。そこから男滝おたきの滝つぼをのぞいていたものらしく、突然、こう時ならぬ大声を発して、お通へ急変を告げたのだった。

滝の響きで、よく聞き取れないらしかったが、城太郎の方から見ていると、お通も何を見たか、ハッと急に血相を変え、深い滝道の――霧と山苔やまごけで滑すべりそうな断崖を――岩にしがみつきながら下へ降りてゆく様子である。

城太郎は猿ましらみたいに、向う山の崖先から、スルスルと藤蔓ふじづるにつかまって、ぶら下がっていた。

五

お通も見た。

城太郎も見つけた。

――滝つぼの中にである。

吼ほえ哮たけぶ飛沫しぶきや、真っ白な霧のために、初めは、石か人間かと怪しまれたが、二つの手の指を、胸の前にがっきと組合せ、五丈余りの滝の下に、じっと、頸うなじを垂れている裸形らぎょうの者は、石ではない、武蔵であった。

お通は、此方こなたの絶壁の道の中途から――城太郎は、向う側の淵の岸から、それと見ると、われを忘れて、

「あッ、お師匠様っ、お師匠様アっ」

「武蔵さまっ――」

声かぎりに、呼び交わしたが、その二人の叫びに挟まれても、武蔵の耳には、もう、とうとうと吼える滝の音のほかは、なにものの声も入るはずはなかった。

蒼あおぐろい滝つぼの水は、武蔵の乳のあたりまであった。百千の銀龍と化なって、水は彼の顔や肩に咬みついてくる。千万の水魔の眼と化なって、狂う渦は彼の脚を死の淵へ引きずり込もうとした。

「…………」

ハッと、ただ一つでも、弱い呼吸をつくか、心に弛ゆるみが起れば、途端にその踵かかとは水苔みずごけの底を滑って永久に帰れない冥途よみの激流へ送り込まれてしまうかも知れないのである。

しかも、頭上から落ちて来る滝の圧力は、何千貫という重さを負わされているような感じだった。肺も心臓も、大馬籠おおまごめの山々の下敷きになったように苦しかった。

――それでもまだ武蔵は、たった今、そこに振り捨てて来たお通の面影を、熱い血の中から忘れ去ることができなかった。

志賀寺の上人でさえ、同じ血を持っていた。法然ほうねんの弟子親鸞しんらんも、同じ煩なやみを持っていた。古来、事を成す人間ほど、生きる力の強い人間ほど、同時に、この生れながら負って来る苦しみも強くそして大きい。

弱冠十七歳の村童に、槍一本かつがせて、関ヶ原の風雲へ駆け向かわせたのも、この血の熱である。沢庵の鉄槌てっついに感じ、法情の慈悲に泣いて、翻然ほんぜんと人生に薄眼を開いて志を起したのも、この血の力である。孤剣、柳生城の伝統を攀よじのぼって、石舟斎に迫ろうとしたあの気概もこの血――また、下り松に行って眼にあまる敵の白刃林はくじんりんを駈けちらしたのもこの血があればこそであった。

だが、その烈しいものが、お通という許された対象を通して、人間の本能に燃えつくと、彼が本来の野性は、ここ数年の間に、やっと少しばかり養い得たところの、修行や理性の力では、到底、制しきれないほど強いものとなって、狂い出し、乱れ出したのである。

この敵に向っては、さしもの剣も、何の用もなさないのだ。およそ、対象は、外にあって、形もあるが、この敵は、自己の中にあって、形がない。

武蔵は、狼狽したのだ。明らかに彼は、自分の心にあった大きな陥没かんぼつを知って、うろたえたのである。

そして、なくても困る、あっても苦しむ、すべての人間が等ひとしく持っている血を――殊に異常な情熱にそれを昂たかめ得る血を――どう処理したらいいのか。まったく、武蔵自身でも、分らなくなって、物狂わしく、滝つぼの中に、身を投じたのに相違ない。――城太郎が刹那に見た眼も、お通へ向って、お師匠様が身を投げたと呶鳴った言葉も、そう誤りではなかったに違いない。

「――お師匠様アっ……お師匠様アっ」

と、その城太郎は、泣き声を出して、なおまだ叫びつづけていた。

彼の眼には、武蔵の生きんとする姿が、どうしても死なんとする姿にしか映らないのであろう。

「死ンじゃ嫌だっ、お師匠様っ、死なないで下さいっ」

自分もともに滝の痛みを怺こらえているように、両手の指を固く組み合せ、滝の轟きと泣き声とを争っていたが、ふと向う側の絶壁を眺めると、その途中につかまってともに悲しんでいたお通が、いつの間にかどこにもその姿が見えなくなっていた。

六

「あらっ、変だっ。……お通さんも?」

咄嗟とっさ、城太郎は、真っ白な泡つぶの流れてゆく水を見て、悲しげにうろうろした。

彼の解釈では――武蔵がなんのゆえか、滝つぼに入って、死ぬまでは上がって来そうもない体ていなので、お通さんも、同じ流れの末に、身を投げたのではないかと疑ったのである。

――だがその悲しみの逸はやまったことは彼も直ぐ気づいた。なぜならば、滝つぼの中の武蔵は、依然と五丈余の瀑布の下に打ちたたかれていたが、その肩から満身へ漲みなぎって来た力――粗鉱あらがねのような若い生命の力は――決して、鞠まりの坪つぼに佇たたずんだ志賀寺の上人のように、死を願って立っている姿ではない。かえって、大自然の苔こけの下から、心の垢あかを洗って、もっと堅実に生き直ろう、刎はね起きようとしている姿であることが、城太郎にも、なんとなく解わかって来たのだった。

その証拠には、いつもの武蔵の声が、やがて滝つぼの中から聞えてきた。もとより何を叫んでいるのかは分らなかった。経文きょうもんのようでもあるし、自分を罵ののしり怒っているようにも見えた。

峰の端から映さして来る夕陽が、滝つぼの一端にこぼれると、武蔵のもり上がっている肩の肉から、無数の小さい虹が、八方へ昇った。中でも大きい一条の虹は、滝よりも高く噴ふいて、空を貫いた。

「お通さアん!」

城太郎は鮎あゆのように飛んだ。岩から岩を伝わって、激流を渡り越え、此方こなたの絶壁へ移って来た。

(そうだ、なにも、お通さんが安心してるくらいなら、おいらの心配することはない。お師匠様の気持なら、心の奥まで、お通さんが知ってる筈だもの)

絶壁を攀よじて、彼は、先刻さっきの滝見小屋から少し離れた所へのぼって来た。牛の手綱が解けたとみえ、それをズルズル引摺りながら、牛はそこらの草を食べていた。

ふと滝見小屋の方を眺めると、そこの廂ひさしの下に、お通の後ろ帯だけがちらと見えた。――なにをしているのだろう? と疑いながら、跫音あしおとを忍ばせて城太郎が近づいて行ってみると、お通は、誰見る者もないと思ってか、小屋の端に脱ぎ捨ててあった、武蔵の着物と大小を両手で胸に抱きしめ、よよと、声を洩らして泣いていた。

「……?」

ここにもまた、心の解らない人間がいるぞといわないばかりに、城太郎は佇たたずんだまま、唇くちを指へ当ててぼんやりしていた。お通が、胸へひしと抱かかえている物が物であるから、城太郎も変な顔をしてしまった。それに、独り泣いている様子も常とはちがい、凡ただならぬことが童心にも感じられたのであろう。声をかけずに、そっとまた、牛の遊んでいる方へ、抜き足して戻って行った。

牛は、白い草の花の中に寝そべって、夕陽に眼やにを泛うかべていた。

「……いったい、こんなことしていて、何日いつになったら、江戸へ行けるんだろうなあ?」

城太郎も仕方なしに、牛のそばへ寝ころんだ。

底本 / Source edition

底本:「宮本武蔵(三)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
1989(平成元)年11月11日第1刷発行
2010(平成22)年1月5日第44刷発行
「宮本武蔵(四)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
1989(平成元)年12月11日第1刷発行
2003(平成15)年1月30日第39刷発行
「宮本武蔵(五)」吉川英治歴史時代文庫、講談社
1989(平成元)年12月11日第1刷発行
2002(平成14)年10月8日第36刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2012年12月18日作成
青空文庫作成ファイル:
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リリース / Release
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TEI
/works/052399_001562/tei
プレーンテキスト / Plain text
/works/052399_001562/plaintext
書誌 / Bibliography
/works/052399_001562/

吉川 英治「宮本武蔵──05 風の巻」(新字新仮名)、底本『宮本武蔵(五)』吉川英治歴史時代文庫18、講談社、1989年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 052399_001562, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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