## <ruby><rb>吉岡染</rb><rt>よしおかぞめ</rt></ruby>

## 一

<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>は知れないきょうの<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>

また、信長も<ruby><rb>謡</rb><rt>うた</rt></ruby>った――

人間五十年、<ruby><rb>化転</rb><rt>けてん</rt></ruby>のうちをくらぶれば、夢まぼろしの如くなり

そういう観念は、ものを考える階級にも、ものを考えない階級にもあった。――<ruby><rb>戦</rb><rt>いくさ</rt></ruby>が<ruby><rb>熄</rb><rt>や</rt></ruby>んで、京や大坂の街の灯が、室町将軍の世盛りのころのように<ruby><rb>美</rb><rt>うる</rt></ruby>わしくなっても、

（いつまたこの灯が消えることか？）

と、人々の頭の底には、永い戦乱に<ruby><rb>滲</rb><rt>し</rt></ruby>みこんだ人生観が、容易に<ruby><rb>脱</rb><rt>ぬ</rt></ruby>けきれないのであった。

慶長十年。

もう関ヶ原の役も五年前の思い出ばなしに過ぎない。

家康は将軍職を<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>き、この春の三月には二代将軍を継承した<ruby><rb>秀忠</rb><rt>ひでただ</rt></ruby>が、<ruby><rb>御礼</rb><rt>おんれい</rt></ruby>のため上洛するのであろうと、<ruby><rb>洛内</rb><rt>らくない</rt></ruby>は景気立っている。

だが、その戦後景気をほんとの泰平とは誰も信じないのである。江戸城に二代将軍がすわっても、大坂城にはまだ、<ruby><rb>豊臣秀頼</rb><rt>とよとみひでより</rt></ruby>が健在だった。――健在であるばかりでなく、諸侯はまだそこへも伺候しているし、天下の浪人を<ruby><rb>容</rb><rt>い</rt></ruby>れるに足る城壁と金力と、そして秀吉の植えた徳望とを持っている。

「いずれ、また、<ruby><rb>戦</rb><rt>いくさ</rt></ruby>さ」

「時の問題だ」

「戦から、戦までの間の灯だぞ、この街の明りだぞ、人間五十年どころか、あしたが闇」

「飲まねば損か、何をくよくよ」

「そうだ、唄って暮せ――」

ここにも、そういう考えのもとに、今の世間に生きている連中の一組があった。

<ruby><rb>西洞院</rb><rt>にしのとういん</rt></ruby>四条の辻からぞろぞろ出て来た侍たちである。その横には、白壁で<ruby><rb>築</rb><rt>つ</rt></ruby>いた長い塀と宏壮な<ruby><rb>腕木門</rb><rt>うでぎもん</rt></ruby>があった。

室町家兵法所<ruby><rb>出仕</rb><rt>しゅっし</rt></ruby>

平安　　　　吉岡<ruby><rb>拳法</rb><rt>けんぽう</rt></ruby>

と書いた<ruby><rb>門札</rb><rt>もんさつ</rt></ruby>が、もう眼をよせてよく見なければ読めないほど黒くなって、しかし<ruby><rb>厳</rb><rt>いか</rt></ruby>めしさを失わずにかかっている。

ちょうど、街に灯がつくころになると、この門から、<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れるように若い侍が帰ってゆく。一日も、休みということはないようだ、木太刀を<ruby><rb>交</rb><rt>ま</rt></ruby>ぜて、三本の刀を腰に横たえているのもあるし、<ruby><rb>本身</rb><rt>ほんみ</rt></ruby>の槍をかついで出て来る者もある。<ruby><rb>戦</rb><rt>いくさ</rt></ruby>となったら、こういう連中が誰より先に血を見るのだろうと思われるような<ruby><rb>武辺者</rb><rt>ぶへんしゃ</rt></ruby>ばかりだった。颱風の卵のように、どれを見ても、物騒な<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>だましいをそなえているのである。

それが、八、九人、

「若先生、若先生」

と、取巻いて、

「ゆうべの家は、ごめん<ruby><rb>蒙</rb><rt>こうむ</rt></ruby>りたいものだ。なあ、諸公」

「いかんわい。あの<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>の<ruby><rb>妓</rb><rt>おんな</rt></ruby>どもは若先生ひとりに<ruby><rb>媚</rb><rt>こ</rt></ruby>びて、俺たちは眼の隅にもおいてない」

「きょうは、若先生の何者であるかも、俺たちの顔も、まったく知らない家へ行こうじゃないか」

そのことそのこと――とばかり<ruby><rb>動揺</rb><rt>どよ</rt></ruby>めくのだった。<ruby><rb>加茂川</rb><rt>かもがわ</rt></ruby>に沿って、灯の多い街だった。永いあいだ、乱世の顔みたいに、焼け跡のまま雑草にまかされていた空地も、ついに地価があがって、小屋同様な新しい仮家が建ち、紅や<ruby><rb>浅黄</rb><rt>あさぎ</rt></ruby>の<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>がかけられ、<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>を<ruby><rb>下手</rb><rt>へた</rt></ruby>に塗った丹波女が鼠鳴きをしたり、大量に買われてきた<ruby><rb>阿波女郎</rb><rt>あわじょろう</rt></ruby>が、このごろ世間にあらわれ始めた三味線というものを、ポツン、ポツン、<ruby><rb>戯</rb><rt>ざ</rt></ruby>れ<ruby><rb>唄</rb><rt>うた</rt></ruby>に交ぜて、<ruby><rb>弾</rb><rt>ひ</rt></ruby>いたりなどしていた。

「<ruby><rb>藤次</rb><rt>とうじ</rt></ruby>、笠を買え、笠を」

色街の近くまで来ると、若先生と呼ばれている背のたかい黒茶の衣服に三つ<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">おだまき</span>の紋を着けている<ruby><rb>吉岡清十郎</rb><rt>よしおかせいじゅうろう</rt></ruby>が、連中を顧みていった。

「笠。――<ruby><rb>編笠</rb><rt>あみがさ</rt></ruby>で？」

「そうじゃ」

「笠など、おかぶりにならないでもよいではござりませぬか」

弟子の<ruby><rb>祇園</rb><rt>ぎおん</rt></ruby>藤次がいうと、

「いや、吉岡<ruby><rb>拳法</rb><rt>けんぽう</rt></ruby>の長男が、こんな所を歩いているぞと、人に振りかえられるのは嫌だ」

## 二

「あははは、笠なしでは、色ざとを歩かれぬと仰っしゃるわ。――そういう坊ンちのようなことをいうので、とかく若先生は女子にもてて困るのじゃ」

藤次は、<ruby><rb>揶揄</rb><rt>からか</rt></ruby>うような、また、おだてるようなことをいって、連中の一人へ、

「おい編笠を求めてこい」

といいつけた。

酔っているものや、影絵のようなぞめきの人々と、灯を縫うてひとりは編笠茶屋へ走ってゆく。

その笠が来ると、

「こうかむれば、誰にも、わしとはわかるまいが」

清十郎は、顔をかくして、やや大びらに歩みだした。

藤次は、うしろから、

「これはまた<ruby><rb>伊達者</rb><rt>だてしゃ</rt></ruby>に見える。若先生、いちだんと風流姿でございますぞ」

すると、他のものまで、

「あれ、<ruby><rb>妓</rb><rt>おんな</rt></ruby>たちが皆、<ruby><rb>暖簾口</rb><rt>のれんぐち</rt></ruby>から見ているわ」

などと、<ruby><rb>幇間</rb><rt>たいこ</rt></ruby>をたたいた。

しかし、門下達のことばは、あながちそら世辞ではなかった。清十郎は背が高くて、帯びている大小は<ruby><rb>綺羅</rb><rt>きら</rt></ruby>びやかだし、年は三十前後の男の花の頃だし、名家の子として恥かしくない気品も実際あった。

で――軒から軒の浅黄<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>や、<ruby><rb>紅</rb><rt>べ</rt></ruby>ン<ruby><rb>殻</rb><rt>がら</rt></ruby>色の<ruby><rb>出格子</rb><rt>でごうし</rt></ruby>のうちから、

「そこへ行く、<ruby><rb>美</rb><rt>よ</rt></ruby>い<ruby><rb>男</rb><rt>おとこ</rt></ruby>さま」

「おすましの編笠さん」

「ちょっとお寄りなさいませ」

「笠のうち、一目、見せて」

と、籠の鳥が、<ruby><rb>囀</rb><rt>さえず</rt></ruby>り抜く。

清十郎は、よけいにとり澄ました。弟子の<ruby><rb>祇園</rb><rt>ぎおん</rt></ruby>藤次にそそのかされて、遊里に足を入れはじめたのも近頃であるが、元来が父に吉岡<ruby><rb>拳法</rb><rt>けんぽう</rt></ruby>という有名な人物を持ち、幼少から金の不自由も知らず、世間の底も知らず、まったく、坊ンち育ちに出来ているので、多分に、<ruby><rb>見栄坊</rb><rt>みえぼう</rt></ruby>なところがある。――弟子たちのお幇間や<ruby><rb>妓</rb><rt>おんな</rt></ruby>たちのそういう声が、甘い毒のように、彼の心を酔わしていた。

すると、一軒の茶屋から、

「あれ、四条の若先生、いけませんよ、顔をかくしても、わかっておりますよ」

と、<ruby><rb>妓</rb><rt>おんな</rt></ruby>が、黄いろい声でさけんだ。

清十郎は、得意な気もちをかくし、わざと驚いたように、

「藤次、どうしてあの<ruby><rb>妓</rb><rt>おんな</rt></ruby>は、わしを吉岡の<ruby><rb>嫡子</rb><rt>ちゃくし</rt></ruby>と知っているのだろう」

と、その格子先で<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んだ。

「はてな？」

藤次は、格子のうちで笑っている白い顔と、清十郎を見くらべて、

「諸公、怪しからぬ事なござるぞよ」

「なんじゃ、何事ぞや」

連中は、わざと<ruby><rb>騒</rb><rt>ざわ</rt></ruby>めく。

藤次は<ruby><rb>遊蕩</rb><rt>あそび</rt></ruby>の気分を<ruby><rb>醸</rb><rt>つく</rt></ruby>るために、<ruby><rb>道化</rb><rt>どうけ</rt></ruby>た手ぶりをして、

「<ruby><rb>初心</rb><rt>うぶ</rt></ruby>じゃとばかり思っていたら、うちの若先生は、どうして隅へはおけない。――あの<ruby><rb>妓</rb><rt>おんな</rt></ruby>と、とうにお<ruby><rb>馴染</rb><rt>なじみ</rt></ruby>であるらしい」

指さすと、<ruby><rb>妓</rb><rt>おんな</rt></ruby>は、

「あれ、それは嘘」

清十郎も、大げさに、

「何を申すか、わしは、この家など上がったことはない」

真面目になって、弁解するのを、藤次は、百も承知していながら、

「では、なぜ、笠で顔をかくしているあなたを、四条の若先生と、あの<ruby><rb>妓</rb><rt>おんな</rt></ruby>がいいあてたか、不審では、ござりませぬか。――諸公、これが不審でないと思われるか」

「怪しいものでござりますぞ」

<ruby><rb>囃</rb><rt>はや</rt></ruby>したてると、

「いいえ、いいえ」

<ruby><rb>妓</rb><rt>おんな</rt></ruby>は、<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>の顔を格子へつけて、

「もし、お弟子さん方、それくらいなことがわからないでは客商売はできませんよ」

「ほ。えらく、広言を吐くの――。ではどこで、それがわかったか」

「黒茶のお羽織は、四条の道場にかようお武家衆好み。この<ruby><rb>遊里</rb><rt>さと</rt></ruby>まで、<ruby><rb>吉岡染</rb><rt>よしおかぞめ</rt></ruby>というて、<ruby><rb>流行</rb><rt>はや</rt></ruby>っているではございませんか」

「でも、吉岡染は、誰も着る、若先生だけとは限らぬ」

「けれど、ご紋が三つおだまき」

「あ、これはいかん」

清十郎が、自分の紋を見ているまに、格子の中の白い手は、その<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>をつかまえていた。

## 三

「顔をかくして、紋かくさずだ。参った！　参った！」

藤次は清十郎へ、

「若先生、こうなっては、ぜひないこと、上がっておやりなさるほか、<ruby><rb>策</rb><rt>て</rt></ruby>はありますまい」

「どうなとせい。それより、はやくわしのこの<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>をはなさせてくれ」

当惑顔をすると、

「<ruby><rb>妓</rb><rt>おんな</rt></ruby>、上がってやると仰っしゃるから、はなせ」

「ほんとに」

妓は、清十郎の袂をはなした。

どやどやと、連中は、そこの<ruby><rb>暖簾</rb><rt>のれん</rt></ruby>をわけて入った。

ここも、急ごしらえの<ruby><rb>安普請</rb><rt>やすぶしん</rt></ruby>である。落ちつくに堪えない部屋に、俗悪な絵だの花だのを、無智に飾りたててある。

だが、清十郎と藤次をのぞいては、そういう神経などはまるで持てない人々だった。

「酒を持て、酒を」

と、威張る。

酒が来ると、

「<ruby><rb>肴</rb><rt>さかな</rt></ruby>を持て」

と、いうのがいる。

肴がくると、植田良平という藤次に肩をならべるこの道の豪の者が、

「はやく、<ruby><rb>妓</rb><rt>おんな</rt></ruby>を持て」

と、怒鳴ったので、

「あははは」

「わははは」

「妓を持てはよかった。植田<ruby><rb>老</rb><rt>ろう</rt></ruby>が御意召さるぞ、はよう妓を持て！」

と、皆で真似た。

「それがしを、老とは怪しからぬ」

良平老は、若いものを、<ruby><rb>酒杯</rb><rt>さかずき</rt></ruby>ごしに<ruby><rb>睥睨</rb><rt>へいげい</rt></ruby>して、

「なるほど、それがしは、吉岡門では、古参に相違ないが、まだ<ruby><rb>鬢辺</rb><rt>びんぺん</rt></ruby>の糸は、このとおり黒い」

「斎藤<ruby><rb>実盛</rb><rt>さねもり</rt></ruby>にならって、染めてござるらしい」

「何奴じゃ、場所がらをわきまえんで。――これへ出よ、罰杯をくれる」

「ゆくのは面倒、投げてくれい」

「参るぞ」

<ruby><rb>杯</rb><rt>さかずき</rt></ruby>が飛ぶ。

「返すぞ」

また飛ぶ。

「誰ぞ、踊れ」

と、藤次がいう。

清十郎もやや浮いて、

「植田、お若いところで」

「心得てそうろう、若いといわれては、舞わずにおれん」

と、縁のすみへ出て行ったと思うと、<ruby><rb>仲居</rb><rt>なかい</rt></ruby>の赤い前だれを、頭のうしろに結び、その<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>へ、梅の花をさし、<ruby><rb>箒</rb><rt>ほうき</rt></ruby>をかついで、

「やよ、各〻、<ruby><rb>飛</rb><rt>ひ</rt></ruby>ン<ruby><rb>騨</rb><rt>だ</rt></ruby>踊りじゃ。――藤次どの、唄たのむ」

「よしよし、皆も唄え」

箸で皿をたたく、火ばしで火桶のふちをたたく。

柴垣、柴垣

しばがき、越えて

雪のふり袖

ちらと見た

振袖、雪の振袖

チラと見た

わっと、拍手にくずれて引ッ込む。すぐ<ruby><rb>妓</rb><rt>おんな</rt></ruby>たちが、鳴物打って、唱歌する。

きのう見し人

今日はなし

きょう見る人も

あすはなし

あすとも知らぬ我なれど

きょうは人こそ恋しけれ

片隅では、大きな<ruby><rb>器</rb><rt>うつわ</rt></ruby>で、

「飲めんのか、こればしの酒が」

「あやまる」

「武士たるものが」

「何を。じゃあ、俺が飲んだら、貴様も飲むか」

「見事によこせ」

牛のように飲むことをもって酒飲みの本領と心得ている<ruby><rb>徒輩</rb><rt>てあい</rt></ruby>が、口端から、しずくをこぼしてまで我慢して、飲みくらをしている。

やがて、<ruby><rb>嘔吐</rb><rt>へど</rt></ruby>をつく奴がいる。目をすえて、飲み仲間をジロジロ<ruby><rb>睨</rb><rt>ね</rt></ruby>めまわしている奴がある、またふだんの慢心に火をそそいで、あるものは、

「京八流のわが吉岡先生をのぞいて、天下に、剣のわかる人間が一匹でもいるか。いたらば、拙者が先に、お目にかかりたいもんだ。……ゲ、げーい」

## 四

すると、清十郎を挟んで、その隣に、同じく、これも食べ酔って、シャックリばかりしていた男が、笑いだした。

「若先生がいると思って、見えすいたおべッかをいう奴だ。天下に剣道は、京八流だけではないぞ。また、吉岡一門ばかりが、随一でもあるまい。たとえば、この京都だけにも、黒谷には、越前浄教寺村から出た富田<ruby><rb>勢源</rb><rt>せいげん</rt></ruby>の一門があるし、北野には小笠原源信斎、白河には、弟子はもたぬが、伊藤弥五郎一刀斎が住んでおる」

「それがどうした」

「だから、一人よがりは、通用せぬというのだ」

「こいつ！　……」

と、高慢の鼻を<ruby><rb>弄</rb><rt>なぶ</rt></ruby>られた男は膝をのりだして、

「やい、前へ出ろ」

「こうか」

「貴様は、吉岡先生の門下でありながら、吉岡拳法流をくさすのか」

「くさしはせぬが、今は、室町御師範とか、兵法所出仕といえば、天下一に聞え、人もそう考えていた先師の時代とちがって、この道に志す<ruby><rb>輩</rb><rt>やから</rt></ruby>は雲のごとく起り、京はおろか、江戸、<ruby><rb>常陸</rb><rt>ひたち</rt></ruby>、越前、近畿、中国、九州の果てにまで、名人上手の少なくない時勢となっている。それを、吉岡拳法先生が有名だったから、今の若先生やその弟子も、天下一だと<ruby><rb>己惚</rb><rt>うぬぼ</rt></ruby>れていたら間違いだと俺はいったんだ。いけないか」

「いかん、兵法者のくせに、他を怖れる、卑屈な奴だ」

「おそれるのではないが、いい気になっていてはならんと、俺は<ruby><rb>誡</rb><rt>いまし</rt></ruby>めたいのだ」

「誡める？　……貴さまに<ruby><rb>他人</rb><rt>ひと</rt></ruby>を誡める力がどこにあるか」

どんと、<ruby><rb>胸</rb><rt>むな</rt></ruby>いたを突く。

あっと一方は、杯や皿のうえに手をついて、

「やったな」

「やったとも」

先輩の<ruby><rb>祇園</rb><rt>ぎおん</rt></ruby>と植田の二人は、あわてて、

「こら野暮をするな」

双方を、もぎはなして、

「まアいい、まアいい」

「わかったよ、貴さまの気持はわかっておる」

と、仲裁して、また飲ませると、一方はなおさかんに怒号するし、一方は、植田老の首にからみついて、

「おれは、真実、吉岡一門のためを思うから、直言するんだ。あんな、おべッか野郎ばかりいては、先師拳法先生の名も<ruby><rb>廃</rb><rt>すた</rt></ruby>ると思うんだ……ついに廃ると……」

と、おいおい泣き出している。

<ruby><rb>妓</rb><rt>おんな</rt></ruby>たちは、逃げてしまうし、<ruby><rb>鼓</rb><rt>つづみ</rt></ruby>や<ruby><rb>酒瓶</rb><rt>ちょうし</rt></ruby>は、蹴とばされている。

それを怒って、

「<ruby><rb>妓</rb><rt>おんな</rt></ruby>ども！　ばか妓！」

<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>って、ほかの部屋を、歩いているのがあると思うと、縁がわに、両手をついて、蒼ざめたのが、友人に背なかを叩いてもらっている。

清十郎は、酔えなかった。

その様子に、藤次が、

「若先生、面白くないでしょう」

と、囁くと、

「これで、<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>らは、愉快なのであろうか」

「これが、面白いのでしょうな」

「あきれた酒だ」

「てまえが、お供をいたしますから、若先生には、どこか<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>の静かな家へ、おかわりになっては<ruby><rb>如何</rb><rt>いかが</rt></ruby>で」

すると清十郎は、救われたように、藤次の誘いに乗って、

「わしは、<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>の家へ、参りたいが」

「<ruby><rb>蓬</rb><rt>よもぎ</rt></ruby>の寮ですか」

「うむ」

「あそこは、ずんと茶屋の格がようございますからな。――初めから、若先生も、蓬の寮へお気が向いていることは分っていたのでござるが、何せい、この<ruby><rb>有象無象</rb><rt>うぞうむぞう</rt></ruby>がくッついて来たのでは滅茶ですから、わざと、この安茶屋へ寄ったので」

「藤次、そっと、抜けてゆこう。あとは植田にまかせて」

「<ruby><rb>厠</rb><rt>かわや</rt></ruby>へ立つふりをして、あとから参ります」

「では、<ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>で待っているぞ」

清十郎は、連中を<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>いて、器用にすがたを消した。

## 陽なた・陽かげ

## 一

白い<ruby><rb>踵</rb><rt>かかと</rt></ruby>を浮かして、つま先で立っていた。風に消された<ruby><rb>掛</rb><rt>か</rt></ruby>け<ruby><rb>行燈</rb><rt>あんどん</rt></ruby>にあかりを入れ直し、軒へ背のびをしている洗い髪の<ruby><rb>年増女</rb><rt>としま</rt></ruby>だった。なかなか釘へかからないのである。さし上げている白い<ruby><rb>肱</rb><rt>ひじ</rt></ruby>に、<ruby><rb>燈</rb><rt>あか</rt></ruby>りの影と黒髪がさやさやとうごいて、<ruby><rb>二月</rb><rt>きさらぎ</rt></ruby>の晩のゆるい風には、どこか梅の<ruby><rb>薫</rb><rt>かお</rt></ruby>りがしていた。

「お甲。掛けてやろうか」

うしろで、誰か、不意にいう。

「あら、若先生」

「待て」

と、側へ来たのは、その若先生の清十郎ではなくて、弟子の<ruby><rb>祇園</rb><rt>ぎおん</rt></ruby>藤次、

「これでいいのか」

「どうもおそれ入ります」

よもぎの寮

と書いてある行燈をながめ、すこし曲っているナとまた掛け直してやる。家庭ではおそろしく不精でやかましやの男が、色街へ来ると、案外親切で<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">小まめ</span>で、自分で窓の戸をあけたり、敷物を出したり、働きたがる男というものはよくあるものだ。

「やはりここは落着く」

清十郎は、坐るとすぐいった。

「ずんと、静かだ」

「開けましょうか」

藤次は、もう働く。

せまい縁に、<ruby><rb>欄</rb><rt>てすり</rt></ruby>がついている。欄の下には、高瀬川の水がせせらいでいた。三条の小橋から南は、<ruby><rb>瑞泉院</rb><rt>ずいせんいん</rt></ruby>のひろい境内と、暗い寺町と、そして<ruby><rb>茅原</rb><rt>かやはら</rt></ruby>だった。まだ世人の頭に生々しい記憶のある<ruby><rb>殺生関白秀次</rb><rt>せっしょうかんぱくひでつぐ</rt></ruby>とその妾や子たちを斬った悪逆塚も、ついそのあたりに近いのである。

「はやく、女でも来ぬと、静かすぎますな。……他に今夜は客もないらしいのに、お甲のやつ、何をしているのか、まだ、茶も来ない」

しないでもよい気働きがやたらに出て来て、坐っていられない<ruby><rb>性</rb><rt>たち</rt></ruby>とみえる。茶でも催促に行こうというのか、のこのこ奥へ通う細廊下へ出てゆくと、

「あら」

出会いがしらに、<ruby><rb>蒔絵</rb><rt>まきえ</rt></ruby>の盆を持った鈴の音がした。少女である。鈴は、その<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>の袖口で鳴るのだった。

「よう、<ruby><rb>朱実</rb><rt>あけみ</rt></ruby>か」

「お茶がこぼれますよ」

「茶などどうだっていい。おまえの好きな清十郎様が来ていらっしゃるのだ。なぜ早く来ないか」

「あら、こぼしてしまった。<ruby><rb>雑巾</rb><rt>ぞうきん</rt></ruby>を持っていらっしゃい、あなたのせいですから」

「お甲は」

「お<ruby><rb>化粧</rb><rt>つくり</rt></ruby>」

「なんだ、これからか」

「でも今日は、昼間がとても忙しかったのですもの」

「昼間。――昼間、誰が来たのか」

「誰だっていいじゃありませんか、<ruby><rb>退</rb><rt>ど</rt></ruby>いて下さいよ」

朱実は、部屋へ入って、

「おいで遊ばせ」

気のつかない顔をして横をながめていた清十郎は、

「あ……おまえか、ゆうべは」

と、てれる。

千鳥棚のうえから、<ruby><rb>香盒</rb><rt>こうごう</rt></ruby>に似た<ruby><rb>器</rb><rt>うつわ</rt></ruby>へ、<ruby><rb>鍔</rb><rt>つば</rt></ruby>のついている<ruby><rb>陶器口</rb><rt>とうきぐち</rt></ruby>の<ruby><rb>煙管</rb><rt>きせる</rt></ruby>をのせ、

「あの、先生は、<ruby><rb>莨</rb><rt>たばこ</rt></ruby>をおすいになりますか」

「莨は、近ごろ、御禁制じゃないか」

「でも、皆さんが隠れておすいになりますもの」

「じゃあ、吸ってみようか」

「おつけしましょうね」

青貝もようの綺麗な小箱から<ruby><rb>莨</rb><rt>たばこ</rt></ruby>の葉をつまんで、朱実は、<ruby><rb>陶器煙管</rb><rt>すえものぎせる</rt></ruby>の口へ白い指でつめ、

「どうぞ」

と清十郎へ吸口を向けた。

馴れない手つきで、

「<ruby><rb>辛</rb><rt>から</rt></ruby>いものだのう」

「ホホホ」

「藤次は、どこへ行った？」

「また、お母さんの部屋でしょう」

「あれは、お甲が好きらしいな。どうも、そうらしい。藤次め、時々わしを<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>いて、一人で通っているにちがいない」

## 二

「――な、そうだろう」

「いやなお人。――ホ、ホ、ホ」

「何がおかしい。そなたの母も、うすうす藤次に思いを寄せているのだろうが」

「知りません、そんなこと」

「そうだぞ、きっと。……ちょうどよいではないか、恋の一<ruby><rb>対</rb><rt>つい</rt></ruby>、藤次とお甲、わしとそなた」

そしらぬ顔をしながら、朱実の手の上へ手をかさねると、

「いや」

と、朱実は潔癖な<ruby><rb>弾</rb><rt>はず</rt></ruby>みを与えて、膝から振り<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>けた。

振りのけられた手は、かえって清十郎を強くさせた。起ちかけた朱実の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">小がら</span>な体を抱きすくめ、

「どこへ行くか」

「いや、いや。……離して」

「まあ、居やれ」

「お酒を。……お酒を取って来るんですから」

「酒などは」

「お母あさんに叱られます」

「お甲は、あちらで、藤次と仲よく話しおるわ」

<ruby><rb>埋</rb><rt>うず</rt></ruby>め込む朱実の顔へ顔をすり寄せると、ぱっと火でもついたような熱い頬が必死に横を向いて、

「――誰か来てえっ。お母あさん！　お母あさん！」

と、ほん気で叫んだ。

離した途端に、朱実は、袂の鈴を鳴らして、小鳥みたいに奥へかくれた。彼女の泣きこんだ辺りで、大きな笑い声がすぐ聞えた。

「ちッ……」

自分の置き場を失ったように、清十郎は、さびしい、苦い、何ともいえない<ruby><rb>面</rb><rt>おも</rt></ruby>もちを持って、

「帰る！」

独りでつぶやいて、廊下へ出た、歩きだすと、その顔は、ぷんぷん怒っていた。

「おや、清さま」

見つけて、あわてて抱きとめたのはお甲であった。髪も<ruby><rb>束</rb><rt>たば</rt></ruby>ね、化粧は先刻よりは直っていた。抱きとめておいて、藤次を加勢に呼びたてた。

「まあ、まあ」

やっと元の座敷に坐らせたのである。すぐ酒を運ぶ、お甲が機嫌をとる、藤次が、朱実を引っぱッて来る。

朱実は、清十郎の沈んでいるのを見ると、くすりと、<ruby><rb>笑靨</rb><rt>えくぼ</rt></ruby>を下に向けた。

「清さまへお酌をなさい」

「はい」

と、銚子をつきつける。

「これですもの、清さま、どうしてこの<ruby><rb>娘</rb><rt>こ</rt></ruby>は、いつまで、こう子どもなんでしょう」

「そこがいいのさ、初桜は」

藤次も、わきから座を持った。

「だって、もう二十一にもなっているのに」

「二十一か、二十一とは見えんな、ばかに小粒だ――やっと十六か、七」

朱実は、小魚みたいに、ぴちぴちした表情を見せて、

「ほんと？　藤次さん。――うれしい！　私、いつまでも、十六でいたい、十六の時に、いいことがあったから」

「どんなこと」

「誰にもいえないこと。……十六の時に」

と、胸を抱いて、

「わたし、何処の国にいたか、知っている？　関ヶ原の<ruby><rb>戦</rb><rt>いくさ</rt></ruby>のあった年」

お甲は、不意にいやな顔して、

「ぺちゃぺちゃ、くだらないお<ruby><rb>喋</rb><rt>しゃ</rt></ruby>べりをしていないで、三味線でも持っておいで」

つんと答えずに、朱実は<ruby><rb>起</rb><rt>た</rt></ruby>った。――そして三味線をかかえると、客を<ruby><rb>娯</rb><rt>たの</rt></ruby>しませようとするよりは、自分ひとりの思い出でも娯しむように、

よしや、こよいは

曇らばくもれ

とても涙で

見る月を

「藤次さん、わかる？」

「ウム、もう一曲」

「ひと晩じゅうでも、<ruby><rb>弾</rb><rt>ひ</rt></ruby>いていたい――」

しんの闇にも

まよわぬ我を

アアさて、そ<ruby><rb>様</rb><rt>さま</rt></ruby>の

迷わする

「なるほど、これでは確かに、二十一にちがいない」

## 三

それまで、<ruby><rb>沈湎</rb><rt>ちんめん</rt></ruby>と<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>づえついていた清十郎が、どう気をとり直したか、唐突に、

「朱実、<ruby><rb>一杯</rb><rt>ひとつ</rt></ruby>ゆこう」

杯を向けると、

「ええ、頂戴」

悪びれもせず、うけて、

「はい」

と、すぐ返す。

「つよいの、そちは」

清十郎もまた、すぐあけて、

「も<ruby><rb>一杯</rb><rt>ひとつ</rt></ruby>」

「ありがと」

朱実は、下へ置かないのである。杯が小さいと見えて、ほかの大きな<ruby><rb>杯</rb><rt>もの</rt></ruby>で<ruby><rb>酌</rb><rt>さ</rt></ruby>しても、あッけないくらいなものだった。

体つきでは、十六、七の小娘としか見えないし、まだ男の唇によごされていない唇と、鹿みたいに<ruby><rb>羞恥</rb><rt>はにか</rt></ruby>みがちな眸をもっているくせに、いったい、この女のどこへ、酒が入ってしまうのだろうか。

「だめですよ、この<ruby><rb>娘</rb><rt>こ</rt></ruby>は、お酒ならいくら飲ませたって酔わないんですから。三味線を持たせておくに限るんです」

お甲がいうと、

「おもしろい」

清十郎は、躍起に<ruby><rb>酌</rb><rt>つ</rt></ruby>ぐ。

すこし雲ゆきがおかしいぞと懸念して、藤次が、

「どうなすったので。――若先生今夜は、ちと<ruby><rb>飲</rb><rt>い</rt></ruby>け過ぎまする」

「かまわぬ」

<ruby><rb>凡</rb><rt>ただ</rt></ruby>ではない、案のじょう、

「藤次、わしは今夜は、帰れぬかも知れぬぞ」

と、断って飲みつづける。

「ええ、お泊りなさいませ幾日でも。――ネ、朱実」

と、お甲は、調子づける。

藤次は眼くばせをして、お甲をそっと<ruby><rb>他</rb><rt>ほか</rt></ruby>の部屋へ<ruby><rb>拉</rb><rt>らっ</rt></ruby>して行った。――困ったことになったぞと<ruby><rb>密</rb><rt>ひそ</rt></ruby>め<ruby><rb>声</rb><rt>ごえ</rt></ruby>で囁くのである。あの<ruby><rb>執心</rb><rt>しゅうしん</rt></ruby>ぶりでは是が非でも、朱実になんとか得心させなければ納まるまいが、本人よりは母親であるおまえの考えのほうが<ruby><rb>肝腎</rb><rt>かんじん</rt></ruby>、金のところはどのくらいだと、真面目になってかけ合うのだった。

「さ？　……」

と、お甲は暗い中で、厚化粧の頬へ、指をついて考え込む。

「何とかせい」

藤次は、膝をつめ寄せ、

「わるくない話じゃないか、兵法家だが、今の吉岡家には、金はうんとある。先代の拳法先生が、何といっても、永年、室町将軍の御師範だった関係で、弟子の数も、まず天下第一だろう。しかも清十郎様はまだ無妻だし、どう転んだって、行く末わるい話ではないぞ」

「私は、いいと思いますが」

「おまえさえよければ、それで文句のありようはない。じゃあ今夜は、二人で泊るがいいか」

<ruby><rb>灯</rb><rt>あか</rt></ruby>りのない部屋である。藤次は臆面もなくお甲の肩へ手をかけた。すると<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>のしまっている次の間でがたんと物音がした。

「あ。ほかにも、客がいたのか」

お甲は、黙ってうなずいた。そして藤次の耳へ、<ruby><rb>湿</rb><rt>しめ</rt></ruby>っぽい唇をつけた。

「後で……」

<ruby><rb>男女</rb><rt>ふたり</rt></ruby>は、さりげなく、そこを出た、清十郎はもう酔いつぶれて横になっている。部屋をわけて、藤次も寝た。――寝つつも眠らずに訪れを待っていたのであろう。しかし、皮肉なことだった。夜が明けても、奥は奥で、ひっそりと寝しずまった<ruby><rb>限</rb><rt>き</rt></ruby>りだし、二人の部屋へは、<ruby><rb>衣</rb><rt>きぬ</rt></ruby>ずれの音もしなかった。

ばかな目を見た顔つきで、藤次はおそく起き出した。清十郎はもう先に起きて川沿いの部屋でまた飲んでいる。――取り巻いているお甲も朱実も今朝は、けろりと冴えていて、

「じゃあ、連れて行ってくださる？　きっと」

と、何か約束している。

四条の河原に、<ruby><rb>阿国歌舞伎</rb><rt>おくにかぶき</rt></ruby>がかかっている、その評判をもちだしているのだった。

「うむ、参ろう。酒や<ruby><rb>折詰</rb><rt>おり</rt></ruby>のしたくをしておけ」

「じゃあ、お風呂もわかさなければ」

「うれしい」

朱実とお甲と、今朝は、この<ruby><rb>母娘</rb><rt>おやこ</rt></ruby>ばかりがはしゃいでいた。

## 四

<ruby><rb>出雲巫子</rb><rt>いずもみこ</rt></ruby>の<ruby><rb>阿国</rb><rt>おくに</rt></ruby>の踊りは、近ごろ、町のうわさを<ruby><rb>風靡</rb><rt>ふうび</rt></ruby>していた。

それを真似て、女歌舞伎というものの、模倣者が、四条の河原に、何軒も<ruby><rb>掛床</rb><rt>かけゆか</rt></ruby>をならべ、華奢風流を争って、各〻が、大原木踊りとか、ねんぶつ舞とか、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やっこ</span>踊りとか、独創と特色を持とうとしている。

佐渡島右近、村山左近、北野小太夫、幾島丹後守、杉山<ruby><rb>主殿</rb><rt>とのも</rt></ruby>などとまるで男のような芸名をつけた遊女あがりの者が、<ruby><rb>男扮装</rb><rt>おとこいでたち</rt></ruby>で、貴人の邸へも、出入りするのを見かけられるのも、近ごろの現象だった。

「まだか、支度は」

もう陽は<ruby><rb>午刻</rb><rt>ひる</rt></ruby>をすぎている。

清十郎は、お甲と朱実が、その女歌舞伎を見にゆくために、念入りなお<ruby><rb>化粧</rb><rt>めかし</rt></ruby>をしている間に、体がだるくなって、また、浮かない気色になった。

藤次も、ゆうべのことが、いつまでも頭にこびりついていて、彼独特な調子も出ないのである。

「女を連れてまいるもよいが、出際になって、髪がどうの、帯がなんの、あれが、実に男にとっては、<ruby><rb>小焦</rb><rt>こじ</rt></ruby>れッたいものでござる」

「やめたくなった……」

川を見る。

三条小橋の下で、女が布を<ruby><rb>晒</rb><rt>さら</rt></ruby>していた。橋の上を、騎馬の人が通ってゆく。清十郎は、道場の稽古を想い出した。木太刀の音や槍の<ruby><rb>柄</rb><rt>え</rt></ruby>のひびきが耳についてくる。大勢の弟子が、きょうは自分のすがたが見えないのを何といっているだろう。弟の伝七郎もまた舌うちしているに違いない。

「藤次、帰ろうか」

「今になって、左様なことを仰っしゃっては」

「でも……」

「お甲と朱実をあんなに<ruby><rb>欣</rb><rt>うれ</rt></ruby>しがらせておいて、怒りますぞ。早くせいと、急がせて参りましょう」

藤次は出て行った。

鏡や衣裳の散らかっている部屋をのぞいて、

「あれ？　何処じゃろ」

次の部屋――そこにもいない。

<ruby><rb>布団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>綿のにおいが陰気に閉まっている陽あたりの悪い一間がある。何気なく、そこも、がらりと開けていた。

いきなり藤次はその顔へ、

「誰だッ」と、怒鳴られて面食らった。

思わずひと足<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>いて、うす暗い――表の客座敷とは較べものにならない<ruby><rb>湿々</rb><rt>じめじめ</rt></ruby>した古畳のうえを見た。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">やくざ</span>な<ruby><rb>性</rb><rt>しょう</rt></ruby>を遺憾なく<ruby><rb>身装</rb><rt>みなり</rt></ruby>にあらわした二十二、三歳の牢人者（註・牢ハ淋シムノ意、牢愁ナドノ語アリ。当時ノ古書ミナ牢人ノ文字ヲ用ウレド、後ノ浪人ト同意味ナリ）――が、<ruby><rb>大刀</rb><rt>だいとう</rt></ruby>のつばを腹の上に飛び出させたまま、大の字なりに寝ころんで、汚い足の裏をこっちに向けているのである。

「ア……。これは粗相、お客でござったか」

藤次がいうと、

「客ではないッ」と天井へ向って、その男は、寝たまま怒鳴る。

ぷーんと、酒のにおいが、その体からうごいてくる。誰か知らぬが、<ruby><rb>触</rb><rt>さわ</rt></ruby>らないにかぎると、

「いや、失礼」

立ち去ろうとすると、

「やいっ」

むッくり起きて呼び返した。

「――後を閉めてゆけ」

「ほ」

気をのまれて、藤次が、いわれた通りにしてゆくと、風呂場の次の小間で、朱実の髪をなでつけていたお甲がどこの<ruby><rb>御寮人</rb><rt>ごりょうにん</rt></ruby>かとばかり、こってり盛装したすがたをすぐその後から見せて、

「あなた、何を怒ってるんですよ」

と、これまた、子どもでも叱りつけるような口調でいう。

朱実が、うしろから、

「又八さんも行かない？」

「どこへ」

「<ruby><rb>阿国</rb><rt>おくに</rt></ruby>歌舞伎へ」

「べッ」

本位田又八は、<ruby><rb>唾</rb><rt>つば</rt></ruby>でも吐くように、<ruby><rb>唇</rb><rt>くち</rt></ruby>をゆがめてお甲へいった。

「どこに、女房のしりに<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>きまとう客の、そのまたしりに尾いて行く亭主があるかっ」

## 五

<ruby><rb>化粧</rb><rt>みが</rt></ruby>きぬいて、盛装して――女の外出は浮いた感傷に酔っている、それを、掻き乱された気がしたのであろう。

「何ですって」

お甲は眼にかどを立てた。

「私と藤次様と、どこが、おかしいんですか」

「おかしいと、誰がいった」

「今、いったじゃありませんか」

「…………」

「男のくせに――」

と、お甲は、灰をかぶせたように黙ってしまった男の顔をにらんで、

「<ruby><rb>嫉</rb><rt>や</rt></ruby>いてばかりいるんだから、ほんとに、嫌になっちゃう！」

そして、ぷいと、

「朱実、気ちがいに<ruby><rb>関</rb><rt>かま</rt></ruby>ってないで行こう」

又八は、その<ruby><rb>裳</rb><rt>すそ</rt></ruby>へ、腕をのばした。

「気ちがいとは、何だっ。――<ruby><rb>良人</rb><rt>おっと</rt></ruby>をつかまえて、気ちがいとは」

「なにさ」

お甲は振り<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>けて、

「亭主なら、亭主らしくしてごらん。誰に食わせてもらっていると思うのさ」

「な……なに……」

「<ruby><rb>江州</rb><rt>ごうしゅう</rt></ruby>を出て来てから、百文の金だって、おまえが稼いだことがあるかえ。私と、朱実の腕で暮して来たんじゃないか。――酒をのんで、毎日ぶらぶらしていて、どう文句をいう筋があるえ」

「だ……だから俺は、石かつぎしても、働くといっているんだ。それをてめえが、やれ、まずい物は食えないの、貧乏長屋はいやだのと、自分の好きで、俺にも働かせず、こんな泥水稼業をしているんじゃねえか。――やめてしまえッ」

「何を」

「こんな商売」

「やめたら、あしたから食べるのをどうするのさ」

「お城の石かつぎしても、俺が食わしてみせる。なんだ、二人や三人の暮しぐらい」

「それ程、石かつぎや、材木曳きがしたいなら、自分だけここを出て、独り暮しで<ruby><rb>土方</rb><rt>どかた</rt></ruby>でも何でもしたらいいじゃないか。おまえさんは、根が<ruby><rb>作州</rb><rt>さくしゅう</rt></ruby>の田舎者、そのほうが生れ性に合っているのでしょ。何も無理にこの家にいてくれと拝みはしませんからね、どうか、いやなら何時でもご遠慮なく――」

くやし涙を<ruby><rb>溜</rb><rt>た</rt></ruby>めている又八の眼の先から、お甲も去り、朱実も去った。――そうして二人のすがたが眼の前からいなくなっても、又八は、一方をにらみつけていた。

ぼろぼろと湯のわくように涙が畳へ落ちる。今にして悔やむことはすでに遅いが、関ヶ原くずれの身を、あの伊吹山の一軒家に<ruby><rb>匿</rb><rt>かく</rt></ruby>まわれたことは、一時は、人の情けの温かさに甘え、<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>びろいをした幸運に似ていたが、実はやはり敵の手に<ruby><rb>擒人</rb><rt>とりこ</rt></ruby>となってしまったも同じであった。――正々堂々、敵に捕われて軍門に曳かれた結果と、多情な後家のなぐさみものになって、生涯男がいもなく悶々と陽かげの悩みと<ruby><rb>侮蔑</rb><rt>ぶべつ</rt></ruby>の下に生きているのと、いったいどっちが幸福であった？　――あの人魚を食ったようにいつまでも若くて、飽くなき性の<ruby><rb>脂</rb><rt>あぶら</rt></ruby>と白粉と、<ruby><rb>虚慢</rb><rt>きょまん</rt></ruby>ないやしさを<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>えているすべた女に、これからという男の<ruby><rb>岐</rb><rt>わか</rt></ruby>れ道をこうされて。

「畜生……」

又八は身をふるわした。

「畜生め」

涙が<ruby><rb>滲</rb><rt>にじ</rt></ruby>む。骨の<ruby><rb>髄</rb><rt>ずい</rt></ruby>から泣きたくなる。

なぜ！　なぜ！　おれはあの時宮本村の<ruby><rb>故郷</rb><rt>ふるさと</rt></ruby>へ帰らなかったろうか。お<ruby><rb>通</rb><rt>つう</rt></ruby>の胸へ帰らなかったか。

あのお通の純な胸へ。

宮本村には、おふくろもいる。分家の<ruby><rb>聟</rb><rt>むこ</rt></ruby>、分家の姉、河原の叔父貴――みんな<ruby><rb>温</rb><rt>あ</rt></ruby>ッたかい！

お通のいる七宝寺の鐘はきょうも鳴っているだろう。<ruby><rb>英田川</rb><rt>あいだがわ</rt></ruby>の水は今もながれているだろう、河原の花も咲いていよう、鳥も春を歌っているだろう。

「馬鹿。馬鹿」

又八は、自分の頭を、自分の<ruby><rb>拳</rb><rt>こぶし</rt></ruby>で<ruby><rb>撲</rb><rt>なぐ</rt></ruby>った。

「この馬鹿ッ」

## 六

ぞろぞろと連れ立って、今、家を出かけるところらしい。

お甲、朱実、清十郎、藤次。――ゆうべから<ruby><rb>流連</rb><rt>いつづ</rt></ruby>けの客二人に<ruby><rb>母娘</rb><rt>おやこ</rt></ruby>二人。

はしゃぎ合って、

「ほう、<ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>は春だの」

「すぐ、三月ですもの」

「三月には、江戸の徳川将軍家が、御上洛という噂。おまえ達はまた稼げるな」

「だめ、だめ」

「関東<ruby><rb>侍</rb><rt>ざむらい</rt></ruby>は遊ばぬか」

「荒っぽくて」

「……お母さん、あれ、<ruby><rb>阿国</rb><rt>おくに</rt></ruby>歌舞伎の<ruby><rb>囃子</rb><rt>はやし</rt></ruby>でしょう。……鐘の音が聞えてくる、笛の音も」

「ま――。この<ruby><rb>娘</rb><rt>こ</rt></ruby>は、そんなことばかりいって、魂はもう芝居へ飛んでいるのだよ」

「だって」

「それより、清十郎様のお笠を持っておあげ」

「はははは、若先生、おそろいでよう似合いますぞ」

「嫌っ。……藤次さんは」

朱実が後ろを振り向くと、お甲は<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>の下で、藤次の手に握られていた自分の手をあわててもぎはなした。

――その<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>や声は、又八のいる部屋のすぐ側を流れて行ったのである。

窓<ruby><rb>一重</rb><rt>ひとえ</rt></ruby>の往来を。

「…………」

又八の怖い眼が、その窓から見送っていた。青い泥を顔へ塗ったように、押しつつんでいる嫉妬である。

「何だッ」

暗い部屋へ、ふたたび、どかっと坐って、

「――何のざまだっ、意気地なしめ、このざまは、このベソは」

それは自分を<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>っているのである。――<ruby><rb>腑</rb><rt>ふ</rt></ruby>がいない、<ruby><rb>小癪</rb><rt>こしゃく</rt></ruby>にさわる、浅ましい――すべて自分に対する自分の<ruby><rb>憤懣</rb><rt>ふんまん</rt></ruby>を発している所作なのだった。

「――出ろと、あの女めがいうのだ。堂々と、出て行けばいい。何をこんな家に、こんな歯ぎしり噛んでまでいなければならない<ruby><rb>理</rb><rt>わけ</rt></ruby>がある。まだ、俺だって二十二だ。――いい若い者が」

がらんと急に静かになった留守の家で、又八は独りで声を出していった。

「その通りだ、それを」

いても起ってもおれなくなる。なぜだ！　自分にもわからない。<ruby><rb>混沌</rb><rt>こんとん</rt></ruby>と頭がこんがらかるばかりだ。

この一、二年の生活で、頭が悪くなったことを又八は自分でも認めている。たまッたものではない、自分の女が、よその男の席へ出てかつて自分へしたような<ruby><rb>媚態</rb><rt>びたい</rt></ruby>をほかへ売っているのだ。夜も眠れない。昼も不安で外へ行く気も出ない。そしては<ruby><rb>悶々</rb><rt>もんもん</rt></ruby>と、陽かげの部屋で、酒だ、酒である。

あんな<ruby><rb>年増女</rb><rt>ばばあ</rt></ruby>に！

彼は<ruby><rb>忌々</rb><rt>いまいま</rt></ruby>しさを知っている。目前の<ruby><rb>醜</rb><rt>みにく</rt></ruby>いものを蹴とばして、大空へ青年の志望を伸ばすことが、せめて遅くとも、過誤の道をとり返す打開であることもわかっている。

だが……さてだ。

ふしぎな夜の魅惑がそれを引きとめる。どうした<ruby><rb>粘力</rb><rt>ねんりき</rt></ruby>だろう。あの女は魔か。――出て行けの、厄介者のと、<ruby><rb>癇</rb><rt>かん</rt></ruby>だかく<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>ったことばも、深夜になればそれは皆、<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>ごとのようにあの女の快楽の蜜に変ってしまうのだ。四十に近い年になっても、娘の朱実に劣らない<ruby><rb>臙脂</rb><rt>べに</rt></ruby>を<ruby><rb>紅々</rb><rt>あかあか</rt></ruby>と溶かしている唇。

――それもある。また。

いざとなると、此処を出ても、お甲や朱実の目にふれるところで<ruby><rb>石担</rb><rt>いしかつ</rt></ruby>ぎをやる勇気も又八は持ち合せていない。こういう生活も五年となれば、彼の体にも怠けぐせが<ruby><rb>沁</rb><rt>し</rt></ruby>みこんでいることは勿論だった。肌に絹を着、<ruby><rb>灘酒</rb><rt>なだ</rt></ruby>と地酒の飲みわけがつくようになっては、宮本村の又八もはや、以前の質朴や剛毅さのあった土くさい青年とはちがう。殊にまだ<ruby><rb>二十歳</rb><rt>はたち</rt></ruby>前の未熟なうちから、年上の女と、こういう変則な生活をして来た青春が、いつのまにか、青年らしい意気に欠け、卑屈に<ruby><rb>萎</rb><rt>しぼ</rt></ruby>み、<ruby><rb>依怙地</rb><rt>いこじ</rt></ruby>に<ruby><rb>歪</rb><rt>ゆが</rt></ruby>んでしまったのも、当り前だった。

だが！　だが！　今日こそは。

「畜生、後であわてるな」

憤然と、自分を打って、彼は起った。

## 七

「出てゆくぞ、おれは」

いってみたところで、家は留守である、誰も<ruby><rb>止</rb><rt>と</rt></ruby>め<ruby><rb>人</rb><rt>て</rt></ruby>はない。

こればかりは<ruby><rb>遉</rb><rt>さすが</rt></ruby>に離さない大きな刀を、又八は腰にさし、そして独りで唇を噛みしめた。

「俺だって、男だ」

表の<ruby><rb>暖簾口</rb><rt>のれんぐち</rt></ruby>から大手を振って出ても決して差しつかえないものを、<ruby><rb>平常</rb><rt>ふだん</rt></ruby>の癖である、台所口から汚い草履を突っかけて、ぷいと外へ出た。

出たが――

「さて？」

足がつかえたように、白々と吹く春先の<ruby><rb>東風</rb><rt>こち</rt></ruby>の中に、又八は<ruby><rb>目瞬</rb><rt>まばた</rt></ruby>いていた。

――何処へ行くか？

世間というものが途端に<ruby><rb>渺茫</rb><rt>びょうぼう</rt></ruby>として頼りない<ruby><rb>海騒</rb><rt>うみさい</rt></ruby>のように思えた。経験のある社会といえば、郷里の宮本村と、関ヶ原の戦のあった範囲よりほか知らないのである。

「そうだ」

又八は、また、犬のように台所口をくぐって家の中へ戻った。

「――金を持って行かなければ」

と、気がついたのである。

お甲の部屋へ入った。

<ruby><rb>手筥</rb><rt>てばこ</rt></ruby>だの、<ruby><rb>抽斗</rb><rt>ひきだし</rt></ruby>だの、鏡立てだの、手あたり次第に掻き廻してみた。しかし、金はみつからなかった。あらかじめこういう悪心は行き届いている女である。又八は気を<ruby><rb>挫</rb><rt>くじ</rt></ruby>いて、取りちらした女の衣裳の中へ、がっかり坐り込んでしまった。

<ruby><rb>紅絹</rb><rt>もみ</rt></ruby>や、西陣や、桃山染や、お甲のにおいが<ruby><rb>陽炎</rb><rt>かげろう</rt></ruby>のように立つ。――今頃は河原の<ruby><rb>阿国</rb><rt>おくに</rt></ruby>踊りの小屋で、藤次と並んで見ているだろうと、又八はその<ruby><rb>姿態</rb><rt>しな</rt></ruby>や肌の白さを眼にえがく。

「妖婦め」

しんしんと脳の<ruby><rb>髄</rb><rt>ずい</rt></ruby>から<ruby><rb>滲</rb><rt>し</rt></ruby>み出るものは、ただ悔いの<ruby><rb>苦</rb><rt>にが</rt></ruby>い思い出だった。

今さらではあるが、痛烈に、思われる人は、<ruby><rb>故郷</rb><rt>くに</rt></ruby>元へ捨てたままの<ruby><rb>許婚</rb><rt>いいなずけ</rt></ruby>――お通であった。

彼は、お通を忘れ得なかった。いや日の経つほど、あの土くさい田舎に自分を待つといってくれた人の清純な尊さがわかって来て、<ruby><rb>掌</rb><rt>て</rt></ruby>を<ruby><rb>拝</rb><rt>あわ</rt></ruby>せて詫びたいほど恋しくなっていた。

だが、お通とも、今は縁も切れたし、こッちから顔を持ってゆけた義理でもない。

「それも、<ruby><rb>彼婦</rb><rt>あいつ</rt></ruby>のためだ」

今、眼が醒めても遅いが、あの女に、お通という女性が<ruby><rb>故郷</rb><rt>くに</rt></ruby>にあることを正直に洩らしたのがわるかった。お甲は、その話を聞く時は、<ruby><rb>婀娜</rb><rt>あだ</rt></ruby>な<ruby><rb>笑</rb><rt>え</rt></ruby>くぼをたたえて、至って無関心に聞いていたが、心のうちでは深い嫉妬をもったらしく、やがて何かの時に、それを痴話喧嘩にもちだして、何でも縁切り状を書けと迫り、しかも自分の露骨な女文字までわざと同封して、あの何も知らずにいる<ruby><rb>故郷</rb><rt>くに</rt></ruby>のお通へ宛てて、飛脚で出してしまったものである。

「――ああ、どう思ってるだろうなあ？　お通は……お通は」

狂わしく又八は呟いた。

「今頃は？　……」

悔いの<ruby><rb>瞼</rb><rt>まぶた</rt></ruby>に、お通が見える。恨めしげなお通の眼が見える。

<ruby><rb>故郷</rb><rt>くに</rt></ruby>の宮本村にも、そろそろ春が訪れていよう。きょうも、なつかしいあの川、あの山々。

又八は、ここから叫びたくなった。そこにいるお<ruby><rb>母</rb><rt>ふくろ</rt></ruby>、そこにいる縁者たち、みんな<ruby><rb>温</rb><rt>あ</rt></ruby>ッたかい！　土までもぽかぽか温ッたかい！

「二度と、もうあの土は踏めないのだ。――それもみんな、こいつのためだ」

お甲の衣裳つづらを<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>ちまけて、又八は、手当り次第に引ッ裂いた。裂いては、家中へ蹴ちらかした。

と、――さっきから表の<ruby><rb>暖簾口</rb><rt>のれんぐち</rt></ruby>で、訪れている者があった。

「ごめん。――四条の吉岡家の使いでござるが、若先生と、藤次殿が参っておりませぬか」

「知らぬっ」

「いや、参っているはずでござる。隠れ遊びの先へ、心ない<ruby><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>とは承知しておりますが、道場の一大事――吉岡家の名にもかかわること――」

「やかましい」

「いや、お取次でもよろしい。……<ruby><rb>但馬</rb><rt>たじま</rt></ruby>の<ruby><rb>士</rb><rt>し</rt></ruby>宮本<ruby><rb>武蔵</rb><rt>むさし</rt></ruby>という武者修行の者、道場へ立ち寄り、門弟たちに立ち<ruby><rb>対</rb><rt>むか</rt></ruby>える者一人もなく、若先生のお帰りを待とうと、頑として、動かずにおりますゆえ、すぐお帰りねがいたいと」

「な、なにッ、宮本？」

## <ruby><rb>優曇華</rb><rt>うどんげ</rt></ruby>

## 一

吉岡家にとって、きょうはなんという<ruby><rb>悪日</rb><rt>あくび</rt></ruby>か。

この<ruby><rb>西洞院</rb><rt>にしのとういん</rt></ruby>西ノ辻に、四条道場が<ruby><rb>創</rb><rt>はじ</rt></ruby>まって以来の汚辱を兵法名誉の家門に塗ったものとして、今日を<ruby><rb>胆</rb><rt>きも</rt></ruby>に銘記しなければならない――と、心ある門人たちは、沈痛きわまる<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>をして、もういつもならそれぞれ<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそが</rt></ruby>れを見て帰り途へちらかる時刻の道場に、まだ、暗然たる動揺を無言にもって或る群れは板敷きの控えにかたまり、或る群れは一室のうちに、墨のごとく残っていた。一人も帰らずに残っていた。

門前で、<ruby><rb>駕</rb><rt>かご</rt></ruby>でも止ったような物音がすると、

「お帰りか」

「若先生か」

人々は、暗い無言をやぶって、立ちかけた。

道場の入口で、<ruby><rb>憮然</rb><rt>ぶぜん</rt></ruby>と、柱によりかかって立っていた一人が、

「ちがう」

と、首を重く振る。

そのたびごとに、門人たちは、沼のような<ruby><rb>憂暗</rb><rt>ゆうあん</rt></ruby>にかえった。或る者は、舌うちを鳴らし、或る者は、そばの者に聞えるような<ruby><rb>嘆息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>をし、<ruby><rb>忌々</rb><rt>いまいま</rt></ruby>しげな眼を、夕闇の中に、ぎらぎらさせていた。

「どうしたのだ？　いったい」

「きょうに限って」

「まだ若先生の居所はわからんのか」

「いや、手分けして方々へ捜しに走らせているから、もう追ッつけ、お帰りになるだろう」

「ちいッ」

――その前を、奥の部屋から出て来た医者が、黙々と門人たちに見送られて玄関へ出て行った。医者が帰ると、その人たちはまた無言で一室へ<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>いた。

「<ruby><rb>燈火</rb><rt>あかり</rt></ruby>をつけるのも忘れていやがる。――誰か、あかりを<ruby><rb>灯</rb><rt>つ</rt></ruby>けんのかっ」

と、腹だたしげに呶鳴る者がある。自分たちの汚辱に対して、自分たちの無力を怒る声だった。

道場の正面にある「八幡大菩薩」の神だなに、ぽっと、<ruby><rb>神</rb><rt>み</rt></ruby>あかしが<ruby><rb>灯</rb><rt>とも</rt></ruby>った。しかし、その燈明さえ、<ruby><rb>晃々</rb><rt>あかあか</rt></ruby>とした光がなかった。<ruby><rb>弔火</rb><rt>ちょうか</rt></ruby>のように眼に<ruby><rb>映</rb><rt>うつ</rt></ruby>って、不吉な<ruby><rb>暈</rb><rt>かさ</rt></ruby>がかかっている気がするのである。

――そもそもが、ここ数十年来、吉岡一門というものは、余りに順調でありすぎたのではあるまいか。古い門人のうちでは、そうした反省もしていた。

先代――この四条道場の開祖――吉岡拳法という人物は、今の清十郎やその弟の伝七郎とはちがって、たしかに、これは<ruby><rb>偉</rb><rt>えら</rt></ruby>かったに違いない。――根は一介の染物屋の職人に過ぎなかったが、染型をつける<ruby><rb>紺屋糊</rb><rt>こんやのり</rt></ruby>のあつかいから太刀使いを発明して、鞍馬僧の<ruby><rb>長刀</rb><rt>なぎなた</rt></ruby>の上手に<ruby><rb>仕</rb><rt>つ</rt></ruby>いたり、八流の剣法を研究したりして、ついに、一流をたて、吉岡流の小太刀というものは、時の室町将軍の<ruby><rb>足利家</rb><rt>あしかがけ</rt></ruby>で採用するところとなり、兵法所出仕の一員に加えられるまでになった。

（お偉かったな、やはり）

今の門下も、何かにつけ、追慕するのは、亡き拳法の人間とその徳望であった。二代目の清十郎その弟の伝七郎、共に父に劣らない修業はさずけられていたが、同時に、拳法の遺して行った<ruby><rb>尠</rb><rt>すくな</rt></ruby>からぬ家産と、名声をもそのまま貰っていた。

（あれが<ruby><rb>禍</rb><rt>わざわ</rt></ruby>いだ）

と、或る者はいった。

今の弟子も、清十郎の徳についているのではない、拳法の徳望と吉岡流の名声についているのである。吉岡で修業したといえば、社会で通りがよいから<ruby><rb>殖</rb><rt>ふ</rt></ruby>えている門生なのであった。

足利将軍家が亡んだので、<ruby><rb>禄</rb><rt>ろく</rt></ruby>はもう清十郎の代になってからはなかったが、身に<ruby><rb>娯</rb><rt>たのし</rt></ruby>みをしなかった拳法の一代に、財産は知らないまにできていた。それに宏壮な邸はあり、弟子の数は何といっても、日本一の京都において、随一といわれるほどあって、その内容はともかく、外観では、剣をつかい剣に志す社会を<ruby><rb>風靡</rb><rt>ふうび</rt></ruby>している。

――が、時代はこの大きな白壁の塀の外において、塀の内の人間が、誇ったり、慢じ合ったり、享楽したりしている数年の間に、思い半ばに過ぎるような推移をとげていた。

それが、きょうの暗澹たる汚辱にぶつかり慢心の眼がさめる日となってきたのだ。――宮本<ruby><rb>武蔵</rb><rt>むさし</rt></ruby>という、まだ聞いたこともない<ruby><rb>田舎者</rb><rt>いなかもの</rt></ruby>の剣のために。

## 二

<ruby><rb>事件</rb><rt>こと</rt></ruby>の起りはこうである。

――作州<ruby><rb>吉野郷</rb><rt>よしのごう</rt></ruby>宮本村の<ruby><rb>牢人</rb><rt>ろうにん</rt></ruby>宮本武蔵という者ですが。

と、今日玄関へ来て訪れた田舎者があるという取次の言葉であった。居合わせた連中が興がって、どんな男かと<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねると、取次のいうには、年の頃はまだ二十一か二、背は六尺に近く、暗やみから曳きだした牛のようにぬうとしている、髪は一年も<ruby><rb>櫛</rb><rt>くし</rt></ruby>など入れたことがないらしく赤くちぢれたのを無造作に<ruby><rb>束</rb><rt>たば</rt></ruby>ね、衣服などは、無地か小紋か、黒か茶か、分らないほど雨露に汚れていて、気のせいか<ruby><rb>臭</rb><rt>くさ</rt></ruby>いような気さえする。それでも背中には、俗に武者修行袋とよぶ<ruby><rb>紙撚網</rb><rt>こよりあみ</rt></ruby>に渋をひいて出来ている<ruby><rb>重宝</rb><rt>ちょうほう</rt></ruby>包みを斜めに背負いこんでいる所、やはり近頃多い武者修行を以て任じているらしくあるが、何としても間が抜けた若者だ――ということであった。

それもいい。お台所で一食のおめぐみにとでもいうことか、この広大な門戸を見て、人もあろうに当流の吉岡清十郎先生に試合をねがいたいという希望だと聞いたから、門人たちは吹きだしてしまった。追ッ払え、という者もあったが、待て待て何流で誰を師にして学んだか訊いてやれという者もあって、取次が面白半分に往復すると、その返辞がまた<ruby><rb>振</rb><rt>ふる</rt></ruby>っている。

――幼少の時、父について十手術を習いました。それ以後は、村へ来る兵法者について、誰彼となく道を問い、十七歳にして、郷里を出、十八、十九、二十の三ヵ年は故あって学問にのみ心をゆだね、去年一年はただ独り山に籠って、樹木や<ruby><rb>山霊</rb><rt>さんれい</rt></ruby>を師として勉強いたしました。されば自分にはまだこれという師もなく流派もありません。将来は、<ruby><rb>鬼一法眼</rb><rt>きいちほうげん</rt></ruby>の伝を汲み、京八流の<ruby><rb>真髄</rb><rt>しんずい</rt></ruby>を参酌して、吉岡流の一派をなされた拳法先生のごとく、自分も至らぬ身ながら一心に励んで、宮本流を<ruby><rb>創</rb><rt>た</rt></ruby>てたいのが望みでございます。

と、いかにも世間<ruby><rb>摺</rb><rt>ず</rt></ruby>れない正直さはあるが、<ruby><rb>訛</rb><rt>なま</rt></ruby>りのある廻らぬ舌で、<ruby><rb>咄々</rb><rt>とつとつ</rt></ruby>と答えたといって、取次が、またその口真似をして伝えたので、さあみんな、再び笑いこけてしまった。

天下一の四条道場へ、のそのそやって来るのさえ、既によほど戸惑った奴でなければならんのに、拳法先生のごとく一流を<ruby><rb>創</rb><rt>た</rt></ruby>てたいなどとは、身のほど知らずも、ここまでになれば珍重してよろしい。いったい、死骸の引取人はあるのかないのか聞いて来いと、さらに、からかい半分に取次へいってやると、

（死骸の儀なれば、万一の場合は鳥辺山へお捨て下さろうとも、加茂川へ<ruby><rb>芥</rb><rt>あくた</rt></ruby>と共にお流し下さろうとも、決して、おうらみには存じませぬ）

と、これは<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぬう</span>としているに似げないさッぱりした返辞だという。

（上げろ）

と一人が口を切ったのが始まりであった。道場へ通して、片輪ぐらいにして<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り出すつもりであったのだ。ところが、最初の立合いに、片輪は道場側の方に出来てしまった。木剣で腕を折られたのだ、折られたというより<ruby><rb>捥</rb><rt>も</rt></ruby>がれたといったほうがあたっている。皮膚だけで手首がぶら下がっているほどな重傷だった。

次々に立ち上がった者が、ほとんど同様な重傷を負うか惨敗を<ruby><rb>舐</rb><rt>な</rt></ruby>め尽してしまったのである。木剣とはいえ床には血さえ<ruby><rb>滴</rb><rt>したた</rt></ruby>った。凄愴な殺気はみなぎって、たとえ吉岡の門人が一人のこらず<ruby><rb>斃</rb><rt>たお</rt></ruby>れるまでも、この無名の田舎者に誇りを持たせたまま生かして帰すことはならなくなった。

（――無益であるからこの上は清十郎先生に）

と当然な乞いのもとに、武蔵はもう立たないのであった。やむなく、彼には一室を宛てがって待たせておき、清十郎の行く先へは使いを走らせ、一方では医者を迎えて、重体の<ruby><rb>傷負</rb><rt>てお</rt></ruby>い数名を、奥で手当てしていた。

その医者が帰ると間もなく、<ruby><rb>燈火</rb><rt>あかり</rt></ruby>のついた奥の部屋で<ruby><rb>傷負</rb><rt>てお</rt></ruby>いの名をよぶ声が二、三度聞えた。道場の者が、駈け寄ってみると、そこに枕をならべている六名の者のうちで、二人はもうこときれて死んでいた。

## 三

「……だめか」

死者の枕元をかこんだ同門の者たちの顔は、一様に蒼くにごって、重くるしい息をのんだ。

そこへ、あわただしい跫音が、玄関から道場へ通り、道場から奥へ入って来た。

<ruby><rb>祇園</rb><rt>ぎおん</rt></ruby>藤次を連れた吉岡清十郎であった。――

二人とも、水から上がって来たような<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>めた顔いろを湛えていた。

「どうしたのだ！　この<ruby><rb>態</rb><rt>てい</rt></ruby>は」

藤次は吉岡家の用人格でもあり、また道場では古参の先輩でもあった。従ってその言葉つきは場合にかまわず、いつも<ruby><rb>権柄</rb><rt>けんぺい</rt></ruby>であった。

死人の枕元で、涙ぐんでいた多感らしい門人が、途端に<ruby><rb>憤</rb><rt>む</rt></ruby>ッとした眼を上げて、

「何をしていたとはあなたがたのことだ。若先生を<ruby><rb>誘惑</rb><rt>さそ</rt></ruby>いあるいて、馬鹿も程にしたがよいッ」

「何だと」

「拳法先生のご在世中には、一日たりとも、こんな日はなかったんだぞ！」

「たまたまのお気ばらしに、歌舞伎へお出でになったくらいのことが、なんで悪いか。若先生をここにおいて、なんだその口は。出過ぎ者め」

「女歌舞伎は、前の晩から泊らなければ行けないのか。拳法先生のお<ruby><rb>位牌</rb><rt>いはい</rt></ruby>が、奥の仏間で、泣いてござるわっ」

「こいつ、いわしておけば」

その二人をなだめて別室へ分けるために、そこはしばらくがやがやしていた。――すると、直ぐ<ruby><rb>隣室</rb><rt>となり</rt></ruby>の暗やみで、

「……や……やかましいぞっ……人の苦痛も知らずに……ウーム……ウーム」

<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>く者があると思うと、

「そんな内輪喧嘩より、若先生が帰って来たなら、早く、今日の無念ばらしをしてくれっ。……あの……奥に待たせてある牢人めを、生かして、ここの門から出しては駄目だぞっ。……いいかっ、たのむぞ」

蒲団のうちから、畳をたたいて<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>いている者もある。

死に至るほどではなかったが、武蔵の木剣の前に立って、脚や手を打ち砕かれた怪我人組の、それは興奮であった。

（そうだ！）

誰もが、叱咤された気がした。今の世の中で農、工、商のほかに立つ人間が、最も日常に重んじあっているものは「恥」ということだった。恥と道づれなれば、いつでも死のうとこの階級は競う気持すらあった。時の司権者は、<ruby><rb>軍</rb><rt>いくさ</rt></ruby>にばかり追われて来たので、まだ天下に泰平を<ruby><rb>布</rb><rt>し</rt></ruby>く政綱もなかったし、京都だけの市政にしてからずいぶん不備で大ざっぱな法令で間にあわせられているのであるが、士人のあいだに、恥辱を重く考えるという風がつよいので、百姓にも町人にも、<ruby><rb>自</rb><rt>おのずか</rt></ruby>らその意気が尊ばれ、社会の治安にまで及ぼしているので、法令の不完全も、こういう市民の自治力で<ruby><rb>償</rb><rt>つぐな</rt></ruby>われて余りあるのであった。

吉岡一門の者にしても、まだその恥を知ることにおいては、決して、末期の人間のような厚顔は持たなかった。一時の狼狽と、敗色から<ruby><rb>甦</rb><rt>よみがえ</rt></ruby>ると、すぐ恥というものが頭へいっぱいに燃えた。

（師の恥）

とばかり、小我を捨てると、一同は道場に集まった。

清十郎を取り巻いてである。

だが、その清十郎の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>は、きょうに限って、ひどく闘志がない。ゆうべからのつかれが、今になって眉にただよっていた。

「――その牢人者は」

清十郎は、<ruby><rb>革</rb><rt>かわ</rt></ruby><span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">だすき</span>をかけながら訊ねた。門人の出した二本の木剣を選んで、その一本を右手に<ruby><rb>提</rb><rt>さ</rt></ruby>げた。

「お帰りを待とうという<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>のことばにまかせて、あの一室に、控えさせてあります」

と、一人が庭に向っている書院脇の小部屋を指した。

## 四

「――呼んで来い」

清十郎の乾いた唇から出た言葉である。

挨拶をうけてやろうというのだった。道場から一段高い師範の座に腰をかけ、木剣を杖に立って、清十郎はいった。

「は」

三、四人が答えて、すぐ道場の横から草履を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>き、庭づたいに、書院の縁へ走ろうとするのを、祇園藤次や植田などの古参が、その<ruby><rb>勢</rb><rt>きお</rt></ruby>い込む<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>をつかまえて、

「待て待て、<ruby><rb>逸</rb><rt>はや</rt></ruby>まるな」

それからの<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>きは、すこし離れて見ている清十郎の耳には聞えなかった。吉岡家の家人、縁者、古参を中心として、一かたまりになりきれない程なあたま数が、幾組にもわかれて、<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>をよせ集め、何か、異論と主張と、評議<ruby><rb>紛々</rb><rt>ふんぷん</rt></ruby>たるものがあった。

――が、相談はすぐ決まったらしい。吉岡家を思い、清十郎の実力をよく知る大勢の者の考えとして、奥に待っている無名の牢人を呼び出して、ここで無条件に清十郎へ立ち<ruby><rb>対</rb><rt>むか</rt></ruby>わせることは、何としても不得策である。すでに、幾名かの死者と怪我人を出している上に、万一清十郎までが敗れたら吉岡家の重大事であって、危険極まるというのが、その人たちの<ruby><rb>危惧</rb><rt>きぐ</rt></ruby>であった。

清十郎の弟、伝七郎がいるならば、そういう心配はまずないものと人々は思う。ところが生憎とその伝七郎までが、きょうは早朝からいないのだ、先代拳法の天分は、兄よりはこの弟のほうに多分によい質があると人々は見ているのだが、責任のない次男坊の立場にあるので、至って<ruby><rb>暢気者</rb><rt>のんきもの</rt></ruby>だ。きょうも友達と伊勢へ行くとかいって、帰る日も告げずに家を出ているのだった。

「ちょっと、お耳を」

藤次はやがて、清十郎のそばへ行って、何か囁いていた。――清十郎の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>は堪え難い<ruby><rb>辱</rb><rt>はずか</rt></ruby>しめをうけたように汚れた。

「――<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>し討ちに？」

「…………」

<ruby><rb>叱</rb><rt>し</rt></ruby>っと、藤次は眼をもって、清十郎の眼を抑えた。

「……そんな卑怯なことをしては、清十郎の名が立たぬ。たかの知れた田舎武芸者に、怖れをなして、多勢で打ったと世間にいわれては」

「ま……」

藤次は、<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いて毅然と<ruby><rb>装</rb><rt>よそお</rt></ruby>う清十郎のことばへ<ruby><rb>圧</rb><rt>お</rt></ruby>しかぶせて、

「吾々にまかせて下さい。吾々の手に」

「そち達は、この清十郎が、奥にいる武蔵とやらいう人間に、敗けるものと思うているのか」

「そういう<ruby><rb>理</rb><rt>わけ</rt></ruby>ではありませぬが、勝って、名誉な敵ではなし、若先生が手を下すには、勿体ない、と一同が申すのでござる。――何も外聞にかかわるほどなことでもありますまい。……とにかく生かして返しては、それこそ、御当家の恥を、世間に<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>きちらされるようなものですからな」

そんなことをいっている間に、道場に<ruby><rb>充</rb><rt>み</rt></ruby>ちている人間は、半数以上も減っていた。――庭へ、奥へ、また玄関から迂回して裏門のほうへと、蚊の立つように音もなく闇へ<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>れてゆくのであった。

「あ。……もう<ruby><rb>猶予</rb><rt>ゆうよ</rt></ruby>はなりません、若先生」

藤次は、そこの灯を、ふっと吹き消してしまった。――そして<ruby><rb>下緒</rb><rt>さげお</rt></ruby>を解いて<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>をからげた。

清十郎は腰かけたままながめていた。ほっとした気持がどこかでしないでもない。しかし、決して愉快ではなかった、自分の力が軽視された結果にほかならないのだ。父の死後、怠って来た修業のあとを<ruby><rb>省</rb><rt>かえり</rt></ruby>みて、清十郎は暗い気持だった。

――あれほどな門下や家人が、どこへ<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそ</rt></ruby>んでしまったか、道場には、もう彼一人しか残っていなかった。そして、井戸の底に似た物音のない暗さと冷たさが、邸のうちを占めた。

――じっとしていられないものが、清十郎の腰を起たせた。窓からのぞいてみると、灯の色が<ruby><rb>映</rb><rt>さ</rt></ruby>しているのは、武蔵という客を待たせてある一室だけで、そのほかに何物も見えなかった。

## 五

障子のうちの<ruby><rb>燈火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>は、時々、静かな<ruby><rb>瞬</rb><rt>またた</rt></ruby>きをしていた。

縁の下、廊下、隣の書院など、その<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>かな灯影のゆれている一室の他は、すべて暗かった。徐々と、無数の眼が、<ruby><rb>蟇</rb><rt>ひき</rt></ruby>のようにその闇を這い寄っていた。

息をころし、<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>を伏せて、

「…………」

じっと、<ruby><rb>燈火</rb><rt>あかり</rt></ruby>のさす内の気はいを、<ruby><rb>身体</rb><rt>からだ</rt></ruby>じゅうで訊き澄ます。

（はてな？）

藤次は、ためらった。

他の門人たちも、疑った。

――宮本武蔵とやら、名まえこそ都で聞いたこともない人間だが、とにかくあれほどつかう腕の持主である。それが、しいんとしているのはどういうものだろう、多少なり兵法に心をおく人間ならば、いくら上手に忍び寄ろうが、これだけの敵が室外に迫って来るのを気づかずにいるはずはない。今の世を兵法者で渡ろうという者が、そんな心がまえであったら、月に一ツずつ生命があっても足らないことになる。

――（寝ているな）

一応は、そう考えられた。

かなり長い時間であったから、待ちしびれを切らして、居眠っているのではあるまいかと。

だが、思いのほか相手が<ruby><rb>曲者</rb><rt>くせもの</rt></ruby>とすると、或は、こっちの空気を早く察しながら、<ruby><rb>襷股立</rb><rt>たすきももだ</rt></ruby>ちの身こしらえまで十分にしておいて、わざと燈心の<ruby><rb>丁字</rb><rt>ちょうじ</rt></ruby>を<ruby><rb>剪</rb><rt>き</rt></ruby>らずに、来らば――と鳴りをひそめているのかもわからない。

（そうらしい……いや、そうだ）

どの体も<ruby><rb>硬</rb><rt>こわ</rt></ruby>ばってしまう。自分の殺気でまず自分が先に打たれているのだ。誰か先に捨て身にならないかと味方のほうへも気を配るのである。ゴクリと<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>の骨が鳴ったりする。

「宮本<ruby><rb>氏</rb><rt>うじ</rt></ruby>」

ふすま隣から、藤次が気転でこう声をかけた。

「――お待たせいたした。ちょっと、お顔を拝借ねがいたいが」

相変らずしいんとしたものである。いよいよ敵には用意がある。藤次はそう考えて、

（抜かるな！）

と、眼合図を左右の者に投げておいて、どんと、<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>の腰を蹴った。

途端に、中へ躍りこむはずの人影が、無意識にみな身を退いた。――襖の一枚は脚を外して<ruby><rb>閾</rb><rt>しきい</rt></ruby>から二尺ほど股をひらいている。それッと、誰か叱咤した。四方の建具がぐわらぐわらと一度に鳴りを立てて暴れた。

「やっ？」

「いないぞっ」

「いないじゃないか」

急に強がった声が揺れている<ruby><rb>燈火</rb><rt>あかり</rt></ruby>の中で起った。つい今し方、ここへ燭台を門人が運んで来た時はまだきちんと坐っていたというその敷物はある、火桶はある、また飲まないまま冷えている茶もあるのだ。

「逃がした」

一人が縁へ出て庭へ伝える。

庭の暗がりや床下から、むらむら寄って来た人影が皆、地<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">だんだ</span>を踏み、見張人の不注意を<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>った。

見張をいいつかっていた門人たちは、口を揃えて、そんなはずはないという。いちど<ruby><rb>厠</rb><rt>かわや</rt></ruby>へ立つ姿は見たが、すぐ部屋へもどったきり、武蔵は断じてこの部屋を出ていないといって<ruby><rb>不審</rb><rt>いぶ</rt></ruby>かる。

「風ではあるまいし……」

その抗弁を嘲殺していると、

「あっ、ここだ」

戸棚へ首を突っこんだ者が、剥がれている<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>の穴を指さした。

「<ruby><rb>燈火</rb><rt>あかり</rt></ruby>がついてからといえば、まだそう遠くへは走っていないぞ」

「追え、追打ちに」

敵の弱身を<ruby><rb>測</rb><rt>はか</rt></ruby>って急に<ruby><rb>奮</rb><rt>ふる</rt></ruby>いだした武者ぶるいが、小門、裏門をどっと押して、外へ散らかった。

すると直ぐ――いたッと叫ぶ声がながれた。表門の<ruby><rb>袖塀</rb><rt>そでべい</rt></ruby>の蔭から<ruby><rb>弾</rb><rt>はじ</rt></ruby>かれたように一つの影が、往来を横ぎって向うの小路へ隠れたのを、声と共に、誰も見た。

## 六

まるで脱兎の逃げ足だった。突当りの<ruby><rb>築土</rb><rt>ついじ</rt></ruby>を、その男の影は<ruby><rb>蝙蝠</rb><rt>こうもり</rt></ruby>のように<ruby><rb>掠</rb><rt>かす</rt></ruby>めて、横へ<ruby><rb>外</rb><rt>そ</rt></ruby>れた。

大勢のみだれた跫音が、あッちだこッちだと、その後から追い捲くって行く、前へもまわってゆく。

<ruby><rb>空也堂</rb><rt>くうやどう</rt></ruby>と本能寺の焼け跡とが道路を挟んでいる薄暗い町まで来ると、

「卑怯者」

「恥知らずが」

「よくも、よくも、最前は」

「さあ、もどれ」

捕まえたのだ。ひどい乱打と<ruby><rb>足蹴</rb><rt>あしげ</rt></ruby>の<ruby><rb>下</rb><rt>もと</rt></ruby>に、捕われた男は大きな<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>きを発したが、それが逃げるだけ逃げ廻っていたこの人間の猛然と立ち直った挑戦であったとみえ、中の<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>がみを取って曳きずるように踏ン張っていた二、三名の者は同時に大地へたたきつけられていた。

「あっ」

「こいつがッ」

すでに血になろうとするその<ruby><rb>旋風</rb><rt>つむじ</rt></ruby>へ、

「待った、待った！」

「人違いだ」

誰からともなく叫び出した。

「やっ、なるほど」

「武蔵じゃない」

<ruby><rb>唖然</rb><rt>あぜん</rt></ruby>として気抜けしている所へ<ruby><rb>遅</rb><rt>おく</rt></ruby>れ<ruby><rb>走</rb><rt>ば</rt></ruby>せに加わった祇園藤次が、

「捕まえたか」

「捕まえることは捕まえたが……」

「オヤ、その男は」

「ご存知か」

「よもぎの寮という茶屋の奥で――。しかも今日、会ったばかり」

「ほ？　……」

いぶかしげに見る大勢の眼が、<ruby><rb>黙然</rb><rt>もくねん</rt></ruby>と、こわれた髪や<ruby><rb>衣紋</rb><rt>えもん</rt></ruby>を直している又八の足の先まで撫でまわして、

「茶屋の亭主？」

「いや亭主ではないと、あそこの内儀がいった、<ruby><rb>懸人</rb><rt>かかりゅうど</rt></ruby>だろう」

「うさんな奴だ。何だって、御門前にたたずんで、覗き込んでなどおったのか」

藤次は、急に足を移して、

「そんな者にかまっていては、相手の武蔵を逸してしまう。早く手分けをして、せめて、彼の泊っている宿先でも」

「そうだ、宿を突きとめろ」

又八は本能寺の<ruby><rb>大溝</rb><rt>おおみぞ</rt></ruby>へ向いて、黙然と首を垂れていたが、わらわら駈け去ってゆく跫音へ、何思ったか、

「あ、もしっ、しばらく」

と、呼びとめた。

最後の一人が、

「なんだ」

足を止めると、又八のほうからも足を運んで、

「きょう道場へ来た武蔵とかいう者は、<ruby><rb>幾歳</rb><rt>いくつ</rt></ruby>くらいの男でした」

「年などはしらん」

「てまえと、同年くらいじゃございませんか」

「ま、そんなものだ」

「作州の宮本村と申しましたか、生国は」

「左様」

「<ruby><rb>武蔵</rb><rt>むさし</rt></ruby>とは、<ruby><rb>武蔵</rb><rt>たけぞう</rt></ruby>と書くのでございましょうな」

「そんなことを訊いてどうするのだ。そちの知人か」

「いえ、べつに」

「用もない所をうろついていると、また、今のような災難にあうぞ」

いい捨てると、その一人も闇へ駈け去った。又八は、暗い溝に沿って、とぼとぼ歩きだした。時々、星を仰いでは立ちどまっている。何処へという<ruby><rb>目的</rb><rt>めあて</rt></ruby>もないような<ruby><rb>容子</rb><rt>ようす</rt></ruby>なのである。

「……やっぱり、そうだった。武蔵と名をかえて、武者修行に出ているとみえる。……今会ったら、変っているだろうな」

両手を、前帯へ突っこんで、草履の先で石を蹴る。その石の一つ一つに、彼は友達の顔を、眼にえがいた。

「……間がわるいな、どう考えても、今会うのは面目ない。おれにだって、意地はある。あいつに<ruby><rb>見蔑</rb><rt>みさ</rt></ruby>げられるのは<ruby><rb>業腹</rb><rt>ごうはら</rt></ruby>だ。……だが吉岡の弟子たちに見つかったら<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>はあるまい。……何処にいるのか、知らしてやりたいものだが」

## 坂

## 一

石ころの多い坂道に沿い、行儀の悪い歯ならびのように、<ruby><rb>苔</rb><rt>こけ</rt></ruby>の生えた<ruby><rb>板廂</rb><rt>いたびさし</rt></ruby>が軒を並べていた。

くさい塩魚を焼くにおいがどこかでする。<ruby><rb>午</rb><rt>ひる</rt></ruby>ごろの陽ざしが強い、不意に、一軒のあばら屋のうちで、

「<ruby><rb>嬶</rb><rt>かかあ</rt></ruby>や<ruby><rb>餓鬼</rb><rt>がき</rt></ruby>を、<ruby><rb>乾</rb><rt>ひ</rt></ruby>ぼしにしておいて、どの<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>さげて帰って来たかっ、この呑ンだくれの、阿呆おやじがっ」

<ruby><rb>癇</rb><rt>かん</rt></ruby>だかい女の声が聞え、それとともに一枚の皿が往来へ飛んで来て、真ッ白に砕けたと思うと、つづいて五十ぢかい職人ていの男が、<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り出されたように転び出した。

<ruby><rb>裸足</rb><rt>はだし</rt></ruby>で、ちらし髪で、<ruby><rb>牝牛</rb><rt>めうし</rt></ruby>のような乳ぶさを胸からはだけ放している女房が、

「この、ばかおやじ、何処へ行くっ」

飛び出して来て、おやじの<ruby><rb>髷</rb><rt>まげ</rt></ruby>をつかみ、ぽかぽかと撲る、喰いつく。

火のつくように子は泣いている。犬はきゃんきゃんいう、近所からの仲裁が駈けて出る。

――<ruby><rb>武蔵</rb><rt>むさし</rt></ruby>は振り向いた。

笠の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>で、苦笑して見ていた。彼は、<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>からその軒つづきの<ruby><rb>陶器師</rb><rt>すえものし</rt></ruby>の細工場の前に立ち、子供のように何事も忘れて、<ruby><rb>轆轤</rb><rt>ろくろ</rt></ruby>や<ruby><rb>箆</rb><rt>へら</rt></ruby>の仕事に<ruby><rb>見恍</rb><rt>みと</rt></ruby>れていたのであった。

「…………」

ふり向いた眼はまたすぐ細工場のうちへ戻っている。武蔵は、見とれていた。しかし、そこで仕事をしている二人の陶器師は、顔も上げなかった。<ruby><rb>粘土</rb><rt>つち</rt></ruby>の中にたましいが入っているように、<ruby><rb>三昧</rb><rt>さんまい</rt></ruby>になりきっていた。

路傍にたたずんで見ているうちに、武蔵は、自分もその<ruby><rb>粘土</rb><rt>つち</rt></ruby>を<ruby><rb>捏</rb><rt>こ</rt></ruby>ねてみたくなった。彼には、何かそういうことの好きな性質が<ruby><rb>幼少</rb><rt>ちいさ</rt></ruby>い時からあった。――茶碗くらい出来るような気がする。

だが、その一人のほうの六十ぢかい<ruby><rb>翁</rb><rt>おきな</rt></ruby>が、<ruby><rb>箆</rb><rt>へら</rt></ruby>と指のあたまで、今、一個の茶碗になりかけている<ruby><rb>粘土</rb><rt>つち</rt></ruby>をいじっているのを見ると、武蔵は、自分の不遜な気持がたしなめられた。

（これは、たいへんな<ruby><rb>技</rb><rt>わざ</rt></ruby>だ、あれまで行くには）

このごろの武蔵の心には、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">まま</span>こういう感動を<ruby><rb>抱</rb><rt>いだ</rt></ruby>くことがあった。人の技、人の芸、何につけ<ruby><rb>優</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れたものに持つ尊敬である。

（自分には、似た物もできない）

はっきりと今も思う。見れば、細工場の片隅には、戸板をおいてそれへ皿、<ruby><rb>瓶</rb><rt>かめ</rt></ruby>、<ruby><rb>酒盃</rb><rt>さかずき</rt></ruby>、水入れのような雑器に、安い値をつけて、<ruby><rb>清水詣</rb><rt>きよみずもう</rt></ruby>での往来の者に傍ら売っているのである。――これほどな安焼物を作るにも、これほどな良心と三昧とをもってしているのかと思うと、武蔵は自分の志す剣の道が、まだまだ遠いものの気がした。

――実は、ここ二十日あまり、吉岡拳法の門を始め、著名な道場を歩いてみた結果、案外な感じを抱き、同時に自分の実力が、自分で<ruby><rb>卑下</rb><rt>ひげ</rt></ruby>しているほど<ruby><rb>拙</rb><rt>つたな</rt></ruby>いものではないという誇りも大いに持っていた折なのである。

府城の地、将軍の旧府、あらゆる名将と強卒のあつまるところ、さだめし京都にこそは、兵法の達人上手がいるだろうと思って訪れて行って、その<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>に心から礼儀を施して帰るような道場が、一軒でもあったろうか。

武蔵は、勝っては、その度に、淋しい気もちを抱いて、そこらの兵法家の門を出た。

（俺が強いのか、先が弱いのか）

彼にはまだ、判然としない。もし今日まで歩いて来たような兵法家が、今の代表的な人々だとしたら、彼は、実社会というものを疑いたいと思った。

しかし――

うっかり、それで思い上がることは出来ないぞということを、彼は今、見せられていた。わずか二十文か百文の雑器を作る<ruby><rb>翁</rb><rt>おきな</rt></ruby>にさえ、じっと見ていると、武蔵は、怖いような三昧境の芸味と<ruby><rb>技</rb><rt>わざ</rt></ruby>を感じさせられる。――それで<ruby><rb>生活</rb><rt>くらし</rt></ruby>を見れば食うや食わずの貧しい板屋囲いではないか。社会がどうして甘いものであろうはずはない。

「…………」

武蔵は、だまって、心のうちだけで、<ruby><rb>粘土</rb><rt>つち</rt></ruby>まみれの翁に、頭を下げてそこの軒を離れた。坂を仰ぐと清水寺の崖道が見える――

## 二

「御牢人。――御牢人」

三年坂を、武蔵が登りかけた時である。誰か呼ぶので、

「わしか」

振り向いてみると、竹杖一本手に持って、<ruby><rb>空脛</rb><rt>からすね</rt></ruby>に<ruby><rb>腰</rb><rt>こし</rt></ruby>きりの布子一枚、<ruby><rb>髯</rb><rt>ひげ</rt></ruby>の中から顔を出しているような男、

「旦那は、宮本様で」

「うむ」

「武蔵とおっしゃるんで」

「む」

「ありがとう」

尻を向けると、男は茶わん坂の方へ、降りて行った。

見ていると、茶店らしい軒へ入った。その辺には、今のように駕かきが、陽なたに沢山群れていたのを、武蔵も今しがた見て通って来たのであるが、自分の姓名を<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねさせたのは一体誰なのか。

――次には、その本人が出て来るであろうと、しばらく<ruby><rb>佇</rb><rt>たたず</rt></ruby>んでいたが、何者も見えない。

彼は、坂を登りきった。

千手堂とか、悲願院とか、その辺りの棟を一巡して、武蔵は、

（<ruby><rb>故郷</rb><rt>ふるさと</rt></ruby>に独りいる姉上の<ruby><rb>息災</rb><rt>そくさい</rt></ruby>をまもらせたまえ）

と祈り、

（鈍愚武蔵に、苦難を与えたまえ、われに、死を与えたもうか、われに天下一の剣を与えたまえ）

と、祈った。

神、仏を礼拝した後は、何かすがすがと洗ったような心になることを、彼は<ruby><rb>沢庵</rb><rt>たくあん</rt></ruby>から無言に教えられ、その後、書物による知識のうらづけも持っていた。

崖のふちに、笠を捨てる。笠のそばへ腰を投げた。

京洛中は、ここから<ruby><rb>一望</rb><rt>ひとめ</rt></ruby>だった。膝を抱いている身のそばには、<ruby><rb>土筆</rb><rt>つくし</rt></ruby>があたまをそろえていた。

（偉大な生命になりたい）

単純な野望が、武蔵の若い胸を<ruby><rb>膨</rb><rt>ふく</rt></ruby>らませた。

（人間と生れたからには――）

うららかな春のそこここを歩いている参詣人や<ruby><rb>遊山</rb><rt>ゆさん</rt></ruby>の<ruby><rb>客</rb><rt>きゃく</rt></ruby>とは、およそ遠い夢を武蔵はそこで描いているのだった。

<ruby><rb>天慶</rb><rt>てんぎょう</rt></ruby>の昔――つくり話にちがいないが――<ruby><rb>平</rb><rt>たいら</rt></ruby>の<ruby><rb>将門</rb><rt>まさかど</rt></ruby>と藤原<ruby><rb>純友</rb><rt>すみとも</rt></ruby>というどっちも野放しの<ruby><rb>悍馬</rb><rt>かんば</rt></ruby>みたいな野望家が、成功したら日本を半分わけにしようと語り合ったとかいう伝説を――彼は何かの書物で見た時は、その無智無謀が、よほどおかしく感じられたものだが、今の自分にも、笑えない気がした。それとは違うが、似た夢をおもう。青年だけが持ちうる権利として、かれは彼の道を創作するように夢みていた。

（信長は――）

と考える。

（秀吉だって）

と、思う。

だが、戦乱は、もう過去の人の夢だった。時代は久しく<ruby><rb>渇</rb><rt>かわ</rt></ruby>いていた平和をのぞんでいる。その待望へこたえた家康の長い長い根気を考えると、正しく夢をもつことも難しいなと思う。

だが。

慶長何年というこの時代は、これからという生命を持って、おれは在るのだ。信長を志してはおそいだろうし、秀吉のような生き方を目がけてはむりであろうが。――夢を持てだ、夢を持つことには、誰の<ruby><rb>拘束</rb><rt>こうそく</rt></ruby>もない。今去った駕かきの子でも、夢を持てる。

だが――と、武蔵はもういッぺんその夢を頭の外へおいて、考え直してみる。

剣。

自分の道は、それにある。

信長、秀吉、家康もいい。社会はこの人々が生きて通った<ruby><rb>傍</rb><rt>かたわ</rt></ruby>らで<ruby><rb>旺</rb><rt>さかん</rt></ruby>な文化と生活をとげた。しかし、最後の家康は、もう荒っぽい革新も躍進も必要としないまでの仕上げをやってしまった。

こう見ると、東山から望むところの京都は、関ヶ原以前のように、決して風雲は急でないのであった。

（ちがっている。――世の中はもう、信長や秀吉を求めた時勢とはちがっているのだ）

武蔵は、それから、

剣とこの社会と。

剣と人生と。

何でも、自分の志す兵法に自分の若い夢を結びつけて、<ruby><rb>恍惚</rb><rt>こうこつ</rt></ruby>と、思い<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>っていた。

すると、<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>の木像<ruby><rb>蟹</rb><rt>がに</rt></ruby>のような駕かきが、再び崖の下に、顔を見せ、

「や。あそこにいやがる」

と、竹杖で、武蔵の顔を指した。

## 三

武蔵は、崖の下をにらみつけた。

駕かきの群れは、下で――

「おや、<ruby><rb>睨</rb><rt>ね</rt></ruby>めつけやがった」

「歩きだしたぞ」

と、騒ぐ。

ぞろぞろ崖を這って<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて来るし、気にしまいとして、歩み出せば、前にも同類らしい者が、腕ぐみしたり、竹杖をついたり、遠巻きに立ちふさぐ形をとる。

武蔵は足をとめた。

「…………」

彼が、振向くと、駕かきの群れも足をとめ、そして、白い歯を<ruby><rb>剥</rb><rt>む</rt></ruby>いて、

「あれ見や、<ruby><rb>額</rb><rt>がく</rt></ruby>なんか見ていやがる」

と笑う。

本願堂の階前に立って武蔵は、そこの古びた<ruby><rb>棟木</rb><rt>むなぎ</rt></ruby>に懸かっている額を仰いでいるのである。

不愉快だ、よほど、大声で一つ呶鳴ってやろうかとは思うが、駕かきを相手にしてもつまらないし、何か間違いならそのうちに散ってしまうであろうと<ruby><rb>怺</rb><rt>こら</rt></ruby>えて、懸額の「本願」の二文字を、なお、じっと仰いでいると、

「あ。――お<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>でなすった」

「ご隠居様がお見えだ」

と、駕かきたちが、ささやき合って<ruby><rb>遽</rb><rt>にわか</rt></ruby>に色をなし始めた。

ふと見ると！

もうその頃は、この清水寺の西門のふところは、人でいっぱいだった。参詣人や、僧や、物売りまで何事かと眼をそばだてて武蔵を遠く取り巻いている駕かきの<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>を、また二重三重に囲んで、これからの成り行きに、好奇な眼を光らせているのである。

ところへ――

「わッしゃ」

「おっさ」

「わっしゃ」

「おッさ」

三年坂の坂下と<ruby><rb>思</rb><rt>おぼ</rt></ruby>しき辺りから威勢のよい懸け声が近づいて来たのである。と思うと間もなく、境内の一端にあらわれたのは、一人の駕かきの背中に負ぶさった<ruby><rb>六十路</rb><rt>むそじ</rt></ruby>とも見える<ruby><rb>老婆</rb><rt>としより</rt></ruby>だった。――そのうしろには、これも五十をとうに越えている――、余り<ruby><rb>颯爽</rb><rt>さっそう</rt></ruby>としない田舎風の老武士が見えた。

「もうええ、もうええ」

老婆は、駕かきの背で、元気のよい手を振った。

駕かきが、膝を折って地へしゃがむと、

「大儀」

と、いいながら、ぴょいと背中を離れて、うしろの老武士へ、

「<ruby><rb>権</rb><rt>ごん</rt></ruby>叔父よ、抜かるまいぞ」

と、意気込みをふくんでいう。

お杉ばばと<ruby><rb>淵川</rb><rt>ふちかわ</rt></ruby>権六なのである。二人とも、足ごしらえから身支度まで、死出の旅路を覚悟のようにかいがいしくして、

「何処にじゃ」

「相手は」

と、刀の<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>に<ruby><rb>湿</rb><rt>しめ</rt></ruby>りをくれながら、人垣を割って入った。

駕かき達は、

「ご隠居、相手はこちらでござります」

「お急ぎなさいますなよ」

「なかなか、敵は、しぶとい<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>をしておりますぜ」

「十分、お支度なすッて」

と、寄り<ruby><rb>集</rb><rt>たか</rt></ruby>って、案じたり、<ruby><rb>宥</rb><rt>いた</rt></ruby>わったりする。

見ている人々は驚いた。

「あのお婆さんが、あの若い男へ、果し合いをしようというんでしょうか」

「そうらしいが……」

「助太刀も、よぼよぼしている。何か<ruby><rb>理</rb><rt>わけ</rt></ruby>があるんでしょうな」

「あるんでしょうよ」

「あれ、何か、連れの者へ怒ッていますぜ。きかない気の<ruby><rb>老婆</rb><rt>としより</rt></ruby>もあるものだ」

お杉ばばは今、駕かきの一人が、何処からか駈け足で持ってきた<ruby><rb>竹柄杓</rb><rt>たけびしゃく</rt></ruby>の水をごくりと一口飲んでいた。それを、権叔父へ渡して、

「――何を、あわてていなさるぞ。相手は、<ruby><rb>多寡</rb><rt>たか</rt></ruby>の知れた鼻たれ小僧、少々ぐらい、剣のつかいようを学んだとて、程が知れておるわいの。気を落ちつけなされ」

――それから。

自分が先に立って、本願堂の階段の前にすすみ、ぺたりと坐りこんだと思うと、<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>から<ruby><rb>数珠</rb><rt>じゅず</rt></ruby>を取り出して、<ruby><rb>彼方</rb><rt>あなた</rt></ruby>に立っている当の相手の武蔵もよそに――また大勢の環視をよそに――ややしばらく何か口のうちで<ruby><rb>祷</rb><rt>いの</rt></ruby>っていた。

## 四

お杉ばばの信仰をまねて、権叔父も<ruby><rb>掌</rb><rt>て</rt></ruby>をあわせた。

悲壮を過ぎて、<ruby><rb>滑稽</rb><rt>こっけい</rt></ruby>を感じたのであろう、群衆はそれを見ると、クスリと笑った。

「誰だい、笑うやつは」

駕かきの一人が、それへ向って、怒るように呶鳴った。

「――何がおかしいんだ、笑いごッちゃねえぞ、このご隠居様は、遠い作州から出て来なすって、自分の息子の嫁を<ruby><rb>奪</rb><rt>と</rt></ruby>って逃げた野郎を討つために、先ごろからこの清水寺へ日参をしておいでなさるんだ。――きょうがその五十幾日目で、計らずも、茶わん坂で――そこにいる野郎よ――その相手の野郎が通るのを見つけたンだ」

こう一人が説明すると、また一人が、

「さすがに侍の筋というものは、違ったもんじゃねえか、あの年でよ、<ruby><rb>故郷</rb><rt>くに</rt></ruby>にいれば、孫でも抱いて、楽なご隠居でいられる身を、旅に出て、息子のかわりに、家名の恥を<ruby><rb>雪</rb><rt>すす</rt></ruby>ごうッていうんだから、頭が下がらあ」

――すぐほかの者がまた、

「俺たちだって、何もご隠居から毎日、<ruby><rb>酒代</rb><rt>さかて</rt></ruby>をいただいているからの、ごひいきになっているからのと、そんなケチな量見で加勢するわけじゃねえ。――あの年で、若い牢人を相手に、勝負しようっていう心根が、<ruby><rb>堪</rb><rt>たま</rt></ruby>らねえんだ。――弱いほうにつくのは人情、当りめえだろう。もし、ご隠居のほうが負けたら、おれたち総がかりであの牢人へ向うよ、なあみんな」

「そうだとも」

「<ruby><rb>老婆</rb><rt>としより</rt></ruby>を討たせて堪るものか」

駕かき達の説明を聞くと、群衆も、熱をおびて、<ruby><rb>騒</rb><rt>ざわ</rt></ruby>めきだした。

「やれ、やれ」

と、けしかける者もあるし、

「――だが、婆さんの息子はどうしたんだ」

と、訊ねる者もある。

「息子か」

それは駕かきの仲間は誰も知らないらしく、多分死んでしまったのだろうという者もいるし、いやその息子の生死も<ruby><rb>旁〻</rb><rt>かたがた</rt></ruby>さがしているのだと<ruby><rb>識</rb><rt>し</rt></ruby>ったふうに説いている者もある。

――その時、お杉ばばは、<ruby><rb>数珠</rb><rt>じゅず</rt></ruby>をふところへしまっていた。駕かきも群衆も、同時に、ひっそりした。

「――<ruby><rb>武蔵</rb><rt>たけぞう</rt></ruby>！」

ばばは、腰の小脇差へ左の手を当てて、こう呼びかけた。

<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>から<ruby><rb>武蔵</rb><rt>むさし</rt></ruby>はそこに黙然と立っていた。――およそ三間ほどの距離をおいて――棒のように立っていた。

権叔父も、隠居のわきから、足構えして、首を前へ伸ばし、

「やいっ」

と、呼ぶ。

「…………」

武蔵は、答える言葉も知らないもののようだった。

姫路の城下で、<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>をわかつ時に沢庵から注意された記憶は今思い出されたが、駕かき達が、群衆へ向っていいふらしていた言葉は、心外にたえない。

そのほか、その以前から、本位田一家の者に、恨みとして含まれていることも、自分にとってはそのまま受けとりにくいものである。

――要するに、せまい郷土のうちの面目や感情にすぎないのだ。本位田又八がここにいさえすれば明らかに解けることではないかと思う。

しかし武蔵は今は当惑していた。――この目前の事態をどうするかである。このよぼよぼな婆と老い朽ちた古武者の挑戦に、彼は、殆ど当惑する。――じっと守っている無言は、唯、迷惑きわまる顔でしかなかった。

駕かきどもは、それを見て、

「ざまをみろ」

「<ruby><rb>竦</rb><rt>すく</rt></ruby>んでしまやがった」

「男らしく、ご隠居に、討たれちまえ」

と、口ぎたなく、応援する。

お杉ばばは、<ruby><rb>癇</rb><rt>かん</rt></ruby>のせいか、眼をバチバチとしばたたいて、強く顔を振った。――と思うと、駕かきどもを振り向いて、

「うるさいッ、お<ruby><rb>汝</rb><rt>こと</rt></ruby>らは、証人として立会うてくれれば済む。――わしらが二人討たれたら、骨は、宮本村へ送ってくだされよ。頼んでおくはそれだけじゃ。そのほかは、いらざる雑言、助太刀無用になされ」

と、小脇差の<ruby><rb>鍔</rb><rt>つば</rt></ruby>をせり出して、さらに一歩、武蔵をにらんで、前へ出た。

## 五

「<ruby><rb>武蔵</rb><rt>たけぞう</rt></ruby>っ――」と、ばばは、呼び直した。

「<ruby><rb>汝</rb><rt>わ</rt></ruby>れは元、村では武蔵といい、この婆などは、悪蔵と<ruby><rb>称</rb><rt>よ</rt></ruby>んでいたものじゃが、今では、名を変えているそうじゃの、宮本<ruby><rb>武蔵</rb><rt>むさし</rt></ruby>と。――えらそうな名わいの。……ホ、ホ、ホ」

と、<ruby><rb>皺首</rb><rt>しわくび</rt></ruby>を振って、まず、刀を抜く前に、言葉から斬ってかかった。

「――名さえ変えたら、この婆にも、捜し当てられまいと思うてかよ！　<ruby><rb>浅慮</rb><rt>あさはか</rt></ruby>な！　天道様は、この通り、おぬしが逃げ廻る先とても照らしてござるぞよ。……さ、見事、婆の首取るか、おぬしが<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>をもらうか、勝負をしやれ」

権叔父も、次に、<ruby><rb>皺</rb><rt>しわ</rt></ruby>がれ声をしぼった。

「<ruby><rb>汝</rb><rt>わ</rt></ruby>れが、宮本村を<ruby><rb>逐電</rb><rt>ちくでん</rt></ruby>して以来、指折り数うればもう五年、どれほど捜すに骨を折ったことか。清水寺へ日参のかいあって、ここでわれに会うたることのうれしさよ。老いたりといえども淵川権六まだまだ、<ruby><rb>汝</rb><rt>わ</rt></ruby>れが如き小僧におくれは取らぬ。さあ、覚悟」

ぎらりと、太刀を抜いて、

「婆、あぶないぞや。うしろへ避けておれ」

と、<ruby><rb>庇</rb><rt>かば</rt></ruby>うと、

「なにをいう！」

ばばは、却って権叔父を叱咤し、

「おぬしこそ、中風を病んだ揚句じゃによって、足もとを気をつけなされ」

「なんの、われらには、清水寺の諸<ruby><rb>菩薩</rb><rt>ぼさつ</rt></ruby>が、お護りあるわ」

「そうじゃ権叔父、本位田家のご先祖さまも、うしろに助太刀していなさろう。<ruby><rb>怯</rb><rt>ひる</rt></ruby>むまいぞ」

「――<ruby><rb>武蔵</rb><rt>むさし</rt></ruby>っ、いざッ」

「いざッ」

二人は遠方から切っ先をそろえてこう挑んだ。しかし、当の武蔵は、それに応じて来ないのみか、<ruby><rb>唖</rb><rt>おし</rt></ruby>のように沈黙しているので、お杉ばばは、

「<ruby><rb>怯</rb><rt>お</rt></ruby>じたかよッ！　武蔵っ」

ちょこちょこと、横のほうへ駈け廻って斬り入ろうとしたのである。ところが、石にでも<ruby><rb>躓</rb><rt>つまず</rt></ruby>いたとみえ、両手をついて、武蔵の足もとへ転んでしまったので、

「あっ、<ruby><rb>斬</rb><rt>や</rt></ruby>られるぞ」

<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>の人垣が、俄然、<ruby><rb>噪</rb><rt>さわ</rt></ruby>ぎ立って、

「早く、助けてやれっ」

叫んだが、権叔父すら度を失って、武蔵の顔を<ruby><rb>窺</rb><rt>うか</rt></ruby>がっているにとどまる。

――だが気丈な婆だ。抛り出した刀を拾って持つと、自分で起き上がり、権叔父のそばへ跳んで返って、すぐ構えを武蔵に向け直した。

「阿呆よッ、その刀は、飾りものか、斬る腕はないのか！」

<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>のように無表情であった武蔵は、初めて、その時、

「ないっ」

と、大きな声でいい放った。

そして、彼が歩き出して来たので、権叔父と、お杉ばばは、両方へ跳びわかれ、

「ど、どこへ行きやる、武蔵ッ――」

「ないっ」

「待ていっ、<ruby><rb>汝</rb><rt>おの</rt></ruby>れ、待たぬかよ！」

「ない」

武蔵は、三度も同じ答えを投げた。横も向かないのである。真っ直に、群衆の中を割って歩み続けた。

「それ、逃げる」

隠居が、あわてると、

「逃がすな」

駕かき達は、どっと、駈け<ruby><rb>雪崩</rb><rt>なだ</rt></ruby>れて、先廻りに、囲みを作った。

「……あれ？」

「おや？」

囲いは作ったが、もうその中に、武蔵はいなかった。

――後で。

三年坂や茶わん坂を、ちりぢりに帰る群衆のうちで、あの時、武蔵のすがたは、西門の袖塀の六尺もある<ruby><rb>築土</rb><rt>ついじ</rt></ruby>へ、猫のように跳び上がって、すぐ見えなくなったのだ――と取沙汰する者もあったが、誰も信じなかった。権叔父やお杉ばばは、なお信じるはずもない。御堂の床下ではないか、裏山へ逃げたのではないかと、陽の暮れるまで、<ruby><rb>狂奔</rb><rt>きょうほん</rt></ruby>していた。

## <ruby><rb>河</rb><rt>か</rt></ruby>っ<ruby><rb>童</rb><rt>ぱ</rt></ruby>

## 一

どすっ、どすっ……と<ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>を打つ<ruby><rb>鈍</rb><rt>にぶ</rt></ruby>い<ruby><rb>杵</rb><rt>きね</rt></ruby>の音が細民町を揺すっている。雨はそこらの牛飼の家や、<ruby><rb>紙漉</rb><rt>かみす</rt></ruby>きの小屋を秋のように、<ruby><rb>腐</rb><rt>くさ</rt></ruby>らせていた。北野も、この辺は場末で、<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそが</rt></ruby>れとなっても、温かい<ruby><rb>炊飯</rb><rt>かしぎ</rt></ruby>の煙がただよう家は稀れだ。

き、ち、ん。

と笠へ仮名で書いたのが軒端にぶら下げてある、そこの土間先につかまって、

「爺さん！　<ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>の爺さん！　……留守かい」

元気のいい、<ruby><rb>身長</rb><rt>なり</rt></ruby>よりも大きな声で、いつも廻って来る居酒屋の小僧が、怒鳴っていた。

やっと、年は十か十一。

雨に光っている髪の毛は、<ruby><rb>蓬々</rb><rt>ぼうぼう</rt></ruby>と耳にかぶさって、絵に描いた<ruby><rb>河</rb><rt>か</rt></ruby>っ<ruby><rb>童</rb><rt>ぱ</rt></ruby>そのままだ。筒袖の腰きりに、縄の帯、背中まで<ruby><rb>泥濘</rb><rt>ぬかるみ</rt></ruby>の跳ねを上げている。

「<ruby><rb>城</rb><rt>じょう</rt></ruby>か」

奥で<ruby><rb>木賃</rb><rt>きちん</rt></ruby>の<ruby><rb>親爺</rb><rt>おやじ</rt></ruby>がいう。

「あ、おらだ」

「きょうはの、まだ、お客様が<ruby><rb>帰</rb><rt>け</rt></ruby>えらねえだから、酒はいらぬよ」

「でも、<ruby><rb>帰</rb><rt>け</rt></ruby>えれば<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>るんだろう。いつもだけ持ッて来とこうや」

「お客様が<ruby><rb>飲</rb><rt>あ</rt></ruby>がるといったら、わしが取りにゆくからいい」

「……爺さん、そこで、何しているんだい」

「あした鞍馬へのぼる荷駄へ、手紙を頼もうと思って、書き始めたが、一字一字、文字が思い出せねえで肩を<ruby><rb>凝</rb><rt>こ</rt></ruby>らしているところじゃ、うるさいから、口をきいてくれるな」

「ちぇッ、腰が曲りかけているくせに、まだ字を覚えねえのか」

「このチビが、また<ruby><rb>小賢</rb><rt>こざか</rt></ruby>しいこといいさらして、<ruby><rb>薪</rb><rt>まき</rt></ruby>でも食らうな」

「おらが、書いてやるよ」

「ばか<ruby><rb>吐</rb><rt>ぬ</rt></ruby>かせ」

「ほんとだッてば！　アハハハハそんな<ruby><rb>芋</rb><rt>いも</rt></ruby>という字があるものか、それじゃ<ruby><rb>竿</rb><rt>さお</rt></ruby>だよ」

「やかましいッ」

「やかましくッても、見ちゃいられねえもの。爺さん、鞍馬の<ruby><rb>知人</rb><rt>しりびと</rt></ruby>へ、竿を届けるのかい」

「芋を届けるのだ」

「じゃ、強情を張らないで、芋と書いたらいいじゃないか」

「知っているくらいなら、初めからそう書くわ」

「あれ……だめだぜ、爺さん……この手紙は、爺さんのほかには誰にも読めないぜ」

「じゃあ、<ruby><rb>汝</rb><rt>てめえ</rt></ruby>、書いてみろ」

筆を突きつけると、

「書くから、文句をおいい、お文句をさ……」

上がり<ruby><rb>框</rb><rt>がまち</rt></ruby>に腰をかけて、居酒屋の城太郎は、筆を持った。

「馬鹿よ」

「なんだい、無筆のくせに、人を馬鹿とは」

「紙へ、<ruby><rb>鼻汁</rb><rt>はな</rt></ruby>が垂れたわ」

「ア、そうか。これは駄賃――」

その一枚を揉んで、<ruby><rb>鼻汁</rb><rt>はな</rt></ruby>をかんで捨てて――

「さ。どう書くんだい」

筆の持ち方はたしかであった。木賃のおやじがいう言葉を、その通りさらさらと書いてゆく。

……ちょうどその折であった。

今朝、雨具を持たずに出た<ruby><rb>此宿</rb><rt>ここ</rt></ruby>の客は、泥田のような道を、びしょびしょと重い足で帰って来た。かぶって来た炭俵を、軒下へ投げやって、

「――ああ。梅もこれでおしまいだな」

毎朝目を<ruby><rb>娯</rb><rt>たのし</rt></ruby>ませてくれた門口の紅梅を見あげながら、<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>を<ruby><rb>絞</rb><rt>しぼ</rt></ruby>って呟く。

武蔵であった。

もうこの木賃へは二十日の上も泊っているので、彼は、わが家へ帰って来たような安堵を覚える。

土間へ入って、ふと見ると、いつも、御用を聞きに来る居酒屋の少年が、おやじと首を寄せ合っている。武蔵は、何をしているのかと、黙って、その<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>からのぞいていた。

「あれ。……人が悪いなあ」

城太郎は、武蔵の顔へ気がつくと、あわてて筆と紙とを、背中へ廻してしまった。

## 二

「見せい」

武蔵が、からかうと、

「いやだい！」

城太郎は、顔を振って、

「アカといえば」

と、あべこべに<ruby><rb>揶揄</rb><rt>やゆ</rt></ruby>してかかる。武蔵は、濡れた<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>を解いて、木賃の<ruby><rb>老爺</rb><rt>おやじ</rt></ruby>に渡しながら、

「ははは、その手は喰わん」

すると、城太郎は、言下に、

「手を喰わんなら、足喰うか」

と、いった。

「足喰えば、<ruby><rb>章魚</rb><rt>たこ</rt></ruby>じゃ」

城太郎は響きに答えるように、

「章魚で酒のめ。――<ruby><rb>小父</rb><rt>おじ</rt></ruby>さん、章魚で酒飲め。持って来ようか」

「なにを」

「お酒を」

「ははは、こいつは、うまく引っかかったの。また、小僧に酒を売りつけられたぞ」

「五合」

「そんなにいらん」

「三合」

「そんなに飲めん」

「じゃあ……いくらさ、ケチだなあ、宮本さんは」

「貴様に会ってはかなわんな、実をいえば<ruby><rb>小費</rb><rt>こづかい</rt></ruby>が乏しいからだよ、貧乏武芸者だ。そう悪く申すな」

「じゃあ、おらが<ruby><rb>桝</rb><rt>ます</rt></ruby>を<ruby><rb>量</rb><rt>はか</rt></ruby>って、安くまけて持って来ようね。――そのかわりに、小父さん、またおもしろい話を聞かせておくれね」

雨の中へ、元気に、城太郎は駈けて行った。武蔵は、そこへ残されてある手紙を見て、

「<ruby><rb>老爺</rb><rt>おやじ</rt></ruby>、これは今の少年が書いたのか」

「左様で。――呆れたものでございますよ、あいつの賢いのには」

「ふーむ……」

感心して見入っていたが、

「おやじ、何か<ruby><rb>着</rb><rt>き</rt></ruby>がえがないか、なければ、<ruby><rb>寝衣</rb><rt>ねまき</rt></ruby>でもよいが、貸してくれい」

「濡れてお戻りと存じまして、ここへ出しておきました」

武蔵は、井戸へ行って水を浴び、やがて着かえて、<ruby><rb>炉</rb><rt>ろ</rt></ruby>のそばに坐った。

その間に、自在かぎへは、<ruby><rb>鍋</rb><rt>なべ</rt></ruby>がかかる、香の物や、茶碗も揃う。

「小僧め、何をしているのか、遅うござりまする」

「<ruby><rb>幾歳</rb><rt>いくつ</rt></ruby>だろう、あの少年は」

「十一だそうで」

「<ruby><rb>早熟</rb><rt>ませ</rt></ruby>ているな、年のわりには」

「何せい、<ruby><rb>七歳</rb><rt>ななつ</rt></ruby>ぐらいからあの居酒屋へ奉公しておりますので、馬方やら、この辺の<ruby><rb>紙漉</rb><rt>かみす</rt></ruby>きやら、旅の衆に、<ruby><rb>人中</rb><rt>ひとなか</rt></ruby>で<ruby><rb>揉</rb><rt>も</rt></ruby>まれておりますでな」

「しかし――どうして左様な稼業のうちに、見事な文字を書くようになったろうか」

「そんなに<ruby><rb>上手</rb><rt>うま</rt></ruby>いので？」

「元より子どもらしい<ruby><rb>稚拙</rb><rt>ちせつ</rt></ruby>はあるが、稚拙のうちに、天真といおうか何というか……左様……剣でいうならば、おそろしく気に<ruby><rb>暢</rb><rt>の</rt></ruby>びのある筆だ。あれは、ものになるかもしれぬ」

「ものになるとは、何になるので」

「人間にだ」

「へ？」

おやじは、鍋の<ruby><rb>蓋</rb><rt>ふた</rt></ruby>を取って覗きながら、

「まだ来ないぞ、あいつまた、どこぞで道ぐさしているのかも知れぬ」

ぶつぶついいながら、やがて、土間の<ruby><rb>穿物</rb><rt>はきもの</rt></ruby>へ足をおろしかけると、

「爺さんッ、持って来たよ」

「何をしているのだ、旦那様が待っているのに」

「だってネ、おらが、酒を取りにゆくと、店にもお客があったんだもの。――その酔っぱらいがね、また、おらをつかまえて、<ruby><rb>執</rb><rt>しつ</rt></ruby>こくいろんなことを訊くんだ」

「どんなことを」

「宮本さんのことだよ」

「また、くだらぬお<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>りをしたのだろう」

「おらが喋舌らなくても、この<ruby><rb>界隈</rb><rt>かいわい</rt></ruby>でおとといの清水寺のことを知らない者はないぜ。――隣のおかみさんも前の<ruby><rb>漆屋</rb><rt>うるしや</rt></ruby>の娘も、あの日お詣りに行ってたから、小父さんが、大勢の駕かきに囲まれて難儀をしたのを、みんな見ていたんだよ」

## 三

武蔵は黙然と炉のまえに、膝をかかえていたが、頼むように――

「小僧、もうその話は、やめにせい」

眼ざとく、その顔いろを<ruby><rb>覚</rb><rt>さと</rt></ruby>って、城太郎は武蔵からいわれる先に、

「おじさん、今夜は遊んでいってもいいだろ？」

と、足を洗いにかかる。

「うム。<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>はよいのか」

「あ、店はいいの」

「じゃあ、おじさんと一緒に、御飯でもお喰べ」

「そのかわり、おらが、お酒の<ruby><rb>燗</rb><rt>かん</rt></ruby>をしよう。お酒の燗は、馴れているから」

炉の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ぬく</span>灰に、<ruby><rb>壺</rb><rt>つぼ</rt></ruby>を<ruby><rb>埋</rb><rt>い</rt></ruby>けて、

「おじさん、もういいよ」

「なるほど」

「おじさん、酒好きかい」

「好きだ」

「だけど、貧乏じゃ、飲めないね……」

「ふム」

「兵法家っていうのは、みんな大名のお抱えになって、知行がたくさん取れるんだろう。おら、店のお客に聞いたんだけど、むかし<ruby><rb>塚原卜伝</rb><rt>つかはらぼくでん</rt></ruby>なんかは、道中する時にはお供に<ruby><rb>乗換馬</rb><rt>のりかえうま</rt></ruby>を曳かせ、<ruby><rb>近習</rb><rt>きんじゅう</rt></ruby>には鷹を<ruby><rb>拳</rb><rt>こぶし</rt></ruby>にすえさせて、七、八十人も家来をつれて歩いたんだってね」

「うむ、その通り」

「徳川様へ抱えられた<ruby><rb>柳生</rb><rt>やぎゅう</rt></ruby>様は江戸で、一万一千五百石だって。ほんと？」

「ほんとだ」

「だのに、おじさんはなぜそんなに、貧乏なんだろ」

「まだ勉強中だから」

「じゃあ、<ruby><rb>幾歳</rb><rt>いくつ</rt></ruby>になったら、<ruby><rb>上泉</rb><rt>かみいずみ</rt></ruby>伊勢守や、塚原卜伝のように、沢山お供をつれて歩くの」

「さあ、おれには、そういう偉い殿様にはなれそうもないな」

「弱いのかい、おじさんは」

「清水で見た人々が噂しておるだろうが、なにしろおれは、逃げて来たのだからな」

「だから近所の者が、あの木賃に泊っている若い武者修行は、弱い弱いって、この<ruby><rb>界隈</rb><rt>かいわい</rt></ruby>じゃ評判なんだよ。――おら、<ruby><rb>癪</rb><rt>しゃく</rt></ruby>にさわって<ruby><rb>堪</rb><rt>たま</rt></ruby>らねえや」

「ははは、おまえがいわれておるのではないからよかろう」

「でも。――<ruby><rb>後生</rb><rt>ごしょう</rt></ruby>だからさ、おじさん。あそこの<ruby><rb>塗師屋</rb><rt>ぬしや</rt></ruby>の裏で、<ruby><rb>紙漉</rb><rt>かみす</rt></ruby>きだの桶屋の若い衆たちが集まって、剣術をやっているから、そこへ試合に行って、一度、勝っておくれよ」

「よしよし」

武蔵は、城太郎のいうことには、何でも<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>く、彼は少年が好きなのだ。いや自分がまだ多分に少年であるゆえに、すぐ同化することができるのだった。また、男の兄弟がなかったせいもあろうし、家庭のあたたかさを<ruby><rb>殆</rb><rt>ほとん</rt></ruby>ど知らなかったことなども、その一因といってよい。常に何かでそれに似た愛情のやり場を求めて、孤独を慰めようとする気持が無意識にひそんでいた。

「その話、もうよそう、――ところでこんどはおまえに訊くが、おまえ、<ruby><rb>故郷</rb><rt>くに</rt></ruby>はどこだ」

「姫路」

「なに、<ruby><rb>播州</rb><rt>ばんしゅう</rt></ruby>」

「おじさんは作州だね、言葉が」

「そうだ、近いな。――して姫路では何屋をしていたのか、お父さんは」

「侍だよ、侍！」

「ほ……」

そうだろう！　意外な顔はしたが、武蔵は、果たして――というように頷いてもいた。それから父なる人の名を<ruby><rb>糺</rb><rt>ただ</rt></ruby>すと、

「お父っさんは、青木丹左衛門といって、五百石も取ってたんだぜ。けれど、おらが六ツの時に、牢人しちゃって、それから京都へ来てだんだん貧乏しちまったもんだから、おらを、居酒屋へあずけて、自分は、<ruby><rb>虚無僧寺</rb><rt>こむそうでら</rt></ruby>へ入ッちまったんだよ」

と述懐する。

「だから、おら、どうしても、侍になりたいんだ。侍になるには、剣道が上手になるのが一番だろう。おじさん。お願いだから、おらをお弟子にしてくれないか――どんなことでもするから」

いい出したら<ruby><rb>肯</rb><rt>き</rt></ruby>かない<ruby><rb>眸</rb><rt>め</rt></ruby>をしている。しかしあわれに少年は<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>るのだった。――武蔵はそれに<ruby><rb>諾</rb><rt>だく</rt></ruby>か否かを答えるよりも、あの<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">どじょう</span><ruby><rb>髯</rb><rt>ひげ</rt></ruby>の――青木丹左という者の成れの果てを思いもかけず、思い<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>っていた。兵法の上では、斬るか斬られるかの命がけを、朝夕に<ruby><rb>賭</rb><rt>と</rt></ruby>している身ではあるが、こういう人生の<ruby><rb>流転</rb><rt>るてん</rt></ruby>を目に見せつけられると、それとはべつな寂しさに、酔いも<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>めて心を<ruby><rb>蝕</rb><rt>むしば</rt></ruby>まれるのであった。

## 四

これは飛んでもない駄々ッ子だ、なんと<ruby><rb>賺</rb><rt>すか</rt></ruby>しても<ruby><rb>肯</rb><rt>き</rt></ruby>くどころか、木賃の<ruby><rb>老爺</rb><rt>おやじ</rt></ruby>が、口を<ruby><rb>酢</rb><rt>す</rt></ruby>くして、叱ったり<ruby><rb>宥</rb><rt>なだ</rt></ruby>めたりすれば、却って、悪たれをたたき、一方の武蔵へは、よけいに<ruby><rb>執</rb><rt>しつ</rt></ruby>こくなって、腕くびをつかむ、抱きついて<ruby><rb>強請</rb><rt>せが</rt></ruby>む、しまいには泣いてしまう。持てあまして、武蔵は、

「よし、よし、弟子にしてやろう。――だが、今夜は帰って、主人にもよく話した上、出直して来なければいけないぞ」

それで城太郎は、やっと得心して帰った。

翌る朝――

「おやじ、永いこと世話になったが、奈良へ立とうと思う。弁当の支度をしてくれ」

「え、お立ちで」

老爺はその不意なのに驚いて、

「あの小僧めが、飛んでもないことをおせがみしたので、急にまあ……」

「いやいや、小僧のせいではない。かねてからの宿望、<ruby><rb>大和</rb><rt>やまと</rt></ruby>にあって有名な宝蔵院の槍を見にまいる。――後で、小僧が参って、そちを困らすだろうが、何分たのむ」

「なに、子どものこと、一時はわめいても、すぐケロリとしてしまうに違いございませぬ」

「それに、居酒屋の主人も、承知はいたすまいし」

武蔵は、木賃の軒を出た。

<ruby><rb>泥濘</rb><rt>ぬかるみ</rt></ruby>には、紅梅が落ちていた。今朝は<ruby><rb>拭</rb><rt>ぬぐ</rt></ruby>ったように雨もあがり、肌にさわる風の味もきのうとちがう。

水かさが増した濁流の三条口には、仮橋のたもとに沢山な騎馬武者がいて、武蔵ばかりでなく、往来人はいちいち止めて<ruby><rb>検</rb><rt>あらた</rt></ruby>めていた。

聴けば、江戸将軍家の<ruby><rb>上洛</rb><rt>じょうらく</rt></ruby>が近づき、その先駆の大小名がきょうも着くので、物騒な牢人者を、ああして取りしまっているのだという噂。

問われることへ、無造作に答えて、何の気もなく通って来たが、武蔵はいつのまにか、自分が大坂方でもなく、また徳川方でもない、無色無所属のほんとの一牢人になっていることに、改めて気づいた。

――今<ruby><rb>顧</rb><rt>かえり</rt></ruby>みるとおかしい。

関ヶ原の役に、槍一本かついで出かけたあの時の向う見ずな壮気。

彼は、父の仕えていた主君が大坂方であったし、郷土には、英雄太閤の威勢が深く<ruby><rb>浸</rb><rt>し</rt></ruby>みこんでいたし、少年のころ、炉べりに聞かされた話にも、その英雄の現存と偉さとを深く頭に植えこまれて来たので、今でも、

（関東へつくか、大坂か）

と問われれば、血液的に、

（大坂）

と、答えるにためらわない気持だけは、心のどこかに<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>っていた。

――だが、彼は、関ヶ原で<ruby><rb>習</rb><rt>まな</rt></ruby>んだ。歩卒の組に<ruby><rb>交</rb><rt>ま</rt></ruby>じって槍一本を、あの大軍の中でどう振り廻したって、結局、それが何ものも動かしていないし、大いなる奉公にもなっていないということをである。

（わが思う主君にご運あれ）

と念じて、死ぬならばいい。それで死ぬことも立派に意義もある。――だが、武蔵や又八のあの時の気持はそうでない。燃えていたのは、功名だった、<ruby><rb>資本</rb><rt>もとで</rt></ruby>いらずに、<ruby><rb>禄</rb><rt>ろく</rt></ruby>を拾いに出たに過ぎない。

その後、<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>は珠、と沢庵から<ruby><rb>訓</rb><rt>い</rt></ruby>われた。よく考えてみると、資本いらずどころではない、人間最大の資本を<ruby><rb>提</rb><rt>ひっさ</rt></ruby>げて、わずかな禄米を――それも<ruby><rb>籤</rb><rt>くじ</rt></ruby>を引くような<ruby><rb>僥倖</rb><rt>ぎょうこう</rt></ruby>をたのんで行ったことになる。――今考えると、その単純さが、武蔵はおかしくなるのである。

「――<ruby><rb>醍醐</rb><rt>だいご</rt></ruby>だな」

肌に汗をおぼえたので、武蔵は足をとめた。いつのまにか、かなり高い山道を踏んでいる。すると遠くで、

――おじさアん……

しばらく間を<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>いて、

――おじさアアん

とまた聞える。

「あっ？」

武蔵は、<ruby><rb>河</rb><rt>か</rt></ruby>っ<ruby><rb>童</rb><rt>ぱ</rt></ruby>に似た少年の顔が風を衝いて走ッてくる<ruby><rb>態</rb><rt>さま</rt></ruby>を、すぐ眼にうかべた。

案のじょう、やがてその城太郎の姿が、道の彼方にあらわれて、

「嘘つきッ。おじさんの嘘つき！」

口では<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>り、顔には、今にも泣きだしそうな<ruby><rb>血相</rb><rt>けっそう</rt></ruby>をもって、息も<ruby><rb>喘</rb><rt>あえ</rt></ruby>ぎ喘ぎ追いついて来るのであった。

## 五

――来たな、とうとう。

武蔵は、当惑そうな<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>に、明るい笑くぼを顔にのぼせ、振向いて待っている。

<ruby><rb>迅</rb><rt>はや</rt></ruby>い。とても迅い。

こっちの姿を目がけて、むこうから素ッ飛んで来る城太郎の影は、ちょうど烏天狗の<ruby><rb>雛子</rb><rt>ひよこ</rt></ruby>というところだ。

近づくに従って、その<ruby><rb>猪口才</rb><rt>ちょこざい</rt></ruby>なかっこうを明らかに眺め、武蔵はまた<ruby><rb>唇</rb><rt>くち</rt></ruby>のあたりに微苦笑を加えた。――着物はゆうべのとは違って、お仕着せらしいのを着かえているが、もちろん腰も半分、袖も半分、帯には<ruby><rb>身長</rb><rt>なり</rt></ruby>より長い木刀を横たえ、背には、<ruby><rb>傘</rb><rt>からかさ</rt></ruby>ほどもある大きな笠を背負いこんでいる。そして、

「――おじさんっ！」

いきなり、武蔵のふところへ飛びこんで来ると、

「嘘つきッ」

と、しがみついて、同時に、わっと泣いてしまったのである。

「どうした、小僧」

優しく<ruby><rb>抱</rb><rt>かか</rt></ruby>えてやっても、ここは山の中だと承知の上で泣くように城太郎は、声をかぎりにおいおい泣く。

「泣く奴があるか」

武蔵が、遂にいうと、

「知らねえやい、知らねえやい」

身を揺すぶッて、

「――大人のくせに、子供を<ruby><rb>騙</rb><rt>だま</rt></ruby>していいのかい！　ゆんべ、弟子にしてやるといったくせに、おらを置いてきぼりにして、そんな……大人があっていいのかい」

「悪かった」

謝ると、今度は、泣き声を変えて、甘えるように、わあん、わあんと、<ruby><rb>鼻汁</rb><rt>はな</rt></ruby>をたらして泣く。

「もう黙れ。……騙す気ではなかったが、貴様には、父があり主人がある。その人達の承知がなくては連れて行かれぬから、相談して来いと申したのだ」

「そんなら、おらが返事にゆくまで、待っていればいいじゃないか」

「だから、謝っておる。――主人には、話したか」

「うん……」

やっと黙って、側の木から、木の葉を二枚むしり取った。何をするのかと思うと、それでチンと鼻をかむ。

「で、主人は何と申したか」

「行けって」

「ふム」

「てめえみたいな小僧は、とても当り前な武芸者や道場では、弟子にしてくれる筈がねえ。あの<ruby><rb>木賃宿</rb><rt>きちんやど</rt></ruby>にいる人なら、弱いので評判だ。てめえには、ちょうどいい師匠だから、荷持ちに使って貰えッて……。<ruby><rb>餞別</rb><rt>せんべつ</rt></ruby>にこの木剣をくれたよ」

「ハハハハ。おもしろい主人だの」

「それから、木賃の爺さんの所へ寄ったら、爺さんは留守だったから、あそこの軒に掛かっていたこの笠を貰って来た」

「それは、<ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>の看板ではないか。<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きちん</span>と書いてあるぞ」

「書いてあってもかまわないよ。雨がふると、すぐ困るだろ」

もう師弟の約束も何もかも、<ruby><rb>仕済</rb><rt>しす</rt></ruby>ましたりとしているのである。武蔵も観念してしまった。これは止めようがない――

しかしこの子の父、青木丹左の失脚や、自分との宿縁を思うと、武蔵は、みずからすすんでもこの少年の未来を見てやるのがほんとではないかとも考えた。

「あ、忘れていた。……それからね、おじさん」

城太郎は、安心がつくと、急に思い出したように、<ruby><rb>懐中</rb><rt>ふところ</rt></ruby>をかき廻し、

「あッた。……これだよ」

と、手紙を出した。

武蔵は、いぶかしげに、

「なんだ、それは」

「ゆんべ、おじさんの所へ、おらが酒を持って行く時に、店で飲んでいた牢人があって、おじさんのことを、いやに<ruby><rb>執</rb><rt>しつ</rt></ruby>こく訊いていたといったろう」

「ム、そんな話であったな」

「その牢人が、おらが、あれから帰ってみると、まだベロベロに酔っぱらっていて、また、おじさんの様子を訊くんだ。途方もない大酒飲みさ、二升も飲んだぜ。――そのあげく、この手紙を書いて、おじさんに渡してくれと、置いて行ったんだよ」

「？　……」

武蔵は、小首を<ruby><rb>傾</rb><rt>かし</rt></ruby>げながら、封の裏を返してみた。

## 六

封の裏には、なんと――

本位田又八

乱暴な字でぶつけてあるのだ、書体までが酔っぱらっている姿である。

「や……又八から……」

急いで封を切って見る。武蔵は、なつかしむような、悲しむような、複雑な気持のうちに読み下した。

二升も飲んだ揚句といえば、字の乱脈はぜひもないが、文言も支離滅裂で、ようやく読み判じてみると、

伊吹山下、一別以来、郷土わすれ難し、旧友またわすれ難し。はからずも先頃、吉岡道場にて、<ruby><rb>兄</rb><rt>けい</rt></ruby>の名を聞く。万感<ruby><rb>交〻</rb><rt>こもごも</rt></ruby>、会わんか、会わざらんか、迷うて今、酒店に大酔を買う。

この辺まではよいが、その先になると、いよいよわからなくなる。

然りわれは、<ruby><rb>兄</rb><rt>けい</rt></ruby>と<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>を分ってより、女色の<ruby><rb>檻</rb><rt>おり</rt></ruby>に飼われ、<ruby><rb>懶惰</rb><rt>らんだ</rt></ruby>の肉を<ruby><rb>蝕</rb><rt>むしば</rt></ruby>まれて生く、<ruby><rb>怏々</rb><rt>おうおう</rt></ruby>として無為の日を送るすでに五年。

<ruby><rb>洛陽</rb><rt>らくよう</rt></ruby>、今、君の剣名ようやく高し。

<ruby><rb>加盞</rb><rt>かさん</rt></ruby>。加盞。

或る者はいう。武蔵は弱し逃げ上手の卑怯者なりと。また或る者はいう。彼は不可解の剣人なりと。――そんな事、どっちでもよし、ただ野生は、兄が剣によってともかく洛陽の人士に一波紋を投げたるを、ひそかに慶す。

思うに。

君は賢明だよ、おそらくは剣も巧者になって出世すべし。

<ruby><rb>翻</rb><rt>ひるがえ</rt></ruby>って、今のわれを見れば<ruby><rb>如何</rb><rt>いかん</rt></ruby>。

愚や、愚や、この<ruby><rb>鈍児</rb><rt>どんじ</rt></ruby>、賢友を仰いでなんぞ<ruby><rb>愧死</rb><rt>きし</rt></ruby>せざるや。

だが待て、人生の長途、まだ永遠は測るべからずという奴さ、今は会いたくない、そのうちに会える日もあろうというもの也。

健康をいのる。

これが全文かと思うと、<ruby><rb>追而書</rb><rt>おってが</rt></ruby>きのほうに、まだくどくどと火急らしい用向きが<ruby><rb>認</rb><rt>したた</rt></ruby>めてある。その用向きというのは、吉岡道場の千人の門下が、先頃の事件をふかく意趣にふくみ、躍起になって君のありかを捜しているから、身辺にふかく注意をしなければいけない。君は今<ruby><rb>折角</rb><rt>せっかく</rt></ruby>剣のほうで頭角を出し始めたところだ、死んではならぬ、俺も何かで一人前になったら君と会って、大いに過去のことも語りたい気持でいるのだから、俺の張合いのためにも、体をまもって生きていてくれ――

そんな意味なのである。

先は友情のつもりらしいが、この忠告のうちにも、多分な又八のひがみが<ruby><rb>滲</rb><rt>にじ</rt></ruby>んでいた。

武蔵は、暗然として、

（なぜ――やあ久し振だなあ――そんなふうに、彼は呼びかけてくれなかったのか）

と、思った。

「城太郎。おまえは、この人の<ruby><rb>住所</rb><rt>ところ</rt></ruby>を聞いたか」

「聞かなかった」

「居酒屋でも、知らぬか」

「知らないだろ」

「何度も来た客か」

「ううん、初めて」

――惜しい。武蔵は、彼の居所がわかるなら、これから京都へ戻ってもと思うのであったが、その<ruby><rb>術</rb><rt>すべ</rt></ruby>もない。

会って、もいちど、又八の性根をたたき<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>ましてやりたい気がする。彼を、現在の自暴自棄から引ッぱり出してやろうとする友情を、武蔵は今も失っていない。

又八の母のお杉に、誤解を解いてもらうためにも――

黙々と、武蔵は先に歩いて行く。道は<ruby><rb>醍醐</rb><rt>だいご</rt></ruby>の下りになって、六地蔵の四つ街道の追分が、もう眼の下に見えて来た。

「城太郎、早速だが、おまえに頼みたいことがあるが、やってくれるか」

武蔵は、不意にいい出した。

## 七

「なに？　おじさん」

「使いに行ってほしいが」

「どこまで」

「京都」

「じゃあ、折角、ここまで来たのに、また戻るの」

「四条の吉岡道場まで、おじさんの手紙を届けに行ってもらいたい」

「…………」

城太郎はうつ向いて、足もとの石を蹴っていた。

「嫌か」

武蔵が顔をのぞくと、

「ううん……」

<ruby><rb>曖昧</rb><rt>あいまい</rt></ruby>に首を振りながら――

「嫌じゃないけど、おじさん、そんなことをいってまたおらを置いてきぼりにするつもりだろう」

疑いの眼に射られて、武蔵はふと恥じた。その疑いは誰が教えたか――と。

「いや、武士は決して、嘘はいわないものだ。きのうのことは、ゆるせ」

「じゃあ、行くよ」

六<ruby><rb>阿弥陀</rb><rt>あみだ</rt></ruby>の<ruby><rb>追分茶屋</rb><rt>おいわけぢゃや</rt></ruby>へ入って、茶をもらい二人は弁当をつかった。武蔵はその間に手紙を<ruby><rb>認</rb><rt>したた</rt></ruby>めた。

――吉岡清十郎宛に。

文面は、ざっと、こうである。――聞くところによれば、貴下はその後御門下を<ruby><rb>挙</rb><rt>こぞ</rt></ruby>って拙者の居所をお尋ねの由であるが、自分は今<ruby><rb>大和路</rb><rt>やまとじ</rt></ruby>にあり、これから約一年を伊賀、伊勢その他を修業に遊歴するつもりで予定をかえる気持にはなれない。しかし、先ごろお留守中を訪問して、貴眉に接しないことはこちらも同様に遺憾としているところであるから、明春の一月か二月中には必ず再度の訪れを固くお約束しておこう。――勿論、そちらも御勉励おさおさ怠りはあるまいが、自分もここ一年のあいだには、いちだん鈍剣を磨いておたずね申す考えである。どうか、先頃お立合い申したような惨敗が二度と<ruby><rb>栄</rb><rt>はえ</rt></ruby>ある拳法先生の門を見舞わぬよう、折角の御自重を蔭ながら祈っている。

――こう鄭重のうちに気概も<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>めかせて、

新免宮本武蔵<ruby><rb>政名</rb><rt>まさな</rt></ruby>

と署名し、先の名宛には

吉岡清十郎どの

<ruby><rb>他御門中</rb><rt>ほかごもんちゅう</rt></ruby>

と、書き終っている。

城太郎は預かって、

「じゃあこれを、四条の道場へ<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>りこんで来ればいいんだね」

「いや、ちゃんと、玄関から訪れて、取次に<ruby><rb>慥</rb><rt>しか</rt></ruby>と渡して来なければいけない」

「あ。わかってるよ」

「それから、も一つ頼みがある。……だが、これはちとおまえには難しかろうな」

「何、何」

「わしに、手紙をよこした<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>の酔っぱらい、あれは、本位田又八というて、昔の友達なのだ。あの人に会ってもらいたいのだが」

「そんなこと、造作もねえや」

「どうして捜すか」

「酒屋を聞いて歩くよ」

「ははは。それもよい考えだが、書面の様子で見ると、又八は、吉岡家のうちの誰かに知り人があるらしい。だから吉岡家の者に、訊いてみるに限る」

「分ったら？」

「その本位田又八におまえが会って、わしがこういったと伝えてくれ。来年一月の<ruby><rb>一日</rb><rt>ついたち</rt></ruby>から七日まで、毎朝五条の大橋へ行って拙者が待っているから、その間に、五条まで<ruby><rb>一朝</rb><rt>ひとあさ</rt></ruby>出向いてくれいと」

「それだけでいいんだね」

「む。――ぜひ会いたい。武蔵がそういっていたと伝えるのだぞ」

「わかった。――だけど、おじさんは、おらが帰って来る間、何処に待ってるの」

「こういたそう。わしは奈良へ先に行っている。居所は、槍の宝蔵院で聞けばわかるようにいたしておく」

「きっと」

「はははは、まだ疑っているのか、こんど約束を<ruby><rb>違</rb><rt>たが</rt></ruby>えたら、わしの首を打て」

笑いながら茶店を出る。

そして武蔵は奈良へ。――城太郎はまた京都へ。

四つ街道は、笠や、燕や、馬のいななきで混み合っている。その間から城太郎が振り返ると、武蔵もまだ立ちどまっていた。二人はニコと遠い笑いを<ruby><rb>見交</rb><rt>みか</rt></ruby>わして別れた。

## <ruby><rb>春風便</rb><rt>しゅんぷうびん</rt></ruby>

## 一

恋風が来ては

<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>に<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>いもたれて

<ruby><rb>喃</rb><rt>のう</rt></ruby>、袖の重さよ

恋かぜは

重いものかな

<ruby><rb>阿国</rb><rt>おくに</rt></ruby>歌舞伎でおぼえた小歌を<ruby><rb>口誦</rb><rt>くちずさ</rt></ruby>みながら、<ruby><rb>朱実</rb><rt>あけみ</rt></ruby>は、家の裏へ下りて、高瀬川の水へ、<ruby><rb>洗濯物</rb><rt>あらいもの</rt></ruby>の布を投げていた。布を<ruby><rb>手繰</rb><rt>たぐ</rt></ruby>ると、<ruby><rb>落花</rb><rt>はな</rt></ruby>の渦も一緒に寄って来た。

思えど思わぬ

振りをして

しゃっとしておりゃるこそ

底はふかけれ――

河原の<ruby><rb>堤</rb><rt>どて</rt></ruby>の上から、

「おばさん、歌がうまいね」

朱実は振向いて、

「誰？」

長い木刀を横にさし、大きな笠を背負っている<ruby><rb>侏儒</rb><rt>こびと</rt></ruby>のような小僧である。朱実がにらむと、まるッこい眼をぐりぐりうごかし、<ruby><rb>人馴</rb><rt>ひとなつ</rt></ruby>っこい歯を<ruby><rb>剥</rb><rt>む</rt></ruby>いてにやりとした。

「おまえ何処の子、人のことをおばさんだなンて、私は娘ですよ」

「じゃあ――娘さん」

「知らないよ。まだ年もゆかないチビ助のくせにして、今から女なんか<ruby><rb>揶揄</rb><rt>からか</rt></ruby>うものじゃないよ、<ruby><rb>洟</rb><rt>はな</rt></ruby>でもおかみ」

「だって、訊きたいことがあるからさ」

「アラアラ、おまえと<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>っていたおかげで<ruby><rb>洗濯物</rb><rt>あらいもの</rt></ruby>を流してしまったじゃないか」

「取ッて来てやろう」

川下へ流れて行った一枚の布を、城太郎は追いかけて行って、こういう時には役に立つ長い木刀で、掻きよせて拾って来た。

「ありがと。――訊きたいッて、どんなこと」

「この辺に、よもぎの寮というお茶屋がある？」

「よもぎの寮なら、そこにある私の<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>だけれど」

「そうか。――ずいぶん捜しちゃった」

「おまえ、何処から来たの」

「あっちから」

「あっちじゃ分らない」

「おらにも、何処からだか、よく分らないんだ」

「変な子だね」

「誰が」

「いいよ」――朱実はクスリと笑いこぼして、「いったい何の用事で、わたしの<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>へ来たの」

「本位田又八という人が、おめえんちにいるだろう。あすこへ行けば分るって、四条の吉岡道場の人に聞いて来たんだ」

「いないよ」

「嘘だい」

「ほんとにいないよ。――前には<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>にいた人だけれど」

「じゃあ、今どこ？」

「知らない」

「ほかの人に訊いてくれやい」

「おっ母さんだって知らないもの。――家出したんだから」

「困ったなあ」

「誰の使いで来たの」

「お師匠様の」

「お師匠様って？」

「宮本<ruby><rb>武蔵</rb><rt>むさし</rt></ruby>」

「手紙か何か持って来たの」

「ううん」

城太郎は、首を横に振って、行き<ruby><rb>迷</rb><rt>はぐ</rt></ruby>れたような眼を足もとの水の渦におとした。

「――来た所も分らないし、手紙も持たないなんて、ずいぶん妙な使いね」

「<ruby><rb>言伝</rb><rt>ことづ</rt></ruby>てがあるんだ」

「どういう言伝て。もしかして――もう帰って来ないかも知れないけど、帰って来たら、又八さんへ、私からいっといて上げてもいいが」

「そうしようか」

「私に相談したって困る、自分で決めなければ」

「じゃあ、そうするよ。……あのね、又八って人に、ぜひとも、会いたいんだって」

「誰が」

「宮本さんがさ。――だから、来年一月の<ruby><rb>一日</rb><rt>ついたち</rt></ruby>から<ruby><rb>七日</rb><rt>ななくさ</rt></ruby>までの間、毎朝、五条大橋の上で待っているから、その<ruby><rb>七日</rb><rt>なのか</rt></ruby>のうちに、<ruby><rb>一朝</rb><rt>ひとあさ</rt></ruby>そこへ来てもらいたいというのさ」

「ホホホ、ホホホホ……。まあ！　気の長い言伝てだこと。おまえのお師匠さんていう人も、おまえに負けない変り者なんだね。……アアお<ruby><rb>腹</rb><rt>なか</rt></ruby>が痛くなっちゃった！」

## 二

城太郎は、ぷっと<ruby><rb>膨</rb><rt>ふく</rt></ruby>れて、

「何がおかしいのさ。おたんこ<ruby><rb>茄子</rb><rt>なす</rt></ruby>め」

と、肩をいからせた。

びっくりした途端に、朱実は、笑いが止まってしまった。

「――あら、怒ったの」

「当り前だい、人が、叮嚀にものを頼んでいるのに」

「ごめん、ごめん。もう笑わないから――そして今の言伝ては、又八さんが、もし帰って来たら、<ruby><rb>屹度</rb><rt>きっと</rt></ruby>しておくからね」

「ほんとか」

「え」

また、こみあげる微笑を噛みころすように<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いて――

「だけど……何といったっけ……その言伝てを頼んだ人」

「忘れっぽいな。宮本武蔵というんだよ」

「どう書くの、武蔵って」

「<ruby><rb>武</rb><rt>む</rt></ruby>は――武士の武……」

といいかけて、城太郎は足もとの竹の小枝をひろい、河原の川砂へ、

「こうさ」

と書いて見せた。

朱実は、砂に書かれた字を、じっと眺めて、

「あ……それじゃあ、<ruby><rb>武蔵</rb><rt>たけぞう</rt></ruby>というんじゃないの」

「<ruby><rb>武蔵</rb><rt>むさし</rt></ruby>だよ」

「だって<ruby><rb>武蔵</rb><rt>たけぞう</rt></ruby>とも<ruby><rb>訓</rb><rt>よ</rt></ruby>める」

「強情だな！」

彼の<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>った竹の小枝が、川の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>をゆるく流れて行く。

朱実は、いつまでも、川砂の文字へ眼を吸いよせられたまま、そして<ruby><rb>眼</rb><rt>ま</rt></ruby>じろぎもせずに、何か想い<ruby><rb>耽</rb><rt>ふけ</rt></ruby>っていた。

やがて、その<ruby><rb>眸</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>を、足もとから城太郎の顔へ上げ、もいちど、改めて彼の姿をつぶさに見直しながら<ruby><rb>嘆息</rb><rt>ためいき</rt></ruby>のように<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねた。

「……もしや、この武蔵というお方は、<ruby><rb>美作</rb><rt>みまさか</rt></ruby>の<ruby><rb>吉野郷</rb><rt>よしのごう</rt></ruby>の人ではないかえ」

「そうだよ、おらは播州、お師匠さんは宮本村、隣り国なんだ」

「――そして、背の高い、男らしい、そうそう髪はいつも<ruby><rb>月代</rb><rt>さかやき</rt></ruby>を剃らないでしょう」

「よく知ッてるなあ」

「子どものとき、<ruby><rb>頭</rb><rt>つむり</rt></ruby>に、<ruby><rb>疔</rb><rt>ちょう</rt></ruby>という<ruby><rb>腫物</rb><rt>はれもの</rt></ruby>をわずらったことがあって、月代を剃ると、その<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>が醜いから、髪を<ruby><rb>生</rb><rt>は</rt></ruby>やしておくのだと、いつか私に話したことを思い出したの」

「いつかって、<ruby><rb>何日</rb><rt>いつ</rt></ruby>？」

「もう、五年も前。――関ヶ原の<ruby><rb>戦</rb><rt>いくさ</rt></ruby>があったあの年の秋」

「そんな前から、おめえは、おらのお師匠様を知ってんのか」

「…………」

朱実は答えなかった。答える余裕もなく彼女の胸はその頃の思い出の<ruby><rb>奏</rb><rt>かな</rt></ruby>でに高鳴っていた。

（……<ruby><rb>武蔵</rb><rt>たけぞう</rt></ruby>さんだ！）

身もおろおろと会いたさに駆られてくるのである。母のすることを見――又八の変り方を見て来て――彼女は自分が最初から心のうちで、武蔵の方を選んでいたことが間違いでなかったことに、<ruby><rb>愈〻</rb><rt>いよいよ</rt></ruby>信頼を深くしていた。ひそかに自分の独り身を誇っていた――あの人は、やはり又八とはまるで違うと。

そして、<ruby><rb>処女</rb><rt>おとめ</rt></ruby>ごころは、茶屋がよいの幾多の男性を見るにつけ、自分の行くすえは、こんな群れにはないものときめ、それらの<ruby><rb>気障</rb><rt>きざ</rt></ruby>な男たちを<ruby><rb>冷蔑</rb><rt>れいべつ</rt></ruby>し、五年前の武蔵の面影を、ひそかな胸の奥において、<ruby><rb>口誦</rb><rt>くちずさ</rt></ruby>む歌にも、ひとりで末の夢を楽しんでいた。

「――じゃあ、頼んだぜ。又八って人が、見つかったら、<ruby><rb>屹度</rb><rt>きっと</rt></ruby>、今の<ruby><rb>言伝</rb><rt>ことづ</rt></ruby>てをしといておくれ」

用が済むと、先を急ぐように城太郎は、河原の<ruby><rb>堤</rb><rt>どて</rt></ruby>へ駈け上がった。

「あっ、待って！」

朱実は、追いすがった。彼の手をつかまえて、何をいおうとするのか、城太郎の眼にも<ruby><rb>眩</rb><rt>まば</rt></ruby>ゆいほどその顔は、美しい血でぽっと燃えていた。

## 三

「あんた、何ていう名？」

熱い息で、朱実が訊く。

城太郎は――城太郎と答えて、彼女の悩ましげな<ruby><rb>昂</rb><rt>たか</rt></ruby>ぶりを、変な顔して見上げていた。

「じゃあ、城太郎さん、あんたは<ruby><rb>何日</rb><rt>いつ</rt></ruby>も<ruby><rb>武蔵</rb><rt>たけぞう</rt></ruby>さんと一緒にいるのね」

「<ruby><rb>武蔵</rb><rt>むさし</rt></ruby>様だろう」

「あ……そうそう武蔵様の」

「うん」

「わたし、あのお方に、ぜひ会いたいのだけれど、どこにお住まいなの」

「<ruby><rb>家</rb><rt>うち</rt></ruby>かい、家なンかねえや」

「あら、どうして」

「武者修行してるんだもの」

「仮のお<ruby><rb>旅宿</rb><rt>やど</rt></ruby>は」

「奈良の宝蔵院に行って訊けばわかるんだよ」

「ま……。京都にいらっしゃると思ったら」

「来年くるよ。一月まで」

朱実は何かつきつめた思案に迷っているらしかった。――と、すぐ後ろのわが家の勝手口の窓から、

「朱実っ、いつまで、何をしているんだえ！　そんなお<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>の子を相手に油を売ってないで、はやく用を片づけておしまい！」

お<ruby><rb>甲</rb><rt>こう</rt></ruby>の声であった。

朱実は、母に<ruby><rb>抱</rb><rt>いだ</rt></ruby>いている<ruby><rb>平常</rb><rt>へいぜい</rt></ruby>の不満が、こんな時、すぐ言葉つきに出た。

「この子が、又八さんを尋ねて来たから、<ruby><rb>理</rb><rt>わけ</rt></ruby>を話しているんじゃありませんか。人を奉公人だと思ってる」

窓に見えるお甲の眉は<ruby><rb>焦</rb><rt>いら</rt></ruby>だっていた、また病気が起っているらしい。そういう口をたたくまでに誰が大きく育てて来てやったのか――といいたげに、白い眼を投げて。

「又八？　……又八がどうしたっていうのさ、もうあんな人間は、家の者じゃなし、知らないといっておけばいいんじゃないか！　間がわるくって、戻れないもんだから、そんなお<ruby><rb>菰</rb><rt>こも</rt></ruby>の餓鬼に頼んで何かいってよこしたんだろう。相手におなりでない」

城太郎、呆っ気にとられ、

「馬鹿にすんない。おら、お菰の子じゃねえぞ」

と、呟いた。

お甲は、その城太郎と朱実の話を監視するように、

「朱実っ、お入りっ」

「……でも、河原にまだ洗い物が残っていますから」

「後は、<ruby><rb>下婢</rb><rt>おんな</rt></ruby>におさせ。おまえはお風呂に入って、お化粧をしていなければいけないでしょ。また不意に、清十郎様でも来て、そんな姿を見たら、愛想をつかされてしまう」

「ちッ……あんな人。愛想をつかしてくれれば、オオ嬉しい！　だ」

――朱実は不平を顔に<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>らせて、<ruby><rb>家</rb><rt>や</rt></ruby>の内へ、<ruby><rb>嫌々</rb><rt>いやいや</rt></ruby>駈けこんでしまった。

それと共に、お甲の顔もかくれた。――城太郎は閉まった窓を見上げて、

「けっ。ばばあのくせに、白粉なんかつけやがって、ヘンな女！」

と、悪<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">たれ</span>た。

すぐ、その窓がまた開いた。

「なんだッて、もういちどいってごらん！」

「あっ、聞えやがった」

あわてて逃げ出す頭へ、後ろから――ざぶりっと、うすい味噌汁みたいな鍋の水をぶちかけられて、城太郎は、<ruby><rb>狆</rb><rt>ちん</rt></ruby>ころみたいに身ぶるいした。

<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>くびにくッついた菜っぱを、妙な顔をしながら<ruby><rb>摘</rb><rt>つま</rt></ruby>んで捨て、<ruby><rb>忌々</rb><rt>いまいま</rt></ruby>しさを、ありッたけな声に入れて、唄いながら逃げ出した――

本能寺の

西の小路は

暗いげな

あずさの<ruby><rb>姥</rb><rt>おうな</rt></ruby>が

白いもの<ruby><rb>化粧</rb><rt>けわ</rt></ruby>いして

<ruby><rb>漢女子</rb><rt>あやめこ</rt></ruby><ruby><rb>産</rb><rt>う</rt></ruby>んだり

<ruby><rb>紅毛子</rb><rt>あかげこ</rt></ruby>産んだり

タリヤンタリヤン

タリ、ヤン、タン

## <ruby><rb>巡</rb><rt>めぐ</rt></ruby>りぞ<ruby><rb>会</rb><rt>あ</rt></ruby>わん

## 一

米俵か<ruby><rb>小豆</rb><rt>あずき</rt></ruby>か、とにかく裕福な<ruby><rb>檀家</rb><rt>だんか</rt></ruby>の贈りものとみえ、牛車に山と積まれてゆく俵の上には、木札が差し立ててあり、

興福寺寄進

と墨黒く<ruby><rb>記</rb><rt>しる</rt></ruby>してある。

奈良といえば興福寺――興福寺といえばすぐ奈良が思い出されるのである。城太郎も、その有名な寺だけは知っていたらしく、

「しめた、うまい車が行くぞ――」

牛車へ追いついて、車の尻へ、飛びついた。

後ろ向きになると、ちょうどよく腰掛けられるのだった。贅沢なことには、俵へ背中まで寄りかけられるではないか。

沿道には、丸い茶の木の丘、咲きかけている桜、今年も兵や軍馬に踏まれずに無事に育ってくれと祈りながら麦を<ruby><rb>鋤</rb><rt>す</rt></ruby>く百姓。野菜を川で洗うその土民の女衆。――飽くまでのどかな<ruby><rb>大和街道</rb><rt>やまとかいどう</rt></ruby>だった。

「こいつは、<ruby><rb>暢気</rb><rt>のんき</rt></ruby>だ」

城太郎は、いい気もちだった。居眠ッているまに奈良へ着いてしまう気でいる。時々、石へ乗せかけた<ruby><rb>轍</rb><rt>わだち</rt></ruby>がぐわらっと車体を強く<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆ</rt></ruby>す<ruby><rb>振</rb><rt>ぶ</rt></ruby>るのも愉快でたまらない。動く物――動くばかりでなく進む物に――身を乗せているということだけで、少年の心臓は無上な楽しみにおどる。

（……あら、あら、どこかで鶏が<ruby><rb>噪</rb><rt>さわ</rt></ruby>いでいるぞ、お婆さんお婆さん、<ruby><rb>鼬</rb><rt>いたち</rt></ruby>が卵を盗みに来たのに、知らずにいるのか。……どこの子か、往来で転んで泣いているよ。向うから馬も来るよ）

眼の側を流れてゆく事々が、城太郎にはみな感興になる。村を離れて、並木にかかると、<ruby><rb>路傍</rb><rt>みちばた</rt></ruby>の椿の葉を一枚むしり、唇に当てて吹き鳴らした。

同じ馬でも

大将を乗せれば

池月、する墨

金ぷくりん

ピキピーの

トッピキピ

馬は馬でも

泥田にすめば

やれ踏め、やれ負え

年がら<ruby><rb>貧</rb><rt>ひん</rt></ruby>

貧――貧――貧

前に歩いてゆく牛方は、

「おや？」

振向いたが、何も見えないのでまたそのまま歩みだした。

ピキ、ピーの

トッピキピ

牛方は、手綱を<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>りすてて、車のうしろへ廻って来た。<ruby><rb>拳</rb><rt>こぶし</rt></ruby>をかためて、いきなり、

「この野郎」

「ア痛っ」

「なんだって車の尻になど乗ってけつかるか」

「いけないの」

「当りめえだ」

「おじさんがひっぱるわけじゃないからいいじゃないか」

「ふざけるなっ」

城太郎の体は<ruby><rb>鞠</rb><rt>まり</rt></ruby>みたいに地上へ<ruby><rb>弾</rb><rt>はず</rt></ruby>んで、ごろんと、並木の根まで転がった。

<ruby><rb>嘲笑</rb><rt>あざわら</rt></ruby>うように牛車の<ruby><rb>轍</rb><rt>わだち</rt></ruby>は彼を捨てて行った。城太郎は腰をさすって起き上がったが、ふと妙な顔して地上をきょろきょろ見まわし始めた――何か<ruby><rb>紛失</rb><rt>なく</rt></ruby>し物でもしたような眼で。

「あれ？　ないぞ」

武蔵の手紙を届けた吉岡道場から、これを持って帰れと渡されて来た返辞である。大事に竹筒へ入れて、途中からは、<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>で首へかけて歩いていたのが――今気がついてみると、それがない。

「困った、困った」

城太郎の探す眼の範囲はだんだん拡がって行った。――と、その<ruby><rb>態</rb><rt>さま</rt></ruby>を見て笑いながら近づいて来た<ruby><rb>旅装</rb><rt>たびよそお</rt></ruby>いの若い女性が、

「何か落したのですか」

と、親切に訊ねてくれる。

城太郎は、<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>ごしに、ちらと<ruby><rb>市女笠</rb><rt>いちめがさ</rt></ruby>のうちの女の顔を見たが、

「うん……」

うつつに<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いたきりでまた、すぐ眼は地上を<ruby><rb>辿</rb><rt>たど</rt></ruby>って、頻りに首を<ruby><rb>傾</rb><rt>かし</rt></ruby>げていた――

## 二

「お金？」

「う、う、ん」

何を訊いても、城太郎の耳には、うわの空であった。

旅の若い女は微笑んで、

「――じゃあ、紐のついている一尺ぐらいな竹の筒ではありませんか」

「あっ、それだ」

「それなら、<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>そなたが、万福寺の下で、馬子衆の繋いでおいた馬に<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>をして呶鳴られたでしょう」

「ああ……」

「びっくりして逃げ出した時に、紐が切れて往来へ落ちたのを、その時、馬子衆と立話しをしていたお侍が拾っていたようですから、戻って訊いてごらん」

「ほんと」

「え。ほんと」

「ありがと」

駈け出そうとすると、

「あ、もしもし、戻るにも及びません。ちょうど<ruby><rb>彼方</rb><rt>むこう</rt></ruby>から、そのお侍様が、見えました。<ruby><rb>野袴</rb><rt>のばかま</rt></ruby>をはいて、にやにや笑いながら来るでしょう。あの人です」

女の指さす方を見て、

「あの人」

城太郎は、大きな眸で、じっと待っていた。

四十がらみの偉丈夫である。黒い<ruby><rb>顎髯</rb><rt>あごひげ</rt></ruby>を蓄え、肩の幅、胸幅も、常人よりずっと広くて、背も高い。<ruby><rb>革足袋</rb><rt>かわたび</rt></ruby>に草履<ruby><rb>穿</rb><rt>ば</rt></ruby>きのその足の運びが、いかにも確かに大地を踏んでいるというように見えて立派である。――どこかの大名の名ある家臣にちがいないと城太郎にも思えたので、ちょっと、馴々しく言葉がかけ<ruby><rb>難</rb><rt>にく</rt></ruby>いのであった。

すると、幸いに、

「小僧」

と、向うから呼んでくれた。

「はい」

「お前だろう、万福寺の下で、この状入れを落したのは」

「ああ、あったあった」

「あったもないものじゃ、礼をいわんか」

「すみません」

「大事な返書ではないか。かような書面を持つ使いが、馬に悪戯したり、牛車の尻に乗ったり、道草をしていては主人に相済むまいが」

「お武家さん、中を見たね」

「拾い物は、一応中を<ruby><rb>検</rb><rt>あらた</rt></ruby>めて渡すのが正しいのだ。しかし、書面の封は切らん。おまえも中を検めて受け取れ」

城太郎は、竹筒の<ruby><rb>栓</rb><rt>せん</rt></ruby>を抜いてから、中をのぞいた。吉岡道場の返書はたしかに入っている。やっと安心して、また<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>へかけながら、

「もう落さないぞ」

と呟いた。

眺めていた旅の若い女は、城太郎の<ruby><rb>欣</rb><rt>よろこ</rt></ruby>ぶのを共に欣んで、

「ご親切に、有難うございました」と、彼のいい足らない気持を、彼に代って礼をいった。

<ruby><rb>髯侍</rb><rt>ひげざむらい</rt></ruby>は、城太郎やその女性と、歩調をあわせて歩みながら、

「お女中、この小僧は、あなたのお連れか」

「いいえ、まるで知らない子でございますけれど」

「ははは、どうも釣り合いが取れぬと思った。おかしな小僧だの、笠の<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きちん</span>が<ruby><rb>振</rb><rt>ふる</rt></ruby>っておる」

「無邪気なものでございますね、何処まで行くのでございましょう」

二人の間に挟まって城太郎はもう得々と元気に返っていて、

「おらかい？　おらは、奈良の宝蔵院まで行くのさ」

そういって、ふと、彼女の帯の間から、見えている<ruby><rb>古金襴</rb><rt>こきんらん</rt></ruby>の袋をじっと見つめ――

「おや、お女中さん、おまえも<ruby><rb>状筒</rb><rt>じょうづつ</rt></ruby>を持っているんだね、落さないようにした方がいいよ」

「状筒を」

「帯に差しているそれさ」

「ホホホホ。これは、手紙を入れる竹筒ではありません。横笛です」

「笛――」

城太郎は、好奇な眼をひからかして、無遠慮に女の胸へ顔を近づけた。そして何を感じたものか、次には、その人の足もとから髪まで見直した。

## 三

童心にも、女の美醜は<ruby><rb>映</rb><rt>うつ</rt></ruby>るとみえる。美醜はともあれ、清純か不純かを率直に感じるに違いない。

城太郎は、改めて<ruby><rb>美麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>な人だなあ、と眼の前の女性に尊敬をもった。こんな美麗な女の人と道づれになったのは、何か、飛んでもない幸福にぶつかったようで、急に、<ruby><rb>動悸</rb><rt>どうき</rt></ruby>がしたり、気がふわふわして来た。

「笛かあ、なるほど」

独りで、感心して、

「おばさん、笛吹くの？」

と訊いた。

だが、若い女に対して、おばさんと呼んで、この間、よもぎの寮の娘に怒られたことを城太郎は思い出したのだろう、またあわてて、

「お女中さん、なんという名？」

突拍子もなく違った問題を、しかし、なんのこだわりもなく、急に訊き出すのである。

旅の若い女は、

「ホホホホホ」

城太郎には答えないで、彼の頭越しに<ruby><rb>顎髯</rb><rt>あごひげ</rt></ruby>の侍のほうを見て笑った。

熊のような髯のあるその武家は、白い丈夫そうな歯を見せて、これは大きく<ruby><rb>哄笑</rb><rt>こうしょう</rt></ruby>した。

「このチビめ、隅には置けんわい。――人の名を問う時は、自分の名から申すのが礼儀じゃ」

「おらは城太郎」

「ホホホ」

「<ruby><rb>狡</rb><rt>ずる</rt></ruby>いな、俺にだけ名のらせておいて。――そうだ、お武家さんがいわないからだ」

「わしか」

と、これも困った顔をして、

「<ruby><rb>庄田</rb><rt>しょうだ</rt></ruby>」――といった。

「庄田さんか。――下の名は」

「名は勘弁せい」

「こんどは、お女中さんの番だ、男が二人まで名をいったのに、いわなければ、礼儀に欠けるぜ」

「わたくしは、お<ruby><rb>通</rb><rt>つう</rt></ruby>と申します」

「お通様か」

と、それで気が済んだのかと思うと、城太郎は口を休めずに、

「なんだって、笛なんか帯に差して歩いているんだね」

「これは私の<ruby><rb>糊口</rb><rt>くち</rt></ruby>すぎをする大事な品ですもの」

「じゃあ、お通様の<ruby><rb>職業</rb><rt>しょうばい</rt></ruby>は、笛吹きか」

「え……笛吹きという<ruby><rb>職業</rb><rt>しょうばい</rt></ruby>があるかどうかわかりませんが、笛のおかげで、こうして長い旅にも困らず過ごしておりますから、やはり、笛吹きでしょうね」

「<ruby><rb>祇園</rb><rt>ぎおん</rt></ruby>や、<ruby><rb>加茂</rb><rt>かも</rt></ruby>宮でする、<ruby><rb>神楽</rb><rt>かぐら</rt></ruby>の笛？」

「いいえ」

「じゃあ、舞の笛」

「いいえ」

「じゃあ何ンだい一体」

「ただの横笛」

庄田という武家は、城太郎が腰に横たえている長い木剣に眼をつけて、

「城太郎、おまえの腰にさしているのは何だな」

「侍が木剣を知らないのかい」

「なんのために差しているのかと訊くのじゃ」

「剣術を覚えるためにさ」

「師匠があるのか」

「あるとも」

「ははあ、その状筒の内にある手紙の名宛の人か」

「そうだ」

「おまえの師匠のことだからさだめし達人だろうな」

「そうでもないよ」

「弱いのか」

「あ。世間の評判では、まだ弱いらしいよ」

「師匠が弱くては困るだろ」

「おらも<ruby><rb>下手</rb><rt>へた</rt></ruby>だからかまわない」

「少しは習ったか」

「まだ、なンにも習ってない」

「あはははは、おまえと歩いていると、道が飽きなくてよいな。……してお女中は、どこまで参られるのか」

「わたくしには、何処という<ruby><rb>的</rb><rt>あて</rt></ruby>もございませぬが、奈良にはこの頃多くの牢人衆が集まっていると聞き、実は、どうあっても<ruby><rb>巡</rb><rt>めぐ</rt></ruby>り会いたいお人を多年<ruby><rb>捜</rb><rt>さが</rt></ruby>しておりますので、そんな<ruby><rb>儚</rb><rt>はかな</rt></ruby>い噂をたよりに、参る途中でございまする」

## 四

宇治橋のたもとが見えてくる。

<ruby><rb>通円</rb><rt>つうえん</rt></ruby>ヶ茶屋の軒には、上品な老人が茶の風呂釜をすえて、<ruby><rb>床几</rb><rt>しょうぎ</rt></ruby>へ立ち寄る旅人に、風流を<ruby><rb>鬻</rb><rt>ひさ</rt></ruby>いでいた。

庄田という<ruby><rb>髯侍</rb><rt>ひげざむらい</rt></ruby>の姿を仰ぐと、馴染みとみえて、茶売りの老人は、

「おお、これは<ruby><rb>小柳生</rb><rt>こやぎゅう</rt></ruby>の御家中様一服おあがり下さいませ」

「やすませて貰おうか――その小僧に、何ぞ、菓子をやってくれい」

菓子を持つと、城太郎は、足を休めていることなどは退屈に堪えないらしく、裏の低い丘を見上げて、駈上がって行った。

お通は茶を味わいながら、

「奈良へはまだ遠うございますか」

「左様、足のお早いお方でも、木津では日が暮れましょう。<ruby><rb>女子</rb><rt>おなご</rt></ruby>衆では、多賀か井手でお泊りにならねば」

老人の答えをすぐ引き取って、髯侍の庄田がいった。

「この<ruby><rb>女子</rb><rt>おなご</rt></ruby>は、多年捜している者があって、奈良へ参るというのだが、近ごろの奈良へ若い女子一人で行くのは、どうであろうか。わしは心もとなく思うが」

聞くと、眼を<ruby><rb>瞠</rb><rt>みは</rt></ruby>って、

「滅相もない」

茶売りの老人は、手を振った。

「おやめなされませ、尋ねるお方が、確かにいると分っているならば知らぬこと、さものうて、なんであんな物騒ななかへ――」

口を<ruby><rb>酢</rb><rt>す</rt></ruby>くして、その危険であることの、実例をいろいろ挙げて引き止めるのだった。

奈良といえばすぐさびた<ruby><rb>青丹</rb><rt>あおに</rt></ruby>の<ruby><rb>伽藍</rb><rt>がらん</rt></ruby>と、鹿の目が連想され、あの平和な旧都だけは、戦乱も<ruby><rb>飢饉</rb><rt>ききん</rt></ruby>もない無風帯のように考えられているが、事実は、なかなかそうでない。――と茶売りの老人は自分も一服のんで説く。

なぜならば――関ヶ原の役の後は、奈良から高野山にかけて、どれほど、沢山な敗軍の牢人たちが隠れこんだかわからない。それが皆、西軍に加担した大坂方だ。<ruby><rb>禄</rb><rt>ろく</rt></ruby>もなし、他の職業につく見込みもない人々だ。関東の徳川幕府が、今のように隆々と勢力を加えてゆく現状では、生涯、大手を振って陽なたを歩くこともできない連中なのだ。

何でも、世間一般の定説によると、関ヶ原の役では<ruby><rb>尠</rb><rt>すくな</rt></ruby>くも、そういう<ruby><rb>扶持離</rb><rt>ふちばな</rt></ruby>れの牢人者が、ここ五年ほどでざっと十二、三万人は出来ているだろうとのことである。

あの大戦の結果、徳川の新幕府に没収された領地は六百六十万石といわれている。その後、減封処分で、家名の再興をゆるされた分を引いても、まだ取りつぶしを食った大名は八十家に余るし、その領土の三百八十万石というものは改易されている。ここから離散して、諸国の地下に潜った牢人者の数を、仮に百石三人とし、本国にいた家族や郎党などを加算すると、どう少なく見積っても、十万人は下るまいという噂。

ことに、奈良とか、高野山とかいう地帯は、武力の入り難い寺院が多いために、そういう牢人たちにとっては、屈強のかくれ場所となり得るので、ちょっと指を折っても、九度山には<ruby><rb>真田左衛門尉幸村</rb><rt>さなださえもんのじょうゆきむら</rt></ruby>、高野山には南部牢人の北十左衛門、法隆寺の近在には<ruby><rb>仙石宗也</rb><rt>せんごくそうや</rt></ruby>、興福寺長屋には<ruby><rb>塙団右衛門</rb><rt>ばんだんえもん</rt></ruby>、そのほか<ruby><rb>御宿万兵衛</rb><rt>ごしゅくまんべえ</rt></ruby>とか、小西牢人の<ruby><rb>某</rb><rt>なにがし</rt></ruby>とか、ともかく、このまま日蔭では白骨になりきれない物騒な豪の者が、ふたたび天下が大乱となることを<ruby><rb>旱</rb><rt>ひでり</rt></ruby>に雨をのぞむように待っているという状態である。

まだまだそこらの名のある牢人は、それぞれ、<ruby><rb>隠栖</rb><rt>いんせい</rt></ruby>しても一かどの権式も生活力も持っているが、これが奈良の裏町あたりへゆくと、ほとんど、腰の<ruby><rb>刀</rb><rt>もの</rt></ruby>の中身まで売りはたいたような、ほんとの無職武士がうようよいて、半分は<ruby><rb>自暴</rb><rt>やけ</rt></ruby>になって風紀をみだし、喧嘩を<ruby><rb>漁</rb><rt>あさ</rt></ruby>り、ただ徳川治下の世間をさわがせて一日もはやく大坂の方に、火の手があがればよいと祈っている連中ばかりが、巣を<ruby><rb>作</rb><rt>な</rt></ruby>しているような有様であるから、そんな所へ、あなたのような美しい女子が一人で行くことは、まるで<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>へ油を入れて火の中へ入るようなものだと、茶売りの老人は、お通を止めてやまないのであった。

## 五

そう聞かされてみると奈良へ行くのも、甚だ不気味なことになる。

お通は考えこんでしまった。

奈良に、<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かな手懸りでもあるならば、どんな危険をも<ruby><rb>厭</rb><rt>いと</rt></ruby>うことではないが――

そういう心当りは、彼女には今の所まるでないのである。ただ漠然と――姫路城下の花田橋の袂からあのまま数年の月日を――旅から旅へ、<ruby><rb>的</rb><rt>あて</rt></ruby>なく、<ruby><rb>彷徨</rb><rt>さまよ</rt></ruby>って来たに過ぎない。今も、その<ruby><rb>儚</rb><rt>はかな</rt></ruby>い流浪の途中に過ぎない――

「お通どのと申されたの――」

彼女の迷っている顔いろを見て、<ruby><rb>髯</rb><rt>ひげ</rt></ruby>侍の庄田が、

「どうであろう、最前から、申しそびれていたが、これから奈良へ行かれるより、わしと共に、<ruby><rb>小柳生</rb><rt>こやぎゅう</rt></ruby>まで来てくれないか」

といい出した。

そこで、その庄田が自分の素姓を明かしていうことに、

「わしは小柳生の家中で、庄田喜左衛門と申す者だが、実は、もはや八十にお近い自分の御主君は、このところお体もお弱くて毎日、<ruby><rb>無聊</rb><rt>ぶりょう</rt></ruby>に苦しんでおられる。そなたが、笛を吹いて<ruby><rb>糊口</rb><rt>くち</rt></ruby>すぎをいたしておるというので思いついたことだが、或は、そうした折ゆえ、大殿のよいお慰みになろうか知れぬ。どうだな、来てくれまいか」

茶売りの老人は、側にあって、それはよい思いつきと喜左衛門と共に頻りにすすめた。

「お女中、ぜひお供して行かっしゃれ。知ってでもあろうが、小柳生の大殿とは、柳生<ruby><rb>宗厳</rb><rt>むねよし</rt></ruby>様のこと、今では、御隠居あそばして、<ruby><rb>石舟斎</rb><rt>せきしゅうさい</rt></ruby>と申しあげているお方じゃ、若殿の<ruby><rb>但馬守宗矩</rb><rt>たじまのかみむねのり</rt></ruby>様は、関ヶ原の戦からお帰りあそばすとすぐ、江戸表へ召されて、将軍家の御師範役。またとない御名誉なお家がらじゃ、そうしたお<ruby><rb>館</rb><rt>やかた</rt></ruby>へ、召されるだけでもまたとない果報、ぜひぜひお供なされませ」

有名な兵法の名家、柳生家の家臣と聞いて、お通は喜左衛門の物腰が、<ruby><rb>只人</rb><rt>ただびと</rt></ruby>とは思えなかったことが、さてこそと、心のうちに、<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>かれた。

「気がすすまぬか」

喜左衛門が、<ruby><rb>諦</rb><rt>あきら</rt></ruby>めかけると、

「いいえ、願うてもないことでございますが、拙い笛、さような御身分のあるお方の前では」

「いやいや、ただの大名衆のように思うては、柳生家では、大きにちがう。殊に石舟斎様と仰せられて、今では、簡素な余生を楽しんでいられる茶人のようなお方だ、むしろ、そういう気がねはお嫌いなさる」

漫然と奈良へゆくより、お通はこの柳生家の方に一つの希望をつないだ。柳生家といえば、吉岡以後の兵法第一の名家、さだめし諸国の武者修行が訪れているに違いない。そして、門を叩いた者の名を載せた芳名帳を備えているかも知れない。――そのうちにはもしかしたら自分の探し歩いている――宮本武蔵政名――の名があるかも知れない。もしあったらどんなに<ruby><rb>欣</rb><rt>うれ</rt></ruby>しいか。

「では、おことばに甘えて、お供いたしまする」

急に明るくいうと、

「え、来てくれるとか、それは<ruby><rb>辱</rb><rt>かたじけな</rt></ruby>い」

喜左衛門は欣んで、

「そう決まれば、<ruby><rb>女子</rb><rt>おなご</rt></ruby>の足では夜にかけても、小柳生まではちと無理、お通どの、馬に乗れるか」

「はい、<ruby><rb>厭</rb><rt>いと</rt></ruby>いませぬ」

喜左衛門は軒を出て、宇治橋の袂のほうへ手をあげた。そこに<ruby><rb>屯</rb><rt>たむろ</rt></ruby>していた馬方が飛んで来る。お通だけを乗せて、喜左衛門は歩いた。

すると茶屋の裏山へ<ruby><rb>上</rb><rt>のぼ</rt></ruby>っていた城太郎が見つけて、

「もう行くのかあいっ」

「おお出かけるぞ」

「お待ちようっ」

宇治橋の上で、城太郎は追いついた。何を見ていたのかと喜左衛門が訊くと、丘の林の中に、大勢の<ruby><rb>大人</rb><rt>おとな</rt></ruby>が集まって、何か知らないが面白い遊び事をしていたから見ていたのだという。

馬子は笑って、

「旦那、そいつあ牢人が集まって、<ruby><rb>博奕</rb><rt>ばくち</rt></ruby>を開帳しているんでさ。――食えねえ牢人が旅の者を引っ張りあげては、裸にして追っ払うんだから凄うがすぜ」

と、いった。

## 六

馬の背には、<ruby><rb>市女笠</rb><rt>いちめがさ</rt></ruby>の麗人、城太郎と<ruby><rb>髯</rb><rt>ひげ</rt></ruby>の庄田喜左衛門とが、その両側に歩み、前には日の永い顔をして馬子が行く。

宇治橋をこえ、やがて木津川<ruby><rb>堤</rb><rt>づつみ</rt></ruby>にかかる。<ruby><rb>河内平</rb><rt>かわちだいら</rt></ruby>の空は<ruby><rb>雲雀</rb><rt>ひばり</rt></ruby>に<ruby><rb>霞</rb><rt>かす</rt></ruby>んで、絵の中を行く気がする。

「うむ……牢人どもが<ruby><rb>博奕</rb><rt>ばくち</rt></ruby>をしているか」

「博奕などはまだいい方なんで――押し借りはする、女はかどわかす、それで、強いと来ているから手がつけられませんや」

「領主は、黙っているのか」

「御領主だって、ちょっとやそっとの牢人なら召捕るでしょうが――河内、大和、紀州の牢人が<ruby><rb>合体</rb><rt>いっしょ</rt></ruby>になったら、御領主よりゃあ強いでしょう」

「<ruby><rb>甲賀</rb><rt>こうが</rt></ruby>にもいるそうだの」

「<ruby><rb>筒井</rb><rt>つつい</rt></ruby>牢人が、うんと逃げこんでいるんで、どうしても、もう一度<ruby><rb>戦</rb><rt>いくさ</rt></ruby>をやらなけれやあ、あの衆は、骨になりきれねえとみえる」

喜左衛門と馬子の話に、ふと、耳をとめて城太郎が口を出した。

「牢人牢人っていうけれど、牢人のうちでも、いい牢人だってあるんだろ」

「それは、あるとも」

「おらのお師匠さんだって牢人だからな」

「ははは、それで不平だったのか、なかなか師匠思いだの。――ところでおまえは宝蔵院へ行くといったが、そちの師匠は宝蔵院にいるのか」

「そこへ行けば分ることになっているんだ」

「何流をつかうのか」

「知らない」

「弟子のくせに、師匠の流儀を知らんのか」

すると、馬子がまた、

「旦那、この節あ、剣術<ruby><rb>流行</rb><rt>ばや</rt></ruby>りで猫も<ruby><rb>杓子</rb><rt>しゃくし</rt></ruby>も、武者修行だ。この街道を歩く武者修行だけでも一日に五人や十人はきっと見かけますぜ」

「ほう、左様かなあ」

「これも、牢人が<ruby><rb>殖</rb><rt>ふ</rt></ruby>えたせいじゃございませんか」

「それもあろうな」

「剣術がうめえッてえと、方々の大名から、五百石、千石で、引っ張りだこになるってんで、みんな始めるらしいんだね」

「ふん、出世の早道か」

「そこにいるおチビまでが木剣など差して、<ruby><rb>撲</rb><rt>なぐ</rt></ruby>り<ruby><rb>合</rb><rt>あ</rt></ruby>いさえ<ruby><rb>覚</rb><rt>おぼ</rt></ruby>えれば、人間になれると思っているんだから<ruby><rb>空怖</rb><rt>そらおそろ</rt></ruby>しい。こんなのが沢山できたら、行く末なんで飯を喰うつもりか思いやられますぜ」

城太郎は、怒った。

「馬子っ、なんだと、もう一ぺんいってみろ」

「あれだ――<ruby><rb>蚤</rb><rt>のみ</rt></ruby>が<ruby><rb>楊子</rb><rt>ようじ</rt></ruby>を差したような恰好をしやがって、口だけは一人前の武者修行のつもりでいやがる」

「ははは、城太郎、怒るな怒るな。また、<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>にかけている大事な物を落すぞ」

「もう、大丈夫だい」

「おお、木津川の<ruby><rb>渡舟</rb><rt>わたし</rt></ruby>へ来たからおまえとはお別れだ。――もう陽も暮れかかるゆえ、道くさをせず、急いで行けよ」

「お通様は」

「わたしは、庄田様のお供をして小柳生のお城へ行くことになりました。――気をつけておいでなさいね」

「なんだ、おら、独りぽッちになるのか」

「でもまた、縁があれば、どこかで会う日があるかも知れません――城太郎さんも旅が家、わたしも尋ねるお人に<ruby><rb>巡</rb><rt>めぐ</rt></ruby>り<ruby><rb>会</rb><rt>あ</rt></ruby>うまでは旅が<ruby><rb>住居</rb><rt>すまい</rt></ruby>」

「いったい、誰をさがしているの、どんな人？」

「…………」

お通は答えなかった。馬の背からにっこと別れの眸を与えただけであった。河原を駈け出して、城太郎は、<ruby><rb>渡舟</rb><rt>わたしぶね</rt></ruby>の中へ飛び乗っていた。この舟が夕陽に赤く<ruby><rb>隈</rb><rt>くま</rt></ruby>どられて、河の中ほどまで流れだした頃、振り返ると、お通の駒と喜左衛門の姿は木津川の上流が<ruby><rb>遽</rb><rt>にわ</rt></ruby>かにその辺りから狭くなっている渓谷の笠置寺道を、山蔭の早い夕べに影をぼかして、とぼとぼと、もう<ruby><rb>提灯</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>を<ruby><rb>燈</rb><rt>とも</rt></ruby>して歩いてゆくのが見えた。

## 茶漬

## 一

およそ今、天下に<ruby><rb>虻</rb><rt>あぶ</rt></ruby>や<ruby><rb>蜂</rb><rt>はち</rt></ruby>ほど多い武芸者のうちでも、宝蔵院という名は実によく響いている。もしその宝蔵院を単なるお寺の名としか<ruby><rb>弁</rb><rt>わきま</rt></ruby>えないで話したり聞いたりしている兵法者があるとしたら、すぐ、

（こいつ<ruby><rb>潜</rb><rt>もぐ</rt></ruby>りだな）

と、扱われてしまうほどにである。

この奈良の地へ来ては、なおさらのことであった。奈良の現状では、<ruby><rb>正倉院</rb><rt>しょうそういん</rt></ruby>が何だか知らないものはほとんどだが、槍の宝蔵院とたずねれば、

「あ、油坂のか」

と、すぐ分る。

そこは興福寺の天狗でも棲んでいそうな大きな杉林の西側にあたっていて、<ruby><rb>寧楽朝</rb><rt>ならちょう</rt></ruby>の世の盛りを<ruby><rb>偲</rb><rt>しの</rt></ruby>ばせる元林院<ruby><rb>址</rb><rt>あと</rt></ruby>とか、光明皇后が浴舎を建てて千人の<ruby><rb>垢</rb><rt>あか</rt></ruby>を去りたもうた悲田院<ruby><rb>施薬院</rb><rt>せやくいん</rt></ruby>の<ruby><rb>址</rb><rt>あと</rt></ruby>などもあるが、それも今は、<ruby><rb>苔</rb><rt>こけ</rt></ruby>と雑草の中からわずかに当時の石が顔を出しているに過ぎない。

油坂というのはこの辺りと聞いては来たが武蔵は、

「はて？」

と、見まわした。

寺院は幾軒も見て来たが、それらしい山門はない。宝蔵院という門札も見えない。

冬を越して、春を浴びて、一年中でいちばん黒ずんでいる杉のうえから、今が妙齢の<ruby><rb>采女</rb><rt>うねめ</rt></ruby>のように明るくてやわらかい春日山の曲線がながれていて、足もとは夕方に近づいていたが、彼方の山の肩にはまだ陽が明るかった。

<ruby><rb>其処</rb><rt>そこ</rt></ruby>か、<ruby><rb>此処</rb><rt>ここ</rt></ruby>かと、寺らしい屋根を仰いでゆくうちに、

「お」

武蔵は足を止めた。

――だが、よく見ると、その門に書いてあるのは、甚だ宝蔵院と<ruby><rb>紛</rb><rt>まぎ</rt></ruby>らわしい名で「奥蔵院」としてあるのである。<ruby><rb>頭字</rb><rt>かしらじ</rt></ruby>が一つ違っている。

それに山門から奥を覗くと日蓮宗の寺らしく見える。宝蔵院が日蓮宗の<ruby><rb>檀林</rb><rt>だんりん</rt></ruby>であるということはかつて、武蔵も聞かない話であるから、これはやはり宝蔵院とは全く別な寺院に違いない――

ぼんやり山門に立っていた。すると、外から帰ってきた奥蔵院の<ruby><rb>納所</rb><rt>なっしょ</rt></ruby>が、うさん臭い者を見るような眼で、武蔵をじろじろながめて通りかけた。

武蔵は笠を<ruby><rb>脱</rb><rt>と</rt></ruby>って、

「お<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねいたしますが」

「はあ、なんじゃね」

「当寺は、奥蔵院と申しますか」

「はあ、そこに書いてある通り」

「宝蔵院は、やはりこの油坂と聞きましたが他にございましょうか」

「宝蔵院は、この寺と、背中あわせじゃ。宝蔵院へ、試合に行かれるのか」

「はい」

「それなら、よしたらどうじゃの」

「は？　……」

「折角、親から満足にもろうた手脚を、片輪を<ruby><rb>癒</rb><rt>なお</rt></ruby>しに来るなら分っているが、何も遠くから、片輪になりに来るにも及ぶまいに」

この納所にも、<ruby><rb>凡</rb><rt>ただ</rt></ruby>の日蓮坊主ではないような骨ぐみがある、武蔵を<ruby><rb>見下</rb><rt>みくだ</rt></ruby>して意見するのである。武芸の流行もけっこうだが、このごろのように、わんさわんさと押しかけて来られては宝蔵院でも実にうるさい。大体、宝蔵院そのものは、名の示すがように法燈の<ruby><rb>寂土</rb><rt>じゃくど</rt></ruby>であって、何も槍術が商売でない。商売というならば宗教が本職で、槍術は内職とでもいおうか、先代の住持、<ruby><rb>覚禅房胤栄</rb><rt>かくぜんぼういんえい</rt></ruby>という人が、<ruby><rb>小柳生</rb><rt>こやぎゅう</rt></ruby>の城主柳生<ruby><rb>宗厳</rb><rt>むねよし</rt></ruby>のところへ出入りしたり、また宗厳の<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>わりのある<ruby><rb>上泉</rb><rt>かみいずみ</rt></ruby>伊勢守などとも<ruby><rb>昵懇</rb><rt>じっこん</rt></ruby>にしていた関係から、いつの間にか武芸に興味をもち、余技としてやりだしたのが次第にすすんで、槍のつかいようにまで工夫を加え、誰いうとなく宝蔵院流などと持て<ruby><rb>囃</rb><rt>はや</rt></ruby>してしまったのであるが、その物好きな<ruby><rb>覚禅房胤栄</rb><rt>かくぜんぼういんえい</rt></ruby>という先代は、もう本年八十四歳、すっかり<ruby><rb>耄碌</rb><rt>もうろく</rt></ruby>してしまって、人にも会わないし、会ったところで、歯のない口をふにゃふにゃ動かすだけで、話もわからなければ、槍のことなどは、すっかり忘れてしまっている。

「だから、無駄じゃよ、行ったところで」

と、この納所は、武蔵を追っ払おうとするのが肚か、いよいよ<ruby><rb>膠</rb><rt>にべ</rt></ruby>も<ruby><rb>素</rb><rt>そ</rt></ruby>っ<ruby><rb>気</rb><rt>け</rt></ruby>もない。

## 二

「そういうことも、噂に聞いて、承知してはおりますが」

と武蔵は、<ruby><rb>弄</rb><rt>なぶ</rt></ruby>られているのを承知の上で、

「――しかし、その後には、<ruby><rb>権律師胤舜</rb><rt>ごんりつしいんしゅん</rt></ruby>どのが、宝蔵院流の<ruby><rb>秘奥</rb><rt>ひおう</rt></ruby>をうけ、二代目の<ruby><rb>後嗣</rb><rt>こうし</rt></ruby>として、今もさかんに槍術を<ruby><rb>研鑽</rb><rt>けんさん</rt></ruby>して、多くの門下を養い、また<ruby><rb>訪</rb><rt>と</rt></ruby>う者は<ruby><rb>拒</rb><rt>こば</rt></ruby>まずご教導も下さるとか伺いましたが」

「あ、その胤舜どのは、うちのお住持の弟子みたいなものでね、初代覚禅房胤栄どのが、<ruby><rb>耄碌</rb><rt>もうろく</rt></ruby>されてしまったので、折角、槍の宝蔵院と天下にひびいた名物を、つぶしてしまうのも惜しいと仰っしゃって、胤栄から教わった秘伝を、うちのお住持がまた、胤舜に伝え、そして宝蔵院の二代目にすえたのだ」

何か、ぐずねたいい方をすると思ったら、この奥蔵院の日蓮坊主は、要するに、今の宝蔵院流の二代目は、自分の寺の住持が立ててやったもので、槍術も、その二代目胤舜よりは、日蓮寺の奥蔵院の住持のほうが系統も正しく本格なのだぞ――ということを、暗に外来の武芸者にほのめかせたい気持であったらしい。

「なるほど」

武蔵が一応うなずくと、それを以て満足したらしく、奥蔵院の納所は、

「でも、行って見るかね？」

「せっかく参りましたものゆえ」

「それもそうだ……」

「当寺と、背中あわせと申すと、この山門の外の道を、右へ曲りますか、左へ参りますか」

「いや、行くなら、当寺の境内を通って、裏を抜けて行きなさい、ずッと近い」

礼をいって、教えられた通りに武蔵は歩いた。<ruby><rb>庫裡</rb><rt>くり</rt></ruby>の<ruby><rb>側</rb><rt>わき</rt></ruby>から寺の地内を裏手へ入ってゆく。するとそこは<ruby><rb>薪</rb><rt>たきぎ</rt></ruby>小屋だの<ruby><rb>味噌蔵</rb><rt>みそぐら</rt></ruby>だのがあって、五反ほどの畑が<ruby><rb>展</rb><rt>ひら</rt></ruby>けている。ちょうど田舎の豪農の<ruby><rb>家囲</rb><rt>いえがこ</rt></ruby>いのように。

「……あれだな」

畑の彼方に、また一寺が見える。武蔵は、よく肥えている菜や大根や<ruby><rb>葱</rb><rt>ねぎ</rt></ruby>のあいだの柔らかい土を踏んで行った。

と――そこの畑に、一人の老僧が<ruby><rb>鍬</rb><rt>くわ</rt></ruby>をもって百姓をしていた。背中に木魚でも入れたぐらい猫背である。黙然と、鍬の先に<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>いているので、真っ白な眉だけが植えたように<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>の下から浮き出して見える。鍬を下ろすたびにするカチという石の音だけが、ここの広い閑寂を破っていた。

（この老僧も日蓮寺のほうの者だな）

武蔵は、挨拶をしようと思ったが、土に他念のない老僧の三昧ぶりに<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>られて、そっと側を通りかけると、これは何ということだ、下を向いている老僧の眸がジイッと眼の隅から自分の脚もとを射ている。――そして形や声にこそ現われてはいないが、なんともいえないすさまじい気が――心体から発しるものとは思われない――今にも雲を破って<ruby><rb>搏</rb><rt>う</rt></ruby>たんとする雷気のようなものが、びくりと武蔵の全身に感じられた。

はっ――と<ruby><rb>竦</rb><rt>すく</rt></ruby>んだ時、武蔵は老僧の静かなすがたを、二間ほど先から振向いていた。<ruby><rb>迅</rb><rt>はや</rt></ruby>い槍を<ruby><rb>跨</rb><rt>また</rt></ruby>いだ程度に武蔵の体はぼっと熱くなっていた。<ruby><rb>傴僂</rb><rt>せむし</rt></ruby>のように尖った老僧の<ruby><rb>背</rb><rt>せな</rt></ruby>は後ろを向けたままで、カチ、カチ、と土へ鍬を入れている調子に少しも変りはなかった。

「何者だろう？」

武蔵は大きな疑いを抱きながら、やがて宝蔵院の玄関を見つけた。そこに立って取次を待つ間も、

（ここの二代目胤舜は、まだ若いはずであるし、初代胤栄は、槍を忘れてしまったというほど<ruby><rb>耄碌</rb><rt>もうろく</rt></ruby>していると今聞いたが……）

いつまでも頭の隅に気になっている老僧であった。それを払い<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>けるように、武蔵はさらに、二度ほど大声で訪れたが、<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>の樹木に<ruby><rb>木魂</rb><rt>こだま</rt></ruby>するばかりで、奥深そうな宝蔵院の内からは、なかなか取次の答がない。

## 三

ふと見ると、玄関の横手に、大きな<ruby><rb>銅鑼</rb><rt>どら</rt></ruby>の<ruby><rb>衝立</rb><rt>ついたて</rt></ruby>が備えてある。

（ははあ、これを打つのだな）

武蔵が、それを鳴らすと、おおうと、遠くですぐ返辞が聞えた。

出て来たのは、<ruby><rb>叡山</rb><rt>えいざん</rt></ruby>の僧兵にすればさしずめ<ruby><rb>旗頭</rb><rt>はたがしら</rt></ruby>にもなれそうな骨格の大坊主である。武蔵のような<ruby><rb>身装</rb><rt>みなり</rt></ruby>の来訪者は、毎日あつかい馴れている調子である。じろっと一<ruby><rb>瞥</rb><rt>べつ</rt></ruby>くれて、

「武芸者か」

「はい」

「何しに？」

「ご教授を仰ぎたいと存じて」

「上がんなさい」

右へ指をさす。

足を洗えというのらしい。<ruby><rb>筧</rb><rt>かけひ</rt></ruby>の水が<ruby><rb>盥</rb><rt>たらい</rt></ruby>に引いてある。摺り切れた<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>が十足もそこらに脱ぎちらしてあった。

真っ黒な一<ruby><rb>間</rb><rt>けん</rt></ruby>廊下を、武蔵は<ruby><rb>従</rb><rt>つ</rt></ruby>いて行った。<ruby><rb>芭蕉</rb><rt>ばしょう</rt></ruby>の葉が窓に見える一室に入って控えている。取次の羅漢の<ruby><rb>殺伐</rb><rt>さつばつ</rt></ruby>な動作をのぞけば、他はどう眺めてもただの寺院にちがいない。<ruby><rb>燻々</rb><rt>くんくん</rt></ruby>と香のにおいすらするのである。

「これへ、どこで修行したか、流名と自身の姓名を<ruby><rb>誌</rb><rt>つ</rt></ruby>けて」

子どもへいうように、以前の大坊主が来て一冊の帳面と<ruby><rb>硯箱</rb><rt>すずりばこ</rt></ruby>とをつきつける。

見ると、

<ruby><rb>叩門者</rb><rt>こうもんしゃ</rt></ruby>授業芳名録

宝蔵院<ruby><rb>執事</rb><rt>しつじ</rt></ruby>

とある。開いてみると、無数の武者修行の名が訪問の月日の下に<ruby><rb>連</rb><rt>つら</rt></ruby>ねてある。武蔵も前の者に<ruby><rb>倣</rb><rt>なら</rt></ruby>って書いたが、流名は書きようもなかった。

「兵法は誰について習ったのか」

「我流でございます。――師と申せば、幼少の折、父から十手術の教導をうけましたが、それもよう勉強はせず、後に志を抱きましてからは、天地の万物を以て、また天下の先輩を以て、みなわが師と心得て勉強中の者でござります」

「ふム……。そこで承知でもあろうが、当流は御先代以来、天下に鳴りわたっている宝蔵院一流の槍じゃ。荒い、激しい、<ruby><rb>仮借</rb><rt>かしゃく</rt></ruby>のない槍術じゃ。一応、その授業芳名録のいちばんはじめに<ruby><rb>認</rb><rt>したた</rt></ruby>めてある文を読んでからにいたしてはどうだな」

気づかなかったが、そういわれて武蔵は下へ置いた一冊を持ち直して<ruby><rb>繰</rb><rt>く</rt></ruby>ってみると、なるほど書いてある。――当院において授業をうける以上は、万一、五体不具になっても死を招いても苦情は申し上げない、という誓約書である。

「心得ております」

武蔵は微笑してもどした。武者修行をして歩くからには、これは何処でもいう常識だからである。

「じゃあこっちへ――」

と、また奥へ進む。

大きな講堂でもつぶしたのか恐ろしく広い道場であった。寺だけに、太い丸柱が奇異に見えるし、<ruby><rb>欄間彫</rb><rt>らんまぼり</rt></ruby>の剥げた<ruby><rb>金箔</rb><rt>はく</rt></ruby>だの<ruby><rb>胡粉</rb><rt>ごふん</rt></ruby>絵具なども、他の道場には見られない。

自分ひとりかと思いのほか、控え席には、すでに十名以上の修行者が来ている。そのほか<ruby><rb>法体</rb><rt>ほったい</rt></ruby>の弟子が十数名もいるし、ただ見物しているという<ruby><rb>態</rb><rt>てい</rt></ruby>の侍たちも相当に多く、道場の大床には今、槍と槍をあわせている一組の試合が行われていて、みな<ruby><rb>固唾</rb><rt>かたず</rt></ruby>をのんでそれへ見入っているのである。――で武蔵がそっとその一隅へ坐っても、誰ひとり振向いてみる者はない。

望みの者には、真槍の試合にも応じる――と道場の壁には書いてあるが、今立ち合っている者の槍は、単なる<ruby><rb>樫</rb><rt>かし</rt></ruby>の長い棒に過ぎない。それでも突かれるとひどいとみえ、やがて一方が<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ねとばされて、すごすご席へ戻って来たのを見ると、太股がもう<ruby><rb>樽</rb><rt>たる</rt></ruby>のように<ruby><rb>腫上</rb><rt>はれあ</rt></ruby>がって、坐るにも耐えないらしく、<ruby><rb>肘</rb><rt>ひじ</rt></ruby>をついて、片方の脚を投げ出しながら苦痛を<ruby><rb>怺</rb><rt>こら</rt></ruby>えている<ruby><rb>容子</rb><rt>ようす</rt></ruby>だった。

「さあ、次っ」

<ruby><rb>法衣</rb><rt>ころも</rt></ruby>の<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>を背で結んで、脚も腕も肩も額も<ruby><rb>瘤</rb><rt>こぶ</rt></ruby>で出来あがっているかのように見える<ruby><rb>傲岸</rb><rt>ごうがん</rt></ruby>な法師が、一丈余もある大槍を立てて、道場のほうから呼んでいた。

## 四

「では、それがしが――」

一人が席から起った。これも今日、宝蔵院の門をたたいた武者修行の一人らしい。<ruby><rb>革</rb><rt>かわ</rt></ruby>だすき<ruby><rb>綾</rb><rt>あや</rt></ruby>どって道場の床へすすんでゆく。

法師は、不動の姿勢で突っ立っていたが、次に出て来た相手が、壁から選み<ruby><rb>把</rb><rt>と</rt></ruby>った<ruby><rb>薙刀</rb><rt>なぎなた</rt></ruby>を持って、自分の方へ向って、挨拶をしかけると真っ直に立てていた槍を、

「うわッ！」

いきなり山犬でも吠えたような声を出して、相手の頭へ撲り落して行った。

「――次っ」

すぐまた、平然と大槍を立てて元の姿勢に返っているのである。撲られた男は、それきりだった。死んだ容子はないが、自分の力で顔を上げることも出来ないのだ。それを二、三人の法師弟子が出て来て、<ruby><rb>袴腰</rb><rt>はかまごし</rt></ruby>をつかんでずるずると席のほうへ引っ張り込む、その後に血の交じった<ruby><rb>涎</rb><rt>よだれ</rt></ruby>が糸をひいて床を<ruby><rb>濡</rb><rt>ぬ</rt></ruby>らしている。

「次は？」

突っ立っている法師はあくまで<ruby><rb>傲岸</rb><rt>ごうがん</rt></ruby>だ。武蔵は初め、その法師が宝蔵院二代目の<ruby><rb>胤舜</rb><rt>いんしゅん</rt></ruby>かと思って見ていたが、<ruby><rb>側</rb><rt>かたわら</rt></ruby>の者に訊いてみると、彼は<ruby><rb>阿巌</rb><rt>あごん</rt></ruby>という高弟の一人であって胤舜ではない、たいがいな試合でも、宝蔵院七足といわれる七人の弟子で間に合っているので、胤舜が自身で立合うなどという例はまずないというのである。

「もうないのか」

法師は、槍を横にした。授業者の名簿をもって、先刻、取次にあらわれた坊主が、帳面とそこらの顔を照らし合せ、

「<ruby><rb>其許</rb><rt>そこもと</rt></ruby>は」

と、顔をさしていう。

「いや……いずれまた」

「そちらの<ruby><rb>人</rb><rt>じん</rt></ruby>は」

「ちと、きょうは気が<ruby><rb>冴</rb><rt>さ</rt></ruby>えんので――」

なんとなく皆、<ruby><rb>怯</rb><rt>ひる</rt></ruby>み渡ってしまった気ぶりである。幾番目かに武蔵が<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>を向けられて、

「おてまえはどうする？」

武蔵は、頭を下げ、

「どうぞ」

といった。

「どうぞとは？」

「お願い申す」

起つと、一同の眼が武蔵を見た。不遜な<ruby><rb>阿巌</rb><rt>あごん</rt></ruby>という当の法師はもう引っ込んで、他の法師たちの中でげらげら何か笑っているのであったが、道場へ次の相手が出たので振向いた。しかしもう<ruby><rb>厭気</rb><rt>いやけ</rt></ruby>がさしてしまったらしく、

「誰か、代れ」

と<ruby><rb>不性</rb><rt>ぶしょう</rt></ruby>を極め込んでいる。

「まあ、もう一人じゃないか」

そういわれて、彼は、渋々また出て来た。つかい馴れているらしい真っ黒に<ruby><rb>艶</rb><rt>つや</rt></ruby>の出ている前の槍を持ち直すとその槍を構え、武蔵へは尻を向けて、人もいない方へ、

ヤ、ヤ、ヤ、ヤッ！

と<ruby><rb>怪鳥</rb><rt>けちょう</rt></ruby>の叫ぶような気合いを発したかと思うと、いきなり槍もろとも駈けだして行って、道場の突当りの板へどかんとぶつけた。

そこは日ごろ彼らの槍を鍛える稽古台にされているとみえ、一間四方ほど新しい板に張り代えてあるのに、彼の真槍でもないただの棒は、鋭い穂で貫いたようにぶすッとそこを突き抜いていた。

――えおっッ！

奇態な声を発しながら槍を<ruby><rb>手繰</rb><rt>たぐ</rt></ruby>り返すと<ruby><rb>阿巌</rb><rt>あごん</rt></ruby>は、舞うように、武蔵のほうへ向って躍り返った。節くれ立ったその体からは<ruby><rb>精悍</rb><rt>せいかん</rt></ruby>な湯気がのぼっていた。そして<ruby><rb>彼方</rb><rt>かなた</rt></ruby>に木剣を<ruby><rb>提</rb><rt>ひっさ</rt></ruby>げて、いささか呆れたかのように立っている武蔵のすがたを遠くから睨んで、

「――行くぞっ」

羽目板を突きぬく気をもって<ruby><rb>踵</rb><rt>きびす</rt></ruby>をすすみかけた時である。窓の外から誰か笑っていう者があった。

「――馬鹿よ、<ruby><rb>阿巌</rb><rt>あごん</rt></ruby>坊の大たわけよ、よく見よ、その相手は、羽目板とちと違うぞ」

## 五

槍を構えたまま、阿巌は横を向いて、

「――誰だっ？」

と、呶鳴った。

窓の<ruby><rb>際</rb><rt>きわ</rt></ruby>には、まだ笑いやまない声がくすくすいっている。<ruby><rb>骨董屋</rb><rt>こっとうや</rt></ruby>の手にかけたような照りのある頭と白い眉がそこから見えた。

「阿巌、無駄じゃよ、その試合は。――<ruby><rb>明後日</rb><rt>あさって</rt></ruby>にせい。胤舜がもどってからにせい」

老僧は止めるのであった。

「あ？」

武蔵は思い出した。<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>ここへ来る途中、宝蔵院の裏の畑で<ruby><rb>鍬</rb><rt>くわ</rt></ruby>をもって百姓仕事をしていたあの老僧ではないか。

そう思うまに、老僧の頭は、窓の際から消えていた。阿巌は老僧の注意で一度は槍の手をゆるめたが、武蔵と眸をあわせると、途端にそのことばを忘れてしまったように、

「何をいうかっ」

と、すでにそこにいない者を<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>って、また槍を持ち直した。

武蔵は、念のために、

「よろしいか」

といった。

阿巌の憤怒を<ruby><rb>煽</rb><rt>あお</rt></ruby>るには十分であった。彼は、左の<ruby><rb>拳</rb><rt>こぶし</rt></ruby>の中に槍をふかく吸い入れて、<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>から身を浮かした。筋肉のすべてが鉄のような重厚さを持っているのに、床と彼の脚とは、着いているとも見えるし、浮いているとも見えて、波間の月のように定まりがない。

武蔵は、固着していた、一見そう見える。

木剣は真っ直に両手で持っているというほか、べつだん特異な構えではなかった。むしろ六尺に近い<ruby><rb>背</rb><rt>せい</rt></ruby>のために、間の抜けたようにさえ思われるのである。そして筋肉は、阿巌のように節くれ立っていなかった。ただ、鳥のように<ruby><rb>瞠</rb><rt>みは</rt></ruby>ったままの眼をしている。その眸はあまり黒くなかった。眸の中に血がにじみ込んでいるように、<ruby><rb>琥珀</rb><rt>こはく</rt></ruby>色をして透き徹っている。

阿巌はぴくと顔を振った。

汗のすじが<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>を縦に通ったので、それを払うつもりであったのか、老僧の言葉が耳に残っていて邪魔になるので、それを意識から払おうとしたのか、とにかく<ruby><rb>焦立</rb><rt>いらだ</rt></ruby>っていることは事実である。頻りと、位置を<ruby><rb>換</rb><rt>か</rt></ruby>える。まったく動かないでいる相手に対して、絶えず誘いをかけ、また自分から<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>うことを怠らない。

――いきなり突いて行ったと見えた時は、ぎゃッという声が床へたたきつけられていた。武蔵は木剣を高くあげてその一瞬にもう跳び<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>いているのだ。

「どうしたッ？」

どやどやと阿巌のまわりには同門の法師たちが駈け寄って真っ黒になっていた。阿巌の<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り出した槍を踏んづけて転げた者があるほどな狼狽であった。

「薬湯、薬湯っ、薬湯を持って来い――」

起って叫ぶ者の胸や手には血しおがついていた。

いちど窓から顔を消した老僧は、玄関から廻ってここへ入って来たが、その間にこの始末なので、苦りきって傍観していた。そしてあたふた駈け出す者を止めていった。

「薬湯をどうするか、そんなものが間に合うほどなら止めはせん。――馬鹿者っ」

## 六

誰も彼を止める者はなかった。武蔵はむしろ手持ちぶさたを感じながら、玄関へ出て、わらじを<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>きかけていた。

すると、例の猫背の老僧が、追って来て、

「お客」

と、後ろで呼んだ。

「は。――拙者？」

肩越しに答えると、

「ごあいさつ申したい。もいちどお戻りくだされい」

という。

導かれて、ふたたび奥へ入ったが、そこは前の道場よりはまた奥で、<ruby><rb>塗籠</rb><rt>ぬりごめ</rt></ruby>といってもよい真四角で一方口の部屋だった。

老僧は、ぺたと坐って、

「方丈があいさつに出るところじゃが、つい昨日<ruby><rb>摂津</rb><rt>せっつ</rt></ruby>の<ruby><rb>御影</rb><rt>みかげ</rt></ruby>まで参ってな、まだ両三日せねば帰らぬそうじゃ。――で、わしが代ってごあいさつ申す仕儀でござる」

「ごていねいに」

と、武蔵も頭を下げ、

「きょうは計らずも、よいご授業をうけましたが、ご門下の阿巌どのに対しては、なんともお気の毒な結果となり、申し上げようがござりませぬ」

「なんの」

老僧は打ち消して、

「兵法の立合いには、ありがちなこと。<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>に立つまえから、覚悟のうえの勝敗じゃ。お気にかけられな」

「して、お<ruby><rb>怪我</rb><rt>けが</rt></ruby>のご様子は？」

「即死」

老僧のそう答えた息が、冷たい風のように武蔵の顔を吹いた。

「……死にましたか」

自分の木剣の下に、きょうも一つの生命が消えたのである。武蔵は、こうした時には、いつもちょっと<ruby><rb>瞑目</rb><rt>めいもく</rt></ruby>して、心のうちで<ruby><rb>称名</rb><rt>しょうみょう</rt></ruby>を唱えるのが常であった。

「お客」

「はい」

「宮本武蔵と申されたの」

「左様でござります」

「兵法は、誰に学ばれたか」

「師はありませぬ。幼少から父無二斎について十手術を、後には、諸国の先輩をみな師として訪ね、天下の<ruby><rb>山川</rb><rt>さんせん</rt></ruby>もみな師と存じて遍歴しておりまする」

「よいお心がけじゃ。――しかし、おん身は強すぎる、余りに強い」

<ruby><rb>賞</rb><rt>ほ</rt></ruby>められたと思って、若い武蔵は顔の血に恥じらいをふくんだ。

「どういたしまして、まだわれながら未熟の見えるふつつか者で」

「いや、それじゃによって、その強さをもすこし<ruby><rb>撓</rb><rt>た</rt></ruby>めぬといかんのう、もっと弱くならにゃいかん」

「ははあ？」

「わしが最前、<ruby><rb>菜畑</rb><rt>なばたけ</rt></ruby>で菜を<ruby><rb>耕</rb><rt>つく</rt></ruby>っておると、その側をおてまえが通られたじゃろう」

「はい」

「あの折、おてまえはわしの側を九尺も跳んで通った」

「は」

「なぜ、あんな振舞をする」

「あなたの鍬が、私の両脚へ向って、いつ横ざまに<ruby><rb>薙</rb><rt>な</rt></ruby>ぎつけて来るかわからないように覚えたからです。また下を向いて、畑の土を掘っていながら、あなたの眼気というものは、私の全身を<ruby><rb>観</rb><rt>み</rt></ruby>、私の隙をおそろしい殺気でさがしておられたからです」

「はははは、あべこべじゃよ」

老僧は、笑っていった。

「お身が、十間も先から歩いて来ると、もうおてまえのいうその殺気が、わしの鍬の先へびりッと感じていた。――それほどに、お身の一歩一歩には争気がある、覇気がある。当然わしもそれに対して、心に武装を持ったのじゃ。もし、あの時わしの側を通った者が、ただの百姓かなんぞであったら、わしはやはり鍬を持って菜を<ruby><rb>耕</rb><rt>つく</rt></ruby>っているだけの老いぼれに過ぎんであったろう。あの殺気は、つまり、影法師じゃよ、はははは、自分の影法師に驚いて、自分で跳び<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>いたわけになる」

## 七

果たしてこの猫背の老僧は<ruby><rb>凡物</rb><rt>ただもの</rt></ruby>でなかったのである。武蔵は、自分の考えがあたっていたことを思うとともに、初対面のことばを<ruby><rb>交</rb><rt>か</rt></ruby>わす前から、すでにこの老僧に負けている自分を見出して、先輩の前に置かれた後輩らしく膝を固くせずにはいられなかった。

「ご教訓のほど、有難く承りました。して、失礼ですが、貴僧はこの宝蔵院で、何と仰っしゃるお方ですか」

「いやわしは、宝蔵院の者ではない。この寺の背中あわせの奥蔵院の住持<ruby><rb>日観</rb><rt>にっかん</rt></ruby>というものじゃが」

「あ、裏の御住職で」

「されば、この宝蔵院の先代の<ruby><rb>胤栄</rb><rt>いんえい</rt></ruby>とは、古い友達での、胤栄が槍をつかいおるので、わしもともに習うたものだが、ちと考えがあって、今では一切、手に取らんことにしておる」

「では、当院の二代目胤舜どのは、あなたの槍術を学んだお弟子でございますな」

「そういうことになるかの。沙門に槍など<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>らぬ沙汰じゃが、宝蔵院という名が、変な名前を世間へ売ってしもうたので、当院の槍法が絶えるのは惜しいと人がいうので胤舜にだけ伝えたのじゃ」

「その胤舜どのがお帰りの日まで院の片隅へでも、泊めておいて貰えますまいか」

「試合うてみる気か」

「せっかく、宝蔵院を訪れたからには、院主の槍法を、一<ruby><rb>手</rb><rt>て</rt></ruby>なりと、拝見したいと思いますので」

「よしなさい」

日観は、顔を振って、

「いらぬこと」

と、たしなめるように重ねていう。

「なぜですか」

「宝蔵院の槍とは、どんなものか、今日の阿巌の<ruby><rb>技</rb><rt>わざ</rt></ruby>で、お身はたいがい見たはずじゃ。あれ以上の何を見る必要があるか。――さらに、もっと知りたくば、わしを見ろ、わしのこの目を見ろ」

日観は肩の骨を<ruby><rb>尖</rb><rt>とが</rt></ruby>らして、武蔵と睨めっこするように、顔を前へつき出した。くぼんでいる中の眼球が飛び出して来るように光った。じっと見つめ返すと、その眼は、<ruby><rb>琥珀色</rb><rt>こはくいろ</rt></ruby>になったり<ruby><rb>暗藍色</rb><rt>あんらんしょく</rt></ruby>になったりいろいろに変って光る気がするのである。武蔵は、遂に眼が痛くなって、先にひとみを<ruby><rb>外</rb><rt>そら</rt></ruby>してしまった。

日観は、カタカタと板を鳴らすように笑った。後ろへ、ほかの坊主が来て、何か訊ねているのである。日観は<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>をひいて、

「ここへ」

と、その坊主へいった。

すぐ高脚の客膳と飯びつが運ばれて来た。日観は、茶碗へ山もりに飯を盛って出した。

「茶漬けを進ぜる。お身ばかりでなく、一般の修行者にこれは出すことになっておる。当院の常例じゃ。その<ruby><rb>香</rb><rt>こう</rt></ruby>の物の瓜は、宝蔵院漬というて、瓜の中に、<ruby><rb>紫蘇</rb><rt>しそ</rt></ruby>と<ruby><rb>唐辛子</rb><rt>とうがらし</rt></ruby>を漬けこんであって、ちょびと<ruby><rb>美味</rb><rt>うま</rt></ruby>い。試みなされ」

「では」

武蔵が箸を取ると、日観の眼をまたぴかりと感じる。向うから発する剣気か、自分から出る剣気が相手に備えさせるのか、武蔵は、その間の微妙な魂の躍動が、どっちに原因するとも判断がつかないのであった。

<ruby><rb>下手</rb><rt>へた</rt></ruby>に、瓜の漬物などを噛みしめていると、かつての<ruby><rb>沢庵</rb><rt>たくあん</rt></ruby>和尚のように、いきなり拳が飛んでくるか、<ruby><rb>長押</rb><rt>なげし</rt></ruby>の槍が落ちてくるかも分らないのだ。

「どうじゃの、お代りは」

「十分、いただきました」

「ところで宝蔵院漬の味は、いかがでござった？」

「結構でした」

しかし武蔵は、その時そうは答えたものの、唐辛子の辛さが舌に残っているだけで、ふた切れの瓜の風味は外に出ても思い出せなかった。

## 奈良の宿

## 一

「<ruby><rb>敗</rb><rt>ま</rt></ruby>けた。おれは<ruby><rb>敗</rb><rt>やぶ</rt></ruby>れた」

暗い杉林の中の小道を、武蔵はこう独り<ruby><rb>呟</rb><rt>つぶや</rt></ruby>きながら帰って行く。

時折、杉の木蔭を、<ruby><rb>迅</rb><rt>はや</rt></ruby>い影が横に跳ぶ。彼の<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>におどろいて駈ける鹿の群れだった。

「強いことにおいておれは勝っている。――しかし敗けたような気持を負って宝蔵院の門を出てきた。――形では勝ったが敗けている証拠ではないか」

甘んじられない<ruby><rb>容子</rb><rt>ようす</rt></ruby>なのである。むしろ無念らしく、未熟者未熟者と、自分を<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>りながら歩いているかのように、うつつに歩いていた。

「あ」

何か思い出したのであろう、立ちどまって振り向いた。宝蔵院の灯は、まだ後ろに見えていた。

駈け戻って、今出て来た玄関に立ち、

「ただ今の、宮本でござるが」

「ほう」

と、<ruby><rb>玄関坊</rb><rt>げんかんぼう</rt></ruby>が顔を出し、

「なんぞお忘れ物か」

「<ruby><rb>明日</rb><rt>あす</rt></ruby>か<ruby><rb>明後日</rb><rt>あさって</rt></ruby>あたり、私をたずねて、当院へ聞きに参る者があるはずですが、もしその者が見えたときは、宮本は当所の<ruby><rb>猿沢</rb><rt>さるさわ</rt></ruby>の池のあたりにわらじを<ruby><rb>解</rb><rt>と</rt></ruby>いているゆえ、あの辺の<ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>の軒を見て歩け、とお伝えを願いたいのです」

「ああ、左様か」

うわの空な返辞なので、武蔵は心もとなく思い、

「ここへ後から尋ねて来る者は、<ruby><rb>城太郎</rb><rt>じょうたろう</rt></ruby>と申して、まだ<ruby><rb>年端</rb><rt>としは</rt></ruby>のゆかぬ少年ですから、どうぞ<ruby><rb>慥</rb><rt>しか</rt></ruby>とお伝え願いまする」

いいおいて、元の道をまた大股に引き返しながら、武蔵はつぶやいた。

「やはり、<ruby><rb>敗</rb><rt>ま</rt></ruby>けているのだ。――城太郎の<ruby><rb>言伝</rb><rt>ことづ</rt></ruby>てをいい忘れて出て来ただけでも、おれはあの老僧の<ruby><rb>日観</rb><rt>にっかん</rt></ruby>に敗けを負わされて戻っている！」

どうしたら天下無敵の剣になれるか。武蔵は、寝ても<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>めても、<ruby><rb>病</rb><rt>やまい</rt></ruby>のように取り<ruby><rb>憑</rb><rt>つ</rt></ruby>かれているのである。

この剣、この一剣。

勝って帰る宝蔵院から、どうして、この<ruby><rb>苦</rb><rt>にが</rt></ruby>い自分の未熟さが、こびりついて来るのだろう。

何としても、楽しめない気持らしい。

<ruby><rb>怏々</rb><rt>おうおう</rt></ruby>と、<ruby><rb>惑</rb><rt>まど</rt></ruby>いながら、彼の脚はもう猿沢の<ruby><rb>池畔</rb><rt>ちはん</rt></ruby>へ出ていた。

この池を中心に、<ruby><rb>狭井川</rb><rt>さいがわ</rt></ruby>の<ruby><rb>下流</rb><rt>しも</rt></ruby>へかけて、天正ごろから<ruby><rb>殖</rb><rt>ふ</rt></ruby>えた新しい民家が乱雑に建てこんでいた。つい近年、徳川家の<ruby><rb>手代</rb><rt>てだい</rt></ruby><ruby><rb>大久保長安</rb><rt>おおくぼながやす</rt></ruby>が、奈良奉行所を設けた一廓も近くであるし、中華の帰化人で<ruby><rb>林和靖</rb><rt>りんなせい</rt></ruby>の後裔だという者が店をひらいた<ruby><rb>宗因饅頭</rb><rt>そういんまんじゅう</rt></ruby>もよく売れるとみえ、池へ向って店をひろげている。

そこらのまばらな宵の<ruby><rb>燈</rb><rt>あかり</rt></ruby>を見ると、武蔵は足をとめて、どこに泊ったものか、<ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>に迷った。旅籠はいくらもあるらしいが、路銀の都合もあるし、そうかといって、あまり場末や路地の<ruby><rb>木賃</rb><rt>きちん</rt></ruby>では、後から捜して来る城太郎にわかりにくかろう。

今し方、宝蔵院で接待にあずかって来たばかりであるが、宗因饅頭の前を通ると、武蔵は食慾をおぼえた。

腰かけへ立ち寄って、饅頭を一盆とってみる。饅頭の皮には「林」の字が焼いてあった。ここで食べる饅頭の味は、宝蔵院で食べた瓜漬の味のように舌にわからないことはなかった。

「旦那さま、今夜はどちらへお泊りでございますか」

そこの茶汲み女に話しかけられたのを幸いに、わけを話して<ruby><rb>計</rb><rt>はか</rt></ruby>ってみると、それなら店の身寄りの者が内職に宿屋をしているちょうどよい家があります、ぜひそこへ泊っていただきたい、ただ今主人を呼んで参りますからと、まだ武蔵が泊るとも何ともいわないうちに、もう奥へ走って、<ruby><rb>青眉</rb><rt>あおまゆ</rt></ruby>の若女房を呼び出して来た。

## 二

宗因<ruby><rb>饅頭</rb><rt>まんじゆう</rt></ruby>の店からそう遠くもない、しかも静かな小路の<ruby><rb>素人家</rb><rt>しもたや</rt></ruby>。

案内して来た青眉の女房は、小門の戸をほとほとたたいて、中の<ruby><rb>答</rb><rt>いら</rt></ruby>えを聞いて後、武蔵を振り向いて、静かにいう。

「わたくしの姉の家でございますから、お心づけなども、ご心配なく」

小女が出て来て、女房と何か<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いていたが、すべて心得ているらしく武蔵を先へ二階へ通し、女房はすぐ、

「では、ごゆるり遊ばせ」

と帰ってしまった。

<ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>にしては、部屋も調度も上等すぎる、武蔵はかえって落着かなかった。

食事はすんでいるので、風呂に入ると、寝るよりほかはない。そう生活に困るでもないらしいこの家構えを持って、何で旅人などを泊めるのか、武蔵は、寝るにも気がかりであった。

小女にわけを訊いても、笑っていて答えないのである。

翌日になって、

「後から連れが尋ねて来るはずゆえ、もう一両日泊めてもらいたいが」

というと、

「どうぞ」

小女が<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>の<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>に告げたのであろう、やがて、その<ruby><rb>女主人</rb><rt>おんなあるじ</rt></ruby>があいさつに見えた。三十ぐらいな<ruby><rb>肌目</rb><rt>きめ</rt></ruby>のよい美人である。武蔵がさっそく不審をただすと、その美人が笑って話すにはこうであった。

実は自分は、<ruby><rb>観世</rb><rt>かんぜ</rt></ruby>なにがしと呼ぶ能楽師の<ruby><rb>後家</rb><rt>ごけ</rt></ruby>であるが、この奈良には今、素姓の知れない牢人がたくさん住んでいて、風紀の悪いことはお話にならない。

そうした牢人たちのために、木辻あたりには、いかがわしい飲食店や<ruby><rb>白粉</rb><rt>おしろい</rt></ruby>の女が急激にふえているが、<ruby><rb>不逞</rb><rt>ふてい</rt></ruby>な牢人たちは、そんなところではほんとに<ruby><rb>娯</rb><rt>たのし</rt></ruby>まない。土地の若い者などを語らって、毎晩のように「後家見舞」と称して、男気のない家を襲ってあるくことが<ruby><rb>流行</rb><rt>はや</rt></ruby>っている。

関ヶ原以後は、すこし<ruby><rb>戦</rb><rt>いくさ</rt></ruby>がやんでいる形にあるが、年々の合戦で、どこの地方にも、浮浪人の数がおびただしく増している。そこで、諸国の城下に、悪い夜遊びが<ruby><rb>流行</rb><rt>はや</rt></ruby>ったり<ruby><rb>窃盗</rb><rt>せっとう</rt></ruby>沙汰だの<ruby><rb>強請者</rb><rt>ゆすりもの</rt></ruby>が横行している。こんな悪風は、朝鮮役後からの現象で、太閤様が生んだものだと<ruby><rb>恨</rb><rt>うら</rt></ruby>んでいる声もあるとか。とにかく、全国的に今は悪い風紀が<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>っている。――それと関ヶ原牢人のくずれが入り込んで来たため、この奈良の町でも、新任の奉行などでは取締りようもない有様だというのである。

「ははあ、それで拙者のような旅人を、<ruby><rb>魔除</rb><rt>まよ</rt></ruby>けにお泊めなさるわけだな」

「男気がないものですから」

と、美人の後家が笑った、武蔵も苦笑がやまない。

「そんなわけですから、どうぞ幾日でも」

「心得た、拙者のいるうちは、安心なさるがよい。しかし連れの者が、追ッつけここへ捜して来ることになっている。門口へ、何か目印を出してもらいたいが」

「よろしゅうございます」

後家は魔除け札のように、

宮本様お<ruby><rb>泊</rb><rt>とまり</rt></ruby>

と紙きれに書いて外へ貼った。

その日も、城太郎は来なかった。すると次の日である。

「宮本先生に拝顔したい」

と三名づれの武芸者が入って来た。断ってもただ帰りそうもない<ruby><rb>風態</rb><rt>ふうてい</rt></ruby>だというので、ともかく上げて会ってみると、それは宝蔵院で武蔵が<ruby><rb>阿巌</rb><rt>あごん</rt></ruby>を<ruby><rb>仆</rb><rt>たお</rt></ruby>した折に、<ruby><rb>溜</rb><rt>たま</rt></ruby>りの中にいて見物していた者達で、

「やあ」

と、旧知のように<ruby><rb>馴々</rb><rt>なれなれ</rt></ruby>しく、彼を囲んで坐りこんだ。

## 三

「いやどうも、なんとも驚き入ったわけです」

坐るとすぐ、その三名は、誇張したもののいい方で、武蔵をおだて抜くのであった。

「おそらく、宝蔵院を訪れた者で、あそこの七足と呼ぶ高弟を一撃で<ruby><rb>仆</rb><rt>たお</rt></ruby>したなどという記録は、今までにないことでござろう。殊に、あの<ruby><rb>傲岸</rb><rt>ごうがん</rt></ruby>な阿巌が、うんと<ruby><rb>呻</rb><rt>うな</rt></ruby>ったきり、<ruby><rb>血涎</rb><rt>ちよだ</rt></ruby>れを出して参ってしまうなどは、近ごろ愉快きわまることだ」

「吾々のうちでも、えらい評にのぼっておる。一体、宮本武蔵とは何者であろうなど、当地の牢人仲間では、寄るとさわると、貴公のうわさであるし、同時に、宝蔵院もすっかり看板へ味噌をつけてしまったというておる」

「まず、尊公のごときは、天下無双といってもさしつかえあるまい」

「年ばえもまだお若いしな」

「伸びる将来性は、多分に持っておられるし」

「失礼ながら、それほどな実力を持ちながら、牢人しておらるるなどとは、<ruby><rb>勿体</rb><rt>もったい</rt></ruby>ない」

茶が来れば茶をガブ飲みにし、菓子がくれば菓子の<ruby><rb>屑</rb><rt>くず</rt></ruby>を膝にこぼしてボリボリむさぼる。

そして、<ruby><rb>賞</rb><rt>ほ</rt></ruby>められている当人の武蔵が顔のやり場に困るほど、口を極めて称揚するのである。

おかしくも、<ruby><rb>擽</rb><rt>くす</rt></ruby>ぐッたくもないような顔をして、武蔵は相手が黙るまで<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>らせておいたが、果てしがないので、

「して各〻は？」

姓名を<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねると初めて、

「そうそう、これは失礼をしておった。それがしは、もと<ruby><rb>蒲生殿</rb><rt>がもうどの</rt></ruby>の<ruby><rb>家人</rb><rt>けにん</rt></ruby>で、<ruby><rb>山添団八</rb><rt>やまぞえだんぱち</rt></ruby>」

「<ruby><rb>此方</rb><rt>こなた</rt></ruby>は大友<ruby><rb>伴立</rb><rt>ばんりゅう</rt></ruby>と申し、卜伝流を究め、いささか大志を抱いて、時勢にのぞまんとする野望もある者でござる」

「また、てまえは、<ruby><rb>野洲川安兵衛</rb><rt>やすかわやすべえ</rt></ruby>といい織田殿以来、牢人の子の牢人者で。……ははははは」

これで一通り素姓は分ったが、何のために自分の貴重な時間をつぶして他人の貴重な時間を邪魔しに来たのか、それも武蔵の方から聞かないうちは<ruby><rb>埒</rb><rt>らち</rt></ruby>があかないので、

「時に、御用向きは何であるか」

話のすきを見ていうと、

「そうそう」

と、それも今さら気がついたように、実は、折入っての相談でやって来たのだがと、<ruby><rb>遽</rb><rt>にわか</rt></ruby>に、膝をすすめていう。

――ほかでもないが、この奈良の<ruby><rb>春日</rb><rt>かすが</rt></ruby>の下で、自分たちで今、興行をもくろんでいる。興行というと能芝居や人寄せの見世物とお考えになるだろうが、さにあらず、大いに民衆のうちへ武術を理解させるための<ruby><rb>賭</rb><rt>かけ</rt></ruby>試合である。

今、小屋を掛けさせつつある所だが、前人気はなかなかよい。だが、三人では実はすこし手が足りない気がするし、いかなる豪の者が出て来て、せっかくの利益を一勝負でさらわれてしまわないとも限らないので――実は、<ruby><rb>其許</rb><rt>そこもと</rt></ruby>に一枚入ってもらえまいかと、談合にやって来たわけである。承知してくれれば、利益は勿論山分け、その間の食費、宿料も一切こっちで持とう。ひと儲けして、次の旅へ向われる路銀をおこしらえになってはいかが？

――頻りとすすめるのを、武蔵はにやにや聞いていたが、もう<ruby><rb>飽々</rb><rt>あきあき</rt></ruby>したという<ruby><rb>態</rb><rt>てい</rt></ruby>で、

「いや、そういう御用なら、長座は無用、ごめんをこうむる」

あっさり断ると、三名の方では、むしろ意外とするらしく、

「なぜで？」

とたたみかけて来る。

そこまで至ると、武蔵はすこし<ruby><rb>憤</rb><rt>む</rt></ruby>かついて来て、青年の一徹を示し、昂然といった。

「拙者は、ばくち打ちではない。また、飯は箸で食う男で、木剣では食わん男だ」

「なに、なんだと」

「わからんか、宮本は痩せても枯れても、剣人をもって任じておるのだ、馬鹿、帰れっ」

## 四

ふふんと、一人は冷笑を唇の辺にながし、一人は赤い怒気を顔にふき出して、

「忘れるな」

それが、<ruby><rb>捨</rb><rt>す</rt></ruby>て<ruby><rb>科白</rb><rt>ぜりふ</rt></ruby>だった。

自分たちが<ruby><rb>束</rb><rt>たば</rt></ruby>になっても、勝ち目のないことをその三名はよく心得ている。かなり苦い顔つきと、腹の中のものを抑えて、ただ跫音と態度にだけ、

（これだけで帰るのでないぞ）

の意思を示し、どやどや外へ出て行ったのである。

この頃は毎晩が肌ぬるいおぼろ夜だった。<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>の若い御寮人は、武蔵が泊っているうちは安心だといって一方ならない馳走をするのであった。きのうも今宵も、武蔵は<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>でもてなされて、<ruby><rb>快</rb><rt>こころよ</rt></ruby>く酔ったからだを長々と、灯りのない二階の一間に横たえて、思うさま若い手脚をのばしていた。

「残念だ」

またしても、奥蔵院の日観のことばが頭にうかぶ。

自分の剣で打負かした者はみな、たとえそれが半死にさせた者でも、武蔵は次々に泡沫のように頭からその人間を忘れてしまうのであったが、少しでも、自分よりは<ruby><rb>優</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れた者――自分が圧倒を感じた者――そういう他人に対しては、いつまでも執着を断つことができない。<ruby><rb>生</rb><rt>い</rt></ruby>き<ruby><rb>霊</rb><rt>りょう</rt></ruby>のように、その相手に勝つことを忘れることが出来ないのである。

「残念だ」

寝まろびたまま、髪の毛をぎゅっと<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>む。どうしたら日観のうえに立つことが出来るか、あの不気味なひとみから何の圧伏も感じない自分になれるだろうか。

きのうも今日も、<ruby><rb>悶々</rb><rt>もんもん</rt></ruby>と、彼はそれから離れることが出来なかった。残念という呟きは、自分へ向っていう<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>きであって、人を<ruby><rb>呪</rb><rt>のろ</rt></ruby>うため息ではない。

時々、彼はまた、

（おれは駄目かな？）

と、自己の才分を疑わざるを得なかった。日観のような人間に出あうと、あれまで行けるかどうかが自分で疑われて来るのである。元々、自分の剣というものは、師について、法則的な修行を受けたものでないだけに、彼には、自分の力がどの程度のものか、自分ではよく分っていなかった。

それに、日観は、

（強すぎる、もうすこし、弱くなるがよい）

といった。

あの言葉なども、武蔵には、どうもまだよく呑みこめないのだ。兵法者である以上、強いということは、絶対の優越であるべきであるのに、なぜ、それらが欠点になるのか。

待てよ、あの猫背の老僧が、何をいうか、それも疑問だ。こっちを<ruby><rb>若年者</rb><rt>じゃくねんもの</rt></ruby>と見て、真理でもないことを、<ruby><rb>真</rb><rt>まこと</rt></ruby>らしく説いて、<ruby><rb>煙</rb><rt>けむ</rt></ruby>に巻いて帰してやったなどと、後で笑っているという手もないとは限らない――

（<ruby><rb>書</rb><rt>ほん</rt></ruby>なども、読むがいいか悪いか知れたものではない）

武蔵は、近ごろになって、時々それを考える。どうもあの姫路城の一室で三年間も書を読んだ後の自分というものは、前とちがって、何かにつけ、物事を理で解こうとする癖がついているようだ。自己の理智をとおして<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>けることでないと、心から承認することが出来ない人間になっている。剣のことばかりでなく、社会の<ruby><rb>観方</rb><rt>みかた</rt></ruby>、人間の観方、すべてが一変していることは<ruby><rb>慥</rb><rt>たし</rt></ruby>かである。

そのために、自分の勇猛というものは、少年時代から見れば、ずっと弱まっていると考えられるのに、あの日観は、まだ強すぎるというのだ。それは腕の強さをいうのではなく、自分の天分にある野性と争気を指していっていることだけは、武蔵にもわかっている。

「兵法者に、書物などは要らない智恵だ。<ruby><rb>生半可</rb><rt>なまはんか</rt></ruby>、ひとの心や気もちのうごきに敏感になったから、かえって、こっちの手が<ruby><rb>怯</rb><rt>おく</rt></ruby>れるのだ。日観なども、眼をとじて一撃を<ruby><rb>揮</rb><rt>ふ</rt></ruby>り落せば、実は<ruby><rb>脆</rb><rt>もろ</rt></ruby>い<ruby><rb>土偶</rb><rt>でく</rt></ruby>みたいなものかも知れないのだ」

誰かここへ上がって来るらしく、その時、彼の手枕に、<ruby><rb>梯子</rb><rt>はしご</rt></ruby>だんの跫音が伝わって来た。

## 五

<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>の小女が顔を出し、その後からすぐ城太郎が上がって来たのである。城太郎の黒い顔は、旅の<ruby><rb>垢</rb><rt>あか</rt></ruby>でよけいに黒くなり、<ruby><rb>河</rb><rt>か</rt></ruby>っ<ruby><rb>童</rb><rt>ぱ</rt></ruby>のような髪の毛は<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>で白くなっていた。

「おう、来たか。よく分ったな」

武蔵が、胸をひろげて迎えてやると、城太郎はその前に、汚れた足を投げ出して坐った。

「ああくたびれた」

「探したか」

「探したとも。とッても、探しちまッたい」

「宝蔵院で<ruby><rb>訊</rb><rt>たず</rt></ruby>ねたであろうが」

「ところが、あそこの坊さんに<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いても知らないというんだもの。おじさん、忘れていたのだろう」

「いや、くれぐれも、頼んでおいたのだが。――まあよいわ、ご苦労だった」

「これは吉岡道場の返辞」

と城太郎は、首にかけて来た竹筒から、返書を出して武蔵にわたし、

「――それから、もう一つのほうの使い、本位田又八という人には、会えなかったから、そこの家の者に、おじさんの<ruby><rb>言伝</rb><rt>ことづ</rt></ruby>てだけをよく頼んで帰って来たよ」

「大儀大儀。――さあ風呂へでも入れ、そして<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>で御飯を食べてこい」

「ここは宿屋？」

「む。宿屋のようなものだ」

城太郎が降りて行った後で、武蔵は、吉岡清十郎からの返書を開いて見た。――再度の試合は当方の望むところである。もし約束の冬まで来訪がない時は、臆病風にふかれて<ruby><rb>踪跡</rb><rt>そうせき</rt></ruby>をくらましたものと見なし、貴公の卑劣を天下に笑ってやることにするから、そのつもりでおられたい。

代筆とみえ、文辞も<ruby><rb>拙</rb><rt>つたな</rt></ruby>く、ただこんなふうに気負った言葉が書きつらねてある。武蔵は手紙を裂くと、それを<ruby><rb>燭</rb><rt>ひ</rt></ruby>にかざして焼いてしまった。

蝶の黒焼みたいな灰がふわふわと畳にこぼれてうごいている。試合とはいえ、この手紙のやり取りは、果し合いの約束に近い。この冬、この手紙から、誰がこういう灰になるのか。

武蔵は、兵法者の<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>というものが、<ruby><rb>朝</rb><rt>あした</rt></ruby>に生れて<ruby><rb>夕</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>には分らないものであるという覚悟だけは、常に持っていた。――しかしそれは心がまえだけで、ほんとに今年の冬までしかない生命であるとしたら、彼の精神は、決して穏かでいられなかった。

（したいことがたくさんある！　兵法の修行もそうだが、人間としてやりたいことを、おれはまだ何もやっていない）

<ruby><rb>卜伝</rb><rt>ぼくでん</rt></ruby>や上泉伊勢守のように、一度は多くの従者に鷹をすえさせ、駒をひかせて、天下の往来も歩いて見たい。

また、恥かしくない門戸のうちに、よき妻をもち、郎党や家の子を養って、自分には幼少から恵まれないところの家庭というものの温かさのうちに、よい主人ともなってみたい。

いや。

そういう人生の型に入る前には、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">ひそ</span>と、世の女性にも触れてみたいのだ。――今日までは明けても暮れても、念々兵法のほかに頭が<ruby><rb>外</rb><rt>そ</rt></ruby>れないので、不自然なく童貞をたもって来ているが、このごろ時折、往来を歩いていても、京都や奈良の女性がはっと美しく眼に――というよりは肉感にひびいて来る時がある。

そんな時、彼はいつも、

（お<ruby><rb>通</rb><rt>つう</rt></ruby>）

をふと思い出すのであった。

遠い過去の人であるような気がしながら、実は常に近くむすばれているような気のするお通。

――武蔵はただ漠然と、彼女を考えることだけで、時にはさびしい孤独と流浪を、どれ程、自分でも無意識の間に、慰められているか知れないのであった。

いつの間にか、そこへ戻って来ていた城太郎は、風呂に入り、腹を満たし、そして自分の使いも果した安心とで、すっかり<ruby><rb>草臥</rb><rt>くたび</rt></ruby>れが出たのであろう、小さいあぐらを組んで、両手を膝の間に突っこんだまま、<ruby><rb>涎</rb><rt>よだれ</rt></ruby>をながして心地よげに居眠りしていた。

## 六

朝――

城太郎はもう雀の声といっしょに<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ね起きている。武蔵も、今朝は早く奈良を立つつもりと、<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>の女主人へも告げてあるので、<ruby><rb>旅装</rb><rt>たびよそお</rt></ruby>いにかかっていると、

「まあ、お急ぎですこと」

能楽師の若い後家は、すこし恨めしげに、抱えて来た一かさねの小袖をそこへ出して、

「失礼でございますが、これは私が、お<ruby><rb>餞別</rb><rt>せんべつ</rt></ruby>のつもりで<ruby><rb>一昨日</rb><rt>おととい</rt></ruby>から縫いあげた小袖と羽織、お気に入りますまいが、お召しになってくださいませ」

「え、これを」

武蔵は、眼をみはった。

<ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>の餞別に、こんな物をもらう<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>がない。

断ると、後家は、

「いいえ、そんな大した品ではございません、宅には、古びた能衣裳やら男物の古い小袖が、役にも立たず押しこんであるので、せめて、あなたのような御修行中の若いお方に着ていただければと思って、<ruby><rb>丹精</rb><rt>たんせい</rt></ruby>してみたのでございます。せっかく、おからだに合せて縫ったのに、着ていただけないと無駄な物になってしまいますから、どうぞ……」

うしろへ廻って、いやおうなく武蔵の体へ、着せかけてくれる。

迷惑なほど、それは贅沢な品だった。わけても<ruby><rb>袖無</rb><rt>そでなし</rt></ruby>羽織は、<ruby><rb>舶載</rb><rt>はくさい</rt></ruby>の織物らしく、豪華な模様に<ruby><rb>金襴</rb><rt>きんらん</rt></ruby>の裾べりを縫い、裏には羽二重をつけ、<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>にまで細かい気をつけて、<ruby><rb>葡萄染</rb><rt>ぶどうぞ</rt></ruby>めの<ruby><rb>革</rb><rt>かわ</rt></ruby>がつかってある。

「ようお似あいになります」

後家と共に、城太郎も見惚れていたが、無遠慮に、

「おばさん、おらには、何をくれるの」

「ホホホ。だって、あなたはお供でしょう、お供はそれでいいじゃありませんか」

「着物なんか欲しくねえさ」

「何か望みがあるんですか」

「これをくれないか」

次の間の壁に掛けてあった<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>をいきなり<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>して来て、もうゆうべ一目見た時から欲しくてならなかったもののように、

「これを、おくれ」

と自分の頬へ、<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>の頬をすりつけていった。

武蔵は、城太郎の眼のするどさに驚いた。実は彼も、ここに寝た晩から心をひかれていた<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>なのである。誰の作かわからないが、時代は室町ではない、少なくも鎌倉期の作品であって、やはり能につかわれた物らしく、<ruby><rb>鬼女</rb><rt>きじょ</rt></ruby>の顔が、すごいほど<ruby><rb>鑿</rb><rt>のみ</rt></ruby>の先で彫り出されている。

それだけなら、まだそう心を奪われもすまいが、この仮面には、他のありふれた<ruby><rb>能仮面</rb><rt>のうめん</rt></ruby>とちがって、不思議な表現が打ちこめてある。ふつうの鬼女の仮面は、およそ<ruby><rb>青隈</rb><rt>あおくま</rt></ruby>で塗られた奇怪なものだが、この仮面の鬼女は、甚だ端麗であり、色白で上品な顔をしてどう眺めても美人なことである。

ただ、その美人が、おそろしい鬼女に見える点は、笑っている<ruby><rb>唇元</rb><rt>くちもと</rt></ruby>だけにあった。三日月形に顔の左の方へ向ってキュッと鋭く彫りあげている唇の線が、どんな名匠の<ruby><rb>瞑想</rb><rt>めいそう</rt></ruby>から生れたものか、何ともいえない凄味をふくんでいるのだった。明らかにこれはほんとに生きていた狂女の笑いを写し取ったものに違いない。――武蔵もそういう考えを下して見ていた品である。

「あっ、それはいけない」

この<ruby><rb>家</rb><rt>や</rt></ruby>の若い後家にとっても、それは大事な物とみえ、あわてて彼の手から<ruby><rb>奪</rb><rt>と</rt></ruby>り上げようとすると、城太郎は、頭の上に仮面をかざし、

「いいじゃないか、こんな物、いやだといっても、おいらは貰ッたアと！」

踊りながら逃げ廻って、何といっても返さない。

## 七

調子にのると子どもは<ruby><rb>止</rb><rt>とど</rt></ruby>まりがない。武蔵が、後家の迷惑を察して、

「これっ、なぜそんなことを」

と叱っても、城太郎は浮かれ調子をやめないで、こんどは<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>をふところに入れ、

「いいね、おばさん。おいらにおくれね、いいだろ、おばさん」

梯子を降りて<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>へ逃げてしまう。

若い後家は、

「いけない、いけない」

といいつつ、子供のする振舞なので、怒れもせず、笑いながら追いかけて行ったが、そのまましばらく階下から上がって来ないがと思っていると、やがて城太郎だけが、みしみしと、梯子段をのろく上がって来る様子。

来たら叱ってやろう。――武蔵がそう考えて、上がり口のほうに向って厳しい膝を向けて坐っていると、そこから不意に、

「――ばあア！」

鬼女の笑い仮面が、伸びた体の、先っぽに見えた。

びくっと、武蔵は筋肉をひきしめ、膝がすこし動いたくらいだった。何でそんな衝撃をうけたか、かれにもわからない。――しかしながら薄ぐらい梯子段の口元に手をついている笑い<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>を眺めてすぐ解けた。それは仮面にこもっている名匠の気魄である。白い顎の上から左の耳へかけて<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">きゅっ</span>と笑っている三日月形の<ruby><rb>唇</rb><rt>くち</rt></ruby>元にただよっている妖美にかくれているものだった。

「さ、おじさん、出かけましょう」

と城太郎はそこでいう。

武蔵は起たず、

「まだお返しせぬか。左様なもの、欲しがってはならん」

「だって、いいといったんだよ、もう、くれたんだよ」

「よいとはいわぬ。<ruby><rb>階下</rb><rt>した</rt></ruby>のお方へおもどしして来い」

「ううん、階下で返すといったら、こんどは、あのおばさんの方から、そんなに欲しければ上げる、その代りに大事に持ってくれますかというから、きっと大事に持っていると約束して、ほんとに貰ったんだ」

「困った奴」

この家にとり、大事そうな仮面やら小袖まで、こうして理由なく貰って立つことが、武蔵は何となく気がすまない。

何か気持だけでも礼をのこしてゆきたいと思う。しかし金銭には困らない家らしいし、代りに与える品とても持っていないので、階下へ降りて、改めて、城太郎のぶしつけな<ruby><rb>強請</rb><rt>せが</rt></ruby>みを詫びて、それを戻させようとすると、若い後家は、

「いえ、考え直してみますと、あの<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>は、却って私の家にないほうが、私の気が楽々するかも知れません。それに、あのように欲しがるものゆえ、どうぞ叱らないでくださいませ」

そういう言葉を聞けば、よけいにあの仮面には何か歴史のある物らしく思われるので、武蔵はなお固辞したが、城太郎はもう大得意の<ruby><rb>態</rb><rt>てい</rt></ruby>で、<ruby><rb>草鞋</rb><rt>わらじ</rt></ruby>を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いて、先に門の外へ出て待ちかまえている。

仮面よりも、若い後家は、武蔵に対してほのかに名残りを惜しみながら、この奈良へ来た時は、ぜひまた幾日でも泊ってもらいたいと繰返していう。

「では」

と、ついに何もかも先の好意に甘えて、武蔵が草鞋の緒をむすびかけていると、

「おう、お客さま、まだいらっしゃいましたか」

この<ruby><rb>家</rb><rt>や</rt></ruby>の<ruby><rb>親戚</rb><rt>みより</rt></ruby>という宗因<ruby><rb>饅頭</rb><rt>まんじゅう</rt></ruby>の女房が息をきって門へ入って来た。そして武蔵と、自分の姉になる後家の<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>へむかい、

「だめですよ、お客さま、お立ちどころではありません、たいへんです、とにかくもう一度二階へおもどりなさいませ」

何か怖ろしいことに、背を<ruby><rb>脅</rb><rt>おびや</rt></ruby>かされてでもいるように、歯の根の合わない<ruby><rb>声音</rb><rt>こわね</rt></ruby>でいうのであった。

## 八

武蔵は、草鞋の緒を、両足ともに結んでしまってから、静かに顔をあげた。

「何ですか、大変とは」

「あなたが、今朝ここを立つのを知って、宝蔵院のお坊さま達が、槍を持って、十人余も連れ立ち、<ruby><rb>般若坂</rb><rt>はんにゃざか</rt></ruby>のほうへ行きました」

「ほ」

「その中には、院主の宝蔵院の二代様も見え、町の衆の眼をそばだたせました。何か、よほどな事が起ったのであろうと、宅の<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>が、その中の懇意なお坊さまをとらえて訊いてみると、おまえの<ruby><rb>親戚</rb><rt>みより</rt></ruby>の者の家に四、五日前から泊っている宮本という男が、きょう奈良を離れるらしいから、途中で待ちうけるのだと申すではございませんか」

宗因饅頭の女房は、青眉のあとを<ruby><rb>顫</rb><rt>わなな</rt></ruby>かせて、今朝奈良を立つことは、<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>をすてに立つようなものであるから、二階へかくれて、夜を待って、抜け出したほうがよいと、こうしている間も、気の縮むように告げるのであった。

「ははあ」

武蔵は、そこの上がり<ruby><rb>框</rb><rt>がまち</rt></ruby>に腰を掛けたまま、門へ出ようともせず、二階へ戻ろうともしない。

「般若坂で、拙者を待ちうけるのだろうと、いっていましたか」

「場所はよう分りませぬが、その方角へ行きました。宅の<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>もびっくりして、町の衆がいううわさを問い<ruby><rb>糺</rb><rt>ただ</rt></ruby>してみると、宝蔵院のお坊さまばかりでなく、所々の辻口に、奈良の牢人衆がかたまって、きょうは宮本という男を捕まえて、宝蔵院へ渡すのだといっているそうです。――何かあなたは、宝蔵院の悪口をいって歩きましたか」

「そんな覚えはない」

「でも、宝蔵院のほうでは、あなたが人をつかって、奈良の辻々に落首を書いて貼らせたと、ひどく怒っているそうです」

「知らんな、人違いだろう」

「ですから、そんなことで、お命を落しては、つまらないではございませんか」

「…………」

答えるのを忘れて、武蔵は軒ごしに空を見ていた。思いあたるところがある。きのうだったか<ruby><rb>一昨日</rb><rt>おととい</rt></ruby>だったか、彼の頭にはもう遠いことみたいに忘れていたが、<ruby><rb>春日下</rb><rt>かすがした</rt></ruby>で<ruby><rb>賭</rb><rt>かけ</rt></ruby>試合の興行をやるから仲間に入らないかとすすめに来た牢人者の三名連れ。

たしか一人は<ruby><rb>山添</rb><rt>やまぞえ</rt></ruby>団八といい、後二人は<ruby><rb>野洲川</rb><rt>やすかわ</rt></ruby>安兵衛に大友<ruby><rb>伴立</rb><rt>ばんりゅう</rt></ruby>とかいった。

察するところ、あの折、いやに凄みをふくんだ表情で帰って行ったのは、後にこのことをもって、思い知らしてやるという<ruby><rb>肚黒</rb><rt>はらぐろ</rt></ruby>い考えであったかも知れない。

自分には覚えのない宝蔵院の悪口をいいふらしたとか、落首を書いて辻々にはったとかいう<ruby><rb>所為</rb><rt>しょい</rt></ruby>も、彼らの<ruby><rb>仕業</rb><rt>しわざ</rt></ruby>と思えないことはない。

「行こう」

武蔵は立って、旅づつみの端を胸の前で結び、笠を持って、宗因<ruby><rb>饅頭</rb><rt>まんじゅう</rt></ruby>の女房と、観世の若い後家へ向い、くれぐれ好意を謝して、門を踏みだした。

「どうしても」

観世の後家は、涙ぐんでいるかのような眼で、外まで<ruby><rb>従</rb><rt>つ</rt></ruby>いて来た。

「夜を待っていれば、必ずお宅に<ruby><rb>禍</rb><rt>わざわ</rt></ruby>いがかかります。ご親切をうけたり、迷惑をかけたりしては申しわけがない」

「かまいません、私のほうは」

「いや、立ちましょう。――城太郎、お礼をいわんか」

「おばさん」

と、呼んで、城太郎は頭を下げた。にわかに彼も元気がない。それは別れを惜しむためとは見えないのである。思うに城太郎はまだ武蔵の本当を知らないし、京都にいたころから弱い武者修行と聞かされているので、自分の師匠の行く先に、音に聞えた宝蔵院衆が、槍をつらねて待っていると聞き、子供心にも、一抹の不安を覚えて、悲壮になっているのであろう。

## <ruby><rb>般若野</rb><rt>はんにゃの</rt></ruby>

## 一

「城太郎」

足を止めて、武蔵が振向く。

「はい」

城太郎は眉をびりっとさせた。

奈良の町はもう後ろだった。東大寺ともかけ離れている。月ヶ瀬街道は杉木立のあいだを通って、その杉の樹の<ruby><rb>縞</rb><rt>しま</rt></ruby>のあいだから見えるものは、やがて近い<ruby><rb>般若坂</rb><rt>はんにゃざか</rt></ruby>にかかるなだらかな春野の傾斜と、それを裾にして右手の空にふくらんで乳房を持っているような三笠山の胸のあたりがここからは近い感じである。

「なんですか」

ここまで、七町あまり、ニコともしないで、黙々と<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて来た城太郎であった。一歩一歩が、<ruby><rb>冥途</rb><rt>めいど</rt></ruby>とやらへ近くなる気持なのだ。さっき、<ruby><rb>湿々</rb><rt>じめじめ</rt></ruby>として、うす暗い東大寺の横を通って来た時、襟元にポタリと落ちた<ruby><rb>雫</rb><rt>しずく</rt></ruby>にも、きゃっと思わずいってしまいそうな驚きをしたし、人間の<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>に怖がらない<ruby><rb>鴉</rb><rt>からす</rt></ruby>の群れにも、いやな気持がして、そのたび武蔵のうしろ姿も影がうすく見える。

山の中へでも、お寺の内へでも、隠れようとすれば隠れ込めないことはない、逃げようと思えば逃げられないことはない。それを何でこうして、宝蔵院衆が行ったという般若野のほうへ、自分から足を向けてしまうのだろうか。

城太郎には、考えられない。

（行って、<ruby><rb>謝</rb><rt>あやま</rt></ruby>る気かしら？）

その程度の想像はしてみる。謝るなら、自分も、一緒になって、宝蔵院衆に謝ろうと思う。

どっちがいいとか悪いとかなどは、問題でない。

そこへ武蔵が足を止め――城太郎――こう呼んだので彼はわけもなくドキッとしたのだった。しかし、自分の顔いろは、きっと蒼くなっているだろうにと考え、それを武蔵に見られまいとするらしく陽を仰いだ。

武蔵も上を仰いでいる。心ぼそいものが世の中のこう二人みたいに、城太郎の気持をつつんだ。

案外、次に出た武蔵の言葉は、ふだんの調子とちっとも変っていない。こういうのだ。

「いいなあ、これからの山旅は、まるで<ruby><rb>鶯</rb><rt>うぐいす</rt></ruby>の声を踏んで歩いて行くようじゃないか」

「え？　なんですか」

「鶯がさ」

「あ。そうですね」

うつつである。<ruby><rb>朱</rb><rt>あか</rt></ruby>くない少年の唇でも、武蔵にはそれが分った。かわいそうな子だと思うのであった。ことによれば、これきりで別れになるかも知れないと考えるからである。

「<ruby><rb>般若野</rb><rt>はんにゃの</rt></ruby>がもう近いな」

「え、奈良坂も過ぎましたよ」

「ところで」

「…………」

あたりに啼きぬく鶯が、ただ寒々しいものに城太郎の耳を通ってゆく。城太郎の眼は、<ruby><rb>硝子玉</rb><rt>ガラスだま</rt></ruby>のように曇って、武蔵の顔をぼうと見上げている。今朝、鬼女の笑い<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>を両手にあげて、嬉々と逃げまわっていた子供の眼と一つものとは思えないほど静かな<ruby><rb>瞼</rb><rt>まぶた</rt></ruby>である。

「もうそろそろだ、わしとここでわかれるのだぞ」

「…………」

「わしから離れろ。――でないと<ruby><rb>側杖</rb><rt>そばづえ</rt></ruby>を食う、お前が怪我をする理由はちっともない」

ポロポロと眼が溶けて頬に白いすじを描いてながれる。ふたつの手の甲が、そうっと<ruby><rb>睫毛</rb><rt>まつげ</rt></ruby>へ行ったと思うと、肩がしゅくっと泣いて、それから<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">しゃっくり</span>のように、体じゅうですすり上げた。

「何を泣く、兵法者の弟子じゃないか。わしが万一、血路をひらいて走ったら走ったほうへおまえも逃げろ。また、わしが突き殺されたら、元の京都の居酒屋へ帰って奉公せい。――それを、ずっと離れた小高い所でおまえは見ているのだ。いいか、これ……」

## 二

「なぜ泣く」

武蔵がいうと、城太郎は濡れた顔を振り上げて、武蔵の<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>を引っぱった。

「おじさん、逃げよう」

「逃げられないのが侍というものだ。おまえは、その侍になるのじゃないか」

「<ruby><rb>恐</rb><rt>こわ</rt></ruby>い。死ぬのが恐い」

城太郎は戦慄しながら、武蔵の袂を、懸命にうしろへ引いて、

「おらが可哀そうだと思って、逃げてよう、逃げてよう」

「ああ、それをいわれるとおれも逃げたい。おれも幼少から骨肉に恵まれなかったが、おまえもおれに劣らない親の縁にうすい奴だ。逃げてやりたいが――」

「さ、さ、今のうちに」

「おれは侍、おまえも侍の子じゃないか」

力が尽きて、城太郎はそこへ坐ってしまった。手でこする顔から黒い水がぼたぼた落ちた。

「だが、心配するな。おれは負けないつもりだ。いやきっと勝つ。勝てばよかろう」

そう慰めても、城太郎は信じない。先に待ち伏せている宝蔵院衆は十人以上だと聞かされているからだった。弱い自分の師匠には、その一人と一人との勝負でも、勝てるわけはないと思っているのである。

きょうの死地へ当ってゆくには、そこで生きるも死ぬも十分な心構えが要る。いやすでにその心構えの中に立っているのだ。武蔵は、城太郎を愛しもするし<ruby><rb>不愍</rb><rt>ふびん</rt></ruby>にも思ってはいるが、面倒になった、<ruby><rb>焦</rb><rt>じ</rt></ruby>れったくなった。

ふいに激越な声で叱ったのである。彼を突き離すとともに、自分へ弾力を持って、

「だめだッ、貴様のような奴、武士にはなれん、居酒屋へ帰れ」

強い侮辱をあびせられたように少年のたましいはその声に泣きじゃくりを止めた。はっとした顔いろをもって、城太郎は起ち、そして、もう大股に彼方へ歩いてゆく武蔵のうしろ姿へ、

（――おじさアん）

叫びそうにしたが、それを<ruby><rb>怺</rb><rt>こら</rt></ruby>えて、そばの杉の樹へしがみつき、両手の中に顔を埋めた。

武蔵は振り向かなかった。しかし、城太郎の泣きじゃくりがいつまでも耳にこびりついていて、もう頼り<ruby><rb>人</rb><rt>びと</rt></ruby>のない<ruby><rb>薄命</rb><rt>はくめい</rt></ruby>な少年のおろおろした姿が背中に見える気がしてならない。

（よしなき者を連れて歩いて――）

と、彼は心に悔いを噛むのであった。

未熟な自分の身一つさえ持てあましているものを――孤剣を<ruby><rb>抱</rb><rt>いだ</rt></ruby>いて<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>のことさえ知れない身であるものを。――思えば、修行中の兵法者に道づれは<ruby><rb>要</rb><rt>い</rt></ruby>らないものだった。

「おうーい。武蔵どの」

いつか杉林を通りぬけて、ひろい野へ出ていた。野というよりは、斜めに起伏を落している<ruby><rb>山裾</rb><rt>やますそ</rt></ruby>である。彼を呼んだ男は、三笠山の山道のほうからその裾野へ出て来たらしく、

「何処へお<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>でか」

二度目のことばをかけながら駈けて来て、<ruby><rb>馴々</rb><rt>なれなれ</rt></ruby>しく肩をならべた。

いつぞや泊り先の観世の後家の家へやって来た三名の牢人者のうちで、<ruby><rb>山添</rb><rt>やまぞえ</rt></ruby>団八と名乗ったあの男なのである。

――来たな。

武蔵はすぐ看破した。

だが、さあらぬ顔して、

「おう、先日は」

「いや過日は失礼を」

あわてて挨拶をし直したその礼儀ぶりが、いやに叮嚀である。<ruby><rb>上目</rb><rt>うわめ</rt></ruby>づかいに武蔵の顔いろを窺っていった。

「その節のことは、どうか水にながして、お聞き捨てのほどを」

## 三

このあいだ宝蔵院で、目に見た武蔵の実力には、大いに怖れを抱いている山添団八であるが、それかといって年はまだ二十一、二歳の田舎武士にすこし<ruby><rb>鰭</rb><rt>ひれ</rt></ruby>がついて世間へ泳ぎ出した程度にしか見えない武蔵に対して、<ruby><rb>肚</rb><rt>はら</rt></ruby>から<ruby><rb>兜</rb><rt>かぶと</rt></ruby>を脱いではいない。

「武蔵どの。これから、旅はどちらの方面へ」

「伊賀を越え、伊勢路へ参ろうと思う。――貴公は」

「それがしは、ちと用事があって、月ヶ瀬まで」

「柳生谷は、あの近傍ではありませんか」

「これから四里ほどして大柳生、また一里ほど行くと小柳生」

「有名な柳生殿の城は」

「笠置寺から遠くないところじゃ。あれへもぜひ立ち寄って行かれたがよいな。もっとも今、大祖<ruby><rb>宗厳</rb><rt>むねよし</rt></ruby>公は、もう茶人同様に別荘のほうへ引き籠られ、御子息の但馬守<ruby><rb>宗矩</rb><rt>むねのり</rt></ruby>どのは、徳川家に召されて、江戸に行っているが」

「われらのような一介の遍歴の者にでも、授業して下さろうか」

「たれかの紹介状でもあればなおよろしいが。――そうそう月ヶ瀬に<ruby><rb>此方</rb><rt>このほう</rt></ruby>の懇意にしている<ruby><rb>鎧師</rb><rt>よろいし</rt></ruby>で柳生家へも出入りしている老人がある、なんなら頼んであげてもよいが」

団八は、武蔵の左へ左へと、特に意識して並んで歩いていた。所々に、杉や<ruby><rb>槙</rb><rt>まき</rt></ruby>などの樹がぽつねんと孤立しているほか、野の視野は何里となく広かった。ただ大きな起伏が低い丘を描き、そこを縫う道に多少のゆるい登りや降りがあるだけである。

<ruby><rb>般若坂</rb><rt>はんにゃざか</rt></ruby>に近いころであった。その一つの丘の<ruby><rb>彼方</rb><rt>かなた</rt></ruby>から、誰か、<ruby><rb>焚火</rb><rt>たきび</rt></ruby>でもしているらしく茶褐色のけむりが見える。

武蔵は、足を止め、

「はてな？」

「何が」

「あの煙」

「それがどうしたのでござる」

団八は、ぴったり寄り添っている。そして武蔵の顔いろを見る彼の顔いろが、やや硬ばる。

武蔵は指さして、

「どうもあの煙には妖気があるように思う。貴公の眼には、どう見えるな」

「妖気というと？」

「たとえば」

と、煙へさしていた指を、こんどは団八の顔の真ン中へさして、

「汝のひとみに漂っているようなものをいう！」

「えっ」

「見せてやるっ、このことだっ！」

突然、春野のうららかな<ruby><rb>静寂</rb><rt>しじま</rt></ruby>をやぶッて、キェッ――という異な悲鳴が走ったと思うと、団八のからだも向うへ飛び退き、武蔵の体もうしろへ<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ね返っていた。

何処かで、

「あっ――」

と驚いていう者があった。

それは二人が越えて来た丘のうえにチラと今、影を見せて<ruby><rb>此方</rb><rt>こっち</rt></ruby>を見ていた人間である、それも二人連れであった。

「やられたっ！」

というような意味の大声をあげて、その者たちは、手を振り上げながら何処かへ走ってゆく。

――武蔵の手には、低く持った<ruby><rb>刃</rb><rt>は</rt></ruby>がキラキラと陽の光を<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ねている。そして、飛び上がって仆れたなり山添団八はもう起たないのである。

<ruby><rb>鎬</rb><rt>しのぎ</rt></ruby>の血を、垂直にこぼしながら、武蔵はまたしずかに歩み出した。野の花を踏みながら<ruby><rb>焚火</rb><rt>たきび</rt></ruby>のけむりが立つ次の丘の肩へ。

## 四

女の手で撫でられるように<ruby><rb>鬢</rb><rt>びん</rt></ruby>をなぶる春の微風がある。武蔵は、しかし自分の髪の毛がみな逆立っているかと思う。

一歩、一歩、彼のからだは鉄みたいに肉が<ruby><rb>緊</rb><rt>し</rt></ruby>まった。

丘に立つ。――下を見る。

なだらかな野の沢がひろく見渡された。<ruby><rb>焚火</rb><rt>たきび</rt></ruby>は、そこの沢で焚いているのだ。

「来たっ――」

さけんだのは、その焚火を囲んでいた大勢の者ではなくて、武蔵の位置をずっと離れて、そこへ駈け足で<ruby><rb>迂回</rb><rt>うかい</rt></ruby>して行った二人の男だった。

今、武蔵の足もとで、一太刀に斬りすてられた山添団八の仲間の者――<ruby><rb>野洲川</rb><rt>やすかわ</rt></ruby>安兵衛と、<ruby><rb>大友伴立</rb><rt>おおともばんりゅう</rt></ruby>という牢人であることはもう明らかに分るほどな距離である。

来たっという声に対して、

「え、来たっ？」

おうむ返しにいって、焚火のまわりの者は、いっせいに大地から腰を刎ね上げ、また、そこから離れて、思い思いに陽<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">なた</span>に<ruby><rb>屯</rb><rt>たむろ</rt></ruby>していた者達も、すべて、総立ちになった。

人数はというと、およそ三十名近い。

そのうち約半数は僧であり、あと半数ほどは雑多な牢人者の群れなのである。丘の肩を越えてこの野の沢から般若坂へぬけてゆく道の、その丘の上に、今、武蔵の姿が現われたのを認めると、

（うむ！）

声としては出ない一種の<ruby><rb>殺伐</rb><rt>さつばつ</rt></ruby>な<ruby><rb>動揺</rb><rt>どよ</rt></ruby>めきが、その群れの上に<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>りわたった。

しかも、武蔵の手には、すでに血を塗った剣が<ruby><rb>提</rb><rt>さ</rt></ruby>げられている。戦闘は、お互いのすがたを見ぬ前から口火を切ってしまったのだ。それも、待ち伏せていた多勢のほうからではなく、<ruby><rb>計</rb><rt>はか</rt></ruby>られて来たはずの武蔵のほうから宣戦しているのだ。

野洲川、大友の二人は、

「――山添が、山添が」

と早口にいって、仲間の一人が、すでに武蔵の刃にかかって仆れたことを、<ruby><rb>大仰</rb><rt>おおぎょう</rt></ruby>な手つきで告げているらしく見える。

牢人たちは、歯がみをし、宝蔵院の僧たちは、

「<ruby><rb>小癪</rb><rt>こしゃく</rt></ruby>な」

と、陣容を作って、武蔵のほうを<ruby><rb>睨</rb><rt>ね</rt></ruby>めつけた。

宝蔵院衆の十数名は、みな槍だった。片鎌の槍、ささ穂の槍、思い思いの一槍をかいこんで、黒衣のたもとを背にむすび、

「――おのれ、今日こそ」

と、院の名誉と、<ruby><rb>高足阿巌</rb><rt>こうそくあごん</rt></ruby>の無念を、ここでそそごうとする宿意が、もう<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>も向けられない。ちょうど、地獄の<ruby><rb>邏卒</rb><rt>らそつ</rt></ruby>が列を作っているのと変りはない。

牢人たちは、牢人たちのみで、一団にかたまって、武蔵が逃げないように包囲しながら見物しようという計画らしく、中には、げらげら笑っている者がある。

けれど、その手数は不要だった。彼らは、居どころに立ったまま、自然な鶴翼の陣形を作っていればそれでよかった。敵の武蔵に、すこしも、逃げたり、狼狽したりする様子がないからである。

武蔵は歩いている。

それも極めて、一足一足、<ruby><rb>粘</rb><rt>ねば</rt></ruby>る土でも踏んでいるように、やわらかな若草の崖を、少しずつ、しかし――いつ<ruby><rb>鷲</rb><rt>わし</rt></ruby>のごとく飛ぶかも知れない姿勢をもちながら、眼にあまる人数の前へ――というよりは死地へ――近づいて来るのであった。

## 五

――来るぞっ。

もう口に出していう者はない。

けれど、徐々に、片手に剣をさげた武蔵の姿が、<ruby><rb>沛雨</rb><rt>はいう</rt></ruby>をつつんだ一<ruby><rb>朶</rb><rt>だ</rt></ruby>の<ruby><rb>黒雲</rb><rt>こくうん</rt></ruby>のように、敵の<ruby><rb>心</rb><rt>しん</rt></ruby>へ、やがて降りかかるものを、恐怖させていたことは<ruby><rb>慥</rb><rt>たし</rt></ruby>かである。

「…………」

不気味な一瞬の静けさは、双方が死を考える瞬間であるのだ。武蔵の顔はまったく蒼白になっている。死神の眼が、彼の顔を借りて、

（――どれから先に）

と、<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>っているかのような光になっている。

牢人の群れも、宝蔵院衆の列も、その一人の敵に対して、圧倒的な多数を擁してはいるが、彼ほど、蒼白になっている顔は一つもなかった。

（――<ruby><rb>多寡</rb><rt>たか</rt></ruby>が）

と、衆を<ruby><rb>恃</rb><rt>たの</rt></ruby>んでいる気持が、どこかに楽天的なものを<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>え、ただ死神の眼に真っ先につかまることを、お互いが警戒しているだけに過ぎない。

――と。

槍をつらねている宝蔵院衆の列の端にいた一人の僧が、合図を下したかのように見えた時である、十数名の黒衣の<ruby><rb>槍仕</rb><rt>やりし</rt></ruby>は一斉に、わっと、<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>きながら、その列をくずさずに、武蔵の右がわへ、駈け廻った。

「武蔵――ッ」

と、その僧がさけんだ。

「聞くところによれば、汝、いささかの腕を誇って、この<ruby><rb>胤舜</rb><rt>いんしゅん</rt></ruby>が留守中に、門下の<ruby><rb>阿巌</rb><rt>あごん</rt></ruby>を仆し、またそれに増長して、宝蔵院のことを、<ruby><rb>悪</rb><rt>あ</rt></ruby>しざまに世間へいいふらしたのみか、辻々へ、落首など貼らせて、吾々を嘲笑したと申すことであるが、<ruby><rb>確</rb><rt>しか</rt></ruby>とそうか」

「ちがう！」

武蔵の答えは、簡明だった。

「よく物事は、眼で見、耳できくばかりでなく、肚で<ruby><rb>観</rb><rt>み</rt></ruby>ろ、坊主ともある者が」

「なにッ」

<ruby><rb>薪</rb><rt>まき</rt></ruby>へ油である。

胤舜をさし<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>いて、ほかの僧たちが口々に、

「問答無用っ」

といった。

すると、挟撃の形をとって、武蔵の左がわにむらがっていた牢人たちが、

「そうだっ」

「むだ口を叩かすなっ」

がやがやと<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>り出して、自分たちの抜いている<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>を振り、宝蔵院衆が手を下すのを<ruby><rb>煽動</rb><rt>せんどう</rt></ruby>した。

武蔵は、そこの牢人達のかたまりが、口ばかりで、質も結束も<ruby><rb>脆</rb><rt>もろ</rt></ruby>いことを、見抜いたらしく、

「よしっ、問答に及ぶまい。――誰だっ、相手は」

彼の眼が、きっと、自分たちへかかったので、牢人たちは、思わず足を<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>いてくずれ、中の二、三名だけが、

「おれだっ」

けなげに、大刀を中段にかまえると、武蔵はいきなりその一人に向って、<ruby><rb>軍鶏</rb><rt>しゃも</rt></ruby>のような飛躍を見せた。

どぼっと、<ruby><rb>栓</rb><rt>せん</rt></ruby>の飛んだような音がして、血しおが宙を染めた。同時にぶつけ合う<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>と生命の響きだった。単なる気合いでもない、また言葉でもない、異様な<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>きが人間の<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>から発するのである。<ruby><rb>正</rb><rt>まさ</rt></ruby>しくそれは人間の会話でも表現でもなく原始林でする<ruby><rb>獣</rb><rt>けもの</rt></ruby>の<ruby><rb>吼</rb><rt>ほ</rt></ruby>える声に近いものであった。

ずずんっ、ずしいんっ、と武蔵の手にある<ruby><rb>刃鉄</rb><rt>はがね</rt></ruby>が、つよい震動を、自己の心臓へ送るたびに、彼の剣は人間の骨を斬っているのだった。一<ruby><rb>颯</rb><rt>さつ</rt></ruby>ごとに、その<ruby><rb>鋩子</rb><rt>きっさき</rt></ruby>から虹のように血を<ruby><rb>噴</rb><rt>ふ</rt></ruby>き、血は<ruby><rb>脳漿</rb><rt>のうみそ</rt></ruby>を<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>き、指のかけらを飛ばし、<ruby><rb>生</rb><rt>なま</rt></ruby>大根のように人間の腕を草むらへ<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り出した。

## 六

初めから、牢人たちの側には、<ruby><rb>弥次気分</rb><rt>やじきぶん</rt></ruby>と楽天的な<ruby><rb>気</rb><rt>け</rt></ruby>ぶりが、多分に漂っていて、

（――闘うのは宝蔵院衆、おれたちは、人殺しの見物）

と考えていたらしいのである。

武蔵が、そこの群れを、<ruby><rb>脆弱</rb><rt>ぜいじゃく</rt></ruby>と<ruby><rb>観</rb><rt>み</rt></ruby>て、いきなり彼らの一団へ衝いて行ったのは戦法としても当然だ。

だが、彼らも、あわてはしなかった。彼らの頭には、宝蔵院の<ruby><rb>槍仕</rb><rt>やりし</rt></ruby>たちが控えているという絶対的な<ruby><rb>恃</rb><rt>たの</rt></ruby>みがある。

ところが。

すでに戦闘はひらかれ、自分たちの伸間が二人仆れ、五人、六人と、武蔵の太刀にかかっているのに、宝蔵院側は、槍を横に並べて傍観しているのみで、一人も武蔵へ対して、突いて来ないではないか。

くそっ、くそっ――

やっちまえ、早く。

うわうッ。

だッ……だッ……

こなくそっ。

ぎゃんっ！

あらゆる音響が<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>の中から発し、奇怪なる宝蔵院衆の不戦的態度に、<ruby><rb>業</rb><rt>ごう</rt></ruby>をにやし、不平をさけび、助勢を求め抜くのだったが、槍の整列は、いッこう動かない。声援もしない。まるで水のごとき列である。かくてみすみす武蔵のため、斬りまくられている彼らには、

（これでは、約束がちがう、この敵はそっちのもので、おれたちは第三者だ、これではあべこべではないか）

という苦情を言葉でいう<ruby><rb>遑</rb><rt>いとま</rt></ruby>すらないのだ。

酒に酔った<ruby><rb>泥鰌</rb><rt>どじょう</rt></ruby>のように、彼らは、血にあたまが<ruby><rb>眩</rb><rt>くら</rt></ruby>んでしまった。仲間の<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>が仲間を撲り、人の顔が、自分の顔みたいに見え、そのくせ敵の武蔵の影は、<ruby><rb>確</rb><rt>しか</rt></ruby>と認めることができないため、ふり廻す彼らの刀は、従って、味方同士の危険であるばかりであった。

もっとも武蔵自身もまた、自分が何を行動しているか、一切無自覚であった。ただ彼の生命を構成している肉体の全機能が、その一瞬に、三尺に足らない刀身に<ruby><rb>凝</rb><rt>こ</rt></ruby>りかたまって、まだ<ruby><rb>五歳</rb><rt>いつつ</rt></ruby>か<ruby><rb>六歳</rb><rt>むっつ</rt></ruby>の幼少から、きびしい父の手でたたきこまれたものだの、その後、関ヶ原の<ruby><rb>戦</rb><rt>いくさ</rt></ruby>で体験したものだの、また、独り山の中へ入って樹を相手に自得したもの、さらに、諸国をあるいて諸所の道場で理論的にふだん考えていたものだの、およそ今日まで経て来たすべての鍛錬が、意識なく、五体から火花となって発しているに過ぎないのである。――そして、その五体は、蹴ちらす土や草とも同化して、完全に、人間を<ruby><rb>解脱</rb><rt>げだつ</rt></ruby>した風の<ruby><rb>相</rb><rt>すがた</rt></ruby>となっている。

――死生一如。

どっちへ帰することも頭にない人間のある時の<ruby><rb>相</rb><rt>すがた</rt></ruby>。

それが、今、白刃のなかを駈けまわっている武蔵の姿だった。

（斬られては損）

（死にたくない）

（なるべく他人に当らせて――）

というような雑念の傍らに刃物をふり廻している牢人たちが、歯ぎしりしても、一人の武蔵を斬り仆し得ないのみか、却って、その死にたくない奴が、<ruby><rb>盲目</rb><rt>めくら</rt></ruby>あたりに真っ向から割りつけられたりしてしまうのも皮肉ではあるが、是非もない。

槍をならべている宝蔵院衆の中の一人が、それを眺めながら、自分の呼吸をかぞえていると、その時間は、呼吸のかずにして約十五か、二十をかぞえるに足らない寸秒の間であった。

武蔵の全身も血。

残っている十人ほどの牢人もみな血まみれ。あたりの大地、あたりの草、すべてが朱く<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">泥んこ</span>になって、吐き気を催すような<ruby><rb>血腥</rb><rt>ちなまぐ</rt></ruby>さいものが<ruby><rb>漲</rb><rt>みなぎ</rt></ruby>ると、それまで支えていた牢人たちも、とうとう<ruby><rb>恃</rb><rt>たの</rt></ruby>む助勢を待ちきれなくなって、

「わあっ――」

と<ruby><rb>迅</rb><rt>はや</rt></ruby>く――或る者は――ひょろひょろと、八方へ逃げ足を散らかした。

それまでは、満を持して、白い穂先をつらねていた宝蔵院の<ruby><rb>槍仕</rb><rt>やりし</rt></ruby>たちが、どっと、一斉にうごいたのは、それからであった。

## 七

「神さま！」

<ruby><rb>掌</rb><rt>て</rt></ruby>をあわせて、城太郎は、大空を拝んでいた。

「――神さま、加勢してください。わたくしのお師匠様は今、この下の沢で、あんな大勢の敵と、ただ独りで闘おうとしているんです。わたくしのお師匠様は、弱いけれど、悪い人間ではありません」

武蔵に捨てられても、その武蔵から離れられないで、遠く見まもりながら、彼は今<ruby><rb>般若野</rb><rt>はんにゃの</rt></ruby>の沢の上にあたるところへ来て、ぺたっと坐っている。

<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>も笠もそばへ置いて、

「――八幡さま、<ruby><rb>金毘羅</rb><rt>こんぴら</rt></ruby>さま、<ruby><rb>春日</rb><rt>かすが</rt></ruby>の宮の神さま達！　あれあれ、お師匠様はだんだん敵の前へ歩いてゆきます。正気の沙汰ではありません。かわいそうに、ふだん弱いものですから、今朝からすこし気が変になってしまったんです。さもなければ、あんな大勢の前へ、一人で向ってゆくはずはありません。どうか神さま達！　一人のほうへ助太刀して下さい」

百拝、千拝、その城太郎こそ気が変になったように、しまいには声を揚げて繰返すのであった。

「――この国に神様はいないんでしょうか。もし卑怯な大勢が勝って、正しい一人のほうが斬られたり、正義でない者が存分なまねをして、正しい者がなぶり殺しになったりしたら、むかしからの云い伝えはみな嘘ッぱちだといわれても仕方がありますまい。イヤ、おいらは、もしそうなったら神さま達に<ruby><rb>唾</rb><rt>つば</rt></ruby>してやるぞ！」

理窟は幼稚であっても、彼の眸は血ばしっていて、むしろもっと深い理窟のある<ruby><rb>大人</rb><rt>おとな</rt></ruby>のさけびよりも、天をしてその権まくに驚かしめるものがあった。

それだけには止まらない。やがて、城太郎は、彼方のひくい芝地の沢に見える一かたまりの人数が、ただ一人の武蔵を、刃の中に取り囲んで、針をつつんで吹く<ruby><rb>旋風</rb><rt>つむじ</rt></ruby>のような光景を描き出すと、

「――畜生っ」

ふたつの<ruby><rb>拳</rb><rt>こぶし</rt></ruby>と共に飛び上がり、

「卑怯だっ」

と、絶叫し、

「ええ、おいら大人ならば……」

と、地だんだ踏んで泣き出し、

「馬鹿っ、馬鹿っ」

と、そこらじゅうを駈けあるき、

「――おじさアん！　おじさアん！　おいらは、ここにいるよッ」

しまいには彼自身が、完全なる神さまとなり切って、

「――<ruby><rb>獣</rb><rt>けだもの</rt></ruby>っ、獣っ、お師匠様を殺すと、おれが承知しないぞっ！」

ありッたけな声で、さけんでいたものである。

そして、そこからの遠目にも、<ruby><rb>彼方</rb><rt>かなた</rt></ruby>の真っ黒な斬り合いの<ruby><rb>渦中</rb><rt>かちゅう</rt></ruby>から、ぱッ、ぱッ、と血しぶきが立ち、一つ仆れ二つ仆れ、死骸が野にころがるのを見ると、

「ヤッ、おじさんが斬った。――お師匠様はつよいぞっ」

こんな多量な血しおを<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>いて、人間同士が獣性の上に乱舞する実際を、この少年は、生れて初めて目撃したにちがいない。

いつか城太郎は、自分も<ruby><rb>彼方</rb><rt>あなた</rt></ruby>の渦中にあって、体じゅうを血で塗っているかのように酔ってしまい、その異様な興奮は、彼の心臓に<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">もんどり</span>打たせた。

「――ざま見ろッ、どんなもんだい。おたんちん！　ひょっとこ！　おいらのお師匠様は、こんなもンだ。カアカア<ruby><rb>鴉</rb><rt>からす</rt></ruby>の宝蔵院め、ざまあ見さらせ！　槍ばかり並べてやがって、手も出まい、足も出まい！」

だが、やがて<ruby><rb>彼方</rb><rt>むこう</rt></ruby>の形勢が一変して、それまで静観していた宝蔵院衆の槍が、俄然うごき出すと、

「あっ、いけない、総攻めだっ」

武蔵の危機！　今が最期と彼にも分った。城太郎はついに身のほども忘れてしまい、その小さい体を火の玉のように<ruby><rb>憤</rb><rt>いきどお</rt></ruby>らせて、丘の上から一箇の岩でも転がるかのように駈け下りていた。

## 八

宝蔵院初代の槍法をうけて、隠れもない達人といわれる二代<ruby><rb>胤舜</rb><rt>いんしゅん</rt></ruby>は、

「よしッ、やれっ」

その時、すさまじい声をもって、さっきから静観の槍先を横たえたまま、<ruby><rb>撓</rb><rt>た</rt></ruby>め切っていた十数名の門下の坊主たちへ、号令したのである。

ぴゅうーっと、白い光はその途端に、蜂を放ったように八方へ走った。坊主あたまというものには、一種特別な剛毅と野蛮性がある。

くだ槍、片鎌、ささほ、十文字、おのおのがつかい馴れた一槍を横たえて、そのカンカチ頭とともに、血に飢えて躍ったのだ。

――ありゃあっ。

――えおうっ。

<ruby><rb>野彦</rb><rt>のびこ</rt></ruby>を揚げて、もうその槍先の幾つかは血を塗っている。きょうこそまたとない、実地の稽古日のように。

――武蔵は、<ruby><rb>咄嗟</rb><rt>とっさ</rt></ruby>に、

（新手！）

と感じて飛び<ruby><rb>退</rb><rt>しさ</rt></ruby>っていた。

（見事に死のう！）

もう疲れて霞んでいる脳裏でふとそう考え、<ruby><rb>血糊</rb><rt>ちのり</rt></ruby>でねばる刀の<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>を両手でぎゅっと持ったまま、汗と血でふさがれた<ruby><rb>眼膜</rb><rt>がんまく</rt></ruby>をじっと<ruby><rb>瞠</rb><rt>みは</rt></ruby>っていたが、彼に向って来る槍は一つもなかった。

「……や？」

どう考えてもあり得ない光景が展開されていた。茫然と、彼は、その不可思議な事実を見まわしてしまった。

なぜならば、坊主あたまの<ruby><rb>槍仕</rb><rt>やりし</rt></ruby>たちが、われがちに<ruby><rb>獲物</rb><rt>えもの</rt></ruby>を争う<ruby><rb>猟家</rb><rt>りょうか</rt></ruby>の犬みたいに、追いまわしてズブズブ突き刺しているのは、彼らとは、味方であるはずの牢人たちへ向ってであった。

からくも、武蔵の太刀先から逃げ退いて、ほっとしかけていた連中までが、

「待てっ」

と、呼ばれたので、まさかと思って待っていると、

「<ruby><rb>蛆虫</rb><rt>うじむし</rt></ruby>めら」

と不意の槍先に突っかけられて、宙へ刎ね飛ばされたりした。

「やいっ、やいっ、何するんだっ、気が狂ったか。馬鹿坊主め、相手を見ろっ、相手が違うっ」

と叫んだり転げたりする者の尻を狙って、撲る者があるし、突く者があるし、また、左の頬から右の頬へ槍を突きとおして、槍を<ruby><rb>咥</rb><rt>くわ</rt></ruby>えられたと思い、

「離せっ」

と<ruby><rb>目刺魚</rb><rt>めざし</rt></ruby>みたいに振廻しているのもある。

おそろしい<ruby><rb>屠殺</rb><rt>とさつ</rt></ruby>の行われたその瞬間の後、何ともいえないしんとした影が野を<ruby><rb>掩</rb><rt>おお</rt></ruby>った。<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>を向けるに堪えないように、太陽にも雲がかかっていた。

みな殺しだった。あれだけいた牢人者を、一人としてこの般若野の沢から外へ洩らさなかったのである。

武蔵は、自分の眼が信じられなかった。太刀を構えていた手も、張りつめていた気も、茫然とはなりながら、<ruby><rb>弛</rb><rt>ゆる</rt></ruby>めることができなかった。

（――何で？　彼ら同士が）

まったく判断がつかないのである。いくら今、武蔵自身の人間性が、人間を離脱した血の奪いあいに、<ruby><rb>夜叉</rb><rt>やしゃ</rt></ruby>と<ruby><rb>獣</rb><rt>けもの</rt></ruby>のたましいを一つに持つような体熱からまだ<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>めきれないでいるにしても――余りに思いきった<ruby><rb>殺戮</rb><rt>さつりく</rt></ruby>に眼がくらむ心地がする。

いやそう感じたのは、他人のする虐殺を見せられて、途端に、彼は本来の人間に<ruby><rb>回</rb><rt>かえ</rt></ruby>ってしまった証拠といえる。

同時に彼は、地中へふかく突っ込んでいるように力で硬くなっている自分の脚に、――また、自分の両手にしがみついて、オイオイ泣いている城太郎にも、ふと気がついた。

## 九

「初めてお目にかかる。――宮本殿といわるるか」

つかつかと歩み寄って来て、こういんぎんに礼儀をする長身<ruby><rb>白皙</rb><rt>はくせき</rt></ruby>の僧を、目の前に見て、

「オ……」

武蔵は、われに帰って、<ruby><rb>刃</rb><rt>やいば</rt></ruby>を下げた。

「お見知りおき下さい。わたくしが宝蔵院の<ruby><rb>胤舜</rb><rt>いんしゅん</rt></ruby>です」

「む。あなたが」

「過日は、せっかくお訪ね下された由ですが、不在の折で、残念なことをしました。――なお、そのせつは門下の<ruby><rb>阿巌</rb><rt>あごん</rt></ruby>が、<ruby><rb>醜</rb><rt>みぐる</rt></ruby>しい<ruby><rb>態</rb><rt>てい</rt></ruby>をお目にかけ、彼の師として胤舜も恥じ入っております」

「…………」

はてな？

武蔵は、相手のことばを、耳を洗って聞き直すように、しばらくだまっていた。

この人の言語や、言語にふさわしい立派な態度を、こちらも、礼儀をもって受け容れるには、武蔵はまず、自分の頭の中に混雑しているものから先に整えて聞かなければならなかった。

それにはまず宝蔵院衆が、何が故に、自分に向けてくるはずの槍を、<ruby><rb>遽</rb><rt>にわ</rt></ruby>かに逆さにして味方と信じて油断していた牢人どもを、みなごろしに<ruby><rb>刺殺</rb><rt>しさつ</rt></ruby>してしまったのか？

その<ruby><rb>理由</rb><rt>わけ</rt></ruby>が、武蔵には解きようもない。意外な結果に、ただあきれているのだ。自分の生命の健在にさえあきれているのだ。

「<ruby><rb>血糊</rb><rt>ちのり</rt></ruby>のよごれでもお洗いになって、ご休息なされい。――さ、こちらで」

胤舜は、先に歩いて、<ruby><rb>焚火</rb><rt>たきび</rt></ruby>のそばへ武蔵を誘ってゆく。

城太郎は、彼のたもとを離れなかった。

用意して来た奈良<ruby><rb>晒布</rb><rt>ざらし</rt></ruby>を一反も裂いて、坊主たちは、槍を拭いていた。その坊主たちも、武蔵と胤舜が、焚火に向って膝をならべている姿を見て、すこしも不審としていない。当然のように、自分たちも、やがて打ち<ruby><rb>混</rb><rt>ま</rt></ruby>じって、雑談を始めるのだった。

「――見ろ、あんなに」

一人が空を指さし、

「もう<ruby><rb>鴉</rb><rt>からす</rt></ruby>のやつが、血を<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>ぎつけて、この野にあるたくさんの死骸に<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>を鳴らしてやって来た」

「――降りて来ないな」

「おれたちが去れば、争って死骸へたかる」

そんな<ruby><rb>暢気</rb><rt>のんき</rt></ruby>な話題さえ出る。武蔵の不審は、武蔵から質問しなければ誰も語ってくれそうもない。

胤舜に向い、

「実は、拙者はあなた方こそ、今日の敵と思い、一人でもよけいに<ruby><rb>冥途</rb><rt>めいど</rt></ruby>へお連れ申そうと、深く覚悟していたのですが、それが却って拙者にお味方下さるのみか、どうしてかようにおもてなし賜わるのか、不審でならぬが」

すると胤舜は、笑って、

「いや貴公にお味方した覚えはない。ただすこし手荒ではござったが、奈良の大掃除をしただけのことです」

「大掃除とは」

その時、胤舜は、指を<ruby><rb>彼方</rb><rt>あなた</rt></ruby>へさして、

「そのことは、てまえからお話しするより、あなたをよく知っている先輩の<ruby><rb>日観師</rb><rt>にっかんし</rt></ruby>が、お目にかかって親しくお話し申すでしょう。――御覧なさい。野末のほうから、豆つぶ程な人馬の影が一群れ見えて来たでしょう。あれが、日観師と、そのほかの人々に違いありません」

## 十

「――老師、<ruby><rb>迅</rb><rt>はや</rt></ruby>いの」

「そちらが遅いのじゃ」

「馬より迅い」

「あたりまえ」

猫背の老僧日観だけ、駒の足をしり目にかけて、自分の足で歩いていた。

般若野の<ruby><rb>煙</rb><rt>けぶり</rt></ruby>をあてに。

その日観と前後して、五人の騎馬の役人が、かつかつと野の石ころを蹴って行く。

近づくのを見て、<ruby><rb>此方</rb><rt>こなた</rt></ruby>では、

「老師、老師」

と、囁きあう。

坊主たちはずっと<ruby><rb>退</rb><rt>さ</rt></ruby>がって、厳かな寺院の儀式の時のように、一列に並んで、その人と、騎馬役人とを迎えた。

「片づいたかい？」

日観が、そこへ来ての最初のことばだった。

「はっ、仰せのように」

と、胤舜は師礼を<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>っていう。

そして、騎馬役人へ向い、

「御検視、ご苦労です」

役人たちは、順々に、鞍つぼから飛び降り、

「なんの、ご苦労なのは、<ruby><rb>其許</rb><rt>そこもと</rt></ruby>たちの方さ。どれ一応――」

と、彼方此方に横たわっている十幾つかの死骸を見て、<ruby><rb>一寸</rb><rt>ちょっと</rt></ruby>覚えを書き留める程度の事務を執って、

「取片づけは、役所からさせる。後の事、捨ておいて、退去してよろしい」

いい渡すと、役人らは馬上へ返って、ふたたび野末へ駈け去った。

「おまえ達も戻れ」

日観が命令を下すと、槍を並べている僧列は、黙礼して野を歩みだした。それを連れて、胤舜も、師と武蔵へ、あいさつを残して帰って行った。

人が減ると、

ぎゃあアぎゃあア！

<ruby><rb>鴉</rb><rt>からす</rt></ruby>の群れは、急に<ruby><rb>厚顔</rb><rt>あつか</rt></ruby>ましく地上へ降りて来て、死骸へたかり、<ruby><rb>梅酢</rb><rt>うめず</rt></ruby>を浴びたようになって、驚喜の翼を<ruby><rb>搏</rb><rt>う</rt></ruby>っている。

「うるさい奴」

日観はつぶやきながら、武蔵のそばへ来て、気軽にいった。

「いつぞやは失礼」

「あっ、その折は……」

あわてて彼は両手をつかえた。そうせずにはいられなかった。

「お手をお上げ。野原の中で、そう<ruby><rb>慇懃</rb><rt>いんぎん</rt></ruby>なのもおかしい」

「はい」

「どうじゃな、今はすこし、勉強になったか」

「仔細、お聞かせ下さいませ。どうして、こういうお計らいを？」

「もっともだ。実はの」

と、日観が話すには――

「今帰った役人たちは、奈良奉行大久保長安の与力衆でな、まだ奉行も新任、あの衆も土地に馴れん。そこをつけ込んで、悪い牢人どもが、押し借り、強盗<ruby><rb>賭試合</rb><rt>かけじあい</rt></ruby>、ゆすり、女隠し、後家見舞、ろくなことはせん。奉行も手をやいていたものだ。――山添団八、野洲川安兵衛など、あの連中十四、五がそのグレ牢人の中心と目されていた」

「ははあ……」

「その山添、野洲川などが、おぬしに怒りを抱いたことがあろう。だが、おぬしの実力を知っているので、その<ruby><rb>復讐</rb><rt>しかえし</rt></ruby>を、宝蔵院の手でさせてやろう、こう、うまいことを<ruby><rb>彼奴</rb><rt>きゃつ</rt></ruby>らは考えた。そこで仲間を語らい、宝蔵院の悪口をいいふらし、落首など貼りちらして、それを皆、宮本の<ruby><rb>所為</rb><rt>しょい</rt></ruby>だと、いちいち、こっちへ告げ口に来たものだ。――わしを<ruby><rb>盲目</rb><rt>めくら</rt></ruby>と思うてな」

聞いている武蔵の眼は、微笑してきた。

「――よい<ruby><rb>機</rb><rt>おり</rt></ruby>、この機に一つ、奈良の町の大掃除をしてくれよう。こう考えて、胤舜に策を授けたのじゃ。イヤ、よろこんだのは、門下の坊主どもと、奈良の奉行所。それからこの野原の鴉じゃった。アハハハハ」

## 十一

いや<ruby><rb>欣</rb><rt>よろこ</rt></ruby>んだのは鴉のほかにもう一人いる。日観の話をそばで聞いていた城太郎だ。これですっかり彼の疑いも<ruby><rb>危惧</rb><rt>きぐ</rt></ruby>も一掃された。そこで、この少年は、<ruby><rb>雀躍</rb><rt>こおど</rt></ruby>りの羽をひろげ、彼方へ駈けて行ったと思うと、

大掃除っ

大掃除っ

と、途方もない声で唄い出したものである。

その声に、武蔵と日観が振向いてみると、城太郎は例の笑い<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>を顔にかぶり、腰なる木剣を抜いて手にかざし、そこらに算をみだしてころがっている死骸と、その死骸へむらがっている鴉の群れを蹴ちらしながら乱舞している。

なア鴉

奈良ばかりじゃないぜ

大掃除は時々必要だよ

自然の理だよ

万物が<ruby><rb>革</rb><rt>あらた</rt></ruby>まるために

<ruby><rb>生々</rb><rt>いきいき</rt></ruby>とその下から春が来る

落葉を焚き

野を焼くんだ

時々、大雪が欲しいように

時々、大掃除もあっていいよ

なア鴉

おまえ達にも饗宴だ

人間の眼玉のお吸物

<ruby><rb>紅</rb><rt>あか</rt></ruby>いどろどろのお酒

喰べすぎて酔ッぱらうな

「おい子供っ」

日観が呼ぶと、彼は、

「はいっ」

乱舞を止めて、振向いた。

「そんな気狂いじみた真似をしておらんで石を拾え、ここへ石を拾って来い」

「こんな石でいいんですか」

「もっと沢山――」

「はい、はい」

城太郎が拾い集めて来ると、日観は、その小石の一つ一つへ南無妙法蓮華経の題目を書いて、

「さあ、これを死骸へ、<ruby><rb>撒</rb><rt>ま</rt></ruby>いておやり」

といった。

城太郎は石を取って野の四方へ投げた。

その間、日観は、<ruby><rb>法衣</rb><rt>ころも</rt></ruby>の袖をあわせて<ruby><rb>誦経</rb><rt>ずきょう</rt></ruby>していたが、

「さあ、それでよろしい。――ではお前さん達も先へ出立するがよい。わしも奈良へ戻るとしよう」

<ruby><rb>飄然</rb><rt>ひょうぜん</rt></ruby>と猫背の後ろ姿を向け、もう風のように<ruby><rb>彼方</rb><rt>あなた</rt></ruby>へ歩み去って行く――

礼をいう<ruby><rb>遑</rb><rt>いとま</rt></ruby>もないし、再会の約束もいい出せなかった。何という淡々とした姿だろう。――武蔵は、そのうしろ姿を、じっと見つめていたが、何思ったかいきなり<ruby><rb>驀</rb><rt>まっ</rt></ruby>しぐらに追い駈けて行って、

「老師っ、お忘れ物っ」

と、刀の柄をたたいた。

日観は、足を止め、

「忘れ物とは？」

「会い難いこの世の御縁に、せっかくこうしてお目にかかったのです。どうか一手の御指南を」

すると、歯のない彼の口から、からからと枯れた人間の笑い声がひびいた。

「――まだ分らんのか。お前さんに教えることといえば、強過ぎるということしかないよ。だが、その強さを自負してゆくと、お前さんは三十歳までは生きられまい。すでに、今日<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>がなかったところだ。そんなことで、自分という人間を、どう持ってゆくんじゃ」

「…………」

「きょうの働きなども、まるでなっておらぬ。若いからまアまアせんないが、強いが兵法などと考えたら大間違い。わしなど、そういう点で、まだ兵法を談じる資格はないのじゃよ。――左様、わしの先輩柳生<ruby><rb>石舟斎</rb><rt>せきしゅうさい</rt></ruby>様、そのまた先輩の上泉伊勢守殿――そういう人たちの歩いた通りを、これから、お身もちと、歩いてみるとわかる」

「…………」

武蔵は<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>いていた。ふと、日観の声がしなくなったがと思い、顔を上げてみると、もうその人の影はなかった。

## この一国

## 一

ここは<ruby><rb>笠置山</rb><rt>かさぎやま</rt></ruby>の中にあるが、笠置村とはいわない。<ruby><rb>神戸</rb><rt>かんべ</rt></ruby>の<ruby><rb>庄</rb><rt>しょう</rt></ruby><ruby><rb>柳生谷</rb><rt>やぎゅうだに</rt></ruby>といっている。

その柳生谷は、山村とよぶには、どこか人智の光があり、<ruby><rb>家居</rb><rt>かきょ</rt></ruby><ruby><rb>風俗</rb><rt>ふうぞく</rt></ruby>にも整いがあった。といって、町と見るには、戸数が少なくて、浮華な色がちっともない。中国の<ruby><rb>蜀</rb><rt>しょく</rt></ruby>へ通う途中にでもありそうな「<ruby><rb>山市</rb><rt>さんし</rt></ruby>」といった<ruby><rb>趣</rb><rt>おもむき</rt></ruby>の土地である。

この山市のまん中に、土民が「お<ruby><rb>館</rb><rt>やかた</rt></ruby>」と仰ぐ大きな住居があって、ここの文化も、領民の安心も、すべての中心が、その古い<ruby><rb>砦</rb><rt>とりで</rt></ruby>の形式を持った石垣の家にあった。そして領民は千年の昔から住み、領主も、<ruby><rb>平</rb><rt>たいら</rt></ruby>の将門が乱をなした大昔の頃からここに住んで、微かながら土民の上に文化を<ruby><rb>布</rb><rt>し</rt></ruby>き、弓矢の蔵を持っていた土豪である。

そしてこの地方四<ruby><rb>箇</rb><rt>か</rt></ruby>の庄を、祖先の地、自分たちの郷土として血をもって愛護していた。どんな戦禍があっても、領主と民とが迷子にはならなかった。

関ヶ原の戦後、すぐ近い奈良の町は、あのとおり浮浪人に占領され、浮浪人の運びこんだ悪文化に<ruby><rb>風靡</rb><rt>ふうび</rt></ruby>されて、七堂<ruby><rb>伽藍</rb><rt>がらん</rt></ruby>の法燈も荒れわびてしまったが、この柳生谷から笠置地方には、そんな<ruby><rb>不逞</rb><rt>ふてい</rt></ruby>分子はさがしても入り込んで来ていない。

その一例を見ても、いかにこの辺の郷土がそんな不純を入れない気風と制度を持っているかが<ruby><rb>窺</rb><rt>うかが</rt></ruby>えるのである。

領主がよくて領民がよいばかりではない、朝夕の笠置の山はきれいだし、水は茶に汲んで飲むと<ruby><rb>甘味</rb><rt>うま</rt></ruby>い。――それからまた<ruby><rb>梅花</rb><rt>うめ</rt></ruby>の月ヶ瀬が近くにあるので、鶯の<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>は雪の解けない頃から、<ruby><rb>雷鳴</rb><rt>かみなり</rt></ruby>の多い季節まで絶えることはなく、その音色はまた、この山の水よりも清い。

詩人は、――英雄生ル所山河清シ、といったが、こんな郷土から、もし一人の偉人でも生まれなかったら、詩人は嘘つきといってよいし、ここの山河は、ただ美しいのみで<ruby><rb>不産女</rb><rt>うまずめ</rt></ruby>の風景といってもいい。でなければ郷土の血液がよほど頑愚か、どっちかであるが、やはりここには人傑が出ていた。領主の柳生家の血が証拠だてている。また、畑から出て、<ruby><rb>軍</rb><rt>いくさ</rt></ruby>のたびに功を立て、よい家臣となって随身している家中にも、<ruby><rb>優</rb><rt>すぐ</rt></ruby>れた人物がすくなくない。それはみなこの柳生谷の山河と鶯の音が産んだ英雄といえるのである。

今はその「石垣のお館」には、隠居された柳生<ruby><rb>新左衛門尉宗厳</rb><rt>しんざえもんのじょうむねよし</rt></ruby>が、名も石舟斎と簡素に改めてしまって、城からすこし奥の<ruby><rb>小</rb><rt>ささ</rt></ruby>やかな山荘にかくれ、政務を<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>る表のほうには、誰が今、家督の任に当っているのか分らないが、石舟斎には、いい子どもや孫がたくさんにあるし、家臣にも頼み甲斐ある者が多いから、石舟斎が民を見ていた時代となんの変りもなかった。

「ふしぎだ」

武蔵が、ここの地を踏んだのは<ruby><rb>般若野</rb><rt>はんにゃの</rt></ruby>のことがあってから十日ほど後であった。附近の笠置寺とか<ruby><rb>浄瑠璃寺</rb><rt>じょうるりでら</rt></ruby>とか、建武の遺跡などを探って、宿も、どこかへ取り、充分に心身の静養もして、その宿から散歩のていで出かけて来たものらしく、ほんの着流しであり、いつもの如く腰に取ッついている城太郎も、<ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>草履を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いていた。

民家の生活を見、畑の作物をながめ、また往きあう者の風俗に注意し、そのたびに、武蔵が、

「ふしぎだ」

何度も呟くので、

「おじさん、何がふしぎ？」

と、城太郎はむしろ武蔵の呟きこそ、不思議として、こう訊ねた。

## 二

「中国を出て、<ruby><rb>摂津</rb><rt>せっつ</rt></ruby>、河内、<ruby><rb>和泉</rb><rt>いずみ</rt></ruby>と諸国を見て来たが、おれはまだこんな国のあることを知らなかった。――そこで不思議といったのだよ」

「おじさん、どこがそんなに違っているの」

「山に樹が多い」

城太郎は、武蔵のことばに、吹き出して、

「樹なんか、どこにだって沢山生えているぜ」

「その樹が違う。この柳生谷四<ruby><rb>箇</rb><rt>か</rt></ruby>の庄の山は、みな樹齢が<ruby><rb>経</rb><rt>た</rt></ruby>っている。これはこの国が、兵火にかかっていない証拠だ。敵の<ruby><rb>濫伐</rb><rt>らんばつ</rt></ruby>をうけていない<ruby><rb>証</rb><rt>しるし</rt></ruby>だ。また、領主や民が、<ruby><rb>飢</rb><rt>う</rt></ruby>えたことのない歴史をも物語っている」

「それから」

「畑が青い。麦の根がよく踏んである。<ruby><rb>戸</rb><rt>こ</rt></ruby>ごとには、糸をつむぐ音がするし、百姓は、道をゆく他国の者の<ruby><rb>贅沢</rb><rt>ぜいたく</rt></ruby>な<ruby><rb>身装</rb><rt>みなり</rt></ruby>を見ても、さもしい眼をして、仕事の手を休めたりしない」

「それだけ？」

「まだある。ほかの国とちがって、畑に若い娘が多く見える。――畑に紅い帯が多く見えるのはこの国の若い女が、他国へ流れ出ていない証拠だろう。だからこの国は、経済にも豊かで、子供はすこやかに育てられ、老人は尊敬され、若い男女は、どんなことがあっても他国へ走って、浮いた生活をしようとは思わない。従って、ここの領主の<ruby><rb>内福</rb><rt>ないふく</rt></ruby>なことも分るし、武器の<ruby><rb>庫</rb><rt>くら</rt></ruby>には、槍鉄砲がいつでも<ruby><rb>研</rb><rt>みが</rt></ruby>きぬいてあるだろうという想像もつく」

「なんだ、なにを感心しているのかと思ったら、そんなつまらないことか」

「おまえには面白くあるまいな」

「だって、おじさんは、柳生家の者と試合をするために、この柳生谷へ来たんじゃないか」

「武者修行というものは、何も試合をして歩くだけが能じゃない。一宿一飯にありつきながら、木刀をかついで、叩き合いばかりして歩いているのは、あれは武者修行でなくて、渡り者という<ruby><rb>輩</rb><rt>やから</rt></ruby>、ほんとの武者修行と申すのは、そういう武技よりは心の修行をすることだ。また、諸国の地理水利を<ruby><rb>測</rb><rt>はか</rt></ruby>り、土民の人情や気風をおぼえ、領主と民のあいだがどう行っているか、城下から城内の奥まで見きわめる用意をもって、<ruby><rb>海内</rb><rt>かいだい</rt></ruby><ruby><rb>隈</rb><rt>くま</rt></ruby>なく脚で踏んで心で<ruby><rb>観</rb><rt>み</rt></ruby>て歩くのが、武者修行というものだよ」

まだ幼稚な者に向って、説いても無益と思いながら、武蔵には、少年に対しても、よいほどにものを<ruby><rb>誤魔化</rb><rt>ごまか</rt></ruby>しておくということができない。

城太郎の<ruby><rb>諄</rb><rt>くど</rt></ruby>いような質問にも、面倒な顔もせず頻りと、噛んで<ruby><rb>含</rb><rt>ふく</rt></ruby>めるように答えてやりながら歩いていた。――すると二人の<ruby><rb>背後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>へいつの間にか近づいていた馬蹄の音があって、その馬上から<ruby><rb>恰幅</rb><rt>かっぷく</rt></ruby>のよい四十がらみの侍が、

「<ruby><rb>傍</rb><rt>わき</rt></ruby>へ。傍へ」

声をかけて、通り越した。

ひょいと、その鞍の上を仰いで城太郎は、

「あっ、庄田さんだ」

と、口走った。

その侍の顔が、熊のようなあご<ruby><rb>髯</rb><rt>ひげ</rt></ruby>を持っているので、城太郎は忘れていなかった。――宇治橋へかかる大和路の途中で、<ruby><rb>紛失</rb><rt>なく</rt></ruby>したと思った手紙の竹筒を拾ってくれたあの人なのだ。彼の声に、馬上の庄田喜左衛門も気がついたとみえ、<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>って、

「おう、小僧か」

ニコと笑ったが、そのまま駒をすすめ、柳生家の石垣の内へかくれてしまった。

## 三

「城太郎、今、馬の上からお前を見て笑ったお人、あれは誰だ」

「庄田さんて――柳生様の家来だって」

「どうして知っているのか」

「いつか、奈良へ来る途中、いろいろ親切にしてくれたから」

「ふム」

「ほかに、何とかいう女の人とも道連れになって、木津川<ruby><rb>渡舟</rb><rt>わたし</rt></ruby>までおらと三人、一しょに歩いて来たのさ」

小柳生城の外形と、柳生谷の土地がらを一巡見て歩いて、武蔵はやがて、

「帰ろう」

と、元の方角へ足を向ける。

<ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>は、たった一軒だが、大きなのがあった。伊賀街道に当っているし、<ruby><rb>浄瑠璃寺</rb><rt>じょうるりでら</rt></ruby>や笠置寺へゆく人たちも泊るので、夕方になると、そこの入口の<ruby><rb>立樹</rb><rt>たちき</rt></ruby>や、<ruby><rb>廂</rb><rt>ひさし</rt></ruby>の下には、必ず十頭くらいの荷駄馬がつながれ、<ruby><rb>夥</rb><rt>おびただ</rt></ruby>しい米を<ruby><rb>炊</rb><rt>かし</rt></ruby>ぐため、米の<ruby><rb>磨</rb><rt>と</rt></ruby>ぎ水が前の流れを白く濁していた。

「旦那はん、どこへ行きなされた？」

部屋へ入ると、紺の筒袖に、<ruby><rb>山袴</rb><rt>やまばかま</rt></ruby>を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>き、帯だけが赤いので、これは女の子だと分る女の子が、突っ立ったままで、

「すぐ風呂に入りなされ」

という。

城太郎は、ちょうどよい年頃の友達を見つけたように、

「おめえ、何てえ名だい」

「知らんが」

「阿呆、自分の名を」

「<ruby><rb>小茶</rb><rt>こちゃ</rt></ruby>ってんだよ」

「変な名」

「大きにお世話」

小茶が、<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>つと、

「<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>ったな」

武蔵は廊下から振向いて、

「おい、小茶ちゃん、風呂場はどこだ。――先の右側か、よしよしわかる」

板の間の棚に、三人分の衣服が脱いであった。武蔵のを加えて四人分になる。戸をあけて、湯気の中へ入ってみると、先に入っていた客たちは、何か陽気に話していたが、彼の<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しい裸体を仰いで、異分子を見るように、口をつぐんだ。

「むーム」

武蔵の六尺に近い体を沈め込むと、<ruby><rb>湯槽</rb><rt>ゆぶね</rt></ruby>の湯は、外で細い<ruby><rb>脛</rb><rt>すね</rt></ruby>を洗っている三名を浮かして流すほど、<ruby><rb>溢</rb><rt>あふ</rt></ruby>れ出した。

「？　……」

一人が、武蔵のほうを振り向いた。武蔵は湯槽のふちを枕にして、眼をつむっている。

そこで、すこし安心したのか、三名は途絶えていた話のつづきに入って――

「なんといったかな、先ほど参った柳生家の用人は」

「庄田喜左衛門だろう」

「そうか。――柳生も用人を使いに立てて試合を断るようでは、名ほどのこともないと見えるぞ」

「誰に対しても、近頃は、あの用人がいったように、石舟斎は隠居、但馬守<ruby><rb>儀</rb><rt>ぎ</rt></ruby>は、江戸表へ出府中につき――という<ruby><rb>口上</rb><rt>こうじょう</rt></ruby>で、試合を謝絶しているのだろうか」

「いや、そうじゃあるまい。こちらが、吉岡家の次男と聞いて、大事を取り、敬遠したに相違ないさ」

「御旅中のお<ruby><rb>慰</rb><rt>なぐさ</rt></ruby>みにと菓子などを持たせて寄こしたところは、柳生もなかなか<ruby><rb>如才</rb><rt>じょさい</rt></ruby>ないではないか」

背中の色が白い。筋肉がやわらかい。皆、都会人とみえ、洗煉された会話の<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>り<ruby><rb>取</rb><rt>と</rt></ruby>りのうちに、理智があり、<ruby><rb>冗戯</rb><rt>じょうぎ</rt></ruby>があり、細かい神経も働いている。

（……吉岡？）

ふと耳に入ったので、武蔵は何気なく<ruby><rb>湯槽</rb><rt>ゆぶね</rt></ruby>から首を曲げた。

## 四

吉岡の次男といえば、清十郎の弟伝七郎のことだが？

（それかな）

と、武蔵は注意していた。

自分が四条道場を訪ねた時、門人か誰かが御舎弟の伝七郎どのは、友人と伊勢参宮へ参って留守であるといっていた。――この旅の戻り<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>とすれば、あるいは、こう三名の者が、その伝七郎と友人の一行かも知れない。

（おれは湯槽がよく<ruby><rb>祟</rb><rt>たた</rt></ruby>る）

武蔵は心のうちで<ruby><rb>戒</rb><rt>いまし</rt></ruby>めていた。――郷里の宮本村ではかつて本位田又八の母のお杉隠居に計られて、浴室で敵につつまれたことがあるし、今はまた、<ruby><rb>宿怨</rb><rt>しゅくえん</rt></ruby>ただならぬ仲の吉岡拳法の一子と、偶然にも、素裸で会う機会につかまってしまった。

旅に出ていたとはいえ、おそらくは、京都の四条道場での自分とのいきさつを、耳にしているに相違ない。――ここで自分を宮本と知ったら、すぐ板戸一枚向うにある刀を取って物をいい出すだろう。

武蔵は一応そう考えたのだ。しかし、三名のほうには一向そういう<ruby><rb>気</rb><rt>け</rt></ruby>ぶりはない。得意になって話している様子から察すると、何でもこの土地へ着くと早速、柳生家へ書面を持たせてやったものらしい。吉岡といえば、<ruby><rb>足利公方</rb><rt>あしかがくぼう</rt></ruby>からの名門ではあり、今の石舟斎が<ruby><rb>宗厳</rb><rt>むねよし</rt></ruby>といっていた頃から、先代の拳法とは多少の交わりもあったらしいので、柳生家でも捨ててもおけず、用人庄田喜左衛門に旅の見舞を持たせて、この<ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>へあいさつによこしたものと思われる。

その礼儀に対して、この若い都会人たちは、

（柳生も、如才ない）

とか、

（怖れをなして敬遠した）

とか、

（大した人物もいないらしい）

とかいう風に、自己満足な解釈を下して、<ruby><rb>得々</rb><rt>とくとく</rt></ruby>と、旅の<ruby><rb>垢</rb><rt>あか</rt></ruby>を洗っている――

今し方、親しく足で踏んで、小柳生城の外廓から、土俗人情を実地に見て来ている武蔵にとっては、彼らのそうした得意さと勝手な受け取り方が、笑止でならなかった。

井の中の<ruby><rb>蛙</rb><rt>かわず</rt></ruby>という<ruby><rb>諺</rb><rt>ことわざ</rt></ruby>があるが、ここにいる都の小せがれどもは、大海の都会に住んでいて、移りゆく時勢を広く見ているくせに、<ruby><rb>却</rb><rt>かえ</rt></ruby>って、井の中の蛙が誰も知らないうちに<ruby><rb>涵養</rb><rt>かんよう</rt></ruby>していた力の深さや偉大さを少しも考えてみない。中央の勢力と、その盛衰から離れて、深い<ruby><rb>井泉</rb><rt>せいせん</rt></ruby>の底に、何十年も、月を映し、落葉を浮かべ、変哲もない田舎暮らしの<ruby><rb>芋食</rb><rt>いもく</rt></ruby>い武士と思っているまに、この柳生家という古井戸からは、近世になって、兵法の大祖として石舟斎宗厳を出し、その子には、家康に認められた但馬守<ruby><rb>宗矩</rb><rt>むねのり</rt></ruby>を生み、その兄たちには、勇猛の聞え高い五郎左衛門や<ruby><rb>厳勝</rb><rt>としかつ</rt></ruby>などを出し、また孫には、加藤清正に<ruby><rb>懇望</rb><rt>こんもう</rt></ruby>されて肥後へ高禄でよばれて行った<ruby><rb>麒麟児</rb><rt>きりんじ</rt></ruby>の<ruby><rb>兵庫利厳</rb><rt>ひょうごとしとし</rt></ruby>などという「偉大なる<ruby><rb>蛙</rb><rt>かわず</rt></ruby>」をたくさんに時勢の中へ送っている。

兵法の家として、吉岡家と柳生家とでは、比べものにならないほど吉岡家のほうが格式が高かったものである。けれど、それは昨日までのことだった。――それをまだ、ここにいる伝七郎や他の手合は気がつかない。

武蔵は、彼らの得意さが、おかしくもあり、気の毒にも思えた。

で――つい苦笑が顔にのぼりかける。彼はそれに困って、浴室の隅にある<ruby><rb>筧</rb><rt>かけひ</rt></ruby>の下にゆき、髪の<ruby><rb>元結</rb><rt>もとゆい</rt></ruby>を解いて、<ruby><rb>一塊</rb><rt>ひとかけ</rt></ruby>の粘土を毛の根にこすり、久しぶりで、ざぶざぶと髪を洗いほぐした。

その間に、

「ああいい気持」

「旅ごこちは、湯上がりの、この一<ruby><rb>刻</rb><rt>とき</rt></ruby>にあるな」

「女の酌で、晩に飲むのは」

「なおいい」

などと三名は、体を拭いて、先へ上がって行った。

## 五

洗った濡れ髪を手拭いで縛って、部屋に帰ってみると、男みたいな女の子の<ruby><rb>小茶</rb><rt>こちゃ</rt></ruby>ちゃんが隅で泣いているので、武蔵は、

「おや、どうした？」

「旦那はん、あの子が、あたいをこんなに<ruby><rb>撲</rb><rt>ぶ</rt></ruby>ったの」

「嘘だい！」

と、向うの隅から城太郎が異議をいって<ruby><rb>膨</rb><rt>ふく</rt></ruby>れる。

「なぜ女などを打つ」

武蔵が叱ると、

「だって、そのおたんこ<ruby><rb>茄子</rb><rt>なす</rt></ruby>が、おじさんのことを、弱いっていったからさ」

「嘘、嘘」

「いったじゃないか」

「旦那はんのことを弱いって、誰もいいはしないよ。おまえが、おらのお師匠様は日本一の兵法家で<ruby><rb>般若野</rb><rt>はんにゃの</rt></ruby>で何十人も牢人を斬ったなんて、あんまり自慢して威張るから、日本一の剣術の先生は、ここの御領主様のほかにないよといったら、何をって、あたいの頬を<ruby><rb>撲</rb><rt>は</rt></ruby>ったんじゃないか」

武蔵は、笑って、

「そうか、悪い奴だ。後で叱っておくから、小茶ちゃん、勘弁してやれ」

城太郎は、不服らしい。

「おい」

「はい」

「湯に入ってこい」

「お湯はきらいだ」

「おれと似ているな。だが、汗くさくていかん」

「<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>、河へ行って泳ぐ」

日が<ruby><rb>経</rb><rt>た</rt></ruby>って馴れるにつれ、この少年の生れつきにある強情な性格は、だんだん芽を伸ばしていた。

だが、武蔵は、そこも好きだった。

膳につく。

まだ<ruby><rb>膨</rb><rt>ふく</rt></ruby>れている。

盆を持って給仕している小茶も口をきかない。睨めっこなのだ。

武蔵も、この数日は、思うことがあって、とかく心がそれに<ruby><rb>囚</rb><rt>とら</rt></ruby>われている。彼の胸にある宿題は、一介の放浪者としては少し大望であり過ぎた。しかし、不可能でないと彼は信じるのだ。そのためにこうして一つ旅籠に<ruby><rb>逗留</rb><rt>とうりゅう</rt></ruby>をかさねているのでもあった。

望みというのは、

（柳生家の大祖、石舟斎宗厳と会ってみたい）

と、いうことである。

なお烈しくいえば――彼の若い野望の燃ゆるままを言葉に移していうならば――

（どうせ<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>つかるなら大敵に当れである。大柳生の名を仆すか、自分の剣名に黒点をつけられるか、死を賭してもよい、柳生宗厳に面接して、一太刀打ち込まねば、刀を<ruby><rb>把</rb><rt>と</rt></ruby>る道に志したかいもない）

もし第三者があって、彼のこういう志望を聞いたら、無謀といって笑うだろう。武蔵自身も、その程度の常識はないことは決してない。

小さくても、先は一城の<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>である。その子息は、江戸幕府の兵法師範であり、一族はみな典型的な武人であるのみでなく、どことなく新しい時代の<ruby><rb>潮</rb><rt>うしお</rt></ruby>にのり出している<ruby><rb>旺</rb><rt>さかん</rt></ruby>なる家運が、柳生家というものの上には今、輝いているのだ。

（――<ruby><rb>凡</rb><rt>ただ</rt></ruby>は<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>つかれない）

武蔵も、それだけの準備は心でしていた。飯を噛む間もしているのである。

## <ruby><rb>芍薬</rb><rt>しゃくやく</rt></ruby>の<ruby><rb>使者</rb><rt>ししゃ</rt></ruby>

## 一

鶴のような老人である。もう八十歳にかかっているが、品位は年と共について、高士の風をそなえているし、歯も達者、眼もご自慢なのだ。

「百歳までは生きる」

と、常にいっている。

それというのも、この石舟斎には、

「柳生家は代々が長寿じゃ。<ruby><rb>二十歳</rb><rt>はたち</rt></ruby>だい、三十だいで死んだのは、みな戦場で終ったものばかり。畳の上ではどの先祖も、五十や六十で死んだのはない」

という信念があるからだ。

いや、そういう血統でないにしても、石舟斎のような処世と老後を心がければ、百歳くらい生きるのは当りまえにも思われる。

享禄、天文、弘治、永禄、元亀、天正、文禄、慶長――とこう長い乱世の中を生きて来て、殊に四十七歳までの壮年期は、三好党の乱だの、足利氏の没落だの、松永氏や織田氏の興亡だのに、この地方にあっても、弓矢を<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>く<ruby><rb>遑</rb><rt>いとま</rt></ruby>はなかったのであるが、自分でも、

「ふしぎと死ななかった」と、いっている。

四十七歳からは、何に感じたのか、一切弓矢を取らず、たとえば足利将軍の<ruby><rb>義昭</rb><rt>よしあき</rt></ruby>が、好餌をもって誘っても、信長がしきりと招いても、豊臣氏が<ruby><rb>赫々</rb><rt>かっかく</rt></ruby>と覇威を四海にあまねくしても、その大坂、京都のつい鼻の先にいながら、この人物は、

（わしは、つんぼでござる、<ruby><rb>唖</rb><rt>おし</rt></ruby>でござる）

というように、世の中から<ruby><rb>韜晦</rb><rt>とうかい</rt></ruby>して、穴熊のように、この山間の三千石を後生大事に守って出なかった。

後に、人に語って、

「よく持って来たものじゃ。<ruby><rb>朝</rb><rt>あした</rt></ruby>あって夕べのわからぬ治乱興亡の間を、こんな小城一つが、ぽつねんと、今日まで無事にあるということは、戦国の奇蹟じゃないか――」

と、石舟斎はよくいった。

なるほど――

聞く者は、彼の達見にみな感服した。足利義昭についていれば信長に討たれたろうし、信長に従っていれば秀吉との間はどうなったか知れず、秀吉の<ruby><rb>恩顧</rb><rt>おんこ</rt></ruby>をうけていれば、当然、その後の関ヶ原には、家康にしてやられている。

また、その興亡の波を、うまく切りぬけて、無事に家系を支えようとするには、恥も<ruby><rb>外聞</rb><rt>がいぶん</rt></ruby>もなく、きょうは彼の味方と見せて、<ruby><rb>明日</rb><rt>あす</rt></ruby>は彼を裏切り、節操なく、意地もなく、或る場合には、一族や血縁にすら、弓も引こう血も見よう、というくらいな武士道以外なつよさも持たなければ不可能なのである。

「わしには、それが出来ん」

と、石舟斎がいうのは、ほんとうであろう。

そこで、彼が居間には、

世をわたる<ruby><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>のなきゆゑ

兵法を隠れ家とのみ

たのむ身なれや

と自詠の一首が、懐紙に書かれて、壁の茶掛となっている。

だが、この老子的な達人も、家康が礼を厚うして招くに至ると、

（<ruby><rb>懇招</rb><rt>こんしょう</rt></ruby>、<ruby><rb>黙</rb><rt>もだ</rt></ruby>し<ruby><rb>難</rb><rt>がた</rt></ruby>し――）

と呟いて、何十年間の道境三昧の<ruby><rb>廬</rb><rt>ろ</rt></ruby>を出て、京都<ruby><rb>紫竹</rb><rt>しちく</rt></ruby>村の<ruby><rb>鷹</rb><rt>たか</rt></ruby>ヶ<ruby><rb>峰</rb><rt>みね</rt></ruby>の陣屋で、初めて、大御所に<ruby><rb>謁</rb><rt>えっ</rt></ruby>したのであった。

その時、つれて行ったのが、五男又右衛門<ruby><rb>宗矩</rb><rt>むねのり</rt></ruby>、その年二十四歳、孫の新次郎<ruby><rb>利厳</rb><rt>としとし</rt></ruby>が、まだ十六歳の前髪。

こう二人の<ruby><rb>鳳雛</rb><rt>ひな</rt></ruby>の手をつれて、家康に謁した。そして、旧領三千石安堵の墨付と共に、

「以後、徳川家の兵法所へ仕えるように」

と、家康がいうと、

「何とぞ、せがれ宗矩を」

と、子を推挙して、自分はまた、柳生谷の山荘へ<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>き<ruby><rb>籠</rb><rt>こも</rt></ruby>ってしまった。そして子の又右衛門宗矩が、将軍家指南番として、江戸表へ出ることになった折に、この老龍が授けたものは、いわゆる技や力の剣術ではなく、

（世を治むるの兵法）

であった。

## 二

彼の「世を治むるの兵法」は、また彼の「身を修むるの兵法」でもあった。

石舟斎はそれを、

「これ皆、師の御恩」

と常にいって、ひたすら<ruby><rb>上泉</rb><rt>かみいずみ</rt></ruby>伊勢守信綱の徳を忘れなかった。

「伊勢殿こそ柳生家の護り神ぞや」

口ぐせに、彼のいうとおり、彼の居間の棚には、常に、伊勢守から受けた新陰流の印可と、四巻の古目録とが奉じてあり、<ruby><rb>忌日</rb><rt>きにち</rt></ruby>には、膳を供えて<ruby><rb>祠</rb><rt>まつ</rt></ruby>ることも忘れなかった。

その四巻の古目録というのは、一名<ruby><rb>絵目録</rb><rt>えもくろく</rt></ruby>ともいって、上泉伊勢守が自筆で、新陰流の<ruby><rb>秘</rb><rt>かく</rt></ruby>し<ruby><rb>太刀</rb><rt>だち</rt></ruby>を、絵と文章で書いたものであった。

時折、石舟斎は、老後になっても、それを繰りひろげて、<ruby><rb>偲</rb><rt>しの</rt></ruby>ぶのであった。

「絵も妙手でおわした」

いつもふしぎに<ruby><rb>衝</rb><rt>う</rt></ruby>たれるのが、その絵であった。天文時代の風俗をすがたに持った人物と人物とが、颯爽と、あらゆる太刀の形を取って、白刃の斬合をしている図――それをながめていると、<ruby><rb>神韻縹渺</rb><rt>しんいんひょうびょう</rt></ruby>として、山荘の軒に、霧の迫ってくる心地がするのである。

伊勢守が、この小柳生城へ訪ねて来たのは、石舟斎がまだ兵馬の野心<ruby><rb>勃々</rb><rt>ぼつぼつ</rt></ruby>としていた三十七、八歳のころだった。

そのころ、上泉伊勢守は、<ruby><rb>甥</rb><rt>おい</rt></ruby>の<ruby><rb>疋田文五郎</rb><rt>ひきだぶんごろう</rt></ruby>という者と、老弟の鈴木<ruby><rb>意伯</rb><rt>いはく</rt></ruby>をつれ、諸国の兵法家を求めて遊歴していたもので、それがふと伊勢の<ruby><rb>太</rb><rt>ふと</rt></ruby>の御所といわれる北畠<ruby><rb>具教</rb><rt>とものり</rt></ruby>の紹介で、宝蔵院に<ruby><rb>見</rb><rt>まみ</rt></ruby>え、宝蔵院の覚禅房<ruby><rb>胤栄</rb><rt>いんえい</rt></ruby>は、小柳生城に出入りしていたので、「こんな男が来たが」

と、石舟斎――その頃は、まだ柳生<ruby><rb>宗厳</rb><rt>むねよし</rt></ruby>と<ruby><rb>称</rb><rt>い</rt></ruby>っていた彼へ話した。

それが、機縁だった。

伊勢守と宗厳は、三日にわたって、試合をした。

第一日、起ち合うと、

「とりますぞ」

伊勢守は、打つ所を明言しておいて、言葉のとおり打ちこんだ。

第二日も、同じように敗けた。

宗厳は、<ruby><rb>自尊</rb><rt>じそん</rt></ruby>を傷つけられた、次の日は工夫を<ruby><rb>凝</rb><rt>こ</rt></ruby>らし、精神を<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそ</rt></ruby>めて、<ruby><rb>体</rb><rt>たい</rt></ruby>の形も変えた。

すると伊勢守は、

「それは悪い、それでは、こう取る」

といって、忽ち、前の二日と同じように、指摘した所へ太刀を与えた。

宗厳は、<ruby><rb>我執</rb><rt>がしゅう</rt></ruby>の太刀をすてて、

「初めて、兵法を<ruby><rb>観</rb><rt>み</rt></ruby>た」

といった。

それから半歳の間、<ruby><rb>強</rb><rt>た</rt></ruby>って、伊勢守を小柳生城にひきとめて、一心に教わった。

伊勢守は、永くはと、<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>を分つ折に、

「まだまだ私の兵法などは未完成なものです。あなたは若い、私の未完成を完成してみるがよい」

こういって、一つの<ruby><rb>公案</rb><rt>こうあん</rt></ruby>を授けて行った。その公案――問題というのは、

無刀の太刀<ruby><rb>如何</rb><rt>いかん</rt></ruby>？

という工夫であった。

宗厳は、以来数年間、無刀の理法を考えつめた。寝食をわすれて、<ruby><rb>研鑽</rb><rt>けんさん</rt></ruby>した。

後、伊勢守がふたたび彼を訪れた時には、彼の眉は明るかった。

「いかがあろうか」

と、試合うと、

「む！」

伊勢守は、一目見て、

「もうあなたと太刀打はむだなことである。あなたは、真理をつかまれた」

そういって、印可、絵目録四巻を残して去った。

柳生流は、ここから誕生し、また、石舟斎宗厳の晩年の<ruby><rb>韜晦</rb><rt>とうかい</rt></ruby>も、この兵法が生んだところの一流の処世術であったのである。

## 三

今、彼の住んでいる山荘は、もちろん小柳生城の中ではあるが、<ruby><rb>砦作</rb><rt>とりでづく</rt></ruby>りの頑丈な建築は、石舟斎の老後の心境にはぴったりしないので、べつに、簡素な一草庵を建て、入口もべつにして、まったく一箇の山中人の生活に余生を楽しんでいる。

「お<ruby><rb>通</rb><rt>つう</rt></ruby>、どうじゃの、わしが<ruby><rb>挿</rb><rt>い</rt></ruby>けた花は生きておろうが」

伊賀の壺に、一輪の<ruby><rb>芍薬</rb><rt>しゃくやく</rt></ruby>を投げ入れて、石舟斎は、自分の<ruby><rb>挿</rb><rt>い</rt></ruby>けた花に見惚れていた。

「ほんに……」

と、お通はうしろから拝見している。

「大殿さまは、よほど茶道もお花もお習いになったのでしょう」

「うそを申せ、わしは<ruby><rb>公卿</rb><rt>くげ</rt></ruby>じゃなし、<ruby><rb>挿花</rb><rt>はな</rt></ruby>や<ruby><rb>香道</rb><rt>こうどう</rt></ruby>の師についたことはない」

「でも、そう見えますもの」

「なんの、<ruby><rb>挿花</rb><rt>はな</rt></ruby>を生けるのも、わしは剣道で生けるのじゃ」

「ま」

彼女は、驚いた目をして、

「剣道で挿花が生けられましょうか」

「生かるとも。花を生けるにも、気で生ける。指の先で曲げたり、花の首を<ruby><rb>縊</rb><rt>し</rt></ruby>めたりはせんのじゃ。野に咲くすがたを持って来て、こう気をもって水へ投げ入れる。――だからまずこの通り、花は死んでいない」

この人のそばにいてから、お通はいろいろなことを教えられた気がする。

――ほんの道ばたで知り合ったというだけの縁で、この柳生家の用人である庄田喜左衛門に、<ruby><rb>無聊</rb><rt>ぶりょう</rt></ruby>な大殿へ、笛の一曲をと望まれて<ruby><rb>従</rb><rt>つ</rt></ruby>いて来たのであったが――

その笛が、ひどく、石舟斎の気に入ったものか、また、この山荘にも、お通のような若い女のやわらかさが一点はあって欲しいと思われたのか、お通が、

「お<ruby><rb>暇</rb><rt>いとま</rt></ruby>を」

といい出しても、

「まあ、もう少しおれ」

とか、

「わしが茶を教えてやる」

とか、

「<ruby><rb>和歌</rb><rt>うた</rt></ruby>をやるか。では、わしにもすこし<ruby><rb>古今調</rb><rt>こきんちょう</rt></ruby>を手ほどきしてくれい。万葉もよいが、いっそこう<ruby><rb>侘</rb><rt>わ</rt></ruby>びた草庵の<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>になってみると、やはり山家集あたりの淡々としたところがよいの」

などといって、離したがらないし、お通もまた、

「大殿さまには、かようなお<ruby><rb>頭巾</rb><rt>ずきん</rt></ruby>がよかろうと思って縫ってみました。おつむりへお用い遊ばしますか」

武骨な男の家来たちには、気のつかない細やかさを尽すので、

「ほう、これはよい」

その頭巾をかぶり、またとない者のように、お通を可愛がるのであった。

月の夜にはよく、彼女がそこでお聴きに入れる笛の音が、小柳生城の表のほうまで聞えて来た。

庄田喜左衛門は、

「飛んだお気に入って――」

と自分までが、拾い物をしたように、<ruby><rb>欣</rb><rt>うれ</rt></ruby>しく思っていた。

喜左衛門は今、城下から戻って来て、古い<ruby><rb>砦</rb><rt>とりで</rt></ruby>の奥の林を抜け、大殿の静かな山荘をそっとのぞいた。

「お通どの」

「はい」

<ruby><rb>柴折</rb><rt>しおり</rt></ruby>を開けて、

「まあ、これは。……さあどうぞ」

「大殿は」

「御書見でいらっしゃいます」

「ちょっと、お取次ぎ下さい。――喜左衛門、ただ今、お使いから戻りましたと」

## 四

「ホホホ。庄田様、それはあべこべでございます」

「なぜ」

「わたくしは、外から呼ばれて参っている笛吹きの女、あなたは柳生家の御用人さま」

「なるほど」

喜左衛門も、おかしくなったが、

「しかしここは、大殿だけのお住居、そなたはべつなお扱いじゃ――とにかくお取次を」

「はい」

と、奥へ行ってすぐ、

「どうぞ」

と、迎え直す。

お通の縫った頭巾をかぶって、石舟斎は茶室に坐っていた。

「行って来たか」

「仰せのように致して参りました。ていねいに、お言葉を伝え、お<ruby><rb>表</rb><rt>おもて</rt></ruby>からとして、菓子を持参いたしました」

「もう立ったか」

「ところが、てまえがお城へ戻るとまた、すぐ追いかけて、<ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>の綿屋から書面を持たせてよこし、折角の途上、曲げても、小柳生城の道場を拝見して参りたいから、明日はぜひとも、城内へお訪ねする。また、石舟斎様にも親しくお目にかかって、ごあいさつしたいというのでござります」

「小せがれめ」

石舟斎は舌打ちして、

「うるさいの」

不興な顔をした。

「<ruby><rb>宗矩</rb><rt>むねのり</rt></ruby>は江戸、<ruby><rb>利厳</rb><rt>としとし</rt></ruby>は熊本、そのほか皆不在と、よくいったのか」

「申しましたのです」

「こちらから、<ruby><rb>鄭重</rb><rt>ていちょう</rt></ruby>に断りの使者までつかわしたに、押しつけがましゅう、<ruby><rb>強</rb><rt>た</rt></ruby>って訪ねてくるとは、嫌な奴だ」

「なんとも……」

「うわさの通り吉岡の<ruby><rb>伜</rb><rt>せがれ</rt></ruby>どもは、あまり出来がよくないとみえる」

「綿屋で会いました。あそこに、伊勢詣りの戻りとかで滞在中の伝七郎という人、やはり人品がおもしろうございませぬ」

「そうじゃろう、吉岡も先代の拳法という人間は相当なものだった。伊勢殿とともに、入洛の折は、二、三度会うて、酒など酌み交わしたこともある。――が、近ごろはとんと<ruby><rb>零落</rb><rt>れいらく</rt></ruby>の様子、その息子とあるがゆえに、見くびって、門前ばらいも済まぬ、というて、気負うている若い小せがれに、試合を挑まれて、柳生家が叩いて帰しても始まらぬ」

「伝七郎とかいう者、なかなか自信があるらしゅうございます。<ruby><rb>強</rb><rt>た</rt></ruby>って、来るというのですから、私でも、あしらってつかわしましょうか」

「いや、止せ止せ。名家の子というものは、自尊心がつよくて、ひがみやすい。打ち叩いて帰したら、ろくなことをいい触らしはせん。わしなどは、超然じゃが、<ruby><rb>宗矩</rb><rt>むねのり</rt></ruby>や利厳のためにならぬ」

「では如何いたしましょうか」

「やはり、ものやわらかに、名家の子らしゅう扱って、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">あや</span>して帰すに<ruby><rb>如</rb><rt>し</rt></ruby>くはない。……そうじゃ、男どもの使者ではかどが立つ」

お通のすがたを振向いて、

「使いには、そなたがよいな、女がよい」

「はい、行って参りましょう」

「いや、すぐには及ぶまい。……明朝でいい」

石舟斎は、さらさらと茶人らしい簡単な手紙を書き、それを、先刻、壺へ<ruby><rb>挿</rb><rt>い</rt></ruby>けた<ruby><rb>芍薬</rb><rt>しゃくやく</rt></ruby>の残りの一枝へ、結び文にして、

「これを持って、石舟斎事、ちと<ruby><rb>風邪</rb><rt>かぜ</rt></ruby>心地のため、代ってお答えに参りましたと、小せがれの挨拶をうけて来い」

## 五

なお石舟斎から、使いの口上を授かって、お通は、次の日の朝、

「では、行って参ります」

<ruby><rb>被衣</rb><rt>かずぎ</rt></ruby>して、山荘を出た。

<ruby><rb>外曲輪</rb><rt>そとぐるわ</rt></ruby>の<ruby><rb>厩</rb><rt>うまや</rt></ruby>をのぞき、

「あの……お馬を一頭お借りして参ります」

そこらを掃除していた厩方の小者が、

「おや、お通さん。――どちらまで？」

「お城下の綿屋という<ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>まで、大殿のお使者に参ります」

「では、お供いたしましょう」

「それには及びませぬ」

「だいじょうぶで？」

「馬は好きです。田舎にいた頃から、野馬に馴れておりますから」

<ruby><rb>褪紅色</rb><rt>たいこうしょく</rt></ruby>の被衣が、駒のうえに自然な姿で揺られて行った。

被衣は、都会ではもう旧い服装として、上流のあいだでも<ruby><rb>廃</rb><rt>すた</rt></ruby>っていたが、地方の土豪や中流の女子にはまだ好ましがられていた。

ほころびかけた<ruby><rb>白芍薬</rb><rt>しろしゃくやく</rt></ruby>の一枝に石舟斎の手紙が結んである、それを持って、片手で軽く手綱をさばいてゆく彼女のすがたを見ると、

「お通様がとおる」

「あの人がお通様か」

と、畑の者は見送っていた。

わずかな間に、彼女の名が、畑の者にまでこう知れ渡っているわけは、畑の者と石舟斎とが、百姓と領主というような窮屈な関係でなく、非常に親しみぶかい間がらにあるので、その大殿のそばに近ごろ、笛をよくする美しい女が<ruby><rb>侍</rb><rt>かしず</rt></ruby>いているということから、彼らの石舟斎に対する尊敬と親密が、従って、彼女にまで及ぼしている実証であった。

半里ほど来て、

「綿屋という旅籠は？」

駒の上から、農家の女房に聞くと、その女房がまた、子供を背負って、流れで<ruby><rb>鍋</rb><rt>なべ</rt></ruby>の尻を洗っていたのに、

「綿屋へ行かっしゃれますか。わしが、ご案内いたしますべ」

用をすてて、先へ駈けるので、

「もし、わざわざ来て下さらなくても、およそ口で仰っしゃって下さればようございますのに」

「なに、すぐそこだがな」

そのすぐそこが十町もあった。

「<ruby><rb>此家</rb><rt>ここ</rt></ruby>だがな、綿屋さんは」

「ありがとう」

降りて、軒先の樹に、駒をつないでいると、

「いらっしゃいまし。お泊りですか」

と、<ruby><rb>小茶</rb><rt>こちゃ</rt></ruby>ちゃんが出てくる。

「いいえ、こちらに泊っている吉岡伝七郎様を訪ねて来たのです。――石舟斎様のお使いで」

小茶ちゃんは駈けこんで、やがて戻って来ると、

「どうぞ、お上がり下さい」

折から今朝宿を立つので<ruby><rb>騒々</rb><rt>ざわざわ</rt></ruby>とそこで草鞋を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いたり、荷を肩にしていた旅人たちは、

「<ruby><rb>何家</rb><rt>どこ</rt></ruby>の？」

「誰のお客」

小茶ちゃんに<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて奥へ通ってゆく彼女の<ruby><rb>鄙</rb><rt>ひな</rt></ruby>に稀れな<ruby><rb>眉目</rb><rt>みめ</rt></ruby>と、どことなく、<ruby><rb>﨟</rb><rt>ろう</rt></ruby>たけているとでもいうか、品のあるすがたに、眼と囁きを送っていた。

ゆうべ遅くまで飲んで、今し方やっと起き出した所の吉岡伝七郎とその連れの者は、小柳生城からの使いと聞き、またきのうの熊みたいな<ruby><rb>顎髯</rb><rt>あごひげ</rt></ruby>の持主かと期していると、思いのほかな使者と、その使者の携えている白芍薬の枝を見て、

「や、これは。……こんな取り散らかしている所へ」

と、ひどく恐縮顔をして、部屋の殺風景へ気をつかうばかりでなく、自分たちの衣紋や膝も、<ruby><rb>遽</rb><rt>にわか</rt></ruby>に改めて、

「さ、こちらへ、こちらへ」

## 六

「小柳生の大殿から、申しつかって来た者でござりますが」

お通は、<ruby><rb>芍薬</rb><rt>しゃくやく</rt></ruby>の一枝を、伝七郎のまえにさし置いて、

「おひらき下さいませ」

「ほ。……このお文」

伝七郎は解いて、

「拝見いたす」

一尺にも足らない手紙である。茶の味とでもいおうか、さらさらと墨も<ruby><rb>淡</rb><rt>うす</rt></ruby>く、

<ruby><rb>御会</rb><rt>ごえ</rt></ruby>しゃく、度々、痛み入り候、老生、あいにく先頃より風邪ぎみ、<ruby><rb>年老</rb><rt>としよ</rt></ruby>りの水ばなよりは、清純一枝の芍薬こそ、諸君子の旅情を慰め申すに足るべく、<ruby><rb>被存</rb><rt>ぞんぜら</rt></ruby>れ候まま、花に花持たせて、お詫びにつかわし候。

老い籠りの身は世の外に深う沈みて、顔浮かみ出すも、もの<ruby><rb>憂</rb><rt>う</rt></ruby>や。

<ruby><rb>御愍笑</rb><rt>ごびんしょう</rt></ruby>御愍笑石舟斎

伝七郎どの

ほか諸<ruby><rb>大雅</rb><rt>たいが</rt></ruby>

「ふム……」

つまらなそうに鼻を鳴らし、手紙を巻いて、

「これだけでござるか」

「それから――かように大殿のおことばでございました。せめて、粗茶の一ぷくなりとさし上げたいのですが、家中武骨者ぞろいで、心ききたる者はいず、折わるく子息<ruby><rb>宗矩</rb><rt>むねのり</rt></ruby>も、江戸表へ出府の折、粗略あっては、都の方々へ、かえってお笑いのたね、また失礼。いずれまたのおついでの節にはと――」

「ははあ」

不審顔を作って、

「仰せによると、石舟斎どのは、何か、吾々が茶事のお手前でも所望したように受り取っておられるらしいが、それがしどもは、武門の子、茶事などは解さんのでござる。お望み申したのは、石舟斎どののご健存を見、ついでに御指南を願ったつもりであるが」

「よう、ご承知でいらっしゃいます。したが、近頃は、風月を友にして、余生をお送りあそばしているお体、何かにつけ、茶事に託してものを仰っしゃるのが癖なのでございまする」

「ぜひがない」

と、<ruby><rb>苦々</rb><rt>にがにが</rt></ruby>しく、

「では、いずれまた、再遊のせつには、ぜひともお目にかかると、お伝えください」

と伝七郎が、<ruby><rb>芍薬</rb><rt>しゃくやく</rt></ruby>の枝をつきもどすと、お通は、

「あの、これは、道中のお慰みに、お駕なれば駕の端へ、馬なれば鞍のどこぞへでも挿して、お持ち帰り下さるようにと、大殿のおことばでございましたが」

「なに、これを土産にだと」

眼を落して、<ruby><rb>辱</rb><rt>はずかし</rt></ruby>められでもしたように、<ruby><rb>憤</rb><rt>む</rt></ruby>っと色をなして、

「ば、ばかな。<ruby><rb>芍薬</rb><rt>しゃくやく</rt></ruby>は京にも咲いているといってくれい」

――そう断られる物を、強いて、押しつけてゆくわけにもゆかないので、お通は、

「では帰りました上、そのように、……」

芍薬を持ち、<ruby><rb>腫</rb><rt>は</rt></ruby>れ物の<ruby><rb>膏薬</rb><rt>こうやく</rt></ruby>を<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>ぐように、そっとあいさつして、廊下へ出た。

よほど不快だったとみえ、送って来る者もない。お通は、それを背に感じて、廊下へ出ると、くすりと笑った。

同じ廊下の幾間かを隔てた先の一室には、もうこの土地へ来て十日余りになる武蔵が泊っていたのである。彼女が、その黒光りに<ruby><rb>艶</rb><rt>つや</rt></ruby>の出ている廊下を横に見て、反対に表のほうへ出て行こうとすると、ふと、武蔵の部屋から、誰か起って、廊下へ出て来た。

## 七

ばたばたと追いかけて来て、

「もうお帰りですか」

お通が、振り<ruby><rb>顧</rb><rt>かえ</rt></ruby>ってみると、上がる時にも、案内に立った小茶ちゃんである。

「え。御用がすみましたから」

「早いんですね」

世辞をいって――彼女の手をのぞいて、

「この芍薬、白い花が咲くんですか」

「そうです、お城の白芍薬ですの、ほしいならば上げましょうか」

「下さい」

と手を出す。

その手へ、芍薬をのせて、

「左様なら」

彼女は、軒先から駒の背に乗って、ひらりと、<ruby><rb>被衣</rb><rt>かずぎ</rt></ruby>にすがたを包んだ。

「またいらっしゃいませ」

小茶ちゃんは見送ってから、<ruby><rb>旅籠</rb><rt>はたご</rt></ruby>の雇人たちに、白芍薬を見せびらかしたが、誰も、よい花だとも美しいともいってくれないので、やや失望しながら、武蔵の部屋へ持って来て、

「旦那はん、花お好き」

「花」

窓に頬づえをついて、彼は、小柳生城のほうを今も見つめていたのである。

（――どうしたらあの大身に接近できるか。どうしたら石舟斎に会えるか。また、どうしたら剣聖といわれるあの老龍に一撃与えることができるか）

を、遠心的な眼が、じっと考えつめていた。

「……ほ、よい花だな」

「好き」

「好きだ」

「芍薬ですって。――白い芍薬」

「ちょうどよい。そこの壺に<ruby><rb>挿</rb><rt>さ</rt></ruby>しておくれ」

「あたいには挿せない。旦那はん挿して」

「いや、おまえがいいのだ。無心が却っていい」

「じゃあ、水を入れてくる」

小茶ちゃんは、壺をかかえて出て行った。

武蔵はふとそこへ置いて行った芍薬の枝の切り口に眼をとめて、小首をかしげた。何が彼の注意をひいたのか、じっと見ていた果てには手をのばし、それを寄せ、その花を見るのではなく、枝の切り口を飽かずに見ている。

「……あら、……あら、あら」

自分でこぼして歩く壺の水に、こう声をかけながら、小茶ちゃんは戻って来て、壺を床の間に置き、無造作に、それへ芍薬を入れてみたが、

「だめだア、旦那はん」

子ども心にも、不自然をさけぶ。

「なるほど、枝が長すぎるな。よし、持ってこい、ちょうどよく切ってやるから」

小茶ちゃんが抜いてくると、

「切ってあげるから、壺へ立てて、そうそう地に咲いているように、立てて持っておいで」

いわれる通り、小茶ちゃんは持っていたが突然、きゃッといって、<ruby><rb>芍薬</rb><rt>しゃくやく</rt></ruby>を<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り捨て、<ruby><rb>脅</rb><rt>おび</rt></ruby>えたように泣きだした。

無理のないことであった。

やさしい花の枝を切るのに武蔵の切り方は余り大げさであった。――それは眼に見えないほど早かったにせよ、いきなり<ruby><rb>前差</rb><rt>まえざし</rt></ruby>の<ruby><rb>小刀</rb><rt>しょうとう</rt></ruby>へ手をかけたと思うと、ヤッ――とするどい声と、そして、刀をパチンとその<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>へ納める音と殆ど一緒に白い光が、小茶ちゃんの持っていた手と手のあいだを、通りぬけていたのである。

びっくりして彼女が泣き出しているというのに、武蔵は、それを<ruby><rb>宥</rb><rt>なだ</rt></ruby>めようとはせず、自分のした切り口と元の切り口と、二つの枝を両手に取って、

「ウーム……」

じっと、見くらべているのだった。

## 八

ややあって、武蔵は、

「ア、済まない、済まない」

泣きじゃくっている小茶ちゃんの頭を撫で、心をくだいて、謝ったり、機嫌をとったりして、

「この花は、誰が切って来たのか知らないか」

「もらったの」

「誰に」

「お城の人に」

「小柳生城の家中か」

「いいえ女の人」

「ふウム。……では城内に咲いていた花だの」

「そうだろ」

「悪かった、後でおじさんが菓子を買おう、今度はちょうどよい筈だから、壺へ<ruby><rb>挿</rb><rt>さ</rt></ruby>してごらん」

「こう？」

「そうそう、それでよい」

おもしろいおじさんと<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>ついていた武蔵が、小茶ちゃんは、刀の光を見てから、急に怖くなったらしい。それがすむとすぐ、部屋に見えなくなった。

武蔵は、床に微笑している<ruby><rb>芍薬</rb><rt>しゃくやく</rt></ruby>の花よりも、膝の前に落ちている枝の根元七寸程の切れ端へ、まだ眼も心も奪われていた。

その元の切り口は、<ruby><rb>鋏</rb><rt>はさみ</rt></ruby>で<ruby><rb>剪</rb><rt>き</rt></ruby>ったのでもないし、<ruby><rb>小刀</rb><rt>こづか</rt></ruby>とも思われない。幹は柔軟な芍薬のそれではあるが、やはり相当な腰の<ruby><rb>刀</rb><rt>もの</rt></ruby>を用いて切ってあるものと武蔵は見たのである。

それも、生やさしい切り方ではないのだ。わずかな木口であるが切り<ruby><rb>人</rb><rt>て</rt></ruby>の非凡な手の冴えが光っている。

試みに、武蔵は、自分もそれに<ruby><rb>倣</rb><rt>なら</rt></ruby>って腰の刀で切って見たのであるが、こう較べて、細やかに見ると、やはり違っている。どこがどうと指摘できないが、自分の切り口には、遥かに劣るものを正直に感じるのだった。――たとえば一個の仏像を彫るのに、同じ一刀を用いても、その一刀の<ruby><rb>痕</rb><rt>あと</rt></ruby>には、明らかに、名匠と凡工の<ruby><rb>鑿</rb><rt>のみ</rt></ruby>のちがいが分るように。

「はてな？」

彼は、独り思う。

「城内の庭廻りの侍にすら、これほどな手腕のものがいるとすると、柳生家の実体は、世間でいう以上なものかも知れない」

そう考えてくると、

「誤っている、自分などはまだ所詮――」

と、<ruby><rb>謙遜</rb><rt>へりくだ</rt></ruby>った気持にもなるし、またその気持を乗りこえたものが、

「相手にとって不足のないものだ。<ruby><rb>敗</rb><rt>やぶ</rt></ruby>れた時は、いさぎよく、彼の足もとへ降伏するまでだ。――だが、何ほどのことがあろう、死を期してかかるからには」

闘志を駆って、こう坐っているうちにも、全身が熱くなって来る。若い功名心が、脈々と、<ruby><rb>肋骨</rb><rt>あばら</rt></ruby>のうちに張りつめる。

――が、手段だ。

所詮、武者修行のお方には、石舟斎様は、お会いなされますまい。誰のご紹介をお持ちになろうと、お会いになる気づかいはありません――とは、この<ruby><rb>旅宿</rb><rt>やど</rt></ruby>の<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>もいったことばである。

<ruby><rb>宗矩</rb><rt>むねのり</rt></ruby>は不在、孫の兵庫<ruby><rb>利厳</rb><rt>としとし</rt></ruby>も遠国。――どうしても、柳生を打ってこの土地を通ろうというのには、石舟斎を目がけるほかはない。

「何かよい方法は？」

またそこへ考えが戻ってくると、彼の血のうちを駆けていた野性と征服慾は、やや落ちついたものへ返って、眼は、床の間の清純な白い花へ移っていた。

「…………」

何気なく見ているうちに、彼はふと、この花に似ている誰かを思い出していた。

――お<ruby><rb>通</rb><rt>つう</rt></ruby>。

が久しぶりに、彼の、荒々しくのみ働いている神経と粗朴な生活の中に、彼女のやさしい<ruby><rb>面貌</rb><rt>おもざし</rt></ruby>が浮かんできた。

## 九

小柳生城のほうへ、お通が、駒のひづめを軽そうに引っ返して行くと、

「やア――い」

雑木の茂っている崖の下から、誰か、こう自分へ向っていうらしい者がある。

「子ども」

とは、すぐ分っていたが、この土地の子どもは、なかなか若い女を見てからかうような勇気のある子はいない。――誰かと、駒を止めていると、

「笛吹きのお姉さん、まだいるの？」

真ッ裸な男の子だった。濡れた髪をして、着物は丸めて小脇にかかえ込んでいる。それが、<ruby><rb>臍</rb><rt>へそ</rt></ruby>もあらわに、崖から飛び上がって来て、

（馬になんか乗ってやがる）

と、軽蔑するような眼で、お通を仰ぐのだった。

「あら」

お通には、不意打だった。

「誰かと思ったら、おまえはいつか、<ruby><rb>大和街道</rb><rt>やまとかいどう</rt></ruby>でベソを掻いていた城太郎という子でしたね」

「ベソ掻いて？　――嘘ばっかりいってら、おら、あの時だって、泣いてなんかいやしねえぜ」

「それはとにかく、いつここへ来たの」

「この間うち」

「誰と」

「お師匠様とさ」

「そうそう、おまえは、剣術つかいのお弟子さんでしたね。――それが今日はどうしたの、裸になって」

「この下の<ruby><rb>渓流</rb><rt>ながれ</rt></ruby>で、泳いで来たんだ」

「ま。……まだ水が冷たいだろうに、泳ぐなんて、人が見ると笑いますよ」

「行水だよ。お師匠様が、汗くさいっていうから、お風呂のかわりに入って来たのさ」

「ホホホ。宿は」

「綿屋」

「綿屋なら、たった今、私も行って来た家ですね」

「そうかい。じゃあ、おらの部屋へ来て、遊んでゆけばよかったな、もどらないか」

「お使いに来たのですから」

「じゃあ、あばよ」

お通はふり<ruby><rb>顧</rb><rt>かえ</rt></ruby>って、

「城太郎さん、お城へ遊びにおいで――」

「行ってもいいかい」

彼女は、愛嬌につい投げたことばに、ちょっと、自分で困りながら、

「いいけど、そんなかっこうじゃ駄目ですよ」

「じゃ嫌だよ。そんな窮屈なところへなんか、行ってやるもんか」

それで助かったような気がしてお通はほほ笑みながら、城内へ入った。

<ruby><rb>厩</rb><rt>うまや</rt></ruby>へ馬をもどし、石舟斎の草庵へ帰って、使い先のもようを話すと、

「そうか、怒ったか」

石舟斎は笑って、

「それでいい。怒っても、つかまえどころがあるまいからそれでいい」

といった。

しばらく経って、何かほかの話の折に思い出したのであろう。

「<ruby><rb>芍薬</rb><rt>しゃくやく</rt></ruby>は、捨てて来たか」

と訊いた。

旅宿の小女に与えて来たというと、その処置にもうなずいて、

「だが、吉岡のせがれ伝七郎とかいう者、あの芍薬を、手には取って見たろうな」

「はい、お文を解く時」

「そして」

「そのまま突き戻しました」

「枝の切り口は見なかったか」

「べつに……」

「何も、そこに眼をとめて、いわなかったか」

「申しませんでした」

石舟斎は、壁へいうように、

「やはり会わんでよかった。会って見るまでもない人物。吉岡も、まず拳法一代じゃ」

## 四高弟

## 一

<ruby><rb>荘厳</rb><rt>そうごん</rt></ruby>といっていいほどな道場である、<ruby><rb>外曲輪</rb><rt>そとぐるわ</rt></ruby>の一部で、<ruby><rb>床</rb><rt>ゆか</rt></ruby>も<ruby><rb>天井</rb><rt>てんじょう</rt></ruby>も、石舟斎が四十歳頃に建て直したという巨材だ。ここで研磨した人々の履歴を語るように、年月の古びと艶を出していて、戦時には、そのまま武者<ruby><rb>溜</rb><rt>だま</rt></ruby>りとして使えるように広くもあった。

「軽いっ――太刀先ではないっ――<ruby><rb>肚</rb><rt>はら</rt></ruby>っ、肚っ肚っ！」

<ruby><rb>襦袢</rb><rt>じゅばん</rt></ruby>一着に、<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>をつけ、用人の庄田喜左衛門は、一段高い床に腰をかけて、呶鳴っていた。

「出直せっ、成っていない」

叱られているのは、やはり柳生家の家士であった。汗で眼まいのしている顔を、

「アふっ……」

振りうごかしながら、

「えやあっ！」

すぐ火と火のように打ち合っているのだった。

ここでは、<ruby><rb>初心</rb><rt>しょしん</rt></ruby>に木剣を持たせなかった。上泉伊勢守の門で考案したという<ruby><rb>韜</rb><rt>とう</rt></ruby>という物を使っている。<ruby><rb>革</rb><rt>かわ</rt></ruby>のふくろに割竹をつつみこんだ物である。<ruby><rb>鍔</rb><rt>つば</rt></ruby>はない、革の棒だ。

――ぴしいッっ。

<ruby><rb>撲</rb><rt>なぐ</rt></ruby>ることの烈しい場合は、それでも、耳が飛んだり、鼻が<ruby><rb>柘榴</rb><rt>ざくろ</rt></ruby>になったりする。敢えて、打ちどころに約束はないのである。横ざまに、<ruby><rb>諸足</rb><rt>もろあし</rt></ruby>を撲ってぶっ<ruby><rb>仆</rb><rt>たお</rt></ruby>してもいいのだ。仆れて仰向いた顔へ、さらに二撃を加えてもべつだん法に<ruby><rb>反</rb><rt>そむ</rt></ruby>いたことにはならない。

「まだ！　まだ！　そんなことで」

ヘナヘナになるまでやらせておく。初心ほどわざと冷酷にあつかう。ことばでも<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>る。たいがいな家士は、これがあるので柳生家の奉公はなみなことではないといっている。新参などで続く者は稀れである。従って、ふるいにかけられた人のみが、家中なのだ。

足軽や<ruby><rb>厩者</rb><rt>うまやもの</rt></ruby>でも、柳生家の家人である者は、多少なり刀術の心得のない者はない。庄田喜左衛門は、役目は用人であるが、すでに早く新陰流に達し、石舟斎が<ruby><rb>研鑽</rb><rt>けんさん</rt></ruby>して、家の<ruby><rb>流</rb><rt>りゅう</rt></ruby>というところの柳生流の奥秘も<ruby><rb>会得</rb><rt>えとく</rt></ruby>していた。――そして、彼は彼で、自分の個性と工夫を加えて、

（おれのは、庄田真流である）

と、称していた。木村助九郎は、馬廻りであったが、これも上手だった。村田<ruby><rb>与三</rb><rt>よぞう</rt></ruby>は、納戸役であるが、しかし、今は肥後へ行っている柳生家の嫡孫<ruby><rb>兵庫</rb><rt>ひょうご</rt></ruby>とは、好敵手だといわれた者である。<ruby><rb>出淵孫兵衛</rb><rt>でぶちまごべえ</rt></ruby>もここの一役人に過ぎないが子飼いからの者で、従って、豪壮な剣をつかう男だ。

（わしの藩へくれい）

と、その出淵は越前侯から、村田与三は、紀州家から、懇望されているくらいだった。

出来ると、世間に聞えると、諸国の大名から、

（あの男をくれぬか）

と、<ruby><rb>聟</rb><rt>むこ</rt></ruby>のように持ってゆかれるので、柳生家は、<ruby><rb>誉</rb><rt>ほま</rt></ruby>れであったが、困りもする。断ると、

（そちらでは、よい<ruby><rb>雛鳥</rb><rt>ひな</rt></ruby>がいくらでも後から<ruby><rb>孵</rb><rt>かえ</rt></ruby>るのだから）

などという。

時代の剣士は、今この古い<ruby><rb>砦</rb><rt>とりで</rt></ruby>の武者溜りから、無限に湧いて出るような家運であった。この家運のもとに奉公する侍が、<ruby><rb>韜</rb><rt>しない</rt></ruby>と木剣で、たたきに叩き抜かれなければ一人前になれないことは、また当然な家憲でもあった。

「――なんじゃっ、番士」

ふいに、庄田が立って<ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>の人影へいった。

番士のうしろには、城太郎が立っていた。庄田は、

「おや？」

と、眼をみはった。

## 二

「おじさん、今日は――」

「こら、なんで貴さま、お城へなど入って来たか」

「門にいた人に連れて来てもらったんだ」

城太郎の答えに無理はない。

「なるほど」

庄田喜左衛門は、彼を連れて来た大手門の番士に、

「なんだ、この小僧は」

「あなた様にお目にかかりたいと申すので」

「こんな小僧のことばを取り上げて、御城内へ連れて来てはいかん。――小僧」

「はい」

「ここはお前たちの遊びに来る場所ではない。帰れ」

「遊びに来たんじゃない。お師匠様の手紙をもって、使いに来たんだ」

「お師匠様の……。ははあ、そうか。おまえの主人は、武者修行だったな」

「見てください、この手紙」

「読まんでもいい」

「おじさん、字が読めないのかい？」

「なに」

苦笑して――

「ばかをいえ」

「じゃあ、読んだらいいじゃないか」

「こいつ、喰えん小僧だ。読まんでもいいというのは、たいがい、読まなくとも分っているという意味だ」

「わかっているにしても、一応は読むのが礼儀じゃないか」

「<ruby><rb>孑孑</rb><rt>ぼうふら</rt></ruby>や<ruby><rb>蛆</rb><rt>うじ</rt></ruby>ほど多い武者修行に、いちいち礼儀を<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>っていられないことは許してくれ。この柳生家で、それをやっていたら吾々は毎日、武者修行のために奉公していなければならないことになる。――そういっては、せっかく使いに来たおまえに可哀そうだが、この手紙も、ぜひ一度、<ruby><rb>鳳城</rb><rt>ほうじよう</rt></ruby>の道場を拝見させていただきたい、そして、天下様御師範のお太刀の影なりともよろしいから、同じ道に志す後輩のために、一手の御授業を賜わりたい……。まあ、そんなところだろうなあ」

城太郎は、まるい眼を、ぐるりと動かして、

「おじさん、まるで中を読んでるようなことをいうね」

「だから見たも同じだといっておるじゃないか。ただし、柳生家においても、何もそう訪ねてくる者を、<ruby><rb>素</rb><rt>そ</rt></ruby>ッ<ruby><rb>気</rb><rt>け</rt></ruby>なく追い返すというわけではない」

噛んでふくめるように、

「――その番士に、教えてもらうがいい。御当家を訪れた一般の武者修行は、大手を通って、中門の右を仰ぐと、そこに、<ruby><rb>新陰堂</rb><rt>しんいんどう</rt></ruby>と<ruby><rb>木額</rb><rt>きがく</rt></ruby>のかかっている建物がある。そこの取次の者へ申し入れると、休息も自由、また、一夜や二夜は泊めてあげる設備も出来ている。そして、世の後進のために、わずかながら、出立の折には、笠の<ruby><rb>代</rb><rt>しろ</rt></ruby>として、一封ずつの金を<ruby><rb>喜捨</rb><rt>きしゃ</rt></ruby>することにもなっている。だから、この手紙は、新陰堂の役人のほうへ持ってゆくがよろしい」

そう<ruby><rb>諭</rb><rt>さと</rt></ruby>して、

「わかったか」

すると、城太郎は、

「わからない」

と、首を振って右の肩をすこし<ruby><rb>昂</rb><rt>あ</rt></ruby>げ、

「おい、おじさん」

「なんじゃ」

「人を見てものをいいなよ。おれは、乞食の弟子じゃないぜ」

「ふム。貴さま……、ちょっと口がきけるの」

「もし、手紙を開けて見て、おじさんがいったことと、書いてある用向きと、まるで、違っていたらどうする？」

「むむ……」

「首をくれるかい」

「待て待て」

栗のイガを割ったように、喜左衛門は<ruby><rb>顎髯</rb><rt>あごひげ</rt></ruby>の間から、赤い口を見せて、笑ってしまった。

## 三

「首はやれん」

「じゃあ、手紙を見ておくれよ」

「小僧」

「なんだい」

「貴さまが、師の使命を恥かしめぬ心にめでて、見てつかわす」

「あたりまえだろ。おじさんは柳生家の用人じゃないか」

「舌は、<ruby><rb>絶倫</rb><rt>ぜつりん</rt></ruby>だな。剣もそんなになればすばらしいが……」

いいながら封を切って、武蔵の手紙を黙読していたが、読み終ると、庄田喜左衛門は、ちょっと、怖い顔つきをした。

「城太郎。――この手紙のほかに、何か持って来たか」

「あ、忘れていた、これを」

ふところから、無造作に出したのである。それは、七寸ばかりの<ruby><rb>芍薬</rb><rt>しゃくやく</rt></ruby>の切枝だった。

「…………」

<ruby><rb>黙然</rb><rt>もくねん</rt></ruby>と、喜左衛門は、その両方の切り口を見くらべていたが、しきりと、小首をかしげるのみで、武蔵の書中にあることばの意味が、十分に、彼には解せないらしいのである。

武蔵の書面には、計らずも、宿の少女から<ruby><rb>芍薬</rb><rt>しゃくやく</rt></ruby>の一枝をもらったこと。それが御城内のものであるということ。――次に、切り口を見て非凡なお方の切ったものと拝察したということ。

そう次第を書いて来て、

（花を<ruby><rb>挿</rb><rt>い</rt></ruby>け、その<ruby><rb>神韻</rb><rt>しんいん</rt></ruby>を感じるにつけ、どなたがあれをお切りになったか、どうしても知りたい気がする。甚だ、つかぬことをお訊ね申すようであるが、御家中の誰方であるや、おさしつかえなくば、使いの<ruby><rb>童</rb><rt>わらべ</rt></ruby>に、一筆お持たせねがいたい）

自分が、武者修行の者とも書いてない。試合の希望もいっていない。それだけの文意であった。

（ふしぎなことをいってくる）

喜左衛門は、そう思って、一体どう切り口が違っているかを、まず<ruby><rb>審</rb><rt>つぶ</rt></ruby>さな眼で<ruby><rb>検</rb><rt>あらた</rt></ruby>めてみたが、どっちがどう先に切ってあるのか、どこに相違があるのか、見出せないのだ。

「村田」

その手紙と、切枝とを、彼は道場の内へ持って入って、

「これを見ろ」

と示した。そして、

「一体、この枝の両端の切り口が、どっちがそんな達人の切ったもので、また、どっちが、より劣った切り口になっているか、貴公の眼で<ruby><rb>鑑</rb><rt>み</rt></ruby>わけがつくか」

村田与三は、睨むように、かわるがわる見ていたが、

「わからぬ」

吐き出すようにいった。

「木村に見せてみよう」

奥へ入って、お役部屋をのぞいてゆき、木村助九郎を見つけて同じように意見を訊くと、木村も、

「さてなあ」

不審とするばかりだった。

だが、いあわせた<ruby><rb>出淵</rb><rt>でぶち</rt></ruby>孫兵衛のことばによると、

「これは<ruby><rb>一昨日</rb><rt>おととい</rt></ruby>、大殿が手ずからお切りになったものだ。――庄田殿は、その折おそばにいたはずではないか」

「いや、花をお<ruby><rb>挿</rb><rt>い</rt></ruby>けになっているのは見たが」

「その時の一枝だ。――それをお通が、殿のいいつけで、吉岡伝七郎の<ruby><rb>許</rb><rt>もと</rt></ruby>へ、お文を結びつけて<ruby><rb>携</rb><rt>たずさ</rt></ruby>えて行ったもの」

「オ。あれかな？」

喜左衛門はそういわれて、もいちど、武蔵の手紙を読み直した。こんどは、<ruby><rb>愕然</rb><rt>がくぜん</rt></ruby>と眼を<ruby><rb>革</rb><rt>あらた</rt></ruby>めて、

「御両所、ここには、<ruby><rb>新免</rb><rt>しんめん</rt></ruby>武蔵と署名しあるが、武蔵といえば、先頃、宝蔵院衆と共に<ruby><rb>般若野</rb><rt>はんにゃの</rt></ruby>で多くの<ruby><rb>無頼者</rb><rt>ならずもの</rt></ruby>を斬ったという――あの宮本武蔵とは別人だろうか」

## 四

――武蔵とあれば、多分、そうだろう、あの武蔵にちがいあるまい。

出淵孫兵衛も、村田与三も、そういって、手から手へ、再度、手紙を渡して読み直しながら、

「文字にも、<ruby><rb>気稟</rb><rt>きひん</rt></ruby>がみえる」

「人物らしいな」

と、呟いた。

庄田喜左衛門は、

「もし、この手紙にある通り、ほんとに、<ruby><rb>芍薬</rb><rt>しゃくやく</rt></ruby>の枝の切り口を一見して、非凡と感じたのなら、これはおれたちより少し出来る。――大殿が手ずから切ったものだから、或は、まったく<ruby><rb>鑑</rb><rt>み</rt></ruby>る者が鑑れば違っているのかも知れないからな」

「むム……」

出淵は、ふいに、

「会ってみたいものだな。――それも一つ<ruby><rb>糺</rb><rt>ただ</rt></ruby>してみようし、また、般若野のことなども、訊いてみるもよかろう」

喜左衛門は思い出して、

「使いに来た小僧が、待っておるのだ。――呼んでみるかの」

「どうじゃ」

独断ではというように出淵孫兵衛は、木村助九郎に<ruby><rb>計</rb><rt>はか</rt></ruby>ってみる。助九郎がいうには、今はすべての武者修行に授業を断っている折だから道場の客としては迎えられない。しかしちょうど、中門の上の新陰堂の池の<ruby><rb>畔</rb><rt>ほとり</rt></ruby>には、<ruby><rb>燕子花</rb><rt>かきつばた</rt></ruby>がさいているし、山つつじの花もぼつぼつ紅くなっている。そこに、酒でも設けて、一<ruby><rb>夕</rb><rt>せき</rt></ruby>、剣談を交わそうとあれば、彼もよろこんで来るであろうし、大殿の耳へ入っても、それならばお<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めはなかろうではないか。

喜左衛門は、膝を打って、

「それはよいお考えだ」

村田与三も、

「自分たちに取っても一興、さっそく、そう返事をやろうではないか」

と、話は決まる。

――<ruby><rb>戸外</rb><rt>そと</rt></ruby>では、城太郎、

「アアア……遅いなあ」

<ruby><rb>欠伸</rb><rt>あくび</rt></ruby>をしていたが、やがて、彼のすがたを<ruby><rb>嗅</rb><rt>か</rt></ruby>いで、のっそり寄って来た大きな黒犬を見ると、こいつよい友達と、

「やい」

耳をつかんで引き寄せ、

「すもうを取ろう」

抱きついて、引っくり<ruby><rb>転</rb><rt>かえ</rt></ruby>した。

よく自由になるので、二、三度手玉にとって<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>ったり、<ruby><rb>上顎</rb><rt>うわあご</rt></ruby>と下顎を手で抑えて、

「わんといえ」

そのうちに、何か、犬の<ruby><rb>癇</rb><rt>かん</rt></ruby>に触ったことがあるとみえ、いきなり城太郎のすそへ噛みついて、<ruby><rb>犢</rb><rt>こうし</rt></ruby>のように唸りだした。

「こいつ、おれを誰だと思う」

木刀に手をかけて、彼が見得を切ると、犬は、<ruby><rb>喉</rb><rt>のど</rt></ruby>を太くして、猛然と、小柳生城の<ruby><rb>兵</rb><rt>つわもの</rt></ruby>を奮い起たすような声で吠えだした。

こつうんッ――

と、木剣が一つ、犬のかたい頭に石を打ったような音をさせると、猛犬は、城太郎の背へかぶりつき帯を<ruby><rb>咥</rb><rt>くわ</rt></ruby>えて、彼の体を振り飛ばした。

「生意気なっ」

彼の起つより、犬のほうが遥かに<ruby><rb>迅</rb><rt>はや</rt></ruby>かった。ギャッと、城太郎は、両手で顔を抑えた。

そして、逃げ出すと、

わ、わ、わ、わんッ

猛犬のほえる<ruby><rb>谺</rb><rt>こだま</rt></ruby>は、後ろの山を揺るがした。顔を抑えている両手の指のあいだから血がながれて来たので、城太郎は、逃げ<ruby><rb>転</rb><rt>まろ</rt></ruby>びながら、

「わアん――」

と、これも犬に負けない大声をあげて、泣き出してしまった。

## 円座

## 一

「行って参りました」

帰って来ると、城太郎は取り澄ました顔つきで、武蔵の前にかしこまった。

武蔵は、何げなく彼の顔を見て驚いた。<ruby><rb>碁盤</rb><rt>ごばん</rt></ruby>の目みたいに顔中が傷でバラ掻きになっている。鼻なども、砂の中に落ちた<ruby><rb>苺</rb><rt>いちご</rt></ruby>みたいに血だらけなのだ。

さぞ<ruby><rb>鬱陶</rb><rt>うっとう</rt></ruby>しいことだろうし、痛くもあろうに、それについては、城太郎がちっとも触れないので、武蔵も何も問わなかった。

「返事をよこしたよ」

庄田喜左衛門の返事をそこへさし出して、ふた<ruby><rb>言</rb><rt>こと</rt></ruby>三言、使い先の様子を話していると、顔からぼとぼと血がながれてくる。

「ハイ。それだけです、もうよございますか」

「ご苦労だった」

武蔵が、喜左衛門の返書へ眼を落している間に、彼は、両手で顔を抑えて、あわてて部屋の外へ去った。

<ruby><rb>小茶</rb><rt>こちゃ</rt></ruby>ちゃんが、後ろから<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて来て、心配そうに彼の顔をのぞいた。

「どうしたの、城太郎さん」

「犬にやられたんだ」

「ま、どこの犬」

「お城の――」

「アア、あの黒い紀州犬。あの犬じゃ、いくら城太郎さんでもかなうまいよ。いつかも、お城の中へ忍び込もうとした<ruby><rb>他国</rb><rt>よそ</rt></ruby>の隠密の者が噛み殺されたというくらいな犬だもの」

いつも<ruby><rb>虐</rb><rt>いじ</rt></ruby>められているくせに、小茶ちゃんは親切に、彼を導いて、裏の流れで顔を洗わせたり、薬を持って来て付けてやったりするので、今日ばかりは城太郎も<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">悪たれ</span>をたたかず、彼女のやさしい親切に甘えて、

「ありがと。ありがと」

くり返して、頭ばかり下げていた。

「城太郎さん、そんなに、男のくせに、安ッぽく頭を下げるものじゃないわ」

「だって」

「喧嘩しても、あたし、ほんとは城太郎さんが好きなんだもの」

「おらだって」

「ほんまに」

城太郎は、<ruby><rb>膏薬</rb><rt>こうやく</rt></ruby>と膏薬のあいだの顔の皮膚を真っ赤にさせた。小茶ちゃんも火みたいな顔をして、その頬ぺたを両手で押えた。

誰もいなかった。

そこらに乾いている<ruby><rb>馬糞</rb><rt>まぐそ</rt></ruby>から<ruby><rb>陽炎</rb><rt>かげろう</rt></ruby>が燃えている。そして、<ruby><rb>緋桃</rb><rt>ひもも</rt></ruby>の花が太陽からこぼれて来た。

「でも、城太郎さんの先生は、もうすぐここを立つんだろ」

「まだいるらしいよ」

「一年も二年も泊っているとうれしいんだけど……」

<ruby><rb>馬糧小屋</rb><rt>まぐさごや</rt></ruby>の馬糧の中へ、二人は仰向けになって転がった。手と手だけは<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>いでいた。体が<ruby><rb>納豆</rb><rt>なっとう</rt></ruby>のように<ruby><rb>蒸</rb><rt>む</rt></ruby>れて来ると、城太郎は物狂わしく小茶ちゃんの指へいきなり噛みついた。

「ア痛っ」

「痛かった。ごめん」

「ううん、いいの、もっと噛んで」

「いいかい」

「アア、もっと噛んで、もっと<ruby><rb>強</rb><rt>きつ</rt></ruby>く噛んで――」

犬ころみたいに、二人は、馬糧を頭からかぶって、喧嘩のように抱き合っていた。どうするでもなく抱擁をもだえ合っていた。すると、小茶ちゃんを探しに来た爺やが、呆れ果てたように眺めていたが、突然、道徳の高い君子のような顔をして、

「この<ruby><rb>阿呆</rb><rt>あほ</rt></ruby>っ。餓鬼のくせに、何して居さらすっ」

ふたりの襟くびをつかんで引きずり出し、小茶ちゃんのお尻を、二ツ三ツ打った。

## 二

その日から翌る日へかけ、二日のあいだというもの、武蔵は何を考えているのか殆ど口もきかずに腕を<ruby><rb>拱</rb><rt>こまね</rt></ruby>いていた。

<ruby><rb>沈湎</rb><rt>ちんめん</rt></ruby>たるその眉を見て、城太郎はひそかに怖れをなした。馬糧小屋の中で小茶ちゃんと遊んだことが分ったのではないかと思って――

ふと、<ruby><rb>夜半</rb><rt>よなか</rt></ruby>に、目をさまして、そっと首を出して見た時も、武蔵は、夜具の中に眼をあいて、おそろしい程、考えつめた顔つきをして、天井を見つめていた。

「城太郎、帳場の者に、すぐ来てくれと申してこい」

次の日の<ruby><rb>黄昏</rb><rt>たそが</rt></ruby>れが窓に迫って来た頃である。あわてて城太郎が出てゆくと、入れ代って、綿屋の手代が入って来た。間もなく、勘定書が届けられ、武蔵はその間に、出立の身支度をしているのだった。

「お夕飯は」

と、宿の者が訊きに来ると、

「いらぬ」

という彼の返事。

小茶ちゃんは、ぼんやり部屋の隅に立っていたが、やがて、

「旦那はん、もう、今夜は、<ruby><rb>此宿</rb><rt>ここ</rt></ruby>へ帰って寝ないの」

「ウム。長い間、小茶ちゃんにもお世話になったな」

小茶ちゃんは、両方の<ruby><rb>肱</rb><rt>ひじ</rt></ruby>を曲げて、顔をかくした。泣いているのである。

――ご機嫌よう。

――どうぞお気をつけて。

綿屋の番頭や女たちは、門口に並んで、この山国をどういうつもりか黄昏れに立つ旅人へ、人里の声を送った。

「？　……」

そこの軒を離れてから後ろを見ると、城太郎が<ruby><rb>従</rb><rt>つ</rt></ruby>いて来ないので、武蔵はまた、十歩ほど引っ返して、彼の姿をさがした。

綿屋の横の蔵の下に、城太郎は小茶ちゃんと別れを惜しんでいた。武蔵の影を見たので二人はあわてて側を離れて、

「……左様なら」

「……あばよ」

城太郎は、武蔵のそばへ駈けて来て、武蔵の眼を怖れながら、時々振りかえった。

柳生谷の<ruby><rb>山市</rb><rt>さんし</rt></ruby>の<ruby><rb>灯</rb><rt>ひ</rt></ruby>は、すぐ二人の後ろになった。武蔵は相かわらず黙々と足をすすめているだけであった。振り<ruby><rb>顧</rb><rt>かえ</rt></ruby>っても、もう小茶ちゃんの姿が見えないので、城太郎も<ruby><rb>悄</rb><rt>しょ</rt></ruby>ンぼりと<ruby><rb>従</rb><rt>つ</rt></ruby>いてゆくほかはない。

やがて武蔵から、

「まだか？」

「何処」

「小柳生城の大手門は」

「お城へ行くの」

「うむ」

「今夜はお城で泊るのかい」

「どうなるか、わからんが」

「もうそこだよ、大手門は」

「ここか」

ぴたと、足を揃えて、武蔵は立ちどまった。

<ruby><rb>苔</rb><rt>こけ</rt></ruby>につつまれた石垣と<ruby><rb>柵</rb><rt>さく</rt></ruby>の上に、巨木の林が海のように鳴っていた。そこの真っ暗な多門型の石塀のかげに、ポチと、四角な窓から明りが洩れている。

声をかけると、番士が出て来た。庄田喜左衛門からの書面を見せ、

「お招きによって<ruby><rb>罷</rb><rt>まか</rt></ruby>り越した宮本と申す者でござる。――お取次を」

番士は、もう今夜の客を知っていた。取次ぐまでもなく、

「お待ちかねでござる、どうぞ」

と、先に立って、<ruby><rb>外曲輪</rb><rt>そとぐるわ</rt></ruby>の新陰堂へ、客を導いて行った。

## 三

ここの新陰堂は、城内に住む子弟たちが儒学を受ける講堂でもあり、また藩の文庫でもあるらしく奥へゆく通路の<ruby><rb>廊架側</rb><rt>ろうかわき</rt></ruby>には、どの室にも、壁いっぱい書物の棚が見うけられる。

「柳生家といえば、武名だけで鳴っているが、武ばかりではないと見える」

武蔵は、城内を踏んで、柳生家というものの認識に、想像以上な厚味と歴史を感じるのだった。

「さすがに」

事ごとに<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>かれるのである。

たとえば、大手からここまでの間の清掃された道を見ても、応対する番士のもの腰でも、本丸のあたりの厳粛なうちにも<ruby><rb>和</rb><rt>なご</rt></ruby>やかな光のある<ruby><rb>燈火</rb><rt>ともしび</rt></ruby>をながめても。

それはちょうど、一軒の家を訪れて、その家の上がり口に履物をぬぐとたんに家風と人とがほぼ分るようである。武蔵は、そうした感銘もうけながら、通された広い床へ坐った。

新陰堂には、どの部屋にも、畳というものは敷いてなかった。この部屋も板敷である、そして、客なる彼へは、

「どうぞ、おあてなされ」

と小侍が<ruby><rb>藁</rb><rt>わら</rt></ruby>で編んである<ruby><rb>円座</rb><rt>えんざ</rt></ruby>という敷物をすすめた。

「頂戴する」

遠慮なく、武蔵はそれを取って坐った。従僕の城太郎は、勿論、ここまでは通らない。外の<ruby><rb>供待</rb><rt>ともまち</rt></ruby>でひかえている。

小侍がふたたび出て、

「今宵は、ようこそお越し下さいました。木村様、<ruby><rb>出淵</rb><rt>でぶち</rt></ruby>様、村田様みなお待ちかねでございましたが、ただ庄田様のみが、生憎と突然な公用で、ちと<ruby><rb>遅</rb><rt>おそ</rt></ruby>なわりまするが、やがてすぐ参られますゆえ、暫時お待ちのほどを」

「閑談の客でござる、お気づかいなく」

円座を、隅の柱の下へ移して、武蔵はそこへ<ruby><rb>倚</rb><rt>よ</rt></ruby>りかかった。

<ruby><rb>短檠</rb><rt>たんけい</rt></ruby>の明りが、庭先へ届いている。どこかで甘いにおいがするなと思って見ると、藤の花がこぼれているのである。紫もある白藤もある。ふと珍しく思ったのは、ここで初めてまだ<ruby><rb>片言</rb><rt>かたこと</rt></ruby>の今年の<ruby><rb>蛙</rb><rt>かわず</rt></ruby>の声を聞いたことである。

<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">せんかん</span>とそこらあたりを水が駈けているらしい。泉は床下へも通っているとみえ、落着くに従って、円座の下にもさらさらと流れの音が感じられる。やがては、壁も天井も、そして一<ruby><rb>穂</rb><rt>すい</rt></ruby>の<ruby><rb>短檠</rb><rt>たんけい</rt></ruby>の灯までが、水音を立てているのではないかと疑われるほど、武蔵は<ruby><rb>冷々</rb><rt>ひえびえ</rt></ruby>とした気につつまれた。

だが――その<ruby><rb>寂寞</rb><rt>じゃくまく</rt></ruby>たる中にあって、彼のからだの裡には、抑えきれないほど沸きあがっているものがあった。熱湯のような争気を持つ血液である。

（柳生が何か）

と隅柱の円座から<ruby><rb>睥睨</rb><rt>へいげい</rt></ruby>しているところの気概である。

（彼も一箇の剣人、われも一箇の剣人。道においては、互角だ）

と思い、また、

（いや今宵は、その互角から一歩を抜いて、柳生を、おれの<ruby><rb>下風</rb><rt>かふう</rt></ruby>にたたき落してみせる）

彼は信念していた。

「いや、お待たせ申して」

と、その時、庄田喜左衛門の声がした。ほかの三名も同席して、

「ようこそ」

と挨拶の後、

「それがしは、馬廻り役木村助九郎」

「拙者は、<ruby><rb>納戸方</rb><rt>なんどがた</rt></ruby>村田<ruby><rb>与三</rb><rt>よぞう</rt></ruby>」

「出淵孫兵衛でござる」

と順々に名乗り合った。

## 四

酒が出る。

古風な<ruby><rb>高坏</rb><rt>たかつき</rt></ruby>に、とろりと<ruby><rb>粘</rb><rt>ねば</rt></ruby>るような手造りの地酒。<ruby><rb>肴</rb><rt>さかな</rt></ruby>は、めいめいの前の木皿へ取り分けられてある。

「お客殿、こんな山家のことゆえ、何もないのです。ただ、<ruby><rb>寛</rb><rt>くつろ</rt></ruby>いでどうぞ」

「ささ、遠慮なく」

「お膝を」

四名の主人側は、一人の客に対して飽くまでいんぎんであって、また飽くまで打ち解けて見せる。

武蔵は酒はたしなまない。嫌いなのではなく、まだ酒の味というものが分らないのである。

しかし、今夜は、

「頂戴する」

めずらしく<ruby><rb>杯</rb><rt>さかずき</rt></ruby>を取って<ruby><rb>舐</rb><rt>な</rt></ruby>めてみた。まずいとは思わないが、格別にも感じない。

「おつよいと見える」

木村助九郎が、<ruby><rb>瓶子</rb><rt>ちょうし</rt></ruby>を向ける。席が隣なのでぽつぽつ話しかけるのであった。

「貴君から先日お訊ねのあった<ruby><rb>芍薬</rb><rt>しゃくやく</rt></ruby>の枝ですな。あれは実は、当家の大殿がお手ずから切ったものだそうです」

「道理で、お見事なわけ」

と、武蔵は膝を打った。

「――しかしですな」

と、助九郎は膝をすすめ、

「どうして、あんな柔軟な細枝の切り口を見て、非凡な切り手ということが貴君には分りましたか。そのほうが、吾々には、むしろ<ruby><rb>怪訝</rb><rt>いぶか</rt></ruby>しいのですが」

「…………」

武蔵は、小首をかしげて、答えに窮するもののように黙っていたが、やがて、

「左様でござろうか」と、反問した。

「そうですとも」

庄田、出淵、村田の三名も、異口同音に、

「吾々には、分らない。……やはり非凡は非凡を<ruby><rb>識</rb><rt>し</rt></ruby>るというものか。そこのところを、後学のために、こよいは一つ説明していただきたいと思うのですが」

武蔵は、また一つ杯をふくみ、

「恐縮です」

「いや、ご謙遜なさらずに」

「謙遜ではござらぬ。<ruby><rb>有</rb><rt>あ</rt></ruby>り<ruby><rb>態</rb><rt>てい</rt></ruby>に申して、ただ、そう感じたというだけに過ぎませぬ」

「その感じとは？」

柳生家の四高弟は、ここを追及して、武蔵の人間を試そうとするもののようであった。最初、一<ruby><rb>瞥</rb><rt>べつ</rt></ruby>したとたんに、四高弟はまず、武蔵の若年なのをちょっと意外としたらしい。次には、その<ruby><rb>逞</rb><rt>たくま</rt></ruby>しい骨格に目がついた。<ruby><rb>眼</rb><rt>まな</rt></ruby>ざしや身ごなしにも<ruby><rb>弛</rb><rt>ゆる</rt></ruby>みがないと感服した。

けれど、武蔵が酒を<ruby><rb>舐</rb><rt>な</rt></ruby>めると、その杯の持ちようや箸のさばき、何かにつけ、粗野が目について、

（ははあ、やはり野人だ）

つい書生扱いになり、従って、幾分軽んじてくる傾きがあった。

たった<ruby><rb>三杯</rb><rt>みっつ</rt></ruby>か<ruby><rb>四杯</rb><rt>よっつ</rt></ruby>かさねただけなのに、武蔵の顔は、<ruby><rb>銅</rb><rt>あかがね</rt></ruby>を焼いたように<ruby><rb>火</rb><rt>ほ</rt></ruby>てりだし、始末に困るように、時々手を当てた。

その<ruby><rb>容子</rb><rt>ようす</rt></ruby>が、処女みたいなので四高弟は笑った。

「ひとつ、貴君のいうところの感じとは、どういうものか、お話し下さらんか。この新陰堂は、上泉伊勢守先生が、当城に御滞在中、先生のため御別室として建てたもので、剣法に<ruby><rb>由縁</rb><rt>ゆかり</rt></ruby>のふかいものなのです。こよい武蔵どのの御講話を拝聴するにも、最もふさわしい席と思うが」

「困りましたな」

武蔵はそういうだけであった。

「――感覚は感覚、どういっても、それ以外に説きようはごさらぬ。<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いて目に見たく思し召すなら、太刀を<ruby><rb>把</rb><rt>と</rt></ruby>って、私をお試しくださるほかはない」

## 五

何とかして石舟斎へ近づく機縁をつかみたい、彼と試合してみたい、兵法の大宗といわれる<ruby><rb>老龍</rb><rt>ろうりゅう</rt></ruby>を自己の剣下にひざまずかせてみたい。

自己の<ruby><rb>冠</rb><rt>かんむり</rt></ruby>に、大きな勝星を一つ加えることだ。

――武蔵来り、武蔵去る。

と記録的な<ruby><rb>足痕</rb><rt>あしあと</rt></ruby>を、この土地へのこすことだ。

彼の<ruby><rb>旺</rb><rt>さかん</rt></ruby>な客気は今、その野望で満身を燃やしながらここに坐っている。しかもそれを現わさずにである。夜も静か、客も静かな<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>にである。<ruby><rb>短檠</rb><rt>たんけい</rt></ruby>の光は時折、<ruby><rb>烏賊</rb><rt>いか</rt></ruby>のような墨を吐き、風の間に、どこかで<ruby><rb>片言</rb><rt>かたこと</rt></ruby>の<ruby><rb>初蛙</rb><rt>はつかわず</rt></ruby>が鳴く。

庄田と出淵は、顔を見あわせて何か笑った。武蔵が今いったことば――

（――<ruby><rb>強</rb><rt>し</rt></ruby>いて目に見たく思し召すなら、私をお試しくださるほかはない）

これは穏かのようだが、明らかに戦闘を挑むものだ。出淵と庄田は、四高弟のうちでも年上だけに、早くも武蔵の覇気を<ruby><rb>観</rb><rt>み</rt></ruby>てとって、

（<ruby><rb>豎子</rb><rt>じゅし</rt></ruby>、何をいうか）

と、その若気を苦笑するもののようであった。

話題は一つところにとどまらない。剣の話、禅の話、諸国のうわさ話、わけても関ヶ原の合戦には、出淵も、庄田も、村田与三も主人について出たので、その折、東軍と西軍との敵味方であった武蔵とはひどく話に<ruby><rb>実</rb><rt>み</rt></ruby>が入って、主人側もおもしろげに<ruby><rb>喋</rb><rt>しゃ</rt></ruby>べり出し、武蔵も興に入って話に<ruby><rb>耽</rb><rt>ふ</rt></ruby>ける。

<ruby><rb>徒</rb><rt>いたずら</rt></ruby>に、<ruby><rb>刻</rb><rt>とき</rt></ruby>は過ぎ――

（今夜をおいて、二度と、石舟斎へ近づく機会はない）

思いめぐらすうちに、

「お客、<ruby><rb>麦飯</rb><rt>ばくはん</rt></ruby>でござるが」

と、酒をひいて、麦飯と汁とが出される。

それを喰べつつも、

（どうしたら彼に）

武蔵は、他念がない。そして思うには、

（所詮、尋常なことでは接近できまい。よし！）

彼は、自分でも下策と思う策を取るほかなかった。つまり相手を激させて、相手を誘い出すことだ。しかし、自分を冷静において、人を怒らせることは難しい。武蔵は、故意に、暴論を吐いてみたり、無礼な態度を見せたりしたが、庄田喜左衛門も出淵も笑って聞き流すだけである。くわっと乗って来るような不覚はこの四高弟のうちにはない。

武蔵は、やや<ruby><rb>焦心</rb><rt>あせ</rt></ruby>った。これで帰ることが無念だった。自分の底の底までを<ruby><rb>見透</rb><rt>みす</rt></ruby>かされてしまった気がする。

「さ、<ruby><rb>寛</rb><rt>くつろ</rt></ruby>ごう」

食後の茶になると、四高弟は、円座を思い思いの居心地へ移して、膝を抱えるのもある。あぐらを組む者もある。

武蔵だけは、依然として、<ruby><rb>隅柱</rb><rt>すみばしら</rt></ruby>を負っていた。つい無口になる。<ruby><rb>怏々</rb><rt>おうおう</rt></ruby>として楽しまないものが胸を占めて<ruby><rb>霽</rb><rt>は</rt></ruby>れないのだ。勝つとは限らない、撃ち殺されるかも知れない。――それにしても石舟斎と<ruby><rb>試合</rb><rt>しあ</rt></ruby>わずしてこの城を去るのは生涯の遺憾だと思う。

「やっ？」

ふいにその時、村田与三が縁へ起って、暗い外へつぶやいた。

「太郎が吠えている。ただの吠え方ではない。何事かあるのではあるまいか」

太郎とはあの黒犬の名か、なるほど、二の丸のほうで怖ろしく啼き立てている。その声が、四方の山の<ruby><rb>谺</rb><rt>こだま</rt></ruby>を呼んで、犬とも思えない凄さであった。

## 太郎

## 一

犬の声は、容易にやまない。<ruby><rb>凡事</rb><rt>ただごと</rt></ruby>とも思えない吠え方なのである。

「何事だろう？　失礼だが、武蔵どの、ちょっと中座して見て参ります。――どうぞごゆるりと」

席を<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>して、出淵孫兵衛が出てゆくと、村田与三も、木村助九郎も、

「暫時、ごめんを」

と各〻、武蔵へ対して、<ruby><rb>会釈</rb><rt>えしゃく</rt></ruby>を残しながら、出淵につづいて外へ去った。

遠い闇の中に、犬の声は、いよいよ、何か主人へ急を告げるように啼きつづけていた。

三名が去った後の席は、その遠吠えがよけいに凄く澄んで聞え、白けわたった燭の明りに、鬼気がみなぎっていた。

城内の番犬が、こう異様な啼き声を立てるからには、何か城内に異変があったものと考えなければならぬ。今、諸国ともにやや泰平のようでもあるが、決して隣国に気はゆるせたものではない。いつどんな<ruby><rb>梟雄</rb><rt>きょうゆう</rt></ruby>が立って、どんな野心を奮い起さない限りもないのだ。<ruby><rb>乱波者</rb><rt>らっぱもの</rt></ruby>（おんみつ）はどこの城下へも入りこんで、枕を高くして寝ている国をさがしているのだ。

「はての？」

独りそこに残っている主人側の庄田喜左衛門も、いかにも不安そうであった。何となく、火色の<ruby><rb>凶</rb><rt>わる</rt></ruby>い<ruby><rb>短檠</rb><rt>たんけい</rt></ruby>の灯を見つめて、<ruby><rb>陰々滅々</rb><rt>いんいんめつめつ</rt></ruby>と<ruby><rb>谺</rb><rt>こだま</rt></ruby>する犬の声をかぞえるように聴き耳をたてていた。

そのうちに、一声、けえん！　と怪しげな啼き方が尾を曳いて聞えると、

「あっ」

喜左衛門が、武蔵の顔を見た。

武蔵もまた、

「あっ……」

と、微かな声を洩らし、同時に、膝を打っていった。

「死んだ」

すると、喜左衛門も共に、

「太郎め、<ruby><rb>殺</rb><rt>や</rt></ruby>られおった」

といった。

二人の直感が一致したのである。喜左衛門はもう<ruby><rb>居堪</rb><rt>いたた</rt></ruby>まらないで、

「<ruby><rb>解</rb><rt>げ</rt></ruby>せぬこと」

と、席を立った。

武蔵は何か思い当ることがあるもののように、

「私の連れて参った城太郎という<ruby><rb>僕童</rb><rt>わらべ</rt></ruby>は、そこに控えておりましょうか」

と、新陰堂の表の部屋にいる小侍に向ってたずねた。

そこらを捜しているらしく、しばらくたってから、小侍の返辞が聞えた。

「お<ruby><rb>下僕</rb><rt>しもべ</rt></ruby>は、見えませぬが」

武蔵は、ハッとしたらしく、

「さては」

と、喜左衛門へ向い、

「ちと心懸りな儀がござる。犬の斃れておる場所へ参りたいと思いますが、ご案内下さるまいか」

「おやすいこと」

喜左衛門は、先に立って、二の丸のほうへ走った。

例の武者<ruby><rb>溜</rb><rt>だま</rt></ruby>りの道場から一町ほど離れている場所だった。四、五点の<ruby><rb>松火</rb><rt>たいまつ</rt></ruby>の明りがかたまっていたのですぐ分った。先に出て行った村田も出淵もそこにいた。そのほか集まって来ていた足軽だの、<ruby><rb>宿直</rb><rt>とのい</rt></ruby>の者だの、番士たちだのが、真っ黒に垣をなして何か<ruby><rb>騒々</rb><rt>ざわざわ</rt></ruby>いっているのだった。

「お！」

武蔵は、その人々のうしろから、<ruby><rb>松火</rb><rt>たいまつ</rt></ruby>の明りが円い空地を作っている中をのぞいて、<ruby><rb>愕然</rb><rt>がくぜん</rt></ruby>とした。

案のじょう、そこに突っ立っていたのは鬼の子のように、血まみれになっている城太郎であった。

木剣を<ruby><rb>提</rb><rt>ひっさ</rt></ruby>げ、歯を食いしばり、肩で息をつきながら、自分をとり囲んでいる藩士たちを、白い眼で睨みつけている。

その側には、毛の黒い紀州犬の太郎が、これも、無念な形相をして、<ruby><rb>牙</rb><rt>きば</rt></ruby>を<ruby><rb>剥</rb><rt>む</rt></ruby>き出し、四肢を横にして<ruby><rb>斃</rb><rt>たお</rt></ruby>れているのだった。

「？　……」

しばらくものをいう者もなかった。犬の眼は、<ruby><rb>松火</rb><rt>たいまつ</rt></ruby>の焔に向って、くわっと開いているけれど、口から血を吐いているところを見ると、完全に死んでいるのである。

## 二

<ruby><rb>唖然</rb><rt>あぜん</rt></ruby>として、そこの有様に眼をみはっていたが、やがて誰かが、

「オオ、ご愛犬の太郎だ」

うめくように呟くと、

「こいつ<ruby><rb>奴</rb><rt>め</rt></ruby>」

いきなり一人の家臣は、茫然としている城太郎のそばへ行き、

「おのれかッ、太郎を撃ち殺したのは」

ぴゅっと<ruby><rb>掌</rb><rt>て</rt></ruby>のひらが横に唸った。城太郎はその掌が来る咄嗟に顔を<ruby><rb>交</rb><rt>か</rt></ruby>わして、

「おれだ」

と、肩を<ruby><rb>昂</rb><rt>あ</rt></ruby>げて叫んだ。

「なぜ撃ち殺した？」

「殺すわけがあるから殺した」

「わけとは」

「かたきをとったんだ」

「なに」

意外な<ruby><rb>面持</rb><rt>おもも</rt></ruby>ちをしたのは、城太郎に立ち向っているその家臣だけでなかった。

「たれのかたきを？」

「おれのかたきをおれが取ったんだ。おととい使いに来た時、この犬めが、おれの顔をこの通りに引っ掻いたから、今夜こそ撃ち殺してやろうと思って、捜していると、あそこの床下に寝ていたから、尋常に勝負をしろと、名乗って戦ったんだ。そしておれが勝ったんだ」

彼は、自分が決して卑怯な決闘をしたのではないということを、顔を赤くして力説するのだった。

しかし、彼を<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めている家臣や、この場のことを重大視している人々は、犬と人間の子の果し合いが問題ではないのである。人々が憂いや怒りをふくむ<ruby><rb>所以</rb><rt>ゆえん</rt></ruby>は、この太郎と呼ぶ番犬は、今は江戸表にある主人の但馬守<ruby><rb>宗矩</rb><rt>むねのり</rt></ruby>が、ひどく可愛がっていた犬でもあり、殊に、紀州頼宣公が愛している<ruby><rb>雷鼓</rb><rt>らいこ</rt></ruby>という<ruby><rb>牝犬</rb><rt>めすいぬ</rt></ruby>の児を、宗矩が所望して育てたという<ruby><rb>素姓書</rb><rt>すじょうがき</rt></ruby>もある犬なのであった。――それを撃ち殺されたとあっては、不問に付しておくわけにゆかない。<ruby><rb>禄</rb><rt>ろく</rt></ruby>を<ruby><rb>食</rb><rt>は</rt></ruby>んでいる人間が二名もこの犬の係としてついているのでもある。

今、血相をかえて、城太郎へ向って、背すじを立てている家臣が、即ちその太郎<ruby><rb>付</rb><rt>づき</rt></ruby>の侍なのであろう。

「だまれっ」

また一拳を彼の頭へ見舞った。

こんどは交わし損ねて、その<ruby><rb>拳</rb><rt>こぶし</rt></ruby>が城太郎の耳の辺をごつんと打った。城太郎の片手がそこを抑え、<ruby><rb>河</rb><rt>か</rt></ruby>ッ<ruby><rb>童</rb><rt>ぱ</rt></ruby>あたまの毛がみな逆立ッた。

「何するんだ！」

「お犬を撃ち殺したからには、お犬のとおりに打ち殺してくれる」

「おれは、このあいだの、<ruby><rb>返報</rb><rt>しかえし</rt></ruby>をしたんだ。返報のまた返報をしてもいいのか。大人のくせにそれくらいな理窟がわからないのか」

彼としては、死を賭して、やったことだ。侍の最大な恥は<ruby><rb>面傷</rb><rt>おもてきず</rt></ruby>だというその意気地を明らかにしたのだ。むしろ、<ruby><rb>誉</rb><rt>ほ</rt></ruby>められるかとさえ思っているかも知れないのである。

だから、太郎付の家臣が、いくら咎めようと怒ろうと、彼としては<ruby><rb>怯</rb><rt>ひる</rt></ruby>まないのだ。かえってその<ruby><rb>由謂</rb><rt>いわ</rt></ruby>れのないことを憤慨して、反対に喰ってかかった。

「やかましいっ。いくら<ruby><rb>童</rb><rt>わっぱ</rt></ruby>でも、犬と人間のけじめがつかぬ年ごろではあるまい。犬に仇討ちをしかけるとは何事だ。――処分するぞっ、こらっ、お犬のとおりに」

むずと城太郎の<ruby><rb>襟</rb><rt>えり</rt></ruby>がみをつかんで、その家臣は、初めて<ruby><rb>周</rb><rt>まわ</rt></ruby>りの人々へ眼をもって、同意を求めた。自己の職分として、当然にすることを宣言するのであった。

藩士たちは、黙ってうなずいた。四高弟の人々も、困った顔いろはしていたが黙っていた。

――武蔵も黙然と見ていた。

## 三

「さっ、吠えろ小僧」

二、三度襟がみを振廻されて、眼がくらくらとした途端に、城太郎は大地へ叩きつけられていた。

お犬の太郎付の家臣は、<ruby><rb>樫</rb><rt>かし</rt></ruby>の棒を振りかぶって、

「やいっ<ruby><rb>童</rb><rt>わっぱ</rt></ruby>。おのれがお犬を撃ち殺したように、お犬に代って、おのれを撃ち殺してやるから起て。――きゃんとでもわんとでも吠えて来い、噛みついて来いっ」

急に起てないのであろう、城太郎は歯をくいしばって、大地へ片手をついた。そして徐々に、木剣と共に体を起すと、子供とはいえ、その眼はつり上がって死を決し、河ッ童あたまの赤い毛は、怒りに逆立って、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">こんがら</span>童子のような凄い<ruby><rb>形相</rb><rt>ぎょうそう</rt></ruby>を示した。

犬のように、彼は唸った。

虚勢ではない。

彼は、

（おれのしたことは正しくて間違っていない）

と信じているのである。大人の激憤には、反省もあるが、子供がほんとに<ruby><rb>憤</rb><rt>いきどお</rt></ruby>ると、それを生んだ母親でさえ持てあますものだ。まして、<ruby><rb>樫</rb><rt>かし</rt></ruby>の棒を見せられたので、城太郎は、火の玉のようになってしまった。

「殺せっ、殺してみろっ」

子供の息とも思えない殺気であった。泣くが如く<ruby><rb>呪</rb><rt>のろ</rt></ruby>うが如く、こう彼がわめくと、

「くたばれッ」

<ruby><rb>樫</rb><rt>かし</rt></ruby>の棒は唸りを呼んだ。

一撃のもとに、城太郎はそこへ死んでいる筈である。カツンという大きな響きがそれを人々の耳へ直覚させた。

――武蔵は、実に冷淡なほど、なおもその際まで、黙然と腕ぐみしたまま、傍観していた。

ぶん――と城太郎の木剣は、その時、城太郎の手から空へ吹き飛ばされていたのであった。無意識に彼は、最初の一撃をそれで受けたのであったが、当然、手のしびれに離してしまったものらしく、次の瞬間には、

「こん畜生」

眼をつぶって、敵の<ruby><rb>帯際</rb><rt>おびぎわ</rt></ruby>へ<ruby><rb>噛</rb><rt>か</rt></ruby>ぶりついていた。

死にもの狂いの歯と爪は、相手の急所を制して離さなかった。樫の棒は、そのために、二度ほど<ruby><rb>空</rb><rt>くう</rt></ruby>を払った。子供と<ruby><rb>侮</rb><rt>あなど</rt></ruby>ったのがその者の不覚なのである。それに反して城太郎の顔つきは絵にも描けないほど物凄かった。口を裂いて敵の肉を食いこみ、爪は<ruby><rb>衣</rb><rt>ころも</rt></ruby>を突きぬいていた。

「こいつめッ」

するとまた一本、べつな樫の棒が現われ、そうしている城太郎の背後から、彼の腰を狙って、撲り下ろそうとした時である。武蔵は初めて腕を解いた。石垣のようにじっと固くなっていた人々の間から、ついと進み出したのが、はっと感じる間もないくらいな行動であった。

「卑怯」

二本の脚と棒が宙へ輪を描いたと思うと、どたっと<ruby><rb>鞠</rb><rt>まり</rt></ruby>みたいな物が二間も先の大地へ転がった。

その次には、

「この<ruby><rb>悪戯者</rb><rt>いたずらもの</rt></ruby>めが」

と、叱りながら、城太郎の腰帯へ<ruby><rb>諸手</rb><rt>もろて</rt></ruby>をかけて、武蔵は、自分の頭の上に、高々と差し上げてしまった。

そしてまた、咄嗟に棒を持ち直している太郎付の家臣に向い、

「最前から見ておるが、すこしお取調べに手落ちがあろう。これは、拙者の<ruby><rb>下僕</rb><rt>しもべ</rt></ruby>でござるが、貴公たちは、そもそも、罪を、この<ruby><rb>小童</rb><rt>こども</rt></ruby>に問われるつもりか、それとも主人たる拙者に問うつもりか」

すると、その家臣は、激越にいい返した。

「いうまでもなく、双方に<ruby><rb>糺</rb><rt>ただ</rt></ruby>すのじゃ」

「よろしい。然らば、主従二人して、お相手いたそう。それっ、お渡しするぞ」

ことばの下に、城太郎の体は、相手の姿へ向って<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>り投げられた。

## 四

<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>から、周囲の人々は、

（彼は何を血迷っているのか。自分の<ruby><rb>下僕</rb><rt>しもべ</rt></ruby>であるあの<ruby><rb>小童</rb><rt>こども</rt></ruby>を、頭上に差し上げて、あれを一体どうするつもりだろう？）

武蔵の仕方に眼をみはり、武蔵の心を<ruby><rb>忖度</rb><rt>はか</rt></ruby>りかねていたらしい。

すると、<ruby><rb>諸手</rb><rt>もろて</rt></ruby>にさしあげていた城太郎のからだを、武蔵が、宙天から落すように相手の者へ向って抛りつけたので、

「あっ――」

人々は、そこを広くして、思わず後ろへ跳び<ruby><rb>退</rb><rt>の</rt></ruby>いた。

人間をもって人間へ<ruby><rb>打</rb><rt>ぶ</rt></ruby>つける。余りにも無茶な――意外な――武蔵の仕方に気をのまれてしまったのである。

武蔵に<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>られた城太郎は、天から降って来た雷神の子みたいに、手も足もちぢめ、まさかと油断して突っ立っていた相手の胸のあたりへ、

「わっ」

ぶつかったのである。

顎を<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>したように、

「ぎぇッ」

異様な声をあげると、その者の体は、城太郎の体と重なって、立ててある材木を離したように、直線にうしろへ倒れた。

したたかに、大地へ、後頭部でも打ったのか、城太郎の石頭が、ぶつけた途端に先の<ruby><rb>肋骨</rb><rt>ろっこつ</rt></ruby>をくだいたのか、とにかく、ぎぇッといった声をさいごに、太郎付のその家臣は<ruby><rb>唇</rb><rt>くち</rt></ruby>から血を噴いてしまったが、城太郎の五体はその胸の上で一ツとんぼ返りを打ったと思うと、そのまま二、三間先まで、<ruby><rb>鞠</rb><rt>まり</rt></ruby>のように転がって行った。

「や、やったなっ」

「どこの素浪人」

これはもう太郎付の役であると否とにかかわらず、<ruby><rb>周</rb><rt>まわ</rt></ruby>りにいた柳生家の家臣たちが、こぞって<ruby><rb>罵</rb><rt>ののし</rt></ruby>り出した雑言だった。こよい四高弟の者が、客として招いた宮本武蔵とよぶ人間であることをはっきり知っていた者は少ないのであるから、さしずめ、そんなふうに見て、殺気立ったのも無理ではないのである。

「さて――」

武蔵は、向き直った。

「<ruby><rb>各〻</rb><rt>おのおの</rt></ruby>」

何を、彼はいおうとするのか。

すさまじい血相をもって、城太郎が取り落したところの木剣をひろい、それを右手にさげて、

「<ruby><rb>小童</rb><rt>こわっぱ</rt></ruby>の罪は、主人の罪、どうなりと、ご処罰を<ruby><rb>承</rb><rt>うけたまわ</rt></ruby>ろう。ただし、それがしも、城太郎も、いささか剣をもって侍の中の侍をもって任じている者にございますゆえ、犬のごとく棒をもって撃ち殺されるわけには参りかねる。一応お相手つかまつるから左様ご承知ねがいたい」

これでは罪に伏すのではなくて、明らかな挑戦だ。

ここで一応、武蔵が、城太郎に代って、謝罪と陳弁をつくして藩士たちの感情を極力なだめることに努めれば、或は、何とか穏やかに納まりがついたろうし、また、先ほどから口を挟みかねていた四高弟の<ruby><rb>輩</rb><rt>ともがら</rt></ruby>も、

（まあ、まあ）

と、相互のあいだにはいる機会もあったろうが、武蔵の態度は、あたかもそれを拒み、かえって、自分のほうから事件の<ruby><rb>葛藤</rb><rt>かっとう</rt></ruby>を好んでいるように見えるので、庄田、木村、出淵などの四高弟は、

「奇怪な」

眉をひそめて、彼の態度をひどく憎むもののように、端へ<ruby><rb>避</rb><rt>よ</rt></ruby>って、じっと、鋭い眼をそろえて、武蔵を見まもっていた。

## 五

もちろん、武蔵の暴言には、四高弟のほか、そこにいる面々は皆、<ruby><rb>尠</rb><rt>すくな</rt></ruby>からず、<ruby><rb>激昂</rb><rt>げっこう</rt></ruby>した。

彼の何者であるかを知らないし、また彼の意中を<ruby><rb>測</rb><rt>はか</rt></ruby>れない柳生家の諸士は、それでなくても、火になりたがっていた感情へ油をそそがれて、

「なにをッ」

誰とはなく、武蔵へ応じ、

「<ruby><rb>不逞</rb><rt>ふてい</rt></ruby>な奴っ」

「どこぞの<ruby><rb>諜者</rb><rt>まわしもの</rt></ruby>だろう、<ruby><rb>縛</rb><rt>くく</rt></ruby>ってしまえ」

「いや、斬ッちまえ」

また――

「そこを去らすなっ」

前後からこうひしめいてまさに彼の身は、彼の手に抱え寄せられている城太郎と共に、白刃の中に隠されてしまうかと見えた。

「あッ待てっ」

庄田喜左衛門であった。

喜左衛門がそう叫ぶと、村田与三も、出淵孫兵衛も、

「あぶないっ」

「手を出すな」

四高弟の者は初めて、こう積極的に出て、

「<ruby><rb>退</rb><rt>ど</rt></ruby>け退け」

と、いった。

「ここは、吾々にまかせろ」

「各〻は、各〻のお役室へもどっておれ」

そして――

「この男には、何か画策があると<ruby><rb>観</rb><rt>み</rt></ruby>た。うかと、誘いに釣り込まれて、<ruby><rb>負傷</rb><rt>ておい</rt></ruby>を出しては、御主君に対し吾々の申し開きが立たぬ。お犬のことも、重大事には相違ないが、人命はより貴重なものだ。その責任も、吾々四名が負うもので、決して、貴公たちに迷惑はかけぬから、<ruby><rb>安堵</rb><rt>あんど</rt></ruby>して、立ち去るがよい」

<ruby><rb>程経</rb><rt>ほどへ</rt></ruby>て後のそこには、最前新陰堂に坐っていた客と主人側だけの頭数だけが残っていた。

けれど、今はもう、主客のあいだがらは一変して、狼藉者と裁く者との、対立である。敵対である。

「武蔵とやら、気の毒ながらそちらの計策は破れたぞ。――察するに、何者かに頼まれ、この小柳生城を探りに来たか、或は御城内の<ruby><rb>攪乱</rb><rt>かくらん</rt></ruby>を<ruby><rb>目論</rb><rt>もくろ</rt></ruby>んで来たものに違いあるまい」

四名の眼は、武蔵をかこんで詰めよるのであった。この四名のどの一人でも達人の域に達していないものはないのである。武蔵は、城太郎を小脇に<ruby><rb>庇</rb><rt>かば</rt></ruby>いながら、根が生えたように、同じ位置に立っているのであったが、仮に今、この場を脱しようと考えても、それは身に翼を持っていても、こう四名の隙を破って逃げ去ることは難しいだろうと思われた。

出淵孫兵衛が、次に、

「やよ、武蔵」

鯉口を切った刀の<ruby><rb>柄</rb><rt>つか</rt></ruby>を、やや前へせり出して、構え腰をしていった。

「事破れたら、いさぎよう自決するのが武士の値打だ。小柳生城の中へ、<ruby><rb>童</rb><rt>わっぱ</rt></ruby>ひとりを連れて、堂々と、入り込んでござった不敵さは、<ruby><rb>曲者</rb><rt>くせもの</rt></ruby>ながらよい<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>がまえ。それに、一<ruby><rb>夕</rb><rt>せき</rt></ruby>の<ruby><rb>好誼</rb><rt>よしみ</rt></ruby>もある。――腹を切れ、支度のあいだは待ってやろう。武士はこうぞという意気を見せられい」

それで、すべてが解決できると四高弟の方では考えていた。

武蔵を招いたことが、そもそも、主君へは無断のことであったから、彼の素姓目的も、不問のまま闇の出来事として、葬り去ろうという意思らしいのだ。

武蔵は<ruby><rb>肯</rb><rt>がえん</rt></ruby>じない。

「なに、この武蔵に腹を切れといわれるか。――馬鹿なっ、馬鹿なことを」

<ruby><rb>昂然</rb><rt>こうぜん</rt></ruby>と、肩を揺すって彼は笑った。

## 六

飽くまでも、武蔵は相手の激発を挑むのであった。闘争を仕かけるのであった。

なかなか感情をうごかさなかった四高弟の者も、遂に、眉に<ruby><rb>険</rb><rt>けん</rt></ruby>をたたえ、

「よろしい」

ことばは静かだか、断乎とした気をふくんでいった。

「こちらが、慈悲をもって申しておれば、つけ上がって」

出淵のことばにつづいて、木村助九郎が、

「多言無用」

武蔵の背へ廻って、

「歩めっ」

背を突いた。

「何処へ？」

「牢内へ」

――すると武蔵はうなずいて歩きだした。

しかしそれは自分の意思のままに運んでゆく足であって、大股に本丸のほうへ近づいて行こうとするのである。

「何処へ行く？」

ぱっと助九郎は先へ廻って、武蔵のまえに両手をひろげ、

「牢は、こちらでない。後へもどれ」

「もどらん」

武蔵は、自分の側へ、ひたと貼りついたようにしている城太郎へ向い、

「おまえは、<ruby><rb>彼方</rb><rt>むこう</rt></ruby>の松の下にいるがよい」

この辺はもう本丸の玄関に近い<ruby><rb>前栽</rb><rt>せんざい</rt></ruby>らしく、所々に、枝ぶりのよい男松が這っていて<ruby><rb>篩</rb><rt>ふるい</rt></ruby>にかけたような敷き砂が光っていた。

武蔵にいわれて、城太郎はその<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>の下から勢いよく走った。そして、一つの松の木を<ruby><rb>楯</rb><rt>たて</rt></ruby>にして、

（そら、お師匠様が、何かやりだすぞ）

<ruby><rb>般若野</rb><rt>はんにゃの</rt></ruby>における武蔵の雄姿を思いだし、彼もまた、針鼠のように筋肉を<ruby><rb>膨</rb><rt>ふく</rt></ruby>らませていた。

――見ると、その間に、庄田喜左衛門と出淵孫兵衛のふたりが、武蔵の左右へ寄り添い、武蔵の腕を両方から逆に取って、

「もどれ」

「もどらぬ」

同じことばを繰返していた。

「どうしても戻らぬな」

「む！　一歩も」

「うぬっ」

前に立って、木村助九郎が、ついにこう<ruby><rb>癇</rb><rt>かん</rt></ruby>を<ruby><rb>昂</rb><rt>あ</rt></ruby>げ、刀の柄を打ち鳴らすと、年上の庄田と出淵の二人は、まあ待てとそれを止めながら、

「もどらぬなら戻らぬでよろしい。しかし、汝は、何処へ行こうとするか」

「当城の<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>、石舟斎へ会いにまいる」

「なに？」

さすがの四高弟も、それには<ruby><rb>愕</rb><rt>がく</rt></ruby>として顔いろを<ruby><rb>革</rb><rt>あらた</rt></ruby>めた。奇怪でならなかったこの青年の目的が、石舟斎へ近づくことであろうなどとは、誰も考えていなかったのである。

庄田は、畳みかけて、

「大殿へ会って、何とする気じゃ」

「それがしは、兵法修行中の<ruby><rb>若輩者</rb><rt>じゃくはいもの</rt></ruby>、生涯の心得に、柳生流の大祖より一手の教えを乞わんためでござる」

「しからばなぜ、順序をふんで、我々にそう申し出ないか」

「大祖は、一切人と会わず、また修行者へは、授業をせぬと承った」

「勿論」

「さすれば、試合を挑むよりほか道はあるまい、試合を挑んでも、容易に余生の<ruby><rb>安廬</rb><rt>あんろ</rt></ruby>より起って出ぬに相違ない。――それゆえ拙者は、この一城を相手にとって、まず、合戦を申しこむ」

「なに、合戦を？」

あきれた顔つきで四高弟はそう反問した。そして、武蔵の眼いろを見直した。――こいつ狂人ではあるまいかと。

相手の者に、両腕をあずけたまま武蔵は空へ眼を上げていた。何か、バタバタと闇が鳴ったからである。

「？　……」

四名も眼をあげた。その一瞬、笠置山の闇から城内の<ruby><rb>籾蔵</rb><rt>もみぐら</rt></ruby>の屋根のあたりへ、一羽の<ruby><rb>鷲</rb><rt>わし</rt></ruby>が、星をかすめて飛び降りた。

## <ruby><rb>心火</rb><rt>しんか</rt></ruby>

## 一

合戦といっては、言葉が大げさにひびくが、武蔵が今の自分の気持をいい現わすには、そういってもなおいい足りないほどであった。

<ruby><rb>技</rb><rt>わざ</rt></ruby>の末や、単なる小手先の試合では決してない。そんな生ぬるい形式を、武蔵は求めているのでもない。

合戦だ、飽くまでも戦いだ。人間の全智能と全体力とを賭けて、運命の勝敗を挑むからには、形式はちがっても、彼にとっては大なる合戦にかかっている気持と少しも違わないのである。――ただ三軍をうごかすのと、自己の全智と全力をうごかすのとの相違があるだけだった。

一人対一城の合戦なのだ。――武蔵の踏ん張っている<ruby><rb>踵</rb><rt>かかと</rt></ruby>には、そういう激しい意力があった。――で自然、合戦というような言葉が口をついて出たので、相手の四高弟は、

（こいつ狂人か？）

と、彼の常識を疑うように、その<ruby><rb>眼</rb><rt>まな</rt></ruby>ざしを見直したが、これは疑ったほうにも無理はなかった。

「よしっ、おもしろい」

敢然と、こう応じて、木村助九郎は、<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いていた草履を足で飛ばし、そして、<ruby><rb>股立</rb><rt>ももだち</rt></ruby>をからげた。

「――合戦とはおもしろい。陣鼓や陣鐘を鳴らさんまでも、その心得で応戦してやる。庄田<ruby><rb>氏</rb><rt>うじ</rt></ruby>、出淵氏、そやつをおれのほうへ突っ放してくれ」

さんざん止めもし、堪忍もした揚句である。第一、木村助九郎はさっきから頻りと成敗したがっている。

（もうこれまでだろう）

そう眼でいい合すように、

「よしっ、まかせるっ」

両方から抱えていた武蔵の腕を、二人が同時に離して、ぽんと背を突くと、六尺に近い武蔵の<ruby><rb>巨</rb><rt>おお</rt></ruby>きな体が、

だ、だ、だっ――

四ツ五ツ大地を踏み鳴らし、助九郎の前へ、よろめいて行った。

助九郎は、待っていたものの、<ruby><rb>颯</rb><rt>さっ</rt></ruby>――と一足退いた。<ruby><rb>弾</rb><rt>はず</rt></ruby>み込んでくる武蔵の体と自分の腕の伸びとに<ruby><rb>間合</rb><rt>まあい</rt></ruby>を測って退いたのである。

「――ガギッ」

奥歯のあたりでこう息を噛むと、助九郎の右の<ruby><rb>肱</rb><rt>ひじ</rt></ruby>は、顔へ上がっていた。そして音のない音が、ヒュッと鳴るかのように、武蔵のよろめいて来た影を抜き打ちにした。

ザ、ザ、ザ、ザ――

と、剣が鳴った。助九郎の刀が神霊を現わしたように、<ruby><rb>鏘然</rb><rt>しょうぜん</rt></ruby>と、<ruby><rb>刃金</rb><rt>はがね</rt></ruby>の鳴りを発したのである。

――わっ。という声が一緒に聞えた。武蔵が発したのではない。<ruby><rb>彼方</rb><rt>かなた</rt></ruby>の松の下にいた城太郎が飛び上がってさけんだのだ。助九郎の刀がザザと鳴ったのも、その城太郎がつかんでは投げつけた荒砂の雨だったのである。

けれど、その際の一つかみの砂などは、何の効果もないことはもちろんだった。武蔵は、背を突かれたせつなに、あらかじめ、助九郎が間合を測ることを計って、むしろ自分の勢いをも加えて、彼の胸いたへ突進して行ったのである。

突かれてよろめいてくる速度と、その速度に捨て身の意思を乗せてくるのとでは、速度の上に、大きな相違がある。

助九郎の退いた足と、同時に、抜き打ちに払った尺度には、そこに誤算があったので、見事に<ruby><rb>空</rb><rt>くう</rt></ruby>を<ruby><rb>撲</rb><rt>なぐ</rt></ruby>ってしまった。

## 二

約十二、三尺の間隔をひらいて、二人は跳び退いていた。助九郎の刀が<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>れ、武蔵の手が刀にかかろうとした瞬間にである。――そして双方で、じっと、闇の下へ沈みこむように<ruby><rb>竦</rb><rt>すく</rt></ruby>んでいる。

「オ。これは見もの！」

そう口走ったのは庄田喜左衛門であった。庄田のほかの出淵、村田の二人も、まだ何も自分たちは、その戦闘圏内に<ruby><rb>交</rb><rt>ま</rt></ruby>じっているわけでもないのに、ハッと、何ものかに吹かれたような身動きをした。そして各〻が、おる所の位置をかえ、おのずからな身がまえを持ちながら、

（出来るな、こいつ）

武蔵の今の一動作に、<ruby><rb>等</rb><rt>ひと</rt></ruby>しく<ruby><rb>眸</rb><rt>ひとみ</rt></ruby>をあらためた。

――しいッと何か身に迫るような冷気がそこへ<ruby><rb>凝</rb><rt>こ</rt></ruby>り固まってきた。助九郎の切っ先は、ぼやっと黒く見える彼の影の胸よりもやや下がり目な辺りにじっとしている。そのまま動かないのだ。武蔵も、敵へ右の肩を見せたまま、<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">つくねん</span>として突っ立っている。その右の<ruby><rb>肘</rb><rt>ひじ</rt></ruby>は、高く上がって、まだ<ruby><rb>鞘</rb><rt>さや</rt></ruby>を払わない太刀のつかに精神をこらしているのだった。

「…………」

ふたりの<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>をかぞえることが出来る。少し離れたところから見ると、今にも闇を切ろうとしている武蔵の顔には、二つの白い<ruby><rb>碁石</rb><rt>ごいし</rt></ruby>を置いたかのような物が見える。それが彼の眼だった。

ふしぎな精力の消耗であった。それきり一尺も寄りあわないのに、助九郎の体をつつんでいる闇には次第にかすかな動揺が感じられてきた。明らかに、彼の呼吸は、武蔵のそれよりも、あらく<ruby><rb>迅</rb><rt>はや</rt></ruby>くなって来ているのである。

「ムム……」

出淵孫兵衛が思わずうめいた。毛を吹いて大きな<ruby><rb>禍</rb><rt>わざわ</rt></ruby>いを求めたことが、もう明確にわかったからである。庄田も村田も同じことを感じたにちがいない。

（――これは<ruby><rb>凡者</rb><rt>ただもの</rt></ruby>でない）と。

助九郎と武蔵の勝負は、もう<ruby><rb>帰</rb><rt>き</rt></ruby>すところが三名にはわかっていた。卑怯のようであるが、大事を<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>き起さないうちに――またあまり手間どって無用の<ruby><rb>怪我</rb><rt>けが</rt></ruby>を求めないうちに、この不可解な<ruby><rb>闖入者</rb><rt>ちんにゅうしゃ</rt></ruby>を、一気に成敗してしまうに<ruby><rb>如</rb><rt>し</rt></ruby>くはない。

そういう考えが、無言のうちに、三名の眼と眼をむすんだ。すぐそれは行動となって、武蔵の左右へ迫りかけた。すると、<ruby><rb>弦</rb><rt>つる</rt></ruby>を切ったように<ruby><rb>刎</rb><rt>は</rt></ruby>ねた武蔵の腕は、いきなり後ろを払って、

「いざっ」

すさまじい<ruby><rb>懸声</rb><rt>かけごえ</rt></ruby>を虚空から浴びせた。

虚空と聞えたのは、それが武蔵の口から発したというよりは、彼の全身が<ruby><rb>梵鐘</rb><rt>ぼんしょう</rt></ruby>のように鳴って<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>の<ruby><rb>寂寞</rb><rt>じゃくまく</rt></ruby>をひろく破ったせいであろう。

「――ちいッ」

<ruby><rb>唾</rb><rt>つば</rt></ruby>するような息が、相手の口をついて走った。四名は四本の刀をならべて、<ruby><rb>車形</rb><rt>くるまがた</rt></ruby>になった。武蔵の体は<ruby><rb>蓮</rb><rt>はす</rt></ruby>の花の中にある露にひとしかった。

武蔵は今、ふしぎに自己を感得した。満身は毛穴がみな血を噴くように熱いのだ。けれど、心頭は氷のように冷たい。

仏者のいう、<ruby><rb>紅蓮</rb><rt>ぐれん</rt></ruby>という語は、こういう実体をいうのではあるまいか。寒冷の極致と、灼熱の極致とは、火でも水でもない、同じものである。それが武蔵の今の五体だった。

## 三

砂はもうそこへ降って来なかった。城太郎はどこへ行ったか。忽然と影もない。

――<ruby><rb>颯々</rb><rt>さっさつ</rt></ruby>。颯々。

まっ暗な風が時折り、笠置のいただきから<ruby><rb>颪</rb><rt>お</rt></ruby>ちてくる。そして、容易にうごかないそこの<ruby><rb>白刃</rb><rt>しらは</rt></ruby>を<ruby><rb>研</rb><rt>と</rt></ruby>ぐように吹いて、ビラ、ビラ、と<ruby><rb>燐</rb><rt>りん</rt></ruby>のように<ruby><rb>戦</rb><rt>そよ</rt></ruby>ぎを闇の中に見せる。

四対一である。けれど武蔵は、自分がその一の数であることは、さして苦戦をおぼえない。

（なんの！）

と、血管が太くなるのを意識するのみであった。

死。

いつも真っ向から捨てようとしてかかるその観念も、ふしぎと今夜は持たない。また、

（勝てる）

とも思っていなかった。

笠置<ruby><rb>颪</rb><rt>お</rt></ruby>ろしが、頭の中をも吹きぬけて行くような心地であった。脳膜が<ruby><rb>蚊帳</rb><rt>かや</rt></ruby>のようにすずしい。そしておそろしく眼がよく見える。

――右の敵、左の敵、前の敵。だが。

やがて武蔵の肌はねっとりと<ruby><rb>粘</rb><rt>ねば</rt></ruby>ってきた。<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>にもあぶら汗が光っている、生れつき人なみ以上巨大な心臓は<ruby><rb>膨</rb><rt>ふく</rt></ruby>れきって、不動形の肉体の内部にあって極度な、燃焼を起こしているのだ。

ず、ず……

左の端にいた敵の足がかすかに地を<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>った。武蔵の刀の先は、<ruby><rb>蟋蟀</rb><rt>こおろぎ</rt></ruby>のひげのように敏感にそれを観て取る。それをまた、敵も察して入って来ない。依然たる四と一との対峙がつづく。

「…………」

しかしこの対峙が不利であることを、武蔵は知っていた。武蔵は敵の包囲形の四を、直線形の四にさせて、その一角から次々に斬ってしまおうと考えるのであったが、相手は、<ruby><rb>烏合</rb><rt>うごう</rt></ruby>の衆ではない達人と上手のあつまりだ、そういう兵法にはかからない。厳として位置をかえない。

先が、その位置をかえないかぎり、武蔵の方から打ってゆく策は絶対なかった。この中の一名と相打ちして死ぬ気ならばそれも可能であるが、さもなければ、敵の一名から行動してくるのを待って、敵の四の行動が、ほんの瞬間でも、不一致を起こすところを臨んで打撃を加えるほかにない。

（――手ごわい）

四高弟のほうも、今は武蔵の認識をまったく<ruby><rb>革</rb><rt>あらた</rt></ruby>めて、誰ひとりとして、味方の四の数をたよっている者はなかった。この際、数を<ruby><rb>恃</rb><rt>たの</rt></ruby>んで、毛ほどでも<ruby><rb>弛</rb><rt>ゆる</rt></ruby>みを見せれば武蔵の刀は、きッとそこへ斬りこんでくる。

（――世の中には、いそうもない人間が、やはりいるものだ）

柳生流の骨子をとって、庄田真流の真理を体得したという庄田喜左衛門も、ただ、

（ふしぎな人間）

として、敵の武蔵を、剣の先から見澄ましているだけだった。彼にさえ、まだ一尺の攻撃もなし得なかった。

剣も人も、大地も空も、そうして氷に化してしまうかと思われた一瞬、思いがけない音響が、武蔵の聴覚をハッとおどろかせた。

誰がふくのか、笛の<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>だった。そう距離もないらしい本丸の林を通って、冴えた<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>が風に運ばれて来るのであった。

## 四

笛。――高鳴る笛の音。だれだ、ふくのは。

われもなく敵もなく、生死の妄念もまったく滅して、ただ一剣の<ruby><rb>権化</rb><rt>ごんげ</rt></ruby>となりきっていた武蔵は、その耳の穴から、計らざる<ruby><rb>音律</rb><rt>おんりつ</rt></ruby>の<ruby><rb>曲者</rb><rt>くせもの</rt></ruby>にしのび込まれて、途端に、われに返ってしまった、肉体と妄念のわれに戻ってしまった。

なぜならば、音は、彼の脳裡に、肉体のあるかぎりは忘れ得ないであろうほどふかく記憶に<ruby><rb>烙</rb><rt>や</rt></ruby>きついているはずであった。

故郷<ruby><rb>美作</rb><rt>みまさか</rt></ruby>の国の――あの<ruby><rb>高照</rb><rt>たかてる</rt></ruby>の峰の附近で――<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>ごとの山狩に追われつつ、飢えと心身のつかれに、頭も<ruby><rb>朦朧</rb><rt>もうろう</rt></ruby>となっていた時、ふと、耳にひびいて来た笛の音ではないか。

あの時――

こう来い、こうお出で。――と自分の手をとって導くように呼び、そしてついに、僧の沢庵の手に捕まる機縁を作ってくれたその笛の音ではないか。

武蔵は忘れても、武蔵のあの時の潜在神経は、決して、忘れることのできない感動をうけていたにちがいない。

その音ではないか。

音がそっくりであるばかりでなく、曲もあの時のと同じなのだ。アッと、突き抜かれてみだれた神経の一部が、

（――オオ、お<ruby><rb>通</rb><rt>つう</rt></ruby>）

脳膜の中でさけぶと、武蔵の五体というものは、途端に、<ruby><rb>雪崩</rb><rt>なだれ</rt></ruby>を打った崖のように、<ruby><rb>脆</rb><rt>もろ</rt></ruby>いものになってしまった。

見のがすはずはない。

四高弟の眼には、そのせつな、破れ障子のような武蔵のすがたが見えた。

「――たうっッ」

正面の一<ruby><rb>喝</rb><rt>かつ</rt></ruby>と共に、木村助九郎の<ruby><rb>肘</rb><rt>ひじ</rt></ruby>がまるで七尺も伸びたかのように眼に映った。――武蔵は、

「かッ」

その刃先へ<ruby><rb>喚</rb><rt>おめ</rt></ruby>き返した。

総身の毛に火がついたような熱気をおぼえ、筋肉は、生理的にかたく<ruby><rb>緊</rb><rt>し</rt></ruby>まって、血液は、噴き出そうとするところの皮膚へ、激流のように集まった。

――<ruby><rb>斬</rb><rt>や</rt></ruby>られたっ。

武蔵はそう感じた。ぱっと左の袖口が大きく破れて、腕が根元から<ruby><rb>剥</rb><rt>む</rt></ruby>き出しになってしまったのは、その辺の肉と一緒に、袂を斬り取られたのであると思った。

「八幡っ」

絶対な自己のほかに、神の名があった。自己の破れ目から、稲妻みたいにその声が<ruby><rb>迸</rb><rt>ほとばし</rt></ruby>った。

一転。

位置をかえて振向くと、自分のいたところへのめッて行く助九郎の腰と足の裏が見えた。

「――武蔵っ」

出淵孫兵衛が叫んだ。

村田と庄田は、

「やあ、口ほどもない」

横へ駈け廻ってくる。

武蔵はそれに対して、大地を<ruby><rb>踵</rb><rt>かかと</rt></ruby>で蹴った。彼のからだはそこらの低い松の<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>をかすめるくらいな高さに躍り、その距離をさらに一躍、また一躍して、後も見ずに闇の中へ駈け入ってしまった。

「――<ruby><rb>汚</rb><rt>きたな</rt></ruby>し」

「――武蔵っ」

「恥を知れっ」

下の<ruby><rb>空濠</rb><rt>からぼり</rt></ruby>へ急落している崖のあたりで、野獣の跳ぶような木の折れる音がした。――それがやむとまた、笛の音は、<ruby><rb>呂々</rb><rt>りょりょ</rt></ruby>と、星の空をながれて遊んでいた。

## 鶯

## 一

三十尺もある<ruby><rb>空濠</rb><rt>からぼり</rt></ruby>だった。空濠といっても、深い闇の底には、雨水が溜っていないとは限らない。

灌木帯の崖を、勢いよく<ruby><rb>辷</rb><rt>すべ</rt></ruby>り落ちて来た武蔵は、そこに止まって石を<ruby><rb>抛</rb><rt>ほう</rt></ruby>ってみた。そして次に、石を追って、飛びこんだ。

井戸の底から仰ぐように、星が遠くなった。武蔵は<ruby><rb>濠</rb><rt>ほり</rt></ruby>の底の雑草へ、どかんと仰向けに寝ころんだ。一刻ほどもじっとしていた。

<ruby><rb>肋骨</rb><rt>あばら</rt></ruby>が大きな波を打つ。

肺も心臓も、そうしている間にやっと常態を整えてくる。

「お<ruby><rb>通</rb><rt>つう</rt></ruby>……。お通が、この小柳生城にいるわけはないが？　……」

汗は冷え、肺は落ち着いて来ても、乱麻のように掻きみだれた気持は容易に平調にならなかった。

「心の曇りだ、耳のせいだ」

そうも思い、

「いや、人の<ruby><rb>流転</rb><rt>るてん</rt></ruby>はわからぬものゆえ、ひょっとしたら、やはりお通がいるのかも知れない」

彼は、お通のひとみを、星の空にえがいてみた。

いや彼女の眼や<ruby><rb>唇</rb><rt>くち</rt></ruby>は、敢て、虚空にえがいてみるまでもなく、常に無自覚に武蔵の胸に住んでいるのだった。

甘い幻想が、ふと彼をつつむ。

<ruby><rb>国境</rb><rt>くにざかい</rt></ruby>の峠で彼女のいったことば、

（あなたの他に、私にとって男性はありません。あなたこそ、ほんとの男性、私はあなたがなくては生きられない）

また、花田橋のたもとで彼女のいったことば――

（ここで、九百日も立っていました。あなたが来るまで）

なお、あの時いった――

（もし来なければ、十年でも二十年でも、<ruby><rb>白髪</rb><rt>しらが</rt></ruby>になっても、ここの橋の<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>に待っているつもりでした。……連れて行って下さい。どんな苦しみも<ruby><rb>厭</rb><rt>いと</rt></ruby>いません）

武蔵は胸が痛んでくる。

苦しまぎれに、あの純な気持を裏切って、隙を作って、自分は<ruby><rb>驀</rb><rt>まっ</rt></ruby>しぐらに走ってしまった。

どんなに――あの後では自分を恨んでいただろう。理解できない男性を、<ruby><rb>呪</rb><rt>のろ</rt></ruby>わしい存在として唇を噛みしめたことだろう。

「ゆるしてくれ」

花田橋の欄干に<ruby><rb>小柄</rb><rt>こづか</rt></ruby>で残してきたことばが、吾れ知らず、今の武蔵の唇からも洩れていた。そして、涙のすじが眼じりから白くながれていた。

「ここじゃあない」

ふいに、高い崖の上で人声がした。三つ四つ<ruby><rb>松明</rb><rt>たいまつ</rt></ruby>が、木の間を掻きわけて立ち去るのが見えた。

武蔵は、自分の涙に気がつくと<ruby><rb>忌々</rb><rt>いまいま</rt></ruby>しげに、

「女などがなんだ！」

手の甲で眼をこすった。

幻想の花園を蹴散らすように、ガバと跳び起きて、ふたたび小柳生城の黒い屋形を見上げ、

「卑怯といったな、恥を知れといったな。武蔵はまだ、降伏したとはいっていないぞ、<ruby><rb>退</rb><rt>ひ</rt></ruby>いたのは、逃げたのではない。兵法だ」

<ruby><rb>空濠</rb><rt>からぼり</rt></ruby>の底を、彼は歩きだした。何処まで歩いても空濠の中である。

「一太刀でも打ち込まずにおこうか。四高弟などは相手でない。柳生石舟斎その者へ見参、見ろ、今に――合戦はこれからする！」

そこらに落ちている枯れ木を拾って、武蔵は膝に当ててバキバキと折り始めた。それを石垣の<ruby><rb>隙間</rb><rt>すきま</rt></ruby>に差しこんで、順々に足がかりを作り、やがて彼の影は、空濠の外側へ跳び上がっていた。

## 二

笛の音はもう聞えない。

城太郎はどこへ隠れ込んだのか。――一切のことが、武蔵の頭になかった。

彼はただ<ruby><rb>旺盛</rb><rt>おうせい</rt></ruby>なる――自分でも持てあますほど旺盛な――血気と功名心の<ruby><rb>権化</rb><rt>ごんげ</rt></ruby>となり終っていた。そのすさまじい征服慾の吐け口を見いだすのみに、眼は生命の全部を燃やしていた。

「お師匠さまあ――」

どこか遠い闇で呼ぶような心地がする。耳を澄ませば聞えないのである。

（城太郎か）

ふと思ったが、武蔵は、

（あれに、危険はあるまい）

案じなかった。

なぜならば、<ruby><rb>先刻</rb><rt>さっき</rt></ruby>、崖の中腹あたりに<ruby><rb>松明</rb><rt>たいまつ</rt></ruby>を見たが、それっきりで城内でも自分たちの身を、飽くまで捜索しようとはしていないらしく思われる。

「この間に、石舟斎へ」

さながら深山のような林や谷間を、彼は、<ruby><rb>彼方</rb><rt>あなた</rt></ruby><ruby><rb>此方</rb><rt>こなた</rt></ruby>さまよい歩いた。あるいは、城の外へ出てしまったのではないかと疑ったが、所々の石垣や<ruby><rb>濠</rb><rt>ほり</rt></ruby>や、<ruby><rb>籾倉</rb><rt>もみぐら</rt></ruby>らしい建物を見ると、城内であることは確かなのだが、石舟斎の住んでいる草庵とは、どこにあるのか、捜し当たらないのである。

石舟斎が、二ノ丸にも本丸にも住まわず、城地のどこかに、一庵をむすんで余生を送っているということは、綿屋の<ruby><rb>主</rb><rt>あるじ</rt></ruby>からも聞いていたことだ。その草庵さえわかれば、直接、戸をたたいて、彼は、決死の見参をするつもりなのである。

（何処だ！）

彼は、叫びたい感情で、夢中になって歩いていた。ついには、笠置の絶壁へまで出て、<ruby><rb>搦手</rb><rt>からめて</rt></ruby>の<ruby><rb>柵</rb><rt>さく</rt></ruby>からむなしく引返した。

（出て来いっ。おれの相手たらん者は）

妖怪変化でもよいから、石舟斎になって、ここへ現われて来てほしかった。四<ruby><rb>肢</rb><rt>し</rt></ruby>にみなぎっている満々たる闘志は、夜もすがら彼を悪鬼のように歩かせた。

「あっ？　……おお……ここらしいぞ」

それは城の東南へ降りたゆるい傾斜の下だった。その辺の樹木を見ると、みな姿がよく、<ruby><rb>鋏</rb><rt>はさみ</rt></ruby>や下草の手入れがよくゆき届いていて、どうあっても、人の住んでいる閑地らしい。

門がある！

<ruby><rb>利休風</rb><rt>りきゅうふう</rt></ruby>の<ruby><rb>茅</rb><rt>かや</rt></ruby>ぶき門で、<ruby><rb>腕木</rb><rt>うでぎ</rt></ruby>には<ruby><rb>蔓草</rb><rt>つるくさ</rt></ruby>が這い、垣のうちには、竹林が煙っていた。

「オオ、ここだ」

覗いてみると、禅院のように、道は竹林を通って、高いその山の上へと這っているのだ。武蔵は、一気に垣を蹴やぶって入り込もうとしたが、

「いや待て」

門のあたりの清掃された床しさや、あたりに白くこぼれている<ruby><rb>卯</rb><rt>う</rt></ruby>の花の何となく主人の風を<ruby><rb>偲</rb><rt>しの</rt></ruby>ばせるものに、猛りきっている心を<ruby><rb>宥</rb><rt>なだ</rt></ruby>められて、ふと、自分の<ruby><rb>鬢</rb><rt>びん</rt></ruby>のみだれや、襟元に気がついた。

「もう、<ruby><rb>急</rb><rt>せ</rt></ruby>くことはない」

殊に自分の疲れも思い出された。石舟斎に面接する前に、まず自身を整えることが考え出された。

「朝になれば、誰か、門を開けに来るだろう。――その上でよい、その上でも、<ruby><rb>強</rb><rt>た</rt></ruby>って修行者を拒む態度であったら、またとる手段もある」

武蔵は、<ruby><rb>門廂</rb><rt>もんびさし</rt></ruby>の下に、坐りこんだ。そして、後ろの柱へ背をよりかけると、よい心地で眠りに入ることができた。

星がしずかだった。<ruby><rb>卯</rb><rt>う</rt></ruby>の花が風のたびに白くうごいた。

## 三

ポトと、襟くびへ落ちて来た露の冷たさに、武蔵は眼をさました。いつのまにか夜は明けている。熟睡した後の<ruby><rb>頭脳</rb><rt>あたま</rt></ruby>は、流れこむように耳の穴から入る無数の<ruby><rb>鶯</rb><rt>うぐいす</rt></ruby>の声と朝の風に洗われて、たった今、この世に誕生したような明るさであり、なんのつかれも<ruby><rb>残滓</rb><rt>ざんし</rt></ruby>もなかった。

ふと、眼をこすって、眸を上げると、<ruby><rb>真</rb><rt>ま</rt></ruby>っ<ruby><rb>紅</rb><rt>か</rt></ruby>な夜明けの太陽が、伊賀、大和の連峰を踏んで、昇っていた。

武蔵は、いきなり突っ立った。十分に休養を<ruby><rb>摂</rb><rt>と</rt></ruby>った肉体は、太陽に焼かれると、すぐ希望に燃え功名や野心にうずき、手脚はそれに<ruby><rb>蓄</rb><rt>たくわ</rt></ruby>えている力のやり場を催促して、

「む、む――」

と伸びをせずにいられなくなって来る。

「今日だ」

なんとはなく、そう呟く。

その次に彼は空腹を思い出した。飢えを思うと、城太郎の身にも及ぼして、

「どうしたか」

と、軽く案じる。

ゆうべは少し彼に<ruby><rb>酷</rb><rt>ひど</rt></ruby>い目をあわせ過ぎたようでもあるが、それも彼の修行の足しになることと承知して武蔵はしていることであった。どう間違っても、彼に危険はないものと<ruby><rb>多寡</rb><rt>たか</rt></ruby>をくくっていてよい気がする。

<ruby><rb>淙々</rb><rt>そうそう</rt></ruby>と、水音がゆく。

門内の高い山から傾斜を駈けて一すじの流れが、勢いよく、竹林を<ruby><rb>繞</rb><rt>めぐ</rt></ruby>り垣の下を通って、城下へ落ちてゆくのである。武蔵は、顔を洗い、そして、朝飯のように水をのんだ。

「<ruby><rb>美味</rb><rt>うま</rt></ruby>い！」

水のうまさが身に沁みた。

察するに、石舟斎は、この名水があるために、この水の<ruby><rb>源</rb><rt>みなもと</rt></ruby>へ草庵の地を選んだのであろう。

武蔵はまだ、茶道を知らず、茶味なども解さなかったが、単純に、

「美味い！」

と思わず口をついて叫ぶほど、水のうまさというものを、今朝は感じた。

ふところから汚い<ruby><rb>手拭</rb><rt>てふ</rt></ruby>きを出して、それも流れで洗濯した。布は忽ち白くなる。

襟くびを深く拭き、爪の<ruby><rb>垢</rb><rt>あか</rt></ruby>まできれいにした。刀の<ruby><rb>笄</rb><rt>こうがい</rt></ruby>を抜いて、その次には、みだれた髪の毛を撫でつける――

とにかく柳生流の大祖に今朝は会うのである。天下にも幾人しかいない現代の文化の一面を代表している人物なのだ。――その石舟斎に、いや武蔵のような無禄無名の一放浪者にくらべれば、月と<ruby><rb>小糠星</rb><rt>こぬかぼし</rt></ruby>ほども格のちがう大先輩に見参に入るのだ。

襟をただし、髪を撫でるのは、当然な礼節の表示である。

「よしっ」

心も整った、頭もすがすがしい武蔵は、悠揚迫らない客の態度になって、そこの門を叩こうとした。

だが、草庵は山の上であるしここを叩いても聞えるはずがないがと、ふと、鳴子でもないのかと門の左右を見まわすと、左右二つの門柱に、一面ずつの<ruby><rb>聯</rb><rt>れん</rt></ruby>が懸けてあって、その<ruby><rb>文字彫</rb><rt>もじぼり</rt></ruby>の底には<ruby><rb>青泥</rb><rt>せいでい</rt></ruby>が沈めてあり、読んでみると、一首の詩になっていた。

右がわの聯には、

吏事君ヨ怪シムヲ<ruby><rb>休</rb><rt>ヤ</rt></ruby>メヨ

山城門ヲ閉ズルヲ好ムヲ

また、左の柱には、

<ruby><rb>此山</rb><rt>コノヤマ</rt></ruby>長物無シ

<ruby><rb>唯</rb><rt>タダ</rt></ruby>野ニ<ruby><rb>清鶯</rb><rt>セイオウ</rt></ruby>ノ有ルノミ

武蔵は、<ruby><rb>凝然</rb><rt>ぎょうぜん</rt></ruby>と、その詩句をにらんでいた。――満地の樹々に啼きぬく老鶯の<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>の中に。

## 四

門にかけてある以上、聯の詩句は、いうまでもなく山荘の<ruby><rb>主人</rb><rt>あるじ</rt></ruby>の心境と見てさしつかえあるまい。

「――吏事（役人）君ヨ怪シムヲ<ruby><rb>休</rb><rt>ヤ</rt></ruby>メヨ。山城門ヲ閉ズルヲ好ムヲ。<ruby><rb>此山</rb><rt>コノヤマ</rt></ruby>長物無シ、唯野ニ清鶯ノ有ルノミ……」

幾度も口の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>で<ruby><rb>誦</rb><rt>よ</rt></ruby>む。

すがたに礼節を持ち、心に澄明な落ちつきを<ruby><rb>湛</rb><rt>たた</rt></ruby>えている今朝の武蔵には、その詩句の意味が、素直に分った。――同時に、石舟斎の心境と、その人がらや生活も彼の心へ、ぴたりと映った。

「……おれは若い」

武蔵は、おのずから頭が下がってしまうのをどうしようもない。

石舟斎が、一切、門を閉じて拒んでいるのは、決して、武者修行の者だけではないのである。あらゆる<ruby><rb>名利</rb><rt>みょうり</rt></ruby>を<ruby><rb>名聞</rb><rt>みょうもん</rt></ruby>、また一切の我慾と他慾を――

世の吏事に対してすら、怪しむのをやめてくれと断っているのである。石舟斎のそうして世間を避けている姿を思うと、武蔵は高い<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>に冴えている月の<ruby><rb>相</rb><rt>すがた</rt></ruby>が聯想された。

「……届かない！　まだ、自分などには届かない人間だ」

彼は、何としても、この門を叩く気になれなくなった。蹴って<ruby><rb>闖入</rb><rt>ちんにゅう</rt></ruby>して行くなどということは、もう考えてみるだけでも怖ろしい。いや、自分が恥かしい。

花鳥風月だけが、この門を入るべきものだと思う。彼はもう今では、天下の剣法の名人でも一国の藩主でも何でもない。<ruby><rb>大愚</rb><rt>たいぐ</rt></ruby>に返って、自然のふところに遊ぼうとしている一人の野の隠居だ。

そういう人の静かな住居を騒がすことは、余りに心ない<ruby><rb>業</rb><rt>わざ</rt></ruby>だ。名利も名聞もない人に打ち勝って何の名利になる？　名聞になる？

「アア。もしこの聯の詩がなかったら、おれは、石舟斎からよい笑われ者に見られるところだった」

陽がやや高くなったせいか、鶯の声も、夜明けほどはしなくなった。

――と、門のうちの遠い坂の上から、ぽたぽたと<ruby><rb>迅</rb><rt>はや</rt></ruby>い跫音が聞えて来た。跫音におどろいて立つ<ruby><rb>小禽</rb><rt>ことり</rt></ruby>のつばさが、八方に、小さな虹を描く。

「あっ？」

狼狽した色が武蔵の顔を<ruby><rb>横</rb><rt>よ</rt></ruby>ぎった。垣の隙間からその人の姿がわかった。――門内の坂を駈けおりて来たのは若い女なのである。

「……お<ruby><rb>通</rb><rt>つう</rt></ruby>だ」

ゆうべの笛の音を武蔵は思い出した。咄嗟に、みだれた心のうちで、

（会おうか。会うまいか）

彼は迷うのであった。

会いたい！　と思う。

また、会ってはならぬ！　と思う。

烈しい<ruby><rb>動悸</rb><rt>どうき</rt></ruby>が、武蔵の胸をあらしみたいに<ruby><rb>翔</rb><rt>か</rt></ruby>けまわった。彼は、意気地のない、殊に、女には弱い――一個の青春の男でしかなかった。

「……ど、どうしよう？」

まだ、心が決まらないのだ。その間に、山荘の方から坂道を駈けおりて来たお通は、すぐそこまで来て、

「あらっ？」

足を止めた。

後を<ruby><rb>振顧</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>った。

そして何となく今朝は、<ruby><rb>欣</rb><rt>よろこ</rt></ruby>びごとでもあるらしい<ruby><rb>生々</rb><rt>いきいき</rt></ruby>した眸を、<ruby><rb>彼方此方</rb><rt>あっちこっち</rt></ruby>へやって、

「一しょに<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いて来たと思ったら？　……」

と、誰かを捜すように、見まわしていたが、やがて、両手を<ruby><rb>唇</rb><rt>くち</rt></ruby>にかざして、山の上へ向い、

「城太郎さアん。城太郎さアん」

と、呼び出した。

その声を聞いたり、姿を近く見ると、武蔵は顔を<ruby><rb>紅</rb><rt>あか</rt></ruby>らめてこそこそと樹蔭へかくれてしまった。

## 五

「――城太さアん」

<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>を<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>いて、彼女がまた呼ぶと、こんどは明らかに返辞があって、

「おウーイ」

と、間の抜けた答えが、竹林の上のほうでする。

「あら、こっちですよ。そんな方へ道を間違えては駄目。そうそうそこから降りておいでなさい」

やがて孟宗竹の下を潜って、お通のそばへ城太郎は駈けて来た。

「なアんだ、こんなところにいたのか」

「だから、私の後に<ruby><rb>尾</rb><rt>つ</rt></ruby>いておいでなさいといったでしょう」

「<ruby><rb>雉子</rb><rt>きじ</rt></ruby>がいたから、追いつめてやったんだ」

「雉子などを捕まえているよりも、夜が明けたら、大事な人を捜さなければいけないじゃありませんか」

「だけど、心配することはないぜ。おれのお師匠様に限っては滅多に討たれる気づかいはないから」

「でも、ゆうべお前は、何といって、私のところへ駈けつけて来たの？　……今、お師匠様の<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>が危ないから、大殿様にそういって、斬り合いをやめさせてくれと呶鳴って来たじゃありませんか。あの時の城太さんの顔つきは、今にも泣き出してしまいそうでしたよ」

「それや、驚いたからさ」

「驚いたのは、おまえよりも、私のほうでした。――おまえのお師匠様が、宮本武蔵というのだと聞いた時――私は余りのことに口がきけなかった」

「お通さんは、どうしておらのお師匠様を前から知っていたんだい」

「同じ故郷の人ですもの」

「それだけ」

「ええ」

「おかしいなあ。<ruby><rb>故郷</rb><rt>くに</rt></ruby>が同じというだけくらいなら、何もゆうべ、あんなに泣いてうろうろすることはないじゃないか」

「そんなに私、泣いたかしら」

「人のことは覚えていても、自分のことは忘れちまうんだな。……おらが、これは大変だ。相手が四人だ、ただの四人ならよいが、みんな達人だと聞いていたから、これは捨てておくと、お師匠様も、今夜は<ruby><rb>斬</rb><rt>や</rt></ruby>られるかも知れない……。そう思ッちまって、お師匠様に加勢する気で、砂をつかんで、四人の奴らへ投げつけていると、あの時、お通さんが、どこかで笛を吹いていたろう」

「ええ、石舟斎様の御前で」

「おれは、笛を聞いて、ア、そうだ、お通さんにいって、殿様に謝ろうと胸の中で考えたのさ」

「それでは、あの時、私のふいていた笛は武蔵様にも聞えていたのですね。たましいが通ったのでしょう、なぜなら私は、武蔵様のことを思いながら、石舟斎様の前であれを吹いていたのですから」

「そんなことは、どッちだっていいけれど、おらは、あの笛が聞えたんで、お通さんのいる方角が分ったんだ。夢中になって、笛の聞えるところまで駈けてッた。そして、いきなり何といっておらは呶鳴ったんだっけ」

「合戦だっ、合戦だっ。――と呶鳴ったんでしょう。石舟斎様も、おどろいたご様子でしたね」

「だが、あのお爺さんは、いい人だな。おらが、犬の太郎を殺したことを話しても、家来のように怒らなかったじゃないか」

この少年と話をしはじめると、お通もついつりこまれて、<ruby><rb>刻</rb><rt>とき</rt></ruby>も場合も忘れてしまう。

「さ……。それよりも」

止めどない城太郎のお<ruby><rb>喋舌</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>りを<ruby><rb>遮</rb><rt>さえぎ</rt></ruby>って、お通は、門の内側へ寄った。

「――話は後にしましょう。何より先に、今朝は、武蔵様を捜さなければいけません。石舟斎様も、例を破って、そんな男なら会ってみようと仰っしゃって、お待ちかねでいらっしゃるのですから……」

<ruby><rb>閂</rb><rt>かんぬき</rt></ruby>を<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>す音がする。

利休風の門の袖が左右にひらいた。

## 六

今朝のお通は、<ruby><rb>華</rb><rt>はな</rt></ruby>やいで見える。やがて武蔵に会えるという期待にあるばかりでなく、若い女と生れての欣びを生理的にもいっぱいに皮膚の上にあらわしている。

夏に近い太陽は、彼女の頬を<ruby><rb>果物</rb><rt>くだもの</rt></ruby>のようにつやつやとみがきたてている。<ruby><rb>薫々</rb><rt>くんくん</rt></ruby>とふく若葉の風は肺の中まで青くなるほどにおう。

こぼれる朝露を背にあびながら、樹蔭に<ruby><rb>潜</rb><rt>ひそ</rt></ruby>んで彼女のすがたを眼の前に見ていた武蔵は、

（アア<ruby><rb>健康</rb><rt>じょうぶ</rt></ruby>そうになったな）

すぐそこに気づいた。

七宝寺の縁がわに、いつも<ruby><rb>悄</rb><rt>しょ</rt></ruby>んぼりと<ruby><rb>空虚</rb><rt>うつろ</rt></ruby>な眼をしていた頃の彼女は、決して今見るような生々した頬や眸をしていなかった。さびしい<ruby><rb>孤児</rb><rt>みなしご</rt></ruby>の姿そのものだった。

その頃のお通には恋がなかった。あっても、ぼんやりしたものだった。どうして自分のみが孤児なのか、そればかりを<ruby><rb>仄</rb><rt>ほの</rt></ruby>かに怨んだり回顧したりしていた感傷的な少女だった。

だが武蔵を知って、武蔵こそほんとの男性だと信じてからの彼女は、初めて、女性の<ruby><rb>沸</rb><rt>たぎ</rt></ruby>らす情熱というものに自身の生きがいを知り出したのである。――殊に、その武蔵を追って旅にさまよい出してからは、あらゆるものに耐え得る要素が体にも心にも養われて来た。

武蔵は、物蔭から、彼女のそうしてみがかれて来た美に眼をみはった。

（まるで違ってきた！）と。

そして彼は、どこか人のいない所に行って、洗いざらい自分の本心といおうか――煩悩といおうか――強がっているこころの裏の弱いものをいってしまって、花田橋の欄干にのこした無情に似た文字を、

（あれは<ruby><rb>偽</rb><rt>うそ</rt></ruby>だ）

と、訂正してしまおう？

そして、人さえ見ていなければかまわない、女になんか幾ら弱くなってやっても大したことはない。彼女がここまで自分を慕ってくれた情熱に対して、自分の情熱も示し合おう。抱きしめてもやろう、頬ずりをしてもやろう、涙もふいてやろう。

武蔵は、幾度も、そう考えた。考えるだけの余裕があった。――お通が自分にいったかつての言葉が耳に<ruby><rb>甦</rb><rt>よみがえ</rt></ruby>ってくるほど、彼女の真っ直な思慕に対して<ruby><rb>叛</rb><rt>そむ</rt></ruby>くことが、男性として<ruby><rb>酷</rb><rt>ひど</rt></ruby>い罪悪のように思われてならない――苦しくてならない。

けれど、そういう気持を、ぎゅっと歯の根で噛んでしまう怖ろしい<ruby><rb>怺</rb><rt>こら</rt></ruby>えを武蔵は今しているのだった。そこでは、一人の武蔵が二つの性格に分裂して、

（お通！）

と、呼ぼうとし、

（たわけ）

と、叱咤している。

そのどっちの性格が、先天的なものか後天的なものか、彼自身には<ruby><rb>固</rb><rt>もと</rt></ruby>よりわからない。そしてじっと木蔭の中に沈みこんでいる武蔵の眸には、<ruby><rb>無明</rb><rt>むみょう</rt></ruby>の道と、<ruby><rb>有明</rb><rt>うみょう</rt></ruby>の道とが、みだれた頭の<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>にも、<ruby><rb>微</rb><rt>かす</rt></ruby>かにわかっていた。

お通は、何も知らないのである。門を出て十歩ほど歩み出した。そして、振向くと、城太郎がまた何か門のそばで道草をくっているので、

「城太さん、何を拾っているの。早くお<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>でなさいよ」

「待ちなよ、お通さん」

「ま、そんな汚い<ruby><rb>手拭</rb><rt>てぬぐい</rt></ruby>なんか拾って、どうするつもり？」

## 七

門のそばに落ちていた手拭であった。手拭は今しぼったように濡れていた。それを踏んづけてから城太郎は<ruby><rb>抓</rb><rt>つま</rt></ruby>み上げて見ていたのである。

「……これ、お師匠様のだぜ」

お通は側へ来て、

「え、武蔵様のですって」

城太郎は、手拭の耳を持って両手にひろげ、

「そうだそうだ、奈良の後家様のうちでもらったんだ。<ruby><rb>紅葉</rb><rt>もみじ</rt></ruby>が染めてある。そして、宗因<ruby><rb>饅頭</rb><rt>まんじゅう</rt></ruby>の『林』という字も染めてあら」

「じゃあ、この辺に？」

お通が<ruby><rb>遽</rb><rt>にわ</rt></ruby>かに見まわすと、城太郎は彼女の耳のそばでいきなり伸び上がって、

「――おッしょう様あっ」

傍らの林の中で、さっと樹々の露が光り、鹿でも跳ぶような物音がその時した。――びくっとお通は顔を<ruby><rb>回</rb><rt>めぐ</rt></ruby>らして、

「あっ？」

城太郎を捨てて、突然、<ruby><rb>驀</rb><rt>まっ</rt></ruby>しぐらに走り出した。

城太郎は後から息をきって追いかけながら、

「――お通さん、お通さん、何処へ行くのさ！」

「武蔵様が駈けてゆく」

「え、え、どっちへ」

「<ruby><rb>彼方</rb><rt>むこう</rt></ruby>へ」

「見えないよ」

「――あの、林の中を」

武蔵の影をチラと見た欣びに似た失望と――見る間に遠く去ってゆくその人へ追いつこうとする女の脚のいっぱいな努力で、彼女は、多くの言葉を<ruby><rb>費</rb><rt>つい</rt></ruby>やしていられなかった。

「うそだい、違うだろ」

城太郎は、ともに駈けてはいるがまだ信じない顔つきで、

「お師匠様なら、おらたちの姿を見て、逃げてゆくわけはない、人違いだろ」

「でも、御覧」

「だから何処にさ」

「あれ――」

遂に、彼女は、発狂したかのような声をふりしぼって、

「武蔵様あ！　……」

道ばたの樹につまずいてよろめいた。そして、城太郎に抱き起されながら、

「おまえもなぜ呼ばないのです！　城太郎さん、はやく、お呼び！」

城太郎はぎょっとして、そういうお通の顔に眼をすえてしまった。――何と似ていることだろう、口こそ裂けていないが、血ばしっている眼、青じろく針の立った眉間、<ruby><rb>蝋</rb><rt>ろう</rt></ruby>を削ったような小鼻や<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>の皮膚――

似ている。そっくりといってもよい。あの奈良の観世の後家から、城太郎がもらって来た狂女の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>と。

城太郎は、たじろいで、彼女の体から手を放した。するとお通は、その戸惑いを叱りつけるように、

「はやく追いつかなければだめです。武蔵様は、帰って来ない。お呼び、お呼び、私も呼びますから声かぎりに――」

そんな馬鹿なことはあるはずがないと、城太郎は心のうちで否定するのであったが、お通の余りにも真剣な血相を見ては、そうもいっていられなかったとみえ、彼も、精いっぱい大きな声を出して、お通の走るままに走って行った。

林をぬけると低い丘があって、山づたいに月ヶ瀬から伊賀へゆける裏道になっていた。

「あっ、ほんとだ」

そこの丘の道に立つと、城太郎の眼にも武蔵の姿が明らかに映った。けれどそれはもう声も届かない距離の彼方にであった。後も見ずに遠くを駈けてゆく人影だった。

## 八

「あっ、<ruby><rb>彼方</rb><rt>むこう</rt></ruby>に――」

二人は駈けた。呼んだ。

足のかぎりに、声のかぎりに。

泣き声をふくんだ二人のさけびが、丘を降り、野を駈け、山ふところの谷間まで駈けて、<ruby><rb>木魂</rb><rt>こだま</rt></ruby>を呼びたてる。

だが、遠く小さく見えていた武蔵の影は、そこの山ふところに駈け入ったままもうどこにも見あたらなかった。

<ruby><rb>漠々</rb><rt>ばくばく</rt></ruby>として白雲はふかい。<ruby><rb>淙々</rb><rt>そうそう</rt></ruby>として<ruby><rb>渓水</rb><rt>たにみず</rt></ruby>の音は<ruby><rb>空</rb><rt>むな</rt></ruby>しい。母親の乳ぶさから打ち捨てられた<ruby><rb>嬰児</rb><rt>あかご</rt></ruby>のように、城太郎は<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">地だんだ</span>を踏んで泣きわめいた。

「ばか野郎っ、お師匠さんの大馬鹿。おらを捨てて……おらをこんなところへ捨てて……やいっ、ちくしょうっ、どこへ行っちまやがったんだ」

お通はまたお通で、彼とはべつに、大きな<ruby><rb>胡桃</rb><rt>くるみ</rt></ruby>の木に<ruby><rb>喘</rb><rt>あえ</rt></ruby>ぐ胸をもたせかけて、ただ、しゅくしゅくと泣きじゃくっている。

これほどに一生を投げやっている自分の気持も、まだあの人の足を止めるには足らないのであろうか。彼女はそれが口惜しかった。

あの人の志が今何を目的としているか、また、何のために自分を避けて行ったのか、それは姫路の花田橋の時からよく分っている問題である。けれど彼女としてはこう思う。

（どうして私に会っては、その志の邪魔になるのか？）

また、こうも思った。

（それはいいわけで、私が嫌いなのか？）

だが、お通は、七宝寺の千年杉を幾日か見つめて、武蔵がどういう男性であるかを十分に識りつくしていた。女にうそをいうような人ではないと信じている。嫌ならば嫌といいきる人なのだ。その人が、花田橋では、

（決して、そなたが嫌いなわけではない――）

といった。

お通は、それを恨みに思う。

では自分はどうしたらいいのか。<ruby><rb>孤児</rb><rt>みなしご</rt></ruby>というものには一種の冷たさとひがみがあって、めったに人を信じないかわりに、信じたからには、その人よりほかに頼りも生きがいもないように思い込むものだ。まして自分は本位田又八という男性に裏切られている。男性を見ることに深刻になるべく教えられた<ruby><rb>揚句</rb><rt>あげく</rt></ruby>なのだ。この人こそ世の中に少ない真実の男性と見て生涯をも決めて歩いて来たのである。どうなっても後悔はしないという覚悟で。

「……なぜ<ruby><rb>一言</rb><rt>ひとこと</rt></ruby>でも」

胡桃の葉はふるえていた。樹にものをいえば樹さえ感動するかのように。

「……あんまりです……」

怨めば怨むほどもの狂わしく恋しいのだ。宿命といおうか。どうしても、その人との生命の合致を見なければ、ほんとの人生を呼吸することのできない生命を持っていることは、弱々しい精神には耐えないほどな苦しみに違いなかった。片肺の肉体を持っている以上な苦しみだった。

「……あ、坊さんが来る」

<ruby><rb>半狂人</rb><rt>はんきちがい</rt></ruby>のように怒っていた城太郎がそう呟いたが、お通は胡桃の木から顔を離そうとしなかった。

伊賀の山々には、初夏が来ている。真昼になるほど空は透明性と<ruby><rb>紺碧</rb><rt>こんぺき</rt></ruby>を深くしてきた。

――旅の坊さんは、その山をひょこひょこ降りて来た。白雲の中から生れて来たように、世の中の<ruby><rb>絆</rb><rt>きずな</rt></ruby>を何も持っていない姿である。

ふと、胡桃の木の彼方を通りかけて、そこにいるお通のすがたを振り向いた。

「おや？　……」

その声に、お通も顔をあげた。<ruby><rb>泣</rb><rt>な</rt></ruby>き<ruby><rb>腫</rb><rt>は</rt></ruby>らした眼は、びっくりして大きくさけんだ。

「あっ……<ruby><rb>沢庵</rb><rt>たくあん</rt></ruby>さん」

折も折である。<ruby><rb>宗彭</rb><rt>しゅうほう</rt></ruby>沢庵のすがたは、彼女にとって、大きな光明だった。それだけに、こんなところへ沢庵が通るなんて、余りに偶然な気がして、お通は、白昼夢にさまよっているような気持がしてならなかった。

## 九

お通にとっては意外であったが、沢庵にしてみれば、彼女をここで発見したのは、自分の予測があたったに過ぎないことだし、それから城太郎も加えた三人づれで、柳生谷の石舟斎のところへ戻ることになったのも、べつだん何の偶然でも奇蹟でもなかったのである。

そもそも。

宗彭沢庵と柳生家との関係は、今に始まった間がらではなく、その機縁は遠い前からのことであって、この和尚がまだ大徳寺の三玄院で、味噌を<ruby><rb>摺</rb><rt>す</rt></ruby>ったり大台所を<ruby><rb>雑巾</rb><rt>ぞうきん</rt></ruby>を持って這い廻っていた頃からの知りあいだった。

その頃、大徳寺の北派といわれる三玄院には、常に生死の問題を解決しようとする侍とか、武術の研究には同時に精神の究明が必要であると悟った武道家とか、<ruby><rb>異</rb><rt>かわ</rt></ruby>った人物の出入りが多くて、

（三玄院には<ruby><rb>謀叛</rb><rt>むほん</rt></ruby>の霧が立っている）

と噂されたほど、そこの禅の床は、僧よりも侍に占められていたものだった。

――そこへよく来ていた人物の中に上泉伊勢守の老弟鈴木<ruby><rb>意伯</rb><rt>いはく</rt></ruby>があり、柳生家の息子という柳生五郎左衛門があり、その弟の<ruby><rb>宗矩</rb><rt>むねのり</rt></ruby>などがあった。

まだ但馬守とならない青年宗矩と沢庵とは、忽ち、親しくなって、以来、二人の交友は浅からぬものがあって、小柳生城へも幾度も訪れるうちに、宗矩の父の石舟斎とは息子以上に、

（話せるおやじ）

と尊敬し、石舟斎もまた、

（あの坊主、ものになる）

と、許していた。

こんどの訪問は、九州を遍歴して、先ごろから泉州の南宗寺へ来て沢庵は杖をとめていたので、そこから久しぶりに、柳生父子の消息を手紙でたずねてやると、その返辞に、石舟斎から細々と便りがあって、

（――近ごろ自分は至ってめぐまれている。江戸表へやった但馬守宗矩も、無事御奉公をしているし、孫の兵庫も、肥後の加藤家を辞して、目下は修行して他国を歩いているが、これもまずまずどうやら一人前にはなれそうだし、折から近ごろ、自分の手許には、<ruby><rb>眉目</rb><rt>みめ</rt></ruby>うるわしい笛の上手な佳人が来て、朝夕の世話やら、茶や花や和歌の相手やら、とかくに寒巌枯骨になりやすい草庵に、一輪の花をそえている。その女性は、和尚の<ruby><rb>郷国</rb><rt>くに</rt></ruby>とはすぐ近い<ruby><rb>美作</rb><rt>みまさか</rt></ruby>の七宝寺とやらで育った者であるといえば、和尚とは話も合おう。佳人の笛を聞きながら一<ruby><rb>夕</rb><rt>せき</rt></ruby>の美酒は、茶で<ruby><rb>時鳥</rb><rt>ほととぎす</rt></ruby>という夜ともまた変った味がある。ぜひ、そこまで来ているなら、一夜を<ruby><rb>割</rb><rt>さ</rt></ruby>いて、<ruby><rb>老叟</rb><rt>ろうそう</rt></ruby>の宿へも来たまえかし）

――こういう手紙を見ると、沢庵は、尻を上げずにいられなかった。まして手紙のうちにある<ruby><rb>眉目</rb><rt>みめ</rt></ruby>うるわしい女性の笛吹きといえば、どうやら、かねて時折は案じている昔なじみのお通らしくもあるし――

そんなわけでぶらりとこの地方を歩いて来た沢庵であるから、その柳生谷に近い山で、お通のすがたを見かけたことは、さまで意外としなかったが、お通の話によって、

「惜しかった」

と、彼も舌を鳴らして嘆息したのは、たった今、武蔵が伊賀路のほうへ向って駈け去ったということであった。

## 女の道

## 一

そこの<ruby><rb>胡桃</rb><rt>くるみ</rt></ruby>の木の丘から、石舟斎のいる山荘の麓まで、城太郎を連れて、<ruby><rb>悄々</rb><rt>しおしお</rt></ruby>と引っ返してゆく間に、<ruby><rb>沢庵</rb><rt>たくあん</rt></ruby>からいろいろ問いただされて、お通がつつみ隠しなく、その後の自分の歩いて来た<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>やらこの度のことを、彼なれば何でもと心をゆるして、語りもし相談もしたであろうことは、想像に難くあるまい。

「む。……む……」

沢庵は、妹の泣き言でも聞いてやるように、うるさい顔もせず幾たびも<ruby><rb>頷</rb><rt>うなず</rt></ruby>いて、

「そうか、なるほど、女というものは、男にはできない生涯を選ぶものだ。――そこで、お通さんの今考えていることは、これからどっちを歩こうという<ruby><rb>岐</rb><rt>わか</rt></ruby>れ道の相談じゃろ」

「いいえ……」

「じゃあ……？」

「今さら、そんなことに、迷ってはおりません」

<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>きがちな彼女の力のない横顔を見れば、草の色も真っ暗に見えているであろうほど、滅失の中の人だったが、そういった言葉の語尾には、沢庵も眼をひらいて見直すくらい、強い力がこもっていた。

「あきらめようか、どうしようか、そんな迷いをしているくらいなら、私は七宝寺から出てなど参りません。……これからも行こうとする<ruby><rb>途</rb><rt>みち</rt></ruby>は決まっているのです。ただそれが、武蔵さまの<ruby><rb>不為</rb><rt>ふため</rt></ruby>であったら――私が生きていてはあの方の幸福にならないのなら――私は自分を、どうかするほかないのです」

「どうかするとは」

「今いえません」

「お通さん、気をつけな」

「何をですか」

「おまえの黒髪をひっぱっているよ。この明るい<ruby><rb>陽</rb><rt>ひ</rt></ruby>の下で死神が」

「私には何ともありません」

「そうだろう、死神が加勢しているんじゃもの。――だが、死ぬほど<span data-tei-rend="bouten 傍点 right" style="text-emphasis-style: filled sesame; text-emphasis-position: over right">うつけ</span>はないよ。それも片恋ではな。ハハハハハ」

まるで<ruby><rb>他人事</rb><rt>ひとごと</rt></ruby>に聞き流されるのがお通は腹だたしかった。恋をしない人間になんでこの気持がわかる。それは沢庵が、愚人をつかまえて禅を説くのと同じである。禅に人生の真理があるなら、恋のうちにも必死な人生はあるのだ。<ruby><rb>尠</rb><rt>すくな</rt></ruby>くも、女性にとっては、<ruby><rb>生</rb><rt>なま</rt></ruby>ぬるい禅坊主が、隻手の声<ruby><rb>如何</rb><rt>いかん</rt></ruby>などと、初歩の公案を解くよりも、<ruby><rb>生命</rb><rt>いのち</rt></ruby>がけの大事なのである。

（――もう話さない）

唇をかんでそう決めたように、お通が黙ってしまうと、今度は沢庵から真面目さを見せて、

「お通さん、おまえはなぜ男に生れなかったのだい。それほど強い意思の男ならば、尠くも一かど国のために役立つ者になれたろうに」

「こういう女があってはいけないんですか。武蔵さまの<ruby><rb>不為</rb><rt>ふため</rt></ruby>なのですか」

「ひがみなさんな。そういったわけではない。――だが武蔵は、おまえがいくら愛慕を示しても、そこから逃げてしまうんじゃないか。――そうとしたら、追ってもつかまるまい」

「おもしろいので、こんな苦しみをしているのではありません」

「少し会わないうちに、お前も世間なみの女の理窟をいうようになったの」

「だって。……いえ、もうよしましょう、沢庵さんのような名僧智識に、女の気持がわかるはずはありませんから」

「わしも、女の子は、苦手だよ、返辞にこまる」

お通は、ついと足を<ruby><rb>反</rb><rt>そ</rt></ruby>らし、

「――城太さん、おいで」

彼と共に、沢庵をそこへ置き捨てて、べつな道へ歩みかけた。

## 二

沢庵は立ちどまった。ふと嘆くような眉をうごかしたが、是非もないとしたらしく、

「お通さん、ではもう石舟斎様にお別れもせずに、自分の行きたい途へ行くつもりか」

「ええお別れは、心のうちでここからいたします。もともと、あの御草庵にも、こんな長くお世話になるつもりもなかったのですから」

「思い直す気はないか」

「どういうふうに」

「七宝寺のある<ruby><rb>美作</rb><rt>みまさか</rt></ruby>の山奥もよかったが、この柳生の庄もわるくないの。平和で<ruby><rb>醇朴</rb><rt>じゅんぼく</rt></ruby>で、お通さんのような佳人は、世俗の血みどろな<ruby><rb>巷</rb><rt>ちまた</rt></ruby>へ出さずに、生涯そっと、こういう山河に住まわせて置きたいものじゃ。たとえばそこらに啼いている鶯のようにな」

「ホ、ホ、ホ。ありがとうございます。沢庵さん」

「だめだ――」

沢庵は、嘆息した。自分の思い<ruby><rb>遣</rb><rt>や</rt></ruby>りも、盲目的に思う方へ走ろうとするこの青春の<ruby><rb>処女</rb><rt>おとめ</rt></ruby>には、何の力もないことを知った。

「だが、お通さん。――そっちへ行くのは、<ruby><rb>無明</rb><rt>むみょう</rt></ruby>の道だぞ」

「無明」

「おまえも寺で育った<ruby><rb>処女</rb><rt>むすめ</rt></ruby>じゃから、無明煩悩のさまよいが、どんなに果てなきものか、悲しいものか、救われ難いものかぐらいは知っておろうが」

「でも、私には、生れながら<ruby><rb>有明</rb><rt>うみょう</rt></ruby>の道はなかったんです」

「いや、ある！」

沢庵は<ruby><rb>一縷</rb><rt>いちる</rt></ruby>の<ruby><rb>望</rb><rt>のぞ</rt></ruby>みへ情熱をこめて、この腕に<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>れとばかり、お通のそばへ寄ってその手を取った。

「わしから石舟斎様へよう頼んであげよう。身の振り方を、生涯の落着きを。――この小柳生城にいて、よい良人をえらび、よい子を生み、女のなすことをなしていてくれたら、それだけここの郷土は強くなるし、そなたもどんなに幸福か知れぬが」

「沢庵さんのご親切はわかりますけど……」

「そうせい」

思わず手を引っ張って、城太郎へも、

「小僧、おまえも来い」

城太郎はかぶりを振って、

「おら嫌だ。お師匠さまの後を追いかけて行くんだから」

「行くにしても、一度、山荘へもどれ、そして石舟斎さまにごあいさつ申しての」

「そうだ、おら、御城内へ大事な<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>を置いて来た。あれを取りにゆこう」

城太郎は駈けて行ったが、彼の足もとには、有明もない、無明もない。

しかしお通はその二つの<ruby><rb>岐</rb><rt>わか</rt></ruby>れ路に立ったままうごかなかった。それからも沢庵がむかしの友達に返って、懇々と、彼女のさしてゆく人生の危険であることと、女性の幸福がそこばかりにないことを説くのであったが、お通の今の心をうごかすには足らなかった。

「あった！　あった！」

城太郎は<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>をかぶって、山荘の坂道を駈け降りて来た。沢庵はふとその狂女の<ruby><rb>仮面</rb><rt>めん</rt></ruby>をながめて<ruby><rb>慄然</rb><rt>りつぜん</rt></ruby>とした。――やがて年月<ruby><rb>経</rb><rt>へ</rt></ruby>た無明の<ruby><rb>彼方</rb><rt>あなた</rt></ruby>にいつか出会うお通の顔を今見せられたように。

「――では沢庵さま」

お通は一歩離れた。

城太郎は、彼女の<ruby><rb>袂</rb><rt>たもと</rt></ruby>にすがって、

「さ、行こう。サ……早く行こう」

沢庵は、昼の雲に、眸をあげ、おのれの無力を嘆じるように、

「やんぬる<ruby><rb>哉</rb><rt>かな</rt></ruby>。――釈尊も<ruby><rb>女人</rb><rt>にょにん</rt></ruby>は救い難しといったが」

「左様なら。石舟斎様へは、ここから拝んで参りますが、沢庵さんからも……どうぞ」

「ああ、われながら坊主が馬鹿に見えて来る。行く先々で、地獄ゆきの<ruby><rb>落人</rb><rt>おちゅうど</rt></ruby>ばかりに行き会う。……お通さん、六道三<ruby><rb>途</rb><rt>ず</rt></ruby>で溺れかけたら、いつでもわしの名をお呼び。いいか、沢庵の名を思い出して呼ぶのだぞ。――じゃあ行けるところまで行ってみるさ」