Soranoha

海豹と雲

かいひょうとくも

北原 白秋

序

風格高うして貴く、気韻清明にして、初めて徹る。虚にして満ち、実にしてまた空しきを以て、詩を専に幻術の秘義となすであらう。

鳥の翺る、ただに尋常の行であらうか。海豹の水に遊ぶ、誰かまた険難の業とのみ判じよう。雲は太古にして若く、波は近う飜つて、かへつて帰する際涯を知らない。

詩は我が生来の道である。その表現の玄微に好んで骨を鏤る。畢竟は我がふたつなき楽みを我と楽むのである。ただ志して未だ風韻の神に到らず、境涯整はずして、また未だ苦吟の傷痕を脱し得ざるを恥づる。

望んであまりに遼遠なるが故に、深く頭を垂れるのである。

昭和四年 立秋

白秋

古代新頌

水上

水上みなかみは思ふべきかな。

苔清水湧きしたたり、

日の光透きしたたり、

橿かし、馬酔木あしび、枝さし蔽ひ、

鏡葉かがみはの湯津真椿ゆづまつばきの真洞まほらなす

水上みなかみは思ふべきかな。

水上みなかみは思ふべきかな。

山の気の神処こころどの澄み、

岩が根の言問こととひ止み、

かいかがむ荒素膚あらすはだの

荒魂あらみたまの神魂かみむすび、神つどへる

水上みなかみは思ふべきかな。

水上みなかみは思ふべきかな。

雲、狭霧、立ちはばかり、

丹にの雉子きぎし立ちはばかり、

白き猪ゐの横伏し喘あへぎ、

毛の荒物あらもののことごとに道塞ふたぎ寝ぬる

水上みなかみは思ふべきかな。

水上みなかみは思ふべきかな。

清清さわさわに湧きしたたり、

いやさやに透きしたたり、

神ながら神寂さび古る

うづの、をを、うづの幣帛みてぐらの緒の鎮しづもる

水上みなかみは思ふべきかな。

水上みなかみは思ふべきかな。

青水沫あをみなわとよたぎち、

うろくづの堰せかれたぎち、

たまきはる命の渦の

渦巻の湯津石村ゆづいはむらをとどろき揺る

水上みなかみは思ふべきかな。

独神

天地あめつちの初発はじめの時、

かぎりなく虚むなしき時、

独神ひとりがみ、成なり坐ましにけり。

萠え騰あがる葦牙あしかびの

鮮緑さみどりの神よ。こをろ。

国稚わかく、浮脂うきあぶらなす、

海月くらげなす漂へる時、

独神ひとりがみ、ひと柱のみ。

萠え騰あがる葦牙あしかびの

鮮緑さみどりの神よ。こをろ。

万象よろづ無し、光すら、

影すらも、頼む影、

独神ひとりがみ、ただ幽かにて。

萠え騰あがる葦牙あしかびの

鮮緑さみどりの神よ。こをろ。

窮きはみなし、常久とことはに、

窮きはみなし、文あやもなし、

独神ひとりがみ、御身みみ隠します。

萠え騰あがる葦牙あしかびの

鮮緑さみどりの神よ。こをろ。

昼もなし、夜もなし、

寒しとも、暑しとも、まだ、

独神ひとりがみ、ただ徹とほります。

萠え騰あがる葦牙あしかびの

鮮緑さみどりの神よ。こをろ。

言問

岩が根に言問こととはむ、

いにしへもかかりしやと。

苔水のしみいづる

かそけさ、このしたたり。

草に木に言問こととはむ、

いにしへもかかりしやと。

おのづから染みいづる

わびしさ、このあかるさ。

小さき日に言問こととはむ、

いにしへもかかりしやと。

かがやきの空わたる

わりなさ、このはるけさ。

神神に言問こととはむ、

いにしへもかかりしやと。

はればれとひびき合ふ

松かぜ、このさわさわ。

猟夫

神神、

いざ、起たたせ、

照り満つ蘇枋すはうの実の、

こよなし、よく染みぬ。

神神、

みそなはせ、

はららぐ鷲の羽の、

こよなし、よく飛びぬ。

神神、

ああ、神神、

吾あも起たつ、向剥矢むかはぎやの、

こよなし、よく鳴りぬ。

神神、

ああ、神神、

この恋の、鳴なり鏑かぶらの、

こよなし、よく鳴りぬ。

青野

さわさわや、ひきまとふ

我が荒絹あらぎぬ、

鴉の、青鴉の

後あとに蹤つきて。

雑草あらくさや、行き行けば

雲立ち立つ、

曠野あらのの、鳴る沢の

音ひそめて。

はてなさや、しづけさや、

風、小嵐さあらし。

こもらふ神神の

素足見せて。

昼や、げに、息はずむ

毛の柔物にこもの、

少女をとめよ、ひと飛びに

飛びかくれぬ。

蛍に

昼は沸き、

蒼蠅さばへなすもの、

夜は夜とて

光る神神。

(ほうたるよ)

言問こととひぬ、

遠つ神代は

青水沫あをみなわ、

石根いはね、木の立。

(ほうたるよ)

神なりき、

かがやきの秘所ひそ、

稚をさなきは

驚おどろきぬ。皆。

(ほうたるよ)

精霊いきすだま、

我や何とも、

誰たか、わかむ、

善きと、悪しきと。

(ほうたるよ)

夜は蒼あをし、

災わざわひは満つ。

ただ光る

美しき神。

(ほうたるよ)

とらふなし、

この夢、現うつつ、

なにを、さは

払はむぞ、また。

(ほうたるよ)

ああ、保て、

雨を山楂子さんざし、

にほひのみ

溜めよ、この闇。

(ほうたるよ)

狼

荒魂あらみたま

まどろまず。

大き月

満ちて、照りぬ。

何を澄む

夜よの蒼さをぞ。

とりよろふ

山の真洞まほら。

草も木も

押し靡け、

疾とく、野分のわき

吹きすさむを。

安からず、

また、寝いねず、

千速振ちはやふる

神ことごと。

たづたづし、

隈くまふかし、

山河やまがはの

瀬に鳴りつつ。

直向ただむかふ

月にのみ、

耳は裂け、

地に喚おらべば。

雪かとも

身は白し、

大口おほぐちの

真神まがみ、狼。

岩礁

月面げつめんに墨噴ふきて、

飛び羽搏はうつもの。

あきらかにこの夜よこそ

鵜は宿らじ。

波は荒れ、

紫のこごし巌いはほ。

凍しみるなり。

立ち凝こごる夜霧なり。

和なごみなし、この世界

ただ響きて。

耿耿かうかうと、目には見え、

罅ひび裂さくるなり。

噛む

氷柱つらら噛む、

白き犬

月かげを噛む。

砕くなり。

この光

痛烈に光るなり。

何ぞ。誰たぞ。

この犬の怖るるもの。

蒼蠅さばへなす神は澄む、

水にも岩にも。

光るなり、

氷柱つららの神。

犬は噛む。

月かげを噛む、

かりかりと噛む。

木蘭吟

木蘭よ。我れ言はむ。

杯は我が童わらべなり。

木蘭よ。酒、酒、酒。

酒は我がいみじ和魂にぎたま。

木蘭よ。また言はむ。

日こそ我が父。

木蘭よ。

月はまた母。

木蘭よ。

山の木蘭。

木蘭よ。

空は我が神。

木蘭よ。

我れは歌なり。

木蘭よ。我れ飲まむ。

酒よ。また、酒よ酒よと。

木蘭よ。

深め、汝なが春。

木蘭よ。

琥珀。我が酒。

早春

香取神宮

槙まきのこずゑに、青鷺の

群れて巣をもつ幽かそけさよ。

空のはるかを、日の暈かさの

凝こごりかけつつ行き消えぬ。

白き花鳥図

水禽

さながらや、一片ひとひらの

蓮華れんげ、浮舟うきふね。

息づかし、黄の嘴くちばし

尾に反そりて、白き水禽みづどり。

楚楚として、うしろ向く

細首の、その長さ。

眼の聡さとさ、悩なやましさ。

七八月、

後あとざまの水掻みづかきや、

やや乱れて。

江の撓たをり、とどまらず、

また淀めば。

﨟たさよ、はてなさよ、

ああ、水禽みづどり。

紫よ、

雲は午ひる。

くわうくわうと声は放て、

月に対むかつて。

奉悼曲

冷ひえとほる白き鳥

翼はうち翺とばず。

凍しみこほる白き華はな、

今朝けさ、現うつつなし。

十善のみくらゐに

君はおはすを。

またいつかみそなはす、

冬の日の白き花鳥図。

白鷺

白鷺は、その一羽、

睡蓮の花を食はみ、

水を食はみ、

かうかうとありくなり。

白鷺は貴くて、

身のほそり煙るなり、

冠毛かむりげの払子ほつす曳く白、

へうとして、空にあるなり。

白鷺はまじろがず、

日をあさり、おのれ啼くなり、

幽かすかなり、脚あしのひとつに

蓮の実を超えて立つなり。

白牡丹

白牡丹はくぼたん、大き籠こに満ち、

照り層かさむ内紫うちむらさき、

豊かなり、芬華かがやきの奥、

とどろきぬ、閑しづけき春に。

蝶は超ゆ、この現うつつより、

うつら舞ふ髭長ひげながの影。

昼闌たけぬ。花びらの外そと、

歎かじな、雲の驕溢おごりを。

白牡丹はくぼたん、宇宙なり。

また 薫かをす、専もはらなる白。

この坐すわり、ふたつなし、ただ。

位のみ。ああ、にほひのみ。

辛夷

唐画

黄鳥うぐひすは辛夷こぶしに触れぬ。

辛夷こぶしこそ深山みやまの妃きさき、

清すがしくも白き掌ての指、

『開け、指。』

黄鳥うぐひす歌ふ。

黄鳥うぐひすは萠黄の翼つばさ、

飛とびうつる、金星の皇子みこ、

『過ぎよ、雨。』

萼うてなをつつく。

霧雨きりさめの朝明あさけの辛夷こぶし、

雫して、

ああ、雫して、

声もなき白き声して燃えあがるなり。

白

目ざましきもの、花辛夷はなこぶし、

白き胸毛むなげの百千鳥。

夏は岩が根、白牡丹しろぼたん、

白光びやくくわう放つ番ひ鳩。

秋は月夜の白かんば、

白き鹿立つ杣そまの霧。

へうと飛びゆく雲は冬、

鶴に身をかる幻術師。

何か坐まします、山やまの秀ほに、

雪の気韻は澄みのぼる。

柳鷺

鷺は棲む、正身さうじみの

白き聖ひじり。

しづりうつ雪の柳に

やや燻くすみて。

つくづくと、うち見やる

水、枯葦、

まさしくもみ冬なり。

白ひと色。

鷺は棲む、羽ごろもの、

笠の翁。

いとどしく、薄墨の

空飛ぶもの、

雀かと、眼は放て、

また眺めず。

言問こととはず、立ち舞はず、

日のくれぐれ。

鷺は燃ゆ、白毫びやくがうの

明あかる眉間みけん。

和み

にぎみたま、

そは童わらはべ。

香に和なごむ

影の、野茨のばらや。

日の文あやよ、

そよかぜよ、ただ。

なづさはず、

行きも過すがはず。

かげろふよ、

さざなみよ、ただ。

水の紋、

幼な息づき。

にほふのみ、

ゆらぐのみ、ただ。

無為よ、ああ、

白き水鳥。

遊ぶのみ、

潜かづくのみ、ただ。

鮎鷹

鮎鷹は多摩の千鳥よ、

梨の果みの雫しづく切口、

ちちら、ちち、

白う飛ぶそな。

鮎の子は澄みてさばしり、

調布たづくりの瀬瀬せぜのかみしも、

砧うち、

砧うつそな。

鮎鷹は初夜に眼の冴え、

夜をひと夜、あさりするそな。

ちちら、ちち、

鮎の若鮎。

水の色、香かをる泡沫うたかた、

眉引のをさな月夜を

ああ、誰か、

影にうかがふ。

註 多摩川のほとりには梨畑多し

蓮の実

唐画

夏はよし、

君が水のべ。

皆すずし、

石の、濡れ色。

白き蓮

半ばくづれて、

かはせみの

ねらひ澄ますと、

早や、そよぐ

蓮の実の蕋しべ。

折れ曲る

影の、一茎ひとくき。

鵲

唐画

鵲のつどへる見れば、

黒き羽や、尾白鵲をじろかささぎ。

車前草おほばこの花に粉こはふき、

夏はゆく、野づかさの照り。

現うつつなし、銀河の真昼、

流らふは霞のみかは。

うらがなし、おだやかながら、

こもらへり、風もそこここ。

老いやすし、この草深野くさふかの、

鵲の幾羽居りとも。

揺れやすし、幾羽居りとも、

黄の、嘴はしの、そよろ化粧毛けはひげ。

珠数かけ鳩

唐画

珠数かけ鳩はむきむきに

落ちし杏あんずをつつくなり。

しめりまだ乾ひぬ土のうへ、

杏あんずはあかし、そこここに。

珠数かけ鳩の虔つつましさ、

脚あしにひろひぬ。飛び飛びに。

空に杏あんずの葉はにほひ、

羽根に雫の色涼し。

珠数かけ鳩は行き過ぎて、

あかき杏あんずにつまづきぬ。

鳩

元画

鳩なり、よき紫、

両脚もろあしや。よきももいろ、

水盤のへりに、ああ、

うつむけぬ、法師あたま。

柔かさ、かがやかさ、

尾は立てぬ、斑雪はだれ矢羽根、

鳩なり、よき紫、

閑しづかさや、そのかたち、

水の輪の紋織や、

嘴を、

嘴を、

嘴をふれ、

聴くともなし、春雷はるいかづち。

鳩なり、よき紫、

午ひるなり、このしじま。

突き入れぬ、

あ、突き入れぬ、瞳を、

水に、

水に、水に、水に。

黎明

印度画趣

白き鷺、空に闘ひ、

沛然と雨はしるなり。

時は夏、青しののめ、

濛濛と雨はしるなり。

早や空むなし、かの蓮華色れんげしよく。

二塊ふたくれの、夢に似る雲。

くつがへせ、地軸はめぐる。

凄まじき銀と緑に。

白き鷺空に飛び連れ、

濛濛と雨はしるなり。

雀と雪

陽ひは薄し、

庭の雪、

凍しみこほり、

こはばりぬ。

きびしきは

寒かんの冴え、

木のかげも

貧しくて。

足跡よ、

誰たがつけし、

雪の窪、

早や光らず。

いとど急せく、

声や、ただ、

ひとり啄つむ、

その窪み。

雀なり、

煤けたる。

目につきし、

目を去らず。

二月

息つがず、

冬のひばり、

さへづりの

短くて。

氷張る

河のうへ、

ぴしりうつ

欠片かけら、氷。

とりどりに

子らは行く、

むら消えの

雪を、田を。

ちちら、ちち

空のこゑ、

まだ辛つらし、

春は来ず、

匂ひだつ

畦あぜの土、

また、今朝けさは

凍しみこほりぬ。

鴛鴦

冬の日の、鴛鴦おしどりの

つきほなさ、

ひとみの黒さ。

根白葦ねじろあし、蓮の根の

氷にも

寄り添ふ身の。

老いてなほ、うつくしき

飾り羽ばや、

たのめなき陽ひや。

さむざむし池の面もや、

行けば行き、

とめぐればただめぐりて。

すべはなし、朱しゆのうすき

水かきや、

ちらら見せて。

つれづれと、頬ほに並ならぶ

番つがひ鳥どり、

薄日うすび、鴛鴦おしどり。

老鶏

さわさわと起たつ風の

音響けば、

鶏は羽ばたきぬ。はたはた、ああ、はたはた、

白檮しらがしの、葉広檮はびろがしの

かがやく陽ひを目ざして。

鶏冠とさかや、猛猛たけたけし

眼の稜稜かどかど、

尾羽、翼つばさ、はららぎぬ、はたはた、ああ、はたはた、

岩根の、白羽蟻の

吹雪と舞ふ柱を。

力よ、荒魂あらみたま

飛び搏はたくと、

勢きほひ蹴るひと空や、はたはた、ああ、はたはた、

光の、陽ひのしじまの

耿かうたる幅はば乱すと。

凄まじ、身は重し、

青さをの夏なつを、

朱の古りし鶏よ。はたはた、ああ、はたはた、

すべなし、飛び羽うつと

いくばくも飛ばず落ちぬ。

冬眠

冬眠

ねむれよ、やすらかに、

冬のあひだ、

まどろめよ、和魂にぎみたまの

香かにとろみて。

ねむれよ、おだやかに、

蛇よ、かはづ、

まどろめよ、おのが肉

食はみ足らひて。

ねむれよ、このもしく、

夢も欲ほらず、

まどろめよ、土つちの室むろ

塗りとざして。

ねむれよ、息の緒の

あるかなしに、

まどろめよ、ゆるぎなく

酔ひほうけて。

ねむれよ、やはらかに、

日ももとめず、

まどろめよ、こごり凍しむ

地をいとひて。

ねむれよ、神ごころ、

冬のあひだ、

まどろめよ、ほろと、ただ、

ああ、とろみて。

雑木

雑木ざふきこそうれしけれ、

そのもみぢも、

こもごもに、日のひかり

さしかひつつ。

雑木ざふきこそうれしけれ、

そのにほひも。

ほのぼのと。靄と雨

なづさひつつ。

雑木ざふきこそうれしけれ、

そのこずゑも。

さむざむと、雀など。

かい寄りつつ。

雑木ざふきこそうれしけれ、

その楉枝しもとも。

ほきほきと、ゐろり火に

折りくべつつ。

靄かとも

靄かとも、

しろい雪の気け。

枯枝に

露とむすんで。

庭石に

ぬれて、にじんで。

たほたほと

空に見えても。

ちらちらと

雨にしみても。

つもるでも、

ひかるでもなし。

あかるでも、

暮るるでもなし。

にほひのみ、

しろい夕かげ。

もの柔やはい、

泣けもせぬ雪。

よいや、ほう。

よいや、ほう。

小閑

ながめあかるきをりをりを

ほそりと影は通るなり。

なにかわびしき日向ひなたぼこ

物の穂などもはかなさよ。

秋の日

しづかさよ、

秋日向あきひなた、

なにかしら香かに咲きつつ。

かがやきの

影までも、

浮彫の黄きに、新あらたに。

飛ぶ虫の

粉こにまぎれ、

をりふしの目に宿れば、

思ふこと

皆親し、

かかる日の香かに咲きつつ。

花を活けつつ

世のつねの

花にはあらず。

この匂

寂びてこよなし。

しかもなほ、

ゆめに、うつつに

いまだ見ぬ

花は多かる。

われ想もはむ、

壺のまろみの

幽かなる

いぶしねずみに。

よく省はぶき、

いよよながめむ。

花ひとつ

しろく明あかるを。

観想の冬

飛びちらふ

落葉もあらず、

庭は早や、

か広くなりぬ。

凍しみこごる

残んの日かげ、

かさりとも

移る音なし。

いとせめて、

沙羅のほづえに、

霜と咲け、

白き吾が冬。

ひなた

石の面おもに

ほのとぬくみて。

菊の香や、

保つ日向や。

こよなくも

冬はなごむを。

なにか倦む

童わらはべごころ。

冬の夜

浪の音だ。まさしく、

ざざんさと寄せてる。

ねむれよ、ねむれよと。

ねむれよ、息づかひも、

毛帽子のをさな児、

耳たぶの紅あかさ見せて。

深めよ、日のまぼろし、

冬はただ寂びるを、

また、風よ光よと。

ああ、それに月の蟹、

茶の花も白かつたに、

父と子とが観てたに。

潮ぐもりの燻いぶしが

さむざむと満ちる、これから、

蜆いろの沖にも。

過ぎたよ、星の座に、

照りはえた火の渦、

昨夜ゆうべのうつくしい野火も。

ねむれよ、円まろきくるぶし、

ちひさな毛のくつした、

腕椅子の揺り床。

浪の音だ。まさしく、

ざざんさと寄せてる。

ねむれよ、ねむれよと。

註 西の国にては、月面の影をば蟹と観る習俗あり。

月光の谿

緑ヶ丘夜景

角の月

黄にしめる横雲のうへ、

燦爛とうちあがる青あをきぬがさ。

花火なり、

また紅あかくひろごりぬ。玉の投網とあみ、

ほど近し、みづみづし、溶けちりつつ。

闇はよし、

しばしばも目に新あらたに、

梟と木菟みみづくのこゑかはして。

まこと見よ、

かの森と、丘の萠黄もえぎと、

かがやきの時ときの間まも夜のふくるを。

透かせ、また、

梧桐あをぎりの穂にさく蕾、

窓ちかき幹立みきだちの濃きあはひを。

夜空なり、

うつくしき、かがやきやすき、

明けやすき光なり、この真夏の。

聴けよ、ただ、

微塵数みぢんずの満ち満つ露に、

歎け、はた、あざやけき色の現うつつを。

角の月

黄にしめる横雲のうへ、

燦爛とうちあがる青きぬがさ。

月映

雲はいま

白孔雀、

月をはらみぬ。

耀やかし、卵なすもの、

影は透く、

雛の孔雀の。

かうかうと照るものは

うるはしきかな。

尾羽ひろげ、

雲はいま、

羽ばたきにけり。

月光の谿

夜の月映つくばえに流るるは

すずしき秋の縹雲はなだぐも。

(月こそ神よ、

まどかにて。)

ひまらや杉の葉は繊ほそく、

とすればそよぐそのこずゑ。

(月こそ神よ、

まどかにて。)

現うつつならぬか、観るものの

青みやすらふ寂さびと光沢つや。

(月こそ神よ、

まどかにて。)

灯ひあしの蕊しんの黄に燃えて、

みながら湿しめる谿たにの戸や。

(月こそ神よ、

まどかにて。)

童わらべよねむれ。虫の音の

降るかにすだくやはらぎを。

(月こそ神よ、

まどかにて。)

湧き来る狭霧、むらさきの

地球はかをる、土つちの息。

(月こそ神よ、

まどかにて。)

かの月映つくばえに流るるは

豊けき秋の縹雲はなだぐも。

(月こそ神よ、

まどかにて。)

夜ごろ

紫の

靄と雲、

月はあり、ありかのみ。

ほのぼのと

また開く、

雨あとや、吾がとぼそ。

見え来つつ、

また消ゆる

声と色、影と艶つや。

この夜ごろ。

あはあはし、

花と葉と、花うるし。

庭さき

月の光は椎の葉と

山いもの葉に宿るなり。

思へ、幽かにかかる夜を

眼にもつかねど咲く花を。

夕立つ雲の雨ふらで

土に蒸し来るしづけさや。

ちろめく谷地やちの燈火ともしびも、

木の間がくりに線すぢひきぬ。

沼

いゆきもとほる腰の蓑、

霞はわびし、金の粉こな。

隠れて赤き月ゆゑに

光は立ちぬ、雲のうへ。

食めよ、白鷺、沼のぬし、

かのさざなみの揺り波を。

すなどりびとはまづしくて、

むなしく水になげかひぬ。

影

月のひかりはそよかぜの

風並かざなみ遠く楽みぬ。

月のひかりはさざなみに

さらに満しぬ、金の亀。

放て、心を、へうべうと、

空と水とのなまめきに。

はかなかれども雲に鳥、

誰たぞや遥けく影を追ふ。

泉石

萠黄もえぎの月の眉引に

鶴は啼くなり、土のうへ。

水に揺れあふ風のかげ、

花はこもらふひつじぐさ。

にほひをさなき泉石せんせきの

色のあひさにまじらへば、

蒼き夜ごろは貴くて、

ほのかなるものみな愛かなし。

山峡

流らふ風は朴の葉の

炎を洗ふごとくなり。

幽かにあをき川海苔よ、

岩のぬめりを越す水よ。

歎け、河鹿よ。爽やかに

青きひと夜の物さびを。

動きてやまぬむら雲に

月のひかりは噴きいでぬ。

野菜

月にかがやくひと束は

紫うすき根の蓮はちす。

群れよ、白鷺、この空の

霜の夜あけの濃き青を。

なにか貧しき、いよいよに

心ととのふ世の母よ。

白き野菜も籠ながら

燃えて豊かに息づきぬ。

初冬

雲のさざなみ、月しろの

流と移るすみやかさ。

黄の鈴懸のこずゑにも

風はそよげり、あきらかに。

童わらべと踊をどる波斯猫

豹の児のごと燃えたてど、

すべなや、父は眼も冴えて、

鮎のうるかをはかなみぬ。

童女

匂ひだちつつ、うつつには

揺れしづまらぬ靄のいろ。

月のありかは見えながら

おぼめきまろし、水のうへ。

童女よ、坐れ、むらさきの

まつげにやどる露ならば。

はかなけれども、ほのぼのと

地球も燃えて行きめぐる。

われは見き

われは見き、さざめ雪かと、

人蔘の花の月夜を。

うゑはてし人の倒れて、

道の幅いとど照りしを。

湧きのぼる沖べの煙

むらさきに消えもやらずて、

神のごと美しきもの

鉄塔のうへに坐まししを。

月夜の池

わしは観た、月のおもてに

げつそりと痩せた笑を。

尖帽のしろい人かげ、

夜はふけて池をまはるを。

リンデンの枝は枯れ、

冬はまた貧しくなるを。

光れ、鶴、

雪が軋つた。

渚

﨟たさよ、しろき月

炎ほのほしろく、

雲の翼はねはろばろに

行きながれぬ。

釣舟の漕ぎいづる

入り江ちかく、

さざなみの彩織あやおりに

魚籠びくひたせば。

光るなし、かげるなし、

夕満ち汐、

うらもなし、うつつなし、

膝、くるぶし。

夕暮よ、黄金虫

うなり過ぎて、

さんごじゆの花の香かのみ

蒸しにほひぬ。

風を祭る

羽虫

蜆花しじみばな、通草あけび咲き満ち、

質素なり、この門かどの夏、

放射線――醸かもす虫なり。

6と9と

3と2と8。

微塵数みぢんずのかがやく翅つばさ、

誰か知らむ、口にかゆきを。

童わらべのみ辛つらく立つなり。

6と9と

3と2と8。

うらがなし、待つも待たずも。

小さき鐘軒につるして、

撞木あり。――かうとうつなり。

6と9と

3と2と8。

洗へ妻、蝦蛄しやこのひと籠、

吹く風は緑に煙り、

「時」はよし、照り移るなり。

6と9と

3と2と8。

真昼

神は誰たぞ、蒼蠅さばへなすもの、

息づきぬ、野に妙たへにまどろみつつ。

何かまた、えならぬかをり

咲き満ちぬ、あざやけき黄と白とに。

言問はむ、ウインネツケよ、

月のごと大きなる、その在処ありかを。

思へみな、遥かなる慈悲。

貧しきは幸さいはひなり、うらがなしき。

田にはいま、声あはすもの

うち騰あがる蒼穹あをぞらによくひびきて。

草生くさぶには出で没いる帯の

美しき童わらべらのゆりうごくを。

すべてよし、陽炎は行く、

鉄橋の朱を桁を靡かしつつ。

真昼なり、夏は閑しづかに

日に焼くるあはれのみにほひ満ちぬ。

架橋風景

鉄工は鉄をうつ。

かんかんとうつ。

光なり。白南風しらばえの

樹木なり。

朱なり、明るき

橋材なり。

斜面なり。いきれたつ

雑草なり。

蛙なり、

盆地に燥いらつ。

童わらべなり、

童わらべと憎む。

聴けよ、この

満ち満つ熱を。

聴けよ、ただ

こらゆる息を。

一つなり、

憤るもの。

鉄工は強くうつ。

かんかんとうつ。

鳶

鳶とんびよ、

晴天の喇叭卒、鳶とんびよ。

鳶とんびよ、

栗の木の花は噴ふき出でる、

鮮かに緑はそよぐ。

鳶とんびよ、飛べ、

低空ていくうに大きく。

鳶とんびよ、木菟づくの童顔、

平凡な、善いたましひ。

鳶とんびよ、黝朱うるみと金と、

なんと豊かな肩胛骨、

色めく翼のつけね。

鳶とんびよ、悠揚たる、

流るる重おもみ。

鳶とんびよ、乗れ、微風に、

真にかがやく世界の良心をもつて。

鳶とんびよ、民衆的な。

貧しく、しかも真率なる。

鳶とんびよ、ふるへ、搏力、

ああ、この童話の赤屋根を超えて。

鳶とんびよ、強慾は、暴圧は、

かの乱擾は何から来る。

鳶とんびよ、進め、

光は氾濫する。

鳶とんびよ、

栗の木の花は噴ふき出でる、

鮮かに緑はそよぐ。

鳶とんびよ、

この俺も街頭に立つ、

昂然と

悪と闘ふ。

七月の朝

木木は花季はなどき、

すずやかに、

風は光を

そよがする。

昨日きのふは過ぎぬ。

またさらに、

朝は童わらべの

眼に匂ふ。

明れ、煙よ、

逃水にげみづよ。

明日あすの地平は

うちゆらぐ。

やや黄なる風景

白き猫枝にかがやき、

ゆりの木の病葉わくらば黄なり。

梢にはいささかの風、

光線はいつか秋なり。

飛べよ、子よ、大き窓より、

硝子戸はとく押しあげぬ。

午ひるはいま、すべて美し、

軽気球向うにあがる。

しかも、黄のドレスは歩む。

電柱は彎ゆがみ続けり。

菜園の斜面よ、阪よ、

風景は近く動けり。

草の香

草の香かは

道を彎ゆがめる。

風景は

絶えず流れる。

白い家

窓をあけてる。

鵲は

木の上に居る。

巻雲けんうんの下は

照つてる。

満ちて澄む

地響ぢひびきである。

草の香は

はずみ、闌ふけてる。

子供らは

子供らと来る。

濃緑こみどりだ、

空は高まる。

おそろしく

美しくなる。

水盤の夏

光は曲ぐる

薔薇ばらの枝、

水には光る水の影。

夏は来れり、

薄玻璃うすはりに。

強く寂しくわれ居らむ。

風を祭る

風を祭る、

太陽の光に祭る。

風を祭る、

草と木の緑に祭る。

風を祭る、

蒼空あをぞらの玻璃宮に祭る。

風を祭る、

新潮にひじほのとよみに祭る。

風を祭る、

川と洲の魚鱗に祭る。

風を祭る、

菜園の斜面に祭る。

風を祭る、

海港のブイに祭る。

風を祭る、

浴泉のフラフに祭る。

風を祭る、

鉄工の腕かひなに祭る。

風を祭る、

軽羅うすものの女体によたいに祭る。

風を祭る、

ありとある花に祭る。

鋼鉄風景

神は在る、鉄塔の碍子に在る。

神は在る、起重機の斜線に在る。

神は在る、鉄柱の頂点に在る。

神は在る、鉄橋の弧線に在る。

神は在る、晴天と共に在る。

神は在る、鋼鉄の光に在る。

神は在る、近代の風景と在る。

神は在る、鉄板の響と在る。

神は在る、怪奇な汽鑵に在る。

神は在る、モオタアと廻転する。

神は在る、装甲車タンクと駛はしる。

神は在る、砲弾と炸裂する。

神は在る、円形の利刃に在る。

截音は空をも削る。

神は在る、ダイナモの霊音に在る。

神は在る、一瞬に電光を放つ。

神は在る、鉄筋の劇場に在る。

神は在る、鉄工のメーデーに在る。

神は在る、車輪のわだちに在る。

轣音は野菜を啖くらふ。

神は在る、はてしなき軌道に在る。

神は在る、雷雲に反響する。

神は在る、立体の、キュビズムに在る。

表現派は都市を彎曲する。

神は在る、颯爽と牽引する。

神は在る、鮮麗に磁気を生む。

神は在る、天体は鉄鉱である。

神は在る、炎炎と熾おこつてゐる。

珠数工の夜

猫の乳

古風の門かどよ、ほどほどに

霧雨きりさめかかれ、あたらしく、

檀まゆみよ、青い「猫の乳」よ、

微塵の花のさみどりよ、

此処は墓地ぼちうら、夏は朝、

散れよ、細こまかに、このしめり。

五月の朝

厨くりやのそとの

朝光あさかげ。

白藤垂りたり、

短く。

谷中の天王寺、

十八。

まだ住みつかね、

吾が妻。

五月よ、塔の

反そり見て。

早や干す、白き

子の衣きぬ。

珠数工の夜

青い月夜の七分しちぶがた、

影が持つてる、紺のかげ。

ああ、ひたすら、

珠数のたま磨る響がする。

空に息づむ稚わか葉。

白う幅だつ墓地の露路。

ああ、かすかに、

珠数のたま磨る円鑪まるやすり。

現うつつならぬか、蒸しつつも

面おもてなまめく石の靄。

ああ、ひとすぢ、

珠数のたま磨る窓あかり。

飛ぶは蝙蝠、金の縁へり。

月は五重ごぢゆうの塔のうへ。

ああ、ひたすら、

珠数のたま磨る人が居る。

父と母

樟くすの若葉は朱に青に、

日かげは椎の黝黒葉かぐろばや。

ああ、その下を父と母。

五月なかばの午ひる過ぎは

湿りにあかる日の黄金こがね。

ああ、閑しづけさや、塔の空。

谷中は墓地の石だたみ、

現うつつは散らふ蟆子ぶよの羽はや。

ああ、うちけぶる藍の香かう。

父は宣のらしぬ、よき母よ、

かかる安けき地をこそと。

ああ、墓石や、そのふたつ。

母も笑ましぬ、よき父よ、

まこと扇骨木かなめのすずしさと。

ああ、よき鳩や、連つれの鳩。

父の垂髯たりひげ寂びがちに、

母はいや増す鬢の霜。

ああ、ねもごろや、老おいの影。

桐の紫、また更に

曇くもりににほふ暮あひや。

ああ、暮あひや、父と母。

朴と月

朴の木の濃き影見れば、

弦月の黄に明るなり。

花過ぎて、啼くや、幾夜さ、

ほととぎす、

薄墨の鳥。

池畔の撮影

小石川の植物園にて

睡蓮の

葉を、水の

池に満ちて。

ひろびろと照る日や。

眩まぶしよ、

ああ、はつはつ、

華か、白き。

昼闌たけし泛うかびや。

夏はいま、

空のいろ

燻たきふかめて、

つやつやし潤うるみや。

映れよ、

蛙のこゑも、

黄に、緑に、

うつつなきレンズや。

子は父の

おもざし、

なにか求とめて、

安らけき笑ひや。

夜露

朱に円き

朴の木の月、

墓の上へに

湿る夜露や。

売卜者

算木をさめて、

昼顔の

香かは蒸しにけり。

安けかれ、

十字路の霧、

亡き霊たまの

知るも知らぬも。

愛いとし子よ、

めでよ、足音、

息の緒の

すこやけき揺り。

紫の

汽車の煙も

日暮里の

灯ひに噴けるなり。

天王寺の朝涼

朴の木に白き花群れ、

塔はあり、ひむがしの方。

月落ちて、吹きはらふもの、

まさしくも風は夏なり。

波だつや、空の朝涼、

抛物線、小鳥飛ぶ、飛ぶ。

紅べにくすむ扇骨木かなめいけがき、

刈りそめてなんぞすがしき。

露はあり、石に音して、

しかもこは幽世かくりよならず。

愚かなり、死にし、幽けき。

げに、現うつつ、生くるに如かず。

朴の木に白き花群れ、

鐘が鳴る。鐘が鳴るなり。

朝なさな

われかかはらず、朝なさな、

ひとり笻つゑひく墓地の道、

夏は花樫、樟わか葉、

命愛かなしく聴きほけぬ。

われをとがめそ、朝なさな、

見る目すがしき鉄の柵、

ひとつふたつと新墓にひばかの

日に殖ふゆるすら楽みぬ。

墓地

墓地は嗟歎なげきの、愛の園、

また、思ひ出の樫の森。

墓地は現うつつの露の原、

また、幽世かくりよの苔の土。

墓地は童わらべの草の庭、

また、あひびきの青葉垣。

墓地はそよ風しめじめと、

また、透き明る日のこぼれ。

墓地は幽けき花だまり、

また、むら鳥の木のたむろ。

墓地は薄黄の石だたみ、

また、奥ふかき朴の門。

墓地は銀杏の片かげり、

また、白毫の濡れ仏。

墓地は香華の色の海、

また、象すがたなき声の網。

墓地は無縁の草いきれ、

また、ねもごろの水かげろふ。

墓地に光るは虫のはね、

また、手相見の天眼鏡。

墓地の迷ひ路ぢ、間あひの辻、

また、横の柵、裏の道。

墓地の遊歩は爽やかに、

また、行きつまる石の寂。

墓地にも目だつ世の流行はやり、

また、消えのこる江戸のふり。

墓地を通ふは女靴、

また、ゆきずりの製図工。

墓地の円屋根、納骨堂、

また、反そり青き塔のつま。

墓地は息づく靄の胎、

また、たましひの巣のしじま。

墓地は欠けゆく月の道、

また、太陽の眼のやどり。

墓地は乳屋の朝の時、

また、ちゃるめらの暮の時。

墓地はよき森、よき廊下、

また、なぐさめの笻つゑの道。

墓地はよき庭、わが門べ、

わが賓客まろうどのよき小径。

蝶

風にながるる

白の蝶、

陰影かげは翅はうらの

紫や。

揺れてかがよふ

白の蝶、

花の扇骨木かなめを

すれすれに。

つかず、はなれず、

白の蝶、

飛ぶは無縁の

墓の間あひ。

匂ひ明れよ。

白の蝶、

そぞろ吹きたつ

涼しさを。

飛べよ、たよらに、

白の蝶、

保て、翅はうらの

藍微塵。

ラヂオ風景

黄ろい月、

花は碧梧桐あをぎり、

蝶蝶だ、まるで、奴らは。

宵だ、まだ、

墓地を抜けると、

下町は灯ひの海だ、ほら。

見ろ、屋根を、

雲も、星座も、

アンテナで包囲されてる。

やあ、あれだ、

ラヂオ風景、

ばびぶべぼ、おなじ小唄だ。

贋まがひ玉、

鱚きすも、メロンも、

どこの子も耳のお化けだ。

ちぇ、やめろ、

J・O・A・K。

蝶蝶がジヤズでお飛びだ。

蕚の花

蕚の花雨に浮きたり。

呼びそめぬ、ラヂオのニュース、

フラン落ち、巴里暴動す、

ポアンカレーまた世に出でむ。

子らよ、よし、冷麦ひやむぎ食べむ、

実山椒は奴やつこにつけむ、

蕚の花暮るるに間まあり。

涼し、涼し、庭の夕立。

不忍の晩涼

青春老い易し、さきの日の歓会いづくにかある

さ緑の

まろき波、

みな、蓮の葉。

鮮かに

暮れのこる

こは不忍。

みな、涼し、

朱の楼も、

灯ひも水ぎはに。

安けさや。

この空や、

来て眺めて。

ほのけさよ、

かすけさよ、

かの鵠の羽。

早やむなし、

ただ遠し、

また求めず。

さ緑の

まろき波、

みな、蓮の葉。

墓地の散歩者

雲は、白く、

飄飄と飛ぶ。

梢には寝ぬるものがある。

ほのぼのと

呼びける風、

電波だけそれに触れてる。

悪神よ、

月が出るのだ。

短夜みじかよの墓地になるのだ。

止せよ、おい、

赤いネクタイ。

だから、君は夢遊病者だ。

聴け、音が

しきりと揺れる。

碧梧桐あをぎりの花房が鳴る。

何と、また

動く夜空だ。

ほう、青いサァチライトだ。

雲は、ぢき、

曙になる。

梢から待つものがある。

五月の夜の空

星だ、あ、

緑グリーン、

緑グリーン、

緑グリーン、

緑グリーン。

星だ、あ、

濃紅クリムソン、

濃紅クリムソン、

緑グリーン、

緑グリーン、

緑グリーン。

や、飛行機だ、灯ひだ、灯ひだ、灯ひだ、

や、一台だ、二台だ。三台、四台、五台。

夜よ空だ、突如として襲ひ去る

囂囂音、囂囂音、囂囂音、囂囂音。

ほれ、と、わが子こをさしあげる。

菩提樹よ、闇の葉よ、

覆輪の金の椎、

花よ、木よ、朴よ、漆よ。

孔雀羽根、梧桐あをぎりの芽めよ。

鬱蒼と、陰陰と、

圧あつする、押しかぶさる――

緑グリーン、

緑グリーン、

緑グリーン、

緑グリーン。

濃紅クリムソン、

濃紅クリムソン、

緑グリーン、

緑グリーン、

緑グリーン。

ああ、見える、見える、見える、さうして

なんとぼやけた黄の弦月、水蒸気。

香海の爆音。

コトリともせぬ、また、

水盤の金魚である。

煤

煤がふります、菩提樹リンデンに、

朝のタオルに、籐椅子に。

煤がふります、庭石に、

桜落葉の霜じみに。

煤がふります、硝子戸に、

燃えてしなへた葉鶏頭に。

煤がふります、雉子馬に、

睫毛擦る子がまろい眼に。

煤がふります、つんとして

妻が物干す鼻のうへ。

煤がふります、パン皿に、

紅茶茶碗に、樽柿に。

煤がふります、巻煙草

のべつまさぐる朱の鉢に。

煤がふります、原稿紙に、

銅銭のやうな赤い煤。

煤がふります、月の夜も、

隕石のやうに、黒い煤。

煤がふります、灯ひのしたを

こほろぎのやうに歩あるく煤。

煤がふります、脳味噌に、

マグネシユームの燃え滓かすに。

煤がふります、昼も夜も、

絶えぬお客の黒ソフト。

煤がふります、桃いろの

扁桃腺に、肺の腑に。

ああ、ああ、いやだ。おい、酒だ。

酒にも黒い蠅の煤。

まざあ・ぐうすのお婆さん、

天の煤掃き、それ、頼む。

椎の葉

日の光漣なして

椎の葉を越ゆるに似たり。

早や来る春らしきもの

魚のごと喜びあそぶ。

童話の月

月から見た地球

月から観た地球は、円まどかな、

紫の光であつた、

深いにほひの。

わたしは立つてゐた、海の渚に。

地球こそは夜空に

をさなかつた、生れたばかりで。

大きく、のぼつてゐた、地球は。

その肩に空気が燃えた。

雲が別れた。

潮鳴を、わたしは、草木と

火を噴く山の地動を聴いた。

人の呼吸を。

わたしは夢見てゐたのか、

紫のその光を、

わが東に。

いや、すでに知つてゐたのだ。地球人が

早くも神を求めてゐたのを、

また創つくつてゐたのを。

雪と狩猟者

呼んでゐた、雪は雪を、幽かに。

紫の空であつた――曇つた。

わたしはさがしてゐた。日の在処ありかを、

日は円くぼやけてゐた、あどけなかつた。

わたしせつないわ、と、女が言つた。

こんなコルセット、子供のぢやなくつて。

僕も困るよ、こんな帽子は、

こんな玩具おもちやの猟銃で射うてるものかい。

新しかつた、雪は雪と、匂つて、

ちかちかと、光つたり、消えたりして。

みんなまだ、ねんねえなのだ、立春の沼に、

鸛こふのとりの雛の笑ふやうな声もするのだ。

童話の月

大きな黄色の月、

童話の中の月、

おお、浜辺へ出て、手をあげて呼ぶのは誰だ。

吠えてる、吠えてる。

おお、をどつてる。

をさない愛着、白いけもの。

おお、あの空だ。海の向うの向うだ。

煙がひとすぢあがつてゐる。

月と美童

月映つくばえの、露の野道の

ほんの濃い、向うの靄で。

ぼうわう、ぼうわう、

あ、なにかしろく吠えてる。

水芋のてらてらの葉の

その前を、音はしてたが、

ぼうわう、ぼうわう。

お、誰か、ひきかへしてる。

美しい童わらべよ、角髪つのがみの子よ、

怖がるでない、怖がるでない。

ぼうわう、ぼうわう、

あれはただ吠えるだけだよ。

月がまた雲を呼ぶのだ、

ぼうとした紫なのだ。

ぼうわう、ぼうわう、

小さい蛾までが輝くのだ。

な、みんなが思ひ出すのだ、かうした晩は、

美しい童わらべよ、童わらべのむかしを。

ぼうわう、ぼうわう、

前さきの世の聖母マドンナの、円まどかな肩を。

匂やかであつた、世界は。ふじぎぬのやうな

光と空気とに織られてゐた。

ぼうわう、ぼうわう、

ああした夜靄にも吠えてゐた何かだつたよ。

昔の月

驚いた、大きい月に。

汐がさし、汐がさしてた。

葦の葉が緑に燃えた。

よしきりがぎょぎょしと鳴いた。

うゑはてて、わたしは噛んだ。

秀ほの髄ずゐの露の初毛うぶげを。

声がした。舟がとほつた。

水棹みづさをがとぼんと鳴つた。

ちやうど夏、宵の間まだつた、

辛つらかつた。死なれなかつた。

湧きのぼる、湧きのぼる霞、

中空で光となつた。

紫の鋏の蟹も

生きてゐて泡をふいてた。

方丈

幻の月夜なり、

方丈の、燈ひの現うつつの。

虚この、満つる世界なり、

微塵数みぢんずの、香かの、ひびきの。

ありとある雑色ざふしきの

紫に和なぎかすみて。

かぎりなき貴さの

鮎のごと揺りあそぶを。

煌として光る顔、

我や誰たぞ、この童わらべは。

ああ、母よ、我は在り、

へうへうとうち騰あがりつつ。

鵲

われは筑後の国に生れぬ

ふるさとの合歓の木かげを

ながれゆく水の音なり。

鵲のしろき下羽根、

月の夜と移る空なり。

おぎろなし、おもほへば、そは

眉に立つかげろふのごと。

童わらべみな鵲を追ひ、

鵲と影をうしなふ。

子の鵲

飛ぶ

一羽、

子の鵲。

蓮の田の

空くうを、いま。

脚ちぢめ

飛ぶゆゑに、

蓮のはな

白く見え、

露の音

白く見え、

ひたむきや、

まじろがず。

まだ、童わらべ、

黒鵲。

七夕の

この浅夜あさよ。

三つ星の

光る星。

蕾

蓮はすの蕾のはなびらは、

なかふくらみの紅あかいすぢ、

さざなみ立てそ、月夜には、

蕋しべのにほひも張りつめる。

鳰のたまごの鳰のこゑ、

生れぬまへの息もする。

田家の月夜

青鷺は

薤おほにらぬすむ。

月に矢を

童わらべは番つがふ。

賽さいの神。

田の、田の田螺。

をとめ子は

影を知りそむ。

註 薤は傷痍にきく。月夜に青鷺が盗みに来て射られた話がある。

猟季

月は梢を光らせる。

月は小ちひさな角の月。

月は野末を煙らせる。

月に軽鴨かるがも飛んで来る。

月に火銃ほづつの火は赤い。

月は風より冴えてゐる。

海豹と雲

汐首岬

たうたうと波騒さやぐ汐首岬しほくびざき、

鮮あざやけし、雑草あらくさの青さを、さみどり、

ああ、げに、いにしへのアイヌ・モシリ、

言問へよ、今にして辺への岬岬さきざき。

味鳧あぢがもの浮きなづむ海越え来て、

噴ふき騰あがる縦雲たてぐもの秀ほをあふげば、

夏よ、げに、声はあり、カムイ・ユカラ、

その声は風と満ち、照り響けり。

朗らかや、すがし葉の大広葉の

蕗の葉の下つ人、コロポックル、

呼べよ、げに、神はあり、オイナ・カムイ、

さながらに立つ影の素すの裸男はだかを。

ここ過ぎて、神ながら身は新らし、

ここ過ぎて、我が息吹いぶき蘇らむ。

人よ、げに、ひたごころ直すぐなる神、

白雲の噴ふき騰あがる国思へや。

たうたうと波騒さやぐ汐首岬、

鮮やけし、雑草あらくさの青さを、さみどり。

ああ、げに、いにしへのアイヌ・モシリ、

言問へよ、今にして辺への岬岬さきざき。

註 アイヌ・モシリ   蝦夷島(アイヌ語)

カムイ・ユカラ   神謡( 同  )

オイナ・カムイ   古伝神( 同  )

曇り日のオホーツク海

光なし、燻いぶし空には

日の在処ありど、ただ明るのみ。

かがやかず、秀ほに明るのみ、

オホーツク海の黒きさざなみ。

影は無し、通風筒つうふうとうの

帆の綱が辺へに揺るるのみ。

眺めやり、うち見やるのみ、

海豹あざらしのうかぶ潮漚しほなわ。

寒しとし、暑しとし、ただ、

霧と風、過すがひ舞ふのみ。

われは誰たぞ、あるかなきのみ、

酔はむとも、醒めむとも、まだ。

燻いぶし空、かがやかぬ波、

見はるかす円まろき涯はてのみ。

樺太の山中にて

尾白鷲眼を放つ梢には

横雲の縹雲はなだぐもほのあかりぬ。

ああ、蒼し、黒椴くろとどのさるをがせ、

いつの日か花咲かむ、香かも幽かすかや。

校倉あぜくらよ、露西亜びとの住み棄てし小舎、

駅逓のフラフにも朱しゆは褪せたり。

霧は飛ぶ、霧は飛ぶ、山高きに

夏もなほ気流のみ冷えまさるを。

雲の上へに棲む魚よ、みづうみの鱒、

縹渺とふりあふぐ人いくらぞ。

凛として将た思ふ、カムイ・エカシ、

旅行けば我すらや神しんに入るなり。

註 カムイ・エカシ。   神神の祖先(アイヌ語)

老いしアイヌの歌

アイヌはよ、

老いしアイヌ、

神アヱオイナ、

アイヌ・ラクグル(アイヌの臭ひある人)の後、

神かんながら蘩蔞はこべの頭かしら、

土の体たい、柳の脊骨、

シネ・シツキ・プイコロクル(眼窩の人)

神神の髪の毛の人、彼こそはげに、

カムイ・オトプ・ウシユ・グルなれ。

彼アイヌ、眉毛かがやき、

白き髯胸にかき垂り、

家屋チセの外とに萱畳敷き、

さやさやと敷き、

厳いつかしきアツシシ、

マキリ持ち、研ぎ、あぐらゐ、

ふかぶかとその眼凝これり。

彼アイヌ。

蝦夷島アイヌモシリの神、

古伝神オイナカムイ、オキクルミの裔すゑ。

ほろびゆく生ける屍ライグル。

夏の日を、

白き日射を、

うなぶし、ただに息のみにけり。

彼アイヌ、

家屋チセの空見ず、

さやら葉の青の長葉の、

アイサク・ピヤパ(髯なき稷)

フレ・ピヤパ(赤き稷)

チヤク・ピヤパ(はぜ稷)

ヤムライタ・ヨコアマム(藪虱に似し稷)、また、

脚高の熊檻ペウレツプチセ、

仔この熊の赤き舌見ず、

汗垂らし、拭ひもあへず。

彼アイヌ、

老いたる鷲、

古り皺み、

病み倦んずる者。

ましら髯、

厳いつかしきアツシシ、

マキリ持ち、研ぎ、あぐらゐ、

オンコ(水松)そぎ、心恍ほれり。

彼アイヌ、

よく黙もだし、

念じ、かつ、しかく黙もだせり。

彼、キム・ヲ・チパスクマ(山の教義)の徒、

チクニ・アコシラツキ・オルシユペ(樹の守護の教義)の徒、

地上の者、聖シランパの子、

黙想者、聖トボチの僕しもべ。

彼はかく念ずらし。

アトニ・ウエンユク(悪楡)よ去れ。

ニ・アシユ・ランゲ・グル(をを、汝立木人よ)

キサラハ・ランゲ・シヌブル・カムイ(をを、汝木の皮の尊き鬼神よ)

オー・トイヤン・クツタリ(汝地上に拡張せる者よ)

総て善し、吾あは拝せり。

吾あは老い、吾あは嘆けり。

吾あは白し、早や輝けり。

吾あは消えむ、ああ早や。

吾あが妻、吾あが子、吾あが弟いろと、

吾あが族ぞうの、残れる者、

ことごとく滅めつせん。

オンコよ、吾が削る

紅柔べにやはき兎の肉ししむらなす

オンコよ、しかく光らん。

彼アイヌ、

老いたる鷲。

蝦夷島アイヌモシリの神、

古伝神オイナカムイ、オキクルミの裔すゑ。

ほろびゆく生ける屍ライグル

光り、かつ白き屍ライグル。

彼アイヌ、眉毛かがやき、

白き髯胸にかき垂り、

厳いつかしきアツシシ、

マキリ持ち、研ぎ、あぐらゐ、

真夜なす眼めの窩くぼのアイヌ、

今は善し、オンコ削ると

息長おきながに息吹いぶき沈み、

恍ほれ、遊び、心足らふと、

そのオンコ、

たらりたらりと削りけるかも。

樺太風景

神こそはおそらくは

童形どうげうならむ。

神殿は野茨のばらなり、

風、そを祝ふ。

燦爛と木は笑ふ、

楡にれ、やちだも、

恍くわうとして、夢ならず。

まだ、うつつに。

観よ、小さき朱しゆの馬車に

草は満ちて、

子らと猫うちさやぎ、

行き進むを。

聴けよ、また、燕麦えんばくと

白虹びやくこうとに、

押し移る緬羊の

日にとろむを。

げに太初はじめ道ことばあり、

響は若し。

貧しきはいとなみぬ、

空あふぎて。

この地平かぎりなし、

照りかすみて、

愚かしく、麗うつくしく

野は笑ひぬ。

ある人の庭

石狩にて

蜜蜂の

おとなひに

響く小池。

みぎはには

黄の一重、

とろろあふひ。

君が園

閑しづけしや、

夏を、照りを。

はるけくも

来し北か、

ここは音江。

見ず知らず、

また会はず、

この日かぎり。

散る散らぬ、

まだ薄し、

林檎もみぢ。

朝

トラピスト修道院

揺りいづる鐸すずのかずの

六むつあまり、七ななつか、八やつ。

夜はあけぬ、麺麭種パンだねの

粉こなかとも花は咲きて。

露ながら、人はあり、

いのりつつ、野に刈りつつ。

しづけさや、よき寺や、

カトリコの朝弥撒あさミサや。

鷹のごと光るもの

山の気に吹きながれて、

美しき八月や、

翼つばさただ海を指さしぬ。

かはらははこ

こは愛かなし、

かはらははこ、

月つきのしづく。

ここ過ぎて、

トラピスト

修道院なれ。

空ちかし、

青さをの昴すばる。

かはらははこ。

修道士の

また、月に、

絞くびれ死にぬ。

トラピストの牛

月夜であります。

月夜であります。

月夜である。

甘藍キヤベツがはらりと一皮ひとかははねた、

重い羽ばたき、梟だ。

七面鳥は朱に青に、

膨れかへつて焦あせつてる。

とても明あかるい山独活だ、

雌蕋の花粉は唸つてる。

バタの香かをりも新鮮だ。

燕麦えんばく、漆姑草つめくさ、青蓬、

裸の子供のにほひもする。

さら、

さら、

さら、さら、さら、さら、唐黍だ。

紅あかい垂毛たりげは目がさめて、

誰か来ぬかと待つてゐる。

暑い、暑い、暑い、暑い、

へえほう。と

虫も啼いてる、草むらで。

かあん。

と、空鳴からなり、空の鐘。

月夜であります。

月夜であります。

月夜である。

「神父さん。」トントン。

「神父さん。」トントン。

「神父さん。」トントン。

「神父さん。」トントン。

「神父さん。」トントン。

「神父さん。」トントン。

「神父さん。」トントン。

「副院長さん。」トントントン。

「院長さん。」トン。

「しつ。」

「しつ。」

「しつ。」

「しつ。」

「しつ。」

「しつ。」

「しつ。」

さうした声がするやうで、

じつはしませぬ。牛舎ぎうしやです。

暗さは暗し、静かです。

腐れたにほひ、乳のにほひ、

燦燦きらきらひそむ黄金虫こがねむし、

ひつそりとうつ尻尾しつぽの尖さき、

草のちり屑、

尿のにほひ、

また食べかけの向日葵の

花も何処どこかに燃えてる筈。

眼。

眼。

眼。

眼。

眼。

眼。

眼。

月夜であります。

月夜であります。

月夜である。

「お乳が張つたあ。マリヤさま。」

トン。

「しつしつ。」

「しつ。」

後あとはひつそり、

牛舎です。

鴨

鴨だ。鴨だ。鴨が

すべりあがる。おお、

大きいうねりの窪くぼみから――

深い深い底の奥から、

もこりもこりと盛もりあがる部厚な波、

そのうねりの阪へかかつた、揺り揺られて。

鴨の、なんと、

黄色い嘴だ、鮮あざやかな、

横を向いて、

留る、と、高みきつたうねり波の峰が

飛沫しぶきひとつ立てずに、広くなだれる。

平たひらかに

はるばるとした世界が見える。

鴨はすべる。

すうつと落ちてゆく、大きいうねりの窪くぼみへ、

風も無い穏かなうねりだ、尾羽根を立てて、

なんとまた、光つた

叡智の瞳。

鴨が、あつ、かくれた、

大きいうねり波に、さうして、

見えない向うの渓間にゐる

あの姿勢。――

わたしは直感する、

おそろしく冥くらい、冥くらい、動いてゐる

波の丘陵を透とほして、

全くの静謐、

虔ましい頬ほの紫。

鴨がまた、揺られて、

見えて来る、あ、出た、出た、

大きい、すばらしいうねりに乗つて来る。

「おうおう。」とでも呼びかけたい。

いいかたちで、浮んで。

ブラボウ、万歳。

鴨はまかせる。

大きいうねりの意志に。

はてしもない韃靼海のただなかだ、

小ちひさい鴨の水掻、

ぴつたりとつけた胸毛むなげの

燃えるやうな濃い青。

鴨は一羽だ。

北へゆくほど遠くなる日の光だ。

空の世界も寒いが、

雲は深いが、また、

波は光らぬ、

見わたすかぎり光らぬ波、

平たひらかに平たひらかに見えても、また、

そのじつ、

大きく大きくうねつてゐるのだ、晷かげつて。

鴨は啼かない。

まつたく黄色い嘴だ、さうして、

おお、おお、揺れてる、乗つてる、辷つてゐる、

小さい、整つた、

美しい、きつちりした

鴨の象すがた、

箇の叡智、

ああ、一つの正しい存在。

あ、かくれた。向うへ落ちてゆく。

あ、出た出た。

ぴゆう――

指笛だ、俺のだ。

鴨はまかせる。

大きいうねりに坐つて

盛りあがる、盛りあがる、部厚な

底ぢからに揺られる。

鴨は開あけてる、閑しづかな眼を。

劫初からの海、韃靼の寒空、

しかも、夏、夏、夏、

どちら向いても、

うねりの

絶間もないうねりの、

冥くらい、光らぬ、

おそろしく、また、穏かな、

波濤と波濤と波濤の連続。

ええ、ちきしょう、

鴨の尻けつ、

夜が来る。夜が来る。

熊人

白き熊、幽かすかなり。

極光を載いただけり。

人かとも、白き熊。

白き熊、凍こごえ立ち、

氷原にひとり在り。

見はるかし、白き影。

白き熊 飢迫れり。

荒天の雪に、ああ、

吹きつつむ白き雪。

白き熊 聴けり、今、

声の無き声のうち、

繁しみみ澄む白き色。

白き熊 まじろがず、

ひたと立ち、息つがず、

神去ると、白き息。

白き熊 輝けり。

氷原や、涯はて知らず、

夢は飛ぶ、白く飛ぶ。

春の蚊

幼童

物は観て、うつつならぬか、

紋しろのてふてふか、汝なれ。

(ああ、

わが子や。)

日は闌たけて、風もひかるを、

陽炎かげろふとわれとわかぬか。

(ああ、

わが子や。)

頭あたまがち、ゆらぎ遊ぶと、

まだ飽かず、虫よ花よと。

(ああ、

わが子や。)

荒地菊あれちぎくむせぶいきれを、

おのづから催すか、また。

(ああ、

わが子や。)

幽かすけかる、あへて小ちひさき、――

ひとすぢに尿しし放つなり。

春

木いちごは

花に現れ、

幼児をさなごは

身がろく走り、

笹ごもり、

光りつぶやき、

蜂は巣を

営みそめぬ。

閑しづかなる

春や、この朝、

我がこころ

こよなく遊ぶ。

日なか

櫨の花

珠たまはみどりに、

塗畦の

ぬめり青めば、

水田には籾も蒔かれぬ。

われや、はた、

うつつの蝶や。

まさしくも春はいぬるか、

首欠けし道陸神だうろくじんよ。

春の蚊

なにならぬ

つぶやきよ、ああ、

篁の

靄のこもりや。

なにならぬ

つぶやきよ、ああ、

墨を磨る

こころゆらぎや。

なにならぬ

つぶやきよ、ああ、

昼闌たけし

むらさきの地や。

なにならぬ

つぶやきよ、ああ、

春の蚊を

ふとし叩きぬ。

白藤

藤のはな軒ににほへり、

日の暮れて白き藤なみ。

松田にもほど近からし、

田舎馬車角かく吹きにけり。

まかで来こし道了薩陀だうれうさつた、

紫雲英田げんげだもうしろになりぬ。

草の香や、遊ぶ子どもや、

頭あたまがち、跳はぬる足あなうら。

この柔やはし、小糠たつ杵、

それすらや、さみし、このごろ。

うらがなし、田螺たにしころころ、

夜の昴宿すばるしぶく泡だち。

いづれよし、余光の微塵、

脚あし垂れて蜂もあがれり。

常無しや、為すなしや、ああ、

春はゆく、かかはらず、また。

日の暮れて白き藤なみ、

酒匂川さかわがは見えそめにけり。

魚の里

酒匂川さかわがはちかづきぬらし、

色、匂、またさま変へぬ。

葦の根に水気すゐきたつもの、

ややにして鯇やまめ光らむ。

薄あかり、かがむ童わらべも

なにかよき鮎の色沢つやあり。

年増づれ、眉根剃りたる、

燈ともさねば、青き鮠はやらし。

足柄の山をくだりて、

いくばくも道はあらぬを。

ほのぼのと東へ行くと、

月しろの火立ほだちに行くと、

身ははやも現身うつしみはなし、

心はや世のこころなし。

酒の仙、黄金亀こがねかめの子こ、

我まさに唐の李太白リイタイペー。

月夜孟宗の図

竹林幽居

ひとりかくれた篁に

茗荷もしろく香かににほふ。

酔うてほろりとする日でも

わしやさびしいぞ、青雀。

雀と童

羽ばたきぬ、

頬の白きもの。

光りつつ、

風なき昼。

父よ、父、

呼ぶわらはべ。

竹のうへ、

また竹の葉。

羽ばたきぬ、

頬の白きもの。

空や空、

かたわれ月。

月夜孟宗の図

孟宗よ。

とうからわたしは思つてゐた。

このやうなことがあらうかと。

円月は黄色くなる。

影と影とは遊んでゐる。

山水やまみづの音もきこえる。

孟宗よ。

ちやうどこのとほりだ。

この明るさだ。

竹と竹との透かし画だ。

蒼うなつた、蒼うなつた、童わらべよ。

あの露を、

あの影を拾はうよ。

朝顔

今朝はとなりの藪にさく

花朝顔のちひささよ。

貧しい庭の花なれば、

となりへ行いてもちひささよ。

吾が秋

まだ青いのは松笠、

こんこ小松のしたぐさ、

秋はただつかまへて見て、

日に透かすこほろぎの黝朱うるみいろです。

母と子

母は子に乳房与ふと、

月輪の光を額ぬかにかざすなり。

子は母の垂乳たりちふくむと、

そのかうべ星の息づき保つなり。

ああ、秋よ、飾りなき野辺といふとも、

かかる日の閑しづけさも世にはあるなり。

日かげには茗荷のしろき花咲きて、

虫の音に湧きいづる幸さいはひは満ち、

母のまみ子のまみと会ふ。

ああ、今よ、

母は子に乳をふくますと

子の父のその母のこと思ふらむ。

はたや、子は母にすがると、

その母のをさな姿の早や現れぬ。

かまつか

日の道のやや離さかるにか。

秋は早やつくつくほうし鳴きいでぬ。

葉鶏頭かまつかも紅あかうのり来ぬ。

しかも、葉鶏頭かまつか

いまは我が子の肩を越えたり。

ああ、妻よ、

常住むは幻ならず、

現身うつしみのうつしごころのあはれなり。

その現うつつこそ、

その現うつつこそ。

わたしが竹を

わたしが竹を愛するのは

陽ひのちらちらがうれしいのだ。

幽かなは竹、

親しいも竹、

なにかそこらのちらちらが、

蓼や藜あかざを明るくする。

竹はいい、

篁はいい、

奥ぶかいゆゑ、

冷えるゆゑ、

なにかそこらのちらちらが、

蝶や小蟻を明るくする。

わたしが竹を愛するのは

このちらちらがうれしいのだ。

竹に交りて

竹に交りて幾秋ぞ。

竹のはやしにもとゐして、

竹にもたれて、日を浴びて、

空のはるけさ、まがなしさ、

見よや日なかの雲に鳥。

十七日の月

欠けそめて、

ほんの二夜ふたよの月なれど、

とてもちひさく見えまする。

竹のそよぎも澄みまする。

窻から面つらを出す子ゆゑ

雲に小鳥も翔けまする。

かほよどり

山住の秋も深むを、

すべもなや、かほよどりの、

けけっちょうよ、けけっちょう、

けけっちょうよ、けけっちょう、と、

時雨れこそせね、枯枇杷に

額ひたひあつむるあでやかさよ、

日がななにがなせはしさよ。

あてのない消息

あてのない詩でも書かうよ。

渡鳥来る日和なら、

窻に音する時雨なら、

竹にじねんじよ、蔦のはな、

とりとめもない秋なれば。

花楮

白蛾

眉の毛深い白の蛾は

熊の翁を思はする。

浅夜あさよの白い花生薑、

香かには立つとも、白の蛾よ。

月に舞うては、飛ぶものの

いつか萎しなゆる翅はねの色沢つや。

とすれば明る脚あしぼその

朱の寂びがちの胸の粉こな。

なうなう、留まれ、白の蛾よ、

秋はほのかなものながら。

観る目はうつつ、飛ぶは夢、

月も闌ふくれば小ちさうなるはよ。

月夜の風

秋はほのかに寝ざめして、

あはれと思ふ幾夜いくよさぞ。

とすれば白う吹きたちて、

月夜の風も消えゆけり。

秋立つ浜

春信の浮世絵のこころにて

涼しや涼しやと後あとのが言つた。

女菅笠かたむけた。

涼しや涼しやと乳母めのとが指さした。

磯のぬれ岩しぶきが立つた。

浪は浅葱のさざらなみ、

沖にほのぼの蜃気楼かひやぐら、

また蛤がなげいたさうな、

よいにほひよと眺めて行つた。

涼しや涼しや涼しやのう、

その声ばかりが吹かれて行つた。

匂の秋

かかる人をわれ知れり。わがふるさとのあはれなり。

ほほゑましげの盲人よ。うたぬ鼓を手に据ゑて、

なにをかすかに聴いてやら、

ああ、秋よ、

ただ日あたりがよいのやら、

にほひばかりに恍ほれてやら。

えいや、ほう、ぽん、

えいや、

こころばかりで敲つのやら。

花は白菊、ませの菊、

にほひばかりの秋じややら。

鵜匠

鵜匠の宗家長良川の山下幹司君に

篝火の朱にはゆる

君こそは鵜匠なれ。

濡れしづく腰蓑の、

折烏帽子古風にて。

すばやくも手にさばく

檜ひの縄のはらはらに、

時の間よ、ゆく水の

かぎりなき燈ひににほへば、

香魚あゆを追ふ鵜の数かずの

つぎつぎと目にうつりて。

ほうほうと呼ぶこゑの

誰ならず、夜を惜むなり。

鷹匠

わしは鷹匠、

微塵ゆるがぬ。

拳に据ゑた隼をひたと見守る。

目まじろぐな。

閑しづかなれ、

かの一点をとらへよと。

さて、さうさうと松の風、

はらはらとうつ青松葉。

時はよし、

驚破すはや、隼、

一期かけよと颯ッと放した。

胡蝶

飛びつつも飛ぶと知らぬか、

ただ飛べる秋のすがたよ。

舞ふ蝶のこのごろ小さしみな黄なり。

翁

椎の木のかげにゐられる

あの白面おもじろの翁は

どなたさまかの、

ああ、なにか笑ゑまれるやうな、

月の光がさすわの。

冬の日

鳥居清忠ゑがく

枠わくは皆朱かいしゆの立屏風、

さて立膝の、細筆に

春の柳をかく女、

それを寝て観る男髷、

男磨る女童めわらべ、日向縁、

手水がめにはおかめ笹、

冬の日和はもつやうで、

まだ薄墨の時雨ぐせ、

しよざいなささの、しんじつの、

ええ、

つれづれの小半日でありんす。

草仮名

揉銀もみぎんの消ししつやゆゑ

墨のいろよくうつるらし、

時雨月、かかるひと夜は

草仮名さうがなに心ゆくなり。

春朝

色鳥よ、

よろこべよ、このあした

ふくらむ花の

いろがきこえる。

ぢいさまばあさま

おぢいさまとおばあさまとの、

ある日、林にまゐられた。

蒿雀あをじは鳴く、風はさわたる。

なにかといふと花のにほひぢや。

おぢいさまや。

おばあどのや。

ああ、おぢいさまや。

おばあどのや。

春はどうにものびやかでの、

老木おいきの藤の花房までが、

揺れてゐたといの。

花楮

黄鳥うぐひすねむる花楮はなかうぞ、

月は翁の面めんのうへ、

鼓うてうておもしろく、

春はふたたび、花楮はなかうぞ。

水郷の早春

朝靄の中

靄のふかい朝、子供が

小舟を動かしてゐる。ああ、二人ふたりだ。

ここは潮来の出はづれ、

沼から沼へとかよふ水路だ。

ほう、むぐっちょが鳴いている。

水面が明つて来る。

子供は聴いてゐる、一人は舳へさきで、

一人は掻いてゐる、小ちひさな櫂で。

うすら寒うてもよい湿しめりだ、

どこかに日の光もある。

柳のなびきも青うなつた。

低い田圃も犁かれて来た。

ほうつと、どこかで火を燃してる、

誰だか焼いてゐるのだ、葦の根を。

風が来た、いや、土のかをりが通つた。

おお、もう春が動いてゐるのだ。

彼等はいつしよにのめりかかつた。

とても大きなたんぽぽが咲いてる。

靄のふかい朝、むぐっちょが鳴き、

子供は小舟で取つ組んでる。

沼べり

わたしは眺めてゆく、沼べりの葦のさびれを。

刈り残しの乏しい穂さきを。

わたしの小舟は帆を張つたが、また、

櫓に代へ棹に代へたりした。

雨は雨でもこぬかのしめりで、

風は風でも冬とはちがふ。

放つけ棄ての火も水みぎはを伝へば

ざんざら真菰も青みそめてる。

ああ、旅だ、

時には心もひきしまるが、また、

笑に代へ、親しみに代へたりして。――

牛

うつくしさ、さびさびしさ、

ああ、このしづけさ、

小舟はゆく、沼のおもてを、――

夕凪の安らかな乳金色。

小舟にはおつとりと、赤の雌牛が、

(なんといふよい画面)

おとなしく乗っけられてる、

うつぶした明るい姿。

むつまじさ、かざりなさ、

ああ、このしづけさ。

娘は棹をあげ、また、さしつぎ、

親たちはかがんでゐる、耕作のよい疲れで。

めづらしいよい日和だ、あるかなしに、

葦の穂さきに微塵が光つて、

沼のながめが広うなれば、

むぐっちょが鳴く。何かの芽立に噎むせる。

ものがなしさ、温ぬくとさ、

ああ、このしづけさ。

春あさい大きな落日いりひ、

遥かな、寂びた藁屋根、立枯れ楊。

すべてはよい照らしにある、雌牛の

安らかな深い眼つきに宿る。

ああ、この親しさ、かたじけなさ、

すべては明るい祈りにある。

水村の春

一

水車のまはる樋口に

窻障子あくる子のあり。

春はまだしか、芽麦に

はだら雪など光れり。

二

春雨けぶる小がはに

板橋わたす里かや。

この田かの田の下萠え、

簑笠つけて早や鋤く。

三

ひとむら萠えしなづなを

朝出て食はむや雌めの牛、

沼の田べりはわづかに

降りつぐもののにほへり。

四

かはづの啼くはころころ、

田螺の啼くはころろよ、

ころころ、ころろ、ころころ、

萠え来こよ、春の下したん田だ。

五

蛙が啼くよ、沖田に

芽柳もなびくよ。

誰たぞや、こぬかの小雨こさめに

今朝あかあかと火を焚く。

六

春はまだ浅き水田の

根芹は馬に食まれぬ。

ゆきかへりつつ、鋤きつつ、

ひと日は雨に暮れたり。

七

ふたもと高い葉楊、

鍋底こする舟の子、

つん抜け土間の藁家は

燕の飛ぶにまかせぬ。

八

夜明けの靄にめざめて、

渡るは雁か、くぐひか、

早や榜こぎいでよ、作舟、

沖田あたりは晴れうよ。

九

耕作舟につむもの、

犂、鍬、黒の雌めの牛、

朝靄がくり棹さす

娘のあかい細帯。

十

せんだんの実もさみしや。

蓆機織る藁家は、

日がな日ぐらし音して、

日がな日ぐらし雨ふる。

十一

藁すぐる子の目見まみゆゑ、

沼のあかりがしむかよ。

ときたま鳴けよ、鳰鳥、

昼間の月も渡るよ。

十二

前ゆく蝶のつばさに

土のしめりはながれぬ。

まことに春は田の面の

末より野路のぢににほひぬ。

金粉の靄

おだやかな冬

枯れはてて、おだやかな眺めの冬、

柔かな日あたりの冬、

冬はまだ渓の向うにある。

あの老いた胡桃のこずゑにある。

よく光る白樺しらかんばの枝枝にある。

枯山と枯野と、

ところどころの沢水と、

いまだに深くはぬくもらぬが、

なにかに酔はせるものがある。

安らかないい収まりが。

かうした一日ひとひをわたしは持つ、

こころよい疲れ、

旅のおこたり、

棄てはてて、ほうとしたこころ。――

そのうちに春も来やうよ。

よい空気だ。

よい光線だ。

わたしは足をさすつてゐる。

縁側で膝をたたいてゐる。

早春の朝飯

かうした早春の空気をたべることは

とりもなほさず身の滋養だ。

わたしはまた朝の光を食べる。

落葉松からまつの新芽、

蛙のこゑ、

若紫の薄むらさき、

揺れてゐる露、――

ひとつひとつに眺めて食べる。

菊子よ、いい朝めしだ。

新鮮な、いいお惣菜さいだ。

わたしはおまへの息まで食べる、

魂の魂まで食べる。

落葉松林の中

柔かなは春さきの落葉松からまつの山、

ややかすむ洩れ陽のすぢ、

渓あひの枯草、

鉱泉をあたたむる人が薪割り、

午すぎの煙筒の煙。

わたしは疲れて帰つて来る、

いささか歩あるき過ぎた、とも思ふ。

それでも雪の浅間はよかつた、

鷹の飛ぶのも。

柔かなは春さきの落葉松からまつの山、

その金粉の靄。

ことりのひな

きりさめかかるからまつの

もえぎのめだちついばむか。

うぶげのことりねもほそく、

みしらぬはるをみてなけり。

冬の日

胡桃くるみの老木ながめつつ、

けふも胡桃をわりゐたり。

胡桃の梢うれの青空よ、

ねもごろなれやいつまでも。

良夜

1

月の夜の

よう枯れし白樺しらかんばなる。

2

月の夜の翁ぐさかと触れてゐる。

かげ

からまつに

からまつのかげうつりたり。

月の夜ならし。

樹

白樺のはやしのなかに

胡桃の木ひとり老いたり。

花の青さや。

後記

一音の言葉にも広大の宇宙がある。此の宇宙をわたくしは日夜に検鏡しつつ、人知れぬ驚喜と嗟嘆とに我が身内も顫へつつある。つまりは言霊の生命といつても眼に見えぬ微塵数の原子から発すること、かの細菌の作用と同一に、わたくしには空おそろしくさへ考へられる。

一語一音の本質、その連関、節奏の渾成に就き、常に繊細に味識し、熔鉱、濾化、鍛冶、創造等の諸程を常住の道とすべきは、言霊の使徒たる者の唯一最高の業でなくて何であらう。わたくしは蓬蓬として苦吟する。推敲に痩せる。然しながら、序に述べたごとく、好む道とて致方がないのである。その推敲の苦みこそは何にも替へがたい我が無上の楽みであり、我自らの風狂をまた如何ともしがたいのである。

一音の中の微塵数の原子の持つ生命力とは何か。この一原子ごとに宿る生命は詩人の気禀、思想、感情、感覚、及び心肉に氾濫する意力と感動の速度、調律の如何によつて、初めて種種雑多の形式に於て統合され、円融され、開顕されるのである。詩人の精神はその摂取する一語一音の中にあつて、既にかの花粉のごとく玉露のごとく、芬芬として離離として発光してゐるのである。

であるから、単に言葉と感覚との享楽的二重奏とのみ観て、白秋に思想無しなどといふ認識不足の言に対しては、わたくしはただ微笑してゐればいいと思へる。わたくしは之を憤るほどの未練な世界に最早や住してゐないつもりである。

わたくしの最近の詩の傾向に就いては、本集の『古代新頌』の諸篇、或は『白い「白い」はママ花鳥図』の「老鶏」、『海豹と雲』の「汐首岬」「樺太の山中にて」「曇り日のオホーツク海」「老いしアイヌの歌」等、『風を祭る』の「真昼」「架橋風景」、更に「鋼鉄風景」に於ける近代神の認識に到る、日本古神道の精神を此の近代に新に再造するにある。わたくしはかの古事記、日本紀、風土記、祝詞等を渺遠にして漠漠たる風雲の上より呼び戻して、切に古代神の復活を言霊の力に祈り、之に近代の照明と整斉とを熱求しつつある。わたくしは日本民族の一人として、容易にかの泰西流行の思想に同ずることを潔しとせぬ。

また思ふに、古代の胆を捉へることはあながち古語死語を漁ることではない。生生躍動した古代感情のリズムをこそ素手に捉へることである。わたくしは漸くに些か之を会得したかのやうに思へる。

一方、わたくしは近代の幽玄体を月光と花鳥と古俗との間に、密かに薫醸しようとした。『白い「白い」はママ花鳥図』『月光の谿』『童話の月』『花楮』等の諸篇の中にさうしたものがある。

わたくしはまた、覊旅、或は日常生活の中にわたくしとしての詩材を拾ひ、詩境を修めようとした。『金粉の靄』『水郷の早春』『月夜孟宗の図』『春の蚊』『海豹と雲』『珠数工の夜』、その他の諸章の中にも之等は混色し、散在してゐる。

わたくしは交〻に起り来る自然と人生との鮮新性を、しみじみと楽む。古蒼なるものをも新に感受することに於て、かぎりなき香気と雑色と光輝とが我が眼前の風景として愈〻大きく開放されてあることを、生きてすなはち楽み得ることを人間の幸福とする。然しながら世の卑俗に謂ふところの楽天家なるものとは些か展望の観点が違ふであらう。ただかの天王寺の墓畔生活に於てすら、わたくしの「生きの喜び」はわたくしを心から鮮麗にわななかせた。さうして愈〻に謙譲であるべき我自身を考へさせた。

詩の表現に就いては、わたくしは気息さながらの流露を最上としてゐる。形ありて形なく、色ありて現なく、匂あつて捉へるところなき声なき声を、さながら心の声としてゐる。わたくしは偏奇な、又は虚構的な文学の使用を忌む。何となれば、詩の表現の重大は文字に非ずして音にあるからである。声に出しては消えも失せぬべき声なき音のゆらぎにある。至上の技巧は至純にして、些の雑音をも、その舌に微細なる一粒の小石をも厭ふ。疎放と衒耀とを最も厭ふ。

わたくしは一語一音の玄微を探ることにわたくし自らを常に推敲の絞木に架けつつある。然しながら、決してまた繊細性の語韻のみを調味して、大局の表現を忘れる軟弱は思はれない。音に微にして、心は太く、時には古代的樸茂と素朴であるべく、奔放自在でもあるべきであるを思ふ。詩材と感動の如何によるのである。

ただ、わたくしはかうは願つてゐる。然しながらわたくしの詩技そのものが、一に之が証左たるべき完成作として考へる自負は持ち合せない。寧ろわたくしは自らの今日の未熟を知り過ぎてゐる。その一一の詩に就いてもあまりにその欠所を微細に知り過ぎるが故に他の人の十倍の苦みをも敢て辞さうとは思はないのである。

本集には『水墨集』後の凡そ八年間の詩作品を蒐めた。竹林に恵れた小田原の山荘に於ける震災前後の生活から、珠数工に隣り住んだ谷中天王寺十八番地の仮寓時代、大森は馬込の月光の谿を瞰望した丘の上の一年が此の間に推移した。此の長日月の間にわたくし自身に第一義の詩集とすべきものの一巻をも公刊するに躊躇されたのは、此の自身の未完成に就いて知ることのあまりに深かつたからである。わたくしは自らを愛惜することにあまりに傾き過ぎたとも思はない。良心が許さなかつたのである。

なほ、本集の装幀に当つて、かの『篁』『月と胡桃』の時と同じく中山省三郎君の共力を得た事を感謝する。(世田ヶ谷若林にて)

底本 / Source edition

底本:「白秋全集 5」岩波書店
1986(昭和61)年9月5日発行
底本の親本:「海豹と雲」アルス
1929(昭和4)年8月28日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:岡村和彦
校正:大沢たかお
2012年8月24日作成
2012年11月25日修正
青空文庫作成ファイル:
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書誌 / Bibliography
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北原 白秋「海豹と雲」(新字旧仮名)、底本『白秋全集 5』岩波書店、1986年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 052353_000106, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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