Soranoha

随筆 藪柑子

ずいひつ やぶこうじ

小川 正子

土井晩翠先生夫人に、初めてお目に懸つたのは、夫人が長島に御出でになられた昭和十年の秋であつたが、其の頃は私はまだ御目見得以下であつたので、直接に御話を伺つたり御接待に出たりしたのではなかつた。只禮拜堂で患者さん達と一緒に夫人のゆつたりとしたお話ぶりを伺つて居たのであつた。然し晩翠先生の御詩は親しいものであり、御子息英一樣の救癩愛國切手の御計畫に就いても、前々から伺つて居た事であり、夫人の最初の御來園は種々の意味で、其の頃の私に深い印象として殘された。

昭和十一年の一月、土佐への第二回目の患者收容に赴いた時に、土井夫人の出身女學校である縣立第一高女にて、講演をしたことから御縁が深くなり、種々御指導と御後援が頂かれる樣になつたのであつた。其の夏には夫人の考案になつた浴衣地の見本帳が、夫人の盡力で、同窓の方々を通じて全部愛生園に寄贈される事になり、私達はその美しい布地の中から同じ柄模樣を集めて、病童兒、童女の罩衣や、簡單服を作つた。つねづね欲しがつて居た、袖の長い袂の大柄の模樣單衣を着て、病女兒達は園内の盆踊りの夜を待ち遠しがつた。十二年の夏には餘り澤山頂いたので、草津や神山の私立の療院の人達のために、又沖繩の人達のために、お裾分けが出來た程であつた。「いゝ柄だね、先生もこんなのが一枚着たいよ」と、私は病兒達の家の縁側で、出來上つた着物に手を通しながら、おどけてみせた。少し大きな子供達は不自由な手ながら自分で縫ひあげた。せつせと針を運んで居る女の兒達にも、出來たのを着せてもらつて私に賞められて居る子供達にも、遠くにある母の送る如き愛情をうけてのよろこびは、輝やかしいものであつた。いまでも島の子供達は「土井さんの奧樣」と云へば、自分達の一番大切にして居る袂の着物の下され主である事を忘れないで居ることであらう。

かうして患者さん達を喜ばせ、いたはつて下さつた夫人の愛は、はからずも病氣になつた後の私にも、同じ樣に分け與へられて、相變らず、その御心は美しい畫となり、色紙となり、夫人の手になる姫だるまの染められた、布地とまでなつて慰めて下さるのであつた。

天の涯にひとりやむ身も忝じけな人のなさけのかからぬ日なく

かからぬ日なき人の情の數々の中にも、夫人の御親切は長く變ることがなかつた。勝れてよいお子樣のいくたりかをお亡くなしになつた夫人の悲しみを通しての御心が、私の上にめぐまれたのであつたかとおもはれる。忝じけないことであつた。

夫人が文章をも、畫をもよくなされ、其の他數々の趣味の廣く深い方でいらつしやる事の何やかは、餘りにも世に知られすぎて居る事であらうけれども、その中でも、私は特に夫人の描かれる藪柑子がすきであつた。

秋も深くなり、いつか冬となる日に、茂り深い山路の樹の下草の中に、また松林の奧の苔深いみちのほとりに、つぶらな可愛い赤い實の二つ三つをかかげてゐる藪柑子は、春秋のくさぐさには、また比べ難い美しい趣を持つて居るのを人々はみられる事であらう。

今年も九月の末になつて、藪柑子はもう新らしい青い實を結んで居る。此の御本が世に出る頃には、林の中の藪柑子の實も美しくいろづくであらうし、夫人のお手になる御文章も亦、多くの人々の手の中にあつて、その情深く、おもひの深い御心の日日、此の世の數々の歎げきを越えられて、かがやくであらう。美しい御筆の跡の集りは、丁度あの木群の深い藪の中、しつとりと苔のうるほふ深い松山の中などでなければ、みつからない藪柑子の實のあざやかな美しさ、云ひ表し難い葉の色の美しさなどの樣な味ひを、人々に感じさせられる事であらうと樂しく期待する。

土井先生夫人が隨筆集をお出しになられるに際して、跋文を私にかけとの御言葉はあまりにも意外であつた。然し日日の御恩の故に、また癩のお仕事につながる御縁の故に、御辭退を申上げかねてその任でない身のをののきと、光榮との中に、これだけをかかせて頂いた次第である。

昭和十五年九月二十八日

山梨にて

小川正子

底本 / Source edition

底本:「隨筆 藪柑子」長崎書店
1940(昭和15)年12月30日発行
1941(昭和16)年2月20日3刷発行
入力:岡山勝美
校正:Juki
2017年1月12日作成
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書誌 / Bibliography
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小川 正子「随筆 藪柑子──03 跋」(旧字旧仮名)、底本『隨筆 藪柑子』長崎書店、1940年。Soranoha Aozora Bunko TEI Corpus, 052337_000474, release 913b24012e16. https://doi.org/10.5281/zenodo.22718079

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