入口の<ruby><rb>障子</rb><rt>しょうじ</rt></ruby>をがたがたと<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>けて、学生マントを着た<ruby><rb>小兵</rb><rt>こがら</rt></ruby>な学生が、雨水の光る<ruby><rb>蛇目傘</rb><rt>じゃのめがさ</rt></ruby>を<ruby><rb>半畳</rb><rt>はんだたみ</rt></ruby>にして、<ruby><rb>微暗</rb><rt>うすくら</rt></ruby>い<ruby><rb>土間</rb><rt>どま</rt></ruby>へ入って来た。もう<ruby><rb>明日</rb><rt>あす</rt></ruby>の朝の<ruby><rb>準備</rb><rt>したく</rt></ruby>をしてしまって、<ruby><rb>膳</rb><rt>ぜん</rt></ruby>さきの二合を<ruby><rb>嘗</rb><rt>な</rt></ruby>めるようにして飲んでいた<ruby><rb>主翁</rb><rt>ていしゅ</rt></ruby>は、<ruby><rb>盃</rb><rt>さかずき</rt></ruby>を持ったなりに土間の方へ目をやった。

「いらっしゃい」

それは見覚えのある坂の下のお<ruby><rb>邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>にいる<ruby><rb>書生</rb><rt>しょせい</rt></ruby>さんであったが、たしかにどのお邸の書生さんと云うことは浮ばなかった。

「<ruby><rb>絹漉</rb><rt>きぬごし</rt></ruby>がありますか」

「絹漉ですか」主翁はこう云って、<ruby><rb>食卓</rb><rt>ちゃぶだい</rt></ruby>の向うでとうに<ruby><rb>飯</rb><rt>めし</rt></ruby>をすまして<ruby><rb>行火</rb><rt>あんか</rt></ruby>にあたっている女房の方を見て、「絹漉とおっしゃるのだ、まだ少し残っているのだな」

「ああ、すこしありますよ」女房は入口の方へ体を<ruby><rb>捻</rb><rt>ね</rt></ruby>じ<ruby><rb>向</rb><rt>む</rt></ruby>けて、客を<ruby><rb>透</rb><rt>すか</rt></ruby>すようにしたが、障子の陰になって客の姿は見えなかった。が、それでも、「いらっしゃいまし」

「三つあれば好いのですが」と云って、書生は咳を三つばかり続けてした。

「三つぐらいならあります、<ruby><rb>何方様</rb><rt>どちらさま</rt></ruby>でございましょう」

女房は腰をあげようとした。

「下のお<ruby><rb>邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>さ、ええと」<ruby><rb>主翁</rb><rt>ていしゅ</rt></ruby>はまだ思い出せない。

「下の<ruby><rb>桐島</rb><rt>きりしま</rt></ruby>ですよ」と書生が云った。

「そうだ、桐島さんだ、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>も<ruby><rb>胴忘</rb><rt>どうわす</rt></ruby>れをしましてね、で、<ruby><rb>絹漉</rb><rt>きぬごし</rt></ruby>は、ちりか何かになされるので」

「どうですか、やっこに切ると云ってましたよ」

「そうですか、やっこに、では、すぐお届けいたします」

女房が立って来て顔をだした。

「いらっしゃいまし、どうも御苦労さんでございます、殿様が大変お悪いと聞きましたが、<ruby><rb>如何</rb><rt>いかが</rt></ruby>でございます」

「どうも腎臓が悪うございましてね、今晩も<ruby><rb>夜伽</rb><rt>よとぎ</rt></ruby>に来てくれた方が、寒いから<ruby><rb>温</rb><rt>あたたか</rt></ruby>い物で、酒を出すと云っておりますよ」

「そうですか、それは大変でございますね、ほんとにね、どんなことでもできるご<ruby><rb>地位</rb><rt>みぶん</rt></ruby>でも、病気はしかたがございません」

「博士の二人もついていて<ruby><rb>養生</rb><rt>ようじょう</rt></ruby>しているのですが、面倒な病気になりますと、すぐ治らないのですからね」

「ほんとにね」

「僕が貰って往きましょうか」

「なに、すぐお届けいたします」<ruby><rb>主翁</rb><rt>ていしゅ</rt></ruby>は<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>から云った。

「僕が貰って往っても好いのですよ、遅いし、雨も降ってますから」

「なに、よろしゅうございます、すぐお届けいたします」

女房は余計な口さえ出さなければ、書生さんに持って往ってもらうのに、と、夫の<ruby><rb>贅言</rb><rt>ぜいげん</rt></ruby>が<ruby><rb>小面憎</rb><rt>こづらにく</rt></ruby>かった。

「では、すぐ願います」

書生はちょっと頭を動かしながら、くるりと体の向きを変えて外へ出て往った。と、<ruby><rb>障子</rb><rt>しょうじ</rt></ruby>が<ruby><rb>閉</rb><rt>しま</rt></ruby>って続いてぱっと傘を<ruby><rb>拡</rb><rt>ひろ</rt></ruby>げる音がした。

「お前さんが持って往くだろうね、持ってくと云ったら、持っておいでよ、余計なことを云わなけりゃ、書生さんに頼んだのに、この寒いのに、二つや三つの豆腐で風邪を引いちゃ、あわないじゃないの」女房は突っかかるように云って主翁を見おろした。

主翁は書生が帰ったので、<ruby><rb>待兼</rb><rt>まちかね</rt></ruby>ていて<ruby><rb>盃</rb><rt>さかずき</rt></ruby>を持ったところであった。

「出入のお<ruby><rb>邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>じゃないか、大事のお<ruby><rb>顧客様</rb><rt>とくいさま</rt></ruby>だ、そう云うなよ」

「お<ruby><rb>顧客</rb><rt>とくい</rt></ruby>だって、お邸だって、書生さんなら好いじゃないか、持って往きよ」

「まあ、そう云うなよ、大事なお<ruby><rb>顧客様</rb><rt>とくいさま</rt></ruby>だ、しかたがない、お前持って往け」

「私、<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>だよ、お前さんが持ってくと云ったから、持って往きよ」

「まあ、そう云うなよ、お前持ってって来い、大事なお<ruby><rb>顧客様</rb><rt>とくいさま</rt></ruby>だ」

「それ、よう往かないでしょう、月夜の晩でさえ、お寺の傍が<ruby><rb>恐</rb><rt>こわ</rt></ruby>いとか何とか云ってるじゃないか、今晩は真暗だよ、それに雨も降ってるし、私だって恐いじゃないか、お前さんが持って往きよ」

「そんなことを云うなよ、お前が往って来い、暗けりゃ、<ruby><rb>提燈</rb><rt>ちょうちん</rt></ruby>があるじゃないか」

「お前さんが、その提燈で、持ってお<ruby><rb>出</rb><rt>い</rt></ruby>でよ」

「そんなことを云うなよ」臆病な<ruby><rb>主翁</rb><rt>ていしゅ</rt></ruby>は、しかたなしに<ruby><rb>盃</rb><rt>さかずき</rt></ruby>の酒を飲んで、<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>を<ruby><rb>酌</rb><rt>つ</rt></ruby>ぎながら、「つまらんことを云わずに、早く往って来いよ」

「恐い癖に、余計なことを云わなけりゃ好いのに」

云いたいことを云ってしまった女房は、やっと体が軽くなったので、<ruby><rb>土間</rb><rt>どま</rt></ruby>へおりて<ruby><rb>燈</rb><rt>ひ</rt></ruby>の<ruby><rb>微暗</rb><rt>うすぐら</rt></ruby>い処で、かたかたと音をさしはじめた。主翁はその音を聞きながら苦笑をうかべて、何か口の<ruby><rb>内</rb><rt>うち</rt></ruby>でぶつぶつ云った。その<ruby><rb>唸</rb><rt>うめ</rt></ruby>きが女房の耳におかしく聞えた。

「ほんとに、この寒いのに、よけいなことを云うものだから、しょうがないよ」

女房は豆腐を入れた<ruby><rb>岡持</rb><rt>おかもち</rt></ruby>と<ruby><rb>番傘</rb><rt>ばんがさ</rt></ruby>を<ruby><rb>提</rb><rt>さ</rt></ruby>げて出て往った。主翁はその<ruby><rb>後姿</rb><rt>うしろすがた</rt></ruby>を見送っていたが、<ruby><rb>障子</rb><rt>しょうじ</rt></ruby>が閉まると舌うちした。

「ばか」

<ruby><rb>食卓</rb><rt>ちゃぶだい</rt></ruby>の上には微暗い電燈がさがっていた。主翁はその電燈の<ruby><rb>球</rb><rt>たま</rt></ruby>をちょと見た<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>で、右側をちらと見た。そこには<ruby><rb>庖厨</rb><rt>かって</rt></ruby>の方へ出て往く障子があった。障子には<ruby><rb>二処三処</rb><rt>ふたとこみとこ</rt></ruby>穴が<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いて暗い<ruby><rb>燈影</rb><rt>ほかげ</rt></ruby>がそれにかかっていた。その障子に物の影が薄く<ruby><rb>朦朧</rb><rt>もうろう</rt></ruby>と映っているように見えた。主翁は軽い<ruby><rb>悪寒</rb><rt>おかん</rt></ruby>を感じながらおずおずした眼をそれに向けた。何の影らしいものも見えなかった。主翁はやっと安心して盃を持ちながら一口飲んだ。

<ruby><rb>土間</rb><rt>どま</rt></ruby>の方が気になって来た。<ruby><rb>主翁</rb><rt>ていしゅ</rt></ruby>はまた左側へ眼をやった。じめじめと降る雨の音が聞えて来た。主翁の心は豆腐を持って往った女房の方へ往った。<ruby><rb>岡持</rb><rt>おかもち</rt></ruby>を<ruby><rb>提</rb><rt>さ</rt></ruby>げた女房の体は、<ruby><rb>勾配</rb><rt>こうばい</rt></ruby>の急な坂をおりて、坂の降り口にあるお寺の石垣に沿うて左へ曲って往った。寺の<ruby><rb>門口</rb><rt>かどぐち</rt></ruby>にある赤松の幹に、<ruby><rb>微暗</rb><rt>うすぐら</rt></ruby>い<ruby><rb>門燈</rb><rt>もんとう</rt></ruby>の<ruby><rb>燈</rb><rt>ひ</rt></ruby>が映って見える。長い長い石垣の上に、杉の<ruby><rb>生垣</rb><rt>いけがき</rt></ruby>が続いて、その<ruby><rb>隙間</rb><rt>すきま</rt></ruby>から石碑が<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いている。電柱がその石垣に沿うて一つ二つ見えて来る。右側の人家は戸が閉って、その戸の<ruby><rb>隙</rb><rt>すき</rt></ruby>から<ruby><rb>微</rb><rt>かすか</rt></ruby>に燈の光が見え、小さな冷たい雨がその燈の光を受けて、微な<ruby><rb>縞</rb><rt>しま</rt></ruby>を<ruby><rb>織</rb><rt>お</rt></ruby>っているのが浮んで来る。

街が左にすこし折れまがって、曲り角に電柱が見えて来た。青い<ruby><rb>蛍火</rb><rt>ほたるび</rt></ruby>の<ruby><rb>団</rb><rt>かたま</rt></ruby>ったような一団の<ruby><rb>鬼火</rb><rt>ひとだま</rt></ruby>がどこからとなく飛んで来て、それが非常な勢いで電柱に突きあたった。あたったかと思うと、それが<ruby><rb>微塵</rb><rt>みじん</rt></ruby>に砕けてばらばらと下におちた……。

主翁は怖ろしさに<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>が詰るように思った。彼は<ruby><rb>食卓</rb><rt>ちゃぶだい</rt></ruby>へ<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>りつくように<ruby><rb>凭</rb><rt>もた</rt></ruby>れたが、<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>が気になるのでやっとの思いで土間の方を見てから、その<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>で右の方の<ruby><rb>障子</rb><rt>しょうじ</rt></ruby>を見た。障子の破れ穴の一つに怪しい者の<ruby><rb>眼球</rb><rt>めだま</rt></ruby>が光るような気がした。彼は逃げるように<ruby><rb>行火</rb><rt>あんか</rt></ruby>に掛けてある<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>を頭から<ruby><rb>被</rb><rt>かぶ</rt></ruby>って、猫か犬かが寝たように円くなって寝た。

主翁の心がやっと静まって来た。彼はもう女房が帰ってくる時分だと思いだした。女房が帰って来たなら、内へ入らないうちに起きなくてはいけないと思った。彼は被っていた蒲団をすこし<ruby><rb>透</rb><rt>す</rt></ruby>かして、<ruby><rb>下駄</rb><rt>げた</rt></ruby>の音が聞えはしないかと耳を澄ました。

じめじめとした雨の音が聞えるばかりであった。彼はまた二三日前に人から聞いた<ruby><rb>鬼火</rb><rt>ひとだま</rt></ruby>のことを思いだした。青い<ruby><rb>蛍火</rb><rt>ほたるび</rt></ruby>の<ruby><rb>団</rb><rt>かたま</rt></ruby>ったような火の団りが電柱にぶっつかって、<ruby><rb>粉粉</rb><rt>こなごな</rt></ruby>になった<ruby><rb>容</rb><rt>さま</rt></ruby>が眼の前に浮んで来た。

（ありゃ、桐島の書生の<ruby><rb>鬼火</rb><rt>ひとだま</rt></ruby>だ、乗手の判らない自動車に<ruby><rb>轢</rb><rt>ひ</rt></ruby>かれて死んだと云うことになってるが、何か込み入った<ruby><rb>理</rb><rt>わけ</rt></ruby>があるかも判らない、それでなくて、<ruby><rb>鬼火</rb><rt>ひとだま</rt></ruby>になって出て来るものかね）

桐島邸の左隣になった長屋で、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>か聞いた話が<ruby><rb>主翁</rb><rt>ていしゅ</rt></ruby>の耳に<ruby><rb>蘇</rb><rt>よみがえ</rt></ruby>って来た。

（お<ruby><rb>邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>の若様と云っても、恥かしくないような、好い男の書生さんだった、何か理があるだろうよ）

坂の下の散髪屋の主翁の云った<ruby><rb>詞</rb><rt>ことば</rt></ruby>も浮んで来る。

（あんな大きなお邸だ、俺達には判らない、いろんなことがあるだろう）

主翁は活動で見る上流社会のお家騒動のようなことを頭に浮べていた。と、がたがたと<ruby><rb>気忙</rb><rt>きぜわ</rt></ruby>しそうに<ruby><rb>障子</rb><rt>しょうじ</rt></ruby>を開ける音がした。主翁はびっくりして<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>をはね<ruby><rb>除</rb><rt>の</rt></ruby>けて起きあがろうとした。

「寒い、寒い、えらい目にあったよ」女房は寒そうにびしょぬれの傘の<ruby><rb>頭</rb><rt>かしら</rt></ruby>を<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>んで入って来たが、蒲団をはね<ruby><rb>除</rb><rt>の</rt></ruby>けて<ruby><rb>半身</rb><rt>はんしん</rt></ruby>を起した主翁を見つけると、「ほんとに恐がりねえ、恥かしくはないの」

「ばか、何が恐いのだ、<ruby><rb>飯</rb><rt>めし</rt></ruby>の給仕をしてくれるものがねえから、待ってたんだい」

主翁は女房に悟られまいと思って、平気を<ruby><rb>装</rb><rt>よそお</rt></ruby>うて<ruby><rb>行火</rb><rt>あんか</rt></ruby>を出てもとの処へ坐った。

「恐くなけりゃ、<ruby><rb>何故</rb><rt>なぜ</rt></ruby>一人でさっさと飯をしまわないの、何時でも食べられるようにしてあるじゃないか」

女房は暗い方の棚へ<ruby><rb>岡持</rb><rt>おかもち</rt></ruby>を置きに往った。

「主翁が一人で、<ruby><rb>飯</rb><rt>めし</rt></ruby>なんか<ruby><rb>盛</rb><rt>も</rt></ruby>る奴があるかい」

「もう、外へ出る用事が無くなったと思って、急にえらくなったね」女房は小さな<ruby><rb>縁側</rb><rt>えんがわ</rt></ruby>をあがりながら、<ruby><rb>主翁</rb><rt>ていしゅ</rt></ruby>をおどしてやる気になった。「でも、お前さんをやらなくってよかったよ、私も恐かったけれども、お前さんだったら、どんなことになったか判らなかったよ」

「な、なんだ」主翁は顔色を変えた。

「<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>なものがね」女房は恐そうな顔をして<ruby><rb>長火鉢</rb><rt>ながひばち</rt></ruby>の<ruby><rb>食卓</rb><rt>ちゃぶだい</rt></ruby>の間を通り、主翁の<ruby><rb>引</rb><rt>ひ</rt></ruby>き<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>いであった<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>を直して<ruby><rb>行火</rb><rt>あんか</rt></ruby>に入りながら、「見たのですよ、ただ人の噂だと思っていたが、ほんとに見たのですよ」

「なんだ、なんだ」

「帰りに、あすこの曲り角の電信柱の処まで来ると、青い<ruby><rb>鬼火</rb><rt>ひとだま</rt></ruby>がふわふわと飛んで来て、ぶっつかったのですよ」

主翁は<ruby><rb>食卓</rb><rt>ちゃぶだい</rt></ruby>へ<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>りつくようにした。女房はそれをじろじろ見ていた。

「私はどうしようかと思ったのですよ、坂の下まで夢中に駆けて来ると、書生さんが三人上からおりて来たので、やっと<ruby><rb>人心地</rb><rt>ひとごこち</rt></ruby>がついたのですよ」

主翁は返事のかわりに<ruby><rb>溜呼吸</rb><rt>ためいき</rt></ruby>をした。女房は笑いだした。

「ほんとに恐がりね」

主翁も女房のかついでいたことに気が<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>いた。

「なんだ、俺をかついでいるのか、そんなことは恐くはねえや」

「ほんとに、お前さんは臆病だよ」女房は笑うのを<ruby><rb>廃</rb><rt>よ</rt></ruby>して真顔になり、「さ、<ruby><rb>御飯</rb><rt>ごはん</rt></ruby>を早くお<ruby><rb>喫</rb><rt>あが</rt></ruby>りよ」

「ふざけるねえ、なにが恐い」

<ruby><rb>主翁</rb><rt>ていしゅ</rt></ruby>は<ruby><rb>両臂</rb><rt>りょうひじ</rt></ruby>を張るようにした。

主翁は<ruby><rb>枕頭</rb><rt>まくらもと</rt></ruby>に坐った女房に<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆ</rt></ruby>り起されてやっと眼を覚したが、眠くて眠くてしかたがないので、伸ばした右の手の手首を左の<ruby><rb>指端</rb><rt>ゆびさき</rt></ruby>で<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>きながら寝ぼけ声を立てた。

「まだ早いじゃねえか、そんなに早く起きたってしかたがねえ」

「早くはないのだよ、もう四時だよ、さっさとお起きよ」

「四時になってからでも好いよ」

「いけないのだよ、早くしないと、日の短い時は、何もする<ruby><rb>間</rb><rt>あいだ</rt></ruby>がないじゃないの、お起きよ」

女房がまた体を揺るので、主翁はしかたなしに起きて、<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>の上に<ruby><rb>蹲</rb><rt>しゃが</rt></ruby>み、<ruby><rb>睡</rb><rt>ねむ</rt></ruby>い眼をしょぼしょぼさした。<ruby><rb>微暗</rb><rt>うすくら</rt></ruby>い電燈の光が寒そうに光っていた。女房はもう黒いうわっ<ruby><rb>張</rb><rt>ぱり</rt></ruby>を着て、<ruby><rb>長火鉢</rb><rt>ながひばち</rt></ruby>には<ruby><rb>鉄瓶</rb><rt>てつびん</rt></ruby>をたぎらしてあった。

「雨はどうだ」

「やんでるよ、すぐ<ruby><rb>御飯</rb><rt>ごはん</rt></ruby>にするから、<ruby><rb>瓦斯</rb><rt>ガス</rt></ruby>を<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>けて、表の戸を開けておくれよ」主翁は寒い風に当りたくなかった。それに家の外には<ruby><rb>鬼魅</rb><rt>きみ</rt></ruby>悪い暗い夜があった。

「<ruby><rb>飯</rb><rt>めし</rt></ruby>のあとで好いじゃないか」

「好かあないよ、仕事の<ruby><rb>定</rb><rt>きまり</rt></ruby>がつかないから、お開けよ」

<ruby><rb>庖厨</rb><rt>かって</rt></ruby>の方で飯の焦げつく匂いがした。女房は庖厨の方へ往った。

主翁は<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>であったがそのうえぐずぐずしていると、また女房から臆病だとか何んとか云って<ruby><rb>嘲</rb><rt>あざけ</rt></ruby>られるので、しかたなしに体を起して<ruby><rb>長火鉢</rb><rt>ながひばち</rt></ruby>の<ruby><rb>猫板</rb><rt>ねこいた</rt></ruby>の上に乗っているマッチを持ち、<ruby><rb>土間</rb><rt>どま</rt></ruby>へおりて<ruby><rb>爪立</rb><rt>つまだ</rt></ruby>つようにして<ruby><rb>瓦斯</rb><rt>ガス</rt></ruby>のねじを<ruby><rb>撚</rb><rt>ひね</rt></ruby>り、それにマッチの火を移した。威勢の好い<ruby><rb>蒼白</rb><rt>あおじろ</rt></ruby>い光が燃えて、豆をひく<ruby><rb>石臼</rb><rt>いしうす</rt></ruby>や豆腐釜などを照らした。

瓦斯の火が済むと、マッチの箱を<ruby><rb>懐</rb><rt>ふところ</rt></ruby>へ入れて、入口へ往って<ruby><rb>障子</rb><rt>しょうじ</rt></ruby>を開け、それから<ruby><rb>懸金</rb><rt>かけがね</rt></ruby>になった<ruby><rb>錠前</rb><rt>じょうまえ</rt></ruby>に指をかけた。錠前は氷のように冷たかった。<ruby><rb>指端</rb><rt>ゆびさき</rt></ruby>の痛くなるほど力を入れてそれを<ruby><rb>外</rb><rt>はず</rt></ruby>し、雨戸へ手をかけたが、<ruby><rb>得体</rb><rt>えたい</rt></ruby>の知れない怪物が戸の外に立っているような気がするので、<ruby><rb>恐</rb><rt>こわ</rt></ruby>ごわ開けた。

暗い中から冷たい風が吹いて来た。<ruby><rb>主翁</rb><rt>ていしゅ</rt></ruby>は肩のあたりで<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>をした。しかし、別に怪しい物もいそうにないので、やっと安心して雨戸を外すつもりで外へ出た。

「豆腐屋さん」

不意に<ruby><rb>人声</rb><rt>ひとごえ</rt></ruby>がしたので主翁はびっくりして、<ruby><rb>動悸</rb><rt>どうき</rt></ruby>をさしながら<ruby><rb>透</rb><rt>すか</rt></ruby>して見た。学生のマントを着た少年が眼の前に立っていた。

「<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>は遅く気の毒でした」

それは昨夜豆腐の注文に着た桐島の書生であった。

「おや、桐島さんの書生さんですか」

「ああ、桐島だがね、今日、また沢山注文するから、ちょっとこれから、お<ruby><rb>邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>までいっしょに往ってくれないかね」

主翁はすぐ曲り角の電柱が気になったが、そのうちに<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>が明けてくるだろうと思ったので、往って好いと思った。

「朝早くから気の毒だが、ちょっと往ってくれないかね」

「まいりましょう」そう云って<ruby><rb>主翁</rb><rt>ていしゅ</rt></ruby>は内の方をふり返って、

「おい、桐島さんから、御用があると云うから、ちょっと往ってくるぜ」

家の中から女房の返事が聞えて来た。

「じゃまいりましょう、それにしても、ばかに早いじゃありませんか」

「殿様が御病気だから、家の者は皆寝ずにいるのだ、だから、宵も朝も無くなっているのだ」

二人はいっしょに歩きだした。

「ああ、そうですね、大変ですね、殿様の病気は、ちと<ruby><rb>宜</rb><rt>よろ</rt></ruby>しい方でございますか」

「どうも、よくなくって困っているのだ」

主翁は歩きながら空を見た。ところどころ雨雲の切れた<ruby><rb>黎明</rb><rt>よあけ</rt></ruby>の空に、<ruby><rb>微</rb><rt>うす</rt></ruby>い星の光があった。主翁は<ruby><rb>何</rb><rt>な</rt></ruby>んと云っても黎明であると思って嬉しかった。

きつい坂をおりかけてから二人の話は<ruby><rb>止</rb><rt>や</rt></ruby>んだ。主翁は書生の右側を<ruby><rb>雁行</rb><rt>がんこう</rt></ruby>して歩いていた。寺の<ruby><rb>門口</rb><rt>かどぐち</rt></ruby>にある赤松の幹に電燈の<ruby><rb>燈</rb><rt>ひ</rt></ruby>が依然として<ruby><rb>懸</rb><rt>かか</rt></ruby>っていた。坂の上にいるときには、今にも<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>が明けてしまいそうに見えていたが、下へおりてみると、真暗で黎明らしい趣きはなかった。主翁は不安になって来た。

「まだこんなに早いでしょうか」

白い学生の顔の半面が見えた。

「なに、すぐ<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>が明けるよ」

石垣に沿うて電柱が恐ろしい形に見えていた。<ruby><rb>生垣</rb><rt>いけがき</rt></ruby>の上の方を<ruby><rb>透</rb><rt>すか</rt></ruby>すと、石碑の頭が一種の光を持って見えていた。<ruby><rb>主翁</rb><rt>ていしゅ</rt></ruby>の心は暗くなった。彼は書生とぴったりならんで歩いた。

<ruby><rb>路</rb><rt>みち</rt></ruby>の曲り角がそこに来た。主翁は<ruby><rb>恐</rb><rt>こわ</rt></ruby>ごわそこの電柱に眼をやった。黒ぐろと立った柱には何の怪しいこともなかった。それでも主翁は<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>を<ruby><rb>詰</rb><rt>つ</rt></ruby>めるようにしてその下を通って往った。

<ruby><rb>半町</rb><rt>はんちょう</rt></ruby>ばかり往くと桐島の<ruby><rb>邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>が来た。<ruby><rb>花崗岩</rb><rt>みかげいし</rt></ruby>を立てた大きな門の上には電燈が光っていた。その電燈の上に<ruby><rb>裸樹</rb><rt>はだかぎ</rt></ruby>の桜の枝が<ruby><rb>微</rb><rt>かすか</rt></ruby>に動いていた。

書生は左側にある<ruby><rb>耳門</rb><rt>くぐり</rt></ruby>から入った。主翁もそれに<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>いて往った。門の中には門番のいる<ruby><rb>磨</rb><rt>す</rt></ruby>り<ruby><rb>硝子</rb><rt>ガラス</rt></ruby>の小さな建物があって<ruby><rb>燈</rb><rt>ひ</rt></ruby>が<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>いていたが、番人の姿は見えなかった。

書生は正面の玄関のほうへ往った。<ruby><rb>庖厨口</rb><rt>かってぐち</rt></ruby>のほうへ往くには、そこを左に竹垣に沿うて曲って往かねばならなかった。

「こっちじゃありませんか」

主翁はちょと立ち<ruby><rb>停</rb><rt>どま</rt></ruby>った。白い書生の手がこっちへ来いと云うように動いた。主翁は書生の方へ歩いて往った。寒い風が庭の植木の枝を吹いていた。

玄関の前には大きな<ruby><rb>蘇鉄</rb><rt>そてつ</rt></ruby>を植えた円形の<ruby><rb>植込</rb><rt>うえこみ</rt></ruby>があった。電燈の燈が<ruby><rb>鋸</rb><rt>のこぎり</rt></ruby>の歯のようなその葉に明るく<ruby><rb>射</rb><rt>さ</rt></ruby>していた。二台の自動車がその左側に置いてあった。玄関には十足ばかりの靴や<ruby><rb>下駄</rb><rt>げた</rt></ruby>が見えて<ruby><rb>障子</rb><rt>しょうじ</rt></ruby>が閉っていた。書生は玄関をあがった。

「私は<ruby><rb>内</rb><rt>うち</rt></ruby>玄関の方で待っております」

主翁はなんぼなんでも玄関からあがれないと思った。書生は障子にすこしの音もさせずに、すうと開けてふりかえり、白い手をあげて招いた。

「でも、あんまりでしょう」

書生は黙ったなりにまだ招いている。<ruby><rb>主翁</rb><rt>ていしゅ</rt></ruby>はしかたなくあがった。玄関の<ruby><rb>火鉢</rb><rt>ひばち</rt></ruby>の傍には一人の書生がいて、それが火鉢に<ruby><rb>隻肱</rb><rt>かたひじ</rt></ruby>を突いて<ruby><rb>睡</rb><rt>ねむ</rt></ruby>っていた。

主翁を<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れて来た書生は、そのまま奥の方へ入って往った。主翁はしかたなしにその<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>から<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>いて往った。主翁は<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>の間にか廊下を歩いていた。左側に並んだ<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>には、どの室にも電燈が明るく<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>いていた。廊下を左に折れ曲って往きあたると、<ruby><rb>西洋室</rb><rt>せいようま</rt></ruby>になって<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>が締っていた。書生はそれを開けて入り、<ruby><rb>隻手</rb><rt>かたて</rt></ruby>で<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>を押え、隻手でまた手招きした。主翁は入って見た。

室の中は晩春のように暖かであった。そこには<ruby><rb>榻</rb><rt>ねだい</rt></ruby>があって、髪の黒い、黄いろな顔をした男が、<ruby><rb>呼吸苦</rb><rt>いきぐる</rt></ruby>しそうにして<ruby><rb>左枕</rb><rt>ひだりまくら</rt></ruby>に寝ていた。主翁はこれが御病気だと云う伯爵の殿様だなと思った。その<ruby><rb>枕頭</rb><rt>まくらもと</rt></ruby>には二人の看護婦が<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>に腰をかけたなりに眠っていた。また榻の<ruby><rb>脚下</rb><rt>あしもと</rt></ruby>になったほうには、<ruby><rb>絨緞</rb><rt>じゅうたん</rt></ruby>の上に<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>を敷いて五六人の男が坐っていたが、これも<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>いたり、<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>の壁に寄っかかったりして眠っていた。

主翁は書生と並んで立った。主翁は<ruby><rb>己</rb><rt>じぶん</rt></ruby>をこんな処へ<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れて来てどうするつもりだろうと思って、そっと書生の顔を見た。主翁は怖れて<ruby><rb>眼前</rb><rt>めさき</rt></ruby>が<ruby><rb>眩</rb><rt>くら</rt></ruby>むように思った。それは<ruby><rb>数月前</rb><rt>すうげつぜん</rt></ruby>に自動車に<ruby><rb>轢</rb><rt>し</rt></ruby>かれて<ruby><rb>惨死</rb><rt>ざんし</rt></ruby>した<ruby><rb>山脇</rb><rt>やまわき</rt></ruby>と云う書生の顔であった。書生の顔は<ruby><rb>正面</rb><rt>まとも</rt></ruby>に主翁の眼に映った。

「豆腐屋、お前は俺の云うことを聞くんだぞ」

主翁はがたがたと震えた。

「<ruby><rb>怖</rb><rt>こわ</rt></ruby>がることはない、俺の云いつけどおりするなら、怖がることも<ruby><rb>何</rb><rt>なん</rt></ruby>にもない」

「は、はい」

書生は<ruby><rb>隻手</rb><rt>かたて</rt></ruby>を<ruby><rb>懐</rb><rt>ふところ</rt></ruby>に入れて懐の中から何か出した。それは黒い<ruby><rb>襷</rb><rt>たすき</rt></ruby>のように輪にした<ruby><rb>小紐</rb><rt>こひも</rt></ruby>であった。

「これを殿様の<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>に<ruby><rb>捲</rb><rt>ま</rt></ruby>いて来い、ただ捲いて来さえすれば好い、お前がどんな音をさしたって、起きる者は無いから、大丈夫だ、捲いて来い」

「は、はい」

「早く、云うとおり捲いて来い、云うことを聞かないのか、早く捲いて来い、ただ捲いて来さえすれば好い、べつに何もしなくても好い」

小紐は<ruby><rb>主翁</rb><rt>ていしゅ</rt></ruby>の手に<ruby><rb>懸</rb><rt>かか</rt></ruby>った。主翁は<ruby><rb>震</rb><rt>ふる</rt></ruby>い震いそれを手にした。

「それ、早く往って捲いて来い」

主翁はしかたなく<ruby><rb>榻</rb><rt>ねだい</rt></ruby>の方へ歩いて往った。歩きながら<ruby><rb>何人</rb><rt>たれ</rt></ruby>かに眼を覚まされて見られては大変なことになると思った。彼の足は何を踏んでいるのか判らなかった。

主翁は伯爵の傍へ往った。伯爵は<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>っていた。主翁は小紐を出して、そっと伯爵の<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>に捲こうとした。と、小紐は風に吹き寄せられるように<ruby><rb>手許</rb><rt>てもと</rt></ruby>に寄って来た。主翁はこれは<ruby><rb>失敗</rb><rt>しま</rt></ruby>ったと思って、また<ruby><rb>顎</rb><rt>あご</rt></ruby>の下からその紐をかけたが、かけてしまうとまた寄って来た。それは<ruby><rb>己</rb><rt>じぶん</rt></ruby>が<ruby><rb>周章</rb><rt>あわて</rt></ruby>ているので好く捲けないと思った。で、主翁は気を引き締めてまた紐を頸にやった。が、その紐も手許にもどって来た。

主翁は震い震い引返して来たが、書生の顔を見るのが恐ろしいので、<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>いたなり小声でおずおずと云った。

「どう云うものか、<ruby><rb>放</rb><rt>は</rt></ruby>ねかえって<ruby><rb>捲</rb><rt>ま</rt></ruby>きつきません」

「そうか、捲きつかんかも判らない、ではこれを<ruby><rb>枕頭</rb><rt>まくらもと</rt></ruby>に置いて来い」

書生は<ruby><rb>懐</rb><rt>ふところ</rt></ruby>から小さな石を二つ出してそれを見せた。

「これを殿様の枕頭へ置いて来い、どこへ置いても好い、この石なら大丈夫だ、置いて来い」

<ruby><rb>主翁</rb><rt>ていしゅ</rt></ruby>は<ruby><rb>小紐</rb><rt>こひも</rt></ruby>を持ったなりにその小石を受とって、また伯爵の方へ往って、枕頭へそっと置いて逃げるように帰って来た。

「こっちへ来い、ここでは紐が捲けそうもないから、捲ける処へ往こう」

書生は<ruby><rb>扉</rb><rt>ドア</rt></ruby>を開けて出ようとしてふり返った。主翁も引きずられるように<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>いて往った。主翁は<ruby><rb>庭前</rb><rt>にわさき</rt></ruby>を歩いていた。庭には池の水が暗い中に<ruby><rb>鼠</rb><rt>ねずみ</rt></ruby>色に光っていた。池の<ruby><rb>縁</rb><rt>へり</rt></ruby>を廻ると<ruby><rb>離屋</rb><rt>はなれ</rt></ruby>の<ruby><rb>縁側</rb><rt>えんがわ</rt></ruby>になった。書生は縁側へあがって<ruby><rb>微暗</rb><rt>うすくら</rt></ruby>い<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>の<ruby><rb>障子</rb><rt>しょうじ</rt></ruby>を開けた。

奇怪な絵画がそこに見られた。<ruby><rb>榻</rb><rt>ねだい</rt></ruby>に寝た女が<ruby><rb>蒼白</rb><rt>あおじろ</rt></ruby>い左手を張り、その<ruby><rb>掌</rb><rt>てのひら</rt></ruby>で左の耳元を支えて、すぐ<ruby><rb>鼻端</rb><rt>はなさき</rt></ruby>に腰をかけた男とはなしているところであった。緑色の<ruby><rb>被</rb><rt>おおい</rt></ruby>をかけた電燈の光が、<ruby><rb>艶</rb><rt>なまめ</rt></ruby>かしく榻の<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>を照らしていた。主翁は一<ruby><rb>眼</rb><rt>め</rt></ruby>見て、女はいつも木彫の人形のような顔をしてる伯爵夫人で、男は自動車の運転手と云うことを知った。主翁は悪い処へ来たものだと思ったが、どうしたものかもう熱病患者の見ている幻覚のような気がして、それ以上に心を苦しめることはなかった。主翁は書生の顔を見た。主翁はもう奇怪な書生に対する恐れもなくなっていた。書生は<ruby><rb>凄</rb><rt>すご</rt></ruby>い笑顔を見せた<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>に右の手をあげて何も云うなと云うようにそれを<ruby><rb>揮</rb><rt>ふ</rt></ruby>った。

夫人と運転手は二人が入って来たことが判らないのか、話をそのまま続けていた。二人は何を話しているのか話し声は聞えなかった。<ruby><rb>主翁</rb><rt>ていしゅ</rt></ruby>は<ruby><rb>演戯</rb><rt>しばい</rt></ruby>でも見るような気になっていた。

「もすこし待っておれ、今に面白い事件が起るぞ」

主翁の耳に書生の声が聞えた。

「この二人は、何をしている処でございましょう」

主翁はこう云って聞いてみた。

「伯爵が病気になったのを好いことにして、二人でこうして<ruby><rb>媾曳</rb><rt>あいびき</rt></ruby>しているのだ、これも、俺が復讐にさしていることだ」

「それは、またどうしたわけでございます」

「もとの起りは、やっぱしこの<ruby><rb>不品行</rb><rt>ふみもち</rt></ruby>な夫人さ、俺と夫人との関係が知れると、あの悪党<ruby><rb>奴</rb><rt>め</rt></ruby>、ここにいるこの運転手に云いつけて、夜、俺が早稲田の先輩の家から帰るのを待ってて、<ruby><rb>石切橋</rb><rt>いしきりばし</rt></ruby>の傍で<ruby><rb>轢殺</rb><rt>しきころ</rt></ruby>したものだ、世間では、俺が<ruby><rb>主</rb><rt>ぬし</rt></ruby>の知れない自動車に<ruby><rb>轢殺</rb><rt>しきころ</rt></ruby>されたと云うことになってるが、悪党のやった仕事さ、あの悪党奴、夫人と俺との関係を<ruby><rb>発</rb><rt>あば</rt></ruby>きたてて、夫人を追っ払って、<ruby><rb>下谷</rb><rt>したや</rt></ruby>に置いてある<ruby><rb>妾</rb><rt>めかけ</rt></ruby>を引きずりこもうと思ったが、養子という弱身があるので、いろいろ考えた末に、まず俺だけ<ruby><rb>葬</rb><rt>ほうむ</rt></ruby>って、夫人の方は<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>まわしにしたのだ、もすこし待っておれ、あの悪党奴に復讐する時が来たのだ」

書生はまた<ruby><rb>物凄</rb><rt>ものすご</rt></ruby>く笑った。

「悪党と云いますと、殿様でございますか」

「そうさ、伯爵さ、貴族院議員なんて澄まし込んでやがるが、悪党だよ」と云った書生は、急に主翁の肩を突いて、

「見ろ、あの<ruby><rb>様</rb><rt>ざま</rt></ruby>を、もう、すぐ<ruby><rb>演戯</rb><rt>しばい</rt></ruby>が始まるぞ」

<ruby><rb>主翁</rb><rt>ていしゅ</rt></ruby>は<ruby><rb>榻</rb><rt>ねだい</rt></ruby>の方を見た。夫人の両手が蛇のように男の<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>にからみついていた。同時に<ruby><rb>微</rb><rt>かすか</rt></ruby>な女の笑い声が聞えた。

「もすこしこっちへ寄るがよい、今に役者が入ってくる」

書生は主翁の<ruby><rb>衣服</rb><rt>きもの</rt></ruby>を<ruby><rb>抓</rb><rt>つま</rt></ruby>んで引っぱった。主翁は云うとおりになって書生の方へ寄った。そこには書生が開けたままの<ruby><rb>障子</rb><rt>しょうじ</rt></ruby>が<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いていた。主翁は障子の方へ注意していた。

よたよたと歩くような<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>が聞えた。いよいよ<ruby><rb>何人</rb><rt>たれ</rt></ruby>かが入って来た。と、思っていると、今まで<ruby><rb>母屋</rb><rt>おもや</rt></ruby>の<ruby><rb>西洋室</rb><rt>せいようま</rt></ruby>で寝ていた病人の伯爵の顔が見えた。大変悪くて寝ずの番までしている病人が、どうして歩いて来たのだろうと思って、主翁は眼を<ruby><rb>睜</rb><rt>みは</rt></ruby>った。伯爵はよろけるように中へ入ったが、榻の醜怪な<ruby><rb>容</rb><rt>さま</rt></ruby>が眼に<ruby><rb>入</rb><rt>い</rt></ruby>ると、<ruby><rb>獣</rb><rt>けだもの</rt></ruby>のようなうなり声を立てた。

運転手は夫人の手をふり払うと、横倒しになっていた体を起した。伯爵の左の手がその<ruby><rb>胸倉</rb><rt>むなぐら</rt></ruby>にかかった。夫人も驚いて榻の上に起きなおろうとした。伯爵の右の手が<ruby><rb>頭髪</rb><rt>かみのけ</rt></ruby>の多いその頭にかかった。伯爵はまた獣のように<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>った。そして、大きな<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>を苦しそうにした。

「何を遊ばされます、そんな野蛮な、しもじもの者のなさるようなことは<ruby><rb>謹</rb><rt>つつ</rt></ruby>しんでください」

夫人は伯爵の手を<ruby><rb>除</rb><rt>の</rt></ruby>けようとしたが放さなかった。

「放してください、そんな乱暴なことを遊ばされては困ります」

伯爵はまた唸り声を立てた。

「旦那、もうこうなったうえは、私も<ruby><rb>卑怯</rb><rt>ひきょう</rt></ruby>な<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>はいたしません、放してください、そんなにせられちゃ、<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>もできねえのだ、まあ、ゆっくり話しましょう、何も騒ぐことはありませんよ」と運転手が冷やかに云って、その手を<ruby><rb>除</rb><rt>の</rt></ruby>けようとしたが除かなかった。

「さあ、今だ、今往って、あの<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>を<ruby><rb>掛</rb><rt>か</rt></ruby>けて来い、今ならきっと<ruby><rb>掛</rb><rt>かか</rt></ruby>る」

書生はこう云って<ruby><rb>主翁</rb><rt>ていしゅ</rt></ruby>を突くようにした。主翁は足が進まなかった。

「あんなことをしてるから、いくらお前が<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>へ往ったって判らない、ただ、その紐を、<ruby><rb>頸</rb><rt>くび</rt></ruby>へ掛けて来さえすれば好い」

主翁はしかたなしに伯爵の方へ近寄って往った。伯爵は大きな<ruby><rb>呼吸</rb><rt>いき</rt></ruby>をついていた。主翁は握りしめていた<ruby><rb>小紐</rb><rt>こひも</rt></ruby>の輪を両手に<ruby><rb>拡</rb><rt>ひろ</rt></ruby>げて、背の高い伯爵の<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>から投げかけた。紐はふわと伯爵の体にかかった。と、同時に伯爵の体は<ruby><rb>仰向</rb><rt>あおむけ</rt></ruby>に倒れた。主翁は書生の<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>へ逃げて往った。

「よし、よし、うまくいった」

書生は主翁を迎えて気もちよさそうに笑った。主翁はその<ruby><rb>詞</rb><rt>ことば</rt></ruby>を聞きながら<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>の方をふり返った。夫人と運転手が伯爵の<ruby><rb>枕頭</rb><rt>まくらもと</rt></ruby>に立って何か<ruby><rb>囁</rb><rt>ささや</rt></ruby>いていたが、やがて運転手は夫人と別れてあたふたと部屋の外へ出て往った。

「人が来てはめんどうだから、あいつ逃げて往く処だ、もう、俺達の用も済んだから、いっしょに帰ろう」

書生が往きかけるので、主翁もすぐ<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>に<ruby><rb>引添</rb><rt>ひきそ</rt></ruby>うて往った。池の<ruby><rb>側</rb><rt>そば</rt></ruby>や林の中に書生の姿が見えた。主翁はただ書生に遅れまいと思って<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>いて往った。

<ruby><rb>微暗</rb><rt>うすぐら</rt></ruby>い門番の<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>の<ruby><rb>燈火</rb><rt>あかり</rt></ruby>が見えた。真暗い空から毛のような<ruby><rb>霧雨</rb><rt>きりあめ</rt></ruby>が降っていた。書生の体はもう<ruby><rb>耳門</rb><rt>くぐりもん</rt></ruby>から出た。<ruby><rb>主翁</rb><rt>ていしゅ</rt></ruby>もその<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>から<ruby><rb>耳門</rb><rt>くぐりもん</rt></ruby>を出たが、ほっとしたような気になって心がのびのびした。

門の前には一台の自動車が黄色な<ruby><rb>橙黄色</rb><rt>とうこうしょく</rt></ruby>の<ruby><rb>燈火</rb><rt>あかり</rt></ruby>を<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>けて横たわっていた。主翁は<ruby><rb>何人</rb><rt>たれ</rt></ruby>か見舞に来た客を待っている車だろうと思っていた。と、書生がその方へ歩いて往って中へ入った。書生の顔はもう自動車の中で黄いろな<ruby><rb>燈火</rb><rt>あかり</rt></ruby>の中に浮いていた。

「おい豆腐屋、今晩は世話になった、おかげで俺の<ruby><rb>敵</rb><rt>かたき</rt></ruby>は打った、まだ<ruby><rb>片割</rb><rt>かたわ</rt></ruby>れは二人残っているが、それは<ruby><rb>三月</rb><rt>みつき</rt></ruby>か<ruby><rb>四月</rb><rt>よつき</rt></ruby>の<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>だ、しかし、その時は、別にお前の手を借りなくても好いから、心配しなくって好い、では別れよう、別れの<ruby><rb>印</rb><rt>しるし</rt></ruby>に、それ、お前に見せてやるものがあるぞ」

主翁は書生の右の手に眼をやった。その<ruby><rb>掌</rb><rt>て</rt></ruby>の上には伯爵の首が乗っていた。

自動車はすこしの音もなく動き出した。

主翁は倒れてしまった。

「気が<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>いた、気が注いた、気が注いた」

悲痛な女の喜び声を聞いて主翁は眼を開けた。女房が<ruby><rb>己</rb><rt>じぶん</rt></ruby>の顔を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>き込んでいた。

「お前さん気がついたね、気もちはどうだね」

主翁は<ruby><rb>合点</rb><rt>がてん</rt></ruby>がいかなかった。主翁は眼をはっきり開けて<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>を見まわした。<ruby><rb>枕頭</rb><rt>まくらもと</rt></ruby>には心安い隣家の<ruby><rb>下駄屋</rb><rt>げたや</rt></ruby>の主翁や、<ruby><rb>荒物屋</rb><rt>あらものや</rt></ruby>の主翁などが二三人坐っていた。

「ぜんたいどうしたんだ、俺には判らねえが」

「では、気もちが好いのだね」

「なんともないよ、どうしたのだ」

「お前さんが表の戸を開けに往って、ひっくり<ruby><rb>顛</rb><rt>かえ</rt></ruby>ったきりで、判らなくなったから、お隣の方に来てもらったり、お<ruby><rb>医師</rb><rt>いしゃ</rt></ruby>を頼んだりして、大騒ぎしていたのだよ」

<ruby><rb>主翁</rb><rt>ていしゅ</rt></ruby>はそれではあの書生とお<ruby><rb>邸</rb><rt>やしき</rt></ruby>へ往っていたことは夢であったのかと思いだした。そう思うと主翁は安心してしまった。

「そうか、そうか、俺は、また、変な、とほうもない夢を見ていたのだ」

しかし、主翁はそのとほうもない夢のことは話さなかった。

その日の昼<ruby><rb>比</rb><rt>ごろ</rt></ruby>になって<ruby><rb>桐島</rb><rt>きりしま</rt></ruby>伯爵が<ruby><rb>歿</rb><rt>な</rt></ruby>くなったと云うことが聞えて来た。豆腐屋の主翁はそれを聞いて<ruby><rb>真青</rb><rt>まっさお</rt></ruby>な顔をした。

年が明けて春になったところで、桐島伯爵の未亡人と運転手が鎌倉の海岸で変死した。豆腐屋の主翁はその時分から気が変になった。