ぼつぼつではあるが<ruby><rb>街路</rb><rt>とおり</rt></ruby>の左右に<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>いた街路照明の電燈の<ruby><rb>燈</rb><rt>ひ</rt></ruby>を見ると菊江はほっとした。菊江はこの数年来の不景気のために建物の<ruby><rb>塞</rb><rt>ふさ</rt></ruby>がらない文化住宅の敷地の中を<ruby><rb>近路</rb><rt>ちかみち</rt></ruby>して来たところであった。

<ruby><rb>微曇</rb><rt>うすぐもり</rt></ruby>のした空に月があって虫の<ruby><rb>音</rb><rt>ね</rt></ruby>が一めんにきこえていた。<ruby><rb>街路</rb><rt>とおり</rt></ruby>には<ruby><rb>沙利</rb><rt>じゃり</rt></ruby>を敷いてあった。菊江はその<ruby><rb>街路</rb><rt>とおり</rt></ruby>を右の方へ往った。その<ruby><rb>街路</rb><rt>とおり</rt></ruby>に面した方にも処どころ空地があって、建物が並んでいないうえに、もう十時になっているので、郊外の<ruby><rb>新開町</rb><rt>しんかいまち</rt></ruby>はひっそりとしていた。

その<ruby><rb>街路</rb><rt>とおり</rt></ruby>は右の方へ<ruby><rb>半町</rb><rt>はんちょう</rt></ruby>ばかり往くと<ruby><rb>三叉路</rb><rt>さんさろ</rt></ruby>になって、左は暗いたらたらおりの<ruby><rb>街路</rb><rt>とおり</rt></ruby>になり、右は電車の停留場前になって、すこしの間ではあるが<ruby><rb>人道</rb><rt>じんどう</rt></ruby>と車道の区別をした広い<ruby><rb>街路</rb><rt>とおり</rt></ruby>には、その境界に植えた<ruby><rb>鈴懸</rb><rt>すずかけ</rt></ruby>の葉に電燈の<ruby><rb>燈</rb><rt>ひ</rt></ruby>が<ruby><rb>映</rb><rt>は</rt></ruby>えていた。そこには<ruby><rb>街路</rb><rt>とおり</rt></ruby>の左右に<ruby><rb>各種</rb><rt>いろいろ</rt></ruby>の商品がならんでいた。菊江はその商店の一軒に<ruby><rb>褐腐</rb><rt>こんにゃく</rt></ruby>を買いに往くところであった。父親が会社の用事で仙台方面へ出張して、母親と小さい弟しかいない<ruby><rb>留守許</rb><rt>るすもと</rt></ruby>で、母親が胃に故障を起して痛むのを温めるために褐腐と云うことになり、母親は弟を<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れて往けと云ったが、病人を一人<ruby><rb>遺</rb><rt>のこ</rt></ruby>しておくこともできないので、市内の会社の事務員として朝晩に通って慣れている<ruby><rb>路</rb><rt>みち</rt></ruby>であるから平気で出て来たものの不安であった。

十分おきに往来している電車の<ruby><rb>響</rb><rt>ひびき</rt></ruby>と発車を知らす笛の音が聞えて来た。広い<ruby><rb>街路</rb><rt>とおり</rt></ruby>へ折れて右側の人道を往くと、二人<ruby><rb>伴</rb><rt>づ</rt></ruby>れの<ruby><rb>壮</rb><rt>わか</rt></ruby>い男が前から<ruby><rb>街路</rb><rt>とおり</rt></ruby>の真中を歩いて来た。二人は酒に酔っているように高い声で話をしていた。菊江は<ruby><rb>平生</rb><rt>いつも</rt></ruby>のようにその酔っぱらいの声が<ruby><rb>厭</rb><rt>いと</rt></ruby>わしくなかった。二人伴れの男の<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>から二人の少年を伴れた女が来た。

菊江は<ruby><rb>雑貨店</rb><rt>あらものや</rt></ruby>のつぎの<ruby><rb>野菜店</rb><rt>やおや</rt></ruby>へ入ろうとして、ふと見ると、その野菜店の正面になった左側のカフェーの下にも二階にも客が<ruby><rb>数多</rb><rt>たくさん</rt></ruby>ある<ruby><rb>容子</rb><rt>ようす</rt></ruby>で、何か口ぐちに云うのに<ruby><rb>交</rb><rt>まじ</rt></ruby>って女の声もしていた。菊江はふとあの中にあの人もいるのではないかと思った。それは同じ会社にいるそこの電車のむこうにいる壮い男であった。菊江はもしあの人であったなら、<ruby><rb>己</rb><rt>じぶん</rt></ruby>がこうして夜おそく一人で用足しに来ていることを知ったなら、きっと<ruby><rb>門口</rb><rt>かどぐち</rt></ruby>まで送ってくれるだろうとおもった。菊江は白い小さな歯をした青年の口元を浮べたところで、己の足がもう<ruby><rb>野菜店</rb><rt>やおや</rt></ruby>の店の中へ入っているので、驚いて三個の<ruby><rb>褐腐</rb><rt>こんにゃく</rt></ruby>を買って、それを<ruby><rb>手巾</rb><rt>ハンカチ</rt></ruby>に<ruby><rb>包</rb><rt>くる</rt></ruby>んで出た。

菊江の眼にはすぐまたカフェーの<ruby><rb>燈</rb><rt>ひ</rt></ruby>が見えたが、立って見ているのも気がとがめるので、そのまま引返しながらまたあの青年のことを考えていたが、<ruby><rb>三叉路</rb><rt>さんさろ</rt></ruby>に近くなるに従ってその考えは薄らいで来た。それはまた路が不安になって来たがためであった。菊江は<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>を<ruby><rb>揮返</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>った。菊江は<ruby><rb>路伴</rb><rt>みちづ</rt></ruby>れになる人がないかと思ったのであった。<ruby><rb>雑貨店</rb><rt>あらものや</rt></ruby>の前に<ruby><rb>何人</rb><rt>だれ</rt></ruby>か一人立っているようであったが、それはこっちへ来る人のようでもなかった。右の方のたらたら降りの<ruby><rb>街路</rb><rt>とおり</rt></ruby>の方に靴音が聞えて、<ruby><rb>肥</rb><rt>ふと</rt></ruby>った労働者のような男がこっちへ向って来た。まだに<ruby><rb>麦稈</rb><rt>むぎわら</rt></ruby>のような夏帽子を被っている肥ったその男は、<ruby><rb>街路</rb><rt>とおり</rt></ruby>の真中を歩きながらこっちへ眼を持って来た。菊江は急いで往きちがった。

そこはもう<ruby><rb>三叉路</rb><rt>さんさろ</rt></ruby>であった。<ruby><rb>街路</rb><rt>とおり</rt></ruby>から往くと菊江の家は、右のほうになったそのたらたら降りの街路から往くのであった。で、菊江はすぐこっちから往こうかと思ったが、その<ruby><rb>路</rb><rt>みち</rt></ruby>は<ruby><rb>近路</rb><rt>ちかみち</rt></ruby>にくらべると二町あまりも遠かった。それに<ruby><rb>街路</rb><rt>とおり</rt></ruby>の上ではつまらないものの眼にも<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>きやすいと云う考えも起って不安であった。それは草の中の近路と同じような不安であった。それに<ruby><rb>微月</rb><rt>うすづき</rt></ruby>があって草の中の路も暗くはなかった。どうせ<ruby><rb>路伴</rb><rt>みちづ</rt></ruby>れがないなら路の近いほうが良いと思った。菊江はまた近路を往くことにして左の方の明りのある<ruby><rb>街路</rb><rt>とおり</rt></ruby>へ往った。

<ruby><rb>沙利</rb><rt>じゃり</rt></ruby>を敷いた路は思うように歩けなかった。左側の<ruby><rb>街路</rb><rt>とおり</rt></ruby>に沿うた方を低い土手にして<ruby><rb>庭前</rb><rt>にわさき</rt></ruby>を<ruby><rb>芝生</rb><rt>しばふ</rt></ruby>にしてある洋館の横手の方で犬の声がした。そこには<ruby><rb>頭髪</rb><rt>かみ</rt></ruby>を<ruby><rb>断</rb><rt>き</rt></ruby>った少女がいて、夕方芝生の上で犬と遊んでいることがあった。菊江は時おり会社の帰りに見ているので、その少女といっしょに小さくはあるが鹿のような形をしたその犬の姿をちらと思い浮べてみた。菊江は犬の姿から黒い正体の判らない影を描いた。菊江は<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>の方を<ruby><rb>揮返</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>った。何か怪しい者がつけていはしないかと思ったがためであった。

そこには何もいないので菊江は安心した。菊江は近路の<ruby><rb>草路</rb><rt>くさみち</rt></ruby>の入口に往っていた。小供の<ruby><rb>背丈</rb><rt>せだ</rt></ruby>けほどもある昼間見ると<ruby><rb>藜藿</rb><rt>あかざ</rt></ruby>のような草と<ruby><rb>粟粒</rb><rt>あわつぶ</rt></ruby>のような<ruby><rb>微紅</rb><rt>うすあか</rt></ruby>い実をつけた草がぎっしり生えた住宅地の入口に、人の足によって通じた<ruby><rb>一条</rb><rt>ひとすじ</rt></ruby>の路がうっすらと<ruby><rb>微月</rb><rt>うすづき</rt></ruby>の光に見えていた。菊江はその路に<ruby><rb>一足</rb><rt>ひとあし</rt></ruby>やってから後の方を揮返った。こっちの側の高圧線の電柱と街路照明の草色のペンキで塗った四角な電柱の並んだ傍に人影のような者があった。菊江はおやと思って見なおしたが、見なおした時にはもう何も見えなかった。

菊江は安心して草の中の<ruby><rb>路</rb><rt>みち</rt></ruby>へ入って往った。虫はさまたげるもののない各自の世界に胸を高くはって歌っていた。土の<ruby><rb>上</rb><rt>うわ</rt></ruby>っ<ruby><rb>面</rb><rt>つら</rt></ruby>を<ruby><rb>断</rb><rt>き</rt></ruby>り<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>った<ruby><rb>赭土</rb><rt>あかつち</rt></ruby>の肌の見えている処では、草は短くなってそこでは路があっちこっちに乱れていた。<ruby><rb>傍視</rb><rt>わきめ</rt></ruby>も<ruby><rb>揮</rb><rt>ふ</rt></ruby>らずに一心になって草の路を追っている菊江の耳に物の気配がした。菊江は無意識に<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>を<ruby><rb>揮返</rb><rt>ふりかえ</rt></ruby>った。そこにはすこし離れて歩いて来る者があった。菊江ははっと思って立ちどまった。背の高い<ruby><rb>痩</rb><rt>やせ</rt></ruby>ぎすな男の姿が<ruby><rb>朦朧</rb><rt>もうろう</rt></ruby>としてあらわれた。菊江は<ruby><rb>鬼魅</rb><rt>きみ</rt></ruby>が悪くなったので、急いですたすたと歩いた。

一段<ruby><rb>地所</rb><rt>じしょ</rt></ruby>が高くなって処どころ<ruby><rb>椎</rb><rt>しい</rt></ruby>の木を植えた処があった。菊江はそこの傾斜の<ruby><rb>赭地</rb><rt>あかつち</rt></ruby>の肌を<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>けあがりながら揮返った。背の高い痩せぎすな男の姿はすぐ後にあった。<ruby><rb>路通</rb><rt>みちどお</rt></ruby>りなら<ruby><rb>己</rb><rt>じぶん</rt></ruby>といっしょに駈け歩くはずがない。菊江の心は<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えたが、それでも菊江の心にはどこか余裕があった。路通りから己をつけている者かためしてみれば判ると思った。菊江はすぐ駈けあがった地所を右に切れて、そこの椎の木の下へ往って揮返った。背の高い痩ぎすな男の姿が己の駈けあがって来た傾斜の<ruby><rb>端</rb><rt>はし</rt></ruby>にあった。それはどうしても己をつけている悪漢であった。

菊江は椎の木の<ruby><rb>前</rb><rt>さき</rt></ruby>からまた赭土の傾斜をすべりおりるようにおりて、ちょっとはしって揮返った。背の高い痩ぎすな男の姿はまたそこの傾斜にあった。いよいよ悪漢であった。菊江は大声を立てて<ruby><rb>援</rb><rt>すく</rt></ruby>いを求めようとしたが、刑事か巡査が通っていないかぎり、人家はそれほど遠くないにしたところで、この夜更けにすぐ援いを求めることはできないうえに、声をたてたがために<ruby><rb>肴</rb><rt>さかな</rt></ruby>の傍に近づいた猫を追ったような結果にならないともかぎらないと云う<ruby><rb>懼</rb><rt>おそ</rt></ruby>れがあった。菊江はすたすたと歩きながら悪漢の手から逃れる<ruby><rb>工夫</rb><rt>くふう</rt></ruby>を考えた。

そこには<ruby><rb>瓦</rb><rt>かわら</rt></ruby>を<ruby><rb>葺</rb><rt>ふ</rt></ruby>いたばかりでそのままになっている建てかけの家があった。菊江はその建物の中に隠れるつもりかそのままその陰へ入って往った。菊江を追って来た背の高い痩ぎすな男は、続いて菊江の身を隠した家の下へ往って眼をやった。玄関の土間らしい月の光の<ruby><rb>朦朧</rb><rt>もうろう</rt></ruby>と<ruby><rb>射</rb><rt>さ</rt></ruby>した柱に<ruby><rb>添</rb><rt>そ</rt></ruby>うて、<ruby><rb>細面</rb><rt>ほそおもて</rt></ruby>の女が大きな舌、六七寸もありそうに思われる大きな長い舌をだらりとたれて立っていた。背の高い痩ぎすな男は、それを見るとわっと叫んでのけぞるように身を<ruby><rb>反</rb><rt>かえ</rt></ruby>して逃げだした。

政雄は<ruby><rb>錠前</rb><rt>じょうまえ</rt></ruby>をそのままにしてある雨戸をがたびしと開けて、物に追われるように土間へ入るなり、あわただしく<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>をびしりと閉めた。そこには商売用の<ruby><rb>雑貨</rb><rt>あらもの</rt></ruby>を並べた台が左右にあった。政雄はその間の狭い暗い処を通って急いで<ruby><rb>見附</rb><rt>みつけ</rt></ruby>の座敷にあがった。そこには老人夫婦の寝ている隣の<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>に<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>けた電燈がぼんやりした光を投げていた。政雄はそこの二階の六畳を借りているので、<ruby><rb>平生</rb><rt>いつも</rt></ruby>であったならそのままそこの右側に見えている<ruby><rb>梯子段</rb><rt>はしごだん</rt></ruby>をあがって往くのであるが、その晩はそのままあがらないで、

「<ruby><rb>姨</rb><rt>おば</rt></ruby>さん、もう寝たの」

と、落ちつきのない声をかけながら<ruby><rb>障子</rb><rt>しょうじ</rt></ruby>を<ruby><rb>啓</rb><rt>あ</rt></ruby>けた。内には老人夫婦がこっちの方へ頭をやって寝ていたが、二人ともまだ<ruby><rb>睡</rb><rt>ねむ</rt></ruby>らないで、老人は<ruby><rb>腹這</rb><rt>はらばい</rt></ruby>になって新聞を読んでいた。老人はちょっと顔をあげて<ruby><rb>眼鏡</rb><rt>めがね</rt></ruby>の上から<ruby><rb>上眼</rb><rt>うわめ</rt></ruby>で政雄の顔を<ruby><rb>透</rb><rt>すか</rt></ruby>すようにした。

「お入り、今しがた、横になったところだ」

政雄はもう<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>を閉めて室の中に入り、老人の左側に寝ている老婆の<ruby><rb>枕頭</rb><rt>まくらもと</rt></ruby>になった<ruby><rb>長火鉢</rb><rt>ながひばち</rt></ruby>の傍へ往って坐ったが、<ruby><rb>己</rb><rt>じぶん</rt></ruby>の傍に何物かが来ているかのようにきょときょとと身の<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>に眼をやった<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>に、室の中をまたきょときょとと見まわした。

「何かあったかね」

政雄の挙動に不審を抱いているように老人が云った。

「な、何もないさ」と、政雄は小さな声であわてたように云った。

「でも、へんだね」

「どんなにへんだろう」

「何かあったのじゃないか、また、自動車にでも乗ってて、人でも<ruby><rb>轢</rb><rt>し</rt></ruby>いたのじゃないかね」

政雄は自動車の運転手をしていたところで、ある<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>人を轢いたので、病院へ<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れて往くと云って、車は助手に運転さして<ruby><rb>前</rb><rt>さき</rt></ruby>に帰し、<ruby><rb>己</rb><rt>じぶん</rt></ruby>は怪我人を人通りのすくない処へ伴れて往って<ruby><rb>撲</rb><rt>なぐ</rt></ruby>りつけ、その場はうまく逃げていたのを<ruby><rb>捉</rb><rt>つか</rt></ruby>まって、免許状をとりあげられているものであった。

「ま、さ、か」と、政雄はおずおずと云った。<ruby><rb>平生</rb><rt>いつも</rt></ruby>であったらその老人の冗談を<ruby><rb>無駄口</rb><rt>むだぐち</rt></ruby>の<ruby><rb>端緒</rb><rt>いとぐち</rt></ruby>にして<ruby><rb>喋</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>りだすところであった。

「それが、どうもへんだよ」と、老人は老婆の方を向いて、「なあ婆さん、尾形の<ruby><rb>容子</rb><rt>ようす</rt></ruby>が、すこしへんじゃないか」

「そうね」左枕に寝て顔をむこうに向けていた老婆は、もぞりとこっちへ寝返りして政雄の顔を見あげるようにして、

「どうしたの、尾形さん、何かまたやったの」

「そ、そんなことがあるものか」

「じゃ、どうしたの、いつもの尾形さんじゃないじゃないの」

「いや、今晩は、みょうに<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>な晩だから」と、云って政雄は<ruby><rb>四辺</rb><rt>あたり</rt></ruby>をきょときょと見ていたが、「<ruby><rb>姨</rb><rt>おば</rt></ruby>さん、今晩は陰気でしょうがない、気のどくだが、二階へ往って、<ruby><rb>燈</rb><rt>ひ</rt></ruby>を<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>けてくれないか」

「どうしたと云うの、燈は点けてあげるが、おかしいじゃないの」

「べつになんでもないのだ、ただ暗いのが厭だから」

「そう、じゃ点けてあげよう」老婆は気軽く起きて、「まあ、まあ、おかしなことだ、尾形さんはどうしたと云うのだろう」と、云い云い障子を<ruby><rb>啓</rb><rt>あ</rt></ruby>けて出て往った。

「ぜんたいどうしたのだ」

老人は政雄に何か事情がありそうなので、<ruby><rb>間貸</rb><rt>まがし</rt></ruby>をしている責任者としての不安を感じているらしかった。

「なに、すこし気分が悪いからだよ、神経衰弱かなんかだろう」

「そうかね、警察ざたかなんかでなけりゃいいや」

「そんなことがあるものか、そんなことは決してない」

「そんなことなら良いが、へんだからさ、そんじゃもう寝るがいい」

「そうだ、もう寝よう」

政雄は<ruby><rb>機仕掛</rb><rt>ばねじかけ</rt></ruby>の人形のようにきょとんと<ruby><rb>起</rb><rt>た</rt></ruby>って、<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>の外へ出るなり<ruby><rb>階子段</rb><rt>はしごだん</rt></ruby>を<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>けあがった。二階では親切な老婆が<ruby><rb>燈</rb><rt>あかり</rt></ruby>を点けたついでに寝床をとってくれていた。

「ありがとう」

政雄はそのまま寝床の中へもぐり込んで<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>を頭から<ruby><rb>冠</rb><rt>かぶ</rt></ruby>ってしまった。

「尾形さんは、今晩どうしたのだろう」

老婆はそう云い云い下へ降りて往った。政雄は死んだ人のようになって動かなかった。政雄の頭には大きな長い舌が焼きつけられていた。政雄は運転手の免許状をとりあげられて運転手ができないので、郊外の自動車会社に助手として雇われようと思って、その町へ移って来て口を探しているうちに女を襲うようになっていた。政雄はその晩既に<ruby><rb>宵</rb><rt>よい</rt></ruby>の<ruby><rb>口</rb><rt>くち</rt></ruby>に隣町の淋しい処で女を襲おうとしたが、人が来たので逃げ、それから近くのカフェーへ入って酒を飲みながら夜を<ruby><rb>更</rb><rt>ふ</rt></ruby>かし、そして、電車で帰って<ruby><rb>停車場</rb><rt>ていしゃば</rt></ruby>を出たところで一人で歩いている女を見て、それを襲おうとして<ruby><rb>怪異</rb><rt>かいい</rt></ruby>を見たのであった。政雄は蒲団から頭を出すことができなかった。

大きな長い舌の女、<ruby><rb>細面</rb><rt>ほそおもて</rt></ruby>のその女の顔は、<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いて風呂敷包みを持った女学生か事務員のように見えていた。宵の口に襲おうとした女とつながって来た。政雄は<ruby><rb>己</rb><rt>じぶん</rt></ruby>の傍にはもう宵の口から怪しいものがつきまとっていたと云うように思いだした。政雄は老人夫婦の傍にいる時には、怪しいものに対する恐怖と罪悪の露見に対する恐怖で混惑していたが、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>の間にか罪悪に対する恐怖は無くなって、怪しいものに対する恐怖ばかりになっていた。大きな長い舌は政雄の頭をせめさいなんだ。

政雄はそのうちに便所に往きたくなって来たが、蒲団の外に大きな長い舌がだらりと垂れているような気がするので、蒲団から顔を出すことができなかった。政雄は朝まで我慢しようと思ってこらえながら、早く夜が明けてくれれば良いがと夜の明けるのを待っていた。そして、その苦しみのうちにうとうととしていると、貨物自動車であろう大きな<ruby><rb>響</rb><rt>ひびき</rt></ruby>をたてながら車が通って往った。毎朝聞きつけている青物市場に往く青物を積んだ自動車なら五時<ruby><rb>比</rb><rt>ごろ</rt></ruby>であった。青物の自動車が通れば朝の早い下の老人が間もなく起きることになっているので、政雄はやや<ruby><rb>人心地</rb><rt>ひとごこち</rt></ruby>がつくとともに小便の苦しみがもうたえられなくなった。政雄は思いきって起きて<ruby><rb>階子段</rb><rt>はしごだん</rt></ruby>を<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>けおりた。下には電燈が<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>いていた。<ruby><rb>平生</rb><rt>いつも</rt></ruby>点けっぱなしにしない電燈が点いているのは老人がもう起きている証拠だと思って政雄は<ruby><rb>心丈夫</rb><rt>こころじょうぶ</rt></ruby>に思った。政雄は安心してそこの往き詰めの開き戸を<ruby><rb>啓</rb><rt>あ</rt></ruby>けて<ruby><rb>微暗</rb><rt>うすぐら</rt></ruby>い<ruby><rb>縁側</rb><rt>えんがわ</rt></ruby>に出、その<ruby><rb>見附</rb><rt>みつけ</rt></ruby>にある便所の戸を啓けた。と、その時便所の中から出て来たものがあった。政雄はびっくりしてその顔を見た。それは<ruby><rb>細面</rb><rt>ほそおもて</rt></ruby>の大きな長い舌を出した女であった。政雄は一声叫ぶなりそこへ倒れてしまった。

政雄はそのうちに意識がよみがえって来た。大きな長い舌がそこにだらりと垂れていた。政雄はまた叫んで逃げようとした。

「尾形さん、どうしたのだ」

政雄は<ruby><rb>何</rb><rt>な</rt></ruby>んかにつかまえられていて動けなかった。政雄は老人夫婦の<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>に寝かされている<ruby><rb>己</rb><rt>じぶん</rt></ruby>を見た。

「尾形さん、どうしたの、私が便所から出ると、びっくりして倒れたのですが」

それは老婆の声であった。政雄は便所から出て来た老婆の顔に怪異を見て気絶したのであった。

政雄はその日から<ruby><rb>痴</rb><rt>ばか</rt></ruby>のようになって雑貨店の二階に寝ていたが、十日位してやっと精神が<ruby><rb>平常</rb><rt>もと</rt></ruby>に<ruby><rb>復</rb><rt>ふく</rt></ruby>して来た。精神が<ruby><rb>平常</rb><rt>もと</rt></ruby>に復して来ると<ruby><rb>安閑</rb><rt>あんかん</rt></ruby>としてはいられなかった。政雄は就職口を探さなくてはならなかった。政雄はまた外に出るようになったが、大きい長い舌が<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>も頭にあるので日の暮れないうちに帰って来た。

政雄はそうして五六日就職口を探して歩いたが、思わしい口がないうえに<ruby><rb>小遣銭</rb><rt>こづかいせん</rt></ruby>もなくなったので、もと<ruby><rb>己</rb><rt>じぶん</rt></ruby>の助手に使っていたことのある運転手のことを思いだして往ってみた。政雄に同情を持っていた<ruby><rb>対手</rb><rt>あいて</rt></ruby>の運転手は政雄をカフェーへ<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れて往って<ruby><rb>饗応</rb><rt>ごちそう</rt></ruby>をしてくれたので、それがために遅くなって宿へ帰ったのは夜の十一時<ruby><rb>比</rb><rt>ごろ</rt></ruby>であったが、それ以来政雄は夜も出歩くようになった。

政雄は郊外の町と市の間を往復することになった新設の乗合自動車会社へ紹介せられて往ってみるとすぐ相談が出来た。政雄は心のどこかにくつろぎができると共に、家へ帰って冷たい残飯で<ruby><rb>夕飯</rb><rt>ゆうめし</rt></ruby>を<ruby><rb>喫</rb><rt>く</rt></ruby>うのが<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>になったので、カフェーに入って夕飯を喫い、八時比になって良い気もちで帰っていると、<ruby><rb>縁日</rb><rt>えんにち</rt></ruby>であろう両側に<ruby><rb>露店</rb><rt>ろてん</rt></ruby>が並んで人の出さかっている<ruby><rb>街路</rb><rt>とおり</rt></ruby>へ出た。

政雄はそれが面白いのでその人波の中に入って、どこへ往くともなしに往っていると、<ruby><rb>街路</rb><rt>とおり</rt></ruby>の右側が空地になって人波の<ruby><rb>淀</rb><rt>よど</rt></ruby>んでいる処があった。そこには二三<ruby><rb>箇処</rb><rt>かしょ</rt></ruby>にヤッチャ<ruby><rb>場</rb><rt>ば</rt></ruby>があってそれぞれ人を集めていた。政雄の目についたのはシャツを売る店であった。シャツ売の商人は、大きな声で<ruby><rb>喚</rb><rt>わめ</rt></ruby>いていた。政雄も一つシャツが欲しかったが、そこで買おうとは思わなかった。

威勢の良いシャツ売の方を見ていた政雄は、何かの拍子にふと<ruby><rb>己</rb><rt>じぶん</rt></ruby>の前を見た。そこに<ruby><rb>壮</rb><rt>わか</rt></ruby>い小柄な女が立って、その両方に学生風の青年が立っていたが、挙動が<ruby><rb>怪</rb><rt>あや</rt></ruby>しいので注意すると、二人の青年はその女に<ruby><rb>某種</rb><rt>あるしゅ</rt></ruby>の手段を用いているところであった。それを見ると政雄の好奇心が動いて来た。政雄はそっと右の手を女の<ruby><rb>帯際</rb><rt>おびぎわ</rt></ruby>にやった。と<ruby><rb>温</rb><rt>あたたか</rt></ruby>な指がそれにかかった。政雄は反響があったと思ったので、<ruby><rb>三足</rb><rt>みあし</rt></ruby>ばかり右の方へ寄って待っていた。と、女がそれとなしに青年の間を<ruby><rb>脱</rb><rt>ぬ</rt></ruby>けて寄って来た。政雄は女はたしかに己のものだと思った。政雄は空地と人家の間になった狭い<ruby><rb>横町</rb><rt>よこちょう</rt></ruby>の方へ歩いた。そして、<ruby><rb>揮</rb><rt>ふ</rt></ruby>り返ってみると、女が来るようにないので、さてはこちらの思い違いであったのかと、軽い失望を感じながら歩くともなしに歩いていると、<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>から来て<ruby><rb>己</rb><rt>じぶん</rt></ruby>を追い越して往くものがあった。見るとそれは<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>の女であった。政雄は喜んで女から一<ruby><rb>間</rb><rt>けん</rt></ruby>ばかり離れて歩いた。

女はその横町を往って<ruby><rb>四辻</rb><rt>よつつじ</rt></ruby>に出ると、左の方に折れて往った。そこは狭い<ruby><rb>門燈</rb><rt>もんとう</rt></ruby>もぼつぼつしかない暗い横町であった。政雄はそこで声をかけようと思ったが、女が何か<ruby><rb>憚</rb><rt>はばか</rt></ruby>っているような風であるから黙って<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>いて往った。

<ruby><rb>街路</rb><rt>とおり</rt></ruby>の左右に<ruby><rb>櫟林</rb><rt>くぬぎばやし</rt></ruby>を見るようになった。政雄はもう人家が無くなるだろうと思っていると、<ruby><rb>街路</rb><rt>とおり</rt></ruby>の右側に石の新らしい<ruby><rb>鳥居</rb><rt>とりい</rt></ruby>に電燈を一つとりつけてあるのが見えた。政雄の<ruby><rb>縦</rb><rt>ほしいまま</rt></ruby>な心が高ぶっていた。政雄は女にぴったり寄った。

「<ruby><rb>静</rb><rt>しずか</rt></ruby>な処じゃありませんか」

政雄はそう云って女に云いよる糸口を作ろうとした。と、女は鳥居の方へ<ruby><rb>一足</rb><rt>ひとあし</rt></ruby>折れながら<ruby><rb>揮</rb><rt>ふ</rt></ruby>り返った。<ruby><rb>細面</rb><rt>ほそおもて</rt></ruby>の女の顔には大きな長い舌がだらりと垂れていた。政雄はわっと叫んで逃げ出した。

政雄は発狂して町の中を<ruby><rb>駈</rb><rt>か</rt></ruby>け歩いている処を警官に見つかって警察の保護を受け、精神病院の<ruby><rb>施療室</rb><rt>せりょうしつ</rt></ruby>へ送られた。政雄が発狂してから数日して、菊江の両親の<ruby><rb>許</rb><rt>ゆるし</rt></ruby>を得て初めて菊江の家を訪問した<ruby><rb>壮</rb><rt>わか</rt></ruby>い会社員は、己の下宿の近くの雑貨店の二階を借りていた男が、女の怪異を見て発狂したと云う話をしたので、菊江は<ruby><rb>褐腐</rb><rt>こんにゃく</rt></ruby>の<ruby><rb>奇計</rb><rt>きけい</rt></ruby>を話して笑った。