明治五年<ruby><rb>比</rb><rt>ごろ</rt></ruby>の晩春の夕方、<ruby><rb>伊良湖岬</rb><rt>いらこざき</rt></ruby>の手前の<ruby><rb>磯</rb><rt>いそ</rt></ruby>に寄せて来た漁船があった。それは<ruby><rb>参宮</rb><rt>さんぐう</rt></ruby>帰りの客を乗せたもので、五十前後に見える父親と、<ruby><rb>二十歳</rb><rt>はたち</rt></ruby>位になる<ruby><rb>忰</rb><rt>せがれ</rt></ruby>の二人<ruby><rb>伴</rb><rt>づれ</rt></ruby>であった。

舟は波のうねりのすくない岩陰に<ruby><rb>繋</rb><rt>つな</rt></ruby>がれて<ruby><rb>陸</rb><rt>おか</rt></ruby>へは<ruby><rb>橋板</rb><rt>はしいた</rt></ruby>が渡された。その舟には顔の渋紙色をした六十に近い老人と三十位の<ruby><rb>巌丈</rb><rt>がんじょう</rt></ruby>な男が<ruby><rb>艪</rb><rt>ろ</rt></ruby>を漕ぎ、十八九に見える女が炊事をやっていた。老人は<ruby><rb>伯父</rb><rt>おじ</rt></ruby>で巌丈な男と女は兄弟であるらしい。女が<ruby><rb>艫</rb><rt>とも</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>の<ruby><rb>竈</rb><rt>へっつい</rt></ruby>で<ruby><rb>焚</rb><rt>た</rt></ruby>く火の煙がうっすらと空にあがるのが見られた。

<ruby><rb>胴</rb><rt>どう</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に忰と坐っていた客は、この時小便を催したと見えて<ruby><rb>陸</rb><rt>おか</rt></ruby>へあがって往った。忰は横に寝そべって何を考えるともなしにうとうとしていた。と、その忰の耳へ女の声が聞えて来た。

「……やめておくれよ、やめておくれよ、<ruby><rb>兄</rb><rt>あに</rt></ruby>さん、お願いじゃからよ、兄さん、私は承知せんよ」

兄の声がした。

「<ruby><rb>女子</rb><rt>おなご</rt></ruby>の知ったことか、だまれ」

「だまらんよ、私はそんなことは嫌いじゃ、そんな恐ろしいことは……」

「あほう、何をぬかす、だまれ、だまらんと<ruby><rb>豪</rb><rt>えら</rt></ruby>い目に<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>わすぞ」

「逢わされてもかまわん、私はそんなことは嫌いじゃよ」

<ruby><rb>伯父</rb><rt>おじ</rt></ruby>の声がその<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>に聞えた。

「お<ruby><rb>民</rb><rt>たみ</rt></ruby>、もうええ、云うな、云わいでもええ」

「そんなら伯父さん、私の頼みを聞いてくれますか」

「ええ、判っちょる、云うな」

兄の声が聞えた。

「あほう、そんなことを云うひまに、お客さんに茶でもあげえ」

<ruby><rb>忰</rb><rt>せがれ</rt></ruby>は何を云っているか判らない船頭一家の話を切れ切れに聞いていたが、そのうちに胴の間へ来る軽い<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>がするのでふりかえった。女が茶を持って来たところであった。

「お客さん、お茶をあげましょう」

女はそう云って忰の前に行儀好く坐った。

「これはありがとう」

忰は起きて坐りなおした。

「<ruby><rb>御膳</rb><rt>おぜん</rt></ruby>も出来ました、すぐこれからあげます」

<ruby><rb>陸</rb><rt>おか</rt></ruby>へ往っていた父親が橋板を渡って帰って来た。それと同時に女は腰をあげたが、腰をあげながら忰の顔をじっと見た。忰はその白い顔を見返した。

「船頭さん、<ruby><rb>明日</rb><rt>あす</rt></ruby>はどうじゃろう、やっぱり風が無いじゃろうか」

父親の声に<ruby><rb>年老</rb><rt>としと</rt></ruby>った船頭のしゃがれた声が答えた。

「明日は大丈夫じゃ、この雲は夜中<ruby><rb>比</rb><rt>ごろ</rt></ruby>から晴れて、二番<ruby><rb>鶏</rb><rt>どり</rt></ruby>時分から風になるよ、<ruby><rb>潮</rb><rt>しお</rt></ruby>もなおるし、明日は日の高いうちに豊橋へ着く、今日のように、潮の悪いことはめったにない」

「そうかなあ、舟の上が長いとたまらない、明日は早く豊橋へ帰りたいもんじゃが」

「帰れるとも、<ruby><rb>飯</rb><rt>めし</rt></ruby>でも<ruby><rb>喫</rb><rt>くっ</rt></ruby>て、ゆっくり休むが<ruby><rb>良</rb><rt>え</rt></ruby>え、朝、眼を覚した時分には、舟はもう走りよる、飯は途中で炊いて、ぬくぬくを喫わせる」

「そう云ってくれると、云うことはないが、しかし、海に巧者な船頭さんの云うことじゃ」

父親はやっとこさと胴の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>へ入って<ruby><rb>忰</rb><rt>せがれ</rt></ruby>の前へ坐った。忰はびっくりしたようにして父親を見た。

「お民、お客さんが酒を飲むようなら、沸かしてあげろ、まだ俺と<ruby><rb>伯父</rb><rt>おじ</rt></ruby>さんと飲うだ残りが、一合や二合はあるじゃろう」

それは<ruby><rb>壮</rb><rt>わか</rt></ruby>い船頭が女に云っている声であった。父親はそれが嬉しかった。

「それはありがたい、私は、一合あるならけっこうじゃ、売って貰おう」

父親は<ruby><rb>艫</rb><rt>とも</rt></ruby>の暗い方を見て云った。

「なに、売るも売らんもない、<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>の飲み残りがあるからあげましょう、私と伯父は、買いに往くが面倒じゃから、これから<ruby><rb>陸</rb><rt>おか</rt></ruby>へあがって飲うで来る」

「<ruby><rb>陸</rb><rt>おか</rt></ruby>に飲む処があるかな」

「ありますとも、船頭の骨休めをする処じゃ、なんでもありますよ」

「そうかなあ、昼だとちょとあがって見て来るが、夜はめんどうじゃ、その酒を売ってもろうて、一杯やって寝るとしよう」

<ruby><rb>忰</rb><rt>せがれ</rt></ruby>の方は思いだしたように茶碗を持って茶を飲んだが、立って往く時に<ruby><rb>己</rb><rt>じぶん</rt></ruby>の顔をじっと<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>き込んで往った女の眼がどこかにこびりついていた。

「茶があったか、一日、海の上におると、<ruby><rb>咽喉</rb><rt>のど</rt></ruby>が乾くものじゃ」

父親は我が子をいたわるように云った。

「今、持って来てくれました、お父さんは」

忰は己一人が飲んでは悪いと思った。

「なに、俺は酒がある、茶を飲むと旨くない」

<ruby><rb>燈</rb><rt>ひ</rt></ruby>の光が<ruby><rb>周囲</rb><rt>まわり</rt></ruby>を明るく見せた。女が<ruby><rb>手燭</rb><rt>てしょく</rt></ruby>の燈を<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>けて持って来たところであった。

「ほう、燈が点いたか、舟の上で燈を点けると、<ruby><rb>舟遊山</rb><rt>ふなゆさん</rt></ruby>をするようじゃ」

父親はそう云い云い女の顔を見た。

「<ruby><rb>御膳</rb><rt>おぜん</rt></ruby>もできておりますから、お酒が沸いたらすぐ持って来ます」

女は手燭を二人の傍へ置いて引返したが、引返す拍子にまたちらと忰の顔を見た。忰はきまりが悪いので<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>いて空になった茶碗に眼をやった。

「面倒をかけますな」

女は何か云って会釈しながら<ruby><rb>艫</rb><rt>とも</rt></ruby>の方へ往ったが、すぐ一つの膳へ魚の煮たのを盛った皿や、<ruby><rb>飯</rb><rt>めし</rt></ruby>のつけてある茶碗などを乗せて<ruby><rb>燗鍋</rb><rt>かんなべ</rt></ruby>といっしょに持って来た。

「これはありがたい、この舟は他の舟と<ruby><rb>違</rb><rt>ちご</rt></ruby>うて、<ruby><rb>姐</rb><rt>ねえ</rt></ruby>さんのような人がおるから、何もかもが往きとどいておる」

父親は女にあいそを云い云い<ruby><rb>燗鍋</rb><rt>かんなべ</rt></ruby>の酒を、<ruby><rb>杯</rb><rt>さかずき</rt></ruby>へ<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>いで飲んだ。

「お前は<ruby><rb>飯</rb><rt>めし</rt></ruby>をやれ」

<ruby><rb>忰</rb><rt>せがれ</rt></ruby>は父親にそう云われても傍にいる女にきまりが悪いので手が出なかった。

「お民、おい、お民」

<ruby><rb>壮</rb><rt>わか</rt></ruby>い船頭の女を呼ぶ声がした。女は<ruby><rb>煩</rb><rt>うるさ</rt></ruby>そうに<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>の方へ顔を向けた。

「なに」

「俺と<ruby><rb>伯父</rb><rt>おじ</rt></ruby>さんとは、これから<ruby><rb>陸</rb><rt>おか</rt></ruby>へ往って来る、お客さんが、飯がすんだら、<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>をかけて、<ruby><rb>苫</rb><rt>とま</rt></ruby>を立ててあげろ、苫を立てんと風邪を引く」

「<ruby><rb>良</rb><rt>い</rt></ruby>いよ、私が良いようにしてあげるから、そのかわり私がさっき頼んだことを聞いておくれよ」

女の声はみょうに重おもしかった。

「良いよ、判ったよ、判ったから、おとなしく番をしておれ、<ruby><rb>女子</rb><rt>おなご</rt></ruby>の癖に余計な口をたたくな」

女はもう何も云わなかった。船頭同志はがたがたと<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>をさしながら橋板を渡って往った。その二人の黒い影が<ruby><rb>鬼魅</rb><rt>きみ</rt></ruby>悪く忰の眼に見えた。

「船頭さんは、これでなかなか面白いことがあるな」

父親は二三杯の酒を飲んで好い気もちになっていた。

「お客さん、ちょっと往って来ます、なにかすることがあるなら、その小供にそう云うておくれ、遠慮はいらない、<ruby><rb>甥</rb><rt>おい</rt></ruby>と二人で一杯やったらすぐ戻って来る」と、しゃがれた声で云って客の返事も待たずに、

「このむきなら、<ruby><rb>明日</rb><rt>あす</rt></ruby>は<ruby><rb>良</rb><rt>え</rt></ruby>え<ruby><rb>追手</rb><rt>おいて</rt></ruby>じゃ……」

もうむこうの<ruby><rb>崖</rb><rt>がけ</rt></ruby>へあがったのか船頭の声は遠くなって聞えた。<ruby><rb>陸</rb><rt>おか</rt></ruby>のほうには三つ四つの<ruby><rb>燈</rb><rt>ひ</rt></ruby>が見えた。父親は船頭に返事をしようとした<ruby><rb>詞</rb><rt>ことば</rt></ruby>を控えて女の顔を見た。

「あの船頭さんは、<ruby><rb>年老</rb><rt>としと</rt></ruby>った方の船頭さんは、お前さんの<ruby><rb>伯父</rb><rt>おじ</rt></ruby>さんかね」

「伯父でございます、一人は兄でございますが、二人とも困ったものでございます」

父親にはその困ったと云う意味が判らなかった。

「二人が大酒でも飲むかな」

「大酒と云うでもありませんが……」

女はそれからうえ云うのを<ruby><rb>厭</rb><rt>いと</rt></ruby>うように口をつぐんだ。父親はふと伯父<ruby><rb>甥</rb><rt>おい</rt></ruby>で<ruby><rb>陸</rb><rt>おか</rt></ruby>へあがって道楽でもするのであるまいかと思った。

「二人で道楽でもするかな」

女はちょっと考えるようにして云った。

「そうでございます、道楽をしたり、酒を飲んだり、困ります」

「まあ、こうした商売をしておると、すこしはしかたがないだろうが、<ruby><rb>姐</rb><rt>ねえ</rt></ruby>さんは、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>もこの舟におるかな」

「はい、家に<ruby><rb>何人</rb><rt>だれ</rt></ruby>もおりませんから、舟におります」

「家はどこだな」

「<ruby><rb>鳥羽</rb><rt>とば</rt></ruby>の近くでございます」

「鳥羽の近く」

父親はそう云いながらまだ<ruby><rb>飯</rb><rt>めし</rt></ruby>を<ruby><rb>喫</rb><rt>く</rt></ruby>わずにいる<ruby><rb>忰</rb><rt>せがれ</rt></ruby>に気が<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>いた。

「飯をやったらどうだ」

「<ruby><rb>喫</rb><rt>た</rt></ruby>べましょう」

忰はやっと茶碗を持った。

「今<ruby><rb>飯鉢</rb><rt>めしばち</rt></ruby>と茶を持って来ます」

女は忰の方をちょっと見てから立って<ruby><rb>艫</rb><rt>とも</rt></ruby>の方へ往った。

「船頭なんて云う者は、皆ああしたものだよ」

父親は小さな声で<ruby><rb>嘲</rb><rt>あざけ</rt></ruby>るように云った。

「そうですかなあ」

忰は女に心を引きつけられていて父親の云ったことははっきり判らなかった。

「あんな者を、親や兄弟に持っておる、あの小供が可哀そうじゃな」

女の子が飯鉢と<ruby><rb>土瓶</rb><rt>どびん</rt></ruby>を持って来たので父親は澄ました顔をして残りの酒を飲んだ。

「わしも飯をもらおう。良い気もちになった」

「まだお酒がすこしありますが、沸かしましょうか」

「もうけっこう、わしは一合で多すぎるくらいじゃ」

「では、ここへ<ruby><rb>飯鉢</rb><rt>めしばち</rt></ruby>と茶を置きますから、どうぞごゆっくり」

女は<ruby><rb>艫</rb><rt>とも</rt></ruby>の方へ引きさがって往った。<ruby><rb>忰</rb><rt>せがれ</rt></ruby>はその女の小さな足をちょっと見てから魚の肉をつっついて口に入れた。魚の肉は旨かった。忰は女の見ないうちにと思って急いで<ruby><rb>飯</rb><rt>めし</rt></ruby>をかき込んだ。

忰はもう箸を置いていた。彼は父親が落ちつき澄まして飯を<ruby><rb>喫</rb><rt>く</rt></ruby>っているのが憎いような気がした。

「お父さん、舟の中はなんだかきゅうくつじゃありませんか」

父親は旨そうにむしゃむしゃと飯を喫っていて顔をあげなかった。

「今晩、一晩の辛抱じゃ、<ruby><rb>明日</rb><rt>あす</rt></ruby>の晩は、ゆっくりと手足を延ばして休めるぞ」

「<ruby><rb>陸</rb><rt>おか</rt></ruby>へあがりたいなあ」

「こんな処で、宿屋へ入ったら、高い金を<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>られる、もう一晩の辛抱じゃ」

「宿屋じゃありませんよ、ただ<ruby><rb>陸</rb><rt>おか</rt></ruby>へあがって歩きたいですよ」

「道の不案内な処は油断がならんよ」

「なに、こんな狭い処じゃ、迷うてもそれほどのことはありませんよ」

「お前が往きたけりゃ、往っても良いが、足もとがあぶないぞ」

「往っても良いなあ、ちょっとその辺を見て来ましょうか」

しかし、忰は女を離れて遠くへ往く気はしなかった。父親は最後の飯に<ruby><rb>土瓶</rb><rt>どびん</rt></ruby>の茶を入れて喫った。

「海の中へ落ちんように、気を<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>けて往って来い」

「往きましょうか」

「それなら往け、しかし、つまらんものを<ruby><rb>買</rb><rt>こ</rt></ruby>うちゃいかんぞ」

「なにも<ruby><rb>買</rb><rt>かい</rt></ruby>やしませんよ」

「それならちょと往って、その辺を見てすぐ戻って来い」

「往って来ます」

<ruby><rb>忰</rb><rt>せがれ</rt></ruby>は云いがかりじょうすこしでも<ruby><rb>陸</rb><rt>おか</rt></ruby>へあがって来なくてはならなくなった。彼はそこにあった<ruby><rb>草履</rb><rt>ぞうり</rt></ruby>を引っかけて橋板に足をかけたが、女はどうしているだろうかと思ってちょと見た。暗い<ruby><rb>艫</rb><rt>とも</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に白い顔が見えていた。忰は親しそうなその顔に何か云おうとしたが、云うのがきまりが悪いのでそのままむこうへ渡って往った。

「おい、よく気を<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>けんといかんぞ」

父親の云う声がした。

「大丈夫ですよ」

忰は父親よりも女に聞いてもらいたいと云うような気もちで、返事をしいしい崖の上へあがった。

「すぐ戻って来いよ」

また父親の声がした。忰はもう返事をせずに崖をあがって往った。崖の石の上には<ruby><rb>微月</rb><rt>うすづき</rt></ruby>の光のような<ruby><rb>微白</rb><rt>ほのじろ</rt></ruby>い光があった。

すぐ<ruby><rb>燈</rb><rt>ひ</rt></ruby>の明るい家が来て二三人の人声がしていた。それは酒に酔うているらしい声であった。忰は<ruby><rb>己</rb><rt>じぶん</rt></ruby>の舟の船頭の来ている家でないかと思ったが、それ以上に好奇心は起らなかった。

忰の心は女の方へ往った。彼は舟が<ruby><rb>陸</rb><rt>おか</rt></ruby>へ着いた<ruby><rb>比</rb><rt>ころ</rt></ruby>からみょうにからまって来た女の<ruby><rb>素振</rb><rt>そぶり</rt></ruby>をはっきり心に映していた。眼、<ruby><rb>眉</rb><rt>まゆ</rt></ruby>、<ruby><rb>脣</rb><rt>くちびる</rt></ruby>、皆意味のあるものであった。彼はどうかして女と二人で話したいと思った。あの<ruby><rb>伯父</rb><rt>おじ</rt></ruby>と兄はまだ<ruby><rb>暫</rb><rt>しばら</rt></ruby>く帰らないであろうから、父親さえ早く寝てくれるなら話はできると云う考えが浮んで来た。

<ruby><rb>忰</rb><rt>せがれ</rt></ruby>はそのまま<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>に引返して、でこぼこの<ruby><rb>石高路</rb><rt>いしたかみち</rt></ruby>をおりて往った。<ruby><rb>蟇</rb><rt>がま</rt></ruby>の<ruby><rb>蹲</rb><rt>うずくま</rt></ruby>ったように見える小屋の傍を廻っておりて往くと、もう舟のある処であった。忰は足を止めて舟の中を見た。<ruby><rb>手燭</rb><rt>てしょく</rt></ruby>の光が<ruby><rb>微</rb><rt>かすか</rt></ruby>に<ruby><rb>胴</rb><rt>どう</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に見えているのみで父親は寝たのか姿は見えなかった。

橋板に軽く<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>がしてこっちへ来る者があった。忰は心をどきどきさして立っていた。その眼に白い女の顔が見えて来た。忰は何か云おうと思ったが云えなかった。

女は眼の前に来た。

「あの、すこしあなたに」

忰はなるたけ落ちついていようと思った。

「なにか、私に」

「どうしても話さねばならないことがありまして」

「どんなことです」

「すこしみょうなことでございますから」

女の声は苦しそうであった。忰は<ruby><rb>己</rb><rt>じぶん</rt></ruby>の期待にはずれたように思った。

「なんですか」

「すこしみょうなことでございますから」

女は息苦しいように云って前へ歩いた。忰は不審しながら<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>いて往った。

小さな木の生えた間をすこし往くと大きな黒い岩があった。女はそこで足を止めた。

「どうぞ、ここへ」

<ruby><rb>忰</rb><rt>せがれ</rt></ruby>は女の云うままにそこへ<ruby><rb>蹲</rb><rt>しゃが</rt></ruby>みながら同じように<ruby><rb>己</rb><rt>じぶん</rt></ruby>の前へ蹲んだ女の顔を見た。

「なんですか」

「すこしみょうなことでございます」

そう云って女は何か<ruby><rb>躊躇</rb><rt>ちゅうちょ</rt></ruby>したが、そのうちに<ruby><rb>啜</rb><rt>すす</rt></ruby>り泣きをはじめた。忰はびっくりした。

「なんですか」

「こんなことを申しますと、<ruby><rb>貴郎</rb><rt>あなた</rt></ruby>はびっくりしましょうが、私の<ruby><rb>伯父</rb><rt>おじ</rt></ruby>と兄は、<ruby><rb>真人間</rb><rt>まにんげん</rt></ruby>じゃありません、伯父と兄は、恐ろしい<ruby><rb>盗人</rb><rt>ぬすっと</rt></ruby>でございます、船頭になって貴郎方を<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れて来て、殺してものを<ruby><rb>奪</rb><rt>と</rt></ruby>ろうとしております」

忰の体は<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>えた。

「私がおりますから、どんなことがあっても、貴郎方の御迷惑になるようなことはありませんが、ほんとうは恐ろしい盗人でございます、早く貴郎に知らそうと思いましたが、知らして<ruby><rb>陸</rb><rt>おか</rt></ruby>から逃げて往くようなことがあると、<ruby><rb>陸</rb><rt>おか</rt></ruby>には仲間がおって見張をしておりますから、<ruby><rb>却</rb><rt>かえっ</rt></ruby>てあぶのうございます、それであなたに、<ruby><rb>先</rb><rt>ま</rt></ruby>ず知らした後で、お父さんに話して、伯父と兄をどうかしておいて、貴郎方を舟で逃がそうと思うております、これから舟へ往って、三人で相談しましょう、どうか騒がずにいてくださいませ」

「じっとしておるよ、じっとしておるとも、大丈夫だろうか」

<ruby><rb>忰</rb><rt>せがれ</rt></ruby>の声は乱れていた。

「大丈夫でございますが、私も<ruby><rb>貴郎</rb><rt>あなた</rt></ruby>方に、<ruby><rb>伯父</rb><rt>おじ</rt></ruby>と兄の悪いことを知らしたからには、もう伯父や兄と顔を<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>わせることができません、どうかその時は、私を助けてくださいませ」

「助けるとも、お前さんの世話をきっとするよ、私は豊橋の山村と云う者じゃ、もし逃がしてくれたらどんなお礼でもするよ」

「とにかく、これから舟へ往って、貴郎のお父さんに話して、相談しましょう、こわいことはないから、騒がないようにしてくださいませ」

「<ruby><rb>良</rb><rt>い</rt></ruby>いよ、騒がないよ、では、早う往こう」

忰はもう<ruby><rb>前</rb><rt>さき</rt></ruby>に立って走るように歩きだした。女は<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>から<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>いて往った。忰はもう木の枝も石の<ruby><rb>角</rb><rt>かど</rt></ruby>も区別がなかった。彼は<ruby><rb>幾度</rb><rt>いくたび</rt></ruby>もよろよろとよろけながら崖の上へ出て橋板をよろよろと渡った。

<ruby><rb>胴</rb><rt>どう</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>では父親が一枚の<ruby><rb>蒲団</rb><rt>ふとん</rt></ruby>にくるまって<ruby><rb>艫</rb><rt>とも</rt></ruby>の方を<ruby><rb>枕</rb><rt>まくら</rt></ruby>にして眠っていた。忰はいきなり父親の肩に手をかけて<ruby><rb>揺</rb><rt>ゆ</rt></ruby>り動かした。

「お父さん、お父さん」

父親はうす眼を開けた。

「どうした」

「大変なことがあります、起きてください」

父親は起きあがって、<ruby><rb>睡</rb><rt>ねむ</rt></ruby>そうな眼をきょろきょろとさした。

「<ruby><rb>静</rb><rt>しずか</rt></ruby>にしてくださいませ、なんでもありませんから」

女がもうそこへ来て坐っていた。

「なんだ」

「この舟の船頭は<ruby><rb>盗人</rb><rt>ぬすっと</rt></ruby>じゃと云います」

「なに、盗人」

父親も声を<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>わした。

「盗人でございますが、指一本も差させずに、豊橋へ送りますから、どうか<ruby><rb>静</rb><rt>しずか</rt></ruby>にしてくださいませ」

父親は何も云わずに女の顔を見た。

「私の<ruby><rb>伯父</rb><rt>おじ</rt></ruby>と兄は恐ろしい盗人で、今晩<ruby><rb>貴郎</rb><rt>あなた</rt></ruby>方を殺して、金を<ruby><rb>奪</rb><rt>と</rt></ruby>る<ruby><rb>目論見</rb><rt>もくろみ</rt></ruby>をしておりますが、決して指一本も差させませんから、静に寝ておってくださいませ、私に考えがございます」

「この人が、伯父さんと兄さんと喧嘩した<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>には、<ruby><rb>何人</rb><rt>だれ</rt></ruby>も世話になる者がないから、世話をしてくれと云います、お父さん、世話をしてやろうじゃありませんか」

父親は<ruby><rb>忰</rb><rt>せがれ</rt></ruby>の顔を見た<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>に女の顔を見た。

「よし、<ruby><rb>良</rb><rt>い</rt></ruby>いとも、ここを逃がしてくれるなら、お前と夫婦にしても良い」

「どうか静にして、お二人とも横になっておってくださいませ、刃物もさっき海の中へ捨てましたから、たとえあがって来てもまちがいはありませんが、舟へは<ruby><rb>一足</rb><rt>ひとあし</rt></ruby>もあげさせないようにします」

女はそう云い云い忰の方を見た。忰は<ruby><rb>幾等</rb><rt>いくら</rt></ruby>か心が落ちついていた。

「では、<ruby><rb>姐</rb><rt>ねえ</rt></ruby>さんにまかして、横になっておろう、大丈夫だろうか」

「大丈夫でございます、どうか寝ておってくださいませ」

「それでは横になろう」

父親は横になると<ruby><rb>忰</rb><rt>せがれ</rt></ruby>も横になった。女はそれを見ると<ruby><rb>手燭</rb><rt>てしょく</rt></ruby>を持って<ruby><rb>艫</rb><rt>とも</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>へ往った。

父親と忰は<ruby><rb>陸</rb><rt>おか</rt></ruby>の方に耳を立ててみたり、ちょと顔をあげて艫の間を<ruby><rb>覗</rb><rt>のぞ</rt></ruby>いたりした。

父親と忰の耳へ間もなく崖の上あたりでする人の話声が聞えた。

「兄さん」

舟の中から女が声をかけた。

「なんだ、まだ寝ずにおるか」

「寝ておって眼が覚めたところよ、<ruby><rb>伯父</rb><rt>おじ</rt></ruby>さんもいっしょ」

「いっしょとも、伯父さんがぐでんぐでんに酔ったから、肩にかけて戻ったところじゃ」

「そんなら<ruby><rb>静</rb><rt>しずか</rt></ruby>に舟へ乗りなさいよ」

「乗るとも、さあ伯父さん、橋板じゃよ」

橋板の上に<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>がしはじめた。と、思う間に板の<ruby><rb>軋</rb><rt>きし</rt></ruby>る音がして何か大きなものが<ruby><rb>潮</rb><rt>しお</rt></ruby>の中へ落ちた。それに続いて橋板の落ちる音もした。

「さあ、皆さん、起きてくださいませ、これから舟を出します」

女が艫の方で叫んだ。父親と忰は飛び起きて<ruby><rb>胴</rb><rt>どう</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>に突立った。

「もう心配することはありませんが、ついすると<ruby><rb>掻</rb><rt>か</rt></ruby>きあがって来るかも判りません、手が見えたら、板を<ruby><rb>剥</rb><rt>は</rt></ruby>いで、見つけしだい<ruby><rb>撲</rb><rt>なぐ</rt></ruby>ってくださいませ」

舟は間もなくゆらゆらと動きだした。<ruby><rb>纜</rb><rt>ともづな</rt></ruby>を解き放した女は艫に立って<ruby><rb>艪柄</rb><rt>ろづか</rt></ruby>を握った。

舟は<ruby><rb>磯際</rb><rt>いそぎわ</rt></ruby>を離れた。

親子の参宮帰りの客を乗せた舟は、その夜の明け方小さな島の傍を通っていた。その舟は<ruby><rb>壮</rb><rt>わか</rt></ruby>い女船頭が漕いでいた。空には光のなくなりかけた星が二つ三つ光っていた。

<ruby><rb>胴</rb><rt>どう</rt></ruby>の<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>の方から<ruby><rb>静</rb><rt>しずか</rt></ruby>に女の<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>へ立った父親は、いきなり<ruby><rb>艪</rb><rt>ろ</rt></ruby>を<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>っている女を<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>から突きとばした。女は艪を持ったなりに海の中へ落ちた。

一度沈んでいた女は艪に<ruby><rb>掴</rb><rt>つか</rt></ruby>まったままで浮きあがって来た。父親はそれを見ると傍の<ruby><rb>水棹</rb><rt>みさお</rt></ruby>を<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>って二度三度続けて殴りつけた。女はじっと父親の方を見た<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>に艪を放して沈んで往った。

「お父さん、どうしたのです」

胴の間に寝ていた<ruby><rb>忰</rb><rt>せがれ</rt></ruby>が驚いて起きた。

「<ruby><rb>盗人</rb><rt>ぬすっと</rt></ruby>の女を<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れて家へ帰れるものか、舟は<ruby><rb>俺</rb><rt>おら</rt></ruby>が漕ぐ」

父親は<ruby><rb>水棹</rb><rt>みさお</rt></ruby>をだして流れている艪を引きよせてそれを艪べそに<ruby><rb>合</rb><rt>あわ</rt></ruby>した。

参宮帰りに海賊船に乗ったのは豊橋某町の山村と云う<ruby><rb>豪家</rb><rt>ごうか</rt></ruby>の親子で、父親は<ruby><rb>嘉平</rb><rt>かへい</rt></ruby>と云い忰は<ruby><rb>嘉市</rb><rt>かいち</rt></ruby>と云っていた。

三年ばかりしてのことであった。山村の家の前に五六人の小供が遊んでいると、壮い<ruby><rb>姝</rb><rt>きれい</rt></ruby>な女が来てずんずんと門の中へ入って往った。小供達は見知らない姝な女を見たので<ruby><rb>好奇</rb><rt>ものずき</rt></ruby>に玄関まで<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>いて往った。女は家の人のように案内も<ruby><rb>請</rb><rt>こ</rt></ruby>わずに黙って<ruby><rb>障子</rb><rt>しょうじ</rt></ruby>を開けてあがって往った。

それは夏のことで、嘉市はすこし体が悪いので寝ていたが、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>の間にか<ruby><rb>睡</rb><rt>ねむ</rt></ruby>っていると<ruby><rb>隣</rb><rt>となり</rt></ruby>の<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>でうんうんと<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>る声がした。びっくりして起きて往ってみた。一人の<ruby><rb>壮</rb><rt>わか</rt></ruby>い女が父親の上へ馬乗りになってその首を締めていた。

「こら」

嘉市は<ruby><rb>周章</rb><rt>あわ</rt></ruby>てて跳びかかった。女の姿はすぐ見えなくなったが、父親はもう<ruby><rb>拳</rb><rt>こぶし</rt></ruby>を握り締めて冷たくなっていた。

「あの女じゃ、あの女じゃ」

嘉市はその場から発狂してしまった。