<ruby><rb>神仙</rb><rt>しんせん</rt></ruby>の実在を信じて「神仙記伝」と云う書物を<ruby><rb>編輯</rb><rt>へんしゅう</rt></ruby>していたと云う<ruby><rb>宮中掌典</rb><rt>きゅうちゅうしょうてん</rt></ruby>の<ruby><rb>宮地嚴夫翁</rb><rt>みやじげんぷおう</rt></ruby>が明治四十三年、華族会館で講演した講演筆記の写しの中から得た材料によって話すことにする。この話の主人公<ruby><rb>河野</rb><rt>こうの</rt></ruby>と云うのは宮地翁門下の一人であった。河野の名は<ruby><rb>久</rb><rt>ひさし</rt></ruby>、通称は虎五郎、後に<ruby><rb>俊八</rb><rt>しゅんぱち</rt></ruby>とも云った。道術を修めるようになってから<ruby><rb>至道</rb><rt>しどう</rt></ruby>と云う号を用いていた。もと<ruby><rb>豊後</rb><rt>ぶんご</rt></ruby>の<ruby><rb>杵築</rb><rt>きつき</rt></ruby>の藩士で、大阪<ruby><rb>中</rb><rt>なか</rt></ruby>の<ruby><rb>島</rb><rt>しま</rt></ruby>にあった藩の蔵屋敷の<ruby><rb>定詰</rb><rt>じょうづめ</rt></ruby>であったが、<ruby><rb>御一新</rb><rt>ごいっしん</rt></ruby>後大阪府の<ruby><rb>貫属</rb><rt>かんぞく</rt></ruby>となって江戸<ruby><rb>堀</rb><rt>ぼり</rt></ruby>に住んでいた。非常な<ruby><rb>敬神家</rb><rt>けいしんか</rt></ruby>で、神道の本を読み宮地翁の講義などにも出席していた。

明治七年の四月になって河野は大阪から<ruby><rb>泉州</rb><rt>せんしゅう</rt></ruby>の貝塚へ移り住んだ。その時分から彼の敬神の<ruby><rb>考</rb><rt>かんがえ</rt></ruby>は非常に突きつめたものになっていた。宮地翁の<ruby><rb>詞</rb><rt>ことば</rt></ruby>によると、「始終私どもの講義を聞いて、<ruby><rb>茲</rb><rt>ここ</rt></ruby>にはじめて神の正しく<ruby><rb>儼存</rb><rt>げんぞん</rt></ruby>し<ruby><rb>玉</rb><rt>たま</rt></ruby>ううえは、<ruby><rb>至誠</rb><rt>しせい</rt></ruby>を<ruby><rb>以</rb><rt>も</rt></ruby>ってこれを信じその道を尽し、その法を修めんには、神にも<ruby><rb>拝謁</rb><rt>はいえつ</rt></ruby>のできぬものにはあらざるべしと決心し、これより<ruby><rb>種種</rb><rt>しゅじゅ</rt></ruby>の善行を志し、<ruby><rb>捨身</rb><rt>すてみ</rt></ruby>決心して<ruby><rb>犬鳴山</rb><rt>けんめいざん</rt></ruby>に<ruby><rb>籠</rb><rt>こも</rt></ruby>り<ruby><rb>大行</rb><rt>たいぎょう</rt></ruby>をはじめ」たのであった。犬鳴山の<ruby><rb>行場</rb><rt>ぎょうじょう</rt></ruby>へ籠ったのは翌年の三月一<ruby><rb>日</rb><rt>じつ</rt></ruby>のことであるが、その山へこもるようになったのは前年の十月に霊夢を感じて仙術の修練に志したがためであった。犬鳴山では毎日滝にうたれて<ruby><rb>荒行</rb><rt>あらぎょう</rt></ruby>をした。荒行をはじめた始めの一週間には<ruby><rb>種種</rb><rt>いろいろ</rt></ruby>な不思議なことがあった。

八月の六日になって、河野は大和の<ruby><rb>葛城山</rb><rt>かつらぎざん</rt></ruby>へ登ってその頂上で修練を始めた。草の上に<ruby><rb>安坐趺跏</rb><rt>あんざふか</rt></ruby>して、<ruby><rb>己</rb><rt>おのれ</rt></ruby>の精神を<ruby><rb>幽玄微妙</rb><rt>ゆうげんびみょう</rt></ruby>の<ruby><rb>境</rb><rt>さかい</rt></ruby>に遊ばしている<ruby><rb>白衣</rb><rt>びゃくえ</rt></ruby>を着た河野の姿は夜になってもうごかなかった。空には星が光っていた。鹿の鳴く声がすぐ傍から聞えて来た。鹿の声は二三匹の鳴く声であった。鳴き声が止まるとがさがさと云う落葉を踏む<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>が聞えた。そして河野が気のついた時には五匹ばかりの鹿が傍へ来て立っていた。鹿は<ruby><rb>馴</rb><rt>な</rt></ruby>れ馴れしそうに寝たり起きたりした。

河野は<ruby><rb>行</rb><rt>おこな</rt></ruby>い<ruby><rb>澄</rb><rt>すま</rt></ruby>して動かなかった。七日の明け方になったところで、今まで傍にいた鹿はどこへ往くともなしに急にいなくなってしまった。河野はそのまま<ruby><rb>行</rb><rt>ぎょう</rt></ruby>を続けてその日の夕方になったが、水が<ruby><rb>喫</rb><rt>の</rt></ruby>みたくなったので<ruby><rb>渓</rb><rt>たに</rt></ruby>へおりようと思っておりかけた。二三<ruby><rb>丁</rb><rt>ちょう</rt></ruby>ばかり往ったところで、<ruby><rb>前方</rb><rt>むこう</rt></ruby>から不思議な<ruby><rb>風体</rb><rt>ふうてい</rt></ruby>をした男がやって来た。黒い紋のある<ruby><rb>衣服</rb><rt>きもの</rt></ruby>を着、<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いた二十二三に見える色の白い眼の鋭い男が髪を<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>で結んで<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>へ垂らし、二尺くらいある短い刀を一本差していた。

「その方は、こうした<ruby><rb>深山</rb><rt>しんざん</rt></ruby>の中で独り何をしておらるる」

刀を差している男は声をかけた。

「私は<ruby><rb>昨日</rb><rt>きのう</rt></ruby>からこの山へ登って、修業を始めた者でございますが、水が欲しいので尋ねて往くところでございます」

河野がありのままに答えると、

「水なら、わしが知っておるから教えてあげよう」

刀を差した男はこう云って引返して山をおりかけたので河野もその<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>から<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>いて往った。<ruby><rb>栂</rb><rt>とが</rt></ruby>や<ruby><rb>白樺</rb><rt>しらかば</rt></ruby>などがいじけた枝を張ってぼつぼつ生えている間を通って、山のうねになったところを廻ると、大きな岩の<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>えている下へ出た。そこには<ruby><rb>苔</rb><rt>こけ</rt></ruby>の生えた清水の<ruby><rb>溜</rb><rt>たま</rt></ruby>っている<ruby><rb>岩穴</rb><rt>いわあな</rt></ruby>があった。

「これだ」

刀を差した男はそれに指をさした。河野は腰にさしていた竹筒へその水を汲んだ。

うっすらと峰を染めていた夕陽の光が消えてしまった。二人は今おりて来た道を登った。

「<ruby><rb>昨夜</rb><rt>ゆうべ</rt></ruby>、山の上で徹夜した時に、何か変ったことはなかったか」

刀を差した男が云いだした。

「べつに変ったことはありませんが、夜遅くなって、五六匹の鹿が傍へやって来て、明け方まで遊んでおりまして、明け方にどこへか往ってしまいました」

河野が返事をすると、刀を差した男は<ruby><rb>揮</rb><rt>ふ</rt></ruby>り返ってにっと笑った。

「その鹿は五匹じゃ、二匹は親鹿で、三匹は子鹿じゃ」

河野は驚いた。この人はただの者ではない、<ruby><rb>若</rb><rt>も</rt></ruby>しかすると<ruby><rb>己</rb><rt>じぶん</rt></ruby>の求めておる神仙であるかもわからないと思った。河野はそのまま土の上につくばうようにした。

「何も知らない者でございますから、無礼ばかりいたしました、どうか、その罪をお許しくだされて、道の<ruby><rb>教</rb><rt>おしえ</rt></ruby>をお授けくださいますように」

「その方の志は好くわかっておる、しかし、わしは、今晩のうちに己の<ruby><rb>住家</rb><rt>すみか</rt></ruby>へ帰らねばならぬ、その方も<ruby><rb>仙道</rb><rt>せんどう</rt></ruby>を修めたいと思うなら、これから、わしといっしょに往こう」

刀を差した男は暗いなかにその光のある両眼を見せていた。

「有難うございます、では、お<ruby><rb>供</rb><rt>とも</rt></ruby>を<ruby><rb>仕</rb><rt>つかまつ</rt></ruby>ります」

「では、わしに<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>いて来るがよかろう」

刀を差した男は走るように歩るきだした。河野は遅れてはならんと思って一生懸命になって跟いて往った。

道は草の峰になり、岩の<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>えた<ruby><rb>渓川</rb><rt>たにがわ</rt></ruby>の間になり、大木の<ruby><rb>生</rb><rt>お</rt></ruby>い茂った真暗な林になるなど、眼まぐるしく往く道が変化した。寒い風が吹き、<ruby><rb>雲霧</rb><rt>くもぎり</rt></ruby>が飛び、星が見えたり隠れたりした。刀を差した男の体は鳥のようであった。河野は<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>の間にか<ruby><rb>人事不省</rb><rt>じんじふせい</rt></ruby>に陥ってしまった。そして、気がついた時には、刀を差した男が<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>へ廻って背を<ruby><rb>擦</rb><rt>さす</rt></ruby>っていた。

「気がついたか」

河野の口の中には何時の間にか薬が含まされてあった。薬は体一面に浸み渡るような心好い感じを与えた。河野は夢から<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>めたように体の疲労がとれてしまった。

「もう、これから余り遠くない、もう一息じゃ」

河野は起きあがった。刀を差した男はまた歩きだした。何時の間にか夜が明けかけていた。

道は大木の生い茂った林の中へ入った。朝の光が<ruby><rb>梢</rb><rt>こずえ</rt></ruby>から<ruby><rb>白</rb><rt>しら</rt></ruby>じらとさしていた。大きな岩があって<ruby><rb>岩屋</rb><rt>いわや</rt></ruby>らしい入口が眼についた。刀を差した人はその中へ入って往った。

「ここじゃ、ここへ入るがよかろう」

河野はその<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>から入った。刀を差した人は岩屋の中にゆったりと坐った。河野もその前に坐った。

「<ruby><rb>不肖</rb><rt>ふしょう</rt></ruby>は河野久と申す者でございますが、これからお弟子になされてくださいませ、一体ここは何と云う処でございましょう」

「ここは、吉野山の奥で、昔から<ruby><rb>人跡</rb><rt>じんせき</rt></ruby>の到らない処であるから、仙道修行にはまたと無い処じゃ、わしはもと大和の国の神官で、<ruby><rb>山中</rb><rt>やまなか</rt></ruby>と云う者であったが、わしが人間界におった時は、<ruby><rb>足利義満</rb><rt>あしかがよしみつ</rt></ruby>や<ruby><rb>義持</rb><rt>よしもち</rt></ruby>が将軍になって、言語道断な振舞をするから、<ruby><rb>慷慨</rb><rt>こうがい</rt></ruby>の余りに山へ入ったのじゃ、わしは応永初年の生れであるから、山へ入ったときは四十あまりであった、初めは富士山へ登って、富士山の神仙について、数百年の間、<ruby><rb>道</rb><rt>みち</rt></ruby>を学び<ruby><rb>真</rb><rt>しん</rt></ruby>を修めたから、その功が満ち<ruby><rb>行</rb><rt>ぎょう</rt></ruby>が<ruby><rb>足</rb><rt>た</rt></ruby>って、<ruby><rb>照道大寿真</rb><rt>しょうどうだいじゅしん</rt></ruby>と呼ばれるようになっておるが、近ぢかのうちに、<ruby><rb>地仙</rb><rt>ちせん</rt></ruby>の<ruby><rb>籍</rb><rt>せき</rt></ruby>を脱して、<ruby><rb>天仙</rb><rt>てんせん</rt></ruby>になることになっておる、この<ruby><rb>霊窟</rb><rt>れいくつ</rt></ruby>は、それまで住んでおる仮りの<ruby><rb>住家</rb><rt>すみか</rt></ruby>じゃ、ここへその方を<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れて来たのは、その方の精神に感じてのことじゃから、気を置かずに休息するがよかろう」

話の内に日が出て明るい朝日の光が岩屋の中にさした。<ruby><rb>瑠璃色</rb><rt>るりいろ</rt></ruby>の羽をした鳥や、<ruby><rb>孔雀</rb><rt>くじゃく</rt></ruby>のように羽を広げた鳥などが、岩屋の前をおりおり<ruby><rb>啼</rb><rt>な</rt></ruby>いて通った。河野はふと<ruby><rb>己</rb><rt>じぶん</rt></ruby>が気絶したときに<ruby><rb>喫</rb><rt>の</rt></ruby>まされた不思議な薬のことを思いだした。

「<ruby><rb>今朝</rb><rt>こんちょう</rt></ruby>私が戴きました薬は、どうした薬でございましょうか」

「<ruby><rb>草木</rb><rt>そうもく</rt></ruby>を見ればよくわかる」

照道寿真は軽くこたえた。河野にはその意味がわからない。

「草木を見よと<ruby><rb>仰</rb><rt>おお</rt></ruby>せられますと、草木を……」

照道寿真はにっと笑った。

「<ruby><rb>桂枝</rb><rt>けいし</rt></ruby>のもとには草<ruby><rb>生</rb><rt>しょう</rt></ruby>ぜず、<ruby><rb>麻黄</rb><rt>まこう</rt></ruby>の茎には雪積らず、これに<ruby><rb>準</rb><rt>じゅん</rt></ruby>じて、注意しながら山を廻っておると、自然に薬が知れてくる」

照道寿真はそれを発端として<ruby><rb>玄妙</rb><rt>げんみょう</rt></ruby>な仙道の秘訣を教えはじめた。河野はその教えを心に刻みつけた。午後四時<ruby><rb>比</rb><rt>ごろ</rt></ruby>になって寿真の話は終った。河野はその時になって、未熟な身でそうした<ruby><rb>神境</rb><rt>しんきょう</rt></ruby>におることが<ruby><rb>勿体</rb><rt>もったい</rt></ruby>ないように思われだした。

「未熟な身が、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>までもこの霊窟におりますのは勿体のうございますから、お別れいたしたいと思いますが、このうえとも<ruby><rb>御指教</rb><rt>ごしきょう</rt></ruby>を願います」

「それでは、今日は帰るがよかろう、そこまで見送ってやろう」

寿真は河野を<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れて岩屋を出た。そして二人で山を<ruby><rb>降</rb><rt>くだ</rt></ruby>って往った。一里あまり往って、深林を<ruby><rb>出放</rb><rt>ではな</rt></ruby>れると<ruby><rb>渓川</rb><rt>たにがわ</rt></ruby>が来た。左右には高い山が天空を支えて<ruby><rb>聳</rb><rt>そび</rt></ruby>えていた。渓には夏の夕陽があった。寿真は片手を出して<ruby><rb>渓下</rb><rt>たにした</rt></ruby>の方に指をさした。

「この渓川に沿うて、下へ下へと往って、あの山のはずれを」

と、云って渓の下の方に見えている左側の<ruby><rb>尖</rb><rt>と</rt></ruby>んがった峰に指をさした。その指が大きく光って見えた。

「あの山はずれを、西へ西へと往けば、人の通る<ruby><rb>路</rb><rt>みち</rt></ruby>が来る」

河野は<ruby><rb>頷</rb><rt>うな</rt></ruby>ずいた。

「これから、わしの処へ来たくなったら、ここまで来て待っておるがいい、わしが迎いに来てやる」

河野は寿真の方をおりおりふり返りながら山をおりて往った。最後にふり返った時には、<ruby><rb>一沫</rb><rt>いちまつ</rt></ruby>の雲が寿真を<ruby><rb>覆</rb><rt>おお</rt></ruby>うように見えていた。

河野はその晩<ruby><rb>渓</rb><rt>たに</rt></ruby>の<ruby><rb>落</rb><rt>お</rt></ruby>ち<ruby><rb>口</rb><rt>ぐち</rt></ruby>で<ruby><rb>持宿</rb><rt>もちやど</rt></ruby>をした。翌日は<ruby><rb>吉野路</rb><rt>よしのじ</rt></ruby>を通って、<ruby><rb>五条橋本</rb><rt>ごじょうはしもと</rt></ruby>など云う処を<ruby><rb>経</rb><rt>へ</rt></ruby>てその<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>は<ruby><rb>籠</rb><rt>かご</rt></ruby>の<ruby><rb>鳥</rb><rt>とり</rt></ruby>と云う山の<ruby><rb>辻堂</rb><rt>つじどう</rt></ruby>で一泊し、十日になって<ruby><rb>紀州路</rb><rt>きしゅうじ</rt></ruby>から<ruby><rb>泉州</rb><rt>せんしゅう</rt></ruby>の<ruby><rb>牛滝</rb><rt>うしたき</rt></ruby>と云う処へ越え、それから<ruby><rb>葛城山</rb><rt>かつらぎざん</rt></ruby>へ往った。葛城山ではまた二日間修業して、十二日の午後三時<ruby><rb>比</rb><rt>ごろ</rt></ruby>貝塚の<ruby><rb>寓居</rb><rt>ぐうきょ</rt></ruby>へ帰った。

河野はそれを初めとして、その後も<ruby><rb>度度</rb><rt>たびたび</rt></ruby>葛城山へ登り、吉野へも往って照道寿真に面会した。照道寿真もまた時どき河野の家へやって来た。

河野は照道寿真から修真の法を授かった<ruby><rb>顛末</rb><rt>てんまつ</rt></ruby>を書いて、それに「<ruby><rb>真話</rb><rt>しんわ</rt></ruby>」と云う題を附け、それを宮地翁の<ruby><rb>許</rb><rt>もと</rt></ruby>へ送って来た。河野は<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>に堺から大阪へ往って西区<ruby><rb>紀伊橋</rb><rt>きいばし</rt></ruby><ruby><rb>西北詰</rb><rt>にしおかづめ</rt></ruby><ruby><rb>粕谷治助</rb><rt>かすやじすけ</rt></ruby>と云う人の許にいた。

宮地翁が河野が神仙に<ruby><rb>逢</rb><rt>お</rt></ruby>うたことを知ったのは、明治九年の夏のことであった。宮地翁はその時、教部省の<ruby><rb>命</rb><rt>めい</rt></ruby>で大阪に在勤して神道の講義をしていた。河野が宮地翁の講義を聞いたのはその前であったが、しかしその時は一聴講生として宮地翁の前に出ておっただけで個人としては知らなかった。河野はその時<ruby><rb>長沢在仲</rb><rt>ながさわざいちゅう</rt></ruby>と云う<ruby><rb>医師</rb><rt>いしゃ</rt></ruby>を紹介者として、<ruby><rb>山女</rb><rt>やまめ</rt></ruby>を持って面会を求めた。

「私は先生の講義を拝聴いたしておった者でございます」

宮地翁はこの<ruby><rb>詞</rb><rt>ことば</rt></ruby>によって河野が聴講生であったことを知った。河野はそれを縁にして時おり宮地翁の許へやって来て、二三日<ruby><rb>逗留</rb><rt>とうりゅう</rt></ruby>してゆくこともあった。河野の食事は<ruby><rb>平生</rb><rt>いつも</rt></ruby><ruby><rb>葛湯</rb><rt>くずゆ</rt></ruby>でそれをコップに一杯ずつ<ruby><rb>喫</rb><rt>の</rt></ruby>んでいた。

「手の<ruby><rb>懸</rb><rt>かか</rt></ruby>らないいいお客さんだ」

宮地翁はこんなことを云って<ruby><rb>知己</rb><rt>しりあい</rt></ruby>の人に話して笑った。河野には<ruby><rb>細君</rb><rt>さいくん</rt></ruby>があった。お<ruby><rb>米</rb><rt>よね</rt></ruby>と云う女の子もあった。細君には同藩の木村<ruby><rb>知義</rb><rt>ともよし</rt></ruby>と云う人の妹であった。河野は時とするとその木村といっしょにやって来た。木村は河野と往復した書簡及びその<ruby><rb>直話</rb><rt>じきわ</rt></ruby>を筆記して、「<ruby><rb>至道</rb><rt>しどう</rt></ruby>物語」と云う一篇の書を作ってこれを宮地翁に送って来た。至道は河野の<ruby><rb>道号</rb><rt>どうごう</rt></ruby>であるのは云うまでもない。

明治二十年四月下旬になってから河野は百日間の<ruby><rb>断食</rb><rt>だんじき</rt></ruby>の<ruby><rb>行</rb><rt>ぎょう</rt></ruby>を始めた。そして、七月の末になってもう二三日すると<ruby><rb>満行</rb><rt>まんぎょう</rt></ruby>になると云う日になって、河野は宿の主人を呼んだ。河野はその時机に<ruby><rb>倚</rb><rt>よ</rt></ruby>り<ruby><rb>懸</rb><rt>かか</rt></ruby>って<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>いていた。主人は急いで河野の<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>へ入って往った。庭には午後の暑い<ruby><rb>陽</rb><rt>ひ</rt></ruby>がぎらぎらと光っていた。河野はすこし顔をあげて主人の方を見た。

「気の毒じゃが、<ruby><rb>氷水</rb><rt>こおりみず</rt></ruby>を二杯とってくださらんか」

従来河野は断食することがあっても水だけはすこしずつ用いていたが、その時の断食に限ってすこしも水をとらなかったから、それに同情していた主人は<ruby><rb>早速</rb><rt>さっそく</rt></ruby>氷をとって来て盆へ載せて持って来た。

「これは有難い、私も今<ruby><rb>両</rb><rt>りょう</rt></ruby>三日すると、満行になるが、急に往かねばならぬことになったから、<ruby><rb>手数</rb><rt>てすう</rt></ruby>をかけた」

主人は往くと云ったのを<ruby><rb>平生</rb><rt>いつも</rt></ruby>のとおり貝塚へ往くことだと思った。

「長い間の行でございましたから、<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>の養いが大事でございますよ」

「有難う」

河野はこう云ってそのまま机の上に俯向いた。主人は室を出て往ってしかけてあったちょとした用事を済ますと、何かまだ他に用事はあるまいかと思って河野の室へ顔をだした。河野は机の上に俯向いたままじっとしていた。氷はと見ると一つの氷のコップは空になって、もう一つの方は一口ぐらい<ruby><rb>喫</rb><rt>の</rt></ruby>んだようにちょっと上の方が<ruby><rb>隙</rb><rt>す</rt></ruby>いていた。

（<ruby><rb>睡</rb><rt>ねむ</rt></ruby>っておられる、長い間の<ruby><rb>行</rb><rt>ぎょう</rt></ruby>で体が疲れているだろう）

主人は<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>をして驚かしてはならんと思ってそっと<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>を出て往った。しかし、河野のことが気に<ruby><rb>懸</rb><rt>かか</rt></ruby>るのでまた<ruby><rb>暫</rb><rt>しば</rt></ruby>らくして来て見たが、河野は初めのように<ruby><rb>俯向</rb><rt>うつむ</rt></ruby>いていた。もしあれから氷を喫んだのではあるまいかと思ってコップに眼をやったがコップは元のままであった。

（やっぱり疲れておるから、うとうととなされておるだろう）

主人はまた外へ出て往ったが、何だか河野の<ruby><rb>容子</rb><rt>ようす</rt></ruby>が<ruby><rb>平生</rb><rt>いつも</rt></ruby>と違っているように思われるので、また引返えして来て、

「先生、先生」

と声をかけた。返事もなければ体も動かさない。主人は思いきってその傍へ寄って往って、片手を掛けて揺り動かした。

「先生、先生、先生」

河野の体はもう<ruby><rb>硬</rb><rt>かた</rt></ruby>くこわばっていた。

河野が死んでから<ruby><rb>二十日</rb><rt>はつか</rt></ruby>ばかりしてのことであった。何かの用事で東京から大阪へ往っていた宮地翁は、中の島の<ruby><rb>知己</rb><rt>しりあい</rt></ruby>の家で河野の<ruby><rb>寄寓</rb><rt>きぐう</rt></ruby>していた粕谷治助に逢って、河野の<ruby><rb>歿</rb><rt>な</rt></ruby>くなった話を聞かされた。

明治三十四年五月、東京<ruby><rb>麹町区</rb><rt>こうじまちく</rt></ruby><ruby><rb>飯田町</rb><rt>いいだまち</rt></ruby>の<ruby><rb>皇典</rb><rt>こうてん</rt></ruby>講究所では神職の講習会があった。宮地翁はその時「神仙記伝」と云うものを<ruby><rb>編輯</rb><rt>へんしゅう</rt></ruby>していた。神職講習会へ来ていた<ruby><rb>備前</rb><rt>びぜん</rt></ruby>の<ruby><rb>国幣中社安仁</rb><rt>こくへいちゅうしゃやすひと</rt></ruby>神社の<ruby><rb>禰宜太美万彦</rb><rt>ねぎふとみのよろずひこ</rt></ruby>と云う者が、<ruby><rb>某日</rb><rt>あるひ</rt></ruby>一人の<ruby><rb>伴</rb><rt>つれ</rt></ruby>とともにやって来た。万彦は宮地翁の机の傍にあった神仙記伝の原稿に眼を<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>けた。

「あなたは、神仙のあることをお信じになって、これを<ruby><rb>編輯</rb><rt>へんしゅう</rt></ruby>なされておりますか、それとも、ただ面白い記録として編輯なされておりますか」

「実在を信じておりますから、こうして数年にわたって編輯しております」

「そうでございますか」

万彦は神仙記伝の話をそのままにして他の話をして帰って往ったが、翌日になるとまた一人でやって来た。

「<ruby><rb>昨日</rb><rt>きのう</rt></ruby>は他に人がおりましたから、何も申しあげませんでしたが、私も神仙の実在を信じておる者でございます」

万彦は<ruby><rb>己</rb><rt>じぶん</rt></ruby>の知っている神仙のことについてはなした。<ruby><rb>備前</rb><rt>びぜん</rt></ruby>の<ruby><rb>国</rb><rt>くに</rt></ruby><ruby><rb>赤磐郡</rb><rt>あかいわごおり</rt></ruby><ruby><rb>太田村</rb><rt>おおたむら</rt></ruby><ruby><rb>大字万富</rb><rt>おおあざまんとみ</rt></ruby><ruby><rb>小字梅</rb><rt>こあざうめ</rt></ruby>という処に<ruby><rb>山形尊</rb><rt>やまがたそん</rt></ruby>と云う盲人があった。その盲人はその時三十歳であった。その盲人の尊は少年の時音楽を習おうとしたが、記憶力が弱くて何を教わっても覚えられなかった。<ruby><rb>某人</rb><rt>あるひと</rt></ruby>が「<ruby><rb>安芸</rb><rt>あき</rt></ruby>の<ruby><rb>厳島</rb><rt>いつくしま</rt></ruby>の<ruby><rb>弁財天</rb><rt>べんざいてん</rt></ruby>へ、火のものを絶って祈願を<ruby><rb>籠</rb><rt>こ</rt></ruby>めると、必ず覚えがよくなる」と云って教えた。尊は十二三であった。彼はその<ruby><rb>詞</rb><rt>ことば</rt></ruby>を信じて七日間火のものを絶って遥かに祈願をしたが、すこしも<ruby><rb>験</rb><rt>しるし</rt></ruby>がなかった。尊は失望して死のうと思い、同国<ruby><rb>和気郡</rb><rt>わけごおり</rt></ruby><ruby><rb>大字板根</rb><rt>おおあざいたね</rt></ruby>と云う処へ往ってそこの橋の上から身を投げようとした。ところが、和気郡の<ruby><rb>熊山</rb><rt>くまやま</rt></ruby>と云う山に住む神仙が来て、尊を<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れて往って<ruby><rb>種種</rb><rt>しゅじゅ</rt></ruby>のことを教えてくれた。神仙は銀製の長さ二寸ばかりあるトッコンと云う楽器、水晶で<ruby><rb>造</rb><rt>こし</rt></ruby>らえた亀の<ruby><rb>甲</rb><rt>こう</rt></ruby>の形をした一寸五分ばかりのもの、<ruby><rb>鉄扇</rb><rt>てっせん</rt></ruby>、<ruby><rb>剣</rb><rt>けん</rt></ruby>の四種の品をくれた。神仙は尊に向って、「十年間はこのことを<ruby><rb>他言</rb><rt>たごん</rt></ruby>してはならん」と云った。尊はその<ruby><rb>命</rb><rt>めい</rt></ruby>を守って十年過ぎても<ruby><rb>何人</rb><rt>たれ</rt></ruby>にも云わなかった。ところで明治二十八年になって、やはり同国<ruby><rb>御野郡</rb><rt>みのごおり</rt></ruby><ruby><rb>金山</rb><rt>かなやま</rt></ruby>の人に「神の告げがあった」と云って、三人の者が<ruby><rb>伴</rb><rt>つ</rt></ruby>れだって訪ねて来たから、尊も始めて神仙の話をして聞かせた。尊はその時分、神仙から<ruby><rb>授</rb><rt>さず</rt></ruby>かった秘法や<ruby><rb>禁厭</rb><rt>まじない</rt></ruby>で附近の人びとの病気などを<ruby><rb>癒</rb><rt>なお</rt></ruby>していた。尊の噂が高まってくるとともにその<ruby><rb>門人</rb><rt>もんじん</rt></ruby>となる者もできた。<ruby><rb>太美</rb><rt>ふとみ</rt></ruby>の<ruby><rb>万彦</rb><rt>よろずひこ</rt></ruby>もその弟子の一人であった。尊は時どきその門人を伴れて熊山へ往った。火のものを絶って尊に<ruby><rb>跟</rb><rt>つ</rt></ruby>いて往った門人達は、熊山の山頂で神仙の奏する音楽を聞くことができた。神仙の形は見えなかったが音楽は近ぢかと聞えた。尊は門人達に、「熊山、吉野山、<ruby><rb>伯耆</rb><rt>ほうき</rt></ruby>の<ruby><rb>大山</rb><rt>だいせん</rt></ruby>などには<ruby><rb>仙境</rb><rt>せんきょう</rt></ruby>があって、吉野山の神仙と、熊山の神仙とは常に<ruby><rb>往来</rb><rt>ゆきき</rt></ruby>している」と話したこともあった。万彦は<ruby><rb>某夜</rb><rt>あるよ</rt></ruby>尊に伴れられて<ruby><rb>平生</rb><rt>いつも</rt></ruby>のように熊山へ往って音楽を聞いた。ところで、その晩の音楽の中に一つ<ruby><rb>拙</rb><rt>つたな</rt></ruby>い音楽があった。万彦は不審に思うて尊に<ruby><rb>訊</rb><rt>き</rt></ruby>いた。尊も不思議に思っていたから神仙に<ruby><rb>伺</rb><rt>うかご</rt></ruby>うた。神仙は尊の<ruby><rb>問</rb><rt>とい</rt></ruby>に答えて、「<ruby><rb>近比</rb><rt>ちかごろ</rt></ruby>人間界から来た<ruby><rb>新仙</rb><rt>しんせん</rt></ruby>があって、まだ音楽に熟していないのが混っているからである」と云った。尊は、「それは何という人で、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>この仙界へ来られたか」と訊いた。「河野久と云う者で、十四五年<ruby><rb>前</rb><rt>ぜん</rt></ruby>に入って来た」と神仙は答えた。

万彦の話に耳を傾けていた宮地翁は、河野久の話を聞くと、もし万彦が<ruby><rb>己</rb><rt>じぶん</rt></ruby>と河野久とのことを知っておって、己を喜ばすために作りごとを云うのではないかと思ったので、そのままに聞き流してその日はなにも云わなかった。しかし、その<ruby><rb>後</rb><rt>ご</rt></ruby>数回万彦がやって来るので気をつけて見たが、別に河野と己との関係を知っていそうにもないので、ある日、宮地翁は万彦に向って河野の話をして聞かした。

「あなたは、この間、河野久のことを話しておられたが、河野のことを御存じですか」

万彦は無論河野のことは知らなかった。宮地翁は河野の書いた「真話」と木村知義の書いた「至道物語」を出して見せた。万彦は驚いて尊へ送る手紙の<ruby><rb>端</rb><rt>はし</rt></ruby>にそのことを書いてやったが、神職講習会が終って帰郷すると、尊に会って河野のことを詳しく話した。尊は神界へ<ruby><rb>伺</rb><rt>うかが</rt></ruby>いをたててその<ruby><rb>後</rb><rt>ご</rt></ruby>の河野のことを訊いた。河野は吉野山の仙境に住んでいて時どき熊山の仙境に往来しているとのことであった。宮地翁はこれに対してこう云うことを云った。

「<ruby><rb>茲</rb><rt>ここ</rt></ruby>に<ruby><rb>於</rb><rt>おい</rt></ruby>て私の考えておりましたとおり至道の死去は、その実普通の死去でありませんので、前に申しました漢の<ruby><rb>李少君</rb><rt>りしょうくん</rt></ruby>や、我国の<ruby><rb>白箸翁</rb><rt>しろはしおう</rt></ruby>の<ruby><rb>類</rb><rt>るい</rt></ruby>で、全く<ruby><rb>屍解</rb><rt>しかい</rt></ruby>の<ruby><rb>仙去</rb><rt>せんきょ</rt></ruby>であったことが明白になりました。これにて神仙の存在は<ruby><rb>甚</rb><rt>はなは</rt></ruby>だ確実なることが<ruby><rb>証</rb><rt>しょう</rt></ruby>せられると思います。実は私の本朝神仙記伝に載せました事蹟の中にはこの伝よりも余程面白き奇談もありますけれど、この河野は第一私の直接面会したものでありまして、またこれを証明いたしました太美万彦氏も、今日にては<ruby><rb>安仁</rb><rt>やすひと</rt></ruby>神社の<ruby><rb>宮司</rb><rt>ぐうじ</rt></ruby>に進みて、現職の人であります故、最も<ruby><rb>慥</rb><rt>たし</rt></ruby>かな話ですから、特にこの河野のことをお話しいたしたのであります」