章一は目黒駅へ往く時間が迫って来たので急いで<ruby><rb>著更</rb><rt>きが</rt></ruby>えをしていた。婦人雑誌の訪問記者をしている章一は、丸ビルの四階にある<ruby><rb>編輯室</rb><rt>へんしゅうしつ</rt></ruby>へ毎日一回は必らず顔を出すことになっていて、それを実行しないと編輯長の機嫌の悪いことを知っていながら三日も往っていなかった。章一の幸福に満ちたたとえば風船玉のふわりふわりと飛んでいるような頭の一方の<ruby><rb>隅</rb><rt>すみ</rt></ruby>には、編輯長の怒りに対する恐れが黒い影となって<ruby><rb>泥</rb><rt>なず</rt></ruby>んでいた。それに昨年あたりからヒステリーのようになっている<ruby><rb>細君</rb><rt>さいくん</rt></ruby>のことも影を<ruby><rb>曳</rb><rt>ひ</rt></ruby>いていた。

「待っているのでしょ、<ruby><rb>彼奴</rb><rt>あいつ</rt></ruby>が」

冷たい<ruby><rb>嘲</rb><rt>あざけり</rt></ruby>を含んだ声が<ruby><rb>顫</rb><rt>ふるい</rt></ruby>を帯びて聞えて来た。<ruby><rb>彼</rb><rt>か</rt></ruby>の女と目黒駅で待ちあわして<ruby><rb>蒲田線</rb><rt>かまたせん</rt></ruby>の沿線に<ruby><rb>在</rb><rt>あ</rt></ruby>る旅館へ往くことになっている章一はぎくとしたが、しかし、家にばかりいる者がこんな秘密を知ろうはずがなかった。

「何云ってるのだ、<ruby><rb>痴</rb><rt>ばか</rt></ruby>、この忙がしいのに遊んでいられるか」

章一は<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>の<ruby><rb>紐</rb><rt>ひも</rt></ruby>を結んでいた。章一は<ruby><rb>右斜</rb><rt>みぎななめ</rt></ruby>に眼をやった。<ruby><rb>己</rb><rt>じぶん</rt></ruby>が今<ruby><rb>髭</rb><rt>ひげ</rt></ruby>を<ruby><rb>剃</rb><rt>そ</rt></ruby>っていた鏡台の前に<ruby><rb>細君</rb><rt>さいくん</rt></ruby>の<ruby><rb>額</rb><rt>おでこ</rt></ruby>の出た<ruby><rb>黄</rb><rt>きい</rt></ruby>ろな顔があった。

「<ruby><rb>幾等</rb><rt>いくら</rt></ruby>ごまかしたって、ちゃあんと判ってるわ、<ruby><rb>彼奴</rb><rt>あいつ</rt></ruby>よ」

「彼奴って何だ、何云っているのだ、<ruby><rb>痴</rb><rt>ばか</rt></ruby>」

「どうせ痴ですよ、痴だからこんな目に<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>わされるのですよ、でも、ちゃあんと判ってるわ、彼奴とかってな<ruby><rb>真似</rb><rt>まね</rt></ruby>をしてるのを、知らないと思ってるの」

「何がかってな真似だ、云ってみろ、<ruby><rb>何</rb><rt>な</rt></ruby>んだ」

<ruby><rb>刀圭界</rb><rt>とうけいかい</rt></ruby>の名流として知られている夫人、教育界の先覚者として知られている老女史、某子爵夫人、某実業家の夫人、新らしい思想家として知られている某女史などの<ruby><rb>壮</rb><rt>わか</rt></ruby>い己に対する態度を汚く誇張して聞かす癖のある章一は、それを後悔するとともに細君の<ruby><rb>嫉妬</rb><rt>しっと</rt></ruby>の対象となっている者を早く知りたかった。

「云えなら、<ruby><rb>何時</rb><rt>いつ</rt></ruby>でも云ってやるわ、云ったらこまるでしょ」

「何が困る、云ってみろ、何んだ」

「<ruby><rb>昨日</rb><rt>きのう</rt></ruby>も<ruby><rb>一昨日</rb><rt>おととい</rt></ruby>も、社へも往かないで、ふざけてたのでしょ、彼奴も<ruby><rb>酷</rb><rt>ひど</rt></ruby>い奴だわ、あれで名流婦人だなんて、ほんとに<ruby><rb>呆</rb><rt>あき</rt></ruby>れるわ」

章一はまたぎくとした。細君の<ruby><rb>詞</rb><rt>ことば</rt></ruby>は己の<ruby><rb>行</rb><rt>おこない</rt></ruby>を一いち<ruby><rb>見透</rb><rt>みす</rt></ruby>かしているようであった。章一はもしや<ruby><rb>何人</rb><rt>たれ</rt></ruby>かが己の留守に来て、おかやきはんぶんに細君にたきつけたものではあるまいかと思ったが、べつに何人も来たようでないから、細君の嫉妬はどうしても創作でなければならなかった。

「<ruby><rb>痴</rb><rt>ばか</rt></ruby>、お前は、山崎の奥様とでも、おかしいと思っているのか、痴」

章一はとぼけておいて早く外へ出ようと思った。

「どうせ、痴よ、<ruby><rb>己</rb><rt>じぶん</rt></ruby>の<ruby><rb>所天</rb><rt>おっと</rt></ruby>を<ruby><rb>男妾</rb><rt>おとこめかけ</rt></ruby>にせられて黙っているのですもの」

「何」章一は<ruby><rb>耻</rb><rt>はず</rt></ruby>かしめられてかっとなった。彼はいきなり<ruby><rb>細君</rb><rt>さいくん</rt></ruby>に迫って妊娠のために醜くなっているその<ruby><rb>黄</rb><rt>きい</rt></ruby>ろな顔を<ruby><rb>撲</rb><rt>なぐ</rt></ruby>りつけた。「ばか野郎」

<ruby><rb>痩</rb><rt>や</rt></ruby>せた小柄な細君の体は鏡台の方へ倒れかかった。その細君の右の手は章一が<ruby><rb>髭</rb><rt>ひげ</rt></ruby>を<ruby><rb>剃</rb><rt>そ</rt></ruby>った<ruby><rb>金盥</rb><rt>かなだらい</rt></ruby>の<ruby><rb>縁</rb><rt>ふち</rt></ruby>にあたった。金盥はひっくりかえって水がこぼれた。妊娠四箇月の細君の体はその金盥の上に横倒れになった。章一は怒りにまかせて足でまたその腰のあたりを<ruby><rb>蹶</rb><rt>けっ</rt></ruby>た。

「蹶たな、わたしを、親でも<ruby><rb>蹶</rb><rt>けり</rt></ruby>やしない、わたしを蹶やがったな」

章一はその<ruby><rb>詞</rb><rt>ことば</rt></ruby>を聞くと一層怒りが燃えたった。

「け、けしからん、そんな、そんなぶれいな詞をつかうのか」

章一は力まかせに蹶た。細君の叫びとも<ruby><rb>獣</rb><rt>けもの</rt></ruby>の<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>りとも判らないような声がそこに起るとともに、細君の体が起きあがって章一にぶっつかって来た。

「あぶない」

章一の眼の前に小さな白い物がちかちかと光った。それは細君の手にしている<ruby><rb>剃刀</rb><rt>かみそり</rt></ruby>であった。細君の右の下唇には血があった。章一はいきなりその手を<ruby><rb>捩</rb><rt>ね</rt></ruby>じあげてくるりと細君の体を前向にした。

「何するのだ」

章一はそこに暗い<ruby><rb>鬼魅</rb><rt>きみ</rt></ruby>悪いものを見たが、それよりも己に<ruby><rb>縋</rb><rt>すが</rt></ruby>って己あるがために生きているように思われていた女が、<ruby><rb>僅</rb><rt>わずか</rt></ruby>なことにすぐ反抗して<ruby><rb>己</rb><rt>じぶん</rt></ruby>に危害を加えようとする行為があさましくて憎くってたまらなかった。<ruby><rb>剃刀</rb><rt>かみそり</rt></ruby>は畳の上に落ちた。

「それで、おれを殺すつもりか、この<ruby><rb>狂人</rb><rt>きちがい</rt></ruby>」

章一は力を<ruby><rb>罩</rb><rt>こ</rt></ruby>めて突き飛ばした。<ruby><rb>細君</rb><rt>さいくん</rt></ruby>の体はよろよろとなって<ruby><rb>長火鉢</rb><rt>ながひばち</rt></ruby>と<ruby><rb>鼠</rb><rt>ねずみ</rt></ruby>いらずとの間へ往って倒れた。と、そこから苦しそうな<ruby><rb>呻</rb><rt>うめ</rt></ruby>きが聞えて来た。それは<ruby><rb>臓腑</rb><rt>ぞうふ</rt></ruby>と臓腑を<ruby><rb>擦</rb><rt>す</rt></ruby>りあわすような呻きであった。

「恐ろしい奴だ、<ruby><rb>汝</rb><rt>きさま</rt></ruby>はそんな奴か」

脂肪の多い<ruby><rb>蒼白</rb><rt>あおじろ</rt></ruby>い肉体が章一の頭を<ruby><rb>掠</rb><rt>かす</rt></ruby>めた。章一は目黒駅の片隅に人の視線を避けて己を待っている彼女のことを思いだした。

（もう、すぐ一時だ、<ruby><rb>痴</rb><rt>ばか</rt></ruby>なことをしている<ruby><rb>間</rb><rt>ま</rt></ruby>におそくなった）

章一はすぐ出かけようとしたが、剃刀が気になるのでそれを拾った。

「こんな恐ろしい家に帰るものか、<ruby><rb>痴</rb><rt>ばか</rt></ruby>、かってにしろ」

章一は次の書斎と寝室になっている<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>へ往って<ruby><rb>高机</rb><rt>たかつくえ</rt></ruby>の右の<ruby><rb>抽斗</rb><rt>ひきだし</rt></ruby>を開け、手紙や葉書の雑然となっている中へそっと剃刀を入れて、それから帽子を<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>って外へ出た。彼は一刻も早く目黒駅へ往きたかった。

初夏の明るい<ruby><rb>埃</rb><rt>ほこり</rt></ruby>のたつ日であった。章一は<ruby><rb>平生</rb><rt>いつも</rt></ruby>のように<ruby><rb>額</rb><rt>ひたい</rt></ruby>の<ruby><rb>寛</rb><rt>ひろ</rt></ruby>い白い顔を左の方に<ruby><rb>傾</rb><rt>かし</rt></ruby>げるようにして<ruby><rb>坂路</rb><rt>さかみち</rt></ruby>をおりて往った。足にはゴム<ruby><rb>草履</rb><rt>ぞうり</rt></ruby>を<ruby><rb>穿</rb><rt>は</rt></ruby>いていた。坂の下には省線の電車があった。<ruby><rb>平生</rb><rt>いつも</rt></ruby>なら彼はその電車に乗るのであったが、時間がないのですぐそこに来た<ruby><rb>円</rb><rt>えん</rt></ruby>タクに乗った。

自動車は山の手の<ruby><rb>嫩葉</rb><rt>わかば</rt></ruby>の多い街を往った。目黒駅の片隅には彼女が黒っぽい服装をして、人に顔を見られないように新聞紙の中へ顔をうずめるようにして待っていた。章一はちょと咳をして女の注意を<ruby><rb>惹</rb><rt>ひ</rt></ruby>くなり、その時発車しようとしている電車の前の方へ乗ると、女はすましてその電車の<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>から乗った。

二人はそうして<ruby><rb>多摩川縁</rb><rt>たまがわべり</rt></ruby>の停留場におりて、そこの丘の上にある鉱泉旅館へ往った。嫩葉に包まれたその丘にはさつきが<ruby><rb>美麗</rb><rt>きれい</rt></ruby>に咲いていたが、女の眼には<ruby><rb>映</rb><rt>うつ</rt></ruby>らなかった。

「遅かったわ、ね、なにしてたの」

「あいつの、ヒステリーが起ったものですからね」

章一は<ruby><rb>揮</rb><rt>ふ</rt></ruby>りかえって、女の顔を見てにっと笑った。

「そうお、こわいわ、ね、だけど、なにか、うっかり<ruby><rb>喋</rb><rt>しゃべ</rt></ruby>ったじゃないこと、ヒステリーを起さすようなことを」

「まさか」

「でも、男のかたは、なんでもべらべら喋るのですもの、喋ってたじゃないこと」

その鉱泉旅館へ一二回往ったことのある二人は、すぐ多摩川の流れを<ruby><rb>欄干</rb><rt>らんかん</rt></ruby>の前に見る<ruby><rb>離室</rb><rt>はなれ</rt></ruby>へ通された。二人はその離室で<ruby><rb>午食</rb><rt>ごしょく</rt></ruby>とも<ruby><rb>夕食</rb><rt>ゆうしょく</rt></ruby>とも判らない食事をしながら話した。章一は酒を飲んでいた。

うとうとしていた章一は、<ruby><rb>片頬</rb><rt>かたほお</rt></ruby>に<ruby><rb>温</rb><rt>あたたか</rt></ruby>な<ruby><rb>緊縛</rb><rt>きんばく</rt></ruby>を覚えたのでふと眼を開けた。<ruby><rb>艶消</rb><rt>つやけし</rt></ruby>電燈のやわらかな<ruby><rb>明</rb><rt>あかり</rt></ruby>は、黒いねっとりと<ruby><rb>潤</rb><rt>うる</rt></ruby>みを持った二つの瞳と<ruby><rb>熱</rb><rt>ほて</rt></ruby>った唇をそこに見せていた。

「起きなけりゃ<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>よ、お起きなさいよ」

<ruby><rb>潤</rb><rt>うる</rt></ruby>みを持った瞳が笑うとともに<ruby><rb>熱</rb><rt>ほて</rt></ruby>った唇がまた<ruby><rb>隻頬</rb><rt>かたほお</rt></ruby>に<ruby><rb>温</rb><rt>あたたか</rt></ruby>く来た。章一の瞳はとろとろとなった。

「厭よ、厭よ、<ruby><rb>睡</rb><rt>ねむ</rt></ruby>っては、こんな良い機会は、めったにないのに、睡ってばかりいちゃ厭よ」

月の<ruby><rb>面</rb><rt>おもて</rt></ruby>に雨雲がもったりとかかった。章一の眼ははっきり<ruby><rb>醒</rb><rt>さ</rt></ruby>めた。と、<ruby><rb>階子段</rb><rt>はしごだん</rt></ruby>をあがって来る<ruby><rb>跫音</rb><rt>あしおと</rt></ruby>がして、それが廊下の<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>の外に止まった。

「ちょっと失礼いたします」

章一は頭を浮かして耳を立てるようにした。

「何か、用事かね」

「はい、ちょっと」

「ちょっと待ってくれたまえ」

女はそれと同時に<ruby><rb>羽二重</rb><rt>はぶたえ</rt></ruby>の白い裏の<ruby><rb>掛蒲団</rb><rt>かけぶとん</rt></ruby>を<ruby><rb>放</rb><rt>は</rt></ruby>ねて外に出ながら、<ruby><rb>華美</rb><rt>はで</rt></ruby>な<ruby><rb>長襦袢</rb><rt>ながじゅばん</rt></ruby>の前をつくろいつくろい章一の<ruby><rb>枕頭</rb><rt>まくらもと</rt></ruby>に坐った。章一は女が坐ってしまうと<ruby><rb>襖</rb><rt>ふすま</rt></ruby>の外へ声をかけた。

「入りたまえ、入ってもいいよ」

「よろしゅうございますか、では、ちょっと失礼いたします」

襖をそっと開けて大きな<ruby><rb>円髷</rb><rt>まるまげ</rt></ruby>に<ruby><rb>結</rb><rt>ゆ</rt></ruby>った<ruby><rb>受持</rb><rt>うけもち</rt></ruby>の<ruby><rb>婢</rb><rt>じょちゅう</rt></ruby>が入って来た。

「お騒がせしてすみません」と、女の方にちょと<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>してから、章一の方に向いて、

「あなたさまは、たしか、木村さんとおっしゃいましたね」

章一は<ruby><rb>腹這</rb><rt>はらば</rt></ruby>いになって<ruby><rb>敷島</rb><rt>しきしま</rt></ruby>を<ruby><rb>執</rb><rt>と</rt></ruby>りながら婢の方を見た。

「そうだ、なんだね」

「今、ね、<ruby><rb>壮</rb><rt>わか</rt></ruby>い女の方がいらして、きむらしょういちと、やまざきのおくさまに、これを渡してくださいって、名も何もおっしゃらないで、すぐお帰りになりましたが、お心当りがおありになりましょうか」

<ruby><rb>婢</rb><rt>じょちゅう</rt></ruby>は手にしていた小さい白い包みをそこへ置いた。章一は意味が判らないので女の方を見た。

「何か持って来ることになっていたのですか」

「わたし、知らないわ」

女にも意味が判らないらしかった。

「なんだろう」

章一が包みに手をかけると女は婢の方へ向いて云った。

「それじゃ、まあ、置いといてくださいまし、<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>で判るでしょうから」

それを聞くと婢はすぐ出て往った。

「へんね、なんでしょう、開けてごらんなさいよ」

「そうですね、なんでしょう、<ruby><rb>何人</rb><rt>だれ</rt></ruby>がよこしたのでしょう」

章一は麻のハンケチで包んだ包みを<ruby><rb>解</rb><rt>と</rt></ruby>いた。中には一握り位ある女の髪の毛を<ruby><rb>円</rb><rt>まる</rt></ruby>くして入れてあった。章一ははっと思った。

「まあ」

女の声は<ruby><rb>顫</rb><rt>ふる</rt></ruby>いを帯びていた。章一は石のようになっていた。

「奥さんじゃないこと」

「そうですよ」

二人の間には沈黙が続いた。

「どうしてここにいるのを知ったのでしょう」

「さあ」

「帰りましょう、あなたも帰ってなんとかしなさいよ」

「そうですね」

「帰りましょう、帰りましょう、わたしも早く帰ると都合がいいわ」

章一ももうそうした世界にいるのが<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>になっていた。

章一は目黒駅まで来て別れて往く女に心ない<ruby><rb>挨拶</rb><rt>あいさつ</rt></ruby>をしてそのまま自動車に乗った。

章一は<ruby><rb>白山</rb><rt>はくさん</rt></ruby>に住む老婦人の<ruby><rb>許</rb><rt>もと</rt></ruby>へ往くところであった。こうした場合に章一の往く処はその女の許を<ruby><rb>措</rb><rt>お</rt></ruby>いて他にはなかった。学校を卒業してごろごろしている時、友人の紹介で<ruby><rb>梵妻</rb><rt>ぼんさい</rt></ruby>あがりで<ruby><rb>小金</rb><rt>こがね</rt></ruby>を<ruby><rb>溜</rb><rt>た</rt></ruby>めていたその女の許へ金を借りに出入して関係しているうちに、女の<ruby><rb>田舎</rb><rt>いなか</rt></ruby>のもので女学校へ往っていた今の<ruby><rb>細君</rb><rt>さいくん</rt></ruby>と知りあいになっていっしょになったものであった。

もう十一時であった。章一は電車通りで自動車をおりて<ruby><rb>爪</rb><rt>つま</rt></ruby>さきあがりになった狭い<ruby><rb>横町</rb><rt>よこちょう</rt></ruby>を往って、<ruby><rb>社</rb><rt>やしろ</rt></ruby>の裏手の樹木の下になったその家を叩いた。

「もう、寝たのですか」

<ruby><rb>裡</rb><rt>うち</rt></ruby>では<ruby><rb>婢</rb><rt>じょちゅう</rt></ruby>の声がした。

「だあ、れ、<ruby><rb>何方</rb><rt>どなた</rt></ruby>」

「僕だよ、木村、<ruby><rb>牛込</rb><rt>うしごめ</rt></ruby>の」

「おや、木村さん」

間もなく玄関のガラス戸が<ruby><rb>開</rb><rt>あ</rt></ruby>いたので章一は中へ入った。

「おい、お客さんがあるのか」

「こんなに遅いのに、お客さんはありませんわ」

「朝までいるお客さんだよ」章一は小声で云って<ruby><rb>笑声</rb><rt>わらいごえ</rt></ruby>をして、「どうだい」

「<ruby><rb>痴</rb><rt>ばか</rt></ruby>、ね、え」

婢も意味ありそうに小さな声で笑った。

「もう寝てる」

「まだお起きになっていらっしゃいますわ」

「そう、じゃ、御機嫌を<ruby><rb>伺</rb><rt>うかが</rt></ruby>って来ようか、ね」

章一は玄関をあがって左側の<ruby><rb>室</rb><rt>へや</rt></ruby>へ入った。そこにはスタンドを<ruby><rb>点</rb><rt>つ</rt></ruby>けて<ruby><rb>紅</rb><rt>あか</rt></ruby>いメリンスの大きな<ruby><rb>座蒲団</rb><rt>ざぶとん</rt></ruby>の上に<ruby><rb>脊</rb><rt>せ</rt></ruby>の高い年とった女が<ruby><rb>腹這</rb><rt>はらば</rt></ruby>いになって、小説のようなものを読んでいた。

「今晩は」

「……木村さん」女は<ruby><rb>長手</rb><rt>ながて</rt></ruby>な顔をあげて<ruby><rb>透</rb><rt>すか</rt></ruby>すようにして、

「今日は、どうしたの」

「多摩川の方へ遊びに往った帰りです、何か<ruby><rb>御饗応</rb><rt>ごちそう</rt></ruby>はないでしょうか」

「御饗応よりも、ぜんたい、あなたがたは、どうしたのです」

章一は<ruby><rb>枕頭</rb><rt>まくらもと</rt></ruby>へ往って<ruby><rb>胡座</rb><rt>あぐら</rt></ruby>をかいた。

「どうしたって、何かあったの」

「何もないのですが、奥さんが来るし、あなたが来るしさ」

「あれが来たのですか」

「何かあったのでしょ」

章一はそれよりも<ruby><rb>細君</rb><rt>さいくん</rt></ruby>の髪の毛のことを聞きたかった。

「頭を、どうかしてたのですか」

「頭って、頭はなんともなかったわ、頭をどうかしたの」

「それは、<ruby><rb>幾時比</rb><rt>いくじごろ</rt></ruby>です」

「そうさね、八時半だろうか、お客さんが来て茶の間で話してると、黙って入って来て、何かわたしが云おうとすると、すぐ往っちゃったわ、へんな人、ね、え、何か云いあったの」

「昼間出ようとすると、<ruby><rb>痴</rb><rt>ばか</rt></ruby>なことを云うものだから、<ruby><rb>撲</rb><rt>なぐ</rt></ruby>りつけてやったのだ、あいつ、この<ruby><rb>比</rb><rt>ごろ</rt></ruby>、よっぽどヒステリーだから、<ruby><rb>剃刀</rb><rt>かみそり</rt></ruby>を持ってかかって来るのだ」

「剃刀を持って、そいつは困ったね、だが、あなたが浮気をするからでしょ」

「どうして、この比は雑誌の方がいそがしくって」

「その雑誌がいけないわ、女の雑誌じゃ、それでなくっても浮気ものだから」

「<ruby><rb>痴</rb><rt>ばか</rt></ruby>」

「まあ、坐ったら、どう」

年とった女の声には<ruby><rb>潤</rb><rt>うる</rt></ruby>おいがあった。章一は気が<ruby><rb>注</rb><rt>つ</rt></ruby>いて坐った。

「ゆっくりしちゃいられない、すこしみょうなことがあったから」

「どんなことなの」

「今晩、目黒の<ruby><rb>前</rb><rt>さき</rt></ruby>の方へ往って遊んでると、麻のハンケチへ髪の切ったのを包んで、木村章一に渡してくれって、女が来て置いてった、あいつが知ろうはずはないが、昼<ruby><rb>撲</rb><rt>なぐ</rt></ruby>りつけてあるのだから、<ruby><rb>後</rb><rt>あと</rt></ruby>をつけて来て、つきとめといて、そんないやがらせをしたかも判らないのだ」

「家を出たのは<ruby><rb>幾時</rb><rt>いくじ</rt></ruby>なの」

「十二時だ、それから目黒の方へ往って、遊んでて、髪を持って来たのが九時<ruby><rb>比</rb><rt>ごろ</rt></ruby>だ」

「九時比に目黒のさきへ往ったと云うのは時間が<ruby><rb>逢</rb><rt>あ</rt></ruby>わないが、女と往ってよろしくやってたから、<ruby><rb>何人</rb><rt>たれ</rt></ruby>かが<ruby><rb>悪戯</rb><rt>いたずら</rt></ruby>をしたのじゃないの」

「何人も知るはずがないのだもの」

「あなた方はそうでも、女の方をつけてたものがあったかも判らないわ、で、家へ帰ってみたの」

「帰らないさ、そうだとまた喧嘩をしなくちゃならないから」

「じゃ、朝、わたしが<ruby><rb>容子</rb><rt>ようす</rt></ruby>を見に往ってあげるわ」

「<ruby><rb>明日</rb><rt>あした</rt></ruby>でいいだろうか」

「やったところで、いやがらせだから、心配はないでしょ、ほんとうに腹が立って、二人のいる処が判ってるなら暴れこむわよ」

「それもそうだ」

「<ruby><rb>羽織</rb><rt>はおり</rt></ruby>と<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>を<ruby><rb>除</rb><rt>と</rt></ruby>りなさいよ」

章一は羽織と袴をとって<ruby><rb>単衣</rb><rt>ひとえ</rt></ruby>を脱ぐと女は<ruby><rb>枕</rb><rt>まくら</rt></ruby>を持って来た。しかし、章一は女の眼の下の<ruby><rb>曇</rb><rt>くもり</rt></ruby>の深い肉の落ちた顔が気になっていた。

「横になったら、どう」

女は章一を抱え込むようにして横に寝かそうとした。章一は眼をつむって女のするがままになっていた。と、女はけたたましい声をあげて叫ぶなり、章一を<ruby><rb>衝</rb><rt>つ</rt></ruby>き飛ばすように起きて、両手を右の足首にやった。そこには<ruby><rb>手飼</rb><rt>てがい</rt></ruby>の白猫が眼を<ruby><rb>怒</rb><rt>いか</rt></ruby>らして<ruby><rb>牙</rb><rt>きば</rt></ruby>をむきだして<ruby><rb>唸</rb><rt>うな</rt></ruby>っていた。

「<ruby><rb>畜生</rb><rt>ちくしょう</rt></ruby>ッ、よくもわたしを噛みやがったな」

女は<ruby><rb>口惜</rb><rt>くや</rt></ruby>しくてたまらないので<ruby><rb>隻手</rb><rt>かたて</rt></ruby>で<ruby><rb>撲</rb><rt>なぐ</rt></ruby>りつけようとした。猫はちらちらと眼の前を<ruby><rb>掠</rb><rt>かす</rt></ruby>めてどこかへ往ってしまった。

「畜生ッ」

女は口惜しそうに叫んだ。この時章一は起きた。

「どうしたのです」

「どうするものか、あなたが女あさりするものだから、こんなことになったのだ、あなたと云う方は、畜生にも劣った方だわ、わたし、もう、あなたを見るのも<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>になった、帰っておくれ」

章一は驚いた。章一は女が発狂したではないかと思った。

「帰れ、帰れ、帰っておくれ、<ruby><rb>畜生</rb><rt>ちくしょう</rt></ruby>、<ruby><rb>汝</rb><rt>おまえ</rt></ruby>が女狂いをしたばかりに、とうとう俺を殺しちまった、帰れ、帰っちまえ」

女は章一に飛びかかりそうになった。章一は<ruby><rb>鬼魅</rb><rt>きみ</rt></ruby>が悪いので<ruby><rb>袴</rb><rt>はかま</rt></ruby>と<ruby><rb>羽織</rb><rt>はおり</rt></ruby>を<ruby><rb>鷲掴</rb><rt>わしづか</rt></ruby>みにしてそこを飛びだした。

章一は電車通りに出てまた自動車に乗った。章一は<ruby><rb>己</rb><rt>じぶん</rt></ruby>の家へ帰るのが<ruby><rb>怕</rb><rt>こわ</rt></ruby>いので山崎夫人の<ruby><rb>許</rb><rt>もと</rt></ruby>へ往こうとしていた。

夫人の家にはその<ruby><rb>夜</rb><rt>よ</rt></ruby>二人の邪魔になるもののいないことは夫人から聞いていたが、<ruby><rb>書生</rb><rt>しょせい</rt></ruby>や<ruby><rb>婢</rb><rt>じょちゅう</rt></ruby>が<ruby><rb>多勢</rb><rt>おおぜい</rt></ruby>いるので都合を聞いたうえでないとすぐには往けなかった。章一は省線の踏切の手前で車をおりた。その踏切の前には<ruby><rb>自働</rb><rt>じどう</rt></ruby>電話があった。章一はその自働電話で女の都合を聞こうと思った。その踏切には番人がいなかった。章一は急いでその踏切を横切ろうとしてレールの上に往った。と、章一は不意に叫んで倒れた。そこへ右の上から電車が音をたてて来た。章一のすぐ<ruby><rb>後</rb><rt>うしろ</rt></ruby>を歩いていた一人の<ruby><rb>遊人</rb><rt>あそびにん</rt></ruby>は、章一の倒れた時その<ruby><rb>脚下</rb><rt>あしもと</rt></ruby>から一<ruby><rb>疋</rb><rt>ぴき</rt></ruby>の猫のような小さな<ruby><rb>獣</rb><rt>けもの</rt></ruby>の飛びだして走ったのを見た。

<ruby><rb>厭</rb><rt>いや</rt></ruby>な気もちで郊外から帰って来た山崎夫人は、寝床の中へ入ってもぐっすり<ruby><rb>睡</rb><rt>ねむ</rt></ruby>れないので寝返りばかりしていたが、そのうちに何かしら注意を促すものがあった。欧風の新らしい寝台に寝ていた夫人は、前の<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>に腰をかけている人影を見つけたのであった。

「<ruby><rb>何人</rb><rt>たれ</rt></ruby>です、<ruby><rb>何方</rb><rt>どなた</rt></ruby>」

小さな<ruby><rb>有明</rb><rt>ありあけ</rt></ruby>の電燈の光にぼかされた椅子の人は顔をあげた。それは章一であった。

「あなたは」

夫人は起きた。夫人は深夜<ruby><rb>戸締</rb><rt>とじまり</rt></ruby>をかってに開けて入って来た<ruby><rb>闖入者</rb><rt>ちんにゅうしゃ</rt></ruby>を<ruby><rb>咎</rb><rt>とが</rt></ruby>めずにはいられなかった。

「どうして来たのです」

章一はぐったりとしているような<ruby><rb>容</rb><rt>ふう</rt></ruby>をしていて何も云わなかった。夫人は起きて往った。

「<ruby><rb>何人</rb><rt>だれ</rt></ruby>に開けてもらったのです」

同時に章一の体は横に倒れて<ruby><rb>椅子</rb><rt>いす</rt></ruby>から落ちた。それは両脚を<ruby><rb>膝</rb><rt>ひざ</rt></ruby>の上から切断せられた血みどろの章一の死体であった。

怪しい死体、両脚を省線の踏切に残した怪しい死体が寝室にあったがために、警察に呼ばれ、新聞に書きたてられた山崎夫人は、三日の<ruby><rb>後</rb><rt>のち</rt></ruby>に変死した。そして、章一の<ruby><rb>細君</rb><rt>さいくん</rt></ruby>はその日から<ruby><rb>失踪</rb><rt>しっそう</rt></ruby>して今に生死不明である。――これは明治の晩年に関西の大都市で起った怪奇事件であるが、さしさわることがあるので、場所、姓名をかえたのであった。